魔法使い「勇者がどうして『雷』を使えるか、知ってる?」 (225)

このスレは、
魔王「世界の半分はやらぬが、淫魔の国をくれてやろう」

の後日談&前日譚少しです

※R-18描写は今回ありません

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1369148458

魔王の城を望む丘の上で、恐らく最後となる野営を行っていた。
禍々しい沼地の中心に聳える魔の居城は、ただ見ているだけでも正気を蝕まれるようだ。

空を貫くように伸びた無数の尖塔。
夜だというのにその上をなおも飛び続ける、鳥型の低級な魔物の群れ。
城門を正面から望めば、それ自体が、恐ろしい魔物の固く閉じた顎門にさえ見える。
不知火の如く沼地を彷徨う蒼白の鬼火は、その数を決して減らさない。。
奇妙にねじれた点在する木々はぎしぎしと揺れて、絞首台の縄にも似た音が、遠く離れたここにさえ聞こえてきた。


勇者「とうとう、ここまで来たんだな」

遥か前方にある城を見据えて呟けば、ふたつの声が、となりから返ってきた。
ひとつは、魔王城を前にしてなお気楽で、弾けるように快活な。
もうひとつは、細く静かだが、笛の音のようにすぅっと耳に飛び込む、穏やかな。

魔法使い「はいはい、来ちゃったわよ。あーあ……旅も終わり。ふかふかのベッドで眠れるのね、明日から」

僧侶「ええ。ようやく……世界を取り戻せますね」


戦士「……魔法使い、さっさと火をよこせ。飯の支度をするぞ」

後ろから聞こえた声は、低く太い、若干しゃがれた男のものだった。

勇者「……長かったな」

木から削り出した不格好な器に口をつけてから、火を囲んで座る仲間へと語りかける。
なけなしの干し肉と野菜の残りで作り、ささやかな塩で調えたスープは、まるで舌を試しているかのように薄味だった。

戦士「まだだ。真の戦いは、『これから』だろう?」

彼はそんなスープを構わず飲み下して空にし、おかわりのもう一杯を器に取った。
顔を横切る魚骨のような傷と浅黒い肌が特徴的な男だ。
食事の最中にあってもその耳と鼻、そして肉体は周囲を警戒し続けていた。

一度だけ、この男を見ていて、面白い事があった。
それは、テントで眠っていた時……彼の近くに、蜂が飛び込んできたのだ。
追い払おうと、または起こそうかと逡巡したところ——彼は一瞬で、この蜂を二本の指で挟み、潰してしまった。

眠っていようとも、彼の研ぎ澄まされた神経は働いていた。

勇者「…ところで、僧侶は? 魔法使いも……」

戦士「ああ……馬を、元の場所へ帰しに行ってるよ」

勇者「もう、馬車は必要ないものな」

戦士「馬屋のおやじも驚くだろう。馬車と馬が、気付いたら帰ってきてるんだ」

勇者「馬に別れを告げなくていいのか?」

戦士「ガラじゃない。お前はどうなんだ?」

勇者「……多分、泣いてしまうから遠慮するよ」

戦士「泣き虫の勇者様か。そんなので魔王と戦えるのか?」

勇者「やれるさ。……みんなとなら、やれる」

野営地から少し離れた森の中、泉のほとりに二頭立ての馬車が停まり、馬は索具を解かれて、水を飲んでいた。
魔王の居城のすぐそばにあるというのにその泉は冷たく透き通り、昼であれば水底の魚影までも見て取れた。
まるで自然界が魔王の力に抗おうとしているかのように。
もしくは、魔王自身が————自らに挑む者への、最後の『休息地』として用意したかのようにも見えた。
二頭の馬は聞き慣れた足音がふたつ近づいてくると耳をそばだて、水面から口を離し、振り返る。

僧侶「……長い旅でしたね。ここまで連れてきてくれて、ありがとう」

二頭の馬は、蹄を打ち慣らして僧侶へ近づき、その顔を寄せる。
彼女は二頭の「仲間」の首を抱き締め、目を閉じた。

魔法使い「……感動のシーンなんだろうけど、なんで私には寄ってこないかなぁ?」

一歩離れてその様子を眺めていた魔法使いが、不満を口にする。

魔法使い「まぁ、いいけどさ。……つらくなっちゃうし」

僧侶「……転移の呪文をお願いします、魔法使いさん」

魔法使い「はいはい。……で、目的地は……あんたの国の、馬屋でいいのね?」

僧侶「はい」

転移の呪文を施すべく、一歩前に出た魔法使いの顔を、馬が一なめした。
くすぐったさ、照れ臭さは感じても——不思議に、唾液の臭いも気にならず、不快感は起こらない。

魔法使い「ったくもう。今さらコビ売っても遅いわよ。ほら、さっさと帰っちゃいなさい」

杖に魔力を込め、一振りする。
たった、それだけの動作で————二頭の『仲間』とその馬車は、目の前からいなくなっていた。
蹄跡と轍、そして草の上に落ちた数本のたてがみを除いて、もはや名残は無い。

魔法使い「さ、終わった終わった。……戻って、『最後の晩餐』にしましょ」

僧侶「『最後』ではありません」

魔法使い「そーね。『最後かも知れない晩餐』にしときましょっか」

僧侶「…………」

後ろ向きな軽口は、恐怖を誤魔化すのにはうってつけだ。
真剣に受け止めないようにすれば、心は絶望に凍りつくことは無い。
それは、『覚悟』を遠ざける振る舞いだった。

彼女も、僧侶も、ただ、実感してしまった。
もはや、引き返す手段はない。
手持ちの食料も、今日の夕餉と、明日の朝を残して全て食べつくす。
残るのは旅の道具と武器と、そして身一つ。

城へ乗り込み、並み居る城主の配下と干戈を交えて斬り進む。
最後の戦いのそのまた最後、玉座の間にいる者の名は————。

何度も反復しても、未だその名の怖ろしさは薄れない。
今、この場で呟いてしまえば、心が折れてしまいそうだった。

もはや匂いさえも届く距離に、『それ』がいるのだから。

僧侶「……魔法使いさん?」

魔法使い「え?」

僧侶「大丈夫ですか? いえ。『城』が目の前にあるのに……『大丈夫』なはずが……」

魔法使い「あははっ……何言ってんの。あんたこそどうなのよ?」

とんがり帽子の端をぐい、と引下げ、目元を隠すようにしてから彼女は笑い飛ばす。
目は、無意識に深く心を映す、磨き抜かれた鏡そのものだから。
どんな一流の詐術を身に着けていたとしても、目に映る心だけは隠せない。
魔法使いの様子を見てとり、僧侶は、少しだけ逡巡してから……答えた。

僧侶「……怖いです」

意外にも、彼女はきっぱりとそう言った。
恐怖を乗り越える手段の中でも————口にして認めてしまう事に、勝るものはそうない。
誤魔化すのではなく、彼女は、自らの弱さをことさらに強く、露呈させた。

僧侶「でも……だからこそ、私達はここに来た。……世界中の人々に、こんな思いをもうさせないため、に」

一息に言い切る事に、僧侶はつまづいた。
震える喉が最後の最後、弱音を吐きたがってしまって————息を呑んだ。
そんな彼女の精一杯の奮起を微笑ましく見て、魔法使いは、再び帽子の端を指先で摘む。

魔法使い「あんたって、弱いくせにガンコよねぇ。まぁ、……伝わったけどね?」

僧侶「……もう、戻りましょうよ。ほら、ここまで……いい匂いが」

魔法使い「あ、そうだったわ。……ってかあいつら、もう食べてない!?」

僧侶「えっ?」

煮炊きの香りと木々のざわめく音に紛れて、男二人の談笑が聴こえる。
聞き慣れた、調理鍋をかき混ぜ、掬い取る音まで聴こえた。
恐らく、今の動作音は————勇者のものだろう。
音が少しだけ、控え目だった。

魔法使い「ちょっとぉ! 何、先に食ってんのよ! ありえないでしょ!?」

ずかずかと引き返していく魔法使いに、僧侶は密かに安堵しながら追従する。
魔法使いの調子が、戻った事に。
そして————こんな『魔王』を前にした晩餐も、いつもと変わりはしないのだと。
ざわめきが、すっかり取れてしまった。

決戦前夜の非日常の中だからこそ、そんな一コマの『日常』が、潤いをくれる。
『日常』が、力をくれる。

僧侶「……勝てます。絶対に」

心に沁み込ませるように、静かに口にする。
その言霊は、魂の震えに楔を打ってくれた。

二人は野営に戻り、先の男二人と合流してささやかな夕食へありつく。
塩気のほとんどないクズ野菜のスープに、硬く締まった干し肉、固くて水気の無いパン。
そんな、貧しくて笑えそうなほどの夕食が————とても、美味しく感じた。

皆が寝静まった頃、勇者は火の番をしながら、魔王の城を見ていた。
二つある天幕の内、ひとつは僧侶と魔法使い。もう一つは、戦士と勇者のものだ。
もう少しもすれば、魔法使いと番は交代になる。

勇者「…………旅が、終わるな」

呟いたように……ここで、全てが終わる。
魔王の世界征服の野望も。
恐怖の時代も。
そして————勇者とその仲間が辿ってきた、救世の旅も。

魔王の城は、禍々しく、しかも寝息を立てるように揺れ動いているようにも見える。
もしもあの城に『生命』が宿っていると言われても、驚く者などいないだろう。
『魔王』の居城に、人間界の貧弱な常識など当てはめようもない。

勇者は、ただ城を見ているのでは、無かった。
見ていればいるだけ————同時にあちらからも、視線を感じる。
魔王は、見ている。
最後の休息を取る勇者一行を、魔王は間違いなく見ている。

不思議な程に、心は穏やかだった。
在るべき場所へとやって来たかのように、故郷へ戻ったかのように。

『勇者という存在』の故郷であり舞台は、いつの世も、『魔王』の眼前だ。
そこで全てが始まり、全てが終わり、全てが再び動き出す。
数千年に一人の演者のために用意された演壇が、そこにはある。

勇者「……待たせたな。魔王」

魔王が嘲笑するのを、遥か彼方で感じ取り。
その大気の揺れが、伝播したかのように————勇者の口の端も、緩んだ。

魔法使い「…………今、何時……?」

その時、天幕の一つから、魔法使いがのそのそと出てきた。
毛布を羽織ったまま、いつもの帽子を寝乱れた頭にかぶって。
声は、眠っていたようには聞こえない。

勇者「あと……三十分だ。交代まで」

時を告げると、そのまま、彼女は火の前に歩いて来て立ち尽くした。
怪訝に思って勇者が見ると、彼女は唇を動かそうと試みているようだった。

勇者「座るか?」

魔法使い「……うん」

椅子代わりにしていた大きめの切り株から立ち上がり、彼女に譲って切り株の横に立つ。
だが、返事までしたのに彼女は、そうする気配が無い。
少し間をおいて、ようやく座るが、その手が勇者のマントの裾をきゅっと掴んだ。

魔法使い「……なんで立ってんのよ、バカじゃないの」

勇者「え?」

魔法使い「と、隣座れって……言ってんでしょ」

勇者「いや、今初めて聞い————」

魔法使い「いいから座んなさいっつってんのよ!」

勇者「…………分かったよ。その前に、ほら」

木製のカップに、火にかけられていた鍋から飲み物を注いで魔法使いに手渡す。
次いで自分の分も入れると、ようやく、『魔法使い』と『勇者』は切り株の上に肩を寄せ合う。
二人で座る分のスペースは無いかとも思ったが、意外にも、座ってみれば気にならなかった。

魔法使い「……お湯じゃん、これ」

飲み物を一口すすった魔法使いが、僅かに口をとがらせる。
香りなどなく、塩味も甘味もあるはずもない『湯』だった。
それでも暖まるのか、くちばしのように押し出した唇で、ふぅふぅと冷ましながら啜り込んだ。

勇者「茶葉なんてもう、ないに決まってるだろ」

魔法使い「ま、許したげる。……でも……侘しいわねぇ。末期のお茶さえ飲めやしないなんて」

勇者「またお前は、そういう事を……」

魔法使い「ああ、懐かしい。粗挽きの胡椒たっぷりで焼いたイノシシの肉。砂糖たっぷりのお茶」

勇者「つい数週間前だろ?」

魔法使い「別の日はお魚の串焼きに、削った岩塩振ってさ。あの時は確か、お酒もあったわよね」

勇者「……ワインとは合わなかったな」

魔法使い「それにさ。……港町で食べた、たっぷりの魚介と一緒に炒めたご飯。おいしかったわ」

勇者「あれは美味かったな。その後の町で食べた、クルミを混ぜて焼いたパンも覚えてるよ」

魔法使い「思わず、何本も食べちゃったもんねぇ。……僧侶が喉に詰まらせてたわ」

勇者「あったあった」

肩を寄せ合い火を見つめ、語らう中で勇者は気付いた。
彼女は、くっと視線を巧みに逸らして、決して魔王の城を見ない。
顔を上げず、隣に座る勇者の顔にさえも顔を向けない。

勇者「…………」

魔法使い「何よ、黙っちゃって」

飲み干したカップに残る温もりを確かめているその手は、震えていた。

勇者「……怖いのか?」

魔法使い「はっ……? はぁ!?」

何を言っているのか、と彼女は語尾を上げた。
だが、勇者の慧眼は見逃さない。
彼女の瞳孔が、一瞬————広がったのが見えた。
そして、再び平静を取り戻し、彼女が言う。

魔法使い「……そーよ、悪い? 魔王が怖くない訳ないじゃないの?」

一転して素直に、彼女は認めた。

魔法使い「だいたい怖くない『魔王』なんて、どこの世界にいるってのよ?」

勇者「ふふっ……まぁ、そうだ。その通りだよ」

魔法使い「ったくもう。……とんだ貧乏くじよ。まっさか、魔王に挑まなくちゃならないなんてさ」


勇者「……俺達だから、ここまで来れた。だろ?」

魔法使い「はいはい。どうせもう帰れないわよ。なら、やってやろうじゃないのさ」

勇者「……ごめん」

魔法使い「それにしても。魔王も気が利かないわねぇ」

魔城の空に垂れこめる暗雲に阻まれ、星々は見えない。
どこまでも曇った空を仰いで、魔法使いはぼやいた。

魔法使い「こういうシチュエーションって、普通はお星さまの下なのに」

そう言って、魔法使いは体の力を抜き、勇者に体重を預ける。
彼女のささやかな体重が勇者の左肩にかかるが、踏ん張るまでもなく支えられた。
言ったように星の下でこうなれていたのなら、照れくさくもなるだろう。
だがすぐそこには旅の最終目的地がそびえて、曇天の深淵から、不吉な音が止まない。

勇者は利き手側に立てかけていた剣の柄を、そっと撫ぜる。
魔城を前にして、その剣も持ち手と同じく昂るのか、柄頭から鞘尻に至るまで、ほのかに火照ったように暖かい。
頷き、分厚い雲に遮られた夜空を跳ね上がるように——その先にあるはずの星を、突き通すように見上げる。

勇者「約束だ。必ず、空を見せる」

左手は、彼女の肩を優しく抱く。
右手は、聖剣の鞘を強く握り締める。
それだけで————勇気が、いくらでも水底から噴きあがる泉のように湧いてきた。

勇者「お前の為に。この世界の人々のために。……俺は、魔王から『青空』を取り戻す」

魔法使い「……ばーか。何マジになっちゃってんの。あたしの、いつもの言い方でしょ?」

彼女は声に僅かな潤みを伴い、茶化すようにくすくすと笑う。
その頬は僅かに赤くて、ゆるんでいる。

勇者「…………いつも通りの、な」

彼女は、正直だ。
いつも冗談めかしてものを言って、煙に巻くように飄々とした言葉を好む。
ことさらに悲観的、露悪的な口調を好むが、決して本音を隠さない。
『嘘』をつける器用さを、彼女は持たない。
夢見がちな性格を隠すように、冗談っぽく嘲るような言い方をする事もある。
内に溜め込んでしまえば、それは澱になるから。

魔法使い「……あの、さ」

勇者「?」

彼女の手が、肩に回された勇者の手を握った。
そのままの勢いで何かを言おうとするが……あっさりと、止まった。

魔法使い「……ごめん。何でもない。もう時間だから、寝なよ。……『勇者』が寝不足なんて、御冗談」

勇者「そう、だな。何かあったら起こしてくれ。大丈夫か?」

魔法使い「うん。……ありがとね。……やっぱり、もう一個約束してよ」

勇者「何を?」

魔法使い「やっぱりさ、明日の戦い…………無傷なんていかないよね」

勇者「……相手は、魔王だからな」

魔法使い「だから、約束。……もし、あたしがやられちゃったらさ。助けに、来てね?」

勇者「言っただろ、『空』を見せるって。……絶対に魔王を倒すさ。みんなで」

魔法使い「あたしは、祈らないわよ。神様なんて信じてないしさ。……でもね」

回された手を確かめていた両手を下ろし、腿の上で組み、顔を勇者へ向ける。
すっきりとした、どこか憎たらしくも愛らしくもある笑顔が彼女に戻っていた。
そのまま、白い歯を覗かせるようにして彼女は言葉を続けた。

魔法使い「あんたと、戦士と、僧侶だけは信じるわよ。……『神様』なんかより、ずっと信じられる」

勇者「僧侶に怒られるぞ」

魔法使い「あはっ、あの子が怒ってるところなんて、魔王の姿見るより貴重じゃない?」

そんな一言に、一しきり笑ってから、勇者は天幕へ戻った。
そこには戦士が足をこちらへ向けて剣を抱くように眠っていた。
勇者も彼に倣い、剣をいつでも取れるようにしてから横たわり、毛布を引っかぶる。

明日は、全てが終わる。
『終わり』を終わらせ、『始まり』を始める、人類にとって記念すべき、そんな日になるはずだ。

その先にある平和を夢見て————今は、眠った。

翌日の昼前、四人は魔王の城、いよいよその門前に立った。

沼地を超えるにあたり、邪魔は入らなかった。
それでも地獄の淵のような泥濘は、縋り付く亡者の手のような感触だった。
腐草が溶け込む悪臭の湿地には虫の声さえなく、
不気味に蠢く枯れ木と怪鳥の鳴き声、天を取り巻く暗雲の唸りだけが聴こえた。
ここに、人界の道理はもはや存在しない。
魔王を、その居城を中心に世界が作り変えられている。
ここは————魔界だ。

四人は並び、頷く。
ここに比べれば、腹を空かせたドラゴンの鼻先でさえ、『安全』な場所だろう。
勇者が指先を固く閉じた門へと向けると、その間を蒼白の閃光が駆け抜け。

————轟くよりも早く、雷が魔城の門を砕いた。

それは雷の征矢であり、鏑矢だ。
砕くとともにその雷鳴は、名乗りの役目をも果たした。

四人は、ピリピリと毛羽立った空気を意にさえ介さず、破片を踏み越えて城内へ往く。
鎧に火花が走り、重ねた着衣がパチパチと音を立て、頬を電気の針が刺しても、
誰一人、表情を歪めはしない。
ただ暗闇の城内にひとりでに、道筋を示すように灯った燭光に従って進む。
四人きりの『進軍』に迷いは無い。

やがて進むうちに、暗闇の中から『近衛』が現れた。

三叉の槍を携えた、圧倒するような巨躯の悪魔族。
白銀の体毛に包まれた、全てを停滞させて見せるほど敏捷な魔物。
土くれからつくられた、手首でさえも柱のように太い、巨人型の魔法生物。
亡霊を閉じ込めた、中身など存在しない魔の甲冑。
散々に手を焼かせられた怪物たちが、懐かしい顔ぶれのように、四人を囲む。

四人は黙って武器を構え、誰からそうするでもなく、背を預け合う。

勇者「————『ガンガンいこうぜ』」

またしてもお待たせしました、本日投下分終了です
やべぇ、最後の投下でようやく酉の付け忘れに気付いた

スレタイに「淫魔」がつけられなくて申し訳ない
淫魔の出てくるちょっとした短編も用意しているから許して欲しい

それではまた明日会いましょうー

こんばんは、投下開始します

——————いつにもまして明確な殺気で、急いたように襲いかかってくる魔物を蹴散らし、進む。
魔王直属のモンスターと言えども、四人にはまるで問題にもならなかった。
無数に仕掛けられた罠を次々と看破し、突破し、それでも掛かってしまえば打破していく。
進むうちに、モンスターと出くわさなくなっていった。
もはや城内には魔王と、勇者の一行しかいなくなってしまったかのように。

戦士「……呆気なさすぎる」

前衛を務めて歩いていた彼が、呟いた。

勇者「…………ふふっ」

魔法使い「何笑ってんのよ?」

勇者「……魔王の城で、魔王に仕えるモンスターを斬って。『呆気ない』か」

僧侶「どうか、なさいましたか」

勇者「いや、俺も同じ事を思ったよ。…………『人間』が思っちゃいけない事なのにな」

戦士「さっきから、何を言いたいんだ」

勇者「……ごめん、俺にも分からない。……それより、魔王は近いぞ」

勇者は、剣を握る手に力を込めて、息を整える。
刻一刻と強まっていく魔王の気配は、段々と正気を蝕んでくる。
息を吸う事にさえ重さを感じて、肺の腑が押し潰されそうだ。
それは僧侶や魔法使いも同じく、冷や汗をかいていた。
火種に近づけば近づくほど、その熱量を感じるのと同じように。
『魔王』という存在に近づくほどに、冥界の海のように静かで底知れない、暗黒の魔力を感じる。

少し進むと、広い一本道の廊下についた。
ねじれた悪趣味な柱が両側に立ち並び、その遥か向こうに、ひときわ大きく荘厳な扉が見えた。
扉までは真紅の絨毯が敷かれ、壁面に据え付けられた奇妙なほど明るい照明器具は、昼間のように、
一切の影をつくらぬように明々と照らしていた。
その気になれば、天井の彫刻の一つ一つまで数え上げられてしまいそうだ。

まずは、罠を疑う。
魔法使いが幻術を疑い、戦士は物質的な罠が無いかを探る。
壁面から槍が突き出ては来ないか。
そもそもこの大廊下は、実際に存在しているものなのか。
それを最初に確認できたのは、勇者だった。

勇者「間違いない。あの扉の向こうに、いる」

戦士「……だが。これは……罠ではないのか?」

僧侶「ええ。いくらなんでも……」

勇者「否。魔王とて分かっている筈だ。こんな所で小細工を弄しても、俺達を倒せはしないと」

魔法使い「まっ、そのとおりよ……っ!?」

『気配』が、遥か彼方から一足飛びにやってきた。
だがそれは、『魔王』の禍々しい魔力とは違う。
もっと荒々しく、暴力的で————単純な、『殺気』だ。

気付いた時には、殺気の主が目の前に音もなく立っていた。
その姿は戦士の体格を縦横に倍掛けしたように大きく、全身を覆い尽くすローブを纏っている。
顔すらもフードの暗闇に隠れて、これだけの光源があるというのに、顔はおろか指先さえもまるで見えない。

???「…………ここにきて罠など、あらぬ」

声は、意外にもはっきりとして野太い。
どこか武人めいた様子さえも認められ、少なくとも、ここですぐに仕掛けてくるようには思えなかった。

???「『魔界騎士』。もはやその名は、俺だけを指すものだ」

勇者「魔王の側近か?」

魔界騎士は、答えない。
鋭い殺気は身に纏っているが、名乗った後もローブを脱ぐ様子が無い。
警戒したまま様子を窺っていると、やがて、魔界騎士が口火を切った。

魔界騎士「……勇者よ。貴様は通れ」

勇者「何……?」

唐突な言葉に、理解が追いつかない。
勇者の身だけを通すその理由が、まるで分からなかった。

魔界騎士「……貴様は通す。だが……他は、通さん」

瞬間、脱ぎ捨てられたローブが翻り、宙を舞った。
その下からは————名に相応しく、一種の高貴ささえ感じる姿が現れた。

切れ味さえ備えていそうなほどに禍々しい漆黒の鎧が、爪先から頭頂までを包んでいた。
その表面に不規則に走る真紅の筋は、溶岩を通した血管のように鈍く輝く。
鎧には鋲も蝶番もなく————継ぎ目すらない。
右の背には小さな翼が四枚、左の背からは身を隠せるほど大きな翼が一枚。
『騎士』の称号に相応しく————両手にはそれぞれ、闇夜から掴み出したかのような剣と盾がある。

戦士「……勇者。先に行け」

目の前の騎士に応じるように一歩進み出て、言う。
遅れて、二人の後衛も続いた。

魔法使い「……すぐに追う。心配するんじゃないわよ」

僧侶「そうです。……さぁ、早く」

勇者は、振り向かない。
剣を携えたまま、無造作に魔界騎士の右手のすぐ傍を通り抜け、彼方の扉へと駆けていく。
その足音が遠くへ消えた頃、ようやく————両陣営が、戦闘態勢に入る。

魔界騎士は、人界の戦場でもよく見かける、盾を前面に構えた正統の姿を取った。
後ろに引いた剣を中段に構え、単純な胴薙ぎの動作。
構えを見るだけで、戦士は直感する。
この敵は……『強い』と。

戦士もそれに倣い、同じ構えを取る。
一人きりの前衛を前にして、魔法使いが右側、僧侶が左側に広がって、三角形の陣形を取った。
そのまますぐに詠唱を始め、魔力が後列の二人に集まっていく。

魔界騎士の右手が、一瞬ぶれる。
とっさに盾を上げた時には————すでに、左手が重く痺れていた。

戦士「ぐぅっ……!」

盾越しに感じた衝撃は、もはや剣のものではない。
さながら、戦槌の一撃だ。
下腕部に骨が裂けるような鋭い痛みが走る。
打ち込みの強烈さたるや、盾がもってくれたのが奇跡としか思えなかった。

競り合いに移ろうというその時、戦士の右手側から、回り込むような軌道で氷の槍が魔界騎士の頭を狙う。
詠唱を終えていた魔法使いが放ったものだ。
だが、盾で防ぐでもなく、避けるでもなく。
氷の槍は、真下から突き上げられた盾の縁で砕かれる。
その時に生まれたわずかな力の緩みを盗んで、戦士は、後ろへ跳んで距離を取った。

魔法使い「っ何で、今の反応できんのよ!? どんな目ぇしてんの、こいつ!」

戦士「……く、そ……!」

すぐに僧侶は、戦士へ回復の呪文をかける。
感じた通り、左手の骨にヒビが入っていたようだ。
戦士は警戒したが、意外にも、魔界騎士の追撃はなかった。
今まさに回復を施しているというのに————その場から、動かない。

回復を終えると、戦士はすぐに、再び前に出た。
その間も魔界騎士は動かず、攻撃の予備動作さえも行わなかった。

僧侶「……『盾に、祝福を』」

更に詠唱を続けた僧侶が、戦士の背に光を放つ。
呪文の効果は、『防御力上昇』。
だが、あの打ち込みにはたしてどれほどの効き目があるのかも分からない。

魔界騎士「もう良いのか? 『人間』」

戦士「あぁ。待ってくれるとは意外だな、『魔族』」

魔界騎士「必要なら回復するがいい、道具(アイテム)を使え、態勢を立て直したいならそうするが良い。
      後ろから斬らねばならぬ程、不足してなどいない。……全てを無駄に終わらせてやるだけの事」

戦士「やれるのなら……なっ!」

初動は————先手を打つつもりで挑んでも、それで尚も魔界騎士が上回ってしまった。
だが、やや上段から袈裟懸けに振り下ろされた剣は『見えた』。
剣の軌道、迎撃点を見計らい————隼の狩るがごときの素早さで、打ち上げる。
その刃は瞬きの間に、二度の斬撃。
さしもの魔剣士の刃も、軌道上から直上への剣には耐えられず、切っ先が虚しく跳ね上がった。

戦士「取ったぞ!」

引き起こした剣で、がら空きの右腹へ斬り込む。
だが。

まさしく、歯が立たぬまま。
剣が、弾き返されてしまった。

戦士「な、に……!?」

それによって体勢を崩してしまい、後ろへよろけた姿になる。
硬い、などという次元では無く————歴戦の戦士をして、『不可能』という言葉さえ脳裏を過ぎったほどだ。
よたつく動きの最中、魔界騎士が引き戻した剣を振りかぶるのが見える。
だが、その視線は戦士ではなく————距離にして3mは離れた、僧侶と魔法使い。

戦士「避けろっ!」

叫びを聞くよりも早く、魔法使いの背筋に悪寒が走る。
吐き気さえ感じる程のそれに駆り立てられるままに、魔力の防壁を発動して僧侶と自身を護る。
構築が間に合うとほぼ同時に、魔剣が逆胴を抜くように虚空を薙ぎ————そして。

氷の刃が二人を襲い、魔力の防壁に突き刺さって次々と砕ける。
極地の風のように鋭く冷たい冷気が防壁を越えて二人に襲いかかり、漏らした悲鳴は白く凍てついた。
絨毯は霜柱のように凍り付き、宙空には氷晶さえ舞い散っている。

僧侶「きゃっ……!」

魔法使い「ビビってんじゃないっ! 『あれ』使いなさいよ!」

魔法使いの激に応えるように、僧侶は目を閉じ、杖を前に突き出すようにして集中する。
それは敵へと向けられ、しかし殺意は帯びないまま、魔力が高まっていく。
戦士が体勢を整えると同時に、その『呪文』が完成した。

————『呪文封印』の呪文。

杖先に生まれた魔力の文字が、魔界騎士へと張り付き、浸透していく。
一文字一文字が魔力を封印する意味を持ち、その身に受ければ『呪文』を奪われる。
人ならぬ魔族に効くかは賭けだったが、それには勝てたようだ。

魔界騎士「ほう。初めて受ける呪文だ」

魔法使い「……あんた、何で避けないのさ?」

身のこなし、素早さ、どれをとっても……彼は、一流のはずだ。
詠唱を待つ事はもちろん、攻撃を避けない。
いや、それどころか————初めに立っていた場所から、彼は動いてなどいない。

魔界騎士「『避ける城壁』を……見た事があるのか」

次は、大上段の構え。
天に向かって屹立した剣は、全てを見通す戦塔のように、魔の剣とは思えぬほど愚直に伸びた。
戦士は警戒しながらその右手側に立ち、その攻撃に合わせるべく機会を伺う。
がら空きになった腹を攻撃する事は容易い。
だが————生半な攻撃では、かすり傷すらもつけられないと分かってしまった。

剣が振り下ろされると、その延長線上に無数の握り拳大の光が輝き————膨れ上がり、連鎖的に爆発する。
その一つ一つが魔法使いの得意とする爆発の呪文、その初等のものと同等の威力がある。
それが————何百、何千発も弾けながら爆熱の荒波の如くに三人へと押し寄せ、
気付いた時には、閃光と爆風の中に呑み込まれていた。

身を護っていた魔力の防壁は呆気なく砕け散り、爆風に飛ばされ、僧侶と魔法使いは両側の壁に打ち付けられた。
息がつまり、背骨が軋み、強烈な爆音で鼓膜が痺れて、一時、音さえも失ってしまう。
三半規管がかき回され、背に当たったのが果たして床か壁か、果たして天井かさえも掴めない。
魔法使いは床に手をついてがくがくと胃液を吐き出しながら震え、僧侶は、倒れ伏したまま芋虫のように身じろぐ事しかできない。

僧侶「うっ……! あっ……」

魔法使い「なん、で……!?」

最前列で巻き込まれた戦士の体躯が、遅れて、焼け焦げた絨毯の上に無様に墜ちて天井を仰ぐ。
それでも剣と盾は離さないが————頑強な鎧には、煤がこびりつき、歪んでいた。
一撃で、僧侶の施した『呪文』が吹き飛んでしまったのだ。
防御上昇の祝福は、即死を免れるだけの効果しか示してはくれなかった。

魔界騎士「今のは呪文では無い————『技』だ。言った筈だ、貴様らの全てを、『無駄』に終わらせてやるとな」


——————『勝利』が、思い描けない。

魔法使いが思ったのは、それだ。
鉄壁、神速、そして、苛立ちすら感じる程の————桁を外れた、圧倒的な破壊力。
呪文ですらない剣技の一撃で、僧侶も戦士も戦闘不能に追い込まれ、残った魔法使いもそれに近い。
たったの一撃で……壊滅させられてしまった。

魔法使い(何、なのよ……これ…………勝てないように、なってんじゃないの……?)

爆発に晒されて、足元の絨毯はボロボロに焦げている。
壁面は抉れて瓦礫が散って、足の踏み場もない。
その中で、魔法使いは……杖を支えに、萎えかけた脚に力を注ぎ、立ち上がった。
無意識のうちに、負傷した二人を庇うように前に出る。

魔法使い「何だって、の……よ……! あんたみたいなのがいるなんて……聞いて、無いわよ」

————不可解だった。
これほどまでに手強い魔族がいたというのなら……世界のどこかで、耳にしたはずだ。
なのに、この魔界騎士は魔王の城で、突如として現れた。
言動の端々からは、気まぐれなようにも思えず————その暴威も、行動理念も、何一つ掴めない。
恨みがましく睨みつけても、この魔剣士は依然として、彫刻のように仁王立ちしている。

魔界騎士「…………千年」

おもむろに、『彼』が声を発する。
それが果たして『口』から出ているものなのかは、分からなかった。

魔界騎士「千年前に、我が眷属は滅んだ。……生じたばかりの俺を除いて」

淡々と。
淡々と————言葉を紡ぎ続ける。
感傷も、感慨も、背負った悲劇をひけらかす様子も、そこにはない。
鸚鵡返しの魔法の鏡のように、魔界の騎士は、ただ語る。

魔界騎士「我が眷属は、魔界では……『決着の種族』と呼ばれていた、ようだ」

魔法使い「……決着?」

魔界騎士「俺達に寿命は無い。病も無い。……戦い、倒される事でしか俺達は死ねん」

魔法使い「…………なんで……」

『なんで、滅んだ』————?
そう問おうとした時、先に答えを用意していたのか……付け足された。

魔界騎士「千年前の『魔王』に従い、俺以外の全員が人間界に降り立った。……して、『俺達』は『俺』になった」

左手を揺らし、無造作に彼は自らの身を指す。
もはや同族など存在しない————ひとり取り残された、その身を揺すって見せた。

魔法使い「……で、あんたもみんなと同じところに行きたいって訳?」

魔界騎士「或いは。だが、『決着』をつける事こそが我らが存在の意義」

魔法使い「じゃぁ、何で……あんた、ぼーっと立ってんのよ。今がチャンスでしょ」

魔界騎士「『勝利』と『決着』は全く非なる。死力を尽くし、つまらぬ小細工なく打倒し、屍を踏み越える。
      それこそが……真の『決着』。勝敗などという些末な価値観ではない。それこそが我らの世界」

恐らく、それ故に————魔界騎士は、追撃をしない。
回復を待ち、道具を使わせ、態勢を立て直して武器を持ち替える事さえ待つ筈だ。

勝利を得る為に戦うのではない。
もはや魔王へ尽くす忠誠でもない。
求めるのは、『署名』だった。

————永遠を保証されてしまった存在を終わらせ、一太刀描きの『署名』を加えてくれる者を。
————その種族は、永劫というアトリエの中に閉じ込められたまま、求め続ける。
————勝つ度に上塗りされる『時間』に、何色か、何を描いているのかさえ定かではなくなり。
————ただ、『誰か』に終わらせてもらう為だけに、服す囚人の労務のように、血の色を重ね塗るだけ。
————いつ描き終わるか分からないまま、ドス黒く乾いて行くだけの無意味な絵を。

魔界騎士「しかし、宛てが外れた。……いつか倒れるこの身も、今ではなく……貴様らにでも、無かったのか」

その呟きは……ようやく、感情を伴った。

魔法使い「……聞いても、いいかしら」

問答の中で、どうにか杖に頼らずに立てるほどには回復した。
弱々しく縮んでいた瞳に、ようやく、生来の輝きが帰る。

魔法使い「あんたが魔王について来たのは、復讐ってワケ?」

魔界騎士「弱き種は、滅びゆく宿命。それを怨むほど蒙昧ではない。……さぁ、どうする。『ヒト』の魔術師」

魔法使い「…………」

魔界騎士「再び言おうか。逃げるのなら追わぬ」

再びの勧めに頷くと、彼女は懐に左手を差し入れ、幾つもの道具を掴み出した。
その全てが————人界において希少とされる、奇跡の産物。
世界を支える大樹から舞い落ちたとされる、奇跡の葉。
その葉からこぼれた朝露を小瓶に受け止めた、完全治癒の雫。
魔力を限界まで補充する、エルフ族の秘薬。
旅の途中で蓄え、魔王の城————魔王との決戦で放出しようと決めていた、逸品ばかり。

魔法使い「……『勇者』が、どうして『雷』を使えるか、知ってる?」

その手に、震えはもうない。
眼前にいるただ一騎のために、全てを尽くそうと決めた。

魔法使い「…………『雷』はね、真っ黒で分厚い暗雲を切り裂いて、『雨』に変えてしまうの」

『葉』を、倒れた戦士の心臓の上に置く。
それだけで『葉』は溶けて、心臓を賦活させ、ほんの数秒の間に立ち上がらせた。

魔法使い「『雷』は闇を切り裂く光。嵐の次の日は、必ず晴れる。……『雷』は、号令。
      『明日は絶対に晴れる』って、あたしたちに教えてくれてるのよ」

魔界騎士は、宣誓の通りに、微動だにしない。
挑む者を跳ね除け、挑む者にだけ剣を振り下ろす。
孤高にして独、魔界最後の『闘技者』の威容を、その身に湛えていた。

魔法使い「あいつはね、約束してくれたの。空を見せてくれるって。だから、あんたと戦ってやる。
      ……あいつがくれた青空を、バカみたいにまっすぐ見上げるためにっ!」

小瓶に集められた『雫』を、魔法使いが振り撒く。
世界樹の恵みを凝縮した奇跡は三人へと降り注ぎ、全ての痛みと傷とを泡雪のように消し去った。
意識を取り戻した僧侶も立ち上がり、全ては、開戦前の状態へと巻き戻され。

————出し惜しみ無し、全員全力、全身全霊の総攻撃。
————『叛撃』の準備を整える。

魔法使い「二人とも————全力よ。いいわね?」

戦士「ここで、か」

僧侶「……今使わねば、ならないのですね」

魔法使いと僧侶が、同時にエルフ族の霊薬を仰ぐ。
数百の薬草と数十の霊草、数千年の秘術を用いて精製された、伝説の魔力回復薬。
一本入手するだけでも小国が消し飛ぶほどの財を傾けなければならない霊薬が、二本。
二人の体に失った魔力が漲り、その双眸からも魔の輝きが溢れ出す。
吐息までも呪文と化してしまったかのような、超回復が起こる。
肉体は————極限まで張り詰めた魔力の坩堝と化した。

一息を挟んで、戦士へと強化呪文が注ぎ込まれていく。
攻撃力増加、防御力増加、速度増加。
どの呪文の消費魔力も、何の問題でも無い。
戦士は、甲冑すら窮屈に感じる程に昂る肉体を、押さえつける。

筋肉が鋼のように盛り上がり、盾と剣を握り潰してしまいそうに感じて、無意識に力を緩めた。
その反面、身体は嘘のように軽い。

魔法使い「そう。……『使う』わよ。今。ここで!」

黙して、三人は武器を構え————目を閉じ、集中する。
魔力の霊薬をも、強化呪文の重ねがけをも上回るほど、闘気が高まり、大廊下に一度は蔓延った
諦観の空気を、遠くへ追いやる。

そして————三人の体から、紫炎が発せられた。

本当ならば……魔王との戦いの為に、使うはずだった。
戦いの中で闘気を蓄積し、振り切った士気を力に変え、数倍にも増す秘法。
弱き人類が生み出した、『限界を超える』力。


戦士の口から飛び出した闘気の震えは、どこまでも伸びる咆哮となった。
蛮王のごとき戦叫が、魔城の全てをビリビリと揺るがす。
崩れかけた壁から破片が落ち、例外ではなく————魔界騎士の、漆黒の鎧膚をも震わせた。

魔界騎士「……雨雲が消えた時、雷もまた消え去る。貴様らは、分かっているのか」

鎧にまとわりつく震えを振り払うように軽く剣を振り、『強敵』は言う。

魔法使い「そろそろ黙んなさい。あんたの向こうに、あいつが待ってる。……だから、そこ」

進み出て、戦士の利き手側に寄り添うように魔法使いが立つ。
前のめりに、その強大な敵の向こうを目指すかのように。

魔法使い「邪魔だっつってんのよっ!!」

気迫を受け止めるように、魔界騎士は剣を引いて盾を前面に押し出す、戦列重装歩兵の構えを再び取る。
兜のような頭部、その顔面に走る数本のスリットが——微笑む唇のように歪んだかに、三人には見えた。
英雄物語で飽くほど聞いた言霊を、そして彼は紡いだ。

魔界騎士「————『此処を通りたくば、我にその力を示せ!』」

火球の最強呪文が息もつかせず放たれた。
猛り狂う火山のように爆ぜて全てを焼き尽くす————単発でさえ馬鹿げた威力の呪文。

魔法使い「んあ゛ぁぁぁぁぁッ!!」

五発、六発、七発————十発を超えてもなお魔力は尽きない。
爆炎の中に揺らいだ影は、相も変わらず健在だ。
直後、その炎を裂いて————魔法使いへ殺気が迫った。

一瞬早く飛び出した戦士が、盾でその突きを受け止める。
戦士の身の丈を超える魔界騎士の全体重を込めた疾風のような突きは、重かったが————耐えられた。
数十センチは押し込まれ、その背の紙一重には魔法使いがいる。

戦士「捉えたぞ……今度こそな!」

魔界騎士「!」

盾に受け止めた剣を大外へ払い反撃の一太刀を繰り出す。
右から左へ横薙ぎの剣は、速度のあまりに空気との摩擦で炎を生じて刀身を覆った。
魔界騎士は盾を上げるも————火炎の斬撃は受け止めきれなかった。

魔界騎士「ぐぁっ!」

漆黒の大盾に深々と炎の剣が斬り込み、焼き尽くした断面から灰が散る。
戦士は、実感した。
————『ダメージ』は通った。

その実感だけで更に闘志が増す。
『勝てない相手』ではない。『勝てない戦い』ではない。
傷を負わせることができる。
傷を負わせられるのなら————絶対に、倒せる。

魔法使い「離れなさぁいっ!!」

切り結ぶ後方から魔法使いが叫ぶ。
咄嗟に斬り込んだ剣を引いて、右側に飛ぶと————間髪入れず、魔界騎士の胸部に氷塊が直撃した。

魔界騎士「うぐ……!」

絶対零度の氷塊は、物理的破壊力が主効果ではない。
冷徹なる極低温の氷弾呪文は、着弾と同時に対象の熱を奪い取り、凍てつかせる。
それが、吸い寄せられるように魔界騎士を撃つ。

魔界騎士「これだ……これ、こそが!」

上級悪魔族であろうと凍てつかせて砕く、氷の砲弾を全身に受けながら。
氷結して動きの鈍る鎧をものともせず、ゆっくりと確実に、剣が振り上げられた。
こちらの陣形を一撃で崩壊させた、あの斬爆撃が来る。

僧侶「二度は! 通じませんっ!」

断頭台のごとき黒刃が振り下ろされると同時に————僧侶の呪文が完成した。
迫る爆炎の中で三人の体が輝き、体表を鋼鉄の外殻が覆い隠す。
五体を鋼に変性させ、いかなる害意をも無効とする絶対無敵の防御呪文。
それはたとえ、魔王の呪文であろうとドラゴンの吐息であろうと受け流し、空振りにさせる。
行き場を失い、虚しく響くしかなくなった無数の爆発が、再び大回廊に炸裂した。

爆炎が過ぎ去り、解けゆく鋼鉄の外殻の中で戦士は見た。
舞い散った煙の中に佇む魔の闘技者を。

火球の連発によって、甲冑は点々と炭化して。
反して絶対零度の呪文はその手足を凍らせ、動きを奪って。
盾は深々と斬り込まれ、奇妙な事に、盾の断面から鮮血が滴り落ちていた。
それでも剣は、捨てていない。
闘う意思を————立ち向かう意思を、捨てていない。

立ち姿は、相も変わらぬ盾の構え。
隊伍を組みて半身を守ってくれる『仲間』など、もう彼には存在しない。
それでも譲れぬモノがあるかのように、たった一人きりの戦列を保ったまま、頑迷なまでに立ち塞がる。

魔法使い「どきなって言ってんのよっ! あんたの死にたがりになんて、付き合ってらんないんだよ!」

極限まで補充した魔力を尽かせて、魔法使いの呼吸は荒い。
極大火球呪文、絶対零度呪文の連続詠唱は、堪えた。
心臓は早鐘のように脈打って、肋骨という扉を、内側から激しく叩いていた。

魔界騎士「貴様らの力は、そんなものか。何度でも、何度でも言おう。……『ここは————』」

背を飾る不揃いの翼が、逆立つ獣毛のようにピンと伸びる。
右背の四枚、左背の一枚は————大きく開いた、拒絶を突きつける掌を連想させた。

魔界騎士「『ここは、通さん』っっ!」

魔法使いは、解き放つ。
最後の決戦の為に何が何でも温存するはずだった、奥の手の、更に奥の手を。

魔力はもう、残ってなどいない、使い果たした。
『エルフ族の薬』の予備も、無い。
だが————魔力を回復する方法は、一つだけある。
魔を研鑽するさなかでようやく到達した、無限の魔力をその身に宿して、
ありとあらゆる呪文を魔力を失わずに唱え続けられる『奇跡』の秘術。

杖に宿した魔力が、吼え猛る。
彼女の体を包む光の柱が、無限の魔力をもたらした。
それを意識する間隙さえなく、『呪文』を発動する。

最初に連発した火球が虚しく小さく思えるほどの、太陽にも似た獄炎弾。
————単発でも連発でもなく、『同時』に十数発。
それらは魔界騎士を取り巻き、その甲冑を炎の舌が嘗め上げ、炭化させてゆく。
押し寄せる熱波が三人を襲うが、それは、決して問題にはならない。

魔法使いの後ろには、僧侶の唄が聴こえた。
絶え間ない詠唱は霊歌となって、三人の肉体を————超高速で回復させ続ける。
それは、『無敵』の回復呪文だ。

魔界騎士「う、ぬっ……! オォォォォァァッ!」

容赦ない獄炎の中、戦士は魔界騎士と切り結ぶ。
炎の中で更に灼けつくような『焔』をまとった剣は幾度も、幾度も漆黒の盾を叩く。
かすめるだけでも魔界騎士の盾は溶け落ちて、段々と、その形は失われてゆく。
戦士の甲冑には、呪文の炎が燃え移り、もはやどこまでが甲冑でどこからが炎なのかさえ知れない。
炎の中で空気を吸い込み、焼けた気道を瞬間に再生させながら、炎混じりの吐息をつく。
灼熱の劫火そのものと化した戦士が魔界騎士の『防御』を焼き尽くす。
そして。

遂に捉えた『会心の一撃』が————不破の盾を、左手ごと斬って捨てた。

魔界騎士「がぁぁぁぁぁっ!」

肘から先を失い、さしもの魔界騎士も苦痛を声として吐き出す。
だが————まだ、『剣』がある。

魔界騎士の、渾身の縦一閃に合わせるようにして横への一閃を放つ。
打ち合う強烈な残響が回廊に響き渡り、その場にいる全員の鼓膜へ斬り付けた。

戦士「終わりだッ……! 貴様の『戦』も! 魔王の『野望』も! これで仕舞いだッ!!」

ギリギリと鍔迫り合い、戦士の額の数センチ先に刀身が迫る。
この期に及んでもなお強敵の膂力は発揮されて————今にも、押し切られてしまいそうだ。

魔界騎士「ッ……どうした。吐いた唾はすぐ目の前に返ってきているぞ?」

更に、押し込まれる。
フェイスガード部分を魔界騎士の刀身が掻いて、食い込む。
もう一息で、頭を割られる。
押し返そうと、息を整えた瞬間————その背から、強化呪文の後押しを受けた。

魔法使いが攻撃力を増加させ、僧侶が防御力を増加する。
二つの呪文は重なり合い、いつの日も最前線に立ち続けた男へ活を注ぎ直した。

気合いとともに背筋に力を入れ、呼吸を合わせて前進する。
ぱきぱき、という不吉な破滅の音が、剣の間で聴こえる。
それにすら構わずに押し込むと、鍔迫り合う手ごたえが消えてしまった。
硝子の砕けるような音だけを、残して。


そして『人類』の刀身が、再び————『何か』に打ち当たり、止まった。

魔界騎士の漆黒の長剣は、柄手までも砕け散った。
剣と盾を失い、残りは鎧の五体のみ。

魔界騎士「ぐぅっ……! だが、まだ……!」

戦士の剣は、魔界騎士の横腹を捉えて食い込んでいた。
剣に漲った闘気が鋸引くように魔界騎士の身体を削り落とし、黒き破片は空中で蒼炎と化し、
夜空に舞う流星群のように、呆気なく燃え尽きていく。
だが、まだ……一押しが足りない。

戦士「ここからなら————絶対に外さんぞッ!」

叫びとともに、身体が、深く沈み込む。
発動された技は『一撃』に全てを懸ける、魔神の斬撃、『当たれば』必殺の剣。
本来は当てる事さえも難しいが、今、なら。

————『会心』が、『絶対に』当たる。

戦士「うおおおおぉぉぉぉぉぉっ——————!!」

絶対命中の刹那に撃ち込まれた魔神の剣が、たやすく————魔界騎士の身体を深く薙いだ。
『勝者』は『敗者』を置いて、勢いのままに剣を振り切った姿勢で滑り込む。
直後、輝きを終えた蝋燭のように————炎の海が消えて失せた。

魔界騎士「ヒト、の……英…………、否」

一太刀の署名を加えられた『絵』は、その場に膝を折った。
ようやく、その手は柄の欠片しか残らない『剣』を放し、取り落とした。

魔界騎士「……『勇者達』……よ…………」

どこか満ち足りたような声色は、それ故に虚しくもある。
千年の重みを背負い、前のめりに崩れ落ちながら、最後に『勝者』を称えた。


魔界騎士「——————美事、也」

斃れた魔界騎士の亡骸は、蒼炎に包まれて虚空へ溶けていった。
その様を、僧侶は昇天する霊魂へそうするように、見送った。
最後の『魔界騎士』を討ち果たし、彼の言葉を信じるのなら……これで、彼の種族は滅んでしまった。
元の数が、どれだけかは分からない。
だが、彼と同等の存在が————魔界には、珍しくも無かったのだろう。
そして、恐らくは彼をも凌ぐ『魔王』が回廊の先、大扉の向こうにいる。

三人が全く同時にそれを見つめると同じくして、魔城を震わすような雷の轟きが鼓膜を痺れさせた。

魔法使い「っ……行くわよ、早く!」

僧侶「は、はい!」

戦士「連戦は慣れたつもりだが……流石に、これは……な」

魔法使い「いいから、早く! 早く、しないと……!」

急き立てるように魔法使いが言うと、限りなく消耗したはずの二人は、駆けた。
それを追うように魔法使いも走り出し、正面に見える大扉を目指す。
そこには、『暗雲』と『雷』が、今まさにもつれ合っているはずだ。
『蒼空』をめぐった最終決戦の幕は、もう上がっていた。

まやかしでもなんでもなく、走るほどに扉は近づき。
近づけば近づくほど、その扉は大きく見えてきた。

辿り着き、戦士が体当たりをするように扉を押し開ける。

こちらに無防備な背を向けて立つ、『魔王』の姿がまず、あった。
その向こうには……『勇者』が臨戦態勢で、立っていた。

勇者「挟み撃ちだな、魔王」

彼は、『ようやく来たか』とばかりに笑い、到着した三人の仲間たちに目配せした。
三人もそれを返し、直前の消耗を振るい落として、魔王の背へ刃を向ける。
こうしていても、魔王に『死角』は無い。
全身これ魔眼の塊とでも云うかのように、張り詰めた殺意が三人を襲う。
だが、『いきなり』ではない。

直前の、あの誇り高き最後の魔戦士との決斗が慣らしてくれた。
むしろ、『四人』で戦えるという、安心までもがある。

——————そして、『決戦』の幕は上がる。

本日投下終了です
質問、不明な点ありましたら一段落してからお答えいたします

それでは、また明日


全部読み返してきた
ポチの出番はありますか?

>>45

新作!!すげー嬉しい!!ありがとう!!

後日談&前日譚というのは魔法使い達の世界だけかな?

堕女神「私を、『淫魔』にしてください」

の続編ではない感じ?

>>47
今回は無しです

>>48
今回、淫魔は出てこないです

それでは投下します

『勇者と魔王の物語』がある。
世界のどこに行っても、細部は違えど同じ物語を描いた本があった。
だが、結末はみな同じだった。
すなわち————『勇者』が、『魔王』を討滅する、あの栄光の勝利。
そしてそれを三人は、目の前で見る事ができた。

だが、魔王を打ち倒し、崩壊を始めた魔城から脱出しようという時、勇者は言った。
——————「俺を置いて行け。三人だけでここから逃げろ」と。


どれだけの言葉を使っても、どれだけの涙を見せても、その心は変わらなかった。


彼は、知っていたからだ。
世界を救えば、救った世界の線引きを巡って再び人界は荒れる。
手始めに勇者の故国は、隣の国へと仕掛ける。
その先陣に、世界を救った『最強の人類』を加えて。

世界に、居場所は無かった。
故郷へ帰れば噂が立つ。
どこかで穏やかに暮らすにも、世界の全てを回ってしまった。
だから、もはや『勇者』を知らない者など、世界のどこにもいない。
一目でも見られてしまえば、そこから噂は千里を駆けて、どこかの誰かの耳へ届く。

存在を賭けて救った世界へ、剣を向けたくなどなかったから。
身を寄せ合い『雷』に怯える人々の顔を、見たくなどなかったから。

————『雷』は、『雨雲』と運命を共にすると、そう決めてしまった。

————————

決戦を終えた大広間の大きく重い扉をくぐると、彼らの背後で続けざまに轟音が鳴り響いた。
崩れた天井が瓦礫と化して、大広間を埋め尽くしていく。

役目を終えた『勇者』を独り残した、彼のパーティの最後の戦場を。

魔法使い「……!!」

戦士「振り返るな!」

魔法使い「分かってるわよ!」

涙をマントの縁で拭い、戦士に返しながら走る。
激しく揺れ、砂の楼閣のように崩れていく魔王城の中を、「三人」の英雄達が駆け抜ける。
壁面に飾られた燭台は外れ落ち、魔物を模した彫像は無惨に砕け、鏡とステンドグラスの破片が散乱する。
それは、もはや———人界を恐怖に陥れた、「魔王」の城とは思えなかった。

僧侶は、走りながらそれらの風景を心に沁みこませるように、見つめていた。
彼女が憶えたのは、安堵でも、達成感でも、ましてや爽快感でもない。
ただ、哀しい。

魔王の力の象徴たる城が崩壊するさまは、ただ不思議なまで、痛々しいほどに哀しく、空しく映った。

旅が、終わる。
世界を救うための旅が終わり、魔王城がなくなり、魔王がいなくなる。
魔王を倒す宿命を負い、戦ってきた「勇者」もまた、いなくなる。
そして三人の『人類』だけが、生きて、残る。

後ろ髪を引かれる思いは、留まるところを知らない。
最後の命令を受け取った今でさえ、勇者の想いを受け止めた今でさえ。
今からでも広間に戻り、彼を連れ帰りたい衝動は、留まらない。

戦士「……!?」

ふと、戦士が前方に目をやり、立ち止まる。
そのまま手を広げ、後方に続いた二人を制して立ちはだかった。

魔法使い「ちょっと……何なのよ!?」

僧侶「……」

戦士「お客さんだ」

言って、剣を引き抜く。
眼前には、中身を宿さぬ、動く甲冑。
白銀の体毛を持つ、俊敏な魔物。
古の魔術で生み出された、呪わしき機械人形。

魔王の城に相応しい魔物の残党達が、廊下を埋め尽くしていた。

魔法使い「…構ってらんないのに!!」

僧侶「………くっ…」

後列の二人も杖を構え戦闘用意を整えるが、魔力の残りは、心もとない。

連戦に次ぐ連戦、そして最後は魔王とその騎士との死闘。
僧侶は、回復呪文の連唱と攻撃呪文でもはや魔力は空と言っていい。
それに比べて魔法使いは、魔力は多少は残っている。
だが、それ以前に——彼女は、いまだ負傷者に違いない。
戦士も同様で、剣を構えはしても、傷は癒えていない。

戦士「おい、魔法使い」

魔法使い「何よ」

戦士「……『帰還』の呪文は使えないのか?」

魔法使い「ダメ。腐っても魔王の城ね。その手の呪文は使えないわ」

戦士「…………そうか」

僧侶「諦めてはいけません」

力強さを秘めた呟きが、今なお轟音とともに崩壊を続ける魔王城に、はっきりと響いた。

僧侶「諦めてはいけません。……私たちは、生きなければならないのですから」

魔法使い「……あはは、そうだったわねぇ。よく覚えてたじゃん、偉い偉い」

憎まれ口を叩くも、その表情に嘲りの色は無い。
ただ——ただ、強気な微笑みだけが浮かんでいた。

戦士「……ああ、そうさ。こんな所で……死ねるものか」

僧侶に呼応するように、緩みかけた利き手を締め直し、剣を握り締める。
眼前を埋め尽くす魔物に対し、人界最強の、「勇者」はいない。
彼と肩を並べた三人の英雄が、満身創痍のまま闘志を再び燃やすのみ。

じりじりと距離を詰めてくる数十の甲冑達が、ふと歩みを止めた。
それとほぼ同時に魔王城の震動がピタリと止んだ。
甲冑の魔物も、銀毛の魔物も、単眼の巨人も、動く様子が無い。
燭台が倒れる音にも動じず、祈るように、頭を垂れていた。

魔法使い「何なのよ?」

僧侶「え……?」

戦士「……恐れをなした、という訳ではないだろうな」

直後、金属が石畳へ落ちる音がけたたましく鳴り響いた。
先ほどまで動いていたはずの甲冑達が、次々に崩れてゆく。
高次にある霊体の魔物が、憑代であるはずの甲冑から抜け出ていく。
それに気付けたのは、僧侶だけだ。

僧侶「……これは?」

魔法使い「……何か知らないけど、ラッキーなんじゃないの?」

戦士「だが、それでも……まだ多いぞ」

そして、戦士の懸念はまたも、溶け消えた。
通路を塞ぐ、肉体を持つ魔物達が、次々にその姿を消していく。
光の粒がまとわりつき、そのまま、敬意を示すような姿勢を取ったまま虚空へと消え去っていった。
そして————最後に一つだけ、決定的な変化が、起きていた。

僧侶「一体、何が……?」

魔法使い「あ……?」

僧侶「どうしました?」

魔法使い「……魔王の施した結界が……消えたみたい」

戦士「『使える』んだな?」

魔法使い「…………」

もはや、時間は無かった。
背後を見ればほぼ瓦礫に埋まり、行きて戻りし魔城の回廊は存在しない。
最後の勇者の『作戦』を反故にはできなかった。

魔法使いが杖を一振りすると、赤く輝く光の扉が、目の前に開いた。
その先には、段々と暗雲を薄めていく、魔城の空が見て取れる。
ここをくぐってしまえば、もう、戻れない。
魔王を倒し、その城を出て、そこで全ての物語は終わる。

魔法使い「……やだ。やだ、よぉ…………!」

帰還の扉を前にして、『涙』に追いつかれてしまった。
踏み出せばそこには『外』があり、それが『彼』の望みだとも分かっているのに。
それでも、脚が動いてくれない。
この扉は、『世界』へと繋がっている。
——————『彼』を欠いて、それでも回り続ける無慈悲な歯車の箱へ。

滂沱の涙が鎖となり、魔法使いを、縛り付けてしまう。

戦士「何をしている!? 早く!」

魔法使い「置いてなんて行けない! ……あんた、何で平気なのよぉ!」

僧侶「魔法使いさん! もう、道が……!」

見えていて、理解もできていた。
もう戻れる道も行く道も埋め尽くされ、目の前の扉をくぐるしか無い。
それでも————最後の諦めを、つけられない。
感情の置き場所が見つけられないまま彼女は踵を返して、僧侶はそれを、組み合うように押さえつけた。

魔法使い「離して……! 離せ! 離せぇぇっ!!」

彼女の体の、どこからこんな力が生まれるのか。
僧侶が必死に踏ん張りを効かせても、ずるずると寄り切られる。
魔法使いは瓦礫の山となった回廊を、聞かん坊のように戻ろうとしていた。

僧侶「もう、戻れません! もう————」

手遅れです、とは言えなかった。
落ち着いて下さい、とも言えなかった。
どちらも口にはできない、それぞれの理由があった。
どちらも————僧侶の口から告げる事など、できなかった。

その時、魔法使いの身体から力が抜け、僧侶にもたれるように気を失った。
背後から、戦士が当身を喰らわせたからだ。

戦士「……脱出、するぞ」

言うと、彼は魔法使いの身体を担ぎ、落ちた杖を拾って、僧侶に促す。
応じて頷き、彼女は扉をくぐり、戦士もそれに続く。

戦士「……せめてこれしか、俺達には無いんだ。……許せよ」

そして魔王の城は、崩壊する。
存在の全てを、無かったことにでもするかのように。
仕掛け絵本を閉じたように、折り畳まれるように。

演壇にもう、役者は残っていない。
全ての収拾をつけて片付けられる舞台装置のように、『それ』はなくなった。

*

虫の声で目が覚めた時、最初に見えたのは、厚手の暗緑の布だった。
眼球を動かしてみれば、視界の全てがそれに覆われていて、少し思索を巡らせれば思い当たった。
ここは、『旅』で使っていたテントの中だ。
油の滲み、土の汚れ、寝ぼけて引っかけた裂け目も、すぐに見つかった。
外からは、パチパチという焚き火の音が聴こえる。
毛布をかぶせられていたが、外にはみ出ていた手が、ひんやりと冷たい。

起き上がり、外に出ると言葉を失った。

夜空を埋め尽くす綺羅星が、ひとつひとつがまるで満月のように輝いていた。
光り輝く少年の瞳のように、大地を明るく照らしていた。
しばらく言葉を失って、見とれているうちに気付いた。
ここは最後の夜を過ごした、魔王の城とその沼地を望む、丘の上の野営地だ。

焚き火の前、ちょうどよい切り株の上に誰かが座っていた。

魔法使い「勇————」

思わず、言葉が漏れかけた。
だが、星明りと火に照らされた面影は、似ても似つかず、細い。

僧侶「気がつかれましたか。よかった……」

体を細めて座り、火の番をしていた彼女は若干、やつれているように見えた。
言葉もかすれて、鼻の奥が少しうずいているかのように、くぐもっていた。

魔法使い「……勇者、は…………」

僧侶からの答えは、無い。
代わりに彼女の視線は揺れて、焚き火を、見つめるでもなく見た。

魔法使い「……あ、っそ。…………やれやれ、参るわ」

夢であればいい、と思っていた。
だが夢ではなく、どこまでも、『事実』でしかない。
軽薄な物言いをしなければ、認められなかった。

魔法使い「あーあ、まったく。最後でド級のケチがついたわよね」

僧侶「そう、ですね」

魔法使い「終わってみれば、呆気ないわねぇ。……あんた、帰ったらどうすんの?」

僧侶「修道院に戻って……いつも通りの日々へ」

魔法使い「いつも通り、ねぇ。あたしはもう忘れちゃったけどねー。どんな風に生きてたんだっけか」

僧侶「え?」

魔法使い「あんたみたいに神さまのために尽くしてなんかないし、血も好きじゃないしさ。
      …………あたしの『日常』って、どんなんだったか。忘れちゃったのよ」

僧侶「魔法使い、さん」

魔法使い「『まほー』なんて使えたってさ。結局こんなもんなのよ。……ねぇ、教えてくれる?」

僧侶「はい、何でしょうか?」

魔法使い「……『神さま』を持ってるって、どういう感じなの?」

僧侶「あまり参考にはなりませんよ。私にとっては、当然の存在なので……考えた事もありません」

魔法使い「…………あんた、まだ『神さま』を信じてられるの?」

少し荒い口調になってしまった問いかけに、彼女は答えない。
気まずそうに、そして哀しそうに目を伏せるだけだ。
なんとなく、うしろめたいような気分になってしまい、ひとまず振ってしまった話題を逸らす事にした。

魔法使い「ごめんね、困らせちゃった。……今、何時かな」

僧侶「そろそろ、日の出の時間かと」

魔法使い「そっか。……なんか、実感できないわ。『魔王』倒したってのにさ」

僧侶「……はい」

地面に直に座り、帽子を深くかぶり直す。
夜露で湿った草が尻を湿らせ、不快だった。
しかしそのまま、膝を抱え込むような姿勢で火を見つめた。

朝が来れば、転移の呪文で最寄りの村へ飛ぶ。
そこでもう一晩泊まり、身体を休めてから勇者の故国へ帰る。
恐らくはその手はずだ。

僧侶「……『魔法』を極めるというのはどうです?」

いくつも前の質問に、彼女は遅れて答えてくれた。

魔法使い「『物語』が終わってから鍛えたって、虚しいだけじゃない。時間の無駄よ、無駄」

僧侶「この一行に加わる前は、何を?」

魔法使い「んー? 呪文学んで、錬金術店にいた事もあるし、モンスター退治も。……まぁ、何でもやってたわ」

目標など何もない、軽佻浮薄な人生だった。
『魔法』の天性を備えて生まれてきて、物心ついた頃には初級の呪文が使えた。
開錠の呪文でいたずらをした事もあるし、火の呪文でボヤを出した事もある。
成長すれば、なりを潜めはしたが……それでも、根本は変わらなかった。

錬金術を学んで、冒険者ギルドに登録して仕事を請け負い、盗賊を退治して。
奔放な身一つの生き方をしていたある日、酒場で、僧侶を連れた勇者と出会った。

女将に聞けば、『魔王』を倒しに行く旅の途中で、仲間を集めているのだという。
最初こそ笑い飛ばしたが、興味が出てきて————ほんの一時、近場のダンジョンの探索に同行した。

それが、きっかけで————気付けば、『世界を救う旅』に加わってしまっていた。

白んだ空を仰ぐと、少しずつ、星の光が減っていた。
輝きの弱い六等星は、もう見えない。
小さな星から順に、上り始めた太陽に消されていくかのようだ。

やがて、朝日がおずおずと顔を覗かせた。
方角は魔王の城の、その跡地。
雲一つない空の向こうに、朝焼けが星々を追い立てて、『魔王のいない日』が来たのを告げる。
さっぱりと洗われた空が、暖かな光を通してくれていた。
やがて野営地の裏手の林から、鳥たちの歌声が聞こえ始める。
永い、永い冬を越えて、ようやく時が動き出したような、そんな弾んだ声だった。

魔法使い「……嘘、吐き」

いつの間にか、立ち上がり————空を仰いでいた。
雲一つない晴天の空が、ぼやけて見えない。
視界が妙に揺らいで、その先にある空が、遠く霞んでいる。
それが涙であると気付けたのは、流れ落ちて、頬を濡らしてからだった。

魔法使い「…………何が、『空を見せてやる』よ。なぁにが」

瞼に突き刺さる日差しはどこまでも暖かいのに、それが輝いている筈の空は遠い。
涙の水底から見上げ、更に段々と沈んでいくようだった。
確かに守られたはずの約束は、それでも、『嘘』になってしまった。


魔法使い「見え、ない、じゃない……! 『空』なんて……どこに、あんのよ……うそ、つき……!」

初夏の明け方、始まりの朝。
分厚い雲が晴れたはずの世界は、それでも、晴れてはいなかった。

本日投下終了です
それでは、また明日
淫魔の国メンバーは出ないですが、どうぞよろしく

堕女神「私を、『淫魔』にしてください」
までは読んだんだけど、その後に書いたヤツある?

>>66
その後は何も書いてないです、ダイレクトにこれです
そろそろテコ入れでポチ含めて、淫魔サイドにも新キャラを数人出そうかと考えてはいるのですが……

では、投下いたします
思ったより全然短いので、明日で人間界編は最後です

*

その日、英雄達は王都へ凱旋した。
通りに立ち並ぶ家々からは国民がその姿を一目見ようと、大人子供の別なく顔を出した。
『魔王』を討伐した四人の英雄は、どんなに誇らしく胸を張っているのかと思い描き、
しかし期待と憧憬を孕んだ瞳たちは、ことごとく訝しげに光を失っていった。
『戦士』『魔法使い』『僧侶』の三人の姿は、国民を絶句させるばかりのものだった。

「……おい」

道の脇に立っていた衛兵の一人が、傍らにいた同僚にささやいた。
ヘルムの中で眉をひそめ、確かめるように。

「本当に、『魔王』を倒したんだよな?」

「ああ。そのはずだが……?」

「……勇者様がいないのは、どうしてだ?」

「さぁな。それより…………何だ。何なんだ、あれは」

「お前も思うか?」

「ああ。……いや。この場にいる全員が思っている筈だ」

「魔王討伐なんて前代未聞の偉業、英雄達の帰還。そのはずなのに……」

溜めをつくり、唾をのみ込み、それを表現する言葉を探し、覚悟をする。
そうしなければ、この様を比喩する事さえ、かなわなかった。


「まるでこんなの————葬列じゃないか」

処刑の丘を登る虜囚の姿が三人に重なり、その場にいた誰もが薄ら寒さを覚えて目を伏せた。
城門から波打つように大通りを駆け抜けた大歓声は、その始まりと同じくして凍っていく。
それほどまでに、城門をくぐった『英雄達』の姿には翳りがあった。

何より、先頭に立ち続けたあの男の姿が無い。
盾さえ持たぬ一刀で、伝説の竜さえ屠ると言われる最強の『人類』がいない。
手を振るのをやめた小さな少年たちは、その理由を傍らの父母に訊ねる。
そして、沈黙のまま頭上に添えられた手の上に疑問符を浮かべる。
撫でる手の意味も、先頭に立つべき男の姿が無いわけにも、行き着く答えが無かったからだ。

大通りのちょうど真ん中を通った時。
小さくて不器用な花束を抱えた少女が、僧侶へ近づく。
ただ一人彼女は背筋をしゃんと伸ばして歩いていたが、その目は泣き腫らして赤い。

少女「はい、これ。おねーちゃんにあげる!」

満面の笑顔とともに差し出された野花の束を、僧侶は膝を折り、視線を合わせて受け取った。
ようやく僧侶の顔に微笑みが戻り、少女の頬を優しく撫でた。
その様子に出迎えの国民達は安堵し、『魔王討伐』が虚報ではない事を確信できた。
だが、拍手も歓声も無い。
国民達は、ただ彼らへ黙礼を送り続けた。
背に抱えたひとつの『終わり』と、失われた存在への届かぬ感謝を示して。

人波の中に、すすり泣きが混じり始めた。
それらは伝播し、凱旋した英雄達への感謝と、恐怖の時代の終わりを告げる。

三人が城に着くまで、石畳に落ちる暖かい雨の音は、止むことが無かった。

その夜、魔王の討伐を記念して、城では豪奢な酒宴が行われた。

無意味な宴だった。
最大の『主賓』を欠いて、その仲間たちだけ。
魔物の脅威を真に知る者はなく、王侯貴族たちが豪勢な料理を前に大杯を乾し、語らう。
確かな歓喜の酒宴なのに、最も称えられるべき男は、そこにいない。

魔法使いはバルコニーに出た。
ひんやりとした空気が、ドレスに包まれた肢体を撫でる。
風はなく、夜空には三日月が下がっていた。
柵に寄り掛かって、眼下の庭園を見下ろしながらワイングラスを傾ける。
旅の道中で飲んだものよりはるかに上等なはずのそれが、妙に渋くて、酸っぱい。

振り返り、メインホールの中を見る。
戦士は、将軍達に何やら、熱心に口説かれているようだった。
憮然とした様子のままで、さして興味も無さそうに料理を食べながら話を聞いているようで、
眉をひそめあう将軍達の様子がおかしくてならない。
しまいには、皿を置いて酒を取りに向かって……途中で彼がこちらに気付いて、片眉を吊り上げて見せた。

「よろしいでしょうか……魔法使い様」

僧侶の姿を探そうとした時、左手側から、声をかけられて振り向く。

そこには————『高貴』がいた。
収穫を待つ麦畑を思わせるような金髪が、頂いた白銀のティアラと競うように輝く。
磁器人形のように白くて滑らかな肌、目尻の下がった、朝もやの中の湖に似た、青い瞳。
身を包む装いは、月をほどいた糸で仕立て直したみたいに、美しい。
ただいるだけで周りの空気を黄金へと変えてしまいそうな、挿し絵が姿身を得たような、『お姫様』。
事実として『国王』を父に持つ、正真正銘の『王女』が、執事を伴って立っていた。

驚きもしなければ、敬意を表すような素振りも、示す気にはなれなかった。
それが、八つ当たりだと、分かってはいても。

手に握ったグラスに、意識せずとも力が籠もった。
『楽しんでいますか』『この度は、おめでとうございます』『この国の民を代表して、感謝の意を————』
そんな言葉が出て来たら、構わずにグラスの中身を顔めがけて引っかけてやるつもりだった。
例え、彼女の『父親』であろうとも、そこは譲らない。
譲らなかったからこそ————バルコニーに一人で、誰も寄せ付けず、たそがれる事を選んだ。

魔法使い「何でしょうか? 王女さま」

どこか含みを持たせた言い方とともに、グラスを持つ手に力を注ぐ。
だがその手にこもった力は、すぐに解けることになった。

王女「……この度は、誠に痛み入ります」

彼女は、そう言った。
メインホールの中でゆるんだ笑顔を浮かべて歓談する貴族にも似ず。
大きな魚に逃げられ、苦虫を噛んだようにしかめっ面の軍人たちにも似ず。
心の底から、悼むような表情で————そう、言った。

魔法使い「……こちらこそ、ね」

彼女の顔に浮かんだのが、紛れもない『哀しみ』だと分かったからこそ、素っ気ない言葉が出た。
何度かしか会った事は無いが————女同士だからこそ、分かる事もある。
彼女は、決して……『救国の英雄』としてだけ勇者を見ていたわけではない事も、それだ。
そんな風に返すと、王女の身体が少し震えて、長い金髪が揺れた。

王女「大丈夫なのですか?」

魔法使い「『大丈夫』にならなきゃ。もう……いない、んだし」

死んだ————とは、あれから数日が経つ今でも、口にしたくはなかった。
子供くさいこだわりだとしても、言葉にはできない。
まだ、認めて前へ進む事など考えられない。

もう一口、ワインを含んだ。
少しだけ、少しだけ……さっきよりも甘く感じて、どこか潮風を思い出すような芳醇な香りが、口から鼻を抜けた。

魔法使い「……現実味、無いのよ」

王女「? と、おっしゃいますと……」

魔法使い「まさか、自分が『勇者』の一行に加わってさ。『魔王』を倒しちゃったなんて。おとぎ話じゃん」

王女「でも、あなた方はそれを為遂げた。偉業です。……喜ぶ事ができないのは、ご尤もですが」

魔法使い「ありがと。もしもあたしの銅像作るんなら、美人にしといてほしいわねぇ」

王女「謙遜なさらずとも、魔法使い様は……お美しいですよ」

魔法使い「あんたに言われるとイヤミよ、もう」

ふてくされるように言ってからワイングラスを空けてしまうと、直後、彼女の侍従から別のグラスが差し出された。
引き替えるようにしてそれを受け取り、口をつける。
今度は、レモンを使った果実酒だろうか————酸っぱい香りに反してとろりと甘くて、後味は少しほろ苦い。

魔法使い「……ありがと」

礼を述べると、彼は霜のような髭を僅かに揺らして、すぐに身を退いた。
片眼鏡の似合ういかにも老紳士といった風貌で、身のこなしや礼装の着こなしにも、まるで隙が無い。
もっとも……そうでなければ、『王女』の従者など、できるはずもない。

魔法使い「そうよね。これって……『偉業』なのよね?」

王女「はい」

魔法使い「じゃあ、さ……何で、こんなに……嬉しく、ないのかな。誇らしくないのかな」

王女「魔法使い様……」

魔法使い「あいつがいないから、ってのも……あるけどさ」

『勇者』がいなくなっても、それだけのせいではない。
彼との最後の話が、まだ残っている。

魔法使い「さっき戦士が、軍部のお偉方に口説かれてるの見ちゃってさ。……考えちゃうのよね」

王女「…………」

魔法使い「まぁ、でも……あんたは、気にしないでいいのよ。いなくなっちゃって寂しいのは、同じだからさ」

王女「勇者様は」

魔法使い「ん、何?」

王女「勇者様は……何故、去ってしまったのですか?」

言うべきか、言わずにおくべきか少しだけ迷って。
やがてこちらを見る彼女の目は、真っ直ぐで……少しだけ潤んでいるのを見て、決心した。
黙っておくことは————同じ男に惹かれた身として、冒涜になる。
そう、感じた。

魔法使い「……誰も、傷つけたくなかったからよ」

王女「傷つけたく……なかった?」

魔法使い「あいつは、言ったの。……救った世界の人々に、剣を向けたくない、ってさ」

王女「どうして、そんな……!」

魔法使い「たぶん、さ。……あんた、あいつと……一緒に、なるはずだったんでしょ?」

言うと、王女の喉が引きつって————生唾を呑んだ。
それを見て、魔法使いは構わず言葉を続ける。
自分がどんな表情をしているのか、分からないまま。

魔法使い「あいつに勝てる『人類』なんていないわよ。一緒に旅したあたしが言うんだから間違いない。
      …………だから、みんな欲しがるのよ。人類のための『勇者』じゃなく、国のための『英雄』としてね」

残酷な事を告げてしまっていると、分かっている。
だが、それも承知の上で続ける。
言葉に、できるだけ感情が乗らないように……淡々と。

魔法使い「あんたと一緒になれば、『勇者』はこの国のモノになる。……あとは、言わなくても分かるよね」

返事は、無い。
顔を上げて、王女の顔を見るのがつらかった。
『勇者』と『王女』、そのどちらも道具にしようと、『父親』がそう考えていたのを、告げてしまったから。

メインホールの喧噪に掻き消されそうな、小さな嗚咽が聴こえた。
空気を振り払うように、再びグラスに口をつけた。
今度は妙に苦くて、香りも感じなかった。
鼻の奥で何かが突っ張っているような感覚がして、つい、顔をしかめる。

王女「もう一度、訊いて……いい、ですか」

魔法使い「うん」

王女「勇者様、の……最後は、どう……でしたか?」

魔法使い「血まみれでさ。折れた剣握って、真っ二つにした魔王の上に立ってた。……カッコ、つけすぎ」

王女「……その後は?」

魔法使い「帰りたい。でも帰れない、でも死にたくない。そんな時、人ってどんな顔をすると思う?」

王女「…………」

魔法使い「さっきも言ったけど、さ」

顔を上げると、王女の瞳が、真っ直ぐにこちらへ向いていたのが分かった。
月から湧いた清水のような涙の粒が、ほっそりとした顎に向かって流れていた。

魔法使い「あんたのせいじゃない。……あんたは、これっぽっちも悪くなんてない。……ただ、ね」

最後の『強敵』の言葉が、木霊する。

魔法使い「『雷』は、『雨雲』と一緒に、遠くへ行っちゃったのよ。みんなが怯えないように」

王女「……魔法使い、様」

魔法使い「何かしら?」

王女「人は……争いを止められる時が、来るのでしょうか」

魔法使い「…………時間、かかるわよ。親子でさえケンカするんだしさ」

王女「いえ。これからかかるのではありません」

彼女の声は、窄まった声帯がそうさせて、頼りなく震えていた。
だが、涙に揺れる瞳は、違う。
海の底にまで揺らぎながらとどく月明かりのように————確かに、爛と輝いていた。

王女「これまで、愚かなほどにかけてきた時間を。……今、報わせる時が来たのです」

魔法使い「何か、企んでるの?」

王女「…………私の我が儘を、訊いていただけますか?」

魔法使い「……いいわよ、何でも言ってみなさいな」

グラスを掲げて、片目をつぶって微笑んでみせる。
磨き抜かれた空っぽのグラスに反射したのは、月か、燭光か、それとも、王女の瞳の輝きか。
その答えを確かめようと————グラスに、とがらせた唇を乗せた。

毎回行方晦ませて不安にさせて申し訳ないので、twitter垢でも作ってみようかなと思ったところで本日分終了です
それでは、また明日〜

スレタイ分かりやすくしてもらえるほうがありがたい

>>81
内容的にちょっと『淫魔』を入れられなかった、すまない

投下開始します

*

パーティを解散する日が、やってきた。
時は、決戦から二週間。
『魔王のいない世界』が、当たり前になり始めた————そんな、時の事だ。
王国、その城下の広場に、三人の姿がある。

僧侶「それでは。……皆様には、お世話になりました」

まず最初に、僧侶が。
彼女は修道院に戻り、再び、聖職者としての、『冒険』では無い道を歩む。
そちらの方が、彼女には似合っているはずだ。

戦士「いや。世話になったのは俺達だ。……お前には、何度助けられたか分からない」

魔法使い「そうよ。あんたがいなかったら……いや、一人でも欠けたら、魔王は倒せなかった」

僧侶「……長い旅でした。ですが……これは、永遠の別れではありません。いつでも、院に来て下さいね」

僧侶は身一つ、持ち物は十字をあしらった杖が一本だけ。
勇者と初めて会った時の服装だ。
修道院は王都から馬車で数時間の距離にある。
いつでも会おうと思えば会いに行けるし、きっと、そうする。
だが、三人とも感じていた。
会えはしても、二度と、その運命が交差する時は来ないのだと。

何本もの流れはやがて一本の大河となり、大海原へと続く。
今度は、その逆だ。
一本に重なった大河は、逆戻りして————ふたたび三つの、別々のささやかな流れに戻る。


旅が終わるというのは、そういうことなのだ。

広場から馬車に乗る時、彼女はもう一度だけ、深くお辞儀をした。
その顔は満ち足りていて、別れの哀しみさえも見せない。
もう、彼女は吹っ切ったのだろう。
勇者と魔王がいなくなり、この平穏が続くのだと、信じた。
彼女の職業は、『僧侶』。
『信じる』ことと『祈る』ことを御業へと変える、恐らくは唯一の職だから。

そして、世界を救った、癒しの御手は再び修道院へと戻った。
幌馬車の中で、出立にふさわしい初夏の空の下、がらがらと音を立て、石畳の上を馬車が駆ける。
残された二人は、それを、見えなくなるまで目で追って————やがて、逆方向へ同時に目を向ける。

広場の中央には、人だかりができていた。
急造の演壇がこしらえられ、そこに誰が立つのかと、民衆は囁き合う。

魔法使い「……はじめよっか」

戦士「ああ。……俺達の、最後の『クエスト』を」

言うと、戦士は帯びた剣の鞘尻を使い、近くの路地にある木箱を叩いた。
人が十分に隠れられるほどの大きさで、側面には細工がしてあり、簡単に開けるようになっている。

魔法使い「王女様。あんた……本当に大丈夫?」

中から出てきたのは、多少くたびれてはいるものの……純白に装った、王女だった。
長い金髪は少しはねている。
それを丹念に手ぐしで整えながら、彼女は、大路へ出てきた。

王女「はい、問題ありませんよ。……それでは、よろしく、お願いいたします」

魔法使いと戦士が先導し、王女を演壇へと導く。
気付いた民衆が道を開け、巡回の衛兵は、泡を食ったように絶句していた。

やがて、彼女が演壇を登り、広場に集まった民衆に向き合う。
その両脇を固めるように、二人は杖と剣に手を添えて侍る。。

王女「皆さま、ごきげんよう。……私はこの王国、王位継承権第三位。王女。急ですが、どうかお許し下さい」

その一言で、広場は一瞬のうちに静まり返った。

王女「先日の、勇者様ご一行の凱旋でお気づきになられたかと存じますが、まず、はっきりと言わせていただきます」

彼女は息を吸い込み、言い聞かせるように————宣言したように、言い切った。

王女「魔王は討ち滅ぼされました。そして。勇者様も、また……世を去りました」もう、魔王に怯える日々は来ません。
    世界は、再び安寧を取り戻しました————と、皆さまに言えたのなら……どんなに良かったかと思います」

付け足した言葉に、聴衆は怪訝な表情を浮かべた。
やがて、「どういう事ですか!」と野次が飛び、王女がそれを飲み込むように頷くと、演説が再開した。

王女「……恐らくは、この王国と隣国の間で、近い内に……戦争が、再開されます」

広場に悪魔が通ったような沈黙が駆け抜け、衛兵達が演壇に近づこうとした。
その者達へ、魔法使いと戦士は視線を向け、武器に添えた手を握ってみせた。
それだけの事で、彼らの身体は硬直して、『聴衆』の一人になる。

王女「ですが、果たして————それは、勇者様の望みでしょうか」

王女「私とて、莫迦ではありません。我が国と隣国の確執は存じ上げます」

この王国と隣国の敵対は、かれこれ三百年ほど遡る。
ある史家は王位継承問題に発端があると言い、別の史家は領土問題だと言う。
はたまた貿易摩擦や、もっと小さな積み重なった問題だとも言うし、もしかすると————全て、かもしれない。
幾度もの休戦を挟みながら、二つの国は敵対してきた。

王女「相手を『許す』側なのか。それとも、私達が『許しを請う』側なのか。それを分かる方は、いらっしゃいますか?」

見上げる聴衆から、返答は無い。

王女「……私達は、『勇者』と『魔王』ではありません。私達は、人間です。討ち合う宿命になんて……置かれて、いない筈です」

そこまで言うと、民衆からようやく声が上がった。
人々はそちらを見て、やや遠巻きに距離を取った。
歳にして十歳ほどの少年が、握り拳を固めたまま、声の限りに叫んでいた。

少年「そんなの、違う! 僕の父さんは、隣の国の連中に殺された! だから、僕も……殺してやる!

王女「————あなたの父君は、何をしていらしたのですか?」

少年「兵士だった! 五年前に……戦場に行って、帰って来てない! だから……!」

続きの言葉は、出ない。
少年は哀しみに加え、大声を張り上げた事で紅潮した顔に、じんわりと涙を滲ませた。

王女「……その哀しみは……よく、分かります」

少年「えっ……?」

王女「『たいせつな人』が返ってこない哀しさ、心細さ。……それを、貴方は……その幼さで、知ってしまった」

少年「そうだ、だから……!」

王女「……私達は、『種』を植えましょう」

王女は、顔をわずかに俯けて、消え入りそうな声で呟いた。
その声は、恐らく民衆の最前列と、傍らの二人にしか聞こえていない。
しばらくドレスの裾を握ってから——彼女は、続けた。

王女「古くて大きな、朽ちかけてなお残る楔を抜きましょう。……勇者様がくれた、今この時。私達みんなで」

雨に打たれて震える小鳥のように、王女の肩は、震えていた。

王女「育てて食べる豆でもいい。心を癒すきれいな花でもいい。怒りとともに植えた、毒花の球根でもいい。
   でも……必ず、自分で育ててください。どこかの誰かに、任せたりしないで。
   ……もう一度、言わせてください」

堂々と、顔を上げた。
涙に濡れたその顔を、広場を埋め尽くし、通りの窓から身を乗り出し、何事かと耳をそばだてる国民に、
惜しげもなく見せつけてしまうかのように。
そして、もう一度だけ————もう一度だけ、世界中の人々が待っていた言葉を。

王女「……魔王は、もう世界にいないのです。勇者様が、命と引き換えに……倒してくれました」

魔法使いと戦士は、いつしか、武器に添えた手を離していた。
もう、広場に警戒すべきものは無い。
聴衆は押し黙り、衛兵達も、うなだれていた。

王女「……今しか、ない。私達は、『勇者と魔王の物語』の終わりを機会として、生まれ変わりましょう。
   古い因習も、受け継いだ憎しみも消し去って。……『書』を、作り直しましょう」


演説が終わって、日が沈んだ頃。

魔法使いは、旅立ち————『勇者の一行』は、解散した。

——————それから一ヶ月が経つ頃、王国と、隣国の間で会談の席が持たれた。
場所は、どちらでもない中立第三国。
王女の……娘の根強い説得を受け、国王自ら赴いた。

城下の広場で行われたあの演説は、衛兵や国民の間を瞬く間に駆け抜けた。
衛兵から衛兵隊長へ。城下の民から、地方の農村へ。
やがてその内容は文書となって上流階級へと伝わり、それを読んでしまった若い嫡子達の心を、打った。
下から、上へ。揺らぎが生じつつある。
それらの声はやがて、看過できないほどとなり、一応の格好つけとして、この席を持つ事になった。

勇者の死を告げられると、隣国の王と、王子は————哀しんだという。
「勇者は魔王と相討ちになり、世界を救った」と告げると、不倶戴天の敵であった隣国は、
その偉業を称えるとともに、哀悼の意を捧げるために、国を挙げて喪に服した。
彼らは、喜ばなかった。
世界を救った、敵国の男の死を嘆いた。

魔王討伐から、一年が経つ頃。
隣国との間に、停戦協定が結ばれた。
その影には、王女の力があったのは疑いない。

ふたつの握り拳は、握り合う手のひらになった。
力を抜いて開かれた手は、『太陽』の形を、きっとしていた。

勇者が去った世界は、皮肉な事に……それ故に、回り始めた。
嵐の去った夜明け、風雨を凌いでいた動物たちが、夜露に濡れた草を踏みしめて巣穴から這い出すように。

世界の全てが、同じ色の旗を分け合う事は、ない。
だが、敵対の理由さえ見失った二国が歩み寄る事は、できた。

それでも————いつかは。
再び、世界は……炎に包まれる日が、来るのだろう。
何十年後か何百年後か、はたまた——願わくば、数千年後に。

*

決戦から四年が経つ春の日、魔法使いは、王国の修道院を訪れた。
真っ白な建物で、よく晴れた日の雲のように大きくて、足を踏み入れず、ただ眺めるだけでも
心が引き締まり、指を組みたくなるような————そんな、修道院だ。

軋みを上げる扉を開け、礼拝堂へと入る。
そこには——ほんの数年では変わらない細い背中が、すぐ正面に見えた。

魔法使い「やほっ。元気だった?」

声に驚いた様子もなく、その法衣に包まれたなよやかな僧侶は立ち上がり、楚々とした仕草で振り向いた。

僧侶「ええ。魔法使いさんこそ、お元気そうで……安心しましたよ」

魔法使い「あんた、変わんないわねー。つまんないわよ、もう」

僧侶「変わらず毎日祈る事。それだけが、私の『職業』ですから」

魔法使い「そのマジメっぽさも。……たまには、一杯飲まない?」

子どもっぽく、盃を仰ぐ仕草をしてみせると、僧侶は苦笑した。

僧侶「折角ですが、遠慮いたします。戒律上、お酒はいただけないので」

魔法使い「破っちゃいなさいよ。神さまだってさ、世界救った女の子にバチなんて当てないでしょ?」

僧侶「ええ、間違いありませんね」

静謐な礼拝堂の空気の中、数年ぶりに再会した二人は、変わらずに談笑する。
それでも歩む道は絶対的に違い、共通の目的などもうない。
『旧友』ではあっても、もう……『仲間』ではない。

僧侶「……それで、魔法使いさん。本日はどういったご用件でしょうか」

魔法使い「いや、別に。……何よぅ、あたしの顔なんて見たくもなかったー?」

僧侶「ふふふ。本当に……お変わりない。今は、どのような……?」

魔法使い「日常よ、日常。……強いて言えば、あいつの言うとおりにしてたね」

僧侶「……冒険稼業ですか?」

魔法使い「そんな感じ。とーぞく退治したり、モンスター退治したり。……この間は、『ぼくの犬をさがして』なんて
      とってもステキな『クエスト』をいただいちゃって。ま、あたしの魔法ですぐ見つかったけどー」

僧侶「素敵ですね」

魔法使い「あとは薬作って売ったり、護符作ってあげたり。そんな感じで生きてるわけよ」

僧侶「魔法使いさんらしい。……気になっていたのですが」

魔法使い「んー?」

僧侶「あの……『帽子』は、どうなさったのですか?」

魔法使い「訊くの、遅っ」

頭の上に、もうあのとんがり帽子は乗っていない。
するっと伸びる栗毛が、何阻まれることなく肩辺りまで流れている。
たった一つ特徴をなくしただけではなく、表情も、身のこなしも、負けん気の強かったあの頃とは違い、
落ち着きさえも兼ね備えた、爽やかな色気まで醸し出していた。

魔法使い「なんか、もう……特徴なくなっただけで、どんだけ存在感なくなるの、ってハナシよね」

僧侶「申し訳ありません。……でも、お似合いです。お綺麗ですよ」

魔法使い「ま、死ぬまであの帽子使う訳じゃないしさ。いい頃合いだったのよ、うん」

照れ臭くなり、毛先を弄びながら、妙に客観視したように頷く。
そんな所は————四年前と変わっていない可愛らしさがある。

魔法使い「で、あんたこそ。最近どうさ? 四年前と変わってない訳じゃないんでしょ」

変化は、僧侶も同じ。
見慣れた法衣はそのままでも、纏う空気はいかにも柔和で、うっかりと口を滑らせてしまいそうな安心感と、
それでも受け入れてくれる包容力まで感じさせるような、慈しみに溢れた佇まいを身につけていた。

僧侶「そうですね。……ですが、私は……ずっと、ここにいました。自分の変化には気付けませんよ」

魔法使い「ええ若いもんが、何を引き籠っとるかねー?」

僧侶「いえ、たまには王都や近くの村まで行きますよ。……『冒険』は、なくなりましたが」

魔法使い「物足りない?」

僧侶「いえ、まさか。……私は、これでいいんです」

魔法使い「よね」

僧侶「はい。私は……満足しているんです。迷える人々の懺悔を聴き、導き、その前途を祝福し、祈る。
    たったそれだけの事で、私は幸せです」

魔法使い「……気になってて、聞きそびれたまんまだったけど。なんであんた、勇者についてきたのよ?」

僧侶「話すほどでもない、些細な事ですよ。……お話したくない訳ではありませんが、面白くはありませんよ」

魔法使い「ふーん……。まぁ、いいわ。戦士の奴は、どうしてるかな」

僧侶「ええ。あの後……お城の近衛兵になられたとか」

魔法使い「ふぅん。似合わなー」

僧侶「何故か、と一度。私も訊ねた事があります」

魔法使い「うん。何て?」

僧侶「……『もう、戦場には立ちたくない』と」

魔法使い「……そっか」

僧侶「今は、王女殿下の親衛隊に抜擢されたとか……」

魔法使い「あはははっ! あんなガタイで、あんなコワモテで? やっぱ似合わない」

戦士は、二度と『戦場』に戻る事はなかった。
世界を救い、そこに住む人々を救ったその手で、人を殺めることはできなかった。
勇者が最後にそう言った、たった一言が——何年経とうと、胸に熱いから。
その代わりとして、かつて命を預けたその男に惹かれた、たった一人の女を護ると決めた。
何よりもそれは、王女の強い希望のためだった。

魔法使い「……あたし達は、変わらない。でも、あいつは……変わったんだね」

僧侶「ええ。……それもまた、人の強さなのではないかと。今は、そう思います」

魔法使い「変わらない事も、変わる事も。大事よね、やっぱり」

入り口の扉から、春風が吹きこんだ。
柔らかくて暖かい風に、桃色の花びらがひとつ、ふたつ紛れてくる。
舞った花びらが礼拝堂の滑らかな床に落ちて、一点の華を添えた。

僧侶「……あ、申し訳ございません。少しだけ……外します」

魔法使い「うん?」

開いた扉の向こうに、青年が立っていた。
つば付きの帽子をかぶった背の高い、人懐っこそうで、それでも力の籠もった目をした精悍な男だ。
見ると、肩掛けの鞄の中から手紙の束を取り出して、小走りに駆けてきた僧侶へ手渡していた。
僧侶はそのまましばらく彼と言葉を交わしてくすくすと笑い、青年の方は、どこか、緊張しているらしかった。
魔法使いはそれを見ると——失笑し、肩をすくめて一人ごちる。

魔法使い「なーんだ。……ちゃんと、『女の子』してんじゃないの」

僧侶がもう一度、祭壇の方を振り返った時。
そこにはもう、魔法使いは、いなかった。

それから程なくして。
魔法使いは一人、決戦の地を訪れた。
まずは最寄りの村へ呪文で飛び、そこから少しだけ旅をした。
あの決戦へ望む道のりを、一人で辿るようにして。
休憩も、同じ場所で取った。
茶葉は使わず、沸かしたお湯を飲んで身体を暖め、使い古した天幕で眠った。

一年前、勇者が故郷だと言っていた農村を訪れ————否、眺めた事がある。
丘の上から見る村は、とても美しかった。
言っていた通り大きな村ではなく、風車小屋がひとつ、鐘楼がひとつ、小さな民家が数える程度。
少し離れて農家があり、畑は収穫を控えて爽やかな風に揺れていた。

目を凝らしてみれば、どことなく勇者の面影がある、少女がいた。
確かめずとも、分かる。
あれは勇者の妹で、遅れて家から出てきた二人は、その父母だ。
世界を救った『勇者』にして『子』、そして『兄』は、旅から帰らなかった。
それでも、乗り越えていた。
乗り越えて————明日を生きる為に、黄金の麦穂を刈り取っていた。

それを見届けると、魔法使いはその場を離れた。
ただ————それだけを、見たかったから。

帰らなかった、勇者の代わりに。

魔法使い「……そろそろ、あの場所ね」

身一つで辿った旅路は、最後の休息所へ近づいていた。
刻は、昼下がり。光の届かぬこの林を抜ければ、開けた丘に着くだろう。
風は暖かいが、少し湿っている。

もうここには魔王の城は無く、魔王もいない。
喉から入り込む地獄の瘴気もなく、魔物の声など聞こえてこない。
入れ替わるようにして、小鳥の歌声と虫の声だけが聴こえる。
これも、紛れもなく————魔法使い自身が勇者とともに、取り戻したもののひとつだ。

やがて、昼なお暗い林の終わりが見えてきた。
緑の迷宮の出口に進むほどに、空が見えてくる。
そしてようやく。
林を抜けて、最後に語らった、あの思い出の場に着いた。

そこは、不思議と変わっていない。
もしかすると訪れた者が他にもいたのか、焚き火の痕が残っている。
座って暗闇の空を見上げた切り株も、あの時のままだ。
つい愛しげに、それを眺めてしまう。

その時、気付く。
湿地帯の不毛な悪臭は漂ってこない。
濡れてまとわりつくような湿り気もない。
崖の方へと歩いて、魔王の城の聳えていた沼地を、見下ろす。

そこは、一面の花畑に変わっていた。
奇跡としか思えない程に、見渡す限りの白い花に埋め尽くされていた。
思わず、降りられる道を探して駆け下りる。

あの沼地が、果たしてこんな事になり得るのだろうか。
とてもではないが、信じられず————魔法使いは、何度も何度も地面を確かめる。
だが土はしっかりとしていて、その上に、まるで綿雲のように真っ白な花が咲き誇っていた。

魔法使い「う、そ……こんな事って……」

歩を進めて、魔王城の瓦礫へと近づく。
当然、片付けられてはいない。
まるで史跡のように、崩壊した魔王城の名残がそこにはある。

びっしりと苔がむし、瓦礫の間からは草花が芽生えて、蝶が舞う。
更には小鳥やリスまでも、城跡に戯れていた。
そこが人間界で最も恐れられた場である事を、知りもしないかのように。

魔法使い「……『雷』が、なんで『勇者』の力なのか知ってる————?」

誰にでもなく————強いて挙げるのならば、『世界』そのものへ問いかける。
その表情は誇らしげでもあり、少しだけ、寂しげでもあった。

雷は、雨を降らせる。真っ黒で分厚い雲を切り裂いて、雨を吐き出させる。
雨は、空中の塵を洗い流し、地に落ちれば恵みの雨となる。
雨となって落ちれば————その上には赤い太陽と青い空が覗かせてくれる。

雨は、全てを洗い流す。
積み上げられた憎しみの塔を。
怒りに任せて描いた、地獄の絵を。
そして全てを洗い清めれば、空には、混ざらなくとも寄り添い合う、七色の架け橋がかけられる。

魔法使いが見上げた空には、少しだけ、名残惜しそうな雲がかかっていた。
風が、決戦地に芽吹いた花畑を吹き抜け、可憐に白い花びらを舞い上げて空へと運んだ。
暗雲が垂れ込めた世界の、その中心だった空へ。
彼女は思わず微笑み、今度は、すっきりと透き通った眼で、『約束』を見た。

魔法使い「空、見えたよ。…………ねぇ」

昼下がりの空、魔王城の跡地の上には、雨がくれた橋がある。
『魔王と勇者の物語』のおしまいのページには、赤と、青と、白、そして七色。

魔法使い「——————ありがと」



暗黒を払い、世界に色と光を取り戻す者。

——————世界はそれを、『勇者』と呼んだ。







本編、勇者一行の後日談はこれで終了です
ありがとうございました

こんばんは

とりあえず三編ある短編を、何度か(4〜5回)に分けて投下させていただきます
それと、twitter垢も取らせていただきましたので、新作の投下時期などをこちらで予告いたします
毎回行方を晦ませてしまって申し訳ない

https://twitter.com/inmayusha

淫魔「はーい、こんばんはー!」

男「……誰ですか、こんな夜中に。寝てたんですが?」

真夜中に扉を叩く音がして、開けてみるとそこには————小さな、少女がいた。
暗闇の中で、そして寝ぼけ眼にはよく見えないが、少女は妙な仮装をしているようだった。
翼のようなものが見えるし、頭には、何やら角が生えている。

淫魔「あなたのせーえき、いただいちゃいに来ましたー! 入っていいですかー?」

男「ちょっと待て、君」

淫魔「え、どーしたんですか?」

男「……君、ご両親は?」

淫魔「ふえ?」

男「家は近くなのかい? 送って行こうか。閉め出されたんなら、俺も謝ってあげるから」

淫魔「え、ちょっと。何か勘違いしてませんか?」

男「こんな夜中に、素っ裸で子供を放り出すなんて許せないな。さぁ、行くぞ。案内してくれ」

淫魔「で、ですから! 私は! サキュバスなんですってば!」

男「…………君ね。嘘はやめようよ。いくらご両親の所に帰りたくないからって……」

淫魔「だから違うって言ってるでしょ!? そういう事じゃなくて!」

男「……どういう事なんだい?」

淫魔「私はサキュバスで! あなたのせーえきを貰いに来たんですってば!」

男「…………ふむ」

淫魔「やっと分かってくれました?」

男「分かった、ちょっとそこで待っててくれ。すぐに戻る」

淫魔「え? ……はい」

一度扉を閉め、居間の戸棚の中を漁る。
そこにしまわれていた物を手探りで手近なバスケットに入れて、上から布をかぶせて玄関へ戻る。
ようやく扉を開けると、言いつけどおりに少女は待っていて、期待に目を輝かせていた。

男「……はい、これ」

淫魔「?」

男「確か、万聖節はもう過ぎたと思ったんだけどなぁ。フツーの焼き菓子だけど、あげるよ」

淫魔「わーい! いいんですかー!?」

男「ああ、勿論だよ。……それじゃ、気をつけて帰るんだよ」

少女が喜んでくれた事に頬をゆるめ、軽く頭を撫でる。
指先に触れた『角』は不思議と暖かく、まるで、本物の角のように硬かった。
日だまりの猫のように目を閉じる姿は、何とも言えない愛くるしさがある。

別れを告げてドアを閉めて鍵を下ろし、ベッドに戻ってから。
————再び、猛烈な勢いでドアが叩かれた。

男「もー……だからさぁ、こんな夜中に迷惑だってば。早く帰りなよ。怒るよ?」

開ければ、相変わらず少女が立っていた。
少しムッとしたような表情で、顔を突き合わせるなり食ってかかってくる。

淫魔「だ、か、ら! 違うって言ってるでしょ!? 話聞いてますか!?」

男「……『サキュバス』がどうとか?」

淫魔「そーそー、ちゃんと聞いてるじゃないですか。さっきから用件言ってますよね?」

男「『精液』だって?」

淫魔「うんうん。えらいえらい」

男「……こんな事言いたくないんだけどさ」

淫魔「はい」

男「いくらなんでも、『精液』なんて軽々しく口にしちゃだめだよ。『サキュバス』って設定の仮装でもさぁ」

淫魔「もー! 設定じゃないって言ってるでしょ? ほら、これならどうですか!?」

男「おっ!?」

目の前で——少女の翼が一気に数倍の大きさに膨れ上がり、ばさりと翻る。
身体を完全に包み隠せるほどの黒翼が視界いっぱいに広がり、市街の闇さえも飲まれた。
そのまま、ぱたぱたと煽いで見せてくれると————再び、少女の翼は元の大きさに戻っていく。

淫魔「へっへーん! どうです? これなら信じてくれますよね!?」

男「ほっ……本当なのか!?」

淫魔「そうそう、その反応が欲しかったんですよ。さーて、入ってもいいですよね? お邪魔しまー……」

敷居をまたごうとして、再び掌で押されて逆戻り。

男「……本当の本当に、サキュバスなのか?」

淫魔「そうですよー。なんなら、ベッドでもっと証明しちゃいますよー」

男「……ふーん、そっか、本当にサキュバスかー…………」

淫魔「どうかしました?」

男「チェンジ」

唾を吐き捨て——無慈悲に鍵を閉め、
だめ押しで椅子を持って来て内側からノブに引っかけてつっかえ棒にして踵を返した。
猛烈なノックと、ドアをガチャガチャやる音に背を向け、奥の寝室へ戻る。

ベッドに潜り込もうとしても、音が止まないので……不機嫌に起き上がって花瓶を手に取り、
玄関のドアへ投げつけて割ると、扉越しに小さな悲鳴が聴こえてからようやく静かになった。

それから数分、寝入った頃に……布団の中に、もぞもぞと動く何かの気配を感じる。
眠さに勝てず、そのまま寝ていようと思ったら……寝巻のズボンを、下ろされた。
何となく足を動かすと、爪先が柔く弾力のある暖かいものに触れた。
ひとまずどうするかと考えた結果————爪先を使い、それを抓り上げる事にした。

???「いっ……だぁぁぁぁぁ!? いだい、いだいいだいっ!!」

男「うるっさいなぁ。いいから寝かせてくれってば」

布団を思い切りまくり上げて現れたのは、外にいる筈の『サキュバス』だった。
悲鳴じみた声を抗議に変え、見えた黄金の瞳に涙を滲ませて。

淫魔「つねる事ないじゃないですかーっ! 太ももちぎれるかと思いましたよ!」

男「鍵閉めただろ。何でいるんだよ」

淫魔「そりゃ、まぁ……サキュバスですから」

男「だったらドア叩く必要無かったじゃないか。……っていうかチェンジって言ったよね」

淫魔「あ、そうだ! どういう意味なんですか!?」

男「聞いた通り。他のコを呼んでくれるかな」

足首まで下ろされたズボンを上げて、ベッドに腰掛ける。
少女はベッドの上に正座したまま、ぷりぷりと可愛らしく怒っていた。

男「……あれ、もしかしてそういうシステム無いの?」

淫魔「ありませんっ!」

男「あ、そう。……じゃ、帰っていいよ。お疲れー」

淫魔「あああああ、もうっ! テンション低いですよ、低いっ!」

男「いや、俺別にそういうの飢えてないんで。困ってないんで」

淫魔「こっちが困るんですよーっ! お腹空いたんですってば!」

男「あ、そう。……お菓子、あげたよね?」

淫魔「そっ……それは、別です! お腹が……ああもう、伝わらないぃっ!」

男「……なるほど、分かったよ。精液でいいの?」

淫魔「は、はいっ! くれるんですね!?」

折れたような素振りを見せると、少女の黄金色の瞳がことさらにキラキラと輝き、
砂金の粒を暗闇に舞わせているような錯覚までした。
満更でも無い気分になり————ベッド脇の水差しとともに置かれたグラスを手に、立ち上がる。

淫魔「どこに行くんですか?」

男「何って、精液でしょ?」

淫魔「あ、はい」

男「だから、トイレで出してくるって。一回分でいいんだよね? あー、でも……出るかなー」

淫魔「ちょっと待った」

男「今度は何だい」

淫魔「何、じゃないでしょ!? なんでそうなるの!?」

男「だから、新鮮なミルクをあげようと思って……」

淫魔「違うよ! 全っ然違うよ!」

男「うるさいな、何が不満なんだ」

淫魔「な、えっ……? ひょっとして、わたしじゃダメなんですか!?」

男「はい」

淫魔「即答!? 何で? 何でですか!?」

男「んー、まぁとりあえず見た目かな?」

淫魔「えぇぇぇっ!?」

男「いや……君は可愛いと思うよ。でも俺、ちょっと……犯罪は……」

淫魔「だから、サキュバスだってば!?」

男「あぁ、そういえばそんな設定だったかな」

淫魔「設定じゃないですって! もう何なんですかこの空気!? サキュバスのいる空間じゃないですよ!?」

男「……つまり、どうしたいの?」

淫魔「精液をくれればいいんですよ。サキュバスの栄養源なんです」

男「じゃ、問題ないよね。……それじゃ、ちょっと失礼。すぐ戻るから」

淫魔「待ってって言ってるでしょ!?」

男「なんだよもう、疲れてるんだよ。早く寝たいんだよ」

淫魔「…………」

男「……分かったよ、ここで出せばいいんだな?」

淫魔「ホントに分かってくれました? さ、搾り取っちゃいますよー」

男「いや、恥ずかしいからあっち向いててくれないか? その間に何とか頑張ってみるから」

淫魔「あーーーーーー! もーーーーーーー!」

男「?」

淫魔「お願いしますって。真面目にやってくださいよ!」

男「何言ってんの。真面目に精液あげようとしてるでしょ?」

淫魔「やり方が! 違うの!」

男「それじゃ、ちょっと訊きたいんだけどさ」

淫魔「はい」

男「君の場合、何人中何人がその気になってくれてるの?」

淫魔「ん、えと……十人いたら、十人」

男「うわぁ……」

淫魔「な、何さっ!?」

男「だってさぁ。こんなちっちゃい子に十人が十人とも発情って。終わってるなー、世界。滅べばいいのにー」

淫魔「ちっちゃくないってば!」

男「君のそういう性格もなんか、やらしい気分になれなくさせるんだよね」

淫魔「…………」

男「……なんか、目が冴えちゃったな。腹減った。何か作れる?」

淫魔「……そしたら、精液くれるの?」

男「真剣に考えるよ。もちろん君の言うとおりの方法で」

淫魔「やります! それじゃ、台所借りますねー!」

それから、数十分。

淫魔「できましたよ、特製のパン粥です。チーズ使っちゃいましたけどー」

男「いいよ。……うん、見た目は美味そうだね」

淫魔「しつれーですね。さ、召し上がれ!」

勧められ、木の匙で掬い取り、口へ運ぶ。
数回咀嚼して飲み込み、もう一度掬う。

淫魔「……?」

男「……ほら、『あーん』」

淫魔「ちょっ……な、何ですかー!?」

男「俺一人だけ食べるのも変な気分なんだ」

淫魔「わ、分かりましたよ……あ、あーん……」

言われるがままに口で受け止め、淫魔も咀嚼しようとして、目を剥く。
そのまま泡を食ったように立ち上がって、流しの下にあるごみ箱を覗き込むように————。

淫魔「げ、げほげほげほっ! なんですかこの味っ!? 何入れたんですか!?」

男「俺の台詞」

淫魔「うぇー……」

男「自信満々だし、見た目も良かったけど……このマズさは酷いな。ネズミぐらいなら殺せるよ」

淫魔「へんな事言わないでください! これでも二百年前から、お料理の勉強してるんですよ!?」

男「二百年かけてできたのは、普通の食材から毒薬を作る驚異の錬金術か。本を書いてみるといい」

淫魔「むぅぅ……」

男「ともかく、君はキッチンに立たない方がいい。人生のムダだ」

淫魔「……あの」

男「?」

淫魔「それでも、どうして食べてくれるんですか?」

男「そりゃ、食べるよ。せっかく、作ってくれたんだから」

淫魔「…………」

男「さて、ご馳走様でした。残ってるなら朝にでも食べるよ」

淫魔「……それで、えっと……」

男「精液の事かな? いいよ。ちょっと休んでからベッドに行こうか」

淫魔「え、いいんですか? わたし、うまくお料理できなかったのに……」

男「作ってくれたのは変わりないだろ。……でもなぁ。ハァ…………」

淫魔「え?」

男「……正直、あまりノれないんだよなぁ」

溜め息をつくと、男は座ったまま、首から下げているロケットを開く。
その中には、ちょうど、目の前の彼女と同じくらいの見た目の少女の肖像があった。

淫魔「どなたですか、それ」

男「……俺の妹。今は…………いない、ね」

淫魔「あっ……え、その……ご、ごめんなさい」

男「いや、いいんだ。気にしないで」

淫魔「……もう、会えなくなっちゃったんですね」

男「え、いや生きてるけど?」

淫魔「もーーーーっ! もぉーーーーーっ!!」

男「牛の真似かい? あの子も得意だったな」

淫魔「何なんですかあなたホントに!? っていうか『いない』ってどういう事ですか!?」

男「五年前に嫁いでったからさ」

淫魔「だったらいいじゃないですかわたしでも!」

男「だから、言ったじゃん。こんな子にすぐ発情する方が問題でしょ?」

淫魔「これでも三千歳超えてますよ!?」

男「いやー、見た目には関係ないねー。見た目子供なら子供だよ」

淫魔「…………」

男「だいたい、ロリコンじゃないのを褒められこそすれ、咎められるいわれは無いけど」

淫魔「くっ……!」

男「でもまぁ、行こうか。据え膳食わ『れ』ぬはなんとやら。ひとつよろしく」

ベッドに戻り、男は仰向けに寝転がる。
にんまりと笑った淫魔がその上にそろそろと覆いかぶさり、寝巻のズボンを改めて下ろす。
外からは緩んだ雰囲気を一掃するような月光が差し込み、彼女の幼気な横顔を、『魔族』にふさわしく照らした。

淫魔「……ふふ、さぁーて……わたしの番ですよ」

月明かりを吸い込む金無垢の瞳が怪しく輝き、その手は、股布越しに逞しいモノを撫でる。
硬さはまだ宿っていないものの、小さな手には持て余す大きさが確実にある。
整った指先で先端を撫でられると、男の身体が小さく揺れた。

暫く、下着の向こうにあるモノを弄びながら、彼女の顔は、男の下腹部へ。
引き締まり、うっすらと割れた腹筋の目を舌先でなぞり、その真中にある臍へ垂れ落ちる雫のように向かう。
小さく切れ込む臍の周りを嘗め上げ、入り口をちろちろと舌先が這う。
びくん、と男の身体が跳ね上がりかけた。
それを見て取った彼女は、笑みをさらに深めて、片手を巧みに使って下着を太腿までおろし、
質量を僅かに増やしたモノを露出させた。

淫魔「かわいい、です。……おねーさんに任せとけば、もっときもちよくしてあげますよー?」

男は何も答えず、片手で顔を覆ったまま、震える。
彼女が下腹から口を離すと、唾液で濡れた腹筋が、てらてらと光る。
さながらそれは、濁りを浴びて放心する生娘にも似た姿だ。

淫魔「さて、もっと楽しみたいですけど……まず一回、出しちゃいましょーね?」

————そして。
————彼女の小さな唇が、ようやく望んだモノを包んだ。

淫魔「……ふぁ……む、ちゅ……おっひい、れふ……」

男「っ……ふ、ぐ……うぅ……!」

淫魔「ひもひいい、れふか? ……ちゅ……、れる……ん、ふぅぅ……」

男「いょっ……! ほっ……!」

淫魔「……?」

男「はぁっ! いよぉっ!」

淫魔「…………ちゅ、ぐぷっ……れろ……」

男「セイッ! セイッ! セイッ!」

淫魔「ずちゅっ……じゅるるっ……ん、ふぇ……」

男「ソイヤ! ソイヤ! ソイヤ! ソイヤ!」

淫魔「ちょっと」

男「フレー! フレー! い・ん・ま! フレー! フレー! い・ん・ま!」

淫魔「ちょっと!!」

男「え?」

淫魔「さっきから何なのそれ!?」

男「何って、応援の掛け声を……」

淫魔「そんなのいらない! ムードぶっ壊しだよ!?」

男「いや、何となく恥ずかしくてさ」

淫魔「普通にしてよ普通に!」

男「何だよ、盛り上げなきゃいけないと思ったのに」

淫魔「盛り上げの方向が違うの!」

男「…………わがままだな、もう。サキュバスってみんなこうなのか?」

淫魔「ホント、なんなんですかあなた!? ヤる気あるんですか!?」

男「あるから気合いを入れようと思ったんじゃないか」

淫魔「あのね、これでもわたしサキュバスなんですよ? お願いですから、ちゃんとせーえき下さいって」

男「正座したサキュバスに手コキされながら説教されるってすごい体験だなぁ」

淫魔「マジメにやってくださいっつってんでしょ!?」

男「……わかったわかった」

————それから、朝方。

淫魔「……こんなの、はじめてです」

男「面白かった?」

淫魔「面白さは求めてないですっ!」

男「退屈させまいとしてさ。ほら、メシって楽しく食べないと」

淫魔「出す直前に『イェーイ!』はないでしょ!? おそーじしてる最中に裏声でシャウトするし!」

男「いや、つい……クセで」

淫魔「お口でしてたら頭揺らして楽器弾くマネするし! わ、わたしの……しっぽに……へんな事するし……!」

男「目の前にプラプラしてたから、つい。でも尻尾ってそんなに?」

淫魔「っ……」

男「猫の尻尾の根元とか撫でると、ビクっとするよね。あんな感じ?」

淫魔「秘密ですっ!」

男「まぁ、それでもいいんだけどさ」

淫魔「……ご馳走様でした。ともかく、ありがとーでした」

男「また来てくれるかなー?」

淫魔「…………」

男「何だよう、ノリ悪いなー」

淫魔「こんなに疲れた夜は初めてでした」

男「そういや、気付いてた? 最中に、めちゃくちゃ壁殴られてたよね」

淫魔「えっ!?」

男「ここ、壁薄いんだよ。でかい声出しすぎ」

淫魔「あ、あなたが出させるからじゃ……!」

男「ヒトのせいにしちゃいけない」

淫魔「ツッコミ役をさせないでくださいよ!」

男「突っ込まれてたのは君だけどね?」

淫魔「やかましいですっ! っていうかどうしてサキュバスに吸い取られてそんなに元気なんですか!?」

男「? いや、俺今すごいゲッソリしてると思うんだけど?」

淫魔「ぜんぜん変わってないよ! ツヤツヤだよ!」

男「君こそちゃんと吸い取ったのかい? 真面目にやってよ」

淫魔「あなたが言いますか!?」

男「そもそも君ねぇ、甘えちゃダメだよ。もっと腕を、いや上と下のお口を磨かないとさ」

淫魔「え」

男「そもそもサキュバスだからってみんな無条件でメロメロになってくれる、と思うのが甘いんだ」

淫魔「え、えー……? わ、わかりましたぁ……」

男「そういう訳で、ほら、もっかい。起きて、ほら、ちゃんとする!」

淫魔「今!? もう一回ですかー!?」

男「そうだよ。今度はちゃんと集中する!」

淫魔「……分かりましたよ。でも、もう疲れたので……」

男「ならいつやるの?」

淫魔「……それはともかく、サキュバス慣れしすぎじゃないですか?」

男「……え、そうかな?」

淫魔「そうですよ」

男「普通はどうなるものなのか分からないから。君の場合はどうなの」

淫魔「…………わ、わたしがずっとリードしてますよ? もう五回も十回も、立てなくなっちゃうくらい……」

男「本当は?」

淫魔「……本当です」

男「もう一度訊くよ。本当は?」

淫魔「…………途中からは逆転されちゃいます」

男「途中ってどこから」

淫魔「……相手の、方の……下着を脱がせちゃってから」

男「ハナっからじゃないか! 盛りすぎ!」

淫魔「お、おっきな声で言わないで! やめて!」

男「しかし、なぜそうなるんだい」

淫魔「…………さぁ?」

男「見栄っ張りだけど実はマヌケだったり、無根拠にお姉さんぶろうとするところかな」

淫魔「ひどくないですかそれ!?」

男「いや、見たまんま。……でもまぁ、それでやっていけてるんだから武器になってるんじゃないの」

淫魔「……それでも普段はもっとバリバリいけてるんですよ?」

男「おいおい、まるで俺がおかしいみたいに……」

淫魔「お口でしてるときに合いの手入れる人はおかしいのっ!」

男「そうかなー。……それじゃ、また……来てくれよ。久々に、楽しかったからさ」

淫魔「え……?」

男「……今度は、応援歌を考えておくよ。譜面付きで」

淫魔「そんなのいらないよ! 感動して損したよ!」

男「ともかく、そろそろ日が昇るよ」

淫魔「あぁぁもう! 文句がまだ半分も言えてないよ!」

男「じゃ、次って事で。お互い次は頑張ろう」

淫魔「絶対がんばる事が違うよね!? 次は一体何するつもりなの!?」

男「何って……ナニじゃないの?」

淫魔「そうじゃないよ! そうだけど! 歌ったり変な声上げるのやめて!」

男「変な声なら君も出した。『うにゃああぁぁぁぁ!』って叫びながらイッたじゃないか」

淫魔「あっ……あれは、その……もういいです! また今度!」

男「おみやげ持って来てねー」

淫魔「そんなのないよ! さよーなら!」



男「……次回は部屋に赤い染料まみれの女物の服とか仕込んでおこう。ビックリするかな」




短編一つめ、投下終了です
台詞を多めに実験してみた

あと二つはシリアスめなのでご容赦を
それでは、また〜

こんばんは
短編二つ目を投下します
エロはあるような無いような

それでは


騎士「領主殿、ただいま参着いたしました」

さほど広くも無い執務室、その中心にある机に向かい、書面に羽ペンを走らせる肥満体の男がいた。
芋虫のように太った指に喰い込ませるように指輪をはめ、たるんだ肉で指輪さえも隠れている。
強烈な赤色のローブからは毛むくじゃらの胸板が覗けて、その顔は、脂肪と筋肉が溶け合ったようにだらしなく重力に緩んでいる。
『騎士物語』の悪代官をそのまま演じてからかっているのかと疑うような、いかにもな風貌をしていた。

領主「うむ。話は聞いているぞ。その若さで、中々の腕前だそうな」

騎士「いえ、滅相もございません。……父祖から受け継いだものを繰り返しているだけ」

領主「遜るな。……そうでなければ、こんな枯れた辺境などに呼ぶものか」

騎士「…………」

すだれのように緩んだ肉の隙間から、妙に鋭い眼が騎士を刺す。

領主「まぁ、それはいい。この度召喚したのは、他でもない。私の身辺警護役を務めてもらいたいのだ」

騎士「御意のままに。……ですが、何か身辺に懸念でも?」

領主「ふん、無い方がおかしいわ。こんな身分をやっていれば、心当たりの十か二十は出てくるものだ」

騎士「……でしょうね」

領主「まぁ、ともかくだ。明日から、わしの護衛を勤めよ、今日はもう下がって休め」

騎士「拝命いたしました。それでは、失礼いたします」

それから、数日。
護衛とは言われても、領主は館から出る事はまず無かった。
ひっきりなしに届く机仕事をなおざりにやっつけていき、食事だけは大食堂で摂った。
朝から血の滴る肉を食らい、昼には加えてワインを開け、夜には小さな宴を催した。
深夜に館を徘徊する様子も見たが、騎士を伴わないという事は、大した用事でも無いのだろう。
騎士は、釈然としないまま時を過ごした。

そして変わらず、領主の命を危ぶませるような事は何も起こらない。
辺境の地で、魔物の群生地はいくらか近いが、近ごろは安定していると執事に聞いた。

むしろ気がかりなのは魔物ではなく、領民だろうか。
この辺境領の町を歩いた時、その背に不穏な気配を感じて、振り返る事が数回あった。
市場は開いてはいても、敗戦国のように活気が無く、呼び込みの声にも覇気が無い。
大路でさえもそうなのだから、道一本入った路地裏などは、まさしく吹き溜まりとなっているに違いない。
衛兵の詰め所に顔を出せば酒の匂いがしたし、言葉を交わせば、妙に滑りの良い、
舌の回っていないゆるんだ返事がされた。

そんなある夜、騎士は領主の寝室の外に侍っていた。
何かあれば駆けつけられるように、神経を研ぎ澄ましながら————ただ、佇む。
灯りを減らした廊下の中に、甲冑のように微動だにせず、剣を帯びて立っていた。
夜半が過ぎて、少し疲れを感じた頃。
部屋を出てきた領主が、扉のそばにいた騎士に声をかけてきた。

領主「……おい、貴様。少し付き合え」

騎士「はっ。どちらへ」

領主「来れば分かる。貴様も中々、頑張っているようだからな」

騎士「今後とも励ませていただきます」

領主「当然だ。突っ立ってないでついてこい。何、眠気も飛ぶさ」

騎士「はあ……」

ことさらに釈然としない。
真夜中に騎士を伴い、屋敷を歩いて————その足は、地下への階段へと向いた。
執事の案内で入った事はあるが、ワインセラーと食料保存庫ぐらいしかそこには無い。
束ねた香草類が壁に吊るされ、棚には布に巻いた熟成中の肉類が置いてある。
その中を、ランタンを片手に領主はすいすいと歩いて行く。
提げてはいてもその光をまるで頼る様子はなく、勝手知ったる道を歩くように、迷いはない。
やがて、最奥に辿り着くと、そこには鉄製の扉があった。

領主「……ここだ。開けろ」

ここまで来て、領主は鍵を一本、騎士に手渡して、扉を開けるように促した。
それに従って、ランタンの光で鍵穴を探し当て、捻り————そして、扉を押し開く。
鍵を返そうとすれば、領主はニヤリと笑い、それを拒んだ。

領主「その鍵は貴様の分だ。よし、進め。階段になっているからな」

更に地下へと向かう石造りの階段を、降りる。
爪先で足場を確かめながら、一段、一段と、領主を先導するように降りていく。
二階分ほども降りるとようやく床を爪先が見つけた。

騎士「ここは?」

領主「見れば分かるだろう、『地下牢』だ。……あってはおかしいのか?」

かすかに、血の匂いがした。
牢獄は三つあり、恐らく、一番奥、突き当りの牢獄の中からだ。
空気は寒く、暗く、こごったような冷たさが支配しており、光源は全くない。
領主の持つランタンの輝きさえも壁のヒビに吸い込まれそうで、何より、妙な気配が漂っていた。
幾多の敵と対峙してきた騎士でさえ、その気配に近いものさえ見つけられない。
この場所の空気がそうさせるのか、奥にいる『何か』の存在感は、異常な程に膨れ上がっている。

騎士「……罪人を投獄しているのですか? それなら…………」

領主「いや、罪『人』ではない。きっと、貴様も気に入るさ。進め」

促されるまま歩いていくと、さして広くも無い突き当りの牢獄に着いた。
闇の中に、蠢く何かが見えて、寝息のようなものも聞こえる。
血の匂いに混じり、異臭、そして甘い焼き菓子のような香りも同時に感じた。
少し遅れてやってきた領主がランタンで牢獄を照らし出す。
そこには————伝説でしか聞いた事のない存在が、囚われていた。
姿は人のものでも、頭からは角が生えている。
尾が生えて床にしな垂れ、その先端は槍先のように鋭い。
夜毎寝所に忍び込み、精を吸い取る、古の魔族。

騎士「……『淫魔(サキュバス)』!?」

ランタンの灯り、そして領主が壁に掛けた松明の灯りで、その全貌が見てとれた。
裸身のまま、壁に据えつけられた手枷に縫いとめられるように拘束され、首輪から伸びた鎖も同様に。
肌の色は古書とは違い、人間の女と同じく、白い。
ゆるくクセのある黒髪が鎖骨まで伸び、頭を倒して寝息を立てているため、顔は見えない。
豊かな双丘と、艶やかに肉付いた肢体は、騎士の目を釘付けにして離さない。
目を背けたくなる痛ましさと、いつまでも見ていたくなる引力が、拮抗したまま時を過ごさせる。

領主「……気に入ったか?」

領主の言葉に意識を取り戻し、思わず、口走る。

騎士「りょ、領主……殿? これは?」

領主「『淫魔』だ。……領内で偶然見つけての。捕らえて連れ帰ったというわけじゃ。かれこれ、五年も前になるか」

騎士「それでは、彼女は五年間もここへ?」

領主「勘違いするなよ。アレは人間では無い。魔物だ。……まぁ、アレはムダ飯食いではないが役立たずだ」

騎士「は……?」

領主「アレは、五年間精液しか口にしていない。『淫魔』だからの、それだけで生き延びられるんじゃろうて」

騎士「危険では無いのですか? 彼女が本当に魔族だとしたら————」

領主「そこよ。アレには、何も……能が無いのだよ。その体を除いてな」

騎士「……?」

領主が語るところによれば、彼女を淫魔たらしめているのはその姿、肉体だけだという。
双眸には魅了の輝きなどなく、ほんの少し灯りを出すだけの魔術さえ使えず、
闇を裂いて飛ぶ翼は、名残りさえもその背には無い。
角と尾が生えただけの、『人間』に過ぎないという。

淫魔「……ふわぁ、よく寝た。……あら? 初めまして〜」

騎士「えっ……?」

騎士は、その言葉を自分一人に向けられたものだと思った。
だが、彼女の気だるく、柔和に澄んだ眼は……領主を見つめていた。

淫魔「あら、そちらの方も。初めまして。……ここ、少しだけ寒いのですけれど。毛布か何か、あります〜?」

領主「……ふん。すぐに暖めてやるさ」

淫魔「えっ……本当ですか? ありがとうございます〜」

彼女は、間違いなく……領主と、騎士の二人に対して初見の挨拶を述べた。
五年もの間に、恐らくは毎夜のように受け止めていたにも、関わらずだ。
領主はそれをうるさそうに聞き流すと、羽織っていたガウンを脱ぎ捨てて淫魔へと圧し掛かった。

騎士「りょ、領主……殿? 何を?」

領主「淫魔を相手にする事など、決まっておろう。……すぐに回してやる」

全てを理解し、騎士は足早に階段を駆け上がり、逃げ込むように領主の寝室前へと戻った。
途中で用足しに出ていたメイドとすれ違っていた覚えもあるが、ハッキリとしない。
気付けば、来た時と同じように、甲冑のように寝室の扉脇に佇んでいた。

領主に覚えた嫌悪感はもうない。
屋敷の地下に、文字通りの『魔性』の女を囲っていた事も驚きだったが、それ以上に引っかかることがある。
彼女は、自分はともかく……領主を見て、『初めまして』と言った。
五年間に渡り、恐らくは毎日繋がれていただろう、領主に向けて。
惑わすための舌、あるいは皮肉を効かせたのかとも思った。
しかしその割には、口調にも表情にも嫌味はなく、不自然な程穏やかだった。

出口のない堂々巡りの疑問に頭を働かせていると、いつの間にか、領主が寝室へ戻って来ていた。
素裸の上にガウンを纏い、汗をかき、少しだけ息を乱している。

領主「つまらない男だな、貴様は。それとも、『淫魔』と聞いて縮み上がったか?」

騎士「……領主殿。あなたは、夜毎に……?」

領主「ああ、そうだとも。毎日餌をやっているんだ。それとも、『止めろ』とでも言うのか?」

騎士「なら、なぜ……」

領主「あ?」

騎士「なぜ、彼女は『初めまして』と……?」

領主「行く度に言われるわ。よほど脳の巡りが悪いのだろ。……そろそろ飽きて来たがな。貴様ももう寝ろ」

騎士「……はっ」

領主「まったく……勿体ない事をしたものだ。まぁ、好きにするがいい。その鍵はくれてやる」

その次の朝、騎士は一人で『淫魔』に会いに行った。
多少眠れはしても、日の出から少し遅れただけの時間に目が覚めてしまった。
屋敷の空気は冷え切っており、その澄んだ空気を取り入れながら、澱んだ空気の溜まり場へと降りて行く。
入った途端にかび臭い空気が漂い、どこからか水の滴る音も聞こえる。
こんな場所に五年もいれば、通常の人間は、たちまちに病みついてしまうだろう。
だが、彼女は……あの『淫魔』は、ここで五年、領主の精液だけで生き延びている。

最奥の牢獄の前に行き、松明で照らすと彼女は手枷を解かれた状態で、
裸身を冷たい床に丸めて膝を抱えるように眠っていた。
寝床代わりの藁さえも敷かれてはいない。
見えるのは、彼女の白くて美しい背中と、なだらかな尻にかけての曲線だけだ。
やはり、翼は無い。
尾てい骨を延長するように尻尾が伸びて床に垂れ、時折思い出したように、猫の尾を彷彿とさせる動きで跳ねる。

しばらく、そうして見つめていると……気配に気づいてか、彼女がむくりと起き上がる。

淫魔「ん……? あれ、あなた……昨日の……?」

騎士「……私を、覚えているのか?」

淫魔「覚えますよぉ。 ……五年ぶりに人に会えたんですから、嬉しくて〜」

騎士「えっ……?」

寝ぼけ眼を擦りながら、彼女は確かに言った。

騎士「……五年? 昨日、お前に会った……男の事は?」

淫魔「? ですから、あなたですよね〜?」

騎士「違う! 私と、もう一人いただろう!?」

淫魔「……いえ、あなた一人だけでしたよぉ。 無視されちゃって、ちょっと悲しかったです〜」

彼女に嘘をついている様子は無い。
語気を強めた騎士に、むしろ……怯えるような様子さえも見受けられる。

淫魔「どうしたんですか〜?」

黙り込んだ騎士に、彼女は更に言葉を繋げてくる。
暗く湿った地下牢と、その空間で行われているだろう行為に反して、彼女の声はどこまでも暢気だ。
彼女は、領主の事を覚えてなどいないという。
しかし……昨日初めて会った、騎士の事だけは覚えている。
その不自然極まる『忘却』は、騎士に更なる疑念ばかりを植え付ける。

騎士「……本当に、覚えていないのか」

淫魔「あのぉ、さっきから……何の話ですか?」

騎士「色々こちらも……訊きたい事があるのだが」

話によれば、彼女は人間界へとやって来た時に、なけなしの魔力を使い果たしたという。
制御も効かず、よりにもよって森の真ん中に出てきてしまい、そこで狩猟中の領主の一団に出くわした。
当然、伴っていた兵士にその場で捕らえられ……そして、今に至るらしい。

騎士「間抜けな」

淫魔「よく言われます〜。……よかったらでいいんですけど」

騎士「?」

淫魔「そのマント、いただけませんか〜? 床が硬くて寝づらいんです」

騎士「まさか、寝床にするつもりか!?」

彼女は、物欲しそうに騎士の身を包むマントをじっと見つめた。
星形の花を模した家紋が染め抜かれた、上質なビロードで織られ、銀の縁どりまで施された逸品だ。
それを彼女は、敷物代わりにしたいという。
あまりにも常識外れに無礼な頼みだが……騎士は、少し考え込んでから、あっさりと脱ぐ。

騎士「……いいさ、使え。私にはもう必要無い」

鉄格子を領主から受け取った鍵で開き、中にいる彼女に、それを差し出す。

淫魔「わぁ、ありがとうございます〜! でも、これ……高そうですね? 本当にいいんですか?」

騎士「出したものを引っ込められるか。……もう、私には帰る場所など無いんだ。その家紋も、もはや意味など無い」

淫魔「? 帰る場所、無いって?」

騎士「我が父から継ぐはずだった、一族の屋敷は取り上げられた。今や……もう、私の生家は無い」

淫魔「ふぅーん……?」

騎士の父は少し前に病死している。母はさらに数年前、病で去った。
その時、ある遠征軍の司令官を務めていた。
しかし……敵要塞を一息で陥落できるという所まで追い詰めたところで、無念にも死の運命に追いつかれてしまった。
側近にも、そして息子である騎士にも病の事を伏せていたため、軍はおろか、王までもが凍てついた。
彼の死をきっかけに遠征軍は混乱、一時撤退を余儀なくされ、その一件でここぞとばかりに咎めを受け、
とうとう屋敷は取り上げられ家名は没落、もはや立て直す事は到底不可能。
そんな折————辺境領へと赴任させられる事となった。

この話を彼女にしても戸惑うだけだと思ったから、口にはしなかった。
そもそも雪ぐ機会の失われた屈辱と向き合う事に、意味などない。
向き合えば向き合うだけ、自分の心を痛めつけるだけだ。
認めて飲み込んでしまっても、消化はできない。それは錨のように、心を重く繋ぎ止めるだけでしかない。
受け容れず受け止めず、流す事しかできない事は間違いなくある。

だが、彼女が食いついたのは……そういった事情ではなく、至極単純な所だ。

淫魔「あの、お父さんがいるって……どういう感じなんです?」

騎士「……『淫魔』に父親はいないのか?」

淫魔「それがですね、昔……お母さんに訊いたら。知らないって言われました〜」

騎士「?」

淫魔「気付いたら、私がお腹にいたそうです。……いつできたのかも分からないって〜」

彼女は、語る。
父親の顔はおろか、いるのかさえも分からないという。
分かったとしても何千年も前の事だから恐らく生きてはいまいが、それでも気にはなると。
彼女の母には……ただ、「子を孕んでいた」という結果だけがあったという。

騎士「子の生し方は、人間と同じか?」

淫魔「いえ、暗い所に卵産んで、精子かけて……じゃないですよ〜。同じです、同じ」

騎士「……その……なんだ、孕んでいたら……気付く、のか?」

淫魔「やですねぇ、もう。そんなの気付きますよ普通〜。常識的に考えてくださいよぉ」

騎士「ふん。……『淫魔』に常識を説かれるとは思わなかった」

子の生し方が同じであるのならば————彼女は、もう腹が膨らんでいなければならない。
五年間毎晩穢されていたというのなら、孕んでいなければおかしい。
なのに、彼女の体は孕婦のそれではない。

淫魔「……せっかくですから、何か楽しいお話してくれませんか〜? 夢にもバリエーション、なくなっちゃいました」

騎士「と言われてもな、私に楽しい話など無い。……人伝の話で良いのなら、少しは暇を潰させてやる」

淫魔「はい、それでいいですよ〜。わくわく、です」

その後、たわいもない話をした。
気付けば騎士も鉄格子の中に座り、顔を突き合わせていた。
内容は、ここではないどこかの話ばかり。
勿論騎士が選んでそんな話をしているのではなく、あくまで、彼女が聞きたがるのだ。
騎士自身も見た事のない、見渡す限りの砂の大地、炎の水を噴き上げる山に、氷でできた島の話をした。
十何年かの周期で、夜空に箒のように尾を引く星が姿を見せてくれる話に、特に彼女は聞き入った。
それは魔界には無いらしく、彼女も興味津々に聞いており、目をその時だけは爛と輝かせてくれた。

逆に、彼女から魔界の話を聞く事もあった。
魔界では、雨が上がった夜は月に虹の輪がかかり、夜空に七色の大輪を咲かせてくれる事がある。
何千年かに一度、朝が近づくと七色はリボンのようにほどけて、赤、燈、黄、緑、青、藍、紫の順に、
それぞれの色を持ったまま流れ星となって空を飾る。
ほどけた月虹の流星群を見た者は幸せな子を授かる事が出来ると言う伝説が、彼女の国にはあるという

淫魔「あのぉ〜……騎士さん。帰る場所、無いって……仰ってましたよね?」

騎士「……ああ」

淫魔「じゃ、私を……色々、見に連れて行ってくださいよ〜」

騎士「えっ……?」

淫魔「私も、ずっとここにいる訳じゃ無いですよね〜?」

騎士「……長くは、もたんな。領主もそろそろ首が寒くなる頃合いだろう。」

領主の暮らしぶりは、目に余る。
演劇の『悪代官』をそのまま写し取ったように、朝から酒を飲み、何も無いと言うのに宴じみた晩餐。
反して領民たちは一日のパンにすら困っているというのに、それらを見ようともしない。
麦の一粒すら取り上げるような圧政を敷き、もはや……『秒読み』だ。
押し固めたその『反動』は、必ず、近い内に跳ねる。

淫魔「お願いします、人間界を案内してください〜」

騎士「考えておくよ。……それにしても勿体ないな、あの男。あそこまで堂に入った腐敗は、むしろ貴重だ」

淫魔「ありがとうございます〜。あ、マントもありがとうございました。これで、よく眠れそうです。大事にしますねぇ」

騎士「いや、粗末にしろ。尻でも拭うがいいさ」

淫魔「え〜? ……それじゃ、おやすみなさい〜。また来てくれると嬉しいです〜」

彼女は、すぐにマントに包まり、再び牢獄の床に寝転がった。
騎士は、あっという間に寝入ってしまった淫魔の寝顔を眺める。
自然と、彼女の頬に指先が伸びた。
触れる寸前に、その指先は引っ込められたが……暖かさは、触れずとも伝わる。

この凍えた暗闇の空間に、彼女は、不自然なほど暖かい生命力を確かに放っていた。

全編でなくて申し訳ない、今日の分を終了です
それでは、さようなら
また明日、同じ頃の時間に〜

すまない、寝てしまった
昼からの出勤前に投下して、帰って来てから続きを投下します
なんか前のスレでもこんな事があったような気がするけど気のせいだよね

何日かに渡り、彼女を訪れ、話した。
不思議な事に、話したことも覚えているし、騎士の顔も忘れてなどいない。
それどころかよく気がつき、騎士の服についたソースの小さな滲みまでも、暗闇の中で見つけて指摘した。

その一方で、彼女は領主の事など、一つたりとも覚えていない。
いや、まるで知らないかのように反応する。
一度は、床に落ちた白濁さえ生々しく目撃したのに、その主の事を訊ねても、彼女は答えてくれない。

淫魔「まだ、ですかね? そろそろ私、ここ飽きてきちゃいました〜」

騎士「ふん。……蜜の罠でも仕掛ける気か、『淫魔』。私には通じん」

淫魔「……? あの、それって……?」

騎士「理解できぬならいい。……その、とろい口ぶりは何なのだ?」

淫魔「もう、とろいって何ですかぁ。失礼ですね〜」

騎士「チッ」

淫魔「……ありがとうございました〜、騎士さん」

騎士「今日は何もくれてやってなどいないぞ」

淫魔「くれましたよぉ。……『時間』をくれました〜」

騎士「『時間』?」

淫魔「騎士さんが、『五年』って教えてくれたからですよ。……それと、毎日、会いにきてくれるから……」

騎士「何だと言うのだ?」

淫魔「会いに来てくれるから、ちゃんと『時間』が流れてるんだなぁ、って……思い出せたんです〜」

騎士「……毎日会いに来ているのは、私では無かったはずだぞ」

淫魔「……もう、それって……いったい、誰の……」

騎士「ヘタな芝居はもうやめろ。……私を惑わすのもいい加減にしろ、『淫魔』」

あまりにも、らちが明かず————とうとう、声に重さが加わった。

騎士「知らぬ振りなどするな。……私と話したことも全て覚えているのに、『夜』は覚えていないだと?」

初めて会った時の事から、交わした何気ない言葉の一言一句に至るまで、彼女は覚えている。
なのに——夜毎彼女を抱いていた領主の事だけが、さっぱりと抜け落ちている。
そんな事が、ある筈などない。
妙にふつふつと怒りが沸き立ち、それが、酷薄な言葉になって紡がれていく。

淫魔「……あの、いったい……?」

騎士「それとも、交わした夜の事など数え上げる価値も無いか? 抱かれた男など、記憶にも残らんか」

淫魔「えっ……あの、何の話……騎士、さん?」

騎士「……呼ぶな。私の事も忘れるがいいさ。……ではな、『淫魔』」

過剰な程————騎士自身でさえ思いもよらないほど、言葉は冷たくなった。
そのまま、騎士は地下牢から地上へ続く階段を駆け上り、扉を閉め、施錠する。

これは癇癪だと、騎士自身でも分かってはいた。
だが、彼女の不自然な言動と忘却は、そういう、同情を買って人を惑わす『策略』だとしか、思えない。
何故ならば、彼女は『淫魔』。
古来より迷える民を堕落させてきたと言われる、『魔の住人』なのだから。
それは……根拠として、充分に過ぎた。

あれから一週間が過ぎる。
彼女の所へは、行かなくなった。
頑なになった心は、もはや、彼女を信じられなくなったからだ。
そして本来の『仕事』から、離れる時など無くなってしまったから。

もはや、街を歩かずともテラスから見下ろすだけで荒廃ぶりが見て取れる。
建物の屋根は穴だらけで、最低限の補修さえもされていない。
大路を歩く人影はまばらで、その中を衛兵が威張り腐って歩いている。
執事から遠眼鏡を借りて見てみると、領民たちの顔には、強い憤りが渦巻いていた。
恐らく、もう数日で歯止めは効かなくなる。
そうなれば、この辺境領の街は、蜂起した領民達に焼かれる。

領主もなんとはなしにそれを察しているのか、食事をする時もそばに侍る事を命じて、
執務室でもそうさせた。
『餌』をやりに行く時にも伴をするように言われたが、騎士はそれを丁重に辞した。
地下牢へ続く扉の前に、彼が吐き出して戻ってくるまで、待っていた。

戻ってきた領主を見ると、蔑みの表情が自然と浮かぶ。
この男は、ここまでの事態を引き起こし、目の前に研ぎたての斧を控えさせても、それでも欲望を捨てない。
それは示威をも兼ねた、自慰行為だ。
己の権勢に縋り見せつける一方で、愚かな自分を慰め、現実から淫魔の身体へ逃げ込む。

領主は————心底から愚昧で滑稽で、哀れな道化になってしまっていた。


ほどなくして、屋敷は炎に巻かれた。

事が起こったのは、早暁だった。
夜が白み始めて、ようやく騎士が自室で仮眠を取っていた時の事だ。
夜を過ぎた騎士が眠り、使用人達が起きて働き始める、ほんの間隙だ。
あまりの手際と間の良さは、邸内に『ネズミ』が潜んでいた事さえ疑う。

騎士「っ……眠った所、だというのに!」

戦場で幾度も嗅いだ燃焼香を嗅ぎ取ると、枕元に立てかけた剣を取って、部屋を出た。
有事に備えて寝巻には着替えず、平服で眠っていたため、すぐに動きが取れた。

出て行った一階の廊下はもう火の手が回っており、敷かれた絨毯も、壁にかかった剥製も、燃え始めていた。
左手に剣を提げたまま、利き手の袖口で口を覆い、煙を掻い潜りながらまずはエントランスへ向かう。
ちょうど大階段から、燻すような煙の中から領主が降りてくるところだった。
領主は、上る事はおろか、ただ少し走って階段を下りただけで、すでに息が上がっている様子だ。

騎士「ご無事でしたか」

領主「き、貴様……! ちょうどよい、逃げるぞ!」

騎士「無論です。さぁ、こちらへ」

玄関の扉を開け、ようやく、初めて領主が外へ出た。
ただでさえ鋭く澄んだ早朝の空気が、煙った屋敷から脱出したばかりの肺に沁み渡った。
そして、すぐに血の香りで上書きされた。

敷地の遠く外では、蜂起した領民と衛兵が揉み合っていた。
棒の先にナイフをくくりつけただけの粗末な槍、角材の持ち手に布を巻いただけの棍棒、
農作業用の馬鍬に草刈り鎌、薪割り用の斧と鉈、絶え間のない投石。
そんな涙ぐましい道具に、衛兵達は圧されていた。
恐らく彼らは酒が入り、巡回の交代さえせずに、眠りについてしまっていたのだろう。

領主「げっ……下民、どもがっ! ……何をしている、貴様! さっさと、皆殺しにして来ないか!」

騎士「無理です。それより、お逃げになるがよろしいかと」

領主「何だと!? 怖気づいたか!」

もちろん、そうではない。
今行けば、騎士の腕であれば痩せた暴徒の二十人は斬れるだろう。
だがそれで終わりではない。ここまでの大ごとになったのだから、それで片付きはしない。
邸内に内通者まで得ての計画的な反動は、恐らくは領主の首が椿の如く落ちるまで続く。
そもそも、騎士が出て行っても……火に油を注ぐ結果にしかならない。
『領主の走狗が、領民を手にかけた』と、かえって彼らの気勢を高めてしまう。
怒りに燃えた人間は痛みさえも麻痺して手強くなり、人を斬れば当然、刃も欠けるし疲労も出る。

この蜂起は、完全に成功してしまった。
衛兵達の中には、領民の殺気に慄き、武器を捨てて逃げようとして、背中を刺される者もちらほらと見える。
更に見れば、妙に体格の良い————恐らくは領主に反旗を翻した、良識を持っていた衛兵も暴徒に混じっていた。
城はとうに陥落し、文字通り素っ裸の大将首だけが残っている。

騎士「もはやこれまで。……馬が残っておりました。お逃げ下さい」

領主「……チッ! 逃げるぞ、伴をしろ!」

騎士「……仰せのままに、我が主」

厩へ向かう途中、ちらりと、炎に巻かれた屋敷を見る。
騎士と領主の他に、出てくる者はいない。
いや、そもそも……中に、本当にいるのだろうか?
執事も、女中も、馬丁も、園丁も、皆で示し合わせて裏切り、火をかけて逃げたのかもしれない。

————否。
————いるはずだ、一人だけ。

————————

淫魔「……ん。……よく、寝たぁ。お目覚めすっきりです〜」

彼女が眼を覚ました時、そこは、底冷えのする暗闇の牢獄では無かった。
藁を敷いただけの寝床に、着慣れた、不思議な煤だらけのマントをかけられ寝かされていた。
澱んでかび臭い、冷たい空気はもう無い。
干し藁の香りと、埃っぽさはあっても、暖かい空気がその代わりにある。
見回すと、そこは木造の納屋のようだ。
ロープや樽などを積んだ台車のほか、壁にはいくつもの農作業具がかけられている。

淫魔「……えっと、ここ、どこなのでしょう〜?」

首には、まだ痛々しく首輪の跡が残っている。
五年間もの長きに渡り、彼女を縛っていた枷は、もうない。
きょろきょろと周りを見渡し、その明るさに、目を細めた。
天井近くに在る採光用の小窓からは、涼やかな鳥の歌声が聴こえる。
梁に張られた蜘蛛の巣は、美しい幾重もの八角形を描いていた。
それに見蕩れて、緩やかなまどろみを愉しんでいた時、納屋の扉が、長く音を残しながら開いた。

騎士「目覚めたか、淫魔」

淫魔「あらぁ、騎士さん〜。お久しぶりですねぇ」

彼の格好は、酷い有り様だ。
純白のシャツもズボンも煤で汚れており、焦げ跡さえある。
端正な顔にも髪にも煤がまとわりついて、『騎士』の麗しい面影などない。

騎士「……ふん。酷い顔だな」

淫魔「え〜? 騎士さんの方こそ〜」

それは、彼女も同じだった。
気だるい美貌を備えた顔にも、明かりの下で見ると更に悩ましい裸体も、煤まみれだ。

騎士「…………くくくっ」

淫魔「ふふふ……あは、あははははっ!」

騎士「っ……笑うな、馬鹿者。近くに小川がある、顔を洗いに行くぞ。日差しで眼を痛めるなよ? 少しずつ慣らせ」

あの時、不思議と体が動いた。
燃え盛る屋敷の中に残っていた淫魔、そして逃げ延びつつある領主と、自身。
何一つ、理由など無かったと思っていたのに……領主が馬に跨った所で、その踵は返ってしまった。
そして、騎士は単身、業火の中へ。

地下へ続く経路は、不思議な程、火の回りが遅れていた。
それどころか、炎の中に道が通っていたようにすら見えた。
金属の扉を開けようと手をかけた時————熱を感じた瞬間に皮膚が貼りついて、
手の平からベリベリと音を立てて離れた。
屋敷を嘗める炎の舌は、金属の扉を、灼けた鉄鍋のように変えてしまっていた。

破れた皮膚から血が噴いても、痛みは感じなかった。
体当たりするように、転げ落ちるように牢獄へ入ると、
地下、それも鉄の扉に阻まれていたため煙さえも回っていない。
その最奥の鉄格子の中に、彼女は眠っていた。
起きる気配すらなく、命の危機も、異変も感じていないのか、穏やかに寝息を立てていた。

鉄格子を開いて、剣を抜く。
その狙いは彼女のすくめた首だ。

振り下ろされた剣は、やや緩い程度にしか遊びの無い首輪を、紙のように裂いた。
これで、ようやく……彼女を縛るものは、何も無い。

————『騎士』は『淫魔』の体をその腕に抱き上げ、暗闇から、掬い取った。

屋敷から出ると、そこには、雑多な武器で滅多刺しにされた、領主の死体があった。
領主を討って沸き立つ領民達は、武器を捨て、叫びを上げていた。
大路には初めて見る活気があり、ほとんどの民がそこにおり、あちこちで炊煙まで上がっていた。

裏道を、人目を掻い潜るようにして逃げ延びた。
栄光は、もはや完全に失われた。
務めを放棄して領主を守れなかったのだから、もはや、『騎士』としての道さえも無い。

否、そもそも……この辺境領地へ赴任させられた事さえ、上の謀略だったのかもしれない。
病死した将軍のたった一人の跡継ぎを、この暴動に巻き込んで始末しようとしたのかもしれない。
もしもそうなら成功だ。絵図を描いた者がいるなら、誇っていい。

権力者は、首を守るために『金』という名の襟巻を巻き、『権謀』という名の牙を研ぐ。
地位も屋敷も剥奪された若き騎士は、いずれ復讐、雪辱の刃を研ぐかもしれない。
そうなれば——それがどのような形で現れたにせよ、首への憂いになるから。

町から離れる足取りは、不思議と、進めば進むほど軽かった。
一歩進むごとに、重い荷がぽろぽろとこぼれていくようだった。
このままどこまでも歩いて行きたくなる、そんな気分で。
目を落とせば、間近に甘い寝息を吐く淫魔の顔がある。

喜びに沸く町を離れて歩いて行き、昼を回った頃、一軒の農家の跡を見つけた。
人の気配はなく、家畜も繋がれてなどいない。
納屋の扉を開けて、手近な藁山に彼女の体を横たえ、ずっと握り締めたままだったマントをかける。
そのまま、半日と少し。
ようやく一息付けて————次の朝が来るまで、ようやく、眠る事ができた。

————————

淫魔「なるほど、そういう事があったんですか〜。だめですねぇ、ちゃんと火の始末しないと〜」

騎士「……『火の用心』を怠った結果だとは私も思うが、どうせ違う意味なのだろうな」

穏やかに流れる小さな川の中で、淫魔はまだ水浴びを続けている。
騎士はすでに上がり、服を着ているところだ。

せせらぎに混じって魚の跳ねる音、さらに虫の音も加わり、時おり思い出したように、
鮮やかに色づいた葉が流れてくる。
上流の山々はすでに紅葉しているようだ。

淫魔「ふぅ、さっぱりしました〜。気持ちよかったです〜」

髪を搾って水分を落としながら、淫魔も終えて上がる。
そこへ、騎士は衣類一式を差し出す。

淫魔「何ですか〜、これ」

騎士「着ろ。……その、なんだ。目のやり場に困る」

淫魔「ありがとうございます、どうもご親切に〜」

騎士「……親切じゃない。私が困るから着ろと言っているんだ、馬鹿者」

長い巻きスカートで、尻尾を隠す事ができた。
頭巾をかぶれば、角も隠せた。
ウエストに搾りのついた上衣は窮屈そうで、ボタンの上から二つまでが留まらないらしい。
最後にくるぶしまでが隠れるブーツを履けば、その姿は『人間』とまったく変わらなかった。

淫魔「どうです〜? 似合ってますか?」

騎士「……間に合わせだな。さて……これから、どうしたものかな」

淫魔「?」

騎士「もうあの領には戻れない。……結局、最後の居場所までも私は失ったという訳だな」

騎士は、川のほとりに佇んだまま掌を見つめる。
赤く剥けた皮膚は今も痛々しく、一段落した今だから、指を曲げ伸ばしする度にズキズキと痛んだ。
その痛みは、水で冷やしたからと言って治まるようなものではない。

淫魔「そういえば、考えておいてくれたんですよね?」

騎士「……は?」

唐突な問いかけと、おもむろに近づいた声と気配に、思わず素の間抜けた声が出た。
掌から視線を離すと、顔のすぐ真横に、彼女の顔がある。

淫魔「人間界を案内してくださいって言ったじゃないですか〜。……お星さまも、まだ見られてませんし」

騎士「よく覚えているな、お前」

淫魔「燃える水が噴き出るお山に、海に浮かぶ氷の島、お話してくれたじゃないですか」

騎士「やはりお前は、馬鹿でも無いな。一つ、教えてくれないか」

淫魔「何ですか?」

騎士「……領主と……いや」

淫魔「?」

騎士「『誰か』と、体を重ねた事はあるか?」

淫魔「あ、あの……それ、は…………えっ……?」

騎士「……言葉通りだ」

記憶力も悪くないし、多少の鈍さはあっても彼女は決して愚図ではない。
なのに、領主に欲望を受け止めた事を含めてその一切を覚えていない。
初めて地下牢に入った時に香った、かび臭さと異臭の中に忍んだ新鮮な血の匂いは、あまりに濃すぎた。
だが彼女に傷など無かったし、他二つの牢獄にも、使用された形跡は無かった。

————血液を流す理由など、ひとつしか、浮かばなかった。

淫魔「もう、覚えが無いですよぉ。何なんですか、朝からもう〜」


————彼女は、夜毎に貫かれても……今もまだ、『未通』だ。

彼女が語っていた、『母も、父親の顔を知らない』という言葉。
あれは決して、嘘ではない。
『覚えていない』でも、『分からない』でもない。
本当に…………『知らない』のだ。

五年間の幽閉生活で夜毎に自分の肉体を貪った、今は亡き領主の顔も、彼女は知らない。
否、夜毎に、忘れていたのだ。
あの牢獄に散っていた血の香りは、恐らくは五年分、二千に近づく夜の『純潔』の血だ。

仮定に過ぎないし、実証しようとは夢にも思えないが。
恐らくは、彼女は貫かれるたびにその相手の事を全て、『忘れる』。
顔も風体も、そもそも夜を交わし合った事も、その全てを、心も体も全て消し去る。

故に————彼女は、未だ『処女』なのだ。
淫魔として生まれながら、彼女の種族は、そんな『運命』をその身に宿している。
未来永劫、彼女は純潔を失う事などなく、純潔を捧げた相手の事を、その心に残す事は無い。
それは淫魔の歩む時間とは別の、無間地獄だ。
精を求めれば、その結果だけを残して過程は全て消える。
子胤を求めれば、子だけを孕んで相手の記憶は全て消える。それは、彼女の母が示している。
その推論に行き着いたのは、屋敷が焼け落ちる、ほんの前日の事だった。

彼女の心に誰かが住まう事はない。
重ねればその端から忘れ、『男』の記憶が残る事など、ない。

生まれながらの『忘却』の呪いは、決して彼女を、逃がさない。

————身体を重ね続ける限りは。
————『淫魔』であり続ける、限りは。

騎士「……すまなかった」

淫魔「えっ? もしかして、駄目なのですか〜?」

騎士「…………」

答えず、持って来ていたあのマントを羽織る。
今残ったのは、金貨と銀貨合わせて数十枚、印章付きの指輪、焦げた一張羅と家宝の長剣。
そして————『命』と、『淫魔』。
視線は、川のせせらぎを届ける、高い秋麗の空を指すようにそびえる、秋色の山に。
長く残る息をつき、騎士は、歩み始めた。

淫魔「あ、あの〜……その、マント……」

困惑する彼女を振り向かず、騎士は言った。

騎士「……置いて行かれたいのか」


————山道を、騎士と淫魔は寄り添い歩く。
紅茶の色の五裂の葉、山吹色の二裂の葉、顔を上げても下げてもそれは目から離れない。
木陰を風が抜ければ舞い踊り、揺れた木からはらはらと散り、落葉の絨毯に一針を加えた。
踏みしめれば靴底から軽い感触が伝わり、。しゃくしゃくと音が鳴る。
さながら、自分たちまでもが紅葉の一枚、二枚に変わってしまったようだ。
紅と黄金の『葉道』を並んで往く足取りは、どこまでも、どこまでも、離れない。

さし込む木洩れ日は、祝福を施すように二人を包んだ。
葉陰に潜む虫の声、遠くから伸びる鳥の声、風に梳かれる木々のざわめきは、
どんな交響楽よりも素晴らしい『歌声』になった。

全てを失い落ち延びて、居る場所さえも失った。
騎士は、それでも世界がいまだ自分を乗せていってくれるのだと…………ようやく、知った。

投下終了
おそらくまた今夜

それではー

二人で見て回る世界は美しく、秋が終われば冬が来た。

白い息を吐きながら歩いていると、鼻先に冷たさを感じて空を見る。
灰色の雲から、『白』が抽出されて降り注いでいた。

淫魔「わ〜……ようやく、雪が降ったんですねぇ」

彼女は、掌に舞い落ちた六花を受け止め、溶けるのを見て言った。
それを真似るように騎士もちらちらと降る雪を受けると、新たな皮膚が張った掌に、すぅっと沁みた。

騎士「ようやく?」

淫魔「はい〜。だって、騎士さんと一緒にいると、時間が長いんですよね〜」

騎士「早く過ぎ去って欲しい、とでも?」

淫魔「いえ、違いますよ〜、逆です、逆」

珍しく慌てて取り繕うような口調で、彼女は皮肉めいた問いかけに返した。
ほんの少しだけ、寒さのせいか、真っ白な頬に赤みが差す。

淫魔「もっと長くなってくれたらいいなぁ〜、って感じ……です」

彼女の声には、若干の照れが聞き取れた。
『淫魔』の、夜の魔族の舌とは思えない程にたどたどしく、もつれかけていた。
騎士も、どこか気恥ずかしくなり————足を速めながら、返答する。

騎士「……さっさと進め、次の村はすぐだ。ベッドで眠りたいのなら歩け」

嵐の夜、廃屋の中で風を避けて一枚のマントの内で暖め合いながら眠った夜がある。
ごうごうと吹きつける音の中でも彼女は物怖じする事が無かったが、雷だけは別だった。
身を竦ませる彼女の頭を抱き締め、落ち着けるための見せかけの悪態をついて眠った事もある。

一夜の寝床を得た宿屋で、彼女にベッドを渡して床で眠った夜がある。
宿賃をけちり、一つしかベッドがない部屋を取ってしまったからだ。
彼女はともに眠ろうと言ってくれたが、そういう訳にもいかなかった。
それでも野宿に比べれば、格段に良い環境だったし、直接床に触れていれば襲撃があったとしても振動で察知できる。

倒木に腰掛け、星空に見つめられて、焚き火を前にして茶を酌み交わした夜がある。
火傷しそうなほど熱くて、保存性を求めた茶葉は渋みが強く、香りなど飛んでいた。
それでも星空を眺めて、身を寄せ合えば、気になどならなかった。
満天の星の海を、二人きりで渡っているような、そんな気分になれた。

いくつもの夜を経ても、騎士と淫魔が『繋がる』事は、なかった。

欲求が無かったわけでは、勿論ない。
だが、彼女の肌に、尻に、手が伸びそうになる度に————近い『現実』の声が引きとめた。
もしそうしてしまえば、彼女は翌日言うはずだ。
生国も生家も、名誉も何もかも失った騎士を折る、たった一言の言葉を。
あの時腐敗した領主を見捨てて、助けに戻った理由は今や明白だった。
彼女を失いたくない。そう思ったからだ。
共に旅する今思う事は、……『失われたくない』。

事に及ぼうとして、彼女から抵抗を受け、拒まれて去られるのなら良かった。
恐らく、決して自惚れでもなく————彼女は、拒まないだろう。騎士を、受け入れるはずだ。
明くる日に彼女は眼を覚まし、朝ぼらけに、騎士を見据えて最も恐ろしい言葉を紡いでしまうのだろう。

共に見た、灰と白煙を噴き上げる炎の山。
海に浮かぶ氷の上で暮らす、魚のようなヒレを持つ奇妙な海獣達。
極地の空を幻想そのものに彩る、光のカーテン。
夜空を真っ二つに裂く星の大河、願いをいくらでも叶えられそうなほどの流星の雨。

一切合切を、彼女は泡のように、忘れてしまい。
騎士の心を挫き、たちまちに崩れ去らせてしまうような、たったひとつの純粋な『質問』をするのだろう。


——————『あなたは、誰ですか』

————旅を始めてちょうど六年が経つ。
騎士の国から離れた、小さいが活気のある町の宿屋に部屋を取っていた。
一階の酒場を覗く二階の吹き抜けで、眠る前の酒を彼女と酌み交わしていた。
やや甘みの強い、発泡する果実酒が夕食後の口を楽しませてくれる。
この地方の特産で、林檎を発酵させて作るのだと言う。

淫魔「ふは〜……、美味しいです。お口の中で弾けちゃいますねぇ」

対面にテーブルを挟んで座った淫魔の、満足げな笑顔を見つめると、不思議と笑みが漏れた。
階下の人影はまばらで、片隅の吟遊詩人が奏でるリュートの調べが、くっきりと聞こえる。

騎士「……あぁ、お高い葡萄酒よりはこちらの方が美味いな」

くっくっと笑いを漏らしてゴブレットを傾け、喉に果実酒を流し込む。
黄金色の泡を浮かべた液体は、口内を刺すように暴れ回り、甘く喉を潤してくれた。

淫魔「さて、もう……寝ますね〜。あ、その前に……」

騎士「ん……、何だ?」

淫魔「もうっ、そういう事訊いちゃだめですよ〜」

騎士「…………ああ」

野暮な事を訊いてしまった、と軽く後悔して、彼女が階段を下りて行くのを見送り、酒の残りに口をつける。
一階の客たちも酔いつぶれて眠るか部屋に戻るか、家に帰ってしまった。
騎士もせっかくベッドで眠れるのだから、少しでも長く体を休めたかった。
野宿が続き、身体が固まってしまったような感覚がある。
飲み干した盃を置いて、一足先に部屋に戻っていようと立ち上がった、その時。

階下から、どたん、と何かが勢いよく転げ落ちるような音がした。


騎士「っ……おい!」

嫌な予感は、的中した。
階段の下に伸びるように倒れていたのは、淫魔だった。
慌てて駆け下りて抱き起こしながら、スカートの裾からはみ出しかけていた尻尾を、隠した。
すぐに店主に吟遊詩人、そして給仕までが駆け寄ってきて、口々に気遣いの言葉をかけてくれる。

触れた感じでは、骨折の類はない。
目立った傷も無く、あの音の発生源と短さから見て、『階段から落ちた』というより、
『降りてから倒れた』という方が正しいだろう。
事実————抱き起こすと、彼女はすぐに反応を返してくれた。

淫魔「……あ、れ? ……どうしたんですか〜?」

騎士「どうした、って……お前こそどうしたんだ!?」

淫魔「階段、降りたところまでは覚えてますけど。なんか、体から力が抜けちゃって……」

店主「大丈夫なのかい、姉ちゃん。なんかあったら、裏に医者が住んでっからよ」

淫魔「いえいえ、大丈夫ですよぉ。ありがとうございます〜」

騎士「……もう、部屋に戻ろう。私もお前も、休息が必要だ」

淫魔「はい〜。あ、その……用、済ませてきちゃいますね」

すると、彼女は思い出したようにささっと立ち上がり、店の奥、手洗い場へと向かった。
不自然な程にその動作はいつも通りで、今しがた倒れたばかりのものとは思えなかった。

やがて部屋に戻り、それぞれベッドで眠りについてから数時間。
月と太陽が役割を代わろうと顔を突き合わせるあたりの時刻、騎士が眼を覚ました。

騎士「ぐ、ぅ……げほっ……!」

止まらず、何度も何度も、咳き込む。
喉に何かが絡んだ、という風ではなく、胸の奥から何か、よくない物を吐き出しているようだった。
身体を起こしても咳は止まず、溺れるように、情けない息を繋いだ。
咳の合間を縫って何とか酸素を取り込もうとすれば、気管に何かを吸い込み、更に苦しみが増した。
思わず、手を口に当てると————ひときわ大きな咳とともに、暖かい液体が溢れた。
胃酸臭はせず、唾液と言うにはあまりに大量だった。
窓辺から差し込む月明かりに、その手をかざして確かめる。
それは……片手一杯分の、『吐血』だった。

吐き出して咳が収まり、同時に胸筋の奥に感じた不快感と、伴った背筋と肩の突っ張りもすぅっと溶け出した。
数分かけて呼吸を整え、酸素が回って冷静になった頭で、血まみれの手を見つめる。

溺れて血液を吐き出す、この発作。
かつての家で見た、母親の病のものと同じだ。
加えて、逝った父の手記にも書かれていた症状とも……合致してしまった。

騎士「……ははっ」

月明かりの差す部屋に、乾いた笑いが漏れた。

数日後、貸しに出されていた小さな家を借りた。
行く先々の村で仕事を引き受けて溜めた賃金、道中の賊から奪った金品を合わせれば数年は暮らしていける。
この町で、一ヶ月か、あるいは数年、しばらく養生するつもりだ。
幸いにも近くに医者も錬金術師もいるし、暮らしていく分にも養生するにも不自由は無い。
まず、暮らしていくための家具を入れた。
一階には食堂や台所、二階には二人分の私室のベッドと、机。
貸主に金を渡して、それらを整えさせた。

淫魔「へ〜……ここに、私達住むんですか〜?」

一歩入ると、彼女は目をまん丸くして、さして広くも無い『新居』を見渡した。
床と柱に用いられた木は黒く変色していて、壁の漆喰もところどころ剥げている。
だがそれだけに暖かみも多分に含まれ、太い柱には、子供の背丈を刻んだものだろう傷がいくつもある。
彼女はそれを見つけてしゃがみこみ、指先でなぞっていた。

騎士「私もお前も、長く旅をしすぎたな。少しだけ、腰を落ち着けようか」

淫魔「それはいいですねぇ。ここ、いい人ばっかりですからね〜」

この町の住民たちは、みな、善良だった。
宿屋の主は、家を借りて養生する旨を話すと、手続きが終わるまでの間の宿賃を半値にしてくれた。
貸主は家の修繕費を負けてくれたし、可能な限り一日でも早く移り住めるようにしてくれた。
通りを見れば子供たちの笑い声が絶えず、市場を通れば威勢の良い掛け声で肉や野菜、酒類が売られており、
衛兵達はいかにも規律正しく市中を回り、しかし人々に慕われていた。
まさしく『門出』の街とは、正反対の場所だった。

騎士「体に不調は無いのか」

淫魔「何もないですってば〜。……でも、少し眠いかも。まだ早いですけど、寝てもいいですか〜?」

騎士「あぁ、いいさ。身体を休めておけ。……ここは、私たちの家だ」

その家に住んでから、罰が当たりそうなほどに穏やかな時を過ごした。
淫魔はパンを焼く事を覚えて、騎士も、市場での荷運びの仕事にありつけた。
朝に出て行き夕方に帰り、共に暖かい夕餉を食し、なんでもないような会話を楽しんだ。
仲睦まじい夫婦の姿をなぞって、ありきたりな幸福を、分かち合った。

その一方で、騎士は、少しずつ体力を落としてきた。
最初の発作からはしばらく無かったが、再びある夜発作が起きた。
どんどん感覚が短くなり、今では三日に一度、血塊に溺れて眼を覚ます有様だ。
淫魔も、隠してはいるようだが明らかに様子がおかしい。
ふっと意識を失って倒れる事が多くなり、休養が、まるで功を奏していないように思えた。
そんなある日の事、彼女が隠していた部位に————異変が起こっていた。

眠っていた彼女の様子を見に行った時、布団を蹴飛ばしていたのを見つけた。
寝巻の裾からはみ出ていた尾が、騎士の持っていた蝋燭に照らし出された時だ。

その尾は、初めに見た時とは全く違い、先端から根元まで黒ずみ、くまなくひび割れていた。
白いベッドに散らばる黒いカサブタのような物質は、恐らく、剥がれ落ちた尾の表皮だ。

騎士「えっ……!?」

彼女の体、その他の部分に目を移すと……小さな足の爪にも、同様の黒ずみがある。
髪をかき分けて角の根元を探すと、そこにも。
寝巻を少しだけめくり上げて背中を見ると、どす黒いカサブタがポツポツとある。

それは…………『彼女』そのものが、風化し、朽ち始めてしまっているように見えた。

数日して、彼女はベッドから起き上がれなくなった。
上体を起こすだけが精一杯で、歩く事さえできない。
医者を呼んで診せようにも、彼女の体の異変を、相談などできようはずもない。
『魔族』であると知れれば、どんな事になるか知れないからだ。
だが実のところ、その原因は、騎士には不思議な程はっきりと分かっていた。
これも推論ではあるが————その推論は、事実に違いないと、直感がそう告げた。
彼女は、『淫魔』だからだ。
共に旅した六年間、彼女の体を求めた事は一度も無い。
そもそも『淫魔』は人間の精を吸い取って生きる種族である点を加味すれば、答えが分かる。
人に例えるのならそれは、栄養価のある食事を摂らず、菓子だけで食いつなぐようなものだからだ。

彼女を癒すための薬は、確かにあるし、いつでも含ませられる。
だがその副作用はあまりに、無情なほどに重い。
————もたらすのは、『忘却』だ。

共に旅をして語らった今だからこそ、分かる。
彼女の種族の『忘却』は、永すぎる時を生き、膨大過ぎる別れを告げなければならない故に起こった『進化』だ。
『忘却』は、必ずしも哀しい事ではない。
騎士は、母が病に奪われた時は、心が半分もぎ取られたような空虚を覚えた。
だが、二年、三年と経つうちにその空虚は埋められていき、その感覚はもう覚えていない。
何故ならば、『忘れた』から。
『忘れる』事は、『哀しみ』を遠くへ追いやる唯一の方法だから。
そうやって、彼女の母も、祖母も、曾祖母も、人間の時の流れに置いて行かれる、
抗えない『哀しみ』を忘れながら子を生してきた。

——————数多の男に、『貴方は誰か』と、全てを忘れて無垢に残酷に、投げかけながら。

淫魔「……ごめんなさい。騎士さんに、こんな事……させちゃいまして」

騎士「気に病むな。この程度、何の事も無い」

病床に臥せったままの彼女へ夕食を運び、共に自身も食事を摂る。
市場の仕事には、もう行っていない。
その理由は二つ。
一つはもともと極端に金に困っていた訳ではなく、懐は当分は寒くならないからだ。
道中で得た金品を換金すれば生活には困らない。

もう一つは————騎士自身も、もう、『働ける』状態ではないからだ。
六年の彷徨は、知らず知らずに騎士の身体を蝕んでいた。
雨に打たれ、寒風の中で眠り、まともな寝床で眠った事の方が少ない。
そういった生活をしていれば————病身の家系にある騎士の刻は、早められてしまって当然だ。

淫魔「あの。……どうしました〜?」

騎士「ん……。いや、考え事をな」

淫魔「教えてくれないんですか〜」

騎士「まぁ、追々な」

ずっと、騎士は考えていた。
日増しに衰弱していく彼女を治してしまえる薬は、既に持っている。
だが、それを与えるという事は……全ての時間を、失ってしまう事になる。
共に過ごした年月を————破り捨ててしまう。

騎士「……お前は」

淫魔「はい?」

騎士「お前は、楽しかったのか。こんな不貞腐れた男と一緒にいて」

淫魔「楽しかったですよ〜。色々連れて行ってくれましたし。騎士さん面白いじゃないですかぁ」

騎士「…………?」

淫魔「覚えてます? 初めてお船に乗った時、酔って大変でしたよね〜、騎士さんってば」

騎士「昔から船は苦手だったんだ。水に浮かんでいる理屈が分からん」

淫魔「考えすぎだと思いますけど。それを言ったら、何で『指』を五本も動かせるのかも分からないじゃないですか〜」

騎士「……なるほど、確かに不思議だ」

淫魔「ね〜? 考え方次第ですよ、何でも。さて、ご馳走様でした〜」

騎士「…………」

考え方、次第。

もしも、彼女へ薬を与える道を選べば、彼女は全てを忘れる。
そして、騎士の心臓もとうとうもたないだろう。
命がひとつだけ失われ、ひとつだけ残る。

でも————そのかけがえのない『ひとつ』を、残せる選択肢が、今ある。
彼女は、決して……不治の病などでは、無いのだから。

騎士「……食器を下げてくる。さぁ、眠れ。……ほら」

食器と盆を重ねてサイドテーブルに置き、彼女の背中に手を回してゆっくりと横たえる。
そして、ゆっくりとその頬を撫でてから、毛羽立った毛布をかける。
騎士の顔は、全ての重荷を振り払ったかのように、穏やかに緩んでいた。

一週間後の夜、騎士は、眠っている淫魔の部屋に忍び入った。
灯りは提げていない。
部屋着の上にゆったりとしたガウンを羽織っただけの姿で、彼女へ近づく。

淫魔「……騎士さん? どうしたん……です、か?」

炎を潜り抜けても動じる事のなかった眠りが、呆気なく覚めた。
声ははっきりしていたが、彼女は起き上がらない。
自分で起き上がる事が、できないからだ。
もう、その声に独特の気の抜けるような間延びは無かった。
喉の奥までひび割れてしまったように、眠気を誘うあの韻律はもう無い。

横たわる彼女の頭側へと近寄ると、頭を撫でてから、水場の鳥のように体を前に倒す。
ようやく触れた彼女の唇は、潤いさえなく、かさかさに荒れていて、冷たかった。
それでも————柔らかかった。

淫魔「んっ……」

唇を離したとき、彼女の身体が揺れた。
漏れ出す艶めいた声には、僅かな力が籠っていた。

淫魔「騎士、さ、ん……遅い、です」

騎士「遅れてはいないさ」

そう。
手遅れではない。

淫魔「私を、お嫁さんにして……くれるん、ですか?」

騎士「……ああ」

彼女の身体を覆い隠していた毛布を取り去る。
一枚の薄衣の中で、彼女の体からは温もりが消えかけていた。

淫魔「覚えて、ます?」

騎士「ああ。覚えているよ」

それだけのやり取りで、全てが通じた。
思い起こすのは一年と半前、ある町で聞いた誓いの詞。

淫魔「健やかなる時も、病める、時も」

騎士「……死が二人を分かつまで」

再び、唇を求める。
かさかさに乾いてひび割れた唇は、水音さえも奏でてはくれない。
唾液さえも、もはや滲み出さなくなってしまっていた。
彼女の腕が震えながら持ち上がり、騎士の頬に触れる。
騎士の手も、彼女の肌に触れる。
暗闇の中で暖め合い、『その時』を迎えるために、空白を埋めるように、互いの体を触れた。

互いの体が、微かに汗を滲ませた頃。
騎士は、最後の願いとともに、彼女へ別れを告げた。

————もう、私は何もいらない。
————私の存在の全てを、この世界からなくそう。


————でも、一つだけ、願う事を許してもらえるのなら————

数日が過ぎて、人々がその家にやってきた。
姿を見せない二人を怪訝に思い、貸主と役人が、ノックをしてから入った。
暖炉には焼け残った薪が入ったままだが、不思議な程、片付いていた。
戸棚に収められた食器には埃一つない。

二階に上がると、役人が不思議なものを見つけた。
片方のベッドはぴっしりと整えられているが、その上に一振りの長剣と紋章入りのマントがあった。

もう一つの寝室に入ると、乱れたシーツの中ほどに、ぽつりと小さな血の跡がある。
女物の寝巻が一着、男物の寝巻とガウンが一着。
それだけだ。

他には、何一つ残っていない。
ここに住んでいた誰かがいて、そして、いなくなっていた。
誰一人として二人の行方を知る者はない。
全く忽然と、あの奇妙な男女は消えてしまった。

それから、千と数百年の時が経ち、魔界の一角、『淫魔』達の住まう国の最も栄えた街。

一軒の書店がある。
店内には、いくつもの『物語』を記した本があり、彼女らの王の城、その書庫にさえ引けを取らない。
入り口に面したカウンターに、一人の『淫魔』が坐して、広げた本に目を落としている。
年経て落ち着いたふうに見えるが————その佇まいは、変わっていない。
ゆるやかに巻いた髪も、瑞々しく豊満な体も、しなやかに伸びる尻尾も。

もう、彼女の心には「夫」の記憶はない。
六年の時を過ごしたあの騎士の顔も、声も、共にいた日々も、覚えてはいない。
何故あの町にいたのかも当然、覚えてなどいない。
不思議に充実した魔力を使って、魔界へ戻る事はたやすい事だった。

カウンターの上には、一輪差しの花が活けてある。
青空のように鮮やかな花が、胸を張って、彼女の横顔を見つめている。
千数百年前、人間界のとある家で目が覚めた朝に、枕元に置かれていたものだ。
その花は、千年の時を経ても、萎れも枯れもしない。
ある時は店を彩り、ある時は彼女の髪を飾った。
星形の花弁を見る度に、どこかからやって来る温もりを彼女は覚える。
いつも彼女の側にあり、ずっとこの書店と、その主とともにある。


——————その花の名は、『ワスレナグサ』といった。

書店主「ふわぁ〜……眠いわ。とても眠い……あぁ、いい天気ねぇ」

???「……外、雨だけど? お母さん。そういえば、昨日……国王陛下が来たんだって?」

店内にはもう一人、年若い「淫魔」の姿があり、きびきびと書架の整理をしていた。
巻き毛と体つきは似ているが、顔立ちはむしろ鋭くしゃっきりとして見える。
そして彼女は、カウンターにいる店主を『母』と呼んだ。

書店主「ええ、そうよ。もう一休みしたら〜?」

書店主娘「うん、もうちょっと。……この辺掃除した方がいいよ、お母さん。埃がひどいよ」

『ワスレナグサ』の忘れ形見は、立派な『淫魔』になった。
あの人間界の朝に受け止めていた『種』が、彼女だった。
切れ長の隙無い瞳は、少なくとも『母親』には似ていない。
産み育てる事に、不思議な事など感じなかった。
母も祖母も曾祖母も、いつの間にか子を宿し、産み、そうやって血を繋いできたからだ。

それでも彼女は、『娘』を見る度に、どこか優しくて暖かく、懐かしい気分になれる。
覚えてはいないはずの、懐かしい『誰か』の面影を確かめられる。

忘れてしまった『思い出』は、『娘』に生まれ変わってくれた。

書店主「……そういえば、『コーヒー』にミルクと砂糖を入れたら、美味しいかしら〜?」

書店主娘「あ。それ、いけるんじゃない? 試そうよ。私、苦くて飲めないんだよね、あれ」

書店主「それじゃ、淹れてくるわね〜」

一輪の花に込められた願いは、今もなお、叶い続けている。
健やかなる時も病める時も、死が二人を分かち、たとえ忘却の谷に落ちたとしても、
そこに咲いた花は、決して枯れない。

それは、ひとりの騎士と、ひとりの淫魔の物語。


『ふたり』は、『ふたり』と『一輪』になった。






短編、投下終了です
感想などいただけると幸いです

それでは、おやすみなさいー

短編投下します
投下後、一週間ほどしたらHTML依頼を出します
キーワードを完全に無視してスレ立てて申し訳なかった
次回はtwitterの方でも予告するので、許してほしい


夕焼けを受けて琥珀色に染まる、小さな村。
そこには今、収穫の祭りとも違う活気があり、その中心には、花飾りをつけた若い一組の男女がいる。
酒に、焼きたてのパンや新鮮な作物、肉や魚を使った料理が惜しみなく振る舞われ、
それらを囲むように、村人たちが歌い踊り、宴を楽しんでいた。

丘の上の忘れられた教会から、その様子が見下ろせた。
ステンドグラスは割れて鐘楼もとうに朽ち果て、もはや訪れる者などいない。
祭壇の原型は残っているが、もはやそこに教典が置かれる事など、ない。
ここまでもリュートや横笛、鼓の音色は届いて、村人たちの歌声と歓声とが聴こえて、
更に廃教会の侘しさを増すように、虚しく、そして慰めるように響いた。
その屋根の上に、異形の影がひとつ。

片方しかない翼を折りたたみ、屋根の上に腰掛けるように、横目で村の様子を見下ろしている。
その瞳は、輪の中心にいる、『花嫁』を、じっと捉えていた。
正しくは————白いケープと、レースで飾り立てた、素朴ながらも間違いなく華やかなドレスを。

淫魔「……似合ってんじゃん」

ぽつりと呟くと、彼女は沈みゆく夕日を見つめながら、喜びの音色に、再び耳を澄ませた。

————————遡る事、数ヶ月。

少女「き、きゃあぁぁぁぁぁぁ!」

淫魔「……るっせぇな! 何もしやしねーよ」

祭壇の前で、少女は一人の『淫魔』と鉢合わせた。
かつて司教が説教を繰り広げた壇上に、『魔族』が一人。

蒼く輝く肌、山羊の角を生やして、銛先のような尾に、端正だが、どこか危険な香りを湛えた美貌。
針金のようにまっすぐな銀髪はショートカットに整えられており、
蠱惑的な肢体の右足は、反して無骨な真鍮の脚甲に包まれていた。
対角にある左背の翼は失われており、翼は一枚しか残っていない。
胸元から太ももまでを覆う、一つなぎの黒い服は、側面にスリットが入り、動きやすさを重視されている。

彼女は、心底うるさそうに顔をしかめて、不機嫌そうに少女を見つめた。
そうしていると少女も落ち着きを取り戻し、それでも少しだけ怯えながら、向かう淫魔の姿に改めて見入る。

淫魔「…………デケェ声出すのやめろよ。天井高いからクソ響くんだわ」

少女「ご、ごめんなさい……その、あ、え……と……」

淫魔「あぁ? ンだよ、言ってみろ」

少女「えぇと……天使さま、じゃ……無いですよね? どう見ても……」

淫魔「『どう見ても』って何だよ、オイ。こんな天使サマがどこにいるよ? 『淫魔』だ、『淫魔』」

『少女』の姿は、見積もっても15〜6歳。
薄汚れたチュニックをまとっているが、中々に器量は良い。
革を張り合わせて作っただけの靴は、草の汁で汚れていた

淫魔「……で、何しに来たんだい? 悪ィけど、ここはもう『カミサマ』は品切れだぜ。他を当たんな」

底意地の悪い笑みを浮かべて、妙に大人げなく、彼女は言った。
見た目だけなら間違いなく美人と呼べるが、少女が訪れてから、悪辣に嘲るような表情を崩していない。
冷笑的に切れ込んだ唇の端からは、鏃のように鋭い歯列が覗かせていた。

淫魔「…………それとも、何? アタシと契約でもすんの? 魂取っちゃうよー?」

少女「あ、あ……ぅ……!」

ことさら脅かすような口調でからかうと、少女は後ずさった。
目の前にいるものが『人間』ではない事を確信して、慄いているようだ。
淫魔は、更に反応を愉しむように、言葉を続けた。

淫魔「悪い子は食べちゃうよ? それとも、魔界に連れていっちゃう?」

少女「いっ……イヤっ……こ、来ないでください!」

翼と尾をわざとらしく蠢かせて迫ると、少女はその場に尻餅をつき、かたかたと震え出す。
淫魔はそれを見て、一瞬表情を曇らせると————

淫魔「なぁんちゃってさ。魂なんかいらねーよ、バーカ。……ゴメンゴメン、からかいすぎたわ」

ケラケラと笑い、軽い調子で、彼女にあっさりと詫びた。

淫魔「どした? ……アッハハハハ! 腰抜かしてやんの!」

少女「っ……!」

教会に響き渡る哄笑を受けて、少女は、恥ずかしそうに頬を染めるが、腰が落ち着くまでそうしているしかなかった。
彼女が立ち上がる事ができたのは、およそ数分後の事だ。

淫魔「……でさ、さっきも訊いたけどよ。こんなトコに何しに来た?」

一脚だけ残っていた長椅子に隣り合わせに座り、素朴な少女と艶やかな淫魔が言葉を交える。
少女はちょこんと腰掛けているが、淫魔は足まで組み、ふんぞり返る姿勢で座っていた。

少女「……です」

淫魔「んん〜? 何よ、聴こえねーよー?」

少女「そ、その……好きな人が、いて……」

淫魔「何何? 聴こえないなー」

少女「で、ですから……好きな人が! いるんです!」

淫魔「そんなデカい声出さなくたって聞こえてるよ? 神様に縁結びのお願いでもしに来たんだろ?」

少女「あなたが訊いたんじゃないですか!?」

淫魔「アハハッ! いいねェいいねェ、そういうの。……でもさ」

少女「?」

淫魔「やっぱり言ったけどよ、ココ、御利益なんかねーよ。アタシが出入りできる時点でアウトだ」

少女「……そうなんですか?」

淫魔「こォんな悪そうな美人が出入りする教会、信じられんの? アタシは無理だね」

少女「……あの……」

淫魔「あー?」

ニヤニヤと笑ったまま、少女へ顔を向ける。
すると、少女は対極的に、いかにも真面目くさった顔で。

少女「わ、私に……男の子を振り向かせる方法、教えてくださいっ!」

他でもない『淫魔』に、そんな事を口走った。

淫魔「お……オイ? ちょっと待てよ」

少女「お願いします!」

淫魔「い、いや……その、聞く相手……絶対違うと思うよ? うん」

少女「え? ……『淫魔』さんなんですよね?」

淫魔「だからそう言ってっだろ」

少女「お願いします! 平均経験人数四ケタ超、のべつまくなしド級人外ビッチ族と見込んでお願いします!」

淫魔「だァれがド級人外ビッチだ!? 恥骨割ってやんぞコラァ!」

少女「『淫魔』と書いてビッチじゃないんですか!? どうか、どうか……!」

淫魔「あのさぁ、わりにそういうの傷付くんだけどさぁ。あー……マジで?」

少女「……本気です」

淫魔「…………まぁ、何だ。詳しく話してみなよ」

少女はこの丘の下にある村で暮らしており、
どこにでもあるような農家の娘だが、今、村長の一人息子に恋をしている。
活力にあふれた快活で精悍な若者で、村の娘たちの憧れの的であり、大人達からも信頼が厚い。
農村ゆえに身分の差などそうないが、恋敵が最大の障害だという。

淫魔「……で、オマエ何が問題なのよ。フツーに仲良くなりゃいいだろ」

少女「だ、だって……恥ずかしくて、話しかけられ……」

淫魔「さっき『魔族』相手にムチャクチャ言ってたろ!? その度胸はどした!?」

少女「『魔族』は別ですよ! 牛とか豚と同じです!」

淫魔「…………オマエ、ブン殴っていい? グーで。鼻っ面にさ。ガッツリ前歯いっとくか?」

少女「それは駄目です。……で、どうすればいいんですか?」

淫魔「とりあえず、何でもいいから話かけとけよ。まず慣れろや」

少女「えー……それより、家の鍵開けて侵入して既成事実作った方が早くないですか? 教えてくださいよー」

淫魔「別にアタシらはピッキングして入ってる訳じゃねぇぞ! 既成事実とか言うな!」

少女「じゃ、惚れ薬の作り方教えてくださいよ。イモリの黒焼きとか使うんですよね?」

淫魔「さっきから飛び道具ばっか考えんなっ! 地道に行け、地道に! 普通にやれ!」

少女「ですから、その『普通』が分かんないんですよ」

淫魔「もう少し話してみろ、ソイツの事。趣味とか色々あんだろ?」

少女「そうですねぇ。……天気のいい日は、釣りとかしてるみたいです」

淫魔「釣り、ねぇ……イイじゃん。そっから話合わせていったらいんじゃね?」

少女「……なるほど、夜釣りに誘って……乗じる訳ですね。っていうか上に乗る訳ですね」

淫魔「だからっ! なんで! そっちに! 行くんだよ!?」

少女「あなたこそ、何『淫魔』のクセに普通にアドバイスしてるんです。やる気あるんですか? あーあ、ガッカリです」

淫魔「…………帰っていい?」

少女「ダメです」

淫魔「はぁ……」

少女「でも、分かりました。まず、普通に話せるようになる事からですね」

淫魔「だからそう言ってんだろ!」

少女「分かりました、ありがとうございます。……それでは、もう日が沈むので失礼しますね」

それだけ言うと、返事も待たずに、さっさと廃教会から出て行った。
差し込む日差しはいつの間にか橙色に変わっており、入り口から一直線に差し込んだ光が、祭壇を照らした。

淫魔「すっげー疲れた。……寝たい…………」

彼女も立ち上がると、真鍮の右足をがしゃがしゃと鳴らしながら、教会の奥へ引っ込んでいく。
そこには小部屋があり、机に椅子、ささやかなベッドが置かれていた。
シーツだけは一応真新しいものに替えているが、埃っぽさは残る。
投げ出すように横になると、ベッドがみしみしと軋んで、亀裂の入る音さえも聞こえた。

この廃教会を彼女が見つけて、一週間ほどになる。
建っている丘の上からの遠景が気に入って滞在しているが、そろそろ、『腹』が減ってきた頃合いだ。
丘の下にある海に面した村の住民から適当に見繕って『精』を得ようかと思っていたら、少女がやってきた。
しかも————目をつけていた村長の息子に、恋をしているという。

淫魔「……あーもう……あのムカつくガキ、絶対また来んだろ……」

心底疲れた声で、ぼやく。
右足が、疼いた。

黄金に輝く脚甲に、『中身』はない。
叩けば空洞音がするし、事実、太ももの半ばまでしか入っていない。
その昔人間界で起こった争いに参じて、失った脚の代用として甲冑からもぎ取り、魔術で接合したからだ。
膝も、爪先も、足首も、慣れ親しんだ自分の脚のように動かせるし、生身さながらの触覚もある。

『人間』と長く話すと、その繋ぎ目が疼く事がある。
それが何故なのかは彼女には分からないが、考える事さえも、今は怠い。

しばらく、漆喰の剥がれた天井を眺めていると……唐突に、瞼が落ちた。

そのまま、『淫魔』は夢の中へ。

更に、一週間後。

少女「や、やりました! 話せるようになりましたよ!」

早朝から、少女が押しかけてきた。
教会の扉を開けてすぐ、響き渡る大声で、まるで叩き起こすように興奮しながら叫ぶ。

淫魔「おー……良かったじゃんよ」

目を擦りながら小部屋から礼拝堂に出て行くと、少女はまだ寝巻のまま。
淫魔の姿を見つけると、途端に走り寄ってきて、ぶちかますような勢いで抱き着いてくる。
空っぽの腹に打撃として重く響いたが、不思議と、嫌ではない。

淫魔「わかった、わかったってば。……後は勢いで行けっだろ。頑張れ」

少女「分かりました。……で、押し倒すのはいつ頃がいいですかね?」

淫魔「一旦そっから離れろや」

少女「…………やっぱりこういうの、まだるっこしいですよ。既成事実作りましょーよ」

淫魔「オマエ、実はアタシと同族だったりしない?」

少女「いえいえ、人類ですよ」

淫魔「……とりあえず、まず仲良くなって『告白』すんじゃねーの?」

少女「分かりました。『私の処女を、あなたので開通してください』って言えばいいんですね」

淫魔「違う! 普通に『好きです』でいいんだよっ!」

少女「そ、そんな……恥ずかしくて言えませんっ……!」

淫魔「どの口で言ってんだ」

少女「『好きです』なんて……そんな……」

淫魔「じゃあ、言わなきゃいいだろ」

少女「……でも、『好き』なんですよ」

淫魔「じゃあ言え」

少女「もう……どっちなんですか。ハッキリしてくださいよ、まったく。使えねーです」

淫魔「奇遇だね、アタシも同じ事言いたいわ」

少女「あらあら、気が合いますねぇ」

淫魔「……ともかく、帰れよ。着替えて、時間あったらまた今度来いや。アタシももうちょい寝たい」

少女「はーい。……それじゃ、失礼します」

更に、一ヶ月。

夏の暑い盛りを越えた昼下がり、廃教会の裏手にある小さな墓地に、淫魔はいた。
苔生し、欠けた墓石はもはや銘すら読み取れない。
数にして十基足らずのそれらは、加えて伸び放題の草で覆い隠されていた。

淫魔「……ったく、『人間』ってヤツぁよ」

ぶつくさ文句を言いながら、彼女は雑草を一本一本、手で毟り取り続ける。
当然ながら鎌の類などないため、地道な手作業だ。
既に三基ほどの墓石の周りはすっきりとして、午後の日差しを照り返していた。

淫魔「ま、そのうち掃除してやるからさ。今は日向ぼっこでもしときな」

しゃがみ込んだまま愛おしむように置き去りの墓石へ語りかけ、額の汗を拭って再び作業に戻ること、数分。

少女「淫魔さーん! 見せかけビッチのお姉さーーん!!」

淫魔「……返事、したくねェ」

少女の呼ぶ声が、礼拝堂の中から、裏手まで……割れたステンドグラスを越えて、聞こえてきた。

少女「あれー? いないんですかー? おーーい! 清純ぶりっ子くそ人外ビッチさーーん!」

淫魔「単なる悪口じゃねェかっ!」

少女「やっぱりいましたね! お外ですかー? 今行きます!」

少女「あ、淫魔さん。何やってんですか?」

淫魔「見りゃ分かるだろ?」

少女「……ポイント稼ぎ?」

淫魔「次にナメた口聞いたら卵巣エグるぞ」

少女「冗談ですって。怒らないでください」

淫魔「……で、今日は何だよ?」

少女「……付き合う事になりました」

淫魔「よかったじゃん。……で?」

少女「殺し文句を教えてください。『今日は大丈夫な日なの』って言っても通じませんでした」

淫魔「脳ミソは相変わらずの超排卵日な。ちょっとずつ下から出てんじゃねぇの」

少女「草むしりしながら言いますか、それ」

淫魔「キリがねぇんだよ、オマエも、こっちも」

少女「じゃ、淫魔さんが前に男の人誘った時は、どんなだったんですか?」

淫魔「さぁ。忘れた。何十年前だったかなー……?」

少女「わぁお、ゾンビ羊水」

淫魔「卵巣か? 前歯か? 好きな方選べ。どっちいらない? どっちくれる?」

少女「怒らないでくださいってば。……そういえば、淫魔さんって何歳なんですか?」

淫魔「あ? ……だいたい一万七千ぐらい。数えてねーや、メンドい」

少女「ゾンビっていうかもうミイラ羊水ですね。腐る分も枯れ果ててますね」

淫魔「オマエ、命いらなくなってきてない? アタシがこんな優しい美人じゃなきゃ殺されてんぞ?」

少女「大丈夫です大丈夫です。お姉さん以外にはちゃんと口に気をつけます」

淫魔「アタシにもそうしろやっ!」

少女「もう、さっきから話進んでないですよ」

淫魔「主にオマエのせいでな」

少女「で、どうなんですかね。ド鈍感でも一発で誘える魔法のワードってありません?」

淫魔「……そんなに鈍感なの?」

少女「『好きです』と言えば居眠り、目を瞑って顔近づけたら『熱でもあるの?』ですよ。やってらんねぇよちきしょう」

淫魔「そらヒドい。人格を疑うね」

少女「あ、あの人を悪く言わないでください! 怒りますよ!」

淫魔「うーん、様式美だな、オイ。……ところで」

少女「?」

淫魔「アタシの国の隣にさぁ、とんでもねー種族の『淫魔』が住んでんの、知ってる? ……わきゃねーよな」

少女「どんな種族です?」

淫魔「どいつも見た目ガキで貧弱なんだけどさ、男を命ごとしゃぶり尽くすんで有名なんだよ」

少女「そんなにすごいんですか?」

淫魔「弱っちいけど、手に余るんだわ。しかもそいつら、同族の『淫魔』にさえも手ェ出すんだ。共食いだな」

少女「…………」

淫魔「で、何でそんな事するかっていうと……『弱い』からさ」

少女「え?」

淫魔「そりゃ、人間よりは強いけどさ。寿命も人間とあんま変わんねェの。……種族としてクソ弱いんだ」

草むしりの手を休め、久しぶりに腰を伸ばし、思い切り捻って、解す。
小気味よく関節音が鳴り、吐息が悩ましく漏れた。

淫魔「だから、一人でも多く子供を作らなきゃなんねぇ。ネズミと牛じゃ、産むガキの数が違うだろ?」

少女「なるほど……」

淫魔「……自分でも何言いてぇのか分かんね。つまり、その……別に、来年あたり死ぬって訳でもないんだろ?」

少女「ええ」

淫魔「だったら、ゆっくりでいいんじゃねェーか。……それにさ、マネすんなよ」

少女「え?」

ようやく、淫魔は体を少女へ向けた。
その目は、少女が下げた籠の中にある、赤い林檎に向いた。
尻尾を使ってひょい、と一つかすめ取り、右手に移してから教会の壁にもたれかかる。

淫魔「こういうのって、無いものねだりなんだよ。アタシらからすると、人間が羨ましいね」

スカート部分で林檎を一拭いして、丸かじりにする。

淫魔「……んめーな、コレ。オマエんとこで作ってんの?」

少女「え、ええ……はい」

淫魔「そっか。で、話に戻るけどさ。むしろ、アタシらの真似なんて、しない方がいいじゃん?」

少女「それはどうして……」

淫魔「オイオイ、考えろよ。……『淫魔』ってさ、人間の『精』を搾って生きてるんだよ」

少女「でも、フツーに食べられてるじゃないですか」

淫魔「人間界で活動するために必要なだけ。『魔界』なら別に無くても平気さ。で、つまりこれ」

既に半分ほどを食べ終えた林檎を掲げて見せる。
口の中の果肉を飲み下すと、講釈が続く。

淫魔「アタシらにとっては、『作業』なのさ。林檎を育てて収穫したり、牛の乳搾ったり、解体して肉にしたりとかと同じ。
    ……そこには何も無いの。ただの『作業』、あるいは『娯楽』。その手順を知ってるってだけの話さ」

少女は、何も答えない。
答えないが————真っすぐに、淫魔の目を見つめる。

淫魔「なぁ。アタシらにとっては『作業』で『遊び』だけど、人間にとっては、違うんだろ? そこには、『あれ』があるはずだ」

少女「『あれ』?」

淫魔「くっせぇ言い方だけどさ。……『愛』っつーのかね。結ばれる事に喜びが伴うなら、それだろ?」

少女「……似合ってませんねぇ」

淫魔「その通り、アタシらに『愛』なんて似合わないのさ。……でもさ、『人間』には、やっぱり似合うよ」

芯を残して食べ終えた林檎から、種の部分を穿って、手元に弄ぶ。
直後、残った芯の部分までも口に放り込んで、かしかしと音を立てて噛み砕き、飲み込んでからなおも続けた。

淫魔「……ちゃんと付き合えよ。ちゃんと手ぇ繋いで、チューしてドキドキして、……その先は、結婚してからにしとけよ」

少女「……はい」

淫魔「よーし。……ところで、この種埋めたら……育つかな?」

少女「何年もかかりますよ?」

淫魔「アタシの歳、聞いたろ? そんなん、瞬きする間に過ぎちまうさ」

少女「それもそうですね。どこに埋めるんですか?」

淫魔「さぁ、どこにしよっかな。……『明日世界が滅ぶとしても、私は————』」

少女「……?」

淫魔「なんでもねェ。ほらほら戻れ、『人間』。……何かあったら聞いてやるからさ。一生懸命、やってこい」

少女「はい!」


————————

時は、琥珀を溶かした夕景へ戻る。

廃教会の三角屋根の上に座る淫魔、その右足に夕日が映る。
真鍮の輝きに、はるか眼下からの祝いの音が乗り、響いた。
妙な疼きは、無い。
その代わりに、胸の中と目頭に、熱い脈動だけがある。

そっぽを向きながらも、その藍玉色の瞳は、村の広場の中心へ向く。
『淫魔』の眼は、村人たちが米粒に見えるようなこの距離でも一人一人の顔を見分けられる。
輪の中心には、聞いた通りの精悍な若者と、物怖じしない『例の少女』がいた。
白いレース編みで飾り立てたドレスは、よく似合っていた。

淫魔2「……貴女ってば、こんな所で何してるの?」

人影は、二つに増えていた。
三角屋根の頂点に爪先で立ち、揃った翼と尾でバランスを取る、『淫魔』がいた。
その目の色は、夕日に置いすがる空の色と、同じだ。

淫魔「……別に。飲み損ねただけだっつの」

淫魔2「そう?」

淫魔「アイツさ、スゲーよな」

淫魔2「?」

淫魔「アタシらが何万年経っても着れないのにさ。アイツ、二十年足らずであっさり着やがった」

淫魔2「……ああ…………」

得心して、彼女も、村で行われている婚礼の儀の中心を見つめた。

淫魔「人間ってさ、綺麗だよな」

淫魔2「そうねぇ」

淫魔「……アタシ達って、何なんだろうなぁ。ただ、クソみてぇにしぶとく長生きするだけでさ」

『淫魔』の時は、永い。
数万年にもなり、男の精を求め、人間の男との子を宿しはしても、添い遂げられる『良人』はいない。
『人間』と同じ時を過ごす事など許されずに、自分は変われず、
あっという間に老いさらばえる相手に先立たれる運命しかない。
瞬きのさらに刹那の時、真似遊び程度にしか、同じ時を歩むことなどできない。

だから、彼女は『これ』を見るのが好きだった。
都で行われる華々しく壮麗な、貴族同士の婚礼も。
素朴な村で行われる、ささやかだが幸せの満ち溢れる、村人の婚礼も。
酒宴も、誓いの口づけも、ブーケを投げる儀式も。
何よりも…………『ドレス』を見るのが、好きでたまらない。
その視線には、羨望と、慈しみと、祝福が確かに注がれていた。

淫魔「……まぁ、機会があっても着ねぇよなぁ。似合わねぇよ、アタシ達には」

同意を求められた二人めの淫魔は答える代わりに、少し困ったように、視線を伏せて苦笑する。

淫魔「そういやオマエ、仕事はどーした?」

淫魔2「休みぐらいあるわよ。飲みに行かないかしら?」

淫魔「『どっち』を?」

淫魔2「そうねぇ……今日は、お酒でしょ? 奢るわよ」

淫魔「いいねぇ。『国』に戻るのも久しぶりだわ」

懐からあの時の林檎の種を取り出し、掌に載せて夕日に差し出し、照らす。

淫魔「……アタシ、不器用なんだよなぁ。枯れるかもな」

思わずぼやいた時、祝福の鐘の音が聴こえた。
今二人の『淫魔』がいる忘れられた廃教会ではなく、村にある、真新しい教会の鐘楼からだ。
そこではきっと、『神さま』が見てくれているはずだ。

淫魔の国には、女性型の『淫魔』のみが住む。
だから——————『婚礼』が行われる事は、ない。

淫魔2「さぁ、行きましょう? 飲み明かすわよ」

虚空に開いた扉へ、二人目の『淫魔』は音も無く滑り込んでいく。
それから遅れて、数秒。
真鍮の脚の『淫魔』は、灯りがともされた村の広場にいる、一組の男女をもう一度だけ見た。
『彼』と『彼女』は、死が二人を分かつ時まで共にいて、子を為して、数十年の時を共に老いるのだろう。
子の成長を二人で見届け、いつか盃を交わす一時があるのだろうか。

祝福を受ける男女に、彼女が人知れず贈っていた言葉がある。
何百、何千年を数えても、その願いが揺らいだことはない。
そして、今も言葉に乗せる。


淫魔「————末永く、お幸せに」






勝手ながら、これにて今回のスレを終了とさせていただきます

もしもまとめサイトの方が見てくださっているなら、重ね重ね勝手ながら、私のtwitterをお載せいただけると幸いです。
次回スレの時期を予告等できて、読んでくださっている方々にキーワードを検索させる手間をかけさせなくて済みますので。
それでは、一旦おやすみなさいー



まとめ→Twitterからの荒らしが容易に想像できるな
まぁ、この>>1は荒らしをものともしない人だったが

なんでこんなに素敵な話を書けるのかな…
乙でした!

GJ!
義足の淫魔と二人目の淫魔は前にも出てきたっけ?

>>219
まぁ、殺されるわけじゃないですし問題ないですよ
買いかぶりですってばw

>>220
読んでいただき、ありがとうございました
見え見えの謙遜ですけど、そんな事ないですよー

>>221
今回の淫魔は多分次スレで登場。二人目のはサキュバスAです
短編一つ目のはサキュバスBです

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