ビッチ(改) (568)
以前中断したSSを再開します。SSと言っても地の分&固有名詞設定ありなので、苦手
な方は回避してください。
あと、前作はプロットを広げすぎたので、二作に分けて投下しようと思います。具体的に
は犯罪性の強い「女帝」関係は、次のSSに譲り、今回はナオトとナオ、明日香の関係に
フォーカスする予定です。
かけもちなので後進速度は非常に遅くなると思うし、最初の方は前のSSとほとんど同じ
内容の再投下になるので、前作をご覧になった方にはまとめ読みをお勧めします。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1417012648
第一部
僕はその日の朝、普段より早く起き過ぎってしまったのだった。
母さんを起こしたくない。僕は反射的にそう思って、爪先立って僕と妹の部屋が並ん
でいる二階の部屋を通って階下に降りようとした。この時の僕は熱いコーヒーを飲みた
かった。冬の身が凍るような早朝のことだった。
妹の部屋の前を通り過ぎようとした時、その部屋のドアが少し開いていることに 気づ
いた。
何気なくドアの向こうを覗くと妹がだらしない姿勢でベッドの上にしどけなく横にな
っている姿が目に入った。妹は剥き出しの腕を伸ばしたまま仰向けに寝ていて、普段は
うざいくらいに口うるさくやかましいことが嘘のような子どもっぽい表情だった。
妹の部屋から暖房の熱気が漏れ出していた。またエアコンを付けっぱなしで寝たのだ
ろう。こいつは何をするにもこういう具合にだらしない。
暖房のせいで暑かったのか妹はTシャツとパンツしか身にまとっていなかった。子ど
もっぽいあどけない表情を裏切るように、成長中の妹の悩ましい肢体が目に入ったけど、
僕は慌てて目を逸らした。
こいつの体を見つめているところなんかをこいつに見られたらどうなるのかは僕にはよ
くわかっていた。以前にも同じようなことがあったからだ。
こいつはわざとらしい悲鳴をできる限りの声量でわめきたて、何事かと駆けつける父
さんと母さんに対して「お兄ちゃんがあたしの裸を覗いたの」と騒ぎ立てて訴えるの
だ。
そんな騒ぎは二度とはごめんだった。僕は妹から目を逸らして妹の部屋を通り過ぎて
階下に降りた。
思ったとおりこの時間の朝のキッチンにはいつもは家中で一番早く起きる母さんの姿
はなかった。
僕はやかんに少しだけ水を入れてコンロに火をつけた。このくらいの量の水ならすぐ
に沸騰するだろう。
早起きしてしまったせいで登校するまでにはまだ時間が十分あった。何でこの日だけ
早起きしてしまったのかはわからないけど、その恩恵には十分にあずかれそうだった。
僕は父さんのことも母さんのことも嫌いではない。この二人から高校生活のことや部
活のこととかを質問されながら朝食の時間を過ごすのも悪くはない。
ただし、それは妹が一緒に食卓についていなければだ。あいつがいると、僕のこの間
のテストの成績を誉めようとしてくれた母さんは口をつぐみ、部活のことを楽しそうに
聞いてくれている父さんまで黙ってしまう。
要するに妹がいると父さんと母さんは僕とまともに会話できなくなってしまうのだ。
あいつはこういう時いつも僕の話に水をさす。
「お兄ちゃん(と両親の前では昔のように妹は僕のことを呼んでいた。二人きりのとき
はあんたと呼ぶか人称さえないことが普通だったけど)のことばっか話すよね、母さん
たちは。どうせあたしはお兄ちゃんみたいないい子ちゃんじゃないし成績もよくないよ。
でもだからといってあたしのこと無視しなくてもいいじゃない」
こうなると父さんと母さんは気まずそうに僕から目を逸らして黙ってしまうのだ。
だからせっかくたまに早く目を覚ました朝なんだし、朝食抜きでお湯が沸いたらコー
ヒーだけ飲んでさっさと高校にでかけてしまおう。今日は友人の渋沢がコンプしたゲーム
ソフトを貸してくれることになっていたから、DSを忘れずに持って行こう。
そう考えると僕は早い時間にも関らず少し焦ってきた。誰も起きる前にメモを残して
家を出なければならない。メモには用事があるから早めに登校しますと書いておけばい
いだろう。
そこまで考えたときにやかんがピーッと鳴ってお湯が沸いたことを告げた。
僕はインスタントコーヒーの粉を入れたマグカップにお湯を注ぎ、リビングのソファ
に座ってテレビを点けた。早朝の天気予報が画面に映し出される。
今日は突然集中的に雨が降ることがあるらしい。窓の外の冬の朝の様子からは降雨の
予感は少しも感じられないけど、天気予報で気象庁がそう言っている以上傘を用意した
方がよさそうだ。
僕はコーヒーを飲み干すとカップを流しに片付けてから登校の準備にかかった。顔を洗
って歯を磨き制服に身を通してもまだ家族が起きてくる様子はなかった。着替えるのとカ
バンを取るために一度自分の部屋に戻る途中で妹の部屋をちらっと眺めたけど、妹は相変
わらずだらしなくでもしどけない格好で自分の体を晒しながら寝息をたてていた。
僕はこの日、両親には用事があるので早く登校するというメモだけをテーブルに残して
家を出た。
今朝は偶然に早起きしたせいで妹と顔をあわせずに済んでよかった。僕は駅への坂道を
下りながら思った。僕がいないだけなら両親と妹はそれなりにうまくやっていける。ちょ
っと早起きして早出するだけで両親も僕も、そして多分妹も朝から余計なストレスを感じ
ずにすむのだ。
父さんだけではなく母さんも仕事を持っているのだし、朝から嫌な想いなんてしたくな
いだろう。それでも懲りずに妹の前で僕に話しかけてくれる父さんと、特に母さんには僕
は感謝していた。
駅に向う坂道の途中で僕はほほに雨滴を感じた。雨が降るようには思えなかったけど天
気予報は正確なようだった。でもこの程度の小雨のうちに駅まで辿るつけるだろうと僕は
思った。傘は持っていたけど開かずに済むならその方がいい。僕は込んだ電車の中で濡れ
た傘を持つのは嫌いだった。濡れた傘が自分の足にべっとりとついてズボンが濡れること
も嫌だったけど、それ以上に他人の服に自分の濡れた傘が当たるのも気が引けて嫌だった。
でも込み合った電車の車内ではそれを回避するのは難しかった。
もう少しで駅が見えてくるところで、突然アスファルトとの路面に雨が叩きつけられる
音が響き出した。結構な雨量だった。
傘を開こうとしたとき、目の前に電車の高架下のスペースが目に入った。とりあえずあ
そこなら雨には打たれない。そこまで行ってから傘を開こう。僕は高架下の濡れない場所
に向かって走り出した。
そこには先客がいた。
僕はその女の子を呆然として眺めた。
華奢な肢体。背中の途中くらいまで伸ばした黒髪。セーラー服に包まれた細い体つきの
女の子。
中学生くらいのその子は戸惑ったように高架下から雨の降りしきる景色を眺めていた。
これでは傘がなければここから動くこともできないだろう。
それまで彼女だけしか存在しなかったその空間に迷い込んだ僕は自分の傘を眺めた。と
りあずこの傘を開けば駅まで辿り着ける。天気予報を見ていてよかったと僕は思った。
その時、誰かが高架下に入ってきたことに気がついた女の子が振り返って僕の方を見た。
それで初めて僕はその子の顔を見ることができたのだった。
それは僕がこれまで実際に会ったことのないほどの美少女だった。これまで僕は女の子
と付き合ったことはなかったし、年頃の女の子については妹のだらしない生活ぶりを目の
当たりにしていたおかげで全く幻想を抱いていなかったけど、その朝その子を見た時、僕
の中で何かの感情が揺り動かされた。
普段から女の子と話すことが苦手な僕には考えられないことだったけど、僕はその子と
視線を合わせた時、自然に彼女に話しかけることができた。
「君、傘持ってないの?」
僕の言葉に彼女は戸惑った様子だった。でも彼女は思ったよりしっかっりした声で僕に
返事をしてくれた。
「あ、はい。今日は雨が降るなんて思わなかったから」
彼女の表情は僕に気を許したものではなかったけど決して警戒しているものでもなかっ
た。
「君も駅に行くの?」
僕は彼女に聞いた。
「はい。でも駅まで行く途中で濡れちゃいそうで」
「じゃあ駅までしか送れないけどそれでもよかったら一緒にどうですか」
その女の子の顔に一瞬だけ警戒しているような表情が浮かんだけど、彼女はすぐにその
表情を消した。
「いいんですか?」
「うん」
この時の僕は少女の整った可愛らしい顔を呆けたように眺めていたに違いない。
「多分降りる駅が違うから、そこの最寄り駅までしか送れないけど、それでもよかった
ら」
「ありがとう、じゃあお願いします」
女の子が言った。「駅まで行けば売店で傘を買えると思いますから」
僕は傘を開いて彼女の方に差しかけた。彼女は遠慮がちに僕の方に身を寄せてきた。
その朝、僕は偶然登校中に出会った女の子を駅まで送っていったのだった。彼女と出合
った場所から駅までは十分もかからない。駅に着くまでの間、僕は何を話していいのわか
らなかったし、傘に入れたくらいで馴れ馴れしく振る舞う男だと思われるのも嫌だった。
そして彼女の方も特に何を話すでもなかったので僕たちは傘に強く降りかかる雨の中を
無言のまま駅に歩いて行った。
駅の構内に入ると傘を叩いていた雨音が突然途切れ、通勤通学客でにぎあう構内の騒音
が僕たちを包んだ。僕は傘を閉じた。そのままお互いにどうしていいのかわからない感じ
で僕たちはしばらく黙ったまま立ちすくんでいた。
やがて彼女は僕の側から離れ恐縮したようにお礼を言ってから、僕とは反対側のホーム
に向うエスカレーターの方に去っていった。
僕はその場に留まってしばらく彼女の方を眺めていた。その時ふいにエスカレーターに
立っていた彼女がこちらを振り向いた。少し離れた距離で僕たちの視線が絡み合った。
僕が狼狽して彼女から視線を逸らそうとした時、初めて少し微笑んで僕の方に軽く頭を
下げている彼女の姿が僕の目に入った。
学校の最寄り駅に着いて電車を降りる頃には突然の雨はもう止んでいた。その雨は天気
予報のとおり突然集中的に振り出し突然降り止んだようだ。
これが夏ならこういうこともあるだろうけど、十二月もそろそろ終るこの季節にこうい
う天気は珍しい。でも夏と違って雨の後に晴れ間が広がったりはせず、天気は雨が降り出
す前の暗い曇り空に戻っただけだった。
僕は閉じたままの傘を抱えて学校に向う緩やかな坂道を歩き出した。
確かに嫌な天気だったけど、あそこで突然に強い雨が降り出さなければ僕があの子を傘
に入れて駅まで寄り添って歩くこともなかった。
今思い出そうとしても今朝出会った少女の顔ははっきりと思い浮んではくれなかった。
無理もない。最初にこちらを驚いたように振り向いた時以外は僕は彼女の顔を直視できな
かったのだから。
それでも僕は名前すら知らない少女に惹かれてしまったようだった。ただその甘い感傷
の底の方にはひどく苦い現実が隠されていたことにも気がついてはいた。
いくら僕がさっき出合った少女に惹かれようがその想いには行き場がないのだ。僕は彼
女の名前も年齢も学校も知らないまま彼女と別れたのだから。
時折思うことだけど、僕がこんなに内向的で自分に自信のない性格でなければ、例えば
同級生の渋沢のように相手の女の子にどんなにドン引きされても図々しくメアドを交換し
ようとか積極的に言えるような性格なら、ひょっとしたら今頃僕は今朝出合った少女のア
ドレスを手に入れていたかもしれない。
そして僕がそういう社交的で積極的な性格に生まれていたら、ひょっとしたら妹との
関係だって今とは違っていたかもしれない。あの妹だって理由もなしに僕のことを毛嫌
いしているわけではないだろう。多分うじうじしていてはっきりしない僕の性格を妹は
心底嫌っているのだろう。
でもそれは考えても仕方のないことだった。
「何でそんなに暗い顔してんだよ」
教室中に響くような声で渋沢が話しかけてきた。いつもより早目に教室に入ったせいで
登校したた時には教室内にはまだ誰もいなかった。
それで僕は自分の席でさっきの少女との出会いを思い返していたのだけど、そんなこと
をしている間にいつのまにか登校してくる生徒たちで教室は一杯になっていた。
僕は登校してきて隣の席に座ったばかりの渋沢の方を見た。
「何でもないよ。つうか僕、暗い顔なんてしてるか?」
「してるしてる。おまえってもともといつも暗い顔してんだけどよ。今日は特にひどい
よ」
「まあ、昨日もちょっと家で揉めたからね」
僕は少し苦々しい声でそれを口に出してしまったようだった。渋沢の表情が真面目にな
り声も少し低くなった。
「それは悪かったな」
「いいよ、別に」
「おまえ、また義理の妹と喧嘩したの?」
「僕は別にそんな気はないけどさ。あいつがいつもみたいに突っかかって来たから」
「それでまた気まずくなちゃったってことか」
「まあね」
そこで渋沢は少し真面目な顔になった。
「前にも聞いたけどさ。何でおまえの妹ってそこまでお前のこと毛嫌いするのかね。ここ
まで来るとおまえが言ってたみたいにおまえの性格が気に入らないだけとも思えねえよ
な」
「知らないよ。あいつに嫌われてるって事実だけで十分だろ。原因なんてあいつが言わな
きゃわかんないし」
「ひょっとしたらさ。そういうおまえの淡白な態度に問題があるじゃねえの」
「・・・・・・どういうことだよ」
「うまく言えねえけどさ、おまえの妹って何かおまえに気がついて欲しいこととかがあっ
てわざと突っかかって来てるんじゃねえかな」
それが正しいかどうかはわからないけど、渋沢の言っていることは僕がこれまで考えた
ことがあった。あいつが何かを訴えている? そのために僕に辛く当たっている?
そうだとしても僕にはあいつが僕に訴えたいことなんか見当もつかなかった。
「ひょっとしたらさ。おまえの妹っておふくろさんとおまえの親父の再婚のこと面白く思
ってないんじゃねえのかな」
それは僕もこれまで何度も考えてきたことだったから、それについては僕は渋沢に即答
できた。
「それはない。あいつは僕の父さんとは普通に仲がいいんだ。だからあいつが僕を嫌って
いるのは父さんたちの再婚とは別の話だと思う。だいたい再婚って言ったってもう十年く
らい前の話しだし」
「じゃあ、やっぱりおまえに原因があるんだ」
渋沢がさらに話を続けようとした時、担任が教室に入って来た。
渋沢に義理の妹の話を持ち出されて僕は思わず真面目に答えてしまったけど、妹の態度
については昔からなので僕はそのことについては半ば諦めていた。
妹とのことは別に今に始ったことではない。僕にはどこかで僕とは無縁に生活している
はずの実の母親の記憶はないし、物心ついた頃から今の家族と一緒に生活してきたのだ。
だから僕は母さんが自分の本当の母親ではないなんて考えたこともなかった。
去年のある夜、僕と妹が両親に呼ばれて初めて事実を告げられた日、僕はその時に自分
の本当の母親が他にいることを知って動揺したのだけど、妹はその時もその後も別にたい
して悩んでいる様子はなかった。
きっと妹は前から知っていたのではないか。僕と妹が本当の兄妹ではないことを。
普通に考えれば両親が再婚した時、妹は僕以上に幼かったのだから彼女が真実を覚えて
いることは考えづらういけど、きっと親戚か誰かに聞いていたに違いない。
だから去年両親から僕たちが本当の兄妹ではないことを知らされたそれ以前から、妹は
僕のことを嫌っていたのだろう。再婚に反対してではなく、多分実の兄妹なら許せること
でも、赤の他人である僕の優柔不断な性格が妹の気に触っていたのかもしれない。
でもそのことは去年から考えつくしていたことだったし、授業に集中できない僕がその
日一日中考えていたのは妹のことではなくて、今朝出会った少女のことだった。
ほんの一瞬だけ僕の人生に現われた少女。でも僕と彼女の関わりはその一瞬だけだ。
彼女のこの先の人生に登場する人物の中に僕の名前はないのだ。そしてもう二度と僕は
彼女と会うことはないだろうし、たとえ偶然に出会ったとしても無視されるかせいぜい黙
って会釈されるかだろう。
そんな自虐的な考えを僕はその日一日中繰り返していたのだった。
授業が終わり部活に行こうとしている兄友に別れを告げると僕は学校を出た。校門の外
に出た時、渋沢が今日持ってきてくれるはずのゲームソフトを受け取っていないことに気
がついたけど、それはもう後の祭りだった。
僕が自宅に着いてドアを開けようとした時、逆側からそのドアが開き妹が出てきた。
妹は相変わらず中学生とは思えな派手な姿だった。爪には変な原色の色彩が施され冬だ
というのにすごく短いスカートを履いている。アイシャドウも濃い目、手に持っている小
さなハンドバッグはラメが一面にごてごてと派手に刺繍されているものだ。
僕は思わず今朝出会った彼女のことを思い出して妹と比較してしまった。多分彼女も妹
と同じで中学生くらいだと思う。はっきりとは見ていないので確かとは言えないけど、
彼女は目の前の妹と違って普通に清楚な美少女だった。それは短い僅かな言葉のやり
取りにも表れているように僕は思った。
何で同じ中学生なのに妹と彼女はここまで違うのだろう。僕はそう思った。
でも今はトラブルは避けたい。ただいまとだけ妹に向ってもごもご呟いた僕は、これか
らどこかに遊びに行く様子の妹を避けて家の中に入ろうとしたその時だった。
「あんたさ」
妹が僕に話しかけてきた。
「え」
「今朝どっかの女と相合傘してたでしょ」
行く手を遮るように僕の正面に立った妹が言った。
「何でおまえが知ってるの」
いきなりの奇襲に面食らった僕は何とかそれだけ言い返すことができた。
「何でだっていいでしょ。あれあんたの彼女? つうかキモオタのあんたにも相合傘する
ような相手がいるんだ」
最初僕は正直に偶然出会った女の子を駅まで傘に入れただけだよと言い訳するつもりだ
ったけど、悪意に満ちた妹の声を聞いているとそんな言い訳する気すら失われていった。
「それこそどうだっていいだろ。おまえには関係ないじゃん」
僕の言葉を聞いた妹は目を光らせた。いつもなら戦闘開始の合図だった。僕は少し緊張
して立ちはだかる妹の方を見た。
「・・・・・・何じろじろ見てんのよ。そんなに女の体が珍しいの? 気持悪いからあたしの体
を見るの止めて欲しいんだけど」
こんなやりとりは僕にとっては日常のことだ。僕は必死に自分の感情を抑えた。早く妹
にどっかに行ってしまって欲しい。そうすれば僕は一人で心の平穏を保てるのだ。
「あんた、彼女いたんだ。あの子どう見ても中学生くらいだったけど」
僕はもう何も言わないことにした。むしろ早く家の中に入ってしまいたいけど玄関前に
立ちはだかる妹をどかそうとすれば彼女の体に触れざるを得ない。
僕に自分の体を触れられた妹がどういう行動を取るのかは、これまでの苦い経験でよく
学んでいた。だから僕にはひたすら沈黙し、妹が出かけていってしまうことを待つことし
かできなかった。
「その子もきっと無理してるんだろうな。会うたびに自分の体をあんたにじろじろ見られ
てるんでしょ? きっと」
「だんまりかよ。まあいいや。今日父さんも母さんも帰り遅いって。あたしは出かけてく
るから」
「ああ」
僕はそれだけ返事した。
「ああ」
妹は鸚鵡返しに僕の言葉を真似して言った。「あんたコミュ障? ゲームの中の女とし
か喋れないわけ? そんなことないか。可愛い中学生の彼女がいるんだもんね」
ひたすら言葉の暴力に耐えているとようやく妹は僕を解放してくれた。
そして妹はもう僕のことなんか振り返らずに大股で雨上がりの夕暮れの中を駅前の方に
ずんずんと歩いていってしまった。
その夜、両親は帰って来なかった。あいつは父さんたちが今日遅くなると言っていたけ
ど、多分正確な伝言は今日は帰れないだったのだろう。僕への嫌がらせに間違った伝言を
僕に伝えたに違いない。
両親が帰って来ると思っていた僕はその晩夕食を食べ損ねた。キッチンにあったポテト
チップスを少し食べて空腹を紛らわせた僕は、そのままベッドに入って寝てしまおうと思
った。
昨日に続いて今朝も早朝に目を覚ませてしまった。重苦しい気分で目を覚ました僕は傍
らで抱きついて寝入っている妹を見てぎょっとした。
何だ、これは。
妹は僕の脇に横たわってぐっすりと熟睡していた。さっき感じた重苦しさは昨日妹に嫌
がらせをされた精神的なものではないかと思っていたのだけど、実はベッドの中で妹の体
重支えていた身体的な重苦しさなのかもしれなかった。
妹の寝顔は彼女のいつものこいつの酷い態度と異なって子どもっぽいものだった。昨日
こいつの部屋で覗いた妹の表情と同じだった。
何で妹が僕のベッドにいて僕に抱きついているのかはわからない。でもこのままこいつ
が目を覚ませば自分の行為はさておいて、僕に無理矢理レイプされかかったくらいのこと
を両親に言いかねない。ひょっとしたらそのためにわざと僕のベッドに入ってきたのかも
しれない。
僕は妹を起こさないよう極力そっと自分のベッドから抜け出した。そして、そのまま着
替えと学校に持っていくカバンだけ持ってリビングに向った。
やはり両親は昨晩は帰宅していないようだった。僕は朝食もコーヒーも全て省略し、急
いで制服に着替えて家を出た。
何とか妹の罠から脱出することができた。駅に向かっているとようやく僕は緊張から開
放されるのを感じた。
妹の理不尽な態度に酷い目に会ったのこれが初めてではないけど、ここまで直接的な嫌
がらせをされたのは初めてだった。でも僕は幸いにもその罠にかからずに済んだのだった。
僕が妹のことを考えながら駅前の高架下を通り過ぎようとした時、誰かに声をかけられ
た。
「あの・・・・・・おはようございます」
僕はその声の方に振り向いた。昨日出会った所に真っ直ぐに立って僕に声をかけたのは、
二度と会うことがないだろうと思っていた昨日の少女だった。
突然のことに声を失っていると彼女は僕の方に寄って来て言った。
「お会いできて良かったです。会えないんじゃないかと思って心配してました」
彼女は僕の方を見て微笑んだ。
「ああ、偶然だね」
その時僕は彼女に会えたことに驚いて呆然としていたのだけど何とか間抜な返事をよう
やく口にすることができた。
「偶然じゃないんです」
相変わらず僕に微笑みかけながら彼女は僕の言葉を否定した。
「昨日はちょっと急いでいてちゃんとお礼を言えなくて」
「お礼って・・・・・・傘に入れただけだよ」
「どうしようかと思って困っていた時に、傘に入らないって自然に声をかけてくれて本当
に嬉しかったんです。でもあの時は何か照れちゃってずっと黙ったままだったし。だから
偶然じゃないんです。ひょっとして同じ時間にここにいればまたお会いできるんじゃない
かと思って」
「じゃあ、わざわざ僕を待っていてくれたの?」
これは恋愛感情ではないかもしれない。でも一度だけそれも十分程度傘に入れた男に会
うためにここまでする必要なんてあるのだろうか。
「はい。無駄かもしれないと思ったんですけど、お会いできて良かったです」
彼女は頭を下げた。「昨日は本当にありがとうございました」
「どういたしまして」
僕も頭を下げた。高校生の男と多分中学生の少女が向かい合って頭を下げあっている光
景は傍から見たらずいぶんと滑稽な様子に見えたに違いない。
多分彼女も同じことを考えていたのだろう。頭を上げた彼女は再び恥かしそうに微笑ん
だ。
だいぶ緊張がほぐれてきた僕には、普通に彼女に話しかける余裕が戻って来たようだっ
た。
「君さ。昨日はずいぶん急いでいたみたいだけど、今日はこんなところで話していて学校
は平気なの?」
僕は昨日に引き続き普段よりもずいぶん早く家を出たから別に急ぐ必要はなかったけど、
彼女は昨日の同じ時間に慌しく僕とは反対側の方向に向うホームに向っていたはずだった。
「あ、はい。大丈夫です。昨日は課外活動で朝早く現地集合だったんです」
そこまで詳しくは聞いたつもりはなかったんだけど、彼女は自分の事情を話し出した。
「だから昨日は雨のせいで遅刻しちゃいそうで急いでたんですけど、普段ならもっと遅い
時間に登校してるんです。あとあたしの学校って昨日の集合場所とは反対の電車の方向だ
し」
では彼女の学校は僕と同じ方向にあるのだろう。
ここまでの僅かな会話でも僕は彼女との距離が縮まっていくのを感じた。
・・・・・・誤解するなよ。僕は改めて自分の心の中に警鐘を鳴らした。高校の同級生の志村
由里さんの時も今と同じような状況だったじゃないか。親しげに僕に擦り寄ってきた志村
の態度を誤解した僕はあの放課後に彼女に告白したのだ。
その時の彼女の返事やその時感じた喪失感はだいぶ時間が経った今でも胸の奥に小さな
痛みとして残っている。あの時志村さんは戸惑い、困ったような表情で僕に謝ったのだっ
た。
『何か誤解させちゃったとしたらごめん。あたし君のこと嫌いじゃないけど、本当に好き
なのは渋沢君なの』
しばらくして二人が付き合い出して、今ではいつも一緒にいる姿を見ることにも大分慣
れてきた。慣れざるを得なかった。渋沢は友だちの少ない僕にとって唯一の親友だったか
ら。
今の状況は志村さんの時よりもっと頼りない。額面どおりに受け取れば礼儀正しい女の
子が傘に入れてもらったお礼を改めてしたくて僕を待っていただけのことじゃないか。
そう考えようと必死になった僕だけど、一度胸の中に湧き上がった期待はなかなか理性
の指示するとおりに収まってはくれなかった。
「そう言えばお名前を聞いていなかったですね」
少女が言った。「あたしは、鈴木ナオと言います。富士峰女学院の中学二年生です」
それでは彼女は僕の高校より一つ先の駅前にある学校に通っていたのだ。確か富士峰は
中高一貫校の女子校だった。
「僕は結城ナオト。明徳高校の一年だよ」
僕も名乗った。でもこれで彼女の名前を知ることができた。
「あの」
再び彼女が言った。これまで僕とは違って冷静に話していた彼女は、少し紅潮した表情
で僕の方を見上げた。
「図々しいお願いですけど、よかったらメアドとか連絡先を教えてもらっていいですか」
女の子に耐性のない僕にとってそれはとどめの一撃といってもよかった。自分への警鐘
とか女さんの時の教訓とかが僕の頭の中から吹っ飛んだ。
僕と彼女はメアドと携帯の番号を交換した。その事務的な作業が終わると少しだけ僕た
ちの間に沈黙が訪れた。でもそれは決して気まずいものではなかった。
「そろそろ行きませんか?」
ナオが僕に言った。相変わらず僕に向かって微笑みながら。
「そうだね。同じ方向だし途中まで一緒に」
思わず言いかけてしまった言葉に僕は後悔したため、僕の言葉は語尾が曖昧なままで終
ってしまった。
でもナオは僕の言葉をしっかりと拾ってくれた。
「うん、そうですね。同じ方向だし、ナオトさんとまだお話もしたいし一緒に行きましょ
う」
僕たちは目を合わせて期せずしてお互いに微笑みあった。
今日は以上です
しばらく以前のスレの再投下が続くと思います
その時、僕の腕が誰かに強く掴まれて引き寄せられた。
「こんなところで何してるの?」
僕の腕にいきなり抱きつき甘ったるい声で上目遣いに僕に話しかけてきたのは私服姿の
妹だった。
その派手でケバい姿は清楚なナオと同じ中学二年生とは思えない。突然僕に抱きついて
きた派手な女の子の登場に、ナオも驚いて微笑みを引っ込めて黙ってしまっていた。
何でこいつが僕のことを名前で呼びかけて、しかも僕の腕に抱きつくのか。こんなこと
は今までなかったのに。
そう思った時、僕はさっき僕のベッドの中で僕に抱きついたまま寝入っていた妹のこと
を思い出した。
嫌がらせか。僕は珍しく本気でこいつに腹を立てていた。昨日僕とナオが一つの傘に入
って一緒に駅に向うところを目撃した妹は、今日も僕たちが一緒なのではないかと思いつ
いたに違いない。そしてこいつは僕とナオが恋人同士だと思い込んでいた。
もう間違いない。こいつはわざわざ僕に嫌がらせをするために、こいつが勝手に思い込
んでいる僕とナオの関係を邪魔することにしたのだろう。
「どした? ナオト、この人誰?」
妹が僕の腕に抱きついたまま僕の方を上目遣いに眺めながら言った。何か妹の柔らかな
ものが僕の腕に押し付けられている感触があった。
人というのはこんなんに純粋な悪意によって行動できるのだろうか。父さんたちの再婚
以来こいつが僕のことを徹底的に嫌っていることは十分にわかっていた。
自分の部屋のドアを開け放してあられのない姿を僕に見せ付けるのだって、そんな自分
の姿を覗こうとする僕のことを父さんたちに言いつけるための嫌がらせだった。
でもそういう妹の行為に対して僕は一定の範囲で理解して許容していたのだ。父さんと
母さんは僕のことをいつも誉めてくれる。成績も素行もよく両親の言うことをしっかりと
守るいい子だと。そのことが妹にとって強いプレッシャーになっていたことは間違いない。
次第に彼女は両親に対して反抗し、僕に対しては攻撃的なまでの嫌がらせを繰り返すよう
になった。
同時に僕と違う自分を演出しようとしたのか、妹は勉強とか部活とかには背を向けて遊
び歩いているグループに入って、両親の帰宅が遅いのをいいことに夜遊びを繰り返ように
なったのだった。
僕はこいつの彼氏という男とこいつが一緒に歩いているところを見たことがある。派手
な格好で大きな声で傍若無人に振る舞う工業高校の高校生。その時の僕は、自分には関係
ないと思いつ自分の妹がこんなやつのことを好きだということに無意味に腹を立てたのだ
った。
「お邪魔してごめんなさい。あたしもう行かないと」
ナオが戸惑ったような声を出した。さっきとは打って変って笑顔もなく僕に視線も向け
てくれなかった。
「いや、ちょっと」
僕がナオにこいつは自分の妹だよと言おうとした時、妹が僕を遮るようにナオに話かけ
た。
「あ、そう? 何か邪魔したみたいでごめんね。あたしいつもナオトとは一緒に登校して
るからさ」
僕は妹に反論してこの一連の出来事が嘘だよとナオに言いたかったけど、その機会を与
えてくれずナオは僕と僕の腕に抱き付いている妹にぺこりと頭を下げて、駅の方に去って
行ってしまった。ナオはもうこちらを振り向かなかった。
「・・・・・・何でこんなことした」
僕は怒りを抑えて妹を問い詰めた。きっと嘲笑気味に答が帰って来るだろう。僕はその
ことは承知していたけど、それでも今朝の妹の仕打ちは許せなかったのだ。
「何でこんなことをしたのか言えよ」
案の定、妹はナオがいなくなるとすぐに僕の腕から手を離した。もともと僕に抱きつく
なんて嫌で仕方なかったのだろう。
「あんただって同じことしたじゃん」
僕から離れた妹が目を光らせた。「前にあたしが彼氏と二人で歩いている時、あたした
ちのこと邪魔したじゃない」
「ちょっと待てよ。僕は別におまえとおまえの彼氏のことなんか邪魔した覚えはないぞ」
「したよ。町で偶然に出会った時、あんた彼氏のこと虫けらでも見るような目で見てたじ
ゃん」
それは本当のことかもしれなかった。妹のことなんてどうでもいいとは思っていたけど、
それにしてもあんなクズと付き合っているとは思ってもいなかったから。だから、意識し
てしたことではないけど、妹の彼氏らしい男に無意識に見下すような視線を向けていたと
しても不思議なことではなかった。
「あんたは確かにあたしたちを見ただけで何もしなかったよ。でもね、ああいう目で見下
されただけでも心は痛むんだよ。あの後、彼氏が悩んじゃって大変だったんだから」
妹が言うには自分を侮蔑的な目で見ている奴がいるからちょっと喧嘩を売ってきていい
かと妹の彼氏が言ったそうだ。妹があれはあたしの兄貴だよと話すと、そいつは今までの
威勢の良さを引っ込めて、俺って本当に駄目なやつに見えるのかなあと言って落ち込んだ
そうだ。
「その仕返しのためにわざわざ早起きして僕の後を付いて来たのか」
「それにあの子はあんたとは付き合えないよ」
「誰もそんなことは言ってないだろ」
でも妹はもう何も話そうとしなかった。
僕はその場に妹を置いて黙って駅に向って歩き出した。確かに妹の言うことにも一理あ
るのかもしれない。でも、妹とその彼氏を目撃する前から、妹は僕に対して数々の嫌がら
せを仕掛けていたわけで、こんなことは理由にならない。
こいつには言葉が通じない。これ以上話しても無駄だ。そう考えたことは今回が初めて
ではないのだけど。
ざわめく心を静めながら電車の中で吊り輪に掴まっていた時、携帯電話が振動した。僕
は携帯に着信したメールに目を通した。
from :××××@docomo.ne.jp
sub :さっきはごめんなさい
本文『ナオです。教えていただいたばかりのアドレスにメールしちゃいました。彼女さん
と一緒で迷惑だったら読まなくてもいいですよ(汗)』
『さっきは待ち伏せしたりお名前を聞いたりとか図々しくてごめんなさい。あと、彼女さ
んと待ち合わせしてるなんて思わなかったんで、そもそもあんなところでふたりきりでお
話ししたこと自体がご迷惑でしたよね』
『本当に昨日のお礼を言いたかっただけなんですけど、万一彼女さんにが誤解したとした
らすいませんでした』
『もう彼女さんに誤解されるようなことはしませんので安心してくださいね』
『それではさっきはほんとにすいませんでした。彼女さんにもごめんなさいとお伝えくだ
さい』
『ナオ』
ナオからだ。このままナオの誤解が解けないのは嫌だ。そして誤解さえ解いてしまえば
この先もっとナオと親しくなれるかもしれない。僕はその時もうどんなに恥をかいてもい
いと思った。
ナオが僕のことを好きでなくてもいい。もうこれ以上僕の心には嘘をつけない。
普段臆病な僕だったけど、この時は妹との関係への誤解を解いてナオと親しくなりたい
ということしか考えていなかった。
from :○×○@vodafone.ne.jp
sub :Re:さっきはごめんなさい
本文『さっきの女の子は僕の妹です。あまり仲が良くないのですぐにああいう悪ふざけを
するんで困ってるんですけど、あいつは僕の彼女ではないよ~』
『せっかく知り合えたのでナオちゃんともっとお話ししたかったです。一緒に登校できな
くて残念だよ。また会えたらその時はよろしくね。じゃあさっきは本当にごめんなさい』
送信してたいして間も空けずにナオは返信してくれた。
from :ナオ
sub :Re:Re:さっきはごめんなさい
本文『そうだったんですか。妹さんの冗談だったんですね。まじめに悩んじゃった自分が
恥かしいです(汗)』
『でも安心しました。これからも朝一緒に登校していただいたらご迷惑ですか』
『え~い。もう勇気を出して言っちゃえ! ナオトさんって彼女いますか? 正直に言う
と昨日雨の中で出会ってからナオトさんのことが気になって昨日夜も眠れませんでした』
『面と向って告白する勇気はなかったんですけど、妹さんのおかげでメールすることがで
きたので頑張って告白しますね』
『一目惚れとか軽い女だと思われるかもしれないけど、ナオトさんのこと気になってます、
と言うかはっきり言うとナオトさんのことが好きです』
『明日の朝も駅前の高架下のところで待ってます。よかったらその時に返事してください
ね』
『それではまた明日』
『ナオ』
「ふ~ん。そんなことがあったんだ」
渋沢が学食のカツカレー大盛りを食べながら言った。
昼休みになってすぐ、僕は渋沢に昨日と今朝の出来事を全部話して相談した。
「よかったじゃんか。初めて会って気になってた子が次の日におまえに告ってくるなんて、
何かのアニメみてえだな」
それは渋沢に言われるまでもなく自分でも考えていたことだった。こんな僕にはもった
いないほどの幸運としか言いようがない。
「まあ素直におめでとうと言っておこう。由里もこのことを聞いたら喜ぶよ。どういうわ
けかあいつ、やたらおまえのこと気にしてるしさ」
志村さんは約束どおり僕の恥かしい勘違いの告白のことを誰にも言わなかったようだ。
彼女は彼氏の渋沢にさえ、その告白を黙っていてくれたのだ。
「そんで明日も駅前で待ってるんだろ、その富士峰の中学生の子って」
「うん」
「きっちり決めろよ。おまえいざと言う時無駄に迷うからな。こういう時は余計なことを
考えずに素直にただ一言、俺もおまえが好きだ、でいいんだからよ」
「・・・・・・僕も君が好きです、じゃだめかな?」
「それでもいい。僕とか君とは普通は言わねえけど、おまえはそれが口癖になっちゃって
るしな。変に気取ってもすぐにばれるだろうしよ」
渋沢に相談していると僕はだいぶ気が楽になってきた。ナオのメールを見た時の興奮や
歓喜は時間が経つにつれ僕の中でプレッシャーに変化していた。
こんなに都合よくあんな美少女が僕に告白するはずがない。だとしたら何で彼女は出会
った翌日にろくに会話したこともなくどういう男かわからない僕なんかに告白したのだろ
う。しかも今朝は妹の嫌がらせもあったわけで、彼女の僕に対する印象は最悪のはずだっ
た。
でも渋沢はそんな僕の心配なんか今は考える必要なんかないと言った。
「おまえのことが気になって夜も眠れないとかメールにはっきり書いてあるじゃん。これ
以上彼女に何を求めてんの? おまえ」
「とりあえず彼女のことが気になるんだろ? それなら明日君が好きって言えよ。付き合
ってみてこんなじゃなかったって愛想つかされることなんか心配してたらいつまで経って
も彼女なんかできねえぞ」
多分渋沢の言うとおりなのだろう。
彼に励まされ背中を押された僕は明日の朝、彼女に僕も君のことが好きだと返事するこ
とにした。明日までの緊張に耐えられそうになかったので、できれば今日中にメールで返
事をしたかった。渋沢もメールでもいいんじゃね? って言っていたけど、彼女からは明
日の朝返事をするように言われていた僕は、とりあえず緊張に耐えながら彼女の言葉に従
うことにしたのだった。
帰宅すると家には誰もいなかった。両親は今夜も遅いか職場で泊まりなのだろう。もと
もとうちは昔から両親が家にちゃんといる方が珍しいという家庭だった。
僕にとって幸いなことに、最近では珍しく二日間も連続して僕に嫌がらせをしてきた妹
も今夜はまだ帰宅していなかった。多分彼氏と夜遊びでもしているのだろう。妹は両親が
いない夜は家にいる方が珍しいのだ。
そしてそんな妹のことを、僕は余計なトラブルを起こすのが嫌だったから両親に告げ口
とかしたことはなかった。妹がよく言うようにあいつのことは僕とは関係ないのだ。
とりあえず今日は簡単な食事を作って寝てしまおう。僕は明日の朝、ナオの告白に返事
をしなければならない。そんな重大な出来事を抱えて普段のように夜を過ごすことなんか
考えられなかった。実際、今だって胃がしくしく痛むほどのストレスを感じているのだか
ら。
僕は妹がいないことを幸いに、義務的に味すら覚えていないカップ麺だけの食事を済ま
せるとさっさとベッドに入って目をつぶった。
ようやく眠りにつきそうだった僕は、階下でどたんという大きな音が聞こえたせいで目
を覚ましてしまった。
大きな物音に続いてけたたましい笑い声がリビングの方から響いてきた。僕は強く目を
つぶって階下の出来事を無視しようとした。明日は早起きしてナオに告白しなければいけ
ない。こんな夜に階下に下りていくのは心底から嫌だった。少しだけこの騒音を耐えてい
ればすぐに収まるに違いない。僕は無理にもそう思い込もうとした。
父さんと母さんが深夜に帰宅したときは僕たちを起こさないようひっそりと帰宅して、
できるだけ音を立てないようにシャワーを浴びたりしてくれていることを僕は知っていた。
だから階下のこの騒音は夜中に帰ってきた妹に違いないのだ。
階下の騒音を無視することして毛布を頭からかぶろうとしたとき、ポップミュージック
の音が強烈な音量で流れ始めた。ここにいてさえやかましいくらいのボリュームだ。
しばらくして、僕はついにこのまま寝入ることを諦めた。これでは近所の人たちにも迷
惑なほどの音量だったし、このまま放ってはおけない。
階下に下りてリビングに入った僕はまっすぐにオーディオ機器の方に向かい、アンプの
電源をオフにした。突然静まり返ったリビングのソファには、思っていたとおりだらしな
く横たわっている妹の姿があった。
リビングの床には脱ぎ散らかした妹の派手な服が転々と乱れている。当の妹はお気に入
りの音楽を消されて、ソファから起き上がり何か聞き取れない声で怒鳴りながら僕に掴み
かかってきた。
妹の顔が僕のそばに寄ってくると強く酒の匂いがした。やっぱり飲んでいたのだ。
「何で勝手に音楽消すのよ。あんたには関係ないでしょ」
妹が僕を睨んだ。でもその声は呂律が回っていなかった。
「近所迷惑だろ。何時だと思ってるんだよ」
「うっさいなあ。あたしのそばに来ないでよ」
妹は明らかに泥酔しているようだった。
「とにかくシャワー浴びて寝ちゃえよ。ガキの癖に酒なんか飲むからこんなことするんだ
ろうが」
僕は本当にイラついていた。明日は早起きしてナオに告白しなければいけないのに。何
でこういう日にこいつはこんなトラブルを持ち込むのだろう。
「ガキって何よ、ガキって」
妹はふらつきながら再び僕を睨んだ。
「とにかくシャワー浴びて寝ろ。今ならまだ母さんたちにばれないから」
こういうことは前からたまにだけどあったけど、ここまで酷いのは初めてだった。僕は
妹との間にトラブルを起こすのが嫌だったから、こいつが飲酒していることはこれまで両
親には黙っていた。
それでも今夜のこれは酷すぎる。ここまで来ると黙っている僕さえも同罪かもしれない。
僕は一瞬両親にこのことを話そうかと思ったけど、すぐにその考えは脳裏から失われた。
今の僕はそれどころではない。中学生の妹の飲酒癖は早めに直した方がいいに決まって
いるけど、結局は妹の自己責任というか自業自得じゃないか。
僕は明日早起きして駅までナオに会い、彼女の告白に返事をしなければならない。こん
な深夜に妹の面倒をみている場合ではないのだ。
「どいてよ」
突然妹がそう言って僕の横をすり抜けリビングを出て行った。しばらくすると浴室の方
からシャワーの音がした。僕はほっとした。これで少しは妹も正気に戻るだろう。
僕は妹が脱ぎ散らかしたコートとかハンドバッグとかを拾い集めた。もうこんな時間だ
から両親は泊まりで仕事をしているのかもしれないけど、万一遅い時間に帰宅したときに
こんなリビングの様子を見られるわけにはいかない。
それは姑息な誤魔化しだったけど今の僕には他にいい手段は思いつかなかったのだ。
ソファを片付けているとその片すみにバーボンの小さいボトルが転がっているのが見え
た。粋がっている中高生の飲酒なんてせいぜいビールとか缶入りの梅酒とかだろうと思っ
ていたのだけど、それはアルコール度数40の強い酒だった。仮にこんなものをどこかで
飲んでいたとしたら妹が家に酔っ払って帰ってきたとしても不思議はない。
僕はため息をついてそのボトルに残っていた酒をキッチンのシンクに流して捨てた。
リビングがだいたい片付いた頃、リビングのドアが開いて全裸の妹が戻ってきた。
茶髪が濡れているところを見るとシャワーを浴びていたのは本当だったようだ。こいつ
はろくに髪も体も拭いていないのだろう、髪も体もびしょ濡れのままだ。
「お兄ちゃんの言うとおりにシャワー浴びたてきたよ」
さっきまで激怒していた妹が嫣然と僕に微笑みかけた。
「どう?」
「どうって何が・・・・・・つうか服着ろよ」
僕は妹の裸身から目を逸らした。何でこいつが突然僕にお兄ちゃんなんて話しかけるの
だろう。そもそも何でこいつは服を着ていないのだ。
「お兄ちゃん、ちゃんと見て。これでもあたしはガキなの?」
先入観から僕は妹の肌とかは穢れていて汚いという印象を持っていた。彼氏がいたり夜
遊びするような妹が清純な少女のはずはない。
でも目を逸らさなきゃと思いながら思わず見入ってしまった妹の裸は綺麗だった。あれ
だけ遊んでいるビッチとは思えないほど。
白い肌。思っていたより控え目な胸。細い手足。
「ねえ。これでもあたしってガキなの?」
妹が僕の方に近づいてきた。「あたしを見てどう思った?」
クスクスと笑う妹の声。
「あ、そうか。お兄ちゃんってキモオタだから見ただけじゃわかんないのか」
「おい、よせよ。僕たちは兄妹だろ」
「何言ってるのよ。本当の兄妹じゃないじゃん。それにそんなことは今関係ないじゃん」
妹が裸の腕を僕の首に巻きつけようとした時だった。
「あれ、何か揺れてるよ。あれ」
シャワーを浴びたことも効果がなかったようだった。妹は酔いが回って目を廻したのだ
ろう。
妹が床に崩れ落ちる寸前に僕は妹の裸身に手を廻して辛うじて彼女を支えることができ
た。
妹は僕に抱きかかえられたまま寝入ってしまった。酔いつぶれている人間を二階の部屋
のベッドに運び込むことがこんなに大変なことだと僕はその日初めて思い知らされた。
手っ取り早くお姫様抱っこしようとしてもぐんにゃりとした妹の体はとても持ち上げる
ことはできなかった。結局僕は妹をの肩を抱きかかえて半ば無理に立たせた彼女を引き摺
るようにしながら、ようやく二階の彼女の部屋に運び込むことができた。
もう下着とか服を着せるのは無理だった。僕は妹をベッドに投げ出してこいつの裸身に
毛布をかけてから自分の部屋に戻った。
泣きたい気分だった。仲の悪い酔った妹から裸を見せつけられるような悪ふざけをされ
た。早寝するどころではないうえ、明日、というか今日の早朝には寝不足のまま、ナオに
会って告白の返事をしなければならないのだ。
いや、そんなことを嘆いている場合ではない。とにかく寝過ごしてはいけない。僕は目
覚まし時計のアラームを確認すると携帯のアラームもセットした。明日だけは何としても
遅刻できない。
僕は再びベッドに潜った。ようやく眠りについたとき、その短い眠りの中で夢を見た。
夢の中の少女はナオでもあり妹でもあった。そしどういうわけか夢の中の少女は清楚で恥
かしがりやで、でも積極的な女の子だった。
夢の少女は全裸で僕に微笑んだ。
『一目惚れとか軽い女だと思われるかもしれないけど、お兄ちゃんのこと気になってるの、
と言うかはっきり言うとお兄ちゃんのことが好きです』
『ナオトさん、これでもあたしってガキなの?』
『ナオトさんあたしを見てどう思った?」
クスクスと笑う妹の声。いやそれはナオの声だったのか。
「あ、そうか。ナオトさんってキモオタだから見ただけじゃわかんないんですね」
俺に抱きつこうとするナオ、いやそれは妹なのだろうか。
その時、時計と携帯のアラームが同時に鳴り出し僕は目を覚ました。嫌な汗が全身を濡
らしていた。
朝食を省略しシャワーだけ浴びて昨日の夢と汗を洗い流して、僕は早々に家を出た。
妹の部屋を覗くと妹はぐっすりと寝入っているようだった。ただし、昨夜僕がかけた毛
布ははだけていて、ベッドの上の妹は一糸まとわぬ全裸のままだった。僕は妹から目を逸
らした。
緊張したまま駅前の高架下に着くと、所在なげに立ちすくんでいるナオの小柄な姿が目
に入った。このまま黙って通り過ぎたいと思うほど、僕の胸は激しく動悸がし、胃は痛ん
だ。でもここでへたれるわけにはいかない。僕は渋沢の言葉を思い浮かべた。そうだ、既
にメールで僕は告白されているのだから、万に一つだってナオに断られることはないのだ。
「あ」
ナオが僕に気がついて顔を赤くして頭を下げた。
「おはようナオちゃん」
「おはようございます。ナオトさん」
彼女は恥かしそうに微笑んだ。でも体の前で震えている手が彼女の余裕を裏切っていた。
こんなに美少女のナオちゃんだって告白の返事を聞くときは緊張するんだ。何だか僕は
新しい発見をしたよう気分になり、少し気が楽になった。同時に僕は妹との酷い夜のこと
を忘れていくのを感じた。
「遅くなってごめんね」
「いえ・・・・・・あたしが早く来すぎただけですから」
しばらく僕たちの間に沈黙があった。でも今日だけはその沈黙を破るのは僕でなければ
いけない。
「メール見たよ。僕もナオちゃんのこと好きだよ。よかったら付き合ってもらえますか」
僕の前に立っている華奢な少女の目に少しだけ涙が浮かんだようだった。僕は言うこと
を言ってじっと彼女の返事を待った。
「・・・・・・はい。嬉しいです」
ナオは僕に抱きついてきたりしなかったけど、潤んだ目で僕を見つめてそっと自分の白
く華奢な手を伸ばして僕の手を握ってくれた。
それから僕とナオは並んで駅の方に向かって歩き出した。歩き出してからもナオは僕の
手を離そうとしなかった。
妹が昨日酔ってたせいで僕は辛い思いをしたのだけれど、結果的に考えるとそのおかげ
で大切な告白の時間を妹に邪魔されずに済んだのだ。あの酔い具合ではあいつは僕の後を
つけて僕の邪魔することなんかできないだろう。そう思いついたからか、無事にナオと付
き合えたせいか、僕は急にさっきまでのストレスから解放されて身も心も軽くなっていっ
た。
こんな綺麗な子と手を繋いで歩いているのだ。普段の僕なら緊張のあまり震えていたと
しても不思議はなかったけど、さっきまであり得ないほどのストレスを感じていたせいか、
今の僕の心中は不思議と穏やかだった。
「僕の降りる駅までは一緒にいられるね」
何でこんなに落ち着いて話せるのか、自分でも可笑しくなってしまうくらいだ。
「そうですね。三十分は一緒にいられますね」
ナオが微笑んだ。もうその顔には涙の跡はなかった。「ナオトさんっていつもこの時間
に登校してるんですか」
「普段はもう少し遅いんだ。この間はちょっと事情があってさ」
「そうですか。じゃあ明日からは」
彼女はそこで照れたように言葉を切った。考えるまでもなくこれは僕の方から言わなき
ゃいけないことだった。
「よかったら明日から一緒に通学しない? 時間はもっと遅くてもいいしナオちゃんに合
わせるけど」
彼女は再びにっこり笑った。
「今あたしもそう言おうと思ってました。でもいきなり図々しいかなって考えちゃって」
「そんなことないよ。同じこと考えていてくれて嬉しい」
僕は僕らしくもなく口ごもったりもせず普通に彼女と会話ができていることに驚いてい
た。緊張から開放され身も心も軽くなったとはいえ、何度も聞き返されながらようやく告
白の意図が伝わった志村さんの時とはえらい違いだ。
そこで僕は気がついたのだけど、きっとこれはナオの会話のリードが上手だからだ。赤
くなって照れているような彼女の言葉は、実はいつもタイミングよく区切りがついていて、
そのため、その後に続けて喋りやすいのだ。
この時一瞬だけ僕はナオのことを不思議に思った。
わずか数分だけそれもろくに口も聞かなかった僕のことを好きになってくれた綺麗な女
の子。まだ中学二年なのに上手に会話をリードしてくれるナオ。
何で僕はこんな子と付き合えたのだろう。
それでも手を繋いだままちょっと上目遣いに僕の方を見上げて微笑みかけてくれるナオ
を見ると、もうそんなことはどうでもよくなってしまった。渋沢も言っていたけど僕には
昔から考えすぎる癖がある。今はささいな疑問なんかどうだっていいじゃないか。付き合
い出した初日だし、今は甘い時間を楽しんだっていいはずだ。
やがてホームに滑り込んできた電車に並んで乗り込んだ後も、ナオは僕の手を離そうと
しなかった。ナオは僕の手を握っていない方の手で吊り輪に掴まるのかと思ったけど、ナ
オはそうせずに空いている方の手を僕の腕に絡ませた。つまり揺れる電車の車内でナオを
支えるのが僕の役目になったのだ。
そういう彼女の姿を見ると最初に彼女を見かけたときの儚げな美少女という印象は修正
せざるを得なかった。むしろ出会った翌日に僕に会いに来たりメールで告白したり、彼女
はどちらかというとむしろ積極的な女の子だったのだ。でもその発見は僕を困惑させたり
幻滅させたりはしなかった。
むしろ逆だった。僕は積極的なナオの様子を好ましく感じていた。何となく大人しい印
象の女の子が自分の好みなのだと、今まで僕は考えていたけど、よく考えれば初めて告白
して振られた志村さんだって大人しいというよりはむしろ活発な女の子だった。
まあそんなことは今はどうでもいい。僕の腕に初めてできた僕の彼女が抱きついていて
くれているのだから。
「ナオちゃんってさ」
僕はもうあまり緊張もせず僕の腕に抱き付いている彼女に話しかけた。「そう言えば名
前って・・・・・・」
「あ、あたしもそれ今考えていました。ナオトさんとナオって一字違いですよね」
「ほんと偶然だよね」
「偶然ですか・・・・・・運命だったりして」
そう言ってナオは照れたように笑った。
「運命って。あ、でもさ。ナオって漢字で書くとどうなるの?」
そう言えば僕とナオはお互いの学校と学年を教えあっただけだった。これからはそうい
う疑問もお互いに答えあって少しづつ相手への理解を深めて行けるだろう。
「奈良の奈に糸偏に者って書いて奈緒です・・・・・・わかります?」
え。偶然もここまで来ると出来すぎだった。
「わかる・・・・・・っていうか、僕の名前もその奈緒に最後に人って加えただけなんだけど。
奈緒人って書く」
奈緒も驚いたようだった。
「奈緒人さん、運命って信じますか」
彼女は真面目な顔になって僕の方を見た。
奈緒と一緒にいると三十分なんてあっという間に過ぎていってしまった。学校がある駅
に着いた時、僕は自分の腕に抱き付いている奈緒の手をどうしたらいいのかわからなくて
一瞬戸惑った。このまま乗り過ごしてしまってもいいか。そう思ったとき、そこで彼女は
僕の高校のことを思い出したようだった。
「あ、ごめんなさい。明徳ってこの駅でしたね」
奈緒は慌てたように僕の腕と手から自分の両手を離した。彼女の手の感触が失われると
何だかすごく寂しい気がした。
「ここでお別れですね」
「うん・・・・・・明日は時間どうしようか」
「あたしは奈緒人さんに合わせますけど」
「じゃあ今日より三十分くらい遅い時間でいい?」
「はい。また明日あそこで待ってます」
ここで降りるならもう乗り込んできている乗客をかき分けないと降車に間に合わないタ
イミングだった。
僕は彼女に別れを告げて乗り込んできている人たちにすいませんと声をかけながら、何
とかのホームに降り立つことができた。
「何の話してるの?」
昼休みの学食のテーブルで僕と渋沢が昼食を取っていると志村さんが渋沢の隣に腰掛け
た。
「おお、遅かったな。いやさ、奈緒人にもついに彼女ができたって話をさ」
「うそ!」
志村さんは彼の話を遮って目を輝かせて叫んだ。「マジで? ねえマジ?」
「おう。マジだぞ。しかも富士峰の中学二年の子だってさ」
「え~。富士峰ってお嬢様学校じゃん。いったいどこで知り合ったの?」
以前の僕なら一度は本気で惚れて告白しそして振られた女さんのその言葉に傷付いてい
たかもしれなかったけど、実際にこういう場面に出くわしてみると不思議なほど動揺を感
じなかった。
「通学途中で偶然出会って一目ぼれされた挙句、メアドを聞かれて次の日メールで告られ
たんだと」
渋沢が少しからかうように彼女に説明した。
確かに事実だけを並べるとそのとおりだけど、何だか薄っぺらい感じがする。でもそれ
が志村さんにどういう印象を与えたとしても、今の僕にはさほど気にならなかった。
「奈緒人君にもついに春が来たか。その子との付き合いに悩んだらお姉さんに相談しな
よ」
志村さんが笑って言った。
「誰がお姉さんだよ」
僕も気軽に返事をすることができた。
「奈緒人さあ。今度その子紹介しろよ。ダブルデートしようぜ」
渋沢が言った。
「ああ、いいね。最近、明と二人で出かけるも飽きちゃったしね」
志村さんも渋沢の提案に乗り気なようだった。
「おい。飽きたは言い過ぎじゃねえの」
渋沢が言ったけどその口調は決して不快そうなものではなかった。「そうだよ。四人で
遊びに行こうぜ。昨日イケヤマと彼女が別れちゃってさ。それまでは結構四人で遊びに行
ったりしてたんだけどな」
「イケヤマって君の中学時代の友だちだっけ?」
「おう。何か年下の中学生の子と付き合ってたんだけど、昨日いきなり振られたんだっ
て」
「イケヤマ君、あの子と別れちゃったの?」
志村さんが驚いたように言った。
「昨日イケヤマからメールが来てさ。振られたって言ってた」
「ふ~ん。でもイケヤマ君の彼女って中学生の割には結構遊んでいるみたいなケバイ子だ
ったし、他に好きな子ができたのかもね」
「まあそうなんだけどさ。イケヤマって遊んでいるように見えて結構真面目だからさ。彼
女に突然振られて悩んでるみたいでな。ちょっと心配なんだ」
「イケヤマ君の彼女って明日香ちゃんって言ったっけ?」
「そうだよ。ていうか名前も覚えてねえのかよ。結城明日香だって・・・・・・ってあれ?」
渋沢はそこで何か気づいたようで少し戸惑った表情を見せた。
「奈緒人の中二の妹ってアスカちゃんって名前だったよな?」
「え? 結城って奈緒人君の姓だよね? まさか・・・・・・」
「そのイケヤマってやつ、工業高校の生徒で髪が金髪だったりする?」
僕は聞いてみたけどどうもこれは妹で間違いないようだった。でもどうしてあいつは突
然彼氏と別れたのだろう。
兄友はイケヤマとかいう妹の彼氏のことを結構真面目な奴と言っていたけど、僕にはそ
うは見えなかった。むしろ先々を考えずに刹那的に遊び呆けているどうしようもない高校
生にしか見えなかった。きっと妹の飲酒だってそいつの影響に違いない。
「多分それ、うちの妹の明日香のことだ」
僕は淡々と言った。
「何か・・・・・・悪かったな、奈緒人」
「奈緒人君ごめん。あたし妹さんのこと、結構遊んでいるみたいなケバイ子とか酷いこと
言っちゃった」
志村さんは僕に謝ってくれたけど別に彼女は間違ったことは言っていない。
「いや。志村さんの言ってることは別に間違ってないよ」
僕は彼女に微笑みかけた。「本当に妹の生活ってすごく乱れてるんだ。妹は僕の一番の
悩みの種だよ」
「でも・・・・・・」
彼女さんは相変わらず申し分けそうな表情で俯いていた。
放課後になって僕が部活に行く渋沢と別れて校門を出ようとした時、そこにたたずんで
いる志村さんに気がついた。
「誰かと待ち合わせ?」
僕は彼女に話しかけた。「渋沢は部活だよね?」
「・・・・・・そうじゃないの。もう一度ちゃんと奈緒人君に謝っておこうと思って」
「あのさあ・・・・・・」
「うん」
「僕は全然気にしてないって。それにさっきだって言ったでしょ? 君の言ったことは本
当のことだよ」
彼女は俯いていた顔を上げた。
「それでも。誰かに家族のことを変な風に言われたら嫌な気分になるでしょ? あたしだ
って自分の兄貴のことをあんなふうに馬鹿にした言い方されたら嫌だもん。だから・・・・・・
ごめんなさい。君の妹とは知らなかったけど、明日香ちゃんのこと酷い言い方しちゃって
てごめん」
明日香のことをビッチ呼ばわりされた僕だったけど正直に言うとあの時はそのことにつ
いてそんなに不快感を感じなかった。志村さんに言われるまでもなく、かなり控え目に言
っても、実際の妹はビッチというほかにないような女だと僕は思っていた。
それでもあいつは僕の家族だった。志村さんが他人の家族のことを悪く言ったことを思
い悩む気持ちもよくわかった。渋沢たちはああいう風に言ったけど妹がビッチと呼ばれて
も仕方がないことは事実だった。僕だって妹のビッチな行動の直接的な被害者だったのだ。
それでもやはり家族というのは特別なのかもしれない。それが全く血がつながっていな
い義理の妹であっても。
今までだって誰かの口から妹の悪口を聞くと、僕はすごく落ち着かないいたたまれない
ような気分になったものだ。指摘されていることは普段から僕が思っていた感想と全く同
じものだったとしても。
「もういいって」
それでも僕は志村さんに微笑んだ。「本当に気にしてないよ」
「ごめん」
「途中まで一緒に帰る?」
「いいの?」
「渋沢が嫉妬しないならね」
「それはないって」
不器用な僕の冗談にようやく志村さんは笑ってくれた。
「でも何で妹はそのイケヤマってやつと別れたのかなあ」
ようやく僕はそっちの方が気になってきた。「遊び人同士うまく行ってそうなものだけ
ど」
志村さんは少しためらった。でも結局僕にイケヤマと妹の印象を話してくれた。
「あたしも何度か四人でカラオケ行ったりゲーセンに行ったくらいなんだけど、さっき明
が言ってたのは嘘じゃないよ。イケヤマ君って見かけは酷いけど中身は結構常識的な男の
子だった」
その真偽は僕にはわからないけど、一度外で妹と妹の彼氏を見かけたことがある僕とし
ては素直には信じられない話だった。
「それでね・・・・・・ああ、だめだ。また奈緒人君の妹さんの悪口になっちゃうかも」
僕は笑った。
「だから気にしなくていいって」
「うん。明日香ちゃんって別にイケヤマ君じゃなくても誰でもいい感じだった。妹さんっ
て、別に本気で彼氏なんか欲しくないんじゃないかな」
「まあ、そういうこともあるかもね。背伸びしたい年頃っていうか、自分にだけ彼氏がい
ないのが嫌っていうことかもね」
「それとはちょっと違うかも。何て言うのかなあ、彼氏を作って遊びまくって何か嫌なこ
とから逃げてる感じ?」
「そうなの?」
そうだとしたら妹はいったい何から逃げていたのだろう? 再婚家庭の中で唯一気に入
らない僕からか。
「まあ、あんまりマジに受け取らないで。実際に明日香さんと会ったのってそんなに多く
はないしそれほど親しくなったわけでもないから」
「うん」
「そんなことよりさ」
ようやく元気を取り戻した彼女さんが突然からかうような笑みを浮べて言った。「富士
峰の彼女ってどんな子?」
「どんな子って」
「どういう感じの子かって聞いてるのよ? 大分年下だけどどういうところが好きになっ
たの?」
僕が奈緒にマジぼれしていなければそれはトラウマ物のセリフじゃんか。僕は志村さん
に振られたことがあるのだし。でもこの時の僕は彼女さんのからかいには動じなかった。
多分それだけナオに惹かれていたからだったろう。
僕が志村さんと別れて帰宅し自分の部屋に戻る前にリビングのドアを開けると妹がソファ
に座ってテレビを見ていた。
僕に気がついた妹は僕の方を見た。どうせ無視されるか嫌がらせの言葉をかけられるの
だろう。僕はそう思った。昨日のこいつの醜態に文句を言いたいけどそんなことをしたっ
て泥仕合になるだけだ。そのことを僕は長年のこいつとの付き合いで学んでいた。
「お兄ちゃん、お帰りなさい」
妹が言った。
え? 何だこの普通の兄妹の間のあいさつは。無視するか悪態をつくかが今までの妹の
デフォだったのに。
その時僕は奇妙な違和感を感じた。そしてその違和感の原因はすぐにわかった。
どうしたことか妹の濃い目の茶髪が黒髪に変わっているのだった。そして帰宅したばか
りなのか、まだいつものスウェットの上下に着替える前の妹の服装は、いつもの派手目な
ものではなかった。
平日に制服ではなく私服を着ていること自体も問題だと思うけど、そのことを考えるよ
りも僕は今は妹が着ている服装から目が離せなかった。
どういうことだ?
薄いブルーのワンピースの上にピンクっぽいフェミニンなカーデガンを羽織っている。
僕は奈緒の制服姿しか見たことがなかったけどきっと清純な彼女ならこういう服装だろう
なって妄想していたそのままの姿で、妹がソファに座っていたのだ。
「どしたの? お兄ちゃん。あたしの格好そんなに変かな?」
僕はやっと我に帰った。
「いや変って言うか、何でおまえがそんな格好してるんだよ?」
「そんな格好って何よ。失礼だなあお兄ちゃんは」
妹は落ち着いてそう言ってソファから立ち上がるなりくるっと一回転して見せた。
「そんなに似合わない? お兄ちゃんにそんな目で見られちゃうとあたし傷ついちゃうな
あ」
「いや、似合ってる・・・・・・と思うけどさ。それよりその髪はどうした? 何で色が変わっ
てるんだよ」
「何でって、美容院で黒く染め直しただけだし」
僕は妹をの姿を改めて真面目に見た。その姿は正直に言うと心を奪われそうなほど可愛
らしかった。外見が内面と一致しているようなら僕は自分の妹に恋をしていたかもしれな
い。でもそうじゃない。僕は昨日の妹の醜態を思い出した。こいつが珍しくワンピースを
着ていることなんかどうでもいいんだ。
僕は昨日のこいつの酔った醜態のことで文句でも言おうと思ったのだけど、こいつだっ
て彼氏と別れたばかりだったことを思い出した。
昨日や一昨日のこいつの嫌がらせのことは少し忘れよう。
「おまえさ、何かあったの?」
妹は僕を見て笑った。そしてどういうわけかその笑いにはいつものような憎しみの混じ
った嘲笑は混じっていないようだった。何か両親に紹介されてお互いに初めて出会った頃
のような照れのような感情が浮かんできた。
「何にもないよ。お兄ちゃん、今日は何か変だよ」
変なのはおまえだ。僕は心の中で妹に言った。それにしても妹の黒髪ワンピ、そしてお
兄ちゃん呼称の威力は凄まじかった。これまでが酷すぎたせいかもしれないけど。
それからしばらく僕は呆然として清楚な美少女のような妹、明日香の姿を見つめ続けて
いた。
「お兄ちゃん?」
明日香がそう言って僕の隣に寄り添った。
「何だよ」
僕は無愛想に言って、近寄ってくる妹から体を離そうとした。ただ僕の視線の方は突然
清楚な美少女に変身した妹の容姿に釘付けになっていた。
「お兄ちゃん・・・・・・何であたしから逃げるのよ」
「何でって・・・・・・。おまえこそ何でくっついて来るんだよ」
「ふふ」
妹が笑みを浮べた。それは複雑な微笑みだった。僕にはその意味がまるで理解できなか
った。
「何でだと思う? お兄ちゃん」
そう言って妹は僕の腕を引っ張った。いきなりだったために僕は抵抗できずに妹に引き
摺られるままソファに座り込んだ、妹が僕に密着するように隣に座った。
「いや、マジでわかんないから。僕は自分の部屋に行くからおまえももう僕から離れろ
よ」
「そんなに慌てなくてもいいでしょ。あたしが近くにいると意識してドキドキしちゃう
の?」
「そうじゃないって。つうかいつも僕に突っかかるくせに何で今日はそんなに僕にくっつくんだよ」
その時妹の細い両腕が僕の首に巻きついた。
「何でだと思う? お兄ちゃん」
再び妹がさっきと同じ言葉を口にした。
僕は妹の体を自分から引き離そうとしたけど、妹は僕に抱きついたままだった。
「何でだと思う?」
妹は繰り返した。「そう言えば、この間お兄ちゃんと一緒にいた子って中学生でしょ?
何年生?」
僕は明日香の突然の抱擁から逃れようともがいたけど彼女の腕は僕の首にしっかりと巻
きついていて簡単には解けそうになかった。
「二年だけど」
仕方なく僕は妹に答えた。本当にいったい何なのだろう。
「お兄ちゃん・・・・・・本当にあの子と付き合ってるの? あの子何って名前?」
「・・・・・・おまえには関係ないだろ」
「いいから教えて。教えてくれるまでお兄ちゃんから離れないからね」
ここまで来たら全て妹に明かすしかなさそうだ。妹を振り放すには今はそれしか手がな
かった。
「付き合ってるよ。つうか今日から付き合い出した」
「え? じゃあ相合傘してたのとか昨日待ち合わせしてたのは?」
「あの時はまだ付き合い出す前だよ」
「いったいいつ知り合ったのよ」
「だから傘に入れてあげた時からだけど」
「じゃあ知り合ったばっかじゃん。お兄ちゃんってヘタレだと思ってけどそんなに手が早
かったのか」
それには答える必要はないと僕は思った。
「で、あの子の名前は?」
「鈴木奈緒」
「ふーん。で、そのナオって子のこと好きなの?」
「・・・・・・好きじゃなきゃ付き合うわけないだろ」
妹は僕に抱きついていた手を放して俯いた。僕はほっとして自分の部屋に戻ろうとした。
その時ふと覗き込んだ妹の目に涙が浮かんでいることに気がついた。
僕は立ち上がりかけていたけど再びソファに腰を下ろした。
「泣いてるの? おまえ」
「・・・・・・泣いてない」
僕は最初、明日香が僕に彼女ができて寂しくて泣いているんじゃないかと考えた。でも
そんなはずはなかった。長年、明日香は僕のことを嫌ってきた。しかも嫌って無視するだ
けでななく直接的な嫌がらせまでされてきたのだ。それほどに憎悪の対象である僕に彼女
ができたからといって寂しがったり嫉妬したりするはずはないのだ。
その時、ようやく僕は思いついた。
妹にとって彼氏と別れたのはかなりの衝撃だったのではないか。渋沢の話では妹の方か
らイケヤマとか言う彼氏を振ったということだったけど、妹にはそいつを振らざるを得な
いような事情があったのだろう。
渋沢と志村さんはイケヤマのことを外見と違って真面目な奴だと考えているようだった
けど、一度見かけたそいつの様子からは真面目なんて言葉はそいつには似合わないとしか言いようがなかった。
そうだ。妹はイケヤマの何らかの行為、それもおそらく粗野な態度に嫌気が差してそい
つのことを振ったのだろう。それでもそれは、心底そいつを嫌いになっての別れではなか
ったのかもしれない。
だからこいつも今は辛いのだ。
「おまえ無理するなよ」
今度は僕の方から妹の肩を抱き寄せた。こんな行為を妹にするのは生まれて初めてだっ
た。でも、どんなに仲の悪い兄妹だとしても妹が悩み傷付いているならそれを慰めるのが
兄貴の役割だろう。自分だけ部屋にこもって奈緒のことを思い浮かべて幸福感に浸ってい
るわけにもいかないのだ。
突然僕に肩を抱き寄せられた妹は一瞬驚いたように凍りついた。それからどういうわけ
か妹の顔は真っ赤に染まった。僕は妹の肩を抱いたままで話を続けた。
「彼氏と昨日別れたんだろ? それで辛くて悩んでそして気分転換に髪を黒くしたり服を
変えたんだろ?」
僕は話しながら妹の顔を覗き込んだ。その時は自分では親身になって妹の相談に乗って
いるいい兄貴のつもりになっていた。
「悩んでいるなら聞いてやるからふざけてないでちゃんと話せよ。おまえが僕のことを嫌
っているのは知ってるけど、こんな辛い時くらいは僕を頼ったっていいじゃないか」
妹は僕の言葉を聞くと突然僕の手を振り払って自分の体を僕から引き剥がした。
その時の妹はもはや照れたような紅潮した表情ではなかった。そしてその清楚な格好に
は似合わない怒ったような表情で言った。
「あんた、バカ?」
「え?」
「あんたが珍しくあたしを抱いてくれるから期待しちゃったのに、あんたが考えてたのは
そっちかよ」
妹の話し方には今まで取り繕っていた仮面が剥がれて地が表れていた。僕はその時いつ
ものように罵詈雑言を浴びせられることを覚悟した。結局いつもと同じ夜になるのだろう
か。でも妹は気を取り直したようだった。喋り方もさっきまでの普通の妹のようなものに
戻っている。
「まあお兄ちゃんなんかに最初からあんまり期待していなかったからいいか」
突然機嫌を直したように妹は笑顔になった。「まあそんな勘違いでも一応あたしのこと
を慰めようとしてくれたんだもんね。ありがとお兄ちゃん」
「いや。でも彼氏と別れたのが原因じゃないなら、いったい何で髪の色とかファッション
とか今までがらりと変えたんだよ」
「ナオって子を見てこの方がお兄ちゃんの好みだとわかったから」
妹は、明日香は僕の方を見つめて真面目な顔で答えた。「明日からはもうギャルぽい格
好するのやめたの。お兄ちゃんのためにこれからはずっとこの路線で行くから」
妹は照れもせずに平然とそう言い放った。
僕のため? 僕は僕のことを大嫌いなはずの妹の顔を呆然として眺めた。
自分の部屋でベッドに入ってからも僕は妹の言葉が気になって眠ることができなかった。
付き合い出した初日だし奈緒のこと以外は頭に浮かばないのが普通だろうけれども。
でもこの瞬間にベッドの中で僕の脳裏に思い浮ぶのは妹だった。
明日香は僕と奈緒が一緒にいるところを目撃し、奈緒が僕の好きな人だということを知
った。そして彼氏と別れた。その後美容院に行って髪を黒く染め服装も大人し目で清楚っ
ぽい服に着替えた。思い出してみれば妹の爪もいつもの原色とかラメとかの派手なマニュ
キアではなく、普通に何も手を加えられていないほんのりとした桜色のままだった。
その全ては僕の好みに合わせたのだと妹は言った。いったいそれは何を意味しているの
か。本当は妹は昔から僕のことを好きだったのだろうか。妹の言動からはさすがにそれ以
外の回答は導き出すことはできなかった。少なくとも妹の変化に対して唯一僕が思いつい
た理由、つまり妹が彼氏と別れたから妹はイメチェンをしたのだということは、妹に一瞬
で否定されてしまった。
あと今さらながら気になるのは何で妹が彼氏を振ったのかということだった。もちろん
彼氏のどこかが許せなくて別れたということなのだろうけど。
それにしても妹が僕のことを好きなのかもしれないという前提でそれを考えると、僕が
奈緒に出会ったことを知ってすぐに彼氏を振った妹の行動には、僕のことが気になるから
ということ以外の理由は考えづらかった。
僕と奈緒のことを気にして自分もフリーになったということか。
そうなるともうこいつが僕のことを好きななのではないかということ以外に僕には思い
つくことはなかった。
もう今日は考えるのをやめて寝よう。そう思って携帯のアラームをセットするために携
帯を手に取った僕はメールの着信があることに気づいた。僕はメールを開いた。それは奈
緒からのメールだった。
from :ナオ
sub :無題
本文『こんばんは。用事なんて何もないんですけど奈緒人さんのことを思い出していると
全然眠れないからメールしちゃいました。まだ夜の七時だからいいですよね』
『今日初めて奈緒人さんと一緒に登校できて嬉しかったです。』
『何かあっという間にお別れの時間が来ちゃった感じでしたよね。本当はもっともっと奈
緒人さんに抱きついて一緒にいたかったです(汗)』
『あたし男の人と付き合うのはこれが初めてだからよくわからないんですけど、こういう
いつまでも一緒にいたいっていう気持ちは付き合ってれば普通に感じるものなんでしょう
か』
『それともあたしにとって奈緒人さんが特別な人なのかなあ。名前が似ているのもそうだ
し、出会い方だってロマンティックでしたよね?』
『明日また奈緒人さんに会うのを楽しみにしています。じゃあそろそろ寝ないと万一遅刻
したら嫌だし』
『おやすみなさい奈緒人さん。大好きです』
『奈緒』
このメールは大分前に来ていたものだった。多分僕と妹がリビングで話をしていた頃に。
今からでは返信するには時間が遅すぎる。返事がなかったことに奈緒を失望させてしまっ
たかもしれないと思うといてもたってもいられなかったけど、もう後の祭りだった。
明日の朝、奈緒に会ったら忘れずにフォローしよう。僕はそう考えた。そしてナオの
メールのおかげで妹のことを忘れることができた僕はそのまま携帯を握り締めながら眠り
についたのだった。
翌朝、登校の支度を済ませて僕が階下に下りていくと、珍しく父さんと母さん、それに
妹まで既にキッチンのテーブルについて朝食を取っていた。
昨日僕が眠ってしまった後の遅い時間に両親は帰宅したのだろう。この様子だとあまり
眠れなかったではないかと僕は両親を見て思った。
「おはよう奈緒人」
「おはよう奈緒人君、何か久しぶりね」
両親が同時に僕に微笑んで挨拶してくれた。久しぶりに両親に会って笑って声をかけて
くれるのは嬉しいのだけど、こういう時いつも僕は妹の反応が気になった。
父さんはともかく母さんは常に僕に優しかった。母さんが自分の本当の母親ではないと
知らされたとき、僕は母さんが途中で自分の息子になった僕に気を遣って優しく振る舞っ
ているのだろうとひねくれたことを考えたこともあった。
でもそういう偽りならどこかでぼろが出ていただろう。それに気に入らない義理の息子
に気を遣っているにしては母さんの笑顔はあまりに自然だった。
それでいつの間にか僕はそういうひねくれた感情を捨てて、素直に母さんと笑顔で話が
できるようになったのだった。今の僕は父さんと同じくらい母さんのことを信頼している。
ただ唯一の問題は妹の明日香だった。無理もないけど、明日香は昔から自分の母親を僕
に取られたように感じていたらしい。僕が母さんが義理の母親だと知ってからも母さんを
信頼し、むしろ前よりも母さんと仲良くなってから、明日香は僕のことをひどく嫌って、
反抗的になった。
挙句に服装が派手になり髪を染めるようになり遊び歩くようになったのだった。僕とは
違う自分を演出するつもりだったのだろうけど、もちろん母さんと明日香の関係において
もそれは良い影響なんて何も及ぼさなかった。
やがて母さんは明日香の生活態度をきつく注意するようになった。母さんに「何でお兄
ちゃんはちゃんと出来てるのにあんたはできないの」と言われた後の妹の切れっぷりは凄
まじかった。その時明日香はやり場のない怒りを全て僕に向けたのだった。
こういう両親と過ごす朝のひと時は、妹さえいなければ僕の大切な時間だったのだけど、
両親の僕に向けた柔らかな態度に明日香はまた一悶着起こすのだろうと僕は覚悟してテ
ーブルについた。
「おはよう」
僕は誰にともなく言った。妹がそう思うなら自分に向けられた挨拶だと思ってくれても
よかった。
「おはよお兄ちゃん」
明日香が柔らかい声で言った。「今日は早く出かけなくていいの?」
え? 一瞬僕は自分の耳を疑った。朝こいつから普通に挨拶されたのは初めてかもしれ
ない。僕は一瞬言葉に詰まった。それでも僕はようやく平静に妹に返事をすることができ
た。
「う、うん。別に早く出かける用事はないし」
「ないって・・・・・・待ち合わせはいいの?」
そういえば妹は僕と奈緒が待ち合わせの時間を変更したことを知らないのだった。きっ
といつもと同じ時間に待ち合わせするものだと思っているのだろう。でも何で明日香が僕
とポ奈緒の待ち合わせの時間を心配するのか。
一瞬、僕の脳裏に昨日の妹の言葉が思い浮んだ。
「明日からはもうギャルっぽい格好するのやめたの。お兄ちゃんのためにこれからはずっ
とこの路線で行くから」
その言葉を思い浮かべながら改めて妹を眺めると、昨日の今日だから髪がまだ黒いのは
当然として、中学校の制服まで心なしか大人しく着こなしているように見えた。とりあえ
ずスカート丈はいつもより大分長い。
「別に・・・・・・それよりおまえ、その格好」
「昨日言ったでしょ? お兄ちゃんがこっちの方がいいみたいだからこれからは大人しい
格好するって」
明日香は両親の前で堂々と言い放った。
僕が妹に返事をするより先に母さんが妹に嬉しそうに話しかけた。
「あら。明日香、今朝はずいぶんお兄ちゃんと仲良しなのね」
「そうかな」
「そうよ。いつもは喧嘩ばかりしてるのに。それに明日香、今日のあなたすごく可愛いよ。
いつもより全然いい」
「そう?」
妹は少し顔を赤くした。「お兄ちゃんはどう思う?」
突然僕は妹に話を振られた。とりあえず僕は口に入っていたトーストをコーヒーで流し
込みながら思った。妹が僕のことを好きなのかどうかはともかく、妹のこの変化は良いこ
とだ。
「うん、似合ってる。と言うか前の格好はおまえに全然似合ってなかった」
言ってしまってから気がついたけどこれは明らかに失言だった。似合っているで止めて
おけばよかったのだ。何も前のこいつのファッションまで貶すことはなかった。僕は今度
こそ妹の怒りを覚悟した。
妹は赤くなって俯いて「ありがとう、お兄ちゃん」と言っただけだった。
「本当に仲良しになったのね。あなたたち」
母さんが僕たちを見て再び微笑んだ。
「おはようございます。奈緒人さん」
奈緒はいつもの場所で僕を待っていてくれた。今日は彼女より早く来たつもりだったの
だけど結局奈緒に先を越されてしまった。
「おはよう、奈緒ちゃん。待った?」
「いえ。あたしが早く来すぎちゃっただけですよ。まだ約束の時間の前ですし」
奈緒が笑った。やっぱり綺麗だな。僕は彼女の顔に見入ってしまった。
「どうしました?」
不思議そうに僕の方を見上げる奈緒の表情を見ると胸が締め付けられるような感覚に捕
らわれた。いったいどんな奇跡が起こって彼女は僕のことなんかを好きになったのだろう。
「何でもないよ。じゃあ行こうか」
「はい」
奈緒は自然に僕の手を取った。「行きましょう。昨日と違ってゆっくりできる時間じゃ
ないですよね」
「そうだね」
僕たちは電車の中で初めて付き合い出した恋人同士がするであろうことを忠実に行った。
つまり付き合い出した今でもお互いのことはほとんどわかっていなかったのでまずそのギ
ャップを埋めることにしたのだ。奈緒の腕は今日も僕の腕に絡み付いていた。
とりあえず奈緒についてわかったことは、彼女が富士峰女学院の中学二年生であること、
一人っ子で両親と三人で暮らしていること、同じクラスに親友がいて下校は彼女と一緒な
こと、ピアノを習っていて将来は音大に進みたいと思っていること。
何より僕が驚いたのは彼女の家の場所だった。これまでいつも自宅最寄り駅の前で待ち
合わせをしていたし、最初の出会いもそこだったから僕は今まで奈緒は僕と同じ駅を利用
しているのだと思い込んでいたのだ。でも奈緒の自宅は僕の最寄り駅から三駅ほど学校と
反対の方にある駅だった。
「え? じゃあなんでいつもあそこで待ち合わせしてたの?」
「何となく・・・・・・最初にあったのもあそこでしたし」
「じゃあさ。昨日とか相当早く家を出たでしょ?」
「はい。ママに不審がられて問い詰められました」
奈緒はいたずらっぽく笑った。
「最初に出会った日にもあそこにいたじゃん?」
「あれは課外活動の日で親友とあそこで待ち合わせしたんです。彼女は奈緒人さんと同じ
駅だから」
ちゃんと確認すればよかった。僕は彼女にわざわざ自分の最寄り駅で途中下車させてい
たのだ。
「ごめん。無理させちゃって」
「無理じゃないです。あたしがそうしたかったからそうしただけですし」
「あのさ」
僕はいい考えを思いついた。「明日からは電車の中で待ち合わせしない?」
「え?」
「ここを出る時間の電車を決めておいてさ。その一番後ろの車両の・・・・・・そうだな。真ん
中のドアのところにいてくれれば僕もそこに乗るから」
「はい。奈緒人さんがそれでよければ」
彼女の家の場所を聞いてみてよかった。これで余計な負担を彼女にかけずに済む。
僕自身のこともあらかた彼女に説明し終っても、学校の最寄り駅まではまだ少し時間が
あった。僕はさっきから聞きたくて仕方がないけど聞けなかったことが気になってしよう
がなかった。でもそんなことを聞くと自分に自信のない女々しい男だと奈緒に思われてし
まうかもしれない。
奈緒は楽しそうに自分の通っているピアノのレッスン教室の出来事を話していたけど、
気になって悶々としていた僕はあまり身を入れて聞いてあげることができなかった。そし
てその様子は奈緒にもばれてしまったようだ。
「あの・・・・・・。奈緒人さん、どうかしましたか?」
奈緒は話を中断して僕の方を見た。
「いや」
駄目だ。やっぱり気になる。僕は思い切って彼女に聞いた。
「奈緒ちゃんってさ」
「はい」
話を途中で中断された彼女は不思議そうな顔で僕の方を見た。
「あの、つまりすごい可愛いと思うんだけど、やっぱり今まで彼氏とかいたんだよね?」
奈緒は戸惑ったように僕を見たけど、すぐに笑い出した。
「あたし可愛くなんてないし。それにずっと女子校だから男の人とお付き合いするのって
これが初めてです」
「そうなんだ・・・・・・」
「ひょっとして奈緒人さん、あたしが男の人と付き合ったことあるか気にしてたんです
か?」
「違うよ・・・・・・・いやそれはちょっとは気になってたかもしれないけど」
僕は混乱して自分でも何を言ってるのかわからなかった。でも奈緒のその言葉だけはき
ちんと胸の奥に届き、僕はその言葉を何度も繰り返して頭の中で再生した。
「男の人とお付き合いするのってこれが初めてです」
「奈緒人さん。顔がにやにやしてますよ」
奈緒が笑って言った。
「そうかな」
「そんなにあたしに彼氏がいなかったことが嬉しかったんですか」
「僕は別に・・・・・・」
不意に奈緒がこれまでよりもう少し僕に密着するように腕に抱き付いている自分の手に
力を入れた。
「でも気にしてくれてるなら嬉しい。奈緒人さんは今まで彼女とかいたんですか? 中学
も高校も共学ですよね?」
「いないよ。僕も奈緒ちゃんが初めての彼女だよ」
それが奈緒にどんな印象を与えたのかはわからなかった。自分が初めての彼女で嬉しい
と思ってくれるのか、もてない男だと思って失望されるのか。でも何となくこの子には正
直でいたいと思っている僕がそこにいた。そしてそれは決して嫌な感覚ではなかった。
「嬉しい」
奈緒は言った。「お互いに初めて好きになった相手でしかも名前も似てるんですよ」
「うん」
「本当に運命の人っているのかも」
僕と奈緒は改めて見つめ合った。
「お、奈緒人じゃん」
僕たちはその時大きな声で僕に話しかけてきた渋沢に邪魔された。
「あ、奈緒人君だ。って富士峰の制服の子だ」
これは志村さんだった。「奈緒人君の彼女って人でしょ? もう一緒に登校してるん
だ」
「おはよう」
僕はしぶしぶ二人にあいさつした。
僕は二人に奈緒を紹介した。二人のところを邪魔されたわけだけど、奈緒は僕の友人た
ちに僕の彼女として紹介されることが嬉しかったのか、高校の最寄り駅で別れるまでずっ
と機嫌が良かった。正直に言うと僕の方はもっと奈緒と二人きりで話をしていたかったの
だけど。
「じゃあ、奈緒人さん。また明日ね」
奈緒が控え目な声で言った。「明日は電車の中で待ち合わせだから忘れないでください
ね」
「うん、大丈夫だよ」
「渋沢さん、志村さん。これで失礼します」
「またね~」
「気をつけてね」
僕は渋沢と志村さんのせいで何か消化不良のような気分になりながら奈緒に別れを告げ、
邪魔をしてきた二人と連れ立って電車から降りた。
「奈緒ちゃんってさ」
志村さんが校門に向って連れ立って歩いている時に言った。「どっかで見たような気が
するんだよね」
「前からいつもあの電車みたいだから登校中に見かけたんじゃない?」
僕は言った。
「いや、そういうのじゃなくて。何だっけなあ。ここまで出かかってるんだけど」
彼女は首をかしげて考え込んだ。こうなると僕も志村さんがどこで奈緒を見かけたのか
気になってきた。
「おまえの記憶力は怪しいからな」
渋沢がそこで茶々を入れた。「奈緒人もあまりマジになって受け止めない方がいいぞ」
「本当だって・・・・・・でも、ああだめだ。思い出せない」
「しかし綺麗な子だったなあ。しかも富士峰の生徒だし、深窓の美少女って言うのは奈緒
ちゃんみたいな子のことを言うのかな」
渋沢が感心したように言った。
「本当にそうね」
志村さんも同意した。
「本当にそうだよなあ」
思わず僕もそれに同意してしまった。自分の彼女なのだからひょっとしたらもっと謙遜
しなきゃいけなかったかもしれないのだけど。
「おまえが言うな」
案の上渋沢に突っ込まれた。「彼女の自慢かよ」
「そうじゃないよ。でも自分でも何で彼女みないな子と付き合えることになったのか自分
でもいまいち理解できてなくて」
「そういうことか」
渋沢が笑った。「まあ、あんまり考えすぎなくてもいいんじゃね? さっきの奈緒ちゃ
んを見ていてもおまえのことを好きなのは間違いないみたいだし」
「そうかな」
「そうだよ。奈緒人君はもっと自分に自信を持った方がいい」
志村さんも言った。
渋沢と志村さんの言葉は嬉しかった。やはり奈緒は本当に僕のことが好きになってくれ
たのだ。何でああいう子が僕なんかをという疑問は残るけど、今は奈緒が僕のことを本気
で好きになったということだけで十分だと思うべきなのだろう。
「よかったね、奈緒人君。君ならきっとああいう、感じのいい女の子に好かれるんじゃな
いかと思ってた」
志村さんが言った。
「何だよ。奈緒人にだけそういうこと言っちゃうわけ? 俺は?」
「・・・・・・あんたにはあたしがいるでしょ? 何か不満でも?」
「ないけどさ」
かつて志村さんに告白して振られた僕としては複雑な気持ちだった。彼女が今の言葉を
真面目に言っているのだとしたら、あの時僕が振られた理由は何なのだろう。そのことが
ちょっとだけ気になったけど、もうそれは今では過去の話だった。それに志村さんは彼氏
である渋沢には、僕から告られたことを黙っていてくれている。その彼女の気持ちを蒸し
返す余地はなかった。
僕には今では奈緒がいる。そう考えただけでも僕は心が軽くなった。明日は奈緒と会っ
てから車両の位置を変えようか。そうすれば通学中に渋沢たちと出くわさないで済む。
決して渋沢たちと四人で過ごすが嫌だったわけではない。でも僕たちはまだ出合って恋
人同士になったばかりだった。四人で楽しく過ごすより今は二人きりで話をしたい。
奈緒は気を遣ったのか本心からかわからないけど、渋沢たちと一緒にいることを楽しん
でくれたようだった。でも彼女だって最初は二人きりがいいに違いない。僕たちはまだお
互いのことを知り始めたばかりだったのだ。
授業が終り部活に行く渋沢と別れて下校しようとした時、志村さんが僕に話しかけてき
た。
「奈緒人君もう帰るの?」
「ああ。帰宅部だしね。君は渋沢が部活終るの待つの?」
「まさか。何であたしがそこまでしなきゃいけないのよ」
「・・・・・・何でって言われても」
「奈緒人君、帰りも彼女と一緒なの?」
「帰りは別々だよ。前から親友と一緒に帰ってるんだって。あとピアノのレッスンとかあ
るみたいだし」
「ああ、やっぱりそうか」
「え?」
「一緒に帰らない? あ、言っとくけど明はあんたとあたしが一緒に帰ったって嫉妬なん
かしないからね」
「まあいいけど」
それで僕たちは並んで校門を出て駅の方に向かって坂を下って行った。
「あたしさ。思い出したのよ」
電車に乗るといきなり志村さんが言った。
「思い出したって何を?」
「ほら、今朝話したじゃん。奈緒ちゃんってどっかで見たことあるってさ」
それは僕にも気になっていた話題だった。思ったより早く志村さんは記憶を取り戻して
くれたようだった。
「はい、これ」
彼女から渡されたのはどっかのWEBのページをプリントした数枚のA4の紙だった。
「何これ」
「さっきIT教室のパソコンからプリントしたんだよ。奈緒ちゃんってさ名前、鈴木奈緒
でいいんでしょ?」
奈緒の苗字や名前の漢字まで志村さんは知らないはずだったのに。
「・・・・・・そうだけど」
「じゃあ、もう間違いないや」
彼女は僕の手からプリントを取り返してそのページを上にして僕に渡した。
「ここ見て」
『東京都ジュニアクラッシク音楽コンクールピアノ部門中学生の部 受賞者発表』
『第一位 富士峰女学院中等部2年 鈴木奈緒』
『演目:カプースチン:8つの演奏会用練習曲 作品40 第5番「冗談」』
『表彰状、トロフィー、記念品、賞金30,000円の贈呈』
プリントに印刷されているのはそれだけだったけど奈緒の名前の横に小さく顔写真が掲
載されていた。荒い画像だったけどその制服と何よりもその顔は奈緒のものだった。
「これさ、あたし生で見てたんだよね」
志村さんが言った。「従姉妹のお姉ちゃんがこの大学生部門に出場したんで応援しに行
ったの」
「その時にさ、あたしピアノの演奏の善し悪しとかわからないんだけど、何か中学生の部
に出てた子がやたら可愛かった記憶があってさ。それで奈緒ちゃんのこと覚えてたみた
い」
思い出せてすっきりした。そう言って志村さんは笑った。
僕は駅から自宅に歩きながら再び気持ちが落ち込んでいくのを感じた。
奈緒が僕のことを好きなことは今となっては疑いようがない。だからなんで奈緒のよう
な子が僕のことなんか好きになったのだろうとうじうじと考えることは止めにしようと思
っていた。でもピアノコンクールで一位とかっていう話を聞くとまた別な不安が沸いてき
たのだ。
今現在奈緒は付き合い出したばかりの僕のことが好きかもしれない。でもあれだけ容姿
に恵まれていて、それだけではなくピアノの方もコンクールで受賞するレベルとなると、
この先も彼女が僕のことを好きでいてくれる保証は何もない。ここまでくると世界が違う
というほかはない。奈緒からピアノのレッスンの話とか音大志望のことは聞いてはいたけ
ど、ここまで本格的に取り組んでいるとは考えもしていなかった。
単なるお嬢様学校に通う生徒の嗜みくらいならともかく、入賞レベルだとすると中高は
彼氏どころじゃないのが普通じゃないのか。僕はこの世界のことはよく知らないけど、こ
こまで来るには相当厳しいレッスンに耐えてきたはずだった。
それにその世界にだっていい男なんていっぱいいるかもしれない。僕ではピアノの話に
は付き合えないけど、彼女と同じくこの世界を目指している男にだって奈緒の容姿は好ま
しく映るだろう。そういう奴らと比較された時に奈緒は僕を選んでくれるのだろうか。
どう考えても将来は不安だらけだった。
今日は以上です。何度も言うようですけど、当分は再投下が続きます。
再投下中はペースは早いと思いますが。
帰宅して自分の部屋に上がる前にリビングを覗くと、僕に気がついた妹がソファから立
ち上がった。
「おかえりなさい」
妹は相変わらずいい妹路線を続けているようだった。髪が黒いままなのは当然として化
粧もしていないし異様に長かったまつげも普通になり爪も自然な桜色のままだ。
こいつが昔からこうだったらあるいは僕は明日香に惚れていたかもしれない。一瞬そん
などうしようもないことを考え出すほど、前と違ってこいつの顔は少し幼い感じでその印
象は可愛らしい少女のそれだった。
「ただいま」
「今日もお父さんたち帰り遅いって」
「そう」
「お風呂沸いてるよ」
僕は少し驚いた。風呂の水を入れ替えてスイッチを入れるのはいつも僕だった。妹は僕
の沸かした風呂に入るか、シャワーだけかいつもはそんな感じだったのだ。
「先に入っていいよ。ご飯用意できてるから」
え? こいつが夕食を用意するなんて初めてのことじゃないのか。妹は僕の好みに合わ
せて服装を変えるとは言ったけど生活習慣全般を見直すとは思わなかった。
「先に入っていいのか」
「何で聞き返すのよ。変なお兄ちゃん」
妹は笑って言った。
僕が風呂から上がってリビングに戻ると妹は相変わらずソファに座って何かを読みふけ
っていた。
「おい・・・・・・勝手に読むなよ」
それは風呂に入る前にうっかりカバンと一緒にリビングに放置してしまった奈緒のコン
クールのプリントだった。
「ああ、ごめんお兄ちゃん。片付けようとしたらお兄ちゃんの彼女が載ってたからつい」
僕は一瞬苛々したけどこれは放置しておいた僕の方が悪い。それに奈緒と付き合ってい
ることは妹にはばれているのだし、今さらコンクールのことなんか知られても別に不都合
はないだろう。
「コンクールで優勝とかお兄ちゃんの彼女ってすごいんだね」
妹が無邪気に言った。「そんな子をいきなり彼女にできちゃうなんてお兄ちゃんのこと
をなめすぎてたか」
妹は笑った。嫉妬とか嫌がらせとかの感情抜きで妹が奈緒のことを話してくれるように
なったことはありがたい。でも奈緒のことをすごいんだねと無邪気に言われると、改めて
自分の奈緒の恋人としての位置の危うさを指摘されているようで、少し気分が落ち込んだ。
「ほら、これ返すよ。ご飯食べる?」
驚いた僕の様子に、帰宅して初めて妹は少し気を悪くしたようだった。
「さっきから何なの? 妹がお兄ちゃんにお風呂沸かしたり食事を用意するのがそんなに
不思議なの?」
「うん。不思議だ。だっておまえこれまでそんなこと全然しなかったじゃん。むしろ僕の
方が家事の手伝いはしてただろ」
僕は思わず本音を言ってしまった。
「ふふ。これからは違うから」
でも妹は怒り出しもせず微笑んだだけだった。
テーブルについて妹が用意してくれた簡単な夕食を二人きりで食べた。何か不思議な感
覚だったけど別にそれは不快な感じではなかった。
「そういえばさ」
機嫌は悪くなさそうだったけど妹がずっと沈黙していることに気まずくなった僕は気に
なっていたことを尋ねた。
「何」
「おまえさ、僕の友だちと知り合いだったんだってな」
「え? お兄ちゃんの友だちって?」
「渋沢と志村さんっていうカップル。おまえの彼氏だったイケヤマとかというやつとおま
えと四人で遊んだことがあるっていってた」
「渋沢さんが? お兄ちゃんの知り合いとかって言ってなかったけど」
「知らなかったみたい。この前偶然おまえの名前で気づいたみたいだな」
「ふ~ん」
妹は関心がなさそうだった。
「お兄ちゃんが二人から何を聞いたのか知らないけど、それ全部過去のあたしだから」
「はい?」
「あたしはもう彼氏とも別れたし遊ぶのも止めたの・・・・・・それは今さらピアノを習うわけ
には行かないけど」
「おまえ、何言ってるの」
妹は立ち上がって僕の隣に腰掛けた。
「いい加減に気づけよ。あたしはあんたのことが、お兄ちゃんのことが好きだってアピー
ルしてるんじゃん」
僕が避けるより早く妹は僕に抱きついてキスした。
次の日は週末で学校は休みだった。このまま両親不在の自宅で妹と過ごすのは気まずい
と思った僕は、まだ妹が起きる前に朝早くから外出することにした。
別に目的はなかったのでどこかで時間を潰せればよかった。そう思って駅前まで行って
はみたものの十時前ではろくに店も開いていなかった。
とりあえず電車に乗ろうと僕は思った。休日の電車なら空いているし確実に座れるだろ
う。図書館とか店とかが開くまで車内で座って居眠りでもしていよう。よく考えれば最近
はあまり睡眠が取れていなくて寝不足気味だった。僕はとりあえず学校と反対方向に向う
電車に乗り込んだ。どうせならいつもと違う景色の方がいい。
昨日の妹のキスは今までの悪ふざけとは少し違った感じだった。僕はすぐに妹を押し放
して「もう寝るから」と言い放って自分の部屋に退散したのだけれど、僕に突き放された
ときの妹の傷付いたような目が気になっていた。
でもやはりそれは正しい行動だった。今では僕には彼女がいるのだから。
それに、たとえナオと付き合っていなくたって妹と付き合うなんて考えられなかった。
いくら血が繋がっていないとはいえ家族なのだ。妹と恋人同士になったなんて両親や渋沢
たちに言えるわけがない。そう考えると昨日の明日香のキスはとてもまずい。というか明
日香は違うかもしれないけど僕にとってはそれは初めてのキスだった。
もう考えることに疲れた僕は席について目をつぶった。すぐに眠気がおそって来てきた。
電車の心地よい振動と車内の暖房に誘われて僕は眠りについた。
「・・・・・・さん」
心地よい声が耳をくすぐった。
「奈緒人さん」
え? 僕は目を覚ました。さっきまで誰もいなかった隣に座っている女の子がいる。そ
れは私服姿の奈緒だった。その時ようやく意識が覚醒した僕は密着して話しかけている奈
緒の顔の近さに狼狽した。
「奈緒人さん休みの日にどこに行くんですか」
奈緒はそんな僕を見てくすくすと笑った。
「確かに偶然だけどそんなに驚かなくてもいいじゃないですか」
突然現われた奈緒の姿に驚いて固まっている僕に彼女は親しげな口調で言った。
「・・・・・・いつからいたの?」
「一つ前の駅から乗ったら奈緒人さんが目の前で寝てるんですもん。びっくりしちゃっ
た」
奈緒は笑った。
「奈緒ちゃんはどこかに行くところ?」
ようやく頭がはっきりした僕は相変わらず密着している奈緒に聞いた。
「ピアノのレッスンなんです」
奈緒は言った。
「こんなに早くから?」
僕は驚いた。僕にとっては土曜日の朝なんて十時ごろまで寝坊するのが普通だっただけ
に。
「毎週土曜日の午前中はお昼までレッスンなんです」
「大変なんだね」
僕はそう言ったけど同時にコンクールの入賞のことを思い出して、それなら無理はない
なと思った。
「好きでやっていることですから」
奈緒はあっさりと答えた。
「それよりも偶然ですよね。奈緒人さんはどこにお出かけなんですか。学校とは逆方向で
すよね」
僕にぴったりと寄り添うように座っている奈緒と会話を始めると、さっきまで悩んでい
た明日香とのことも忘れられるようだった。
でも、妹と一緒に家にいたくないから目的もなく外出しているとは言えない。
「いや、特に何でって訳じゃないよ。本とか探したくてぶらぶらと」
「本屋なら奈緒人さんの最寄り駅に大きなお店があるのに」
「たまにはあまり降りたことのない駅に降りてみたくてさ」
苦しい言い訳だったけどどういうわけかその言葉は奈緒の共感を呼んだようだった。
「ああ、何となくわかります。あたしもたまにそういう気分になるときがありますよ」
「そうなの」
「奈緒人さんと初めて会った時ね、あの駅で初めて降りたんですよ。駅前の景色とかも新
鮮で何かいいことが起こりそうでドキドキしてました・・・・・・そしたら本当にいいことが起
こったんですけどね」
奈緒は少しだけ顔を赤くして笑った。
「でも週末は奈緒人さんと会えないと思ってたから今日は得しちゃったな」
それは僕も同じだった。妹のことで胃が痛くなって自宅から逃げ出した僕だったけど期
せずして奈緒に会えたことが嬉しかった。
「奈緒ちゃんのピアノのレッスンってどこでしているの」
「ここから、えーとここから四つ目くらいの駅を降りたとこです」
僕は車内に掲示してある路線図を眺めた。
「降りたことない駅だなあ。あのさ」
「はい」
「奈緒ちゃんさえ迷惑じゃなかったらピアノの教室まで一緒に行ってもいい?」
「本当ですか」
奈緒は目を輝かせた。「夢みたい。偶然電車で会えただけでも嬉しかったのに」
「そんな大袈裟な」
その時もっといい考えが思い浮んだ。もっとも奈緒に午後予定がなければだけど。一瞬
だけためらったけど勇気を出して奈緒に言った。
「それとよかったらだけど。奈緒ちゃんのレッスンの終った後、一緒にどこかで食事とか
しない?」
「え?」
調子に乗りすぎたか。びっくりしているような奈緒の表情を見て僕は後悔した。奈緒の
好意的な言動に調子に乗ってまた志村さんの時のようにやらかしてしまったか。
でもそれは杞憂だったようだ。
「でも・・・・・・いいんですか? レッスンが終るまで三時間くらいかかりますよ」
「うん。本屋とかカフェとかで時間つぶしてるから大丈夫」
「じゃあ、はい。奈緒人さんがいいんだったら」
「じゃあ決まりね」
僕はその時財布の中身のことを思い出した。一瞬どきっとしたけどよく考えれば大丈夫
だった。今月はお小遣いを貰ったばかりで全然使っていないし、先月の残りも一緒に財布
に入っている。食事どころか一緒に遊園地に行ったって平気なくらいだった。
「じゃあ、あたし後で家に電話してお昼は要らないって言っておきます」
「家は大丈夫?」
「大丈夫・・・・・・と思います。大丈夫じゃなくても大丈夫にします」
「何それ」
僕は笑った。
「本当に今日はラッキーだったなあ。一本電車がずれてたら、あと車両が一つずれてたら
会えなかったんですものね」
奈緒は嬉しそうに言った。
僕と奈緒は並んでその駅から外に出た。奈緒にとっては毎週通っている町並みだったの
だろうけど、僕はこの駅に降りたのは初めてだった。
駅から出ると冬の重苦しい曇り空が広がっていた。そのせいで初めて来た町並みはやや
陰鬱に映ったけれど、よく眺めると静かで清潔な駅前だ。駅前には開店準備中の本屋と既
に開店しているチェーンのカフェがあった。これで奈緒を待っている間時間を潰すことが
できる。
僕は奈緒に言われるとおりに駅から閑静な住宅地への続く道を歩いて行った。いつのま
にか奈緒が僕の手を握っていた。
曇り空の下を奈緒と手を繋ぎ合って知らない街を歩く。何か奇妙なほど感傷的な想いが
僕の胸を締め付けた。初めて訪れた街だけど奈緒と二人なせいかどこか静かな住宅地が身
近な場所のように感じられる。
前に奈緒は僕に運命を信じるかと聞いたことがあった。正直運命なんて信じたことはな
かった。それでも今この住宅地をと二人で並んで歩いていると、その様子に既視感を覚え
た。しかもその感覚はだんだんと強くなっていく。
「奈緒人さん?」
奈緒が奇妙な表情で僕に言った。
「うん」
「笑わないでもらえますか」
「もちろん」
「あたしね。この道は幼い頃から何百回って往復した道なんです」
「うん」
「幼い頃からずっとここの先生に教えてもらってたから」
「そうなんだ」
「でも今日は初めてちょっと変な感じがして」
「変って?」
「あたし、前にも奈緒人さんと一緒にこの道を歩いたことがあるんじゃないかなあ」
それは僕の感じた既視感と同じようなことなのだろうか。僕自身のその感覚は強くなり
すぎていて、今では夕焼けに照らされたこの道を奈緒と並んで歩いてるイメージが鮮明に
頭に浮かんでいた。
「あたし、奈緒人さんと手を繋いでここを歩いたことあると思う」
奈緒が戸惑ったように、でも真面目な表情で言った。
「奈緒人さん、運命って信じますか」
そう奈緒に聞かれたのは二度目だった。最初のときは曖昧な笑いで誤魔化したのだけど。
僕は超常現象とかそういうことは一切受け付けない体質だ。世の中に生じることには全
て何らかの合理的な説明がつくはずだと信じている。でも前にもこの場所で奈緒と一緒に
いたことがあるというこの圧倒的な感覚には、合理的な説明がつくのものなのだろうか。
「よくわかんないや」
僕は再びあやふやに答えた。
「そうですか。あたしひょっとしたらあたしと奈緒人さんって前世でも恋人同士か夫婦同
士だったんじゃないかって思いました」
奈緒は真面目な顔で言った。「奈緒人さんと一緒にここを歩いていた記憶って前世のも
のなんじゃないかなあ」
「どうだろうね」
僕にはよくわからなかった。でも奈緒が感じたというその記憶は、その時僕も確かに感
じていたのだ。
「運命とか前世とかはよくわからないけど・・・・・・昔、奈緒ちゃんと一緒にこの道を歩いた
ことがあるんじゃないかとは僕も思ったよ。その時は夏だった感じだけど」
「それも夕方だった思います」
奈緒が言った。
「うん。僕も同じだ。まあ前世とかはわからないけど、僕と奈緒ちゃんって結ばれる運命
なのかな」
僕は真顔で相当恥かしいことを言った。
「それです、あたしが言いたかったのも。きっと運命的な出会いをしたんですね。あたし
たち」
奈緒が考え込んでいた表情を一変させて嬉しそうに言った。
こんな話を聞いたら渋沢や志村さん、それに妹だって腹の底から笑うだろうな。僕はそ
の時そう思った。まるでバカップルそのものの会話じゃないか。でも僕にはそのことはま
るで気にならなかった。僕は奈緒の小さな手を握っている自分の手に少しだけ力を込めた。
奈緒の手もすぐにそれに応えてくれた。
閑静な住宅地の中にそのピアノ教室はあった。外見は普通のお洒落な家のようだった。
「本当にいいんですか? 待っていただいて」
奈緒が言った。
「うん。駅前に戻って時間を潰して十二時半くらいにここへ戻って待ってるから」
「じゃあお言葉に甘えちゃいますね。あたし男の人に迎えに来てもらうのって初めてで
す」
僕は笑った。
「僕だって女の子を迎えに来るなんて初めてだよ。待っている間に食事できるお店を探し
とくね」
「あ、はい。何だか楽しみです。今日は練習にならないかも」
奈緒が赤くなって微笑んだ。
「それはまずいでしょ。都大会の中学生の部で優勝した奈緒ちゃんとしては」
「・・・・・・何で知ってるんですか?」
奈緒は驚いたように言った。
「まあちょっとね」
「何か・・・・・・ずるい」
奈緒が言った。
「ずるいって・・・・・・」
「あたしは奈緒人さんのこと何も知らないのに。何であたしのことだけ奈緒人さんが知っ
てるの?」
僕は思わず笑ってしまった。知っているのはこれだけでしかもそれは志村さんの情報だ
った。あとでそれを奈緒に説明しよう。
「話は後でいいでしょ。ほら早く入らないと遅刻しちゃうよ」
「・・・・・・奈緒人さんの意地悪」
奈緒はそう言って恨めしそうな顔をしたけど結局笑い出してしまったので、彼女の恨み
は全然切実には伝わらなかった。
「後で全部話してもらいますからね」
奈緒はその家のドアを開けて中に姿を消した。ドアを閉める前に奈緒は僕の方に向って
ひらひらと手を振った。
奈緒が入っていった家のドアを僕はしばらく放心しながら眺めていた。
奈緒が言っていたような前世とかを信じていたわけではなかったけど、運命の恋人とか
言われることは気分が良かったので僕は特にそのことに反論しなかった。でも、確かなこ
とは一つだけだ。僕が好きなのは、僕にとって一番大切な子はわずか数日前に付き合い出
した奈緒だけだ。そろそろ妹のアプローチに鈍感な振りをしているのも限界かもしれなか
った。もし本当に妹が僕のことを好きなのだとしたら。
結局妹を傷つけるなら少しでも早いうちに自分の本心を妹に告げたほうがまだしもあい
つの傷は浅いかもしれない。
そんなことを考えながら僕は時間を潰すために駅前の方に向った。無事に駅前に着いた
とき再び僕は違和感を感じた。僕は昔から方向音痴だった。方位的な感覚がなく地図を見
るのも苦手なので、初めて来た土地でこんなにスムースに駅前に戻れるなんてあり得ない。
まして行きはナオの指示のままに何も考えずに着いて行ったのだし。
やはりここには来たことがあるのだ。そして体がそれを覚えていたのだろう。奈緒の言
うような前世とかではなく、この世に生まれてから僕はこの駅とあのピアノ教室の間を歩
いたことがあるのではないだろうか。でもそれがいつのことでいったい何のためにピアノ
教室になんか行ったことがあるのかまるでわからない。僕はピアノなんて習ったことはな
いのだ。
駅前に戻ったときにはもう本屋が開店していた。本屋で適当に時間つぶしのための雑誌
を買った僕はカフェに行こうとしてふと気づいた。そういえば一緒に食事をする約束がで
きたのはいいけどいったいどこに行けばいいのだろう。奈緒には偉そうにお店を探してお
くよと言ったけど本当は当てなんか何もない。女の子がどんな店を好むのかさえよくわか
らなかった。そう言えば渋沢と志村さんに誘われて放課後三人でファミレスに入ったこと
があった。ドリンクバーだけで二時間くらい粘ったっけ。ああいう店なら無難なのかもし
れない。僕はカフェに行くのを止めて駅前を探索することにした。お店の当てすらないけ
ど幸い時間だけは十分にあった。確か駅の自由通路を抜けた反対側が少し繁華街のように
なっていたはずだった。
僕はそちらの方に向けて駅の中を抜けて繁華街の方に行ってみた。幸いなことに西口の
方はお店だらけだった。駅前広場に沿ってファミレスが数軒。その他にもちょっとお洒落
そうなパスタ屋とかカフェとかも結構ある。そのほとんどが営業中だった。これなら大丈
夫だ。この中のどこかのファミレスに入ればいいのだ。ようやく重荷を下ろした僕はほっ
として東口のカフェに入った。
カフェで窓際の席に落ち着いた僕はさっき買った雑誌をめくる気がおきないまま、ぼん
やりとレストランを探していたときのことを思い出していた。ピアノ教室までの道もそう
だけど、初めて降りたこの駅の西口が繁華街だなんて僕はどうしてあの時何の疑問も持た
ずに思いついたのだろう。早く店を決めたくて焦っていた僕は、あの時は何も考えずに心
の声に従って行動した。その結果、思ったとおり西口は繁華街で僕は探していた店を見つ
けることができた。覚えていないだけでやはりこの街に来たことがあるのか。それが一番
妥当な回答だった。
まあいいや。今はそんなことを考えるよりもっと考えなきゃいけないことがある。雑誌
なんて買う必要はなかったのだ。今日は期せずして奈緒とデートできることになったのだ
から、食事の後どうするのかも決めておかなければならない。よく考えれば時間をつぶす
とか言っている場合じゃなかった。
とりあえずファミレスで食事をする。ドリンクバーも頼んで少し長居したいものだ。そ
れで奈緒とずっとお喋りするのだ。いつもなら僕の学校の最寄り駅まで三十分くらしか一
緒にいられない。感覚的にはあっという間に別れの時が来ているような感じだった。だか
ら今日は奈緒さえよければずっと一緒に話をしていよう。その後は。
奈緒は何時までに家に帰らなければならないのだろうか。とりあえず遊園地とか動物園
とか水族館とかそういうのは時間的に無理だから、ファミレスを出た後はもう帰るしかな
いかもしれない。でもナオさえよければ彼女を家の途中まで送っていくことはできるだろ
う。さすがに家まで送るのは僕には敷居が高かったけど、駅までとかなら。
そんなことを考えているうちにすぐに時間が経ってしまい、そろそろ奈緒をピアノ教室
まで迎えに行く時間になっていた。
思ったとおり奈緒が案内してくれなくても心の中の指示に従って歩くだけで、住宅街の
複雑な道筋に迷うこともなくさっき彼女と別れたピアノ教室の前まで来ることができた。
その建物のドアの真ん前で待つほど度胸がない僕は、少し離れたところで教室のドアを見
守った。もう少しで十二時半になる。
やがて教室のドアが開いて中から女の子たちが連れ立って外に出てきた。華やかという
とちょっと違う。でも決して地味ではない。その子たちは何か育ちのいいお嬢様という感
じの女の子たちだった。彼女たちは笑いさざめきながら教室を出て駅の方に向かって行っ
た。そういう女の子たちに混ざって女の子ほどじゃないけど男もそれなりに混じっている
ようだった。こちらはやはり少し真面目そうで、でも女の子に比べると地味な連中ばかり
だった。少なくとも渋沢みたいなタイプは一人もいない。でもよく考えれば僕だって外見
はこの男たちの仲間なのだ。しかもこいつらは外見はともかく音楽の才能には恵まれてい
るんだろうけど、僕はそうじゃない。それなりに成績が良かったせいでこれまであまり人
に劣等感を抱いたことがなかった僕だけど、それを考えると少し落ち込んでいくのを感じ
た。奈緒にふさわしいのはこの教室に通っているような男なんじゃないのか。ついにはそ
んな卑屈な考えまで僕の心に浮かんできた。
そのとき唐突に妹の姿が目に浮かんだ。明日香はビッチな格好を卒業したみたいだけど、
中身はいったいどうなんだろう。少なくともこの教室に通っている女の子たちとは全く共
通点がない。どういうわけか僕はこの時明日香のことが気の毒になった。あいつだって
色々悩んだ結果、大人しい外見に戻ることを選んだのだろうに、やっぱり僕の目の前を楽
しそうに通り過ぎて行く華やかで上品な女の子たちには追いつけないのだろうか。
やがて奈緒が姿を現した。彼女はドアから外に出て周りを見回している。僕を探してく
れているのだ。少し離れたところで半ば身を隠すようにしているせいで奈緒はすぐには僕
が見つからなかったようだ。僕が奈緒の方に寄って行こうとした時、誰かが彼女に話しか
けるのが見えた。
それは黒ぶちの眼鏡をかけた高校生くらいの男だった。彼は馴れ馴れしく奈緒の肩に片
手をかけて彼女を呼び止めた。奈緒もその男に気づいたのか振り向いて笑顔を見せた。そ
の男が奈緒に何か差し出している。どうもピアノの譜面のようだ。譜面を受け取りながら
奈緒は彼に何か話しかけた。彼にお礼を言っているみたいだった。奈緒の方に行こうとし
た僕はとっさに足をとめ、隣の家の車の陰に半ば身を隠すようにした。
何でこんな卑屈なことをしているのだろう。僕は自分のしたつまらない行動を後悔した。
奈緒はさっき僕のことを運命の人とまで言ってくれたんじゃないか。奈緒は笑顔で譜面を
渡した彼に話しかけていたけど、目の方は相変わらずきょろきょろと周囲を見回している
ようだった。僕を探してくれているのか。その時奈緒と目が会った。
奈緒はその彼に一言何かを告げると嬉しそうに真っ直ぐに僕の方に向かって来た。その
場に取り残された男は未練がましく何かを奈緒に話しかけたけど、彼女はもう彼の方を振
り向かなかった。
「お待たせしちゃってごめんなさい」
奈緒はそう言っていきなり僕の手を取った。「奈緒人さん、待っている間退屈だったで
しょ」
僕が心底から自分の卑屈な心の動きを後悔したのはその時だった。こんなに素直に僕を
慕ってくれている奈緒に対して、僕は卑屈で醜い劣等感を抱いていたのだから。
「いや、お店とか探してたら時間なんかあっという間に過ぎちゃった」
「そう? それなら良かったけど」
僕たちの話を聞き取れる範囲には、その男のほかにも同じピアノ教室に通っているらし
い女の子たちがまだいっぱいいたけれど、奈緒はその子たちの方を見ようとはしなかった。
上目遣いに僕の顔を見ているだけで。さっきまでの卑屈な考えを後悔した僕だったけど、
新たな試練も僕を待ち受けていた。周囲の女の子たちの視線が突き刺さるのを僕は感じた。
ここまで周りを気にせずに僕に駆け寄っていきなり男の手を握る奈緒の姿は、周囲の女の
子たちの注目を集めてしまったようだった。
案の定そのうちの一人が奈緒に話しかけてきた。
「奈緒ちゃんバイバイ」
奈緒も僕から目を離して笑顔でそれに答えた。「ユキちゃん、さよなら」
「・・・・・・奈緒ちゃん、その人って彼氏?」
ユキという子は別れの挨拶だけでこの会話を終らせるつもりはないようだった。彼女の
周りの女の子たち、それにさっきから僕の手を握る奈緒をじっと見つめている、奈緒に話
しかけた男も聞き耳を立てているようだ。
奈緒はちらっと僕の顔を見た。それから彼女は少し紅潮した表情でユキという子に答え
た。
「そうだよ」
周囲の女の子たちがそれを聞いて小さくざわめいたけど、もう奈緒はそちらを見なかっ
た。
「じゃあねユキちゃん。行きましょ、奈緒人さん」
僕は奈緒に手を引かれるようにして駅前の方に向った。
「ごめんね」
奈緒が言った。
「ごめんって何で」
「みんな噂好きだからすぐにああいうこと聞いてくるんですよ」
「別に気にならないよ。君の方こそ僕なんかが待っていて迷惑だったんじゃないの」
僕は思わずそう言ってしまってすぐにそのことに後悔した。奈緒が珍しく僕の方を睨ん
だからだ。
「何でそんなこと言うんですか? あたしは嬉しかったのに。奈緒人さんが待っていてく
れるって思うとレッスンに集中できないくらいに嬉しくて、集中しなさいって先生に怒ら
れたけどそれでも嬉しかったのに」
「ごめん」
僕は繰り返した。またやらかしてしまったようだ。でも奈緒はすぐに機嫌を直した。
「ううん。あたしこそ恥かしいこと言っちゃった」
奈緒は照れたように笑った。
この頃になると周りにはピアノ教室の生徒たちの姿はなくなっていた。
「一緒に食事して行ける?」
僕は奈緒に聞いた。
「はい。さっきママに電話しましたし今日は大丈夫です」
「じゃあファミレスでもいいかな」
ファミレスでもいいかなも何もファミレス以外には思いつかなかったのだけど、とりあ
えず僕は奈緒に聞いた。
「はい」
奈緒は嬉しそうに返事した。
相変わらず空模様はどんよりとした曇り空だったけど、その頃になると駅の西口もかな
り人出で賑わいを増していた。そう言えばもうすぐクリスマスだ。目当てのファミレスで
席に着くまで十五分くらい待たされたけど、その頃になると再び僕は気軽な気分になって
いたせいで、奈緒と話をしているだけで席に案内されるまでの時間が長いとは少しも思わ
ずにすんだ。
「ご馳走するから好きなもの頼んで」
僕は余計な念を押した。渋沢とかならこんな余計な念押しはしないだろう。一瞬僕は余
計なことを言ったかなと後悔したけど、奈緒は素直にお礼を言っただけだった。
とりあえず料理が来るまで僕は自分が待っている間にこの駅前を探索したこと、不思議
なことに初めて来たはずのこの街で少しも迷わなかったことを話した。
「う~ん。あたしと一緒に教室までの道を歩いた記憶があるというだけなら、前世の記憶
だって主張したいところですけど」
奈緒が少し残念そうに言った。「奈緒人さん一人でもこの辺の地理に明るかったとした
ら、奈緒人さんは昔この街に来たことがあるんでしょうね。忘れているだけで」
「何で残念そうなの」
僕は思わず笑ってしまった。
「だって、前世でも恋人同士だったあたしたちの記憶が残っていると思った方がロマンテ
ィックじゃないですか」
「それはそうだ」
「まあ、でも。よく思い出したら昔何かの用でここに来たことがあるんじゃないですか」
奈緒は言った。
「さあ。記憶力はよくない方だからなあ。全然思い出せない。逆に言うとここに来たのが
初めてだと言い切るほどの自信もない」
「それじゃわからないですね」
奈緒は笑った。その時注文した料理が運ばれてきた。
食事をしながら奈緒と他愛ない話を続けていたのだけど、だんだん僕はあの男が気にな
って仕方なくなってきた。変な劣等感とか嫉妬とかはもうやめようと思ったのだけど、こ
れだけはどうしても聞いておきたかった。
「あの・・・・・・気を悪くしないでくれるかな」
奈緒がパスタの皿から顔を上げた。
「何ですか」
「さっきの―――さっき君の肩に手を置いた男がいたでしょ? 随分馴れ馴れしいという
か、結構親しそうだったんだけど彼は奈緒ちゃんの友だちなの?」
奈緒はまた不機嫌になるかなと僕は覚悟した。でも彼女はにっこりと笑った。
「嫉妬してくれてるんですか?」
その言葉と奈緒の笑顔を見ただけで既に半ば僕は安心することができたのだ。
その日僕たちはそのファミレスで二時間以上も粘っていた。さっき奈緒の肩に手をかけ
て呼び止めた男がただのピアノ教室での知り合いで、奈緒にはその男に対する特別な感情
は何もないと知って胸を撫で下ろした僕は、いつもよりリッラックスして奈緒と会話する
ことができた。
「何で奈緒人さんがコンクールのこと知ってるんですか?」
いろいろとお互いのことを質問しあう時間が一段落したときに奈緒が思い出したように
尋ねた。そこで僕は種明かしをした。志村さんの情報だということを知った奈緒は自分が
載っているWEBページのプリントを見せられて驚いていた。
「写真まで載ってたんですね。初めて見ました」
そう言って奈緒は自分の記事をしげしげと眺めていた。
偶然に出会って始まった土曜日の午後のデートだったけど、この出会いで僕は奈緒のこ
とが大分わかってきたし、奈緒にも自分のことを教えることができた。奈緒も僕も離婚家
庭で育った。幸いなことに奈緒は再婚した両親のもとで幸せに普通の暮らしをしているみ
たいだし、妹のことを除けば僕だってそうだった。でもここまで境遇が似ていると、奈緒
が言う運命の人っていうのもあながちばかにできないのかもしれなかった。
話はいつまでたっても尽きないしここでもっと奈緒とこうしていたいという気持ちもあ
ったけど、そろそろ帰宅する時間が近づいてきていた。曇った冬の夕暮れは暗くなるのが
早い。窓の外はもう完全に暗くなっている。
「そろそろ帰ろうか。結構暗くなって来ちゃったし」
僕の言葉に奈緒は顔を伏せた。
「そうですね。もっと時間が遅く過ぎればいいのに」
「また月曜日に会えるじゃん。あと、よかったら今日家の近くまで送っていくよ」
奈緒が顔を上げた。少しだけ表情が明るくなったようだった。
「本当ですか?」
「うん。君さえよかったら」
「はい・・・・・・うれしいです」
「じゃあ、そろそろ出ようか」
僕は伝票を取って立ち上がった。
僕たちは寄り添って帰路に着いた。さっきファミレスではあれほど話が盛り上がって、
僕のくだらない冗談に涙を流すほど笑ってくれた奈緒だったけど、駅に向う途中でも、そ
して電車が動き出した後も彼女はもう自らは何も話そうとしなかった。
奈緒はただひたすら僕の腕に抱きついて身を寄せているだけだったのだ。週末の車内は
空いていたので僕たちは寄り添ったまま座席に着くことができた。奈緒は黙って僕の腕に
抱きついているだけだったけど、その沈黙は決して居心地の悪いものではなかった。
「・・・・・・この駅です」
途中の駅に着いた時奈緒が言った。
「じゃあ、途中まで送って行くね」
奈緒はこくりと頷いた。
さっきのピアノ教室があった駅と同じで、駅前は完全に住宅地の入り口だった。何系統
もあるバスがひっきりなしに忙しく駅前広場を出入りしている。
「こっちです。歩くと十分くらいですけど」
「うん」
「もっと家が遠かったら一緒にいられる時間も増えるのに」
奈緒がぽつんと言った。
僕の腕に抱きついて顔を伏せているこの子のことがいとおしくて仕方がなかった。僕に
できることなら何でもしてあげたい。僕は奈緒に笑顔でいて欲しかったのだ。
閑静な住宅街であることはさっきのピアノ教室と同じで、奈緒の家がある街は綺麗な街
並みだった。道の両側に立ち並ぶ瀟洒な家々からは暖かそうな灯りが洩れて通りに反射し
ている。
「あの角を曲がったところです」
奈緒が言った。
「じゃあ、僕はこの辺で帰るよ」
奈緒は僕の腕から手を離した。そして再び黙ってしまった。
僕は奈緒の両肩に手をかけた。彼女は目を閉じて顔を上げた。僕は奈緒にキスした。
それから二週間くらい経った土曜日の午後、僕は奈緒のピアノ教室の前で彼女を待って
いた。それはクリスマス明けの二十六日のことだった。クリスマスには陰鬱な曇り空だっ
た天気は、どういう気まぐれかちらほらと降る雪に変わっていた。
結局、臆病な僕は付き合いだしたばかりの奈緒に対して、イブを一緒に過ごそうと持ち
かけることはできなかった。でも誘わなくて正解だったようだ。富士峰はイブの日とその
翌朝は校内の礼拝堂で礼拝と集会があるのと彼女は僕に言った。イブの日のデートに勇気
を出して奈緒を誘っていたら、結局僕は彼女に断られることになっていたはずだ。
でもその話を聞いた渋沢と志村さんは笑い出した。
「何だよ。そんなのおまえに誘ってもらいたかったに決まってるだろ」
「だって学校の行事があるからって」
「そこで、じゃあ何時になったら会える? って聞けよアホ」
「そう聞いたらどうなってたんだよ。勝手なこと言うな」
僕は二人の嘲笑するような視線に耐え切れなくなって言った。
「まあまあ、落ち着きないさいよ」
志村さんがそう言った。
「落ち着いているって」
「でもあたしも明の言うとおりだと思うな」
「どういうこと?」
「奈緒人君が彼女を誘っていれば、学校行事はサボるとかさ。そこまでしなくても、夕方
には時間がありますとか絶対言ってたよ、奈緒ちゃんは。むしろ期待してたんじゃない?
可愛そうに」
志村さんにまでそう言われてしまうとこの手の話題には疎い僕にはもう反論できなかっ
た。
「じゃあ二十六日とかに一緒に遊びに行くか」
「それでも何もしないよりましかもね」
渋沢と志村さんが目を合わせて笑った。
そういうわけで僕は、クリスマスの日の夜、勇気を振り絞って奈緒に電話した。ピアノ
教室が終った後に渋沢と志村さんと四人で遊びに行かないかと。あいつらが言うように奈
緒が僕にクリスマスに誘われなくてがっかりしたのかどうかはわからないけど、その時の
僕の誘いに奈緒は目を輝かせるようにして答えてくれた。
「はい。大丈夫です。絶対に行きます」
「じゃあ明日の土曜日、君の教室が終わる頃にまたあそこで待ってるね」
「お迎えに来るのが面倒だったらどこかで待ち合わせてもいいですけど」
奈緒が僕に気を遣ったのかそう言った。「わざわざ来ていただくもの申し訳ないです
し」
渋沢や志村さんに言われなくてもさすがにこのくらいの問題には僕だって回答すること
はできる。
「奈緒ちゃんさえよかったら迎えに行くよ。その方が渋沢たちに会うまで君と二人で一緒
にいられるし」
「・・・・・・うん」
奈緒は微笑んだ。やはりあいつらの言っていることにも一理あるのだろうか。「すごく
嬉しいです。奈緒人さん」
ここまで直接的に愛情表現をしてくれる奈緒に対して僕は臆病すぎるのかもしれない。
奈緒は少し赤くなった顔で僕に言った。
「じゃあ待ってます」
「うん」
「・・・・・・あの」
「どうしたの」
「明日は教室の前で待っていてくださいね。前みたいに離れたところで待っていたらだめ
ですよ」
僕は面食らった。
「どうして? というか堂々と教室の前で待つのは何か恥かしい」
「恥かしがらないでください」
奈緒が真面目な表情になって言った。「あたしたち、お付き合いしているんですよ
ね?」
「う、うん」
「じゃあ教室の目の前で堂々と待っていてください。あたしも教室のお友だちにあたしの
彼氏だよって紹介できますから」
「うん・・・・・・」
「それに・・・・・・いつも一緒に帰ろうって誘われる先輩がいるんですけど、奈緒人さんが教
室の前で待っていてくれればその人にもちゃんと断れますし」
「わかった」
僕は戸惑ったけど奈緒がここまできっぱりと言葉にしてくれているのだ。恥かしいとか
言っている場合ではなかった。「そうするよ」
僕はちょうどピアノ教室が終る時間に教室の前に着いた。その建物の正面で待っている
のは目立ちすぎだと思ったけど、これは奈緒との約束だった。
落ち着かない気持ちが次第につのって行く。結構胃が痛い感じだった。そうやって待っ
ていると他にもそこで誰かを待っているやつがいることに気がついた。
金髪とピアス。強面そうな顔。
そいつは明らかにこの閑静な住宅街の中では不自然な存在だった。僕以上に。でもそい
つのことを僕は以前に見かけたことがあった。
間違いない。こいつは僕の妹の前の彼氏のイケヤマとかいうやつにに違いない。でもど
うして彼がここにいるのだ。もしかして僕と一緒でここに通っている女の子を迎えに来た
のだろうか。
いくら女に対して手が早そうな外見だからといって、妹と別れたばかりでこんなに早く
次の彼女ができているということも信じがたいし、偏見かもしれないけどここに通ってい
るような真面目な女の子とこいつが付き合うというのも考えづらい。
その時イケヤマが不意に振り向いたので僕たちの視線が合った。イケヤマに強い目で睨
まれて僕は一瞬ひるんだ。イケヤマとは前に一度出くわしたことがあるし、僕が明日香の
兄であることを知っているのかもしれなかった。妹も前に僕の視線にそいつが傷付いたみ
たいなことを言っていたし。でもイケヤマの睨みつけるような視線が絡んだのは一瞬だけ
だった。すぐに彼は視線を逸らし早足でピアノ教室から遠ざかって行った。僕はイケヤマ
の背中を眺めたがらいったいこいつはここで何をしたかったのだろうかと考えていた。
角を曲がって姿が消えたイケヤマの背中から目を離すと、ちょうど教室のドアが開いて
奈緒が少しだけ急いでいる様子で外に出てきた。一番先に出てくるとは思わなかったけど、
さっき恥かしいからと言った僕を気にして他の子より早くで出てきてくれたのかもしれな
い。約束どおり今日は隅の方に隠れていないでドアの正面に立っている僕の方に向かって
奈緒は小さく手を振って小走りに近寄ってきた。そのまま奈緒は僕の腕に抱きついた。こ
んなどうしようもない劣等感の塊の僕の上に天使が降ってきたようだ。今までも何度とな
く考えていた感想が再び僕の胸を締め付けた。
僕は柄にもなく抱きついてくる奈緒に向って微笑んだ。僕が奈緒に声をかけようとした
とき、それまで奈緒の背後に隠れていた小柄な女の子が目に入った。僕と目が合ったその
女の子はにっこりと笑った。
「こんにちは」
「有希ちゃん、何でいるの?」
奈緒も少し戸惑ったようにユキという子に言った。
「何でって、帰り道だもん。それよか紹介して」
「まあ・・・・・・いいけど。前にも話したと思うけどあたしの彼氏の奈緒人さん。奈緒人さん、
この子は富士峰の同級生で有希ちゃんっていうの」
「はじめまして奈緒人さん」
有希ちゃんは好奇心で溢れているという様子で、それでも礼儀正しく僕にあいさつして
くれた。
「あ、どうも」
もともと女の子と話すことが苦手な僕にはこれでも上出来な方だった。とにかく今まで
奈緒とここまで普通に会話できていることの方が奇跡に近いのだ。僕と奈緒の出会いが彼
女の言うように運命的な出来事だったせいなのかもしれないけど。
「奈緒人さん。有希ちゃんは親友なんです。学校もピアノのレッスンも一緒なんですよ」
「そうそう。それなのに最近土曜日のレッスン後は奈緒ちゃんは一緒に帰ってくれないし。
何でだろうと思ってたら彼氏が出来てたとは」
「ごめん。でも前にも話したでしょ」
「奈緒人さん、奈緒ちゃんは奥手だけどいい子なんでよろしくお願いしますね」
有希が笑って僕に言った。
「何言ってるの」
「そうだ、奈緒人さん。親友の彼氏なんだしメアドとか交換してもらってもいいですか」
え? 僕は一瞬ためらった。奈緒の親友には冷たくするわけにはいかないし、かといっ
て会ったばかりの有希とメアドを交換することに対して、奈緒がどう考えるのか僕にはよ
くわからなかった。
僕は一瞬有希に返事ができず奈緒の顔色を覗った。奈緒は心なしか少しだけ不機嫌そう
な気がする。そんなにあからさまな様子ではなかったし僕の思い過ごしかもしれないど。
それでも彼女の親友にメアドを教えてって言われたくらいで気を廻してそれを断る勇気は
僕にはなかった。奈緒が有希に何か言ってくれればいいのだけど、奈緒は相変わらず微妙
に不機嫌そうな雰囲気を漂わせたままのすまし顔だ。
「うん、いいよ」
僕はそれ以上考えるのを諦めて有希に返事をした。
「やった」
有希が可愛らしく言った。別に彼女に興味を持ったわけではないけど、やはりこの子も
奈緒と同じくらい可愛らしい子だった。
有希にさよならを言って駅の方に歩き出した僕たちだったけど、いつのまにか奈緒の手
は抱き付いていた僕の腕から離れ、僕たちは手を握り合うこともなく微妙な距離を保った
まま歩いていた。少し遅れ気味に僕の後からついてくる奈緒を思いやって僕は後ろを振り
向いて声をかけた。
「ごめん。歩くの速かったかな」
奈緒はそれには答えずに僕から目を逸らした。
何だと言うのだろう。仕方なく僕はまた歩き出して少しして奈緒の方を振り返った。
奈緒は俯いたままでその場に立ちすくんでいた。
・・・・・・いったい何なんだろう。もちろん僕にだって思いつく理由として有希とのメアド
交換が思い浮んだけど、あれは僕のせいでも何でもないだろう。
有希を紹介したのは奈緒だったし、有希がメアド交換を言い出した時だって別に奈緒は
それを制止したわけでもない。正直に言えば奈緒しか目に入っていない僕が有希とメアド
を交換したのだって奈緒の友だちだということで気をつかったからだ。それなのに多分奈
緒はそのことに拗ねている。僕は少し理不尽な彼女の態度に対する怒りが沸いてくるのを
感じた。
僕は生まれて初めてこんなに女の子を好きになったといってもいいほどに奈緒に惹かれ
ている。彼女のためなら多少の理不尽はなかったことにしてもいいくらいに。でも罪悪感
を感じていないことに対して謝罪してはいけない。奈緒がついてくるかどうかわからない
けど僕は再び駅の方に歩き始めた。
僕は今まで妹に謝ったことがない。両親の再婚と母さんの愛情が半分だけ僕に向けられ
たことによって妹が傷付いたことは間違いない。そのせいで僕は妹に散々嫌がらせをされ
た。多分その張本人の妹だって期待していないくらいに傷付きストレスを感じた。でも僕
はそのことで本気で妹を責めたことはなかった。それは妹の痛みを、幼かった妹にはどう
しようもなかった出来事で彼女が傷付いた痛みを理解できたからだった。
同時に辛い思いをさせたかもしれない妹に対して謝ろうと思ったこともなかった。確か
に明日香は、父さんと母さんの再婚の結果、母さんの愛情と関心を僕に奪われたと感じ、
そのせいで傷付いているかもしれない。でも、去年両親に真相を知らされてから考えてい
たことだったけど、そのことに関して僕は明日香に対して罪悪感を感じる理由はない。
そのこととこれとを一緒にする気はないけど、いくら奈緒がさっきのできごとで怒ろう
と拗ねようと、そしそのせいで僕のことを嫌いになろうと自分の今までの考え方を曲げる
気はなかった。
僕は足を早めた。これで終るなら終わるだけのことだ。僕は確かに奈緒に惹かれていた
し彼女と付き合えて嬉しかったけど、自分のポリシーを曲げてまで彼女の機嫌を取る気は
なかった。もう後ろを振り向かずに寒々とした曇り空の下を歩いていく。やはり見慣れな
い街のはずだけど迷う気は全くしなかった。もう駅がその姿を見せていた。
考えてみれば奈緒には今日、渋沢と志村さんと一緒に遊ぼうと誘っただけで待ち合わせ
場所も待ち合わせ時間も話していない。このまま奈緒がついてこないままで、改札を通っ
てしまえば今日はもう奈緒とは会えないのだ。渋沢と志村さんが僕を責める言葉が聞こえ
てくるようだった。渋沢なら僕のポリシーなんてどうでもいい、一言奈緒に謝るだけじゃ
ないかと僕を責めるだろう。そして志村さんは、取り残された奈緒ちゃんが可哀そうとか
言うに違いない。
僕は息を呑んだ。これが初めてできた僕の彼女との別れになるかもしれない。
今からでも遅くない。振り返って奈緒のところまで行ってごめんといえば、僕には二度
とできないかもしれない可愛い彼女と仲直りできるかもしれない。でも僕はそうしなかっ
た。僕はパスモを取り出して改札口から駅の中に入ろうとした。
その時背後に軽い駆け足の音が響いてそれが何かを確かめるよリ前に僕は後ろから思い
切り抱きつかれた。
「ごめんなさい」
泣き声交じりの奈緒の声が僕の顔の間近で響いた。
「奈緒人さん本当にごめんなさい」
僕は抱きつかれた瞬間に力を込めてしまった全身を弛緩させた。
「・・・・・・どうしたの」
僕の背中に抱きついた奈緒が泣きじゃくっている。
「ごめんなさい。怒らないで・・・・・・お願いだからあたしのこと嫌いにならないで」
「どうしたの」
さすがに僕も驚いて奈緒に聞いた。
「嫌な態度しちゃってごめんなさい。あたしが悪いのに」
僕はこの時ほっとした。それまで僕を縛っていた頑な思いが解きほぐされていくようだ
った。僕はどうして自分のほうから奈緒に手を差し伸べてあげられなかったのだろう。僕
の方こそこんなにも奈緒に執着しているのに。
僕は振り向いて奈緒を正面から見た。
「・・・・・・怒ってないよ。僕の方こそ辛く当たってごめん」
妹に対する僕の態度と比べるとダブルスタンダードもいいところだった。でも気がつい
てみると僕もピアノ教室から駅までの短い距離を歩く間に相当緊張し悩んでいたのだ。僕
は改めてそのことに気がつかされた。
奈緒は正面に向き直った僕にしっかりと抱きついた。
「有希ちゃんは親友だしあたしの方から奈緒人さんに紹介したのに」
やっぱり地雷はそこだったようだ。
「有希ちゃんとメアド交換している奈緒人さんを見てたら嫉妬しちゃって。そしたら何か
素直に振る舞えなくなって。こんなこと初めだったからどうしていいかわからなくて」
「もういいよ。わかったから」
奈緒は涙目で僕の方を見上げた。
「僕こそごめん。有希さんとメアド交換していいのかわからなかったけど、奈緒ちゃんの
友だちだし断ったら悪いと思ってさ」」
「・・・・・・本当にごめんなさい」
「いや。僕こそ無神経でごめん。あとさっきは先に行っちゃてごめんね」
「そんな・・・・・・奈緒人さんは悪くない。あたしが悪いの」
週末のせいかその時間には駅前には人がたくさんいた。そんな中で抱きあっていた僕と
奈緒の姿は相当目立っていたに違いない。
僕は奈緒の肩に両手を置いた。周囲の人混みが視界からフェードアウトし気にならなく
なる。奈緒がまだ涙がうっすらと残っていた目を閉じた。
渋沢と志村さんとの待ち合わせ場所は隣駅の駅前のカラオケだった。いろいろと揉めた
せいで余裕があったはずの待ち合わせ時間にぎりぎりなタイミングになってしまった。
仲直りしてからの奈緒は電車の中でいつもより僕に密着しているようだった。
「本当にあたしのこと嫌いになってない?」
僕に抱きついたまま席に座った奈緒が小さな声で言った。
「なってない」
僕はそう言って奈緒の肩を抱く手に力を込めた。いつもの僕と違って周囲の人たちの好
奇心に溢れた視線は気にならなかった。その時唯一気にしていたのはどうしたら僕がもう
気にしていないということを奈緒に信じてもらえるかだけだった。
「・・・・・うん」
奈緒が僕の胸に顔をうずめるようにしながら小さくうなずいた。彼女にも周りの視線を
気にする余裕はないようだった。でもこれで奈緒と仲直りできたのだ。
「もう泣かないで」
「うん」
やっと奈緒は顔を上げて泣き笑いのような表情を見せた。
数駅先の繁華街にあるカラオケに着く頃には奈緒は元気を取り戻していた。
「ここで遊ぼうって言われてるんだけどカラオケとか平気?」
何せ富士峰のしかもまだ中学生なのだから僕は念のために聞いた。
「大丈夫です。お友だちと何度か入ったこともありますし」
「よかった。じゃあ行こう」
「はい」
渋沢と志村さんはもうカラオケのフロントで僕たちを待っていた。
「よう奈緒人」
「奈緒人君こっちだよ」
「やあ」
「こんにちは」
「奈緒ちゃんも今日は~」
「じゃあ行こうぜ。俺が受け付けしてくるよ。とりあえず二時間でいいな」
渋沢がチェックインするために受付のカウンターの方に向かって言った。
クリスマスの後の昼間のせいかすぐに待たずに個室に案内された僕たち十人以上は座れ
そうなボックスを見て戸惑った。
「どう座ろうか」
やたら広い室内を見ながら志村さんが言った。「これは広すぎるよね」
「まあ狭いよりいいじゃん。適当に座ろうぜ」
「奈緒ちゃん一緒に座ろう」
志村さんが奈緒の手を引いてモニターの正面のソファの方に彼女を連れて行った。奈緒
は手を引かれながら何か言いたげにちらりと僕の方を見た。
「じゃあ俺たちはこっちに座ろうぜ」
渋沢が言った。僕の方を見ていた奈緒の視線が脳裏に浮かんだ。僕はもう迷わず奈緒の
隣に腰掛けた。奈緒は微笑んで僕の手を握ってくれたけどもちろんそれは渋沢や志村さん
にも気がつかれていただろう。
「何だよ。こっち側に座るの俺だけかよ」
渋沢がぶつぶつ言った。「何でお前ら三人だけ並んで座ってるんだよ」
「じゃあ、あんたもこっち座れば」
志村さんが自分の隣の席を叩いて見せた。「ここおいでよ」
「何でこんなに広いのに片側にくっついて座らなきゃいけないんだよ」
渋沢は文句を言いながらも志村さんの隣に納まった。確かに広い部屋の片隅で身を寄せ
合っている姿は傍から見て滑稽だったろう。でも僕は多分奈緒の期待に応えたのだ。僕は
隣に座っている奈緒を見た。奈緒もすぐに僕の視線に気が付いたのかこちらを見上げて笑
ってくれた。
これなら今日は奈緒と色々話せそうだった。ところがしばらくするとそれは甘い考えだ
ったことがわかった。曲が入っているときは話などまともにできなかったし、曲の合間は
渋沢と志村さんが好奇心に溢れた様子でひっきりなしに奈緒に話しかけていたからだ。
最初は戸惑っていた奈緒も志村さんや渋沢に親しげに話しかけられているうちに次第に
二人に心を許していったようだった。
学校のこと、ピアノのこと、趣味のこと。そして僕との馴れ初めやいったい僕のどこが
気に入ったかという質問が二人から奈緒に向けられ、最初はたどたどしく答えていた奈緒
も最後の方では笑顔で志村さんと渋沢に返事をするまでになっていた。
彼女が僕の友だちと仲良くなるのは嬉しかったけど、僕抜きで盛り上がっている三人を
見ていると少しだけ気分が重くなってきた。
「そういや昼飯食ってなかったじゃん。ここで何か食おうぜ」
渋沢が言った。
「そうだね。ここなら安いしね」
「ピザとチキンバスケット頼んでくれよ」
「あんた一人で食べるんじゃないっつうの」
志村さんはそう言ってメニューを広げた。「奈緒ちゃん、二人で選んじゃおう」
「はい」
奈緒は楽しそうに女さんに答えた。二人はしばらくメニューを見てからにぎやかに注文
している。
「おい奈緒人。おまえさっきから何も歌ってねえじゃん。奈緒ちゃんだって歌ってるのに
よ」
「僕はいいよ、歌苦手だし」
「何だよ、うまいとか下手とかどうでもいいじゃんかよ」
僕が言い返そうとしたとき、客が少ないせいか早くも注文した食べ物や飲み物を持った
店員が部屋に入ってきた。
「何か話してばっかで全然歌えなかったね」
結局二回時間を延長したために外に出たときはもう薄暗くなっていた。あちこちのビ
ルの店舗から洩れる灯りが路面をぼんやりとにじませている。
「おまえが奈緒ちゃんにペラペラ話かけていたせいだろうが」
渋沢が笑って言った。
「何よ。あんただって奈緒ちゃんに興味深々にいろいろ質問してたくせに」
「そりゃまそうだけどさ。奈緒ちゃん」
「はい?」
「奈緒ちゃん歌上手だね。あと君は本当にいい子だな」
「え」
「奈緒人をよろしく。こいつ口下手だし根暗だし真面目なくらいしか取り得がないけど
さ」
ちょっとだけ改まった口調で渋沢が言った。
「あんたそれ言いすぎ」
志村さんが真面目な口調になって渋沢に注意したけど渋沢は気にせず言葉を続けた。
「でもいいやつなんでよろしくね」
奈緒は少し驚いたようだったけど、顔を赤くして渋沢に答えた。
「ええ。よくわかってます。心配しないでくださいね」
「うん。じゃあまたな。奈緒人、おまえ奈緒ちゃんを送って行くんだろ」
「あ、あたしは大丈夫です」
「送っていくよ」
僕は奈緒の顔から目を逸らして言った。
電車を降りて奈緒の家の方に向かっている間中、僕は黙って奈緒の先に立って歩いてい
た。これではさっき奈緒をピアノ教室に迎えに行った時と同じだ。そしてさっきは奈緒の
理不尽な怒りに頭がいっぱいだったのだけど、今の僕のこの感情に対して奈緒に責任がな
いことはわかっていた。ただ形容しがたい寂しさが僕の中にあるだけだった。
これは理不尽な怒りだ。奈緒には何も責任はない。奈緒は僕に誘われて渋沢たちと会い
社交的に彼らと話しただけだ。これでは怒りと言うよりも相手にされなかった子どもが拗
ねているのと同じだ。
僕の脳裏に今まで思い出すこともなかった記憶が蘇った。
母親がいない夜。
自分も半泣きになりながら、僕は誰もいない家で怯え抱きついて泣いていた妹を抱き締
めた。
でも僕には両親が離婚前の記憶はないはずだった。何でこんなにリアルにこんな情景が
浮かぶのだろう。それに僕には義理の妹の明日香がいるだけだ。実の妹がいるなんて聞い
たこともない。
突然脳裏に押しかけてきた圧倒的にリアルな悪夢を頭を振って追い払った時、奈緒が僕
の背後から不安そうな声で僕に声をかけた。
「あの。奈緒人さん、何か怒ってますか」
おどおどとした奈緒の震え声を聞いた途端、突然僕の心が氷解した。僕は振り返って奈
緒に手を差し伸べた。この子がいとおしくてしかたがない。一瞬の幻想の中で怯えて僕に
抱きついていた幻の妹の姿が奈緒と重なった。奈緒は差し伸べられた僕の手をそっと握っ
た。
「ごめん。奈緒ちゃんがあいつらとずっと楽しそうに話していたし、僕は君とあまり話せ
なかったんで少しだけ嫉妬しちゃったかも。僕が悪いんだよ」
その時奈緒は少しだけ怒ったような、それでいて少しだけ嬉しそうな複雑な表情を見せ
た。
「あたし、奈緒人さんのお友だちと仲良くしてもらって嬉しくて」
「うん、わかってる。僕が勝手に君に嫉妬したんだ。本当にごめん」
「でも、さっきあたしも有希ちゃんと奈緒人さんに嫉妬しちゃったし、おあいこなのかも
しれないですね」
「いや。今のは僕が悪いんだよ」
奈緒は僕を見つめた。
「あたし、渋沢さんと志村さんとお話できて嬉しかったですけど、やっぱり奈緒人さんと
二人きりでいたいです」
「そうだね。今後は二人でカラオケ行こうか」
「はい。今度は奈緒人さんの歌も聞かせてくださいね」
奈緒はようやく安心したように僕の腕に抱きついて笑った。
今日は以上です
また投下します
その晩僕が帰宅すると珍しく玲子叔母さんがリビングのソファに座って妹とお喋りして
いた。
「叔母さんお久しぶりです」
僕はとりえず叔母さんにあいさつした。叔母さんは今の母さんの妹だ。
「よ、奈緒人君。元気だった?」
叔母さんはいつものように陽気に声をかけてくれた。僕はこの叔母さんが大好きだった。
本当の叔母と甥の関係ではなかったことを知ってからもその好意は変わらなかった。
この人は僕は自分の本当の甥ではないと昔から知ってたにも関らずいつも僕の味方をし
てくれていた。
「元気ですよ。叔母さん、久しぶりですね」
「元気そうでよかった」
叔母さんはそう言って笑った。でも叔母さんは少し疲れてもいるようだった。
「相変わらず忙しいんですか? 何か疲れてるみたい」
「まあね。ちょうど年末進行の時期でさ。今日なんかよく定時に帰れたと思うよ」
仕事が仕事だから叔母さんはいつもせわしない。
「今日は突然この近くの予定が無くなっちゃったんだって」
叔母さんの隣に座っていた妹が口を挟んだ。
僕はさりげなく妹を観察した。やはり自分で宣言したとおり真面目で清楚な女の子路線
を守っているらしい。僕がここまで本気で奈緒に惚れていなければ、結構真面目に妹に恋
してしまっていたかもしれない。それくらいに僕好みの女の子がその場に座って僕に笑い
かけていた。
「何・・・・・・?」
僕の呆けたような視線に照れたように妹が顔を赤くして言った。なぜか叔母さんが笑い
出した。
「笑わないでよ」
妹は僕の方を見ずに顔を赤くしたまま叔母さんに文句を言った。
「ごめんごめん。あたしもまだまだ若い子の気持ちがわかるんだと思ってさ」
「叔母さん!」
なぜか狼狽したように妹が大声をあげた。
「悪い」
叔母さんが笑いを引っ込めて言った。
「父さんと母さんは今日は帰ってくるの」
僕は何だかまだ少し慌てている様子の妹に聞いた。
「今夜は帰れないって」
「そうか。せっかく叔母さんが来てくれたのにね」
「いいって。あたしは久しぶりに奈緒人君の顔を見に来ただけだからさ」
叔母さんはそう言って笑った。
「でもどうしようか。あたしもさっき帰ったばかりで夕食の支度とか何にもしてないん
だ」
妹が少しだけ困ったように言った。
こいつが突然いい妹になる路線を宣言してから数日たっていたけど、やはり妹のこの手
の発言には違和感を感じた。そもそも両親不在の夜に明日香が食事の支度をすることなん
てもう何年もなかったのだし。
「叔母さんも夕食はまだなの?」
明日香が聞いた。
「うん。ここに来れば何か食わせてもらえるかと思ってさ。まさか姉さんがいないとは思
わなかったから当てがはずれちゃったよ」
「そんなこと言ったって電話とかで確認しない叔母さんが悪いよ。だいたい叔母さんほど
じゃないかもしれないけど、毎年年末はほとんど家にいないよ。ママもパパも」
明日香の言ったことは本当のことだった。父さんと母さんはお互いに違う会社に勤めて
いるけど業種は一緒だった。そしてあるとき業界のパーティーで出会ったことが二人の馴
れ初めだったということも、昨年のあの告白の際に聞かされていた。
「何で年末にそんな忙しいんだろうな。音楽雑誌の編集部なんて暇そうだけどな」
叔母さんがのんびりとした声で言った。「こう言っちゃ悪いけど、あたしのいる編集部
みたいなメジャーな雑誌を製作しているわけじゃないしさ」
「まあ、業界なりの事情があるんじゃないの」
明日香が訳知り顔で言った。「それより叔母さん、夕食まだならどっかに連れて行って
よ。あたしおなか空いちゃった」
明日香は昔から玲子叔母さんと仲が良く、お互いに遠慮せずに何でも言えるのだ。僕の
方もあの夜の両親の告白までは、明日香同様、あまり叔母さんに遠慮しなかった気がする。
叔母さんにはそういった遠慮を感じずに接することができるような大らかな雰囲気が備わ
っていたからだ。
でも実の叔母と甥の仲じゃないことを知った日以降、僕は叔母さんには心から感謝して
はいたけど、前のように無遠慮に何でも話すことはできなくなってしまっていた。
「未成年のあんたたちを勝手に夜の街中に連れ出したら、あたしが姉さんに叱られるわ」
叔母さんがにべもなく言った。
「え~。黙ってればわからないじゃん」
明日香が不平を言った。
「そうもいかないの。じゃあ、出前で寿司でも取るか。ご馳走してやるから」
「じゃあお寿司よりピザ取ろうよ。あとフライドチキンも」
寿司と聞いて嫌な顔をした明日香が提案した。こいつの味覚はお子様なのだ。
「ピザねえ・・・・・・奈緒人君は寿司とピザ、どっちがいい?」
どっちかと言えばもちろん寿司だった。さっきカラオケでピザとフライドチキンを食べ
たばかりだし。最初渋沢のリクエストをあさっりと却下した志村さんだったけど、実際に
注文した食べ物が運ばれてくると、ピザとチキンバスケットもその中にちゃんとオーダー
されていた。
渋沢に厳しい様子の志村さんも結構気を遣ってあげてるんだと、僕はその様子をうかが
って妙に納得したのだった。
それはともかく決してピザもチキンも嫌いではないけど昼夜連続となると正直あまり食
欲が沸かない。まあでもそれは僕だけの事情だから、ここでわがままをいう訳にもいかな
い。
「どっちでもいいですよ」
僕がそう言うと叔母さんは少しだけ僕の顔を眺めてから微笑んだ。
「相変わらずだね、君は。もう少しわがままに自己主張した方が結城さんも姉さんも喜ぶ
んじゃないの」
時々この人はこっちがドキッとするようなことを真顔で言い出す。僕はどう反応してい
いのか戸惑った。こんなことはたいしたことではない。わがままな明日香に譲歩するなん
ていつものことだったし、両親不在の夕食は今まではカップ麺とかで凌ぐのがデフォルト
になっていたのだ。
「明日香さあ、あんたのお兄ちゃんはお寿司の方が食べたいって。どうする? あんたが
決めていいよ」
何を訳のわからないことを。僕はその時そう思った。当然、ピザがいいと騒ぎ出すだろ
うと思った僕は、妹が少し考え込んでいる様子を見て戸惑った。
「お兄ちゃんってお寿司が好きなんだっけ」
明日香の意外な反応に僕は固まってしまいすぐには返事ができなかった。
「いや。別にピザでも」
「じゃあお寿司でいいや。特上にしてくれるよね、叔母さん」
「あいよ。あんたが電話しな。好きなもの頼んでいいから」
叔母さんは明日香に言いながらも僕に向かってウィンクした。
三十分くらいたってチャイムの音がした。
「やっと来た。叔母さんお金」
「ほれ。これで払っておいて」
「うん」
明日香が玄関の方に向って行った。
「さて」
叔母さんが僕に言った。
「・・・・・・どうしたんですか」
僕の言葉を聞いて叔母さんの表情が少し曇った。
「あのさあ。奈緒人君、何で去年くらいから突然あたしに敬語使うようになった?」
「ああ。そのことですか」
「ですかじゃない。君も昔は明日香と同じで遠慮なんかしないであたしに言いたい放題言
いってくれれたじゃんか」
「・・・・・・ごめんなさい」
「あんた。あたしに喧嘩売ってる?」
「違いますよ」
「じゃあ何でよ。あんたがあたしに敬語を使うようになったのって、結城さんと姉さんか
らあの話を聞いたからでしょ」
「まあ、そうですね」
「水臭いじゃん。それにあんた姉さんには敬語で話してる訳じゃないんでしょ」
僕は黙ってしまった。
「明日香にだって、普通におまえとかって呼べてるじゃん。何であたしにだけ敬語使うよ
うになったの?」
叔母さんは別に僕を責めている口調ではなかった。むしろ少し寂しそうな表情だった。
余計なことを言わずに謝ってしまえばいい。最初僕はそう思ったけど、そうして流してし
まうには叔母さんの口調や表情はいつもと違って真面目なものだった。だから僕は思い切
って言った。
「叔母さんって僕が去年真相を知らされる前から僕のことは、奈緒人君って呼んでたでし
ょ。妹には明日香って呼び捨てなのに。何で妹と僕とで呼び方を分けるんだろうって昔は
不思議に思ってたんです。でも、あの日両親から聞いてその理由がようやくわかりまし
た」
叔母さんは少し驚いた様子だった。多分無意識のうちに僕と明日香を呼び分けてしまっ
ていたのだろう。多分この人は僕の父さんと僕が他人だった時から僕たちのことを知って
いたのだろう。そして両親の再婚前から僕のことは君付けだったのだろう。
「そういやそうだったね」
叔母さんが珍しく俯いていた。「あたしとしたことが、無意識にやらかしてたか」
「よしわかった。あたしが悪かった。これからは奈緒人って呼び捨てにするからあんたも
敬語よせ」
・・・・・・何でだろう。僕はその時目に涙を浮べていた。
きっと幸せなのだろう。去年の両親の告白以来初めて感じたこの感覚はそう名付ける以
外思いつかない。相変わらず家には不在気味だけど、以前と変わらない様子で僕を愛して
くれている両親。その好きという言葉がどれだけ重いものなのかはまだわからないけど、
これからは僕のいい妹になると宣言しそれを実行している明日香。僕に向かって敬語をよ
せと真面目に叱ってくれる玲子叔母さん。
そして、何よりこんな僕に初めてできた理想的な恋人である奈緒。
「叔母さんありがとう」
僕は涙を気がつかれないようにさりげなく払いながら叔母さんに言った。
「ようやく敬語止めたか」
叔母さんは笑ったけど、どういうわけか叔母さんの手もさりげなく目のあたりを拭いて
いるようだった。「明日香遅いな。たかが寿司受け取るくらいで何やってるんだろ」
「さあ」
「よし、奈緒人。おまえ玄関まで偵察して来な」
さっそく叔母さんに呼び捨てされたけど僕にはそれが嬉しかった。
「じゃあ、見てくるよ」
そう言って僕がソファから立ち上がろうとしたとき、明日香が手ぶらで戻って来た。
「お寿司屋さんじゃなかったよ」
ぶつぶつ言いながら戻って来た明日香に続いて父さんがリビングに入って来た。
「あら結城さん。お帰りなさい」
「何だ、玲子ちゃん来てたのか」
父さんはそう言ってブリーフケースを椅子に置いた。
「久しぶりだね。でもよくこの時期に会社を離れられたね」
父さんは叔母さんに笑いかけた。「うちみたいな専門誌だってこの時期は年末進行なの
に」
「たまたまだよ。たまたま。それよか結城さんご飯食べた?」
何だか叔母さんがうきうきとした様子で言った。
「まだだけど」
「じゃあ、特上の寿司の出前も頼んだことだし今夜は宴会だ。鬼の・・・・・・じゃなかった、
姉さんのいない間に息抜きしましょ」
「やった。宴会だ」
明日香が楽しそうに言った。僕はそんな妹の無邪気で嬉しそうな顔をしばらくぶりに見
た気がした。
「ほら、結城さん。とっととシャワー浴びたらお酒用意してよ。さすがに勝手に酒をあさ
るのは悪いと思って今まで我慢してたんだから」
父さんが苦笑した。でも僕にはすぐわかった。仕事帰りで疲れた顔はしているけど、父
さんの表情は機嫌がいい時のものだ。
「じゃあ久しぶりに子どもたちにも会えたし宴会するか」
「あたしに会うのだって久しぶりじゃない」
叔母さんが笑って父さんに言った。
父さんがシャワーを浴びている間に寿司屋が出前を届けに来た。明日香が珍しくつまみ
を用意すると言い張ってキッチンに閉じこもってしまっていたので、僕が寿司桶を受け取
りに行った。
「奈緒人、あんたが受け取っておいで」
もうすっかり呼び捨てに慣れたらしい叔母さんからお金を受け取った僕は玄関でいつも
のお寿司屋さんから寿司桶を受け取ってびっくりした。
これっていったい何人前なんだ。
明日香は叔母さんに対しては好きなだけ甘えられるのだろう。叔母さんから預かった二
万円を出して小銭のお釣りを受け取った僕はそう思ったけど、今では僕もその仲間なのだ。
僕はリビングのテーブルの上に寿司を置いた。
「お~。相変わらず人の奢りだと明日香は遠慮しないな」
「父さんが帰ってこなければ絶対余ってたよね、これ」
「うん。ちょうどよかったじゃん。たまには明日香もいいことをするな」
明日香がサラミとかチーズとかクラッカーとかを乗せた大きな皿をキッチンから運んで
きた。こういう甲斐甲斐しい妹を見るのは初めてだったけど、それよりも明日香が運んで
きたオードブルらしきものは母さんがよく用意していたものと同じだった。
母さんの真似をしているだけといえばそれだけのことだけど、中学生のくせにどうしよ
うもないビッチだと思っていた妹を僕は少し見直していた。意外とこいつって家庭的だっ
たんだ。
「お兄ちゃん、何見てるのよ」
明日香が不思議そうに聞いた。
「あんたのこと見直してるんでしょ。意外と僕の妹って家庭的だったんだなあって」
「叔母さん・・・・・・」
「よしてよ。気持悪いから」
明日香は赤くなって、でも僕の方は見ずに叔母さんに向かって文句を言った。それは決
して機嫌の悪そうな口調ではなかった。
「さっぱりしたよ。お、豪華な寿司だな。つまみまでちゃんとあるし」
父さんがシャワーから出て着替えてリビングに入ってきた。
「そのオードブル、明日香が作ったんだって」
叔母さんがからかうように言った。
「パパ、どう? ママが作ったみたいでしょ」
そう言えば明日香は昔から実の親である母さんより父さんの方が好きみたいだったな。
僕はぼんやりと考えた。
そしてさっき感じた幸福感はまだ僕の中に留まっていた。母さんがいないのは残念だけ
どこれは久しぶりの家族団らんだった。今度会った時に奈緒にもこの話をしよう。
「それ結城さんに作ってあげたの? それとも奈緒人に?」
叔母さんがからかった。
「うるさいなあ。酔っ払いの叔母さん用に作ったんだよ」
「よくできてるよ。ありがとう明日香」
「どういたしましてパパ・・・・・・お兄ちゃん?」
「奈緒人」
父さんが僕の方を見て笑った。
「うん。うまそう」
とりあえず僕は当たり障りなく誉めた。
明日香はまた赤くなった。そんな明日香を見て父さんと叔母さんが笑った。
リビングの片方のソファには父さんと叔母さんが並んで座っていて、叔母さんは楽しそ
うに僕をからかっている。僕と並んで座っている明日香は、さっきから何か考えごとをし
ているようだった。
「しかし明日香が料理をねえ。あたしも人のことは言えないけど、明日香の料理じゃおま
まごとしているみたいなもだよなあ。正直に言ってごらん奈緒人。美味しくないでし
ょ?」
結構きついことをおばさんが言ったけど、こればかりは明日香と叔母さんの関係を知ら
ないと理解できないかもしれない。二人の仲のよさはこの程度の悪口で破綻するような関
係じゃない。両親が再婚して僕と明日香には血縁がないのだと聞かされたとき、母さんか
ら聞いたことがある。前の夫を交通事故で亡くした後、そのショックで抜け殻のようにな
ってしまった母さんに代わって明日香の面倒を一手に引き受けたのは、当時まだ音大生だ
った玲子叔母さんだったと。明日香にとっては叔母さんは母さん以上に母親なのだ。
「明日香のご飯って僕は好きだよ。残さず食べてるし。な、明日香」
「ごめん。お兄ちゃん今何って言ったの」
明日香が物思いから冷めたように聞いた。
「いや。叔母さんがさ。最近よく作ってくれるおまえの料理なんて美味しくないでしょっ
て言うからさ。僕は全部食べてるよなっておまえに聞いただけ」
「無理してるんだろ奈緒人。いいから正直に明日香の料理の感想を言ってごらん・・・・・・あ、
結城さんありがと」
玲子叔母さんが言った。後半は自分のグラスにお酒を注いだ父さんへのお礼だった。
「いや玲子ちゃん。明日香はやればできる子だからね。このつまみだってママと同じくら
い上手にできてるよ」
父さんが明日香に微笑んだ。
「上手にできてるって、それ出来合いのチーズとかサラミとか盛り合わせただけじゃん」
叔母さんが言った。どうも酔ってきているらしい。でも叔母さんの皮肉っぽい言葉には
明日香への悪意なんてないことを僕はよく知っていた。
「いや盛り付けだって才能だしな。な、奈緒人」
「うん。最近明日香が作ってくれる夕食は美味しいよ。少なくともカップ麺とかコンビニ
弁当よりは全然いいよ」
「またまた、奈緒人は昔から如才ないよな。あんたいい社会人になれるよ。あはは」
叔母さんは豪快に笑って空いたグラスを父さんに突き出した。
「パパ?」
明日香が父さんにに話しかけた。
「うん? どうした明日香」
「パパとママって今度はいつ帰ってくるの」
父さんの表情が少し曇った。そして申し訳なさそうに言った。
「大晦日の夜まではパパもママも帰れないと思う。今日だってよく帰れたなって感じだし
ね」
「うん。じゃあ夕食の支度頑張らないと」
「・・・・・・本当にどうしちゃったの? 明日香。最近気まぐれで奈緒人に飯を作ってたのは
知ってたけどさ。これからずっと姉さんの代役をするつもり?」
叔母さんが嫌がらせのように言った。
「気まぐれじゃないもん。もうちょっとで学校休みだし、それくらいはね」
「明日香は偉いな」
父さんが微笑んだ。
「じゃあ明日は食材とか買い込んでおかないとね」
明日香が父さんの言葉に顔を赤くしながら言った。
「ママからお金貰ってるか」
「うん。お金は大丈夫だけど、いっぱい買い込むからあたし一人で持てるかなあ」
「どんだけ買うつもりだよ」
叔母さんが明日香をからかった。
「そうだ。叔母さん一緒に買物に行ってよ。明日日曜日じゃん」
「アホ。あたしは明日から会社に泊まりこみで校正地獄だわ」
「どうしようかなあ」
明日香は呟いた。
「明日は予定ないし荷物持ちくらいなら僕でもできるかも」
そう口に出したとき、僕は明日香にキモイとか罵倒されることを覚悟していた。
「じゃあ手伝ってよ。兄貴だって食べるんだから」
でも、明日香はあっさりとそう言っただけだった。
明日香と僕の会話を聞いていた父さんとと玲子叔母さんは、どういうわけか目を合わせ
て微笑みあった。
その夜の騒ぎは日付を越えるまで続いた。母さんがいたら間違いなく十時過ぎには子ど
もたちは退場を言い渡されていたと思うけど、この夜は父さんも叔母さんも心底楽しそう
にしていて、僕と明日香を早く寝かせようとは考えつかなかったみたいだった。
そのことをいいことに僕も明日香もこの場に居座って父さんと玲子叔母さんの会話を聞
いたり、時折話に混じったりしていた。僕にとっては本当に久しぶりに貴重な時間だった。
そして僕の隣に座っていた明日香も以前のようにひねれることなく父さんや叔母さんに素
直に笑いかけていた。多分この場に母さんがいなかったせいだろう。明日香は父さんや叔
母さんに対しては、いつもといわけではないけどだいたいは素直に振る舞っていたのだか
ら。
それより僕を驚かせそして本当にくつろがせてくれたのは、明日香が僕の話に噛み付い
たりせず普通に反応してくれたことだった。最近の明日香は本人が宣言したとおりいい妹
になろうとしてくれていたみたいだけど、僕はその態度を心底から信用したわけではなか
った。いい妹になるとか僕が好きだという明日香の宣言は二重三重の罠かもしれない。僕
は戸惑いながらも密かに警戒していたのだった。
でもこの夜の団欒の席の明日香の楽しそうな態度はすごく自然でリラックスしていたも
のだった。父さんや叔母さんに対してだけではなく、僕に対しても普通に楽しそうに笑っ
て受け答えしてくれている。僕はいつのまにか妹に対する警戒を忘れ、僕たちは仲のいい
兄妹の会話ができていたみたいだった。そして僕と明日香が穏やかな会話を交わすたびに、
父さんと叔母さんは嬉しそうに目を合わせて微笑みあっていた。
心穏やかな時間はまだ続いていたのだけど、僕にとっては今日はいろいろ忙しく疲れた
一日だった。奈緒を迎えに行きはじめて彼女と心がすれ違ったり、仲直りしたり。叔母さ
んともまた昔のように仲良くなったり。楽しかったけどいろいろ疲れてもいたのだろう。
僕は父さんたちの会話を聞きながらうっかりうとうとしてしまったようだった。
一瞬、転寝した自分の体が揺れて倒れかかったことに気がついて僕は目を覚まして体を
起こそうとした。
「いいよ。そのままで」
明日香の湿ったようなでも優しい声が僕の耳元で響いた。「お兄ちゃん疲れたんでしょ。
そのままあたしに寄りかかっていいから」
僕は妹の肩に体重を預けながら寝てしまっていたみたいだった。体を起こそうとした僕
の肩を手で押さえながら明日香が続けた。
「このまま少し休んでなよ」
僕はその時何とか起きようとはしたけれど、結局疲労と眠気には勝てずにそのまま目を
閉じた。
しばらくして僕は目を覚ました。寝ている間中、夢の中で柔らかな会話が音楽のように
意識の底に響いていたようだった。僕は体を動かさないようにして、何とか視線だけを明
日香の方に向けた。明日香は軽い寝息をたてて目をつぶっている。僕と明日香はお互いに
寄りかかりながらソファに腰かけたままで眠ってしまっていたのだった。
そろそろ明日香を起こして自分も起きた方がいい。そして静かに会話を続けている父さ
んと叔母さんにお休みを言おう。そう思ったけど明日香の柔らかい肩の感触が心地よく居
心地がよかったため、僕は再び目を閉じてしばらくの間半分寝ているような状態のままじ
っとしていた。
そうしているとさっきまで心地よい音楽のようだった会話が意味を持って意識の中に割
り込んできた。僕は半分寝ながらもその会話に耳を傾けた。
「二人とも寝ちゃったか」
「起こして部屋に行かせた方がいいかな」
「よく寝てるしもう少しこのままにしてあげたら? 明日香と奈緒人のこんな仲のいい姿
を見るなんて何年ぶりだろ」
「そうだな。最近二人の仲が昔のように戻ったみたいなんだ。玲子ちゃんのおかげかな」
「あたしは関係ないですよ。でもこうして見ると本当に仲のいい兄妹だよね」
「うん。最近、明日香は妙に素直なんだよな」
「明日香は昔から結城さんには素直だったじゃない。本当の父親のように結城さんに懐い
ているし」
「そんなこともないよ。それに最近母親にも素直だからあいつも喜んでる」
「姉さんはちょっと気にし過ぎなんだよね」
「それだけ気を遣ってるんだよ、子どもたちに」
「・・・・・・全く結城さんは姉さんに甘過ぎだよ。それは一度はお互いに諦めた幼馴染同士で、
奇跡的に結ばれたんだから結城さんの気持ちはわかるけどさ」
「おい・・・・・・玲子ちゃん」
「大丈夫。二人ともよく寝てるみたいだから。よほど楽しかったんだろうね」
「子どもたちには悪いと思っているよ」
「最近どうなの? ナオちゃんとは面会できてるの?」
「うん。僕に娘と面会させるっていう約束は守ってくれているよ」
「大きくなったでしょ。マキさんと似ているならきっと可愛い子になってるんでしょう
ね」
「だから、子どもたちが」
「寝てるって。でもさ。真面目な話だけどさ、結城さん編集長なんだからもう少し部下に
仕事任せて家に帰るようにしなよ。うちのキャップなんてあたしの半分も社にいないよ」
「うちもあいつの社も零細な出版社だからね。玲子ちゃんとこみたいな大手みたいにはい
かないよ」
「勝手なこと言ってごめん。でも奈緒人と明日香を見ていると二人とも無理してるなあっ
て、たまに思うの」
「君がフォローしてくれて助かっているよ。玲子ちゃんだって忙しいのにね」
「あたしはこの子たちが大好きだから。好きでやってるだけだよ」
僕は今では完全に目が覚めていたけど、父さんと玲子叔母さんの会話を聞きたくて寝た
振りをしていた。罪悪感はあったけど父さんが僕たちのことをどう考えているかなんて直
接聞いたことがなかったので、僕の中で好奇心が罪悪感に打ち勝ったのだった。それにナ
オって誰だ。もちろん奈緒のはずはないけど、このタイミングでその名前を聞かされると
びっくりする。マキっていう人も知らない人だし。
「だいたい結城さんとこの雑誌ってクラッシクの専門誌でしょ? 本当にこの時期そんな
に忙しいの?」
「また馬鹿にしたな。零細誌は零細誌なりにいろいろあるんだよ」
「あ・・・・・・」
「どうした?」
「そういや結城さんの『クラシック音楽之友』の先月号読んだんだけどさ」
「どうかした?」
「ジュニクラの都大会の記事書いたのって結城さん?」
「そうだよ。ピアノ部門だけだけど」
「中学生の部の優勝者の批評って・・・・・・」
「おい。ちょっと、それは今はまずいよ」
「・・・・・・大丈夫。二人ともよく寝てるから。あの記事ちょっと恣意的って言うか酷評し過
ぎてない?」
「・・・・・・」
「カバンに入ってたな、確か・・・・・・ああこれだ」
『鈴木奈緒の演奏は正確でミスタッチのない演奏だった。きわめて正確に作曲者の意図に
忠実に演奏するテクニックは、中学生とはとても思えないほど完成度が高い。ただ、同じ
曲を演奏して第二位に入賞した太田有希は、技術的には鈴木奈緒に劣っていたし改善すべ
き点も多いが、演奏表現の幅の広さや感情の揺らぎの表現は素晴らしかった。これがコン
クールでなければ、そして審査員ではなく観客の投票だったら太田の方が鈴木より票を集
めただろう。コンクールの順位としては鈴木の一位は妥当な結果であることは間違いない
が、演奏家としての将来に関しては太田の方が期待を持てるかもしれない。奇しくも二人
とも富士峰女学院の同級生だそうだ』
「・・・・・・これって酷すぎない?」
「感じたままを書いたんだけどな」
「別に無理にナオちゃんを酷評する必要なんかないのに」
「別に無理にとかじゃないよ。こういう仕事をしている以上、身びいきじゃなく正確に感
じたことを書かないとね。あの時の一位と二位の受賞の結果は正しい。でも将来性に関し
ては太田の感情表現の方が将来楽しみだというのがあの記事の趣旨だよ」
「何かさあ。昔姉さんから聞いたんだけどさ」
「何?」
「大学時代に先代の佐々木の婆さんがさ」
「・・・・・・ああ」
「結城さんの前の奥さんの演奏に対してよく注意してたんでしょ。演奏のふり幅が少なく
て感情が表現できていないって。メトロノームが演奏してるんじゃないのよ、ってさ」
「・・・・・・」
「あれと同じじゃん。結城さんの批評ってさ」
もうすっかり目が覚めていた僕は、寝た振りをしながら志村さんからもらったWEBの
コピーを思い出した。
『東京都ジュニアクラッシク音楽コンクールピアノ部門中学生の部 受賞者発表』
『第一位 富士峰女学院中等部2年 鈴木奈緒』
『演目:カプースチン:8つの演奏会用練習曲 作品40 第5番「冗談」』
『表彰状、トロフィー、記念品、賞金30,000円の贈呈』
父さんの雑誌の批評はこの時の奈緒の演奏に関するものらしかった。やはりこの会話は
僕の彼女に関する話題だったのだ。二人ともこのとき優賞したナオが今では僕の彼女だと
いうことを知らない。それでも仕事柄父さんは奈緒のことを批評記事の対象としてよく知
っているようだった。でもそれだけではないかもしれない。奈緒と面会とはいったい何の
ことなのか。
父さんの仕事がクラッシク音楽の雑誌の編集である以上、こういうことがあっても不思
議はないのだけど、それにしても父さんのような職業で音楽を聞いている人に注目される
ほど奈緒は有名だったのだ。
僕は、二人の会話の中で面会のこと以外にも気になることがあることに気がついた。
『別に無理に奈緒ちゃんを酷評する必要なんかないのに』
叔母さんのこの言葉はどういう意味なのだろう。どうして父さんが無理に奈緒のことを
酷評する必要があるのだろうか。父さんは職業の必要上から都大会のピアノ部門中学生の
部の優勝者の批評記事を書いただけではないのか。
それから僕は初めて自分の実の母親の情報も耳にしたことになる。
『結城さんの前の奥さんの演奏に対してよく注意してたんでしょ。演奏のふり幅が少なく
て感情が表現できていないって。メトロノームが演奏してるんじゃないのよ、ってさ』
父さんと僕の本当の母さん、それに話からすると玲子叔母さんも同じ大学に通っていた
のだろうか。そして実の母さんも奈緒と同じでピアノの演奏をしていたのだろうか。僕は
このとき、閑静な住宅街にあるピアノ教室の玄関を思い出した。今までは気にしたことも
なかったけど、あの教室には一枚の看板が控え目に掲示されていた。
『佐々木ピアノ教室』
「それはだな」
父さんが何かを話し出そうとしたとき、明日香が身じろぎして目を覚まして起き上がっ
た。
結局楽しかったひと時の集まりが解散したのは夜中の一時前だった。起き上がった明日
香に対して父さんはもう寝た方がいいよと声をかけた。
「うん。もう寝る。叔母さん一緒に寝よ」
明日香は叔母さんに言った。叔母さんは笑い出した。
「明日香が珍しくあたしに甘えてるからそうするか。結城さん、いい?」
「うん。そうしてやって。さて、じゃあもう寝るか。おい奈緒人も起きるなさい」
もともと起きていた僕だけど、父さんに声をかけられて目を覚ました振りをした。
「奈緒人もちゃんと起きたか? 歯磨いてさっさと寝た方がいいよ」
叔母さんが笑って言った。
こうしてこの夜の小宴会は解散になった。叔母さんは洗い物をすると言ったけど明日も
仕事があるんだからと父さんは叔母さんを止めて明日香の方を見た。
「明日あたしがやっておくよ。叔母さん行こ」
「明日香も大人になったなあ。じゃあ明日香に甘えるか。結城さん、奈緒人。お休み」
「お休み玲子ちゃん」「お休み叔母さん」
父さんと僕が同時に言った。二人が出て行くと父さんが伸びをして眠そうにあくびをし
た。歯磨きを済ませて自分の部屋に戻った僕は、誰かからメールが来ていることに気がつ
いた。
from :有希
sub :こんばんは~
本文『メアドを教えてもらった直後に図々しくメールしちゃいました(汗)』
『親友の奈緒の彼氏ならあたしの親友ですから! 奈緒人さんそこで引かないでください
ね。奈緒に彼氏ができたって聞いてびっくりです。昔からピアノ一筋だと思っていたのに
裏切られた~(笑)でもよかったと思います。奈緒って昔からもてたけどその割には男の
子に興味がないみたいだったから少し心配だったんです。本当は今まで奈緒が気に入る男
の子があらわれなかっただけなんでしょうね。奈緒人さんは初めて奈緒が付き合いたいと
思った男の子だったのね。奈緒のことよろしくお願いします。あと奈緒に対する十分の一
くらいでいいからあたしのことも相手してね』
『それでは図々しいメールでごめんなさい。これからもよろしくお願いします(はあ
と)』
翌日僕は妹に起こされた。時計を見るともう十時近い。
「お兄ちゃん起きてよ。買物に一緒に行ってくれるって約束したじゃん」
僕は眠気を振り払ってベッドに起き上がった。
え?
「あのさ」
「どしたの?」
「どしたのって・・・・・・」
「ああ」
明日香は同じベッドの中で僕の隣に横たわっていた。半ば半身を起こして僕の方に抱き
つくようにしながら僕に声をかけて起こそうとしたらしい。
「ああじゃなくてさ。何でここにいるの?」
「叔母さんと一緒にあたしの部屋で寝てたんだけどさ。叔母さんすごくお酒臭いし寝相も
悪いのよ」
「・・・・・・おまえが叔母さんに一緒に寝ようって誘ったんだろうが」
「よく覚えてるね。お兄ちゃん寝てたんじゃなかったの」
僕は一瞬どきっとした。
「何となく記憶があるだけだよ」
僕は曖昧に言った。
「ふ~ん。それでさ八時になったら叔母さん、突然起き上がって会社に行っちゃった。パ
パと一緒に仲良く出かけたみたいだよ」
「そうか・・・・・・。っておまえなあ」
「何よ」
「それとおまえが僕のベッドに潜り込むのとどういう関係があるんだよ」
「何となく寂しくなってさ。祭りの後って言うの?」
珍しく感傷的な妹の感想は僕にも素直に共感できるものだった。昨日の夜が楽しかった
分だけ父さんと叔母さんがいなくなったこの家はいつにもまして寂しい感じがする。
血の繋がっていない兄のベッドに潜り込むとは、深夜アニメに登場する妹じゃあるまい
しどうかとは思うけど、明日香が人恋しいと思った気持ちには僕は素直に共感できた。今
までは両親不在で兄妹別々に過ごしていて寂しいなんて感じたことはなかったのに、たっ
た一晩の幸せに僕と明日香は打ちのめされてしまったのだった。
「もう少しこのまま寝るか? それとももう起きて買物に行くか?」
僕は傍らで毛布に潜り込もうとしていいる妹に聞いた。
「・・・・・・もうちょっとこうしていようかな」
妹は顔を毛布の中に隠して呟くように言った。
「何だよ、人のこと起こしといて」
僕は妹にそう言ったけど妹が今感じている気持ちはよく理解できた。
「寝よう!」
妹が元気よくそう言って再び体を横たえた僕の上に自分が被っていた毛布をかけてくれ
た。
次に目を覚ましたそれから一時間後くらいだった。妹は僕から少し離れた場所で横向き
になって寝入っていた。明日香のことだからまたいつかのように抱きついてくるんじゃな
いかと思ったけど、そんなことはなかったようだ。
少しお腹が空いていた。昨日は叔母さんに特上寿司をいっぱいご馳走になったとはいえ、
もうお昼過ぎなのだ。よく寝ているので少しかわいそうだとは思ったけど僕は妹に声をか
けた。このまま寝ていたら一日が無駄になってしまう。それに今日は食材の買出しをする
って明日香も言っていたのだし。体に触れるのは気が引けたので普通に声をかけると、さ
すがによく寝たせいか明日香はすぐに目を覚ました。
「今何時?」
明日香が目をこすりながら言った。
「十一時くらい」
「そっか。よく寝た―――ってまずい」
妹が跳ね上がるように飛び起きて言った。「何で起こしてくれなかったのよ。十時には
家を出たかったのに」
「何言ってるんだ。さっき十時ごろ自分で起きてたじゃん。それでまた寝るって言ったの
おまえだろ」
理不尽な言いがかりだったけど以前のようなとげは感じられない。同じベッドで一緒に
寝るとか仲が悪かった兄妹の関係が、普通の関係を通り越して極端に逆側に振れてしまっ
ている様な気もしたけど、それでもまだ昨夜感じた家族の安心感のような感覚は今でも続
いていた。どうやら昨夜のことは夢ではなかったみたいだ。
「早く起きて仕度して。買物に出かけるよ」
妹は慌しく起き上がって僕を急かした。
「そんなに慌てなくてもまだ時間はあるのに・・・・・・」
「いいから。あ~あ、失敗しちゃったなあ」
「失敗って?」
「何でもないよ。ほら早く起きて着替えてよ」
「わかったよ」
明日香が何で慌てているのかはわからない。それでも明日香と二人で買物に出かけるこ
とを楽しみに感じている自分に気がついて僕は驚いた。奈緒に会えないのは寂しいけど、
今日だけは奈緒と約束をしていなくてよかったのかもしれないと僕は思った。
明日香と二人きりで外出するのは、多分初めてのことだったと思う。今までのことを考
えると、明日香と並んで冬の曇り空の下を喧嘩もせず刺々しい雰囲気もなく歩いているこ
と自体が奇跡のようなものだ。
僕たちは別に手を繋ぐでもなく寄り添うでもなく、でもお互いに疎遠というほどの距離
感を感じることもなく並んで歩いた。今でも昨夜の魔法は解けていない。去年のあの夜以
来僕にすっぽりと覆いかぶさっていた暗く思いベールがはがれて、急に周囲が明るくなっ
たような感覚はまだ続いている。これは明日香のおかけでもあるし玲子叔母さんの助けも
あったことは間違いない。僕は明日香の隣を黙って歩きながら改めて考えた。それでも僕
の生活が急に明るい方向に転回したのは奈緒と知り合ったためだった。まるで合理的な関
係などないのかもしれないけど、僕は不思議にそう確信していた。
明日香は駅ビルの中のスーパーマーケットで買物をしたいと言ったので僕たちは近所の
スーパーを素通りして駅前に向っていた。近所の店と何が違うのかはよくわからないけど、
わからない以上は言うとおりにした方がいいのだろう。
駅ビルについたとき僕はすぐに買物をするのかと思ったのだけれど、明日香は僕の先に
立ってビルの中のファミレスの中に入って行った。朝食も昼食もまだなのだから先に食事
をする気なのだろうか。別にそれでもいいけど一言言ってくれればいいのに。明日香は店
の中に入ると寄ってきた店員には構わずにきょろきょろと店内を見回していた。
「あ、いた。あっちに行こう」
僕はいきなり明日香に手を取られて窓際の席の方に連れて行かれた。
「有希ちゃん遅れてごめん」
窓際のテーブルには可愛らしい少女が一人で座っていた。一瞬僕には何が起こっている
のかわからなかったけど、よく見るとそれは奈緒の友人の有希だった。
「いえいえ。あたしも来たばっかだし」
有希は妹の方を見て笑った。
「本当にごめん。兄貴ったら男の癖に支度するのが遅くてさ」
「明日香ちゃん、ちゃんとメールくれたからわかってたよ。あ、奈緒人さん今日は」
「こんにちは・・・・・・って、君たち知り合いだったの?」
ぼくは驚いて明日香と有希の顔を交互に眺めながら言った。
「お兄ちゃんこそ有希ちゃんと知り合いだってあたしに黙ってたくせに」
「いや、おまえと有希さんが知り合いだなんて知らなかったし。それに有希さんとは一度
会っただけで」
「昨日はいきなり変なメールをしてごめんなさい」
有希が話をややこしくした。明日香が疑わしげに僕を見たけど、妹の表情は柔らかかっ
た。昨夜の久し振りの家族団らんからずっとそうなのだ。
それにしても僕が明日香と有希と一緒にファミレスのテーブルを囲む意味がわからない。
有希とメアドを交換しただけで奈緒とは気まずくなったというのに、これを奈緒に見られ
たら今度こそ本当に僕は破滅だ。そう思うなら席を外せばいいのだけど、昨夜の父さんと
玲子叔母さんの会話を思い起こすと、ここはもう少し有希と仲良くなった方がいい気もす
る。別に記憶にない自分の過去にそれほど執着があるわけではないけど、その過去の話に
奈緒と有希の名前が出ているのなら話は別だ。
「お兄ちゃんはそっちに座って」
明日香が有希の正面に腰をおろしながら有希の隣を指差した。
「え? 何で」
「何よ、お兄ちゃんあたしの隣がいいの? あたしは別にそれでもいいけど有希ちゃんに
シスコンだと思われちゃうよ」
本当に何なんだ。
「奈緒人さんさえよかったら隣にどうぞ」
有希が飽きれたように笑いながら言った。僕は恐る恐る有希の隣に腰掛けた。今、僕の
隣にいる小柄な女の子が奈緒の親友だと思うとなぜか少し混乱する。正面には明日香がい
る。自分の家族と僕の付き合い始めたばかりの彼女の友だちと一緒にいることは悪い気持
はしないけれど、なぜ僕の知らないところでこの二人が親しくなったのかはどうしても気
になる。
「有希ちゃん何頼んだの?」
「うん。モンブランと紅茶。先に注文しちゃってごめんなさい」
「全然OK。でもあたしもお兄ちゃんも朝から何も食べてないから食事してもいい?」
有希は明日香の顔を不思議そうに見た。そして笑い出した。
「何よ」
「明日香ちゃんってさ。あたしと二人きりの時は奈緒人さんのこと『兄貴』って呼ぶのに、
奈緒人さんと一緒にいる時は『お兄ちゃん』て呼ぶのね」
何かよくわからないけどこれは恥かしいかもしれない。妹は赤くなって口ごもってしま
った。
「ごめんなさい。変なこと言っちゃって」
赤くなって狼狽している妹を見て少し後悔したように有希が言った。「別に変な意味じ
ゃなの。何か羨ましいなあって思って」
「うらやましいって・・・・・・何で?」
「よくわかんないけど、あたしって一人っ子だからかなあ。お兄さんがいるのってうらや
ましい」
「そんなにいいもんじゃないけどね、実際にお兄ちゃ・・・・・・兄貴がいても」
「それよかさ、何で二人は知り合いなの?」
僕はさっきから気になっていることを質問してみた。有希は奈緒の親友のはずだ。その
有希と明日香が知り合いということはまさか明日香は奈緒とも知り合いなのだろうか。
「何でって言われても。最近ちょっといろいろあって知り合ったんだよ」
明日香が素っ気なく答えた。全く答えになっていない。
「そうなんです。でも知り合ったばかりの明日香ちゃんのお兄さんが奈緒の彼氏だなんて
びっくりです」
そう言った有希は少しも驚いていないように見えた。
「それよか何食べる? お腹空いたよ」
明日香が話を変えた。
「・・・・・・ピザとフライドチキン?」
「何でよ」
「食べたかったんだろ? 昨日は寿司に付き合ってもらったからな」
「・・・・・・よく覚えてたね」
「まあね」
「変なところだけ無駄に優しいんだから」
明日香はまた少し赤くなって小さい声で言った。
「いいなあ。あたしもお兄さんが欲しい」
有希が再び明日香をからかうような目で見ながら言った。さっきもそうだたけど明日香
が同学年の女の子にこういう風に扱われていることが僕には少し新鮮に感じられた。
「こんなのでよかったらあげようか」
まだ赤い顔をしたまま明日香が有希に言い返した。
結局この二人の関係やなぜここで待ち合わせをしていたかということは、いつの間にか
曖昧にされてしまった。二人は身を乗り出すようにしてテーブルに開いたメニューを眺め
ている。こんなことなら明日香が有希の隣に座ったらよかったのに。有希がケーキだけで
はなく自分も食事しようかなって言ったのがきっかけだった。
「じゃあ二人で一緒にピザ食べない? ここのピザ大きいから一人では食べきれないし」
結局ピザを頼むのか。明日香と有希がどのピザを注文するのか楽しそうに話しているの
を聞きながら僕は考えた。その時、僕はふと昨晩の父さんと叔母さんの会話を思い出した。
父さんの書いた記事の話だ。確か一位に入賞した奈緒より二位入賞のオオタユキという子
の演奏の方が感情表現が豊かだったとかいう内容の記事だったはずだ。そういえば以前志
村さんから貰った奈緒の入賞記事には二位以下の記載はなかっただろうか。奈緒のことし
か気にしていなかったのでよく覚えていないけど。僕はポケットからその記事を取り出し
て眺めた。恥かしいけど僕はこのプリントをいつも持ち歩いては時々奈緒の小さな顔写真
を眺めていたのだ。僕は改めてその記事を眺めてみた。
『東京都ジュニアクラッシク音楽コンクールピアノ部門中学生の部 受賞者発表』
『第一位 富士峰女学院中等部2年 鈴木奈緒』
『演目:カプースチン:8つの演奏会用練習曲 作品40 第5番「冗談」』
『表彰状、トロフィー、記念品、賞金30,000円の贈呈』
ここまでは暗記するほど眺めている。問題はその次の部分だ。やはり載っていた。一位
の奈緒の記事との違いは写真がないというだけだ。
『第二位 富士峰女学院中等部2年 太田有希』
『演目:カプースチン:8つの演奏会用練習曲 作品40 第5番「冗談」』
『表彰状、トロフィー、記念品、賞金20,000円の贈呈』
演目も一緒だ。まあでもこれは意外でも何でもないだろう。同級生で同じ先生について
ピアノのレッスンを受けている二人は、ただの親友というだけでなくピアノでも競い合う
ライバル同士でもあるということだ。これで僕にはまた奈緒に関する知識が増えたのだ。
注文したいピザが決まったのだろう。二人はメニューを閉じて何やら携帯の画面をお互
いに見せあっている。
「有希さんって、太田有希っていう名前だっけ?」
有希が僕の方を見た。並んで座っている有希との距離が近かったせいで彼女の顔は一瞬
どきっとしたほど僕のすぐそばに近寄っていた。
僕は以前どこかで読んだことを思い出した。対人距離という概念があって、人によって
その距離感は異なるそうだ。相手との距離がだいたい50センチ以下になる距離は密接距
離と呼ばれている。それは格闘をしている場合などを除き、愛撫、慰め、保護の意識を持
つ距離感であるそうだ。逆にそういう親密な関係にない他者を近づけたくない距離と捉え
た場合、同じ距離であってもそれは排他域とも呼ばれる。
多分僕はこの排他域が人より大きいのだと思う。ついこの間まで僕の持っている排他域
に踏み込んでくる人は誰もいなかったし、僕はそのことに満足していた。でも最近は僕の
排他域に入り込んでくる人が増えていた。いつの間にか抱きついたりベッドに潜り込んで
くるようになった妹の明日香。僕の腕にしがみついて身を寄せてくれる奈緒。
奈緒は僕の恋人だからそれは密接距離だ。奈緒に対して愛撫・・・・・・、はともかく慰めや
保護欲は感じているし、彼女と密着していることは素直に嬉しい。妹について言えば今ま
では妹の接近は居心地がいいとは言えなかった。僕はいつも明日香のことを警戒していた
のだ。でも今朝明日香が僕の隣に寝ていることを知っても僕は別に居心地の悪い思いをし
なかった。むしろ昨晩の楽しいひと時が終って寂しそうな妹を慰めたいとまで思ったくら
いに。もちろん思っただけで口に出したりはしなかったけど。
妹との距離も確実に縮まっているのだろう。別にそれは悪いことではない。まあ明日香
が僕を好きだと言った言葉があまり重いものだとそれは問題ではあるけれど。その距離の
中に突然踏み込んできた有希は別に居心地が悪るそうな様子はなかった。
「そうですよ。奈緒人さん、それ奈緒ちゃんから聞いたの?」
僕は有希に受賞者の一覧が掲載されたプリントを渡した。
「ああこれで見たのね。あたしいつも奈緒ちゃんより下なの。でも奈緒ちゃんは特別に上
手だから」
そのことをあまり気にしている様子もなく有希は笑った。
「本当に奈緒ちゃんと仲がいいんだね」
「うん。でも明日香ちゃんと奈緒人さんだって仲がいいじゃない。何度も言うけどうらや
ましいなあ」
有希はいつの間にか敬語を使わなくなっていた。どうも人見知りしない子らしい。そし
て明るい笑顔と一緒にそういう言葉が出ているせいか、僕は年下の女の子にタメ口で話さ
れても少しも不快感を感じなかった。
明日香も同じことを考えているようだった。
「ちゃんはやめて。明日香でいいよ」
「そう? じゃあ明日香も有希って呼んでね」
明日香は何かを期待しているかのように僕の方を見たけど、そういうわけにはいかない。
少なくとも今はまだ。そのうち僕が奈緒を呼び捨てできるようになり、奈緒もそうしてく
れるようになるといいのだけど、そうなる前に奈緒の親友とお互いを呼び捨てしあうよう
な仲になるのはまずい。有希の件では地雷を踏んだばかりだし、こうして会っていること
すら本当は心配なくらいなのだ。
「ピアノといえばさ」
僕は明日香の視線から目を逸らした。「『クラシック音楽之友』っていう音楽の専門誌
を知ってる?」
「もちろん知ってますよ」
「先月号は読んだ?」
「あれって千五百円もするんだもん。高いから滅多に買わないの」
「そう」
僕は自分のバッグからクラッシク音楽之友を取り出した。今朝、不用意にもソファの上
にぽつんと置き去りにされていたのだ。父さんの書いたという記事をゆっくりと見たいと
思った僕は家を出がけに自分のバッグに入れてきていた。目次からコンテストの批評記事
を探しあててそのページを開いた僕は、ざっとその内容に目を通してから開いたままの
ページを有希に見せた。
『『鈴木奈緒は正確でミスタッチのない演奏をしてのけた。きわめて正確に作曲家の意図に
忠実に演奏するテクニックは、中学生とはとても思えないほど完成度が高い。ただ、同じ
曲を演奏して第二位に入賞した太田有希は、技術的には鈴木奈緒に劣っていたし改善すべ
き点も多いが、演奏表現の幅の広さや感情の揺らぎの表現は素晴らしかった。これがコン
クールでなければ、そして審査員ではなく観客の投票だったら太田の方が鈴木より票を集
めただろう。コンクールの順位としては鈴木の一位は妥当な結果であることは間違いない
が、演奏家としての将来に関しては太田の方が期待を持てるかもしれない。奇しくも二人
とも富士峰女学院中学校の同級生だそうだ』
「専門の雑誌で誉めてもらえるなんて嬉しいけど」
有希が記事に目を通してから言った。「でもちょっと誉めすぎだよ。先生とかに将来を
有望視されているのは奈緒ちゃんの方だもん」
「何の話してるのよ」
話について来れない明日香が不思議そうに聞いた。
「父さんの記事が有希さんを誉めてるんだよ」
「パパの記事?」「え? お父さんの記事?」
二人が同時に驚いたように声を出した。
「うちの父親ってその雑誌の編集長してるんだ。その記事を書いたのも父親だよ」
「え~。それ早く言ってよ。あたし記事に文句つけちゃったじゃない」
有希が恨めしそうに僕を見た。「奈緒人さんの意地悪」
「何々、パパってその雑誌を作ってるの?」
「・・・・・・父親の職業くらい覚えておけよ」
ピアノなんかに興味がないのか明日香の感想は的外れなものだった。
「気になくていいよ。これ有希さんにあげるよ」
後で考えたらその雑誌は玲子叔母さんの忘れ物だったのだけど。
「いいの?」
「うん。一応有希さんが良く書かれている記事だから記念にして。あ、でも奈緒ちゃんに
は・・・・・・」
「わかってる。見せないから安心して」
有希は雑誌を抱きかかえるようにしてにっこりとした。「奈緒人さん、ありがとう。大
事にするね」
有希とは一緒に食事をして一時間ほどしてから別れた。明日香と有希は仲良くピザを半
分こした挙句、有希が最初に注文していたケーキまで二人でシェアしていた。その様子は
僕から見ても微笑ましかった。それに何より明日香が派手で中学生離れした女の子とでは
なく、有希のような子と仲良くしていることが僕には嬉しかった。それでも知り合ってか
ら間がないらしい明日香と有希のおしゃべりに、僕が付き合わされた理由は最後までわか
らなかった。
「お兄ちゃん買物に行くよ」
ぺこっと一礼して帰って行く有希の後姿をじっと眺めていた僕に明日香が声をかけた。
「何ぼけっと有希のこと見つめてるの? もしかして有希に惚れちゃった?」
「いや・・・・・・そんなことないけど」
「なに真面目に返事してんのよ。冗談だって」
明日香が笑った。
「じゃあスーパーに行こう。今夜は何食べたい?」
もちろんそんなことを妹から聞かれたことは初めてだった。
from :奈緒
sub :無題
本文『さっきは本当にごめんなさい。そしてあたしのわがままを許してくれてありがとう。
奈緒人さんに冬休みは一緒デートしようって言われたときは嬉しかった。それだけは本当
です。でもあたしには自由な時間はないの。学校のないこの時期にすることは随分前から
先生に決められていました。そもそも練習曲の進度が他のライバルの子とくらべてあまり
進んでいないし、来年からは佐々木先生とは別な先生についてソルフェージュと聴音も勉
強しなければいけないので、この休み中にある程度練習曲を進めておかなければならない
のです』
『奈緒人さんはあたしにとって初めての彼氏だし、あたしもせっかくの休みは奈緒人さん
と一緒に過ごしたかった。でもピアニストになる夢を捨てるのでなければやるべきことは
やらなければいけません。これは誰に言われたわけでもなく自分から希望してしているこ
とですから。さっき奈緒人さんは気にしなくていいよと言ってくれたけど、多分本心では
ないと思います。あたしがナオトさんの立場だったらピアノとあたしとどっちを選ぶの?
くらいの ことは言っていたと思うから』
『奈緒人さん大好きです。心から愛してます。でもやっぱり冬休みはあなたと会えないと
思います。本当にごめんなさい。あと、今までの土曜日のように毎日あたしを教室まで迎
えに来てくれると言ってくれてありがとう。嫌われても仕方ないのに奈緒人さんはこんな
ことまで考えてくれたのですね。でもこれも無理です。ごめんなさい。休み中は夜の十時
まで個人レッスンがあって、終る時間が遅いのでいつもママが車で迎えに来てくれるので
す。一応、一人で帰るからお迎えはいらないとママに言ってみたらすごく怒られました。
中学生が夜中に一人で電車に乗るなんて許さないそうです』
『だからナオトさんがあたしに提案してくれたことは全てお断りすることになってしまい
ました。嫌われても仕方ないですよね。それでも図々しいけどナオトさんに嫌われたくな
い。でもよかったらせめて毎日寝る前にメールとか電話でお話したいです。勝手なことば
っか言ってごめんね。今日はまたこれから二時間くらい練習です。本当にごめんなさい』
もう何度読んだかわからないくらい読み返した奈緒のメールを、僕は再び読み返してい
た。本文中にいったい何回ごめんなさいと書いてあるのか思わず数えたくなるくらい、ひ
たすら僕に対して謝罪している内容のメール。確かにがっかりしたのは事実だけど、そん
なことくらいで僕が奈緒のことを嫌いになるなんてありえないのに。いったい何で彼女は
こんなに狼狽し不安をさらけ出しているようなメールをよこしたのだろう。
お互いに年内最後の登校日だった朝、冬休の予定を聞いた僕に対して奈緒は俯きながら
休み中は会えないのだと言った。その時は時間がなかった。もうすぐ僕の学校の最寄り駅
に電車が到着するタイミングだったから。確かに奈緒に会えないと言われたとき、一瞬僕
は奈緒に振られたのかと思ったけれど、駅に着く前の短い時間でピアノのレッスンの過密
な予定を説明された。それで僕は、奈緒と別れる直前に、気にしなくていいよと言うこと
ができたのだ。あとピアノ教室に迎えに行ってもいいかとも。
それでも奈緒は僕の誘いを断ったことを気にしていたのだろう。今日は午前中で授業が
終ったので、最後まで部活がある渋沢を残して、志村さんと二人で学校を出ようとした時、
奈緒のメールが届いた。
朝の会話でもだいたい事情はわかっていたので奈緒に対して含むところなんか何もなか
ったのだけど、僕の誘いを断ったことに対して奈緒は随分気にしていたようだった。志村
さんの好奇の視線を無視して、帰りの電車内で僕はそのメールを読んだ。そして再びそん
なに気にしなくていいこと、もちろんこんなことで僕が奈緒のことを嫌いになるなんてあ
り得ないという返事をした。でも彼女からは返事はなかった。多分、もうあの教室でピア
ノのレッスンに集中していたのかもしれない。奈緒のメールは僕をますます彼女のことを
好きにさせるだけの効果しかなかった。普段の土曜日の午後のようにピアノ教室に迎えに
行くことさえ断られたのは、正直少しショックだったけど。
こうして冬休の間僕は奈緒に会えないことを知った。奈緒のピアノに対する情熱と、そ
のために費やさなければならない時間を思い知った僕は奈緒を恨むどころか、それだけの
過密な日程をこなさなければならない彼女が、それでも僕に対して気を遣ってくれている
ことに心温まるような気持ちを抱いた。
僕とピアノとどっちを選ぶのかなんていう感想を僕が抱くわけがない。むしろこれほど
まで情熱を傾けているピアノの練習を邪魔しようとした僕に対してここまで奈緒が気にし
てくれていることが嬉しかった。事実としては長い休み期間中、僕は奈緒と会えないとい
うことだった。自分の勝手な妄想の中では、二人でクリスマスにデートをしたり初詣に行
ったりする予定だったのだけど、それは全て実現しないことになったのだ。
孤独な休暇期間なんて今に始まったことではない。一人でも僕にはすることはある。新
学期に備えて勉強をしておくと後が楽だし、コンプしていないストラテジーゲームもパソ
コンの中に放置してある。要するにいつもと同じ冬休を過ごせばいいのだ。寂しいけど奈
緒には寝る前にメールをするようにしよう。
でも、意外なことに僕の冬休は忙しいものとなった。明日香と有希が常に僕のそばにい
るようになったのだ。
「起きて・・・・・・。もう十二時になるよ。奈緒人さん早く起きて」
耳元で女の子の柔らかい声が響いていた。今まではアニメの中でしか起こるわけがない
と考えていたシチュエーションがリアルでも毎日起こることに、この頃になると僕はだい
ぶ慣れてきていた。何しろ明日香がいい妹宣言をした日以降、ほぼ毎日妹は僕の部屋に勝
手に侵入して僕を起こそうとするのだ。それも冬休に入ってからはその行為はだんだんエ
スカレートして、とりあえず僕に声をかけた後、勝手に僕の隣に潜り込んで二度寝するよ
うにすらなっていた。
こんなことは奈緒には言えない。でもそんな明日香を拒もうとは思わなかった。仲が悪
かった兄妹が、僕を毛嫌いしていた明日香が僕に心を許し始めていたのだから。それでも
その朝、僕を起こそうとするその声には少し違和感を感じた。最近の明日香ならとりあえ
ず僕に声をかけるだけで何が何でも起こそうとはしない。それなのに今日に限って穏やか
なその声は執拗に僕を起こそうとしていた。
僕は諦めて瞼を開いた。僕の部屋のベッドの前に立っていたのは有希だった。僕はその
時本気で慌てていた。何で僕の部屋に有希がいるのだ。夢でも見ているのだろうか。
「あ、やっと起きた」
有希が顔を赤くして言った。
「え? 何々、有希さん?」
「あ、はい」
赤くなった有希はそう言ったけどそれは何の答えにもなっていない。
「有希さん、何で僕の部屋にいるの?」
有希は顔を赤くしたままで何かを必死で訴えようとしていたみたいだけど、結局何も言
わずに僕にルーズリーフに何かを書きなぐったメモを渡しただけだった。
『お兄ちゃんへ。明日は大晦日だからおせち料理を用意しなければいけません。でも今日
はあたしは用事があるので買ってきて欲しい物をメモにしておくので、今日中に揃えてお
いてね。万一お兄ちゃんが夕方まで寝過ごすといけないので、有希に鍵を預けてお兄ちゃ
んを起こしてくれるよう頼んでおいたから。あと、買物にも付き合ってくれるみたいだか
ら、有希と一緒にメモに書いた物を買って来ておいてください。あたしは夕方には家に戻
るからね。お兄ちゃんはあたしがいなくて寂しいかもしれないけど、いい子にしていて
ね』
『買っておいて欲しい物 おせち料理』
「明日香から奈緒人さんに渡してって頼まれたの。あとお昼ごろ奈緒人さんの部屋に行っ
て起こしてって」
「うん、ありがと。目を覚ましたよ」
僕は言った。ようやく意識がはっきりとしだすと、僕の部屋に明日香以外の女の子がい
るという違和感が半端でなくすごい。
「明日香め。有希さんに無理言ったみたいだね。本当にごめん」
「ううん。奈緒人さんは気にしないで。おかげで奈緒人さんの部屋にも入れたしあなたの
寝ているとこも見られたし」
有希が笑って言った。
冬休に入ってから明日香と有希が毎日のように会っている場所にどういうわけか僕も同
席していたのだけど、それは明日香に荷物持ちを強要されていたせいだった。有希も僕に
対してはあくまでも親友の彼氏で、友だちの明日香の兄貴というスタンスで僕に接してく
れていた。なので有希は過度に馴れ馴れしい態度を僕に向けることはなかった。でも今、
僕の部屋に入って僕を起こしてくれた有希の態度は今までとは何か違う。僕の寝ていると
ことを見られたしって、そんなものを有希は見たかったのか。
「ちゃんと起きた?」
有希が言った。
「うん。本当にごめん。妹が無理なことお願いしちゃって」
「別にいいの。全然無理じゃないし」
もともと誰とでも親しくなれる子だとは思っていたけど、今日の有希は何だかいつも以
上に親し気だ。妹の友だちで奈緒の親友。僕にとっては有希はそれだけの存在なのに。僕
が気にし過ぎているだけで有希にとってはそれだけのことなのかもしれない。でも今僕の
部屋に僕と有希は二人きりだ。そのことを正直に奈緒に話せるかといったら、もちろんそ
んな勇気は僕になかった。
「あのさ」
「はい」
「着替えようかなって思うんだけどさ」
「あ、ごめんなさい」
有希はにっこりとした。「あたしはリビングに行ってるね。奈緒人さんと一緒に買物し
ろって明日香に言われてるから外出する格好に着替えてね」
それだけ言って有希は部屋を出て行った。
その日は結局明日香抜きで有希と二人で過ごすことになってしまった。明日香の指示は
明確だった。あいつはもともとおせち料理なんて作る気はなかったのだ。要するに出来合
いのおせち料理を買っておけということだった。有希と僕は明日香の指示にしたがってデ
パ地下とか名店街みたいなところを回ったのだけど、どの店に行っても予約なしではお売
りできませんと断られた。
「まあ最初からわかっていたけど」
有希が苦笑した。「明日香って世間知らずだよね。おせち料理なんて予約なしで買える
わけないのに」
「そうなんだ」
世間知らずという点では僕も明日香と同類らしい。
「僕もこの時期なら普通に買えるもんだと思ってたよ」
「そんなわけないでしょ。高価な商品なんだから売れ残りのクリスマスケーキみたいに売
ってるわけないじゃん」
「有希さんさあ・・・・・・・知ってたなら最初からそう言ってくれればよかったのに」
ここまで明日香の指示どおり出来合いのおせち料理を入手しようとして、僕たちは相当
無駄な努力を強いられていたのだ。
「うん。最初から絶対無理だと思っていたんだけど、一応明日香に頼まれたんでさ」
「無理なら無理って、明日香に言ってくれればよかったのに」
「でもあたしにとっては無駄でもなかったから」
「どういうこと?」
「・・・・・・奈緒人さんといっぱいお店を回ったりできたでしょ? まるで二人でデートして
るみたいだったし嬉しかった」
有希は何を言っているのだろう。妹を通じて有希とも親しくなれた僕だったけど有希に
対して恋愛感情を抱いたことは一度もない。奈緒の親友である有希だって僕が奈緒と相思
相愛だということはよくわかっていたはずだ。何か今日の有希は様子がおかしい。どうお
かしいかと言えば僕のことが好きだと宣言した時の何か吹っ切れたようだった明日香とそ
っくりだ。
僕は少し疲れたという有希をいつもの駅前のファミレスに連れて行った。そこは明日香
と有希がよく待ち合わせしている場所だったので、買物帰りに一休みする場所としては違
和感はなかったのだけど、有希と二人でこの店に入るのは初めてだった。
「お昼食べてないからお腹空いちゃった」
有希はそんな僕の感じている違和感なんか全く気が付いていないように言った。有希は
平気なのだろうか。彼氏でもない男と二人きりで買物をしてファミレスに入ることなど気
にならないのだろうか。
「そういや起きてから何も食べてないね」
「中途半端な時間だけど食事しようか」
「うん」
「ピザ食べたいな。でもここのピザ大きくて食べきれないんだよね。いつもは明日香と二
人で食べてるんだけど」
「うん」
「半分食べてもらってもいい?」
ここまで有希をうちの大晦日の準備に付き合わせておいてここで断る理由はなかった。
やがて注文したピザとかサラダが運ばれてきた。
「すいません。取り皿をください」
有希は遠慮せずそう言った。彼女は自分が注文したサラダやピザを取り分けて僕の前の
皿に入れてくれた。
「・・・・・・それ多すぎだよ。有希さんの分がほとんど無くなっちゃうじゃん」
「奈緒人さんは男の人なんだからいっぱい食べてね」
やっぱり今日の有希は何だか様子がおかしかった。有希にとって僕の彼女の奈緒や僕の
妹の明日香とはどんな存在なのだろう。僕の勘違いでなければ、有希は僕に好意を抱いて
いるとしか思えない。僕は決心した。明日香のことはともかく奈緒のことを考えずに無自
覚に有希と仲良くなるわけにはいかない。奈緒とは親友の有希にだってそのことは十分に
わかっているはずだった。
「あのさあ」
「あの・・・・・・」
僕と有希は同時に話し始めた。
「先にどうぞ」
僕は有希に話を譲った。
「明日香の指示通りにおせち料理買えなかったわけだけどどうするつもりなの?」
「どうするって・・・・・・予約なしでは買えないんだから仕方ないでしょ」
「いいの? 明日香に怒られますよ」
「両親が何か考えてくれるでしょ。それに叔母さんだって新年はうちに来てくれると思う
し。大晦日は出前の蕎麦とかで過ごすよ」
「出前の蕎麦とかって・・・・・・それこそ予約した?」
「してないけど」
「じゃあ無理ね。奈緒人さんと明日香って本当に世間知らずなのね」
「そうかな」
「うん、そうだよ。わかった、あたしがおせちも年越し蕎麦も面倒みてあげる」
「いいよ、そんなの。カップ麺の天蕎麦だって全然大丈夫だし」
「あたしが嫌なの。そんなものを明日香と奈緒人さんに食べさせるのは」
ここまでくるといくら奈緒が明日香の友だちなのだとしてもいくらなんでも行き過ぎだ。
「そこまで君に迷惑かけられないし気にするなよ」
そう言うと有希は目を伏せた。
「奈緒人さん、もしかして迷惑?」
「そんなことないよ。でも有希さんだって忙しいのに」
「あたしは休み中は暇だから」
僕は有希の返事にひどく違和感を感じた。有希はコンテストでは奈緒の後塵を拝したか
もしれないけど、それでも二位に入賞するくらいの実力がある。そして一位の奈緒があそ
こまで過酷な練習スケジュールを組んでいいる以上、有希だって状況はほとんど同じでは
ないのか。
「有希さんだってピアノの練習とかで忙しいでしょ。音楽科のある高校とか音大を目指す
なら休みなんかないらしいじゃん。君だってピアノで忙しいんじゃないの?」
それを聞いた有希は驚いた様子だった。
「随分詳しいのね。奈緒に聞いたの?」
有希が僕を見つめて言った。
「うん」
「そう」
有希はもうおせち料理のことなどすっかり忘れたようだった。そして真面目な表情で言
った。「奈緒人さんには納得できないかもしれないけど、彼女と付き合うってそういうこ
となんだよ」
今日は以上です
また投下します
「いや、それは理解しているつもり。納得できないなんてことはないよ。むしろ奈緒ちゃ
んって大変なんだなあって思っただけでさ」
「そう・・・・・・。大変だなあって思ったんだ」
「うん」
「それだけ?」
「それだけって・・・・・・どういう意味?」
僕と奈緒は確かに付き合ってはいるけど、普通の恋人同士のように休暇の間に会うこと
すらできない。むしろ平日の方が登校時や土曜日に奈緒と会えるだけまだましだった。奈
緒は学校のない休暇期間中はその全ての時間をピアノに専念すると自分で決めていたから。
そして僕は奈緒のその決定を邪魔しようとは思わなかった。むしろ邪魔をしてはいけない
とさえ決心したくらいだ。僕と付き合うことにより奈緒の夢の実現を阻害することになる
のなら、僕は喜んで寂しい思いに耐えるつもりだった。それに奈緒は休み中僕に会えない
ことを、そこまで考えなくてもと思うほど悩んでくれていたのだ。僕にとってはそれだけ
でも十分だった。
「奈緒人さんって本当に奈緒ちゃんのこと好きなの?」
有希が顔を上げ僕を見た。
「好きだけど、でもそれそこどういう意味で聞いてるの?」
僕は同じ言葉を繰り返した。有希が何を言いたいのかよくわからなかったのだ。明日香
や僕のためにおせち料理や年越し蕎麦を何とかしてあげましょうかと言ってくれたさっき
までの柔らかな態度の有希とはまるで別人のようだ。
「好きな子のことならさ、普通はもっと気になるんじゃないの?」
「え」
「休み中はピアノの練習が忙しいからって奈緒ちゃんに言われて、理解のある優しい彼氏
として気にするなよって彼女に言ってあげてさ。そして優しい自分に自己満足してるって
わけ?」
「そんなことはないよ」
「それで休みの日は妹の明日香とかあたしとかで適当に時間を潰してるのね」
・・・・・・いくらなんでもこれはひどい。僕だって奈緒に会いたい気持ちはあるのにそれを
我慢しているのだ。でも有希の話はまだ終らなかった。
「何で奈緒ちゃんがそこまでピアノにこだわるか、奈緒ちゃんにとって奈緒人さんと一緒
にいるのと、志望している音大を目指して彼氏とのデートを犠牲にして頑張るのとどっち
が幸せかとか考えないの?」
「だって奈緒ちゃんが自分で決めたことだろ? 僕はそれを応援したいと・・・・・・」
「・・・・・・奈緒人さんって本当に奈緒ちゃんのこと好きなの?」
彼女は繰り返した。
「何でそんなこと君に言われなきゃいけないの」
僕は我慢できずについにそう言ってしまった。でも有希は精一杯の僕の抗議をあっさり
スルーした。
「じゃあさ。奈緒人さんは奈緒ちゃんのどういうところが好きになったの?」
いつのまにか僕の奈緒に対する愛情を疑われているような話の流れになってしまってい
る。奈緒のピアニスト志望への僕の理解が何でこんな話に繋がるのか、それが何でそんな
に有希を興奮させたのかよくわからない。一見冷静に話しているようだけどこの時の有希
は感情に任せて話しているようにしか見えなかった。
「どういうところって・・・・・・」
今まで何度も考えたことではあったけど改めて僕は考えた。正直に言えば大人しそうな
美少女の奈緒の外見のせいも大きい。でもそれだけじゃない。彼女といるとすごく話がし
やすい。何よりもこんなどうしようもない僕なんかを好きになってくれて告白してくれて、
こんな僕なんかに嫉妬したり気を遣ってくれたりする。そういう奈緒が好きなのだ。僕は
それをたどたどしい口調で有希にわかってもらおうとした。こんな恥かしいことを口にし
たのはあの朝奈緒の告白に返事をして以来だった。
「・・・・・・奈緒人さんって自分に都合のいい行動をしてくれるアニメとかゲームの中の女の
子に夢中になっている男の子みたいね」
これだけ恥かしい思いでようやく有希の質問に答えた僕を待っていたのは、嘲笑にも似
た言葉だった。
「本当に生身の奈緒ちゃんに恋してるの? じゃあさ。奈緒ちゃんが奈緒人さんのどうい
うところが好きになったか考えたことある?」
それは厳しい質問だった。奈緒に告白されてから僕はそのことをいつも考えていたよう
な気がする。そしてその答えに回答を見出すことはできなかった。これで何度目になるの
か覚えていないほど悩んで考えた疑問に対する答えは結局見つからなかったのだ。
「それは自分ではよくわからないよ」
きっと僕は情けない声を出していたと思う。奈緒のような子がなぜ一度だけ雨の日に傘
に入れてあげたくらいで僕なんかを好きになってくれたのか。それは多分このまま奈緒と
付き合えたとしても謎のままなのかもしれない。考えてみれば奈緒の僕に対する愛情は、
彼女の態度からは疑う余地がなかった。それは自分に自信がない僕でさえ奈緒の日頃の態
度から納得できていたことだった。でも僕は奈緒が僕のどんなところを好きになってくれ
たのかなんて彼女に改まって聞いたことがないこともまた事実だった。僕の混乱した情け
ない表情を見た有希は我に帰ったようだった。
「あ、ごめん。何かあたし奈緒人さんにひどいこと言ってる」
「ひどいとまでは思わないけど、正直結構きつかった」
「本当にごめん。あたし、これまでも奈緒ちゃんのこと好きになった男の子のこと今まで
よく見てきたから」
「うん」
「だいたいは奈緒ちゃんの方がその気にならないんだけどね」
だいたいはと言うことは奈緒の方も気になった男がいたことがあるのだろうか。でもそ
のことを口に出す前に有希が話を続けた。
「心配しなくていいよ。すごく不思議だけど、奈緒ちゃんがここまで入れ込んだ男の子っ
て奈緒人さんが初めてだと思うよ」
「別に心配とかしてないけど」
有希の言葉は僕を傷つけもし、また安堵させもした。僕は年下の有希の言葉に一喜一憂
するようになってしまったようだ
「奈緒ちゃんはあのとおり可愛いし性格もいいし、彼女に惚れる男の子はいっぱいいたん
だけど、奈緒ちゃんがちゃんと付き合った相手は奈緒人さんが最初だしね」
「うん。男と付き合うのは初めてだって奈緒ちゃんも言ってたよ」
「あたしさ。奈緒ちゃんとは小学校の頃からの友だちでね。あたしにとっては唯一の親友
なの。だからさっきは奈緒人さんには言い過ぎたかもしれないけど」
「別にいいけど」
「だから奈緒人さんには、簡単に奈緒ちゃんの話しに納得してほしくないの。もう少し深
くあの子のこと考えてあげて」
正直、有希が何を言っているのか理解できたわけではなかったけど、僕は有希が奈緒を
大切にしている気持ちは理解できた。それで有希に対して憤る気持ちはおさまってはいけ
れど、それでもこれ以上僕と奈緒との付き合いの意味を有希と話し合う気はなかった。そ
れは僕と奈緒が二人で話し合うべきことだったから。
「話は変わるけどさ。有希さんだって奈緒と同じくらいピアノ関係で忙しいんじゃない
の? 明日香と僕を気にしてくれるのは嬉しいけど、こんな無駄な買物に付き合ってくれ
る暇なんか本当はないんでしょ」
僕は無理に話を逸らした。
「・・・・・・あたしは奈緒ちゃんとは違うよ」
有希が言った。
「別に父さんが書いた記事だからってこだわる気はないけどさ。有希さんだって単なる趣
味でピアノやってるわけじゃないんでしょ。都大会で二位入賞とか感情表現では奈緒ちゃ
んより将来期待できるとまで言われてるんだし」
「あたしは別に・・・・・・ピアニストになろうなんて思っていないもの」
「じゃあ君は天才なんだ。奈緒ちゃんなんか問題にならないくらい」
この時の僕は大人気なかったかもしれない。さっきから明るく清純で人懐こい女の子と
思い込んでいた有希から厳しいことを言われていた僕は、こんなつまらないことで憂さ晴
らしをする気になっていたのだった。
「君は天才なんでしょ。奈緒ちゃんみたいに必死に練習しなくても、僕と明日香なんかの
相手をしていても本番では成績がいいみたいだしね」
「あたしのこと馬鹿にしてるの」
「馬鹿にしてるのは君の方だろ」
僕も思わずとげとげしい口調で言い返した。こんなことは初めてだった。ひどい嫌がら
せを明日香にされていた頃も、両親から出生の秘密を明かされた時でさえ、少なくとも誰
かの前では冷静さを失ったことはなかったのに。何で僕は有希の言葉にだけこんなに素直
に反応してしまったのだろう。今まで溜め込んでいたいろいろなことが、有希の言葉に触
発されて一気に迸り出てしまったみたいだった。
「奈緒人さんのこと、馬鹿になんてしてなんていないよ」
さっきまでの勢いはもうなかった。有希は途切れ途切れにようやく言葉を口からひねり
出しているみたいだ。
「じゃあ何で」
「あたしね」
有希は少し寂しそうに笑った。「明日香にばれちゃった」
「・・・・・・うん」
「だけど何で明日香にはわかっちゃったのかなあ」
「何がばれたの?」
「好きだから」
「え」
「あたし奈緒人さんのこと好きだから」
有希は僕を見てはっきりとした口調でそう言った。
「お兄ちゃん、おせち買えた?」
夜になってどこからか帰宅した明日香は僕に会うとまずそれを聞いてきた。
「買えてない」
「え~、ちゃんとメモ書いたのに。お兄ちゃんは信用できないから明日香にも一緒に行っ
てもらったのに」
「・・・・・・予約もなしにこの時期におせち料理なんて買えるわけないだろ。おまえには常識
がないなのか」」
「そうなの? じゃあお正月とかどうするよ」
「どうって・・・・・・コンビとかファミレスなら正月でも営業してるでしょ」
「本気で言ってるの? パパとママも帰ってくるのに。玲子叔母さんだって多分家に来る
よ。そん時におせちもなかったら叔母さんに何言われるかわからないじゃん」
「それは確かに」
叔母さんのことだから正月はうちを期待しているに違いない。どうも彼氏もいないみた
いだし。
「はあ。でも考えていても仕方ないか。あとでママ・・・・・・は無理か。おせちのことはパパ
か叔母さんに相談するよ」
「うん。そうして」
突然有希から告白された直後だというのに僕は明日香と普通に会話できている。何だか
僕が言うのも生意気なようだけど、これまでの人生で全く縁がなかった女の子の告白にい
つのまにか耐性ができたみたいだ。奈緒の告白。明日香の告白。そして今日有希にまで告
白された。明日香はともかく、奈緒と有希の場合は出会ってからたいして間がない時期の
告白だった。でも奈緒の告白は有希の場合とは違う。一見するとろくに知りもしない可愛
い女の子に夢中になって奈緒の告白に応えたように思えるかもしれないけど、あの時はわ
ずかな時間だけしか話したことのない奈緒に、僕は心から惹かれていたのだった。奈緒が
告白してくれるより前から。
「何であたしを無視して考えごとしてるのよ」
妹が不満そうに言った。
『あたしは奈緒ちゃんの友だちだから。だから奈緒人さんに振り向いて貰おうなんて考え
てないし。というか生意気なようだけど、万一奈緒人さんがあたしのこと好きになってく
れたとしてもあたしは奈緒人さんとは付き合えないもん』
『どういうこと? 君の言っていることさっきからよくわからないんだけど』
「ねえ。ねえってば。お兄ちゃんあたしの話聞いてるの?」
『だって奈緒ちゃんに悪いじゃん。あたしはたとえ親友の彼氏だったとしても本当にその
人が好きになったのなら遠慮しない。そう思ったときも以前はあったのだけど』
『どういう意味?』
『奈緒ちゃんってさ。多分奈緒人さんが考えているよりメンタルが弱い子なんだよ。さっ
き奈緒人さん、奈緒ちゃんのこと大変なんだなって言ったでしょ。あなたが奈緒ちゃんの
行動に関して感じた感想はそれだけなんでしょ。でもね。あれだけ気持ちが弱い子が必死
になってピアノに縋りついていることとか、奈緒人んに依存している意味とか、奈緒人さ
ん何にも気がついていないでしょ』
『あたしはピアノなんかに人生をかけるつもりはないけど。もし仮にあたしがどんな手段
でも使ってピアノのコンテストで奈緒ちゃんに勝とうと決心したとしたら、必死にピアノ
の練習をするとかそういうことはしない』
『あたしなら奈緒人さんを誘惑して奈緒ちゃんを振らせるように仕向けると思う。多分そ
れだけで奈緒ちゃんぼろぼろになってろくな演奏もできなくなるから』
『・・・・・・変なこと言ってごめん。奈緒ちゃんは親友だから。あたしは奈緒人さんのことが
好き。でもそれだけなの。奈緒人さんと付き合う気はないの。奈緒ちゃんのためにもごめ
んね、変な話しちゃって』
「明日も別に予定ないんでしょ? おせちは無理でもせめてお正月っぽい食べ物を買いだ
しに行くからね。荷物持ちよろしく。あと有希も誘って今日の埋め合わせにケーキとかご
馳走しないとね」
妹の言葉がようやく耳に入って意識の中で形になった。それでは僕は明日も奈緒ではなく
有希と会わなければいけないのだ。
大晦日の深夜、僕は明日香と二人で初詣でに出かけた。いわゆる二年参りというやつだ。
明日香が言うには大晦日の十時ごろ出かけて新年の早朝には家に戻る予定らしい。
大晦日には家に戻って来る予定だった両親からは何の連絡もないし、まともな年越し蕎
麦すら用意できず微妙に苛立っていた様子だった明日香は、大晦日の深夜に半ば無理矢理
僕を家から連れ出したのだった。
とりあえず明日香がデパートの地下の食品売り場で何とか揃えてきたそれらしい料理と
か、コンビニで買えたぱさぱさの蕎麦でも十分に満足だった僕としては、もう今日は自分
の部屋でゲームをしていてもよかったのだけど、明日香にとっては大晦日は何かのイベン
トが起こらないと納得できない特別な日のようだった。
行き先はこの日は早朝まで終電に関係なく運行している電車に乗って三十分はかかる場
所だった。僕たちは最寄の駅から深夜の電車に乗り込んだ。普段なら絶対に電車なんかに
乗っていない時間に外出しようとしているだけでも、何か特別なことをしているような気
になる。こんな時間なのに大晦日の深夜の電車は、まるで朝のラッシュ時のように混み合
っていたけど、晴れ着を着た女の子の華やかな姿が見られたせいで、さっきまで結構悩ん
でいた僕まで少し華やかな気分になっていった。
この時間だけは奈緒と会えないことや有希の不可解な告白を忘れて、明日香のことを考
えてやらなければいけないのかもしれない。僕はそのとき考えた。奈緒に会えないのは何
より寂しいけど、有希に偉そうに話したとおり、僕は奈緒のその選択に納得していたはず
だ。それに長い休暇もいつかは終る。学校が始まればまた毎朝奈緒と会うことができるの
だ。
それに明日香は今年も例年のように自分の友だちと外出するのだろうと僕は思っていた。
でも明日香は自分で宣言したとおり以前の派手な友人だちとは全く会っていないようだっ
た。考えてみれば一人で過ごすことがあまり苦にならない僕と違って、明日香は誰かと一
緒にいることが好きなようだった。僕のためにいい妹になる宣言をしたせいで友だちを無
くした明日香は、大晦日に寂しい思いをすることになってしまったのだ。
紅白が終る頃になってもう両親から連絡はないだろうと思ったのか、明日香は突然ソフ
ァに座って眠りそうになりながらテレビを見ている僕を外に連れ出した。明日香に気を遣
った僕は半ば無理矢理家の外に連れ出されながらも、こういうのも気晴らしとしては悪く
ないなと考え直したのだ。
深夜の電車の中で楽しそうに笑いさざめく晴れ着姿の女の子たち。車窓を流れる高層ビ
ル街のきらめく夜景。そして僕の隣には何となく不満そうな顔をした明日香がいる。明日
香は以前のようなケバい格好はしなくなっていた。そのせいもあって周囲の華やかな着物
姿の少女たちに比べるとだいぶ地味な容姿に見える。
でもそれは明日香のせいではない。着物なんて母さんが不在の家で明日香が一人で引っ
張り出せるものではないし、着付けだって助けなく自分でできるものではないのだ。両親
が不在では、周囲で笑いさざめいている少女たちが普通にできることも明日香にとっては
望むべくもない。そう考えると僕は自分の妹が少しだけ不憫に思えてきた。奈緒や有希の
ような幸せな家庭に育った少女たちなら与えられて当然なことさえ、両親が共働きで多忙
な我が家では明日香には期待することさえ許されていないのだから。
明日香は周囲の女の子たちを気にしている様子もなく、普通にチャコール色のコートを
着て僕の腕に掴まっていた。そして今日のこのときだけは、僕は妹の手を振り払う気はし
なかった。今ごろはきっと奈緒だって今日ばかりはハードなピアノのレッスンから開放さ
れ家族で団らんしているのだろう。多分有希も。
有希に奈緒に対する愛情を疑われたり、有希の告白めいた言葉を聞かされた僕は混乱し
ていたけど、それでも明日香と二人だけで大晦日をリビングで過ごしていると、奈緒や有
希のことではなく僕なんかと二人きりで過ごすしかない明日香に対する憐憫のような気持
ちが、まるで拭いきれない染料で白紙を染めていくように僕の心に広がっていった。
去年の大晦日はどうだったっけ。
確か去年も両親はいなかった。そして去年の大晦日は僕たちが本当の家族でないという
ことを両親から聞いた直後だったせいもあって、僕は自分の部屋で一人で過ごしたしその
ことにほっとしていたことを思いだした。その頃は明日香もまだイケヤマとかいう男と付
き合う前だったし派手な格好で遊びだす前だったので、多分妹も一人で自分の部屋で過ご
していたはずだ。お祭りごとの好きな明日香が両親不在の夜に一人で自室に閉じこもって
何を考えていたのかはわからない。でもあの話の直後のことだ。明日香もきっと辛かった
だろう。その時の僕には明日香を思いやるような余裕はなかったのだけど。
そう思うと奈緒に会えない自分の悩みは消えていって、明日香の悩みに無関心だった自
分に腹が立った。そのせいか僕は思わず混み合った電車の中で僕にしがみついている妹の
を心持ち自分の方に抱き寄せるようにした。
「お兄ちゃん?」
僕突然肩を抱き寄せられた明日香が困惑したように言った。「どうかした?」
「いや。どうもしていないけど」
「そうか」
明日香は僕の腕に改めてしがみつくような仕草を見せた。
「結構混んでるよな」
僕は照れ隠しにそう言った。
「毎年この時期の電車はこうなんだろうね。あたしたちが知らなかっただけで」
明日香が車窓を眺めながら呟いた。
目的の駅に降りた瞬間から行列が始まっていた。学生のバイトのような警備員のアナウ
ンスの声ががあちこちで響いているし、周囲には着飾った集団が楽しそうに笑いさざめく
声であふれている。家を出るときまではハイテンションで僕を引っ張っていた明日香は周
りの熱気に当てられたように大人しく僕の腕に掴まったままで、いつもよりだいぶ言葉数
が少なかった。
それだけ周囲は賑やかだったのだけど一時間ほどで神社の鳥居をくぐると、周囲には何
か賑わいの中でも尊厳な雰囲気が漂っていた。神社の中は果てしなく続く提灯の列にぼん
やりと照らされていて、それははしゃいでいる人々の声を飲み込んで何か騒音の中の不思
議な静謐を感じさせた。
「初めて来たけど結構いい雰囲気だね」
妹が幻想的な提灯の列に目を奪われながら呟いた。
「まあ、大晦日の夜にお参りする習慣なんてうちにはなかったしな」
「それはお兄ちゃんだけでしょ。あたしはパパやママと近所の神社に行ったことあるよ。
朝早く美容院で着付けもしてもらって」
「僕はおまえの着物姿なんか見たことないぞ」
「あたしなんか見ようとしていなかったからでしょ」
「そうじゃなくて本当に見たことないんだって」
「そ。あたしの着物姿に興味なんかないくせに」
明日香が笑った。「それにしてもこれって何時間くらい並んでれば参拝できるのかな」
「さあ。見当もつかないや」
結局お賽銭を投げて参拝しおみくじを引くまでにそれから三時間くらいかかった。もう
夜中の二時過ぎだ。
「帰る?」
一応予定の行動を消化したので僕は明日香に聞いてみた。
「やだ」
思ったとおりの答えが明日香から帰ってきた。明日香にとってはまだ物足りないらしい。
「今日はお店だって二十四時間営業してるよ、きっと。ファミレスとかに寄って行こう」
僕もまだここの雰囲気に当てられていたし、こんな日に両親が不在で僕なんかと二人で
一緒に過ごすしかなかった明日香のことを考えるとそれを無下に退けるわけにもいかなか
った。
「じゃあ、ファミレスに行くだけ行ってみるか?」
「うん」
嬉しそうに明日香が言った。
「でも、また並ぶと思うけどな」
「いいよ。それでも」
明日香は嬉しそうに僕の腕にしがみついた。
結局、行列ができていたファミレスで席に案内された頃にはもう夜中の三時を過ぎてい
た。並んでいる間、立ったまま僕の肩に寄りかかってうとうとしていた明日香は、席に案
内されると急に元気を取り戻したようだった。
「ねえ。何食べる? ケーキを食べようかと思っていたけど考えたら今日は大した食事し
てないしさ。一緒にピザとか食べちゃう?」
明日香はずいぶん楽しそうだ。
「おまえが決めていいよ。何が来ても文句は言わないからさ」
明日香はそれを聞いて再び真剣な表情でメニューに目を落した。注文は明日香に任せよ
う。僕はメニューをテーブルに置いて何となく周囲を見回した。その時僕は近所の神社の
参拝帰りの客とは思えないスーツ姿のビジネスマンみたいな人が隣の席に案内されている
のをぼんやりと見ていた。その人には女性の連れがいた。
「叔母さん?」
「え、何々?」
僕の大声に驚いた妹が目をメニューから上げた。
「何だ。明日香と奈緒人か。偶然じゃんか」
そこには玲子叔母さんが立っていて、どういうわけか飽きれたように僕たちを眺めてい
た。
「あんたたち、こんなとこで何してるのよ。兄妹でデートでもしてたの?」
「叔母さんこそデート?」
明日香が嬉しそうに叔母さんに聞いた。
そう言えば叔母が男の人と一緒のところを見るのは初めてだ。
「・・・・・・こんな時間に外出とか結城さんや姉さんは知っているんでしょうね」
「だってパパもママも全然連絡してこないんだもん」
明日香が口を尖らせた。
「何? 大晦日も二人きりだったの? あんたたち」
「そうだよ」
叔母さんは驚いたようだった。そして叔母さんと僕たちの会話を聞いている人に言った。
「酒井さん悪い。打ち合わせはまた今度にならない?」
「え? 何で」
「家族の関係で用事ができちゃった。悪いけど」
「はあ。社内じゃちょっとって言うから、あんだけ並んでようやく店には入れたのに。ま
あいいですけど。でも打ち合わせしないなら大晦日に呼び出さないでよ。僕にだって家庭
があるんですよ」
「ほんとにごめん。そのうち埋め合わせするから」
「まあ独身の人にはわからないでしょうけど、家族持ちには特別な日なのに」
そうぶつぶつ言いながらその男の人は去って行った。
叔母さんは僕の隣に座って初めて見た細身の赤いフレームの眼鏡を外した。眼鏡を外す
ことで仕事のオンとオフを別けているのかもしれない。
「叔母さん仕事いいの?」
明日香が目の前に座った叔母さんに声をかけた。
「よくないけど・・・・・・。それよか姉さんたちは二人とも本当にこの間からずっと帰って来
ないの?」
この間とは叔母さんと父さんが偶然に家で鉢合わせした夜のことを言っているらしい。
「うん。年末には帰るって言ってたけど連絡もないよ」
明日香が言った。「それよかさ。まだ注文してないんだけど。叔母さんも何か食べるで
しょ」
「明日香さあ。親が二人揃って大晦日に連絡もないっていうのに寂しがり屋のあんたが何
でそんなに平気なんだよ」
「だって今年は一人じゃなくてお兄ちゃんもいるし」
「・・・・・・なるほどね。そういうことか」
叔母さんが再び眼鏡をかけた。思っていたより悩んでいる様子のない明日香に安心して、
また仕事に戻る気なのだろうか。僕は一瞬そう思ったけど、叔母さんは明日香からメニ
ューを取り上げただけだった。
「じゃあ何か食べるか。そういえばあたしも昼から何にも食べてないや」
「叔母さんご馳走してくれるの」
どうせ親から預かったお金で支払う気だったくせに、明日香はここぞとばかりに目を輝
かせて言った。
「相変わらず人の奢りだとあんたは容赦ないな」
注文を終えた明日香に対して再び眼鏡を外した叔母さんが飽きれたように笑った。「そ
ういや年越し蕎麦とか食べたの?」
「うん。お兄ちゃんがコンビニのざる蕎麦も結構美味しいって言うから」
「どうだった?」
「お兄ちゃんに騙された」
「いや、あれはあれで美味いだろうが。それに別に手打ち蕎麦なみに美味しいなんて言っ
てないし」
僕は反論した。
「だったら最初からそういう風に言ってよ。期待して損しちゃった」
「おまえに嘘は言ってないだろ」
「あんたたち、最近仲いいじゃん。まるで昔からの恋人同士みたいよ」
叔母さんが笑って言った。
僕と明日香のほかに叔母さんが一人加わるだけで、不思議なことにどういうわけか家族
団らんという雰囲気が漂う。僕なんかでもいないよりは妹にとっては元気が出るだろうと
思ってここまで付き合っていたのだけど、やはり叔母さんがいると妹のテンションは高く
なるようだった。
偶然に叔母さんに会えてよかったと僕は思った。よく考えてみればここは叔母さんの勤
務先の出版社の所在地からすごく近い場所だった。
「ちょっとトイレ。お兄ちゃんデザート持ってくるように頼んでおいて」
「うん」
妹が席を立つと叔母さんがにやにやしながら僕の方を見た。
「何でニヤニヤ笑ってるんの」
「奈緒人。あんたさあ、あの短い時間の間に急速に明日香と仲良しになったみたいんじゃ
ん」
「ああ、まあ昔よりは仲良くなったかもね」
「何を冷静に言ってるんだか」
叔母さんが笑ったまま言った。「しかしわからんものだよねえ。仕事の打ち合わせでた
またま入ったファミレスにさ、妙にいい雰囲気の若いカップルがいるなってあって思った
ら、あんたたちだったとは」
叔母さんの話は別に僕たちへの嫌がらせのようではなかった。
「まあでもよかったよ。あんたたちが仲が悪いとあたしも居心地が良くないし」
「ごめん」
叔母さんは僕たち二人を可愛がってくれていただけに、明日香と僕の不和には心を痛め
てくれていたのだろう。
「まあ、別にいいさ。しかしさあ、仲直りするのを通り越してまるで恋人同士みたいにイ
チャイチャしだしてるのはちょっと急ぎ過ぎじゃない? 血が繋がっていないとはいえ一
応兄妹なんだしさ」
「そんなんじゃないって」
「おう。奈緒人が珍しく照れてる」
叔母さんが幸せそうな表情で笑った。「心配するな。あんたたちの両親はあたしが責任
を持って説得してやる。だから明日香を泣かせるんじゃないぞ」
ここまで来ると叔母さんの話はもはや本気なのか冗談なのかわからなかった。一応、本
気で僕と明日香の仲を誤解しているといけない。僕は叔母さんに奈緒のことを話すことに
決めた。両親にさえ話していないけど叔母さんなら信用できた。
「確かに僕と明日香は仲直りしたといってもいいけど、叔母さんが想像しているような変
な関係じゃないよ」
「変な関係なんて言ってないじゃん。でもほんと?」
叔母さんは本気で驚いている様子だった。僕はそっとため息をついた。誤解を解いてお
くことにして本当によかった。
「本当だよ。それに、僕も最近は彼女ができたし」
「彼女って・・・・・・明日香じゃないの?」
「だから違うって。 鈴木奈緒って子で」
そこで僕は深夜の叔母さんと父さんの会話を思い出した。会ったことはなくても叔母さ
んは奈緒のことを知ってはいるのだ。父さんの書いたあの短い記事を読んでいたのだから。
「え。もっかい名前言って」
どういうわけか叔母さんが青くなった。
「鈴木奈緒。東京都の中学生のピアノコンクールで優賞した子。父さんが記事を書いたの
叔母さんも知っていたんでしょ」
「その子と付き合っているってどういうこと? あんたはさっきから自分が何を言ってい
るのかわかってるの」
叔母さんの様子がおかしい。何でだろう。叔母さんは本気で僕と明日香を付き合せたか
ったのだろうか。
「どうって。偶然出会って付き合うことになったんだけど・・・・・・というか僕に彼女がいる
ことは明日香だって知っているよ」
「奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?」
「だから明日香とはそういう関係じゃないって」
「何言ってるのよ! 奈緒ちゃんは・・・・・・・鈴木奈緒はあんたの本当の」
「言っちゃだめ! 今はまだだめ!」
その時トイレから戻ったらしい明日香の悲鳴に似た声が響いた。周囲の席を埋め尽くし
た客の喧騒が一瞬静まり返った。
「明日香?」
僕は振りかえった。真っ青な顔の明日香の姿が目に入った。
「妹なのに・・・・・・って、明日香?」
少しして周囲の喧騒が戻って来たけど、叔母さんの言葉は僕の耳にはっきりと届いてい
た。
「奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?」
「鈴木奈緒はあんたの本当の妹なのに」
冬休が終った最初の登校日の朝、僕はいつもよりだいぶ早い時間に起きて普段より一時
間以上早い電車に乗った。休み明けが僕より二日間遅い明日香は僕を学校まで送っていく
と言い張った。きっと僕の決心が揺らいでいつもの時間に奈緒と待ち合わせてしまうこと
を恐れたのだと思うけど、それは無駄な心配だ。今の僕は奈緒と顔を会わせるどころか、
彼女の可愛らしい表情や気持ちのいい声を思い出すことさえ自分に禁じていた。必死に努
力し他のことを考えて気を紛らわせ、奈緒のことを記憶から追い出す。
そうすることによってのみ、僕の世界はとりあえず崩れ去っていくことなくその姿を保
ち続けることができたのだ。
あの時。
最初は明日香の悲鳴のような声に気を取られていたせいもあって、叔母が言った言葉の
意味の重さにすぐには気がつかなかった。その瞬間はむしろ混み合った店内の客の視線を
ひき付けてしまっていることの方に意識を奪われていたかっら、僕は反射的に呆然と立ち
尽くしている明日香の手を引いて向かいの席に座らせた。
「・・・・・・前にあたしの家であんたは奈緒ちゃんと奈緒人が一緒に歩いてたって言ってた
ね?」
叔母さんが恐い表情で明日香に聞いた。たった今妹が見せた狼狽のことはわざと無視し
ているようだった。
「あんた奈緒人が奈緒ちゃんとそういう関係だって知ってたの? そもそも奈緒人と奈緒
ちゃんはお互いのことを実の兄妹だってわかっているの?」
そのあたりで僕はようやく叔母の言葉が持っていた意味に気がついた。胃の奥が痛み始
めたと思った途端、何かが急速に喉からせり出してきそうな感覚があった。
「あたしは知ってたよ。奈緒が知っていたかどうかはわからない」
明日香が低い声で言った。
「奈緒人は・・・・・・って知ってたって感じじゃないね。でも。何でそのまま放っておいたの
よ」
「お兄ちゃんが好きになった子が実は自分の妹だなんてわかったら、どんだけショックを
受けるかを考えてみて」
「明日香・・・・・・」
「だからお兄ちゃんをあたしに振り向かせて奈緒への好意を無くさせようとしていたの。
好意がなくなった相手が後から実の妹だってわかった方がまだショックは少ないでしょ。
自分が一番好きな子が実の妹だったことがわかったのと比べたら」
「・・・・・・あたしが邪魔しちゃったわけか。明日香ごめん」
「あたしに言われても」
このあたりが限界だった。僕は立ち上がってトイレに駆け込んで胃の中のもの一気に吐
き出した。
今までだって幸せに新年を迎えたことなんかなかった僕だけど、それでも今年の正月は
ろくなことがなかった僕の人生の中でも最悪の日だった。フラッシュバックが始まると吐
き気や眩暈を伴い普通に立っていることすらできなくなる。だからそうなってしまったら
頭を抱えて床にしゃがみこむか横になってその辛い状態が終るのをひたすら耐えながら待
つしかない。
その引き金になるのはやはり奈緒のことを考え出したときだった。だから僕は奈緒のこ
とはなるべく考えないようにしていたのだけど、それでも彼女のことを全く考えないとい
うのは不可能だった。
これは悲劇的な偶然だった。本当にありえないほどの確率で起こった神様の残酷な悪戯
だ。そもそも僕には実の妹がいたことさえ聞かされていなかったのだ。
僕が比較的落ち着いている状態のときを見はからって、明日香は自分の知っていること
を少しづつ話してくれた。明日香はまだ僕に対する奈緒の悪意を疑っていたようだけど、
奈緒とのあの偶然の出会いや僕に抱きついて僕を恥かしそうに見上げたナオを思うと、僕
は明日香が間違っていると確信できた。彼女もまた実の兄妹であることを知らずに僕を好
きになったのだ。
でもそう考えたとき、またフラッシュバックの予感がして僕はあわてて奈緒の表情を頭
の中から拭い去った。とにかく明日香の言うとおり僕は奈緒とはもう二度と会うべきでは
ない。奈緒が僕のことを本当の兄だと知ったらどんなに衝撃を受けるだろう。それに比べ
ればいきなり彼氏からの連絡がなくなった方がまだましだろう。
僕は明日香の勧めに従って携帯を買い変え、その際にメアドと電話番号を変更した。こ
ういう地味な作業的なことをしているときが一番気が楽だった。
こうして辛い休暇を過ごしている間に、ただ一つだけ心が暖まったのは明日香の行動の
謎が解けたことだった。僕と奈緒が付き合い出してから明日香が取っていた不思議な行動
の意味を初めて理解した僕は、フラッシュバックとは別の意味で涙を流した。
明日香はずっとこんな僕を守ろうとしてくれていたのだ。多分そのために彼氏と別れた
り自分の友だちを付き合いを切ったりしてまで。
冬休みが終って登校日が来るまで僕は明日香に依存することによって心の平穏を辛うじ
て保っていたようだった。うっかりと幸せなナオとの記憶を思い出してしまいフラッシュ
バックに襲われて吐きながらのた打ち回っているときでさえ、明日香は僕を必死で抱きか
かえていてくれた。長いときには三十分くらいの間ずっと。
「大丈夫だよお兄ちゃん。あたしがいるから。もうずっとお兄ちゃんと一緒にいるから」
休み明け初日の授業は午前中で終った。今日は渋沢や志村さんには奈緒のことを聞かれ
ることはなかったけど、いつかは他意のない会話の中でそのことに触れられることがある
だろう。その時どう答えればいいのか今は見当もつかないけど、それも考えておかなけれ
ばいけないことだった。
正直に言えば学校の友だちなんかにどう思われようがそんなことを気にする段階は過ぎ
ていたのだけど、どんなに混乱し油断するといつフラッシュバックが起こるかもしれない
という状況にあっても、社会生活を送る以上はそんなことはどうでもいいと切り捨てるわ
けにもいかない。それに今度のことに関しては奈緒が自分の妹であるということ以外には
僕にだって何も理解できていないわけで、渋沢たちに説明する前にいったいどんな理由で
こんなことになってしまったのか自分自身が知ることが先決だった。
前向きに考えればそういうことなのだけど、奈緒のことや今回の出来事を考えただけで
も僕は気分が悪くなった。明日香がいてくれる間は僕は思考を停止していられる。僕が何
をすべきかを明日香が考えて僕に伝えてくれる。わずか数日の間に僕はすっかり明日香に
依存するようになってしまっていた。まるで明日香がモルヒネのような強い痛み止めであ
るかのように。
明日香は百パーセント僕の味方だった。このひどい出来事を通じて唯一新たに信じるこ
とができたのは明日香の気持ちだけだった。そう考え出すと今この瞬間に一人で校内にい
ることがすごく不安に感じられた。
早く家に帰ろう。帰って明日香のそばにいよう。いつかは向き合わなければいけないこ
となのはわかっていたけど、今はまだ無理だ。ホームルームと校内清掃だけの時間を何と
かやりすごした僕は急いで校門を出ようとした。
「あ、来た」
明日香が校門の前でたたずんでいた。前みたいに派手な格好をしなくなっていた明日香
だけど、どういうわけか派手だった頃よりうちの学校の男子の視線を集めてしまっている
みたいだ。でも、当の本人は自分のほうをちらちら見ている男子のことなど気にする様子
もなく僕の腕に片手をかけた。
「来てくれたのか」
僕はもう明日香に会えた安堵心を隠さなくなっていた。
「お兄ちゃんが不安だろうと思ったし、それに行くところもあるから」
明日香はあっさりと言って僕の手を握った。「じゃあ、行こうか」
「行くって? 家に帰るんじゃないのか」
「うん」
明日香が柔らかい声で何かを説明しようとしたとき、背後から渋沢の呑気な声が聞こえ
た。
今日は以上です
また投下します
「奈緒人。今帰りか? って明日香ちゃんも来ていたんだ」
渋沢と志村さんが僕たちの背後に並んで立っていた。
「珍しいじゃん。おまえが明日香ちゃんと一緒なんてよ」
二人の視線が申し合わせたように握りあっている僕と明日香の手に向けられた。
「今日はずいぶん仲いいのな」
渋沢が戸惑ったように言った。
「ま、まあ、兄妹だもんね。それよか明日香ちゃんって奈緒人君の妹だったのね。あたし
たちこの間まで全然知らなかったよ」
志村さんが取り繕うように笑ったけどその笑いは不自然なものだった。
「・・・・・・どうも」
明日香が言ったけどその声にはついさっきの柔らかな様子は全く消え去っていた。むし
ろ明日香の声には志村さんに対する敵意のような感情が感じ取れた。
「君たちも帰るところ?」
「ああ。カラオケでも行こうかって話してたんだけど。よかったら一緒に行かね?」
「悪い。僕たちこれから行くところがあるから」
「そうか。まあ急に誘ったって無理だよな。じゃあまた明日な」
「うん、また明日」
相変わらず志村さんを敵意を持って睨んでいるような表情の明日香を促して僕たちは歩
き出した。
「どうしたんだよ」
「お兄ちゃん。そっちじゃないよ」
明日香は僕の質問には答えずに先に立って僕の手を引いて、自宅方面への下りホームで
はなく反対側の上りホームへのエスカレーターの方に向かって行った。
「・・・・・・どこに行くんだ」
僕は思わず震え声が出そうになるのを必死に抑えて言った。自宅と反対方向に向かうと
知っただけでも動揺を感じる。それにこの方向だと一駅先には富士峰女学院がある。明日
香が僕を振り返った。
「叔母さんのところに行こう。お兄ちゃんももうそろそろ知らないといけないと思う」
このときの明日香は僕の妹というより頼りになる姉のようだった。
「知るって何を」
「いろいいろと。このまま目をつぶって耳を塞いでいてもお兄ちゃんの不安はなくならな
いと思うの。ちょっと辛いかもしれないけど、そろそろ昔のことを思い出した方がいい」
「・・・・・・どういう意味? 昔のことなんか聞いたって今回のことは何も変わらないだろ」
「昔の奈緒のこと、お兄ちゃんの本当の妹のこと思い出せる?」
思い出せるどころか僕には妹がいたことさえ記憶になかったのだ。
「叔母さんももう知っておいた方が、そして思い出せるようなら思い出したほうがいいっ
て言ってた」
僕は再び得体の知れない不安におびえた。明日香が僕の手を握っている手に力を込めた。
「大丈夫。何があってもこの先ずっとあたしはお兄ちゃんと一緒にいるから」
僕は明日香を見た。少なくともこれは罠じゃない。明日香を信じよう。
「わかった」
上りの急行電車がホームに滑り込んできた。
車内にはうちの学校の生徒もいたけど知り合いの姿はなかった。そして幸いなことに富
士峰の学生の姿も見当たらない。昼下がりの車内は空いていたため僕たちは並んで座るこ
とができた。こうしていると土曜日の午後の電車の中で奈緒と並んで座ったときの記憶が
自然に蘇ってきた。一度有希の件で仲違いしかけて、そして仲直りしたあの日もそうだっ
た。あの時、奈緒は僕の胸に顔を押し付けるようにしながら「本当にあたしのこと嫌いに
なってない」って小さな声で言ったのだった。
それは本当に短かった僕と奈緒の一番幸せだったときの記憶だった。僕は妹一緒にいた
せいで油断していたのかもしれない。今まで避けていた奈緒との記憶を反芻することをう
っかりと自分に許してしまったのだ。そしてその記憶は一瞬の間だけはひどく甘美なもの
だった。でも次の瞬間、甘美な記憶は強制的に場面転換された。
「何言ってるのよ! 奈緒ちゃんは・・・・・・・鈴木奈緒はあんたの本当の」
「言っちゃだめ! 今はまだだめ!」
「明日香?」
記憶の中で僕は振りかえる。賑わっているファミレスで真っ青な顔で立ちすくんでいた
明日香。明日香の背後からいつもなら大好きな叔母の陽気な声がこのときは陰鬱なエコー
がかかってひどく低い声で反響しながらあのセリフを繰り返す。
「奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?」
「鈴木奈緒はあんたの本当の妹なのに」
急に眩暈が激しくなった。記憶から呼び戻された僕の視界にはぐるぐると回転する電車
の床と座席に座っている見知らぬ人の靴が映り込む。吐き気をもよおした僕は姿勢を保っ
ていられずに、空いているロングシートにうつ伏せるように横になった。
「奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?」
「鈴木奈緒はあんたの本当の妹なのに」
「奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?」
「鈴木奈緒はあんたの本当の妹なのに」
目をつぶってもどういうわけか視界には電車の床がぐるぐる回っているままだった。そ
して耳には叔母さんの低い声が同じフレーズをループして延々と繰り返されている。何度
も聞いているうちにそのフレーズは意味を失い、ただ不快なだけの雑音に変わっていった。
とりあえず吐けば楽になるかもしれない。僕がそう思ったとき、突然視界が閉じ耳がふさ
がれたように感じた。フラッシュバックがおさまっていったのだ。
不快な視覚と聴覚が消失した替わりに唇を覆っている湿った感触が頭を占めた。吐き気
もおさまっていく。僕は妹にキスされたままで妹の小柄な体に必死に抱きついた。明日香
が僕の口から自分の口を離した。
「大丈夫?」
「・・・・・・うん」
僕は覆いかぶさっている妹の体ごと自分の体を起こした。
「悪い」
「気にしなくていいよ。お兄ちゃんのことはあたしが守るから」
さっきまでの不快感と痛みが嘘のようにおさまっていた。明日香は僕の額を濡らしてい
る気味悪い汗をハンカチで拭いてくれた。明日香に拭かれている顔が気持ちよかった。よ
うやく周囲の視線を気にすることができた僕は赤くなって妹から体を離そうとしたけど、
明日香はそれを許さなかった。
「もう少しあたしのそばにいた方がいいよ」
明日香は僕を自分の方に抱き寄せるような仕草をした。
「お二人とも大丈夫?」
そのとき、向かいに座っていた老婦人が僕たちを心配そうに眺めて声をかけてくれた。
「はい。もう大丈夫です。ありがとうございます」
明日香が老婦人にお礼を言った。
「発作とかなの? 車掌さんを呼びましょうか」
「いえ、次の駅で降りますし本当に平気ですから」
電車が駅に着いた。この駅に来たのは初詣のとき以来だ。
「お兄ちゃん立てる?」
「大丈夫だと思う」
僕は明日香に抱かれながら立ち上がって、開いたドアからホームに降り立った。
「気をつけてね」
老婦人が声をかけてくれた。
「今日はやめておく?」
ホームの固いベンチに僕を座らせた明日香が迷ったように言った。「お兄ちゃん、ごめ
ん。あたしちょっと急ぎすぎてたかも」
冬の冷気が熱く火照っていた僕の顔を冷やしてくれる感じが心地いい。僕は急速にさっ
きまでのパニックから回復していくように感じた。
「おまえのせいじゃないよ。助けてくれてありがとう、明日香」
「でも、まだちょっと早かったのかも」
「いや。明日香がいてくれれば平気だよ。今だっておまえが」
明日香がどうやって僕を正気に戻したかを改めて思い出した僕は、そこで言いよどんだ。
「・・・・・・ごめん。でも何となくああした方がいいと思ったから」
「いや。今だって明日香がああしてくれたから僕は正気に戻れたんだし。叔母さんの話を
聞くよ。それでパニックになったらまた僕のこと助けてくれるか」
明日香はそれを聞いて赤くなったけど、その口調は真面目そのものだった。
「うん、安心していいよ。お兄ちゃんが楽になるならキスだって何だってするから」
「ありがとう」
「もう大丈夫?」
「ああ」
「じゃあ、お兄ちゃんがいいなら行こう」
明日香はベンチで座っている僕に手を伸ばした。僕は迷わずに明日香の手を握って立ち
上がった。
叔母さんとはあの日のファミレスで待ち合わせなのかと思ったけど、明日香が言うには
叔母さんは会社まで来てくれと言ったらしい。僕にしてもあの夜の現場のファミレスに行
くのは気が進まなかったからそれは好都合だった。
「叔母さんも了解してくれてるのかな・・・・・・その・・・・・・、僕の過去を話してくれること
を」
叔母さんだって父さんや母さんに黙って僕に全てを話してくれるのは気が重いのではな
いだろうか。奈緒のことは僕が実の妹と付き合っているなんてことを嬉々として報告した
から、慌てて釘を刺そうとしただけなのだろうし。
僕は叔母さんを恨んではいなかった。むしろ叔母さんに迷惑をかけてしまうことの方を
恐れていた。
「うん。叔母さんと相談して決めたの。だからお兄ちゃんは余計な心配しなくていいよ」
明日香はあっさりとそう言った。
駅から十分ほど坂を降りたところに叔母さんの勤めている会社のビルがあった。
想像していたより随分こじんまりとした建物だ。叔母さんの勤務先は誰でも聞いたこと
がある出版社なので、僕は何となく高層ビルのようなイメージを持っていた。実際には十
階建てくらいの茶色のビルで、その入り口に社名の表示板が掲げられていた。
「株式会社 集談社」
それでも中は外見から想像できるより綺麗な建物だった。受付前にプレートが掛かって
いてその中に叔母さんが作っている雑誌の名前も表示されている。
「5階 ヘブンティーン編集部」
でも明日香はその表示を無視して受付の女性のところに真っ直ぐに歩いて行った。
「いらっしゃいませ」
受付の綺麗な女性が頭を下げた。
「すいません。ヘブンティーン編集部の神山の家の者で結城と言います。神山と約束をし
ているんですけど」
神山は母さんの前の前の姓だ。前の姓は高木だけど、母さんが離婚して父さんと再婚し
てから母さんと明日香は結城姓になった。叔母さんはずっと独身だったから未だに神山と
いう名前だ。それにしてもたかが中学生のくせに明日香は随分と堂々と振る舞っている。
「そちらで少々お待ちください」
受付の女性はロビーのソファを僕たちに勧めながら内線電話を取り上げた。
「神山さん、そちらの方です」
エレベーターから現われてきょろきょろしている叔母さんに受付の女性が声をかけた。
「ああいた。陽子ちゃんありがと」
受付の女性に微笑んでお礼を言った叔母さんが僕たちに話しかけた。「おう。二人とも
よく来たね」
「ちょっと遅くなっちゃった」
「叔母さん今日は。今日は忙しいのにすみません」
「こら奈緒人。こないだ敬語はやめるって約束したじゃんか」
叔母さんが笑った。
僕たちは叔母さんに連れられて社内の喫茶店に座った。ここはよく打ち合わせに使われ
るほか軽食も取れるので便利なのだそうだ。
「あんたたち昼ごはんは?」
「食べてないよ」
明日香が答えた。
「あたしもまだだから何か食べようか。つってもここは大したもんができないけどね」
正直僕は食事ができるような状況ではなかったけど、ここで自分の体調の悪さをアピー
ルするのも嫌だった。それは叔母さんを無駄に心配させることになる。さいわい明日香は
僕の発作のことを考慮してくれたのか、あたしたちはあんまりおなかが空いていないから
と言って食事を断ってくれた。明日香本人は空腹だったかもしれないのに。
「そう? じゃああたしだけ食っちゃおう」
叔母さんはナポリタンとコーヒーを三つ注文してから改めて僕たちを眺めた。
「最初に言っておくよ。奈緒人にも明日香にもこの間は悪いことしちゃったね。ごめんな
さい」
叔母さんが僕に頭を下げるのは初めてだったのではないか。僕は驚いて叔母さんに言っ
た。
「叔母さんが謝ることなんか何にもないよ。僕のことを考えて言ってくれたんでしょ」
「うん。それはそうだけど、明日香が一生懸命奈緒人を守ろうとしていたことを考えなし
に邪魔しちゃったから」
「もういいよ。振り返っていたって仕方ないし。それより大切なことはこの先のことでし
ょ」
明日香も言った。
「うん。明日香の言うとおりだ。じゃあ、もうあたしはあんたたちに謝らないよ」
僕と明日香は二人してうなずいた。
「じゃあ、本題に入るけど。あたしは全部を知っているわけじゃないけど、姉さんの妹だ
し結城さんとも古い知り合いだから奈緒人に教えられることはあるんだ。でも、本当はあ
たしが勝手に教えちゃいけないんだと思う。結城さんや姉さんが奈緒人に話すべきだと
思っているから」
「はい」
僕は緊張しながら言った。
「でもこんなことになった以上、奈緒人が全部知るべきだという明日香の意見は正しいと
思う」
ここで少し叔母さんはためらった。
「でもね、そうは言っても、姉さんや結城さんに奈緒人と奈緒ちゃんが付き合ってたなん
て言えないしね」
それは叔母さんの言うとおりだった。これだけはとても両親に知られるわけにはいかな
いのだ。
「だから、姉さんや結城さんには怒られちゃうかもしれないけど、あたしが知っているこ
とは全部あんたたちに話すよ」
「ちょっと待って」
明日香が不審そうに言った。「あんたたちってどういう意味? あたしはママの離婚前
の出来事とかは、お兄ちゃんと違って記憶に残ってるし、それにあたしは叔母さんに昔の
話を聞いてるよ」
「明日香にだって全部話したわけじゃないのよ」
叔母さんは僕を見つめた。「今だって奈緒人は傷付いてると思うけど、昔の話を聞いて
も平気なの?」
「うん。明日香とも話したけど、僕は聞いておくべきだと思う。それに辛くても僕には明
日香がそばにいてくれるし」
「そうか。いい兄妹になったね、あんたたち」
こんなときなのに叔母さんは嬉しそうに言った。
「それから明日香」
「何よ」
「あんたにも話していないこともあるからさ。奈緒人だけじゃなくてあんたにだってショ
ックな話もあるかもよ」
一瞬、明日香は黙った。それから僕を見ながら叔母さんに答えた。
「うん。それでも聞かせて。お兄ちゃんにあたしがいるように、あたしにだってお兄ちゃ
んがついていてくれると思うから」
僕は明日香の手を握った。
「わかった」
僕たちが手を取り合ったのを見て叔母さんが決心したように言った。
「さてどこから話すかな。最初は明日香は知っている話になるな」
明日香はうなずいた。
「最初から話して。お兄ちゃんは何も覚えてないと思うから」
「そうだね。じゃあ奈緒人の話からしようか。奈緒人、あんた自分の実のお母さんとか実
の妹、まあ奈緒ちゃんなんだけど、この二人のこと今まで全く思い出したことないって本
当?」
奈緒の名前が叔母さんの口から出たとき、明日香は僕の手を握る自分の手に力を入れた。
気をつかってくれているのだ。でも奈緒の名前を聞いても不思議と動揺はなかった。この
先の話に気を取られていたせいかも知れない。
「うん。変なのかもしれないけど、父さんと今の母さんと明日香とみんなで一緒に公園で
遊んでいたときの記憶が多分僕の一番昔の記憶なんだ。僕が小学校に上がるより前だと思
うけど」
明日香が妙な表情をした。
「結城さんと姉さんから一応話は聞いたんでしょ?」
「うん。父さんと母さんは再婚同士で、僕は母さんの本当の子どもではなくて明日香も父
さんとは血が繋がっていないって」
「再婚が何年前か聞かなかった?」
「再婚が何年前か聞かなかった?」
「うん。それは聞いていないな」
「明日香?」
叔母さんが明日香を見た。
「あたしは知ってるよ。去年聞いたわけじゃなくて自分ではっきりと覚えてる」
明日香は僕から視線を逸らした。「ママが再婚して今のパパとお兄ちゃんがあたしのう
ちに来たのはあたしが小学生になったばかりの頃だよ」
「うん。明日香の記憶は正しいな。奈緒人、あんたに新しい家族ができたのはあんたが小
学校ニ年の頃だったよ、確か」
「そうなんだ。ごめん、やっぱり全然思い出せない。もっと前から今の家族と一緒に暮ら
していたような気がするだけで」
今の僕にはそうとしか言えなかった。僕に残っている一番古い記憶は公園で明日香を遊
ばせているひどく曖昧な思い出だけだった。あのとき、逃げ惑う鳩をよちよちと追い駆け
ていた明日香が転ばないように、僕ははらはらしながら明日香を追い駆けてたんじゃなか
ったか。
そしてそのときの自分が目の前をよちよちと危なげに歩いている女の子をどんなに大切
に思っていたか、僕はその感情さえ思い浮かべることができた。それはまだ仲が悪くなる
前の明日香と僕の貴重な記憶だった。
「だからさ。あんたも少なくとも奈緒ちゃんの記憶はあるってことだよ」
「どういうこと?」
僕は混乱した。自分の中では奈緒の記憶なんて欠片も残っていないのに。
「お兄ちゃんが公園であたしと遊んだ記憶ってさ、それあたしじゃないと思うよ」
明日香が目を伏せて言った。
「あんたが明日香と暮らし始めたのは、あんたが小ニで明日香が幼稚園の頃だからさ。あ
んたの記憶の中の幼い兄妹っていうのは、あんたと奈緒ちゃんだろうね」
叔母さんがそう言った。
では僕の思い出は勝手に脳内で補正され、かつての家族の記憶を今の家族の記憶に上書
きしてたのだろうか。僕は少し混乱していた。
「まあ、それは今は深く考えなくていいよ。とりあえずあたしが知っている事実関係だけ
をこれから話すからね」
「わかった」
僕は叔母さんに答えた。今はとにかく真実を知ろう。僕の脳内の記憶は辛い部分を勝手
に補正して美化しているようだったから、とりあえず事実を認識するところから初めよう
と僕は思った。
「明日香には前に話したことだけど、奈緒人と奈緒ちゃんのご両親の離婚の原因は直接的
には奥さんの育児放棄が原因なの」
「・・・・・・うん」
今度は僕は驚かなかった。多分そうだろうと考えていたとおりだったから。
「その頃、結城さんはすごく忙しかったみたい。今でも忙しいんだろうけど、その頃は
れどころじゃないくらい、本当に体を壊しかけたくらいに仕事に没頭していたのね」
「うん」
「奈緒人のお母さんはその頃は専業主婦だったから、あんたと奈緒ちゃんが寂しい想いを
することはなかったはずだった。たとえ父親がいなくても母親は家にいるはずだったか
ら」
いるはずだったとはどういう意味なのだろう。僕は叔母さんを見た。
叔母さんも僕の疑問を予期していたのか、少しだけ迷ってから話を再開してくれた。
「あとで児童相談所の担当の人から聞いたんだけど、その頃の奈緒人と奈緒ちゃんってひ
どい状況で放置されていたんっだって」」
「ひどいって?」
「ひどいって?」
僕にはそんな記憶は全く残っていない。
「正確な原因はわからないんだけど、多忙な結城さんと会えなかったあんたのお母さんは、
心の平穏を失っていったみたいなの」
「どういう意味?」
「あんたのお母さんは本当に結城さんのことが好きだったんだろうね。その結城さんがい
なくなって一人で幼いあんたと奈緒ちゃんを育てることがプレッシャーになったのかもし
れない」
「・・・・・・要するにどういうことなの?」
僕は我慢しきれずに叔母さんに言った。問い詰めるような口調になってしまっていたか
もしれない。再び不安そうな表情の明日香が僕の手を握り締めた。
「あんたと奈緒ちゃんのお母さんはあんたたちを家に二人きりで放置して、外出して男の
人と遊んでいたの」
「遊ぶって」
「・・・・・・あたしはあんたのお母さんに会ったことがあるよ。離婚調停が始まったころだけ
ど、すごく綺麗な人だった。とても既婚で二人の子どもがいるようには見えなかったな」
そのとき、以前一度思い出しかけた記憶が再び蘇った。それはあの時とは違って圧倒的
なくらい鮮明なイメージを伴っていた。
その日も朝から母親が家にいなくなっていた。
普通なら幼稚園に行っていなければいけなかったはずの僕と妹が目を覚ましたときには、
家には母親がいなかったし、幼稚園に行く支度もお弁当の用意もされていない。
妹は大嫌いだった幼稚園をサボれることに満悦の笑みを浮べて僕にまとわりついてきた。
僕はキッチンや冷蔵庫の中から冷たいハムやトーストされていないカビが生えかけたパン
を取り出して妹と一緒にむさぼるように食べた。そんな貧弱な食事でも僕と一緒に家にい
られることを妹は喜んでいた。でもさすがに夜になると、妹も母親を恋しがってめそめそ
しだした。
そんな夜が何晩も続くと、次第に自分にとって何が一番大切なのかを僕は思い知らされ
た。父のことは嫌いではない。でも、食べ物すら乏しい中、妹が泣きながら衰弱している
のを眺めて、誰もいない家に怯え抱きついて泣いていた妹を抱き締めていた僕にとって、
そのとき一番大切なのは妹だけだった。母親なんか論外だけど、これほどの危機に助けに
来てくれない父親すら、そのときの僕の眼中にはなかったのだと思う。僕が自分の生命を
賭けても助けなければいけないのは、あのとき僕の目の前で、次第に衰弱していった妹だ
けなのだ。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
気がつくと明日香が僕を心配そうに見ていた。
「思い出したみたいだね。大丈夫か? 奈緒人」
「うん。大丈夫だと思う・・・・・・でもこんなこと今までよく忘れていたって思うよ、自分
でも」
「きっと辛かったから自分で記憶を封印していたのかもね。人の心って自分で思っている
より自己防衛機能が発達しているって、前に取材で脳生理学者の人に聞いたことあるよ」
「うん」
「大丈夫? 続けてもいい?」
「続けて。こうなったら全部聞いて思い出せることは思い出したい」
僕は叔母さんに言った。情けないことに僕は明日香の手にしがみついていたけれども。
「さすがに不審に思った幼稚園の関係者と近所の人たちが児童相談所に通報したらしいの。
児童相談所の人たちは、散らかった家で食事もせずお風呂にも入らないで何日間も過ごし
ていた様子のあんたと奈緒ちゃんを一時保護して児童相談所に連れて行った」
「相談所から結城さんの会社を経由して当時海外に出張していた結城さんに連絡が行って、
結城さんは出張を切り上げて帰国して、結城さんの両親に元に引き取られていたあんたと
奈緒ちゃんに再会したんだって」
「それから長い離婚調停が始まったのさ。結城さんも家庭を顧みなかったことに罪悪感を
感じていた。でも、専業主婦だった自分の奥さんが男と浮気して子どもたちを放棄してい
たことは許せなかった。浮気そのものより大切な子どもたちを放置したことが許せなかっ
たみたいね」
「ここまでは理解できた? って奈緒人、続けても大丈夫?」
「大丈夫・・・・・・だと思う。正直、初めて聞く話だし戸惑いはあるけど」
「そう。やっぱり明日香がそばにいるとあんたも安心するんだね。もっと取り乱すかと思
ったよ」
「取り乱す以前にただ混乱している段階だよ」
「本当に平気?」
僕は心配そうに言った明日香に無理に笑いかけた。「わかんない。でもおまえがいてく
れなかったらパニックになってたな」
「言ったでしょ。もう前とは違う。あたしは、あたしだけは絶対にお兄ちゃんを一人にし
ないから」
「うん。ありがと」
「礼なんて言わないでよ。こんな状況なのに」
「じゃあ続けよう。きつかったらいつでも言いなよ」
「わかった」
「この先はさ、明日香には話したことがあるんだけどね。いろいろ揉めはしたけど結局あ
んたの母親は結城さんとの離婚の条件に同意したの。あんたと奈緒を放置した彼女が何を
考えていたのかはわからない。でも、どういうわけか奈緒人の母親は、自分が見捨てた子
どもたちの親権にこだわっていたのね」
「最初は子どもたちをネグレクトして面倒を見なかったあんたの母親に不利な展開だった。
でも奈緒人の母親側の弁護士は優秀なやり手で、結局浮気もネグレクト自体も根本的な原
因は家庭を省みずに仕事に熱中していた結城さんが原因だと主張したの」
「それに忙しい仕事を抱えた結城さんが子どもたちをちゃんと育てられる訳がないとも。
結城さんの実家の両親、つまり奈緒人の祖父母も高齢で本人たち自身にも介護が必要で子
育てなんてできる状況じゃなかったことも不利な要素だったのさ」
「離婚の話し合いは家庭裁判所では決着がつかず裁判にまでもつれ込みそうなことになっ
ていた、その時」
叔母さんが話を区切った。ウエイトレスが叔母さんのナポリタンを運んできたからだ。
「食べながらでもいい?」
叔母さんが聞いた。
「どうぞ。お昼食べてないんでしょ」
「悪いね。それで」
叔母さんがナポリタンを口に入れながらも話し続けた。
「そんな結城さんに不利な状況が一変したのよ。良くも悪くもだけどさ」
「明日香のお母さん、つまりあたしの姉と結城さんは幼稚園の頃からの幼馴染でね」
「・・・・・・うそ? 初耳だよ。二人は大学時代の知り合いじゃないの?」
明日香が驚いたように言った。
「正確に言うと姉さんと結城さんは大学で再会したんだよね。幼馴染だった二人は、小学
校に入る前に結城さんが引っ越して離れ離れになったけど、大学で偶然に再び出会ったっ
てとこかな」
「聞いてないよそんなこと」
明日香がぶつぶつ言った。
「結城さんと大学で再会した姉さんからよく恋の相談を受けたものだったよ、あの頃はあ
たしも」
叔母さんがフォークに巻きつけたスパゲッティを口に押し込んだ。
叔母さんがフォークに巻きつけたスパゲッティを口に押し込んだ。
「でもさ。その時結城さんには彼女がいたんだよね。同じ大学のサークルの子がね。だか
ら姉さんは結城さんの恋を応援したみたい。自分の結城さんへの恋心は押し隠して
さ・・・・・・もうわかるよね。結城さんの当時の彼女が誰だか」
「・・・・・・僕の実の母さんですか」
「そのとおり。そして時が流れて結城さんとあんたの母親の離婚調停が長びいている最中
に、結城さんと姉さんは大学卒業以来久しぶりに再会した。音楽関係の書籍の出版記念
パーティーでのことだってさ」
「それでパパとママは恋に落ちたわけね」
「うん。結城さんは自分の陥っている状況を姉さんに相談した。そんで明日香は知ってい
ると思うけど、当時の姉さんは旦那に死別して明日香を自分一人で仕事しながら育ててい
た。まあ、ぶっちゃけあたしもあの頃は明日香の面倒を見させられていたんだけどさ」
「でも結城さんにはそんな幼馴染の姉さんが眩しく見えたんだろうね。自分の専業主婦の
奥さんが子どもたちをネグレクトしているのに、女親一人で仕事しながら明日香を立派に
育てている姉さんのことが」
「離婚調停中だったけど結城さんと姉さんは結ばれた。そのことを結城さんの弁護士は有
利な材料に使ったの。結城さんにも奥さん候補がいて子育ては十分にできるって」
「たださあ」
叔母さんがケチャップに汚れた口を紙ナプキンで拭いた。
「あの結末だけは今だに理解できないんだけどさ。突然、結城さんの元奥さんは、その」
「何?」
叔母さんは躊躇するように僕の方を見た。
「今さら、何を言われても多分大丈夫だと思います。僕には明日香がそばにいてくれる
し」
叔母さんは少しだけ微笑んだようだった。
「だったら話すけど。調停の途中で、あんたのお母さんは申し立て内容を変更したんだよ。
あんたはいらないって。奈緒ちゃんの親権と監護権だけ確保できればいいって」
「そうですか」
そのときは別に何の痛みも感じなかった。母親と言われても記憶すらないのだ。
「結局、家庭裁判所の調停員の出した調停内容は、お互いに一人づつ子どもを引き取ると
いうことだった。付帯条件としてお互いに引き取れなかった子どもには、無制限に面会で
きることっていうことにはなっていたけど」
ここで叔母さんは今まで以上にためらいを見せた。
「ここから先は話していいのか正直迷ってる。明日香にも話したことないし」
「全部話して。ここまで来た以上」
明日香がそう言い僕もうなずいた。
「わかった。でもこの先はつらい話だよ」
叔母さんは僕と明日香を交互に眺めた。そしてフォークを置いてため息をそっと押し殺
して話を続けた。
「結城さんと奥さんはその内容に同意した。調停が成立したということね。そして奈緒人
を結城さんが、奈緒ちゃんを奥さんが引き取ることになった。結城さんにとっては不本意
だったと思うけど、親権に関しては裁判を起こしても母親が有利になる傾向があるって弁
護士に言われて最後には納得したみたい。姉さんと早く結婚したいっていう気持ちも手伝
ったんじゃないかと思う」
「その結論を結城さんから聞かされた次の日、その日にはあんたの母親が奈緒ちゃんを引
き取りに来る予定だったんだけど」
「あんたと奈緒ちゃんはその日の朝、預けられていた結城さんの実家から逃げ出したんだ
って。お互いに別れるのは嫌だって」
今まで叔母さんの説明してくれた情報量に圧倒され何の感慨も抱く暇がなかった僕の脳
裏に、このとき初めて封印されていたらしい記憶が蘇った。
『パパもママもいらないよ。僕は奈緒と二人でずっと一緒に生きるんだ。それでいいよ
な? 奈緒』
『うん。ママなんか大嫌い。お兄ちゃんがいいよ。お兄ちゃんだけでいいよ』
泣きながらそう言って僕にしがみつく奈緒。僕は奈緒の手を引いて祖父母の家から脱走
したのだった。
その結末はよく覚えていない。でも今にして思えばどこかで大人たちに掴まって、僕は
奈緒と引き剥がされたのだ。この間偶然に再会するまで。
「明日香、あんた奈緒人とのことで姉さんからいろいろけしかけられるようなこといわれ
ただろ。あれも姉さんの切ない気持ちだったんだと思うよ。姉さんはせっかく築いたこの
家庭を壊したくなかったのよ」
「・・・・・・どういう意味?」
「姉さんにとってはやっと手に入れた幸せな家庭だからね。血の繋がっていない奈緒人を
含めて大切にしていたんだよ。それは結城さんの希望どおり奈緒ちゃんも引き取れたら、
姉さんは奈緒ちゃんのことも可愛がったとおもうけど、そうはならなかった。そしてそう
ならなかった以上、姉さんだって奈緒ちゃんのことは警戒したんだろうさ」
「警戒って・・・・・・実の妹なのに」
「別に恋人的な意味じゃなくても、奈緒人君を奈緒ちゃんに取られるくらいなら、あんた
とくっついてほしいと思ったんだろうね。明日香、あんた、奈緒人君とのこと、姉さんに
けしかけられただろ?」
「・・・・・・うん。言われた。『明日香はお兄ちゃんのこと好き? 大きくなったら奈緒人の
お嫁さんになりたい? そうよ。お兄ちゃんがパパで明日香がママになったら楽しいでし
ょ』って」
「姉さんを悪く思わないでやって、奈緒人。姉さんは今の家庭を守りたいだけなの」
「うん。悪くは思わない」
「あたしだってさ」
叔母さんがいつの間にか浮べていた涙をさりげなく拭いた。
「あたしだって、こないだのファミレスで奈緒人と明日香がイチャイチャ知っているとこ
ろを見かけて本当に嬉しかったのよ」
このときの僕は思考が麻痺していた。流れ込んできた情報量が多すぎて消化不良を起こ
していたのだ。逆に言うと言葉の持つ意味に麻痺して感情を直接刺激しない分、パニック
やフラッシュバックが起きそうな感じもしなかった。
多分今日聞いた情報を整理するようになったとき、僕は辛い思いをすることになるのだう。
かわいそうな奈緒。僕のただ一人の妹。僕の初恋の相手。
僕は奈緒のことを思い出したけど、この時僕が思い出せた奈緒の姿は、僕の恋人になっ
た富士峰の中学生の奈緒の姿ではなくて、僕が忘れてしまっていたはずの幼い姿で僕にし
がみついていた奈緒の姿だった。
『うん。ママなんか大嫌い。お兄ちゃんがいいよ。お兄ちゃんだけでいいよ』
叔母さんの長い話が終ったとき、長らく忘れていたはずの幼い奈緒の表情や声音が驚く
ほどリアルに目の前に浮かんだ。僕はそのとき僕を心配してくれている明日香ではない女
の子を思い浮かべたことに罪悪感を感じたのだった。
「あんたと奈緒ちゃんが結城さんと元奥さんにそれぞれ引き取られてからも、結城さんは
それなりに奈緒ちゃんと会っていたみたいなの」
明日香が叔母さんの言葉を遮った。
「何よ明日香。うるさいなあ」
「いや・・・・・・大丈夫だから続けて」
僕は明日香を遮った。
その話がどういう風に展開するかはだいたい予想がついていたけど、ここまで来たら教
えてくれることなら何でも知りたい。目をつぶって耳を塞いでいても奈緒を失った痛みは
消えないのだ。それなら今まで闇の中にかすんでいた記憶に灯りを当てたとしても、辛さ
にはたいして変りはないだろうと僕はその時考えたのだ。
僕は明日香の心配そうな顔を見て笑いかけた。
「叔母さんの話を聞きたいんだ。いいかな」
「だって・・・・・・。お兄ちゃん大丈夫なの?」
「おまえがいてくれるなら。多分」
「わかったよ」
明日香は諦めたように叔母さんを見た。「続けてあげて」
「じゃあ話を続けるか」
叔母さんはちらりと僕と明日香の握り合って手を眺めた。その顔には再びほんの少しの
間だけ微笑みがよぎったようだった。
「何を言いたかったって言うとね、そろそろ奈緒ちゃんがどこまで知っていてどういうつ
もりであんたと付き合出だしたのということを考えてもいいんじゃないかな」
「絶対悪意があったに決まってるよ、あの子には」
明日香が好戦的な口調で言い放った。
「まあ最初から決め付けないで少しづつ考えていこうよ」
「うん。今はまだ何にも決め付けたくない」
僕は二人に言った。明日香がこれみよがしにため息をついてみせた。
「あんたと奈緒ちゃんのことは、あの後明日香から詳しく聞いたよ..。
幼い頃に生き別れた実の兄妹が悲劇的な偶然でお互いに血が繋がっているとは知らずに
出合い恋に落ちた。奈緒人、あんたそれを本気で信じられる?」
「・・・・・・よくわからないよ」
「あんたには家族に関する知識も昔の記憶もなかったけど、奈緒ちゃんは一年間に何度も、
結城さんと会っている。結城さんに聞いたことはないけど、結城さんと奈緒ちゃんがいつ
もいつもお互いの近況や世間話ばかしてたわけじゃないでしょ」
「奈緒ちゃんが自分の生き別れたお兄さんのことを知りたがったって何にも不思議はない
よね。ましてやあんなに慕っていたあんたから無理矢理引き裂かれるように別れさせられ
たのだし」
「まあ、奈緒は真っ先にお兄ちゃんのことを聞いたでしょうね」
明日香が呟いた。
「うん。多分明日香の言うとおりだよ。奈緒人、たとえあんたと奈緒ちゃんの出会いが偶
然の出来事だったとしても、その・・・・・・奈緒ちゃんと仲良くなったらお互いのことを質問
しあったりしたんでしょ?」
「うん。それはそうしたよ」
「お互いに名前も名乗ったんでしょ。そして鈴木奈緒という名前にはあんたは聞き覚えは
なかっただろう。でもあんたの名前を聞いた奈緒ちゃんはその時どう思ったのかな」
彼女はその時いったい何を考えたのだろうか。僕と違って奈緒は僕の名前を忘れずにい
た可能性もあるし、あるいはそれを忘れてしまっていたとしても叔母さんの言うとおり父
さんから僕のことを聞きだして僕の名前を知った可能性もある。どちらにしてもお互いに
名乗りあったその時には、奈緒は僕が実の兄である可能性に思い当たったはずだったのだ。
僕はフラッシュバックを気にしながら恐る恐るそのときの奈緒の反応を思い出してみた。
明日香がぴったりと僕に密着していてくれるせいかパニックを起こすことはないようだ。
『ナオって漢字で書くとどうなるの?』
『奈良の奈に糸偏に者って書いて奈緒です・・・・・・わかります?』
『わかる・・・・・・っていうか、僕の名前もその奈緒に最後に人って加えただけなんだけど。
奈緒人って書く』
『奈緒人さん、運命って信じますか』
こうしてあの時のことを思い出すと、やはり奈緒は僕の本名に特別に反応していた様子
はなかった。彼女が僕の本当の妹であることがわかった今では、奈緒の悪意の有無なんて
考えたってどうしようもないのだけど、それでも僕は少しだけほっとしていた。
「あの時の奈緒は別に驚いている様子はなかったよ。多分僕のことや本名とかも知らなか
ったんじゃないのかな」
叔母さんが何か言おうとしてためらった。その間に明日香が喋りだした。
「あるいは最初から自分が誘惑した相手がお兄ちゃんだと知っていたのかもね。それなら
お兄ちゃんの本名なんて知っていたのだろうから驚いたりもしないでしょ」
僕は不意打ちを食らい黙ってしまった。確かに奈緒に悪意がある前提で考えれば、奈緒
の反応は全て合理的に解釈できるのかもしれないのだ。
このあたりまでくると僕もそろそろ自分を納得させなければいけない状況になってきて
いた。
「客観的に言うとさ。明日香の言うことの方に理があるかな」
叔母さんが言った。
「でも、奈緒にとってどんな得があるんだよ。実の兄と知って僕を誘惑したって、叔母さ
んも明日香も言いたいみたいだけど、言ってみれば僕と奈緒は二人とも被害者でしょ。奈
緒には僕に対してそんなことを仕掛ける理由がないよ。それとも僕が知らない何らかの理
由で僕のことを恨んでいるとでも言うの?」
「さあね。それはあたしにはわからない。十年近い間あんたと引き剥がされた奈緒ちゃん
がいったいどんな生活を送っていて何を考えていたかもわからないんだからね」
「じゃあ奈緒の意図については、結局はわからないということになるよね」
「今はまだね。あともう一つ気になるのは何であんたの本当の母親があんたと一度も面会
しようとしなかったってことだね」
叔母が突然奈緒の意図から話を変えたので僕は少し戸惑った。
「ただ会いたくなかったからじゃないの」
平静を装ってそうは言ったけどその時僕の胸は少し痛んだ。
「親権をめぐってあれだけ争っていたのよ? あの人は奈緒ちゃんだけじゃなくて、少な
くても最初のうちはあんたにも執着していいたはぜでしょう」
「でも現に僕はその人と会うことはなかったし、去年両親から聞かされるまでは母さんと
明日香が自分の本当の家族だって思っていたくらいだし」
「まあ、そもそもそれが不思議なんだけどね」
「それって?」
「奈緒人。あんたは明日香が思っているほど記憶力に乏しいとか忘れっぽいとかそんなこ
とは絶対ないよ。あたしはあんたと付き合ってきているからよくわかるけど、むしろ記憶
力がないのは明日香の方だね」
「叔母さんひどいよ」
明日香がその場を茶化すように言った。その気持ちは嬉しかったけど、叔母さんも僕も
少しも笑えなかった。
「それなのに明日香さえ覚えているようなことを忘れてしまっているでしょ。幼い子ども
にとっては両親の離婚とか仲のよい妹との別離とか忘れるどころかトラウマになったって
不思議じゃないのに」
「さっき叔母さんが言っていた自衛本能みたいなやつなのかな」
「さあ。それならまだいいんだけどね」
「僕って本当に何一つだって考えてなかったんだね」
「どういう意味?」
「こないだの夜、僕は父さんと叔母さんの会話を聞いてたんだよね。寝たふりをしてたけ
ど」
「そうか」
「あの会話だけでも、奈緒が僕の別れた妹だって十分にわかったはずなのに」
「・・・・・・それはしかたないよ。そもそもあんたは自分に実の妹がいることさえ覚えてなか
ったんだから」
叔母さんは大分食べ残したナポリタンの皿を押しやって左手の時計をちらりと眺めた。
「そろそろ行かないとね。あたしが話せることはこれくらいで全部だし」
「うん。忙しいのにありがとう叔母さん」
叔母さんの話を聞いたことによって少しも楽になったりはしなかったし、むしろもやも
やした感じが増幅していのだけど、それでも僕は叔母さに感謝していた。
「・・・・・・元気出せ、奈緒人。こんなことに負けるんじゃないよ。あたしも明日香もあんた
の味方だからね」
叔母さんはそう言った後に、最後に一言言って話を締めくくった。
「そろそろ結城さんと真面目に話し合った方がいいかもね。奈緒とのことを博人さんに言
いづらいなら、彼女のことは伏せたっていいんだし」
今日は学校は半日しかなかったのに結果的には僕にとっては長い一日になってしまった。
さっき渋沢と志村さんに、明日香と手をつないでいるところ不思議そうに見られて戸惑い
を感じたことが随分昔のことのように思えてくる。
今こうして帰りの電車の中で並んで座っている僕と明日香を渋沢たちに見られたとした
ら、さっきのように見過ごしてくれることすらないかもしれない。明日香は叔母さんと別
れて集談社のビルから出た途端、どういうわけか僕の手を離した。
その時僕はすごく心細く感じたのだけどそれは一瞬だけだった。僕の手を離した明日香
は再び手を握りなおした。今度は恋人つなぎだった。僕は奈緒とだってこんな風に手をつ
ないだことはない。
「おい」
「いいから」
明日香が思わず引っ込めようとした僕の手を捕まえた。
「お兄ちゃん、無理しないでいいよ。いろいろこないだから展開も急だったし不安なんで
しょ?」
「確かにきついことはきついけどさ」
「じゃあ遠慮しないであたしに頼りなよ」
電車を降りて夕暮れの住宅街を自宅に向かって歩いているときも、明日香は僕にぴった
りと寄り添ったままだった。僕は安堵感と同時に罪悪感が膨れ上がっていくのを感じた。
やがて僕たちは真っ暗な自宅の前に帰ってきた。
「あのさあ」
僕は今まで以上に僕のそばに寄り添ってきた明日香に言った。今、明日香を失ったら僕
はどういう状態になるのかわからない。その恐れは僕の中に確かにあったのだけど、いつ
までも妹を僕の犠牲にするわけにはいかないのだ。
「おまえもあんまり無理するなよ」
明日香が僕の言葉に凍りついたようだった。僕の手を握る明日香の手に込められた力が
弱々しくなっていく。
「確かに今の僕は情けない兄貴だし、明日香に頼って何とか心の平穏を保っている状態な
のはわかっているんだけどさ」
「だ、だったらもっとあたしに頼っていいよ。言ったじゃん? あたしはもう二度とお兄
ちゃんを一人にはしないって」
「おまえには無理をして欲しくないんだよ。父さんのためにも母さんのためにも」
「お兄ちゃん・・・・・・何言ってるの」
「おまえはずっと僕を守ろうとしてくれてたんだろ? 僕が奈緒と付き合い出したのを知
ったときから」
「そのためにおまえ、彼氏とも別れて友だちとも縁を切ったりしたんだろ」
「お兄ちゃん」
「・・・・・・おかしいとは思っていたんだ。あれだけ僕を嫌っていたおまえが、僕のことを好
きだって言ったりいきなりその・・・・・・キ、キスしたりとかさ」
「それは」
「・・・・・・僕の気持ちを奈緒からおまえに向けさせようとしてくれていたんだね。真実を知
ったときに僕があまり傷つかないように」
明日香が驚いたように目を見開いた。
「おまえの気持ちはよくわかったよ。ありがとな」
「お兄ちゃん・・・・・・」
「もう大丈夫だから。もう僕のことなんか好きな振りをしてくれなくても平気だからさ」
「何言ってるの?」
「何って。おまえは僕が奈緒のことを忘れられるように、僕のことが好きな振りをしたり
そのために彼氏と別れたりとかしてくれたんだろ?」
明日香が僕の手を離した。そして泣き笑いのような複雑な表情を見せた。
「・・・・・・・鈍いお兄ちゃんにしてはよく見抜いていたんだね」
「まあね」
「あたしさ、お兄ちゃんにまだ謝っていないの」
「謝るって?」
「今までお兄ちゃんのことを一方的に嫌ったり辛く当たったりしてごめんなさい」
「・・・・・・うん」
「あたしさ。何かママとパパがお兄ちゃんのことばっかり大切にしているように思って面
白くなくて」
「うん。わかってる」
「でもね。でも・・・・・・そうじゃないんだ」
明日香はやがて泣き出した。
「・・・・・・どういうこと?」
「あたし気がついたんだ・・・・・・奈緒がお兄ちゃんのことを誘惑してるってわかったとき
に」
「気がついたって?」
「あたし以外の女にお兄ちゃんが傷つくのがすごく嫌だって。本当にお兄ちゃんのこと嫌
いだったら、誰がお兄ちゃんを傷つかせたって関係ないはずなのにね」
「・・・・・・うん」
「お兄ちゃんの言うとおり、あたしは最初は自分だけがお兄ちゃんの味方をしなきゃと思
った。これまで辛く当たったってこともあるけど、お兄ちゃんにはあたししか味方がいな
い。少なくとも奈緒とのことを知っていてお兄ちゃんを守れるのはあたしだけだって思っ
たから」
「それはわかったよ。でも、もういいんだ。僕のことでおまえが彼氏と別れたり、無理し
てずっと僕の隣にいてくれなくてもいいんだ。そんなことをされると僕のほうが辛く感じ
るよ」
「そうじゃないの!」
明日香が泣き出した。
「確かに最初はお兄ちゃんが言うように義務感からだった。お兄ちゃんを守れるのはあた
しだけだと思っていたし、あたしはお兄ちゃんを奈緒から守るためならお兄ちゃん好みの
女にもなるしイケヤマとだって別れてもいいと考えた」
「でも今は違うの」
明日香は必死な声で言った。
「違うって何が?」
「あたしお兄ちゃんを好きな振りをして、お兄ちゃんをあたしの方に振り向かせようとし
ているうちに気がついちゃったの。奈緒のこととか関係なくてもあたしはお兄ちゃんが好
きなんだって。あたしにとってお兄ちゃんは運命の人なんだって」
裸で抱きついてきたりいきなりキスしてきたり僕のベッドに潜り込んできた明日香だけ
ど、ここまで真剣な顔で彼女に見つめられたのは初めてだった。
僕が間違っていたのだろうか。ひょっとしたら以前の嫌がらせも含めて、最初から明日
香は僕のことを異性として愛していたのだろうか。
「それは明日香に都合がよすぎる話だよね」
その時、自宅の玄関前の暗がりに立っていたらしい有希の声がした。有希が暗がりから
道の方に出てきたせいで、街灯に照らされた彼女の白い顔がぼんやりと浮かび上がった。
「明日香、それに奈緒人さんも今晩は」
有希が笑って僕たちにあいさつした。
今日以上です。
そろそろ書き直したパートに入るのと、放置している別スレの再開もあるので、
今まで以上に更新速度は落ちると思います。ごめんなさい。
また投下します。
「でも。去年、奈緒人さんと出合って一目見て好きになって・・・・・・。すごく悩んだんだよ。
あたしはもうお兄ちゃんのことを忘れちゃったのかなって。お兄ちゃん以外の男の子にこ
んなに惹かれるなんて」
「奈緒人さんのこと、好きで好きで仕方なくて告白して付き合ってもらえてすごく舞い上
がったけど、夜になるとつらくてね。あたしにはお兄ちゃんしかいなかったはずなのに奈
緒人さんにこんなに夢中になっていいのかなって」
「それでも奈緒人さんのこと大好きだった。お兄ちゃんを裏切ることになっても仕方ない
と思ったの。これだけ好きな男の子はもう二度と現れないだろうから」
ここまで一気に自分の胸のうちを吐露し続けた奈緒がようやく一息ついた。
「でも奈緒人さんはお兄ちゃんだったのね。あたしがこれだけ好きになった男の人はやっ
ぱりお兄ちゃんだったんだ」
男女間の愛情とかを超越するほど、ネグレクトされていた僕と奈緒の関係は強いものだ
ったのだろうか。僕はその時混乱していた。フラッシュバックだって治まったばかっりだ
った。
でも僕がようやく思い出したシーンにはいつも、幼い大切な妹の奈緒がいたのだ。
「・・・・・・奈緒」
「お兄ちゃん」
奈緒が僕の顔すぐ近くで微笑んだ。
「やっと会えたね、奈緒」
「うん、お兄ちゃんにようやく会えたよ」
「・・・・・・奈緒」
「もう離さないよ、お兄ちゃん。何でお兄ちゃんがあたしを振ったのかわからないけど、
もうそんなことはどうでもいいの。あたしはお兄ちゃんの妹だし、もう二度と昔みたいな
あんなつらい別れ方はしないの」
「奈緒」
僕は両手を奈緒の華奢な体に回した。
「お兄ちゃん」
奈緒は僕に逆らわずに引き寄せられた。 僕と奈緒はそうして周囲を通り過ぎて行く
人々を気にせず抱き合ったままでいた。
それはもうとうに授業が始まっている時間だった。
遅刻した奈緒がその日学校でどういう言い訳をしたのか考えると、自然と頬が緩んでき
た。中学に入ってから一度も遅刻や学校を休んだことがないと前にあいつから聞いていた
ことを思い出したからだ。きっと奈緒は先生に言い訳するのに苦労したに違いない。
あの日以来初めて僕は心底くつろいだ気分になれた。今は放課後で僕はぼんやりと奈緒
のことを思い出しながらゆっくりと帰り支度をしているところだった。渋沢は志村さんの
買物に付き合うとかで早々に二人揃って教室を出て行ってしまい、教室の中はもう数人の
生
徒が帰り支度をしているだけだった。
僕が奈緒に関して心配していたことは全て杞憂だった。あれだけ悩んだ挙句、奈緒に本
当に深刻な傷をつけないために、奈緒には失恋というより小さな傷を与えることにした僕
だったけど、奈緒は僕が兄であると知って傷付くどころかすごく喜んだのだ。
同じ事実を知ったときの僕が受けた衝撃なんか、彼女は少しも受けないようだった。そ
してその理由を考えてみると思い浮ぶことがあった。
僕が自分の記憶を封印して妹や母親のことを全く覚えていなかったのと対照的に、奈緒
は過去の記憶を失ってはいなかったようだ。僕が思い出した過去の断片的な記憶ですらあ
れだけ切なく悲しかった。両親によって奈緒と引き剥がされた喪失感が、今再び恋人であ
る奈緒を失おうとしている感情とあいまって、精神に深刻な打撃を受けたくらいに。
奈緒は過去の記憶を失っていなかった。そして兄である僕から無理矢理引き剥がされた
奈緒は、僕のことを無理に忘れようと努力しながらこれまで生きてきたのだ。それでも奈
緒は僕のことが忘れられなかった。彼氏すら作る気がしないほどに。
それに奈緒は兄と知らずに僕と付き合い出してからも、幼い頃引き離された兄に対して
罪悪感を感じていたのだという。そんな奈緒のことだから自分の彼氏が兄だと知ったとき、
悲しむより喜んだことについては僕にも納得できる話だった。
依然として僕が初めての彼女を失った事実には変りはない。でも僕はその代わりに妹を
失った記憶取り戻し、そして今その妹を取り戻した。何よりも恐れていたように奈緒も傷
付かずにもすんだ。この先僕たちは恋人同士としてはやり直しはできないけど、兄妹とし
てはずっと一緒にいることはできる。それだけでも僕は心の安寧を手にした気分だった。
久しぶりにゆったりとした気持ちで僕は教室を出た。これから奈緒を富士峰の校門まで
迎えに行かなければならない。奈緒は僕が兄だと知ったときから、かつて僕が彼氏だった
ときのような遠慮をしないことにしたらしい。
さっき別れ際に遠慮のない口調で、放課後富士峰の校門まで奈緒に迎えに来るように言
われた僕は二つ返事でそれを受け入れたのだ。
富士峰の校門の前でこうして奈緒を待っているのは初めてだった。以前の僕ならさっき
から校門の中からひっきりなしに吐き出されるように出てくる女子中学生や高校生の視線
を意識して萎縮してしまっていただろう。いかにも彼女を迎えに来ている彼氏のように見
えているだろうし、何よりも格好よければともかく僕なんかでは・・・・・・。
でも待っている相手が自分の家族だというだけでこれだけ心に余裕ができるとは思わな
かった。つい最近は別にして、今まで明日香とはこういう待ち合わせをしたことがなかっ
たので妹を迎えに行くという経験自体も新鮮だった。
僕は富士峰の歴史がありそうな石造りの門に寄りかかってマフラーを巻きなおした。今
日は大分冷え込んでいる。さっきから僕の横を通り過ぎて行く富士峰の女の子たちもみな
同じような紺色のコートを着て同じ色のマフラーを巻いている。学校指定なんだろうけど
これでは僕なんかには誰が誰だかぱっと見には識別できない。
奈緒のことを見逃してはいないと思うし、迎えに来いといった以上奈緒だって僕のこと
を探すだろうからすれ違ってはいないと思うけど、これでは僕のほうから奈緒に気がつく
のは難しいかもしれない。
そろそろここに来てから三十分は経つ。奈緒に伝えられた時間を間違えたのだろうかと
考え出したときだった。
「お待たせ」
奈緒が突然現われて僕の腕に抱きついた。突然とは言ったけどさっきから途切れること
なく僕のそばを通り過ぎていた女の子たちの中に彼女も紛れていたのだ。
「お疲れ」
僕は腕に抱き付いている妹に声をかけた。
「うん。今日は疲れた」
奈緒は笑顔で僕に言った。「お兄ちゃん慰めて~」
「どうしたの」
「遅刻したの初めてだったから。先生に問い詰められて大変だった」
「登校中に気分が悪くなって駅で休んでたって言い訳するつもりだったんだろ」
「そうなんだけど担任に嘘言うのってきついね。あたし挙動不審に見えてたと思う」
僕は抱き付いている妹に微笑んだ。
「お疲れ奈緒。じゃあ帰るか」
「うん」
僕は奈緒に抱きつかれたままで歩き出した。何か恋人同士として付き合っていたときと
緒の態度はあなり変わらない。というか会話だけ取り上げて見れば奈緒が敬語で話すのや
めた分、以前より距離が縮まっている気がする。
「お兄ちゃん、歩くの早いって」
奈緒が半ば僕に引き摺られるようになりながら笑って文句を言った。周囲に溢れている
富士峰の女の子たちの好奇心に溢れた視線が集まっているのがわかったけど、奈緒はそれ
を全く気にしていないようだった。
「そう言えば普段は有希さんと一緒に帰ってるんじゃなかったっけ」
僕は最後に見かけたときの有希の冷静で冷酷な印象すら受けた横顔を思い出した。
「今日は用事があるから一緒に帰れないって言ってきたんだけど・・・・・・」
奈緒は少し戸惑っているようだった。
「うん? どうした」
「うん。何か今日はあの子様子が変だった。妙にそわそわしてて、落ち着きがなくて。あ
たしが先に帰るねって言ってもちゃんと聞いてないみたいだったし」
「何かあったのかな」
「う~ん。昨夜電話をくれたときはすごく怒っていたけど」
「・・・・・・そうだろうな」
「そうだよ。親友がひどい浮気性の彼氏に冷たく振られそうになっていたんだしね」
「おい」
奈緒は笑った。それはやっぱりすごく可愛らしい表情だった。
「冗談だよ。あたしさっきはお兄ちゃんに再会して浮かれちゃったけど、あれから考えて
みたの。何でお兄ちゃんがあたしを振ろうとしていたのか」
「うん」
「自分の彼氏が本当のお兄ちゃんだと知って、あたしが傷付かないように自分が悪者にな
ろうとしてくれたんでしょ?」
「奈緒」
「ありがとうお兄ちゃん」
奈緒が微笑んだ。
「うん」
何か顔が熱い。まぶたの奥もむずむずする感じだ。
「お兄ちゃん?」
「うん」
僕は同じ言葉を繰り返した。
「パパもママもいらないよ。僕は奈緒と二人でずっと一緒に生きるんだ。それでいいよ
な? 奈緒」
奈緒があのときの僕の言葉を繰り返した。「覚えてる? あたしがそのときに何て答え
たか」
「ああ。覚えているよ」
正確に言うと思い出したというのが正しいのだけれど。
「うん。ママなんか大嫌い。お兄ちゃんがいいよ。お兄ちゃんだけでいいよ」
奈緒が記憶の中にあるのと正確に同じ言葉を繰り返した。あのときの絶望感とその後の
喪失感とつらかった日々。もう我慢も限界だった。僕は泣き始めた。
「あたしの気持ちはあれから十年間経っても全然変わっていないの。今でもお兄ちゃんだ
けでいいって、自信を持って言えるもの」
泣いている僕を抱きかかえるようにしながら奈緒は柔らかい声で言ったけど、奈緒の声
の方も雲行きが怪しくなっているようだった。
「・・・・・・今は泣いてもいいのかも。あたしたち、十年もたってあれから初めて会えたんだ
もんね」
奈緒と僕は富士峰の女生徒たちの好奇の視線に晒されながらお互いに手を回しあって、
まるであの頃の小さな兄妹に戻ってしまったかのように泣いたのだった。
「有希さんの話だけどさ、僕たちが本当は兄妹だったこと彼女に話したの?」
お互いに抱きしめあいながら大泣きした後、妙に恥かしくなった僕たちはとりあえず駅
前のスタバに避難した。僕にとってはここは敷居が高い店なのだけど、そんなことを言っ
ている場合ではないし奈緒は気後れする様子もなく店に入って行った。
奈緒ちゃん大丈夫? とか奈緒ちゃんこの人に変なことされてない? とか周囲の生徒
たちは失礼なことを聞いてきた。でも奈緒はまだ涙の残る顔で笑顔を僕に見せた。
「お兄ちゃん走ろう」
奈緒はそう言って僕の手を引いて走り出したのだ。こうして僕たちはスタバの奥まった
席で向かい合って座っていた。
だいぶ落ち着いたところで僕は有希のことを思い出して聞いてみた。
「ううん、まだ話してない。説明すると長くなりそうだし」
それはそうだろうなと僕は思った。まず自分の家の事情を話してそれから僕との偶然の
出会いを話してと考えると、学校の休み時間に気軽に話せることではない。
それに僕と奈緒自身だって兄妹としては再会したばかりで、お互いのことを話し合うの
だって、まだこれからなのだ。
最後に別れたときの有希の冷たい表情が脳裏に浮かんだ。有希の誤解がこれで解けるの
ではないかと期待しないではなかったけど、これは奈緒に任せておくしかないようだ。
「それにしても有希ちゃん、やっぱり今日は様子がおかしかったなあ。何か心配事でもあ
るのかな」
「やっぱり彼女は僕のこと怒ってたか?」
「うん。でも感情的にはならずにあたしを慰めてくれた感じ。『あんないい加減な男なん
て奈緒ちゃんの方から振っちゃいなよ。周りにいくらでも奈緒ちゃんのことを好きな人が
いるんだし』って言ってたよ」
「おまえそんなにもてるの?」
奈緒がいたずらっぽく笑った。
「なあに? 気になるのお兄ちゃん。妹のことなのに」
「そういうわけじゃないけど」
「冗談だよ。気にしてくれて嬉しいよお兄ちゃん。でもあたしを好きな人がいるなんて話
は聞いたことないよ」
「そうなんだ」
「安心してお兄ちゃん。鈴木奈緒の目には今のところお兄ちゃん以外の男の子は全く映っ
ていないから」
「それはそれでまずい気がする」
「何よ。嬉しいくせに」
「あのなあ・・・・・」
「シスコン」
「今日は冗談ばっかだな。この間までおまえは真面目な女の子だと思ってたよ」
「彼氏に見せる顔とお兄ちゃんに見せる顔は違うんだよ。女の子ならみんなそうだと思う
よ」
実はこのとき相当勇気を出して奈緒のことをおまえと呼んでみたのだけど、奈緒は普通
に聞き流した。やはりこいつは血の繋がった妹なんだ。僕が奈緒の彼氏の状態で奈緒のこ
とをおまえなんて呼んだら、喜ぶにせよ嫌がるにせよこいつは絶対にそのことに気がつい
たはずだ。
清潔で白い廊下を歩いていくとやけに足音が大きく響いた。廊下の窓からは冬の午後の
陰鬱な曇り空が四角く切り取られて見える。
救急病棟の待合室で僕は叔母さんの姿を見つけて思わず駆け寄った。
「ああ奈緒人。来たのか」
叔母さんはいつもどおりに僕を呼んでくれたけど、その表情は暗かった。
「明日香は、明日香の具合はどうなの」
「外傷とそれに伴う精神的なショックだって」
叔母はそこで少しためらった。
「命に別状はないよ。今は寝てるから会えないけど」
「・・・・・・いったい明日香に何があったの?」
「奈緒人には教えないわけにはいかないか。明日香はね」
叔母が俯いた。叔母の目に涙が浮かんだ。
「昨日の夜、知り合いの男の部屋に連れ込まれて乱暴されそうになったんだって」
目の前が暗くなった。
本当の妹との再会に浮かれて明日香のことを僕は忘れていたのだ。つらかった時期にあ
んなに明日香に頼りきっていた僕なのに。僕に黙って自分の友人関係を壊してまで僕のこ
とを救おうとしてくれた明日香が、夜の街に飛び出して行ったのに僕は今日今まで明日香
のことを思い出しすらしなかったのだ。
「明日香が抵抗したんで犯人の男は明日香に言うことを聞かそうと手をあげたらしい。偶
然、別の明日香の知り合いの男がそのアパートを訪ねてきて、明日香を襲った相手を止
めたんだって」
「・・・・・・明日香の容態はどうなの?」
「外傷はたいしたことはないみたい。抵抗したのと知り合いの男が間に入ってくれたんで、
その・・・・・・性的な暴行は受けなくて済んだんだけど、精神的なショックの方が大きいみた
いだ。明日香が目を覚ませばもっと詳しくわかると思う」
「明日香に乱暴しようとした奴はどうなったの」
そいつを殺してやる。精神的に不安定になっていたのかもしれないけど、僕はそのとき
は本気でそう思った。きっとあの金髪ピアスの男だ。確かイケヤマとかっていう名前の。
「助けてくれた子が警察と救急車を呼んでくれてね。警察が来るまで犯人の男が逃げない
よう取り押さえてくれてたの。犯人は現行犯逮捕。助けた子も参考人として警察に呼ばれ
てるよ」
何で夜中に飛び出して行った明日香をすぐに追い駆けなかったのだろう。あの時の僕は
確かに混乱していた。明日香からは泣き顔で告白のようなことをされ、その直後に冷たい
表情の有希に責められもした。そのこともあって、有希が帰ったあとは奈緒のことで頭が
一杯で明日香のことまで気が回らなかったのだ。
それに明日香が夜出歩いていることに慣れてしまっていたこともある。僕は明日香が夜
遊びをしていることを当然ながら知っていた。そして明日香が夜遅くなるのは両親が不在
か帰宅が遅くなるとわかっている夜に限られていた。だから僕たちの両親は明日香の外見
や成績を憂うことはあっても、中学生の明日香の夜遊びには気がついてはいなかったのだ。
そのこと自体だって僕の責任なのだ。僕は明日香とトラブルを起こすのが嫌だったから、
明日香の夜遊びを注意することも、それを両親に言いつけることもしなかった。両親が明
日香の夜遊びを知ったらいくら子どもたちには寛容な父さんも母さんも明日香に注意して
いただろう。
「父さんたちは?」
「こちらに向かってる。もう来るでしょ」
そのとき救急治療室の引き戸が開いて中から白衣の一団が姿を現した。
両親が真っ青な顔で救急病棟に飛び込んで来た。子どもたちの前ではいつも呑気そうな
父さんと母さんのこんな必死な様子を僕は初めて見た。それでも父さんは動転している様
子の母さんの手をしっかりと握って、その身体を支えるようにしている。
叔母さんは父さんと母さんをちょうど救急治療室から出て来た医師のところに連れて行
った。医師が手早く父さんたちに明日香の容態を説明した。その話はさっき僕が叔母さん
から聞かされたことと同じ内容だったけど、医師はこう言った。
「お嬢さんは少し精神的にショックを受けておられますけど、幸いなことに外傷は軽微な
ものでした。もちろん命に別状もないし外傷も後には残らないでしょう。もう処置も終っ
ていますので、念のために一晩入院して容態に変化がないようでしたら明日には退院して
もらって大丈夫ですよ」
叔母さんの説明と順序を逆にしただけだけど、その医師の説明を受けて両親は少し安心
したようだった。外傷は大したことはないけど精神的にはショックを受けているというの
と、精神的なショックはあるものの外傷は大したことはないという説明では受ける印象が
まるで異なる。救急病棟に努めていると悲嘆にくれ動転している家族の扱いも上手になる
のだろうか。医師は少しだけ両親を安心させると、明日香が目を覚ましたら面会していい
と言い残して去って行った。
医師が去って行くと今度は地味なスーツを着た体格のいい男が二人、両親に近づいて来
た。僕はその人たちがこの場にいることにこれまで気がついていなかった。
「結城明日香さんのご両親ですね」
片方の男が言った。「所轄の警察署の者です。この事件のことをお話しさせてもらいま
すので、その後で何か事情をご存知でしたらお話ししていただけますか」
その人は何かやたらていねいな言葉遣いだったけど、それはその人の外見には全く似合
っていなかった。話しかけてきた男の人ももう一人の黙って立っている方の人も体格がい
いだけではなく目つきや表情も鋭い。
高校生の不良のトラブルなんかを相手にしているよりは暴力団とかを相手にしている方
が似合っている感じの男たちだった。僕たちは救急病棟の待合室の隅でソファーに座った。
自己紹介した男は警察署の生活安全課の平井と名乗った。
「先にいらっしゃったご親戚の、ええと・・・・・・そう、神山さんにはお話ししたんですが、
娘さんは昨日の夕方から夜にかけて繁華街をあっちこっちある行きまわっていたみたいで
すね。その途中で知り合いの高校生の男に出合って、自分のアパートに来ないかと誘われ
てついて行ったみたいです」
両親は身じろぎもせず警察の平井さんの話に聞き入っていた。医者の話で一瞬安心した
ようだった二人の表情はまた緊張してきたようだ。
「そいつはそこで一人暮らしをしいるんですがその部屋でお嬢さんは、その・・・・・・」
平井さんは気を遣ったのか少し言いよどんだ。「つまりそいつに乱暴されそうになって
大声を出して抵抗したところ、黙らせようとした犯人から殴られたらしいです」
「・・・・・・大丈夫ですか」
一応の礼儀としてか平井さんは青い顔の両親を気遣うように言った。もしかしたら警察
のマニュアルにこういうときはそうしろと書いてあるのかもしれないけど、いずれにせよ
平井さんには心から両親を気遣っているような感じはしなかった。
「大丈夫です。続けてください」
父さんがそう言って母さんの手を握りしめた。
「犯人は飯田聡。都立工業高校の二年生ですが、お心当たりはありますか」
父さんと母さんは顔を見合わせた。
「いえ。聞いたことがありません」
そこで父さんは思い出したように叔母さんと僕の顔を見た。「君たちは聞いたことある
かな?」
「ないよ」
僕と叔母さんが同時に言った。それでは犯人は明日香の前の彼氏のイケヤマではなかっ
たのだ。
「幸いなことに飯田がお嬢さんにさらに暴力を振るおうとしたときに、お嬢さんと飯田の
知り合いが偶然に尋ねてきたらしいのです。大方そいつも飯田の同類だと睨んでいるんで
すけどね。でも、どういうわけかそいつは飯田を力ずくで止めて警察に通報してきたんで
すよ。だからそいつがお嬢さんを救ったということになるんでしょうね」
「そうですか。その方にお礼を言わないといけませんね」
父さんが言った。
「いや。とりあえずそれは待ってください。結果的にお嬢さんを救った男は、そいつの名
前は池山博之というんですけど、警察では池山と飯田に対しては前から目をつけてたんで
すよ」
平井さんはあっさりと明日香の恩人である池山のことを切り捨てた。「まあ不良高校生
というと聞こえはいいけど、こいつらはもっと悪質なこともしていたらしいんでね」
では池山は不良どころか本当の犯罪者だったのだ。明日香がどうして池山なんかと付き
合い出したのかはわからないけど、明日香をそういう方向に追いやった責任の一端は僕に
もある。
「今、飯田は現行犯逮捕されていますし、池山の方は参考人と言うことで署で任意で事情
聴取しているところです。ですから飯田と池山の聴取が済むまでは池山に接触したりお礼
とかしない方がいいですよ」
「でもその方は娘を助けてくれたんでしょう」
父さんが不思議そうに聞いた。
「結果的にはそうなります。でも、池山の動機だって善意かどうかなんてわからんのです。
もしかしたら池山と飯田はお嬢さんを取り合っているライバルだったかもしれないし、や
つらはボーイズギャング団の中で対立していたという情報もありますから」
父さんと母さんはもう話についていけなくなっていたようだ。
無理もない。確かに明日香は服装を派手にしていたし、僕に対しては反抗的な態度だっ
たけど両親とはそれなりに真面目に向き合っていたのだ。仕事が多忙な両親は結果的に明
日香を放置している状態だったので明日香の行動はここまでエスカレートしてしまったの
だけど。だから明日香が警察からギャングとして目を付けられているような連中と知り合
いだということは、両親にとっては青天の霹靂のようなものなのだろう。
「飯田や池山は不良というよりはギャングに近い。それだけのことはしてきていると我々
は思っています。だから今回のことはお嬢さんには気の毒でしたけど、飯田たちの犯罪を
洗い出すいいチャンスなんですよ」
「そして叩けば決して池山だって真っ白というはずはありませんしね」
「あとお嬢さんが何であんな不良たちと知り合いだったんですかね。普通の家庭の真面目
な中学生の女の子が知り合いになるような連中じゃないんですけどね」
平山さんは少し探るように両親を見たけど、途方にくれているように両親も叔母さんも
も黙りこくっていた。
「結城さんですか?」
そのとき若い看護師さんが僕たちの方に向かって声をかけた。
「はい」
刑事の話にショックを受けたのか返事すらできなかった両親に代わって叔母さんが返事
した。
「明日香さんが目を覚ましました。先生の許可が下りたので面会できますよ」
「はい。奈緒人行こう」
叔母さんが言った。父さんたちも目を覚ましたかのように立ち上がった。
「ああ、結城さん。いずれお嬢さんにも事情を詳しくお聞きすることになりますから」
言葉はていねいだけど、そのときは平山という刑事の言葉はまるで嫌がらせのように聞
こえた
明日香は病室のベッドに横たわっていた。外傷は大した怪我ではないと聞いていたのだ
けど、目の当たりにする明日香の顔には包帯やガーゼが痛々しいくらいに巻かれていた。
明日香は僕たちに気づいた。
「ママ。ごめんなさい」
明日香が最初に言った言葉がそれだった。
母さんは黙ってそっと明日香の体を抱きしめるようにした。母さんの目には涙が浮かん
でいた。それからこれまで医師や刑事の話には一切反応しなかった母さんは初めて声を出
した。
「明日香、そばにいてあげられなくてごめんね。あたなを守ってあげられなくてごめん
ね」
「ママ」
明日香も包帯が巻かれた片腕を母さんに回した。もう片方の腕は点滴を受けていたので
動かせなかったのだろう。
「ママ。今までいろいろごめんなさい。でもママのこと大好きだよ」
母さんも泣きながら明日香を抱きしめて声にならない言葉を発しているようだった。
これから明日香の危うい交友関係が明らかになるのだろうけど、でも明日香と母さんは
もう大丈夫だと僕はそのとき思った。
「パパにも心配させてごめん」
明日香は父さんの方を見た。
「うん。明日香が無事ならそれでいいんだ」
父さんも明日香の自由になるほうの手に自分の手を重ねて言った。
僕はそっと部屋を抜け出そうとした。多分明日香は僕にも言いたいことがあるに違いな
い。でも今の僕にはそれを聞く資格はない。それに僕には平井さんが帰ってしまわないう
ちに聞いておきたいこともあったのだ。
過去の過ちはともかく今は明日香を守らなければならない。明日香は昔の悪い仲間と縁
を切った。でもそれによって明日香は池山たちから完全に自由になれたわけではなかった
ようだ。池山が別れた昔の女に執着して明日香を襲おうとしたのならわかる。でも明日香
を襲おうとしたのは飯田という別な高校生だった。
単純に知り合いだった明日香を出来心で何とかしようという話ならまだしも気は楽だっ
た。でもそうじゃない可能性もあった。平井さんの話を聞いてから、僕の胸には二つの光
景が浮かんでいたのだ。
奈緒と有希が通っているピアノ教室で誰かを待っているように入り口を見張っていた池
山。
あのときは僕は奈緒と二人で誰にも邪魔されずにピアノ教室を後にした。仮に池山が無
駄足を踏んだのでなければ、あいつは有希の方を追いかけたのかもしれない。
そして昨日。冷たい表情で明日香を言葉で追い詰めた有希。
あれは清純で無邪気な中学生の女の子の表情じゃなかった。そして明日香が有希の言葉
に耐えられずに駅の方に走り去った後に明日香は飯田に襲われたのだ。
これは単純な偶然なのだろうか。
父さんと母さんが明日香を抱きしめるようにしていたので、僕の動きは悟られないで済
むだろう。そう思って病室から抜け出そうとしたとき、玲子叔母さんが僕を見ていること
に気がついた。
僕は叔母さんに拝むように手を合わせた。叔母さんはためらっていたようだけど結局小
さくうなずいてくれた。
両親と明日香に気がつかれずにそっと病室を抜けた僕は救急病棟の待合室を見渡した。
体格のいい二人組はもうそこには姿が見えなかった。病院の救急用の出入り口まで駆けて
いったところで、僕は平井さんともう一人の私服の刑事がパトカーではなく一見普通の乗用
車のように見える黒塗りのセダンの車に乗り込も
うとしているところを見つけた。
「すいません」
僕は少し離れた場所から思い切って平井さんに声をかけた。
平井さんはこちらを見て柄の悪い鋭い目を細めた。
「おまえ、明日香ちゃんの兄ちゃんか」
平井さんは病院から出たときに咥えたらしいまだ火のついていない煙草を口から離して
言った。
「それはいいことじゃないんですか」
「まあ、そう思うよな。普通は」
「それはどういう意味です?」
「その前におまえが言った太田有希って子の素性を話してもらおう」
僕は一瞬ためらった。有希は奈緒の親友で明日香の友だちでもあった。そして明日香と
ともに有希と一緒に過ごした冬休みのことが思い起こされた。奈緒に会えない僕はその寂
しさを有希にはずいぶん癒してもらったものだ。
それでも僕は直感的に有希の言動に疑惑を抱いていた。全部、状況証拠に過ぎないけど
彼女が全く無関係な訳はない。それに間違っているのならそれがわかればいいのだ。警察
に話せばそのことがはっきりするかもしれない。
「太田有希は富士峰女学院中等部の二年生の女の子です。明日香の知り合いでもありま
すけど」
奈緒はこの話には関係ない。だから僕はそのときはあえて奈緒の名前は出さなかった。
「富士峰だあ?」
運転席に収まったままの加山さんが怒ったように口を挟んだ。
「・・・・・・そうですけど」
「おまえさ。何を言い出すかと思えばあのお嬢様学校の中学生が女帝だって言うのかよ。
適当なこと言ってるんじゃねえぞこのガキ」
「おい加山」
飽きれたように平井さんが言った。「おまえの方こそ捜査情報をこいつに漏らしてるじ
ゃねえか」
「あ」
加山さんは口をつぐんだ。
「まあいいか。おい兄ちゃん、おまえは俺がさっき頭が働いて仲間を統制できるような玉
なんて普通は不良高校生の中になんていねえって言ったことを覚えてるか」
「はい」
「その玉が現われたらしい。それが仲間内で女帝と呼ばれている女だ。いや、女の子らし
いけどな。そいつの名前は太田という女らしいというところまでわかったんだが」
女帝、組織立って不良高校生たちを統制できる玉。まさかさすがにそれは有希ではない
だろう。清楚なお嬢様でピアノコンクールの常連の入賞者である有希が不良たちの女親分
だなんて想像すらできない。
「加山じゃねえけど富士峰の中学生っていうのはさすがに無理があるかな」
平井さんは少し考え込んでから言った。
「いや、僕は別に有希がその女帝とやらだなんて一言も言ってないですよ。ただ、明日香
が襲われる直前に、有希は明日香とその・・・・・・喧嘩みたいになって明日香は飛び出して行
ったんです。その夜に明日香はあんな目に遭ったんです」
「材料が少なすぎるな。それに女帝はフリーターかせいぜい高校生だと思われていたんだ
が」
平井さんは考え込んだ。
「その太田有希って中学生だが、ひょっとしてピアノが上手だったりするか」
平井さんが僕にそう聞いた。僕は一瞬凍りついた。
今日はここまで。年末で業務多忙につき、当分はここも別スレもペースが遅いと思います。
また、投下します。
「まあ、直接聞いたことがあるわけじゃないですけど、ピアノは習っているみたいです
よ」
とりあえず僕は何とか冷静に返事ができた。
「そうか。実は女帝にはピアノがうまいという噂もあってな」
平井さんは再び煙草を咥えて火をつけた。今度はもう僕もここが禁煙であることを注意
しなかった。
「女帝はな。噂だけはいろいろ聞こえてくるんで、ピアノが上手だとかそういう情報には
こと欠かないんだよな」
平井さんは煙草を美味しそうに吸って僕の方をじろりと見た。
「情報があるならどんな人かは当たりがつきそうですよね」
「それがな。さっきも言ったけど今まで悪さしてた連中が、これまでしていたような悪さ
をしなくなってしまってな。未成年に無理矢理猥褻なことをするとか、対立するグループ
間で乱闘するとかそういうのが無くなってしまったんだよな」
「ええ」
「ええじゃねえ。兄ちゃんにはわからねえだろうけど、これまではそういうつまんねえこ
とをしでかした連中をしょっぴいて取調べをする中でこっちは必要な情報を手に入れてた
んだが」
平井さんが何を言おうとしているのか僕にもわかった。
「しょっぴいた連中なんざしょせんはガキだからな。ちょっと締め上げればたいがいのこ
とは吐くし、それで俺たちもがぎどものグループの情報は手に入っていたんだがよ」
「そういう小さな悪さをしなくなったんだよな。少なくともこの界隈を仕切っている連中
は」
「だからよ。それなりに情報は集まってくるが、実際に女帝と会ったことのあるやつから
は情報を取れねえんだわ。女帝のピアノ情報とかどこまで信用できるかもわからん」
「それもこれも女帝のせいだと思ってるよ。そいつが現われてからは極端に検挙件数が減
てな。上司に言い訳するのも大変だぜ」
本当にあの有希が平井さんがいう女帝なのだろうか。普通に考えればそれはすごく突飛
な考えだ。でも現に僕の妹は入院するほどのひどい仕打ちを飯田という男から受けたのだ。
それも冷たい表情で明日香を見下すように眺めた有希に責められた直後に。
僕はさっき奈緒から聞いた話を思い出した。昨晩有希は不誠実な僕なんかとは別れるよ
うに奈緒に勧めたという。その時の有希の様子は怒ってはいたけど別に不信な様子はなか
ったそうだ。
その有希が今日の放課後は奈緒の話すらまともに聞いていないほど、何かに悩んでいた
という。考えたくはないけど、彼女は明日香の事件関係で悩んでいたとしたら。
明日香を追い詰めて、明日香が僕たちから逃げ出して夜の町を無防備に徘徊したその原
因を作ったのは有希だ。そしてその晩、有希は飯田に襲われて池山に助けられた。
その一連の出来事を有希が知っていて、そして自分の意図よりも大袈裟なことに、つま
り飯田が逮捕され明日香を助けた池山すら参考人として事情聴取を受けるようなことにな
ってしまったことに対して悩んでいたとしたら。
「その女帝って人は何がしたいんでしょうか」
僕は素朴な疑問を平井さんに聞いた。
「・・・・・・どういうことだ」
「いや。無軌道に騒ぐだけなら単なる高校生の衝動なのかもしれないけど、組織立だって
何かをしようとしているとしたら目的があるんじゃないかと思って」
「ほう」
平井さんが皮肉っぽい笑いを浮かべた。「兄ちゃんも高校生だろうが。随分うがったこ
とを言うな。まさか、兄ちゃんが女帝じゃないだろうな」
「冗談だよ、冗談」
僕の顔色を見た平井さんが笑った。「でもいいところを突いてくるな。加山なんかより
よっぽど刑事の素質があるな」
「平井さん!」
顔色を変えて加山さんが言った。どうもこの人は冷静さに欠けているみたいだ。
「だから冗談だって言ったろ。でも兄ちゃんの言うとおりだ。何のメリットもなくやつら
が女帝に従うはずはねえ」
「メリットって」
「そろそろやばいっすよ。平井さん。ちょっとこいつに情報漏らしすぎじゃないですか」
不服そうにそう言い出した運転席の加山さんには構わずに平井さんは言った。
「兄ちゃんは合法ドラッグとか合法ハーブとかって聞いたことあるか」
それはテレビのニュースで聞いたことがある単語ではあった。
「聞いたことはあります。麻薬みたいに違法になっていないけど同じような効果があるや
つでしょう。吸うというよりアロマみたいに焚く感じの」
「そうだ。実際にはかなり危ないことがわかっているけど、法改正が追いつかずに違法薬
物に指定される前のブツって感じかな、だから脱法ドラッグと呼ばれることもある」
「そしてそれはドラッグそのものだ。いい気持になるなんて程度のもんじゃねえんだよ」
「はあ」
「それはとにかくだ。今はまだ違法の麻薬じゃねえしな。表立っては取り締まれねえ。そ
れに暴力団の連中だってまだこんな美味しいネタに気がついていねえみてえだ。時間の問
題なんだろうけどな」
「もうわかったか?}
平井さんが煙草を捨てて靴の底でもみ消した。
「女帝のグループはその合法ハーブを取り扱っているってことですか」
「ピンポン」
平井さんが嬉しそうに寒いセリフを吐いた。「あのガキどもが悪さしないで大人しくな
るなんざ理由があるんだよ。それが小遣い稼ぎだったんだろうな」
「まあ兄ちゃんの話はわかったよ。太田有希のことは俺らも気をつけておこう。これから
やつらの事情聴取だから、それとなく探りを入れてみることにするよ」
平井さんは車に乗ろうとした。「それでいいな? 俺の方も話せる限りのことは兄ちゃ
んに話したぜ」」
「はい。ありがとうございました」
そのとき再び平井さんが俺の方を見た。
「おまえ、やる気なのか」
「やる気って・・・・・・何を言っているのかわからないですけど」
平井さんは僕のその言葉を聞いて眠そうな目を少しだけ開いた。僕は平井さんの言葉に
戸惑っていただけだったのに、平井さんはそうは受け取らなかったようだ。
「そうか。やる気なのか。じゃあまあ気をつけろよ」
そしてもう平井さんは僕の方を見ないで車の助手席に収まった。
「じゃあな」
何かに腹を立てているかのように加山さんが乱暴にアクセルを踏んだらしい。その警察
車両はタイヤのきしむ音を病院中に響かせながら走り去って行った。あれでは加山さんは
また平井さんに怒られるだろう。
「用事は終った?」
走り去る車を見送っているといつのまにかいたらしい玲子叔母さんに背後から声をかけ
られた。
「うん。さっきはありがとう」
僕は叔母さんに言った。
「・・・・・・別にいいけど。奈緒人、あんた本当にやる気なの?」
何なんだ、いったい。さっきから平井さんと叔母といい。僕は単に有希と明日香の受難
との関係が気になっただけなのに。
「まあいいや。あたしにできることなら何でも言いな。明日香のためならあたしも協力す
るから」
「いや、叔母さん」
僕は叔母さんの誤解を解こうとしたけど、叔母さんはもう頭を切り替えていた。
「それより奈緒人、明日香があんたと話したいって」
「うん。父さんたちは?」
「仕事に戻ったよ。今日はずっと明日香に付いてるって言ったんだけど、明日香が自分は
大丈夫だから仕事に戻ってって」
こんな状況なのに明日香は両親の仕事を気遣ったようだった。これに関しては他の人に
はわからないかもしれない。でも僕と明日香には両親の仕事を優先することは当然のこと
だった。我が家の生活が成り立っていたのは両親が昼夜なく仕事をしているせいなのだ。
もちろん寂しく感じないなんてことはない。でも寂しくたってやることはやらないと僕
も明日香もここまで行き抜くことすらできなかっただろう。だから普段の家事や身辺の雑
事にしても、他の同級生たちと比べたら遊びまくっていた明日香だってはるかによくやっ
ていた方だと思う。
明日香は自分がこんな仕打ちにあった時ですら両親の仕事を心配している。半分くらい
は自業自得と思わないでもないけれども、その動機には疑いの余地はない。明日香の行動
は全て僕のことを思いやってのことだったのだ。
「とにかく病室に戻ろう」
叔母さんが僕を急かした。
病室に入ると僕に気がついた包帯だらけの明日香が点滴を受けていない方の手を僕に向
かって伸ばした。僕は差し出された明日香の手を握りながらベッドの脇の椅子に腰掛けた。
「ごめん」
最初に明日香はそう言った。さっき明日香が母さんに話しかけたときと同じ言葉だけど、
言葉に込められた意味はきっとそれとは違っていたのだろう。
「いや。おまえが無事ならそれでいいよ」
明日香が僕の手を握っている自分の手に力を込めたけど、それはずいぶん弱々しい感じ
だった。
「あたしね、いきなり飯田に話しかけられたの。奈緒のことで話しておきたいことがある
から俺の部屋に行こうって」
奈緒のこと? 何で飯田が奈緒のことを、僕の妹のことを知っているんだ。僕は混乱し
た。明日香とその仲間たちは。、直接奈緒との接点はないはずだ。明日香以外で奈緒と池
山たちを知っている可能性があるのは。
やはり有希は女帝なのだろうか。
「何で飯田がそんなことを知っているのか気になったから、あたしつい飯田の部屋につい
て行って」
「うん。そこはもう詳しく言わないでいいよ」
僕は明日香を気遣ったけど、明日香はかすかに顔を横に振って話を続けた。
「それで、部屋に入ったらいきなりベッドにうつ伏せに押し倒されて、後ろ手に縛られて、
あたしが抵抗したらすごく恐い目で睨まれて何度も顔を叩かれたの」
明日香は低い声で続けた。
「・・・・・・もういいよ」
「うん。そしたらいきなりドアが開いて池山が入ってきて飯田に殴りかかって、あっとい
う間に飯田のこと殴り倒しちゃったの」
それでは池山が明日香を助けたというのは嘘ではないのだ。
「池山はあたしの手を解いてくれて、すぐに家に帰れって言ったの。これから警察に電話
するし巻き込まれたくなければすぐにここから出て行けって」
「そうか」
自分の別れた女を飯田から救うことくらいは理解できる話ではある。でも警察に電話す
るなんていったいどういうつもりだったのだろう。個人的に飯田のことをぼこぼこにする
くらいはあの金髪ピアスの男ならやりそうだ。でも警察にチクルなんて池山らしくない。
ましてさっき平井さんから聞いた話が事実だとすると、飯田も池山も女帝の下でドラッグ
の販売とかに手を染めていたはずで、そんな池山が警察に電話すること自体が理解しがた
い。
「あたし、本当にもう池山のことなんて何とも思っていないんだよ。あたしが今好きな人
はお兄ちゃんだけだし」
突然の明日香の告白に僕は狼狽した。背後で立っているはずの玲子叔母さんのことも気
になった。
「でもね、あたしが逃げちゃったら池山が飯田を殴った犯人にされるかもしれない。あた
しは池山に助けられたんだから、そこにいて証言しなくちゃって思ったの」
明日香が言うには池山は何度も早く家に帰れと言ったらしい。自分のことは構わないか
ら、おまえはこんなことに関わりになるような女じゃないからと必死な表情で。
「・・・・・・前から池山はあたしのことを過大評価していたから。あたしが清純で穢れのない
女の子だと思い込みたかったみたい」
「もういい。わかったから。今はもう思い出すな。辛いだろ」
明日香僕の手を一端離した。
「もっと近くに来て。お兄ちゃん」
僕が言われたとおりにすると、明日香は片手で僕の腕に抱きつくようにした。明日香の
顔が僕の顔のすぐ横に来た。
「お兄ちゃん聞いて」
「・・・・・・席外そうか」
叔母さんが聞いた。
「いい。叔母さんも聞いてて」
「いいのかよ」
叔母さんが戸惑ったようにぶつぶつ言った。
「お兄ちゃん、今度こそ真剣に言うね。あたしお兄ちゃんにはいろいろ辛く当たってきた
けど、本当はお兄ちゃんのことが好き」
僕の頬に触れている明日香から湿った感触がする。
「あたし、奈緒のこと大嫌いだった。昔お兄ちゃんの愛情を独占していて、今またお兄ち
ゃんを惑して傷つけようとしているあのビッチのことが」
「奈緒はそんな子じゃないよ」
僕は辛うじて反論した。
「うん。今にして思えばそうかもしれないね。あたし多分奈緒に嫉妬していたのかもしれ
ない」
「どういうこと」
「十年以上も会っていなくて、久しぶりに一度だけ会っただけでお兄ちゃんを夢中にさせ
た奈緒に、あたしは嫉妬していたんだと思う。あたしが素直になって自分の気持ちに気が
ついたのは、お兄ちゃんと奈緒が付き合い出してからだったし」
「明日香」
「返事は急がない。でもあたしはお兄ちゃんとは血が繋がっていないし、奈緒と違ってお
兄ちゃんとは付き合えるし結婚だってできるはず」
「結婚って」
「例え話だよ。あたし飯田に乱暴されそうになったとき、お兄ちゃんのことが頭に浮かん
だの。池山でもなくママでもなく」
明日香は僕から顔を離して僕の顔を見た。顔には痛々しく包帯が巻かれていたけど、そ
れは何かの重荷を降ろしたような幸せそうな表情だった。こんな明日香は初めてだった。
「あたしが好きなのはお兄ちゃんだけ。でも返事は急がないからよく考えてね」
「・・・・・・明日香」
「そろそろ検診の時間ですから、面会時間はここまでですよ」
そのときさっきの看護師が部屋に入って来て言った。
「明日香、明日退院だって」
連れ立って病院から出たところで叔母さんが言った。「結城さんと姉さんから頼まれた
んで明日はあたしが明日香を迎えに行くんだけど」
「うん」
「あんたは学校だね」
叔母さんが言いたいことくらいすぐにわかった。
「妹が退院だからって先生に言うよ。明日は休んで僕も一緒に行っていい?」
「その方が明日香も喜ぶだろうな」
叔母さんが言った。「まさか目の前で明日香の一世一代のあんたへの告白を見せつけら
れるとは思わなかったけど。あの子も今度ばかりは本気みたいだね」
「叔母さんもそう思う?」
「うん思う。あんたはどうなのよ。最近明日香とはすごく仲いいみたいだけど」
「仲はいいよ」
叔母さんは少しためらってからそっと言った。
「やっぱり奈緒ちゃんのことが忘れられない?」
僕はまだ兄妹としての奈緒との再会のことを明日香にも叔母さんにも話していなかった
ことに気がついた。
「それはないんだ。叔母さんにはまた言ってなかったけど、今朝登校中に奈緒に待ち伏せ
されんだ」
「え? 奈緒ちゃんに会ったの?」
叔母さんは驚いたように言った。多分僕の精神的外傷のことを気にしてくれていたのだ
ろう。
「うん。何で会ってくれないの、嫌いになったのって」
「それだけ聞くとさ、奈緒ちゃんはやっぱりあんたが実の兄貴であることを知らないの
か」
「正確に言うと知らなかったになるんだけど」
「どういう意味よ。こんな場合なのにもったいつけるな」
「いろいろあって奈緒には僕が実の兄貴であることがばれちゃったんだ」
「マジで?」
叔母さんが驚いた様子だった。
「うん、無意識のうちに僕は気がつかせるようなことを口にしちゃったらしいんだけど」
「それで? 奈緒ちゃんはショックだった?」
「それがそうでもない。むしろ引き離されていた僕と再会したことを喜んでいたよ。もう
二度と僕とは別れないって」
突然の明日香の事件のことで緊張していた僕だけど、その時の奈緒の表情や言葉を思い
出すと胸が温かくなっていった。恋人同士には戻れない僕たちだけど、二度と会えないと
思っていた僕らは奇跡的に再会できたのだ。
「そうか」
叔母さんが言った。「じゃあ、あんたはこれまで会えなかった実の妹の奈緒ちゃんと、
これまで妹だったけど彼女に立候補した明日香と二人を同時にゲットしたわけか」
「そんなんじゃないし」
僕は赤くなって叔母さんに言った。
僕はその日のうちに奈緒に電話した。叔母と別れて帰宅してもやはり家には両親はいな
かった。ワンコールで電話に出た奈緒はやたらにテンションが高かった。
「やっぱりさっそく電話してきた。お兄ちゃんって本気でシスコンだったのね」
奈緒が電話口で機嫌良さそうに屈託なく笑った。
僕は明日香の退院の付き添いと、そのために明日は奈緒と約束したとおり朝一緒に登校
できないことを伝えた。
「妹さん病気なの」
奈緒が明日香のことを妹さんと言うのには何か違和感があった。僕の妹はおまえだ。僕
は一瞬そう思ったでも、それじゃあ明日香は僕の何なのだろう。奈緒と付き合い始めてか
らは僕の彼女は奈緒で僕の妹は明日香だった。これからはどうなるんだろうか。
今では奈緒は僕の妹だった。だから僕の初めての彼女は消えていなくなってしまったの
だ。そのことがつらくないと言ったら嘘になる。でもフラバのこともあるし、何よりかつ
ての僕の最大のトラウマだった奈緒との強制的な別離が十年もたってから劇的な再会によ
って解決したのだから、僕はもうそれで満足なんだと考えることにしていた。
それに奈緒は僕の彼女だったことなど忘れたように、兄との再会を無邪気に喜んでいる。
恋人としての奈緒に未練があるなんて彼女に気がつかれてはいけない。
「ちょっと怪我しちゃったんだけどね。大したことはなかったよ」
「そうなんだ。よかったね」
「うん、ありがと。明日は退院の付き添いだけど、明後日以降は妹の容態によっては学校
を休んで面倒を見なきゃいけないかも」
それはさっきから考えていたことだった。平日の昼間は間違いなくうちには母さんはい
ない。明日香の外傷は大したことがないと言っても退院してすぐに登校できるわけがない
し、そんな明日香を一人にしておくのもかわいそうだ。
「お母様は?」
少しだけ遠慮したように奈緒が聞いた。そういえばまだお互いの家族の近況とかは、奈
緒との間には全く話題に出ていなかった。
「母さんも父さんと音楽雑誌の編集をしているんだ」
僕は家の事情を奈緒に話した。「だから普段は昼間はもちろん、夜だって滅多に家にい
ないよ」
「そうか。じゃあしばらくは朝お兄ちゃんと会えないね」
奈緒が言った。
「ごめんね」
「ううん、今は妹さんのことを考えてあげないとね」
奈緒には申し訳ないけど、この状況では明日香のことを優先する以外には選択肢はなか
った。
「朝来られるようになったらいつもの電車に来てね。あたしは毎朝あの電車に乗っている
から」
「行けそうになったらメールか電話するよ」
「うん。お兄ちゃんありがとう」
そのとき電話の背後で何かを注意するような女性の声が聞こえた。何を話しているかま
ではよく聞こえなかったけど、少しイライラしているような感じの声だった。
「いけない。ママが怒ってる」
奈緒が少し慌てたように言った。「ピアノの練習時間だったんだけど弾いていないの気
がつかれちゃった」
「練習を邪魔しちゃってたのか。悪い」
「いいの。お兄ちゃんと話しているほうが楽しいし」
「じゃあもう切るね」
ママ。よく考えればその人は僕の本当の母親なのだ。そこに気がついた僕は、自分の心
に何らかの影響があるだろうと思ったのだけど、そういうことは起きなかった。まるで無
感動なのだ。
「ごめんねお兄ちゃん。一応ここ防音になっているんだけど、完全じゃないからピアノを
弾いていないとママにばれちゃうの」
「そうなんだ。じゃあまた連絡するから」
「うん、待ってる。おやすみ、お兄ちゃん」
電話を切った後、僕はしばらくさっき考えていたことを再び思い返してみた。奈緒は僕
の妹だ。この先もずっと。そして明日香は僕に告白した。奈緒と恋人同士だった頃の僕な
ら、どうしたら明日香を傷つけずに断ればいいか考えるだけだっただろう。奈緒を振って
明日香と付き合い出すなんて考えたことすらなかった。
でも今ではどうなのだろう。僕にはもう彼女はいない。僕は明日香の気持ちに応えるべ
きなんだろうか。奈緒とは違って明日香は義理の妹だ。一滴たりとも同じ血は流れていな
い。だからさっき明日香が言っていたように付き合うことにも結婚することさえにも法的
な制約はないのだ。
僕は試しに僕と明日香が付き合い出したときの周囲の人たちの反応を想像してみた。兄
友は明日香が僕の義理の妹であることを知っているから、驚きはするだろうけどそれが社
会的なタブーだとは考えないだろう。でも他の人たちはどう思うだろう。考えてみれば僕
と明日香が実の兄妹ではないことを知っているのは、両親や親戚を除けばほとんどいない。
当たり前のことだけど、父さんや母さんだってわざわざ周囲に再婚家庭であることをア
ピールする必要なんかなかっただろう。それに何といっても去年までは僕自身だって明日
香が自分の本当の妹ではないなんて想像したことすらなかったのだ。
そう考えると、仮に僕と明日香が恋人同士になったときの周囲の反応は考えるだけでも
面倒くさそうだった。僕の友人たちや明日香の友だちはみな僕と明日香が兄妹なのに禁断
の関係になったと思い込むだろうし、そういう噂だって流れるだろう。そういう人たちに
向かって一人一人に我が家の家庭事情を最初から話していくなんて不可能だ。
僕と奈緒が付き合い出したときはそういう問題は生じなかった。誰も僕と奈緒が実の兄
妹だなんて知らなかった。というか当事者である僕たちだってそれを知らなかったのだか
ら。そう考えると明日香と付き合い出すのは大変そうなのに比べて、奈緒とこのまま付き
合っている方がはるかに自然で楽そうだった。
そのとき僕は胸に鋭い痛みを感じた。今、僕は何を考えた?
奈緒とこのまま付き合うなんてありえない。お互いに生き別れた兄妹だとわかった今と
なっては。奈緒は僕の妹なのだ。奈緒と感動的な再会をはたした今朝は、つらい別れをし
た妹と再会できたことに喜びを感じただけで、それ以外に余計なことを考える余裕なんて
なかった。でも、今改めてこの先の僕たちの関係を考えてみると、僕は自分の汚い心の動
きに気がついた。
最初に奈緒とキスをしたあの夕暮れの日、正直に考えれば僕の下半身は奈緒の華奢で柔
らかくいい匂いのする身体に反応していなかったか。奈緒とキスを重ねるたびに、次は奈
緒に対して何をしようかとわくわくしながら考えている自分はいなかったか。
そうだ。この次は奈緒の体を愛撫し、そしていつかは奈緒と身体的に結ばれたいと思っ
ていた自分がそこにはいたのだ。そしてその気持ちは実は今になってもまだ清算すらでき
ていなかった。奈緒は妹だ。そして僕のことを兄だと気がついた以上、彼女は僕が自分に
対してこんな破廉恥な気持ちを抱いているなんて夢にも思っていないだろう。つらい別れ
をして以来、再会を夢見続けていた奈緒は、自分の兄を取り戻せたことに満足しているの
だ。彼氏としての奈緒人が消滅してしまっても気にならないくらいに。
それなのに僕はそんな妹に対して汚らしい欲情をまだ捨てきれていない。
こんなことを考えていたらまたフラッシュバックを起こしそうだった。僕はとりあえず
無理に考えを違う方向に捻じ曲げた。
明日香は急がないと言ってくれた。明日香が僕の彼女で奈緒が僕の妹である将来だって、
あり得ない話ではないのだ。というか両親も玲子叔母さんも僕と明日香が結ばれることに
祝福こそすれ反対はしないだろう。
でもそれは明日香の言うとおり急ぐことではなかった。奈緒との関係の整理とか明日香
との付き合い方とかを今日一日で決めろと言われてもそれは無理だ。奈緒に感じた性欲の
ようなものを思い起こすだけでもつらい今では絶対に無理だった。
それで僕は無理に今日平井さんから聞いたことを思い起こした。
有希が女帝だったとしたら、この先明日香や奈緒には何らかの危害が及ぶ可能性がある
のだろうか。明日香に関して言えば、とりあえず飯田は逮捕された。この先どうなるのか
はわからないけど、少なくとも傷害事件の現行犯だから家裁を経て少年院送りとなるか、
あるいは初犯なら執行猶予とか保護観察になるかだろう。
でも平井さんの話では前から警察に目を付けられていたらしいし、初犯じゃあないのか
もしれない。いずれにせよ再び明日香を狙う可能性はそんなに高くないだろう。
奈緒はどうか。明日香が飯田のアパートに無防備について行ったのは、飯田に奈緒の話
をほのめかされたからだ。奈緒のような子とボーイズギャングとして警察にマークされて
いる飯田との間にはいったいどんな接点があるのだろう。
考えられるとすれば有希がその接点だということだった。あの有希が女帝として飯田や
池山にいろいろ命令したり指示する立場にいるなら、飯田たちは有希から奈緒のことを聞
いていた可能性は考えられる。でも奈緒も有希もお互いのことを親友だと言っていた。少
なくとも有希が奈緒のことを親友だと考えているなら、有希の命令で奈緒に危害が及ぶ可
能性は低い。
そう考えると、明日香と奈緒の身がすぐに危ないというわけでもなさそうだ。その点に
関しては僕は少しだけ安心することができた。それから僕は平井さんと玲子叔母さんの言
葉を思い出した。
『おまえ、やる気なのか』
『そうか。やる気なのか。じゃあまあ気をつけろよ』
平井さんは戸惑っている僕の言葉なんか気にもせずにそう言い放った。
『・・・・・・別にいいけど。奈緒人、あんた本当にやる気なの?』
『まあいいや。あたしにできることなら何でも言いな。明日香のためならあたしも協力す
るから』
これは叔母さんのセリフだった。いい大人の二人は、高校生の僕に対していったい何を
期待しているのだろう。
翌朝、叔母さんは家まで車で僕を迎えに来てくれた。叔母さんの車の音はすぐにわかる。
それは周囲に響くような重低音だった。明らかに近所迷惑としか思えないのだけど、叔母
さんはそのシルバーの古い国産のクーペを大切にしていたし自慢もしていた。
「おはよう叔母さん」
僕は玄関から外に出た。
「おはよう奈緒人。何か雪でも降りそうな天気だね」
叔母さんが車の中でハンドルを握りながら言った。
「叔母さん、ここは住宅地だし朝なんだからあまりエンジンの空吹かししないでよ」
「悪い。ちょっと調子が悪くてさ。じゃあ行こうか」
僕は叔母さんの車の助手席に乗り込んだ。スポーツカーらしくひどく腰がシートに沈み
込みフロントウィンドウから見る景色がとても低いように感じる。
「明日香の保険証持ってきた?」
「うん。持ってきたよ」
「じゃあ行こう。あ、帰りは明日香が助手席な。後ろの席は狭いし怪我人にはつらいから
ね」
叔母さんの車はツーシーターではないのだけれど、後席は飾りみたいなものだった。や
たらに狭いし天井も低い。とても長く人が乗っていられるような空間ではない。
「叔母さんも普通の車に買い換えたら?」
「普通の車じゃん」
叔母さんがアクセルを踏んだ。車は急発進して坂を下りだした。まるで昨日の加山さん
の運転のようだった。
「叔母さん、ここスクールゾーンだからスピード出しちゃ駄目だよ」
「お、いけね」
やがて叔母さんの運転する車は環状線に入った。妹の入院している病院はうちからはそ
んなに遠くないのだけど、平日の朝は病院までの国道は通勤の車で渋滞していてなかなか
目的地の近くに辿り着く様子がない。
「叔母さんさ」
僕は信号待ちでも工事でもないのに一向に動かない車の中でハンドルを握っている叔母
さんに言った。
「うん」
「昨日叔母さん言ってたでしょ? 本当にやる気なのって」
「言ったよ。そんであたしは反対しないよ。というかあたしも手伝うよ」
「手伝うって」
「結城さんや姉さんには言わない方がいいとは思うけどね」
僕は混乱してきた。
「叔母さんはいったい僕が何をしようとしていると思ってるの?」
「明日香のために、あの子が何でいきなり襲われそうになったのかを調べるんでしょ」
あっさりと叔母さんは言った。「そんな危険なことは警察に任せておいた方がいいよっ
て普通の大人なら言うんだろうけどね」
病室から抜け出して平井さんの後をついて行こうとしたときに、僕はそこまで考えてい
たわけではなかった。ただ、あのときの有希の冷たい視線と言葉が思い浮んだだけなのだ。
でも改めて叔母さんにそう言われると、最初から僕はそうするつもりだったのかもしれな
いと気がつかされたのだ。
もともとすべきことはわかっていたのだけれど、奈緒とのことが頭を占めていたせいで
はっきりとそれを突き詰めて考えなかっただけなのだ。妹でも彼女でも明日香は僕にとっ
て大切な女の子だ。そのことをここ数日で僕は思い知った。明日香が遊んでいた相手は、
明日香が考えていたような単純な遊び人たちではなく、脱法ドラッグとやらを取り引きし
ているような組織らしいのだ。
僕はひ弱な高校生に過ぎない。そんな僕に対して警察の平井さんや玲子叔母さんが何で
そこまで僕の意思を疑いなく決め付けるのかはよくわからなかった。喧嘩が強いわけでも
なければ頭が切れるわけでもない。それでも明日香のためならばしなければ、いけないこ
とはするだけなのだろう。多分明日香の病室を抜け出して平井さんを追いかけたときから
僕は無意識にそう決めていたのかもしれなかった。
「あたしを除け者にするなよ、奈緒人。あたしたちは家族なんだからさ。家族のためには
あたしたちは結束して立ち向かうのよ」
叔母さんは大袈裟に言って笑った。でも叔母さんを巻き込むわけにはいかない。玲子叔
母さんは頼りになるけど、それでもやはりやつらから見ればか弱い女性に過ぎない。性格
的に男勝りだとか車の運転が荒いだとか、そんなことはこれから相手にするやつらには通
用しないだろう。ドラッグとかを扱っているような連中なのだから、彼らに目を付けられ
たら叔母さんだって明日香と同じような目に会わないとは言い切れない。
叔母さんをそんな危険なことに巻き込むわけにはいかない。だから僕はもうこの話には
触れずに言った。
「明日香はいつから学校に行けるのかな」
「それはわからないよ。今日主治医に聞いているけど、少なくとも今週いっぱいくらいは
自宅療養なんじゃないかなあ」
僕は即座に決心した。奈緒には申し訳ないことになるかもしれないけど。
「じゃあ僕が学校を休んで奈緒の面倒をみるよ」
「悪いね」
本当に申し訳なさそうに玲子叔母さんが言った。「あたしも今日の午前中休むだけで精
一杯でさ」
「叔母さんのせいじゃないよ」
「結城さんと姉さんも仕事を何とかやりくりするって言ってたけど」
「無理しなくていいって言っておいて。僕が明日香の面倒を見るから」
「・・・・・・わかった」
玲子叔母さんは最近すぐに涙を見せるようになったらしい。ようやく叔母さんは病院の
駐車場に車を入れた。自宅を出てから一時間以上はかかっていた。
それから明日香が退院するまでも長かった。叔母さんが会計で治療費や入院費用を支払
うだけで一時間弱は要しただろう。突然の入院だったので荷物なんか全くないのはよかっ
たけど、それからが大変だった。明日香が着替えることになって僕は明日香と叔母さんに
病室から追い出された。でもすぐにまた病室のスライドドアが開いて叔母さんが困惑した
顔を見せた。
「明日香の着替えがないや」
叔母さんが言った。
「そう言えば着替え持ってくるの忘れてたね。とりあえず昨日着ていた服じゃだめな
の?」
「・・・・・・飯田って男に破かれちゃったみたいね。病院の人が畳たんで置いといてくれたん
だけどとても着られる状態じゃないな」
よく考えれば不思議なことではなかった。奈緒のこととか明日香の告白のこととかそう
いう自分にとっての悩みばかり考えていたせいで、僕はこういう本当に必要なことなんか
何も考えていなかったのだ
「悪い。あたしがうっかりしてた」
叔母さんはそう言ったけど叔母さんのせいじゃない。むしろ昨日病院を後にしてすぐに
仕事に戻るほど忙しかったのに、明日香の保険証を持ってくることを注意してくれたのだ
って叔母さんだった。学校を休んで明日香の退院に付き添うくらいで僕はいい兄貴になっ
たつもりでいたのだけど、それだけでは何もしていないのと同じだ。
「叔母さんのせいじゃないよ」
僕は叔母さんに言った。「でも破かれた服とか見たら明日香も思い出しちゃったかな
あ」
「・・・・・・気にしていない様子だけど、多分相当無理していると思うな」
「そうだよね」
PTSDから生じるフラッシュバックのつらさは僕が一番わかっていたはずだったのに。
「家に戻るわけにも行かないからさ、あたしちょっと明日香の服を適当に買ってくるわ。
だからあんたは明日香の相手してやってて。できる?」
叔母さんがわざわざできるかと念を押したわけはよくわかった。
「うん、大丈夫」
「じゃあちょっと行ってくる」
病室に引っ込んだ叔母さんに付いていこうとして僕は止められた。
「また入院着に着替えさせるからちょっと待ってて」
・・・・・・このとき僕はそんなことすら気を遣うことがきない大馬鹿者になった気がした。
叔母さんが明日香の服を買いに行っている間、僕は明日香と二人で病室で叔母さんの帰
りを待っていた。明日香は外見的には自分の破かれた服を見たショックを表情に表わして
はいないように見えた。
「結局、学校は何日くらい休めばいいんだって?」
僕は明日香のベッドの横の丸椅子に座って聞いた。
「今週いっぱいは自宅で療養してた方がいいって先生が言ってた」
明日香が答えた。「お兄ちゃんと違って勉強とか好きじゃないし休めるのは嬉しいな」
「そんなのん気なこと言ってる場合か」
僕は明日香に笑いかけた。
「だって正々堂々と休めるなんて滅多にないじゃん」
明日香も笑ってくれたけど何かその表情は痛々しい。
「とりあえず今朝は母さんが会社からおまえの中学の担任に具合悪いから休ませますって
連絡しているはずなんだけどさ」
「うん」
「明日からはどうしようか。いっそインフルエンザになったことにする? 今流行ってい
るし」
「別に・・・・・・怪我したからでいいじゃん」
「だってそしたら」
そうしたら担任の先生には理由を聞かれるだろう。いずれ平井さんたちの捜査が進めば
学校にも事実が伝わってしまうのだろうけど、その前に明日香がレイプされそうになって
怪我をしたなんて他人には話したくない。
「あまり気にしなくていいよ。お兄ちゃんも叔母さんも」
明日香が不意に言った。
「おまえ」
「自業自得だもん。あたしがあんなバカやって飯田たちみたいなやつらと付き合ってなか
ったらこんなことも起きなかっただろうし」
「おまえのせいじゃないよ。か弱い女の子に力づくで何とかしようなんて100%男の方
が悪いに決まってる。おまえが変な連中と付き合ったのは感心しないけど、だからといっ
てこれにはおまえに全く責任はないよ」
「うん。お兄ちゃんありがと」
病院で会ってから初めて僕は明日香の涙を見た。
「だからおまえが気にすることなんて何もないんだ」
「うん」
明日香の泣き笑いのような変な表情がそのときの僕には印象的だった。
「それにしてもさ、あたしはか弱くなんかないって。奈緒とか有希みたいなお嬢様じゃな
いんだしさ」
「・・・・・・僕にとってはおまえはいつもか弱い危なっかしい妹だよ」
「え」
「前にさ、公園で鳩を追い駆けていた幼いおまえの記憶が残っているって話したことある
だろ」
「それ、きっと奈緒の記憶だよ。年齢が違うもん。あたしたちが初めて出会ったのはそん
なに幼い年じゃないし」
「うん。多分それは僕の思い違いなんだろうけどさ。でもそのときの女の子をすごく大切
に感じたことや僕が守ってやらなきゃって思ってその子を追い駆けていた記憶はすごく鮮
明なんだよね」
「お兄ちゃんは奈緒のことをそれだけ大切に思ってたんでしょうね」
「いや、僕はその子をおまえだとこの間まで信じていたしさ。それでもその幼いおまえの
ことが心配な気持ちは確かに感じてたんだ。事実としては勘違いかもしれないけど、おま
えのことを大切に思った想いだけは本当の感情だと思うよ」
「お兄ちゃん・・・・・・」
「おまえと仲が悪かったときとかおまえが夜遅く帰ってきたときとか、正直関りたくない
と思ったことはあったけど、結局気になって眠れなかったんだよね。僕も」
病室のベッドに腰かけていた明日香が涙の残った目で僕を見上げた。
「それくらいにしなよ。それ以上言うともう本気でお兄ちゃんを誰にも渡したくなくなっ
ちゃうよ」
「うん。おまえと恋人同士になれるかどうかはともかく、少なくともおまえは僕の妹だよ、
一生」
僕はだいぶ恥かしいことを真顔で言ったのだけど、そのときはそれはあまり考えずに自
然と口から出た言葉だったのだ。
「・・・・・・まあとりあえずそれで満足しておこうかな」
泣きやんだ明日香が微笑んで言った。「ヘタレのお兄ちゃんにこれ以上迫ったら逃げ出
しちゃうかもしれないし、それはそれで嫌だから」
「ヘタレって」
「とりあえずあたしはこれで奈緒と同じスタートラインに立てたってことだね」
明日香が言った。
僕は黙ってしまった。まだ明日香の気持ちに応えられるほど気持ちの整理はついていな
い。僕は昨晩感じた奈緒への性欲のような衝動を思い出した。
「血が繋がっていないだけ有利だしね」
明日香が僕に止めをさした。
それでも叔母さんが帰ってくるまで病室内の雰囲気は穏やかだったと思う。お互いに意
識して微妙なラインの会話を続けながらも、昔よりは確実に僕と明日香はお互いを理解し
合おうとしていたのだ。
僕が奈緒のことで悩んでいたときに明日香は僕を黙って支えてくれたし、今は僕は同じ
ことを明日香にしようとしている。それは明日香の僕への想いとはかかわりなく、ようや
く僕たちが自然な兄妹の関係に復帰できたということだった。
「パパやママもそうだけどまた玲子叔母さんに迷惑かけちゃったな」
明日香の担任にどう話そうかという話を蒸し返していたときに明日香がぽつんと言った。
確かにそのとおりだった。僕と奈緒のことでいろいろ迷惑をかけただけでは足りずに、
今回は叔母さんにはお礼の言いようもないほど世話になったのだ。
真っ先に病院に駆けつけたのも、すぐに僕に連絡をくれたのも叔母さんだ。そして今日
は半日だけとはいえ多忙な仕事をよそに病院の支払いから明日香の着替えの購入まで面倒
を見てくれている。
「昔から姉さんにはあんたたちの世話を押し付けられてたからね」
僕が叔母さんにお礼を言おうとしても叔母さんはそう言って笑うだけだった。叔母さん
にだって自分の仕事やプライベートな時間だってあるのだろうに、僕たちも両親も叔母さ
んに頼ってばかりだ。
「叔母さんって彼氏いないのかなあ」
明日香がそう言った。
「さあ? 聞いたことないよね」
「あんなに綺麗なんだから絶対いると思うな」
「確かにそうだ」
そのとき僕は叔母さんのすらりとした細身の容姿を思い浮かべた。確かにあれで彼氏が
いない方が不自然だ。もっとも性格の方はだいぶ男っぽいので大概の男では叔母さんを満
足させられないのかもしれない。
「玲子叔母さんってパパのこと好きだったんじゃないかな」
突然明日香がびっくりするようなことを言い出した。
「え? パパって今の父さんのこと?」
「うん。あたしたちのパパのこと」
女の子の想像というのも随分突飛な方向に暴走するものだとそのとき僕は思った。それ
はまじめに取り合う気もしないほど斜め上の発想だった。
「何でそうなるの」
「叔母さんがパパに話しかけるときの雰囲気とかで感じない? 何か甘えているような感
じ」
「どうかなあ。特には気がつかないな」
「ママがいる時は普通の態度なのよ。でもさ、この間の夜みたいにママがいなくてパパと
かあたしたちと一緒にいる時の叔母さんって、すごくはしゃいでててさ。パパに話しかけ
るときの様子とか何か可愛い女の子って感じじゃん」
「それは思いすぎだと思うけどなあ。第一叔母さんにだけじゃなくて母さんにだって失礼
だろ、そんな想像は」
「でもそう感じるんだもん」
明日香が頑固に言い張った。
「ママとパパって幼馴染で、大学のときに再開してそれで社会人になってからパパの離婚
を経てようやく結ばれたんでしょ」
「叔母さんはそう言っていたね」
僕はそのときに父さんと母さんの馴れ初めを始めて聞いたのだった。僕の本当の母さん
と父さんとの別れの原因を聞くのと一緒に。
「ママと叔母さんは十三歳年が違うんだ。すごく年の離れた姉妹なんだって」
その辺の事情を詳しく聞いたことはなかったけど、以前から叔母さんと母さんが年齢が
離れていることだけは何となく感じていたことだった。
「ママが今度四十三歳でしょ?」
「そういや母さんの誕生日って来月じゃん。今年は一緒にプレゼント買おうか」
これまで仲が悪かった僕たちは母さんへのプレゼントをそれぞれ別々に用意していたの
だ。母さんは平等にそれを喜んでくれたのだけど。
「いいけど。って今はそういう話じゃなくて。パパとママが大学時代に再会したとき、叔
母さんは小学生にはなっていたわけだし、そのときパパに淡い初恋をしたっておかしくな
いじゃん」
「どうでもいいけど、それ全部状況証拠っていうか思い込みだろう」
「可能性の話だよ。あと再婚の頃は叔母さんだって二十歳を過ぎていたんだから、あらた
めてパパに対する禁じられた報われない恋に泣いていたとしても不思議はないでしょ。顔
には祝福の笑みを浮べながら。叔母さんかわいそう」
叔母さんにここまで世話になったと言いながら明日香はさっそくこれだ。でも叔母さん
には悪いけどこういう話で明日香が重苦しい気持ちを忘れられるならむしろ大歓迎だった。
もっとも叔母さんの前ではこういう話をしないように釘はさしておかなければならないけ
ど。
「叔母さん、もてそうだし彼氏とか作って結婚しようと思えばすぐにでもできそうなのに
ね」
僕は言った。それは本音だった。むしろ僕たちの世話を焼くことが叔母さんの邪魔にな
っているのかもしれない。あとは殺人的に多忙な仕事もそうだろうけど。
「何よ。お兄ちゃん、玲子叔母さんのことが気になるの?」
明日香が少しだけ真面目な顔で僕を睨んだ。
「ば、おまえ何言って」
「確かに叔母さん綺麗だもんね。よく考えたらお兄ちゃんとは血が繋がってないし」
「おまえ、いくらなんでもそれは叔母さんに失礼だろう」
「・・・・・・何で本気で赤くなってるのよ」
「なってねえし」
「お兄ちゃんってパパに似てるしね。叔母さんもパパに似ているお兄ちゃんのことが気に
なっていたりして・・・・・・それも男性として」
「おまえ・・・・・・怒るぞ」
明日香は僕の精一杯の威嚇なんか少しも気にしていないようだった。
「考えてみればパパと叔母さんは十五歳違いだけど、お兄ちゃんと叔母さんは十三歳違い
だもんね。パパよりお兄ちゃんのほうが叔母さんに年齢が近いじゃん」
明日香の冗談に付き合っているときりがない。でも僕はそのとき叔母さんのすらりとし
た容姿を重苦しく思い出した。女帝の率いるボーイズギャング団のことを思い出したから
だ。そいつらは女帝が現われてからは女の人を襲ったりとか、道端で強盗まがいのことを
しなくなったと平井さんは言っていた。そのかわり脱法ドラッグを組織的に仕入れて売る
という暴力団まがいの商売を始めたのだ。一見大人しくなったようだけど危険な連中であ
ることに違いはなかった。本当に女帝という女が実在するとしたら、僕が探ろうとしてい
ることは相当に危険なことに違いない。叔母さんは僕と一緒にその探索をすると意気込ん
で言っていたけど、やはりそれだけは阻止しなくてはならない。これから探ろうとしてい
る連中は、相手が大人だからといって遠慮したり恐れたりする相手ではなさそうだ。深入
りすれば叔母さんだって明日香と同様に飯田のようなやつに何かひどいことをされてしま
う危険がある。
「まあ、あたしは相手が玲子叔母さんでも奈緒でも有希でも、お兄ちゃんを譲る気なんて
ないんだけどね」
明日香が叔母さんのことから話を変えた。僕はあのとき逃げ去っていった明日香を見送
って以来初めて彼女の口から有希の名前を聞いたのだ。明日香もそのことに気がついたよ
うだった。彼女の表情が曇った。
明日香が笑顔を消して何か話し出そうとしたとき、叔母さんがどこかのショップのブラ
ンドロゴの記された紙のバッグを提げて病室に入ってきた。
「ちょうど先月号で見本を提供してもらったショップを思い出してさ、考えたらこの病院
のすぐそばにあるんだったよ」
叔母さんが持ってきたショップのロゴは僕には初めて見かけるものだったけど、明日香
はそれを見て曇っていた顔を輝かせた。
「え、これJASPERじゃん。こんなの貰っていいの?」
「たまには明日香にプレゼントしてもいいかなって。高いんだぞ大事にしろよって・・・・・・
奈緒人、あんたどうかしたの?」
「お兄ちゃんはね、叔母さんのこと」
明日香はとりあえず有希のことを忘れたように、嬉しそうに何かを喋りだそうとした。
嫌な予感がした僕はこいつに飛び掛るようにして口を押さえた。
「何すんのよ! 離してよお兄ちゃん」
「これこれ病院でいちゃいちゃするのやめろ」
叔母さんが飽きれたように笑った。
「違うのよ。ねえ叔母さん、聞いて聞いて。お兄ちゃんって叔母さんのこと、うう!」
僕は辛うじて明日香の口を抑えることができた。全く。明日香の悪ふざけにも程がある。
「おいもういい加減にしろよ」
「叔母さんの前だからって照れちゃって」
「おい」
「はいはい。着替えるからお兄ちゃんは出て行ってよ」
「あ、うん。余計なこと言うんじゃないよ」
「わかったから出て行ってよ・・・・・・それとも見たい? て痛い」
叔母さんが明日香の頭をグーで軽くぶったのだった。
僕は病室の外で少なくともニ、三十分は待たされたんじゃないかと思う。その間に室内
からは楽しそうな話し声が聞こえてきたので、叔母さんが僕のことを好きだとかという悪
質な冗談を話し合っていたのではないらしい。もちろん叔母さんのことを女性としてどう
こう思う気持ちなんかないし、明日香にしたって冗談で言っているだけなのはわかってい
たけど、身内に関するこういう冗談は気まずい。それでもつらい目にあった明日香がはし
ゃいでいる様子を見るのは正直ほっとした。だからとても気まずいけれど、僕は叔母さん
に関する明日香の悪ふざけを本気で怒る気はなかったのだ。
さいわいなことに病室の外の廊下で待たされている間に室内から聞こえてくる明日香と
叔母さんの会話は主にファッション関係の話らしかった。明日香の興味が叔母さんが買っ
てきた服の方に移ったみたいだ。
「お待たせ」
ドアが開いて明日香と叔母さんが並んで出て来た。顔や腕にまだ包帯が巻かれているの
で痛々しい感じは残っているけど、新しい服に着替えたせいか明日香はだいぶ元気な様子
に見えた。
「ほら、この服ちょっと大人っぽいでしょ」
明日香が僕に言った。
「こないだまでの明日香のファッションはケバ過ぎて見ていられなかったからね」
叔母さんが笑って言った。「これくらいシックな方がいいよ」
こうして明日香と叔母さんが並んで立っているとまるで少し年の離れたお洒落な姉妹の
ようだ。とても叔母と姪には見えない。
「じゃあ帰ろうか。さすがに少し急がないと午後の約束に遅れそうだよ」
叔母さんが言った。
叔母さんが車を病院の入り口にまわしてきたので、まず僕が狭い後部座席に乗り込んだ。
明日香が無事に助手席に座ったのを確認してから叔母さんは車を発進させた。
「雪が降ってる」
明日香が走り出した車の中から外を見て言った。朝、病院に向かっているときは陰鬱な
曇り空だったのだけど、病院を出る頃には細かい雪がちらほらと空から舞い落ちてきてい
た。
「こんなんじゃ積もらないだろうね」
「積もらなくて助かるよ。明日香は今週は登校しないからいいだろうけど、毎日出勤する
方の身になれよ」
叔母さんが笑って言った。
「だって叔母さんは好きで今の仕事してるんだからいいじゃん」
「それはそうだけど・・・・・・ってそんなこと誰から聞いたの」
「パパが言ってた。玲子ちゃんは好きな仕事しているだけで幸せだからなって」
叔母さんが顔をしかめた。
「何で結城さんがそんなこと言ったんだろ」
「叔母さんって何で結婚しないのってあたしがパパに聞いたの。そしたらパパがそう言っ
た」
「何であんたはそう余計なことを結城さんに聞くのよ」
「何でって言われてもなあ。ねえねえ、叔母さんってパパのこと好きだったの?」
「な、何言ってんのよ明日香」
叔母さんが狼狽したように口ごもった。
「叔母さん、前! 前の信号、赤だって」
僕の警告に気が付いた叔母さんは横断歩道の手前でタイヤを軋ませて車を急停止させた。
車を急停止させた叔母さんは真っ赤な顔でじっと目の前の革張りの高価そうなステアリン
グを見つめていた。
「ちょっとやりすぎちゃったかなあ」
叔母さんはあの後あまり喋らなくなった。そして明日香と僕を自宅に送り届けるとそそ
くさと車を出して仕事に戻ってしまったのだった。明日香はリビングのソファで怪我をし
た部分を当てないように上手に横になってくつろいでいた。手元にはテレビのリモコンま
で引き寄せているところを見ると、こいつは今日は自分の部屋ではなくリビングで過ごす
気になっているようだ。
「ちょっとなんてもんじゃないだろ。叔母さん、あれからあまり話してくれなくなっちゃ
ったじゃないか」
「だって気になるんだもん」
年上の叔母さんのそういう感情面みたいな部分を話すことに僕は違和感のようなものを
感じた。さっきの病室での明日香の冗談だって居心地が悪かったし。だけど今は明日香が
襲われた話とか有希の話とかをするよりも、こういう話をしていた方が明日香にとっては
気が楽だろうとさっきも病院で考えたばかりだ。だから僕は無理に話を遮らずその話に付
き合うことにした。
「叔母さんだってもう三十じゃない? あんだけお洒落で綺麗なのにいつまで独身でいる
つもりだろ。男なんていくらでも捕まえられそうじゃん」
「確かに綺麗だけどさ。叔母さんって性格は男っぽいからなあ」
「お兄ちゃんってやっぱキモオタ童貞だけあって女のこととかわかってないのね」
随分な言われようだけど明日香の言葉には以前のようなとげはなかった。
「それは反論できないけど」
「叔母さんのしっかりとした態度なんて職場とかあたしたち向きの演技だよ、きっと」
明日香が随分うがったことを言った。
「そうかなあ」
車の趣味とかきびきびした決断の早い行動とかがあいまって叔母さんを男っぽく見せて
いるのだろうけど、その全部が演技だというのはさすがに素直には受け取り難い。
「男と同じに扱われる職場だってまえに叔母さんも言っていたし。それに叔母さんが両親
があまりそばにいてくれないあたしたちと一緒に過ごしてくれるときってさ」
「うん」
「多分必要以上に頼りになる叔母さんを演出してくれてたんだよ、今まで」
それはあまり考えたことのない視点だった。たしかにそういうことはあるかもしれない。
叔母さんは以前から好んで僕たちの世話を焼いてくれていたし、まだ幼かった頃の僕たち
に対して安心感を与えようとしてくれていたのかもしれなかった。小さい頃から叔母さん
にべったりだった明日香も今までただ甘えていただけではないらしい。明日香は叔母さん
の心の動きまで察していたようだった。
「本当は叔母さんだって普通の女の子だと思うよ。まあ三十歳になるんだから女の子って
ことはないんだけど」
「女の子ってことはないだろ・・・・・・。そういや叔母さんって誕生日いつだっけ?」
僕はふと思いついて言った。
「八月でしょ」
「叔母さんの誕生日にも一緒にプレゼントしようか。お世話になってるんだし」
明日香はそんな僕の提案を瞬時に却下した。
「叔母さんに喧嘩売るつもりならお兄ちゃんが一人でプレゼントしたら? ケーキに三十
本ろうそくを立てて渡しなよ・・・・・・そんな勇気がお兄ちゃんにあるならね」
三十になる女の人は誕生日なんて喜ばないのだろうか。
「だいたい何でそこでプレゼントなんて発想がでてくるの? お兄ちゃんて中学生の女の
子が好きなロリコンだと思ってたけど、冗談抜きで年上属性もあるの? て痛い」
僕はさっきの叔母さんを真似て明日香の頭を軽く叩いたのだ。明日香とこんなコミュニ
ケーションが取れるなんて不思議で少しだけ幸福感を感じる。
「何すんのよ」
明日香が文句を言ったけど、以前の明日香だったら本気でつかみ合いの喧嘩になってい
ただろう。
「あたしさ、パパとママの仲が壊れるなんて絶対に嫌なんだけど、それでもどういうわけ
かママがいないときの叔母さんとパパの雰囲気とか会話とかは大好きなんだ」
そういえば年末にもそういうことがあった。明日香の言うように叔母さんが父さんのこ
とを好きなのかどうかはわからないけど、確かにあのときの二人は親密な感じだった。
「それはわかるような気はするけどさ。それにしても僕は叔母さんのことをどうこうなん
て全く思っていないぞ。洒落にしてもしついこいよ」
「そうかなあ」
ちょっと真面目な顔で明日香が呟いた。
「マジで言うんだけどさ。お兄ちゃんって本当のママの記憶ってあまりないんでしょ」
「うん。ほとんどない」
「うちのママだってあまり家にいないしさ。お兄ちゃんにとってのママの役って玲子叔母
さんが引き受けてたんじゃないかなあ」
僕は不意をつかれた。確かにそういうことはあるかもしれない。僕は昔から叔母さんに
は懐いていた。去年母さんと明日香とは血が繋がっていないことを知らされたとき、しば
らくして僕は叔母さんとも血縁関係になかったことに気がついた。それからの僕の叔母さ
んへの態度は不自由で不自然なものになってしまった。でもこの間の夜、叔母さんは僕に
敬語を使うのはよせと言ってくれたのだ。僕が叔母さんの言葉に従ったとき、叔母さんは
目に涙を浮べてくれていた。
明日香のことや奈緒のことで僕が自分でも気が付かずにどんなに叔母さんを頼っていた
か。明日香の言葉で僕は改めて真面目に考えた。
「叔母さんだってお兄ちゃんのことすごく大切にしているしね」
明日香が言った。
「でも、真面目な話だけど叔母さんを口説いたりしたらお兄ちゃんのこと許さないから
ね」
そのとき自分でもようやく気が付いた叔母さんへの僕の真剣な慕情を明日香が無神経に
ぶち壊した。この恋愛脳のばか妹はまた話をそっち方面に持っていったのだ。
「だから何を言ってるんだよ。叔母さんは僕にとっては母親代わりみたいなものだって自
分で言ったばっかじゃないか」
「血が繋がっていない母性ってさ、互いに恋愛感情になりやすいって思うんだ」
そんなことを考えていたのか、こいつは。人のことは言えないけどちょっと恋愛系の漫
画とかの読みすぎではないのか。それも少女漫画というよりレディースコミックのような
やつを。
「・・・・・・あたしさ」
明日香が声を低くして言った。「なんか玲子叔母さんとお兄ちゃんが二人きりで笑いあ
っていたり話しをしていたりするところを見ていると何か胸がもやもやする」
「そろそろ洒落になんないよ。もうよそうよ」
「まあ、半分は冗談だけどね」
半分は本気なのかよって僕は思ったけどこの話題はもう終わりにしたかった。
「まあ、あたしは相手が玲子叔母さんでも奈緒でも有希でも、お兄ちゃんを譲る気なんて
ないんだけどね」
明日香が突然さっき言ったセリフを蒸し返した。
「有希さんのことはもういいよ。確かにおまえのしたことは感心しないけど、おまえなり
に僕のことを心配してくれたんだろうから」
明日香が僕の方を真っ直ぐに見た。
「有希はお兄ちゃんのことが好きだよ。自分でもそう言っていたし」
「うん、知ってる。有希さんから直接聞いたよ」
「そうなんだ。あたし有希のことを応援しようと思ったの。有希とお兄ちゃんがくっつけ
ばお兄ちゃんは奈緒のことを忘れてくれるかも知れないって思って」
「だからわかってるよ。もういいんだ」
「でも有希のことをあたしは裏切っちゃったの。有希を応援するなんて言って有希をけし
かけておきながらお兄ちゃんに告白なんてしちゃてさ。しかもそれを有希に聞かれたんだ
から、有希が怒るのも無理はないの」
でも今となってはそれは多分明日香が思っているような単純な話ではない。有希は女帝
かもしれないのだ。その有希が本気で僕を好きになったのかは考えただけでも疑わしい。
最初に有希に近づいたのは明日香の方みたいだけど、仮に有希がギャング団の女親分だと
したら明日香ごときに誘われるままに僕たちと冬休みを一緒に過ごしたり、僕のことが好
きだなんて告白したりするだろうか。
やはり有希には何か目的があるのだ。そして有希に不用意に接近してしまった明日香の
身の安全のためにも、僕はその理由を探らなければならない。
どういうわけか平井さんも玲子叔母さんも最初から僕がそうすることに疑いを抱いてい
なかった。いったい何でかはわからないけど。それを明日香に言う必要はない。だから僕
は明日香にこう言った。
「有希さんのことはもういいよ。そしてもう有希さんには近づかない方がいい。下手に謝
ろうなんてしたらかえって彼女を傷つけると思うよ」
「ちゃんと謝りたかったんだけどな」
「もう関わりになる必要はないよ。おまえが本気で僕のことを好きならなおさらね」
「お兄ちゃん、あたしの愛情を疑っているの?」
何とか明日香の気持ちを逸らすことができた。これ以上明日香は有希と関ってはいけな
いのだ。そのとき僕は一番大切な話をまだ明日香にしていなかったことに気がついた。
「それよりさ。奈緒と会ったんだ」
「え」
明日香はすぐに有希のことを忘れて奈緒の話に食いついた。
「何でよ? もう会わないって約束したじゃない」
僕は昨日叔母さんに話したことを繰り返した。奈緒に待ち伏せされ詰られたこと。その
後フラッシュバックを起こした僕が口走ったセリフによって、奈緒は僕が引き離された実
の兄だと気づいたこと。明日香は驚いたように口も挟まずに話を聞いていたけど、僕と奈
緒がこれからは再会した兄妹としてずっと一緒にいようと約束をしたあたりで不服そうな
顔をした。
「それって結局、奈緒とお兄ちゃんはこれまでどおり朝一緒に登校するし、お兄ちゃんは
毎週土曜日にはピアノ教室に奈緒を迎えに行くってこと?」
「まあ、そうだね」
「・・・・・・なんか別れた恋人同士がよりを戻したみたいに聞こえるんだけど」
「そんなわけあるか。これから兄妹として仲良くしていこうってことだよ」
「兄妹ってそんなにいつもベタベタ一緒にいるものだっけ」
「最近は僕だっておまえといつも一緒じゃん」
「お兄ちゃんはお兄ちゃんじゃないし」
正しい日本語にはなってないけど、明日香の言うことも理解できた。同時にいい兄妹に
なるはずの兄の方が、今でもまだ妹になったはずの奈緒に対して抱いている性的な情欲の
ことも心に浮かんだのだけどそれは胸のうちにそっと仕舞っておいた。
「お兄ちゃん?」
明日香が静かな声で言った。今までとは違う真剣な声を聞き、僕は妹の顔を見た。
「お兄ちゃんは本当にそれでつらくならない?」
「え」
「好きになった、とっても好きになった女の子が自分の実の妹だってわかって、それでも
お兄ちゃんは平気なの」
それは僕の悩みを的確に指摘した言葉だった。本当にそのとおりなのだ。記憶のない僕
が妹の奈緒と再会して、自分の初めてできた大好きな彼女を失って、それでもなお何で奈
緒と一緒に登校したり、奈緒をピアノ教室に送迎したりしようと思えるのか。
「お兄ちゃんがそれでも平気ならあたしは何も言わない。言う権利もないと思うし」
「権利って。おまえは僕のことを助けようとしてくれたんだし」
「それでもね」
男たちにひどい目に合わされ、入院して退院した今まで、気丈だった明日香の声が初め
て気弱な響きを帯びた。
「勝手なことを言うね。奈緒と会ってお兄ちゃんがつらいなら、お兄ちゃんは奈緒に会う
べきじゃない」
「妹なんだぞ」
「奈緒がお兄ちゃんに対して復讐心を抱いているなら、お兄ちゃんはもう奈緒のことは忘
れた方がいいよ」
第二部
もう十年も前になる。
それはすごく暑い日だったけど、家庭裁判所の隣にある公園は樹木が高く枝を張り、繁
茂している緑に日差しが和らげられていて、申し訳程度にエアコンが働いている家裁の古
びた建物の中よりよっぽど快適だった。あれは大学二年の頃だったから、今から思うとあ
たしがまだ保育園に通っていた姪の明日香を公園で遊ばせていたのは2003年のことだ
ったと思う。
明日香は涼しい木陰には片時もじっとしていなくて、あたしは炎天下の中を喜んで駆け
回っている明日香を汗だくになりながら追い駆ける羽目になった。小さい子どもだから無
理はないけど、明日香は二年前に父親を事故で亡くしたことなんかもうすっかり忘れてい
て、その日もちっとも大人しくせずにはしゃぎまわっていた。
本当なら今頃は飛行機に乗って北海道に向かっているはずだった。大学のサークルの合
宿がちょうどこの日から始まっていたのだ。あたしは随分サークルの合宿を楽しみにして
いた。サークル内に気の合う女の子たちがいっぱいいたということもあるけど、密かに気
になっていた先輩が北海道出身で、自由時間があればあたしをいろいろ案内してあげるよ
って言ってくれていたということもあった。
大学二年生だったあたしはいろいろな事情もあって、高校時代に期待していたような充
実した楽しい大学生活を送っていたとは言えない状況だった。音楽関係でもしたいことは
あったし、彼氏だって作りたかった。アルバイトもしてみたかったし、同じクラスの子た
ちと講義の後でカフェに集って気になる男の子の話だってしたかった。
でもこればかりは仕方がない。姉さんの旦那が交通事故で突然の死を遂げてから、あた
しは落ち込んでいる姉さんを必死で励ましたし、一時期姉さんが育児を放棄したときは姉
さんに代わって両親と一緒に姪の明日香の面倒もみた。あの頃は毎日自殺しかねない暗い
顔の姉さんを一生懸命励ましながら、明日香の保育園の送り迎えをするのが大学で講義を
受けていないときのあたしの日課だった。
姉さんと姪のためだからあたしはそれを当然だと思って引き受けたし、そのことで姉さ
んや明日香を恨みに思ったことはなかったけど、あたしの大学生活はスタートから入学前
に期待したようなものでなくなってしまったことも事実だった。それでも必修の講義のカ
リキュラムを何とかこなして、希望を持って入会したサークルでは幽霊部員扱いされなが
らも、あたしは必死で姉さんを支えた。もともと姉さんとは十歳以上も年齢が離れていた
せいもあって、これまでは姉さんに頼ってきたのはあたしの方だった。その姉さんが抜け
殻のようになってかろうじて自分の仕事だけを必死で守っていた姿を見たとき、あたしは
自分が大学生活に期待していた多くのことを捨てる決心をしたのだ。
あたしは公園の涼しい木陰を抜け出して噴水の水に手を差し伸べてきゃあきゃあと楽し
そうに一人で遊んでいる明日香を目で追いながらサークルの夏合宿のことをぼんやりと考
えた。今頃はサークルのみんなは飛行機の中で盛り上がっているだろう。滅多にサークル
に顔を出せないあたしに合宿の案内を手渡して誘ってくれたのは気になっていた先輩だっ
た。
「君の同期の女の子たちから頼まれたんだ。玲子ちゃんは家庭の事情で忙しいみたいだけ
ど、せめて合宿くらいは参加してほしいから僕から声をかけてくれって」
先輩はそんなに目立つ方ではなかったし、あたしだってあのことさえなかったら先輩を
好きになろうなんて思わなかったかもしれない。それは先輩にはすごく失礼なことだった
けど。木管楽器を専攻していた先輩は穏やかでいつも笑顔を浮かべていた。他の先輩たち
と異なり音楽上の野望もないようで故郷の北海道で音楽の教師をしたいということだけが、
先輩の唯一の望みだと聞いていた。もともと将来への夢でぎらぎらしている学生で溢れて
いたこの大学では、そういう堅実な姿勢は珍しかった。あたしが先輩のことを気にしたの
はそのことを友だちから聞かされたからかもしれない。
「君にも事情があるだろうしあまり無理は言えないけど、できるなら合宿に参加した方が
いいよ。知り合いも増えるしね」
「それに」」
先輩はそこで少し顔を赤らめて照れたように続けた。
「自由時間には君をあちこち案内してあげるよ。北海道はいいところだよ」
その言葉がしばらくの間あたしの胸の中に留まってぐるぐると渦巻いた。先輩のような
人と恋におちて将来北海道で教員をしている先輩と共に暮らすという考えがあたしの心を
捉えて離さなかったのだ。今から思うと随分先輩には失礼な話だっと思う。先輩のことが
気になっていたのは嘘じゃなかった。でもそれは本気の恋ではなかったのだ。
姉さんが立ち直って少しづつ元気を取り戻したのは偶然に結城さんと再会したからだっ
た。あたしは以前のように笑顔を見せるようになった姉さんのことが嬉しかった。姉さん
が久しぶりの笑顔で明日香を抱き上げる様子を見ると、依然として大学生活には未練があ
ったあたしも明日香の世話をすることがあまり苦にならなくなってきた。幼馴染だった結
城さんと姉さんの再会と交友関係の復活が恋愛関係に変化するのに時間は不要だったみた
いだった。姉さんは結城さんの存在に心の平穏を見出したのだ。
その頃の結城さんは自分の海外赴任中に、元彼と浮気した挙句、大切な子どもたちをネ
グレクトした奥さんと離婚協議中だった。でもそれさえ片付けば二人は結ばれて改めて幸
せな家庭を築けるだろう。こうして姉さんが旦那の不慮の死から立ち直っていくことは嬉
しかったし、実家の両親も素直に喜んだので、姉さんの旦那さんの死後、暗くなっていた
家の雰囲気もよくなっていった。それでもこの変化によって新たな問題も生じた。それは
主にあたしの個人的な問題だった。あたしは姉さんに紹介されて初めてあった結城さんに
恋してしまったのだ。そしてその不毛な恋から逃れようとあたしは気になっていた先輩が
好きになったのだと自分に言い聞かせ、そう思い込もうとしていた。
いつのまにか明日香は公園の中央にある芝生のところで同じ年くらいの女の子と遊びだ
していた。この年代の子どもたちが仲良くなるなんて実に簡単なことらしい。明日香とそ
の女の子は手をつないで一緒に逃げ惑う鳩を追いかけていた。明日香の足取りもその女の
子の足取りも危う気だった。互いに走る速度が違うのにお互いに手を離そうとしないから
これではすぐにでも転倒しそうな感じだ。さいわいにも地面は芝生が張ってあるし転んで
もどうってことはないとあたしは思ったけど、すぐに考えを改めた。よその子どもを怪我
させてしまうとまずい。あたしは物思いにふけるのを中断して明日香を止めようと思った。
そのとき小学生くらいの男の子が二人の後を追い駆け出した。
「こらナオ。あんまり走ると危ないよ」
男の子の澄んだ声が響き渡った。
その男の子のことは目に入っていたのだけど、この子が明日香と一緒に遊んでいる女の
子の連れだとは思わなかった。この子は女の子のお兄さんなのだろう。その子の声や表情
には妹を大切にしている様子が窺われてあたしは思わず微笑んだ。兄弟っていいものだ。
あたしだって姉さんのためにいろいろと自分を犠牲にしてきたのだけど、そのことで本気
で姉さんを恨んだことはなかった。血の繋がりってすごいんだなとあたしその子を眺めな
がら考えた。
男の子は明日香たちに追いついて二人の無謀な冒険を止めさせた。
「あたしたちはころばないもん」
妹の方が口をとがらせて男の子に反抗した。
「でも転びそうになってたじゃん」
「なってない。お兄ちゃんのうそつき」
やはりこの二人は兄妹なのだ。
「なってたよ」
男の子のほうも譲る気はないようで頑固に妹に向かってそう言い張った。
「なってない! ねえ明日香ちゃん」
「そうだよねー。ナオちゃん」
いつの間にかお互いの名前を教えあっていたらしい。ナオという名前を聞いたとき、あ
たしは公園に隣接した古い建物に集合して話し合いをしている人たちのことを思い出した。
今日あたしは結城さんと一緒に話し合いに参加している姉さんの代わりに明日香の面倒を
見ていた。どうせなら実家で明日香の面倒をみていた方が楽なのだけど、最近やたらに明
日香のことを構うようになった姉さんが自宅を出ようとしただけで、明日香の機嫌が悪く
なったのだ。それであたしは明日香と一緒にこんな場所に来ていた。
今日は確か結城さんも子どもたちを連れて来ていたはずだった。結城さんの両親が通院
する日だとかで子どもたちの面倒を見る人がいないという話だった。結城さんと姉さんは
家裁のロビーで待ち合わせをしていたから、あたしは家裁の建物に入らずに明日香を連れ
て公園に来たのだった。
目の前にいる二人はやはり結城さんの子どもなのだろう。名前も奈緒人と奈緒で事前に
聞いていた話と一致する。あたしは三人がもつれ合うようにして会話をしている芝生の方
に向かった。
「こんにちは奈緒人君、奈緒ちゃん」
このときの奈緒人は少し警戒したようにあたしを見たのだった。そして奈緒ちゃんの手
を握って自分の背後に隠すようにした。その警戒心にあふれた彼の仕草は、この兄妹がこ
れまでどんなに過酷な生活を強いられてきたかを、そして兄妹の絆がどんなに強いのかを
物語るものだった。あたしは胸の痛みを誤魔化して無理に奈緒人に笑いかけた。
「心配しないでいいよ。お姉ちゃんは奈緒人君のパパの友だちだよ」
父親のことを聞いて奈緒人は少しほっとしたように警戒を解いてくれた。
「おばさんはパパのお友だちなの」
奈緒人は気を許してくれたようだった。
奈緒人の目を見たときあたしはもう間違いないと思った。奈緒ちゃんはともかく奈緒人
は結城さんにそっくりだった。
「でも奈緒人君と奈緒ちゃんの面倒は誰がみるの?」
今日明日香を連れて家裁まで来る途中であたしは姉さんに聞いた。
「安心して。いくらなんでも初対面の子どもたちの面倒を玲子にみれくれとは言わないか
ら」
本来なら相当緊張していてもいい場面なのに、姉さんは笑って言った。「玲子は明日香
を見ていてくれればいいよ。結城さんが言ってたけど奈緒人君って年齢のわりにはすごく
しっかりしてるんだって。それに奈緒ちゃんは奈緒人君が大好きだから、奈緒人君がいれ
ば大丈夫だって結城さんは言ってたし」
確かに奈緒人がいれば奈緒ちゃんは大丈夫だろう。実際にこの二人を見ていたあたしも
そう思った。年齢の割には奈緒人はすごく大人びている印象だった。きっと奈緒ちゃんを
守るためにそうならざるを得なかったのだろう。こんな子どもにそこまでの生活を強いた
人がすぐ隣の家裁に来ているのだ。そのとき初めてあたしは見たこともないこの二人の母
親に憎しみを覚えた。
「ねえ、お姉さん喉が渇いちゃったんだけどみんなでジュースを飲もうか。ソフトクリー
ムでもいいよ」
公園の隅にワゴンが出ていてジュースやらソフトクリームやらを販売していることにあ
たしは気がついていた。姉さんの彼氏の子どもたちなんだからあたしがまとめて面倒をみ
たって叱られはしないだろう。
「おばさんいいの?」
その頃の奈緒人は小学生の割には随分遠慮がちな子どもだった。いや遠慮がちなのはあ
れから十年たった今でも同じだ。
「あのさ、あたしのことは玲子お姉さんって呼んでね」
この年でおばさん呼ばわりされるのはかなわないので、あたしは奈緒人にそう言い聞か
せた。
「何でなの? あたしはいつも叔母さんって呼んでるじゃん」
無邪気な声で明日香が余計なことを言った。あんたの呼んでいる「叔母さん」とこの二
人がいう「おばさん」じゃ意味が違うのよ。あたしはそう言いたかったけどそれをこの無
邪気な子どもたちに上手に説明できる自信はなかった。
「玲子叔母さんっていうんだよ」
明日香が奈緒人に教えた。それでその時から今に至るまであたしは奈緒人に叔母さんと
言われ続けている。
公園の隅のワゴンであたしはソフトクリームを買って子どもたちに渡した。そろそろ正
午に近い時間で、あたしと明日香が公園に来てから一時間以上も経っている。もう三人は
すっかり打ち解けていた。奈緒人が結城さんに似ていたせいで、ともすればあたしの視線
は彼に釘付けになっていたのだけど、よく見ると妹の奈緒ちゃんはすごく可愛らしい子だ
った。身びいきではなく明日香も可愛い子だと思っていたのだけど、外見の整っているこ
とでは奈緒ちゃんの方に軍配が上がった。
明日香と仲良しになったらしい奈緒ちゃんだけど、彼女の視線はすぐに奈緒人の姿を求
めていた。途中、奈緒人はあたしに奈緒ちゃんを託して公園のトイレに行った。明日香と
夢中になってお喋りしながらソフトクリームを舐めていた奈緒ちゃんは、奈緒人がそばに
いないこと気がつくとパニックにおちいったのだ。
突然泣き出した奈緒ちゃんを抱きしめて宥めていたあたしは、奈緒人が帰ってくるのを
見つけてほっとした。奈緒ちゃんはあたしの手から抜け出して奈緒人に抱きついた。
離婚調停では結城さんの奥さんは二人の親権を主張していて折り合いがついていない。
でもまだ幼い奈緒人と奈緒ちゃんをここまで追い詰めた母親にそんなことを言う資格はあ
るのだろうか。結城さんの離婚に関しては全く口を出す気もその資格もないあたしですら
そう思った。この子たちは結城さんと姉さんに引き取られた方が絶対に幸せになれるだろ
う。いや、幸せになれなくても少なくとも普通の子どもと同じ生活は送れるに違いない。
姉さんが再婚後にも仕事を続けるのなら、そうしたらそのときはあたしがこの三人の面
倒をみてもいい。さっきまでサークルの北海道合宿に未練たっぷりだったあたしだけど、
このときは本気でそう思ったのだ。
このとき結城さんと姉さんがワゴンのそばにいるあたしたちに気がついて、連れ立って
あたしたちのところに来た。
「あら、結局一緒にいたんだ」
姉さんが微笑んだ。
「玲子さん、奈緒人たちの面倒までみてもらってすいませんでした」
結城さんもあたしにそう言った。
「パパ」
奈緒ちゃんが奈緒人から離れて結城さんに抱きついた。
あれから十年経った。結局結城さんは奈緒ちゃんを引き取ることはできなかったのだけ
ど、奈緒人だけは結城さんと姉さんの新しい家庭で明日香と一緒に兄妹として育った。
あれからあたしの結城さんへの恋はあたしの心の底に深く隠されていて、あたしは誰に
もそのことを悟られなかった自信があった。
再婚しても姉さんは仕事を止めなかったので、前ほどではないけどあたしは大学を卒業
するまで引き続き明日香の面倒をみた。あたしは当然、新たに姉さんたちの家族の一員と
なった奈緒人の面倒も一緒にみようとしたのだけど、奈緒人は明日香とは異なり全く手の
かからない子どもだった。
奈緒と二人で脱走する途中で保護されて、結局奈緒ちゃんとつらい別れを経験した奈緒
人は、その後は一度もあたしに奈緒ちゃんの名前を出すことはなかった。まるで記憶から
すっぽりとその部分が欠落したように。
あたしは先輩とは何の進展もなく、高校時代に夢想したような充実した大学生活を送る
ことなく大学を卒業した。もちろん演奏家になることもなかった。それでも運がよかった
のだろう。あたしは大手の出版社に入社した。最初は自社で出版している雑誌の広告を取
る営業の仕事についた。その後に雑誌の販促を担当する営業企画の仕事を経て、あたしは
やっと希望し続けていた雑誌の編集部に編集者として配属されることができた。本当は週
刊誌で報道の仕事を希望していたのだけど、結局配属されたのは女子高校生をターゲット
にしたファッション雑誌の編集部だった。
この頃になるとさすがに仕事が忙しくなってきたあたしは、以前のように明日香や奈緒
人の世話をすることもなくなっていた。明日香は昔と変わらずあたしを慕っていてくれた
けど、この頃には明日香と奈緒人との仲は最悪の関係になってしまったようだった。あた
しは仕事の合間を縫ってこの二人となるべく会うようにしたのだけど、そういうときでも
明日香は全く奈緒人に話しかけることすらしなかったのだ。
そのせいかはわからないけど奈緒人は内省的な性格の男の子になっていた。口数も少な
いし趣味もインドア系のものばかりだったらしい。でもそんな彼にもあたしは好かれてい
る自信はあった。奈緒人は遠慮がちにだけどあたしに甘えてくれることすらあった。あた
しは時折奈緒人があたしに向ける視線にどきっとすることがあった。そしてその視線は結
城さんのそれにそっくりだった。
・・・・・・退院した明日香は、今日奈緒人があたしに異性としての好意を抱いているという
いうようなことを匂わした。あたしは胸の動悸を必死で抑えて明日香の言葉の意味に気が
つかないふりをした。追い討ちをかけるように明日香は結城さんへのあたしの好意につい
て質問したのだ。結局何も言葉が出てこなかったあたしは、二人を自宅に送ってから逃げ
るように車を出した。そうして二人と別れて車を運転して社に戻り途中でも、そのときの
明日香の言葉が繰り返し胸の中再生されていた。
『お兄ちゃんはね、叔母さんのこと』
『違うのよ。ねえ叔母さん、聞いて聞いて。お兄ちゃんって叔母さんのこと』
結城さんへの想いはとうの昔に克服していて、今あたしに残っているのは明日香と奈緒
人への、叔母としての愛情だけなのに。あのときあたしは何で顔を赤くするほど明日香の
その言葉にうろたえたのだろう。年末に結城さんと会ったとき、いったいあたしは何で少
女のようにみっともなくはしゃいだのだろう。いったい三十歳にもなるあたしは何を期待
したのだろうか。まるで高校生の女の子のように取り乱しながら。
今日は以上です
そろそろ前作から離れた展開になるのと、業務多忙なため投下速度が落ちます。
すいません
翌日も僕は学校を休んだ。一見、僕のことをからかったり叔母さんの父さんへの恋を語
ったりしている明日香はもうあまり思いつめていないように見えた。でも、僕がトイレに
行ったり食事の支度をしたりしてリビングのソファに寝ている明日香のところに戻る際、
僕は明日香が僕と話している時にはあまり見せない暗い表情をしていることに気がついた。
奈緒に会えないことは正直寂しかったし授業に遅れてしまうことへの危惧もあったけど、
僕が悩んでいた時期に僕にそっと寄り添って一緒にいてくれた明日香を一人で自宅に放置
するなんて論外だった。なのでリビングのソファで横になっている明日香の隣で僕はじっ
と腰かけて、PCに録画していた深夜アニメを、転送したスマホで見ていた。明日香がテ
レビを見ているのでイヤホンをして邪魔にならないようにしていたのだけど、それでも明
日香は僕のしていることが気に入らないようだった
「あたしとお兄ちゃんは一緒にいるのに何でお兄ちゃんは自分ひとりでアニメ見てニヤニ
ヤしてるのよ」
明日香が僕のイヤホンを取り上げた。ニヤニヤなんかしていない。
「よせよ。壊れちゃうだろ」
「一緒にテレビ見ながら話しようよ」
明日香が僕の手からスマホを取り上げて言った。
「テレビって」
平日の午前中だから仕方ないのだろうけど、明日香がさっきから興味深々に見入ってい
るのは主婦向けの情報番組だった。
「・・・・・・これ見るの?」
僕は一応明日香に抗議したけれど実はそんなに視聴していたアニメには未練はなかった。
最近はリアルの生活でいろいろ進展があるせいか、これまではあれほど熱中していたアニ
メがなんだかそんなに面白いとは思わなくなっていた。
「・・・・・・嫌なの? じゃあチャンネル変えようか」
明日香がリモコンを弄ったけど結局はどれも似たような番組だ。
「いいよ。最初におまえが見ていたやつで」
窓からはちらほらと舞い降ってくる粉雪が見える。この調子だと今日は積もりそうな勢
いだ。
「・・・・・・この人おかしいよね」
番組の中で芸人のコメンテーターが何か気の利いたことを言ったのだろう。明日香が笑
って僕の方を見た。
今頃は奈緒はどうしているのだろう。僕はふと考えた。まだ午前中の授業時間だから授
業に熱中しているのだろうか。それともピアノのことでも考えてるのか。
・・・・・・それとも。ひょっとしたら僕のことを考えているのかもしれない。つらかった別
れを経て久しぶりに再会できた兄のことを。奈緒が自分の実の妹であることを知った日
以来、僕は精神的には本当にまいっていたのだけど、奈緒にとってはそれはそういう受
け止め方をするような事実ではなかったようだ。奈緒はすぐに僕が自分の兄であることを
受け入れたばかりか、僕を抱きしめながら本当に幸せそうな微笑みを浮べたのだ。僕は奈
緒が真実を知らされることを恐れていた。出来立ての自分の彼氏が恋愛対象として考えて
はいけない相手だと知らされたときの奈緒がショックを受けて傷付くことを恐れたからだ。
奈緒は傷付くどころか喜んだ。僕だって妹との再会は嬉しくないはずはなかった。でも、
これほどまでに入れ込ん最初の恋人が付き合ってはいけない女の子だったと知ったときの
絶望感は僕の心に深く沈潜してなくなることはなかった。
僕ほどにショックを受けていないのは僕が兄だと知る前の僕のことを、奈緒がそれほど
愛してくれていたわけではないからなのだろうか。その考えは僕を混乱させた。奈緒を傷
つけたくないと思っていたはずの僕は、あろうことか奈緒が僕と恋人同士ではいられなく
なるという事実を知っても動揺しなかったことに対してショックを受けたのだ。
いったい僕は何がしたいのだろう。過去に自分の記憶を封じ込めるほどにつらい過去が
あった。その話は玲子叔母さんが僕に話してくれたら今ではよく理解できていた。そのつ
らかった過去の一部が奈緒との再会によって癒されることになったのだ。
それなのに僕はこれ以上いったい何を求め、何を期待していたのだろう。つらい別れを
した兄貴と偶然に再会できて喜んでいる実の妹の態度に、僕は何が不満なのだろう。突き
詰めると簡単な話なのだろう。僕はあれだけ大切にしていた妹が再び僕のそばにいてくれ
ることだけでは満足できないのだ。要するに僕は奈緒のことを今でも妹としてではなく女
としてしか見ていないのだろう。無邪気に兄との再会を喜んでいる奈緒の態度に、僕は飽
き足らない想いを感じているのだ。
本音を言えば、奈緒を傷つけたくない混乱させたくないと思いながらも奈緒が彼氏であ
る僕を失ったことを悲しんで欲しかったのだ。僕が奈緒に対して感じているのと同じ感情
で。奈緒と出合った日。奈緒と初めてキスした日。
僕はその思い出を今でも大切にしていた。そして僕は奈緒にもその想いを共有して欲し
かった。奈緒は血の繋がった実の妹だった。それが理解できていた今でもなお、僕は奈緒
に自分のことを異性として意識していて欲しいと願っていたのだ。ちょうど今の僕が奈緒
に対してそう考えているように。
「また黙っちゃった。お兄ちゃんってこういうときはいつも何考えてるの」
明日香は物思いにふけっていて自分を無視していた僕の態度に不満そうだった。
「ただぼんやりとしてただけだけど」
「そんなにあたしと二人きりでいるとつまらない?」
明日香が言った。
「そんなことないって」
「だってお兄ちゃん、さっきから全然あたしの話聞いてないじゃん」
「だからぼんやりしてたから」
明日香がソファから半分身を起こした。
「あたし以外の女のことを考えてたんでしょ」
一瞬僕はどきっとした。明日香の言うとおりだったから。
「いったい誰のこと考えてたのよ」
明日香がテレビの音量を下げて僕を睨んだ。「・・・・・・もしかして玲子叔母さん?」
「おまえなあ、その話題はいい加減に止めろって。叔母さんに失礼だろ。あと僕にも」
「だってお兄ちゃんと叔母さんのお互いに対する態度って何かぎこちなくて怪しいも
ん。絶対玲子叔母さんってお兄ちゃんのことを男として意識してるよ」
「あんだけ叔母さんに世話になっておいてそういうこと言うか? 普通」
「叔母さんのことは大好きだけど、恋のライバルとなったらまた別だよ」
どうも明日香はあながち冗談で言っているわけではないらしい。
「百歩譲ってたとえ僕が叔母さんに好意を抱いていたとしても、十七歳の僕と三十歳にな
る叔母さんが男女としてつりあうわけないだろう」
明日香を宥めるためにそう言うと、どういうわけか彼女は僕の言葉が気に障ったようだ
た。
「・・・・・・冗談で言っているのに何でお兄ちゃんはマジで叔母さんのことが気になるみたい
な言い方をするのよ」
明日香はとても冗談とは思えない表情で言った。
「あたし嫌だからね。お兄ちゃんが三十歳の叔母さんを彼女にするなんて」
「あのなあ」
「世間体だって悪いよ。知り合いはみんな本当の叔母さんだって思ってるのに、甥と叔母
さんが男女の関係になっちゃうなんてさ。血は繋がっていないことは知り合いはほとんど
誰も知らないわけだし」
何かわからないけど明日香のスイッチが入ってしまったようだ。明日香にとっての地雷
は奈緒だと思っていたのだけど、昨日からこいつは随分叔母さんのことにこだわっている。
こいつをそんな考えに追いやるようなことなんて、僕と玲子叔母さんとの間には何も生じ
ていないのに。
明日香がテレビの音量を下げたせいで部屋の中は静かだった。相変わらず窓の外には粉
雪が降りしきり庭の樹木を白く装っている。叔母さんは嫌がっていたけどこの分だと積も
るかもしれない。
「正直に言うとさ、さっきまで奈緒のことを考えてた」
これ以上甥と叔母の恋愛なんて妄想には付き合いたくなかった僕は正直に言った。
明日香はそれを聞くと黙ってしまった。
「だから玲子叔母さんのことを考えていたわけじゃないって。変な誤解するな」
でも明日香は全然安心したような表情を見せなかった。
「・・・・・・最悪だよ」
明日香が低い声で言った。「お兄ちゃん言ったよね? 奈緒とは再会したいい兄妹の関
係だって」
「うん」
「あたしと二人きりでも奈緒の方が気になるの? 実の妹なんでしょ? お兄ちゃんは実
の妹のことでいつも頭がいっぱいなわけ?」
「いや、違うって」
「どう違うのよ。お兄ちゃんはあたしの気持ちを知ったんでしょ。あたしはお兄ちゃんの
ことが好き。お兄ちゃんにあたしに彼氏になって欲しい。血も繋がっていないし、ママだ
ってそれを望んでいるのに」
穏やかな午前中の時間はこれで終ったみたいだった。明日香は今では涙を浮べていた。
こいつは昨日は僕に返事は急がないと言ったばかりだったはずなのに。
「お兄ちゃんが高校の友だちの女の子が好きであたしが振られるなら仕方ないよ。それに
さっきはああは言ったけど玲子叔母さんとお兄ちゃんがお互いに求め合うなら、賛成は出
来ないけどまだしも理解くらいはするよ。年齢はともかく少なくとも血は繋がっていない
んだし」
「学校に好きな子なんていないし、玲子叔母さんはそういう対象じゃないだろ」
明日香は僕の話なんて聞いていないようだった。
「でも、何でそれが奈緒なの? 奈緒だってお兄ちゃんが彼氏じゃなくて実の兄だってこ
とを受け入れたんでしょ? お兄ちゃんだってそう言ってたじゃない。それなのに何でお
あたしと一緒のときにいつもいつも奈緒のことばかり考えてるのよ」
明日香はいい兄妹として仲直りする以前のような興奮した口調で話し出した。
奈緒のことを考えていたと正直に明日香に話したのは失敗だったようだ。そのときの僕
は、明日香の話を聞いているうちに玲子叔母さんのことを一人の女性として意識させられ
そうで、そのことがとても気まずかった。だから、本当は黙っていた方がいいと思ってい
たのだけど、正直に奈緒のことを考えていたと話したのだった。
でも明日香が叔母さんのことを気にしているのも本当だろうけど、やはり明日香の一番
気に障る存在は奈緒のようだった。奈緒が悪意をもって僕を陥れるために近づいたのだと
いう誤解は解けたはずだった。あれは偶然の出会いだったのだ。それを理解してもなお、
明日香の奈緒に対する敵愾心はちっとも薄れていないようだ。
こうなってしまったら仕方がない。明日香が僕に対して敵愾心を持っていた頃、明日香
が切れたときは僕は反論せず怒りが収まるまでじっと耐えたものだった。それがどんなに
ひどい言いがかりであったとしても。久しぶりに今日もそうするしかないだろう。それに
今回は明日香の言っていることは単なる言いがかりではなかった。奈緒と兄妹して名乗り
あったときの安堵感が消えていき、さっきから悩んでいるように僕が奈緒に対して再び恋
愛感情を抱き出したことは事実なのだ。でもそれだけは明日香にも誰にも言ってはいけな
いことだ。
昔はよくあったことだった。ひたすら罵声に耐えているうちに明日香の声は記号と化し
意味を失う。そこまでいけば騒音に耐えているだけの状態になり、意味を聞き取って心が
傷付くこともない。久しぶりにあの頃は頻繁にあった我慢の時間を過ごせばいい。そう思
っていた僕だけど、どういうわけか明日香の言葉はいつまで耐えていてもその意味を失わ
なかった。
「まさかお兄ちゃんは血の繋がった妹を自分の彼女にしたいの?」
以前と違って明日香の言葉は鮮明に僕の耳に届き僕の心に突き刺さった。
「実の妹とエッチしたいとかって考えているの?」
もうやめろ。やめてくれ。以前と違った反応が僕の中で起きた。僕はまたフラッシュバ
ックを起こしたのだ。視界が歪んでぐるぐる回りだす。叔母さんや奈緒の声が無秩序にで
も鮮明に聞こえてきた。
『奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?』
『鈴木奈緒はあんたの本当の妹なのに』
叔母さんの驚愕したような声。
『あたしピアノをやめます。そしたら毎日奈緒人さんと会えるようになりますけど、そう
したらあたしのこと嫌いにならないでいてくれますか』
『それで奈緒人さんがあたしと別れないでくれるなら、今日からもう二度とピアノは弾き
ません』
『あたしのこと、どうして嫌いになったんですか? ピアノばかり練習していて奈緒人さ
んと冬休みに会わなかったからじゃないんですか』
僕を見上げる奈緒の縋りつくような涙混まじりの目。
「お兄ちゃんごめん」
気がつくと僕はソファで横になっていた。明日香の顔が間近に感じる。
「・・・・・・まったやっちゃったか。ごめん明日香」
明日香が僕を抱いている手に力を込めた。
「あたしが悪いの。自分でもよくわからないけど、奈緒のことを考えたらすごく悲しくな
って、でも頭には血が上ってかっとなっちゃった。本当にごめんなさい」
代償は大きかったけど、でもこれでようやく明日香の気持ちはおさまったようだった。
僕は安堵したけど、もちろん事実としては何も解決していないことは理解できていた。
明日香はもう何も喋らずに僕に覆いかぶさるように横になった。思ってたより重いな、こ
いつ。僕は何となくそう思った。全身が汗びっしょりで体が体温を失って冷えていくのを
感じる。明日香の包帯を巻いた手が僕の額の汗を拭うようにした。明日香の手に僕の汗が
ついてしまうのに。そのまま明日香は僕の頭を撫でるように手を動かした。それはずいぶ
んと僕の心を安定させてくれた。
やはり奈緒への恋心、つまり自分の実の妹への恋愛感情は無益なだけでなく有害ですら
ある。世間的にどうこう以前に自分の心理ですらその禁忌に耐えることすらできていない。
再びフラッシュバックに襲われた僕はやっと冷静に考えられるようになった。きっと明日
香の言うとおりなのだろう。もうこれは本当に終らせなければならないのだ。それに僕の
恋は無邪気に兄との再会を喜んでいる奈緒をも戸惑わせ傷つけることになるかもしれない。兄としての僕への奈緒の想いの深さは、恋人が実は兄だったという事実をも圧倒したため、
奈緒は僕のように傷付かずに済んだのだろう。それを蒸し返せば今度こそ奈緒を深く傷つ
けることになるかもしれない。
奈緒が僕のように胃液を吐きながらフラッシュバックにのたうちまわって苦しんでいる
姿が浮かんだ。だめだ。自分の大切な妹にそんな仕打ちをするわけにはいかない。奈緒へ
の無益な恋心に惑わされていた僕がそれに気がつけたのは、明日香のおかげだった。確か
にきつく苦しい荒療治だったけど、そのおかげで僕は目が覚めたのだろう。
僕は大きく息を吸った。この決心によって傷付く人は誰もいない。明日香の望みをかな
えられるし、僕のことを実の兄として改めて別な次元で慕い出した奈緒だってもはや傷付
くことはない。叔母さんだって僕たちの味方をしてくれるはずだった。
「明日香」
明日香は僕の髪を撫でる手を止めて僕の方を見た。
「・・・・・・まだ苦しい?」
「いや。そうじゃないんだ」
僕は体を起こし、半ば僕に覆いかぶさるようにしていた明日香を抱き起こすようにして
自分の隣に座らせた。
「おまえが言ってたことがあるじゃん。僕のことが好きだって」
明日香が怪訝そうな表情をした。
「言ったよ。それがどうしたの・・・・・・あ」
そのとき明日香の表情が何かに怯えるような影を宿した。
「よく考えてって言ったのに。あたし、お兄ちゃんにもう振られるの?」
本心で明日香のことを奈緒以上に愛しているかと聞かれたらそれは違う。でも少なくと
も明日香が大切で心配な存在であることは確かだった。僕が一番つらい時期にぼくを支え
てくれた明日香のことが。それにこれだけは嘘じゃなく本当だった。明日香のその怯えた
表情を見たとき、僕は心底から明日香をいとおしく感じたのだ。
「僕たち付き合ってみようか」
一瞬、驚いたように目を大きく見開いた明日香の表情を僕は可愛いと思った。
「お兄ちゃん、それってどういう意味」
「どういうってそのままの意味だよ。っていうか僕に告白してきたのはおまえの方だろ
う」
次の瞬間、僕は明日香に飛びつかれ、ソファの背もたれに押し付けられた。
「だめだと思ってたのに・・・・・・絶対に断られるって諦めてたのに」
「・・・・・・・泣くなよ」
「嬉しいからいいの。お兄ちゃん大好きだよ」
僕も明日香の体に手を廻して彼女を抱き寄せた。そのとき一瞬だけ記憶に残っていた幼
い奈緒の声が頭の中で響いた。
『お兄ちゃん大好き』
夜半過ぎに雪は雨に変わっていたようだ。結局、明日香の望みどおり朝の景色が一面雪
景色となることはなかったのだ。その晩、僕と明日香は深夜までソファで寄り添っていた。
初めて心が通じ合った直後の甘い会話や甘い沈黙は僕たちの間には起こらなかった。アン
チクライマックスもいいところだけど、僕と明日香が恋人同士になっても今までの関係や
お互いに対する想いが劇的に変化することはなかったようだった。
僕が明日香を受け入れてたたとき、こいつは涙を浮べながら僕に抱きついてきた。僕も
そのときは感極まって明日香を抱き寄せたのだけど、しばらくしてお互いの気持ちが落ち
着いてくると、初めて彼女が出来たときのようなどきどきして興奮したような気持ちはす
ぐにおさまっていった。そして残ったのは限りなく落ち着いて居心地のいい時間だった。
思うに僕と明日香の関係は長年の仲違いを解消して、明日香が僕のいい妹になると宣言
したときの方がはるかにドラスティックな変化を迎えていたのだと思う。結局明日香の気
持ちに応えた僕だけど、付き合うようになってもその前までの彼女との関係とあまり変化
がないような気がする。多分それは明日香も同じように感じていたんじゃないかと思う。
僕が真実を知りフラッシュバックを起こすようになってから明日香は常に僕に寄り添っ
ていてくれた。改めて付き合い出したとはいえこれ以上べったりするのも難しい。そうい
わけで深夜まで抱き合いながら寄り添っていた僕たちの会話は今までとあまり変わらなか
った。ただ、お互いが恋人同士になったことを両親や玲子叔母さんに話すタイミングとか
を少し真面目に話したことくらいが今までと違った点だ。
その会話も寄り添いあった恋人同士が近い距離で囁きあっているわりにはきわめて事務
的な会話といってもよかった。
「まあ急ぐことないよ」
明日香が僕の肩に自分の顔をちょこんと乗せながら言った。
「でもいつかは言わないとね」
「多分、あたしがお兄ちゃんのことを好きなのはもうパパやママにもばれてるし」
「そうなの」
「うん。ママには前からけしかけられるようなことも言われていたしね」
その話は叔母さんからも聞いていた。母さんは僕と明日香が結ばれることを密かに期待
していたのだという。そうしていつまでも家族四人で暮らしていくことを望んでいたらし
い。
「それに確実に叔母さんにはばれてるし」
「そらそうだ。叔母さんがいる前でおまえは告白したんだから」
「叔母さんには隠し事したくなかったし」
明日香が言った。
「本当にそれだけなんだろうな」
僕は明日香に念を押した。
「正直に言うと少しは叔母さんを牽制しておこうとは思ったけどね」
「何度も言うけど、たとえ血がつながっていないとしても自分の叔母だと思ってきた人に
恋するなんてことはありえないよ」
「うん。今ならお兄ちゃんのこと信じてあげる」
明日香が言った。
「やっとか。まあわかってくれたのならいいけど」
「でもお兄ちゃんにその気がなくても、叔母さんはお兄ちゃんのことを好きかも知れない
よ」
「まだそんなこと言ってるの」
「玲子叔母さんのことはあたしの方がよく知ってるもん」
「それは否定しなけど。だからと言ってさあ」
「叔母さんは多分昔からパパのことが好きだったと思うんだ。でもその気持ちを抑えてき たのね」
「何度も言うけどそのことだって想像にすぎないだろ」
「誰かを好きな気持ちを察するのに証拠なんてあるわけないじゃない」
まあそれはそうかもしれないけど。
「でも僕は父さんじゃないぞ」
「パパを好きな気持ちがパパにそっくりなお兄ちゃんへの愛情に変わったんでしょ。それ
にお兄ちゃんにとっては叔母さんはママ代わりみたいなものでしょ? そして叔母さんに
とってはお兄ちゃんは血の繋がっていない息子のような存在だったし。その叔母さんの母
性がいつのまにか異性への愛情に変わったんだよ、きっと」
「それも全然根拠のない思い込みじゃん」
「女の勘ですよ」
明日香は笑った。いったいどこまで本気で言っているのだろう。
「まあ常識的に考えれば世間的にも成就する恋じゃないし。叔母さんだってそんなことは
わかっていると思うけどね」
明日香の言うことが本当だとしたらそれは僕にとっては非常に落ち着かない気分にさせ
られる話だった。
「だからお兄ちゃんが玲子叔母さんに告ったり迫ったりしなければ、叔母さんの中ではそ
れは秘めた恋で終わるよ」
「そんなことするか」
「うん」
明日香はそこで嬉しそうに笑った。「そこは信用してるよ。お兄ちゃんもあたしのこと
が好きだってようやく気がついてくれたみたいだしね」
少なくともそこを信じてくれただけでもよしとしないといけないようだった。
それからしばらくは僕たちは黙ったまま寄り添っていた。居心地は悪くない。お互いに
長年身近にいたせいか、こういう時間も全く気まずくはなかった。
「そう言えばさ」
明日香が僕の手を両手で包んで撫でるようにしながら言った。
「うん」
「お兄ちゃんて妹属性ってある?」
「は?」
僕の趣味はアニメや漫画がゲームだったから妹属性とかと言われればすぐにピンときた
けど、これまでそういう系統に全く興味を示さなかった明日香がよくそんな言葉を知って
いたものだ。
「何でそんなこと聞くの」
「いや。お兄ちゃんって去年まではあたしのこと本当の妹だと思ってたわけじゃん」
「まあね」
「何て呼ぼうかなって」
「はい?」
「あたしたち結ばれたわけだけど、お兄ちゃんが妹と結ばれたことに萌えているのならお
兄ちゃんの趣味にあわせてこれまでどおり、お兄ちゃんって呼んであげようかなと」
「・・・・・・妹だと思ってたら僕がおまえと付き合うわけないだろ」
一瞬、本当の妹である奈緒の顔が目に浮かんだ。
「そう? じゃあ奈緒人って呼んでいい?」
確かに明日香にお兄ちゃんて呼ばれることには違和感はなかった。でも僕が実の兄貴で
あることを知った奈緒は自然に僕のことをナオトさんではなくお兄ちゃんと呼んだのだ。
これからは奈緒が妹で明日香は僕の彼女なのだ。
「そうしたかったら奈緒人って呼べば?」
「うーん」
自分で提案しておきながら明日香は少し考えて赤くなった。僕の肩に自分の頭を預けな
がら。
「いきなり呼び捨てっていうのも違和感あるなあ」
「・・・・・・じゃあもう好きに呼べば」
「お兄ちゃんすねてるの? 可愛い」
明日香が顔を起こして僕を覗き込んだ。
僕たちはその晩随分遅くなってから結局僕の部屋のベッドで一緒に寝ることにした。こ
れまでも明日香が僕のベッドに潜り込んでくることがあったので、別にそれは敷居が高い
ことではなかったし。
ただこれまでと違って明日香は最初から僕に密着して抱きついたので、僕は少し混乱し
た。変な気持ちがなかったといえば嘘になる。今までの兄妹としての仲直りからの延長上
で自然に付き合い出したような僕たちだったけど、正式に恋人同士になってから一緒に寝
るのは初めてだった。長年一緒に連れ添った夫婦みたいに、こいつとの間には新たな発見
はないと思っていたのだけど一緒にベッドに入って抱き付かれるとこれまで明日香に対し
ては感じなかったような感覚が湧き上がってきた。
ここは自制すべきところだった。飯田に襲われかかった明日香に対してそういうことを
求めるわけにはいかない。でも体の反応の方は素直だったので僕は明日香がすやすやと寝
息を立てた後もしばらくは天井を見上げて自分の興奮を収めようと無駄な努力を重ねてい
たのだ。それでもいつのまにか僕は寝入ってしまったようだった。
「奈緒人君起きてよ」
僕が目を覚ますとカーテンを閉め忘れた外の景色が目に入った。雪は小雨に変わってい
るようだった。僕は隣で横になっている明日香の柔らかな肢体を再び意識しながら目を覚
ました。
「・・・・・・何で君なの?」
結局、明日香は僕のことをお兄ちゃんでもなく呼び捨てでもなく奈緒人君と呼ぶことに
決めたようだ。
「だって呼び捨てって照れくさいじゃん」
奈緒人君だって呼ばれる方にしてみれば十分に照れくさい。
「・・・・・・なんでお兄ちゃんが赤くなるのよ」
思わずお兄ちゃんと呼びかけてきた明日香の顔も真っ赤でそれが少しだけおかしかった。
「お兄ちゃんのほうが呼びやすいならそれでもいいよ」
「いけない。奈緒人君だった」
明日香が笑った。
「まだ十時前だけどもう起きる?」
今週いっぱいは明日香は医師から自宅療養を指示されている。その間は僕も学校を休む
つもりだったから特に早く起きる必要はなかった。特に昨日は夜更かししていたのだし。
自堕落にいつまでも寝ているつもりはないけど、明日香はまだ怪我だって癒えていないの
だから、何も急いでベッドから出なくてもいい。
「誰か来たみたい」
明日香が僕を覗き込んで言った。
「聞こえなかった? さっきチャイムが鳴ってた」
僕は起き上がった。特に気が付かなかったと言おうとしたとき再びチャイムが響いた。
「どうする?」
「とりあえず見て来る。おまえはこのまま寝てろよ」
「うん」
明日香は再び毛布を引き寄せた。
「はい」
僕がリビングに降りてインターフォンを取ると女性の声がした。
「突然申し訳ありません。警察の者ですけど」
「・・・・・・はい」
何となく用件は想像が付く。でもぼくはてっきり平井さんたちが来るものだと思ってい
たのだ。僕がドアを開けるとそこには私服姿の若い女性が二人立っていた。一人が僕に手
帳を見せた。
「明日香さんの具合が悪くなければ、三十分ほどですみますので事情をお伺いしたいんで
すけど」
その人はそう言った。
「平井さんじゃないんですね」
いきなり見知らぬ警官が現われたことに不信感を覚えた僕は聞いてみた。これが平井さ
んならまだわかる。両親にも僕にも一応は自己紹介してくれていたのだし。それなのにい
ったい約束もなしに見知らぬ警官を寄こすとはどういうことなのだろう。
女の人は動じずに微笑んだ。
「性犯罪の被害者の方への聴取は女性警官がすることになっています。明日香さんへの聴
取はあたしたちがさせていただいた方がいいでしょう」
女の警官は話を続けた。
「それに自分の上司を悪く言うようだけど、平井さんは高校生くらいの女の子の扱いには
慣れてませんしね」
彼女は笑ってそう言った。
確かにあの平井さんに明日香が事情聴取されるよりは、目の前で柔らかな微笑みを浮べ
ている女性の警官に事情聴取された方が明日香も緊張しないだろう。二人の女性警官は制
服も着ていないのでそういう意味でも明日香には答えやすいかもしれない。それにしても
この人が何気なく言った性犯罪という言葉は改めて明日香が被害を受けそうになった飯田
の凶行を否応なしに思い浮かべさせられた。明日香は僕との仲が進展して多少は気分転換
できたかもしれないけど、やはり明日香があのとき経験したことは中学生にとっては過酷
な出来事だったのだ。
「ちょっと妹の様子を見てきますから、少し待ってもらえますか」
僕は言った。明日香に心の準備ができているかを確認しないで勝手にこの人たちを家に
入れるわけにはいかない。
「あら。あなたは明日香さんのお兄さんなのね」
「はい。ちょっとだけ待ってください」
「ごゆっくりどうぞ。明日香さんの気が進まないならまた明日とかに出直してもいいの
よ」
私服の婦警さんが気を遣ったように言ってくれた。
僕は自分の部屋の戻って毛布を被っている明日香に声をかけた。
「明日香?」
「誰だった?」
毛布から顔だけちょこんと出した明日香が聞いた。
「それが・・・・・・警察の人なんだ。おまえから事情を聞きたいって」
明日香の顔が一瞬曇った。でもすぐに明日香は気を取り直したようだった。
「そう。早く済ましちゃった方がいいんだろうね」
明日香が殊勝に微笑んだ。
「気を遣って女性の警官が来てくれてるし三十分くらいで終るって」
「そうか」
明日香が起き上がった。
「じゃあ着替えるね」
「リビングで待っていてもらうな」
「うん。お兄ちゃん?」
僕は部屋のドアのところで立ち止まった。
「一緒にいてくれる?」
「もちろん」
「お兄ちゃん」
明日香は僕のことを奈緒人君と呼ぶことなんて忘れてしまったみたいだ。
「どうした」
「・・・・・・キスして」
明日香が目を閉じた。僕から明日香にキスするのはこれが初めてだった。
警察の人たちがそれでも一生懸命に明日香に微笑みかけ、できるだけ明日香を刺激しな
いようにしながら事情聴取を終えて引き上げていった後、明日香は大きく息を吐いてソフ
ァに横になった。
「痛っ」
明日香は顔をしかめて言った。どうやら傷になっているところをソファにぶつけたらし
い。
「大丈夫?」
明日香は体をもぞもぞと動かしてようやく具合のいい位置を見つけたらしかった。
「平気。ちょっとぶつけただけだから」
ソファに居心地良さそうに横になると明日香は再び大きくため息をついた。
「やっと終ったのね」
「うん。もうおまえから話を聞くことはないでしょうって言ってたし」
「自業自得なんだから図々しいかもしれないけど。あたし、もうあいつらとは関りになり
たくない」
明日香が言った。
警察の女の人たちはあの晩に起きた出来事を優しく同情しながらも、明日香の記憶に残
っていることは一欠けらも取りこぼさずに聞き取っていった。今日家に来た警官は性犯罪
の被害者の聞き取りは女性警官の方が当たることになっていると言っていた。自分の上司
の平井さんは若い女の子の扱いには慣れていないとも。その言葉に嘘はないだろうけど、
彼女の聞き取りだって笑顔やていねいな口調を取り去ってしまえば容赦のないものだった
と言える。これでは明日香が再び言葉と記憶のうえで再びレイプされているようなものだ。
何度か僕は明日香の手を握りながら女性の警官の尋問をとどめようとした。そのたびに
警官は柔らかい口調で謝りながらも知りたいことを知ろうとする執念を諦めはしなかった。
そして明日香は顔色も変えずに淡々とその夜自分に起きたことを話し続けた。
そうして飯田に押し倒され縛られて服を破かれたあたりで、明日香の話に池山が登場し
た。この間まで明日香の彼氏だった池山のことを明日香は庇うような説明をした。どうい
うわけか明日香を庇った池山の行為には警官にはあまり関心がないようで、彼女は飯田と
池山の会話の内容を覚えている限り全て話すように明日香に求めたのだけど、女性警官に
とってはその内容は期待はずれだったらしい。でも、縛られて身の危険を感じていた明日
香が二人のやり取りを逐一覚えていることなんて不可能だったろう。
「まあ仕方ないですね。明日香ちゃんだってそれどころじゃなかっただろうし」
残念そうに彼女が言った。
「ごめんなさい」
明日香は一応警官に謝ったけど本気で悪いとは思っていないらしかった。何と言っても
明日香は参考人かもしれないけどそれ以前に被害者なのだ。
「じゃあこれで終ります。明日香さんご協力ありがとう。飯田と池山がどうなったかは平
井警部がお知らせにあがると思いますから」
ソファに座った明日香がほっとしたように少しだけ力を抜いた。明日香から事情聴取し
た警官ともう一人の何も喋らずひたすらメモを取っていた警官が立ち上がった。
「じゃあお邪魔しました。もう明日香さんにお話を伺うことはないからね」
僕と明日香も立ち上がり二人を玄関まで送った。明日香は相変わらず僕の手を離そうと
しなかった。
「ずいぶん仲のいい兄妹なのね。まるで恋人同士みたい」
今までずっと黙ったまま喋らなかった方の警官が言った。「うらやましいわ」
「二人きりの兄妹なんです」
微塵も動揺せずに明日香がしれっと答えた。
「これで全部おしまい。もうあいつらとは二度と関りになりたくない」
警官たちを見送ってから具合よくソファに横になった明日香が繰り返した。
ほっとしたことに警察の人たちはドラッグのことや女帝のことは話に出さなかった。単
純にあの女性警官たちには知らされていないのか、それとも捜査上の機密なので匂わすこ
とすらご法度なのか。平井さんが僕にそのことを話したときだって加山さんは顔色を変え
て阻止しようとしたくらいなのだし。
「お兄ちゃん、隣に来て」
明日香が僕に言った。
僕は明日香の横たわった体の顔の隣のあたりに腰かけた。明日香が片手を上げて僕の腕
に触れた。
「ごめんね」
明日香がぽつんと言った。
「何が?」
「あたしが昔バカやってたからこんなことになっちゃったんだよね」
さっきまで顔色一つ変えず気丈に警官の質問に答えていた明日香は今では曇った表情を
見せている。
「おまえのせいじゃない。悪いのは飯田だろ」
「あたしはもうお兄ちゃんに迷惑かけたりお兄ちゃんが恥かしいと思うような友だちとは
二度と付き合わないからね」
「うん」
「・・・・・・奈緒や有希みたいに誰が見てもお兄ちゃんにとって恥かしくない女の子になるか
ら」
奈緒はそうかもしれないけど有希は少し違う気がする。でもそれは今明日香に言うこと
じゃない。
「別に今だって恥かしくなんかないだろ」
「優しくしなくていいよ。それよりこんなことしてたらお兄ちゃんに嫌われちゃう方が恐
い。せっかくお兄ちゃんの彼女になれたのに」
明日香が言った。
「こんなことで嫌いになんてなるか」
「だって・・・・・・お兄ちゃん、僕たち付き合ってみようかって言った」
明日香がいったい何を言っているのか僕には理解できなかった。
「言ったけど・・・・・・嫌だった?」
「ううん、嬉しかった」
明日香が話を続けた。
「でも、どうせならおまえのことが好きだとか、付き合ってみようかじゃなくて僕と付き
合ってくれって言われたかったな。付き合ってみようかじゃお試しみたいで不安じゃん」
「考えすぎだよ。お試しとかそんなこと考えて言ったわけじゃない」
「ごめん、そうだよね。さっきまでは何の不安も感じなかったけど、警察の人の質問に答
えていたら不安になっちゃった。あたしってお兄ちゃんにふさわしくないのかもって」
明日香が苦労してソファから身を起こして僕を見た。
「確かにあたしは池山に助けられたし飯田たちとも遊んでたけど、もう二度とそんなこと
はしないの」
「うん」
「だから・・・・・・お兄ちゃん、ずっとあたしと一緒にいて。パパとママとあたしとお兄ちゃ
んでみんなでずっと一緒に暮らそうよ。あたしのこと捨てないで。もう誰もいらないよ。
お兄ちゃんがずっとあたしの彼氏でいてくれたら」
僕さえいたら誰もいらないと一番最初に言ってくれたのは、まだ幼かった奈緒だった。
今改めてそれと同じ言葉を明日香から聞かされた僕は、自分では決断したつもりだったこ
とを自分の中では曖昧に済ませていたことに気がついた。
わかってはいたことだ。今まで曖昧にして突き詰めて考えなかっただけで。
僕は明日香の顔を見たかったけど、俯いて涙を流しているので目を合わせることもでき
ない。少し乱暴だったけど、僕は明日香の顎に手をかけて少しだけ手に力を込めた。たい
した抵抗もなしに明日香が顔を上げた。僕は明日香の目を見た。
「そうだね、明日香。ずっと一緒にいようか」
実の妹にはこんな言葉はかけられない。明日香は妹であって妹ではない。だから僕は奈
緒にはこの先一生言ってはいけないことだって、明日香には言える。
もう手を離しても明日香は俯かなかった。それどころか今までで一番激しく彼女が僕に
抱きついてきた。僕もそんな明日香に応え、両手を明日香の体に回した
「・・・・・・あたしもう大丈夫だよ」
しばらく抱き合っていたあと明日香が言った。
「え」
「怪我なんて大したことし。初めてはお兄ちゃんがいい」
「おまえ何言ってるの」
「ずっと一緒にって言うお兄ちゃんの言葉に嘘がないないなら、お兄ちゃんの部屋に行こ
う。最初はあそこがいい」
明日香が立ち上がって涙を拭いて僕を見た。
「リビングの電気消しておいて。テレビも」
僕は戸惑うばかりだった。
「シャワー浴びてくる。今日もパパとママは帰ってこないから。お兄ちゃんは部屋に行っ
て待ってて」
明日香がバスルームの方に歩いて行った。ちょうどお昼ごろの時間だった。外の雨は激
しさを増し雨音がはっきりとリビングまで届いている。
決断するということはこういうことなのだろう。告白してもなおしばらくは急激な展開
を望まない僕の卑怯な心境が、今いきなり試されているのだ。半ば躊躇しいながらもどう
いうわけか僕の体と感情はこれから起こることに準備を始めていたようだった。明日香の
誘惑に反応している下半身を持て余しながら、僕が立ち上がって夢遊病者のように二階に
上がろうとしたとき、再びチャイムが鳴ってインターホンから玲子叔母さんの声が聞こえ
た。
「おーい。いないのかな、まだ寝てるんじゃないだろうな」
残念なようなほっとしたような心境だったけど、とりあえず僕は玄関に行って鍵を開け
叔母さんを家に招じ入れた。
「寒かったあ。びしょ濡れだよ」
叔母さんがそう言いながら家に上がって来た。
「叔母さん車じゃなかったの」
僕は家に上がるといつものようにさっさとリビングに向かう叔母さんの後に続きながら
聞いた。
「打ち合わせ先が駐車できないんでさ。傘なんか全然役に立たないしびしょ濡れになっち
ゃったよ」
「そんなに降ってたんだ」
「うん。いきなり雨が強くなってさ。こんなんじゃ社に戻れないからここで雨宿りしよう
かと思ってさ」
叔母さんが高そうな、でも雨にぐっしょり濡れたコートとスーツの上着を一度に脱いだ。
リビングのフローリングに雨滴が落ちる。白いブラウスとスカートだけの姿になった叔母
さんは、何かぶつぶつ言いながら濡れた髪を拭こうと無駄な努力をしていた。
薄い生地の濡れたブラウスから叔母さんの白い肌が透けて見えた。そのとき僕は本当に
叔母さんから目を逸らそうとしたのだった。でもちょうど明日香の誘いに体が反応してい
たタイミングで叔母さんが現われたということもあった。僕は無防備な仕草で髪を気にし
ている叔母さんの全身から目が離せなかった。
濡れて肌にくっついている感じの白いブラウス越しに、黒いブラジャーが浮かんでいる。
胸だけではなく上半身全体がほの白く浮かび上がっている。これまで奈緒や明日香よりは
るかに大人だと思っていたし、そういう目で見たことのなかった叔母さんの体は思ってい
たより華奢で細身だった。僕は思わず明日香の言葉を意識して顔が赤くなるのを感じた。
明日香の言うように叔母さんの僕に対する母性が異性への愛情に転化しているというのは
本当なのだろうか。
「・・・・・・バスタオル持って来ようか」
僕はそう言ったけど、このときは玲子叔母さんの体から目が離せないままだった。
「ああ悪い。でもそれよかシャワー浴びようかな」
そう言って僕を見た叔母さんが僕の視線に気がついた。そのとき一瞬僕と叔母さんの視
線が交錯した。
「・・・・・・あ」
叔母さんは狼狽したように小さく呟いて、床から拾い上げた服を胸に抱えて僕の視線か
ら自分の肢体を隠す仕草をした。
「叔母さんごめん。って言うか見てないから」
今まで玲子叔母さんの上半身をガン見していた僕が言っても全然説得力がなかったろう。
「見るって何を。奈緒人、あんた何言ってるの・・・・・・」
叔母さんがいつもと違って小さな声で呟いた。その濡れた顔が赤くなったのは僕の思い
込みのせいなのだろうか。
「包帯だらけでシャワー浴びられないんだけど」
そのとき明日香がリビングに戻って来て言った。僕はその瞬間救われた思いだった。
「そういやそうか。って、おまえその格好」
「服を脱いでいる途中で気がついたんだもん。今日はシャワーもお風呂も無理だわ。お兄
ちゃん、体拭いてくれる?」
「あんた、何て格好してるのよ」
叔母さんが明日香の半裸を見て言った。明日香もそんな叔母さんの姿を驚いたように見
た。
「玲子叔母さん、いつ来たの? っていうか叔母さんこそ何でそんな格好してるのよ」
奇妙な状況だった。肌を露出しているとしか言いようのない叔母と姪がお互いに驚いた
ように見詰め合っている。僕はこの場をどう収めればいいのだろうか。
「お兄ちゃん」
・・・・・・シャワーから戻って来た明日香はさっきまでの甘い口調を引っ込めて、並んで突
っ立っている僕と叔母さんを不機嫌そうに交互に睨んだ。
結局明日香は不貞腐れて自分の部屋にこもってしまった。叔母さんも濡れた服を抱えて、
タクシーを捕まえるからとだけ小さな声で言って家から出て行ってしまった。
何がなんだかわからないけど、今僕はリビングに一人取り残されていた。明日香には少
し可愛そうだったかもしれない。初めて結ばれようとしているそのとき、悪気はないとは
いえ突然の叔母さんの来訪に邪魔されたのだから。タイミングもまずかった。僕には明日
香が心配しているような叔母さんに対する恋愛感情なんてないし、叔母さんだってきっと
そうだ。
でも。
確かに叔母さんの濡れた体をガン見したのはまずかった。叔母さんも気にしていたよう
だし、その微妙な空気は明日香もすぐに気がついたようだった。僕が叔母さんの体を女性
として意識して眺めたのはこれが初めてだった。濡れたブラウスから覗いていた叔母さん
の肌が僕の脳裏に浮かんだ。僕だって男だからいくら年上の叔母さんとはいえその肢体に
目を奪われることはあっても不思議はない。僕はそう自己弁護した。でもそれは明日香に
対する裏切りでも浮気でも何でもない。
今日は僕と明日香が一生一緒にいようと誓い合った日だ。一度決めたことなのだから最
後までその決心は貫こうと僕は思った。とりあえず明日香の誤解を解いて仲直りしよう。
ちゃんと話せばきっとあいつだってわかってくれるはずだ。それに明日香は中学生の女の
子としては考えられないような辛い目にあったばかりだった。多少は僕の方から譲歩して
あげる場合なのは間違いない。僕はそう決心するとリビングを後にして二階に続く階段を
上っていった。明日香の部屋はドアが閉まっていて中からは何の物音もしない。僕は思い
きってそのドアをノックした。
「明日香?」
返事はない。
「明日香・・・・・・入るよ」
ドアを開けて部屋に入ると明日香はベッドに入って頭から毛布を被っていた。相変わら
ず返事はしてくれない。
「叔母さん、帰ったよ」
とりあえず何を喋ればいいかわからず僕はそう言った。でも叔母さんの名前を出したの
は失敗だったのかもしれない。明日香は僕を振り向きもせずうつ伏せ気味に毛布の下に潜
り込んでいるままだ。
「・・・・・・」
「風呂に入れなかったんだろ。体拭いてやろうか?」
「なあ、返事してくれよ。僕は明日香の彼氏なんでしょ? 何で返事してくれないの」
彼氏という言葉に反応したのか、ようやく明日香が毛布の下から顔を覗かせた。
「・・・・・・んで」
ようやく明日香が低い声で返事した。
「え」
「・・・・・・何であんな」
明日香がようやく僕と目を合わせてくれた。
「何でお兄ちゃんはあんな目で叔母さんのことを見つめていたの? 何で叔母さんは潤ん
だ目でお兄ちゃんのこと見つめてたの」
「何を考えているのかわからないけどそれは誤解だから」
僕は言った。ここは正直に話す方がいい。
「確かに叔母さんが、その・・・・・・ああいう格好だったんで思わず見入っちゃったかもしれ
ないけど、別に叔母さんに特別な感情なんかないって。叔母さんだってそうだよ」
「・・・・・・そういう雰囲気には見えなかった。何か今にもお互いに告白しあいそうに見えた
んだけど」
「ないよ。僕だって男だからそれは叔母さんの体を見つめちゃったかもしれない。叔母さ
ん綺麗だし」
それを聞いて明日香が辛そうに僕から目を逸らした。
「でも恋愛感情とかじゃないんだ。今の僕には好きな女の子は一人しかいないんだし」
「どういうこと」
「もう忘れちゃった? 僕はおまえとずっと一緒にいようって決めたばかりなんだけど」
再び明日香が僕の方に視線を戻した。どうやら少しだけ明日香は僕の言うことを聞く気
になったようだった。
「明日香、好きだよ」
僕は真顔で言った。これが本音だったことは間違いない。どんなに僕が奈緒に惹かれて
いても奈緒は僕の妹だった。付き合うことも、ずっと一緒に二人で暮らすこともできない。
結婚して子どもを作ることもできない。何よりも再会した大好きな兄貴として僕を慕って
くれている彼女に対して、僕の正直な想いを話すことすら今では禁忌なのだ。
それに玲子叔母さんのことに関して言えば、それは明日香の完全な誤解だった。たとえ
僕が不実な恋人だったとしても明日香が嫉妬すべきは叔母さんではなくて奈緒の方なのだ。
でもそれは僕が言うことじゃない。僕はその考えを胸の奥にしまった。
「・・・・・・わかった」
ようやく明日香がベッドから上半身を起こして言ってくれた。毛布から這い出した明日
香は寒いのに白いタンクトップの短いシャツだけを身にまとっていた。シャツの隙間から
覗く肌に巻かれた包帯が痛々しい。
「信じるよ。あたしだってお兄ちゃんと喧嘩するのは嫌だし」
「・・・・・・明日香」
「ぎゅっとしてお兄ちゃん」
突然明日香の態度が柔らかになった。僕は明日香の甘い声に従ったけど、言葉どおり抱
きしめたらきっと明日香の傷が痛むだろう。だから僕はベッドの端に腰かけてそっと彼女
の体に手を廻した。
「もっと強くしてくれてもいいのに」
明日香が僕の首に両手を回しながら言った。この先は明日香の指示を待っていたのでは
駄目なのだろう。僕は自分から明日香にキスした。
「疑ってごめんね」
明日香が言った。
「叔母さんの体を見つめちゃったのは僕の方だしな。誤解させて悪かったよ」
「もういい。お兄ちゃんの言うことなら信じるよ」
僕の顔の近いところで彼女の声が響いた。
「お兄ちゃんの気持ちはわかったから、あたしの言うことも聞いて。お兄ちゃんはうざい
と思うかもしれないけど、やっぱりお兄ちゃんが奈緒とか叔母さんのことを話す口調とか
表情とか態度とかって、あたしにとってはすごく不安なの」
「そんなつもりはなかったんだ。でも心配させたならごめん」
少なくとも叔母さんに関しては明日香の邪推なのだけど、今日は明日香に譲歩しようと
決めたばかりだったから素直に僕は謝った。明日香は僕の首に回した手に力を込めた。
「お兄ちゃんが本気であたしを選んでくれたなら」
「うん」
密着している明日香の体から女の子らしいいい匂いがする。
「あたし、奈緒にも有希にも玲子叔母さんにも絶対お兄ちゃんのこと譲る気はないから」
「うん・・・・・・僕だってもう決めたんだしそんな心配いらないよ」
「でも不安だから」
明日香が真面目な顔になって言った。「だからあたしたちが恋人同士だってこと、みん
なにカミングアウトしよう」
「・・・・・・僕は別にいいけど。でもカミングアウトって大袈裟だな」
「だってみんなあたしたちのこと血の繋がった兄妹だ思っているわけじゃない。だからカ
ミングアウトしよう」
「うん。それでいいよ」
明日香の言うとおりだ。臆病な僕は曖昧なままの関係を望んでいたのだけど、それでは
いけないと思って明日香の気持ちに応えたのだ。だから別に明日香の提案は反対するよう
なことではない。ただ、周囲の反応を考えると多少は気が重いのも事実だった。
「今度パパとママが帰ってきたら真っ先に言おうよ。あとこれはお兄ちゃんに任せるけど、
奈緒ちゃんにもちゃんと話してね」
今まで明日香は奈緒のことを呼び捨てしていたのだけど、このとき彼女は奈緒ちゃんと
言った。明日香もきっと彼氏である僕の妹として奈緒のことを認識しなおしていたのだろ
う。
「最初に玲子叔母さんに言って」
明日香が言った。「あたしとお兄ちゃんは恋人同士の間柄になったって」
「わかった」
「メールでいいよ。叔母さんが次に家に来るのを待っていたらいつになるかわからない
し」
「うん」
「あと、有希にはあたしが直接謝るから」
明日香がさらりと恐ろしいことを言った。明日香は有希のことを富士峰のピアノが上手
な少女に過ぎないとしか認識していないのだから無理はないのだけれど、それは非常に危
険なことかもしれない。
「ちょっと待て」
明日香が怪訝そうに僕の方を見た。
「両親には話するし、奈緒にも話す。叔母さんにも今この場でメールしてもいい」
「うん」
「何なら渋沢と志村さんにも報告するよ」
「・・・・・・嬉しい」
明日香が赤くなって僕に答えた。
「でも有希さんには僕から話す」
「何で? 有希に悪いことしちゃったのはあたしのせいだよ?」
「それでも僕から話した方が言いと思う。おまえはもう辛いことは何にもしなくていいよ。
全部僕が被ってやるから」
女帝のことを話せない以上、こういう大袈裟な言葉で明日香を誤魔化すしかない。それ
でも明日香は僕の言ったことに喜んだようだった。
「幸せだな。本当に誰かが無条件であたしを守ってくれる日が来るなんてなんて嘘みたい。
しかもそれは大好きなお兄ちゃんだなんて」
少しだけ罪の意識を感じたけどそれを誤魔化すように僕は明日香の体を抱きしめた。明
日香の傷は痛んだのかもしれないけど、彼女はそのことに抗議しなかった。
「明日にでも叔母さんにメールするよ。とりあえず話があるからっていう内容でいい?」
「・・・・・・まあいいか。面と向かってちゃんと言った方がいいもんね」
明日香が笑って言ってくれた。ようやく明日香の機嫌が元に戻ったようだった。
from :奈緒人
sub :無題
本文『叔母さんさっきはごめんなさい。叔母さんに大切な話があるんだ。叔母さんは仕事
で忙しいと思うから、もし時間ができたら僕に会ってほしい。突然変なメールしてごめん。
でも僕たちにとっては大事なことだから。じゃあ、玲子叔母さん。会えるようになったら
メールか電話して』
そのとき僕と明日香は僕が叔母さんに送ったメールのことで少し揉めているところだっ
た。カミングアウトしたいという明日香の希望に沿ってとりあえず僕は玲子叔母さんに大
切な用事があるというメールをした。それを送信した後で明日香がそれを見たがった。別
に隠すようなものでもないので僕は叔母さんに送ったメールを明日香に見せたのだ。
いつのまにか機嫌を直していた明日香は僕に身を預けるようにして、僕が差し出した携
帯のディスプレイを眺めた。
「あのさあ」
低い声で明日香が僕に言った。
「うん。とりあえずこれで僕たちが叔母さんに大事な話があることは伝わっただろう」
僕は明日香に言った。僕はさっそくこいつの希望に応えたのだ。
「お兄ちゃんさ。もしかして自分のことが好きな玲子叔母さんの気持ちを弄んで楽しんで
ない?」
「何のこと?」
ずいぶんとひどい言われ方だけど、このときの僕には明日香の言ってる言葉の意味がわ
からなかった。
「何よこれ」
明日香が僕のメールを読み上げた。わざわざ声に出されたことでやっと僕にも明日香の
言いたいことが理解できた。
『叔母さんさっきはごめんなさい。叔母さんに大切な話があるんだ。叔母さんは仕事で忙
しいと思うから、もし時間ができたら僕に会ってほしい。突然変なメールしてごめん。で
も僕たちにとっては大事なことだから。じゃあ、玲子叔母さん。会えるようになったら
メールか電話して』
「この僕たちって誰のことを言ってるの?」
「そら僕とおまえのこと以外にないだろ」
僕はとりあえずそう答えたけど明日香の怒っている理由も何となくわかる。
「こんなメールを受け取ったら玲子叔母さんがどう考えると思うのよ。『突然変なメール
して』とか『大切な話がある』とか『僕たちにとって大事なこと』とか叔母さんに言うな
んて。いったい何考えてるの」
「いや」
本当に明日香に言われてメールをしたということ以外は何も考えてはいなかったのだ。
叔母さんは自分とお兄ちゃんにとって大切な話があるって受け取ったでしょうね」
明日香が言った。「かわいそうに叔母さん、お兄ちゃんが叔母さんに告白しようとして
いるって思い込んでどきどきしているかもよ」
詳細は文面では伝えきれないと思ったので、メールでは叔母さんに会いたいということ
だけを切実に伝えるだけにとどめようとしていただけだったのだけど、明日香に言われて
みれば微妙な内容なのかもしれない。僕たちという言葉だって僕と明日香のことを表現し
たつもりだったけど、よく見直せばメールの本文には明日香の名前は一回も出していない。
だからそれが僕と玲子叔母さんのことを指しているのだと叔母さんが考えても不思議はな
かった。
明日香の言うようにこのメールは叔母さんに対しては誤解を生むかもしれない。そう思
って自分の出したメールを改めて読み直すとこれではまるで僕が玲子叔母さんに愛の告白
しようとしているかのようにも受け取れる。でもそれも叔母さんが僕を男として意識しい
るという仮定が正しければの話に過ぎない。
「まずかったかな」
僕は少し気弱になって明日香の方を見た。
「これって、完全に告白のために女の子を呼び出すメールだよね」
明日香が呆れたように言った。
「いやそんなつもりはないんだけど」
僕はおどおどと明日香の顔をうかがいながら言い訳した。「女の子にメールすることな
んて慣れてないからさ。ちょっと誤解されるような言い回しになったかもしれないけど」
「女の子にメールって・・・・・・。自分の叔母さんにメールしただけじゃないの? それとも
お兄ちゃんの中では玲子叔母さんって女の子扱いになっているわけ?」
まずい。再び僕は明日香の地雷を踏んだようだ。そんなつもりは全くなかったのだけど、
せっかく僕が叔母さんの体をガン見していたことを許してくれた明日香の憤りに再び火を
つけてしまったようだ。
「違うって。言葉尻を捉えるなよ。誤解を招く表現だったかもしれないけど、わざと書い
たわけじゃないぞ。それに叔母さんだっておまえが言っているような意味では受け取らな
いって。そもそも叔母さんが僕に好意を持っているなんて、全部おまえの妄想だろう」
「それならいけど。でも何で最初に叔母さんに謝っているの」
「それは・・・・・・叔母さんの体を見つめちゃったから」
「お兄ちゃんはそのことを叔母さんが気にしていると思ったから謝ったわけね」
「まあ、気が付いてはいたと思うし」
「お兄ちゃんの言うとおり叔母さんがお兄ちゃんのことを意識していないなら、わざわざ
こんなことを書く意味あるの」
明日香が指摘した。僕にとって幸いなことに明日香は本気で僕を咎めているわけではな
いようだ。さっきの真面目な言い訳の効果があったのだろう。僕は本気で明日香とこの
先恋人同士でいようと思ったのだ。そして明日香もようやくそのことを信じてくれたみた
いだった。そうでなければこんなにあっさりと追求を止めてくれなかったろう。
「まあいいいけど。叔母さんにはちゃんと話してね」
「わかってる」
明日香に嫌われていると思っていた時分には全く考えなかったことだけど、こういう仲
になってみると明日香は随分と嫉妬深い恋人のようだった。でもそのことは今の僕にはあ
まり気にならなかった。ちょっと前までの僕たちの関係を考えるとそれは不思議な感覚だ
ったけど決して不快ではない。
「信じているからね」
明日香が機嫌を直したように僕に抱きついた。
「うん。叔母さんにも父さんたちにもちゃんと話すよ」
僕も明日香を抱きしめた。慣れというのは恐いものかもしれない。もう僕には明日香の
体を抱くことに違和感がなくなってきていた。実の妹である奈緒を除けば明日香と僕はい
ろいろな意味で一番相性がいいのかもしれない。一緒にいて安心するとか気を遣わなくて
いいとかという意味では、ひょっとしたら明日香は僕にとって奈緒以上に隣にいるのが自
然な存在なのだろうか。
そんなことを考えながら明日香の体を抱きしめて背中を撫でてやっているうちに、僕は
自分の腕の中の明日香が体を小刻みに揺らしていることに気が付いた。それも僕が明日香
の背中を撫でるごとに次第に大きくなっていくようだ。
僕は自分の頬に明日香の吐息を感じた。
「どうかした? 傷が痛むのか」
「お、お兄ちゃんのばか。変態」
明日香は小さい声でそう言った。僕の体に回されている明日香の腕に力が込められた。
それに気が付いて明日香の顔を見ると顔が真っ赤になっているし息も荒い。
「変態っておい」
「童貞、キモオタ」
明日香の悪口には慣れていたけど、そのときの明日香の声は今までとは異なり甘いもの
だった。
「恋人同士になっても相変わらずおまえは口が悪いな」
僕は苦笑して言った。でもこの方が明日香との距離感としては落ち着く。僕は少しだけ
笑ってしまいそうになった。こういうのが本当に幸せということなのかもしれないと僕は
はふと考えた。辛いことを思い出さないようにしたせいか今となっても不完全な過去の記
憶や、奈緒と兄妹の名乗りを上げることによって完治の方向には向かっていたようだけど、
油断するとすぐに発症するかもしれないPTSD。
ろくなことがなかった僕の人生で初めてのやすらぎが訪れたのかもしれなかった。奈緒
と恋人同士になれたときもそう思ったのだけど、結局あの関係は安定した安寧の地ではな
かったのだ。僕はそういう感傷にふけって明日香を抱いていたのだけど明日香の様子は少
し変だった。
「お兄ちゃんの意地悪」
自分の脚を僕の足に絡みつかせるようにしながら明日香が小さく言った。明日香の甘い
吐息が僕の耳をかすめた。そして僕の体も明日香に応えて反応しだした。
「もういじめないでよ、お兄ちゃん」
明日香が悩ましい声で言った。
僕はそのとき明日香を抱こうと思ったのだけど、お互いに抱き合っている姿勢から次に
はどうしたらいいのかよくわからなかった。服を脱がすのか。それとも服って明日香が自
分で脱ぐものなのか。それでもとりあえず下半身の言うとおりにすることにして、僕は明
日香の胸を触ってみた。考えるよりも行動をという決心は少なくともこのときの明日香に
対しては間違っていないようで、明日香は一瞬びくっとして体を跳ねるようにしたけど、
僕の手を拒否したりはしなかった。
タイミング的には最悪だったけど、さっきまで明日香に見せていた携帯がマナーモード
になっていなかったせいで、明日香の胸を触りだしたそのときに着信音が鳴った。
こういうことに邪魔が入るのは二度目だった。
再び邪魔された明日香は不機嫌そうな表情だったけど、こいつらしく僕に抱きついた姿
勢だけは維持していた。そのことが僕には照れくさかった。興奮していた僕は携帯を無視
しようとしたけど、思っていたより冷静だったらしい明日香はディスプレイを見て、僕の
腕から抜け出した。
僕の腕から抜け出した明日香が勝手に僕の携帯を操作してメールを見ている。
「何で当たり前のように僕あてのメールを見てるんだよ」
僕はまだ興奮の余韻を残しながら言った。
「やましいことがないならいいいでしょ・・・・・・これ、玲子叔母さんの返信だし」
僕は明日香の手から携帯を奪い返すようにして叔母さんからのメールを読んだ。
from :玲子
sub :Re:無題
本文『いつでもいいよ。てか大切な話って何だよ。メールじゃ駄目なの?』
『まあ、仕事の合間とかでいいなら時間は取れるよ。今週中にそっち方面に行くことがあ
るからそんときに電話するよ』
『じゃあおやすみ、奈緒人』
『あとあんた何であたしに謝っているの?』
「ほら見ろ」
僕はほっとして言った。「叔母さんは全然僕のことなんか気にしてないじゃないか」
「そうだねえ」
明日香が疑り深そうに叔母さんからのメールを見た。「叔母さんはお兄ちゃんのことは
何とも思っていないのかな」
「だからそう言ったろ」
「そうなのかなあ・・・・・・て、え? お兄ちゃん」
再び僕に抱き寄せられていきなり自分の胸を愛撫された明日香が戸惑ったように言った。
「続きしようか」
正直に言うと僕の方も今では玲子叔母さんのメールどころではなかった。
「・・・・・・うん」
明日香はもう僕にキモオタとか変態とか言わずに僕の手に自分の身を任せた。
次の土曜日の午後、僕は明日香の了解をもらって奈緒をピアノ教室まで迎えに行った。
奈緒に僕が明日香と付き合い出したことを伝えるためということもあったけど、最後に話
したときに、奈緒からピアノ教室に迎えに来るように言われていたということもあった。
平日、明日香に付き添って学校を休んでいる間、僕は何回か奈緒にメールしたり電話し
たりしたのだけどメールの方には返事がないし、何度もかけた電話の方は通じない。結局、
金曜日の夜になるまで奈緒からは何の連絡もなかった。
それで僕はとりあえず土曜日は約束どおり奈緒を迎えに行くことに決めた。明日香は僕
が自分を置いて奈緒に会いに行くことには反対しなかった。奈緒への伝え方は僕に任せる
と言っていたということもあったかもしれないけど、体を重ねてからというものの、あれ
だけ嫉妬深かった明日香はもうあまり奈緒や玲子叔母さんに対しても嫉妬めいたことを口
にしなくなったのだった。
その代わり明日香は今まで以上にいつも僕の側にいるようになった。
これまでだって大概ベタベタしていた方だと思うけど、そんなものでは済まないくらい
に。極端な話トイレと風呂以外はいつも一緒にいる感じだ。その風呂だって昨日までは僕
が体を拭いていたのだったから、実質的には常に隣に明日香がいたことになる。
心理学上、愛撫、慰め、保護の意識を持つとされる距離感である密接距離のままで。
同時に明日香はやたら甲斐甲斐しくもなった。食事の用意から何から何までも。僕が休
んで家にいたのは明日香の世話を見るためだったからさすがにこれには困った。体調だっ
て完全に回復しているわけではないのだ。
「おまえは座ってろよ。食事なんか僕が作るから」
僕は彼女にそう言ったのだけど明日香は妙に女っぽい表情ではにかむように笑って言っ
た。
「いいからお兄ちゃんこそ座ってて。こういうのは女の役目なんだから」
こういう言葉を明日香の口から聞くとは思わなかったけど、それは決して不快な感じで
はなかった。
「でもおまえ体は・・・・・・」
「もう全然平気だよ。でも良くなったってママに言ったら学校に行かなきゃいけないし、
お兄ちゃんと一緒にいられないから」
「ちょっと・・・・・・包丁持ってるのに」
明日香は文句を言いながらも後ろから抱きしめた僕の手を振り払わずに、包丁を置いて
振り向いた。
「続きはご飯食べた後にしよ?」
結構長めのキスの後で明日香が顔を紅潮させながら上目遣いに言った。
出がけに明日香の行ってらっしゃいのキスが思わず長びいたこともあって、到着してそ
れほど待つことなく、ピアノ教室の建物から生徒たちが次々と出てきた。妹を迎えに来
ているんだから恥かしがることはないと思った僕は比較的入り口に近いところで奈緒が出
てくるのを待っていた。これだけ近ければ見落とす心配はない。
このときの僕は全くの平常心というわけでもなかったけど、それほど緊張しているわけ
でもなかった。奈緒の兄貴だということを知られてしまった今では、僕に彼女ができたと
いうことを奈緒に話すことに対してはあまり抵抗感を感じないようになっていた。
奈緒はあのとき僕が離れ離れになっていた兄貴であることを自然に受け入れた。初めて
の彼氏を失うことよりつらい別れをした後も、一筋に兄のことを忘れなかった奈緒なのだ
からそういうこともあるだろう。その後の奈緒は、僕と恋人同士であった頃よりも自然な
態度と言葉遣いで僕を慕ってくれた。
むしろ悩んで混乱していたのは僕の方だった。奈緒が僕のことを兄であると認めてくれ
た事実にさえ嫉妬した挙句、自分の妹に欲情する気持まで持て余して。でもそれももう終
わりだった。今の僕には明日香しか見えていない。明日香の言うとおり僕と明日香は結ば
れる運命だったのかもしれない。大袈裟に聞こえるかもしれないけど、血の繋がっていな
い男女としてはお互い他の誰よりも長い間身近に暮らしてきた仲なのだ。行き違いや誤解
もあったけどそれを克服して結ばれた間柄のだから、僕はもう明日香を自分から手放す気
はなかった。明日香のいうとおりこのまま付き合って将来は結婚しよう。そして父さんと
母さんがいる家で共に過ごすのだ。子どもだってできるだろうし。
そんな物思いに耽っていても目の方は奈緒が通り過ぎてしまわないか入り口の方を眺め
ていたのだけど、なかなか奈緒は出てこなかった。いつもより遅いなと思った僕が奈緒の
ことを見落としたんじゃないかと思って少し慌てだしたとき、見知った顔の少女が教室か
ら出てきた。その子は外に出るとすぐに僕のことに気が付いたようだった。
それは有希だった。有希は慌てた様子もなくにっこり笑って僕の方に駆け寄ってきた。
「奈緒人さん、こんにちは」
「有希さん・・・・・・どうも」
有希は全く最後に会ったときのことを気にしていない様子だ。
「もしかして奈緒ちゃんのお迎え?」
「うん」
ここで嘘を言う理由はなかったから僕は正直にうなづいた。
「聞いてないんですか? 奈緒ちゃんは今週はずっとインフルエンザで自宅療養してます
よ。今日もピアノのレッスンは休んでるし」
それこそ初耳だった。
「知らなかった」
「電話とかメールとかしてないの?」
「したけど返事がなくて」
有希が少し真面目な顔になって僕に言った。
「奈緒人さん、これから少し時間あります?」
このとき僕の脳裏に平井さんが口にした女帝と言う言葉が浮かんだ。
駅前のファミレスは、以前僕と奈緒が初めて一緒に食事をしたときの場所だった。
僕たちはボックス席に納まってオーダーを済ませた。昼食をして行こうということにな
ったのだけど、冬休みのときのように一枚のピザを僕と有希で分け合うということはなか
った。僕たちは言葉少なくそれぞれに注文を済ませた。今日は昼食を食べながら奈緒と話
をするつもりだったから多少は遅くなっても明日香が心配することもない。
「ごめんなさい」
オーダーが済むとすぐに有希がしおらしい声で僕に頭を下げた。一瞬僕は有希が明日香
が襲われたことを謝ろうとしているのかと思って身構えた。でもそういうことではないら
しい。
「奈緒ちゃんから全部聞きました。奈緒人さんは昔離れ離れになった奈緒ちゃんのお兄さ
んだったって」
では奈緒はそれを有希に話したのだ。
「あたしそんな家庭の複雑な事情とか考えずに奈緒人さんのこと一方的に責めちゃって。
本当にごめんなさい」
「いや。奈緒のことを心配してくれて言ってくれたんだろうし謝るようなことじゃない
よ」
依然として女帝疑惑は振り払えていないものの、この件に関しては彼女には非はない。
それに有希が明日香を襲わせたという推論に関しても全く証拠のない話なのだ。
「奈緒人さんは奈緒が妹だって気づいていたんですね。それで奈緒ちゃんがそのことで傷
付かないように距離を置こうとしていたのね」
有希がずいぶんと感激したように目を潤ませて僕を見つめていた。
「・・・・・・奈緒にはつらい想いをさせたかもしれないけど。まだしも振ってあげた方がいい
かと思って」
「奈緒人さんの気持ちはわかるし、妹思いのいいお兄さんだと思う」
有希が言った。「でも結果としてはそんな心配はいらなかったようですね」
「うんそうなんだ。でも奈緒はそこまで君に話したの?」
「あたしと奈緒ちゃんは親友ですから」
有希は少しだけ笑った。「奈緒ちゃんはすごく喜んでました。昔からずっと会いたかっ
た大好きなお兄ちゃんとやっと会えたって。別れてからも毎日ずっと奈緒人さんのことを
考えてたんだって」
「そうだね。僕もああいう別れ方をした妹と再会できて嬉しかったよ」
「だからごめんなさい。何も知らずにあんな偉そうで嫌な態度を奈緒人さんにしてしまっ
て」
有希はそう言ったけどその後再び体勢を整えるように深く息を吸った。
「でも明日香には謝りません」
明日香は女帝である自分がが明日香を襲うように指示したことを明かして、そしてその
命令には後悔していないと言っているのだろうか。僕は一瞬凍りついた。
「あたしは奈緒人さんのことが好き。その気持ちが明日香にばれたとき、奈緒ちゃんには
すごく罪の意識を感じたんです。でもそんなあたしの奈緒人さんへの想いを明日香は利用
した」
「ちょっと待って。そうじゃないんだ」
「実の兄妹だと思って完全に油断してました。あのときは明日香は自分が奈緒人さんと血
が繋がっていないことを知っていて、そして奈緒ちゃんが奈緒人さんの本当の妹であるこ
とを知ってたんでしょ?」
「それは・・・・・・そうだけど」
「じゃあ明日香は奈緒ちゃんから奈緒人さんの気持ちを覚めさせるために、とりあえず奈
緒人さんが好きだったあたしの気持ちを利用したのね」
それは違うと言いたかったけど、そこだけ切り抜くと困ったことに有希の推理は間違っ
ていないのだ。明日香の本当の目的は僕を救うことだった。でもそのためにいろいろと本
来なら取るべきでない手段を明日香が取ってしまったも事実だった。
それでも僕は明日香を、自分の彼女を弁護しようと試みた。僕はもう全部を有希にさら
け出すことにした。そうしたって有希が明日香に都合よく利用されたという事実は変わら
ないということはわかっていたのだけど。
「明日香は僕が奈緒が自分の妹だって気がついて、それで僕が悩み傷付くことを恐れて、
奈緒から僕の気持ちを引き剥がそうとしたんだ。決して奈緒と別れさせた僕を自分の彼氏
にしたかったからじゃないよ」
有希は少し考え込んだけどそれでも納得した様子はなかった。
「それが事実だとしても二つ疑問があるよね」
「・・・・・・うん」
「まず一つ目は奈緒人さんを傷つけないためならあたしを傷つけても、奈緒ちゃんが悩ん
でも構わないのかということ。目的が正しければどんな手段を取ってもいいの?」
僕は答えられなかった。明日香がしたことはまさにそういうことだったから。まともな
答えなんか期待していないのか、黙り込んだ僕には構わず有希は冷静な表情で続けた。
「もう一つは・・・・・・。あのとき明日香は明らかに奈緒人さんに告白してたよね? あたし
は奈緒人さんと明日香が本当の兄妹だと思っていたから、あのときは自分が明日香に利用
されたんだって思って悲しかった気持ち以上に、実の兄を異性として愛するなんて気持悪
いって思ったのだけど」
この話の行き先がだんだんと見えてきた。行き着く先は芳しくないところなのだけど、
もともと有希にはそのことをいずれは話すつもりだったのだ。僕は覚悟した。
「奈緒人さんが明日香の本当の兄じゃないなら、お二人は付き合おうと思えば付き合える
んだよね」
「うん」
「明日香の気持ちに応えたの?」
僕はゆっくりとうなずいた。
「うん。明日香と付き合うことになった」
「ほらね」
有希が小さく笑って言った。
「兄貴思いの妹の行動だったって言いたいみたいだけど、結局明日香は望んでいたものを
手に入れてるんじゃない」
結果としてはそうなる。それは否定できない事実だった。
「あのときあたし、明日香にとって都合のいい話だって言ったけど結局そのとおりだった
わけね」
「でも、明日香だって最初は純粋に僕を救うつもりだったんだ。途中で僕のことを好きに
なったのは事実だと思うけど・・・・・・」
僕の言葉は途中で途切れた。さっきまで笑っていた有希の目に涙が浮かんでいることに
気がついたからだ。
「あたしは奈緒人さんが好きだった。ちょっとしか会っていないのにおかしいかもしれな
いけど。でも明日香の言うとおり万が一奈緒人さんがあたしのことを気にしてくれていた
としても、あたしは奈緒人さんと付き合う気はなかったの。奈緒ちゃんを傷つけたくなか
ったから」
それは以前にも二人で大晦日の買出しに出かけたとき聞いていた話だった。
「今では奈緒ちゃんは奈緒人さんのことを再会できた大切なお兄さんだと思っているから、
本当はあたしにもチャンスだったのにね」
有希は涙を浮べたまま再び微笑んだ。
「でも今では明日香が奈緒人さんの隣に座ってるんだね」
「ごめん」
こんな間抜な返事しか口を出てこなかった。
「奈緒人さんのことは恨んでないよ。逆にあたしが謝らなければいけないの。でも明日香
は・・・・・・」
「有希さん」
有希は俯いた。彼女が明日香を許す気がないことは明白だった。やがて彼女は顔を上げた。
「今日はもう帰る」
「うん」
僕には他にかける言葉が思いつかなかった。最後に有希は涙をそっと片手で払いながら
意味深なことを言った。
「明日香のそういう手段を選ばないやり方が、奈緒ちゃんには向けられていないといい
ね」
どういう意味かを聞き返す暇もなく彼女はもう後ろを振り向かず、僕を残してファミレ
スを出て行ってしまった。
有希が去っていった後、目の前には手をつけてさえいない料理がテーブルの上に並んで
いた。もったいないし店の人にも変に思われるかもしれない。僕は自分の目の前に置かれ
た冷めたパスタを一口だけ口にしたけどすぐに諦めた。
今日はここまで
また投下します
有希の言うとおりだった。明日香は有希の恋心を僕から奈緒を離すために利用したのだ。
そのときの明日香は僕に対して恋心なんて感じていなかったはずだから、有希を利用した
といってもそれは有希が僕と付き合うようになってもいいと考えての行動だったろう。つ
まりある意味では有希を応援したとも言える。でも結果がこうなってしまえば今さら何を
言っても有希は納得しないだろう。僕と明日香は結ばれたのだ。決して明日香の仕掛けた
手段によって成就した関係ではない。それでも有希の視点から見れば明日香の一人勝だと
いうふうに思われても無理はない。
僕はもう半ば有希と明日香を仲直りさせることは諦めていた。それに有希には女帝疑惑
がある。本当に有希が中学生離れした恐い女なのかどうかは定かではないけど、明日香の
身の安全を考えると危険は冒せない。そう考えると有希が明日香と仲直りせずこのまま疎
遠になった方が明日香にとっては安全なのかもしれなかった。
そう考えると奈緒に会いに来た僕は当初の目的を果たせなかったのだけど、有希に対し
ては期せずしてできることはしたような気がしてきた。有希に謝罪し、でも女帝かもしれ
ない有希と明日香をこれ以上関らせないこと。明日香が有希に直接謝罪すると言ったとき、
僕は彼女を止めた。そして一応はそのとき僕が考えていたことは達成できたのだ。
そのとき有希が最後に言い捨てて言った言葉が胸に浮かんだ。
「明日香のそういう手段を選ばないやり方が、奈緒ちゃんには向けられていないといい
ね」
僕と奈緒を別れさせようとしていた明日香は取れる手段は全て動員しただろう。そのこ
と自体には感謝していた僕だけど有希の言葉を聞くと胸騒ぎを感じた。手段を選ばないと
いうことは、当時の明日香なら奈緒に対しても何らかの手を打っていたかもしれない。そ
してそれが奈緒を直接的に傷つけるようなことだとしたら。
でも。
僕と明日香は結ばれたのだし、もう明日香には僕への隠しごとはないだろう。それに明
日香は奈緒のことを奈緒ちゃんと呼び出したのだ。奈緒が僕の大事な妹だと正しく認識し
たからだろう。その明日香が奈緒にひどいことを仕掛けているはずはない。自分の彼女を
信じよう。明日香はこれまでのところ、有希の件も含めて全てを僕に正直に話してくれて
いた。奈緒の件は有希の思い過ごしか嫌がらせなのだ。
僕は席を立って勘定を済ませた。インフルエンザになったという奈緒のことも心配だけ
どさすがに命に別状はないだろう。それよりも明日香のところに帰ろう。きっと明日香も
僕の戻りが遅いと心配するだろう。僕はファミレスを出ると足を早めてできたての恋人の
元に急いで戻ろうとした。
奈緒人は昔から内向的性格の子だった少なくとも結城さんが再婚したあたりからは。結
城さんと姉さんとの新しい家庭に迎え入れられた奈緒人はそのことに喜んでいる様子はな
かった。それまでずっと寄り添ってほぼ二人きりで一緒に暮らしてきた奈緒ちゃんとの別
れは、奈緒人にとっては新しい母親や妹で代替できるようなものではなかったのだろう。
当時の奈緒人は母親に放置されていても失わなかった、生まれつきの明るさを全く外に表
わさないようになってしまっていた。それだけ奈緒ちゃんとの強制的な別れがショックだ
ったのだ。
結城さんと姉さんはそんな抜け殻のような奈緒人に優しく接していた。一見、奈緒人も
奈緒ちゃんのことを口にするでもなく、それに応えているようだった。当時、仕事で多忙
な姉さんにかわって二人の面倒を看ていたあたしが見ても、当時の奈緒人には奇妙な落ち
着きがあった。奈緒ちゃんのいない今の生活に満足していたはずはない彼は、両親にもあ
たしにも奈緒ちゃんが不在であることに対する不満を一切口にしなかったのだ。
まるで奈緒ちゃんに関する記憶だけが失われたかのように。
その奈緒人の行動には二つの側面が会ったと思う。一つは精神病理学的な側面だ。あた
しは奈緒ちゃんのことを一言も口に出さない奈緒人は、自分の妹や実の母の記憶を失って
いるのではないかと考えていた。それは昨年結城さんと姉さんが子どもたちに事実を打ち
明けたときの奈緒人のショックで証明されたと思う。
解離性障害。そのうち奈緒人に当てはまるのは解離性健忘という症例だった。
あたしはそのことを以前に少しだけ奈緒人に話したことがあった。あのときの奈緒人は
混乱していたしはっきりとは覚えていなかったんじゃないかと思うけど。それは人間の心
の自己防衛機能のひとつだ。例えばレイプされた女の子はその衝撃的な事実から自分を守
るためにそのときの記憶を全く失ってしまう。普通なら障害トラウマになりPTSDを発
症するような出来事だけど、本人には全くその記憶がないので傷付くことすら生じない。
奈緒人の実の母親にネグレクトされた記憶や奈緒ちゃんとの別れの記憶もきっとそういう
ことになっていたのではないか。
もう一つは奈緒人の性格上の問題だった。自己防衛的な反応によって辛い記憶を失って
いた奈緒人だけど、彼にとって、辛い環境は新しい家族と暮らすようになっても続いてい
た。それは明日香の、奈緒人に向けられた極端な敵意だった。あたしは明日香の行動を逐
一結城さんから聞かされていた。結城さんはどういうわけかあたしが奈緒人の一番の理解
者で味方だと信じていたから、姉さんでさえあたしには話さないようなことでも隠し立て
せず話をしてくれたのだ。多分、このときのあたしは、結城さんにとって離婚した奥さん
に代わって奈緒人の母親役を務めていた妹の唯さんに代わった、第三の奈緒人の母親だっ
たのかもしれない。
「最近、明日香が奈緒人のことを嫌っているんだよね」
結城さんはあるとき姉さんが不在の自宅で、明日香と奈緒人の夕食の支度をしに来てい
たあたしに言ったことがあった。二階にいる子どもたちに聞かれないようにひそひそ声で。
結城さんの声がよく聞き取れなかったあたしは、しかたなく結城さんの体に密着するよう
にしながら話を聞き取らなければいけなかった。それはまだ結城さんへの成就しない恋心
を抱いてたあたしには辛いことだった。
「明日香の言うには奈緒人が明日香の着替えを覗こうとするとか、自分の体を嫌らしい目
で見るとか、何気なく触ろうとするとか、まあそういうことを奈緒人が自分にしてくるっ
て明日香は言うんだ」
「姉さんは知っているの?」
あたしは結城さんの側にいることから生じていた胸の高鳴りを押さえつけながら冷静に
聞こえるように結城さんに聞いた。
「ああ。あいつは年頃の男の子ならそいうことがあっても不思議じゃないって言ってるよ。
何も本気で明日香に手を出そうとするわけがないし、むしろ明日香の思い過ごしだって。
玲子ちゃんはどう思う?」
クラッシク音楽雑誌の業界では名前の知れた結城さんがこんなことでうろたえているの
を見て、あたしは彼のことを可愛らしく感じた。胸のどきどきも収まってきていたし。
「どう思うも何も悪いのは全部明日香だよ」
あたしははっきりと言った。「わざわざ自分の部屋のドアを開けて見せ付けるように着
替えたり、シャワーの後に下着姿で奈緒人君の前をうろうろしたりしているのは明日香の
方じゃない」
「じゃあ何で明日香は一々奈緒人のことを僕たちに言いつけるようなことをするのかな」
「明日香も可哀そうなんだよ。姉さんが世話できなくてあたしが育てたみたいなものだし。
やっとできたちゃんとしたパパとママのことを奈緒人に取られそうで恐いんでしょ」
誰が見たってそう見える。それと明日香自身は気づいていないかもしれないけど、自分
と本気で親しくしてくれない奈緒人への苛立ちもあるのだろう。そしてそれは奈緒ちゃん
への嫉妬心かもしれなかった。
明日香にはかなり古い時点から記憶が残っていた。あの夏の日の公園での奈緒人と奈緒
ちゃんとの出会い以降の記憶すら、明日香には思い出という形で自分の中に保存されてい
たのだった。負けず嫌いの明日香が奈緒人の自分に無関心な態度を見て、奈緒ちゃんに負
けているという感情を抱いていたとしても不思議ではない。要するに明日香の行動原理は
嫉妬なのだ。両親に対してにせよ奈緒ちゃんに対してにせよ。そのことを自分で気づいて
いるのかどうかに関らず。
あたしはそのことを結城さんに説明した。
「明日香が本当に異性として奈緒人のことを好きならこんな嬉しいことはないけどね」
結城さんは言った。
「兄妹なのに?」
「実の兄妹じゃないし、あいつもそうなることを望んでるんだ」
どうやら結城さんと姉さんは本気でこの兄妹が男女の仲になることを期待しているらし
い。
「そうすればもううちの家庭はいつまでも一緒にいられるしね」
結城さんは言った。
「随分単純に考えているのね」
「僕たちは別れと出会いを繰り返してきたからね。それでもようやく結ばれるべき相手と
結ばれたんだ、せめて子どもたちには同じ想いをして欲しくないだけだよ」
「奈緒人君は優しいからなあ」
「え?」
戸惑った様子の結城さんにあたしは言った。
「奈緒人君は何でも自分の中に溜め込んで自己解決しようとするから。仮に明日香が奈緒
人君への態度を改めて奈緒人君に告白したら、彼は断らないだろうね。明日香の気持ちや
結城さんたちの意向を考えちゃってさ」
結城さんが考え込んだ。
「玲子ちゃん、頼む」
いきなり頭を下げた結城さんの態度にあたしはとまどった。
「頼むって何よ。結城さん何言ってるの」
「迷惑かけっぱなしだけど、頼む。奈緒人のことを見てやってください」
「言われなくてもそうするよ。奈緒人君はあたしの大事な甥っ子、いやそうじゃないね。
あたしの大事な息子みたいなもんだし」
・・・・・・結城さん。あなたの息子ならあたしの大事な子どもなの。あたしはそのときそう
呟いたのだ。ただし、心の中でだけひっそりと。結城さんの話はそこで終った。明日香が
階下に下りてきて結城さんに抱きついて甘え出したからだ。
自宅のドアを開けると目の前に明日香が立っていたので僕は驚いた。
「明日香、おまえこんなとこで何やってんだよ」
明日香はそれには答えずに僕に抱きついた。
「おい」
「最近のあたしの勘って結構当たるんだよ」
明日香が僕の胸に自分の顔を押し付けるようにしながら言った。
「・・・・・・ひょっとしてずっと待ってたの?」
「だから勘だって。お兄ちゃんのことなんかこんなとこでずっと待ってるはずないじゃ
ん・・・・・・って、あ」
僕に抱き寄せられた明日香が真っ赤になった。
僕は明日香と抱き合いながらもつれ合うようにソファに倒れこんだ。
「やめてよ、お兄ちゃん乱暴だよ。こら無理矢理はよせ」
明日香が少しだけ笑って言った。僕はこのとき明日香をソファに押し倒したままの姿勢
で言った。
「有希さんと話をしてきた」
「・・・・・・え?」
明日香がふざけながら僕に抵抗していた体を凍らせた。「奈緒ちゃんにじゃなくて?」
「奈緒はレッスンを休んでたんだ。それで有希さんと話をした」
「そうか」
明日香が僕の体から離れて身を起こした。
「有希、怒ってた?」
「うん」
有希の反応は疑問の余地のないものだった。あれでは誤魔化しようがない。
「そうか・・・・・・」
「おまえと僕が付き合い出したことを聞いてさ。有希さんは自分がおまえに利用されたっ
て思っている。つまりおまえが僕と奈緒を別れさせるために自分の気持を利用したんだっ
て」
「・・・・・・あたし、あのときは本当に有希がお兄ちゃんと付き合ってくれればって思って」
「うん。おまえが僕のことを心配して奈緒と別れさせようとしていたことはわかってる。
でも結果的におまえと僕は付き合っちゃったから、有希さんは素直にはそのことを受け取
れなくなってるんだよ」
「・・・・・・うん」
明日香はさっきまでの元気を失って俯いてしまった。
「気にするなとは言えないけど」
僕は明日香の肩を引き寄せて言った。
「でももう仕方ないよ。おまえはやっぱり有希さんには悪いことしたんだよ」
僕は明日香の涙を指で払った。明日香が僕の方を見た。
「それでも僕だけはわかってるから。ずっと一緒にいるんだろ? 有希さんの怒りも何も
かも僕が引き受けるよ」
「お兄ちゃん」
「だからおまえはもう悩むな。僕が全部引き受けるから」
「いいの? あたし本当にお兄ちゃんに全部頼っていいの」
「うん。僕はおまえの兄貴で彼氏なんだからさ・・・・・・って、え?」
明日香が僕に抱きついて僕の唇を塞いだのだ。
口を離しても明日香は僕から離れようとしなかった。もうこれでいいのだ。これでもう
何度目かわからないけど明日香を大切に思う気持ちが僕の中に溢れた。明日香の取った行
動は間違っているにせよその動機は僕のためだ。
「前にも言ったけど、おまえはもっと僕を頼れって。まああまり頼りにならないかもしれ
ないけどさ」
明日香は何も言わずに子どものように僕に頭を擦り付けているだけだった。僕は黙って
明日香の華奢な体を抱きしめた。
第三部
僕が初めて彼女に出会ったのは大学のサークルの新歓コンパの席上だった。その年サー
クルに入会した新入生たちは男も女もどちらも子どもっぽい感じがした。多分一年生のと
きは僕も同じように見えたのだろうけど。その中で彼女だけはひどく大人びていてクール
な印象を受けた。見た目が綺麗だったせいか、彼女は上級生の男たちに入れ替わり話しか
けられていた。その年の新入生の女の子の中では彼女は一番人気だった。その子が気にな
った僕はしばらく彼女の方をじっと見て観察していた。
彼女はこだわりなく笑顔で先輩たちに応えていたけど、その態度は非常に落ち着いたも
のだった。どうにかすると年下の男たちを年上の女性がいなしているような印象すら受け
た。彼女が綺麗だったことは確かだったから、僕も彼女に自己紹介したいなとぼんやりと
会場の隅の席で一人で酒を飲みながら考えていた。そういう意味では僕も新入生の彼女に
群がる上級生たちと考えていることは一緒だった。でも彼女の側からは一向に話しかける
連中がいなくならないし、その群れに割り込むのも自分のプライドが邪魔していたので僕
は半ば諦めて同じ二回生の知り合いの女の子と世間話をする方を選んだ。
「結城君も彼女のこと気になるの?」
しばらく僕は知り合いの子の隣でその子から彼氏の愚痴を聞かされていたのだけど、そ
のうち僕が自分の話をいい加減に聞き流していることに気がついて彼女がからかうように
言った。
「別にそうじゃないけど。彼女、大人気だなって思って」
「あの子、綺麗だもんね。夏目さんって言うんだって」
僕の隣で知り合いの子がからかうように笑って言った。気になっていた子の話題になっ
たせいか僕は再び離れたテーブルにいる彼女の方を眺めた。そのとき、ふと顔を上げて周
囲を見回した新入生の彼女と僕の目が合った。彼女は戸惑う様子もなく落ち着いて僕に軽
く会釈した。新入生が誰に向かってあいさつしているのか気になったのだろう。彼女を取
り巻いていた男たちの視線も僕の方に向けられたため、僕は慌てて彼女から目を逸らして
何もなかったように隣の子の方に視線を戻した。それで、僕は結局新入生の彼女のあいさ
つを無視した形になった。
「結城君らしくないじゃん。新入生にあいさつされて照れて慌てるなんて」
彼女が僕をからかった。
「放っておいてくれ」
僕はふざけているような軽い調子で答えたけど、心の中では自分の今の不様た態度が気
になっていた。あれでは新入生の彼女の僕への印象は最悪だったろう。まあでもそれでい
いのかもしれない。あんなやつらみたいに新入生の女の子に媚を売るようにしながら彼女
の隣にへばりつくよりも。みっともない真似をしなくてよかった。僕はそう思い込むこと
にした。
次に僕が彼女に出合ったのは、階段教室で一般教養の美術史の講義に出席していたとき
だった。その講義は出席票に名前を書いて提出し課題のレポートさえ提出してさえいれば、
その出来や講義時の態度に関わらず単位が取れると評判だったので広い階段教室は一二年
の学生で溢れていた。美術になんかに興味はない僕はさっさと出席票を書いて教室の後ろ
の出口から姿を消そうと考えていた。講義が始まってしばらくすると出席票が僕の座って
いる列に回ってきた。自分の名前を出席票に書いて隣に座っている女の子に回して、僕は
そのまま席を立とうとした。そのとき、僕は彼女に声をかけられた。
「こんにちは結城先輩」
出席票を受け取った隣の女の子はサークルの新入生の夏目さんだったのだ。驚いて大声
を出すところだったけど今は講義中だった。僕はとりあえず席に座りなおした。
「ごめんなさい、わからないですよね。サークルの新歓コンパで先輩を見かけました。一
年の夏目といいます」
講義中なので声をひそめるように彼女が言った。
「知ってるよ。あそこで見かけたし・・・・・・でも何で僕の名前を?」
「先輩に教えてもらいました」
彼女は出席票に女性らしい綺麗な字で自分の名前を記入しながらあっさりと言った。僕
はその署名を眺めた。夏目 麻季というのが彼女の名前だった。彼女は出席票を隣の学生
に渡すともう話は終ったとでもいうように美術史のテキストに目を落としてしまった。
「じゃあ」
彼女に無視された形となった僕はつぶやくような小さな声で講義に集中しだした彼女に
声をかけて席を立った。もう返事はないだろうと思っていた僕にとって意外なことに、夏
目さんがテキストから顔を上げて怪訝そうに僕を見上げた。
「講義聞かないんですか?」
「うん。出席も取ったしお腹も空いたし、サボって学食行くわ」
夏目さんはそれを聞いて小さく笑った。
「結城先輩ってもっと真面目な人かと思ってました」
「・・・・・・そんなことないよ」
僕は思わず夏目さんの眩しい笑顔に見とれてしまった。中途半端に立ったままで。
「でも先輩格好いいですね。年上の男の人の余裕を感じます」
彼女がどこまで真面目に言っているのか僕にはわからなかったけど、彼女の言葉は何か
を僕に期待させ、そしてひどく落ち着かない気分にさせた。
「じゃあ、失礼します」
くすっと笑って再び夏目さんはテキストに視線を落としてしまった。
気になる新入生から話しかけられる。それも僕の名前を知っていたというサプライズの
せいで、それからしばらくは僕の脳裏から彼女のことが離れなかった。何で僕の名前を知
りたがったのか、何で僕に話しかけたのか、何で僕のことを格好いいと言ったのか。悩み
は尽きなかった。多分僕は彼女のことが気になっていたのだ。それも恋愛的な意味で。
彼女への思いが次第に募っていくことは感じてはいたけれど、それからしばらく彼女と
話をする機会はなかった。キャンパス内で友人たちと一緒にいる彼女を見かけることは何
度かあったけど、彼女が僕にあいさつしたり話しかけたりすることはなかった。
ひょっとしたらもう二度と夏目さんと会話することはないかもしれない。そう思うと残
念なような寂しいような感慨が胸に浮かんだけど、僕はすぐにその思いを心の中で打ち消
した。僕と彼女では釣りあわないし、きっと縁もなかったのだろう。そう考えれば夏目さ
んに対する未練のような感情は薄れていった。彼女は僕の人生でほんの一瞬だけ触れ合っ
ただけなのだろう。これ以上夏目さんのことを深く考えるのはやめようと僕は思った。
それにこの頃僕は偶然に幼馴染の女の子とキャンパス内で再会していた。同じ大学の同
じ学年だったのに今までお互いに一向に気がつかなかったのだ。
「結城君」
自分の名前を背後で呼ばれた僕が振り返ると懐かしい女の子が泣いているような笑って
いるような表情で立ちすくんでいた。
「・・・・・・もしかして理恵ちゃん? 神山さんちの」
「うん。博人君でしょ。わぁー、すごい偶然だね。同じ大学だったんだ」
「久し振りだね」
中学二年生のときに僕は引っ越しをした。それで幼稚園の頃からお隣同士だった理恵と
はお別れだったのだ。あのとき涙さえ見せずに強がって笑っていた彼女との再会はいった
い何年ぶりだっただろう。僕に声をかけたときい理恵はびっくりしたような表情だった。
そして僕がほんとうにかつての幼馴染だとわかったとき、どういうわけか理恵は少しだけ
目を潤ませたのだった。久し振りに会った理恵に対して懐かしいという思いは確かにあっ
た。でもそれ以上に理恵に対しては再会というよりは自分好みの女の子にようやく出会っ
たという気持ちの方が大きかったかもしれない。気が多い男の典型のようだけど、理恵と
再会した僕は夏目さんのことを忘れ理恵のことを思わずじっと見つめてしまった。
「な、何」
僕の無遠慮な視線に気がついた利恵が顔を赤くして口ごもった。そのときは僕たちはお
互いの家族の消息を交換して別れただけだったけど、僕の脳裏には夏目さんの表情が薄れ
ていって代わりに理恵の姿が占めるようになっていったのだ。
その後、再会してからの理恵は僕と出会うと一緒にいた友だちを放って僕の方に駆け寄
って来るようになった。そして僕の腕に片手を掛けて僕に笑いかけた。
「博人君」
「な、何」
突然片腕を掴まれた僕は驚いて理恵の顔を見る。周囲にいた学生たちがからかうような
羨望のような視線を僕に向ける。
「別に何でもない・・・・・・呼んだだけだよ」
理恵は笑って僕の腕を離して友だちの方に戻って行く。僕に向かって片手をひらひらと
胸の前で振りながら。
この頃になると僕の意識の中では物怖じしない明るい女の子として理恵に密かに恋する
ようになっていた。理恵の僕に対する態度も積極的としか思えなかったので、僕は久し振
りに再会した幼馴染に対する自分の恋はひょっとしたら近いうちに報われるのではないか
と思い始めていた。つまり一言で言うと僕は理恵に夢中になっていたのだ。なので一瞬だ
け気になった夏目さんと疎遠になったことを思い出すことはだんだんと無くなっていった。
僕と理恵はお互いに愛を告白したわけではなかったけど、次第にキャンパス内で一緒に
過ごす時間が増えてきた。付き合ってるんだろとかって友人に言われることも多くなって
いた。そろそろ勇気を出して理恵に告白しよう。僕がそう考え出していたときのことだっ
た。
その日もいつもと同じような一日の始まりだろうと思っていたのだ。自分の狭いアパー
トで身支度を済ませた僕がアパートを出たとき、アパートのドアの前に女の子が立ってい
た。僕は一瞬目を疑った。外出して講義に行こうとした僕の目の前にいたのは夏目さん、
夏目麻季だったのだ
「おはようございます、先輩」
彼女は微笑んで言った。
「・・・・・・夏目さん? どうしているの」
そのときはそう言うのが精一杯だった。そこに恥かしげに微笑んでいる理恵がいるのな
らまだ理解できた。その頃の僕は理恵に惹かれ出していたし、思い切り恥かしい勘違いを
しているのでなければ理恵も僕のことを気にはなっていたはずだから。でも目の前にいた
のは夏目さんだった。いったいどうしてここに彼女がいるのだ。
「サークルの先輩に結城先輩のアパートの住所を聞きました」
「いや・・・・・・そうじゃなくて。ここで何してるの」
夏目さんはここで何をしているのだろう。僕には理解できなかった。とりあえずこの人
目の多すぎるアパートでする話じゃない。僕は夏目さんを促して駅前のカフェに彼女を誘
った。
「・・・・・・サークルで何かあったの」
人気のない奥の席に落ち着いてから僕は夏目さんに話しかけた。この頃になるとだいぶ
落ち着いてきた僕はサークルで何かが起こったのではないかと思いついたのだ。でもそう
言うことでもなかったみたいで、夏目さんは顔を横に振った。そして突然意表をついた質
問を僕に投げかけたのだ。
「先輩、神山先輩と付き合ってるんですか」
いったい何の話だ。というか何で彼女が理恵のことを知っているのだ。
「君は理恵、いや。神山さんのこと知ってるのか」
「知ってますよ。最近、先輩と仲良さそうに話している人は誰ですかって聞いたらサーク
ルの先輩が教えてくれました」
「・・・・・・何でそんなこと聞いたの」
夏目さんは少しだけ俯いたけどやがて意を決したように淡々と話し始めた。
彼女の話は僕の想像を超えていた。要するに夏目さんは、僕が自分のことを好きなので
はないかと考えたと言うのだった。そして自分のことを好きな僕が仲良さそうに理恵と話
しているのを目撃し、それがどういう意味なのかを聞きに来たそうだ。
「夏目さんさ、それいろいろおかしいでしょ」
僕はようやくそれだけ言うことが出来たけど、彼女はそれには答えずに言った。
「・・・・・・先輩、あたしのこと好きなんでしょ」
「何言ってるの」
「あたし、わかってた。最初に新歓コンパで合ったとき、先輩はあたしのことじっと見て
たでしょ」
「・・・・・・それだけが根拠なの」
「それだけじゃないですよ。美術史の講義で会ったときも先輩、じっとあたしのこと見つ
めていたでしょ」
自惚れるのもいい加減にしろ。いったい彼女は何様のつもりだ。腹の奥底から怒りが込
み上げてきた。
「君、正気か。酔ってるの?」
「酔ってませんよ。先輩こそ嘘つかないで。あたしがこんなに悩んでいるのに」
「あのさあ、確かに僕は君のことを見たよ。それは認める。君は綺麗だし。でもそれだけ
で君のことを好きとか決め付けられても困るよ。第一、僕は一言だって君のことが好きだ
とか付き合ってくれとか言ってないでしょ」
「生意気なようですけど先輩って自分に自信がなさそうだし、あたしのことを好きだけど
勇気がなくて告白できなかったんじゃないですか。あたし、ずっと先輩の告白を待ってた
のに」
おまえは何様だ。僕は怒りに振るえた。確かに彼女は目を引く容姿と落ち着いた行動を
取れるだけの知性を備えているのだろう。そして自分の容姿に自信もあるに違いない。そ
れはこの十分程度の会話からでも理解できた。だからといってこんな風に僕の気持ちを決
め付けていい理由にはならない。そのとき僕はふと思いついた。ひょっとしたらこれはも
てない男をからかうゲームなのだろうか。
「・・・・・・・もしかして君は誰かに何かの罰ゲームでもさせられてるの? そうだとしたら
巻き込まれる方は迷惑なんだけど」
「先輩こそいい加減にしてください」
夏目さんが怒ったように言った。何か彼女の様子がおかしい。
「罰ゲームって何よ。何であたしのことをからかうんですか? あたしのこと好きじゃな
いなら何であんな思わせぶりな態度をとるんですか」
自信たっぷりだと思っていた夏目さんが今度は泣き出したのだ。
「・・・・・・泣くなよ。わけわかんないよ」
「ひどいですよ。結城先輩、美術史の講義の日からあたしのことを無視するし。あたしの
こと嫌いならはっきり嫌いって言えばいいでしょ」
「あのさあ。僕が君のことを好きなんじゃないかと言ったり嫌いだと言ったり、さっきか
ら何を考えてるんだよ」
「何でわざとあたしの目の前で神山先輩といちゃいちゃするのよ」
夏目さんはついに声を荒げた。
「してないよ、そんなこと」
「あたしを悩ませて楽しんでいるの? 何であたしに思わせぶりな態度を取りながら神山
先輩との仲を見せつけるんですか。あたしを悩ませて楽しんでるんですか」
とうとう夏目さんは普通に喋れないくらいに泣き出してしまった。もうこのあたりで僕
は夏目さんとまともな話は出来ないと悟った。彼女は普通じゃない。確かに一時期は気に
なった女の子だったけど、これだけ聞けば十分だった。学内で人気の彼女は実はメンタル
面で問題のある女の子だったのだ。そして運の悪いことにそのメンタルの彼女の関心を偶
然にも僕は引いてしまったようだった。
その日、何とか彼女を宥めた僕は、夏目さんをその自宅まで送っていった。キャンパス
から一時間くらいの閑静な住宅地にある彼女の自宅まで。駅から彼女の自宅まで歩いてい
るうちに夏目さんは冷静になったようで、今度はしきりに僕に謝りだした。さっきまでの
激情が嘘のようだった。
夏目さんを送ったあと、僕は大学に向かった。キャンパスに着いて今朝起きた出来事を
ぼうっと思い出していると、今度は理恵に話しかけられた。今までの出来事が嘘みたいに
理恵は明るく僕に話しかけてきた。僕は笑っている理恵に無理に微笑んで見せた。
夏目さん・・・・・・いやもういっそ麻季と呼んだほうがいいだろう。自宅アパート前で待ち
伏せされたあの日からほどなくして僕は麻季と付き合い出したのだから。
麻季のことをどう考えればいいか最初は自分でもよくわからなかった。でも、何を考え
ているのかわからない麻季が、理恵のことを問い詰めてきたときの表情を思い出すと、い
くら綺麗な子だとはいってもできれば二度と関わらないようにする方がいいと僕は思い直
した。麻季を自宅に送って行ったとき彼女はようやく我に返ったように泣いて謝ったけど、
それは単に謝ったと言うだけで自分の突飛な行動の動機を話てくれたわけではなかった。
理恵は相変わらず学内で僕を見かけると一緒にいる友だちを放って駆け寄って来る。置
き去りにされた友だちの女の子たちは僕たちの方を見てくすくす笑って眺める。僕は幼い
頃に心をときめかした同い年の女の子との再会に満足してもいいはずだった。
でも理恵と一緒にいても、僕の視線はどういうわけかいつのまにか麻季を追い求めてい
るのだった。あれ以来麻季は全く僕と話そうとしなかった。たまに教室とかですれ違って
も彼女は僕の方を見ようともしなかったのだ。
その日も僕は理恵と並んで歩いていた。理恵はさっきから自分の妹が最近生意気だとい
う話を楽しそうにしていた。玲子ちゃんというのが理恵の妹の名前だった。僕たちが昔隣
同士に住んでいた頃には理恵には妹はいなかったから、僕が引っ越した後で生まれたのだ
ろう。今では小学生になったという玲子ちゃんは理恵にとってはひどく相手にしづらい気
難しい女の子らしい。理恵のふくれた顔を眺めながら僕は彼女の話にあいづちを打ってい
た。でも正直会ったことすらない小学生の女の子に興味を抱けという方が無理だった。た
とえそれが気になっている女の子の話だとしても。
そのとき視線の端に麻季の姿が見えた。彼女は誰か知らない上級生の男と一緒だった。
一瞬、何か心に痛みが走った。麻季が他の男と寄り添って一緒に歩いている。それだけの
ことに僕はこんなに動揺したのだった。よく考えれば僕だって理恵と並んで歩いているの
に。隣で話している理恵の声が消え僕は自分の心が傷付くだろうことを承知のうえで麻季
の方を見つめた。
でも何か様子がおかしかった。僕が見つめている先に一緒にいる男女は何かいさかいを
起こしているようだった。自分の肩を押さえた男の手を麻季は振り払っていた。
「それでね、玲子ったら結局あたしの買ったCDを勝手に学校に持って行っちゃってね」
「・・・・・・うん」
手を振り払われた男は麻季のその行為に唖然とした様子だったけど、すぐに憤ったよう
に麻季の顔を平手打ちした。麻季の体が地面に崩れた。
「でね、あいつったら勝手に友だちに貸して」
「悪い」
僕は驚いたように話を途中で中断した理恵を放って麻季と男の方に駆け出した。このと
きはよくわからないけど何だか夢中だった。とにかくあの麻季が暴力を振るわれているこ
とに我慢できなかったのだ。僕は中庭のベンチの横にいる二人の側まで走った。麻季は地
面に崩れ落ちたままだ。激昂した男が何か彼女に向かって言い募っている。再び男が手を
上げたとき僕は二人の側に到着した。
先輩らしい男はけわしい表情で僕を見た。それでもその先輩はか弱い女には手をあげた
のだけど、まともに男相手に喧嘩する気はないようだった。きっと手を痛めつけられない
のだろう。ピアノ科とか器楽科にいる連中なら無理もなかった。普通音大には演奏系、作
曲・指揮系、音楽教育系の学科がある。演奏系の学生にとっては手は喧嘩ごときで傷める
わけにはいかない。逆に言うとこの先輩は、自分の大切な手を女を殴るためなんかによく
も使えたものだ。
僕は音楽学を選考していたから実際の器楽の演奏にはそれほど執着がない。先輩が麻季
を虐めるのを止めないのならそれなりに考えがあった。でも駆けつけてきた僕を見て先輩
は急に冷静になったようで、人を馬鹿にするものいい加減にしろと倒れている麻季に言い
捨ててその場をそそくさと去って行った。
「君、大丈夫?」
僕は倒れている麻季に手を差し伸べた。そのときの彼女はきょとんした表情で僕を見
上げた。
「怪我とかしてない?」
「……先輩、神山先輩と別れたの?」
僕が麻季を地面から立たせると、それが僕であることを認識した彼女は場違いの言葉を
口にした。
「何言ってるんだよ。そんなこと今は 関係ないだろ」
僕は呆れて言った。「君の方こそ彼氏と喧嘩でもしたの?」
「彼氏って誰のことですか?」
相変わらずマイペースな様子で麻季が首をかしげた。男にいきなり平手打ちされて地面
に倒されたというのに、そのことに対する動揺は微塵も見られなかった。
やはり彼女はいろいろおかしい。僕はそう思ったけど、同時に首をかしげてきょとんと
している麻季の様子はすごく可愛らしかった。綺麗だとか大人びているとか思ったことは
あったけど、守ってあげたいような可愛らしいさを彼女に対して感じたのはこのときが初
めてだった。
とりあえず麻季は怪我はしていない様子だったけど、そのまま別れるのは何となく気が
引けていた僕は彼女を学内のラウンジに連れて行った。ラウンジは時間を潰している学生
で溢れていた。そのせいかどうか学内で目立っている麻季を連れていても、僕たちはそれ
ほど人目を引くことなく窓際のテーブルに付くことができた。
「ほら、コーヒー」
「ありがとう。結城先輩」
麻季は暖かいコーヒーの入った紙コップを受け取った。それからようやく麻季はさっき
の先輩のことを話し始めた。
「よくわかんないの。でも一緒に歩いていたらこれから遊びに行こうって誘われて、講義
があるからって断ったら突然怒り出して」
それが本当なら悪いのは自分の意向を押し付けようとして、それが断られた突端に麻季
に手を出した先輩の方だ。でも、あのとき先輩は馬鹿にするなと言っていた。
「よくわかんないけど、付き合っているのに何でそんなに冷たいんだって言われた。わた
しは別にあの先輩の彼女じゃないのにおかしいでしょ?」
やはり内心そうではないかと思っていたとおりだったようだ。
最初に新歓コンパで麻季を見かけたときはひどく大人びた女の子だと思った。群がる先
輩たちへの冷静な受け答えを見ていて、彼女は単に男にちやほやされることに慣れている
というだけではなく、しっかりと自分を律することができるんだろうなと。新入生にとっ
てはいくら男慣れしている子でも初めてのコンパで先輩たちに取り囲まれれば多少は狼狽
してしまうはずだけど、彼女には一向にそういう様子が無かったから。
でもそういうことだけでもないらしい。実はこの子は他人とコミュニケーションを取る
のが苦手な子なのではないだろうか。僕の家に押しかけてきたときの様子だってそうだし、
今現在だってそうだけど僕には麻季が何を考えているのかさっぱりわからない。でも麻季
の中では自分の態度とそれに至る思考過程はきっと一貫しているのだろう。
先輩はきっと麻季が自分のことを好きなのだと解釈したのだ。そしてその考えに沿って
麻季に対して馴れ馴れしい態度を取ったに違いない。そして麻季も先輩の行動の意味を深
く考えることもせず、自分の意に染まないことを強要されるまではなすがままに付き合っ
ていたのだろう。僕が麻季について思いついたのはこういうことだった。突然に表面に現
われる麻季の突飛な態度もその過程の説明がないから驚くような行動に思えてしまうので
あって、彼女の中ではその行動原理は一貫しているのではないか。
・・・・・・こうして考えるとまるでボーダー、境界性人格障害のような感じがする。
でもきっとそれほどのことではない。麻季の舌足らずの言葉の背後を探ってやればきっ
と彼女が何を考えているのかわかるのだろう。
「神山先輩と別れたの?」
麻季が言った。
「別れるも何も付き合ってさえいないよ」
「・・・・・・先輩?」
そのとき気がついた。きっと先輩に殴られて倒れた時に付いたのだろう。麻季の髪に枯
葉の欠片が乗っていた。僕は急におかしくなって声を出して笑った。麻季は思ったとおり
急に笑い出した僕の様子を変だとも思わなかったようだった。僕は手を伸ばして麻季のス
トレートの綺麗な髪から枯葉を取った。その間、麻季はじっとされるがままになっていた。
麻季の髪の滑らかな感触を僕は感じ取ってどきどきした。
「結城先輩、やっぱりあたしのこと好きでしょ」
麻季が静かに笑って言った。
それは思っていたより普通の恋愛関係だった。僕は麻季と付き合い出す前にも数人の女
の子と付き合ったことがあった。そのどれもがどういうわけか長続きしなかった。結果と
して麻季との付き合いが一番長く続くことになった。あのとき麻季と付き合い出すことが
なかったら、きっと僕は理恵に告白していただろう。そして多分その想いは拒否されなか
ったのではないか。でも麻季と付き合い出してからは自然と理恵と会うこともなくなって
いった。理恵の方も遠慮していたのだと思うし、それよりも僕はいつも麻季と一緒だった
から理恵に限らず他の女の子とわずかな時間にしろ二人きりで過ごすような機会は無くな
ったのだった。
勢いで付き合い出したようなものだったけど、いざ自分の彼女にしてみると麻季は思っ
ていたほど難しい女ではなかった。こうしてべったりと一緒に過ごしていると、麻季の思
考は以前考えていたような難しいものではなかったのだ。付き合い出す前はボーダーとか
メンヘラとか彼女に失礼な考えが浮かんだことも確かだったけど、いざ恋人同士になり麻
季と親しくなっていくと意外と彼女は付き合いやすい恋人だった。
多分、四六時中側にいるようになって僕が彼女が何を考えているのかをわかるようにな
ったからだろう。それに思っていたほど麻季はコミュ障ではなくて、相変わらず言葉足ら
ずではあったけど、それでも僕は彼女の考えがある程度掴めるようになっていった。彼女
には嫉妬深いという一面もあったし、ひどく情が深いという一面もあった。そういうこれ
まで知らなかった麻季のことを少しづつ理解して行くことも、僕にとっては彼女と付き合
う上での楽しみになっていた。
僕が三回生になったとき麻季はお互いのアパートを行き来するのも面倒だからと微笑ん
で、ある日僕が帰宅すると僕のアパートに自分の家財道具と一緒に彼女がちょこんと座っ
ていた。合鍵は渡してあったのだけどこのときは随分驚いたものだ。
同棲を始めて以来、僕たちはあまり外出しなくなった。食事の用意も麻季が整えてくれ
る。意外と言っては彼女に失礼だったけど、麻季は家事が上手だった。そんな様子は同棲
を始める前は素振りにさえ見せなかったのに。
僕がインフルエンザにか罹って高熱を出して寝込んだとき、僕は初めて真剣に狼狽する
麻季の姿を見た。
「ねえ大丈夫? 救急車呼ぼうよ」
僕は高熱でぼうっとしながらも思わず微笑んで麻季の頭を撫でた。麻季は僕に抱きつい
てきた。
「インフルエンザが移るって。離れてろよ」
「やだ」
僕は麻季にキスされた。結局僕の回復後に麻季が寝込むことになり逆に僕が彼女を介抱
する羽目になったのだ。
この頃になるとサークルでも学内でも僕たちの付き合いは公認の様相を呈していた。麻
季は相変わらず目立っていた。やっかみ半分の噂さえ当時の僕には嬉しかったものだ。こ
れだけ人気のある麻季が心を許すのは僕だけなのだ。麻季の心の動きを知っているのは僕
だけだ。それに麻季自身が関心を持ち一心に愛している対象も僕だけなのだ。
麻季と肉体的に結ばれたとき彼女は処女だった。別に僕は付き合う相手の処女性を求め
たりはしないし、僕が今まで経験した相手だって最初の女の子を除けばみな体験者だった
けどそれでも麻季の初めての相手になれたことは素直に嬉しかった。
僕が四回生で麻季が三回生のとき、僕は就職先から内定をもらった。この大学では亜流
だった僕は別に演奏家を目指しているわけでも音楽の先生を目指しているわけでもなかっ
たので、普通に企業への就職活動をしていた。音楽史と音楽学のゼミの教授はこのまま院
に進んでこのまま研究室に残ったらどうかと勧めてくれたけど、僕は早く就職したかった。
麻季のこともあったし。結局、ゼミの教授の推薦もあって老舗の音楽雑誌の出版社から内
定が出たときは本当に嬉しかったものだ。
内定の連絡を受けた僕は迷わずに麻季にプロポーズした。僕の申し出に麻季は信じられ
ないという表情で凍りついた。感情表現に乏しい彼女だけどこのときの彼女の言葉に誤解
の余地はなかったのだ。
「喜んで。この先もずっと一緒にあなたといられるのね」
このときの麻季の涙を僕は生涯忘れることはないだろう。一年半の婚約期間を経て僕と
麻季は結婚した。僕と麻季の実家の双方も祝福してくれたし、サークルのみんなも披露宴
に駆けつけてくれた。
「麻季きれい」
麻季のウエディングドレス姿に麻季の女友達が祝福してくれた。僕の側の招待客は親族
を除けば大学や高校時代の男友達だけだった。幼馴染の理恵を招待するわけには行かなか
った。でもずいぶん後になって知り合い経由で理恵が僕たちを祝福してくれていたという
話を聞いた。
結婚後しばらくは麻季も働いていた。それは彼女の希望でもあった。ピアノ専攻の彼女
は演奏家としてプロでやっていけるほどの才能はなかったけど、ピアノ科の恩師の佐々木
先生の個人教室のレッスンを手伝うことになったのだ。でもそれもわずかな期間だけだっ
た。
やがて麻季は彼女の希望どおり妊娠して男の子を産んでくれた。僕たちは息子の奈緒人
に夢中だった。もちろん麻季は佐々木教授の手伝いをやめて専業主婦として育児に専念し
てくれた。奇妙なきっかけで始まった僕たちの夫婦生活は順調だった。麻季は理想的な妻
だった。かつて彼女のことを境界性人格障害だと疑った自分を殴り倒してやりたいほど。
僕は本当に幸せだった。仕事も多少は多忙であまり麻季を構ってやれなかったけど、で
きるだけ早く帰宅して奈緒人をあやすようにしていた。僕が奈緒人を風呂に入れるとき、
麻季は心配そうに僕の手つきを眺めていたのだ。これでは麻季の育児負担を軽減するため
に僕が奈緒人の入浴を引き受けた意味がないのに。
僕たちの生活は順調だった。少なくともこのときの僕には何の不満もなかったのだ。
麻紀と奈緒人と共に歩んでいく人生に何の不満もないと思っていたのは本当だったけど、
あえて物足りないことあげるとしたら、奈緒人が誕生してから麻季との夜の営みが途絶え
てしまったことくらいだろうか。ある夜奈緒人が寝入った後の夫婦の寝室で、僕は出産以
来久し振りに麻季を抱き寄せて彼女の胸を愛撫しようとした。少しだけ麻季は僕の手に身
を委ねていたけどすぐに僕の腕の中から抜け出した。
「・・・・・・麻季?」
これまでになかった麻季の拒絶に僕は内心少しだけ傷付いた。
「ごめんね。何だか疲れちゃってそういう気分になれないの」
子育ては僕たちにとって始めての経験だったし、疲れてその気になれないことだってあ
るだろう。僕は育児で疲労している麻季のことを思いやりもせずに自分勝手に性欲をぶつ
けようとしたことを反省した。こんなことで育児もろくに手伝わない僕が傷付くなんて考
える方がおかしい。何だか自分がすごく汚らしい男になった気がした。
「いや。僕の方こそごめん」
僕は麻季に謝った。
「ううん。博人さんのせいじゃないの。ごめんね」
一度僕の腕から逃げ出した麻季は再び僕に抱きついて軽くキスしてくれた。
「もう寝るね」
「うん。おやすみ」
これが僕たち夫婦のセックスレスの始まりだった。この頃はまだ奈緒人には手がかかっ
ていた頃だった。実際、育児雑誌で注意されている病気という病気の全てに奈緒人は罹患
した。そのたびに麻季は狼狽しながら僕に電話してきて助けを求めたり、病院に駆け込ん
だりして大騒ぎをした。
麻季は真剣に誠実に育児に取り組んでいた。それは確かだったしそんな妻に僕は感謝し
ていたけれど、それにしてももう少し肩の力を抜いた方がいいのではないかと僕は考えた。
そしてそのそのせいで何度か麻季と言い争いになったこともあった。麻季は奈緒人を大切
に育てようとしていた。僕たち夫婦の子どもなのだからそれは僕にとっても嬉しいことで
はあったけど、麻季の場合はそれが行き過ぎているように思えた。
市販の粉ミルクで赤ちゃんが死亡したニュースを見てからは、麻季は粉ミルクを使うこ
とを一切やめて、母乳だけで奈緒人を育てようとした。ちなみに危険な粉ミルクのニュー
スは外国の出来事だ。それから大手製紙会社の製品管理の不具合のニュースを見て以来、
麻季は市販の紙おむつを使用することをやめ、自作の布おむつを使用するようになった。
製紙会社の不祥事は紙おむつではなくティッシュ製造過程のできごとだったのだけど。
麻季との同棲生活や結婚生活を通じて彼女がここまで脅迫的な潔癖症だと感じるような
ことはなかった。結局、麻季は僕と彼女との間に生まれた奈緒人のことが何よりも大事な
のだろう。そういう彼女の動機を非難することはできないし、息子の母親としてはむしろ
理想的な在り方だった。
最初の頃少し揉めてからは、行き過ぎだと思いつつも僕は黙って麻季のすることを容認
することにした。若干不安は残ってはいたけどそもそも仕事が多忙でろくに育児参加すら
できていない僕には麻季の育児方法について口を出せるのにも限度があった。
こんなに一生懸命になって奈緒人を育てている麻季に対して、これ以上自分勝手な性欲
を押し付ける気はしなかったので、僕は当面はそういうことに麻季を誘うことを止めるこ
とにした。内心では少し寂しく感じてはいたけど。
それに麻季は奈緒人だけにかまけていたわけではなかった。この頃の僕はちょうど仕事
を覚えてそれが面白くなっていた時期でもあったし、少しづつ企画を任されて必然的に多
忙になっていった時期でもあった。だから育児に協力したいという気持ちはあったけど、
実際にはニ、三日家に帰れないなんてざらだった。なので出産直後のように奈緒人をお風
呂に入れるのは僕の役目という麻季との約束も単に象徴的な夫婦間の約束になってしまっ
ていて、たまの休日に「パパ、奈緒人のお風呂お願い」と麻季に言われて入浴させる程度
になっていた。それすら麻季は育児に協力できないで悩んでいる僕に気を遣って言ってく
れたのだと思う。ろくに育児に協力できない僕の気晴らしのためにわざと奈緒人を風呂に
入れるように頼んでくれていたのだろう。
どんなに育児に疲れていても僕に対するこういう気遣いを忘れない彼女のことが好きだ
った。僕は麻季と結婚してからどんどん彼女のことが好きになっていくようだ。そして麻
季も夫婦間のセックスを除けば、そんな僕の想いに応えてくれていた。この頃は僕も忙し
かったけど麻季だって育児に追われていたはずだ。それでも彼女は一日に何回も仕事中の
僕にメールしてくれた。
奈緒人が初めて寝返りをうったとき。奈緒人が初めて「ママ」と呼んだとき、奈緒人が
初めてはいはいしたとき。その全てのイベントを僕は仕事のせいで見逃したのだけど、麻
季はいちいちその様子を自宅からメールしてくれた。そのおかげで僕は息子の成長をリア
ルタイムで感じることができた。当時は今ほど気軽に画像を添付して送信できなかった時
代だったので麻季からのメールには画像はなかったけど、それを補って余りあるほどの愛
情に満ちた文章が送られてきたのだ。
麻季は昔から感情表現が苦手な女だった。それは結婚してからも同じだった。それでも
僕たちが幸せにやってこれたのは僕が彼女の言外の意図を読むことに慣れたからだった。
でも仕事のせいで麻季と奈緒人にあまり会えない日々が続いていたせいで、麻季は僕との
コミュニケーションにメールを多用するようになった。そして、目の前にいる彼女の思考
は読み取りづらくても、メールの文章は麻季の考えを明瞭に伝えてくれることが僕にもわ
かってきた。文章の方がわかりやすいなんて変わった嫁だな。僕は微笑ましく思った。
そういうわけで麻季の関心が育児に移ってからも彼女の僕への愛情を疑ったことはなか
った。それは疲れきって自宅に帰ったときに食事の支度がないとか、風呂のスイッチも切
られていたとかそういう次元の不満がないことはなかったけど、僕が帰宅すると奈緒人と
添い寝していた麻季は寝床から起き出して、疲れているだろうに僕に微笑んで「おかえり
なさい」と言って僕の腕に手を置いて軽くキスしてくれる。それだけで僕の仕事のストレ
スは解消されるようだった。
この頃の麻季の僕に対する愛情は疑う余地はなかったけど、やはり夜の夫婦生活の方は
レスのままだった。奈緒人が一歳の誕生日を迎えた頃になると育児にも慣れてきたのか麻
季の表情や態度にもだいぶ余裕が出てきていた。以前反省して自分に約束したとおり僕は
麻季に拒否されてから今に至るまで彼女を求めようとはしなかったけど、そろそろいいの
ではないかという考えが浮かんでくるようになった。まさかこのまま一生レスで過ごすつ
もりは麻季にだってないだろうし、いずれは二人目の子どもだって欲しかったということ
もあった。
そんなある夜、久し振りに早目の時間に帰宅した僕は甘えて僕に寄り添ってくる麻季に
当惑した。奈緒人はもう寝たそうだ。その夜の麻季はまるで恋人同士だった頃に時間が戻
ったみたいなに僕に甘えた。
これは麻季のサインかもしれない。ようやく彼女にもそういうことを考える余裕ができ
たのだろう。そして表現やコミュニケーションが苦手な彼女らしく態度で僕を誘おうとし
ているのだろう。長かったレスが終ることにほっとした僕は麻季を抱こうとした。
「やだ・・・・・・。駄目だよ」
肩を抱かれて胸を触られた途端に柔らかかった麻季の体が硬直した。でも僕はその言葉
を誘いだと解釈して行為を続行した。このとき麻季がもう少し強く抵抗していればきっと
彼女も相変わらず疲れているのだと思って諦めたかもしれない。でもこのときの麻季は可
愛らしく僕の腕のなかでもがいたので、僕はそれを了承の合図と履き違えた。しつこく体
を愛撫しようとする僕に麻季は笑いながら抵抗していたから。でもいい気になって麻季の
服を脱がそうとしたとき、僕は突然彼女に突き飛ばすように手で押しのけられた。
「あ」
麻季は一瞬狼狽してその場に凍りついたけどそれは僕の方も同じだった。
僕は再び麻季に拒絶されたのだ。
「ごめん」
「ごめんなさい」
僕と麻季は同時にお互いへの謝罪を口にした。
「ごめん。今日ちょっと酒が入っているんで調子に乗っちゃった。君も疲れているんだよ
ね。悪かった」
いつまで麻季に拒否されるんだろうという寂しさを僕は再び感じたけど、ろくに家に帰
ってこない亭主の代わりに家を守って奈緒人を育ててくれている麻季に対してそんなこと
を聞く権利は僕にはない。
「あたしの方こそごめんなさい。博人君だって我慢できないよね」
「いや」
「・・・・・・口でしてあげようか」
麻季が言った。それは僕のことを考えてくれた発言だったのだろうけど、その言葉に僕
は凍りつき、そしてひどく屈辱を感じた。
「もう寝ようか」
麻季の拒絶とそれに続いた言葉にショックを受けたせいで、僕のそのときの口調はだい
ぶ冷たいものだったに違いない。
そのとき麻季が突然泣き始めた。
「悪かったよ」
僕はすぐに麻季を傷つけた自分の口調に後悔し、謝罪したけど彼女は泣き止まなかった。
「ごめんなさい」
「君のせいじゃないよ。僕のせいだ。君が奈緒人の世話で疲れてるのにいい気になってあ
んなことしようとした僕の方が悪いよ。本当にごめん」
それでも麻季は俯いたままだった。そして突然彼女は混乱した声で話し始めた。
「ごめんなさい。謝るから許して。あたしのこと嫌いにならないで」
僕は自責の念に駆られて麻季を抱きしめた。こんなに家庭に尽くしてくれている彼女に
こんなにも暗い顔をさせて謝らせるなんて。
「謝るのは僕のほうだよ。まるでけものみたいに君に迫ってさ。君が育児と家事で疲れて
るってわかっているのに。仕事にかまけて君と奈緒人をろくに構ってやれないのに」
僕の方も少し涙声になっていたかもしれない。麻季は僕の腕の中で身を固くしたままだ
った。かつて彼女が僕のアパートに押しかけてきたときの、まるで言葉が通じなかった状
態のメンヘラだった麻季の姿が目に浮かんだ。ここまで麻季と分かり合えるようになった
のに、一時の無分別な性欲のせいでこれまでの二人の積み重ねを台無しにしてしまったの
だろうか。
そのとき麻季が濡れた瞳を潤ませたままで言った。
「本当に好きなのはあなただけなの。それだけは信じて」
何を言っているのだ。僕は本格的に混乱した。もともとコミュ障気味の麻季だったけど、
このときは本気で彼女が何を言っているのかわからなかった。
「わかってるよ。落ち着けよ」
「あなたのこと愛している・・・・・・あなたと奈緒人のこと本当に愛しているの」
「僕も君と奈緒人のことを愛してるよ。もうよそうよ。本当に悪かったよ。君が無理なら
もう二度と迫ったりしないから」
「違うの。あなたのこと愛しているけど、あの時は寂しくて不安だったんでつい」
「・・・・・・え」
僕はその告白に凍りついた。
「一度だけなの。二回目は断ったしもう二度としない。彼ともちゃんと別れたし。だから
許して」
混乱する思考の中で僕は麻季に抱きつかれた。僕の唇を麻季がふさいだ。そのまま麻季
は僕を押し倒して覆いかぶさってきた。
「おい、よせよ」
「ごめんね・・・・・・しようよ」
彼女はソファに横になった僕の上に乗ったままで服を脱ぎ始めた。僕は混乱して麻季を
跳ね除けるように立ち上がったのだけど、その拍子に彼女は上着を中途半端に脱ぎかけた
まま床に倒れた。麻季が泣き始めた。深夜になってようやく落ち着いた麻季から聞き出し
た話は僕を混乱させた。麻季は浮気をしていたのだ。それも奈緒人を放置したままで。
その相手との再会は保健所の三ヶ月健診から帰り道でのできごとだった。麻季は奈緒人
を乗せたベビーカーを押して帰宅しようとしていた。途中の駅の段差でベビーカーを持て
余していた麻季に手を差し伸べて助けてくれた男の人がいた。お礼を言おうと彼の顔を見
たとき、二人はお互いに相手のことを思い出したそうだ。
彼は大学時代に麻季を殴った先輩だったのだ。麻季は最初先輩のことを警戒した。でも
先輩は何事もなかったように懐かしそうに麻季にあいさつした。当時近所にママ友もいな
いし僕も滅多に帰宅できない状況下で孤独だった麻季は、先輩に誘われるまま近くのファ
ミレスで昔話をした。サークルや学科の友人たちの消息を先輩はたくさん話してくれた。
当時の友人たちはそれぞれ自分の夢に向かって頑張っているようだった。中には夢を実
現した友人もいた。僕との結婚式で「麻季、きれい」と感嘆し羨望の眼差しをかけてくれ
た友人たちに対して当時の麻季は優越感を抱いていたのだけど、その友人たちは今では華
やかな世界で活躍し始めていた。国際コンクールでの入賞。国内どころか海外の伝統のあ
るオケに入団している友だちもいた。
それに比べて自分は旦那も滅多に帰宅しない家で一人で子育てをしている。麻季の世界
は奈緒人の周囲だけに限定されていた。結婚式で感じた優越感は劣等感に変わった。麻季
の複雑な感情に気づいてか気が付かないでか、先輩は自分のことも話し出した。国内では
有名な地方オーケストラに入団した先輩は、まだ新人ながら次の定期演奏会ではチェロの
ソリストとして指名されたそうだ。
「みんなすごいんですね」
「君だって立派に子育てしてるじゃん。誰にひけ目を感じることはないさ。それにとても
幸せそうだよ」
「そんなことないです」
「きっと旦那に大切にされてるんだろうね。まあ、正直に言うと君ほど才能のある子が家
庭に入るなんて意外だったけどね」
「あたしには才能なんてなかったし」
「佐々木先生のお気に入りだったじゃん。みんなそう言ってたよ。君がピアノやめちゃう
なんてもったいないって」
そのときは先輩と麻季はメアドを交換しただけで別れた。それ以来先輩からはメールが
毎日来るようになった。その内容も家に引きこもっていた麻季には眩しい内容だった。そ
のうちに麻季は先輩とのメールのやり取りを楽しみにするようになった。
そしてその日。先輩のオケの定期演奏会のチケットが送られてきた。それは先輩がソリ
ストとしてデビューするコンサートのチケットだった。麻季は実家に奈緒人を預けて花束
を持ってコンサートに出かけた。知り合いのコンサートを聴きに行くのは久し振りで彼女
は少しだけ大学時代に戻った気がしてわくわくしていた。
終演時に観客の喝采を浴びた先輩は、客席から花束を渡す麻季を見つめて微笑んだ。実
家に預けた奈緒人のことが気になった麻季がコンサートホールを出たところで、人目を浴
びながらもそれを気にする様子もなく先輩がタキシード姿で堂々と彼女を待ち受けていた。
その晩、誘われるままに先輩と食事をした麻季はホテルで先輩に抱かれた。
話し終えた麻季がリビングの床にうずくまっていた。さっき脱ごうとした上着の隙間か
ら白い肌を覗かせたままだ。それがひどく汚いもののように見える。情けないことに僕は
一言も声を出すことができなかった。麻季が浮気をした。こともあろうに大学時代に僕が
麻季を救ったその相手の先輩と。麻季との恋愛や結婚、そして奈緒人の誕生は全てそこが
出発点だったのにその基盤が今や音を立てて崩壊したのだ。
「・・・・・・先輩のこと好きなの?」
僕はようやく言葉を振り絞った。
「本当に好きなのは博人くんだけ。でも信じてもらえないよね」
俯いたまま掠れた声で麻季が言った。
「先輩と何回くらい会ったの」
「最初の一度だけ。そのときだって先輩に抱かれながら奈緒人とあなたの顔が浮かんじゃ
って。もうこれで最後にしようって彼に言ったの。それから会ってないよ」
回数の問題じゃない。確かに慣れない子育てに悩んでいる麻季を仕事にかまけて一人に
したのは僕だった。でも心はいつも麻季と奈緒人のもとを離れたことなんてなかった。麻
季だって寂しかったのだ。仕事中に頻繁に送られてくるメールだって今から思えば寂しさ
からだったのだろう。でも僕はそこで気がついた。あれだけ頻繁に僕に送信されていた
メールがあるときを境にその回数が減ったのだ。それは麻季が先輩と再会してメールでや
り取りを始めた頃と合致する。
「先輩って鈴木って言ったっけ」
「・・・・・・うん」
「鈴木先輩って独身?」
「うん。でも彼とはもう別れたんだよ。一度だけしかそういうことはしてないよ」
そのとき僕はもっと辛いことに気がついてしまった。麻季が先輩に抱かれた時期は、麻
季に拒否された僕がもう麻季に迫るのはやめようとしていた時期と同じだった。つまり麻
季は僕に対しては関係を拒否しながらも先輩に対しては体を開いていたことになる。僕の
中にどす黒い感情が満ちてきた。できることならこの場で暴れたかった。あのとき鈴木先
輩がしたように麻季の頬を平手で殴りたかった。
「先輩のこと好きなのか?」
「何でそんなこと言うの」
麻季は不安そうに僕を眺めて言った。
「僕は君のこと愛しているから。君が僕と離婚して先輩と一緒になりたいなら・・・・・・」
「違う!」
麻季がまた泣き出した。
「先輩は君たちの関係のことを何か言ってたんでしょ」
「それは」
「泣いてちゃわからないよ。ここまできて隠し事するなよ」
この頃になってだんだん僕の言葉も荒くなってきた。自分を律することが難しくなって
きていた。
「・・・・・・あの。あなたと別れて一緒になってくれって。奈緒人のこともきっと幸せにする
からって」
「そう」
本当に今日はこのあたりが限度だった。このまま話していると本当に麻季に手を上げか
ねない。奈緒人の名前が先輩の口から出たと言うだけで自分の息子が彼に汚されたような
気さえする。
「でも断ったよ、あたし。最初のときからすごく後悔したから。あの後先輩からメールが
いっぱい来たけど返事しないようにしたんだよ」
麻季は泣きながら震える手で自分の携帯を僕に見せようとした。
誰がそんなもの見るか。
「今日はもう寝よう。明日は休みだし明日また話そう」
僕は立ち上がった。僕の足に麻季がまとわりついた。
「お願い、許して。何でもするから。あたしあなたと別れたくない」
「・・・・・・今日はここで寝るよ。君は奈緒人の側にいてあげて」
絶望に満ちた表情で床に座り込んだ麻季が僕を見上げた。麻季の悲しい表情を見ること
が今まで僕にとって一番悲しく嫌なことだったはずのに、このときは僕は麻季の絶望に対
しても何も感じなくなってしまっていたようだった。
今日はここまで。
また投下します。
ほとんど眠れなかった僕は翌日ソファで強張った体を起こした。体に掛けられていた毛
布が体から滑り落ちて床に広がった。麻季が僕に毛布を掛けたのだろう。その記憶がない
ところを見ると僕は少しは眠ったのかもしれない。
家の中は妙に静かだった。もう朝の九時近い。
ソファで無理のある姿勢で一晩を過ごしたせいで体の節々が痛かった。僕は起き上がっ
て寝室の様子を覗った。寝室からは何の気配もしない。麻季のことはともかく奈緒人がど
うしているか気になった僕は寝室のドアをそっと開けて中を覗き込んだ。
ドアを開けた僕の目に麻季がベッドの上で奈緒人に授乳している光景が目に入った。麻
季も昨晩の告白に悩んでいたはずだけど、このときだけは自分の白い胸に夢中になってし
ゃぶりついている我が子のことを慈愛に満ちた表情で見つめていたのだ。麻季は寝室のド
アが開いたことにも気がついていない様子だった。
このとき僕が我を忘れて見入ったのは麻季ではなく奈緒人だった。もう離乳食を始めて
いたはずなのだけど、このときの奈緒人は母親の乳房に夢中になって吸い付いていたのだ。
自分の妻と自分の息子なのだけど、このときの母子の姿は何というか神々しいという感じ
がした。
「おはよう」
麻季はさぞかし僕に言い訳したかっただろう。でも彼女は僕の方を振り返ることをせず、
「しっ」と僕を優しくたしなめた。
「・・・・・・ごめんなさい。久し振りに奈緒人がおっぱいを欲しがってるの」
「うん、そうだね。ごめん」
僕は寝室のドアを閉じた。やがて麻季が寝室から出てきてリビングのソファでぼんやり
とテレビを見ている僕の向かいに座った。いつもなら迷わず僕の隣に座るのに。
「ごめんね。もう離乳できてたはずなんだけど、今日は奈緒人はおっぱいが欲しかったみ
たい」
「奈緒人は?」
「お腹いっぱいになったら寝ちゃった。ベビーベッドに寝かせてきた」
「そうか」
「ごめん」
何で麻季は謝るのだ。奈緒人のことで彼女が謝る理由なんて一つもない。むしろ謝るの
は他のことじゃないのか。さっき見かけた母子の美しい様子が僕の脳裏に現われてしまっ
た。でも昨晩の麻季の告白が思い浮んだ。麻季の謝罪は浮気についてなのだろうか。僕は
混乱していた。これでは冷静な判断ができない。
「奈緒人は離乳が早いよな」
僕は何となくそう言った。
「そうね。長い子だと卒乳するのが四歳とか五歳の子もいるみたいだよ」
「そうか」
「・・・・・この子も感じていたのかもね。自分の母親が自分だけの物を父親でもない男に触
らせてたって」
彼女は暗い表情でそう言った。僕は麻季の言葉に凍りついた。
「昨日は慌ててみっともない姿を見せちゃったけど、あたしのしたことが博人君にとって、
それに奈緒人にとってもどんなにひどいことだったのかがよくわかった」
「うん」
僕にはうんという以外の言葉が思いつかなかった。
「本当にごめんなさい。今でも愛しているのはあなたと奈緒人だけ。でも自分がしたこと
が許されないことだということもわかってる」
「僕は・・・・・・。奈緒人の世話もろくにしなかったし君を一人で家に放置していたことも認
めるよ。仕事が忙しかったとはいえ反省はしている。でもだからといって他の男に抱かれ
ることはなかったんじゃないか」
「うん」
「うんじゃねえよ」
僕は思わず声を荒げた。
「不満があるなら何で僕に話さないんだよ。僕にセックスを迫られるのが嫌なら何でもっ
とはっき言りわないんだよ。僕が悪いことはわかってるよ。だからと言っていきなり浮気
することはねえだろ」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいから理由を話してくれよ。もう一度聞く。今度は本気で答えろよ」
「・・・・・・はい」
「鈴木先輩のこと、たとえ一瞬でもエッチできるくらいに好きだったの?」
「それは・・・・・・うん」
「僕とはエッチするのは嫌だったのに?」
「・・・・・・」
「黙ってちゃわからないよ。僕が迫っても拒否したのに、先輩に誘われれば体を許したん
だろ」
「うん」
それを静かに肯定した麻季に僕は逆上した。
「もう離婚だな。このクソビッチが。先輩が好きなら何で大学時代に先輩のとこに行かな
かったんだよ。何で僕のことを誘惑した? 何で僕と理恵の仲に嫉妬したりした?」
麻季は俯いて黙ってしまった。麻季の目に涙が浮かんだ。一瞬その場を嫌な沈黙が支配
した。そのとき寝室から奈緒人の泣き声が聞こえた。僕と麻季は同時に立ち上がり競うよ
うにして寝室に殺到した。奈緒人はベビーベッドの柵を乗り越えて床に落下したのだった。
一瞬これまでの麻季とのいさかいを忘れ僕は心臓が止まる思いをした。でも奈緒人はそん
な僕の心配には無頓着に起き上がってたちあがり、よたよたとニ三歩歩いた。
「奈緒人が歩いたよ、おい」
「うん。少しだけだったけどしっかり歩いたよね」
その瞬間僕たちはいさかいを忘れ瞬時に夫婦、いや父母に戻ったのだ。
麻季が再び床に倒れた奈緒人を抱き上げた。麻季に抱き上げられた奈緒人はもう泣き止
んでいて、麻季の腕から逃れたいようにじたばたしていた。
「フロアに立たせてみて」
僕は麻季にそっと言った。麻季はもう僕のことは忘れたように返事せずに奈緒人を見つ
めながら大切な壊れ物を置くように寝室のカーペットの上に立たせて、そっと手を離した。
もう間違いではない。奈緒人は再び自力で歩行して、すぐに倒れ掛かった。危ういとこ
ろで僕は奈緒人を抱き上げることができた。
「やった」
「やったね」
僕と麻季は目を合わせて微笑みあった。そして申し合わせたように奈緒人の表情を眺め
た。奈緒人はもう歩くことに飽きてしまったようで、僕に抱かれたまま僕の胸に顔を押し
付けて再びうとうとし始めていた。
僕は自分の腕の中にいる奈緒人を見つめた。
奈緒人を実家に預け僕以外の男に抱かれた麻季。僕の誘いを拒否して一度だけとはいえ
鈴木先輩に抱かれた麻季。そんな彼女を許す理由としては傍から見れば非常にあやふやだ
ったかもしれない。でも奈緒人の初めての歩行を実際に見届けて感動していた僕は、その
思いを共有できるのは麻季だけだとあらためて気がついたのだ。僕と麻季はそれまでのい
さかいを忘れ、狭い寝室の中初めて歩行した奈緒人のことを見つめていたのだ。このとき
はもう言葉は必要なかったみたいだった。
結局このときは僕は麻季を許してやり直す道を選んだ。先輩とは二度と連絡もしないし
会わないという条件で。
「僕たち、最初からやりなおそうか。奈緒人のためにも」
僕の許容に最初は呆然として戸惑っていた様子の麻季は、泣きながら僕に抱きつこうと
して僕に抱かれている奈緒人に気がついて自重した。その代わりに彼女は奈緒人を抱いて
いる僕の手を強く握った。麻季の手は少し湿っていて冷たかった。
奈緒人への愛情から麻季の浮気を許した僕だったけど、心底から麻季の改悛の情を信じ
られたわけではなかった。正直に言えば彼女の僕に対する愛情への疑いは残っていた。あ
のときの麻季の言葉を何度脳内で再生したかわからない。
「鈴木先輩のこと、たとえ一瞬でもエッチできるくらいに好きだったの?」
「それは・・・・・・うん」
「僕とはエッチするのは嫌だったのに?」
「・・・・・・」
「黙ってちゃわからないよ。僕が迫っても拒否したのに、先輩に誘われれば体を許したん
だろ」
「うん」
僕が麻季を許したのは奈緒人のことが大切だからだった。麻季の僕への愛情については
疑わしかったけど、麻季の奈緒人への愛情についてだけは疑いの余地はなかったのだ。
浮気をした妻と浮気をされた夫のやり直しというのは思ったより大変だった。この頃の
僕はひどく卑屈になっていた。もともと僕たちの付き合いは麻季が僕のアパートに押しか
けてきたときから始まった。あのときの僕は麻季がメンヘラではないかと疑ったのだった。
麻季は僕が自分のことを好きなのにわざと意地悪して理恵と付き合っていると思い込んで
いた。そんなつもりは全くかったのに。
でも今になっては浮気された僕にとって、それは麻季を信じるためのエピソードの一つ
だった。その思い出は付き合い出してから浮気するまでの彼女の僕への献身的ともいって
いい態度とともに、麻季を信じようとする僕の力になってくれた。それでもそれは未だに
引きずっていた麻季に対する僕の疑念や嫌悪を振り払うには十分な力を持っていなかった
のだけど、僕は自分の意思の力でそれを補おうとした。
麻季は先輩とは完全に別れたと言った。もともと気が進まない関係だったのだと。僕に
浮気を告白したその晩に先輩に対して、「もうあたしのことは放っておいて。先輩とは二
度と会わない」とメールしたそうだ。別に疑う理由もないので僕は麻季の携帯の送信ボッ
クスを確認することもなくその言い訳を受け入れた。
こうして僕と麻季の最初の危機は何とか破滅を回避できたように思えた。危機を回避し
たあと、僕たちは麻季が自分の浮気を告白する前の生活習慣に忠実に過ごすようになった。
何もかもが以前のとおりだった。麻季は先輩に出会う前にしてくれていたように、相変
わらず会社で多忙に過ごしている僕に再び奈緒人の写メや一言コメントをメールで送って
くれるようになった。それは麻季が先輩と浮気してからはおろそかになっていた行事だっ
た。麻季の浮気以降で大きく変わったことはまだあった。
夫婦の危機があったからといって業務の多忙さは少しも遠慮してくれなかった。むしろ
その頃の僕は昇進して小さなユニットの部下を指揮して企画記事を製作する立場に立たさ
れるようになったのだ。もちろんその昇進には昇給がついてきていたから、僕は家庭にか
まけて仕事をおろそかにするわけにはいかなかった。なので麻季とやり直すと決めた日か
らしばらくして、僕は前以上に帰宅する頻度が減った。それでも一度過ちを犯して僕に許
された麻季は何も不満を言わなかった。たまの休暇の日にへとへとになって帰宅した僕を
麻季は笑顔で迎えてくれた。
問題はその後だった。麻季が妊娠してから長年レスだった、というか僕が迫っても拒否
していた彼女が、どういうわけか僕が仕事で疲労困憊して帰ってくるようになったこの頃
から逆に積極的になったのだ。最初のうちはこれまで僕を拒否していた麻季が、自分から
僕に抱かれようとしていることが嬉しかった。たとえ罪の意識からにせよ、麻季が本心で
僕とやり直そうと努力している証拠だと思ったから。
でも実際に行為に及ぼうとすると、以前は執着していた麻季の子どもを生んだとは思え
ない綺麗な裸身に対して、僕は得体の知れない嫌悪を抱いたのだ。
僕も努力はした。意思の力を結集して僕に迫ってくる麻季の裸身を愛撫した。喘ぎ出し
た麻季にキスもした。でも駄目なのだ。いざ事に及ぼうとすると僕は全くその気になれな
くなるのだった。一時はあれだけ拒絶する麻季を抱こうとして足掻いていたというのに。
自分が抱いている麻季の美しい身体は少なくとも一度は鈴木先輩に抱かれて悶えていたの
だ。そう考えた瞬間、僕は萎えてしまい麻季を抱けなくなってしまう。でも麻季はそうい
う僕を責めなかった。
そういうときの麻季は「気にしないで」って言って微笑んだ。それはきっと自分のした
行為が僕にどんな影響を及ぼしたかを慮り、そしていい妻であろうと努めようとしたから
だろう。だから勘ぐれば麻季だって義務感から僕を誘っているだけかもしれなかった。そ
して僕がその気にならず僕の相手をしなくてすんだことにほっとしていたのかもしれない。
自分の方から僕を誘っただけで麻季の義務は終了しているのだから。それでも僕は麻季を
信じた。奈緒人が始めて自分の足で歩いたときの麻季の姿と大学時代に僕に声をかけてき
た麻季の様子を思い浮かべて。
麻季は奈緒人にとってはいい両親だったと思うけど、夫婦としての肉体的な関係はレス
のままだった。以前は麻季に拒否されたからだ。でも今ではその責任と原因は僕にあった。
その日も僕は編集部で目の回るような多忙な日常を過ごしていた。印刷会社に入稿する
記事の締切日は近づいてきているのに原稿は手元にない。遅筆で有名な評論家の自宅に催
促に行こうとしていた僕は、自分のデスクで鳴り出した電話を取った。
「結城編集長に鈴木様という方からお電話です」
交換にはいと答えてすぐに受話器の向こうで声がした。
「はい。結城です」
「突然すいません。えと、覚えていますか? あたしは太田と言いますけど」
「はい? 鈴木さんじゃないんですか」
受話器の向こうで慌てたような感じがする。
「あ、いえ。鈴木なんですけど、結婚前は太田でした。というか大学時代は太田だったん
で結城先輩には太田と言ったほうがいいかなって」
結城先輩ってなんだろう。ゼミの後輩に太田なんていたっけ。
「すいません。よくわからないんですけど、失礼ですけどどちらさまでしょうか」
万一作家さんだったらまずいので僕はていねいに聞き返した。
「旧姓は太田れいなといいます。結婚して鈴木になりましたけど」
「はあ」
「ごめんなさい。わかりまえせんよね。首都圏フィルの渉外担当の鈴木と申します。来月
のコンサートの取材の件でご連絡させていただきました」
それでようやく彼女の用件がわかった。首都圏都フィルは自治体が援助している地方オ
ケの中では実力のあるオーケストラだった。全国レベルの有名なオーケストラほど知名度
は高くないけど、知る人ぞ知るという感じで固定のファンも結構ついていた。特に最近、
地方オケでは有り得ないほど知名度の高いコンダクターが常任指揮者に就任することも話
題となっていた。僕はその指揮者へのインタビューをメールで事務局に申し込んでいた。
メールを読んだ担当者が連絡をくれたのだろう。そこまでは別に不審な点はなかった。
だけどこの担当者は鈴木なのか太田なのか。それにいきなり人のことを先輩と呼ぶのは
どういうわけなのだろう。
「あの、先輩ってどういうことですか?」
電話の向こうで少し考え込む気配がした。それからようやく落ち着いた声で返事が帰っ
てきた。
「ごめんなさい。混乱させちゃって。というかあたしの方が混乱しているんですけど」
何だかさっぱり要領を得ない。
「うちの金井へのインタビューは喜んでお受けします。金井にも了解は得ています」
ようやく本題に入ったようだ。
「ありがとうございます。それで取材の日時なんですけど」
「これから会えませんか?」
「はい?」
「直接会って打ち合わせさせてください」
彼女は一方的に時間と場所を指定して僕が返事をする間もなくいきなり電話を切った。
僕のサラリーマン生活を通じてここまでひどいビジネストークは初めてだった。
鈴木さんだか太田さんだかの指定した時間は一時間後で、場所は編集部のすぐ近くの喫
茶店だった。幸か不幸か一時間後には何も予定は入っていない。
僕は首を傾げた。非常識な話しだし何が何だかわからないけど、とりあえず行って話し
を聞けば疑問も晴れるだろう。それに金井氏へのインタビューは次号の目玉記事になる。
先方の担当者の奇妙な言動のせいでなかったことにされるわけにはいかなかった。僕は立
ち上がって椅子に掛けていた上着を羽織った。
「お出かけですか、デスク」
部下の一人が僕に声をかけた。
「何かよくわかんないんだけど、首都フィルの担当者が会って打ち合わせしたいって言う
からちょっと出てくる」
「はあ? インタビューの日時や場所を決めるだけでしょ? 直接会う必要あるんですか
ね」
「僕に聞かれてもわからんよ。とにかくこっちからお願いしておいて断るわけにもいかん
だろ」
「まあ、そうですね」
「山脇先生に電話で締め切り過ぎてますよって言っておいてくれるか」
「わかりました」
「じゃあ行ってくる」
徒歩で十五分ほどで指定の喫茶店に着いた。待ち合わせ時間まではまだ四十五分もある。
こんなに早く来る必要はなかったのだけど、せっかく外出の機会が転がり込んできたので
僕は少しゆっくりしようと思ったのだ。席に収まって注文を終えると僕は携帯を見た。今
朝から午後二時十五分の現在に至るまで、麻季からのメールが十通近く届いていた。
僕は時間を掛けて麻季のメールの全てに目を通した。別に今日も何の変わりもないよう
だけど、それでもこれだけのメールを出すのだから麻季にとって今日は比較的余裕のある
一日なのだろう。奈緒人は順調に歩行距離と時間を伸ばしているようだ。離乳食も食べて
はいるものの、どういうわけか麻季の浮気が発覚して以降奈緒人は再び麻季のおっぱいを
求めるようになってしまった様子だった。離乳は早かった方だったのに。僕は麻季あてに
返信した。奈緒人の今日の出来事への感想と今日も帰宅は十一時くらいになるという短い
内容だった。そして少し迷ったけどメールの最後に「麻季と奈緒人のこと、心から愛して
いるよ」と付け加えた。麻季へのメールを送信し終わったとき人の気配を感じた僕は顔を
上げた。
「音楽之友社の結城せん、結城さんですか」
その女性が僕にあいさつした。
名刺交換を済ませると僕は彼女にもらった名刺にちらりと目を落とした。
『財団法人首都圏フィルハーモニー管弦楽団 事務局広報渉外課 鈴木怜菜』
「首都フィルの鈴木です。よろしくお願いします」
「音楽之友の結城です。初めまして」
彼女は何かほんわかした雰囲気の優しそうな女性だった。ちゃんと仕事の話ができるの
か僕が一瞬心配になったくらいに天然の女性に見えた。仕事をしているよりも専業主婦で
育児とかしている方が似合いあそうな感じだ。外見だけ見れば麻季の方がよほどビジネス
ウーマンに見えるだろう。あくまでも外見だけの話だけど。
「あのインタビューの件ですけど」
彼女が手帳を見ながら言い出した。
「はい」
「よろしければ三月十四日の定演終了後にグリーンホールでいかがでしょう」
グリーンホールは首都フィルの本拠地だった。都下にあるけどそれほど遠いわけでもな
い。僕は手帳でスケジュールをチェックした。その日には今のところ予定がない。
「わかりました。何時にお伺いしましょうか」
「十四時開演ですのでインタビューは十六時くらいからでいいですか」
「結構です」
「もしお時間があるなら十四時にいらして定演を見ていってください」
その方がインタビューする側としては好都合だった。彼女はしばらく自分のバッグをご
そごそと探っていた。
「あ、あった。これをどうぞ」
「ありがとうございます」
僕は招待券を受け取って言った。
それで打ち合わせはあっけなく終ってしまった。しばらく沈黙が続いた。こんな内容な
ら電話かメールで十分だろう。なぜ彼女はわざわざ会って打ち合わせをしようと言ったの
だろう。でも初対面の、しかもこちら側からお願い事をしている身でそんなことを聞くわ
けにいかなかった。
「結城さんって音楽雑誌の編集者をされてたんですね」
突然彼女が言った。
「はい?」
「ごめんなさい。あたし、結婚前は旧姓が太田なんですけど、結城先輩と同じ大学で一つ
下の学年にいたんです」
何だそういうことか。
「ああ、それで」
「はい」
彼女は微笑んだ。
「先輩はあたしのこと知らないと思いますけど、あたしは先輩のことよく知っています」
「うん? 同じサークルでしたっけ」
「違います。あたし麻季の親友でしたから」
「そうなの? ごめん。全然わからなかった」
実際にはわからなったというより知らなかったという方が正しかった。大学の頃の麻季
には僕の知る限りでは本当に親しい友人は男女共にいなかったはずだ。何しろその頃の彼
女は筋金入りのコミュ障だった。外見の美しさや一見落ち着いて見える容姿や態度のせい
で取り巻きのような友人はいっぱいいたらしいけど。
「いえ。先輩とは直接お話したこともありませんし。でも麻季からはよく惚気られてまし
た。あの麻季がこれほど入れあげている男の人ってどんな人かなあってよく考えてました
よ」
「そうだったんだ。ごめん、あいつはあまり自分のこと喋らないから」
「結城先輩と麻季の結婚式にも参列させていただきました。麻季、綺麗だったなあ」
そのとき僕は帰宅して麻季に話してやれる話題ができてラッキーくらいに考えていた。
でも、どういうわけか彼女は俯いた。そして静かに泣き出した。
「鈴木さん、どうしたの」
僕は驚いて彼女に声をかけた。周囲の客の視線が刺さるようだった。これでは別れ話を
持ちかけている浮気男と振られた女のカップルのようじゃないか。
「・・・・・・ごめんなさい」
「いや、いいけど。大丈夫?」
それには答えずに彼女が話し出した。
「音楽之友からの取材メールを見たとき、あたしびっくりしました。最後に結城博人って
書いてあったし。あたしそれが麻季の旦那さんのことだってすぐに気がついたんです。こ
んな偶然があるんだなあって」
「ごめん。よくわからないんだけど」
「あたし、ずっと先輩に連絡を取ろうとしてたんです。麻季の携帯の番号しか知らなくて、
でも麻季には連絡できないし」
「うん」
「だから仕事で先輩から連絡を受けたときチャンスだと思いました。これで先輩とお話で
きるって」
彼女はコミュ障の麻季には似合いの親友なのかもしれない。さっきから随分彼女の話を
聞いているのだけど、彼女が何を言いたいのか少しも理解できない。
「あたし、結婚してるんです」
それはそうだろう。旧姓太田と言っていたし、それに左手の薬指には細いリングが光っ
ている。
「あたしいけないとは思ったんですけど。でも最近旦那の様子が変だし不安だったんで旦
那の携帯を見ちゃったんです。そしたら旦那と麻季が浮気していて」
僕は凍りついた。麻季の浮気の話なんてとうに知っている。今はそれを克服しようと夫
婦ともに努力している最中だった。でも鈴木先輩は独身ではなかったのか。
「君・・・・・・横浜フィルのチェロのフォアシュピーラー、その鈴木先輩の奥さんなのか」
「・・・・・・はい」
彼女は俯いてそう答えた。
麻季の告白のあと僕は鈴木先輩について調べていた。ネットでも情報は手に入ったし、
社の演奏家のデータベースにも情報はあった。新人であればネットの方はともかく社のDB
には音楽雑誌に紹介されているような有望な若手しか登録はない。
鈴木先輩は社のDBにも情報が登録されていた。
鈴木雄二。
横浜フィルの次席チェリスト。東洋音楽大学の1年上の先輩。横フィルの有望な新人。
「麻季とうちの旦那が浮気してたって聞いても驚かないんですね」
怜菜が顔を上げて僕に聞いた。
「・・・・・・うん。麻季から聞いているからね」
「そうか。先輩は麻季のこと許したんですか」
「許したっていうか、やり直すことにした」
「何で麻季と旦那の浮気を知ったんですか。先輩が麻季を疑って問い詰めたんですか」
「いや。麻季の方から告白した」
「そうなんですか」
怜菜は寂しそうに笑った。「先輩がうらやましい」
「どういうこと?」
「自分から告白したのは麻季も罪の意識を感じていたからでしょうし、先輩に嘘をつきた
くなかったんでしょうね。うちの旦那と違って」
どう答えればいのかわからない。僕は黙っていた。
「それにうちの旦那は、まだ自分の浮気があたしにばれていないと思ってますよ」
「鈴木先輩は独身だって聞いたんだけど」
彼女には気の毒だけど僕にとっては気になることだったので、僕はまずそれを確認しよ
うと思った。
「麻季にそう言われたんですか」
「・・・・・・うん」
「じゃあきっとうちの旦那が麻季に自分は独身だって言ったんでしょうね。麻季がそのこ
とで先輩に嘘をつく理由はないでしょうし」
「君と麻季の親友でしょ。麻季は君と鈴木先輩が結婚したことを知らなかったの?」
「ええ。麻季と先輩の結婚式以来麻季とは会ってませんし、あたしたちの結婚は大学卒業
後だし結婚式も挙げなかったんで、あたしと旦那のことを知っている人は大学時代の知り
合いはほとんどいないと思います」
「あのさ」
「はい」
「僕も麻季に裏切られたと知ったときは自殺したいような心境だったよ。でも僕たちには
子どもがいるし、何よりも麻季は本当に先輩との過ちを後悔していると僕は信じている」
「・・・・・・そうですか」
「麻季と鈴木先輩の仲はもう終っている。君の気が楽になるならそれだけは保証するよ」
「結城先輩にとっては、かつて過ちを犯した二人が今だに密かにメールのやりとりをして
いるのは許容範囲内なんですか」
怜菜が顔を上げて僕を真っ直ぐ見た。
「そんな訳ないでしょ。でも麻季はもう君の旦那と縁を切っているんだし」
怜菜がバッグからプリントを何枚か取り出した。
「やり直そうとしている先輩と麻季を邪魔する気はないんです。でも、事実を知らないで
判断するのは先輩と麻季にとってもよくないと思います。余計なお世話かもしれませんけ
ど」
「・・・・・・どういう意味?」
「さっきも言ったように旦那の様子が最近変だったんで悪いことだとは思ったんで旦那の
携帯をチェックしたんです。そしたら麻季と旦那がメールを交換し合ってて。転送すると
旦那にばれそうなんで、旦那が携帯をリビングに置いたまま自宅のスタジオで練習してい
る間に関係あるメールを見ながら全部全部パソコンに入力し直したんです」
怜菜に渡されたプリントは先輩の携帯の送受信メールのやりとりを印刷したものだった。
「よかったら読んでください」
僕は怜菜に渡された書類に目を通した。
最初のうちは久し振りの再会を懐かしがったり大学時代の知り合いの話題を交換したり
しているそういう内容のメールが麻季と先輩の間に交わされていた。メールでのやりとり
が重ねられて行くうちに二人のメールは随分親密な様子に変わっていった。
僕は胸の痛みを感じながらプリントを読み進めた。メールから理解できた範囲ではその
内容は麻季に告白されたものと事実としては全く同じ内容だったので、少なくとも浮気を
告白したときの麻季が嘘をついていないことだけは確認できた。それでも実際に男女の親
密そうなやりとりを読むことは僕の精神にかなりの打撃となった。メールを読むことによ
って僕は今麻季の告白の事実を実際に追体験させられていたのだ。
段々と親密さを増していく二人。そのうちメールはもっとも辛い部分に差し掛かった。
この辺りになると少なくともメールの文面上は麻季は先輩に対して敬語ではなくもっと
親しみを込めた口調になっていた。そして先輩も麻季のことを呼び捨てするようになって
いた。
『ごめんさい。あたしも久し振りにコンサートに行きたいし先輩の演奏も聞きたい。でも
小さな子どもがいるから家を留守にできないの。ごめんね先輩』
『それは残念。お子さん、昼間は保育園とか幼稚園とかに行ってるんじゃないの』
『何言ってるの。専業主婦だから保育園には入れません。それに奈緒人はまだ幼稚園に入
園できる年齢じゃありません。先輩って音楽以外のことでは常識ないのね(笑)』
『そっかあ。実家とかに預かってもらえないの? 今度の演奏はぜひ麻季に聞いて欲しか
ったなあ。実は演奏のイメージは大学時代の清楚だった麻季をイメージして作ったんだ。
水の妖精だから麻季にぴったりでしょ(笑)』
『清楚な水の妖精って、子持ちの主婦に何言ってるの(笑)。でもわかったよ。実家に預
けられるかどうか聞いてみる』
『ほんと? やった』
コンサート当時の日付のメールはなかった。それはそうだろう。この日、麻季は結局奈
緒人を自分の実家に預けてコンサートに出かけたのだから。多分、精一杯着飾って。そし
てその夜、麻季は先輩に抱かれた。二人は直接会って二人きりで過ごしていたのでメール
を交換していないのは当然だった。
僕は麻季の必死の謝罪と奈緒人への愛情表現によってその過去は克服していたつもりだ
ったけど、直接二人のやりとりを見るのはやはりきつかった。ここまで読んでもまだ未読
のプリントがまだ残っていた。麻季の釈明によればその夜の過ちに後悔した彼女は、もう
これで最後にしようと先輩に言ったはずだった。その後も先輩からは言い寄られたりメー
ルが来たりしたとは言っていたけど、麻季は返事をしなかったと泣きながら僕に言ってい
た。証拠として自分の携帯を僕に差し出しながら。僕はプリントの続きを読んだ。もう黙
って僕を見守っている怜菜のことは意識から消えていた。
『僕は本気だよ。学生時代から麻季のことが大好きだった。旦那と別れて僕と一緒になっ
てくれないか。君のことも奈緒人君のことも責任を持って一生大切にすると約束する』
『ごめんなさい先輩。もう連絡しないで。あたしはやっぱり奈緒人が大事。だから奈緒人
の父親である主人を裏切れません』
『奈緒人君のことは大切にするって言ってるじゃないか。それに君だって専業主婦で子育
てと旦那の面倒だけみている人生を送るなんて、君を家庭に閉じ込めるなんて君の旦那は
絶対間違っているよ。昔からあいつは嫉妬深かったけど。麻季はあれだけ佐々木先生に認
められていた自分のピアノを本気で捨てるのか? 僕なら君と一緒に音楽の道を歩んで、
お互いを高めあうような関係になれると思う。麻季を本気で愛している。もう一度自分の
人生をよく考えて』
『先輩、何か誤解してるよ。博人君はあたしに専業主婦になれなんて一言も言っていない
の。妊娠したときにあたしが自分で先生の手伝いを止めたの。奈緒人のために育児に専念
したかったから。間違っても博人君の悪口は言わないで』
『ご主人のことを悪く言ったのはごめん。でもこれだけは撤回しない。僕は君のご主人よ
り君のことを理解しているし君にふさわしいと思う』
『もうやめようよ。あたしは博人君と奈緒人を愛してるの。先輩とはもうメールしません。
これまでありがとう、先輩。もうあたしのことは放っておいて。先輩とは二度と会わない。
何度メールしてきても決心は変わりません』
僕はプリントを全部読み終わった。その生々しいやりとりに動揺もしたし、僕に対する
鈴木先輩の誹謗めいた言葉に憤りもした。でも結局麻季は先輩を拒絶したのだ。少なくと
も先輩と別れたという麻季の言葉は嘘ではなかった。
「見せてくれてありがとう」
僕はプリントの束を怜菜に返そうとした。
「先輩、まだニ、三枚読み残しがあるみたい」
怜菜が言った。最後と思っていたページの下に数枚最後のページに折曲がってくっつく
ようにして残っていることに僕は気づいた。
「先輩には申し訳ないですけど、その最後の方を読んだ方がいいと思います」
怜菜はさっきまで泣いていたとは思えないくらい冷静な口調で言った。
「・・・・・・わかった」
僕は紙を捲って未読のプリントを読み始めた。最初に麻季から鈴木先輩に当てたメール
があった。日付を見ると二~三ヶ月前だ。それを見て僕は目の前が暗くなった。僕が必死
で彼女を信じてやり直そうとしている間に、麻季は再び先輩とメールを再会していたのだ。
『もう電話もメールもしないで。あたしのことを本当に大切に思っていると言う先輩の言
葉が本心ならもう放っておいて』
『ごめん。君のことが心配でいてもたってもいられなくなって。今日も定演のリハだった
んだけど散々な出来だったし』
『説明するからこれで最後にして。あたしは先輩との過ちを博人君に告白しました。博人
君はあたしのことを許してやり直そうと言ってくれたの。もちろん完全に彼に許してもら
えたなんて思っていない。彼は奈緒人のためにあたしのことを許そうと考えてくれたんだ
と思う。もうあたしには奈緒人と博人君のためだけを考えて一生過ごすほかに選択肢はな
いの。先輩のこと嫌いじゃなかった。でももうあたしの中に先輩の居場所はありません』
麻季は先輩のことは嫌いではないと言っていた。それは本当に辛かったけど、そこだけ
を問題にしてせっかくやり直している僕たちの関係を無にする気はなかった。
「もう少しだけだから全部読んでみてください」
怜菜が言った。続きを読むと先輩と縁を切ったはずの麻季のメールがまず目に入った。
『奈緒人が今日初めて「おなかすいちゃ」って言ったの。ちょっと言葉は遅かったからす
ごく嬉しかった』
『よかったね。安心した?』
『うん。旦那にメールしたら彼もすごく喜んでた。少し興奮しすぎなくらい(笑) 博人君
も仕事中なのにね』
『そうか』
『あ、惚気話でごめん、先輩』
『いや。麻季が旦那とやり直そうと決めたんだから別に構わないよ。何か悩みでもあった
らいつでも連絡して』
次のメールは数か月後だった。それは麻季の方から先輩に出したメールだった。
『突然ごめん。先輩元気でしたか。定演の評判聞きました。もうこれで人気演奏者の仲間
入りだね』
先輩はそれに対してお礼を言う程度の当たり障りのない返信をしていた。
『またメールしちゃってごめんなさい。うまくやり直せてると思っていたんだけど、博人
君内心ではあたしのことを許してないみたい。彼に迫っても全然抱いてくれないの。やっ
ぱりあたしが先輩と寝たこと気にしてるのかな』
『僕が言うのもなんだけど、男ならそんなに簡単に妻の浮気を許せないかもね』
『どうしよう。あたしにはもう博人君と奈緒人しかいないのに』
『気長に仲を修復するしかないんじゃないかな。それでもどうしても駄目だったら僕のと
ころにおいで。僕は一生独身で君を待っているから。それが君を不幸にしてしまった自分
の罰だと思ってる』
『そんなこと言わないで。先輩はあたしに構わずいい人を見つけて幸せになってよ』
麻季は夫婦生活の不満のような微妙な話題まで先輩に相談していた。そして先輩の方も
は全く麻季を諦めていないような返信をしていた。
「これって・・・・・・」
「結城先輩、ごめんなさい。先輩を苦しめる気はないの。でも事実は事実だから」
怜菜は僕に向かってすまなそうに謝った。
「君が謝ることはないよ。ただ、麻季は先輩とはもう縁が切れていると思っていたからこ
ういうやりとりをしているとは思わなかった」
「本当にごめんなさい。先輩だって被害者なのに」
「君はこのことを先輩に言ったの?」
僕は無理して怜菜のことを心配して言った。でも心中は穏かではなかった。僕が不貞を
働いた麻季を許したつもりだった。でもこのメールを見る限り麻季が僕の態度に不満、あ
るいよく言って不安を感じていることは明らかだった。
麻季は僕には口では僕に謝罪し一番愛しているのは僕だと言った。でもこのメールのニ
ュアンスでは息子のために僕とやり直すような気持ちが感じられた。そして何よりも夫で
ある僕に対して何も言わないでいる自分の考えを先輩に対しては隠すことなく伝えていた
のだ。
僕は吐き気を感じた。
「彼には何も話していません。メールのことも麻季のことも。今は様子見ですね。このま
ま彼と麻季がフェードアウトするならなかったことにしようと思ってます。でも、これ以
上二人の仲が縮まったら彼とは離婚します」
怜菜は冷静にそう言った。でも彼女の手は震えていた。
「できれば離婚はしたくないんです。妊娠しているので」
僕は絶句した。思わず視線が怜菜の腹部に向かってしまった。
「・・・・・・先輩はそのことを知っているのか」
自分の妻が妊娠しているのに他人の妻に独身を装っていつまでも待っていると言うよう
なクズなら、もうすることは一つしかない。
「いえ。まだ彼には伝えていません」
怜菜が寂しそうに笑った。「先輩はやっぱり麻季を許すんですか」
「わからない」
本当にわからなかった。やり直すと宣言した以上、普通の夫婦生活を送ることは僕の義
務だった。だから誘ってくる麻季を抱けなかったことは僕の責任かもしれない。でも、そ
のことを不倫の相手に、僕をこういう風にした原因者にしれっと相談している麻季の心理
は僕の想像の範囲を超えていた。
「麻季のこと恨んでるだろ」
自分のことで精一杯だったはずの僕はこのとき半ば逃避気味に怜菜と先輩の仲を考えよ
うとした。麻季とのことは考えたくもなかったので実際これは完全に逃避だった。
「麻季は彼を独身だと思っているみたいだし、ましてあたしが妻だとは知らないでしょう
し」
怜菜が再び寂し気に微笑んだ。どういうわけか怜菜のその表情に、僕は自分が麻季に再
び裏切られたと知ったとき以上の痛みを感じた。
「先輩に妊娠しているって言ってみたら?」
「結城先輩には怒られちゃうかもしれないけど、旦那は本当は優しい人なんです。だから
あたしが彼の子どもを妊娠していると知ったら、それで目が覚めるとは思います」
「だったら」
「ごめんなさい。あたしは妊娠とか関係なく彼にあたしのところに戻って欲しいんです。
子どものことを考慮した仲直りなんて信じられません」
その言葉に僕は言葉を失った。それは僕のしようとしたことへの明確な否定だった。怜
菜はすぐに僕の様子に気がついた。自分だって辛いだろうに、彼女は人の気持ちを思いや
れる人間のようだった。
「ごめんなさい。結城先輩がお子さんのことを考えて麻季を許したことを批判してるんじ
ゃないんです」
僕が間違っているのだろうか。僕は奈緒人のことを真に一緒に考えてくれるのは麻季し
かいないと考えて麻季の不倫を許した。でもその結果がこのメールだ。
「あたし、決めたんです」
「・・・・・・うん」
「もう一月だけは旦那のことを責めないで我慢します。でも、一月たってまだ旦那が麻季
にいつまでも待っているみたいなメールをしていたら、彼とは離婚します」
「そうか」
「結城先輩には事前に話しておきたかったんです。ご迷惑だったでしょうけど」
「いや。君に恨みはないよ。どうするにしても真実を知れて良かった」
僕は相当無理して言った。実際、怜菜には何の非もないばかりか彼女が一番の被害者だ
ったかもしれない。
「じゃあ、これで失礼します。インタビューの件はよろしくお願いします」
「あ、ちょっと」
「はい」
「大きなお世話かもしれないけど。君が鈴木先輩と別れたとして、お腹の子ども
は・・・・・・」
「育てますよ。もちろん。一人になってもあたしには仕事もあるし育児休業も取れますか
ら」
最後に怜菜は強がっているような泣き笑いの表情を見せた。
怜菜の話を聞いて以来僕はずっと考えていた。鈴木先輩が独身じゃなくて怜菜が先輩の
奥さんであったこと、麻季が先輩とはもう連絡していないと言いながらも、親密な相談
メールを送っていたこととか。その事実は僕を苦しめた。でも、辛い思いをを必死で我慢
してじっと自分の心の奥底を探ってみると僕が本当に悩んでいたことは麻季の心理や行動
とかではなくて、僕が麻季を許した動機の部分であることが段々と理解できるようになっ
た。
『ごめんなさい。あたしは妊娠とか関係なく彼にあたしのところに戻って欲しいんです。
子どものことを考慮した仲直りなんて信じられません』
怜菜は彼女と鈴木先輩との仲をシビアに見つめていた。麻季と先輩の関係に目を背け、
奈緒人を言い訳になし崩しに麻季とやり直そうとしている僕とは対照的に。なりふり構わ
ないのなら怜菜にだってできることはあるはずだった。メールのことを鈴木先輩に話して
麻季との仲を清算するように詰め寄ってもいいはずだし、自分が妊娠していることだって
武器になる。怜菜本人も自分の妊娠を知れば先輩は麻季を諦めて自分のところに戻ってく
るだろうと言っていた。
でも彼女はそれをせず黙って先輩と麻季の仲を見守っている。自分の浮気を知られ怜菜
に責められ彼女の妊娠を知った上で先輩が自分を選ぶことを拒否しているのだ。怜菜は強
い女性だった。自分の行動や悩みを振り返るとますますそう思い、僕は自己嫌悪に陥った。
僕がしたことは判断停止に近い。麻季と先輩の仲を深く探ろうともせず、麻季の本当の
気持ちを知ることさえ拒否し、麻季が謝っていることに安住して奈緒人を言い訳に彼女を
許した。麻季には当然非がある。先輩とはもう何も関係がないと言いつつ夫婦間の悩みを
先輩にしていたのだから。でも、きちんとした言い訳や謝罪すらさせてもらえず、僕に対
する罪の意識を抱えたままにさせられた彼女が先輩にメールした動機は少しだけ僕にも理
解できた。それなら一度存分に浮気をした麻季を責め立て自分の気持をぶつけてから今後
のことを決めればいいのだけど、今の僕にはそれすら恐かった。麻季を問い詰めようとは
思ったときだってあった。怜菜に見せられたメールのやり取りを思い浮かべて。
『気長に仲を修復するしかないんじゃないかな。それでもどうしても駄目だったら僕のと
ころにおいで。僕は一生独身で君を待っているから。それが君を不幸にしてしまった自分
の罰だと思ってる』
『そんなこと言わないで。先輩はあたしに構わずいい人を見つけて幸せになってよ』
少なくともこのことだけは麻季に指摘しておくべきだったろう。彼女は僕に嘘をついて
先輩とメールを交わしていたのだから。それでもそれを実行しようとするとき、僕は情け
ないことに奈緒人の無邪気な様子を思い浮かべて躊躇してしまうのだった。これを言った
ら麻季は本当に家を出て行ってしまうかもしれない。そうなればもう二度と麻季とも奈緒
人とも会えなくなるかもしれない。そう思うと僕には何もできなかった。本当に情けない。
怜菜は自分と自分のお腹の子のために一人で必死で耐えているというのに。
帰宅してマンションのドアを開けたとき、偶然に目の前には奈緒人がいた。奈緒人はい
きなりドアを開けて入ってきた僕を見て凍りついたように固まった。でもそれが僕とわか
ると満面に笑みを浮べて僕の方に手を伸ばしてきた。
僕はしがみついてくる奈緒人を抱き上げた。
「お帰りなさい、博人君」
奈緒人を追いかけてきたらしい麻季が微笑んだ。
『かつて過ちを犯した二人が今だに密かにメールのやりとりをしているのは許容範囲内な
んですか』
そう怜菜は言った。もちろん答えはノーだったはずだった。でも帰宅した僕に抱きつく
息子やその様子を微笑んで見ている麻季を見ると、怜菜に会って考え直したことはどこか
に失われてしまい、メール程度は許容するべきじゃないかとも思えてくる。
怜菜は辛い立場だったろう。自分の夫が親友の麻季に対して自分は独身だと、いつまで
も麻季を待っていると言っているのだから。確かに麻季は嘘をついていた。もう連絡しな
いと言っていたのに、実際は先輩に身の上相談までしていた。
でも怜菜と違って僕には奈緒人と麻季が微笑んで僕の帰宅を待っていてくれる家庭があ
る。メールのことはショックだったし、麻季の本心がわからなくなったけど、少なくとも
あのメールでは麻季は僕を選んでくれていた。妻の存在を隠して麻季を口説いている先輩
をただ待っているだけの怜菜よりも、僕の方がまだましな状態なのかもしれない。
潔く、浮気した麻季と別れるか曖昧に今の関係を続けるのか。このときの僕は本当に揺
れていた。結局、僕は怜菜に会ったことも怜菜から麻季と先輩が未だにメールをやりとり
していることを聞いたことも麻季には話さなかった。奈緒人を抱いた僕に対して微笑んだ
麻季に対して、あらためて愛情を感じたせいかもしれない。愛情というかそれはむしろ執
着といってもいいかもしれないけど。怜菜はメールで証拠を押さえていることや自分の妊
娠を武器にして先輩を引きとめようとはしていない。先輩が自ら目を覚ますことを願って
じっと待っているのだ。そんな怜菜の意思を無視して勝手に麻季にメールの話をするわけ
にはいかなかった。怜菜に見せられたメールは僕を悩ませた。先輩との関係を泣きながら
謝罪した麻季が僕に嘘を言っていたのだ。麻季が嘘をついたことと、自分の悩みを打ち明
ける相手として僕ではなく先輩を選んだことは、麻季が先輩に抱かれたことよりも僕を苦
しめた。
怜菜は一月だけ待つと言った。別に僕が怜菜に義理立てする必要はない。でも僕は怜菜
の判断に自分を委ねようと考えた。合理的な思考ではないかもしれないけど、あれだけ追
い詰められている怜菜が鈴木先輩を許すなら、僕も麻季を許そう。でも麻季が先輩と別れ
るなら僕も麻季との離婚をを考えよう。
悩んだ結果、ようやくそこまで僕は自分の思考を整理することができた。このときの僕
には正常な判断能力は失われていたのかもしれない。情けないけど僕は怜菜の判断に全て
を委ねる気になっていた。
「ご飯食べたの」
麻季が微笑んだまま聞いた。
「連絡しなくて悪い。食べてきちゃった」
実際は怜菜との会談で食欲を失っていた僕は何も食べていなかった。でも今麻季の用意
した食事を食べられるほど僕のメンタルは強くない。
「気にしないでいいよ。それよりそろそろ奈緒人を寝かせなきゃ」
「ああ。悪い」
僕の手から奈緒人を受け取った麻季は奈緒人を寝室に連れて行った。
こうして僕は自分の判断を保留して怜菜の審判を受け入れる道を選んだ。怜菜の言う一
月を待つ間、僕は麻季にできる限り優しくした。別に陰険な思いからではない。これが麻
季との生活の最後になるかもしれないのだ。浮気までされて情けないという気持ちもあっ
たけど、麻季と付き合って結婚した生活は彼女の不倫の発覚までは幸せだった。だから僕
は麻季と別れるにせよ、最後までその思い出を綺麗なままにしたかった。
麻季も僕に対して優しく接してくれた。彼女が本心で何を考えていたかまではわからな
い。でもこの奇妙なモラトリアムの間、僕たちは理想的な夫婦を演じたのだ。
僕は怜菜と会ったことを麻季には話さなかった。怜菜は僕に対して何も口止めしなかっ
た。でも彼女が何もせずに先輩の行動を見守っている以上、そして僕も怜菜の判断に追随
しようと考えたからには、麻季に怜菜のことを話すわけにはいかなかった。
それでもいろいろ考えることはあった。怜菜が鈴木先輩を許した場合でも僕は麻季と本
気でこの先やり直せるのか。そして怜菜が先輩を見限ったとしたら僕と麻季は離婚するこ
とになるのだろうか。先輩と麻季は結ばれるのか。その場合の奈緒人の親権はどうなるの
か。それはいくら考えても現状では何の結論も出なかった。
再び怜菜と会ったのは横フィルの新しい常任指揮者へのインタビュー終了後だった。笑
顔であいさつする怜菜に、僕は少し話せないかと誘ってみた。怜菜が決断するために区切
った期限まであと一週間とちょっとしか残っていない頃だった。
「いいですよ」
屈託のない笑顔で怜菜は答えた。
定演のあったホールの近くは知り合いだらけでまずいので、僕は彼女をタクシーに乗せ
てホールから三駅ほど離れているファミレスまで連れ出した。人目を避けて行動している
いることに対して何となく不倫をしているような妙な緊張感を感じる。でもホール周辺は
怜菜や僕の知り合いだらけだったからそうするしかなかったのだ。タクシーの中の彼女は
インタビューの様子や何月号にそれが掲載されるかといった仕事繋がりの話をしていたと
思う。
適当に見つけたファミレスに入って向かい合わせに座った僕は、時間を取らせたことを
彼女に詫びた。
「いえ。あたしも先輩とお話したかったから」
怜菜は笑って言った。
「君は強いな」
そんなことを言うつもりはなかったけのだけど、僕は思わず口に出してしまった。表面
上はいい家族を必死で演じていた僕は、この頃になるともう精神的に限界だった。家庭で
ストレスを感じながらも麻季に優しく接している分、仕事中の僕の態度は最悪だった。部
下にも些細なことで当り散らしたりもした。
「強くなんかないですよ。旦那の目を盗んで毎日泣いてます。お互い辛いですよね」
そんな僕の心境を知ってかどうかはわからないけど、彼女は僕にそう言って微笑んだ。
その微笑んだ顔はすごく綺麗だった。・・・・・・大学時代に知り合ったのが麻季ではなく怜菜
だったら、僕は今頃どういう人生を送っていたのだろう。僕のアパートの前で幼馴染の理
恵に嫉妬して騒ぎ立てたのが麻季ではなく怜菜だったとしたら。仕事から帰宅した僕を、
奈緒人を抱いた怜菜がおかえりなさいと迎えてくれる姿が思い浮かんだ。彼女なら麻季と
違って浮気も不倫もしないだろうし、きっと何の悩み事もない夫婦生活を送れていたかも
しれない。それはどうしようもない幻想だった。第一に怜菜なら突然親しくもなっていな
い僕のアパートに押しかけたりはしないだろう。そして僕にとって何よりも大切な奈緒人
を産んでくれたのは麻季であって、怜菜ではない。
「どうしました?」
怜菜が微笑んで言った。僕は慌てて無益な幻想を頭から振り払った。こんな妄想で現実
逃避している場合ではなかった。あと一週間と数日で結果が出るのだ。
「もう少しで一月になるけど、君の決心が固まったのかどうか聞きたくて」
僕は言った。
「まだ決めてません。一月たっていないし」
それから彼女はハンドバッグの中から数枚のプリントを取り出した。読むまでもなく麻
季と先輩のメールのやり取りだろう。未だに麻季は先輩と接触があるのだ。
「多分このことが気になっているんですよね。どうぞご覧になってください」
そう言われると僕は麻季のメールが気になっていたような気がしてきた。矛盾するよう
だけどさっきまでは先行きのことばかり気にしていて、今現在の麻季と先輩の様子を気に
することは失念していたのだ。
『奈緒人君が順調に成長しているようで何よりです。よかったね』
『ありがとう先輩。この子はあたしにべったりなのでトイレに行くのも大変』
『麻季みたいな人がママならそうなるだろうね』
『この子を幼稚園に盗られちゃったらあたしはすることが無くなっちゃうな。そう思うと
ちょっと恐い』
『そしたら君はそれだけ旦那さんに愛情を注げるんじゃない? やり直すんだからいいこ
とだと思うけどな』
『先輩は何でそんな意地悪なこと言うの?』
『ごめん。意地悪したつもりはないんだ。でも君が彼を愛していると言っていたから』
『あたしの方こそごめんなさい。先輩が心配してくれているのに』
『彼とうまくいってないの?』
『博人君はあたしに優しいよ。でも何か彼の目が遠くて恐いの。あたしを見てくれている
ときでもあたしを通り越してもっと遠くの方を見ているようで』
『こんなこと聞いて悪いけど、旦那は君を抱いてくれた?』
『レスのままです。でもそういうこと先輩には聞かれたくないよ』
『ごめん。でもしつこいようだけど言わせてもらうよ。僕には麻季を誘惑して抱いてしま
った責任がある。麻季が旦那と幸せなら僕はもう何も言わないしメールだってしない。で
も麻季が彼との生活に辛い思いをしているなら、僕のところに来て欲しい。僕は麻季がど
うするか決めるまでは独身のままで待っている。それが僕の贖罪だと思うから』
『ありがとう先輩。今は決められないけど気持ちは嬉しい。あたしのしたことは過ちだ
し博人君を裏切ったのだけど、それでも先輩との一夜が単なる遊びじゃなかったってわか
った。それだけでも先輩には感謝している』
『お礼を言うのは僕の方だ。例え僕が麻季と結ばれても僕は一生君の旦那さんへ罪悪感を
感じて生きて行くんだろうな。それでも後悔はしてないよ』
前に読ませてもらたメールよりも二人の距離が近づいていることが覗われた。もうこれ
は駄目かもしれない。このときになってようやく僕にも怜菜が先輩に対して不貞行為の証
拠を突き詰めなかったことが理解できてきた。実際にこの二人が僕や怜菜を捨てて一緒に
なる決断をするかは結果論であって、今はそんなことはどうでもいい。先輩と麻季が自分
たちの関係に価値を見出し、そのことをお互いに確認しあっていることが問題なのだ。
怜菜は最初からそのことだけを追求していた。だから先輩を責めなかったし麻季に対し
て先輩には自分という妻がいることを話したりもせずずっと耐えて待つことにしたのだ。
そして僕にもようやく理解できた。麻季が奈緒人と僕を愛していて、それゆえに麻季が先
輩と縁を切ることを僕は勝利条件だと考えていた。でもそうではないのだ。麻季と先輩が
お互いに求め合いながらも奈緒人や僕への未練のためにもう連絡も取らず会わないと決め
たとしても、それは何の解決にもなっていないことを。
そのことを僕はか弱い外見の怜菜に教わったのだ。
「また結城先輩につらい思いをさせたちゃてごめんなさい。まだ期限は来ていないと言っ
たけど、でも正直もう駄目かなって思ってます」
それまで微笑んでいた怜菜が泣き出した。
「・・・・・・僕もそう思う。これは互いに求め合っている悲劇の恋人同士の会話だもんね」
「わたしもそう思います。こういうことになるかなって思ってはいたけど、それが現実に
なるとすごく悲しくて寂しい。むしろ旦那のことを憎みたいのに、まだ未練が残っている
自分がとてもいや」
「先輩と離婚する?」
「はい。期限前だけどもう無理でしょう。旦那とは別れます。そして一人でお腹の子を育
てます。先輩は・・・・・・どうされるんですか」
僕は息を飲んだ。優柔不断な僕だけどもう逃げているわけにはいかないことは理解でき
ていた。
「君が先輩と別れるなら僕もそうするよ」
「え?」
怜菜が一瞬理解できないような表情を見せた。
「何言ってるんです? あたしと旦那が離婚したからといって、先輩が同じことをする必
要なんてないですよ。先輩がお子さんのために麻季と頑張ろうとしているならそれは立派
なことじゃないですか」
「僕もこの間君に会ってから考えたんだ。謝ってくれて奈緒人を大切にしてくれる麻季と
やり直そうとした決心は正しかったのかって。麻季が僕のことを好きなことは間違いない
と思っているけど、少なくとも麻季の心の半分は先輩に取られているようだ。それなら毎
日僕に微笑んでくれる麻季は多少なりとも演技をしているわけで、麻季の気持ちに目をつ
ぶってそんな生活を維持することが本当に奈緒人の幸せになるのかって」
「先輩の気持ちはわかりますけど、麻季は現実逃避しているだけですよ。たまたまその相
手のうちの旦那が優しくしてくれるから自分の気持を勘違いしているんだと思いますけ
ど」
「君だって辛いのに麻季のことなんか庇わなくていいよ」
「そうじゃないです。麻季と旦那との関係は恨んでいますけど、麻季本人のことは恨んで
ません。親友だし彼女のことはよくわかっています。麻季は本心では結城先輩のことしか
愛していないと思います。今はうちの旦那との偽りの関係に酔っているだけですよ」
「もういいよ。今はお互いに自分のことだけを考えようよ」
「・・・・・・はい。もう少ししたら結論を出します。そうしたら旦那に別れを言いだす前に先
輩には連絡させてください」
「うん。わかった」
その数日後に僕は再び怜菜と会った。最初に彼女と会った社の近くの喫茶店で。
怜菜に呼び出されて緊張しながら店内に入った僕に気がついた彼女は立ち上がり僕に
深々と頭を下げた。
「お呼び立てしてごめんなさい」
「いや」
僕たちは向かい合って座った。注文したコーヒーが運ばれてからあらためて怜菜が頭を
下げた。
「いろいろとご迷惑をおかけましたけど決心しました。今までお付き合いいただいてあり
がとうございました」
「・・・・・・決めたんだね」
「はい。結城先輩には感謝しています」
怜菜が言った。
「いや。僕の方こそありがとう」
「先輩さえよかったら今日この後帰宅したとき旦那に離婚を求めようと思います」
「いいも悪いもないよ。僕や麻季のことは気にしないで自分の思ったとおりにしてくださ
い」
「ありがとう」
怜菜はもう泣かずに僕に向かって微笑んでくれた。
「このあと先輩はどうされるんですか?」
「もう少し考えるよ。君にはいろいろ教わったしそういうことも含めて最初から考えて見
ようと思う」
「それがいいかもしれませんね」
「お子さんは順調なの? 体調は平気?」
「・・・・・・しないでください」
怜菜にしては珍しく乱れた声だった。
「うん?」
「そんなに優しくしないでください。あたし、これから一人で頑張らないといけないの
に」
怜菜が俯いた。
「最近、先輩があたしの旦那だったらなって考えちゃって。ここまで麻季のことを思いや
る先輩みたいな人があたしの旦那さんだったらどんなに幸せだったろうなって、あたし先
輩とお会いするようになってから考えちゃって」
後にそのことをで後悔することになるのだけど、このときの僕は黙ったままだった。心
の浮気も有責なのだ。怜菜の毅然とした様子やそれでもたまみ見せる弱さにきっと僕も惹
かれていたのだと思うけど、それを言葉にしてしまえばしていることが麻季や先輩と一緒
になってしまう。
「麻季がうらやましい・・・・・・。ごめんね先輩。お互いに配偶者の浮気に悩んでいるのに、
一番言ってはいけないこと言っちゃった。忘れてください」
怜菜が立ち上がった。
「今までありがとうございました。誰にも言えずに悩んでいたんで、先輩とお会いしてず
いぶん助けてもらいました」
「僕は何もしていないよ」
僕はようやくそれだけ言った。
怜菜が微笑んだ。
「そんなことないですよ、結城先輩。麻季とやり直せるように祈ってます。じゃあさよな
ら、先輩」
「さよなら」
結局これが生前の怜菜と直接会って交わした最後の会話となった。
怜菜が事故で亡くなる前、僕は怜菜からメールを受け取った。怜菜が鈴木先輩と離婚し
てから半年近い月日が経過した頃だった。それは職場のPCのメーラーに届いていた。口に
は出さなかったけど鈴木先輩と麻季と同じことをすることが気になって、僕は怜菜とは携
帯電話の番号やメールのアドレスを交換しなかった。だから怜菜は名刺に記されていた職
場のアドレスにそのメールを送信したのだろう。
from:太田怜菜
to:結城先輩
sub:ご無沙汰しています
『先輩お久し振りです。お元気に過ごしていらっしゃいますか。突然会社にメールしてし
まってすみません。先日は見本誌を送付していただいてありがとうございました。そして
お礼が送れてすみませんでした。わたしが言うのも失礼ですけどいいインタビュー記事で
した。さすがは先輩ですね。うちの上司も喜んでいました』
『現在わたしは育児休業中です。先輩にはお知らせしていませんでしたけど、無事に女の
子を出産いたしました。育児では大先輩の結城先輩に言うことではないですけど、この子
がわたしの支えになってくれています。以前お会いしたとき、わたしは先輩に失礼なこと
を言いました。「子どものことを考慮した仲直りなんて信じられません」って』
『でも今になってみると先輩の気持ちがわかります。今では本当にこの子のためなら何で
もできると考えている私がいます。正直一人で育てていますので辛いことはいっぱいあり
ます。でもこの子の寝顔を見ていると頑張らなきゃって思い直す日々を送っています』
『どうでもいいことを長々とすいません。最近、偶然に学生時代の友人に会いました。彼
女は今は都内の公立高校の音楽の先生をしているのですけど、先日麻季に会ったことを話
してくれました。休日のショッピングモールで偶然に出会ったみたいですね。先輩もご記
憶かもしれません。休日出勤の途上の彼女は麻季と立ち話で近況を報告しあっただけで別
れたそうですけど、「麻季のご主人がお子さんの手を引いていたよ」と、「そして麻季は
あたしと立ち話をしている間もご主人のもう片方の手にずっと抱きついていたよ」って言
っていました。いいご夫婦で麻季がうらやましいって言ってましたね。彼女も未だに独身
なんで(笑)』
『おめでとう先輩。元の旦那と離婚したこと自体には後悔はないのですけど、わたしなん
かが余計なメールを先輩に見せたことで先輩と麻季の人生が狂わないかとそれだけが心配
でした。先輩なら麻季の気持ちを取り戻せるんじゃないかとは信じていましたけど』
『もう結城先輩とお話する機会はないでしょうし、ご迷惑でしょうからメールもこれで終
わりにします』
『最後だから言わせてください。あたしは学生時代から結城先輩に片想いしていました。
麻季が先輩と付き合い出したと教えてくれたとき、あたしは本当に目の前が暗くなる思い
でした。でも麻季は親友でした。麻季は昔から綺麗でしたけど性格に少し理解されにくい
ところがあったので友人は少なかった。でもあたしはその数少ない友人、いえ親友でした。
だから先輩と麻季の結婚には素直に祝福したのです』
『その後、あたしは業界の繋がりで元の旦那に再会しました。しばらくして彼に口説かれ
て結婚したことをあたしはすぐに後悔しました。今までははっきりとは言いませんでした
けど彼は結婚直後から女の出入りが激しかった。浮気がばれたことなんて片手では収まら
ないほどでした』
『でもそれは元の旦那が自分が既婚者であることを明かした上での付き合いでした。とこ
ろがある日嫉妬と不安に駆られたわたしが彼の携帯のメールをチェックすると、彼は自分
が独身であると言って麻季を口説いていたことを知りました。麻季があたしの親友である
ことを彼は知っていたのに。その後のことは先輩もご存知ですね』
『先輩はわたしのことを強い女だと言ってくれました。でもそれは誤解です。わたしは弱
く卑怯な女でした。先輩から取材の依頼メールが来たとき、わたしは胸が高鳴りました。
本当はあのインタビューの件はわたしの上司の係長が担当することになっていたのですけ
ど、わたしはこの人は私の音大時代の親しい先輩だからと嘘を言って自分が担当になるこ
とを納得してもらったのです』
『お互いに伴侶の不倫を慰めあっているうちに恋に落ちる二人。そんな昼メロみたいなこ
とをわたしは期待して先輩をあの喫茶店に呼び出しました。そして、先輩はわたしが旦那
と別れるなら自分も麻季と別れるって言ってくれました。もちろんそれは先輩がわたしに
好意があるからではないことは理解していました』
『でも奈緒人君への愛情を切々と語る先輩の話を聞いているうちにあたしは目が覚めまし
た。奈緒人君から母親を、麻季を奪ってはいけないんだと。そしてその決心は自分の娘を
出産したときに感じた思いを通じて間違っていなかったんだなって再確認させられたので
す』
『本当に長々とすいません。あたしの先輩へのしようもない片想いの話を聞かされる義理
なんて先輩にはないのに。でもわたしは後悔はしていません。そして今では先輩が麻季と
やり直そうとしていることを素直に応援しています。生まれてきた子がわたしをそういう
心境に導いてくれました』
『先輩のことだから麻季の携帯のチェックなんて卑怯な真似はしていないと思います。わ
たしから先輩への最後のプレゼントです。昨日噂を耳にしました。最近荒れていた元旦那
に彼女ができたみたいです。わたしが元旦那に離婚を切り出したときも彼は平然として、
君が僕のことを信じられないならしかたないねと言っていました。その旦那が最近ふさぎ
こんでいることをわたしは知り合いから聞いていました。最初は私と別れたからかなって
思っていたんですけど、そうではないようです。やはり麻季が元旦那にきっぱりと別れを
告げたみたい。結局麻季は結城先輩を選んだのです』
『そして元旦那も麻季のことを諦めて、次のお相手をオケ内で調達したらしいです。いつ
までも独身で麻季を待つと言ったあのセリフはどこに行ったんでしょうね(笑)』
『これでわたしの非常識なメールは終わりです。先輩・・・・・・。大好きだった結城先輩。こ
んどこそ本当にさようなら。麻季と奈緒人君と仲良くやり直せることを心底から祈ってま
す』
怜菜の離婚後も結局なし崩しに麻季とのやり直しを選択した僕は、その辛いメールを読
み終わった。
それから数日後に混乱した想いを乗せたメールを返信したのだけど、それは送信先不明
で戻ってきてしまった。そのとき僕は業務上の用件を装って首都圏フィルに電話した。知
らない女性の声が応対してくれた。
『首都フィル事務局です』
『・・・・・・音楽之友社の結城と申しますけど鈴木さん、いや太田さんをお願いします』
鈴木さんか太田さんわからない人からわけのわからない電話が僕にあったことはつい昨
日のようだった。
『鈴木は退職いたしました。後任の多田と申します。どんなご用件でしょう』
『いえ、すみません。ちょっと個人的な用件で電話しました。失礼いたしました』
電話口の多田さんと名乗る女性は僕の慌てている様子に少し同情してくれたらしかった。
音楽之友社の肩書きも多少は有利に働いたのかもしれない。
『鈴木に何かご用でしたか』
『はい。連絡先を教えていただけないでしょうか』
無理を承知でそう言った僕に多田さんは答えた。
『それはお教えできません。業務上のご連絡でないならこれで失礼させていただきます』
『すみません。ありがとうございました』
これで本当に怜菜と僕の繋がりは断ち切られた。
今日はここまで
また投下します
怜菜のメールのとおり怜菜と先輩が離婚したあとも僕は麻季と別れなかった。怜菜の決
断に従って自分の行動を決めようと思っていたのだけど、この頃から奈緒人が急速に成長
していたこともあり僕はそんな奈緒人を大切に育てようとしている麻季と別れることがで
きなかった。麻季と先輩の仲とか最後に会ったときの怜菜の寂しそうな表情とかが僕を苦
しめたけど、息子の成長を見守ることがそのときの僕にとって最優先事項になっていたの
だった。
怜菜の最後のメールで怜菜の心境を始めて知った僕は心を揺り動かれたのだけど、同時
に麻季が先輩と本当に縁を切ったらしいという話にもほっとしていた。麻季が本当に僕の
ところに戻ってきてくれた。怜菜の告白に動揺していたし一時期彼女の告白めいたセリフ
に心が動いたことも事実だったのだけど、やはり僕は心底から奈緒人をそして奈緒人の母
親、麻季を愛しているようだった。
それから数週間後、怜菜への同情と未練を断ち切った僕は、珍しく早い時間に帰宅でき
た。自宅の近所での取材の帰りに直帰することができたのだ。まだ明るい時間に帰宅する
のは久し振りだった。これなら奈緒人がおねむになる前に息子と一緒に過ごすことができ
る。僕はそう思って自宅のマンションのドアを開けた。そこには黒づくめの喪服姿の麻季
が立っていた。
「博人君、ちょうどよかった。さっきからメールとか電話してるのに出てくれないんだも
ん」
「ごめん。近所でインタビューしてたからさ。おかげで早く直帰できたんだけど。それよ
りその格好どうかした? 近所で不幸でもあったの」
「奈緒人は実家に預けようかと思ったんだけど、博人君が帰ってくれてよかった。大学時
代の友だちが交通事故で亡くなったの。これからお通夜に行きたいだけど」
「いいよ。奈緒人は僕が面倒をみてるから。つうか斎場はどこ? 車で送っていこうか」
「ううん。保健所の近くらしいから大丈夫よ。奈緒人、まだ夕食前だからお願いね」
「わかった。亡くなった人って僕も知っている人?」
「博人君は知らないと思う。あたしの大学時代の親友で結婚式にも来てもらった子で太田
怜菜っていうんだけど、多分あなたは覚えていないでしょ」
「・・・・・・」
「博人君? どうかした? 顔色が悪いよ」
「・・・・・・やっぱり送って行く」
「あたしは助かるけど、奈緒人はどうするの」
「連れて行く。君が帰ってくるまで斎場の前に待ってるから」
麻季はいつもと違う雰囲気の僕に不審を感じたようだった。麻季の勘は時として鋭い。
「博人君、怜菜のこと覚えてるの?」
「とにかく一緒に行こう。僕は外で奈緒人をみながら手を合わせているから」
自然と涙が溢れてきた。麻季の目の前で泣いてはいけないことはわかっていたし、怜菜
だってそれは望んでいなかっただろう。でもこれはあんまりだ。鈴木先輩と麻季の不倫に
悩んだ挙句、彼女は自分の娘だけを生きがいに生きて行こうとしていたのに。
「あとで全部話すよ。とにかく出かけよう」
麻季はもう逆らわずに奈緒人を抱いて車に乗った。僕には今でも自宅から斎場まで運転
したときの記憶がない。麻季によれば僕はいつものとおり荒くない安全運転で斎場まで麻
季を連れていったそうだ。
僕の記憶は通夜の弔いを済ませた麻季が青い顔で車のドアを開けたところまで飛んでい
る。そこから先の記憶はある。麻季がいつもは奈緒人と並んで座る後部座席ではなく助手
席のドアを開けて車内に入ってきた。
「何で?」
「何でって?」
僕はそのとき冷たく答えた。怜菜の死には先輩にも麻季にも関わりがないことだった。
でもそのとき意識を覚醒した僕は怜菜の淋しそうな微笑みを思い出した。怜菜の死に責任
はないかもしれないけど、その短い生涯を閉じる直前に怜菜を追い詰めた責任は彼らにあ
る。
「何で親族席に鈴木先輩がいたの。何で鈴木先輩が取り乱して泣き叫んでいたの」
離婚して間がないことから親族の誰かが気をきかせたのだろう。もう離婚していたあい
つにはその席で怜菜の死を悼む権利なんてないのに。
「とりあえず家に帰ろう。奈緒人も疲れて寝ちゃっているし」
「博人君は何か知っているんでしょ。何であたしに教えてくれないの。親友の怜菜のこと
なのに」
助手席におさまったまま麻季は本格的に泣き出した。
その日も陰鬱な雨が降りしきっていた。
午前中に僕の実家に奈緒人を預けた僕と麻季は、僕の運転する車で都下にある乳児院を
併設した児童養護施設に向っていた。本来ならもう桜が咲いていてもいい季節だったけど
その日は冬が後戻りしたような肌寒い日だった。
やがて海辺の崖に面している施設の入り口の前に立ったとき、僕は隣に立っている麻季
の手を握って問いかけた。
「本当にいいのか」
「うん。もう決めたの。博人君はあたしを許してくれた。そして怜菜も鈴木先輩を奪おう
としたあたしを許してくれていたとあなたから聞いた。信じてくれないかもしれないけど、
あたしはあなたと奈緒人が好き。一番好き。もう迷わない。あなたはそんなあたしのこと
を信じているって言ってくれた。本当に感謝しているの」
「それはわかったよ。でも血が繋がっていない子を引き取るとか・・・・・・本当に大丈夫なの
か」
麻季は僕の手を強く握った。
「大丈夫だよ。あたしは怜菜の子どもを立派に育ててみせる。怜菜はあたしのせいで離婚
したんでしょ。本当なら両親に祝福されて生まれて大切に育てられていたはずなのに」
「そう簡単なことかな。奈緒人だってまだ手がかかるのに」
「博人君は君の好きなようにすればいいって言ってくれたでしょ。今になって心配になっ
たの?」
「違うよ。君が決めたんなら僕も協力する」
僕はそのとき怜菜のことを思い出した。
怜菜。わずか数回しか顔を会わせなかった怜菜。旦那の浮気に対してひとり毅然として
立ち向かった怜菜。腰砕けでだらしない僕をさりげなく慰めてくれた怜菜。こんな僕のこ
とを好きだったって最後のメールで告白してくれた怜菜。
彼女はもういない。熱を出した娘を病院に連れて行った帰りに暴走した車に引かれて彼
女は死んだ。麻季の話では、怜菜は即死ではなかった。自分が抱きしめて守った娘のこと
を最後まで気にしながら救急車の到着前に現場で息絶えたそうだ。
「行こう、博人君」
「うん」
僕たちは手を繋いだまま施設の中に入った。施設の中に入ると大勢の子どもの声が耳に
入った。
僕たちの考えは相当甘かったようだ。施設の職員は親切に対応してくれたけど彼女が説
明してくれた要件は厳しいものだった。考えてみれば児童虐待とかが普通にありえるこの
世の中では当然の措置だったのだろう。養子縁組には民法で定められたルールがある。養
子となる子が未成年者の場合、家庭裁判所の許可が必要だ。さらに養子となる子が十五歳
未満の場合は法定代理人の同意が必要となる。もちろん今回のケースの法定代理人は実の
父親だった。怜菜の死後先輩は怜菜の遺児を認知した。
つまり麻季の希望どおり玲奈の遺児を養子として引き取るためには鈴木先輩の同意が必
要なのだ。
それは鈴木先輩と怜菜の関係を知った麻季にはかなりハードルが高いことだったと思う。
僕は怜菜の通夜から帰宅して奈緒人を寝かせたあと、怜菜とのやり取りを全て麻季に話し
た。当然、麻季は錯乱した。夫である僕に嘘をついて鈴木先輩とメールを交わしていたこ
とを僕に知られたことや先輩が実は独身ではなかったことを知った以上に、怜菜が鈴木先
輩と麻季との関係を知りながら麻季を責めずに黙って僕と会っていたことがショックだっ
たようだ。
麻季の受けたショックが僕と怜菜が密かに会っていたせいか、怜菜が自分を責めずに最
後まで恨むことがなかったことを知ったせいかどちらが原因なのかはわからない。怜菜の
死には僕も相当ショックを受けていた。そして僕はもう何も麻季に隠し事をしなかった。
怜菜が僕が自分の夫だったら幸せだったのにと言ったことも告白した。最後に怜菜から会
社に届いたメールのことも話した。自分も一瞬怜菜が僕の妻だったら幸せだったろうと考
えたことがあることも麻季に告白した。それでどうなろうともう僕にはどうでもよかった。
怜菜を救ってあげられなかった絶望に僕は打ちひしがれていた。奈緒人のことは大切だ
けど、鈴木先輩と麻季の浮気によって苦しんだ挙句、最愛の娘を残して死んだ怜菜のこと
を考えると僕は先輩と麻季のことなどどうでもよかった。
麻季が先輩との関係を誤魔化したり怜菜のことを悪く言うならそれまでのことだ。そう
なったら僕は奈緒人の親権だけを争おう。今の仕事では奈緒人を育てられないというのな
ら転職だって辞さない。道路工事のアルバイトをしたって奈緒人を育てて見せる。でも怜
菜とのやりとりを聞かされた麻季は泣き出した。それは先輩に騙されたことへの涙ではな
く、先輩と離婚した怜菜が最後まで麻季責めずに僕との復縁を応援してくれたことを知ら
されたときのことだった。怜菜の名前を叫びながら泣きじゃくる麻季の姿を見て僕はもう
一度彼女とやり直してみ
ようと思ったのだ。
「あたし、鈴木先輩と話す」
養護施設の職員から制度の説明を受けたあと、施設を後にした麻季は僕にきっぱりと言
った。「絶対に了解させるから」
そのとき自分の言葉の勢いに気がついた麻季は一瞬うろたえた様子で僕を見た。
「博人君違うの。別にあたしが言えば先輩が言うことを聞くとかそういうことじゃなく
て」
最後の方は聞き取れないくらいに小さい声で麻季は言った。
「もういいよ。僕たちはお互いに全部さらけ出した上で、やり直すことを選んだんだ。今
さらそんなことを気にしなくていいよ」
「・・・・・・だって」
「決めた以上はお互いに気を遣ったりするのやめようよ。僕も正直に君への気持とか、怜
菜さんに惹かれたことがあることも話したんだ。もうお互い様じゃないか」
「それはそうだけど・・・・・・。博人君の話を聞いていると、あなたは本当は怜菜みたないな
子の方が似合っていたんじゃないかと思ってしまって。あなたが怜菜の気持に応えていた
ら、今頃怜菜も死なずに幸せに暮らしてたのかな。そんなことを考える資格はあたしには
ないのにね」
「もうよせよ。それより本当に先輩に話すの? 勝算はあるんだろうな」
「大丈夫だと思う」
「僕が先輩に話した方がいいんじゃないか」
「・・・・・・ううん。あたしにさせて。もうあたしと先輩が何とかなるとか絶対ないから。先
輩が独身だってあたしに嘘を言ったことよりも、離婚したとはいえ自分の子ども引き取ら
ずに施設に預けるような人だと知ってもう彼には嫌悪感しか感じない。友だちがほとんど
いないあたしにとって怜菜はようやくできた親友だったの。散々裏切っておいてこんなこ
とを言えた義理じゃないけど、お願い。あたしを信じて」
僕は彼女を信じて施設からの帰り道、先輩がいるだろう横浜市内にある横フィルのリー
サルスタジオに麻季を送り届けた。
「待っていてくれる?」
「もちろん」
一時間後に横フィルのスタジオから麻季が早足で出てきた。車のドアを開けて助手席に
乗り込んだ麻季は僕に法廷同意人である鈴木先輩の署名捺印がある用紙を見せた。
「お疲れ」
「うん。あたし頑張ったよ」
麻季が僕に抱きついて僕の唇を塞いだ。周囲の通行者たちからは丸見えだったろう。
その後は児童擁護施設の研修や施設職員の家庭訪問と面接があった。最終的に家庭裁判
所の許可を経て僕たちは養子縁組届を区役所に提出した。
こうして亡き怜菜の忘れ形見である女の子、奈緒が僕たちの家庭にやって来たのだった。
奈緒人と奈緒は初顔合わせの瞬間からお互いにうまが合うようだった。まだ奈緒は幼い
けれど、奈緒人の方はもう自我が出来上がり出す頃だったので、僕と麻季はそのことが一
番心配だったから、奈緒人と奈緒が仲がいいこといは心底からほっとした。僕たちの心配
をよそに二人はすぐにいつも一緒に生活することに慣れたようだった。
麻季も育児自体は奈緒人で慣れていたから奈緒を育てることに戸惑いはないようだった。
この頃の僕は相変わらず仕事は忙しかったけど、それでもいろいろやりくりしてなるべく
早く帰宅し、週末も家にいるようにしていた。そのせいで昼休も休まずに仕事をする羽目
にはなったのだけど。
毎日帰宅すると、僕は迎えてくれる麻季に軽くキスしてから子どもたちを構いに行った。
奈緒人はだいたい起きていて僕に抱きついてきた。奈緒はまだ幼いので眠っていることも
多かったけど、たまに起きている時は僕の方によちよちとはいはいしてきて抱っこをねだ
った。そんな僕と子どもたちの様子を、僕から受け取ったカバンを胸に抱いたまま、麻季
は微笑んで眺めていた。
概ね順調な生活を送っていた僕たちだけど、やはりあれだけのことがあった以上何もな
かったようにはいかなかった。
麻季と鈴木先輩の関係に関しては、僕はもう別れて何の連絡もないという麻季を信じて
いた。だから以前のようにそのことが夫婦間のしこりになることはなかったはずだったの
だ。麻季は真実を知った瞬間、自分の行いを心底後悔したと思う。
先輩に独身だと騙されていたとはいえ、自分の親友の怜菜を裏切ってつらい思いをさせ
ていたこと。それでも怜菜は麻季を恨むことなく、僕と麻季の幸せを祈ったまま先輩と離
婚したこと。そして一人で出産し奈緒を育てる道を選んだ怜菜が、娘の奈緒を庇いながら
事故死したこと。
全てを知って奈緒を引き取って育てる道を選択した麻季だけど、それだけで過去を割り
切るわけにはいかなかったようだ。順調に子育てをしているように見えた麻季だけど、し
ばらくするとやたらに麻季が僕に突っかかってくるようになった。
麻季が一番こだわっていたのは奈緒という怜菜の遺児の名前のことだった。
怜菜はなぜ娘に奈緒という名前を付けたのか。怜菜は僕や麻季への嫌がらせで自分の最
愛の娘にその名前を付けるような女ではない。怜菜は最後のメール以降、首都フィルを黙
って退職して僕との連絡を絶った。怜菜が事故に遭わずに存命していたら、僕も麻季も怜
菜の娘の名前を知ることはなかったろう。だからこれは嫌がらせではなかった。第一、怜
菜が麻季への嫌がらせのためだけに、生命をかけて自分が守った娘の名前を命名するなん
て考えられなかった。
その点では僕と麻季の意見は一致していた。それでも自分のお腹を痛めた息子の名前に
ちなんだとしか思えない奈緒という名前を娘に付けた怜菜の意図を考えると、麻季は冷静
ではいられなかったようだ。怜菜がもう亡くなっているのでその意図は永遠に不明のまま
だ。だからそれは考えてもしようがないことなのだ。僕はそう麻季に言った。
最初のうちは麻季は僕の言葉に納得していた。育児もうまく行っていたし、そのことだ
けで家庭を不和にするつもりは麻季にもなかった。先輩とのメールのやり取りで僕に嘘を
ついていたことを僕に知られていたことに対して麻季が負い目を感じていたということも
ったのかもしれない。
それでもしばらくすると麻季は奈緒の名前について文句を言うようになった。確かに兄
妹に奈緒人と奈緒という名前は普通は命名しないだろう。別にはっきりとどこが変という
わけではないけど、常識的には男と女の兄妹に一時違いの名前はつけないだろう。麻季は
最初は柔らかくそういうことを寝る前に僕に話しかけてきた。この先そのことに周囲が不
審に思い出すと子どもたちがつらい思いをするかもしれないと。
それは強い口調ではなかったので子どもたちをあやすのに夢中になっていた僕はあまり
深くは考えなかった。それがいけなかったのかもしれない。怜菜に対して罪悪感を感じて
いたはずの麻季は次第に怜菜のことを悪く言うようになった。
ある夜、子どもたちを寝かしつけたあとリビングのソファに僕と麻季は並んでくつろい
でいた。翌日が休日だから僕たちは麻季が用意してくれたワインとチーズを楽しもうと思
ったのだった。結構いいワインに少し酔った僕は、久し振りに麻季を誘ってみようかと考
えていた。麻季と和解してからずいぶん経つけど、怜菜の死や奈緒を引き取るといった事
態が重なったこともあって僕たちは相変わらずレスのままだった。
今なら麻季を抱けるかもしれない。久し振りの夫婦の時間に僕は少し期待していたのだ。
でも麻季は自分で用意したワインには一口も口をつけず青い顔でそう言った。
「怜菜を裏切ったあたしが言えることじゃないとは思うよ」
「でも、何であたしの奈緒人の名前をもじって奈緒なんて命名したんだろ。怜菜は博人君
にはあたしのことを恨んでいないと言ったらしいけど、本当はすごくあたしを恨んでたん
じゃないかな」
「いや。怜菜さんは本当に君を恨んだりはしていなかったよ」
「それなら何でわざとらしく奈緒なんて名前を付けるのよ。怜菜のあたしへの復讐かあな
たへの愛のメッセージとしか考えられないじゃない。そんな気持で命名された奈緒だって
可哀そうだよ。あの子には何の罪もないのに」
罪があるとしたら先輩とおまえだろ。僕はそう言いそうになった自分を抑えた。
「怜菜さんは冷静に自分や周囲を見ていたよ。数度しか会わなかったけどそれはよくわっ
た。そして鈴木先輩以外は恨んでいなかったよ。というかもしかしたら先輩のことすら恨
んでいなかったかもしれない。そういう意味では聖女みたいな人だったな」
僕はそのとき浮気の証拠を先輩に突きつけることもなく、ただ先輩が自分に帰ってくる
のを耐えながら待っていた怜菜を思い出した。僕が君は強いなと言った言葉を怜菜は否定
した。自分だって旦那に隠れて泣いているのだと。でも今思い返しても怜菜はやはり強い
女性だった。結局最後まで自分の意思を貫いて先輩と別れ一人出産したのだから。
あえてつらいことを思い出すなら、怜菜が自分の弱さを見せたのは最後に怜菜と会った
時だろう。あの時は怜菜は僕に惹かれていたとはっきり言った。そのとき僕は麻季と鈴木
先輩のような隠れてこそこそするような卑怯な関係になりたくなくて、はっきりした返事
をしなかった。でもそれが愛かどうかはともかく僕がそんな怜菜に惹かれていたこともま
ぎれもない事実だった。
「そうね。聖女か。怜菜は真っ直ぐな子だったよ。大学時代からそうだったもん。あたし
みたいに既婚者なのにほいほいと浮気するようなビッチじゃなかった」
「もうよそうよ」
「博人君は本当は怜菜と結婚した方が絶対に幸せだったよね。あたしみたいに平気で旦那
を裏切って浮気するようなメンヘラのビッチとじゃなく」
「・・・・・・どういう意味だ」
「怜菜はあなたが好きだったんでしょ」
「・・・・・・多分ね」
「あなたも怜菜が気になったんだよね?」
「あのときはそう思ったかもしれないね」
「ほら。あたしは先輩に抱かれて、その後もあなたに嘘をついて先輩とメールを交わして
あなたを裏切ったけど。あなたと怜菜だって浮気してるのと同じじゃない。違うのはあた
したちが一回だけセックスしちゃったってことだけでしょ」
「そのことはもう散々話し合っただろ。そのうえでお互いに反省してやり直そうとしたん
じゃないか」
麻季は俯いた。
「もうよそうよ。明日は休みだし子どもたちを連れて公園にでも行こう」
「・・・・・・あたしと違って博人くんは嘘を言わないよね。先輩との仲を誤魔化したあたしに
対してあなたは正直に怜菜に惹かれていたと言ってくれた」
「僕は君には嘘を言いたくないからね。というか君と付き合ってから君には一度も嘘をつ
いことはないよ」
「・・・・・・ごめんね。自分でもわかってるのよ。先輩とあたしと違ってあなたと怜菜は本当
は浮気とか不倫したわけじゃないし、それにもう怜菜はいないんだから将来を不安に思う
必要はないって」
麻季はとうとう泣き出した。いろいろと納得できないことはあったけど、心の上では僕
が怜菜に惹かれていたのは事実だったから僕は麻季に謝った。
「ごめん。僕と怜菜さんはお互いに情報交換しあっているつもりだったけど、確かにそう
するうちに彼女に惹かれていたことは事実だ。君を裏切ったのかもしれない。それを君の
浮気のせいにする気はないよ」
麻季は何か言おうとしたけど僕は構わず話を続けた。
「でも奈緒人のために、それから怜菜の子どもの奈緒のためにも僕たちはやり直そうとし
ているんでしょ? 君には悪いと思うけどこんな話を蒸し返してどんなメリットがあるん
だ」
麻季が再び泣き出した。
「ごめんなさい」
「いや」
「あたし最低だ。自分が浮気したのにそれを許してくれた博人君に嫌なことを言っちゃっ
て」
「もういいよ。明日は子どもたちを連れて外出しようよ」
僕は麻季を抱きしめた。麻季も僕に寄りかかって目をつぶった。僕は数ヶ月ぶりに麻季
に自分からキスした。麻季がこれまでしてくれてたような軽いキスではなく。麻季の体を
撫でると彼女も泣きながら喘ぎだした。僕は麻季の細い体を愛撫しながら彼女の服を脱が
した。
その晩、麻季の浮気以来初めて僕たちは体を重ねた。独身や新婚の時だってそんなこと
はなかったくらい麻季は乱れた。
こうして僕は再び麻季を抱くことができた。それからしばらくは麻季の感情も落ち浮い
ていたし、僕が帰ると機嫌よく迎えてもくれた。奈緒人と奈緒も順調に育っていたし、僕
たちは夫婦生活最大の危機を何とか乗り越えたかに思えた。
そのまま過去のことを引きずらない生活が数年続いた。奈緒人も奈緒も幼稚園に入った
し麻季も昼間は育児から開放されたせいか奈緒の名前や怜菜のことに悩むことも無くなっ
たようだった。奈緒人と奈緒は少し心配になるくらいに仲が良かった。これまでは奈緒人
や奈緒の愛情は僕と麻季に向けられていたと思っていたのだけど、この頃になると二人は
少しでもお互いが目に入る距離にいないとパニックになるくらいに泣き出すようになって
いた。
例えば外出中に僕と麻季が別行動を取ることもあった。そんなとき僕が奈緒人を、麻季
が奈緒を連れてほんの三十分くらい別々に過ごそうとしたとき、まず奈緒が火がついたよ
うに泣き出し、「お兄ちゃんがいいよ」と叫び出した。泣き叫びはしなかったものの奈緒
人の方も反応は同じようなものだった。「奈緒はどこにいるの」と繰り返し泣きそうな顔
で僕に訴えていたから。
それで懲りた僕たちは極力二人を一緒にいさせるようにした。そしてこのこと自体は僕
も麻季も嬉しかった。これまで頑張って奈緒人と怜菜の忘れ形見である奈緒を育ててきた
甲斐があったと思った。
そのまま推移すれば普通に仲のいい家族として歳月を重ねられたのかもしれない。この
頃は僕と麻季が怜菜や先輩のことを話題に出すことすらなかった。僕も、そして麻季もそ
んな今の生活に満足していたのだから。
編集長に海外出張を打診されたとき、僕は最初戸惑った。それはヨーロッパの音楽祭を
連続で三つ取材するのが目的だった。取材費に限りがある専門誌だったこともあり出張さ
せるのは記事作成兼写真撮影で一人だけ、あとは現地のコーディネーターと二人でやれと
のことだった。音楽祭の日程が微妙に近いせいで出張期間は約三ヶ月だった。
家庭はうまく行っていた。麻季との仲もそれなりに円滑になっていたし、何よりも子ど
もたちについて何の心配もない状態だった。この頃の僕の帰宅は相変わらず遅かったけど、
麻季がそのことに文句を言ったり悩んだりする様子もなかった。それでも僕は内心麻季や
子どもたちに会えなくなるのは寂しかった。
わがままは言えないことはわかっていたし、編集部の中から選ばれたことも理解してい
た。今まではこういう取材は自ら音楽祭に赴く評論家に任せていたのだから、自社取材に
踏みきった意味とそれを任された意味は十分に理解していた。
この頃の家庭が円満だったせいで僕は編集長に出張をOKした。業務命令だったので了
解するのが当然とは言えば当然だったのだけど。その晩、麻季に出張のことを伝えたとき、
どういうわけか麻季はすごく不安そうな表情をした。
「麻季、どうしたの? 大丈夫か」
「うん。ごめんなさい。大丈夫だよ」
麻季が取り付くろったような笑顔を見せた。
「博人君に三ヶ月も会えないと思って少し慌てちゃった。でもそんなに長い間じゃないし、
博人君が会社で認められたんだもんね」
「ごめんな。でも仕事だから断れないしね」
「わかってる。奈緒人と奈緒のことはあたしに任せて。奈緒は三ヶ月もすると相当成長し
ているかもね」
「それを見られないのが残念だけど。でもたった三ケ月だし辛抱するよ」
僕は奈緒を抱きながら麻季に言った。
「奈緒人は?」
「珍しく奈緒より先に寝ちゃった。いつもは奈緒が隣にいないと文句言うのにね」
奈緒の方も僕に抱かれらがらうとうとし始めていた。この頃になると奈緒の顔立ちはは
っきりとしてきていた。奈緒は将来美人になるなと僕は考えた。怜菜の可愛らしい表情と、
認めたくはないけど鈴木先輩の整った容姿を受け継いだ奈緒は、当然ながら奈緒人とは全
く似ていなかったのだ。
「奈緒をちょうだい」
麻季はうとうとし始めた奈緒を僕から受け取って、奈緒人が寝ている寝室の方に連れて
行った。やがて戻ってきた麻季が僕に抱きついた。麻季は不安そうな表情だった。僕は麻
季を抱きしめた。
「博人君好きよ。あなたがいなくなって寂しい・・・・・・早く帰って来てね」
そのとき麻季が何を考えていたかは今でもわからない。
それから二月後、取材を後えてホテルで休んでいた僕の携帯が鳴った。日本の知らない
番号からだった。僕が電話に出ると女性の声がした。
「突然すみません。こちらは明徳児童相談所の者ですが」
その女性は僕が奈緒人と奈緒の父親だと言うことを確認するとこう言った。
「奈緒人君と奈緒ちゃんは児童相談所で一時保護しています。奥様が養育放棄したためで
すけど」
僕は携帯を握ったまま凍りついた。
取材を終えていないため日本に滞在できるのはわずか三日間が限度だ。帰国便の機内で、
僕は一月前に業務連絡で二日間だけ帰国したときのことを思い出した。あのとき編集部に
寄って用を済ませてから帰宅した僕に、麻季は抱きつこうとしたけれど、その麻季を押し
のけるようにして奈緒が足にしがみついて来たのだった。麻季は少し驚いて身を引いたけ
どすぐに笑顔を取り戻して僕たちを見守っていた。奈緒人は少し離れてその光景を見つめ
ていたようだった。
そのときの家族の様子には少し違和感を感じたけど、すぐにいつもどおりの家族の団欒
始まった。久し振りだったのでいつもより会話も華やかだったはずだ。わずか一月後にこ
んなことになるような前兆はいくら思い返してもなかったと思う。麻季と子どもたちにい
ったい何があったのか。いくら考えてもその答は出なかった。
その三日間でしなければいけないことはたくさんあった。帰国して編集部に連絡して断
りを入れてから、僕は一度自宅のマンションに帰宅し、すぐに車に乗って児童相談所に向
った。相談所のケースワーカーさんから事情を聞いて実家に向った。途中に立ち寄った自
宅の床には小物や封を切られたレトルト食品の残骸などが散乱して異臭を放っていた。出
張前の綺麗に片付けられていた自宅の面影は全く残っていない。それまでに何度も麻季の
携帯に電話をしていたけれど、僕の携帯は着信拒否されているようだった。
僕は混乱し怯えながらも半ば無意識に運転して実家に辿り着いた。実家のドアのチャイ
ムを鳴らすと、しばらくして警戒しているような声がどちら様ですかと聞いてきた。実家
で暮らしている妹の声だ。
「僕だけど」
「・・・・・・お兄ちゃん?」
「うん。開けてくれ」
ドアが開くと妹が顔を出した。
「よかった。お兄ちゃんが戻って来てくれて」
そのとき廊下の奥から奈緒人と奈緒が走り寄って来て僕にしがみつくように抱きついた。
「パパ」
二人は同時にそう言って泣き出した。僕はしゃがみこんで二人を抱き寄せながら傍らに
じっと立っている妹の方を見上げた。
「・・・・・・今は奈緒ちゃんたちを慰めてあげて。話は後で」
妹は涙をそっと払いながら低い声で言った。
奈緒人と奈緒は泣きじゃくって僕に抱きついて離れなかった。何があったのか聞きたか
たけど、妹に言われるまでもなく今は子どもを落ち着かせるのが優先だった。僕は大丈夫
だよとかそんな言葉しかかけられなかったけど、そう言いながら子どもたちの頭や背中
を撫でているうちに次第に二人は穏かな表情になって行った。いったいこれまで苦労して
育てたこの二人に何が起こったのだろう。そしてこの先僕の家庭はどうなってしまうのか。
子どもたちの様子に胸が痛んだ僕だけど、二人が僕に抱きついたまま寝てしまうと改め
て混沌とした境地に陥ってしまった。
「いったい何があったの? 麻季は無事なんだよな」
「どういう意味でお姉さんが無事って言っているのかわからないけど、まだ死んでいない
という意味なら無事みたいね」
妹が冷たい声で言った。
「・・・・・・どういう意味?」
「お兄ちゃんから電話をもらって、児童相談所から子どもたちを引き取ってすぐにお姉さ
んから電話があったからね」
「麻季は何て言ってたんだ」
僕は淡々と話す妹に詰め寄りたい気持を抑えて聞いた。それでも無意識に大きい声を出
してしまったらしい。
「子どもたちが起きちゃうでしょ。もっと声を抑えて」
「悪かったよ・・・・・・それであいつは何だって?」
「奈緒人君と奈緒ちゃんを返せって。電話に出たのはお父さんだけど、お父さんのことを
誘拐犯みたいに罵っていたらしいよ」
いったい何のだ。もともと麻季はうちの実家とは仲が良かった。僕の両親とも妹ともう
まく行っていたのに。
「それでお父さんは、お兄ちゃんが帰るまでは孫は渡さないって言ったの。何があったの
かはわからないけど、自宅で何日も幼い子どもたちを放置するような人には子どもたちは
渡せないって」
「麻季と子どもたちに何があったんだ。おまえは何か知っているのか」
「お兄ちゃん、児童相談所に寄って来たんでしょ。そこでワーカーさんの話を聞いた?」
「うん」
「じゃあ、お兄ちゃんはあたしたちと同じことは知っているよ。あたしたちも児童相談所
の人から説明されたことしか知らないし。お姉さんが電話を切る前にお父さんが何があっ
たのか聞いたけど、お姉さんは答えずに電話を切っちゃったし」
最初のうちは、体調不良で二人とも休ませますという連絡が麻季から幼稚園にあったら
しい。でもそのうちその連絡すら無くなり、不審に思った幼稚園の先生が自宅や麻季の携
帯に連絡しても応答がない。そんなことが数日間に及ぶようになると、さすがに心配にな
った幼稚園から児童相談所に連絡が行った。同時にマンションの近所の人たちからも隣家
は昼間の間は子どもが二人きりで過ごしているらしいという通報も児童相談所にあったそ
うだ。
児童相談所の職員が家庭訪問をして見つけたのは、自宅の食べ物を漁りつくして衰弱し
た子どもたちだった。風呂やシャワーも入っていなかったようで異臭がしたそうだ。結局
奈緒人と奈緒はその場で救急車で病院に運ばれて点滴を受けた。そしてその二日後に児童
相談所に一時保護された。
警察を経由して僕の職場を突き止めた相談所の職員は、麻季には連絡を取らずに編集部
に電話した。編集部から僕の携帯の番号を聞いた相談所のケースワーカーが僕に連絡した。
「結城さんの依頼どおり、実家のご両親と妹さんが二人をお迎えにきたので身分を確認し
た上で、奈緒人君と奈緒ちゃんをお渡ししました。翌日に奥様が見えられましたけどね」
僕が帰国して児童相談所の担当だというケースワーカーをたずねたとき、彼女は苦笑し
ながら僕にそう説明した。「奥様は男の人と一緒に来て、大きな声で私たちを誘拐犯呼ば
わりしてましたよ」
僕は妻の不始末を謝罪した。
結局わかったのはこれだけだった。麻季が子どもたちを放置したことは間違いない。最
初この話を聞いたとき、僕は麻季の身に何か不慮の事故が起きたのではないかと思った。
怜菜の寂しく悲しい事故のことが頭をよぎった。でも、相談所の職員や妹の話によるとそ
んなことは全くないらしい。ようやく自分でも理解できてきた事実。それは想像もできな
いけど麻季が子どもたちを意図的に放置した挙句、子どもたちを保護した相談所や僕の実
家に子どもたちを渡すように居丈高に要求したということだった。
いったい麻季の心境に何が起こったのか。こんなのは僕の知っている麻季の行動ではな
い。自分の不倫や僕の怜菜への想い、それに僕の不在で混乱したとしても、少なくとも麻
季が愛している子どもたちを放置するようなことは考えられない。僕は妻が知らない女性
のように思えてきた。そしてそのことに狼狽した。
「父さんたちは?」
僕は気分を変えようと妹に聞いた。
「子どもたちの服とか必要な品物を買いに行ってるよ。お兄ちゃんの家からは何も持って
来れなかったからね」
「おまえにも迷惑かけたね」
僕は妹に謝った。
「気にしなくていいよ。大学はもう講義はないし四月に入社するまでは暇だしね。それに
奈緒人君と奈緒ちゃんも懐いてくれたし」
「悪い」
「だからいいって。あ、父さんの車の音だ。帰ってきたみたいね」
「おう、博人帰ったのか」
父さんと母さんは大きな買物袋を抱えて部屋に入ってきた。
「おかえり。奈緒ちゃんのサイズの服はあった?」
妹が心配そうに母さんに話しかけた。
「うん、探し回ったけど見つけたよ。奈緒人の物も一通り揃ったよ」
「よかった」
僕の子どもたちのために両親と妹がいろいろ考えてくれている。それは有り難いことな
のだけど、そのことは今の僕にはすごく非日常的な会話に聞こえた。これまで僕は子ども
たちの服のサイズなんか気にしたことはなかった。それは全て麻季の役目だったから。本
当にもう戻れないのかもしれないという事実をようやく自分に認め出したのは、このとき
からだった。
「父さん、母さんごめん。二人ともこんなこと頼める状態じゃないのに本当に悪い」
両親は高齢だった。僕と妹は両親が三十歳過ぎに生まれたのだ。両親が居宅支援サービ
スを受けようといろいろ調べていることは、以前僕は妹から聞いていた。
「おまえのためじゃないよ。孫のためだからね」
母さんが笑って言った。
「それより博人、麻季さんと何かあったのか」
父さんが真面目な顔になって言った。
「見当もつかないんだ。一月前に帰宅したときだって普通にしてたし」
「お兄ちゃんも何が何だかわからないんだって」
妹が助け舟を出してくれた。
「そうか」
父さんはため息をついた。「おまえ、いつまで日本にいられるんだ」
「明後日にはまた戻らないと」
「わかった。とりあえず一月後には帰宅できるんだな」
「うん」
「じゃあ、それまでは奈緒人と奈緒はうちで預かる。何があっても麻季さんには渡さな
い。その代わりに帰国したら一度麻季さんとちゃんと話し合え」
「・・・・・・明日、麻季の実家に行ってみようかと思うんだけど」
「やめておけ」
父さんが断定するように言った。
「だって」
僕がそう言ったとき妹が口を挟んだ。
「自相に姉さんが子どもったを返せって言いに行ったとき、男の人と一緒だったんでし
ょ?」
「そうだったな・・・・・・」
やはり鈴木先輩と麻季の仲が再燃したのだろうか。
「多分お姉さんの実家に行っても解決しないよ。それにお兄ちゃんが電話してもお姉さん
は出ないんでしょ」
「着拒されてる」
「じゃあ無理よ。出張が終るまではこの子たちはうちで面倒みるから。父さんたちは体調
もあるから厳しいだろうけど、あたしも面倒看るから」
「そうよ。唯も大学が休みなんで協力してくれるそうだし、あなたは安心して仕事に戻り
なさい」
母さんが妹の唯を見て言った。妹も頷いている。これでは全く何も解決しないし、麻季
のことをまだ信じたい僕の悩みも解決しない。でも父さんと妹の言うことが正しいことは
わかっていた。わずか二日でできることはない。
翌日は麻季を探すことを諦めた僕はずっと奈緒人と奈緒と一緒に過ごした。妹が一緒に
来てくれたので、公園に行ったりファミレスで食事をしたりショッピングモールで二人に
玩具や服を買ったりした(妹の話では両親の服装のセンスは古いので買い足した方がいい
とのことだった)。
子どもたちは妹に懐いていたけど、それ以上に僕のそばを離れようとしなかった。麻季
のことは気になるけれど唯の言うように今は子どもたちと過ごすことを優先してよかった。
明日には僕は再び子どもたちを置いて出かけなければならないのだから。
妹の勧めで早朝に実家を立って空港に向うとき、僕はあえて子どもたちを起こさなかっ
た。あとで話を聞くと目を覚まして僕がいないことを知った奈緒人と奈緒はパニックにな
って泣きながら実家の家中を僕を求めて探し回ったそうだ。両親も妹もそれを宥めるのに
相当苦労したらしい。
僕は実家を出て一度自宅に車を戻してから電車で空港に向かったのだけど、散乱した部
屋を眺めているとこれまで凍り付いていた感情が沸きたった。自宅を出るぎりぎりの時間
まで僕は泣きながら思い出だらけの部屋を掃除した。完全に綺麗にすることは無理だった
けど。時間切れで自宅を出て空港に向う前に、僕はふと思いついてリビングのテーブルに
麻季あてのメモを残した。
『おまえのことは絶対に許さない。奈緒人も奈緒もおまえには渡さない』
残りの一月、バイエルンでの取材は集中するのに大変だった。ふと気を許すと幸せだっ
たころの麻季の笑顔や子どもたちの姿が目に浮かび、集中して聞くべき演奏がいつのまに
か終っていたりすることもあった。それでも麻季の行動の理由をあれこれ考えているより
は仕事に集中した方がましだと気がついてからは、今まで以上に仕事にのめり込んだ。そ
のせいか編集部に送信した記事や写真は好評だったし、雑誌自体の売り上げも二割増とい
う期待以上の成果をあげたそうだ。
仕事が終ると僕は実家に電話して奈緒人と奈緒と話をした。僕が消えてショックを受け
ていた二人も次第にもう落ち着いていたようで、僕と話すことを泣くというよりは喜んで
いる感じだった。
『二人とも思ったより元気にしているよ』
電話の向こうで唯が言った。
「唯が子どもたちの面倒を見てくれるおかげだな」
『うーん。あたしもなるべく一緒に過ごすようにはしているんだけどさ。何というか二人
ともお互いがいれば安心みたいな境地になっちゃってるみたい』
「奈緒人と奈緒は前からいつもべったり一緒だったからな」
『まあそうなんでしょうけど。ちょっとでも奈緒人から離すと、普段は落ち着いている奈
緒がすぐに騒ぎ出すのよね。まあ兄妹が仲がいいのはいいことだけどね』
「そのせいで麻季や僕がいなくても我慢できるなら助かるけど」
唯は少し笑った。
『いいお兄ちゃんだよ、奈緒人は。あたしもあんな兄貴が欲しかったなあ』
「・・・・・・悪かったな。それで麻季を恋しがったりはしていないのか」
『全然。お兄ちゃんのことはいつ帰るのって二人ともよく聞くけど、お姉さんのことはこ
こに来てから一度も口にしないよ』
「そうか」
僕は子どもたちが落ち着いていることに少し安心することができた。やがて一月が過ぎ
て僕は帰国した。
帰国した僕を待っていたのは昇進の内示と実家に届いていた内容証明の封筒だった。
編集部に顔を出して無理を言って四日間の有給をもらった僕は、編集長に呼ばれ社長室
で辞令を受け取った。ジャズ雑誌の小規模な編集部の編集長を任されたのだ。正直昇進は
嬉しかったけど、二人の子どもを抱えて今までどおり激務に耐えていけるのかどうか心も
となかった。唯ももう少ししたら大学を卒業して内定している商社に入社することになる。
当然二人の子どもたちの面倒を見るわけには行かないし、かといって高齢の両親だけに育
児を任せるわけにもいかないだろう。
とりあえず実家に戻って今後のことを相談しよう。そして今度こそ麻季に直接会って彼
女が何を考えているのか説明させなければならない。正直ここまでされるとメモに残した
ように麻季を許すことはできないと思っていたけど、それでも納得できる理由が聞けるか
もしれないと期待している気持もあった。僕にはどこかでまだ麻季に未練があったのかも
しれない。
「パパお帰りなさい」
実家に戻ると奈緒人と奈緒が迎えてくれた。もう二人は泣くことはなかった。
「お兄ちゃん」
唯も子どもたちの後ろから出迎えてくれた。
「ただいま」
僕は大分重くなってきた二人を一度に抱き上げた。思ったより力が必要だったけど子ど
もたちが笑って喜び出したのでその苦労は報われた。唯も微笑みながらそんな僕たちを眺
めていた。
ついこの間までは妹ではなくてこの子たちの母親がこの場所にいたのだ。ついそんなど
うしようもない感慨に僕は耽ってしまった。
居間にいた両親にあいさつすると父さんが僕に一通の封書を渡してくれた。内容証明の
封書だ。封筒に記載されている差出人は「太田弁護士事務所 弁護士 太田靖」となって
いる。気を遣ってくれたのか、唯が子どもたちを連れて出て行った。公園まで犬を連れて
散歩に行くのだと言う。奈緒人も奈緒も僕のそばにいることに執着することなく三人と一
匹は賑やかに外出していった。
僕は父さんを見た。父さんはうなずいて鋏を渡してくれた。封を切って内容を確かめる
と受任通知書という用紙が入っていた。それは太田という弁護士が麻季の僕に対する離婚
請求に関する交渉の一切を受任したという文書だった。そこに記された離婚請求事由に僕
は目を通した。
「貴殿は結城麻季氏(以下通知人という)との間にもうけた長男の育児を通知人一人に任
せ滅多に帰宅せず、あるいは帰宅したとしても深夜に帰宅し、長男の育児上の悩みを相談
しようとする通知人を無視して飲酒した挙句、それでも貴殿に相談しようとする通知人に
対して罵詈雑言を吐くなどして通知人を精神的に追い込みました」
「また平成○○年○月頃、貴殿は通知人の大学時代の知人であるAと不倫を始めました。
通知人がAの夫からその話を聞かされ貴殿に事実を質問すると、貴殿は通知人が最初にA
の夫と不倫をしたのであって、貴殿とAはその相談をしていただけだという虚偽の返事を
したばかりか、事実無根である通知人とAの夫との不倫を責め立てるなどして通知人に多
大な精神的被害を生じさせました」
「さらに貴殿と不倫関係にあったAが貴殿との不貞関係が原因で夫と離婚すると、貴殿は
夫と離婚したAと実質的な同棲を試みようとしたものの、それを果たす前にAは不慮の交
通事故で亡くなりました。Aが亡くなったことを知った通知人が長男のことを鑑み貴殿と
の婚姻関係の継続に努力しているにも関わらず、貴殿はAの遺児である女児を引き取り通
知人が育児するよう要求しました。通知人が貴殿との婚姻関係を継続するために止むを得
ずにAの遺児を引き取り努力して育児しようと試みている間、貴殿はAは聖女のような女
だった。通知人のような汚らしい女とは大違いだったという趣旨の暴言を繰り返し、通知
人に対して多大な精神的被害を生じさせました。またこの間も貴殿は滅多に自宅に帰宅せ
ず長男とAの遺児の育児を通知人に任せたままでした」
「かかる貴殿の行為は,単にAとの不貞行為により婚姻関係破綻の原因を作ったことにと
どまらず、通知人の人格を完全に無視し、通知人を精神的に虐待したモラルハラスメント
として認定されるべき行動であり、婚姻関係の破綻の責任は完全に貴殿に帰すものであり
ます」
「以上の次第で通知人は貴殿との離婚及びその条件について当職に委任しました。つきま
しては近日中に離婚及びその条件についてお話し合いをさせていただきたいと思いますが、
まずは受任のご挨拶で本通知を差し上げた次第です。
なお,本件に関しては当職が通知人から一切の依頼を受けましたので、今後のご連絡等
は通知人ではなく全て当職にしていただくようお願い申し上げます」
「どういう内容だったんだ」
父さんが険しい声で聞いた。きっと僕の顔色が変っていたことに気がついたのだろう。
僕は黙って父さんに受任通知を渡した。
父さんは弁護士からの受任通知書をゆっくりと二回読んでから母さんに渡した。母さん
にはその内容がよく理解できなかったようだ。
「博人、おまえこの内容は事実なのか」父さんが僕の方を見てゆっくりと言った。「おま
えはここに書いてあるようなひどい真似を本当に麻季さんにしたのか」
「そんなわけないでしょ。博人はこんなひどい真似をする子じゃないわ」
母さんが狼狽して口を挟んだ。
「おまえは黙っていなさい。博人、どうなんだ。これが事実だとしたら父さんたちはおま
えの味方にはなれないぞ」
僕が混乱しながら重い口を開こうとしたとき、子どもたちと唯が帰宅して居間になだれ
込んで来た。
「パパ」
奈緒が可愛い声で僕を呼びながら抱っこをねだった。奈緒人も照れた様子で僕のそばに
ぴったりとくっ付いて来た。何があってもこの子たちだけは僕の味方をしてくれる。太田
という弁護士の内容証明によって僕は打ちひしがれていた。これまでの家庭生活の記憶が
麻季によって踏みにじられた気分だったのだ。多分このことは一生僕の心を傷つけるのだ
ろう。
でも、今この瞬間に僕にまとわりつく子どもたちを抱き寄せると、それが僕の心を正気
に戻してくれた。
父さんに渡された文書を今度は妹が険しい表情で読んでいた。どういうわけか父さんも
母さんも黙ってしまい、結果として大人三人が最後の審判を待つかのように唯の表情を見
守ることになってしまった。
妹は受任通知をぽいっとテーブルに投げ捨てて吐き捨てるように言った。
「ばかばかしい。お兄ちゃんがこんなことするわけないじゃん。他人ならいざ知らずお兄
ちゃんの家族であるあたしたちががこんな文書を信じるわけないじゃん。こんな内容をあ
たしたちが信じると思っているなら麻季さんも相当頭悪いよね。まあ既婚者なのにお兄ち
ゃん以外の男の人に平気で抱かれるくらいの脳みそしかないんだから、この程度のでっち
あげしかできないんでしょうね」
唯はそれまでお姉さんと呼んでいた麻季を麻季さんと呼んだ。
「唯の言うとおりよ。お母さんは博人を信じているからね」
唯と母さんの言葉に父さんは居心地悪そうにしていた。
「疑って悪かった。母さんと唯の言うとおり博人がこんなひどいことをするわけがないよ
な」
「父さん遅いよ。自分の子どもを信じてないの?」
どういうわけか唯が半泣きで言った。
「悪かった。ちょっとこの文書に動揺してしまってな。虚偽のわりにはよくできているか
らな」
「ばかばかしい。あなたは昔から理屈ばっかりで仕事をしてきたからこういうときに迷う
んですよ。あたしも唯も一瞬だって博人を疑ったりしないのに」
「それに奈緒人と奈緒の様子を見てみなよ。こんなひどいことをする父親にこの子たちが
こんなに懐くと思うの?」
麻季が止めをさした。
「悪かったよ。謝る。だが何が起きたかは話してほしい。博人、事実を話してくれ」
それまで大人の事情を気にせずにまとわりついている子どもたちを構いながら、唯と母
さんの援護に僕は泣きそうになった。
僕は全てを両親と妹に話した。
麻季の浮気。そして奈緒人への愛情からそれを許して彼女とやり直そうとしたこと。玲
菜に呼び出され麻季と先輩がメールのやり取りを続けているのを知ったこと。そして、玲
菜に最後に会ったときと離婚後の怜菜のメールで彼女が僕を好きだったということを知っ
たこと。僕もそんな怜菜に惹かれていたこと。
怜菜の離婚後、僕が再び麻季とやり直そうとしたこと。そして最後に怜菜の死後、麻季
が怜菜が先輩の妻で自分のことを恨まず黙って離婚したことを、怜菜の急死後のお通夜で
知ったこと。麻季は先輩が怜菜の遺児を引き取らないということを知って、その子を引き
取ろうとしたこと(この辺の話は奈緒を引き取る際に両親には説明してあったけど、麻季
が奈緒の父親と浮気をしていたことや僕が怜菜に惹かれていたことは初めて話した)。
話し終わったとき両親と妹はしばらく何も言わなかった。彼らの気持ちはよくわかった。
僕だって他人からこれほど純粋な悪意をぶつけられたのは初めてだったから。それに麻季
はつい少し前までは他人ではなかった。僕が海外出張を告げたとき、抱きついて甘えてき
た麻季の姿は今でも鮮明に思い浮ぶ。あれはわずか三月ほど前の出来事なのだ。
「・・・・・・お兄ちゃんさ」
唯が泣き腫らした顔で僕を見て言った。でもその口調は鋭かった。
「今は混乱していると思うけど、することはしておかないとね」
「どういうこと?」
「麻季さんが弁護士を立ててきた以上、こちらもしなきゃいけないことはたくさんあるで
しょ」
僕は唯の言っていることがよくわからなかった。それに思考の半分は僕に抱きつきなが
らも、二人きりで遊びだした子どもたちに奪われていた。
「まず生活費とか貯蓄の口座を調べて。そして麻季さんが自由にできない状態にしない
と」
随分生々しい話になってきた。唯は音大で何となく四年間を過ごした僕と違って、国立
大学の法学部を卒業したばかりだ。本人の志向もあって法曹の道には進まなかったけど、
内定している商社では法務部配属が決まっているそうだ。
「あとは親権だね。お兄ちゃんは麻季さんと離婚しても、奈緒人と奈緒を麻季さんに任せ
る気はないんでしょ」
「あるわけないだろ。一週間近く子どもたちを自宅で放置したんだぞ、あいつは」
「だったら養育実績を作って親権争いを有利にしないと。お兄ちゃん、放っておくとこの
まま離婚されて奈緒人と奈緒も麻季さんに盗られちゃうよ。こんなところで腑抜けていな
いでしっかりしなよ。こっちも麻季さんに対抗する準備をしないと。それともお兄ちゃん、
まだ麻季さんに未練がある? 麻季さんと別れたくないの?」
「いや、離婚はもう仕方ないだろ。こんだけの文書を送りつけてくる麻季とはもう一緒に
暮らせないよ」
僕は弱々しく言った。でもそれは本音だった。マンションの部屋に残したメモは麻季も
見たに違いない。僕は麻季が僕のアパートに押しかけてきたこと、先輩に殴られた麻季が
きょとんとして僕を見つめ、結城先輩、あたしのこと好きでしょと言ったときの彼女の表
情を思い出した。すごく切なくて涙が出そうだったけど、もうあの頃には戻れないのだろ
う。
「麻季さんと離婚して子どもたちの親権を取りたいならそろそろお兄ちゃんも立ち上がっ
てファイティングポーズ取らないと。麻季さんの豹変に悩んでいるのはわかるけど、もう
あっちは完全に準備して宣戦布告してきているんだよ」
妹の方が頭に血が上ってしまったらしい。唯に責められながらも僕はどうにも冷静に計
算する気にはなれなかった。そんな僕を尻目に唯はヒートアップして行った。そんな妹に
両親もやや辟易している様子だった。
「お兄ちゃんの話を聞いていると、確かにお兄ちゃんと怜菜さんは心の中では麻季さんを
裏切ったのかもしれないけど、実際に怜菜さんの旦那と体の関係になった麻季さんと比べ
れば非は全然少ないよ。ちゃんと戦えば二人から慰謝料は取れるよ」
「慰謝料とかどうでもいいよ」
「・・・・・・じゃあお兄ちゃんは養育権もどうでもいいの?」
「そんな訳ないだろ」
「唯の言うとおりだ」
それまで黙っていた父さんが口を挟んだ。「俺が役所を退職後に社会福祉法人の理事長
をしていたとき、評議員をしてくれていた弁護士がいる。随分懇意にしてもらった人だ。
彼に相談しよう」
「いや・・・・・・とりあえず麻季と一回も会って話していないんだ。とりあえず一度彼女と」
「やめたほうがいいよ。麻季さんの方が今後は一切は弁護士を通せって言ってるんだよ。
もうお兄ちゃんが好きだった麻季さんはいないんだよ。お兄ちゃんもつらいだろうけど、
奈緒人と奈緒を守りたいならお兄ちゃんもいい加減に目を覚まさないと」
唯がもどかしそうな、というか泣きそうな表情で僕に言った。
「唯・・・・・・」
自分では割り切ったつもりだったけどで直接会って話せば、麻季との仲が元に戻ること
はないかもしれないけど、少なくともどうして彼女がこんなひどい仕打ちをしたかくらい
はわかるだろうとどこかで期待していたのだろう。でも子どもたちのこの先を考えること
が優先なのだ。
唯の言うとおりだった。
今では麻季は敵なのだ。奈緒人と奈緒のことを考えれば、たとえどのような理由があっ
たにせよ一週間も自宅に子どもたちを放置するような母親に任せるわけにはいかない。
僕は唯や父さんの勧めに従った。つまり麻季を敵に回して戦うことを決意したのだ。
僕は父さんの知り合いの弁護士に正式に妻側との依頼を依頼した。初老の人の良さそう
な人だった。彼は受任通知を見て僕を疑わしそうに見た。きっと不倫したクズのようなD
V男から妻からの慰謝料要求の減額交渉でも依頼されたのだとと思ったのだろう。
最初から事情を話すと弁護士はようやく理解してくれたけど、彼が言うには証拠がない
ので客観的に立証し反論することは難しいそうだ。
「私は結城さんの代理人を引き受ける以上、あなたが真実を話してくれている前提で交渉
はしますけど、多分それは先方の太田先生も同じでしょうね」
先方との予備的な交渉の中で離婚するということ自体はお互いに与件になっていたので、
そこで揉めることはなかった。また、お互いに慰謝料の要求も無かった。ただ、問題は二
つあった。一つは離婚理由でもう一つは養育権だった。弁護士によれば実は互いに離婚で
一致していて慰謝料の請求もない以上、離婚の理由はさして重要ではないそうだ。そんな
ところは争わずに養育権の交渉に全力を注ぎましょうと僕は弁護士に言われた。そう言わ
れればそんな気もしてきた。どちらが有責かが重要なのは、離婚するしないや慰謝料の多
寡に影響するからであって、そこが争点になっていない以上はもう気にしない方がいいの
かもしれない。
先方の受任通知書の内容は巧妙に事実の一部を捉えてはいたけど、悪意によってその意
味を捻じ曲げたものだった。その内容はでたらめだった。でも僕がショックを受けたのは
その内容にではない。僕が傷付くのを承知しながら、それを自分の弁護士に語った麻季の
心の闇に僕は絶望したのだった。そして多分麻季がそういう行動に出た理由は弁護士間の
交渉で明らかになるようなことではないだろう。だから僕は自分の弁護士の言うとおり問
題を親権に集中しようと思った。
それは合理的な判断だった思うけど、どういうわけかそのとき同席していた唯が納得し
なかった。
「条件とかそういう問題じゃないでしょ。反論しなかったらこんなデタラメを認めたこと
になっちゃうじゃない」
「婚姻関係の破綻の原因がこちらにはないことを主張してもいいですけど、お互いに証拠
がない以上水掛け論になって終わりですよ」
「それでも主張するだけは主張した方がいいと思います。あの内容をこちらが認めたわけ
ではないですし、協議が決裂して調停や裁判に移行したら有責側かどうかは親権にも影響
するでしょ」
「まあ確かにその可能性は否定できませんね」
結局唯の主張するとおりに交渉することに決まった。
最初に太田弁護士との直接交渉の際、僕は依頼した弁護士に頼んで同席させてもらった。
もしかしたら麻季と会えるかもしれないと思ったのだ。でも先方は弁護士一人だけだった。
やはり麻季はもう僕と顔を会わす気はまるでないようだった。代理人の弁護士の予想どお
り、僕と麻季の離婚に関してどちらに責任があるかという話し合いは、徹頭徹尾無益なも
のだった。お互いに証拠もなくただ主張しあうだけなのだ。これが当事者本人同士の話し
合いなら泥沼だったろうけど、代理人同士の話し合いだったのでお互いに証拠を要求しそ
れがないとわかると、交渉はすぐにより良く子どもを養育できるのはどちらかという話し
合いに移っていった。
麻季に有利な点は、これまで奈緒人と奈緒を順調に育てた実績があることだった。不利
な点は二つ。麻季が一週間弱子どもたちを自宅に放置したこと。受任通知書でデタラメを
並べ立てた麻季も、僕が依頼した弁護士が情報公開請求によって入手した児童相談所の通
報記録に残されている事実には反論できなかったのだ。太田弁護士は僕の虐待に耐えかね
た麻季が一時的に錯乱した結果だと主張したけど、その頃僕はオーストリアにいたので、
その主張には重大な瑕疵があった。
もう一つは麻季の実家が遠方にあり、麻季の両親は育児をアシストできないということ
だった。離婚する以上、養育費だけでは生活していけないだろう。麻季の養育実績は彼女
が専業主婦であることを前提にしていたから、彼女が離婚した場合の生活設計はいろいろ
と不明でもあった。
一方僕にとって根本的に不利だったのは、まだ幼稚園児である子どもたちを育てる環境
が備わっていないことだった。太田弁護士はよくこちらの事情を調べていた。まず僕の仕
事は時間が不規則だし帰宅も深夜に及ぶことが多い。子どもたちを幼稚園から保育園に移
したとしても僕一人で子どもたちを育てることは不可能だ。僕は親権を争うと決めたとき
に両親に育児協力をお願いして快諾を得ていたけど、その両親自身がそろそろ介護が必要
な状況になりつつあることを太田弁護士には知られていた。
今、奈緒人と奈緒を育てていけるのは主に唯のおかげだったけど、唯の就職が目前に控
えている以上、それを交渉材料にするわけにはいかなかった。もう最悪は僕が仕事を変え
るしかないかもしれない。ジャズ・ミューズという老舗ジャズ雑誌の編集長を任されたば
かりの僕だったけど、もうこうなったら奈緒人と奈緒を手離さいためには本気で転職しか
ないとまで思うになっていた。
「・・・・・・あたし、就職するのやめて奈緒人と奈緒を育てようか」
ある日、唯が思い詰めたような顔で僕に言ったことがあった。考えるまでもなくもちろ
んそんな犠牲を唯に強いるわけには行かなかった。
そういうわけで僕と麻季の離婚に関する協議はお互いに折れ合わずに膠着していた。結
局僕と麻季の協議離婚は親権で対立したまま成立せず裁判所による調停に移行した。
その夜、僕は某音楽雑誌の出版社主宰のパーティーに出席していた。クラッシク音楽之
友にいた頃と違って、最近はこの手の商業音楽関係のイベントへの招待が増えていた。マ
イナーな雑誌ながらも編集長を任されていた僕は、実務から開放された分この手の付き合
いが増えていた。業務が終了したら何よりも実家に戻って子どもたちの顔を見たかったけ
ど、これも仕事のうちだった。
予想どおり都内の有名なホテルで開催されたそのパーティーには知り合いは皆無だった。
老舗のロック雑誌の編集者やほとんどアイドルミュージック専門のような雑誌の若い編集
者たちがそこかしこで友だちトークを展開している。ところどころで人だかりができてい
るのは、著名な評論家やミュージシャン本人を取り巻いている人たちのようだ。クラッシ
ク音楽専門の雑誌社が余技に出しているマイナーなジャズ雑誌の編集なんて全くお呼びで
はない雰囲気だ。受付してから1時間以上経つけど僕はこれまで誰とも会話は愚か、あい
さつすらしていない。これなら途中で帰っても全然大丈夫そうだ。こういう場で誰にも相
手にされないのはへこむけど、麻季にひどい言いがかりを付けられていた僕は大抵の人間
関係には耐性ができていた。
それでもこの場の喧騒は気に障った。そろそろ黙って帰ろうかと思った僕は静かにその
場を去ろうとした。途中で金髪の若い男性(多分最近よくテレビで見るビジュアル系のバ
ンドのボーカルだと思う)を囲んでいた人たちの脇を通り過ぎようとしたとき、突然僕は
誰かに声を掛けられた。
「博人君」
自分の名前を呼ばれた僕が振り返ると理恵が僕のほうを見て微笑んでいた。
「・・・・・・理恵ちゃん」
「わぁー、すごい偶然だね。博人君ってこういうところにも顔出してたんだね」
「久し振り」
何か大学時代の偶然の再会を思い起こさせるような出会いだった。理恵は人込みから抜
け出して僕の横に来た。
「少し話そうよ・・・・・・・それとももう帰っちゃうの」
「少しなら時間あるけど」
僕は理恵に手を引かれるようにして壁際に並べられた椅子に座らされた。
「はい」
僕は理恵から白のワインのグラスを受け取った。
「博人君、白ワイン好きだったよね」
「うん・・・・・・ありがとう」
これだけの歳月を経ても理恵が僕の好みを覚えていてくれていることに僕は少しだけ心
が和んだ。もっとも理恵の細い左手の薬指を確認はしたので、それ以上の期待はなかった
のだけど。
「本当に久し振りだね。何年ぶりかな」
僕の隣に座った理恵が少し興奮気味に言った。「少し痩せた?」
「さあ? どうだろ」
「それにしてもここで博人君と会うとは思わなかったよ」
僕は名刺入れから最近作り直したばかりの名刺を取り出して理恵に渡した。
「今はここにいるんだ。それで声がかかったみたいだけど、どうも場違いみたいだ」
「なんだそうだったの」
理恵が笑った。「でもそれで博人君に会えたんだね」
理恵は自分の名刺を僕にくれた。それは若者向けのポップ音楽の雑誌の編集部のものだ
った。
「・・・・・・なるほど」
「なるほどって何よ」
彼女が笑った。
「しかし君も同じ業界にいるとは思わなかったよ」
「本当に偶然だね。もっともあたしは博人君みたいな高尚な音楽雑誌にいるわけじゃない
けど」
「玲子ちゃん・・・・・・だっけ。妹さんも元気?」
「うん、元気よ。あいつには子育てを任せちゃってるし、借りばっか作ってるよ。玲子も
文句言ってる」
子育てを任せるって何だろう。麻季との親権争いが調停に移ったばかりだった僕はその
言葉に反応してしまった。理恵も指輪をしている以上結婚しているのだろうけど、彼女に
も子どもができたのだろうか。それにしてもこの世界は育児と両立できるような世界では
ない。
「育児って・・・・・・お子さんいるの?」
「うん。女の子だよ」
「そうか」
「博人君、麻季ちゃんは元気? 後輩の女の子に結婚式の写真見せてもらったよ。麻季ち
ゃんのウエディングドレス綺麗だったね」
「あのさ・・・・・・」
「お子さんもできたって聞いたけど」
「うん。子どもは元気だよ」
「うん? 麻季ちゃんは?」
「元気だと思うけど最近会ってないから」
「・・・・・・どういうこと?」
理恵はいぶかしげな表情を浮べた。
「実はさ。麻季とは離婚調停中なんだ」
理恵は驚いたようだった。
「・・・・・・何で」
彼女はそれまで浮べてた微笑みを消した。彼女は呆然としたように僕を見た。
「何で」という理恵の言葉に答えようとしたとき、理恵は誰から声をかけられた。仕事の
話らしかった。
「すぐ行くよ」
ちょっとだけいらいらしたように理恵が話しかけてきた若い男性に答えた。
「じゃあ、僕は帰るよ。子どもたちが寝る前に帰りたいし」
「・・・・・・まさか、麻季ちゃんがいない家にお子さん一人で家にいるの?」
「いや。子どもは二人だよ。実家に預けてるし妹が面倒看てくれているから」
「お子さん一人だって聞いてたんだけど」
誰から聞いたのか知らないし無理もないけど、理恵の情報は僕と麻季がまだ普通に夫婦
をしていた頃の頃のものらしい。
「今度機会が会ったら話すけど、子どもは二人いるんだ」
「博人君、いったい麻季ちゃんと何があったの?」
「いろいろとあったんだよ。ほら、編集部の人が呼んでるよ。また機会があったら会お
う」
「ちょっと待って。博人君、明日時間作って」
どういうわけか必死な表情で理恵が言った。人の不幸に野次馬的な興味があるのか。自
分は薬指に結婚指輪をして幸せな家庭があるくせに。最近すさんでいた僕は理不尽にも少
しむっとした。なのでちょっと勿体ぶってスケジュールを確認する振りをした。
「明日? 空いてるかなあ」
わざとらしくスケジュール帳を探そうとしている僕を尻目に理恵はもう立ち上がってい
た。
「名刺の番号に電話するから」
何とか乱雑なカバンからようやく手帳を取り出した僕には構わずに理恵はもう呼びかけ
た人の方に足早に歩いて行ってしまった。
実家に帰宅した僕は既に子どもたちが寝入ってしまったことを唯に聞かされた。
「必死で帰ってきたのにな」
僕は落胆した。この頃の僕の生きがいは仕事以上に子どもたちだったのだ。
「明日も遅いの?」
簡単な夜食を運んで来てくれた唯が聞いた。明日は理恵から連絡があるかもしれない。
それが就業時間後なら唯に断っておく方がいい。僕は思い立って今日理恵に会ったことを
唯に話した。
「そういやさ。唯は知らないだろうけど、昔引っ越す前に神山さんっていう家があって
さ」
「ああ。玲子ちゃんと理恵さんのとこでしょ」
あっさりと妹は言った。
「・・・・・・おまえ、あの頃まだ生まれてなかっただろ。何で知っているの?」
「だって母親同士が仲良くて定期的に会ってたし、あたしもよくお母さんに連れて行かれ
たよ。あ、最近はあんまり会ってないけどさ。玲子ちゃんとは年も近いし仲いいよ。あと
理恵さんもよくその集まりに顔を出してたけど、いつもお兄ちゃんが今どうしているのか
聞いてたよ」
「え?」
「何だ。今日は理恵さんと会ってたんだ」
「いや、偶然なんだけど」
僕は今日あったことを唯に話した。
「理恵さんの旦那さんが何年か前に事故死したこと聞いた?」
「事故って、いや事故死?」
「うん」
では理恵は未亡人なのだ。育児を玲子さんに任せているというのはそういう意味だった
のか。
「いや。今日ほんの少しだけ世間話しただけなんで何も聞いてない」
「理恵さんのご主人って信号待ちで停車しているところを後ろから暴走してきた車に追突
されたんだって」
「・・・・・・そうなんだ」
「うん。理恵さんの旦那さんは即死だったって」
僕は言葉を失った。さっき明るく再会を喜んでくれた理恵もいろいろ辛い目にあってい
るようだった。
「でも何か運命的な出会いだよね。理恵さんとメアドとか交換した? 幼馴染同士の久し
振りの再会だったんでしょ」
唯が暗い話はもう終わりだとでも言うように微笑んで続けた。「お兄ちゃんも幼馴染と
再会してちょっとはドキドキしたでしょ?」
最近の唯にはたまにこういう言動があった。麻季のことを忘れさせようとしているのか
もしれないけど、やたら僕に女性と親しくさせようとする。奈緒人と奈緒はあたしが面倒
看ているからお兄ちゃんは会社の女の子を誘ってデートしろとか。それは一度一緒にコン
サートに行ってくださいと言ってくれた編集部の若い女の子のことを話したときだった。
彼女は単なる仕事上の部下であってそんな対象じゃないし、そもそも一緒に過ごす相手な
んかいなかったのだけど。
そんな唯だったから僕と理恵の再会にはすごく食いついてきた。
「麻季と僕のことが気になるのかなあ。離婚調停中だって言ったら明日会おうと言われた
けど」
それを聞いて唯は目を輝かせた。
「それ、理恵さん絶対お兄ちゃんに興味があるんだよ。明日は遅くなってもいいからうま
くやんなよ」
「いや。それおまえの思い過ごしだから。それに都内からここまで帰るのにどんだけ時間
かかると思っているんだ。終電だって早いのに」
職場と実家とが距離的に離れていたことも、離婚協議中には不利な点としてカウントさ
れていたことだった。
「終電逃したらどっか泊まればいいじゃん。お兄ちゃんのマンションだってまだあるんだ
し」
「あそこには泊まりたくない。というかそんなことするよりは奈緒人と奈緒と一緒にいた
いよ」
「まあそうだろうね」
少し反省したように唯が言った。「お兄ちゃんは奈緒人と奈緒が大好きだもんね」
「うん」
「・・・・・・お兄ちゃん、本当に麻季さんには未練ないの?」
「多分、ないと思うよ」
「じゃあ、ほんの少しだけでも子どもたちのことは忘れて女性とお付き合いしてみな
よ」
「離婚調停中なんだぞ。そんな気にはなれないよ」
「大丈夫だって。お互いに離婚を申し出た後なら、婚姻関係破綻後だから誰とお付き合い
したって不貞行為で有責にはならないから」
法学部にいる唯が小ざかしいことを言い出した。
「そんなこと言ってんじゃないよ。モラルの問題だ」
「それにさ。お兄ちゃんにもし次の伴侶が見つかったら、養育の面で調停で有利かもよ」
「そんなことを考えてまで女性と付き合いたくはないよ。第一そんなの相手に失礼だ」
「・・・・・・じゃあどうするのよ。別にあたしが内定辞退して奈緒人と奈緒のお母さん代わり
をしてあげてもいいけど」
「それはだめ。父さんに殺される。それに唯には唯の人生があるんだし」
「あたしは別にそれでもいいんだけどな」
「おい・・・・・・ふざけんなよ」
「別にふざけてないよ。でもそうしたら収入がないからお兄ちゃんに養ってもらうしかな
くなるけどね」
「だめ」
「冗談だよ」
妹が笑って言った。
「まあ、とにかくさ。理恵さんがお兄ちゃんに会いたいっていうなら明日くらいは付き合
ってあげなよ」
「今は子どもたちと少しでも一緒にいたいんだけどな」
唯はそれを聞いて再び微笑んだ。
「奈緒人と奈緒とはこの先ずっと一緒にいられるじゃん。今くらいはあたしに任せなよ。
二人ともあたしにすごく懐いているしお兄ちゃんなんて邪魔なだけだって」
「・・・・・・親権がどうなるかわからないんだし、ずっと子どもたちと一緒にいられる保障な
んてないだろ」
「絶対に麻季さんなんかに負けないって。それに親権が心配ならなおさら奥さん候補を探
す努力をしないと。お兄ちゃんがそうしてくれないとそれこそあたしがいつまでも子ども
たちの面倒を看るようになっちゃうじゃん」
「唯には悪いなって思っているよ。でも調停の結果とかに関係なくおまえは就職したら僕
たちのことは考えなくていいよ」
「だってこのままじゃお兄ちゃんが育児なんて無理じゃない」
「いざとなれば転職するよ」
「・・・・・・お兄ちゃん?」
唯が少しだけ首を傾げて真剣な表情をした。僕は妹のそういう様子に少しだけどきっと
した。
「何だよ・・・・・・」
「お兄ちゃんがそれでいいなら、あたし彼氏と別れてお兄ちゃんの奥さんになってあげよ
うか? その方が奈緒人と奈緒も喜ぶと思うし、お兄ちゃんも好きな仕事を続けられる
し」
何言ってるんだこいつ。僕は狼狽して唯を見た。
次の瞬間、唯は手で口を押さえて笑い出した。子どもたちや両親を起こさないようにし
たのだろう。
「何マジになってるのよ、シスコン。あたしが本当にお兄ちゃんのお嫁さんになるかもっ
て期待しちゃった?」
「そんなわけないだろ。冗談でも彼氏と別れるとか言うなよ」
「・・・・・・そこで赤くなるなバカ」
「おまえの顔も真っ赤なんだけど」
「バカ・・・・・・冗談に決まってるでしょ。とにかく明日は遅くなってもいいからね。麻季さ
んなんか早く忘れて理恵さんと楽しんできなよ。嫌いじゃないんでしょ? 理恵さんのこ
と」
どうなんだろう。子どもたちを麻季に奪われるかもしれないという不安が日ごとに大き
くなっている今、女性と付き合い出すとかは全く考えられなかった。
唯の悪質な冗談に翻弄されたからというわけでもないけど、次の日の就業後に僕は理恵
が指定した居酒屋で彼女を待っていた。全く色気のない店だったので唯の期待には応えら
れそうもなかったけど、理恵が騒がしい居酒屋を選んだことに僕は密かにほっとしていた。
「博人君、ごめん。待った?」
混み合った居酒屋の店内で理恵が僕に声をかけた。
「・・・・・・いや」
「何飲んでるの?」
理恵が僕の向かいに座りながら聞いた。
「先にビールを飲んでる」
「じゃあ、あたしも最初はビールにしよ」
乾杯をしてから少し沈黙が流れた。理恵はきっと麻季と僕との間に何が起こったのかを
知りたくて今日僕を呼び出したのだろう。でも呼び出された僕の方はまるでお見合いに来
ているような気分だった。僕がそんな気になっていたのは全部昨日の唯の発言のせいだ。
唯は僕が麻季のことを忘れてお嫁さん候補を探すように言ったのだ。
「あのさ」「あの」
僕と理恵は同時に言った。お互いに苦笑して再び沈黙が訪れたけど、僕は構わずに続け
た。
「ご主人、亡くなったんだってね。妹に聞いたよ」
「唯ちゃんに聞いたんだ・・・・・・説明する手間が省けちゃったな」
理恵が笑った
「お互いにいろいろあったようだね」
「うん。そうだね」
何となく同志的な友情を感じた僕が理恵を見ると彼女も僕の方を見ていた。
どちらからともなく僕たちは笑い出した。大学時代の再会時を通り越して家が隣同士で
いつも一緒に遊んでいた頃に戻ってしまったような気がした。
それから三時間くらいお互いの話をした。理恵は旦那の死後、実家に戻って実家の両親
と妹の玲子さんに育児を頼りながら仕事を続けているそうだ。
まるで僕と同じ状況じゃないか。僕が思わずそう呟くと理恵は僕と麻季に何があったの
か知りたがった。人様に話すようなことではないけど、どういうわけか僕は理恵には全て
話してしまったようだ。家族と弁護士以外にここまで話したのは初めてだった。話し終え
たとき理恵から同情されるんだろうと僕は考えた。そしてそんな同情はいらないなとも。
でも理恵が口にしたのは同情ではなく疑問だった。
「麻季ちゃんらしくないね」
「え」
「麻季ちゃんらしくない」
理恵は繰り返した。
「どういうこと?」
僕は少し戸惑いながら理恵に聞いた。別に彼女は麻季と親しかったわけではないはずだ。
「わかるよ。麻季ちゃんのせいであたしは博人君に失恋したんだもん」
「何言ってるの」
「大学で博人君に再会したときさ、あたし本当にどきどきしちゃったの。生まれてから初
めてだったな。そんなこと感じたの」
大学時代、僕も理恵と結ばれるだろうと予感していたことを今さらながら思い出した。
麻季が僕の人生に入り込んで来るまでは僕は何となく理恵と付き合うんだろうなって考え
ていたのだった。。
「まあ、結局博人君は麻季ちゃんと付き合い出したからあたしは失恋しちゃったんだけど
さ」
「ああ」
「ああ、じゃないでしょ。あっさり言うな。でもさ、学内の噂になってたもんね、博人君
と麻季ちゃんって。とにかく麻季ちゃんって目立ってたからなあ」
「そうかもね」
「まあ、麻季ちゃんが何であんな冴えない先輩とっていう噂も聞いたことあるけどね」
「・・・・・・結局それが正しかったのかもな」
僕は呟いた。
「最初から間違ってたかもしれないな。僕と麻季はもともと不釣合いだったのかも」
「そう言うことを言ってるんじゃない」
少し憤った顔で理恵が言った。
そのとき、混み合った居酒屋の入り口から入ってきた二人連れの客の姿が見えた。
何かを言おうとした理恵がぼくの視線を追った。「あれ、麻季ちゃんじゃん」
それは恐ろしいくらいの偶然だった。僕は前回の一時帰国以来始めて麻季を見のだ。
麻季は男と一緒に店内に入り、店員に案内されて僕たちから少し離れたカウンター席に
座った。久し振りに見る麻季は外見は以前と少しも変わっていなかった。ただ、家庭に入
っていた頃より幾分若やいで見えた。それに全体に少し痩せたかもしれない。
カウンターで麻季の隣に座った男最初そうじゃないかと思ったのと違い鈴木先輩ではな
かった。そのとき、麻季と僕の視線が合った。
麻季は一瞬本当に驚いたように目を見はって僕を眺めた。麻季は凍りついたように動き
を止めたけど、その視線はやがて理恵の方に移動した。
「・・・・・・博人君」
理恵が向かいから僕の肩に手を置いた。「大丈夫?」
その様子は理恵に気がついたらしい麻季にも見られたはずだった。麻季は視線を自分の
横にいる男に移した。そして彼女はその男の肩に自分の顔を乗せて寄り添った。それは幸
せだった頃、よく彼女が僕に対してよくした仕草そのものだった。男が麻季の肩を抱き寄
せるようにして何か囁いている。
麻季が僕への愛情を失ったことはこれまで何回も悩んで納得していたはずだけど、実際
に彼女が僕以外の男とスキンシップを取るのを見たのは初めてだった。こんなことで動揺
することはない。そもそも麻季は以前鈴木先輩に抱かれているのだから。そう思ったけど
実際に再会した麻季に無視され、しかも彼女が僕以外の男にしなだれかかっている様子を
見ると、僕はそんなに冷静ではいられなかった。
ふと気がつくと理恵が向かいの席から僕の隣に席を移していた。
「麻季ちゃんめ。やってくれるよね」
「何が?」
「・・・・・・でもさ。こういう方が麻季ちゃんらしい」
何が麻季らしいのか。混乱した僕が理恵に聞こうとした瞬間、理恵が僕の首に両手を回
した。
「理恵?」
「仕返ししちゃおう」
そのまま長い間僕は理恵に口に唇を押し付けられていた。
理恵がキスをやめても彼女の両腕は僕に巻きついたままだった。僕は麻季に目をやった。
そのときの麻季のことはその後もずっと忘れられなかった。彼女は隣にいる男に体を預け
ながら僕と理恵を見つめていたのだ。
麻季の目から涙が流れ落ちた。いったい何でだ。そのことに何の意味があるのだろう。
「出ようよ」
理恵が立ち上がって僕の手を握って僕を立たせた。
「うん・・・・・・」
会計を済ませて混み合った居酒屋を出るとき僕は最後に麻季を眺めた。もう麻季は僕た
ちの方を気にせず、男と何か賑やかに話し始めていた。
先に店の外に出ていた理恵を追って外に出ると、彼女は携帯で電話していた。理恵の声
が途切れ途切れに聞こえてきた。
「うん・・・・・・悪いけど明日香のことお願い。多分今日は帰れないと思うから」
理恵が携帯をしまった。
「今日は遅くなっても平気だから」
「何言ってるの?」
「麻季ちゃんのこと忘れさせてあげるよ」
理恵が真剣な表情で戸惑っている僕に言った。
「あたしさ、大学時代に一度麻季ちゃんに負けたじゃん?」
居酒屋から移動した先はホテルの高層階の静かなバーだった。理恵の行きつけの店のよ
うだけど彼女が言っていたように夜景は素晴らしい。窓際に並ぶように置かれたカウチに
僕は理恵と並んで座った。
「・・・・・・別に勝ちとか負けとかじゃないでしょ」
「負けだよ。大学時代、もうちょっとってとこで博人君を麻季ちゃんに持ってかれちゃっ
たしね。あのとき、あたし結構悔しかったんだよ。しかもそのまま博人君たち同棲し出し
て結婚までしちゃうしさ」
「あのさ」
「何?」
「大学で再会したときさ、理恵って僕のこと好きだったの」
普段の僕ならこんなことをストレートに女性に聞くなんて考えられない。でも、さっき
の理恵のキスの後ならこういうことを口に出すことも何となくハードルが低かった。
「そうだよ」
理恵が物憂げに髪をかき上げながらあっさりと言った。
「でもさ・・・・・・僕と麻季が付き合い出したとき、君はその・・・・・・すぐに僕に近づかなくな
ったしさ」
「あたし、博人君に捨てないでって泣いて縋りつかなければいけなかったの?」
「そう言うことじゃなくて」
「それにあたし、あのときは博人君に告白だってされなかったし。不戦敗っていうところ
だったのかな」
「いや、あのときはさ」
「まあ、あたしもプライドだけは高かったからね。何があったか知らないけど博人君と麻
季ちゃんっていつのまにかキャンパスで一緒に過ごすようになっちゃうしさ」
「まあそうだけど」
「でしょ? あのとき君に泣きついてたらみっともない女の典型じゃない。あたしにだっ
て見栄はあるのよ。まして博人君と幼馴染っていうアドバンテージがありながら負けちゃ
ったんだしさ」
あの頃の僕はいろいろな意味で麻季にかかりきりだった。何を考えているのか今いちわ
からない彼女に不用意に惹かれてしまった僕は、自分の彼女に対する気持を整理するだけ
でも精一杯だったのだ。麻季に対する気持は彼女と同棲する頃にはほぼ落ち着いていたの
だけど、そこに至るまでの僕には正直に言って理恵の気持なんて考える余裕はなかった。
それにしてもこの店に移ってからの理恵は昔話、しかも麻季絡みの話ばっかりだ。
『麻季ちゃんのこと忘れさせてあげるよ』
さっきの話はいったいどうなったんだ。別に期待して付いて来たわけじゃないし、理恵
との昔話が嫌なわけじゃないけど、これでは麻季を忘れるどころかますます思い出してし
まう。そして今一番考えたくないのがついさっき見かけた麻季の涙だった。親権を争って
いる子どもたちに対してはともかく、麻季はもう僕に対しては何の想いも残していないは
ずなのに。
「いろいろ悪かったよ」
「・・・・・・・謝らないでよ。博人君に謝られたらあたし、まるで情けない片想い女みたいじ
ゃない」
「そういう意味じゃないよ」
「冗談だよ。あたしもすぐに彼氏できたし」
「彼氏って、亡くなった旦那さん?」
「そうだよ。博人君の結婚より何年かあとに彼と結婚したの。あたしの一人娘の父親」
これまで強気な発言を繰り返していた理恵が泣きそうな表情を見せた。理恵のご主人は
突然の死をとげたそうだ。浮気され不倫された挙句、麻季に捨てられた僕とはまた違った
悲しみが理恵にもあるのだろう。
僕は怜菜の死を知ったときの感情を思い起こした。あのときはその衝撃と悲しみによっ
て、一時期は麻季に裏切られたことなどどうでもいいと思えるほど自暴自棄になったのだ。
なので愛し合っていた人を突然理不尽に喪失した痛みは理解できた。
「理恵が結婚してたって、こないだまで知らなかったよ」
「・・・・・・どうせ、あたしのことなんか思い出しもしなかったんでしょ」
「そうじゃないけど」
「唯ちゃんから聞くまではあたしのことなんか忘れていたくせに」
「だから違うって。昨日、君が指輪してるのを見てさ。それで」
「それで? 指輪を見たからどうだっていうのよ?」
理恵は少し酔っている様子だった。
「どうって・・・・・・。唯に話を聞く前だったから君もご主人がいるんだろうなって」
「昨日の夜、唯ちゃんからあたしの旦那が亡くなったことを聞いたの?」
「うん」
「そう・・・・・・唯ちゃんって絶対ブラコンだよね。いつも君のことばっかり話しているもの
ね」
酔っているせいか理恵の話がおかしな方向に逸れた。
「そんなわけあるか」
「あるよ。唯ちゃんって彼氏いるのに彼氏の話じゃなくて博人君の話しかしないのよ。知
らなかったでしょ? それも博人君が麻季ちゃんと普通に夫婦している時からそうだった
んだよ」
だんだん話が逸れて行ったけど、少なくとも麻季の話をしているよりはよかった。昔の
麻季の気持なんか考えたって前向きな意味はないし、今の麻季の気持を慮っても離婚が覆
ったり親権が手に入るわけでもないのだ。
「・・・・・・ええと、これ何だっけ? まあいいや。同じカクテルをください」
「ちょっとペース早いんじゃないの?」
「いいの。大丈夫。それよか、麻季ちゃんのことだけどさ」
「またかよ。忘れさせてくれるんじゃなかったの」
思わず僕はそう口に出してしまった。理恵が僕を見詰めた。
「別にそれでもいいけど」
「え?」
「別にここは切り上げてそうしてあげてもいいよ」
「何言ってるの・・・・・・」
「でもさ」
理恵は運ばれてきたカクテルを口に運んだ。「さっき博人君から聞いた話の麻季ちゃん
は彼女らしくないけど、さっきわざと君に見せつけるように好きでもない男にベタベタし
たり、あたしと博人君がキスしているのを見て泣いてた麻季ちゃんは麻季ちゃんらしかっ
たなあ」
「意味がわからない」
「あの子らしいじゃん。さっき出会ったのは偶然なのに、博人君があたしと一緒にいると
ころを見かけた途端、すぐに隣の男に甘える振りをするなんてさ。きっと無意識に君の気
を惹きたくてそうしちゃったんだと思うな。君に嫉妬させたかったんだよ」
「そんなわけあるか」
「あたしも、子どもを置き去りにしたり君にDVの罪を着せたりとか、君の話を聞いた後
だったからさ。仕返しにキスするところを見せ付けてやったんだ。要は麻季ちゃんがしで
かしたことを少し後悔させてやろうと思ったんだけど、まさか泣き出すとはね。思ったよ
り麻季ちゃんってわかりやすい性格してるよね」
「・・・・・・麻季がまだ僕に未練があるって言いたいの」
「未練つうか少しだけ後悔してるんじゃない? 自分が始めちゃったことを」
「理恵ちゃんさ、まさか何か知ってるの?」
「知らないよ、何にも。知ってるわけないじゃん。昨日までは君と麻季ちゃんは幸せな家
家庭を築いているんだって思ってたんだしさ」
「・・・・・・本当に意味がわからん。あれだけのことで麻季が何を考えているのかわかったな
ら理恵ちゃんは超能力者だよ。僕自身、自分の身に何が起こっているのか、麻季が何を考
えているのか何にもわからないのに」
「麻季ちゃんがどうして君を裏切ったのかなんてわからないよ。それこそテレパスじゃな
いんだし。でも麻季ちゃんが君に未練があってさ、そしてどういう理由で始めたにせよ、
自分の始めたことを後悔しているくらいはわかるよ」
「それって君の思い過ごしじゃないかな」
「じゃあ何でさっき麻季ちゃんはあたしが博人君にキスしているのを見て泣いてたのよ」
理恵が手に持ったカクテルをテーブルに置いて言った。二杯目のそれは既にほとんど中
身がなくなっていた。
「麻季は何で泣いたんだろうな・・・・・・」
僕は思わず呟いた。
「君を見つめて黙って涙流してたよね。あの後、彼氏に言い訳するのに大変だったろうな
あ。麻季ちゃん」
「・・・・・・うん」
「まあ、君があたしと仲良くしているところを見て悲しくなっちゃったんでしょうね。自
分から君を裏切ったのにね」
「何が何だかわからないな」
理恵が笑った。「本当だね。君も昔から麻季ちゃんには振り回されてるよね」
「それは否定できないけど」
「あたしさ」
「うん」
「大学時代に麻季ちゃんから直接言われたことがあるんだ」
「え?」
「博人君から手を引けって。博人君はサークルの新歓コンパの時から麻季ちゃんのことだ
けを見つめてるんだからあたしに邪魔するなってさ」
「知らなかったよ・・・・・・麻季が君にそんなことを言ってたんだ」
「まあ、あたしはそんなの真面目に受け止める気なんかなかったんだけどね。だいたい、
あたしにはそんなこと言ってたくせに麻季ちゃんはいつも鈴木先輩とツーショットで歩い
ているしさ。信用できるかっつうの」
「麻季は感情表現が苦手だからね。あのときは鈴木先輩は麻季が自分に気があるって思い
込んじゃったみたいだよ。麻季にはそんなつもりは全くなかったって」
「そう麻季ちゃんが言ってたことを君は今でも信じているんだ」
「え」
「その数年後、麻季ちゃんは君を裏切って先輩と寝たのに?」
「・・・・・・あのときは麻季も育児ばっかで鬱屈していたし」
「君の奥さんなのに、大切な子どもがいたのに先輩に抱かれたんでしょ? そこまでされ
ても大学時代の麻季ちゃんの言い訳を疑わないのね」
「理恵ちゃんは何か知っているの?」
理恵が両手を上に伸ばして大きく伸びをした。わざとらしいといえばわざとらしい仕草
だ。
「駄目だなあたし。今日はこんなことまで話すつもりはなかったんだけね」
理恵は何かを知っているのだろう。僕はもう黙って彼女の話を聞くことにした。聞いて
しまったら本当にもう戻れないかもしれないけど。ふと思ったけど、理恵が麻季のことを
忘れさせてあげるというのは勝手に僕が期待したような意味ではなかったのかもしれない。
僕の知らない麻季の姿を教えることによって僕の未練を断ち切るつもりだったのかもし
れない。今の発言とは裏腹に麻季と偶然に出合って動揺する僕を見た理恵は、最初から全
部話すつもりになったのだろうか。
「博人君って、大学時代に麻季ちゃんが君と付き合う前に何人彼氏がいたか聞いたことあ
る?」
麻季は過去のことを極端に話さなかったし、自分の写真アルバムを実家から持って来た
りもしなかった。彼女の携帯の写メだって僕か奈緒人の写真くらいしか保存されていなか
ったし。
「大学入学直後に鈴木先輩と付き合ってたじゃない? それは知ってるでしょ」
「だからあれは麻季の口下手のせいで先輩が勘違いしたんだよ」
「違うよ。あたし二人がキャンパス内で抱き合いながらキスしてたのを見たことあるも
ん」
もう麻季についてこれ以上ショックを受けることはないと思っていた僕はその話に唖然
とした。
「先輩だけじゃないのよ。麻季ちゃんと噂になっていた相手の男って」
「君の勘違いじゃないの?」
「博人君たちの披露宴の後ってさ、二次会しなかったんでしょ?」
「麻季が友だち少ないって言ってたからね。友だち呼んでパーティーするより早く二人き
りになりたいって言ってたから」
それも幸せだった過去の記憶の一つだった。
『ごめんね。あたし博人君と違って社交的じゃないし。披露宴には来てくれる友だちはい
るけど、二次会で盛り上がってくれるような知り合いはあんまりいないの。こんな女で本
当にごめん。でもできれば披露宴の後は博人君と二人きりで過ごしたい』
それでも披露宴では麻季は女友達から祝福されていた。「麻季きれい」と囁いていた彼
女の女友達の声。
「あたしはその場にはいなかったから後で後輩に聞いたんだけどさ。二次会なかったから、
飲み足りない大学の人たちで繰り出したらしいよ」
「うん」
「披露宴の新婦側の出席者が悪酔いしてさ。麻季ちゃんの悪口で深夜まで盛り上がったん
だって」
「意味がわからない」
「麻季ちゃんと関係のあった男たちが酔っ払って未練がましく曝露したんだって。思わせ
ぶりな素振りを俺にしてた癖にって」
僕は言葉を失った。今さら過去のことを振り返って後悔しても仕方がない。当時の僕だ
って麻季の男関係を詮索したりはしなかった。それに初めてのとき麻季は明らかに処女だ
ったのだ。
「結局さ。あの性格のせいであまり友だちができなかった麻季ちゃんには、自分の女を武
器にして男たちにちやほやされることを選んでたんだと思うよ。だから麻季ちゃんの気持
を勘違いしてたのは鈴木先輩だけじゃないよ。博人君と麻季ちゃんが付き合い出して傷付
いた男は一人二人じゃなかったんだよね。実際にあたしも鈴木先輩以外の男といちゃいち
ゃしている麻季ちゃんのこと見かけたことあるし」
「勘違いしないでね。麻季ちゃんが博人君を一番好きなのは間違いないと思うよ。多分、
今でも」
「・・・・・・今でもって。あんだけひどいことを言われて離婚を求められてるんだよ。麻季が
今でも僕のことを好きだなんて考えられないよ」
「でも、さっきあたしと君がキスしているところを見て泣いてたよね。彼女」
「もてないと思っていた旦那が君みたいな綺麗な女とキスしているのを見て動揺しただけ
でしょ。とにかく麻季は僕のことを一番好きどころか、今では一番嫌いなんだと思うよ」
「・・・・・・今の、もっかい言って?」
「へ?」
「あたしみたいなってとこ、もう一回言ってよ」
「いや・・・・・・あの」
「博人君、あたしのこと綺麗だと思う?」
「・・・・・・うん」
「そっか・・・・・・」
やはり酔っているせいか理恵が今日初めて幸せそうに微笑んで僕に寄りかかった。
「うれしいよ、博人君」
「うん」
「いろいろ辛い話してごめんね。結局忘れさせるどころか思い出させちゃったみたいだ
ね」
「まあ、そうだね」
僕は何となく寄り添ってくる理恵の肩に手を回した。
「あたしたち、今いい感じかな?」
肩に回した僕の手に自分の手を重ねながら理恵が言った。
「・・・・・・普通口にするか? そういうこと」
「そうなんだけど。今日昼間に唯ちゃんからメールもらってさ」
「うん?」
「・・・・・・兄貴のことよろしくお願いしますってさ」
「何勝手なこと言ってるんだ。唯のやつ」
「ブラコンの唯ちゃんも、あたしにならお兄ちゃんをあげてもいいって言ってくれたの
よ」
「唯め。あいつ、何の権利があって」
「でもさ、あたし自信ないって断ったの」
「え」
麻季を忘れることができるかどうかはともかく、理恵の僕に対する好意については僕は
全く疑っていなかったのに。その自信がいきなり崩されたのだ。
「君に詳しく話を聞く前だったけど、今日君の話を聞いてもやっぱりあたしには自信がな
いな」
僕に寄り添って手を重ねながら今さら理恵は何を言っているのだろう。
「せっかく今君といいムードなのに、ごめんね」
「麻季のこと気になるの?」
「ううん。麻季ちゃんがさっきみたいにいくら泣こうが喚こうが全然気にならないよ」
「じゃあ何で?」
このとき僕は冷静だったと思う。麻季の過去の男関係を聞かされたにも関わらず。それ
は本当に僕がショックを受けた原因が、麻季の先輩との浮気や過去の男遍歴ではなかった
ことを理解できたからだろう。ここ最近の僕が麻季に関して悩んだのは彼女の育児放棄だ
ったことに、今さらながら僕は気がついた。そういう意味では理恵のショック療法も適切
だったのだ。
でも理恵は予想外の言葉を口にした。
「麻季ちゃんなんてどうでもいいよ。あたしが本当に気にしているのは怜菜さんだよ」
僕は凍りついた。
「あたし、今でも君のことが好き。多分、麻季ちゃんも今でもあなたのことが一番好きだ
と思う。でも麻季ちゃんがこんなことをしでかしたのも怜菜さんと博人君の関係に悩んだ
からだと思う」
「博人君」
理恵が僕に聞いた。
「君は今でも亡くなった怜菜さんのことが好きなんじゃないの?」
少し酔ってはいたけれど僕は理恵の言葉を胸の中で反芻してみた。これまで僕は麻季が
突然僕に離婚を要求してきた理由がさっぱりわからなかった。太田弁護士の受任通知やそ
の後の弁護士同士の交渉を経ても、麻季の動機が理解できないという意味では何の進展も
ないのと同じだったった。それでも何となく心に浮かんでいたのは、何らかの理由で麻季
が再び心変わりして、僕ではなく鈴木先輩を選んだのではないかということだった。とい
うよりそれ以外には思い浮ぶ動機はなかったのだ。
今、僕は理恵の言葉を受けて改めて自分の心を探ってみようと思った。いわゆる浮気や
不倫と言われる行為については僕は潔白だった。夫婦間のお互いへの貞操という観点から
すれば、明らかに有責なのは麻季の側だった。ただ、僕が怜菜にまるで中学や高校のとき
の初恋のような淡い想いを抱いたことがあったことも事実だった。そして怜菜のお通夜の
夜、僕はそのことや怜菜が僕のことを好きだったということも全て隠さずに麻季に伝えた。
あのとき麻季が受けたショックは、僕と怜菜のささやかな交情によるものではなく、鈴木
先輩と関係を持った麻季自身を怜菜が恨んでいなかったということに起因するものだった
ことは間違いないと思う。そしてそのことをひとしきり悩んだ麻季は、結局怜菜の遺児で
ある奈緒を引き取る決心をしたのだ。
ただ、怜菜が自分の娘に奈緒という名前を命名したことに対して悩んでいた頃、麻季が
僕に向って感情を露わにしたことは確かにあった。
『博人君は本当は怜菜と結婚した方が絶対に幸せだったよね。あたしみたいに平気で旦那
を裏切って浮気するようなメンヘラのビッチとじゃなく』
『・・・・・・どういう意味だ』
『怜菜はあなたが好きだったんでしょ』
『・・・・・・多分ね』
『あなたも怜菜が気になったんだよね?』
『多分、あのときはそう思ったかもしれないね』
『ほら。あたしは先輩に抱かれて、その後もあなたに嘘をついて先輩とメールを交わして
あなたを裏切ったけど、あなたと怜菜だって浮気してるのと同じじゃない。違うのはあた
したちが一回だけセックスしちゃったってことだけでしょ』
理恵の言うとおりだった。あのときの麻季は僕と怜菜が肉体的には何一つとしてやまし
いことがなかったことを承知のうえで、僕と怜菜のお互いへの気持に嫉妬していたのだ。
ただ、それは僕への麻季への謝罪によって彼女も納得して終った話だったはずだった。
それから僕は改めて理恵の質問について考えた。僕は今でも亡くなった怜菜のことが気
になっているのだろうか。答えはイエスでもありノーでもある。僕が生前の怜菜に惹かれ
ていたことは間違いない。それは自分でもはっきりと意識していた。別にそれは最後に会
ったときやメールをもらったときの彼女の告白めいたセリフのせいばかりではなく、怜菜
の最後の告白の前から、多分怜菜と会って彼女の強さを知ったときから、もう僕は女性と
して怜菜のことを意識していたのだった。
そして理恵の言うとおり多分僕の怜菜への想いは今でも変わっていない。
『君は今でも亡くなった怜菜さんのことが好きなんじゃないの?』
理恵の問いに対する直接的な答えはイエスだった。そして同時にノーとも言える。怜菜
は不慮の死を遂げたのだ。怜菜が鈴木先輩と離婚して一人で出産し育児をする道を選んだ
とき、僕は麻季と離婚せずやり直すことを選んだ。そして僕のその選択を怜菜は最後の
メールで祝福し応援してくれた。だから、例え怜菜に死が訪れず今でも奈緒と二人でどこ
かで暮らしていたとしても、僕と怜菜が一緒になるという可能性はなかったはずだった。
「好きか嫌いか聞かれればそれは好きだと思うよ。あれだけか弱そうな外見であれほど芯
の強い女性を僕は今まで見たことがなかった。彼女のそういうところに僕は惹かれていた
んだし、その想いは彼女が亡くなっても変わるようなものじゃないよ」
理恵は僕に寄り添ったまま少しだけ笑った。
「やっぱね。でも話してくれてありがとう。あたしはもう怜菜さんのことを気にするのは
やめるよ。というか博人君の話を聞いているとあたしまで怜菜さんのことが好きになっち
ゃいそうよ」
「何言ってるの」
「でもね」
理恵が僕から少しだけ身体を離して言った。「麻季ちゃんが突然こんなことをしでかし
たのは博人君と怜菜さんの仲に嫉妬しちゃったからかもしれないね」
「あれから何年経っていると思ってるの。確かに怜菜さんが亡くなった直後は麻季からそ
ういう話も出たことはあったよ。奈緒の名前のことで揉めたこともあった。でもそのこと
はとうに克服したものだと思っていたんだけどな」
「そうか」
「うん。だから僕と怜菜さんのことが原因ではないと思う。やはり離れている間に麻季は
鈴木先輩の方が僕のことより好きだってことに気がついたんだろうね。結局、麻季は僕じ
ゃなくて先輩を選んだんだよ」
実際にそうとしか考えられなかったから僕はそう理恵に言った。いっそ麻季の口から鈴
木先輩と暮らしたいのと正直に言われた方がよかった。彼女がはっきりとそう言ってくれ
たら僕は麻季の要求どおりに彼女を自由にしたと思う。それなのに麻季は正直に告白する
のではなく、僕のことを誹謗中傷することを選んだのだ。
「それは違うと思うけどな」
「何で?」
「だって・・・・・・。さっき麻季ちゃん、あたしとキスしている博人君を見て泣いてたじゃん。
あたしと博人君が一緒にいるのを見て、男に寄り添うみたいな様子をあなたに見せ付けて
たしさ」
確かに僕より鈴木先輩を選んだとしたらあそこで麻季が泣く理由はない。
「それにさ。せっかく復縁した博人君のことなんかどうでもいいほど鈴木先輩が好きなら、
鈴木先輩以外の男と二人きりで飲みに来たりしないんじゃない?」
それもそのとおりかもしれない。麻季の涙に混乱してあまり気にしていなかったけど、
麻季が寄り添っていた男は鈴木先輩ではなかった。
「理恵ちゃんさ」
「なあに」
理恵も少し酔っている様だった。不覚にも僕はそういう理恵を可愛いと思った。
「麻季は僕より先輩を選んだんじゃなくて、僕と怜菜さんの仲に嫉妬したからこんなこと
をしでかしたって思っているの?」
「多分ね。それにしても受任通知の内容とか理解できない点はあるけどさ」
「そうだよな」
「まあ、いいや。怜菜さんって本当にいい子だったんだね。麻季ちゃんなんかの親友には
もったいないね」
それには何て答えていいのかわからなかった。僕は黙ったままだった。そしてこんなに
シリアスな話をしているというのに、理恵は僕に寄り添っているし僕は理恵の肩を抱いて
いる。
「ごめんね。麻季ちゃんのこと忘れさせるどころかかえって思い出させちゃって」
「いや。僕は別に」
「じゃあ、これから忘れさせてあげるよ。この店お勘定しておいてくれる?」
今日は以上です
また投下します
翌日は平日でお互いに仕事があった。僕は二日連続で同じ服装でも別に気にならなかっ
た。もともとそういう業界だったから。でも理恵はそうも行かないと言った。校了間際で
もないのに同じ服で出社なんて何と噂されるかわからないそうだ。それで、僕は日付も変
わったくらいの時間にラブホを出て、理恵を自宅近くまでタクシーで送って行った。
「本当なら大学時代に博人君とこうなれていたのにね」
理恵がタクシーの後部座席で僕に寄りかかりながら呟いた。
「そうだね」
僕は少しだけ理恵の肩を抱く手に力を込めた。それに気づいたのか理恵が微笑んだ。
「初めては君とがよかったな」
酒に酔っていたせいか、さっきの余韻がまだ残っていたせいか、理恵はタクシーの運転
手のことを気にする様子もなくそう言った。
理恵を送り届けてから実家に戻ったときはもう夜中の二時過ぎになっていた。タクシー
の支払いを済ませて、実家のドアの鍵をそうっと開けて家に入ると、すぐに唯が姿を見せ
た。
「おかえり、お兄ちゃん」
「ただいま・・・・・・って何でこんな時間まで起きてるんだよ」
「だってお兄ちゃん、なかなか帰って来ないしさ。あたし入社するまで暇だから夜更かし
したって問題ないしね」
「・・・・・・まさか僕の帰りを待ってたんじゃないだろうな」
「何自意識過剰なこと言ってるの。何であたしがお兄ちゃんが帰って来るまでこんな時間
に起きて待ってなきゃいけないのよ」
「違うの?」
「・・・・・・いや、まあ待ってたんだけどさ」
唯はそう言って笑ったけど、すぐに僕の腕を取って自分の方に引き寄せた。
「何だよ」
「シャンプーの匂いがする」
僕は一瞬どきっとした。実の妹にそういうことがばれるのはとても気恥ずかしい。
「理恵さんと休憩してきた?」
唯がストレートに聞いた。
「いや、その」
「よかったね、お兄ちゃん。理恵さんと再婚するならあたしは賛成だよ」
「・・・・・・まだそんな話になってるわけじゃないよ」
「まだ? じゃあ、さっさと決めちゃえばいいじゃん。うちの父さんも母さんも理恵さん
のご両親も誰も反対しないと思うけどな」
「とにかくもう寝る。明日もっていうか今日も仕事だし」
「うん。お風呂に入らなくていいからすぐ眠れるね」
「・・・・・・おい」
「冗談だって。奈緒人と奈緒の横で寝てあげて」
「うん」
「あたしの隣だけど別にいいよね」
「おい」
これで何度目かわからないけど唯はまた可笑しそうに笑った。
翌日の午前中、理恵から電話があった。
奈緒人と奈緒が並んで寝ている実家の和室に横になったのが夜中の四時前で、起床した
のが朝の六時だった。奈緒人と奈緒と一緒に寝るのは心が安らいだけど、同じ部屋で唯ま
で一緒に寝ることになるとは思わなかった。普段は親子三人で寝ているのだけど、僕が仕
事で遅くなるときは妹は奈緒人たちを寝かしつけるだけでなく、子どもたちと一緒に寝て
いてくれたらしい。子どもたち以外に同じ部屋で寝る女性なんてこれまでは麻季しかいな
かったので、そこに唯が寝ていることに混乱して僕はほとんど眠れなかった。
それでも仕事柄徹夜には慣れていたせいで、出社すれば僕はいつもどおりに仕事モード
に戻れた。
『元気?』
携帯の向こうで理恵が言った。
「いきなり元気って何だよ」
『いやあ、ああいうのって久し振りだったからさ。こういう場合何ていえばいいのか忘れ
ちゃったよ。現役を離れて久しいからね』
「何言ってるんだ。まあ、でもそうだね。僕もこういうときに何て答えたらいいのかわか
らないや」
思わず僕は笑ってしまった。こういうやりとりはすごく新鮮だった。大学時代に麻季と
付き合い出してからこういう会話は全くしたことがない。麻季と僕との間はオールオアナ
ッシングであって、うまく行っているときは直球の甘い会話しかしたことがなかったし、
それ以外のときはお互いに傷付けあってばかりいたような気がする。麻季の性格上、こう
いうゆとりのある会話なんて彼女に対しては望むべくもなかったのだ。
『でも、安心したよ。あたしもそうだけど博人君もまだ現役でああいいうことできたんだ
ね』
「午前中から何を言ってるんだ君は」
『あはは。何かこういうのって久し振り。一緒に寝るよりこういう会話の方が楽しいね。
若返ったみたい』
「理恵ちゃんさあ。周りに会社の人がいるんじゃないの」
『いないよ。今外出中だもん。つうか今さらちゃん付けるのやめてよ』
「僕は周りは人だらけなんだけどな」
『ちょっと出て来れない?』
「今、どこ?」
『博人君の会社の側のクローバーっていう喫茶店。ここたまに打ち合わせで使うんだ』
それは最後に怜菜と会った店だった。クローバーに入るのは怜菜と会って以来だった。
小さいとはいえ編集部を任された僕は以前より外で打ち合わせをする機会が減っていたの
だ。
「博人君。ここだよ」
理恵が手を振った。理恵が座っているのが怜菜と最後に会ったときの席ではなかったこ
とに僕は何だか少しだけほっとしていた。
「お待たせ」
「仕事大丈夫だったの」
理恵が僕の仕事を気にして言ってくれた。
「うん。どうせそろそろ昼食にしようかと思ってたとこだし」
「そうか、よかった」
理恵が上目遣いに僕を見て微笑んだ。何だか本当に麻季に出会う前、まだ普通に恋愛し
ていた頃に自分に戻ってしまったような気がした。
「じゃあ、何か食べようよ。ここ食事できるんでしょ」
「サンドウィッチとかパスタくらいしかないけどね」
「それでいいよ。博人君、何にする」
いそいそとメニューを取り出して僕に相談する理恵の様子すら今の僕には微笑ましかっ
た。妹に洗脳されたわけではないけど、僕は理恵のことが好きになっているのかもしれな
い。彼女を抱いてしまった後に思うようなことではないのかもしれないけど。もしかした
ら僕はようやく麻季に対する不毛な感情から開放されるのかもしれない。
「パスタっていってもナポリタンかミートソースしかないのね」
「この店にそれ以上期待しちゃだめだよ。でも味は結構いいよ」
「そう? 博人君は何にするの」
「ミックスサンドにする」
「じゃあ、あたしも」
そう言って理恵は微笑んだ。
店内には簡単な昼食をとる客に混じって、打ち合わせをしている顔見知りも結構いるよ
うだ。こんな環境で僕はサンドウィッチを放置して理恵にプロポーズした。理恵はと言え
ば口に中からハムとマヨネーズが溢れ出して、すぐには返事どころではなかったらしい。
目を白黒させながら彼女は慌ててアイスコーヒーで口の中を洗い流した。
「うん、いいよ。バツイチ同士だけど結婚しようか」
さっきまで大学生同士のように何気ない会話でお互いの気持を確かめ合っていたはずな
のに、やはりこの年になるとロマンスには無縁になるのだろうか。僕と理恵の再婚は混み
合った喫茶店であっさりと決まったのだった。
それから少しして僕と理恵は別れた。お互いにまだ仕事中だったのだ。麻季にプロポー
ズした時のような大袈裟なやりとりは何もなかった。考えてみれば愛しているとか好きだ
よとかの会話も、少なくともこのときにはお互いに口にしていなかった。
「とりあえず、麻季ちゃんと博人君が離婚するまでは婚約もできないね」
「ああ、悪い」
「いいよ。それで奈緒人君と奈緒ちゃんは当然引き取りたいんでしょ?」
「うん・・・・・・いい?」
「もちろんだよ。でも明日香も一緒に育てるからね」
「当然そうなるよね。奈緒と明日香ちゃんは同い年だしきっとうまくいくよ」
「うん。たださ。プロポーズしてくれた後にこんなこと言うのは後出しっぽくて申し訳な
いんだけど」
「何?」
僕は少し嫌な予感がした。ここまでうまく行き過ぎいているような気がしていたのだ。
「あたし、仕事は止めたくないんだ」
「そんなことか。もちろんいいよ」
麻季は奈緒人を出産したとき、自ら望んで専業主婦になったのだ。僕はそのことに関し
て反対をしたことはない。そして理恵が共働きを望んでいる以上、無理に専業主婦にする
つもりもない。
「そうじゃなくてさ。結婚しようって言ってくれたのは嬉しいけど、あたしと一緒になっ
ても君と麻季ちゃんの親権の争いには有利にはならないよ?」
僕はそのことをすっかりは忘れていた。もちろん親権に有利になる方が望ましいことは
確かだった。それは唯が僕に理恵と付き合うように勧めた理由の一つでもあったのだ。で
もこのときの僕は子どもたちの親権を考慮して理恵にプロポーズしたわけではなかった。
親権の争いのことなど今まで忘れていた。ただ、理恵と一緒になりたいと思っただけで。
僕はそのことを正直に理恵に話した。
「・・・・・・嬉しい。そう言ってくれると、さっき結婚しようって言われたときより嬉しいか
も」
理恵が今日始めて顔を伏せて涙を浮べてそう言った。
その後の展開は早かった。僕は久し振りに会う理恵のご両親に挨拶に行った。お嬢さん
と結婚させてくださいとか言わせてもらうことすらできず、久し振りねえとか元気だった
かとか理恵の両親から僕は言葉をかけられた。本当に懐かしく思ってくれていたみたいだ
った。質問攻めに懐かしいながらも当惑していた僕を見かねて、僕と理恵の結婚には賛成
だよね? って両親に対して言い出して僕たちを救ってくれたのが玲子ちゃんだった。
理恵と幼馴染だった頃にはまだ彼女は生まれていなかったので、僕と玲子ちゃんは顔を
合わせるのは初めてだった。
「結城さんはお姉ちゃんと結婚したいんだって。ちゃんと答えてあげなよ」
当時大学生だった玲子ちゃんはそう言ってくれた。
「そんなのOKに決まってるだろ」
「そうよ。結城さんのご両親とはもうこのことは打ち合わせ済みなのよ」
理恵の両親がそう言った。どうやら僕が自分の両親に理恵との結婚を話す前から、僕の
両親にはその事実が伝わっていたようだった。犯人は一人しかいない。唯だ。そして唯と
玲子ちゃんも仲がいいらしい。僕と理恵の結婚はお互いの妹たちによって根回しされてい
たのだった。このとき玲子ちゃんは奈緒と同じくらいの年齢の女の子を抱っこしていた。
「ほら明日香。あなたの新しいパパだよ」
玲子ちゃんがからかうように言った。
「玲子!」
顔を赤くしながら理恵が玲子をたしなめた。翌週、僕は理恵を連れて自分の実家に戻っ
た。予想したとおり理恵の実家を訪れたのとほぼ同じような展開が僕たちを待ち受けてい
た。事前に唯が根回しをしてくれていたせいで、僕の両親は僕と理恵の結婚に関しては良
いも悪いもなく既定事項のように受け止めたうえで理恵を歓迎してくれた。
「理恵さん、本当にこんな兄貴でいいんですか」
唯が理恵をからかった。
「唯ちゃんこそごめんね。大好きなお兄ちゃんを奪っちゃって」
理恵も動じなかった。
「・・・・・・何でそうなるんですか」
理恵と唯は視線を合わせたかと思うと笑い出した。理恵の僕の実家への訪問で少しだけ
慌てたのは、奈緒人と奈緒と理恵が初顔合わせをしたときだった。唯がそれまで外に遊び
に行っていた二人をリビングに連れてきた。理恵は奈緒人を微笑んで見つめた。そしてそ
の視線が奈緒に移ったとき、理恵は突然沈黙してしまった。
「理恵さん?」
不審に思ったのだろう。唯が理恵に話しかけた。
「どうかした?」
僕にまとわりついてくる奈緒人と奈緒を抱き上げて二人一緒に膝の上に乗せながら僕も
理恵に聞いた。
「あ・・・・・・ごめん。奈緒人君、奈緒ちゃん。今日は」
理恵が取り繕うように言った。その場の雰囲気を気にしたらしい唯は、二人で少し近所
を散歩してきたらと勧めてくれた。
「理恵さん、今日は泊まって行けるんでしょ?」
「あ、ええ」
「そうしなさい。ご両親には私から連絡しておくから」
父さんも理恵にそう勧めた。
「じゃあ、今夜は宴会だね。準備しておくから邪魔な二人は散歩でもしてきなよ」
唯が言った。
「僕たちもパパと一緒に行っていい?」
「あんたたちはお姉ちゃんのお手伝いして。できるよね」
「うん。お姉ちゃんのお手伝いする」
奈緒が元気に返事をした。奈緒は実家の中では一番唯に懐いているのだ。
「じゃあ僕も唯お姉ちゃんのお手伝いする」
奈緒の言葉を聞いた奈緒人は即座に僕と一緒に出かけるより奈緒と一緒にいる方を選ん
だようだった。
「驚いた。奈緒ちゃんって怜菜さんにそっくりじゃない」
理恵を連れて実家の近所の自然公園内を散策していたとき、理恵がそう言った。そんな
ことだろうと思っていた僕は別に理恵の反応に驚きはしなかった。奈緒はまだ幼いながら
も美人だった。多分容姿に関しては将来を約束されていたと言ってもいいくらいに。鈴木
先輩も外見はイケメンだったし怜菜に関しては性格も外見も可愛らしかった。奈緒の端正
な外見は両親の遺伝子を引き継いでいたのだ。当然のことだけど奈緒は僕にも麻季にも全
く似ていない。でも、この頃には唯も両親も血の繋がりのない奈緒のことを家族として受
け入れていたから、僕も唯も、そして僕の両親さえ一度たりともそれが問題だとは考えた
ことはなかった。
「これじゃ、麻季ちゃんが悩んじゃうわけだよね」
寒々とした公園内の池を眺めながら理恵が呟くように言った。
「どういうこと?」
理恵が僕を見た。
「麻季ちゃんが怜菜さんと君のことで悩んでいたとしたらさ。きっと奈緒ちゃんを見るた
びにつらい思いをしていたのかもしれないね」
「そんなこと」
「ないって言える?」
「麻季は自分から奈緒を引き取るって言い出したんだ。娘が母親に似るなんて当たり前だ
ろ。それくらいのことで麻季が奈緒のことを気にするなんて」
「・・・・・・もう一度聞くけどさ。本当にないって言えるの」
僕は沈黙した。つらかったけど、麻季が奈緒を引き取ると言い出してからの彼女の言動
を改めて思い起こそうと思ったのだ。少なくとも僕と一緒に過ごしていたときの麻季には、
奈緒の容姿が怜菜と似ていることに対して悩んだりした様子はなかったはずだ。あの頃の
彼女は奈緒人と同じくらいの愛情を奈緒に向けていた。
だけどもう少し考えを推し進めて、僕がそう錯覚していたように当時の麻季が僕との仲
に無条件に安らぎや安堵感を感じていなかったとしたらどうなのだろうか。大学時代の自
分の親友のことを好きになった旦那。そして麻季が自ら育てることを選んだ奈緒は当然な
ことに怜菜に似ていた。その奈緒をひたすら大切にして可愛がっている僕。麻季が口や態
度には出さなくても、内心僕と怜菜の関係に悩んでいたとしたら怜菜への嫉妬が奈緒への
嫉妬や嫌悪に転化したということもあり得るのだろうか。
「麻季が怜菜への嫉妬心を奈緒にぶつけるようになったって言いたいの? そのせいで麻
季が子どもたちをネグレクトしたと」
「さあ? 麻季ちゃん本人に聞かなければ真相なんてわからないよ。でも奈緒ちゃんって
本当に怜菜さんに似てるよね」
「鈴木先輩の面影もあるんじゃないか」
「全くないとは言わないけど、どちらかと言うと奈緒ちゃんはお母さん似だよ。あたしは
そう思うな」
「仮に君の推測のとおりだったとしてもさ。少なくとも麻季は奈緒人のことだけは自分の
ことより大切にしていたよ。それは間違いない。たとえ奈緒の育児を放棄したとしても、
麻季は少なくとも奈緒人のことは面倒看たはずだ」
「そうだよね。麻季ちゃんの育児放棄は許されることじゃないけど・・・・・・仮に奈緒人君だ
けを大切にしていて奈緒ちゃんだけを食事も与えずに虐待していたとしたら」
僕は頭を振った。夕暮れが近づいていて、だいぶ気温が下がってきたようだ。
「そうだったら奈緒が今頃どうなっていたか考えたくもないね」
実際、母親であるはずの麻季に一人きりで放置されてたとしたら、いったいどれくらい
心の傷を奈緒が受けていたかを考えるとぞっとする。そういう意味では僕は奈緒人のこと
を誇りに思っていた。奈緒人は麻季に放置された不安から泣きじゃくる奈緒を、精一杯慰
めて守ろうとしたのだった。そのせいもあって、奈緒は思ったより早く心の傷を癒して元
通りの明るい性格に戻ることができた。
「次の調停っていつなの?」
僕はつらそうな様子をしていたのかもしれない。理恵が話を変えた。
「七月だね」
「調停に出れば麻季ちゃんと直接話せるの?」
「いや。今のところお互いに別々に調停委員に呼ばれて、相手の主張を聞かされてそれに
対する反論を聞かれるって感じかな」
「じゃあ麻季ちゃんと直接話したことはないんだ」
「顔を合わせてすらいないよ。こないだの居酒屋で会ったのが初めてだよ」
「そうか」
理恵は何かを考え出した。
「今度の調停で養育環境が整いましたって調停委員に申し立てなよ」
「え? 理恵ちゃんはいったい何を言ってるの」
「ちゃんを付けるな。何度言わせるのよ、ばか」
「あ、いや。そうじゃなくてさ」
「麻季ちゃんとの離婚が成立したら再婚する予定の人ができました。彼女が子どもたちを
育てますって言って」
「編集業しながら養育なんて無理だろ。有希ちゃんだって玲子ちゃんが育ててるみたいな
もんじゃん」
「明日にでも経理か総務に異動させてくれって上司に言うから」
「・・・・・・はい?」
理恵が僕に抱きついた。
「それで駄目なら会社辞めてやる・・・・・・博人君、そうなったらちゃんとあたしを養えよ」
「おい」
理恵とべったりと寄り添ったまま実家に帰ると宴会の支度が整っていた。奈緒人と奈緒
が僕を出迎えてくれた。理恵は迷わずに二人に向って手を伸ばした。
法的にはまだ僕は既婚者だったからすぐに理恵と結婚するわけにはいかなかったし、お
互いに子どもがいたから同居するのも難しかったので、少なくとも麻季との離婚調停の結
果が出るまではこれまでどおりお互いに実家で別々に生活を送ることになった。
公園で理恵と話をしてから僕はこれまでより注意して子どもたちを見るようになった。
そうすると、僕はこれまでは子どもたちへの愛情と憐憫からこの子たちのことを、とにか
く可愛がることしかしてこなかったことに気がついた。僕の実家に馴染んでよかったとか
僕の帰りが遅くても二人とも最近泣かなくなったとか、そういうことだけを僕は一喜一憂
してこれまで過ごしてきたのだった。
改めて子どもたちの様子を覗うと僕にもいろいろ新たにわかったことがあった。例えば
最近、唯は楽しそうに僕と理恵のことをからかったり、少し真面目になったときは僕たち
が結婚したらどこに住むのかとかそういう質問を僕にすることがあった。そういうときに
は両親も楽しそうに口を挟んできた。でも、子どもたちは大人たちが盛り上がっている会
話の中には入ってこようとしない。もちろん、大人の話だから話には入りづらいだろう。
でも普通の子どもたちなら、わからないなりに無理にでも話に参加しようとするだろうし、
場合によってはその場の関心を自分たちの方に向けようとするものではないか。
でも、奈緒人も奈緒も大人しく二人で寄り添っているだけで、話に割り込んでくる様子
は一切見せようとしなかった。
大人同士の話の間、奈緒人と奈緒は二人だけのささやかな世界を作り上げてその中にこ
もっているようだった。それは微笑ましい光景でもあったけど同時にひどく寂しいことで
もあった。母親にネグレクトされた経験を持つ奈緒人と奈緒は、大人たちに相手にされな
いときは他の甘やかされて育った子どもたちのように、大人の関心を自分たちの方に向か
せようと駄々をこねたり話に割り込んできたりしない。そういうとき、奈緒人と奈緒は反
射的に二人だけの世界に閉じこもることを選ぶようになっていた。
やはりこの子たちにはまだネグレクトされたことによる影響が残っている。僕は子ど
もたちが自然に二人きりの世界を作っているのを見てそう思った。
それから、奈緒人と奈緒の関係も微妙ながら変化しているようだった。
僕は今まで奈緒人が奈緒のことを守ろうとしているのだと思っていた。それは間違いの
ない事実だったとは今でも思っているけど、改めて二人をよく眺めると意外と奈緒が奈緒
人の面倒をみるような仕草を見せていることに気がついた。奈緒人が食べ物をこぼしたり
服を汚したりするたびに、奈緒はいそいそと奈緒人が落としたものを片付けたり奈緒人の
服をティッシュで拭いたりしていた。僕はそんな奈緒の様子に初めて気がついたのだ。仕
事のせいで子どもたちのことをじっくりと見てあげられなかったせいか、こういう奈緒の
様子には今まで気が付きもしなかった。
そのことを唯に話すと「今さら何言ってるの」と呆れられた。
「前に奈緒人が奈緒の面倒をよくみてくれるって言ってたじゃん?」
「うん、そうだよ。あたしもこんなんじゃなくて奈緒人みたいな兄貴が欲しかったよ」
「いや、それはどうでもいいけど、何か僕が見るにどっちかっていうと奈緒の方が奈緒人
の面倒をみているように見えるんだけど」
「そんなの前からそうじゃん。確かに奈緒人は奈緒を気にしているけど、奈緒だって奈緒
人に甘えているばかりじゃないんだよ」
「・・・・・・今まで気がつかなかった」
「まあ、お兄ちゃんが気にしなくてもいいよ。あたしみたいに毎日この子たちを見ていら
れたわけじゃないんだしさ」
「こんなことにも気がついていなかったんだな。少しだけ自己嫌悪を感じるよ」
「女の子の方がしっかりするの早いしね。妹の奈緒が兄の奈緒人の日常の面倒をみるなん
て微笑ましいじゃん」
「まあ、そうかな」
「まるであたしとお兄ちゃんみたいでしょ? しっかり者の妹が兄貴の面倒をみるとか」
僕が新たに気がついた子どもたちのこういう様子は、唯にとっては単に微笑ましい成長
のしるしに過ぎないようだったけど、こういう二人の様子を僕不在の家庭で麻季がどうい
う気持で眺めながら子育てをしていたのかを僕はここにきて初めて考えてみた。そうして
考えるようになると先日の理恵の話が頭に浮かんだ。
『麻季ちゃんが怜菜さんと君のことで悩んでいたとしたらさ。きっと奈緒ちゃんを見るた
びにつらい思いをしていたのかもしれないね』
僕は想像してみた。奈緒が怜菜にそっくりなことは麻季も気がついていたかもしれない。
そして奈緒人の方は僕に似ている。そんな奈緒人と怜菜似の奈緒が日増しに仲良くなって
いくところを、麻季は育児しながら一番身近なところで眺めていたのだろう。
今まで考えたことはなかったけど・・・・・・もしも、本当にもしもだけど麻季が奈緒人に僕
の姿を見つつ奈緒に怜菜の面影を見ていたとしたら、麻季はその二人の姿を見て何を思っ
たのだろう。
こんな幼い子どもたちに重ね合わせていいことじゃない。だけど麻季が本当に僕と怜菜
との仲を気にしていたとしたら、それは麻季にとってはまるで悪夢そのものだったかもし
れない。幼い二人が仲良くなる姿を見て、本来微笑ましいはずのその様子に麻季が僕と玲
菜が親しくなっていく姿を重ねてしまっていたとしたら、どれほどの心の闇が麻季に訪れ
ただろう。理恵の言葉をきっかけにして僕はそのことにようやく気がついたのだ。
せめて僕が家庭にいれば麻季のストレスは僕の方向に向いていただろうし、僕も麻季を
諌めたり慰めたり、場合によっては喧嘩だってして彼女のストレスを発散させてあげるこ
とだってできたのかもしれない。でもこのとき僕は海外にいた。
常識的に考えれば幼い兄妹がどんなに仲が良かったとしても、その様子から僕と怜菜の
仲を思い出して嫉妬するなんて普通の人間なら考えられないだろう。しかも怜菜が生きて
いるのならともかく彼女は寂しい死を迎えていたのだし。
僕に言えた義理じゃないかもしれないけど、死んだ人間への執着に嫉妬することは不毛
だ。生きている浮気相手なら別れて清算することもできるかもしれない。でも亡くなった
怜菜を振って別れることはできないのだ。麻季に限らず亡くなった想い人を相手に勝てる
人なんていない。特に惹かれている気持がマックスのときにその相手が亡くなった場合、
亡くなった彼女への想いは凍り付いたままで、その記憶が残っている限りはそのまま心の
中に留まり続けるしかないのだ。
いくらパートナーの愛情を疑った人でも、普通ならそんな実体のない相手への嫉妬にこ
だわる人は少ないだろう。特に大切なはずの子どもたちを巻き込むほどその嫉妬心を面に
出す人はいないはずだ。
でも麻季ならあり得るかもしれない。愛情も憎悪も人一倍強い彼女ならば。大学時代に
ろくに口を聞いたことがなかった僕のアパートに押しかけてきた麻季。僕とは付き合って
さえいない面識すらなかった理恵にところに、僕に構うなと言いに行った麻季ならば、そ
ういう非常識なことも考えられるのかもしれない。
最初に知り合った頃、僕は彼女のことを境界性人格障害なのではないかと疑ったことが
あった。恋人同士になって満ち足りていた麻季の姿を見た僕はそんなふうに麻季を疑った
ことを後悔したのだった。でも、それは麻季がその頃の僕との関係に充足して満足してい
たからかもしれない。自分の不倫にひけ目を感じたうえに、僕と怜菜のささやかな心の交
情を聞かされて混乱した麻季が、僕の出張中に奈緒人と奈緒の仲のいい様子に僕と怜菜の
姿を重ねて考えるようになってしまったとしたら。
かつて脅迫的なほど自分の考えにこだわる姿を見せた彼女の様子が思い浮んだ。
『・・・・・・先輩、あたしのこと好きなんでしょ』
『何言ってるの』
『あたし、わかってた。最初に新歓コンパで合ったとき、先輩はあたしのことじっと見て
たでしょ』
『・・・・・・それだけが根拠なの』
『それだけじゃないですよ。美術史の講義で会ったときも先輩、じっとあたしのこと見つ
めていたでしょ』
あのときの彼女は、ろくに話しもしたことのなかった僕が自分のことを好きなのだと信
じ込んでいた。そんな彼女なら心の中で奈緒人と奈緒の様子を僕と怜菜との関係に置き換
えてしまったとしても不思議ではないのかもしれない。でもその仮定が成り立つとしたら、
麻季がまだ僕のことを好きで執着がある場合に限られていた。僕より鈴木先輩や他の男を
選ぶくらいなら、僕と怜菜の感情に悩むことはないだろう。そこまで考えつくと僕は再び
混乱して、あのとき麻季が何を考えていたのかわからなくなってしまうのだった。
いろいろ考えた末、理恵の好意に甘えることにした僕は代理人の弁護士に養育環境が麻
季に対して有利な方向で整ったことを報告した。麻季の代理人と親権について渡り合って
くれている彼にはいい交渉材料のはずだった。でも彼は浮かない顔で答えた。
「まあ、昨日までならいい材料だったかも知れないですけどね」
「どういう意味です?」
「今日、太田先生から連絡があったんですよ。先方の状況がいい方に変化したんでお知ら
せしときますってね」
「・・・・・・変化って。いったい先方に何が起きたんですか」
「こっちと同じですよ。先方の養育環境もずいぶん有利になってしまいました」
「というと?」
「奥さんの方も離婚が成立したら再婚するらしいですよ。まあ、奥さんの方は半年は結婚
できませんけど、実質的には同棲するみたいですから、養育条件の面ではこちらに不利に
なるところでした」
弁護士がそう言った。「まあ、幸いにも結城さんにもお相手ができたみたいですから、
そういう意味では五分五分というか一進一退というところですかね」
では麻季にはやはり好きな相手がいたのだ。奈緒人と奈緒の親権の争いがかかっていた
大事な場面だったのだけど、このとき僕は麻季の相手が誰なのかが一番気になった。そし
てすぐにそういう自分の心の動きに幻滅した。僕にとって一番大切なのは子どもたちだっ
たはずなのに、そして今では一番大切な女性は理恵なのだ。それなのに麻季の再婚相手の
ことに心を奪われている自分が心底情けなかった。
「相手の名前は?」
「鈴木雄二さんです。あなたの奥さんのかつての不倫相手ですね」
やはりそうか。奈緒人と奈緒のこととか僕と怜菜のこととか、いろいろごちゃごちゃと
考えたことなんか実際にはまるで関係なかったのだ。やはり麻季は鈴木先輩のことが好き
だったのだ。それも理恵の言うことを信じるとしたら大学の頃から。
「まあ奥さんの再婚はどうでもいいんですけどね。偶然にも先方と同じで結城さんにも一
緒に育児できるお相手ができたわけだし、養育環境の面だけではこちらも有利にはなれな
かったけど不利にもなっていません」
「はあ」
「それよりも問題なのは奥さんの相手が鈴木雄二ということですよ」
「どういうことですか」
「ご存知なんでしょ? 鈴木雄二氏は奈緒さんの実の父親ですからね。奈緒さんが戸籍上
はあなたと麻季さんの娘だとしても血は繋がっていない。実の父親が奈緒ちゃんを引き取
りたいと言い出しているわけで、ちょっとまずいことになりそうですね」
どうしてこんな簡単なことを今まで僕は忘れていたのだろう。鈴木先輩は怜菜の夫だっ
た。怜菜の遺児である奈緒の実の父親は鈴木先輩なのだった。怜菜は先輩に自分の妊娠を
告げることなく先輩と離婚して奈緒を出産した。そして怜菜の死後、先輩は奈緒を引き取
りはしなかったけど認知だけはしたのだった。
「鈴木氏は奈緒さんの実の父親ですからね。調停委員の心象にもだいぶ影響を与えるでし
ょうね」
「子どもたちを取られてしまうかもということですか」
「実の父親が奈緒さんを引き取りたいという意向を示しているのは我々にとっては不利だ
と思います」
「でも、少なくとも奈緒人は鈴木先輩とは関係ないですよね」
「それはおっしゃるとおりです」
「・・・・・・この先、奈緒人と奈緒はいったいどうなってしまうんでしょうか」
「怜菜さんが亡くなった際、鈴木氏が奈緒さんを引き取らなかったことと結城さんの奥さ
んの育児放棄を強調して、この二人には育児に不安があることを主張してみます」
「それで勝てるんでしょうか」
「調停は勝ち負けじゃないですからね。いかに調停委員の心象を良くするかです。調停結
果が思わしくない場合はその結果に従わないこともできます。でもそれは前に説明しまし
たね」
「ええ」
「最悪のケースは子さんたちの親権を奥さん側に取られてしまうことですが、可能性とし
ては奈緒さんが奥さん側に、奈緒人君が結城さん側にとなることも考えられますね」
「奈緒人と奈緒を引き剥がすなんてあり得ないですよ。あれだけお互いに仲がいいのに」
「でも奥さんが鈴木氏と再婚するとなると、この可能性も現実味を帯びてきてしまいまし
た」
「そんなことは認めない。駄目ですよ。あの子たちを別々にするなんて」
「多分、二人の親権を奥さん側が確保することは難しいでしょう。奥さんのネグレクトは
児童相談所の記録で公に証明されていますし、調停委員の一人は元児童相談員をしていた
人ですから、児童虐待の可能性のある人に親権を認めることはないと思います。でも、鈴
木氏は奈緒さんの実の父親だし別に子どもを虐待した経歴があるわけじゃないですから、
奈緒さんの親権をこちらが確保するのは、正直難しいかもしれません」
「その場合は調停を拒否して裁判に持ち込めばいいんでしょ?」
「それはお勧めしません。裁判になれば多分こちらが不利です。この手の訴訟は判例では
八割方母親に有利な判決が出ているのです。少なくとも調停なら児童委員出身の調停委員
のおかげで何とか奈緒人君の親権は確保できる可能性はありますけど、裁判にしてしまえ
ば二人とも奥さんの方に持っていかれてしまう可能性が大きいですね」
せっかく理恵が仕事を止めてまで育児をすると言ってくれたのに、この場に及んでまた
鈴木先輩が僕を苦しめようとしているのだ。今の僕にとって一番憎いのは麻季ではなく鈴
木先輩だったかもしれない。
それから数週間後、次の調停の前日に僕は再び弁護士から電話をもらった。
「最悪の事態です。太田先生から連絡があって奥さん側は明日の調停で申し立てを変更す
るそうです。奥さんは奈緒人君の親権、養育権、監護権とも全て放棄するみたいです。そ
の代わりに奈緒さんだけを引き取ることを主張すると」
確かに最悪の事態だった。弁護士によれば調停ではその主張は認められる可能性が大だ
という。それにしても麻季は何を考えているのだろう。自分の実の息子である奈緒人のこ
とはどうでもいいのか。それとも奈緒人のことも奈緒のことも麻季にとってはどうでもよ
くて、単に僕に嫌がらせをしたいだけなのだろうか。
翌日はすごく暑い日だったけど、家庭裁判所の隣にある公園は樹木が高く枝を張り、繁
茂している緑に日差しが和らげられていて、申し訳程度にエアコンが働いている家裁の古
びた建物の中よりよっぽど快適だったかもしれない。
この日僕は会社の上司に麻季との離婚調停があることを正直伝えて休みを取っていた。
それはいいのだけど、問題は奈緒人と奈緒だった。僕の両親は前日から体調を崩してこの
日は病院に行くことになっていた。そのせいで僕は弁護士から言い渡された辛い事実を相
談することすらできなかった。
僕は唯には弁護士から聞かされたことを相談した。案の定唯はひどく好戦的だった。
「麻季さんってどこまで自分勝手で卑劣なんだろう。お兄ちゃんに嫌がらせをするためな
ら奈緒人と奈緒を不幸にすることも辞さないのね」
吐き捨てるように唯はそう言った。
「明日の調停で何と主張するのか決めなきゃいけないんだ」
僕はもう何かを考える当事者能力を失っていたのかもしれない。これまでの僕は奈緒人
と奈緒を失うか、これまでどおり一緒に過ごせるのかの二択以外のことは考えもしなかっ
たのだ。突然に告げられた奈緒だけを引き取りたいという麻季の主張は僕を混乱させた。
これまで麻季には少なくとも奈緒人と奈緒にだけは愛情があるということを、僕は疑っ
ていなかったし、そのことを前提に麻季と親権を争っていたつもりだった。たとえ奈緒人
と奈緒の親密な様子に僕と怜菜を重ねてしまっていたとしても、まさか麻季が奈緒人と奈
緒を引き剥がすような、子どもたちにとって残酷な主張をするとは夢にも思っていなかっ
たのだ。
「明日、どうすればいいのかな」
僕は思考を停止して唯に弱音を吐いた。そんな僕の様子に唯は憤った様子だった。
「どうもこうもないでしょ。断固拒否するのよ。奈緒人と奈緒を別々に育てるなんて可哀
そうなことは認められないでしょうが。あの子たちが麻季さんの虐待に耐えられたのはお
互いを慰めあってきたからじゃない。奈緒人と奈緒を散々傷付けたくせに、反省するどこ
ろかさらに傷つけようとする麻季さんなんかに負けちゃだめよ」
「でも弁護士は訴訟に移行しても負けそうだって言ってるし」
「だから何? やってみなければわからないでしょ。調停ごときで諦めるなんて、お兄ち
ゃんは奈緒人と奈緒を愛していないの?」
理恵はといえば基本的には唯と同じ意見だった。でも唯と異なるのは、僕がどう判断し
ようとも最終的には僕の判断を受け入れると言ったことだった。
『後で後悔するくらいなら結果はともかく唯ちゃんの言うようにとことん足掻いた方がい
いかもしれないね』
そう電話口で理恵は話した。『でも最終的には決めるのは博人君だし、それがどういう
決断になるとしてもあたしは最後まで博人君の味方をするよ』
調停の日は両親は病院へ行くことになっていた。そして間の悪いことに唯はその日、内
定していた企業の招集日だった。つまり実家には奈緒人と奈緒の面倒をみる人間がいなか
ったのだ。
「明日は病気になる。高熱があることにする」
「だめだよ。社会人になる最初のステップからおまえをさぼらせるわけにはいかないよ」
「じゃあ、もう内定辞退するよ」
「だから駄目だって」
そんなことを唯とやりあっていたとき、理恵が事情を知って電話してきてくれた。
『奈緒人君と奈緒ちゃんも連れて来ればいいじゃん。家裁の隣の公園で遊ばせておけ
ば?』
「子どもたちだけで?」
『明日はあたしもついて行くから』
「仕事もあるだろうしいいよ」
『明日は代休だよ。あたしも一度くらい調停っていうの経験してみたいし』
「・・・・・・それじゃ奈緒人たちはどうなるの」
『奈緒人君なら奈緒ちゃんの面倒くらいみられるよ。唯ちゃんもそう言ってたし。あたし
も玲子に頼んで明日香を連れて行くからさ。何かあったら玲子が奈緒人君たちの面倒みて
くれるよ』
「玲子ちゃんと明日香ちゃんって、奈緒人と奈緒と会ったことすらないじゃん」
『心配いらないって。それとなく気にするように玲子に言っておくから』
そういうわけでその日の調停の場には関係者として理恵が同席した。その場では顔を合
わせなかったけど、調停委員の話では麻季の方も鈴木先輩を連れてきたということだった。
結局唯の言うとおり、奈緒人と奈緒を別々に育てるなんて考えられないことを主張して、
この日の調停は終った。僕と理恵が連れ立って家裁のそばの公園を歩いて行くと、ジュー
スやアイスクリームを販売しているワゴンのところに、玲子ちゃんが三人の子どもたちと
一緒に休んでいることに気が付いた。
「あら、結局一緒にいたんだ」
理恵が微笑んで玲子ちゃんに話しかけた。玲子ちゃんは初対面のはずの奈緒人と奈緒に
気がついてくれたらしく、明日香ちゃんと一まとめにして面倒をみてくれたらしかった。
「玲子さん、奈緒人たちの面倒までみてもらってすいませんでした」
僕は玲子ちゃんに礼を言った。
「どういたしまして。結城さんにそっくりだから奈緒人君のことはすぐにわかりました」
玲子ちゃんが微笑んだ。「奈緒人君、しっかりしているから余計なお世話かと思ったん
ですけど、奈緒ちゃんと明日香がいつの間にか一緒に遊び出してたんで」
「本当にありがとう」
「いいですよ。一人も三人も一緒だし。まとめて面倒みてただけで」
玲子ちゃんがどういうわけか顔を赤くした。
「玲子おばさんにソフトクリーム買ってもらった」
奈緒人が言った。
「おばさんって、奈緒人。お姉さんと言いなさい」
「パパ」
突然、奈緒が奈緒人から離れて僕に抱きついてきた。僕は暗い気持ちを隠して奈緒を抱
き上げた。抱き上げられた奈緒は無邪気に喜んで笑っていた。
調停からの帰り道、みんなでファミレスに寄って遅い昼食をとることにした。僕と理恵、
玲子ちゃんと子どもたち三人の総勢六人で賑やかに食事をしたのだったけど、そのときの
子どもたちの様子を僕はその後ずっと忘れられなかった。奈緒人と奈緒がお互い以外の子
どもに興味を持って親しくしているところを実際に見たのはこれが初めてだった。明日香
ちゃんも人見知りしない子のようだった。彼女は多少甘やかされて育った様子はしたけれ
ど、そんなことには関わりなく奈緒人と奈緒とは短い公園での出会いですっかり打ち解け
ているようだ。特に奈緒と明日香ちゃんは既にお互いを名前で呼び合っている。
「お兄ちゃん口に付いている」
奈緒が奈緒人の口を拭いた。
「服にもこぼしてるじゃん」
明日香ちゃんも奈緒の真似をして奈緒人の世話をやき始めた。「お兄ちゃんの服、ケチ
ャップが付いてるよ」
「・・・・・・明日香まで奈緒人君のことお兄ちゃんって呼んでるじゃない」
玲子ちゃんが理恵をからかうように言った。「もう、いつでも結城さんと結婚できる
ね」
「玲子! あんた子どもたちの前で何言ってるの」
理恵が本気で狼狽して言った。そう言えば明日香ちゃんに対して理恵が僕たちのことを
話しているのか聞いたことはなかった。うちの実家でも理恵との再婚は両親と妹には公然
の事実となっていたけれど、まだ奈緒人と奈緒にははっきりと話をしているわけではなか
った。麻季との親権争いが片付いていない不安定な状況で将来の話を子どもたちにするわ
けにはいかなかったからだ。
「子どもってすぐに仲良くなっちゃうんだね」
理恵のことを気にする様子もなく玲子ちゃんが笑って言った。
「そうですね。僕も驚いたよ」
「あたしは結城さんと奥さんの事情はよく知らないけど、この子たちのこういう様子を見
ているだけでも結城さんとお姉ちゃんの結婚を応援する気になるよ」
玲子ちゃんが理恵に言った。
「・・・・・・玲子」
「まあ、結城さんと結城さんの奥さんの話は唯ちゃんから聞かされてはいたし、奈緒人君
たちもつらかったんだなとは思ってたんだけどさ」
「うん」
「でもまあ、唯ちゃんは結城さんが大好きなブラコンちゃんだから話が偏ることも多いか
らな」
「何言ってるのよ」
「だから話半分に聞いていたんだけど、今日公園で二人を眺めててさ。奈緒人君と奈緒ち
ゃんって相当つらいことを乗り越えてきたんだなって思った」
少しだけ声を潜めて子どもたちを気にしながら彼女は言った。やはり初対面の玲子ちゃ
んでもそう考えたのだ。
「結城さんとお姉ちゃんが結婚すれば、奈緒人君と奈緒ちゃんとそれにうちの明日香が一
緒に暮らせるじゃない? それだけでもこのカップリングは正しいよ」
「それだけでもって言うな。あたしと結城さんは」
「・・・・・・何よ」
「何でもない」
理恵が赤くなった。
二人の女の子にお兄ちゃんと呼ばれていた奈緒人はあまり動じていなかった。自然に明
日香ちゃんのことを受け入れているように見えたけど、それでも奈緒人が一番気にしてい
たのは奈緒のことなんだろうなと奈緒人の様子を眺めながら僕は思った。それより僕にと
って意外だったのは、奈緒人が実家の両親や唯に慣れ親しむのと同じくらい玲子ちゃんに
気を許していたことだった。普段は大人同士の会話が始まると、大好きなはずの唯にさえ
遠慮していた奈緒人が、僕や理恵の話しかけている玲子ちゃんの気を引こうと試みている
ことに僕は気がついた。ただ、奈緒人は玲子ちゃんのことを「玲子おばさん」と呼びかけ
ていせいで、玲子ちゃんの機嫌を少し損ねているようだったけど。
「あのね奈緒人君。おばさんじゃなくて玲子お姉ちゃんって呼んでいいのよ」
「なんでよ。あたしは叔母さんって呼んでるじゃん。お兄ちゃんも叔母さんって呼べばい
いよ」
明日香ちゃんが奈緒人の腕に手をかけた。一瞬、奈緒が明日香ちゃんの方を見た。その
視線はまるで子どもっぽくなかった。嫉妬する一人の女の子のような視線みたいだ。
・・・・・・まさかね。考えすぎだと僕は思った。麻季の心境を想像しようと努めていたせい
か自分まで変な影響を受けたらしい。僕は頭を振った。
「どうしたの」
気が付くと理恵が不審そうに僕の方を眺めていた。
「いや・・・・・・何でもない」
「三人ともすぐに仲良しになったね。何だかうれしいと言うか気が抜けちゃった」
「どうして?」
「うん。あたしと博人君がうまくいってもさ。子どもたちが一緒に住むことに慣れなかっ
たらどうしようかってちょっと心配だったからさ。でも玲子の言うとおりいらない心配だ
ったみたい」
奈緒人と奈緒の様子に僕と怜菜の心の中の不倫を重ねて見ているのではないかと最初に
言い出したのは理恵だった。でも理恵はそんな麻季の心の動きが異常なものだと見做して
いたのだろう。理恵自身は明日香ちゃんのことはもちろん、奈緒人の奈緒が仲がいいこと
に対して単純に喜んでいるだけで,それ以上余計なことは何も考えていないようだった。
もうこのことを考えるのはやめようと僕は思った。麻季が何を考えているのなんかどう
でもいい。それよりも親権を獲得できれば、僕と理恵の家庭の幸せは約束されたようなも
のだ。子どもたちの仲のいい様子を見てそれがわかっただけで十分なのだ。
そう割り切ってしまえば親権の争い以外に悩むことはなかった。これまで子どもを放置
した麻季に対して嫌悪感を感じていた僕だったけど、それでも僕の中には麻季への未練、
というか麻季との幸せだった過去の生活への未練が、どこかにわずかだけど残されていた
のだろう。でも理恵へのプロポーズや明日香ちゃんを含めた子どもたちの仲の良さを実感
したことで、ようやく僕はその想いから開放された。その感覚は癌の手術後の経過にも似
ていた。癌の手術後の患者はいつ再発するのかと常に悩むかもしれない。そして経過観察
期間が過ぎて、もう大丈夫だと思うようになって初めて今後の人生に向き合うことができ
るのではないか。
僕の場合もそれに似ていた。まだ調停の結果は出ていないけど、この先の自分の人生に
向き合う気持が僕の心の中にみなぎるようになったのだ。僕はもう迷わなかった。理恵と
三人の子どもたちと、新しい家庭を構築するという単純な目標だけを僕は希求するように
なった。弁護士の言うように調停の結果奈緒の親権が確保できなかったら訴訟を起こそう。
悲観的な弁護士と違って唯は勝てる要素は十分にあると言っていたのだし。
僕はその方針を実家の両親と唯に、そして理恵に伝えた。みんなが賛成してくれた。
僕は仕事上もプライベートでもかつての調子を取り戻していた。理恵と実質的に婚約し
ていた僕にとって、もう将来は不安なものではなかった。麻季との離婚が成立したらすぐ
に理恵と結婚することになっている。理恵は残業のない職場に異動希望を出し、それが認
められなければ専業主婦になると言ってくれていた。そして、たとえ僕と麻季の離婚の目
途はつかなくても、来年の四月になって唯が奈緒人たちの面倒を見れなくなったら一緒に
住んで子どもたちの面倒をみると理恵は言った。
現状にも将来にも今の僕にとって不安な要素がだいぶ減ってきていたから、僕は今まで
以上に仕事に集中することもできるようになっていた。
その日の夜の九時頃、僕は残っている部下たちにあいさつして編集部を出た。この時間
になると帰宅しても子どもたちはもう寝てしまっている。まっすぐ帰宅しようかと思った
けれど、さっき唯からメールが来て今日は家に夕食がないので残業するならどこかで食事
をしてくるように言われていた。僕は夕食の心配をしなければいけなかった。
一瞬、まだ仕事をしているだろう理恵に連絡して一緒に食事でもという考えが頭をよぎ
ったけれど、よく考えたら彼女は今日は泊りがけの取材で地方に赴いていることに気がつ
いた。面倒くさいしコンビニで何か買って実家に帰ろうかと思って社から地下鉄の駅に向
って歩こうとした瞬間、僕の目の前に人影が立っていることに気がついた。
「久しぶりだね」
目の前の人影が穏かにそう言った。都心の夜の歩道はビルの中の灯りや街路灯のせいで
身を隠すなんて不可能だ。
「・・・・・・え? 何で」
僕は口ごもった。目の前に立っていたのは、見慣れた服に身を包んだ麻季だった。
「元気そうね、博人君」
以前によく僕に見せてくれた優しい微笑みを浮べて麻季が言った。ちょっと長い出張か
ら戻ったとき、麻季は僕に今と全く同じ微笑みを浮べてそう言ってくれたものだった。
「偶然だね」
ようやく僕は掠れた声で答えることができた。
「偶然というわけじゃないの・・・・・・。あなたが会社から出てくるのを待ってた」
麻季の微笑みに不覚にも少しだけ動揺する自分のことが、僕は心底嫌だった。
「・・・・・・お互いに弁護士を通してしか接触しないことになっていなかったっけ」
僕はようやく気を取り戻してそう言うことができた。麻季と直接二人きりになることは
もうないものだと思ってはいたけど、先日の居酒屋での偶然もある。理恵に結婚を申し込
んでからは、万一再び麻季と会うことになったらそう言おうと僕は心に決めていた。そし
てどうやら僕は動揺しながらも思っていたとおりのセリフを口に出すことができたのだ。
「それはそうなんだけど・・・・・・」
麻季は俯いてしまった。
「何か用事でもあるの」
僕は意識して冷たい声を出すように努めた。麻季は黙ったままだった。
「これから実家に帰らなきゃいけないんで、用事がないならこれで失礼する」
用事があったとしても僕は黙ってここから立ち去るべきだ。
「待って。あなたと話したいの」
「・・・・・・話なら弁護士を通してくれるかな」
「・・・・・・博人君と直接お話したいと思って」
「あのさ」
僕は段々と腹が立ってきた。「弁護士を通せって言い出したのは君の方だろう。携帯だ
って着信拒否してるくせに今さら何言ってるんだ」
「してない」
「え」
「着拒してたけどすぐに後悔してとっくに解除してあるの。でも博人君連絡してくれない
し」
「あれ? 編集長まだいたんすか」
部下の一人がそのとき編集部から出てきて僕に話しかけた。彼はすぐに麻季に気がつい
た。悪いことに彼は麻季とも顔見知りだった。
「あれ、麻季さん。ご無沙汰してます。お元気でしたか」
「・・・・・・お久しぶりです」
麻季が小さな声で言った。
「何だ。結城さん、今日は奥さんと待ち合わせでしたか。相変わらず仲がいいですね」
社内では上司以外は僕と麻季の仲が破綻していることを知らない。
「そんなんじゃないよ」
「麻季さん相変わらずおきれいで。それにお元気そうですね」
「・・・・・・はい」
彼は腕時計を眺めた。
「おっといけね。マエストロをお待たせしたらご機嫌を損ねちゃう。じゃあ、俺はこれで
失礼します」
「先生によろしくな」
「わかりました」
彼は麻季に向ってお辞儀をして足早に去って行った。
どうもこのままでは埒があかない。それにいつまでも編集部の前で人目に晒されている
わけにもいかなかった。
「しようがない。とにかくここから移動しよう」
僕は麻季に言った。
「うん。ごめん」
「来るなら来るって連絡してくれればいいだろ。いきなり待ち伏せとか何考えてるんだ
よ」
「ごめんなさい」
麻季が泣き出した。彼女が何を企んでいるのかはしらないけど、社の前で泣かれると困
る。僕は仕方なく彼女の手・・・・・・ではなく、上着の袖を遠慮がちに掴んで歩き出した。麻
季は大人しく僕の後を付いて来た。
クローバーへ行こうと思ったのだけど、馴染みのその喫茶店はこの時間では既に閉店し
ていた。それによく考えるとあそこは生前の怜菜と最後に会った場所だし、理恵にプロ
ポーズした場所でもある。あそこに麻季を連れて行く訳には行かなかった。この辺にはフ
ァミレスもない。
こんな時にどうかと思ったけど、立ち話を避けるためには選択肢はあまり残されていな
かった。
「そこの居酒屋でもいいかな」
麻季は黙って頷いた。
チェーンの居酒屋はそこそこ混んでいるようだったけど、僕たちは待たされることなく
席に案内された。
向かい合って席に納まるとしばらく沈黙が続いた。店員が突き出しをテーブルに置いて
飲み物の注文を取りに来た。
「・・・・・・僕には生ビールをください。君は・・・・・・ビールでいい?」
麻季は俯いたままだ。これでは店員だって変に思うだろう。
麻季は昔から炭酸飲料が苦手だった。彼女は酒が飲めないわけではなかったのだけど、
ビールとか炭酸が入っているものは一切受け付けなかったことに僕は思い出した。彼女は
地酒の冷酒とかを少しだけ口にするのが好きだったな。それでもこの場で僕が麻季に酒を
勧めていいのだろうか。少し僕は迷った。
「・・・・・・冷酒、少しだけ飲むか」
俯いていた麻季が少しだけ顔を上げた。
「・・・・・・いいの?」
「いいのって。聞く相手が違うだろ」
こいつはいったい何を考えているのだろうか。
「冷酒でいいか」
「うん。あたしの好みを覚えていてくれたんだ」
麻季の返事は少しだけ嬉しそうに聞こえた。
やがて生ビールのジョッキと冷酒の瓶がテーブルに運ばれてきた。麻季の前にはガラス
のお猪口のような小さなグラスが置かれる。何となく手酌にさせるのも可哀そうで、僕は
冷酒の瓶を取って彼女のグラスに注いだ。
「ありがとう」
麻季がグラスを手に持って僕の酌を受けて微笑んだ。何か混乱する。まるで奈緒人が寝
たあと、夫婦で寝酒を楽しんでいた昔の頃に戻ったような感覚が僕を包んだ。
今日一日ほとんど飲み食いせずに仕事をしていたせいか、こんな状況でも喉を通過する
生ビールは美味しかった。人間の整理は単純にできている。僕は思わず喉を鳴らして幸せ
そうなため息をついてしまったみたいだ。麻季は冷酒のグラス越しにそんな僕の様子を見
てまた微笑んだ。
「博人君、喉渇いてたの?」
「・・・・・別に」
「何か懐かしい。博人君が残業して深夜に家に帰って来たときって、いつもビールを飲ん
でそういう表情してたね」
「そうだったかな。もう昔のことはあまり覚えていないんだ」
僕は意識して冷たい声を出した。
・・・・・・実際は覚えていないどころではなかった。子どもができる前もできた後もあの頃
の僕の最大の楽しみは、帰宅して次の日の仕事を気にしながらも麻季にお酌してもらいな
がらビールを飲むことだったから。奈緒人を身ごもってから麻季は酒を一切飲まなくなっ
たけど、その前は彼女も僕に付き合って冷酒をほんの少しだけだけど一緒に付き合ってく
れたものだった。
いや。そんなことを思い出してどうする。どういうわけか、あれだけひどいことを麻季
にされたにも関わらず僕は以前の生活を懐かしく思い出してしまったようだ。僕は無理に
冷静になろうとした。
「それで何か用だった? 調停のことだったら家裁の場以外では交渉しないように弁護士
に言われてるんだけど」
「・・・・・・うん」
「うんじゃなくてさ」
麻季が何を考えているのか僕には全く理解できない。
「食事してないんでしょ」
「博人君、職場で夜食食べるの嫌いだもんね」
麻季がどういうわけかそう言った。「何か食べないと」
麻季はいそいそとメニューを持ってじっとそれを眺め出した。
「君の食事の面倒みるのって久し振り。ふふ。博人君、食べ物の好み海外から帰っても変
わってないよね?」
「・・・・・何言ってるの」
「本当は身体には悪いんだけど・・・・・・でも好きなものを食べた方がいいよね」
麻季が店員を呼んで食べ物を注文した。それは完璧なまでに僕の好みのものだった。こ
れだけを取ってみれば、理恵や唯よりも僕の食生活の嗜好を理解していたのは麻季だった。
でもそれは当然だ。破綻したにしても何年にも渡って麻季と僕は夫婦だったのだから。
それにしても麻季は何でわざわざ僕に会いに来たのだろう。いろいろ店内に入ってから
はいろいろと喋りだしてはいるけれど、彼女が今になって何のために僕の前に姿を見せた
のかについてはヒントすら喋らない。
「お酒、注いでもらってもいい?」
さっき麻季に酒を注いだときに僕は冷酒の瓶を自分の手前に置いてしまっていた。僕は
再び麻季のグラスに冷酒を満たし、今度は麻季の手前にその瓶を置いた。
麻季は一口だけグラスに口をつけてテーブルに置いた。
「ビールでいい?」
「え」
僕はいつの間にか生ビールのジョッキを空にしてしまっていたようだ。
「頼んであげる」
「あのさあ。明日も仕事だしゆっくり酒を飲んでる時間はないんだ」
「でもお料理もまだ来てないよ」
「君が勝手に頼んだんだろうが」
「今日って実家に帰るだけでしょ? まだ終電まで三時間以上あるじゃない」
「そういう問題じゃない。第一に早く帰って子どもたちの顔を見たい。第二に君と二人き
りで一緒にいたくない・・・・・・。おい、よせよ。何で泣くんだよ」
泣きたいのはこっちの方だ。僕は泣き出した麻季を見ながらそう思った。
「ごめん」
「・・・・・・うん」
「本当にごめんなさい」
「もういいよ。それにさっきから何に対して謝ってる? 突然会社の前で待っていたこ
と? それとも泣いたこと?」
僕は弁護士からは、調停の場か弁護士が同席していない限り調停内容に関わる会話は避
けるように言われていた。これまではあまりそのことを真面目に考えたことはなかった。
そもそも麻季の方が僕を避けていたので顔を合わす可能性なんてなかったからだ。
でも、こうして久し振りに麻季と二人で話せる状態になると、僕はこれまで溜め込んで
きて吐き出す場がなかった怒りや疑問が口をついて出てしまった。そして一度負の感情を
口に出してしまうと、それは自分では制御できなくなってしまった。
「それともまさかと思うけど、麻季は不倫したことや子どもたちを虐待したことを今さら
後悔して謝っているのか? そんなわけないよな。弁護士から聞いたよ。鈴木先輩と再婚
するんだってな。よかったね、僕なんかに邪魔されないで最愛の人とようやく結ばれて
さ」
一気にそこまで話したとき、ようやく僕の激情の糸が途切れた。心の底がひえびえとし
て重く深く沈んでいった。
僕は周囲の客の好奇心と視線を集めてしまったことに気がついた。
「大声を出して悪かったな」
僕は冷静さを取り戻して麻季を見た。麻季は動じていなかった。むしろこれ以上にない
というほどの笑顔で僕に向かって微笑んだのだ。とても幸せそうに
「結城先輩、やっぱりあたしのこと好きでしょ」
麻季が静かに笑って言った。
僕は凍りついた。
・・・・・・麻季はいったい何を言っているのだ。そして記憶を探るまでもなくそれは鈴木先
輩に殴られた麻季を助けたときに彼女が脈絡もなく言ったセリフだった。それをきっかけ
に僕と麻季は付き合うようになったのだ。
「何言ってるんだ・・・・・・結城先輩って何だよ」
「懐かしくない? あたしと博人君の馴れ初めの会話だよ」
それにしても泣いたかと思うとすぐに優しい顔で微笑む麻季はいったい何を考えている
のだろう。麻季のこういう支離滅裂な性格は大学時代には理解していたつもりだったけど、
彼女と付き合い出して結婚してからはこういう意図を理解しがたい言動は全くといってい
いほど見られなくなっていたのに。
「もういい。僕は帰る」
僕が立ち上がると初めて麻季は慌てた様子で僕のスーツの袖口を掴んだ。
「帰らないで。ちゃんと話すから・・・・・・。全部話そうと思って来たの」
今まで笑っていた彼女がまた泣き顔になって言った。僕はしぶしぶ腰を下ろした。
「何を話す気なんだよ」
「全部話すよ。博人君がドイツに出張してからあたしが何を考えていたか」
僕は思わず緊張してまだ涙の残る麻季の顔を見直した。
「あたしさ。いろいろ努力はしたんだけど、結局、奈緒のことが好きになれなかったん
だ」
麻季が言った。
麻季にそういう感情もあるのではないかと考えたこともあったので、僕は思ったよりは
動揺しなかった。それでも仲が良かった頃の夫婦のような間合いで二人で過ごしている状
況で、薄く微笑みながらそういう言葉を口に出した麻季の様子に僕は少しショックを受け
た。
「もちろん奈緒には何の責任もないことなのよ。だから一生懸命頑張って笑顔で奈緒には
優しくしたんだけどね」
「・・・・・・・怜菜の娘だからか? でもそれなら何でわざわざ苦労して奈緒を引きとるなん
て言い出したんだ」
「・・・・・・あまり驚かないのね」
「僕が不在のときの君の行動を知ってからは、君についてはもう何を聞かされても驚かな
くなったよ」
「博人君ひどい」
「君の口からそんな言葉を聞くとは思わなかったよ」
「確かに今は離婚調停中だけど、お互い別に嫌いになって別れるわけじゃないんだよ。会
っているときくらい前みたいに仲良くしたっていいじゃない」
「・・・・・・何言ってるの?」
「何って」
「僕たちがお互いにまだ愛し合っているとでもいいたいの」
「うん・・・・・・。あれ、違うの?」
麻季は本気で戸惑ったようにきょとんとした顔をした。そして麻季の話はかつて僕が
ボーダーではないかと疑ったときのように支離滅裂になってしまっている。
子どもたちの育児放棄。帰国したときに見た廃墟のようにゴミが散乱していた我が家。
太田弁護士から受け取った受任通知書。そして鈴木先輩と麻季の再婚。
そのどこを取ったら僕への愛情が見られるというのだ。
「注いでくれる?」
麻季がにっこり笑ってグラスを掲げた。
わずか数ヶ月僕が家庭を留守にしている間に麻季の心境に何が起きたのか、どうして彼
女は自分の夫と子どもたちにこんなひどい仕打ちができたのか。今夜はようやくその答が
聞けるのではないかと思ったけど、滑り出しは最悪だった。謎がさらに深まっていくばか
りだ。もう諦めて帰った方がいいんじゃないか。麻季の心境のことは諦めるつもりになっ
たばかりなのだし。
一瞬そう考えたけど、一見すると整合していない麻季の話は彼女の中では完結していた
ことを思い出した。コミュ障というか彼女は心情表現が稚拙なのだ。どうせもう遅くなっ
てしまっている。僕はもう少し粘ってみるつもりになった。そのためにはこちらから話を
誘導して質問した方がいい。付き合い出したばかりの頃はよくそうしたものだった。とり
あえず黙って麻季に冷酒を注いでから僕が自分から質問しようとしたとき、麻季が 注文
した料理が一度に運ばれてきてしまった。
「話は後にしてとりあえず食べて」
そう言って麻季は取り皿に運ばれてきた料理を取り分けて僕の前に置いた。「あなたは
放っておくと夜食べないことが多かったよね」
「・・・・・・そうだっけ」
「うん。だから子どものこととかすぐにあなたに相談したいときでも、あなたに食事させ
るまでは我慢してたんだよ。そうしないとあなたは相談を真面目に聞いてくれるのはいい
んだけど、夢中になって食事を忘れちゃうから」
いまさらそんな話を微笑みながら言われても困るし、同時に全く自分の心には響いてこ
ない。懐かしさすら浮かんでこないのだ。当然とは言えば当然だった。僕には今では理恵
がいる。麻季は僕たちは離婚協議中だけどお互いにまだ愛し合っているというようなこと
を言った。でも僕の愛情はもう麻季には向けられていない。そして麻季だって鈴木先輩と
再婚するのではなかったのか。僕のことを愛しているのならそんなことをするわけがない。
麻季が普通の女なら。
そう普通の女ならそうだ。でも麻季は、少なくとも今の状態の麻季は普通ではないのか
もしれない。僕はとりあえず奈緒に対する麻季の気持について棚上げして、根本的な疑問
から解消してみようと思った。
「まあせっかく注文してくれたんだから食べるよ。でも時間も遅いし食べながら話そう」
僕は麻季を宥めるように微笑んでみた。まるで言うことを聞かないわがままな子どもを
あやすように。
「ちゃんと食べてくれる?」
麻季が顔をかしげて言った。それはかつてはよく見た見覚えのある可愛らしい仕草だっ
た。
「君が家を出て行ったのってさ」
食欲は全くなかったけど無理に食べ物を口に運んでから僕は切り出した。
「うん」
普通は緊迫する場面だと思うけどどういうわけか麻季は食事をする僕の様子をにこにこ
しながら見守っている。
「やっぱり僕とじゃなくて鈴木先輩と家庭を持ちたいと思ったからなんでしょ?」
「違うよ」
あっさりと麻季は答えた。「大学で初めて博人君と出会ってから、あたしが本当に好き
なのは昔から今まであなただけよ。だからあたしが一緒に暮らしたいのもあなただけだ
よ」
「あのさあ」
「もちろん、一度は雄二さんと過ちを犯したのは事実だけど・・・・・・。でもあのときだって
本当に愛していたのは博人君だけ。あのときはそんなあたしを博人君は許してくれたよ
ね」
もう麻季には未練の欠片もないはずなのに、麻季が先輩のことを雄二さんと呼んだこと
に少しだけ胸が痛んだようだった。
「だって再婚する予定なんだろ? 鈴木先輩と」
「うん。でも雄二さんと連絡を取り出したのは最近だよ。家を出て行ったときはメールさ
えしていなかったし。最近会うようになるまでは、彼と会ったのはあなたと二人で奈緒を
引き取りに行ったときが最後」
「それは変じゃない? 君は児童相談所に押しかけてきただろう。自分が見捨てた子ども
たちを返せってさ。そのときは男と一緒だったって聞いたんだけどな」
いまさら彼女の心変わりなんか批判するつもりなんかなかったのに、僕は思わず麻季を
非難するような言葉を口にしてしまった。
「うん。でもそれ雄二さんじゃないから」
麻季は落ちついて言った。
「・・・・・・誰なの」
「あなたと神山先輩が居酒屋でキスしてたときにあたしと一緒にいた人」
「どういう人なの」
「よくわからないの。どっかのお店で声をかけられただけだから。名前もよく覚えていな
い」
「・・・・・・手当たり次第ってわけか」
「そうかも。今は雄二さんだけだけど」
麻季に真実を白状させようとした僕は、思わぬ彼女の話に自分の方が混乱してしまった。
家を出る前からか出た後かはわからないけど、麻季は複数の男と遊んでいたようだ。
「・・・・・・何で子どもたちを何日も放置したまま家を空けた?」
僕は力なく言った。もう上手に彼女から考えを引き出す自信なんて消え失せていた。以
前と全く変わらない様子で僕を見つめて微笑んでいる麻季は、僕の妻だった頃の麻季では
ないことはもちろん、大学の頃の不可解な麻季ですらなかったようだ。麻季のしたことを
許せはしないまでも、事情を聞けばその行動が少しでも理解できるだろうと思っていた僕
が甘かったようだ。
「口がお留守になってるよ。もっとちゃんと食べないと」
「食べるよ・・・・・・だから答えてくれ」
「ちょっとだけあなたを愛し過ぎちゃったからかな。あたしを放って家を空けた博人君に
も原因があるのよ」
「寂しかったからとか陳腐な言い訳をするつもり?」
「あなたがいなくて寂しかったのは事実だけど、それだけじゃないの。あたしも努力した
んだけど我慢できなくなって」
「抱いてくれる男がいなくなって我慢できなくなったってことか」
思わず情けない言葉を口にした僕はそのことに少しだけ狼狽した。
「何度でも言うけど今でも昔と変わらずにあなたのこと愛してる。いえ、会えなくなった
分、昔より何倍もあなたが好きかも」
「わかんないな。僕のことを愛しているなら何で男を作って家出することになるんだよ」
「だから最初に言ったでしょ。奈緒のこと」
僕はもう麻季を問い詰めることを諦めて彼女に好きに喋らせることにした。今夜は帰れ
ないかもしれないな。腕時計をちらっと見て僕はそう覚悟した。
やがて麻季が微笑みながら話し出した。
今日はここまで
また投下します
次回から第四部です
「妹の病室にいなくてもいいのか」
「両親と叔母さんが明日香の病室にいますし」
「ふーん。それで兄ちゃんは俺たちに何の用なんだ?」
平井さんは煙草を咥えなおして火をつけた。
「自白でもしたいことがあるのか」
平井さんは皮肉っぽい表情を浮かべた。
「・・・・・・ここは病院の敷地内だから禁煙だと思いますよ」
僕の言葉に平井さんが再び目を細めた。そしてあらためて初めて僕の存在いに気が付い
たように僕を見た。彼は煙草を駐車場の路面に投げ捨て足で踏みにじった。
「何の用だ。俺は忙しいんだが」
僕は一瞬怯んだけど、警察の人たちの協力は不可欠だ。
「太田有希って子知ってますか」
平井さんの目が急に鋭くなった。
「おまえは何か知っているのか」
「彼女は明日香の最近できた友だちです。あと池山という奴はこの間まで明日香の彼氏で
した」
「ほう」
平井さんは少し驚いたようだった。「被害者の関係者から太田の名前を聞くとは思わな
かったな」
「両親は何も知らないんです。僕が知っていることは全部話すので、池山や飯田のことを
教えて欲しいんですけど」
「おい、おまえ。調子に乗るなよ。ご両親にも断らずに未成年のおまえにそんな話ができ
るわけないだろう。第一、おまえが聞きたがっているのは捜査上の機密事項だぞ」
車の運転席に座っていたもう一人の刑事が刺々しい口調で口を出した。
「まあ待て。加山」
平井さんにたしなめられて加山という男は露骨に不服そうな態度を見せた。
平井さんにたしなめられて加山という男は露骨に不服そうな態度を見せた。
「この兄ちゃんだって妹のことが心配なんだろうさ。そういう切り捨て方はよせ」
「だって平井さん、未成年の高校生にペラペラ情報を喋ってどうするんです。こいつの両
親にだってまだ何も聞いていないのに」
「だからおまえは黙ってろ。このヤマの捜査主任は誰だ?」
「・・・・・・それは平井さんっすけど」
「わかってるじゃねえか。おまえは大卒ですぐに俺なんかより偉くなるだろうけど今はま
だ俺が上席だ。だから俺に任せておけ」
そう言うと平井さんは僕の方を見た。ほんの少しだけ僕に対する態度が柔らかくなった
ような気がした。
「おまえは女帝っていうニックネームの女のことを聞いたことがあるか」
「いえ。聞いたことないです」
「そうか。この界隈の中高生の間ではちっとばかし有名な女なんだけどな」
そう言われても僕には初耳だった。女帝とかドラマじゃあるまいし随分大袈裟なネーミ
ングだ。
「そう。ドラマじゃねえしな。大袈裟に聞こえるだろう」
平井さんは僕の気持ちを見抜いたように言った。
「族とかヤンキーとかチーマーとか、昔から粋がりたいガキはこのあたりにもいっぱいい
たんだ。でもそいつらは無軌道に騒いで悪さをしてたくらいでな。組織立って悪事を働く
奴なんて今までは聞いたことがなかったよ、俺も」
「そうでしょうね」
「おう。第一そんなに頭が働いて、仲間を統制できるような玉なんて普通は不良高校生の
中になんていねえからな」
平井さんは言った。
「それがな。最近妙なことに悪さをしている連中がおとなしくなりやがった。夜道で女の
子を襲ったり互いに殴り合いの喧嘩をして俺たちに面倒をかけている連中が、そういう揉
め事を起こさなくなったんだよな」
大変失礼いたしました。
では、本編投下します。
第四部
奈緒は怜菜にそっくりだ。友人のいない学生時代を唯一といっていい親友の怜菜と過ご
していた麻季にはそう思えた。別に外見だけじゃない。まだ幼いのに他人に対する態度が
すごくソフトなところや、人の気持を優先して自分を抑えるところは、まるで人のいい玲
菜そのものだった。そして一見遠慮がちで儚げな様子に隠れてはいるけど、実は奈緒の芯
は非常に強く、自分の考えを曲げない強い意志の力を持っている。幼稚園の先生からの連
絡ノートを読んで麻季は自分の考えを確信するようになった。鈴木先輩の実子ではあるけ
れど、彼の調子のいい優しさやその場限りの人当たりの良さなんて奈緒には全く感じられ
ない。奈緒は完全に怜菜似だったのだ。
最初の頃は麻季にとってそのことが嬉しかった。自分に裏切られてもなお黙って身を引
く道を選び、そして突然の死を遂げた親友の怜菜が再び自分の前に姿を現してくれたよう
に感じたのだ。心配する博人を説き伏せて奈緒を引き取った決心は正しかった。そう思う
と麻季の生活には自然とやりがいと張りが戻ってきた。博人も多忙な仕事を無理にやりく
りして週末はなるべく家で過ごすように心がけていたようで、自然に夫婦の仲も改善され
だした。
自分の浮気から始まった家庭の危機がようやく収束しようとしていた。これも怜菜のお
かげかもしれない。結果的に怜菜の遺児を引き取ることによって、麻季と博人は失ってい
た共通の目標を再び共有することができたのだ。奈緒の遠慮がちな態度は、父親の博人や
麻季自身に対してさえ向けられていた。奈緒は物心がつく前から結城家に養子に入ってい
たし、奈緒が実子でないことはまだ幼い本人には伝えていなかったので、両親にくらいは
無邪気に自己主張してもいいはずだった。でも奈緒はそうしなかった。養子であることへ
の遠慮であるはずがないことを考慮すると、きっと奈緒は家族も含めて誰に対しても一歩
引いて、相手の意向に従う態度を示すような性質を持っていたのだろう。
その頃から奈緒は奈緒人によく懐いていたし奈緒人も奈緒の面倒をよく見ていた。その
こと自体には不満がないどころか麻季にとっても喜ばしいことですらあった。二人はいつ
も一緒に過ごしていた。その様子は微笑ましかったし、仕事から帰った博人もそんな様子
を暖かく満足して見守っているようだった。それでも少しだけ困るようなこともあった。
たとえば休日に家族で外出するとき、家族四人で一緒に遊んだり食事をしたりする場合は
別に問題はないのだけど、博人と麻季が手分けして生活に必要なものを購入しようと二手
に分かれたりすると問題が発生した。
博人に手を引かれた奈緒人と麻季と手を繋いだ奈緒。奈緒は奈緒人の姿が視界にないこ
と気がつくと火のついたように泣き出してしまう。奈緒人も泣きはしないまでも博人の手
を振り払い奈緒の姿を求めて駆け出して行こうとした。
そういう子どもたちに手を焼いた奈緒人と麻季は、外出中に奈緒人と奈緒を引き離すこ
とを諦めた。何か漠然とした不安を感じないでもなかったけど、それがどういうことなの
か当時の麻季にはわからなかった。そして、奈緒人と奈緒の親密な関係は親にとっては嬉
しい悩みなのだと考えようとした。それに一見理想的に育児や家事をこなしているように
見えた麻季には、当時もっと気になることがあった。それは引き取った娘の名前だった。
奈緒自身には何の罪もない。奈緒人と奈緒。実の両親がそう名付けたのだとしたら、あ
まり趣味がいいとは言えないけどまあ世間にないことでもないだろう。でも、その命名が
博人に淡い想いを抱いていた怜菜が黙って自分の娘に名付けたことが他人に知れたとした
ら、世間体が悪いなんてものじゃない。仮に怜菜の子どもが男の子だとしたら、いったい
彼女はその子に何と名付けたのだろう。まさか奈緒人だろうか。
鈴木先輩と別れて一人で出産、育児をする道を選んだ怜菜は、離婚に際して自分の旦那
に何も要求しなかったらしい。もちろん麻季自身に対して慰謝料を請求することもなかっ
た。怜菜は黙って自分の夫が自分の元に帰ってくるのを待ち続け、ついにそれが敵わない
と判断すると、何一つ要求するでもなく黙って一人で身を引いたのだ。当時既に身重の身
になっていたことすら夫に告げずに。そういう怜菜の身の処し方は一見鮮やかなように見
える。事実、麻季が博人を問い詰めたとき、博人も怜菜のそういう様子に惹かれていたと
正直に白状したものだった。
『怜菜さんは冷静に自分や周囲を見ていたよ。数度しか会わなかったけどそれはよくわか
った。そして鈴木先輩以外は恨んでいなかったよ。というかもしかしたら先輩のことすら
恨んでいなかったかもしれない。そういう意味では聖女みたいな人だったな』
博人は怜菜のことを聖女とか天使とかという表現で褒め称えた。麻季だって理解はして
いたのだ。怜菜と博人の間の恋情は淡くそしてプラトニックなものだ。自分が鈴木先輩と
犯してしまったような肉体的な関係ではないのだと。でもそれだからといって相手を想う
気持ちが、肉体関係を伴った不倫より小さいということはできないだろう。ましてその相
手の怜菜が亡くなってしまえば、自分の夫が怜菜に対して抱いた想いは彼女への恋情を残
したまま永遠に氷結されてしまったままになるのだ。
疑おうと思えばどんなことだって怪しく思える。怜菜が自分の夫に何も要求せずに離婚
したのだって、ひょっとしたら博人と麻季自身が離婚したときに、自分と博人がすぐにで
も結ばれるためかもしれない。もっと邪推すれば、これは荒唐無稽な考えかもしれないけ
ど怜菜は自分への博人の想いを永遠のものにするべく自分の娘に博人の一人息子の名前を
もじって奈緒という名前を命名し、その後自ら命を絶ってということだって・・・・・・。
それはいくら何でも妄想が過ぎるというものだと麻季は思った。彼女は卒業してから全
く連絡を取らなくなっていた怜菜のことを思い出してみた。
当時、同性の友人がほとんどいなかった麻季にとって怜菜はほとんど唯一の友人であり、
親友でもあったのだけど、あの頃の怜菜には男女問わず友人が多かった。講義に出ても
サークルに行っても彼女に話しかける学生はたくさんいた。
「怜菜、元気?」「よう怜菜。最近付き合い悪いじゃん」「怜菜さ、鹿児島のフェスのマ
スタークラス申し込む?」「今日、芸大の人たちから合コン誘われてるんだけど怜菜も行
かない?」
怜菜は愛想よく話しかけてくる友人たちに受け答えしていたけど、気の進まない誘いは
頑として断っていた。あたしなんかに気を遣わなくていいからもっと友だちと遊べばいい
じゃん。麻季は怜菜のそういう態度に不審を覚えてそう言ったことがあった。
「いいよ。本当に気が進まないし、あたしは麻季と一緒にいた方がいいや」
そういうとき、怜菜は決まって笑ってそう言うのだ。麻季だって怜菜がいないと一人で
寂しいということはない。怜菜と一緒に過ごす方が気は休まるのだけど、一人で過ごした
くなければ自分に言い寄って来た男を呼び出せばいい。もっともほとんどがつまらない男
ばかりだったので、麻季が一緒にいてもいいと思えるような男はサークルの鈴木先輩くら
いだったのだけど。
彼になら多少のことは許してもいいかもと麻季は当時考えていた。本音を言えば相手が
鈴木先輩だとしても、一緒にいることに対して本心から充足感を感じたことはなかったの
だけれど、自分の相手をしてくれる人の中では彼はだいぶましな方だった。それに彼と一
緒にいると学内で優越感を感じることができる。それでも麻季にとっては怜菜が一緒にい
てくれたほうが気が休まった。唯一の親友、というか唯一の同性の友人である彼女といる
と、麻季は気を遣わずに楽しく過ごすことができるような気がしていたからだ。
怜菜には友人たちの誘いは多かったけど、それでもほとんどの誘いは断って麻季と一緒
に過ごしてくれていた。彼女も麻季と一緒にいると気を遣わなくていいやと笑って言った。
そんな二人の関係が変化したのは麻季が生まれて初めて自分から手に入れたいと思った
男性と出合ってからのことだった。
結城先輩のことはサークルの新勧コンパのときから気にはなっていた。あの夜、麻季は
先輩たちから途切れなく誘いの言葉をかけられたのだった。あのときは怜菜ともまだ仲良
くなる前だったから、麻季は話しかけてくる先輩たちの相手をしながらぼんやりと店内を
見回していたそのとき、一人の男の先輩と目があった。
その人は麻季と目が合って狼狽したようだった。男のこういう反応には慣れていたから、
麻季はとりあえずその先輩に会釈した。・・・・・・今度こそ先輩はさりげなく彼女から視線を
外してしまい、隣にいる同回生らしい女の子と喋り始めた。こちらから挨拶したにも関わ
らず無視されたことにも腹が立ったけど、自分の会釈を完璧に無視して他の女と親しげに
話し始めたことに麻季は何だか少しだけむしゃくしゃした気持になった。そんな彼女の様
子に周囲に群がっていた先輩たちも不審に思ったようだ。
「あの・・・・・・。あそこでお話している先輩は何という人ですか」
「ああ、あいつは二年の結城だよ」
「結城先輩ですか」
「夏目さん、あんなやつに興味あるの? あいつ変わり者だぜ。音大に入ったのにろくに
器楽もしないで、音楽史とか音楽理論とかだけ勉強してるんだ」
その先輩は結城先輩の人となりをけなしながら解説してくれたけど、そのときの麻季の
耳にはそんな言葉はろくに届いていなかった。あまり格好いいとかスマートとかという印
象はない。でも、何だかそのときは結城先輩野ことが気になったのだ。
どうせあの先輩もあたしのことが気になってるんだろうな。そう麻季は思った。でも冴
えなさそうな結城先輩はあたしに話しかける勇気がないのだろう。その後、結城先輩はあ
まりサークルに顔を出さなかったこともあって、彼と話をする機会はなかった。その間に
麻季は怜菜と知り合い仲良くなった。
それは麻季が怜菜と一緒に、階段教室で一般教養の美術史の講義に出席していたときだ
った。講義が始まってしばらくすると隣に座ってた男の人が麻季に出席票を回してくれた。
その人はそのまま席を立とうとしているようだった。そのとき、麻季はその人が結城先輩
であることに気がついて少し彼をからかってみようと考えたのだった。自分にからかわれ
て嬉しくない男も少ないだろうし。
「こんにちは結城先輩」
驚いたように結城先輩は席に座りなおした。出席票に目を落すと最後の欄に雑な字で結
城博人と書かれていた。博人さんというのか。
「ごめんなさい、わからないですよね。サークルの新歓コンパで先輩を見かけました。一
年の夏目といいます」
「知ってるよ。あそこで見かけたし・・・・・・でも何で僕の名前を?」
「先輩に教えてもらいました」
麻季はそう答えた。
「じゃあね」
その場の雰囲気を持て余したように先輩が中途半端に立ち上がりながら言った。
「講義聞かないんですか?」
「うん。出席も取ったしお腹も空いたし、サボって学食行くわ」
「結城先輩ってもっと真面目な人かと思ってました」
「・・・・・・そんなことないよ」
「でも先輩格好いいですね。年上の男の人の余裕を感じました」
「じゃあ、失礼します」
麻季はそう言って話を終らせたのだけど、その後に隣に座っていた怜菜が珍しく結城先
輩のことを聞き始めた。
「今の人ってサークルの結城先輩だよね」
「そうみたい」
「麻季、いつのまに先輩と知り合いになったの?」
「話したのは今が初めてだよ」
「嘘? 何で初対面の人にあんなに親しく話せるの」
「・・・・・・何でって別に」
「麻季って結城先輩のこと気になる?」
怜菜が麻季にそういう質問をするのは珍しかった。
「何で? そういうこと聞くの怜菜にしちゃ珍しいじゃん」
「そうかな? 別にそうでもないでしょ」
怜菜が少し赤くなった。
「ひょっとして怜菜って結城先輩が好きなの?」
ぶんぶんという音が出そうなほど怜菜は首を横に何度も振った。
「違うよ。そんなんじゃないって。それにあたしは麻季の恋の邪魔なんてしないよ」
「別にあたしだって好きとかそういうんじゃ」
「ふふ」
珍しく言葉を濁した麻季を見て怜菜は微笑んだ。講義が始まったこともありこのときの
話はそれで終った。
その後キャンパス内で何度か結城先輩を見つけた。先輩は男と二人で歩いている麻季の
ことを何気なく見つめていたみたいだった。それでも麻季にとって腹立たしいことに結城
先輩は彼女には一言も声をかけようとはしなかった。この頃、麻季は三回生の鈴木先輩に
言い寄られていた。彼への気持ははっきりしなかったけど、それでも他の男に向ける気持
とは少し違う気持を抱き始めていた。何より彼といると周囲の女の子の視線が彼女の優越
感をくすぐる。それでも麻季は鈴木先輩と一緒にいるよりは怜菜と一緒にいることを選ぶ
ことが多かった。男は鈴木先輩に限らずいっぱいいたけど、女友だちは怜菜くらいしかい
なかったし。
そんなある日、麻季は結城先輩が女の子と親し気に話をしているところを目撃した。何
か心の芯がじわじわと痛んでくるような感覚が訪れて彼女はそのことに狼狽した。
結城先輩と一緒にいる子は陽気な可愛らしい感じの人だった。単なる知り合いという感
じじゃないなと麻季は思った。
「結城先輩だ」
一緒にいた怜菜がそう言った。そして少し残念そうに話を続けた。「やっぱり神山先輩
かあ。何かいい雰囲気だね、あの二人」
麻季は少しだけ心が重くなるのを感じた。別に彼のことをはっきりと好きというわけで
はないのに。
「神山って誰?」
「二年の先輩。何かさ、結城先輩と幼馴染なんだって」
「そう」
「やっぱり結城先輩と神山先輩と付き合ってるのかなあ。まあお似合いだよね」
自分の心の動きはそのときにはさっぱりわからなかった。それでも麻季は冷たく言った。
「全然似合ってないじゃん。結城先輩はあの人のことを全然好きじゃないと思うよ」
「よしなよ」
怜菜が麻季の言葉を聞いて真面目な表情になった。
「・・・・・・よしなよって何が」
「あんたは今はもう鈴木先輩と付き合ってるんでしょ。それなら他の人にちょっかいを出
して不幸にするのはやめな」
「付き合ってないよ」
「嘘。こないだ麻季と鈴木先輩が抱き合ってキスしてるとこ見たよ」
「あんなの。一方的にキスされただけだよ。あたしは誰とも付き合っていません」
「嘘言え。あんたの方だって鈴木先輩の首に両手を回して抱きついてたじゃん」
「怜菜には関係ないでしょ。何? あんたやっぱり結城先輩のこと好きなんでしょ? そ
れであたしに彼に手を出すなって言ってるんじゃないの」
「違うって」
そう答えた怜菜の顔は真っ赤ですごくわかりやすかった。何だ。親友とか言ったって結
局怜菜も自分の恋が大切なだけか。なまじ客観的なアドバイスの形を取っているだけ、玲
菜の言葉は麻季を苛立たせた。このとき結城先輩のことがどこまで好きなのかは自分でも
わからなかった。
鈴木先輩を振って平凡そうに見える結城先輩を選んだら後悔するかもしれない。心の中
でそんな声が聞こえた。でも目の前の怜菜の偽善に腹が立った彼女にはもはや冷静に考え
る余地は残っていなかった。お互いに恋愛なんて超越した親友同士だと思っていたのに。
怜菜に裏切られた気がした麻季はもう自分を抑えるすべを知らなかった。
・・・・・・最初の突撃は失敗だった。サークルの先輩から聞き出した結城先輩のアパートで
の出来事を思い出すと、さすがの麻季にも恥かしいという感情がしばらく付きまとった。
あの朝、麻季はアパートの前で結城先輩が出てくるのを待っていた。彼は眠そうに部屋
から出て、ドアの前に立っている彼女を見て驚いて目が覚めた様子だった。
「おはようございます、先輩」
「・・・・・・夏目さん? どうしているの」
「サークルの先輩に結城先輩のアパートの住所を聞きました」
「いや・・・・・・そうじゃなくて。ここで何してるの」
「先輩、神山先輩と付き合ってるんですか」
麻季はいきなり核心を突いた。
「君は理恵、いや。神山さんのこと知ってるのか」
「知ってますよ。最近、先輩と仲良さそうに話している人は誰ですかって聞いたらサーク
ルの先輩が教えてくれました」
「夏目さんさ、それいろいろおかしいでしょ」
「・・・・・・先輩、あたしのこと好きなんでしょ」
麻季の突然の言葉に彼は目を白黒させながら戸惑った様子だった。
「何言ってるの」
「あたし、わかってた。最初に新歓コンパで合ったとき、先輩はあたしのことじっと見て
たでしょ」
「・・・・・・それだけが根拠なの」
「それだけじゃないですよ。美術史の講義で会ったときも先輩、じっとあたしのこと見つ
めていたでしょ」
「君、正気か。酔ってるの?」
「酔ってませんよ。先輩こそ嘘つかないで。あたしがこんなに悩んでいるのに」
「あのさあ、確かに僕は君のことを見たよ。それは認める。君は綺麗だし。でもそれだけ
で君のことを好きとか決め付けられても困るよ。第一、僕は一言だって君のことが好きだ
とか付き合ってくれとか言ってないでしょ」
「生意気なようですけど先輩って自分に自信がなさそうだし、あたしのことを好きだけど
勇気がなくて告白できなかったんじゃないですか。あたし、ずっと先輩の告白を待ってた
のに」
「・・・・・・・もしかして君は誰かに何かの罰ゲームでもさせられてるの? そうだとしたら
巻き込まれる方は迷惑なんだけど」
「先輩こそいい加減にしてください」
「罰ゲームって何よ。何であたしのことをからかうんですか? あたしのこと好きじゃな
いなら何であんな思わせぶりな態度をとるんですか」
「・・・・・・泣くなよ。わけわかんないよ」
「ひどいですよ。結城先輩、美術史の講義の日からあたしのことを無視するし。あたしの
こと嫌いならはっきり嫌いって言えばいいでしょ」
「あのさあ。僕が君のことを好きなんじゃないかと言ったり嫌いだと言ったり、さっきか
ら何を考えてるんだよ」
「何でわざとあたしの目の前で神山先輩といちゃいちゃするのよ」
「してないよ、そんなこと」
結論から言えばこの日の結城先輩への突撃は失敗だった。先輩は麻季のアパートに彼女
を送って行ってくれたけど、麻季の言葉に感情を動かされている様子はなかったのだ。
失敗したその日のことの出来事を麻季は怜菜にも誰にも言わなかった。でも鈴木先輩は
そんな彼女の様子がいつもと違うことに気がついたらしい。麻季と二人でキャンパスを歩
いていた鈴木先輩は彼女を責め始めた。
「麻季さあ、おまえ浮気してるだろ」
「浮気? あたしは別に先輩と付き合っていないし、浮気とか言われてもわかんない」
「ふざけんなよ。キスまでしておいて付き合ってないってどういうこと?」
「先輩が勝手にしたんでしょ。あたしは知らないよ、そんなこと」
「・・・・・・まあ、いいや。今日のところは許してやるよ。それよかさ、これから遊びにいか
ね? 今日はもう実習はないんだろ」
麻季がその誘いを断った瞬間、鈴木先輩の手が頬に飛んできて彼女は地面に倒れたのだ。
下から眺め上げると、鈴木先輩に詰め寄る結城先輩の姿が見えた。結城先輩が何か話すと
鈴木先輩はみっともなく言い訳しながら去って行ってしまった。このときが麻季が初めて
結城先輩への愛情を実感した瞬間だったかもしれない。
「君、大丈夫?」
結城先輩が倒れている麻季に手を差し伸べた。そのときの彼女はきょとんした表情を浮べ
ていた。
「怪我とかしてない?」
「……先輩、神山先輩と別れたの?」
麻季はこのとき一番気になっていたことを聞けなかった。その代わりに二番目に気にし
ていたことを口に出した。
「何言ってるんだよ。そんなこと今は 関係ないだろ・・・・・・。君の方こそ彼氏と喧嘩でも
したの?」
「彼氏って誰のことですか?」
結城先輩はとりあえず麻季を学内のラウンジに連れて行ってくれた。
「ほら、コーヒー」
「ありがとう。結城先輩」
麻季は暖かいコーヒーの入った紙コップを受け取った。それからようやく麻季はさっき
の先輩のことを話し始めた。
「よくわかんないの。でも一緒に歩いていたらこれから遊びに行こうって誘われて、講義
があるからって断ったら突然怒り出して。付き合っているのに何でそんなに冷たいんだっ
て言われた。あたしは別にあの先輩の彼女じゃないのにおかしいでしょ?」
結城先輩は何か考え込んでいる様子だった。
「神山先輩と別れたの?」
麻季が聞いた。何でそんなことを突然口にしたのか自分でもわからなかったけど。
「別れるも何も付き合ってさえいないよ」
「・・・・・・先輩?」
そのとき、結城先輩はいきなり麻季の髪を愛撫するように触った。先輩は急に声を出し
て笑った。髪を撫でられながら麻季は微笑んで言った。
「結城先輩、やっぱりあたしのこと好きでしょ」
「結城先輩とお付き合いを始めたの」
そう怜菜に対して話したとき、麻季は少し緊張していた。怜菜が結城先輩のことを好き
なのだとしたら、怜菜は相当ショックを受けるかもしれない。もともと怜菜への意地から
始めた自分の行動について、この頃には麻季は結城先輩のことが好きで始めたことだと思
い込むようになっていた。だから今の麻季は友情よりも男への恋を優先した怜菜のことを
もはや恨んではいなかった。むしろ自分と結城先輩の付き合いに彼女がショックを受けな
いかだけを心配していたのだ。
「そっか」
怜菜はあっさりと言った。
「ごめんね」
「何で麻季が謝るのよ。あんたの誤解だって」
「・・・・・・それならいいんだけど」
「あたしは別にどうでもいいんだけどさ。ちょっとだけ鈴木先輩と神山先輩のことが気に
なるな。きっと傷付いてると思うよ」
「博人君は神山先輩とは付き合ってないって」
「もう博人君って呼んでるんだ」
「う、うん。ごめん」
「だから、謝らなくてもいいって。でも付き合ってなかったにしても神山先輩はショック
だろうなあ。結城先輩に失恋したんだしさ」
「よくわかんない」
「それに鈴木先輩は絶対落ち込むよね。付き合ってた彼女を後輩に取られちゃったんだも
んね」
「あたし鈴木先輩の彼女だったことなんかないもん」
「・・・・・・抱き合ってキスしてたくせに」
「突然先輩からされただけだよ」
「あっちはそう思ってないって」
「まあ、でも」
ここで初めて怜菜が麻季に優しく微笑んでくれた。「鈴木先輩には悪いけど、付き合う
なら結城先輩の方がいいよね。安心できそうだし」
怜菜の言葉を聞いて麻季は、ああよかった、これからも怜菜と友だちでいられると思っ
てほっとした。
友だちでいられると思ってほっとしたのはよかったけど、結局その後は怜菜とはあまり
一緒に過ごさなくなっていった。一つには博人と付き合っているうちに、思っていたより
麻季の方が博人に夢中になってしまったからだった。男性に対してここまで依存に近いく
らい一緒にいたいと考えるようになったのは、彼女にとっては初めての経験だった。麻季
はなるべく博人と過ごすようにしていた。お互いに違う講義に出席している時間を除けば、
キャンパス内でも大学への行き帰りもいつも二人きりで過ごしていた。それは全部彼女の
希望だったけど、博人も笑ってそれでいいよと言ってくれた。そういうこともあり博人と
いつもべったりと一緒だった麻季には怜菜と一緒に過ごせる時間がなくなってしまったの
だった。
もう一つは麻季自身の怜菜に対する感情の問題だった。怜菜に祝福されてほっとした彼
女はこれまでどおり彼女と付き合えると思っていた。ところが博人に惹かれ夢中になって
いくうちに自分でもよくわからない嫉妬めいた感情によって心が支配されてしまうように
なった。怜菜は博人のことが好きだったのだろうか。つい先日までの彼女の悩みは自分が
親友の好きな人を奪ってしまったことによって、怜菜が自分から離れていってしまうので
はないかというものだった。ところが博人に対する独占欲が強くなっていくうちに、怜菜
に対する感情が変化していった。怜菜が本当に博人のことを好きで、しかもその感情をま
だ諦めていないとしたらどうだろう。麻季は男性に関して他の女の子のことなんか気にし
たことはなかった。神山先輩に対してだって負けると思ったことはなかった。それなのに
怜菜に対してはなぜか不安を覚えるのだ。
そういうわけで麻季は怜菜も含めて学内ではあまり博人以外の人と会ったり喋ったりし
なくなった。博人と二人きりでいるだけで十分だったし、そうしている間は怜菜への漠然
とした不安もあまり感じないですむ。麻季が自分の方からこれほどまでの愛情と不安と嫉
妬心を抱いた男性は博人が初めてだった。
最初、怜菜はそんな麻季の様子に戸惑い、そして少し寂しそうだった。
「麻季って最近結城先輩とべったりだね」
二人が出席していた同じ講義が少し早く終ったあとに彼女はそう言った。
「うん。彼と一緒にいないと寂しくて。ごめんね」
「謝ることはないよ。あたしは別にいいけどさ。麻季って本当に結城先輩が好きなんだ
ね」
「うん」
「でも気をつけた方がいいかも。たまに鈴木先輩が二人のこと凄い目で睨んでるし」
「・・・・・・あの人、まだそんなことしてるんだ。博人君に追い払われて逃げたくせに」
「まあ、先輩にしてみれば自分のことを麻季に浮気されて捨てられた被害者だって思って
いるろうし」
「冗談じゃないよ。あたしあの人に殴られたんだよ。女に手を出すなんて最低でしょ。あ
のとき博人君が助けてくれなかったらもっとひどいことされてたかも」
「それはそうかもしれないけどさ、まあでもちょっとは注意しなよ。あ、お迎えが来たみ
たいだよ」
「うん。ごめんね」
麻季は博人が怜菜に気づく前に彼の腕を取って出て行ってしまった。怜菜が普通に接し
てくれるのはいいけど、彼には怜菜を紹介したくなかったのだ。だから博人は怜菜も含め
て麻季の友人に紹介されたことは一度もなかった。
麻季の心配をよそに二人の交際は順調に続いた。麻季は自分のアパートを解約して博人
の部屋に引っ越した。最初のうちは博人の自分への態度が凄く淡白なことに不安を感じて
いた彼女も、一緒に暮らすようになると段々とそんな不安も解消されていった。博人なり
に麻季に愛情を感じていてくれていることも、彼の不器用な愛情表現から理解できるよう
になったのだ。鈴木先輩や他の男たちのように四六時中彼女を誉めたり愛していると言っ
たりはしないし、彼の方から手を繋いだり身体に触ったりすることもあまりないけど、そ
れでも穏かで静かな愛情というものがこの世にはあるのだということを麻季は初めて理解
した。
これまでの男たちは自分が喋ることが好きで麻季の言うことをあまり理解しようとしな
かった。もちろんそれは自分の感情表現の下手さから来るものでもあった。ところが博人
はほとんど口を挟まずに不器用な彼女の言葉を聞き、自分の中で繋ぎ合わせ、最後には彼
女の考えていることを理解してくれたのだ。もう博人君から一生離れられないと麻季は思
った。
だから博人が音楽の出版社に内定が決まった日の夜、彼からプロポーズされた麻季は本
当に嬉しかった。
「喜んで。この先もずっと一緒にあなたといられるのね」
このときの麻季の涙はこれまでと違って中々止まらなかった。
結婚後、麻季は大学時代のピアノ科の恩師の佐々木先生の個人教室のレッスンを手伝っ
ていた。音大時代のほとんどの時間を博人にかまけて過ごしてしまった彼女だけど、佐々
木教授だけはどういうわけか彼女に目をかけてくれていた。演奏家としてやっていくほど
の実力もないし、中学や高校の音楽教師を志望するほどのコミュ力もない麻季に、先生は
自分の個人レッスンを手伝わないかと言ってくれた。卒業したときは既に博人との結婚が
決まっていた彼女は何となくそれもいいかと考えたのだ。音大志望の中高生を教えるくら
いなら何とかできそうだ。既に音楽系の出版社で働き出していた博人もそれを勧めてくれ
た。
始めてみると意外と自分にあっている仕事だった。拘束時間はきつくないし、実生活で
の麻季とは異なりレッスンのときは中高生たちに自分の伝えたいことがよく伝わった。半
分はピアノに語らせているせいもあったのだろう。今思えば無茶をしていたと思う。博人
と一緒に暮らしている部屋にはもちろんピアノなんかない。佐々木先生の教室での空き時
間に教えるところを一夜漬けみたいにおさらいするのが精一杯。それでも仕事自体は楽し
かった。それで彼女は博人と結婚した後もその仕事を続けていた。博人といつでも一緒に
いられた大学時代とは異なり彼の会社までついて行くわけにもいかない。博人不在の時間
を潰すのには彼女にとって格好の仕事場だった。
その日は初めて教室を訪れた親子の相手をするところから麻季の仕事は始まった。きち
んとした紹介で入ってくる人だったから、あまり問題はないはずだった。約束の時間にま
だ幼い女の子を連れて教室に来た母親を見たとき、麻季はどこかで見覚えのある人だなと
思っただけだった。でも相手は興奮したようにいきなり彼女に話しかけてきたのだった。
「夏目ちゃんじゃない。久し振り」
そう言われてよく見ると彼女は同じサークルにいた一年上の先輩だった。あまり女性の
知り合いがいなかった麻季だけど、ようやく彼女のことを思い出した。彼女は大学時代の
新歓コンパのときに博人と二人でずっと話をしていた先輩だったのだ。
「多田先輩ですよね? ご無沙汰してます」
「やだ、夏目ちゃんって佐々木先生のとこで働いてたんだ。知っていればもっと早く連絡
できなのに。あたしは今は結婚して川田っていう姓なんだけどね」
だから今まで気がつかなかったのか。麻季は記憶を探ってみた。たしかこの先輩はどっ
かの私立中学の音楽の教師になったはずだ。
「そうそう。まだちゃんと働いているんだけどさ。中学生って面倒でね。音大じゃなくて
教育大の音楽科行っとけばよかったよ。あたしって教育とかって全然苦手だしさ」
「こちらはお嬢さんですか」
「そうなの。小学校の低学年なんだけど早い方がいいと思ってさ。麻季が指導してくれる
の?」
そういえばこの先輩自身も佐々木先生の愛弟子だったはずだ。
「ちょっと待ってくださいね」
ロビーの椅子を勧めてから麻季は佐々木先生の私室に赴いた。
ノックして部屋に入ると先生はデスクの上に広げた書き込みだらけのスコアから顔を上
げた。
「どうしたの?」
「先生、あたしより一期上の多田さんって覚えています?」
「ああ真紀子さんでしょ。どっかで学校の先生してるんじゃなかったっけ」
「そうなんですけど、今日申込みにいらした川田さんって、旧姓多田さん、多田真紀子さ
んでした」
「あら、じゃあ川田美希ちゃんって多田さんのお子さんなんだ」
「はい。どうされます? あたしがレッスンしましょうか」
「あの多田さんのお嬢さんなら最初くらいはあたしがみるわ。三番のレッスン室に連れて
来て」
多田さん、いや川田さんにそれを告げると彼女は喜んだ。
「佐々木先生が直接レッスンしてくれるの?」
「はい。とりあえずは最初は多田先輩のお嬢さんなら自分がみるとおっしゃってましたよ。
その後は全部佐々木先生というわけにはいかないと思いますけど」
「光栄だわ。美希、落ちついて頑張るのよ」
麻季は美希を連れて佐々木先生の待つ部屋に赴いた。
「美希落ちついてた?」
麻季が川田先輩の待つロビーに戻ると先輩は心配そうに聞いた。
「ちょっと緊張してましたけど、みんなそうですから」
麻季は笑った。佐々木先生の美希への初レッスンが終るまで、川田さんは大学時代の思
い出をいろいろと語り出した。
「そういえば夏目ちゃん、結城君と結婚したんだってね。おめでとう」
「ご存知だったんですね」
「うん。あんたと仲良しだった怜菜から聞いたよ。ああ、もう夏目ちゃんじゃないのか」
怜菜は麻季と博人の披露宴に来てくれていた。その場では一言も会話しなかったけど。
そしてそれ以来、麻季は怜菜と話をしていない。
「そういや怜菜も結婚したんだってね」
「・・・・・・そうなんですか? あたし聞いてないです」
「え? 怜菜も水臭いなあ。あんたと怜菜って親友だと思ってたのに」
「怜菜、いつ結婚したんですか」
「先月だよ」
「そうですか」
麻季は少しだけショックを受けた。
冷静に考えれば無理はないのかもしれない。何しろ博人に夢中だった麻季は、在学中も
卒業後も怜菜とはほとんど一緒に過ごしていなかったのだから。それでも卒業後に麻季は
自分の披露宴に怜菜を招待したし、久し振りに会った彼女も式の前に目を輝かせて麻季の
ウェディングドレス姿を見て「麻季きれい」と言ってくれたのだ。
その怜菜は自分の披露宴には麻季を呼んでくれなかったのだ。
「怜菜ってどういう人と結婚したんですか」
怜菜への失望を押し隠して麻季は先輩に聞いた。
「怜菜の結婚のことを知らないんじゃ相手のことも知らないか。えーとね。あたしより一
年上の鈴木雄二って先輩・・・・・・というか、あんたの元彼じゃなかったっけ」
「・・・・・・鈴木先輩はあたしの元彼じゃありません。あたしが大学時代に付き合ったのは今
の旦那の博人君だけですから」
「ああ、そうだよね。あんたと結城君っていつも一緒だったもんね」
少しだけ慌てた表情で先輩は取り繕うように言った。「何かさ。怜菜と鈴木先輩って卒
業後に鈴木先輩のオケの定演でばったり出会ったんだって。怜菜って首都フィルで事務や
ってるでしょ? 鈴木先輩の横フィルと首都フィルってよく合同でイベントとかしてるみ
たいで、その縁でそうなったみたい」
先輩の話は麻季の耳に入っていたけど彼女は半ばそれを聞きながらも心の中ではいろい
ろな疑問が浮かんできていた。怜菜は博人君を慕っていたはずだった。それは多分麻季の
思い違いではないだろう。そしてそんな怜菜が鈴木先輩に惹かれていたたなんていう話は
怜菜から一言だって聞いたことがない。もちろん卒業後のことだし、鈴木先輩はイケメン
だったから、怜菜が改めて彼に惹かれて結婚したということもあり得るかもしれない。で
も麻季が怜菜の気持を気にしながら博人と付き合い出したことを彼女に告げたとき、怜菜
はこう言った。
『鈴木先輩は絶対落ち込むよね。付き合ってた彼女を後輩に取られちゃったんだもんね』
『あたし鈴木先輩の彼女だったことなんかないもん』
『・・・・・・抱き合ってキスしてたくせに』
『突然先輩からされただけだよ』
『あっちはそう思ってないって』
『まあ、でも鈴木先輩には悪いけど、付き合うなら結城先輩の方がいいよね。安心できそ
うだし』
怜菜は本当は博人ではなく鈴木先輩のことが好きだったのだろうか。それなら麻季が博
人と付き合ったときもうろたえずに受け止めてくれた理由としては理解できる。そして結
果的に麻季に振られることになる鈴木先輩のことを気にしていたのも理解できる。でも麻
季が博人と付き合いだす前に彼と自分が話をしていたところを聞いていた怜菜の様子を思
い出すと、やはり彼女は博人のことを好きだったのではないかと思える。
怜菜は麻季への友情から、自分の気持を抑圧してまで麻季と博人との付き合いや結婚を
祝福してくれたのだ。それは間違いないはずだった。それならなぜ彼女は鈴木先輩と結婚
したのだろう。それも親友であった自分には一言も知らせずに、披露宴に招待すらするこ
ともなく。
『怜菜は敵だからね』
凄く久し振りに麻季の心の中で誰かの声がした。
『怜菜が鈴木先輩と結婚した理由はわからない。それでも彼女は麻季と博人との付き合い
を邪魔しようと企んでいるんだよ』
その声を聞くのは久し振りだった。そしてできればもう二度と聞きたくない声だった。
濁ったような男とも女ともつかないような低い声。麻季が博人と付き合い出してからも彼
女の人生の節目でしょっちゅう心の中で勝手にアドバイスし出す声。
博人と同棲したのもその声の勧めだった。佐々木先生の教室を手伝うことに決めたのも
その声に従ったまでだ。でも博人のプロポーズに答えたのはその声とは関わりなく純粋に
自分の意思だった。そしてその声は博人との結婚後は彼女の頭の中で響きだすことはなく
なっていたのだった。
『怜菜は敵だ。これは罠だよ。怜菜は君のことを恨んでいるんだね』
「あ、佐々木先生。ご無沙汰しています」
先輩が立ち上がってレッスン室から美希を伴って出てきた先生に声をかけた。
「多田さんお久し振り。元気だった?」
「おかげさまで元気です。それで美希はどうでしょうか」
「うん。まだわかんなけど、弾き方の癖とかあんたにそっくりだわ。しばらく結城さんに
レッスンさせるけどいい?」
「はい。ありがとうございます」
先輩が感激したように声を出した。「麻季ちゃん、娘をよろしくね」
「結城さん?」
黙っている彼女を不審に思った先生が麻季に声をかけた。
博人と結婚して奈緒人が生まれ、麻季は幸せだった。もうあまり心の中の声が勝手に彼
女に指示することもなくなっていて、生まれてはじめて彼女は平凡だけど安定した生活を
送るようになった。もう二度とあの声が聞こえることはないだろうと彼女は思った。それ
くらい育児というのは彼女にとって大変で、しかし幸せな体験だった。妊娠をきっかけに
麻季は佐々木先生の教室をやめた。先生は育児が一段落したらいつでも戻っておいでと残
念そうに彼女に声をかけてくれた。
育児で多忙な麻季だったけど、奈緒人がお昼寝をしたりしている時間は彼女の自由にな
る時間でもある。そんな時間すら麻季はベビーベッドに寝ている奈緒人をぼんやりと見つ
めていることが多かった。この子は博人君に似ている。そんな奈緒人を見つめているだけ
で自然に育児の苦労も忘れ彼女の顔には自然に笑みが浮かんだ。彼女にとって出産は自分
の愛する人が無条件で増えたということだった。
怜菜と鈴木先輩の結婚、それにその披露宴に自分が招待されなかったことについて、彼
女はだいぶ冷静に考えられるようになった。怜菜が何で鈴木先輩とって悩んだこともあっ
たけど、あの心の中の言葉のとおりだとは やっぱり思えない。例えばお互いに好きな相
手と添い遂げられなかった同士である怜菜と鈴木先輩が何かの拍子に相談しあい慰めあっ
ているうちに、恋に落ちたということだって考えられるのではないか。そういうことだっ
て世の中には決してないことではない。そしてそういうことだとしたら二人が麻季を披露
宴に招待しなかったことも納得できる。先輩だっていくら怜菜の親友だといっても自分が
振られた相手を招待するなんてことはしたくないだろう。
ひょっとしたら怜菜は麻季のことを招待したかったのかもしれない。もう自分は博人へ
の想いを断ち切って鈴木先輩と幸せになるよって、言葉にする代わりに幸せな披露宴の様
子を見せたかったのかもしれない。でも、常識的に考えれば鈴木先輩が麻季のことを元カ
ノだと信じ込んでいた以上、怜菜も麻季を招待するとは言い張れなかったのも無理はない。
心の声は以前に言った。怜菜は敵だと。そして、彼女は麻季と博人との付き合いを邪魔し
ようと企んでいるんだよと。
今にして思えば邪推もいいところで、せいぜいよく言っても考えすぎだ。怜菜と鈴木先
輩が結婚したことによって麻季と博人の仲が邪魔される要素なんかない。むしろその逆だ
ろう。今度はその声も麻季の考えたことに反論しようとしなかった。
鈴木先輩との思いがけない再会は、麻季が奈緒人を保健所の三ヶ月健診に連れて行った
帰り道のことだった。とりあえず周囲のママたちと違って、特に仲の良いママ友なんてい
ない麻季は、奈緒人を乗せたベビーカーを押して帰宅しようとしていた。途中の駅の段差
でベビーカーを持て余していたとき、一人の男性が黙ってベビーカーに手を差し伸べて持
ち上げてくれた。お礼を言おうとその男性の顔を見た瞬間、麻季は思わず凍りついた。黙
って手助けしてくれた男性は鈴木先輩だった。同時に彼の方も麻季に気が付いたようだっ
た。
「あれ、もしかして夏目さん?」
「・・・・・・鈴木先輩」
二人はしばらく呆然としたようにお互いの顔を見詰め合っていた。すぐに先輩は気を取
り直したように笑顔で懐かしそうに麻季にあいさつした。
「久し振りじゃん。元気だった?」
「うん」
「そういや結城と結婚したんだってね。夏目さんじゃなくて結城さんか」
「先輩は・・・・・・」
怜菜と結婚したんですよねと麻季は言うつもりだったけど、先輩はそれを質問だと取り
違えたようだった。
「俺? 俺は相変わらず寂しい一人身だよ。同情してくれる?」
先輩は麻季の言葉を自分への質問だと間違えたのだった。そして自分の結婚を彼女がま
だ知らないものだと思ったらしい。実際、偶然に多田先輩から聞かなかったら麻季は怜菜
と先輩の結婚のことなんか知る由もなかったろう。それで先輩は自分が結婚していないと
麻季に言い出したのだ。
いったい先輩は何を考えてそういう嘘を彼女に言ったのだろう。
「夏目さん、じゃなくて結城さん。これから少し時間ない? 久し振りで懐かしいしちょ
っとだけ話しようよ」
当然、麻季にはそんな気は全くなかった。けれどこのとき再び久し振りのあの声が頭な
の中で響いたのだ。
『いいチャンスじゃん。この際、鈴木先輩と怜菜のことを少し探っておきなよ。それにど
うして鈴木先輩が怜菜との結婚を隠しているのかも気になるでしょ』
麻季は好奇心からその声に従うことにした。
「そこのファミレスでお茶でもしようか」
「・・・・・・少しだけなら」
鈴木先輩は学生時代より少し大人びていて、服装も落ちついた感じで格好よくなってい
た。 麻季は奈緒人が寝入っているままのベビーカーを押して先輩とファミレスに入った。
ファミレスの店員は先輩と麻季のことをきっとまだ幼い子どもを連れた若夫婦だと思った
だろう。
席について飲み物が運ばれると、先輩は快活に共通の知人たちの消息を話してくれた。
麻季は作り笑顔で頷いてはいたけど、その実少しもその話に興味を持てなかった。彼女に
とって興味があったのは怜菜と先輩との関係、そして怜菜の消息だった。
「今は横フィルにいるんだ。ようやく去年次席奏者になれたくらいだけどね」
「すごいんですね」
麻季はとりあえずそう言ったけど、その言葉に熱意がこもっていないことに先輩は敏感
に気が付いたようだった。
「君だって立派に子育てしてるじゃん。とても幸せそうだよ」
「そんなことないです」
「きっと旦那に大切にされてるんだろうね。まあ、正直に言うと君ほど才能のある子が家
庭に入るなんて意外だったけどね」
「あたしには才能なんてなかったし」
「佐々木先生のお気に入りだったじゃん。みんなそう言ってたよ。君がピアノやめちゃう
なんてもったいないって」
「・・・・・・あたしは旦那のそばになるべく長くいたかったし」
「いい奥さんなんだね。しかし結城のやつも嫉妬深いというか」
博人の悪口を聞かされて麻季の顔色が変ったことに気がついたのだろう。先輩は言い直
した。
「そうじゃないか。愛情が深いってことだね」
取り繕うように笑った先輩は心なしか少しイライラしているような感じだ。本当にここ
で鈴木先輩と出会ったのって偶然なんだろうか。麻季は少し不審に思った。
『やっぱりこれは怜菜の罠だよ。先輩と怜菜が結婚したのは、君への復讐なんじゃない
の?』
心の声が響いた。そしてこれまでその声を聞く一方だった麻季は初めてその声に心の中
で反論した。
『意味不明じゃない、そんなの。あたしに隠すくらいなら最初から二人が結婚する必要な
んてないでしょ』
心の声は待っていたとばかりに反論した。
『そうとも言えないんじゃない? 多分さ、先輩はこの後君のことを誘ってくると思う
な』
『無駄なことでしょ。あたしが博人君を裏切るなんてあり得ないでしょ』
『そんなことは言わなくてもわかってるって。でも問題は先輩の方じゃない。怜菜が何を
考えてるかでしょ』
『・・・・・・どういう意味よ』
『先輩の考えていることなんてわかりやすいでしょ。君と寄りを戻すっていうか、君のこ
とを抱きたいんでしょ。こういう男が考えそうなことだよね』
『だからそんなのは無駄な努力だって』
麻季の反論を無視してその声は続けた。
『問題はさ、君の言うとおり怜菜が何を考えているかだよ』
『どういう意味?』
「麻季ちゃん、よかったらメアドとか携帯の番号とか交換してくれる?」
「・・・・・・何でですか」
「いや・・・・・・音楽のこととか同窓の友人たちの情報交換とか君としたいと思ってさ」
「あたしは家庭にこもってますから、先輩には何も教えられないと思います」
「それでも情報は大切だよ。僕の方は麻季ちゃんに教えられることは結構あると思うよ」
いつのまにか先輩は麻季のことを結城さんではなくて麻季ちゃんと呼び出していた。
『怜菜が本当は鈴木先輩のことなんか好きでも何でもなかったとしたら?』
『どういう意味?』
『そして鈴木先輩が執念深くずっと君のことを狙っていたとしたら?』
『先輩があたしにそんなに執着するわけないじゃん。この人、ただでさえ女にもてるんだ
し。それに卒業してから何年経ってると思ってるのよ。それに先輩があたしなんかのため
だけに怜菜と偽装結婚までするわけないじゃん。結婚とか式とかってどんだけ費用と労力
がかかると思ってるのよ』
『だからあ。先輩はそんな面倒くさいことは考えないでしょ。問題は怜菜の意図でしょう
が』
『どういうこと?』
『前にも言ったとおり怜菜は君の敵だ。先輩は単純に怜菜に惚れただけでしょ。彼女って
控え目で可愛らしいしね』
『・・・・・・あんた、どっちの味方なのよ』
『私は君そのものだからさ。君の味方に決まってるじゃん』
『先輩は大学卒業後に怜菜を好きになったということね。それはわかった。でもそれじゃ
怜菜の気持は?』
『そんなことはわからない。神様じゃないんだからさ』
『怜菜は先輩のことが好きじゃないって言ったよね?』
『怜菜は君の敵だよ。そしてこれは純粋に仮説に過ぎなくて証拠はないんだけどね。怜菜
が何とかして博人君を君から奪おうと考えているとしたらさ、君に浮気させちゃうのがて
っ取り早くない?』
『あたしは浮気なんてしないよ。博人君を失ったら生きていけないもん』
『仮定の話として聞いてよ。仮に君と鈴木先輩が浮気したとするじゃん』
『絶対にしない』
『仮にだって! そうしたら鈴木先輩の動向を確認しているだろう怜菜はどうすると思
う?』
『・・・・・・どうするのよ』
『怜菜は博人君に接触するよ、間違いなく。それで旦那に浮気された被害者を装って博人
君の同情を買うと同時に君と先輩の仲が浮気ではなく本気だと博人君を説得するでしょう
ね。押し付けがましくなく自然にね』
「今日はいい日だったよ。偶然に麻季ちゃんに会えてメアドとか交換できるとは思わなか
った」
「そうですか」
『鈴木先輩のことは気にしなさんな。きっと彼には深い考えなんかないよ。ただ、偶然に
会えた君を口説いて、あわよくば抱きたいと考えているだけだから』
『先輩なんかどうでもいいけど・・・・・・怜菜が博人君のことを好きだったのは確かかもしれ
ない』
麻季はついにその声に対してそれを認めた。もともとそう考えていたことだったし。
『でもこんな馬鹿げたことを怜菜がするわけないじゃん。あたしが博人君一筋だってこと
を怜菜は知っていたはずだし、先輩のことなんて好きじゃなかったこともね』
『君は怜菜の善意を信じてるの? 君の親友だから?』
『怜菜はあたしの人生で唯一の親友なの』
『その親友に君は何をした? 怜菜から博人君を奪った。そしてそれを許容してくれた親
友の怜菜に博人君を会わせなかったばかりか、卒業までろくに怜菜と一緒に過ごさなかっ
たんでしょ』
『それは・・・・・・』
『それはじゃないよ。そんな仕打ちをされても怜菜がいまだに君のことを親友だと思っているとでも?』
『じゃあ、どうすればいいのよ。今さら怜菜にあの頃どう思ったなんて聞けるわけないじゃない』
『確かめてみたら?』
その声が静かに言った。
『私の言ったことが正しいかどうか試してみればいいと思うよ』
『・・・・・・どうやって』
『簡単じゃん。鈴木先輩に一回だけ抱かれてみればいいんだよ。鈴木先輩は君を落す気
満々だし』
『いい加減にしなさいよ。あたしが博人君を裏切れるわけがないでしょ』
『試すだけなんだから裏切りにはならないよ。それに君は博人君の君に対する愛情を本当
には信じ切れてないみたいだね』
『そんなわけないでしょ。あんたなんかに言われたくないよ』
『いや。君が一回だけ先輩に抱かれたことがわかっても博人君は君を許すよ。君はそれだ
『それならなおさら博人君を裏切っちゃだめでしょ』
『それは正しい。怜菜さえ存在しなければね。でも怜菜は強敵だよ。彼女は控え目で可愛
らしいけど芯は強い。今のうちに怜菜の目的を理解して手を打っておくべきだよ』
『馬鹿なこと言わないで。それにあたしが先輩に抱かれたら怜菜がどうするっていうの
よ』
『さっき言ったとおりだと思うよ。怜菜は旦那に浮気された被害者として博人君に接触す
きを書いているんじゃないかな。怜菜って旦那と親友のひどい仕打ちに耐え忍んでいる聖
女とか天使とかっていうイメージじゃん』
麻季はそのときは別に動揺しなかった。心の声も愚かなことを言うものだ。たとえその
声が言っていることが正しくて怜菜がそういうことを仕掛けていたとしても麻季が鈴木先
輩に靡かなければ無意味な話なのだ。怜菜のことなんかもう放っておけばいい。そして博
人君の愛情も疑わなければそれでいい。
先輩と連絡先を交換したそのときは麻季はそう思っただけだった。
それなのにそれからしばらくして麻季は怜菜の意図を図りかね、それを知りたくてどう
しようもなくなってしまった。もちろん博人と一緒にいるときや奈緒人の面倒をみている
ときは少しもそういう気は起こらない。でも博人の不在時に奈緒人がお昼寝を始めると、
彼女は親友だったはずの怜菜のことが頭にこびりついて離れなくなるのだった。
そして決して考えるべきでもなく試すべきでもないこさえ麻季の脳裏を占めるようにな
った。彼女はこんなにも博人君を愛している。多分博人が万一浮気のような過ちを犯した
としても麻季は結局それを許すだろう。でも博人はどうだろう。麻季が先輩と過ちを犯し
たとしても彼は麻季のことを許してくれるのだろうか。怜菜の意図が知りたい。特に彼女
がどれくらい博人に対して想いを残しているのか知りたい。麻季はひとりでいるときはい
つもそのことを考えるようになってしまった。同時に博人の気持を試したいという欲求も
徐々に彼女の心を支配するようになっていった。
先輩はメアド交換をして以来、しょっちゅうメールを送ってくるようになった。麻季の
方は当たり障りなくそれに返事をしていた。博人との馴れ初めが馴れ初めだったので、本
当は先輩とメールのやり取りなんかすべきではないことはわかっていた。でも怜菜の意図
を知りたいという欲求のことを考えると、ここで先輩との連絡を絶やすわけにはいかなか
った。
心の声はあれからもしつこく麻季に話しかけてきた。
『鈴木先輩に一回だけ抱かれてみな。試すだけなんだから裏切りにはならないよ』
『君が一回だけ先輩に抱かれたことがわかっても、きっと博人は君を許すよ。君はそれだ
け彼に愛されているんだから』
『怜菜は強敵だよ。彼女は控え目で可愛らしいけど芯は強い。今のうちに怜菜の目的を理
解して手を打っておくべきだよ』
『怜菜は旦那に浮気された被害者として博人に接触するでしょ。そしてお互いに伴侶の不
倫を慰めあっているうちに恋に落ちるなんていう筋書きを書いているんじゃないかな。怜
菜って旦那と親友のひどい仕打ちに耐え忍んでいる聖女とか天使とかっていうイメージじ
ゃん』
そんなとき先輩からメールが届いた。横フィルの次の定演で先輩がソリストとしてデビ
ューする。招待状を送るから来ないかという内容だった。
『行ってきなよ』
その声が静かに言った。『確かめてみたら?』
鈴木先輩にホテルの一室で抱かれた夜、麻季は先輩に抵抗もしなかったけど、乱れた演
技すらもしなかった。終始人形のように先輩にされるままになっていただけだ。博人に抱
かれて乱れて喘ぐときとは大違いだ。それでも先輩はそんな麻季に満足したようだった。
「処女と一緒だね。結城って本当に君のことがわかってないんだな。何年も君と寝ていて
全く君の性感帯も開発していないなんてさ」
先輩は博人のことを嘲笑しながら、麻季の裸身を優しく愛撫した。「もう少し機会をく
れれば君のこと絶対に変えてみせるよ」
先輩が何を言おうと麻季の心には何も響かない。次の機会なんてないのだ。怜菜の感情
を推し量るためにはこういうことは一度だけで十分だった。それに彼女はろくに先輩の言
葉に注意していなかった。心の声の方に気を取られていたからだ。
『ついでに博人の気持も確かめとこうよ』
『そんな必要はありません』
『本当は不安なんでしょ、彼の気持が。怜菜が動き出す前に安心しておこうよ』
『どうすればいいの』
『博人が君を求めてきても拒否しなよ。君だって嫌でしょ? 先輩に抱かれた身体で博人
君と交わるなんてさ』
『・・・・・・』
『しかし見事なまでに感じてなかったね。鈴木先輩のせいとは思えないからきっと君は博
人じゃなきゃ駄目なんだな』
『当たり前だよ』
『でももう君はそんな大切な人を裏切って浮気しちゃったんだよ』
『あんたがそうしろって言ったんでしょう』
『私は君だからね。つまりこれは君自身が望んでしたことなんだよ』
『今まで博人君が求めてくれるのを断ったことないし、断れば疑われちゃうよ』
『そう。君は疑われなきゃいけないんじゃないかな』
「今日は泊まっていける?」
「無理。奈緒人を迎えに行かなきゃいけないし、先輩だって打ち上げに顔を出さないわけ
にはいかないでしょ」
「君と過ごせるなら打ち上げなんて」
「あたしが無理なの!」
「ひょっとして後悔してる?」
「してる。あたし、博人君を裏切っちゃった」
「・・・・・・泣かないで。君のせいじゃない。全部、僕が悪いんだ」
「もういい。これが最初で最後だから。先輩、もうあたしに連絡してこないで」
「普通の友人同士としてとかなら」
『電話は駄目だけどメールくらいは許してやんなよ』
『もうそんな必要ないじゃない』
『怜菜の気持を知りたいならそうした方がいい。始めちゃった以上は良くも悪くも続けな
いと。中途半端が一番まずいよ』
「・・・・・・電話はしてこないで。メールにして」
「・・・・・・わかった。君がそういうならしつこくはしないよ。大学の頃から本当に君だけし
か愛せなかった。だからメールくらいはさせてくれ」
『出産してから博人君は全然そういうこと誘ってこないもん。考えたって無駄じゃないか
な』
『そろそろ博人だってそういうこと考えていると思うよ。早晩、君のことを求めてくるっ
て。そのときは彼を拒否しなよ。そうしないと好きでもない男に抱かれて博人を裏切った
意味がなくなってしまうから』
鈴木先輩はベッドの上ではそう約束したけど、ホテルの前で別れたその晩にさっそくま
た麻季に会いたいというメールを送りつけてきた。麻季は拒絶の返事を書いてメールを出
した。
『もうあたしのことは放っておいて。先輩とは二度と会わない』
その後、多忙であまり家にはいないながらも遅く帰ってきても麻季と奈緒人のことを気
遣う博人に対して、麻季はしてしまったことに罪悪感を感じた。幸運なのか不運なのか、
産後の麻季の体調を気遣った博人が麻季を誘うことはなかったので、表面上は二人は今ま
でどおり仲のいい夫婦のままだった。
あんな声に従って博人君を裏切るなんて、何て馬鹿なことをしたのだろう。麻季は後悔
したけどしてしまったことはもうなかったことにはできない。それでも麻季の浮気なんて
夢にも疑っていない博人は相変わらず優しかったし、麻季も自分の過ちをだんだんと忘れ
ることができるようになった。
それでもやはりその日は訪れた。
ある夜、奈緒人が寝入った後の夫婦の寝室で、博人は出産以来久し振りに麻季を抱き寄
せて彼女の胸を愛撫しようとした。このときの麻季は自分の不倫を忘れ、博人の愛撫に期
待して身体を彼に委ねようとした。
『ほら、ちゃんと拒否しないと』
最近聞こえてこなかった声が麻季に言った。
博人は麻季をこれまでより強く抱き寄せて彼女にキスしながら手を胸に這わせ始めてい
た。
『やだよ。久し振りなのに断ったら博人君傷付くと思うし、それにあたしだって・・・・・・』
『君は博人と違って先輩とセックスしたでしょうが』
『あれはしたくてしたんじゃないし! それに気持悪いだけだった』
『そうだね。そんな思いまでして先輩に抱かれたのには目的があったからだ。今さらそれ
をぶち壊す気なの』
『・・・・・・だって』
『ここで頑張らないと、先輩と寝たことは単なる浮気になっちゃうよ。さあ、疲れてるか
らそんな気分になれないって博人にいいなよ』
博人の手に身を委ねてい麻季は彼の腕の中から抜け出した。
「・・・・・・麻季?」
初めて見るかもしれない博人の傷付いているような表情に麻季は胸を痛めた。
「ごめんね。何だか疲れちゃってそういう気分になれないの」
「いや。僕の方こそごめん」
「ううん。博人君のせいじゃないの。ごめんね」
一度博人の腕から逃げ出した麻季は再び彼に抱きついて軽くキスした。
「もう寝るね」
「うん。おやすみ」
本当は麻季の方が泣きたい気持だったのだ。
確かに博人は麻季のことを大切に考えているようで、それから長いこと彼は麻季を抱け
ないことに耐えているようだった。事実、彼はその夜から全く麻季に手を出そうとしなく
なった。
博人には思いも寄らないことだろうけど、耐えていたのは麻季も同じだった。セックス
がないだけならまだ耐えられたかもしれない。でもあの夜以来、博人は自分から麻季の身
体に触れないようにしているようだった。多分、抱きしめ合ったりキスしたりした後の自
分の衝動に自信が持てなかったのだろう。今ではハグやキスは全て麻季の方からするだけ
になり、彼はそんな麻季に軽く応えるだけだった。
全部自業自得だ。博人君は自分を抑えてくれている。そう理解はしていたけど彼女の方
もそろそろ限界に来ていたようだった。ある夜、我慢できなくなった麻季は博人に甘える
ように彼に寄り添った。いつもの軽いキスとかでは済まない予感がする。その夜の麻季は
まるで恋人同士だった頃に時間が戻ったみたいに博人に甘えた。麻季はもう我慢ができな
かったのだ。それは決してセックスだけのことではない。麻季にとっては博人との肉体的
な接触が激減したことが不安で仕方がなかった。
そういう麻季の気持を正確に理解したように、博人はいつもと違って真剣な表情で麻季
を強く抱き寄せようとした。
『拒否しなさい』
またあの声だ。
『もうやだよ。一度は拒否したんだからもういいでしょ。拒否しても博人君はあたしのこ
とを嫌わなかった。博人君の気持はもうこれで十分にわかったんだし』
『やり始めたことは中途半端にしちゃいけないね。拒否するくらいで彼の気持が理解でき
るくらいなら、何も鈴木先輩と寝ることなんかなかったじゃん』
『だって・・・・・・』
『だってじゃない。君だってわかってるんでしょ。単にセックスを拒否した程度で彼の気
持なんて試せないって』
『あたし、博人君に抱かれたい。彼に好きなようにさせてあげたいの』
『博人の気持を知るためだけじゃない。ここで流されたら怜菜に博人を取られるかもしれ
ないんだよ』
『そんなこと』
『さあ勇気を出して』
「やだ・・・・・・。駄目だよ」
結局このときも麻季は心の中の声に従ったのだ。このときの麻季は可愛らしく博人の腕
の中でもがいたので、夫はそれを了承の合図と履き違えたようだった。しつこく体を愛撫
しようとする博人の手に麻季は微笑みながら抵抗していたから。このままでは埒が明かな
い。
『博人を押しのけないと』
麻季の服を脱がそうとした博人は突然麻季によって突き飛ばすように手で押しのけられ
た。一瞬、博人は狼狽してその場に凍りついた。博人にはひどく傷つけられた自分の感情
をを隠す余裕すらなかったようだった。麻季は再び博人の愛撫を拒絶したのだ。
「ごめん」
それでも博人は麻季に対して謝罪した。何でもないことのように見せようとしているら
しいけど、震えている声が博人の彼女を思いやろうとする意図を裏切っていた。
「ごめん。今日ちょっと酒が入っているんで調子に乗っちゃった。君も疲れているんだよ
ね。悪かった」
「あたしの方こそごめんなさい。博人君だって我慢できないよね」
「いや」
「・・・・・・口でしてあげようか」
麻季が言った。それは心の声とは関係なく思わず彼女の口から出た言葉だった。
その言葉に博人は凍りついたようだった。
「もう寝ようか」
ようやく博人が口にした言葉は、結婚してから初めて麻季が聞くような冷たいものだっ
た。博人の冷たい口調に麻季は混乱して泣き始めた。
「悪かったよ」
麻季の涙を見て後悔したように博人はさっきの冷たい口調を改めて言った。
「ごめんなさい」
「君のせいじゃないよ。僕のせいだ。君が奈緒人の世話で疲れてるのにいい気になってあ
んなことしようとした僕の方が悪いよ。本当にごめん」
麻季は俯いたままだった。
『先輩との浮気を告白するなら今がチャンスだね』
『あたし、これ以上博人君に嫌われたくないよ』
『博人を信じようよ。博人は君を愛している。きっと君の浮気を許すだろう。そうしたら
君の悩みの一つはそれで解決でしょ。これでもう二度と君は彼の愛情を疑うことはないだ
ろう』
『・・・・・・・あたし恐い』
『勇気を出しなよ。大学時代に君のことなんてどう思っているかもわからない博人のア
パートに押しかけた勇気を思い出しなさい』
『だって』
『まず博人の愛情を確認しようよ。それから親友だった怜菜の感情を探らないとね。知り
たいんでしょ? そして安心したいんでしょ』
『あんなことを告白しちゃったらあたし博人君に捨てられるかも』
『大丈夫だよ。むしろ、このまま何も手を打たないと怜菜に博人を取られちゃうよ』
麻季はまたその声に従ったのだ。
「ごめんなさい。謝るから許して。あたしのこと嫌いにならないで」
「謝るのは僕のほうだよ。まるでけものみたいに君に迫ってさ。君が育児と家事で疲れて
るってわかっているのに。仕事にかまけて君と奈緒人をろくに構ってやれないのに」
「本当に好きなのはあなただけなの。それだけは信じて」
「わかってるよ。落ち着けよ」
混乱している彼女をなだめるように博人は言った。
「あなたのこと愛している・・・・・・あなたと奈緒人のこと本当に愛しているの」
「僕も君と奈緒人のことを愛してるよ。もうよそうよ。本当に悪かったよ。君が無理なら
もう二度と迫ったりしないから」
「違うの。あなたのこと愛しているけど、あの時は寂しくて不安だったんでつい」
混乱した声で麻季は鈴木先輩と寝てしまったことを話し始めた。
「・・・・・・え」
博人は予想すらしてなかった麻季の告白に凍りついた。
「一度だけなの。二回目は断ったしもう二度としない。彼ともちゃんと別れたし。だから
許して」
このときはいろいろとつらい思いをしたのだけど、結局のところ麻季は博人の愛情を確
信することができた。鈴木先輩との浮気を告白した彼女に対して、博人は最後には許して
やり直そうと言ってくれたのだ。博人の愛情を確認するという意味だけを取り上げれば、
あの声のアドバイスも正しかったのかもしれない。でも博人の愛情を再確認したその代償
もまた大きかった。
博人の愛情を確信した以上、もう麻季は博人に抱かれてもいいはずだった。でも麻季の
浮気を許して彼女の自分への愛情を信じてくれたはずの博人も、一度鈴木先輩に抱かれた
麻季の身体を抱くことができなくなってしまったのだ。もうあの声も反対しなかったので、
麻季は積極的に博人を誘惑した。そういうときは博人もそれに応えてくれようとしていた
のだけど、やはり博人は再中に萎えてしまい彼女を抱けなくなってしまう。麻季は夫が自
分を抱けなくなったという事実に狼狽したけれど、それはもちろん自業自得というものだ
った。
それでも肉体的な問題を除けば、麻季は幸せで多忙な日々を送ることができた。彼女に
は奈緒人がいる。博人が彼女を許した理由の大半は奈緒人絡みなのかもしれないけど、そ
のことは別に彼女を傷つけはしなかった。奈緒人は二人の分身だった。そして二人を繋ぎ
とめる絆でもある。奈緒人の成長振りを博人と話しているとき、彼女は博人に抱かれて喘
いでいるときと同じくらいの充足感を感じた。
『麻季?』
鈴木先輩から電話がかかってきたのは博人が不在の夕暮れのことだった。着信表示は
「鈴木先輩」という文字が浮かび上がっていた。あれから結局麻季は先輩とメールのやり
とりを再開してしまっていた。そんな気は全くなかったのだけど、怜菜の件はまだ未解決
だった。そのことを例の声に指摘されて麻季はしぶしぶとそれなりに先輩に気のある素振
りを装ったメールを返信していたのだ。怜菜が先輩の携帯をチェックしているかもしれな
いからね。そうあの声が言ったせいだった。
『メール以外で連絡しないでって言いましたよね?』
『わかってる。ごめん。でもそんなことを言っている場合じゃないんだ』
偶然再会してから、いや大学時代に先輩と知り合ってから初めて聞くような切羽詰った
声だった。
『何なんですか。もうすぐ博人君が帰ってくるんですよ。話があるなら早くして』
これ以上博人君に嫌われたくない。彼が帰宅したときは抱きついてキスして、それから
奈緒人を彼に抱かせて迎えてあげたい。そんなささやかな幸せを鈴木先輩ごときに奪われ
たくない。それにこれ以上博人君に誤解されるのもまずい。麻季はそう思って冷たく答え
た。
『悪い・・・・・・。でも僕よりも麻季に関係することだから』
『いったい何があったんですか』
『そのさ。すごく言いづらいんだけど』
『もったいぶらないで早く言って』
『麻季って太田怜菜さんと知り合いだったよね』
何が太田怜菜さんだ。あんたは独身だってあたしには言っているけど、彼女はあんたの
奥さんじゃない。正確に言うと鈴木怜菜でしょ。そう麻季は思ったけど今さら先輩の嘘を
責める気はなかった。今はとにかく早くこの電話を切りたい。急がないと博人君が帰って
きてしまう。
『偶然に知ったんだけど・・・・・・。君の旦那と怜菜さんって浮気しているみたいだぜ』
一瞬、麻季の周囲の世界が停止した。
『もしもし?』
『ふざけないでよ! いったい何の根拠があって』
『いや。偶然に喫茶店で結城と怜菜さんが二人きりで親密そうに話をしているところを見
ちゃったんだ』
場所は博人の編集部の近くにあるクローバーという喫茶店。その店の名前には聞き覚え
があった。打ち合わせでよく使う店だと博人君が話してくれたことがある。先輩はそこで
親密そうに顔を近づけて、何やらひそひそと密談めいた様子で話をしている博人と怜菜を
見かけたのだという。
『僕も二人に見つかったらまずいと思ってすぐに店を出たんで、その後二人がどうしたか
はわからない。ひょっとしたらホテルにでも』
先輩も動揺している様子だった。自分の妻が後輩と密会しているところを発見したのだ
とすると無理はない。麻季には独身だと偽っているけど、怜菜は間違いなく先輩の妻なの
だから。先輩は乱れた声で何か続けていたけど、もう麻季にはその声は届かなかった。
『やられたな。だから言ったじゃない。怜菜は麻季の敵だって』
『まだ博人君の浮気だって決まったわけじゃないでしょ!』
『先輩は嘘は言っていないと思う。怜菜に浮気されて動揺しているみたいだし。大方自分
のことは棚に上げて怜菜を疑って尾行でもしたんじゃないかな』
『・・・・・・待って。クローバーは同業者の人たちがいつも打ち合わせで使っている喫茶店だ
って博人君は言ってた。そんなところで密会なんかしないでしょ』
麻季は必死だった。心の声にもそれに同意して欲しかったのだ。
『かえってばれない場所だと思ったのかもよ。怜菜も博人も音楽関係の仕事をしているじ
ゃない? 誰かに見られたって打ち合わせだと言い訳すれば誰も疑わないだろうし』
『やだ・・・・・・そんなのやだよ』
『落ちつきなよ。まだ君は負けた訳じゃない。先輩は女にだらしないくせに怜菜に関して
は自分への貞操を要求するようなクズだからさ。きっと前から怜菜のことは気にしていた
と思うんだ。だけどこれまではそんな様子はなかったみたいだし、怜菜と博人が二人きり
で会ったのはこれが最初だと思うよ』
『麻季? 俺の話聞いてる?』
『・・・・・・うん』
『君にとってショックな話をしちゃってごめん。でも君が結城に騙されているままでいる
ことがどうしても我慢できなくて』
『博人君と怜菜って浮気してるのかな。二人は何を話していたんだろ』
『前に言ったとおりだと思う。怜菜は旦那に浮気された被害者を装って博人君の同情を買
うと同時に、君と先輩の仲が浮気ではなく本気だと博人君に思わせようとしたんでしょ。
そして怜菜は今、お互いに伴侶の不倫を慰めあっているうちに不倫された同士が恋に落ち
るなんていう筋書きを実行しようとしているんだと思うよ。だからまだ二人は出来てない。
安心しなよ』
『君の親友である怜菜と浮気するようなひどい男のことなんて忘れたら? 僕なら君を悲
しませたりしない。それに奈緒人君のことだって責任を持って育てるよ』
さっきまで他人を装って怜菜さんと呼んでいた彼女のことを先輩は怜菜と呼び捨てした。
彼も動揺しているせいか呼び方まで気が廻らず、つい普段どおりに怜菜と呼び捨ててしま
ったのだろう。
『あたし、どうすればいい? また先輩の言うとおりにするの?』
『バカかあんたは。私はあんたと先輩の仲を取り持っているわけじゃない。今は先輩なん
て放置しなよ。あんたはつらいだろうけど怜菜のことはなかったように博人と仲のいい夫
婦を続けなきゃだめでしょ。まだ、博人の気持は君のもとにある。怜菜なんかにはまだ取
られていない。だから我慢してこれまでどおりに暮らすんだよ。ここで揺らげば本当に怜
菜に負けちゃうよ』
『・・・・・・うん』
『できるね?』
『やってみる』
博人の態度はその後も変わらなかったし不審な様子もなかった。そして彼はますます麻
季に対して優しく接してくれるようになった。麻季は心の声に従って必死に博人との生活
を再建しようとしていた。博人の日常の素振りからは彼が浮気をしているような様子は全
く覗えなかった。
怜菜と博人君が二人で会ったことが本当だとしても、彼は怜菜の誘惑に乗らなかったの
ではないか。そしてそのことを麻季に話さないのは彼女を動揺させまいとしているからな
のではないか。だんだん麻季はそう考えるようになった。それほど博人との生活は穏かで
愛情に溢れたものだったし、疑り深い心の声でさえ、『麻季は怜菜に勝ったのかもしれな
いね』と時折呟くようになっていた。
そういう穏かな日々の積み重ねがしばらくは続いた。・・・・・・怜菜の訃報を多田先輩から
聞かされるまでは。
お通夜は今夜だそうだった。斎場の場所と時間だけを告げると、多田先輩は他の皆にも
伝えなくちゃと言い残して早々に電話を切った。麻季は構ってもらおうと彼女にまとわり
ついて来る奈緒人の相手をしながら、クローゼットの奥から喪服を取り出した。ワンピー
スの喪服。真珠のネックレス。香典を包む袱紗。
全く現実感がないせいか不思議と悲しみも動揺すらも感じない。多田先輩から教わった
怜菜の通夜の会場は自宅からそんなに離れてはいないけど、時間的にはあまり余裕がない。
奈緒人をどうしようか。麻季は博人の携帯に何度も連絡をしてみたけど返事がなかった。
喪服に着替えた麻季が姿見で服装をチェックしていたとき、ドアのロックがはずれる音が
して博人が帰ってきた。こんなに早い時間の帰宅は珍しい。
「博人君、ちょうどよかった。さっきからメールとか電話してるのに出てくれないんだも
ん」
普段どおりの冷静な声。まるで自分ではなく他人の声のようだ。
「ごめん。近所でインタビューしてたからさ。おかげで早く直帰できたんだけど。それよ
りその格好どうかした? 近所で不幸でもあったの」
「博人君が帰ってくれてよかった。大学時代の友だちが交通事故で亡くなったの。これか
らお通夜に行きたいだけど」
「いいよ。奈緒人は僕が面倒をみてるから。つうか斎場はどこ? 車で送っていこうか」
「ううん。保健所の近くらしいから大丈夫よ。奈緒人、まだ夕食前だからお願いね」
「わかった。亡くなった人って僕も知っている人?」
知っているも何もない。突然亡くなったのはあなたも知っている怜菜だよ。でも今さら
そんなことを言ってもしかたないし、そんな場合でもない。博人は怜菜のことを知らない
ことになっていた。だから麻季は言った。
「博人君は知らないと思う。あたしの大学時代の親友で結婚式にも来てもらった子。太田
怜菜っていうんだけど、多分あなたは覚えていないでしょ」
博人は驚いたような表情で目を見張った。やがてその目に涙が浮かんだ。麻季は心を動
かされずに、何重ものフィルターを通しているかのようにぼんやりと博人の涙を眺めてい
た。
「博人君? どうかした? 顔色が悪いよ」
「・・・・・・やっぱり送って行く」
「あたしは助かるけど、奈緒人はどうするの」
「連れて行く。君が帰ってくるまで斎場の前に待ってるから」
「博人君、怜菜のこと覚えてるの?」
「とにかく一緒に行こう。僕は外で奈緒人をみながら手を合わせているから」
博人は奈緒人と一緒に斎場の駐車場で待っているそうだ。麻季は車を降りて入り口の方
に歩いて行った。入り口に黒々とした墨字で太田家と書いてあるのは何でだろう。怜菜は
先輩の奥さんなのだから鈴木家と記されているべきではないか。
「麻季」
斎場に入ると人で溢れている入り口のロビーに川田先輩がいた。
「先輩」
「ちょうど始まったところだよ。一緒に並ぼう」
麻季は川田先輩と一緒に焼香を待つ列の後ろについた。並んでいる黒尽くめの人の列の
せいで祭壇や親族席の方を覗うことはできない。
「交通事故だって。怜菜、まだ若かったのに」
川田先輩がくぐもった声で麻季にささやいた。
「お嬢さんを庇って暴走した車にはねられたそうよ。お嬢さんだって小さいのにね」
「・・・・・・怜菜って子どもがいたんですか」
麻季の声が震えた。
「そうよ。鈴木先輩もさぞショックでしょうね」
列が動き出した。始まると早かった。少しして麻季は列の先頭に立った。親族席に頭を
下げたとき、麻季は絶望的な表情で親族に混じって座っている鈴木先輩と目が合った。頭
を下げた麻季に応えて怜菜の家族や親族たちもお辞儀をした。同じように頭を下げた先輩
はもうそれ以上は麻季と目を合わそうとはしなかった。
祭壇の中央には怜菜の写真が飾られていた。怜菜の通夜や葬儀にあたって怜菜の両親が
がどうしてその写真を選んだのかはわからない。写真の中の怜菜は生まれたばかりの自分
の娘を大切そうに抱いてカメラに向って微笑んでいた。その微笑はかつてキャンパスで麻
季の横に立って彼女に向けてくれたものと同じ微笑だった。
「ちょっと話していかない?」
香典返しを受け取ってそのまま斎場を後にした麻季に、先に外に出ていた川田先輩が話
しかけた。「怜菜の知り合いがいっぱい来ているの。サークルの人たちとか。少し話をし
て行こうよ」
「ごめんなさい。息子が待っているので」
「そうだよね、ごめん。あたしは娘を旦那に任せてきたけど、結城君ってマスコミに勤め
てるんだもんね。そんなに簡単に帰っては来れないね」
「ええ。教えていただいてありがとうございました」
「うん。あんまり気を落すんじゃないよ。怜菜のことは本当に悲しいし悔しいけど、彼女
は大切な娘を守ったんだもん。決して無駄には死んでないんだから」
もう無理だった。ここまでは心が氷ついていたせいで痛みすら感じなかった麻季だけど、
だんだんと彼女の精神が、彼女の秩序が崩れていくみたいだ。
「鈴木先輩もつらいでしょうけど、ナオちゃんの育児とかしなきゃいけないだろうし、そ
れで気が紛れてくれればいいんだけど」
川田先輩がそっと言った。
「怜菜の子どもってナオちゃんて言うんですか」
「うん。奈良の奈に糸偏に者って書くみたい」
「・・・・・・失礼します」
麻季はもう川田先輩の方を見ることもなく駐車場に向って歩き始めた。あっけにとられ
たように先輩は彼女の後姿を眺めていた。
博人が待つ車に戻ると、麻季は普段奈緒人と並んで座る後部座席ではなく助手席のドア
を開けて車内に入った。博人は運転席にぼんやりと座ったまま、半ば身体をねじるように
して後部座席のチャイルドシートで寝入ってしまった奈緒人をぼんやりと見つめていた。
「何で?」
「何でって?」
「何で親族席に鈴木先輩がいたの」
「・・・・・・とりあえず家に帰ろう。奈緒人も疲れて寝ちゃっているし」
「博人君は何か知っているんでしょ。何であたしに教えてくれないの。親友の怜菜のこと
なのに」
助手席におさまったまま麻季は本格的に泣き出した。本当は全て知っていたのに、なぜ
本気で狼狽し涙が溢れるのか自分でもわからなかった。怜菜の死と彼女に娘がいたことが
それほどショックだったのだろうか。その子の名前は奈緒というのだそうだ。
「車を出すよ」
「奈緒って、奈緒って何で? 怜菜はいつ子どもを産んだの。何でその子は奈緒っていう
名前なの」
博人は車中では何も喋らなかった。麻季が泣いたり悩んだりしているときには、いつも
彼女を気にして慰めてくれた彼とは全く別人のようだ。帰宅してから、目を覚ました奈緒
人に食事をさせ、風呂に入れ、寝かしつけるいつもの麻季の仕事は全て黙ったまま博人が
した。その間、麻季は身動きせず着替えもしないままリビングのソファに座ったままだっ
た。
「奈緒人は寝たよ」
博人はそう言って麻季の向かい側に座った。博人が麻季の隣に座らないのは彼女の浮気
を知った日以来初めてだった。
「何か食べるなら用意するけど」
麻季にはもう夕食の支度をする気力は残っていなかった。一応、彼女のことを気遣って
博人はそう言ったけど、彼自身も彼女の返事を期待している様子はなかった。
「君は鈴木先輩との浮気を僕に告白したとき鈴木先輩は独身だって言ってたけど、鈴木先
輩と怜菜さんが実は夫婦だったことは本当に知らなかったの?」
このときあの声がまだ麻季の頭の中で響いた。
『知らなかったって言わないと。ここで知っていたなんて言ったら、君は本当に博人に捨
てられちゃうよ』
『先輩が独身でも既婚でもあたしが不倫したことに変わりはないよ・・・・・・』
『ばか。そんなことじゃない。怜菜のことを承知で彼女の夫と不倫したことを知られたら
まずいって言ってるのよ』
『あんたが唆したんでしょ!』
『今そんなことを言ってる場合じゃないでしょ』
「先輩は独身だと思ってた・・・・・・さっき知ってショックだった」
「そうか。じゃあ怜菜さんが鈴木先輩と離婚していたことも知らないだろうね」
「知らない」
「怜菜さんに子どもがいたことも?」
「さっき知った」
少なくとも、離婚と子どもがいたことを麻季が知らなかったことだけは事実だった。
「ねえ。あなたは怜菜と知り合いだったの?」
ここまで来ると麻季はもう冷静になっていた。ならざるを得なかった。むしろ、博人が
どこまで知っているかが気になっていた。
「正直に話すと、怜菜さんとは仕事の関係で二人で会ったことがあった」
博人は言った。その態度は麻季の反応を思いやるというよりはどちらかと言うと投げや
りな様子に見えた。麻季は怜菜を博人に紹介しないようにしてきた。学生時代から意識し
てずっとそうしてきたのに、あっさりと夫は彼女には黙って怜菜と会っていたことを認め
たのだ。
「そこで全部聞いたんだ。怜菜さんが鈴木先輩の奥さんであることとか、彼女が先輩の携
帯を見て君との浮気を知ったこととかね」
「怜菜さんは先輩が自分が独身だと偽って君を誘惑していることを知った。でも彼女は麻
季のことは恨んでいないと言っていたよ」
「博人君・・・・・・。何であたしに怜菜と会ったことを話してくれなかったの?」
「僕はショックを受けていたからね。君は鈴木先輩とはもう連絡しないと言っていた。で
も怜菜さんが先輩のメールのログを見せてくれた。君はあの後もずっと先輩とメールをし
ていたんだね」
思わず麻季は言い訳をしようとしたけど、博人の冷たい、なげやりな表情を見てその言
葉は彼女の喉の奥に引っ込んでしまった。今は切実にあの声のアドバイスが欲しかった。
でもこういうときに限ってその声は沈黙していた。
もう耐えられなかった。彼女はついに聞いた。
「博人君は怜菜のことが好きだったの?。怜菜は博人君のことを好きだと告白した?」
「うん。僕は彼女に惹かれていた。彼女も僕のことが大学時代から好きだったと言ってく
れた」
それから博人は怜菜と関係を話し出した。もう彼はその話が麻季にどう受け取るかなん
て全く気にしていないようだった。怜菜の死に衝撃を受けたのは麻季だけではなかったの
だ。もしかしたら怜菜の死に関しては、博人の方が麻季よりもずっとショックだったのか
もしれない。彼はもう何も麻季に隠し事をしなかった。
博人は怜菜が、自分が博人の夫だったら幸せだったのにと言ったことも告白した。最後
に怜菜から会社に届いたメールの内容も詳しく話した。博人自身も怜菜に惹かれていたこ
と、怜菜が自分の妻だったら幸せだったろうと考えたことがあることも。それでも怜菜が
博人と麻季の復縁を応援してくれていたことも。
そのつらい告白を聞いて動揺した彼女の頭にようやくあの声が響いた。
『怜菜を救ってあげられなかった絶望に博人は悩んでいるんだね』
『今の彼は、鈴木先輩と麻季の浮気によって苦しんだ挙句、最愛の娘を残して死んだ怜菜
のことだけを考えているんだと思う。正直、君と先輩のことなどどうでもよくなちゃって
るみたい』
麻季は泣き出した。いつもと違って泣き出した麻季を博人はぼんやりと見ているだけだ
った。まるで泣き出した彼女を通り越してその先にいる怜菜の幻影を追い求めているよう
に。
「何で怜菜はあたしを責めなかったの? 何であたしと博人君を復縁させたいと言ったの
よ。怜菜はあなたが好きだったんでしょ。あなたもそんな怜菜に惹かれていたんでしょ。
何で怜菜はあたしからあなたを奪おうとしなかったの。わかんないよ。あたしにはわかん
ない」
「さあ。もう彼女に聞くこともできないしね」
博人は自分と怜菜のことを話し終えてしまうと、それ以上何も言おうとしなかった。麻
季の苦悩にすら無関心のようだった。
それでも結局、博人は怜菜への想いを、麻季は先輩との過ちと怜菜を裏切った後悔を、
互いに告白しあい、その上でお互いに一からやり直す道を選んだのだ。ただ、正直に言え
ば奈緒人がいなかったとしたら二人がその道を選択したかどうかはわからなかった。博人
は少しするとまた以前のように優しい夫に戻ったけれど、そんな彼の態度にもう麻季は何
の幻想も抱いてはいなかった。この家族が新婚時代や奈緒人が生まれた頃のような、何の
疑問もなかったあの頃に戻っていないことは明白だった。その原因はやはり怜菜にあると
麻季は考えた。浮気をした彼女を博人は許したのだけど、その許容自体は偽りではないと
思う。そしてあのときやり直そうと言ってくれた博人の優しさも嘘ではなかったはずだ。
そう考えて行くと、現在の家庭の破綻の原因は麻季の浮気ではなく怜菜が博人君に告白
めいたことを話したせいだ。麻季にはそうとしか考えられなくなっていた。心の声は結局
正しかったのだろう。怜菜にとっては夫である鈴木先輩と親友の麻季との浮気はつらいこ
とでもなんでもなかったのだ。怜菜にとってそれはチャンスそのものだった。その証拠に
怜菜は全く鈴木先輩を責めることをせず、博人を呼び出して自分の学生時代からの彼への
愛情を曝露したのだから。
怜菜にとって誤算だったのは自らが死んでしまったことだった。怜菜が事故に遭わなか
ったとしたら、今頃麻季は博人に捨てられていたかもしれない。
『そうだろうね。怜菜は君と先輩がメールのやり取りをしているなんて余計なことを博人
に言いつけたんだしね』
『やっぱりそう思う?』
『うん。下手したら博人と怜菜は今頃再婚していたかもしれないよ。それで奈緒人と奈緒
を仲良く二人で育てていたかも』
想像するだけで気が狂いそうなほどつらい話だった。
それでも怜菜は死んだ。彼女の目的は意図しない自分の死によって阻止されたのだ。い
つまでも死んだ怜菜に嫉妬したり彼女を恨んでいる場合ではなかった。死人に嫉妬しても
何も解決しない。怜菜の想いは中途半端に博人の記憶に残ったけど、その想いに将来はな
いのだ。少なくとも麻季と博人には奈緒人がいた。二人は怜菜の死の記憶を封印するよう
に、再度この家庭を維持することを選んだ。表面的には二人の仲は以前より安定している
ようにも思えた。いまさら悩んでも得ることはない。そう悟った麻季と博人はだんだんと
以前の安定した生活を取り戻していった。
鈴木先輩から電話があったのは、博人が奈緒人を連れて公園に遊びにいている休日のこ
とだった。
『久し振り』
先輩が電話の向こうでそう言った。
『・・・・・・もう電話してこないでって言ったでしょ』
『わかってる。君を騙していたことを一言謝りたくて』
『もう、どうでもいいよ。そんなこと』
『君を騙すつもりはなかったんだけど、何となく怜菜と結婚しているなんて君には言い出
しづらくて』
『気にしてないよ。今となってはどうでもいい』
『怜菜の子どもの名前聞いた?』
『奈緒ちゃんでしょ。知ってるよ』
『結城のガキの名前から娘を命名するなんてあいつは気違いだよ。いくら結城のことを好
きだからって、怜菜からこんな仕打ちを受けるいわれはないよ』
『結城のガキってあたしの大切な息子のことを言っているわけ?』
『悪い。でも俺は純粋な被害者だよ。怜菜に裏切られたうえに勝手に死にやがって。浮気
相手のことを想って命名された娘を、俺は押しつけられてるんだぜ』
『何があったとしても自分の子どもでしょ』
『ああ。そうだな。最初はそれすら疑ったよ。DNA鑑定までした。結果は結城じゃなく
て俺が親だったけどな。こんなことならあんなビッチのことなんか久し振りに抱くんじゃ
なかったよ』
『さっきから聞いていると先輩だけが一方的に被害者みたく聞こえるね』
『麻季だって浮気されたんだぜ。おまえも俺も被害者じゃないか』
『・・・・・・博人君と怜菜は浮気なんてしていなかったよ』
『そうかな。今にして思えば怜菜のやつ、やたら麻季の話をしてたもんな。麻季が保健所
によく子どもを連れて健診や相談に来るとか、麻季の家はどこにあるとか、あのスーパー
に毎日買物に来てるとかさ。俺の麻季への気持を知っていて俺のこと、けしかけてたんだ
ろうな』
『話はそれだけ?』
『麻季だってあのガキ、じゃなかった君の息子の名前から命名された怜菜の娘のことが気
になるだろうと思って電話したんだよ。鑑定結果がそういうことなんで認知はしたけど、
引き取る気はないんだ』
『あたしには関係ない』
『・・・・・・わかったよ。俺だってもう麻季をどうこうしようなんて思ってないよ。もう昔の
大学時代の女なんてこりごりだ。こんなことなら身近なオケの中で調達しておけばよかっ
たよ。もう連絡なんかしねえよ。じゃあな』
その後の生活の中で博人は奈緒のことなんか一言も口にしなかった。本当に全く一言も。
それなのに、ある日麻季が奈緒を引き取りたいと思い切って博人に相談したとき、ほんの
一瞬だったけど確かに博人の表情が明るくなった。怜菜の死以降、そんな彼の表情を見る
のは初めてだった。一瞬だけ嬉しそうな表情を見せた博人はすぐに顔を引き締めた。そし
て他人の子を引き取って育てることの難しさや、どれほどの覚悟がそれに必要かを延々と
話し始めた。麻季はそんな彼の言葉を真剣に聞いて考える振りをしていたけど、頭の中で
はそんなものは聞き流していた。
博人君は格好をつけているだけだ。本当は怜菜の忘れ形見を引き取れることが嬉しくて
たまらないのだろう。それでも怜菜と博人との淡い恋情を麻季に告白してしまった彼には、
自分からそのことを申し出ることが出来なかったのだ。だから、いろいろと難しいことを
言ってはいても、麻季が奈緒を引き取りたいと言ったことを彼は本当に喜んでいたのだろ
う。何で自分が奈緒を引き取らなければいけないのか、麻季にはよくわかっていなかった。
ただ、例の声のアドバイスに従っただけだったから。
『こんな表面だけを取り繕った夫婦生活をずっと続けるつもり?』
声はいつでもそう話す。博人君が家にいるときには麻季はそれなりに彼のことを信じら
れた。だけど博人君不在で家にいるときに麻季はいつも不安に襲われる。そういうときを
狙ったように心の中で声が話し出す。
『怜菜が死んでもまだ終ってないんだよ。先輩との浮気で始まったこの作戦はさ』
『作戦とか言うな。もう先輩とも本当に終ったし怜菜も死んだの。これ以上続けることな
んてないよ』
『あるよ。まだ奈緒がいる。怜菜の意図なんてまだ何にもわかっていないのよ』
『わかってるよ。怜菜は博人君と結ばれようとしてたんだよ。でも彼女が死んじゃってそ
れは終ったのよ』
『そんな単純なことじゃないと思うけどなあ。だって、実際博人君の心は怜菜に持ってか
れちゃったままじゃん。だから何にも終っていないんだよ』
『それは』
『君は奈緒人のためにだけ表面だけ取り繕ったようなこんな夫婦でこの先ずっとやってい
けるの?』
『あたしと博人君はそんなんじゃない』
『奈緒を引き取ろうよ。博人だって喜ぶし。もうそれくらいしか君に出来ることはないよ。
それでも出来ることはしておこうよ』
このときも結局、麻季はその声に負けた。
次の週末、麻季は博人の運転する車に乗って降りしきる雨の中を奈緒が預けられている
乳児院を併設した児童養護施設に向った。
今日は以上です
また投下します
奈緒を引き取った一時期、怜菜の意図に不安を覚えて博人と言い争いをしてしまったこ
ともあったけど、それがかえってよかったのかもしれない。お互いに不安や不満を吐き出
したことによって、麻季の不安は収まった。それにそれが端緒になって、二人の理解も深
まり和解することができた。博人は再び麻季を抱けるようにもなった。こうして夫婦の危
機は収まったのだ。
容姿と性格だけを取り上げてみれば奈緒は本当に可愛らしい女の子だった。幸か不幸か
麻季のお腹を痛めた子どもは男の子だったから、これまで娘が自分の手元にいることなん
て思ったこともなかった。そうしてほとんんど自分が産んだのと同じように幼い少女を育
てているとぼんやりとだけどこの子への母親めいた感情まで浮かんでくるようだった。
心が安定し余裕を持って眺めてみると、することなすこと奈緒の仕草は全て可愛い。麻
季は一時期、怜菜の博人への想いを忘れるくらい奈緒に夢中になった。奈緒を引き取って
一緒に暮らし出した頃から奈緒人は急にしっかりとした子になった。どちらかというと甘
えん坊な息子のことが麻季は大好きだったのだけれど、その息子はいつのまにか母親離れ
して、今では麻季が助かるほど奈緒の面倒をみてくれるようになった。
それは幸せな日々だった。もう鈴木先輩も亡くなった怜菜さえも麻季と博人を脅かすこ
とはないのだ。博人が帰宅すると麻季と二人の子どもは待ちかねたようにそろって玄関で
彼を出迎える。博人に抱きつきたかったのは麻季も一緒だったけど、最近ではその権利は
まだ幼い奈緒に奪われがちだった。そういうとき奈緒を抱き上げる博人のことを麻季は怜
菜のことなんて微塵も思い出さずに微笑んで眺めていられた。奈緒人も父親に抱きつく権
利を奈緒には喜んで譲ったけれど、そういうとき彼は珍しく麻季に甘えるように抱きつい
た。それで麻季はこのときだけは母親離れをした奈緒人を思う存分に抱きしめることがで
きたのだ。
これ以上望むことはない。怜菜と博人の関係を、誰を傷つけることなく消化し昇華でき
たのだ。奈緒を幸せな家庭に加えることによって。あの声は今回も正しいアドバイスを彼
女にしてくれたようだった。
そういうわけで満足し充足した生活を送ることができた麻季だけど、奈緒の名前につい
て悩むことは未だにあった。博人が奈緒と呼ぶ声。奈緒人が奈緒と呼びかける声。何より
も自分が奈緒に呼びかける際に感じる逡巡に彼女は悩むことがあったのだ。
今が幸せなのでそんなことを考える必要はない。麻季は自分に言い聞かせた。そして博
人が家にいるときはそんな考えは少しも脳裏をよぎることはなかったけど、奈緒人と奈緒
を幼稚園の送迎バスに送り出して一人になったとき、その考えはしばしば彼女の心を蝕み
出した。
そんなある日、再び声が聞こえた。
『思っていたよりうまく行ってるよね。よかったね』
『うん・・・・・・』
『何か不安そうだね。博人も頑張って家にいるようにしてくれてるし、これでもまだ何か
気になるの?』
『言葉に出しては言いづらいし、自分でもよくわからない漠然とした不安なんだけどね』
『博人がまだ怜菜のこと引き摺っているんじゃないか不安なの?』
『ううん。それはもうないと思う。確かに亡くなった人には勝てないし、博人君だっても
う怜菜を嫌いになることは永遠にないんだけどね。でも亡くなった人相手に嫉妬してもし
ようがないよ。むしろ怜菜の娘をあたしが一生懸命に育てることが、博人君を繋ぎとめる
唯一の方法だと思っているよ』
『・・・・・・なんだ。わかってるんじゃない。それなのにまだ不安を感じてるんだ』
『博人君がいないときだけなんだけどね』
『もう考えても仕方のないことで悩むのはやめにしたら?』
『わかってるよ。でも考えちゃうんだもん。しかたないじゃん』
『・・・・・・』
声は沈黙してしまった。
『あんたはあたしなんでしょ? 今まで散々ああしろこうしろって指示してきたくせに。
こんなときに黙ってないで何か言いなさいよ』
『聞くと後悔するかもよ。知らないでいたほうが幸せなこともあるしさ』
『あたし自身のくせに何を思わせぶりなこと言ってるのよ』
『まあ、結局君の意思しだいなんだけどね。わたしは君には逆らえないし、君が知りたい
と言うなら話すしかないんだけど』
『じゃあ、話してよ。何でうまくいっているはずなのにあたしが不安を感じるのか』
『本当に話していいの? 後悔するかもよ』
『それでも知りたい。自分のこの不安の正体を』
『わかったよ』
その声はため息混じりに言った。脳内の声の分際ですいぶん細かい芸をするものだ。
『あんたにその覚悟があるならこの際徹底的に考えてみようか』
覚悟なんてあるわけがない。でも不安があるまま目をつぶるわけにはいかないと麻季は
思った。
『その前に聞くけどさ。奈緒のこと引き取ってよかったと思う?』
『よかったって思う。奈緒は可愛いし、あたしたちに懐いているし。このまま幸せに暮ら
せると思うな』
『そうだね。それはそのとおりだと思うよ。でもさ、怜菜が死んだとき君と博人の仲って
どうだったか思い出してみな』
そんなことは思い出すまでもない。博人は怜菜の死に、怜菜を救くえなかった絶望に打
ちひしがれていて、結婚して初めて麻季の涙にも無関心な状態だった。少なくともあのと
きの破綻寸前の家庭は麻季の浮気ではなく、怜菜の博人への想いとその後の突然の死が原
因だったのだ。
『君と博人の関係の危うい状態は、奈緒を引き取ったことによって解消されたんだよね』
『まあ、そうだけど。何よ、あんたの助言にお礼でも言えって言いたいわけ?』
麻季の嫌味な言葉には注意を払うことすらなく声は続けた。
『奈緒が我が家に来て博人君は再び君に優しくなった。やり直そうと言ってくれた。何よ
りもこれまで抱けなかった君のことを抱くようにもなった』
『そうだよ。奈緒を引き取ってからだって彼と言い争いをしなかったわけじゃないけど、
結局彼は二人でやり直そうって言ってくれたの』
『博人はあれだけ落ち込んでいたのにね。何で君に優しくなったのかな』
『それは・・・・・・』
『もうわかってるんじゃないの。彼の心が何で安定してまた君に優しくなったのか』
『それは・・・・・・。彼はあたしのことが好きだし奈緒人のことだって愛してるし。奈緒のこ
とをきっかけにあたしを許してくれたんだと・・・・・・』
『覚悟を決めてちゃんと考えることにしたんでしょ? それならもう自分を誤魔化さない
方がいいよ』
『・・・・・・どういう意味?』
19 名前:NIPPERがお送りします [saga] 投稿日:2013/02/20(水) 00:20:21.67 ID:23PR5ugqo
声は少しだけ優しくなったようだった。そしてとても静かに麻季に言った。
『これは前にも言ったよ。君は忘れているかもしれないけど』
『何だっけ』
『あのときわたしはこう言ったの』
『怜菜を救ってあげられなかった絶望に博人は悩んでいるんだね』
『今の彼は、鈴木先輩と麻季の浮気によって苦しんだ挙句、最愛の娘を残して死んだ怜菜
のことだけを考えているんだと思う。正直、君と先輩のことなどどうでもよくなちゃって
るみたい』
『それが今では君と博人はすごく仲がいい夫婦に戻れた。そのきっかけはわかるでし
ょ?』
『・・・・・・奈緒?』
『正解。奈緒が引き取られて博人には生き甲斐ができたんだと思う。自分が何もしてやれ
なかった怜菜に対して、ようやく自分がしてあげることができたんだって。それは幸せな
家庭で奈緒をきちんと育ててあげること。彼にとってはそのためなら浮気した君のことを
許すくらい何でもなかったんでしょうね』
麻季はその言葉に衝撃を受けた。でも彼女の心にはどこかで覚めた部分があった。多分
そのことを麻季は前から感じ取っていたのだろう。幸せなはずなのに得体の知れない不安
を感じていたのはそのせいだったのかもしれない。
『じゃあ、博人君は本当にはあたしのことを許してないの? あたしのことを嫌いになっ
たままなの』
『そこまではわならない。本当のところはわたしや君にはもう永久にわからないと思う
よ』
『ふざけんな! 先輩と浮気して博人君の気持を試せってけしかけたのはあんたでしょう。
今になってそんなこと言うなんて』
『わたしのせいじゃないよ。あのときと今とは事情が違うもん。こんなことになるなんて
わからなかったし』
『何言い訳してるのよ』
『神様じゃないんだからさ。まさか怜菜が鈴木先輩といきなり離婚するなんて思わなかっ
たし。まして離婚してから産んだ自分の娘にあんな命名をするなんて』
『・・・・・・』
『それに一番誤算だったのが怜菜の死だよ』
『・・・・・・うん』
本当はもう、麻季にも声の言いたいことは理解できていたのだ。
『君の不安の原因はわかったでしょ。それは前から自分でもわかってたと思うけど、結局
単純な話だったね。博人は怜菜に気持を持って行かれてしまってたんだよ。今、君の家庭
が安定しているのは、博人が怜菜の代わりに娘の奈緒のことを幸せにできるチャンスを得
て彼自身が落ちついたからでしょうね』
『あたしの不安の原因は結局それだったのね。博人君が本当にあたしのところに戻って来
たわけじゃないって、あたし自身がどこかで感じていたからなのか』
『そうだね。それでも割り切ればいいんじゃない? 博人は君と一生添い遂げてくれるよ。
仲のいい模範的な夫婦として』
『・・・・・・奈緒のために? あたしのことなんて好きじゃないけど、奈緒のために一生あた
しを好きな振りをしてくれるっていうこと?』
『うん。亡くなった怜菜の一人娘のためにね。だから聞かない方がいいって言ったじゃな
い。君はそれに気がついてしまったのだけど、これからどうするつもり?』
『頑張るしかないよ・・・・・・博人君は、結城先輩は絶対あたしのことが好きなはず。どんな
に時間がかかっても取り戻して見せるよ。怜菜と奈緒から博人君を』
大学の頃、黙って麻季の髪を撫でて微笑んでいた博人の姿が一瞬だけ麻季の脳裏に浮か
んだ。
『そうか。そうだよね』
『辛いけど、気がつけてよかった。今夜も博人君が帰ってきたら笑顔で迎える』
『うん・・・・・・』
『何よ。まだ何かあるの』
『もう少しだけ気がついたことがある・・・・・・。ここから先は推理というか邪推というか、
まあ今となっては証明しようのない話なんだけど。どうする? 聞く?』
『・・・・・・そんな言い方されたら聞くしかなくなっちゃうじゃん。まあ、もうこれ以上ひど
い話はないとは思うけど』
『どうかな』
『さっさと言いなさいよ』
『突然の鈴木先輩との離婚、娘への奈緒という命名、そして怜菜の突然の死』
『うん・・・・・・』
『最初の二つには怜菜の明確な意図が込められていると思う』
『そうかもね。怜菜は博人君のことがすごく好きだったんだろうね。鈴木先輩の言ってい
たこともあながち嘘じゃないのかもね』
『そして怜菜の死だけは悲劇的な偶然だと、君も博人も鈴木先輩も疑っていないでし
ょ?』
『・・・・・・どういうこと?』
『偶然じゃなくて三つとも怜菜の意図が働いていたとしたら?』
『それって』
『そう。怜菜は意図的に鈴木先輩から自由になった。彼の浮気を責めることすらなく。そ
して意図的に自分の娘に奈緒人と一字違いの名前をつけた』
『そしてさ。最後はみんなが悲劇だって思っているけど、実はそれが彼女の意図的な死だ
ったとしたら?』
それは想像力に溢れすぎていると自分でも認めていた麻季ですら考えたことがなかった
ことだった。
『自殺ってこと?』
麻季は心の声の非常識な推理に震える声で小さく応えた。
「怜菜って自殺したんだと思う」
麻季は真面目な声で静かに言った。
これまで考えもしなかった言葉に僕は一瞬動揺したのだけど、すぐにそんなはずはない
と思い直した。そんなわけはない。怜菜はか弱そうな外見とは裏腹に芯の強い女性だった。
それはただ彼女の言葉だけからそう判断したわけではない。僕は彼女の一貫した行動から
そう確信していた。怜菜は離婚後に配偶者のいない状態で出産した。同じ病院に出産のた
めに入院している母親たちと比べたってつらいことは多々あったはずだった。でもそんな
ことは怜菜から僕にあてた最初で最後のメールには何も言及されていなかった。僕は今で
は一語一句記憶している彼女のメールの文面を思い出した。
『お互いに伴侶の不倫を慰めあっているうちに恋に落ちる二人。そんな昼メロみたいなこ
とをわたしは期待して先輩をあの喫茶店に呼び出しました。そして、先輩はわたしが旦那
と別れるなら自分も麻季と別れるって言ってくれました。もちろんそれは先輩がわたしに
好意があるからではないことは理解していました』
『でも奈緒人君への愛情を切々と語る先輩の話を聞いているうちにあたしは目が覚めまし
た。奈緒人君から母親を、麻季を奪ってはいけないんだと。そしてその決心は自分の娘を
出産したときに感じた思いを通じて間違っていなかったんだなって再確認させられたので
す』
『本当に長々とすいません。あたしの先輩へのしようもない片想いの話を聞かされる義理
なんて先輩にはないのに。でもわたしは後悔はしていません。そして今では先輩が麻季と
やり直そうとしていることを素直に応援しています。生まれてきた子がわたしをそういう
心境に導いてくれました』
『これでわたしの非常識なメールは終わりです。先輩・・・・・・。大好きだった結城先輩。こ
んどこそ本当にさようなら。麻季と奈緒人君と仲良くやり直せることを心底から祈ってま
す』
それは何度思い起こしてもつらい記憶だった。生前の怜菜に最後に会ったとき僕が彼女
の想いに応えていれば、また違った現在があったのだろうか。そうしていれば、怜菜は死
ぬことなく奈緒を抱いて微笑んで僕の隣にいてくれる現在があり得たのだろうか。
「君が何を考えているのかよくわからないけど、怜菜さんの死は自殺じゃなかった。暴走
してきた車から奈緒を守って亡くなったんだ」
「あたしだってそう思っていたんだけどね。そうとも言えないんじゃないかって考えるよ
うになったの」
「・・・・・・もうよせ。これ以上僕に君のことを嫌いにさせないでくれ」
「それは・・・・・・あたしは信じてるから」
「何を言ってる」
「あたしが何をしても博人君は、結城先輩はあたしのことが好きだって」
「本当に何言ってるんだよ。もうよそうよ。昔のことは昔のことに過ぎないだろうが。君
は鈴木先輩と再婚することにしたんだろ?」
「うん。ごめんね」
「謝るな。僕もこの先の人生は理恵とやり直すことに決めた。だからもうこれ以上怜菜さ
んのことは蒸し返さないでくれ」
「神山先輩なんてどうだっていい」
「・・・・・・それなら」
「神山先輩さんだけじゃない。雄二さんのことだってどうでもいいよ。怜菜は死んだし、
雄二さんにだってあたしたちの愛情の邪魔なんかできないんだよ。あたしたちはお互いに
愛しあっている。でも問題は奈緒人と奈緒のことでしょ」
「何を言っているのかわからなよ・・・・・・もういい加減にしてくれ」
「それはあたしのセリフだよ。博人君もいい加減に目を覚ましてよ」
「子どもたちを放置した挙句、家庭を捨てたのは君の方だろうが。今さらお互いに愛しあ
っているも糞もあるか」
「博人君、まだ話の途中でしょ。そんなにあなたが興奮したらこの後の話がしづらいじゃ
ない」
麻季が微笑んだ。「それに約束が違うよ。食べながら聞くって言ったのに全然食べてな
いじゃない。そんなんだと博人君、体壊しちゃうよ」
「・・・・・・食べるよ。だから続きを聞かせてくれ。何で子ども二人を家に放置した? その
とき君は何をしてたんだ」
「これ以上怜菜に勝手なことをさせないためだよ」
「どういう意味だ」
「奈緒は怜菜そのものじゃない。そして奈緒人はあなたそのもの。博人君は気がついてい
なかったかもしれないけど、奈緒人と奈緒はお互いに愛しあっているのよ。そんなことあ
たしは絶対に許さない」
「君が何を言っているのか全然わからない」
「・・・・・・食べないと」
「子どもたちが愛しあってるって、そしてそれを許さないっていったい何の冗談だ」
「博人君、食べないと身体に悪いよ」
「食事なんてどうでもいいだろ! そんなことを君に心配してもらう必要はないよ。僕に
は今ではもう理恵がいる。君はいったい何の権利があって・・・・・・いや、そうじゃない。奈
緒人と奈緒が仲がいいことに何の問題があるんだ」
「怜菜は恐い子だったのよ。あなたを愛して、雄二さんの不倫のことを内心は喜びながら
冷静に彼を振って、そしてあなたに告白したの。お腹の中に雄二さんの子がいたのにね」
「本当にもういい。これ以上そんな話は聞きたくない。それより僕が海外にいたときにな
んで子どもたちを放置したか話せよ」
「怜菜が自分の大切な娘を放って死んでいいと思うほどあなたを愛したのだとしたら、あ
なたはそんな怜菜のことを愛せる? 怜菜が自分の娘を捨てて自殺したのだとしたら」
「そんな非常識なことがあるか。誤魔化さずに何で子どもたちを一週間近く放置したか答
えてくれ。真実をだ。それを言わないなら僕は今すぐ帰る」
「そうね。わかった」
麻季はそう答えた。「わかったから、あなたの身体に悪いから少しでも食べて」
もうとうに食欲なんてなくなっている。僕は形だけ目の前の皿からなにやらフライのよ
うなものを取り上げて口に入れた。味なんて全く感じない。
「博人君、串揚げ好きだったよね」
「どうでもいいよ、そんなこと」
「わかってる。あのときね、あたしは」
麻季は散々悩んだ挙句、その声を信じることにしたのだった。その圧倒的な説得力を前
にして信じざるを得なかった。
それは麻季がこれまで漠然と感じ続けてきた不安に正確な解答が与えられた瞬間だった。
このとき麻季は全てを理解した。これまで博人に対する自分の愛情の深さを彼女自身疑っ
たことはなかった。でも、怜菜が自分の死をも厭わず博人の心の中で一番の女性として生
き続けていく道を選んでそれを実行したとしたら、その愛情は麻季のそれを凌ぐほど深い
ものであると考えざるを得ない。つまり愛情の深さにおいて麻季は怜菜に負けたことにな
る。
怜菜の自殺によって博人の心の中では、最後に会った怜菜の記憶が永遠に凍結されたま
ま古びることなく残るだろう。それは怜菜が博人への愛情を遠慮がちに表わしたときの切
ない記憶だ。表面上は麻季に優しく接している博人の中では、怜菜の愛に応えなかった自
分への後悔と、そんな自分を責めずに寂しげに微笑んで身を引いた彼女の最後の表情や容
姿がいつも浮かんでいるのだ。
麻季は最終的に怜菜に負けたのだ。
『負けちゃったね・・・・・・怜菜を甘く見すぎていた』
声が重苦しく囁いた。
『・・・・・・うん』
『このことに気がつかなければこの先博人との仲を頑張って修復することを勧めたと思う
けど、怜菜の意図を理解した以上このまま博人と一緒に生活しても君がつらいだけだと思
う』
『どうしろって言うの』
『わからない』
『博人君の心を取り戻す方法が何かあるでしょう。今まで散々役に立たないアドバイスし
ておいて、こんなときには何も言わないつもり?』
『・・・・・・』
『確かに怜菜の思い切った行動で一時的に彼の心は奪われているかもしれないけど、博人
君は、結城先輩はあたしのことが好きなの。先輩に殴られたあたしを助けて、あたしの髪
を撫でてくれたときから』
『死んだ人相手には勝てないよ』
『そんなのってひどいよ』
『ただ』
『え?』
『たださ、死んだ怜菜相手には勝てないかもしれないけど負けないこと、いや少しでも負
けを減らすことはできるかもしれないね』
声は少し考え込んでいるように間をあけた。
『どういうこと?』
『今にして思えば君は、いや、君と私は完全に怜菜の仕掛けた罠に嵌ったんだよ。完膚な
きまでにやられたね。そもそも怜菜は何で鈴木先輩なんかと結婚したんだと思う?』
『それは・・・・・・あたしだって不思議だったけど』
『先輩が電話で言っていたこと。怜菜は麻季の情報を先輩に伝えて、まるで先輩に対して
麻季と接触させようとけしかけていたみたいだったって』
『うん。彼はそう言ってたね』
『そして先輩と君は出合って、怜菜の計画どおり不倫の関係になった。その後、彼女は博
人に接触して、君と先輩がまだ連絡をとりあっていることを博人に告げ口したよね』
『・・・・・・やっぱり全部怜菜の計画どおりだったってこと?』
『うん・・・・・・そしてさりげなく怜菜は博人に自分の想いを告白した。怜菜に誤算があった
とすれば、博人がその場では怜菜の気持に応えなかったことでしょうね』
『そのときはあたしは怜菜に負けていなかったってこと?』
『うん、そう思う。でも、怜菜は賢い子だし思い切って自分の考えを貫く強さを持ってい
た。大学の頃からそうだったじゃん』
それは声の言うとおりだった。一見大人しそうな怜菜は自分が決めたことは貫きとおす
強さをその儚げな外見の下に秘めていた。麻季なんかと一緒に過ごさなかったら、怜菜は
学内の人気者だったろう。それなのに彼女は麻季と二人でいる方が楽しいと言ってくれた。
『怜菜は離婚して奈緒を出産するまで待った。そして、そのときが来ると迷わず車に身を
投げたんじゃないかな』
『博人君の心の中で永遠に彼に愛されるためだけに?』
『うん。でも怜菜はもっと先まで考えていたんじゃないかな』
『わからないよ。これ以上何が起こるの』
『確かに死者には勝てないかもしれないけど、博人君は君には優しいし君がこのまま良い
妻でよい母でい続ければ、怜菜の記憶だっていつかは薄れていって、君への本当の愛情が
戻るかもしれない』
麻季はその言葉に一筋の希望を見出した気分だった。たとえ今がどんなにつらくても何
年かかっても何十年かかろうとも博人の愛情が戻ってくるなら・・・・・・・。
『でも、そのことも怜菜はちゃんと考えていたんだろうね』
『どういうことよ』
『奈緒を見てればわかるでしょ。あの子は怜菜にそっくりじゃない。先輩の面影なんか全
然ないよね。この先可愛らしく成長する奈緒を眺めるたびに、博人は怜菜のことを思い出
させられるんだよ』
『それにさ。奈緒は奈緒人が大好きだし、奈緒人だって君より奈緒の方が好きみたいじゃ
ない? 怜菜は自分と博人君が果たせなかったことを、奈緒と奈緒人に託したんだと思
う』
『そんなわけないでしょ!』
『じゃあ何で怜菜は自分の娘に奈緒なんて名前を付けたのかしらね』
『・・・・・・嫌だ。そんなの絶対にいや』
『もうできることだけしようよ。君は博人を失う。でも怜菜や奈緒にはこれ以上勝手なこ
とをさせるのをよそう。それで怜菜に完全には負けたことにはならないし』
『博人君とは別れられない。絶対に無理』
『想像してごらん。怜菜にそっくりに成長した奈緒を見つめる博人の視線を。そしてある
日突然に奈緒と結婚したいって言い出す奈緒人の姿を。本当にそれに耐えられる? そし
てそうなったら、何年も博人とやり直そうとつらい思いをして頑張ってきた君は、完全に
怜菜に負けたことになるんだよ』
『・・・・・・』
『もう決めないと。つらいことはわかるしあたしも甘かった。正直怜菜を見損なっていた
し。でも今となってはそれくらいしか打てる手はないのよ』
『どうすればいい?』
『博人君と離婚しなさい。そして奈緒を引き取って、彼女を奈緒人と博人君から引き離し
なさい』
『・・・・・・でも、それじゃあ奈緒人は』
『うん。君は奈緒人とはお別れすることになるね』
『そんな』
『つらい選択だよ。でも今迷って決断しないでいても、いずれ奈緒人は君を捨てて奈緒を
一緒になるって言いだすよ』
『そんなこと決まったわけじゃない。奈緒人と奈緒はお互いに兄妹だって思っているのよ。
普通に考えたら付き合うなんて言いだすわけないじゃん』
『兄妹の恋愛なんて意外に世間じゃよくあるんじゃないの? 君だって博人の妹の唯ちゃ
んに嫉妬してたじゃない。実の妹なのに博人にベタべタするやな女だって』
『奈緒人はそんな子じゃない。妹と付き合うなんてあたしが言わせない』
声が少しだけ沈黙した。それからその声は再び囁いた。どういうわけかその声音は悲し
みに溢れているような、そして麻季に同情しているような優しいものだった。
『じゃあ、試してみようか。奈緒人が君と奈緒のどっちを選ぶか』
『・・・・・・何言ってるの』
『その結果をみて決めればいいじゃない。とりあえず子どもたちには可哀そうなことをす
る必要はあるけど、君をそこまで追い込んだのは怜菜の責任だしね』
『だって』
それから声はその残酷な計画を静かに語り始めた。
麻季は奈緒人と奈緒を試すためだけのために、子どもたちの世話を放棄して彼らを二人
きりで自宅に放置した。精神的に虐待しただけではなく、食事の支度も入浴も何もかも放
棄して六日間の間、自宅を空けて子どもたちだけを取り残したのだ。
「あなたのお父様とか唯さんには子どもたちを放って男と遊び歩いたみたいに言われた。
きっとあなたもそう思ってると思うけど、そんなことをしてたんじゃないの。これは大切
な『実験』だったし、観察もしないでそんなことをするわけないでしょ」
麻季は博人の反応を気にしているかのように彼の様子を覗いながらそう言った。
「・・・・・・児童相談所の人がマンションの管理会社に頼んで鍵を開けて家に入ったときのこ
と聞いてないのか。奈緒人も奈緒も衰弱してリビングの横にじっと横たわっていたんだぞ。
すぐに救急車で病院に連れて行かれたくらいに。何でそのとき君が警察に逮捕されなかっ
たか不思議なくらいだよ」
博人は麻季に対して憤るというより泣きそうな表情だった。そんな彼の様子に麻季の心
が痛んだ。そして奈緒人と奈緒を二人きりで放置している間、麻季の心もずっと鈍い刃で
繰り返し切りつけられているような痛みにさらされていたのだった。奈緒人はもちろん、
奈緒のことだって麻季にとっては大切な我が子だった。それでも麻季は怜菜の意図を探っ
てそれが彼女の死後もまだ策動しているようなら、たとえ全てを失ったとしてもその意図
だけは阻止しなければいけなかった。その点ではもう彼女は声の言うことを疑っていなか
ったのだ。
その六日間は麻季にとっては肉体的にも精神的にも追い詰められたつらい時間だった。
子どもたちだけを自宅に残していた間、彼女はほとんどの時間をマンションの地下ガレー
ジの車の中でシートに蹲るようにしながら過ごした。一応、自宅近くのビジネスホテルの
部屋を押さえてはいたものの、彼女がその部屋を利用したのはトイレに行くときくらいだ
った。ろくに食事もせずシャワーすら浴びずに彼女はマンション地下のガレージで過ごし
たのだ。
でもそんなことを博人に話す気はなかった。彼の同情を引くつもりはなかったし、たと
えそれを説明したところで博人が麻季に共感してくれるはずもなかったから。
「時々、奈緒人たちに気がつかれないようにそっと部屋に入って観察していたんだ。最初
のうちは二人とも全然切羽詰っている様子はなかったの。むしろあたしがいなくて奈緒は
喜んでいたようだったよ。奈緒人にベタベタくっ付いて甘えてたし」
「切羽詰っていない子どもが衰弱して動けなくなるわけないだろ」
「そうね。最後の日に奈緒は疲れ果てたのか眠っていたの。それであたしは奈緒人に話し
かけたのね。もともとそれが目的だったし」
「疲れ果ててじゃねえよ。それは衰弱してたんだよ。おまえ、それでも母親かよ」
それでも麻季は博人の言葉にはもはや動じている様子はなく、淡々と話を続けた。
「奈緒人は眠っていなかった。ただ奈緒の傍らに横になって奈緒を横から抱きしめていた
の。それであたしは奈緒を起こさないようにそっと奈緒人に囁いたの。奈緒はいたずらを
したからお仕置きしなきゃいけない。でも奈緒人は悪くないからママと二人でよければお
食事しに行こうって」
「君は・・・・・・なんてことを」
「ほら。やっぱり博人君は奈緒を庇うんだ」
「庇うとかそういう問題じゃねえだろ」
「まあいいわ。そのときね・・・・・・奈緒人が言ったの。ママなんか嫌いだって。奈緒が一緒
じゃなきゃどこにも行かないって」
「それを聞いたとき、あたしは決めた。たとえどんな犠牲を払ったってもうこれ以上怜菜
の好きにはさせないって。そうしてあたしが奈緒人と奈緒を残して部屋を出ようとしたと
き、奈緒人は何をしたと思う?」
「・・・・・・どういうことだ」
「奈緒人はね。部屋から出て行くあたしのことなんか振り返りもしなかった。そして奈緒
人は眠っている奈緒の口にキスしたの。まるで生きていれば怜菜に対してあなたがそうし
ていたかもしれないようなキスを」
「ばかなことを。怜菜と奈緒を重ねるな。それに奈緒人は僕じゃない・・・・・・僕の息子なん
だ」
「そのときがちょうど六日目だった。児童相談所へ近所の人から通報があったでしょ?」
「・・・・・・ああ」
「あれ、あたしなの。もう奈緒人の前に姿を現す勇気はなかったけど、子どもたちが限界
なのもわかっていた。だから近所の人の振りをして児童相談所に電話したの」
「あたしはこれ以上怜菜に自分の人生を狂わされたくない。これ以上怜菜にあたしの大事
な子どもたちの人生も狂わされたくない」
麻季は疲れたような表情で少しだけ笑った。大学時代から今に至るまで麻季のそういう
複雑な表情をまじまじと見たのは初めてだった。麻季を非難しようとした博人の言葉が口
を出す前に途切れた。
「・・・・・・奈緒だって怜菜の自己満足な恋愛の犠牲者なのよ。あたしはこの先はずっと奈緒
を可愛がって育てて行くわ。怜菜なんかに奈緒の人生を狂わせたりさせるつもりはない。
あの子にはあたしの大切な娘として幸せでまっとうな人生を歩ませるつもり」
ようやく博人は言うべき言葉を探し当てた。
「何を言っているのかわからないけど、それはもう君の役目じゃない。奈緒人と奈緒は僕
が引き取って育てる」
「博人君じゃ駄目なんだってば。それに奈緒人と奈緒は一緒にいさせるわけにはいかない
の」
「奈緒人が奈緒を庇って君を拒否したから、君は奈緒人を捨てて奈緒だけを引き取ろうと
言うのか」
「そんなわけないでしょ。お願いだから理解して。奈緒人は博人君と同じくらいあたしに
とって大切なの。でも奈緒人と奈緒が一緒に暮らすのはだめ。それにあたしが奈緒人を引
き取ってあなたと奈緒が一緒に暮らすのもだめなの。もうあたしが奈緒を引き取ってあな
たが奈緒人を育てるしか道はないのよ。だから調停の申し立て内容を変更したの」
「なんでそうなるんだ。理由を言えよ。君のしたことは確かに正直に言ったのかもしれな
いけど、どういう理由でそんなことをしでかしたのか、その明確な説明がないじゃんか」
「本当にこれだけ聞いてもわからないの? 何であたしが太田先生に嘘を言ってあんなひ
どい内容の受任通知書を書いてもらったか。何であたしが博人君を愛しているのに、雄二
さんに言い寄って再婚しようとしたか」
「・・・・・・ああ、わからない。ちゃんと説明しろよ。もっとも何を聞いたとしても二人の親
権と監護権は渡すつもりはないけど」
「あたし、奈緒人と奈緒にはひどいことをしたよね」
「そのとおりだよ。君は奈緒人と奈緒が一生忘れられないくらいの心の傷を与えた。僕が
マンションに残したメモを見たか」
「うん」
「あれが全てだ。怜菜さんとか鈴木のことなんかもうどうでもいい。どんな理由や言い訳
を聞いたって僕が君を決して許さないのは、君が子どもたちを虐待したからだって何で気
がつかないんだ。それともわかっていてわざと知らない振りでもしているのか」
「博人君の方こそ逃げないで考えて。怜菜が何で雄二さんと結婚したか。怜菜が何で雄二
さんにあたしと接触するよう唆したのか。何で怜菜はあたしと雄二さんの浮気を責めずに
黙って離婚した挙句、あたなに会って愛の告白みたいなことをしたのか」
「僕は逃げてなんかいないし、自分の考えに言い訳もしていないよ。怜菜さんは僕を愛し
ていたかもしれない。僕は確かに怜菜さんに惹かれていた。でも彼女は亡くなったんだ」
「怜菜の死が不幸な偶然だと信じ込んでいるのね」
「その根拠のない思い込みはもうよせ・・・・・・なあ、本当にそう思っているのだとしたら君
は病院できちっと治療を受けたほうがいいよ」
それは付き合い出して以来始めて博人がした失言かもしれなかった。麻季はそれを聞い
て顔を上げた。
もう麻季は何も隠さなかった。これまでの彼女には博人に嫌われたくないという自己規
制がかかっていたし、進めるべきだと思っている筋書きもそれが博人との永遠の別れに繋
がる分、決定的な言葉を告げることを先延ばしにしたい感情もあった。言ってしまえばも
う今みたいに居酒屋で博人の食事の心配をするというささやかな幸せすら永久に失われて
しまうのだ。
『勇気を出して言ってしまいなさい』
その声につられて麻季はついに言った。
「相手が神山先輩なら恐くない。でも死んだ怜菜にはあたしはどうしたって勝てないもの。
自業自得なことはわかってるけど博人君とやり直せない以上、奈緒人と奈緒は一緒には過
ごさせない。でもあんなでっちあげた内容ではあなたに勝てないことはわかってた」
博人は黙ったままだ。
「だからあたしは雄二さんに再び近づいたの。博人君の心は怜菜から奪えないかもしれな
いけど、雄二さんをあたしに振り向かせるのは簡単だったわ。そして奈緒の実の父親であ
る雄二さんなら、奈緒の親権は勝ち取れるかもしれない」
「本当に心配しないで。今でも怜菜のことを愛していて彼女のことを忘れられないあなた
に約束します。奈緒のことは愛情を持って育てるし不自由だってさせない」
「今でもこの先もあたしはずっと博人君だけを愛してる。でももう他に方法がないの。だ
からもうこれでいいことにしようよ」
「あたしは自分のしたことの罪は受けます。凄くつらいけどあなたがあたしを許してくれ
るまではもう二度と奈緒人には会いません。だから奈緒のことだけはあたしに任せてちょ
うだい」
「いい加減にしろよ・・・・・・」
博人はその乱れた感情を反映しているかのように口ごもったまま辛うじて言葉にした。
「奈緒人のことよろしくお願いします」
麻季は最後に涙を流したまま頭を下げた。
麻季が長い話を終えたとき、それが残酷でひどい内容だったにも関わらずどういうわけ
か僕の心の中には彼女への憎しみは生じなかった。ただ、今さらだけど本当に麻季との生
活は終ったことを実感し、そして帰国して以来初めて彼女への憐憫と少しだけ後悔の念が
心の中に去来した。
麻季は怜菜の死やその意図については明らかに過剰反応していたとしか思えない。でも
彼女をそこまで追い込んだ責任が僕にないと言いきれるかというと、そんな自信はなかっ
た。これまで僕は麻季のことを大事にしてきたつもりだ。でも一度だけ麻季のことなんか
どうでもいいという感情に囚われ、そしてそれを彼女に対して隠すことすらしなかったこ
とがあった。
それは怜菜の死を知った直後のことだった。混乱して泣く麻季の姿はそのときの僕の感
情を動かすことはなかった。これまでこれだけ麻季を大切に思い、彼女を傷つけないよう
に過ごしてきたというのに。そのときの僕は怜菜の悲惨な死に心を奪われていた。でも今
にして思えばあのときは僕と同じくらいに、麻季は傷付いていたのだろう。親友の死とそ
の親友と自分の夫とのつかの間の交情を知ったことで。
依然として麻季が子どもたちを追い詰めた事実には変りはないし、太田先生の受任通知
で僕を貶めたことにも変りはない。それでも僕は麻季の告白から、彼女の心の異常な変遷
を知ることができてしまった。そして知ってしまうと、麻季の心変わりに悩んでいた時の
ような何を考えていたのかわからない彼女への憎しみが消えて、その感情は憐憫と後悔に
置き換わったいったのだ。
これは常識的な判断ではない。奈緒人と奈緒が仲が良すぎることなんか気にすることで
はない。でも僕には一見して支離滅裂な麻季の言葉から、彼女の感情の動きや彼女なりの
ロジックを推測することができた。誰よりも深くそして多分正しく。僕が麻季の気持を察
することができることが破綻する前の僕と麻季との絆を深めていたのだ。
唯にそう言われてから、僕はこれまでは麻季は敵だと思うようにしていた。というより
僕の知っていた麻季はもういないのだと、僕のことを誹謗中傷しているこの麻季は僕の妻
だった女ではなく見知らぬ女なのだと考えようとしていた。でもこの日深夜の居酒屋で僕
は不用意にもかつてのように麻季の言葉足らずの説明を脳内で補正して彼女の真意を理解
してしまった。それは客観的には間違った考えだったけど、麻季にとってはようやく見出
した真実なのだということを。
僕は不用意に麻季の泣き顔を見てしまった。生涯、麻季につらい思いはさせない。かつ
ての僕が自分に自分に誓った言葉が再び僕の脳裏に思い浮んだ。
このときの僕の決心は、結局この後の僕をずっと苦しめることになった。
奈緒の親権は、奈緒の実父の鈴木雄二と婚姻するという条件で麻季へ。奈緒人の親権は
僕へ。慰謝料、養育費はお互いになし。お互いにあらかじめ決められた回数はそれぞれ相
手に引き取られた子どもに面会できる。
離婚事由についてはお互いに相手を有責と主張したままだったので、調停結果は互いに
慰謝料はなし。翌年の三月に調停委員からこういう調停案が提示された。あくまでも調停
なので調停案を拒否することはできる。だけど一度調停案に同意した場合は、その調停結
果には拘束力が生じる。つまり一度それに同意した場合は判決と同じ効果が生じるのだ。
僕は調停の結果を受け入れた。つまり奈緒は奈緒人と別れさせられ、麻季と鈴木先輩が
引き取る結果を容認したのだ。僕はその決断を誰にも相談せずに自分で決めた。
そう決断した結果は目も当てられないものだった。
まず、僕は涙を流しながら僕を責める唯に絶交を言い渡された。
「何であんなに仲のいい二人を引き離すなんてことができるのよ。あたしが何のために奈
緒人と奈緒の面倒をみていたと思ってるの」
僕はそれに対して一言も答えられなかった。説明しても理解してもらえないだろうから。
「もうお兄ちゃんとは一生関わらない。あたしは彼氏との付き合いよりも、内定した会社
への入社よりも奈緒人と奈緒のことが大事だったのに。まさか、理恵さんと早くで結婚し
たかったからなの? 子どもたちの幸せより自分の再婚の方が大切だったの?」
この後今に至るまで僕は泣きながらそう叫んでいた唯とは絶縁状態のままだ。
僕の両親も唯と同じような反応だった。
「確かに奈緒ちゃんはおまえと血が繋がっていないけど、それでもずっと奈緒人と一緒に
過ごしてきたんだぞ。どうしてそんな冷たい仕打ちができるんだ」
父さんが混乱した表情で僕を叱った。母さんは俯いて涙を拭いているだけだった。
「もう勝手にしろ。俺たちはもう知らん」
そしてこの件で僕は理恵の両親の信頼すら失った。理恵が言うには僕との再婚に何の反
対も心配もしていなかった理恵の両親は、僕との再婚は考え直した方がいいのではないか
と理恵に言い出したそうだ。自分の子どもをあっさり見捨てるような僕に不安を感じたの
だという。理恵の両親と玲子ちゃんは奈緒が奈緒人の本当の妹であり、僕と麻季の実の娘
だと思っ ていたからその反応は無理もないのかもしれない。
僕と理恵の再婚に唯とともにこれまで一番味方になってくれていた玲子ちゃんは、両親
のように僕を責めはしなかったけど、一時期のように僕を慕ってはくれなくなったようだ。
内心では彼女も僕の決断を嫌悪していたのかもしれなかった。
「本当にそれでいいの? 後悔しない?」
理恵だけは冷静に僕に聞いた。
「・・・・・・後悔すると思う。でも、今はこうするしかないと思っている」
僕の答えに、理恵は紅潮した顔で何かを言おうとして寸前で留まったみたいだった。
「あたしは博人君が麻季ちゃんに何でそんなに気を遣うのかわからないけど」
「・・・・・・うん」
「でも。まあ、あたしだけは仕方ないから君の味方になるよ。君がそれでいいなら再婚し
よう。奈緒人君と明日香とあたしたちで新しい家族を作ろう」
理恵がどうして周囲と異なり僕の非常識な決断に理解を示してくれたのかはわからない。
でも、こうして麻季の複雑な心理を最後に読みほぐし、結果として麻季の考えに従うこと
を選んでしまった僕には理恵以外には味方がいなくなった。自分の息子の奈緒人をも含め
て。
僕はその決定を人任せにはできず、自ら奈緒人に話をした。彼ももう小学生だったので、
たとえ今は誤魔化していても、いずれは妹がいなくなったときに納得するはずがなかった
から。
彼が奈緒と別れて僕と理恵と明日香と暮らすことになると知ったとき、奈緒人は黙って
僕の話を聞いていた。そのときは奈緒人は青い顔で黙ったまま反発も非難も泣くことすら
しなかった。
翌日、僕が出社時間に間に合うように起き出して子どもたちの様子を覗おうと部屋の扉
を開けると、そこには子どもたちの姿がなかった。
奈緒人と奈緒は二人きりで僕の実家から脱走したのだった。
冷たい雨の中を傘もレインコートもなく逃げ出した二人は、すぐに警邏中のパトカーに
乗った警官に発見され保護された。パトカーの後部座席に乗せられた二人は手を繋いで互
いに寄り添ったままだった。そして連絡先を優しく聞き出そうとする初老の人の良さそう
な警官に対しては一言も喋らす何も返事をしなかった。
「君たち迷子になったんんでしょ? おうちの人に迎えに来てもらおうね」
その警官は無骨な顔に精一杯笑顔を浮かべて連絡先を聞き出そうとしたけど、二人はさ
らにお互いの体を近づけて握り合う手に力を込めるだけだった。
「何か様子が変ですよ」
運転席の若い警官が初老の相棒に声をひそめて話しかけた。「もしかして虐待とかじゃ
ないですかね」
「いや。雨に濡れてはいるけど服装もきちんとしているし、外傷もなさそうだしな」
「そうですね」
運転席の警官が身体を回して二人を覗き込んだ。「あれ? 女の子のカバンに何かタグ
がついてますよ」
「うん? お嬢ちゃんちょっとごめんね」
初老の警官が奈緒の持っているバッグに付けられていたタグを手に取って眺めた。
「よし。緊急連絡先とか血液型とかが書いてある。えーと、結城奈緒ちゃんって言うんだ
ね」
自分の名前を呼ばれた奈緒は顔を上げようともせずに、これまで以上に力を込めて奈緒
人に抱きつくようにしただけだった。
「仲がいいなあ」
そう言いながらも警官は手際よく連絡先を読み取った。「携帯の番号が書いてあるな。
心配しているといかん。俺はここに電話してみるからとりあえず角の交番まで連れて行こ
う」
「了解です」
降りしきる冷たい雨の中を、それまで停車していたパトカーは点滅させていたハザード
を止めて動き始めた。
『結城麻季さんですか?』
『ええ。結城奈緒ちゃんという女の子と、多分お兄ちゃんですかね? 小学生低学年の男
の子を保護しています。はあ? 男の子は奈緒人君ですか。お二人を引き取りに来ていた
だけますか? そうです。明徳町の交差点にある交番で保護していますから』
『兄妹じゃない? はあ。そうですか。じゃあ奈緒人君の保護者の連絡先をご存じないで
すか? ええ。あ、ちょっと待ってください。メモしますから』
『はい。ユウキヒロトさんですか・・・・・・え? 苗字が同じですけど家族じゃないんですか。
はあ。じゃあ連絡すればわかるんですね』
先に交番に到着したのは5シリーズのBMWの助手席から降りてきた麻季だった。簡単
な事情聴取のあと、鈴木先輩が確かに奈緒が自分の娘である証拠を提示した。麻季は奈緒
人には目もくれずに、奈緒の腕を取って鈴木先輩が運転席で待つ車の後部座席に彼女を乗
せた。
「ご面倒をおかけしました」
そう言って麻季は奈緒の隣に乗り込んだ。このときになって思わぬ成り行きに呆然とし
ていた奈緒人と奈緒が同時に叫び出した。
「奈緒・・・・・・奈緒!」
「お兄ちゃん! 奈緒、お兄ちゃんと離れるのはいや」
警官たちが子どもたちの様子に不審を覚えるより早く、奈緒を乗せたその黒いBMWは
走り去って行ってしまった。
今日は以上です。次回第五部からは、書き直したオリジナル展開になります。
取りあえず、次スレを再開してからこちらを投下するのでしばらく間があきます。
すいません。
せいぜい奈緒が再会した兄貴にできた彼女に嫉妬して悲しむくらいに僕は考えていた。
それでも奈緒と僕は再会した仲のいい兄妹でい続けられるだろうと思っていた。なにより、
奈緒は僕のことを兄貴として割り切っていたようだったから。
でもそれは僕の誤解、僕の思い込みに過ぎなかったのかもしれない。
「そういうことなんだ」
奈緒が言った。これまで優等生的な優しい美少女だった彼女の印象が覆るくらいに冷た
く他人行儀な表情で。
「奈緒?」
「奈緒じゃないでしょ」
奈緒が切り捨てるように言った。
僕は本気で狼狽した。明日香との仲を奈緒に怒られたからとかそういう意味ではない。
目の前にいる奈緒の豹変に驚いたからだ。これが兄妹の再会に涙を流して僕に抱きついて
きた奈緒とは思えないし、付き合っていた頃のような一見控え目だけど実は積極的で明る
い印象の奈緒でもない。それに一度有希とメアドを交換したとき、付き合い出して初めて
奈緒は僕に嫉妬したのだけど、そのときだって彼女は俯いて涙を浮べて黙っていたのに。
「浮気していたくせに、偉そうにあたしを呼び捨てにしないでよ。明日は絶対に迎えに来
て」
奈緒は激情を抑えて、そして冷たいといっていいほど冷静に僕に言った。そういう奈緒
の表情を見るのは初めてだった。
「浮気って・・・・・・してないよ。迎えには行くけど」
「一緒に食事してくれないならそれでもいいけど、話がしたいんで時間だけは空けておい
て」
「奈緒、おまえさっきから何言ってるんだ」
「あたしのことを奈緒って言わないで! おまえって呼ぶのもやめて」
「じゃあ、何て呼べば」
「うるさい、死ね!」
奈緒は僕が初めて見た鬼のような形相のまま、まだ駅に着く前の電車の中で僕から離れ
ていった。これではまるで仲直りする前の明日香のようだ。
奈緒を見失った僕は仕方なくそのまま登校した。今週休んだことへ渋沢と志村さんの追
求を交わした僕は、奈緒の突然の豹変振りに悩みながら帰宅した。
帰宅すると驚いたことに父さんと母さんがリビングで明日香と一緒にいた。珍しいこと
もあるものだ。たまたま両親が二人とも仕事が早く終ったのだろうか。
「おかえりなさい」「おかえり」「おかえりお兄ちゃん」
父さんと母さんと明日香の声が同時に僕を迎えてくれた。でもそ明日香の声は不自然な
ものだった。僕はすぐにそのことに気がついた。
「父さんたち何でこんな時間に家にいるの」
僕が戸惑って質問すると母さんが微笑んだ。
「ほんとに偶然なのよ。あたしも帰ってパパがいたからびっくりしちゃった」
「僕も驚いたよ。こんな早い時間にママがいるなんてな」
どういうわけか父さんと母さんはいつもと違って白々しいというか棘のある口調で言っ
た。いつもこっちが恥かしくなるほど仲がいいのに。
「お兄ちゃん、二階に行こうよ」
明日香が僕の袖をそっと引いた。
「でも・・・・・・」
「夕食の支度ができたら呼ぶからね」
母さんが僕の方を見ないで小さく言った。
明日香に手を引かれるようにして僕は彼女の部屋に連れて行かれた。
「いったいどうしたんだよ」
明日香を見ると彼女も戸惑っているような心配そうな表情を浮かべていた。
「ママが怒ってるの。何でいつまでもあたなはマキちゃんのことを気にするのよって」
「何だそら。マキって誰?」
「お兄ちゃんの本当のお母さん」
「・・・・・・どういうこと?」
「わかんないよ。学校から帰ったらパパとママが喧嘩してたの」
明日香が帰宅したときには珍しくもう父さんと母さんが帰宅していて、リビングで口論
している声が聞こえたのだという。明日香はしばらくリビングの前で二人の口論を聞いて
いた。
『・・・・・・何でいつまでもあたなはマキちゃんのことを気にするのよ。離婚して何年経っ
ていると思っているの。それなのにいったいいつまであなたはマキちゃんの言動に振り回
されれば気が済むの!』
『そんなんじゃないよ。僕はただ珍しくマキからメールが来たからそれを君に相談しただ
けだろ』
『だってあなたはメールの内容を気にしてるじゃない』
『それはするに決まっているだろ。子供たちのことなんだ』
『あたしにはあなたが何でこんなに神経質になってマキさんの言うことに反対するのかわ
からないよ。マキさんにまだ反感があるからあえて彼女の言うことに反対しているんじゃ
ないの? 逆に言うとそれってまだマキちゃんのことを気にしてるからでしょ』
『そんなわけあるか。でも奈緒人たちが自然に知り合ったのに会うことを制限するなんて
あり得ないだろ』
『あなたの態度は支離滅裂だよ。今になって二人を会わせてもいいなんていい出すくらいなら、
何であのときに奈緒ちゃんを手放したりしたのよ。あれで周りの人のほとんどを敵に回したく
せに』
『そうじゃないって。君は何か誤解してるよ』
『あたしはマキちゃんのこと嫌いだよ? でも今回だけは彼女の言うことも理解できるよ。
だってお互いに交渉せずにそれなりにうまくやってきていたんじゃない。今さら過去を蒸
し返してどうなるっていうのよ』
『過去のことなのは僕たち大人のことだろ。あいつたちにとっては現在進行型の話だろう。
奈緒人が妹と出会って仲良くすることのどこがいけないんだ』
『繰り返すようだけど、あたしにとってはレイナさんのほうがマキちゃんより脅威なの。
マキちゃんの気持もわかるよ。やっぱり奈緒人君に注意すべきだと思う。彼にはむしろ明
日香ともっと仲良くなってもらいたいの』
このあたりで明日香はリビングの前に立っていることを母さんに気が付かれたのだとい
う。
「いったいどういうこと?」
「あたしにだってわからないよ」
明日香も混乱しているようだった。父さんと母さんの言い合いなんて珍しい。確かに両
親ともに多忙な仕事をしているせいもあって家族が揃うことは珍しかった。でも今まで父
さんと母さんが仲違いしているところなんか見たことがなかった。
マキという女の人のメールが両親の喧嘩の発端らしいけど、明日香によればマキという
人は僕を産んだ本当の母親らしい。
奈緒と出会って仲良くするとか、いったいどうしてマキさんはそのことを知っているの
だろう。奈緒が告白したのだろうか。
「レイナって誰だろう」
「わかんないよ。玲子叔母さんなら知っているかもしれないけど」
昨日の今日で玲子叔母さんにそんな質問ができるはずもない。
「ママとパパって離婚しちゃうのかな」
明日香が不安そうに言った。
「何でそうなるんだよ。喧嘩なんてしない夫婦の方が珍しいだろ。僕とおまえだってそう
じゃん」
「それはそうだけど・・・・・・。今までパパとママがあんな風に言い合っていたことはなかっ
たし」
「大丈夫だよ」
「あたし、お兄ちゃんと離れさせられちゃうの嫌だよ」
「何でいきなりそうなるんだよ」
「だってありえない話じゃないじゃん。パパとママが離婚すれば」
「考え過ぎだって」
「でも実際、お兄ちゃんと奈緒ちゃんは引き離されたんでしょ?」
僕は言葉を失った。そうだ。僕と奈緒は両親の離婚によって引き離されたのだ。身近に
そういう例がある以上、明日香が不安に思ったとしても無理はないのだ。
僕は泣きそうな顔をしている明日香を思わず抱き寄せた。
「あ・・・・・・」
抱き寄せた明日香の体が震えた。
「僕とおまえは一生一緒だよ」
「だって」
「おまえが嫌だといっても僕は明日香を離さない。たとえおまえが迷惑に思っていたとし
ても僕はおまえから離れないよ」
「迷惑なんて思うわけないじゃん。でも、あたしずっとお兄ちゃんにひどい態度を取って
きたのに」
「僕が一番つらかったとき、僕を支えてくれたのはおまえだから。奈緒とのことで僕は傷
付きそうなことを理解して、彼氏と別れてまで僕のことを守ろうとしてくれた」
「・・・・・・お兄ちゃん」
「好きだよ明日香。今にして思えば多分、前みたいにケバイ格好をして僕のことを虐めて
いた頃から、僕はおまえのこと好きだったのかもしれないね」
「・・・・・・うん」
明日香は泣きながら僕の胸に顔をこすり付けた。
「父さんたちは大丈夫。でも万一、父さんたちが離婚したとしても僕と明日香はずっと恋
人同士だよ」
「・・・・・・うん」
「大学を卒業してさ、将来就職できたら僕と結婚してくれないか」
明日香が泣き止んで僕の胸から顔を上げた。
一瞬だけ時間が止まった。
「喜んで。この先もずっと一緒にお兄ちゃんといられるのね」
しばらくして母さんが階下から声をかけた。夕食の時間だった。
家族四人で食卓を囲むのは久し振りだったけど、いつものような自然な雰囲気は望むべ
くもなかった。
それでも明日香は僕のプロポーズの余韻が残っていたのか、やたらに僕を構いたがった。
皿に料理を取ってくれるとか、飲み干したコップに冷水を注いでくれるとか。
父さんと母さんはお互いに気まずい表情だったけど、僕たちを意識しているのかなるべ
く普通に会話しようと努力しているようだった。
「お兄ちゃん」
「何」
「口に玉子の黄身が付いてるよ」
明日香がテーブルの上のティッシュを取って僕の口を拭った。
母さんが嬉しそうに微笑んだ。
「明日香はお兄ちゃんのことが大好きなのね」
「うん。そうだよ」
明日香は以前とは違って真顔で母さんに答えた。
「うふふ。奈緒人君はどうなの? 明日香のこと好き?」
母さんが僕たちが結ばれることを望んでいることは明日香からも叔母さんからも聞いて
はいたけど、ここまで露骨に聞かれるのは初めてだった。僕は赤くなった。
「うん」
僕は母さんではなく明日香を見てそう言った。そのとき、母さんの嬉しそうな微笑みと
は真逆なような父さんの暗い表情に僕は気がついた。
夕食後、明日香と一緒に二階に上がった僕は、明日の土曜日に奈緒をピアノ教室に迎え
に行ってもいいか聞いた。彼女が嫌がるようなら、奈緒と約束してしまったので明日だけ
は許してもらってそれでもうお迎えは終わりにしようと思ったのだ。きっと嫌がるだろう
なと僕は思っていた。だから明日香が迎えに行くだけならいいよってあっさっりと言った
ときは少し驚いた。
「僕と奈緒と会うの嫌なんじゃないの?」
僕は明日香の部屋で彼女の隣に座って聞いた。明日香はカーペットの上にぺたんと座り
込んで隣にいる僕の顔を見上げた。
「喜んで行ってらっしゃいと言えるほど心が広い女じゃないんだけどさ」
明日香は笑った。「でもまあ、お兄ちゃんにはプロポーズされたばっかだし、こんなと
きまで嫉妬してお兄ちゃんを信じられないなんて、あたしの方が嫌だもん」
「無理してない?」
「してない。お兄ちゃんを信じてるよ。でもこれからは奈緒ちゃんを送ったらなるべく早
く帰ってきてね」
「うん。わかってる」
僕だってそのつもりだった。奈緒からは話があるとは言われていたのだけれど、一緒に
昼食をとることは断ったのだし、食事抜きで何時間も話をしているわけではないだろう。
それにいくら兄妹とはいえ、今では僕の婚約者である明日香を放って毎週奈緒を迎えに行
くわけにもいかない。奈緒の機嫌次第だけど、一応もう迎えにはいけないと言ってみよう。
「明日はなるべく早く明日香のところに戻ってくるよ」
それを聞いて明日香が黙って僕に身体を預けたので、僕は明日香の肩を抱いた。華奢な
感触が手に伝わった。そういうこと考えるべきじゃなかったけど、その感触は奈緒を抱き
寄せたときの記憶を思い起こさせた。僕は少し狼狽して明日香の顔を覗ったけど、明日香
はもう別なことを考え始めていたようだった。
「ねえ・・・・・・」
明日香が素直に僕に抱き寄せられながら言った。
「うん」
僕は自分の思いを悟られなかったことにほっとした。そして少し罪の意識を感じて、そ
れを誤魔化すために明日香の肩を抱く手に力を込めた。
「ちょっと強く抱きしめすぎだよ。変な気持になっちゃうじゃん」
「だめ?」
「今日は下にママたちがいるんだよ」
明日香が笑って僕をたしなめた。「だからお兄ちゃんも我慢して。そうじゃなくて、や
っぱり夕食のときのパパとママの様子って変だったよね」
確かにそうだった。食卓を囲んだときの父さんと母さんの様子には、明日香が帰宅した
ときのような二人のいさかいの片鱗もなかった。子どもたちを気にしてお互いへの態度や
言葉を取り繕っていたのだろう。それでも母さんが親密な明日香と僕の様子に喜んでいた
のに対して、父さんはほとんど反応を示さなかった。よく考えてみれば不思議なことでは
あった。以前玲子叔母さんから聞いた話だと、母さんだけでなく父さんも僕と明日香が仲
良くすることを望んでいるということだったから。
僕はさっき明日香から聞いた父さんと母さんの会話、というかいさかいの内容を思い出
した。
『そんなわけあるか。でも奈緒人たちが自然に知り合ったのに会うことを制限するなんて
あり得ないだろ』
『あたしはマキちゃんのこと嫌いだよ? でも今回だけは彼女の言うことも理解できる
よ。だってお互いに交渉せずにそれなりにうまくやってきていたんじゃない。今さら過去
を蒸し返してどうなるっていうのよ』
『過去のことなのは僕たち大人のことだろ。あいつたちにとっては現在進行型の話だろ
う。奈緒人が妹と出合って仲良くすることのどこがいけないんだ』
『繰り返すようだけど、あたしにとってはレイナさんのほうがマキより脅威なの。マキち
ゃんの気持もわかるよ。やっぱり奈緒人君に注意すべきだと思う。彼にはむしろ明日香と
仲良くなってもらいたいの』
僕が妹と出合って仲良くすることのどこがいけないんだと父さんは言っていたそうだけ
ど、その妹とは状況から考えると明日香ではなく奈緒のことだろう。つまりマキさんとい
う僕の実の母らしい人から父さんにメールが来た。そしてそのメールは、僕と奈緒が知り
合って仲良くしているのでそれを止めさせて欲しいという内容だったのかもしれない。何
でマキさんが僕と奈緒を会わせたくないのかその理由は不明だった。そして父さんは僕と
奈緒が仲良くすることのどこがいけないんだといい、母さんは僕には奈緒より明日香と仲
良くなってほしいと主張しているらしい。
僕の母親からのメールの内容に対して反対しているのが父さんで、賛成しているのが母
さんだと言うことになる。それでいてどうやら母さんは、父さんがマキという人を気にし
ていると言って非難しているようだ。
なかなか複雑で一概には理解できない。
「母さんは僕が妹の奈緒と仲良くするのがいやなんだろうか」
「お兄ちゃんもそう思う?」
「そういうふうに聞こえるよね」
「逆に考えるとさ。パパってあたしとお兄ちゃんが仲良くするの内心では喜んでないのか
なあ」
明日香が不安そうに言った。
「・・・・・・前に玲子叔母さんから聞いた話だと、父さんも母さんも僕と明日香が仲良くする
のを望んでいるみたいなことを言ってたよね」
「うん。あたしもそれ覚えている。つうかあのときは嬉しかったし」
「じゃあ、何であんな言い争いをしてたんだろう。マキっていう人からのメールには何て
書いてあったんだろうな」
「マキさんってお兄ちゃんの本当のお母さんだってば」
「それは聞いたけど」
本当の母親と言われても全く実感がわかない。マキという人から父さんにメールが届い
た自体が問題なのだろうか。でもそれだけではないような気もする。
明日香の不安にも根拠がないとは言えなかった。母さんは僕と明日香の仲のいい様子を
見て喜んでいる様子だったけど、それに対して父さんはそのことにさほど乗り気な様子を
見せていない。
「でもさ。僕と奈緒は兄妹なんだし、普通に考えれば父さんが僕と奈緒が仲良くすること
を応援していたとしてもさ、それが僕と明日香が付き合うことに反対しているっていう意
味にはならないと思うけどな」
「それはそうかも。じゃあ、パパもママもあたしとお兄ちゃんが付き合うこと自体を問題
にしているんじゃないのかな」
「多分ね。玲子叔母さんが言っていたことが正しいなら。むしろ僕と明日香のこととは関
係なく、僕が妹と仲良くするのがいいことなのかどうかで喧嘩してたんじゃないのかな」
「奈緒ちゃんに嫉妬していたあたしが言うのも何だけど・・・・・・。ママはもうあたしたち家
族を放って置いて欲しいんじゃないかな。マキさんにも奈緒ちゃんにも」
再婚家庭なんだから、元の奥さんやその子どもとは関わりたくないという母さんの気持
も理解できるような気はするけど、何となくそれだけじゃないような予感がしていた。父
さんとマキさんが再び仲良くなるのとは話が違う。僕が知っている母さんは、確かに僕の
本当の母親ではないけど、かつて悲劇的に引き離された仲の良い兄妹の再会にまで文句を
言うような人ではないと思う。
「明日、奈緒に聞いてみるよ。奈緒の家庭でなんかあったのかどうか」
「うん。あたしもお兄ちゃんが奈緒ちゃんを迎えに行っている間、叔母さんに話を聞いて
みる。レイナさんという人のことはこれまで聞いたことがなかったし」
レイナって誰なんだろう。母さんがマキさんよりも脅威だとかいうほどの人らしいけど。
「お兄ちゃんさ、奈緒ちゃんを送ったら自宅じゃなくて叔母さんのマンションで待ち合わ
せしよ」
「え」
「えじゃない。あたしと叔母さんはお兄ちゃんの不誠実な浮気くらいで壊れるような仲じ
ゃないし」
「不誠実な浮気って。僕はそんなつもりは」
なかったとは言い切れなかった。でも明日香は笑った。
「冗談だって」
明日香と叔母さんの仲よりも、どちらかというと僕と叔母さんが気まずい雰囲気になる
んじゃないかと心配したのだけど、それは明日香には言いづらい。
「それにいつまでも叔母さんとお兄ちゃんと三人で過ごせないなんて嫌じゃん。こういう
ことは早く解決しちゃった方がいいよ。心配しなくていいから。お兄ちゃんが叔母さんの
部屋に来る頃までには、今までどおりの三人の仲に戻しておいてあげるよ」
僕は付き合うようになって初めて、明日香の中に今まで僕が知らなかった面がいっぱい
あることを思い知らされていた。きつい性格で僕を罵っていた明日香が仲直りして泣き虫
で甘えん坊な側面を見せた。でも彼女はそれだけじゃない面を持っているようだ。実の妹
と付き合い出してしまった僕を黙って救おうとしてくれた明日香や、奈緒が実の妹だと知
ってフラッシュバックに悩んでいた僕を黙って根気強く支えてくれた明日香。
そして今では僕をリードして積極的に疑問を解決しようとしている。そんな僕が知らな
かった明日香の姿に僕は密かに萌えていた。あのまま付き合っていれば奈緒も礼儀正しく
優しく、でも積極的な女子だけではない顔を見せてくれていたのだろうか。僕はさっき初
めて見た奈緒の冷たい態度を思い出した。
「パパとママって今は静かだよね」
そんな僕の感慨を断ち切るように明日香が階下を気にして言った。
「うん。狭い家だから喧嘩していればここまで聞こえるだろうしな」
「仲直りしたのかな」
「かもしれない」
明日香の部屋から様子を覗おうとしても階下からは何の気配もしない。
「・・・・・・ちょっと偵察に行ってこようかな」
「マジで? 僕も行こうか?」
「お風呂に行くついでなんだけど。まさかついて来るつもり?」
「んなわけないだろ。おまえが風呂出るまで自分の部屋にいるよ」
「またエロゲ?」
「してないってそんなもん」
「まあいいや。ちょっと偵察してくるよ。また後でね」
明日香は僕に軽くキスしてから僕の腕から抜け出した。
明日香のスマホを元通りに置いて部屋に戻ったとき、明日香がラフな姿でバスタオルで
髪を拭きながら僕の部屋に入ってきた。
僕はぎりぎりのところで明日香が部屋に入ってくる前にブラウザの画面を切り替えるこ
とに間に合った。
「お風呂のついでにリビングの様子を覗ってきたんだけど」
「うん」
「二人とも声を低くして話をしてたんでよく聞き取れなかったんだけど、レイナさんって
いう人のことを二人で話しているみたい」
「そうか」
僕の脳の容量はもうこれ以上の情報に耐えられそうもない。奈緒と会うことへの母さん
やマキさんの反対のことが気になるけど、それにしても僕には父さんと今の母さんの諍い
の内容すら理解できていない。それどころか、僕と奈緒の過去に何が起きたのかだって、
本当に把握できているわけではないのだ。結局蘇った記憶は断片的な光景でしかない。
とりあえず明日は奈緒の話を聞こう。そして僕と奈緒の母親であるマキさんの意図を探
ってみよう。奈緒ならばレイナさんという人のことも知っているかもしれない。僕はそう
考えた。今はもうこれ以上は何も思い浮ばなかった。
「明日、奈緒に聞いてみるよ。今はもう考えても仕方ないだろ」
僕は明日香にそう言った。明日香は僕のベッドに腰かけていたけど、すぐに納得したよ
うにうなずいた。
「そうだね。あたしも明日は叔母さんにレイナさんのこととかマキさんのこととか聞いて
みるよ」
「まあ、直接父さんたちに問い質すという手もあることはあるけどな」
「それはよそうよ」
明日香は少し不安げな表情をした。「何かこわい。それで万一離婚するとか言われたら
嫌じゃない」
「そんなことはないと思うけどな」
僕はPCの電源を落として明日香の隣に座った。
「今日はここで一緒に寝てもいい?」
明日香が上目遣いで言った。
「だって、おまえが今日は我慢しろと言ったんじゃん。下に母さんたちがいるからって」
「一緒に寝るだけなら別に平気でしょ? ママたちは普段は二階になんか来ないんだから。
それに一緒に寝るだけなのに何を期待してたの」
「わざと言ったろ?」
ふふっていう感じの微笑をわずかに顔に浮べた明日香が僕をベッドから立ちあげるよう
にした。
「早くお風呂に入ってきて。あまり遅いとあたし先に寝ちゃうからね」
次の日は土曜日だった。僕は佐々木ピアノ教室の前で午前のレッスンの終了時間を待っ
ていた。堂々と入り口前で待っていようかとも考えたけど、奈緒より先に有希に顔をあわ
せるのが恐かったので、僕は最初と同じく少し離れた場所で入り口を覗うようにして奈緒
が出てくるのを待っていた。今日も冬の曇り空が広がり肌寒い。早めに着いてしまったせ
いで体が冷え切っている。
やがてようやく扉が外側に開き、女の子たちが固まって教室の外に出てきた。それはい
つ見ても華やかな光景だった。最初に出てきた一団の子たちの中には奈緒の姿も有希の姿
もない。それでも間断なく教室から吐き出される生徒たちをじっと見守っていると、やが
てその中に奈緒の姿が見えた。
奈緒は前にも見かけた眼鏡をかけた高校生の男と何か話しながら教室の外に出てきた。
幸いにも有希の姿はまだない。奈緒が僕の姿を探すようならわかりやすい場所に移動して
姿を見せようと思ったのだけど、奈緒は周囲を見渡したりしなかった。彼女は一緒にいる
男が自分に話しかける言葉に笑顔で応えていて、僕のことを探す素振りさえない。
そういう奈緒の笑顔はすごく可愛らしかったけど、今の僕にはそんなことはどうでもよ
かった。そのときの僕は心底から腹を立てていたのだ。僕は寂しそうな様子を隠そうと笑
顔で送り出してくれた明日香を放ってここに来ている。妹との約束を優先したためだ。そ
れなのにその妹の反応はどうだ。迎えに来いって高飛車に僕に要求したくせに、その兄を
探すようもなく男といちゃいちゃしている。
大人気ないと思いつつ僕は奈緒の前に姿を晒した。さすがに奈緒は僕に気がついたよう
だけど、それでも彼女はすぐに僕の方に来るでもなく男と話を続けた。それでも僕は奈緒
と一瞬だけ視線を合わせることができた。彼女はすぐに僕から目を逸らしたけど、これで
僕が約束を守ったことは彼女にもわかったはずだ。これ以上、奈緒からこんな態度を取ら
れるいわれはない。
僕は踵を返して駅に向かって一人で戻り始めた。
・・・・・・何かこういうことが前にもあった気がする。さっきの奈緒の様子に苛立ちながら
も僕は思った。あれは確か有希とメアドを交換したことに奈緒が嫉妬したときのことだ。
あのときもわざと僕の側に近寄らないようにしていた奈緒を置いて、僕は一人で駅に向か
っていたのだ。あのときは結局改札の前で、背後から駆け寄ってきた奈緒に抱きつかれて
謝罪された。でも今日は違うみたいで、背後には自分の態度を後悔して駆け寄ってくる奈
緒の気配はしない。それならそれでいいと僕は思った。どうせ今日で迎えは最後にしよう
と奈緒に言う予定だったのだし。
そう思いながら駅の改札まで来てしまった僕が改札をくぐろうとしたとき、携帯が鳴っ
た。メールだ。
『すぐに行くから前に入ったファミレスで待ってて』
短い無愛想なメールは奈緒からだった。
ふざけるな。僕はそう思ったけど、どいうわけか数分後には僕はファミレスの席に収ま
っていた。結局、奈緒がそこに姿を現したのは三十分も過ぎたときだった。
奈緒は僕が座っている席を見つけると、微笑みの欠片すら浮べずにむすっとした顔で黙
って向かいの席に座った。あの眼鏡の男と一緒だったらどうしようと思ったのだけど、奈
緒はどこかで彼とは別れてきたみたいだった。
「奈緒人さんって煙草吸うの」
相変わらず不機嫌そうな声で奈緒が言った。
煙草って何だ? というか奈緒人さんって・・・・・・。
「何言ってるの?」
「ここ煙いよ。何で喫煙席なんかにいるのよ」
「あ・・・・・・悪い。禁煙席が三十分待ちだって言われたから」
「あたし煙草って大嫌い・・・・・・。それくらい気を遣ってくれるかと思ったのに。それで何
か頼んだの?」
奈緒は相変わらず醒めた冷たい表情のままそう言った。
「ドリンクバーだけ先に頼んだ」
「・・・・・・お腹空いてるのに。あ、あたしもドリングバーをお願いします」
不機嫌な感情を全開にした奈緒が席を立って飲み物を取りに行った。このとき僕は切実
にこの場から消え去りたかった。こんなことなら明日香と二人きりで過ごしていた方がよ
かった。明日香だってその方が喜んでくれただろうし。
うまく行けばマキさんのメールの内容とかその背景とかを奈緒に聞き出そうと思ってい
たのだけど、彼女の様子はそういう感じじゃない。自分に非があるなら責められても仕方
ないのだけど、どう考えても僕に彼女ができたことが実の妹にこれほど責められることと
は思えない。
奈緒が飲み物の入ったコップを持って席に座りなおした。しばらく沈黙が続いた。
奈緒がドリンクなんてどうでもいいというようにテーブルに置いて僕の方を見た。
「何でそんなに居心地が悪そうなの? あたしと一緒にいるのがそんなにいやなの?」
「そんなことないよ」
僕は奈緒に嘘を言った。以前の奈緒ならともかくこれだけ敵対心を丸出しにしている彼
女と一緒にいることはいやだった。早く明日香に会いたい。とにかく明日香なら僕を安心
させてくれる。今の奈緒が僕に強いているように落ち着かない感覚を思いをさせるなんて
あり得ない。
「適当なことを言わないで」
「嘘じゃないよ・・・・・・」
「有希ちゃんの言っていたとおりだった。奈緒人さんって不誠実だよね」
僕が実の妹に対する恋心を諦めて、明日香を彼女にしたことはそんなにひどいことなの
か。僕の方もだんだんとイライラしてきた。
「あのさ、ファミレスに来る必要なんてなかったんじゃないの。奈緒ちゃんを教室から家
まで送っていくだけなら」
そこまで言うつもりはなかったけど、奈緒のひどい態度に心を傷つけられていた僕は思
わずそう言ってしまった。
「何であたしのことを奈緒ちゃんって言うのよ。昨日は奈緒とかおまえとか偉そうに呼ん
でたくせに」
「それは・・・・・・そう呼ぶなって言ったから」
「嘘つき」
え? 今、奈緒は何て言った?
「お兄ちゃんの嘘つき」
奈緒は僕を睨みながら再びそう言った。いつの間にか再び奈緒人さんではなくてお兄ち
ゃんと呼びかけられていることに、僕はしばらく気が付かなかった。
「約束したのに。パパもママもいらないって・・・・・・奈緒と二人でずっと一緒に生きるんだ。
それでいいよな? ってあのときお兄ちゃんは言ったのに」
そのことは玲子叔母さんの話を聞いてから常に心の中で思い起こしていたことだった。
奈緒と引き離されたときの胸を引き裂かれたような痛みとともに。
「そうだよじゃないでしょ! あたしと二人でずっと一緒にいる気なんて今のお兄ちゃん
にはないじゃない。お兄ちゃんはずっと明日香ちゃんと一緒にいる気しかないじゃない」
奈緒が泣き出した。追い詰められた僕はついに今までは言わないでおこうとした言葉を
口にしてしまった。
「あのときの気持には嘘はないよ。でも、おまえは僕の妹じゃん。何よりも大切な妹だけ
ど、それでもおまえは僕の彼女にはなれないだろそれに奈緒だってさっき眼鏡をかけた先
輩と仲良くしてたじゃんか。僕のことなんて無視して」
「あんなの・・・・・・。お兄ちゃんに嫉妬させようと思ってしたことに決まってるでしょ。そ
んなことはお兄ちゃんだってわかってたんじゃないの」
迎えに来た僕を放っておいて他の男の言葉に笑顔で応えていた奈緒に対して、僕は嫉妬
を覚えたのだった。それは確かな事実だったけど、本気であいつと奈緒の仲に嫉妬したか
というとそれは疑わしい。それはきっと奈緒の嫌がらせだろうと僕は内心ではそう考えて
いたのだ。そしてその想いは僕の顔に出てしまっていたみたいだった。
「わかってたみたいね。それなら答えてよ。ずっとあたしと二人で生きるって言ってくれ
たんでしょ? 何でそこに明日香ちゃんが割り込んでくるの?」
「奈緒は僕の妹だし明日香は僕の彼女だから。二人とも僕にとって大事な女の子だよ」
僕は精一杯心を込めて今の僕の内心を吐露したのだけど、奈緒の表情には納得した様子
は覗えなかった。
「お兄ちゃん・・・・・・。あたしがお兄ちゃんと別れてから今までどんな気持で生きてきたの
か知らないでしょ」
「それは正直に言えば知らない。でもおまえだって僕のことなんかちゃんとは理解してい
ないだろ」
「少なくともお兄ちゃんはこれまでのあたしよりは全然幸せに暮らして来たんでしょ。そ
れにお兄ちゃんにはあまり過去の記憶がない。全部覚えているのに、そのうえ余計な話を
ママに教えられて今まで暮らしてきたあたしの気持を少しは考えてよ。ずっとお兄ちゃん
のことを想い続けてきたあたしの気持なんかお兄ちゃんは理解していないでしょ」
奈緒は何を言っているんだ・・・・・・。幸せにって、それは僕と奈緒の父親のことだろうけ
ど、少なくとも奈緒は本当の母親とは一緒に暮らしてきたわけで、そういう意味では僕と
奈緒はイーブンの関係じゃないか。
「今日は話があるって言ったでしょ」
「あ、うん。明日香を待たせているんであまり遅くはなれないけど」
「そんなこと知らない。遅くなっても付き合って」
奈緒が冷淡な表情で僕の答えを切り捨てた。「全部話すよ。あたしの話を。だからお兄
ちゃんももう逃げないで一緒に考えて」
奈緒が恐い顔でそう言った。
「何を言ってるのかわかんないよ。それにそんなに時間はないんだ。僕は早く明日香のと
ころに」
「そんなに明日香ちゃんといつも一緒にいなきゃいけないの? 今までずっと明日香ちゃ
んとは一緒に暮らしてきたじゃない。ようやく会えたあたしよりもいつも一緒の明日香ち
ゃんと少しでも一緒にいたいくらいにあの子のことが好きなの?」
「・・・・・・何言ってるの」
「お兄ちゃんの嘘つき」
「嘘じゃないって。でも一緒にいるっていろんな形があるだろう。奈緒と僕は兄妹として
ずっと一緒にいようって・・・・・・」
「誤魔化さないで。お兄ちゃんの一番大切な女の子は明日香ちゃんなんでしょ」
いい加減にしろ。僕は本気で思った。人が一生懸命に考えないでいようと思って、よう
やく決心したことを今さら蒸し返すなんて。たとえ僕と奈緒がその気になったとしてもど
うしようもないことはこの世の中にはあるのだ。僕はもう自分を抑えられなかった。
「じゃあ聞くけどさ」
僕はこのとき泣きたい気持だったのだけど、外見はさぞかし冷たい笑いを浮かべている
ように見えたに違いない。
「じゃあ聞くけど。奈緒、おまえは僕の彼女になってくれるのか? 僕とエッチしてくれ
るのか。ずっと一緒にいるのはいいけど、僕の奥さんになって僕の子どもを産んでくれる
のか。実の妹のおまえには全部できないだろう。明日香とは違ってさ」
僕は口にした途端にそのことを後悔した。奈緒にそういう思いをさせたくなくて彼女を
冷たく振ったというのに。そして奈緒と僕の関係は今では実の兄妹とだということに奈緒
だって納得しているのだ。今さらそれを蒸し返してどうする。
奈緒の表情が固まった。でもその表情は、春の風に少しづつ溶けていく庭に積もった雪
のように柔らかく消えていった。
「ごめん。ひどいこと言っちゃった」
僕は伝票を掴んで立ち上がった。
「お兄ちゃん」
奈緒はさっきまでの不機嫌そうな感情を突然どこかに捨ててきてしまったかのように微
笑んだ。まるで兄妹であることを知らないで仲良く付き合っていた頃のようだ。
「お兄ちゃんはそんなこと考えていたんだ」
「何が」
僕は奈緒の豹変に戸惑った。
「お兄ちゃん、あたしのこと好きでしょ?」
「な、何だよ。いきなり」
奈緒は相変わらず微笑んだままだ。
「お兄ちゃんに嫉妬させちゃってごめんね。あの人とは何でもないから」
そんなことはどうでもいい。
「本当にさ、いったいどうしたんだよ。いきなり怒り出したりいきなり笑ったりしてさ」
僕は思わず自分が口走ってしまった恥かしい言葉を棚に上げてそう問い質した。
「お兄ちゃんってそんなこと考えてたんだ。でも気持ちはよくわかるから恥かしがらない
で。正直に告白するとあたしだって同じこと考えて悩んでたんだから」
奈緒の意外な言葉に僕は再び腰をおろした。でも、奈緒は僕が本当の兄だと発覚したと
きは泣き出しながら抱きつくほど喜んでいたのではなかったか。
「・・・・・・悩むって何で」
「お兄ちゃんと一緒。あたしが本当に悩まなかったって思ってたの? 一時は本当に好き
だった人が恋人にできないってわかったのに」
でもあのときの奈緒は純粋に昔離れ離れにされた兄との再会に感激していたとしか思え
なかったのに。僕は今でもそのときの奈緒の言葉は一言一句思い出せる。
『お兄ちゃん会いたかった』
『ずっとつらかったの。お兄ちゃんと二人で逃げ出して、でもママに見つかってお兄ちゃ
んと引き離されたあの日からずっと』
『もう忘れなきゃといつもいつも思っていた。お兄ちゃんの話をするとママはいつも泣き
出すし、今のパパもつらそうな顔をするし』
『あたしね。これまで男の子には告白されたことは何度もあったけど、自分から誰かを好
きになったことはなかったの』
『そういうときにね、いつもお兄ちゃんの顔が思い浮んでそれで悲しくなって、告白して
くれた男の子のことを断っちゃうの』
『それでいいと思った。二度と会えないかもしれないけど、昔あたしのことを守ってくれ
たお兄ちゃんがどこかにいるんだから。あたしは誰とも付き合わないで、ピアノだけに夢
中になろうと思った』
『でも。去年、奈緒人さんと出合って一目見て好きになって・・・・・・。すごく悩んだんだよ。
あたしはもうお兄ちゃんのことを忘れちゃったのかなって。お兄ちゃん以外の男の子にこ
んなに惹かれるなんて』
『奈緒人さんのこと、好きで好きで仕方なくて告白して付き合ってもらえてすごく舞い上
がったけど、夜になるとつらくてね。あたしにはお兄ちゃんしかいなかったはずなのに奈
緒人さんにこんなに夢中になっていいのかなって』
『それでも奈緒人さんのこと大好きだった。お兄ちゃんを裏切ることになっても仕方ない
と思ったの。これだけ好きな男の子はもう二度と現れないだろうから』
『でも奈緒人さんはお兄ちゃんだったのね。あたしがこれだけ好きになった男の人はやっ
ぱりお兄ちゃんだったんだ』
「あのとき、おまえはそう言ってたよな」
「うん」
「あのときのおまえは僕が兄貴だって知って喜んでいたじゃんか」
僕はこのときは混乱していたので考えなしに喋ってしまっていたかもしれない。「無理
矢理引き離された兄貴の僕と再会できて嬉しかったんだよな? そのせいで自分の彼氏と
付き合えなくなるってわかっていても」
「うん」
躊躇することなく奈緒は返事をした。
「嬉しかったに決まっているでしょ。昔から夢にまで出てきたお兄ちゃんと、もう一生会
えないかもって諦めていたお兄ちゃんと再会できたんだから」
「・・・・・・じゃあ」
「でも、それとこれは違うよ。お兄ちゃんと会えたことは確かに嬉しかった。でもあの後
お兄ちゃんと別れて学校で考えたら、ついこの間まであんなにラブラブだった彼氏が消え
てしまうんだって気がついたの。これだって失恋でしょ? あたしはあの日、あんなに会
いたかったお兄ちゃんに再会したんだけど、同時にあんなに好きだった奈緒人さんに失恋
したんだよ」
奈緒はもう微笑んでいなかった。綺麗な目に大粒の涙が浮かんでいた。
「おかしいでしょ? 嬉しくて仕方がないのに悲しいんだよ。こんなことって普通ある?
お兄ちゃんだってあのときはただ妹に会えて嬉しいだけみたいだった。お兄ちゃんと付
き合っていた彼女の奈緒が消えちゃうのに何も悩んでいないみたいだったし」
「そんなわけあるか」
僕はつい大声を出してしまった。「僕だって悩んだよ。でも、兄貴との再会に喜んでい
る奈緒に、もう恋人同士には戻れないんだなとか言えないだろうが。だから我慢したんだ
よ。家で一人で悩んだんだよ」
「あたしだってそうだよ」
奈緒も大声を出して言った。「お兄ちゃんの態度にあたしも傷付いていたんだよ。この
間まで腕を組んだりキスしたりする恋人同士だったのに、何で平然とあたしのことを妹扱
いできるのよって」
奈緒も僕とほぼ同じような悩みを抱えていたようだった。
「・・・・・・でも、おまえは僕の妹だよな」
「・・・・・・うん。あたしはお兄ちゃんの妹。それも明日香ちゃんみたいに血縁じゃない義理
の妹じゃなくて、実の妹だよ」
「じゃあ、やっぱり結論は変わんないじゃないか」
「お兄ちゃん?」
「うん」
「お兄ちゃんは明日香ちゃんのこと本当に好き?」
「好きだよ」
僕は即答した。明日香の僕への献身を裏切ることはできない。
「もしもだよ? もしもあたしが本当の妹じゃなくてあのままあたしと奈緒人さんがお付
き合いしていたとしたら」
「何を言いたいの」
「そういうときに明日香ちゃんがお兄ちゃんに告白してきたら、お兄ちゃんはどうす
る?」
考えるまでもないことだったから僕は即答したのだけど、今にして思えばもう少し考え
るべきだったかもしれない。僕は明日香のことが好きだ。今では自分の彼女として他の女
の子なんか考えられないし、プロポーズだってしたばかりだった。でも、奈緒が妹ではな
くて僕の彼女のままだったとしたら、僕が奈緒以外の女の子に目を向けるはずがない。だ
から、僕は正直に答えた。
「今となっては仮定の話だけど・・・・・・。あのときの僕は奈緒以外は目に入っていなかった
から、奈緒が僕の彼女だったら明日香の告白は断っただろうね」
奈緒はまた微笑んだ。
「お兄ちゃん、やっぱり今でもあたしのこと好きなのね」
「何言ってるの。今は僕は明日香のことが・・・・・・」
「もういいよ。今日はあたしの家族の話とかしたかったんだけど、お兄ちゃんの気持ちは
わかったからもう今日は開放してあげる。明日香ちゃんのところに行かなきゃいけないん
でしょ?」
「・・・・・・いいのか」
「いいよ。これからも朝一緒に登校してくれる?」
「ああ。でも土曜日はもう迎えに来れない。明日香を放っておけないから」
「仕方ないか。じゃあ土曜日は許してあげるよ。あたしは有希ちゃんと一緒に帰ればいい
し。でも平日は、いつもの電車に乗ってよね」
明日香は徒歩通学だったので、これくらいはいいだろう。正直に言うと僕だって奈緒と
接点がなくなるのは寂しかったし。でもそれが再会した妹への気持のせいなのか、この間
まで彼女だった奈緒への想いのせいなのかは自分でも判然としなかった。
とりあえず僕は奈緒を送っていくことにした。最初からそれだけはするつもりだったし。
このときのファミレスでの話し合いでは、奈緒もまた初めてできた彼氏が実の兄だったと
いうことに悩んでいたことがわかった。
僕は複雑な気持だった。恋人だった奈緒が実の妹だと知って苦しんでいた僕は、奈緒も
また同じ悩みを持っていたことを聞くことができた。つらい別れ経て再会してた兄に対し
て無邪気に喜んでいた奈緒の態度に、僕は嫉妬じみた感情を抱いていたのだからそのこと
自体は嬉しかった。
でも、よく考えると何も解決はしていない。奈緒の告白が、これまで抱いていた奈緒の
気持に対して僕が抱いていた理不尽な嫉妬心を宥めてくれたことは確かだった。でも今で
は僕には明日香がいる。多分、今では誰よりも大切な女の子が。ようやく恋人として奈緒
のことを考えなくなるようになり、本気で好きだと思えるようになった明日香には話せ
ないような内容の話し合いになってしまった。
明日香と付き合う前なら僕だって今日の奈緒の態度を喜んだかもしれない。でも今では
僕の彼女は明日香なのだ。今の僕は文字どおり身も心も明日香と結ばれている。それに奈
緒の本当の気持は理解できたような気はするけど、依然として彼女が僕の実の妹であるこ
とには変りはない。奈緒が僕のことを男性として好きでいてくれたとしても、僕と奈緒の
関係にこの先の未来はないことは変わらない。
駅のホームでやたらに寄り添ってくる奈緒を拒絶もできずにいた僕は、今日彼女に聞い
てみようとしたことを思い出した。
「なあ」
「なあに、お兄ちゃん」
「実はさ・・・・・・。母さんから父さんにメールが来たみたいでさ。今の母さんと父さんが揉
めているみたいなんだけど」
「母さんって? あたしたちのママのこと?」
「うん。詳しくはわからないけどさ、母さんっていうか奈緒の母親が僕の父さんにメール
で、僕と奈緒が仲良くしているのをやめさせろみたいなことを言ってきたみたいなんだ。
そのせいで父さんと今の母さんが喧嘩しちゃってさ」
それを聞いても奈緒の表情には驚いた様子は見られなかった。
「そうか。ママらしいね」
「家で何かあったの?」
奈緒はそれには答えずに、僕の腕にしがみつくような仕草をした。
「お兄ちゃんって、あんまり昔の記憶がないんでしょ?」
「うん。この間までは小学校低学年の記憶は全くなかったよ。だから去年父さんに聞かさ
れるまでは今の母さんが本当の母親だと思っていたくらいだし」
「あたしのことも覚えてないの?」
「おまえと別れさせられた記憶とか、公園で鳩を追い駆けているおまえを見守ってた光景
とかは少しづつ心に浮かぶようになったよ」
「そうか」
奈緒がぽつんといった。
「まあ、記憶が戻ったっていう感じじゃないんだよね。むしろ、ある短い光景だけ思い出
せたっていう感じかなあ。つらい記憶を自己ブロックするような病気らしいんだけど」
確か解離性健忘とかいうらしかった。
「お兄ちゃん、ママのことは覚えているの」
「・・・・・・前にさ、おまえと二人きりで自宅で過ごしていた記憶があるんだけど、そのとき
突然帰宅してきた女の人がいたような。多分、それが本当の母親なんだと思う」
「あたしはね、そのあたりのことは全部記憶にあるの。しかも鮮明に。今日はその話とか、
今のママとかあたしの家庭の話とかしようと思っていたんだ」
奈緒が昨日話があるからと言っていたのはそういうことだったのだ。奈緒との仲がどう
なったのかが未だに自分でもよくわかっていなかったけど、昔の話を聞けるようなら聞い
てみたい。父さんと今の母さんとの仲違いの原因がつかめるかもしれない。それに今の僕
は昔の話を聞かされることに恐れを感じていなかった。一番つらかった奈緒のことを聞か
されて、自分でもその思い出の一部を思い出した以上、もうこれ以上のショックは受けな
いだろうと僕は思った。過去の話については玲子叔母さんからいろいろと聞かせてもらっ
てはいたけど、当時は叔母さんもある意味部外者で傍観者の立場だったから、叔母さんの
知識にも限りがあった。
「教えてもらえるなら聞きたいな」
僕は真面目に奈緒に言った。
「うん。話すのはいいけどあまり時間はないよね」
一瞬、早く僕に会いたがっているだろう明日香の顔が浮かんだ。でも、自分の過去をは
っきりと知りたいという欲望に僕は負けた。
「奈緒さえいいなら時間がかかってもいいよ。だから、全部教えてほしい」
結局その方が僕と明日香のためにもなるのだと、僕は自分に言い聞かせた。
奈緒の自宅の最寄り駅で降車して、駅前にあるドトールに僕たちは入ることにした。ス
タバと違って年配の人が多いし、パーテーションで区切られているだけの喫煙スペースか
らは煙草の煙が洩れて漂っていたけど、もう奈緒は文句を言わなかった。
駅から出たとき一応僕は明日香に電話してみたのだけど、コール音だけがむなしく繰り
返されるだけで明日香は電話に出なかった。もう仕方がない。明日香にはあとで謝ろう。
再び飲み物を前に向かい合った僕たちはしばらくは黙ったままだった。明日香は目の前
のコーヒーに砂糖を入れて延々と掻き回していた。でもやがて奈緒がゆっくりと話を始め
た。
「あたしね、今まで大切にしてきたものが二つあるの」
「うん」
「一つはピアノ。あたしにとってはピアノを弾いている時間が一番充実しているの。お兄
ちゃんというか奈緒人さんを好きになるまでは」
それには何と答えていいのかわからない。ひょっとしたら答える必要もないのかもしれ
ない。
「・・・・・・最初はママに勧められてそれほど関心もなく始めたんだけど、弾くことによって
普段は出せない感情表現ができるとか、それが聞いている人たちに思っていたよりはっき
りと伝わることがわかってからは、自分からのめり込んでいったの」
「そうか」
「でも演奏が感情表現に至るまでの距離って意外と遠くてね。やっぱり技術も必要なのよ。
正確に演奏するとかそういうテクニックがあって、その次に初めて感情表現が来るって感
じかな。それでもピアノが好きになって必死に練習しているうちに段々と技術の方は身に
付いてきたんだけど、そうなってみると逆に何を聞いている人に伝えたいんだかわからな
くなっちゃったのね」
ピアノの話にはそれほど関心がなかった僕だけど、そのとき父さんの書いた記事を思い
出した。
『中学生離れした正確でミスタッチのない演奏だが感情表現の乏しさは、まるでシーケン
サーによる自動演奏を聴いているかのようだ。同じ曲を演奏して第二位に入賞した太田有
希は技術的には鈴木奈緒に劣っていたし改善すべき点も多いが、演奏の感情表現に関して
は彼女の方が将来に期待を持てるかもしれない』
奈緒が自分の娘だと知っていながら父さんはあの記事を書いたのだ。そのときの父さん
はいったい何を考えながら記事を書いたのだろう。
「最近までそれで悩んでいたの。行き詰まりっていうのかなあ。佐々木先生にはそんなに
あっけからんと弾かないでもっとしっとりと情感を込めて弾きなさいって言われるし」
指導されている先生にまで言われているなら父さんの感想も的外れなものではないのだ
ろう。
「ピアノの話はもうそこまでにするけど、結局あたしは失ってしまった大切なものをずっ
と求めすぎていて、そのほかのこと、家族への愛情とか友情とか将来への希望とか普通な
ら心の中に自然に溢れている前向きな感情が他の人より希薄だったのね。ある意味感情面
で欠陥があると言ってもいいのかも。そんなあたしには人に伝えたい気持ちなんかろくに
なかったから、演奏時の感情表現が下手というより人に伝えたい感情そのものが希薄だっ
たんだと思う」
何だか難しい話になってきた。
「まあ、ピアノの話はそこまで。もう一つあたしが大事にしてきたことがあるの。何だか
わかるよね」
「・・・・・・僕か」
「正確に言うと希望かな。いつか絶対にお兄ちゃんと再会できるんだっていう望み。そし
て、ただ待っているだけじゃその希望だって実現しないってことはあたしにもわかってい
た」
奈緒が今までで一番と言っていいほど真剣な表情で僕を見た。
「お兄ちゃん?」
「うん」
「あの雨の朝、お兄ちゃんと出会ったことだけど。あれは偶然っていうかあり得ないくら
いの奇蹟だったよね」
「そうだな。あの雨の日に奈緒は高架下で傘がなくて立ち往生していたよね」
「そうだよ」
「あのときは家庭でいろいろトラブルもあって、僕は珍しく早く家を出たんだ。そんな偶
然もあって僕はおまえとあの高架下で出会ったんだもんな」
「あれはお兄ちゃんが思っている以上にすごい偶然だったんだよ」
奈緒がそう言った。
あのとき明日香とのトラブルを避けるために僕が早く家を出なければ、そしてあの朝突
発的な雨が降って奈緒が高架下で立ち往生しなければ僕たちは再会することすらなかった
はずだ。そういう意味では奈緒の言うようにすごい偶然と言えるだろう。
「あたしは毎年パパと面会していたから、お兄ちゃんがどこに住んでいてどこの学校に通
っていたかなんてパパから聞いて知っていたんだよ」
僕は虚を突かれた。玲子叔母さんの話で、実の両親と離れ離れになっている子どもたち
との面会権のことは聞かされていたけど、これまで僕はそのことをあまり真剣に考えたこ
とはなかった。とりあえず僕の方は母親と面会した記憶はないのだから。
「お兄ちゃんの家とか最寄り駅なんか全部パパから聞いてたもん。あたしはお兄ちゃんの
ことが気になっていたから、面会するたびにお兄ちゃんのことをパパに聞いたの。そして
お兄ちゃんと会いたいとも。でも、パパはお兄ちゃんのことは何も教えてくれないし、会
わせてもくれなかった。お兄ちゃんには昔の記憶がないから、あたしとお兄ちゃんが会っ
たらお兄ちゃんが混乱するからって」
父さんは奈緒にそんなことを言っていたのか。僕のことを心配してくれてのことなのだ
ろうけど、父さんが邪魔しなければ僕と奈緒はもっと早くに再会できていたのかもしれな
い。
「でもね。あたしはパパの家を知っていた。そしてお兄ちゃんがそこに住んでいることも。
だからパパに黙ってお兄ちゃんと会おうと思えばいつでも会えたの。本当にあたしがその
気にさえなればね」
「じゃあ、おまえはずっと僕に会いたくて、しかも会おうと思えば会えたってこと? そ
して父さんに言われたこと、僕の記憶喪失のこととかを気にしたからおまえは僕に会いに
来なかったってことなのか?」
「それだけじゃないの。ママにも釘を刺されていたからね。ママはパパに会う日は必ずこ
う言うの。『約束だから奈緒がパパに会うことは止められないけど、奈緒人に会っちゃだ
め。会うと奈緒と奈緒人が二人とも不幸になるから』って」
何で僕と奈緒が再会すると不幸になるのだろう。それに父さんも奈緒を僕に会わせなか
ったという。僕の実の両親が離婚してそれぞれ再婚家庭があって、それを守るために今さ
ら昔の付き合いを蒸し出したくなかったからなのだろうか。それにしてもお互いの家庭の
のことだけが問題なら、僕と奈緒が不幸になるとは言い過ぎのような気がする。
あれ? ふと僕は気がついた。奈緒は僕の家や最寄り駅を知っていた。そして会おうと
思えばいつでも僕を探し出せる状態だった。
このあたりで僕はだんだんと奈緒が何を言いたいのかわからなくなってしまっていた。
いや、わからないというより考えたくないと言う方が正しいのかもしれない。マキさんは
何で奈緒と僕が再会すると、お互いが不幸になるなんて考えたのだろうか。何より、奈緒
と僕のあの朝の出会いは偶然ではなかったのだろうか。
「あの朝ののこと、あれは偶然の出会いじゃなかったのか」
僕は震える声で奈緒に聞いた。
「自分から行動しなきゃいつまでも望みはかなえられないって思ったし、このままじゃも
う一つの大切な夢の方も叶わないかもしれないって考えるようになったから。そう思って
いたのは本当だよ」
「じゃあ、おまえがあんな早い時間に駅前の高架下にいたのは、自分の兄と・・・・・・僕と会
うためだったの?」
「そうじゃないの。あの朝は本当に偶然だったの。あの日は学校の課外学習の日で、あそ
こで有希ちゃんと待ち合わせしてたのね。そしたらいきなり雨が降って来て、おまけに有
希ちゃんから電話が来て急用が出来たから今日は課外学習休むって言われてどうしようか
と思っていたの。そしたら知らない年上の男の人が傘に入らないか? って聞いてきた」
「・・・・・・僕のこと待っていたんじゃないのか」
「違うよ。もうそろそろ自分でお兄ちゃんに会いに行くべきだとは考えていたけど、あの
ときは完全に偶然だよ。だからあれはすごい偶然だって言ったんじゃない。あたしは今の
お兄ちゃんの面影なんか知らなかったから、それがお兄ちゃんだとは思わなかった。駅前
で立っていたくらいで簡単にお兄ちゃんと再会するなんて思ってもいなかったからね。た
だ、傘に入れてもらって駅まで送ってくれた男の人が気になって・・・・・・、自分でも惚れっ
ぽいなって思ったけど、その時にはもうその人のことが、奈緒人さんのことが好きになっ
てしまってたんだよ」
奈緒が本当のことを話しているとすれば、僕と奈緒はやはり凄いくらいの偶然のおかげ
で再会したのだ。それに奈緒はさっき僕と付き合い出したあとに僕が兄であることを知っ
て悩んだと言っていた。最初から兄に会うためにあそこにいたのならそんなことに悩むわ
けはないし、第一僕に告白なんかするわけがない。
「お兄ちゃんの思っているとおりだよ」
奈緒は僕の表情から僕の考えていることを読み取ったようだった。
「ただね、お兄ちゃんは勘違いしていると思うんだけど」
「それって何? まだ何かあるの」
「あたしはね。お兄ちゃんより早く奈緒人さんとあたしが兄妹だって気がついていたの」
「どういうこと」
僕は唖然とした。
「最初はわからなかった。でも一目ぼれしちゃって次の日も奈緒人さんを高架下で待ち伏
せして」
「そうだったね。あのときは驚いたよ」
「そこでお互いに自己紹介したじゃない?」
「うん・・・・・・あ」
僕はそのことに気がついた。
『そう言えばお名前を聞いていなかったですね』
あのとき奈緒はそう言ってから自己紹介したのだ。
『あたしは、鈴木ナオと言います。富士峰女学院の中学二年生です』
僕のそのとき鈴木奈緒という名前に何も反応しなかった。記憶もなかったから反応する
はずもない。でも奈緒は僕の名前も通っている学校も知っていただろう。
『僕は結城ナオト。明徳高校の一年だよ』
「うん。結城ナオトって聞いたとき、奈緒人さんがお兄ちゃんだってすぐに気がついた
よ」
奈緒が言った。
「・・・・・・何でそのときにそう言わなかったの」
「お兄ちゃんには過去の記憶がないってパパから聞いていたから。あたしが勝手に話しち
ゃっていいかわからなかったし。それにあのときはすぐに明日香ちゃんが・・・・・・お兄ちゃ
ん?」
目の前が真っ暗になっていく。体から力が抜けこのまま座っていることすらできそうも
ない。フラバとは少し違う感覚。むしろ絶望感が暗雲のように突然心を外部から切り離し
たような感覚だ。奈緒は再会した次の日の出会いのときから、僕が兄貴であるあることに
気がついていた。
それでいてその後も平然とそれを隠して、僕に告白したり僕に寄り添ったり僕に嫉妬し
たり僕とキスしたり・・・・・・。最初から奈緒は僕と本気で付き合う気などなかったに違いな
い。なぜなら僕が実の兄貴であることを彼女は知っていたから。僕がそれを知ったのは正
月のことだったけど、奈緒は僕と付き合う出す前からそのことを知っていたのだ。
やはり明日香が言っていたことは正しかったのだろうか。最初の出会いこそ偶然にして
も、奈緒は僕が兄だと気がついていたにも関わらず僕に告白したのだ。
やがて意識が覚醒した。フラッシュバックのときのような大袈裟な発汗や頭痛などは感
じない。そして奈緒は戸惑いながらも僕を冷静に見ているだけのようだ。明日香が自分を
見失ったときの僕を抱きしめてくれたような素振りはない。
「大丈夫?」
「うん。何とか」
「最初からあまり驚かないで。これじゃ最後まで話せないじゃない」
「大丈夫だよ。ちょっと慌てただけだ」
僕は気を取り直した。奈緒の言葉にどんなにショックを受けたとしても、今では明日香
がいてくれる。
「あたしにとってはね、奈緒人さんは始めて本気で好きになった人だったの。だから告白
してOKをもらって付き合うことになったときは本当に嬉しかったな」
「それは・・・・・」
「そう。だから有頂天になった瞬間、お兄ちゃんの名前を聞いたときあたしは凄くショッ
クだった。地の底に突き落とされたようだった」
「さっきの話、あたしが彼氏がお兄ちゃんだと知って悩んだ話ね、嘘じゃないの。お兄ち
ゃんと同じくらいにあたしはショックを受けて悩んだ。ただお兄ちゃんと違うのは、お兄
ちゃんより大分早く、というか付き合ってもらえたその直後からあたしは間違っていたこ
とに気がついた。お兄ちゃんがあたしのことを付き合い出したばかりの彼女だと思ってく
れていたとき、もうあたしは出来立ての自分の彼氏が付き合ってはいけない自分のお兄ち
ゃんだってわかっていた」
「兄貴だって気がついていたのなら、何でそのまま付き合うような真似を・・・・・・・」
これは本当にきつかった。初めてのキス。初めての嫉妬。初めての諍い。
それは僕は初めてできた彼女との大切な思い出だった。奈緒が実の妹だって理解した後
でさえ、未練がましい自分に自己嫌悪に陥りながらも大切にしていた記憶なのだ。
「そうね」
奈緒が僕から視線を外した。
「ごめん」
「何がごめんなの」
「だから・・・・・・。あのときあたしがやめておけばお兄ちゃんだってあんなに苦しくならな
かったのにね」
「どういう意味だよ」
「一応考えたんだ。お兄ちゃんに自分が妹だって言おうかって。あたし・・・・・・何で黙って
いようなんて、このまま黙っていればお兄ちゃんの彼女になれるかもなんて考えちゃった
のかな」
「本当にさっきから意味わかんないよ」
「・・・・・・」
「告白後にしたって僕のことが兄貴だって気がついたんでしょ」
「うん」
「じゃあ、何でそのまま付き合う振り、つうか僕の彼女でいるような振りをしたんだよ。
今さら言い難かったのか?」
「ううん。あのときは、嬉しいけどつらくて。つらいけど再会できたのは嬉しくて。それ
で、自分の中でもよくわかんなくなちゃって。でも落ち着いて考えてみたの。自分が今本
当にしたいことは何かって。そしたら簡単だった」
「簡単?」
「うん。考えてみたら、あたしは奈緒人さんと別れるのなんて絶対に嫌だったの。奈緒人
さんが自分のお兄ちゃんだったにしても。そして彼氏とじゃなくて本当のお兄ちゃんに再
会したい気持も嘘じゃなかった。しばらく悩んでたんだけど、あるときふっと簡単に結論
が出ちゃった」
奈緒が吹っ切れたように淡々と喋る様子に僕は何だか嫌な予感がした。
「お兄ちゃん、あたしを嫌いにならないで」
「何だよいったい」
「聞いたら絶対気持悪いとか思われるもん」
「え」
「あたし・・・・・・。奈緒人さんが実のお兄ちゃんでもいいと思ったの。こんだけ好きになっ
た人があれだけあたしが求めていた人だったのなら」
「・・・・・・奈緒」
「気持悪いでしょ。でもあたしはあのときそう決めたの。そしてその後、お兄ちゃんと手
を繋いで抱き合ってキスもしたけど、後悔なんかしてないよ」
僕はもう何も言えなかった。
「世間じゃ近親相姦とか言われるんだろうけど。でも、あたしは本当のお兄ちゃんのこと
が好き。恋人としても兄としても。だから悩んだけど何も気がつかない振りをして、お兄
ちゃんと付き合ってたの。お兄ちゃんには何も言わなかった。っていうか言えなかったけ
ど」
僕は妹の告白に唖然とした。
「・・・・・・言っちゃった。お兄ちゃんには気持悪いって思われるよね」
それでも奈緒はようやく心の重荷を降ろしたように見えた。一番最初に高架下で出会っ
たときのような少しよそよそしい、でも綺麗な微笑を彼女は浮べた。
結局、明日香が正しかったのだ。奈緒は僕を兄だと知って僕と付き合っていたのだから。
ただ、奈緒の言葉を信じるなら、それは僕を苦悩させようという彼女の悪意から起こした
行動ではない。そういう意味では明日香は間違っていたということもできた。今の僕にと
ってどちらの方がより心が休まるかという問題になると、必ずしも奈緒の善意が判明した
ことの方が僕の心が休まるかというと、そうではない。
明日香は僕とは血縁関係にはないけど、それでも彼女と付き合い出すときには兄妹の関
係であることにだいぶ悩んだ。玲子叔母さんも僕とは血が繋がっていしない、本当の叔母
ではないのだけど、明日香は僕と叔母さんが関係したとしたら世間体が悪いと言った。
奈緒に悪意がないにしても、本当の兄貴だと知りながらもなお僕の彼女になろうとした
彼女の心の動きは、今の僕には理解できなかった。僕だって奈緒が本当の妹だと知ったと
きには悩んだし、無邪気に兄との再会を喜ぶ彼女の心情に嫉妬だってした。でも、どんな
に悩んでもどんなに奈緒を恋しく思っても、実の妹だとわかった奈緒をそのまま黙って彼
女と付き合うなんていう考えは思いつきもしなかった。それは真実を知った奈緒が僕自身
がそうであったように傷付くことを恐れたせいだけど、それだけでなく実の兄妹が恋人同
士になれるなんて思いもしなかったということもあったのだ。
「お願いだからあまり悩まないで。お兄ちゃんが明日香ちゃんのことを好きになったのな
らそれでもいいから。さっきお兄ちゃんが言ってたじゃない? あたしが妹だとわかる前
だったら明日香ちゃんのことは振っていったって。あたしにはそれだけで十分だから。こ
れ以上お兄ちゃんに何かしてほしいとか望まないから」
ここまで比較的冷静に話してきた奈緒は今では必死の表情で僕に言った。
僕は奈緒に何と言っていいのか言葉が見つからなかった。しばらく沈黙が続いた。
「この話はとりあえずおしまい」
奈緒が俯いたままで言った。
「そうだね」
僕には他に言うべき言葉は見つからなかった。
「でも、お兄ちゃんには悪いけど自分の気持ちには嘘はつけないから」
僕は黙ったままだった。
「だって好きなんだもん。お兄ちゃんが・・・・・・奈緒人さんのことが好きなんだもん。お兄
ちゃんに駄目って言われたって自分ではどうしようもないの」
「・・・・・・実の兄妹なんだぜ」
「わかってる。さっきお兄ちゃんが言ったとおりだよね。あたしはお兄ちゃんとは結婚も
できないし子どもだって産んであげられない。そんなことはわかってる」
「奈緒・・・・・・」
「いくら話してたって解決するようなことじゃないね。もうおしまい。それに今ではお兄
ちゃんには明日香ちゃんがいるんだし」
「奈緒」
僕は呆けたように繰り返して彼女の名前を呼んだ。
「じゃあ、約束どおり我が家の歴史をお兄ちゃんに説明しますか」
奈緒は明るく言ったのだけど、彼女が無理をしているのは明らかだった。
「麻季さんのこと、あたしたちのママのことを話そうか」
今日は以上です
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