女の子とお兄さんの話(32)
ある冬の事でした。
女の子はカーディガンのポケットに手を入れたまま、駐車場の車の影に居る一匹の猫を見つめていました。
用事を済ませて家に帰る途中だったお兄さんは、その女の子を見て、おかしいな、と思いました。
ふと腕時計に目をやると、針は夜の十時を指していました。
「こんばんは」
お兄さんは驚かせてしまわない様にゆっくりと近づいて、優しく声を掛けました。
「こんばんは」
女の子はお兄さんの方を向くと、静かな声で言いました。
えーと、と小さく漏らしてからお兄さんは言いました。
「お家に帰りたくないのかな」
「どうでしょう?ただ、私は今あの猫を眺めていたいんです」
「僕もここで一緒に見ていいかな」
「はい、勿論」
女の子の返事を聞くと、お兄さんは女の子から少し離れた所に立って、コートのポケットに手を入れながら猫の方に向き直りました。
不思議な二人に見つめられた猫は、怪訝そうな顔しながらもしばらくの間コンクリートの上に寝そべっていました。
「帰りたくないです」
突然女の子が口を開きました。
「そう。家族と喧嘩でもしたの?」
「いいえ。私、一人暮らししてるんですよ」
「うーん。事情は分からないけど、今日は冷えるしもし良ければ僕の家にこないかい」
二人の視線は猫に向けられたままでした。
幾許かの沈黙の後、猫が居心地悪そうに何処かに走り去って行ってしまうと、女の子は言いました。
「そうですね、お兄さんが良いなら是非」
そうして二人は、お兄さんの家に向かいました。
「荷持はそこの椅子にでも置くといいよ」
脱いだコートをクローゼットにしまいながらお兄さんは言いました。
「洗面所とトイレはそこ。食べ物も飲み物も家にあるものはなんでも好きにして良いけど、お酒は控えめにね」
「はい、ありがとうございます」
「寝る場所がソファくらいしかないから窮屈かもしれないけど」
女の子は首を小さく横に振りました。
「それじゃあ僕は二階に居るから、何かあったら何時でも呼んでね」
そう言うとお兄さんは階段を登って行きました。
女の子はしばらく家の中を見て回った後、座ったままソファに体を埋めました。
その日女の子は、久しぶりにぐっすりと眠ることが出来ました。
顔を上げ、壁に掛けて有る振り子時計に目をやります。
五時。
目を覚ました女の子は少しだけソファで横になった後、台所に向かい、電気ケトルでお湯を沸かしました。
「おはよう」
階段からの足音を聞いて部屋の扉を開けたお兄さんは、女の子に言いました。
「おはようございます。よかったら、どうぞ」
「淹れてくれたの?」
「なんでも好きにして良い、と言われたので」
女の子から紅茶の入ったカップを受け取ると、お兄さんはありがとう、と言いました。
その日、二人共ずいぶん久しぶりに他の人と一緒に朝ごはんを食べました。
「何も聞かないんですね」
食器を片付けながら女の子は言いました。
「聞いて欲しいのかい」
食器を片付けながらお兄さんは言いました。
「別に、お兄さんが気にならないなら良いんですけどね」
「そうだなぁ、じゃあ一つだけ質問させてもらおう。昼食は何が良いかな?」
「一応私、高校生ですよ?ほら、制服も着ていますし」
流しに食器を置くと、女の子はお兄さんの前でくるりと回って見せました。
「でも、学校に行く気は無いだろう」
「あはは、バレてましたか」
「僕も同じ様なものだったから、雰囲気で何となく分かるよ」
「学校では無いですけど、昼からは用事があるんです」
「学生が、平日に学校以外の用事」
「それも結構大切な用事ですよ。あ、晩御飯は要りません。私少食なんです」
「君は、僕が思っていたのよりもずっと自由な子だね。今日はずっと家に居るから何時でも来ると良いよ」
お兄さんは少し笑いながら言いました。
「じゃあ僕は上で仕事をしてくるよ」
「何のお仕事をされているんですか?」
「簡単に言えば、文を書く仕事。文を売る仕事と言った方が正しいかもしれないけどね」
お兄さんは階段を登りながら、振り返らずに答えました。
「文を売る仕事」
お兄さんの姿が見えなくなった後、女の子は頭の中で言いました。
女の子はお酒の入ったグラスを持ってソファに腰掛けました。
女の子はお兄さんの家が大いに気に入りました。
座り心地の良いソファも、美味しいお酒も有ります。
良くわからないけれど、気の良い素敵なお兄さんだって居ます。
グラスを傾けながら、今夜もこのソファで寝かせてもらおう、と女の子は思いました。
そうしてお酒を飲みながら考え事をしていると予定の時間になったので、女の子は出掛ける事にしました。
「ありがとうございました。また来ます」
飲み物を取りに降りてきたお兄さんに軽く頭を下げながらそう言うと、女の子は玄関に向かいました。
そして、いってらっしゃい、というお兄さんの声を背中で聞きながら、女の子は家を出ました。
お兄さんはしばらく考えた後、ドアの鍵を掛けずに二階に上がって仕事の続きをしました。
「こんばんは」
女の子がお兄さんに言います。
「こんばんは」
お兄さんも、華奢な女の子に向かって言います。
「大事な用事は済んだのかい」
「はい。なんとか進級出来る事になりました」
鞄を椅子に置きながら女の子が言います。
「進級?」
「学校の偉い人に向かって『好き』って言うと、進級出来るようになるんですよ」
「なかなか便利な呪文だね」
お兄さんは腕組みをしながら、少しも顔色を変えずに言いました。
そんなお兄さんの様子が可笑しくて、お気に入りのソファに座った女の子は小さな声であはは、と笑いました。
「少しお話しよう。勿論、君が良ければだけど」
外で冷えきった女の子の体がようやく暖まってきた頃、お兄さんは言いました。
「いいですよ、何の話をしましょうか?」
「ここは気に入ってくれたかな」
「はい、とっても。居心地が良いです」
「君の家より?」
「私の家より」
「そうかい。なら好きなだけ来て、好きなだけ居ると良い」
そう言った後、思い出したように、ただし酔っ払って家の中をめちゃくちゃにしないように、とお兄さんは付け足しました。
女の子は、そんなに飲みませんよ、と笑いました。
「お兄さんはいつも二階で寝ているんですか?」
女の子が言いました。
「そうだよ。仕事をしている部屋でね」
「ベッドも、布団を敷くスペースだって無い様に見えましたけど」
「椅子に座ったまま寝ているんだ。慣れると省スペースで便利だから、試してみると良い」
「デスクチェアーで寝るなんて、私にはそんな器用な真似できませんよ」
「ソファとそんなに違わないさ」
「違いますよ。デスクチェアーはふかふかしていないんですから」
「確かに言われてみればそうだ。まぁとにかくそういうことだから、そのソファは君専用だよ」
そう言われた女の子は、体を倒してソファの肘掛けにもたれかかりながら、やった、と言いました。
そんな女の子の姿を見て、お兄さんは少しだけ幸せになりました。
女の子は少し考えた後、起き上がってお兄さんの方を向いて言います。
「お兄さんがいつまで経っても聞いてくれないので、自分から話す事にしました」
興味が無かったら聞き流して下さいね、と前置きをしてから女の子は続けます。
「父とは『別居中』で、母はもう亡くなっています」
「お父さんとは一緒に暮らせるけれど敢えてそうしないって事かな」
「そうなります。私は勿論、向こうも私以上に拒んでいるんですよ」
「不仲っていう訳では無さそうだね」
「どうしてそう思ったんですか?」
女の子は、透明な瞳でお兄さんの目を見据えながら聞きました。
「君は面倒な事になると分かっている時に、わざわざ事を荒立てたりはしないだろうと思ったから」
「確かに、ただ仲が悪いだけだったら我慢しながら一緒に暮らしていると思います」
女の子はお兄さんの言葉に、うんうん、と頷きます。
「仲は悪くないですよ。でも、この話はあんまり楽しくないので、続きはお兄さんと私が楽しくない話が出来る関係になったらにします」
伸びをしてからそう言うと、女の子は続けて言います。
「お兄さん。私達がもっと仲良くなれるように、何か楽しい話をして下さい」
「楽しい話。そうだな、今日新しいお酒が届いたんだ」
お兄さんが台所の方を指さすと、女の子は少し楽しそうにしました。
「昨日君が飲んでいたのより、少し高い奴だ」
「お兄さん。それは楽しい話じゃなくて、すっごく楽しい話っていうんですよ」
女の子はまたソファに体を預けて、飲むのが楽しみだなぁ、と笑いました。
「それと、昨日忘れてたけど」
そう言ってワードローブを開けたお兄さんは、中から毛布を出して女の子に掛けてあげました。
「寒かっただろう。ごめんね」
「そんなことないです。ありがとうございます」
少しだけびっくりした後に、女の子は毛布に包まって幸せそうな声でお兄さんにお礼を言いました。
「おはよう」
支度をしながらお兄さんが言います。
「おはようございます」
起きたばかりの女の子が言います。
「僕はこれから少し出掛けてくるから、どこにも行かないならお留守番を頼めるかな」
「わかりました。いってらっしゃい」
力なく挙げた右手をひらひらさせながら女の子が言います。
「いってきます。夕方には帰ってくるよ」
マフラーを巻くと、そう言ってお兄さんは出て行きました。
女の子は紅茶を淹れ、トースターでパンを焼いてテーブルに運びました。
一人で朝ごはんを食べながら女の子は、おいしくないなぁ、と思いました。
そして紅茶を一口啜ってから、不思議そうに呟きました。
「慣れていたはずなんだけどな」
「やあ、ただいま」
コートを脱ぎながらお兄さんが言います。
「おかえりなさい」
ソファに座ったまま女の子が言います。
「ちゃんといい子にしていたかい」
「お酒はいっぱい飲みましたけど暴れてはいないですよ。新しいやつ、とってもおいしかったです」
女の子は何も入っていないグラスを左の頬にくっつけて笑います。
「確かに、見た感じ何も壊されていないみたいだね。じゃあご褒美をあげよう」
そう言うと、お兄さんは紙袋からマフラーを出して女の子に渡しました。
触れただけでそれがとても良い物だと分かった女の子は少しの間マフラーをじっと見つめました。
言いたいことや言おうとした事は沢山有りましたが、結局は全て同じ結果になる気付いた女の子は諦めたように
「ありがとうございます」
とだけ言ってマフラーを首に巻きました。
「お兄さんはこれからお仕事ですか?」
「いや、今日はお休み」
「私、お兄さんについてのお話を聞いてみたいです。勿論、お兄さんが良ければですけど」
「いいよ」
そう言うとお兄さんは女の子が使っていたグラスを持って台所に歩いて行きました。
「さて、何から話そうか」
女の子にお酒を注いだグラスを渡すと、自分もグラスを片手に椅子に座ってお兄さんは話し始めます。
「家族という家族は年の離れた兄くらいしか居ない。そいつとも最後に話したのは何時だったのか、もう覚えていないな」
女の子はお兄さんの方を見ながら、時々お酒を飲みつつじっと話に耳を傾けます。
「ずっとこの家に一人で住んでいて、仕事も殆ど自営業みたいな物だから、人と関わる事は殆ど無い」
お兄さんも時々お酒をのみつつ話を続けます。
「ちなみに趣味は女の子をさらって食べてしまう事」
お兄さんが言います。
女の子は、クスクスと笑いました。
「お兄さんも、高校時代は『ふとーこー』だったんですか?」
「ん?ああ、前にそんな話をしたっけ」
「はい、似たようなものだったって」
「そうだなぁ、最初のうちはまじめに行ってたんだけどね。結局つまらなくてやめてしまった」
「今のお兄さんの姿を見てると、容易に想像できますね」
「今考えると、何でつまらない人達があんなに沢山居る所に行こうと思ったのかわからないよ」
「高校に行かなくなってからは、楽しく過ごせたんですか?」
探るような目でお兄さんを見つめながら女の子が聞きます。
「公園で本を読んだり知り合いの店を手伝って小遣いを稼いだり。青春とは程遠いけど、まぁ楽しかったかな」
「なかなか素敵ですね。私にも真似できるかな」
「出来ないし、しないほうが良いだろうね」
お兄さんはお酒が三分の一程残ったグラスをテーブルに置いて言いました。
「ですよね」
女の子は何も入っていないグラスを両手の手のひらで回しながら、少し笑って言いました。
「明日何か予定はあるかな」
「今の所は特に無いです」
毛布に包まった女の子が言います。
「なら、明日の夜一緒に出掛けよう」
「分かりました。どこに連れて行ってくれるのか楽しみにしてますね」
アルコールのお陰ですっかり気分が良くなった女の子は、デートだ、と笑いました。
「よし、それじゃあ話の続きをしようかな」
「はい、聞かせて下さい」
その後、女の子の目が少しずつ蕩けていって、やがて女の子が寝息を立てるまで、お兄さんは色々な話をしました。
両親に捨てられてから兄と二人で住んでいた話、仕事を始めた時の話、この家を買った時の話。
女の子がどこまで聞いていたのかは分かりませんでしたが、お兄さんは静かな声で淡々と語りました。
そうして、すやすやと眠る女の子に気付くと綺麗な黒い髪を撫で、二つのグラスを洗ってお兄さんも二階に上がって眠りました。
「おお、勉強しているとまるで高校生みたいだ」
テーブルに広げられた参考書とノートを女の子の後ろから覗き込みながら、お兄さんが言います。
「あはは、不真面目な子なので様になってはいないと思いますけど」
手に持ったペンをくるくると回しながら女の子が言います。
「少なくとも外見は極めて真面目そうに見えるよ。はい、これ」
「あ、ありがとうございます」
女の子は紅茶の入ったカップを受け取ると、一口啜ってテーブルに起きました。
「私が淹れたのより美味しいですね」
女の子がノートに問題の答えを綺麗な字で書きながら、ぽつりと漏らしました
「今度コツを教えてあげよう」
お兄さんがもう片方の手に持っていたカップの紅茶を飲みながら言いました。
今度、という言葉を聞いて、女の子は少しだけ嬉しくなりました。
少ししてから、今度、という言葉を無意識に使った自分に気付いて、お兄さんは少しだけ笑いました。
「お兄さん、今日のお仕事は終わりですか?」
「ああ。そっちも?」
「はい。私も今日の分はおしまいです」
「そうか。じゃあそろそろ出掛けようか」
そうして、すっかり陽が落ちきった後に二人は家を出ました。
「目的地まで、歩いて15分くらいだ」
とお兄さんが言いました。
お気に入りのマフラーを巻いた女の子は、時々カーディガンの袖に手を引っ込めたりしながら、お兄さんの後ろに付いて行きました。
「ここ最近は本当に寒いな」
女の子の方を見ずに、お兄さんが言いました。
それを聞いて女の子は、私はよくこんなに寒い中ずっと外に居られたなぁ、と思いました。
15分くらい経つと、お兄さんは女の子に振り返って言いました。
「着いた」
「プラネタリウム」
女の子が、ぽつりと言います。
「そう、プラネタリウム」
それだけ言うと、お兄さんは先に建物の中に入って行きました。
女の子は少しだけ立ち止まってから、はっとして早足でお兄さんを追いました。
お兄さんは入ってきた女の子に気付くと、財布をしまいながら、もう片方の手で手招きをします。
「ありがとうございます」
お兄さんの元に早足で駆け寄って、軽く頭を下げながら女の子が言いました。
お兄さんは何も言わずに顔の前で手を扇ぐと、ゆっくりと映写室の方に向かって行きます。
女の子もお兄さんと同じくらいの速さで、後を追いました。
「なかなかロマンチストなんですね?」
お兄さんの隣に座った女の子が言います。
「それは分からないけど、ここには時々来るね」
「お兄さんがここを気に入っている理由、なんとなく分かりますよ」
「うん。だから連れてきた」
「人が少ないっていうのは、素晴らしい事です」
「建物の作りが変に凝っていなくて、機能的っていう所も」
「なかなか良いですね」
二人しか居ない映写室で、何故だか二人は小声で話しました。
程なくしてアナウンスが入ると、部屋の電気が落ちて、映写機から光が溢れ出します。
「お兄さん」
と、人工の星空を見上げながら女の子が言いました。
「一人暮らしは、楽しいですか?」
「生活自体が楽しいかどうかは、あんまり考えた事がないな」
めいっぱいリクライニングさせた椅子にだらしなく座ったお兄さんが言います。
「ただ、今の仕事をしているのも一人で居る時間が欲しいからだし、そういう意味では満足してるし楽しんでもいるのかもね」
「じゃあ、私が居ると」
「いや、君は空気みたいな物だよ」
女の子の言葉を遮って、お兄さんが続けます。
「一緒に居ても息苦しくないし、あんまり『他の人と一緒に居る』という感じがしない」
「私が空気なら、私が居なくなったらお兄さんは死んでしまいますか」
女の子はクスクス笑いながらお兄さんに聞きます。
「さあ、どうだろう」
お兄さんはわざとらしいトーンで言いました。
二人は、ずっと星を眺め続けています。
「死にはしないけど、無いよりは有ったほうが良いさ」
少ししてから女の子に聞こえるか分からないくらいの大きさで、お兄さんは言いました。
「あそこは、あんなに人が少なくて大丈夫なんですか?」
ソファに座った女の子が言います。
「他の人が全く居ないなんていうのは初めてだったな。まぁいつもまばらでは有るんだけど」
「潰れてしまったら困ります」
「気に入ったから?」
「気に入ったから」
「またすぐに連れて行ってあげよう」
テーブルを挟んで向かいの椅子に座って、お兄さんが言いました。
「お兄さん」
女の子が言います。
「うん」
お兄さんが言います。
「私の、楽しく無い話を聞いて下さい」
無言で見つめてくるお兄さんを見て、女の子は話し始めます。
「昔は普通の、極めて普通の小中学生だったんです」
お兄さんが頷きます。
「母が病気で亡くなってから塞ぎがちになったっていうのも、ありがちな話だと思います」
そう言った後に、ここからが私の話の楽しくない所です、と前置きをしてから女の子が続けます。
「仕事で殆ど家に居なかった父に八つ当たり、『ふとーこー』、家出、援交」
一つ言う事に、女の子は指折りをします。
「それでも一応高校は受けておいて。丁度合格が分かった日に、父に包丁を突き付けられまして」
「刺してくれれば良かったのに、と今でも少しだけ思うんですけど、すぐに包丁を置いて、ごめんなさいごめんなさいって」
「あとは簡単な話で、父はマンションを借りて『別居』。生活費が毎月送られてくるって訳です」
なんて楽しくないんだ、と女の子はため息をつきました。
お兄さんはまだじっと女の子を見つめ続けていました。
「全て自分が悪いから、自分の家で暮らすのが辛い?」
お兄さんが、いつもの声のトーンで聞きます。
あはは、お兄さんは超能力者ですか、と女の子が笑いました。
「結局私って、一人で生きる事が出来ないんですよ」
「家を飛び出して、何処か別の場所でお仕事をしながら生きていければ良いんですけど」
「結局、母との思い出っていう未練を言い訳にふわふわする事しか出来ないんです」
女の子が淡々と言います。
「僕よりずっとましだ」
お兄さんが笑って言います。
「お兄さんが一人でお仕事をして一人で生活しているという事実は、一人でしか居られないお兄さんの存在を肯定していると思うんです」
女の子が言います。
それを聞いたお兄さんは、なるほどなるほど、と頷きました。
「じゃあ、学校は?」
「学生っていう身分にすがっていると、少しだけ落ち着くんですよ」
「自分に厳しい言い方だなぁ」
「だって、どこまでも中途半端な自分が、気持ち、悪くて」
お兄さんは胃の辺りを抑えてうずくまる女の子に駆け寄り、背中をさすりました。
少し落ち着いた女の子に毛布をかけると、お兄さんはソファの傍にしゃがみこんで、女の子に言います
「ここに居れば良い」
女の子は、え?と言います。
「中途半端でも何でも良いから、学生でも無く社会人でも無く僕の同居人としてここに居れば良い」
「でも、それはお兄さんに養ってもらっているだけで」
「二階から降りてきた時にね、ソファに座った可愛い女の子が目に入れば良いな、とずっと思っていたんだ」
「可愛いかどうかは置いておいて、私はいつか女の子じゃなくなりますよ」
「僕も優しくはないから、その時は何か仕事をしてもらうよ」
「悪い子なので、いつ家出するか分かりませんよ」
「合鍵は一個あるよ。ああ、作っておいてよかったな」
「お酒を飲み過ぎて、暴れる事だって」
「それは困るな。まぁ、怪我をしない事が条件だけど、窓ガラスを割るくらいなら我慢しよう」
「それに」
「それに?」
「…弾切れです。降参です」
呆れたような顔で、女の子が笑いました。
「僕が中途半端な君の存在を肯定してあげよう、っていうのは少し気障か」
「あはは、素敵ですよ」
二人は笑いました。
「そういえば、なんで最初にうちに来た日、学校の鞄に着替えを入れていたんだい」
女の子の家の前で、お兄さんが女の子に聞きます。
「たまーに運良く誰かの家に泊まれる事が有るので、数日分はいつも持ち歩いてるんですよ」
旅行かばんに詰めた服を確認しながら女の子が答えます。
「危ないなぁ」
「大丈夫です、相手は選んでますよ。襲われた事も無いですし」
「僕の第一印象は」
「少し危険かなと思いました。だから一回は断ったんです」
「悔しいけど、思い当たる所が多すぎるから何も言えないな」
笑いながらそういうと、お兄さんは女の子の荷物を持って、行こうか、と言いました。
女の子は扉に鍵をかけると、お兄さん、と言いました。
「はい。なんだい」
「私はこれで晴れて新しく快適に住める場所を見つけたわけです」
「そうだね」
「それなら、この家にはもう戻ってこないと思うんですよ」
女の子は少し離れた排水口の所まで歩いて行き、その上で人差し指と親指で鍵をつまみ、手首を振ってみせました。
「これ、必要だと思いますか?」
「僕の嫌いな物を教えてあげよう」
「なんでしょう?」
「答えの決まっている相談だよ」
お兄さんが言います。
女の子は、敵わないなぁ、と呟いて鍵をしまいました。
終わりー
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