海未「蠅の命」 (44)

この日は学校を休みました。

午前中、頭の中がまるで太陽があるような熱を帯びていました。

何が原因かは分かりませんが、安静が必要でした。

母に熱がある旨を告げて、私はぼうっと布団に入って自分の部屋の天井を見つめていました。

熱を帯びた身体では、目の前が不思議に見えます。

なんの変哲もない私の部屋の白い天井でさえ、ゆうっくりと落ちて来ては、すぐに元に戻って行く上下運動を繰り返していました。

現実に幻が顔を覗かせ始めています。

私は今日の練習のことをぼうっと考えていました。

こんな状態でなければ、放課後には、部室のドアをあけ、皆に会い……皆の顔に目を向けようとする。

だけどそこまで考えると奇怪なことに回想は再び放課後に戻り、私はぐるぐると廊下を回り続けていました。

私が廊下を何度も何度もあるき、10回ほど、いや20回ほどでしょうか、部室への道を繰り返したとき、ゆっくりと目の前の明かりが消えました。

幻が姿を「はっきり」現したのです。

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私の中の現実は眠ってしまいましたが、私の意識は起きていました。

私は幻の中、自分の中を自分の足でフラフラと歩き始めました。

周囲は完全な闇でなにも見えませんでしたが、足は凹凸のない硬い地面の冷たさをじわっと感じていました

それはある意味では夢であり、ある意味では私の部屋にある現実を押しのけて、空間に充満した幻でした。

私の身体はこの幻から逃げ出そうとしていました。理由は、わかりません、水が高きから低きに流れるが如く、わたしの意識以外の全てがこの幻からの脱出を望んでいました。

それはまるで重力でした。

そしてその重力こそが私の幻に唯一ふさわしく無い、現実の残りカスだったのです。

私はゆらゆら歩き続けました。

私の伸ばしていた右手が壁にぶつかりました。壁も床と同じ、冷たさを帯びた硬い物質で出来ているようでした。壁に両手をぴったりと押し付け、私は下を向いてしばらく揺れる意識を落ち着けようとしました。

すうっと、冷たい壁は手のひらから私の熱を吸収しました。

頭の熱もどんどん吸い取られ、やがて消えました。意識を覆ってた雲は少し晴れました。

再び私の身体は現実に戻ろうと足を動かし始めました。

壁に右手を添わせながら、私は歩き続けました。

歩幅は狭く、動きは鈍く。

暫くするとシューシューと音が聞こえてきました。

風が抜けるような音です。足元からそれは聞こえました。私の身体は音の方へと向かいました。

音との在り処に近づき、かがみ込んで地面を指で触ると、ヒビがありました。

間から何かは吹き出していました。

それは重力でした。重力がシューシューとこの暗闇に吹き込んでいました。

私の身体はその発見に喜びました。やった、現実だ、現実が吹き出している、と。

しかし私の意識はひどくがっかりしました。私は幻から脱出することを望みませんでした。

やがて現実が吹き込んでくることに激しい嫌悪を覚えました。なんとかこの穴を塞がねば。

私は私の身体のスキをついて、足でそのヒビを押さえつけました。

ピタッと音は止み、行き場を失った重力の風が私の足の裏でジタバタと暴れまわりました。

私の身体はこのときばかりは従順でした。

音を消してからしばらく経つと、次第に私がいる空間の重力は消えて行きました。

私の身体は徐々に軽くなり、やがて浮き上がりました。

ヒビを押さえていた足も地面を離れましたが、もう音は鳴りませんでした。

ふわふわ空中へと、私の身体は持ち上がります。

目の前には一筋の光の粒も見えませんでした。

重力を失ってから2回ほどゆっくりと回転した私は地面の方向を見失いました。

いつか見た鳥になる夢とは違い、なんだか体の中心から空間に吊り下げられているような、小腸を引きずりだされて天井のフックに引っ掛けられたような気味の悪い飛び方でした。

まぶたを閉じます。暗さは変わりません。何度か瞬きをしました。

しかし目の前の光景は果てしのない、あるいは網膜にぴったりと張り付いた闇です。

私はまぶたも失ってから気がししました。これではいけない、と思い、腕を振りました。

太もものあたりに指先が当たりました。ああ、まだこの手は存在する。次にまぶたを触ってみました。

グニャリと、冷たい皮膚を感じました。

まだ私は生きている。私はまだ、私自身がこの虚無のなかで、唯一の現実でありつづけました。

まぶたは閉じつづけていました。何時間そうしていたでしょうか。

ふと、目を覚ますと私の部屋に戻っていました。時計は12時を少し過ぎているころでした。

熱は下がっていました。布団から起き上がり、一階におりて、少々の水を口に含みました。

口の中の粘膜が不愉快だったのでのみ込まずに一度吐き出してから、もう一度口に含みました。

今度は飲み込めました。

眠気も、疲れもすっかり取れてしまったようです。

携帯電話がメールの受信を知らせに赤く光っていたのに気がつき、手に取りました。

メンバーからのお見舞いメールです。夕方には一度家にも来るそうです。

私は黙って机に携帯を置きました。

台所に行くと、母が私に気がつきました。

「海未、もう大丈夫なの?」

「小康といったところかもしれませんが、大丈夫そうです」

本当は完全に回復している実感はありましたが、母親に余計なことを言う必要はありません。

「無理しては駄目ですよ、今日一日は大人しくしてなさい」

「はい、夕方には友人が訪れるそうですので、それまでもう一度床に就いておこうかと思います」

私は淡々と呟き、部屋に戻り、眠りにつきました。

目が覚めました。空は橙色でした。

練習が終わる時間は過ぎていたので、そろそろ彼女たちが訪ねてくる時間でした。

眠気も疲れも無いのに寝てしまったことに、一抹の罪悪感を覚えました。

しばらくすると階段を上がる音が聞こえ、ドアが開きました。

「海未ちゃん、起きてる」

「はい、起きてます」

「良かったぁ、元気そうだね」

「ことり……一人ですか」

「そうだよ、他のみんなは……帰っちゃった」

何なら不穏な表情でした。

「そうですか……ありがとうございます」

「無理しちゃダメだよ」

「無理などしてません、風邪ぐらい、ひくときはひきます」

私は意識していませんでしたが、少し鋭い声が出ました。

「うん、そうだね……これ、またクッキー焼いたの。食欲がなかったら、食べなくてもいいから……どうぞ」

キツネ色の綺麗なクッキーでした。

「ありがとうございます、後で食べておきます」

「じゃあね、あんまり長居しちゃ悪いし……また明日」

「はい、さようなら」

何故一人だったのか、私は不思議でした。

メールの贈り主は確かにことりでしたが、ハッキリとみんなで、と書いていた筈でした。

私は疑念を抱きつつも、クッキーに手を伸ばし、口に運びました。


中途半端な甘さがしました。

申し訳ないですが、やはりクッキーは多少苦手です。

しかし彼女の目が無いとはいえ、好意を無下にするのも忍びなく、私は5枚のクッキーをすぐに食べ終わりました。

食べ終えてから自分が空腹であったことを自覚しました。朝から何も食べて無かったのです。


今日はもう朝まで寝よう、そう思い歯を磨きに一階に降りました。

歯ブラシを手に取り、鏡を見たところで私は自分の異変に気がつきました。

「顔が……」

まぶたが腫れ上がっていました。頬も以前より痩せこけています。

風邪の影響かと思いましたが、一夜の変化とは思えませんでした。携帯を取りに行き、今日の日付を確かめました。

……11月8日。私が風邪で休んだ日付は4日の筈です。4日も眠っていたんでしょうか。私はその手で彼女に電話を掛けました。

「ことり」

「どうしたの」

素っ頓狂な声に、私は怒りを覚えました

「どういうことですか?私は4日も眠っていたんですか」

「何言ってるの海未ちゃん」

またとぼけていました。もう一度声を荒げました

「あなたがノコノコとお見舞いに来るのも変なんですよ、4日も学校に来ない知人に、あんなにいい加減な対応をしますか」

「……だからね」

「なんですか」

「今日は5日目、だからクッキー5枚…ごめんね」

電話は切れました。何度も掛け直しましたが、全く彼女は出ませんでした。

急にめまいがして来ました。5枚目のクッキー。

今日で5日目?彼女が私に何かをしたのは確実でした。

吐き気がします。きっとあのクッキーです。

呼吸が荒くなり、汗が吹き出し、膝から私は崩れ落ちました。

徐々に意識が遠のき、気がつくと私はあの黒い部屋にいました。

相変わらず、重力は失われたまま、私は浮かんだままでした。


再び目が覚めました。

布団の中に私はいました。

階段を駆け上がる音が聞こえました。

ドアを開けて覗いた顔は見覚えがありました

「海未ちゃん…大丈夫?」

「ことり、ええ、大丈夫です」

「良かった…元気そうだね、これ、またクッキー焼いたの、食べたくないかもしれないけど、どうぞ」

……何かが引っかかりました、「また?」

以前にもそんなことがあったのでしょうか?

しかし、頭はハッキリとせません、空返事だけをしました。

「ありがとうございます……頂いておきます」

「じゃあ、長居したら悪いから……明日は学校、来れる?」

「ええ、大丈夫そうです」

「よかった、じゃあね」

「さようなら」





クッキーに手を伸ばしました。

6枚もありましたがサイズも小さく、その日は何も食べていなかったので、すぐに胃袋に収まりました。

ゆっくりと、また目が閉じて行きます





目が覚めました。クッキーが7枚置いてあります。

私は7枚とも食べると、すぐに再び眠りにつきました。

この日はなぜかことりの声が聞こえた気がしました。




目が覚めました。クッキーが8枚ありました。

私は何をしているんでしょうか。

8枚とも食べて寝ました。




目が覚めました。

クッキーが9枚ありました。

食べて寝ました。






目が覚めました。

クッキーが10枚ありました。

食べて寝ました。






目が覚めました。

クッキーが11枚ありました。

……食べて寝ました。







夢の中の黒い空間で、私は涙を流していました。

空に浮びながら流した涙は、私の身体をポロポロと離れていきます。

闇の中に消えた私の涙は、二度と拾えません。






目が覚めました。クッキーが12枚ありました。

……食べる気がおきませんが、彼女(誰?)の好意を無下にするわけにもいかず、3枚だけ口にして、眠ろうとしました。

しばらくして吐き気をもよおし、私は近くにあった紙袋に、すべてを吐き出しました。

頭が中からハンマーで殴られているような激しい頭痛を感じ、私は叫び声をあげました。

教会のベルの音でしょうか?ガンガンとけたたましく窓の外で鳴り響いていました。

私は、倒れるように眠りにつきました。





ずっと眠っていた気がします。

目が覚めました。

クッキーが50枚近く置いてあります。

私は眠りました。






再び私はあの場所で浮かんでいました。

私は……ことりのことを思い出しました。

きっと、あれは私のために、すべてが確信に変わりました。

謝りたい気持ちで、私はいっぱいになりました。

すると、黒い部屋がふっと、重力を取り戻しました。

私は勢いよく落下していきました。

壁か、天井か、床か。何れにせよ固い面に叩きつけられた私は強く身体を打ち、そのままピクリとも動けませんでした。

踏まれたアリのような、そんな惨めな姿で、私は冷たい地面にボタボタと涙を流し続けていました。



おわり

多少解説します

海未ちゃんはすでにお墓の中です
魂はまだ生きていて、お墓の中で混乱しています
自分はまだ生きている、ちょっと調子が悪いだけだ、すぐ治る、と錯覚しています
海未ちゃんは必死に自分は自分の部屋にいると信じ込みますが
少し気を抜くとお墓の中の暗い世界に戻ってしまいます
肉体は滅びることを望んでいます
魂はそれを望みません、なので現実(重力)をふさいで、フワフワと魂だけ遊離しています
一連の海未ちゃんの行動も会話も全て魂が捏造した記憶です

ことりちゃんは毎日お墓参りにきます
ことりちゃんだけは毎日1枚ずつクッキーをお供えします
他のみんなも来ますがお供え物がないので気がつきません
クッキーは当然、毎日増えていきます
海未ちゃんは食べ切ったつもりでも、現実にクッキーは減りません
海未ちゃんは記憶が1日しか保存されません
なのでことりちゃんが持ってくるクッキーの量は毎日増えて行くように見えます

海未ちゃんは現世のものを概念だけとはいえ、摂取し続けて、吐き気に襲われます
クッキーが50枚になったとき(50日目)海未ちゃんは自分の死をハッキリと自覚します

その瞬間自分が死んだという現実(重力)が一気に溢れだし、魂と共に本当の意味での死を迎えます
ことりちゃんに謝りたいと思ったのは毎日のお墓参りに感謝したかったからです
しかしその感謝は同時に自分の死を認めることになりました




だいたいこんな感じです



このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2014年11月16日 (日) 00:23:08   ID: 5CyvZv4F

何で死んだのか書いて貰えるとありがたい

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