P「戸春」 (14)


 どこにでもあるようなマンションの3階、階段から右に進んだ三番目の部屋、そこが今の家だ。

 駅からそれなりに近く、事務所まで一時間もせずに到着できるこの家。

 家賃はまぁ……それなりに。それでも払えないほどじゃない。貯金も残っているし。

 外はすっかり暗くなってしまった。夏は過ぎ風も冷たくなってきた今日この頃、我が家に帰ろうと自然と足も早くなる。

 コツコツと階段を上がり、部屋の前へ。ごちゃごちゃした鞄からやっと鍵を見つけ出し、戸を開く。

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「あっ、お帰りなさーい」

 明るい声が届く。それと同時に食欲をそそる匂いも。今夜はシチューのようだ。
 一人暮らしの頃には考えられなかったものが、今では現実。
 靴を脱いでいると誰かが手で目隠しをしてきた。そんなことをするのは一人しかいない。

「ふふっ! だーれだ?」

「どうした春香、今日はずいぶんとご機嫌だな」

「正解でーす!」

 パッと手が離れる。振り返ると花柄のエプロン姿の春香がニコニコ笑顔。
 この笑顔を見るたびに、帰ってきたんだなと実感する。


「ささっ、今日はシチューですから! 早く早く!」

 鞄に上着を持って上機嫌に戻っていく春香、慌てて追いかける。

「おっ、すごいな。めちゃくちゃおいしそうだ」

「当然ですよ! 響ちゃんに教えてもらった自信作ですから!」

 お皿に注がれるシチュー、ゴロゴロとした具材がなんとも俺好みだ。

「響は料理上手だからな。あの頃よりもっと上手くなって……あっ」

「えっ!? 響ちゃんの料理食べたことあるんですか!?」

 これは……迂闊だったか。


「ま、まぁな。ちょっとだけな」

 チラリと春香を見る。春香は不満そうに頬を膨らませている。
 怒ってる顔もかわいい、なんて思ってしまうぐらいかわいい。

「へー、そーですかー。じゃあこれも食べなくていいですよねー」 

 俺の皿を持って棒読みで言う春香。

「待った! 春香の! 春香のシチュー食べたい! 今すぐ!」

 この通りと手を合わせる俺、このやり取りも何回やっただろうか。

「えへへ、冗談ですよ!」

 ケロッと笑顔でお皿を渡してくれる。この程度で終わって良かった。
 時々演技か本気か分からないぐらいの熱演をしてくるから春香は怖い。

 シチューにご飯、軽くサラダ。それとワインも少々。それでは、いただきます。


「どうですか?」

「……うん、おいしいな。さすが春香だ」

「えへへ、それじゃ私も!」

 それからは話しながら食事を楽しんだ。今日の仕事はどうだったとか、あそこのスーパーは安いとか。
 それと他の仲間が今何をしているかなんてのも。
 シチューの作り方を教えてもらったこともあって響が話題の中心、そこからやよいの話になったり伊織の話になったり。

 みんなそれぞれの生活がある。その中で俺と春香は共に歩く関係になれた。
 何気ない会話、何気ない日々。だけど、あの頃以上に幸せな毎日。


「どうしたんですか?」

「いや、春香がかわいいなって考えてた」

「もう~何言ってるんですか~!」

 顔がにやけてるぞ。

「よし、おかわり取ってこようっと」

「私が行きますよ!」

「おっ、それじゃお願いしようかな」

「任せてください!」

 ふんふんと鼻歌を歌いながらキッチンに向かう。たぶん山盛りで帰ってくるだろうな。

「はい! たんと食べてくださいね!」

 ……やっぱり。それでもこの笑顔を見たら断ることなんてできないか。


 食事も終わり、お風呂に入ったり残りの仕事を片づけたり、そうして寝る時間になる。
 春香と一緒に眠ることもすっかり慣れてしまった。
 ダブルベッドを買ったとき、買いましょうと言いだしたのは春香なのに、いざ寝ようとなったら恥ずかしいと言いだしたり。
 背中を向けて寝ていたのが懐かしいな。

「笑ってます?」

「ちょっと、買った時のことを思い出してな」

「っ! 今すぐ忘れてください! 寝ますよ! はい電気消して!」

「はいはい」

 パチリとスタンドのスイッチを切ると真っ暗になる。
 春香の息づかいと俺の息づかい、それと微かに聞こえる外の音。


「なぁ……どうして今日はあんなに機嫌が良かったんだ?」

「えっ? うーん……なんででしょうね」

「なんだそれ」

「早く帰ってこないかなーとか、お話したいなーとか考えてたら楽しくなっちゃって」

「ふぅん。……最近さ、新しく入った子のプロデュースを始めたんだ」

「へぇ~、どんな子なんですか?」

「おもしろい人だよ。それにトップアイドルになれそうなぐらい光るものを持ってる」

「私ぐらい?」

「春香のことも超えられるかもしれないな。可能性は無限大だ」


「……楽しそうですね」

「まぁな。やっぱり新人を育ててると春香と会った時を思い出すよ」

「浮気しちゃだめですよ?」

「しないよ」

「それなら、がんばってくださいね。その子を立派なアイドルにしてあげてください」

「もちろんだ。なんたって俺はプロデューサーだからな」

「ふふっ、それじゃよろしくお願いしますよ? プロデューサーさん」

「おう、任せとけ」

 二人して笑ってしまう。こんなやりとりは久しぶりだ。
 その日はぐっすりと眠れた。日が昇り、春香に起こされる。一日の始まり。


 朝食もそこそこに準備を済ませる。よし、今日もバッチリだ。

「今日もカッコいいですよ! プロデューサーさん!」

「昨日の続きか? 春香もリボンを付けたほうがいいんじゃないか?」

「もう似合わないですよ~!」

「そうか? まだまだいけると思うけどな。アイドルにも戻れるかも」

「いいんですー! 私は、今が最っ高に! 幸せなんですから!」

「ははっ。それじゃ、行ってくるよ、春香」

「はいっ! 行ってらっしゃい、――さん!」


 戸を開ける。気持ちのいい空気が家の中に流れ込み、春香に見送られながら俺は外に出る。

 振り返れば春香の笑顔、キスをするなんてことはやらなくなったけど。

 あの頃とはなに一つ変わらない思いを胸に、俺はゆっくりと事務所に向かって歩き出した。

 階段を降りながら、ゆっくりと、戸を閉める音が聞こえた。

短いですがおしまいです。
読んでくださった皆さんありがとうございました。

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