佐々木「一つ、お願いがあるんだ」 (182)


もし違う高校を選んでいたら、俺はどんな風にこの時間を過ごしていたのだろうか。

入学式という名のつまらん長話で構成された儀式で意識を鈍らせつつ、ふとそんなことを思った。

この世界のどこかの高校には、腹を抱えるほどトークの上手い校長先生がいたりするのかね。

そして今、この教室は至ってありふれた自己紹介タイムの真っ只中にあるのだが、

この世界のどこかのクラスには、頭を抱えるような電波話を発信し始める新入生がいたりするのだろうか。

まあ仮にそうだとしたら、この組ではこのまま平穏無事に終わることを願わずにはいられないが。

だが、それらは全て仮定の話で、俺はこの学校を選び、この組に選ばれた。思うに人生とは選択の連続だ。

選択肢の先は複雑に絡み合った根っこのように広がり、現在の選択が未来の選択肢にも影響するのだ。

ゲームだってそうだろう? マジシャンになったらその先の選択肢はウィザードやプリーストやヒーラーで、

決してナイトやスナイパーになったりはしない。マジックナイトにはなるかもしれないけどな。

逆に言えば何かを決めるということは、その他の可能性を消すということに等しいのかもしれない。

ま、二十歳にも満たない若造が何を知ったようなことを言ってるのか、と言われたらそれまでなんだがね。

そんなことを考えながら、俺は前の席に座っている顔なじみが泰然と立ちあがるのを眺めていた。


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「西宮南中出身の佐々木です」

知性を感じさせる明瞭で中性的な声が教室に響く。

「こうして同じクラスになったのも何かの縁だと思うので、みなさんよろしくお願いします」

奴の後ろの座席を与えられた俺にはその表情はよく見えないが、きっとそれは親しみやすいものだろう。

あいつを注視している周りの奴らの反応を見ればそんくらいはわかるさ。

中学からの友人としては、あいつが新しいクラスメイトに受け入れられるのは願っても無いことである。

ほんの少し不愉快な気分がしたが、まあこれは露骨に下心を出している野郎どもへの嫌悪感だろう。

しかしあいつが突然志望校を北高に変えたときは、一体何が起きたのか、なんて思ったものだが、

同じ高校であるばかりか、まさか同じクラスになるとはな。

中三の間だけではあったが懇意にしていた仲であるし、これは素直に嬉しいね。

席に着く佐々木を見ながら物思いに耽っていると、担任である岡部から君の番だと催促を受けてしまった。

胡散臭いやつを見るような視線を周りから感じる。

やれやれ、無用な注目を集めてしまった。


「キミらしくないスタートだったじゃないか、キョン」

全員分の自己紹介と担任による諸々の説明が終わり、学年集会が開かれるまで休み時間となったため、

とりあえず俺はこれまた同じ中学であった国木田と無駄話をして時間をつぶしていたのだが、

そこに佐々木が入ってきてそう言いながら、アマガエルの鳴き声のような独特の笑い声をあげた。

「おはよう、国木田くん」

「うん、おはよう。しかし本当に佐々木さんが北高に来るとはね」

ああ、それに関しちゃ俺も同じ意見さ。

「強制されるよりも自発的に伸び伸びやる方が自分に向いている、という結論に至ったまでさ」

「確かにお前は知的好奇心が旺盛だし、言われずとも自ら進んで勉強するだろうな」

「キミにそう認識されているのは僕としても嬉しいね。ちなみにそういうキョンはどうなんだい?」

「それはお前が一番よく知っているだろうよ。それこそ強いられるものとしか思ってないな」

俺が受験に成功したのも他でもないこの佐々木による指導のおかげ、と言っても過言ではないだろう。


「ふむ、実のところ僕はキミがそれほど知的欲求に欠くタイプだとは思っていないのだけれどね」

「確かにキョンは見るからに馬鹿っぽいってタイプではないよね」

フォローのつもりか知らんが、高校生にもなってバカ丸出しという方がよっぽどだと思うがな。

「まあさっきのアレを見る限り、それも買被りだったのかもしれないなあ」

飄々とした面持ちでさらっと毒を吐くものだから、この国木田も性質が悪い。

「うん、僕もそれが気になってね。キミは無意味に注目を集める真似は嫌うと思っていたものだから」

佐々木は俺に視線を向けてから一呼吸おくと、

「バカ丸出しかはさておき、ああいう状況では普通の人間と思われるよう努力するのが常じゃないか」

と続けた。

「別に目立つつもりも無かったんだがな」

どう弁明するか考えていると、担任教師が再登場、教室移動という運びとなり俺たちは会話を切り上げた。


スタートから躓いた俺だったが、その後は持ち前の普通ぶりを発揮し教室の一部として溶け込んでいた。

席の近かった谷口という奴と国木田との三人でつるむことが多くこの日も一緒に飯を食っていたのだが、

「なあ、あの佐々木って奴、お前らと同じ中学なんだよな?」

早々に食べ終えた谷口が、何気ない、といった口調でそう切り出した。

佐々木のヤツはというと女子同士で弁当を食べており、それなりに交友関係を広げているようだった。

国木田がちらりと俺の顔を見てから首肯するや否や、谷口は若干息巻いて、

「俺の見立てではあれは一年の女の中でもベスト3には確実に入るな」

なんて言い出した。ああ、そういえばこいつ、佐々木の自己紹介の時も目をギラギラさせてたな。

「まさか一年の女子を全員チェックでもしたのか?」

「たりめえよ。一度きりの高校生活、待ってても何も始まらねえからな」

「でも谷口、残念ながら佐々木さんは無理だよ」

「はぁ?なんでだ? まさか……僕とか言ってたし、レズか?」


「佐々木さんはキョンと付き合ってるからね」

「バカ言うな。またそうやってお前は」

「おいキョン、それは本当か、本当なのか!? 言え!」

何をこんなに興奮してるのかね、こいつは。

悪いが佐々木はお前のような輩には絶対に靡かないだろうな。

「畜生、余裕気な顔しやがって、お前も今日から俺の敵だ」

「そうかい。そいつは残念だ」

薄々感づいてはいたが、どうやらこいつはアホらしい。

若干面倒に思いつつどう宥め賺すか考えていると、佐々木が自分の席に戻ってきた。

「面白い話をしているみたいじゃないか」

「うん、今佐々木さんとキョンが如何に仲が良いかについて話していたんだ」

「そうだ、お前からも真実を聞かせてくれ。付き合ってるってマジか!?」

「ふむ、キョンはなんて言ってるんだい?」

カバンから水筒を探り出しながら佐々木はそう言う。


「バカ言うな、だとよ」

「なるほど、キョンがそう言うならそういうことにしておこうか」

またこいつは含蓄のある物言いをしやがって。それじゃ谷口の野生化は進行の一途だろうが。

「誤解を招かないように言っておくが、俺にとって佐々木は友人以外の何物でもないからな」

俺はアホにもわかるように身振り手振りを加えてゆっくりとそう説明してやったのだが、

「それには異論を唱えざるを得ないな、僕としては友人よりも上の関係だと思っていたのだけれど」

という佐々木の言葉でそれは塵のように吹き飛んでしまった。それ見ろ、また谷口が俺を睨んでやがる。

しかし国木田は訳知り顔といった風にニヤリと笑った。

「ただの友人じゃなくて、親友。そうだよね?」

「そういうことさ」

佐々木は欲しい答えが生徒から返ってきた先生のように頷くと、そのまま女子集団の元へ戻っていった。

それを目で追いかけながら谷口は、

「なら俺にもチャンスは有るってことだよな」

と同意を求めるように言っていたが、俺は国木田と視線を交わし欧米人の様に肩を竦めるのみであった。


新しい環境に身を慣らしつつ新しい授業内容を受け流しているうちに卯の花月も終わりが近づいていたが、

俺と国木田の予想通り、谷口と佐々木の心理的距離が近づくことは無かった。

一方で何の因果か、新しいクラスになった後初めて行われた席替えの結果、

佐々木は窓際一番後ろ、俺はそのひとつ前となり、俺と佐々木は物理的な近接関係を保っていた。

そしてすっかり新生活への新鮮さも失せ、適当に毎日を消化していたある日の休み時間のことである。

「キョンは何かしらの部活に入ろうとは思わないのかい?」

「特にやりたいことも無かったんでな。そういうお前はどうなんだ?」

「とりわけ運動神経に優れた方でもないし、文化系で面白いところがないか巡っていたところさ」

「こうして話題に出すということはお前のお眼鏡に適うところが有ったのか」

「ご名答。そしてキミもきっと気に入ると思う」

「俺は別にそんなつもりは無いんだがまあいいさ、何部なんだ? いや、同好会か?」

「文芸部だ」


こいつ、何か企んでやがるな。

文芸部なんて普通すぎる回答の割に妙に愉快そうな口ぶりだ、何か有るに違いない。

「そんな訝しげな顔をしないでおくれよ、悪いことでもしたような気分になる」

言葉とは裏腹にそんなことは1ミリたりとも思ってなさそうな口調でそう言うと、

「至って普通の文芸部さ、おかしな工作活動に勤しんでいるなんてことも無い」

と続けた。

「なら一体何だって言うんだ?」

「おや、まるで普通の部活に僕が入るはずが無い、と言うような口ぶりじゃないか」

そういう訳ではないがお前が興味を引かれた以上何か有るんだろうと思ってな。

「まあいいさ、教えてあげよう。この学校の文芸部の秘密を」

わざとらしく大袈裟に抑揚をつけ、佐々木はチェシャ猫のように口角を上げて目を細めた。

「部員が一人も居ないのさ」


「去年の三年生が卒業したのに合わせて部員がいなくなり、新入部員もおらず廃部寸前という話だ」

「なるほど」

佐々木が文芸部を気に入った理由がわかった気がする。

こいつは別に教師に対して反抗的なわけでもなく、一匹狼という訳でもない。

だが、なんとなくキャラクターを演じているというか、どこか一線引いたようなところがあるのだ。

そういう意味で陳腐な表現だが、素の自分で居られるような場所が欲しかったんじゃないだろうか。

こいつから家族の話題が出ることは稀だし、もしかしたらあまり家でも気が休まらないのかもしれない。

だから佐々木は、自分を守るべきところ、砦となり得る居場所を文芸部に見出したのだ。

「キミさえ良ければ、これから二人で文芸部員としてやっていかないかい?」

俺の勘が正しければ、この言葉は軽い誘い文句ではない。増してや社交辞令なんかでもない。

まさしく親友としてこいつに認められている、ということを意味するのだ。

それならば、俺には断る余地なんてこれっぽっちも有りゃしない。どうせ暇な身の上だ。

「いいぜ」

言葉は短いが、その重さはお互いに理解している。

こういう時は簡潔な返事の方が良いってもんだろう?


どうやら文芸部は人数、活動ともに案外実績があるらしく、部員二名でも部として認められるようである。

公正なクジの結果俺が部長となり、面倒な書類を提出するハメになったことも付け加えておこう。

活動初日、佐々木は本棚に重々しく並ぶ漬け物石に使えそうな書籍を手に取りながら、

「先代が置いて行った本がこんなに有るんだ、しばらくはやるに事欠くということも無いだろう」

と遠足前の子どものように期待感に溢れた調子で言った。

一通りパラパラと目を通した後、今度は尊大な顔を装って俺に視線をよこし、

「机と椅子もちゃんと揃っているし、勉強会もしようと思えば不都合無く出来そうだ」

「まあテスト前とかにする分には良いかもしれんな」

「僕としては今からでも良いんだけれどね。キミが早くも勉学への熱意を欠如させているのはバレバレさ」

まあ俺に勉強への情熱が無いことなんて、授業での様子を見れば佐々木でなくてもわかるだろう。

それはさておき、正直なところ佐々木に勉強を教わるあの時間は嫌いではない。

勉強ばかりというのもアレだが、さっさと家に帰って非生産的に時間を垂れ流すより遥かに有意義だろう。

「何にせよ、ここは僕たちだけの部室だ。何をしていくかはゆっくり決めていこうじゃないか」


そんなこんなで数日まったりと活動し、今日はゴールデンウィークが明けた後の最初の活動日である。

俺の背中を押すようにして部室に入るや否や、佐々木はにこやかに切り出した。

「休み中に考えたんだけれどね、やはり文芸部である以上部誌を作るべきだと思うんだ」

まあ確かに、本棚にも歴代の部誌が山のように有った。読んじゃいないけどな。

「その為には今もやっているけれど、まず本を読んで語彙を増やすことが重要だろう」

異議なし。

「その上で、自分で文芸作品を生み出す為には豊かな想像性が必要になってくる」

「全く以ってその通りだとは思うがそれは天性のものだったりするんじゃないか?」

「もちろん、それは一理有るだろうね」

ここで佐々木は間を置くと、親しくなければ気づかないくらい僅かに表情を硬くして、

「才能が無いのなら努力でカバーする必要があると思うんだ」

と続けた。よく聞く話だし、ある程度経験もしているので否定はしない。

「自らの様々な経験を切り貼りすることで、凡人でも現実味と独創性が融合した物語を紡ぎだせるはずだ」


「つまり色々な人生経験をしろって言いたいのか」

「そういうことさ」

佐々木は我が意を得たり、と表情を緩め、敏腕セールスマンのような顔で主張を続ける。

「学校の中に籠っていたらそれはひどく限定された物になる。それで執筆活動なんて土台無理な話だ」

「学外でボランティア活動でも始めるのか?」

「それも良いかもしれないが、それに限ることも無いだろう」

「ああ、要はどんどん課外活動をしようって訳か」

「理解が早くて助かるよ。しかしキョン、学校の取り決めによると通常平日は学外での活動が出来ない」

「おいおい、まさかと思うが休日にやるって言うのか?」

「そのまさかさ」

「うーん、いやでも待てよ、結局休日だろうと学外活動をする場合には書類を提出しなきゃならんぞ」

学外活動には顧問の承認が要るのであってこれがいちいち面倒くさいのだ。


「さすが部長、よく把握しているね。実に頼りがいがある。

 しかし、それならば別に課外活動という形をとらず二人で外出すれば済む話だ」

少し早口気味になってそう主張する。だが待てよ、話がおかしいじゃねえか。

「そこを拘らないんなら平日にそうすれば良いじゃねえか、他に部員はいないし誰も文句はないだろ」

俺がそう言うと、佐々木は勉強してるふりをして遊んでいるのが親にバレた時のような顔をした。

何かを言いかけて俺から目を逸らし、考え込むように右手で顎を触っていたが、やがてこう言い淀んだ。

「この前提出した活動内容書類には、平日は毎日下校時間まで活動すると書いたじゃないか」

「それはそうなんだが」

そんなもん、別にこだわることか? こいつにしては珍しく、あまり論理的では無い言いぐさだな。

だがこれまた珍しく明らかに落ち込んでいて見るに堪えない。そんなに校外活動したかったのか、お前は。

「まあ、なんだ。佐々木がそうしたいんならそういうことにするか」

「え?」

少しばかり照れくささを覚えた俺は窓の外を見やりながら言い直した。

「休日。ボランティアだかなんだか知らんがやろうじゃねえか、部誌の為に」


かくして俺たちは毎週土曜日校外活動に励むこととなったのだが、

「うん、部誌の為にね」

そう言う佐々木の顔は希少価値と実物価値を高い水準で両立しており、俺の海馬に強い刺激を与えた。

そして金曜日、いつものように文芸部室で適当な本を読んだその日の活動後、

「明日の午前十時に北口駅前集合」

という取り決めが締結された。

しかしながら、帰り道の別れ際にそう言われたのであって、何をするつもりかは未だわからず終いだ。

いや、俺が部長なわけであって、ひょっとすると俺が決めておく必要が有るのか?

まあ良いか、どうせ俺と佐々木だけ、どうとでもなる。今更それが原因でどうこうなる関係でもあるまい。

さっさと寝ようと思って瞼を閉じると、不意にあの時の嬉しそうな佐々木の表情が浮かび上がり、

流石にあいつに丸投げするのも良くないか、と思い直して脳内シミュレートを開始した。

クソ、なんだかソワソワする。だいたい人生経験って何すりゃ良いんだ?


セットした覚えのない目覚ましに叩き起こされ、眠い目を擦りつつ朝の支度をしていると、

珍しく休日に早起きしている俺を妹が不審がり、このままでは引っ付き虫のように付いてきそうだった為、

隙を見て早めに家を出て自転車を走らせた結果、指定された時間の三十分以上前に駅に着いてしまった。

さて、どうして暇を潰したものか。

しかし駐輪場に自転車を停めてだらだらと改札前に向かうと、

驚いたことにそこには既に、鮮やかな紫色のブラウスに黒のフレアスカート、ロングブーツ、

といった服装を見事に着こなしている佐々木がいて、軽く右手を挙げこちらに手を振っていた。

「えらく早いな、待ったか?」

「ついさっき着いたところさ、何となくキミが早く来るような気がしてね」

「なら良かった、しかし大した勘の持ち主だな」

そう言うと佐々木は朗らかに喉を鳴らし、

「勘だけではないさ。そうであったら嬉しいなという願望が多分に含まれていた、と言っておこうか」

予想だにしていなかった吐露を受けて何も言えなくなってしまう。

「そういう意味で素晴らしいスタートだったよ。今日は良い一日になりそうだ」


返す言葉を見失った俺は、目下のイベントに話題をシフトさせることにした。

「それで、今日は何をするつもりだ?」

「うん、やっぱり僕たちは21世紀に生きている以上、手書きである必要はないと思うんだ」

部誌のことか。

「そういう訳だから、中古パソコン探しの旅と洒落込もうじゃないか」

「なるほど、なら三宮にでも行ってみるか?」

「そうしよう。しかしキョン、大事なことを忘れてはいないかい?」

「金か」

「それも正しいけど、どうせ手持ちが少ないだろうし僕が出すよ。それより今日の目的を思い出してくれ」

先に言ってくれればある程度は準備してきたぞ、と言うのを我慢し頭を捻る。が、わからん。

「しっかりしておくれよ、キョン。部誌の為の校外活動、じゃないか」

「ん? だからパソコンを買いに行くんだろ?」


佐々木は少し頬を染めながら、物分かりの悪い生徒に対するような調子でこう言った。

「いいかい、僕にとっては異性と二人で遠方まで買い物に行く、というのは経験に乏しいことである訳だ」

ここでようやく合点がいった。ああ、そういうことか。

「お前と買い物に行くこと自体が部誌の為の人生経験ということか」

「やっとわかってくれたかい。

 もう少し早めに気づいて欲しいところだったけどね。それともあれかい? 

 経験豊富なキミにとっては、そのくらい朝起きてトイレに行く程度のことに過ぎないということか」

「おいおい、その言いぐさはないだろ。滅多に無い経験だ、ありがたく享受するさ」

「おや、一女性としてはキミには享受するだけでなく主体的なエスコートもして欲しいものだけど」

へいへい。

初めに校外活動をすると言い出した時と言い、どうも何かこだわりが有るようだ。

お気楽きまぐれ活動と思って適当に往なしていると痛い目に合いそうだなこりゃ。



こんな出だしでどうなることかと思っていたのだが、案外とお目当ての品はすぐに見つかり、

「どうせ部費がおりるんだし、パッと見て問題は無さそうだからこれで良いだろう」

と言う佐々木の独断によってあっさりとノート型のものに決まってしまった。拍子抜けである。

ところがここからが長かった。

「もう昼過ぎか。昼飯、何食べたい?」

「何でも良いよ」

「そうか、じゃあ適当に見つけた店に入るか」

朝早くから活動してるせいで、とにかく俺は腹が減ったんだ。

幸い隣でアルカイックスマイルを浮かべている奴は特に注文も無いようだし、さっさと腹を膨らまそう。

そう思っていると、目の前を歩いていたサラリーマン風の男が突然左に曲がり、

通り沿いに並ぶ、ボロい暖簾を掲げた古びたラーメン屋に入っていった。

これはもしや、知る人ぞ知る名店というやつじゃないのか?


「なあ佐々木、ここにしないか?」

「まさかとは思うがこのラーメン屋かい?」

「そんな引き攣るような顔をするなって。俺もここは初めてだが冒険するのも良いだろ? 人生経験だ」

「その人生経験は違うシチュエーションでやって欲しい、って言うのが率直な感想だね」

佐々木は心底呆れかえった様子でため息をつき、

「そういうことではなくてだね。僕を見てくれたまえ」

なんだ? 別に変ったところは無いが。

「そして店の中を覗いてみるんだ」

草臥れたおっさんで溢れかえっている。ああ、それが嫌なのか。あまり気にしない性質かと思っていたが。

「嫌ならそう言ってくれよ。まあとりあえずここは止めるか」

「そうしてくれると嬉しいな」

という訳で再び歩み始めることにしたのだが、佐々木はそっぽを向いていた。

なんだなんだ? 急に虫の居所が悪くなりやがった。


何故だろう、どうしてもラーメンを食いたくなってしまった俺に新手のレーダーが備わったらしい。

しばらく適当に歩くとまたもやラーメン屋を見つけた。新しい店構えで客も若い野郎が多い。完璧だ。

「佐々木! ここならどうだ?」

しかしあいつは俺の期待したような反応は示さず、

「はあ、初めてはラーメン屋になるのか……」

というようなことをボソボソと呟き始め、さすがの俺もこの明らかなNOサインは見逃さなかった。

なんだ、ラーメンが嫌いなのか? 珍しい奴だな。

「言っておくけど僕はラーメンが嫌いな訳では無いからね」

「え、違うのか?」

「悲しいかな、やはりキミは今日の趣旨を理解していないようだ。

 いや、良いんだ。僕が何でも、なんて言ったのが悪かったね。そうだな、僕は洋食が食べたい」

ったく、遠慮せずにさっさとそう言ってくれよな。

ふらふらと彷徨い小洒落たイタリアンレストランを見つけた頃には、結局二時近くなっていたのだった。


スパゲッティ(パスタと言うべきか)を一気にかっこんで、ゆっくりとスープで飲み下しながら、

佐々木がデザート(スイーツと言うべきか)を満足そうに頬張る姿を見てようやく人心地着いた気分だ。

まさか昼飯を食うのがこんなにも大変なことだったとは。

その後は折角なのだからという佐々木に引っ張られるようにして商店街を練り歩き、

ウィンドウショッピングという名の冷やかしを堪能した後、喫茶店で一服してから我が町へと帰還した。

やれやれ。

「今日はありがとう。パソコン運びもキミに任せてしまったし」

「それぐらいはするさ。ただ正直少し疲れたぜ」

「それはすまなかった。振り返ってみれば僕もちょっとはしゃぎ過ぎてしまったかな」

笑みを湛えながら俯き気味にそう言うと、再び顔を上げ何やら期待感を孕んだ表情で俺を見つめてきた。

おいおい、今度は何だってんだ? 何を求めているんだこいつは。もう適当だ。

「あー、なんだ。今日の服装、すごく似合ってるぞ。可愛い、と思う」


佐々木は目を丸くして黙り込み、何となく気まずい沈黙が二人の間に訪れる。

あーあ、何余計なこと言ってんだ俺は。

が、やがてその表情は俺には解読不可能な表情を経由した後、柔らかな笑みへと変わり、

「ありがとう、今日は楽しかったよ。予感した通り良い一日だった」

そして後ろ手に組んで上半身を前のめりさせながら、上目遣いでこう付け加えた。

「これが僕たちの初デートだね」

そういやそうか。何か知らんが急に恥ずかしくなってきたぞ。どんな表情をすれば良いのかわからん。

狼狽える俺を見て佐々木はニンマリしながら別れの挨拶を言うと、足取り軽く歩き去って行った。

ふう。なるほど確かに、これは紛れもない人生経験だな。よくわからんことだらけだった。

家に帰った後パソコンを眺めながら今日の出来事を反芻していると、名状しがたい気分になってきた。

ただ、悪い気分ではないな。何にせよどっと疲れたぜ。

こうして、微妙に消化不良感の有った俺たちの第一回校外活動は幕を下ろしたのだった。


明くる週、どう顔を突き合わせたもんかなんて考えながら教室に入ると、いつもの如く既に佐々木は居た。

「よう。パソコン、持ってきたぜ」

至っていつも通りの佐々木の様子に安心して俺はそう声をかけた。

「うん、ありがとう。ああ、今週の土曜日なんだけど」

いきなりその話題か。今度は一体何をするつもりだ?

「中間テストも近いし、学校で勉強しようと思うんだけどどうだい?」

ああそうか。もうそんな時期か、悲しいね。ついこの前入学試験を受けた気がするってのによ。

「いいぜ、そしたらしばらく学外活動はお預けだな」

「そういうことになるね。実に残念だよ」

最近思うんだがこいつが残念だという時は、大抵本当はそう思ってないような気がする。

そう佐々木に伝えると、くくっと笑い声をあげ、

「僕としてはキミとの勉強会もなかなか楽しい時間だからね。それに――」

偽悪的な表情を浮かべてこう結んだ。

「改めて思えば放課後の勉強会というのも、部誌のネタになるだろう?」


というわけで部活動から一時的に文芸部要素が抜け落ち、俺たちは勉強会に勤しんだ。

これが功を奏して、俺の試験結果は過去最高に良いものだった。お袋も喜びの涙を流すってもんさ。

佐々木は俺以上にこのことを喜び、しばらく機嫌が良かったので、俺もまあ、嬉しかった。うん。

しかし部室で文学とあまり関係のない活動ばかりして、しかもそれに慣れきってしまった代償だろうか。

テスト終了後、いよいよ我らが文芸部に混沌の渦が巻き起こり、本来の活動理念はどこへやら、

与太話に花を咲かせたり、どこから持ってきたのかわからない奇抜なボードゲームに精を出したり、

果ては、微妙に交流のあったお隣のコンピ研のご厚意によってネット回線までもが開通して、

もはやどうにも収拾がつかない事態となってしまった。なんでも有りというやつである。

毎週末の学外活動も部誌の為という大義名分は形骸化、目に見えた遊びの言い訳と化けてしまった。

佐々木も浮足立った初回の活動を反省したのか、俺にとっても幾分気楽なものとなって実にありがたい。

そんな俺たちの様子を遠巻きに見ていた谷口がうんざりした様子で、

「なあ、やっぱりお前ら付き合ってんだろ」

と呟くのも、客観的に見れば全くもって無理もないことに思えた。

ええい、正直に言おう、この時には俺は間違いなく佐々木を親友以上の存在として見ていたのだ。


ターニングポイントというのはあっさりやってくるもので、それは期末試験を終えた後のことだった。

その日は七夕であったが、俺と佐々木は部室の中からしとしとと降り始めた雨を眺めていた。

「織姫と彦星のことを慮れば夜にはすっきりと星空を見せて欲しいものだね」

外に目を向けたまま物憂げな様子でそんなことを佐々木は言い始めた。

「せっかく一年に一度の、何光年もの距離を越える逢瀬だというのに」

「何光年、という宇宙レベルの話を持ち出すのなら」

俺はこう前置きして、

「星の寿命を考えれば、一年に一度なんて常に一緒にいるようなものだろ」

「なんてロマンの欠片も無いことを言うんだキミは。今に始まったことではないけれど」

そう言うと佐々木はわざとらしくため息をついた。

「まあそれなら、彼らも僕たちみたいなものなのかもしれないね」

ああ、確かに俺たちは日曜日以外毎日こうして一緒に居るわけだからな。


「しかしよく考えて欲しい、僕たちと彼らには決定的に違うものが有る」

「ああ、確かに俺達は星じゃなくてただの人間だ」

「キミが捻くれ者だということはとっくの昔に知っているさ」

たしかに純朴ではないのは認めるが、お前にだけは言われたくないぜ。

「僕の彦星は」

前触れなくあいつは俺の瞳をしっかりと捉えながらその顔をゆっくりと近づけてきて、

「いつまで経っても僕を貰いに来てくれやしない。だが彦星に固執することはないのかも知れない」

は?

「実を言うとね。昨日、他のクラスの男子に告白されたんだ」

ドキリ、とした俺はそれを悟られないように平静を装いながら、

「そうなのか。だがお前のことだ、そんな気はないと躱したんじゃないのか? 精神病だのと言って」

「勇気を出して告白してくれた相手に対してそんなことは言わないさ」


佐々木はその双眸を俺に向け、挑むような面持ちでこう続けた。

「それに僕も変わったんだ。ヒトは理性だけで生きる訳じゃない。人生のスパイスとして情緒も大切だ。

 もっとも、スパイスどころかそれしか無いというような本能に忠実過ぎる人間は困り者だが」

一体どういう風の吹き回しだ? まさかこいつの口からそんなことを聞くことになるとは。

「なんなら付き合うのも有りかもしれないと思っているんだ。悪い人ではなさそうだしね」

「まさか、冗談だろ?」

「僕が誰かと付き合うというのはキミにとって冗談のように笑えることなのかい?」

「い、いや。そういう訳じゃないんだが、お前がそんなことを言うとは思わなかったんだ」

「僕にも人並みの情欲が有った、ということかな」

何故だろう、気分が悪いぜ。

「いくら親友といえども相手のことを100%理解できるはずは無いからね」

いや、何故か、なんて本当はわかっているさ。

こいつは他の誰とも恋仲になるはずは無いし、佐々木のことは俺が一番理解しているんだ。

そんな気持ちが有ったから、だから、大事にしていたものが誰かに壊されたような気分がするのだ。


「そこで改めて、親友のキミに相談がある。どうだろう、付き合ってみても良いだろうか?」

ダメだ。ダメに決まってるだろ。だが果たして何を根拠にそれを言うんだ?

「友達に聞いたところ学業優秀で人気者、部活動でもストライカーとして将来を嘱望されているそうだ」

なんだその完璧超人は、どうせ顔も良いんだろうな。尚のこと否定出来ねえ。

「僕からしたら一緒にいて気疲れしないというのが一番で、才能が豊かだなんて瑣末なことだけれど。

 だが特に反対意見も無いようだね。キミのお墨付きなら僕も安心さ」

佐々木は驚くほど冷静な声で淡々と言う。

「今から部室棟前に返事をしに行くことにするよ。今は屋根の有るところで練習してるだろう。

 返事が気になって彼が練習に身が入らないようでは彼にもサッカー部にも悪いからね」

あいつは俺から目を逸らして立ち上がり、足早に部室のドアへと歩いて行った。

くそ、喉が嗄れて声が出ねえ。

おい俺! このままで良いのかよ!?


「佐々木!」

良いわけねえだろ!こんちくしょう! 唸るように喉を絞ると予定以上にデカい声が部室に響いた。

佐々木は前を向いてドアノブに手をかけたまま身体を止め、

「なんだい、そんなに大きな声を出して」

「ダメだ」

「何が?」

「行ったらダメだ」

「どうして?」

「ダメだからだ」

「それじゃあ困るよ。彼の告白を断る理由にならない」

「……理由なら有るぞ」

「ふむ、それなら聞かせてもらうとしよう」

ここでようやく佐々木は振り向いたが、その顔つきは強張っていた。


「あーなんだ、絶対にダメなんだ」

「要領を得ないな。もう一度聞くが理由は何なんだい?」

「困るからだ」

「だから誰が?」

「……俺が」

「別に彼がキミと知り合いということでもないだろう? なら何が問題なのかわからないけれど」

「ああっ、クソ! 良いか、良く聞け佐々木」

もう乗りかかった船だ、俺の秘めたる思いをぶつけてやる。覚悟しやがれ。

「俺はお前のことをただの親友だなんて思ってねえ。それ以上に大切なヤツなんだ。

 お前と一緒に過ごす毎日に慣れちまって、でも、お前が誰かと付き合ったりしたらそうもいかねえ。

 だからなんつーか、俺はお前とずっと一緒に居たいんだ、断ってくれないと俺が困る」

もう滅茶苦茶だ、自分でも何言ってるかわかんねえ。


静寂に包まれ、起動中のパソコンのファンの音が異様に大きく感じる。

「やれやれ、困ったことになったね」

沈黙を破った佐々木がふう、と息を吐いた。

「キミの言う通りにするとしたら僕は一生独身待った無しじゃないか」

「いや、そのだな」

「しかしそういうことなら彼に断りに行かないといけないね。罪悪感で心が押し潰されそうだ」

「えっと、佐々木。返事を聞かせてくれ。イエスってことで……良いのか?」

「返事? 何のだい?」

「そりゃ、俺の……告白の」

「だから、断りに行くって答えたじゃないか。困るから止めろとしか言われてないよ、僕は」

「あれ? もしかして俺大事なこと言い忘れた?」

「何のことかわからないが言ってないんじゃないかな」


「マジかよ」

「言ってないなら改めてちゃんと言う必要があると思うね、なんだか知らないが」

おいおい何やってんだ俺、テンパり過ぎだ。だが今はさっきより落ち着いたのは間違いない。よし。

「俺は、お前のことが好きなんだ。だから、俺と付き合ってくれ」

「うん。よろしく頼むよ。僕もキミのことが好きだ」

ん? 何だその軽さは。いや、告白成功は嬉しいんだが、もっとこう、無いのかよ。

「だってその言葉は確かに無かったけど、流石にわかるじゃないか。ずっと一緒に、だろう?」

そう言って佐々木は楽しげにくくっと笑う。

「っておい、わかってて言わせたのかよ!」

「やはり年頃の乙女としては明確な言葉が欲しくなったんだ。許しておくれよ」

なんだこのグダグダな告白は。まあでも俺達らしいといえばらしいのかもしれないな。


「というかお前、俺のこと好きだったのかよ」

「気づかない方がどうかと思うけれどね。僕なりにこの数か月、必死にアピールしていたのに」

いや、確かに以前よりも距離感が近いとは思っていたが、

「お前、恋愛にはまるで興味なさそうだったじゃないか。だから俺、ずっと我慢してたんだぞ」

「さっきもキミはそんなようなことを言っていたが、

 僕はかれこれ半年は恋愛という事象に対して精神病だとかという趣旨の発言はしていないはずだ」

んなもん知らねえよ! というか何でそんなことを覚えてるんだお前は。

「ヒトは置かれた環境によって変わるものなのさ。こうして僕とキミの関係性が変わったようにね」

俺はこいつの笑顔にあまりにも脆弱らしい。もう何でも良いさ。

「とりあえず、例の彼に断りに行くことにするよ。一日考えて本当に大事な人がわかった、と」

情感を込めて言う佐々木に顔が熱くなる。さっきの返事もこれくらいの感じでやってくれよ。

だが微妙に気になることが有るんだが。

「お前、俺が何も言わなかったら本当にそいつと付き合ってたのか?」


「それは秘密ということにしておこう」

佐々木は今日一番の笑顔でウィンクすると、軽い足取りで部屋から出て行った。

クソ、俺がお前のそれに弱いのをわかっててやってないか?

良く考えりゃ告白もあいつに誘導されたようなもんだし、実は相当の小悪魔かもしれん。

しかし、あいつが俺の彼女になるのか。

顔が自然とニヤけるのをこらえられそうにない。だが、そりゃそうだろ?

その後、戻ってきた佐々木が軽くため息を漏らした以外は何事もなく、いつも通りだらだらと過ごし、

いつも通り一緒に帰った。俺が傘を持ってなかったせいで、それは一味違うものではあったが。

織姫と彦星には悪いが雨も悪くない。

「ようやく僕の所にも甲斐性無しの彦星が来たんだ。彼らも雲の向こうでよろしくやってるさ」

そうかもな。

「これからよろしく頼むぜ、織姫さん」

佐々木は一瞬固まった後、息も絶え絶えという感じに笑い転げ始めた。

「キミは本当にくさいセリフが似合わないね」

そういう気分だったんだよ、悪いか。ま、こいつの楽しそうな顔が見れたから良しとするかな。


恋仲になったからと言って、俺たちの間で殊更に変わったことは無かった。

と思っていたのだが、数日後の昼休み中、国木田に突然、

「やっと付き合い始めたみたいだね、おめでとう」

と言われ俺は心底驚いた。国木田に言わすと、佐々木に対する俺の様子を見ればわかるとのことだったが、

確かに、今まで親友というカテゴリからはみ出さないように気を遣っていた訳であって、

それをする必要が無くなった以上、佐々木への態度が変わるのも当然のことなのかもしれない。

そういう訳で、俺たちはこれまでにも増して一緒に過ごす時間を増やした。

夏休みはそれこそ毎日のように顔を突き合わせていたし、光陰矢の如しを地で行くような日々だった。

これは重大な秘密なのだが、佐々木と付き合い始めた日から俺は日記をつけている。

もしこれが白日の下に晒されることになったら、俺は富士の樹海に行かねばならないだろう。

特に、夏の終わりのあの日のことは超重要機密事項だ。


夏休みも最終コーナーに差し掛かった頃、俺たちは二人そろって浴衣を纏い地元の花火大会に参戦した。

白地に赤紫の朝顔を咲かせた浴衣は佐々木の魅力を最大限引き出していて、思わず緊張してしまう程だった。

佐々木の見繕った浴衣に袖を通した俺が、やけに高いタコ焼きに文句を垂れつつ一緒に食べ歩いたり、

射的で思わぬ腕前を見せてはしゃぐ佐々木に癒されていたりするうちに、大輪の花火が打ち上がり始めた。

しばらくそれを眺めていたのだが、不意に佐々木が俺の袖を引っ張っているのに気付いた。

「人混みはあまり好きじゃないんだ、どこか穴場でも探しに行かないかい?」

同感だな。人が多すぎて正直花火どころじゃない。つーわけで、俺たちはぶらぶらと歩き出すことにした。

「こうして当てもなく歩いているとあの初デートを思い出すね。あのラーメン屋は流石に」

丁度同じことを思っていたが、またいたずら小僧のような顔をして蒸し返しやがって。

「わかったわかった、あの時は悪かったって。いつまで言われ続けることになるんだろうな、全く」

「そうだな、僕としてはキミと死に別れるその時まで言い続けたいものだ」

臆面もなくこういうことを言うようになったのは果たして成長というべきなのか。


柄にもなく、えへへ、という風な幼げな愛嬌を振りまくと、俺の腕に自分の腕を絡ませてくる。

「おい、誰かに見られたら恥ずかしいだろ」

「今日は花火大会なんだ、こんな格好だし誰も気に留めやしないさ。それにだね」

あ、また妙なことを言おうとしてるな、こいつ。

「元々祭りというものは性的な要素も備えたものであることが多い。解放的な気分、というやつだ」

想像の斜め上を行く発言に顔が熱くなるのを感じる。心底暗くて良かった。

「なら、いいか」

「いいさ。時にキョン、質問があるんだけれど良いかい?」

「別に良いが、あんまり変なこと聞くんじゃねえぞ?」

「ではキミと僕とでは変なこと、と認める水準にはおそらく隔たりが有る、と前置きしておこう」

毎度のことながらいちいち回りくどい奴だな、お前は。で、なんだ?

「キミには性的な欲求というものが無いのかい?」

こ、こいつ、超大型爆弾を投下してきやがった。前言撤回、せめてもう少し回りくどく言ってくれ。


「お前な、流石にその質問は無いだろう」

佐々木は組んだ腕をより密着させると、あたかも実験動物の観察をする研究者のような目で俺を見つめ、

「ふむ、どうやら全くそれが無いという訳では無さそうだ。

 キミは気づいてないかもしれないが、この体勢ではキミの心音が僕に伝わるんだ。

 そしてそのペースはさっきより三割増し程になっている。キミが動揺していることは僕には筒抜けさ。

 目は口ほどにものを言う、なんて言葉があるが、心臓は不随意な運動を行うのであって、

 精神の動顛の検視という意味では、制御可能である眼球の動きよりも遥に有意なものだろう」

「そりゃお前、あんなこと聞かれたら誰でも驚くだろうよ」

「ならキミには年相応の迸るような熱きパトスは無いということかい?

 それならばキミは僕に何を求めているんだろうか。はたまたプラトン的思想を抱いているのか。

 尤も、プラトン自身は終生純潔者だったという訳では無いらしいが」

どんどん話が脱線してるぞ。いや、こんな話、脱線どころか乗り換えてもらって全く構わないんだが。

「何が悲しくて性欲が有るかどうかなんて話をしなきゃいけねえんだ」


「何が悲しいのか、だって? キミはそれをうら若き生娘の口から言わせるのかい?

 それともキミがそう言った性的嗜好を持ってるというなら付き合うのも吝かではないよ」

「何を言ってるんだお前は」

「仕方ない、やはりここは僕が羞恥を被るしかないということか。

 キミは何故、カップルが手を繋いだり、腕を組んだりすると思う?」

言われてみれば何故だろうか。

「わからん。だがこうしてお前と腕を組むのは、その、良い気分ではある」

「キミもそう思っているということを確認できて安心したよ。

 では何故キミは僕と手を繋ごうともしない? いつもそれを提案するのは僕の方だ」

気づけば住宅街に入り込み、主役たる花火がアパートの陰に隠れ見えなくなっていた。

「あーなんだ、俺も高校生だし、正直そういうのは、まあ、有る。

 だが、それを一方的にお前にぶつけてしまう訳にはいかないし、その、俺も耐えてるんだよ」


「なるほど」

佐々木はそれだけ言うと黙り込んでしまい、しばらく会話が無くなってしまった。

居た堪れなくなった俺は、小さな公園を見つけるとそこで休憩することを提案した。

安全規定の煽りをうけてか、遊具がブランコしかない質素な公園だ。

夜ということもあり、遠くから聞こえる花火の音だけが響いている。

ベンチに腰かけると、佐々木は頭を俺の左肩にもたせかけてきて、俺は反射的にびくりとした。

「キミは耐えてると言うけれど、耐えているのはキミばかりではないということを理解すべきだ」

よくわからない甘いような香りが俺の鼻孔をくすぐる。

「キミは一向に前に進もうとしない。だがそろそろ次のステップへ行くべき時だろう。

 僕はね、キミにこの手を絡ませたい。キミともっと心を近づけたいんだ」

そう言って左手で俺の手の甲をなぞってくる。やばい、理性が崩壊寸前だ。

こういう時は周りの状況を確認することで平静を取り戻すというのが定石だろう。

そうだ、花火はどこだ。思わず佐々木の頭から顔を離すように首を伸ばす。


「キョン」

「な、なんだ?」

なんだその上目遣いは! なんだこの可愛い生き物は!! ああ、気が狂いそうだ!!

「キミは今そばに居る僕よりも、遠くで上がる花火の方が気になるのかい? だとしたら僕は悲しいよ」

あーもう、んなわけねえだろ! お前のこと気にしまくりだ、馬鹿野郎!

気づいた時には俺は組んでいた腕をほどき、佐々木の両肩に手を置いていた。

「佐々木!」

「……うん」

「その……、大好きだ」

ああ、もう顔で肉が焼けそうだったさ。だがここまで言われちゃやるしかねえ。

俺が顔を近づけると、佐々木は真っ赤な顔で目を閉じた。

それを見て冷静さを取り戻した俺は、持てる限りの優しさと慈愛をこめて、唇を重ねた。


よくこういう時、時間がどれだけ経ったかわからなかった等という話が挙がったりするが、

あれ、これ息どうするの? なんて方に考えが行っちまって、五秒後には唇を離していた。

「……僕も、大好きだよ」

上気した佐々木の顔は核兵器級の破壊力をもっており、気が付いたら俺は佐々木を抱きしめていた。

その後、しばらく余韻に浸るように二人で寄り添っていたが、やがて佐々木が咳払いをして、

「キミはまさしくへたれという奴だね。また僕が据え膳を出してあげたという訳だ」

う……そう言われると何も言えない。

「僕だって恥ずかしいんだからね」

この時俺は、恥じらいを見せる佐々木が異常なまでに魅力的だということに気付いた。

この顔が見れるのなら、俺ももう少し思い切ったことをして良いのかもしれない。

とまあそんな感じで夏の終わりの花火大会は、ほとんど花火無しで終わってしまった。

ま、佐々木の前ではどんな花火も霞むってもんだ。ああ、どうやらまだ俺は浮ついているらしい。

しかし誰も公園の前を通らなかったのがせめてもの救いだ。……通らなかったよな?


その後も俺と佐々木は、俺達なりに楽しく緩々とした毎日を送っていた。

まあ俺の頑張りにより多少は刺激的になった、と言っておこう。

だがそれを全て克明に伝えるには時間が足りなさ過ぎるので、諸々のイベントに関し大雑把に記しておく。


文化祭では部誌を配布、佐々木はミステリ、俺はSF(少し不思議、だ)を書いたのだが、

「これまでの人生経験を生かしてお互い恋愛小説を書くことにしないかい?」

という佐々木の提案を、ただの赤裸々羞恥プレイになりそうだと却下した経緯が有ったことを言っておく。


クリスマスイブは夕方まで部室で過ごした後、イルミネーションを見に神戸まで繰り出した。

プレゼント? 何となくそれは秘密にしておこう。好きに想像してくれ。


バレンタインには、なぜか俺も佐々木と一緒にチョコ作りをするハメとなったのだが、

俺の家で執り行った為に途中から妹の邪魔が入り、ほんわかしたムードに終始したのだった。


なんやかんやで学期末試験も上々な成績で終わり、特段忙しい毎日を送っていた訳ではないのに、

流れるように一年が終わってしまったものだ、と感慨に耽りつつ春休みを浪費していると、

あれよあれよという間に始業式の日になってしまった。冬休みほどではないにしろ春休みも短すぎるぜ。

惰眠の日々に後ろ髪を引かれつつ、登校という名の忌々しい早朝ハイキングを終えて玄関に行くと、

新しいクラスが印刷された大きな模造紙が貼り出されていた。

名前順に記載されてるとはいえ、こんだけの人数の中から自分の名前を見つけるのは中々面倒なもんだ。

そう思いながら適当にその表を眺めていると、5組の所で佐々木の名前を発見した。

あれ、すぐ上に俺の名前もあるじゃねえか。

頭を掻きつつ喜びが顔に出ないようにしていると、他にも見知った名前があるのを見つけた。

おいおい、谷口と国木田もいるじゃねえか。しかもまた岡部が担任かよ。

多少なり新しいクラスへの不安が有った訳だが、これじゃ逆に新鮮さの欠片も無いな。

しかし自分の名前の方が後に気づくってのもなあ、アホな綽名が骨の髄まで染み渡って本名を忘れたか。


新教室に入り、約一年ぶりに教室中央に位置する席に荷物を置く。

「よう、また同じクラスだな」

こいつはどんなコメントをするのか、それを楽しみに思いながら俺は前の席に座る佐々木に声をかけた。

しかし佐々木は何の反応も見せない。おいおい、そのリアクションは期待して無かったぞ。

聞こえなかったのだろうか、そう思い佐々木の肩に触れながら再び挨拶をする。

「あ、ああ。キョン、キミか」

「なんだ、折角また同じクラスになったってのにつれないな」

「いや、すまない。そういう訳では無いんだけど」

「しかしお前だけじゃなく、アホ二人に岡部まで一緒とは運が良いのか悪いのかわからんな。

 ……佐々木? お前大丈夫か?」

佐々木がいつもの穏やかな微笑からは程遠い仏頂面をしていることに気づき、そう尋ねたのだが、

答える佐々木の歯切れは悪く、放っておいて欲しそうに思えたので構うのを止めることにした。

あいつも久々の早起きで血の巡りでも悪いのだろう、なんてこの時は思っていたんだ。

――だが今から考えれば、これがとんでもない事態のサインだったのだ。

俺は底抜けの大馬鹿野郎だ。よく考えればそんなことであいつがおかしくなるなんて有り得ないだろうが。


授業が終わった後、いつも通り佐々木と共に部室に行こうと、

「今日谷口によ、文芸部室じゃなくてお前らの愛の巣じゃねえの、なんて言われちまってさ。

 生徒会の目もある訳だし、実際に入れるかどうかは別にしても新歓はしておかないか?」

なんて軽口を交えつつこれからの活動について提案したのだが、

「ごめんキョン、ちょっと気分が優れないんだ。今日の活動は休みにしてくれ」

珍しいこともあるもんだ。というか入学以来初めてじゃねえか?

「春の風邪でも引いたか? そんじゃ今日はさっさと帰ることにするか」

「いや、僕は寄る所があるから先に帰っていてくれ。本当にごめん」

おいおい何だってんだ。体調悪いんじゃ無かったのかよ。

明らかにおかしい。考えてみれば朝から様子が変だった。

不審に思ったが、だからと言ってこっそり跡をつけるのも躊躇われ、俺は早々に帰宅した。

体調を気遣うのに託けて、どこに寄ったのかメールで聞くことも一考したのだが、

結局憚られる気持ちの方が強く、俺は思考を放棄してしまった。


おそらくこの日が境だろう、以後、佐々木はしばしば不審な挙動を示すようになっていた。

突然考え込むように首を捻ったり、話しかけても俯いて反応しなかったり、

元々あいつは思索に耽ることが多く、その行為自体はいずれも大した話では無いのだが、

どうした、と声をかけても不明瞭に濁され、しばらく浮かない顔をし続けるのだ。

愉しげにしている時も勿論有るのだが、その貴重なラッキータイムでさえ、

さっきまで笑っていたと思えば急にそれが固まり、あっという間にだんまりだ。

俺としては当然理由を聞こうとするわけだが、その時に見せる伏し目がちに首を振る姿を見ると、

余計に佐々木の心を曇らせているように思えて、それも次第に難しくなってしまった。

何か理由を言えない事情があるのだ、と俺は空元気に振る舞うが間抜けな道化師のような気分だ。

何だろう、何となく嫌な感じがする。

この気分はあれだ、去年の七夕に佐々木が告白されたという話を聞いた時以来のやつだ。

あいつが何をしたくて、何を欲しているのかわからない。これは存外キツイものがある。

それまで正しいと思っていた自分の行動に対して、逐一疑問を持つようになってしまう。

佐々木よ、お前は何を考えているんだ?


佐々木の異常は悪化の一途を辿って6月も半ばになり、俺の忍耐力は底をつきかけていた。

あいつは目に見えて痩せてしまい、クラスメイトも遅まきながら変化に気づいたようであったが、

「別れたの?」

とだけ国木田に聞かれそれを否定すると、何かを察したのか他に何も言われなかった。

だが、俺自身もう限界だ。

全てを聞こうじゃないか。むしろ遅すぎたかもしれないくらいだ。

何があったかわからないがもうお前のそんな顔は見たくないんだ。

どんなことだろうと受け入れる覚悟は出来ている。

佐々木、俺を信じてくれよ。

俺は、付き合い始めて一周年となる七夕を決戦の日として設定した。

だが万が一、あいつが悩んでいるのが俺との付き合いを続けるか否かだとしたら。

そんな考えがふと脳裏をよぎったが、積み重ねた思い出を信じてそれを心の奥底に封じ込めた。

仮にそうだとしても、俺があいつを苦しめているのなら、あいつの前から去るだけだ。

あいつには笑っていて欲しい。それが俺の望みだ。


七夕。澄み渡るような美しい青空であったが、それとは対照的に佐々木からは暗いオーラが出ていた。

「佐々木、今日で付き合って一周年だ。一年間ありがとう」

予め買っていたスミレのモチーフのついたシックなヘアゴムを、紙袋から取り出して佐々木の手に乗せた。

「良かったら、髪、伸ばしてこれでポニーテールにしてくれ」

「キミのポニーテール好きっぷりには頭が下がるよ」

そう言うと佐々木は力なく笑った。

「佐々木」

俺は一年前のあの告白を思い出しながらこう続けた。

「お前がずっと悩んでいたことを、俺に、聞かせてくれ」

佐々木が顔を上げ、視線が交差する。

驚きと戸惑いの色を見せ、そして俯き、あいつは決意したようにヘアゴムを右手で強く握りしめると、

「ひどくおかしな話なんだ。聞いてくれるかい?」

「聞かせてくれと言っただろ?」


佐々木は楽しげに喉を鳴らした。ああ、この笑い声も久しぶりな気がするぜ。

「良いかい? まず端的に言うよ」

賽は投げられたんだ。何でも来い。

十秒ぐらいの間だっただろうか。佐々木も目を閉じて覚悟を決めているようであった。そして、

「僕は願望実現能力を持っているようだ」

――はあ?

全く想像していなかったことを言われ思考が追いつかない。おい早く働け、俺のニューロンども。

「何だって?」

「僕が願ったことは全て現実になる、ということさ」

なるほど、って言い方を変えただけじゃねえか。流石にそれくらいは気づくぜ。

「丁度いい、今日は七夕だ。僕の願いはなんだと思う?」

「ずっとお前を悩ませ続けていたものが解決すること、じゃないか?」


俺の答えには何も言わずに、佐々木は続ける。

「この一年半ぐらいだろうか。僕にとって都合が良すぎることが連続して起きたんだ」

何かを掴むように左の手のひらを上に向けながらその腕を挙げ、

「僕がこの学校に入ったことも、この部活に入ったことも」

拳を握ると腕を下げて後ろを向き、こう纏めた。

「――キミと付き合えたことも」

「どういうことだ? そんなこと、都合が良いもクソも」

「あるさ。僕が志望校を変えることになった理由。それは――」

伸び伸びがどうのじゃないのか?

「北高に行きたいと主張できるだけの合理性のある理由が出来たからだ。

 実は僕には父親がいなくてね、数年前離婚して出て行ってしまったんだ。

 養育費はもらっているのだが、それだけでは足りないからと母も必死に働いてくれていた」


「無理が祟ったのか中3の冬、突然母親が倒れてね。幸いにも生死に関わるということは無かった。

 しかし休職が余儀なくされたんだ。すると少ない手当を案じた父が金銭面の補助を提案してくれた。

 ただあっちにも新しい家族がいて、それほど余裕も無いのだから本心は違ったはずだ。

 そこで僕は自分が公立高校に行けば済む話だと主張したのさ。どこだろうと勉強はできる、と」

そうだったのか。あの時理由を聞こうともしなかった自分に嫌気がする。何が親友だってんだ。

「まだキミと繋がっていられる、押し殺していた想いと向き合える、そう思うと不謹慎だけれど嬉しかった」

「だがどうしてそれが願望なんたらに帰結するんだ。誰が聞いてもおかしいぞ」

「おかしくなんてないさ。この文芸部だって同じことなんだからね。

 僕たちが入学した直後に、本来いたはずの先輩4人が何故か一斉に退部したらしい」

何だって? だが一体何故だ。

「てっきり最後の部員が卒業でいなくなったとばかり思ってたんだが。誰に聞いたんだ?」

「顧問の先生に聞いたらそう教えてくれたよ。コンピ研の部長さんも同じことを言っていた。

 そして今年度に入っても依然としてニューカマーが表れる気配はない。

 だが、生徒会は今年度も変わらず僕たちに十分すぎる予算をつぎ込んでくれる。

 何故だろうか。僕がそう望んだからに他ならない」


「きっと何かで疲れてるんだよお前は。変に賢すぎるからそういうことを考え出すんだ」

「ああ、確かに僕はこのことで悩み疲弊しているさ。だからもう少し説明させてくれ」

聞かせろと言い出したのが誰だったのかを思い出し、俺は黙って聞くことにした。

「二人の人間が一年間ずっと同じ席である確率はどれくらいだと思う?」

俺も席替えに関しては不思議には思っていた。だが誰かが仕組んでの事だろうと流していたのだ。

「運が良いだけだろうと僕自身思っていたし、さほど気に留めてはいなかったのだけれど、

 軽い気持ちで、もしかしたら僕には願いが叶うという素晴らしい力があるのか、なんて思ったのさ。

 そこで僕は遊び半分で、クラス替えという公正な振り分けを利用してみることにした。

 まずは当然キミと同じ組になることを願った。そこにキミの友達二人も加えた。

 どうせならキミを喜ばせたいからね。それにダメ押しで僕が親しくしていた数人と、担任。

 これらが全て叶う確率はどれほどのものだろうか。そして結果は見ての通りだ。

 その時初めて僕は恐ろしくなった。もしかしたら本当に何か有るのかもしれない、と」


「ただの幸運にしては出来過ぎだ。

 そう気づいた時にはもう毎日が疑念で埋め尽くされてしまったよ。思い当たる節も山ほど有った。

 家に居てなんとなく寂しい気分になったとき、それを見計らったようにキミからメールが来る。

 二人っきりになりたいと思ったら住宅街なのに1時間以上人っ子一人通らなくなる。

 ずっとそんなバカな話あるはずがないと自分に言い聞かせてきたがもう限界だ、

 キョンに全てを打ち明けたい、と思ったら――」

佐々木が右手を開くと、手のひらにヘアゴムのモチーフが食い込んだ跡が深く刻まれていた。

「それらは全て、僕が異能の力を持っていると考えれば説明がつく」

「まさか、俺にも佐々木の言うおかしな力が作用しているって言いたいのか?」

「そう。それが一番の問題だ」

佐々木は、まるで荒野に咲く萎れかけた一輪の花のように儚げに、

「去年僕が七夕に願っていたのは、キミと結ばれることだ」

小さく、しかし頭によく響く声でそう言った。


「実際には何時までも何もしてこないキミに業を煮やして、その少し前から強く願い始めたんだけれどね」

俺は驚きを通り越し怒りを覚え始めていた。

「そんなアホな話があってたまるか。良いか、あれは俺の意思で、というかお前に誘導されてだな」

「タイミング良く僕が例のサッカー部の彼に告白されたのがその契機だっただろう?」

言葉に詰まる。確かにそうだ。

「キミが告白したのは僕がそう望んだから。これはある恐ろしいことを示唆している。

 キミが僕に特別な感情を抱いてくれたのは、僕がそう望んだから、ということだ」

ふざけんな。頭に血が上ってくる。だが、だが――。

「悲しいかな、このことを否定できる客観的根拠を僕は持っていない。キミはどうだい?」

そうさ。願望実現能力というチート染みた話を前にして、俺もそれを見つけられないでいるのだ。

「僕も信じたくなかったさ。だが今ではほとんど確信もしている。そしてもっと悪い予想さえ存在する」

これ以上一体なんだってんだ? 急な話すぎてついていけん、もう俺の頭はショート寸前なんだ。


「この世界を作り出したのが僕だという可能性だ」

「おいおい、いくらなんでも飛躍しすぎだろ、それは。私が神だと言わんばかりになってきたぞ」

「実際その通りとも言えるし、違うとも言える。

 僕の仮説が正しければ僕は世界の創造主たりえるが、その世界の中にその身を置いてる点で異質だ。

 そして、これが故に僕は自分が世界を変えてもそれに気づくことは無い。

 変えられた世界に存在する以上その世界の秩序を当然だと思うからね」

つまりどういうことなんだ?

「僕は無意識に世界創造というとんでもない業を犯してしまったのかもしれないということさ」

佐々木は第三者のことであるかの如く話すことで、理性的に振る舞っているようだった。

「そしてその場合、ずっと大切にしてきたものが、僕自身の作り出した虚像にすぎないことにもなる。

 全てが茶番でしかないのかもしれない、という絶望感がどれだけ僕を苦しめてきただろうか」

ガラス細工のように壊れやすいものであるかのように俺の手に触れながらそう言った。


「きっと、いままで自分が行った改変を知りたいと望めば自ずと知ることが出来てしまう。

 だが、神聖不可触であるものに近づくようで、自分の行った罪の大きさを突きつけられるようで、

 それは得も言われぬほど恐ろしいんだ。だから、意識しないようにしていたのだけれど」

佐々木はここでようやく僅かに感情を込めてポツリとこう呟いた。

「どうしても、どうしても僕にとって都合の良い世界から逃れることが出来ないんだ」

これだけを聞くと何が問題なのかわからない。が、だからこそ問題は根深いのかもしれない。

一つ間を置いて、佐々木は顔を上げた。

「だから、今日、覚悟を決めて真実を知ろうと思う。見守っていてくれると嬉しい」

「それでお前の気が済むのならそうするさ。正直まだ今の話は信じきれないが」

「ありがとう。もしかしたら願ったところで何も知り得ないかもしれないけれど」

「そしたら、願望実現能力なんてとんでもない妄言だったな、と思いっきり笑い飛ばしてやる」

「ああ。そうなると良いね」

不覚にも俺は目頭が熱くなっていた。それほど久しぶりにあいつの爽やかな顔を見たのだ。


ふと、こいつが消えて無くなるようなそんな寒気がして、俺は佐々木の身体を強く抱きしめた。

「心配しないでくれ、お守りもあることだし」

あいつは今にも壊れてしまいそうな笑顔で俺にヘアゴムを見せると、それを握り直し腕を俺の背に回した。

佐々木は深く空気を吸い込み、ゆっくりとそれを吐きだす。

今この瞬間も願望実現能力とやらが働いていて、こいつは俺には見えない何かを見ているのだろうか。

と、足元に何かが落ちる音がした。

佐々木の腕がだらりと下がっていることに気付いたのはその音がしたのとほぼ同時だった。

「おい……どうだったんだ?」

回した腕を解き一歩下がると、血の気の抜けたあいつの顔が目に入り俺は慌ててそう尋ねた。

「想像以上だよ。もう何もかも終わりだ。キミにも恐ろしいその真実を見せてあげるよ」

え? どういうことだ? そう言う間もなく俺の目の前が真っ暗になっていく。

消えゆく意識の中、光を反射して鈍く輝くスミレのモチーフが佐々木の足元に落ちているのが見えた。


………………………………………………………………………………………………


季節は四月、俺は旧友一人と非友好的陣営の二人との四人で、タクシーに乗り北高に向かっていた。

全ての決着をつけるために。

事の発端は、俺がSOS団に所属してから一年が経つその少し前の春休みになるだろうか。

その日は例の如くハルヒの独断により、電車に乗ってフリーマーケットに行くことになっていた。

いつものように自転車を走らせて駅前に向かい、駐輪場で空きスペースを探していると、

「やあ、キョン」

「うわ」

すぐ背後からかけられた声に飛び上がり、振り返って声の主を認識すると同時に口を開いていた。

「なんだ、佐々木か」

「なんだとは、とんだご挨拶だ。ずいぶん久しぶりなのに」

その顔には言葉と裏腹に、どこか柔かい皮肉に包まれた微笑が浮いていた。

それが、かつて共に日々を過ごした親友との再会だった。


俺がそいつと交友関係を持ち始めた切っ掛けは、中三の時に通い始めた塾で同じクラスだったことだ。

以来、俺は佐々木と塾への道程を供にするようになり、必然的に学校でもよく喋る仲になった。

佐々木は不思議な魅力のある人間だった。

決して内向的という訳ではないが、感情を曝け出すことはせずにいつだって理路整然としている。

それでいて誰よりも様々なものに興味を抱いて、それを静かに追求している、そんな奴だった。

佐々木の話はいつだって刺激的だった。

その頃から俺は朴念仁だとよく言われていたし、正直あまり良い聞き手ではなかったと思う。

それでもあいつはそんな俺の性質を理解し、逆にそれを好ましいと言ってくれた。

だから俺もあいつのことを誰よりも理解しようと努めていた。

だが恋愛感情はノイズだというあいつのそのセリフに、胸の内では靄を抱えていた。

何故なら俺の中に、あいつに惹かれ始める気持ちがあったからだ。

しかし、それ以上にあいつに失望されることを、その他大勢と同じに思われることを、恐れていた。

だから俺はそんな想いを心の奥底に閉じ込め、そのせいか卒業してからも俺から連絡することは無かった。


久しぶりに会ったそんな親友は、理性なんてものを超越した存在として擁立されていた。

俺としちゃそんな常識の埒外でエキセントリックな変態は我らが団長様だけであって欲しいものだが、

佐々木の周囲にいる可笑しな奴らは、そんな俺の願いを簡単には聞き入れてくれないようだった。

古泉の"機関"とは敵対する組織に属する超能力者、橘。

朝比奈さんに無闇矢鱈と反抗しやがるいけ好かない自称未来人、藤原。

長門を散々惑わしやがった、天蓋領域とかいうイカれた奴らがよこした宇宙人、九曜。

それぞれ思惑は違うようだが、奴らの狙いはハルヒの力を佐々木に移すことらしい。

いきなり出てきたと思ったら勝手なことを言いやがって、誰がそんなことさせるか。

理由は言葉で説明出来ないが、そんなことをしたら佐々木が壊れてしまうだろうことは確信している。

それにこちとら去年ハルヒに出会って以来、世界の誰よりも珍妙な経験をしてきたんだ。

世界崩壊の危機だとか世界の消失だとか、改めて考えても訳がわからん。

だがそれもこれも、あのハルヒの最初の自己紹介からひっくるめて今では良い思い出さ。

だから今さらこんなゲテモノ連中に負けるはずがねえ。


かくして俺は白黒つけるため下校後に奴らと会合したのだが、その結果既定事項とやらに則るため、

姿を見せぬ九曜を除く三人、佐々木、橘、藤原と、決戦の地となるだろう北高へ向かうことになったのだ。

以上、回想終わり。

丁度今タクシーが北高前で停車し、俺にとって本日二度目となる登校を果たした。

すでに空は薄暗く、部活の片づけをしているらしい運動部の生徒の声がまばらに聞こえてくる。

「どうした。行くぞ」

藤原が挑発するように俺を下目に見遣ってから先陣を切り、校内に足を踏み入れた。

片や不安を浮かべ、片や至って冷静な様子で、橘と佐々木もそれに追従する。

毎日ここに通う俺は何の気概もなく門を通ったのだが、数歩も進まぬうちに立ち止まることになった。

「なんだ……? なんだ、これは?」

目を見開き、口を大開きにした俺は、呻き声をあげていた。

空が、淡いセピア調のクリーム色に染まっていた。

ついさっきまでの夕暮れ空が消え、自然現象では有り得ない光に包まれている。

俺はこの光を知っている。


かつて俺が橘に誘われて迷い込んだ、ハルヒとは真逆の性質をもつ佐々木の閉鎖空間。

気が付けば、俺のすぐ右後ろにいたはずの佐々木は消えていた。そう、あいつはここには入れない。

あたかも校門が異世界へのゲートであったかのように、世界が一変していた。

誰の声も、いや、声どころか風の音すらもしない静謐なる空間がそこにはあった。

ああ。俺は一人でここから脱出する術を持たない。閉じ込められたのだ。

「立場がわかったか?」

背後から藤原の声が届いた。

「ここはもう、お前の世界ではない。お前の仲間もここには入ることが出来ない。

 さて、お前のその情けない虚勢がいつまで持つか見物だな」

藤原の陰鬱な悪党顔の横で、橘は気を揉むような振る舞いを見せていた。

「……罠か」

「現地人の鈍間さには恐れ入ったよ。僕たちはまだ最終目的地に辿り着いていない。さあ行こうじゃないか。

 全ての決着をつけるため、そして僕たちの未来のために」

何処へだ。この閉ざされた空間内で何処に行こうと言うのだ。


「わからないか? お前たちが根城にしている、あのしょぼくれた小部屋に行くんだ」

部室のことか? 一体あの部屋に何があると言うんだ。

「行けばわかるさ。そして僕たちの思いやりに感謝するだろう」

何のつもりか知らないが、あそこは俺たちのホームだぞ。荒らしたらタダじゃ済まねえからな。

「橘、お前は何か知っているのか? 知っててこの空間に俺を連れてきたんじゃないのか?」

「……いいえ、私も計画のことは……」

まあそうだろう。こいつも俺同様に事態を飲み込めていないのは明らかだ。

藤原は土足のまま校舎へ入り、余裕を湛えながら悠然と歩みを進めた。

確かに今この空間にいる限り、俺にとって助けとなる存在はいない。頼みの佐々木も消えちまった。

ちくしょう。正直キツいぜ。

奴に誘われるまま、俺は文芸部室の前まで来てしまった。

藤原は俺と橘には目もくれず、ドアを乱暴にノックし、返事を待たずそれを開けた。

そこに居たのは九曜と、予想だにしない人物だった。


「ハルヒ!」

微動だにせず直立する九曜の斜め前で、ハルヒは目を閉じたまま団長席に座っていた。

「無駄だ。九曜の力で意識を飛ばしてある」

つくづくやる事なす事汚え野郎だ。ぶん殴るだけじゃ足りそうもないぜ。

「お前、これはどういうことだ。人質にでもしてるつもりか?」

「この女の身柄を条件にどうこうはしない。尤も、どちらかと言うならば人質は貴様の方だ。

 何れにせよお前らの側の勢力の目を掻い潜ってようやく手に入れた鍵だ、丁重に扱おう。

 現状この女は無力だとはいえ何をしでかすかわからないからな」

は? 俺が人質?

「さあお楽しみの始まりだ。九曜」

九曜は呼びかけに何の反応も示さなかったが、その代わり別の所に動きがあった。

ハルヒがその瞼を開き、少しぼんやりしてからキョロキョロと周りを見渡し始める。

「え? あれ? 何、部室? あたし、有希の家に居たはずなんだけど。というかあんた達……誰?」


藤原は一度俺に狂気に満ちた視線を向けた後、凶悪な笑みを見せた。

ヤバい。第六感が警鐘を鳴らす。

「僕は、お前たちを殺しに来た」

「はぁ? 何言ってんのあんた」

わかる。気持ちはわかるぞ、ハルヒ。だが良く見ろ、こいつの目はマジだ。

チラリと藤原に目をやると、あいつはハルヒでも九曜でもなく、その向こうの空を見ているようだった。

視線の先には、灰色がかった点のようなものが一つ、セピア色の空に対照的に存在している。

なんだ、あれ?

「始まったか。言っておくが、これは冗談でもドッキリでもない。まもなくお前を殺す」

「あんた調子に乗るのも大概に――あれ? 何で?」

「身体が動かないだろう。暴れ出さないように細工をかけたんでね」

藤原を見るハルヒの表情に、初めて恐怖の色が浮かんだ。

「そう、それで良い。お前に抵抗する術は微塵もない」

そう言いながら藤原は再び外を一瞥した。


空にシミのように存在していた灰色の点が、急速にその大きさを拡大し孔のようになっている。

いや、違う。あれは孔じゃない。あれは――、

「気づいたか。予想通りこの女の閉鎖空間が侵食を始めた。さて、ここからが本番だ」

「ちょっと、何言って――っ!」

ハルヒが声にならない音を漏らす。九曜が音もなく左手でハルヒの襟首を掴み、宙へ持ち上げていた。

身体の自由を封じられていることを示すかのように、首から下は抵抗する力もなく枝垂れている。

「おい、ふざけんな! やめろ!」

「安心しろ、物事には順序というものがある。まだ涼宮ハルヒは殺さないさ。

 説明している暇は無い。それに説明したところで意味も無いだろう。シナリオを進めさせてもらう」

九曜がゆっくりと右腕を挙げ、その指先が俺の身体を指した。

ま、まさか……俺は、殺られるのか? 

身体が動かない。恐怖からか、それともこれも九曜の力なのか。



「や、め……」

顔を痛みに歪めながらハルヒが呻き声を出す。

「この期に及んで仲間の身を案じるか、泣かせるじゃないか。だが――」

藤原は一度表情を歪めたあと、鉄仮面のような顔をつくり、

「九曜。殺れ」

直後、真っ直ぐに伸びた九曜の腕が俺の腹を捉え、それは一瞬で俺の身体を貫通していた。

「がっ……」

橘の悲鳴が聞こえる。おいおい、何だこりゃ。痛ぇなんてもんじゃねえぞ。

「次は、涼宮ハルヒ、お前だ。何か言いたいことはあるか?」

「……キョ、ン……」

ハルヒは絞り出すように声を出していた。

「……死な、ない……で」


この時、意外な人物が声をあげた。

「まさか!?」

それを聞いた藤原が高らかな笑い声を部室に響かせ、

「橘京子、お前が気づいたということは全てが成功したことを意味する。

 さあ九曜、さっさとこの女を殺せ。もう用済みだ」

「これで新たな――可能性が芽生える――」

制止する間も無かった。

前触れ無く九曜の左指が蛇のように伸び、ハルヒの首を絞める。

信じられない光景だった。ハルヒが、あのハルヒが目から光を失っていく。

気づくと空間がグニャりと歪み、広がっていた空の灰色部分が急速に萎んで世界が明るくなり始める。

「作戦通りこれで未来が大きく変わるはずだ。どうせ叶わないのなら僕はこちらの世界に全てを託す。

 例え己の存在が永遠に抹消されたとしても」

そう言うと、藤原は――消えていた。


「終わった――そしてこれが、真の始まり――」

「ぐあぁぁっ!!」

九曜がその右腕を一気に引き抜いたことで、俺の身体から真っ赤な血が迸る。

奴はこの世のものとは思えない美しい笑みを浮かべ、腕をしならせて俺の血を飛ばした。

そして霞むように身体が透けていったかと思うと、九曜はそのまま消失した。

それに伴ってハルヒがやけに大きく鈍い音を立てて床に叩きつけられる。

「大丈夫ですか!?」

橘が崩れ落ちる俺に駆け寄り、体を支えてくる。

しかし俺は何も発することが出来なかった。

ハルヒが、死んだ?

「ごめんなさい、私のせいです……。あの、えと、とにかく佐々木さんの所へ行きましょう!

 今の佐々木さんなら貴方の傷を治すことも、涼宮さんを蘇生させることもできるはずです」

橘は一度俺から離れて、倒れているハルヒを引きずるようにして抱えながら、

再び俺の腕の下に入り、体重を預かった。


一体何が起きてるのか、全く考えがつかない。あのハルヒが、本当に死んでるのか?

「涼宮さんの、最期の願いは……、あなたが死なない、こと……、でした」

二人分の体重を抱え、息を切らして這うように進みながら橘が何かを言っている。

「あの瞬間、佐々木さんの、閉鎖空間に、……涼宮さんの物、が、入り混じっ……、ていたので、

 涼宮さんの、力が……、発現して、佐々木さんに…………力が、移った、の、です。

 あなたを……助ける、手立て、として……!」

なるほど、奴らはハルヒの力を佐々木に移すという目的を俺を利用して強引に誘発させたってのか。

だが、それがわかったところで俺にはもうどうしようも無さそうだ。

「あと、少しで……、ここ、から……、出ます、から……、あなたも、頑張って……」

ダメだ、もう、声も出せねえ。

すまん、橘。

すまん、ハルヒ……。


「現れたぞ!」

「朝比奈みくる誘拐事件の首謀者、橘京子だ! 今回の事件もあいつが犯人と見て間違いない!」

「拘束しろ!!」

「な!? ま、待って……! 佐々木さん! 佐々木さんは!?」

「捕まえたぞ! 重要参考人だ、連れていけ!!」

「キョン……? キョン!?」

「佐々木さん! あぁ、ごめんなさい!」

「キョンに何をしたんだ! 言え!!」

「待って佐々木さん! 聞いて! あなたに、力が!」

「何してるんだ! 抵抗するな!」

「ちが、佐々木さんが!」

「キョン! 返事をしてくれ!! キョン!!!」

「佐々木さん!!」

「こんなこと! 有って良いはずがない!!! 全部!! 全部嘘だ!!!!!」


………………………………………………………………………………………………


気づくと俺の意識は、元の世界での全ての記憶と共に文芸部室に戻ってきていた。

そう、今俺たちがいるこの世界は佐々木による改変で出来たものなのだ。

突飛に思えた佐々木の推測は全て正しかった。あの事件のせいでこいつに願望実現能力が移っていたんだ。

「キミが涼宮さんと出会いSOS団として活動してきた世界は、あの時点で終わってしまった。

 キミの死を拒絶した僕が、能力を得たことを知らずに世界のやり直しを願った為にね。

 中3の冬を分岐点として、今僕たちが存在しているこの世界が始まったんだ。

 だからこの世界は本来僕たちが歩んできたものではないということになる」

絶望感に満ちた生気のない声で淡々と佐々木は説明する。

「橘はどうなったんだ? 藤原、それに九曜はどこへ消えた? ……ハルヒは?」

「橘さんは閉鎖空間から脱出した後涼宮さん殺害の首謀者として"機関"の残党によって拘束された。

 藤原くんが消えたのは、力の移譲で未来が変わり、この時代での存在自体が否定された為だ。

 朝比奈さんも残念ながら同じ状況になっていた」

同じ状況ってことは……朝比奈さんも消えちまったっていうことなのか?


「九曜さんの行方はわからない。だが天蓋領域は僕に発現した情報の解析を開始していた。

 これによっておそらく天蓋領域が思念体に対してアドバンテージを得るのだろう。

 そうなれば長門さんの存在も危機に瀕することになる。

 涼宮さんは……信じたくないだろうがキミが見た通りだ。

 結果として古泉くんは超能力を失ってしまっただろう」

……何が負けるわけがねえだ、何も出来なかったばかりかSOS団そのものも失ったってのかよ。

「だが、そこから先はわかりようがない。僕が世界を丸ごと変えてしまったのだから。

 これでは藤原くんと九曜さんの企みは無に帰したようなものだ。結局何が望みだったのだろうか。

 僕はキミが死なない世界を望んだ。だが、一つ避けることの出来ない話がある。

 僕が抱いた願望はそれだけだったのだろうか。

 答えはノーだ。

 無意識とはいえ、僕は自分に都合が良くなるように、世界をいじった。

 その証拠に、この世界のどこにも涼宮さんは存在していない」


その時俺は、文芸部室の様子がおかしくなっていることに気がついた。

さっきまでと違う物理法則を無視したようなセピア色の光が世界を照らしている。

「気づいたかい? ここは例の閉鎖空間の上位互換に当たるものみたいだ。

 耐え切れない現実に直面した僕が、たった今、願望実現能力によって創り始めた新世界の原型さ」

今、創り始めた?

「面白いね、ここに逃避したらメントールを塗ったみたいに心がスッと楽になった」

息をゆっくりと吐くと、佐々木は陰と陽の区別すらつかぬ全く感情の読み取れない表情を作る。

「推測通り、こちらの世界では僕はやりたい放題だったらしい。

 本来ならこの学校に来ることさえ許されていなかったというのに。

 危惧していたように、何もかもが夢のようなものであったということだ。

 そうであるとわかった以上、この世界で僕の願いが真に叶うことは最早有り得ない。

 どうやら僕の物語は悲しい結末を迎えるしかないようだ。

 どこで選択を間違えてしまったんだろうね。こんなことを望んでいた訳じゃないのに」


「いや、本当はわかっているんだ。

 高校受験にあたって、自分の感情に蓋をしてキミとの関係を断ち切ろうとしたことが全てなんだ。

 キミに再開した時、キミの心が既に涼宮さんに向いていることに気づいてしまった。

 わかっていながら僕は、SOS団を、涼宮さんを抹消し、キミのその気持ちを踏みにじった」

「待て、確かにそうしたかもしれないが、お前は力を手に入れたことを知らなかったんだろ?」

「そうかもしれない。だが、キミの親友を自称しながら、深層心理ではこう望んでいたということさ。

 SOS団も涼宮さんも消えてしまえばいい、とね。僕はそんな自分を赦すことが出来ない」

「そんなもんお前、誰だって少しは――」

「苟も強大過ぎる力の器の候補であった僕に、一般論を当てはめてはいけない」

「いや……。ん、待てよ? その力を使えばやり直しが効くんじゃねえのか!?」

「残念だがこの力を利用してあの世界に戻り、あの悲劇が起きないよう工作するというのは不可能だ。

 この世界に浸かりきって、キミの肌の温もりを知ってしまった今となっては余計にね。

 僕はね、キミを心から愛しているんだ。キミが、そして僕自身さえ想像がつかないほどに。

 だからきっと同じことを繰り返す。自分が物語のヒロインとなるよう脚色することを避けられない」

そう言って、あいつらしい皮肉と諦観を孕んだ笑みを浮かべた。
 
「願望実現能力という解放されることのない呪縛に僕は罹ってしまったのさ」



「だから、僕に残された手段は、たった一つしか残されていない」

風の吹かない世界があるとすればそこにある海はこんな感じだろう、そう思うような静かな眼差しで、

「この世界と、そこに執着している僕を消して、元の世界を再生する。

 僕のいない世界を創るのならば、僕は真っ新な気持ちでそれを実行できる」

佐々木はそう言った。

「おま、何言ってんだよ!?」

「今のキミは、さっきまでこの世界に居た僕が心を通わせたキミではない。

 尤も、キミはその"さっき"の一瞬に一年以上に渡る異世界の記憶の追体験をしたわけで、

 キミの主観的な感覚としては、さっきまで、というと違和感しかないだろうけどね。

 何れにせよ、キミは自分が異なる世界から来たという自覚を得たはずで、

 それはつまりキミが愛したSOS団の、言い換えれば涼宮さんの記憶があるということだ。

 だがどうだい? 僕とのそれは全て紛い物だ。僕に見せられていた幻覚とも言える。

 さて、それではキミはどちらを選ぶ? 簡単な問題さ」


そう、確かに今の俺には佐々木と過ごしたこの世界の記憶だけでなく、

SOS団と、そしてハルヒとの絆を大切にしてきたあの不条理で愉快な世界の記憶も持っている。

だが――。

「お前の言う通りあいつらも大切だ。だが、俺はお前も失いたくねえ、当たり前だろ!

 そうだ! 改変先の世界ではお前が力を失うように世界を変えればいいんじゃないのか?

 そうすればお前が変な力に悩まされることも無くなるじゃねえか!」

「その結果、改変時の僕がお膳立てした舞台で、何も知らずにそれに甘んじることになるだろう。

 そうなるとわかっていてそれを実行するというのは、絶対に耐えられない」

ふと、足元が振動し視界が揺らぐのを感じる。まさか、もう改変が始まってるっていうのか!?

「おい! 止めろ!!」

佐々木は優しげにふっと笑うと、

「これが僕の望みなんだ。許してくれないかい? そうでもしなければ僕の心は壊れてしまう」


「本来罪を償うということは、それを犯した者の精神を守るためにあるべきものだ。

 そして、僕はキミが愛した世界を創り直すことでしか、罪を償うことは出来ない。

 それか、キミがその手で僕を殺してくれたら、晴れて僕は贖罪の意識から解放され自由の身になれる」

そう言う相形は、思わず声にならない音を漏らしてしまうほど、美しい微笑みだった。

「バ、バカ言ってんじゃねえ! 俺が、俺がなんとかする! だからやめろ!」

「キミが僕の消滅を止めようとしてくれている、それだけでもう十分だ。

 縦しんばそれが、自分が生み出したフィクションに過ぎなかったとしても。

 それに、こんな僕にも悲劇のヒロインへの憧憬があるのさ。それを噛みしめさせてくれよ」

世界が、電波の入りが悪くなったテレビのようにブレ始める。

何か、何か方法があるはずだ!

そうだろ!? 誰かそう言ってくれよ!?

「これは文字通り冥土の土産として貰っておくよ。キミからの最後のプレゼントだからね」

そう言うと足元に転がっていたヘアゴムを拾い上げ朗らかに笑った。


「僕なんかが神聖な能力の器になってしまったことがそもそもの間違いなのさ。

 理論で全てを説明できない限り、神は死んだ、なんて言葉は詭弁に過ぎない。

 理性的になろうとしてそうなりきれずに、神の力に近づいた僕の行きつく先は存在の死だ。

 だが一年だけでも、キミの彼女になれて僕は本当に嬉しかった。幸せだった」

何かをこらえるように佐々木は唇を震わせて天を見ていた。

「一つ、お願いがあるんだ」

頭を振って光明を見出そうとする俺に、佐々木は穏やかな顔で語りかける。

「僕のことを覚えていてくれないかい? それが、僕がこの世に存在していた唯一の証明になる」

待て! 待ってくれ!

上も下もわからない程の光が辺りを包みこんでいく。

佐々木は十字架さながらに両腕を挙げ、その光を背後に受けて姿を朧げにしていた。

「さらばだ、親友。そして、たった一人の、僕の愛した人」

目が眩むような神々しい光で世界が満ちる。

その瞬間、佐々木は神と呼ぶに相応しい存在であるように思えた。

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2015年03月29日 (日) 11:19:02   ID: fGbDBwux

どう見てもベイビーステップじゃなくてハルヒなんですがそれは……

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