喪服の少女と白殺のイマジンブレード (81)


 雨宮は町の中をぼんやりと歩いていた。
 当て所なく、と言い換えてもいい。
 逃げ出すように故郷を去り、夜行バスにがたがた揺られ、上野駅に到着したのがつい三日前である。路銀に余裕はまだあったが、これ以上ネカフェ暮らしを続けるのは、金銭以上に精神へ問題があるように思われた。

 なるべく早く――いや、一刻も早く住居を、職を見つけなければいけない。とはいえ住所不定では碌な仕事もないのが現実である。
 保証人が必要だ。しかし親に連絡はとりたくなかった。その不協和が雨宮のどん底生活の根本であることは想像に難くないし、雨宮自身が誰よりもわかっている。

 だがやはり、どうしたって「しかし」なのだ。

 東京は広く、様々なものを供給している。過多なのではと思えるくらいに。
 三車線の道路を挟んで向かい合うようにコンビニエンスストアが並び、さらにもう一つ信号を渡った先にも別系列のそれがあるような光景は、彼の地元にはなかった。

 その供給過多こそが雨宮を救ったのだった。不動産管理会社で物件情報を見せてもらったところ、保証人がなくとも入れる部屋があるらしい。その代わり敷金礼金は割高であったが、この際文句は言っていられないだろう。
 それが今朝の出来事である。


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 彼の足が地元を出てから久しぶりに軽かったのは、恐らくそれが理由だった。梅雨でぐずついた空模様は重苦しい曇天であるが、連日の降雨から考えれば否応はない。心模様を表しているようにすら思える。
 地元には梅雨がなかった。それとは反対に、雨宮は雨男だった。この掛詞を揶揄されたことも少なくはない。
 自然と舌打ちが出てしまう。嘗てのからかいを思い出したからではなかった。捨てたつもりでいた故郷のことを引っ張り出してしまった己の浅はかさに対して、どうしようもない怒りが湧き上がってきたのだった。

 足取りの軽さは、あくまで彼内部での、過去の彼と比べての相対的なものに過ぎない。彼の幸福の度合いは絶対的に底辺であり、そして何より彼を苛むのは、相対的にも底辺であると言うことに尽きた。

 道行く人々は忙しそうに、もしくは楽しそうに、雨宮の傍を通り過ぎていく。彼はパーカーのポケットに両手を突っ込みながら、忌々しそうに見送る。そこで彼は彼我の幸福の相対的な隔たりを感じ、また足取りを重くする。
 今俺がナイフを持っていたら、この辺りにいる幸せそうな人間を片っ端から切り殺してやるのに。そんな出来もしないことを考えて溜飲を下げるのが精一杯。それとも書店に行って檸檬でもこっそりと置いてきただろうか。


 雨宮は階段を上って上野公園の木陰へと入っていく。

 公園は湿った風が通り抜けるため体感温度は涼しげだった。木々に囲まれた道なりにはベンチこそないが、腰掛けるにちょうどいい石がいくつもあって、今も老夫婦が二人散歩の途中で休んでいる。
 雨が降っていたためだろう、土や葉のにおいが足元からたちのぼってくる。むんと香る自然のにおい。濃密だ。

 彼はここが好きだった。ただし、それは決して清潔な理由ではない。自分よりも更に立場が下の人間が多くいるからという不純極まりない理由からである。
 残念だったのは雨のせいでホームレスたちが軒並み寝床を移していたことだった。彼らを目にすることで、ほんの少しでも自分の優位性を確認したかったのに、それもならない。

 ともすれば宿無しの彼らのほうが雨宮よりよっぽどましな精神性を有しているかもしれない。貧すれば鈍すと言うけれど、見ず知らずの人間を見世物扱いして溜飲を下げようとするのは、胸を張れる心のありようとは程遠かった。

 平日昼間の上野公園はひっそりとしている。昨晩降った雨のせいか、ベンチ代わりに腰掛けている椅子から、湿り気が尻へと滲んでくるようだ。
 たまに通りがかるのはサラリーマンか、マラソンランナーか、でなければ暇を持て余した学生くらいのもの。


「静かだ……」

 ひとりごちた。
 静寂はいい。ニヒリズムやハードボイルドを気取るでなく、彼は静寂が好きだった。
 どうしようもなさ、やるせなさ、そういった荒波に強か打ち付けられ疲弊した精神を、柔らかく包み込んでくれる。

 なので、彼が舌打ちをしたのは、その愛すべき静寂が足音によって破られたからに他ならない。

「……」

 セーラー服を着た少女が歩いていた。
 膝より少し上の丈のスカートにごく普通のセーラー。どちらも色は黒に近い濃紺。ご丁寧にタイやカラーに走る二本のラインまで黒い。
 まるで喪服みたいだな、と雨宮は思った。珍しい制服もあるものだ、とも。

「学校サボりか。不良だな」

 まったく日本の未来が思いやられる、だなんて普段はちぃとも考えようもしないことを、このようなときばかり考えてしまうのが捩くれた精神の表れである。


 視線を上げれば、ぴたりと少女の歩みが止まっている。
 雨宮のことを真っ直ぐ見ていた。

 まずいな、聞こえてしまったか――そう思うならば初めから言わなければいいのに、口に出さずにはいられない精神性が招いた結果だった。

 と、そこで雨宮は気がつく。少女の右手に、白い何か細長いものが握られていることに。

 ざくざくと玉砂利を踏みしめて、少女は雨宮へと向かってくる。

「な、なんだよ、おい」

「……」

 少女は無言である。そして鋭く睨み付けてもいる。

「来るなよ」

 強がりに違いなかった。二十も半ばを過ぎた男が、見たところ十代の少女に気圧されているのだから情けない。

「……見つけた」

「え」


 初対面のはずなのに。そう思うより先に、少女が跳んでいた。

「見つけた! 第46の使途!」

 少女は叫び、右手に握っていたものを振る。

 雨宮にはそれが、軍刀のように見えた。
 全体が緩やかに弧を描いている。フォルムは極めてスマートで、太刀のような無骨さはどこにもない。反面、頼りなくも見える、華奢な一振りの殺意。

 白鞘。柄巻きも白。控えめな鍔は白銀。徹底的な念の入れようだ。
 振りぬかれた刃もまた、当然のように煌く白刃である。

 喪服の少女と白い軍刀のコントラストは、薄暗い公園の中にあって、鮮烈にその存在を沈み/浮かび上がらせる。

 雨宮の思考は止まっていた。変な少女が軍刀を持って走り寄ってくる。この状況はおおよそ普通ではない。
 いや、もしそれだけなのであれば、雨宮も慌てふためきながら頭を抱えるくらいはできただろう。当然行うべき反射行動すら彼から奪ったのは、前門の虎――喪服の少女だけではなく、後門の狼でもある。


 その影は木立のそれに紛れてはいたが、彼は理解していた。己の背後に、なんだかよくわからない、形容しがたい、けれどとにかく恐ろしい、巨大な「怪物」がいるであろうことに。
 怪物――そう、怪物である。直感が浮かび上がらせたその二文字を、雨宮は存外冷静に受け取って、納得した。言い得て妙だ、確かにそれ以外あるまいと、首肯する。
 ばかみたいに頭の中は平穏だった。

 事実、彼はばかな男だった。
 そしてそのばかさ加減が、彼を軍刀の一振りから救う。

 刃は頭上を通っていく。雨宮の髪の毛をはらはら散らしながら。もし雨宮が下手に動いて、たとえば立ち上がっていようものなら、怪物と一緒くたに切り捨てられていただろう。
 少女の軍刀は本物である。否、本物ですらない、といったほうが正しいのかもしれない。白鞘に白い柄巻き、白銀の鍔に白銀の刃の美しさは、到底人間が生み出せない水準に達している。では何が生み出したのかと問われれば、消去法的に夢か妄想の産物である。つまり切れ味の程度も折り紙つき。


 雨宮の背後で絶叫が響いた。決して人のものではない断末魔だった。軍刀と同様に、夢か妄想の産物だった。

 倒した、と雨宮は思った。ぐ、と手を握りさえした。まるで活劇を間近で見ているような状況に興奮を禁じえない。そんな自分を認めつつ、気をやりそうになっている己の存在を、しっかりと自覚してもいる。

 怪物は倒れたであろうに音もない。たださわさわと揺れる葉擦れの音があるばかり。
 鼓動も、呼吸も、止まってしまったのかと雨宮は思った。

 ちん、と涼しげな音が彼の意識を現実に引きずり戻す。音の源は軍刀だ。木陰の中にあって、強烈なコントラストを放つ、白い軍刀。夢と妄想の産物によって現実に回帰するだなんて一体どんな冗談だろうか。わからない。わからないなりに考えたところで頭の悪さを露呈するばかりだと彼は知っている。
 だから、曖昧な笑みを零しておいた。

 既に少女は軍刀を鞘に納め、雨宮に背を向けて歩き出していた。どうやら先ほどの音は軍刀を鞘に戻した音らしい。

「なんだったんだ、今の……」

 意図のない呟きに、けれど少女は如実に反応を示す。
 首をぐるりとまわして雨宮を見たのだ。


 そこで彼は初めて喪服の少女の顔を見た。白磁の肌に、濁った瞳を持つ、二階調の圧倒的な存在感を放っていた。

「……」

 互いが無言である。だが決して自らの意志で無言を貫いている雨宮ではない。蛇に睨まれた蛙のように、少女の視線に串刺しにされているのであった。

「見えたの?」

 陰鬱な声だった。そして同時に儚げでもあった。
 奇妙な話である。陰鬱は即ち重たいという意味を含んでいる。沈殿、そう言い換えてもいい。日の光の届かない薄暗がりで、決して目にすることのできない晴天を見上げながら、呪詛と怨嗟を吐き続ける言霊が陰鬱の正体だ。
 そして儚げであるということは、限りない薄さを意味している。触れることすら躊躇われるほど華奢な存在。玻璃の薄片がまさしくそうであるように。

 それらは決して相容れない概念のように思われたが、少女は絶妙なバランスで成立させていた。


「じゃあ、おにいさんもおんなじなのね」

 少女は嘲るような笑みを浮かべて、前を向く。

「ついてきて」

「あ、おい……」

 雨宮に断る術はない。「ついてきて」と言われ、歩かれてしまった以上、追随せねば罪悪感が生まれる。それに彼は流されやすい性格なのだ。
 まっすぐに少女が歩くだけならば、もしかしたら雨宮だって気にしなかったかもしれない。しかし少女は少し歩くごとに振り返り、雨宮がついてきていないことを確認するのだ。彼にしてみればたまったものではなかった。

 距離は二メートルを維持したまま、二人はてくてくと、もしくはのそのそと、昼間の上野の駅前通を下っていく。第三者から見ればまるで目的地を同じにしているとは思えないであろう。


 なぜこんなことになってしまったのか。目の前の少女は何なのか。俺をどうしようというのか。雨宮は混乱しながら、勇気の残り滓――否、残り滓のような勇気を振り絞った。

「おい、」

「ここでいいか」

 ごみくずのような勇気なぞ一顧だにしない少女の決定。無論、雨宮の声が少女には届いていなかっただけなのであるが、雨宮は反撃の芽が完全に摘み取られた錯覚に陥る。
 少女が曲がった先は喫茶店だった。夜は居酒屋としてもオープンしている店舗である。言葉から察せられるように、選定の深い理由はないらしい。扉を開きながらきょろきょろと店内を窺っている。

「来ないの?」

 あるいはここが最後の分岐点だった。拒否の声を上げるならここしかない、その程度は雨宮とてわかっている。伊達に修士まで出ていない――という強がりは、今になっては空しく響くだけであるが。
 当然これを好機と雨宮は「幸せになりたくない?」

 思考を両断する言葉が投げかけられる。


 なに馬鹿なことを言っているんだ、まるで宗教じゃないか。雨宮は脳内で唐突な少女の言葉を笑い飛ばしながら、その実酷く強く誘引されている自分の存在を確かに自覚した。

「……」

 言葉はない。出せない。代わりに雨宮の脚は、誘蛾灯に引き寄せられるそれのように、ゆらゆらと喫茶店の扉をくぐる。

「ケーキセット。紅茶で」

「……」

「おにいさんはどうするんですか」

「……」

 珈琲一杯に五百円近く出したくなどなかった。が、子供を目の前にして水だけ頼むのも居心地が悪い。断腸の思いで四九〇円の珈琲を注文する。

「まさかついてきてくれるとは思わなかった」

「……子供と遊んでやるのも、大人の仕事だからな」

「ふぅん」

 明らかに嘘と見破られていた。


「あぁ、まずは自己紹介か。でしょ?」

 喪服の少女はそう言って、生徒手帳の一ページ目を開いて指し示す。
 彼女の写真が載っていた。

「わたしは夢見ヶ島。夢見ヶ島乙女」

 一瞬偽名かと疑ってしまうくらいには、その名前は胡散臭かった。

 あまりにもそのフルネームが衝撃的なものだったから、雨宮は思わず「夢見がちな乙女」と聞き違えてしまいそうになる。同時に、それをわかっているからこそ、少女は生徒手帳を出したのだろう。
 生徒手帳までが贋物と言う可能性は確かにあったが、そこまで手の込んだことをして雨宮を騙す利点が、彼には思いつかない。
 消去法で生徒手帳は本物、名前も本物。それはわかった。そしてそれ以外がわからない。

「おにいさん、あなたの名前は?」

「……雨宮」


 流石に本名をぺらぺら喋るのは躊躇われた。怪しすぎる相手なのだから、念には念を入れて問題ないと雨宮は考えていた。
 けれど少女――夢見ヶ島は特段興味がなさそうに「雨宮。ふぅん」と繰り返すだけで、その選択をするにいたった心情など、微塵も興味がないかのようである。

「雨宮さん、幸せになりたくない?」

「……宗教か?」

 その返答を受けて少女は目をぱちくりさせ、何が面白かったのか、唐突に腹を抱えて笑いをかみ殺しだす。

「く、くくっ、くふふっ……あぁ、ごめんなさい。あまりにもあんまりだったから、つい、ね」

 眦に浮かんだ涙を指で拭って、夢見ヶ島は机の上に白鞘の軍刀を置いた。

「な、やめろよ!」

 こんなところで持ち出してはどうなるかわかったものではない。軍刀の刃渡りは60センチほどで、銃刀法に抵触しているのは確定的に明らか。わけもわからないまま騒ぎに巻き込まれるのは、雨宮は絶対にごめんだった。
 慌てる雨宮と対照的に、夢見ヶ島はあくまで平然としている。


「まぁ落ち着いてくださいよ雨宮さん。こんなところで大声を出したから、ほら。変に注目を集めてしまっています」

 辺りを見回した雨宮が見たのは、こちらを厄介そうに見やっているほかの客の姿。そんな重圧に耐えられるはずもなく、頭をぺこぺこと下げながら、愛想笑いで腰を下ろす。

「なんなんだよ。なんなんだよ。俺を連れてきてどうしようってんだよ」

「わたしが無理やり連れてきたかのような言い方はやめて欲しいですけどね。じきにわかりま……あぁ、来ました」

 店員が珈琲とケーキセットを運んでくる。軍刀が見つかってしまえば言い訳の余地なく大事だと、雨宮は大急ぎでそれをしまうように夢見ヶ島に忠告するも、依然彼女の態度は変わらない。
 まるで「それでいいのだ」と言っているように、目を瞑っている。

 急いで取り上げて隠さなければ。すわ行動に出ようとした雨宮のわきに店員が立つ。

「お待たせいたしました。珈琲とケーキセットでございます」

 そういって紅茶とケーキ、珈琲を置いていく。
 軍刀と重なる形で。


「……なんだ、これ」

 軍刀は決して幻ではない。触れば硬く、冷たい。間違いなく金属のそれであった。
 しかし、同時に、紅茶やケーキ、そして珈琲は、軍刀と重なり合っている。立体映像のなかに物体を突っ込んだときのように、雨宮には思えた。

「見せたほうが早いかと思って。これさえ見せておけば、これからわたしがどれだけ荒唐無稽な話をしたとしても、信じてくれると思ったから」

 そんな夢見ヶ島の言葉も今の雨宮にとっては話半分である。どこかにトリックがあるのではないか、たとえば映像を浮かび上がらせる照射装置のようなものが、どこかに……だが、確かに軍刀は手に取れるのだ。実物と同様に扱えるのだ。ケーキや珈琲も。
 今度こそ雨宮は参ってしまった。精神にリバーブローを打ち込まれてしまって、それが止めをさした。背もたれに体を預けて天井の照明を見やる。

 店内のラジオでは、DJが筋肉少女帯の踊るダメ人間を流していた。まるで今の彼の状況を揶揄しているようだ。


 そして、夢見ヶ島は言ったのである。これから、と。その言葉を信ずるならば、これよりも雨宮の頭を混乱させる話が飛び出してくるのは疑いの余地もない。それがより強く雨宮の心を打ちのめす。
 確かに彼はダメ人間だった。周囲に流され、運命の奔流の中で踊ってしまっている。

「雨宮さん、あなたは選ばれた人なの」

 唐突な夢見ヶ島の言葉。雨宮がその言葉を咀嚼するより早く、彼女は続ける。

「今まで白殺のイマジンブレードを視認できる人間に遭ったことはなかった。雨宮さん、あなたはきっとわたしの同類。72の使途を撃滅する力を持つ、救国の士」

 どうやら「白殺のイマジンブレード」が軍刀の名であることを理解できる程度には、雨宮の思考力は回復している。
 だが、それ以外が全く理解できない。72の使途? 救国の士? あまりにも現実から乖離した言葉のオンパレードだ。彼でなくとも誰だってそうだろう。

 見たところこの夢見ヶ島という少女、高校生くらいの体躯である。単なる遅れてやってきた厨二病なのではないかと、雨宮はここにいたって逆に冷静さを取り戻す。混迷を極めた結果の平静だった。

 単なる子供の与太話。そう考えればこれ以上気が楽なこともない。ようやく人心地つけた気にすらなる。


「この世には人を不幸にする怪物が潜んでいるの。欲望が凝り固まって生まれた、72の使途。世界を次のステージに進めるためには、72の使途を全員倒して、この世から不幸の種を取り除かなくちゃいけない。
 今まで誰も白殺のイマジンブレードを認識できなかった。認識できたのはあなただけ。きっと、あなたも、そう。これは運命なの。わたしと一緒に使途を倒さなければならないという」

 一気にまくし立てる夢見ヶ島。対して雨宮は存外冷静で、いつの間にか態度が逆転していた。
 欲望ならば72ではなく108なのではないだろうか、と夢見ヶ島の話を聞きながら、ぼんやりと雨宮は思う。

「雨宮さんは幸せになりたくないの?」

 幸せ。その単語は危険だ。いまの雨宮にとっては特に。


 その言葉に対して、彼は酷く強く誘因されると同時に、同じくらいの嫌悪も抱いていた。
 愛憎は表裏一体である。手にいられないならばいっそ。その衝動は決して彼が愚かで破壊的な人間であることを意味しない。寧ろ、彼がどこまでも人間らしいことの表れだろう。

「もういいだろ。あんまり妄想に大人をつきあわせるもんじゃない」
 
 このままだとよくないことになるのはわかりきっている。軍刀も上野公園での出来事も、全て夢見ヶ島の芝居と断じて、雨宮は立ち上がった。

「妄想じゃない」

 怒気を孕んだ言葉が飛んでくる。しかし雨宮は思う。72の使途を倒せば世界が幸せに満ちるだなんて、まるでRPGの世界ではないか。

 あの世界はいいものだ。何故なら全てが明確で、理解が容易だから。魔王がいて、仲間がいる。仲間と一緒に魔王を倒せば世界は救われハッピーエンド。
 たまに第三陣営が介入してきたり、国と国の確執などが挿入されたりもするけれど、基本は変わらない。全てが踏襲されている。

「ここはRPGの世界じゃない」

 念を押すように雨宮は言った。

「そんなわかりやすいようにはできてない」


 その言葉を受けて、なぜだか夢見ヶ島は目を見開き、嬉しそうに笑った。いやらしくはない。年齢に見合った、少女然とした快活な、爽やかな笑み。濁った瞳がそのときだけは輝いている。

「そうだよ。でも、雨宮さん。これこそが現実なの。
 事実は小説より奇なりと、そう言うよね。思ったよりは、この世はわかりやすかったってことだよ」

「話にならないな」

「信じてもらえないことはわかってる。わたしだって使命を自覚してからは戸惑ったから。だから軍刀を見せたんです。触ったよね? 本物だったでしょう? カップやお皿がすり抜けたよね? 覚えてないならテーブルを見てください。
 それに、上野公園のできごと、忘れたとは言わせません。使途を雨宮さんが直接目撃していないと言っても、存在自体は感じたんじゃない? 埒外な何かが自分の背後にいると、気づいたんじゃない?」

「……」



 言葉はなかった。夢見ヶ島の話す内容がいくら荒唐無稽だと笑い飛ばせても、流石に目の前に存在している軍刀を見て見ぬ振りするのは無理がある。

「わたしはこの軍刀に『白殺のイマジンブレード』と名づけました。存在が希薄なこの刀で、これまで46体の使途を屠ってきた……これからは、二人で」

「勝手に決めるな」

「わたしがここで退いても、あちらが退いてくれるとは限りませんよ。寧ろ積極的に狙われる可能性だってあります。能力に目覚めて尚無防備なら、絶好の餌だし」

「……あぁ、もう」

 こいつはだめだ。人の話を聞きやしないし、話す内容も創作の世界と融合してしまっている。それだけが苛立ちの全てではなかったが、大半を占めているのは間違いない。だがこのまま立ち去る度胸がないのが雨宮という人間である。
 
 夢見ヶ島はそんな彼の様子を察したのだろうか。さっとペンと紙を取り出し、素早く走らせると、立ち上がって雨宮へと押し付ける。

「わたしのアドレスです。もし何かあれば、連絡してください」

 軍刀を光の粒子のように消失させて、身を翻した――軽く流しそうになる、またしてもの常識外。
 その姿を雨宮は決して追いかけない。彼女のいなくなったあとの椅子と、ついさっきまで軍刀のおいてあったテーブルを視野に納め、全身から力を抜いた。

「なんだってんだ」

 応えはない。東京に彼の知り合いは一人もおらず、神様はこんなダメ人間に耳を傾けてはくれないのである。
 


◇ ◇ ◇

 喫茶店を出ると一気に蒸し暑さが押し寄せてきた。まとわりつくような熱気に汗が吹き出る。どうやら店内に長時間いたことによって、体がだいぶ冷えてしまったらしい。
 うだるような暑さの中を雨宮は無心でただ歩く。歩く。歩く。
 単にのぼせてしまったというわけではなく、意識的に無心になるという矛盾を実践すべく、とにかく雨宮は歩き続ける。

 あんな頭のおかしい話は信じられなかった。一平凡な市民として信じるわけにはi
かなかった。
 確かに雨宮は宿無しの身分である。貯蓄がつい先日十万を切ったばかりの、健康な体が唯一の財産である二十代に過ぎない。かといって徳が高いわけでもなく、寧ろ性悪の部類にすら属されるだろう。
 けれど彼にだって物事の分別は残っていた。信じるべきラインと信じてはいけないラインの見極めを間違え、崖から真っ逆さまに転落するほどの耄碌はしていなかった。それが獣と人間の違いなのだとすら、先日見たレミングの集団自殺にまつわる番組を思い出しながら、雨宮は自らの「まとも」を確かに心中で握り締める。


 一平凡な市民云々はともかくとして、その点においては、確かに雨宮はようやく賢明な判断を成せたというべきであろう。無論彼はこういうだろう。今まで自分は一度たりとも選択を誤ったことなどなかったと。
 果たしてそれが真実かどうかは客観的な判断が俟たれる。けれども、現状を鑑みれば、客観的な判断は鞭を打つことにしかならないのかもしれない。

 苛立ちは募る。誰にだとか、何にだとか、そんなことを気にするつもりは全くなかった。とにかく腹の中にどす黒い何かがたまっていくのを彼は感じていた。
 
 こういうときは自分より立場の低い人間を見て溜飲を下げるのだ。そのためには高架下――いや、河川敷と橋梁の交わる地点を探すのが手っ取り早い。漫画喫茶に泊まる金もなく、若さも体力もない宿無したちの溜り場がそこにはある。
 彼らを見ていると言い知れぬ高揚が雨宮の中で沸き起こるのだ。それは暗渠に滞留するヘドロに似た腐臭を放つ。そして同時に、新雪のような白さも持っている。

 白と黒。あまりにもちぐはぐでアンバランスな、雨宮自身理解できない感覚。
 喪服の少女と軍刀の組み合わせのように。


 極めて白いあの軍刀は、確か名前を「白殺のイマジンブレード」と言ったか。
 まさしく幻想だ。ただしく幻想だ。どこまでも、かぎりなく、妄想の産物だ。雨宮は河川敷に向かいながら笑い飛ばす。何を言っているんだと。頭がおかしいんじゃないかと。
 ならば喫茶店であんなものを見てしまった自分もまた頭がおかしいお仲間なのではないかという不安を蹴り飛ばしながら、歩き続ける。

 視界が翳る。木もビルもない、開かれた河川敷にいたる土手において、それはあまりにも不可解な出来事。

 雨宮の前に影が立っていた。
 背格好は彼とほぼ同じ。姿形も。

 というよりも、雨宮自身の影である。

 おかしな話だ。影は常に、いつだって、どんなときでも、地面にへばりついているものだ。だのに今、雨宮の眼前には、確かに極めて三次元的な黒いヒトガタが屹立している。あぁ、これを影と呼ばずして、一体何を影と呼べばいいだろう。

 そんな詠嘆が彼の頭の中で浮かんで消えた。浮かんだのは偶然だが、消えたのは偶然ではない。その影が、本来あるまじき動きを――即ち、影の主の束縛から離れた動きをしたからに他ならない。

 影が拳を大きく振りかぶる。

 振りかぶった拳をその後どうするかだなんてことは、子供だってわかる。 


 雨宮はぽかんとしていた。子供だってわかることが雨宮にはわからない。ただ、いやな予感はした。それは刹那的なものというよりは、持続的な、そして決定的なものである。
 自らの人生がたったいま狂ってしまった予感が雨宮にはあった。
 いや、もしかしたらそんなもの、初めから狂っているのかもしれなかったけれど。

 果たしてそれも走馬灯と呼ぶのだろうか。雨宮の眼前に豪腕が迫りそして、彼は確かに最愛の女性の姿を脳裏に見る。

「……」

 飛刀が映像ごと腕を切断した。黒い粒子が切断面から溢れ、地面に溶け込むように消えていく。一拍遅れて、落下した影の腕もまた。

「……呼んでねぇぞ」

「そこは『ありがとう』じゃないんですか? 最低限の礼儀だと思うけど」

 まっさらな軍刀――「白殺のイマジンブレード」を握りなおしつつ、夢見ヶ島は真っ直ぐ影を睨んだ。雨宮の方向からは夢見ヶ島の喪服の背中が見えるばかりで、彼女がどのような顔をしているかまではわからない。
 影は気圧されているのか動かない。夢見ヶ島もまた、影の一挙手一投足を見極めようとしているのか、軍刀を中段に構えたままである。


 我慢が利かなくなったのは影であった。弾けるように飛び出し、切断されたはずの腕を再生しながら夢見ヶ島へと飛び掛っていく。
 影の速度は夢見ヶ島にとってはあまりにも鈍い。慌てることなく初撃を捌き、続く連撃も懐に潜り込んで回避する。
 そのまま一閃。喉元から顎にかけてを一気に断ち割り、返す刀で腹を突き刺した。

 影の腹を蹴って刃を引き抜く。その衝撃で影は倒れこみ、粒子を撒き散らしながら、光の中へと消えていった。

 軍刀を器用に取り回して粒子を振り払う夢見ヶ島。ようやく振り返った彼女の表情は至福に彩られている。恍惚と言い換えてもいい。口の端から垂涎すらしていて、末期中毒患者のそれである。
 ぞくり、と雨宮は背筋が凍った。影よりも寧ろ恐ろしいのはこの少女なのではないかと、後悔がやっと追いついて彼の肩を叩く。

「また世界を、一歩幸せにしちゃった……」

 雨宮を見ているのか見ていないのか、夢見ヶ島は振り返りこそしたけれど、言葉を発しない。自己陶酔の中にいまだ浸っている。

「おい……」

「え? あぁ、なんだ、雨宮さんですか。だから言ったのに。でしょう?」


 意識を取り戻した夢見ヶ島は数秒間のことなどすっかり頭から消えているらしく、それ見たことかとここぞとばかりに雨宮を非難してくる。

「あなたはもう既にこちら側の人間なんです。わたしと違って武器も特殊能力にも目覚めていないんですから、外を出歩くときは注意してしすぎることはないんだけどね。

 敵は狡猾。世の中の暗い部分から、日のあたるところをじっと見ているんです。きっとやつらは、明るいところで暮らせるわたしたちが羨ましいんだと思う。だからこそ、隙を見ては世界を不幸に陥れようとしているんです。
 武器を持っていなくとも特殊能力を持っていなくとも、雨宮さん、あなたはわたしの大事な仲間。強情を張っていないで助けを求めてくださいよ。

 72の使途を倒し終えた暁には、世界はきっと幸せになる。そのことを思えば一時の苦労なんて安いものでしょう? どうしようもない、最悪な人生にも、終止符が打てますよ」

「お前が俺の人生の何を知っているんだ」

 数十分前に出会っただけだというのに。苛立ちと共に言葉を吐く雨宮に対し、夢見ヶ島は淀んだ瞳を見開いて、にんまりと笑った。


「わかりますよ。わかるに決まってんじゃないですか。お仲間ですよ、わたしとあなたは。

 使途も見える。白殺のイマジンブレードも見える。なら、それはつまり、そういうことなんです。どうしようもない人生を歩んできたってことなんです。不幸にまみれた黒猫なんだから、わたしたちは」

 それを安易な決めつけだと評するのは簡単だった。無論雨宮だってそう思っている。ただ、言い知れぬ不安があるのは確か。

 幸せだとか、不幸だとか、そんな在り来たりで曖昧な言葉に騙されるつもりはない。それが酷く彼を誘引するからこそ、強く自我を保たねばならないのだと、雨宮は鼓舞した。逆説的には自らを鼓舞しなければ抵抗できないほど幸福に飢えているという証左でもあるが。

「この世には敵がいます。やつらは、わたしたちが羨ましくて仕方がない。この世に普く不幸というものは全部やつらの仕業なんです。だからきっと……いや、違うか。そんな仮定の話ではないんでした。
 だから。だから、あいつらを全員殺せば、幸せな世界が待っています。わたしの不幸も、雨宮さんの不幸も取り除かれ、みんなが幸せになるんです」


「戯言だな」

「そう思われても仕方がないとは思うけど。ただ、雨宮さん。この世は不幸の塊。何をしても不幸。どこへ行っても不幸。そんな理不尽なことってあんまりです。でしょ? 使途は理不尽の権化なんだよ」

「だから倒すと」

「倒すんじゃなくて、殺すんです」

 笑って夢見ヶ島は言った。しかし、その瞳は笑っていない。

「……ま、今日すぐにどうにかしろ、とはもう言いませんよ。身に降りかかる脅威は、でも、自覚して欲しいですけどね。
 わたしにできるのはこれくらいです。ですが、雨宮さん、努々お忘れなきようにお願いしますよ。あなたは今、世界を救える立場にあるのです」

 変わりなく胡散臭いことをひたすらに吐きつくして、夢見ヶ島は風のように去っていった。あとに残された雨宮はひとり、河川敷で呆然と立ちすくむばかり。

 色々と言いたいことはあったがすっかりタイミングを失してしまっていた。ただし、もし仮に言えたとしても、夢見ヶ島と名乗る喪服の少女、あれは雨宮の言葉など聞く耳を持たないだろう。
 はなから自分が正しいと信じている。

 盲信している。

 そうしなければ生きていけないかとでも言うように。

「……」


◇ ◇ ◇

 生きることは難しい。幸福に生きるのはなおさらだ。雨宮は常々そう思っている。

 ここに聖人がいたとしよう。非の打ち所のない傑物である。心優しい博覧強記、貧しい者には施しを与え、社会のために行動を起こす完全無欠の超人。彼を聖人たら占めているのは何なのか。
 どうしようもないことが人生にとってはある。自分の身体的特徴、生まれた家庭、国など、努力ではひっくり返せないものがある。それは聖人にだって不可能なことだ。
 たとえば聖人が奴隷の生まれであったとしたら、果たして幸福に生きられるだろうか。それどころか聖人として生き続けることすら難しいのではないか。

 その「どうしようもなさ」が雨宮を苛んでいた。そして苛まれ続け、いま雨宮は東京に漂着している。
 逃げ出してもしがらみは付きまとう。簡単に投げ捨てられるものでもない。

「……」

「黙り込んで、どうかしましたか?」


 夢見ヶ島の言葉に、雨宮は一瞥をくれるも、ぷいと明後日の方向を向いた。彼女はいつもと変わらない真っ黒なセーラー服を着ていて、腰には軍刀を帯びている。平常運転のコントラスト。
 雨宮は彼女がこの喪服以外を着ているところを見たことがなかった。彼女と一緒に行動をし始めて既に二週間以上が経過しているけれど、常に夢見ヶ島は喪服を着用している。
 理由はわからない。それが好みなのかもしれないし、戦いに赴く際のジンクスなのかもしれない。一張羅なのかもしれないし、闇に紛れる意味があるのかもしれない。

 わからないのは聞けなかったからではなく聞かなかったからだ。二週間の間、二人は特段プライベートの話をしなかった。雨宮は自らの傷を穿り返すような真似などごめんだったし、夢見ヶ島は雨宮のことなど全てお見通しだというかのように無関心を貫いている。
 不幸、幸福、理不尽、愛情……そういった彼の人生にまつわるいくつかの単語が、結局彼に夢見ヶ島との再会を選択させた。それは苦渋の決断であった。諦めようと何度も自分に言い聞かせ、それでも自らを御しきれない本能が、彼に携帯電話のボタンを押させたのだ。

 常々付きまとう「どうしようもなさ」。それをどうにかできる一縷の望みを、この瞳の濁った少女に託そうと、雨宮は縋ったのである。


 そして今、二人は合羽橋商店街の屋根の上にいる。59番目の使途を迎え撃つために。
 風が二人に吹き付ける。遮るものが少ないせいか、随分と風のとおりがいい。髪はかき乱され、スカートがひらめく。

「来た」

 ぼそりと呟く夢見ヶ島。彼女の視線に追随しても、雨宮の瞳はただの宵闇しか捉えられない。が、そこに確かに何かがいるのは感じられる。
 今度の敵は無色透明なのだ。

 離れた位置の屋根がたわんだ。使途が恐らく跳んだのだ、と雨宮でもそこまでは理解できたが、どこにどう向かったのかまでは理解の外である。頭を抱えて周囲を窺うばかり。

 驚くべきは夢見ヶ島である。彼女は空虚に軍刀を振り回し、剣戟が相打つ音を響かせている。無色透明を捉えられているのだ。
 一体どんな眼力があればそんなことが可能になるのかわからなかった。そして、夢見ヶ島自身理屈などわかっていないのだった。全ては感覚だ。感覚に任せて走り、感覚に任せて軍刀を振るっている。

 雨宮はそんな戦う夢見ヶ島をぼんやりと眺めていることしかできない。所謂賑やかし。
 結局彼には戦う武器もなければ最低限の度胸も勇気もなかった。最近買ったママチャリの荷台に夢見ヶ島を乗せ、使途が現れそうな地点まで夜の街をひた走るのが主な仕事である。
 あとはタオルを用意したり、スポーツドリンクを用意したり、運動部のマネージャーのような立ち位置だった。


 なにやっているんだろうなと思わなくもない。確実に変質者である。家は見つかってホームレスを脱出したものの、これではそれ以下の存在に堕しているのではなかろうか。

 だが、夢見ヶ島に連絡をしたのは雨宮からである。完全に一時の気の迷いが成しえた暴挙。引き際がわからなくなってずるずると続いてしまっている。

 ぼんやりと思索に耽っているうちに戦闘は終わっていた。闇夜にすっかり紛れた夢見ヶ島は、珠のような汗を白磁の肌に浮かばせ、濁った瞳を陶酔のかたちに変化させている。
 垂涎こそしていないものの、興奮と虚脱のさなかにあるのは間違いないようだ。

「ほら、タオル」

「……ん……」

 たった一言短い返事。受け取って顔に当て、汗を拭く。気持ちよさそうな声が聞こえる。

「ふう、さっぱりした。飲み物頂戴」

「麦茶とポカリどっちがいい?」

「ポカリ」

「わかった」

 携行した保冷バッグから冷えた清涼飲料水を取り出し放り投げる。それを首筋にあて、再度気持ちよさそうな声を、夢見ヶ島は挙げた。
 残ったお茶を飲みながら、雨宮は戦いの終わったこの瞬間だけが、唯一彼女の年齢相応な表情が見られるのだと気がつく。

「まぁ、どうでもいいことか」


 どうでもいいことであった。だからどうだというのだ。そもそも二人の間に横たわるのは親愛の情ではなく、もっと数奇ななにかである。
 ただしそう思っているのは雨宮だけのようで、夢見ヶ島は彼に対し、一定の人懐っこさを発揮している。それが「仲間」という立場に由来するものなのか、彼女の生来のものなのかは、雨宮にはわかりかねたけれど。

「なんでそんなつまんなさそうな顔してるんです?」

 きもち不機嫌な顔で尋ねてくる。雨宮は僅かに沈黙し、自分の表情を手で確かめた。

「……そんな顔してたか?」

「してた。してました」

「そうか。気づかなかった」

「まだ信じてもらえてないんですね」

 当たらずとも遠からず。雨宮は無言でそれを肯定する。
 夢見ヶ島は大きくため息をついた。彼の強情さに呆れ果てているようだ。

「一緒に行動して二週間、殆ど毎日使途を倒して、それでもですか? 目の前で起こってることを信じられないって、結構ばかみたいですよ?」


「ばかなんだろうさ」

「そうですね。ばかに決まってますね、雨宮さんは」

 多分に含みのある台詞だった。雨宮をばかにしつつも、どこか自嘲気味な笑みを浮かべ、夢見ヶ島は喪服の襟を直す。

「でも、雨宮さん。かのシャーロック・ホームズも言ってます。どんなに有り得ない結論でも、他の全ての可能性を排除した結果それが残ったのなら、それが真実なのだと」

「それ、実際はホームズは言ってないらしいぞ」

「えっ! うそ!」

 嘘だった。そもそも雨宮はホームズを読んだことがなかった。
 ただ言われっぱなしが癪だ。

「まぁ、でも、雨宮さん。この世は理不尽に溢れてます。塗れてます。まともな感性の持ち主じゃ、狂っちゃいますよ。それを何とか正そうとするのは、悪いことじゃあない。でしょう?」

 一旦言葉を断定し、「でしょう?」と尋ねてくるのが彼女の口癖のようだった。

「まともな感性、ね」

「そうです。世のため人のための暗躍なんです、これは」

「俺たちがまともな感性の持ち主だって言うのか、お前は。凄い自信だ」

「自分を信じ、肯定するところから全ては始まるんですよ?」


 どこからその自信が来るのか雨宮にはわからなかった。夢見ヶ島の論理は、彼に言わせればずたぼろだ。
 まともな感性の持ち主が狂うというのなら、狂っていない自分たちはまともな感性の持ち主ではないことになる。逆に、まともな感性の持ち主であるなら、既に自分たちは狂っている。どの道信用できるはずもない。

 だが、どちらか一つに絞らなければいけないと言うのなら、後者なのだと思った。自分たちは狂っている。まともな感性を持っているが故に、鈍感な人間が気づかない些細なことに気づき、それが棘となって心に突き刺さっているのだと。

「まぁ、狂いでもしなきゃこんな真似はしないか」

「あ、また言いましたね。雨宮さんだって同類の癖に」

「ん……まぁな」

「……」

「なんだよ」

「や、そこを認めるとは思ってなくて」

「……そうか」

 確かに意外だな、とまるで他人事のように言う雨宮だった。


「あと少しですよ、雨宮さん!」夢見ヶ島は勢いよく立ち上がって続ける。「あと少しで、使途を全員倒せます! そうしたら、そうしたら、全てがまるっとうまくいくんです! それって凄いことじゃないですか? とっても素晴らしいことだと思いませんか?」

「そうだな。素晴らしいことだ」

 RPGの世界のように、魔王を倒せばそれだけで世界が平和になるのなら、誰だって魔王を探しに行くだろう。
 けれど殆どの人間はそうしない。この世に魔王がいないことを知っているから。簡単に世界が平和になるなどと思っていないから。

 しかし二人は出会ってしまった。敵に。それが分水嶺で、二人の幸福――もしくは不幸なのだろう。

「……帰るか。最寄り駅までは送るぞ」

「そうですね。お願いしますよ」

 夢見ヶ島を荷台に乗せ、浅草駅へと向かった。そこが彼女の最寄り駅である。門限はないのだろうか。終電間際まで出歩いていて、親は心配しないのか。そんなことを思ったこともあるが、恐らくわけありなのだろうと判じ、聞くことの一切をやめていた。
 うきうきしながら地下鉄の階段を下っていく夢見ヶ島。その背中を最後まで見送らず、雨宮は振り返って自転車にまたがる。あまり深入りするのは気が引けた。そのまま引きずり込まれてしまいそうで。

 相反する感情に、いまだに決着をつけられないでいた。諦観と期待。後者に振れてしまえばいっそ楽にもなれるのだろうが、最後の一押しが足りない。
 彼女との温度差はそれが主な原因だ。


 考えすぎると頭がそれこそ狂ってしまいそうになる。意識的に無視しながら、夜風を切り裂いて雨宮は、つい先日入居したばかりの安アパートへ辿り着いた。
 明日、明後日とアルバイトの面接が入っている。とりあえずの金銭を稼ぎながら、ゆくゆくは正社員の道を見つけなければいけない。だらだら生活できるだけの余裕もないのだ。

 扉を開けると電気がついていた。

「……」

 踵を返す。

 雨宮の背中へ懐かしい声がかけられるが、そんなものは当然無視して、過呼吸ぎみになりながらも雨宮は走った。否、逃げ出したという表現のほうが、この場合は正しい。

「なんで、なんでっ!」

 なんであいつらがいるんだ。近所の迷惑も考えず、時折つんのめりながら叫ぶ。
 
 部屋の中にいた二人。
 雨宮の母親と婚約者であった。


◇ ◇ ◇
 
 雨宮には嘗て将来を誓い合った相手がいた。婚約をし、挨拶を済ませ、結納の日にちが近づく中で、まさに幸せの絶頂を謳歌する恋人を見ながら、彼は愕然としていた。
 恋人に対してではない。幸せな彼女と対照的に、どんどん気持ちが沈んでいく自らにである。

 それが所謂マリッジブルーなどとは異なっていることを雨宮はわかっていた。沈鬱の原因は限りなく曖昧で、手で触れることなど到底できそうにない。
 ただ、遠い昔に離婚した両親の姿が、脳裏に浮かんで弾けて消えた。

 その日の夜には、雨宮は夜行バスに飛び乗っていた。


 アルバイトの面接は散々だった。というよりも、あまりにも挙動不審が過ぎて、面接官から心配されるレベルだった。あれは落ちたな。でもしょうがないか。俺だって落とす。そんな開き直りすら浮かんでくる程度には、自らが滑稽すぎた。

 既に終えた面接と、明日の面接に望みを託そう。そう思う傍らで、果たして自分がいつまで東京にいられるのか、はっきりとしたことはわからない。自分のことだというのに。
 もしかしたら明日にでも地元へ連れ戻されるのかもしれない。あの二人は雨宮の家を知っていた。住民票を移したから、そこからばれたのだ。迂闊だった。そこまで本気で自分のことを捜索するはずがないと高を括っていたのがまずかった。

 また漫画喫茶暮らしに逆戻りである。昨日は運の悪いことに座敷席が全て埋まっていて、リクライニングチェアで眠ったせいか、いまだ体の各所が本調子ではない。
 そして、そんなときでも夢見ヶ島からの連絡は来ている。朝の七時半に、今日の夜の行動予定が送られてきているのだ。

 今日の使途出現予定場所は神田―秋葉原方面だった。どうして使途が出る場所がわかるのか、と以前に聞いたことがある。
 返ってきた答えは「なんとなく」というあやふやなものだったが、そもそも夢見ヶ島の身体能力や軍刀の顕現自体があやふやな夢物語。そういうものなのだろうと納得するしかなかった。


 さてどうしよう。家には帰れない。近づきたくもない。といって他に予定があるわけでもない。結果的にどこかをぶらぶらするしかないのだが、土地勘がまだ十分ではない雨宮にとって、銀ブラすら難しい。

「そもそも銀座は洒落てるしな……」

 行けば劣等感に押しつぶされること受けあいだ。平日の昼間に優雅なランチを摂っている有閑マダムの巣窟に、どうして雨宮が行けようか。

 やはり雑多なところがよかった。人ごみに紛れて消えてなくなれる場所。たとえば、上野。たとえば、秋葉原。御徒町も浅草も悪くない。渋谷も嫌いではないが、スマートに過ぎる。
 もっと遠出すればいくらでもあるのだろうが、上野駅周辺及び銀座線沿線上しか知らない雨宮にとって、そこから外れるのは未踏の地へ踏み入れるようなもの。今の彼にそんな精神的余力は残されていない。

 となればもう足の向くままに歩くしかないのだった。思考に濃霧がかかったようにぼんやりと、雨宮は重たい体をなんとか進めていく。

 それは結果的には悪手だった。べき論ではあるが、雨宮はとっとと眠るべきだったのだ。思考を働かせるべきではなかったのだ。
 死にたくなるような絶望感が鎌首をもたげ、今にも彼の首筋にまきつこうとしている。それは彼が逃げ続けてきたもので、同時に立ち向かい続けようとしてきたもので、そしてうまくいき続けなかったものだ。


 彼は恐ろしかった。自分の中に流れている血が。生まれが。自分ではどうしようもならないものに、自分の将来が左右されるのではないことを、常に恐れ続けていた。

 確かに婚約者のことは愛していた。それに疑いの余地はない。幸せにしてあげたかったし、今でも彼女の幸せを切に願っている。今だってそうなのである。

 しかし雨宮は自分にはそれができないことを理解していた。

 彼の父親は碌な人間ではなかった。リストラに会い、再就職がうまくいかないと酒に逃げた。暴力も振るった。まるでテンプレートのようなダメな父親だった。
 母親は父親を愛していたから、故にその変貌には酷く傷つき、同時に泥沼のような状態に陥った。結局周囲のサポートもあって離婚に踏み切ることができたが、今でも父親のことを思い出しては泣く。

 彼は暴力を振るう父親のことが嫌いだった。そんな父親を嫌いになれない母親も嫌いだった。
 何より、そんな二人の血を引いている自分が、どうしようもなく嫌いだった。


 それでも俺は怖いんだ!

 周囲の人間が自分を見ていることに気がついて、雨宮は初めて自分が大声で叫んでいたことを知る。恥ずかしさというよりも心苦しさからその場をあとにし、まともに働かない頭と足を無理やり動かして、とにかく移動を続けた。

 辿り着いたのはラブホテル街だった。平日の昼間のこのあたりは人が少ない。いたとしても、誰しもが後ろ暗いところを持っているのか、こそこそと人目を気にしている。
 やっと落ち着けると雨宮はラブホテルの外壁へ背中を預けた。いやな汗がじっとりと、背中と言わず顔と言わず滲んでいる。太陽は痛いくらいに肌を焼くが、この汗は決してそんな健康的なものではないだろう。

「……」

 胃が引き攣る。

 苦痛に耐える中であげた瞳が捉えたのは、中年男性と手を繋ぎながらラブホテルへ入っていく夢見ヶ島の姿だった。

 先に気がついたのは雨宮だが、真昼のホテル街、男が一人で呆然としているのは嫌でも目に付く。当然追って夢見ヶ島も彼のそんな姿を捉えた。

 表情の変化は少ないながらも、確かに夢見ヶ島は「あぁ、ばれてしまったのか」という顔をする。それでも彼女は、寧ろ口元に笑みを浮かべるくらいにして、中年男性と談笑をしながらホテルへと吸い込まれていくのだ。

 雨宮はそんな彼女の後姿をただ眺めていることしかできない。

 助けてあげたいだなんてことも到底思えるはずがなく。

 雨宮は急ぎ足でその場をあとにした。
 


◇ ◇ ◇

 わからないことだらけだった。わかることなど何一つなかった。自分が「雨宮」という人間であるかどうかすらあやふやである。自分の顔を触って鏡を見たとて、自己同一性を獲得するのは難しいように思われた。
 もしかしたら本当は自分はまだ函館にいて、恋人と仲睦まじく生活しているのかもしれなかった。それどころか既に夫婦になっているのかもしれなかった。

 もしそうだったらどんなにかよかっただろう。雨宮は夢想が深まるに連れてより大量に頬を熱いものが流れていく感覚に囚われる。その熱いものの正体だってわからない。わかるものか。わかるわけにはいかないのだ。

 何よりわからないのは、ひっきりなしに夢見ヶ島から着信が続いていることだった。


 理由はわかる。何故なら雨宮は予定の集合時間を過ぎてなお漫画喫茶にいるからだ。持ち込んだはいいが一家団欒夫婦善哉が辛すぎて読めなかった『クッキングパパ』を机の端に積み上げ、無為に時間を浪費している最中だからだ。
 恐らく怒りの電話だろう。催促の電話だろう。早く神田―秋葉原間にやってこいというのだろう。そんなのわかっている。出るまでもない。だから出ない。
 なんてスマートな回答だろう。混乱を笑い飛ばそうとしても叶わないのが空しかった。

 そこまでわかっていても、夢見ヶ島が自分に電話をかけてこられるその神経がわからない。

 だって出会ったのだ。見てしまったのだ。あれを。もしかすれば彼女の父親より年上かもしれない男性と白昼堂々ラブホテルに入っていく姿を。
 その上でどうして電話ができるのだ。気まずいだろう。怯えるだろう。恐れるだろう。それが普通じゃないのか、どうして、と雨宮は自問自答を続ける。答えなんて数時間出ていないと言うのに、それでも。


 最早ノイローゼといっても過言ではないのかもしれない。雨宮はついに、まるで幽鬼のような足取りで、漫画喫茶を後にする。

 『クッキングパパ』には触ることすらできなかった。

 そのまま自転車へと飛び乗る。わけがわからないまま、混乱と焦燥でぐつぐつ煮立った脳みそを頭にくっつけたまま。

「なんだよこれ、なんだよこれ! なんでだよ俺!」

「おかしいだろ。おかしいって。絶対。おかしい。変だ。それなのに!」

 雨宮は立ち漕ぎしていた。足の回転が止まらない。頭は行きたくないと声をそろえて大合唱しているのに、体はそんなことお構いなしだ。自転車と一体化し、ただ雨宮を目的地に届ける機械となってしまっている。
 時刻は夜の八時を過ぎたところ。東京の夜は長い。雨宮の地元とは違って、人はたくさんいた。
 既に待ち合わせの時間は過ぎている。三十五分オーバー。

 どこだ。どこにいる。やっとのことで待ち合わせの場所についた雨宮はあたりを見回した。けれど会社帰りのサラリーマン、OLがいるばかりで、あの喪服の少女を見つけることはできない。
 そもそもあの格好は闇夜に完全に溶け込んでしまう。明かりが多いとはいえ、探すなんて一苦労どころか二苦労、三苦労。


「どこだ、どこにいる! 夢見ヶ島!」

 あらん限りの声で叫んだ。周囲の人間が雨宮を見て怪訝そうな顔をする。
 が、気にしたものか。

 着信にも出ない。数秒おきにかけても鳴動はするが、決して夢見ヶ島の声が聞こえてくることはなかった。
 焦る。落ち着けよ、なにしてんだよ、ともう一人の自分が傍らで

「なにやってんですか?」

 肩をぽんと叩いたのは夢見ヶ島その人だった。相変わらず喪服を身に着け、腰には二人にしか見えない軍刀――白殺のイマジンブレードを帯びている。

「おま、お、お前な! 電話に出ろよ!」

 驚きで腰が抜けそうになった雨宮は、自分のことなど棚に上げ、電話に出ろなどという。厚顔無恥も甚だしいふるまいだった。
 対する夢見ヶ島は薄く笑うだけである。

「遅いですよ。もう倒しちゃいましたから」

「た、倒した? 倒したのか? そうか……」

 よかった、などとは続かない。第一思ってもいない。
 雨宮がここまでやってきた理由がそもそも彼には不明なのだから、彼女の無事とかそういうことはどうでもいいことである。夢見ヶ島はその事実こそ知らないまでも、彼が自分を心配なぞするまいとは思っていた。


「とりあえず飲み物買ってくれません? のど渇いちゃって」

「え?」

 促されるままにコンビニへと入る夢見ヶ島。彼女は一目散に正面の冷蔵ケース、その中の缶チューハイを二本取り出して雨宮へと預ける。

「これお願いします。雨宮さんもなんか買っていいですよ」

 支払うのは雨宮である。なのでその発言には大きな誤謬がある。雨宮もそれに気づいてはいたが、アルコールを持ち出した彼女に何か言うべきか迷っている間に、そのどちらも指摘する機会を失ってしまったのであった。
 結局雨宮は発泡酒を同じく二本買った。ビールを買う金すらないのは、実に情けないことだ。それでも彼は精一杯に虚勢を張り、薀蓄の一つでも嘯いてみようと思うのだが、既に夢見ヶ島はプルタブをあけている。

 気の抜ける音と共に、雨宮の気も殺がれてしまった。

 がっくりと肩を落としながら、それでも不思議と前向きな気持ちが生まれてきた。いや、それはきっと前向きなのは見せ掛けだけで、本当は後ろ向きの顔をしている。
 どうなってもいいや、なるようになれ、南無三――そういった類の投げやりな覚悟。彼は理解して尚、落下する自分の身を守ろうとは思わなかった。どうせ全ては神のみぞ知るのである。
 そう思えば、目の前の発泡酒は、久しぶりの酒だった。


 プルタブをあけて一気に喉へと流し込む。
 まだ十分に冷たい炭酸が全身を刺激した。そのまま二回、三回と喉を鳴らし、満足げな顔をして口を拭う。

「ぷはぁ!」

「いい飲みっぷりですね」

 染み渡るようだった。酒は百薬の長とはよくいったものである。

「雨宮さん。ここ、ここ」

 広場の中央に腰掛けられそうな大理石の段差があった。植栽が中央には植えられている。道路を挟んで向かい側には交番があったが、夢見ヶ島は一顧だにする様子がない。

「そういうのは堂々としてればばれないもんですよ」

 けらけらと夢見ヶ島は言う。頬がほんのりと赤い。

「そういうもんかね」

 隣に雨宮も腰を降ろした。まだ数口しか飲んでいないが、久しぶりのアルコールに体が悦んでいるようで、多少気が大きくなっているのはわかった。
 再度発泡酒へ口をつける。

 そう、雨宮は愚かな男だった。多少気が大きくなって、付随する全能感に支配されていた。全てを楽観視していた。自分が今まで悩まされてきたことを、流れに飲まれて、酒に飲まれて、忘却していた。

 だから、チューハイの缶に力を篭めた、夢見ヶ島の次の言葉を予想できない。


「あれやりたくてやってるわけじゃないんですよ」

「……え?」

 なにを、と尋ねなかったのは、僅かに残された雨宮の理性が制動をかけた結果であろう。

「うち、借金があるらしくて。なんか、よくわかんないけど、総額四百万? くらい? 困っちゃうよ」

「……なんで、そんな、急に」

 言葉が震えてしまう。気まずくないのか。「ああいう」のは、もっとこそこそと、影で隠れてやる、後ろめたいことじゃあないのか。
 そう問い質したかった。窘めたかった。大人になりきれてない雨宮でも、少なくとも夢見ヶ島よりはいくらか長生きしているから、そうするのがせめて普通のことなのだと教えてやりたかった。
 それなのに口は次の言葉を紡いではくれない。

「変なこと言いますね。訊きたかったんでしょ?」

 あぁそうだ。肯定するのはあまりにも容易い。だけれど、同時に雨宮は、そんなこと聞きたくもなかった。


 手に力をこめながらも夢見ヶ島の声音はあくまで気楽だ。空を見上げ、まるで歌詞を諳んじるように、すらすらと喋っていく。

「援助交際自体は中学くらいからやってるけど、あれってあんまり儲からないんです。大体するようなやつってのは、やっぱり屑ばっかりで、客層は最悪だから。暴力なり何なりでいくらでも脅し効くと思うやつは結構いるわけ。

 普通は後ろ盾がいるのかな? わかんないけど。一応こんなでも女だし、顔は商品だしで、殴られるくらいならタダでさせたほうがいいってことになっちゃう。

 でも、親にそんなこと言えないし。でしょう? あんまり効率よくないってことがばれたら、それこそAVですよ、いやマジで」

 そこで雨宮はようやく、彼女の援助交際が、彼女自身の意志に基づくものでないことを知った。
 いや、それとも、翻って彼女自身の意志なのだろうか。いくら親が屑だったとて、はいそうですかと縁など切れるものではない。

 割り切れるものでもない。

 雨宮の手の中で、缶がぱき、と音を立てる。


 滔々と話す夢見ヶ島の口調は変わらない。J-POPのようだと雨宮は思った。見たことも感じたこともないはずの愛や夢や希望や、もしくは外国の戦争を歌う調子で、とにかく現実味を帯びていない。
 しかし何よりもその点が異常なのである。それは彼女にとっての現実であるはずなのに。

「借金は、その、やくざとかか」

 やっと出た声がそんな的外れな質問だったので、雨宮は己の愚かしさを呪った。けれどどうやら夢見ヶ島にはツボに嵌ったようで、一拍きょとんとした顔をしてから、急に笑いをかみ殺しだす。

「うっくくく、うしし、くく……雨宮さん、それはあれだよ、テレビの見すぎってやつだよ。
 両親が借りたのは普通の消費者金融。そんな、やくざとか、トイチとか、普通はある話じゃない。でしょう?」

「じゃ、じゃあ、お前がそんなのしなくったって、真面目に働いて返せるんじゃないのか? そりゃ四百万は多いし、利息も膨らんでるだろうけど、それでも」

「いやいや、いーやいやいや」

 チューハイの一本目を空にしながら手を振る夢見ヶ島。

「真面目な大人は借金しないんだって」

 当然な話だった。そして、やはりどこか他人事のように彼女は言うのだった。


 計画的に利用できる人間は消費者金融を利用しない。真面目な人間は、消費を計画的に行う。ギャンブルで破滅するのは異常者だけ。
 前提から食い違っているのだ。雨宮は所謂「普通」をものさしにしているが、残念ながら、夢見ヶ島を取り巻く状況は概して「普通以下」に分類される。

「本当に屑だね。ゴミ屑だよ。いや、それよりもっと下かもしんない。ね、雨宮さん、そう思わない? 思いますよね? 思ってる。でしょう?」

 夢見ヶ島はそうして立ち上がった。その場でくるくると回転し、酔いのせいかふらふらと足取りはおぼつかなく、それでも何が楽しいのかにやにやと笑っている。
 そして彼女は歌う。

 否、謳うのだ。

「あぁ、辛い、辛い、辛いなぁ、辛いよ。本当この世はどこまでも辛いことばっかり。幸せなんかありゃしない。なんでだろう。なんで辛いも幸せも、漢字はこんなに似てるのに、意味は反対なんだろう?

 努力なんて無駄。愛も、夢も、希望も、全部幻なんだ。信じたら裏切られる。だけど怒ったって仕方がない。だってどうしようもないことなんだもん。でしょう?」


 確かにどうしようもないことなのかもしれない。

 雨宮にとっても、夢見ヶ島にとっても、人生に深く打ち付けられている一本の楔は、けれど彼らにとってはどうしようもないことである。手が出せない。いや、人生が始まった時点でそれは深く埋め込まれていて、いまさらどうこうできる位置にはないのだ。
 だけれどわかる。その楔が、自分の人生に幅を利かせていることを。

「雨宮さん! でもわたしは幸せですよ! だって、知ったから! 知れたから! この世には使途がいるって、わかったから!
 あいつらを全員殺せば、世界は幸せになるんです! 全部あいつらのせいなんです! お父さんもお母さんも真面目になって、きちんと働いてくれて、わたしを殴ったりもしなくなるんです! そして、わたしだって、あんなことをしなくてもいい!

 わたしだけじゃありません! みんなが幸せになります! 仲の悪い夫婦は元通りになって、お金のない浮浪者は職を手に入れ、この世から戦争と言う戦争が消えて――それって凄いですよね! 凄いことですよね!」

 周囲の人が二人を見ていた。通路を挟んだ先の警察官も、重たい腰を上げつつある。


 そこで雨宮は「そんなことは有り得ない」と言ってやるべきだった。そしてすぐにその場を離れるべきだった。それが恐らく、世間一般で言われる「大人の対応」というものなのだろう。
 無論彼だってわかっている。そうすべきことを。それが一番正しいのだということを。

 だが、これまでの人生でひたすら「そうすべき」「そうであるべき」事柄に裏切られ続けてきた雨宮にとって、ここでそれらに頭を下げるのは癪だった。というよりも、納得がいかなかった。
 夫婦は仲良く、誰かに暴力を振るってはいけない。愛は摩滅せず、家庭円満、みんなが幸せ。それは果たして理想だろうか。それとも現実だろうか。
 どうして世の中には、こんなにも沢山の愛や夢や希望が溢れているのだろうか。

 きっと、愛や夢や希望がなかったはずの地獄を、そういった美辞麗句でデコレーションしたのがこの世界なのだ。その実行犯は、夢見ヶ島に言わせれば使途なのだろう。
 だからこの世の本質は地獄。願ったものは、手を伸ばしたものは、愛や夢や希望は、全てするりと手を離れていく。

 雨宮は当然それが間違っていることを知っている。世界がおかしいのではない、自分たちがおかしいのだ。腹立たしいことこの上ないが、そうなのだ。

 だってほかのみんなは真っ当に生きていけているのだから!



 どうしようもない屑に生まれついてしまったことが、唯一無二の間違いだった。そしてこれまでもこれからも、その間違いが尾を引いていく。


 あぁ、そのはずなのに、どうして。


 夢見ヶ島を信じたいと思うのだろう。


 体が捻転する。
 胃がひっくり返る。
 吐き出してしまいそうになるのは弱音。誰かに対して、「助けてくれ」だとか、そんな月並みな言葉はいくつも自ら飲み込んできた。それらがいまさら、自分の皮膚の内側を叩いてくるのだ。

 ぐ、ぐ、ぐ。体内でそんな音がするのを雨宮は感じていた。

「夢見ヶ島」

 泣いてなぞいない。それくらいの自覚は彼にとてあった。しかし、あぁ、どうしてだろう。
 こんなにも目頭が熱いのだ!

「なんですか、雨宮さん」

「それでも俺たちは、強く、生きなきゃ、だめなんだ」

 一言一言区切って、別の言葉が、甘露に惑わされた言葉が出てくるのを防ぎながら、雨宮は必死にその先を紡ぐ。

「どうしようもないことは、どうしようもないことなんだ、夢見ヶ島。だから、俺たちができるのは、きっと、たぶん、そういうことじゃなくて、そういう、ことじゃあなくって……!」

 泣いてなぞいない。そんなのは嘘っぱちに決まっていた。

 涙が溢れて止まらなかった。この先を続けることは、自らの人生を切り捨てることに他ならないのだから。

「強く生きること、だけなんだよ、夢見ヶ島ァッ!」


 顔中をぐしゃぐしゃにしている雨宮とは対照的に、夢見ヶ島はぽかんとした顔をしていた。こいつは何を言っているんだろう、と首をかしげてさえもいた。

「それはつまり、こういうことでしょう?」

 くく、と笑って。

「我慢して生きる。
 不幸を甘受して生きる。
 
 違いますか、雨宮さん」

 どんな理不尽な目にあったとしても。
 どんな辛く不幸な出来事がやってきたとしても。

 それを耐え抜けるほど、強く。

 雨宮が言っているのはそういうことだ。

 同時に、今、彼らの人生を大きく苦しめている楔が、一生抜けないことを前提とした話でもある。

 どうしようもないことはどうしようもない。

 諦めである。誰が見ても、立ちふさがる現実から回れ右をしている。
 ただ、敗走と見るか、戦略的撤退と見るかは、果たして――

「それは負け犬の理論です。

 わたしは幸せになりたいだけなんです。

 わたしたちの目の前には! いま! 使途がいるんです!」


 いた。
 確かに、使途がいた。

 今度の使途は紫色の巨犬。体長は五メートルといったところだろうか。三つの首を持ち、酸の涎を垂らすその姿は、ケルベロスに酷似している。

「あっはぁ……!」

 艶かしさすら感じる声を上げ、夢見ヶ島は白殺のイマジンブレードを引き抜く。どこまでも白い軍刀は、暗闇の中であっても極めて白い。
 夢見ヶ島を尻目に、雨宮は居た堪れなくなって、その場からそっと立ち去った。


◇ ◇ ◇

 それから雨宮は夢見ヶ島と出会うことはなかった。

 毎日メールが来る。内容は決まって、当日の使途の出る地点と時間帯が記載されているものである。
 夢見ヶ島も雨宮がやってくるわけがないとわかっているのか、一回送ってそれっきり。返事が来ないことを追求したりもしない。こないのですか、と確認することもしない。
 雨宮にとっては無視すればいいだけだ。もっと言えば、携帯の電源を切ってしまえばいいだけの話でもある。

 それだのに、彼にとってそれは苦行でしかなかった。
 意識的な無視は何よりも精神に来る。もともと彼の心は、自覚的な悪に耐えられるほど太くはできていなかった。

 55、60、65と使途は次々倒されていく。それの報告をただ見るだけの雨宮は、まるで戦場の様子を数字でしか知らない大本営のようでもあった。
 そうしてついに70番目の使途も倒される。嘗て夢見ヶ島は雨宮に対して言った。使途の数、72。それが事実だとすれば、最後の一体までもう少し。大台も大台。


 もし仮に全員倒せたとしたらどうなるのだろうか。日がな一日雨宮はそのことばかりを考えてしまっていた。バイト先の店長にも心配される始末で、新人の彼はそのたび頭を下げ、申し訳ない気持ちになる。
 いや違った。考えていたのではない。それは占拠だ。
 夢見ヶ島乙女という、この世の暗渠に住まう少女が、彼の脳裏の一部を不法占拠しているのである。

 そして、まるで当然のように、あくまで当たり前のように、今日も今日とてメールは届く。

「……」

 家を飛び出した。
 飛び出して、しまった。

 あぁくそ、くそ、くそったれめ!
 なにやってんだ俺!

 叫んでしまったのか、それとも心中だけだったのか、曖昧なままに悪態を吐き捨てる。

 息が荒い。鼓動が早い。
 自転車にまたがって鍵がかかったままだったことに気づいてポケットから出した鍵はうまいことあわなくてなんとか走り出してもその瞬間にペダルを踏み外して盛大に横転。
 涙が滲む。痛みのせいだ。痛みのせいに違いない。

 そうだ。俺は俺のために涙を流すつもりはない。そんな自己憐憫はごめんだった。
 そして、俺は夢見ヶ島のために涙を流すつもりもまたない。同情する義理がどこにある。

 そんな精一杯の強がりを雨宮は飲み込んで、ぐ、とまたペダルを踏みつけた。


 喪服の少女の濁った瞳を思い出す。

 北国においてきた恋人の手料理を思い出す。
 
 自分と母親を殴っていた父親のことを思い出す。

 そんな父親をどうやっても嫌いきれなかった母親のことを思い出す。

「俺は自分の本質を知ってる。俺は屑だ。どうしようもないゴミ屑だ。
 誰かの幸福を喜べない。その先に待ち構えている破滅が怖い。誰かを本気で愛せないくせに、誰かから本気で愛してもらいたがる。そしてその愛が本当がどうかを確かめるために、酷いことを平気でやれる。
 一緒に不幸になることはできる。けど、一緒に幸せになることはできない。だってそうだろう? この世は理不尽で、信じていたものにはあっさりと裏切られて、確かなはずのものが簡単に瓦解する。そうじゃないのか?

 愛が絶対だなんて嘘だ。だったら、どうしてみんな離婚するんだ? 俺は愛なんて信じられない。それでなくとも、俺にはあのクソ親父の血が流れてる。母さんに暴力を振るい続けたあいつの血が。どうして俺が、いつかそうならないなんて思える?
 わからない。俺は確かにゴミ屑だ。ゴミ屑みたいな人生を送ってきた。じゃあそれは俺が悪いのか? 家庭環境も、この性格も、全部俺のせいなのか? 本当に? だとしたら、俺はどうすればいい? どうしたら幸せになれる?

 誰か、教えてくれよ」


 誰かのせいにしたいのではない。自分のせいでも構わない。
 ただ、仮にうまくいかないのが全て自分のせいだとして、それを自分でどうにかできないのなら、きっとこの世は地獄なのだ。

 夢見ヶ島が雨宮に齎したのは一滴の甘露である。使途という敵。この世の不幸の源泉。
 うまくいかないのはやつらのせい。

 たといそれが妄想の産物だったとしても、縋るには十分だった。外部に敵を作り出し、自らの責任から逃げ出すのが悪いのだ……識者はそう言うだろう。そういう分からず屋どもに、雨宮は逆に問いたかった。責任とは何か。自分はこの世に生れ落ちるべきではそもそもなかったのか。
 この世に普く不条理たち。それを「はいそうですか」と単純に受け入れられるはずがない。だってこんなにも生きるのが辛いのだ。愛や信頼や友情が信じられなくて辛いのだ。何より、そういった美しいはずの絆を、自ら打ち壊すかもしれない自分の身の上が何より恐ろしいのだ。

 だからこそ、雨宮は自転車をこがなければいけない。夢見ヶ島は戦っている。現実から目を背けるために戦っている。自分の不幸の原因と盲信できる妄想と戦っている。
 そこに横たわるのは誓っても愛や信頼や友情ではない。希望のために、もしくは絶望のために、雨宮は急ぐ。不条理は根絶されねばならない。彼はそう信じていた。何より自分のために。


 幸せになりたいんです、と嘗て夢見ヶ島は言った。

 喪服の少女は、きっと、恐らく、誰も知らないところで泣いているのだ。濁った瞳を輝かせながら、途轍もなく巨大な存在に立ち向かっているのだ。

 最後の使途を倒した暁には、自身を取り巻く理不尽な不幸が、跡形もなく消え去っていると本気で思っている。
 そんなものはない。そんなはずはない。雨宮は思った。だけれど、彼にはわかる。それしか手段は残されていない。

 いや、最初から手段なんてなかったのかもしれないけれど。

「夢見ヶ島! 知ってるか! この世はクソじゃない! 決して、絶対に、クソじゃないんだ!」

 決してクソみたいなことしか起こらなくとも、この世はそれでも、真っ当だ。「至極」とつけてもよい。

 一体誰に叫んでいるのだろう。彼女はここにはいない。いないが、だからこそ、遠くにいる彼女にすら届けよ声よと雨宮は声を張り上げた。

「悪いのは世界じゃない! 世の中じゃない!」

 雨宮は決して持論を曲げるつもりはなかった。

「俺たちだ!」

 そういうふうに生まれついてしまったことが、唯一にして無二の原因なのだ。
 そして、それでも。

 それでも生きていかざるを得ない。


 『18時30分。わたしの家。これが最後』
 夢見ヶ島からのメールの文面は簡素で、あっけなくて、とても最後の戦いとは信じられなかった。

 向かう先は彼女の家。夢見ヶ島が生まれ育った場所。地獄の源。不幸の爆心地。
 あそこには彼女の「なぜ」「どうして」が染み付いている。言うなれば理不尽の極北であり、そういった意味ではお誂え向きなのかもしれない。

「最後の敵。こいつを倒せば世界が変わる。どうしようもないことが、どうにかできる」

 思わず泣きそうになるのを堪えて、雨宮は必死にペダルを回した。赤信号を全て無視する。クラクションなど知ったことではない。曲がり角で自転車と激突するが、すぐさま体勢を立て直してサドルにまたがる。

「最後の敵? 最後の敵だって!? ばか言ってんじゃねぇ! 71番目はどうしたよ!」

 わかっているのに雨宮は問わずにはいられなかった。
 最後の敵。71番目は飛ばされたのか。夢見ヶ島の家。理不尽の集積地。
 あそこには彼女の両親がいる。

 導き出せる結論はたった一つしかない。

 ご丁寧に、いつもどおりの地図つきだったので、存外迷わずに来ることができた。初めてみた夢見ヶ島の家はごく普通の二階建てアパートで、閑静な住宅街の中に佇んでいる。

 104号室。自転車を殆ど投げ捨てて、雨宮は扉を開いた。


「――っ」

 驚きはしないまでも、息を呑みはした。想像だけでは限界がある。
 突きつけられた厳然たる現実は、やはり、それなりの重さを孕んでいるから。

「……遅い、ですねぇ。もう倒しちゃいましたよ」

 血にまみれた夢見ヶ島は、恍惚とした表情でそう言った。

 傍らには、恐らく彼女の両親なのだろう、男女が切り捨てられて血の海へと沈んでいる。

 間に合わなかった、と雨宮は思った。
 それは決して殺人を止められなかったからというわけではなくて、もっと、もっと、重大なこと。
 彼らにとっては、重大なこと。

「世界は、変わりましたか?」

「……」

 答えなど持っていなかった。答える術もなかった。
 一体誰がそれに答えられるだろうか。

 あぁ、だがしかし、雨宮は夢見ヶ島よりは大人で。
 既に全てを諦められているから。

 自らの心の臓を、自らのピストルで撃ち抜く覚悟なんて、とっくにできていたのだ。
 できていて、しまったのだ。


「変わらない。変わらないんだ、夢見ヶ島。使途なんていない」

「まぁだそんなこと言ってるんですか、雨宮さん。本当に愚かです。でしょう?」

 あくまでも夢見がちに夢見ヶ島は語る。騙る。滔々と。
 いかにこの世が最悪で、その原因が使途にあり、自分がこれまでどうしてきたか、そしてこれからの世界の行く末が幸福になるのだと、脈絡があるようでないような、薔薇色の妄想を。

「使途は倒しました。だから、全部終わりなんです。全部。全部、全部、全部です。世界は幸せになりました。塗り替えられました。でしょう?」

「……」

「でしょう?」

 度重なる追求の言葉にも、やはり、雨宮はどうしたって首を下には振れないのだった。

「でしょう?」

「……夢見ヶ島」

「おっと、もう何も言わなくたっていいんですよ、雨宮さん。どっきりなんだ。わたしを驚かすつもりですね。もう、趣味が悪いなぁ。タイミングってものがあるじゃないですか。でしょう?」

「……」


「じゃあなんですか? 雨宮さんはこの世がまだ地獄だと、報われないのだと、ハッピーエンドなんてどこにもありゃしないんだと、そう仰るつもりですか? そうやって現実を見ながら生きていくつもりですか?」

「……」

「幸せになりたかっただけなのに」

 それすらも得られない。

 生まれも育ちも劣悪で。
 永遠に幸せが続かないことを知っているから。

 ここでようやく夢見ヶ島は雨宮と正対した。

 血の滴るイマジンブレードは、やはりどこまでも白く。
 それを握る彼女の右手は、既に異形のものへと変化していて。

「……は?」

 ここで。
 ここにおいて。

 はじめて雨宮は、自らの思い違いを理解する。

 両親だから、71番目と72番目で、だから最後だとか、そんなんじゃあぜんぜんなくって。


 白殺のイマジンブレード。

 白殺。

 自殺。

 72番目の使途。

 夢見ヶ島乙女。


 体が動いたのは奇跡だった。
 自分の命のために動くのではなく、他人の命のために動くのだから、それを奇跡と呼ばずしてなんと呼ぼうか。
 少なくとも雨宮は、このタイミングで奇跡が訪れた自らの運のよさを、誇ってもいいのだと考える。

 小指と薬指が刎ねられてしまったとしても。

 今まさに喉元を突こうとしている刃を止めるには他に方法はなかった。握った刃を伝って、ぽたり、ぽたり、血液が夢見ヶ島の異形の腕を濡らしていく。

「……なにすんですか?」

 まったく納得のいっていない顔だった。怒りはなく、ただ驚きだけ。
 なぜあなたが邪魔するのかと、志は違えど辛酸を、苦渋を、味わい続けてきた身じゃないですかと、そこから逃げることがどうして悪いんですかと、人生を諦めたくせにどうしてと、その瞳は告げている。

「……」

 何を言っても空虚だった。なぜなら、夢見ヶ島の選択が正しいことを、雨宮はわかっているから。
 辛いから死にたいのだ。死にたいけど死ねないのだ。それが雨宮という男だった。
 だから、あえてその感情に名前をつけるとするなら、嫉妬だろう。

 お前だけ楽にさせてたまるかという。


 ここで抱き寄せてやればいいのかもしれない。力強く、喪服の少女の背中に手を回して、甘い愛の言葉を囁いてやればいいのかもしれない。「もう離さない」だとか「俺が一生守るから」だとか、そんな歯の浮くような台詞を!
 そしてそれができれば彼らは今ここにはいない!

 愛はない。友情もない。傷を舐めあっているわけでもない。
 はみ出し者がはみ出した先で出会っただけの繋がりに、何かを求めるなどできるはずもなく。

「あ、あ、あぁ……!」

 消えちゃう、と短く夢見ヶ島は叫んだ。
 あわせて、白殺のイマジンブレードが、さらさらと白い粒子となって、空間に溶けて消えていく。

「だめっ!」

 悲痛な叫び。それを、雨宮は聞いていられない。

 しかし、だけれど、それでも。
 非情に刃は消えていく。

「……」

 空っぽになって、まともになった自らの手を見ながら、夢見ヶ島は笑った。

「生きてかなくちゃならないんだ……」

「……あぁ、そうだな。そうなんだよ、夢見ヶ島」

 唯一雨宮の返せる答えがそれだった。


 生きていかなくちゃあならないのだ。
 幸せになれないと知りながら。

 遠くから迫るパトカーのサイレンを聞きながら、二人は泣いた。

《つづく》

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Leaf作「天使のいない十二月」
滝本竜彦著「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」
両作品に最大限の愛と敬意を表して。

失踪して東京に逃げてきた部分と、上野公園で売春してる(自称)女子高生に出会ったところまでは実話です。

読んでいただきありがとうございました。

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