千種「真赤なカーネーション」 (18)
「いらっしゃいませー」
機械的に応対するレジ打ちのアルバイトを片目に、私は店内の奥へと向かう。
仕事で遅くなった時は、いつもこうしてコンビニの惣菜コーナーで夕食を済ませてしまう事が多い。
一人分しか作らないのも寂しい物があるので、適当にハンバーグとサラダをカゴに入れ、レジへ向かう。
「427円です」
小銭入れから500円と端数の7円を出して、お釣りの80円を受け取る。
「ありがとうございましたー」
店を出ようとすると、壁に貼られた絵に目が行く。
母の日。
拙い筆跡で「おかあさんありがとう」と描かれた画用紙一杯の笑顔を見ていると、胸が引き裂かれるような気がして、慌てて絵から目をそらして逃げるように家に戻った。
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「……母の日、ね」
静まり返ったマンションの廊下を歩きながら、ポツリとつぶやいていた。
あの頃は、優や千早がコンビニに貼ってあったような絵を、学校から持って帰ってきていた。
肩から下げたバッグからキーケースを取り出して、玄関の扉を開く。
誰も待つ筈もない家で「ただいま」と言うのも虚しく、靴を脱ぎ捨てて部屋に入り、自分一人しか座る事のないダイニングテーブルにコンビニの袋を置くと、一日分の疲れが肩に圧し掛かってくるような気がしてくる。
「ただいま、優」
私は、朝起きた時と夜帰って来た時、必ず優の遺影と位牌に線香をあげている。
写真の中の優は、いつもと変わらない笑顔のまま、私を見返している。
ジャケットをハンガーにかけ、ブラウスのボタンを2つ外して胸元を楽にすると、そのまま椅子に座りこむ。
目線を移せば、千早を夫が、私が優を抱っこしている昔の写真が見える。
あの頃は、そう、千早が肩たたき券とか、優が私の似顔絵を描いてくれた事もある。
夫も「母の日くらいはゆっくりしてろ」と言って、慣れない手つきで包丁を使って、カレーなんかを作ってくれたこともあった。
「……今更、言っても仕方のない事ね」
重い体を椅子から上げて、ビニール袋から惣菜の入ったパウチを取り出して皿に空ける。
レンジに放り込んで、数分待てば温かい食事だ。
「…………」
独り身になってからという物、料理という行為に対しての終着は薄れる一方だった。
家族の喜ぶ顔が見たいために作る料理では無い。
私が、生きていくための料理なのだから、必要な栄養が取れれば良いと言うだけの事。
「……明日は休みね」
今日は土曜日、何もなければ休みだったが、連休明けの業務が残っていたので土曜日も出勤。流石に日曜日は休みだったのが、幸いと言えば幸いだが、家に居たところで虚しいだけかもしれない。
考えても始まらない。髪留めを外して浴室へ向かい、メイクを落とした私は、偶には良いだろうと思い、慣れないビールを飲み干して、床に就いた。
『おかーさん!みてこれ!』
『あら、何かしら』
『おかーさーんかいたんだよ!』
『あら……ありがとう、優、上手に書けたわね』
『おかあさん、これ』
『あら……何かしら?』
『おかあさん、いっつもかたがいたそうだから、かたたたきけん』
『ふふっ、ありがとう、千早』
『おーい千種。塩ってどこだ?』
『もう、料理は私が作るって言ってるじゃないですか』
『良いんだ良いんだ、ほら、座ってろ。今日は母の日なんだから』
『調味料の位置も分からないくせに』
『……あ、あった!大丈夫大丈夫!』
『もう……片付けるまでが料理ですからね』
『分かってるよ』
『わーい!おとうさんのごはんだー!』
『おとうさん、大丈夫?』
『任せなさい任せなさい!』
「……朝?」
少々のアルコールが、ここまで眠りにつきやすくしてくれるとは思わなかった。
休みとは言え、少し気を抜き過ぎていたようで、時計の針は10時を回ろうとしていた。
夢を見ていたようだったが、何を見ていたかは目が覚めた今となっては良く分からない。
いつもの日課の、優への挨拶を済ませると、私は気分を切り替える。
「……洗濯機、回さないと」
昨日の夜、脱いだ衣類を放り込んだ洗濯機を回し、顔を洗う。
そのまま、部屋の掃除などを済ませて、ソファで本を読んでいた時の事だった。
「……誰かしら」
時計の針は4時を回ったところ。
宅配便が来るような物も頼んでいないし、誰かが来ることも在り得ない。
玄関の向こう側に居た少女の姿に、私は胸が高鳴ると同時に、締め付けられた。
何分もたったかのように思えた時間は、実際には数秒だったようで、私はあわてて玄関のチェーンと鍵を外し、扉を開いた。
「……千早」
何か、声を掛けなければいけないのではないか。
私に出来たのは、掠れそうな声で娘の名前を呼ぶことだけだった。
「……どうしたの?」
「……あの……その」
目線を逸らし、言いにくそうにしている千早を見ると、スーパーの袋を持っていた。
「……上がりなさい」
「……」
前に住んでいた家は、夫と別れてからもしばらく住んでいたが、千早が一人暮らしをする際にそこも引き払ったので、千早が私の部屋に来るのは初めての事かもしれない。
「優。お姉ちゃんが来てくれたわよ」
「……ただいま、優」
優の遺影と位牌に、私達は手を合わせていた。
優の墓前で、声を荒げた事もある。そんな過去を思い出しながら、私達は長い間、手を合わせていたような気がする。
テーブルの椅子に着いた私と千早は、お互いに何を切りだせばいいのか分からず、部屋には開け放った窓から入ってくる風と、道路を走る車の音が聞こえるだけだった。
取り敢えず、母親としてはこの状況をどうするべきなのかと考え、一先ずお茶でも入れようと立ち上がる。
普段は使わない、もう一組のカップを戸棚の奥から取り出して、軽く洗ってキッチンペーパーで拭いておく。
その間に沸いたお湯で、インスタントのコーヒーを淹れて、千早に差し出した。
「お砂糖は?」
「……いえ、このまま」
些細な事ではあるものの、私は娘の生活様式がまるで分かっていないのだと再認識した。
でも、少しは会話の糸口が出来た。
「……千早は、普段家でコーヒー入れるの?」
「……偶に」
「そう……ご飯とかは、どうしてるの?」
「最近は、春香や高槻さんに教わって、少しずつ自分で……」
「春香……ああ、あの子……」
以前、スケッチブックを渡した子だ。
あの子が居なければ、今の千早はここに居なかったのかもしれない。
「そ、それでね……お母さん」
千早の口から出た「お母さん」と言う言葉に、私は思わずびくりとした。
「……その、今日、母の日だから……その」
おずおずと千早が差し出したのは、1輪の真赤なカーネーション。
一瞬、驚いて固まってしまったが、千早の手からそれを貰い受けた。
「ありがとう、千早…本当に」
ひょっとして、これを渡しに来ただけ?
少し不思議に思っていると、千早がまた、気まずそうに口を開く。
「晩ご飯を……」
「……」
「……その……作りに……春香が料理を作ってあげたらって、言うから……だから……」
なるほど、そう言う事か。
娘が母の日に料理をしてくれると言う事が、まさか現実に来ようとは思わなかった。
「じゃあ、お願いしようかしら」
「……台所」
「ええ、良いわよ、好きに使ってちょうだい」
慣れない家事だからか、少々困り顔ながら、調理を進めていく。
こうして千早の料理する姿を見ていると、在り得たかも知れない私たち家族の関係が脳裏をよぎる。
「……えーと……これは」
野菜を刻む包丁の音は、どこか不器用で、リズムの悪いものだった。
時々手元の手帳を捲っているから、たぶんメモ書きでレシピでも貰ったのだろう。
「……大丈夫、千早?」
「ええ、平気……いッ!」
「千早?!」
千早の様子に驚いた私は、慌ててキッチンへ向かう。
指をくわえている様子を見ると、包丁で切ってしまったようだった。
「料理中によそ見しちゃ駄目じゃない……水で流して……よかった、そんなに深くないわね、これなら……絆創膏は……」
娘の手に絆創膏を貼ってやりながら、そんな事をしたのも、もう何年前の事か分からないくらいになっていることに気付く。
「……ねえ、お母さん」
「……あっ」
こんなに近くで見る娘の顔は、大きくなったとはいえ、あの頃の面影はまだしっかり残っていた。
整った顔立ちは夫に似たのか、陰のある目線は多分私に似たのだろう。
「……痛く、無かった?」
「うん、大丈夫……ありがとう」
取り敢えず、これはこれで良いとして、私はまな板の上を見る。
「……千早、まだまだあなた料理の練習が居るわね」
「うん……」
気まずそうに頷いた千早に、私は思わず吹き出しそうになった。
「私も手伝って良いかしら?」
「えっ、でも」
「本当は、私があなたに料理を教えてあげなくちゃならなかったのにね」
「お母さん……」
「ハンバーグね、それじゃあまずは――――」
一時間ほど、千早と並んで立ってキッチンで料理をしていたのだろうか。
他愛もない話をしながら料理をしていると、本当にこんな時が来るとは思っていなかったので、非現実の中に居るようだった。
最初は気まずそうだった千早も、少しずつ笑みを浮かべる様になり、私も自然に話せるようになってきた。
自分が食べるだけでない、誰かの為の食事。人の温かみのある食事は、何年ぶりなのだろう。
テーブルの上に並んだお皿には、千早と二人で作ったハンバーグ。
誰かと向かい合って食べる食事も久し振りだ。
「それじゃあ、食べましょうか」
「うん」
いただきます、と声を合わせて食べ始める。美味しいね、と千早が言うので、私も頷き返した。
このテーブルに、ひょっとすると夫と、私、千早、それに優が居たかも知れない。
でも、今それを考えるべきでは無いのかもしれない。千早が勇気を出して私の家に来てくれた。
母の日の為に。
今は、それだけで……それだけが、私の救いかも知れない。
一通り食べ終わる間に、私達は今までの隙間を、少しでも埋められたのだろうか?
キッチンの向こう側、ダイニングテーブルでお茶を飲む千早と会話をしながらお皿を洗う。
何年振りだろう、こんな事をするのは。
「あ、お母さん。私、そろそろ」
「あら…もう、そんな時間に」
時計を見れば、夜の9時を回ろうとしていた。
「明日も、収録が早いから……」
「そう……」
千早が立ち上がり荷物を纏めはじめると、私は言いようのない不安と寂しさを感じた。
今まで、感じなかった気持ちに戸惑いながらも、玄関へ向かう千早の後を歩く。
「あ、あの…駅まで、送るわ」
「えっ……うん」
「……じゃあ、少し待っててもらえる?上着を取ってくるわ」
クローゼットから薄手のカーディガンを取り出して、小銭入れとキーケースだけをポケットに入れて玄関に向かう。
戸締りを確認して、千早と一緒に、駅まで向かう。歩いて10分程度の駅なのに、私と千早は思った以上にゆっくり、時間を掛けて歩いていた。
私と千早の間には、まだまだ越えられない溝があると思うけれど、それが今日、少しでも近づける事が出来たなら。
私の考えが甘いのだろうか。千早は、どう思っているのだろうか。
それでも、笑みを浮かべて話してくれる千早の顔を見ると、それも今は考えなくていい気がしてきた
「ねえ、お母さん」
改札の前まで来ると、千早が私に問いかける。
「何?千早」
「また、来てもいい……?」
この子は、何を言っているのだろう。
思わず笑い出しそうになるのを堪えて、私は答えた。
「……母親の家に来るのに、娘が許可を取らないといけない?」
「そう、ね……じゃあ、また」
私は、今日一番自然な笑顔を千早に出来たのではないかと思う。
軽く手を振って帰る千早が、電車に乗り込むのが見えるまで、私は改札の前に立っていた。
帰り道、1人で歩く道路は暗くて寂しいと思いながら、私はいつも立ち寄るコンビニで、アイスクリームを買っていた。
我知らず、籠の中には2つのカップ。
それでもいいだろう。
また、来てくれるから。
またも一人になった部屋に戻っても、以前の様な寂しさは感じない。
「ねえ、優…私と、千早…少しは、昔みたいに話せてた…?ねえ…優」
優はいつも通りに笑っているだけ。
でも今は、それも私と千早を見守ってくれている、優しげなものに見えた。
その横には、千早からもらったカーネーションが、夜風に少し揺れていた。
買ってきたアイスクリームを冷凍庫に入れて、私は明日からの仕事に備えることにした。
今度は、布団をもう一組揃えておこうか、等と考えながら。
終
劇マス後を考えて、ちょっとでも千早と千種さんが歩み寄れたら。そんな事を考えるとぼかぁ涙が止まらんのです。
母の日で。カーチャンにドライヤープレゼントしました。妹も使うんだけどな!
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