キャノピーのに映しだされる映像は、混じりけのない純粋なものとは違う。
ブラックマンタ機外搭載物の高精細度デジタルビデオカメラで撮影され、内部に組み込まれているグラフィックソフトによって処理された映像。
僅かコンマ数秒のラグも許さない粋の結晶。けれど、それでも偽物は偽物だ。
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たった2度の訓練で学んだだけ……上手くできるだろうか。
タッチパネルを操作していく指が、意外なほどに素早く目的の指示を機体に送り出せたことには多少なりとも驚かされた。
――視界というのは五感の中でも人間が最も依存している感覚だ。
故に、ブラックマンタの瞳は、機能面から、及びデザイン面からみても非情に細心の注意が払われている部分でもある。
これから君たちに伝えることは、正直な話あまり意味を成さないかもしれない。
なぜならマンタが盲に追い込まれた場合というのは、君たちと死の距離は互いに触れ合える近さにまで縮まっているということだろうから――
甲板上のあなたを見つめ、わたしは必要な最後の操作を実行する。
慎ましいアラームが鳴り、キャノピーがモニターとしての役目を放棄した。
朱色の夕空の光が容赦なく刺し込む。映像は自然に調光されていたから、そのあまりの光度に軽い目眩を覚えて、
そのせいで機体が本当に微かに、通常の航空機ならば問題にもならぬほど微かに傾く。
ただ、ブラックマンタでは話が異なる。意に反した機首をなだめすかしてやるのにはコツがいる。
地球を一周して、また、この洋上に帰ってくる。
距離にしてだいたい4万km、当たり前のように円を描いているけれど
初めて地球を一周したときには、胸の内に不思議と誇らしい感情を抱いた憶えがある。
ディーンにエンリコにジェイミー……そしてエリカ。5人でこの空を飛んだあの日。
初めの頃は容赦無い教官たちに骨を折られる者もいた。
投与された薬物の副作用は、この身体だけではなく、むしろ心により多くの傷跡を残していった。
ディーンドライブを作動させた場合に、その操縦に欠かせない装置。知らないうちに手首の金属球を撫でさするのが癖になっていた時期もある。
五人で励まし合いながら、乗り越えてきた。机の前に鋲止めされていたような数週間のあとに訪れたその初の飛行訓練は
隷属からの解放に近いものがあったのかもしれない。
オペレーターの指示には従わなければならないものの、それまでの訓練など嘘のようにブラックマンタで大空を飛び回るのは楽しかった。
隣を飛行しているエンリコの弾けるような笑顔が、機体越しではあるけれど伺えるような気がした。
これが、自由……なのだろうか? そう、きっとそう。
私たちの誰もが、自由をその全身で感知した。教官のイエスタデイ、小煩いバートランド、榎本に椎名だって
この空を悠々と縦横無尽に飛び回る私たちには、今は手を出せない。そう、思えた。
でも、結局のところ、私たちはどの点から検討しても自由とは程遠い状態にあった。
鎖を繋がれ、鎖の長さの分だけ私たちは自由のフリをすることができていただけ。その事実に気づくのに、それほどの時間はいらなかった。
真っ先に誰が、この事実を口にしたのだろうか、今ではもう判然としない。
けれど、誰かがそれを実際に声に出すまでもなく、私たちは全員、この偽物の自由を訝しみ始めていた。
どうして私たちは、戦っているのか? 何のために戦っているのか?
これは、誰を守るための戦いなのだろうか?
みんな、目的を持てずにはいられなかった。どうして? 何のために? なぜ?
生きているのだから、心があった。心があるから、考えることは止められなかった。
ベッドに腰掛けているとき、舷窓から輝くダイヤモンドのような海原を眺めているとき、わたしはどうしても意味を求めてしまっていた。
慰めなどより、理由を与えてほしかった。だけど、いくら考えても、これだと思える答えには出会えない。
悲しくて、悔しかった。得体のしれないものが、身体の内側から膨らんできて、そのまま身体が張り裂けてしまいそうだったのを憶えている。
「僕がみんなを守るよ、だからみんなも僕を守ってくれ!」
ディーンがみんなの輪の中でそう言ったとき、わたしは本当に、これ以上にないぐらい嬉しかった。
そうか、これがわたしの意味なんだ。戦いの理由なんだ。辿り着くべき答えはこれだったのだ、と。
他の3人も同じだったと思う。
これが、わたし。わたしというのは、その理由のためにある。
コックピットの縁に吊るしてある浅羽袋が目に止まり、鼻腔がじんわりと熱くなる。
唇を伝い、顎を滑って膝の上に落ちる血の雫。鉄の味、生の味、わたしは生きている。
ジェイミーが死んで、ディーンにエンリコ、そしてエリカ……わたしはもう意味を喪失していた。
わたしはわたしを失ってしまっていた。ブラックマンタに搭乗して、出撃して、たった1人だけでソレと戦う日々
訓練のゲームと実戦、その頃のわたしには明確な境界が消失しかけていた。
生死とは、わたしの行う作戦の結果的に訪れる産物にすぎない。
わたしは生きているわけでも、死んでいるわけでもない。ただのブラックマンタの部品の一部にすぎなかった。
ただただ時間だけが流れ、遂行されていった作戦の記録が、わたしが生きている証拠のように整然と並んでいる。
鼻血が溢れる頻度が増え、突然意識を失ってしまうこともあった。
不安はない。冗長気味の口調のエリカのおかげもあったかもしれない。
「私たちはイリヤを待ってるよ。仲間はずれなんかにしない。でも、聞いてイリヤ。
イリヤも戦って死ぬの。戦って戦って、そして最後にあっ、てなったその瞬間に死ぬの。
自分から死んだりしちゃ、私たちとは違う形になってしまうから、それはダメ」
心待ちにしていたのかもしれない。あっ、となって、そのまま全てが終わるのを。わたしが死んで、人類が敗北するのを。
『名前は?』
『いりや』
『――泳げないの?』
『教えてあげるよ。泳ぎかた』
浅羽と出会ったあの日、わたしは、入里野加奈はもう一度生まれた。
浅羽の言葉が、わたしを再びつくりあげたのだと思う。
エリカたちとはどこかが違う、異なる種類の好きな人。それが浅羽。
それからのわたしは、生死をないがしろにすることができなくなっていった。
徐々にだけれど死に対して、どうしようもない恐怖を抱き始めてしまっていた。
「浅羽を死なせたくない、でもわたしも死にたくない。生きたい」
椎名にそう話したとき、なぜだか椎名が辛そうな顔をして、視線を逸し、目を伏せた。
「そうね、私だって、伊里野と浅羽くん……ううん、違う。みんなに生きてもらいたいわ」
悲しそうな笑みを浮かべる椎名が、さらに続けて聞いてくる。
「ねえ、伊里野は浅羽くんが好き?」
少し恥ずかしかったけど、わたしは頷く。
「猫は?」
頷く。
「犬は? 鳥は? 花は? 榎本は?」
「最後以外、みんな、好き」
椎名が口元に手を当て微笑んだ。
「どうして、好きなの?」
「浅羽が、好きって言ったから」
「そっか……じゃあ猫と浅羽、ってちょっと愚問だったわね」
一応相槌を返すが、椎名が何を伝えたいのか分からない。
「入里野は、浅羽が1番好き?」
「うん。わたしは、浅羽が1番好き」
「大好き?」
「大好き」
椎名がわたしを抱きしめる。あまりに唐突だったので、抵抗する暇さえなく、椎名の胸の内で驚くしかなかった。
「だったらさ、入里野……浅羽くんを守らなきゃね。浅羽くんを死なせちゃいけない。
ねえ、知ってる? 1番好きだって思える人に送る言葉。教えてあげるから、浅羽くんに言ってあげなよ」
長らくカメラ映像をカットしていることに対する警告音が鳴る。僅かばかりの時間粘ってはみたものの
浅羽の姿をもう1度、肉眼で捉えることができなかった。
わたしはパネルを操作して、先ほどと真逆の指令をブラックマンタに与える。
キャノピーにはカメラの映像が映され、警告音はそこで途切れる。
グラフィック処理を施された偽物の空は、どこか仄暗いように感じられた。
そろそろ最後の作戦を実行しなければならない。
けど、あとひとつだけ我儘が許されるように思えたし、それを実際に止める手立てはもはや誰にも残されていない。
「マイム・マイムは砂漠の踊り。ファイアストームの日、浅羽と踊った踊り」
あの踊りを、わたしは忘れていなかった。ブラックマンタをどのように操縦したのか、忘れてはいなかった。
イエスタデイ教官が、この出鱈目なマヌーバを目にすることがあったならば、たぶん、説諭だけではすませなかったはずである。
マイム・マイムを踊りながら、少しずつ高度を上げていく。
ひょっとすれば甲板で、浅羽があの時のように、わたしと一緒に踊ってくれているかもしれない。
そう想像してみると、少しの間だけだが気持ちがふっと軽くなる。
わたしは、これから死ににいく。KAMIKAZEという名のこの作戦は、これまでで最も単純であり、技術的にも平易な作戦。
でも、平易であれば平易であるほど、その落とし前はどこかで誰かがつけなければならない。
大空にぽっかり浮かんだ異物。ソレが姿を現している。
さらに視界が光を失くしていき、すぐにその原因がわたしにあることを知った。
こんな場面で視力が失われ始めている。深呼吸を繰り返し、はやる鼓動を抑えようと努力する。
万にひとつ、限りなくゼロに近いけれど、もしわたしが生きられたとしても……これでは浅羽の姿を二度と見ることができないかもしれない。
そんな事を考えてしまい、後悔した。納得していた、納得していると無理やり思い込ませていた気持ちが、たがを外して溢れてきた。
浅羽を見れなくてもいい、浅羽の声が聞こえなくてもいい。
「神様、浅羽と、ずっと一緒にいたい」
もし祈りが聞き届けられたとしても、神様は浅羽を守れない。
だったらわたしが、浅羽を守らなくてはいけない。他の人類がどうなろうと、浅羽だけは。
ブラックマンタのアシストを信じ、そして浅羽の言葉で生まれたわたし自身を今は信じる。
マイム・マイム
心の片隅で蠢動するどす黒い気持ちを、浅羽との思い出で押さえ込む。
浅羽と過ごした夏の全ての思い出、掛けてくれた言葉がわたしを支えてくれている。
『ぼくは、伊里野のことが好きだ』
身体に凄まじい衝撃が走る。飛行服が裂け、その部分の肉が共に削がれたのだろう。
痛みが全身を覆う。身体中の激痛に対して、わたしの頭はやがて痛みを感じるのを放棄していく。
警告音がけたたましく鳴り響き、呼応するようにソレの微かな呻きも聞こえる。
まだ生きている。ソレも1人になってしまったのだろうか。そうかもしれない。ソレも誰かを守るために戦っているのだろうか……でも、それでも、とどめを刺さなければならない。
ブラックマンタは大丈夫。暗闇の中でも、何千回と繰り返し繰り返し訓練してきた指はパネルの上を彷徨うことはなかった。
浅羽、ありがとう。わたしのために言葉を送り続けてきた浅羽に、わたしも言葉を返さなくてはならない。
1番好きだと思える人に、送る言葉。
「浅羽、愛してる」
誤字脱字駄文申し訳ないです。
ありがとうございました。
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