【ボカロSS】一人だけの歌姫 (76)
【ボカロSS】弱音ハク「歌姫の生まれた日」
ボカロの設定を借りた弱音ハク主人公のSSです。
書き溜めはそこまでしていないのでゆっくり更新していきます。
色々と問題がありそうなので、先に注意事項を。
このSS内でのボカロはキャラクターの設定等を借りた人間です。
実在する曲名を出すことがありますが、内容については独自解釈です。
かなり長く、重くて鬱な部分が結構あると思います。
百合、18禁要素を僅かに含む部分が出て来る可能性あります。
等が受け付けられない方、ボカロの純粋なファンの方は、そっ閉じお願いします。
注意事項多くて申し訳ないです、次レスより本編を始めさせて頂きます。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1415892731
――#プロローグ
〈ケーブルグラム・ハイボール〉
カツ、カツ、と無機質に響く足音が嫌に五月蝿い。
灰色の暗い空間の中で光る翠色の光。まるで未来世界の中心部を歩いているかのようだ。昔見た映画でこんな雰囲気の場所があった気がする。ああ、そうだ……タイトルは『ブレードランナー』だったかな。
目の前に歩く彼の足音がすぐそこにあると言うのに、その姿は暗闇の陰に飲み込まれているかのように朧げで、はっきりと見えない。いや、わたしが見ようとしていないだけなのかもしれない。全てのことから目をそらして、現実を見るのが嫌で、何もかも投げ出して――けれど、わたしはそれでも今、この道を歩いている。
あの子は、今のわたしを見たらどう思うのだろう、何と言うのだろう。
どのくらい歩いたのか、記憶は定かではない。とても長い時間歩いていたかのような気もするし、ひょっとしたらほんの僅かな時間だったのかもしれない。意識がはっきりしないのは、事前に呑まされた薬のせいだろうか。今すぐにでも倒れて眠り込んでしまいたい身体をよろつかせながら、わたしは彼が差し出した手を取り、狭いエレベーターの中へと乗り込んだ。途端、明るい光に目が痛くなる。顔を覆うわたしを煩わしげに見る彼の顔。けれど、その目もどこか、わたしと同じ色を秘めているように見えるのは気のせいだろうか。いや、どうでもいい。そんなこと、わたしにはどうでも……。
白い光に満ちたエレベーターは未だ下り続けている。一体この函はどこまで降りて行くのだろう。もしや地の底まで、地獄まで続いているというのだろうか。最も、これからわたしが向かう道が真実のものであるのなら、そこが地獄の門でもおかしくはない。構わない、それが本当にあるのなら。
驚く程静かに開いたエレベーターの二重扉を抜けると、そこは地上よりもさらに未来的な空間に包まれていた。体温を一切感じさせない無色の廊下は、一体どのような素材を使っているのか、すべて朧げに光っている。その廊下をさらに進み、一際厳重にロックがされているであろう、物々しいゲートを前にした時、彼は振り返りわたしに言った。
「この先に進めば、君はもう後戻り出来ない。魂を悪魔に売ることになるぞ」
それは、比喩ではなく現実の言葉。わたしが今、この壁の向こう側にある希望に手を伸ばせば、ゆくゆくはその希望は悪魔の力となるのだろう。これはパンドラの箱だ。けれど、中身は逆だ。希望を得ようとして、多くの絶望を解き放つことになってしまう。ああ、まるでお伽噺みたいね。その主人公に今、このわたしがなろうとしている。世界の誰からも恨まれる、パンドラに今、わたしはなろうとしている。
けれど、もう後戻りなど出来ないのだ。この壁を越えようと、超えまいと。もう、わたしにはこれしか生きる希望はないだから。きっと、わたしが手を伸ばさなくても、他の誰かがこの絶望【パンドラ】を解き放ってしまう。ならば、せめてわたしの手で、希望だけは掴みたい。
人間は誰しも、エゴイストだ。誰かを想う理由を付けても、結局は自分の欲望の為に生きている。目の前に垂らされた蜘蛛の糸を、掴まない人間など居やしない。
……だから、わたしもまた、その欲望に忠実になろう。
責めてくれて構わない。恨んでくれて構わない。けれど、この想いを否定することはしないで欲しい。愛する人を求めようとすることを、目の前にその希望があり、そこに手を伸ばすことを――誰が否定出来るのだろう。
「構いません、見せて下さい。彼女を……歌姫【ディーヴァ】の姿を」
何も言わずに彼はわたしに背を向けた。もう言うことは、何も無いということなのだろう。二度同じ言葉を言われなくてよかった。それだけでわたしにとっては救いとなる。
幾重にも敷かれたロックが機械的な音を立てて開かれ、その重い扉が左右に動く。間もなく、扉の向こうから、白い光が差し込んで来た。
そこにある『彼女』の姿に息を呑む。そうだ、ブレードランナーは映画化した際に付けられた題名だった。『彼女』の姿を見た時に、その原作のタイトルが、あの日の記憶と共に蘇った。
「『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』……」
――#1【白ノ娘】
〈シャンパン・カクテル〉
――二年前――
ヒュゥウ、と強い風の音が、窓の隙間から聞こえる、12月の始め。幸い店の中は暖房が付いてるから暖かいけれど、心の中は寒いかなあ……。ついでに給料日前に付き、懐の中も相当寒いです。ああ、そんな古い洒落はいいですか、すみません。はい、ごめんなさい、調子乗ってすいません。生まれて来てごめんなさい。
朝のニュースでは今日は特に冷え込むと言っていただけあってか、昼なのに人通りが少ない。まあもとからこの店ってそんなに人が来る訳じゃないけど、それでも今日の閑古鳥はことさら強く鳴いてるなあ。
「はぁ……」
お客さんが居ない事をいいことに、また溜息。いつも気がつけばわたしは溜息をついている。こんな所を店長に見られたらまた「不幸を呼び寄せるぞ」とか「幸福が逃げるぞ」からかわれるんだろうなあ、なんて思ったり。それでもまた溜息をついた。なんでかは分からないけれど、最近ずっと身体が怠い。と言うよりも心が重い。別にセンチになってるつもりでもなくて、何と言うか……生きてるのが辛いって感じてしまう今日このごろ。駄目だなあ、世界には生きたくても生きられない子供たちが沢山いるのに、もっと楽しく生きなよ。……なーんて自分を叱っても、やっぱり身体は重いままで。
ああ、なんか頭も痛い。ついでに吐き気もする。これってやっぱり二日酔いかな。もっとしっかりあいつがわたしを止めてくれたらよかったのに……なんて責任転嫁にもほどがあるけど。
そんな風にぐだぐだと心の中で言い訳やら自己嫌悪やらをしていたら、ふと人の気配。
顔を上げると、チリンチリン、と言う鈴の音と一緒に、一人のお客さんが入って来た。精一杯いらしゃいませー、と言ってみるも、喉に声が引っかかって上手くいかない。こんなことがある度に、無意識にわたしの手は自分の喉元を抑えている。それで、涙が滲んでくる。なんて情けないんだろう。まるで子供の頃と変わっていない。ああ、でもあの頃は……。
思い出して、また涙がぽろり。こんな白髪女が泣いているのが不思議なのか、入って来たお客さんはちらちらとわたしを見ていた。恥ずかしくて、欠伸のふりをしたけど、そんな風にごかます自分がまた恥ずかしやら情けないやらで涙が出て来る。
ああ、もうなんか嫌だ。色々憂鬱。早く帰って寝たい。ボロアパートのコタツが恋しい。そんな顔をしていると、後ろから衝撃波がわたしを襲った。
「いつっ!」
「そんな暗い顔しないでよ。キミはただでさえ不幸を呼びそうな顔をしているのに、その上疫病神まで呼ぶつもりかい? 笑うとこにはなんとやらと言うだろう。ほら、笑え、いいから笑いたまえ」
無表情でわたしの後頭部をひっぱたいたあげく、口をぐいぐい引っ張って来たのは、この店の店長。身長はわたしよりやや小さい、というか一目見て十代にしか見えない容姿だけれど実のところ結構な年上。しかし言葉遣いは割と辛辣な三十歳。
「ひゃめてくだひゃい~」
と言うと、ぱちん、と店長の指がわたしの頬を解放した。うう、痣になったらどうするんだ。腐ってもわたしは女なんだぞ。
「まったく、少しはしゃきっとしたまえ。若いものがそう溜息を吐いてどうするんだい」
いや、もう二十歳とか若く無いですよ、と言いかけてやめた。ぶっちゃけそんな言葉を返す気力すらない。と言うか三十路のこの人にそんなこと言ったら殺されるかもしれない。
そんなわたしを見て、店長が呆れた声で言った。
「……ホントに暗い顔をするな、キミは。夢とか無いのかい?」
「…………」
夢、か。一番聞きたく無い言葉ですよ、それ。
幼少期には、それなりに夢とかあった。それこそ、女優とか、アイドルとか……歌手、とか。きっと女の子なら誰もが一度は思う、憧れの世界。煌びやかで、綺麗な服。いつも見ていた、輝きに満ちたTVの向こう側。
その向こう側に行く一人に、自分もなれたらどんなに幸せだろうなんて思っていたわたしは、どうしようもなく子供で。
――ハクならきっと歌手になれるよ!
小さい頃親友にそう言われて、中学生の時に、勇気を出してオーディションを受けたけど、結果はものの見事にツマンネの一言。
――歌声も、歌い方も、何もかもが普通。ちょっとした憧れレベルでしょ? そう言う子、いっぱい居るから。正直、キミ、つまんないよ。
黒い眼鏡の奥に見えた細い目に睨まれてそう言われた時、想像していた煌びやかな世界は一瞬で崩れ落ちた。
――ああ、わたし、才能……無いんだ。
夢の中で生きてきたわたしの前に、いきなり『現実』って言う大きな大きな壁がごつんと頭を殴って来て、そこでわたしは一発でKO負け。それでやる気を失ってしまった。
そう、たった一言、たった一回、それだけの挫折で全て諦めてしまったわたしは――彼の言う通り何もかもが普通だったのだ。
――大丈夫だよ、積み重ねて行けば、きっといつか、ハクなら出来るよ!
無邪気な親友の笑顔を見る度、その幼い言葉を聞くたびに、いたたまれなくなって、高校は遠い所を選んだ。
――向こうでも私、頑張るから、応援してね。
そう笑って言い残して、関係を断ち切った。わたしには、あの子の期待に答えることは出来ないと自分で分かっていたから。あの子の悲しむ顔は見たく無いから。
連絡を切り、疎遠になれば、きっと自然にあの子はわたしを忘れてくれると思った。あんな素敵な子なら、きっとわたし以外にもたくさんの友達が居るだろうと思ったから。
そして今、あの子とわたしの繋がりは年賀状と、年に数回の手紙だけになっている。一度、返事を出さなければ、きっと最後の糸も切れてしまうだろう。
顔を合わせなくなっても、あの子からは定期的に手紙が届いた。いつも手紙はあの子から届き、わたしはそれに言葉を繕い返事を続けた。言葉を選び、嘘で塗り固め、そうしてぼろぼろに繕った明るい言葉にしなければ、すぐに心の底にある、黒いものを綴ってしまいそうで。
それほどまでに彼女の手紙は無垢で、無邪気で、美しかった。
言葉は全て、わたしを応援する、温かくて、優しい言葉。でも、わたしには優しすぎた。優しすぎて、あまりにも眩しくて、耐えられなかったのだ。あの子からの言葉に目を背け続け、灰色の三年間を過ごした高校生。適当に受けた大学は周りと反りが合わず、一年ほどで辞めてしまった。
そうして今、一月を生きる為に、こうして日々バイトに勤しんでいるわたし、ハク、二十歳。
「ハク、暇なら買い物言って来てくれない? まだお互いに昼ご飯食べてないでしょ? 店は私が見ておくから」
ハクと言うのは本名じゃなく所謂あだ名。生まれつき髪の白いわたしは、小さい頃にはシロって言われてた。そんな犬みたいなあだ名は嫌だと愚痴をこぼしたあの日の出来事がふと頭に蘇った。ああ、そうかあの時にわたしはハクになったんだなぁ、と柄でもなく過去の感傷に浸ってみても、気分は晴れない。むしろ暗くなる一方だ。
けど、もうわたしのことをハクと呼ぶのは面白がっているうちに定着してしまった店長と、もう一人の友人だけ。まあ、わたしの名前なんてそんな価値なんで、言う必要も無いし、覚えなくてもいいですけどね。
「あー……了解でーす。何買って来ますか?」
「無論フランスパン」
「またそれですか……」
「またとはなんだい。いいかねフランスパンと言うのは――」
ああ、これはあれだ。めんどくさいパターンだ。と言うかまた延々フランスパンの歴史から始まりその特性に至るまでを聞かされるのはごめんだ。ナポレオンなんかわたしにとっちゃ与り知らぬ遠い昔のオッサンです。わたしはそそくさとカウンターの椅子を立ち上がった。
わたしと店長が話し終えるのを見計らってくれていたのか、そこでお客さんが声をかけて来た。
「あの、贈り物をしたいんですけれど……」
「ああ、分かりました、どのようなものを……」
仕事モードの顔になった店長とお客さんを後ろに、店の奥に置いてあるコートを取りに行った。羽織り、財布をポケットに入れる。
「じゃ、行ってきます」
「ああ、頼むよ。あ、あとついでにコンビニでのりと鋏買って来て。手入れを怠ったせいか錆び付いてしまっている」
「はーい」
チリンチリン、と言う鈴の音を後に、店の外に出る。途端、ビュッ、と強い風が吹いて、思わず身体を震わせた。
辺りの木々は紅葉を終えて、ほとんどが裸になっていて、見るだけで寒くなる。足下には枯れ葉が多く落ちていて、踏むと、くしゃっと言う音が響いた。
ああ、冬だなあ、と思う。友人からのお古とは言え、コートを貰って正解だった。この寒さはとてもわたしの持っているボロ服じゃ耐えられない。
冬のこの雰囲気は嫌いじゃない。なんと言うか、この胸のぽっかり空いたような寂しい景色はわたしの心にぴったりなような気がする。葉っぱの落ちた裸の木々を見ると、それだけでなんだか慰められてる気分になれる。まあ、寒いのは嫌いだけど。
「はぁ……」
日傘を差す。そうして喉を抑えながらまた溜息。空を見ると雲一つない爽やかな青空。それでも幸い太陽が眩しく感じられないのはわたしにとっては結構な救い。
とは言え、こんな爽やかな空に対してわたしの心は絶賛スーパークラウディ。その明るさに比例して、どんよりとした気持ちが大きくなって行くみたいに感じる。
バイトをして、税金払って、ネットして、お酒を呑んで、惰眠を貪って、そしてまたバイトに行く。それがわたしの毎日。固定化された人生。変化の起こらない、灰色の日々。
ふと思う。何が楽しくて、生きているんだろうと。
けれど、それを突き詰めることが怖くて、先に進むのも、戻ることも、両方怖くて、わたしはずっと今のまま立ち止まっている。
でも、このままじゃいられないことくらい分かっている。
――就職は? 結婚は? 貯蓄なんてほとんどないでしょ? 十年二十年先に、同じように生きていけるの?
その年になって、一人ぼっちで生きて行けるの? 資格も無い、技術も無い、学も無い、そんなナイナイづくしのわたしが、この先。
「ああああうるさいよっ!」
気付けば頭の中でそんな声が不協和音みたいに響いて跳ね返って、叫びたくなる、叫んでしまう。なんて危ない人間だろう。それでも、心の中で何かが爆発してしまうのだ。
「……そんなの、分かってるよ……ッ!」
いつまでも、立ち止まっていられないことくらい分かって居る癖に、それでも、現実から目を逸らして。
昔に戻れたらどんなにいいだろう、そしたらあの時の自分を殴ってでも止めてやりたい。あの子の傍に、鎖で繋いででも留まらせてやるのに。
「なんで……いつもこんなこと考えるんだろ、わたし」
過ぎたことなんて気にしてもしょうがないのは分かってるのに。ああ、駄目だ、負のスイッチ入っちゃった。早く早くオフにしないと。今日はこんなにいい天気なんだから。
そう自分に言い聞かせる。無駄なことは考えるな、暗い気持ちになるな。溜息を付くと幸福が逃げて行く。そう店長も言ってたじゃない。
それでも、無意識に漏れてしまうのは愚痴と溜息。それらが混ざった黒い感情。
「幸福が逃げて行く……か」
でも、店長。
「わたし、今、どんなことが起きれば幸福かなんてわからないんですよ……」
吹き抜ける風が痛い程冷たい。きっと今、耳を見たら真っ赤だろう。
店長お気に入りの近所にあるパン屋で、いつも通りフランスパンとその他諸々を買って店を出た。うう、寒い。折角出来立てのパンだし、早くコンビニの買い物もすませてとっとと帰ろう。てかよく考えれば先にコンビニ行くべきだった。アホかわたしは。
自分を叱責しつつ、向かい側に上手い事コンビニがあったからそのままそこに入った。ああ、やっぱり建物の中っていい。暖かさで満ちている。
「いらっしゃいませー! こんにちは!」
しかもわたしのクラウディな心と相反して、店員さんの挨拶はどこまでも爽やかで元気がいい。うう、マニュアルだと分かっていても、眩しくて目を合わせられない……。ってそんな場合じゃネって。早くのりと鋏買って帰らなくちゃ。
一分ほど店内を回ると、案外早くのりと鋏を見つけることが出来た。あれ、でも店長確か左利きだったな……。こういう鋏って大抵右利き用だけど大丈夫かな? ……まあいいか、使えなかったらその時はその時だ。お腹も減ったしこれでいいや。
そうしてレジに向かおうとした時。ふと足を止めた。
なんでそこで足を止めたんだろう、とそれから随分経っても分からなかった。けれど、運命とか、奇跡とか、そういう偶発的な事って言うのは、えてしてこう言う特に何も無い時に起こりえるんじゃないだろうか。
なんにせよ、わたしがここで足を止めたからと言って、後の運命が大きく変わったと言えば、別段そんなことも無い。だからこの状況は、わたしにとって古い記憶を呼び覚ますだけの出来事の一つでしかない。
けれど、奇跡に近かった。それは確か。
耳に入ったのは、レジに立っていた二人の店員さんの話し声。
「ね、そう言えば今週からまたパーソナリティ変わったよね」
「あ、そう言えばそうだねー。何、このグループ知ってるの?」
「うん、割と好きなんだぁ」
そのキャピキャピとした明るい言葉に、わたしも耳を店内放送のスピーカーに傾けてみる。確かにどこかで聞いた事のある声だ。店員さんの話を盗み聞きした情報だと、今年の紅白に出場が決まっている最近売れっぱなしのバンドだとか。
ああ、ようするに勝ち組ですね、ぺっと荒んだ心で唾を吐いた。溜息をつきながら足を進めて行く間にも店内放送は続いている。
『では、次のゲストは近年人気急上昇中の歌手――』
「あ、これお願いします」
そう言ってのりと鋏をレジに置く。すぐに明るい声で店員さんがお預かりしますと頭を下げた。スキャナーの音が響き、金額を言われる。ボロボロの財布の中から千円札を取り出そうとした時――それは不意打ちのようにわたしの耳を襲った。
『――ご来店の皆様、こんにちは!』
スピーカーから聞こえて来た、明るく、可愛らしい、透明な声。
その声に、耳を疑った。
その声は紛れも無く、忘れもしない――、
「ミク……?」
わたしの親友の声だった。
今回はここまでです。
読みづらい部分多々あると思いますが、よろしければお付き合いしてくれると嬉しいです。
ボカロとは珍しい…
>>23
もっと弱音さんのSSが読みたいのですが…。
短めですが投下開始します。
◆ ◆ ◆
「すごいよ、ハクってやっぱり、歌、上手だね」
「そんなことないよ、ミクの方が上手だよ」
……ク
「ううん、ハクの方が上手だよ。私、ハクの歌、好き」
「……ありがとう、ミク。わたしも、ミクの歌、好きだよ」
……ミク。
「ねえ、ハク。ハクならきっと歌手になれるよ。もっともっと、たくさんの人を幸せに出来る」
「わたしにはそんなこと出来ないよ」
……ミク。
「出来るよ、絶対」
「そう、かな……?」
「そうだよ! ハクなら、きっと――」
「……ミク!」
「おそよう、真っ赤なおめめのうさぎちゃん」
目が覚めると、そこに見知った赤い服が見えた。
「やっと起きた? この寝坊助」
「あれ……」
身体を起こして、目を擦る。頬を少し濡らしてるものの正体は何だろう。分からないまま、ぼやけた視界に映る彼女に声をかける。
「おはよ、メイコ。今何時……?」
「一時前。一応言っとくけど夜の方よ。もう終電も行っちゃったってのに、随分まあすやすや寝てるものね」
「うそぉっ!」
そう叫んで店の時計を見ると、確かにその情報には嘘偽り無く、あと五分程で一時になろうとしている。ああ、やっちゃった……。明のバイトが昼からで良かった。もし朝からだったら確実に遅刻コースが決定だ。
「あ、念のために前もって言わせてもらうと、あたしは何度も起こしたからね? それでも『ミク~、ミク~』って情けなくうだうだ言いながら目を覚まさなかったのはアンタだから」
「うっ……」
「突然人の店に来たと思ったら、いきなりヤケ酒みたいにかっくらって……何があったのよ」
メイコの呆れた言葉に、わたしはただ俯いた。グラスの中に残っていた僅かな酒を舐めると、意地汚い真似するなとメイコに頭をひっぱたかれた。
「いたい……お客なのに、この扱いはないよ」
「客として扱われたいならツケ払いなさいっての。ここはバーよ?」
「生憎手持ちがそこまでないものでして……」
「アンタって奴は……」
とある駅から徒歩十分ほどの場所にある隠れた名店、とは店主本人の弁で、そこがわたしの友人メイコの勤める小さなバー。
メイコは大学時代のわたしの数少ない……というよりたった一人の友人だった。彼女と初めて知り合ったのは、大学でのサークルの中。
メイコはわたしより二つ年上で、いつも快活でリーダーシップを取り、常に物事の中心に居た。それに対してわたしはいつもネクラでどんくさくて。そんな正反対のわたしたちだったけれど、不思議とそりがあってよく話した。
こうしてわたしが大学を辞めた後でも、彼女の勤めるバーにはよく顔を出して、その度にたかりに……もとい友人のツテで安くして貰っている。
「で?」
そうメイコが腰に手を当ててわたしに行った。その姿もまるで舞台役者のように凛とし様になっている。今日も真っ赤なミニスカートに身を包んでる女子力の高さ。カウンター中を移動中に見える白い太ももが眩しくて羨ましい。けれどわたしの在学中にはサークルで唯一彼氏の居ない人間でもあった。
姐さん気質故に男も近寄り難かったのか、はたまた高値の花だったと言うべきか。まあ早々に退学しちゃったわたしにそれは分からないけれど。
「でって……え? 何が?」
寝起きか酔いか、まだ正常に動いていない頭はメイコの言葉をすぐには認識出来ない。
「何が? じゃないでしょう。あんた、何か言いたくてここに来たんじゃないの?」
出来なかったけれど、その言葉でようやくわたしはここに来た理由みたいなものを思い出した。けれど、それをすぐに口に出すことは出来なくて。
「さっきあんたが寝言で言ってた、『ミク』って子のこと?」
「…………」
図星をつかれ、犬みたいにグラスを倒してそっぽを向くと、またメイコから容赦の無い手刀が振り下ろされた。
「いたっ……」
「他にお客が居ないからってね、そんな無防備でみっともない姿を晒すのはやめなさい」
「いいじゃん、どうせわたしなんて……」
はっとして、口をつぐむ。ああ、言っちゃった。ちらりとメイコの方を見ると、メイコは額に手を当てて息を吐いた。呆れられているようにも起こっているようにも見えるけど、この仕草は知っている。とことん付き合ってくれるときの友人の仕草だ。
「分かったわよ」
そう言ってカウンターの奥に戻ると、少ししてわたしの前に、縦長のグラスを一つ置いた。
「……これは?」
「奢りよ。そのかわり、全部話してもらうからね」
そうしてグラスの横に置いたライムをメイコが手に取る。
「本当はお客さんのお好みで、なんだけどね」
グラスの上でライムを絞り、それをそのままポチャン、とグラスの中に落とす。途端、シュワァァ、と炭酸が弾ける音が微かに聞こえた。
「ジンリッキーよ。あんた辛口も行けるからね」
「じゃあ……いただきます」
一口飲むと、炭酸の痺れが喉を刺激した。その後にライムの風味が口の中に感じられる。
「うん、美味しい。さっぱりしてる」
「じゃあ、次は自分で頼んでね。そんときは好きにライムを潰させて上げるから」
「これ、自分でやるの?」
「本当はね。飲み手が好きに潰して味を変えて行くのよ」
「わたしから楽しみを奪うなんて……」
「驕ってもらって何言ってんのあんたは。さ、話しなさい」
「うん……」
それでも口ごもるわたしに、今度は母親のような笑みでメイコは言った。
「……そのカクテルの言葉、知ってる? ――『素直な心』って言うの」
どきっとして、手に持ったグラスに目をやる。その中では小さな泡がぱたぱたと忙しなく弾けていた。
舌の上に残る後味を思い出して、ああ、そっかと思う。きっとこの喉を刺激する泡と、ライムの苦みが、胸に沁みるほろ酔いと共に、飲み手の心を開くのだ。
そう言えばメイコはことあるごとに、ここでわたしに様々なカクテル言葉を教えてくれた。辛い時、悲しい時、楽しい時、そんなにもカクテル言葉なんてあったのかと驚く程に、決して気取ること無く、ごく自然に、その時に会った言葉のカクテルをわたしに薦めてくれていたっけ。ま、結局わたしはほとんど覚えていないんだけれど。
なんだか胸の奥がくすぐったくなって、思わず笑みが溢れた。
「ありがとう、メイコ」
「お礼言うなら、全部話してから、ね?」
メイコには適わないや。
苦笑し、もう一度グラスに口を付ける。そして口を開いた時、十年前から……いや、もっと前から、濁流のようにあの頃の記憶が流れ込んで来た。
◆ ◆ ◆
――ミク。
わたしの実家の近所に住んでいたらしい、わたしよりも四つ年下の女の子の名前。
子供の頃から気が弱くて、いつもうじうじしていたわたしに友達なんて出来る筈も無くてね、人気の無い小さな公園で一人歌を歌ってたの。そこで、初めてあの子と出会った。……奇跡みたいなものだったかな。あの子と会うことが出来て、むしろ、今まで虐められてて、友達が出来ていなくて良かったなんて思うくらいだったから。
ああごめん、戻るね。
小学校4年生、だったかな。その日もわたしはいつものように虐められていて、一人で泣きながら家路を歩いていた。けど、泣き顔をしたたま家に帰るのも嫌で、夕暮れの中、誰も居ない公園のベンチに座ったの。
近くにもっと大きくて遊具の沢山ある公園があるからか知らないけど、滑り台と砂場と小さなブランコしかないその公園はいつも人気が無くてね、わたしにとって唯一心の安らぐ場所だった。家もね、あんまり好きじゃなかったし。
辛いことがあった日、悲しいことがあった日――そんな日は、いつもこの公園に来ていた。そして、一人でリサイタルを開いていたの。
……今思えば、若さ故の過ちって奴よね。あんな恥ずかしいことよく出来てたと思うもん。でも、わたし大好きだった。夕焼け空の下で両手を広げて歌うこと。この世界に自分一人だけのような、そんな雄大な気分になれるの。
歌は凄い。ギターもピアノも好きだけれど、わたしは一番歌が好きだったよ。
歌って言うものは、自分の口以外何も要らないもの。喉を使って、音を反響させて、そこから生み出される、他の誰にも出来ないわたしだけの音楽。生み出す音を、何よりもリアルに感じる、一番の楽器だったから。
嫌なことも、辛いことも、全部、全部お腹の中から、喉の奥から、口から全部吐き出して。
歌い終わると、いつも心が軽くなった。それで誰も居ない観客席に向かってお辞儀をするの。そして、いつものように帰ろうと思った時、後ろから小さな拍手が突然聞こえたの。
驚いて、振り向いた。そこにいたのは、エメラルドのように綺麗な翠色の髪を持った、小さな女の子。
――それが、わたしとミクの、初めての出会い。
その時は、ただ恥ずかしくて、わたしは逃げるように……って実際逃げちゃったんだけど、家に帰ったの。
自分の歌を聞かれるなんて、顔から火が出る程恥ずかしてね。親の前でも歌ったこと無かったもの。だからもうあの公園に行くのは辞めようかとも思ったけど、やっぱり嫌なことは続いて、我慢出来なくなって、結局二、三日日後にわたしは再びあの公園に足を運んだの。
きょろきょろとあたりを挙動不審に見回すわたしの背中が叩かれ、悲鳴を上げた。振り返ると、あの子が初めて見た時と変わらない笑顔で立っていて、そして言ったの。
「おねえちゃん、今日もうたってくれるの?」
そう、ね、輝く笑顔で、透き通るような無邪気な声で。
「わたしのうた……聞きたいの?」
そう尋ねると、その子は花が咲いたように顔を明るくさせて、大きく頷いたの。
「うん! すっごく!」
繕うことも無く、正面から言われたその笑顔が、心から嬉しくて。
そうして、人生で初めて観客の居るリサイタルを開いた。歌が終わるたびに、彼女はもう一曲! とせがんできて、結局喉がカラカラになるまでその日は歌ったの。歌いすぎて喉は痛かったけど、その日の帰りは、今までにないほどに心が軽くなった気がしたんだ。
……初めて味わう気持ちだった。いつもはね、心が軽くなって、スッキリするだけだったの。でも、その日は心が軽くなるだけじゃなくて、じんわり温かくなった。比喩じゃなくて、本当に温かくなったの。
「わたしね、未来(みらい)って言うの」
別れ際に、その子はそう教えてくれた。素晴らしい『ミライ』が訪れるようにと父親が付けてくれた名前だと言う。
「でもね、お母さんとかは私のこと、『ミク』って呼ぶ方が多いかな。そっちの方が可愛いって。最近はお父さんもそう呼ぶよ」
「そっか。『未来』って『ミク』とも読めるもんね。じゃあ、わたしもあなたのこと、『ミク』って呼ばせてもらおうかな」
「うん、呼んで呼んで!」
「でもいいなあ、わたしなんて、『シロ』って呼ばれてるんだよ? まるで犬みたい。嫌になっちゃう」
「『シロ』? なんで?」
「見た目通りだよ、ほら、わたし髪の毛白いでしょ?」
「ふーん、おねえちゃんはその名前はキライなの?」
「……うん、好きじゃない。この髪の色も、真っ赤な目も」
「なんで?」
「なんでって……みんなと違うもの。こんな、白い髪と真っ赤な目、バケモノみたいってみんな言うもの」
「わたし、好きだよ」
一拍の合間も無いその返答に、息が詰まった。
「だって、すごく綺麗だよ? ビー玉みたいで。それに、髪の毛もずっと触っていたいくらいサラサラだよ? わたし、おねえちゃんの髪も目も、全部好きだよ?」
「…………」
自分の容姿が誰よりも嫌いだったんだ。物心付いたときから、わたしと同じ見た目の子なんて見たことが無かった。みんながわたしを怖がって、遠ざけて、疎外した。
その内、自分でも自分はバケモノなんだって思えて来た。他の人と違うんだ、だから、独りでいることは当然のことなんだって思ってた。だけど、あの子の言葉を聞いた時、わたし、初めて気がついたんだ。
わたしは、友達が欲しくてしょうがなかったんだって。誰でも良かった、けれど、誰か一人でいいから、『わたし』を受け入れてくれる人が欲しかったって。
思わず泣いちゃったのを覚えてるよ。だって、今までそんなこと、言ってくれた人なんて誰一人も居なかったもの。わたしの姿を見て、それでも好きと言ってくれる人なんて、誰も。
でもね、あの子はわたしが泣いてるのを悲しいからだと思ったみたいで、必死に元気づけようとしてくれたみたいなんだ。
それでね、うんうん言いながら、ふと手を叩いて言ったの。
「あ、じゃ、じゃあさ、『ハク』って言うのはどうかな?」
「『ハク』……? え、なんでわたしの名前……」
「え?」
「う、ううん、ごめんね。……どうしてハクなの?」
「うん、私ね、最近漢字もちょっとずつ習ってるんだよ! 『白』って漢字は『ハク』って言う読み方もあるでしょ? ね、こっちの方がかっこいいよ!」
「ハク……ハクかぁ……うん、いいかも」
「決まり! じゃあ――」
そうして、わたしたちはその日から、
「今日からあなたの名前はハク!」
――ミクとハクと言う、友達になったんだ。
ミクはわたしとは何もかも違った。ミクの笑顔は太陽よりも明るくて、どんなことにも物怖じしないで進んで行く明る子だった。きっと、誰からも愛される、お日様みたいな子だったの。それに比べて、わたしはいっつもうじうじしていて、臆病で、ミクと居る時くらいしか笑わない子だった。
けれどね、不思議とわたしたちは反りがあったの。ホントだよ、自分で言うのもなんだけどね、きっと世界中のどんな仲良しよりも仲が良かったと思ってる。
始めは、あの子の持っているエネルギーに戸惑いを隠せてなかったけれど、それも本当に始めだけ。いつの間にか、わたしにとって、ミクはこの世界の誰よりも大切な親友になっていたの。
……って、もっともさ、それまでわたしに大切な人なんて居なかったから当たり前なんだけれど。
今でも……ミクが居なければ、わたしはこんなものじゃなくて、もっともっと底辺の、それこそ犯罪でも犯して頭に布を被せられる人間になっててもおかしくないんじゃないかって時々思っちゃうんだ。
そうでなくても、一生部屋の中に籠りきりで、気がついたら死んでいたような若者の一人になっていたかもしれない。
あの子は、わたしに人と接することの大切さを、友達と過ごす時間の楽しさを、わたしが知らないものを、出会うたびに与えてくれた。あの子がわたしに与えてくれたものの大きさは、きっと、どんな大きな定規でも測ることは出来ないよ。
わたしとあの子が会うのは、決まって学校の終わった放課後の公園だったの。
あの日から、あの公園はわたしだけの場所ではなく、わたしとあの子だけの場所になった。ただ、わたしたちはあそこで、歌って、話して、そして笑い合ったんだ。
ただそれだけの関係だったけれど、少なくとも、わたしにとっては他の何よりも濃密で鮮やかで楽しい時間だった。
実はね、わたしが上京して高校に進学するまで、わたしたちはお互いに自分たちのことを名前以外知らなかったんだ。びっくりするでしょ? 手紙のやり取りをし始めたのも、わたしが引っ越してからで、それまでは、そんなことをしなくてもあの子と直接逢っていたから。そんなことを教え合うことさえ、少なくともわたしは考えてなかったんだ。
思えば、わたしはあの子がどの学校に通っていたのかも知らない。どんな家に住んでいたのかも、どんな生活をしているのかも、全く知らない。
けど、それでもわたしたちは親友だった。話す必要も、聞く必要も無いと思っていた。わたしたちの間にある、歌って言う絆。それだけあれば、他の何も、必要ないと思っていたから。
ただ、お互いの顔を見て、話して、歌って、笑って、それだけで、わたしはこの上無く満たされていたの。
……そして、わたしは、それを全部、全部、何もかも――
◆ ◆ ◆
「捨てて……来たの」
気がつくとグラスは空になっていた。口の中にライムのほろ苦い味が残っている。
昔話の終わりに、メイコがふぅ、と短く息を吐いた。
「なるほどね。……まああんたの過去にそんな出来た友人が居たってことが一番の驚きかな」
「今の話を聞いての感想がそれ……?」
「そうでしょ? だってあんたはそんな素晴らしい友人との繋がりを一方的に棄てて来たような奴なんだから」
「……ッ!」
「ミクって子は、ずぅっとあんたを応援しててくれたんでしょ? でも、あんたはその応援をずっと無視し続けてたわけじゃない」
返す言葉も無い。メイコの言うことはいつも正しくて、それでいて、容赦がない。嘘偽りが無く、だからこそなにより心に響く。これ以上無く、ぐさぐさとわたしの身体を串刺しにして行く。
「あんたはさ、怖かっただけでしょ? その子の期待に添えないことがじゃなくて、その子に失望されることが」
「…………」
「似てるようだけどさ、全然違うよね。その子の傷つく顔が見たく無いからじゃなくて、あんたがその顔に傷つきたくないだけでしょ」
責めるようでもなく、メイコは淡々と言う。だから、痛い。
「分かってる。悪いのは全部わたしだってことくらい……。でも、もうあの子に、わたしはあっちゃいけないと思うの……」
「……もう、歌えないから?」
そのときだけ、メイコは労るような細い声で聞いて来た。けど、その質問には答えなかった。
「……今更、どんな顔して会えばいいか分からないよ」
「あんたさぁ」
そこで、初めてメイコは直前の細い声が嘘のように、心臓が冷えるような低い声を出した。思わずひっと小さく悲鳴を上げる。
「あんたの中の『親友』はさ、歌えなくなったあんたを見て、『うわー、ガッカリー』なんて言うような子なの? あたしが今聞いた昔話の中ではさ、その子はあんたの為に笑って、あんたの為に泣いてくれるような子だと思ったんだけど、違うワケ!?」
マシンガンのような怒声に、言葉を失った。がん、と頭を殴られたように感じたのは、多分酔いのせいじゃない。アルコールなんか一気に消えた。
「あんた、やっぱりコミュ障だわ。その子が、何に一番悲しむのか全ッ然分かってない!」
「一番……?」
「……ここまで言っても分からないなら、ホントにあんた救いようが無いよ、ハク」
最後にそうメイコはばっさり言いきり、グラスを片付けた。そうしてカウンターの奥で、黙々と仕事に戻ってしまった。残されたわたしは、どうすることも出来なくて、カウンターに突っ伏した。頭の中では、メイコの言葉がぐるぐる回る。
ミクが悲しむこと。そんなこと、今までわたしは何か考えたのかな。ミクが笑顔だと、わたしも嬉しくなった。ミクが泣くと、わたしも悲しくなった。だから、ずっと笑顔で居て欲しかったただ一人の親友。
――ずっと応援してるからね!
……いつからだろう、あの子の笑顔を、あの子の言葉を、素直に受け取ることが出来なくなったのは。
けど、それは全部自分のためだった。虚勢をはって、自分を偽って、ずっと、ずっと、あの子が憧れていてくれるハクでありたかったから。髪の毛一本程の、最後の繋がりを断てないのもそのため。
ああ、やっぱり。
「わたし……バカだ、どうしようもなく……」
滲んだ涙が頬を伝って下に落ちる。
結局わたしはどこまでもエゴイストで、自分の為にあの子の心を踏みにじり続けて来たんだなぁ。
「ミク……」
あなたは、今のわたしを見て、怒るかな。それとも呆れて笑うだろうか。……わたしは……。
「ごめんね、メイコ。帰るね」
「そう言うと思って、さっきタクシー呼んどいたから、そろそろ来るよ」
「……適わないや、メイコは本当にしっかりしてるね」
「出来の悪い友人を持つとね、嫌でもそうなるのよ」
「……メイコ」
「何よ」
「今日は、本当にありがとう。話、聞いてくれて、凄く……凄く、嬉しかった」
「……そんな風に、正直に言って来る奴だからほっとけないのよ……バカ」
「? 何か言った?」
「別に。ま、髪の毛ほどでも感謝してくれているのなら、今度ここじゃないとこで飲みにでも誘ってよ。勿論、あんたの奢りでね」
ひらひらと手を振るメイコに、もう一度心の中でお礼を言った。途端、店の外でぷぷっ、とクラクションの短い音が聞こえた。
「ん、来たみたいだね」
「うん、じゃあ、またね」
階段を登り、店の扉を開ける。外では街頭に照らされた空色のタクシーが一台、寂しげに止まっていた。
扉を開き、座席に座る。自分の家の住所を伝えると、急激に眠気が襲って来た。
……今更のように後悔しても、あの子の心を踏みにじった過去は消えないし、あの子との距離はもう縮めることは出来ないのかもしれない。
けど、もし、もしも許されるのなら。
「もう一度だけ……あなたと……」
会いたい。そう口にした時、まどろみの中、わたしの視界はゆっくりと闇に溶けて行った。
今回はここまでです。
◆ ◆ ◆
◆ ◆ ◆
『初音ミクさんのアルバムは現在――』
「ね、この初音ミクって子、中々いいね」
「ねー、不思議な歌声。あたし結構好きかも」
同じコンビニでそのような会話を聞いたお昼過ぎ。スピーカーから聞こえる透明な歌声に、思わず頬が緩む。
広告混じりの店内放送に、そっと耳を澄まし、ミクの声に耳を傾ける。忘れもしない、この透き通るような歌声。
「随分、遠くの存在になっちゃったんだなぁ、あなたは」
呟き、レジに向かう。
不思議と、今は少しスッキリしている。メイコにガツンと言われたことが引き金になっているのは情けないけれど、今は少し……ほんの少しだけ、あの子に対して、怖い気持ちが無くなって来ている。
「……ま、会いたいと思っても会える身分じゃ無くなっているけどね」
店を出て、そう苦笑した。
すごいなぁ、ミクは。
ミクはまだ、売れ始めたアイドル歌手みたいなものであるけれど、その人気は少しずつ、しかし確実に伸びて来ている注目の若手歌手の一人となっている、らしい。
彼女の人気の理由の一つに、ある独特な方法で活動をしていることが挙げられるらしいけど……。
「音楽からも大分遠ざかってたからなぁ、わたし」
と言うよりTVも碌に見ず、ネットでは深夜アニメを見漁って居るわたしであるので、そこらへんの情報は、日の丸印の扇子を持った妖精が踊り出すくらいさっぱりだ。
今度メイコあたりにでも聞いてみようかな。仮も大学では音楽部のメンバーであるのだし、何か知っているんじゃないだろうか。
ああでもそろそろツケの清算を催促されているからなぁ……。
などと能天気な考えをほわほわしていた私に、メイコが怒鳴り込んでくるのは翌日の夜のこと。
「――ハク! どう言うことッ!?」
「えー……と、何が? まず主語を入れて下さい、あと我が家は土足厳禁です」
泣く子も黙る剣幕で我が愛すべきボロアパートに乗り込んで来たのは今日も素敵な赤いミニスカメイコさん。
姐さん、それ意外に服持ってないんですか。ちなみにわたしは色気もクソも無い無地の黒い長袖で下は高校の時のジャージです。
自分でも女捨ててると思う格好だけれどお金が無いからしょうがない。
ああ、この麗しい格好のメイコが眩しく見える……。しかし本日はどうも様子がおかしい。更年期ですかと軽口を叩きたい所だけど、多分殴られるのでよしておこう。
「ああ、ごめん、つい興奮して――ってそうじゃなくて! あんたが言ってたミクって子、ひょっとしてあの『初音ミク』!?」
あの、と言うものはどのものなのか分からないけど。けどまあそんなにそんなに『初音ミク』などと言う漫画のように可愛らしい名前も無いと思うので、『多分そう』、と頷くといきなり顔面にパンチが飛んで来た。
「ぐふっ……、な、何故に」
「ご、ごめん、色々抑えきれずに――ってホントに初音ミクなの!? うわー……、うわー……」
「うう……酷いとばっちりを受けた気がする。と言うかそんなにあの子有名人なの? 売れ始めたばかりって聞いたけど」
「どんだけ謙虚な噂なのよそれ。まあたしかにネット廃人のあんたが知らない程度の知名度だけど、日増しにあの子のメディア進出は大きくなっているのよ? まあCDとかがすぐに出たりしないのはあの子の活動に色々難しい所があるからなんだけど――ってそうじゃなくてね!」
ううむ、今日のメイコは随分興奮している。しかしそこまであの子が有名人だったとは、成長したんだね、ミク。……ふふ、それに比べて私なんて。
「かつてわたしを応援してくれた子が今やメイコも驚くアイドルマスター……。色々あったけど、わたしはもう駄目かもしれません、いじいじ……」
「ああもう、勝手にネガティブゾーンに入るんじゃないの! それにマスターはプロデューサー側でしょうが! まだあんたに色々言いたいことがあるって――」
ピンポーン。
そこで三回に一回はならない我が家のチャイムが鳴った。どうやら今日は気分がいいらしい。私に覆い被さらんばかりに興奮したメイコを押しのけ、急いで玄関に向かう。
しかしはて、こんな時間に誰だろう――と思った所で、見た目は子供、頭脳は大人の名探偵ばりに、わたしの頭にピキーンと走る戦慄。同時に身体は無意識に勢い良くバックステップを踏んだ。
「……ハク? あんた何して――」
「静かにッ!」
「もがっ!」
言葉を言い終わる前にメイコの口を塞いだ。――何故か、簡単である。
私の直感が告げている。何かこの扉の向こうから、凄まじくヤバいオーラを感じる。
決して私の右目の何かとかがとかそんな中二病めいたことを言っている訳ではなく、何かマジにヤバいものを感じるのだ。
まず、そもそも私のような知り合いの数など片手で足りそうなぼっちの部屋を訪ねてくる人間の可能性を考えてみよう。
うん、友人はメイコくらいだし殆どいないね! ……言ってて凄く悲しくなるなあ……ぐすん。
兎に角現状を整理して考えてみよう。
まずもっとも高いのが、新聞を始めとしたセールスだ。しかし私にはそんなものに払えるお金など皆無であるので、最近は金が無いと向こうも認識したのかめっきり減った。何より今は夜の八時過ぎ、流石にこんな時間にセールスは来ないだろう。
そして次に浮かんだのはAmazonの荷物をお届けに来てくれたクロネコさんだけど、生憎今月は(今月も)金欠で、何かを注文した記憶は無い。
NOセールス、NO宅急便。この二つの公式が導き出す回答は――、
「間違いない、家賃の取り立てだッ!」
「……ハク、あんた」
心底呆れ果てた――と言うより養豚場のブタを見るような目をしたメイコの言葉も頭に入らない。嗚呼、ついにこの時がやってきたのか!
「あああ、ごめんなさい、大家さん。でも今月も生活苦しい上に、メイコに酒代を奢らされそうになっているんです。そんな空を飛べないわたしの羽をこれ以上むしらないで下さい! 飛べないハクはただのハク! ブタと呼んでも蔑んでもいいので家賃だけは勘弁して下さいいいい!」
「ハク、あんたどんな生活してんのよ……マジで」
メイコが本気でドン引きしているけれど、わたしとてここは譲ることが出来ない。ちっぽけなプライドでメシが食えるなら誰とて苦労しないのだ。
今大家さんを我が砦に迎えてしまっては、きっとわたしは破滅! 『払えないならちょっと危険なお仕事してもらうしかないねぇ』とか言われて風俗店に売り飛ばされてしまう!
身も心もこれ以上にボロボロにされて、路地裏でボロ布のように朽ち果てるのだけは嫌! 日本人である以上、畳の上でわたしは死にたい!
「ハク、落ち着け、いや、ホント落ち着いて頼むから。ツケならもう少し待ってあげるから」
「落ち着いていられるか! もうこれで二ヶ月家賃滞納してんのに!」
「ウチに酒飲み来るくらいなら払いなさいよそんぐらい!」
「だって先月と先々月、体調を崩して医者に掛かったから……」
悪い出来事と言うのは重なるもので、先月は風邪をこじらせ、先々月はインフルエンザに掛かったのだ。
大学を中退した時点で親にほぼ縁を切られているわたしの収入源はほとんどバイトのみで、それ即ち前二ヶ月はほとんど稼げなかったわけなのです。ぐすん。
「あんた貯蓄は……ってああ、そっか」
「……分かって頂けましたかメイコ姐さん」
「あー……もう、そんな事情あるなら大家さんも分かってくれるでしょう? もういい加減出なさいよ。居留守使うには五月蝿すぎだし」
そう腰を上げたメイコの身体を必死に掴む。それだけはさせてなるものか!
「やめて! メイコはわたしが風俗嬢になってもいいの? 親友の濡れ姿を見たいの!? 吉原!? 吉原ラメントなのぉ!?」
「アホウか! ちょっとそのピンクな妄想を口から抑えろ! あんたが出ないならアタシが出るからね!」
「後生! 後生ですから御代官様ぁ!」
もういっそこのままメイコの首を絞めて落としてしまおうか、とも黒い思考がピキンとくるにも、非力な私ではメイコの進撃を止められないぞイェーガー!
わたしがメイコの細い腰に必死に抱きつく間にも、ピンポーンと言う地獄のラッパの音は鳴り響いている。
というかこれだけチャイム鳴らしても出ないんだから諦めて下さいよう!
ピンポーン……。
「あー、はいはい。今出ますからねー」
「お願い、メイコ、お願いだからぁあああ!」
ガチャリ。
「いやああああああああ!」
ああオワタ。完全にオワタ。さようなら、わたしの平穏な人生。せめてミクにさよならだけは言いたかった。友達にさよならも言えずに終わる人生なんて……。何の為に生きているか分からなかった人生だけど、お母さん、これからは波乱万丈の人生を送ることに――……あれ?
「あ、やっと出てくれた!」
そこに見えたのは、大家のおばさんのパンチパーマでは無かった。
わたしの視界に映ったのは、エメラルドグリーンの美しい髪。数年振りに鼻を通る、椿のように甘い香り。そしていつも、頭の奥底から響いていた、透き通るような美しい声――。
「ミ、ク……?」
「久しぶり、ハク!」
数年振りに出会う、親友の姿がそこにあった。
「えへへ、来ちゃった!」
彼氏の家へ突然押し掛けた少女のように、あどけない笑顔で舌を出しながらそう言ったミクの笑顔を最後に、わたしの意識は暗くなった。
「こ、こりゃあ、アンビリィバボーね……」
◆ ◆ ◆
……ク。
……ハク。
「ハクッー!」
「ひぃっ!」
目を開けると、視界一杯に宝石のように綺麗な翠の瞳が映り込んで、また意識を失いそうになる。
「もう、数年振りにあったのにいきなり気絶するなんて酷いよ!」
「え……あ……な、なん……」
あまりにもいきなりすぎて、言葉を出すことが出来ない。まるで初めてミクとあったあの日のように。そんなわたしに追い打ちを掛けるように、ミクがわたしにがばっと覆い被さって来た
メイコも酔った時に抱きついてくるけど、当然重さはミクの方が断然軽い。しかし基が貧弱のわたしは起こしかけた身体で耐えることが出来ずに、再びアパートの床にごつんと頭を打つことになった。
「でも良かった! ハク、会いたかったよー!」
「あ、あの……わ、わたし……」
「あー……こりゃあたしお邪魔虫だね。今日の所は帰ることにするよ」
等と腰を上げかけたメイコの足を、地獄に垂らされた蜘蛛の糸を掴むかのようにがしっと捉えた。
「うあっ! 虚弱なアンタのどこにそんな反射神経が!?」
いや、待って頼むから行かないで! というかこの状態のわたしを置いてどこに行く気なのですかメイコさん。ああ、ミクの髪やっぱり甘くていい香り――とかそんなこと思っている場合じゃなくて! 何!? 何なの!? 今わたしに何が起きてるの!?
え? ミク? 何で? どうしてわたしの家――あっ、年賀状出してたからそりゃ住所は知ってる――とかそういう問題じゃなくて! なんでここに来てるの? ちょ、ちょっと誰か状況説明をお願いします!
ぐるぐると色々な言葉が瞬間的に頭を駆け抜けて、わたしの頭はオーバーヒート寸前。ミクの甘い香りも相まって、視界がぐらぐらとマグニチュード10の地震を起こす。孤独で殻に籠るわたしは岩タイプ。わあ効果はばつぐんだ! ――ってアホか!
「んじゃことの顛末はまた後日聞かせてねーー」
そんなわたしを放置して(掴んだ手を蹴り飛ばして)、あろうことかメイコはすたこらさっさと玄関を出てってしまった。ああ、なんて薄情者! 裏切り者! これでもミクの次には親友だと思っていたのに!
「ハクー! ハクー! 相変わらずウサギみたいだねー! うりうり~」
そんな中でもわたしの白い髪の毛をぐりぐりと弄っているミク。……ナンダコレ? ナンダコレ!?
……ああ、なんかもう、ヤバい。キャバシティオーバー? と言うか……もうブレイク寸前? これはミクに会いたいと願うわたしの深層心理が生み出した幻想なのであろうか。否、そうでなくては説明がつかない。仮にもミクは今をときめくアイドル(らしい)のに、こんな空き巣も近寄らないボロアパートに近づくはずが―-。
「いい加減現実に戻ってきてよー!」
ぺしぺしとわたしの頬をミクが叩いて、それからほっぺたをうにうにと引っ張った。
「うぇうぇうぇうぇうぇ」
「みぎみぎひだりー」
「いたっ! いたい! いたいから!」
「まーるかいてちょんっ! と!」
「あうっ!」
「あはははははははは! ハクのほっぺ柔らかいねー。五年前と全然変わってない」
「いきなりブルドック仕掛けてくるなんて酷いよミク!」
「ふふ、ようやく正気に戻ってくれたみたいだね、ハク」
「あ……」
彼女の笑顔を見て、ざわついていた心が、日溜まりの中のように温かくなっていくのを感じた。ああ、やっぱり、わたしバカだ。
こんなにも、見ただけて幸せになる笑顔から逃げてたなんて。
「……久しぶり、ミク」
「うん、久しぶり、ハク」
そう言い合ったけれど、いざこうして向かい合ってみると、どんな言葉を交わせばいいのか分からない。小さい頃は何も気兼ねなくこの子と話せていたのに。
数秒の間、色々な思いが混ざり合っていたけど、それでも、気がついたら口が開いていた。
「ミク、ごめん」
床に顔を直接つけそうなくらい、わたしは頭を下げた。ミクにあったら、まず謝ろうと、それだけは心に決めていた。心臓がドクドクと鼓動する。途端、吐きそうなくらい胸が痛くなって来た。
それでも、言わなくちゃいけない。喉の奥から、精一杯言葉を吐き出した。
「ごめん、ミク。わたし、ずっとあなたを騙してた。ずっと、歌手になるなんて夢見た嘘をついて、あなたを傷つけてた」
一度言い出すと、次から次へと言葉が溢れてくる。せき止められていたダムは、とっくに決壊していた。
「……あなたに、失望されたく無かった。あなたに、見捨てられたくなかったの」
ああ、口に出してみると、あんて弱くて情けない言葉だろう。けど、それがわたしの本心だった。ミクは、いつも希望に満ち溢れていて、わたしにとっての太陽だったのだ。
愚図で、鈍間で、不器用なわたしと友達になってくれる子なんて、ほんの一握り。ミクはその中でも、心から『わたし』と言う存在を包んでくれた存在だった。
だからこそ、わたしにとって、一番怖かったのは、彼女と会えなくなることではなく、彼女に見捨てられることだった。
「ごめん、ごめんね、ミク……」
嗚咽まじりに謝り続けるわたしの頭に、ミクの小さな手が乗せられた。
「なんで……なんで謝るの?」
「だって、わたし、ミクを……」
顔を上げた時、わたしは心臓が止まりそうになった。見ると、ミクの両目から、細い糸のように二本の涙が頬を伝って床に落ちていた。
「ねえ、謝らないでよ。ハクに何があったのか分からない。けど! 私はハクを親友だと思ってるよ!? ハクは違うの!?」
「わ、私だって親友だと思って――」
「じゃあ『見捨てる』なんて言葉使わないで!」
「っ!」
「ねえ、友達って、平等なものじゃないの? 対等なものじゃないの? やめてよ、そんな言葉を使うの。そんなの、友達の間で交わされる言葉じゃないよ!」
「……ごめん」
今更になって、わたしはミクのことを何も分かっていなかったと後悔した。わたしは、ミクを親友だと言った。心からの友だと。けれど、心の奥底では、まだミクのことを疑っていたのだ。
果たしてミクは、わたしと同じようにわたしのことを親友と思ってくれているのだろうかと。
あの輝く瞳は、果たしてわたしを、ありのまま映していてくれているのだろうかと。
なんて、馬鹿なことだろう。
「ごめん、ミク。ううん……ありがとう」
震える肩に手を伸ばし、その背に手を回し、小さな身体を抱きしめる。その時になって、ようやくわたしはそこに居る『ミク』に触れられた気がした。
五年前、別れ際に抱きしめた彼女の温もり。あの時と何も変わらない体温と鼓動が、わたしの胸に染み込んで行った。
どうして、この温もりを忘れることが出来るだろう。ああ、なんでここから離れていたんだろう。それほどまでに彼女に触れたこの時、わたしの心は言葉に出来ない安らぎを感じていた。
「……知らない間に、随分背が伸びたね、ミク」
最後に言葉を交わした時は、わたしより頭一つくらい小さかったのに、今はわたしの目線にミクの頭のてっぺんが来ている。もしかしたら、ミクに身長を越される日が来るかもしれない。
「そう言うハクは、大人っぽくなったかな……」
その視線がわたしの胸へ行っていることに気付き、くすりと笑う。ミク本人の方は、まだ年相応に膨らみかけだ。
「大丈夫、ミク。貧乳はステータスだから」
「うるさーいッ! そのメロン刈り取るよ!」
ぽかぽかとわたしの胸を叩くミクの姿に、どうしようもなく胸が満たされる。
「あ、でもさあ、どうしてここに来たの? その、ミクって色々忙しいんじゃ……」
「あー……はは、まあちょっとマネージャーとケンカしちゃって……」
そう言葉を濁すミクに、どうしたものかと首を傾げる。しかしマネージャーと喧嘩なんて、ホントにミクはアイドルなんだなぁ……。
「でもいいの、おかげでハクと会ういいきっかけになれたし……ハクが、元気でいることが分かっただけでも十分」
「うん、わたしも、ミクが元気でよかった……」
そう言った時、ミクが急にわたしに顔を近づけて来た。視界を急激にエメラルドグリーンが覆い尽くす。
「み、ミク?」
「これ……」
手を伸ばしたミクが取ったのは――
「……まだ、ちゃんとやってるじゃん」
「…………」
ボロボロになった黄色いノート。ゴミと一緒に、記憶の彼方に封印した筈なのに、何でよりよって、今日この時に顔をのぞかせてくるのだろう。思考が止まり、言葉を吐き出すことが出来ない。
無言でミクがページをページを捲る音が、まるで遠くから聞こえるような気がした。
「ハク、やっぱりあなたなら――」
その言葉が聞こえた時、無意識にわたしはミクの手からノートを奪い取った。驚いた顔のミクを見て、ようやく思考が再稼働する。
「見なかったことにして」
「どうして、だって――」
「無理だよ」
言葉に覆い被さり、わたしは項垂れる。親友に赦してもらえても、どれだけ励ます言葉をもらっても、もう、ミクの望むわたしにはなれない。
この世には、どんなに頑張っても成し遂げられない障害があるのだ。わたしは、その障害をもう、負ってしまっているのだから。
無意識に、自分の喉に手を伸ばす。もう、この奥からは、歌を吐き出すことが出来ない。
歌うことは、もう出来ないのだから。
「……ごめんね、ミク。あんまり、詳しく言いたくないけど、わたし、もう、歌を歌える程長く声を出せないんだ。喋って、分かったでしょ? ちょっとおかしい声だなあって。わたしの喉、もう、歌うことは出来ないんだ」
喉が震えるのは、多分痛みのせいだけじゃない。言わなくちゃいけないことなのは分かっていた。けれど、いざそれを伝えると、心の底から震えが起きて来る。忘れていたこと、忘れようとしていたことが、否応無く頭をよぎる。
うっ、と吐き気を催した。なんで、なんで思い出してしまうのだろう。もう思い浮かべたくないのに、全部忘れてしまいたいことなのに。それでも、この喉に痛みを覚える度に、黒い影が頭に浮かんで。
「――ハク!?」
視界がぐらりと揺れて、身体が倒れる。ああ、久しぶりに会ったのに、わたし、どうしようも無く情けない。
◆ ◆ ◆
夕焼け空が遠くに見える。これは子供の頃の記憶だ。この公園は、この時間、いつも日の光をマンションの背に出来るので、光に弱いわたしにとって過ごし易い隠れ家だった。
いつもは眩しくて見えない太陽を、遠目に感じることの出来る時間。真っ赤に染められた舞台で、わたしたちは歌う。
だけど、あれ? 変だな、上手く声が出ない。いつもはあんなに大きな声が出せるのに。
ねえ、ミク、どうしてだろう? わたし、今日ちょっと調子悪いのかな?
横を向いた時、そこにミクの姿は無かった。黒くて、大きくて、ゾッとするようなものが、わたしをじっと見ていた。途端に、夕日は闇に包まれて、真っ暗な世界にわたしはひとりぼっちになる。
何、何なの? やめて、こないで。
言葉は闇に響くこともしなかった。言葉を吐き出すよりも前に、その黒い影がわたしの首を握り締めた。息が出来ない。まるで深い海の底に沈んで行くかのように、身体が重くなる。
嫌だ、嫌だ、嫌だ!
やめてよ、お願いだから、わたしから奪わないで。
わたしにはもう何も残ってないの! あの子が憧れていたわたしの欠片は、もうこれしか――。
「――ッ!」
ハァハァと息を切らして身体を起こす。心臓が痛い程鼓動していた。今にも吐きそうな不快な気持ち。また、夢を見ていたのだろう。覚えていなくてもすぐに分かる。この喉を鈍く刺激する痛みがそれを物語っている。
「もう……一年も経つのに……ッ!」
悲しくて、悔しくて涙がこぼれる。胸を抑えたわたしの手に、そっと小さな手が重ねられた。
「!」
「ハク、起きた?」
「ミク……」
ああ、夢じゃなかったんだ。ホントに、今、ミクが居るんだ。
「……魘されてたよ、大丈夫?」
闇の中で心配そうにわたしを見つめる翠の瞳に、泣いた顔の頬が緩む。
「大丈夫、ちょっと、悪い夢を見ただけだから……」
窓の外は真っ暗になっていて、暗い部屋の中で互いの影はぼんやりと見えた。
「今……何時くらいかな」
「多分、三時くらいだと思うよ」
「……ずっと、居てくれたの?」
そう訪ねると、小さな手がぎゅっとわたしの背に回った。
「離れられる訳、ないじゃん。何年振りだと思ってるの」
十二月の始め、暗闇の中、暖房のついていない部屋は仄かに肌寒い。けれど、こうして今、彼女と肌を重ねているこの時は、きっと、わたしは世界中の誰よりも優しい温もりに包まれている。
気がつくと、すぅすぅと可愛らしい寝息が腕の中から聞こえて来た。あどけない寝顔が闇の中でも浮かんで見えた。
微笑み、その額にキスをする。
「……おやすみ、ミク」
◆ ◆ ◆
チュンチュンと小鳥の鳴き声が窓の外から聞こえる。まるで絵に描いたような爽やかな朝。カーテン越しに柔らかい日差しを受けて目が覚めた。
薄く開いた視界に、散らかり放題の部屋が映る。寝起きの頭のまま、目をぐしぐしと擦ると、台所の方からガンガンとフライパンを叩く音が聞こえて来た。
「あ、ハク起きた? 朝ご飯、出来てるよー!」
「わぁ……凄いね」
ちゃぶ台の上に並べられた朝食に、素直にそう言った。ベーコンエッグに、サラダ、炊きたてご飯にお味噌汁。スタンダードだけれど、カラフルでとても温かいメニューだ。
「お口に合うといいんだけどね」
「ううん、こんなに豪華な朝食初めて……凄く嬉しい。材料はどうしたの?」
「いやー、最初は冷蔵庫の中漁らせて貰おうとしたんだけど、見事に空っぽだったから、そこのコンビニまでね、変装して行って来たの」
「あ、そうかミクって有名人だもんね」
「うん……一応マネージャーからは厳しく言われててね……」
「ご、ごめんね、そんななのにわざわざ行かせちゃって」
「い、いやいや、気にしないで! 細かいことは後にしてさ! ご飯食べよ、冷めちゃうよ」
「うん、頂きます」
「いただきます」
そうして口にした朝食は、とても美味しかった。ああ、と言うか、なんだろう、とても久しぶりにこんな気分を味わった気がする。
安心して、胸の内がじんわり温かくなって、それでいて、少しくすぐったくなるような、そんな気分。
しかし悲しいかな、ミクの料理がここまで上手いとは。始めに姿を見た時から思ったけれど、女子力も完全に負けている。
いや、このわたしにそんな力が元々あった訳ではないけれど、それにしてもますます自分が情けなくなると言うかなんと言うか……。
「どしたのハク?」
「いや、ちょっと自分の魅力の無さを再確認している所……」
「相変わらずネガティブな所あるねー。ハクは素敵だよ?」
「あはは……ありがとね」
「むー……。ホントに誰よりも素敵なのに……」
素敵、かぁ。それって親友補正なのかな。今のわたしは、何も無いフリーターでしかないのに。どうしてミクはわたしをそう言ってくれるのだろう。
……ってダメダメ! 昨日反省したばかりなのに、せめてミクの作ってくれた朝食くらい、美味しく明るく食べなくちゃ!
そう思って味噌汁のお椀に手を伸ばした時、思わず吹き出した。
「ミク、相変わらずネギ好きなのね」
「当然」
わたしの言葉にミクはむしろ誇るように胸を張った。
「ネギはわたしの主食だからね。ダイエットによし、美容によし、そしてなにより可愛い!」
「最後のには同意しかねるけど」
美的センスも相変わらずだね。
「ご馳走さまでした」
「お粗末様でした」
「ミクは……どうするの、これから」
若干引きつつもそう尋ねた。そもそもミクの目的がよく分かっていない。マネージャーと喧嘩したにしても、仕事はやらなくてはいけないのだろうし。
そう思っていたら、ミクは不思議そうに首を傾げて言った。
「え? 私のこの荷物見ても分からない?」
そこで初めてミクの横に見慣れぬ黒いボストンバッグを見つけた。中身がぱんぱんに詰まっていて、今にもはち切れそうになっている。
「……? えーと、その荷物は?」
「ここの部屋でしばらくお世話になろうかと」
「……え?」
「ふっつかものですが、よろしくお願いします」
「え――――――――――っ!」
そんな大声を上げたのも久しぶりで、思わず咳き込んでしまう。
「だ、大丈夫ハク?」
「う、うん、大丈夫、大丈夫……って全然大丈夫じゃない!」
突如として我が家に舞い降りたエメラルドの天使は、どうやらそれでは飽き足らぬらしい。
日常が少しずつ瓦解して、歯車の外れた時間がめまぐるしく回る。
果たしてわたしの歯車は、一体どこへ向かおうとしているのだろう。
今回はここまでです。
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