自転車に乗れないまゆ (37)
短い季節外れのモバマスss
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5月のある日、佐久間まゆはいつも通り自分のプロデューサーさんにデートのお誘いをしました。
いつもは困り顔で受け流すプロデューサーさんも初夏の陽気に当てられたか「よし、来週の日曜日はオフが重なるしサイクリングにでも行こうか」と言いました。
まゆは大層喜びました。しかしまゆは自転車に乗れなかったのです。
困りました。正直に言えば優しいプロデューサーさんのこと、きっと普通のデートをしてくれるでしょう。
しかし些細なことでも愛しい彼を失望させては女が廃ります。
頭の中ではすでに川沿いの堤防を2人笑いあいながら走るビジョンが移されています。
「やりましょう!」
しかし、それは試練の始まりでした
まずは用具の購入。これは問題ありませんでした。
同じ事務所の北川真尋や斉藤洋子が手伝ってくれました。
買ったのは新品のママチャリにいくつかの用具。
サドルを思い切り下げ、ようやくつま先が地面につく状態を見て、手伝った2人は微かな不安を覚えました。
しかし、もう乗れたような気になって嬉しそうに乙女脳に浸るまゆにそう伝えることはできませんでした。
次に練習場所。これが問題でした。
彼女たちはアイドルです。露出の高い衣装を着ることも多いのです。転んで傷を負ってしまうとプロデューサーさんに怒られてしまいます。
せっかく彼と思い出を作るための練習なのに、それで怒られていては面白くありません。
悩んだ末寮近くの公園を練習場所に選びました。芝が植えられており転んでも擦りむきづらいのです。
練習初日。約束の日までに練習できるのは今日を入れてもう5日しかありません。
幸い、この期間はお仕事があまり立て込んでおらず、それなりの時間を練習に割くことができます。
それでも余裕が無いことには変わりありません。
まゆはヘルメットをしっかりかぶり、震える脚になんとか言うことを聞かせながら地面を蹴りました。
その夜の寮の個室。半べそになりながら絆創膏を膝に貼るまゆがいました。
最初に踏み込みが足りず転んだのを皮切りに起きあがっては転び、起きあがっては転びを繰り返し、結局この日は少しも進むことはできませんでした。
怪我には帰ってきたから気づきました。
痛くて泣いていたのではありません。悔しかったのです。
幸い傷はあまり大きくありません。
3日ほどでかさぶたになり、痕も残らず消えてしまうでしょう。
その間撮影なども無いのでその点は心配ありません。
しかし、このペースで練習しても週末にはとても間に合いません。
まゆは考えました。ご飯の時間もお風呂の時間もずっと考えていました
翌日。練習場所の公園にはまゆの他にもう2人のアイドルがいました。
まゆが応援に呼んだ輿水幸子と星輝子です。2人まゆは以前にユニットを組んでから親交がありました。
幸子はボクがいれば100人力ですと胸を張り、輝子は暇だったところをトモダチに呼んでもらえたので嬉しそうにしています。
その微笑ましい光景に目を留めたスーツの男性がいましたが、3人は気づきませんでした。
幸子はまゆのまたがった自転車のサドルの後部を掴み、まゆにこぐように促しました。
「ボクが押さえますから大丈夫です!」
輝子は木陰の茸をつついています。
まゆはその言葉に勇気付けられ、ペダルを踏みました。
5秒後、幸子とまゆの悲鳴が公園に響きました。幸子1人では支えきれなかったのです
仕切り直しです。鼻の頭にバッテンの絆創膏を貼った幸子が自転車の左手後方。輝子が右手後方に立ち、サドルを押さえました。
動きづらいですが、二人は過去にも何度かユニットを組んでいるので息はピッタリです。
歩くようなスピードでゆっくり自転車を押します。それでもまゆはハンドルにしがみつくのがやっとです。
まゆの手の震えはハンドルを伝い、自転車右に左に、蛇行させます。
見かねた幸子は後輪に巻き込まれないように体を寄せながらまゆに叫びかけます。
「まゆさん!怖がらないでペダルをちゃんと踏んでください!転ばないように押さえてあげますから!」
その言葉を聞いたまゆは勇気を振り絞って足に力を込めました。
数秒後、幸子と輝子は団子のように重なって、数メートル先で転がる自転車とまゆを呆然と見ていました。
まゆの乗った自転車がいきなり速度を増したので、2人ともバランスを崩し倒れてしまったのです。
しかし、まゆの乗った自転車は2人の助けがなくとも数メートル進みました。
転んでしまいましたが、確かに進歩はしたのです。
幸子の声に押され、勇気を出してペダルを踏む。それがきっかけでした。
それがわずかな進歩をもたらしたのです。
調子に乗ってボクの教えが良かったんですとうそぶく幸子。
トモダチの成長を素直に喜ぶ輝子。
そして、これまでと同じように転んでしまったにもかかわらず少しだけ晴れた表情のまゆ。
彼女たちを見ていたスーツの男性はいつの間にかいなくなっていました。
まゆはやればできる子です。
1度コツをつかんだことはなんでもそつなくこなして見せます。
自転車に乗れなかったのは運動神経に自信を持てず、挑戦していなかったからというだけなのです。
その証拠に、最初に数メートル進めることができてから数回練習しただけで、長くこぐことはできずとも、転ぶことは少なくなりました
「まゆさん!だいぶ乗れるようになってきましたね!」
「うん…すごい…」
公園の1/4ほどの一区画を一周するという挑戦を、おぼつかないハンドルさばきで、所々足をつきながらも終えてみせたまゆを2人がねぎらいます。
「2人ともありがとう。でもまだたりないんですよ…」
そうです、まだたりないのです。
まゆの目標は週末までにサイクリングに出かけられるくらいになること。
日が暮れるまでプロデューサーさんと2人だけで景色を見て回り、どこかの人の少ない広い野原で汗をぬぐいながら愛しい人と夕焼けをバックにキスをすることなのです。
そう熱っぽく語るまゆに輝子は言いました
「でも、もう門限…」
日が長くなってきていたせいか、練習に夢中だったせいか。
しっかり者のまゆも寮の18歳未満の門限がとっくに過ぎていたことに気づいていませんでした。
3人は仲良く寮長兼任の高橋礼子のお説教を受けることになりました。
しょぼくれるまゆと幸子とは反対に輝子は
「みんなで悪いことして怒られる…悪友…トモダチ」
と嬉しそうです
次の日もその次の日も、公園には自転車の練習をするまゆとその応援をする幸子と輝子の姿がありました。
もうまゆは最初に押さえてもらわなくても自分で地面を蹴り出して進めるようになっています。
ふらつきながらも足を付ける時間は徐々に短くなってきています。
輝子はたまに声援を送り、幸子はたまに「ボクも乗れるようにならないと…」と呟く。
そんなふうに時間が過ぎていきました。
練習開始から4日目の夕方。
足を付かないように公園を一周しようとするまゆを幸子と並んでベンチに腰掛け応援していた輝子はふと視線を感じて振り向きました。
公園の外に、フェンス越しに見慣れたスーツ姿の男性がいるのが見えました。
男性は輝子が見てることに気づくと人差し指を立て、唇に当てました。
輝子も頬を緩ませ同じように人差し指を立てて唇に当てました。
まゆとプロデューサーさんのデートの前日。
この日はちょっとしたお仕事が入り、あまり練習ができませんでした。
普段の公園の草の上でなく、アスファルトの上を走る練習をもっとしておきたいまゆでしたが、どうしようもありません。
「アスファルトは草の上より走りやすいですよ…多分…」
普段より心なしか自信なさげな幸子の言葉を信じるしかありません
デートの当日。
まゆは早起きしてお弁当を作ってリュックに詰め、普段より運動に向いた格好で待ち合わせ場所の、いつもの練習場所とは違う公園に向かいました。
もうすっかり慣れて、足を付くことなく長い距離を乗れるようにはなってましたが、アスファルトの上はまだこわいので、押して移動しました。
待ち合わせ時間より早いのにも関わらず、プロデューサーさんはもういて、軽く手を上げてまゆに声をかけました。
いつものスーツ姿とは違い、ハーフパンツにTシャツ、パーカーといったラフな格好のプロデューサーさんもまた、まゆの目には魅力的に映りました。
「ここまで自転車で来たのか。大丈夫だったか?転んだりはしなかったか?」
その過保護な言葉はまゆのここ数日の頑張りを全く知らない人がかける言葉としては少し不自然なものでした。
しかし、デートの高揚と緊張でいっぱいいっぱいのまゆにそんなことを気にする余裕はありません。
「はい。まゆだってちゃんと自転車に乗れるんですよぉ…」
「そうか。はははっ」
プロデューサーさんは軽く笑って自分のスポーツサイクルにまたがりました。
「さ、のんびり行こうか。きつかったら休んでもいいんだぞ」
そう言うとプロデューサーさんは地面を蹴って漕ぎ出しました。
「あっ、待ってくださぁい…」
出遅れたまゆは、初夏の暖かな風を切りながらよたよたと、でも力強くペダルをこいで、いつもと違う彼の背中を追いかけたのでした。
以上です。ありがとうございました
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