タイトル通り、とある作品をリスペクトしたSSです。
ダーク百合です。クロスではありません。
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「好きです! お姉ちゃんとしてじゃなくて、恋人として……チノちゃんと一緒にいさせてください!」
お風呂上がりのおしゃべりは、私にとって最もリラックスできる時間です。
いつもより早いペースでカップを空にしたココアさんは、いつになく真剣な顔をしていました。
その言葉はココアさんらしく予想外で、真っ直ぐで、口の中のミルクココアも驚いて味を失います。
「ごめん、急に、でも……本当なの。最近チノちゃんを見てるとドキドキしちゃって、それで、それで、あふれそうで、」
「え……?」
まだうまく動かない頭、ぼやけていく視界を、誰かの目を通して見ている様な感覚。でも、それは紛れも無く、私の。
「ごっ、ごめんね! もしかして、泣くほど嫌だった……?」
「そっ」
「そ……?」
「そんなわけ、ないじゃないですかっ!」
「えっ、えっと……じゃあ……?」
もう。
わかってるくせに。
ココアさんも目がうるうるしてきたので、これでおあいこです。
「ココアさんの、鈍感っ」
「チノちゃぁああん!」
テーブルがひっくり返る勢いで抱きついてくるココアさん。私も同じくらいの気持ち、です。……うまく、言葉に、できない、けど。
手を伸ばして、ココロを伝えて。
私が名前を呼ぶたび、ココアさんに名前を呼ばれて。
名前を呼ばれるたび、その名前を口にします。
「ココア、さん」
――その日、私は生まれて初めて知りました。
愛という言葉の、甘い響きを。
それは小さなビンに詰まった、純白にきらめく一握りのカケラたち。
―――
木組みの町に、春が訪れました。
緑が萌え、色とりどりの花が咲き乱れる、華やぎの季節。
でも桜より、たんぽぽより、菜の花より、私の心を惹きつけて止まないものがあります。
それは――。
「ぉ、おっはよ~う……」
「もう九時を回ってます。休みだからって、だらけてはいけませんよ」
「えへへ、ごめん……」
「もう、しょうがないココアさんです」
そう、目の前の彼女、ココアさん。
怠け癖は良くないです、って心を鬼にして叱るつもりでいたのに。
こんなふわふわの笑顔を向けられたら――自然と頬が緩んでしまいます。
ずるいです。
「さっ、今日は何して過ごそうか?」
「今日は……ココアさんと一緒に、お部屋でお話ししていたいです」
「今日もそれー? たまには外にでも遊びに行かない? デートだよ!」
「……そうですね、ココアさんがそう言うなら」
「よっし決まりー! 行こう!」
ココアさんの手が私の手をとって、胸元へ引き寄せます。これが、合図。
「……ん」
私は顔を近づけて、ココアさんを待ちます。このドキドキする時間もたまりません。
「ちゅっ」
柔らかい音。触れる唇。頬で感じる吐息。
その全てが愛おしくて、暖かくて、はち切れそうです。
「…………」
「えへへ、行こっか」
余韻でまだしゃべれない私をココアさんの右手がリードしてくれます。
お出かけも、たまになら悪くないかもしれません。
―――
「これがデート、ですか……はぁ……」
「あ、あはは……」
並んで歩くココアさんと私。
と、その横にいる、千夜さんにリゼさんにシャロさん。
「いやー、チノ達もあの店に来てるとは、偶然もあるもんだな!」
「やっぱり趣味があう五人組、ってことかしらー?」
いつものオーラを放つお二人。恐れていたことが起きてしまいました。
今日は気分を変えてアクセサリーでも、なんてココアさんの気まぐれが仇になってしまったようです。
そんな二人を横目にして、申し訳なさそうにシャロさんがこそこそと私のそばに来ます。
「ねぇ、もしかして二人、デート中だったんじゃないの? 私達……迷惑でしょ?」
大迷惑です。
折角の二人きりの時間、邪魔しないでほしいです。
私にとってはココアさんとの一分一秒が大切なんです。
……なんて、友達にははっきり言いづらいものです。
「……ちょっと、かも、です」
「オッケー、あの二人の気は引いとくから、その内に二人ははぐれちゃった、ってことにしましょ」
さすがシャロさん。頭が回って空気の読める素敵な人です。
好きです。ココアさんには遠く及びませんが。
さっとウェーブのかかった髪をかき上げて、シャロさんが人の少ない通りを指差します。
「あーっ! ねーねー見てあれ!ミリタリー和風喫茶店ですってー! きゃー」
「ミリタリー!?」
「和風!?」
二人があるはずもないのお店を探してキョロキョロ辺りを見回している、今のうちです。
「ココアさんココアさん、行きましょう」
「んっ? あ、シャロちゃん……」
口パクで『うまくやりなさいよ!』でしょうか? 後で、お礼をしておかないとですね。
「さぁ行きましょう、愛の……逃避行ですよ」
「クスッ……うん! 行こうチノちゃん!」
我ながら……少しギザ過ぎちゃいました。反省。
でもここからはココアさんを今度こそ独り占め。
歯の浮くような台詞が浮かんできても、仕方ないです。
――私達の関係は、秘密。
だって、二人だけの秘密なんて、素敵だと思いませんか? ココアさん。
でも勘のいいシャロさんは気づきました。その時にちょっぴり、誇らしげに思ったのは確かです。
良いんです。二人の関係がみんなの知るところとなって、認められて。それもひとつの幸せの形ですから。
ただ脆く解けていく秘密を考えると、私達の絆まで脆いと言われているように思えて少し、ちょっぴり、癇に障りました。
「ふあぁー、今日は疲れたけど楽しかったね! チノちゃん」
「ええ、とっても」
木の小物屋さん、食器屋さん、帽子屋さん。
二人きりで回るお店ではまたいつもと違ったかわいさを見つけることができました。
そんな話に花を咲かせつつ、私達はミルクココアを二人分用意して仲良く二階へ上がります。
甘い香りが鼻をくすぐって、それだけで心が落ち着きます。
「はい、チノちゃんおーいでっ」
「えへ、失礼します……」
私の一番のお気に入りの場所。それは座ってるココアさんの足の、間。
ココアさんがミルクココアを飲んで、その下で、間で、一番近くで私も同じものを飲む。こんな幸せ、他にありません。
好きな人と、好きなものを分け合う幸せ。
しゃべらなくても、背中から、触れる足から、ココアさんの気持ちが伝わってきます。
私はココアさんが好きで、ココアさんも私が好き。
それだけで、もう、他に何もいらない。
――私達の関係は、秘密。
私達は、女同士。
世の中にはそれに理解のある人もいれば、理解のない人もいます。
心無い言葉を、軽はずみに使う人も。
私は何を言われようと構いません。でもココアさんを傷つけるようなことは、起きてはならない。あってはならない。あったら、私が許せない。
私達の望みは、二人でずーっと一緒に過ごしていくことです。
私の望みは、ココアさんを守ってあげること。
そのどちらも、手の届く望み。決して遠い目標ではないはずです。
でも、たとえば。
それがとても難しいことだとしたら……私は、どうすべきなのでしょうか。
―――
ココアさんと私が付き合って、もう三ヶ月が経ちます。ココアさんと過ごした時間は長く、濃密で。しかし、振り返ればあっという間の出来事のようにも思えます。
私は最近、時々不安になるんです。この世界は都合の良い夢ではないのか、本当の私は、ただのココアさんの友人でしかなくて……。
そんな考えが巡ると胃の中に酸っぱいものが込み上げてきます。
でもそんなとき、いつもココアさんは側にいて、私を強く抱き締めてくれます。私も強く抱き締め返して、『ココアさん』を身体中で感じとります。その瞬間私は恐ろしい妄想から覚めて、今ここにある幸せを享受できるようになるのです。
「コーコアさんっ」
「なあに?チノちゃん?」
「えへへ、呼んでみただけです」
「もう、チノちゃんったらぁ~」
大丈夫です。
ココアさんはすぐ、そこにいます。
「お前ら……仕事中くらいは、ふにゃーっとしないでくれよ?」
「ご、ごめんリゼちゃん……さて!いつも通りバリバリ働くよ!」
「いつも通りだったら今と大差無いです」
「ひどいよチノちゃん~!」
そう、いちばん近くに。
ココロも、カラダも。全部。
なのに、なぜ、こんなに。
こんなに、嫌な予感がするのでしょうか。
何処かが間違っているような、何処かに綻びがあるような、漠然とした不安。
幸せであればあるほど、それを失うことを強く恐れるのだそうです。
どうか、私の思い過ごしでありますように。
―――
時間は待ってはくれません。
青々と茂った木々さえも、その葉は鮮やかさを失い、土へと還ります。
半袖では少し寒さを感じるようになった頃。
私は学校で、一枚の書類を受け取ります。
「進路調査、かー……テキトーに書いちゃダメかなー」
「ダメだよマヤちゃん! 後々、困るのはマヤちゃんなんだよ~?」
「それもそっか……でもめんどくさいなー、ずっとこのままでいられたらいいのに」
「……ふふ、そうですね。私もそう思います」
ココアさんがいる今を、ずっと。
「だから、思います。変わらない選択肢というのもあるはずだと」
「かわらない?」
「今してることを、これからも続けるためには、どんな選択をすればいいのか……マヤさんなら、やっぱり進学でしょうか?」
少し考えて渋々、といった表情でマヤさんが頷きます。
明快で、真っ直ぐな道。私には、少し羨ましいです。
「んー、まー、そーなるよね、無難に」
「私も進学かなー……マヤちゃんと同じ学校、行きたいなっ」
「え、えー? 私も、だけど……メグとは頭の差が……」
「だーいじょーぶ! 全力で教えるよ! チノちゃんも手伝ってくれるよねっ!」
「えっ……と」
その時、私はとても曖昧な笑みを浮かべていたのでしょう。
きょとんとしたメグさんの表情からその事に気付いて、迷いを振り切るように言い放ちます。
「もちろんですよ、メグさん――」
―――
「おっ、何書いてんだチノ?」
「進路調査です」
「ふーん……懐かしいなー」
「来週までに提出なんです」
「ま、中学生ならどこの高校を目指すか、って話になるか」
「そうですね……」
どこかなんてとっくに決まってます。
ココアさんのいる高校。それ以外ありえません。
近いですし、学力も充分。高校選択はほぼ決まりといってもいいでしょう。
今悩んでいたのは、そんなことじゃなく。
「しん、がく……」
それは。
進学がココアさんと過ごしていく上で最善の選択なのか、ということ。
もちろんココアさんとお揃いの制服とか、一緒に歩く通学路とか、屋上で食べるお弁当とか!
興味が無い、わけがなくて、でも、考えてるのは、もっともっと先のこと。
リゼさんがソーサーを洗っている横でぽけーっとした表情のココアさんを見ると、当然のように目が合います。
「休憩にしましょう……ココアさん、一緒にコーヒーいかがですか」
「わーい! チノちゃんのコーヒーだ!」
「……ちょっと、飲みながら聞いてください」
進路調査のことを話して、意見を聞きます。
ココアさんはいつになく、と言ったら失礼ですけど、とても真剣な眼差しで私の話を聞いてくれました。
「んー……チノちゃんのしたいようにすればいいんじゃないかな! 応援するよ~」
「……ココアさんなら、そう言ってくれると思っていました」
「もちろん!なんてったって私はチノちゃんの……彼女、だもん!」
誇らしそうに言うココアさんに、どきりと、胸が大きく弾みます。
落ち着いて、落ち着いて。
私の気持ちをしっかりと、ココアさんに伝えなくちゃ。
「私は……バリスタになりたいんです。高校に行くよりも、修行して、バリスタとしての腕を磨きたい」
「知ってるよ、チノちゃんの夢……でも、なんで急に……?」
「その、私は」
引かれ、ないかな。
「早く一人前になりたい……お店を出せるくらいに。そしっ、そし、たら……あなっ、たをっ……」
「私、を……?」
「ココアさん、と……一緒に住みたいです。居候なんかじゃなくて、ずっと!」
「チノちゃん、それって……」
ココアさんの顔がこわばる。
あぁ、ダメだったかな。さすがに、気が早すぎたかなぁ。
そんなもやもやも、ココアさんがくれた飛びっきりのハグでどこかへ吹き飛びました。
「うれしいよぉ……チノちゃん……」
「こっ、ココア、さん……」
良かった。
私は、間違ってなんていなかった。
そう心から信じられるような、力強いハグでした。
それから私達は、次のお客さんが来てリゼさんに咳払いをされるまでの長い長い間、無言で抱き合っていました。
―――
「よし、こんな感じですか」
お風呂上がりにばばっと書き上げた進路調査。
書くことさえ決まっていれば、なんと迷いなく筆が進むことでしょう。鼻唄混じりに手が動きました。仕上げに誤字脱字を確認。大丈夫。
あとは、お父さんの判をもらえば完璧です。
廊下も冷える季節になってきました。
冷たい手で、硬いドアを二回ノック。
「どうぞ」いつも通り、毅然とした父の声が聞こえました。
「お父さん、入りますよ」
「どうかしたか? チノ」
「学校の書類で……判をお願いします」
万年筆を片手に、進路調査に目を通すお父さん。
その目が、少し、険しくなります。
「チノ、どういうことかな? 第一希望『就職』と書いてあるが」
「はい、それは……」
「この間相談した時、言っただろう? バリスタを目指すのは高校を卒業してからでも遅くはない、もしもの時のために、経験のために、高校には進学しておくべきだ、と」
「はい、でも……」
「ココア君、かね?」
ゾクっとする。
心の内を当てられたからでも、ココアさんの名前を呼ばれたからでもなく。
その言葉の、台詞の、えもいわれぬ苦さに。
「…………」
「……そうか」
「私は、チノとココア君との関係については、これまで黙認してきた。しかし今回はそうはいかないよ」
「…………」
足元の床が、ぐらぐらしている気がする。
「今チノの選ぼうとしている道はあまりに険しい。焦る余り、若く無謀な考えを押し通そうとしている。親として、愛しい娘がそんな選択をするのを黙って見ているわけにはいかないんだ」
「……チノを焦らせ、向こう見ずにしているのはココア君だ」
「――っ、ココアさんは、関係……」
「ある。彼女にそんな意思は無いのだろうが……。場合によっては……ココア君の住み込み先を、変更してもらうのも考えねばならない。正直ここまで悪影響があるなんて、予想外だった。」
「そ、そんな……」
苦い。苦い。苦い。
「一度離れてみれば、冷静になるだろう……所詮同性同士の恋だ。障害が多すぎる、将来性にも乏しい」
所詮?
「ほとんど私手一人で育てることになってしまって……寂しかったんだろう。済まなかった。女性への憧れが高まるのも、当然と言えば当然かもしれないな……」
憧れ?
「そんな環境に、あんなに優しく、人当たりの良い彼女が来た……聞いた話だが、思春期の少女にはよくあることらしい」
苦い。吐きそう。
それ以上、言わないで。でないと。
さらさらとこぼれていく、わたしのカケラ。
「憧れと恋を同一視して――」
ダメ。
その先は、わたし。ききたくない。
「『勘違い』することが……あるとか」
手は、口よりも疾く動き――
「うあぁあぁぁぁっ!」
私の口から出る誰かの声を、フィルターのかかったような耳で聞きました。
ガスッ!
「ぐあぁぁあっ! ぐっ!?」
気づけば、殴っていました。
そばに置いてあった、電気スタンドを掴んで、振り下ろします。肩。腕。もっと、頭頭頭。
何かの破片が、何かの液体が清潔な部屋に飛び散りました。
誰かの叫び声が聞こえます。
いや、誰か、なんかじゃありません。
私の、ココアさんの、『想い』を汚したヒト。
してはならないことを、使ってはならない言葉を。
「はあっ、はあっ、はあっ……!」
「うっ、ぁ……」
まだ呟きが聞こえる。酷く不快で、刺々しい。でもそれは舌に残った、か細く消えそうな後味にすぎません。
その言葉の出所を探し出して。
声が聞こえなくなるまで、強く、強く押さえつけました。
「勘違いで……」
「憧れなんかで……あるものかぁぁあっ!」
聴く者のいない叫びは深い夜に放たれる前に、木の壁に溶けて消えました。
それからどれだけ、こうして冷たい床に座り込んでいたのでしょう。
とん……とん……。
ふと聞こえる足音。だいすきなひとの足音。
それは部屋の前まで来て、止まりました。
「すみませーん、チノちゃん、いますかー?」
だいすきなひとの声。乾いた私に染み込んで、甘さが口中に、身体中に広がっていきます。
「はーい、わたしはここですよっ」
「チノちゃん!」
がちゃりとドアを開けて現れる、だいすきなひと。
その素敵な笑顔は……一瞬で、恐怖に凍りつきました。
「やっ……!? いっ、いやあああぁぁぁぁ!」
「落ち着いて下さいココアさん、私はここにいますから」
「いやっ! だって、だってぇ! ……あれ、タカヒロさん……だよ、ね……?」
「そうですね」
「たっ大変だよおぉお! 救急車! 救急車呼ばないとっ! 死んじゃう!」
「もう死んでますよ」
そんな、この世の終わりみたいな顔して泣かないで下さい。可愛い顔が台無しです。
カタカタ震えて、寒そうなココアさん。私が抱きしめて、暖めてあげますね。
「ひっくっ……教えて、何があったの……? それにっ! チノちゃん! チノちゃんは無事、なの!?」
「私は平気です。ちょっと……返り血を浴びた程度です。でも洗えば落ちます」
「かえり、ち……? え……? どう、いうこと……?」
やだなぁ、どうして返り血を浴びてるかなんて、殺したからに決まってるじゃないですか。コレを。
そんなに取り乱さなくて良いんですよ。このヒト悪い人でしたから。
「私が、殺したんですよ。このヒトを」
「ひっ!? ひっ! ひいぃ!?」
ザッ、と音を立ててココアさんが後ずさりします。
「こうするしかなかったんですよ……このヒトは私とココアさんの仲を引き裂こうとしていました」
「挙げ句の果てに……私と、ココアさんの愛、を……『勘違い』などとっ……!」
私の拳を震わせる感情。障害を取り除いた、達成感。この気持ちもまた、愛なのでしょう。ビンに詰めておくべき尊い感情。
怯えた目をしているココアさんがいつもより、小さく見えます。
「なんで……? なんで、お父さんが、死んじゃったのに……そんなに、普通でいられるの……?」
「なんで、ですか。それは……」
決まり切ったこと。
ココアさんが来るまでの間、考えてたどり着いた、私自身の答え。
「ココアさんを、愛しているからです」
「ココアさんとの間の障害を取り除いた。ココアさんとの未来に、一歩近づいた」
「そうですね、結果的にお父さんは、死んだ。でも」
「どうしてでしょうね、涙ひとつ出てこないんです。うれしいんです。ココアさんを、ココアさんとの未来を守れたことが」
口の端からこぼれそうです。気を抜くと、笑いが。
少し前に考えましたっけ。二人の未来を、ココアさんを、守ることが私に出来るのか?
曖昧なまま迎えた、あの瞬間。私の知らない私が、答えを既に持っていた。覚悟は出来ていたんです。
――どんな手を、使ってでも。
―――
「コーコアさんっ」
「あ、チノ、ちゃん……おはよう」
青ざめた顔で元気が無いココアさん。良く眠れなかったのでしょうか、無理もありませんね。
寝て起きての今日ですし、まだショックを受けているのかも。
でも大丈夫。こんな時にこそ支えになってあげるのが、良いパートナーというものです。
「安心してください、ココアさん」
ベッドの上でへたり込むココアさんに私はそっと抱きつき、耳元で優しく話をします。
「ココアさんは何も心配しなくていいんです。私が……絶対に守ってみせます」
「チノちゃん……」
「だから、ずっと側に居させてくださいね?」
シーツをぎゅっと握りながら、うん、って短く頷いてココアさんはぎこちない笑みを見せてくれます。
えへ。
やっぱりココアさんには、笑顔が一番似合います。
「チノー、ココアー、いるかー?」
朝ご飯のトーストとサラダを食べ終えて、食後のコーヒーを二人っきりで楽しむ、素敵な時間。突然玄関の方から声がしました。リゼさんです。
間の悪い人だなぁと思いつつ、ココアさんと玄関まで降りていきます。
「おはよ、二人とも!」
「おはようございます。今日はバイトのシフトは入ってないはずですが」
「あー、今日は仕事じゃなくて、な。タカヒロさんいるか?」
――どうして?
その言葉が出た瞬間、斜め後ろのココアさんがビクッと震えるのを感じました。
大丈夫。いくら何でも早すぎます。きっと別件に決まってます。ココアさんに、自分に、心の中で言い聞かせるように。
「……父、に、何か用ですか?」
「えっと、うちの父がタカヒロさんと昨日の夜に約束してたらしいんだが、すっぽかされたみたいでな……」
人と会う約束。
何て間の悪い。
今度は、本気で呪いそうですよ。
「タカヒロさんは約束を忘れるような人じゃないし、電話しても出ないっていうから……今、居ないのか?」
どうする?
どう答えたら正解?
じゃなくて。
――どう答えたら、ココアさんと一緒にいられる?
「父、は……出かけました。昨日。えっと、夜に。まだ……戻って、きてません」
「ふーん、そうか……連絡が取れないのは心配だが、タカヒロさんも大人だし……って、どうしたココア!?」
その言葉で中から外へと目を向けて、振り向いて。
そこには真っ青な顔をしてうずくまっているココアさんかいます。
その目を見た瞬間、何がそうさせているのかはっきりと、私にはわかってしまいました。
「大丈夫、リゼちゃん……ちょっと、風邪っぽいだけだから……」
「風邪!? ならちゃんとあったかくして寝てろ! 無理しないで……えぇっと、二階まで運ぶか!?」
「うぅん、平気、ありがと……」
「リゼさん、ココアさんは私が看病しますから、大丈夫です」
でも心配だから、なんて食い下がるリゼさんを何とか説得して、とりあえず帰ってもらいました。
ここからの相談は、聞かれるわけにはいきません。
ココアさんを椅子に座らせてあげて、お冷やを二つ持ってきます。
なぜだか、無性に喉が渇くんです。どうしてかな。
「……ちょっと、やっかいですね。こんなに早くあの人の行方を探られるとは思いませんでした。時間はあまり無いみたいです」
「そう、だね。どうすれば、いいのかな……? わかんないよ……」
虚ろな目。震える膝。今にも崩れそうで、全てに怯えている様に見えます。
いつも自信満々なお転婆お姉ちゃんはそこにはいなくて、でもやっぱり、そこにいるのはココアさん。
守りたくなる、ココアさん。
「二つ、選択肢があります」
「ふた、つ……」
「一つは、正直に全てを話すことです。多分……捕まります。離れ離れになります」
「それ、は……やだな……」
私も嫌です。捕まった後、どうなるのかはわからない。でも、そこにココアさんがいないのは間違いありません。
「もう、一つ」
ごくり。
「逃げる、ことです……。二人で、どこか、遠い遠い、場所へ」
「ここから、出て行くってこと……?」
「ここに居れば、遅かれ早かれ全てが明らかになってしまうでしょう。そうなる前に、行方をくらまします」
「そんなこと、できるの?」
おぼつかない手つきでコップをいじりながら、そう問いかけてきます。
できるできない、じゃないんです。
やるしかないんです。私には、いえ私たちには。それだけが、今残された確かな道標。
迷いなんて、あなたには見せられない。
「正直、わかりません……でも」
震えるココアさんの手をとって、言葉を続けます。
「私が、あなたを守ります。だから……一緒に、来てくれますか? こんな、私と……」
言い終えて、手の甲にそっと口づけします。
ココアさんの口元が少し緩んで見えたのは、私の願いが見せた幻でしょうか。
「……わかった」
「…………」
「わたしも、かくご、決める……。チノちゃんと一緒にいられるなら、そのためなら、何でもする! してみせるよ……! 」
ぐっと唇を噛み締めたココアさんの肩は震えて、顔は青ざめて。
それでも、やっと私の目を見て口にしてくれた言葉は、確かな希望として私の胸に染み渡りました。
わかっています。私は卑怯者。今からこの手で、ココアさんを道連れにします。私がバカだったせいで。私が我慢できなかったせいで。
でももし私とココアさんの立場が逆だったとしても私は迷わず付いていくと思いますしそのことに対して文句も不満も無いと思いますしむしろココアさんと二人だけの秘密を共有することに喜びを感じさえするのだろうと思います。
だからこんな無茶な申し出でも、断られることなんて露ほども考えていません。
一緒に居たいなんて、唯のエゴ。
エゴってつまり心の奥の、一番純粋な気持ち。
「ごめん、ね……頼りにならない、ダメなお姉ちゃんで……」
「そんなことありません。ココアさんは私に踏み出す勇気を、元気をくれました。今でも……ココアさんのそばにいる時間だけが、他とは違う、特別なきらめきに包まれています」
「うん……私も。チノちゃんといることが、私の一番の幸せだから……」
聞こえるのは私の心臓の音、ココアさんの吐息。
しん、と言葉が途切れて、空白の時間。
うぅん、いらないんです。言葉なんか。
見つめ合って、だいすきなひとの微笑みを見れば、私の頬も緩みます。何を考えてるんだろう。何を考えていても、幸せ。
だってそれは、きっと私のことだから。
空白じゃない。
幕間じゃない。
――その時間は、永遠に。
コトン。
示し合わせたかのように、空になったグラスをテーブルに置く音が重なる。
「さて」
ガタッ。
また示し合わせたかのように、同時に席を立ちました。
「今日の夜には、ここを発ちましょう。私は、知り合いにお別れの挨拶をしてきます。ココアさんは……どうしますか?」
「私は……いいや。こんな顔で出てったらみんなを心配にさせちゃう……。この家に残ってる整理とか……荷造り、しておくね」
「わかりました。よろしくお願いします」
「……みんなに、よろしく、ね」
「……はい」
多分もう、会えない。
それを言葉にすることの重みを私たちは感じていて、だからココアさんは足早に二階へ、私は玄関のドアを少し乱暴に開け放つ。
冷たい風が吹き込んで、足に絡みつくように思えました。
それでも歩く速度を落としたりなんて、しません。
―――
「えっ!? ココアちゃんとチノちゃん、引っ越しちゃうのー!?」
メグさん。
「そっかー、お父さん帰ってくるまでかー、チノ大変だなー」
マヤさん。
「出発は、今日!? 随分とまた、なんか、急だな……あのっ、これっ、持ってくか!?」
リゼさん。
「そうなの、お母様のご実家に……遠いところなのかしら? 気をつけてね」
千夜さん。
「ちょっとちょっと! そういう話はもっと早くに……ってチノちゃんに言っても仕方ないわよね……」
シャロさん。
みんなココアさんにとっても私にとっても、大切なお友達。優しくて、いい人たち。
お別れするの、寂しくないはず、ありません。
きっと、ココアさんは、もっと。
「……あれ?タカヒロさんが居なくなったのが昨日の夜で……って随分早いのね、決断……。というか、そんなに急がなくても……」
ビクリ。
肩が揺れる。
どくん。どくん。
急転直下、暖色から寒色。
疑われてる?
疑われてる?
感傷に浸っていたせいで、心のガードが緩んでいたのでしょうか?
「チノ、ちゃん?」
まずい。
まずい。
不自然な反応をしてしまった。
怪しい。こんなの。
今だって、俯いてる。怪しいよ。
まず目を見なくちゃ。さん、にい、いち……。
シャロさんは、少し驚いたような……訝しげな表情で、私を見ていました。
「っ……。チノちゃん、タカヒロさんについて、何か……知ってるの?」
どくんどくん。
心臓がうるさいくらいに跳ねます。黙っててください。
どうする? どうすればいい?
切り抜けるには……知らない、と言う以外ない。
そう、知らない。知らないの。あんな人。
「…………」
「チノちゃん?」
「知りません……あの人のことなんか、一切……!」
私の目を見続けるシャロさん。
私も見つめ返して、離さない。逸らさせない
服を辿るように右手を、そっと、ゆっくり、腰のポーチの上に、移動させて。
「何で、そんなこと、聞くんですか」
そのファスナーに、手をかけた。
「何でって……少し、チノちゃんの様子が……」
いつでも、『抜き出せる』ように。
「私が? どうかしましたか?」
少しずつ、シャロさんの顔が強張っていく。目は……怯えて、いる。
どんな小さな変化も見逃さないように、目を光らせて、見つめる。
あれ。
私、今どんな顔してるのかな。
「いぇ、その……なんでも、ないわ……」
そう言ってシャロさんは目線を落とす。
下を向く一瞬、私の右手をシャロさんの目が追ったように――私には見えた。
「……そうですか」
一息ついた私は手を組んで、伸びをします。シャロさんの体が一瞬固まって、それを誤魔化すように髪をいじっているようです。
「……じゃあ、行くのね?」
「はい」
「気を……つけてね」
「……はい」
「……それじゃ、私は仕事に戻るわね、バイバイ」
最後に見たシャロさんの笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも、ぎこちないものでした。
簡素な裏口から店を後にして、控室から戻ったシャロさんをガラス越しに窺います。
お客さんの前で振りまく笑顔。淀みのない手さばき。
――おそらく、気付かれた。
でもそれを言いふらす様子も、引き止める様子もない。
私がシャロさんだったら、どうするでしょうか……。
「……あ」
うっかり聞き忘れちゃいました。
そういえば、私、ちゃんと。
「笑えて、ましたか? ――シャロさん」
―――
黄色になった葉が石畳に落ちて、その上を靴が、車が、何度も何度も踏みつけます。
避けて歩く人なんていません。私も。ココアさんの待つ場所へ。避ける余裕もありません。
そうして何枚、何十枚という落ち葉を踏みしめて、ふと思うのです。
あぁ、この葉達は、私の通る道に落ちていた。
それだけなんだなぁと。
「やっぱり」
「ころすべき、でしたか?」
知ってます。こういうの。
『後の祭り』って言うんですよね。
大丈夫。大丈夫です。
シャロさんは少なくとも明日までは何もしない。待ってくれる。私の直感がそう告げています。
「でも、つぎは」
ためらわない。
そっとポーチに手を入れて、金属の冷たさを改めて確認します。
「まもって、みせます」
ココアさん。
あなたのために。
―――
「……っと。こんなものですね」
パンパンになった旅行かばんと、散らかった部屋をぐるり見回す。
かばんの中身は当座の着替え、薬、家中からかき集めたお金。
思いのほか入れるものは少なくて、結局洋服でいっぱいです。
「写真……これも置いていきましょう」
この十何年か、思ったよりいらないものばかりに囲まれて過ごしていたようです。
ボトルシップ、ジグソーパズル、コーヒーメーカー。
全部持ってけない。大したお金にもならない。
空っぽの暮らし。今までの私?
もっと空っぽ。今の私?
「チノちゃん……? 準備できたよ……?」
「……! はい! 今行きます!」
まあ、今の私が空っぽなんてことは、あり得ませんけどね。
この体を満たす感情は、金よりも重く、コーヒーよりも香ばしいのです。
―――
重い車輪が、がたんごとんと田舎町を滑っていきます。
私がこの街を離れるのは二度目。そして、多分最後。
目に焼き付けようとした風景はあっという間に夜の闇に飲まれ、沢山の灯りの一つになっていきます。
家が一つ。
家が二つ。
家がたくさん。
家。家。家。
あのひとつひとつの家の中には誰かが誰かと、もしくは一人ぼっちで住んでいます。
羨ましさはありません。
私たちはその誰よりも深い絆で結ばれた間柄なのですから。
幸せはベッドじゃない。幸せは食べ物じゃない。幸せは広い家じゃない。
幸せは……あなた。ココアさん。
でも。
でも。
ベッドは幸せ。食べ物は幸せ。家は……幸せなもの。
幸せが欲しい。幸せを分かち合いたい。
窓を流れていく何百という光を見て思うのです。
その光の中に私たちがいても、誰も傷つかない。
その光の中のひとつが減っても、誰も気付かない。
ひとり。傷つければ、きっと私たちも光を手に出来るはず。
そう思います。そして、
その望みの何が『悪』だと言えるでしょうか?
「んにゅう……」
「――っ!」
「へい、きー……」
「……ふふ、変な寝言、です」
かわいい。
ボックス席が空いていて本当に助かりました。
ここなら正面からココアさんの寝顔を眺めていられます。
ふたりだけの空間。
もやもやした悩み事は、ひとまず脇に置いておきましょう。
良い夢を見てください、ココアさん。
―――
「すみません、私の準備不足でした……」
「チノちゃんのせいじゃないよ! ほら、どこか泊まれるところ探そう?」
夕方に出発した私たちは東へ東へと電車を乗り継ぎました。
辺りはすぐに暗くなり、気温は下がります。終点へ、そこからまた別の電車で終点へ。
しかし思いの外早くにそれが出来なくなりました。
この駅から次の始発が出るのは明日の朝六時。実に八時間ほどの空白です。
「ほら! 駅前も賑やかな所だし……きっとどこかにあるよ! ホテルみたいなの!」
「……そうですね」
ここで私がくよくよしても仕方ありません。
ココアさんの言う通り、賑やか……いわゆる、繁華街という場所なのでしょう。眩しい街です。
朝になったら目的地を決めるための情報も探せるかもしれません。
しかし、気になるのは……。
「あー……金ねぇ……けどカラオケ行きてー、あとメシ」
「盗っちゃえ盗っちゃえー! そのへんのオッサンとかシバけばヨユーっしょー」
人柄、治安……お世辞にも良いとは言えませんね。
ああいうのには関わらないに限ります。目を合わせてはいけませんよ、ココアさん。
「早い所ホテルを見つけま……あれ? ココアさん!?」
しまった。
なんで目を離したんでしょう! 私のバカ!
この人混みで、はぐれてしまった?
だとしたら何処にいるか……。
――いや、居ました。
「ココアさんっ!」
古いビルの陰。路地の隙間。
よかった。駆け足で近づいて、異変に気づきます。
震えてる。
「チノ、ちゃん……!」
「ココアさん!」
「へー、この子ココアって言うんだー」
声のする方へぐるりと振り向く。
絡まれてる。ココアさんが。
見たことない、けど明らかにガラの悪い男、三人。
ピアスだのタトゥーだの、真っ当な道を歩んで無いのは、明らか。
危険。
「チノちゃん、だっけ? 君も可愛いねー、どう? 俺たちと遊ばない?」
「……なして」
「ん? なに?」
「……私たちに、関わらないでください」
チンピラたちがザワつく。というより、楽しそうな口笛だ。
癇に障る。
数は三人。ココアさんと私の近くにいるのが一人。少し離れた取り巻きに二人。
いける。怪しまれない速度で、少しづつポーチのファスナーを片手で開く。
「えー? つれないなぁー、君ら姉妹? っていうか家出?」
「関わらないでください」
「チッ……お姉ちゃんの方はさっきからだんまりだけど、良い体してるねぇ~。触って良い?」
「ひっ! や、だ……」
ココアさんが。
危険だから。
「いーじゃんちょっとくらい! 減るもんじゃ無いし」
「いや……!」
「……うっせえ! 触らせろよ!」
「やだっ……!」
「やめ……ろっ!」
肌寒い季節なのに、馬鹿みたいに薄着。その伸びた腕に。肌に。
滑らせたポーチの中の手を。
思い切り振り下ろした。
「……あ」
その腕が、ココアさんに届いて、絹のような髪を弾いた。
何かが、壊れた。
ずれた。
踏み入られた。
許せない。
口が、まるで私のものじゃないみたいに、つらつらと心の内を吐き出す。
「……ろす」
「あ!? 何だと!?」
「爪を剥ぐ。指を折る。からだじゅうを切り裂いて、硫酸をぶちまける」
「……はっ?」
「手首を切り落とす。肘も切り落とす。その次は肩。傷口に釘を刺す」
「な、何だ……!? 黙れ!黙れよぉ!」
「足も切り落とす。指を一本一本切り離して、さらに真っ二つにする。それを真っ二つ。真っ二つ。真っ二つに真っ二つに真っ二つに真っ二つに」
口にするよりどんどん速く妄想は進んで、頭の中の何かは焼肉用のお肉よりも小さくなっていきます。
あんまり美味しくなさそうです。
「殺しなんてしませんよ? 殺すわけ無いじゃないですか。傷口を酸に浸しますか? コーヒーミルで挽いて挽肉にしますか? うぅん、そんなんじゃ……済まさない」
「お、おいっ!黙れ!ふざけんな!黙れっ!黙れってぇ!」
「ふざけてませんよ?」
「ひいっ!」
しっかり、目を見て。
今はまだ、ちゃんと在るべき場所にある目を。
私のココアさんに手を上げたんです。
それくらいの罰、むしろ、軽すぎますよね? 軽すぎるんです。
わかりますよね?
私が、本気だってこと。
「ふざけて……ませんよ?」
「ひっ! ……おいっ! 逃げるぞ! こいつおかしい! 狂ってる!」
狂ってる?
大切な人を命懸けで守ることの、何がおかしいんでしょうか?
私にはわかりません。
チンピラたちはよたよたと、路地の奥の闇へと消えていきました。
「ケガはありませんか?」
「……大丈夫。ありがとう……チノちゃん」
良かった。震えは止まったみたいです。
「やはり、一刻も早く泊まる場所を見つけるべきですね」
「じゃあ……手分けして探そうか?」
こつん。
私のげんこつがココアさんのおでこに当たる音です。
充分、手加減してます。
「痛いよチノちゃん~」
「さっきあんなことがあったばっかで、何を言ってるんですか……」
「ん……だよね」
「もし今ココアさんを一人にしてしまったら、後悔のあまり自分で自分を殺してしまいそうです」
「それはいやだなぁ……でも、嬉しい」
「何がですか?」
「チノちゃんが、そこまで私のことを想ってくれてることっ」
「そんなの――」
当たり前です、と続けるつもりだったのに、ココアさんの唇がそれを邪魔しました。あったかいくちびる。安心する匂い。
私の話は最後まで聞いてくださいよ? ココアさん。
でも――言葉よりも深く、強く、想いを伝えられたので今回は許してあげます。
全く。ココアさんには甘いなぁ、私。えへへ。
しってます。
気づいてました。わたし。
ココアさんをチンピラから助けた時。肩に手を回そうとした瞬間、ビクリと、一瞬だけ身を引こうとしたこと。
それは、ココアさんが初めてわたしに見せた、反応。拒否。その欠片。
わたしが怖かったですか? わたし、間違えちゃいましたか? わたしを――。
嫌いですか?
わかってます。
ココアさんが私を嫌いになるはずなんてありません。
それでも。
ココアさんの『嫌い』から、一歩でも遠くに離れていたい。
例え世界で一番遠くにいるのが私でも。1センチでもそれから離れたい。考えたくない。考えられない。
遠くへ、遠くへ。
思えば、それが始まりで、それが私の全てなのかもしれません。
辛い出来事も、苦しい出来事も。
ひと匙掬ったお砂糖をあなたが溶かし込めば、苦味なんて感じない。
私を動かすのは――あなた。
―――
「ありがとうございましたー!」
お客さんを追いかけて、埃っぽい店内に響く元気な声。
「おっともうこんな時間だ、今日はそろそろ閉めようか、保登さん、香風さん」
「はい、マスター」
古い木のドアを開けて、看板を裏返します。「closed」。
またドアを開けてコーヒーの香り漂う店内に戻る、この瞬間。私の好きな時間の一つです。
「今日もお疲れ様。もう、君達が来てから一ヶ月ほどになるかねぇ……」
「えーっ!? もうそんなに経ってる? 月日が経つのは早いねぇ、おじいちゃん!」
「……ココアさん、ちゃんとマスターと呼んでください」
「ほっほっほ、いいよいいよ、確かにおじいちゃん、だしの、ほっほっほ!」
そう言って朗らかに笑うこの店のマスター。白い髭、白い髪。少しくたびれたスーツ。
コーヒーを淹れる気品高い動きは、誰だったかに似ているような気がします。
とってもいい人。右も左もわからない私とココアさんを、何も聞かずに雇ってくれました。
その上、一週間ほど住み込みでの仕事も許可してくれて、お礼のしようもありません。
「お疲れ様でした。では、また明日」
「またね! おじいちゃん!」
小さな町の外れにある、可愛い木組みの喫茶店。時の止まったような店内に、確かに漂うコーヒーの香り。
この町を訪れて、引き寄せられるように最初のドアを叩いたのは、やはり運命だったのかもしれません。
「チノちゃん! 今日のお夕飯はなーに?」
「そうですね……一ヶ月のお祝いに、シチューでも作りましょうか」
枯れ木に止まる小鳥たちを眺めながら、なんでもない会話をいつものように紡いでいく。
「わーい! 私も手伝うよっ!」
「一人でできますっ」
もう。いつまでたっても変わりません。
ココアさんはそうやって私のことを子供扱いして!
……でも、甘え下手な私は、そんなココアさんの性格に感謝することもあったりします。
「……あれ、からだがー」
「んっ? チノちゃん、くっついてきてどうしたの?」
「からだが、ちょっとふらついて……気にしないでください。このまま歩きましょう」
「……もう、しょうがないチノちゃんだ」
ほら。
しあわせ。
幸せは、こんなにも近い。
この時間を続けるためなら。
私は、なんだってできる。
「あっ! チノちゃん! あの帽子欲しい! ほしいよー!」
「ダメです。節約、節約ですよ」
「ふぇーん、ケチー」
……もぅ、いい雰囲気だと思ったらすぐこれです。
えーと、ココアさんは、あの帽子を欲しがってる、と。
後でメモ。それまで覚えていよう。
「今日の買い物は決まってますから。はい、ココアさんは八百屋さんをお願いします」
「はーい! ちゃんと買ってきたら、帽子……」
「ダメです」
「ガーン!」
「……また今度です」
「わぁい!」
ココアさんとは別の道へ。テクテク。
私はお肉屋さんを目指して。てくてく。
むー、私、甘い。
反省、反省。
お金は大事。絶対。
でもココアさんの笑顔はもっと大事。
私がお願いすれば、ココアさんは我慢してくれるのかもしれません。
でも、ココアさんに我慢されるのは、もっと、ずっと、ずーっと、嫌なんです。
だって、好きな人には、心の底から、笑って、喜んで欲しいから――。
少し重くなった荷物を手に橋の前で合流して、誰もいない一軒家に二人きりで帰ります。
二階建て。木造。築何十年。夕闇の町に灯る明かりたちの中で、なんでもない小さなひとつ。小さいけれど、庭もあります。
「たっだいまー!」
「お帰りなさい、ココアさん」
二人で決めた、二人の約束。
『ただいま』と『おかえり』。
帰ってきてくれる人が。帰りを待ってくれる人が、私たちにはお互いしか居ないから。
その言葉を重ねます。重ねるほどに、深くなる関係もあります。
家に帰ったら、ただいま。
ただいまって言われたら、おかえり。
とっても、大切なこと。
私たちの生活には、いくつかの約束事があります。
幸せに暮らすための、ルールじゃなくて、約束。
「ちゃんと覚えてますか? ココアさん。私たちの約束」
「またそうやって疑うー! もう一ヶ月だよ? 完璧、完璧!」
「じゃあ、抜き打ちテストです」
えーと、なんて天井を見つめるココアさん。そんなとこに書いてはありませんよ。
本当に大丈夫でしょうか? ちょっぴり、不安です。
「まず、挨拶は大事!」
「そうですね、さっきもやりました」
「で、次が、隠し事はダメ!」
「はい、悩み事、心配なことはしっかりパートナーにも話すべきです」
ほっ。
覚えているみたいです。
いえいえ、信じてましたよ?
「あ、と……お金の管理はチノちゃんがする!」
「ココアさんに任せるのは不安ですから……」
今の生活を始めて最初にわかったこと。生きていくにはあらゆる場面でお金が必要だということ。
そして、お金は、不可能を可能にし得ること。
「もうー、お姉ちゃんに向かってぇー」
「必要なものがある時は言ってくださいね」
「帽子!」
「それは必要ではないです」
お小遣いはちゃんとあげてますが、それを無計画に使ってしまうのがココアさんです。
お金を手に持つと、使いたくなっちゃう性格なの! なんて言って、お小遣いを渡すと色んなものを買ってきます。買ってきてくれます。
私の部屋にあるものは、大抵がそうしたココアさんからのプレゼントなわけで。
……うれしい。
本当は布団でゴロゴロ転がりたくなるくらい、嬉しいんですよ。
なのに恥ずかしくて、無駄遣いだとか言っちゃうんです。ダメ。ダメな私。
もっともっと素直に気持ちを伝えられるようになりたい。ココアさんのように、笑顔でありがとうって。
「……後は、覚えてますか?」
「えっと、この町から、出ちゃ、ダメ」
「……はい。何か出たい事情がある時は、話し合って決めましょう」
「それ、と……この……」
「いえ、それは約束事じゃないです。これで全部です」
「やったぁ! ほらほら! 覚えてたでしょー?」
「えらい、えらいです」
ぱちぱち、と寂しく手を鳴らしながら、心がぐるぐると巡るのは同じ場所です。
私は、ココアさんに隠し事をしています。
ココアさんとの『約束』を既に破ってしまっているんです。
そのことについては聞かないで欲しいと、ココアさんに『お願い』をしています。
もちろん、それがココアさんにとって、私たちにとって、良い選択だと思うからです。
それでも、ココアさんとの約束を破る罪悪感は、拭い去れません。
「その……ココアさん」
「ん? なぁに?」
「私が前にした『お願い』は、あくまでお願いで……もしココアさんが知りたいというのなら、全て……」
「んー、でもそれ、私のことを考えてそう言ってくれてるんだよね?」
「そ、それは、そうですが……」
「なら聞かないよ! 私、チノちゃんを信じる! 信じてるよ……」
ずっと、みかただよ……。
最後の言葉は小さくなって口の中だけで反射して。それでも私にはしっかりと伝わってきました。
その言葉の持つ、暖かさが。
そう。この『お願い』を包み込む、暖かさ。
「この家を手に入れた方法を聞かないでください」
「二階の奥の部屋に絶対に入らないでください」
怪しすぎるお願いだけど。
だから気づいてる。ココアさんは半分くらい、わかってる。わかった上で、私と楽しく毎日を過ごしてくれてる。
「……ありがとう、ございます」
「え、えへへ、パートナーを信じるのは当然のことだよ!」
「それでも、ありがとう……」
褒められると照れ屋なココアさんに、そっと。唇で触れるだけのキス。
赤い顔がさらに真っ赤に。ココアさんは言葉よりも体でお礼をされる方が好きなのだと、最近気づきました。
「えへ、へへっ……チノちゃん」
「あっ、もうダメです、続きは……また、今夜です」
「……はーいっ。じゃあ私、お風呂洗ってきまーす!」
ペタペタと音を立てるフローリング。足音の向かうジェットバス付きのお風呂場。
2LDK、オール電化。住み心地は最高です。
さて、久し振りに行きましょうか。この家の『元』持ち主のところへ。
あまり、先送りにばかりするのは良くないですから。
―――
ぎしっ、ぎしっ、ぎしっ。
階段を上って、突き当たり。
そこを右へ曲がって、奥の部屋。窓の無い部屋。
素人工事で私がつけた無骨な鍵が扉に不釣り合いに付いています。
肌身離さず持っているキーホルダー。
家の鍵。
金庫の鍵。
そして、ここの鍵。
「ココアさんは、まだ掃除中ですね……」
二階はほとんど物置として使っているので、ココアさんが来る可能性は低いのですが。
それでも、念を入れて確認。
ガチャンと大きな音を立てて鍵が外れる。
ドアを、開ける。
部屋に入ってまず目に飛び込むのは、壁紙にべったり塗られたカーキレッド。
派手な赤だったものが、日が経つにつれて黒に近づいていきます。
赤いバラ園は、黒のバラ園へ。
床にばら撒かれているのは同じく赤く染まった本。本。本。
やだなぁ、カーペットまで染みちゃって。この部屋を元どおりに掃除するのは大変そうです。
染み込んだ人血って、ちゃんととれるのかな。
「全く、無駄に抵抗なんてするから……」
そして、三つのプレゼント箱。
『中身』はしっかりビニール袋に包んでから入れているので、臭いが漏れる心配はありません。
「はぁ……どうしようかなぁ、これ……」
知りたいことは、簡単に教えてくれました。ココアさんを守ったナイフが、また役立ちました。
カードの暗証番号。家族構成。職業。交友関係。書類。戸籍。実印の場所。人って、案外脆いものだと思います。
ものの数十分で記録できて、それは用済みになりました。
その時私には、二つの選択肢があり、どちらも危険を伴う選択肢でした。私の選んだその結果が――この箱たち。
『彼女』は社会から離れた存在でした。それが私たちにとって幸運なことであったのか、私にはわかりません。
親の遺産で引きこもって、のうのうと暮らしていた若者。そんなのが一人消えても……何も、世の中は変わりはしません。
ともあれ、私は家を手に入れました。いくらかのお金も。ココアさんの笑顔も。そして、小さな、爆弾も。
「もっと、こまかくして、すてようかな?」
どこに捨てるにしてもこの箱だと大きすぎます。誰かに見つかってしまう可能性が高いですね。
箱の蓋を開けて、ぐちゃりとしたビニール越しの感触を人差し指で確かめます。
時間が経ちすぎていて、腐敗が始まってしまっているようです。
今なら、
もっと、
簡単に、きりはなせそう。
「――はっ!」
ぶにゅぶにゅ。思い出した!
「豚肉……結局買うの忘れてました」
お肉の無いシチューなんて、コクが足りなくなっちゃいます。
ココアさんが楽しみにしているんです! ひとっ走り、買ってきましょう。
「……さよなら」
部屋を元どおりにして、鍵を閉めて、確認して。
廊下を三歩ほど早歩きで、また鍵を確認。
「ココアさーん! 買い忘れがあったので、出かけてきます!」
「はーい、行ってらっしゃーい、チノちゃん!」
私たちの家を背中に、少しだけ早歩き。
早く帰りたいです。早く会いたいです。ココアさん。ココアさんに。
一人だと、どうでもいいことを考えてしまうから。
――これでいいの?
ほら、また。
――彼女を、不要な危険に巻き込んだ。
ちがう。私は、助けたんです。
――私は何もしてないのに。酷いよチノちゃん。
違います。ココアさんはそんなこと言いません!
――彼女は怖くて逃げられないだけ。
違う、違う、違う!
――一人で、寂しく罰を受ければ良かったのに。
そんなことない! 私にはココアさんが必要で、ココアさんには――
「私が必要なんですっ!」
気づけば、走っていました。
耳の後ろあたりにまとわりつく、何かから逃げ出すように。
私は頑張りました。辛いことはココアさんに押し付けないようにしました。ココアさんがより良い暮らしを出来るように努力しました。
――それも、独りよがり。自己満足。
だめです。これ以上考えてたら、迷ったら。
ココアさんを――守れなくなる。
少しでこぼこした石畳の道を、足の痛みも、髪が乱れるのも気にせず、全力で走っていると頭の中は次第に空っぽになっていきました。
もう走れない。そう思った時、目の前にお肉屋さんの看板が見えました。なんと幸運でしょうか。
豚肉、二百グラム。手早く買い物を済ませます。
行きの三倍近い時間をかけて、息を整えながら道を進んでいきます。
家の前の橋まで来て、もう少し。ふと、激しい水流の音に気を引かれて立ち止まります。
「こことか、どうかな……?」
ぼちゃん。
私の手を離れる荷物は、どこに流れ着くのでしょう。
流れ着かなければいい。荷物も、私たちも。
この川の先に終点があるのならば、水面の枯れ葉のように同じ場所をくるくると、回り続けていたい。
そう。あの黄色と赤のもみじみたいに。
一緒が、いいな。
私が踵を返す前に、枯れ葉はどこかへ流されていきました。
―――
「あ! チノちゃん、おかえり! 待ってたよ~」
「……ココアさん」
「ん? なぁに?」
「……いえ、何でもありません」
私はいっぱい、間違えたのかもしれません。
私はいっぱい、間違えるのかもしれません。
でも、この気持ちだけは間違いじゃないって、そう信じられるから――
「……ずっと、いっしょですよ?」
「もちろんだよ、チノちゃん」
眩しいくらいの、笑顔。
真っ黒いコーヒーに、たっぷりのお砂糖を溶かし込んで。
私とあなたの、ハッピー・シュガー・ライフ。
おわり
一応きくがスレタイはわざと・を入れてるんだよな?
あの漫画なら・入れないでハッピーシュガーライフだ
ハッピーシュガーライフはストーリーが斬新で、絵もとてもかわいいのでぜひ一度試し読みを。
恋人への思いはどこまでも一途で純粋。まさにプラトニックな純愛漫画です。
ご覧頂きありがとうございました。
>>67 その通りです
『幸せな甘い生活』よりも『幸せと甘さと生活』というイメージで書いてみました。
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