傭兵「この世で金が一番大事」僧侶「じゃありません」の外伝です。
傭兵と僧侶のイチャコラがメインになります。
前スレは以下
傭兵「この世で金が一番大事」僧侶「じゃありません」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1399985537/)
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1410886786
* * *
駐屯地にお呼ばれしました。
傭兵さんが実質的に社長を務める民間軍事会社――PMCは、各地に駐屯地や行楽施設を所持しています。そのうちの一つ、日照時間の長いことで有名な平野部に作られた駐屯地に、わたしはいました。
PMCはつい先日大規模な対魔王軍侵攻作戦を成功させたばかりで、疲労困憊で負傷者多数、なれど駐屯地内の雰囲気は限りなく高揚しています。昼から酔い潰れてロビーのソファで寝ている人がいるなんて、軍規は一体どうなっているのですか。
案内役の将校さんも困った顔をしていました。強く言わないのはPMC全体が十日間の臨時休暇を貰っているからでしょう。個人ではなく、そもそも組織自体がオフなのです。
家族が待っている人はそのもとへ戻るのでしょうが、恐らくこのPMC、傭兵さんと似たような人が集まっていると言うこともあって、事情のある人が大半です。故郷のなくなった人だっているでしょう。そのような人達は、必然残らざるを得ません。
では、なぜ機能停止しているPMCの駐屯地にわたしがいるのか。それを簡単に言い表せば、首輪をつけるため。そして権力闘争の傀儡。こんなところでしょうか。
新生プランクィは傭兵さんの活躍と州総督の権力、騎士さんの根回しによって、今度こそ国として認められました。しかしその形態はあくまで都市国家。国際社会での立ち位置こそ認められましたが、内容的には王国の属国にすぎません。
いえ、それは別段全く構わないのです。過干渉が行われない限り、わたしたちは最大限自給自足をし、晴耕雨読の生活を続けることができるのですから。
とはいえ「はいそうですか」と王国が言えるはずなどないのは百も承知。王国にとってこの結末は「私たちは反政府ゲリラを鎮圧することができませんでした」と公言しているに等しいのですから、面目は丸つぶれです。
それを名目上でも回復させるため、騎士さんが渋る王国の重鎮たちに出した案が、プランクィの実質的指導者であるわたしが王都アシェンティアへと赴くと言うものでした。こちらから王国へ今後の付き合いを何卒よろしくと下手に出ることで、対外的に序列を示すことにしたのです。
その際に護衛として名乗りを上げたのがカミオインダストリー率いる傭兵さんのPMCでした。王国との権力のバランスを鑑みて、ということなのでしょう。傭兵さんはもっと直接的に金の臭いをかぎつけたからに違いありませんが。
わたしが駐屯地にいるのはつまりそういう理由から。PMCに庇護を頼もうと、そういうことです。期間が休みと被ったのも意図的。会社ぐるみで守るけれども、会社として動いていないという体を作りたいのだと言われました。
駐屯地に数日滞在し、物資の到着を待った後に王都へと向かいます。最初は無論どきどきしましたが、三回目ともなればある程度心の余裕が出てくると言うものです。
僧侶「社長はいますか?」
将校「えぇ。下士官は戦が終われば仕事も終わりますが、仕官はそうはいきませんから」
あの人が仕官ですって。似合いませんね。えぇ、全く似合いません。
豪奢な軍服と階級章、つばつきの帽子などを身に着けて外套を翻す姿を想像して、思わず笑みがこぼれました。面白すぎる。
将校さんのあとをてくてくとついていけば、無骨な一枚の鉄扉がありました。司令室。そう書かれてあります。前に来たときは大きく「ボスの部屋」と書かれていたものですが、どうやら消されてしまったようで、残念。
将校「私はここで待っていますので、挨拶を済ませて下さい」
僧侶「はい」
いつからか将校さんはわたしと傭兵さんの間に同席することはなくなりました。もしわたしが傭兵さんの首を狙っていたらどうするつもりなのでしょうか……と考えながら、一笑に付します。あの人に勝てるわけないです。
ノックを二回。中から返事が返ってきたことを確認し、重たい扉を一気に押し開けます。
傭兵「よう。久しぶりだな」
僧侶「……お久しぶりです」
傭兵さんがスチールデスクに両足を乗せ、硬そうな背もたれに体を預けていました。。あいもかわらず死んだ魚の眼をしています。僅かなルビーの煌きは衰えていなくて、ほっと一息。
僧侶「このたびは王都までの護衛を引き受けてくださり、まことにありがとうございました」
傭兵「なに、気にするな。金さえ払ってくれれば文句はいわねぇ」
僧侶「申し訳ありませんが、プランクィは共産主義国家。外貨の持ち合わせはありません」
傭兵「金がないなら死ね。俺は貧乏人を相手にしない」
僧侶「そこをなんとか」
傭兵「俺に今まで『そこをなんとか』と言ってきたやつは何人もいる。だが、引き受けたことは一度だってないね」
僧侶「……」
傭兵「……」
数呼吸ぶんたっぷりと顔をつき合わせた後、どちらともなく笑い出しました。くく、くくくっ、ぷぷっと堪え切れません。
これは、まぁ、なんといいますか、イニシエーションみたいなものでした。お互いが変わっていないことを確認する一連の作業。こうすることによって初めて、司令官は傭兵さんに、プランクィ党首は僧侶に戻ることができます。
責任ある立場は、それはそれで当然重要で、だからこそやってやるぞと奮起もするのですが、外装がまとわりついてしまっているのもまた事実。わたし、ロールプレイはそれほど得意ではないのですよね。
傭兵「毎度毎度お疲れ様だな。物資と人員の補充は順調に進んでる。まぁ、のんびり構えていればいいさ」
僧侶「言われなくともそうしますよ」
傭兵「ならいい。お前の部屋はいつもの場所にとってある。ゆっくり養生しろ」
僧侶「ヤー! ……でしたっけ?」
傭兵「阿呆。お前はそういうのはいいんだよ」
わかってますよ、単なる冗談じゃないですか。
傭兵「行楽地は近くにある。行きたいなら言え、連れて行ってやる」
僧侶「お仕事は?」
傭兵「息抜きくらい許されるだろ」
僧侶「……」
傭兵「どうした」
僧侶「いえ、なんでも、ないです」
やばい!
顔が!
にやける!
だって、いま傭兵さんが言ったことは、換言すればこういうことなのです。わたしと一緒にいれば息抜きになるとか、そんな感じのことなのです。
なんというか、不意打ちです。
ずるっこです。
下唇を噛み締めながら、自然と浮かんでくるにやけづらを押し込めました。それに精一杯で傭兵さんの言葉なんか殆ど聞いちゃいません。わたしにだって年頃の女の子相応の恥ずかしさはあるつもりです。緩みきった顔をみせたくないのはあたりまえ。
しかし、傭兵さんが「あ、やっちまった」という顔を露骨にしていたので、浮ついていた意識が着地します。どうかしたんでしょうか。
僧侶「なにか?」
傭兵「なんでもねぇよ」
途端にぶっきらぼうに突き放されました。ぷいとそっぽを向いて、頬杖なんてついちゃってます。
傭兵「前言撤回だ。遊びは一人で行け」
僧侶「何か用事でも?」
傭兵「用事? そうだな。用事だな」
あ、これは嘘ですね。とはいえまるきりの嘘でもないような雰囲気があります。どっちつかずの宙ぶらりん。意図的にはぐらかしているのでしょう。
気にならない、と言えばそれこそこちらの嘘になります。が、将校さんが仰っていたように、こんななりでも傭兵さんはPMCのトップ。仕事のないはずはなく、その中にはわたしに言えない類のものだってそりゃああるでしょう。
僧侶「用事なら、まぁ、しょうがないですね」
ここで駄々をこねるのは得策ではありません。いえ、決して不満があるとかそういうのではなく、わたしも「大人の女性」に一歩ずつ近づいているわけですから、レディとしての嗜みを身に着ける頃合だと思っているだけで。
いや、本当に。
ほんとほんと。
傭兵「一人じゃ楽しめないとでも言うか?」
僧侶「そ、それくらいは大丈夫ですよ。子供じゃないんですから」
傭兵「は、どうだか」
幼い時分のわたしを傭兵さんが知るはずはないのですが、嘗ての旅を考えると、傭兵さんはわたしの保護者ぶっているところがいまだにあります。嬉しいやら悲しいやらで複雑な気分。
わたしは一礼して部屋を後にしました。将校さんが直立不動で扉の脇にいます。こちらをちらりと一瞥すると、
将校「いきましょうか」
と部屋まで案内されるのでした。
駐屯地は俯瞰すれば8の字になっていて、わたしの部屋はちょうどその交点あたりに位置しています。反共産、もしくは親王国派からの避難はいまだに根強く、中には強硬手段に出る者も。それを想定してのこの位置取りでした。
心が痛むのは、それでも我慢せねばありません。罪を償うのはわたしの仕事です。プランクィのみなさん、そして思想や目標には全く罪業はないのですから、挫けるわけにもいかないのです。
将校「もし何かご入用でしたら、いつでもご用命ください。酒保にあるものでしたら、いくらでもご用意いたします」
僧侶「ありがとうございます。お気持ちだけ受け取っておきますね」
流石にここで必要以上の歓待を受けるのは、プランクィにとっても王国に対しても、あまりいい選択ではないでしょう。質素倹約。その四字を掲げているのがわたしである以上、墨守するのもまたわたしでなければいけません。
なので、先ほどは遊びだなんだと言っていましたが、実際のところ難しい部分があります。行楽すら敵としている吝嗇家――というわけではなく、楽しみは日々の中にこそ見出すべきだと思っているからです。
まぁ、どの道モーマンタイ。
僧侶「なんて、ね」
パイプベッドに寝そべります。清潔なシーツに少し固めのマットレス。これくらいが庶民的でちょうどいいのかもしれません。
僧侶「日々の中にこそ楽しみがありや?」
答えはイエス。またとない機会だからこそ、日々の中で逸れは特別な輝きを放つのです。織姫と彦星を例に出すのはきっとくさすぎるでしょうけど。
すぐに部屋を出てもよかったのですが、落ち着きのない女だと思われるのも癪です。それに仕事はわたしだってたんまりあるので、それを消化するのは決して吝かではありません。
書類の束とペンを取り出して、文机に向かいます。
僧侶「……」
情勢は刻々と変化していきます。今、この世界は激動期。古くなったものが消え、新しいものが生まれ、そして再興し回帰する。
王国はついに州総督派と国王派が互いに妥協をし、エルフたちとの共同戦線を張って魔王ぐんと戦うことに決まりました。エルフの森を橋頭堡として魔物を、魔族を、根絶しようと言うのです。
嚆矢は無論傭兵さん率いるMPC。二年前に四天王の一角、第六天魔王・大天狗を打倒した名誉はいまだ健在です。その後の成果だって目覚しい限り。
僧侶「ふふ」
我がことのように嬉しい。
ただ、魔王軍も大天狗が打倒され、手をこまねいていたわけではありません。これまでの余裕ぶった態度からは一転し、急激に戦力の増強を図っているようです。
たとえば西の山脈の最高峰、霊峰グロモグに住まう邪龍・アジダハーカ。四天王として名を連ねてはいても、数百年眠り続けていたとされる彼の龍に、魔族が生贄の人間を多数引き連れて接触したという情報があります。
また、大天狗と同格の四天王たちも、出さなくともよい興味を出してきたようです。
魔族の姫を自称する、名称不明の女型の魔族。そいつは傾国の妖孤・金色白面九尾の狐と悪夢の人の形・アルプの一つ種であるとも噂されていて、それが本当なのだとすれば、潜在的な能力は計り知れません。
大森林の奥深くで人面の蛇、ケツァルコアトルが放つ炎を見たと報告したのを最後に、一個中隊がそっくり姿を消したという話もあるそうです。文化と豊穣の神様の腐れ落ちた姿。恐らく、大地を汚す人間たちに怒り狂っているのでしょう。
傭兵さんならば――わたしたち人類ならば、きっと団結して力を合わせ、なんとかできる。そう信じています。信じてはいますが……。
僧侶「それでもやっぱり、空恐ろしくもなりますね」
魔族は単体でこそ人間を遥かに凌駕していますが、その殆どが魔王から直接生み出された一種族一個体。ゆえに社会性を持たないものばかりです。
わたしたちが勝てるとしたら、その社会性を用いるしかないでしょう。
そんなことを考えていたらつい手が止まってしまいました。次の書類に向かおうとしても、集中が途切れてしまったのか、どうにも手が止まりがちです。
仕方ありません。こういうときは無理やりやったって苦痛なだけ。気分転換には早いかもしれませんが、少し外の空気を吸ってきましょう。
廊下へ出て少し歩けばばったりと傭兵さんに出会いました。マグカップに粉珈琲をいれ、お湯を注いでいます。
独特の馥郁とした香りが鼻をつきました。においは嫌いじゃないんですけどね。
僧侶「一服ですか」
傭兵「……まぁな」
うーん、やっぱりどうも、反応が芳しくありませんねぇ。
僧侶「一服で思ったんですけど、酒は飲むのに煙草は喫まないんですか」
傭兵「喫まねぇよ。あんなの金の無駄だ」
理由がさすが傭兵さんでした。隠された理由として、心肺能力にマイナスだから、というのもありそうですが。
しかし煙草を嗜まないのは好都合です。あの臭いは煙たくてどうにも好きになれません。酒場の人とか、あと農家のおじさんたちもそうですが、結構体に染み付いているものなのですよね。
僧侶「珈琲ちょっとだけもらっていいですか」
傭兵「自分で入れろ」
マグへ手を伸ばすと避けられました。
僧侶「いや、そんなにいらないんですよ。珈琲には弱くて、すぐ眠れなくなっちゃいます」
傭兵「カフェインは茶とかのほうが含まれてるらしいが」
僧侶「てことはプラシーボですね。わたし、思い込みが強いほうなので」
飄々とした調子で答えました。傭兵さんはあからさまにいやそうな顔をしています。
そんなはっきりとした顔をされると、いくらわたしでも傷つきます。それが顔に出たのか、傭兵さんはばつが悪そうな顔をしましたが、ぐっと堪えて一言、
傭兵「……これは俺の珈琲だ。飲みたきゃ自分で入れろや」
僧侶「もう、わかりましたよぉ。自分で入れればいいんでしょー、いれればぁー」
不貞腐れ度全開で紙コップに粉珈琲を投入、お湯を入れて、スプーンでかき混ぜます。
かき混ぜます。
かき混ぜます。
かき混ぜます。
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる……。
僧侶「……」
傭兵「……」
僧侶「……」
傭兵「……なんだよ」
僧侶「べっつにぃー」
一気にそれを呷って、
僧侶「あっづぃ!」
傭兵「あ、ばか!」
舌の付け根に思い切り直撃。衝撃でコップを取り落として、中身が左手にかかります。
僧侶「あちゃ! うぇ、あ、っつ、ぅ、ううう……!」
もう散々でした。舌は痛いし、手は熱いし、服は珈琲の染みが大きくついてしまっています。余所行きの服が台無しです。
傭兵「お前なにやってんだよ! 大丈夫か!」
傭兵さんが咄嗟に自分の服の袖で、わたしの手と洋服を拭ってくれました。
傭兵さんのごつごつとした指先が、わたしの指先を握ります。強い握力。大きな手のひら。それだけでなんだがどきどきしてしまいました。
ばかみたいです。一緒に旅をしていたときは、岩場やら木登りやらで何度も手を握ったはずなのに、いまさらこんなことで反応してしまうなんておかしな話。
熱かったのは一瞬で、舌も手も、体も火傷になっていないようでしたが、そう告げても納得のいってない顔をしています。
傭兵「……ベロ出せ」
至近距離で屈みこむ傭兵さん。どぶ川のように濁った中に、僅かなルビーの輝きを放つ瞳が、わたしの目の前にあります。これが正気でいられましょうか。ましてや口内を見せるだなんて。
これもまたおかしな話なのでしょう。
僧侶「え、いや、それは、ひょっと」
少し呂律が回りません。傭兵さんはほら見ろと言った様子で、
傭兵「手は大丈夫かもしれんが、舌は火傷になってるかもしらん。一応救護室にいってこい」
それは多分舌が火傷とか、そういうことではないのですが、説明なんてできるはずがありませんでした。
* * *
寝られませんでした。
それを果たして「当然」と言っていいものか、わたしは疑問が残ります。勿論疑問は心底の疑問なのではなく、真っ直ぐ認めてしまうのが恥ずかしいので、恥ずかしすぎるので、自らクエスチョンを投げかけているだけなのです。
寝られないのはなんのせい?
僧侶「カフェインに弱いのも困りものですねぇ」
いやもうほんとに。
僧侶「……」
顔が熱い。
僧侶「うぅううぅうぅ……」
あぁもう!
これじゃあまったく恋する乙女じゃあないですか!
僧侶「なーんてね! なーんてね!」
夜中に自室で一人騒ぐわたしでした。
いえいえ違いますともそんなことはないのです。だってわたし、あの人のこと好きじゃないですし。本当ですよ? 本当ですって。いや、嘘ついてないです。ほんとほんと。
だって考えてみてくださいよ。あんなお金にがめつくて、お金のためなら何だってするような人、普通に考えて恋愛の対象になりますかって話ですよ。
ならないでしょ?
そうです。だってわたしお金嫌いですもん。諸悪の根源がお金だって信じて疑いません。だから共産主義に傾倒しているわけですし、プランクィの党首を務めているわけです。そんなわたしがあの人と? 冗談じゃありません。矛盾じゃないですかそれって。
わたしの生き方とあの人の生き方は絶対に交わりません。それだけでもほら、好きじゃない証拠になりえますよね? 根本的にあわないんですよ、わたしとあの人。天敵ですよね、思想の。
そりゃ恩は沢山ありますよ。付き合いが長いとはいえませんけど、短い中でも濃密な仲、ですからね。助けてもらったことは数知れません。いまのわたしがいるのはあの人のおかげと言っても過言じゃないです。
あの人は強い人です。肉体的にとか、戦闘能力がとかじゃなくて、人間として。折れない信念を持っています。
間違ったことでも、信念のためなら貫き通せるほどの強さ。それは危うさと表裏一体で、周囲にとっても、そしてあの人自身にとっても、ぎらりと鋭く輝く刃。
だからわたしは確かに信頼しています。好きとか嫌いとかではなく、信頼。恩とも無関係。一見傍若無人な振る舞いでも、暴虐非道な行いでも、きっとその裏には彼の信念が根ざしているのだと信頼しているのです。
安心して見ていられるのは、つまり、そういうことです。傭兵さんに任せておけばということではなく、傭兵さんは道を誤たないという大木の幹にわたしは背中を預けています。
これでわかってもらえたでしょうか。わたしにとって「傭兵さん」とは好悪の対象ではないのです。もっと、こう、なんというのでしょうか。最低最悪な守銭奴なのです。
そしてちょっぴり尊敬もしているのです。
ほんのちょっぴり。
大体、あの人のことを好きになったら大変に決まってるじゃないですか。仕事のついでに勝手に「戦果拡張だ」とか言って悪徳業者襲撃してきますし。仕事が忙しすぎて会える機会なんて月に一回あるかないかですし。
PMCのトップのくせに進んで戦闘に参加して先陣で切り込んでいくんですよ? いつ命を落としてもおかしくなくて、そのたびに冷や冷やして、心臓に悪いったらありゃしない!
結婚なんかしたらもっとですよ。あんな守銭奴の下で奥さんなんてやってらんないですよ。絶対財布の紐はあの人が握るでしょうね。家計簿とか絶対きっちりつけるタイプに違いありません。
そのくせ家には殆ど帰らなくて戦場にでずっぱりで、でなくとも書類に向き合ってて、家族のこともたまには省みてよって思うんですけど、でもあの人が世界平和のためにやってるってのは痛いほどわかっているから何も言えなくて。
あの人のために何かしてあげたいけど弱くてなにもできない自分に嫌気が差して、事務仕事とか手伝ったりもするけど、本当は戦場で隣に立ってたいくせにそんなこと言えるはずもないし。
ならあの人が本当に疲れたときに、助けてあげるなんてうぬぼれたことは言わないから、せめて隣にいて支えてあげるくらいのことはしてあげたいなって思い続ける毎日を過ごすことになるのは目に見えてます。
しかもあの人が、自分の目的を果たすためなら心を鬼にもできることを知っているから、頑張ってって思う反面かわいそうすぎるとも思いながら残りの人生を一緒に生きていかなくちゃいけないなんて。
ねぇ?
僧侶「……」
死にたい。
僧侶「っていうか殺して! 誰かわたしを殺して!」
ばたんばたんと近所迷惑も顧みずにベッドを転がります。
二転三転し床へ落下、腰を痛打、悶絶。
これはだめだ。だめです。実によくない。
別にキャラを作っているわけではありませんが、こういうのはわたしのキャラにはそぐわないのです。
明日からまた傭兵さんと普通の関係であり続けるために、こういったもやもやは、やっぱり夜のうちに解消しておくべきでしょう。
わたしはただ、あの人の理想の邪魔にはなりたくないだけなのですから。
僧侶「見る方向は、きっと、同じだと思いますし」
そうです。本来ならば水と油。わたしと傭兵さんが殺しあっていないのがまるで奇跡。
この奇跡を大事に、大切に、しなければ。
窓を開けても風は流れてきませんでした。手を差し出せばそよ風が感じられるので、窓の向きが悪いのでしょう。
時刻は深夜一時を回ろうとしているところ。もしかしたら酒盛りをしている兵隊さんたちがいるかもしれませんが、ばったりと傭兵さんに出会うことは、少ないはず。
そよ風に当たるために廊下へと出ました。
唯一の懸念は、わたしの部屋からだと、外に出るためには傭兵さんの部屋の前を通るのが最も早いということです。
勿論迂回したってかまいやしないのですが、それはなんていうか、気にしているみたいでいやじゃないですか。
……まぁ、気にはしているのですが。
ただ、気にして迂回してしまえば、気にしていることすら気にしてしまう無間地獄に陥りそうで、それだけは避けたかったのです。
覚悟を決めてずんずんと歩きます。予想通り、少しはなれたところから、兵隊さんたちの騒ぐ声が聞こえました。食堂で宴会でも開いているのでしょう。
と、廊下を兵隊さんたちが横並びで塞いでいました。そこの角を曲がれば傭兵さんの部屋です。一体何かあったのでしょうか。
僧侶「……?」
気がつきました。横並びの兵隊さんたち、影がない。姿が薄い。
普通ならここで悲鳴の一つや二つあげるのが常道なのでしょうが、そうは問屋が卸しません。靴だけが、その輪郭をはっきりと残しているのが最大のヒント。
僧侶「なにやってるんですか、掃除婦さん」
掃除婦「あら、ばれちゃいました?」
曲がり角から掃除婦さんが姿を現しました。年齢不詳の女性。序列十四位、『足跡遣い』。
二年前からPMCに籍を置いていますが、実際の立ち位置がどうなのか、わたしにはわかりません。ただ、少し口調が砕けてきたような、そんな気はしています。
僧侶「ちょっと通してくれません? 夜風に当たろうと思って」
掃除婦「申し訳ございません、通すわけにはいかないのです」
僧侶「え?」
嘗てゴロンで聞いたような台詞を掃除婦さんは言い放ちました。あのときとは声のトーン、有体に言えば篭められた殺意こそ段違いですが、真剣な様子は同じです。
掃除婦「ここは地獄の一丁目。いくら僧侶様といえど、お通しするわけにはいきませんわ」
掃除婦さんは困ったように笑って、続けます。
掃除婦「いえ、寧ろ僧侶様だからこそ、というべきでしょうか」
僧侶「どういうことです?」
純粋な問いでした。掃除婦さんの言っている意味が、全然わからないのです。
ただ、どうしても通したくない理由がある。それだけは確か。
横を通って避けようとすれば兵隊さんの亡霊は合わせて横へ移動し、そのまま突っ切ろうとすれば密集して隙間を埋めてきます。
掃除婦「申し訳ありませんが、どうか別の経路をお通りくださいませ」
確かに掃除婦さんの言うとおり、ここを通らなければ外へといけないわけではないし、別に迂回したっていいのですが……迂回しないと決めたと言うこと、そして、なんというか。
わたしの中の「女の勘」が、ここは押して参れと言っているのでした。
掃除婦「あぁ、だめですわ僧侶様。そのようなお顔をされては、私では荷が重過ぎます」
どこまで本気かはわかりません。掃除婦さんは困ったような笑顔を浮かべつつ、けれど確実に楽しんでいるようでしたから。
僧侶「通してください」
掃除婦「だめですわ」
僧侶「通ります」
掃除婦「だめだと仰ってますのに」
僧侶「そこを、なんとか」
掃除婦「もう、困ったお方でございます」
やれやれと掃除婦さんは息を吐いて、
掃除婦「傭兵様に思いのたけは伝えましたか?」
僧侶「……は?」
明後日の方向から砲撃が飛んできました。
僧侶「はぁあああああっ?」
僧侶「なんですかなんなんですか、一体何のことを言ってるんですか!」
掃除婦「そのご様子ではまだなのですね。初々しくて、実に結構でございます。私も、若かりしころを思い出してしまいます」
僧侶「わたしは! べつに! 全然! あの人のことが! 好きでは! ありません!」
掃除婦「私は『思いのたけ』とは言いましたが、『好き』とは一言も申し上げておりません」
僧侶「――っ! だって、それは、思いのたけって言われたら、そういう意味だと思うじゃないですかっ! 普通! ふーつーうっ! 常識的に考えて!」
僧侶「それに、それに! ……あのひとだって、わたしのことが好きでないに決まっています」
掃除婦「……それはどうして」
僧侶「だって、そもそも生き方が違います。あの人はお金が大好きで、わたしは大嫌い。水と油。天と地ほども離れてます。どう考えたって仲良くなれないですよ」
掃除婦「……僧侶様も立場は同じ。ならば、お互いがお互いに思っていることは、同じなのではないでしょうか」
僧侶「……」
それは、考えたこともありませんでした。
ですがどうでしょう。あの人はわたしのことを、きっと女としては見ていないはずです。子ども扱いするし、手のかかる妹とでも思っているに違いありません。
もしくは、厄介ごとを齎す疫病神か。
僧侶「それに、今日久しぶりに会って、なんかよそよそしく感じました。距離を置かれているみたいです」
掃除婦「心当たりは?」
僧侶「ぜんぜん」
掃除婦さんはわたしの言葉を受け、顎に手をやりました。そして数秒黙考したのち、くすっと笑います。
……いいえ、もしかしたら見間違いだったのかも。なぜなら、瞬きした次の瞬間には、掃除婦さんはそれまでと変わらない表情をかたちづくっていたからです。
掃除婦「そうですか。それは失礼いたしました。ですが、僧侶様。これだけは、お聞きください。老婆心ながらの忠告でございます」
僧侶「……なんですか」
掃除婦「覚えておいて欲しいのです。永遠などは存在しないと言うことを。変わらないと言うことは、変わらないまま摩滅するということなのです」
掃除婦「傭兵様は、言動はともかくとして、思慮深いかたでございます。そのことがわかっていないとは思えません」
掃除婦「傭兵様のことで気を揉むのも結構ですが、お体にお障りのない範囲にしてくださいね」
僧侶「まだ言いますかっ」
掃除婦「わかりました、わかりました。ですが、僧侶様。お障りもそうですが、年頃の女性がこんな夜遅くまで起きていては、お肌にもよくありません。お忙しいのでしょう? こういうときくらいゆっくりとおやすみになってくださいませ」
僧侶「……」
掃除婦「私はここに住まう人々の健康を気遣う立場でもありますから」
僧侶「……変な人」
掃除婦「オリジナルの魔法を用いる者は、大抵そうでございますよ」
僧侶「……わかりましたよ。寝ることにします。おやすみなさい」
掃除婦「はい。おやすみなさいませ」
僧侶「と見せかけてっ!」
掃除婦「ですよねぇ」
脚力倍加で一気に駆け抜ける。
掃除婦さんもそれを読んでいたらしく、わたしの行く手は兵隊さんの亡霊によって阻まれるも、追加で腕力倍加を起動。媒体である靴を吹き飛ばしながら突っ切りました。
あんな露骨な話題逸らしでごまかされるわけがないでしょう!
角を曲がれば傭兵さんの部屋です。掃除婦さんが通したくなかったのは、傭兵さんの部屋があるからでしょうか? それともそれは勘繰りすぎ?
掃除婦さんはどうやらもう諦めたらしく、依然変わらぬ困った笑顔を浮かべながら、わたしに手を振っています。
その意味がわからないまま、傭兵さんの部屋の前に差し掛かって、
僧侶「え?」
ベッドの軋む音と女性の嬌声が聞こえました。
――――――――――――――――
今回の投下はここまでです。
書いてて恥ずかしくなってきました。
本作は一応短編を予定していて、300レスくらいで終われたらいいなぁと思ってます。
あと、>>1に書き忘れましたが、濡れ場が今後出てくる可能性があります。苦手な方は諦めてください。
それでは、今後ともよろしくお願いいたします。
* * *
すれ違う人たちがみんな、ぎょっとした顔でわたしを見て、すぐに廊下の端に避けていきます。歴戦の兵隊さんたちでさえそうなのです。一体わたしはどんな顔をしているのか……。
想像もできませんが、とにかく酷いことだけはわかります。結局昨日は一睡もできませんでした。目を固く瞑れば瞑るほどに、いやな想像が脳裏を過ぎるのです。
いえ、それは想像ではありませんでした。男性経験はありませんが、知識としては当然「ソレ」をわたしは知っています。
どう考えても、昨晩、傭兵さんの部屋から聞こえてきたあの音は……。
最早どうしてその想像が「いや」なのか、理由を否定するのも億劫でした。とにかく大きな衝撃に頭をがつんとやられて、ダメージが全然抜けていないのです。まだ頭がぐわんぐわんしているのですから、よっぽどの強さなのでしょう。
と、まるで他人事のように扱わなければそれこそ倒れてしまいそう。
廊下を歩いていますが当て所があるわけでもないのでした。ただ、部屋の中でじっとなどしていられませんでした。それこそ死んでしまいます。
今度はベッドをばたんばたん転げまわるだけでは済みそうにありません。とはいえこの気持ちをぶつける先が思い当たるはずもなくて、ただ急くばかりの心を抱えたまま、わたしは泣きそうになりながらどこかを目指します。
そしてこんなときに限って、会いたくない人に会ってしまうものです。
傭兵さん。
大きなあくびをしながら廊下を曲がってきました。手には栄養ドリンクが握られています。
昨日はお楽しみでしたね? あくびは夜更かしのせいですか? 栄養ドリンクが手放せないほどにお疲れですか?
反射的にそれらの言葉を飲み込みます。なにこれ。なんですかこれ。なんでわたし、こんな、まるで小姑のようなことを!
傭兵さんは、しかしわたしのそんな阿鼻叫喚など露ほども知らず、暢気に片手なんかをあげながら近づいてきます。「すっげぇ顔してんぞ」なんてのたまいながら。
誰のせいだと思ってるんですか!
言葉を更に飲み込んで、無理やり笑顔を作ったわたしの口からするりと出てきたのは、驚くべきことにお祝いの言葉でした。
僧侶「いやだなぁ、傭兵さん、水臭い」
傭兵「は?」
僧侶「とぼけちゃうんですから。恋人がいたならいたって、そう教えてくださいよ。結婚はいつですか、お祝いしますよー」
傭兵「……何のことを言ってるんだ」
どうやらとぼけている風には見えません。話が食い違っている。頭の中に一つの可能性が浮かんできますが、同時に、昨日見聞きしたものが確かに事実であることを、何より自分が一番よく知っているのです。
あそこは間違いなく傭兵さんの部屋で、聞こえてきた嬌声は女性のもので、恐らく行為に付随するソレです。傭兵さんが自室を貸していた? まさか。
ならば相手は傭兵さんである以外に考えられません。だのにとぼけている感じでもないのは一体どういうことなのか。
事情の把握には遠かったですが、いちいちそんなことを斟酌している余裕がわたしにあるはずもなく。
ええいままよ、どうにでもなれ。勢いのままに、考えなしに、言葉を次々紡いでいきます。
僧侶「ごまかさなくったっていいんですよ。わたしだって子供じゃないんですから」
僧侶「でも、掃除婦さんに見張りしてもらうまでのことですか? あぁでも、連れ込むってのはあんまりないんですかね。兵隊さんたちは共同部屋のかたも多いのでしょうし」
僧侶「そういうことを考えると、事故のことも含めて、やっぱり相応しい場所にいくほうがいいんじゃないかと忠告しておきますよ。行楽地には『そういうところ』もあると聞いたことがありますし」
止まらない。
僧侶「いやほら、別にだからどうしたってわけじゃないんですけど、プライベートとオフィシャルの使い分けは大事って言うか、気まずい思いをするのもあれじゃないですか?」
止まらない止まらない。
「あれ」ってなんだばか!
僧侶「掃除婦さんをこき使うのもマイナスポイントですね。恋人との営みに衛兵立たせるってそもそもどういうことなんですか」
止まらない止まらない止まらない。
マイナスポイントってどうしてそんなに上から目線ができるのだわたしよ!
僧侶「そういうことなので傭兵さんがお忙しいのはわかりますがそれくらいの周囲への気遣いは必要だと思います空気的に。兵隊さんたちの士気的に。決してわたしがどうこうとかそういうんじゃなくて」
誰か止めてくださいと、勝手に喋り続ける肉体を少し高いところから見下ろしながら、わたしの精神は叫びました。
そして、目下のところ一番わたしの近くにいるのは傭兵さんです。お願いです、わたしを止めてください。殴ってでも。もしそれができないのだったら、せめて気味悪がって逃げてください。嘘です。気味悪がらないで、それでも逃げてください。
必死にそう叫びましたが所詮絵空事なのです。わたしの肉体は依然、昨晩の出来事を婉曲的な表現でもって避難しています。
顔を真っ赤にして手を握り締めながら、真摯な様子で訴えかける、目の下にクマのできた奇怪な女が廊下の中央にいました。
あぁ、それがわたしだなんて、認めたくありません。
唯一の望みである傭兵さんは残念なことにわたしを止める様子も、ましてや逃げる様子もありませんでした。目をぱちくりさせたあとにようやく合点が言ったようで、こちらからすぐ視線を逸らします。
ばつの悪そうな顔をしていました。それが、彼が「聞かれてしまったのか」と考えているがゆえの表情なのだと言うことは、とっくにわたしにはわかっています。
わかってしまっています。
左右に視線をさまよわせ、頬をぽりぽりと掻きながら、「あぁ……うん、いや……」と何かを言いかけてはやめ言いかけてはやめを繰り返す傭兵さん。
わたしは依然として、あくまで「個人的ではなく、一般的な話」と前置きしながら、聖書の一説まで持ち出して行過ぎた姦淫を嗜めています。話せば話すほど何を話すかわからなくなっていくので始末に終えません。
なんという地獄絵図。
傭兵「とりあえず、だ」
ここでようやく意味のある言葉を彼が吐き出しました。わたしの肉体がそれによってびくりと振るえ、硬直したのを好機と見て、漂っていた精神がようやく肉体を取り戻します。
傭兵「聞こえたってのは、つまり、あれだろ?」
わたしは昨夜の出来事を思い出し、また顔に火がついた思いに囚われます。鎮火作業に手一杯で喋ることなどできませんでした。
代わりに首をぶんぶんと縦に振って、同意を示します。随分と力強い同意になってしまいましたが。
傭兵「ん、まぁ、悪かった。気にしていたつもりでは、あったんだが、なんていうか、その……調子にのっていたというか、うん。とにかく、悪かった」
僅かに伸びた無精髭に手を当てます。落ち着かないのでしょうか。
そしてわたしは寧ろ落ち着いていました。先ほどまでの狂騒はどこへやら、水滴の漣すら湖面に見つけることはできません。
明鏡止水とはこのことなのでしょう。心が地盤沈下して、落盤崩壊して、全ては最下層へまとめて叩き込まれた。落ちるところまで落ちて、これ以上落ちる余地はなく、そして這い上がることなんてできやしない位置なのです。
傭兵さんの肯定が、まさかそれだけの破壊力を秘めているとは、何よりの予想外でした。
仕方がありません。とわたしは納得します。だって傭兵さんですから。お金にがめつい守銭奴でありながら、しかし、それをちゃらにするくらい魅力的な人物なのです。恋人の一人や二人いてもおかしくはありません。
いや、二人いては浮気になるのですが。ただしそれが男性の甲斐性というのでしょうか。英雄色を好む、とも言いますし。
そもそも、これまで彼に恋人がいないと思っていたこと自体がわたしの希望的観測に過ぎなかったのです。楽観的というか、まさかこの人が女に現を抜かすなんてことはしないだろうと思っていた部分は、確かにあります。
そしてこれで合点がいきました。傭兵さんがどうしてわたしによそよそしくしていたのか、です。
そりゃあ確かに、恋人がいるのだからわたしとあまり親しくするわけにもいかないでしょう。傭兵さんの恋人のことなどなにもわかりませんが、世の中には嫉妬深い女性もいるとのことですし、賢明ですね。
となるとわたしからも声をかけたりするのは慎んだほうがいいのかもしれません。
もしそうなったら、貸し一つですよと言ってあげましょう。
わたしは笑顔をうまく作れているでしょうか?
傭兵「ただ、わからないところがあるんだが」
僧侶「はい」
なんでしょうか。
どんな質問にだって、にこやかに軽やかに答えてあげられますよ。
傭兵「掃除婦ってなんだ?」
僧侶「なんだと言われましても……掃除婦さんは掃除婦さんですよ」
傭兵「いや、そりゃわかるんだが……あいつが、どうしたって」
僧侶「ですから、傭兵さんが情事の最中、掃除婦さんが廊下に陣取っていて、なんか怪しいなと思って乗り越えたら、と。傭兵さんが見張りに立たせたんじゃないんですか?」
彼は明らかに馬鹿を見る目でわたしを見ました。
傭兵「見張りなんて立たせておくわけねぇだろうが。大体、なんてあいつに頼むつもりだよ。娼婦呼んだから部屋の前に立ってろってか?」
僧侶「え?」
傭兵「朝っぱらからわけわかんねぇ。俺ァ行くぞ」
昨日と変わらぬよそよそしさを発揮しだして、傭兵さんは踵を返します。
普段の彼なら、あと二言三言、わたしを馬鹿にする言葉があってもおかしくないのに。
そんな疑問も浮かびましたが、なによりまず、先ほど聞こえた言葉の精査です。
わたしは思わず彼の袖を両手で掴んでいました。
傭兵「は?」
僧侶「いまなんて仰いました? 娼婦?」
傭兵「そうだよ、娼婦だよ」
しょうふ?
あぁそういえば、行楽地には「そういうところ」もあるんでしたね。
……ってことは、あれ?
固まったわたしを見て、遅ればせながら傭兵さんもこちらの勘違いに気づいたようです。気づいてしまったようです。気づきやがったようです。
そんなところで察しのよさを発揮させるくらいだったら、もっと他に相応しい場所がたくさんあるでしょうが! このばか!
傭兵「あぁ……どうりで。恋人だの、お祝いだの、いつにもましてわけわかんねぇこと言ってんなぁと思ってたら、そういうことかい」
呆れ顔の傭兵さんでした。
僧侶「『いつにもまして』とは人聞きが悪いですよ」
傭兵「恋人なんかいねぇよ。いたことすらねぇわ」
ぃよっしゃぁ!
僧侶「え、へぇ、へぇええぇ……そ、そうなんですくぁ? ふふ、うふふ」
傭兵「なにおまえ、すっげぇ気持ち悪い」
僧侶「きもちわるい!」
ショックでした。それは確実に、女子に向かって使ってよい言葉ではありません。
わたし自身、客観的に見て、さっきの反応はどうかと思ってはいたのですが。
傭兵「ほら、離せ。おこちゃまとぐだぐだ喋ってる時間なぞない。俺は忙しいんだ」
その台詞でわたしは自分がまだ彼の袖を掴んでいたことに気がつきました。
僧侶「えー、遊んでくださいよー」
冗談めかして言ってみます。冷静な頭でやけにどこかがうるさいぞ? と思えば、それはわたしの心臓なのでしたからたまりません。
それは莫大な勇気を必要とする行動でした。そんな台詞を吐くこと自体にかなりの勇気がいるだけでなく、どこかよそよそしい傭兵さんを前にして、どんな断りの文句が飛んでくるのかわかったものではなかったからです。
そうしてからの返事は、予想よりも随分と温度の低いものでした。
傭兵「悪いな」
愕然としている自分を発見しました。今しがたの傭兵さんの声音は、真剣です。わたしと距離を置こうとしているトーンです。
あぁ、やっぱりわたしは嫌われてしまったのでしょうか。それとも、嫌われたと思うことすら驕りで、最初から嫌われていたのでしょうか。
離そう。離さなければ。でないと、嫌われてしまう。もうとっくに嫌われているかもしれないですが、それ以上に。だけど肉体は心よりもずっと正直で、袖から指を離そうとはしてくれません。
必死の抵抗も空しく、傭兵さんはわたしの襟首を両腕で掴んで持ち上げると、軽く揺さぶって放り投げました。よろめきながら着地したわたしは、それでも食い下がります。
僧侶「わたしも手伝いますから」
媚びた声でした。それを「女の声」と評するのは、全ての女性に申し訳なく思います。
傭兵「部外秘だ」
僧侶「一応わたしだってPMCの事務と経理やってんじゃないですか」
傭兵「お前にゃ関係ないことなの」
僧侶「……関係ないなんていわないでくださいよ」
視界が少しずつ潤んでいきます。そんなつもりでは全然なかったのに。
傭兵さんは歪んだ視界の中でも目に見えて狼狽して、それが少し面白かったのですが、だめです。こんな女の涙で篭絡するような真似はわたしは嫌いなのです。
大体、ちょっと冷たくされからって泣くような女、面倒くさいじゃないですか。
わたしはそんな重たい女にはなりたくはありません。
僧侶「……すいません」
洟をすすって嗚咽を飲み込み、涙を拭いて傭兵さんを見ました。
僧侶「わたし、何か気に障るようなことしましたか? もしそうだったら言ってください。謝ります。直しますから」
傭兵さんは視線を逸らしました。わたしとは目もあわせていたくないのでしょうか? だったら、そうならそうとはっきり言えばいいのに。そのほうがわたしだってすっきりしますし、お互いのためだと思うのですが。
そのまま彼は後ろを向いて、もう一度「悪いな」とかすかに呟いたかと思うと、ゆっくり歩き出します。
僧侶「何か言ってくださいよ、傭兵さん」
自己弁護をするならいくらでもできます。だってわたしは本当にわからないのです、傭兵さんがどうしてこんな態度をとるのか。彼と会ったのだって数ヶ月ぶりなのですから。
手紙や通信で何か不躾なことを言ったでしょうか? そんな覚えはまったくないのに。
投げた声も、伸ばした手も、傭兵さんの背中には届きません。
僧侶「傭兵さんのっ……ばかぁっ!」
なんだか無性に腹が立ってきて、わたしは拳銃を傭兵さんの背中に投げつけました。
※ ※ ※
超痛い。
背中をさすりながら廊下を歩いていく。連日の宴会にくたくたになった部下たちが時たま寝ていることもあるが、基本的には平和である。
とはいえ、世界規模で見れば決して平和とは言いがたいし、俺たちがいま置かれている状況自体、目下のところ戦争中なのだ。
味わっているこの安穏とした空気は、結局のところ戦争の間の一瞬に過ぎない。台風の眼だ。周囲では大気がうねり、渦を巻いている。そしていずれまた俺たちを襲うのである。
逼迫とまでは言わないが胡坐をかいてもいらなれない。とはいえ、ゆっくりできるときにゆっくりしておくのは長生きの秘訣だ。いざというときに動ける体力を維持することから戦争は始まっているのだから。
昔に比べてがむしゃらな行動を慎むようになったのは、立場が変わったからだろうか。それとも二十代も終わりが近づいてきたからだろうか。
PMCの運営も安定期に入り、エルフとの共闘も成った。共産主義による内乱は僧侶を利用して食い止めているし、王国内でのごたごたは騎士と隊長が頑張ってくれている。この地盤をきっちりと踏み固める時期がやってきたとの判断は、間違っていないはずだ。
だから、ここですっぱりさっぱり、胸のもやもやとおさらばしておくのも間違ってはいない。
傭兵「もしもし、いるか」
掃除婦「なんでしょうか?」
扉をノックすれば掃除婦が俺の背後から応じた。驚かしたつもりなのだろうか。こいつの考えはいまだに読めない。
傭兵「とりあえず部屋に入れろ。話がある」
掃除婦「あら。私、押し倒されてしまうのですね」
傭兵「そういうこと言えるうちは十分だ。入るぞ」
掃除婦「いけず、でございます」
ドアノブは回ったので、勝手に部屋の中へと足を踏み入れる。
何度か入ったことがあるが、変わらず殺風景な部屋だった。ものがない。寝るためのベッドと、その横にサイドテーブル、そしてテーブルライトは備え付けであるが、それだけだ。
衣服をしまうための箪笥も、クローゼットも、椅子も、文机も、なにもない。
傭兵「本当にここで生活してんのか」
掃除婦「えぇ、当然ですとも。この部屋で眠り、この部屋で目覚めます。わたしはこのPMCの一員なのです。敷衍すれば傭兵様の所有物ということでもあります。あてがわれた部屋を使わないのは粗相にあたりますから」
傭兵「どうだかな」
こいつがそんな殊勝なことを考えているとは微塵も思えないが。
俺は一旦話を打ち切って、即座に本題へと突入する。
傭兵「とりあえず昨晩なにやってたんだ、てめぇ」
掃除婦「なに、とは」
傭兵「わからねぇとは言わせるかよ。こっちゃ僧侶に絡まれて大変だったんだ」
掃除婦「そうだったのですか。それは存じ上げませんでした。お疲れ様です」
傭兵「ちったぁ会話を成立させようや。面倒くせぇのは嫌いだ。お前だってそうだろう」
掃除婦「こういった会話もまた妙味だと思いますが、いいでしょう。傭兵様がそう仰るのなら」
呼吸を整えるでもなく、掃除婦は笑みを顔に貼り付けたまま喋りだす。
掃除婦「とはいえ、特段面白いことはございません。傭兵様が娼婦をお呼びになったことは知っていましたから、僧侶様を遠ざけるよう、警護を行っていただけです」
傭兵「くはっ」
変な笑いが出た。顔が有り得ないくらいに歪む。
傭兵「お前が? お前が俺と僧侶の関係に、自ら首を突っ込んでくると? そして俺がそれを素直に信じられると?」
愉快愉快。こんなにも愉快なことは久しぶりだ。
俺は掃除婦が有能だと言うことを知っている。その有能さは、なにもこと戦闘力においてだけではない。武芸百般に通じているだけでなく、全体像の把握が劇的に得意なのだ。
というよりも、個別の事象の糸を手繰って、一枚の布を編み上げるのが彼女の本領なのだろう。
そんな存在を前にして、俺は心臓の高鳴りを覚えている。そりゃ愉快にもなる。変な笑い声も出よう。顔だって歪むさ。
こいつ、どこまでわかっている?
剣を突きつけてでも吐かせたい。
傭兵「嘘が下手すぎてわらけてくるぜぇっ!」
掃除婦「信用がないのは残念ですが、嘘は申しておりません。もとより私が得意とするのは邀撃戦ですから」
傭兵「何を邀撃するつもりだよ」
掃除婦「『何を』?」
掃除婦は心底楽しそうに顔を変えた。それは、もしかしたらはじめて見るこいつの笑顔だったかもしれない。
掃除婦「傭兵様、あなたは今『何を』と仰ったのですか? 何を――あなたが? ふふ。うふふ。とぼけているのか、はたまた相当な朴念仁なのか?」
召使の服、そのスカートの端をつまみあげると、ぼとりと音がして一足の靴が床へと落ちた。
そういえばこの部屋、衣服どころか掃除婦の召喚の媒介である靴すら存在しない。まさか、全部を身に着けているわけでは、ないだろうな?
掃除婦「……まぁ、構いません。答えるならば、傭兵様。わかっているかもしれませんが、邀撃対象は僧侶様、それ以外にはございません」
掃除婦「そして同時に、警護対象も僧侶様でございます。矛盾とは言わせませんよ」
傭兵「……」
俺は、黙った。
沈黙は金である。雄弁は銀。カネではなくキンなのが惜しいところだが、価値があるならそちらを選択しない謂れはない。
というのは半分事実でもう半分は強がりだった。俺は意識して沈黙をしていたのでなく、意識すら沈黙していたのだった。
掃除婦「傭兵様の目的は存じております。大層立派。感激を通り越して感涙ものでございます」
傭兵「……俺を茶化してんのか?」
掃除婦「まさか。第一、傭兵様はそのような茶化し、慣れたものでございましょう?」
そうだ。俺の掲げる理想の子供っぽさは尋常ではなく、絵空事、夢物語だと何度笑い飛ばされたか数え切れやしない。
掃除婦「そうではなく、私は心底そう思っているのですよ。自分の治世が平和であると、故に自らが治世をするべきだと権力に固執した州総督様のように、夢は大きく自信は強く、やはり殿方はそうでなくてはいけません」
掃除婦「ですが、そのために傷つく人はなるべく少ないほうがいい。私だってそれくらいの常識と良識はございます。僧侶様に娼婦の嬌声など聞かせたくなかった、ましてやそれが傭兵様とのまぐわいのものならば猶更です。――そう言ったら信じますか?」
傭兵「僧侶に肩入れをするのか」
掃除婦「驚かれますか?」
傭兵「いいや、驚きやしねぇよ。そういったやつは何人も見てきた。それにお前は、一度僧侶に絆されているしな」
掃除婦「ふむ。私はこれで結構、驚いているのです。まさか私が、と」
傭兵「あいつの魔法にかかっちまったってだけだ。気にするくらい無駄なことはねぇよ」
掃除婦「魔法、ですか」
傭兵「あいつは魔法をこれっぽっちも放出できないからな。だから、実際のところは魔法じゃあない。あいつがお前に魔法的な何かをした、ってのは違う」
傭兵「あいつは頑張る。無駄に頑張る。できそうにねぇことでも根性と熱血で解決しようとする。周りはそんなあいつを見て笑うわけだ。バカにするわけだ。なにやってんだ、ってな」
傭兵「だけどよ、それを間近で見せ付けられていれば、ばかにし続けることも難しいさ。嘲り続けるのだって根性がいるからな。そして普通、そんな根性の座ったやつは、誰かの努力を馬鹿にしたりはしない」
傭兵「結局絆されちまうんだよ、どいつもこいつも。ちんまいしな。見てくれも悪かねぇ。そんなやつが頑張ってたら、世界を平和にしたいとか、みんなを幸せにしたいとか抜かしてたら……不可能だと頭では思ってても、手伝いたくなっちまうのが人情ってもんだ」
傭兵「あいつの生き様自体が高性能なチャームの魔法だよ。と、俺ァ思ってる。そういう喩えだ。あながち間違っちゃいねぇと思うがな」
掃除婦「オリジナルの魔法、ですか」
掃除婦は昔日を見るような目をした。視線は俺ではなく、もっと遠くに向けられている。
独自の魔法を用いる彼女としては、思うところがあるのだろう。限りなくフェティシズムの篭められた魔法が生まれる経緯を気になったことがないとは言えない。
掃除婦「私たちが生き返ったのも?」
傭兵「あいつを助けるために生き返ったのさ。人間てのは、つくづく不思議な生物だとはおもわねぇか」
自然と笑ってしまう。所謂「おセンチ」な考えだ、と自分でも思ったからだ。
本当に俺が、掃除婦が、あの時の1200人が僧侶の頑張りに感化されて生き返ったのだとすれば、つまるところ俺たちはあいつの奴隷ということになる。
しかし、あるいは、そうなのかもしれない。
肉体と魂、ないしは精神の関係はかねてから議論され続けているが、いまだに決まった答えは出てきていない。
ただ、俺たちは確かに死んで、生き返った。魂が強く僧侶に揺さぶられた結果の復活なのだとすれば、きっと魂は俺たちの最上位に位置していて、何より存外他人の真摯な姿に弱いものなのだと思う。
傭兵「だから」
と脱線した話を元に戻すべく、言葉を紡ぐ。
傭兵「お前は俺に忠告したいわけだ。僧侶を利用するのをやめろと」
掃除婦「そういうわけではありませんが」と前置いて、続ける。「僧侶様は世界の秩序の構築に欠かせない人物です。折角共産主義者を一箇所に集め、平和な国が築けたのです。僧侶様ほどの止水栓は他にいないでしょう」
掃除婦「それが結局は傭兵様の理想にとって都合がいいのです。しかも、あなたはただ土地を与え、権利を与えただけ。それを口汚く罵るつもりは毛頭ありません」
掃除婦「ただ私は、重要人物であるからこそ、幸せに生きて欲しいと思っているだけなのです」
傭兵「……」
掃除婦「あなたは僧侶様なんてちぃとも気にしちゃいないのです。見ているのは肩書きだけ、ガワだけ……それは少し、可哀想だと思いませんか?」
ふむ、と納得する。
さすが掃除婦、そこまでわかっていたか。
わかっていて、これまでついてきていたか。
あぁそうだ。俺は僧侶を利用している。利用しつくしている。そしてあいつは、恐らくその事実に気づいていない。
まったく愚かだ。だから嘗て党首の傀儡にされ、今は政争の具にされている。あれほど学ばない人間も珍しい。
あいつがいなければゲリラどもをまとめきれない。そして、そんな重要人物は、なるべくならばこちらに抱き込みたい。それが俺のためだ。PMCのためだ。何より世界の平和のためだ。
いいじゃないか。誰も不幸になっていない。僧侶は共産主義国家の成立と運営で心が躍っているし、俺だってその恩恵を随分と受けた。掃除婦もそれをわかっているからこそ口汚く罵るつもりはなかった。
傭兵「俺だってわかってるさ、あいつが、あいつみたいな人のいいやつこそ、幸せになるべきだ。人の善良さを疑わない人間が損をせずに暮らせる世界が、きっと俺の望んでる世界なんだろう」
そんなことずっと前から俺は知っているのだ。
あいつを犠牲にすると言う選択肢は、しかし、ずっと俺の中にはあった。
なんと言う自己矛盾だろう! 矛盾を乗り越えた果てに全ての幸せがあるのだとしても、それは、それは……。
掃除婦「私の事情はそのようなものです。同情、かもしれません。配慮の足らない傭兵様に代わって、私が配慮してあげようと」
傭兵「事情は承った。が、まだ解せんところがある。配慮というなら、どうして最終的には通したんだ。お前なら無理やりふんじばることだって可能だろうに」
実力で僧侶が掃除婦に敵うはずもないのだ。つまり、掃除婦はわざと僧侶を通したことになる。
掃除婦「それもできましたけどね。僧侶様が行きたい以上、あまり止めてもいらぬ不興を買うだけです。それに、少し僧侶様も内省すべきです。まだ十代、仕方ないとは思いますが、淑女のふるまいを身に着けるべきかと」
まるで母親だ。俺は苦笑を堪えきれない。
傭兵「情操教育も大変だな。あんまりセックスだのから離しすぎると、いざそういう時になったら困るぞ」
あいつは僧侶だ。姦淫は悪と教義で示されているわけではないかもしれないが、そういう知識は疎いだろうし。それでなくてもちょろいのだから。
気がつけば掃除婦が目を細めてこちらを見ていた。
掃除婦「……あぁ、なるほど。そちらですか」
傭兵「なんだよ」
掃除婦「いえ。なんでもありません。それでは傭兵様、用事が済みましたらさっさと出て行ってくださいな」
掃除婦はスカートの中から追加の靴をぼとぼと落とし、亡霊を顕現して一斉に俺を部屋から閉め出しにかかる。
亡霊の波にもみくちゃにされ、何がなんだかわからぬまま、廊下に放り出されてしまった。
掃除婦「それでは。傭兵様も頑張ってくださいまし。内省すべきは貴方もでございますし、何より少し、頭でっかちになりすぎているようだと忠告しておきますわ」
掃除婦「女遊びもほどほどに。後ろから刺されても知りませんよ」
掃除婦「ごきげんよう」
ばたん。
扉が閉められた。
笑顔も爽やかな掃除婦の挨拶は、耳に入っても脳には届かない。理解できているような、理解できていないような……。
とにかく、拳銃をぶつけられた背中が痛かった。
◇ ◇ ◇
傭兵様の話には矛盾がございます。それをあの人自身、理解しているのかいないのか、あれだけの会話ではわかりかねるのが残念と言えば残念ですが。
まぁ、いろいろ情報が出ただけで儲けものと、そういうことにいたしましょう。
傭兵様が僧侶様と距離を置いているのは恐らく事実。僧侶様の訴えを確認したところ、傭兵様の態度にはよそよそしいものがありました。しかしそれは、今しがた聞いた話と比べると、聊か納得ができません。
僧侶様が世界の平和を維持するために必要だと言うのならば、もっと僧侶様に手厚い態度をとればよいのです。というか、それが普通なのでございます。
彼女の気持ちをあの朴念仁が果たしてどこまで気がついているのかは定かではございませんが、そのようなことは抜きにしても、あの方なら自分の心を殺しきって僧侶様に尽くせるでしょう。
世界平和のためならばなんだってやれるのがあの方の強み。ここにきていまさら衰えるとは思いません。
僧侶様に冷たい態度をとり、その結果僧侶様が傭兵様から、PMCから、こちらの陣営から離れてしまう可能性を考慮に入れれば、決して傭兵様の態度はプラスになるものではないはずなのです。
そして、傭兵様がそのことをわからぬはずはない、と思っているのですけれど。
掃除婦「……どうやら私の予想は当たっていたようですね」
本当に、全く、困った人達ですこと。
――――――――――――――――-―
荒巻さんお疲れ様でした。
今回の投下はここまでとなります。
次回投下は未定ですが、頭の中には内容があるので、比較的早く投下できるかと思います。
今後ともよろしくお願いします。
* * *
昼間からお酒を飲むのは初めてでした。
ばたばたばたりと兵隊さんたちが酔いつぶれ、積み重なっている中、残ったうわばみたちの中に混ざって、わたしはちびちび甘酒をやっています。
兵隊さんたちはそれでも相当酒が回っているのか、わたしが僧侶であるとはちぃとも気づいていないようです。椅子の周りで踊りながら、わたしに「凄いだろ? な? な?」と即興のできばえを訊いてきます。
わたしは曖昧な笑みを浮かべながら褒めます。すると彼らは雄たけびをあげ、喜びの乾杯を交わし、また踊り始めるのです。
上半身裸で。
僧侶「これが軍隊式の宴会……」
恐ろしいところです。
プランクィでも収穫祭の時には、自家製のワインやエールを用いて祝いますが、これは祝いとかそういうレベルのものではないような気がします。
折角生き残ってもここで死屍累々に紛れてしまえば、折角の休日が台無しです。命を懸けて戦場に繰り出す彼らにとって悠々とした休日などは寧ろ不必要なのでしょうか?
兵隊「よーぉ、飲んでるぅ、かーい!」
こちらに兵隊さんが三人やってきて、座ります。「かーい」で三人はグラスをうちつけ、半分ほど残っていたエールをぐいぐい飲み干しました。
わたしも一応、あわせて甘酒を飲みます。甘さと米麹のバランスがちょうどよくて、どろりとした口当たりも嫌いではありません。
兵隊「おうおう、いい呑みっぷりだねーぇ!」
兵隊「その呑みっぷりにぃ……」
かんぱーい、でわたしもあわせました。徳利が揺れて危うく零しそうになります。
米の一粒は金の一粒です。お百姓さんの血と汗と涙が詰まっているのですから、その派生である甘酒だって、少しでも零せば罰が当たるでしょう。
手酌で注いでいればそれを見咎めた兵隊さんが湯のみへと注いでくれました。
なみなみと。
僧侶「……うわぉ」
おおよそ量はそれまでの倍。表面張力ぎりぎりまで注いで、ちょっとでも動かせばたちまち溢れてしまいます。
僧侶「……」
覚悟を決めて口をつけます。折角注いでくれたお酒を無碍に断るのは、宴会のルールに反する、とどこかで聞いた気がしたからです。
ごくごく、ごくごく。
ぷは。
流石に濃い甘酒を一気に嚥下するのは厳しいものがありましたが、気合と根性で何とか飲み干しました。わたしを見守っていた兵隊さんたちが揃って歓声をあげ、拍手をしてくれます。
ありがとう、ありがとう。ありがとうございます。わたしは手を振って応えました。
兵隊「いやぁいい呑みっぷりだ! 将来が楽しみだな!」
兵隊「本当本当! こんな可愛い子と呑めるなんて、生きててよかったよ!」
兵隊「んだ! ボス様々だべ!」
ボス――傭兵さんは部下の方々からそう呼ばれています。言われてみればなるほどと思います。あの人は上司や士官というよりはボスっぽいですから。
しかし、今のわたしにとって、あの人の名前は地雷でしかありません。北の州からやってきたというおじさんには罪はないのですが、どうしたってイラっときてしまいます。
僧侶「あの人がそんないい人ですか」
三人は驚くそぶりを微塵も見せず、寧ろわたしのそんな毒を笑い飛ばしました。
兵隊「はっはっは! お嬢ちゃんにゃまだあの人の魅力はわからねぇか!」
兵隊「まぁ誤解されやすい人だとは思うけどね」
兵隊「っつーか、半分以上は誤解じゃねぇと思うがなぁ」
違いない違いない、と三人はまた笑いました。
僧侶「それは矛盾です! 誤解じゃないなら好かれるはずがないです!」
兵隊「って言われてもなぁ?」
兵隊「あの人が運用する部隊は明確に死者数が違うし」
兵隊「任務成功率も、達成度合いもぶっちぎりだべ」
それは知っています。知っているのです。
でも、わたしが言いたいのはそういうことじゃあないのです!
僧侶「あんな、人のことを全く気にも留めない、この世で一番お金が大事な守銭奴なのに……!」
思い出すだけでまた苛々してきました。
一体わたしがどんな悪いことをしたっていうんですか! 否! 断じて否! わたしに非などありません!
僧侶「あの人ったら勝手によそよそしくなりやがって……こっちの気も知らず、いっつも勝手にやって、やりたいようにしやがって……!」
僧侶「どうせわたしのことなんて考えちゃくれないんですよ、あの人は! どんな考えが頭にあるのかわかりゃしませんが、それに振り回されるこっちの身にもなれってんです!」
兵隊「おい、どうする。顔真っ赤だぞ」
兵隊「ていうか、この子、僧侶ちゃん様じゃないですか?」
兵隊「あ、オラもそう思ってたべ。本物見たのは初めてだども、間違いねぇ」
あれ、ばれてましたか?
でも、そんなことは、どうでもいいのです!
僧侶「うるさい! 今は無礼講です! わたしだってお酒に呑まれたいときくらいあります!」
兵隊「どうするよ? ボスに一応連絡しておくか? 僧侶ちゃん様、大事なゲストだろ」
兵隊「うーん……事態をややこしくするだけだと思うけど」
兵隊「少し喋らせとけばいいべ。甘酒でこれじゃ、どうせすぐ寝るさ」
なにやらごちゃごちゃ相談している三人に割って入ります。四人いるのに、一人を仲間はずれにするだなんて、そんなことが許されていいと思っているんですか。
お酒、お酒です。酩酊のみが精神を解放してくれるのです! そうでも思い込まなきゃやってられません!
僧侶「わたしはただ、隣にいたいだけなのに!」
それこそが本心でした。
別に、恋人になりたいとか、そういうことが第一義ではないのです。
あの人は無茶をしすぎだから、勝手に何でもやりすぎだから、せめて一緒にいてあげるくらいのことはしたいだけであって。
僧侶「あなたたちはいますか、恋人とか、好きな人とかぁ」
兵隊「いたらこんなところで酒呑んでねぇよな」
兵隊「僧侶ちゃん様大丈夫かな……」
兵隊「呑み慣れてないだけだべ。平気平気」
僧侶「いいですかぁ、ちゃんと大事にしなきゃだめですよぉ、女の子はちょっと冷たくされただけで傷ついちゃう、それはそれは、非常に面倒くさい生き物なんですからぁ」
あぁ、限りなく自虐です。自らが吐いた言葉の一つ一つがわたしの頬をぶっていきます。
傭兵さん一人に距離を置かれただけでこの有様。この世界に男があの人しかいないわけでもあるまいに、どうしてこんなに心がささくれ立つのか。その答えを知っているようで知らないようで、そのむず痒さが余計に腹立たしい。
そう、男があの人しかいないわけではないのです。優しくしてくれないのなら、こちらだっていくらでも手段があります。
男性はこの世にごまんといるのですから、探せばきっと、わたしに優しくしてくれる人だっているはず。
僧侶「……」
兵隊「僧侶ちゃん様?」
兵隊「動きが止まったね」
兵隊「吐くんじゃねぇべか」
僧侶「……ムカつく」
手に力が篭ります。
傭兵さんがムカつくだけではなく、あんなムカつく男しか脳裏に浮かんでこない自分自身に、とにかく。
頭を抱えてシェイクしたい。ですが、した瞬間にわたしはきっと嘔吐するでしょう。そんな自殺行為は趣味ではありません。
にっちもさっちも行かなくなって、わたしは甘酒に手を伸ばしました。
僧侶「……からぁ?」
こんな期待倒れもありません。徳利は軽く、振ってもぴちゃぴちゃとすら音はしなくて、わたしは項垂れながら潰れた蛙みたいな声を出しました。
「あら、凄いことになってるのね」
そのときです。優しく、艶かしく、それでいて悪戯っぽい声が背後からかかったのです。
声はどこかで聞き覚えがありました。しかしすぐには声の主が思い浮かびません。アルコールで十二分にとろけた頭では荷が重かったのでしょう。
そうしている間に兵隊さんが三人とも反応しました。恐れと畏れの入り混じった顔をしながら、立ち上がって振り向きます。大量のお酒が入った体で、よくあんなに俊敏に動けるものだと感動するくらいでした。
遅れてわたしも振り向きました。
僧侶「……きれい」
思わずため息が漏れます。
きれいな女性でした。整った目鼻立ち、小さな顔、すらりと長い手足、燃えるような炎髪。なにより、出るところが出て、締まるところが締まっている、無駄のない体型。
無駄のなさすぎるわたしとは天と地ほどの差があります。一体何を食べたらあんなふうになれるのでしょうか。
胸元の大きく開いた髪の色と同じ赤いドレスを身に着けているので、その体型は余計に強調されています。
本来PMCにあってはあまりに場違いすぎる格好。ですが、その女性が立っているだけでまるで絵画のように馴染んでいました。
そして女性の何より凄いところは、誰もが羨む美貌を持ちながらも、まるで厭味がないところでした。ともすれば高嶺の花となりそうなところを、愛嬌のある親しげな笑みを緩衝材としているのです。
まとう雰囲気が彼女を神聖不可侵なものへと押し上げていました。立ち居振る舞いからカリスマ性が滲んでいます。
わたしの呟きが聞こえたのでしょうか。女性は軽く微笑んで、こちらにウインクしてきます。女同士でもぽーっとなってしまうほどの魅力。
「こんな可愛い子相手を潰して、もしや悪戯をしようだなんて思ってなかった?」
悪戯っぽく女性が三人を見ました。
いたずら……? 三人ともそんなことをして楽しむような年齢ではないと思いますけど。
きょとんとするわたしを尻目に三人は猛烈な勢いで首を振ります。
ボスに殺されちまうぜ、いやもっと酷い目にあうよ、オラたちだって命は惜しいんだ――慌てながら叫んでいました。
事実を当てられたからではなく、誤解をとくのに必死の形相でした。女性もそれはわかっているのでしょう。ふふふ、とたおやかな微笑みを維持しながらこちらへもう一度視線を向けてきました。
そしてお辞儀をします。しなやかな動作。それはそれは丁寧な、社交の場の経験を感じさせるものです。
わたしもすかさず立ち上がりました。一瞬ふらりとよろめきますが、さすがにお辞儀をされてふらふらしているわけにもいきません。酔っ払っていては説得力に欠けるかもしれませんが、プランクィの党首としての矜持というものがあるのです。。
娼婦「はじめまして。わたしはこのあたりの娼婦を束ねています。以後お見知りおきを」
娼婦の元締め。なるほど、合点がいきます。それならこの美貌も、肢体も、最上級の社交の態度も、当然持ち合わせているでしょう。
兵隊さんたちはどうしたって男所帯になります。そして、わたしはよくはわからないのですが、どうにも男性は「溜まる」ものだそうです。
性欲の管理が士気に繋がるというのは少し情けないような気もするのですが、性欲だって三大欲求の一つ。寝ずに戦え、食べずに戦えと言われているようなものなのでしょう。
だからわたしは、娼婦という職業を別段蔑視しているつもりはありませんし、その利用に眉を顰めるつもりもありません。
……それに、わたしはべつに、あの人の恋人じゃないですしね!
話が脱線しましたが、そういう理由があるので、駐屯地の周囲の行楽所には「そういうところ」が必ずと言っていいほどあります。きっと彼女はそこの人なのです。
僧侶「わらひ、わら……ひつ、ん、失礼、わら、わたしは、僧侶と申しましゅ。こんにゃところをお見せひて、申し訳にゃい、ない、とは思っておりましゅ、おりましゅ、……す!」
ぐだぐだになりながらも紹介を済ませました。途中で娼婦さんは「いいのよ、無理しなくて」と仰ってくださいましたが、酒を呑んだくれているところを見られただけでも恥ずかしいのに、呑まれて自己紹介すら言い切れもしないなんてのは恥の上塗りです。
こんな呑まれきった自己紹介の時点で、恥を掻ききった気は無きにしも非ず、ですが。
娼婦「お噂はかねがね聞き及んでおります。共産国家プランクィの二代目党首。それでも実際見ると驚きますわね、こんな小さな子が党首だなんて……失礼しました。気に障ったのなら申し訳ありません」
僧侶「いいえ、いいんれすよ、慣れてまふ。事実ですしね」
娼婦「おいくつか聞いてもよろしいかしら」
僧侶「先月十九歳になりました」
娼婦「十九!」驚く仕草さえも優雅です。「わたしがあなたくらいのころは何してたかしら。もう覚えてないわ」
この人の年齢はわかりませんが、ぱっと見では二十の半ばくらいに見えますけれど。
娼婦「それで、何の話で盛り上がっていたのかしら? お姉さんにも聞かせてもらえないかしら」
手馴れた手つきで空いた三人のグラスにエールを注ぎ、いつの間に用意したのか自分の空グラスにもそれを注いだかと思うと、娼婦さんは椅子に座ってあおりました。
ごく、ごく、ごく。いい音を鳴らしながら液体が喉を通っていきます。
娼婦「これでも娼婦なんて長年やってるからね、男女の間柄に関しては、一家言持っているのよ」
娼婦「ほら、僧侶様も呑んで……って徳利が空じゃない。男女の間柄に関して、その一。気の利かない男はもてないわよ」
三人を見やると、まるで操られているかのようにわたしのもとへと徳利を持ってきました。その数八本。
いや、こんなに呑んだらそれこそ大惨事なんですけど……。
娼婦「それに、このにおい、清酒じゃないわね。甘酒? 僧侶様はお酒が弱いかたかしら」
僧侶「はい、情けない限りで」
娼婦「いいのよ、自分が呑みたいお酒を呑めばいいのだわ……ほら、注いであげます」
僧侶「ありがとうございまふ……とと」
お猪口に注がれた甘酒と、娼婦さんのエールを打ち付けます。澄んだ音色が気持ちいいです。
そして、また呑み会が始まったのでした。
――それから一体どれくらいが経ったでしょうか。
僧侶「わらひらって、わらひらって、がんばってんでふよぉ!」
娼婦「わかる、わかるわあ」
僧侶「体操ひたりマッサージしはり、バランスよく食べへ、でも、でも、成長しにゃいものはしないじゃないれすかぁ! それなのにあの人は、あの人はいっつも、わらひのことを、ちんちくりん、ちんちくりんって!」
僧侶「それらけならまらいいれすけどぉ、百歩ゆるって許ふとひてぇ、いきあり突ひ放すみたいら態度で、なんらんですかあれ!」
徳利を取ろうとしたらそれは残像でした。や、違うのかな? 徳利が動くはずないから、多分言葉が違ってて、なんだろう。なんだっけ。なんていうんだっけ?
あ、幻覚だ。そう、幻覚れふ。
代わりにお酒は娼婦さんがお猪口に注いでくれていました。それを一息で飲み干し、だん、と強くテーブルを叩きます。
兵隊さんたち三人はテーブルの隅で全員突っ伏して、もうだめだなんてなまっちょろいことを言ってます。なまっちょろい! なまっちょろい!
僧侶「わらひはずぅっと仲良くひたい、仲良くひたいって思っへるほに、さいひんはあのひとらってちょっとは優しくひてくれるように、手紙とかれも、寒くすゆと風邪ひくぞとか、おいひいご飯屋さんがあっちゃから、今度行こうとか、言ってくえてたのに!」
僧侶「やっぱりぼいんぼいんがいいんれすか! 男は所詮、からだがみゃーてなんですか!」
僧侶「わらひらって、わらひらって、体操とか、マッサージとか、がんばってんでふよぉ!」
娼婦「そうね、その話は既に十一回目よ、僧侶様」
僧侶「十一回がなんれすか! 十回が二十回だって尽きまへんよ!」
わたしは新しい徳利を寄せます。記念すべき十本目でした。
僧侶「ぃや、れもやっぱし、からだにゃんですよ! 昨日らってあの人、娼婦を呼んで、きっと揉んだりしれらんです! 絶対! 廊下にまで聞こえる声で!」
……ん?
あれ?
娼婦「あー、もしかして、それって」
この声って?
娼婦「なるほど、そういうことなのね。それは申し訳ないことをしたわ」
僧侶「昨日、傭兵しゃんと一緒にいたのって……!」
娼婦「ごめんなさい。でも、これもお仕事だから」
謝られても困ります。わたしはあのひとの恋人じゃないのですから!
あぁ、それでも、心が痛い。アルコールで鈍間になっている頭なのに、こんなときばっかりはまともに働くのだから、体ってやつはいつだってうまくいかないのです。
きっとあの人は娼婦さんの裸を見てきれいだ、なんて呟いてしまうのでしょう。抱きしめあって、キスもして、お互いの体を触りあうのです。
想像したくない。
それでも頭は回ります。お酒が足りてないのか、それとも入りすぎているのか、嫌な想像だけがぐるぐると。
わたしが知らないあの人の顔や、声や、傷の位置や筋肉の固さなどを知っているのでしょう、娼婦さんは。
そして傭兵さんは、一時の流れで「愛してる」だなんて囁くのかもしれません。もしくは、そう囁いた娼婦さんに対して「俺もだ」なんて歯の浮いたような台詞を。
やだやだやだやだやだやだ!
行為が如実に現実味を帯びてきました。ぼんやりとした傭兵さんの相手が、ここにきてはっきりと輪郭を持ってしまったのです。しかもその相手は逆立ちしたって勝てない美貌と肢体の持ち主で。
娼婦なら許せるとか嘘です。大嘘です。
いや、ちがくて、そうじゃなくて、そんなつもりじゃなくて、だって本当に許せると思っていたのですあのときは。そういうものだってわかっていたのに、結局それはわかっていたつもりでしかなくて。
それすらも違うのだとすぐにわかりました。許せるとか許せないとか、そんな偉そうなことじゃない。ただのわたしのエゴ。醜いわたしの嫉妬。
あぁ、それはきっと重複です。意味が重なっています。
嫉妬は醜いものなのですから。
それすらも違うのだとすぐにわかりました。許せるとか許せないとか、そんな偉そうなことじゃない。ただのわたしのエゴ。醜いわたしの嫉妬。
あぁ、それはきっと重複です。意味が重なっています。
嫉妬は醜いものなのですから。
娼婦「あの人とは長い付き合いでね。いつも利用してくれてるの」
やめて、聞きたくないです。
娼婦「元締めってこともあってお仕事の話も沢山するわ。斡旋とかもやってるから……大丈夫? 顔色が、悪いけど。お手洗いに行く?」
僧侶「……」
気分が悪いのは事実でした。でも、原因がわかりません。輻輳しているから。
拳銃に思わず手をかけそうになります。当然おかしいと気がついたので、常識が腕を止めますけれど、もしそうでなかったらわたしは一体誰を撃つつもりだったんでしょうか。
娼婦さん?
わたし自身?
それとも……。
嫉妬に狂う人間は、お金と権力に目を操られる人間の次に醜いものです。わたしはまだ、狂っちゃいない。必死に自分に言い聞かせます。
娼婦さんは仕事でやってる。傭兵さんとはビジネスライク。そしてわたしはあの人の恋人ではない。
あの人はわたしのことを好きではない。
違う。違う。違う。
それは論理の飛躍だ。恋人でないことが即ち好きでないことには繋がらない。そうでしょう。そうなのです。だから、落ち着いて。落ち着いてください、わたし。
娼婦「でも、なんで傭兵さんは僧侶ちゃんと距離をおいたのかしら」
わからないです。他に好きな人でもできたんじゃないですか。いや、それだと彼が最初はわたしを好きだったみたいじゃないですか。誤謬がありますね。
仲がよかったと思っていたのはわたしだけだったのでしょうか。
いや、違います。違うはず。
だって傭兵さんはわたしを助けてくれました。プランクィを復興させてくれました。そんなことをしてもあの人に益はありません。益がないことをあの人はしない。わたしは例外なのです。特別なのです。
娼婦「本当かしら?」
本当です!
娼婦「聡明なあなたがもう一つの可能性に行き着いてないとは思えないけど」
特別なのです!
僧侶「わたしはあの人に利用されてなんかない! わたしがこうしていられるのは、全部傭兵さんの善意なのです!」
それが愛なのであればどれだけ嬉しかったことか。
娼婦「そう。そう思えるって、素敵なことね」
にこりと娼婦さんは微笑んで。
娼婦「百戦錬磨の恋の達人、お姉さんからアドバイス、要る?」
アルコールの酩酊がここにきて極まってきました。調子に乗って呑みすぎたのがきっとよくないのです。というか、確実にそうです。
叫んだのが、止めになったのでしょう。
ぐらぐらぐらりと揺れる視界、そして意識の中に、娼婦さんの声だけが染み込んでいきます。
娼婦「その一。愛とは奉仕よ。相手の求めることを、相手が求めるかたちでやってあげること。それが大事なの」
娼婦「傭兵さんはきっといい『愛』を持っているわ。愛は裏返せば、相手の弱点をつくことでもある。あの人はそれが実にうまい。やられたくないことを先んじてできる。逆に、やられたらまずいことをいち早く察知して、対処をうてる」
娼婦「でも今回はそれが裏目に出たわね。ま、私もあの人を愛しているから、当たり前か」
僧侶「わ、たし、の、ほうが……」
娼婦「あら、まだ喋られるの。すごぉい」
娼婦「その二。思いは口に出すものよ。忍ぶ恋なんてこのご時勢流行らないわ。
しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
うーん、懐かしい。時代錯誤も甚だしいけど」
娼婦「あの人の重荷になりたくない、断られたら怖い、どうせ好かれていないんだ……そんな気持ちがブレーキをかけてるのね。わからなくはないけど、堂々巡りになってるんじゃないかしら」
娼婦「あなたはもっと自分勝手に、傲慢になってもいいわ」
……いいんでしょうか?
わたしは、あの人の隣に、いたいだけで。
娼婦「誰かにとられてもいいのかしら?」
それは、
娼婦「ずっと一緒にいたい。誰かにとられたくない。両立させるのは、難しいわ。とても、難しい」
娼婦「つまり、それは、『難題』ね」
なん、だい……?
娼婦「でも、喜ぶべきことに、わたしはその難題の答えを授けてあげられる」
娼婦「――――」
娼婦さんが、なにかを喋っているのは、口の動きから、わかるのですが……。
ぞわりとした悪寒が、耳の穴から入り込んで、頭を犯している、そんないやなきもちになります。
あぁ、意識が、眠い、途切れる。
娼婦「安心しておやすみなさい」
娼婦「唯一無二たる魔族の姫、このカグヤが見守っていてあげるから」
―――――――――――――――――――
今回の投下はここまでです。
思いついただけブッコむ癖を何とかしないとストーリーにまた破綻が起きるのはわかっているのに…
今後ともよろしくお願いします。
* * *
ベッドに倒れこみました。どうやって部屋まで戻ってきたかは、よく覚えていません。
頭がぼーっとします。視界がふわふわして、浮かんで、飛び跳ねて……熱を帯びているのです。
じわじわと体の中心から全体に広がっていくなにか。柔らかい桃色の霧にも似たそれは、ゆっくりと全身を支配していきます。
唯一支配から逃れられているのは思考だけでした。ただし、ぽんこつです。殆ど使い物になりやしません。娼婦さんとお酒を呑み始めてからの記憶がないのですから、余程大量に呑んだのでしょう。醜態を晒していなければいいのですが。
この部屋へは自力で帰ってきたのでしょうか? だとすれば、意外とわたしは、お酒に強いのかもしれません。まぁ甘酒ばかりを呑んで何言っているのだと傭兵さんなら言うのかもしれません。
傭兵さん。
なんでしょう。彼のことを思うたびに心が痛いのです。じくじくじくじく魂の傷から血が滲んでくるのです。
耐えられない痛みではありません。ただ、一秒一秒しつこくわたしを刺激するのは、非常に不快です。すっきりしません。さっぱりしません。
どうすればいいのでしょうか。この胸の苦しみから解放されるためには。
傭兵さん。
あぁ、わたしはここにきてようやく理解しました。わたしはあの人のことが好きなのです。信頼を通り越して、それとも全く別の領域に存在してる感情なのかもしれませんが、とにかく、愛しているのです。
愛してしまったのです。
あの人はわたしのことなんて決して愛してくれはしないのに。
そのことを同時に理解してしまったのが運の尽きです。いや、命運自体が尽き果てたといっては過言でしょうか。
あの人はお金が大好きで、わたしは大嫌い。生き方が異なっているわたしが彼の隣にいようだなんて、そもそも場違いな話で、自分の立場をわきまえていなかった証左。
だから利用されるのです。いや、畢竟、利用されたとて構いません。便利な女でいい。都合のいい女でいい。そうとすら思えてくるほどに、わたしの心はあの人を欲しているのです。
傭兵さん。
嫌いだったはずなのに。
好きになって欲しいと思うだなんて。
涙がぽろぽろこぼれてきます。嗚咽が喉をひたすらノックして、ついにはしゃくりあげてしまいました。
隣にいたいと、一緒にいたいと望んだのは嘘ではありません。しかしわたしの心は求めすぎています。それ以上を。手に入らないものを。
腹八分目で生きている限りこの世は天国。ですが、多くを望めば望んだぶんだけ、人は地獄に近づいていきます。両者の淵は近く、まるで欲望のチキンレース。
わたしは地獄に落ちてしまいました。
それもまた悲しくて。
悲しみが交じり合った中で、ついにわたしはまどろみの渦に囚われました。
* * *
夢の中だとわかります。でないと困ります。
だって、目の前に広がってるのはこの世の最悪なのですから。
傭兵さんと娼婦さんが交わっていました。
軋むベッドの上で、正常位で、娼婦さんが喘いでいます。美人は喘ぎ声まで美しい。シーツを掴む手に浮かぶ血管さえも気品があるように感じられました。
娼婦さんは傭兵さんの腰に、足を絡めるようにしています。傭兵さんは娼婦さんに覆いかぶさるようにして、一心不乱に腰を動かす。そのたびにベッドが軋むのです。ぎし、ぎしと。
見たくない、見たくない。目を瞑って耳を塞ごうとしても、わたしには手がなく、それどころか瞼すらありませんでした。顔を背けることもできず、ただ二人の愛の営みを、見つめ続けることしかできません。
二人の体には珠のような汗が滲んでいます。動くたびに聞こえる「はっ、はっ」という動物のような吐息。
娼婦さんの顔は愉悦に蕩けています。傭兵さんも射精を我慢しているのか、随分と辛そうな顔をしていました。
だんだん娼婦さんの嬌声の感覚が短くなっていきます。それにあわせて傭兵さんも腰の動きを早くしました。
娼婦「い、っしょ、に……」
傭兵「ん……!」
二人はそうして深く口付けを交わしました。小鳥がついばむのとはわけが違います。舌を絡める、肉食獣のような口付けでした。
わたしはその光景を見て最早正気ではいられません。夢なら早く覚めてと願うばかりなのに、意識はもっと鮮明になって、涙を拭くこともできず、口から絶叫が流れていきます。
やだ! やだ! やだ!
傭兵さん! こっちを見てよ!
しかし二人にはわたしが見えていないのか、一心不乱に行為を続けます。
そのうちに抽送が一層速度を増して、大きく傭兵さんが腰を打ち付けました。同時に二人の体が震え、びくん、びくんと痙攣します。
達したのだと理解するころには声も出ません。なんでこんな光景を見せられているのでしょうか。なんでこんな目にあわなくちゃいけないのでしょうか。好きな人と、自分以外の誰かが交わるところなんて、見たくない。
性悪な夢です。わたしがわたしに見せているくせに、わたしを苛むだなんて、一体どうなっているんでしょうか。
結合部から白いものがこぼれてシーツを濡らしました。終わったと、これで幾分かは楽になると、そう思った矢先に傭兵さんはまた動き始めます。娼婦さんはくすりと笑って、傭兵さんの上体を抱きしめて受け入れるのでした。
愕然とします。こんなものを見続けていては、いずれ死んでしまうのではないかと本気で思いました。
恋人じゃないから。
わたしはあの人のことが好きじゃないから。
そんなこと言ってられない。
だって、だとするなら、この胸の痛みは一体何なのですか!
どうして傭兵さんと娼婦さんの行為に、ここまで嫌悪感を感じるのですか!
やだ、やだ、やだ! やだよぅ!
わたしの好きな人をとらないで!
声にならない声でしたが、なぜか娼婦さんには聞こえたようでした。彼女はこちらをちらりと一瞥して、口元に柔らかい笑みを浮かべます。
善意と悪意が入り混じった、楽しげな笑み。
意識が暗転。
* * *
傭兵さんを抱きしめると逆に抱きしめ返されました。細身ですが余計な脂肪のついていない、すらりとした肉体です。いくつもの傷跡が残っているのは彼の人生の壮絶さの証に違いありません。
そのまま首筋から鎖骨にかけて、かぷ、と甘噛みしてみます。傭兵さんはくすぐったそうにしながらわたしの頭を撫でてくれました。
髪の毛に指を通し、梳くような感じで二度、三度。それだけで頭がぽーっとなって、体から力が抜けて、傭兵さんに全てを任せたくなってしまいます。
少し寄りかかれば傭兵さんはより強く抱きしめてくれました。それが許可の合図だとわかったので、ついに全身から脱力して、全体重を彼に預けます。
わたしは胡坐をかいている傭兵さんの足の上に乗っていました。対面から抱きつく格好。顔を真っ直ぐに見られないのですからしょうがありません。でないと恥ずかしくって死んでしまうから。
嬉しくなって甘噛みを繰り返します。軽く力を篭めるたびに傭兵さんの体がぴくりと反応し、わたしを抱きしめる腕や、頭に回された手に僅かな力が入るのが、幸せでした。
些細なことなのでしょう。ですが、些細なことの中に幸せがあるのだと、わたしはこの人と恋仲になってから知ったのです。
誕生日でケーキを食べる幸せより、手を繋いで日向を歩くだけの幸せのほうが、積み重なって幸福なのです。
傭兵さんも負けじとわたしの首筋に舌を這わせてきました。
僧侶「んっ……」
肌の直下に電気が走ります。とはいえ、抱きしめられているので体をよじらせることくらいしかできません。
傭兵さんはわたしを決して離さないほど力強く抱きしめつつ、引き続き舌を這わせます。前から横へ、そしてうなじへと、わたしの反応を見ながらの行為でした。
僧侶「や、ん……よ、うへい、さん」
傭兵「や?」
訊いてきます。もう、とっくにわたしの弱いところなんてわかってくるせに、まだこんなとぼけた真似を続けるのですから。
いじわる、です。
せめてもの反抗としてこちらも甘噛みで反撃しますが、
傭兵「生意気」
僧侶「――ッ!?」
強く首筋を吸われて力が抜けます。
だから、それは、だめだって、ゆってる、のに……。
僧侶「だ、だめれす、傭兵さん、痕が……」
またみんなににやにや笑いをされてしまいます。
傭兵「見せびらかすだけだから」
僧侶「ひゃっ!?」
また強く吸われました。主導権なんて握れるはずもありません。
明日、しんぱい、です。
掃除婦さん、とか、しょうこう、さんとか……。
首筋に沢山キスをされるたびに、頭の中が蕩けていきます。脳みそは全部液体化して、よだれとなってわたしの口の端から垂れていってるのです、きっと。
そしてそのよだれすらも傭兵さんに全部吸われます。
激しくぶつかるような荒々しいキスでした。傭兵さんも我慢できなくなりかけているのだとわかって、ちょっとだけ、嬉しい。
顔がにやけてしまいます。
僧侶「ひゅひれふっ、ようへぇ、しゃん……んっ」
ちゃんと言葉として聞こえているのかもわからないまま、わたしはキスをしながら愛の言葉を紡ぎます。
僧侶「ひゅき、すき、です……」
それ以上は、傭兵さんの舌がわたしのくちのなかにねじ込まれたため、喋ることができませんでした。
舌と舌を絡ませながら、口の上や歯の裏側まで舐めとり唾液の交換。ぐちゅぐちゅといやらしい音が響きます。
傭兵さんの舌が口内を掠めていくたびに体が振るえてしまうのですから、この体の脆弱っぷりったら。視界も霞んで、傭兵さんの顔しか見えません。
いや、そんなのはずっと前からそうでした。ずっと前から、わたしは彼の顔しか見えなかったのです。
惚れた側の弱み。心も体も、傭兵さんのもの。
おしりに傭兵さんの固くなったものが押し付けられているのがわかりました。ぐりぐりと、肉付きのそんなによくないおしりなのに、少しでも快感を得ようと必死です。
あぁ、傭兵さんも男性なのです。わたしの体で気持ちよくなってくれているのです。そんなに嬉しいことはありません。
僧侶「ひょっと、待って、くらはい……いま、らくひ、ひへあげまふ、から」
舌を絡ませたままわたしだけ腰を浮かせます。見ずともズボンのボタンを外し、チャックを下げるくらいはできるようになりました。
下着を下ろせば勢いよく傭兵さんのものが飛び出してきました。見るたびに驚きです。他の人も、こんな元気がいいのでしょうか?
傭兵「……そんなに気になるのか」
呼吸のために口を離したついでに聞かれました。わたしは思わず首肯します。いや、だって、ねぇ?
傭兵「淫乱だな」
僧侶「淫乱ではありません!」
女の子になんてことを言うのですか!
抗議の声も傭兵さんには馬耳東風。それに、わたしも弱すぎです。頭を撫でられるだけで力が抜けて抗議どころじゃなくなるのですから。
僧侶「や、いっつも見るたび、その、思うんですけど」
僧侶「……すごいなって」
傭兵「お前相手だしな」
あ、だめです。
だめ、だめ、それはだめです。ずるい。不意打ちって。
頭の中でスイッチの入った音が。
僧侶「……さわります。さわっても、いいですか」
傭兵「ん。やさしくな」
わかっています。
優しく握ります。あっつくって、かたい。わたしの両手で握ってちょうど隠れるくらいの大きさのそれは、先端に雫をつくって、わたしのなかに入るのを今か今かと待ち遠しそうにしていました。
ごめんなさい、ちょっと待ってねと心の中で謝って、雫を指先で伸ばしていきます。
ぬるぬる。ちょっと指を離すと、粘って糸を引く、そんな人体の不思議。
自分の唾液を少量指先にとって、つるつるした先っぽから、その少し下のくびれまで、伸ばしていく。指先が触れただけで傭兵さんは反応します。それがまた、楽しい。嬉しい。
だからわたしはこのとき、きもちいいですか、と聞くことをあまりしません。反応で傭兵さんがよくなっているのかわかるから。
今度は指だけじゃなく、手のひら全体を使ってやさしくやさしくさすってあげます。くびれのところがよく感じるのか、手のひらのでっぱりがそこをなぞるたび、一際大きく傭兵さんの腰が動きました。
きもちいいですかと聞きはしませんが、顔を見るのは好きです。いつもいじわるでわたしをからかってばかりのあの人が、わたしにさわられて顔を歪めているのは、新鮮でちょっぴり愉快。
わたしと目があうと傭兵さんは微笑みました。きもちいいのですね、やっぱり。頑張ろうと思ってしまうのは、わたしが単純だから、なのでしょうか。
それともこれも、惚れた弱み、なのかも。
傭兵さんがわたしの頬に手を添えました。ごつごつして無骨な手。だけどあったかい手。
その親指がわたしの口の中に侵入してきたので、舐めました。特に意味はないですけど、なんとなく。
親指一本だけが人差し指も増えて二本になり、親指が抜けて中指が入ってきます。二本の指がわたしの口内をかき回して、わたしは唾液も飲み込めず、口の中にたまっていくそれを傭兵さんの指に塗りたくっていきます。
さすがに息が苦しくなってきたころ、ようやく傭兵さんは引き抜いてくれました。わたしの唾液でぬれている指をそのまま自分の口に運び、舐めとります。
心臓が跳ね上がりました。恥ずかしい。どきどきすると同時に、内腿のむずむずが止まりません。
傭兵「つば、飲み込むなよ」
傭兵さんはあくまで優しく言いました。彼の荒い息がわたしの前髪を揺らします。
僧侶「……はい」
でも、たぶん、わたしだっておんなじ。
期待の声音が今の返事に含まれていると思うし。
傭兵さんの指示の意味がわからないほどおぼこのつもりではありませんでした。言いつけどおり唾液を飲み込まず、わたしは傭兵さんの下半身から手を離し、代わりに顔を近づけていきます。
少し汗臭さがあります。ですが、いまのわたしにとって、それはより強く傭兵さんを感じる大事な一要素。内腿のむずむずはまた一段と強くなって、それに押されるように、舌を伸ばします。
あつくて、かたい。それは変わりません。加えて、においとあじが、喉から頭を突き抜けて、空気をうまく吸えないと言うこともあるのでしょうか、頭がぼんやりとしていきます。
傭兵さんのにおいと、あじと、かたち。書物では歯を立ててはいけないと書いてあったので、注意しながらたまった唾液をかぶせていきます。
何か指示は来るかなと思いましたが、傭兵さんはわたしの頭を愛おしそうに撫でるだけで、何も言いません。蕩けていく頭を感じながら、がんばって傭兵さんをきもちよくさせるべく、動きます。
いろいろと試します。舌で舐めたり、口全体をすぼめたり、せめる場所を逐一変えたり。
やっぱりくびれの部分は弱いらしく、そこを集中的に舐めると、大きく反応しました。
傭兵「……いいぞ」
僧侶「ほんほうれふか」
見上げれば傭兵さんは顔を顰めていました。きもちよさそうな顔です。
よかったぁ。
もっといっぱいきもちよくなってくださいね。
唾液をもっとたくさん使って、奥深くまで飲み込んで、浅いところまで吐き出すことを繰り返します。唇でくびれのところを刺激してやることも忘れません。
唾液と傭兵さんの雫がまじって、口の中でとてもいやらしい音をたてていました。ぐちゅ、じゅぽ、という粘っこい音。それは当然わたしの耳にも届いて、頭をかきまわします。
息苦しささえもどきどきの理由。
わたしはいま、傭兵さんに犯されているのですから。
ついに傭兵さんが自ら腰を動かし始めました。頭にかかった手も、撫でるのでなく、掴む感じで、固定してきます。
出るのですね。わたしの口でいっぱいきもちよくなってくれたのですね。
それだけでも嬉しくてたまりません。
喜びのままに口を動かせば、ぐちゅ、ぐちゅ、じゅぷ、とより大きな音が立ちます。恥ずかしくって恥ずかしくってたまらないのに、体がとまりません。
傭兵「僧侶、もう……」
苦しそうな声。わたしは頷いて、だしてもいいんですよ、と示します。
いえ、だしてください。
きもちよくなった証をわたしにください。
傭兵さんの手に力が入り、わたしは無理やり傭兵さんの根元まで押し込まれました。同時にびくびくと脈動し、喉の奥に熱くねばっこいものが吐き出されます。
噎せて吐き出しそうになりましたが、そんなもったいないことができるはずもなく。
射精は五秒間くらい続いて、多少柔らかくなったそれを、傭兵さんは満足そうに引き抜きました。
傭兵「ティッシュに出すか?」
尋ねてきた傭兵さんにたいして首を横に振りました。そして、ごくん、と一息に、口の中に出されたものを飲みくだします。
喉に引っかかって、さしておいしくもありませんでしたが、そういうものではないのでした。わたしの唾液が傭兵さんに飲まれてどきどきしたように、わたしの中に傭兵さんのものがあるというだけで、どきどきする要素なのです。
僧侶「えへへ……」
ちょーしあわせ。
* * *
とはいっても、一度出しただけでは傭兵さんは収まりそうもないご様子でした。出した直後は柔らかくなっていましたが、すぐにまた、かたくなっていったのです。
……あんなふうにおっきくなるんだ……。
はじめて見ました。見てしまいました。
それに、うぅ、あんまりにも恥ずかしいのですが、わたしも、その、さすがに、キスや頭を撫でられるのだけでは我慢ができません。
傭兵「ほら、脱げって。恥ずかしいなら脱がしてやるけど」
一足早く裸になった傭兵さんは、まだ上も下も身に着けているわたしに対し、いじわるな顔で言いました。
そこはムードで脱がせるのがマナーだと思うのに、やっぱりこの人はわたしを辱めるのが趣味なのです。
脱がされるのも自分で脱ぐのもどっちも恥ずかしいですが、前者のほうが恥ずかしいような気がしました。わたしは顔を真っ赤にしている自覚を持ちながら、自分で脱ぎますと宣言します。
僧服は下着とキャミソールの上に大きな長い布をいくつも巻きつけた構造をしています。なので脱ぐのは簡単と言えば簡単です。結び目を解けば、勝手にはらはらとほどけていくのですから。
だからこそ心の準備すらする余裕がないのでした。
下着になると余計に貧相な体が強調されます。つるぺたすとん。悲しい。この歳になって下の毛さえ薄いのは、ショックと言わざるを得ません。
傭兵「俺は嫌いじゃないけどな」
そう言って、傭兵さんはキャミソールをめくりあげ、わたしの胸に吸い付いてきてました。そういうものなんでしょうか。男の人って、わかりません。
わたしの肌の上をねぶる舌。胸の先をつまむ唇。小刻みに口から嬌声がこぼれるのを我慢しようとしても、傭兵さんはどうやらそれが聞きたいらしく。より一層強く吸い付いてきました。
僧侶「ん、……あっ、ふ、ぅん、傭兵さん、そんな、やぁ、胸、ばっかり……」
傭兵「好きだぞ」
僧侶「ちっちゃくても?」
傭兵「ちげぇよばか。お前がだよ」
僧侶「な、ば、ばか! 急にそんなこと――んやぁ、らめです、だめ、ようへ、んっ」
傭兵さんの太い指がわたしの下着の中に滑り込みました。
くち、ぐちゅ、にちゃ。そんな音が足の付け根から響いてきます。
僧侶「……うぅ」
傭兵「やらしいな」
僧侶「言わないでください!」
傭兵「だってよ、お前、これ」
そういって下着から手を引き抜いた傭兵さんは、手で顔を隠すわたしの前に、自分の指を差し出しました。
てらてらと透明な液体が、指と指の間で糸を引いています。
傭兵「いつもより随分濡れてるぞ」
僧侶「こんな体にしたのはあなたですっ!」
傭兵「そりゃ光栄だ」
にんまりと笑って傭兵さんはわたしをベッドに押し倒しました。深く口付けを交わしながら、わたしは自ら下着を脱ぎます。
下着のクロッチとそこの間でも糸がひいたのが、なんとなくわかりました。
なんだかんだ言っても、わたしだって期待しているからこうなるのです。
傭兵「ほぐす必要もねぇか」
僧侶「指なんかより、その」
傭兵さんのが、欲しいです。
すこしでもはやく。
僧侶「愛してます。傭兵さん」
傭兵「おう。この世でお前が一番大事だ」
愛の言葉を合図として、傭兵さんがわたしのなかへと入ってきました。
最初はきつくて痛かっただけでしたが、数度の経験をとおして、だいぶ傭兵さんのかたちになってきました。きもちよくなる余裕もあります。
正常位で傭兵さんと繋がっていると、顔がよく見えます。わたしがにやにやしているのをどう思っているのか、気づくたびにキスの雨を降らせる傭兵さん。
下からも上からも、やらしい音。
わたしのからだの内側を傭兵さんがこすりあげるたびに、わたしはなぜだか泣きたくなります。泣きたくなるほどに嬉しいのです。結ばれたことが。まさかわたしが彼とこんな関係になれるだなんて、思ってもいなかったから。
骨盤同士がこつこつとぶつかります。入るだけわたしのなかを突き進む傭兵さん。突かれるたびに悦びの声が口から出て、抜かれるたびに羞恥の声が口から漏れるのを、もう隠そうとも思いませんでした。
結合部から音がします。泡立ちさえしているのかもしれません。
高ぶった心は、わたしと傭兵さんの心と体以外のことに、頓着する余裕を与えてはくれなくて。
あ、あ、あ、あ、あ。
自分のものとは信じられないほど艶かしい声。愛の証である液体がおしりのほうまで垂れて、ついにシーツを濡らし始めています。
僧侶「よ、ようへ、ようへっ、さんっ、わら、わらひ、もう……!」
呂律が回りません。だんだん視界が狭く、白くなって、愛するひとの顔しか視界には入っていませんでした。
傭兵さんはわたしに軽く口付けしながら、より強くわたしを抱きしめ、より深く自分自身をねじ込んできました。
目の前がはじけます。
僧侶「――ッ……!」
気をやったわたしにも傭兵さんは容赦がありません。まだ俺はイってないんだ、と楽しそうな声を出して、一度わたしのなかに入っていたものを引き抜きます。
寂しさがやってきました。達したばかりなのに、それでは淫乱と罵られても、確かに仕方がないのかもしれません。
わたしを軽く抱きかかえ、うつぶせの状態にしました。あぁ、後ろから突きたいのですね。獣のようにわたしを犯して、なかにたくさんどくどく出したいのですね。わかりました。いいですよ、傭兵さんなら、何でも。
頭ではわたし自身それを望んでいるのに、体から力が抜けて、腕も足も、四つんばいになれやしません。ベッドに力なく倒れます。
傭兵さんはまたわたしの頭を撫でながら、おしりに引き抜いてどろどろになったものをこすり付けています。
肌の上をぬるぬるが通り過ぎるたび、からだの奥からあついなにかが溢れてしまうのは、求めている証拠なのでしょう。
傭兵「大丈夫か?」
声を出す力もなくて、わたしはゆっくり頷きました。伝わるように、何度も、何度も。
大丈夫です。大丈夫だから、だから、だから……!
傭兵「お互い一回ずつイったし、やめにしとくか?」
僧侶「……や、です」
折角の機会なのに、一回で終わらせるなんて。
……「折角の機会」? なにが? だってわたしと傭兵さんは恋仲なんだから、いつだってやらしいことはできるはずで、それで。
傭兵「っていうけど、本当に?」
傭兵さんはわたしを心配してくれています。それは素直に嬉しいことです。
でも、わたしは……。
うつぶせになりながら、自分の秘所に手をやって、指で広げて見せました。
僧侶「いいんれす、傭兵、さん……好きに、して、くらはい……いっぱい、わらひ、を、使ってください……」
僧侶「傭兵さんと、もっと、いっぱい、したい、れす、から」
とまらねぇぞ、と傭兵さんは言いました。
それがいいです、とわたしも答えました。
全体重をかけて傭兵さんがうつぶせのわたしのなかを推し進んできます。抱きしめるような形で胸を揉みしだきながら、うなじに口付けもして、腰を動かすたびに淫靡な音がわたしの耳に届くのでした。
粘っこい水の音と、腰がおしりを叩く音です。傭兵さんはわたしの耳たぶや耳の穴をせめだして、一層犯されている感が全身を支配します。
あぁ、そうです。これは支配なのです。傭兵さんに乗られて動けないわたしを、彼は容赦なく犯します。ねぶります。さわります。
それに呼応して、どんどんわたしの女が顔を出すのです。
僧侶「あ、はっ、んぅ、はぁっ……しゅ、好き、でふ、好きぃ」
うわごとのように呟きます。傭兵さんは最早答えず、ひたすらにわたしの奥へ挿入し、引き抜く動作を繰り返していました。
太いところとくびれが、交互にわたしのなかをこすっていきます。やらしい音を響かせながら押し込まれるたびに声と吐息の混じった嬌声が漏れ、それとともに涎がシーツに垂れていくのです。
どこに力をこめればいいのかもわからなくなって、わたしは枕を掴んで必死に意識が飛ぶのをこらえていました。
僧侶「ようへ、傭兵、さん、傭兵しゃん、よ、よう、傭兵さんっ!」
傭兵「僧侶……ッ」
傭兵さんはわたしのおしりに手をやって、大きく、深く、わたしのなかを抉りました。
びくん、びくんとわたしの内側で傭兵さんが跳ねます。熱いしぶきが叩きつけられ、不意の衝撃に、わたしはあまりにも容易く達してしまいます。
今度こそわたしは全身から力が抜け、瞼を開けている余力もなく、意識が白く沈んでいくのです。
あぁ、恋人になりたいなぁ。わけのわからない思いが一瞬脳裏を過ぎりましたが、それもすぐに靄に紛れて、そして。
* * *
目を覚ませば真夜中でした。汗をぐっしょりかいていて、心臓がうるさいくらいに動いています。
僧侶「……?」
なにか、たぶん、おそらく、夢を、見ていたような。
そんな気が、するのですが。
お酒を呑んでいたのが昼からですから、そのまま眠って、今起きたのでしょう。不摂生極まりない。ですが、いまはあんまり、自分を責めるような気分にも、なれなくて。
僧侶「……つっ」
頭が痛い。本調子には程遠い。
お酒を呑みすぎたせいでしょう。喉もからからです。そう思って手を伸ばした水差しの中身は空で、顔を顰めてしまいました。
仕方がありません。汲みにいかないと。
ベッドから立ち上がれば不快感が腰周りにまとわりついています。
僧侶「まさかこの歳でおねしょもないでしょう」
いくらアルコールに利尿作用があるとしても。
僧侶「んっ」
腰を触って自分で上げた声が信じられませんでした。艶かしい、女の声。
下着が濡れています。やたらとべたつく、体液で。
恥ずかしいと言う感覚すら吹っ飛んでいきました。顔が真っ赤になって、頭が真っ白になります。
なんで? なんで!?
尋常ではないほどに濡れているのです。下着は既に水に浸したようで、下着の体を成していません。
それが体液の臭いなのでしょうか? 甘ったるさと尿くささの混じったにおいが、下半身から立ち上ってきます。
欲求不満もここまでこじらせれば立派な病気ではないかとさえ思えてしまいました。わたしはすぐに下着とズボンを脱ぎ捨てて、着替えを用意します。
濡れているのが当然下着だけということはありません。太股の付け根から陰部まで、べたべたです。自分自身に怒りを覚えながらティッシュを沢山抜き取って、拭い始めました。
僧侶「ん……」
なぜか脳裏に、唐突に、傭兵さんの姿が出てきました。
よくない。これは、よくない。
そう思いながら指の動きを止められません。
声や、顔や、指先を思い出すだけで、からだの奥から溢れてしまいます。
それを指先ですくい、突起にまぶしてこする。触れた瞬間に全身に電流が走って、息を吸うとも吐くことも忘れ、わたしはその行為に夢中になっている自分に気がつきました。
突起に触れれば触れるほどに溢れてくるものだから埒が明きません。わたしはまるで導かれるままに、その埒を明かそうと、自分の中に指を差し込みます。
熱くうねる感覚。本能に任せて中指を動かしました。
僧侶「んっ、ぅ、ふぅ……っ」
自分の声が他人のように聞こえます。体が熱い。吐息が熱い。
それでも中指をただ抜き差しするだけでは満足には程遠く、わたしは動きに緩急をつけて、中指をなかで曲げたりも。
僧侶「――ッ!」
それまでの比ではないきもちよさが押し寄せてきました。弱いところに偶然あたってしまったのでしょう。それは幸運と不幸の詰め合わせ。きもちよくなりたかったわたしに、きもちよくなってしまう、最悪なプレゼント。
指を動かすたびに控えめな水音が耳に届きます。それすら欲望の潤滑剤として、先ほどのきもちのよい部分を、わたしは一心不乱に指の腹でこすり続けました。
僧侶「ん、は、ぁあ、んぅ、ん、っ、はぁ、はっ、はっ、はっ」
だんだんと呼吸が浅く、早くなっていきます。
このよでいちばんおまえがだいじ
傭兵さんの声が聞こえました。それは幻聴です。当たり前に決まっています。だってここはわたしの部屋で、わたし以外の誰かがいるはずないのですから。
しかし、その幻聴ははっきりとわたしの耳に届き、そして情けないことに、その声によってわたしは達してしまったのです。
体のうちとそとがばらばらに収縮します。気がつけば私は床に膝をつき、頬をこすりつけながら、自慰に耽っていたようなのでした。
あぁ、思い出した。わたしは、傭兵さんが、好きだと気づいたのです。
愛してくれないひとを愛してしまうのは、とても辛いことです。わたしはただ隣にいたかっただけなのに、いつの間にかそれだけでは我慢できなくなってしまいました。
誰にもあの人をとられたくないと思ってしまった。それは業です。分不相応な願いです。
解決することの難しい「難題」です。
僧侶「……あぁ、のど、かわいたなぁ」
まず、水を飲まないと。
のどの渇きすら、忘れていたなんて。
わたしは着替えを済ませ、右手に拳銃を、左手に水差しをもって、部屋を出ました。
娼婦さんからもらったアドバイスが、そういえば、あったのでした。
僧侶「傭兵さんを殺さなくちゃ」
そうすればずっと一緒にいられるって言ってました。
誰にも取られることがないって言ってました。
―――――――――――――――――
今回の投下はここまでです。
濡れ場です。嫌いなかたはごめんなさい。
えー、いちゃいちゃ、らぶらぶ……してないですね。はい。
結ばれた暁には、必ずさせますんで、長い目で見てもらえればと。
言い訳はいろいろありますが、気長にお待ちください……。
* * *
……?
なにか、いま、おかしな思考が頭をよぎった、ような?
落ち着きましょう。落ち着いてください、わたし。すーはーすーはー深呼吸をして、頭をリフレッシュするのです。
まず、傭兵さんを殺します。そのための拳銃が右手にはあります。
次に、水を汲みます。そのための水差しが左手にはあります。
うん、何も問題はないですね。
それにしても娼婦さんはさすがに経験豊富なだけあります。あんなにためになることを教えてくれるなんて、知っているなんて、びっくりでした。
欲しいものは奪い取るしかないのです。そして、永遠にしたいというのなら、殺して自分だけのものにするしかないのです。
掃除婦さんも言っていたではないですか。永遠なんてないと。あったとしても、それは摩滅するだけなのだと。恐らくそれは事実なのでしょう。だから、わたしは傭兵さんの肉体が摩滅するまで、二人で一緒にいようと思います。
死はわたしたちを別ちません。わたしたちを別つのは、時間の経過による風化、ただそれだけ。
あぁ、なんて幸せなんでしょうか。
想像するだけで頬がにやけます。
僧侶「ふふ、うふふ」
わたしは自分の側頭部を銃底で殴りつけました。
激痛よりも衝撃がまず先にきます。たたらを踏んで、体重を支えきれず、壁に方を預けます。
僧侶「……わたしは、なにをっ」
考えていた?
しようとしていた?
おかしい。
どうかしている。
――という単純な言葉で片付けられるほど、事態はやさしくはありません。まるで何かにかどわかされているような、導かれているような、誘われているような……明らかに、常軌を逸したわたしの思考。
わたしが傭兵さんを殺すはず/に決まっているじゃないですか。
僧侶「――ッ!」
壁にそのまま頭を打ち付けました。血が垂れてきましたが、容赦なくもう一発。
頭を手で触れます。魔力を循環させて精神を走査、干渉魔法の存在を探ります。
僧侶「……うそ」
ですが成果なし。検索結果はゼロ。そんなはずはないのに。
掃除婦「僧侶様! どうなさいましたか!」
偶然にも掃除婦さんがやってきてくれました。彼女もまた魔法使い。
一人でできないのなら、二人で。
僧侶「わたしの頭を調べて、早く!」
可能性は二つ。わたしが探っても探りきれないほど巧妙に隠されているのか、何らかの条件が整ったときにのみ浮き上がってくるのか。わたしの頭がおかしくなった? ありえません。
どちらにせよ二人がかりで、より深く潜るしかないのです。
鬼が出るか蛇が出るか。
わたしだって曲がりなりにも僧侶、解呪や対魔の魔法はかなり学んできています。そんなわたしですら探りきれない精神汚染など、上位の魔物、もしくは魔族によるものと考えて間違いないでしょう。
掃除婦「敵の攻撃ですね」
尋常でない速度で事態を理解してくれた掃除婦さんは、わたしの頭に手をやって、魔力経路に自らの魔力を流し始めました。
わたしももう一度走査を行います。魔力経路の中を丁寧にあらため、自らのものではない魔力の奔流を感じ取るのです。
僧侶「思考が汚染されました。おかしな方向に捻じ曲げられます。行動も……」
掃除婦「オーソドックスな」
僧侶「はい。ですが、見つけられませんでした。これでも一通りの術式は会得しているのですけど」
掃除婦「恐らく魔族ですね。この駐屯所には魔物避けの陣を置いております。生半な魔物では突破できるはずがありません」
それは想定の範囲内の事実でしたが、同時に最悪の事実でもありました。換言すればこの施設内に生半でない魔族が紛れ込んでいるということになるのですから。
掃除婦「見つけました」
僅かに掃除婦さんの眼が見開かれます。
掃除婦「なんて巧妙な……自動的に僧侶様の魔力に偽装、定着するようにプログラムされています。これはオリジナルの魔法……いえ、というよりも、特性、でしょうか? 浸透、融和、結合、離別、乖離、昇華……恐ろしいほどの親和性……」
掃除婦さんが語ることの意味をわたしは多くは理解できません。ただし、彼女がそれほど恐れる相手が、そんじょそこらの魔族であるはずがない。
魔方陣の突破。気配の遮断。敵はどちらも超高度にこなせる技量を持っている。実力は折り紙つき。
掃除婦「破壊します。僧侶様も、あわせて」
僧侶「はい」
掃除婦さんの誘導によって病巣の特定は容易でした。あわせて解呪の魔力を注ぎ込むと、ぱきん、と音がし頭の中で何かが壊れます。二人がかりでやっと破壊できるくらい頑丈な、厄介な、精神汚染。
音が聞こえるとともにわたしの頭の中が晴れていきます。道を誤たせようとしていた桃色の霧が、一陣の風によって消えてなくなったのです。
意識的に首を振ってきもちを切り替えます。
掃除婦「……仕掛けられたのは僧侶様だけとも思えませんね」
そうなのでした。敵の目的がなんなのかはわかりません。しかしわたしの精神の捻じ曲げられかたを考えれば、傭兵さんの命は対象の一つに含まれているはず。
ですが疑問も残ります。埒外の隠密性を誇る敵が情報収集を怠るでしょうか。あの人が強さを鑑みて、わたしでは到底適わないことなど、少し考えればわかるのに。
なぜ敵はわざわざわたしに傭兵さんを殺させようとしたのか。
ぞくりと体が震えます。
恐ろしさから来るものではありませんでした。黒く、けれど熱い奔流が、わたしの心臓から全身に駆け巡っていきます。
僧侶「ふ、ふふ、あははははは……」
掃除婦「僧侶、様?」
もしかしたら気がふれてしまったと思われているのかもしれません。まだ汚染が解けてないのか、とすら。
いえいえ、違います。それは全くの誤解です。
わたしは正常。どこまでも、限りなく、すっきりさわやか。
僧侶「わたしに傭兵さんを殺させようとしたな?」
だから、怒りもします。
そう、敵の目的が何であれ、それだけは事実。
わたしに。
傭兵さんを。
殺させようとした。
舐めやがって。
ふざけやがって。
これが笑わずにいられるでしょうか。ここまでコケにされたのも久しぶりです。
敵の目的こそあやふやですが、わたしの精神を汚染した意図はわかりました。わかってしまいました。まったくくだらない、児戯にも等しい、だからこそ真っ直ぐ神経を逆なでする悪意。
わたしと傭兵さんで殺し合わせて、それを楽しもうとしていたのです。
掃除婦「……魔法はかけられてから半日程度経過しています。ということは、ここに入るまでに仕掛けられたわけではない。やはり賊は施設内にいるのです」
掃除婦「半日前、僧侶様はなにを」
半日前――今日の昼。
僧侶「……兵隊さんたち三人と、お酒を呑んでいました」
掃除婦「あぁ、宴会を、確かにやっていましたね。三人だけですか? 他には?」
他に?
ほか、に。
だれか、いたでしょうか。
いたような、気も、する、の、です、が……。
頭が痛い。
ずるずると崩れ落ちて膝を突きます。そばに掃除婦さんが寄り添ってくれますが、頭痛は治まることを知らず、一層強くなるばかり。
掃除婦「僧侶様、無理をせずに、ひとまず休みましょうか」
脂汗が顔中を流れていきます。ぬぐう手の甲がべっとりと濡れて、奥歯はかたかたと噛み合わず、脳内で黒い靄にひたすら邁進するわたしの精神。
声が耳元で響きます。誰かの声が。何かの声が。人ではない存在の声が。嬌声が。悦んでいる。わたしの姿を見て。醜い嫉妬を酒の肴にしている。黒い顔の女。女。女?
おんな?
掃除婦さんの声など無視して、必死に全てを思い出そうと精神を黒い靄に向けます。光も見えない暗黒の中を手探りで。
進むたびに頭痛は激痛へと移り変わり、わたしの左脳と右脳はいつの間にか分離し、上下も別れ、手と足がそこから生えているだけの奇怪な生物にわたしはなっていました。
よちよち歩きで跳ね回る蛙がわたしの視神経を手綱に乗り回すメリーゴーランド。唾液が止まらない。絨毯に溢れて燃えるのは油脂だから。親指を噛みながらパスタを食べるもうひとりのわたしが目の前に現れて自殺しています。
燃えた絨毯がもう一人のわたしの親指とパスタと一緒に崩れ落ちて、その光景を見ているだけのわたしを照らす陽光が確かに、どこかに、あって、
人の恋路を邪魔するやつは、
救いを求めてわたしは陽光に手を伸ばしました。
崩壊する館。巻き込まれる前に、誰かの手がそれを掴んでくれます。
無骨な手でした。ごつごつした、いくつもの戦いを経験している手でした。
暖かい手でした。
僧侶「しょ、うふ」
思い出した。
僧侶「娼婦、あいつが、あいつめっ!」
掃除婦「娼婦、ですか」
掃除婦さんは目を細めて完全な本業モード。驚きはないようです。やはり外部の人間ということで、候補には挙がっていたのでしょうか。
掃除婦「お掃除の時間ですね」
「おいっ! 大丈夫か!? なにがあった!?」
廊下のむこうから走ってくる人影は傭兵さんでした。殆ど倒れているに近しいわたしは頭から血を流していますし、寄り添っている掃除婦さんは修羅の顔。何かがあったと判ずるのは容易いでしょう。
本物の傭兵さんです。夢でも、幻覚でもなく。
情けないことにその姿を見ただけで涙腺が緩み、また頬も緩んでしまいました。あっていなかった時間なんてほんの僅かなのに、まるで永遠だったようにも思えます。
掃除婦「……魔族が現れました。娼婦に化けていたようです。傭兵さんは、お体の具合は」
傭兵「いや、今のところは、特にねぇな。正体と能力はわかってんのか?」
掃除婦「いいえ。ですが、精神汚染の魔法を行使する模様。しかもかなりの高い水準です。上位の魔族だと思われます」
傭兵「てことは、汚染された部下たちがいる可能性も」
掃除婦「ありますね」
傭兵「っつーことは、だ」
傭兵さんは視線を下げて黙考します。
傭兵「お前らは殺さなきゃな」
え?
と声を上げる間もなく傭兵さんの剣が抜かれました。対する掃除婦さんは超反射で、それとも予め準備を整えていたのでしょうか、靴を落とすと同時に忍者の亡霊を顕現し、自分とわたしを抱えさせて背後へ飛びます。
それでも傭兵さんの刃のほうが幾分か早い。切っ先は忍者の喉下をきれいに切り裂いて、一秒ほどで命を止めます。
わたしたちが稼げた距離はおおよそ三メートル。傭兵さんが詰めようと重心をずらしたのを見てまた掃除婦が亡霊を顕現、今度は四人の兵士でした。
その四人が屠られるのにかかった時間は二秒弱。動きと選択に躊躇いがない。速すぎです。
稼げた時間で今度は六人。侍、騎士から魔法使いまで、嘗てゴロンで傭兵さんを苦しめた精鋭を生み出しました。
掃除婦「情けないですわ、傭兵様。まんまと敵の術中に嵌るだなんて」
傭兵「嵌っちゃいねぇよ。俺の意思だ」
僧侶「な、なんで!」
そんな言葉を信じるわけにはいきません。ここでいまさら傭兵さんが寝返るだなんて、そんなの、そんなの!
傭兵「なんで? 単純な話だ」
剣を構えながら傭兵さんは容易く言葉を続けます。
傭兵「お前らを殺せば結婚してくれるっていうからよぉ」
傭兵「カグヤ姫様が」
僧侶「……は?」
すぅ、と声の温度が低くなっていきます。
表情が地べたに落下するのがわかりました。
飛び出した傭兵さんはたった一人でも六人相手に互角以上の立ち回りを見せています。ゴロンのときから二年以上が経過して、傭兵さんの剣捌きは衰えるどころかますます鋭くなっているのです。
掃除婦さんはそれを理解しながらも、適切な指示を飛ばし、時には新たな駒を生み出しながら、必死に攻撃を捌き続けていました。
わたしはゆらり、立ち上がります。
拳をかたく、きつく、握り締めて。
目に涙すら浮かべながら、そして、こう叫ぶのです。
僧侶「この……浮気者!」
―――――――――――――――――――
今回の投下はここまでです。
さらっと、お茶漬けのような内容でお送りしました。
ネクストコナンズヒントは「五つの難題」。
今後もよろしくお願いします。
* * *
傭兵さんはきょとんとした顔をしながら、それでも剣の回転をやめようとはしません。
傭兵「お前と恋仲になった覚えはねぇ」
えぇ、えぇ。そりゃそうでしょう。事実ですし。
ですがわたしの言った浮気者とは、個人的なそれではなく、もっと広義の意味を含んでいます。
つまるところ、「なに敵に寝返ってくれてんだこのやろう」ということです。
傭兵さんの刃を拳で弾きます。そこへ魔法使い、儀仗兵が援護に入り、火球と真空波。身を屈めた傭兵さんはその両方を潜り抜け、わたしへと迫ってきました。
掃除婦「僧侶様、お逃げください!」
僧侶「そういうわけにもいかないでしょう!」
もし傭兵さんがわたしと同じように精神汚染の餌食となっているなら、最低でもわたしと掃除婦さんの二人で解呪をする必要があるのですから。
進入禁止の岩壁が顕現。けれど傭兵さんはそれを蹴り砕いて、それどころか破砕された岩石を器用にこちらへ弾き飛ばし、目くらましとして使ってきます。
両手にナイフを握った軍人が素早く踊りかかりました。回転数は二刀のほうが断然高いですが、対する傭兵さんの足捌きは尋常でなく、攻撃を全て受けきってなお反撃する余裕まであるのでした。
一閃が二人の距離を開かせます。そこへ侍の飛び斬撃。十メートル先の壁すら両断する居合いの一太刀ですら傭兵さんには届きませんでした。重力から解き放たれる靴底でもって、既に天井を走っています。
迎撃の魔法も回避されます。空間を可能な限り立体的に飛び回る室内戦闘において、あの人に追いつける存在などいません。もともと多対一を得手としていたのです。地の利は、残念ながらあちらにあります。
それでもわたしの怒りは収まりません。あんな女に騙されるなんて! 誘惑されるだなんて!
僧侶「まったく! 情けないです!」
この怒りは決して理不尽なものではありません。正当な怒り。
だから、あの人の顔面をひっぱたいてやらないと。
震脚。建物全体が震えるほどに力を篭めての正拳突き。当然の如く避けられカウンターで刃が飛んできますが、それは読み筋でした。既に掃除婦さんがそこへ騎士を配置し、槍の穂先で攻撃を逸らします。
埒が明かないとばかりに傭兵さんは舌打ちをしました。
掃除婦「僧侶様、背後から四人、接近中」
僧侶「敵ですか」
掃除婦「それはまだ、なんとも。警戒して損はないでしょう、が」
背後に警戒をしながらで勝てる相手ではないのは百も承知。
僧侶「まずは傭兵さんを一刻も早く。この人より強い人がいるとも思えません」
この人さえ正気に戻してしまえば、あとにどんな敵が控えていたとしても、負ける気はしませんでした。
掃除婦さんもそれには同意であるようで、背後へは警戒のための兵士を二体だけ顕現し、傭兵さんを真っ直ぐ見据えます。
壁を走る傭兵さん。火球も真空波も防ぎきって、単身こちらへ突っ込んできます。それが一般人なら愚かもいいところなのでしょうが、生憎、この人は一般人からかけ離れています。
侍の斬撃を天井に飛び移って回避。爆破呪文が足場ごと破壊しますが、既にそこに彼はいません。
地上に降り立つと、落下の勢いを保持したままに突進。破邪の剣を一振りして軍人さんのナイフとかち合い、その衝撃をブレーキに、壁へと直角に曲がります。
吸い付くように壁へと着地した傭兵さんは、廊下においてあるベンチの背もたれへと手をかけ、片手でそれを放り投げてきます。
その影で移動していることは明白。ですが、わたしの位置からでは、どちらに動いたのかまでは……。
掃除婦「左!」
声に反応したわたしが振り下ろした拳は観葉植物を打ち抜きました。
僧侶「――!」
掃除婦「避け――!」
傭兵さんが短機関銃を握り締めてこちらを狙っています。
マズルフラッシュが廊下を激しく照らします。
銃口から吐き出された弾丸はわたしの眼前に飛び出した騎士の鎧に全て吸い込まれていきますが、一発一発が打ち込まれるたびに、顕現された像はその体積を失って、ついに消失しました。
短機関銃には明るくありませんが、PMCで採用されているものと同型に思えます。であるならば、フルオート、セミオートの使い分けが可能であり、装填可能弾数は32発。
横に飛びながらも踏み込みます。短機関銃は比較的取り回しやすい武器ですが、近距離から中距離用。至近距離にもぐりこめればチャンスはあります。それでなくとも短機関銃は弾丸の消費が早いのですから。
剣を拳で弾きますが、さすがの威力。横から固い部分で受けても骨に響く。
一旦開いた距離を弾幕が追撃してきます。先ほど投げられたベンチを楯に突撃。後ろから掃除婦さんの操る亡霊たちも追随します。
斬撃がベンチごと軍人の右手首を落としました。軍人はそれでも怯んだ様子を見せず、寧ろ命の灯火が消える前の一瞬か、地を踏みしめて一気に加速。片手で短機関銃を狙いますが、ヘッドショットのほうが僅かに早い。
その行動を無駄にするわけには行きませんでした。既にわたしは切迫しています。短機関銃は軍人のほうを向いていて、今からこちらを狙うにはタイムラグが多すぎる。
靴でしっかり床を捉え、全身のばねを使っての回し蹴り。傭兵さんは自ら後ろに飛んで威力を殺しましたが、大きく床をはね、ゴミ箱などを巻き込んで壁へと激突します。
追撃体制に入ろうとしたわたしたちを弾幕が襲います。おかしい。とっくに32発は超えているはずなのに。
立ち上がった傭兵さんは使い終わった弾倉を投げ捨てます。
僧侶「……隠してあったんですね。その短機関銃も、予備の弾倉も」
常時ぶら下げていたのでは、白兵戦を主とする傭兵さんのスタイルにとっては邪魔となる。ですが、短機関銃の制圧力は、掃除婦さんを相手取る上では必要不可欠。
ベンチを放り投げてきたときでしょうか? それとも観葉植物を楯にしていたとき?
どこまで想定しているのか。どこから洗脳されていたのか。
ここだけではなく、もしかしたら駐屯所中に仕掛けが……。
そう思った瞬間に、傭兵さんが足を踏み鳴らしました。同時にわたしたちの前後の壁が爆発、濛々と煙を上げて崩れていきます。
爆発の規模、火炎の量、ともに規模は大きくありません。とにかく視界が悪い。
掃除婦「僧侶様!」
僧侶「大丈夫です! けど、これは……!?」
掃除婦「恐らく爆弾を仕掛けていたのでしょう! 掴まってください! バックトラックで逃げます!」
確かに、こんなに視界が悪く、何より傭兵さんの仕掛けがあるかもしれない場所で戦うのは恐ろしすぎます。
当然心残りはありましたが、それを何とか振り切って、掃除婦さんの手をとりました。
* * *
バックトラック――転移魔法の先は食堂でした。帰省していない兵隊さんたちがおおよそ三、四十人、疲れた顔で座っています。
掃除婦「ご苦労様でございます」
兵隊「あ、ご苦労様です」
掃除婦さんの姿を見つけた兵隊さんたちは、ぱあっと顔を明るくしました。しかしわたしたちの中に傭兵さんがいないことに気がつくと、複雑そうな表情をします。
わたしは状況があまり理解できていませんでした。これは一体どういうことなのでしょう。傭兵さんが洗脳されたことと、この篭城染みた態勢には、関係があるのでしょうか。
きょとんとしていることを気づかれました。掃除婦さんは兵隊さんたちを呼び集め、ホワイトボードの前に立つと、状況の確認をかねたブリーフィングを始めます。
掃除婦「現在我が軍は未曾有の危機に陥っていると言っても過言ではありません」
掃除婦「正体不明の魔族による精神汚染。現在、五名の罹患が確認されています」
五人? 傭兵さんだけでなく?
集まった兵隊さんたちを見回せば、将校さんと、一緒にお酒を呑んでいた三人の姿がないことに気がつきました。
掃除婦「私と僧侶様は傭兵様と遭遇、戦闘の後バックトラックでたったいま戻ってきました。将校様、及び兵隊三名と遭遇した者の話を聞きたいのですが、どなたか」
兵隊「はい」
と手を上げた兵隊さんが喋り始めます。
兵隊「フタサンマルゴー前後に、便所へ行こうとしていたところ将校殿と遭遇、軽く会話を交わしていたところ、襲われたものであります」
掃除婦「様子はどうでしたか」
兵隊「理性を失ったようではなかったです。まとも、と言うと語弊があるのかもしれませんが、受け答えは至極真っ当で、目も淀んでおらず、精神干渉によく見られる混濁症状はなかったと思います」
掃除婦「なにか、きっかけは」
兵隊「こちらの行動がスイッチになったかどうか、判断はできないというのが現状であります。ただ、将校殿はこう言っておられました」
兵隊「『カグヤ姫と結婚するのだ』と」
「あの」と声を上げて、女性の兵隊さんが手を上げました。
兵隊「あたしの方も、同じことを言ってました。あの三人……『僧侶様を殺せば、カグヤ姫が結婚してくれる』って」
兵隊「将校と同様に意識の混濁は見られなかったと思います。いつもどおりの雑談を三人でしていたように思います。そのあと普通に、本当に普通に、挨拶ついでって感じで、拳銃を向けてきて……」
兵隊さんの肩には包帯が巻かれ、血が滲んでいました。その際の怪我なのでしょう。
掃除婦さんは思案顔でうなずきます。
掃除婦「傭兵様……ボスもほぼ変わりません。『カグヤ姫』『結婚』というキーワードは出てきております。混濁症状もない。やはり、五名は同じ魔族に洗脳されたと見て間違いなさそうですね」
掃除婦「とりあえず、目標の呼称をこれより『カグヤ姫』と設定、以後使用します。最終目的は目標の撃滅、及びボス含む五名の洗脳解除。これに異論のある方はいらっしゃいますか」
誰も声を発しません。それを同意と受け取って、掃除婦さんは一旦話を打ち切りました。
掃除婦「ひとまず五人一組の班を作成しましょう。これは生活班でもあり、作戦行動班でもあります。当面は最終目的達成のため、退魔陣の起動を第一義とした作戦立案に移ります。よろしいですね」
掃除婦「それでは班作成に移ってください。その後各班ごとに基地内哨戒、索敵を行います」
手馴れた様子で点呼、整列、班作成を行う兵隊さんたちから掃除婦さんは視線をこちらに向けました。そして柔らかく微笑んで、
掃除婦「お待たせいたしました。よくわからないこともあるでしょうが、追って説明いたします」
掃除婦「フタサンマルゴー……二十三時五分ごろ、まず将校様の様子がおかしいと言う連絡が来ました。それとほぼ時を同じくして、三人の兵隊も同様に、仲間であるはずの我々へ牙を剥きました」
掃除婦「状況がおかしい。しかし連絡をしても傭兵様には連絡がつかない。そうして基地内を探し回っているうちに、僧侶様と傭兵様に出会ったのでございます」
ということは、わたしと出会って時点で、掃除婦さんはやはりある程度事態に予測がついていたのですね。傭兵さんに油断をしなかったのも、だから。
僧侶「でも、どうなっているんでしょう。カグヤ姫、でしたっけ?」
掃除婦「どうなっているとは」
僧侶「いえ、洗脳の条件、です」
精神汚染や精神干渉を初めとした洗脳には、さまざまな手段があります。条件付け、家畜化、四肢操作など、「どのような洗脳か」と言う問題はそのまま「どうやって洗脳を解くか」という問題にも直結します。
そしてそれと同じくらい重要なのが、「どのように洗脳したか」という問題です。
直接頭に触って魔力を流し込むのか、魔方陣の罠を仕掛けるのか、嗅覚や視覚から意識を奪うのか、その方法は多岐にわたりますが、これ以上の罹患者を出さないようにするのなら、対処にも注意しなければなりません。
カグヤ姫は娼婦として潜入していました。ならば直接肌に触れることは容易だったでしょう。
しかしそれなら、報告にもあったように、特有の意識混濁が見られるはずなのです。傭兵さんは違いました。自らの意思でこちらに攻撃を仕掛けていた。家畜化でも四肢操作でもない。
敵が精神汚染のエキスパートであるならば、もしかすればわたしたちの考え付きもしない方法があるのかもしれませんが、そこまで考えてしまえばきりもありません。
掃除婦「洗脳してからは自動操作なのだと思われます。でなければ、あんなにスムーズに傭兵様を動かせないでしょう。目標を設定し、達成に向けて全精力を注ぐタイプのもの。聞き及んだことはあります」
僧侶「それが、結婚だと」
掃除婦「可能性はありますね。餌をチラつかされているわけです」
それは……業腹ですね。
お金しか信じていない業突く張りのあの人が、よりにもよって愛だの恋だのを行動理念にしているのは、なんだかいらいらします。それが魔族による洗脳だというのだからなおさら。
僧侶「……絶対、ぶっとばしてやるんだから……」
掃除婦「そうですね。必ずや傭兵様を助け出しましょう」
絶対、絶対、どさくさにまぎれてぼこぼこしてやるんだから。
今まで散々迷惑をかけてきたわたしが、あの人にできる滅多にない恩返しの機会。絶対になんとかしてやるとは思いますが、それでもやっぱり、腹も立ちます。
これは嫉妬なのです。それを自覚して、真正面から真っ直ぐみてやれるだけの余裕は持てました。あの夢が、妄想が、たとい敵の――カグヤ姫の精神汚染の結果だとしても、それだけは感謝しなければなりません。
わたしはあの人が好き。
だから助ける。
もちろん、腹が立つこともあるし、落ち着かないこともあるし、逆に嬉しいことだって幸せな時だってある。全部ひっくるめて、あの人が好きだから。
うん。
よし。
再確認完了。
掃除婦「いい顔に、なられました」
まるでお母さんのようなことを言う掃除婦さんでした。
――の背後、窓の外に、数多の魔方陣が?
僧侶「逃げてぇっ!」
掃除婦「!?」
魔方陣が光を放ちました。直視することのできないくらい猛烈な輝き。あまりの照射に、逆光がその前にある全てのものを黒く染める程度には。
そこから放たれたのは幾条もの光線。膨大な光を収束させた、こぶしほどもある太さのレーザー。
光線は壁を、硝子を貫通し、当然のように人体も貫通します。その速度は無論光速。回避行動をとる、とらないという次元にすらありません。
照射時間は僅か二秒ほどだったでしょうか? コンクリと、硝子と、木と、そして人体の蒸発する音と臭い。床は溶けて深い穴が開き、壁は外が丸見えで、初めから分離していたのを思い出したように腕や、足や、内臓が地面に落ちました。
わたしは幸い髪の毛を二房ほど失っただけで済みました。掃除婦さんは太股を削られたようですが、出血の量はそれほどでもありません。
窓の外に僅かに見えた人影――傭兵さん。
でも、でも、おかしい!
傭兵さんが使える魔法は、初歩的な攻撃呪文と、幻影魔法だけなはず!
一度に十人前後が命を失い、もしくは戦闘不能な大怪我を負い、混迷を極める中でもやはり彼らは軍人でした。掃除婦さんの「追撃」の一声で、各々の武器を取って硝子を破っていきます。
僧侶「わたしたちも!」
掃除婦「無論で」
す、と続く一言が爆音によってかき消されました。
窓の外では膝から下を失った人が数人倒れています。
地雷。その単語が脳裏を過ぎると同時に、食堂の入り口側の壁が吹き飛びました。濛々と立ち込める土煙に混じって、黒色火薬のにおいが鼻を衝きます。
そしてそれに乗じて四人――三人の兵隊さんと、将校さん。全員手には短機関銃を持ち、こちらへと狙いを定めていました。
傭兵さんは陽動。本命はこちらの四人。
気づいたときには既に遅い。弾丸はわたしの腹を穿って、また掃除婦さんの左肘から先を吹き飛ばして、あたり一面を血の海に変えます。
激痛は魔法で和らげましたが、脱力はどうにもできません。膝を突いてしまいます。
掃除婦さんは左腕を失いながらも、靴から兵隊を数人顕現し、四人に向かわせました。しかし怪我のせいか動きがよくありません。突破されるのは時間の問題でしょう。
掃除婦「……仕方がありませんわ」
進退窮まったと思われる中、ぽつりと掃除婦さんが、顔色悪く呟きます。
軽い音がして、スカートから靴が一足、落ちました。
僧侶「そ、それって……!」
掃除婦「腕が修復するまで、魔力が持てばいいのですが」
スカートから落ちたのは、どこか見覚えのある高下駄でした。
―――――――――――――
今回の投下はここまでです。
今後ともよろしくおねがいします。
作者です。
明後日から引越しのため、ネット断ちを強制されます。
一週間くらい更新が滞りますのでご了承ください。
その後こちらの投下、及びイマジンブレードのほうも完結させたいと思います。
よろしくお願いします。
* * *
食堂――全壊。
死者――八名。
負傷者――十七名(四肢欠損、戦線離脱者含む)。
戦果――将校、及び兵隊三名の捕獲。
これが今回の戦闘の全てでした。
わたしを撃った弾丸は腰骨の上を抜けていきました。幸い臓器に損傷はなかったので、治癒魔法で比較的単純に誤魔化せます。
左肘から先を吹き飛ばされた掃除婦さんですが、問題は寧ろ魔翌力の浪費にありそうでした。呼吸は浅く、顔色は悪く、目は充血している。典型的な魔翌力切れの症状です。召喚した存在が存在なので、それは仕方がないのでしょう。
いま掃除婦さんは体を瓦礫に預け、吹き飛んだ腕と腕の破断面をあわせた状態で、修復の護符で張り合わせています。あとは魔翌力で治癒を持続的に続けていけば、今日中には腕はくっつくと思われました。
掃除婦「申し訳ありません、僧侶様」
謝られてしまうと逆にこちらが恐縮してしまいます。掃除婦さんのおかげで助かったようなものなのですから。
掃除婦「とは言いましても、私は治療中。絶対安静の身でございます。戦力は大幅に減らされ、しかも敵には最も厄介なものが二人、残っております」
そうなのです。先ほどは傭兵さんこそが陽動でしたが、それは戦術的な話です。より俯瞰的に、戦略的に物事を見た場合、この四人は単なる予備戦力。斥候、もしくは鉄砲玉にすぎません。
いかに傭兵さんといえども精鋭を相手に数倍の戦力比で戦えはしません。まず数を減らす。四人はそのための「兵隊」だったのです。
その四人にかかった魅了の術、掃除婦さんに言わせれば「隷属」は、戦いの終わった今でも解ける気配はありませんでした。わたしと掃除婦さんの二人がかりで解呪を試みもしましたが、そもそも魔力の気配すら残っていません。
理屈としておかしな話でした。精神に魔力で働きかけるのが魅了。魔力の痕跡が残っていないのなら、畢竟それは魔法ではないのです。
巧妙に隠されている可能性もありましたが、わたしにかけられた精神汚染であれ、なんとかその痕跡を見出すことができたのです。となれば今回みなさんにかけられた魔法は、わたしのそれとは術式が違うことになります。
動ける兵隊さんが四人へ尋問を行っていますが、全員「カグヤ姫が結婚してくれる」としか言いません。
結婚。傭兵さんも言っていたその単語は、恐らくキーワード。
僧侶「魔法でないとするのなら、娼婦そのものの魅力だと言うのでしょうか?」
そうなのです。先ほどは傭兵さんこそが陽動でしたが、それは戦術的な話です。より俯瞰的に、戦略的に物事を見た場合、この四人は単なる予備戦力。斥候、もしくは鉄砲玉にすぎません。
いかに傭兵さんといえども精鋭を相手に数倍の戦力比で戦えはしません。まず数を減らす。四人はそのための「兵隊」だったのです。
その四人にかかった魅了の術、掃除婦さんに言わせれば「隷属」は、戦いの終わった今でも解ける気配はありませんでした。わたしと掃除婦さんの二人がかりで解呪を試みもしましたが、そもそも魔力の気配すら残っていません。
理屈としておかしな話でした。精神に魔力で働きかけるのが魅了。魔力の痕跡が残っていないのなら、畢竟それは魔法ではないのです。
巧妙に隠されている可能性もありましたが、わたしにかけられた精神汚染であれ、なんとかその痕跡を見出すことができたのです。となれば今回みなさんにかけられた魔法は、わたしのそれとは術式が違うことになります。
動ける兵隊さんが四人へ尋問を行っていますが、全員「カグヤ姫が結婚してくれる」としか言いません。
結婚。傭兵さんも言っていたその単語は、恐らくキーワード。
僧侶「魔法でないとするのなら、娼婦そのものの魅力だと言うのでしょうか?」
そうなのです。わたしはそこでようやく理解が追いつきました。敵の狙いは恐らく傭兵さん、ないしはわたしの命なのでしょうが、それを何より優先するならば、わたしたちに術をかけた時点で殺してしまえばよかったのです。かける際に殺してしまえばよかったのです。
なぜそうしなかったのか。答えは予想でしかありませんが、確信できます。きっと敵は仲間割れが見たいのです。殺し合いが見たいのです。
それを陰から見てほくそ笑んでいるのです。
クズめ。
体温がすっと下がり、顔から表情が消えていくのがわかります。それを許せないとするのは人間のエゴかもしれません。エルフたちが人間の性根を小馬鹿にしていたように、種族の違いから来る価値観の違いに過ぎない可能性も十分にあります。
それでも許容できることとできないことがあるのです。
敵がわたしたちの苦悩を酒の肴にする権利があるのだとすれば、わたしたちもまたそれに反抗する権利があります。
甘露だと思っていたものが、実は渋柿だったと思わせてやる。
僧侶「掃除婦さん」
掃除婦「だめでございます」
僧侶「まだ何も言ってないのにっ!?」
掃除婦「僧侶様の考えていることくらいお見通しでございます。戦況は不利。守勢に回ってジリ貧で、相手方には四天王と思しき存在がいる。この状況を突破するには、誰かが囮にならなければいけない。でしょう?」
僧侶「……」
言葉通りのお見通しでした。そしてその口調から察するに、囮役をわたしがやろうとするのまでわかっているはずです。
そしてさらっと流しましたが、やはり掃除婦さんも、敵の正体が四天王である可能性を濃く考えているようでした。
掃除婦「愚かですわ、短慮ですわ、蛮勇ですわ、僧侶様。あちらの目的は十中八九傭兵様か僧侶様、もしくは両方。であるのなら、僧侶様が囮に出ることなど何の意味もありません。確かに食いついてはくるでしょうが……食い千切られて、おしまいです」
掃除婦「囮と言うのはですね、僧侶様。目的には全く関係ないですが、しかし、放っておけば深い傷になる、そんな存在が適任なのですよ」
はっとしました。掃除婦さんが、精一杯の虚勢なのでしょうが、にやりと楽しそうに笑ったのです。
たった今わたしを罵った人間とは思えません。愚かで短慮で蛮勇なのはあなたもじゃないですか!
僧侶「認めません! 認めませんよ!」
掃除婦「僧侶様。残念ながら、私に命令を下せるのは州総督閣下のみ。傭兵様も、まぁ一応そうですけれど、あなたはどちらでもありません」
掃除婦「それに、僧侶様。既に私は囮になっているのですよ」
僧侶「え?」
言っている意味がわからないままに、掃除婦さんは人差し指を突き出しました。
掃除婦「全員退却! 僧侶様の身の安全を第一義とし、退魔陣の起動にかかれ!」
「――させねぇよ?」
と、空から声が降ってきました。
傭兵さんの声と、そして、数多の光の柱が降り注ぎます。
光の柱は魔方陣から射出され、底の見えないほど深い穴を、全壊した食堂の床に空けていきます。一体どれほどの熱量をもっているのか想像もできません。
幸いに狙いはてんでばらばらで、今度こそ被害者はいませんでした。しかしそれを喜んでいられるほどの悠長さを許してくれる状況でないのもまた事実。
違う。それ以上に意味がわからない。
だって襲撃はさっきのさっきで、掃除婦さんも言っていたように劣勢で守勢、ジリ貧なのですから、こんな、隣の兵舎の屋上から飛び込んでくるなんていう無茶苦茶な襲撃、一体どんな意味が、あの人がそんなこと、ああもう、ぜんぜん頭が回りません!
混乱の中でも染み付いた動きを体が自然ととっています。魔力を循環させ、腕力倍加、脚力倍加、守備力倍加。
同時に掃除婦さんがわたしの腕を掴んで引っ張りました。その先には生き残った女性兵が。
掃除婦「任せました」
女性兵「……ちゃんと返しに来ますから」
言葉を返すより先に掃除婦さんは駆け出しています。護符を貼り付けていた左腕は急な動きで捥げ、地面へ転がってしまいました。
そこから血があふれ出すことを厭いもせず、掃除婦さんは傭兵さんへと向かっていくのです。
援護をする兵隊さんもいますが、そんな彼らだって銃を向けながら後退するばかり。積極的に掃除婦さんに加担しようとはしていません。
それを怖気づいただとか逃げだとか批判するほど愚かではないつもりでした。彼らはただ掃除婦さんからの命令を守っているだけなのです。彼女を守れとは一言も言われていないから。
僧侶「で、でもっ、でも! なんで!?」
女性兵さんに引っ張られながらわたしは叫びます。
女性兵「掃除婦さんは囮になられたのです」
違う! そんなことはわかっています!
わたしが聞きたいのはそんな、そういうことじゃあなくて……!
僧侶「なんで自ら囮に――どうして襲撃が読めていたんですか!?」
女性兵「単純なことです。掃除婦さん自らが言ってました。囮の条件を」
囮の条件。
僧侶「目的には全く関係ないけれど、放っておけば深い傷になる、そんな存在が適任……」
女性兵「そうです。掃除婦さんはボスに次いで二番目の戦闘力を持ちます。オリジナルの魔法使いですからね、そりゃそうでしょう」
女性兵「腕が治るころには魔力も回復しているでしょう。そうすれば、また大天狗を召喚できます。パフォーマンスこそ本物に叶いませんが、あの制圧力は圧倒的。そうすれば、立派に囮役を務めることができます」
僧侶「……掃除婦さんが有能な囮役になるより先に、潰しに来た?」
女性兵「そういうことです。今でも後でも、掃除婦さんが囮になるのは……ならざるを得ないのは明白でした。ならばボスが今来ないはずがない。掃除婦さんは立派に囮を務めてくれました」
僧侶「でも、それじゃあ……」
わたしは何とか「無駄死に」という言葉を飲み込みました。それは掃除婦さんに対してあまりにも失礼な言葉だと思ったからです。
女性兵「勿論、誰も掃除婦さんが死ぬことを望んではいません。掃除婦さん自身、死ぬつもりはないでしょう。だからあたしたちにできることは、僧侶様、結局のところですね、一刻も早く任務を達成することだと思うんですよ」
僧侶「……そうですね」
一秒でも早く敵を打ち倒すことこそが、そのまま掃除婦さんを助けることに繋がるのだと信じて。
僧侶「でも、そういえば、退魔陣ってなんなんですか?」
女性兵「あぁ、それはねぷっ」
ねぷ?
わたしの手を引いていたはずの女性兵さんの体が吹き飛んで、繋いでいたはずの手はいとも容易く引き剥がされて、彼女の体は超高速で廊下の壁へと埋まりました。
勢いのままに飛び散った血しぶきが、まるでローラーでひいたみたいに、左から右へと流れています。
僧侶「……え?」
死んでいる。
そんな、子供でも一目見たらわかる事態を理解するのに、たっぷり三秒かかりました。
「それはアタシが教えちゃおうかなぁー」
甘ったるい桃色の吐息がわたしの耳を犯しました。
脳髄に直接手をかけられているようなおぞましさ。反射的に解呪を用い、体も全身で振り払って、一気に吹き出る脂汗を拭いながら飛びのけます。
身体能力を強化していなければどうなっていたことか。
そしてようやくわたしはその視界に捉えます。
怨敵。
この世の悪意の塊。
娼婦の姿を。
相手は透けたネグリジェに薄いストールのようなものを羽織り、背中から一対の悪魔にも似た羽を飛び出させ、そして柔らかな金髪を腰まで流しています。さらさらという音すら聞こえそうなほどでした。
さらに、狐の尾が三本、ぶらさがっています。その色もまた金色。
悪魔と人間と狐が混じった摩訶不思議な姿でした。
ちぐはぐで醜いと素直に思えるのに、どうしても目を逸らせない魅力が彼女にはありました。それは天性の素質といって差し支えないでしょう。才能よりももっと高次の、「そういう生命」として彼女は生まれついたのです。
僧侶「娼婦ッ……!」
「それは過去の名前だね。今のアタシはもう正体を隠す必要なんてない。だから、なんの衒いもなくこう名乗ってあげようじゃない」
「アタシは四天王! 九尾の狐とアルプの落とし子、魔族の姫、カグヤ!」
僧侶「あなたの名乗りなど全く興味はありません」
僧侶「洗脳を解け。そして、今すぐにここから去ねっ!」
精一杯の圧力をかけて凄んだつもりでしたが、娼婦――カグヤと名乗った魔族は至極楽しそうに微笑むばかりで、ちいとも怯んだ様子を見せません。
カグヤ「洗脳? 言葉の遣い方が甘いね。洗脳ってのは、アタシが僧侶ちゃん、あなたにかけたようなモノさ。けど、だめだ。女の子相手じゃアタシの魅了もイマイチすぎる」
カグヤ「野郎どもにかけたのはね、僧侶ちゃん。洗脳じゃあない。そんな苛烈なものじゃない。暴力的なものじゃない。無理やり相手の精神を押さえつけて犯すだなんて、そりゃレイプじゃないか。アタシは強姦は嫌いなんだ。お互い楽しく気持ちよくってのがポリシーでね。和姦さ。和姦がいい」
僧侶「わたしの夢にまで干渉してきて、なに言ってるんですか」
カグヤ「あはは! 何を言ってるのかわかんないねぇ! 僧侶ちゃん、おぼこに見えてけっこう耳年増なんだね。あんただって結構楽しんでいたじゃないか。最後にヒィヒィよがっていれば、過程がどうであれ、そりゃ和姦なんだよ」
くっくっく、とカグヤは笑いました。わたしは顔が熱くなるのを自覚しましたが、精神を揺さぶるのが誰よりも得意な、この下卑た存在を前に慌てふためくなど愚の骨頂。努めて平静を保ちます。
カグヤ「野郎どもにはちらっと道筋を示しただけ。それだけさ」
道筋……?
戦闘体制をとりつつ、不本意ながらカグヤの饒舌に付き合ってしまっていました。
本当ならばいますぐにでも飛び掛っていきたいのですが、ここで一秒でも時間を長く稼ぐことが、退魔陣なるものの起動の一助となるのです。ならばここは我慢するのが最善。
それに、もっと根本的な理由として、長々と喋っているカグヤには全く隙がありませんでした。どこから攻めればいいのか全くわからないのです。まるでこちらの攻めっ気自体がどこかへ追いやられているかのようでした。
カグヤ「アタシは理解できるのさ! あんたら人間の『社会性』とやらを! 全く、どうして他のやつらはああも脳筋なんだろうね? 傭兵ばかりを狙って、あいつさえ倒せばなんとかなるとでも思ってるのかもしれないが、本当にバカだよ、バカばっかりさ!」
カグヤ「そう、『社会性』! 『連帯』『絆』と言い換えてもいいのかもしれないけどね! あぁいやだ、さぶいぼが立つおぞましい言葉! 人間を相手にするってことは、つまり、そういった気味の悪い言葉と戦うってことを、誰も理解しちゃいない!」
カグヤ「だから大天狗のじいちゃんは負けたんだ。アタシにゃわかるよ。ざまぁみろ! 四天王最弱ってバカにしやがった報いだ! 傭兵野郎を見据えすぎて、僧侶ちゃん、あんたを視界から省いたばっかりにあいつは死んだ! はっ、情けないね! 何百年密教の修行を積んだって、魔族は所詮魔族なのだろうさ!」
カグヤ「あははっ! だからこそ! 人間が社会性の生き物『だからこそ』! アタシこそが唯一あんたらを滅ぼしうるのさ! 社会を生きるのは随分と苦しいでしょ? 辛いことも悩むことも沢山あるでしょ?」
カグヤ「『難題』が山積みでしょ?」
カグヤ「そこに付け入る隙がある! 魔王様も、大天狗も、アジ・ダカーハもケツァルコアトルも知らない、アタシだけが知っているあんたらの弱点!」
とても楽しそうにカグヤは叫んでいました。その視線の先にいるのはわたしであってわたしではないように思えます。
この破天荒な存在が、目の前に立ちふさがっているというただそれだけの理由で、わたしを注視するはずがありません。こいつはきっと、どうやったら全てを楽しめるかということしか眼中にないのです。
なぜなら、対峙しているわたしに伝わってくるのは敵意ではないからです。
どうやって仲間の魔族を出し抜いてやろうかだとか、人間たちで遊んでやろうかだとか、未来に対しての無限の希望が、有体に言えばわくわくどきどきが顔一杯に広がっている。
剛力を得た赤ん坊。それが真っ先の印象。
僧侶「……あなたが唯一、魔族の中で、人間を理解しうると?」
カグヤ「そう。だからアタシは僧侶ちゃん、あんたを狙ってんだ。魔族ってのはどいつもこいつも自信過剰で、自分さえいれば人間なんて容易く滅ぼせると思ってる。でもきっとそりゃ自惚れなのさ」
カグヤ「それなら人間同士で殺し合わせたほうが手っ取り早い」
僧侶「なら、猶更負けるわけにはいきません」
だから、わたし。
そして、傭兵さん。
世界の均衡をわたしが保っているなどと自意識過剰なことはいえません。しかし、いま世界は激動の時期を向かえ、人間たちには連帯が求められていて。
ただでさえ不安定なプランクィが空中分解してしまえば、また思想が武器を持って対立する世の中になってしまうでしょう。
僧侶「わたしに精神汚染を仕掛けたとき、手っ取り早く殺さなかったのは、だからですか? 矜持ですか?」
カグヤ「矜持――矜持、ねぇ。うんにゃ、違うさ。これは矜持ってよりも趣味嗜好の範疇さね」
カグヤ「残念、残念、残念さ。本当に、心底残念に思っているんだよ、僧侶ちゃん、アタシは」
カグヤ「困難を乗り越えようと泥沼でもがくことに生命の美しさがある! 中でもあんたのそれはピカイチだ!」
カグヤ「それをこんなところで潰すなんてさぁっ!」
その叫びを聞いてわたしは理解しました。おおよそ平穏から遠い精神性の、カグヤという魔族のことが、なんだかわかってしまったのです。
彼女は人間が好きなのです。人間の弱さを愛しているのです。
弱い存在が弱い存在のまま、弱い存在として足掻き、もがいて、立ち向かうその後姿を愛しているのです。
それはまるで神様のようでした。だから彼女には敵意がなく、あるのはただの興味だけ。様々な試練を人間に与え、それによって生じる結果を心待ちにする、はた迷惑な無邪気さの権化。
ゆえに加減などはしてくれませんし、そもそも加減と言う言葉すら知らないでしょう。何故なら試練は苛烈であるほど魂が輝くと信じているから。
ディシプリン。肉体よりも精神を研鑽する、神から与えられた『難題』。
そしてカグヤはそれを可能にする精神汚染の能力を持ち、魅了の能力を持ち、全てひっくるめた彼女自体が立ちふさがるということが何よりも乗り越えなければならないこと。
果たしてそれは悪意でしょうか? それとも善意なのかもしれません。
あくまで楽しそうにカグヤは言いました。
カグヤ「アタシという『難題』、解いてみせてよ! そして命の燃える輝きを、アタシは丸ごと喰らってやる!」
――――――――――――――――――――
お久しぶりです。今回の投下はここまでです。
誰にだって『難題』はある。僧侶にだって、傭兵にだって。
ケツァルコアトルは神様ですが、試練与える系の神様じゃないんだよなー
次回の投下もよろしくお願いします。
* * *
強い。
強い。
強すぎる!
脚力倍加を継続してかけながら、わたしは靴底に貼り付けた重力軽減装置を作動。傭兵さんのように縦横無尽とはいきませんが、それでも壁を走り、天井に着地し、疾風の速度でカグヤへと迫ります。
しかし、カグヤはさすが四天王と言うばかりでした。弾倉を二つ撃ちつくして、依然有効弾はゼロ。拳も、爪先も、カグヤを捉えることはできません。
だん、だん、だん。炸裂音と衝撃が全身に伝わってきます。三つ目の弾倉もそろそろ撃ちつくそうかとしていますが、放った弾丸は全てカグヤの直前で急停止、全ての運動エネルギーを失って力なく落下します。
まただ。またです。
先ほどからこの繰り返し。
こちらの攻撃はカグヤには届きません。急停止。落下。それが徒手空拳であれば、わたしの意志とはまったく無関係に、手足の動きが止まってしまうのです。
カグヤ「さっきからそればっかりだねぇ。ほらほら、もっと工夫してみてよ! 足掻いてみてよ! こんなんじゃあ、アタシはぜんぜんつまんないよ!」
僧侶「あなたを楽しませるために戦ってるわけじゃ、ないっ」
カグヤは一歩も動いていません。わたしがただ一方的に、無様なダンスを踊っているだけ。
そしてカグヤが指を鳴らした瞬間、得体の知れない力がわたしを引っつかみ、そのまま壁へと叩きつけるのでした。
激痛よりも神経が圧迫され、遮断されます。呼吸機能が一瞬麻痺し、肺から空気が押し出され、意識が明滅。
呼吸が戻ると同時に噎せて咳き込みました。カグヤは追撃の気配すら見せません。
これもまた、先ほどから繰り返しです。
全く理解ができませんでした。こちらの攻撃は無効、こちらの防御も無効。カグヤの能力の正体もわからぬままに、わたしが壁へと叩きつけられた回数は、これで十回を数えます。
カグヤから殺意は垂れ流しのままですが、この叩きつけからは殺気が感じられません。殺意と殺気。言葉遊びかもしれませんが、結局のところ、カグヤの殺意は単なる追い込みに過ぎないのではないかとも思います。
最終的にカグヤはいつでもわたしを殺せる立場にあります。「だからこそ」、カグヤの性格的に、わたしを殺さない。
わたしをいたぶって、わたしが「簡単には殺せない」存在に昇華することを、きっと楽しみにしている。
まったく性悪です。ネズミをおもちゃにして遊んでいる猫とかわりがありません。
と、いくら心の中で悪態をついても、この圧倒的な実力差がひっくり返ることはなく。ならば言葉を飲み込んで、拳にこめる力の足しにしたほうが幾分かましというものでしょう。
全力で振り下ろした拳はやはりカグヤの直前で停止して。
指を鳴らされた瞬間にわたしの体は後方へ吹っ飛んで。
僧侶「キリがないですねっ……」
カグヤ「そう思ってんならさー、もっと他の方法をとろうとか思わないのー? こんなの暇なだけだよ、ふぁああぁ……」
大あくびをするカグヤ。その仕草もまた美しい。
あの人もこの美貌にやられたのでしょうか? 精神支配、チャームが全ての原因だとしても、何らかの突破口が必要なのです。
あぁ、醜い嫉妬。恋人でもない女が怒るだなんて、そんなに面倒なことは滅多にないはずです。あの人は浮雲のようですから、嫉妬されて喜ぶ性格でも、きっとないでしょうし。
僧侶「……」
呼吸を整えながら頭を働かせます。
考えろ。考えろ。考えろ。
考えるのです。
カグヤ自身それを望んでいて、見事に術中に嵌っているのはとても業腹なのですが、そうしなければわたしはカグヤを突破できません。
可能性はいくつかあります。たとえば障壁。大天狗が用いていたような対物理障壁をカグヤが用いられないとは到底思えませんでした。
しかし感触が全く異なります。その点だけが気になりました。
障壁は所謂不可視の硬質な壁です。それを撃ち、打てば、どうなるか。ですがわたしの攻撃を受け止めるなんらかの力は、もっと柔らかく包み込むようなそれなのです。
硬質と硬質の激突なのではなく、硬質なわたしの攻撃を、ゆっくり減速させながら受け止めるクッション。
そう、まるで空気のような。
……それこそ大天狗です。やつは神通力で大気を操ることができました。大地もまた同様に。わたしの目の前にいるこの性悪も、果たしてあの大天狗と同じような能力を有しているというのでしょうか。
いや、それはないはずです。半分以上直感でしたが、わたしは自らの直感を信ずることにしました。
大気や大地を物理的に鳴動させることは、もしかしたら魔族であるのならば可能なのかもしれません。ですが魔力を練りこんで自由自在に操るとなれば、それは種族としての特性か、ないしは努力の結実に違いないはずなのです。
数百年単位で密教の修行を積んだ大天狗だからこそ、大気と大地を操ることができた。そう考えるほうがしっくりときます。
カグヤ「……うふふ、いい瞳」
恍惚とした表情でカグヤが言います。似たような台詞は、嘗て大天狗が傭兵さんに向かって言ったような気も。
カグヤ「やっぱり人間って素敵。魔族なんかよりよっぽど生き様が美しい。弱く、脆く、儚いからこその濃密な人生。僧侶ちゃん、あなたにその自覚はあるかしら?」
生き様、ですか。
そんなことは考えたこともありません。
それほど余裕のある人生を送ってきたわけではないのです。
カグヤ「えぇ、えぇ、そうでしょ。そりゃそうさね。両親が死んで、共産主義革命に全てを捧げて、傭兵野郎に出会って、助けられて」
助けられた。……語弊がある、と断言できないのが癪ですね。
確かにわたしはあの人に助けられたのですから。
カグヤはわたしの生き様を美しいと評しました。だとするならば、その美しさは確実に、わたし一人によるものではないのです。
傭兵さんは嘗て言いました。わたしに。信念というものを。覚悟と言うものを。それらの在り様について、教授してくれました。あるがまま。自らの選択を信じてやること。間違っていることを恐れるのではなく、選択した自分を信じてやれと。
敷衍すれば自らを愛することなのだと表現できます。
愛。
であるのなら、わたしが傭兵さんを信ずる心は、やっぱり愛なのです。
愛。
ずっと前から、きっと、わたしは、あの人のことが。
僧侶「えぇ、ですから、いまのわたしはここに立っているのです」
拳銃を引き抜きおもむろに発砲。全ての弾丸は依然直前で無効化されますが、わたしはそれを後追いするように吶喊します。
もし特別な特性を有する障壁であるとしても、弾丸を受けたところへ更に突っ込めば、何らかの反応はあるはず!
カグヤ「お、おっ! 何かを掴んだのかい!」
掴んでいません。わたしは僧侶にあるまじき脳筋ですから、とにかく強化した体を叩き込んでやれば、何かがわかるのかもしれないと思っているだけなのです。
期待はずれになるかどうかは、それこそ、神のみぞ知るというやつで。
空気を巻き込んで唸りを上げた拳は不可視の抵抗にあって俄然その勢いを落とします。進むにつれて抵抗は増し、カグヤの肌の数センチ手前で、ついにぴたりと止まってしまいました。
目と目があいます。きらきらと時間経過によって色を変える不思議な虹彩。その中に宿る色は好奇心。期待。わたしがどうやって自分に一矢報いるのか、楽しみでしょうがないような瞳。
高く、高く、高い壁となって、背伸びをして天辺へと手を伸ばしたわたしを押し潰すのがこの魔族の至上の喜びに違いありません。ならばわたしはそれを打ち砕くだけ。
わたしの体が後ろにぐいと引っ張られて飛んでいきます。そこには何のおかしさも見出すことができません。というより、おかしいことだらけで、それに紛れているのが実情でした。
攻撃ではない。殴られたり蹴られたり、魔法の衝撃で吹き飛ばされるのならば事態は単純です。しかしわたしの身に起きるこの移動――そう、衝撃ではなく移動としか表現できないこの現象は、暴力的なものとは異なっています。
結局答えが見つからないまま、わたしはは叩きつけられました。
鈍痛、激痛……死ぬほどではありません。調節されているのか、はたまたそうでないのか。
カグヤ「……」
僧侶「――ッ」
酷く冷たい視線でわたしをねめつけているカグヤがいました。さきほどまでの上機嫌はどこへやら、まるで足元の虫けらを見るような目つきで、小さく舌打ちも聞こえてきます。
冗談ではないなにかを感じました。拳に、つま先に、全身に力が入るのですが、だのに全く動きません。わたしの体ではないみたい。
カグヤ「……ぃな……しいなぁ、おかしいなぁ」
ぶつぶつ呟くカグヤの声が次第に大きくなっていきます。
カグヤ「おかしいなぁおかしいなぁおかしいなぁおかしいなぁおかしいなぁおかしいなぁおかしいなぁおかしいなぁ」
カグヤ「おぉおおおかしぃいいいなぁあああああ……?」」
カグヤ「アタシの見る目がなかったの? いや、でも、まさか、そんな……だって僧侶ちゃんはあんなに頑張ってきらきら輝いて世のため人のため自分のため傭兵野郎のために身を粉にして全てを擲って……」
カグヤ「見当違い? 戦闘とは違うの? なに? それとも運がよかっただけ? どうなの? どうなの? どうなの!?」
カグヤ「ねぇ僧侶ちゃあああんっ!?」
衝撃。わたしの体が勢いよく壁に叩きつけられ、腕のどこかで嫌な音がしました。
体勢を立て直す間もなく体はカグヤのもとへと戻っていきます。わたしをあの名状しがたき力で引き寄せたカグヤは、そのまままた壁へと叩きつけます。無表情のまま、あくまで作業と言う風に。
頭から壁に突っ込みました。衝撃に備えてはいても、激痛と一瞬の失神から逃れることはできません。
体を強か打つたびに喉の奥から言葉が苦悶の声が漏れます。防御体勢をいくらとっていても、遊戯のように壁とカグヤの間を往復し続けるこの苦行は、確実にわたしの意識を刈り取っていきました。
どこが折れているのか、どこから血が流れているのか、そんなことを考えることすら億劫になるほどの惨状です。
ようやく動きが止まったと思っても、最早立ち上がるだけの余力は残されていませんでした。必死に床に手をついて自分の上体を起こそうとすると、カグヤが手の甲を思い切り踏みつけてきて、あまりの痛みに頬から床へと倒れこみます。
全体重をかけてわたしの手を踏みつけてくるカグヤ。ごぎ、と嫌な音が左手から聞こえてきました。
僧侶「――ッ!」
カグヤ「痛いの? その程度で立ち上がるのをやめちゃうの?」
カグヤ「違うでしょ? 僧侶ちゃんはそんな弱い女の子じゃないはずでしょ? これまで沢山無茶してきたじゃないのさ。いまさらこんな、手が砕けたくらいで、ねぇ?」
カグヤ「それとも全部嘘っぱちなの? 僧侶ちゃんは実はこれまで何もしてなくて、ただ運がよかっただけで、傭兵野郎におんぶに抱っこで、その可愛い顔と声と仕草で、大変なこととか大事なこととかは全部誰かにやってもらってたの?」
カグヤの心無い言葉がわたしの耳を突き刺していきます。心無い、とは言いえて妙です。こいつに心などがあるはずはないのですから。
僧侶「そんな、ことは」
ない。
全てが自分の力だと嘯くつもりは毛頭ありません。ですが、ここまでやってきたのはわたしの意志です。わたしが、わたしのために、わたし自身でやってきたことなのです。
沢山の人の手を借りました。天運すらわたしに見方したと思えた時だって多々あります。ですが、それでも、決してわたしが何もしなかったことを意味しません。
みんなのために動いてきた。
そう胸を張ることができる人生でした。
カグヤ「はっ、どうだかね」
渾身の力を篭めた言葉すら、カグヤは容易く切って捨てます。一体わたしのどこをどのように値踏みしているのでしょうか。
カグヤ「この世の中は所詮戦乱さ。そこをあんたが無傷で生きてこられたっていうんなら、それは強かったか、それとも運がよかったか、そのどっちかに限られてくる。さぁ、果たして僧侶ちゃん、あんたはどうだろうね?」
わたしが強い? そんなはずはありません。今のわたしがいるのは――精神的にも、生命的にも――傭兵さんのおかげ以外のなにものでもないのです。
カグヤの言葉を鵜呑みにするならば、わたしは結局運がよかっただけになります。傭兵さんにおんぶに抱っこ。だからこそその汚名を払拭するために、これまでの恩を返すために、カグヤに立ち向かっていると言う側面がないわけではありません。
カグヤ「無理をするにも限度がある。そろそろ休んでいいころかもしれないよ?」
背伸びだと、言うのでしょうか。
わたしのこれは、身の丈にあわないことだと。
傭兵さんのように強くないわたしには、この世を幸せに、平和に、作り変えることなど、できやしないと。
ダメです。甘言に惑わされてはいけません。
楽なほうに、楽なほうに、流されては。
一度立ち止まれば、次に歩き出せる保障なんて、どこにもないのですから。
カグヤ「難題、難題、難題――生きてくには少々難題が多いんじゃあ、ないかい?」
難題。
苦悩。障壁。行く手を阻む脅威。
たとえばそれは、傭兵さんに思いのたけを打ち明けるかどうか。
たとえばそれは、目の前の四天王、カグヤ。
たとえばそれは、魔王軍との戦争。
たとえばそれは、王国との権力闘争。
たとえばそれは、利己的な人々。
カグヤ「少しでも、ちぃとでも、一瞬たりとも、全てから解き放たれて楽になりたいと思ったことはないかい?」
カグヤ「傭兵野郎だって、あんたが無邪気な、年齢相応の女の子として生きることを、願っているんだよ?」
……そうなの、でしょうか。
でも、そうしたら、わたしは。
僧侶「……あのひとの隣に、いられなくなっちゃいます」
カグヤ「大丈夫だよ。傭兵野郎だってそれくらいはわかってるはずさ」
そうでしょうか。
カグヤ「そうだよ。そうに決まってる。やつは変なところで冴えてるからね。隙もない。だから、アタシじゃなくて、あんたがやるんだ」
わたしが、殺せば。
カグヤ「そう。あんたが殺せば」
刺し違えればいいのさ。
と、カグヤは言いました。
そうしたら一生、ずっと、一緒にいられると。
そんな、前にも誰かから言われたような台詞を、吐いたのでした。
……あぁ。
あぁ。
そうですね。
わたしは確かに、今まで我慢を、しすぎたの、かも。
しれません。
このあたりでひとつ、ちょっとくらい我侭を。
言ったって。
やったって。
許してもらえるは
ぼとん、
僧侶「ず?」
と、靴が落ちてきました。
血にまみれた靴でした。見れば脹脛から下が中に入ったままのブーツです。皮に金色の紋章がついたそれは見覚えのあるもので、記憶が正しければ、掃除婦さんが穿いていたものに間違いありません。
バックトラック。
空間転移魔法を彼女はそう称していました。
全身の筋肉を駆動させます。砕けた手にすら力を籠め、肉食動物のように四肢全てを使って、わたしは力強く床を跳ねる!
僧侶「あぁああああああぁっ!」
カグヤ「うくく、うはははははっ! やっぱり女には効き目が悪いねぇっ! うひひひはははははぁあああっ!」
吹き飛ばされる力に今度こそ逆らう真似はしませんでした。反重力装置を作動、壁に着地しそのまま天井へと足をかけます。
僧侶「危なっ! あ、危なっ! 危なぁっ!」
精神汚染――いえ、あれこそが五人を篭絡した『難題』というやつなのでしょうか。まさか同じ轍を踏むことになるなんて、それこそ一生の恥です。
そんなの心が弱っている証拠。心が緩んでいる証拠。
全力で天井を蹴り、真っ逆さまにカグヤへと落下。全身が後ろへ吹き飛ばされるのを感じながらも、しかし落下の速度と相殺され、わたしの体は一瞬だけ宙に浮きました。
拳銃を引き抜きます。
魔力を輪転。手のひらを通して銃把へ注ぎ込み、弾丸へと注入。
凍結魔法。
撃った三発は全て受け止められます。と同時に体が堪えきれず、わたしは天井へと背中を打ちました。
解き放たれた凍結魔法は周囲の空気に含まれた水分を氷とし、きらきら輝く細かい粒を空気中に舞わせます。
そしてそれらも三六〇度、周囲に吹き飛ばされる。
僧侶「……」
読めた。
体が引き寄せられるのを察して銃弾を撃ち込みました。籠めたのは凍結魔法。それが停止するのと引き寄せが止まるのは全く同時で、その事実はわたしの予想が当たっていることを示唆しています。
攻撃と防御は本来同時に行うのが望ましいのです。わたしを吹き飛ばすのと、銃弾の防御。これまでカグヤは両方を同時に行ったことはありませんでした。
もし両者が本当に同時に行えないのだとすれば、それは可能性として、同一の能力によるものだからであると仮定できます。
突撃。体が吹き飛ばされるの感じるタイミングで凍結魔法が放たれました。至近距離でのそれですら、魔族の高い魔法抵抗力の前では掠り傷程度のものですが、目くらましにしかすぎません。
背後に回る時間さえ稼げれば。
その動きはけれど察知されています。全方位をカバーするカグヤの能力にわたしは踏ん張りが利かず、そのまま背後へと転がって。
爆裂魔法がカグヤを直撃しました。
カグヤ「……んー?」
わたしの動きの変化に違和感を感じたのでしょう。立ち上る爆炎の中から無傷で現れたカグヤは、煤を払いながらも口角をあげています。わたしを甚振っていたときの無表情とは天地ほどの差があります。
にんまりと笑っているカグヤ。直撃してもダメージがないというのは、予想以上に絶望的です。こちらも全力ではなかったとはいえ、怯ませる程度の効果は期待していたのですが。
カグヤ「そっかぁ、わかっちゃったかぁ!」
叫ぶカグヤ。
一気に彼女の背後で魔力が膨れ上がりました。本来見えないはずの魔力が渦を巻いて、三本の尾と悪魔の羽の間が歪んでいるのです。
彼女の後ろに魔方陣が次々と展開されていきます。傭兵さんが展開していたものと同じ魔方陣。違うのはその数だけ。
傭兵さんが展開したのは多くて五つ。しかし、今わたしの目の前にいる「最悪」が展開しているその数は、優に十倍を超えています。さらに今もまた増え続けているのです。
魔方陣は発光し、逆光によって彼女の姿さえ見えません。
カグヤ「……僧侶ちゃんは、傭兵野郎に惚れてるんだっけ」
僧侶「そうですよ」
誤魔化しなんて今更です。こいつの前で隠し事が意味を成すとも思えません。
カグヤ「アタシは最弱ってバカにされちゃあいるけど、これでも四天王。勝てないってことはわかってるだろう? それでも諦めずに立ち向かってくるのは、なんだい、やっぱり、つまり、そういうことかい?」
カグヤ「愛の為せる業なのかい?」
愛の為せる業、ですか。
断言してしまうのはあまりにもロマンチストすぎるように思われました。確かに傭兵さんを救いたい、助け出したいというのはあります。そこを否定するつもりは毛頭ありません。
ですが、それが全てかと問われると、果たしてどうでしょう。
わたしは何より世界を平和にしたくて。
そのために、共産主義やプランクィや、PMCや傭兵さんが大事だと思っていて。
僧侶「何よりあなたが気に入らない」
生きるために人間を喰らうのならば許せましょう。生存圏の拡大のために領土を広げたいのもわかります。が、己の愉悦のために他者を不幸に陥れるのは、他人を操って楽しむのは、悪趣味です。
下種です。悪魔です。
まさしくそれは人類の敵に他なりません。
カグヤは一瞬驚き、すぐに面白そうに笑いました。
カグヤ「なるほど、なぁるほどぉ……僧侶ちゃんはアタシが嫌いで、アタシは僧侶ちゃんが好き……ままならないもんだね、世の中ってのは」
カグヤ「その『ままならなさ』『どうしようもなさ』が、あるいは人間に力を与えてるのかもしれないねぇ。愛然り、友情然り……美しいものってのは、大抵儚いもんさ。そしてそれを維持しようとするところに、素晴らしさが宿る」
僧侶「気持ちよさげに高説をぶつのが趣味なんですか?」
カグヤ「うくくっ! 癖みたいなもんでね、悪く思わないでおくれ! くっついたり、離れたり……人間関係、社会性、愛、友情、絆、仲間意識、そういった離別と乖離を繰り返して、強くなっていくんだろう?」
カグヤ「出会いってのは、運命。誰かと誰かの間に宿る、素敵なパワー。でも持続はしない。それを繋ぎとめるのは、結局、個々の努力。そうだろう? 僧侶ちゃん、あんたがやってるみたいにさぁ」
カグヤ「ただそれが見たいだけなのさ。だからアタシにこの能力が宿ったのさ」
出会い。
運命。
カグヤ曰くの、「素敵なパワー」。
邂逅し、乖離する。
比喩としての、暗示としての。
僧侶「引力。斥力」
カグヤ「そのとぉおおぅううり!」
わたしを引き寄せる引力。
全てのものを引き剥がす斥力。
能力はカグヤを中心として全方位、近づけば近づくほどその効力を増す。
名実共に最強の楯でした。突破する方策があるとするのならば、それは先ほどのように時間差、及び斥力の効果を受けない座標指定魔法のみ。しかしそれでカグヤを戦闘不能にするのは、あまりにも打点が低すぎます。
退魔の魔法ならいくらか習得しています。それを拳に乗せ、殴りつけるのが一番効果的なのでしょうが、わたしとカグヤの距離がゼロになることは恐らくありません。
どうする。
どうすればいい。
カグヤ「さぁ! お次はこいつだ、防御なんてできると思っちゃやだかんね?」
魔方陣が一際強く発光しました。
震える空気すら飲み込んで、光の束が縦横無尽に、狙いなどまるでなく、四方八方にその牙を向きました。
音はしません。ただ光があるだけです。
コンクリも、鉄も、全てを消失させる超々高エネルギーの放射。恐らくそれが光の正体なのです。
たっぷり五秒は放射していたでしょうか。床に、壁に、天井に穴が空き、その断面は湯気を立てながら溶解していました。
人間に命中すればどうなるかだなんてことは考えるまでもありません。
カグヤ「ちょーっと命中に難があるのが残念だけどねぇ、威力ならピカイチさぁ!」
自慢げに喋るカグヤでしたが、何を感じ取ったのか尻尾をぴくりと一斉に動かし、残念そうな顔を浮かべます。
カグヤ「今の砲撃で、退魔陣を焼き払っちゃったよ。いやぁメンゴメンゴ」
僧侶「……」
頼みの綱も、断たれた、か。
果たしてそれが真実かどうかわたしに判断する術はありません。カグヤがここで嘘をつくだろうか、という単純な疑問もあります。
何より、カグヤはわたしを逃がしてはくれないでしょう。わたしだってここで尻尾を巻いて逃げるつもりはありません。退魔陣さえ起動できれば、もしかすればイーブンにまでもちこめたのかもしれませんが……。
拳を固めます。
こいつがわたしのこれまでを「おんぶに抱っこ」と愚弄するなら、こいつを倒してそれを覆さなければなりません。
展開する魔方陣のど真ん中にわたしは突っ込んでいきました。
-―――――――――――――
今回の投下はここまでとなります。
一回でまとめようと思っていたのですが、分量、投下間隔ともに長くなりそうだったので。
少しモチベが停滞気味。投下頻度はさがるかもしれませんが、気長にお待ちください。
* * *
カグヤが操るのは引力と斥力。引力はわたしと彼女の間合いをずたずたに引き裂き、斥力は攻防一体の不可視のちから。
近接格闘を主体とするわたしにとって、引力はそれほど問題ではありません。無論間合いを狂わされテンポを乱されることは戦いにくいこと極まりない。ですが、近づけば近づいたぶんだけチャンスが得られると言うのは事実でもあります。
とにもかくにも、斥力。
障壁であれば力任せに叩き割ることもできたでしょう。火や、水や、土が壁として立ちはだかるなら、この身を擲って突っ込むことも厭いません。
障壁にしろ物理的な壁にしろ、どちらも堰き止めるためのものです。受け止めるためのものです。「殴るほう」「殴られるほう」という一方的な力関係でしかありません。
しかし斥力は異なります。言うなればその正体は反発なのです。一方的な関係ではなく、二者間における力比べなのです。
近づけば近づくほどにその出力を増す、斥力。
カグヤは人間の社会性を唯一理解できるのは自分だけだと言っていました。それはもしかすると、彼女の出自に由来するのでしょうか? 愛の営みの結果として彼女が生まれたとするのなら、それはある種社会性の結実といえるのかもしれません。
魔族にあってそれは確かに異端。
そして、能力もまた社会性の結実。人と人のつながりだとか、運命だとか、そういったものを「引力/斥力」として比喩した上で、カグヤ自身がそれを用いて人間を殺しに来る。
生まれる輝きを期待している。
出力を上げて突っ込みました。度重なる吶喊に負け、既にブーツの裏はぼろぼろです。重力軽減装置もオーバーヒートを起こし、まともに動かなくなってきています。実用に耐えるのはあと二回か、三回か。
同時に弾丸を射出。四度引き金を引いて弾倉は空。弾丸の行方を見送るよりも先に、腰袋から予備の弾倉――そして最後の弾倉を装填し、壁と天井を蹴りながらカグヤの背後へ回り込みます。
先ほど撃った弾丸、それに籠めた爆裂呪文が起動しました。光と熱が斥力の対象外であることは経験でわかっています。その瞬間を狙う。
地を踏みしめた瞬間、光線がわたしの肩の一部を消失させました。
一瞬で焼ききれて血は出ません。痛みも最早どこかへ消えてなくなっています。それでも体の欠損を脳は危険と判断したらしく、嫌な汗だけが額を伝います。
目の中に入り込みそうになったものを拭い取る暇すらなく、加速で汗を吹き飛ばしました。わたしはそのままこぶしを振り上げ、カグヤに向かって振り下ろします。
カグヤの真っ赤な髪の毛が、桃色の瞳が、こちらを向いていました。
にんまりと笑っています。
僧侶「不快、ですっ!」
言葉も拳も、カグヤに向けられた全ては、その斥力によって退けられる。
彼女の背後に魔方陣が展開されるのを見て、わたしは横っ飛びで避けました。狙いなどない、防御もできない、全てを殺す満月光線。回避行動に意味があるのかもわからないままに。
光線――否、光柱といったほうが正しいでしょう。それはわたしの真上を掠めていき、観葉植物と、ソファと、壁と、外にあった東棟を根こそぎ消し去りました。
ぽっかりと壁に空いた穴から、柔らかな日差しとおだやかな風が入り込んできています。
カグヤ「不快? 不快だろうね、そりゃ」
カグヤ「でないとあんたらは、きっと、頑張ろうだなんて思わない。思っちゃくれない」
カグヤ「不快が嫌ならさぁ、アタシがむかつくってんならさぁ」
カグヤ「魂の輝きってのを最大限に発揮して、力ずくで退けてみなぁよぉおおおおっ!」
引力。全身を引っつかまれてカグヤへと吸い寄せられます。
踏ん張れずともこぶしを固めることはできました。大振りの一撃は、けれど容易くカグヤに懐へともぐりこまれ、唇と唇が触れ合いそうなほどの距離にやつの顔があります。
カグヤ「ほらほら、チャンスだよぉ?」
こちらの反応よりも先に、カグヤの尻尾がわたしを強く地面へ叩きつけました。バウンドし、壁に叩きつけられるのを体勢を立て直して回避。そのまま壁を蹴り上げてカグヤへ突っ込みます。
その軌道はほぼ地面と平行。一つの鉛弾となったわたしを相手に、カグヤはそれでも慌てる様子を見せません。
斥力で拮抗。埒が明かない。思わず舌打ちさえ飛び出そうになりました。
銃撃も何度防がれたか知れません。弾倉に次はなく、搦め手を失ってしまえば今度こそ勝ち目などなくなってしまいます。
いや、初めから勝ち目などあってないようなものなのです。カグヤ自身は自らを最弱と言い、それに劣等感も抱いているようでしたが、人の身であるわたしにしてみれば大天狗もカグヤも埒外な存在であることに変わりはなく。
もしかすれば傭兵さんならば違ったのかもしれません。あの人の超人的な反射神経と運動神経をもってすれば、斥力さえも断ち切ることだってできたでしょう。
しかし今、彼はここにはいない。
勝ち目がないのは当然のことです。そして、勝ち目がないわたしが、それでも全身全霊の力を発揮して、乾坤一擲振り絞って、カグヤに一矢報いてやろうとすることこそがカグヤ自身の目論見なのでしょう。
望みなのでしょう。
それは確かに魔族の中にあってなお、輪をかけて埒外な存在だと言えるでしょう。強い固体は他者を必要としません。必要性がわからないのです。だから魔族は、そもそも人間の有する「他者のために」「世界のために」という感覚がわからない。
わたしにとってそれは鏡像でした。「『他者のために』『世界のために』という感覚がわからない」という感覚は、どうしたってわかりません。
だってそっちのほうがどう考えても幸せじゃないですか。
自分だけが幸せになるよりも、みんなが幸せになったほうが、もっとずっと、満ち足りている。
傭兵さんだってそう思っているのです。
あの人はお金を集めて、ためて――いえ、そんな生ぬるい表現では、きっといけないのでしょう。文字通り一円残らず「掻き集めて」きていたはずです。そしてそのお金を、世界のために使っている。
もしかしたら笑いながらわたしの言い分を否定するかもしれません。何言ってんだ、と。俺に期待しすぎだ、と。
そうしたらわたしは言ってやるのです。
党首と一緒くたにされて怒っていたくせに、と。
百万なら、あるいは一千万なら、自分のためだけに使ったとて誰も文句は言わないでしょう。しかし、それが十億、百億ならどうでしょう。そんな巨額を自らのためだけに使うだなんて、額面に対してあまりにもちっぽけすぎる。
お金に失礼すぎる。
そして、あの人は自分が誰よりもお金をうまく使えると思っているから。
あの人の夢をわたしも見ていたいから。
僧侶「うぉおおあああああああっ!」
気合の叫びと共に繰り出した吶喊は、斥力に阻まれてまたも無力化されます。拳とカグヤの距離は一ミリに満たないのに、光年以上の距離が離れているようにも思ってしまうのでした。
あと一歩でも踏み出せれば、カグヤに拳が届くのに。
魔方陣が展開されます。それらが向いている角度を瞬時に判断し、なるべく光柱の密集していない地点をはじき出すと、そこへ転がり込みました。
放たれた光がわたしの水色の髪の毛を焼失させていきます。着地したときに一瞬体から力が抜けてしまいましたが、気合を入れてすぐ賦活。
銃撃を五回。これで弾切れです。残されたのは勝てるはずない真っ向勝負のみ。
事態がどん底に陥れば陥るほど、逆に頭は冷静になっていきます。心拍数は上がっても、息はあがっても、頭だけは驚くほどに透明なのです。
畢竟わたしには考えることしかできないのでしょう。足りない頭であっても考えて、見据えた目標に全力で突っ込むだけ。
銃弾に籠めた爆裂魔法が起動し、何度目でしょうか、カグヤが爆炎に包まれます。効果など殆どないのはわかっています。わたしは先ほどの光で壁に空いた穴へと身を翻しました。
カグヤ「おぅい! 逃げるんじゃあないだろうねぇっ!?」
そんなんじゃつまらないよとでも言いたげなカグヤの声。でも、大丈夫です。逃げるわけありません。
身を翻した先は物品庫。ここはPMCの基地なのですから、物品庫の中にあるものは当然穏やかなものばかりではなく。
暗闇から身を現すと共に数個の丸い物体を投げつけました。――爆裂弾。ゴブリンの長も用いていた、ごくごく初歩的な魔導兵器。
しかしこの兵器の便利なところは、充填魔力の幅がかなり広いところでもあって。
空間と、更には建物をも震わす轟音が響きます。
充填魔力の幅が広いと言うことは、威力の調節が容易いと言うこと。そして用い方によってはかなりの高威力も出せると言うこと。わたしは今の爆裂弾に、許容量限界までの魔力を注いでぶつけてやったのでした。
流石のカグヤもこればかりは斥力で防げず、ここで初めて自らの尻尾でもって防いだようでした。金色の毛、その先端が僅かに焦げているだけでしたが、確かにダメージです。
僧侶「くっ」
一度に大量の魔力を消費したものですから、僅かに眩暈が襲います。体がぐらつくくらいどうってことはありません。
カグヤ「なるほどっ! そう言う手もあったんだねぇっ!」
拍手喝采とも取れる体でカグヤが叫びました。斥力に対してカウンターで銃弾を打ち込みます。カグヤはわたしよりも銃弾のほうを優先して弾き返しました。
その間にわたしは床を強く蹴り上げます。もしカグヤが重力を操るのであれば、その力の方向は絶対的であるが故に、対処もできたでしょう。例えば真上から攻撃するとか。
しかし斥力はあくまでも相対的です。常に下へ落ちる重力とは異なり、斥力はあくまで「引き離す」だけ。決まった方向へ吹き飛ばすものではない。
引き離す。引き剥がす。それがカグヤの斥力。
まさしく人類の敵。
僧侶「そんなあなたに負けるわけには」
カグヤ「いいねぇいいねぇ! その気概だよ! そういう気概を欲しているのさぁっ!」
僧侶「その減らず口、絶対に叩き潰す……っ!」
カグヤ「最愛の男がアタシにぞっこんだから嫉妬しているのかな? ダメだよ、浮気は男の甲斐性なんだからさぁ」
カグヤ「って、恋人じゃあないんだったっけ。うっくっく! こりゃまた失礼!」
僧侶「……絶対倒す」
カグヤ「やってみなよ! アタシもそれを望んでるのさぁっ!」
そうしている間にも頭はぐるぐる回ります。全ての基準は「傭兵さんならどうするか」。
その場にあるものなら全てを利用するのがあの人です。物品。地形。状況。全てのリソースを我が物とし、多角的見地から、相手の弱点を突く。
あの人なら。
あの人なら。
あの人なら。
どうする。
カグヤの能力は判明しているだけで二つ。一つは引力/斥力。もう一つは光の集積を利用した光柱の発生。前者はそれだけではこちらに対して危害を与えうるものではありませんが、同時に最も厄介な能力でもあります。
後者は文字通りの一撃必殺。狙いが定まらないことだけが唯一の救いですが、こちらが怪我を負いすぎれば、回避はできないでしょう。そしてその時がわたしの最期に違いありません。
引力と斥力があるかぎりカグヤから逃げることは実質不可能。傭兵さんと掃除婦さんの戦いはどうなったのか、助けに行くこともできやしない。
彼女の足だけがバックトラックしてきたことを考えれば、ことは一刻を争うはずなのに。
引力と斥力はオートではないはずです。もしそうであったとしても、とれる対象は限られている。わたしを斥力で弾きながら、弾丸を弾けなかったことがその証左。
引き寄せられたその先ではカグヤが拳を振りかぶって向かってきていました。体勢を崩したこちらの反撃を難なくかわして、勢いの乗った拳で腹を打ってきます。
それだけでも腹部が根こそぎ持っていかれるという衝撃なのに、そのまま壁へ頭から突っ込むのですから、意識があっという間に明滅します。額が割れて顔面が血で真っ赤になっています。
跳んだわたしにかかる斥力。爆裂魔法を籠めた銃弾をばら撒きながら、ぐるりと円を描くようにカグヤを周回。
地を蹴って突撃するも、引力で歩幅を狂わされました。胸倉を掴んで投げ飛ばされ、同時に斥力で加速。顔面から突っ込みます。
鼻血を袖で拭って反転。
カグヤ「しつっこいなぁもう!」
わたし自身は斥力で吹き飛ばされましたが、置き土産の爆裂弾だけは健在です。二つがともに大爆発を起こし、床と天井を吹き飛ばしてカグヤを生き埋めにしました。
斥力で瓦礫が弾かれ、中からほぼ無傷のカグヤが表れます。ところどころ擦過や焦げは見つかりますが、特段のダメージではない様子。
追加で更に一発。
その爆裂弾で瓦礫は一掃されました。カグヤは黒煙の中から、煙を吐き出しつつこちらへと向かってきています。悠々とした足取りで首など鳴らしながら。
わたしは跳ねます。
カグヤ「……」
無言のままにわたしを斥力が襲います。全身を突き飛ばされて壁へと激突しますが、ぶつかる瞬簡に受身を取りました。
眼前にカグヤのつま先が迫ります。先ほどとは明らかに違う行動パターン。それが果たして地雷を踏んだのか、こちらを更なる高みへ上らせるためなのかは、現時点では判別がつきません。
顔面への攻撃だけは何とか防ぎましたが、それでもカグヤは魔族です。その膂力は健在で、危うく腕の骨が折れるかと言う衝撃と共に、激痛と痺れが腕から全身へと広がっていきました。
吹き飛ばされたわたしが態勢を立て直すよりも先に引力で引き寄せられます。カウンター。反撃の言葉が脳裏に浮かびますが、行動に移させないほどカグヤの速度は尋常でなくて。
なんとか体勢をずらして、首への一撃を肩へ向けさせました。嫌な音と共に腕に力が入らなくなります。そして激痛――折れたというよりは外れたような。
反対の腕で拳銃を引き抜きます。物品庫で見つけたものは爆裂弾だけではありません。口径のあう銃弾の予備もたんまりとありました。
籠めるのは氷結呪文。こちらへ容赦なく肉弾戦を仕掛けてくるカグヤの動線を防ぐように弾丸を撃ちまくります。
当然のように弾丸は全て斥力で弾き返されましたが、問題はありません。わたしとカグヤの直線状には、氷の柱がいくつも――
僧侶「って、嘘でしょ!?」
魔方陣の展開。
通路一杯に、空間を全て塞ぐように、その数おおよそ三十以上。
カグヤ「ふ」
そのとき初めて、カグヤの口から言葉が漏れているのにわたしは気がつきました。
カグヤ「うふ、うっふふふ、く、くふ、ふふ、くふふふっ、くく、うくく、うふ、うくくっ……」
カグヤ「つまんなぁい」
光がわたしの視界一杯に満ち満ちていきます。
咄嗟に先ほど生まれた穴へと身を投げ込んで、なんとか光柱だけは回避に成功しましたが、背後の天井から上階の光柱が何本も突き出ているのが確認できました。それらは変わらずに、その斜線上にある全てのものを焼失させていくのです。
カグヤ「その程度しかできないの?」
背後から声が聞こえました。
反応するよりも先に衝撃がわたしを襲って、左腕が根こそぎ嫌な音を立てながら、一拍遅れて壁とキスをします。
関節が二箇所増えていました。肩も外れているのですから、もう動かそうとも思いません。
激痛に怯んでなどいられません。まったく表情が欠落したようなカグヤへと向かいますが、あいもかわらず攻撃は届かず、光がこちらの命を一振りで奪い去ろうとしてきます。
銃弾を打ち込んで魔法を発動。氷を顕現してそれを楯に、無理やりカグヤへ一撃見舞おうとするものの、氷ごとカグヤはわたしを尻尾で打ち落としてきます。
追撃の光。地面を跳ねて何とか回避。
光柱をまとめて回避して、穴ぼこになった壁に思わず唾を飲み込むと、カグヤは第二射の準備を始めています。
ここが好機と突っ込みました。魔方陣は一気に放つ光を増し、飛び込んでくるわたしに歓喜の声をあげているようにも見えます。そしてカグヤもまた、この自殺行為にも似た吶喊の行く末を、興味深く見守っているようでもありました。
銃撃。それは当然斥力で弾き返されます。続くわたしの右拳も。
重力軽減装置を作動し壁を蹴り上げ、できうる限りの勢いでカグヤに突っ込みますが、斥力と言う楯の元では全てが意味を成しません。腕の一振りで弾かれます。
ですが。
巨大な瓦礫がカグヤを狙いました。背後、全くのカグヤの死角を狙った一撃です。
カグヤ「ぬるいのさぁ」
カグヤはそれに一瞥すらくれず、尻尾で軽々叩き落としました。
カグヤ「斥力で吹き飛ばされる、だから自分と重たいものを括りつけようっていう案は真っ当かもしれないけどさぁ。それを攻撃に使おうってのも、確かに面白くはあるんだけどさぁ」
カグヤ「アタシが求めてるのはそういう小賢しさじゃなくてさぁ」
ぽう、とカグヤの背後が光りました。白く発光する円盤。魔力の震動がこちらにも伝わってきます。
ぽう、ぽう、ぽう、とその数は次第に増えていき、それがおおよそ十を超えた段階で、わたしはその光が魔方陣によるものだと理解しました。
あまりにも複雑な意匠をもった魔方陣。故に、円盤状の光としてしか視認できないのです。
魔方陣が数を重ね、重ね、重ねて、通路一杯を覆っても、まだ増加は止みません。天井に、床に、壁に、魔方陣に重なるように、どんどん密度を増して行きます。
あれだけの数の光柱が放たれれば、どうなるのかなんて考えるまでもありません。回避はできないでしょう。それだけの空間的余裕を与えてくれるとは思えませんでした。
そしてあれだけの数です。犠牲になるのがわたしだけだとは到底思えません。床を、壁を、貫いた光線で一体何人が死ぬのか。考えただけでもぞっとします。
僧侶「くっ!」
発砲しても意味はありません。それでも、何もせずに手をこまねくばかりなど、許せるはずもなくて。
カグヤ「本当残念さ。期待はずれさ。ばかさ。アタシって」
カグヤ「結局あんたじゃだめだったみたいだ。魂の輝きは見れなかった」
カグヤ「やり直しさ。また、誰かを探さなきゃあ、ねぇ?」
魔方陣がその発光を極めました。
同時に、わたしが仕込んでいた魔法が発動します。
氷結魔法。
カグヤ「――あ?」
呆けた顔のカグヤ。ぽかんと口をあけたそんな表情でも、この魔族は絶世の美女に違いありませんでした。
そしてわたしはその顔面をぶん殴りに駆け出しています。
放たれるのが収束された光ならば。
反射もできるのではないか?
僧侶「屈折だって、乱反射だって」
魔法は止まりません。蓄光を極めた魔方陣が、縦横無尽に光柱を放ちます。
突如として現れた氷の鏡と、真っ直ぐに自分へと向かってくるわたしの姿、そして背後の魔方陣をそれぞれ見比べて、死人のようだったカグヤの顔に俄然生気が戻ってきます。
カグヤ「うっくっくっく! 凄い! 凄いよその発想! だってそれって自殺じゃん!」
大気中に顕現したいくつもの氷の障壁。その本懐は光をうけとめることではなく、捻じ曲げ、反射させ、焼き焦がすこと。光柱を幾条もの細いレーザーへと分割し、それをもってして敵を撃つこと。
光の持つ熱によって、一枚一枚が効果を発揮できるのは一秒にも満たないかもしれませんが、それでも十分。
当然、より無軌道になったそれによって、わたしだって甚大な被害を被ることにはなるでしょうが。
僧侶「それくらいどうだっていいに決まってんでしょうがっ!」
ここであなたを仕留めることこそが、傭兵さんを解放し、掃除婦さんを助け、他の兵隊さんたちを助けることこそが。
わたしの至上命題なのですから!
引力と斥力では光を捻じ曲げることは叶いません。それは既にわかっています。ならばこの攻撃を防ぐ手立ては、当然わたしにもなければ、カグヤにだってない!
カグヤ「見たり! 輝き見たり! うっく! うく、ふふ、くふふっ! うっくくくふふふっ!」
カグヤ「あっはぁっ!」
光が、わたしと、カグヤの体を貫いていきました。
―――――――――――――――――
今回の投下はここまでです。
一ヶ月以上間があいて申し訳ありませんでした。
なるべくペースを戻すようにやってきたいです。
今後ともよろしくお願いします。
※ ※ ※
目を覚ましたら僧侶が俺の上で眠っていた。
掛け布団の上に上体を投げ出すようにして、手を枕にすやすやと寝息を立てている。
頭には白い包帯。左肩から左手首にかけて、ぎっちりとギプス。髪の毛はざんばらで嘗ての面影はない。
痛々しい姿だ、と思った。そしてすぐにその原因に思い当たる。
傭兵「……」
記憶はある。自分が何をされたのかも、何をしたのかも、全て覚えている。
思わず目をやった手は骨ばってこそいるが、随分ときれいなものだ。血の一滴だって見つけられやしない。
傭兵「つぅか、なんでこいつがいるんだ」
何日眠り呆けていたかはわからないが、こいつは王都に行くという重大な使命を帯びているはずで、こんなところでぼうっとしていていい人物ではない。
掃除婦「それはあなたが眠りすぎていたからですわ」
扉を開けながらやってきたのは掃除婦。音もなく床を滑ってこちらへと近づいてくる。
滑る――そう、滑る。
掃除婦は右足を膝から失っていて、そのため車椅子に乗っているのだった。
それを押しているのは将校である。車椅子の車輪には取っ手がついていて、掃除婦自身は将校の力添えなどいらないと言う風な態度であったが、将校は有無を言わさずにゆっくりと車椅子を進める。
それをやったのは俺だ。わかっている。戦った。脚を叩き切った。他にも色々、殴ったり蹴ったり、散々やった。平気に見えるのは恐らく見せ掛けだけで、完治には程遠いのだろう。面会謝絶でもおかしくないはず。
おかしな話だった。俺は真っ先に掃除婦に対して土下座をしなければならない。地面に額をこすりつけて、申し訳ない、許されないことをしてしまった、そう言って許しを請わなければならない。
そうするのが普通だとはわかっているのに、何よりも先に、そして大きく芽生えた感情は全く異なるものだった。
してやられた。
悔しさが自分の頭を満たしている。
傭兵「苦労をかけたな」
だからこんなことが言えてしまう。
掃除婦「まぁ、仕方ありません」
そして、そんなことが言えてしまう掃除婦もまた、普通ではないに違いない。
あぁ、俺たちはどこまでもろくでなしなのだ。一般人とは感性がずれすぎてしまっているのだ。
四天王が単身乗り込んでくるケースは完全に想定外である。そして俺を含めた数人が操られるなど、それに輪をかけて考えられていなかった。その非常事態を乗り越えられただけでも幸運だ。
掃除婦の損耗は、彼女自身覚悟していたことなのだろう。いつか必ずそのときはやってくる。誰にだって、等しく。彼女は自分が「者」ではなく「物」であることをよく理解しているから。
傭兵「娼婦……カグヤ、と言ったか。僧侶が退けたのか?」
状況的にそう考えるしかない。俄かには信じがたかったが。
掃除婦はにっこりと微笑んで、それを返事代わりにした。それを受けた俺の芽生えたこの感情をどう呼んだらいいだろう。思わず笑みがこぼれてしまう、この感情の正体は一体なんだ?
傭兵「そうか……ありがとうな」
そう言って、眠っている彼女の頭に手をやる。ざんばらになった髪の毛はわずかに軋む。
あぁ、もったいないな、と俺は思った。美容だとか、ファッションだとか、そういったものにとんと縁のない俺だって、あのさらさらの髪をもったいなく思う心くらいは存在するのだ。
僧侶「傭兵さん!?」
俺の手を吹き飛ばす勢いで僧侶が上体を起こし、左半身の激痛に呻いた。大丈夫か、と声をかけると、眦に涙を浮かべながらも口を大きく開けて笑って、
僧侶「よかった、無事で……!」
消え入りそうな声でそう言うのだった。
まったくそれはこちらの台詞である。お前が無事で本当によかった。なんて無茶をしやがるんだ。そう言ってやりたかったのだが、なんだか妙に小っ恥ずかしくて、喉から出たのは「ありがとうな」というありきたりな言葉。
僧侶「うへへ……」
そんな普通の言葉でも、僧侶は頬を緩めて心底嬉しそうに笑う。
傭兵「って、違ェよ! お前王都にいくのはどうなったんだ!」
僧侶「そ、そんなに叫ばないでくださいよ」
掃除婦「だから、あなたが眠りすぎていたのだと言いましたわ」
将校「ボスはもう二週間も眠っていたんです。既に僧侶様の顔見せは済みました」
僧侶「ちょっぱやで済ませましたけどね」
二週間。そんなに、か。
永久の眠りにならなくてよかった、と冗談ではなく胸を撫で下ろすところなのだろう。
傭兵「……じゃあなんでこいつはここにいる」
わかっていても訊いてしまう。
僧侶「傭兵さんを放っておいてプランクィに帰れるわけないじゃないですか!」
まるで当然だという面持ちで叫ぶ僧侶だった。自惚れでなかったのは幸いだが、しかし、それはそれで大問題だ。こいつ自分の立場というものを理解してんのか?
言ってやりたい。言ってやりたい、が……。
僧侶「?」
こいつは名実共に恩人なわけで、それがにこにこ顔で眼前にいるとなると、怒鳴るのも気が引けるというかなんというか。
傭兵「……ふぅ」
だめだだめだ。気が抜けちまった。
傭兵「それにしても、よく倒せたな。倒せた、のか?」
僧侶「あぁ、倒せたってのとはちょっと違いまして。敵の攻撃を反射して、双方痛みわけ。あっちも満足? したみたいで、退いていきました」
満足……? 正直よくわからなかったが、残存しているのは確かなようだ。体勢を立て直すために一旦逃げた、と考えるのが自然なのだろう。
ともあれ、俺が眠りこけている二週間のうちに再度攻めてこなかったということは、ある程度状況は楽観視してもいいのかもしれない。勿論防衛体制などは見直さなければならないし、やることは山積しているのだろうけれど。
掃除婦「とりあえず、お体に不調などはございますか?」
肩と上体をぐりぐりと動かして、
傭兵「……いや、大丈夫だ」
掃除婦「そう。それは重畳ですわ」
将校「休暇をとっていた者たちもその大半が戻ってきています。ボスはお体は大丈夫とのことでしたが、一応あと一週間ほどは安静にしてください」
傭兵「一週間? 冗談じゃねぇ」
PMCに四天王が攻め入ってきたのだ、また俺たちが微妙な立場に立たされることが明白な以上、のんびりしている暇などあるものか。
将校「これは私たちの総意です。それにカグヤの攻撃は精神を対象としますから、どんな後遺症が残っているか、まだわかったものじゃありません」
ぴしゃりと言われてしまった。総意ならば仕方がない、と大人しく引き下がる気にもなれなかったが、まぁいざとなったら強権を発動したっていいのだ。こいつらも、俺がそれくらいはやると思っているのだろうし。
ふん。人数が増えると随分楽になるものだ、なんて。
将校「それでは、ごゆっくり」
掃除婦「……自分で動かします」
将校「まぁまぁ」
掃除婦「言っても聞かない人は嫌いですが」
将校「これ以上嫌われようもありませんね」
掃除婦「やめてください……やめてったら」
あくまでも楽しそうな将校と、不機嫌そうな掃除婦は、それでも揃って出て行った。きぃ、ばたん。木製の扉が閉まって、部屋には俺と僧侶二人だけ。
将校「これは私たちの総意です。それにカグヤの攻撃は精神を対象としますから、どんな後遺症が残っているか、まだわかったものじゃありません」
ぴしゃりと言われてしまった。総意ならば仕方がない、と大人しく引き下がる気にもなれなかったが、まぁいざとなったら強権を発動したっていいのだ。こいつらも、俺がそれくらいはやると思っているのだろうし。
ふん。人数が増えると随分楽になるものだ、なんて。
将校「それでは、ごゆっくり」
掃除婦「……自分で動かします」
将校「まぁまぁ」
掃除婦「言っても聞かない人は嫌いですが」
将校「これ以上嫌われようもありませんね」
掃除婦「やめてください……やめてったら」
あくまでも楽しそうな将校と、不機嫌そうな掃除婦は、それでも揃って出て行った。きぃ、ばたん。木製の扉が閉まって、部屋には俺と僧侶二人だけ。
傭兵「……なんだありゃ」
僧侶「……はぁ」
盛大にため息をつかれてしまった。なんだって言うんだ。
僧侶「それにしても、お疲れ様です。体は本当に大丈夫ですか?」
傭兵「お疲れ様なのはお前だ」
僧侶「ん。本当に疲れちゃいましたよ。それは確かですけど」
僧侶「でも、まぁ、なんていうんですか。傭兵さんが無事でよかったです」
はにかむ僧侶。彼女の上体は依然ベッドの上、俺の上にあって、必然的にお互いの顔は近い。
なんだか心臓がうるさい。黙れ。
俺の体は俺のものだ。俺の言うことを聞けったら。
傭兵「……どうして、無茶なことをしやがるんだ」
僧侶「無茶?」
傭兵「相手は四天王だ。正体不明の大敵だ。お前が勝てる可能性なんて万に一つもなかった。違うか? そうだろう。お前だってそれくらいはわかってたんじゃないのか?」
僧侶は聡明だ。彼我の実力差を、ここにきてわからないとは思えない。
僧侶「……なんでそんなことを訊くんですか?」
顔を赤らめながら僧侶が聞き返してくる。何か、話が完璧に行き違っているような、そんな気さえした。
いや、もしかしたら行き違ってはいないのかもしれない。凹凸のように、でこぼこだからこそ初めて「噛み合う」ということは成立する。
……何の話だ? 何を考えているんだ? 俺は。
傭兵「俺は、お前は聡明だと思ってる。自分の立場がわかっていないはずはない。共産主義を持続させたいんだろう? なら、どうして、無茶をする。カグヤを倒すことなんてどうだってよかったはずなのに」
傭兵「俺たちは所詮傭兵だ。金で動いて、金で殺す。いつだってそうだ。これまでもそうだった。これからもそうであり続ける」
僧侶「傭兵さん、わたしは――」
傭兵「だがお前は傭兵じゃない」
僧侶の言葉をぶった切って、続ける。
傭兵「いくらうちと懇意にしてようと、お前は傭兵じゃないんだ。寧ろ俺たちは、お前が最も忌避しなければいけないものだ。なんせ、共産主義者が大嫌いな金と権威にぞっこんなんだからな」
傭兵「助けてくれたことには素直に礼を言おう。だが、もうお前を、こんな危険な目には合わせるわけにはいかねぇ」
傭兵「もう俺たちを頼るのはやめろ。お前にはお前に相応しい相手が他にいるはずだ」
どんな反応をするか、恐ろしいものを見るような気持ちで視線を上げた。
僧侶「……」
驚くべきことに、僧侶は存外冷静で、何かに納得したのかうんうんと一人でうなずいている。
僧侶「だからなんですか?」
と、第一声として僧侶は言った。
僧侶「だから傭兵さんは、わたしを遠ざけようとしていたんですか?」
僧侶「わたしたちの間柄は決して『オトモダチ』ではないのだと、それを貫徹するために?」
僧侶「だとすれば傭兵さん、だとするならば、傭兵さん、それは違うのです。確かにカグヤに対して勝機は万に一つもありませんでした。いまわたしがここにこうしていられるのは、決して実力なのではなく、単に一生分の運を使い果たしたからなのでしょう」
僧侶「わたしはお友達とかなんだとか、そんなことは一切気にしちゃいないんです。誤解してもらっちゃ困ります。仲がいいとか悪いとか、そんなことはどうだってよくて――ねぇ、傭兵さんも、そうじゃないんですか?」
僧侶「誰もが幸せになったほうがいいと思ってるんじゃないんですか?」
きらきら輝く笑顔を見せ付けて、至極当然の事実を諳んじるように、僧侶は俺に問うてきた。
心が痛む。
ずきずきと。
こいつは何を言っているんだ?
違う。俺は決してそんな理由でお前を遠ざけようとしていたわけじゃあない。こちらのほうこそ誤解してもらっちゃ困るのだ。
お前は恐らく誤っている。まるで俺が聖人君子のようにお前は扱うが、そんなことは決してないのだ。
もし聖人君子であれば、誰も死なない道を選ぶだろう。誰も犠牲の出ない道を選ぶだろう。過程も結果も欲張るからこその聖人君子なのだ。寧ろやつこそ最大の業突く張りとも考えられる。
そんなこと実際には不可能なのだ。不可能なのだ。不可能なのだ。
必ず犠牲は出る。最善の結果を得るためには、どうしたって踏み台にならなければいけない人間が存在する。俺はいつだってその踏み台になる覚悟を持ち合わせているけれど、悲しいかな、常に俺が踏み台になってやれるわけじゃない。
それどころか、無慈悲に誰かを犠牲にする選択を採らねばならない場合だって多々ある。
心が痛む。
ずきずきと。
これは罪悪感だ。
誰もが幸せになればいいと思っている。
だが、俺にはそんなことできやしないのだ。
そういった意味では俺もまた誤っているに違いない。
僧侶には心配をかけたくなくて、どうにかして無理やり笑ってみようとするのだが、長らく笑顔なんてした記憶はなかった。顔が引き攣って変な表情になる。
僧侶「だ、大丈夫ですか? どこか痛みますか?」
傭兵「いや、大丈夫だ。本当ならいますぐにだって飛び出していける」
僧侶「……大丈夫だとしても、安静にはしておかなきゃだめですよ」
傭兵「わかってるさ。とやかく言われたくないしな。まったく、長い休暇になったもんだ」
僧侶「傭兵さんは頑張りすぎなんです。たまには休んだって文句言われませんよ」
傭兵「……言われるさ」
僧侶「言われますか? 誰に? そんなに心の狭いかたがいるとも思えませんが」
傭兵「死者にな」
僧侶「し、しゃ?」
傭兵「あいつらはうるせぇんだ。何年たっても心の隅からじっと見上げてる。まったく、よく飽きないもんだ」
僧侶「どういうことですか」
俺の口調の変化を敏感に感じ取ったのだろう。僧侶の声音に真剣なものが混じる。これが単なる悪趣味な冗談だとは受け取らなかったらしい。
意志が弱いにもほどがある。結局、僧侶に心配をかけたくないといいつつも、俺はあいつを傷つけることでしかコミュニケーションができないでいるのだ。
やつに愛想を尽かされることしか、あいつから距離を置いてくれることを期待するしか、離れ方を知らない。わからない。俺からの三行半など、考えた回数ばかりが積み重なっていって、実際に実行へ移せた回数など一度しかなかった。
俺は自嘲気味に笑った。
傭兵「今まで散々犠牲にしているからな。どうやらそいつらが、俺を忘れてはくれないらしい。心の片隅に陣取ってやがる」
僧侶「……傭兵さんが忘れられないのではなく?」
痛いところをついてくる女だ。
傭兵「違ェよ。恨みだな、きっと。敵対して殺したやつも、囮にして殺したやつも、沢山だ。沢山いる」
僧侶「でも、傭兵さんだって殺したくて殺したはずじゃあないんでしょう」
傭兵「殺したくて殺したんだよ。剣を振るえば人が死ぬ。置き去りにすれば力尽きる。知っていて俺は実行に移したんだ。それを殺人と言わずにどう言えばいい。世が世なら、俺は大量殺人犯さ」
僧侶「……大義のために」
傭兵「人を殺すことが許されるわけはねぇよな」
僧侶「えぇ、そうです。それは、当たり前です。だから、傭兵さん、あなたも、そしてわたしも、そうなわけで」
僧侶「それでも、人を殺してでも成し遂げたい目的が、確かにあるじゃないですか」
世界平和。全人類がみんな幸福。
絵空事であるはずのその言葉を大義として掲げるという点では、俺もこいつも、なんらかわりがない。
僧侶「……わたし、失礼かもしれませんが、傭兵さんはそういうのを切り離せるタイプの人だと思っていました。頓着しないのではなく、悩まないのではなく、必要経費だと割り切れるタイプだと」
僧侶「それを今更になってわたしにこぼすなんて……なにか、あったのですか?」
傭兵「くっ」
思わず笑いが吹き出そうになった。なんだそれ。なんだその人間評。どうしてお前はそんなに俺の内心を言い当てることができる。まるで見ていたかのように。
だが、これだけはわからなかったようだ。わからないだろう。
全ての原因はお前なのだ。
あぁ、こんなにもうまくいかないことが嘗てあったろうか。感情の制御は得意なほうだと自負していた俺が、である。
なぜ!
いまさら!
俺の理想の犠牲者「程度」で悩まなければいけないのだ!
そうやって悪者ぶるのが、メンタルの弱さの証なんですよ。
僧侶の声が耳元で聞こえた気がする。そんなことはないというのに。
傭兵「娘が盗賊団に誘拐されたから奪還してくれという依頼が入った。軽く依頼をこなしてみれば、そもそも盗賊団の首魁が娘らしかった。父親への反発……それ以上に、世を憂いての義賊への転身だったようだ」
傭兵「その娘は二日後に手首を切って死んだ」
傭兵「子供を違法に労働させている売春宿を潰してくれという依頼が入った。助けた子供たちは、家庭に戻ったのもあれば、孤児院に引き取られたのもいる」
傭兵「半数以上が死んだ。家庭に戻ったのは大抵が虐待死で、孤児院では出自から慰みものになっていたらしい。それを苦にしての自殺、ないしは脱走後の行方不明」
傭兵「違法に産業廃棄物を投棄していく業者を退治してくれという依頼が入った。現場を押さえて叩きのめし、証拠を挙げて訴訟した。その結果、不法投棄はなくなって、ゴミの山は消えた」
傭兵「代わりに、そこでゴミ漁りをして暮らしていた浮浪者が軒並み餓死、凍死した。汚染された土壌で作物を作った現地の住民も、長い間苦しんで死んだ」
傭兵「……まだまだあるぞ。聞きたいか?」
僧侶は首を楯にも横にも振らなかった。ただ泣きそうな表情でこちらを見ている。
傭兵「……お前も俺の犠牲になりたいか?」
簡単な言葉のはずなのに、だいぶん勇気のいる言葉だった。それはきっと脅しではないからだ。誰かの身を案じたりすることが、本質的に俺にとって不得手なのだと思う。
傭兵「俺は、お前を、犠牲にしたくはない」
心臓が早鐘のように鳴っている。顔が熱くて僧侶の顔が見られない。
なんだこれは。
一体全体、なんなんだこれは!
傭兵「俺は、お前みたいなやつこそが幸せに生きられる世界こそが、真に素晴らしい世界なんだと思っている」
素慮「わたしみたいな?」
傭兵「どんなやつだって、ただ真摯で、誰かに対して真面目である人間が、決して損をせずに生きていける世界。所謂『正直者がバカを見ない』世界」
傭兵「働いたぶんだけきちんと金がもらえ、会計がきちんと処理されて、商品で騙されることなく、勇気のあるやつは評価され、努力したやつは認められ、挑戦したものは成長できる、そんな世界を俺はつくりたい」
傭兵「なぁ、気づいているか? 俺がお前を犠牲にしていることを。権力闘争の道具にしていることを。お前は俺にとって、思ったとおりに動く、随分と都合のいい傀儡だよ」
傭兵「申し訳ないと思ったことなんてない。ないんだ。あぁ、ないとも。そうさ、あってたまるか。いまさら、犠牲の一人や二人、泣いてなぞいられるか。そうだろう」
だけど。
傭兵「どうしてだろうな。俺は、嫌なんだ」
僧侶を利用して、俺の目的のための犠牲にすることが、どうしようもなく不快でしょうがないのだ。
そして、俺と一緒に行動していることによって、こいつが戦いの犠牲になることがどうしようもなく恐ろしくてしょうがないのだ。
一体全体俺はどうしてしまったというのか。
視界が涙で滲む。おかしい。おかしかった。こんなことが許されるはずがない。今更生き方など変えることはできない。どうしろというのだ。
理想のために生きてきた。脅威となる魔族は、それを率いる魔王は、見過ごせやしない生命の大敵である。やつらを叩き潰すために、そして理想の世界をつくるために、ひたすら金を掻き集めてきた。
それなのに、どうしてこんな、二十にもなっていないちんちくりんが、俺の前に障壁となって立ちふさがるだろう。
こいつを不幸になどしたくないのに、こいつを不幸にするのが最善なのだと考えてしまう。
あぁ、くそ。なんてことだ。
なんで人生はこんなにうまくいかないんだ。
難しいんだ。
「難題」ばかりじゃないか。
それならアタシがどうにかする知恵を授けてあげようじゃないか。
うく、うくくっ、くく、くふふっ! くふっ!
――殺すのさぁ! 殺してやるのさぁ!
――――――――――――――――――
今回の投下はここまでです。
カグヤが人類の天敵たる由縁。
次回もよろしくお願いします。
※ ※ ※
お前のせいだ。
お前のせいだ。
お前のせいだ。
お前のせいで、俺はおかしくなった。
こんなふうになっちまった。
今の俺になにができよう。小娘一人犠牲にできないで、大望を仰ごうとするなどおこがましいにもほどがある。一人を見捨てて二人を助け、百人殺して千人救うのだ。それを繰り返すことでしか、世界をよくはできない。
数なのだ。全ては数なのだ。俺一人ができることなど高が知れている。だから、沢山の人を救って、味方につけて、力にして、糧にして、魔王を倒して、世界を平和に、あぁそうだ。初志は貫徹されている。俺は何も間違っちゃいない。
誤っちゃいない!
小娘一人救えずに、世界を救うなどおこがましい。
うるさい黙れ。誰だそんなことを言うやつは。こいつだけじゃあない。僧侶だけじゃあない。俺は今まで何人も見捨ててきた。殺してきた。今更、こんな、少女一人に心を乱されてはいけないのだ。
でなければ他の犠牲者に申し訳が立たない。立つ瀬がない。
ここで信念を捻じ曲げることが、どれだけのものを冒涜し、どれだけのものに泥を塗るか。俺はそれをよく知っている。
傭兵「だから、だからぁあああああ……っ」
俺の両手は、僧侶の白く、細い首筋にかかっている。
ベッドに彼女を押し倒す格好で、馬乗りになって、全体重をかけて。ほそっこくてやわっこい頚椎をへし折ろうとしている。
傭兵「お前は、僧侶ォオオォ……死ぬんだ、死ぬべきなんだ……っ」
僧侶は苦しそうな表情で俺の手首へと手をやっている。せめてもの抵抗。腕力倍加をした状態であっても、片腕と両腕、更に体勢のこともあって、ひっくり返すことは不可能だろう。
傭兵「そうしなければ、この『難題』は、解けない!」
僧侶「『難題』……ッ!」
僧侶は明らかに苦い顔をした。それは呼吸困難からくる苦しみとは全く別種の顔だった。
僧侶「カグヤ、あいつ! だからあんなにあっさり退いたのか!」
そんな風に、あまりにも殺意を籠めてアタシの名前を呼ぶものだから、思わず首を絞める手に力が入ってしまう。
うくっ! うく、くく、くふっ!
でもでもだめだよ、ここで僧侶ちゃん、あなたは俺に殺されるしかないのだ。
そうするしかない。それ以外に、俺をこの難題から解き放ってくれる選択肢はない。
アタシがそう言っていたのだ。だから俺はお前を殺す。
俺の犠牲になる人生も辛かろう。あぁそうだ。もしかするとこれは人助けの側面すら持ち合わせている。俺の犠牲となって、権力闘争の渦中に生きるくらいなら、ここでいっそ。
あぁ、なんて美しい愛! くふっ、うふ、うっくくくくっ!
死ね! 死ね! 死ね!
俺に殺されて死ね!
アタシに殺されて死ね!
愛に殺されて死ね!
僧侶「……わっけわかんない。わっけわかんねぇですよぉ、傭兵さぁん!」
ぐ、と俺の手首を握る手に力が籠められる。ぷるぷる震えているのは武者震い? それとも、アタシへの怒り? それこそこっちが「わっけわかんねぇ」なぁ!
お前を犠牲にするのが一番手っ取り早いのだ。それを最もよくわかっているのは、僧侶、ほかならぬお前自身だろうが。大嫌いなはずの権力の渦へと飛び込んで、大嫌いなはずの金満主義の中枢へ擦り寄って、それでも叶えたい夢がお前にはあるのだろう。
俺はそれを応援してやりたい。アタシだって応援してあげたい。
はずなのに。
なんでこんなに人生とはままならぬものなのでしょうか。
くふっ。
傭兵「俺が作りたかった世界では、お前こそが最も幸せになるべきなのに」
自己矛盾極まりないねぇ。
傭兵「どうしろっていうんだ、じゃあどうしろっていうんだ」
そんなの簡単さぁ。
傭兵「殺すしかない。お前を殺すしか、手段はない!」
そのとおり!
さぁ、一気にやっちゃうのだアタシよ! 俺の太い指で、僧侶ちゃんの細い首を、一思いにぼきっとやってしまうのだ!
そうして世界を平和にするのだ!
僧侶「ばーか!」
喉に食い込んだ指をものともせずに僧侶が口角泡を飛ばしながら叫ぶ。
僧侶「ばーか! ばーか! ばかばかばかばかばーか! 傭兵さんの、ばーかっ!」
僧侶「犠牲!? なにそれ、なんですかそれ! ふざけんな! ばかにするのも大概にしろってんですよ!」
僧侶「勝手に! わたしを! 犠牲者にしないでもらいたい!」
ぐ、ぐぐ。手首に籠められた力が増大していって、明らかに有利な体勢なのに、徐々に、本当に徐々にではあるけれど、俺の体が、押し戻されて――これは?
もしかして?
僧侶「知ってんですよこちとら、ずっと、ずぅっと前から!」
僧侶「わたしの立ち位置なんて、とっくのとうに!」
傭兵「嘘だ」
断ずることなど容易い。僧侶の言葉は方便に過ぎない。今、この窮地をなんとか脱出しようと、八方手を尽くしているだけなのだ。騙されるものか。
そう、騙されちゃあいけない。利用されて嬉しい人間などいるものかよ。もし僧侶ちゃんが利用されていることを知っていたなら、彼女のことだ、それをよしとするはずがない。そうでしょう? あぁそうだ。そうに違いない。
僧侶ちゃんは高潔な生き方を、うくく、望んでいるから、志向しているから、俺に利用されているだなんて、許せるはずがないないのだ。
だからその言葉は嘘なのだ。
僧侶「嘘なもんか!」
傭兵「なら、おかしいだろう。おかしいじゃねぇか。なぜ黙っていた。俺に怒らなかった。利用されてたんだぞ。ただ働きだぞ。騙されてたも同然なんだぞ!」
僧侶「違う!」
僧侶「だってそれは自分の意思なんだから、騙されてたんじゃ、絶対にない!」
傭兵「わけわかんねぇことを言うな!」
傭兵「自分の意思で利用されるようなお人よしがどこにいる! よしんばいたとしても、お前はそれで何を得た! 言ってみろ!」
言えやしない。どうせ言えやしないのだ。なぜなら、得たものなど何一つないのだから。
それを騙されたというのだ。俺の犠牲になったというのだ。
そして、これからも彼女は、俺の犠牲になり続ける。
許せるはずがない。
僧侶「心の平穏です!」
全身から一瞬力が抜けた。それを見越したかのように、一気に僧侶がこちらへと攻めやってくる。
既に俺の両手は彼女の首から離れていて、一センチほど、もがいてもがいて空を切った。
殺さなければ。殺さなければ。殺さなければいけない。ここで失敗すれば、僧侶は不幸になる。それだけはだめだ。そんなのはいやだ。あいつが不幸になるだなんてことはあってはいけないのだ。
誰よりも高潔で、誰よりも誠実で、誰よりも世界平和を願う彼女が、こんな俺みたいな人間の犠牲になってはいけないのだ。
俺のそんな善意など露知らず、僧侶は叫び続ける。
アタシの心にナイフを差し込み続ける。
僧侶「わたしは、傭兵さん! わたしはですね、あなたのためになら、なんだってしてやれると思ってるんですよ!」
恥ずかしいからこんなこと言えやしなかったですけど、と僧侶は顔を真っ赤にしながら言った。
傭兵「お前、俺のことが嫌いなんだろう」
素朴な疑問だった。アタシにとってはあからさまな僧侶ちゃんの態度も、俺には全く理解できない。乙女心など縁がなく、金にもならない。故に知らない。限りなく単純な論法である。
僧侶「は! はぁ!? あなた、こんな状況でそれを訊きますか!」
僧侶「言い続けているでしょう! わたしはあなたを、信頼しているのですと!」
僧侶の吐息が顔にかかる。額と額がぶつかりそうな距離に、あいつの顔がある。
真っ赤に火照った顔。涙目になっている。やけくそだ、遮二無二だ。
僧侶「わたしは!」
僧侶「あなたと幸せになりたいのです!」
自分が幸せになりたいのではなく。
俺を幸せにしたいのではなく。
両方のいいとこどり。
呼吸が止まる。思考が止まる。鼓動すら止まったのかもしれない。それはまさしく斜め上の発想で、振り返ってみればごくごく当然のことで。
世界平和を願っているこいつが、そう考えないはずはないのだ。
それはこいつの自己犠牲ではない。のだろう。恐らく。僧侶という少女は恐ろしく馬鹿だから、ただ犠牲になったりはしない。とにかく、どこまでも全てを幸せに、平和にすることだけを希求している。
貪欲な女だ。強欲な女だ。狭量な女だ。自分のために他人を蔑ろにするでなく、他人のために自分を蔑ろにするでなく、八方全てを丸く治めたがる。それは勿論、可能ならば最高かもしれない。しかし普通の人間は最高を得る前に諦めるものが大概で。
いや、そうだった。たった今考えたばかりではないか。
僧侶という少女は恐ろしく馬鹿なのだ。
蓋を開けてみれば簡単なことだった。単純極まりないことだった。
望む限りを得ようとすることを、俺はいつしかやめてしまっていた。
百人救うために出る一人の犠牲を、はなから許容してしまっている。
俺は確かに、こいつを幸せにしたいと思ったはずなのに。
傭兵「……俺、も」
だからこそ、俺の口からぽろりと、限りなく素直な言葉が零れ落ちるのである。
馬鹿さ加減に中てられて。
傭兵「お前と幸せになりたいんだが」
僧侶が不幸になるなんて耐えられない。
こいつは幸せになるべきなのだ。
それだけで俺は幸せになれるのだ。
僧侶「なら、『難題』なんてものはどこにもありゃしないんです。手と手を取り合って、いきましょう」
そして彼女はにこりと笑った。
これはまずい、と思った。俺の心中にあった感情のベールが取り払われて、俺は一瞬、その名前を直視してしまう。
行きましょう。
生きましょう。
あぁ、なんて美しい言葉だろう。僧侶ちゃんも、そんなきらきら輝いた笑顔なんか、見せ付けてくれちゃって。
この世に難題こそ多けれど、それを乗り越えるのが強い人間。いいものを見せてもらったよ。本当に、いいものを見せてもらった。
拍手喝采さぁ!
さすが人間社会! なんて素晴らしい、なぁんて素晴らしい、見世物小屋なんだろう!
難題は解けた。
夜は終わった。
だから、俺は僧侶の手をとれる。
――――――――――――
今回の投下はここまでです。
やりたい放題。
基本的にアルプの血筋は「愛」に負ける模様。
傭兵にとっての「難題」が取るに足らないものだというのは読者の方々には既知なんですが、
これは結果として「うじうじ悩む面倒くさい人間」なんでしょうかね
難題があるとつけこまれるって感じなのかなカグヤの能力は
>>301、302
カグヤの存在自体が思いつきの産物なので、大した設定はありませんが、
・「難題」(悩み)を抱く人間の思考と行動を歪ませる(本人は気づかない)
・「難題」の有無や、辛さ、苦しみなどをカグヤは見通せる
くらいの考えでいいと思います。
あとはまぁ、普通に千里眼とか使えそうですけど
※ ※ ※
あぁ。
あぁ。
あぁ。
たぁああああぁあのぉしぃいいいいいいいいっ!
と、おぞましい叫び声をあげながら、娼婦――四天王、カグヤの姿が部屋の隅へと顕現した。
一も二もない。俺はすかさず僧侶の腰から拳銃を奪い取ると、狙いを定めることすらなしにカグヤへと発砲する。
書棚の硝子が砕け、壁に弾痕がいくつもつく。カグヤにはヒットしていない。全ての弾丸はやつをすり抜けていった。
カグヤ「うっわ! うっわぁ! ちょっとちょっと、いきなり発砲って、それは人間のすることじゃないねぇ!」
傭兵「……幻影か」
よく見ればカグヤの姿はおぼろげである。俺が用いるような質量を持った幻影ではなく、より単純な映像の投影だった。カグヤ本体は遠く離れた場所で、幻影の眼を通してこちらを見ているのだろう。
腹立たしい。腹立たしすぎる。こんなやつに俺がいいように弄ばれたのだ。これに怒らずに、一体何に怒ればいいだろう。
僧侶への感謝は有り余る。いろいろ、大事な何かが大きく転換したような気はしたが、それはそれ。まずは目の前の悪鬼から身を守らなければならない。
僧侶を守らなければならない。
僧侶「まだやる気ですか、しつこいやつですね!」
鋭く睨みつける僧侶。カグヤとの因縁は、俺よりもこいつのほうがずっと深い。僧侶にここまで嫌悪させる何かがあるのだろう。
言葉を受けて、悪魔の羽が羽ばたき、金色の尾がうねる。戦闘態勢ではない。そもそも、実態のない幻影でこちらに攻撃を加えることはできない。
とはいえカグヤの十八番は精神攻撃。いやらしい相手だ。
うくく、とカグヤは含み笑いをこぼした。
カグヤ「やる気ィ? 冗談じゃないさ。じょーだんじゃないさぁ。満足したんだよ、アタシは」
満足、と確かに目の前の魔族は口にした。そして、先ほど、こいつとの戦いを説明した僧侶もまた同じ言葉を口にしたはずだ。「満足」。
なんとなくだが理解できた。理解してしまった。カグヤという四天王の真髄は、恐らく、厭世観に近いものなのだと。
カグヤ「魂の輝きってものを見せてもらって、それだけじゃあなく、愛の結実まで! いやぁ、凄い、凄いよ! さすが人間さぁ!」
そうして、にやりと笑う。
にぃんまり、と笑う。
怖気の走る笑みだった。
だめだ。
まず最初に生まれた感情がそれである。だめだ、だめだ、だめだ。嫌な予感としか表現できない、思わず息を呑んでしまうような逼迫感が、胸の奥から競りあがってくる。
こいつを野放しにしてはいけない。
ぎゅ、と繋いだ手から僧侶の緊張が伝わってくる。
カグヤ「こりゃあ他の人間も期待できるかな?」
そのフレーズが意味するところを、俺は一瞬、脳が受け付けない。
僧侶「カグヤァッ!」
先に動いたのは僧侶だった。怒号を発しながら、健在な右手で幻影を殴りつけようとするも、当然のように攻撃はすり抜けてしまう。
勢い余って壁をぶち抜いても僧侶の怒りは収まらない。すり抜ける幻影相手には胸倉を掴むことすらできないが、奥歯を噛み締めながら修羅の形相。もし殺意で他者を害せるならば、それだけでカグヤは死んでいるだろう。
僧侶「あなた、あなたはっ! わたしたちにだけじゃなく、こんなことを、まだ続けようとしやがるつもりですか!」
カグヤ「そうだよ」
うくく、とまたもカグヤは含み笑いをこぼした。
カグヤ「だって、楽しすぎるんだもの!」
愕然としている俺たちを尻目に、カグヤは限りない幸せを噛み締めながら、まるで歌うように叫ぶ。
カグヤ「人間って素敵! 絆って素晴らしい! 愛って最高! 見てみたい! あぁ! もっと! ずっと! 見ていたい!」
カグヤ「――だから、止めてね?」
きみたちの輝きを発揮して。
そう言い残して、幻影すらも掻き消えた。
どこまで一方的に、どこまでも自分勝手に、やりたいことだけをやって、言いたいことだけを言って、全てが終われば満足して。
四天王カグヤは、自己陶酔のままに、勝利を収めたのだった。
※ ※ ※
音を聞きつけてきた将校や兵士がやってきたのは、幻影が掻き消えてから数秒後のことである。掃除婦と将校が退室してから僅か五分程度の間に、一体何があったのか。それを説明すると将校は顔を真っ青にして頷いた。
将校「わかりました。至急各国に伝令を」
傭兵「あぁ、頼んだ」
将校「掃除婦さんの脚のお礼をあいつにはしなきゃいけませんから」
そうは言うものの、実際あいつの脚をぶった切ったのは俺なのである。
犠牲は少ないほうがいいに決まっている。ある種当然のことを思い出した俺にとって、その事実はやはり俺に重くのしかかっては来るが、将校も掃除婦も敵とそうでないものをはっきり区別している。俺の謝罪など求めてはいるまい。
ただ俺が謝りたいだけだ。
すまないと。
お前の人生を奪ってしまって、悪かったと。
将校が俺の眼を見て驚いた顔をしていた。なんだ、幽霊でも見つけた顔しやがって。俺は確かに死線を何度も潜り抜けてはいるが一度だって死んだことは――いや、一度だけあるか。
傭兵「なんだ」
将校「……いえ。私は嬉しく思います。では、失礼します」
追加の質問の余地を与えてはくれなかった。将校は兵隊たちを引き連れ、足早に部屋を後にする。
なんだってんだ、本当に。
僧侶「……傭兵さん」
不安そうな顔の僧侶。気持ちはわかる。
傭兵「……俺も最悪な気分だ」
あいつはやる。必ずやる。間違いなくやる。
なぜなら「そういう生き物」だから。
人間が呼吸をするように、食事をするように、何の疑問も持たずに惨事を引き起こせる。絆や愛や、そういったものの輝きを見るために、躊躇なく他人を不幸にできる。
僧侶「信じましょう、と言い切るのは、難しいかもしれません」
人間誰しも苦難や困難を抱えているものだ。やつはその心の弱さにつけこみ、かどわかし、破滅へ導こうとする。それを打ち砕くのが恐らく愛や絆というやつで、カグヤはそれが見たいのだ。
なんというマッチポンプ。嘯き放題ではないか。
傭兵「愛、絆、か」
であるならば、これもまた大天狗とは違った形での、大きな戦いということになるのだろう。
前回は脆弱な大勢が、強大な個に立ち向かった。今回はその逆。強大な個に対して、俺たちがいかに強大であり続けることができるか。そこが白眉となる。
僧侶「カグヤは言っていました。自分だけが人間の社会性を理解できる。だから、自分だけが人間の天敵足り得る、と」
それは確かに事実である。強さという点において、カグヤは大天狗の後塵を拝すのかもしれないが、厄介さで言えば同等かそれ以上だ。
僧侶「でも、わたしはやっぱり、信じたいです。何度難題に直面しても、性悪なあいつが捏造した試練だとしても、必ず乗り越えられるって」
僧侶らしい物言いだった。こいつは人間を信じている。期待している。何度裏切られても、何度利用されても、それを曲げない。
強情な女なのだ。
そしてその強情さに俺は助けられたのだ。
傭兵「……」
僧侶「……傭兵さん?」
いまさら。
いまさら、恥ずかしくなってきた。
先ほどのやり取りが脳裏に蘇ってくる。幸せにするだとか、幸せになりたいだとか、そんな歯の浮くような言葉を言ったのは俺自身なのだが、だが、だが!
そして何よりの問題は、あれがまるきり俺の本心だということなのだ!
僧侶「どうしました?」
きょとんとした様子でこちらを窺ってくる僧侶。お互いベッドから立ち上がっていて、頭一つぶんの身長差があるため、必然的にこちらを見上げる形になる。
思わず後ろへ下がってしまった。こいつとの付き合いもそれなりになるが、そういえば、まじまじと顔を直視した記憶など殆どない。水色の髪の毛が艶めいているのは知っているが、逆に言えばそれくらいで。
二重だとか、白い肌だとか、薄い唇だとか、そういうのは。
傭兵「く」
意識するとよくない。けれど、意識するな意識するな意識するなと念じれば念じるだけ、感覚は全て僧侶に向けられていく。
わかっている。わかっているから落ち着くのだ俺よ。最早わかってしまっただろうお前は。ベールが剥がれた一瞬、その奥に隠されていたものの正体を、それに刻まれた名前を、お前は見てしまったじゃないか!
だから落ち着け、頼むから落ち着いてくれ。
僧侶「傭兵さん?」
心臓がうるさい。なんだこれは。まるで童貞じゃないか。くそ。情けないったらありゃしない。
僧侶「なんでそんな顔赤くなって……」
僧侶「あ」
何かに気づいた僧侶は俺に近づくのを一旦停止して、息を呑むのと同時に顔を真っ赤に染め上げる。
僧侶「あ、あ、あ……っ!」
声にならない声。俺を指差して、じわじわと目に涙を溜め始めている。
傭兵「あ、いや、その!」
僧侶「はい!」
傭兵「だから!」
僧侶「はい!」
まるで会話になっていない。お互い慌てふためいて、よくわからない言葉の応酬だった。
傭兵「さっきは、違くて! いや、違わねぇけど!」
僧侶「はい!」
傭兵「その、幸せだとか、幸せにするとか、いやそもそも幸せってなんだ? 俺はよくわかんねぇけど、あれだ、なんだ、つまり、うん、こう、胸にこみ上げてくるっていうか? なぁ、わかるだろ?」
僧侶「ぜんっぜんわかんないです!」
すっごいきらきらした笑顔で言う僧侶だった。
嬉しそうで、でも泣きそうで。
幸せそうで。
あぁ、俺はこいつのこの顔が心底好きなのだ。
傭兵「……なぁ」
僧侶「はい!」
傭兵「――俺と一緒に幸せになる気はねぇか」
言い終わるか終わらないかというあたりで、僧侶の小柄な体が、そのまますっぽり俺の体に収まってくる。
手を背中に回された。俺も僧侶の頭に手をやる。
僧侶「はい!」
―――――――――――――――
今回の投下はここまでです。
ここまでといっても、殆どハッピーエンドみたいな感じです。
神様が降りてこない限り、次回がラストになる予感。
よろしくお願いします。
作者です
現在プライベートが立て込んでおり、書く時間がまとまってとれません
年内には投下したいと思いますが、もう少々お待ちください
※ ※ ※
さて、どうしたものか、と俺は思った。
僧侶との待ち合わせ時間まで三十分ある。これでも充分余裕を持ったはずだ。
正午に広場の噴水の前という、ある種凡庸とも陳腐ともとれる待ち合わせ。俺も僧侶も、そういったものにとんと縁がなかったから、安直なくらいが寧ろちょうどよかった。
将校をはじめとしたPMCのやつらにそれとなく尋ねてみたところ、やはり女性を待たせるのはNGということで、かなり早めに基地を出たはずなのだが……。
傭兵「なんであいついやがるんだ」
僧侶は噴水の前で落ち着かなさそうに辺りを窺っていた。
思わず俺は身を隠してしまっている。
ちらりと見えたあいつの姿はいつもの僧衣とは全く異なっていて、薄い桃色のタンクトップの上から大きく胸元が開いた七分袖のカットソー、デニムにかかとの高いパンプスといった風であった。
まるで年齢相応の少女のような格好に、思わず面食らってしまったのだ。
メモ帳を見た。こちとら物心ついたときから剣を振って魔物を殺してきたのだ。上手な戦い方、殺し方しか知らぬ俺に、当然エスコートの知識があるはずもない。そのための予習をしてはきたのだが。
傭兵「出鼻を挫かれたな」
こちらより早くこられたときの対応などどこにも書いていなかった。
傭兵「……」
めんどうくせぇ。
だんだん冷静になってきた。
俺は何をやっているのだ、僧侶相手だぞ。恋仲になったとはいえ、あいつはあいつだ。そしてあいつと俺は数年の付き合いがある。一緒に旅もして、ある程度のことならつーかーの仲。何を恐れる必要があるのか。
メモ帳を放り投げ、大股で僧侶の方へと歩き出した。
僧侶「あ、よ、うへいさん!」
一瞬舌を縺れさせる僧侶だった。
傭兵「早いな。待たせたか」
僧侶「あ、いえ、わたしも今きたばっかりでしゅ」
……噛んだな。
俺は最早突っ込むのも馬鹿らしくなって、いまいるボスクゥの歓楽街、その案内看板へと視線をやる。
図書館や劇場、美術館といった方面へ行くか、それとも飲食店の通りへ行くか……正午という時間帯から考えれば、まず腹ごしらえしていくのが常道なのだろうが。
傭兵「飯は食ってきたか?」
僧侶「まだです。傭兵さんは」
傭兵「俺もだ。じゃあ、決まりだな」
といっても、どこに入るか。場所を書いたメモ帳は投げ捨ててしまった。それでいいのだと思ってはいたが、いざこの段になって、出所のわからない不安が押し寄せてくる。
まさか昼間から、しかもデートという名目上で、酒場はあるまい。なら喫茶店に入るべきか。だがきちんとした食事が出てくるのだろうか。値段は。相場は。そもそも僧侶は金を持っているのか?
途端に固まった俺に対し、僧侶は不思議そうな目を向けている。
僧侶「どうしましたか」
傭兵「なんでもぬぇよ」
噛んだ。
僧侶が何か言おうとしたのを意識的に無視して、俺は飲食店の並ぶ通りへ歩き出す。とりあえず歩き出そう。とりあえず行こう。そうすればなんとかなる。はずだ。
僧侶「あぁもう、待ってくださいよぉ! そんな大股でっ」
大股だと? そんなつもりは毛頭ないのだが。
気持ち一歩を小さくすると、ようやく僧侶は俺に追いついた。パンプスは歩きにくいのか、俺の腕を掴んで息を切らしている。
柔らかな手のひらだった。
香水でもつけているのか、甘い花のような香りもする。
振りほどこうという気などなかったのに、どちらともなく赤面して、接触はものの一瞬で終わった。僧侶が「ご、ごめんなさい」と何に対してだかわからない謝罪をしてくるので、俺も不覚のうちに「気にするな」と返してしまう。
傭兵「そ、それにしても、結構人ごみだな」
僧侶「そうですねっ」
はぐれそうなほど、とまではいかないが、様々な人種がごった煮になった目抜き通りは真っ直ぐ歩けそうにない。
こういうときこそ手を繋ぐべきなのだろうが、今まで散々無意識で行えたはずの行為が、どうして今はこんなにも難しいのかわからなかった。
僧侶「……」
傭兵「……」
そうして無言である。カグヤの襲来から早数ヶ月が経過し、久しぶりに出会えたというのに。
話題は俺たちの間に山積しているはず。それでも言葉が出てこないのだから、情けない。
「元気だったか」でも「いい天気だな」でも「何が食べたい」でも、何でもいいから訊くのだ。ほら、訊けったら!
傭兵「……プランクィはどうだ」
搾り出せた言葉が、話題が、なぜこんな真面目くさったものなのか。俺自身まったく理解できない代物である。どうにも頭と体の遣い方が、デートと殺し合いでは別のようだ。
◇ ◇ ◇
「……あの馬鹿ひっぱたいてきますわ」
「やめてください! いえ、本当に!」
「将校さん、どうしてあなたがいらっしゃるのかしら。これは私の楽しみ。私だけの娯楽ですの。邪魔しないでくださる?」
「三十路も近づいてきている男の初デートなんてなかなか見られるもんじゃありません。それに、車椅子の女性が一人で街中にいるというのも、少々危なっかしい」
「自分のことくらい自分でできますわ」
「魔法が使えなくなったということを、少しは気にしていただきたいものです」
「役立たずだと、そう仰るのかしら?」
「どうして悪い方向に解釈するのか……ほら、二人が曲がりましたよ」
「右ですか?」
「左です」
「そう。早く追いかけましょう。傭兵様はまさしくクソバカなようでございますから」
「大変ですね」
「そう思うならもう少し押すのを上手になってくださいまし」
「ヤー」
「言っている傍から轍を踏まないでください。あぁほら、見失ってしまいますわ」
* * *
僧侶「まぁまぁ、ってところです。山場というか、峠というか……」
わたしは傭兵さんの問いに、曖昧ですがそう答えました。
あぁ、やっぱりわたしはだめなのです。おぼこなのです。緊張しぃなのです。
それともこれが普通なのでしょうか? 傭兵さんが隣にいて、一緒に歩いているだけなのに、地から脚が浮いてしまいそうになるのは。
わたしの歩幅にあわせて歩いてくれているだけで、どうしようもなく顔がにやけてしまうのは。
まともに会話なんかできるはずありません。まともな会話なんかできるはずありません。
だから、つまるところ、傭兵さんの今の話題振りはまともなそれではないのでしょう。それでも頭がぐるぐる回って巡って混乱しての無言よりは幾分かましに違いないです。
きっと、たぶん。
僧侶「やっぱり、難しいです。不満は出てきます。どうしたって。結果の平等を与えるってのは、換言すれば、わたしたちが下駄を履かせてるってことなんですから」
なんであいつだけ贔屓するのだ、となるのは自然なことです。
頑張らなくてもいいのなら、頑張らなくてもいいやとなるのだって。
僧侶「でも、それでも」
わたしは、人間の善性に賭けたいのです。
お金などなくても、人は誰かのために、みんなのために、全体のために、頑張れるということを。
ちらりと見た傭兵さんの顔は「やっちまった」と雄弁に語っていました。誰も見ていなければ額に手さえやっていたかもしれません。
だからわたしは、自らの心に落ちた影を拭い去るかのように、意識的に声を出して笑いました。ふふ、と。
それに気づいた傭兵さんは、逆に間の抜けた顔をします。いつもは切っ先のように鋭いその顔も、今はおとぼけな人のそれです。
僧侶「お腹空きましたね」
傭兵「ん。あぁ、そうだな」
僧侶「お勧めのお店とかあります?」
傭兵「はぁ? お勧めぇ?」
普段なら「俺に何を期待してんだ、ばか」くらいは言ってきそうなものですが、傭兵さんは眉間に皺を寄せて、必死に何かを思い出そうとしていました。
まさか、この人、雑誌でも読んで知識を入れてきたのでしょうか?
面白すぎます。
似合わない。
笑いがこみ上げてきました。同時に、笑みも。
それは似ているようで決定的に異なるものです。言葉遊びではありません。なぜなら、わたしは確かに嬉しいのですから、これが字面を弄くって得られるものでないのは明らかでした。
付け焼刃でも、この日のために準備をしてくれたということが嬉しい。
わたしのことを意識してくれたということが楽しい。
これが笑みでなくて一体なんだというのでしょうか。
僧侶「傭兵さんと一緒なら、どこだっていいんですけどね」
あえて聞こえるように言ってみました。
耳まで赤くしちゃって、傭兵さんはぷいとそっぽを向いちゃいました。
◇ ◇ ◇
「僧侶様のほうが一枚以上上手のようですわ」
「すっごい幸せそうな顔してますね」
「当然でございます。好きな殿方には甘えたくなるものです」
「まるで経験談のようなことを言いますね」
「無論。私は身も心も州総督様に捧げておりますから」
「もし二人が喫茶店に入ったらどうします? 周囲の店に入ります?」
「それこそ無論ですわ。片時も目を離すわけにはいきません」
「掃除婦さんは何が食べたいですか?」
「何でも構いません。腐っていなければ。そういった類は食べ飽きました」
「あ、二人が店に入りますね。レストラン……ちょうどはす向かいに喫茶店があります。あそこでも?」
「私はBLTサンドをお願いいたします。ほら、早く押してくださいまし。……だから、轍を踏まないでくださいといっているでしょうっ」
※ ※ ※
味がぜんぜんわからねぇ。
◇ ◇ ◇
「ここは僕が支払いますよ」
「馬鹿を仰らないでください。そんな義理はありません」
「男が奢るというのが甲斐性ですから」
「そんなもの見たくは……ほら、二人が出発してしまいますっ」
「僕が払っちゃいますよ?」
「あぁもう、勝手にしてください!」
* * *
とってもおいしい昼食でした。
難しい顔して、のそのそ食べる傭兵さんの顔を見ながらでも、ご飯は進むものなんですね。
なんて。
結局、わたしが一方的に喋るだけで昼食は終わってしまいました。傭兵さんはわたしの話を聞いてはいるのでしょうが、生返事ばかりで、楽しそうな気配が微塵もありません。
いえ、楽しくないはずはないのです。そう自信をもって断言できます。勿論希望的観測がたっぷり籠められていますが、だって、数ヶ月ぶりに会ったのに早速倦怠期だなんて、そんなのってない!
お昼の後はウィンドウショッピング、というやつです。とはいえウィンドウとは名ばかりで、実際は麻布の上に広げられた商品を眺めているのですが。
そう、飲食店のゾーンを過ぎれば、そこは露天商のエリア。宝石細工からよくわからない西方の木彫り人形まで、多種多様な雑貨が犇きあっています。
わたしも立場上、装飾品の一つや二つは持っていなければ社交の場に赴けないのですが、その按配が実に難しいのです。あまり高級なものを所持していれば、それだけで不平等の象徴ともなりうるのですから。
傭兵「……本当にそんなんでいいのか」
だから、こんなんでいいんですよ。
にんまりと笑って、それを肯定の返事として見せます。
わたしの手の中には小さな紙袋に入った、これまた小さな硝子のイミテーションがついた、銀メッキの指輪がありました。
守銭奴の傭兵さんのことです。もっと大きな、しかも本物のダイヤがついた指輪だって難なく買えるだけ溜め込んでいるのでしょうが、もちろんそんな高級品をねだるわけにはいきません。ねだる気もさらさらありませんが。
いいんです。物より思い出、というじゃあありませんか。
傭兵「……」
傭兵さんの手の甲と、わたしの手の甲が触れ合って、自然と指が絡まります。
どちらともなく、それこそ本当に、自然に。
傭兵さんはまた耳まで真っ赤にしてそっぽを向いていました。ですが、今度はわたしも笑うわけにはいきません。きっとわたしだって同じようになっているでしょうから。
それでも笑みはこぼれてしまいます。こればっかりはどうにもならない。
人ごみの中だって、手を繋いでいれば平気なのです。
人生のように寄り添っていけるはず。
「どういう了見だ、てめぇ!」
と、人ごみの中から唐突に怒声が響き渡りました。野太い男の人の声。
掻き分け掻き分け顔だけ覗かせれば、露天商の主人が観光客らしき老夫婦に大声で怒鳴りあげているのが見えます。
老父「い、いや、ワシらはなにも……」
老婦「そうよ、持った途端に割れて……」
露天商「あぁん? じゃあなんだってんだい、うちの商品が勝手に割れたと、おんぼろの商品だったと、そう言うのかいあんたらは!」
老父「そこまでは……」
露天商「そう言ってるんだよ! 弁償してもらおうか、商品代と迷惑料、合わせて五百万!」
老婦人の足元には割れた壷が転がっています。確かに、一見すると頑丈そうな壷で、落としたりでもしない限り割れそうにも見えませんが……。
僧侶「傭兵さ……――ん?」
至極楽しそうな笑みを浮かべている傭兵さんがそこにはいました。
傭兵「俺が代わりに払おう」
人ごみが一気に引いていきます。誰も彼もが傭兵さんの顔を見て、周囲の知り合いと小声で言葉を交わし、一歩、二歩、後ずさるのです。
すぐに周囲から人は消え、遠巻きにわたしたちを見守る人垣が出来上がります。
……どんだけ警戒されてるんですか、この人。
いえ、寧ろ一番可哀想だったのは、露天商の主人です。最初は傭兵さんを訝っていた彼も、目の前にいる人物の正体に気がつくと、愕然とした顔で大量の汗を垂れ流し始めます。
露天商「い、いぃえぇ、あなた様のお手を煩わせるようなことでも……」
あからさまな猫なで声でした。しかしそれに気分をよくしたのか、傭兵さんは畳み掛けるように一歩踏み出します。
傭兵「遠慮するな。その五百万だったな。支払おう。だが、悪いが今は持ち合わせがないんだ。多少上乗せするから、俺の軍の駐屯地まで来ることはできるか?」
露天商「あ、あのですね」
傭兵「それともなんだ。まさかその壷、五百万ってのが嘘ってわけじゃあ、ねぇよなぁ?」
露天商「そ、んな、あはは」
傭兵「全国的に似た手口の詐欺が増えてるらしいが、お前、それと関係あるわけじゃあ、ねぇよなぁああああああああぁ……?」
「そこまでです、傭兵様」
「あとは僕たちが引き継ぎましょう」
聞き覚えのある声に後ろを向けば、車椅子に乗った掃除婦さんと、それを押す将校さんの姿がありました。
傭兵「……お前ら、なにやってんだ?」
掃除婦「そんなことはどうでもいいのですよ、傭兵様。今はその男から絞りと、いえ、弁償することが第一義ではありませんか?」
将校「そのとおりです。ボスは折角の休日を、こんなことに費やすべきではありません。僧侶様とごゆっくりお楽しみください」
「それでは」と二人は完璧な敬礼を見せ、露天商を前後に挟んで連行していきました。露天商の後姿といったら、えもいわれぬ哀愁を漂わせています。
僧侶「……?」
そして、わたしは確かに見ました。掃除婦さんの胸に、小さいですが、確かな輝きのネックレスがつけられているのを。
珍しいこともあるものです。さきほど同じものを、そこの露天で売っているのをみたばかりなのですから。
傭兵「なんだったんだ……?」
それはわたしが聞きたいくらいです。
※ ※ ※
ごたごたはあったけれど、そんなことはまるでお構いなしに、太陽は落ちる。夜の帳も下りていく。
劇場で芝居を見た帰り、とっぷりと日も暮れだいぶん涼しくなった道を、俺たちはのんびりと歩いていく。
握った僧侶の手は小さいが、暖かい。
それは勇敢の証なのだと俺は思った。いつか必ず訪れる、手を離す瞬間を恐れない強さの証明なのだ。
僧侶が冗談を言った。あまりにもつまらない冗談だった。つまらなさすぎて言葉を話すのも躊躇われたので、少しだけ手をぎゅっと握ってやった。すると僧侶もはにかみながら握り返してくる。ぎゅ、ぎゅっと。
こいつがボスクゥに宿泊しているのは知っている。まっすぐ帰れば、きっと三十分はかかるまい。ただ、夜は長い。まだまだ今日に余裕はある。
俺もこいつも、それを理解している。
楽しいことは一瞬で過ぎ去ってしまうものだ。もしこの世に本当に神がいるのなら、随分と性悪なものだろう。
僧侶が俺の名前を読んだ。ただそれだけのことなのに、どこかがむず痒くなって、俺はにやけてしまう。そしてにやけながらも言葉を返す。なんだよ、と。
好きです、と言われた。知ってる、と返す。知られてた、と笑われる。そりゃそうだ、と同じく笑って見せた。笑うのも、今日一日でかなりさまになってきたと、自分で思う。
傭兵「十も離れたこんな男のどこがいいんだか」
僧侶「再来月でわたし、二十ですから、九つ違いになりますよ」
傭兵「半年後にはまた戻る」
僧侶「おじいちゃんおばあちゃんになったらどうでもよくなります」
傭兵「そんなもんかね」
僧侶「そんなもんです」
六十の僧侶と、七十の俺を想像してみようとしたが、うまくいかなかった。
恐らく、こいつと俺とは根源こそ同じだが、その発露が、発芽が、致命的に違っている。
違ってしまっている。
それが一から十まで不幸なことなのか、それとも、ほんの僅か、手のひらに残った砂くらいには幸せなことなのか、俺には判断がつかないでいた。
僧侶「また難しいこと考えてますねぇ」
ぴしゃりと言い当てられた。それが少しだけ癪で、じゃあお前はどうなんだよ、といってしまう。
僧侶はけれどそんな俺の反応を予測していたようで、それもまた癪だった。まさかこいつのほうが俺より上手なのだなどと思いたくはない。
ない胸をそらしながら、僧侶は子供に秘密基地を教えるような顔でこう言うのだった。
僧侶「信じるのです」
そういえば、こいつは僧侶だったな。
神を、ということではなく、恐らく、人を。
誰かを。自分を。
そうして、強く、強く、生きていかなくてはならないのだ。
金を稼いで。
金に頼ることなく。
僧侶「わたしはあなたを信頼して、ここまで来れたんですから」
傭兵「……そうか」
なら、今度は。
傭兵「俺がお前を信頼する番だな」
僧侶「はい」
僧侶が立ち止まった。あわせて俺も立ち止まる。
目の前には宿があった。ここが僧侶の泊まっている宿なのだということは、容易く想像がついた。
かなり、遠回りをしてきたつもり、だったのだが。
僧侶「……」
傭兵「……」
流石に、ここで一歩を踏み出すのは、男の役目だろう。
幸い、まだまだ夜は長いのだ。
END
―――――――――――――
ストーリーなんてどうでもよかったんです。
ただ、キャラ萌え小説が書きたかっただけなんです。
そうでした。これが、この長く続いた物語の源泉なのでした。
これでおしまいです。読者の方々にはお礼を言っても言い足りません。
本当にありがとうございました。
次回作は「陣内崎市の戦略核」という題名で予定しております。
ただ、ここでやるかは不明。形式がびみょいですので。
とりあえず、スレが落ちた二作品を完結させることを優先させるつもり。
そちらもよろしくお願いします。
html化依頼出し忘れていたので出してきます。
次回作、「陣内崎市の戦略核」についてですが、スレとpixiv、能力が追いつけばtwitterそれぞれで展開していきたいと考えています。
朝鮮戦争とベトナム戦争が起きなかった代わりに、代理戦争が北海道は札幌市で起きた世界。
ロシアンマフィア、華僑、在日米軍、そして「能力者」が跋扈する魔都と化した札幌市は、
陣内崎と名を変えて、上空三キロメートルに、今日も戦略核を漂わせている。
そんな都市を舞台に、探偵だとか、傷病兵だとか、アイヌのお姫様だとか、裏の組織だとかが騒動を起こす話を書きたいです。
もし見かけましたらよろしくお願いします。
次回作楽しみにしてる。乙!
>>373
次回作はもうスレ立っております。よろしくければどうぞ。
このSSまとめへのコメント
掃除婦hshs支援でやんす
このシリーズ超面白かった!
やばい笑笑あした学校なのに起きられないよぉぉぉ!!最高すぎる笑久しぶりにいいssに出会えた!感動をありがとう!
数年前に読んだこの作品が忘れられなくて探して一夜で完走した。