走れエロス (80)
山田太郎は激怒した。
必ず、かの桃色卑猥の本を取り戻さねばならぬと決意した。
太郎には勉強が分からぬ。太郎は、中学の学生である。
授業では居眠り、宿題はせず、いつも悠々自適に遊んで暮らしてきた。
けれどもエロに対しては、人一倍に敏感であった。
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放課後を告げる鐘が鳴る。
太郎は人がはける折を見て、隣のクラスに足を運んだ。
同志の一人、岡勝(おかまさる)に猥本を借りる約束をしていたのだ。
扉を引いて中に入ると、勝は窓際の後ろの席に座り、ぼんやりと外を眺めていた。
案の定、一人しかいない。
その事実を確認した後、太郎は後ろ手でゆっくりと扉を閉めた。
「勝、レポートは捗ってるかい?」
言いながら隣の席に腰を降ろす。
『レポートは捗っているか』
これは仲間内で決めた暗号であり、『モノは持ってきたか?』という意味になる。
「エロ本持ってきた?」などと単刀直入に聞けるはずもない。
今でも人目を忍んでいるが、万一聞かれても問題無いよう、彼らは二重の保険をかけていた。
勝は太郎の方へ向き直った。しかしどこか浮かない様子であった。
目線を外して下を向き、床に向かって言葉を漏らした。
「いや、途中から難しくなって……」
「難しい?」
太郎は思わず聞き返した。何故なら否定を現す言葉だったからだ。
モノを持っていれば『簡単』、持っていなければ『難しい』と返す。
よって勝は猥本を持っていないという事になる。
しかし太郎は、勝の言ったある単語が引っ掛かった。
『いや、「途中から」難しくなって……』
つまり勝は猥本を持ってきていたのだ。
持ってきてはいたものの、放課後までに失ってしまったという事だ。
太郎は座っていた椅子を前に引き寄せ、勝の耳元へ小声で詰め寄る。
「何かあったのか? まさか、没収?」
「……うん」
不吉な予想がピタリと当たる。
エロに対しては人一倍に敏感であった。
「誰だ?」
端的な問いに、勝は「鈴木」とだけ言葉を返す。
その名前を聞くや否や、太郎はすくりと立ち上がると足早に教室を後にした。
後ろから「止めろ」という声がしたが、太郎はその言葉を振り払った。
「呆れた奴だ。生かして置けん」
鈴木は分かっていない。
健全たる、思春期真っ盛りの少年からエロを奪う。
それがどれ程の愚行であるか、鈴木はまるで分かっていない。
中学生はエネルギーの塊である。
若く、日々その熱量を持て余す彼らは毎日その捌け口を探しており、
溜まったエネルギーは何かしらの方法で発散させなくてはならない。
その方法とは『勉強』であったり、『部活』であったり、
あるいは『エロ』であったり、『中二病』であったりする。
よく看護師のお姉さんが「溜め過ぎると体に毒ですよ」と言うが全くその通りであり、
行き場を失ったエネルギーを暴走させた結果、彼らはしばしば『エロ』か『中二病』のどちらかに走る。
所詮『勉強』や『部活』で発散できるエネルギーなど些細なモノであり、
場合によっては却って色々と溜め込む原因にもなりかねない。
真面目な話をしている途中、誰かが「おっぱい」と言っただけでゲラゲラ笑い転げるのも、
そうした暴走エネルギーを少しでも発散させる為の、人としての生存本能と言っても過言ではない。
では、そんな中学生からエロを取り上げたらどうなるか。
タダでさえ若きエネルギーが有り余っている所へ上記の相乗効果によって
他の場所も色々モリモリエネルギーを余らせ始めるのだから
そうなればどうなるかと言うと火を見るよりも明らかである。
彼らは夜な夜な悶々と眠れぬ日々を過ごし、慢性的な睡眠不足はもはや必然の理と化す。
さて、ここからが負の連鎖の始まりである。
睡眠不足は授業への集中力低下させ、集中力の低下は学力の低下へと繋がってゆく。
若者の力が衰えれば、近い将来、国力の低下は避けられない事態になるだろう。
社会は停滞し、失業者が世に溢れる。両親のリストラもその多分に漏れない。
大人は酒に溺れ、暴れ、子供をストレスの捌け口にする。
そんな大人を見て、被害を受けて、育った子供はどうなるか。
非行や犯罪に手を染めないとは言い切れない。
治安はさらに悪化。ますます国力の低下を誘発させて━━━━━━。
悪循環、ここに極まれり。
「それでも教師か!」
さらに言えば、先程の例は人間の三大欲求、即ち『食欲』『性欲』『睡眠欲』のうち、
『性欲』と『睡眠欲』の実に二つもが踏みにじられている。
太郎は何かの授業で次のような言葉を習った。
『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する』
では、人間の生存本能を奪われた人間が、
果たして『健康で文化的な最低限度の生活』を営んでいると言えるだろうか?
否。
「人権侵害だ!」
大体、鈴木も男なのだ。
男であれば、過去に自分が受けた苦しみが分からない訳でもないだろう。
例え猥本を見つけたとしても、「もう持ってくるんじゃないぞ」と注意すれば良い。
それが男同士の社交辞令というものだ。
それがどうだ。教師という立場を利用して奪い取る。言語道断。
担任だろうが生活指導主任だろうが体育教師だろうが、職権濫用も甚だしい。
「死ね!」
そんな事を憤然と頭に巡らすうちに、太郎はとうとう職員室の前まで辿り着いた。
職員室の扉を勢いよく開ける。
ズカズカと中へ大股で踏み込む。
鈴木はいる。自分の机に座っている。
ヨレた白いYシャツを着た、がっしりと幅広の背中が目に映った。
他の教師が「何事か」と目線を向ける。
だが視線が突き刺さろうが矢が刺さろうが、今の太郎は歩みを止めない。
鈴木は何やら書き物をしているらしく、周囲のざわめきを気に留めた様子はない。
太郎はその背中に向かって猪突した。
「先生!」
怒鳴りにも似た声を鈴木の背中に浴びせかける。
だが鈴木は別段気にした様子もなく、
「お」と呟いて手を止めると、椅子をクルリと回して向き直った。
「山田か。丁度お前に用があった」
「え!?」
太郎はギクリと動きを止めた。
何かまずい事をしただろうか。
いや、『今日は』いかがわしいモノなど持っていない。
何か言われる筋合いは無い。何か取られる筋合いも無い。
太郎の頭は半秒でその結論を導き出し、すぐさま落ち着きを取り戻した。
「何でしょう?」
努めて冷静に切り返す。
出鼻を挫かれてしまったため、一先ず相手の出方を伺う事にした。
「家庭訪問をしようと思ってな。お前、自分の成績がどうなっとるか分かるか?」
鈴木は声色を落として喋りながら、太郎の前にB5大の白い封筒を二つ突き出した。
「こないだのテスト結果と、クラスの成績表だ。親御さんに渡しとけ。
ちょっと用事を片付けたらすぐに行くからな。帰って待ってろ」
「もう一度最初からお願いします」
エロ以外に対しては、人一倍に鈍感であった。
太郎は矢の如く職員室を飛び出した。当初の目的は保留とする。
何故なら、自身も猥本没収の危機に瀕しているからだ。
会談は太郎の部屋で行われるだろう。理由は家の間取りにある。
太郎の家は、小ぢんまりとした一軒家である。
そして生活スペースの都合上、応接間なんていう
客人をもてなす為の気の効いた部屋など存在しない。
そして今、太郎の部屋には猥本が出しっぱなしになっている。
単純に考えるなら、このまま急いで帰って猥本を隠せばよい。
しかし太郎の頭は最悪の事態を想定していた。
鈴木が家に一報を入れるという事である。
ともなれば、母が部屋に掃除機くらい掛けるだろう。
そうなってもアウトだ。今のままでは間に合わない。
ならば電話には電話を。
太郎は校門脇の電話ボックスへ一目散に駆け込むと、
受話器をむしり取り、投入口に十円玉を叩き込んだ。
太郎には竹馬の友があった。佐藤健太である。
健太も勝と同じく、志を同じくする者の一人である。
彼らは、
東に卑本の自販機があれば行って有り金を全てを投入し、
西にレンタル屋が建てば物色の為に足を運び、
南に雨雲が出来れば下着が透けないかと周囲を徘徊し、
北に風が吹けば河川敷に下りて土手を歩く女性を仰いだ。
そういう仲なのである。
コールがやけに長く感じる。
太郎はトントンと爪先を地へ打ち続けた。
6回目のコールの後、ガチャリと受話器を上げる音がした。
「はいー、佐藤ですー」
少し間延びした、気の抜けた声がする。
健太本人に間違いない。
太郎は「しめた」と拳を握った。
「健太、例のアレが出しっぱなしで至急回収を頼む!」
「……了解!」
それだけで全てが伝わった。そういう仲なのである。
太郎は受話器をフックに叩きつけ、すぐさま駐輪場へと駆け出した。
鍵を外し、ヘルメットを被り、颯爽とサドルに腰を据える。
そして両手でハンドルをガッシリと握る。
大地を支える左足で勢い良く体を押し進めると、ペダルに乗せた右足を力の限り踏み込んだ。
黒い風が大地を駆ける。その勢いや疾風怒濤。
カバンが大気を切り裂きながら、太郎の後ろを横一文字に追従する。
額から飛び散る汗だけは、その場に残って太郎の背中を見送った。
あらゆるものが風を避ける。
電柱、看板、ゴミ箱、家屋、コンビニ、横断歩道、街路樹、ガードレール、そして、自転車、道行く人々。
彼らは驚然として道の端へと跳び退いてゆく。
中には罵声を浴びせる者もいたが、太郎はその言葉を我関せずと引き離した。
一度だけ危うく猫を轢きそうになったが、
すんでの所でハンドルを捻り、事無きを得たのは幸いであった。
さて、健太は受話器を置いてすぐさま太郎の家に向かった。
二人の家は目と鼻の先にあり、竹馬に乗って行っても2分と掛からない距離にある。
呼び鈴を鳴らすと、程なくして太郎の母が出迎えた。
「あら健太君、太郎はまだ帰ってませんけど?」
それは健太も承知の上だ。
「そうですか、実は約束をしてましてー。
もし太郎が戻ってなければ、部屋で待っておくよう言われたんですがー」
「あらそうなの? じゃあ上がんなさいな」
健太の言葉に、太郎の母は何の疑いも持たなかった。流石は竹馬の友である。
かくして健太は二階の部屋へ突入した。
ドアを開けると、真っ先に桃色の本が目に入る。
机の上に堂々と鎮座したソレは、
桃色の表紙にデカデカとした金文字で『月刊エロティカ999』と書かれている。
「不用心だなー」
健太は友の迂闊さに嘆息を漏らした。
卑本の隠し場所として、机の上は下策も下策。
机の上に置くなら、せめて『秘技サンドイッチ』で挟んでおくべきである。
『秘技サンドイッチ』とは━━━━、まあ、取り立てて説明するまでもない。
木を隠すなら森の中。本を隠すなら本の中という事だ。
本の表紙はうら若き女性が飾っていた。
ただ今絶賛売り出し中の新人グラビアアイドルらしい。
名前まで覚えていないものの、健太もしばしばその顔を見かけている。
カメラは彼女を少し下から、見上げるように写していた。
紺色の短いスカートを履き、白いYシャツを纏っている。
しかしそのシャツは彼女の手で半分ほどボタンが外され、
無駄な贅肉のない、滑らかな凹凸を残す白い腹部が惜しげもなく露わになっている。
上から下へ、ゆっくりと表紙を視線で舐める。
黒くツヤのある滑らかなショートヘア。
物欲しそうに訴える黒い瞳。
軽く開かれ、息使いが聞こえそうな濡れた唇。
綺麗に浮き出た艶かしい鎖骨。
シャツの上からでも分かる、形の良い二つの膨らみ。
滑らかな凹凸を残す白い腹部。
もう少しで秘部に手が届きそうな、紺色の短いスカート。
健康的でハリのある白い太もも。
その一つ一つが健太の欲望を刺激して止まない。
「いいね!」
健太は合掌して頭を下げた後、その本を背の中、即ち上着の下に滑り込ませた。
そして腰とベルトの隙間に差し込み、落ちないようにしっかりと体に固定する。
同時に下の階から電話が鳴った。
すぐさま太郎の母が出たらしく、コールは数回で途絶えた。
しばらくすると、ドアが開いて太郎の母がその隙間から身を乗り出した。
「健太君、何だか今から鈴木先生が来るらしいの。
太郎と約束あるみたいだけど、大丈夫?」
ここで健太は自分が呼ばれた訳を理解した。
だが、既に目的は果たしている。
後は「任務完了」とアイコンタクトを交わして出て行けば良い。
「大丈夫です。すぐに終わりますから」
健太は取り合えず待つ事にした。
太郎は道半ばに差し掛かっていた。
学校周辺は人通りが多いが、ここまれ来ればその心配も殆ど無かった。
だが良い事ばかりではない。ここ暫くは緩やかな上り坂が続く。
流石に少々勢いが死に、太郎の息使いも荒くなってきた。
そんな時、前方に三つの巨大な塊が現れた。
横並びに広がって太郎の進路を塞いでいる。
人のようだ。
太郎は遠目にその姿を観察した。
全員仲良く丸坊主。無駄に脂肪の乗った頬と顎。
パツンパツンに着膨れした体躯から、ムチムチした手足がニョキニョキと生えている。
察するに、隣の高校に所属する相撲部員に違いない。
しかし何をしているかまでは察しがつかない。
よもや鉄砲柱よろしく、電柱相手に突っ張りを打ちつけているいる訳でもなし。
ただ道一杯に広がって、進路の邪魔をしているだけである。
やむなく太郎は、道の端に寄って一人の脇をすり抜けた。
だがその刹那、太郎の倍はあろうかという野太い腕が、その首筋にぬっと伸びた。
太郎の体が軽々と浮く。
乗り手を失った自転車はそのまま直進。勢い良く電柱に激突した。
「は、放してください!」
太郎がわめく。
「どすこい放さぬ。有り金全部、置いてくでごわす」
「小銭しか無いですよ!」
「その小銭が欲しいでごわす」
「うわああああああああっ!」
太郎は目を閉じ、矢鱈目っ鱈に両腕をブンブン振り回した。
その回転たるや、まるで壊れた猫車。拳は空しくクルクル宙を回り続ける。
相撲部員はそんな攻撃など意に介さず、太郎を掴む逆の腕で、顔面に張り手を叩きつけた。
「これもチャンコの為でごわす」
バシンと小気味良い音がして、太郎の体が数メートルは吹っ飛んだ。
その一撃で太郎は昏倒。三人はその隙に落ちたカバンを漁り始める。
だが取り出した財布を開けるや否や、三人は揃って渋い顔をした。
本当に小銭しか、しかも86円しか入っていなかったのだ。
「シケてごわす」
三人は太郎の上に財布を投げ捨てると、ズシズシと大地を揺らしてその場からゆっくりと離れていった。
何も取らなかった。恐らく取る気も失せたのだろう。
幸か不幸か、小遣いの殆どを猥本に費やした結果である。
太郎は暫くの間、地面に伏てウンウンと唸っていた。
やがて痛む頬を擦りながら、ゆっくりと上体を持ち上げた。
散らかった書類や教科書を掻き集め、財布と一緒にカバンの中に仕舞い込む。
そして地面に横たわる自転車を目指し、フラフラとその元まで歩み寄った。
もはや使えない。火を見るより明らかだった。
前輪はパンクし、フレームも大分曲がっている。
やむなく自転車を置いて行く事にした。今は兎に角、時間が無い。
太郎は震える足に渇を入れ直すと、カバンを脇に抱えて走り出した。
2キロ程走ると川に出た。
幅50メートル程の小さな川で、片側一車線の橋が一本だけ架かっている。
この橋を渡れば、太郎の家までもう少しだ。
しかし何やらいつもと様子が違う。
赤いパトランプがそこら中に光り輝き、救急隊員が慌ただしく橋の上を駆け回っている。
いくらか人だかりが出来ており、遠巻きにその様子を眺めていた。
心なしか、黒い煙が上がっているようにも思われた。
そして橋の手前には『全面通行止』の看板が。
事故だ。
橋の前では、警官が誘導棒を振っていた。
小走りに近寄り、太郎は事の次第を確かめる。
「通れないんですか?」
「通れないな。向こうに1キロほど行けば別の橋があるから、そっちを渡ってくれ」
しかし太郎は食い下がる。
「歩道も使えないんですか?」
「車が乗り上げててね。駄目だ」
太郎は茫然と立ちつくした。
ここまで来て間に合わないのか?
太ももがパンパンになるほど自転車を走らせたではないか。
相撲部員に絡まれても猛然と立ち向かったではないか。
犠牲になった自転車を捨て、ここまで全力で走ったではないか。
それがこんな所で、事故の一つで無に帰しても良いのだろうか。
1キロほど走れば別の橋があると言う。
しかし迂回などしては間に合わないのではないか。
間に合わなかったらどうなるか。
玄関を開けた途端、怒髪天を突いた母の姿があるだろう。
直ちに部屋中の捜索が始まるだろう。
そうなればベッドの下も、枕の下も、押し入れの中も、本棚の裏も、机の引き出しも、
カーペットの下も、パソコンの中も、天井裏の隠しスペースも、タンスに仕掛けた二重底も。
人生に注いできた全ての努力が、血と汗と涙の結晶が、赤裸々に、一つ残らず公になるに違いない。
嗚呼、帰りたくない。
このまま何処かへ行ってしまおうか。
2、3日姿をくらましてやろうか。
息子が帰らなければ母はきっと心配するだろう。
猥本どころではないはずだ。
鈴木も家庭訪問を中止せざるを得ない。
どうせ「お宅の息子さんは云々かんぬん」と小言を延々と聞かされるのだ。
そんな説教が何の役に立つというのか。
本人にやる気が無いのだから、無いものは幾らねだっても無いものは無いのだ。
時間の無駄だ。
このままバックレるのが一番いい。
そうだ、それがいい。やんなるかな。
太郎は交通整理している警官から離れ、ヘナヘナと土手に座り込んだ。
ぼうっとして空を仰ぐ。
白い雲が西から東へ、亀の歩みでたゆたっていた。
少しずつ雲の形が変わってゆく。
太郎はそれをボンヤリと眺めながら、「あの膨らみならCカップだな」などと呟いた。
続いて三角形の雲が視界に映る。スカートのようだ。
しばらくすると三角形の雲はだんだんと崩れ始め、ついには丸く姿を変えた。ショートヘアに見える。
そうだ、例の本で表紙を飾るグラビアアイドルだ。
「流石にあんな所に出してれば、健太も気付かない訳がないよなぁ」
その言葉を口にした瞬間、太郎は勢い良く立ち上がった。
そうだ、友がいた。
出発前、友に全てを任せたではないか。
彼ならきっとやってくれる。
彼なら全て回収してくれるに違いない。
目の前に一筋の光が見えた。お釈迦様の垂らした蜘蛛の糸だ。
太郎はすぐさま手を伸ばした。
だが、糸に触れるか触れないかの刹那、太郎の心に影が落ちた。
果たして自分にはこの糸を手にする資格があるのだろうか、と。
健太のエロに賭ける情熱は、太郎のそれに引けを取らない。
二人はお互いにお互いを認め合う、唯一無二の盟友であった。
東にゴミ捨て場があれば行って猥本を探し出し、
西に廃品回収と聞けば行って戦利品を物色し、
南に本屋が出来れば足が付かないよう電車で行き、
北に河原があれば手に入れた物をひっそりと置き、次なる同志へ心を託す。
志を同じくする者は何人かいるが、その中で彼の行動力には敬意を表した。
そして粋。
名も知らぬ同士の為に、せっせと河原に物を置き続ける。
これを粋と言わずに何と言おう。
このような友がいる事を、太郎は改めて誇りに思った。
だが今の自分はどうだろう。
我が身の可愛さ一心に、魂の拠り所を手放そうとしているではないか。
我らの存在意義を否定しているではないか。
糸を伝って雲の上に出た時、そこで待つ友は果たして喜んでくれるのだろうか。
いや、却って幻滅するのではないか。「悪魔に魂を売ったな」、と。
改めて心に問う。
ここで全てを諦める気か?
答えは否。
健太なら決して諦めない。
もし友が今の太郎を見たならば、必ずや叱咤激励の言葉を掛けるだろう。
ならば立ち止まっている暇は無い。
友の期待に答えるために。
走れ! 太郎。
「行こう」
太郎は誰に言うでもなく呟き、橋の下へと降りていった。
警官に見つからないよう影に隠れ、ズボンを脱いでカバンに入れた。
そしてカバンは頭の上へ。
そのままえいやと川に飛び込む。
足が着くのは分かっていた。
小さい頃からここは太郎の遊び場である。
深い所でも、せいぜい腰の高さで収まるはずだ。
後は誰にも見つからぬよう、音を立てずに橋の影を移動する。
健太は太郎の母と一緒に部屋で待っていた。
どうせ使うのだからと、部屋の真ん中には小さなテーブルが出されている。
その上には冷えた麦茶が置かれ、
二人は「遅いですねー」などと取り留めの無い話をして時間を潰していた。
と、不意に階下から誰かの声が。
「帰ってきたかな? 僕、ちょっと行ってきますねー」
健太は立ち上がると、部屋の入口へと向かう。
が、
その途中、在ってはならぬ物の存在を認め、健太は全身の血が凍り付いた。
入口の脇にあるベッド。
その枕元に、黒い表紙がチラリと頭を覗かせていた。
『貴方のハートもガッチリ拘束 束縛悦楽術 百八手』
なんというマニアックな。
健太は「無いわ!」と叫びたい衝動を頭の片隅に追いやると、
自身の置かれている状況に対し、冷静に思案を巡らせ始めた。
まず第一。『本は一冊ではなかった』。これは動かぬ事実である。
太郎の電話を受けた時、思えば数までは言われなかった。
単に言う暇が無かったのだと思われるが、
太郎の性格を考えれば、その可能性に辿り付いても不思議ではなかったはずだ。
しかし桃色の雑誌が余りにも分かり易い場所にあったため、
これの事だと独り合点してしまったのだ。
健太は自らの過失を認めざるを得なかった。
そして第二。『太郎の母はまだ気が付いてない』。
ベッドは入口の脇にあり、入る時は死角になる。
そして太郎の母は麦茶を持ってきた後、一度もこの部屋からは出ていない。
仮にもし気が付いていたのなら、これまで何事も無かったはずが無いだろう。
しかしこのまま見過ごす事はできない。
何故なら部屋を出る時は嫌でも目に付いてしまうからだ。
さて、どうするか。
健太は以上の結論を2秒で叩き出すと、
新兵の行進よろしく、ぎこちない歩みで太郎の部屋を後にした。
『第三の存在』を否定する事は出来ないが、
あの場で不審な動きを見せれば太郎の母に感づかれてしまう。
後は信じるしかない。
健太が玄関まで出迎えた時、そこに居たのは太郎ではなかった。
鈴木だ。
太郎が土手で腐っていた時、鈴木は太郎を追い抜いてしまったのだ。
「お? 佐藤、いたのか。今から家庭訪問なんだかな……」
言いながら鈴木は頭を掻いた。
短く刈り揃えた角刈りの頭が、ジョリジョリと小気味よい音を立てる。
健太は「面倒になったぞ」と焦りつつも、平然を装い笑顔を作った。
「ええ、山田君のお母さんから聞いています。
僕の用事は数分で終わりますから、それまで一緒に待っていて良いでしょうか?」
その答えに鈴木は「まあそれなら」と了承したので、健太は二階の部屋まで案内した。
「しかし遅いな。俺の方が早く着くとは思ってなかったんだが……」
その言葉に太郎の母が表情を曇らせた。
「まさか事故にでも……」
「いえ、それは無いと思いますよ」
鈴木が落ち着いた言葉をかける。
「来る途中に橋で何かあったんですがね、警官が沢山動いてました。
もしこの近くで事故があれば、すぐに発見されるはずなんです。連絡も来るでしょう。
ですから安心して下さい」
「それでしたら……、そうですねぇ」
言いつつ、太郎の母は二杯目の麦茶を注いで口を付けた。
さらに15分が経った。
「まさか逃げたんじゃないだろうな?」
鈴木が腕時計を睨んでぼやく。
「あの子に限ってそんな事は……」
太郎の母が庇護するが、いささか言葉の切れが悪い。
不穏な空気が流れる中、おもむろに健太が口を開いた。
「いや、来ます。アイツは必ず帰って来ますよ」
確かな意思をもって言った。
階下から玄関を開ける音がした。今度こそ太郎に違いない。
健太は「ちょっと行ってきます」と二人に会釈し、すぐさま部屋から出ていった。
玄関に下りたその時、健太は友の姿に目を疑った。
見るも無残とはこの事だろう。
不気味なほど荒い息使い。そして全身上から下まで水まみれ。
上は汗かもしれないが、下は何やら藻らしき緑色の物体が付着している。
顔は右側が腫れ上がっており、青黒い内出血がその痛々しさを物語っている。
「すまない、僕の注意が足りないばかりに……」
健太は頭を垂れながら、背中から桃色の雑誌を取り出した。
太郎の身に何が起こったかは聞かなかった。
健太にとっては友が帰って来だけで十分であり、
そして何より、まだ全てが終わった訳ではないのだから。
太郎はカバンに雑誌を仕舞いながら健太に聞いた。
「ベッドのヤツか?」
健太は小さく首を縦に振る。
「なら行かないと」
言って太郎が脇を過ぎる。健太は咄嗟にその腕を捕まえた。
二人の目線が交差し、しばらく沈黙が支配する。
健太は「もう駄目だ。無駄だ。行くのは止めろ」と訴えているようでもあった。
太郎の母、そして鈴木のいる前で本を回収するなど無理無謀の極みである。
交番の前を全裸で歩くに等しい行為だ。見つからない訳がない。
健太は泣きそうだった。友は死ぬ気なのだ。
しかしそんな健太の肩を、太郎の両手が強く叩いた。
「力を貸してくれ。二人なら出来る」
笑顔で言う。
そして太郎は耳打ちすると、先頭に立ってゆっくりと階段を上っていった。
ドアを開けて中に入る。
太郎の姿に母と鈴木は息を呑んだ。
しかしその二人が何か言う前に、太郎はすぐさま行動に移る。
「健太、俺を殴れ。力一杯に頬を殴れ! 俺は、途中で一度、悪い夢を見た。
君がもし俺を殴ってくれなかったら、俺は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ!」
健太は頷き、部屋一杯に鳴り響くほど音高く太郎の左頬を殴った。
殴ってから優しく微笑み、
「太郎、僕を殴れ。同じくらい音高く僕の頬を殴れ! 僕は一度だけ君の趣味を疑った。
君が僕を殴ってくれなければ、僕は君と抱擁できない」
太郎は腕に唸りをつけて健太の頬を殴った。
健太がベッドの上に吹き飛ぶ。
そしてモゾモゾと起き上がると「ありがとう、友よ」と二人同時に言い、ひしと抱き合い、
それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
全て茶番である。
「さあ、家庭訪問を始めましょう」
「え…………? ああ、そう、だな」
何が何だか分からぬ二人は、突如真顔に戻った太郎にただ混乱を深めるばかりであった。
その隙に健太は退場。ベッドに吹き飛んだ時、背中にはしっかりと黒い本を滑り込ませていた。
「あー……。じゃあ、まずはー……、書類をお母さんに見てもらわんとな」
「はい」
太郎はカバンから書類を取り出した。うやうやしく重ねてテーブルに置く。
鈴木は一つ目の白いB5大の封筒をを手に取ると、「これがこの前のテスト結果でして」と説明した。
そして二つ目の桃色の雑誌を手に取ると、「これがクラスの成績表でして」と説明した。
テーブルの上にはもう一つ、B5大の白い封筒が残された。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
その技は正しく『秘技サンドイッチ』。
無心のうちにこの秘技を繰り出そうとは━━━━、南無三。
太郎は自身の技の業の深さに、ただ戦慄を覚えるばかりであった。
もはや言い逃れは出来はしない。没収は必至。
ならば後は自身の保身に全力を向ける。
太郎はすくりと立ち上がると足早に部屋を後にした。
後に残されたのは母と鈴木。
彼らが我に返ったのは、太郎が出て行ってから10秒後の事であった。
「ま、待て山田!」
「太郎待ちなさいっ!」
だが待ってほしい。待てと言われて待つ奴がいるだろうか?
否っ!
家路につく健太の後ろを、三つの影が風のように追い抜いていった。
健太はその理由を半秒で理解したが、もはや自分に出来る事は有りはしない。
ベストは尽くしたのだ。
健太は友の背中に敬礼し、せめてもの激励を心の中で繰り返した。
走れ、太郎。
走れ、エロス。
━━ おわり ━━
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