小説的なやつ (35)
prologue
僕はオレンジ色の種を一粒蒔いた。
彼女がのこしたその種を柔らかい土の小さな穴に、そっと埋めた。
「夢の花は季節に関係なく咲く。
育てる人の叶わなかった夢が花の唯一の栄養となるから。
でも室温は高すぎたり低すぎたりしないようにしてね。
それと水を毎日あげること!」
彼女が種とともにのこした癖字で書かれたメモを読み返す。
もう何度目になるかも分からない。
僕は小さな黄色いジョウロで少しだけ水をかけた。
茶色い土は黒っぽくなった。
やがてプラスチック製の茶色いプランタに埋められた種は芽を出し、生長し、花を咲かせるのかもしれない。
咲かせないのかもしれない。
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しばらくプランタの中を覗き込んだ後、顔を上げて空を見た。
秋晴れの空には、細かにちぎれた雲が列状に行儀よく並んでいる。
そのうち雨が降るかもしれないし、降らないかもしれない。
ベランダから部屋の中を見れば、面白みのない僕の部屋が見渡せた。
部屋を借りたときの状態に、生活に必要なものを持ち込んだ空間。
趣味などもないため特色もない。趣味ももたない味気ない人間なのだ。
しかし、彼女の痕跡がまだ部屋には残っている。
彼女は確かにこの部屋にいて、そして僕の隣にいた。
風が吹いた。
冷気を含んだ風は、半袖シャツから零れた腕の表皮から熱を奪っていった。
もう秋になってしまった。
彼女が隣にいた夏は終わった。
1
彼女は物事の悲観的な部分に美しさを見出す人だった。
幸福より不幸に、生より死に、ハッピーエンドよりバッドエンドに、出逢いより別れに。
一度だけ一緒に行ったカラオケでも悲しい歌を唄っていた。
彼女の好む映画も何だか胸が塞ぐようなものばかりだった。
そんな彼女と出会ったのがいつなのか、どこなのか、はっきりと覚えていない。
大学に入学してからなのは確かだし、出会ったのも大学構内だったはずだ。
しかし僕らが出会うきっかけが何だったのかは覚えていない。
サークルの新歓だったかもしれないし、一般教養科目の講義だったかもしれない。
もしくは友人の友人だったのかもしれない。
全部違うのかもしれない。
大切に思っていたはずなのに。
大切に思っているはずなのに。
何にせよ彼女はいつの間にか僕の周囲にいて、いつの間にか僕の生活に溶け込んで、いつの間にか僕の隣にいた。
それは不思議としか言いようがなかった。
彼女は何者だったのだろう。
僕には分からない。
手紙の告白は何の答えにもなっていない。
僕が彼女に抱いた最初の印象はあまり良くなかったと思う。
彼女もきっとそうだろう。
彼女は何だかつまらなそうな表情で僕を見ていたから。
彼女と親しくなったのは偶然であった。
大学の食堂や図書館の席が混んでいて相席したり、一般教養科目の講義で席が近かったりして話すようになった。
話す内容は下らないことばかりで、聞いた先から忘れていきそうなゴシップじみた話や趣味の話、僕のどうでもいいような過去の失敗談など。
また僕はノートをまとめるのが苦手だからよく彼女のノートを見せてもらうこともあった。
彼女は癖字だけどノートをまとめるのが上手だった。
「臆病だね」
ある時彼女は僕にそう言った。
あの時は、彼女が財布を忘れたから僕がジュースを買ってあげて、ついでに近くの公園のベンチで話をしていた時だ。
それは確かに覚えている。
「臆病に見える……」
「だって、いつも作ったような笑いを顔に貼り付けてる。
それって他人が怖いからこびへつらっているんでしょ……。
正直言って、見ていて不快」
感情を押し殺した様子で、だからこそ迫真を持った彼女の言葉が今でも耳に残響する。
「傷つくな。泣いてしまいそうだ」
冗談だと分かるような口調と表情を作るが、実際は言葉通りの心境だった。
僕はお調子者を装うことが多々あるけれど、それは真面目に他人と関わる自信がないからだ。
僕の誠実が他人に嘲笑されるのが怖かったからだ。
それはとても吝嗇だし、なによりも臆病であることの証明だった。
「なんか卑怯だよね、そういうの。みっともない」
「放っておいてくれよ」
笑って言おうと思ったけれど少し怒気が口調に混じってしまった。
「へたくそだね。上手に隠せないなら隠さなきゃいいのに」
「これは俺なりの人への気遣いなんだ。
君みたいに物事を率直に言うとさ、怒ったり悲しんだりする人は少なくないだろ。
俺は誰ともケンカしたくはないんだ。
善良な性格だから、ね」
少し本心を混ぜながら、本心をごまかすために終わりの言葉を冗談っぽく言ったはずだ。
本当に思惑通りにできていたかは自信がない。
「だから笑顔を貼り付けるの……。
それじゃあ本当に理解してくれる人は現れないよ」
「別にそんなもの求めてなんかいない」
僕はまじまじと見つめてくる彼女の視線を逸らせようとして、別の話題を振る。
「それよりも、向こうで男と女二人で言い合ってる。
修羅場ってやつじゃないか……」
「真面目な話は嫌いなんだね」
彼女は僕の考えた通りに動いてくれるほど単純ではなかった。
僕は観念して話を戻した。
「だってさ、そんなことを真面目に論じてどうするんだよ。
今更、やめろって言われても手遅れなんだよ。
君の言う通り俺は臆病なニワトリちゃんだからさ、こういう顔しかできないんだよ。
だから放っておいてくれよ。
――おっと、男が平手打ちされた。
痛そうだな、ここまで打撃音が聞こえたぜ」
「私はあなたに真面目な顔で話してほしい。不器用でもいいから」
「何だよ、無茶言うなよな」
僕は少し不機嫌そうにそう言った。
彼女は眼線を少しだけ下げて黙ってしまった。
僕も何を言っていいのか分からなくて、無言で怒りながら立ち去っていく女の一人を観察していた。
片方が立ち去ってからすぐにもう一人の女も男から立ち去っていた。
残された男は茫然とした様子で、その場に立ち尽くしていた。
彼女に対して罪悪感が湧き上がっていた。
他人の誠実に、素直に返すことのできない自分の情けなさに苛立ちも覚えていた。
「じゃあ俺、まだ講義があるから」
僕は二人の間の気まずさと周囲の気まずさに耐えきれなくなって、適当な口実でベンチから立ち上がり彼女の下から立ち去った。
その次に彼女を見かけたのは彼女が男と二人でいるところだった。
この前、公園で平手打ちされていた男だった。
僕は何だか裏切られた気分になった。
別に僕は彼女と付き合っているわけでもないし、彼女に対して特別の好意を持っているつもりでもなかった。
それでも僕は不快な気持ちを抱えていた。
彼女は僕に気づいたようだったが、僕は気づかなかったふりを装ってその場を通り過ぎた。
今は彼女に対してまともな態度をとれるようには思えなかった。
それからしばらくは何となく物憂げな気持ちで生活を送っていた。
梅雨の天気が憂鬱な気持ちを助長させていた。
新生活を送る上での少しの無理が応えてきてもいた。
それでも僕はお調子者のふりを無意識に続けてしまう。
その度に僕は彼女の顔と彼女の言葉を思い出すようになってしまった。
自分の笑顔に対する違和感が大きくなっていた。
そのうちに自分は笑えなくなってしまうのではないかと不安になった。
それでも誰一人として僕のそんな様子に気づいてはいなそうだった。
もしくは気づいていたけれど僕なんかどうでもよかったのかもしれない。
僕たちの関係などたかが知れていた。
「お前は悩みが無さそうで良いよな」
学部の友人の無神経な言葉が感情を荒く逆撫でしても僕は笑顔を貼り付け続けた。
僕にはこういう生き方しかできないと思っていた。
実際に今までもこういう生き方をしていたのだし。
講義の終了後に彼女が話かけてきた時、僕はかなり陰鬱な思いに沈んでいた。
「最近、暗いね」
「そう……」
「うん、それに最近避けてるよね、私のこと。
前は臆病なくせに馴れなれしかったのに」
「そんなことない」
「あるでしょ……」
「そんなことは――」
僕はそこで口ごもってしまう。
いつの間にか僕は、彼女に対して軽口を叩こうとしてもできなくなっていた。
「彼と会話しているのをあなたが見てからだよね。
あの時、気づかないふりして立ち去ったでしょ……」
「そんなことしてない」
「あなたは嘘が下手だよね。すぐに分かっちゃうもの」
僕が何も言い返さずに顔を伏せていると、彼女は再び口を開いた。
「別に彼とは何もないよ。
あなたも彼が浮気をしたところを見たでしょ……。
あなたが私から逃げた後に、声をかけて相談に乗っただけ。
この前もそう」
「勝手なこと言うなよ。逃げてなんかない」
「逃げたよ」
顔を上げれば彼女の瞳と正面から向き合ってしまった。
その瞳には確信が宿っていた。
僕は彼女には敵いそうもないと思った。
「もういいよ。
お節介もほどほどにしておけよ。君の勝手だけどさ」
「別に面白そうだから声をかけただけで、親切心とか老婆心ではないよ。
むしろ野次馬根性」
「たちが悪いな。
もっといい人だと思ってたんだが」
「いい人なんかじゃないよ。
私は自分のしたいようにしているだけ」
そういう彼女は清々しかった。
少なくとも僕にはそう見えた。
けれど、きっと彼女の内心はそんなに清々しくはなかったのだろう。
「分かったよ。
それで、どんな相談だよ。
うまく復縁して二股したいって相談かよ」
「そう言っても差し支えないよ。
この前は相談ついでに私を口説いていたけど」
「随分と軽薄だな」
僕は男に対して物凄い嫌悪を感じた。
それと同時にどうしたらそんなに図々しくなれるのか教えて欲しいとも思った。
「そうだね。
彼は少し他の人を下に見ているみたい。
自己評価も高いみたいだしね」
そうでなければ二股なんてできないのかもしれない。
そうでもないのかもしれないけれど。
取り敢えず僕にはできそうもない。
「少しほっとした顔になったね。私のこと好きなの……」
彼女は冗談めかした様子で聞いてくる。
「ジュースを奢りたくなるくらいには好きだよ」と僕も冗談めかして言おうと思ったけれど、「ああ」と低い声の肯定しかできなかった。
肯定してみると、自分でも把握し切れていなかった自己の心情をすんなりと消化できた。
「君のことが好きだ」
自分でも驚くほど素直な言葉が出た。
そして、言って怖くなった。僕の誠実が否定されるのはたまらなく恐ろしかった。
僕は自分の臆病さで誰かの誠実を踏みにじったのかもしれないのに。
彼女は真面目な顔になった。
「それは冗談なの……」
「違うよ。これは、違うよ」
疲れていたのだろうか、それとも彼女にはそう言って欲しくなかったのだろうか、僕は涙目になってしまっていた。
「あなたが臆病な理由は、やっぱり、すごく傷付きやすいからなんだね」
「うるさい」
大学生になって、こんなことで泣きそうになってしまう自分があまりにも情けない。
僕は体が大きくなっただけで、実際は全く成長できていなかったのかもしれない。
彼女はあまり表には出していなかったけれど、かなり困惑していた。
それが嬉しかった。
僕の誠実は彼女に伝わっていた。
しかし、彼女は何も言わなかった。
僕もこれ以上何も言えなかった。
2
梅雨が去っていくのと同じころから彼女が僕の家を訪れるようになっていた。
彼女が僕の家に行きたいと言ったのがきっかけだった。
僕は初めのうちは無駄に緊張したり、そわそわしたり、思考を無駄に遊ばせていたりしたけれど、僕たちの間には何にもなかった。
逸って、薬局で買った避妊具はどこにあるのかも分からない。
彼女はレンタルショップから借りてきた映画をよく見ていた。
彼女の家にはテレビが無く、僕の部屋にはテレビがあった。
だから彼女は僕の部屋に来るようになったのだと思う。
彼女が見るのは、僕の知らないタイトルの映画ばかりだったけれど、僕は彼女の隣でほとんどいつも食い入るようにして映画を見ていた。
暗い影のある作品が多かった。
それらは盛大な悲劇的結末を迎えたり、明るい幸せな終わりを迎えたり、冒頭とほとんど変化のない物語だったりした。
つまらないものもあったけれど、全体的には面白いものが多かったように思う。
鑑賞後は僕が作った簡易で味気ない食事を交えながら映画の感想を述べ合った。
彼女は乾いた作品が好きだと言っていた。
例として二人で見た映画の何本かを挙げたけれど、それは僕にとってはそこまで好きな作品ではなかった。
静かなのに、視線を逸らせないほど見入らせる作品ではあったけれど。
僕は少しギャグを含んだ作品が好きだと言った。
その方がフィクションの良さを引き出せている気がするから。
「私たちはお互い感性が違ってるね」
彼女はそれを喜ばしいことのように言った。
「私たちはきっと一生分かり合えないんだろうね」
やはり嬉しそうにそう続けた。
僕はその言葉に哀しみを覚えたけれど。
映画といえば、彼女はよく同じ映画をかけていた。
そしていつも同じ場面で泣いていた。
その映画は悲恋の物語だった。
物語終盤の、売春婦に身を落としたヒロインが、汚れて老いていくのを花が枯れていくカットを使って表しているシーン。
紅いバラの花がくすみ、黒っぽくなって、水分が失われていく。
途中途中に女の苦悶の日々が無音で挿入される。
やがて花弁は零れ落ちて虚しい音を立てる。
その場面を見て彼女は眼を赤くして涙を幾筋か流す。
僕はその瞳と滴に見惚れた。
彼女が僕の部屋に来るようになってから、僕はお調子者のふりをすることが少しずつ減っていた。
おかげで少し交際が減った。
そしてその程度で切れる人間関係は特に必要なものでもないことを知った。
今年は熱い夏だった。
テレビでは引っ切り無しに熱中症で亡くなった人々を取り上げていた。
西日本では水が不足しているらしかった。
僕はアパートの近くにある区の図書館で勉強していた。
前期末試験の半ばだったからだ。
勉強に一段落つけてアパートに帰ると、彼女が円筒形のプラスチックから生える植物を抱え、僕の部屋の玄関前にうずくまっているのを見つけた。
「お帰り、今日は暑いね」
彼女の額を汗が伝っていた。
暑さに弱りながら微笑む姿は何だか美しかった。
「連絡を入れてくれればよかったのに」
「待ちたい気分だったから。
待つだけ待って、結局あなたが来ないなんてことを考えながらね」
「君らしいね。それで、手に持ってる植物はなに……」
「夢の花」
僕は彼女の言葉に首を傾げたけれど、そういう異名を持つ花なのだろうと納得した。
夢の花は、その時はまだ小さな葉をつけた弱々しい植物だった。
「それがどうしたんだ……」
「あなたの部屋に置かせてもらおうと思って」
彼女が突拍子もない提案をするのは割とよくあることなので、特にそれ以上の勘繰りはしなかった。
「取りあえず入りなよ」と鍵を開け、彼女を部屋の中に招き入れた。
彼女に合鍵を渡すべきか思案したけれど、付き合っているわけでもないのに相鍵を渡すのは不自然に思ったので、それはやめることにした。
「この花は育てた人の叶わなかった夢を養分として花を咲かせるんだって。
一度は散ったものが花として咲くなんて素敵だと思わない……」
部屋のエアコンが効きはじめた頃合いで、彼女は持ってきた植物について説明した。
「いったいどこで手に入れたんだ……」
「結構前のことだから忘れた」
彼女はベランダに植物を移した。
僕のベランダは午前の間は陽が射すけれど、午後になるほとんど日陰なる。
別にそれでもいいなら自由に使ってもらって構わなかった。
その日から彼女は今まで以上の頻度で僕の部屋を訪れるようになった。
彼女は持ち込んだ黄色くて小さなジョウロで夢の花に水を与えていた。
それから二人でアイスや僕の地元から送られてきた果物を食べたりした。
もちろん映画も見たし、どうでもいい話もした。
彼女は自分の趣味や価値観の話はしてくれたけれど、自分の過去の話については全く話さなかった。
僕は彼女についてもっと知りたいと思ったけれど、そのせいで今の日々が少しでも変わってしまうのが怖かった。
そんな予感を表皮の裏側で感じていた。
今になって、僕は彼女の口から聞くべきだったと思う。
何よりも彼女の口から聞きたかったと思う。
「ねえ、あなたの叶わなかった夢はなに……」
ある時、彼女は僕に訊ねた。
いつもの映画のいつもの場面を見て泣いた後だ。
試験がようやく全て終わり、長い夏休みがようやく始まった頃だ。
夢の花は健やかに成長していて、小さな蕾を一つ付けていた。
「今の大学は、本当は第一志望じゃなかったんだ」
少し考えて最初に思いついたのは大学受験での失敗だった。
一番新しい挫折だった。
「本当はね、今の大学じゃなくて地元の城跡近くにある大学に行きたかったんだ。
でもダメだった。浪人する勇気もなかった」
今までの人生でも挫折や失望を味わったけれど、あれほど強い失敗体験は初めてだった。
自分が必要とされないということを初めて痛感して、自分の努力が不足していたとまざまざと見せつけられた。
そして再挑戦することに対する重圧を恐れ、僕は今の大学に来た。
「でも、今の生活は楽しいから、今ではあまり後悔してないよ」
少し前までは取り繕った言葉にしかならなかったけれど、今では本当にそう思えるようになっていた。
それはきっと彼女のおかげだろう。
「あとは、高校の時の部活かな。最後の大会前に怪我をして試合に出られなかったんだ。部活はあまり好きじゃなかったけれど、あれは悔しかった」
「あなたも色々と失敗してるんだね」
「君はどうなの……。
君の叶わなかった夢はなに……」
彼女は深く沈黙した。
僕は訊いたことを後悔した。
「花が咲いたら」
「え……」
「夢の花が咲いたら、教えるよ」
彼女の口から零れた泡のような言葉に、僕はゆっくりとした首肯を返した。
そして小さな蕾に目を向けた。
僕の部屋に彼女がいる日常は、僕にとってかけがえのない日々だった。
こんな日々がずっと続けばいいのにと淡く思っていた。
見てるで
つ[缶コーヒー]
3
夏休みも終わりに近づいて、僕はいい加減地元に帰省することにした。
帰るのにもそれなりに金がかかるし、億劫だったから、盆も帰らなかったけれど、母親が帰省しないならもう仕送りをしないと脅してきた。
悩んだ末に僕は彼女に合鍵を渡した。
どうせ貴重品は持っていくし、彼女が花に水を遣れなくなっては困るだろうと思った。
帰省する間だけ、持ち帰ってもらってもよかったけれど、僕は出来るなら僕のベランダで彼女の夢の花を咲かせてほしかった。
それに、動かしたせいで、今にも開きそうな蕾が落ちたりしてほしくなかった。
「鍵はしっかりかけてよ」
「うん、しばらくお別れだね」
そう言って少し辛そうに笑う彼女を見て、胸騒ぎがした。
「戻ってきたらさ、花火を見に行こう」
僕は胸騒ぎを払拭するためにそう提案した。
「今の時期にやってる花火大会ってあるの……」
「探すよ。なかったら自分たちで買って花火をしよう」
彼女は肯いて了承してくれた。
>>19
ありがとう!
コーヒーは好きです。
地元は何も変わってなかった。
僕だけが変わっていた。
帰った日は二年前に亡くなった祖父の仏壇に線香をあげて、少しだけ豪勢な夕食を食べた。
田舎だから同級生はほとんど地元を出てしまっている上、時季外れに帰ったため、地元に残った親友の一人と遊んだ以外はほとんど家にいた。
何も変わってなかったと言ったけれど、それは誤りだ。
一つだけ大きく変わったことがあった。
実家にいる甥っ子が見違えるほどに大きくなっていた。
その変化は大きくて、僕なんか何も変わっていないようだった。
久しぶりの家は居心地がよかった。
しかし、居心地がよいだけで退屈だった。
結局、五日ほどで地元を後にした。
夢の花が咲いていた。
彼女は姿を消した。
4
「お別れです。
急でごめんなさい。
あなたには迷惑をかけたね。
夢の花が咲いたの。
あまりの美しさに少し涙が出た。
聞いた話によると、夢の花を育てた人は、咲いた花びらを見ると、叶わなかった一番大切な夢が直感的に分かるんだって。
あなたにも話しておけば良かったね。
お別れした後ですが少し私の話をさせて。
私の叶わなかった夢の話。
あなたには謝らなければいけない。
私はずっとあなたをだましてた。
私は大学生じゃない。
それどころか高校を中退してる。
更に言えばあなたよりも一つ年下なの。
本来ならば今ごろ受験生のはずだった。
けれど、今では大学生の真似事をするどうしようもない人間になってしまった。
去年、悪いことが続いた。
年の離れた兄が事故で重い障害を負った。
父親が不祥事の責任をとる形で勤めていた会社を解雇された。
母親は精神を病んでしまった。
学校で嫌なことがあった。
耐えきれなかったの。
どうしようもなく苦しくて、けれど、為す術もなくて、私は自分を偽ることにした。
そうすれば苦しみから逃げることができたから。
私はバイトをする片手間で大学に足を運ぶようになった。
大学生を演じようと思った。
自分じゃない誰かになりたかった。
そして私はあなたに会った。
あなたへの言葉は、私への言葉。
私はあなたを鏡として見ていた。
けれど、あなたは私よりも純粋で優しくて勇気のある人だと知った。
臆病で弱いのは私だった。
真面目な顔で嘘を言っていた。
結局、私はあなたの作り笑いと同様のことをしていた。
ううん、もっと酷いね。
夢の花の種を手に入れたのがいつなのか、どこなのか、はっきりと覚えていない。
きっと家族が壊れて茫然としている時期だった。
私はこの花の存在をすっかり忘れてたけれど、ふと思い出して種をまいてみたの。
すぐに芽吹き、瞬く間に大きくなった。
栄養分がよかったのかもね。
私は夢の花が咲く前から私の叶わなかった一番大切な夢が何なのか見当がついてた。
『幸せな家族が続くこと』
『幸せな生活が続くこと』
このどちらかに違いないと思ってた。
夢の花が咲いた。
叶わなかった夢が直感的に理解できた。
私の叶わなかった一番の夢。
『あなたと共に過ごす日々が続くこと』
いつの間にかあなたの存在は、私の中で大きくなっていたみたい。
そして、あなたが私のそばにいることは叶わない夢だった。
それも当然。
あなたの知る私は本当の私ではないのだから。
名前さえもデタラメ。
存在しない人間。
あなたの告白を受け入れる資格もない。
叶うわけがなかった。
私は家族とともに父の実家に引っ越すことになりました。
前々から決まっていたけれど言えなかった。
重ね重ねごめんなさい。
今までの償いにはならないけれど、夢の花の種をあなたにあげる。
私が育てたのは薄紫色の種だったけれど、あなたにあげるのはオレンジ色の種。
要らないだろうけれど、花についての簡単な注意書きも残しておくから、大事に育ててね。
あなたと私の別れが生んだ花が、想像さえ超えた美しさを見せてくれて、私はとても幸せな気持ちだよ。
さようなら。
もう会わないね。
追伸:鍵はポストに入れておきました。
花火を見に行けなくてごめんなさい」
epilogue
僕は彼女の残した置手紙を久しぶりに取り出して読んだ。
彼女の癖字が僕の自然となるほどに読んだため、今となっては内容をほとんど覚えている。
桜が花を咲かせている。
その花びらの美しさも、あの時に見た花の美しさの前では霞む。
あの夏の終わりに見た夢の花は、悲しいほどに美しかった。
すぐに萎れてしまったのだけれど。
僕が秋に蒔いた夢の花は芽吹くことさえなかった。
オレンジ色の種は土の中で眠ったままだった。
養分が足りなかったのだろうか。
それとも別の要因だったのだろうか。
今になっても分らない。
この頃になって僕は趣味らしきものができた。
休日にふらりと遠出をするようになった。
奇跡的に彼女を見つけることができないかと心の片隅で期待しているのだろう。
しかし、見つかる可能性なんて皆無だろう。
だから純粋に散策を楽しんでいる。
ただ、もしも彼女に会うことがあったら僕はこう言いたい。
僕たちの夢の花は、実を結んで、一粒の種になったよ、って。
そして彼女に、夢の花よりも綺麗な、虹色の種を手渡すのだ。
物事の悲観的側面に美を見出す彼女は、どう思うだろうか。
何を言うだろうか。
どんな顔を見せてくれるのか。
そんなことを考える。
それは、きっと、叶わない夢なんかじゃない。
ラストまでいきました!
ブキッチョな作品ですみません!
ライトな仕上がりですみません!
イチャモン大歓迎です!
ブッとんだ作品を次は書きたいです!
!
別にやったことないんですが、何となく。
読んでくださった方がいれば嬉しいです、ありがとうございます。
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