【モバマス】「きみがいたから」【結城晴】 (36)
モバマス、結城晴のSSです
少しのあいだ、お付き合いいただければ幸いです
【モバマス】「幸子、俺はお前のプロデューサーじゃなくなる」
【モバマス】「まゆ、お前は夢を見せる装置であればいい」
【モバマス】「橘ありすの電脳世界大戦」
【モバマス】「こんなにも幸せな傷あと」
と、同じ世界観の話です
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きゅうじゅうなな、きゅーじゅーはちっ、きゅーじゅーきゅうっ、
「ひゃーくっ!」
ふっと鋭く息を吐き、オレはひときわ強く、真上にサッカーボールを蹴り上げる。
いったん高々と上がり、ふたたび落下してくるボールを待ち受けて。
足を差し出そうとした、まさにそのとき。
肩に衝撃。
「痛ぇっ!」
オレはよろめき、蹴り損ねたボールが地面に落ちる。
ちくしょう、もう少しで新記録だったのに!
「……はー」
肩を落とし、ボールを拾い上げようとして……あれ、ボールがふたつ?
「ごめんなさーいっ!」
顔を上げると、ゼッケンを着た女の子が目の前に立っている。
試合中にラインを割ったボールが、偶然、オレに当たったんだろう。
その子の、今にも泣きだしそうな顔を見ていると、文句を言う気もなくなった。
つうか、オレ、そんなに怖い顔してるかな?
「いや、コートの近くにいたオレが悪いよ」
足の甲にボールを乗せて、山なりに蹴り渡してやる。
「あ……ありがとうございますっ!」
「試合、邪魔してごめんな」
オレは自分のボールを抱え、サッカーコートに背を向ける。
「あー、はやく試合やりてえなー」
にじゅうさん、にじゅうし、にじゅうご、と頭の中で口ずさむ。
試合待ちの暇つぶしに始めたリフティングだったけど、なかなかどうして、奥深い。
クラスの子たちを置き去りに、リフティングしながら、グラウンドの隅を歩いていく。
そうしたら、木陰でぽつんと体操座りをした女の子を見つけた。
全然、見覚えのない顔だから、たぶん下級生だ。
「……」
その子の視線が、こっちを向いた。
まあ、目の前でリフティングされてりゃ、気になるよな。
そいつは、ちゃんと飯食ってんのかって感じの、ほっそい手足をしてた。
ついでに、まともに日光浴びてんのかって感じの、まっしろな肌だ。
すげー可愛い、人形みたいな顔でさ、こういうやつをお嬢様って言うんだろうな。
名札の名前……えーっと、佐城雪美、か。
字面から、字の書き方まで、女の子らしいや。
まあ、なんつーか、普通に人生を送ってりゃ、一生、オレとは接点がなさそうなタイプだ。
しっかし、なぁ。
辛気くさい顔してんなー。
こっちの方向をただ見てるだけって感じだし、オレを動く銅像ぐらいに思ってんのか?
あー……もしかしたら、なんか、嫌なことでもあったのか?
オレだって、オヤジにうるさく言われて、最悪な気分の時とかあるしな、分かるよ。
うし。
蹴り上げたボールを、勢いを殺すみたいにして受け止める。
ぴたり、と足の甲に乗せた状態でボールが停止。
分かんないだろうけど、これ、けっこう、難しいんだぜ。
もういっかい蹴り上げて、今度は頭でリフティング。
左右に体を振りながら、ぽんぽんと。
お、佐城の目、ボールの動きを追い始めてるな。
よし、アレ、やってみるか。
強めにボールを上げて、くるりとターン。
落ちてきたボールを……よし、膝で蹴るのが間に合った!
それをさらに足の甲で弾いて、もういっちょ!
上がったボールを肩でキャッチして、落下しないようにバランスを取る。
佐城の目は、さっきより大きく見開かれてる。
どうだ、面白ぇだろ。
仕上げのつもりで、肩からボールを上げて、頭で受け止める。
とんとんとん、とリズムを取ってから、頭の上を滑らせて背中側へと。
ボールがつーっと背中を滑り落ちて、ぴんと後ろに伸ばした右足の上に来て……今だ!
勢いよく右足を後ろに蹴り上げると、ふわってボールが浮き上がる。
その場から一歩も動かずに、顔のすぐ前に落ちてきたボールを、手で受け止めた。
「よし!」
思わず声が出た。
オレ、意外と本番に強いタイプなのかな?
ぱちぱちって、控えめな拍手の音。
佐城が目を輝かせて、オレのことを見てた。
それに気づいた瞬間、ぶわぁって、顔が恥ずかしさで熱くなる。
初対面の下級生を相手に、オレ、なにやってんだ?
ちくしょう、そんなにじっと見ないでくれよ!
「結城さーん! 試合だよ!」
同じクラスの子が、グラウンドの方で手招きしてた。
助かった!
オレはボールを手に駆け出す。
「じゃあな!」
「……うん……またね」
去り際に聞こえた佐城の声が、どうしてだか、その後も頭にこびりついて。
あんなに楽しみにしてた試合さえ、上の空で、ミスを連発しちまった。
情けねぇぜ、まったく。
放課後、校門から離れた花壇のところで、佐城の姿を見かけた。
土の上にハンカチを敷いて、そこにひとり、ちょこんと腰かけてる。
膝の上に、たぶん野良の、白猫。
嬉しそうに、ゆっくり、大きくしっぽを振って、佐城の頬を舐めてた。
嫌がりもせず、好きにやらせている割に、佐城はすげぇ寂しそうだ。
なんだよ、そんな顔、すんなよ
泣いてるやつとか、落ち込んでるやつとか、オレ、苦手なんだよ。
可哀そうだな、なんて目でそいつを見てしまう自分が、とにかく嫌なんだ。
見てられなくなって、佐城たちに背を向けて、校門を抜けた。
いつもの帰り道を走って、気がつくとコンビニの前まで来てた。
オレ、いったい、なにがしたいんだ?
佐城に同情してるのか?
心のもやもやを消したいだけか?
あいつに優しくして、良い気持ちにでもなりたいのか?
ちくしょう、そんなの、自分でも、わかんねぇよ!
オレは、コンビニで買った猫缶を握り締めて、学校に引き返す。
花壇の前まで行くと、佐城も、猫も、もういない。
「……はは」
オレの口から、自然と笑いが漏れた。
「なにやってんだかな、オレは……」
「……?」
背後の気配に、びくっと体を震わせる。
振り返ると、白猫を抱いた佐城がいた。
「あ、いや、これはだな」
佐城の目線が、オレの右手に吸い寄せられる。
「……この子の……ごはん……?」
佐城に、じっと見つめられる。
「……まあ、そうだけどよ」
思わず顔をそむける。
「迷惑だったら、別に――」
「……ありがとう……この子も……よろこぶ」
そう言って、出会って初めて、佐城が笑う。
なんだよ、そういう顔も、できるんじゃねぇか。
すげぇ可愛いんだから、ずっとそうしてろよ、バーカ。
「アイドルぅ?」
変な声が出たよ。
「そう……。だけど……お仕事……ずっと……お休みしてた」
「へえ……」
今、オレと佐城は、花壇のふちに横並びになって、帰宅する生徒を見送ってる。
例の白猫は、オレたちの足元で、コンビニ袋の上にあけた猫缶を食べてるよ。
「休んでたってことはさ――……ん」
考えなしなことを言おうとして、オレはいったん口を閉じる。
なんつーか、この話題はさ、適当に話すべきじゃないって思ったんだ。
オレにも似たようなこと、あったからさ。
「オレはサッカーが好きなんだけどさ、試合やってると、思い通りになんて全然いかないんだよ。もし完璧に動けたら、絶対にボールを取られないし、いくらでもゴールネットを揺らせるだろ?」
佐城が不思議そうに首を傾げる。
体を動かすタイプには見えないし、言われてもぴんと来ないのかもな。
「試合時間のほとんど……ひどいと最後までずっと、うまくいかねぇー! ってなるんだよ。自分が情けなくて、悔しくて、ちくしょう、もういい! って投げ出したことが昔にあってさ。子どもみてぇだろ?」
佐城は体ごとこっちを向いて、すげぇ真剣に話を聞いてくれてた。
たいした話でもねぇのにさ……オレが何を言おうとしてるのか、頑張ってくみ取ろうとしてるんだ。
「でも結局、オレはサッカーに帰ってきたんだ。佐城は経験したことないかもだけどさ、うまく相手を抜いて、ゴールを決めた時って、最高にスカッとするんだぜ。その瞬間のことを忘れられなかったんだ。どんなに辛い時間が長く続いたって、それをぜんぶチャラにする一瞬ってのはきっとある。佐城にもそういうの、ないか?」
どこか遠くを見るような目を、佐城はした。
ぼうっと考え事をしてたかと思うと、足元の白猫を見下ろして、肩を小刻みに震わせて。
そのきれいな目から、いきなり、ぽろって……涙がこぼれた。
おいおい、嘘だろ?
なんだよ、地雷踏んだのか?
ちくしょう、野次馬がこっち見てやがる。
違ぇよ、違わなくねぇけど、違うんだ!
「オレが悪かったよ。無理して答えなくて、いいからさ」
佐城は、制服の袖で目元を拭うと、弱々しく首を横に振る。
「……辛かった。……ずっと……ずっと……。いつも……いつも……」
佐城の体は、小さくてさ。
年下だってことを差し引いても、ずいぶん幼く見えたよ。
こんな、ボールひとつぶつかっただけで倒れちまいそうなやつがさ、アイドルだろ?
「でも……私……アイドルに……帰ってきた。ペロと……いっしょだった……大切な道だから……」
震える指先で、佐城は白猫をなでてた。
それを見ているうちに、なんとなく事情を察したよ。
「ファンの人たち……先輩たち……みんな……私を支えてくれる。だから……頑張れる」
「……そっか。なんか、いいな、そういうのさ」
心からそう思うぜ。
「今の話さ、学校のやつらは知ってんのか?」
「話すの……これが……はじめて」
涙に濡れた目が、こっちを向いた。
その姿が捨てられた猫みたいに見えて、心がきゅっと痛んだ。
佐城はさ、アイドルに戻ってきて、そこでの時間は、充実してて楽しいんだろうな。
けどさ、ここには、佐城のファンもいなけりゃ、優しい先輩だっていない。
だからさ、たぶん。
たぶんだけどさ。
小学校ってのは、佐城にとって、楽しくもなんともねぇ場所なんじゃないかなーって。
そう思うんだ。
じゃなきゃさ……ひとりでいて、あんな寂しそうな顔しねぇだろ。
「オレは、六年の、結城晴だ」
佐城がどう思ってるかなんて、オレには関係ないことだけどさ。
わかってるよ!
けど、ほんとう、なんでだ?
佐城の寂しげな目が、どうしても頭から離れなくてさ。
放っておきたくないって、思ってるオレがいるんだ。
「よかったら、これからも色々、話を聞かせてくれよ」
佐城のやつ、信じられない言葉を聞いたみたいにぽかんとしてたよ。
それから、おずおずって感じで、片手を差し出してきた。
これでいいのかなって顔して、不安そうにオレの顔を見上げてさ。
「四年の……佐城……雪美……」
……ははっ。
まるで、はじめて友だちができたみてぇだな。
けど、恥ずかしいから、握手はしてやらね!
佐城はオレの心を読んだみてぇに、ぷくーっと頬を膨らませた。
「……晴……いじわる」
いきなり名前呼びかよ!
とか思ってると、両手で包み込むみたいにして、手をぎゅっとされた。
振りほどこうとしたけど、佐城のやつ、さっきまで泣いてたのが嘘みたいに、幸せそうな笑顔になっててさ。
なんつーか、もういいやって、そう思っちまったよ。
甘ぇよな、オレも。
昼休み、手提げカバンを持って、そそくさと教室を後にする。
渡り廊下を越えて、細長い校舎の、いちばん奥の部屋。
そうっと扉を開けると、本独特の匂いが鼻を刺激した。
図書室なんて、授業以外で初めて来たよ。
人はほとんどいなくて、図書委員の子もカウンターで暇そうに本を読んでる。
適当なテーブルを選んで席に着くと、周りの目を気にしながら、カバンに手を伸ばす。
取り出したのは、生まれて初めて買った、アイドル雑誌ってやつだ。
家で読んでたら、家族になんて言われるか分かったもんじゃねぇ。
かといって、教室だときゃーきゃー騒がれて恥ずかしい思いをするに決まってる。
「えーっと……。すげぇな、佐城のやつ、マジで載ってるよ」
お嬢様然とした服を着て、黒猫のぬいぐるみを抱いた佐城は、すげぇ可愛いぜ。
服を替え、表情を変え、ポーズを変えて、堂々と写真に撮られてる。
「へぇ……立派にアイドル、やってんじゃねぇか」
がらり、と扉が開く音がして、オレは慌てて雑誌を閉じた。
いやこれ逆に怪しいよな……って、佐城じゃねぇか!
カーディガンを羽織った佐城は、丁寧に扉を閉めて、図書室をぐるっと見渡して。
あ。
目が合っちまった。
「……」
なに、目を輝かせてんだよ。
「……」
手なんて振らなくても、分かってるよ!
「……」
ほら、手を振り返したぞ、満足したか?
満足したみたいで、佐城は本棚の方に消えていった。
しばらくして、本を手に戻ってきたかと思うと、ひとつ向こう側のテーブルに座る。
佐城はすぐに、読書に集中し始めたけど、オレは気が散って仕方ねぇよ。
雑誌は隠しちまったし、退屈ったらありゃしねぇ。
小説なんて、読む気しねぇしなぁ……。
暇つぶしのつもりで、オレは佐城をじっと見つめる。
で、ふと思った。
もしかして、あいつ、いつもここに来てるのか?
普通、昼休みは気の合うやつらと一緒に話をしたりするもんだろ。
まさか、いじめられてるんじゃねぇだろうな?
いやいや……十分にありえるだろ、こいつなら。
無視されたり、靴を隠されたりとか、よく聞く話だしな。
「……」
視線に気づいたのか、顔を上げやがった。
おまえ、クラスのやつらにいじめられたりしてねぇよな?
目だけでそう問いかけてやったよ。
佐城は不思議そうに首を傾げてさ、なにかを悟ったみたいに頷いた。
お、マジで伝わったのか?
佐城は、頭の上に両手を乗せて、ウサギの耳みてぇにぴょこぴょこやり出した。
意味、わかんねぇよ!
もういい、後で直接聞いてやる。
そう思ったら、いきなり眠気が襲ってきてさ。
あとは、夢の世界に真っ逆さまだぜ。
それから、チャイムの音で、はっと目覚めてさ。
雑巾とかほうきを持ったやつらが、オレを見てて、すげー恥ずかしい。
当然、佐城の姿はない。
ちくしょう、起こすぐらい、してくれてもいいだろ。
掃除行かなきゃな……そう思って、立ち上がろうとした時、違和感があった。
見ると、佐城が着てたカーディガンが、オレの肩に掛けられてた。
「……なっ」
眠るオレの顔を覗き込み、脱いだカーディガンを肩に掛け、上機嫌な笑顔で図書室を去っていく佐城の姿がありありと想像できた。
オレ、佐城の心配をしようとして……逆に気をつかわれたのか?
あまりの恥ずかしさに、オレはカバンを引っつかんで逃げ出した。
「結城さん、これから時間ある?」
放課後、荷物をまとめてたら、後ろから声をかけられた。
同じクラスの……名前が出てこねぇ。
ほとんど話をしたことない子だってことだけは確かだ。
「あのね、今度、クラスマッチがあるじゃない?」
「あぁ、そうだけど、それが?」
クラスマッチってのは、クラス対抗でのスポーツ大会みたいなもんだ。
今年は女子がサッカーで、男子がバレーボール……だったかな。
オレは別に、男子のチームと当たるのも望むところだったけどな。
「私たち、今年でもう卒業でしょ? 最後ぐらい、優勝目指してみないかって話になったの。これからみんなで、居残り練習。結城さん、サッカー上手でしょ? 一緒に付き合ってくれたら、嬉しいなぁって」
「悪いけど、これから野暮用なんだ。ごめんな」
「……うん、分かった。今後も続けるつもりだから、気が向いたら、来てね」
オレは教室を後にして、四年の教室に向かう。
カーディガン、返さなきゃだしな。
佐城のクラスはちょうど帰りの会が終わったところで、教室から下級生たちが出てきてた。
佐城は教室の隅っこで、のろのろとランドセルに荷物を詰めてた。
誰にも声をかけねぇし、かけられねぇし……薄々気づいてたけど、佐城には友だちって呼べるやつが全然いねぇんだろうな。
「よお」
教室から出てきた佐城が、びくっとして、それから頬をゆるめる。
「……ゆっくり……おねんね……できた?」
「うるせー。さっさと帰るぞ」
玄関から出ると、グラウンドでサッカーの練習をしてるやつらは大勢いた。
オレのクラスだけってわけじゃ、なかったんだな。
そうだよな、オレもう、最終学年なんだよな。
六年間……はえーよなー。
実感とか、なんだろ、感慨? そういうの、まったくないけどさ。
卒業式で感極まって泣いちまう話とか、よく聞くけど、オレはないだろうな。
……いや、ほんとう、絶対ないな。
考えてて、ちょっぴり悲しくなってきたぜ。
オレの小学校生活って、なんだったんだろうなー、みたいなさ。
「ちょっと寄り道に付き合えよ」
校門を抜けたオレは、駅の方に足を向ける。
佐城は興奮したみたいに目をきらきらさせてついてきた。
「寄り道……はじめて……」
「お前、ほんとう、お嬢様なんだなぁ」
佐城はオレの隣を歩こうとするけど、歩幅が狭いのか、単にとろくさいのか、どんどん遅れて、小走りで隣まで追いついてきては、また遅れて……っていう、頭が痛くなることを繰り返してやがった。
仕方なく、オレが歩く速度を落としてやると、嬉しそうに引っついてきたよ。
人懐っこい犬みてぇだよなぁ。
駅前に着いたら、カーディガンのお礼にアイスをおごってやった。
ストロベリーのアイスを食べながら、佐城は終始、笑顔だったよ。
美味しそうに舐めては、オレの方を見て、美味しいよって律儀に目で主張してくるわけだ。
分かったから、オレなんて気にせずに食べてろよ。
何度、そう言うのをこらえて、そのたびに胸がむずむずしたと思ってんだ。
しっかし、数百円でこんなに喜ぶってのも、なんだか安上がりだよなぁ……。
幸せそうだから、ま、いいけどよ。
休み時間だからって椅子に背中を預けて思いっきりだらけてたら、ひっくり返りそうになったよ。
教室の扉の陰にちょこんと、見覚えのあるお嬢様が立ってやがったからな。
突然現れた下級生に気づいて、教室内が少しずつざわめき始めている。
オレはトイレにでも行くふりをして、逆側の扉から教室を出て……佐城の腕を引っつかむ。
そのまま、廊下の隅まで引っ張っていった。
「なにか用か?」
「ううん……なんにも……ない」
ないのかよ!
「というのは嘘で……はい」
紙っきれを渡された……なんだこりゃ?
「今度の……日曜日……私……ライブ……出る。晴も……来て……」
「へぇ……」
オレはチケットを手に、佐城の顔をちらりと見た。
ちっこい手をぎゅっと握り締めて、不安そうな顔をしてるよ。
知り合いにこういう誘いをするって、相当な勇気が要ることだろ。
少なくともオレなら、学校での姿を知ってるやつに、自分の歌や踊りを披露したいとは思わねぇよ。
「あぁ、行くよ」
「……ありがとう……待ってる……」
微笑んで、オレに背中を向けたかと思うと、たたたたと小走りに去っていく。
その背中を見送っていると、なにもないところでけつまずいて転びかけてたよ。
うーん……心配だ……。
週末、佐城にもらったチケットに書かれた場所に向かったよ。
駅から少し外れたところにある多目的ホールってことらしい。
会場が近づくと、明らかにライブイベントに来たって分かる大人たちが増え始めて、自分が出るわけじゃねぇのに、とんでもなく緊張してきた。
人の流れに吸い寄せられるみたいに、立派な会場に入って、チケットを切られて、周りのことを気にする余裕がないまま、なんとか自分の席を見つけて座った。
「最前列かよ、マジか……」
前のステージまで遮るものがなにもねぇし、超近ぇし、これ、佐城たちのファンからすれば、なにがなんでも座りたい最高の席ってやつだろ?
オレ、ライブイベントなんて来たことねぇし、どうやって盛り上げればいいのかもわかんねぇよ。
あー、やべぇ、腹痛くなってきた……。
佐城のやつ、本当にこんな空気の中で歌ったり踊ったりできるのか?
引っ込み思案で、普通に喋ることすら苦労してるようなやつなのに、こんなに大勢の視線を浴びたら、座り込んで泣き出しちまうんじゃねぇか……?
やべぇ、本格的に気分が悪くなってきた……大丈夫かあいつ……。
オレが腹を痛めてる間にも、どんどん観客はやって来て、気がつくと超満員だ。
熱気と一緒にざわめきが膨れ上がっていくみたいで、押し潰されてしまいそうだ。
そろそろかなって思った瞬間、電気が消えて、辺りが真っ暗闇になる。
ざわめきがしぼんで……。
静けさを破るみたいに音楽が流れ出した瞬間、歓声が上がる。
続いてステージに光が射して、青色のドレスを着た佐城の姿が照らし出された。
客席に向かって、ゆっくりと片手を差し出して、穏やかな微笑みを見せる。
その時、絶対に勘違いじゃねぇ、佐城と目が合ったんだ。
心臓が高鳴って、不思議な熱が、体の内側から、じわりと指先まで伝わっていく。
……マジかよ。
溜め息が出るほど、綺麗じゃねぇか。
ステージにふっと新たな光が射して、赤色のドレスを着た女の子が佐城の隣に現れる。
自分の存在感を主張するみたいに、堂々と胸を張るその子は、ばつぐんに綺麗な顔立ちをしてやがる。
自分を可愛く見せる方法を知ってるっていうのかな、手袋をはめた手を胸に当てたり、ウインクをして見せたり、計算なんだろうけど、本当に可愛いのがしゃくだよな。
観客席から「桃華」って呼ばれてるその子が、なにか新たな仕草をするたびに、歓声が上がって、観客を熱狂の渦に巻き込んでいくって感じだ。
けど、佐城だって負けてねぇんだ。
佐城がマイクを取り出して、ささやくみたいに歌をうたいはじめた瞬間、会場の誰もが息を呑んだのが分かったぜ。
オレの心配なんて無用だってばかりに、観客の注目を浴びながらも、全然、気おくれせず、声を震わせもしてねぇ。
おいおい、佐城のやつ、こんなに歌、うまかったのかよ。
自分のパートが終わると、佐城がそっと身を引いて、入れ替わりにさっきの子が前に。
ゆるんだ空気を引き裂くみたいに、強くて、はっきりとした声が、会場を満たす。
軽快なステップを踏みながら歌うその子が、観客の心をつかんでいくのが分かるぜ。
歌がサビに入ると、引っ込んでいた佐城も前に出てきて、二人は身を寄せ合って歌う。
青と赤、静と動、なにもかも正反対みたいに見える二人の、声が、仕草が、表情が、美しく入り混じって、オレたちをものすげぇ高みに連れていってくれるみたいだ。
体が熱くて、それにあてられたみたいに目の奥までもが強い熱を発してて、なんでか分からないけど、涙が出てきそうになる。
照明が七色の輝きを放つなか、気がつけばオレは、周りの観客がそうしてるみてぇに、立ち上がって、一緒に声を上げてたよ。
うるんだオレの目が映す佐城の姿は、確かにアイドルのものだったよ。
アイドルは、佐城は、すげぇなって。
この時たぶん、本当の意味で、オレはそう思ったんだ。
イベント後、ライブの興奮も冷めやらないままに、オレは楽屋に向かう。
いったんは警備員の人に止められたけど、事前に佐城が話をしてくれてたから、すぐに通してもらえたよ。
楽屋に入ると、佐城と、例の桃華って子が、椅子に座って、衣装のままで楽しそうにお喋りをしてた。
佐城はオレに気づくと、すごい勢いで立ち上がり、ドレスのすそをつまんで走り寄ってきた。
どん、とオレにぶつかってきたかと思うと、ぎゅっと抱きつかれる。
予想外の反応に、オレは硬直しちまって、助けを求めるみたいに桃華って子を見ちまった。
その子はどこか寂しそうな目で佐城を見つめていたけどさ、視線を上げてオレを見て、頭をなでるジェスチャーをしてきたよ。
まあ……ん。
いいだろ、こんな時ぐらいはさ。
オレは、抱きついたまま離れない佐城の髪を、そっとなでてやったよ。
「良いステージだったよ。感動しちまったぜ」
腕の力がふっとゆるんで、佐城が涙目でオレのことを見上げてきたよ。
ステージ上ではあんなに気丈だったくせにさ、佐城は震えてるんだ。
偉そうな言い方かもしれないけどさ、ほんとうに、よく頑張ったよな……。
「あなた、結城晴さんでして?」
桃華って子が、オレのすぐそばまで近づいてきてた。
こいつ、何でオレのこと知ってんだ?
「会うたびに雪美があなたの話をするんですもの、気づかない方が鈍感というものでしてよ」
思わず佐城を見ると、満面の笑みになるもんだから、かえってオレの方が照れくせぇよ。
「ご挨拶が遅れましたわ。櫻井桃華です。本日は、わたくしと雪美のステージをご覧いただいて、感謝致しますわ。最前列にいたあなたの声援、ちゃんとわたくしの耳には届いてましてよ」
嫌味のない感じで、微笑む姿は、やっぱりプロなんだなって思うよ。
「雪美、早速で申し訳ないですけれど、先にプロデューサーのところに行っていてくださる? わたくし、結城さんと二人でお話したいことがありますの」
「……わかった……」
佐城は素直にオレから体を離すと、小さく手を振り、楽屋を後にしたよ。
ふたり取り残されて、しん、と静まり返る楽屋は、なんだか居心地が悪ぃよ。
「最近、雪美は学校でのことをすごく楽しそうに話してくれますの。それもぜんぶ、結城さんのおかげですわ。雪美に代わって、感謝申し上げますの」
「別に、あんたにお礼を言われるようなことじゃねぇよ」
櫻井は気分を害した風もなく、逆になんだかおかしそうに笑う。
「まあ、そうですわね。雪美といると、さほど年が違うわけでもありませんのに、保護者目線になってしまって困りますわ。時たま、そんな気分になりませんこと?」
思いっきり図星で、何も言えなくなったオレを見て、櫻井は肩をすくめてたよ。
「結城さんは今、六年生だとお聞きしましたけれど」
「そうだよ。それが?」
「今年で卒業というわけですわね」
急に櫻井が真剣な顔つきになって、オレをじっと見つめてきた。
「ご存知かどうか分かりませんけれど、ごく最近まで、雪美はアイドル活動を辞めてましたの。今みたいに笑うことなんて、考えられないほどでしたわ」
「詳しくは知らねぇけど、多少は聞いてる。飼い猫を亡くしたんだろ?」
つうかさ、なんで今、そんな話、するんだよ。
もうどうにもならねぇことをさ、掘り返したって、仕方ねぇだろ。
「雪美はペロちゃんの死に目に立ち会えなかったんですの」
息が詰まった。
「ペロちゃんとお別れできなかったことが、いちばんに雪美を苦しめましたわ」
冷たくなった飼い猫を見下ろす佐城の姿が、頭の中に浮かんで、心が痛んだ。
「春が来れば、結城さんは学校を卒業しますわ。雪美は悲しむでしょうけれど……そればっかりはもう、どうしたって仕方のないことですわ」
櫻井は静かに歩み寄ってきて、祈るみたいに、オレの手を握り締めた。
「だから、せめて、今度はちゃんとお別れをしてあげてほしいんですの。身勝手なお願いだって分かっていますけれど、どうか、黙って雪美の前からいなくならないで。あの子がお別れを受け入れられるように、さよならを告げてあげてください」
あの後、櫻井から名刺を渡されて、何かあれば連絡をくれって言われたよ。
何かって何だよって思ったけど、まあ、ありがたくもらっておいた。
あの日から、佐城はちょくちょく、オレのクラスに出没するようになった。
本人は隠れてるつもりなのかもしれねぇけど、扉の陰からちらちらこっちを見てるのがバレバレで、最近はクラスの子たちが「雪美ちゃん来てるよ」ってくすくす笑いながらオレを呼びに来る。オレはあいつの保護者じゃねぇよ!
オレは給食の残りをかきこむと、食器を片づけ、クラスのやつらの視線を浴びながら教室を出た。
無視して隣を追い抜くと、佐城はぴたりと後をついてくる。
あれから、佐城は遠慮なく甘えてくるようになったけど、内心は複雑だ。
櫻井に言われた卒業が、半年先のお別れのことが、頭から離れなくなっちまった。
「腹ごなしにサッカーでもするか」
「……うん……」
通りがかった体育館からは、男子がバレーのボールを打つ音が聞こえてきたよ。
グラウンドでは、炎天下、六年の女子生徒たちがサッカーの練習をしてる。
練習に誘われた時は、正直、何でそんなことをって思ったけどさ、今なら分かるよ。
残り半年の学校生活だって思ったら、一日だって、無駄に過ごしたくないよな。
オレは物置からサッカーボールを取ると、佐城と一緒に、グラウンドの隅っこへ。
お互いに距離を取って、オレはボールを軽く蹴る。
自分の足元まで転がってきたボールを見て、佐城が笑う。
蹴ったボールがまっすぐに進むってこと自体が、面白いみたいにさ。
佐城がこちらに蹴り返そうとした瞬間を狙って、オレは声を上げる。
「雪美」
驚いた様子で、雪美が顔を上げた。
名前で呼んだの、初めてだもんな。
……なあ、雪美。
オレたち、もう一年、早く出会えてたら良かったって、そう思わねぇか?
そしたら、お前が苦しんでた時、いくらでも助けになってやれたのにさ。
まあ、今さら、そんなこと言ったって仕方ねぇんだけど……。
だからさ。
残された時間で、オレはこいつに何をしてやれるかなって。
最近、そんなことばかり、考えてたよ。
「お前さ、友だち、つくれよ」
雪美の顔から、表情が消えて。
ゆっくり、静かに、首を横に振った。
「……友だち……もう……いる……」
「学校で、オレ以外にだよ。いねぇだろ?」
「……晴が……いれば……それでいい……から」
すがるような目をして、オレを見てきた。
「オレはさ、春には学校を卒業するんだ。分かるだろ?」
ぶんぶんって首を横に振られる。
こういう時の雪美は、ほんとう、頑固だ。
「オレもさ、友だちづくり、頑張ってみるよ。雪美ひとりにだけ、頑張らせはしねぇからさ。偉そうなこと言って、オレもクラスでまともに話せるやつなんていねぇんだ」
それでも、雪美は首を振って。
涙に濡れた目が、オレを見上げたよ。
「……そんなこと……しなくて……いい。……私……悪い子でも……分からずやでも……いい……。だから……晴……どこにも……行かないで……」
胸がすげぇ痛くて、唇を思いっきり噛んじまった。
けど、かつて雪美が感じた胸の痛みは、こんなもんじゃ、なかっただろうな。
オレが何も言えずにいると、雪美の瞳から、ひときわ大粒の涙がこぼれ落ちて。
耐えられなくなったみたいに、走って、オレの前から去っていった。
これで良かったんだっていう思いと、なにかを決定的に間違えたっていう思いとが、頭の中で混ぜこぜのぐちゃぐちゃになる。
「泣かせちまった……」
雪美が置き去りにしたボールを見つめたまま、オレは一歩だって動けない。
ああ言った手前、オレは勇気を振り絞って、クラスの子に声を掛ける。
「今日からオレも、練習に参加するよ。今さらだけど、平気か?」
「うん、大歓迎だよ! 色々教えてね!」
突き放されるんじゃないか、なんて不安に思ってたことが馬鹿らしくなるぐらいだったよ。
そんなわけで、昼休みと放課後の練習には、なるべく顔を出すようにした。
調子の良いこと言ってるって思われるかもしれねぇけど、なんつーか、他人と同じ目標を持って、それに向かって突っ走るってのは、意外と良いもんなんだなーって思えたよ。
クラスマッチまで頑張ろうって感じで、終わりがバシッって決まってて、目標も、優勝ってビシッと決まってるのが、良いよなって思うぜ。
やみくもにただ頑張ろうって言われても、いつまで何をどう頑張りゃいいんだよってなって、絶対にダレちまうもんな。
で、練習してるうちに気づいたんだけどさ、よくよく見りゃ、木の影とか、フェンスの向こう側とかで、雪美がじーっとこっちを観察してるんだ。
近寄ろうとしたら、すぐに逃げちまう。
ま、顔も見たくねぇってほど、嫌われたわけじゃないんだろ。
安心したよ、ほんとう。
雪美がキョドー不審に辺りを見回しながら、木の裏に隠れる。
グラウンドの方にそーっと顔を覗かせようとしたところで、背後から肩を叩いたよ。
「誰か捜してんのか?」
雪美は飛び上がって驚いて、目を思いっきり見開いてた。
心臓の上に手を当てた雪美の、オレを見上げる目は、なんだか不安そうに揺れてるよ。
「たまには一緒に帰ろうぜ。駅前にケーキのうまい喫茶店があるんだってよ」
雪美のやつ、何を言われてるのか分からないって感じの顔、してるよ。
「今日は練習、自主的に休みだぜ。別に義務でもなんでもないしさ」
雪美と疎遠になればさ、お別れも辛くないんじゃねぇかなって。
性格の悪ぃ考え方なんだけどさ、ほんの一瞬だけ、そう思ったことは嘘じゃねぇ。
けど、オレがしたいことは、間違ってもそれじゃなかった。
「……晴に……嫌われたって……思った……。……もう……お話……できないって」
駅に続く道を、横並びで歩きながら、雪美はうつむいてそう言ってきた。
そういや、オレ、雪美の歩く早さに合わせることを覚えちまって、どっちかが前に行きすぎたり、後ろに行きすぎたりってこと、もうないな。
「……つうか、オレが悪かったよ。あんなの、強制することじゃなかった」
雪美はうつむいたまま、何かを考えてるみたいだった。
「最近、少しずつ、クラスのやつらと話すようになったんだ。色々とさ、知らなかったこと、教えてもらえるぜ。お洒落とか、流行ってるお菓子とか、テレビドラマとか……ま、わけわかんねぇことばっかなんだけどさ」
オレはさ、クラスのやつらに囲まれて、笑顔になってる雪美の姿が見てみたいよ。
そんなこと、雪美は望んでなくて、オレの自分勝手な願望なのかもしれねぇけどさ。
心配なんだよ。
雪美をいじめる奴が出てきた時、誰がオレの代わりにそいつをぶん殴れるんだ?
雪美が苦しんでる時に、誰がこのお嬢様を助けてやれるんだよ。
ひとりでも多くの味方が、きっと雪美には必要なんだ。
「オレさ、クラスマッチ、優勝するよ」
雪美が顔を上げた。
「優勝するし、雪美の前で最高にカッコ良いゴールを決めてやる。約束するぜ」
「……うん……頑張って……」
ようやく笑ってくれたんだ。
だらだらと過ごしてた時はあんなに長いと感じてたのに、いざ何かを始めると早ぇよな。
雪美との寄り道や雑談、サッカーの練習、それからちょっぴりの勉強、なんてことをしてたら、クラスマッチの日はぐんぐん迫ってきたぜ。
あれから、体育の授業中、四年とグラウンドを分け合うことが結構あって、そうなるとつい雪美の姿を捜しちまうわけだ。
そんな気がしてたけどさ、雪美は試合中だと自軍のゴール前で突っ立ってて、練習の時間になると相変わらず木陰で休んでたよ。
運動には向き不向きがあるし、アイドルって仕事をするなら日焼けとか怪我とかってのは良くねぇんだろうし、ああそうだよ、そんなの分かってるよ!
けどさ、クラスの誰とも話さずに、ぽつんと座ってる姿を見るのは……正直、寂しいよ。
オレがいなくなった後、雪美は学校でずっとあんな風なのかって、考えちまうだろ。
雪美とちゃんとお別れをしてくれって、櫻井は言ったよな。
それってたぶん、卒業の日にただ言葉をかけてやれって意味じゃねぇと思うんだ。
卒業までに残された時間を、オレがどう使うかってことだろ。
最近、思うんだけどさ。
同じ学校に通ってるけど、オレと雪美って、ふたつ年が違うんだ。
正直、二歳差なんてたいしたことねぇって思ってたよ。
けど、雪美から見れば、オレみたいなのでも、いちばん身近な先輩で、ふたつ年上の大人なんだよなぁ。
雪美はきっと、オレが思うより、オレのことをよく見てるよ。
オレは立派な人間じゃねぇし、今さら取り繕ったってどうにもならねぇことぐらい、さすがに分かってるけどさ。
それでも、オレは……先輩として、雪美になにかを残してやりてぇんだろうな。
ここからオレがいなくなっても残るなにかを。
クラスマッチ当日の、いつもとはなんだか違う感じのする朝、オレは校舎外の手洗い場で雪美と会ったよ。
「よお」
体操服に着替えを済ませた雪美が振り向くと、口にヘアゴムをくわえてた。
そんなに長ぇ髪じゃ、ろくすっぽ運動できないだろうしな。
オレはヘアゴムを奪うと、雪美に髪を手で押さえてるように言って、ポニーテールみてぇな髪型にしてやったよ。
「……ありがと……」
「お互い、頑張ろうぜ」
「……頑張って……勝つ……」
オレと雪美は、握りこぶしを軽くぶつけ合ってから、別れた。
全校生徒がグラウンドに集まって、お偉いさんのありがたい話が右から左に抜けて、全員でラジオ体操を済ませたら、ようやっとクラスマッチの始まりだ。
午前中の頭からいきなり試合だったから、オレは慌しく指定のコートに向かって、チーム全員で円陣を組んだよ。
クラスのやつらの視線が、自然とオレに集中する。
まいったな、こういうの、得意じゃねぇんだけど。
「……ま、なんだ。ここまで来たら、後は理屈じゃねぇよ」
オレは思いっきり息を吸い込んで。
「絶対、優勝するぞ!」
昼休み、教室まで弁当を取りに行こうとしたら、下駄箱前で雪美が待ってたよ。
「……晴……勝ってた……おめでと……」
「まあ、当然だよ。午後からはもっと気合いを入れなきゃだ」
午前中の二試合は、どちらも危なげなく勝ったぜ。
三回もゴールネットを揺らせたし、調子は悪くねぇぜ。
「雪美の方は、残念だったな」
「……うん……」
あいにくと試合時間がかぶって見に行けなかったけど、結果は知ってる。
オレらの試合だと、負けた六年の女子が涙を流す姿が見れたけど、さすがに温度差があるみたいで、雪美のクラスのやつらは負けてもけろっとしてた。
ただ、試合後、額に汗を浮かべて、肩で息をしてる雪美の姿を見て、一生懸命やったのが分かって嬉しくなったよ。
オレたちは、体育館で一緒に弁当を食う。
「サンドイッチ……作ってきた……一緒に……食べよ……?」
「おう、サンキュ。オレの弁当も食えよ、ほら」
おかずの交換なんて、女子っぽいこと、前までは考えられなかったよなぁ。
けど、半分ぐらい食ったところで、急に腹が痛くなって、それ以上食えなくなった。
「……晴……?」
不安そうな顔をした雪美が、手を握ってきて、いきなり何だよって思ったんだけど……オレの手、震えてた。
その時、初めて、オレは自分が緊張してるんだって気づいたぜ。
「具合……悪い……? 保健室……行く……?」
「平気に決まってんだろ。オレを誰だと思ってんだよ」
強がって立ち上がるけど、雪美の目は心配そうに揺れたままだ。
「そろそろ行ってくるよ。雪美の前でゴールを決めて、文句なしの優勝をもぎ取ってくるぜ」
返事も待たずに雪美に背中を向けた瞬間だった。
「……晴……待って……!」
マジで驚いた。
雪美おまえ、そんなでかい声、出せたのかよ。
振り返るとさ、雪美が堂々と立って、きつく両手の拳を握り締めてたよ。
「……晴……たちが……優勝したら……私……友だち……つくる……。……晴が……私のこと……心配しなくて……済むように……」
自然と口元に笑みが浮かんだよ。
オレはもう何も言わず、雪美に背を向けた。
手の震え、いつの間にか、止まってたよ。
トーナメント後半になって、試合数自体が減ってるからか、午前中と比べて、観客の数は明らかに増えてたよ。
その中ですぐ、雪美の姿を見つけられたのは、あいつが最前列にいたからだ。
雪美がそこにいるって思うだけで、なんだか心が落ち着いた。
もしかすると、あのライブの日、雪美も同じ気持ちだったのかな。
準決勝のホイッスルが吹かれる。
ボールを受けたオレは、即座にドリブルで敵陣に切り込む。
前にいたひとりを抜き去ると、奥の三人が怖い顔してオレを囲んでくるよ。
その挑発的な目つき、オレは好きだぜ。
前までのオレなら、勝負を買って、中央突破を選んでただろうな。
「頼んだ!」
視線を真正面に向けたまま、真横にボールを蹴り込む。
サイドを走る味方の足元にボールが滑り込む……何度だって練習したコースだ。
意表を突かれた相手の一瞬の隙をついて、身軽になったオレは加速する。
ゴール前に辿り着いたと同時、オレの頭上にボールが返ってきてる。
首を振り、額の上でボールを叩く。
ゴールネットが揺れる。
歓声。
迷わず、雪美がいる方向に向かって、拳を突き上げる。
雪美は、すげぇ笑顔でさ、精一杯の声でオレの名前を呼んでくれてたよ。
あの頃の雪美に、こんなこと、考えられたか?
木陰でひとり、ぼけっとしてたお嬢様が……。
そして、一点のリードを守りきり、オレたちは勝つ。
興奮気味の雪美が駆け寄ってきて、ジュースの差し入れをくれたよ。
「……晴……すごかった……」
「もっとすげぇの、見せてやるぜ」
言うなり、背後からクラスのやつらが駆け寄ってきて、オレは背中やら頭やらをぼんぼこ叩かれる。
「晴! あんたすごいよ!」
「あと一試合だよ! こんなところまで来れるなんて!」
「あー、うるせぇ! 引っつくな!」
オレはクラスのやつらに囲まれ、雪美の前から連れ去られていく。
でも、雪美はさ、寂しがるんじゃなく、どこか憧れるみたいな目をして、オレたちの様子を見てたよ。
ろくに休む暇もなく、決勝戦の始まりだ。
最後の一試合ってだけあって、観客の数がとんでもないことになってる。
けど、雪美の居場所だけは、はっきりと分かるぜ。
ホイッスルが鳴り、歓声が地響きを起こすみたいだ。
パスを受けたオレがサイドから上がると、ふたりが突っ込んできた。
パスコースがつぶされてる、抜くしかねぇか!
けど、敵のあたりが強くて、接触した瞬間に外に弾かれる。
ボールはラインを割って、敵のスローインに。
大きく息を吐く。
体格勝負だと不利なことぐらい、知ってるよ。
オレは、背の順に並ぶと、前から数えた方が早ぇんだ。
さすがに決勝まで残ったチームだけあって、攻めも守りも今までの相手とは段違いだ。
甘えたパスは許してくれねぇし、オレにかかるプレスも厳しい。
「晴、いったよ!」
味方が相手のパスをカットし、最前線にボールが蹴り込まれる。
ラインを割るぎりぎりのところでボールを受け取ると、巨大な歓声が響く。
守りの人数が揃う前に、叩き込む!
走るオレの前に、オレより縦も横も遥かにでかい女子が立ち塞がる。
フェイントをかけ、加速しながら左に抜き去ろうとする。
互いの肩があたり、オレはこらえきれずに吹っ飛ばされ、地面に転がる。
ファールの笛は吹かれず、奪われたボールが、今度は自陣に蹴り込まれた。
オレが慌てて立ち上がると、ひときわ大きな歓声が上がり、敵選手のひとりが拳を突き上げてる姿が見えた。
「マジかよ……」
自陣に戻ると、明らかにクラスメイトたちは浮き足立っていた。
今まで敵にリードを許す展開は、一度だってなかったからだ。
「落ち着けよ。まだ時間、残ってるぞ!」
けど、それ以降、相手は守りを固め始めて、攻めが全く通らなくなる。
むしろ、焦って強引な攻めをしたところを、カウンターから危うい展開になることが増えてきた。
時間はみるみるうちに経過していって。
たぶんもう、ほとんど残ってない。
審判が手元のストップウォッチをちらりと見た。
もう、いくしかねぇな。
オレは味方からパスを受けると、どんどん上がっていく。
ひとり抜いて、さらにもうひとりを抜き去る。
「……晴……頑張れ……!」
たくさんの歓声の中、聞こえてきた雪美の声は、きっと幻聴なんかじゃねぇはずだぜ。
例のでかい女性徒と対峙する……今度は負けるか!
左に一瞬だけ踏み込んで、逆の右側に急加速する。
相手も食らいついてくる……不安定な態勢だが、打つしかねぇ!
蹴り込んだ。
ぐんぐん加速していくボールが、キーパーの手が届かないコーナーに吸い込まれて。
鈍い音と共に、クロスバーが、ボールを弾き返した。
直後に、敵選手が蹴り出したボールが、高々と彼方に飛んで……。
試合終了の笛が響き渡った。
その場に立ち尽くしたまま、オレは指ひとつだって動かせない。
オレの目の前で、敵選手たちが、肩を抱き合って喜んでた。
あぁ、オレたち負けたんだ、って実感したよ。
気がつけば、クラスのみんなに取り囲まれてた。
申し訳なくてさ、とても顔なんて上げられなかったよ。
負けたのオレのせいだもんな、何言われても言い訳できねぇよ。
「晴、ごめんね……」
顔を上げると、みんな、目を真っ赤にしてた。
「ごめんね……晴はあんなに、頑張ってくれたのに」
「私たちが、晴を助けてあげられなかった……」
こいつら、なに、言ってんだよ……。
「……違ぇだろ、なんで、お前らが謝るんだよ。お前ら、あんなに一生懸命、やってたじゃねぇか。だから、ここまでこれたんじゃねぇか……」
そう言ったのに、みんな、声を上げて、泣き始めた。
「ごめんね……ごめん」
「晴を……優勝させてあげたかった……」
「みんなで優勝、したかったね……」
見ると、観客でただひとり、雪美のやつまで、口を押さえて号泣してたよ。
あぁ……また、泣かせちまったのか……。
「違ぇよ、オレがふがいねぇから! だから負けたんだ! お前らは、悪くねぇよ……」
ちくしょう、なんで……。
なんで、オレまで、涙が出てくるんだよ……。
その時、生まれて初めて、オレは人前で泣いたんだ。
雪美はさ、あれから、ぴたりとオレのクラスに来なくなったよ。
たまにこっそり、雪美のクラスを見に行くとさ、他の女子グループのところに近寄って、話しかけてるあいつの姿が見れたよ。
やっぱりまだ、あんまりうまくいかないみたいでさ、会話にこれっぽっちも参加できてなかったり、すごすごと自分の席に戻ったりもしてたけどさ。
友だちづくり、頑張ってるみてぇだ。
優勝できなかったんだから、約束守る必要なんて、ないのにな。
まあでも、オレのしたことが、雪美の人生になにかしらの影響を与えられたっていうのは、単純に嬉しいよ。
ただ、逆にさ……オレも、雪美と出会ったことで、ひとつの決断ができたよ。
悩み続けてきたことに、ようやく答えを出せたぜ。
オレはあの時の名刺を片手に、駅前の公衆電話から櫻井に電話を掛ける。
「……もしもし?」
「よお、久しぶり。結城晴だ」
「これはまた珍しい方から……どうかしましたの?」
「あぁ、実はさ……」
それからの日々は、ほんとう、すげぇ勢いで去っていったよ。
雪美が友だちづくりに忙しかったように、オレにもやることがあったんだ。
雪美と一緒に出かけたり、話をする機会は、ずいぶんと少なくなっちまった。
卒業式の日の朝に、オレは体育館に用意されたパイプ椅子のひとつに座ってた。
堅苦しい空気でさ、肩が凝るぜ、ほんとう。
保護者がぞろぞろと入ってきて、ついに式の始まりだ。
つうか、卒業式って何をするんだっけか?
練習の時はぐーすか寝てばっかりだったから、よく分かんねぇよ。
そのうち、校長のありがたい挨拶が始まった。
やべ……あくび出る。
その後も、何人か、お偉いさんからの挨拶が続く。
何度、うつらうつらしたか、分かったもんじゃねぇ。
それが終わると、賞状の授与だ。
卒業生の名前が、順番に読み上げられていく。
「――結城、晴」
「はい」
ま、最後ぐらい、真面目にやってやるよ。
オレは礼儀正しく歩いて、壇上にのぼる。
賞状を受け取り、深々とお辞儀。ま、こんなもんだろ?
で、くるりと逆を向いて、在校生たちを見下ろす。
去年まではオレもあっち側にいたんだよなぁ……。
お、雪美を見つけたぜ。
落ち着き払った顔して、オレを見つめてやがるよ。
雪美はさ、この数ヶ月で、無事にクラスに馴染めたみたいだぜ。
クラス関係の行事とか、体育でのチーム戦とかになると、新しくできた友だちと協力して色々やってるみてぇだ。
だからってさ、そんな、オレの卒業なんてたいしたことねぇって雰囲気出してると、かえってオレの方が寂しくなっちまうだろ。
ま、冗談だけどさ。
オレは雪美に向かってお辞儀をすると、自分の席に戻った。
賞状の授与が終わると、卒業生挨拶ってのが始まったよ。
挨拶っつっても、オレみてぇなのとは違う、ご立派なやつが、卒業生代表として話をするんだけどな。
その子は、挨拶の途中で、感極まって泣き出しちまった。
まあ、なかなか、良い話だったよ。
『――在校生、送辞』
拍手が収まった頃、スピーカーがそう告げた。
『――四年、佐城雪美』
「……はい」
……は?
今の、聞き間違いじゃねぇよな?
オレが身を乗り出すと、つんと澄ました顔で通路を歩いていく雪美がいた。
こんな話、聞いてねぇぞ……。
雪美は壇上の、マイクの前に立つ。
堂々とした姿で、深く、お辞儀をする。
「本日……この学び舎を……卒業される……先輩の皆様……ご卒業……おめでとうございます。入学されてからの……様々な……思い出が……今……皆様の頭を駆け巡り……そして……未来への希望と……よろこびで……胸がいっぱいに……なっていることかと思います……」
壇上にいるのは、もう、弱々しいひとりの女の子なんかじゃなかった。
「私たちが……苦しみ……悲しんで……道に迷っている時……先輩方は常に……道を示してくれました……。差し出される……力強い手が……どれだけの勇気を……私たちに……与えてくれたか……想像も……できません。先輩がいたから……私は……ここまで……来れました」
送辞ってのはさ、卒業生全員に対して、言うもんだぜ。
それさ、オレに対して言ってるだろ?
こんなに贅沢な送辞なんて、聞いたことねぇよ。
……なあ、知ってるか?
雪美はお喋りでもなけりゃ、積極的に周りを盛り上げていくってタイプでもねぇけど、なんにも考えてないってわけじゃ、ねぇんだよ。
他の人よりたくさんのことを考えすぎて。
口に出す言葉を大切にしすぎて。
だからあんなに、つたない喋り方なんじゃねぇかなって思うんだ。
……雪美。
お前の気持ちが、すげぇ伝わるよ。
「……そんな……先輩方が……卒業されること……心細くて……たまりません」
続きを言おうとして、雪美が言葉を詰まらせた。
その瞳に涙が光ってた。
小刻みに肩を震えさせてた。
体育館に、軽いざわめきが起きる。
黙り込んだ雪美を責めるみたいに。
「雪美!」
気づけば、オレは立ち上がってた。
……あーあ、やっちまったよ。
体育館中が静まり返ってて、みんなの視線が集中してると分かったよ。
そんな中、オレと雪美が、見つめ合ってた。
そんなわけねぇのにさ、ここにはオレと雪美しか、いねぇみたいだよ。
「ゆっくりでいいんだ。雪美の思ってること、言えばいい。最後まで、オレがちゃんと、聞いてやるからよ」
オレが笑いかけると、雪美も笑ってくれたんだ。
それから、はっきりと、頷いてさ。
ありがとう、晴。
きっと、そう言ってたぜ。
「……私たちは……先輩方の教えを……胸に……後輩の……手本となります……。彼らが……苦しみ……道に迷っていた時……手を差し伸べる……勇気を……決して……忘れません。先輩方……大変お世話に……なりました。どうか……何も心配することなく……新しい世界へと……羽ばたいて……ください」
雪美が頭を下げると、すげぇ数の拍手が体育館を埋め尽くした。
もちろん、オレも誰にも負けないぐらいに手を叩いたぜ。
ゆっくりと顔を上げた雪美は、緊張の糸が切れたみてぇに、声を上げて泣き始めた。
頬を真っ赤にして、涙を流す雪美を見てると、不覚にもオレも泣けてきちまった。
ありがとな、雪美。
お前と出会えて、本当に良かったよ。
正門前での記念撮影を済ませると、花束を抱えた雪美が駆け寄ってきてくれた。
「……晴……卒業……おめでとう……」
「ありがとな。嬉しいよ」
雪美にもらった花束は、すげぇ良い匂いがしたよ。
「第二ボタン……もらって……いい……?」
「ん? あぁ、やるよ」
宝物を手にしたみたいに、雪美は微笑んでた。
「雪美。オレは今日で、学校を卒業だ」
「……うん……」
雪美から笑顔が消えて、うつむき加減になる。
「ずっとさ、この日のことを、考えてたんだ」
オレはどうしたいのかって。
雪美にどうしてやりたいのかって。
「オレは、雪美と、お別れをしねぇんだ」
「……え……?」
オレは、雪美の背後、校門の向こうにいるやつに目配せしたよ。
雪美が振り返って、目を見開いた。
そこには、櫻井と、そのプロデューサーが立ってたよ。
「結城さん……いえ、晴。ご卒業、おめでとうございます」
櫻井からも花束を渡されて、オレは花に埋もれるみてぇだ。
「……晴……桃華ちゃん……プロデューサー……どういう……こと?」
オレはプロデューサーに花束を預けると、雪美と向き合う。
「オレはアイドルになるんだよ、雪美」
初めてそれを告げた時、櫻井には、正気かって言われたよ。
けどさ、オレは本気で、雪美がどんなアイドルになっていくのか、隣で一緒に歩きながら見届けてぇって思ったんだ。
ひとりぐらい、こんな馬鹿な理由でアイドルになるやつがいたっていいだろ?
雪美はまだ、理解が追いつかないって感じの顔をしてたよ。
オレは、数秒後に雪美が見せるだろう、幸せな笑顔を想像して、ひとり笑っちまったよ。
この先ずっと、そうやって笑っていろよな。
以上となります。
ありがとうございました。
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