アネモネ(21)




 ためらうような溜め息をついてから、アネモネは困ったふうに笑った。

「つまらない話になるよ」と彼女は言う。

 ぶかぶかにくたびれた白いシャツ一枚。
 冷たいフローリングの床に裸足で座り込んだアネモネは、その一枚だけで体を隠している。

 傷んだ栗色の髪は肩まで伸びながらところどころで跳ねていた。 

 わたしの瞳はグレーなんだよ、と彼女は自慢げに言っていたことがある。
 このあいだ鏡を見ていたら気付いたの。瞳の色が青っぽい灰色なんだ。
 
 彼女はうれしそうにそう報告してきたのだ。

 夜なのに灯りもつけていない暗い部屋の中は、それでもほのかな月明かりに照らされていた。
 だから、わたしには、彼女の表情の微細な変化を、くっきりと読み取ることができる。
 きっと、いつも以上に。


 水泳のやり過ぎで茶色くなった。傷んで言うことをきかなくて、いつもくしゃくしゃ。
 アネモネは自分の髪を、いつもそう言って卑下した。

 たしかに髪の毛はくしゃくしゃだ。いっそみすぼらしいくらいに。
 
 わたしは、綺麗な、まっすぐな髪に憧れていたのだ。
 だからだろうか? アネモネの髪を見ると、悲しくなる。
 それが自分の髪であるかのように。

「話して」とわたしは声を掛けた。
 アネモネは膝を抱えたまま、顔をあげようとはしない。

「きっと、面倒な話になる」と、彼女は俯いたまま呟いた。

「それでもかまわない」とわたしは彼女と向かい合って、言った。

「あなたの話が聞きたい」

 黙り込んだ彼女に、わたしは言葉を続けた。

「わたしはきっと、あなたの話に耳を傾けるべきだった。本当なら、もっと早く」




「こどもの頃は、幸せだったな」

 アネモネの話は、そこから始まった。
 
「毎日が楽しかった。いつだって変なくらいに笑ってた。
 悲しいときや怖いときは思いっきり泣き叫べた。
 それに、どんなときだって彼が一緒だった。いつまでも一緒なんだって、ずっと無邪気に信じてた。
 わたしはきっと、そんな子供じみたことを、それでもついこの間まで、ずっと信じていたんだよ」

「……ねえ」

 わたしが声を掛けると、彼女は戸惑ったような微笑みのまま、ゆるく首を傾げた。

「いつから、好きだったの?」

 問いかけに、彼女は肩をすくめて首を横に振った。

「たぶんだけど、ずっと前から」

「全然気付かなかった」

「気付かないふりをしていたんでしょう?」

 わたしはその言葉を聞かなかったことにして、彼女の言葉の続きを待った。


 アネモネは、少しの間だけ途切れていた笑みを、取り繕おうとするみたいに、ふたたび顔に貼りつけた。
 そうすることで、何かのバランスを取ろうとしているみたいに。

 本当は怒りたいけれど、怒ってしまったら取り返しがつかなくなる、というふうに。
 
「どうして、好きになったの?」

「分からない」とアネモネは泣きそうな顔で笑い、両方の手のひらで自分の目を覆った。
 何も見たくないと言うみたいに。

 どうしてなんだろう。どうして好きになっちゃったんだろう。
 知っていたのに。分かってたのに。

 気付かなかったんだよ、とアネモネは言った。

「それが“好き”って気持ちだって、気付かなかった。
 こういうものをそう呼ぶんだって、知らなかった」


「でも、気付いてしまった」とわたしは言った。

「……そうだよ」

 それも、今になって。苦しげな呟きの後、彼女はわたしの瞳をじっと見つめてきた。
 わたしは視線を逸らしてから、言葉を返した。

「でも、実は勘違いなのかもしれない」わたしの声は他人事のようだった。

「そうかもしれない」

「錯覚かもしれない」

「本当に――」アネモネは笑った。

「――そうだったなら、よかったのに」

「後悔してるの?」

 ためしに訊ねてみた。
 その質問は他人事めいていて、わたしはなんだか、自分がたまらなく卑怯な人間に思えた。


「後悔?」とアネモネは苛立たしげに繰り返した。
 すぐ後には、彼女は感情をあらわにしたことを恥じるように笑みを貼りつける。
 彼女もわたしも、それでごまかせるつもりでいるのだ、きっと。

「どこに後悔の余地があるっていうの?
 気付いたらこうだったの。どこに、選択の余地があったっていうのよ」

 押し殺したような声音が、彼女の感情の揺れを余計に感じさせた。
 
「本当に錯覚だったら、すぐに忘れられるよね」

 わたしは、そう言った。アネモネは頷いた。

「でも、忘れられていたら、こんな話はしてないよ」

 彼女は、寂しそうに笑った。




「頭を撫でられると嬉しかったんだよ」

 アネモネは言う。

「褒めてもらえるとね、すごくうれしくて、だから、褒めてほしくて、いつもがんばってた」

「……水泳も?」

「……そうなのかもしれない。そうじゃない部分も、あるかもしれないけど」

「でも、そうだった部分も、あるのかもしれない?」

「……うん」

 窓から差し込む月明かりが、不意に翳る。
 薄く細く伸びた雲が、月を隠してしまった。
 アネモネの表情が、わたしからは分からなくなってしまう。


「いつか、別の誰かが現れることなんて、分かってた」

「……そう、だね」

「それが誰かまでは、分からない。でも、わたしじゃない誰かが、隣を歩くことになるんだって、知ってた」

 だってそれが、あたりまえだから。彼女の声は寂しげだった。
 わたしは何も言わずに、彼女の言葉に耳を傾ける。

「でも、それが現実になった途端、怖くて、嫌で、たまらなくなった。
 だってそうなったら、もう一緒にはいられない。
 一緒にいない理由ができちゃうから。一緒にいられる理由なんて、もうほとんどないのに」

「……一緒に、いたかったの?」

「そうだよ」、と彼女は言った。

「あなたは知らなかっただろうけど。気付かなかったふりをしてただろうけど。
 わたしはずっと一緒にいたかったんだよ。子供じみてるって思う?」

 わたしは何も答えなかった。




「お願いがあるの」

 不意に雲が晴れて、月明かりがかすかに部屋の中を照らした。
 何もない部屋。わたしとアネモネ以外には、何もない……。

 わたしはその事実を見なかったふりをした。
 見なかったふりは得意だ。
 何かをなかったことにするのも。

 でも、それは結局ごまかしでしかなくて。
 きっと、何かの拍子に、思い出したように顔を出すのだろう。

 ちょうど今がそうであるように。

「わたしを、殺してくれない?」と、真剣な顔でアネモネは言った。


「……それでいいの?」

 わたしの質問は、どちらかというと自問の響きを帯びていた。

「そうする以外に、どんな方法があるのかな?」と彼女は言う。
 そうだ。たしかに、他に手段はない。

「諦めずに、抱え続ければいいの? それはきっと、とてもつらくて、得るもののないことだよ」

「そうなんだろうね」

「苦しいだけの気持ちなら、なかったことにしてしまえばいい」

 アネモネの言葉は、正しいのか、間違っているのか、分からない。
 でも、いちばん間違っているのは――間違っていると“されている”のは――アネモネの気持ちの方だ。

「きっと、ただの錯覚みたいなものなんだよ。だから、ちょっとすれば、忘れることができる。
 そうなれば、今みたいな混乱した状態じゃなくて、もっとまともな気持ちで、会うことができるようになる」

「……そうかもしれない」


「だから、殺して。それが、きっと一番なんだと思う」

 彼女は笑っていた。でも、目の端から涙が伝っていた。
 なぜかは分からない。でも、わたしもまた泣いていた。

 彼女を殺すことは、わたしにとっても悲しいことだ。
 あるいは、こう言い換えるべきかもしれない。

 彼女が死んだとき、それを悲しむのは、わたしだけだ、と。

 わたしたちはしばらく黙り込んだまま向かい合っていた。
 どうするのが最善なのかは分かり切っていた。とっくの昔から。
 生まれる前からそうだと決まっていた。

 わたしは彼女を殺したくない。だからといって、彼女の気持ちを叶えるわけにはいかない。




 結局わたしはアネモネを殺すことにした。

 殺すべきだった。殺す方が明らかに正しかった。
 殺さないでいるのはつらかったし、そもそも、罪悪と呼ばれていた。

「大丈夫だよ」とアネモネは言った。
  
「つらいのはきっと最初だけだよ。後になってから思い返せば、ただ夢を見ていただけだって分かる。
 そうして当たり前みたいに、生きていける。何事もなかったみたいに」

 そうかもしれない、とわたしは思ったけれど、そうなることもやはり、悲しいことのように思えた。

 わたしは彼女の首に両手を伸ばして、ゆっくりと力を込めはじめた。
 彼女の身体は静かだった。本当はそこに存在しないかのように、気配が希薄だった。
 でも、彼女はたしかにそこにいた。いつだって。ずっと。気付かなかっただけで。

 窓の外の空が白み始めている。急がなくては、とわたしは思った。
 太陽がすべてをさらけ出してしまう前に、わたしは彼女を殺しきらなければならない。

 早く――早く!


 アネモネのからだは子供みたいに小さかった。小さくて、たぶん純粋だった。
 彼女は、けれど死ななければいけない。純粋であればあるほど、なおさらに。

 早く死んでもらわなきゃいけない。
 彼女が生きていたら、わたしはこの先、上手く生きていくことができない。
 何もかもが混乱してしまう。

 彼女は居てはいけない存在なのだ。
 ……あってはいけない気持ちなのだ。

 暗い部屋の中で、わたしはアネモネの首を絞めている。
 力一杯に。
 
 涙を流しながら。

 わたしにとって、つらいことだ。アネモネにとっても、つらいことだ。
 他の誰かにとっては、けれど、それはたいしたことじゃないのだろう。

 きっと、誰も褒めてなんてくれない。感心なんてしてくれない。
 それは当たり前のことだから。

 それでもわたしは、彼女を殺さなければいけなかったのだ。




 ふと目を覚ますと、ベッドで横になっていた。
 体を起こすと、薄いカーテン越しに太陽の光が感じられた。

 朝が来てしまったのだ。
 
 わたしはベッドを抜け出して、鏡台の前に立つ。
 いつも通り、青みを帯びた灰色の瞳が、鏡の向こうからわたしを見つめている。

 溜め息をついてから、わたしは目を瞑り、耳をすます。
 声は聞こえるか? ……聞こえない。

 けれど、まだ、残っている。まだ、殺し切れていない。

 それも、そう長くは持たないだろう。
 やがて忘れられるはずだ。何もかも。そうでなければ、困る。

 わたしはしばらくの間、ベッドに腰掛けてぼんやりと過ごしていた。  
 ふと思いつき、携帯電話を開く。受信トレイには未読メールが一件。
 兄からのメール。わたしは見なかったことにしてメールを削除した。


 ついでに、携帯の中の兄にまつわる画像もすべて消してしまおうと思った。
 そうした結果、わたしの携帯の中から、ほとんどすべての画像が消えてしまった。

 わたしはもう一度溜め息をつき、瞼を閉じ、考える。
 
 まだ、殺し切れていない。死の直前の一瞬だけが、途方もなく長く引き伸ばされているように。
 本当に死んでくれるのだろうか、とわたしは不安になった。

 あとどれくらいの時間が掛かるのだろう?
 今の自分には判断もつかない。殺し切ったふりをして、自分を騙し切ることしかできそうにない。

 そうすることがきっと、誰にとっても望ましいことなんだから。

 誉めてくれる人が、誰ひとりいなくなってしまっても、わたしは泳ぎ続けなければならない。
 
 また、耳をすませる。
 断末魔の声は、まだ、聞こえない。

おしまい

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