白菊ほたる「不幸のカタチ」 (72)


※ オリジナル設定、キャラ崩壊注意


「おっかしいなぁ……なんで動かないんだろ?」

 ハンドルを握るPの何気ない呟きを聞き、助手席に座っていたほたるがごめんなさいと言葉を返す。
 
「その、また私のせい……ですよね?」

 眉を困ったように八の字にしてうつむくほたるを見たPが、慌てた様子で君のせいじゃないと付け加える。

 
「いいんです……不幸には、慣れてますから」

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 世の中には、何をやってもついていない、いわゆる「不幸体質」と呼ばれる人がいるとされるが
 
 彼女、白菊ほたるほど、その言葉がぴたりと当てはまる者もいないだろう。

 
 
 仕事先でアクシデントに巻き込まれるのは当たり前、黒猫が目の前を横切るのもしょっちゅうだし、

 
 表紙を飾った雑誌が急に廃刊になる、出演した番組が突如打ち切り、CDを出せば余りの売れ行きで在庫が底を尽き
 
 再び店頭に並べられるまでの間、関係先にクレームの嵐が吹き荒れた事だってあった。

 
 そして極めつけとも言えるのが、彼女がこれまでに所属していた事務所が全て倒産しているという、
 
 この業界において、ある意味「いわくつき」と噂されるアイドルなのである。

 
 
 ちなみに、先ほどのPと言う男――現在彼女の担当をしているプロデューサーだ――彼もまた、そんなほたるに対して

 
 他のアイドル達と同様に接しているため、「不幸が怖くない男」「むしろ不幸にまみれていて気がつかない男」等と、
 
 業界において同じく奇異の目を向けられていた。

 
 二人はこの日、とあるテレビ番組の収録のために、車で仕事先へ向かおうとしていたところだった。
 
 だが、いざ車に乗り込んでエンジンをかけようとしたときに、問題は起きた。

 
 ガソリンは満タン、バッテリーも異常なし、だというのに、何度試してもエンジンがかからない。
 
 その他にも色々と原因は考えられたものの、車にさほど詳しいわけでもないPでは、この問題の解決方法は

 思いつくことが出来なかった。


 とはいえ、二人の対応は慣れた物だ。手早く車から降りると、Pは左腕に巻いた時計へと目をやる。

 
「仕方ない……車よりは時間がかかるけど、今日は歩いていくしかないなぁ」

 
 そう言って、Pが心配そうに隣にたつほたるの顔を見る。そんなPに、ほたるが大丈夫ですよと笑う。

 
「でも、一昨日まで風邪で寝込んでたろ? 病み上がりなんだから、もしもって事があるじゃないか」

「もう熱も下がりましたし……本当に大丈夫です。元気一杯、ですよ」


 ほたるが、小さくガッツポーズをしてみせる。それならばと、ほたるに押し切られる形で、
 
 二人は目的地を目指して歩き始めた。

 
 さて、車が動かないとなれば、徒歩ではなくバスや電車を使えばいいじゃなかと言う声が聞こえてきそうなので
 
 その事についても少し、説明しておかねばなるまい。

 
 
 そもそも、こうして出発前に車の調子が悪くなり、別の交通手段を使って仕事先に向かわねばならなくなると

 
 いう事態を、二人は過去に何度となく体験していた。

 
 しかし、電車に乗ると何かしらの理由で電車が止まり、ならばバスだとバス停に向かえば、着いた途端に目の前でバスが走り去る。
 
 タクシーにいたってはそもそも二人の周りに現れないし捕まらない等々……とにかく何かしらの理由で到着できなかったり、
 
 仮に無事辿りつけたとしても、予定の時間よりも大幅に遅刻する事を、この体験から二人は学習する。

 
 
 そのため最近では、受ける仕事もなるべく事務所から遠くない場所、そして出発の前には時間に余裕を持って

 
 さらに今回のような移動手段のトラブルに巻き込まれにくい徒歩で仕事先に向かうようになっていた。

 
 
 これは「不幸体質」と呼ばれるほたるのプロデュースを始めてから数ヶ月。Pとほたるが二人で編み出した、

 
 彼等なりの不幸への対処法でもあったのだ。


――事務所を出てから数十分。
 
 うららかな日差しの下、街路を並んで歩くほたるとP。そんな二人の間を風が抜けていくと、うなじの辺りから丸く
 
 揃えられたほたるの髪が風に揺れ、辺りに甘い花のような香りを広げる。

 
 きっと、彼女の使っているシャンプーの匂いなのだろう……そんな事を考えながら、Pはそっと
 
 隣を歩くほたるの様子をうかがう。

 
 日の光を柔らかに反射する透き通るような白い肌に、薄幸そうな顔立ち、
 
 それらがほたるの纏う儚げな雰囲気と合わさって、何かこう……人の庇護欲を刺激するのだ。
 
 この魅力が、ファンの心を掴んで放さないのだな。等と、そんな彼女の横顔を眺めながらPが考えていた時だ。

 
 
 そんなPからの視線に気がついたほたるが、少しばかり困った表情になり。「あの、なにか……」と小首を傾げる。

 
「いや……なに、本当に具合は大丈夫なのかと思ってさ」

 まさか、彼女の横顔に見惚れていたとも言えず、Pは笑って誤魔化すと、視線をまた前へと戻した。

書き溜めおわりにつき、一度中断

 
 いつもならばこうして歩いていると、何の前触れもなく頭上から植木鉢が落ちてきたり、どこからかボールが飛んできたり、
 
 なぜかカラスが集まってきたり、不審者と間違われてPが警官に呼び止められたりするのだが、
 
 今のところは事務所を出てからここまでの道のりは、いたって順調である。

 
 
 このまま何事も無く仕事先へと行けますように……そうPが、普段は信じてもいない神様にお願いをした時だった。

 
 一瞬、頭の上に何か冷たい物が落ちてきて、それが続けざまに二度、三度……

 やがてぽつぽつと足元のアスファルトに小さな点ができ、辺りの空気も湿り気を帯びたものに変わっていく。
  
「あ、雨ぇっ!?」

 唐突に振り出した雨粒を避けるため、二人は近くにあった建物の影へと避難した。
 
 だがみるみるうちに雨の勢いは強くなり、先ほどまでの快晴がまるで嘘であったかのような土砂降りに。

 
「ちくしょう……今日は晴れるんじゃなかったのかよ」

 二人と同じように雨宿りをしていた見知らぬ男が、空に向かって悪態をつくと、その言葉を聞いたほたるの顔が曇る。

 
「やっぱり……今日もついてないんですね……」

「ま、まぁまぁ……天気予報が外れるなんて、別に珍しい事じゃないさ」


 そうは言ったものの、完全には彼女の不運を否定できないと経験で分かっているだけに、Pの心も辛かった。
 
 深いため息をついて落ち込むほたるをなんとか励ましたかったが、天気ばかりは人の手でどうにかできるものでもない。


「とりあえず、傘がいるな……そこのコンビニで買ってくるから、ちょっと待っててくれないか?」


 ますます勢いを強くする雨になるべく濡れないよう注意して、Pが数軒先にあるコンビニへと向かう。

 そんなPの後姿を見ながら、ほたるは申し訳ない気持ちで一杯になっていた。


――最初に説明したが、ほたるは現在の事務所にやって来るまでにも、何度かの移籍を経験している。

 そのいずれもきっかけは違ったが、どれも最後には所属していた事務所が倒産し、移籍せざるを得なくなったのが理由だ。

 
 だが、そんな状況でも彼女がアイドルの道を諦めるという事は無かった。
 
 今まで人一倍不幸に見舞われていたからこそ、誰かを笑顔にする……他人を幸せな気持ちに出来るアイドルという存在に、
 
 ほたる自身、強い思い入れがあったからである。


 だから、例え移籍先の事務所で疫病神扱いされようと、
 
 また、同僚から腫れ物に触るように接されても、ただひた向きにアイドルとしての活動を続けてきた。

 
 そして何度目かの移籍の末、遂に彼女はPと出会う。

 
「白菊ほたるといいます……あの、いきなりですが、これまで所属していた事務所が倒産してしまって……」

「それに、どうも私は不幸を呼び寄せるみたいで……知り合いが事故にあったり、同僚がトラブルに巻き込まれたり……」

「で、でも! アイドルを頑張ろうという気持ちは、誰にも負けないつもりなので……」


 その頃になると、業界の中に彼女の運の悪さを知らない者はおらず、そしてほたる自身、この期に及んで
 
 そんな自分を受け入れてくれる移籍先がまだあるとは、思ってもいなかった。

 
 正直、これが最後のチャンスになるかもしれない……そう考えると相手の顔もまともに見れず、
 
 自己紹介でも暗い話題をつい口走ってしまう。

 
「うん、よろしく……ところで君、ドーナツは好きかい?」

 呆気にとられてつい顔を上げると、担当だと名乗った男が自分の座るデスクの上を指差す。
 
 そこには、一つずつ袋に入れられたドーナツが山のように積まれていた。

 
「うちのアイドルがさ、差し入れだって持って来たんだけど……さすがに一人でこの量は食べられなくってね」

「あ、あの……私の話は、聞いてましたか?」

「あぁ、前の事務所が倒産したんだって? よくある話ではあるけど……大丈夫、この事務所は心配ないよ」


 男がドーナツの袋を手に取りながら、向かいのデスクに座る緑色のスーツを着た女性へと目を向ける。
 
「うちにはやり手の事務員さんもいるから……それで、チョコとイチゴだったらどっちの方が好きかな?」


 これまでも迷惑がられたり、異様なほど気を使われたり、そもそもまったく相手にしてもらえなかったり……
 
 移籍の度に様々な対応を受けてきたほたるだったが、目の前のこの男のように、いきなりドーナツがどうとか
 
 言い出す人には会った事が無かった。


 曲がりなりにも初対面、それも、こちらが自己紹介をしたにも関わらず、アイドルともなんの関係も無いドーナツを勧めてくる
 
 その思考回路は一体どうなっているのか――。

 
「それって、私をからかっているんですか?」


 不真面目な男。それが、ほたるがPに抱いた第一印象。馬鹿にされているように感じて、自然とほたるの口調もきつくなる。
 
 元々内気で、さらに不幸体質のせいもあって人付き合いに臆病になっていた彼女だが、
 
 アイドルの仕事に対しては誰よりも真面目に取り組んできたと自負していたし、実際、そのための努力を怠った事は無かった。

 
 周りから期待されていない事も、厄介者扱いされている事も分かってはいたが、
 
 それでもこうして自分のアイドルに対する熱意を馬鹿にされるような行動をとられると、
 
 いくら内気な彼女でもカチンと来るものがあったのだ。


「からかうって……あ! もしかして、クリームの入ったヤツが良かったのかい? うーん、でもあれは俺も好きだから――」


「ど、ドーナツの話じゃないです! 私の事をそんな風にからかって楽しいですかっ!?」

「周りの人が、私の事を疫病神だって言ってるのは知ってます! でも、それでも私は真剣にトップアイドルを目指してるのに!」

「移籍して来た事が迷惑なら……や、辞めて欲しいなら辞めろって、直接言えば良いじゃないですか!

 そんな、遠まわしな、嫌がらせみたいな事しなくたって……!」


 最後の方になると少し泣きそうになっていたが、なんとか自分の思った事をまくし立てると、
 
 その気迫に圧倒されたのか、男もドーナツを持ったまま黙り込んでしまう。
 
 すると、対面に座っていた女性が大きくため息をついて二人の間に口を挟んだ。

 
「えっと、ほたるちゃん……でしたか? その人、別にあなたに辞めて欲しいだなんて思ってませんよ」

 そして、やれやれという風に首を横に振ると、話を続けた。

 
「それで、その人は普通なんです。確かに誤解されやすい人ですけど、

本当に、ただ純粋に、あなたにドーナツを勧めただけなんですよ」

 女性の言葉を聞いて、ほたるが疑惑の眼差しを男に向ける。


「そ、そうそう! ちひろさんの言うとおり、別に君を馬鹿にしているとかそういうのじゃなくて」

「ただちょっと……暗い顔をしていたから、甘い物でも食べて、元気になってもらおうと思ってさ」


「――まぁ、今のはプロデューサーさんも悪いですよ。

普通なら、脈絡も無くドーナツを勧められても、はい頂きますとはならないですから」

「でも、みちるの時はこの方法ですぐに打ち解けましたし……あぁ! 

彼女の時みたいに、ドーナツじゃなくてパンの方が良かったんですかね?」

「……はぁ。冗談はその頭の形だけにしておいてください」


 そうしてそのまま言い争いを始めた二人を、ほたるがぽかんとした表情で見つめる。
 
 一体この人達は何を言っているのか。私の噂を知らないのか、それとも知っているのに知らない振りをしているのか……。

 
 
「と、とにかくだ! 君はそんな些細な事を心配せずに、アイドルの活動を頑張ってくれたら良いんだ!」


「俺もこの事務所も、出来る限りその活動をサポートしていくからさ」


 どうやら一方的に言い負かされた様子の男が、無理やり話題を戻すとそう言ってほたるに向かって右手を差し出してきた。
 
 ほたるがおずおずとその手をとると、男が力強く握り返す。


「じゃあ改めて――俺はP。白菊ほたるさん、これから一緒に、トップアイドル目指して頑張りましょう!」

 その時に向けられたPからの笑顔と、頑張れの一言……
 
 誰かからこうして期待され、応援されるのは、ほたるにとって実に久しぶりの事である。

 
「いつまで手を握ってるんですかプロデューサーさん。それ、セクハラですよ、セクハラ」

 ちひろの声に、慌てて手を離す二人。それがなぜか可笑しくって、ほたるの顔が、自然とほころぶ。

 「やっぱり、アイドルは笑顔でなくっちゃ……それだけ魅力的に笑えるんだ。これなら、あっという間に人気者になれるさ」


 笑顔が魅力的。そんな事、これまで一度も言われた事が無かったが、
 
 思い返せばいつも不幸に怯え、人前で満足に笑った事など数えるほどしか無かったと今更ながらに気づく。
 
 Pのその言葉に、ほたるははいと返事をした。今度は嫌味とも皮肉とも思わない……

 素直な気持ちで、彼の言葉を受け取る事ができた。


――車が水溜りを跳ねる音で、ほたるは思い出から現実へと引き戻された。

 あれから数ヶ月。相変わらず日常の小さなアクシデントは絶えないが、今のところ事務所の経営が危ないという噂は聞かないし
 
 アイドル活動の方も順調だ。たまに、上手く行き過ぎているのではないかと不安にもなるが……

 それでも、今の彼女は前ほどに悲観的では無くなっていた。
 
 それは、この事務所――そしてPと出会ってから――彼女が笑顔になる回数が増えたのが、何よりの証拠と言っていいだろう。

 
 視線を道路からずらすと、ちょうど、コンビニからPが出てくるところだった。
 
 今度は買ったばかりの傘を差して、こちらへと戻ってくる。

書き溜めおわりにつき、一度中断


「傘、残ってたみたいですね?」

 戻って来たPに、ほたるがそうたずねた。

これまでの不幸のパターンからして、傘が売り切れている可能性を考えていたのだろう。

 
「まぁ、残ってたのは残ってたんだけど……その……」

 ほたるの質問に答えるPの歯切れが悪い。その理由は、彼の姿をみれば明らかではあった。

 
「傘、一本しか残ってなくてさ」

「大丈夫ですよ。あ、でも少し狭いから……ちょっとは濡れちゃうかもしれませんけど」


 そう言うと、Pの隣に寄り添うようにして、ほたるが傘の中に入って来る。
 
 先ほど並んで歩いていた時よりもさらに近づく二人の距離に、Pは内心慌てていた。

 
 そもそも、この傘はほたるに渡すつもりで買って来たのだ。自分は多少濡れてしまっても、
 
 次に傘が買えるような場所まで、このまま歩いていくつもりだったのだが……。

 
「もう少しくっつかないと……プロデューサーさんがはみ出てしまいます……ね」

「ごめんなさい……私のせいでプロデューサーさんが雨に濡れたら……やっぱり、これも私の不幸のしわざなんでしょうか?」


 上目遣いでそう彼女に言われてしまっては、Pも、このまま濡れて歩くとは言えなくなってしまう。
 
 恐らくここで濡れても大丈夫だと返すと、彼女がまた自分を責めてしまうであろう事は、ここ数ヶ月の付き合いで
 
 やっと彼にも分かりかけてきたところだった。

 
「じゃ、じゃあ……このまま行こうか」

 まるで恋人同士のように、ほたると相合傘の格好で歩き出したPに、

先ほどの見知らぬ男が恨めしそうな眼差しを向けていた気もしたが……
 
 きっとそれは、自分の気のせいに違いないと彼は思うことにした。


 しばらくそうして歩いていくと、横断歩道が見えて来る。その脇に立つ信号は、ちょうど青。

 少し早足になりながら近づくと、予想通り信号は点滅を始め、白線の前に立つ頃にはすっかり赤へと変わっていた。

 
「まるで、狙って変わったみたいです」

 ほたるが、頭上の信号を見上げて言う。立ち止まった二人の間に沈黙が流れ、特に話題も無い二人は、
 
 ぼぉっと空を見上げながら信号が再び青に変わるのを待つ。

 
 雨はやや小降りになっていたが、目の前の道路には大きな水溜りが出来ている。
 
 遠くまで広がる雨雲を見る限りでは、もうしばらくの間、このまま止む事も無いだろう。

「そういえば……今日のロケ先は外だったな」


 空を見上げたままでPが、ふと思い出したように呟いた。
 
 その言葉を聞いて、ほたるも今日の仕事が屋外に新しく作られたレジャースポットの宣伝であった事を思い出す。

 
「雨……結構降ってますけど、大丈夫でしょうか?」

「どうだろうな……まぁ、何かあったら連絡が来ると思うけど」


 その時だった。二人の目の前を一台のトラックがスピードを出して通り過ぎ、道路に出来ていた水溜りの水を派手に撒き散らした。
 
 あっという間の出来事に、しばし唖然とした二人だったが、すぐに自分達が飛んできた水を被ってしまった事に気がつく。

 
「……なんてこった」

 Pの口から、思わず愚痴がこぼれる。

 
 着ていたスーツのズボンは膝から下が水浸し、さらに悪い事に、隣に立つほたるはどうやら自分よりも酷く水を被ったらしい。
 
 普段着ている服が黒っぽいせいで分かりづらいが、正面からもろに水を受けたようで、ほたるのブラウスとスカートは
 
 彼女の肌に張り付き、その体のラインを浮かび上がらせていた。

 
 ほたるも恥ずかしそうに両手を胸元で組み、今にも泣き出しそうな顔でPを見る。

 さすがにこのまま、目的地へと向かうわけにはいかない。


「……時間はロスするけど、一旦事務所に戻ろう。何か、別の服に着替えないと」

 だが、Pの提案にほたるが首を横に振る。

 
「ここからなら、事務所よりも寮の方が近いです」

 つまり、着替えるなら寮に戻った方が手間がかからないというのだ。
 
 幸い、Pの服で被害があったのはズボンだけ。Pがわかったと頷くと、二人は事務所ではなく、寮へと向かう事にした。


――雨の中、服を濡らしたまま歩く二人の視界に、事務所の所有する寮が姿を見せる。

 寮につくと、ずぶ濡れで帰ってきたほたるの姿を見て、管理人のおばさんが目を丸くして驚いた。

 
 事の経緯を説明してほたるを部屋に返すと、

 Pはおばさんから借りた備品のドライヤーを使って自分もズボンを乾かす作業に入る。
 
 普段は多くのアイドル達で賑やかだろうと思われる広間には、今はドライヤーを片手に持ったPの姿しかない。
 
 おばさんが言うには、珍しく皆出払っているのだという。


「あの、もし良かったら、少しの間留守番をお願いできませんかね?」

 そんなPに、おばさんが申し訳なさそうに話しかけてきた。何でもこの雨の中、買出しに出なければいけないという。

 
 それを俺に頼むのもどうなのだと思ったPだったが、

 ほたるの着替えにも時間は掛かるし、一応、目的地にもまだギリギリ間に合う時刻。
 
 すぐに戻ってくると言うおばさんの言葉を信じ、しぶしぶ了承する。

 
 おばさんが出て行ってしまうと、いよいよもってこの広い寮の中にPの持つドライヤーの音だけが響く。
 
 しばらくして、ドライヤーの熱風と冷風を巧みに切り替える事でズボンを乾かしたPは、まだ戻らないほたるの
 
 様子を見に行くために、座っていた椅子から立ち上がった。

 
 階段を上り、廊下に並んだ扉の中から、下げられたプレートを頼りにほたるの部屋を見つける。
 
「どうだ? 着替えは終わったかー」

 声をかけ、扉をノックするが、返事は返ってこない。

 
 しばらくそのまま待っていたPだったが、やがて意を決したように息を吐くとドアノブへと手をかけた。
 
 かちゃりと軽い音を立てて、ドアが開く。入るぞと声をかけてPが中をのぞき込む。

 
 
 そこには、磁器のような淡い青色で飾られた部屋の中、クローゼットの前に座り込むほたるの姿があった。


 着替えは終わっていたようだが、Pの姿を見て、ほたるが恥ずかしそうに身を縮める。
 
 その肩が小刻みに震え、どうにも気だるそうな表情をしている。異変を察したPは急いで彼女に近づき、その額に手を当てる。


「ご、ごめんなさい……私、本当に迷惑ばかりかけてますね」

 うつろな目でPを見て、ほたるが力なく笑う。体を冷やした事で再び熱をぶり返したのか……
 
 ともかく、このまま彼女を床に座らせたままにはしておけない。

 
「悪いけど……ちょっと持ち上げるぞ」

 言うが早いか、Pがほたるを抱え上げ、そのままベットの上へゆっくりと横たえる。
 
 再びごめんなさいと謝るほたるに、謝ることはないさと声をかけ、Pは腕時計に目をやった。

 
 この熱では、これから彼女を収録に向かわす事は無理だ。代わりに出演できるアイドルを手配して、
 
 自分も現場に向かうにしても、管理人が戻って来ていない現状、熱を出したほたる一人を寮に置いたままにも出来なかった。

 
「ほんとに、本当にごめんなさい……お仕事だってあるのに……」

 毛布から顔だけを出したほたるが、今日何度目かのごめんなさいを口にする。

 
 だが、Pに彼女を責める気は無かった。

 結局、彼女がこうして熱を出し、ベットにふせっているのも偶然が積み重なった結果なのだ。
 
 別に何か、彼女に落ち度があってこうなっているわけではない。
 

 
 とはいえ、このままここでじっとしているわけにもいかない。

 Pはポケットから携帯を取り出すと、事務所へと電話をかける。

「――あ、ちひろさんですか? 俺です、Pなんですけど……」


 そんなPの様子を、ほたるはぼぅっとした意識の中で眺めていた。
 
 頭の中には今日行うはずだった仕事の事や、事務所を出てからの一連のアクシデント、
 
 そして、そんな状況で熱を出して動けなくなっている自分の不甲斐なさに苛立ちを覚えて。

 
「お、おい……どうした? どっか痛むのか?」

 電話を終えたPが、ほたるを見て心配そうに声をかける。
 
 悔しさのあまり堪えきれなくなり、とうとうほたるは泣き出してしまったのだ。

 
「ち、ちが……ちがうぅですぅ……」

 だが、一度こぼれ始めた涙は簡単には止められない。ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、泣き続けるほたる。


 おろおろしながらそんなほたるを見下ろしていたPだったが、

 やがてベットの横に座ると、彼女の頭にそっと手を置く。

 
「だ、大丈夫だ……落ち着きなよ」
 
「ちひろさんに電話したらさ、今日の仕事……延期になったって」

「えっ……?」

 ほたるが、Pの言葉を聞いて間の抜けた声を漏らと、苦笑しながらPが説明する。

 
「収録先、屋外だったろ? 今日の雨のせいで収録できなくなったって、事務所に連絡があったらしいんだ」

「だいぶ前から伝えようとしてたって言うんだけど、

 何度俺に電話をかけても繋がらなかったって、ちひろさんが不思議がってたよ」


 やがてほたるが落ち着いた事を確認したPは、彼女の頭を撫でていた手をどけると、座ったままで大きく伸びをした。

「つまり、今日のお仕事はお休み。ほたるも心配しなくて良いから、ゆっくり休んで大丈夫」

「そう……ですか」


 とりあえず、目の前の心配事が一つ減ったほたるは、ふと、ある事を思い出す。

「さあってと……そろそろおばさんも帰ってくるだろうし、そうしたら俺も一度、事務所に戻らなくちゃあ」

 立ち上がったPを見て、ほたるが慌てる。そうなのだ、そういえばあの時の私は――。

 
「あ、あの……!」

「ん、どうした?」


 Pが帰ると言った途端、なぜ声をかけたのか。分かっていたが、実際にその気持ちを言葉にするのは、少し恥ずかしい。

「いえ……やっぱり……なんでも……ないです」

「そうか? ならちょっと、おばさんが戻って来たか確認してくるから……」


 言いながらPがドアノブに手をかけると、鈍い金属音を鳴らして握っていた取っ手が根元から折れる。

「へっ?」

「あっ……!」


 余りに突然の出来事に、取っ手を手に持ったままPがほたるの方に振り返る。

 だが、彼女自身も信じられないといった表情だ。

 
「これ……取っ手がないと扉は開かないよな」

「……ですね」

「そうだ! 窓は――」

「寮の窓は、半分までしか開かないんです……」


 その時、Pの直感が、脳裏にある仮説を浮かび上がらせる。

 それは、現実的に考えて余りにも突拍子が無い物で……。
 
 だがしかし、ここまで来るとそうでも思わないと説明がつけられない。

 
「……なぁ、この前ほたるが風邪を引いた時だけど」

「は、はい」

「俺……忙しくってさ、お見舞いにも来れなかったよね?」

「……そうですね」


 Pの質問に、ほたるが不思議そうに答える。だが、たずねるPの顔は真剣そのものだ。

「その……変な意味じゃないんだけど、俺がお見舞いに来なくって、どう思った?」

「ど、どうっていうのは……」

「その、寂しいとか、顔ぐらい見に来てくれても良いのに……とか」


 すると、ほたるが毛布を口が隠れるほどまでに引き上げて、恥ずかしそうに顔を隠す。
 
 そして視線を左右に泳がせた後、やがて観念したように答えた。


「あの、その……お、お見舞いに来て欲しいなって……思ってました」

 ほたるの答えに、Pが納得したようにため息を吐くと、再び携帯を取り出してどこかへと電話をかける。

 
「――あ、もしもしちひろさん? 俺です、Pですけど」

「はい、はい……それなんですけどね。実は、どうも俺まで風邪を貰っちゃたみたいで」

「――えっ? 嘘じゃないですよ! ごほごほっ、ほら咳だって出るし、熱も……あ、ダメです。もう電話もかけられません!」

「それじゃ、今日は早退という事で、では!」


 電話を切ったPがほたるの方を向いて、いたずらっ子のように微笑む。

「――ってなわけで、俺も今日のお仕事はおしまい」

 その言葉に、何か言いかけたほたるを手で制し、いいんだよと言ってその隣に再び座りなおす。

 
「この前お見舞いに来れなかった分も合わせて、今日はしっかり看病させてもらうよ」

「そ、そんな……ダメですよ! 私なんかのために……」

「だから、良いんだよ。っていうか、今日は元々そうなる運命だったんじゃないかと言うべきか……」


 いまいち事態を飲み込めていないほたるに、Pが照れたように頭を掻きながら呟く。


「これもきっと一つの……不幸の形、なんだろうなぁ」

「……良くは分かりませんけど……でも、プロデューサーさんと一緒にいられるのは……ちょっと嬉しい……です」

「今日ばかりは、その……感謝しても……良いかもしれません」

 熱で赤い顔を、さらに赤くしながらほたるが言う。その言葉に、Pもそうだなと言って微笑んだ。

 
――世の中には、どうにもついていない、いわゆる「不幸体質」と呼ばれる人間がいるが、
 
 彼女、白菊ほたるほどその言葉がぴたりと当てはまる者もいない。

 
 だが、不幸の先には幸せが待っていると言うように、人一倍不幸に見舞われた彼女の道の先には、
 
 きっとそれ以上の幸せが待っている事だろう。
 
 実際、その片鱗は既に姿を見せているし、彼女がその幸せを手にする日は、案外と遠く無いのかも知れない。


 結局のところ、今日の彼女が不幸だったかどうかは……二人だけの秘密なのである。

 
 おわり

 
 皆、ほたる可愛いよほたる。
 
 事務所が倒産したからこそPと出会えたように、
 
 一見不幸に見える問題の積み重ねが、実は小さな幸せに繋がっていた……そんな話が書きたかった。
 
 上手く書けたかは分かりませんが、楽しんでいただけたなら幸いです。
 
 それでは読んで下さってありがとうございました。

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