伊織父「娘はアイドル」 (16)
私の朝は、一日の予定を新堂から聞く事で始まる。
この身体は、既に私の物では無い。
水瀬グループという巨大な組織の長としての膨大な責務を果たす為に、私は生きている。
「旦那様、今日は経団連の米川会長と昼食会、午後3時からは水瀬重工の定例役員会と新ラインの視察でございます」
恭しくスケジュールを伝える新堂の姿も、もう何年と変わっていない。
「ふむ、午前中は予定なし、か。珍しい事もある」
「旦那様は、殆どこちらにいらっしゃらないですからな。たまにはゆっくり、伊織お嬢様と話でも」
「それだがな、新堂」
「は?」
「伊織が、アイドルをやりたいと言い出した」
「なんと…」
「…簡単に言ってしまえば、私や兄達に認めて欲しいから。そう言っていたよ」
「…」
「お嬢様も、旦那様に似て自主独立のお心が強いですな」
「…しかし、まさかアイドルとはな」
「ええ…奥様は、ご存知なのですか?」
「明日には帰ってくるのだろう?その時に話すさ…どこを受けるつもりかな」
「は、既に幾つかのの芸能事務所のオーディションに応募はしているようですが」
「芳しくない、か?」
「はい」
我が娘だからというわけではないが、伊織は可愛らしい見た目だし、それなりに猫を被ることも知っている。
だが、それだけではダメだ。
人を惹きつける力があるか無いか。
それは企業の社長だってそうだ。
「さて…どうしたものか」
水瀬の力を持ってすれば、大手事務所に入らせることも可能だ。
だがそれは、伊織の最も望まない方法だろうし、私も同感だ。
「…そうだ、思い出した。新堂、午前のスケジュールは無いのだな?」
「はい」
「一つ、用事ができた。車を出せ」
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都内ならどこにでもある雑居ビルの3階を訪れた私は、旧友の男にとある頼み事をしにきた。
狭い事務所は、人の背丈ほどのパーテーションで区切られただけで、応接間と言うのもおこがましい物だが、この事務所の雰囲気と、その主を見ていると、その方が落ち着く。
「ああ、音無君、いつもの番茶じゃなくて、玉露で頼むよ」
目の前に座る男は、気の良さそうな顔をしてこちらを見てくる。
あの頃と、変わらない奴だ。
「で、天下の水瀬グループの会長が、何のご用かな?」
「ん、実は、な」
庵がアイドルになりたかっていることを話すと、765プロダクション社長、高木順二朗は面白そうに笑っている。
「ほぅ、水瀬のご令嬢がアイドルか!これはまた」
「だが、それを売りにしていては底が知れている、あいつには、自分の力でのし上がってもらわねばならない」
「その為には、うちみたいな小さな事務所が良い?お前の考えていることだ、現実に打ちのめされて諦める可能性の方も考慮しているのだろう?」
相変わらず勘のいい奴だと思う。
学生時代から高木は昔からそうだった。
「まあ、な…あとは本人の意思次第だ…では、頼むぞ」
「何だ、もっとゆっくりしていったらどうだ」
「生憎、この身体は私のものではないのでね」
「なるほどな」
お茶を持ってきていた事務員の女性に軽く手を上げて挨拶すると、私は事務所前の車に乗って、経団連の会長との昼食会のある、都心のホテルへと向かった。
執務を終えて家へ帰り付くと、早速新堂から面白い報告が入った。
「そうか、伊織は765プロに入ったか」
「しかし、よろしいのですか?」
新堂は、如何にも不安そうな表情で私を見ていた。
新堂は、伊織が生まれるよりもっと前から水瀬家に仕えていて、伊織の事は我が娘以上に可愛がって居るようにも思えた。
だからこその心配なのだろう。
「芸能界のことはよくわからん。だが、思いつきで頂点になれるほど生易しくないのは、どの業界でも変わらん。あいつには、まだ世間の厳しさが分かっていない」
「試すおつもりで?」
「お前にはどう見える?新堂」
「旦那様は、伊織お嬢様がアイドルとして成功できないような口振りに感じますな」
珍しく、新堂の口調は辛辣だった。
それだけ、この件に関してだけは私に対して不信感を抱いているのだろう。
「そう思えるか?確かに私は、伊織がこれで諦めたら、ということも考えている」
「しかし、伊織お嬢様は、負けず嫌いてすからな。旦那様と同じで」
「…まあ、しばらくは好きにさせるさ」
あれから数ヶ月。
伊織は、 私の予想よりもアイドルというものに入れ込んでいるようだ。
だが、まだまだデビューまでは程遠い。
新堂の集めてくる情報に目を通しながら、諦めの悪い娘の顔を思い浮かべていた。
「旦那様?何か良い事でも?」
「ん?」
「何だか、とても楽しそうに見えます」
「あの伊織が、な。しおらしくアイドルをやっていると思うとな」
「なるほど…お嬢様がテレビに出る姿を見るまで、この新堂、[ピーーー]ません」
「それまで、伊織が耐えられるか、な?」
その後も、私の予想を遥かに上回る忍耐力で、伊織は765プロで下積みを送っていた。
私に縋ることなく、水瀬の名の力を押し出す訳でもなく。
それはきっと、私達に認められるためには、それが必要だと分かっているからなのかもしれない。
「…テレビ、出演?」
「はい!お嬢様と、三浦あずさ様、双海亜美様での新ユニット、竜宮小町だそうです!」
嬉しそうに私に伝えに来た新堂に、私も思わず頬が緩んだ。
何だかんだと言いながら、伊織は伊織なりに努力を続けてきた結果なのだろう。
「…だが、まだまだ…まだまだだ」
伊織が何を考えているのか、どこまで目指しているかはまだ分からないが、まだまだ、こんな物では無い筈だ。
その日の夜、伊織が私の部屋を訪れていた。
この部屋に伊織が入るのは久しぶりかも知れない。
いや、伊織と顔を合わせて話すこと自体が、久し振りだろう。
伊織がアイドルを始めてから、今まで少なかった対話する時間もさらに減っていた。
「お父様の部屋、変わらないわね」
娘の顔つきは、すっかり変わっていた。
強気な目線は変わらないが、そこにも少し余裕のような物が感じられるようになっていた。
「…伊織、お前はどうしたいんだ」
「…どうしたいって、どういうこと」
「アイドル、続けるのか」
「ええ、もちろん」
「お前は、アイドルになってどうしたいんだ」
「…私は」
「いずれ、お前も水瀬の名を継ぐことになる存在だ」
「…それよ」
「ん?」
「私は、水瀬伊織よ。だから水瀬の名を継いで、お兄様達の様に、お父様の様に、水瀬が発展する事を誇りに思って、生きていく…それだけかしら」
「…」
「それだけで良いのかしら。私は、私にしかできない事がある…そう思うのよ」
「それは、一体なんだ」
「…まだ、分からない」
「…まだ、か。成程」
「…私は、お父様やお兄様の力を借りずに、自分の力でやれるところまでやってみたいの。私が、私であるために、水瀬グループの令嬢じゃなくて、水瀬伊織としてどこまでやれるのか」
「…そうか」
伊織の目は、強い光を湛えていた。
いつか見た目だ。
そう、若い頃の親父の目。
水瀬グループ…あの頃は、小さな町工場だった親父の会社で見た、あの目だ。
「…好きにすれば良い。私はそれを、見ているだけだ」
「…ねえ、お父様」
「…何だ」
「私が、アイドルを止めてたら、どうしたの」
伊織の疑問に、私は伊織の目を見つめたまま答えた。
「それだけの事だ。お前は水瀬の令嬢として、水瀬グループで働き、水瀬グループの後継者一族として、経営に参画していった。それだけだ」
私の言葉に、伊織は何も答えなかった。
だが、伊織なりに何かを感じ取ってくれたのかもしれない。
伊織が好きなように生きていければ、私はそれで良いと思っている。
ひょっとすると、伊織に水瀬という名の箱は小さいのかもしれない。
アイドル。
私には理解しがたい世界に、伊織は何かを見出したようだ。
それが、どういう結果を産むのかは分からない。
だが、私は伊織が進む道なら、間違いはないだろうと思っている。
もし、それが間違っていたとしたら、伊織は自分でその道を正す事も知っている筈だ。
「お前のしたいようにするがいい。私はそれにとやかく口出しはしない」
それに軽く頷いた伊織は、おやすみ、と一言を残して部屋を出て行った。
時計の針は、いつの間にか天辺を回り、今長い針が一つ動いた。
私は次の日の仕事に備えて、そのままベッドへ滑り込むことにした。
それから、また大分経った頃だった。
伊織達は、誰が見ても人気のアイドルとして芸能界を席巻していた。
わずか一年と少しでここまで上り詰めたのは、伊織達の実力か、はたまたあのプロデューサーの手腕か、運なのか。
庭の木々が色づき始めた頃に、私がいつも通りに今日の予定を新堂へ問うと、私の予想もしない答えが返ってきた。
「…新堂、何の真似だ」
「旦那様の本日のご予定は、横浜にてお嬢様のライブをご覧になることになっております」
「聞いておらん」
「はて…私がお伝え忘れましたかな?」
「…初めからその積りだったのか」
「会社関係の予定は勿論、取引先を含めて、今日は全ての予定が入っておりませんでしたので」
涼しい顔で言ってのけた新堂だが、わざわざそこまで準備を整えるのはそれなりの苦労があったはずだ。
「…で、どうしろと」
「旦那様は、まだお嬢様をお認めになっていないのでしょう」
「…ああ」
「…確かにお嬢様は、まだ旦那様のご納得されるような力を持っているわけではありません。ですが、お嬢様がここまで努力を続けた、その成果を見ていただきたいのです」
新堂の、常に無い強い口調に、私も頷いていた。
「おお、きてくれたのかい」
「高木の差し金か?」
「何のことかね?」
765プロ初のアリーナライブ。
その関係者席へ向かう廊下、丁度高木が居たので捕まえてみた。
相変わらず、人の良い笑みを浮かべていたが、その顔は少し紅潮していた。
「とにかく、今日は娘さんの晴れ舞台だ、存分に楽しんでいってくれたまえよ!」
高木は、高笑いをしながら通路の奥へとスキップでもしそうな勢いで歩いていった。
「…座席は」
高木に座席の位置を聞こうとして聞きそびれた。
とりあえず、通路を奥に進んでいくと、目の前から黄色のはっぴにペンライトのようなものをたすき掛けしてきた男が歩いてきた。
「もう、あなた、こちらで見ておけば」
「折角の亜美と真美の晴れ舞台なのに関係者席でおとなしく何てしていられるか!…あ、あれ?もしかして…水瀬さんの」
はっぴの男がこちらに気が付いたようだ。
「私、双海亜美と真美の父親の」
「ああ…それは」
「座席はあちらですよ、ほら、案内して差し上げて」
「私がですか?」
「じゃ、俺は行ってくれる!」
はっぴ姿の男は、双海亜美と真美の父親だったようだ。
取り残された私と、双海夫人だけ。
「…そ、それじゃあお席に」
「こちらです」
扉の奥は、薄暗いアリーナ。
ライブの開始前の熱気に、空調が効いているはずなのに、汗ばむ様な温度だった。
「…」
「あの…ひょっとして水瀬の…」
前の席から控えめな声を掛けてきたのは、業界内で知らないものは居ないという、萩原雪歩の父親だった。
私も控えめに挨拶をすると、萩原さんの隣へ座る。
「…よく、来られましたな。今は重工が新型輸送機の納入とかで忙しいのでは?」
「私は技術屋ではありませんし、そういったことは優秀なスタッフがおります」
「なるほど。それはそれは」
お互い、探られて痛い腹が無いわけでもないが、何せ微妙な立場の人間だ。
仕事上のことはさわりだけ、そして同じアイドルの娘を持つ親としての話になっていくのは、自然な道理だった。
「…水瀬さんは、ライブを見に来るのは、初、でしたかな?」
「ええ」
「…驚くと思いますよ。雪歩、いえ、765プロの子達の成長に」
萩原さんが言い終えたタイミングで、緞帳の向こう側に13人のシルエットが映る。
ピアノから始まる前奏に合わせ、アリーナ全体が揺れるような声で、ファンの声援が鳴り響く。
緞帳が上がりきり、伊織達が階段を駆け下りてくる。
「…見せてもらおうか、伊織。お前が、やりたかったことを」
すさまじい声援と熱気に包まれ始まった765プロ初のアリーナライブ。
最後には、伊織だけではない、他のアイドルや、ファンの振るサイリウムの動き、色を焼き付けようと目を離すことが出来なくなったのは、言うまでもなかった。
終
伊織!お誕生日おめでとう!新幹線車中より祝いの気持ちを込めて!
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