城廻めぐり「真相の先には」 (32)

 教室の窓辺から灰色の空を眺めていると、チャイムが鳴り、静謐な空気を打ち破る。

授業の終わり。一日の終了を告げる最後のベルでもある。

 後方座席の私に見えるのは、クラスみんなのきらびやかな顔。顔。顔。

「きょーうもがんばったー!」

 隣の矢田桃花の輝きは一段と眩しい。んーっと言いながら伸びをする彼女。大きな胸が冬服の上から強調された。

前に席にいた速水凜香にもそれが見えたらしく、

「桃花、無防備すぎ」とたしなめる。

 言われた本人は、なんで? と言いながら首を傾げていた。

「自覚ないみたいよ、めぐり」

「まぁ、誰にも見られてなかったみたいだし」

 教室をすばやく見渡す。こちらに視線が向いている男子はいない。

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現在二月。卒業を控えた私たちに、受ける授業はなにもない。

 決められた履修は全て終わっており、残りの授業は受験勉強に向けての自習に当てられている。
 
「にしてもさー」桃花は鞄から紙パックジュースを取り出した。「二人とも、誰かいないの?」

しばらく考えてみたが、意味が読み取れない。凜香も同じだったらしく

「誰かってなに?」

 ぶっきらぼうに訊く。桃花は、私と凜香に顔を寄せるように促し、囁いた。

「好きな男子にきまってるじゃん。もうすぐ卒業だからさ。いたらコクらなきゃ」

「いるわけないでしょ」

ふん。と凜香は鼻をならす。そう言ってる割には少し顔が赤らんでいるような…。

「めぐりは?」

「私もいないかなー」

顔の前で手を振る。なーんだ。と桃花は口を尖らせる。

おーい、掃除始めるぞー、と担任が入ってきて会話はしぜんと打ち切られた。

好きな人というか…気になる人ならいる。…後輩に。

掃除を手早く済ませ、帰りのホームルームが終わると、、友人との雑談もそこそこに私は教室を後にした。

昇降口で靴を履いて、校門を出る。

朝よりも空気の冷たさが一段と増し、風も強くなっている。輝け、太陽。

とりあえず願ってみたけど、何も変わらない。

いつもなら、勉強のつらさも相まって、沈鬱になるところだけれど、今日はあの場所に行ける日だ。

週に一度の私の楽しみ。最近発見した、ストレス解消法。あとダイエット。

10分ほど歩けばすぐにその場所は見えてきた。学校近くのバッティングセンター。

そこに毎週金曜足を運ぶのが私の習慣。といっても一か月前に始めたことだ。

今日はいつもより客は少なく、私のほかに、二人組の男子小学生。いつもなら総武高男子でいっぱいになる。

ケージに入り、レジで交換したメダルを投入して。さあ来い、とバットを構えた。

すぐにゴゴゴゴゴ、と音がして、錆びついたマシンが勢いよくボールを弾き出す。

私は、ボールを上から叩くイメージで、バットを振り出した。

カァンと金属音がして、振りぬいたバットからは心地よい振動が伝わる。

けれど放った打球は思うより飛ばず。思わず、ローファーの先で地面を叩いた。

不思議だ。球を棒で引っぱたくだけのことだけなのに、どうしてこう楽しいのだろうか。

ボールが来ては打つ。来ては打つ。押し込めていたいろんな思いをぶつけるように繰り返す。

そのうちマシンはボールを吐き出すのをやめてしまった。

 「スカートでやったら中見えますよ」

 「へ?」

回転するように後ろを向いた。ネットをはさんだ向こう側には一色さんの姿があった。

「城廻先輩、どもです」

片目をつむる彼女。痩せ形の体型で、背は標準。全女子が羨むスマートな体だと言っていい。

やや丸い輪郭に大きな瞳はよくマッチしていて、かわいい部類に入るだろう。

 彼女は「入っていくのが偶然見えたので」と胸を張った。

 「そうなの。ちょっと恥ずかしいとこ見られちゃったかな」

 「ていうか意外です。 野球、好きなんですか?」

 「好きっていうかさ」

バットとヘルメットを戻してケージを出る。

 「バッティングセンターが好き、って感じかな」

 へえーと感心したように言う。

一色さんに、飲み物を買ってくると伝え、自販機のある外に出る。

冷たい空気が体を包むが、ぽかぽかになった私には、寒さは感じず、むしろ涼しく、気持ちがいい。

中に戻るとケージの後ろにあるベンチでぼんやりと座る一色さんの隣に腰かけた。

さっき買った、ほかほかのココアを渡す。

「いつから通ってるんですか?」

「ひと月前くらいかなあ。」

答えて、スポーツドリンクを一飲みした。「たまたま見かけてね、なんか自分もやりたくなっちゃったんだよね」

「ありますよね、そういうこと」

一色さんが納得したように深く頷く。「衝動的になにかやりたくなる時」

「私の場合は、現実逃避かもしれないなあ」

かもしれない、とぼかしつつも、心の内ではきっとそうだ、と確信していた。

「あ、そうか」指を立て「先輩、受験生ですもんね」

「ストレスたまりまくりんぐ、ってやつかな」

「別にいいと思いますよ。それくらいの逃避なら」

ゲームや漫画よりよほど良いですよ、と付け加え、ココアをちょびっとだけ口に運ぶ。

時折、聞こえる金属音は私たちの会話を盛り上げているようにも聞こえる。

 「一色さんもやってみたら」

勧めてみると「いえいえ。いいですよ私は」と苦笑した。

残念。彼女のスポーツする場面が見たかった。きっと爽やかで絵になるはずだ。

週末明けて月曜日。二月も中旬に入り、試験まで約一週間というところ。

担当の教師が事務的に出席をとると、号令もなしに全員が勉強にとりかかる。

わたしはというと、眠気が残っているせいでどうしても気分が乗らず

無造作に開かれた教科書をぼんやりと眺めていた。

そういえばそろそろ卒業式の送辞の人を決めないといけない。これは元生徒会の私の仕事となっている。

慣習的に、第二学年の首席入学者が読むことになっているから人選に手間取ることはないだろう。

今日にでも取り掛かろう。私の記憶が正しければ、二年の首席合格は雪ノ下さんだったはず。

……そういえばあの部屋には比企谷くんもいるんだっけ…

授業が終わると、一般棟二階にある連絡廊下を渡り、特別棟に向かった。このフロアには奉仕部の部室がある。

 ドアの前に着き、軽くノックした。……。返事はない。まだ誰も来ていないのだろう。

私は廊下の壁に背中を預けてバッグをぶらぶらさせた。

そこで別の考えが思いつく。今日は休みなのではないか? 

すこし迷ってから、平塚先生に確認してみよう、と思った。職員室へ向かうために歩き出す。

「なにか御用ですか?」

背後からの声に、足がつんのめった。

いつの間にいたのだろう。くるんと回って振り向けば、雪ノ下雪乃がそこにいた。

背は私より少し低い。痩せ形の体。背中まで伸びた黒髪は流れがよく、清く流れる川のよう。

私は思わず見入ってしまった。

 「城廻先輩?」

 「あ、ん? 何?」

 「ひょっとして、ご依頼ですか?」

 「んー。まあそうとも言えるね」

雪ノ下さんは怪訝な面持ちで顔を傾ける。しばらくの逡巡の後、

 「まあ、入りましょう」

カチリとロックの解除音が聞こえ、私は中に通された。

入ると、ひんやりとした空気に変わる。反射的にマフラーをきつく締めた。
 
「座っててください。紅茶を入れますね」

断ろうとしたが、言うよりも早く、雪ノ下さんは準備に取り掛かってしまう。

表情を崩さずてきぱきと動く。

その姿は私にとって、半ば義務的にもてなしているようにも見え、居心地の悪さを覚えた。
 
「他の皆は? あとから来るの?」

 「由比ヶ浜さんは学校を休んでいるそうです」

ポットから紅茶がコポコポコポと音を立て、甘い匂いを漂わせ、注がれる。

「比企谷くんは?」
 
「彼については存じありません。 しばらくしたら来ると思いますよ」

 「そうなの」

雪ノ下さんが席につくと、卒業式の送辞を読んでほしい、と本題を切り出した。

私の予想した通り、彼女は渋ることなく了承してくれた。

 「先生には私が伝えておくから」

 「ありがとうございます」

 私は一礼して部室を出る。さて、ここまで来たのだし、少し生徒会室を覗いてみようか。

と、誰かがこちらに向かってくるのが見える。

中肉中背。ポケットに手を突っ込み、擬音をつけるとしたら、ふらふらであろう力弱い歩み。

ぼんやりとしているのか私には気付いていない様子。

彼が近くに来るのを待ってから、

 「やあ、久しぶりだね」

呼びかけた後輩の体がびくりと震える。視線は向いてくれたけど、言葉は発せずポーカーフェイスの面構え。

 少し耳が隠れる程度の髪の毛。目鼻たちは整っていて顔立ちは端正と言っていい。

 ただ瞳に力がない。というより暗い。

「あの…私のこと、知らない?」
 
「いえ。知っていますよ。城廻先輩でしょう」

 「はーい」

軽く拍手してみせた。ペチペチと小さく音が鳴る。

 「なんか用すか」

比企谷くんは、怪訝な顔でこちらを見つめている。

当然だろう。彼の目は、私をひどい人間に映していると思う。

 「少しね。話があるの」目の前の視線に耐えきれず目を逸らす。「生徒会室、いかない?」

  遠くから、女子生徒たちのはしゃぐ声が聞こえる。今に限ると耳障りに感じる。

 比企谷くんは、しばらくの沈黙ののち、ふっ、と一息ついて答えた。

 「まあ、いいですけど」

 「そう」

それだけ言って歩き出す。彼は後ろからついてくる。

「お願いがあるの」

少しの枕話をしたあと、そう切り出した。生徒会室にいるのは、

私と比企谷くんの二人だけ。他の役員は誰もいない。

「お願いっすか」

困ったように頭をかく。
「うんうん」

会話の運びが唐突なのは重々承知。

「私、キミに言いたいことがあるの」

「ああ」一度俯くと、再びこちらを見た。「文化祭のことは…すみませんでした」

「違うの」

うすうす思っていたことだけど、彼は受け入れている。

「誤解なんでしょう? 相模さんの件」

あの日以来、向けられる冷たい視線も。

「今のままでいいの?」

投げられる、鋭利な言葉も。

「別に」彼の視線は虚空をに上がる。「言いたいことはそれだけっすか」

私はかぶりを振る。

「おこがましいかもしれないけど、今までのこと、全部謝るから」

「なっ」

比企谷くんは目を大きく見開いた。

「そうだよね…やっぱそうだよね」

「城廻先輩は、何も悪くないでしょう」

「ううん」

私も同じことをした。真相を確かめようともせず、目の前の勇敢な男を追い立ててしまった。

今でもふとした瞬間に思い出す。《君は不真面目で最低》。私は意を決して彼にそれを伝える。

「そんなことっすか」

校庭から、サッカー部の掛け声が聞こえた。

いつの間にか、差し込む陽は消えている。もうすぐ下校のベルが鳴るはずだ。

 比企谷くんは、フッと息を漏らし、「あんなのいいですよ。城廻先輩、気にしないでください」

「そう」

彼は一礼して立ち去ろうとした。「比企谷くん」背中に向かって声をだす。

「私ね、もうすぐ受験なの。 合格発表の日、一緒に来てくれないかな」

「唐突ですね」

「キミと、もっとお話ししたい」

「俺は」

「無理にとは言わないよ。嫌なら来なくても大丈夫」

はぁ、と情けなく息を漏らした。「じゃあ」

足早に生徒会室を後にする。すれ違いざま、黒く濁った瞳が目にはいった。

受験の日はあっという間にやってきた。

私立大学だから午前中ですべてが終わる。この午前中で今年の生活が決まる。

自信は…まあ普通と言っておこう。

数時間前に会場に到着し、

座ってじっと開始をまっていると、試練官がやってきて、手短な注意事項のあとついに始まった。

目の前に答案に苦労して吸収した知識をぶつけていく。

終わった。部屋の本棚を埋め尽くしていた参考書。数式で埋め尽くされたノート。

受験にかかわったモノは、もう何も見たくない。

明日からしばらく続く、平和で穏やかな日々を満喫しよう。

何をしようかと考えたとき、真っ先に比企谷くんの顔が浮かんだことに、私は改めて自分の気持ちを実感した。

楽な日々はあっという間に過ぎ、早、合格発表の日。体を差す寒さに耐えながら、大学へと向かう。

入り乱れる群衆の間をぬって、なんとか掲示板の近くにたどりついた。

コートからくしゃくしゃになった受験票を取り出して番号を確認。168。168。

脳内で復唱しながら目を滑らせる。





家を出るとき一面に雲が張りついていた空は、いつのまにか晴れ模様。差し込む微弱な陽光は気持ちが良い。

冷たい風が吹かなければ完璧なんだけど。

校門からでた私に、手を振る女の子がいた。

桃色のカーディガン。口元を隠すようにマフラーを巻き、黒の膝上スカート。

「一色さん? どうしてここに?」

「気になるので来ちゃいました」

えへへと悪戯を成功させた子どものように、笑う。

「で、あの…首尾は?」

「落ちてたらどう声かけるつもりだったの?」

「考えてませんでした」

「ハート強いんだね…」

それからしばらくは無言で歩いた。隣の後輩の歩調は軽やかで、リズミカル。

「比企谷先輩は? 来てましたか?」

 渡るべき横断歩道が見えたとき、一色さんが口を開く。

「ううん。来てなかった」

ひょっとしたら来ているんじゃないかと淡い期待を抱き学内を歩き回ったが、結局見つけだすことはできなかった。

「だからあそこにいるんですね」

一色さんはクスリと笑う。

言葉の意味が読み取れず首を傾げる私に、人差し指で遠くを指し示す。「ほら」

私の目に飛び込んできたのは、歩道橋に立ちこちらを見据える彼。だらしなく欄干にもたれた、やる気なさげな佇まいはいつもの彼。

「比企谷先輩、待ってますよ」

「よーし」

不安気な表情をした彼に向かって、右目を閉じピースサインを左目の上に添える。

瞬間、彼の瞳は、真夏の太陽さながらにキラキラと輝いた。

お わ り

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