ひよっ子魔女とその師匠 (55)
嘘嫌いや短編集よりもわりと前の話
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老魔女ヘレナは不機嫌だった。
もともと気難しい性格というのも大きいが、他にも理由はあって一つ一つ挙げていけばきりがない。
住居にしている風車小屋の機構がうるさくてよく眠れていないのもあるしこの頃腰やら肩やらが痛むのも気に入らない。
目が弱ったせいで本を読むのにも苦労しだすとイライラは最高潮に達した。
まあ要するにヘレナも年を食ったということだが。
(まったく、ババアになんざなるもんじゃないね)
そう毒づきながらも一応まだまだ背筋はしゃんとしていてつかつかと速足で廊下を進んでいる。
「ミナ! どこだい?」
ドアを開け放って孫娘の名を呼ぶとどこかで「はぁい」と声がした。
外の景色を視界から追い出ししばらく瞑目。数を数えて待つ。
パタパタと足音がしだしたのは五を数えたあたりで、べしゃっと音がしたのは七、「いたぁい……」とぐすぐすやる声がして十五で目を開けると服の前を汚したまだ幼い少女が立っていた。
「お婆ちゃん、転んだ……」
「そうかい」
ヘレナは冷たく返して孫娘をじろじろと観察した。
「すりむいたのはここだよ?」
そう言って彼女が見せてくる肘を、しかしヘレナは見ていなかった。
「どこだい?」
「だからケガはここ」
「そうじゃないよ。わたしは今朝あんたになんて言った?」
「ケガしないようにね?」
「違う!」
ヘレナの大声に孫娘は飛び上がった。
またぐすぐすやり始める彼女にヘレナは辛抱強く語りかける。
「よく思い出しな。わたしは探し物をしなさいと言ったんだよ」
あ、と孫娘は目を輝かせた。
「魔法の訓練!」
「そう、いい子だ」
ヘレナがうなずくともう傷の痛みやらを忘れたかのようにミナは「あたしいい子!」と笑った。
ヘレナの頬がひきつるがそれには気づかなかったようだ。
「で、何を探せばいいの?」
「それについてはわたしは何も言ってない」
「どういうこと?」
「何を探すかわからなくても魔法の助けを借りれば見つけられるからだよ」
ヘレナの胸中に再びイライラが積もり始めた。
まるっきり朝の繰り返しだし非効率だし、つまりは無駄だからだ。
それでもなんとか我慢する。
「それじゃあ見つからない……」
「見つからないじゃない、見つけるんだ」
「むりぃ」
堪忍袋の緒は意外とすんなりブチ切れた。
「いいからさっさと行ってこい!」
ぱたたたと逃げ出していく孫娘の背中を眺めながらヘレナは深くため息をついた。
ヘレナの不機嫌の最大にして最後の理由。孫娘の深刻な不出来。
自らの老いも強敵だが、これもまたなんともしがたい頭痛の種なのだった。
擦りむいたという肘の傷は多少気になったものの、
「ま、唾つけとけば治るさね」
それだけ言ってドアを閉めた。
「ミナ!」
ヘレナが呼ぶとミナは「お婆ちゃーん!」と歓声を挙げた。
なあにがお婆ちゃんだ。ヘレナは苦々しく口を歪ませた。
一応は師匠と弟子なのだからもっとふさわしい呼び方があるだろうに。
思い返せば初めて彼女と対面した時もそうだった。
十数年ぶりの母と祖母の険悪な睨み合いなど全く気にすることなくこの孫娘は満面の笑顔で言ったのだ。
「お婆ちゃん、あそぼ」
……礼儀を知らんのかこの馬鹿は。
(まったくあのアホ娘はどんなしつけ方してたんだろうねえ……)
アホはアホなのだからアホみたいな教育しかしなかったのだろうが。
まあそれはいい。
「ミナ! どうしたんだい?」
川から上がってこない孫娘に叫ぶ。
「さっさとこっちにこないかい」
「お婆ちゃんも一緒にあそぼーよぉ!」
ヘレナの雷が落ちたのは言うまでもない。
「そんな、やだよー」
ミナはびしょ濡れのまま取りすがってくる。
「絵本よんで。お歌うたって」
孫娘の手の湿り気から退避しながらヘレナは首を振った。
「いいやならん。今日は絵本も子守歌もなし」
ミナを叱るのには普通に怒声を上げるよりもなぜかこちらの方が効くのだった。
ミナも風車の軋みが嫌いらしい。
ヘレナと違って怖いからというのがその理由らしく毎晩絵本を読んだり子守歌を聞かせてやらないと眠れない。
夜をどうしのぐのかはミナにとってかなり重要な事項のようだった。
晩飯抜きなどよりもよほど効くのがいまいち理解しがたいところだが。
「わかったからぁ、ちゃんと探すからぁ……」
ほとんど泣き出しそうなミナの様子にヘレナはこっそりほくそ笑んだ。
「本当かい? 一生懸命に探すかい?」
「探す!」
「嘘じゃないね?」
「ない!」
視線の高さを少女に合わせてしばし見つめ合う。
「それならよし」
「やったぁ!」
小躍りを始めるミナにヘレナは発破をかけた。
「さっさと行かないと取り消すよ!」
「はーい!」
ミナは再びぱたたたと駆けていった。
やれやれとため息をついてから空を見上げると、太陽はやや西側にあって柔らかい陽光を地上に注いでいた。
風がヘレナの白髪を撫でる。
草花がさわさわとかすかに囁いた。
振り向くとやや離れたところに風車屋敷。
丘というには足りないが周りよりも少し高くなった地面に鎮座している。
風車がゆっくり回っているのが見えた。
痛む膝に鞭打って、ヘレナはそちらに足を向けた。
それからしばらくはミナも真面目だった。
他のもっと楽しいことに惑わされることなく魔法の訓練、つまりは探し物に専念していた。
……だからといってそれに結果が伴うわけでもなかったが。
「なんだいこれは」
部屋の椅子に腰かけたままヘレナは手の中のそれを冷たく眺めた。
「探し物見つけた!」
「……」
その石は確かに珍しい形をしていた。
丸い。完璧な円形だ。
のみならずどの角度から見てもやはり完璧な円形なのだった。
つまり綺麗な球形ということだ。
「すごいでしょ?」
「まあ確かにそれはそうだが」
「やった! あたしえらい子!」
「それは違う」
「えー!」
「探し物はこれじゃあない」
「なんで? きれいなのに」
「綺麗だがこれじゃない」
「お婆ちゃんはこの石嫌い?」
「それとこれとは関係ない」
むー、とひとしきり考えてからミナは独自に判断したらしい。
「じゃあ別の石探してくる!」
ヘレナが止める暇もなかった。
ミナは飛び出していきそれから六つくらい珍しい形の石がヘレナの部屋に揃うことになった。
その日は探し物が石ではないことをミナがようやく理解して終わった。
その次の日もそのまた次の日も探し物は見つからなかった。
いよいよヘレナは不安になってきた。
この子には魔女としての資質が皆無なのではなかろうか。
とうとう癇癪を起して探索の放棄を宣言した孫娘(「もうやだー!」)を前に、ヘレナはそんな危惧を抱いた。
「一つ訊くが」
ヘレナは慎重に言葉を選んだ。
あまりマシな文句があるわけでもなかったが。
「本当に、全然、見つからないんだね?」
「うん」
ミナはあっさりうなずいた。
「ムリ。見つかんない」
深々とため息をつく。
(これは、もしかして、いや間違いなく……)
ヘレナは静かに確信した。
「お前は魔女にはなれないね」
魔女は魔法という不思議を味方につける。
なくなったものがあれば『不思議と』分かるし、見つけようと思えば『不思議と』見つかる。
そういうものだ。それが魔女なのだ。
だからそれができないミナは魔女ではない。と、必然的にそうなる。
「えー!?」
ミナが大声を上げた。ヘレナは半眼で耳をふさいだ。
「うるさい」
「あたし魔女だよぅ! お婆ちゃんの孫だもん」
「血がつながってるからといって資質が受け継がれる訳じゃないよ」
ミナはわからなかったようだ。「シシツ?」と首を傾げた。
「お前はどう頑張っても魔女にはなれないってことだよ」
それで納得するほどミナの頭は出来がよくなかった。
当たり前だ。深刻に不出来な子なのだから。
「なれる!」
「なれない」
「なれるってば!」
「不可能だ」
うー。ミナは目の前の憎き偏屈老婆を見上げて唸りをあげた。
十秒ほども睨み合いが続いただろうか、ミナは最後に一声叫んでこちらに背を向けた。
「お婆ちゃんの大馬鹿モニャラミミズーッ!」
モニャラ……なんだって?
訝しむヘレナを残してミナはばたばたとあわただしく出て行った。
部屋のドアが大きな音を立てて閉じた。
さて厄介なことになった。
ヘレナがそう思ったのはもちろんミナが出て行ったすぐ後――ではなかった。
夕方になり窓の外がかなり暗くなってもミナが戻っていないのを確かめて、それからようやく事態の重さを認識したのだ。
つまりミナのモニャラなんとかいう罵声から九時間近くが経っていることになる。
(どうしたもんかねえ)
どこに行ったのかはなんとなく把握できた。
なぜならばヘレナはミナと違って魔女だからだ。
ただ、見当がついたところで連れ戻せるとは限らない。
あの様子を見るに結構な機嫌の損ね具合だったように思える。
孫娘は不出来でかつああいうことに関しては見かけによらず頑固な子だ。
今更お前は魔女になれるなどと嘘をついても機嫌を直すとは考えられない。
仮になだめることができたとしても後々までしこりを残すだろう。
(それでも行かんわけにはいかんだろうね)
一応は祖母と孫なのだから。
逆を言えば血縁関係がなければ探しに行く義理はない。
闇に怯えていようが関係ない。
蚊に食われていようが関係ない。
転んで怪我をしていようが蛇に噛まれていようが獣に襲われていようが……
「……」
どんどん嫌な方向に加速していく思考に急き立てられるようにしてヘレナは邸宅のドアを開けた。
外は月の光が明るく、ランタンを持たなくても十分視界が確保できた。
それを確かめてヘレナは邸宅の東へ歩き出した。
背の低い草が生える原っぱの向こうに黒々とうずくまるものが見える。
風が吹くとざわざわと音を立ててまるでヘレナの接近にどよめいているかのようだ。
それは魔女でもあまり立ち入ることのない領域だった。
太古の地上の状態にもっとも近く、魔法のもっとも好んでとどまる場所。
森。
かつて旅をしていた頃はその奥深くに立ち入ることもあった。
若く力に満ち溢れていた頃もあったのだ。
膝や腰が痛むこともなく魔法を完全に掌握した一流の魔女だった頃もあったのだ。
今は違うかといえば変わらず一流の魔女だと答えられるが森に入ることはなくなった……
(いかんね)
感傷を振り払い意識を現在の自分に戻す。
今はミナを探さなければならない。
繰り返しだがヘレナはミナと違って正真正銘の魔女だ。
だからミナが森の中にいることは分かった。
森の浅いところにある、彼女称するところの『秘密基地』にいるのだろう。
まったく仕方のない子だ。
ヘレナは顔をしかめて額を掻く。
出来が悪い上にこちらに心配を……いやいやこちらの手を煩わせるとは。
森の辺縁にたどり着く。
ちょうどそこはもしゃらもしゃらと生えている背の高い草の切れ目でそこから森の中に入れる道になっていた。
ヘレナが一歩目を踏むと、ぽっ、と明かりがともった。
訝しい思いで見やるとほんの小さな光が宙に浮いていて、また一つまた一つと増えていく。
目を凝らすとそれは燐光を放つ虫や植物のようだ。
「魔法か?」
つぶやく。そして舌打ち。
以前はこんなことはなかった。魔法が手を貸しているならばすぐにそれがわかったというのに。
またイライラが湧いてくる。
が、それを無視して足を進めた。
小さな明かりは数だけは多く、まるでヘレナを導くように奥へと続いていた。
ミナを見つけたらどうするべきか。
歩きながらふとそんな疑問が頭をよぎる。
どう懲らしめよう、とかそういうことではない。
どうなだめて連れ帰るか、それが問題だ。
そういった母親のするようなことは得意ではないという自覚はあった。
だからキーナは反抗的に育ったしミナの扱いも正直下手くそだ。
また口喧嘩になることは十分あり得るしそうなると連れ戻すのはそれこそ森の王に殴り合いで打ち勝つよりも難しいかもしれない。
今のうちに何かしら手だてを考えておいた方がいいように思えた。
何か物で釣るとか再び絵本や子守歌で脅すとかあえて突き放すことでビビらせるとか。
「普通に謝るって選択肢はないんだね、君らしい」
「?」
声がしたように思った。
男の声だ。
いかにも優男然とした気に食わない声。
聞き覚えがないこともない。
「なんだかひどいなあ」
ヘレナは足を止めて声の方向に視線を定めた。正面だ。
夜光の中に声の主と思われる影はなかったがやはり声はそこから聞こえた。
「ひさしぶり、ヘレナ」
「……ダン?」
それはもう何年も前に死別した夫の名前だった。
「……なんの用だい?」
冷たく告げる。
男の声は笑いの気配を混ぜて「さすがヘレナ、驚かないんだね」と言った。
「死人に口はない。ならこれは魔法の悪戯だ。驚くのも馬鹿らしい」
「一流の魔女は違うなあ」
「消えな。あんたに用はないんだ」
「用があるのは可愛い孫にだけ?」
のほほんとしていちいちムカつくもの言いはいかにもあの馬鹿夫らしかった。
だがこれは魔法が生み出した幻聴であって死人が実際に語りかけているわけではないはずなのだ。
だから余計に腹が立った。
「あの人の声で遊ぶなら殺すよ。たとえ魔法という形のないものでもね」
「怖いね」
「分かったらさっさと失せろ」
言って歩みを再開する。
だが小さな光の道はその先には続いておらず闇が立ちはだかっていた。
振り返るとそこにも闇。
ヘレナの周りだけがいくつかの光に囲まれてぼんやりと明るかった。
「どういうつもりだい?」
恫喝の響きを混ぜて問う。
声は素知らぬ調子で答えた。
「少しだけ話がしたくて」
「わたしはしたくない」
「ぼくがしたい」
「可愛い孫が待ってるんだよ」
「すぐ終わるさ。あの子にはちょっと待っててもらおう」
「いい加減にしないと――」
「探し物は一体なんなんだい?」
言いかけた言葉が喉に詰まった。
「……何のことだい?」
「ミナに探させていた物さ。何を探させていたの?」
「それは」
言おうとして、だが舌が動かない。
「……あんたには関係ない」
「関係ないことないさ。関係大ありだよ」
「……」
「で、探し物は何?」
沈黙が落ちた。
しばらくして夫の声が静かに言った。
「分からないんだろう?」
ヘレナは何も言い返さなかった。
その言葉が正しかったからだ。
「君は魔法の助けによって何かがなくなったのは分かっていた。
実際に確かめてみて何かがなくなった実感もあった。
だけどじゃあ何がなくなったのか、それは分からなかったんだ」
違う? と夫は訊いてきた。
ヘレナは無言だったがそれはなによりも確かな肯定だった。
「君は何をなくしたのかな?」
「……知るか」
「君はなんで自分で探さないんだろう」
「知るか、そんなこと」
「ぼくが教えてあげようか? 実のところ君は――」
「知らない! 興味もない!」
ヘレナはとうとう大声をあげてそれを遮った。怒声というより悲鳴に近い声だった。
「実のところ君は分かってる」
夫は構わず続けた。
「何をなくしたのかもなぜ自分が分からないふりをしているのかもなぜ自分で探さないのかも。全部分かってる」
光の一つが宙に舞った。
ふよふよと頼りない軌道を描いてヘレナの方に近寄ってくる。
ヘレナはそれを振り払おうとした。
が、光は手の間をすり抜けた。
「ヘレナ」
夫の声が言う。
「大好きだ」
光がヘレナの額に触れた。
優しい、日の光のような温かさで。
ヘレナの意識はぼんやりとした光に呑まれて溶けた。
あれは。
そう、「大好きだ」というあの言葉は。
夫の最期の言葉だ。
小さい頃は町住みで猫を飼っていた。
その頃は自分も人並みに明るい性格で笑顔もそれなりに上手だったように記憶している。
人と自分がどこか違うと感じるようになったのは猫がすっかり大人になったあたりで、みんなと同じように物を考えることがいつの間にかできなくなっていた。
人はどこか変わってしまった自分から次第に離れていった。
両親が夜、自分のことでなにやら深刻に相談をしているのを聞いてしまってからは両親を頼ることもやめた。
一人で過ごす時間がとても多くなった。
そのこと自体は苦痛ではなかったが一人でいるところを人に見られて、つらそうだな、と思われるのは癪ではあった。
だから暇なときはもっぱら家の屋根にいた。
そこから見る夕焼けは綺麗だった。
その感動を誰かと共有できないことだけは悲しかった。
猫だけはそばにいてくれた。
何も言わず横に座っていてくれた。
言葉は交わせないまでも人間よりもこちらの気持ちを分かっているように思えた。
確か自分が十四歳になった頃だ。
猫が死んだ。
干からびるほど泣いた。
泣いて、泣いて、泣き疲れて眠ってそれから起きて。
もうこれから一生泣かないと決めた。
そしてこの町を出ていくことにした。
各地をさすらっているうちに、自分が魔女であることを知った。
世の不思議、魔法とともにある存在らしい。
確かにいろいろなことが不思議と思い通りになるなとは思っていた。
だがどうでもよかった。
どこへ行ってもどんなことをしていても、やっぱり自分は一人だった。
二十一の時、同じ年頃の青年と出会った。
自分と同じく旅人で、その時はいろいろな情報を交換するだけで別れた。
が、二つほど先の村でばったり再会した。
まあ珍しいとはいえ絶対にないことではない。
あちらは手を振ってきたが用もないので無視して立ち去った。
村を出たのは次の日。
今度は大きい町に入って、そこでもまた青年と再会した。
珍しいとはいえ絶対にないことではない。
だからやっぱり無視をした。
青年は追いかけてきたが適当に撒いた。
そんなことが何回も続いた。
つまり何回も青年の顔を見ることになった。
本当奇遇だねえと彼は笑ったがこちらは理由が分かっていた。
魔法だ。
青年がこちらに興味を持っているのは明らかだったので、自分は魔女だと教えてやった。
胡散臭さか怯えか呆れか、そのどれを感じるかは知らないがとにかくさっさと消えろという意思表示だった。
思惑通り青年は立ち去った。
そして宿の隣の部屋に移ってきた。
青年は言った。ぼくは魔女を探してたんだと。
訝しい思いで見やると彼は続けた。
だって魔女といれば不思議な体験ができるんだろう?
呆れた。
この男は自分をなんだと思ってるのだ。
それから数か月間、この男を撒くことに専念した。
そのどれもが失敗した。
魔法がそうさせてはくれなかったからだ。
あるとき山越えでドジを踏んだ。
地面の窪みに気づかずに足を挫いたのだ。
あまりにひどくひねったのでそこから一歩も動けなくなった。
食料は最低限しかなく防寒の準備も十分ではないのに雪が降りそうな空模様だ。
死を覚悟した。
青年が追いついてきたのはそんなときで、衰弱した自分を見つけて急いで看病してくれた。
熱で浮かされていてその時のことはあまり覚えていない。
ただ一緒の毛布にくるまって星を見ていたような気がする。
こちらの背中をさすりながら、安心できるように子守歌を歌ってくれていた。
ところでね。
彼が言った。
君と一緒にいたいのは、不思議な体験をしたいからじゃないんだ。
じゃあなに、とうわごとのように問うと、彼は照れくさそうに頭を掻いた。
なんだろう、一目惚れかな。初めて会った時から君のことが忘れられなくて。
自分はそれになんと答えただろうか。
覚えていない。
ただ、その後一緒に旅を続けて、数か月後にある村で夫婦の契りを結んだ。
それからいろいろあった。
海に出て一緒に釣りをしたり長い地底洞窟を手をつないで歩いたり。
ある村に住まいを定めてからは大きな出来事はそうそう起きなくなったが、それでもいろいろあったことには違いない。
娘が生まれた。
キーナと名付けた。
その子が可愛くてしかたがないと思う自分に驚いた。
自分に、自分なんかにこの子を育てられるのか、不安だったが夫と一緒なら頑張れる気がした。
娘はすくすくと育った。
小さいながらに生意気で悪知恵の働く困った子だったが、それでも娘は可愛かった。
夫も娘に夢中になってあまり自分に構ってくれなくなったのは少し、ほんの少しだけ腹が立ったが。
夫は流行り風邪で肺を悪くして亡くなった。
大好きだ。
彼はあえぐように言った。
大好きだよ、ヘレナ。
妙な言い方だと思った。
愛しているではなく大好き。初めて会った頃のことを思い出した。
あまりに疲れていて、胸の中ががらんとしていて、泣けなかったのをその後自分はずっと後悔することになる。
図らずも一生泣かないという決め事を守ることになってしまった。
娘と口を利かなくなった。
彼女は意識的に自分を避けているようだった。
そのことで叱ると娘は言った。
お母さんはなんでお父さんが死んだとき泣かなかったの。
何も言えなかった。
娘はぷいと出て行った。
彼女がどういう解釈をしたかは分からない。
その後、娘のキーナは意中の男と一緒に自分の前から去っていくことになった。
どうということはない。
その時に頭に浮かんだのはそういう乾いた言葉で、本当に心からどうでもいいと思った。
一人だったのがそうじゃなくなり、そしてまた一人に戻ったというだけだ。
だから自分は泣かなかった。
一生泣くことはない。
風車屋敷が建って数年後。
娘がいきなり訪ねてきた。
自分にとっては孫にあたる女の子を一人預かってほしいという。
娘は言った。
あんたのことは大嫌い。だけどあんたの話するとこの子がすごく興味を持つのよね。
そして苦笑しながら続けるのだ。
魔女になりたいんだって。ああ見えて頑固だから一度言ったら聞かないのよ。
同居を始めて一、いや二週間。
孫娘が不思議そうに言った。
お婆ちゃん、なんで指輪してないの? 結婚したらするんでしょ。お母さんもしてたよ。
指輪はなくしたのだと言った。
嘘ではない。引き出しの奥にしまってもう取り出すことがないのならなくしたのとおんなじだ。
ふーん。孫娘は不思議そうな顔をして、それから笑った。
お婆ちゃん、だーいすき。
いきなりなんだと面食らうと彼女は言った。
なんだかさびしそうな顔してたから。あたしがかなしい気持ちのときはお母さんこういうんだ。
ミナちゃんだーいすき、って。
ね。お婆ちゃんだーいすき。
「いい子じゃない」
走馬灯のように流れる景色の中で声が言った。
当り前だよ、と彼女は答えた。なんたってわたしたちの孫だからね。
「はは。違いない」
彼は明るく言った。
あの時と同じ、陽だまりのような暖かい声で。
「……じゃあもうそろそろお別れだ」
うん。彼女は答えた。さようなら。
「ミナによろしく。それから」
光が視界を覆う。
静かな轟音が押し寄せる。
「愛してるよ、ヘレナ」
……
「ニャー」
猫の鳴く声で目を覚ました。
ヘレナはしばらくぼんやりと天井に目をさまよわせた。
朝日に照らされるカーテンが揺れていた。
「お婆ちゃん?」
ミナの声が聞こえる。
起き上がれないまま首を巡らせると孫娘の半泣きの表情が見えた。
「お婆ちゃあん!」
「うぶっ!」
いきなり飛びついてきた彼女に息を詰まらせる。
どうやら、とむせながら判断した。ここは自分の部屋のようだ。
ヘレナはベッドに寝かされていてそれにミナが取りすがっている形である。
その小さな肩から黒猫がひょこりと顔をのぞかせた。
「……どいとくれ」
いい加減息が苦しいのでそう告げると、ミナはうんうんとうなずきながらも離れてくれない。
「こわかったよぉ……」
彼女のあまり筋道立たない話を整理すると、夜の秘密基地で一人過ごすことになって怖かった、ヘレナが森で倒れていて怖かった、ヘレナがもう目を覚まさないんじゃないかと思って怖かった、とこういうことらしい。
(なるほど、さっぱり分からん)
とりあえずこの孫娘がヘレナをここまで運んでくれたらしいことは確かだが。
呆れてため息をつくと、孫娘は「そうだ」とベッドから下りた。
そのままぱたたたと部屋を出ていく。
何だろう、と上体を起こして待っていると、彼女は湯気のたつ器を持って現れた。
「はいどうぞ!」
スープだった。
受け取ってすする。あまり美味くはない。というかまずい。
「これは?」
「あたしが作った!」
「お前が?」
疑わしい思いで彼女を見やる。
孫娘は「本当だよぅ」とむくれた。
「おかわりはいる?」
「いらん」
そう言ったのだが結局あと三杯ほど食べることになった。
やっぱりまずい。しかし不思議と悪い気はしない。
それからミナは水を桶に汲んできてタオルを絞った。
ヘレナを寝かせてその濡れタオルを額に乗せる。
その一連をヘレナは不思議なものを見る心地で眺めていた。
これは魔法だろうか。
「ところでお婆ちゃん、これ」
「ん?」
ミナが差し出してきたのは小さな紙の包みだった。
見覚えがある。自分はこれを知っている。
無言でそれを見つめているとミナはおずおずと言ってきた。
「あのね、お薬ないかなって引き出しを探してたら見つけたの。お婆ちゃんに渡さなきゃって思ったの」
勝手なことしてごめんなさい、と彼女は頭を下げた。
「いや……構わないよ」
彼女は小さく首を振った。
孫娘は顔を輝かせた。
「よかったぁ……」
それから彼女は何かに気づいたようにあっと声を上げた。
「お婆ちゃん、わたし探し物してくる!」
そう言って部屋を出ていこうとする背中にヘレナは声をかけた。
「お待ち」
「なに?」
「お前はなんで魔女になりたいんだい。聞いたことがなかったね」
「……うーんとね」
ミナはなぜか恥ずかしそうにもじもじした。
「……りたいから」
「なんだって?」
「だから! お婆ちゃんみたいになりたいから! だからなの!」
それから孫娘は顔を真っ赤に染め、大急ぎで部屋を出ていった。
ドアが大きな音をたてて閉まった。
ヘレナはぽかんとしたままそれを見送った。
(……まったく。あの馬鹿娘からどんな話を聞いたのやら)
キーナは絶対にヘレナのことをよくは言わなかったのだろうから不思議ではある。
あの頭の悪い孫娘のことだ、独自のトリッキーな解釈を加えたことも十分あり得る。
いや実はキーナがヘレナのことを悪く言わなかったのかもしれないが……まあなんでもいい。
自分には関係ない。関係ないが。
「ふふ……」
笑いがこぼれるのが不思議だった。
不思議なのだから、きっと魔法の仕業だろう。
手元の包みをゆっくりと開く。
中には指輪が入っている。
ダンと夫婦だったことを示す印。
胸の奥が鈍く痛む。
指輪は幸せだった日々の残滓で、それを失ったという傷跡で、泣けなかったあの日の後悔だった。
自分はその痛みを綺麗に包んで、しまいこんで、忘れてしまいたかったのだ。
だがヘレナが探していたのもその痛みだった。
「どうりでわたしには見つけられないわけだよ」
ミナはそれをいともたやすく見つけてしまったわけだ。
指輪を胸の上に置いて両手で顔を覆う。
涙は流れない。泣くものか。一滴だってこぼすものか。
だって嬉しいときは泣くべきではないのだから。
「あの子はいい魔女になるね」
毛布の上に上がってきた黒猫を撫でながら言う。
「わたしなんかよりずっといい魔女になるよ」
ニャー、と黒猫は小さく声を漏らした。
子供が大人になる不思議。
誰かが誰かを好きになる不思議。
誰にも解明できないことで。
ならばそれらはきっと、魔法なんだろう。
おわり
今更だけどお読みいただきありがとでした
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