【二○××年三月○日 ○曜日】
ピピピピピ…。
目覚まし時計の音に反応し、身体が覚醒する。午前七時。
「んー…」
横向きの身体を起こし、ゆっくりと伸びをする。
「…おはようございます」
誰に言うでもなく声をかける。布団から這い出てカーテンを開けると、シャッという小気味のいい音と共にふんわりとした朝の光が差し込む。
日光が部屋の中に入り、机の上のだるまや、部屋の隅に置かれた大きなカプセルを白く照らした。
(今日もいい天気ですね)
窓も開けると、髪をかき分ける風を浴び、再び大きな背伸びをする。
「さて、顔を洗って朝ごはんにしましょうっ」
景気付けるように言うと、私は小走りで階段を下りて洗面所に向かった
「うん、これで準備完了ですねっ」
つぎはぎの施された白のエプロンをほどき、小さくまとめる。脚の短い机の上には、二人分の食器に盛られた湯気を上げる白米と味噌汁のいい香りが漂っていた。
「あとは阪本さんを呼ばないと……阪本さーんっ、朝ごはんですよー」
縁側と庭の境界である引き戸を開けながら、家族の名を呼ぶ。
しばらくすると、色あせた赤いスカーフを首に巻いた黒猫が一匹、よろよろとした足取りで居間に入ってきた。
「あ、来た来た。おはようございます、阪本さん」
挨拶をしながら用意してた老描用キャットフードを器に盛り、阪本さんの前に置く。
阪本さんは閉じた目をしょぼしょぼさせながら、差し出された朝食に口を付けた。私はしばらくその様子を眺め、時折背中を撫でたりする。
「っとと、私もご飯にしましょう……」
ふと我に返り、いそいそと食卓につく。行儀よく正座をし、両手を合わせ。
「いただきまーす」
元気な声であいさつをして、私はお箸とお茶碗に手を付けた。
「それでは阪本さーん、図書館に本を返しに行ってきますねー」
玄関から家に向かって声をあげると、玄関の戸を閉める。ふと、庭先に目が行く。
「ふむむ…だいぶお庭に草が生えてきましたね…」
顎に手を当て、しかめっ面をしてみる。とはいっても何も状況が変わるわけではないが。
(まあ、あとでお掃除しましょう)
そう決めると、気を取り直してアスファルトの道を、図書館に向けて歩き出した。
「~♪」
三月の暖かい日差しは心地よく、歩いているだけで心が軽くなるような気がした。
木々を鮮やかに色づける桜は我もとばかりに咲き誇り、近くを通るものに自己主張をしていた。
「なんだか桜餅が食べたくなりました。帰りに買っちゃいましょう」
鼻をくすぐる甘い匂いにそそのかされ、小さな欲求を胸に歩く。
曲がり角を右に進むと、町の図書館が視界に入る。もう十年以上も通い続けたこの建物は、こじんまりとしているが清潔感があり、とても気に入っていた。
「こんにちわー!」
「こんちわっ」
「はい、こんにちは」
数人の子供たちがすれ違い、子供らしい元気な挨拶を交わしていく。走り去っていく子供たちの背中をなんとなく目で追うと、穏やかながら不思議な感情が芽生えてきたが。
「……。さて、本を返さないといけませんね……」
それを押し込めると、ゆっくりと踵を返し、図書館の入り口に入っていった
「今回お借りになるのはこの五冊でよろしいですか?」
「あ、はい。おねがいします」
結局一時間近く図書館に居ついてしまった。
別に今は外で1時間過ごそうが夕方まで過ごそうが問題ないのだが、なんとなく「家に帰ってご飯を作らなくては」という気持ちになりそわそわする。
「はい、東雲さんどうぞ。返却期限は一週間後の月曜日になります」
書士の人が笑顔で本を差し出してくる。
それを受取ろうとした、その時だった。
「ありがとうござッ…!? う…!」
ぐにゃあ。
書士の手と本、そして私自身の手が歪む。否、背景も含め、すべてが歪む。
「どうしました? 東雲さん?」
硬直した私に気付いてか、声をかけてくる書士。しかしその声はノイズのかかったような低い音になっていた。
ぐにょん。ぐにん。
時折テレビの砂嵐のような模様が時折視界に写る。
「ヴ、ぁ、あ゛……ぁあ゛…!」
意識せずに、私はうめき声を口にしていた。その場にへたり込み、目を瞑る。
チカチカ、チカチカチカチカ……。
目の奥でレーザーライトのようなフラッシュがきらめく。
「大丈夫ですか!?」
「こりゃ東雲さんとこのなのちゃんでねぇか!」
「しっかりするんだ!」
数人の人がそばに寄ってきたのを感じた。
チカチカチカ……チカチカ…………チカ…。
「だ、大丈夫…です……大丈、夫…」
うわごとのように呟いていたが、しばらくすると、フラッシュやノイズが徐々に遠のいていった。
目を開くと、すっかりなじみになったご近所さんたちの、心配そうな顔。視界のゆがみも無くなっていた。
「あ…私、もう大丈夫ですっ。お騒がせしましたっ!」
ほっとすると同時に気恥ずかしくなり、慌てて立ち上がると、本を受け取った。そのまま、なおも心配をしてくれる人への感謝もそこそこに、図書館を飛び出た。
「なのちゃん…こりゃもうそろそろかもしれんなぁ…」
ざわめきの中で誰かがそっとつぶやいた、そんな言葉を耳にしながら――。
「ただいま帰りましたー」
家に帰ったころにはすっかりお昼を回っていた。
「ごめんなさい、帰るの遅くなりました。阪本さん。阪本さーん?」
玄関をくぐり、阪本さんに声をかけるも、返事はない。
「さかもとさー…あっ」
クレヨンで描かれたサメの絵が壁にたくさん貼ってある居間に入ると、縁側で手足を伸ばした状態で寝る阪本さんを目にした。
昔のように言葉を発することのなくなった阪本さんは、この頃はまるで寝るのが仕事というように惰眠を貪るようになり、胸だけが浅い寝息に合わせて小さく動いていた。
(……お昼ご飯あげられなくてごめんなさい。晩御飯はいっぱい作ってあげますから)
心の中で詫びながら、借りた本を小脇にそっと自分の部屋に向かう。夕方になるまですることがないため、読書をするつもりだ。
(図書館の本もあらかた読みつくしちゃいました…)
ここ最近は、全くと言っていいほどすることがなかった
「ご馳走様でした」
夜の七時。空になった食器を前に、両手を合わせて挨拶をする。
「にゃー」
こんもりと盛られたキャットフードを前に、阪本さんが鳴き声をあげる。いつもより多めの食事に多少困惑気味の様子であった。
「ふふっ、お残しはゆるしまへんでー、ですよ?」
そういって笑うと、阪本さんはまた困ったように「にぃ」と鳴いて、そっとご飯の山に口を付けた。
そういば今日ようやく阪本さんの声を聞いた。もしスカーフが壊れていなければ、「おいコラ娘ぇ!! こんなに食えるかァ!!」と元気よく叫んでいただろうか。
「では、私は食器を洗ってきますので、阪本さんはごゆっくり」
そう言うと、カタカタと震える食器を重ねて、台所へ行った。
「~♪」
エプロンを腰に巻き、くたくたになったピンクの長袖シャツをまくり、鼻歌と一緒に食器を洗う。
「あら、もう洗剤が残り少ないですね…明日買いに行かなくては」
スポンジをくしゅくしゅしながら呟く。
(あとゴミ袋と阪本さんのご飯も買わなくちゃですね…あ、そういえば桜餅)
などと、買いものの算段をしていると。
きゅち。
金属がねじれるような嫌な音がして、私は自分の手を見た。
(まただ…指の関節がうまく動かない)
何か月か前からずっと、水仕事をすると関節が動かしにくくなっていた。どこかからか関節部分に水が入り、指や手足をを曲げ伸ばしを阻害する。頑張れば水仕事自体は問題なくできるが、ぎちぎちと音を立てる身体に不快感が募った。
「……」
水を強めに出してざぶざぶと洗うと、放り投げるように片づける。
「……」
ざぶざぶざぶ。ぎちぎち、きち。
「……」
ざぶざぶざぶ。ぎちぎちきちぎちっ。
「……」
それでも、最後の食器を洗う頃には幾分か落ち着いてきた。
「ふぅ…終わり、ですね。お風呂に入って、早めに寝ちゃいましょう」
濡れた手をエプロンで軽くふくと、その足で脱衣所に向かって行った。
『こんなところにいたのか! パパもママも探したんだぞ! さ、来なさい!』
『やだぁ! はかせはいかないのぉ! なのとさかもとといっしょがいいんだけど!!』
『何を聞き分けのないことを言っているの、××ちゃん!! ママと家に帰るのよ! あなたは世界一になれる存在なのよ!? こんなみすぼらしい家にいていい子じゃないのよっ!』
『やらぁ!! もうおべんきょうはやだなんだけどぉ!! やだやだやーだぁ!! はなしてぇ!!』
『くッ…この、バカ娘が!』
『いたいッ! ふぇ…ふぇぇああああああん!!』
『うるさいッ!!』
『ニャーッ!』
『うわッ! 何だこの汚らしい猫はッ! くそッ!!』
『ギャンッ!』
『さ、しゃかもとぉ!! やめてぇ!! パパやめてぇ!!』
『やっと見つけたと思ったら…こんな奴のせいでッ……! 娘の将来を壊されてたまるか…ッ!! くそがァ!!』
『パパやめて、やめて!! ごめんなさい!! わかったからぁ!! いうこときくからぁあ!!』
『あぁ?』
『やめてぇ……。分かっ、た……はかせいくから……うぐっ……さかもとと、なのに…いじわるしないで……えぐっ』
『……分かった』
『そうと決まったらすぐに準備なさいな、××ちゃん』
『ぅっ……い、ぃちにちだけ、ちょうだい……ふたりに……おわかれ…しゅ、するの……ぅうう…』
二○××年三月×日 ×曜日】
ピピピピピ…。
「う…ん……」
目覚まし時計がけたたましく鳴り響く。午前七時。
どうやら気づかぬうちにうつぶせで眠っていたようだった。道理で寝苦しかったわけだ。
「んー…今日はなんだか寝起きが悪いですねぇ」
習慣になってしまった独り言を言うと、もぞもぞと這うように布団から出て、カーテンを開ける。
(それに、なんだか嫌な夢を見た気がします)
その内容までは覚えてなかったが、苦々しいような、それでいて大事な夢だった気がする。
「まぁ、こんな気持ちのいい朝から夢で悩んでもしょうがないですよね! うーん!」
いつもと同じ朝日に向かって大きく背伸びをした。
ぶちっ。
「…え?」
今何か大きな音がした。
身体の中から、何かがちぎれるような。
慌てて胸や腹をなぞるように撫でまわす。
「え? あれ? 何ともない…?」
しかし、身体にこれといって変化はなかった。
「か、肩でもこりすぎたんでしょうかっ、読書もほどほどにしないとですね、あは、あははっ」
不安を紛らわすように無理やり笑うと、
「そ、そうだ、ご飯っ。朝ごはん作らないとっ。阪本さんも待ってることだし!」
台所へと駆けて行った。
ご飯が出来ましたよー。阪本さーんっ」
朝食の準備が済み、縁側に出て阪本さんを呼ぶ。
「阪本さーんっ? ご飯ですよーっ。……あれぇ?」
ところが今日は、なかなか顔を出さない阪本さんであった。
「どこ行っちゃったんでしょうか……」
顎に人差し指をあて、小首を傾げる。
朝食の時間はいつも決まっているので、阪本さんが出かけているとは考えにくい。というかこの十四年間の間、こんなことはなかった。
「ちょっと探してみましょうか……。っとと」
私は軽く躓きながらもつっかけを履いて庭に出た。
「阪本さーん、朝ご飯ですよーっ」
口に手を添えて庭中に声をかけるが、返事はない。
「裏口でしょうか……?」
期待を口にしながら、足を運ばせる。
「阪本さん…? いますか………あう、いませんか…」
期待が外れ、少し不安になる。自分を奮起させるためにも、あえて声を荒らげてみせた。
「さ、阪本さんっ? 出てきてください! 悪いいたずらなら、お、怒りますよー!」
……
…………
………………
返事はなかった。
「どこに行っちゃったのでしょうか…」
心配だったが、いないものは仕方がない。私はあきらめて、朝食をとるべく居間へと足を進めた。
ところがである。
「あっ、阪本さんあんなところにっ」
縁側の下のスペースに阪本さんはうずくまっていた。
道理で家の中からは気づかなかったわけだ。
軽く膨らみ、そして縮まる黒の毛の塊を見て、思わず安堵の溜息をついた。
「もう……こんなに呼んだのに、ぐっすり寝てるなんて」
そう言いながらも、不思議と笑みがこぼれてしまった。
小さく丸まる阪本さんのそばにしゃがみ、優しくなでる。
以前は豊かで艶のあった黒毛もぼさぼさになり、ところどころ白いものが混じっていた。
「阪本さん、大好きですよー」
私はその毛の流れを手ですくようにしながらら、大事な家族の眠りを妨げないように撫で続けた。
阪本さん探しのせいで朝食がすっかり冷めてしまったため、昼に取っておくことにした。
そして今私は買い物をするべく、スーパーの中にいた。
「えーと、買うものは…洗剤に、ゴミ袋に…」
手にしたメモを眺めながら、必要なものを買いものカゴに入れいていく。
「あ、桜餅! すっかり忘れてました!」
偶然製菓のコーナーを見て思い出した。カラカラカラとカゴを進ませると、そこには丸々とした桜餅が、「私を選んで!」とばかりに所狭しと並べられていた。
「うーわぁ。おいしそうですっ!」
甘いもの好きとしては、見てるだけで幸せな気持ちになってくる。他に何があるか見ようとして隣の棚身体を移動させると。
「あ……ロール…ケーキ」
ふんわりとした白いスポンジがこれまた所狭しと並べられていた。
「ロールケーキ…ロールケーキ……うーん…」
なぜか、これを買わないといけない気がする。
理由は分からない。
「むぅ…まぁ、いいでしょう。ロールケーキ買っちゃいますっ」
そう言って一つ物色し、カゴの中に投入。
「うん……ロールケーキを買えば、牛乳も買わなければいけない気がしてきました! ……えっと、乳製品コーナーは…」
そうして私は結局桜餅を購入することはせずに、その場を立ち去った。
買い物の帰り道、戦利品を手にゆるゆるとした下り坂を家に向かって歩いていく。
「あら…」
その途中、小さな空き地を私は見た。
子供たちがサッカーやかくれんぼなど、思い思いに遊んでいた。
「うふふっ…」
きゃあきゃあと楽しげな声を上げながら駆け回る姿につい顔がほころぶ。
そのせいで、足元にサッカーボールが転がってきたのに気付かなかった。
「すみませーん、ボール取ってくださいー」
と言いながら、数人の子供が駆け寄ってきた。
「あっ、はい、どうぞー」
ボールを手で拾い、渡す。それを受けた子供たちは、子供特有の間の伸びた言い方で「ありがとーございましたー」と頭を下げてきた。
「いえいえ、どういたしまして」
吊られてこちらも頭を下げた瞬間、
「あー! お姉ちゃん背中にネジついてるぅ!!」
と指を指されて叫ばれた。
「え? あ、こ、これは…! えっと、えっとですね…!」
いまだにこのネジについて言われると、どう返せばいいのか分からず、軽くパニックになる。
「あああ、あ、私はちがううんですよ、普通の、いたってふ、普通のですね! 腕とかも飛びませんし!」
あわあわしてる間にも子供たちは私を取り囲み、口々に言う。
「うわーすごい!」
「お姉ちゃんもしかしてロボット!?」
「わぁ! かっこいい!! お姉ちゃんロボだ!」
「ねえ、遊んで! かくれんぼしよ!!」
「かくれんぼだー! お姉ちゃん鬼ね!」
子供特有のキラキラとした一目で見つめられると、どうにも弱い。
「そ、それじゃあ、少しだけですよ?」
近くの木陰に買い物袋を置くと、そのまま木に手と顔を押し付け、十数える。
「いーち…にー…さんっ…」
わーわーと声を上げながら、蜘蛛の子を散らすように子供たちが離れていくのが分かる。
「じゅうっ。さぁ、見つけちゃいますよー」
数え終わり、広場全体に聞こえるように宣言する。
広場をぐるりと大きく見渡すと。
「あっ、みっけです!」
さっそく茂みからはみ出たお尻を発見した。
「うわー! タッチしないとダメなんだよー!」
見つかった男の子は一目散に走りだした。
「ええ!? かくれんぼってそういうルールでしたっけ!? ま、まてーです!」
ツッコミながらも、突然のルール違反に順応し、逃げる子供を追いかける。
ツッコミながらも、突然のルール違反に順応し、逃げる子供を追いかける。
「きゃははははは!!」
「こらこらー! まちなさーいっ」
不思議なことに、子供と遊ぶコツは体が覚えていた。すぐに捕まえるようなことはせずに、一定の距離を保って追いかける。なんだか楽しくなってきた。
「さぁさぁ、捕まえちゃいまッ」
側頭部に野球ボールが直撃し、私はその場に崩れ落ちた。
それから家に帰るまでの記憶は一切なかった。
――気が付くと、私は家の門の前に立っていた。
風雨にさらされ、ボロボロになった「東雲研究所」の看板が少し傾いている。
「……」
ガラガラガラ。私は左足を引きずりながら玄関の引き戸を開ける。
「ただいま帰りました」
当然返事などなく、期待してもいなかったが、静かな空間に消える私の言葉は妙に寂しげだった。
居間に入り、机に買い物袋を置く。
阪本さんはいつも通り、縁側で夕日を浴びながら寝ていた。
その向こうで、朝干した洗濯物が物干しざおに吊られて、だらしなく揺らめいているのに気付いた
「あぁ……服、入れないといけませんね…」
ぼやきながら庭先に出て、つっかけを履く。立ち上がる時によろめいて転んだが、気にせず起き上がり、衣服やタオルを取り込む。
セーター。靴下。タオル。赤いスカーフ。誰のか分からない白衣。慣れた手つきで全て両手に抱える。
ふと、空を見上げた。夕焼けに燃える空に、黒いカラスが小さく飛んでいるのを認めた。
(――see you again!)
「っ……! 痛…!」
何かを思い出そうとした時、ピリッとした頭痛が走り、私は思わず瞼を閉じた。
ズキズキズキズキ。
自然と眉間にしわがよる。
(――サ……ステラ……買……の)
ズキズキズキズキズキズキズキズキズキズキ。
こめかみをえぐるような痛みが、容赦なく襲ってくる。
「ぅ……く……痛い……!」
洗濯物を抱いたまま、その場にしゃがみ込む。左ひざからビキッという嫌な音が聞こえた。
(――明日か……学校……って……いよ…)
「………か……せ…?」
ズ キ ッ
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ!!」
頭の中がショートしたように、痛みがはじけた。脳内で痛覚が暴れ回る。
「うぅぅぅあああ、ぅぅううう……!!」
にじむ涙をこらえながら、歯を食いしばって耐える。
――どのくらいそうしていただろうか。
ようやく立ち上がった時、日はすっかり暮れていた。
の十時。
私は夕ご飯も風呂もそこそこに、ボロボロの布団にもぐりこんでいた。
「色々あった日は、早く寝るのが一番ですっ」
そう、一晩寝たら大抵のことは忘れられる。
身体の調子が日に日に悪くなっているのは寝ても治らないだろうが、現実逃避を決め込んだ私は目を閉じた。
先ほどの頭痛は嘘のように無くなっていた。
軽く寝返りをうつ。その時、私の布団の中で阪本さんが丸まっているのに気付いた。
「阪本さん……」
阪本さんの方から寄り添って寝てくれるなんて何年振りだろうか。自然と笑みがこぼれる。
そっと背中を撫でると、耳がピクリと動いた。薄く開いた目が私を捉える。
「にぃ」
やれやれだぜというように鳴くと、阪本さんはゆっくり私の顔のそばまで来て、再び丸くなった。
ゆっくりと睡魔が襲ってきて、瞼のシャッターを下ろそうする。
「阪本さん」
まどろみの中で呟く。
猫なのに男気があり、年上に対する礼儀に厳しく、それでいてどこか抜けてて。
「阪本さん、大好きですよ。おやすみなさい――」
何十回、何百回と言った言葉をまた言うと、私は目を閉じた。
「おやすみ。ゆっくり寝ろよ、娘」
そんな言葉が、眠りに落ちる直前響いた気がした
『なの……あのね、はかせね……えっと…』
「はい」
『んと…その…はかせね……えと』
「……」
『……パパと、ママの所。行かないといけないかも…しれない』
「そう……ですか」
『だから、ち、ちょっとの間、なのと……さ、さかっ……さかもとと、会えなぃ……』
「はかせ、泣かないでください……」
『…ふ……うっ……うぅぅ……』
「またいつか、会えますよね?」
『…………』
「会えますよね?」
『なの…この、カプセル』
「………はい」
『今まで、なのの具合が悪い時は、はかせが夜、治してた』
「えぇ…知ってます。いつも真夜中にこっそり起きて、私が起きないように、私の悪いところ治してくれてましたね」
『知ってたの…?』
「勿論ですよっ。ついでに機関銃やらちくわやら仕込んでるのもその時ですよね」
『うん……でも、もうできない。だから、あれ』
『なのの具合が悪くなったら、あのカプセルに入って。はかせの機械が、なのを治してくれるから』
「……はい」
『ぅん……だけど……』
「だけど?」
『急いで作ったから……あれ、一度入ると……なのの記憶、なくなっちゃうの…』
「え……」
それなら私、我慢します。入りません」
『でも、それじゃなのがいつか……!』
『もうお別れの挨拶はできたでしょう? そろそろ行くわよ××ちゃん』
『ま、まって…ママ……』
『全く、いつまで待たせる気だ。ほら、来なさい』
『あっ……パパ…!』
「は、はかせ…!」
『なの…さかもと……ぜったいに、ぜったいに、迎えに行くから!』
ピピピピピ…。
目覚ましが鳴り、私は静かに目を覚ます。
腕の中の年老いた黒猫が、冷たくなっていた。
私は、ボロボロになった居間の壁に背を預けたまま、黒猫の死体を撫で続けていた。
「……」
糸の切れた人形のようにうなだれる。きっと私は今、相当気の抜けた顔をしているのだろう。ぼんやりと思いながら、手だけが規則的な動きを繰り返していた。
すでに死後硬直がすすんだ阪本さんの身体は石のように固くなり、毛の触感も以前よりだいぶ荒くなっていた。
「……」
ゆっくり、愛でるように。いたわるように。阪本さんの毛並みに手を這わせる。
不思議と、涙は出ない。
ただただ無機質で、底の見えない落とし穴のような、空虚な気持ち。
そんな私を嘲笑うように、時計の針が時を刻む。
「……」
何もする気が起きず、食欲もわかない。時折足を引きずりながら台所に行き、水だけ飲んだ。
それでも世界は回っているようで、茜色の夕日が顔に差し掛かってきたとき、玄関から足音が聞こえてきた。
「東雲さーん、郵便でーす。ポストに入れておきますよー」
ごそごそという音がして、静かになる。
「……」
私はギシギシと音を立てる身体を起こし、玄関に向かった。
廊下で何の前触れもなく左腕がずるりと落ちたが、もう気にも止まらなかった。
やっとの思いで郵便受けにたどり着き、手紙を取り出す。
『笹原 みお』
差出人の欄にはそう書かれていた。
みお……? あ、長野原、さん…?」
『みお』という名前で、私の記憶が刺激される。青髪をゴムで二つに縛った、絵の上手な人。私が時定高校に転校した時、最初に話しかけてくれた人。
時定高校を卒業後、大学進学のため上京し、それきり会っていない。しかしこうして年に何度か欠かさずに手紙を送ってくれる、私にとって大切な友達だ。
私は玄関に入り、引き戸を閉めると、すぐに封筒を開けようとした。左手がないので、右手と歯を使ってバリバリと破るように封を切った。
水玉模様のおしゃれな便箋を取り出す。くしゃくしゃになった二つ折りの紙を開くと、整った丁寧な文字が目に飛び込んできた。
『拝啓 東雲なの様。お元気ですか……』
私は喰らいつくように文字に目を通した。速読が役に立ったのは生まれて初めてかもしれない。
手紙にはいつもと同じように、近況報告などが書かれていた。
春に六歳になる息子が小学校に行くこと。
読み切り漫画が認められ連載に向けて頑張っていること。
水上さんが髪を茶色に染め始めたけど、驚くほど似合わなかったこと。
事故で亡くなった相生さんの三回忌に墓参りする為、近々帰省する予定を立てていること――。
「…!」
ことに私をひきつけたのは、最後の内容だった。
『時定に帰った時に、良ければ是非遊びに行かせて下さいね。私の娘も阪本さんやはかせちゃんに会いたがってるので! 家の電話番号を書いておきますので、なのちゃんたちの声、是非聞かせて下さいね!』
「そんな…」
長野原さんが、いや、みおちゃんが遊びに来てくれるなんて!
このところ嫌なことや痛いことばかりだったので、突然の朗報に心臓が跳ね上がる。
もげた腕やまっすぐ立てない足のことなど、頭から消し飛んでしまった。
「部屋のお掃除……いや、まずは電話をしないといけませんね!」
急いで振り返ろうとした。
それが、いけなかったらしい。
「電話、でん…アァアッ!!!!」
くるっと向き直り、走り出そうとした瞬間、左膝がおかしな方向に曲がったのを感じた。
激痛が走り、派手な音を立てて玄関に倒れこむ。
「うぁぁぁあああ……痛い……! あぁああ……」
右手で膝を抑え、うずくまる。人間でいうところの脱臼が膝に起きたのだ。
「はっ……はッ……かはっ……! うぅぅぅ」
過呼吸のような浅い呼吸を繰り返し、うねりを上げる痛みに耐える。
強烈な熱を帯びた膝はすぐにパンパンに膨らみ、見る見るうちに赤紫色に変色していった。血が通っていないはずなのに、ここまで人間と遜色ない反応をされることに、私は痛みの中に強烈な嫌悪感を感じた。
「はぁ……ハッ……あ、脚…どこから取れ……痛ッ……」
顔を歪めながら、太ももを掴み、何とか外れないかと引っ張る。
早くこの痛みから解放されたい。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い助けて助けてお願いおねがががっがががgggggg
思考回路が頭の中でぐちゃぐちゃに混線し、バチバチと火花を立ててショートしようとする。
「ぁ゛あ゛…うぁあああああああ!!!!!」
すぽんっ。
渾身の力を込めて引っ張ると、驚くほど情けない音を立てながら、骨盤の下の、脚の付け根から丸ごと抜けた。先ほどの出来事が嘘のように痛みが消える。
ただ、腕と違ったのは、太ももの中は空洞ではなく、付け根からじゃらじゃらと伸びる大量のコードによって足と胴がかろうじて繋がれていたことだった。
「あぁ……はぁ…はぁ…ぐっ……はぁ…」
痛みからの解放に安堵し、ぐったりと床に頭を横たえる。涙と唾液で顔がぐしゃぐしゃになるが、気にするほどの余裕はなかった。
猛烈な疲労が私を襲い、意識がもうろうとする。機械なのに疲れを感じるとは、皮肉な話だ。
「せ…めて居間にに、いいいかななななきゃ……」
ずるずると、這って居間に向かう。ひざ部分が気持ち悪く膨らんだ左足もついてくる。途中で左腕を回収したが、止め金が壊れたらしく、肩に付けてもすぐに外れたため、捨てた。
たった数メートルの道のりを五分ほどかけて居間にたどり着いた私は、即座に泥のような眠りについたのだった。
「ん……う…」
生ごみのような、すえた臭いが鼻をつく。
最初はかすかににおう程度だったが、意識がはっきりしてくるにつれ、それは強烈な臭気となり私の鼻と脳髄を襲った。
「ぅ…! く、臭い…なんですか…この臭いは…!?」
私は目を開け、上体を起こすと、居間をゆっくりと見回した。
すると、サメの絵が貼られた壁の下に、黒い小さな塊が一つ、もぞもぞと小さく動いているのが見えた。
「一体なんでし……ッ!!」
よく見ようと顔を近づけて見たら、それは大量の蛆が湧いた黒猫の死体だった。
「ひっ…!」
反射的に身を引く。
見覚えのない黒猫の死体の口はだらりと開かれており、鼻や肛門からどろどろと垂れ流された体液で、腐った臭いのする染みが出来ていた。
そして、何よりもその体にたかる、無数の蛆虫の群れ。小さな波がうねうねと激しく動き回り、這いずりまわる姿は「気持ち悪い」と一言で表現するにはあまりにも度し難く、苛烈すぎるものがあった。
「ぅ……おえっ…!!」
思わず吐きそうになり、慌てて口を押える。涙が滲んできた。これは一体なんだというのか。誰かの悪戯か。だとしてもあまりに非道すぎないか。
「……いや、考えても答えはでませんね。まずはこれをなんとかしないと…うぅ」
頭の中の冷静な部分に促され、私は台所まで這って行くと、ゴミ袋と新聞紙をとってくる。
耐えがたい悪臭に顔をしかめながら、黒猫に新聞紙をかぶせると、その上から掴み上げた。そのままゴミ袋に入れるつもりだったのだが…。
掴み加減を間違え、ずるりと手元から離れ、目の前に落ちた。途端に、驚いた蛆虫の大群が蜘蛛の子を散らしたように右往左往する。猫の腹部分は特に腐食が激しく進んでいるらしく、赤黒い肉と、その肉の中に潜りこもうとする蛆が、はっきりと見て取れ、
瞬間、私の中で何かが切れた。
「もう……嫌…! 嫌ぁ……! もぉ嫌ぁぁぁああ!!!! うあぁぁあああああああぁぁぁああああッッ!!!」
叫びと、涙が、堰を切ったようにあふれ出してくる。瞬間、ぶちぶちぶちっ、という音が走り、右の耳から音が消え去った。
「あああああッッッ」
私は無意識のうちに、右手を思い切り猫の死体に振り下ろしていた。一度じゃない、何度も、何度も。
「嫌ッ! もぉ嫌なのォォッ!! 痛いのも、壊れるのも、名前も知らない誰かを待つのも、もうッ……嫌なんですよおおおお!!!!」
ぐしゃっ。
ごしゃり。
べちょッ。
骨を砕き、内臓を引き裂き、頭がい骨を割り、眼球を叩き潰す。みるみるうちに右腕が染まっていき、飛び散った血や肉の塊が服や顔につく。
ごしゃッ。
「私は……ッ、私は……!」
ぶちゅっ。
――十年も待ち続けてきた。それが与えられた使命かのように。
ぐちゅッ。
――高校を卒業して、友達はみんな大人になって出て行って、でも私はこの家にずっと縛られてて。
めきょっ。
――そうまでして待たなくちゃいけない相手とは、いったい誰なの? 本当に迎えに来てくれる人がいるのなら……、
「…は、はやぐぅ……私を、うぐっ……たすけて、くださぃ…よぉ……うぅッ、えぐっ……」
むせび泣きながらも、先ほどの頭の中の冷静な部分はしっかりと働いており、一つの結論を出していた。
……とりあえず、今は疲れるまで泣いてしまおう。泣いて泣いて泣いて、すっきりしてしまおう。
それが終わったら、もう死んでしまおう。
『東雲先生! 学会への発表、お疲れ様です!』
「ありがとうございます」
『いやー素晴らしい発表でしたね。自我を持った人工知能の開発なんて、世紀の大発見ですよ!』
『おまけに記憶や感情を司る海馬や辺縁系、前頭葉を人工的に作り出すなんて、やはり先生は天才だ!』
「いえ、それほどでは」
『いやいや、ご謙遜を。さて先生、この研究の特許も受理されたわけですし、これから本格的に開始するわけですね、限りなくヒトに近い機械を!』
「いいえ、これ以上は行いません。特許は保持しますが、研究計画は白紙にするつもりです」
『なッ……!? どうしてですか先生!!』
『そうですよ! 科学の発展に寄与なさるおつもりはないのですか先生! それに、この人工知能を商業ベースに乗せれば、巨万の富と栄光を手にすることができるのですよ!?』
「そのようなものに興味はないのですよ」
『で、ではなぜ学会に発表して、特許までとったのですか!?』
「んー……一言で言いますと……私の友達を守る為、ですかね」
『と、友達って…』
『博士には失望しました…!』
「申し訳ない。それでは私は行くところがあるので…」
『あ、どこに行かれるんですか博士!?』
「…サメチョコが切れたので買い足しに。あと、昔の約束を果たしに」
『約束…?』
「大切な友達を迎えに行くんですよ」
準備は整った。
よく分からないニュースを垂れ流すテレビをよそ目に、私は庭の桜の木の下にいた。
ためらいなく掴んでいた紐を離す。
がくん、と衝撃が走り、私の身体が持ち上げられる。
「ぐ、がはッ……」
口を大きく開けて咳き込む。涙と唾液が垂れ流される。
身体は反射的に苦しみからの解放を求め、ロープの絡みつく首をひっかく。しかし頑丈なロープはびくともせず、逆に爪で首の皮がずたずたに裂ける。
「ぁ……が………ッ!」
揺れる視界は、満開に咲く桜の花と、雲一つない青空を映していた。それが、だんだんと血の色に染まっていく。
身体中が痙攣する。
「ぃぎ……! ぇぐ…ッ!」
陸に上げられた魚のように、口がぱくぱくと開いては閉じる。
と、視界がぐりんと反転し、無機質な暗闇が広がった。
その中に立っている、スカーフを首に巻いた黒猫と、金髪を揺らしながら笑顔で手を振る、青い瞳の少女。
…誰だろう?
――なのっ!
――娘。
声をかけられ、手を差し出される。
「…………か……s………、…ァか……ト……さ……」
私も震える右手を伸ばす。
思い出した。私がずっと待っていた人。
忘れていたその名を呼ぼうと、必死に顎を動かす。
「はか…………カ………がはッ…」
ふわり、と身体が楽になり、眠るように意識が消えていった。
やっと。
やっと。
こちらでは会えないまま終わってしまうけど。
夢できっと会えるね。
おやすみなさい。
私がこと切れたのと、玄関がノックされたのは、ほぼ同時であった。
~fin~
はい、これで終わりになります
読んでくださった皆様方、本当にありがとうございました
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