幸子「優しい優しい、プロデューサーさん」(433)

エロで地の文だよ
途中で小難しいストーリーとか入れるから、そんなのイラねぇや、って人は適当に流してね

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いつ頃だったか。私が、彼女とそういう関係になったのは。


「おはようございます、プロデューサーさん」


夏。けたたましく、アスファルトに絡むタイヤの音と、耳に残る蝉の声が、開け放たれた事務所の窓から響いていた。
事務所は明りも付けられておらず、窓から入る朝日だけが部屋を照らし、静かに明暗の輪郭を深くしていた。
そんな夏らしい小さな喧騒と静寂、反するようなその二つの中で、小さなノックと共に、小さな来訪者が現れた。


「おはよう、幸子。今日はまた、随分と早いじゃないか」


来訪者の名前は輿水幸子。
私がプロデューサーとして雇われているこのアイドル事務所の、所属アイドルだ。
背は低い、というよりも小さいと形容した方が良いだろうか。
まぁ、彼女の言葉を借りて一言で例えるとしたら――。



「えぇ、まぁちょっと……。まぁ、カワイイボクですから、朝早くても全く大丈夫なんですけどね!」


そう、彼女は可愛い。
ピョンと元気に跳ねた横髪。ほんの少し垂れた綺麗な目。142㎝という小さな体。そして、まだあどけない笑顔。
今の言動のように自らをカワイイと言って憚らず、それを常に周りに押し出している。とにかく元気な子だ。

ふふん、と得意げに鼻を鳴らし、そう言った彼女は、ソファで書類を確認していた私の横に遠慮無く座った。
私は書類から目を離さず、隣にいる彼女の存在だけを敏感に意識した。
敢えて、そうしていた。


「ふぅ……」


先程の元気の良さと打って変り、少し神妙な空気を纏わせて、襟元付近をパタパタと仰ぎながら視線を合わせずに彼女は話しかけてきた。

「……というか、暑いですね……エアコンとかつけないんですか?」

「ん? あぁ……まだ大概の子が来るまで一時間もあるし、その前に空気の入れ替えでもしておこうかと思ってな。
 朝の空気の方が、綺麗なんじゃないかと」

「……ふーん……そう、ですか……」

「……あぁ……まだ、一時間、あるしな」

「……」


意識して、一時間という単語を言う。
彼女もそれを汲み取ったのか、押し黙った。
窓から入る夏の空気に、それとは全く異質の、湿った熱い空気が混じり始めた。

鼻の奥をくすぐり、喉の奥を吊るす、淡い蒸気ような空気が。
その空気が部屋に流れ、沈み、私達の動きをゆっくりと、しかし力強く、操り始めていた。

逃れられぬ力に従い、私は隣に座る少女に視線を向けた。
少女も同様に、私を見つめていた。
年端もいかない彼女に似つかわしくない妖艶さが、目の奥で耀いているのが、見えてしまった。

その目から、声にならない声が聞こえる。
耳元で囁く甘言のように、私を惑わす、この視線から。

あの時と、同じだ。

熱の籠った視線が交錯する。
互いの目が逃れられない引力を生み、私達を引寄せる。


そして、自然に、唇を重ねていた。

舌が混じり合い、絡み、貪る。
お互いの唾液が混じり、私の意識が、彼女の中に混濁していく。


「――さん……」


幸子が、小さく、そして切なそうに私の名を呼ぶ。
私はそれに応えるように、左手を彼女の腰に回し、右手で彼女の頭を撫でた。
私の胸の中に彼女の小さな体が収まり、互いに生じた空間が埋まってゆく。

ほんの少し爪を立て、彼女の滑らかな髪を梳くように、そして愛撫するように、撫でる。
すると一瞬、痙攣するように彼女が震え、彼女の息が荒くなくなった。
しかし彼女は唇を引こうとせず、逆に私の首に手を回し、求めるように押しつけてくる。

二人の水音が、夏の音と共に部屋に響く。
しかし、夏の小さな喧騒はもう耳には入ってこない。いや、感じ取れない。
目も、耳も、鼻も、全ての感覚が、彼女を感じる為だけに機能している。

喉を鳴らすような幸子の小さな声が、幸子の甘い臭いが、幸子の柔らかくて温かい感触が、私を満たしてゆく。


夏の暑さと、互いの熱が、理性を淡雪のように甘く溶かし、本能を更に露呈させていく。
互いの理性が溶けるのに比例し、互いを貪る水音が更に激しさを増し、意識が互いの中に埋没する。

どれくらいそうしていただろう。二分か、いやそれ以下だろうか。
それすらもわからない、時間すら溶けてしまったような感覚の中、私達はそうして唇を重ねていた。

ずっとこうしていたい、そう思ったが、彼女の事を考え唇を放した。
ゆっくりと――唾液の糸を引きながら、彼女の乱れた吐息を感じながら――舌を剥がしてゆく。

小刻みに体を震わし、息を整える彼女を見つめる。
彼女も夢見心地に、蕩け切った目で私を見つめ返してきた。
この愛おしい目を見て、私はまたすぐに彼女を求めたいと思ったが、何とか残った理性を振り絞り制止した。
その代わりに、私は彼女を優しく抱きしめた。彼女も力を抜いて、私に体を預けた。


「……幸子」


私が彼女の名前を呼ぶと、乱れた息の中で小さく「――さん」と、返事が返ってきた。



「……ここでは、キス、だけだからな?」


私の胸に体を預けていた彼女へ念を押すように、内実は熱くなった自らの芯を沈める為に、私は言った。


「……わかって、ます……」


息を落ちつかせ、私へ更に深く体を寄せながら、恨めしさを含んだ声で彼女は呟くように応えた。
それを宥めるように、私は掌で、彼女の頭を優しく撫でた。

小さく声を漏らしながら、彼女はそれに身を委ねていた。
また、ゆっくりと時間が流れる。


「――さん」


息をようやく整えた彼女が、上目遣いで私を見た。
求めるようなその瞳に、また、あの妖しい光が宿っていた。それに惹かれ、私と彼女の距離が縮まってゆく。

二人の唇が、また重なった。
吐息のように小さな声を上げながら、幸子が夢中で私を求めてくる。

深く、激しく、二人の行為が続く。
真夏の朝日が差し込む、二人きりの事務所で――。



いつ頃だったか。私が、彼女とそういう関係になったのは。


――



「ボクが一番カワイイに決まってますよ」


それが、彼女の第一声だったのを、私は覚えている。

彼女は、私が初めて担当したアイドルだった。

右も左もわからないような新人の私は最初、「典型的なアイドルが来たのか……」と不安になってしまった。
ステレオタイプというか、芸能人は我儘で自己中心的で、その癖チヤホヤされるから自分が偉いと思っているんだ、と言う思い込みがあったからだ。
平生、あまり喋らない私にとって、あまり得意なタイプでは無かった。
彼女の言動は少々、というか中々エキセントリックであった為、私もその枠にはめ、苦手という烙印を押してしまったのだ。

その気持ちを隠しつつとりあえず、これから一緒に頑張ろうと言うと、


「ふふっ、ボクはすぐに売れっ子になりますよ! 何て言ったってボクはカワイイですから!」


という、泥船に乗った気で安心しろとでも言わんばかりの返答が返って来た。

こうして、一抹の不安を覚えながらも、新人のプロデューサーと新人のアイドル。この前途多難な二人の仕事は、スタートしたのだった。


しかし、そんな私個人の努力だけで、状況の打開ができるはずは無かった。
伸び悩む成績、同僚プロデューサーの活躍、そして彼らのランク上昇。
私達は、周りから既に置いていかれたのだ。

彼女に責任は無い。彼女には十分上に立つ素質があった。外にまだ出ていない、何か惹きつけるような才能が。
だが、それを彼女は活かす事ができない。私の、実力と経験不足のせいで。
責任は全て私にある。自分でもわかっていた。

しかし、その当時の私には余裕が無かった。
自分のせいだと分かりながらも心の隅で「何でこんなアイドルを任されたのか」と、ずっと悪態をついていた。


そんな陰鬱なある日、幸子はまたLIVEバトルに負けた。



「あ……プロデューサーさん……」


ステージから戻ってきた彼女と、目が合った。

私は、自分が全く知らない人物を見たような感覚に襲われた。
幸子の目は、縋るような、目だった。
いつも自信に満ち溢れている彼女がその一瞬にだけ見せた、見た事も無い表情だった。

私は、それから目を逸らしてしまった。


「あ、あの……」

「……帰ろう。もう、遅い時間だ」

「……はい」


私は彼女の目を見ようとせず、まるで放るかのように、彼女を車に乗せた。



「……」


気まずい沈黙。
お互いに無骨な遠慮をしながら、時が過ぎてゆく。
車内の明りを付けず、ただ走る。暗く、沈んだ車内。
横を通り過ぎる車のライトと、小さな街頭だけが、私達を照らしていた。


「今日も……負けちゃいましたね……」


静寂の車の中で、彼女が振り絞るように、話しかけてきた。


「……そうだな」

「そ、そうだなって……も、もうちょっと言う事あるんじゃないですか?」

「……」


同僚の自慢話や上司の重圧に押し潰され、仕事も思うように行かない。
そして、また負けた。
何がいけないのか、私はここまで努力しているのに。

私の苛立ちは限界まで来ていた。
本当に、私だけのせいなのか? と。

そんな事を考える私をよそに、彼女は言葉を続ける。



「ま、全く……プロデューサーさん、女の子の扱いを知らないなんて、か、可哀相ですね!」


こちらの苦労も知らない癖に……。


「もっと……ボクをプッシュして下さいよ」


世間知らずのガキの癖に……。


「そうすればボクだって……プ、プロデューサーさんはどうすれば良いのかとか、そんなコトも知らないのですか?」


お前に、何が分かるって言うんだ……。


「ま、まぁでも……次もある事ですし別にダメなプロデューサーさんでも――」


お前にっ……。



「……ちっ」

「っ……」


舌先の乾いた音が、静かな車内に響いた。
その音に、彼女の垂れた目が見開かれ、表情が固まった。


「あっ、その……プ、プロデューサー、さん?」


しまった、と思ったがもう遅かった。
彼女の顔には、既に戸惑いと怯えが綯交ぜになった表情が、上書きされてしまっていた。

彼女はまだ年端もいかない少女だ。大人の持つ黒い感情をぶつけて良い相手では無い。
私は目頭を押さえ、自分のした事を悔みながら大きく溜息をついた。


「……すまない。少し、疲れていてな……あまり、お前の相手ができる余裕が無いんだ」


と、何とか謝罪を述べた。



「……そ、そう、ですよね……最近、お疲れみたいですもんね……。
 ボクの配慮の方が足りなかったですね……スミマセンでした……」


しかし、そんな言葉に意味は無かった。

いつも自信に満ち溢れていた彼女が、初めて謝るところを私は見た。いや見てしまった。
彼女は、何も悪くないのに。


「……」


彼女はそれっきり顔を伏せて、何かを堪えるように、ずっと足元にできた暗闇を黙って見つめていた。
私はそんな姿が居た堪れなくて、無言しか返せなかった。

君は、何も悪くない。
その一言すら、言えず。

短いがとりあえずここまで
残りは夜
今日中に終わらせたいが、果たしてどうなるか


その、翌日だった。
私達がようやく、変わる時が来たのは。

昼休み。私は事務所ビルの屋上で食事を終えたものの、ベンチに座ったまま、空を見上げていた。
なんとなく、また事務所に戻る気になれなかった。ただずっと、答えの出ない問の出口を、考えていた。
無論、彼女の事だ。

私が担当で無い方が、彼女は伸びるのではないか。
昨日の事で、彼女は私に対して恐怖を感じてしまっているのではないか。

しかし、彼女はまだ成果も出せていない。
担当を変えろと志願しても、私がこの事務所をやめて強制的に返させても、結局お荷物のレッテルを貼られたままになるのではないか。
彼女には、道は残っていないのでは無いか。

思考は虚空に溶け、ただ虚無の感触だけを残し、消える。
霞を掴むような問に、私は追い詰められていた。


もう、やめるしか――。



「どうしたんですか? そんな大きな溜息なんてついて」


誰もいなかったはずのこの空間に、何処からか声が聞こえた。
幸子か? と思ったが、今幸子はレッスン場にいるはずだ。ここにいる訳が無い。


「いつもここでお食事なさってるんですね。近くのお店とか私はよく行くんですけど、全く街でも姿を見なかったので、不思議に思ってたんですよ」


声のした方を振り返ると、先輩の千川さんが立っていた。
彼女はプロデューサーではなく事務員だが、アイドルや私達裏方の事も気にかけてくれる、頼りがいのある先輩であった。


「千川さん……」


彼女は柔らかい笑みを浮かべながら、私の横に腰かけ、伏せがちになった私の顔を覗き込みながら、話を続けた。



「あ……もしかしてお疲れ、ですか?」

「いえ……ただ、ちょっと昨日はよく眠れなかったもので……」

「あぁ……遅くまで、残ってらっしゃいますものね」

「……えぇ」


その返答の後、千川さんはしばらく私の顔を見つめ続け、何か悟ったように小さく笑らいながらこう言った。


「……嘘」

「え?」

「嘘です。――さんは、幸子ちゃんの事で悩んでるんじゃありませんか?」


その見透かされたような言葉に目を丸くし、私は千川さんの方を向いた。
彼女は視線を空に向け、澄ましたような顔で続けた。


「わかりますよ、それくらい。私、――さんよりも、ここの事務所長いんですよ?
 新人さんがやめていくのも、何度か見てますし……」

「……私がやめようかと考えていた事も、お見通しですか……」

「えぇ……辞める前の人は皆、今の――さんみたいな顔してましたし」

「……そう、ですか」

「……えぇ」


何も言い返せなかった。
実際、今の私は良くある例えでいう死んだ魚のような目をしているのだろう。
何をやっても成果が出せず、その苛立ちを担当アイドルに当たるような事をしているのだから。



「……私は……向いて、ないんですかね……」

「そんな事無いですよ。――さんは、誰よりも頑張ってるじゃないですか。
 それは、この仕事が、幸子ちゃんが好きだからじゃないんですか?」

「……仕事、だからですよ」

「……」

「仕事だから、頑張ってるんです。今のご時世、次の就職先がある訳でもありませんし……。
 切られないように、頑張ってるだけです」

「……そう、ですか」

「だけど、それでも評価はされない。でもそれは幸子のせいじゃなく、それは私の責任です。
 彼女には素質があるのに、私が殺してしまってる……」

「……」

「彼女にも、可哀相だと言われましたよ。女性の扱い方も知らないのか、なんて言われて……。
 哀れな、男です。私は……」

「……」

「……はぁ、すみません。こんな事を聞かせてしまって。もう、私は戻ります」


大きく息を吐き、ベンチから腰を上げようとした瞬間だった。



「……本当に、どうしようもない人ですね」


という、怒りを押し殺したような声が、開けているはずのこの空間に響いた。


「可哀相なのは、貴方じゃなく……幸子ちゃんの方ですよ……」


その声の方に視線を向けると、先程までの柔和な表情を消し、目を吊り上げ私を睨む千川さんがいた。


「せ、千川、さん?」

「確かに、貴方は頑張ってますよ。仕事をこなす手際自体は、悪くありません。
 ですけど、貴方はこの仕事で必要なものを、まず欠いている。真剣に考えないようにしている事がある」

「……私が?」


気付かないフリをして、私は問うた。



「……幸子ちゃんと……彼女と真剣に向き合った事が、ありますか?」


心臓が、ドクンと跳ねるのを感じた。

図星だった。

私は、彼女とあまり人としての関係を持とうと思わなかった。
今まで、自分が良いと思えるような人間とだけ関わってきた。
だから、苦手と思った幸子とも、関係を持とうとしなかった。

そして、成果が出せないようになってから、顕著になっていた。
彼女と話す日がある事じたい、稀だったのかも知れない。


「……幸子ちゃん、貴方がいない間に、私に相談してきましたよ。自分のプロデューサーが、あまり自分と関わろうとしてくれない。
 避けられてるような気がする、って」

「……」

「自分が成果を出せてないから、自分がうっとうしいから、避けられてるんじゃないかって……」

「……」

「普段、――さんと話をしてる幸子ちゃんは、強気な発言をしてますけど……彼女も、悩んでるんですよ。貴方以上に」

「……」

「貴方は、まだ仕事に逃げるだけでどうにかなるかも知れない。だけど、幸子ちゃんはまだそんな事もできない年なんです。
 ……少しは、彼女と向き合う努力も、した方が良いんじゃないですか」

「……」



何も、言い返せなかった。


「……私は、事務員です。――さんの仕事の辛さなんかは、理解しようとしてもできません。
 でも、これだけは言っておきます」

「……何で、しょうか」

「二人が、個々でいくら頑張っても、足並みが揃わなければ意味なんてありません。
 でも逆に、お二人が力を合わせるようになったら……」

「……なったら?」

「……わかりません。まぁ、あくまで素人の憶測ですから」

「……」


彼女と、向き合う。
私が無意識に、いや、意識的に避けて来た事が、仇になっていたのか。
いや、当然と言えば当然だった。
仕事でも何でも、信頼関係が無ければ、上手くいくはずが無いのだ。
そんな簡単な打開策を、私は自ら捨てようとしていたのだ。
人に言われるまで、それに向き合おうとしないとは。

私は、愚かだ。



「……私は……」

「大馬鹿ですよ。――さんは確かに寡黙ですけど、人当たりは良いし、とっても優しいじゃないですか。
 それなのに、幸子ちゃんを避けるような事して」

「……はい、それについては反論も……し、しかし、人当たりは……」

「皆言ってますよ。成果はともかく、人との接し方とか見るに、良いヤツなんだけどなぁって」

「……それって、どうなんでしょうか……社会人的に……」

「ふふっ……まぁ、良いじゃないですか。細かい事は」

「……そう、ですかね」

「そうですよ」

「……そうですか」

「はいっ」


そこまで言って、ふぅと息とつきながら、千川さんは膝を叩きながら立ちあがった。



「……すみません。つい語気が強くなっちゃって」

「……いえ。私の方こそ、男の癖にウジウジとしたところを見せてしまって……」

「……前から気になってたんですけど」

「何です?」

「なんで、ずっと自分の事を私って言うんですか? 年下のアイドルの子にも敬語を使わないのに、その一人称じゃないですか。
 それが、なんか気になっちゃって……」

「……そんなに、気になりますかね」

「えぇ。とっても」

「……深い、意味は無いですよ。ただ、私は……早く大人になりたい、と前から思ってたからでしょうかね。
 いつの間にか、こういう感じになってました」

「へぇ……まぁでも、確かにまだまだ――さんは子供ですからね。そういう風に背伸びもしたくなるんでしょう。うんうん」

「……私は、もう20後半ですが……」

「年下の子に苦手意識を持ってるような人が、大人を名乗ろうだなんて10年早いですよ」

「……面目無い」

「そうそう、そういう風に素直に人と接すれば良いんです。悪いことをしたら謝る。人と会ったら挨拶をする。
 そして……誰かが良い事をしたら褒める。これが、基本ですよ」

「……はい。心、がけます」


「結構」


くすくすと笑いながら、満足したような表情を千川さんは浮かべた。
そして今度は、いたずらっぽい笑みを浮かべて、手をぽんと叩いた。


「あっ、じゃあ……早速問題を解消しましょうか?」


彼女の言葉に、思わず「え?」と上擦った声をあげてしまった。


「今幸子ちゃん、レッスン場にいるのは知ってますよね?」

「え、えぇまぁ……」

「見に行ってみませんか? 幸子ちゃんが、どんな風にレッスンを受けてるのか」

「……」


「幸子ちゃんが頑張ってる所、あまり見たことないですよね? 幸子ちゃんも、あまりレッスンを見に来てくれないって、
 嘆いてたんですよ?」

「そ、それは……最初は心配で見に行ってたんですが、幸子が、心配しなくても、カワイイボクなら大丈夫です!
 とか言って、追い出すので……」

「……ま、まぁ、今の似てない物真似は置いといて……それは、幸子ちゃんが恥ずかしいからそうしてるだけであって、
 本当は喜んでたんだと思いますよ?」

「はい?」

「あんまり、自分が努力してる所を、見せたくない人もいるんです。自分を、崩さないように」

「……」


言われてみると、思う所がある。いや、それしかない。
彼女は、いつも自分はカワイイ、完璧で負けるはずが無いと言っていた。
だがその実、自分がどんな努力、苦労をしているのか見せようとはしない。
私も彼女がそういう表情をしているところを、あまり見た事が無かった。



「幸子ちゃん、――さんの事とても信頼してるんですよ。一番遅くまで残って仕事している事、ちゃんと彼女も知ってるんですから」

「……」

「幸子ちゃん、知らないと思ってました?」

「……えぇ、まぁ」

「……はぁ、何だか……今こうして見ると、やっぱりお二人は似てる所が多いですね」

「え?」

「自分の苦労をパートナーに見せようとしないし、どっちもいらない所でお互いに気を使うし、不器用さ加減がソックリです」

「……そう、でしょうか」

「そうですよ、全く。どっちも子供です、こーどーもー」


そんな風に言葉を間延びさせてる貴女の方が子供っぽいのでは、とは言えなかった。



「まっ、百聞は一見にしかずと言います。今日の――さんの午後のお仕事は、確か……」

「衣装の、再考ですが……」

「だったら、尚更行った方が良いですね。彼女の事をもっと知って、それで彼女に似合うものがどういうものなのか。
 考えた方が良いんじゃないでしょうか」

「……そう、ですね」

「誰かが――さんがサボってるんじゃないかとか言ったら、私が適当に誤魔化しておきますから。ね?」

「……」

「男だったらウジウジしない! 何でもやってみるもんですよ!」

「……」

そうだ。何を迷う事がある。
千川さんに押されるまでもなく、ここまで聞かされたら、言う言葉は一つのはずだ。


「……はい。御好意に、甘えさせて貰います」


私は深々と、彼女に頭を下げた。



「はい、甘えちゃって下さい」

「……では」


その言葉を聞き、私は頭を上げてすぐに階段の方へと歩き出した。
足取りが軽い。今までの鬱屈が嘘のように、体が軽い。

まだ、何か変わると決まった訳じゃない。
まだ、彼女が赦してくれる訳でもない。

だが、私はやっときっかけを貰えた。
やっと、前に進むきっかけを。




「……休憩時間は、終わってるか」


あの後、すぐに車でレッスン場に駆け付けた。
レッスン場は防音加工がされており、沢山のアイドルがレッスンをしているはずなのに、静かだった。
使用状況を示す板を見て、幸子が何処でレッスンをしているのか探す。

あった。ここの上か。

私はすぐさま非常階段の扉を開け、駆け足で上の階へと登った。
扉を開けてすぐの部屋。そこに、幸子がいる。

扉に近づくとかすかに、きゅっきゅっという摩擦音と、軽快な音楽が聞こえてきた。
扉に付いている小さな丸窓で、私はそっと中を見た。

そこには、幸子がいた。
トレーナーさんが手拍子をし、それに合わせて、必死で踊っている。

だが、動きがどうも冴えない。
伸ばすべき所、止める所、そういった所を意識できていないような動きだった。
汗をかき、息を切らしながらも何とかついていっているようだが、これではお世辞にも良いとは言えなかった。

私がそう思うのと同じくして、トレーナーさんがストップをかけた。
ここからでは内容までは会話の内容までは分からないが、どうやら叱責を受けているのは確かだ。
表情が暗い。やはり、昨日の事が……。

昨日の事を思い出すと、私は居ても立ってもいられなくなっていた。
気付くと、既にレッスン部屋の扉を開けていた。



「……プ、プロデューサーさん!」


幸子が目を丸くして、私の到着に驚いていた。
何がどうしてと混乱した感じで、前のようにすぐ追い返そうともしてこなかった。
私はそれが何か気恥かく、頭をかきながら「やぁ」とだけしか言えなかった。


「あ、――さん……どうなされたんですか?」


トレーナーさんが突然の来客に動揺しつつも、私に声をかけた。


「あ、いやその……まぁ、幸子が心配で……」

「あぁ……そうですか……」


トレーナーさんが、やはりそうかと言った感じで、私の方へ歩いてきた。
そして、小声で私に耳打ちする。



「幸子ちゃん、どうも最近レッスンに身が入って無いと言うか……それに、今日は特別酷くて……私も、心配だったんです」


予想通りの言葉に、私は小さく溜息をついた。
幸子に対してでは無い、それに気付かなかった私自身に対してだ。


「……すみません、私のせいです。少しの間、幸子を貸して貰えないでしょうか。彼女と、話したい事があるので……」


私の神妙な表情を、何か値踏みするような顔で見た後、トレーナーさんは何か納得したように頷いた。


「えぇ、いいでしょう。その顔だと、何か悪い事を彼女に言うつもりじゃ、無いでしょうから」

「……はい。ありがとう、ございます」


私は頭を下げ、心からの礼を言った。


「……ふぅ、じゃあ幸子ちゃん。ちょっと休憩して良いわよ。私は、ちょっと外に出るから。10分くらいで戻るからね」

「あ、はい……わかり、ました……」


トレーナーさんの配慮で、私と幸子、二人だけがこの部屋に残された。
昨日の車内で流れた、あの静寂が沈みこんでくる。



「……なぁ、幸子」


意を決し、私が声をかけた瞬間、彼女は小さく震えた。
だが、何とか踏ん張りしっかりと私の目を見てくれた。


「な、何ですか? ボ、ボクの事が心配だった……いえ、その……あの……すみません」


いつもの幸子節も、途中で途切れる。目にも、怯えが容易に見てとれる。
私は、相当彼女を追いこんでいたのだな、と改めて自分の薄弱さを悔いた。


「……昨日は……すまなかった」


私はこれまでに無い程、深く頭を下げて、心を籠めて、彼女に謝った。



「え……な、何です? い、いきなり頭なんか下げて、どうしたんですか?」

「……昨日……お前に、当たってしまって、すまなかった……。
 いや、昨日だけじゃない。今まで、お前の事を避けていた事も、謝らなきゃならない」

「……」


彼女の顔は見えず、返答も無い。
だが、私は続ける。


「私は……今まで、幸子、お前ときちんと向き合って来なかった……お前が、苦手だとか……そういう、馬鹿な事で……。
 その癖、仕事が上手くいかないからと、勝手にイラついて、お前に当たって……」

「……」

「どうか……どうか、もう一度、お前とやり直させて欲しい。お前と、向き合わせて欲しい。
 身勝手かも知れないが、私は、お前とこれからも仕事をやって行きたい」

「……プロデューサー、さん……」

「……今まで……今まで、本当にすまなかった……俺が、悪かった……」


沈黙。
頭を下げたまま、ただ私はその沈黙を受け止めていた。

彼女が今どんな表情をしているのか、どんな心境なのか、それはわからない。
赦さないと言われるのも、覚悟していた。
私は、それだけの事をしてきたのだから。
息を呑みながら、私は、彼女がどうするのか、それを感じ取る為に全神経を集中していた。

一分、いや二分か。それ以上待ったかも知れない。
そこで、やっと彼女の声が聞こえた。



「……馬鹿ですよ……プロデューサーさんは……」


何かを耐えるような、震えた声だった。
その声に反応し、私は頭を上げて彼女を見た。

彼女は私に背中を向け、肩を震わせていた。
壁面に巡らされた鏡で、彼女の顔が見える。
泣いていた。大粒の涙を流しながらも、それを何とか堪えようとして、震えていたのだ。


「全く……こんなコトで、悩んでたボクまでっ……馬鹿みたいじゃ、ないですか……」

「……」


堪え切れなくなって来たのか、彼女は顔を上に向け、大きく息をしていた。



「ボクに、悪い所があるんじゃないかって……ボクが、成績を出せてないから、嫌われてるんじゃないかって……。
 そうずっと悩んでたのに……そんな、馬鹿みたいな理由で、避けられてたなんて……」

「……幸子」

「馬鹿、馬鹿ですよ……そういう風に、ボクの事、苦手だとか言いながら……いつも遅くまで、仕事してたなんて……。
 いつも目の下にクマを作るくらいなら、ボクのせいにして、逃げるなりすれば良いのに……」

「……」

「そんな風に、謝られたら……冴えないプロデューサーさんだって……許したく、なっちゃうじゃないですか……」

「……良い、のか?」

「良いですよっ……もう……こんな、馬鹿みたいな事で悩むくらいなら、許してあげますよ……」

「ほ、本当に?」


自然と、私の足は彼女の方へ、一歩踏み出していた。



「ゆ、許して、あげますから……これからは……ボクのコトを、ちゃんと見ていて下さい……。
 ――さんはボクが、一番だってコトを、ちゃんと証明して下さい!」


その言葉に、私は。


「……あぁ、任せろ。絶対に、幸子が一番可愛いって事を証明して見せる。
 幸子は、誰よりも、可愛いんだから」


こう、応えていた。
私の今の、本心から出る言葉だった。



「あっ……うぅ……」


そんな私の言葉を聞いて、幸子はついに泣きだしてしまった。
倒れそうになった彼女に、私は無意識に寄り、力を抜いて抱きしめていた。


「ゴメンな……本当に……」


今まで、本当に不安だったのだろう。
自分でカワイイとは言ってきたが、いつもLIVEバトルでは負けていた。
自分でも、自信が無くなっていたのだ。
だが、自分の相棒となるべきプロデューサーは慰めてくれず、自分を避けていた。
その辛さは計り知れなかった。

そんな重圧に耐えてきた彼女の小さな体を受け止めつつ、私は再度、自らの愚かさを悔いた。


「ゴメンじゃ、ないですよっ……ゴメンじゃっ……」


彼女も、私同様に背伸びをしていた。
年相応の、か弱い、少女だった。

泣きじゃくる彼女を抱きしめ、ゆっくりと頭を撫でた。
彼女の髪はとても柔らかく、そして滑らかだった。
こんな事実も知らなかったのかと、改めて実感した。



「……これからは、一緒に、頑張ろう。幸子」

「当然、ですっ……ボクを、置いていったり……いや、ボクについて来れなかったりしたら、今度こそ許しませんからね!」

「……あぁ。お前を、置いていったりなんか、もうしない」

「……や、約束、ですよ?」

「あぁ。約束する」

「……じゃあ、良いです」


それから彼女が落ちつくまで、私は彼女を抱きしめ、宥めていた。
そして落ちついた所を見て、少しまた頭を撫でてからトレーナーさんを呼びに外へ出た。



「……話は、終わりましたか?」

「えぇ、まぁ……あ、な、中の様子とかは……」

「見てませんよ。そんな無粋な人間じゃありません」

「……そうですか」

「この道も誰も通ってませんでしたから、安心して下さい」

「……感謝します」


私はまた頭を下げた。今日は、営業並に頭を下げる日だ。
それ以上に、今日のは全てに心霊を捧げたものだったが。



「良いって事です。それに、その顔……」

「……顔?」

「えぇ。何か、憑き物が取れたみたいな感じです。きっと、幸子ちゃんも今のプロデューサさんと一緒でしょう」

「……はい。きっと、そうだと思います」

「ふふっ……これなら、ちゃんとレッスンもできますね」

「えぇ……むしろ、アイツが足りないとか言ったら、すぐに増やしてやって下さい」

「あはは。まぁ、考えておきますね」

「……幸子の事、よろしくお願いします。私のせいで、力を出せなかっただけなんです。どうか、見捨てないでやって下さい」


トレーナーさんは優しく微笑んだ。


「わかってますよ。大丈夫、幸子ちゃんは素質がある子ですから。すぐに、遅れを取り戻せます」

「……はいっ」


どうやら、私は良い人に囲まれているようだ。
それを、頼ろうとしていなかっただけで。



「それじゃあ、プロデューサーさんもお仕事に戻って下さい。今、お仕事の時間のはずですし」

「え、えぇ……そうでしたね」

「それで、何のお仕事があるんですか?」

「はい。幸子のステージ衣装の再考なんですけど……今、何だかとても良いデザインが頭に浮かんでるんです」

「へぇ……早速、効果が出てますね!」

「えぇ。それでは、私はこれを形にしてくるので……幸子の事、お願いします」

「そんなに何度も頭を下げなくて大丈夫ですよ。しっかり、私も仕事を果たさせてもらいますから」

「……わかりました。あ、最後に、もう一度だけ幸子に会っていいですか?」

「どうぞどうぞ。幸子ちゃんに、ちゃんと挨拶していって下さいね」

「はい」


重い防音扉を軽快に開け、幸子の傍に歩み寄る。
既に涙は止まっているが、少し赤い跡が残ってしまっていた。



「あ、プロデューサーさん……」

「私は、これから仕事に戻るから……何かあったら、遠慮なく電話するなり、直接言うなりしてくれ。良いな?」

「わ、わかってますよ。早く、お仕事して来て下さい……」

「……あぁ。お前に、とびきり良い衣装を用意してやるからな」

「……ふ、ふんっ……き、期待しないで待ってますよ。ダメダメな――さんの事なんか!」


彼女が初めて私の名を呼んだのは、その時だった。


「……あぁ。じゃあ、行ってくる」

「は、早く行って下さい……ボクはこれからレッスンの続きがあるんですから!」


そんないつもの幸子節に戻ったのに安心しつつ、私は彼女の言葉に背中を押され、彼女の元から去った。
そして、これからまた新たな戦いが始まる。
私と、幸子。この二人の共同戦線が。



「あ、お帰りなさい――さん」


事務所に戻り、千川さんの出迎えに笑顔で答える。
足取り軽く自分のデスクに座り、広げていた書類を整え、デザイン案を纏めていく。


「ふふっ、何だか――さん楽しそうですね」


デッサン書きに、色の指定を細かく書き込んでいく。往来の趣味程度ではあったが、ある程度絵が書けるのは強みになっていた。
仕事に勤しむ私に、千川さんがお茶を出してくれた。


「えぇ。まぁ、これからは何とかなりそうだなって、確信したので」

「あら、そうなんですか?」

「はい。むしろ、今まで何でこうしなかったのかと、疑問に思うくらいですよ」

「そうですよ。全く……不器用な二人をこの目で見ている立場としては、もうじれったくてじれったくて……」

「あはは……御迷惑を、お掛けしました。これからは、事務所のお荷物脱退を目指します」

「そんなのすぐに抜けられますよ。でも、期待してます。お二人ならきっと、その先も見えてくるはずですから」

「……はい。ありがとうございます」



そして、私が新たに発注した衣装が届いた。


「幸子。新しい衣装、届いたぞ」

「ホ、ホントですか?」

「あぁ。まぁ、相も変わらず、私がデザインしたものなんだけどな」

「へぇー……」

「……お前に似合うように、全力で作ってみた。少し、奇抜かも知れないが」

「そ、そうですか……ま、まぁ? カワイイボクが着れば――さんが作った服と言えど、似合っちゃうと思いますけどね!」

「……あぁ。頼む」

「……はい。じゃあ、き、着てきます……」


あれ以来、彼女との会話も増えた。
「ボクについて、そんなコトも知らないのですか?」だとか「ボクに頼み事? もちろんイヤです!」などとからかわれたりもしたが、
良好な関係を築き始めていた。


彼女とちゃんと話して、ちゃんと彼女の事を見て、少しわかった事がある。
あの強気の発言は、彼女なりの甘え方、という事だ。

基本的に、私以外の人と接する時も常時あのキャラなのだが、私にだけはまた少し接し方が違う気がする。
何と言うか、時々というか多々、彼女は私を煽ってくるが、他人を煽っている所は見た事が無い。
頼りない私を、引っ張って行こうという、そんな意思もあるのかも知れない。

だから、私にだけ、そういう可愛い憎まれ口を叩くのだ。
そう思うと、何と言うか、彼女も年相応なのだな、と実感する。
そして、何かそれが微笑ましくて、くすぐったいような感覚も、覚えていた。

そんな事を考えていると、隣の部屋で着替えていた幸子がおどおどと出てきた。


「ど、どうです――さん! 新しいステージ衣装に身を包んだボクは!」


幸子が、片手を腰に当て、何かお嬢様がしそうなポーズを取った。
少しツボに入ってしまった。


「な、何笑ってるんですか! 自分で作った衣装でしょう!」

「い、いや……そうじゃない、そうじゃないんだが……その、お前の仕草がちょっと……」

「むっ、心外ですね。ボクの一挙手一投足はカワイイこそあれ、笑われるような要素は断じてありませんよ!」

「スマンスマン。なんか微笑ましいというか、そういう可愛さっていうのも、あるだろ?」

「……ま、まぁ……今は――さんの口車に乗って上げましょう。で、どうです?」


幸子は気を取り直し、今度は衣装を見せるように手を広げた。
紫と白を基調とした、フリフリのスカートの可愛くもあるが、綺麗でもある。格調の高いデザインだ。
腰周りには羽の意匠も付けられており、その上に付けられた緑のベルトが豪華さを押し上げている。
緑のアクセントが効いた青いグローブとブーツが、強気に振舞う幸子の印象を強くしている。
我ながら中々良い仕事をしたものだ、と感心した。



「ま、またニヤついてないで、ちゃんと答えて下さいよ!」

「いや……我ながら、良い仕事したものだなと……幸子の可愛さが、倍増されてるよ」

「そ、そうですか! まぁ当然ですよ、何て言ったってカワイイボクが着ているんですからね!
 それにしても、――さんは独特の変わったセンスをしてますね! あまり見ないデザインですよ!」

「独特、ねぇ……」

「ボクは思ってることが口に出ちゃうので、率直な感想を言ったまでですよ」

「まぁでも、幸子に似合う事を第一に作ったつもりだ。だが素人のデザインだし、プロとはかけ離れるのかもな」

「……ボ、ボクは……――さんの作った衣装を着れて、良いですけど……」


目を逸らしてそう答える私は、彼女と同じく率直に疑問を投げる。


「何で?」

「そ、そうすれば、――さんはボクの事をちゃんと理解しているのかわかるじゃないですか!
 ボクに合う衣装を作れるって事は、それだけボクを理解しているって事ですからね!」

「まぁ、そうだな。私も、少しは幸子と向き合えるように、なってきたんだな」

「えぇ、まぁ遅すぎるくらいですけどね!」

「……面目無い」


頭を掻きながら、苦笑いをしてしまう。そんな私を見て、幸子が勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
そう言えば、まだ肝心な事を聞いていないかった。



「……それで」

「え?」

「それで、幸子はその衣装、気に入ってくれたか?」

「……え?」

「いや、だから。その衣装、どうだ? 幸子にとって、良いか、悪いか」

「え、えっと……その……この衣装ですか?」

「あぁ。変わったセンスなのは重々承知してるが、それでも構わないか? ちゃんと、お前が納得できるものじゃないといけないしな」

「……」


先程までの早口が嘘のように止まり、今度は何か恥ずかしそうに、何か言い淀んでいた。


「どうだ?」


「……良いと、思います、よ?」

「……そうか。なら、良かった」


私が満足して笑うと、彼女はまた黙りこくってしまった。
何か、足をもじもじとさせ、落ちつかない様子だ。まだ何かあるのだろうか。


「どうした幸子。まだ何かあるのか? 足らない物とか、あるか?」

「い、いえ、そうじゃないですけど……」

「どうした。幸子らしく無いな。思った事がすぐ口に出るんじゃなかったのか?」

「あ……そ、そうですけどね……まぁ、何と言うか……その、最近の――さんは、ボクから見ても良い感じになって来ましたね!」

「そうか? なら、嬉しいな」


幸子が素直に褒めてくれたので、何かこそばゆくなってしまう。
だが、私も素直に嬉しかった。


「だ、だから……その……」


幸子は表情を見られたくなかったのか一瞬、顔を伏せた。
そして、意を決したように、私にこう言った。



「これからも、――さんはボクの隣にいても、い、良いですよ。ねっ?」

「……」


その言葉に、私は言葉を失ってしまった。呆れなどではなく、喜びによって。

酷い仕打ちをしていたにも関わらず、私を赦し、なおかつ私を認めてくれた事が。
それが、私の言葉を、失わせていた。


「……あ、あの、――さん?」

「……」

「も、もしもーし? 聞こえてますか? ちょ、ちょっと返事して下さいよ、不安になるじゃないですか!」

「あ、あぁ……聞こえてるぞ……その、何だ……」

「あ、あまりの嬉しさに言葉を失っちゃったんですか? まぁ、これだけカワイイボクに褒められれば、当然ですけどね!」

「……あぁ、そうだ。お前に認めて貰えたんだと思えて、嬉しかった」

「……」

「どうした」


「……――さん、初めは殆ど喋らなかったし、あまり表情を崩さない人だと思ってましたけど……。
 その、なんか卑怯ですよ……」

「卑怯?」

「さ、最初はちょっとこわ、いや暗い人が担当なんだなぁなんてガッカリしてましたけど、今は、その、真っ直ぐ物を言いますし……。
 ね、根暗の癖に、やるじゃないですか!」

「……はぁ……それは、どうも」


よく言いたい事がわからなかったが、とりあえず礼を言った。
それから彼女は何か拗ねたように、またそっぽを向いてしまった。


「ま、まぁ良いです! 今度のLIVEバトル、勝ってみせますよ! そして証明してみせましょう、ボクが一番なのだと!」


それでも、そうやっていつも通りに振舞う彼女の背中は、とても頼もしく見えた。


「あぁ。一緒に頑張ろう、幸子」





そうして、生まれ変わった私達の、初めてLIVEバトルが行われた。


結果は、見事な勝利だった。


対戦相手は「負けないニャ!」などと言っていたが、それが居た堪れなくなってしまう程に、幸子の表現力が圧倒していた。
生まれ変わった幸子のライブは、見ている者全てを惹きつけるような迫力があった。
手足の先から、彼女に握られたマイクにまで、その全てに神経が巡り、言いようのない緊張感と生気を漲らせていた。
彼女の一挙手一投足、その全てに目を奪われ、彼女の歌声に魂を揺さぶられる。

これ程までに興奮した事は、私の生涯を通して、無かったと言って良い。
正に、完璧なライブだった。

関係者達も、今までの結果を知っているだけに、この変貌ぶりに目を丸くしていた。


「やったな! 幸子!」


ステージから降り、舞台袖に入った彼女へ、興奮冷めあらぬままに駆け寄った。





「あ、――さん。ふふん、どうでしたか? 皆カワイイボクだけを見てましたよ?」

「あぁ、お偉いさんも驚いてたぞ。そして、沢山褒めてた」

「ふふっ、そうでしょうそうでしょう?」

「あぁ……よく、頑張ったな……」

「……」


喜んでいるはずなのに、幸子が顔を伏せてしまった。
何か変な事でも言ってしまったか、と不安に思い、彼女に尋ねる。


「い、いや……違うんですけど……その……」

「何だ。思った事は、すぐ口に出せ。それが、お前だろ?」

「あっ……そう、ですね……」


それでも、口を真一文字に結んで逡巡した。
そして息を整えてから、ようやく幸子は言った。



「――さんから見て、その……ボ、ボクは、カワイかったですか?」


また顔を赤らめながら、彼女はそんな事を聞いてきた。

私は、この時ようやく全てに気付いた。
何故、彼女はカワイイという事に固執するのか。

それは、いつも自分でカワイイとは言っているが、他人からも、可愛いと言って欲しいと思っているのではないのか、と。
あの自信家のような発言も、やはりその気持ちの裏があるからではないのか、と。
この甘え方には、そういう意味があったのだ、と。


「――さん?」


もしそうであるならば、言ってやらねばなるまい。


「は、早く感想を言って下さいよ! ボクはライブで疲れてるんですからね!」


ここまで頑張ってくれた彼女に、この言葉を。



「……あぁ。幸子は、可愛かったよ。誰よりも、一番」


私の、この素直な言葉を。


その言葉に、彼女は一瞬驚いたような表情を見せた。
が、すぐに彼女の顔がみるみるほころんでいった。


「と、当然ですよ! ボクは……ボクはカワイイですから! ボクが一番なんですから!」

「……あぁ」


「――さんが、ボクが一番だってコトを、ちゃんと証明してくれたんです! ねっ?
 やっぱり……やっぱり、ボクには魅力があるんだっ」


そう言って、全身で喜ぶ彼女の笑顔が、眩しかった。
今まで見たことのないような、満面の笑み。
それを、私に向けてくれていた。それが、とても嬉しかった。


「さぁ、――さん! 勝利記念に、ボクをご飯に連れて行ってくれてもイイんですよ?」

「あはは……そうだな、それも良いか!」

「はいっ! じゃあ行きましょう! ほら早くついて来て下さいよ! ――さんにはボクの荷物を持って貰うんですから!」


そう言って、彼女は私の手を掴んでいた。
私を引っ張ってくれる、彼女の小さな手。
頼もしく、そして……。



「ボクが食べたいので良いですよね? いや、むしろそれ以外はダメですよ!
 ――さんには、ボクが選んだものを食べて貰うんですから!」

「わかったわかった。あまり引っ張らなくても、ちゃんとついて行くから」


私は、その時既に、彼女に惹かれていたのかも知れない。
この、愛おしいくらいに、可愛い彼女に。

彼女に手を取られつつ、私は、そんな言いようの無い気持ちを、心の中で持て余していた。

書き溜め無くなったわ
飯食ってくる


それからの私達は、正に破竹の勢いであった。
幸子は、レッスンでトレーナーさんの提示するメニューをキチンとこなし、LIVEバトルでは連戦連勝。
私も、新しい衣装や特訓の案を出したり、幸子とは会わない日が無くなった。彼女の為に、全力を尽くしていた。

仕事はドンドン増えていき、ラジオやテレビでの露出も、着々と増えて行った。
私は同僚達に追いつき、そして追い越してさえもいた。
幸子も、学校とアイドルの両立が楽しいという旨の発言をしていた。良い事だ。

そして、そんな頑張りが報われたのか。第一回アイドル選抜総選挙では、14位を獲得することが出来た。
今まで無名だったアイドルが大躍進。10位圏内には入れなかったものの、この結果に業界は賑わった。
私は、この結果に全力で彼女を祝福した。


「ま、まぁ……まだまだ上に行けますね! 時期が悪かったんですよ、ボクが世間に認められ始めたのは、つい最近ですから!」


という、心強い返答が貰えた。
私もそう思う。だからこそ、今度はもっと上に行って貰う。
彼女がいかに可愛いのか、世間には知って貰わねばなるまい。


そう言えば先程、幸子とは会わない日が無くなった、と言ったがこれは誇張ではない。
オフの日まで買い物に駆りだされるようになった。
幸子曰く、「こんなにカワイイボクとのショッピングになんですから、荷物持ちでも光栄に思うべきです」との事だ。

まぁ実際、幸子と一緒にいる事はもう苦では無くなっていた。
むしろ、彼女と一緒にいる事が楽しくなっていた。

ただ流石に私の休みが全てそれに溶かされてしまい、全く休めなかったので、腹いせと私の興味、そして幸子の躍進を籠めて、
彼女がトリを飾るライブでスカイダイビングをさせる事にした。


「ボクは天使ですから空から舞い降りなきゃいけませんね!」


こんな事を言わなければ、私にスカイダイビングという天啓が降って来なかったかも知れない。
決行時にはなんだかんだと泣言を漏らしていたが、それでもしっかりやりきる辺り、幸子は本当に強い子である。

着地の際にパラシュートがステージに引っかかって、幸子は宙吊りになった。
下からそれを笑いながら見ていたが、流石に怒られてしまった。
ライブの後に食事に連れていくと言って、その場は何とか許してくれたが。


そして、そんな頑張りのおかげか否か、事務所から新曲のオファーが来た。
私はこれを快諾し、幸子にこれを報告した。

彼女はまた顔を逸らして、憎まれ口を叩きながら、精一杯喜んでくれた。
私の事となると、最近は素直に喜びの感情を見せてくれるようになった気がする。
とても、良いことだ。

素潜りは楽しかった。


そして、楽しい時間と言うものはすぐに過ぎ去り、彼女と出会ってから一年もの時間が過ぎた。


「――チャン、おっはにゃ~」

「あぁ、おはようみく」


私と幸子の活躍が買われ、私が担当するアイドルは更に二人増えた。
まず一人目がこの前川みくである。猫キャラであるが名前はある。

出会いは、私と幸子が生まれ変わった後の、最初のライブだった。
あの時、幸子とのライブにこっ酷く敗れた彼女は元いた事務所を追い出された。そこを私がスカウトしたのである。
振られた女の子が弱っている間に、アプローチをかけてものにした。という感じと酷似しているが、やましい所は無い。
彼女がいた事務所は、少々ハードワークが過ぎると、業界では専らの評判が上がる場所だったからだ。
当然、彼女の伸ばし方はなっていなかった。彼女も、今ではここでのびのびとやっているが、早々に頭角を現し始めている。


「隙ありっ!」


突如、衝立の向こうから、素早く何者かがみく目がけて飛び出して来た。
標的に両手を迅速に向け、前のめりになって特攻を仕掛ける。



「甘いにゃ!」

「な、何?」


みくはさながら猫のような反応速度でその襲撃を見切り、身を翻し避けた。
目標を失った特攻隊員は、飛び込んだ勢いのままソファへと撃沈する。


「ぎゃふんっ」

「残念だったにゃ~。みくは飛びかかる事にも、飛びかかられるのにも慣れてるのにゃ~」

「くぅ~……あたしの培いに培った隠密術を持ってしても、みくちゃんの超反応に勝てないのかっ……」

「まだまだあっまいにゃ~」

「悔しい! あたし……あたし勝ちたい……勝ちたいよプロデューサー!」


そんな全力でソファを叩くな、スプリングが壊れる。

これまた破壊的に元気な彼女の名前は、棟方愛海。
夢と書いて、女の子の胸と読み、三度の飯より胸が好き。
そんな14歳である。



「プロデューサー……あたし、あたしに足りないものは何なの! どうすれば、いつになればみくちゃんの胸に、
 この私の両手という放たれた矢が、標的を射る時はいつなの! いつになったら……あたしは、地を這わなくてすむの……!」

「……とりあえず落ちつく事から始めたら良いんじゃないかな」

「あぁー……ふれあいを、あたしの両手がふれあいを求めているっ……」

「……」

ワキワキと、もの凄い速度で愛海の両の指がうごめく。
さながら、蜘蛛の群れの行進とでも言いたいくらい、おぞましい動きだった。
指自体は女の子らしく綺麗なのだが、何か残念な気がしてならない。

あれは生まれ持っての性だ。彼女にとってこれは生業であり、趣味でもある。
致し方が無いのだ。他人が止められるものではない。
この旨を愛海に伝えたところ、何やら同類のように思われて、懐かれてしまった。
まぁ、気に入られるという点では、とても良かったのだが。

それに、あれは一種の、彼女なりの甘え方だ。
それを無闇に止める事も、無いだろう。
本気で嫌がってる時は、自制して欲しいものだが。




「くっそー……みくちゃん、次こそ仕留めるからね!」

「ふっふ~。いくらでも再戦してあげるにゃ」

「よしっ、燃えてきた!」


増えたのは良いが、何だろうか。確かにこの二人が増えて楽しいのは確かだが、何だろうか。

言ってしまっては悪いが、私の担当は色モノばかりではないか?

私の気質と、かなり真っ向から対峙したような子達なのだが……。
まぁ、みくは私が自らスカウトしたのだから、言う事は無いが……。


「――チャン、――チャン、華麗な撃退劇を見せたんだから、褒めて欲しいにゃっ」

「あ、あぁ……そうか……よ、よくやった、な?」

「なんで語尾が上がっちゃうんだにゃ……ほらっ、なでてなでて~」

「わ、わかった……」


手を握られ、そのままみくの頭に持っていかれる。そして言われるがままに、みくを撫でる。
みくの髪は、何かふわふわとしていて、掌に温もりが伝わって来る。
とても、良い感触だった。


「プロデューサーばっかりおさわりできて良いなー……」

「――チャンだったら、もうちょっと奥の方まで進んだ所をさわってもいいにゃっ」

「そ、それはもしかしてっ……」

「言うのは無粋だにゃ」

「プロデューサー! あたし悔しい!」

「やめなさい……私は、裁判所になんて行きたくないんだ……」


仕事終わりだと言うのに、元気を持て余すこの二人。
その相手をするのも一苦労である。

そして、この事により、また一つ新たな問題が浮上してくる。


この二人の喧騒の横で、何かが削れ、そして細かく叩く神経質な音が響いていた。
そして、その音が止んだかと思うと、パンッと、勢いよく乾いた音がした。


「もうお仕事も終わったんですし、――さん、ボクそろそろ帰りたいんですけど」


横のテーブルでノートの清書をしていた幸子が、何やら声荒げて立ちあがった。


「あっ、もうこんな時間か。よし、じゃあお前達も帰るぞ」


えぇー、と猫とさわり魔かブーイングが上がったが気にはしない。


「ほら、車で送って行ってやるから。お前達も準備しろ」


両手をパタパタと振ると、二人は渋々「はーい」と返事をし、帰り支度を始めた。
その二人を横に、私は幸子に寄って、少し顔色を窺いながら話しかける。


「……あぁ、悪いな。お前にも構えなくて」

「……ボクは、ノートを奇麗にしてたんです。むしろ、それで構われたら、集中できないじゃないですか……」

「……」


これだ。ここ最近、幸子と話す時間が減ったしまったのだ。
ほぼ毎日会ってはいるのだが、あの元気な二人に時間を裂かれてしまい、彼女との時間が用意できないでいる。
そのせいか、彼女の機嫌は悪い。


「……荷物、持つよ」

「当然です。――さんは、ボクの……犬なんですから」

「はいはい、わんわん」

「ちょっとやる気無さ過ぎやしませんか? もっと犬らしく……いや、もっと馬車馬らしく、ボクの為に……」

「――チャン! 用意できたにゃっ!」


幸子が何か言いかけたが、帰り支度を終えた二人に、その声はかき消されてしまった。


「……」

「お前の為に、何だ?」

「い、いいですよ……もう行きましょう。二人を待たせる訳にもいきませんし」

「……そう、だな」


私達の間にまた、見えない壁が出来始めていた。
彼女と今まで二人三脚でやってきたはずなのだが、最近どうしても、彼女との距離の取り方が、わからなくなってきた。

何故なのか。それは、心の奥底にある、あの感情のせいだろう。
一年前から感じていた、あれのせいで。

今日はここまで
駄目だ、予想以上に進まない

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輿水幸子(14)

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前川みく(15)


外は雨が降っていた。雲が夜の暗闇に膜を張り、霧のような雨を垂らしていた。
時は、既に午後六時を回ろうとしていた。春の湿った空気の中で、夜の心地の良い冷たさが混じり始めている。
私はドアの前で傘を差し、彼女達が車に入る時雨に濡れないようにしてから、いそいそと三人を乗りこませる。

みくと愛海は東京出身では無い為、今は我が事務所の寮に住んでいる。
幸子は御両親のいる実家にいるが、寮の近くに実家が存在する為、送る時はこうして三人纏めて送る事にしている。
車の中で些細なコミュニケーションを取ることも、大事な事だ。

全員が中に入ったのを見て、傘を振るい、身をかがめて運転席に座った。


「よし、皆乗ったかな?」

「見ればわかるでしょうそれくらい。ほら、早く出して下さいよ――さん」

「はいはい……」

「――プロデューサー、ちょっとちょっと」


助手席に座る愛海が、何やら怨ずるような目で私を見てきた。



「何だ。忘れものか? それなら待つが……」

「な、なんで、あたし助手席なの……なんで女の子と同じ席じゃないの……」


あぁ、そういう事か。小さく溜息をついて、私は愛海に淀みなく答える。


「被害を、抑制する為だ」

「な、何もしないよ! 何も、何も……うひ、うひひ……」

「そう言いながら手をウネウネさせるんじゃない……何もこの移動中にやらなくても良いだろう……」


女の子同士で普通にじゃれるというのは良いのだが、車内でそれをやられると幾分困る。
もし予想以上に暴れられて、私の運転にも支障をきたすとなれば話は別である。
現にこの前も、それで肝を冷やした事がある。


「し、仕方がないんだよ! だって、目の前に女の子のやわらかーい部分があったら……するしかないじゃない!
 ――プロデューサーならわかってくれるでしょ!」

「いや……まぁ、ただじゃれるだけなら、私は構わないんだが……」

「でしょ! だったら別に問題無いよ!」

「だがな。お前達が暴れて、私が事故でも起こしたらどうするんだ」

「大丈夫大丈夫、今はねっとりとゆっくりとやりたい気分だから……」


そう言いながら、愛海は真後ろにいる幸子をぎらりと睨みつけた。
幸子はその視線にひっ、と言ってのけ反った。


「ほら。それ以前に、基本的に幸子は嫌がってるだろ。人の嫌がるような事はしてはいけない。
 普通わかると思うんだがなぁ……それがわかるまで、お前をこの狭い車内で、女の子と同じ列にする訳にはいかん」

「えぇー……」


「あまりしつこいようだと、置いてくぞ。とりあえず、今は大人しくしていてくれ」

「はーい……じゃあいいや……買ってきた生八橋でも触っとこ……」


愛海は鞄の中から、一体何処で手に入れてきたのか、和菓子の箱を取り出した。
そして薄い笑いを浮かべつつ、封を切り、生八橋を掴み、もみ始めた。


「何でそんなもの買ってるんですか……いやそれ以前にこの辺りでそんなもの売ってるんですか?」

「あぁー……いいわこれ……うひひ……」


もはやさわり魔は自らの世界に浸っている。外界からの干渉を受け付ける隙すら無い。


「……シートベルトは……皆してるな、よし行くぞ」


和菓子を触りながら恍惚に浸るさわり魔を尻目に、私はギアを変え、アクセルを踏み込んだ。
湿った路面をタイヤが噛み、ゆっくりと車が前進する。
が、角を曲がってすぐに信号に捕まってしまった。溜息をつきながらブレーキを踏む。
ここの信号は長いのだ。信号が変わるまで、仕方なく車内を観察する事にした。


フロントミラーで車内を見る。各々が、思い思いの行動をしている。
愛海はしきりに和菓子を揉み至福の笑顔を浮かべている。
みくは私と幸子を落ちつきなく交互に見つめ、幸子は頬杖をつき、私の方を時折ちらちらと見ながら、窓の外を眺めている。

私は幸子の視線に気付き、ミラーを通して幸子を見た。
ふと、ミラーの中で目が合った。しかし、慌てて視線を外されてしまった。
しばらくミラー越しに幸子を見つめたが、幸子は窓の外に、視線を固定してしまった。
こうなると、もう視線を合わせてくれないか。

車内の観察を終え、私はまた前を見つめる事にする。

フロントガラスに垂れた雨粒が、ワイパーで飛んでいく。水の斑が、ワイパーに取られ糸を引く。
車内の景色と外の暗い景色が、歪み、入り乱れ、その糸の中に映っていた。
水の中で光が滲み、そして僅かに広がっていく。そんな光景に、私は思わず思慮に呆けてしまった。


やはり、ここ最近幸子との時間を取れていないのは問題だ。
彼女は、既に私に絶大な信頼を置いてくれている。私から離れようとしない程に。私に、依存しているのでは、と思う時さえある程に。

しかし、今私は幸子以外にみくと愛海。二人を新しく抱えた。
一応、もうあんな事が無いように何かを削ってでも幸子との時間を取る事にはしている。だが、それにも限界がある。
彼女だけを見るという事は、もうできないのだ。

私の、心情的にも。

そうやって、何とも無しに前を見つめていると、ふと、水の色が赤から青に変わった。
信号が変わった事だと気付くのに数秒かかり、慌てて発進させた。


「幸子チャン」


私と幸子を観察していたみくが、何やら楽しげに幸子に身を乗り出して話しかける。



「な、何ですかみくさん……」

「ふふっ、幸子チャンは大事にされてるにゃ~」

「きゅ、急にどうしたんですか?」

「今、幸子チャンがずっと何を見ていたのか、わからないとでも思ってるのかにゃ?」

「な、なな何の話ですか?」

「そんなにドモると、もう答えを言ってるようなものにゃ」

「ぐっ……ち、違いますよ! 別にボクはダメダメな――さんが安全運転できているか確認していただけであって……」


幸子が簡単にボロを出した。
やはり、幸子は私以外には口が弱い。


「やっぱり――チャンを見ていたんだにゃ~……」

「あっ……いや、これは、その……ボ、ボクはこれから本を読みますので! 集中するので、話かけないで下さい!」


そう言って、幸子は慌てて鞄の中から本を取り出し、乱暴にページをめくった。
暗い中、ドアに体をもたれさせ、必死で自分の顔を隠すように本を読んでいる。
この暗さで読んでいる、と言えるのかは怪しいが。

とりあえず、私は後部ライトをつける事にした。
暗かった車内が、ほんのりと明るくなる。


「ふふっ、――チャンも――チャンで、幸子チャンを良く見てるのにゃ」

「何がだ」


私は敢えて、とぼけるように答える。


「全く、どっちもとぼけるのが下手だにゃ~」


そのみくの言葉には答えず、私は黙ってハンドルをゆっくりと回した。そして、車の多い国道へと抜けた。
周囲で、赤いランプが暗がりの中でひっきりなしに点いたり消えたりしている。渋滞に捕まったようだ。
工事中という看板が、ガードレールに立てかけられている。
私はまた小さく溜息をつき、ギアを下げた。


「あぁ~気持ちいい~……あっ、そう言えばプロデューサー」


和菓子を揉みながら、愛海が何か思い出したように言った。
このさわり魔が何かを思い出すような思考力を残していたのか、と心の中で驚いてしまった。



「何だ……というか、食べないのかそれ」

「今度また、アイドル選抜総選挙やるんだよね!」

「あ、愛海お前……興味あるのか?」


私は驚きのあまり、少し語気を荒くしてしまった。


「そりゃモチロン。あたしだってアイドルだよ」


こんな事を言ってくれるという事は、愛海にもアイドルとしての自覚が出て来たという事だろうか。
いや、元々アイドル業自体は楽しんでいるし、頑張ってくれている。
だが、順位を気にするという事は、更にやる気が出てきたという事と見て良いのだろう。
これは、実に良い進歩だ。


「あぁー……上位の子達がつむぐ山脈はどんな形なのかなー……ぐふ、ぐふふ……」

「……」


まぁ、いい。どうせそんな事だろうとは思った。
愛海は、いつまでも変わらない君でいてくれ。
その方が、お前らしい。それも、魅力の一つだ。


「あー……そう言えばそんなものがあったにゃ」


みくが話題に入ってきた。何か思うように、猫手で首筋を軽く掻いている。


「みくは前回28位だったか」

「そうだにゃ。ちゃんと紹介される圏内には残れてたけど、幸子チャンにはダブルスコアの差を開けられちゃったにゃ」

「あぁ……まぁ、あの後だったしなぁ……あの時は移籍とかで色々と大変だったし、しょうがないさ」

「それはそれ、これはこれ。結果が全て、だにゃ」

「……みくは、ちゃんとわかってるな」



幸子に、またミラーで視線を投げる。
だが、相変わらず本で顔を隠していて、表情が見えない。
この話題にも、入ろうという気も無いようだった。


「当然だにゃ。でも、今度はもっと上位に食い込んで、――チャンをアッと驚かしてあげるにゃ!」

「ははは、そうか。頼もしい限りだな……お、やっと渋滞抜けた……」


工事で狭まっていた道路が広がり、スムーズに車が流れて行く。
私も、その流れに乗じた。ようやく、ストレス無くアクセルを踏める。


「あ、――チャン――チャン。みくはすぐそこの駅でいいにゃ」


みくが私の座席後部に寄りかかり、駅の方を指差した。


「え? 何でだ、寮まで送っていくぞ? 雨も降っているし、そっちの方が良いだろう」

「あそこの駅ビルにちょっと寄る事にしてるのにゃ。だから、そこで十分だにゃ」

「そう、か。まぁ、それなら仕方ないが。あまり遅くならないようにな。あの寮長さん、結構キツイ人だったから」

「あ、あはは……そう言えばそうだったにゃ……」


みくの表情が僅かに曇った。あそこの寮長は、確かに仕事はこなす人だったが、何かと融通が利かない人だった。


「まぁ、悪い事しなきゃ良い人だし、文句とか言わないようにな?」

「わかってるにゃ」


私はみくに言われた通りにし、飲食店や百貨店が並ぶ道を曲がり、ロータリーに入った。
待ちあいのタクシーが列を成しているのを横目に、高架下に空いた適当な隙間に車を入れた。


「さて、と。じゃあ、気をつけてな、みく。忘れ物無いな?」

「もう――チャン、そんなに忘れ物確認するとおじさん臭いにゃ」

「もう、私はおじさんだよ」

「……それは、あまり事務所では言わないようにする事をオススメするにゃ」

「どういう……あぁー……わかった、気をつけよう」


脳裏に、とある同い年の人物の顔が浮かんだ。誰とは言わないが。

ロックを外し、みくがドアを開けた。
私も、見送りの為に一応車を降りる事にする。


「あぁ~……まだ揉んでたい……あ、あれ、ここどこ?」

「意識が戻ったか。今駅のロータリーだ」

「ふーん……もうそんな所か……あ、ちょうどいいや。あたしもここで降りる」


「え? 愛海もか?」

「生八橋の換えを買って来ないと……今ここで京都物産展やってるから……」


14歳が物産展という単語を発するのを聞いて、妙な震えが背筋を走った。


「そ、そうか……まぁ、お前もあまり遅くまでほっつき歩くなよ。冬程じゃないにしても、まだ日は短いんだから」

「りょーかいプロデューサー。じゃあ、あたしもここで」


愛海がドアを開け、そそくさと降りた。


「あ、愛海ちゃんも駅に行くのかにゃ?」

「うん、ちょっと買い物していくんだ」

「そうかにゃ。じゃあ、みくと一緒に行くかにゃ?」

「本当? えぇ、じゃあ行きますとも行きますとも……」


不敵な笑みを浮かべながら、みくの提案に乗る愛海。
高架下の暗い空間で、彼女の指がうごめくのが見えた。



幸子もみく達の声に反応し、窓越しに手を振って挨拶をした。
まだ本を構えてはいるが。

二人の姿が、左右に流れる色とりどりの傘の中に紛れ、そして駅の入り口に消えていくのが見えた。
それを確認すると、私はまた車に乗った。座席に座り、後ろを向いて幸子に話しかける。


「さて、と……二人は行っちゃったし、このまま帰るか」

「……そう、ですね」

とりあえずここまでです
なんや、全然R-18やないやんか!


幸子は本を降ろしていたが、まだ視線を合わせてくれない。
どうしたものか、と考えあぐね、私はシンプルな打開策を出した。


「あぁー……幸子? 今は、二人だけだし……久しぶりに、一緒にご飯でも食べるか?」

「え?」


幸子が、ようやく私と目を合わせてくれた。
その目が、幾分先程よりも輝いているのが見て取れた。


「この前、親しくして貰ってるスタッフさんとちっちゃな洋食店に入ったんだ。そこのシチューがとてもおいしくてな。
 今度幸子も連れて行こうと思ってたんだが、今からどうだ?」


幸子の顔が、一瞬だけとても明るくなった。
が、すぐにいつもの澄ました顔に戻った。


「え……ほ、本当に良いんですか? いや、えっと……カ、カワイイボクと、食事に行きたいんですか?」

「あぁ。ここの所、忙しさにカマかけて、幸子との時間が取れなかったからな。
 幸子も最近はテレビとラジオに引っ張り凧だし、まぁ、とても頑張ってる御褒美と、そのお詫びという訳じゃないが……一緒に、な?」


ここ最近、幸子よりも後に入ったみくと愛海との信頼関係を作る為に、あの二人を優先し過ぎた、というのもある。
みくとは猫カフェに行ったり、愛海のある一つの談義に付き合ったりと、幸子よりも時間を割いていた。
やはり、ここは公正を期す為に、幸子とも一緒に何処か行かねばなるまい。それを抜きにしても、私は食事に誘っていたかも知れないが。

私が彼女に提案すると、彼女の頬がほんのりと赤くなるのが見て取れた。
可愛い。まぁ、言うのは恥ずかしいし、あまり言うと言葉の重みが無くなるから、そう言わないが。



「……ふ、ふん! ま、まぁ? ――さんがどうしてもと言うなら、このカワイイボクも行ってあげてもいいですよ!」

「お、いいのか?」

「えぇ! さぁ、ボクの気が変わらないうちに、さっさと車を出して下さい! 全く、だから――さんはダメなんですよ!」

「ははは、そうか……すまん。じゃあ、すぐに行こう。ここのすぐ近くだしな」

「ほら、無駄口叩いてないで、急いで下さいね! ……あ、お母さんに連絡しないと……」


幸子が携帯を取り出し、両手で嬉々として操作する。ぽちぽちと、楽しそうに。
私はその動作を見てから、アクセルを踏んだ。

何度かの呼び出し音の後に、電話が通じた。


「あ、もしもしお母さん? あの、ボク、――さんとご飯食べてくるから……」


仄暗い車内で、弾んだ声が響いている。
ミラーで幸子の顔を確認すると、眩しい程の笑顔が見えた。その笑顔に、私もつい口の端が上がってしまった。
そして、許可を取り付けたのか明るい声のまま幸子は電話を切った。


「ふぅ……――さん! まだ着かないんですか?」

「そう焦るな。この道を進んでいれば、すぐに着くよ」

「そうですか。まぁ、とにかく急いで下さいね! 時間は待ってくれませんよ!」

「はいはい」

「はいは一回ですよ! 全く、大人にもなってそんなコトがわからないなんて、本当に覚えの悪い犬みたいですね――さんは!
 しつけをするボクの立場にもなってみて下さいよ、たまには」


幸子との軽口を叩きながら、洋食店に向けて車を走らせ始めた。
雨は先程より弱まり、もうワイパーを動かさなくても良い程になっている。
しかし、空を覆う雲の膜は消えていない。もう夜になったというのに、雲のせいで空が白み、明るく感じる。


「――さん」

「ん?」


幸子が楽しそうに、身を乗り出して話しかけてきた。


「どんなお店なんですか、そこって」

「あぁ。まぁ、凄くこじんまりとしたお店だよ。座敷とかもあるし、ゆっくりできる雰囲気の場所だ。
 そこで、落ちついて食事をしよう」

「えぇ、そうですね。どこかの――さんとかいうダメな人が、ボクとオフを同調させてくれないものですから、
 すっかりそういう機会が無くなってきているんですよね」


幸子が、皮肉たっぷりに私に言い放つ。私は苦笑いするしかなかった。



「……しょうがないと言えば、それで終わりなんだけどな。もっと融通を利かせられる立場に上がれたら、すぐにでもそうするんだが」

「ふふ、その心配はいりませんよ。何て言ったって、このボクが――さんについているんですからね。
 ボクがささっとトップアイドルになってしまえば、昇進なんてあっという間ですよ」

「心強いな。まぁ、それも今となっては夢でもない、か」


先程愛海が言っていたアイドル総選挙の事を、ふと思い出していた。
前回よりも、アイドルの数は増えた。そして頭角を現している者も、少なくない。
正直、誰が上位に来てもおかしくないと、私は思っている。
勿論、幸子が上位に来る事だって。


「えぇ。ボクにちゃんとついてきてくれるなら、おこぼれとして――さんにもそういう恩恵を受けさせてあげますよ」

「そうか。それじゃあ、ちゃんと幸子についていかないとな」


私がそう言った後、幸子が小声で「ちゃんと、ね」と呟いた。
私はそれに気付かず、ただ車を前に進めていた。


そうしてふと、常々気にかけていた事を幸子に聞いた。


「幸子。最近、学校の方はどうだ? 来年は、もう高校に進級するんだろ?」

「えぇ。でも、特に問題無いですよ。よっぽど成績が酷いとか、何か訳あって他の高校に行きたいとかいう場合じゃないかぎり、
 ボクはこのまま進級するだけですから」

「そうだったな。しかし、私が子供の頃は中学で私立に進学するなんて発想すら無かったからな。正直、凄いと思うよ」

「それいつかも言ってましたよね。まぁ、これ程カワイイボクは勉強もできてしまうので、そういう道に進む事もできたんですよ」

「とどのつまり、そういう事だろうな。私は、幸子と同じ歳……いや、学生時代全般、幸子よりももっと幼かった。
 幸子みたいに、将来を見据える事すら、できていなかったから」


あまり実りの無い学生生活を送っていた私は、半分他人事のようにそう言った。
そうやって何とも無しに言った事であったが、どうやら幸子の興味を惹いたらしく、幸子が質問してきた。


「そう言えば、――さんが学生だった頃の話は聞いた事がありませんでしたね。話してくれても良いんですよ?」


私はその話題に、少々苦言を呈した。



「別に、面白い事なんて一つもないぞ? 幸子みたいに、毎日が何かに溢れているという訳でもなく、ただのうのうと過ごしていた。
 そうして、気付いたらこの歳だ。世間では、おじさんに片足を突っ込んでいる年齢らしいけどね」

まぁそれは何となく想像できますけど、と幸子は悪びれも無く言った。
そうして、まだこの話題から離れずに、質問を続けた。


「――さんっていつから自分のコト、私、だなんて言うようになったんですか?」

「え?」

「だってプライベートでも、ボクとか年下の子にだって、始終私で通してるじゃないですか。
 ボロを出して、俺、とも言いませんし」


それに、たまに言葉遣いが古くなりますし、とも付け加えた。
私は回答を出すのに逡巡した。信号もそれにつられたのか、私が通る直前で、赤に変わってしまった。

私は答えるか否か迷ったが、別に良いかと自分で決着をつけ、歯切れ悪くだが答えた。



「あぁ……そうだな、そう言えば、まぁ……一応これは、意識して強制したものだったんだがな」

「へぇ、そうなんですか。まぁ、普通そうだとは思いますけど」

「あぁ……まぁ、何だ。恥ずかしい話だが……女性に言われて変えたんだよ」

「え?」


予想外の回答に、幸子は目を丸くしていた。


「高校の時、クラスにいた一等綺麗な女の子を、好きになってしまってな。それで、私は居ても立ってもいられなくなった。
 自分の気持ちに気付いてから、そう時がかからずに、告白していたよ」

「……へぇ……何だか、――さんっぽくないですね」


私は、熱を帯びると見境が無くなる性質だった。
興味の無い事、自分が嫌いな事には点で近寄ろうとしないが、好きになってしまえば何か犠牲にしてもそれに取り組もうとする人間であった。
故に、恋愛もそれに漏れずにいたのだ。

今は少し丸くなり、幸子の助けもあって多少苦手な人種とも付き合えるようになっていた。
幸子と同じく、アイドルであるみくと愛海は、何だか身近な感じがしてさして苦手という印象も受けなかった。

心なしか落ち込んだように見える幸子に、この事は口にする事なく、私は続けた。


「それで、盛大に振られたよ」

「あぁ、それは――さんらしいですね」


彼女の顔色が戻った。信号も、青に変わっていた。
車を進ませると、大きな水溜まりを踏んだのか脇の歩道に大きな水飛沫を上げた。


「それで、その時に言われたんだ。私はね、もっと大人っぽい人が好きなの、って」

「……もしかして、それで……」

「あぁ、そうだ。それで、すぐ一人称をこれにした。友人には少し気持ち悪がられたが、すぐに慣れたよ」

「ふーん……案外、――さんは単純ですね」

「それが、幼いからと断られた所以なのかもな」

「でも、そうやって大人ぶろうとしたってコトは、まだ未練たらたらだったってコトですよね」


幸子が何か蔑んだような目を、ミラー越しに投げかけて来た。


「そうだな。そうだった。そして、私の行動はエスカレートしていたよ。
 その年頃の男が、大人ぶる行動と言えば、何があると思う?」

「お酒ですか? でも、――さん全く飲めないんだって言ってたじゃないですか」

「あぁ、私は下戸だ。その時に気付いたんだ。やけになって、興味本位もあって、ちょっと舐める程度に飲んでみたんだ。
 だが、たったそれだけで世界が回ってしまったよ」

「ふーん……じゃあ、後はタバコとか?」

「煙草は飲まなかったな」

「飲む?」

「あ、いや、こういう言い方もあるんだよ。まぁなにはともあれ、煙草だけはしなかった。
 兄がしているのを、近くで見ていたんだが、どうも好きになれなかったのある。試そうと思ったけど、踏ん切りがつかなかったんだ」


社会人になって、煙草も立派なコミュニケーションツールの一つだと私は気付いた。
この業界にも、吸わなきゃやってられないという感じで煙草を吸う人間もいるし、狭い喫煙室でそういう人間同士会話をする事も多々あるのだろう。
私は別に煙草を否定しないし、煙草休憩などもどうとも思っていないが、自分が吸うという姿だけは想像できなかった。


「へぇ……でも、ボクはそっちの方が良いと思いますよ? ただでさえ病気に強くなさそうな線の細い――さんが、
 わざわざ寿命を縮める行動をとったら、あっという間にポックリ逝きそうですからね」

「心配してくれてるのか?」

「えぇ。自分の犬が、そんなに早く死なれても困るじゃないですか」


澄ました声で幸子は言っていたが、ミラーに映った顔はどこか赤みを帯びていた。
私は話題を切り上げる為に、また仕事の話を持ち込んだ。


「あぁ……そう言えば、昨日のラジオの感想をまだ言ってなかったな」


わざとらしく、少し声を強めて言う。
幸子はこの言葉に反応し、のってくれた。


「あぁ……ラジオの感想、まだ聞いていませんでしたね」

「営業に行く途中、この車でしっかり聴いていたよ」


ラジオ局に幸子を送り届けた後、みくと愛海の売りこみや打ち合わせがあった為、やむなく幸子をスタジオに残して移動中の車で聴いていたのだ。


「ど、どうでしたか?」

「言う事は無いよ。ちゃんと振られた話題に対しても受け答え出来てる上に、幸子らしさもちゃんと出ていた。
 お前のキャラも、随分MCさんに気に入られているみたいだったしな」

「そ、そうでしょうそうでしょう」

「このままだとゲストだけじゃなく、ラジオのレギュラー放送も近いかもなぁ……あぁ、でもオールナイトとかはできないから難しいか……」

「そんなコトしたら――さん辺りが捕まるんじゃないですか?」

「あぁ。そうだな。それは確実だ」


囚人服を着た自分を想像した。何だか、この法治国家で強制労働でもさせられたのか、という程悲惨な姿に見えた。
幸子も同様の事を思っていたらしく、何か満足な顔をしていた。


「まぁ、もし捕まっても面会くらいには行ってあげますよ。ボクは優しいので!」

「期待してるよ。幸子は、優しい子だから」

「えぇ。ついでに、テレビでもボクのカワイイ姿を見せてあげますよ! 良かったですね――さん!」

「そうだな。ここ最近、幸子をテレビで見ない日なんて無い、そう言えるレベルに近づいてきたからな」

「当然ですよ。カワイイボクを一目見たいと思う人が、いない訳ないんですからね!」

「あぁ、そうだな。私も、そう思うよ」

「え、あ……そ、そうですか……まぁ、当然ですね! し、しかも、――さんはいつも間近で見られるんだから、
 感謝してほしいくらいです!」

「そうだな。その幸運に感謝して、毎日神社にお参りにでも行く事にするよ」

「何ですかそれ、全く……」


前方に注意しつつもミラーで幸子の顔を見る。
呆れたような声を出しつつ、何とか表情を保とうとしながらはにかんでいる幸子が見えた。やはり、可愛い。


「まぁ、ボクの魅力の前では、そんな奇行に走ってしまうのかも知れませんね。
 ボクの魅力の前に、ボクに惚れ込まない人なんていませんから!」


自信満々で言う彼女に、私は軽口を叩いた。


「ふっ、それはどうかな」

>>112
>私がそう言った後、幸子が小声で「ちゃんと、ね」と呟いた。
>私はそれに気付かず、ただ車を前に進めていた。

一人称視点なのに「気づかなかったこと」が分かるのはなぜ?
他の一人称形式の文でも見るけど。



ほんの、冗談だった。いつもの応酬と思っていた。
だが、私が冗談混じりにそう言った途端、幸子の気色が、変わってしまった。


「……どういう、意味ですか?」

「え?」


先程までの明るい声とまるで違う、何かに絞められたような声が、後ろから聞こえてきた。
それが一瞬、幸子の声だとわからなかった。


「……あ、えっと……幸子?」


車が高架下に入った。陰ができ、幸子の表情が見えない。



「……いえ、何でもないです。気にしないで下さい」


幸子はそう言っていたが、明らかに纏う雰囲気が尋常ではなかった。
しかし、彼女は今のを蒸し返すのを良しとしていない。
私は胸に蟠りを残したまま、ぎこちないながらも会話を続ける事にした。
黙っていたら、この沈黙が持つ重圧に押しつぶされてしまいそうだった。


「えっと……あぁ……し、しかし、レッスンだけの日なんて、久しぶりだったな」

「……えぇ、そうですね……ざっと、二週間、いや三週間はこんな日が無かった気がします」

「あぁ……ちゃんと、オフの日は体を休めてるか?」

「えぇ、おかげ様で。荷物持ちがいないので、買い物にも行けませんからね。家で大人しくするしかありませんよ」


刺のある言い方で、幸子が言う。いつもの皮肉とも少し気色が違ったのを、私は感じ取っていた。


「それは……まぁ、私も人間だ。出来ない事くらい、ある」

「わかってますよ。そこまで、狭い人間じゃ、ないですか……」


しかし、そう言う彼女は、何処か寂しそうだった。
両の脚を、何か所在無さそうに揺らしている。
私は話題を変える為に、仕事の話を持ち出す。



「……あぁ、その、何だ……この前幸子が担当したコーナー、あれ反響凄かったんだぞ?
 今度、あの番組の主コーナーでまた幸子を使いたいって、オファーも来てる」

「……ボクを、無人島にでも行かせる気ですか」


やはり、何か語気が荒い。


「いや、まぁ……あの番組はそういう事もするが……まだ他にもあるだろ?」

「一カ月をあんな切り詰めた雰囲気で過ごせって言うんですか」

「……いや、ほら……まだトップ10の食べ物を早朝から並んで買う……碌なの無いな」


幸子が何か我慢できなくなったように、声を荒げた。


「ボクはもっとカワイイ仕事をしたいんですよ! この前も動物との触れ合いとか言って、なんですかあのコモドドラゴンって!
 ドラゴンってなんですか! しかもあまつさえ、みくさんまで巻き添えにして……」

「いや、あれは……トカゲだ。トカゲ」

「知ってますよ! ただ名称にドラゴンがつくようなものを、アイドルと面と向かわせますか普通!」

「落ちつけ。あれも、好評だった。それに、ちゃんとこの前のファッションショーにも出れただろ」

「ま、まぁ……そうですけど……」


ファッションショーに出れると聞いた時の、幸子の顔は今も覚えている。
年相応に、笑顔で、とてもはしゃいでくれていた。
すぐにいつも通りに軽口を叩いていたが、その日が来るまでとてもそわそわとしていた。

そして、当日。
ライトに照らされ、自信に満ち溢れた表情で観衆の波を切るように、彼女はステージを歩いて行く。
私は、それを見ていた。
そしてその前には、脚を震わせながら、何度も深呼吸をしている幸子が、舞台裏にいた。
私は、それを見ていた。


「――さん、手を握って下さい! き、緊張じゃないです! ち、違いますってば!」


そう言われて、私は彼女の手を握った。両手で、彼女の小さな手を包むように、握った。
ステージ裏の暗がりの中で、彼女の表情は見えなかったが、多分、笑っていた。


「ボ、ボクは、カワイイですよね? 衣装も、似合ってますよね?」


その問いに、私は淀みなく答える。



「あぁ、可愛いよ。衣装だって、バッチリ似合ってる」


その言葉を聞いて、彼女は満足そうに頷いた。

こうして、幾分彼女は平静を取り戻してくれた。
そのおかげかどうかは知らないが、幸子は存在感を十分に示しながら、仕事をキッチリとこなした。
いずれまた、オファーも来るだろう。私はそう睨んでいる。

私も、できればこういう仕事を取っていきたい。
しかし悲しいかな。幸子のキャラがあまりにも濃いので、バラエティにも多々御呼ばれするのだ。
しかも、概ね好評である。

これは、私が以前やった企画のせいもあるかも知れないが。
スカイダイビングと素潜りは、誰であろう私の提案だった。


「幸子は、面白い子だから。私が冗談を言っても、すぐに返しができるし、反応も良い。素質があるんだ、バラエティの。
 それに、最近じゃ可愛い子が体を張るっていうのは、どうやら好まれる傾向がある」

「それは、――さん相手……いえ、何でもないです。そ、それに、そういうコトならみくさんの方が向いているんじゃないですか?
 あの人、大阪出身ですし」

「中国人でも、中華料理が嫌いな人間もいるさ。皆が皆、そういう枠の中に、収まる訳じゃないだろ?
 みくだって、ツッコミもボケもさして出来ないって言っていた……いや、そうでもない気がする。
 むしろツッコミ慣れてるような気がするな、彼女は」


私が担当しているアイドルは、どうも、何か。皆バラエティ向けである。
しかし、愛海以外はそちらの方向をあまりやろうとは思っていない。
幸子もみくも、どちらかと言えばちゃんとアイドルらしい仕事をしたいと考えている。
私もそうしたいのは山々なのだが、提案される仕事と言う名の矢が、彼女達の的を射てくれないのだ。
そして仕事を受けないという訳にもいかず、私は渋々そういう仕事をやらせている。

愛海は胸で釣れるので、そこまででも無いが。

そう言えば以前一度だけ、共演者の胸を揉んだ後、愛海が何故か小首をかしげていた事があった。
そして帰りの車内で「ニセモノか……」と、小声で言っていた。私まで暗い気持ちになった。
まぁ、これは今は関係無いだろう。


「あぁ……その……お前達には、悪いとは思っているんだ。お前達の望む仕事をやらせてやりたいと思っている。
 だが、その……世間が求めるのは、相対して、私達が求めるものと違う時があるんだ」

「……小難しい言葉ばかり使わないで下さいよ」

「……まぁ、要するに私の力不足だ。本当に、すまない」

「……えぇ、そうですね」


幸子はその後、「いや、やっぱり……」と続けたが、その先は言ってくれなかった。


「しかし……なぁ……私も、一応方針は決めてあるんだよ……。
 みくはプロポーションが良いし、もっとモデル系の仕事を増やしても良いんだがなぁ……」


その言葉にふと、幸子の体がピクリと震えたのが見えた。
しかし、それに気を留めず、続ける。


「お前と年は殆ど変わらないが、あの恵まれた体格だ。それを活かさない訳にはいかないんだが、どうしてもな……」


私は溜息混じりに、吐露していた。
尚も、私の愚痴は熱を帯びて続く。


「この前取れたグラビアだって、良かったんだがなぁ……概ね好評だったのに、まだバラエティのオファーばかり来る。
 いや、無い事は無いんだが、私からすれば少な過ぎる気もするんだ。
 みくだって、撮られる事自体に抵抗は無いし、もっと増えて欲しいんだよ」

「……そう、ですか」

「そして、愛海とユニットでも組ませれば、面白いぞきっと。愛海の習性が嫌でもみくの体を引き立たせる。
 それに、あの二人だ。掛け合いでも人気が出るぞきっと。事務所がOK出してくれれば、今すぐにでもやらせるんだが……。
 あぁ、でも、幸子はソロの方が良いと思うから、このままで行くと思うんだが……」

「……随分、楽しそうですね――さん……」


車は、まだ高架下を抜けない。車内の陰が、濃くなっていた。
ミラーで後ろを見ても、幸子がいつの間にか顔を俯かせていた事しかわからなかった。



「ん……どうした幸子。何か、不満か? あ、やはり、三人で組んだ方が良いか。皆、仲良い――」

「そうじゃ、ありませんよ」


彼女の小さく、しかし強い声が、私の声を遮った。


「そうじゃ、無いんですよ……」

「……何だ、幸子」


幸子は、口を開かなかった。私も同じだ。
車内にはただ、タイヤの音と、水が跳ねる音だけが響いていた。
また、静寂が流れる。

しかし私は沈黙を我慢できず、口を開いてしまった。


「なぁ、幸子。何か不満があるなら言ってくれ。ハッキリ物を言ってみろ、お前らしくもない」

「ボクが、言うんですか……言わせるんですか」


それまで顔を伏せていた幸子が、顔を上げた。そしてその瞬間、車の中が他の車のライトに照らされ、明るくなった。
恨めしそうな目で私を見つめる、幸子が見えた。いや、睨んでいたという方が近いかも知れない。

とりあえずここまで

>>120
それは……私の単なるミスです
修正のしようもないので、このままにしておきます
これ以降は意識して書いていきます、ご指摘ありがとうございます

>>120
深読みすれば「私」が「気づかなかった事にした」とも解釈できるから、そこまで致命的なミスでは無いと思います。
重箱の角レベル

>>126
>そう言えば以前一度だけ、共演者の胸を揉んだ後、愛海が何故か小首をかしげていた事があった。
>そして帰りの車内で「ニセモノか……」と、小声で言っていた。
765と876 に1人づつ心当たりがあるんですが誰ですかねぇ(ゲス顔)



「……何だ」

「……みくさん、――さんの担当アイドルになって、どれくらいでしたっけ」


最初は質問の意味がわからなかった。
声に籠められた強い感情に、私は気圧されるように答えた。


「……お前も、知ってるだろう。あのライブの後、色んな処理があったから遅れたが、ちょうど三ヶ月後だ」

「えぇ、そうでしたね。あの頃は、まだ前と変わらなかったですよね」


前と? 仕事の量か?
いや、あの頃から既にかなり増えていたはずだ。
私の疑問を物ともせず、幸子は口を止めようとしない。


「それで、愛海さんも入って来ましたよね」

「……あぁ。お前も含めて個性が強い連中ばかりだが、ちゃんと仲良くやってくれていて私としては嬉しい限りだよ」

「話題を逸らさないで下さい」


幸子に諌められた。何かを我慢するように声が僅かに震えている。
私はこの時ようやく、幸子の感情に気付いた。

この震えは、嫉妬だ。この感情が意味する所はとどのつまり一つしか無い。



「えっと……もう、やめよう。これからご飯を食べるって言うのに、こんな暗い話をしてたら、
 おいしいものもおいしくなくなってしまうぞ?」


私は逃げるように、会話を断とうとした。
しかし、この不自然さは幸子を逆撫でしただけだった。


「話を逸らさないで下さいって、ボク言いましたよね」


私はなおも逃げる。


「だから、えぇと……幸子が何を言いたいのかはわからないが、辛気臭い話はやめよう。
 せっかく久しぶりに二人だけでいられるんだから……」

「それが、問題なんですよ……」

「……じゃあ、何だ。もう良いだろうこの話は。さぁ、そろそろ店に着く。一応変装用に帽子は持っておけよ?」

「……」

「何が不満なんだ? 何か不満があるなら、言ってくれ。言ってくれなきゃ、私はわからないよ」


嘘だ。質問の意味に気付きながら、尋ねなくて良い事を私は尋ねていた。
願わくば、私の気付いた意味と違って欲しいと思いつつ。
願わくば、私の気付いた意味と同じでいて欲しいと思いつつ。



「……――さんは、卑怯なんですよ……」

「……え?」


心臓が震えた。聞き覚えのあるこの小さく放たれた言葉に、あの時の事を思い出していた。
彼女に認められたあの時の事を。

しかし、私はあの時感じたものとまた別の、胸騒ぎを覚えていた。
異様な程の胸騒ぎが、私の血をざわつかせ、体を蹂躙していた。


「ボクに冷たくしたと思ったら、いきなり優しくなって……ボク、不安だったんですよ……。
 最初は、貴方がボクの相手をしてくれなくて、自分の担当に嫌われたんだと思って……。
 このままじゃ、アイドルじゃいられないんだと思って……」


あの時の、暗い時分の事を持ち出された。嫌な思考が回る。
私の気付いた意味は、どうやら間違いではないらしかった。
だからこそ、私はこれ以上を言わせたくなかった。

触れれば炸裂してしまう、臨界に達したこの感情の中で幸子は吐露し続ける。



「でも、その癖……夜遅く仕事までして……ボクなんか相手にしない癖に、そこまで頑張って……」

「……まぁ、それは……自分の評価も、あったし、な……あの時はそれが第一だったから」

「わかってますよ! でも……そんなの知ったら、貴方の為に頑張ろうって、思っちゃったんですよ……」


幸子は、そういう子だ。
自分が一番だと口では言っているが、他人への配慮を疎かにするような子では無い。
怖いと思っていた私に対しても、恐らく同じだったのだろう。
売れないのも自分だけのせいだと、彼女は思いこんでしまっていたのだから。


「そうすれば、貴方に認めて貰えるって、ヤケになって……頑張ったんですよ、ボクなりに……。
 なのに、結果は出なくて、――さんは、ボクを見てくれなくて……怖くて……」


幸子は声を震わせながら、訴えかけるように言い続ける。


「……あの時の私達では、そんなの無理だったからな」

「それなのに、ある日いきなり、ボクの事……ちゃんと……見てくれるようになって……」


千川さんの助言を得て、私は幸子と和解した。
そして、今まで順調にやってきたのだ。



「ボクを、カワイイって……」

「……あぁ」

「それが、嬉しくて……」

「……」


それがキッカケだったのだ。仕事も、二人の関係も。
私も、この子も。


「でも、――さんは……仕事の時しかカワイイって言ってくれないですよね」

「そんな事は……それは、理由があってな」

「それとも、あれですか。みくさんと愛海さんの方が気に入ってるから、ボクをカワイイとも思わないんですか。
 愛海さんとはいつも卑猥な談義で盛り上がって、みくさんとは過剰なボディタッチとかをして……。
 ボクとは、一切そういうコトをしようとしない癖に……」


叫ぶ一歩手前、それを何とか必死に堪えようとした声だった。



「……幸子」

「貴方は……ボクのプロデューサーでしょう? だったら、おかしいじゃないですか、そんなの……」


また、彼女は顔を俯かせてしまった。
心臓が跳ねる、小刻みに。息をするのも、忘れていた。
この先の言葉は、今の私には容易に想像できた。


「ボクのコト……ちゃんと見ていてって、言ったじゃないですか……」

「なぁ幸子、私だって――」


いけない。この先を言わせては。
だが、既に彼女の口火は切られていた。



「貴方はボクのコトだけ見てれば良いんですよ!」


窮極の一言だった。意味も、何も無い。
この言葉が、彼女の全てなのだろう。
私はその言葉に意味を返す事ができず、ただ彼女の縋るような目を見て「……幸子」と小さく名前を呼ぶ事しかできなかった。


「ボクのプロデューサーは――さんしかいないんですよ! ボクには……ボクには!」

「……」

「それなのに、――さんは他の人ばかり見て! 何なんですか! ――さんは、ボクのプロデューサーでしょう!」

「……」

「私だとか言って気取って! 大人ぶってるくせにごまかす事しかできないんですか! 結局、そうじゃないですか!」

「違う、そんな事は……」

「ボクは……ボクは、どうすればいいんですか……」


ひとしきり叫んで、幸子は言葉を続けようとせずに黙りこんでしまった。
私も黙っていた。この、捻じ曲げる事の出来ない情の中で。
私は知ってしまった。彼女が私に抱いていた想いを。


私は、やり過ぎていたのか。

信頼関係というものは私とアイドル達を繋ぐ、血管のようなものだ。私はそれを作ろうと、あの日から躍起になった。
通っていなければそのまま死に、滞りなく繋がっていれば仕事も良好になり得る、この関係を。

しかし、この情は一度でもこの血管に流れてしまってはいけない。
もし流れてしまえば、血管に貼り付き血が鈍る。破裂必死の大動脈瘤。
それが、恋愛。この情なのだ。

高架下から車が抜けた。しかし、光が車内を照らす事は無い。
陰の輪郭が更に濃くなっただけだった。


「……今日は、もう帰ります。食事に呼んで貰ってなんですけど、今日は……」

「……あぁ」


彼女が言ったのか、私がハンドルを切ったのが早いのか。
既に、車の進路は変わっていた。

帰りの道中、私と幸子は口を聞こうとしなかった。
私は彼女の言葉の熱に侵され、沈んだ空気を吸い、まともに叶わなぬ呼吸を、ただ意識していた。
彼女はただ体を小さくし、自身を堪えるようにしていた。

早く、そして重く、時が過ぎた。
重厚な前門を備えた、白塗りの大きな家。車は、彼女の家の前にまで来ていた。

私達は車内に籠る空気のせいで、体が麻痺したように止まっていた。



「……着いたぞ」


私は大きく息をつき、かろうじて口を開いた。
幸子は動こうとしなかった。


「幸子。もうお前の家だ。早く、降りないと」

「……」

「なぁ、幸子。お前が先程言った言葉は……私は、無かった事にしようとは思わない。
 だが、お前達に優劣をつけるという事はあまりしたくない。
 今はお前達三人が、全員大事なんだ。だから……」


私は返答になっていそうでなっていない、そんな答えをしていた。


「……言わなくて、良いです。わかってます、それくらい」

「……そうか」


私はドアのロックを解除し、彼女が動こうとするのを待った。


「……」


しかし、彼女は動こうとしない。
まだ何か、私に言おうと逡巡しているようだった。



「幸子、いい加減に――」

「今度っ」


振り絞るような声が、私を止めた。


「今度……今度の選挙で……ボクが十位以内に入ったら……」

「……入ったら、何だ」

「……ボクの言う事を、何でも一つ、聞いて貰います」

「……」


突然の提案に、私はしばらく硬直していた。


「……そんな事……」

「そんなコトじゃ、ないんですよ……」

「……すまん」


彼女を止める為に、私は白々しくもまた失言していた。
だが私を制する声に、もはや取り付く島も無い。彼女を止める事はできない。

私は最後の抵抗を試みていた。私自身の為にも。彼女の為にも。



「……ダメだ」

「っ……」

「十位は、ダメだ……五位以上なら、良い」


私は彼女の方へ振りかえり、最後の抵抗を口にした。
幸子はこの言葉が予想外だったのか、「えっ」と目を見開いて私の顔を見ていた。


「そ、それって……」

「十位なら、今の幸子なら入れるだろう。私はそう確信している。
 でも、それじゃあダメだ。もっと、上を目指して貰わないといけない」

「……」

「もし、五位内に入ったのなら……幸子の言った通り、何か願い事を一つ聞こう。
 私の叶えられる範疇で、だが」


私は最後の部分を殊更に強調して言った。
彼女はまだ、自分で提案した事なのに信じられないという面持ちで、私の事を見ていた。


「……ほ、本当ですか?」


彼女はようやく、中身の籠っていないような声を返してきた。


「あぁ。私も、男の端くれだ。二言は無いよ」

「ほ、本当に本当ですか? う、嘘じゃないですよね?」

「……あぁ。嘘じゃない」


私が言うと、彼女はまた顔を伏せた。
そして、決心したように力強く頷いた。


「……良いですよ。じゃあ、ボクが五位に入ったら、何でも言う事を聞いてもらいます。
 それまでは、ボクも何か言う事は、やめましょう」

「入れたら、だがな……だが、入れなかった場合は……」

「……わかって、ます」


今まで直接に言わなかったが、今の言葉で明らかになったようなものだった。
ただ、直接言わないだけで。


「……そうか。なら、良い。忘れ物はするなよ」


その言葉に、彼女は何も返事をしてくれなかった。
彼女はすぐに荷物を取り、車を出てしまった。


そして、門をくぐる直前。彼女は振り向いて、運転席から窓を開けて見ていた私に言った。


「絶対に、覚えておいて下さいね!」


そう言い残し、彼女は門をくぐり暗闇の中に消えて行った。
私は、ただ茫然とその様子を見ていた。

私は大きく息を吐き、張り詰めていた緊張の糸を幾分緩めた。

私が置いたこの最後の牙城。
それに付け入る隙を、何故敢えて残していたのか。
それは火を見るより明白だった。

自分よりも一回りも歳の離れた彼女に、私は焦がれている。
彼女が見せたあの時の笑顔。私と彼女の心が初めて通ったあの時の笑顔に、魅入られてしまったが為に。

最初は不穏な気持ちと感じつつも、それを娘か妹をいつくしむのと同じと誤魔化してきた。
しかし、彼女も私と同じ気持ちを持っていた。それを、私はつい先程確認してしまった。
それを確認した途端、私は何と思ったか。
まず第一に、喜びだった。そしてそれに追従するように、理性が困惑を私に押しつけたのだ。
立場がそれを許してくれない。ダメな事なのだと。


もう誤魔化しきれない。理性など、本能に追従するだけの理屈に過ぎない。
だからこそ、私は彼女に賭ける事にしたのだ。
私と彼女の力が、信頼が、どれ程のものなのか。それを見る為に。

もし、彼女が達成できなければ、私は彼女に対する想いを全て封印するだろう。
金輪際、彼女は女性として見ないだろう。彼女も、そうせざるを得なくなる。

しかし、もし彼女が達成したとしたら。
私は彼女の望む事を叶えよう。それが、私の予期した事であっても。

投票開始まで、およそ一カ月。
後一カ月で、全てが決まるのだ。

暗い車内に、一人残された。私は彼女の家の二階に灯った、カーテン越しの柔らかい明りを見つめていた。
人影がカーテンの向こうで動いている。そして、小さな影がその光の中を横切った。
私はそれを見て、アクセルを踏んだ。雨が、また垂れて来ていた。


――

今回はここまでです
うーん、中々進まない

もしもの話だけど、次の選挙の時に結果によって分岐するとかされたら色んな意味でヤバそうだね

>>157
おじさんなぁ、最近ヒロインを死なせまくるようなやつ書いててなぁ、もうバッドエンド風味のやる気力無いんだわぁ
歳だから許してなぁ


確かに、彼女の知名度はもはや言う事は無い。前回の時点で既に発表圏内にもいたのだ。
彼女の忌憚の無いキャラクターも、お茶の間にも受けている。CDも売れている。
学業と年齢の兼ね合いでテレビ等への露出限界があると言っても、人気は確かにある。
現にレギュラー番組と呼べる番組もいくつか持っている。
当然、十位圏内は狙えるだろう。

だが、世の中には必ず上がいる。
私の見立てでは、彼女の敵となり得るのは五人以上はいる。
他事務所、我が事務所のアイドルを含めて。

そのアイドル達は必ず、幸子を阻む壁となるだろう。
私の計算、そして第三者からの観点から言えば、五位内には手が届きそうで届かない。
そんな微妙な枠である。

だからこそ、私の内心はこの枠を提示した。
超えられそうで超えられない壁。だが、決して超えられない物ではない。
超えるべき点が見えた目標なのだ。


本当に断るのなら、一位を取れと言っただろう。
だが私は期待していた。
彼女が、この壁を越えられると。

無論、この期間までに私が仕事の手を抜く事も無い。結果は公正に見る。
ただ彼女の為に働き、そして結果を見届けるのだ。
どんな結果であれ。私は、彼女を見続ける。

あれから一カ月が経った。投票が、始まった。
私にも、投票権が数枚渡されていたがしかし、どうすべきかは考えあぐねていた。

平等に三人につぎ込むかという、プロデューサーとしての悩み。
そして全てを幸子に入れるか、約束の為に彼女に入れないかという、身勝手な悩みで。

そして、中間発表がされる日が来た。
この日は規定時間ギリギリまでみくのテレビ収録があった為、私は彼女を向かえに行かねばならなかった。
今日幸子と顔を合わせたのは、朝の短い時間だけだった。



「ねぇ、――チャン」


運転席越しに後ろから私に抱きつくようにして、みくが話しかけてきた。


「こら、みく。危ないからやめなさいって、何度も言ってるだろ」

「まぁまぁ固い事は抜きにゃ。それより、最近幸子チャンの目が凄いギラギラしてるような気がするけど、何かあったのかにゃ?」

「え? あ、あぁ……」


みくの慧眼に、私はしどろもどろに返事をした。


「むっ、その様子だと何かあったみたいにゃ? 話すにゃ」

「いや、大した事じゃないんだが……幸子が今度の選抜総選挙で五位までに入ったら、何でも我儘を一つ聞くという約束をしたんだよ」

「へぇ~……なるほどにゃぁ~……」


嘘は言っていない。ただ、深淵は話さなかった。
みくはいたずらっぽい笑みを浮かべ、ミラーに映る私の目を見てきた。


「にゃはは、――チャン!」

「何だ。まさかお前まで駄々をこねる気か?」

「そのまさかにゃ! みくもワガママ一つ聞いてほしいにゃ~」

「……駄目だよ」


反射的に、私はそう答えていた。



「え、えぇ~……何でにゃ。幸子チャンが良くって、何でみくはダメなんだにゃ!」

「……まぁ、それはどうでも良いじゃないか」

「どうでも良くないにゃ! 猫は甘えさせる時は甘えさせて、そっとしておくべき時にそっとしておくべきなのにゃ!
 今は甘えさせる時だにゃ!」

「……そんな事を言われてもな……」

「えぇ~……――チャンいけずだにゃ~」

「……何とでも言いなさい」

「むむぅ~……」


あまり触れたくない話題であった。
この一カ月の間も、私達は仕事に追われた。
幸子は言うまでもなく忙しい。私も比較的日の浅い二人を見なくてはいけない。すれ違うのは必然だった。

たまにメールや電話をする程度、という日が何日も続いた。
そしてその内容も実に素っ気ないものであった。何か、彼女に避けられているようだった。
無理も無いが、やはり寂しいものがある。

そういう私は忙しさにかまをかけ、あの約束をまるで忘れ去ったかのように仕事に埋没した。
妙な感情を埋める為に。

しかしみくの言った通り、幸子の私を見る目は、明らかに何かしらの熱を帯びるようになっていた。
私も勿論その事に気付いている。だが、どうこうする気は無い。結果が出るまでは。



「じゃあじゃあ! 今みくがアイドルとして頑張れてるのは――チャンのおかげだにゃ~。
 だから、逆に一個だけ――チャンの言うこと聞いてあげるにゃ?
 なんでも聞いてあげるにゃ、それこそなんでもだにゃ。どうだにゃ、魅力的だと思うけどにゃ~」


妖艶な空気を含ませ、いたずらに囁くような声でみくが私の耳元で言った。
危ないからやめなさいと、事務的に私はそれを振りほどいた。


「全く……そういう問題では無いんだがな」

「じゃあどうすれば良いにゃ? これじゃあもう詰みだにゃ」

「いや、だから……別にそういう事をしなくても良いじゃないか」

「それじゃあつまらないにゃ。みくも何か御褒美みたいなのがあれば、もっと頑張れるにゃ」


つまらないという一言に、私は妙な違和感を覚えた。


「……もう、良いだろう。この話はこれで」


心なしか、声に力が籠った。



「えぇ~」

「さもないと、これからお前に支給する弁当を、魚メインのに変えるぞ?」

「うっ……それは、勘弁してほしいにゃ……」

「わかったら、我儘を言うな。まぁ、お前はちゃんと発表圏内にいたら、猫カフェ辺りにでも連れて行くから」

「ほ、本当かにゃ? じゃあ良いにゃ~」


みくはようやく納得してくれたのか、乗り出していた体を投げるように席へ戻した。


「まぁ、今回はこれで満足しておいてあげますか、って感じだけどにゃ」

「何だか、随分譲歩して貰ったみたいだな」

「……こればっかりはしょうがないにゃ。こればっかりは……」


みくらしくない、何か暗い含みのある言い方だった。


「まぁいいにゃ。みくは二人を応援してあげるにゃ」

「……何の事だ」

「とぼけたってムダにゃ。みくにはまるっとお見通しだにゃ。何が、とは言わないけどにゃ~」

「……そうか」


そういう感情に機敏な女性なら、私と幸子の間に流れるものがどういった性質を持っているのか、
憶測するのは容易なのだろう。
私はみくの言葉に、小さく返事をする事しかできなかった。



「でも、みくの誘惑にも乗らないくらいだし、やっちゃいけないおイタはしないと思うから別に心配してないけどにゃ」


私は、それには答えなかった。


「あと、――チャンと幸子チャンには、色々感謝してるって事も忘れないでほしいにゃ。
 さっきのはみくはみくなりに、恩返しをしようと思って言っただけにゃ」

「……そう思うなら、私を困らせるような事はあまり言わないでくれよ。
 あと、その前に言った事は私に利益が無いような気がするが」

「どっちにしろ、猫カフェに強制連行しようと思ってただけにゃ。
 忙しい売れっ子アイドルのプロデューサーに少しでも癒しをあげようという、みくの粋な計らいだにゃ」

「……本当か?」

「し、信用無いにゃ~……」

「あぁ、悪かった悪かった……ほら、そろそろ寮だ。忘れ物が無いか、ちゃんと確認しなさい」

「はーい」


邪魔にならない程度に寮の前に車を寄せた。
みくは荷物を纏め、ドアのロックを自分で開けて車を降りた。


「あ、そうだ。――チャン」


みくが振りかえり、見送る私に声をかける。



「何だ」

「みくの事は時々でいいから、それよりも幸子チャンにもっと多く構ってあげた方が、良いと思うにゃ。
 それと、――チャンが持ってる投票券……みくに入れようと思ってる分は、全部幸子チャンに入れてあげて欲しいにゃ」


深淵を見透かされたようなその言葉に私は目を丸くした。体が硬直し、みくから目が離せなかった。
「どういう意味だ」と、返すのが精いっぱいであった。


「自分でもわかってる癖に、そんな適当な返事が通用するみくじゃないにゃ。
 やった後の後悔よりも、やらなかった後悔の方が、みくは辛いと思うけどにゃ」


ついに、私は言い返す言葉を失ってしまった。


「にゃはは! じゃね――チャン!」


そう言って、今の私にとって痛いほどの笑顔を向けて、みくは寮の中へと入って行った。
茫然とし、私はしばらく寮の玄関を見つめていた。


彼女の姿が見えなくなった途端、体の緊張が弛緩した。
深い溜息が漏れた。
私は何とか気を持ち直し、ラジオのチャンネルを回し、ニュースを流しながら車を走らせた。

ラジオは常に、アイドルの情報を中心に扱っている周波数に合わせてある。
スピーカーから、何人もの笑い声が響いてきた。そして間髪入れず、司会者が結びの言葉を言い番組が終了した。
どうやら、今は新人アイドルの紹介コーナーをやっていたらしい。
声が途切れ、軽快なBGMが流れてくる。しかしそれとは裏腹に、車は信号に捕まり止まってしまった。

また取りとめの時間が流れる。
考えないようにしても、思考は止まらなかった。

私は、どうすれば良いのだろう。
この一カ月自問してきた問いが、また浮上してきた。


私は禁忌を犯そうとしている。
だのに、それを止めようとせず助長するような約束をしてしまった。

私は、どうすれば良いのだろう。
年端もいかない少女に年甲斐も無く恋をし、そしてそれを結果次第では受け入れようとしている。
社会的にもそしてこの仕事の上でも、許される事ではない。

だが、彼女もあと少しすれば結婚もできる。
いやそれ以前に、私の気持ちに何もやましい所は無いのだ。
私はとどのつまり、彼女の笑顔に魅入られたのだ。それを曇らせるような事を、するだろうか。
それなら何を恥じる事があろうか。


「……何も、無いさ」


誰もいない車内で、小さく呟いた。声はすぐさま、タイヤの音に掻き消された。

私は例の如く、見境が無くなっていた。
ただこの熱情が、この身を焦がしていた。


信号が変わり、前の車が進み始めた。私もそれに続く。
いつの間にかBGMが止み、ラジオからはまた人の声が響いていた。
そしてその声に、私は耳を奪われた。


「これより、第二回アイドル選抜総選挙の速報をお伝えします」


今まで思考に埋没していた私の全神経が、耳に集中した。



――


地響きのような歓声が、もやのかかったこの薄暗い空間に響いていた。
歓声が聞こえる方から誰かの名を呼ぶ声が聞こえる。
そして聞き覚えのある名前が呼ばれた。


「じゃあ――チャン、行ってくるにゃ」


今まで以上に気合いの入った猫衣装を着たみくが、手を振りながら階段を駆け上がって行った。
私もそれに応え「頑張れよー」と、みくの背中に声援を送った。
舞台に出て行った彼女を見送り、私は両手を腰に当て、小さく息をついた。

ついにこの日が来た。選挙結果発表の日が。
発表圏内に入ったアイドル五十名が、晴れやかなステージに招待され、ステージへと呼ばれてゆく。
私はそれを、他の同業者と共に、舞台の袖から見ていた。
舞台袖は今から名前を呼ばれるアイドルとプロデューサー達が氾濫し、言いようのない緊張感を生みだしていた。
私も、その一人であった。

私がこの場の空気に飲まれかけていると、ふと、とても小さな力で、背中を引っ張られた。
振りかえると、私の服を片手で一生懸命握っている幸子がいた。いつもの彼女とは思えない程、沈んだ印象を受けた。



「どうした幸子。緊張してるのか?」


彼女は口では答えず、ただ小さく頷いた。
俯いていたのと、舞台裏での薄暗さが彼女の今の表情を隠している為、どんな顔をしているのかはわからなかった。
しかし、肩が震えているのだけは見て取れた。


「緊張するな、というのは無理な話だと思う。だけど、何も心配する事は無いよ。
 お前なら、ちゃんと狙った順位に入れるから。私は、そう思ってる」


彼女の肩に手を置き、私は努めて優しく語りかける。
私の手に、彼女の震えが伝わってきた。
彼女が今どんな気持ちでこの場に立っているのかは、私の推し量れる枠を超えている。
私も、自分ですら言い表せない感情を抱いているのだから。


「あ、あの……――さん……」


絞り出すような声が、不安を吐露する声が、彼女の口から洩れていた。


「ん、何だい?」


私は腰をかがめ、彼女と目線が同じになるようにした。
そうして、ようやく彼女の表情が少しだけ見えた。
口を真一文字に結び、どうにか堪えているようなそんな表情だった。



「どうした、今みくが呼ばれたんだ。もうそろそろ幸子も名前を呼ばれるぞ?
 言いたい事があるなら、今のうちにな」


私はぎこちない笑顔を作って、幸子の頭を優しく撫でた。
「あっ……」と、幸子が小さく息を漏らした。そして驚いたように顔を上げて私の顔を見た。
不安で瞳が揺れている。
私は笑みを崩さずに、そんな幸子の頭を撫で続けた。

幾分緊張がほぐれてくれたのか、ようやく口を開いてくれた。


「え、えっと……ボ、ボクが着たので別に問題は無いと思いますが……その、この衣装、似合ってますか?」


相変わらずの口調と年相応の口調が混ざりながら、彼女は懸命に言った。私もそれに応える。


「あぁ、着ている本人が可愛いんだ。何を着ても似合うよ。最も、私の仕立てもあるから、似合わないはずもないんだがな」

「そ、そうですか……」

「……私の幸子が、誰よりも可愛いという事を証明してくるんだ。良いね?」


何とも無しに言った、口を突いて出た言葉だった。しかし本心だった。私は恥じる事は無いと、ただ彼女の目を見つめた。
幸子は、その言葉に硬直していた。ただ私の瞳をぼうっと見つめていた。
遅れて意味を理解したのか、彼女は耳まで赤くなった。



「こ、こういう時だけそういう風に言って! だ、だから卑怯なんですよ――さんは!」

「……いくらでも誹りなさい。これは、私の本心だよ。まぁ、それだけ怒れるんだ。少しは、元気が出たかい?」

「……えぇ。ちゃんと、見ていて下さいね。め、目を逸らしたりしていたら、怒りますよ!」

「あぁ、見ているさ」


私が微笑むと、幸子の震えが幾分和らいだ。
大きく深呼吸をし、幸子はコンセントレーションを高めている。

そして、彼女の名前が呼ばれた。


「よし、行って来い。12時までには戻ってくるんだぞ。靴、落とすなよ?」

「ボ、ボクはシンデレラみたいなヘマはしませんよ!」


軽快な冗談を飛ばし、彼女背中をはたくようにして送り出す。
煌びやかな舞台へと、幸子が進んでいく。そして、彼女の姿は眩い光の中に消えていった。


「……信じてるからな」


私は誰に言うでもなしに、こう呟いていた。


さすがにずっと舞台袖にいる訳にもいかないので、私は関係者席へと移動する事にした。
一般客が入れる最上位の席とはまた違い、遠過ぎず近過ぎず、全体が見れる絶妙な位置にあった。
喧騒に塗れる事も無い。私はへりに立ち、体を手すりに預けてステージを眺めた。

愛海は望遠鏡を持ち、観客席で涎を垂らしながら会場を見ているとの事だ。それで良いのか。本人は良いらしい。
今度清良さんに愛海の面倒を見て貰おうか。

部屋の中では同僚達が何か、自分のアイドルの事だとか他所の事務所の事だとかを話していた。
愚痴や羨望、そして表面だけの称賛ばかりで、あまり聞きたいものでは無かった。

それを気にせず、ステージを見る。暗がりの中で、目的の人物をすぐに見つけた。
いつもファンに見せている澄ました顔で、彼女は立っていた。どうやら緊張感はいくらか解れてくれているらしい。
小さな体で、彼女はしかとあのステージに立っている。彼女は脆く見えるが強い子だ。私はそれを知っている。
むしろ、私の方が緊張しているのかもしれない。先程から、嫌な汗が体から噴き出していた。


「よう、緊張してるのか」


突然、同僚の一人が私に話しかけてきた。はっきりと友人と言える、数少ない人間であった。
この仕事の歴自体は彼の方が長いが、私と同い年である。
そのせいもあってか、何と言うか、彼は屈託の無い人間で私も付き合いやすかった。



「ん、お前か。どうしたんだ、お前のアイドル、まだ名前呼ばれてないだろ。結構後の方のはずだが」

「いやぁそれが……余計な言葉はいらない、ただ、静かに見ていて。私を、魅せてあげるって言われてさ……」

「あぁ……」


彼女の担当アイドルの姿を想像した。私自身、あまり進んで喋るほうではないが、彼女は本当に口を開く事が無い。
そんな彼女なら、そう言うのも納得できた。口よりも体現せよ、そんな雰囲気を持った人物であった。


「しっかしなぁ……世の中わからないよな」


普段明るい彼が、似合わないような感慨深い溜息を吐いていた。


「何がだ」

「いやほら、最初の俺とお前。自分のアイドルが扱い難いだとか嘆いてた組だけど、よくもまぁここまで来たもんだなって。
 今じゃさ、俺達結構この事務所の中じゃ、敏腕と言われるような立ち位置だろ?」


こう言うと、私と彼が最初からずっと切磋琢磨しているように聞こえるが、割とそうではない。
私が幸子との関係をようやく持ってから、彼とは仲良くなったのだ。
それでも、一年程の付き合いになるが。


「……まぁな」


こういう事を平気で言う辺り、やはり彼は喋り慣れているのだろう。
私はこういう所が、少し羨ましかった。


「どういう訳なんだろうな。それなりに売れちまって、今じゃ俺達、特にお前は事務所の稼ぎを担ってるしなぁ」

「……そんな事、無いさ」

「俺たちゃお荷物世代ってな感じで、言われてたけど」

「今は、違うさ」


私はしっかりと、反論していた。


「あぁ……そうだな。しかし、お前もよく喋るようになったよホント」

「……私は、元はこうだよ。ただ、何か迫るような事が無い限り、自分から接するというのが、面倒というか苦手なだけで」

「あははっ、そうかいそうかい。でも、お前ホントに暗かったもんなぁ。俺だって話しかけようとしたけど、空気がヤバかったもん。
 あの時は諦めちゃったよ」

「……まぁ、あの頃はな」

「幸子ちゃんとも仲悪く見えたし、目のクマも酷いし、こりゃ俺よりもたないかなだなんて思ってたけど。
 大逆転だよな、ホント。あぁ、そうだ。今はもう幸子ちゃんと買い物とか行ってないのか?」

「まぁ、な。忙しくて無理だ。それに、最近は避けられてる」

「えっ、どうしてさ? なんかやっちゃいけない事でもやったか」


突き詰めて言えば彼の言った通りではあるが、私はぼかして返答した。


「いや、そうじゃないさ。ただここ最近、この選挙があるからピリピリしてただけだ」

「ふーん……そういうもんか」


何か納得いかないという感じであったが、「まぁいいや」と言ってさして気にせず彼は話を続けた。
こういう深い所に足を踏み入れようとしない辺りも、ストレスを感じず付き合える理由だった。


「でもさぁ、お前にベッタリだからなぁ幸子ちゃんは……親鳥についていくヒナ鳥みたいなもんだろ。
 あんまり、距離置いちゃダメなんじゃないか?」


彼は自分の例えを上手いとでも思ったのか、ニヤニヤと私の方を見た。


「……彼女は、強い子だ。私がいなくても、やっていけるさ」


私は、嘘をついた。


「ふーん、まぁスカイダイビングとかやってたしな。肝は座ってるか」

「まぁな」

「……お前、絶対Sだよな」

「……何がだ」

「いや、何でも……はぁ、やっぱり女性はそういうのが良いのかねぇ……」



何かバツが悪そうに、彼は頭を掻いた。
私はそれを見て、生意気に言葉を返す。


「もっと男らしいところを見せろ。そうでないと、あの人はついてきてくれないぞ」

「言われなくてもするさ。まぁ、見捨てられた時は、君と俺の担当アイドルを入れ替えて貰うことにするよ。
 そっちは無駄に明るいし、楽しそうだしな。あ、それと、最近俺の担当一人増えたんだぜ。大人な人、うん。
 お前もちょうど良いだろ、アダルティチームで。アダルティだぜ、アダルティ。結構毛だらけ猫灰だらけって感じ」


よくわからない単語を連発されたが、私はそれを流した。
担当を変える事など、今ではそんな発想微塵も無いが、これは言わないでも良い。
口ではこう言っているが、彼も同じはずだから。


「……しかし、時々思うんだがうちの事務所の采配はどうなってるんだろうな」

「まぁなぁ……俺とお前、普通だったら逆にしてるよなぁ……」

「しかし、今ははまってるぞ。私はもう、彼女から……いや、彼女達から離れる気は無い」

「あぁ、俺もだよ。でもうーん、これが不思議なんだよなぁ……」


そんな事を言っていると、彼のアイドルが入場してきたので私達はこの会話を一旦止めた。
そして、ステージを見る事に専念した。
途中、自身のアイドルとこの日の為に買ってきたという望遠鏡を自慢されたが、適当に聞き流した。

そうして、アイドル全員がステージ上に出揃った。

書き溜め放出
もしかしたらまた夜に投下するかも



「ではこれより、結果発表を行います! まずは五十位から四十一位!」


司会がこう宣言すると、会場からは割れんばかりの歓声が起きた。
私も、息を飲んだ。そして、呼吸を忘れた。

名前と順位が、一気に読み上げられていく。パネルが回り、電光掲示板が光る。
観客は食い入るように、順位発表を見ていた。

まだ呼ばれる心配は無い。私はぼうっと順位ではなく、点滅する電光掲示板の小さな電球の一つ一つを眺めていた。

あの時、車の中で聞いた速報では、彼女は三位だった。これを聞いた時の私は、気が気では無かった。
妙な緊張感を持ちつつ、そして高揚感を持ちつつ事務所に行ったものの、幸子は至って普通であった。
私も敢えて選挙の事を話題に出さなかったが、彼女はそれについて何も言わなかった。
むしろ彼女から何か言うという事も無かった。いつもの彼女なら、褒めろ褒めろと言わんばかりなのに。


四十位代では、呼ばれなかった。
三十位代で、同僚のアイドルとみくが呼ばれた。

みくは前回より順位を落としてしまっていた。無理も無い、前回よりもアイドルの人数も増えていたのだ。
これが終わったら、彼女も褒めよう。みくも、私達と共に頑張ってきたのだ。

隣にいる友人と互いに健闘を讃え合った。それから友人は舞台裏に行くと言って、部屋から出て行ってしまった。
まだステージからは戻れないというのに気が早いのでは、と言ったが無駄だった。
一人残された私は、ステージを見続けた。

順当に、アイドル達の名前が発表されていく。二十位代、十位代。
幸子の名前は、呼ばれなかった。

そうして最後の十人が残った。幸子はその中に残っていた。
しかし、ここからが正念場だ。



「それでは、第十位の発表です!」


高らかな声が会場に響く。そして、怒号のような歓声も。
照明は落とされ、その瞬間に会場は静まりかえった。だが、会場のボルテージは既に沸騰寸前まで来ていた。
その熱気に感化されたのか、ステージを見つめる私の目に、熱が籠るような錯覚を覚えた。
そしていつの間にか、私は祈るように、手を前で握っていた。

目を瞑る。名前が中々呼ばれない。
張り詰めた空気の中、緊張の糸が切って落とされるのを、私はひたすら待った。

まだか。まだか。
むず痒い感情に襲われ、私は悶えた。
瞼に力が入る。まだ十位だ。しかし、呼ばれない可能性も無い訳でも無い。まだ呼ばれてくれるなよ。
約束の事を忘れ去ったように、私はひたすら祈った。

そして、糸は切って落とされた。



「第十位は、白坂小梅さんです! おめでとうございます!」


ステージの一点に、光が灯った。袖長の少女が照らされていた。
そして、地鳴りのような声が彼女を包んだ。

私は、胸を撫で下ろした。

ステージでは、今呼ばれたアイドルのインタビューが行われていた。
小さな声で、一生懸命インタビューに答えているようだ。

私はそれを一瞥し、幸子へと視線を戻した。
暗いせいで、彼女の表情までは詳しく見えなかった。しかし、今はまた緊張しているという事はわかった。
幸子が私と同じように、祈るように両手を握っていたからだ。

傍に行って、大丈夫だと言ってやりたい。だが、それは叶わない。
私に出来る事と言えば、ここで祈る事しかない。まだ、気は抜けない。


その後も、どんどん名前が呼ばれ、会場がその都度沸いた。
私は名前が発表される度に冷や冷やした。
七位まで呼ばれたが、幸子の名前は呼ばれなかった。

そして、運命の六位発表。あの約束が私の中に湧きあがり、頭を満たした。

ここが全ての境目。たった一つの数字の違いが、限りなく分厚い壁を作りだしている。
これを乗り越えれば、乗り越えなければ、乗り越えてくれなければ。
私は今、どちらの意味でこう思っているのだろうか。
それはもう、明白であった。

照明が消える。場が熱に飲まれ、静まりかえる。
人から出た言葉も、全て気化してしまったように消え去った。
ただ、圧すような静寂。静寂。


私はこんな今になって、自分がいかに残酷な事を彼女に課したのか、痛感した。
もし、ここで幸子が呼ばれたらどうするつもりなのだ?
私は気持ちを封印すると決意したが、彼女は果たしてそうか?
彼女が強くない事は、私が一番知っているのではないのか?
何故、こんな約束をしたのか。突っぱねるだけ突っぱねて、有耶無耶にした方が良かったのではないか。

また、あの関係に戻るのだ。
そんな状態で、アイドルなど続けられる訳があるまい。
信頼した人が近くに居ながら、自分から遠ざかっていくなど耐えられる訳が無い。
私はそんな簡単な結論にも、気付かなかったのか。
何故だ。信頼し過ぎていたからだ。

私は平気な顔をして、悪魔の契約をあの子に交わさせたのだ。
そうとしか、言いようがない。

永遠と錯覚する程圧縮された時を、私はただ祈った。顔を伏し、手で何かに縋るようにして祈った。
後悔の念に、押し潰されないように。



「第……六位は!」


会場に流れる熱が増した。
ドラムロールが早くなる。私の鼓動が、それにつられるように早鐘を打つ。
私はうわ言のように「頼む、頼む」と何度も呟き、必死で念じていた。

祈りの言葉と急かすような鼓動の音が、私の中を跋扈する。


そして、宣告が下される。



「……佐久間まゆさんです!」


一瞬の間。そして、歓声が炸裂した。
会場が割れんばかりの歓声が上がる。ステージで、私のよく知らぬアイドルがライトアップされていた。

私は膝から崩れ落ちていた。
隣にいた同業者から心配されたが、何とか意識を取り戻し大丈夫だと言って立ちあがった。

彼女との約束は果たされた。
彼女は見事成し遂げたのだ。

私はすぐさま彼女に視線を戻し、彼女の表情を確認しようとした。
薄闇の中で、彼女の表情が何とか見えた。
彼女は大きく息をつき、胸を撫でおろしていた。

その姿を他のファンに見られたら疑問にでも思われるかも知れないが、今の私には彼女の気持ちが痛い程わかった。
これで、もう懊悩する事は無い、と。自分の気持ちに真っ直ぐとケリをつけれるのだと。

いつの間にか、壇上のインタビューが終わっていた。


「さぁ、いよいよ! 五位の発表となります! この選ばれた五名は限定ユニットを組み、新曲を出す予定となっております!」


五位以上の発表が行われた。
しかし、五位でも幸子の名前は呼ばれ無かった。



「第四位は……輿水幸子さんです! おめでとうございます!」


ぱっ、と幸子をスポットライトが照らした。
幸子は信じられないといった面持ちで、壇上につっ立っていた。
司会者に花束を渡され、ようやく理解したのか。彼女は目を白黒させて驚いていた。

私はこれには驚いた。幸子は、何と四位だったのだ。
私が超えられないだろうと踏んでいた壁の、もう一つ向こうに、幸子はいたのだ。


「どうです? 今のご感想は」


司会者が定型文の質問をしたが、幸子はどもり、すぐに答えられなかった。
今にも、泣きだしそうな声だった。


「落ちついて落ちついて。どうぞ、まだ時間はありますから、ゆっくり、落ちついて下さい」


司会者の女性が、優しく語りかけた。幸子はそれでほんの少し落ちついたのか、ようやくいつもの調子で喋りだした。



「ま、まぁ当然ですね! ボクのっ、カワイさなら……五位圏内に、入ると思ってましたよ!
 み、皆さんのおかげも、ありますけどね!」


途切れ途切れになりつつも、涙を必死で堪えながらも、彼女は必死で答えていた。
ちゃんと、いつもと変わらぬ口調で。
ファンもその姿に、温かく笑いながら声援を送ってくれている。


「渋谷凛さんを抜いての四位という、大健闘でしたが、いかがでしょうか」

「え、えっと……し、渋谷さんも、き、綺麗で、強敵でしたけど! ボ、ボクのカワイさが、僅かに勝ってしまいましたね!
 い、いやぁ危ない、ところ、でしたよっ!」


あぁいう風に強がっているが、私以外の他人を貶めるような発言はしない。
やはり、どこまでも幸子らしい。


「それでは、今一番感謝したい人に、メッセージをお願いします」


司会者が、続けて質問した。しかし、この質問のせいで、彼女の我慢は限界に達してしまった。


「ボクがっ……ボクが、この順位に、なれたのはっ……」


その先の言葉が、続かない。
彼女は天を仰ぎ、大きく息をしている。何かを堪えるように、上を見上げていた。
しかし、止まらなかった。



「……なれたのはぁっ……なれ、た……のはっ……」


彼女の目から、大粒の涙が流れた。
私も、同じだった。

それを見たファン達が、頑張れと沢山の声援を送ってくれた。
私も、いつの間にか頑張れと叫んでいた。周りの視線など、お構いなしに。

彼女はそこから先を言わなかった。
ただ「ありがとうございます」と、涙で声をしゃがらせながらも、ファンにひたすら礼をしていた。


「はい、第四位輿水幸子さんでした! 皆様、温かい拍手をお願いします!」


会場が拍手に包まれた。私も掌が痛くなる程、拍手を送った。
幸子が大きくお辞儀をし、ファンの声援に応え、笑顔で精一杯手を振っていた。
その笑顔は、あの時私に見せてくれた時のものと同じくらい、眩しいものだった。


「おめでとう、幸子」


遠くに見える小さな少女に、私は誰にも聞こえない声で、呟いていた。



――



「幸子チャンおめでとにゃー!」


イベント終了後。私が舞台裏に行くと、みくと幸子が抱き合って喜んでいた。
いや正確に言うと、みくが幸子を宥めているようだ。
限定ユニットメンバー紹介の時には泣きやんでいたが、幸子はまた泣いていた。


「あっ、幸子ちゃん達いたよ! ――プロデューサー行こう!」


私は観客席にいた愛海と合流し、彼女は関係者ですと言い張り、会場に通して貰った。
あながち、間違いではないから大丈夫だろう。


「……今は、自重してくれよ」

「……あたし信用無いなぁ……」

「冗談だ。さぁ行こう」



逸る気持ちを何とか抑え、私は平静の通り、二人に声をかけた。


「二人共、お疲れ様」

「あ、――チャン!」


みくが嬉々とした声で返事をしたので、一瞬飛び付かれるかと身構えた。
が、みくは動こうともせず、幸子を宥めていた。


「……――さん……」


幸子は赤く腫らした目を私に向け、小さな声で私の名を呼んだ。


「二人ともおめでとう! 可愛かったよー、特にどこがとは言わないけど」

「おめでとう幸子。お前の姿、ちゃんと見てたぞ」


私がそう言うと、幸子は私に抱きついてきた。
私は驚きのけ反ったが、彼女の小さな体をしっかりと受け止めた。


「――さん! ――さん!」


幸子は私に顔を押し付け、必死で私の名を叫んだ。
人目を憚らず、私に必死で抱きつき泣く幸子を私はどうするでもなく、ただ抱きしめた。
この小さな体で、彼女は良く頑張ってくれたのだ。
重責から放たれた彼女を、どうして突き放す事ができるだろう。

もう引き離すなんて事は、しない。



「うわ、幸子チャン大胆だにゃ」

「お、これは……いや、今は自重するのよ……」


私はそっと、彼女の頭に手を乗せ、優しく撫でた。
掌に、幸子の柔らかく指通りの良い髪の感触と、彼女の温もりが伝わってきた。
震えも、同じだ。


「見てて、くれましたかっ……ボクは、カワイかったですかっ……」


幸子が泣きじゃくりながら、必死で私に聞いた。
私はそれが何だか嬉しくて、思わず顔がほころんでしまった。


「あぁ、見ていた。お前は、可愛かったよ」


後ろから「みく達の事もちゃんと見てないと、ダメなはずなんだけどにゃあ」という声が小さく聞こえた。


「あぁ、えっと……みくも、良くやったな」


私は腕の中にいる幸子を考え、遠慮がちにみくを労った。



「いや、ダメダメにゃ。順位を落としちゃったんだからダメにゃ」

「そんな事無いさ。ちゃんと順位に入っただけでも凄い事だぞ」

「そうだよみくちゃん。あたしはまだ入ってないんだから」


愛海は全く嫉妬の感情を感じさせないのに、そんな事を言った。
彼女は別に順位抜きでアイドルを楽しんでいるから、それも当然だった。
ただ単に隙を引き出そうとしているのかも知れない。


「にゃはは、ごめんにゃ愛海チャン。じゃあお詫びに、他の出演者の子達を一緒に見に行くかにゃ?」

「えっ、良いの?」

「大丈夫にゃ、皆ともちょっとだけ話したけど皆良い子だったにゃ。
 ただ、六位の子はちょっと手を出したらダメな部類だけどにゃ」

「うひひ……それは、良いわ! あぁ、わきわき、じゃないわくわくしてきたわ……さぁ行きましょう!」


愛海が我先にと舞台裏から出口へと向かって行った。



「お、おい! お前達何処へ」

「お邪魔なみく達は、空気を読んであげるって事だにゃ」


どうしても、みくには気を使わせてしまう。
私は、まだまだ大人に成りきれていないらしい。


「……すまんな、みく」

「これで貸し二つだにゃ――チャン」

「……何だか、末恐ろしい事になりそうだが……」

「にゃはは、まぁ首を洗って待っておく事だにゃ。
 まぁ、戻るまでに時間がかかると思うから、そのまま二人だけで帰っちゃっていいにゃ」

「えぇ? それはまずいだろ」

「みくの猫仲間に頼んで、一緒に送って貰えば良いにゃ」


猫仲間? あぁ、あいつのアイドルか。
あの人と仲良いのか、みくは。しかしそれはどういう了見だ。


「何してるのー! 狩りに行こうよー!」

「今行くにゃー!」


みくはまたいたずらな笑みを浮かべて、愛海の元へと走って行った。



「はぁ、全く……」


私が溜息をついていると、急に腰の辺りに強い力をかけられた。
下に視線を降ろすと、幸子が怨ずるような目で私を見つめていた。


「……どこ、見てるんですか」

「あっ、いや……すまん。いや、今のは良いだろう。みくも頑張ったんだし、愛海も応援に来てくれたんだから。
 あの二人を労うくらいは……」


愛海は半分違う理由があるとは言わなかった。
幸子もあの二人の事をちゃんとわかっているはずだが、何か納得してくれない様子で私を見つめていた。


「ボクを見てって、言ったじゃないですか……やっぱり、ちゃんと見てないじゃないですか。
 どうせみくさんの谷間とか見てたんでしょ! 変態な――さんだったら、やりかねませんからね!」


そう言うと幸子は口を尖らせ、すぐにそっぽを向いてしまった。
そんな事は無いのだが、幸子の反応が予想外に可愛かったので、私は苦笑いのような表情をするしかなかった。


「……それよりもっと可愛い子がいるのに、どうしてそっちを向く必要があるんだい? 幸子」


私は努めてキザっぽく、臭い台詞を言ってみた。恥ずかしかった。
聞いた幸子も同じらしく、顔を赤くしたかと思ったら今度は無言で私の体に顔を埋めてしまった。
ちょっとした反撃のつもりなのか、胸にぐりぐりと頭を押し付けてきた。耳は赤いままであった。



「……帰ろうか、幸子。ここじゃ、ゆっくり話もできないし」


返事は無い。幸子は無言で私から離れようとしなかった。


「願い事も、帰りの道で聞かないといけないしな」


そう言うと、幸子は顔を上げずに私の胸の中で頷いた。
私に抱きつく手は、まだ力が籠っていた。
しょうがないので、私は最終手段を使う事にした。


「全く、このままずっとこうしている気なら、お姫様だっこでもして車に運んでいくぞ」

「えっ」


私の脅迫は効いた。
幸子はすぐさま顔を上げ、目を丸くして私を見上げた。


「じゅー、きゅー、はーち」


私は無慈悲にもカウントダウンを始める。



「えっ、ちょ、ちょっと待って下さいよ! ほ、本気ですか!」

「なーな、ろーく、ごー」


幸子はようやく両手を離したがもう遅い。


「ちょ、は、離れますから……って、何でそっちが力み解いてないんですか!」

「よーん、さーん、にー、いーち」


一まで数えると、幸子は両手を胸の前に縮こませ、目を必死で瞑って身構えた。
それを見て私は手を放し、幸子の頭をぽんぽんと二回軽く叩いた。


「……あれ?」

「ほら、行くぞ。こんな所でお前を抱えて出る訳ないだろう。恥ずかしい」

「なっ……」


幸子は一層顔を赤くして、怒っているようなガッカリしたような、驚いているような器用な表情をした。



「ん? どうした幸子、もしかして期待したか?」


私は幸子と目線を合わせる為にかがみ、自分でもわかるくらい満面の笑みを作って、幸子の顔を覗き込んだ。


「ち、違いますよ! そんなわけないじゃないですか! な、なにニヤついてるんですか!
 ちょ、ちょっと顔近いですよ! 近いですって……」


とりあえず私は勝利を確信したので、手を引く事にした。


「……そうだ。泣いてるより、拗ねたり顔を赤くして、口数が減らない幸子の方が幸子らしい。

「――さん……」

「でもやっぱり、笑ってる所が、やっぱり一番可愛いよ」


私は覗きこんだ姿勢のまま、彼女の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「わわっ」と情けない声を上げて、幸子は私のいいようにされていた。


「……じゃあ、今度こそ行こうか」


彼女を解放し、私は出口の方を向いて彼女を促した。


「……はぁ、しょうがない人ですねぇ……すぐ帰りたがるとか、子供ですか――さんは。
 いや、というかさっきのカウントダウンの時点で子供っぽ過ぎるんですよ……」

「何とでも言いなさい」


幸子は髪を直しながら、またいつもの憎まれ口を叩いていた。
しかし、そう言った彼女の顔には優しい笑顔を湛えられていた。



「さて、と……じゃあ、はい」


幸子は私の腕に手を回し、エスコートを求めてきた。


「おいおい、さすがにそれをやるには人目が多過ぎるよ」

「う、うるさいですね! 別にこれくらいどうって事ないじゃないですか!
 全く、これだから女性経験の無い――さんはダメなんですよ!」

「……しょうがない、か」


幸子と私の歳の差だ。そして、普段の冗談混じりの会話もよく周りに聞かれている。
別に、甘えられているだかふざけているけだと見られるのがオチだろう。
なら、どうという事は無いか。


「じゃあ、このままで良いよ。幸子の気が、それで済むならな」

「えっ」


自分で言った癖に許可が出るとは思っていなかったのか、彼女は信じられないという面持ちで私を見上げた。



「何だ、今更怖気づいたか」

「くっ……そ、そんな訳ないじゃないですか! このボクに! 何を怖いものがあるんですか!」

「じゃあこのまま行こう。絶対に、幸子を放さないからな……絶対に」


私は掴まれた腕ごと幸子を寄せた。
幸子は小さく声を漏らした。幸子はまた何か言ってくるかと思ったが、何も言わなかった。


「……はい」


はにかみ、小さく頷きながら、ただこの一言を幸子は口にした。
予想外の反応に、今度は逆に私が目を丸くした。
そして私は今更、自分で言った事を思い出し、悶々とした。
しかし幸子の年相応で、幸せそうな笑顔を見ると「それで良いか」と、思ってしまった。


廊下に出た途端、結局周りに視線の多さに気付き、恥ずかしさに耐えかねて幸子は離れてしまった。
私は声をあげて笑った。



――

私 徹夜 書いた 寝る


今後の打ち合わせや挨拶周りも終了し、我々はへとへとになりながら車に乗り込んだ。
打ち上げやらはまた後日という事になった。酒の席に私が行ってどうするのか、よくわからないが。


「ようし、シートベルトはしたな」


私は後ろを振り返り、幸子がきちんとシートベルトをしているか確認した。


「それくらい言われなくてもしますよ。ボクを何だと思ってるんですか」


腕を組み、脚も組んだ幸子が相変わらずの澄まし顔で答える。
とりあえず、またからかう事にする。


「可愛い私のアイドル」

「ぐっ……な、何ですかさっきから……イタリア人の霊でも憑依したんですか?」

「投票期間中、私を避けてた仕返しだよ」

「いや、まぁそれは……わ、悪かったですけど、仕返しって……ホント子供ですね――さんは」

「それで、何で私を避けてたんだ?」


分かり切った問いを、意地悪く幸子に投げる。
案の定、幸子は私から視線を逸らし、脚をもじもじとさせて逡巡した。



「そ、それは……」

「恥ずかしかったからか? あんな啖呵を切って、目を合わせるたりするのが」


図星だったらしく、幸子は顔を伏せてしまった。


「悪い悪い。もう仕返しは終わりだ」

「わかったら、さっさと車を出して下さいよ!」

「はいはい」

「はいは一回です! 全く、そんなコトもわからないなんて、本当に――さんはダメですね!」


何だかこのやりとりが懐かしく感じて、私は笑ってしまった。


「な、何ですか突然笑って……もしかして、そういう趣味ですか」

「いや。ただ、やっぱりこうやって軽口を叩きあうのが、私達らしいなと思ってな」

「……そう、ですか」

「あぁ。最初は、お前のテンションというか、人間というかがよくわからなかったからついて行けなかったけど……。
 今は、もうこういうのが無いと張り合いを感じなくなるくらいだよ」


私はそう言いながら、ようやく車のエンジンを入れた。
明りがまばらに点いた薄暗い立体駐車場を、徐行しながら進む。



「は、恥ずかしいコト言わないで下さいよ! エンジンかけ忘れてる癖に!
 ――さんは生意気なんですよ!」

「どの口が言うんだ、どの口が……さて、じゃあ行くか」


前を向き、アクセルを踏む。
車がゆっくり進みだし、駐車場を出口へと向かって行く。


「しかし本当、よく頑張ったなぁ……四位だもんなぁ、凄いなぁ」


私は顔をほころばせながら、感嘆といった感じで言った。


「ま、まぁ……カワイイボクなら当然の結果ですね。――さんのことも褒めてあげますよ!
 ボクのためによく頑張りましたね!」


幸子はふふんと鼻を鳴らし、珍しくしっかりと褒めてくれた。



「そうか……ありがとう。でも、私はサポートをしただけだよ。幸子の努力が、やはり一番効いたんだ。
 私こそ、幸子にお礼を言いたいくらいだよ」


私がそう言って褒め返すと、幸子は自分から褒めてきた癖にまた顔を赤くした。


「え、えっと……い、言われなくてもわかってますよ!」

「ははは、そうか。そうか……」

「と、ところで……」

「うん? 何だい」

「そ、その……――さんは、ちゃんと……ボクに投票してくれましたよね?」


私は投票した時の事を思い出した。
愛海には当初の予定通りに投票した。
みくには自分の分を全て幸子に投票しろと言われていたが、みくにもちゃんと投票はした。
が、彼女の好意を無碍にする訳にもいかないので――いや、個人的な問題も加味して――みくには一票だけいれた。
残りのみくに投票するはずだった分は、幸子に投票する事にした。

この選挙では、そんな一票二票でそう差がつくわけではない。それはわかっている。
だが私の心はどうしても、幸子に傾いてしまっていたのだった。



「あぁ……幸子には、多めに入れたよ。安心しなさい」

「ほ、本当ですか? それは……よくやりましたね! それでこそボクのプロデューサーですよ!」


幸子は目を細めて、喜んでくれた。
みくには感謝しないといけないな。猫カフェに三回くらい行かせねば。


「あれ、でも……みくさんと愛海さんの分はどうしたんですか?」

「ん? あぁ……ちゃんと入れてあるから、安心しなさい。それに、一応了承みたいなのは取ってあるから」

「そうですか。でも、何か悪いですね」

「まぁ、一票二票の差だ。そこまで気を揉むこともないよ」

「……そう、ですね」

「あぁ……」


そんな事を一しきり言い合った所でふと、会話が途切れた。
不自然な沈黙が流れる。心地良い空気に紛れて、異様な緊張感が走った。
口を開くのが憚られる。先に何かしようとすると、この雰囲気が壊れてしまいそうで何も出来なかった。
出口の清算所の前まで来た。二台程並んでいた為、私はその後ろに並んだ。
ゆっくりと、時間が重く流れる。

ようやく一台が出て行った時、何でも良いから会話をしようと思い、私は思い切って声をかけようとした。
幸子と声が被ってしまった。



「え、えっと……」


特に何か考えて話しかけた訳では無かった為、すぐに二の句があがらなかった。
私は、先に彼女に喋らせる事にした。


「……幸子から、先に言ってくれ」

「あ、はい……」


返事をしたもの、何か小さく萎んだように、幸子は両手を膝に乗せて俯いてしまった。
私はそれをミラーで見ながら気を揉んだ。
覚悟はしていたが、いざあの約束を明確にけりをつける時が来たかと思うと、私は息が詰まった。
鼓動が、自然と早くなっていた。期待と、不安によって。

しかし、私が予期していたのとは、全く違う問いをかけられた。


「……ボク、四位でこんなに喜んでるのって、おかしいんですかね」

「え?」


その唐突な質問に、私は思わず後ろを振り向いてしまった。



「ど、どういう意味だ?」

「い、いえその……神崎さんみたいに、一位になってから泣くものじゃないかと……今更思って……。
 ま、まぁ……嬉しくないって言う訳じゃないんですけど……」

「あぁ……」


言わんとしたい事はわかった。確かに五位内に入ったのは快挙だが、あそこまで号泣するというのはどうなのか、と。


「……別に、良いだろ。何も恥じる事は無いさ」

「で、ですけど……」


何か納得していない様子で、幸子は食い下がる。
私は彼女にありのままの言葉をかける事にした。



「……私も、泣いたよ」

「え?」

「あの発表の時、お前がライトに照らされて……お前が、輝いていて……私は、涙が出た。大の大人がだぞ?
 だから、幸子が泣いても……別に、何も恥ずかしい事は無いさ」

「――さん……」

「……まぁ、あの約束をしてなかったとしても……私は、泣いていたと思うよ。
 自分と一緒に、苦楽を共にしてくれた子が、あぁやって皆に認められたんだと思うと」


私は振りかえり、彼女を見た。そして自分からあの約束という言葉を出していた。
自ら退路を断っていた。


「え、えっと……」

「……なぁ、幸子」

「ひゃいっ」


幸子の声が裏返っていた。私はそれを笑おうともしなかった。そんな余裕も無かった。


「約束だ。お前の願い事、何か一つ言ってくれ。私は、それを叶えるから」


彼女の目を真っ直ぐに見つめ、言った。
もう、私は彼女から目を逸らす事は無い。
だから、私は彼女の願いを叶える。例えそれが、どんな事であっても。



「……」


時が止まった。私と彼女の視線が繋がった。
私と彼女は、互いに動けなくなった。


「言ってくれ、幸子の望みを。私はもう十分に逃げた、十分に。だから、もう私は逃げない。
 ちゃんと、お前を見るから」


私は強く、刻み込むように言った。
彼女は私の目を見つめたまま固まっている。顔がほんのりと赤みを帯びてゆく。
エンジンの振動が私達を揺さぶる。


「あ、あっと……その……」

「何だ」


私は急かすように間髪入れずに返事をする。
しかし退路を断ったは良いが、そのせいで幸子の余裕まで断ってしまっていた。
幸子はあたふたと、両手を前に出してどもりながら私を制した。



「ちょ、ちょっとだけ、ちょっとだけ、お、落ちつきましょう! ね! えっと……あ、後ろから車来てますよ!」

「え? あ、あぁ……本当だ」


幸子に言われて初めて気がついた。いつの間にか私達の後ろに一台車が来ていた。
どうやらだいぶ長く待たせていたようで、ガラスの奥にうっすらと見えるドライバーは何やらこちらを睨みつけていた。
私は慌てて前を向き、窓を開けて清算をし始めた。駐車券を入れるのに手間取っていると、とうとうクラクションを鳴らされた。
何とか清算を済まし、私達は駐車場を出た。

横道から広い道路に出た。車通りは少なく、私達を乗せた車はスムーズに進んで行く。私は幾分落ちつきを取り戻していた。
わざとらしく咳払いをし、今度は努めてゆっくりと言う。


「あぁ……その、すまん。がっついたな。あぁ、いや……何と言うか、節操無しで、申し訳無かった」

「い、いえ大丈夫ですよ……ま、まぁ? ボクのカワイさのせいで、――さんがこうなってしまったというのもありますからね。
 一概に――さんだけを責めるつもりはありませんよ!」

「……すまんな」

「え、えぇ……」


幸子も幸子で何とかいつもの調子で喋ろうとしているが、やはりしどろもどろと言った感じになっている。
私は少し突っ走り過ぎた事を反省しつつ、幸子が喋りだすまで待った。
タイヤがアスファルトを蹴る音だけが、耳に響く。ハンドルを握る手に、妙な汗が噴き出していた。

私は敢えてミラーを見ようとせず、ただ車を走らせた。
そして、息を飲む音が聞こえた。覚悟を決めたらしい。



「はぁ……えっと、この前の……約束、ですよね」

「あぁ」

「……そ、その……あっ……そ、それより! 今度のボクのオフはいつですか!」

「あぁ?」


全く意味のわからない質問にうろたえつつも、私は彼女のスケジュールを暗唱した。


「とりあえず、一週間は無いぞ。一日分あったけど、お前がちゃんと五位圏内に入ってくれたおかげで消えたよ。
 確かその次は……再来週の日曜だったかな」

「再来週ですか……そ、その日は――さんもオフですよね!」

「そんなわけ無いさ。その日は確か愛海の衣装合わせがある」

「なっ、なんでボクのオフと合わせて無いんですか!」

「えぇ?」

「ほらっ、ボクが当然のように約束を果たしたら、当然――さんもボクにお祝いをするでしょう?」

「え? あ、あぁ……」


よく意味がわからず、私は首を傾げた。



「え、わからないんですか?」

「……あぁ、つまり……前はよく買い物とかに付き合っていたんだから、それくらい融通しろ、という意味か?」

「そ、そうですね……――さんの、一日を……ボクにくれれば……」

「それが……お前の願いか?」


自分自身の声のトーンが落ちているのに、私は気付いた。
何と言うか、肩すかしを喰らったような感じだった。
年端もいかない自分の担当アイドル相手に、自分一人で勝手に浮かれているだけではないかと、私は思ってしまったからだ。
しかし、幸子はすぐに私の言葉を否定した。


「違いますよ……その、何と言うか……それとはまた別腹というか……」

「じゃあ……まぁただ単に、御褒美が欲しいという事か」

「ま、まぁ――さん風に言うならそういう事になりますかね」

「そう、か……」



否定はしてくれたが、もやもやとする。
語尾がぼかされた物言いに、また熱くなった私はまた問い詰める。


「じゃあ、約束はどうするんだ。別に、今言ってくれても構わないんだぞ」


ミラーで幸子の顔を見る。目が合った。そして幸子は不服そうに、私を見つめ返した。


「……それが聞きたいなら、ボクとオフの日を合わせて下さいよ。ボクの言う事くらい、聞いてくれないんですか」

「幸子……」

「ボクのコトを見てくれるって……言ったじゃないですか……」

「そ、そうだが……ったく、殺し文句だな。わかったよ。私も男だ、自分の言った言葉に責任を持とう。
 取引先に頼んで日程をずらしてもらって、そこに有給を捻じ込んで貰う」


彼女の恨めしそうな声と瞳で私は揺さぶられ、たちまち譲歩してしまった。
惚れた、弱みか。
私がこう言うと幸子は満足したのか鼻を鳴らした。



「そうですよ、それでこそボクを受け持つプロデューサーですよ――さん」

「あぁ……まぁ一応言っておくが、これから大事な時なんだぞ? 今からまた幸子の仕事も増えるんだから……。
 担当のプロデューサーが休みを欲しいを寄越せって、のたまうだなんて……」

「わかってますよ。わかってますけど……でも、その日に……」


幸子はその後を続けようとしなかった。


「……まぁ、千川さんにでも頼めば何とかなるかも知れないな。あの人、妙な権力持ってるから」


優しいが、色々とあの人は力持ちなのである。
まだそれほどお世話になった事は無いが。


「そう、ですか……それなら、安心ですね。じゃあ、再来週の日曜ですよ! 良いですね!」

「はいはい」

「はいは一回!」


彼女と新たな約束を取り付けた。しかし、もやもやは消えない。
彼女も約束を取り付けるのに成功したというのに、喜びばかりが前面に見えている訳では無い。
何か、まだ緊張の糸を張ったままのように、私には見えた。


――


時間はあっという間に過ぎた。
今まででも散々多かった幸子の仕事が益々多くなり、私はこの二週間の間、幸子にほぼつきっきりの状態になった。
サイン会に握手会、バラエティ番組やインタビュー、限定ユニットを組む事になったあの四人との打ち合わせなどなど。

スケジュールは分単位で進み、少しの遅れも許されなかった。
応援スタッフも何人かついてくれたが、やはりそれでも移動などには手こずった。

私は逐次、彼女と仕事に関する報告や確認を何度もした。自然と彼女といる時間は増えた。
そのせいか、仕事のせいで疲れは出ているようだったが、幸子はここのところどこか嬉しそうだった。
例えそれが仕事の話だったとしても、私と話している時の彼女の目は何処か優しげだった。

そうやって仕事を着実にこなしながら、件の日が来た。
私は幸子にオフを同期させろと言われたあの日。彼女を車で家に送り届けた後すぐに事務所へ向かった。
報告やら処理などがあった為元々戻るつもりだったが、私の目的はもう一つあった。

千川さんに有給の相談をしに行ったのだ。
上司でなく、何故彼女なのか。
そんな疑問もあるが、仲間内ではそういう相談は専らあの人した方が良いという評判だったので、私も倣う事にした。


千川さんは私の相談を聞くと、「じゃあなんとかしてみますね」と二つ返事で引き受けてくれた。
この忙しい時期に可能なのかと聞くと、大丈夫ですと豪語された。やはり心強い。
親戚から渡された不良在庫のドリンクとやらを箱で買わされた。

妙な散財をしたが、私は幸子の指定した日に休みを取る事が出来た。
それを報告すると「やればできるじゃないですか!」と言って、彼女はとても満足そうな顔をしていた。
それを見た私はからかいたくなり、くしゃくしゃと幸子の頭を少し強めに掻き撫でてやった。
そうすると少しむっとした表情を作ったので、髪を優しく戻してやると今度は顔を赤らめて怒られた。
私はまた笑ってしまった。幸子も、呆れたように優しく笑っていた。


そして、当日。
携帯のアラームがけたたましく鳴り響いた。私はそれを止め、布団から上体を起こし大きく欠伸をした。
朝の六時。普段よりも一時間も早く起きた為に、頭がいつもよりも緩慢とした感じであった。
適当に身支度をし、白飯と味噌汁、そして焼魚を並べて質素な朝食を摂る。

幸子からは何処に行く、という事は聞いていなかった。
昨日は散々どういう予定なのかと聞いたがただ一言、八時に向かえに来いとだけしか言ってくれなかった。
何かサプライズでも目論んでくれているのだろうか。
そう考えると本来は彼女の為のオフだと言うのに、彼女の歳相応な所というか、
私の為にそういう事をしてくれているのだと思ってしまい、自然と顔が綻んでしまった。

着替え以外の身支度を済ませ、さてどうしようかと箪笥の前に陣取った。
今日はスーツが良いか、いやそう言えば以前買い物に付き合っていた時もスーツだけだったなと、私は悩み始めた。
私服を引っ張り出そうかとか、いやそれではあらぬ誤解を受けるのではないかと散々悩んだあげく、結局スーツで行く事にした。
ようやく全ての身支度を終えた所で私はふと、まるで今の自分は色気付いたばかりの学生のようだなと思った。
そうして楽しげに、自分を鼻で笑った。



「おはようございます――さん。時間通りですね、偉いですよ!」


車を駆り、幸子の家まで向かえに行った。
時間通りに家に着くと、家の前で私が来るのを待っていた彼女はいつも通りの挨拶をしてくれた。
幸子は薄らと色づくように華が咲いた桃色と、その上に羽織られた清涼とした青で着飾られていた。
幸子らしく、上品であって可愛げのある服装だった。

玄関先では幸子の母親が幸子を見送りに来ていた。
私は二言三言、母親と会話をして幸子を車に乗せた。

幸子の両親にはどうやら私は気に入られているらしい。
私が人畜無害に見えるのか、はたまた誠実とでも見えるのか。
そのどちらも、随分な見当違いだが。

母親が手を振り私達を見送る。幸子は窓を開け、小さく母親に向けて手を振っていた。
通りを曲がると、幸子は窓を閉めて私に話しかけてきた。


「しかし、あれですね……カワイイボクがこうやってオシャレをして来たのに……。
 褒めもしなければ、――さんに至ってはいつも通りの服だなんて……」

「え? あ、あぁ……そうだな。可愛いし、幸子らしくて似合ってると思うよ」


仕事以外で褒めるのはあまり無かった為、妙なむず痒さを覚えてしまった。



「ふぅ、全く……月並みなお世辞ですね……まぁ今回は勘弁してあげますよ。ボクは優しいので」


そんな事を言ってたが、私には目を細めて嬉しそうに話す彼女の表情がしっかりとミラーで見えていた。


「それで、今日は何処へ行くんだ? そろそろ教えてくれても良いだろう。
 行き先がわからないまま走らせても、埒が明かないから」

「そうですね、では教えてあげましょうか。ここですよ」


幸子はそう言うと、何やらバッグから二枚の紙を取り出した。それを私は横目で見る。


「……チケット? 何処のだ」

「遊園地のチケットですよ。この前の打ち合わせで貰ったんです」

「遊園地……これは……あぁ、あそこか」

「行った事あるんですか?」

「あぁ、一度な。まぁだいぶ前だから、あまり記憶には無いが」

「へぇ……そうですか……」


何か疑うような視線を感じた。
何を考えてるのかくらいはわかったので、すぐに疑いを払拭しにかかった。



「安心しろ。中学の時に、親戚の子供達と一緒について行かされただけだ。お前の考えてるような事とは違うよ」

「な、何ですか突然」

「お前が今考えていた事くらい、私にはわかるよ。だから、安心しなさい」

「安心って何ですか。――さんみたいに女性経験の無さそうな人に、そんな不安なんて覚えるはずないじゃないですか!」


駄々漏れであった。


「そういう事にしておくよ。よし、じゃあ行こうか」

「えぇ、まぁ何か腑に落ちませんが許してあげましょう。ボクは寛大なので!」

「はいはい」

「はいは一回ですよ! 何度言わせるんですかこれ!」


――

とりあえずここまで
最初は100レスとかで終わるつもりだったんだよ、本当に

あ、ごめん
今日はここまでだったわ



会話を楽しみながら、車をさほど飛ばす事無く我々は遊園地に着いた。まだ朝の十時だった。
幸子は顔をあまり見られないように、大き目の帽子を被らせた。
一応の変装を済ませ、私達は車を降りて受付に向かった。


「そう言えば、幸子は山梨出身だったよな」

「えぇ、そうですよ。お父さんの仕事と、ボクの進学が理由でこっちに来ましたけど」

「山梨、か……あの絶叫マシンが山程ある遊園地にも、やはり行った事あるのか?」

「県内にはありましたけど……あまり行きませんでしたよ。あそこは小学生とかが乗れるものはあまりありませんから。
 それに、東京の……いえ、千葉でしたっけ? あそこにあるのと比べると、色々サービスが落ちてますからね」

「……中々、小さい頃でもそんな風に見ているんだな」

「当然ですよ。ボクくらいになれば、そういう余裕もでてきますからね」


大仰な感じで胸に手を当てながら、幸子は得意顔で言った。
いつも通りの幸子だ。気にしないでおこう。


「……まぁ、良いか。えっと、確かこっちに……」


駐車場を抜けて高架を渡ると、ようやく受付が見えてきた。
周りの商店の殆どがシャッターを閉めている時間帯だと言うのに、ゲート周辺では既に行列が出来ていた。
そしてゲートの向こうからは人の声も響いて来ていた。



十分程並んでから、私達は受付でチケットを渡してゲートをくぐった。
すると、目の前には想像以上の光景が広がっていた。


「はぁ……凄いな」


中に入るなり、私は人の多さに驚いた。
アトラクションではしゃぐ子供。それを見つめ、写真に必死で収めようととする親達。
手を繋ぎ、笑顔を振りまく男女達。そんな幸せそうな人々でごった返していた。
露店にもアトラクションにも、行列ができている。

日曜という事もあるのだろうが、郊外の遊園地がこんな時間からこれ程混むものとは思っていなかった。
私の記憶では、もっとここは空いていたはずだ。


「どうしたんですか、ぼけっとして」

「いや……私の予想に反して人が多くてな……」

「数年前にリニューアルしたらしいですよ。だから人が多いんじゃないですか」

「あぁ……成程」



確かに、周りの建物やアトラクションなどに目立った汚れは見られなかった。
私がかつて見たアトラクションも、面影はあるがだいぶ外装が変わっていた。

そんな風に、過去を彷彿させながら茫然とアトラションを眺めていると、ふと手に何かが触れた。何かが、指に絡んでいる。
見ると、幸子が私の手を握ろうとしているところだった。横目でちらちらと、私の動きを確認している。

私は鼻で小さく笑い、それを握り返した。
柔らかく小さな温もりが、私の手に収まるように繋がれた。

この反応を予測していなかったのか幸子は「あっ……」と声を漏らしたが、しっかり私の手を握りしめてくれた。


「あぁ……人が、多いからな……しっかり、握っておくんだぞ」

「……えっと……はい……」


片手で帽子のつばを持ち表情を隠されてしまったが、赤くなっているであろう事は見なくてもわかった。
私がゆっくりと手を引くと、幸子もゆっくりと歩き始めた。
ようやく、帽子の陰から口元だけが見えた。頬が緩んでいた。私も同じだった。



「さてと……まずは、どれに乗ろうか。私はよくわからないから、幸子、案内してくれないか?」

「えっ? あっ……い、いい良いですよ! じゃ、じゃあまずはどれに乗りましょうか! あっ、あれなんかどうですか!」


幸子にぐいと手を引かれた。照れ隠しなのか、ずいずいと先に進んで行く。


「お、おい幸子。そんなに急がなくても、まだ開園して時間が経ってないからそこまで並ばないで乗れるよ」

「何を言ってるんですか! 善は急げって言葉知らないんですか? こういうのは何でも早くした方が良いんですよ!」

「わかった。わかったから引っ張らないでくれ、あまり私は若くないんだから」

「まだ二十代でしょう? 本当に怒られますよそんなコト言ってると」

「二十代でも、体を動かしてない私は老化が激しいんだ……」

「全く、このボクのプロデューサーだって言うなら、もっとしゃんとして下さいよ!」

「はい」

「はいは……一回でしたね。それで良いんですよ。ようやくボクの言う事を聞くようになってきましたね。
 手のかかる……さながら覚えの悪い犬みたいですよ」


最近になって、ようやく幸子の操縦法がしっかりと分かってきた気がする。
恥ずかしがったりした時は、とりあえず私が駄目な行動をすれば良いのだ。
そうすれば幸子は勢いを取り戻す。
調子に乗るとかそういうのではなく、何と言うか、放っておけないから自分のテンションを上げようという感じで。



「あ、あれなんてどうですか! ほら、何ぼさっとしてるんですか! 急いで下さいよ――さん!」

「わかったよ。ちゃんとついていくから、私の歩調に合わせてくれ……」


そう言っても、彼女は進んで行く。
私を引っ張って、私を導くように先へ先へと進んで行く。
何だか、今の私達の関係のようだと私は思った。

まず最初に、我々はゴーカート乗り場に向かった。
幸子が自信満々の顔で「勝負ですよ――さん!」と言ってきたので、レースをすることになった。
が、アウトインアウトをしているだけで私は簡単に勝ってしまった。
大人げないと文句を言われたので、再戦する事にした。

今度は手を抜きつつ走ったので、幸子は私にかろうじて勝った。他のお客さんから散々抜かれていたが。
ゴーカートから降りると幸子が満面の笑みで「ふふん、免許を持ってる癖にボクに勝てないんですか情けないですねぇ」と煽って来た。
仕方がないので今度は私が彼女を引っ張り、お化け屋敷に連れて行く事にした。



「え、ちょっと……ほ、本気で入る気なんですか? え、怖いのかって? そ、そんなわけないじゃないですか!
 ただ臆病な――さんがこんな所に入ったら、心臓マヒでも起こしちゃうんじゃないかって心配になっただけですよ!」


私の心配はいらないから入ろうと言い、引きつり笑いを浮かべた幸子と共におばけ屋敷に入った。
ここのテーマは、霧の立ち込めたいわくつきの洋館との事だ。


「……な、何てコトないですね! ただ作りものが並んでるだけで何も……ひっ! な、何ですか今の音は!
 え? 怖いのかって? そそそんなコトあるわけないじゃないですか!」


涙目になりながら私の腕に必死でしがみついているので、その言葉には何の説得力も無かった。
が、体を震わせて私に縋りつく幸子は愛らしい小動物のようで、とても可愛らしかった。


「ほ、ほら! 先に進んで下さいよ! え? 目を瞑るな? つ、瞑ってなんか無いですよ!
 だから……あぁちょ、ちょっと! 離れないで下さい! だ、だめっ……目を開けますから待って下さい!」



散々騒ぎながら、私達はおばけ屋敷を踏破した。出口に着く頃には幸子の息は切れ切れで、顔も心なしかやつれたようだった。
「ぜ、全然大したコトなかったですね!」とは本人の談である。

それならばと、後ろから大きな声で脅かすと面白いくらいに驚いてくれた。
全然大丈夫じゃないかと笑い飛ばし、私はささやかな仕返しを完逐した。

が、私が大笑いしていると流石に涙目になったしまったので私は彼女を必死であやした。
頭を優しく撫でてやると、幸子は少し不機嫌そうに私を見つめた。


「悪かったよ、驚かして。少し、やり過ぎた。まさかここまで怖がってくれるとは思わなかったんだ」

「べ、別に怖がってなんかいませんよ! ただ……う、後ろからの不意打ちが、卑怯だって言いたいだけなんですよ!」

「すまん、悪かった。あれはダメだった、な? だから、機嫌を直してくれよ」

「……じゃ、じゃあ」

「何だ? 何でも言ってごらん」


幸子はきょろきょろと辺りを見回し、何かを見つけたのか視点を一点に定めた。



「……あれに、乗りましょうよ」

「あれ?」


幸子が見つめている方を見ると、大きなレールの上を轟音と共に駆ける丸太のような物体が見えた。
ジェットコースターだ。このチョイスは予想外だったので、少々驚いてしまった。


「あ、あれか……」

「あれ? なんですかその反応は……あ、もしかして、怖いんですか?」


幸子は先程の仕返しのつもりなのか、にやつきながら私を煽って来た。
あの程度の乗り物ならどうという事はないが、とりあえず乗っておく事にした。


「あ、あぁー……昔から苦手でなー……」


私がそう弱音を吐いてみせると、幸子の目の色が変わった。
そしてニヤニヤと、私をなじり始めた。


「ふふん、そうですかそうですか。情けないですね大人の癖に。恥ずかしいとは思わないんですか?
 あんなのただの速いだけの乗り物じゃないですか」



それが作り物で怖がっていた人間の口から吐かれたセリフか、という言葉は言わずに呑み込んだ。
私はまたわざとらしく頭を掻きむしりながら弱音を吐く。


「いやぁ……そういうのが、苦手、なんだよ……じゃあ、そういう幸子は怖くないのか?」

「モチロンですよ! カワイイボクに怖いものなんてあるわけ無いじゃないですか!
 ほらほら早くしてください! 次はあれに乗りますよ!」


幸子はそう言って私の手を引っ張った。コースターの方を指さしながら、彼女はどんどん進んで行く。


「お、おい幸子」

「ん? ――さん、もしかして本当に怖いんですか?」


鼻を鳴らし、幸子は渾身のにやつき顔で私を引き摺って行く。
こうして、私達はジェットコースターに乗る事となった。
ジェットコースターは流石に人気があり、今まで入ったアトラクションより随分と長い列が出来ていた。
私達はそれの最後尾に並び、とりあえず待つ事にした。

並んでいる間も、幸子の口は止まらない。
もう機嫌は直ったようだ。



「ふふんっ、――さんにも怖いものがあるだなんて、正直意外でしたねぇ。まさかこんなものが怖いだなんて」

「あぁ……そう、だな」


もう入口に片足を突っ込んだかというところで、私は横目でふとコースターの前にかけられたある物を発見してしまった。
荷物預かり場所と、レインコートだ。成程、あの丸太のようなコースターにはそういう意味があったのか。


「スカイダイビングの時はあんな高所でも全然怖がってなかったのに、どうしてこれが怖いんですか?
 全く、よくわかりませんねぇ――さんは。こんな物あれより全然怖くないでしょう。
 あれ、どこ見てるんですか? しょうがないですね、――さんがカワイイボクから目を離してしまわないよう、目の前にいてあげます!」


幸子はそう言うと、私の前に躍り出た。これではもう、彼女からは私が邪魔になってレインコートは見えないだろう。
あのコート等の存在にも気付いていないらしい。

教えてやろうかと思ったが、どうせ入口付近に行けば嫌でも気付くだろうと思い、放っておいた。
気付かなかったら気付かなかったで、面白そうだという理由もあったが。


「あ、もしかしてあの時もビクビクしてたんですか? ボクのコトを笑ってたのに、情けないですねぇ。
 本当は足がガクガクだったんでしょう、違いますか? 違いませんよね?」


しかし、幸子は私から目を逸らそうとしない。楽しそうに喋り倒している。
そんな無知で幸せそうな彼女を見ていると、列は進み、私達はコースターの前まで来ていた。


「あ、そろそろですね。良いですねぇ、――さんの怖がる顔を拝めるんですから。
 写真とか無いんですかね、たまにこういう所だとあるじゃないですか」

「残念ながら無いみたいだぞ」

「そうですか……せっかくこのカワイイボクと無様な――さんのツーショットを対比して楽しもうと思ったのに残念ですね。
 きっと愉快ですよ。ふふっ、楽しそうですねぇ……」


幸子が目を瞑って何か耽り始めた。大方、コースターに乗っている最中の事でも考えているのだろう。
恐らく想像している事は起きないと思うが。
私はその隙を突いて、レインコートを素早く取った。


「あれ、どうしたんですか? ……ふふん、もしかして、出たくなりましたか?
 怖気づきましたね? 怖いんですね? ほらほら、乗りたくないならちゃんとお願いして下さいよ。
 モチロン、お断りしますけどね!」


どうやら、気付かれずに取れたらしい。
こちらを見ていたはずなのに、気付かないというのもおかしな気がするが。
私はレインコートを背中側に持って隠し、平静を装った。


「いや、もう腹を括ったよ。さぁ、乗ろうか」

「そうですかそうですか。では乗りましょうか!」


そうして、にやついたままの幸子と共に私はコースターに乗った。
乗りこんだと同時に、私はレインコートを着こんだ。そしてすぐに安全の為の固定装置が降りてきた。


「ふ、ふふんっ。け、結構、圧迫感がありますねこのジェッココースターの座席は!
 この固定してるもののせいもあるんですかね?」


今更になって怖気づいたのか、幸子の声が若干震えていた。
結局こういうのも怖いのか、お前は。



「さぁな。さぁ出るぞ」


固定装置が完璧に動かなくなり、私達もついに座席に貼り付けになった。妙な拘束感に心臓がざわついた。
そして陽気なアナウンスとけたたましいブザー音と共に、コースターが動き始めた。

我々を乗せたコースターはゆっくりと進み、最初の上り坂を登り始めた。
じりじりと、登ってゆく。自由を奪われた中、まるで追い立てられるような錯覚を覚えるような速度だった。


「な、中々登りますね! こんなコースターの見た目だから、もっとチャチなものだと思ってましたよ!」

「あぁ、そうだな」


コースターは頂上に辿りついた。園にいる人々が、ただ小さく、色取り取りにうごめく点のように見える高さだ。
今からここを落ちるのかと思うと、流石の私でも少し縮みあがった。


「どうですか――さん! 楽しんでますか!」

「あまり喋るな、舌を噛むぞ。それに、実はこういうのは苦手じゃないんだ。興奮してるよ」

「えぇ? 何言ってるんです――」



幸子が言い終わらないうちに、コースターは急転直下した。
下から重力が襲ってくるような感覚に、股下から脳天へ鋭い何かが体を貫いた。
凄まじい速度で下ったかと思ったら、今度は蛇のようにうねった道をコースターは突っ切り始めた。

コースターの轟音と共に、吹き飛ばされそうになる程重力に圧され、下へ、上へ、左右へと体が持っていかれる。
必死で固定装置にしがみ付き、歯を食いしばって速度に身を委ねる事しかできない。
しかし、風を切る心地よさが何とも言えない爽快感を生み出す。
高揚感と恐怖が綯交ぜになった、言いようの無い興奮が脳内を駆け廻る。

風に顔を打たれながら、横目で幸子を見る。
幸子は目を瞑り、前かがみになりながら必死で手すりに捕まって耐えていた。
時々こちらに首を向けてはいたが、目を開けているのかどうかまではわからなかった。
この速度では目を開けたり、喋る余裕も彼女には無いのだろう。
いつも立っているあの横跳ねの髪が、風になびいても形が分かるようになっていたのには驚いたが。

そして、ミキサーにかけられたように何度も重力に引っかき回された後、コースターはまたゆっくりと登り坂に入り、やっと大人しくなった。
落ちついた所で、幸子を見た。風で服が乱れて皺くちゃになり、息も絶え絶えになっていた。
私の視線に気づいたのか、幸子は平静を装って澄まし顔を作った。


「な、何ですか――さん。さっきからボクをちらちら見ているようですけど……あ、わかりましたよ!
 ボクがカワイイから見ていたんですね? 全く、こんな状況でもそんな行動を取るなんて、屈強ですね――さんは!
 ほら、遠慮なんてしな……な、なな何ですかそのシートとレインコートは」


ようやく幸子はこれの存在に気付いた。が、もう遅い。
コースターは坂を登り終わり、後は最後の下り坂を落ちるだけだった。
そしてその先に待っているのは、巨大な水溜まりだ。


「あぁ、そう言えば言って無かったけどこのジェットコースター、水が凄いんだってさ。水」

「え? 水?」


幸子が何か言おうとする前に、コースターはまた轟音をあげて急落下した。
そしてコースターが水を切り、巨大な水飛沫を巻き上げた。
弾けるような音を上げて水が私達に襲いかかった。


「フギャー!?」


コースターが水に飲まれ、搭乗者全員が盛大に濡れた。水飛沫の中に、小さな虹が見える。
日差しと遊園地が織りなすカラフルな色達が、その虹をより幻想的な物にしていた。
後ろの座席の方で、子供がそれを見て喜び叫んでいる。

レインコートを纏った他の搭乗者は、皆思い思いの歓声をあげていた。
ただ一人、何も対策をしていなかった者以外は。


「……」

「おい幸子。水凄いな?」


私はにやつきながら、幸子に質問する。この時私がしていた表情は、恐らく心底性根の悪そうなものだっただろう。


「……なんですか、これ」

「入口にあっただろうレインコートが。私だってその近くで荷物を預けたし、見てなかったのか?」

「み、見てませんよ! というか、知ってたならボクに教えてくれたって良いじゃないですか!」

「いや、普通気付くだろ周りを見ていれば。何をお前は見ていたんだ?」

「そ、それは、そうですけど……」


意地悪い質問を、幸子に投げつける。


「まさか……本当はお前の方が私しか見てなかったんじゃないか?」


幸子はハッとしたように驚いた。見る見るうちに顔が赤くなっていく。


「なっ……な、何言ってるんですか! 自惚れにも程がありますよ! だ、誰が冴えない――さんなんかずっと見てるんですか!」


幸子は弁解するようにそう言ってから、恥ずかしそうに視線を私から外してしまった。
コースターが出発地点へと戻ってきた。固定装置が上がり、ようやく私達はコースターから解放された。


「ふぅ……いやぁ凄かったな幸子、次は……幸子?」


コースターから降り、次は何処へ行こうかと幸子に話しかけた。
が、幸子からの返事は無かった。見ると、幸子は私の横で小さく肩を震わせていた。
水が髪から滴り落ちている。そして、小さくくしゃみをした。


「お、おい。大丈夫か」

「だ、大丈夫ですよ……ハ……クシュン!」

「あぁ……またやり過ぎたよ。ゴメン、ちゃんと教えれば良かったな」

「な、何ですか今更……ほ、本当に――さんはそういう気が利きませんね!」

「いやぁだって……普通気付くだろ。あんなにデカデカと用意してあったんだぞ?」

「そ、それは……ほ、ほらあれですよ! こんなびしょ濡れになってもカワイイボクを、見せつけてあげようと思っただけですよ!
 水も滴るボク、カワイイ……いや、セクシーですね! あの総選挙の結果の通り、時代はボクみたいなセク……ハクシュン!」


どうだと言わんばかりの顔をしたが、吹いてきた風に体を撫ぜられ、また彼女は寒さを催しくしゃみをした。


「……あ、あぁまぁ……そうだな……ほら、一応タオルは持ってきたから、拭くよ」


私は持ってきたバッグからタオルを取り出した。そしてタオルで彼女の頭を包むようにして拭き始めた。
痛くならない程度に爪を立てて拭いてやると、小さく幸子の頭が揺れた。


「ん……せっかく、頑張ってオシャレしてきたのに……」


幸子は俯き独り言のように呟いたが、私にもしかと聞こえていた。


「……まぁ、悪かったよ。綺麗な服着て来たのにな……」

「えっ、あっ……べ、別に! このくらいのコーディネートはどうってコト無いですよ!
 全くもって――さんの為に前日から必死になって選んだとか、そうなコトあるわけ無いじゃないですか!」


相変わらず、駄々漏れだった。


「……つまり、私の為にオシャレをして来てたと」

「ち、ちち違いますよ! お母さんにも相談して無いですし! そ、それに!
 ――さんの為にオシャレをするなんて、あるわけ無いでしょう! このボクが!」

「……私の為じゃ、無いのか?」


私はまた意地悪く、声のトーンを落として幸子に聞いた。



「えっ……な、何ガッカリしてるんですか? えっ、ほ、本気ですか?」

「……月並みな言葉しか並べられないけど、その服……あぁ……私は、好きだぞ。
 私の趣味に合わせてくれたかと、最初は思ったが」

「あっ……そ、そうですか……そ、それなら? ――さんの為というコトでも、別に良いです、けど?」

「……何だそれ」


私は苦笑いをして、少し強めに頭を掻くように拭いてやった。


「うわっ」

「まぁ、そういう事にしておいて貰うよ。ありがとう、幸子」

「ち、違いま……はぁ、じゃあもうそういうコトで良いですよ……」


恥ずかしそうに、だが少し嬉しそうに、幸子はまた素直じゃない言葉を吐いていた。


「あぁ。そういう事にさせて貰う」


改めてを服を見た。紫陽花のような淡い青色が、水に濡れて幸子の身体に貼りついている。
その服に何か薄らと、胸部と腰付近にラインが見えた。私はそれが一体何なのか一瞬で気付き、慌てて視線を上に逸らした。


「……どうしたんですか? 上なんて見て……空なんかよりボクを見ましょうよ」

「い、いや……く、くしゃみが出そうになってな……結局出なかったが」


私は慌ててそれらしい言い訳をした。しかし、視線は幸子に合わせられず泳いでしまう。
幸子は何かいぶかしげに見て来たが、小さく鼻で息をつくと私にそのまま頭を拭くように促してきた。
何とかばれずに済んだらしい。安堵した所で、私は背中に何か嫌な汗を流していたのに気付いた。私も、随分と純情なようだ。


「……さて、もうだいぶ頭は乾いただろう。もう良い時間だし、一旦昼食を食べようか」

「そうですね……」

「……寒くないか?」

「さ、寒くないです……あぁ……――さん? やっぱり、その上着を貸してくれてもいいんですよ?」

「……わかった」


幸子に私の上着を羽織らせて、また手を繋いで昼食を食べに向かった。
私の上着を羽織り、私に体を預けるように寄り添う幸子は、何処か上機嫌であった。


昼食を済ませると、幸子の手に引かれるままに色々なアトラクションに乗った。
メリーゴーランドやコーヒーカップ、急落下式のエレベーターのようなアトラクションにまで。
そして何故だかわからないが、先程のジェットコースターにも二回程乗った。

ひたすら笑い、はしゃぎ、時間はあっという間に過ぎていった。

気付けば園内には斜陽が射し、園内に長い影が差し始めていた。
子供達のはしゃぐ声がまるでこの場に置いて行かれたこだまのように、とても遠くから聞こえてくる。
夕暮れの温かくそして清涼な空気が、心地の良い甘い疲労感を私に流れさせる。


「――さん! さっき乗ったジェットコースターの行列少なくなってますよ! もう一度乗りましょうか!
 ――さんはレインコート無しで良いですよね!」


もう夕暮れになったが、幸子は全くいよいよ元気である。時間が経つにつれてむしろ元気が増しているようだった。
私の手を握る事にはもう躊躇いも無くなったらしく、昼食以降移動中はもうずっと握ったままだった。
幸子は私の手を、まだずいずいと引っ張っていた。



「いやぁ、もう三回も乗っただろ。それに疲れたよ……もうそろそろ帰らないといけない時間だし……」

「全く何言ってるんですか! 小学生じゃあるまいし」

「お前もさして差は無いだろう……帰ろう、幸子。親御さんにも危なくないようによろしくって言われてるんだから、ちゃんと帰さないと怒られるよ」

「いえ、それは大丈夫ですよ。だからもっと何かに乗りましょうよ」

「あぁ? どういう……あぁほら引っ張るな……わかったから、何かに乗るから。
 乗るからもう少しトーンを落としたのに乗ろう。ただし、これが最後にしてくれよ」


幸子は不満げに見つめてきたが、溜息をついて「しょうがないですね」と言った。


「じゃあ次に乗るので最後にしましょう……最後は、アレに乗りましょうか」


帽子を片手で押えながら、幸子は夕日に照らされた巨大なアトラクションを指差した。



「……観覧車か」

「あれなら、――さんみたいなおじさんでも、乗れるんじゃないですか?
 別に、ただ座ってるだけで良いんですから」

「……良いのか? あれで」

「何ですか? ボクと観覧車に乗るのが、不満なんですか?」

「いや、むしろ嬉しいしありがたいが……もっと幸子は凄いのに乗りたいものだと思ってたから、意外と思っただけだよ」

「――さんに合わせてるだけですよ。ふふん、ボクに感謝して下さいね? 優しい優しいこのボクに」

「ありがとう……じゃあ、乗ろうか。案外、観覧車に人がいるみたいだから急ごう」


今度は逆に、私が幸子の手をゆっくりと引いた。
幸子は帽子で目を隠したまま、それを受けた。


「……えぇ。良いですよ」


彼女の手に力が籠った。そして、妙な熱も。
その熱に言いようの無い幸福を胸に詰まらせながら、私は彼女の手を引いて観覧車へと歩く。
観覧車前には人が集まっていたが、行列を作るという程でも無かった。
さして待つ事無く、私達は回ってきた空席に乗りこんだ。


「それでは、ごゆっくり」


係員が扉をゆっくりと閉めた。ゆっくりと、観覧車は私達を乗せて周り始めた。
心地の良い揺れが私達を揺する。二人だけの空間が、静かに張り詰めた。


「……なぁ、幸子」

「……なんですか?」

「観覧車っていうのは……普通、お互い向かい合うようにして座るものだと思うが……」


幸子は帽子を脱いで私の腕を掴み、頭を私の身体に任せるようにして寄り添っていた。
観覧車という狭い密室で鮮やかな朱色の夕日に照らされながら、私達は密着していた。


「良いじゃないですか……こんなにカワイイボクと一緒に観覧車に乗れるという事自体が既に幸福だと言うのに、
 何か不満があるんですか?」

「いやぁ……それは良いんだが……」


腕に抱きつかれ、年甲斐も無く、私の心臓は肺を押し込めようとしているのかと思うくらいに高鳴っていた。


「ボクは今機嫌が良いので、こうしてボクに肩を貸す事を特別に許してあげますよ」

「……そうか」

「光栄に思って下さいね? このボクをプロデュースできる上に、こうやって隣にいられるという事を」


幸子はそう言って、私の腕に頭を更にすり寄せてきた。


「……あぁ」


彼女の頭を撫でてやる。彼女は目を瞑り、静かに顔を綻ばせた。
その表情を見て私は、今すぐにでも彼女を抱きしめたいという衝動に駆られた。
しかし何とか踏みとどまる。まだダメだ。彼女の口から、ハッキリと聞くまでは。

再び静寂が訪れた。私達が居た景色は遠ざかってゆく。この世界にいるのは私と幸子、この二人だけになったような気がした。
ずっとこのままでいいのかも、知れない。このまま、離れて行く世界に戻らないでいても。


「――さん」


私がこの幸せに耽ってぼんやりと外を眺めていると、ふいに幸子が私の名を呼んだ。
あの日、車内で流れたよそよそしい空気がまた戻ってきた。私は身構えた。


「……何だ?」

「……この間言った、約束の、ことですけど……」


幸子に視線を向ける。幸子は私の腕から離れ、真っ直ぐと私を見つめていた。
私も、彼女の目をじっと見つめた。


「……まぁ、何でも言ってくれ。お前の、努力に見合ったものを提示できるかは、わからないが……」


私は微笑みながら、何も緊張する事は無いと言うかのように彼女に言った。
しかし、彼女は私の予期する事とは違う事を口にし始めた。


「もう……ボクと――さん、一年以上も一緒にいるんですよね」


溜息の混じった言葉。幸子に似つかわしくない、何かを回顧するような発言だった。


「……あぁ、そうだな。色々あったよ……幸子はCDデビューもしたし、テレビの露出も相当増えた。
 おかげで、休む暇も無くなった」

「えぇ。――さんがボクのために犬のように働くのが楽しくて、ついボクも本気を出してしまいましたよ」

「私は、幸子の為なら何だって厭わないから」


私はキザな台詞を言った。本心だったが、やはり恥ずかしいものはあった。
私の言葉を聞き、幸子は意を決したように口を真一文字に結んでから、口をゆっくりと開いた。


「……――さん」

「……何だい」

「……ずっと……これからも、こんな感じですよね」

「こんな感じ……いや、もっと忙しくなるさ。幸子のカワイさを世に広める為にも、そうでないと困るだろ?」

「そう、ですよね……」


彼女は下を向き、躊躇うように微笑んだ。そして大きく息を吸い込んだ。
幸子の息が震えている事に私は気付いた。幸子の手を優しく握った。
彼女の息が整うのを、じっと待った。

そして彼女が何度か大きく息をした後、彼女は私の手を強く握り返し、私をまた真っ直ぐと見つめた。


「……その為には……その、ボクにずっとついて来てくれないと困ります」

「あぁ」

「だ、だから……――さんには、ボ、ボクにずっと仕える権利をあげます。
 ボクの横に、ずっと立ってなければならないように……その、権利を……」


目は潤み、声は震え、最後の方は聞きとるのがやっとの掠れた声。自分の全てを振りしぼるような言葉。
だが、それが彼女の目いっぱいの言葉だった。

その言葉に、私の胸は締め付けられ、喉は嗚咽にも似た疼きをあげていた。


「……――さん。その……えっ?」


私は気付くと彼女を抱きしめていた。強く、私と彼女の隙間が無くなるように。


「……あ、あのっ……これは……」

「……こういう事で、良いんだな」

「えっ? あ……あの……」


幸子は自分が今どういう状況にいるのか正確に理解できていないのか、言葉にならない声を出し続けている。


「何も言わないなら、そう受け取る」


彼女の頭を自分の肩に引寄せるようにして、耳元で彼女にそう囁く。
彼女の顔は見えない。見る余裕も無かった。
ただ、彼女が欲しかった。必死で、私は彼女を抱きしめていた。

私達は固まった。彼女は抱きしめられたまま、私を突き放そうともせずにじっとしている。
すると、彼女の体がピクリと震えた。何かを堪えるように、小さく息を漏らしている。
そして、私の背中に彼女の手が、ゆっくりと手を回された。


「い、良いんですか……そ、その……ここ、こんなコト、担当の、アイドルにして……」

「……我慢、してきたさ。ずっと、ずっと……我慢して来た。だが、私にだって、限界がある。
 限界が、あるんだ」


振り絞るように、私は思いの丈を吐きだしていた。
そうだ、我慢してきた。彼女の事を、仕事の事以外でも考えるようになっていた。
彼女の笑顔に幾度も心臓を震わせた。

そして彼女と約束を交わしてからは、まるで体を病に蝕まれたかのように体の自由が利かなくなった。
言いたくても言えない言葉を飲みこみ、自分を殺し続けてきた。
だが、それももう終わりだ。


「そ、それでも……ボ、ボク……」

「幸子と同じくらい……私も悩んだんだ……。
 幸子がさっき言った言葉を……違う言い方にして、言おう。いや、私の思っている事を、言おう」


私は彼女の両肩を掴み、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
やっとこの言葉が言える。私を苛ませ、幸福であらせたこの感情を。



「私は、幸子が好きだ」


私の言葉に、彼女の目が見開かれた。


「……ずっと、好きだった。いや、愛してる。多分、あの時から……私と幸子が、始めてわかりあえた、あの時から」

「……――さん……」


彼女は時が止まったように固まり、私の目をただ見つめていた。

そして、時が動き出した。彼女の頬に涙が伝う。紅潮した頬を、ゆっくりと落ちて行く。
幾重にも涙は頬を伝い溢れていった。


「あ、あれ……お、おかしいですね……なんで、ボク……ボク……泣いて……」


涙は止まらず、彼女の小さな嗚咽が肩を掴んだ私の手に伝わる。
私はまた、彼女を抱きしめた。そしてまたゆっくりと頭を撫でていた。



「ずるい、ですっ……ボクは、我慢して、言わなかったのに……貴方は……貴方はっ」

「前に、言ったよ。私は……好きな人の為なら、見境が無くなる人間だって」

「そ、そう、ですけどっ……ですけど……」


彼女を一旦離し、微笑みながら彼女を見つめた。
幸子は目を拭い、涙を必死で止めようとしている。


「ほら、笑って。私は、幸子の笑顔に惚れてしまったんだ。あの、可愛い笑顔に。だから、笑ってほしい」


頬に伝った涙を指で優しく拭いながら、私は懇願した。
幸子は呆けたような顔をした。そして、彼女は――。



「……はいっ」


目元に涙を残しながらも、私の為に笑ってくれた。
彼女の顔を照らす夕焼けにも負けない、文句のつけようが無い満面の笑顔だった。

その笑顔に、私の全身が絆されるように熱を帯びた。
私は体は突き飛ばされるように動き、彼女の唇を奪っていた。

粘膜が触れ合うだけの、唇が重なるだけのキスだった。
だがたったそれだけで、私の体は縛られたように動かなくなった。
息をする事すら忘れ、私の芯を、鉄をも溶かすような熱い何かが突き抜けて行くような、そんな衝撃に縛られてしまった。
彼女も動かない。ただじっと、私と唇を重ねていた。

どのくらいそうしていたのかはわからない。
強く力を入れてしまえば、壊れてしまいそうな小さな体を抱きしめて、私達二人は固まっていた。

観覧車が暗がりに入り、もう少しで昇降口に戻るという所で息苦しさを感じて我に返り、私は慌てて彼女から唇を離した。
二人とも酸素を求め、荒々しく肩を上下させた。


「ご、ごめん幸子。その……大丈夫か?」


私は反射的に彼女に謝っていた。
慌てて空気を肺に送り込んだ為に、幸子は咳き込んでしまっていた。


「だ、大丈夫です……大丈夫……」


そう言いながら、幸子はまた三回立て続けに咳をした。
私は幸子の背中を摩りながら、落ち着くのを待った。


「あぁ……その、何だ……ごめんな、浮かれてしまって……」

「さすがに、見境無さ過ぎですよ……いきなり、こ、こんなコト……」


幸子は先程の行為を思い出したのか、語尾の方を口ごもらせながら赤くなった顔を隠すように俯いてしまった。


「な、情けない話だが……我慢できなかったんだ。幸子が、可愛くて……胸が締め付けられるようで……」

「そ、そんな直球で言わないでくださいよ……は、恥ずかしいじゃ、ないですか……」

「そう言われても……仕方が無いとしか言いようが無いんだよ……」

「……し、仕方が無いって……」


私達が言い合っていると、ふいに扉が開いた。
どうやら昇降口についてしまったようだ。
スタッフに促され、私達は慌てて観覧車から出た。何とか、あの場面は見られていなかったらしい。

夕日は私達が観覧車を降りたのとほぼ同じ頃に沈んでしまったらしい。
朱色を紺の波がゆっくりと飲みこんでいる。
既に周りは暗くなり、ガス灯を模した照明とアトラクションの華美なイルミネーションが、園内を煌々と照らしていた。
先程の熱にうなされたままの頭を振るい、私は平静のように幸子に話しかけた。


「……さて、もう最後のアトラクションに乗った事だし、車に戻ろうか」

「……そう、ですね」


意外な事に、幸子は先程の事を蒸し返そうともせず、私の手を握って歩き始めた。
私は彼女に引っ張っていかれるような形で、彼女に続いた。

土産を買うような事もせず、私達は慌しく時を過ごした遊園地から出てそのまま駐車場へと向かった。
斜陽は堕ちた。私達は車に乗り込み、この遊園地を後にした。



――

とりあえず今日はここまで
遅れてすまんね



「……その、幸子」


車を走らせながら、私はぎこちなく幸子に声をかけた。


「な、なんですか?」

「えぇと……その、だな……私達は、あれか……そういう関係という事は、確かだよな」


自分からそういう関係を望んだ癖に、どうしても言い淀んでしまう。
冷静になり、今更自分達の関係を顧みたからだ。


「……違うんですか?」

「……いや、違わない」


何を怖気づいているのか。私は自ら進んで彼女に思いを打ち明けたんじゃないのか。


「……そうだ。そうだな」


自分を奮うように私は呟いた。



「……どうしたんですか?」

「いや、なんでもない。さて……どうしようか。何処かで、何か食べようか。そうだ、この前行きそびれた店に行くのはどうだ。
 あっ……でも、家でご飯を用意して貰ってるかな? それなら、連絡して……」


私は捲し立てるように言葉を出した。


「その必要は無いですよ」


だが、幸子の強い語気に遮られ私は言葉を続けられなかった。


「そ、そうか……もう外で食べる事は言ってあるか。まぁそれなら――」

「違いますよ」


幸子は静かに、そして強く私を制した。
私が彼女とあの約束を取り交わした時のような、そんな勢いが幸子にあった。
目の前の信号が赤に変わる。ブレーキを踏み、車を止めた。
私はその隙に彼女の方へ振り向いた。


「じゃあ、一体どういう……」


幸子は呼吸を整えるように深い息を一つ吐き、零すように言った。



「ボクは今日、友達のアイドルの家に……泊まる。そういう風に家族の中ではなってます」


最初は、その言葉の意味がわからなかった。
だが、彼女の真剣な眼差しを見て、ようやく意味がわかった。


「……それは……どういう、意味だ」

「……言わせるんですか?」


私は言葉が詰まった。この言葉が意味する所はつまり、私の家にでも泊めろという事だろう。
そして、彼女のあの時の震えるように零れ落ちた深い息。
あれはとどのつまり、何かを想定して出たもののはずだった。

平静ならば、私は理性の人間であるという自負はあった。
しかし先程のように衝動に駆られ彼女を欲してしまうような人間でもある。
とどのつまり、私もさもしい男なのだ。それが、心配であった。


「……幸子。その……何だ。言葉の意味をちゃんと汲み取れているのなら良いが……。
 そんな事をしたら、大変だぞ」

「何が……大変なんですか」

「それは……どこに記者とかがいるかもわからないじゃないか。そんな所をすっぱ抜かれてみろ。
 こんな、大事な時に……」


私は極めて全うな意見で反論をした。しかし、私はわかっていた。
こんな言葉で、彼女を説得できるはずがないと。



「……大丈夫ですよ。ちゃんと、変装用の服だって持ってきたんですから」


そう言うと、幸子は少し大きめのバッグから暗色のTシャツを取り出した。
このバッグを、もう少し観察しておけば良かった。不自然でない程度の大きさで、気にも留めていなかった。


「ボクはいつも――さんが用意した衣装を着たりしてますから、こういうのならボクと関連づけにくいでしょう?」

「あのなぁ……お前くらいの背格好の子を男の一人部屋に連れていく時点で、記者云々の前に危ないんだよ」

「そのボクに、耐えきれず劣情をもよおした人の口からそんな事言われても、説得力が無いと思いますよ」


至極真っ当に、私の心臓を抉るような正論を叩きつけられた。


「……幸子、難しい言葉知ってるんだな」

「そ、それは……まぁ、ボクくらいになればそういう言葉くらい知ってますよ」

「……そうか。だがなぁ……幸子が親御さんに言った嘘、本当にバレてないのか?」

「大丈夫ですよ。普通に、信じてましたから。それに、――さんの事は一応信用してるみたいですし」

「……そう、か」


緑の光が点滅している。私達を乗せた車の前を、人々が慌ただしく横切って行く。



「ですから……」


幸子の腕が座席越しに、私の胸元に回された。
柔らかく温かい、女性の手だった。


「……行きましょう」


その言葉が、私の胸が熱くなった。
信号が変わる。私はギアを変え、何かに気圧されるようにアクセルを踏み込んだ。



――



押し潰された空気を乗せて、私は車を駆った。
車は何かに巻き込まれる事も無く、家に私達を運んでくれた。


「ただいまー……」


誰もいない家に、意味のない帰宅宣言をした。
そしてゆっくりと、誰かを憚るように扉を閉める。
扉がきりきりと軋みをあげながら閉まった。


「……誰もいないでしょう」

「いや……いつもの、癖でな」

「……男の人の一人暮らしって、寂しいですね」

「まぁ、そんなもんだよ」


幸子に言われるがままに、私は彼女を自宅へと上げていた。
しかし、ここに来るまでは気が気では無かった。
幸いにして、私が住んでいるマンションの駐車場は奥まった所にあり、ここの住人以外は駐車場内部を見る事もできない。
後は細心の注意を払い、住人に見つからないようにするだけであった。
それでも、かなりの心労を負ってしまったが。



「とりあえず、遠慮なく上がらせて貰いますね。へぇ、間取りは普通にワンルームですか」


私の家は所謂一人暮らし向けのワンルームだ。寝る為の部屋以外には、ユニットバスとキッチンがついているだけである。
一応、キッチンと部屋は扉で区切られている。


「あぁ。別に部屋が多くても、意味ないから」

「まぁ、そうでしょうね。それにしても……」


幸子は奥の部屋に行こうとせず、じっとキッチンを眺めていた。
その光景に、何故だか鼓動が早くなった。そして、私の止まっていた脳に血が巡り始めた。

この状況は、はっきり言って異常じゃないか。担当のアイドルを、年端もいかない少女を、自宅に上げるなど。
また私は衝動に任せてこんな行動をとってしまっている。
あのまま腕に絆されて、私はまたこんな事を。

今更になって少しだけ冷静さを取り戻し、私は意味の無い思考と自己嫌悪に苛まれていた。

どうすれば良い。まだ部屋に上げただけだ。今から帰せば、何とか……。


「――さん」

「……」

「……もしもし――さん、聞いてるんですか?」

「……えっ? あ、あぁ……すまん。何だ」

「聞いてなかったんですか……――さん、以外と料理するんですねって言ったんですよ」


幸子はむすっとしながらシンクに並べられた調理器具を指差した。



「あぁ、料理か……自炊の方が節約できるから、自然とするようになって、自然にできるようになっただけだよ。
 ただ、焼くのと煮るのくらいしか出来ないがな」


この業界では何があるかわかったものではない為、貯金は多めにとる事にしている。
それでも、職場付き合いの外食費などで浪費してしまい思うように溜まらないのだが。


「それでも十分じゃないですか? それに、部屋の方もそこまで汚くないみたいですし……。
 案外、人並みな生活はしているみたいじゃないですか。安心しましたよ」

「まぁな……」


ここ最近は仕事が忙しく、寝る程度の事しか家ではしていなかった。
生活感は幾らか薄れているかも知れない。一応朝食だけは摂っていたが。


「じゃあ、晩御飯は――さんが作って下さいよ」

「……そうなるか」

「当たり前でしょう。お昼から何も食べてないんですから、お腹も空きますよ。
 とびきりおいしいのをお願いしますね!」

「……はいはい」



この状況でも、幸子は案外いつも通りであった。

――私の、勘違いでは無いのか?

幸子の姿を見てそんな考えがふと、私の脳裏に過った。
彼女は、まだ子供だ。況してや良い所のお嬢さんなのだ。
そういう知識を、持っていようか?
彼女にとっては、好きな人の家に行くだとか、あまつさえそこで食事をするだとか、そういうのが彼女の想像し得る限界なのではないか。
私のような、邪な考えなどきっと持ち合わせていないはずだ。
ただ、大人のやるような事の真似をして、あんな事をしただけなのではないか。

私の頭が、そう都合よく働いた。
大きく溜息をついた。ようやく、冷静さが戻ってきたようだ。
が、それと同時に消沈している自分がいる事もわかってしまった。

私はその考えを振りほどくように頭を小さく振るい、手に持っていた幸子と自分の荷物を廊下に下ろした。
努めて平静に。


「……もう荷物はここで良いか」

「えぇ。どうせ部屋は狭いんでしょうから、ここに置いた方が良いと思いますよ」

「言ってくれる……なぁ、幸子」



不意に、私は彼女の名前を呼んでいた。
まるで、私の内心に体の制御を奪われたかのように、意識の範疇の出来事であった。


「何ですか?」


本当に私達は、と言いかけたところで私はようやく口をつぐんだ。
続きの言葉を押し込めるように呑み込む。


「……いや、何でも無い。別に荷物はここでも良いか」

「そんな事より、早くご飯作りにかかって下さいよ。ボクはもうお腹ペコペコなんですよ!」

「ペコペコ、ねぇ……全く、カワイイ言葉遣いだよ。
 ほら、料理は私がちゃんと作るから、幸子はさっさと部屋に入った入った」


キッチンから追い立てようと、何とも無しに幸子の肩に手を置いた。
その時だった。彼女の体が怯えるように震えた。


「あ……」


幸子はすぐに私の手から離れ、視線を落とした。
両手を胸元に置き、不安そうに瞳を揺らしていた。

――あぁそうか。やはり、彼女は。



「……えっと……幸子?」


私は彼女に手を伸ばそうとした。


「だ、大丈夫ですから……」


しかし、彼女は私の手から逃れるように一歩退いた。


「……幸子」

「大丈夫……な、何でもないですから……」

「無理は――」

「ボ、ボク……部屋で、待ってますから……は、早く作って下さいね! それじゃあ!」


そう言って、慌ただしく扉を開けて部屋に入った。
乱暴に扉が閉められる。私は一人、さびれた台所に取り残された。

虚空に止まった私の手は、この沈んだ空気に引き摺られるように力無く降ろされた。
私はしばらく、扉のガラスから漏れる光をぼうっと見つめていた。



――


何とか意識を取り戻し、料理を作った。
手っ取り早く作れる物をあるだけ作り、テーブルに乗せた。
そして、小さなちゃぶ台を二人で囲みながら、私の作った料理を食べた。
味はわからなかった。ただ黙々と、無意味に咀嚼を多めに取り、私は料理を胃に押し込んだ。
会話も無かった。テレビの中で、大勢が笑っていた事だけは覚えている。

そして、作業とも呼べるような食事を済ませた。
私達は所在無いフリをして、押し黙り、互いに視線を合わせようとしなかった。
それから、十分程経ったか。私はこの空気に耐えきれず、幸子に話しかけようとした。


「な、なぁ……」

「あ、あの……」


二人の声が、示し合わせたかのように被った。



「な、何だ幸子」

「い、いえ……――さんから、どうぞ」

「そうか……あぁ……わ、私はちょっと、買い物に行ってくる」


急用をでっち上げ、私は一旦外に逃げようとした。


「そ、そうですか……まぁ、良いじゃないですか? ボクが、部屋にいるんですから」

「……あぁ、幸子は、私に何を言おうとしたんだ?」

「……その……」

「何だい?」

「……お、お風呂は……どっちが、先に……」


目を伏せ恥じらいながら、幸子は私に聞いた。
私は一瞬何を言われたのか理解できていなかった。
呆けてしまったが、何とか意識を取り戻し口を開いた。


「あ、あぁ……風呂……風呂か。き、着替えはあるのか?」

「あ、ありますよ……ちゃんと」

「そ、そうか……なら……幸子が先に入ってくれ。私が、外に行っている間に……タ、タオルは好きに使ってくれ」

「……そう、させて貰います」



幸子はいそいそと立ち上がり、扉を開けて洗面所に向かった。
私はたった一つしかない部屋に取り残された。
テレビでは、いつの間にかニュースが流れていた。重苦しい口調で、キャスターが何かを述べている。

扉の向こうから、布が擦れる音が聞こえてくる。
荷物から着替えでも取りだしているのだろうか。

私の家で、衣服を着替える女性が居る。
そんな浅い考えが私の頭を駆け巡っていた。

扉が閉まる音がした。どうやら幸子は本当に風呂に入ったらしい。
私の緊張感は、いよいよ現実的なものになってきた。


「……私も、行くか」


私はテレビを切り、鍵と財布、そして携帯をポケットに入れて外に出た。
私が住むマンションの向かいにある24時間営業のスーパーを目指し、つっかけを引き摺りながら私は明りの少ない闇夜を歩いた。
人気の無いせいなのか、それとも淡い輪郭を持つ暗闇のせいなのか、空気が洗われたような冷たさを持っていた。
私はその冷たさに頭を晒しながら、物事を考えていた。

こうなった以上、どんな事があっても良いようにしなければならない。
子供の恋愛――幸子はまだその範疇だが――などと言うかわいいものでは無い。
私が関係を迫ったのだ。私が、しっかりとしなければいけない。

私は決意を固め、暗闇に浮かび上がるように建ったスーパーに足を踏み入れた。
逡巡せず私は二階へ向かう。二階は、薬局だった。
速足で目的の物がある棚へ向かう。



「……まさか、こんな物を買うとは……」


長方形の包みを見ながら、自分を呆れるように呟いた。
恥と妙な見栄に駆られ、私は他にいらない物をカゴに入れつつレジに向かった。
店員に怪しまれないかどうかと入らぬ事で肝を冷やしながら、私は会計を済ませた。
私は中身が見えなくなっているレジ袋に妙な安心を覚えながら、急いで品物を袋に入れて店を出た。

足を運ぶ速度は落ちない。オートロックの扉を抜け、階段を登って自分の家の扉を開けた。
中に入ると、左の方から物音が聞こえた。
弾けるように、滴るように、室内に響く音。心までも湿らせるような、あやしい音だった。
私は生唾を飲み込み、つっかけを乱雑に脱ぎ捨てて自室に入った。

幸子が上がるまで、私は部屋で横になって待つ事にした。
あの音が、こちらの部屋にまで響いてくる。
それを紛らわす為にテレビをつけた。

偶然にも、アイドルが出ている番組が放送されていた。
まだ駆け出しのアイドルが、見覚えのあるアイドルと共に何やら楽しそうに話している。
事務所の先輩との抱き合わせ、売り込みか。
最初の方はこんな事もしたな、と感慨に耽りながら私はテレビを眺めていた。
そのコーナーが終わり、CMに入った。そしてその中に、幸子が出て来た。
私の胸が跳ねた。


画面の向こうの彼女は、楽しそうに目を細め、得意顔で、イキイキと動いている。
アイドル然とした彼女がそこにはいた。
誰もがこの彼女を見て、彼女はどういう性格なのかと決めつけるのだろう。
いや、ライブだろうが、握手会だろうが、彼女の表面しか他人は見れない。
そうして見ただけの印象で、彼女を推し量るしかない。

私は微かに水音のする方を見た。
そんな風に、大勢の人間に知られ、好かれている彼女があの扉の向こうにいる。
一人の、女性として。

他人に見せない表情も、他人に言わない事も、私は知っている。
そして、私だけを好いてくれているのだ。私、だけを。
私はそれに妙な優越感と、幻想感を覚えていた。

水音が止んだ。カーテンの開く音がこちらまで響いてくる。
私の脈が、また早くなった。
私の緊張は一向にやまず、居ても立ってもいられなくなり、箪笥から自分の着替えを取り出した。

彼女が出てくるのを、胡坐をかいて待つ。
何度も深呼吸をしながら、いつまでも足踏みをして進む気のしない時間をひたすらに待った。


今になって思えば、どうして彼女を先に風呂に入らせたのだろうか。
私が普段使っている洗剤とは違う匂い、彼女が持参したシャンプーの匂いが風呂場に充満していた。
湿り、生温かい空気を孕んだ風呂場を前に、私は自分の浅はかさを悔いた。

匂いに息を詰まらせながら、私はシャワーを浴び始めた。
心地の良い熱が注がれる。湯が体に当たり、流れ落ちて行く。
その流れを見るように下を見た。自己主張していた。
私は大きな溜息をつき、壁に手をつけてうなだれるように顔を俯かせた。

蒸気の中を縫うように匂いは消えず、私に入り、苛ませる。
このままここに居るのは良くない。石鹸を取り、体をそそくさと洗う。
体全体を洗い終え、最低限のシャワーを浴びて私はあがった。

体を拭き、歯を磨く。いつも以上に念入りに磨いていた。
準備万端だな。私は自分を蔑むように心の中で呟く。
こうでもしなければ、平静を保てそうにない。

猛る心臓を沈めるように、大きな息を何度も吐く。
そして、満を持して風呂場から出た。

だが、私の決意など、何の意味を持たなかった。


「……おーい、あがったぞ幸子――」


あぁ、どうしてこうも。君は、そんな風に私を乱すんだ。


「えっ、あっ……これは……」


扉を開けた先で待っていた光景。
レジ袋に入っていたはずの避妊具を、彼女が取り出して眺めていた。


「……あぁ、幸子? 一体、何をしているんだ?」


彼女は慌てて持っている物を背中側に隠した。


「あ、あの……な、何を買いに行ったのか気になって……み、見慣れない箱があったので、ちょ、ちょっと……」

「……それが、何か……知ってるのか? どういう、物か」

「そ、それは……」

「知って、いるのか」



私は低く押し殺したような声で問い詰めた。
彼女はそれに気圧される後ずさりしたが、胸に手を当て、顔を赤らめながら目をぎゅっと瞑り、静かに頷いた。

私は生唾を飲み込み、彼女にゆっくりと近づいた。
床がみしりと、音をたてた。


「――さん、ど、どうしたんですか?」


息を殺しゆっくりと、獲物を追い詰めるような歩調で、幸子との距離を詰めていた。
彼女の不安に潤んだ瞳も、今は私を興奮させる要因にしかならない。


「――さん?」


彼女との距離が無くなった。



「あ、あの――」

「……ごめん、幸子」


彼女の言葉を遮るように、私は彼女を抱きしめて彼女の唇を奪った。
歯同士がぶつからないように注意しながら、ゆっくりと捕えるように。
今度は舌を突きだし、彼女の舌と絡ませた。
彼女と私の唾液が混ざる。舌先でかき混ぜ、絡め取る。
彼女の身体が震えた。私の腕にその小さな体を包まれ、彼女は抵抗する事なくいいようにされている。

もっと、彼女が欲しい。幸子が。
喉が張り付くようだ。彼女を貪るように求めているのに、足りない。足りないんだ。
もっと、君が。

一心不乱に彼女を求めていたがふいに、彼女と体が離れてしまった。
見ると彼女が精一杯の力で私を押していた。
幸子は息を荒くし、必死で呼吸を整えていた。それを見て、私はようやく我に返った。



「す、すまん。すまん幸子、私……私は……」


己の理性の弱さを悔いながら、私は彼女の背中をさすり、必死で彼女をあやした。
彼女はだらしなく口を開け、夢でも見るような虚ろな目で私を見つめていた。
必要以上に湿った口の中で唾液が糸を作っている。赤らんだ顔と共に、扇情的に私を誘ってくる。
その光景が、また私を突き動かそうとした。私は何とか押し留まり、彼女が落ちつくのを待った。


「――さん……急、過ぎます……」


時折咳込みながらも乱れた息をおして、彼女は言葉をかけてくれた。


「……ごめん」


私は彼女を抱きしめた。力を入れず包むように、彼女の頭を優しく撫でながら。
拒否されるかと思ったが、彼女はしっかりと抱きしめ返してくれた。



「……いいですよ、別に……ボクの事が、好きなら……。ボクのことが好きだから、今みたいなことをしたんですもんね」

「……幸子」

「……元々、こういう事だって……覚悟、してましたから」


彼女の体が強張り、私に抱きつく腕に力が籠ったのがわかった。


「幸子……お前……」

「ずっと前から、気付いてるでしょう……――さんだって、落ちつきが無かったですし……」


彼女の身体がまた小刻みに震えていた。


「幸子、無理はしなくても……」

「無理なんかじゃありません」

「……こんな事をしておいて何だが、私は、お前が怖いだとか、そういう風に思うような事はしたくない。
 それに、その……私達がこういう関係になったのはついさっきだろう? 物事には、順序が……」


私は矛盾に満ちた事を言いながら、幸子を諭そうとしていた。



「さっきじゃ、ないでしょう……」

「え?」

「ボクと――さんは、ずっと、一緒だったじゃないですか。一年も、前から」


彼女は真っ直ぐな瞳で、私を見つめてそう言ってくれた。


「そんな事も、わかってなかったんですか……」

「……幸子」

「そうでもなければ……こんな事、許したり、しませんよ……」


私の胸に頭を埋め、幸子は振り絞るように言った。



「……すまん」

「……もう一度」

「ん?」

「もう一度……さっきの、キスを……こ、今度は優しくしてくれるなら……許して、あげます」

「幸子……」


どこまでも健気で、私の事をずっと見つめていてくれた彼女を、私は見つめた。
彼女も私を見つめ返してくれた。微笑み、慈愛に満ちた目で。
その彼女の目が、私をまた誘う。

ゆっくりと、私と彼女の距離が縮まり、唇が触れあう。
私は今、心の底から思う。
この子を、好きになって良かったと。




――

今回はこの辺で
僕この手の小説とか読んだ事無いから表現出来てんのか不安だわ



あれからどれくらいの間彼女と舌を絡ませあっているのか。
もはや意識は無く、混濁し、甘くとろけてるような舌先の感触だけに体を震わせている。
胸の中でざわめく心臓が彼女を欲せと脈を叩く。

もはや、この高まる体温が私の物なのか彼女の物なのかそれすらもわからない。
全てが溶かされて、私と彼女が混ざりあってしまったのではないかと錯覚する。
口付けという言葉の持つ、芯を震わせるような甘美で妖艶な響きの意味を、私は身を持って感じていた。


「んっ……ダメっ……」


幾度か口を離そうとしたが、背中に回された腕がそれを阻む。
形勢は既に逆になってしまったようだ。息を乱し、舌を出し、彼女は私を放そうとしてくれない。
また彼女の唾液が入り込んでくる。それは神経毒のようにぴりぴりと体を蝕み、一種の危険さえ感じる程の甘さを孕んでいた。
口だけで全身を蹂躙されるような、そんな錯覚さえ覚える程に。

私はその痺れに慄き、何分も絡め合っていた舌を強引に離した。
唇が離れた後も彼女は名残惜しそうに舌を出し、離れる最後まで私を求めてきた。
未練がましく、唾液の糸が私達を繋ぐ。



「……大丈夫か?」


大きく呼吸を繰り返す幸子に声をかける。


「だい、じょうぶ……です……」


そう言いながら、幸子は口をだらしなく半開きにして、熱に侵されたように顔を上気させながら私を見つめていた。
どう見ても大丈夫そうではない。私が彼女から手を離せば、彼女はまたすぐにでも先程のようにしてくるだろう。
つい先程まで犯されていた感覚が、鮮烈に蘇る。
服の中で膨れ上がる欲望が、滞った血液を沸かし脈動していた。

私は精一杯の理性を振りしぼり、しばらく彼女が落ちつくまで待つ事にした。
顔にかかった横髪を人差し指で掻き分け、そして頬を撫でる。



「……落ちついた?」


こくりと幸子は頷いた。息はだいぶ落ちついたようだ。目も幾分光を取り戻している。
幸子は頷いた後、そのまま顔を俯かせたかと思うと、何かを決意するように顔をあげた。


「あ、あの……ふ、服を……その、あれなので……後ろを……」


耳まで赤くさせながら、弱々しく掠れそうな声で彼女は言った。


「あ、あぁ……わかった」


私はその場で半回転し、幸子に背中を向けた。
目を瞑り、背中で幸子がもぞもぞと動く気配を敏感に感じ取る。
衣擦れの音と、押し殺したような息。
今、私の後ろで幸子が生まれたままの姿になっているのかと思うと、鼓動がまた高鳴ってしまう。

彼女を纏う服が彼女の滑らかな素肌を撫ぜながら、ゆっくりと床に落ちて行く様を。
顔を赤らめ羞恥を必死で堪えながら、私の為にそんな姿になる様を。
そんな姿を想像してしまう。既に股間に血液が溜まり、熱を帯びているのが自分でも分かった。



「……ど、どう、ぞ……」


震える声で彼女は私を呼んだ。閉じた目を開け、彼女の方へ向き直る。
私は息を忘れた。
一糸纏わぬ、彼女の裸体に。

目を瞑り、羞恥で今にも泣きだしてしまいそうな表情。
興奮の熱を帯び、私を狂わせる色香を纏う滑らかな白い肌。
慎ましくも、形の整った胸。そして、その先端でぷっくりと主張する桃色。
手で隠された、彼女の秘所

全てが美しく、私を狂わせる。


「ど……どう、ですか……」


彼女の声に一拍遅れて反応し、「あぁ……」と空気の漏れるような声で返事をした。
私は生唾を飲み込み、何とか心を落ちつけようとするので精一杯だった。


「あ、あの……で、電気……消しましょう……消して、下さい……」

「……ど、どうして……」

「ど、どうしてって……どうしても……」


顔を俯かせ、閉じた足をもじもじとさせて幸子は訴える。
私は呆気に取られたように、そんな彼女をただぼうっと見つめていた。



「――さん……お、お願いですから……電気……」

「……あ、あぁ……で、電気か……ちょ、ちょっと待ってくれ」


私は慌てて立ち上がり、蛍光灯から伸びた紐を引っ張り、豆電球だけに切り替えた。
部屋が蝋燭に灯されたかのように、ぼんやりと照らされる。


「え、えっと……ぜ、全部消して……」

「全部消したら……前が見えなくて躓いたりしたら、あ、危ない、から……」


嘘だ。本当は、彼女の姿を見たいからだ。
この仄暗い室内で、浮かび上がるような彼女の姿。そんな光景を見たいから、こんな光度にしているのだ。


「そ、そう……ですか……そう、ですよね……えっと、じゃあ……――さんも、ふ、服を……」

「え? あ、あぁ……そう、だな……」


私はまだ戻りきっていない意識の中で、服を脱ぎ始めた。
彼女に見られていたようだが、そんな事を気にかける思考も持っていない。
私は全てを脱ぎ去り、彼女と対峙した。
怒張しきったものが、空気に晒される。彼女は私のそれに視線を合わせて、大きく息を呑み込んだ。



「あ、あの……そ、それが……」

「……幸子の身体を見て、こうなった……その、あまりに、綺麗で……可愛くて……」

「あ、う……そ、そう、なんですか……」


幸子は恥ずかしそうにしていたが、視線を外そうとはしなかった。
初めて見たものに何か好奇のようなものを覚えているような、そんな視線だった。


「あぁ……その、無粋な事を聞くかも知れんが……幸子は、これからどういう事をするか、わかっ、てるよな?」

「は……はい……色々、調べ、ましたし……」

「そ、そうか……ね、熱心、だな……」

「い、今は……すぐ、調べようと思えば、できます、から……」

「……そう、なのか」

「えぇ……」


言葉が上手く出ない。ただ目の前にある彼女の姿に、目を奪われている。
早く、触れたい。その衝動を抑え込みながら私はようやく目的の言葉を発した。



「じゃ、じゃあ……えっと……そろそろ、良いか?」

「あ……はいっ……」


布団を敷き、彼女を寝かせる。
その小さな体の上で、私は彼女を覆うようにして対峙した。
ぼんやりとした明りの中で、彼女の身体が小刻みに震えているのが見えた。


「……怖いか?」

「そ、そんな訳……ありま、せんよ……」


声まで震わせながら、彼女は気丈にもそう言う。
そんな振舞いが堪らなく愛おしい。
私は少しでも彼女の恐怖を拭い去ろうと頬を撫でた。


「あ……」

「……また落ちつくまで、待つよ。幸子に、合わせるから。本当に無理だと思ったら、すぐにやめるから……」


その言葉に彼女は安心したのか、頬を撫ぜる私の手を握り、私に微笑んでみせてくれた。


「……ボ、ボクは大丈夫です……――さん相手なら、怖く、無いですから……」

「……そうか」

「で、でも……もう少しだけ……このままで……」

「……わかった」



キメの柔らかい弾力のある頬を、私は愛おしく撫で続ける。
彼女の震えも幾分無くなってきたようだ。


「……もう、いいですよ。――さんの好きなように、して、下さい……」

「……そうか。じゃあ……触る、ぞ?」

「は、はいっ……」


きつく目を瞑り、体を強張らせる彼女に手を伸ばす。
幼く、そして小ぶりな張りのある胸を揉む。


「んっ……」


彼女の華奢な体が、びくんと跳ねた。
堅く結ばれた口の奥から声にならない声が漏れる。


「あっ、すまん……い、痛かったか? それとも、ここは嫌だったか?」


私は反射的に謝り、彼女の身体から手を離してしまった。



「あ、ち、違います。ただ、何と言うか……――さんに、触られるのが、くすぐったくて……。
 い、嫌じゃないですから……続けて、下さい」

「そ、そうか……」


私は安堵の息をつき、再び彼女の胸を揉んだ。
張り詰めた乳房をこねくりまわす。私の掌に収まる程小さいが、弾力の中に柔らかさが含まれている。
だがそれと対照に、掌に埋まった先端の突起物はどんどん固くなっていく。
その先端を意識的に掌で弄ってやると、幸子は呼吸のリズムから外れた甘く黄色い声を幾度となく漏らした。
その可愛らしい反応と胸の感触に夢中になって、私はひたすらに彼女の胸を揉みしだいた。

乳房から一旦掌を離し、今度は先端を指で摘む。
こりこりとした感触が指先で転がる。
その都度幸子は頭をのけ反らせ、片手でシーツを握りしめ、もう片方の手で口を押さえて声を押し殺していた。


「……い、痛くないか?」

「く、くすぐったい……です……」

「それは……良いのか? それとも、悪いのか?」

「わ、わかりませんよ……そんなっ、こと……触りながらっ、聞かないでください……」

「す、すまん……」



恐らく、羞恥に打ち震えているだけなのだろう。慣れないうちは、それが快感なのかわからないとも聞く。
私は早急にそう結論し、今度は先端に吸いついた。
突起の周囲を舐めながら、舌先で先端を弾くように舐め上げる。
口内で転がるぐみのようなこの突起物を、私は舌先でひたすら愛でた。

本当に赤ん坊になったかのように私は必死で吸った。涎で湿った桃色の乳首が、どんどん熱を帯びる。
「ひうっ」という声が時折聞こえる。しかし、そんな嬌声は私を埋没させる要素にしかならない。
彼女の喘ぎと渦巻くような湿った甘い体臭に、私は我を忘れていった。
暗い視界の中で、本当に私は目を開けているのか、意識は既に飛んだのではないかと思う程に夢中であった。


「あっ……――さん……」


背中をぺちぺちと叩かれ私はようやく我に返り、口を彼女から離し、上半身を上げる。
幸子の息はまた荒くなっていた。先程まで私がむしゃぶりついていた胸が、せわしなく上下している。


「……我ながら、本能の強さを痛感しているよ」


幾度も幸子に止められ、その都度謝っているというのにどうしても自分を止められない。
我ながら情けなくなっていた。


「ふふっ……良いですよ、別に。ボクがカワイイのが、いけないんですから……」


胸を大きく上下させながら、幸子は薄明かりの中で微笑んだ。



「……あぁ。まぁ、そう言われると納得しそうだよ」

「しそうじゃなくてするんですよ。全く、あれだけ夢中だった癖に……赤ちゃんじゃないんですから……」

「……あはは」


私は大げさに頭を掻き、苦笑いをして見せた。
そして笑いが消えるまで、空気が渇いた。だが幸子の視線が一点に留まった瞬間、また熱を帯びて湿り始めた。
息を呑み口を半開きにして、好奇心と熱の籠った目で私の怒張したものを見つめている。


「そ、それ……」


幸子は恐る恐るといった感じで私のものを指差した。
既に亀頭からは粘性を持つ夥しい量の液体が垂れ、臨戦態勢に入っている。


「ん……あぁ……ほ、本物を見るのは、初めてか」

「え、えぇ……そ、そんな風になるんですね……」

「……色々、調べたんじゃなかったのか?」

「モ、モザイクがかかってて、全然詳細がわかんなかったんですよ! ま、まさかそんな……そんな……」


目を覆いたくなるというような語気で、幸子は初めてみたものの所見を述べた。



「……よく言われてるのが、グロテスクってやつだが……まぁ、正にそんな感じだろ?」


幸子は「まぁ……」と生返事をして、私のものをずっと見つめていた。
なんだか、恥ずかしい。


「せ、先端が……赤くなってますけど、それ大丈夫なんですか?」

「これが正常らしいぞ。私のは常に赤い部分が外になってるけど、皮膚で覆われてる人もいる」

「え? つ、常にって……ひ、皮膚で守られてなくて良いんですか?」

「う、うーん……何と言ったら良いのかな……まぁ、慣れだよ慣れ」

「な、慣れ……」


幸子は大きく生唾を飲み込んだ。
その様子を見て初めて、今していた会話は中々に間抜けだったなと思った。


「……そ、それ……」

「ん?」

「触ると、き、気持ちいいん、ですよね……」

「あぁー……まぁ、な……」

「……じゃ、じゃあ……ボクが、触ってあげましょうか?」


この瀬戸際になって今更疑問形を使っている。余程、気が動転しているのだろう。


「じゃあ……お、お願い、しようか……」


だが、それは私も同じだ。それに引き摺られるように畏まって答えてしまう。
今度は私がベッドに横になり、幸子が私の股の間で四つん這いになって私のものを見下ろす形となった。



「こ、これが……――さんの……」


幸子が顔を近づけ食い入るように見ている。
彼女の濡れた温かい息がかかり、反応して震えてしまう。
私は口を堅く閉じ、我慢した。


「え、えっと……さ、触れば良いんですよね? 触れば……」

「あぁ、幸子? その、色々調べたんだよな?」

「そ、そうですよ? い、一応、どうすればいいのかぐらいは、ボクにだってわかってます」

「そうか……あぁ、じゃあ……その、調べた通りに、してみてくれ」

「わ、わかり、ました」


根元部分を優しく握られ、逡巡するように口をもごもごとさせたかと思うと、先端部にどろっとした唾液を垂らされた。
思わず声が出てしまった。


「え、えらく本格的だな……な、何を見たんだ?」

「え……そ、そうなんですか? なんか、皆さんこんな風にしてましたけど……」

「……そ、そう、か……」


一体どういう系統を見たのだろうか。そんな至極客観的な感想が頭に浮かんだ。



「あ……だ、ダメなんですか? これ……」

「い、いや、全然良いぞ。潤滑剤になって、とても、良いと思うが……」

「そうですか……じゃあ、このまま……」


幸子はそう言って、根元部分から先端部にかけてゆっくりとストロークし始めた。
柔らかく、そして温かい。ぷにぷにとした掌の感触が裏の筋肉をなじり、尿道が開いていくような快感がこみ上げる。
既にカリの部分まで私の液と幸子の唾液で覆われている為、
彼女の小さな手が露わにされた部分を通過する度に、その場所から突き抜けるような快感が腰から髄へ、そして脳へと及んでいく。
腰が浮いてしまいそうになる程の快楽に、私はただ打たれるようにして悶えていた。


「ど、どうですか――さん……い、痛くないですか?」

「い、痛くない……むしろ……」


その先を言おうとしたが、押し寄せてくる快感に言葉が途切れてしまった。
自分で慰める時とは全く感覚が違う。私の意のままにならない快楽が、私を容赦なく追い立てる。
くぐもった間の抜けた声が、口から溢れてしまう。



「むしろ……何ですか?」


熱を帯びた息を小刻みに吐きながら、幸子は私に問い詰める。
それに釣られるように彼女の握る力が徐々に強くなる。


「ぐっ……気持ちいい、よ……」

「ほ、本当ですか?」


幸子は表情を明るくさせ、手を止めて私の目を見つめてきた。


「あ、あぁ……とっても、気持ちいい。幸子の手が柔らかくて……こんな気持ちいいのは、初めてなくらいに……」

「そ、そう……ですか……」


私がそう言うと、彼女は嬉しそうに目を細めた。
そしてまた本当に嬉しそうに、鼻を鳴らし、優しく微笑んだ。


「じゃあ……もっと、しますね……」


そう言うと彼女はまた手を動かし始めた。
興奮しているのか、息も手の動きも、先程よりも早くなっている。
彼女の手が出っ張りに引っかかる度に、彼女の柔らかい掌に先端が包まれる度に、先程よりも強い快感が押し寄せてくる。



「うっ……くっ……幸子……」

「ふふっ……本当に、気持ちいいんですね……どんどん、手の中で大きくなってます……」


私は既に限界寸前まで追いやられていた。
他人に触られるのがこれ程気持ちいいものとは予見していなかった。
そして何より、好きな人とこういった行為ができるのがこれ程幸せなのだと言う事も、予見していなかった。


「さ、幸子……もう……」

「え、えっと……い、イク? でしたっけ……ど、どうぞ……い、いってください」


幸子の言葉に、私はついに我慢できなくなった。
堰き止められた全てを放とうと、腰を突きだし亀頭が膨らませた。
そして、ついにそれは暴発した。


幸子が私のものを上に擦った拍子に、尿道をどくどくと快楽と激流が走り、先端部から白濁の快楽が放たれた。
痙攣を起こすように私のものが幾度も跳ね、間欠泉のような勢いで噴出する。


「わっ、わっ……」


顔を近づけていた幸子の顔にかかってしまったが、噴出の勢いはまだ止まらなかった。
自分でも経験した事が無い程、睾丸が幾度も脈打ち、精液が吐き出される。
やっと射精が終わった時、私は名状しようのない恍惚感と心地の良い脱力感に襲われた。
息が切れ、腰が抜けてしまったかのような感覚に陥る。私はついに気をやってしまった。
幸子は息を荒くし、目尻を下げて恍惚と言った表情でそんな私を見つめていた。


「き、気持ち……良かったですか?」

「あ、あぁ……」


すぐに返事ができず、私は何とか息を漏らすような声で返事をした。


「そうですか……ふふっ……――さんを、気持ちよく、できたんだ……」


幸子はそんな独り言を何処か嬉しそうに呟いていた。
私は未だぼうっとする頭を上げて、ティッシュ箱に手をかけた。


「ほら、そんなのつけてたら気持ち悪いだろう。ティッシュで拭こう」


二、三枚ティッシュを取り、幸子の顔を拭おうとする。
しかし、幸子は自分に付着した白い液体を指で取り、何か感慨深くそれを見ていた。


「こ、これが……精液、ですよね……」

「あ、あぁ……あんまり良い物じゃないだろう? ほらほら、早く拭かないと、乾燥したら固まってしまうよ」

「……ちょっとだけ」


幸子はいきなり、指についたそれを舐めた。
途端に顔をしかめて、無理やり押し込むように唾を飲んだ。
そして顔を俯かせ何度か咳き込んだ。


「しょっぱくて食感も悪くて、気持ち悪い……何ですかこれ……よくあの人達はこんなのを飲めますね……」

「……やめろと、言おうと思ったんだがな……その、まさか本当にするとは……ほら、キッチン行って口をゆすいでおいで。
 無理をする事は無いから」

「は、はい……」


幸子は口を手で押さえて、キッチンへと急いだ。
シンクを打つ水の音がこちらの部屋まで聞こえてくる。
少々げんなりした顔つきで、幸子が部屋に戻ってきた。



「……す、すみません……その……ゆすぐなんてして……――さんのなら……いえ、何でも、ないです」

「いや……むしろ、なんで舐めたのかがわからんのだが……明らかに危ない臭いしてるだろ?
 明らかに口にしていい物ではない臭いを」

「え? だ、だって、皆さんそうしてましたし、そうすれば喜んで貰えるって……あっ……い、今のは無しで……」


この期に及んで何が無しなのだろうかよく分からないが、とりあえず気にしない事とする。


「……私は、別にそういう趣向は持ち合わせていないよ。
 それに、幸子が嫌がってるのに自分の趣向を押し付けるくらいなら、そういう事は我慢するから……」

「……そう、ですか……」

「別に……その、何て言うのか……私は、幸子が……好きだからこういう事をしているのであって……。
 自分が気持良くなりたいから、今こうしている訳じゃ……いや、何を言っても言い訳がましくなるか……」


私はまだ整理しきれていない頭を精一杯稼働させて、彼女に何とか気にする事はないと伝えようとする。
しかし、言葉は上手くまとまらない。



「……言い訳は、終わった後に言おう……続きを、していいか。一回出したのに、まだ、収まらない……。
 幸子が……まだ、その……欲しいんだ」


幸子は私の股間にまた視線を落とした。
私のものは既に大きさと固さを取り戻し、先程よりも凶暴な臭いを放ちながらそびえていた。
幸子は目を見開いてそれを見つめ、息を飲んだ。


「……あ、あの……つ、次は……あれ、です、よね……」


あれ、とは何なのか。それの意味する所はわかったが、私は横に首を振った。


「……今度は、私がしよう。その……まだ、準備がいるみたいだから」

「……は、はい」

コミケ帰りでクソ眠くて文が思い付かない
今回はここまで

最近なんか死にたがってるけど、どうしたんこれ



今度は私が幸子の股の間に陣取り、彼女の秘裂に顔を近づけた。
そうすると、幸子は恥ずかしそうに両手で股間を隠してしまった。


「あ、あの……目を閉じてじゃ、できませんか?」

「……生憎、そんな技術は持ち合わせていないよ」

「じゃ、じゃあ、せめて明りを、ちゃんと真っ暗に……」

「それじゃ同じ事じゃないか。こういう所は、その、デリケートだから。もし傷でもつけたら大変だよ」

「うっ……そうですけど……」


幸子は不安そうな声で訴える。
自分が相手にするのは良いが、自分の体を触られるのはまだ抵抗があるのだろう。
私は小さく息をつき、身を乗り出して幸子と顔を向き合わせた。
そしてそのまま有無を言わさずに唇を重ねた。

ゆったりと彼女の不安を溶かすように、舌を入れて舐めまわす。
汗ばみ、むせるような息を互いに交わす。
彼女は最初驚いて硬直していたが、しばらくすると私の首に手を回してきた。そして瞳を閉じてただ私と絡まった。
今度はあまり深追いする事なく私は彼女から舌を離した。



「……これで、少しは落ち着いた?」


溶かされてしまったかのようなうっとりとした瞳で余韻に浸り、彼女は私を見つめていた。
口に溜まった唾液を呑みこみ、彼女はようやく口を開いた。


「き、キスするなら言って下さいよ……まだ、ボクも慣れてないんですから……」

「ごめんごめん。さっきは私を放さそうとしないくらいにキスしてきたものだから……。
 こうすれば、少しは不安も飛ぶかと思って」

「さ、さっきって……ボクはそんな事は……」

「……そうかな。結構必死だったような気がするけど……」

「ぐっ……そ、そんなことは……」

「……キスは、嫌い?」

「嫌いって……それは……」


ばつが悪そうに幸子は視線を逸らした。



「……私は好きだよ、幸子とキスするのは。幸せで、好きな人が私と同じように、私を求めてくれてるって思えて」

「……よ、よくそんな恥ずかしいセリフ、言えますね……」

「本当の事だからしょうがないだろ。幸子が可愛いのが、いけないんだよ」

「そ、そうやって責任転嫁するのはやめてください!」


恥ずかしがる彼女の姿が可愛らしくて、私は思わず笑ってしまった。


「な、何笑ってるんですか」

「ごめんごめん……まぁ、私が今言った事は紛れもない本心だから」

「……そう、ですか」

「……もう、大丈夫かな? 不安なら、もうちょっと落ちついてからでも、私はいいけれど」

「……はい。も、もう……大丈夫、です……」

「そうか」



彼女の頭を優しく二回程撫でてから、私は先程の体勢に戻った。
足の付け根に手を回し、陰唇に顔を近づける。
が、もう少しで舌先が着くというところで、今度は頭を両手でつかまれた。


「……まだ、ダメか?」

「い、いえその……つ、続けて、下さい……ちょっと、この方が、良いというか……」

「……わかった。じゃあ、するよ」


私はそう言って、彼女の溝に舌を這わせた。
ここまで来て彼女の事を心配する余裕は、もう殆ど残されていなかった。


「んっ……」


まだうっすらとしか毛が生え揃っていない、その無垢な女性器を私の唾液で汚しながら、下から上へと舐める。
舌に伝わる恥丘のぷにっとした弾力と、秘裂から漂う汗ばんだ雌の匂い。
そして薄暗い中で見える、桃色の綺麗なすじ。
そんな性的な感触に、私は夢中になった。

舐める度に彼女の身体がピクリと跳ね、私の頭を掴む手に力が籠る。
悶えるように、柔らかい太ももで私の顔を両方から絞めつけてくる。その感触すら、私を興奮させる要因になる。


息を荒くさせながら、今度は彼女の秘裂を両の指で広げた。
桜色のヒダが、まるで私を妖しく誘うようにひくついている。
まだ漏れ出る程湿ってはいないようだ。私は知識を頼りに、陰部の上にあるはずの核を舌で探した。


「くぅっ……」


舌が何かこんもりとした物に触れた途端、彼女の身体が一段と強く震えた。恐らくこれだ。
包皮を舌で剥がすと、小さな核が姿を現した。それを転がし、吸い、執拗に責める。
敏感な部分を舐められ、彼女の下半身が小刻みに震える。その度に吐息のような嬌声が唇から漏れ出てくる。
この可愛らしい反応が私の舌の動きを更にいやらしくさせた。


「そ、そこはっ……あっ……ダメっ、です……」


彼女の言葉も、もう意味を持って耳に届かない。ただの湿った響きとして私の芯を震わせるだけだ。
彼女の腰が浮きあがってくる。それを頭で抑えつけるようにしながら、私はひたすらに彼女の核を舐め続ける。



「――さんっ……ほ、本当にダメ、です……これ、怖いっ……ダメっ……」


舐めていると、何やらぬめり気のある液体が舌に触れた。
割れ目の下の方にある小さな穴から、しっとりと蜜が出て来ていた。
私は核から舌を離し、今度は蜜の漏れ出る小さな穴にしゃぶりついた。


「くっ……あっ……」


舌を尖らせ、私を誘う淫らな穴に挿入する。私の舌が何とか入る程小さいその穴の中は、とろとろと熱くなっていた。


「ふっ……んんっ……」


舌を筒のようにして愛液を音を立てて啜る。
生々しい、乳製品のような味がした。このいやらしい味に私は意識を掌握された。
脳髄を掴まれたようだ。体が痺れて舌を離せない。
舐めれば舐める程出てくるこの媚薬のような粘液を、私はひたすらに舐め取った。



「お、音立てない、で……んっ、そ、そこも一緒に触ったら……」


指で秘裂を開きながら淫核を弄り、舌で愛液を啜り舐め取る。
幸子は片手で口を押さえながら体を大きく仰け反らせる。
私の髪を痛い程強く握りしめながら、訪れようとしていた絶頂に耐えていた。

私は更に責めを速くし、彼女の我慢を断とうと試みた。
彼女の身体がまたピクリと震える。首を左右に忙しなく振りながら、押し殺しきれない嬌声が彼女の喉から漏れ出る。
トドメと言わんばかりに私は膣口から舌を離し、彼女の一番の弱点に口をつけ、涎と愛液で包みながら大きく吸い上げた。


「んっ……ふぅっ!」


彼女の体一層強張ったかと思うと、まるで吊るされた糸が切れたように体から力が抜けた。
胸部を大きく上下させながら幸子は息を忙しなく吐いている。



「……大丈夫か?」


私はすぐに顔を股から離し、彼女と顔を向き合わせた。
彼女は目を虚ろにさせながら口を力無く開けて呼吸をしていた。
私は彼女の頬に手を当てて、目を合わせる。


「幸子? め、目を開けて気絶は、してないよな? へ、返事をしてくれ」


私が慌てて彼女の意識を問うと、彼女は目を閉じてゆっくりと一回頷いた。
私は安堵の溜息をつく。


「……――さん……ボク、ダメって、言ったじゃないですか……」


呂律が回り切っていないが、幸子は何とかと言った感じで返事をしてくれた。



「え、そうだったか?」

「そう、ですよ……」

「……気付かなかった」

「まったく……――さんは、本当にダメな人ですね」


彼女は優しく微笑みながら、私に文句を言った。


「……どこかに、飛んで行っちゃいそうで……わからなくなって……だから、ダメだって言ったんですよ」

「そ、そうか……じゃ、じゃあ、それはイッたって事で良いのか?」

「……多分、そうなんじゃないですか」

「そ、そうか……良かった。私も、ちゃんと出来てたんだな……」

「……ボクが練習した時は、怖くて止めちゃいましたけど……」


彼女は声を小さくすれば聞こえないとでも思ったのだろうか、相当な爆弾発言をした。
顔を向かい合わせているこの距離で聞こえないはずは無いのだが。



「練習?」

「あっ……い、今のも聞かなかったですよね?」

「聞いたよ。バッチリね」

「なっ……」


彼女の顔が恥ずかしさで暗い中でもハッキリ分かるほど赤くなっていく。


「うーん……何の、練習をしてたって?」


私は嬉しさでにやけながら、意地の悪い質問をしてみる。


「に、ニヤニヤしないで下さいよ!」

「ゴメンゴメン。言葉をそのままの意味で受け取って良いんだったら、それは凄く嬉しいなって思ったから、つい」

「う、嬉しい?」

「あぁ、だってそうだろ? 何と言うか、好きな子が自分の為にそういう事をしてくれるのって」

「……何か、変態っぽいですよその言い方」

「幸子が言うのかそれを」

「うっ……だ、だって……れ、練習した方が良いって書いてあって……でないと、喜んでもらえないって……」


ごにょごにょと、自分に言い訳するように幸子は言った。



「……そうか。ありがとう、幸子」


恥ずかしそうに視線を逸らす、愛らしい彼女の頬を撫でる。


「……そ、そうやって……笑って、子供をあやすみたいにしてれば、ボクが許すと思ってるんですから……卑怯ですよ……」

「悪かったと思ってるよ。本当に、今度からはダメだって言われたらちゃんと止めるから。だから、許して欲しい。ダメか?」

「……わかりましたよ。寛大なボクに、感謝して下さいね……」

「……ゴメンな。まだ、私も余裕が無いみたいだから」


もっと私に余裕があれば彼女にもっと優しくできるのだが。どうしても本能が理性を凌駕してしまう。
生き物としてはそれが当然なのかも知れないが、何か歯がゆかった。


「……それは、ボクもですから……お互い様です」

「……そうか」


幸子もだいぶ落ちついたようだ。目の焦点がしっかりとしてきた。



「というより、――さん」

「ん?」

「やっぱり……――さんも、その……初めて、なんですか?」

「……恥ずかしながら、この歳で初めてだよ。というか、さっき言わなかったか?」

「いえ、今初めて聞きました。まぁ、それ以前から女性経験が無いっていう事は知ってましたけど」

「ほっとけ……まぁ、そりゃ不安だよな。この歳まで何の女性経験も無いようなのが相手じゃ……」


私は溜息混じりに自分を卑下しながら言った。


「そ、そんなことは……無い、ですよ?」

「……そうか?」

「え、えぇ……ボクはそっちの方が……や、やっぱり何でも無いです」

「ボクは、何?」

「も、もう言いませんよ! その手には乗りませんからね!」

「……何の事かわからんが……まぁ言いたくなければ良いよ」


会話はそこで途切れた。
彼女と視線を合わせ、ゆっくりと呼吸をしてから私は言う。


「……じゃあ、本番……しようか」

「……はい」



少し縮んでしまった欲望の塊に、幸子の柔らかい手が触れる。
あっという間に陰茎は怒張し、先端が天井を向き雄々しく反り立った。
体の準備は整ったが、まだ一つ問題があった。


「……これ、ですか」


幸子はコンドームを持ち、初めて見るそれをじっと凝視していた。


「……なんか、臭くないってヤツを買ったんだが……どうなんだろう?」

「そ、そんな大層なもの買ったんですか……まぁ、臭いは嗅ぎませんけど……えっと……これは、どうやって……」

「……勉強したんじゃなかったのか?」

「こ、こういうのを付けてるのを……み、見た事が……」

「あぁー……えっと確か、先端の空気を抜きながら付けるんだ。うん」


映像しか見ていないのか。
何から調べたらいいかなど分かる訳もないだろうから仕方ないか。


「……と、とりあえず、やってみます」



幸子はゴムを亀頭に付け、空気もちゃんと抜き、ぎこちなくだが手順通りに装着を完了させた。
爪で引っ掻かれて痛いという事も無かった為、ちゃんと出来ているのだろう。


「……来て、下さい」


幸子に覆いかぶさるような体勢になる。互いの性器が触れ合い、緊張感に引き摺られ鼓動が早くなっていく。
私の影の中で、幸子が瞳を不安げに潤ませていた。
まるで私が肉食獣になって、幸子という獲物を今から捕食しようとしているような、そんな構図だった。

これからする事が、彼女に相当な負担となるのはわかっている。
かなり濡らしたはずだがそれも気休めにしかならないのかも知れない。
しかし、ここまで来た以上、私自身も引き下がる訳にはいかなかった。


「……ゆっくり入れるのと……一思いに、一気にやるの……どっちが良い?」


幸子は視線を私の目から外して逡巡し、少し間を置いてから答えた。


「……ひ、一思いに……やって、下さい……」


声を震わせながら、気丈にも幸子はそう言った。


「……わかった。本当に、力任せになるから相当痛いと思うが……」

「だ、大丈夫です……どうせ、ゆっくりでも痛いらしいですし……それなら、いっその事……」

「……そうか。でも、駄目だと思ったら言いなさい。私も……幸子に無理はして欲しく無いから」

「は、はい」


ペニスを入口にあてがい腰を入れて亀頭を潜りこませようとする。
小さな膣口がほんの少しだけ開き、亀頭の先端が埋まる。薄い膜を通して彼女の熱が伝わってきた。
先端だけでもかなり強い膣圧を感じる。本当にこの中に入るのだろうか。
私は一抹の不安を覚えながら、幸子に声をかけた。



「……じゃあ、入れるよ」

「……はいっ」


幸子は私の背中に手を回し、きゅっと唇を噛み締めた。
そして、私は腰を勢いよく押し込めた。


「くっ……あぁっ……」


私の侵入を阻むような膣圧。それを押し広げ、私は自分の全てを彼女に埋めた。
生々しい破瓜の血が押し出され、秘裂から漏れ出る。


「い、たいっ……」


強く握り絞められるような膣圧が、私のものを覆う。
熱く、痛い程の体温が繋がった部分から伝わってくる。
その熱だけで、私の欲望を集約した部分が破裂してしまいそうだった。


「――さんっ……」


歯を食いしばり獣のような忙しない息を吐いて、幸子は何とか痛みに耐えていた。
その痛々しい姿を見て、私は彼女の苦痛を何とか和らげようと優しく抱きしめた。



「ごめん、幸子……」

「ぐっ……は、はやく……」

「え?」

「は、はやく……動いて、下さい……」


必死で痛みに耐えながら幸子は絞り出すような声で言った。
私の背中に彼女の爪が食いこんでいた。だが、この程度の痛みはどうでも良かった。


「な、何言ってるんだ。今だって相当痛いんだろ、それなのに動いたら……」

「だ、だから……はやく、終わらせて、下さい……ひ、ひと、思いに……」

「……わかった」


気丈に振舞う彼女に胸が締め付けられる。
私の為に苦痛に耐える、彼女の小さく華奢な体を強く抱きしめ、私は腰の律動を始めた。

熱にうなされたように、私は腰を振る。自分の性器が包まれている、私が愛した女性の中で。
耳元で愛しい人の呻きを聞きながら、私は本能を鎮める為にひたすらに動いた。



「幸子……幸子っ」


小さな体を壊れる程抱きしめて、私もまたうわ言のように幸子の名を呼んでいた。
だが彼女の返事は返ってこない。どちらも、自分の事で精一杯だった。

彼女の苦痛に反比例するように、私の肉棒へ否応無しに快楽が溜まる。
引き抜けば、カリ部に鋭い快楽が走り、竿裏の筋には撫であげられるような刺激が与えられ、広がってゆくような快楽が押し寄せる。
押し入れれば、彼女の煮え滾ったような体温が私の肉棒に性感を募らせてゆく。

そして、ついに欲望が破裂した。


「つっ……」


精液が勢いよく尿道を通り、肥大した亀頭へと抜ける。
堰き止めていたダムが崩壊するような、髄を駆け巡るような快楽が私を襲った。
二回目の射精だと言うのに、どくどくと止まる勢いを知らず射精が続く。
生気すら奪われてしまうような感覚を覚える程の射精を終え、私はぐったりと幸子の上で力を抜いてしまった。


「うっ……お、終わり……ました?」


私は耳元で囁かれたその言葉に、私は小さく「うん」とだけ答えた。



「そ、そうですか……あ、あの、重いんです、けど……」


息も絶え絶えになりながら、私は何とか体を横に転がし幸子の上からどいた。
お互いにしばらく黙り、荒くなった息を整えていた。
射精し終えた後の独特の感覚に浸りながら、私は冷静に自分がしてしまった事を反芻していた。


「……はぁ……ごめんな、幸子。その、最後の方は……全く優しくしてやれなくて……。
 すごく、痛かったよな?」


横で私を見つめる幸子に、自己嫌悪に陥りながら謝った。
幸子は目を閉じ、首をゆっくりと横に振った。


「良いですよ、別に」

「だ、だが……」

「今回は……初めてだったと言う事で、許してあげますよ。寛大なボクに……感謝して下さいね」


いつもの口調を装いながら幸子は微笑みながら言った。
本当に、どうしてこうも私の胸を幸せで締め付けるような仕草ばかりしてくれるのだろう。



「……ありがとう、本当に……」


彼女を抱きしめて、彼女の頭を撫でながら私は精一杯の気持ちを表した。
小さく、誰よりも可愛い、私の最愛の女性に。


「……はい」


彼女は小さく、ただ一言の返事をしてくれた。
それだけで、十分だった。

彼女の言葉を聞いた途端、緊張感が抜けたのかふと睡魔が私を襲ってきた。
甘く質量を持たぬ重りが、私の意識を沈ませてゆく。
意識の輪郭が泥のように落ちてゆく。


「……ごめん、幸子……ちょっと、眠くなってきたよ。このまま、眠っても良いかな……。
 このまま……幸子を、抱いた……まま――」


幸子の返事を聞く事なく、私の意識はそこで途絶えた。
この腕に掻き抱いた幸せに、身を委ねながら。


――



その日から、私達はまた何度も逢瀬を重ねた。
世の目を憚り、蒙昧な背徳感と高邁な愛情に縺れ、私達はたがが外れたように体を合わせた。
時に誘い、時に誘われ、まるで私達は互いが必要なのだと体に言い聞かせるように。


「ふぅ……こんなものかなぁ……」


仕事終わりの楽屋で、私は荷物を纏めながら溜息をついた。
ここ最近家にまで仕事を持ち帰りゆっくりと休めていないせいか、体が凝ってしまっている。

仕事の方は概ね順調であった。むしろ、幸子の調子が良いとさえ言われる程だった。
総選挙後のユニット活動も大成功で幕を閉じた。
あの四人とのユニットでは、渋谷さんに相当の負担がかかったようだが。

幸子の知名度は、ドンドン上がっていく。
元々多かった仕事は更に多くなり、また世間の目も鋭くなり、幸子と隠れて逢う事も難しくなっていった。
だが、隙さえあれば私達は体を重ねていた。

そう、この日も。



「お疲れ様でした……あっ、――さん」


幸子がスタッフ達に挨拶をして楽屋に入ってきた。
私は椅子から立ち上がり、幸子を出迎えた。


「お疲れ様、幸子。ほら、ちゃんと御所望の飲み物買っておいたぞ」

「お、偉いですね――さん。ちゃんと言った通りに買って来て、褒めてあげますよ!」

「身に余るお言葉をどうも……」


私は恭しく大仰なお辞儀をする。


「ふふっ、どうでしたか? 今日のボクの活躍っぷりは。まぁ聞くまでも無いと思いますけどね!」


飲み物を手に取りながら、幸子が自信満々で尋ねてきた。



「あぁ。とっても、良かったよ。周りのスタッフさんからも良い感想を聞かせて貰えたし、上々だ」


髪を掻き分け、彼女の頬を撫でる。滑らかな肌の感触と彼女のはにかむ可愛い顔に、私は思わず口元が緩んだ。


「そ、それは……と、当然です、よ……」


恥ずかしさに歯切れを悪くさせながらも、彼女は口調を崩さずに応える。
彼女は「あ、あの……」と、質問を続ける。
だが、私は次に何を聞かれるのか察しがついているので、その先を聞かずに言ってしまう。


「凄く、可愛かったよ。ステージで歌う幸子に、ずっと目が奪われてた」


彼女はそれを聞くと、撫でている私の手へ満足そうにスリスリと頬を寄せた。
カワイイと自分で言いつつ、言葉の端々で私に同意というか、私に可愛いと言って欲しいというのが滲み出ているのを、私は知っていた。
素直に言えず、そうやって恥ずかしがる彼女も、堪らなく愛おしい。

そしてそんな純真な事を考えながら、私はまた彼女の潤った唇に熱の籠った視線を向けていた。
朝交わした二人の時間を思い出す。体の芯を疼かせ、ほとばしらせるあの感覚を。

私は気取られないように生唾を飲み込み、一呼吸おいてから口を開いた。



「……よし、じゃあ帰ろうか。事務所には寄らないでこのまま帰れるようにしてあるが……」


私はわざとらしく語尾をぼかした。
目を細めて撫でられている彼女はその言葉に反応し、また顔を赤らめた。


「え、えっと――さん?」

「何だ?」


何やら脚をモジモジとさせながら歯切れ悪く私を呼ぶ。
私は、これを合図と受け取っていた。


「そ、その……今日は、仕事終わりにそのまま友達の家に泊まるって、言ってあるん、ですけど……」


背徳と、熱情の合図と。


「……そうか。じゃあ……行こうか」

「……はいっ」


事務所に結果を簡単に報告し、千川さんに書類記入の代行を――色々と彼女から購入して――行って貰い、私達は早々と車に乗った。
誰かから尾行されていないかなどと細心の注意を払いながら、車を駆る。

警察に目をつけられない程度の速度を出し、私の家へ早々に着いた。誰かにつけられた痕跡も、怪しい車両も無かった。
車を出て、階段を登り玄関へと急ぐ。鍵穴に鍵を入れ、おぼつかない手つきで扉を開ける。
そして、家に入った。

私は扉を閉めるなり荷物を乱暴に放り、幸子を抱き上げて壁に押し付けるようにして無我夢中で彼女の唇を奪った。
幸子は一瞬驚いたように身を強張らせたが、私が舌を絡め始めるとすぐに脱力し、首に手を回してきた。

舌は絡み、互いの唾液が流れ込んでくる。淫靡な水音と小さく押し殺したような嬌声が、電気もついていない仄暗い室内に小さく響く。
溝を舐め、啜る。彼女の体がその都度ぴくりと跳ねる。それがまた可愛かった。
本能のままに彼女を求めた。彼女も私に負けまいと、必死で私を求めてくれていた。

室内に籠った生温い空気に当てられて、汗がじんわりと噴き出してくる。
そして、それにつられて幸子の匂いも強くなっていく。
その匂いを含んだ幸子の湿った息が、淫らにそして不規則に、舌と舌の間から漏れてくる。
その息が私にかかる度、髄に微弱な電流が流れる。

私のものは既に怒張し、気がつくと幸子に腰を押し付けていた。
幸子はそれに気づき、ズボン越しに私のものを手で扱ってきた。
五本の指で摘むようにしてきたかと思えば、柔らかい掌で上下に摩られる。
その小さな体に不釣合いな妖しい手つきに、欲望のままに熱が増し肥大していく。


息苦しさを覚え始めた頃、幸子は目を固くつむりびくびくと小さく体を震わせていた。私は慌てて舌を解いた。


「す、すまん……大丈夫か?」


彼女を下ろし、頬を撫でながら声をかけた。
空気を必死で吸いこもうと、彼女の肩が上下に揺れていた。


「き、気が……早いですよ……まだ、玄関でしょう、ここ……」

「……悪い。我慢が、出来なかった」


私は事実のままにそう言うと、幸子は少し息を落ち着かせてから鼻を鳴らし、いたずらな笑みを浮かべた。


「……ふふっ……しょうがないですね。ボクがカワイイのが、いけないんですから……。
 ここも、こんなになって……」


幸子はズボンを押し上げ主張していた私の陰茎にそっと手を添えた。
そして少し強めに握られる。思わず声が出てしまった。布の上からもどかしい快感を与えられ、腰が引けてしまう。



「幸子……」

「ふふっ……前も、こんなコトがありましたよね……」

「……そうだな。観覧車、だったか」

「そうですね。あの時も、こんな風にボクを襲ってましたもんね……」

「……私は、あまり進歩していないみたいだな」

「ふふっ。さて、足が地についてなくて、ちょっとやりにくかったですけど……今度は、ゆっくりしてくださいね……」


そう言って、彼女は唇を少しだけ前に出すようにして、また瞳をゆっくりと閉じた。
私はまた唇を重ねる。今度はゆっくりと、彼女の舌を溶かしてしまうかのように舐めていく。
幸子は甘く喉を鳴らし、私の両頬に手を添えた。そして、私の舌の動きに合わせてゆっくりと絡ませてくる。

そこまで激しくしていない為呼吸はある程度できるはずだが、幸子の息は先ほどと変わらず荒れている。
暑さのせいだけでは無い。彼女も興奮しているのだ。
その証拠に、時々添えている手に力が入り、私に顔を押し付けるようにしていた。

私はゆっくりと彼女から顔を離した。名残惜しそうに唾液が糸を引く。
幸子は目を瞑り、私の頬から手を離さず何かを噛み締めるように静かに息を整えいていた。



「……する前に……シャワー、浴びようか。今日も、汗かいただろうから」

「そ、そうですね……」


私がそう促すと、幸子はちらちらとこちらを見ながら何か口ごもっていた。


「あぁ……何か、言いたい事でも?」

「い、いえ……別に、大層な事でも無いので……」

「……言いたい事があるなら、ちゃんと言ってくれ」

「そ、その……」


足をもじもじとさせて、幸子は恥ずかしいそうに俯いた。


「……何?」

「……い、一緒に、入ります?」


上目遣いで、私の様子を窺うように幸子は尋ねた。
小さな背のせいで、か弱い小動物に対する庇護欲のようなものを湧き立たせる。そんな愛らしい仕草に私はドキッとしてしまった。



「あ、いや……それこそ我慢できなくなるよ。あそこは狭いから、ゆっくりできないだろう。トイレあるし……」

「そうでしたね……もう、早く引っ越しましょうよ。ボクのプロデューサーなんですから、給料だって良いはずでしょう?」

「少しは良くなったが、サラリーマンなんてのはすぐに増えないんだよ……。
 ただまぁ……考えておくよ。ほら、先に入っておいで。私は待っているから」


幸子を風呂場に行かせ、私は荷物を置きに部屋のドアを開けた。
熱に緩慢とした頭を動かしつつ、室内の生温い空気を一掃する為にエアコンをつける。
しばらくしてから、エアコンからカビ臭さと共に涼しい風が吐き出された。
エアコンの掃除もどうやらした方が良いようだ。

私はこれからの行為に関する事を極力考えないように努めた。
でなければ、あの扉の向こうから否応なしに響いてくる水音に誘われてしまいそうだったからだ。

ベッドに座り、とりあえずテレビをつけて部屋に音を流す。
ちょうど時間的に番組の合間だったらしく、どのチャンネルを回してもニュースしかやっていなかった。
適当にチャンネルを止めてニュースをぼうっと眺めながら、先程幸子に言われた事について考え始めた。



「部屋、かぁ……」


少々年季の入った白壁の我が家。絵に書いたような一人暮らし用のワンルーム。
そして他の建物の陰にひっそりと佇むように建つ立地。
今の暮らしを続けるならばこれ程好条件の家はそう無いはずだった。

だが、どうなのだろうか。
将来的に彼女と一緒に暮らすような事になれば、この家は狭い事この上無い。
彼女のプライバシーも家の中で確保できるようにしなければならない。
よくよく考えると犯罪的思考なのかも知れないが、私はそんな事を本当に真面目に考えていた。

彼女もあと一年すれば結婚できる歳になる。そうして、もし結婚したとすればどうなるだろう。
私は稀代の変人、或いは犯罪者として世間に知られる事になるのだろうか。

あの事務所には確実にいられなくなるだろう。私も、そして幸子も。
幸運にして、私は専門職の免許を持っている。一応職に困ると言う事は無いだろう。
そういう面での心配はあまり無いが、周囲の目などに彼女は耐えられるのだろうか。
芯は強い子だが、それでも限界はある。
それ以前に彼女の両親が私を認めてくれるのか……。


考えれば考える程、思考は出口の見えぬ迷宮を彷徨い続ける。
ベッドに寝そべり頬杖をつきながら、私はひたすらに悩んだ。
ニュース番組もいつの間にか終わり、演出華美な洋画が流れていた。
無為な轟音が、静かな室内に虚しく響く。

扉の向こうで、ガラガラと風呂場のドアを開ける音が聞こえた。
私は大きく溜息をつき思考に一区切りをつけてベッドから立ち上がった。

あまり彼女に深刻な顔を見せてはいけない。
彼女はそういう所をとても気遣う子だ。無闇に心配をかけてはいけない。
そして、まだ彼女に話すべき話題では無い。アイドルの絶頂期を駆けのぼる彼女には。

今私が出来る事は、ただ、彼女を幸せだと思わせてあげる事だ。
これさえも、利己的な考えなのかも知れないが。


「ふぅ……あがりましたよ――さん。ささっと入って下さい」

「あぁ、わかった」


可愛らしいパジャマに身を包んだ彼女を笑みを繕いながら迎え、私は着替えを持って風呂場に行く。


「……やっぱり、一緒に入った方が早くないですか?」

「ん? いや……まぁ、すぐ上がるから心配するな。洗うとこだけ洗ってすぐでれば五分と経たないさ」

「まぁ……――さんがそう言うなら、良いですけど……」

「汗かいて臭いし、な。私ぐらいの歳になると、そろそろ臭いがさ……」

「……別に、――さんだったら汚いと思いませんけど……」

「そう言って貰えるのは嬉しいけれど、汚い体で幸子に触るのはなんだか個人的主義に反するから」

「……そう、ですか」

「……じゃあ、入るな」

「はい」


洗面所に入り、そそくさと服を脱ぎ捨てシャワーを浴びる。
何かを考えると時間が長引きそうだった為、頭を無にして流れるように体を洗った。
五分程度でシャワーを済ませ、頭をタオルで拭きながら部屋に戻る。



「あっ……えっと、上がり、ましたね」

「あ、あぁ……」


未だにこの状況は慣れない。
そういう行為をする為の準備をした癖に、いざそれが目の前になるとそのわざとらしさ一瞬だけに妙な躊躇いが湧いてしまう。


「……よっと」


私はそれとなく、ベッドに座る幸子の隣に腰をおろす。
幸子は下唇を甘く噛み締めながら、下を向いて俯いていた。
そしてゆっくりと、私の手に自分の手を重ねようとしていた。
私は動かずに、幸子が手を重ねるのを待った。
それにつられ、砂糖が底に沈みながらゆっくりと溶けていくように、部屋の中に甘い温もりが広がっていく。

幸子の小さく柔らかい手が、私の角ばった手に重なった。
幸子は視線を変えずにぎゅっと私の手を握り、言葉にならない意思を私に訴えていた。



「……明り、消そうか」

「……はい」


初めての時と同じように、豆電球だけをつけて残りの照明を消した。
小さく息を整えながら私の前に座る彼女の肩にそっと手を置く。
そこで幸子はようやく私と目を合わせた。
首を少し上に向けて、柔らかな眼差しで私を見つめている。
その眼差しだけで、胸が温かく、絞めつけられるようだった。

そして彼女は瞼を閉じ、唇を静かに前に出した。
ぷるっとした綺麗な桃色の唇に引き寄せられるように、私は彼女に顔を近づけ、そして交錯するように唇を重ねた。
温かな口内で、舌を絡ませ合う。互いの唾液を交わしながら、互いが愛されているのだと確かめ合う。

穏やかに流れる小川のように、ゆっくりと満たされながら愛を交わす。
こうして囁くように愛するのも良い。
だが、私達は貪欲だ。それだけでは足りなくなっていく。
流れは勢いを吸い、次第に濁流となっていく。己の理性など流れて本能のままに流されていく。


私達のキスはどんどん熱を帯びて行った。
息がつまり水音が滴り、舌がとろけるように混じり合う。
彼女の喉の奥から漏れる雌の声が私を滾らせ、肥大する欲望の矛に血を滞らせる。
互いを押し付け合い、歯茎に舌を這わせながら貪るようにキスをする。

息がつまりそうになり私は彼女からようやく舌を離した。
唾液でいやらしく濡れた口を開け、幸子はまだ足りないと怨ずるような目で私を見つめる。
私は彼女の服のボタンに手をかけ、一つずつ外していった。
ボタンを全て外し肩に手をかけて彼女の衣服を脱がす。彼女の滑らかな肌からするりと服は落ちる。
そして、可愛らしい桃色の花柄の下着と白く柔らかな素肌が露わになった。



「ん、見た事ない柄だね……」

「え、えっと……はい……新しく買ったんですけど……」

「……そっか。可愛いな……」

「そ、そうですか?」

「うん。でも、ちょっと透けてる部分多くないかな。大丈夫?」

「だ、大丈夫ですよ……――さんしか、どうせ見ないんですし……」

「私の為に、着てくれたのかい?」

「……」

「……違う?」

「――さんが、そ、そういう事にしたいなら……それでも、構いませんけど……」


相変わらず素直では無い。顔を赤くしながら返答しては、正解だと言ってるようなものなのに。
視線を外しながらいじらしく答える彼女を見て、私は少々いじめてみたいという気持ちが湧いてきてしまった。
私は彼女の後ろに回り抱きしめるようにしてから、下着の隙間から手を入れて彼女の小さな胸を触り始めた。



「う、後ろからっ、ですか……」


慎ましくキメの滑らかな双丘をゆっくりと揉む。
掌に収まる程だが、やはりとても柔らかい。周りからじっくりと円を描くように揉みしだく。
首すじを舐めあげると幸子は体を小刻みに震わせた。
彼女はここが弱いらしく、ここを責めてやると他の場所を触っても良く反応するようになる。
私が彼女を舐め、そして愛撫する度に彼女の体温が上がっていくのがわかる。
ちゃんと感じてくれているようだ。私は嬉しかった。


「ふっ……んっ……」


首を舐めながら、幸子の耳の裏に鼻をつける。
彼女の芳しい匂いが鼻孔を撫ぜる。私を誘うようなくぐもった雌の匂いがしていた。
私はまた夢中になって彼女の体に手と舌を這わせた。

幸子はしばらく甘い吐息を漏らしながらされるがままにしていたが、突然私の腕を掴み、何か訴えるように後ろの私を見て来た。



「ん……嫌、だったか?」

「い、いえ、違います……けど……」


幸子はまた恥ずかしそうに言う。


「けど?」

「あ、あの……これじゃ……」

「……何?」

「その……――さんに、出来、ません……」


何でこうも私を喜ばせるような事ばかり言うのだろう。
私は恥ずかしさと嬉しさで顔をほころばせながら、大丈夫だと言った。


「こうやって、幸子の体を触るのも好きだから……それに、いつも私はして貰う側だしな。
 偶にはこうやって、逆になっても良いんじゃないかな」

「そ、そんな事、無いです……お、同じくらい、ですよ」

「良いんだ。ただ……私がしてあげたいんだ。それとも、気持ち良くないか?」

「ち、違いますけど……」


私は強引に、歯切れ悪く答える幸子の下腹部に右手を這わせた。
彼女の白い肌がまた震えた。
臍の辺りからじっくりと撫でるようにして、彼女の秘所へと手を伸ばす。
そして、下着の中に手を入れて彼女の秘裂をすじに沿って指で撫でた。



「あっ……」


大陰唇のいやらしいぷにっとした弾力が私の指に伝わる。
そのまま秘裂を指で開き、彼女の一番の弱点に指を移動させる。


「そ、そこはまだ早っ……」


彼女の言葉を遮るように、陰核を覆う表皮を剥き露出させた。
直接触るのはあまり良くないらしいので、手を一旦出して下着越しに触る事にする。
既に陰核は自己主張し始めており、下着の上からでもその感触がわかった。


「くぅっ……」


指の腹で執拗に彼女の弱点を弄る。
つまむように、そして弾くように責める。それに合わせるように彼女の体が快楽でよじれる。
首を忙しくなく左右に動かし口を手で覆い、幸子は快楽に耐えている。
だが、本能が更なる快楽を得ようと指に押し付けるように腰が浮いて来た。下着もじんわりと濡れて来ていた。
私は胸と秘部への責めを止めず、更に執拗にそれを続けた。



「――さん……」


快楽で目をとろけさせたながら幸子が私の名を呼んだ。そんな時どうして欲しいのかはもうわかっている。
私はまた彼女と口付けを交わす。少しこの体勢ではしにくいが、そんな事はどうでも良かった。

幸子は息を荒くさせながら、激しく舌を絡めてくる。
自分の我慢が限界近くになると彼女は決まってキスをせがんでくる。
甘えるように喉を鳴らしながら、彼女は私を体全体で求める。
その姿が、とても愛らしい。私も必死になって彼女を気持ちよくしようと手と舌を動かした。

秘裂を蜜で濡らし、口で淫らに水音をたてながら、彼女は幸せそうに目を閉じて快楽に酔いしれる。
そして、彼女の体が一瞬強張ったかと思うと体中の力が弛緩したように抜けた。
どうやら、気をやったらしい。私は手を止め、彼女から唇を離す。
幸子は余韻に浸るように、大きくゆっくりと息をしていた。
私は先程の体勢のまま彼女の肩に顎を乗せて、彼女の体をそっと抱きしめた。



「あはは……もう、イッちゃったか」


幸子は脱力し、ゆっくりと私の腕の中で息を整えている。
彼女の体温を感じながら私は彼女が落ちつくまで待った。


「……――さん」

「ん……何?」

「服……脱いで、下さい……今度は、ボクがしますから」

「……わかった」


私も服を全て脱ぐ。そして寝転がり、幸子は四つん這いになって私を見下ろした。私の肉棒は既にはち切れんばかりになっている。
幸子はそれを見てくすっと笑った。


「相変わらず元気ですねぇ……触らないでここまで大きくなるんですから」

「そんな事言われてもな……幸子の体を見れば、こうなるって」

「まぁ、当然ですよね。ふふん」


幸子は楽しげにそう言って、その柔らかく清らかな掌で私のものを握った。
細い指が、温かく亀頭に絡みついてくる。弄ばれるように幸子は緩やかな手つきで私を責める。
快楽がじんわりとこみ上げ、体が時折震えてしまう。


手つきが徐々に強くなる。裏筋をなぞられ、カリに指が引っかかる。
先程よりも強い快楽が押し寄せてくる。思わず声が漏れてしまった。
幸子はそれを聞いて嬉しそうに目を細めた。


「ふふっ……ぴくって動いて、気持ちいいんですね……」

「あ、あぁ……柔らかくて、気持ちいいよ……」

「……ふふっ、そうですか……」


幸子は妖艶な色を目に浮かべて、そのまま指を動かし続けた。
尿道口を指の腹で撫でられる。
その指先が離れると、粘性のある液体が糸を引いていた。
既に我慢汁が漏れてきていたのだ。

幸子はそれを見ると、今度はゆっくりと指を上下させ始めた。
軽い圧迫感に包まれて、また先程とは違う快楽がこみ上げてくる。
そして、幸子はもう片方の手で亀頭を掴んだ。
漏れ出た汁をなじませるように、亀頭をぬるぬると掌で包みこむ。


「くっ……あっ……」

「先っぽされるの……好きですもんね……」


幸子はそう言ったにも関わらず、手の動きを止めてしまった。



「あ、あれ?」

「もっと……して、あげますから……」


私が呆気に取られていると、幸子は口を開けて私の怒張したものを咥えた。
唾液で満たされた生温かい口内に亀頭がくるまれる。
腰を引きそうになるような快楽が私に襲いかかる。
幸子は鼻息を荒くさせて、舌を絡めて先端を舐め始めた。


「つっ……幸子……」


突然のその行為に、私はまた情けない声をあげてしまう。
彼女の小さな口に私のものが埋まっている。
その光景がなんともいやらしく見え、私の中の劣情が更なる熱を帯びる。

いやらしく舌を這わせ、時折水音を立てながら私のものを扱う。
もう我慢の限界が見えてきてしまっていた。

それを知ってか知らずか、幸子は責めを緩めず私を追いこんで行く。
ちゅうちゅうと先端を吸い、舌でちろちろと舐めあげられる。
少しざらついた表側で舐めたと思えば、舌の裏の滑らかな部分が這う。
そして、尿道が吸い上げられどんどん射精感を煽られていく。



「さ、幸子……は、放せ……もう、出るから……」


幸子はその言葉を聞かずに、今度は頭を前後させて口内でストロークし始めた。
口が小さい為、半分程しか埋まらないがそれでも刺激はとてつもない。
理性が飛びそうだ。自分で腰を動かしてもっと奥まで入れたい。
そんな衝動を抑える為に、幸子の頭に手を添えて逃げるように腰を引く。

だが幸子は逃がしてくれない。
射精させようと舌で裏筋を責め、唇をすぼめてカリに引っかかるようにしてくる。
浮いてしまうようだ。髄から電流が走り抜けて行く。脳にまでダイレクトに快楽の波が押し寄せる。

もう、ダメだ。


「くっ……」


私は何とか幸子の口からペニスを離した。
そして堰き止められた精液が迸った。
幸子は驚き、何故かわたわたと亀頭の先を手で押さえた。



「あっ、ちょ、ちょっと……」


私は射精を終え、息を荒く吐いて絶頂の余韻に浸っていた。
そして何故かまた、幸子は追いうちをかけるように私のものにまた口をつけようとした。


「お、おいちょっと待て。何してるんだ幸子」

「だ、だって……」

「だってって……また口つけたら、えぐいぞ」

「……でも……」

「……私にはそういう趣味は無いって。それに、幸子に苦しい思いをさせてまで、気持ちよくなる気は無いんだから」


私がそう言っても、幸子は何だか不服そうな顔をしていた。


「……どうした」

「……何でも、ないです」


何となく、理由はわかっていた。
何度もしているが、その度に出た精液を眺めて何か感慨深そうにしていた。



「……私の全てを、受け入れようとしてくれるのわかっているから。
 それだけで……私は十分だから」

「……わかり、ました」


幸子の頭を撫でる。本当に、何でここまで健気なのだろうか。


「……うわ、また大きくなってます、けど……」

「え?」


自分のものを見た。先程出したばかりなのに、また大きく反り立っていた。
……何と言うか、私は下世話な男だ。


「あぁ、何だろうな……私は、幸せ者だ」

「……なんですか、それ」

「……なんでも無いさ。ほら、ティッシュで拭いて……その、本番、しようか」

「……はい」


ティッシュで彼女の顔を拭き、ゴムを付ける。
そして、彼女と向き直った。



「……おいで」

「……はいっ」


幸子が私の膝の上に乗る。所謂対面座位という形になった。
最近、始めに挿入する時は大体この体位だった。

幸子はペニスを手でつかみ、自分の性器にあてがった。
陰唇の柔らかい弾力が亀頭に当たる。ぷにっとした感触に、私の腰が思わず反応しそうになってしまう。


「……入れ、ますよ」

「うん」


幸子はそのまま腰を落とし、熱く滾った蜜壺に私の肉棒が入っていく。
ずぶずぶと、小さくきつい穴に埋まってゆく。
細かいヒダが絡みつき、きゅうきゅうと絞めつけてくる。



「入り、ましたっ……」


息を大きく吐く彼女を抱きしめて、頭を撫でる。
こうやって抱きしめられるからこの体位は好きだ。
彼女を近くに感じられる。大好きだ。


「幸子……温かいな……」

「ふふっ……そうですか」

「あぁ……あぁっ」


彼女を強く抱きしめて彼女の匂いを感じる。
とても良い匂いだ。甘くて、切なくて。
繋がっているんだ、彼女と。


「……ふふっ、ちょっと強いですよ力が」

「……ごめん」


彼女に言われても、腕の力は抜けなかった。むしろ、より一層深く抱きしめていた。
顔を彼女の髪に埋めるかのように抱きしめる。
欲しい。くそ、喉が、張り付いている。



「……良いですよ……もっと、抱きしめて下さい」


囁くような声を出して彼女も私の背中に手を回し、ぎゅっと私を抱きしめてくれている。
幸せだ、私は。


「じゃあ、動きます……」


幸子が前後に腰をゆっくりとグライドし始める。
ぬめった肉を押し広げ、私のペニスが幸子の深くを突く。
彼女の中に、私が入り込んでいくのがわかる。

そして、またゆっくりと抜けて行く。
カリ部がヒダに引っかかり、じんわりと快楽が湧きあがって来る。
抜く時、幸子は切なそうにくぐもった声をあげた。
先端近くまで結合が離れた所で、幸子はすぐにまた腰を沈ませた。

それを何度も繰り返す。
幸子が一生懸命を動いて、私を気持ちよくしてくれている。
私の腕の中で、一生懸命。


「幸子、こっち向いて」


幸子は私の言葉に反応して、すぐに私に顔を向ける。
そしてまたキスをする。
お互いに息を荒くさせて、互いを互いに埋めるように舌を交わらせる。

唇と下から、二つの甘くとろけるような刺激。
彼女と混ざり合ってしまいそうな、そんな感覚さえ覚える。
心なしか、彼女の息と動きが早くなっている。
私もそれに合わせて、あまり動かせないが腰を動かして彼女と同調させる。



「――さん……」


唇を離す。また唾液の糸が、未練がましく私達を繋ぐ。
幸子は夢中になって腰を動かしているようだった。
もう本能だけで動いている。そんな感じだ。
結合部を見る。私の陰茎は幸子の愛液でどうしようもないくらいに濡れてしまい、光沢を持つように見えた。

刺激がどんどん強くなる。彼女の動きが獣のように荒くなっていく。
彼女の息遣いもそれに合わせて早くなっている。


「あはは……もう、我慢できなくなってきてるんだ」

「だっ、て……」

「我慢しなくても良いから……」


私はまた彼女とキスをする。ねっとりと、追い立てるように。
彼女の頭に手を回して、あの時と同じように、彼女との距離を無くすように抱きしめる。
むせてしまいそうな彼女の濃い匂いを嗅ぎながら、彼女と唾液を混ぜ合いながら、最後の理性を掻き消していく。
彼女との体の距離はもう無くなっている。だが、まだ足りない。


彼女は私の言葉通り、我慢する事なく先程よりも激しい腰捌きで動いていた。
喉から発せられる嬌声も、大きくなってきていた。
唇の隙間からは獣のような息が漏れ、唾液すら口の端から垂れてきていた。
舌と腰の動きが限界まで早くなる。
もう彼女の我慢も限界だ。

私は彼女のハリのあるお尻を鷲掴み、彼女を腕の力で上下に強引に動かした。
先程より更に強い快楽が私を襲い、
彼女は驚いて目を丸くしていたが、すぐに硬直し、ほんの僅かに体を震わせた。
ぐったりと力を抜き、私に寄りかかるようにして体を預けた。


「あはは……ごめん、ちょっと最後乱暴だったな」


彼女を優しく抱きしめて、髪を梳くように撫でる。
私の腕の中で、彼女は小さな体で大きくゆっくりと息をしている。


「……」


息を切らし、余韻に浸っている幸子の頬を撫でる。
彼女はその手を受け入れ、そっと自らの手を私の手に添えた。



「あ、あの……」


幸子はまだ蕩けたような顔で、私の顔を見た。
仕事終わりの行為だった。元々疲れているのだからあまり無理強いはできない。
ここでやめるか……もし続けるのなら、ゆっくりと時間をかけよう。


「……何だい? 疲れてしまったのなら、このまま眠ってしまっても……」

「まだ、――さんが……その……」


まだ繋がっていた部分を一瞥して、幸子が恥ずかしそうに言う。
彼女の中でまだ私のものは熱を滾らせていた。


「……そうだね。だけど、無理は、しないでいいよ。
 あぁと……少し時間をおいてでも……」

「えっと……それと」

「それと?」

「……ボ、ボクが……」


幸子は口をもごもごと動かし、二の句を告げないでいる。



「ん?」

「い、言わせるんですか?」

「言ってくれないと……わからないよ」


何となく答えはわかっていた。けれど、私は少し意地悪く彼女に尋ねる。
元々紅潮していた彼女の顔が更に赤くなっていく。


「ボクがっ……その……」

「……幸子が?」

「うっ……」

「……言って?」


羞恥に私から顔を逸らし、目を瞑って堪えるように彼女は口を開く。



「したいん……ですっ……ボク、が」


私の胸に頭を押し付けて、振り絞るような声で幸子は言った。
その仕草がとても可愛くて、私の胸は歓喜で絞めつけられた。
私は彼女の頭を撫でながら小さく呟くように言う。


「……うん。じゃあ……しようか、続き」

「……はい」


華奢な彼女の体を持ち上げて、壁にもたれさせる。
駅弁だとかいうような体勢になった。
先程と互いの位置は変わっていないように思えるけれど、今度は私の方から責められるようになった。


「ふふっ、やっぱり幸子は軽いな」

「そ、そうですか」

「……それじゃあ」


何かを求めるように淫らに開いた入口に、私は先端を押し付ける。
幸子は小さく声を漏らし、期待の眼差しでその様子を見つめていた。
そして、持ちあげていた彼女の体を降ろすようにしてずぶずぶと挿入していく。



「んっ……」


重力に任せるようにして彼女と私はまた繋がった。
熱くうねった膣肉が、また私を離さないようにと絞めつけてくる。


「全部、入ったよ」


根元まで、彼女の中に入ってしまった。彼女の奥にまで私の陰茎は
ぎゅうっと締め上げられるような狭さなのに、中は熱く愛液で濡れそぼりとろとろと私を溶かそうとしているようだった。
私の肉棒にみっちりと絡みついて、動いていないのに既に快楽を生み出してしまっている。


「あっ……」

「……じゃあ、動くよ」

「は、はい……」


私はもう最初から遠慮無しに腰を振る事にした。
彼女を腕でしっかりと固定して、腰を横にがんがん振る。
とろけそうな程ぬめった淫肉がぐちゅぐちゅと私の肉棒を扱きたてる。
カリにヒダが引っかかり、包まれるような快楽が湧きあがる。裏にある尿道にはじっくりと射精感を促される。

そして、何より幸子が気持ちよさそうな顔をして私のピストン運動に喘いでいる。
髪を振り乱して、押し寄せる快楽に
それが私により一層の興奮を与えた。



「ふふっ、気持ちいい?」

「んっ……くぅっ……」


幸子はまだ羞恥が残っているようで、必死で漏れそうになる声を喉の奥で殺していた。
早く、もっと乱れさせたい。
私は彼女の弱い部分である、上部の少し奥まった部分を意識して突くようにした。


「あっ……だめっ……」


ずんずんと、容赦なく彼女の弱点を責め立てる。するとみるみるうちに幸子の気色が変わっていった。
目をとろけさせて、何かを求めるように唾液でいっぱいになった口を開けて、おしくぐもった声をあげている。

彼女を更に追い立てようと、私は彼女と口付けを交わす。
先程よりも腕の力を強めて幸子は私に抱きついてくる。
鼻息は荒く、もう理性は飛んでしまったようだ。



「――さん……――さんっ!」


彼女から唇を離す。
うわ言のように私の名前を呼びながら、幸子は必死で私にしがみ付き押し寄せる快楽に体を強張らせている。
身動きを封じたまま、固定した彼女の身体に打ちつけるように腰を前後に動かす。
それに合わせるように、幸子の膣内も私を射精させようとねっとりと絡みついてくる。


「好きっ……」


幸子が必死でしがみ付きながら、私を痺れさせる言葉を放つ。
この時だけは、素直に私に好きと言ってくれる。
その言葉が聞きたくて、私はこの行為をしてるんだ。

下半身のからの情報はもう気持ちいいという感覚以外無くなってきている。
彼女に気持ち良くなって欲しい。
だが、彼女の可愛い姿をもっと見たい。
そんな意地の悪い考えが、熱にうなされた私の頭に浮かんでいた。


幸子の限界はすぐそこまで見えている。
私は微笑みながら、頭に浮かんでしまった考えを実行する事にした。
私は一旦、より強くピストン運動を行ってから、その勢いに任せるようにして彼女から肉棒を引き抜いた。


「あっ……」

「……ふふっ」

「うっ……な、なんで止めっ……」


幸子は一体何が起きたのか分からないという感じで、私の目と先程まで自分の中に入っていたものを交互に見つめていた。
先端を入口に当ててそこから一寸も動かさず、私は何も答えず狼狽する彼女の唇を奪う。
硬直し呆けていた幸子は、垂らされた蜘蛛の糸に縋るように私を舌で貪った。
まるで獣のような息遣いで舌をうねらせている。

私もそれに負けじと舌を絡ませる。しかし、挿入はしない。
幸子は腰を動かし何とか元に戻そうと押し付けてくるが、私は腕で持ち上げて中に入らないようにする。
入口には触れさせるが中には入れない。そんな微妙な距離で幸子を焦らす。
舌を離し、私は微笑みながら彼女の顔を見る。



「――さん……だめです……だめっ……」


いやいやと首を横に振り、幸子は上擦った声で私に訴える。
目も口も蕩けさせて生温かく湿った息を忙しくなく吐いている。
いつもの強気な彼女は何処へ行ったのかと思ってしまう程、彼女は熱にうなされていた。
ただ欲望に塗れた女性が、私の目の前にいた。


「ふふっ……イキそう、だったの?」

「あっ、うっ……」

「幸子の反応ですぐ、わかるよ。もう限界近くだったね」

「――さん、早く……早くっ」


絶頂まであとほんの少しという所で止められてしまう。
そうして焦らされただけで、幸子の体は震えていた。


「……可愛いよ」


私を求める目。私が欲しくてたまらないと言う目。
私も同じだ。きっと同じ目をしている。
けれど、まだ入れない。
この目を、もっと見たいから。



「……ボクっ……」

「欲しい、のか?」


顔を近づけて、唇が触れてしまいそうな距離で囁く。


「はい、はいっ」

「そっか……」

「だからっ……――さんっ……」


彼女は恥も我も忘れて、私を求めてくる。可愛い姿に胸がきゅんとなってしまう。
なら、もういじめるのはやめてあげようか。
私も、正直もう我慢できない。


「じゃあ……入れるよ……」


私はまた、彼女の中に自らを埋めた。



「ふっ……んんっ!」


そして、また激しく腰を打ちつける。
本能をぶつけ合うように腰を振り、また唇を合わせる。
肉と肉がぶつかり弾けるような音をあがり、唇を合わせて淫靡な水音を口から奏でる。
蜜を溢れさせて、私達は必死に求めあう。

もう、何が何だかわからない。
欲しいのに、欲しいのに、まだ渇く。
体が邪魔だ、距離が縮まない、くそっ、もっと、もっとだ。


「好きっ……好きっ」


幸子がキスの合間を縫って、必死で叫ぶ。
甘えた嬌声が私の髄の感覚を奪って行く。
感覚すら溶かしてしまう至福の快楽が、私の脳に波状となって襲い来る。



「可愛いよ、幸子……」

「はいっ、はいっ……」

「好きだ、幸子……」

「ボクもっ、ボクもですっ」


幸子は縋るように私をきつく抱きしめる。
二人とも絶頂の淵に立たされている。


「幸子……もうっ……」

「早くっ……一緒にっ……んんっ!」


幸子の体が弓なりに仰け反り、びくっと震えた。


「つっ……出る……」


頭が真っ白になり、腰を一段と強く打ち出した。



「くっ……」


私も幸子に続くように絶頂する。
睾丸の中にあるものを全てぶちまけてしまうかのような勢いで射精する。
その間も幸子の中はうねり、私から絞りとろう吸いついてきた。
そのせいで何度も陰茎の奥が脈打ち、止まるまでしばらく時間がかかった。


「はぁ、はぁ……」


互いに絶頂後の余韻に浸り、大きくゆっくりと息を吐く。
私は幸子をそっとベッドの上に寝かせて、私もそれに添い寝する形になって寝転がった。

横にいる彼女と目が合った。幸子は微笑みを返してくれた。
私は、彼女の顔にかかった髪を元に戻すようにして頬を撫でる。
目を閉じて彼女はそれを受け入れる。
それが、幸せだった。



「……――さん」


微笑みながら、彼女は私の名前を呼んだ。


「何?」

「ふふっ、何でもないです」


目を細め、あどけない笑顔を浮かべて彼女はそう言った。


「あはは、何だそれ」

「……ふふっ」


少し自我を取り戻した頭を動かし、時計を確認する。
もうこんな時間か。



「……もう寝ようか。明日もあるし」

「はい……」

「……ありがとな、幸子」

「ふふっ、何ですか急に」

「……何でもないよ」


今度は彼女を優しく抱きしめる。
このまま、眠ってしまいたい。


「……幸子」

「何ですか?」

「このまま、寝ていいか?」

「良いですよ、このままで……」

「……あぁ」


小さな彼女の体を抱きしめて、沈んでいくような眠りにつく。
これ程、幸せな事はない。私はこれ以上の幸福なんて、知らない。


「……おやすみ、幸子……」

「はい、おやすみなさい」


これからも、私は彼女と共に居続ける。
こうして、ずっと。



「……優しい……優しい、――さん」


長々と続けましたが、終わりです
ちょっとキャラ違うんじゃねとか言われないか怖い

それにしても何でストーリーつけたんだろ
自分自身物足りなかったのかわからないが馬鹿みたいに長くなってしまった

なにはともあれ、お付き合い下さって、ありがとうございました

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