前の仕事をやめる時に貰った退職金と、今までの貯蓄で、何とか新しいアイドルプロダクションを作る事ができた。
購入した事務所は比較的新しく、古い物件ではないがやや小さい。一般的な収入で一個人が建てるならこの程度が限界か。いや、俺が貧乏なだけかもしれない。
とりあえず正式に設立を終えた。だが、残念な事にアイドルが一人もいない。
最初はアイドルのスカウトから始めないといけない。
だけど俺は男だ。いきなり近寄ってきた男にアイドルにならないかと誘われたら、よほど危機感のない女性では無い限り、俺を怪しむだろう。
女性の従業員がいてくれれば、男の俺よりも幾ばくか容易にスカウトできるだろうが、アイドルが一人もいない今、給料なんか出せない状態だ。
やはり、どんなに成功確率が低くても自ら足を運び、声をかけていく必要がある。
……それなりに困難だ。
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世の中そう甘くない。自分の手でここまで来れたけど、こんなんでこれから上手くやっていけるだろうか……
――って、自分で起業するぐらい、俺はこの仕事が大好きじゃないか。今から弱気でどうする。ここまで来たら絶対アイドルになってくれる人を見つけてみせる。
俺は腹を決め、アイドルになれそうな人をスカウトするべく、事務所を出て、人の多い駅前辺りに向った。
下手したら通報されかねないが、アイドルに向いてそうな女性へと片っ端から声をかける。
逃げられたり、無視されたり、悩まれたけど断られたり、何故か雑談になったり、色々な反応を貰ったが、俺は挫けない。
「見つからないなぁ……」
いつの間にか夜になっていた。気がつかないうちに相当な時間歩き回っていたらしい。だが、未だに一人もアイドルになってくれる人が見つかっていない。なってくれそうな人はそれなりにいたが、流石に所属アイドルが一名もいないのは問題のようだ。当たり前だが。
スカウトではなく、オーディションでもいいのだが、作ってすぐの事務所に果たして人が来るだろうか。案外来るかも知れないが、その子達がアイドルに向いているかどうかは未知数だ。やはり自分の足で探す方がいい。
駅前の大きな広場にあるベンチに腰掛け、ぼんやりと人混みを見渡す。駅は相変わらず人が多い。
一日中歩き回って疲れた俺は、ベンチで思う存分体を休めた。くつろぎながら、何となく、空を見上げた。
星が綺麗だった。大都市だと明るくて見づらいものだが、それにも関わらず、たくさんの星が夜空で瞬いていた。
星の観察に飽きて、そろそろ事務所に戻ろうかと視線を戻した時、視界に映る一人の少女に、思わず目が留まった。その少女は、夜空を見上げて佇んでいた。
女性にしては身長がやや高く、少し華奢だが体つきはとてもいい。不健康に思えるほど白い肌に、整った顔立ち、透き通るような青い瞳、そして、道行く人々の興味を惹く、肩まで伸びる銀髪。
真っ白なジャケットと黒いTシャツに、濃い青のジーンズを着こなしている。少女は日本人の顔立ちではなく、ロシア人やアメリカ人のような……分からないが、とにかく、西洋系の顔立ちだった。
とても、綺麗な少女だった。端麗な容姿に加え、知的で理性的な雰囲気、冷たい眼差し、感情の読めない無表情も合わさって、かなり独特のオーラを放っていた。
精巧に作られた等身大の人形が立っているのではないかと思わず錯覚してしまうほど、少女は美しかった。
気がつけば、少女の近くまで歩み寄っていた。本当に、傍から見たら変質者である。
「なぁ、君――」
空を見上げていた青い瞳が、ゆっくりと俺に向けられた。お互いの視線がしっかりと合わさり、何故か緊張が体を走る。
彼女の瞳から目が離せない……いつの間にか彼女が持つ、深く澄んでいる、宝石のような青い瞳に見蕩れていた。
「アイドル、やらないか?」
気がつけば、震える手で名詞を差し出していた。
動悸が激しい……俺はかつて無い輝きを持つ少女を前に興奮していた。
目の前の少女をプロデュースしたいと、心の底から思った。
「ヤー……私に何か、ご用ですか?」
差し出した名刺には目も暮れず、その青い瞳は俺の目を捉えて離さない。
「アイドルやってみないか? 君なら絶対に、トップアイドルを目指せると思う……」
「アイ、ドル?」
失礼を承知で、名詞を少女の目の前に突き出す。とにかく、受け取って欲しかった。
少女は胸元に突き出された名詞に目を落とした後、受け取ってくれた。
「アイドル……ですか?」
少女が、名詞と俺を交互に見ながら戸惑ったように言う。今まで無表情だった彼女の表情が変わった事に、何故だか小さな喜びを感じた。
「……そう、アイドルだ。君なら、どんなアイドルよりも輝けるって思ってる」
何を言ってるんだ俺は……ナンパじゃないんだぞ。一人焦るものの、彼女は無表情のまま特に反応は示さなかった。目を見開いたまま微動だにしてない。
少女はそうしたまま数秒間固まっていたが、おもむろに口を開いた。
「流石に、今すぐには決められません……ごめんなさい」
少女は申し訳なさそうな声色そう言った。あまり表情に変化が無いけれど。
ただ単に断るためにそう言ったのかも知れないが、それも仕方ない。年頃の女性から見ると俺は大分怪しいだろうし、警戒もするだろう。
あまり感情を表に出さない少女からは、何も読み取れない。果たして、アイドルをやってくれるかどうかは分からないが……とにかく、名詞を渡せただけ良しとしよう。
「それじゃ、俺はこれで……いきなり申し訳なかった」
「いえ、大丈夫です。お話、ありがとうございました」
俺は、後ろ髪を引かれる思いでその場を立ち去った。
少し離れた所で、未練がましく一度だけ振り返る。
――少女は、俺の名詞を握り締めながら、また夜空を見上げていた。その深い青の瞳には、きっとたくさんの星々が映っているのだろう。
あの子をトップアイドルへと導きたい。あの子と一緒に、トップを目指したい。
初対面で、自分でも気持ち悪いと思うが、純粋にそう思った。
寝ます。
のんびり書いていくので更新遅いかもしれません、ごめんなさい。
あの少女と出会ってから二日経ったが、未だに連絡は無い。やはり無理だったか。
本来なら二日間ずっとスカウトに明け暮れている筈だったが、あの少女がずっと頭の中に残っていてスカウトする気が起きなかった。
昨日も今日も、少女を待ち続けて恐ろしく少ない事務仕事を淡々とこなしていた。
……いつまでもこうしてはいられない。
いくらあの少女に心奪われたとは言え、このまま何もしないでいるとこの事務所は潰れる。
俺は重い腰を上げ、外出の準備を始めた。また、スカウトしに行く為である。
ものの数分で準備を終え、扉を開けて外に出る。
――事務所の前には、一人の少女が佇んでいた。
ほっそりとした、か細くて、雪のように白い足。紺色のショートパンツに、白いTシャツ、薄い生地の青いパーカー。とても綺麗な、痛んだ箇所が見当たらない、肩まで伸びるさらさらの銀髪に、目立つ西洋系の整った顔立ち……目の前に立っているのは、見覚えのある少女……
――青い瞳と、目が合った。
「あぁ……えっと……」
突然の事に目を白黒させてしまう。そんな俺を、彼女は無表情で見つめている。
「アイドルになろうと思ったので、ここに来ました」
「え? あ、そうか……別に、名刺に書いてあった携帯の番号に連絡してくれてもよかったんだぞ?」
何もわざわざ住所を調べて足を運ぶ必要は無い。
「アイドルになるのに、書類などは書く必要はないんですか?」
彼女が上目で問いかけてくる。
「まぁ、必要だけど……アイドルになりたいかどうかを言うのであれば、別に電話でも……」
「そうでしたか、でも、もう来てしまったので」
もっともだ。
「来てくれてありがとうな、喜んで歓迎するよ。どうぞ、入ってくれ」
「お邪魔します」
俺に続いて事務所へと入る少女。興味深そうに室内を眺めている。
「誰もいないんですね」
「あぁ、俺が社長兼プロデューサー兼事務員だ」
少女がきょとんと首を傾げる。その仕草がとてもあざとくて可愛い。そんな、男を悩殺するような仕草を無意識にやっているのが怖い所だ。
「ヤー……私以外の他のアイドルは今日はいないんですか?」
随分と痛い所を突く……もしかしたらアイドルになるのを断られてしまうかもしれないが、正直に話そう。
「他のアイドルはいないんだ」
「そうなんですか」
あまり表情に変化は無く、彼女は興味がなさそうにそう言った。反応が非常に素っ気ない。
「えーっとな……絶対に警戒させちゃうし、不安にさせてしまうからあまり言いたくないけど……当分の間、二人っきりでいる事がある……」
「ヤー……私は大丈夫です。気にしないでください」
本当に気にしていないように見えるが、やはり、嫌がってる可能性も十分にある。彼女との距離には気をつけなければ。
「ありがとう……気休めにもならないと思うけど、アイドルに手を出す気とか毛頭ないから、一応安心して欲しい」
二人っきりだから意識とかはしてしまうかもしれないが、それは仕方ないだろう。彼女は男性の意識を掻っ攫うほどの美貌を持っているのだ。
「それで、どうして話を受ける気になったんだ?」
何となくそう聞くと、暫しの間、彼女は沈黙した。やがて、口を開く。
「アイドルは、夜空で輝く星のようです。私も、あの星々のように輝きたいと、そう思いました」
その青い瞳に強い意思を携えて、少女はそう言った。
アイドルになりたい気持ちは強そうだった。もしかしたら、昔から興味はあったのかもしれない。
「そっか……よし、任せてくれ。アイドルは大変だろうけど、一緒にがんばろうな」
「ダー。アイドル、がんばります」
ほんの少しだけ、少女は表情を和らげる。
「カーク ヴァス ザヴート?」
彼女は突然、流暢な外国語で俺へと問いかけてきた。
戸惑っている俺を見て、少女は小さく微笑んだ。初めて見る彼女の笑顔はとても可愛らしくて、思わずマジマジと見つめてしまう。
「フッ、貴方のお名前は? と聞きました」
そんな俺の状態を知ってか知らずか、外国語で言った質問を日本語に翻訳して、少女は再度俺に問いかけた。
「……え? あ、えっとな、俺はPって言うんだ、君は?」
慌てて自分の名前を告げる。正直、彼女の微笑みに衝撃を受けていて若干上の空だった。
「……P、ね。……ミーニャ ザヴート アーニャ」
「ミーニャ・ザヴート・アーニャって言うの?」
彼女は静かに首を横に振った。
「ミーニャ ザヴートは、私の名前は――です、という意味で、自分の名前を教える時に使うんですよ。アーニャは、ええと……ニックネームよ。私はアーニャ……正式にはアナスタシアです。よろしく、プロデューサー」
彼女が屈託のない笑みを浮かべながら、手を差し出した。
「あぁ、よろしく」
俺も手を伸ばして、彼女の手をとり、握手を交わす。
アーニャは、さっきまでとは打って変わって随分と表情が豊かになっていた。
アーニャが浮かべた笑顔は、どんなアイドルにも、彼女が言う夜空の星々にも負けず劣らず輝いているように思う。
この少女となら、どこまでもいけそうな気がした。
寝ます。
個人経営のプロダクションで事務所購入しちゃうの?
キャッシュフロー悪化するんだから経営感覚なくてイキナリヤバくね
そんなところ勤めたくないわ
「よし、まずはアイドルの基礎を学びながらモデルのお仕事だな」
「私が、モデルですか?」
「あぁ、女性向けファッション誌のモデルだ。載るのは一ページだけだと思うけど、それでもちゃんとした仕事だ。やってくれるか?」
「ダー。任せてください」
ファッション業界にもコネクションはある。それを使ってもよかったが、試しに応募したら一発で採用された。
表情の変化がやや乏しいが、それでも彼女はとても魅力的な容姿をしている。それに、モデル向きの体型だ。
アーニャにはアイドルになる為に必要なレッスンを受けてもらいながら、当分はこういうモデル系の仕事をやってもらおう。
――数日後、新しいプロダクションでの初めての仕事へと、俺とアーニャは向った。
「初めての仕事は緊張しますね」
「気軽にやってくれて大丈夫だ。それに、余計不安になったら申し訳ないけど、俺も付き添うから」
「一人よりも、ずっといいです」
本当に緊張しているのかと疑問を抱くほど、アーニャはいつも通りだ。
彼女は表情の変化に乏しい。今日もいつも通りのように見えるが、多分、言葉通り緊張はしているのだろう。
安心させたり、緊張をほぐす事は出来ないかもしれないが、それでも出来る限りの事をしてあげよう。プロデューサーにできる事なんてたかが知れているが。
質素で、小さな控え室に通されたアーニャは、相手の会社が指定した服に着替えて、後はずっと椅子に座って呼ばれるのを待っていた。
着替えたアーニャは、ファッション性の高いカジュアル系の黒いパーカーに、赤いカットソー、青を基調としたチェックのスカートを着用。すらりと伸びる白い足を膝下まで黒いソックスで覆っている。
アーニャはよくショートパンツを好んで着ているが、スカートも中々に似合う。
暫くしてスタッフがやって来た。いよいよ撮影が始まるようだ。
「ヤー。がんばります……」
「がんばれ。応援してる」
いつもよりも少しだけ表情を硬くして、アーニャはカメラの前に向う。
スタッフと一言二言言葉を交わした後、アーニャがぎこちなく、ポーズを取った。
カメラのシャッターが切られる。
十数分後、撮影は終わった。
アーニャは撮影中は終始無表情だったが、不思議な事に何も言われていない。要求された事を淡々とこなし、撮影は無事終了した。
安堵したような表情を浮かべながら、アーニャが戻ってくる。やっぱり、初めての仕事で緊張していたらしい。
「お疲れ様」
「プロデューサー、私、上手くできていたでしょうか?」
「あぁ、とっても上手くできていたと思う。本当に、お疲れ様」
ポーズを取る時に少しだけぎこちなさはあったけど、この仕事で撮るのはムービーじゃなくて写真だ。何も問題は無い。
とりあえず、最初はこの現場の空気にがんばって慣れてもらおう。
「拍子抜けかもしれないけど、もう仕事は終わりだ。帰ろう」
「えーっと、この後は確か、ダンスのレッスンですね」
アーニャにはレッスンを受けさせている。環境が変わってまだ緊張が抜け切っていない時に辛いだろうけど、アイドルになるには必要な事だ。
「レッスンは大変か?」
「ダー。ですが、レッスンは楽しいです。私に才能があるかどうかは分かりません。でも、精一杯がんばります」
彼女は楽しそうにそう言った。その言葉を聞いて、少しだけ安心する。
こうして、アーニャの初めての仕事は無事成功に終わった。
後日、アーニャがモデルとして掲載されるファッション誌を購入したら、一ページ一杯に大きく載っていた。
無表情だったけど、アーニャの美しさが存分に伝わってくる写真だった。会社的にはアーニャの着ている服を見てもらいたいのだろうが、多分、大体の人はアーニャに視線が行くのではなかろうか。
たった一つの雑誌に一ページ分掲載されただけなのに、どこからともなくモデルの仕事がたくさん来た。
この事を教えると、アーニャも目を丸くしていた。
「ヤー。驚きました……けど、嬉しいです」
本当に嬉しそうな表情を浮かべるアーニャを見て、俺も思わず頬が緩む。
「まだまだ始まったばかりだ、一緒にがんばっていこうな」
「ダー。今は実力が足りませんけど、いつかは歌ったり、踊ったりもしてみたいです」
「アーニャならきっとできるよ。トップアイドルだって目指せるさ」
アーニャは、輝いている。その整った容姿も魅力の一つだが、彼女はもっと本質的に、そういう素質があるように思う。
アーニャは、もっと輝ける。俺はこれからもずっと彼女を支えていきたい。彼女を近くで見ていたい。
「プロデューサー。私、もっとがんばりますね」
微笑むアーニャ。
彼女の笑顔だって、もっと見たい。
寝ます。
>>31
ごめんなさい。そこら辺はよく考えないまま書いてしまっています。
読んで下さっている方には大変申し訳ないのですが、違和感のない形に補完してください。
ついでに名刺を名詞と間違えてしまっているので、そこもお願いします。ごめんなさい。
「プロデューサーはどうして一人で事務所を立ち上げたんですか?」
アーニャは気になっていた。まだ若いプロデューサーが、何を思って一人でアイドルプロダクションを立ち上げたのか。
プロデューサーは読んでいた本に四葉のクローバーを押し花にした栞を挟み、こちらに体を向ける。
「昔から、アイドルが好きだった。ただ、アイドルのファンってだけじゃ満足できなくて……もっとアイドルに近い所で応援したくてな」
少しだけ笑みを滲ませながら、プロデューサーはそう言った。
「ちなみに、アイドルと近い存在になりたいっていうのはやましい意味ではないからな? 身近で、助けになりたい、手伝いたい……みたいな、そんな感じ」
「知ってます。プロデューサーはこの仕事に対してとても真剣で、それに、私の助けになってくれています」
「そういって貰えると嬉しいよ」
私がそう言うと、照れくさそうにプロデューサーは笑った。
プロデューサーが栞の挟んだ本をしまい、立ち上がる。
「それじゃ、次の仕事の書類、確認しようか」
「はい」
――アーニャが所属して半年が経った。アーニャは、今ではもうライブが出来るくらいに成長した。
ダンスなんかは飲み込みがとても早く、驚異的な速度で成長。歌だってとても上手だ。昔は全然行かなかったらしいが、アイドルになってからはカラオケでよく歌の練習している。どうでもいいがよくアーニャに連れ出されて一緒に行く事も多い。
「そういえば、アーニャが載った雑誌を集めてたらとうとう本棚埋まっちゃったよ」
「別に捨てていいですよ?」
「収納する事はあるかもしれないけど、捨てる事はないよ。全部残しておきたいんだ。俺に付いて来てくれた、たった一人のアイドルだからな」
もう何ヶ月も経つが、事務所は未だに俺とアーニャで二人きりのままだ。最初こそ意識してしまっていたが、今ではもう慣れた。
アーニャは事務所内ではあまり喋らず雑誌を読んだり、寝転がったりしてくつろいでる。やましい気持ちなど無いが、一応俺も男だし、それを考慮するとアーニャは無防備すぎる。
男に対して抵抗があまり無いのだろうか? 若干不安だ。
普段アーニャとの会話は少なく、事務所は無言の空間に支配される事が多い。だけど、何故かその空気が苦では無い。むしろ心地いいくらいだ。不思議である。
もっとも、相手がどう思っているかは分からない。少なくとも嫌われてはいない……筈。嫌われてたら男と二人っきりの空間とか御免だろうし。多少の信頼はあるのだろう。
相変わらずアーニャにはモデルの仕事がたくさん来る。最近は有名な雑誌にも取り上げられるようになって、知名度も高くなってきた。
アイドルになってそんなに時間は経っていないが、そろそろ本格的なアイドル活動をしてみてもいいだろう。
「それじゃ、営業行ってくる。外出する時は鍵よろしくな」
「ダー。お留守番は任せてください」
アーニャには申し訳ないが、今の所、俺のプロダクションの知名度はいかんせん低すぎる。アーニャに実力があっても。新人アイドルと無名のプロダクションだ。いい仕事が取れ無い事がある。
最初の方はコネで何とかしよう。アーニャは何者も寄せ付けない高い実力を持つが、それを世に知らしめるきっかけが必要だ。幸い、芸能関係者との繋がりは結構ある。
俺は携帯を取り出し、芸能界関係の知り合いへと電話をかけた。
「アーニャ、この仕事、できそうか?」
俺がアーニャの為にとった仕事は、色々なプロダクションのアイドル達がたくさん集まるライブだ。合同ライブとかではなく、一人一人、または一グループが順番にやっていく形式のものだ。テレビにも映るし、規模は非常にでかい。
参加するアイドルは、実力があっても大衆には知られていないアイドルが七割と、人を呼び込む為に大人気で知名度も高いアイドルが三割。
このライブで新しい曲を発表するアイドルもいる。きっとたくさんの人が来るだろう。
「一人で参加するアイドルは、実は少ない。大体三人とか五人とか、グループだ」
この仕事を受けた場合、アーニャは一人で、初めてのライブなのに一人で舞台で立つことになる。それはとっても勇気が必要だと思う。大きな仕事ではあるが、俺は利益を求めてはいない。無理強いなんてしない。
俺なんかについてきてくれたアイドルだ。アーニャの意見を尊重したい。
「当たり前だけど、無理強いはしない。初めてなのに、大勢の観客の前に一人で立つっていうのは、凄い勇気が要る事だって、アイドルをやっていなくても分かる」
「一人ではありません」
彼女がきっぱりとそう言う。
アーニャが俺の手を取り、両手で包み込んだ。
「ヤー……私には、プロデューサーがいます。私は大丈夫です、任せてください」
「アーニャ……無理してないか? 気なんて遣うなよ、俺はアーニャの意見を尊重する」
アーニャは優しい子だ。本当に無理しているかもしれない。
心配になって思わず声をかけたが、彼女は静かに首を横に振った。
「大丈夫です。ただ、私の事、見守っていてください。ずっと――」
上目遣いで俺を見やる。その青く澄んだ瞳に、視線が吸い込まれそうだった。
どこかで、似たような事――
「心配しないでください。アイドル、楽しいです。ありがとう、プロデューサー」
ほんのりと頬を桜色に染め、アーニャが笑った。
まさか――
いや、アーニャは違う、大丈夫だ……。俺を家族のように思って、心を開いてくれているだけだ。きっと、そうだ。
きっと……
寝ます。
言うの忘れてたんですが、私の書くSSは一部にしか需要がないっぽいので、過去作が嫌いだった人は酉見て回避してください
「ヤー。髪が伸びて来ました、そろそろ切らないと」
机で事務仕事を淡々とこなしていると、アーニャが前髪を弄りながら唐突にそう告げた。書類からアーニャに視線を移す。出会った時と比べると確かに伸びている。
毎日のように顔を合わせている事もあり、言われるまで気付かなかった。
「俺が切るか? なんてな」
笑いかけながら、九割冗談、一割本気で言ってみる。過去に女の子の髪を切った事が何回もあるのだ。自信は若干ある。
「切ってくれるんですか?」
冗談のつもりだったが、アーニャは真顔で食い付いてくる。その予想外の反応に、動揺してしまう。ただ冗談に乗ってきただけだよな?
「アーニャがいいって言うんなら、切るけど……」
冗談とは告げずに、俺は続けた。心の底ではアーニャの髪に触りたいとでも思っているのだろうか。了承されるわけないというのに。
年頃の女の子が男に髪を触れさせるわけが無い。
「そうですか。では、お願いします、プロデューサー」
予想をあっさり裏切り、アーニャは俺を放心させる一言を放つ。
「は?」
「髪切ってください、私の……」
真っ白で柔らかそうなアーニャの頬に、赤みがさす。
どこかで……どこかで似たような事があった気がした。
『髪……切っていただけませんか?』
――いや、嘘だ。俺ははっきり覚えているじゃないか。思い出したくないだけだ、過去を。
「プロデューサー?」
呼ばれて、はっとする。アーニャが心配そうに俺の目を覗きこんでいた。
「大丈夫ですか? 汗を掻いてますけど」
頬を小さな雫が伝う。確かに、汗だ。
やはり、思い出したくない。昔の事なんて、忘れたい。
「大丈夫だ。それより、やっぱり切るのは無しだ。女の子の髪を男が軽々しく触るべきじゃないしな」
そうだ。女の子の髪を、軽々しく触るべきじゃない。
「……むむ。男に二言はあってはいけませんよ」
「悪かったって、冗談のつもりだったんだ、許してくれ」
可愛らしくむくれるアーニャは、天使の如く愛らしい。さらさらの銀髪も、正直言うと触りたかった。
……プロデューサーがこんなのでどうする。
気を引き締めて、俺は再び仕事に取り掛かった。
「もうすぐレッスンだろ、準備しろよ」
「ダー。分かってますよ……もう、プロデューサーのバカ」
後半は小さい呟きだったけど、しっかり聞こえてるって。バカとは何だ。
女の子って男に髪触られて平気なんだろうか。
代わり映えの無い日常が、暫く続いた。アーニャはいつもと変わらずレッスンを受け、仕事をこなし、学校で勉学に勤しむ。
俺もアーニャの為に外を回り、仕事を取り、そして事務所で書類やらメールやらスケジュールやらを整理する。
だが、今日は少しだけ違う。今日が、例のライブの日だ。
もしかしたら今日を区切りに日常が変わるかもしれない。それくらい大規模なライブだ。
故にライブ自体が初めてのアーニャにとってはプレッシャーと負担がかなりのものだろう。
何か出来る事は無いものか……
「アーニャ、大丈夫か?」
楽屋にて、用意された衣装に着替え、メイクも終わったアーニャに声をかける。いつも通りに見えるが、やはり少なからず緊張はしているのだろう、表情が硬い。
「やはり、少し緊張します」
「ごめんな……俺にはただひたすら応援する事しかできない……」
「ニェート。プロデューサーがいてくれるだけで、心強いです……」
アーニャが、ぎゅっと、左手を胸の前で強く結ぶ。
ほんの少し瞳を濡らして、上目で彼女は俺を見上げる。その表情は、何か言いたげだ。
「プロデューサー……!」
不意に、アーニャが俺に抱きつく。正面から両腕を背後に回され、しっかりと抱きしめられた。
彼女の柔らかい胸が押し付けられているが、突然の出来事に動揺してそれどころではない。
「どうした? やっぱり、怖いか?」
「怖いです。一杯、一杯人がいて」
ワイシャツに顔を埋めながら、ぼそぼそと、独り言のようにアーニャは呟く。
やっぱり、いきなりこんなに大きなライブは酷だったんだ。俺は、間違ってしまった。アーニャなら行けると勝手に思い込んで、アーニャにこんなに負担を掛けて……
自分の過ちに苦悩していると、アーニャが俺を抱きしめる手に力を込めた。
アーニャの体温に触れて、少しだけ心が安らぐ。
自然と、アーニャを抱きしめる手に力が入ってしまう。
暫くの間、普通ならダメな行為だが、俺とアーニャは抱き合っていた。
恋人同士のような抱擁ではなく、彼女を落ち着かせるためのものだから問題ないと、自分に弁明する。
「プロデューサー、ごめんなさい……もう、大丈夫です」
目を落とすと、アーニャが上目遣いでこちらを見上げていた。
思わず見蕩れてしまうくらい、綺麗で、優しい笑みを、アーニャは浮かべていた。
完全に緊張が解けてはないようだが、色々と吹っ切れたらしい。
元気になってくれて、よかった。
「プロデューサー、貴方がいるから、きっと……ナジェージダ……希望を持てます」
アーニャが、俺の胸に頭を預ける。
「ヤー……今の私は、空の向こうまで届くような歌、歌えると思います」
「あぁ……アーニャならきっと歌える」
アーニャを半年以上見てきた。下手すると、そこら辺の恋人なんかよりも、ずっと長い時間、一緒にいた。
だから、確信が持てる。アーニャなら、出来ると。
一番最初の舞台がこんなにも大きな舞台だと、アーニャからしてみれば全てが初めての事で、負担が大きい事も分かっている。
それでも、アーニャなら出来る気がした。
――アーニャは、輝いているから。
夜空に浮かぶ星なんかよりも、ずっと強く、ずっと明るく。
「ありがとう、プロデューサー。私、できそうです」
アーニャを呼び出しに、スタッフが楽屋に訪れる。抱き合ったままだったので、ノックされた時にお互い慌てて離れた。
「出番だ、行くぞ」
「ダー。がんばります」
舞台へと、アーニャが向う。
「がんばれ、アーニャ」
その堂々とした後ろ姿に、言葉を送る。
アーニャの晴れ姿、見せてくれ。
そして、舞台にアーニャが立った。
たくさんのスポットライトの光が、彼女を照らしだす。後ろの大きなスクリーンには、アーニャの姿が映し出された。
彼女はあまり有名ではないが、観客も新人アイドルを品定めに来ている人が多い。
美しい容姿と神秘的なオーラを持つ彼女の魅力はすぐにライブ会場の人達に伝わり、既に観客席からはたくさんの応援の声と歓声が上がっている。
やがて、観客の喧騒に負けないぐらいの大音量で流れ始める曲。
アーニャは不敵に、楽しそうな表情を浮かべながら、何回も練習したダンスを観客に披露した。
彼女のダンスは、全体的に動きが小さくて軽やかなものであり、決して激しいものではないが、そこそこに難しい振り付けだと聞いていた。だが、彼女は一つもミスをせず、汗を浮かべながらも、動きを鈍らせる事無く、踊る。
そして、前奏が終わり、アーニャは歌いだした。
アーニャのよく通る綺麗な声は、喧騒に包まれるライブ会場によく響き渡った。
本当に楽しそうに微笑みながら、美しい声色の歌声を届けて癒し、踊りで楽しませる。
アーニャは、やはり夜空に浮かぶ星のようだった。贔屓でもなんでもない、絶対にアーニャは他のアイドルなんかよりも、誰よりもずっと輝いている。
広いステージで、たった一人で踊り、歌う。そこに加えてたくさんの観客。精神的負担がどれほどのものか知らないが、彼女は全てを完璧に成し遂げた。
誰もが釘付けになっていた。余所見をする者なんていない。例え他に好きなアイドルがいたとしても、誰もが一度は目を吸い寄せられる、そんな雰囲気と美貌を持つ少女がアーニャだ。
アーニャの初めてのライブは、大成功に終わった。
突如現れた新人は多くの人々の関心を集め、故に色々な所で取り上げられ、一躍人気者となった。
アーニャがたくさんの人に評価されて、凄く嬉しかった。アーニャもとても喜んでいた。
あの再開が無ければ、最高の日だったのだろう。
忘れていた、ライブにはあのプロダクションも参加していた事に。
気付かなかった、あのアイドル達が、参加していた事に。
「プロデューサー?」
一仕事終えたアーニャに飲み物を持って行こうと、自販機にお金を入れていたら、プロデューサーと呼ばれた。
声は女性のもので、明らかに俺に向けられている。今この場には俺しかいないのだ。
だが……人違いな筈だ。アーニャの声ではないのだから。
「返事くらいしたらどうなのかしら? プロデューサー」
この声を、知っている。アーニャにも劣らない、透き通った綺麗な声の主を、知っている。
小銭を自販機に入れようとしたまま、固まった。
恐る恐る、声をかけてきた女性へと視線を移す。
そこに立っていたのは――
「……久しぶりだな、千秋」
「久しぶりね、プロデューサー」
――黒川千秋。
ライブ衣装だと思われる黒いドレスに身を包んだ、長い艶やかな黒髪と端整な顔立ちの、やや長身の女性。
過去に俺がプロデュースしていたアイドルだ。
「私の出番はずっと先よ……だから、今貴方とお話がしたいわ。ついてきて」
放心している俺の手を掴んだかと思うと、強引に引っ張る。俺は抵抗せずに、彼女に大人しくついて行った。
千秋の楽屋へと、二人で入る。アーニャの楽屋と似たような部屋だ。
千秋は背もたれの無い椅子を指差し、座って、と促す。その椅子に座ると、千秋は唐突に俺の膝の上に乗っかった。
「おい、千秋……!」
「別にいいでしょう? 昔はよくこうしていたんだから」
言葉に詰まる。確かに、過去にはよく、恋人のように寄り添っていた事があった。
「貴方も私の髪に顔を埋めていいのよ? 遠慮なんてしなくていいわ」
「遠慮する。そして離れてくれ、流石にまずい」
昔のような過ちは犯さない。アイドルからの好意は、絶たなければいけない。
「嫌よ」
きっぱりと、千秋がそう告げた。千秋は、根は悪くないが、昔からよく我が侭を言っていた子だ。そして、俺はその我が侭をよっぽど無茶なものでは無い限り、聞いてあげてた。
だが、今回ばかりは、その我が侭を聞けない。俺は千秋を押し退けて強引に立ち上がる。
「話しは何だ?」
なるべく早くアーニャの元へ帰りたかった。
「一年振りの再会なのに、どうしてそんなに冷たいの?」
彼女が肩を震わせ、俯き、悲しそうにそう言った。
「もう二度と、あんな事が起きないように……な」
千秋を見て、一年前の出来事を思い出す。思い出したくも無い、過去を。アーニャのステージに立つ姿を思い出して、必死に過去を振り払う。
――でも、無駄だ。一度思い出してしまうと、もう止められない。
「千秋……傷は?」
そう聞くと、千秋はいきなり衣装を脱ぎ始め、下着姿を俺に晒した。
呆気に取られている俺に、彼女が近づく。
鎖骨の横と肩、左の二の腕に大きな傷跡が残っていた。これでは、水着になる仕事や、露出の多い服は着れない。
「プロデューサー。私、この傷が大嫌いよ」
「あぁ……」
忌々しそうに、彼女が告げる。
俺は彼女の傷跡を見て、思わず涙を零してしまう。理由は分からない。色々な事が浮かんでは消えて、何が理由で涙が出たのか自分でも分からない。
「俺が……いなければ……」
千秋がこんなに苦しい思いをしているのは、俺のせいだ。
みっともなくて、情けないのも分かっているが、涙は止め処なく流れ続けた。
「ねぇ、プロデューサー? 貴方がこの傷にキスをしてくれたら、私、この傷を好きになれると思うの」
だから、と彼女は続ける。
「この傷に、キスをしてくれないかしら?」
そんな事……
「お願い、プロデューサー。触れる程度で、いいの」
普段の強気な態度からは想像できない弱々しい千秋を見て、心が揺らぐ。
おぼつかない足取りで千秋に近づき、華奢な体躯に手を伸ばす。
そして、彼女の両肩を掴んだ。
「あぅ……プロデューサー」
彼女が頬を桜色に染め、恥ずかしそうに視線を逸らした。
鎖骨の横と肩に刻まれた大きな傷跡に、顔を近づける。
少し触れるだけだったが、俺は確かに彼女の傷跡にキスをした。
鎖骨の横にある傷跡に口付けをし、次いで肩の傷跡に口付けをする。その後、左の二の腕の傷跡にも口付けを終えて、何故か荒い息をつく千秋から離れた。
「ごめんな……」
「ふふっ。何で謝るの? 私はとっても嬉しかったわ。ありがとう、プロデューサー」
彼女が再度衣装を着ながら、そう言う。
何で、笑えるんだ……アイドルじゃなくても、傷が残るなんて嫌だろうに。
ましてや、その原因である俺に対して、どうしてそんな幸せそうな表情を見せる。
千秋は、やはり何も変わっていない。
「二人は、どうしてる?」
気になって、聞いた。
「二人は貴方の事なんて忘れて新しいプロデューサーと仲良くやってるみたいよ。ふふっ……がっかりした?」
意地の悪そうな表情を浮かべ、問いかけてくる。少しだけ、寂しい気持ちはあった。
「別に」
「私は、変わってないわよ……私には貴方以外、考えられない。一年間、ずっと貴方の事だけを考えて生きてきた」
変わって欲しくないという気持ちも、心のどこかにはある。
でも――
千秋は変わるべきだって、思う。
本来の姿に、戻って欲しい……その方が、きっと幸せになれる。
「それじゃ、連絡先を交換しましょう? プロデューサー」
「ダメだ」
きっぱりと断る。このままじゃ、いつまで経っても彼女は変われない。
「傷跡、もっと愛してくれないと嫌よ」
間髪入れずに、彼女がそう告げた。その言葉は、的確に胸の傷を抉る。
傷跡が何だ、そんなもの……
――ダメだ……傷跡を出されてしまっては、千秋の願いを、断れない。
彼女の傷跡には、負い目がある。
千秋を傷つけた償いは、しなくてはならないのだ。一度逃げているのだから、なおさら。
結局、千秋と連絡先を交換した。
……彼女を傷つけてしまった責任を、今度こそ果たさなくてはならないのだ、逃げるわけには行かない。
今度は、逃げない。
サイレントヒルのBGM聞いてたら眠くなってきたし、キリがいいのでそろそろ寝ます。
後日、千秋に呼び出された俺は、二人で人気のない公園のベンチに座り、話していた。
千秋は変装し、じっくり見ても千秋だと分かる人間はいないだろうが、だからと言って絶対安全というわけでもない。正直二人きりで会うのは避けたかった。
「本当に、あの二人は薄情よ。貴方がいなくなって数週間経てば元通り、今では新しいプロデューサーに好意を寄せているわ」
「……あいつらも、何も変わっていないのか」
女は恋愛しないと死ぬ病気にでもかかっているのか。
「でも、前も言ったけど、私は無理よ。私には貴方しかいないもの」
「千秋の気持ちは嬉しいよ……でもな……」
千秋は、アイドルだ。アイドルじゃなければ、どんなによかった事か。
「分かってるわよ。最初からいい答えなんて期待してないわ」
拗ねたような口調で彼女はそう言う。
「でも、傷跡は愛して欲しいの」
千秋がおもむろに上着を脱ぎ捨て、下着姿を空の下に晒した。
人気が無いからと言って、こんな事して言い訳がない。
「ちょっと、やめろ千秋」
「じゃあ、早く終わらせましょう? 終わらない限りずっとこのままよ」
慌てて止めさせようとするも、半ば以上分かっていた事だが。あっさりと拒否される。
俺の口から異様な呻きが漏れた。仕方ない、彼女の言うように終わらせよう……素早く。
千秋の長身の割りにほっそりとした肩を抱き、痛々しく残る傷跡に軽く唇を押し当てる。
千秋と言えば、うっとりとした表情をしながら、俺の頭の後ろに腕を回して抱え込む始末。昔はクールだったのに、何故こうなってしまったのだろうか……今も、テレビとかでは変わらずクールではあるのだが。
「ねぇ、舐めて?」
「は?」
不意に、彼女が変な事を言う。
「ただのキスでは満足できなくなってしまったわ……だから、舐めて欲しいの」
「…………」
俺は本当に千秋を変えられるのだろうか。
やはり、俺達は出会うべきではなかったのだ。
頬を紅潮させ、傷跡を舐めるように催促してくる彼女を見て、そう思った。
……だが、何を言ったって過ちはなくならないし、現状も変わらない。
抵抗を諦め、彼女の願いを聞き入れる事にする。
傷跡に再度顔を近づけ、舐めた。短い時間で、丁寧に、傷跡を舌でなぞる。
「あっ……んん……」
千秋が小さな声で喘ぎ、俺を抱える手に力を込めた。顔が固定されて動かせない。早く終わらせたいのに。
「千秋、離して」
「ご、ごめんなさい……気持ちよくて……」
全身性感体か何かなのか、千秋は。
解放された俺は、さっさと残りの傷跡を舐めて、彼女の要求を満たす。
「ふふふっ。やっぱり、私には貴方しかいないわね」
クスクスと小さく笑みを零しながら、手を伸ばして俺の手を握る。
暫くの間、俺の手の感触を楽しむように細い指先を動かし、強く握ったり、軽く握ったりするのを繰り返す。
「――もう一度、私の……私だけのプロデューサーになってくれないかしら」
頬を真っ赤に染め、瞳を潤ませて、彼女は言った……もう一度、プロデューサーになってくれと。
「悪いけど……それは無理だ」
今の俺には、アーニャがいるから。
それに、今千秋のプロデューサーになると、また彼女を傷つけてしまう。
彼女が俺を好いている限り、千秋のプロデューサーにはなれない。
「……そう……やっぱりあの女が、私達の邪魔をしているのね……」
聞き取れない声量で何かを呟いたかと思うと、千秋は俯き、口を噤んだ。
俯いているが、彼女の表情は見えた。
背筋がぞっとするような、冷たく、無機質な、能面のような表情に千秋はなっていた。
彼女は瞳に暗い光を宿して、じっと地面を見つめている。
何も変わっていない。
再会した時から、分かっていた事じゃないか……
黒川千秋は、一年以上経っていても、何も変わっていなかった。
更新終わりです。
寝ます。
「? ……この栞、確かプロデューサーの」
ふと、アーニャは事務所のソファの近くに落ちている栞に気付き、それを拾い上げた。
四葉のクローバーを押し花にし、それを使った手作りの栞だ。手作りのようではあるが、かなり丁寧に作られている。
アーニャはそれに心当たりがあった。この栞はプロデューサーの物だ。前に見たことがある。
この事務所には基本的にアーニャとプロデューサーしかいない。アーニャの物では無いのなら、必然的にプロデューサーの物だろう。
持ち主が分かったのはいいが、今、プロデューサーは仕事関係で外出しているため、渡せない。
でも、きっと机に置いておけば気付くだろう。そう思ってアーニャは、プロデューサーの机に、拾った栞を置いた。
その時に、ふと気付く。
机には、プロデューサー最近いつも読んでいる本が机に置いてあった。そして、机に置かれたその本にはもう一枚の栞が本に挟まっていたのだ。
――また栞?
アーニャは好奇心からプロデューサーの本を開き、挟まっている栞を見る。
「……?」
本に挟まっていたもう一枚の栞も、四葉のクローバーの押し花栞だった。
拾ったのと比べると、作りやデザインは違う。だが、四葉のクローバーを押し花にし、それを使った手作りの栞だ。
似たような栞が二枚……
プロデューサーは栞を作るのが趣味なのだろうか。
もしそうだとしたら、こっちの本に挟まっているのもプロデューサーの手作り?
もう一枚の栞を見て、プロデューサーが四葉のクローバーを探し回り、それを栞にしている光景を思い浮かべてしまい、アーニャは思わず苦笑してしまう。
プロデューサーには失礼だけど、その姿は少し違和感がある。
アーニャは小さく笑みを零しながら、本を閉じて元の位置に戻した。
何故二枚も似たような栞を持っているのだろう。四葉のクローバーが好きなのだろうか。
そういえば、四葉のクローバーの花言葉って、確か――
――Be Mine
短いですが、更新終わりです。
繋ぎ的な
更新はもうちょい掛かりそうですごめんなさい
申し訳ないのですが、このSSは胸糞が悪い展開があるので、そういうのが苦手な方は読まないようにしてください
一種のネタバレですが、不快にさせるのも申し訳ないので
よろしくお願いします
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ノ:::::::::::::::Y ∨り イ::::::::::|::::::::.
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{ l::/ 仏ィ彡 | | \
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スタジオ付近の楽屋にて、俺とアーニャは抱き合っていた。傍から見たら恋人に見えるかもしれないが、誤解だ。
彼女の緊張を解くためにやっている。
前にあった大規模なライブにアーニャが参加した時、初めてのライブで緊張し、彼女は思わず俺に抱きついてしまったのだが、何故か緊張が解けて、落ち着いたらしい。
それ以降、酷く緊張する仕事の時はこうして抱きしめて落ち着かせるようになった。
「アーニャ、何だか甘えん坊になってないか?」
俺の胸に顔を埋めるアーニャは、笑みを浮かべながら頬を胸板に擦りつけている。甘えてくる小動物みたいだ。
「……ごめんなさい」
「別に怒ってはいないが……」
落ち込む彼女を見て、慌ててフォローする。ただ、年頃の女の子、しかもアイドルにそういう事を許してしまうと、万が一がある。アーニャが落ち着くと言っているなら是非思う存分胸を貸したいが、状況によりけりだ。
「最近、悩んでいませんか? プロデューサー」
「そんな事はないよ」
悩んでいる事を察知された事に動揺し、間髪入れずに言葉を返してしまった。いくらなんでも不自然すぎる。
「私でよければ、いつでも相談に乗りますよ?」
「別に大丈夫だ。ありがとうな、アーニャ」
ふわふわの銀髪を撫でる。アーニャの髪は手触りが凄くいい。やはり女の子の髪は触り心地が最高だ。男が無闇に触っていいものではないが。
アーニャが頬を桜色に染めて、恥ずかしそうに身じろぎした。
本当は誰かに相談したい気分だ。ただ、他人に相談できるような内容でもない。誰が信じるんだ、人気があって有名なアイドルに想いを寄せられているなんて事。信じられるとそれはそれで厄介だし。やはり他人には言いづらい。
アーニャは撫でられて、くすぐったそうにしながら、口を開く。
「やっぱりプロデューサーといると、心が安らぎます。家にいるよりも、他の誰かといるよりも」
アーニャの言葉を聞いて、はっとする。似たような事が、前にも会った。
一年半ぐらい前の出来事だが、よく覚えている。
もしかして、アーニャは――
「プロデューサー? どうかしましたか?」
「何でもないよ……」
浮かび上がった想像を、慌てて振り払う。
思い込みが激しくなってる。よく考えたら、あるわけない。アーニャが俺に好意を寄せているなんて、ある筈もないだろう。
過去にそういう事があったから、変に意識しているだけだ。
彼女は俺を男とし見ているのではなく、父親のように慕っているだけだ。
長い間一緒にいたから、信頼してくれているだけなんだ。
きっと、そうだ。
「プロデューサー? 大丈夫ですか?」
「へっ? あぁ……大丈夫」
放心していたらしい、注意しなければ。
「アーニャ、もうすぐ撮影始まるぞ。俺は関係者の人達に挨拶してから行くから」
「分かりました……いってきますね、プロデューサー」
名残惜しそうな表情を浮かべ、アーニャは離れた。軽く身支度を整えて、彼女は撮影場所へと向って行く。
「ごめんな、アーニャ」
仕事をするアーニャをいつものように傍で見守ってやりたかった。
携帯で、ある女性にメールを送る。
彼女が楽屋を出て行って数分後、一人の女性がこの部屋へと足を踏み入れた。
――黒川千秋
「会いたかったわ、プロデューサー」
「俺はもう、プロデューサーじゃないだろ」
今更ながら、指摘する。正直どうでもいい事だ。
「私のプロデューサーは貴方だけよ。こんな事、言わなくても分かるでしょう?」
「……そうか」
千秋が俺との距離を縮め、手を伸ばした。するりと、俺の左腕に両手を腕を絡ませ、腕を抱くようにして密着した。そして、街中を歩く恋人のように、彼女は寄り添う。千秋の豊満な胸の感触が腕を通して伝わってきた。
「……少しは恥らったりしないのかしら、貴方は」
「顔に出ないだけだ、恥ずかしいに決まってる」
俺の言葉を聞いて、彼女は頬を染めながら魅惑的な笑みを浮かべた。
「ふふっ。嬉しい」
ぎゅっと、千秋が俺の腕を強く抱いた。
腕を抱きながら、千秋が頭を俺の肩に乗せる。千秋は、心の底から幸せそうな表情を浮かべていた。
その表情は、ずるい。
千秋は綺麗でお淑やかで、清楚だ。そんな人に求愛されて、喜ばないわけが無い。
正直、千秋の事はかなり好いている、今も昔も。
だから傷を負わせた事に負い目を感じるし、彼女が求める逢い引きも拒否しない。
だけど、このままでは――
「プロデューサー。いつものように、傷跡にキス、して?」
上目遣いに、彼女が告げる。猫のようにじゃれ付きながら。
俺が頷くと、彼女は上着を脱ぎだし、真っ白な肌を晒す。高級そうな黒いレースの下着は、とてもよく彼女に似合っていた。
じっと胸に視線を注がれている事に千秋は気付き、恥ずかしそうにしている。それに気付いた俺は慌てて目を逸らす。
「……別に、気が済むまで見るといいわ」
千秋が顔を真っ赤にしながらそんな事を言う。何でそんなに俺の理性を飛ばそうとしてくるんだこいつは。
「……早く、キスして……恥ずかしいの」
そう懇願されて、俺は慌てて彼女の体に触れる。
痛々しく、それでいて深く残っている傷跡に顔を近づけ、触れるだけの軽いキスをした。残りの二箇所にも同じようにキスをする。
「うぅ……」
その間、千秋はずっと顔を真っ赤にして身動ぎ一つせずに固まっていた。
「そんなに恥ずかしいなら頼まなければいいのに」
「嫌よ……こうでもしないと貴方は私に触れてくれないもの」
確かにそうだが。
「私の出番、もうすぐだから、今日はこれで失礼するわ」
そう言って彼女は、身支度を整え始めた。脱ぎ去った上着を拾い、身につけ、鏡を見ながら軽く髪を梳いて整えている。
一通り身支度を終えた彼女は、くるりとこちらを振り向く。
振り返った千秋は、誰もが魅了される、魅惑的な笑みを浮かべていた。
「では、また会いましょう、プロデューサー」
「またな」
千秋が小さく手を振った。俺も小さく返す。
くすくすと笑みを滲ませ、千秋は楽屋を出て行った。
暫くの間、千秋が出て行った扉を、ぼーっと眺めて佇んでいた。
不意にアーニャを思い出す。
「アーニャの様子を見に行くか……」
呆けている場合じゃない、アーニャの所に行って仕事を応援しよう。
俺は楽屋を後にして、アーニャのいる撮影場所へと向った。
質素で綺麗な長い廊下を、一人歩く。迷路のように入り組んでいて、迷いそうだが、アーニャの撮影場所は分かる。
十字路を真っ直ぐに突き進んだ時、ふと、視界の端に黒髪の女の子が映った。前髪が目を隠すぐらい長い、どこか仄暗い雰囲気の女の子。
何故か、思わず足を止めそうになる。
気のせい、だよな?
「プロデューサーさん」
廊下に響く、少女の声。
透き通った綺麗な声は、間違いなく俺に向けられたものだ。周囲には俺一人しかいないのだから。
声には聞き覚えがある。
気のせいではなかった。
振り返り、廊下に佇む少女を見つめる。俺をプロデューサーと呼んだ少女は、黒を基調とした衣装を着こなしている。仕事場に向う途中だったのだろうか。
長い前髪に隠れてしまっているが、隙間から彼女の澄んだ青い瞳が見えた。
目の前の少女は間違いなく、俺が過去にプロデュースしていたアイドルだ。
千秋の話が本当なら、彼女は新しいプロデューサーを好きになっているらしいが――
――俺をじっと見つめる少女は、何故だか千秋同様、何も変わっていない様な気がした。
寝ます。
書きたいものは色々あるけど圧倒的に時間が足りない。
――鷺沢文香。
それが、少女の名前だ。
アイドルの中でもトップクラスの顔立ちだが、アイドルには向かない大人しめの性格で、喋るのがあまり得意ではない。儚げな雰囲気を纏い、護ってあげたくなるような気持ちにさせる少女である。
最近は、昔と比べて人前に出るのも慣れたらしく、少しずつ笑顔も見せるようになってきている。やや暗めの雰囲気は変わっていないが。
「久しぶり、です……プロデューサーさん」
「久しぶりだな、文香……」
小さく足音を鳴らして、俺の方へと近づいてくる文香。
手を伸ばせば触れる距離まで近づいた瞬間、倒れこむようにして、抱きついてきた。
「……どうして、私を置いていったんですか」
俺の背中に両手をしっかりと回し、上着に顔を埋めて、くぐもった声で悲しそうに文香は言う。
「俺は、必死にアイドルをがんばってる文香達を、不幸にしたくなかったんだ……分かってくれ……」
それに、俺は彼女達を置いていったのではなく、あのプロダクションから強制的に追い出されたのだ。問題を起こした原因なのだから当たり前だが。
文香だって、それぐらいきっと分かるだろう。分かっていて、あえてそう言ったのかもしれない。
絶対に離さないといわんばかりに、彼女が抱きしめる手に力を込める。
「文香……大丈夫か……?」
呼び掛けると、彼女が僅か数センチだけ、離れた。
「……プロデューサーさんがいないのが、私にとっての、一番の不幸です……私はもう――」
文香が顔を上げる。その澄んだ青い瞳は、暗い光が灯っていた。
「――貴方がいないと、ダメです……」
そして、また頬を胸板に擦りつけたかと思うと、俺の上着をぎゅっと強く握り、震え始めた。
「貴方のいない世界が、こんなにも価値の無いものだとは思いませんでした……プロデューサーさんの事を考えてしまって……本を読むことさえ、満足に集中できませんでした……」
胸元が、水を吸収して湿り気を帯びる。文香は、肩を震わせて泣いていた。
「……プロデューサーさんに出会う前は……いえ、プロデューサーさんと出会ってからも、私は本が好きで……ずっと本を読んでいました……」
文香は本がとても好きだ。栞を作るのも好きだと言っていた。
俺は、本に夢中になってる文香や、事務所でせっせと栞を作っている文香を見るのが、好きだった。
最初は戸惑ったけど、最近はアイドル活動が楽しいと言ってくれて、嬉しかった。
思い返してみると、他のプロダクションのプロデューサーとアイドルと比べると、俺はアイドルに近づきすぎたのかもしれない。
そのせいで、文香は……
「……それぐらい本が好きな、私ですが……プロデューサーさん……最近の私を、知っていますか?」
文香がポケットから三枚の写真を取り出す。文香と俺のツーショットの写真と、俺が写っている写真が二枚だった。
俺が写っている写真二枚には、背後に他のアイドルも写っているのだが、背後に写っているアイドルの顔は、黒く塗りつぶされていた。それを見て、背筋に冷たいものが走る。
「……私……本よりも、プロデューサーさんの写真を見ている方が、長いです」
涙をたくさん零しながら、文香が笑みを浮かべた。
「……大変です、プロデューサーさん……どうすればいいでしょうか……?」
「文香……」
俺は、どうすればいいんだ?
傷つけたのは、千秋だけでは無い。そんな事、分かりきっていた筈なのに……
「プロデューサーさん……キス、してくれませんか?」
「それは……ダメだ……」
大体、今俺達が話しているここは、普通の通路だ。いつ人が来てもおかしくないのだ。
しかも、文香は俺に抱きついている。それすらも十分に危うい。
文香には申し訳ないが、彼女の肩を掴んで強引に引き離す。顔を顰めて離すまいと文香も力を込めるが、非力な彼女が成人男性の力に敵う筈も無く、あっさりと文香を引き剥がす事に成功する。
「……また、ですか……」
「文香は、アイドルだ……だからな……ごめん……」
文香が俯く。ぽたりぽたりと、彼女の頬を涙が伝い、滴り落ちた。
「――ごめんなさい……プロデューサーさん……私、アイドル、やめます」
「お、おい……文香……」
文香が顔を上げる。その表情は涙に濡れていたが、満面の笑みを浮かべていた。とっても綺麗な笑顔だった。
「そうすれば……プロデューサーさんは恋人になってくれるんですよね?」
文香の言葉を聞いて、千秋の事が脳裏に浮かんだ。仮に俺がどちらかを選んでも、どちらか一方が傷ついてしまう。
自惚れでは無い……恐らく、選ばれなかった方は傷つく。そして、繰り返されてしまうかもしれない、惨劇が。
そんな事なら俺は、どちらも選ばない……二人とも傷つける。どんなに恨まれようとも、片方を選ぶわけには行かない。
「無理だ……文香がアイドルでなくても、俺は文香の恋人にはなれない……」
「……そうですか」
文香が、また俯いた。彼女がどんな顔をしているのかは、前髪に隠れていて、見えない。
「……プロデューサーさんは、優しい人ですから、答えは知っていました……だから――」
彼女が唐突にポケットに手を突っ込み、さっきの三枚とは別の、もう一枚の写真を取り出した。
その写真を、俺に突き出す。
「――その優しさにつけこんでも、いいですか?」
文香が俺に突き出した写真には、俺と千秋が写っていた。
正確には、下着姿の千秋の体にキスをしている俺と、頬を赤らめて、恥ずかしそうに瞳を閉じている千秋の姿が、写っていた。
いつの間にか、盗られていたらしい。千秋と二人で会っていた所を。
「……」
「プロデューサーさん……今度は、キスしてくれますよね?」
文香が頬を紅潮させて、一歩踏み出す。その表情は期待に満ちていた。
「断ったら、ばら撒くのか?」
そう問うと、彼女は動きを止める。そして、くすくすと笑みを零した。
「……ごめんなさい、プロデューサーさん。脅迫は……本気じゃないと機能しないんです……」
表情から見て取れる。
鈍く、それでいて、怪しく、力強く煌めく青い瞳は、彼女が本気だと言う事を示していた。
「……この写真、一枚じゃないです……ですから、強引に奪っても、無駄、です……」
俺の目から、涙が零れた。何に対する涙なのかは、分からない。
「プロデューサーさん……キス、してください」
――千秋をこれ以上傷つけるわけには行かない。ここは、文香のいう事を聞くしかないのか……
祈るように目を閉じて、静かに俺を待つ文香。彼女の肩に手を掛け、少しだけこちらに寄せながら、辺りを見回して人がいない事を確認する。
覚悟は決めた。
彼女の小さな吐息を肌で感じられる所まで、一気に顔を近づける。文香のふんわりとした甘い匂いが、鼻腔をくすぐった。
そして、軽く、唇同士が触れ合う。文香が流した涙の味がした。
唇を離しても、文香が追いかけてきてまた触れ合う。抵抗せずに、受け入れる。
それが、何回か繰り返された後、ようやく、解放される。
文香は頬を紅潮させて荒い息をつきながら、満足そうな表情を浮かべた。
そして、おもむろに彼女は携帯を取り出す。
「それでは、連絡先……教えてください……プロデューサーさん」
ぼんやりとした頭で、文香と連絡先を交換する。
彼女は、終始幸せそうな笑みを浮かべていた。
「……それでは……失礼します。メールは……ちゃんと返してくださいね……」
ちゅっ、と俺の首筋に小さくキスの跡をつけて、文香は去って行った。
何も変わらない。
何も変わっていない。
このままでは……また……
ねます
祈るように目を閉じて、静かに俺を待つ文香。彼女の肩に手を掛け、少しだけこちらに寄せながら、辺りを見回して人がいない事を確認する。
覚悟は決めた。
彼女の小さな吐息を肌で感じられる所まで、一気に顔を近づける。文香のふんわりとした甘い匂いが、鼻腔をくすぐった。
そして、軽く、唇同士が触れ合う。文香が流した涙の味がした。
唇を離しても、文香が追いかけてきてまた触れ合う。抵抗せずに、全て受け入れる。
それが、何回か繰り返された後、ようやく、解放される。
文香は頬を紅潮させて荒い息をつきながら、満足そうな表情を浮かべた。
そして、おもむろに彼女は携帯を取り出す。
「あの……連絡先、教えてください……プロデューサーさん」
写真がある以上、俺に拒否権は無い。携帯を取り出し、ぼんやりとした頭のまま文香と連絡先を交換する。
彼女は、終始幸せそうな笑みを浮かべていた。
「……それでは……失礼します。メール、ちゃんと返してくださいね……」
ちゅっ、と俺の首筋に小さくキスの跡をつけて、文香は去って行った。
何も変わらない。
何も変わっていない。
このままでは……また……
文香と別れた後、アーニャの所へ行って、仕事が終わるまで彼女の仕事風景を見守りながら待った。
何もする事がないと、思い出す。
文香や、千秋と過ごした日々を。
ファンよりも近い所からアイドルを応援したいという夢を叶えるため、俺はプロデューサーという職に就いた。一般的にプロデューサーと言うのは製作総指揮者を指すらしいが、俺の入ったプロダクションでは何故かマネージャーのような扱いだった事を思い出し、苦笑する。
あの頃は、楽しかった。アイドルと一緒にひたすら上を目指して、努力していた時代。
彼女達の努力は無事に実った。ファンから愛され、老若男女問わず、たくさんの人達に応援されるアイドル達の姿が、目の前にあった。
アイドル達の努力が報われて、安堵した。
彼女達の幸せそうな笑顔を見て、この職に就いて良かったと、心の底から思った。
アイドル達を応援する観客達に、満面の笑顔を浮かべて歌と踊りを楽しそうに披露する彼女達が、好きだった。
俺はただ、アイドルの傍で、アイドルを応援できれば、それでよかった。
――なのに、どうして、あんな事になってしまったのか。
「プロデューサー? 大丈夫ですか?」
気がつくと、アーニャが目の前に立って心配そうに俺を見上げていた。
「大丈夫だよ。仕事、お疲れ様……それじゃ、帰ろうか」
「ダー。では、着替えてきますね」
何もないように振舞ったが、誤魔化せていないかもしれない。
楽屋に向うアーニャの後ろ姿を見送る。堂々と背を伸ばして歩く彼女は、大人びて見え、それに、とても美しかった。
――今の俺にはアーニャがいる。もう、誰も傷つけたくない。千秋も、文香も……アーニャも。
だから……千秋と文香から、過去から、逃げるわけにはいかない。
『千秋さんとはもう会わないでください』
これが、文香から来た最初のメールだった。
メールには書かれていないが、きっと会ったら写真がばら撒かられるのだろう。
さっそく俺は、千秋にメールを送った。
『千秋、ごめん。俺はもう千秋と会えない』
内容は簡素なものにした。
着信拒否をするべきかどうか迷っていると、メールを送ってから十秒も経たずに、千秋から電話が掛かってきた。
『どういう事なのかしら、説明しなさい』
携帯から聞こえる彼女の声は、明らかに怒りに満ちていた。
「千秋、このままだとお前をまた傷つけてしまう。だから、もう、会えない……すまない」
『貴方に会うのを拒絶された事の方が、何よりも傷つくに決まっているじゃないッ!!』
耳を劈くような悲痛な叫び声が、心を締め付ける。
『好きよ……貴方の事……好きなの……貴方が……愛してるわ。だから……貴方が、アイドルと付き合えないと言うのなら――』
千秋は泣いているようだった。
彼女は涙声で、とんでもない事を言い出す。
『――私は、アイドルをやめるわ……』
「それだけは、ダメだ!」
思わず声を荒げてしまう。ただ、それぐらい聞き捨てなら無い事だった。
「自分を変えるために、お前はアイドルになったんだろ……アイドルをやめたら、また、戻ってしまう」
濁った瞳の千秋を思い出す。最初に千秋と出会った時、彼女からは生気を感じられず、まるで人形のように見えた。
そんな彼女を見ていられなくて、俺はアイドルにならないかと、千秋を誘った。
千秋は知り合って間もない俺に、家庭環境を話してくれた。
良家の一人娘で、それ故に束縛されている事を話してくれた。
押し付けがましく、それがエゴだという事も自覚しているが、何とか千秋を救ってあげたかった。
両親を説得できたら、アイドルをやってくれるかと彼女に聞いた。千秋は頷いた。
俺は、千秋の両親を必死で説得した。土下座だってした。とにかく、千秋の目の前で、みっともなく懇願した。
説得している内に、千秋が自分の胸の内を吐露した。泣き叫び、想いを必死に両親に伝えていた。
それも効いたのか、何とか彼女の両親から許しを得る事ができた。それによって、千秋はある程度の自由を得た。
アイドル活動に励む内に、徐々に笑顔を取り戻していく千秋を見て、嬉しかった。
千秋の浮かべる笑顔が、大好きだった。
だが、いつの間にか、彼女は――
『今の私は、過去の私と同じ様なものよ……貴方がいないから』
「……千秋は、とても楽しそうにアイドルやってるじゃないか……あれは嘘なのか?」
テレビに映る千秋、雑誌に載っている千秋、ポスターに載っている千秋、どれも作り物の笑顔には見えなかった。
長い間、千秋を近くで見てきたのだ、例え写真でも作り物の笑顔かどうかは分かる。
『貴方が、テレビや雑誌できっと私の事を見てくれていると思いながら仕事をしていたの……貴方には、笑顔を見てもらいたいから』
彼女の声は、震えている。普段の強気な彼女からは想像もできない、弱々しい声色だった。
『……プロデューサーが、私の笑顔が好きだと言ってくれたから……貴方に笑顔を見せたくて、ライブも、CMも、バラエティも、絶対に笑顔を絶やさなかったの……貴方がいなくなって一年間、私は貴方を四六時中想いながら、アイドルをやっていたのよ……』
だって、と千秋は続ける。
『私の笑顔を近くで見たくなって、貴方が戻ってくるかもしれないから……だから、私……ずっと……ずっと……』
千秋がとうとう声を上げて泣き出した。彼女がこんなにも子供のように泣き喚くのは、両親を説得した時以来だった。
「千秋……ごめん……でも、会えない……せめて、時間をくれ……」
今すぐ傍に行って抱きしめてあげたかった。でも、それは叶わない。
『……何もいらない……私はプロデューサーさえ傍にいてくれれば、何もいらないのに』
「千秋……」
電話の向こうから聞こえてくる、彼女の嗚咽。
千秋が、消え入りそうな声で、プロデューサー、プロデューサーと、俺を呼び続ける。
それがあまりにも悲痛で、思わず目頭が熱くなった。抑えきれず、目尻から涙が零れる。
自分があまりにも無力で、何も出来なくて、情けなくて……その事実に苛まれて、泣いた。
暫く、会話は無かった。
『……電話はいいのよね?』
千秋が、唐突に問いかけてくる。
『会うのはやめるわ……でも、電話はいいわよね?』
文香からのメールには、千秋と会うなとだけ書かれていた。屁理屈かもしれないが、電話やメールは今の所問題ない。
――時間の問題かもしれないが。
「電話やメールは大丈夫だ。ただ、仕事中にはしないような」
『仕事中にはしないわよ』
千秋は根っこが真面目だから、そこら辺の心配は無いだろう。
「それじゃ、またな……仕事、がんばれよ、千秋」
『プロデューサー、ちゃんと、メールは返しなさいよ』
「あぁ……」
通話を切ろうとするが、中々ボタンを押せなかった。通話はまだ続いている。千秋も切ろうとしていないのだろうか。
『プロデューサー、早く通話……切りなさいよ』
「千秋が切ってくれよ」
そんな名残惜しそうに言われると、余計切りづらい。
「……」
『……』
微妙な間が広がった。耐え切れず、叫ぶ。
「おやすみ、千秋! 今度こそ、切るから」
『おやすみなさい、プロデューサー』
やっと、通話を切る。
携帯を投げ、身を投げるようにして布団に倒れ込む。暫くそのままじっとしていたが、うつ伏せから仰向けになって天井を仰ぐ。
何もかもが前途多難だった。千秋の事も、文香の事も。
俺は、どうすればいいのだろうか。
寝ます。
何故か話が全然進まない。
今回の仕事は野外ライブだ。たくさんのアイドルや歌手が集まるそれなりにに大きなライブ。
だが、プロデューサーが都合があるからと言って、アーニャとプロデューサーはライブ会場に二時間ほど早く来た。
暫く、楽屋で雑誌を読んだりして暇を潰していたアーニャだが、プロデューサーが少しスタッフと話してくると言ったきり戻って来ない事に気づく。
携帯にかけてみても繋がらない。
アーニャはプロデューサーを探すために楽屋を出る。
アイドル活動は楽しいし、同じアイドルの友人だってできた。でも、プロデューサーとの時間も減っていって、最近は一緒にいれない事も多い。それが、どうしようもなく寂しかった。
せめて休憩時間や空いた時間はプロデューサーと過ごしたい。アーニャは戻って来ないプロデューサーを探しに会場の方に向かった。
一通り歩き回って探すも、プロデューサーの姿はなかった。
芸能関係者やスタッフと話している姿は見かけない。トイレにしては長すぎる。一体どこに行ったのだろうか。
一人で探すのに限界を感じたアーニャは、そこら辺で準備をしていたスタッフにプロデューサーの行方を聞いた。
「君の所のプロデューサーだったらさっきそっちの方に行ったけど」
スタッフが指差す方向は、森だった。入口から砂利道がずっと奥に続いている広く、深い森。
森の中でも散歩してるのかな。言ってくれれば喜んでついていったのに。
不意に、木々に囲まれた道をプロデューサーと二人で歩く姿を想像してしまう。少しだけ恥ずかしかった。
今からでも合流して一緒に散歩しよう。アーニャは森の中へと足を踏み入れた。
だが、五分ほど歩いてもプロデューサーは見当たらない。そもそも人がいない。
スタッフの人が見間違えたのかな……
時間はまだある。もう少しだけ進んでみよう。
アーニャは構わず歩を進めた。
森の中は日光があまり届かず、微妙に薄暗い。それに、静かだ。
砂利道がずっと続いているため、迷うことはないが、もう十分は歩き続けている。そろそろ戻るべきか。
やはりスタッフの見間違えだったのだろう。
踵を返し、ライブ会場に戻ろうとした時、遠くから微かに声が聞こえた。
「プロデューサー?」
やっぱり、プロデューサーはこっちに来ていた?
プロデューサーに会えるのが嬉しくて、小走り気味に声の聞こえた方へと向かう。砂利道から外れたが、迷うほどのものではない。
遠くに、人影が見えた。それを見て、アーニャは思わず足を止める。
周りの木々よりも二回りほど大きな大樹。その樹木にプロデューサーは背をつけている。
プロデューサーの目の前には一人の女性がおり、プロデューサーの両肩を掴んで、後ろの樹木に押し付けていた
その女性には見覚えがある。
――鷺沢 文香。先輩アイドルで、トップアイドルの一人。あまり話したことはないが、一緒の仕事をする事が多く、その度に挨拶しに行った覚えがある。
プロデューサーは、何故か文香に体を押さえつけられていた。だが、抵抗はせず、ただ顔を逸らしてじっとしている。
文香が一言二言、プロデューサーに何かを告げた。内容までは聞こえない。
プロデューサーは少しだけ悲しい表情を浮かべ、文香を見つめた。
そして、二人は顔を近づけ、口づけを交わす。一度だけではない。息継ぎをしては、何度も繰り返した。
やがて文香が舌を差し込んだ。プロデューサーの舌を吸っては、奥に舌を突き入れ、そして激しく絡ませる。
鷺沢 文香というアイドルは大人しく、人と話すのを苦手としているように思えた。男の人となると、なおさら。
なのに、なぜ、プロデューサーと……
目を見開いて、アーニャは固まった。
どうして……どうして二人が、キスをしているのだろう。
相手はアイドルで、プロデューサーはプロデューサーなのに……本当は、ダメなのに……なんで……
体中をどす黒い何かに焼かれるような感覚がした。胸がズキズキと強く痛む。
思わずその場にへたり込んでしまう。痛む胸を押さえながら、目から涙が零れた。
胸が苦しくて、心が痛かった。ただ、プロデューサーが文香とキスをしているのが、嫌だった。
暫くの間、遠くで口付けを交わす二人を見つめたまま呆然としていたが、不意に我に返り、慌てて立ち上がった。
きっと酷い顔をしている……今の姿をプロデューサーに見られたくない。
アーニャは素早く涙を拭い、二人に気付かれる前に立ち去った。
ふらふらとした足取りで何とか楽屋まで戻り、机に突っ伏してアーニャはまた泣いた。
プロデューサーが困らせたくないから、ずっと我慢してきた。
プロデューサーに拒絶されるのが怖くて、プロデューサーとの関係が壊れるのが怖くて、この数ヶ月間ずっと抑えてきた。
「好き、です……プロデューサー」
いつからか、アーニャはプロデューサーに惹かれていた。
ずっとプロデューサーと一緒にいたせいかもしれない。でも、それは理由の一つだ。
本当は、プロデューサーと恋人になりたい。
アイドルだから、それは無理だと、プロデューサーを困らせるだけだとずっと自分に言い聞かせて、アーニャは我慢してきた。
だけど、プロデューサーはアイドルである鷺沢 文香と恋人のような事をしていた。
それを見て、もう抑える必要はないのだと、想いを伝えるのを我慢する必要はないのだと、吹っ切れた。
それに、まだプロデューサーがあの女のものになったと決まったわけじゃない。
だって――
――文香と口付けを交わすプロデューサーは、笑顔や幸せとは程遠い悲しみに暮れた表情をしていたから。
「プロデューサーが笑顔を見せるのは、私だけ……」
取り戻そう、プロデューサーを。
あの女から。
寝ます
最近、アーニャの様子がおかしい。
とにかく全体的に距離が近いのだ。アーニャが雑誌を読む時も、俺と会話する時も、とにかく近い。
今日だって、休憩するためにソファに座ると、アーニャも隣に座った挙句、肩に頭を預けてくる。
「アーニャ、最近、どうかしたか? 一人暮らしが寂しいのか?」
流石におかしいと思い、アーニャに問う。
アーニャは一人暮らしだ。もしかしたら寂しいのだろうか。最近一緒にいれる事が少なくなっているのも拍車をかけているのかもしれない。
だが、アーニャの答えは違った。
「ニェート……私はただ、プロデューサーの近くにいたいだけです」
「それは……」
……アーニャ?
アーニャが、肩が触れ合うぐらい身を寄せながら、至近距離で俺と視線を合わせる。
「プロデューサー……もう分かっているとは思いますが、私はプロデューサーの事が好きです」
アーニャは真剣な表情で、自らの想いを俺に伝えた。
「……どうして」
どうして俺なんかを。
アーニャはきっと、錯覚している。そこら辺の恋人なんかよりもずっと長い間、男と二人っきりで生活していたから、錯覚してしまったのだろう。寂しいが、どうせ一時の感情だ。
その事を伝えようとするも、先に彼女が口を開く。
「プロデューサーを悲しませる人は、許しません」
「悲しませる人……?」
暗い光をその目に灯し、アーニャは上目遣いに俺を見上げる。彼女の瞳は、深海の如く薄暗く、吸い込まれそうなほど深い青に満ちていた。
「鷺沢文香……私は彼女を許しません」
――私の、大切な人を悲しませたから。
俺は、気が遠くなった。気絶までは行かないが、しっかりと地に足をつけていないと倒れそうだ。
「プロデューサーといると、とっても安心します」
「プロデューサーだけが、真剣になって私の容姿を褒めてくれました。大多数の人は面白半分に見物していくだけでした」
「今までずっと一人ぼっちでしたが、今の私には、プロデューサーがいます」
「プロデューサーは、私の大切な人です」
「プロデューサーの悲しむ姿を、見たくありません」
「私がプロデューサーを笑顔にしてみせます」
「この事務所にずっといれば、プロデューサーはもうあの人会う必要はありません。ですから、ずっとここにいてください」
「プロデューサー、外の事は全て私に任せてください」
「プロデューサー、愛しています」
「プロデューサーは、私の事、好きですか?」
「これからも、ずっと一緒ですよ……プロデューサー」
「プロデューサーとずっと一緒でいられるこの事務所だけが、私の居場所です」
豪雨に体中を打たれながら、力なくひと気のない道路を歩いていた。
外は既に真っ暗で、寒い。
頭を冷やしながら、今までの事を振り返る。
俺は別に、心の底からアイドルの想いを否定したいわけじゃない。あんなにも可愛くて、優しい子達に愛されて、幸せ者だと思う。
でも、アイドルとプロデューサーだ。
昔、応援していたアイドルが、プロデューサーと結婚した時の衝撃を、今でも覚えている。
当時俺は小学生だったが、そのアイドルの事が本当に気に入ってて、とても悲しい思いをした。
アイドルの気持ちに応えてしまったら、あの悲しさをファンに味あわせる事になる。
それだけは避けたかった。アイドル達にファンを裏切らせるわけにはいかない。
アイドルの気持ちには、応えない。
俺は、迷いなくその結論に達する。
だが、文香がそれを許しはしない。
千秋の事がある以上、文香には従わなければならない。何とか、説得できないものか。
コンクリートの塀に手を付き、降り注ぐ雨を一身に受けながら、考える。
どうすればいい……このままじゃ、いずれ……
考えても、何も思いつかない。急に目頭が熱くなり、そのまま雨と共に涙が流れた。
嗚咽が込み上げ、雨に紛れて一人むせび泣く。
不意に、雨が遮られた。
壁に手をついて項垂れる俺に、誰かが傘をかざしてくれたらしい。傘の雨を受ける音が響く。
一体誰が――
「……こんばんわ……プロデューサーさん……」
振り返ると、赤みがかった茶髪を上の方で二つに結んだ、小動物のような雰囲気を持つ、可愛らしい顔立ちの少女がいた。荒れのない綺麗で滑らかな肌に、全体的に華奢でか細い体。彼女は、ふわふわした感じの、全体的に桃色で統一された可愛らしい洋服に身を包んでいた。
その左手には、白い傘が握られている。
見間違えようがない。俺が一番最初にプロデュースしたアイドルだ。
「智絵里……」
「あの……お久しぶりです……プロデューサー……」
智絵里の、傘を持つ左手の手首には、痛々しいリストカットの跡が残っていた。
更新はここまでです。
エンディングが4つあるのですが、安価がいいですか? 順番がいいですか?
最初のエンディング以外蛇足かもしれませんが、一応全部書くつもりです。
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「緒方……緒方智絵里……です」
目の前の、赤みがかった長い髪を二つに束ねた少女は、俯きながらも時折こちらに視線をよこしながら名乗った。
「あの……その……えぇと……が、がんばります……ので……見捨てないでくれると……その……うれしい……です」
アイドルとしてやっていけるぐらい十分な魅力を持った女の子だが、性格がアイドル向きじゃないように感じる。
ただ、彼女の意志は強そうだった。その意志が折れない限りは、可能性はいくらでもあるだろう。
「よろしく。緒方さん」
そう言うと、彼女はオドオドしながらも、
「……よろしくお願いします。プロデューサーさん」
と返した。
小動物みたいな子だな。智絵里を見てそんな感想を抱く。
――こうして、俺はプロデューサーとして、智絵里はアイドルとして動き出す事となった。
智絵里は運動が苦手なようで、ダンスなんかはトレーナーからよく注意を受けている。基礎の段階から、中々進まなかった。
歌も聞けるレベルではあるが、大衆に聞かせるにはまだまだ実力不足だ。
内気な性格も変わらず。
前途多難ではあったが、智絵理は挫折する事なく努力を続けた。
運動不足と指摘され、落ち込んでいる智絵里に、俺は一つ提案をする。
「智絵里、体力をつけるために一緒に走らないか?」
一人では少し難しいだろう。だが、他の人と一緒ならやりやすいかもしれない。そう思って、提案した。
彼女はお願いしますと言って、提案を受けてくれた。
俺達は一緒に、暇な時間に外を走るようになった。
最初、智絵理は一キロ走るのも辛そうだったが、根気強く続けていく内に、努力が実り、智絵里は長く走れるようになっていった。
毎日ランニングを続けた結果、少しずつではあるものの体力がついてきて、智絵里は少しだけ自分に自信が持てたようだ。
少しだけ自信を持つようになった彼女を見て、俺も嬉しい気持ちになる。
だが、残念な事に問題はまだたくさん残っている。
体力面は改善してきたものの、智絵理の運動神経が壊滅的で、結局ダンスが上手くできずに注意されてばっかりだった。
「智絵里、今度は一緒にスポーツしてみないか?」
今度はスポーツに誘った。智絵里は見るからにスポーツが苦手そうだが、やってみると少しぐらい変わるかもしれない。
智絵里は、全然できなくても見捨てないでくださいとだけ言って、また提案を受けてくれた。
見捨てるか。智絵里が諦めてないのに、俺が見限ってどうする。
「とりあえず、野球でもするか」
思い立ったが吉日、ソフトボール用のバットとソフトボールを購入し、広い公園へと向かった。
ソフトボール用のバットなら軽いから智絵里でも大丈夫だと思っていたが、ちょっと重たそうだった。
バットを構える智絵里に、下投げで、子供でも打てそうな球を放ってやる。
彼女は過去に一度も経験した事が無いらしいので当たり前と言えば当たり前なのかもしれないが、中々バットには当たらなかった。
空振りする度に涙目になっていく智絵里が、可愛かった。
かすりもしていないが、一球一球必死に当てようとしているのが見て取れる。
今にも泣きだしそうだが、彼女は諦めていなかった。
やっぱり、アイドルになる素質はある。
それに、どんなにダメ出しされても、彼女は未だにアイドルになる事を諦めていないし、挫折してしまいそうな気配も見せない。
この子なら、トップアイドルを目指せる気がする。
プロデューサーとしての経験が浅いので断言はできないが、直感的にそう思った。
そして、もうかれこれ五十球ぐらい投げたような気がする。
今までと同じように、下投げで軽くボールを投げた。
智絵里は初期の頃よりもだいぶ様になっているフォームで、バットを構えている。
次の瞬間、智絵里は飛んできたボールをバットの芯で捉え、そのまま青空に向かって大きく打ち上げた。
「え?」
打った本人も度肝を抜かれたように驚いているのが滑稽で、可愛かったのを覚えている。
ホームランとまでは行かないが、それなりの距離をボールは飛んで行った。
「……やった! 当たった!」
「あぁ、おめでとう」
嬉しそうにぴょんぴょん跳ねる智絵里。
彼女の笑顔が、とても眩しかった。
それから、智絵里を少しでも動けるようにするため、色々なスポーツを彼女に教えた。
スポーツと言っても、二人で少し練習する程度だが。
「えいっ!」
彼女が爪先でサッカーボールを蹴る。
威力は弱いが、ボールは真っ直ぐに飛び、俺の足元へと転がってきた。
「上手いな」
転がってきたボールを、蹴って転がし、智絵里へと返す。
「えへへ……偶然です」
智絵里はくすぐったそうにしながら、楽しそうに微笑む。太陽のように温かくて、優しい笑みだった。
彼女はコツを掴んだのか、その後は大体正確なパスが出せるようになった。
それからというものの、テニスやバトミントン、キャッチボール、バスケットボールでフリースローの練習など、アイドル活動からは程遠い事をやっていた。
だが、驚くべき事に効果はあった。
少なくとも以前よりは数倍、智絵里は動けるようになっていた。ダンスも、注意される事が少なくなり、まだ完璧とは言えないが、人並み以上にこなせるようになった。
ダンスも以前とは比べものにならないほど上手くなっていた。
智絵里は、プロデューサーさんのお陰ですと言いながらも、とても嬉しそうにしていた。
智絵里は前よりも格段に自信がついてきて、少しずつアイドルとしての片鱗を見せるようになってきた。
「プロデューサーさん……えっと……今度は歌を頑張りたいので、一緒にカラオケに来てくれませんか?」
相変わらず内気な性格は変わらないが、それでも智絵里は少しずつ変わってきていた。
はっきりと喋れているし、視線だって外さない。
今日だってほんの少し緊張しているようだが、俺にカラオケに着いて来てほしいと頼みに来た。
前の智絵里なら年上の男に何かを頼むなんてとてもじゃないが無理だろう。
「一人は心細いもんな、分かった。仕事が終わったら行こう」
彼女からの頼みでは断れない。というより、智絵里からの頼み事は断れない。断った瞬間どんな表情をするのかと想像してしまうと、断れなくなる。
智絵里は、トレーナーに言われた事を思い出しながらカラオケで、場違いにもほどがあるほど真剣に練習した。
俺はソファーに座って、智絵里の歌をずっと聴いていた。常日頃思っているが、やはり智絵里の声は綺麗だ。
時折音を外したり、音程が分からなくなったりして焦る智絵里はとても可愛かった。
カラオケでの練習は一時間と控えめだが、智絵里と俺は毎日のようにカラオケに行った。
元々音痴というわけではなかったので、毎日のレッスンと自主トレーニングで、すぐに智絵里は上達していった。歌の方の才能は凄いらしい。
智絵里は、月日が経つにつれて明るい女の子になった。
オドオドしたような表情は消え失せ、常に優しい微笑みを携えている。
元からとても可愛かったが、最近の智絵里は更に可愛さに磨きがかかっていた。
小さなライブを行っては大量のファンを獲得し、モデル雑誌に乗れば、会社から次もお願いしたいと依頼が来る。
こうして、智絵里は人目に触れる機会が多くなっていき、確実に知名度と人気を伸ばしていった。
数カ月が経ち、智絵里にもとうとう大規模なライブの話が来た。
智絵里に伝えると、とても喜んでいたが、どこか不安そうでもあった。
無理もない。今まで彼女が行ってきたのは、小さなライブばかりであり、大規模なライブはこの仕事が初めてだ。
当日、智絵里は緊張していた。
楽屋で衣装に着替えた智絵里は、遠目からでも分かるくらい震えていた。
「プロデューサーさん……私、怖いです……」
まるで出会った頃のような様子の智絵里に、思わず苦笑する。
やっぱり、根本的には変われないのかな、などと思いつつも、震える彼女を見てどこか微笑ましい気持ちになった。
「なぁ、智絵里……よく聞いてくれ」
智絵里の肩を掴み、智絵里と目を合わせる。
「昔から、お前はできるっていう言葉がどうにも苦手だった。何を根拠にそんな事言えるんだ……根拠もないのに無責任な発言だなって、そう思った」
智絵里の震えが少しだけ収まっていくのが分かった。直に触れているから。
「でもな、今ならお前ならできるって言う人の気持ちも分かる。何故だか知らないけど、智絵里なら出来るって思う。気休めにもならないかもしれないけど」
「大丈夫です……プロデューサーさんが傍にいてくれるから」
智絵里が、ぎゅっと、俺の腰に手を回した。抱き合っているような状態なので、見られたらまずいが、少しの間なら大丈夫だろう。
「智絵里……お前なら出来るよ。だから、頑張って」
右手を彼女の背に回し、ぽんぽんと軽く背中を叩いて励ます。
数分間、軽く抱き合うような形で、智絵里が落ち着くまでずっと身を寄せ合っていた。
智絵里からいい匂いがするし、体は柔らかいし、色々大変だったが、何とか持ちこたえる。
「……プロデューサーさん、もう、大丈夫です……ありがとうございました」
「そうか」
抱きしめる腕に少しだけ力を込めた後、智絵里は離れた。
不安はどこかへ吹き飛んだのか、智絵里はいつもの優しい微笑みを浮かべていた。
「行ってきますね、プロデューサーさん……私の事、ずっと見守っていてください」
「あぁ……見守ってるよ。いつまでも」
智絵里はひまわりのように温かく明るい笑みを浮かべながら、楽屋を出て行った。
その後ろ姿は、数分前の智絵里の状態からは想像もできないくらい堂々としていた。
そして、彼女はステージに立つ。
大衆の歓声を浴びながら、今まで培ってきた全てを、観客に魅せる。
妖精のような儚さと、太陽のような明るさを持つ智絵里に、会場の人間の大半が心を奪われた。
音楽が止まり、観客へ向けて智絵里が深々と礼をした時、会場を震わせるほどの歓声が、会場全体に響き渡った。
「好きです……プロデューサーさん」
マイクの電源は既に切られ、小さく放たれたその言葉は誰の耳にも届かない。
「プロデューサーさん……一緒にいたいです……これからも……ずっと……」
更新はここまでです。
忙しくて中々更新できません。ごめんなさい。
>>202
短期間で、智絵里は以前とは比べものにならないぐらい動けるようになっていた。ダンスレッスンも注意される事が少なくなり、まだ完璧とは言えないが、人並み以上にこなせるようになっていた。
明らかにダンスの動きがよくなっているのが、素人目にも分かる。
>>204
智絵里は、月日が経つにつれて明るい女の子になっていった。
いつもの不安そうな弱気な表情は消え失せ、最近は、常に優しい微笑みを携えている。
智絵里はあのライブ以降、知名度と人気が劇的に上昇し、一躍有名人となった。
智絵里は見事にチャンスをモノにしたのだ。
喜んでいる智絵里を見て、心の底からこの仕事に就けてよかったと思う。
これからも見守っていこう、アイドル達を。
☆
「今までよくがんばったな、智絵里」
車の運転中、助手席に座る智絵里に労いの言葉をかける。
「あ、ありがとうございます……」
恥ずかしそうに眼を伏せる智絵里。相変わらず仕草が可愛らしかった。
その姿を見て、男性は保護欲を掻き立てられるのだろう。
「あ、あの、プロデューサーさん……その……これ…四葉のクローバーを押し花にして綴じ込んだ栞です、どうぞ。いつも……ありがとう…」
赤信号で車を停車させている時に、感謝の言葉と共に、智絵里が唐突に四葉のクローバーの栞を差し出してきた。
「嬉しいよ……ありがとな、智絵里」
本当に嬉しかった。態々プレゼントを用意してくれたくらいだから、それなりの信頼関係を築けてこれたのだろう。
よかった。
「これからも……これからもずっと……私の事、見守っていてくださいね?」
「言われなくても」
ずっと見守ってるよ。
☆
「智絵里を別のプロデューサーに任せる? それじゃ、俺は首ですか?!」
携帯に、社長からのメールが届いていた。内容は、話があるから社長室に来いとの事。
社長から告げられたのは、智絵里を別のプロデューサーに任せるというものだった。
いくらなんでも、急すぎる。
「待て待て、そう急ぐな。話は最後まで聞け」
「あ……す、すみません、取り乱して」
驚いたからとはいえ、立場も年齢も上の相手に声を荒げてしまった。冷静にならなくては。
「智絵里君はもうアイドルとして完成してきている。後はスケジュール管理だけ出来る人間を当てればいい」
それよりも、と社長は続ける。
「私は君の能力を買っている」
「能力、ですか? 私は、何も持っていませんよ」
社長は突然なにを言い出すのだろうか。能力だなんて心当たりがない。
「正直、これから話す事は、智絵里君に対して非常に失礼な内容ではあるが、どうか許してほしい」
そう前置きしてから、社長は語り出した。
「智絵里君は我がプロダクションの面接を受けに来て、無事受かった。だが我々は、彼女の見てくれが非常にいいから採用しただけであって、それ以外は最低評価だった」
「見てくれがいいから、それ以外を一切吟味せずに合格させたという事ですか?」
「あぁ、何度も言うが、彼女は容姿だけなら抜群だ。面接の時からアイドル向きの性格ではない事は把握していたが、採用した」
有名なプロダクションの割には随分と適当な面接ですね。心の中でそう思ったが、口には出さない。
「私はそれなりに忙しいが、仕事の報告は全て目を通している。智絵里君が最初の頃はモデルすらも満足に出来ていないことも知っている」
昔の智絵里は、笑顔を作るのが下手だった。その上、カメラマンに写真を取られるのを恥ずかしがって、すぐ終わる筈の仕事が結構長引いたりもした。
「トレーナーの方に話を聞くと、智絵里君は歌の方は優秀だが、ダンスの方は致命的と聞いた。二回ほど、レッスン現場を覗かせて貰ったが、確かに致命的だった」
確かに、智絵里の運動能力は平均よりも下かもしれない。でも、努力で克服できた。過程はそれなりに辛いものだったが、智絵里は努力でそれを克服した。
「私はね、彼女のプロデューサーが君じゃなかったら、今の智絵里君はないと思っている」
その言葉を聞いて、思わずいきり立つ。
「そんな事ありません! 智絵里は確かに気弱な性格ですが、意志だけは強かった! 現場でどんなに怒られても、トレーナーにどんなにダメ出しされても、智絵里は諦めなかった!」
智絵里の強い意志を感じて、俺も真剣に彼女と向き合って、彼女をプロデュースしていくと決めた。
「智絵里は、自分には才能がないと落ち込んでいたこともありました。才能がないかもしれないと自覚していながら、それでも智絵里は必死にアイドルを目指して努力を続けたんです!」
好きなのに、才能がない。それがどれほどの恐怖なのか、俺には分からない。
ただ、想像以上に辛い筈だ。
それでも、彼女は努力をやめなかったし、挫折もしなかった。泣き言は多かったが、アイドルを諦めるような発言はしなかった。
「首になる事を覚悟して言いますが、俺の能力云々よりも、まずは智絵里の努力を褒めてやってくださいよ! 俺がいなくたって、いずれ智絵里はトップアイドルになれましたよ!」
言いたい事を好き勝手に、状況も相手も考えずに吐き出す。俺はもう、終わりかもしれない。
荒い息を整えながら、恐る恐る社長を見る。
「はっはっはっ。なるほど、そうか……すまなかったな」
社長は苦笑いを浮かべながらも、頬を指先で掻きながら、言葉通り、すまなそうにしていた。
顔に出ていないだけで、本当は物凄く怒っているかもしれない。急いで謝罪しよう。
「あ、あの、社長――」
「どっちにせよ、智絵里君は別のプロデューサーに任せるよ」
俺の言葉は社長に遮られてしまう。そして、どっちにしろ智絵里の担当は外されるらしい。
「智絵里君の意志の強さと、努力は認めるよ。だけど、やはり、君も関係しているとは思うんだがな」
「いえ、その……」
何て返したらいいか分からず、口籠ってしまう。
小さく笑みを浮かべながら、社長が本題に入ろうと、話を切り出した。
「――君に少しの間、休暇を与えよう。その間に新しくアイドルをスカウトし、その子をプロデュースしたまえ」
「は?」
なんて無茶な話なのだろうか。
でも、社長は本気のようだった。
「出来るかね? 少々難題を吹っかけているという自覚はあるが、君にやってもらいたいんだ。君ならきっと素質のあるアイドルを見つけられると思うし、トップアイドルにも出来ると思う」
なんて無責任な発言なのだろうか。漫画やドラマじゃないんだぞ。
にやにやと笑みを浮かべながら、俺の返答を待つ社長。
平凡な社員が、社長の持ちかける話を断れるわけがなかった。
「分かりました。新しくアイドルをスカウトして、プロデュースします」
上手くいくかどうかは知りませんけどね、と心の中で付け加える。
「おぉ、そうか。君ならきっと、我がプロダクションに多大な利益をもたらすアイドルを見つけてくれるだろう。期待してるぞ」
結局は金か。馬鹿野郎が。
受けてしまったものは仕方がない。
なるべく、社長が満足できるような結果を残せるように、頑張ろう。
寝ます
話の展開遅くてごめんなさい
気長に付き合っていただければと思います
☆
まずは女の子をスカウトする所から始めなくてはならないのか……
猛暑の中、汗水垂らしながら人の多い場所、特に若者が集まるような所に足を運ぶ。
人見知りというわけではないが、複数人で行動している女性達にスカウトしに行くのは、ナンパをする勇気も経験もない俺には少しハードルが高い。かと言って、一人の女性に近寄れば警戒される。
何なのだ、これは。どうすればいいのだ。
悩んでいても仕方がない、とりあえず動こう。突っ立ってるだけでは可能性すら得ることができない。
とはいえ、ただ闇雲に練り歩いても中々機会に巡り会えない。
普通に面接を受けに来た子から選ぶのはダメなのだろうか。スカウトなんて難しい事をいきなり吹っかけてくるなんて。
長い間、恐ろしく暑い中を歩き回っていたせいか疲れてしまい、近くにあったひと気のない公園のベンチで休むことにした。
曇り一つない青空を、恨めしく見つめる。いくらなんでも暑すぎる。
飲み物でも買おうかとベンチを立った時、ふと、遠くのベンチに座っている女性が目に入った。
眼鏡のお陰で、女性の姿はよく見える。
どこか思いつめたような暗い表情をしているが、とても美しい顔立ちなのが見て取れる。綺麗で艶のある黒髪、陶器のように白い肌、華奢な体躯、儚げな雰囲気。本当に綺麗な女性だった。
あの人なら、アイドルになれそうだな。そんな事を反射的に思い浮かべる。
アイドルになれそう、じゃない。アイドルになれるぞ、あの人なら。そんな空気が漂ってる。雰囲気が若干暗い気もするが……
俺はスカウトしに来てるんだ。相手はちょうど一人だし、強気で行こう。
遠い所から一直線に女性の下へと向かうのはかなり精神的に来るものがあるが、構わず歩き続ける。
彼女が俺を捉え、歩み寄る俺を見据えた。思わず足を止めそうになってしまう。恐ろしい緊張感だ。警察呼ばれたらどうすればいいのだろうか。
色々な事が頭を駆け巡っている間に、いつの間にか彼女の目の前に辿り着いてしまった。緊張で背筋が強張る。
目の前の女性が、何も言わずにただ視線を送ってくるだけなのも緊張に拍車をかけていた。
やはり、彼女はとても美しかった。近くで見ると、よく分かる。キメ細かい滑らかそうな肌に、まさに高嶺の花と言った感じの、高貴な顔の作り。
ただ、瞳は虚ろで光を灯しておらず、ぼんやりと濁っていた。表情もどこか無機質で、全てに無関心と言わんばかりの空気を纏っている。
彼女のくぐもった瞳には、何が映っているのだろうか。俺を見つめてはいるが、俺の姿が映っていないように見える。
人形のように、生気の感じられない。
彼女をアイドルに誘ったら、何か変わるだろうか。
もし、彼女がアイドルになったら、何が変わるのだろうか。
無気力にベンチにもたれかかる彼女に向けて、内ポケットから取り出した名刺を差し出す。
「アイドル、やってみないか?」
真っ直ぐに彼女の瞳を見つめ、告げる。
いつの間にか、緊張は解けていた。
「アイ、ドル?」
彼女は初めて反応を示した。
「そう、歌ったり踊ったりしてるアイドルだ。君はとても綺麗だから、アイドルになるための素養は十分だと思う」
「綺麗でも、何でも……アイドルなんて、親が許しはしないわ」
親が許さない。という事は、彼女自身はまだ心の底からアイドルになるのを嫌がっているわけではないのだろうか。それとも、断るための嘘か。
「アイドルになるのが嫌だったら、はっきり断って欲しい。でも、もし少しでもアイドルになりたいっていう気持ちがあるんだったら俺が君の親を説得する」
俺がそう言うと、無理だ、と言いたげに彼女は首を横に振る。
「あの両親を説得だなんて、無理よ」
「もし、仮にもし、両親を説得出来たら、君はアイドルになるかい?」
「えぇ、なってもいいわよ。出来たらの話だけれど」
表情や、雰囲気で読み取れる。
彼女は……俺にも、両親にも、何も期待していない。
何にも期待されていないのは少々切ないが、とりあえず彼女の両親を説得してみよう。
アイドルになって欲しいというのもあるが、何よりも、彼女の笑顔が見たかった。
「君の名前は?」
受け取った名刺をポケットにしまうのを見届けながら、彼女に名前を聞く。
彼女が顔を上げ、俺を見据えながら、名前を告げた。
「黒川千秋」
ねます
深夜テンションでさりげなく置いておいたネタが拾われた……
DODは有名ですね
更新はもう少し待ってください。
試験期間中なので
昔から、私に自由なんてなかった。
親が……家系が優秀だから、娘である私も優秀である事を求められた。
勉強は勿論、運動も、習い事もたくさんした。
親に甘やかされた事など一回もない。常に何かを教えられながら今まで育てられてきた。
自由に外を楽しそうにはしゃぎ回る子供たちが、別の世界の人間に見えた。
唯一人とまともに触れ合う事ができる小学校も、上手く馴染むことができなかった。
当たり前だ、満足に遊ぶ時間さえ取る事も出来ない上、流行りの話題についていく事すらできない私に、友人なんてできるはずもないのだ。
小学校卒業後、私は中高一貫校へと入学した。
中学生になったというのに、何故か環境は変わらない。いつも通りの、勉強と習い事の毎日。
クラスメイトは、勉強にしか興味がないのではないのかと思うぐらい、勉強熱心な人達ばかりだった。
授業中静かなのは当たり前で、先生が授業と関係ない話をすれば容赦なく続きを催促するような、真面目な人達。放課後、彼らがどこかへ遊びに行くなんて話をするのは稀だ。
私は友人が欲しかったが、何故か友人関係を築こうとする人間は少なく、また、機会も得られず、結局、私は中学高校共にずっと独りだった。
親の望みに応え、私は優秀であるように努めた。
小学校の時から既に勉強三昧だったのだから、流石に成績はよかった。
運動能力には恵まれ、常に上位をキープした。
たくさんある習い事だって全て器用にこなした。
大体の事は、何でも出来た。
でも……私は、自分がどれだけ優秀であっても、何も嬉しくない。
テストの点が良くても、運動ができても、ピアノやヴァイオリンが弾けても、ダンスが踊れても、何も嬉しくない。
何ができようとも、私が自分からやろうと思ってやったことではないのだ。
中学を卒業した私は、高校へと進級した。
高校では、三年分の内容を一年で終わらせ、残りの二年は受験勉強だった。
苦痛だった。何も考えず……何も考えることができずに、ただ勉強と課せられた習い事をこなす日々が。
成長しても、反抗期なんてもの迎えることはない。もう、体に染みついてしまっているのだ。親に何かを課せられ、それに従う事が。
仮に反抗なんてしたって、どうせ無駄だ。そういう親なのだから。
親に思いっきり逆らう妄想をしたことがある。一種のストレス発散なのだろう。勿論、実行なんてできない。妄想は妄想だ。
私はこのまま、何一つ自分の意志で生きる事が出来ないまま、老いて死んでいくのだろうか。
高校二年辺りから、毎日のように自身の暗い未来を思うようになった。
変わらない世界と変われない自分。つまりは永遠に変わらない。
想いを伝える事すらできない。だから、一つも変わらない。
鳥籠……いや、牢獄だ。
――仄暗い、牢獄。
私は、ここでこのまま朽ちて屍になるのだろう。
恨みながら――自分にとって無意味な人生を、逆らう事の出来ない情けない自分を、牢獄に閉じ込めた親を、何もかもを恨みながら。
「あなたの結婚相手が決まったわ……会うのは――」
「…………」
私が二十歳になった時、結婚を決められた。相手は私との結婚を望んでいるらしい。
一度、会わされて話をさせられたが、印象は良かった。
顔がよくて、学歴だって凄い。それに、とても優しそうな人だった。非の打ちどころのない、まさに完璧な男の人だ。
結婚すれば、何か変わるだろうか。
答えは、すぐに出た。
――きっと、何も変わらない。
だって、私は結婚の話を拒否することができないのだから。
私に、結婚の話を断るという選択肢が無い時点で、何かが変わるわけがないのだ。
結局、私は――
――永遠に、牢獄の中だ。
変えられないのなら、変わることが出来ないのなら、どうすればいいのだろう。
私は、どうして何もできないのだろう。
ぼんやりとした視界を、空へと向ける。
暗い気分とは裏腹に、空は晴れ晴れとして、強い日差しを大地に送り込んでいた。
ふと、視界の端に男の人が映ったのが見える。何となく、視線を男に寄越した。
男の人は神妙な顔つきをしながら真っ直ぐにこちらへと向かって来ている。何か用だろうか。
身なりは普通のサラリーマンのようで、あまり特徴のない顔の男だった。強いて言うなら、眼鏡をしていて真面目そうな印象を受けるぐらい。
その男は、私の目の前まで来ると、足を止めた。
男はポケットに手を突っ込むと、一枚の名刺を取り出し、私へと差し出す。
私が名刺を受け取ると、彼は口を開いた。
「アイドル、やってみないか?」
今まで変わらなかった世界が、少しだけ、変わったような気がした。
更新おわりです
☆
黒川千秋という女の子は、両親を説得なんてできるはずがないと言った。
彼女は、出会って十分すら経ってもいない男の俺に、自らが置かれている環境を打ち明けた。
ずっと自由にできず束縛されて生きてきたこと。今までの人生に、自分の意志なんてなかったこと。結婚すら勝手に決められたこと。全てを千秋は話した。
今までも、これからもこの生活はずっと続く。千秋は暗い表情でそう言った。
「私には、勇気がないの」
千秋を見て驚く。彼女の頬には涙が流れていた。
見ず知らずの人間な上、大人で、しかも男である俺に、ここまですべてを打ち明け、涙を見せるのは、明らかに異常だ。
一人の理解者すら得られないまま、今まで過ごしてきたのか?
「何とかする」
「え?」
無意識の内に漏れていた言葉。千秋は顔を上げ、涙を流しながらも、驚いた表情をしていた。
「もう一度聞くけど……アイドルに興味はある?」
涙を拭いながら、千秋は頷く。
「変わりたい……自分を、変えたい」
相変わらず悲しみに暮れた表情だったが、瞳には強い意志が灯っていた。
もしかしたら、彼女はきっかけが欲しかったのかもしれない。
だから、彼女に契機を与えよう。
「分かった。何とか、してみる」
ここまで来たら、引き返す事なんて不可能だ。
今彼女に告げたように、何とかしてみよう。
千秋の笑顔が見たい。
そして、今度は彼女と共にトップを目指そう。
☆
後日、俺は千秋と待ち合わせをし、二人で黒川の家に訪れた。
今日は、両親が二人とも休みで家にいると、千秋に教えてもらった。
そして、千秋がその日に大事な話があるということを両親に伝えたらしい。俺の存在は伝えていないようだが。
俺は、これからお邪魔するであろう黒川家を眺める。千秋の家は話に聞いていた通り、大きな家だった。流石、資産家と言ったところか。
インターホンを鳴らし、召使いが応じた。黒川千秋さんのことで話があると両親に伝えて欲しいと言い、千秋の姿をインターホンで確認させる。
十数秒後、門が開き、一人のメイド服に身を包んだ召使いが、こちらへと向かってくるのが見えた。
「こちらへどうぞ」
俺と千秋は、大きな部屋へと通された。この部屋は、千秋もあまり来たことがないという。
広い部屋に、高そうな素材でできた赤い絨毯。その上に、黒いテーブルと、大きなソファがあった。
千秋の両親がソファに座り、俺と千秋も向かいのソファへと腰を下ろす。
千秋の両親は、どちらも恐らく四十歳を超えているはずだが、どこか若々しく見える。千秋から聞いていたほど厳しそうな人たちには見えないが、まだまだ緊張は解けない。
父親の方は、娘と共にいきなり訪問してきた俺の存在に少し動揺しているようだった。
「それで、話とは何だね?」
千秋の父親が問い掛ける。その表情は少々厳しく、眼光が鋭い。
緊張しながらも、名刺を渡して自己紹介をした。そして、娘である千秋をアイドルプロダクションに迎え入れたいという旨を、俺は告げた。
母親の方は反応が薄く、涼しい顔をしているが、父親の方は眉間に皺を寄せ、難しそうな表情をしている。
千秋は両親の顔を直視できないようで、俯いて唇を噛みしめていた。
「アイドルの件、どうでしょうか?」
「ダメだ」
父親は、きっぱりと無慈悲に告げる。
「千秋、お前はもうすぐ結婚するのだと伝えただろう。アイドルなんかやっている場合ではない」
冷たい目で、無感情に、彼は続けた。その話の内容は、部外者である俺が今すぐ反論したいほど、残酷なものだった。
「お願いします! 千秋さんを、我がアイドルプロダクションに所属することを認めてください」
こんな胸糞悪い身内話を聞かされながらも、結局、俺は頭を低くしてお願いするしかないのか……!
「君も、こちらの都合を考えずに無理矢理意見を通そうとするのはやめたまえ、見苦しい」
この、分からず屋が!
土下座すればいいって問題ではないが、こうなったら、土下座してやる。
俺は立ち上がると、ソファの横、赤い絨毯の上に膝をつけ、土下座した。
「お願いします。どうか、千秋さんのアイドル活動を認めてください」
「君もしつこいな、もう出て行きたまえ」
殆ど相手にされていない。ただ、引き下がるわけにはいかない。
「嫌です、認めてくれるまで――」
「――お願いします」
唐突に言葉を遮られる。驚き、思わず後の続く言葉を飲み込んだ。
その声は、か細くて、弱々しくて、震えていたけれど、確かに、千秋のものだった。
「……アイドル、やらせてください……お願いします」
彼女の視線は、真っ直ぐに父親へと向けられていた。
強い意志の籠った視線を受け、少なからず彼女の父親は狼狽えた。そして、怒りの表情を浮かべた。
「千秋……? 君の仕業だな?」
ぎろりと、元凶である俺を睨み付ける父親。
「私は、アイドルになります。だから、結婚はお断りします」
相変わらず怯えが混じってはいるが、彼女は確かに自分の意志を、両親に告げたのだ。
気高く、凛とした雰囲気の片鱗が、彼女からは滲み出ていた。
「そんな勝手が許されるか!」
父親が憤慨し、怒鳴った。あの弱々しい態度はどこへ行ったのか、父親の剣幕に物怖じせず、彼女は言い返す。
「勝手なのはどっちですか! いつだって、私の意志を蔑ろにして!」
「お前には私達の跡を継ぐ義務があるのだと言っただろう! 故に私達はお前を、後継者として相応しい優秀な者へと育てなくてはならない、黒川家はいつもそうしてきた!」
「だからと言って、それを私に押し付けないでください」
いつの間にか、千秋は涙を零していた。それを拭おうともせず、必死に、勇気を出して、彼女は抗った。
「お前だな、余計な事をしてくれたのは! 今すぐ出て行け!」
今までずっと耐えて、溜めこんできたものを吐き出すかのように、千秋は強い口調で親を責めた。
父親は千秋を相手にするのをやめ、今度は標的をこちらへと変えてきた。
今にも掴みかかってきそうなほどの剣幕で捲し立てているが、怖気づくわけにはいかない。千秋がここまで頑張ったんだ。俺も頑張らないと。
「では、認めてください。千秋がアイドルになることを」
「認められるか! お前――」
突如、テーブルに強い衝撃が走り、大きな音が鳴った。辺りが一瞬にして、静まり返る。
「少し、落ち着きましょう」
どうやら、千秋の母親がテーブルを殴ったらしかった。正直、こっちの方が怖い気がする。
「あなた、千秋の我が侭、認めてあげましょう」
「え?」
千秋も、俺も驚く。父親だって驚いていた。
「お、お前、何を……」
明らかに狼狽える父親。彼の態度は気にも留めず、母親は続けた。
「今までずっと我が侭を言わずに、耐えて頑張って来たんだもの。初めての我が侭ぐらい許すべきだと思うの」
「…………だが」
初めての、我が侭?
本当に、今までずっと……
そこから十数分後、母親に説得された父親は千秋をアイドルプロダクションに預ける事を認めた。
泣きじゃくる千秋を傍目に、何とかなってよかったと俺は一人安堵する。
精神的には疲れたが、終わってよかった。
時間がかかるだろうなと、長期戦だって覚悟していた。
とりあえず、一件落着か……
事態は収束し、黒川家の玄関にて、今日は別れることとなった。
「これからよろしくな、千秋」
「えぇ……よろしく、プロデューサー」
千秋は、ようやく笑顔を見せてくれた。
あまりにも綺麗で、美して、魅力的な笑みだった。
――頑張ろうな、千秋。
更新終わりです。
陳腐な展開でごめんなさい。
とりあえず、千秋の話が終わってようやく物語動かせそうです。
☆
一連の出来事を経て、千秋は見事アイドルになった。
昔から色々と習い事をしていた千秋にとって、ボーカルやダンスと言った基本的なレッスンは簡単らしい。自信満々に余裕だと言ってのけ、実際に余裕そうだった。
また、親から学業の方もしっかりとやることを条件として言われていたが、心配する必要はないと彼女は言い切る。
黒川千秋は、次第に変わっていった。本来の姿に戻ったと言うべきか。
両親を説得する時から見えていた凛としたオーラが、普段からも滲み出るようになった。高嶺で力強く咲き誇る花のような存在感を彼女は持っている。
初めて会った時は今にも崩れてしまいそうなぐらい儚く、弱気な彼女だったが、今では真逆の我の強い性格へと変貌した。お陰で、お嬢様らしく、我が侭をよく言う困った子になってしまった。
本来の姿へと戻った彼女は、常に強気で自信満々だ。その上、大きな仕事に対するプレッシャーなんか殆ど感じない、鋼のようなメンタルを備えている。
こんな強い子が何故今まで大人しく縛られて生きてきたのか、生き生きとした彼女を見る度にいつも疑問に思う。
もはや苦笑を禁じ得ないほどの変わりようだったが、前よりも魅力的になっているのは確かだった。
「プロデューサー、飲み物が欲しいわ」
「何買ってくる? コーヒー?」
「それでいいわ。お願いね」
収録から戻ってきて早々、プロデューサーをパシリに使う困ったちゃんである。
俺は近くの自動販売機まで向かい、コーヒーを買った。ついでに自分の分も購入し、二つの缶コーヒーを両手に持って、千秋の元へと向かう。
戻って来てみれば、千秋は椅子に座りながら、共演した俳優と仲睦まじく話をしているようだった。
柔らかい笑みを浮かべて楽しそうに話す彼女はやはり魅力的だ。
二人の会話が終わるまで待っていようと、少し遠巻きに佇む。
千秋が俳優と話しながらも、挙動不審にきょろきょろと辺りを見渡し始めるのが見えた。
もしかして、俺を探しているのか?
暫くして、柱の陰で缶コーヒーを飲んでいた俺に気づいたらしい。千秋が俳優と一言二言交わした後に別れ、こちらへと歩み寄ってくるのが見えた。
「何をやっているのかしら……私を放って」
お嬢様は大変不機嫌な様子だった。
「話しているのを邪魔するのも悪いかと思って……」
「愛想笑い浮かべるのも楽ではないの。今度からはさっさと戻ってきてくれるかしら」
何とも俳優さんに対して酷い言い草である。
「聞いてるの?」
「聞いてる聞いてる。今度から気を付けるよ」
まったく、困ったお嬢様だなぁ……
とりあえず、今日の仕事は終わりだ。千秋も疲れているだろうし、さっさと撤収しよう。
千秋に帰り支度をさせ、その間に俺は関係者の方々に挨拶して回り、時間を潰す。
支度を終えた千秋と合流し、駐車場に止めてある車に乗り込んで帰路についた。
車を運転中にふと思い出す。
「そういえば、千秋が内のプロダクションに来て一カ月ぐらいか」
「時が経つのは早いわね……でも、とっても充実しているわ」
不敵にほほ笑む彼女が、車内のミラーに映っている。本当、彼女はよく笑うようになった。
彼女は着実に実績を上げ、知名度と人気を上げて行っている。勿論、活動を始めてまだ一カ月程度だからたかが知れているが、何というか……伸びが凄まじい。
俺の目に狂いはなかった。彼女をスカウトできて、本当に良かったと思う。
――ただ、一つだけどうしても心苦しいことがあった。
「なぁ、千秋」
「何かしら」
きょとんと首を傾げる千秋。
「……俺は、本当にこれでよかったのかが分からないんだ」
このまま行けば間違いなく千秋は人気になるだろう。何もなければ、いずれはトップアイドルに君臨できるほどの才能と実力を彼女は持っている。
だが、そうなってしまった場合……
「千秋は、家柄に縛られて自由が無いと言っていたよな」
千秋は、自由を取り戻した。アイドルになることで。
彼女がアイドルになりたいと言ったから、両親は千秋がアイドルになることを認めた。
だけど、このまま行ってしまえば……彼女はまた自由を失う。
「アイドル活動を続けているうちは恋愛できない。それに、このまま行けば多忙になる。つまり、今度はアイドルに縛られる事になる」
「あぁ、そんなこと」
千秋は涼しい顔で俺の言葉を一蹴した。そんなことって。
「自由はあまりないでしょうね、大学にも行かなければならないし、アイドル活動もしなければいけない。恋愛も無理ね」
でも、と彼女は続ける。
「知識はなかったけれど、アイドルはとても楽しいわ」
「そう……か」
それが彼女の本意なのかどうかは分からない。別に強がりのようには見えないが。
「私ね、アイドルになれて本当に良かったって思っているの。今の私には意志があって、目標がある……それに、友達だって、できた」
最後の方は少しだけ気恥ずかしそうだったが、嬉しそうな笑みを浮かべる千秋を見て、少しだけ心が救われた。
意志も、目標も、仲間さえもいなかった人生は、どれだけ辛いものだったのだろうか。平凡な人生を送ってきた俺には想像すらできない。
「それに、プロデューサーには話したわよね? 私は昔から習い事をたくさんしてきたの。だから、忙しいのは平気よ」
「はは……それは、頼もしいな」
黒川千秋はとってもいい子だ。
「でも、プロデューサー? ちゃんと私に見合った仕事を頼むわよ」
少々我が侭だけど。
更新はここまでです。
もうちょい早く更新できるように努力します。
生存報告。
もう少し時間をください。更新できなくて申し訳ないです。
数日中に投下します。
★
千秋が事務所に所属して二カ月ほどが経った。
その間に、千秋とは色々な所に出かけた。
向かう場所は、遊園地だったり、カラオケだったり、ゲームセンターだったり、お洒落なカフェだったり。
勿論、仕事も習い事も学校もあるわけだから、自由な時間なんて本当に限られている。
それでも、少ない自由を彼女は喜び、楽しんだ。
喜ぶ千秋の姿が嬉しくて、俺もよく彼女の我が侭に付き合った。
千秋はかなり多忙な生活を送っているが、大学の成績は落ちず、ダンスや歌唱力を着実に伸ばし、淡々と習い事をこなしている。
送られてくるファンレターの数や、売上だって増えている。
なんて優秀なのだろうか。
大勢の観客に見守られる舞台の上で、物怖じせずに堂々と、煌びやかに歌って踊っては満面の笑みを浮かべ、大衆歓声を一身に受ける彼女の姿は脳裏に焼き付いて離れない。
千秋と過ごす日々はとても充実していた。
本当に、この仕事を選んでよかったと思う。
「プロデューサー。私の水着、どうかしら?」
砂浜で黒いビキニを惜しげもなく晒す千秋。辺りに人は少なく、撮影のためのスタッフしかいない。
これから撮影の仕事だが、初めての海ということで少し浮かれているようだった。
「ねぇ、プロデューサー。聞いているのかしら?」
「似合ってるよ。とっても綺麗だと思う」
「ふふ。褒めてもらえて嬉しいわ。プロデューサー」
長い黒髪を弄りながら、可愛らしく彼女は微笑んだ。
「ほら、撮影始まるみたいだ。がんばれ」
「えぇ、任せて。ちゃんと見守っていてね……プロデューサー」
はにかみながら仕事場へ駆けていく千秋を、手を小さく振りながら見送った。
その後、順調に進んでいく撮影を見守っている中、不意に携帯がなった。
智絵里からのメールだった。
今現在、智絵里は違う地方にある事務所へと一時的に移籍している。
会うには少し遠い上、今や大人気アイドルである智絵里は多忙で、この二ヶ月間一度も会えていない。
そのことに寂しさを感じるが、智絵里が察してくれたのかマメにメールを送ってきてくれている。
ただ、今日送られてきたメールの内容は少しだけ嬉しいものだった。
『もうすぐ、そっちの事務所に戻れます! またPさんと一緒にお仕事したいです』
今や智絵里には新しいプロデューサーがついているだろうから、残念ながら一緒に仕事はちょっと難しいだろうけど、智絵里と話せる機会が増えるのは、素直に嬉しかった。
少し、問題もあるが――
智絵里の担当を外されたことを伝えたとき、智絵里が大泣きしながら離れたくないとしがみついてきたことを思い出す。
挙句の果てに一時的移籍の話も入ったものだから、更に泣き出して宥めるのがとても大変だった。
幸いなことに、移籍期間が短く、そのことを伝えて何とかなだめる事が出来たが、普段大人しい智絵里があそこまで頑なに離れたくないと泣き喚いて駄々をこねるとは誰もが想像できないだろうし、とても驚いた。
それなりの信頼関係を築けていたということなのだろうか……少し違う気もするが。
あれから二カ月と半月ほどが経った。流石にもうあんなことは起きないだろう。
『久々に智絵理と会えるのが楽しみだよ。
ただ、一緒に仕事をするのは難しいかな』
絵文字の一つもない質素な文章を返す。
返信はすぐに帰ってきた。
『社長がたまにならいいって言ってました。だから、お願いします』
大手プロダクションだと言うのに存外適当だ。
『分かった。また一緒に仕事がんばろうな』
脳裏に浮かぶ、智絵里の仕事風景。
何事にも一生懸命で、いつも精一杯頑張っていて、常に努力を惜しまない彼女の姿。
幼くて、可愛らしい、どこか放っておけないような雰囲気の少女。
テレビに映る智絵里は、堂々としていて、最初の頃とは比べものにならないぐらい成長している。
今は千秋で手一杯だが、余裕ができたら、きっと、また、智絵里と一緒に仕事がしたいな。
「携帯を見つめながらにやにやしているの、気持ち悪いわよ」
いつの間に戻ってきていた千秋の言葉に、はっと我に返る。
「あぁ、呆けていた……すまん。撮影は終わったのか?」
「まったく、スケジュールを覚えていないのかしら? 今は休憩よ」
確かにそうだった。智絵里のことでいつの間にか頭が一杯になっていたようだ。反省しなければ。
「ねぇ、プロデューサー。仕事が終わったら、近くの有名なスイーツ店で甘いものを食べたいのだけれど」
「分かった。いいよ」
こんな風に、千秋は少しずつ自分のしたいことを伝えられるようになっていた。
今まで抑制されていた分、少々我が侭になりがちな所もある。だが、それでも俺は彼女の変化を喜ぶ。
時々かかってくる仕事の電話に対応しながら、俺は千秋の撮影を見守っていた。
そうしている内に、時間はあっという間に過ぎる。
撮影が終わったらしく、水着に厚手の白いパーカーを羽織った千秋がこちらへと近づいて来た。
「それじゃ、行きましょう」
一通りスタッフや監督に挨拶をして回った後、俺と千秋は現場を後にした。
車を運転して十分、千秋のナビゲートの元、店に辿り着く。
「ここのケーキね、とっても美味しいって評判なの」
千秋に案内されて着いたスイーツ店は、明らかに男性客が一人で来れそうにないような雰囲気だったが、千秋がいるので何とか耐えられるだろう。
本来なら男と二人でこういう店に来ること自体好ましくないが、一応千秋は変装しているし、まだそこまで知名度も高くはないから恐らくは大丈夫だと信じたい。
こういう油断が悲劇を生まないことを祈るばかりだ。
「ふふっ。私はこれとこれにするわ。プロ……Pさんはどれにする?」
メニューを見ても口の中が甘ったるくなりそうなものばかり。
無難に、比較的大人しめのパフェを頼んだ。
オーダーした品は案外早く来た。
見るからに甘そうなパフェを少しずつ口に運ぶ。
ふと、視線を千秋に移すと、ケーキをおいしそうに咀嚼しているところだった。
彼女の、綻んだ笑みでお腹一杯だ。
もう幾度となく思ったことだが、やっぱり、彼女は美しくて、可愛い。
会話を挟みながら、少しずつスイーツを片づけていく。千秋は終始楽しそうにしていた。
そして俺が頼んだパフェは甘ったるすぎて吐きそうだった。
店を出て、車に乗り込もうとしたその時、凄い勢いで駐車場へと入ってきた車があった。
車はあまり詳しくないが、見るからに高価そうだ。一体どうしたというのだろうか。
車から降り立ったのは高そうなスーツに身を包んだ若い男だった。端正な顔立ちに、凛々しい瞳で、明らかに優秀そうなオーラが漂っている。
彼は、こちらに視線を送っていた。正確には、千秋を見ていた。
「――千秋さん!」
「っ! あなたは……」
驚いた表情をする千秋。どうやら知り合いらしい。
男と千秋は一言二言会話を交わすものの、その後は会話が続かず、暫くの間、彼女達の間には沈黙が広がった。
何やらお互い、気まずそうだった。俺は席を外すべく車に乗り込む。ただ、二人の会話は聞こえてしまった。
「千秋さん……やはり、僕ではダメですか?」
男が意を決したように口を開き、沈黙破る。
「ごめんなさい……何度も申し上げたように……私は……」
辛そうに、彼女は顔を俯かせた。
「あっ、えーとっ……困らせるつもりはなかったんです。こちらこそ、ごめんなさい」
あたふたと、暗い表情をする千秋を見て焦る男。
「本当に、申し訳ありません」
千秋は、深々と頭を下げた。
それを見て、男は困ったように頭を書いた。
「本当……諦めが悪くて、申し訳ない。まぁ、気が向いたらいつでも連絡ください」
照れ笑いのようなものを浮かべて、男は去っていく。
その間も、千秋は頭を下げていた。
「もう、行ったぞ」
「そう……」
車の中で、彼女は彼について話してくれた。
本来なら結婚するはずだった男であり、自分の自由の効かない境遇を理解してくれるただ一人の人だったことを、彼女は話した。
「そうか……」
「本当に裏表のない、良い人よ。あの汚い世界でどうやったらずっとそんな性格でいられるのかってくらい」
確かに、いい人そうだった。勿論、猫かぶりかもしれないし、絶対に良い人だとは言い切れないが、それでも俺は彼が良い人であるように感じる。
「千秋の望まないことだし、外野の勝手な想像で悪いんだけどさ――」
彼を見て思った。
「――彼はきっと、千秋を幸せにしたと思うぞ」
――俺がそう言った時の、千秋の筆舌し難い暗い表情はきっと忘れることが出来ない。
数日中に投稿します(大嘘)
反省しています。ごめんなさい。
更新遅いですがエタることはありませんので、そこだけは安心してください。
★
「――彼は、きっと千秋を幸せにしたと思うぞ」
プロデューサーにそう言われた瞬間、胸の内がぞわりと震えた。
どうして? 私が他の人と一緒になってもいいの? ……そんなことを思った。
だけど、思い出す。私はプロデューサーにとって、ただのアイドルでしかないことを。
プロデューサーにとって私は、他の男と添い遂げても何も思われない程度の女……担当アイドルでしかない。
そこまで考えて、胸を抉られるような痛みに襲われる。本当の痛みではないし、顔にも出さないけれど、確かに胸が……心が痛んだ。
最近、よく、心が痛くなる。
プロデューサーが女の人……アイドルや、事務員や、スタッフなんかと話しているのを見ていると、胸が痛む。
胸がきゅーって痛んで、ぞわりと寒気のようなもの感じて、気付けばプロデューサーの手を取って強引に話を切り上げさせる。
そのことをちょっと怒られたりもしたけど、あのままでいられるよりはずっと……ずっとマシだった。
自覚はしている。
これはきっと、恋なのだろう。
四六時中、プロデューサーのことを想っていて、ずっとプロデューサーを独り占めしたいと思っているのだから。
プロデューサーが笑いかけてくれるのが、好きだった。プロデューサーの笑顔を見ると、温かい気持ちになれる。
プロデューサーに応援されると、いつだって張り切って仕事が出来る。
箱入りだった私に、少しずつ世界を教えてくれるプロデューサー。
プロデューサーとのお出かけが楽しくて、嬉しくて、いつも楽しみにしていた。
他愛のない会話ですら楽しくて、私はいつも笑みを零す。
プロデューサーと一緒に出掛けたいから仕事を頑張って早く終わらせる。
プロデューサーと一緒にいたいから、環境を出来る限り変化させないように、学業も習い事も頑張る。
プロデューサーに褒めてもらいたいから、喜んでもらいたいから、笑顔が見たいから、私を見てもらいたいから、お仕事を頑張る。
プロデューサーに触れたいから、積極的に手を取る。
プロデューサーとたくさんお話しがしたいからいつも積極的に話しかける。
プロデューサーと一緒にいたいから、出来る限りオフの日でも会いに行く。
プロデューサーとデートがしたいから、時間ができたらプロデューサーを誘って色々な所に出かける。
プロデューサーが好きだから、プロデューサーが他の女の人と話すのが嫌で、無理矢理割り込んで、話を終わらせる。
プロデューサーが好きだから、プロデューサーが居眠りしている時にずっと寝顔を眺めて、挙句の果てにキスをしようとしてしまう。
プロデューサーが好きだから、いつだってプロデューサーを見てしまう。
プロデューサーが好きだから、プロデューサーにはもっと私を見て欲しい。
プロデューサーが好きだから、プロデューサーも私のことを好きになって欲しい。
プロデューサーが好きだから、私はアイドルをやっている……?
プロデューサーが好きだから。
…………?
私は、いつからこんなにプロデューサーのことを想うようになったのだろう。
自分の意志で動けるようになって、友達も出来て、目標も出来た。
プロデューサーと一緒に仕事した時間だって長くない。まだ、三か月程度だ。
なのに、私の隣にプロデューサーがいるのは当たり前だと感じるようになっていて、プロデューサーがいない時があると違和感を感じて、落ち着かなくなってしまう。
プロデューサーが仕事で出かけると、プロデューサーが告げた、帰ってくる時間までずっと時計と睨めっこ。
家に帰ると途端に寂しくなって、プロデューサーにメールを送ったり、電話をする。
友達と出かける時もあるけれど、プロデューサーのことは頭から離れない。
私はもうダメみたいだ。
いつか、プロデューサーが私を好きになって、私を愛してくれるところを想像したり、プロデューサーとの結婚生活を思い描いたり……妄想ばかりするようになってしまった。
まだ、プロデューサーがどんな人なのか、全て把握していないというのに、想いは止められない。
顔を上げると、前を歩くプロデューサーが視界に入った。
「好きよ……プロデューサー」
プロデューサーの背中に、想いを投げかける。
声は小さく、周囲の喧騒に掻き消されてしまう。
「私を愛して……プロデューサー」
想いは、伝わらない。
いつか、伝えられる時が来ることを信じて、私はその時を待つ。
だから、早く私のことを好きになって……プロデューサー。
描写不足でごめんなさい
寝ます
★
今日は智絵里がこっちの事務所へと戻ってくる日だ。
今更、何時ごろ戻ってくるかまでは聞いていなかったことに気づく。
でも、事務所で待っていればきっと会えるだろう。
駐車場に車を止め、事務所へと向かう。最近の朝は寒い。
事務所の扉を開け、辺りを見渡す。今のところは事務員の姿しかなく、智絵里はおろか、どのアイドルもまだ来ていない。
自分の机で今日の分の仕事を確認する。
一通り確認を終えた後、コーヒーを淹れるために、俺は席を立った。
不意に腰に腕が回され、柔らかいものが背中に押し当てられた。
「だーれだっ」
耳をくすぐる可愛らしい声。勿論、聞き覚えのある声だ。
「普通は目を隠すんじゃないのか?」
腰に回された手を優しく解き、後ろの少女へと向き直る。
「ただいま、です。Pさん!」
「おかえり、智絵里」
久々に会話をしたかと思うと、智絵里は間髪入れずに俺の胸元目掛けて飛び込んできた。
事務所でこれはマズいだろとは思いつつも、避けるわけにはいかないので受け止める。
えへへ、と声を漏らしながら胸板に頬を擦りつける智絵里は、やっぱり小動物のようだ。
智絵里には悪いが、ここは事務所の中で、周囲には事務員もいる。流石にこのままでいるわけにはいかない。
「あの、智絵里……そろそろ離れて」
「お願いします、Pさん……もう少し、このままで」
急にしがみつく手に力が籠る。
「じゃあ……後三分、で頼む」
ほんの少し項垂れながら、妥協案を出す。
智絵里は顔をワイシャツに埋めながら、小さくうなずいた。智絵里の息がワイシャツを通り抜けて体に当たるのがくすぐったい。
幸せいっぱいの表情を浮かべる智絵里を見ていると、三分とは言わずにもう少しこのままでもいいかなとは思ってしまう。
智絵里は男と話すのが苦手な方だったというのに、一体いつからこんなに警戒心なくすり寄ってくるようになったんだか。
俺は智絵里にとって父親みたいな感じなのだろうか。よく分からない。父親って年齢でもない。
離すまいと言わんばかりにぎゅーっと抱き付く智絵里の頭を、なんとなく撫でる。さらさらで触り心地のいい髪質だった。
傍から見たらセクハラ以外の何物でもないのですぐに手を放す。
事務員の視線は未だにこちらを捉えている……やっぱり早く離れないとダメな気がする。
「プロデューサー、何をしているの?」
冷たい声が、背中に突き刺さる。
俺は何故か、後ろの少女に恐怖を感じた。
「千秋、おはよう」
後ろを振り向かずに、挨拶を交わす。
素早く智絵里の両肩に手を置き、彼女には悪いが少々強引に引きはがす。
「智絵里。俺が今担当しているアイドルの黒川千秋だ」
「……初めまして、黒川さん」
智絵里は、さっきまでの笑顔が嘘のように引っ込み……いや、口元は笑っているように見えるが、何故か笑顔に見えない――という謎の表情をしていた。
「千秋。俺が過去に担当していたアイドルの緒方智絵里だ」
「初めまして、緒方さん」
変わらず、千秋は無表情だ。声色もどこか冷たいままだ。
その後、何とも言えない無言の空間が続く。
理由は分からないがとても居心地が悪く、嫌な感じの空気が漂っているような気がした。
「プロデューサー、仕事よ。行きましょう」
嫌な空間は、千秋によって強引に破られた。
「え? ちょっと待て」
仕事は午後からだった筈だ。
「ぐずぐずしない!」
千秋は俺の右手を取ったかと思うと、急に早足で事務所を出ようとする。
「智絵里、悪い。また後で」
右手を千秋に引っ張られながらも、後方の智絵里に視線を移す。
俺の言葉に反応を見せず、智絵里はじっと俯いて佇んでいた。
事務所の扉が閉まる瞬間、不意に智絵里が顔を上げる。
その時、智絵里は――
――能面のような表情を浮かべていた。
寝ます
コテ間違えました
「あの、Pさん。お仕事頑張ったので……頭を撫でてくれませんか?」
「ははは、いいよ」
承諾したのはいいものの、少し気恥ずかしい。視線を少しだけ逸らせながら、髪がぼさぼさにならないようになるべく優しく智絵里の頭を撫でる。
相変わらずさらさらしてておっそろしいほど触り心地のいい髪だった。相変わらずと言っても前に触ったのはつい最近だ。
「えへへ」
気持ちよさそうに言葉を漏らす智絵里。大人の男に対して無防備すぎるような気がしなくもない。不安だ。
「おはよう、プロデューサー」
不意に後ろかかる声。振り向けば、千秋が佇んでいた。彼女は無表情で、どこか暗い表情をしていた。
「おはよう、千秋。早いな」
「えぇ、早起きしたの。プロデューサーに早く会いたくて」
いつも智絵里と会話をしていると強引に中断させようとする千秋だが、今日は存外大人しい。
千秋は何故か、全体的に雰囲気が暗く、幸薄そうな感じになっていた。彼女に一体何が起きたのだろう。
「とりあえず、今日の仕事の確認でもするか」
智絵里に目配せすると、察してくれたのか「また後で」と言い残して席を外してくれた。
「…………」
「千秋、最近様子がおかしいけど大丈夫か」
智絵里が座っていた椅子を引き寄せ、千秋は俺の隣に座った。何故か凄く近い。
「プロデューサー、私の頭も撫でて」
「え?」
私の、という事は智絵里を撫でているところを見ていたらしい。
「嫌じゃないなら、いいけど」
「嫌じゃないから、お願い」
暗い声で懇願する千秋。本当に大丈夫なのだろうか。
恐る恐る彼女の髪に触れ、撫でる。
智絵里は小動物みたいな感じだから撫でるのにあまり抵抗はないが、高翌嶺の花と言った感じの鋭利な雰囲気を持つ千秋に触れるにはかなりの勇気が必要だった。
智絵里に負けずとも劣らず、心地よい手触り髪だ。どうして女の子の髪はこんなにも触り心地がいいのだろう。
「……幸せ」
ぽつりと、彼女が小さく呟いた。
「幸せ、なのか」
それに対し、よく分からない返事を返す。
「えぇ……とっても、幸せ」
撫でられて、くすぐったそうに微笑む千秋。ようやく笑顔を見せてくれて、思わずほっとした。
「だから私は、この幸せを絶対に逃さないの」
千秋は、頭に乗せている手とは別の方の手を取り、自分の頬にくっつけた。彼女の手はひんやりとしていて、心地よかった。
幸せそうな表情を浮かべる千秋は、女神と言われても納得するぐらい綺麗で、どこか儚い。
1:むぶろふすか ◆gijfEeWFo6 [saga]:2013/05/16(木) 00:22:38.51 ID:R6BEvH9r0
388 :ぱりぱりうめ ◆gijfEeWFo6 :2013/11/04(月) 01:45:24.49 ID:3MEKEC0p0
半年経ちそう……
寝ます
昨日から千秋は少し変わった。情緒不安定だったのが一転して大人しくなり、精神的に幼くなったような気がする。
「プロデューサー、眠いから肩を借りてもいいかしら?」
「仮眠室で寝てこい」
いきなり椅子を隣に持ってきたかと思うと、突然こんなことを言い出す。
最近の千秋は妙に接触を求めてくる。くっつかれると嫌でも千秋に気を取られて仕事に支障が出るし、何より勘違いしてしまいそうだから必要以上に近づかないでほしいと言うのが本音だ。
「いや! プロデューサーで寝るの」
千秋は駄々っ子のように首を振ると、俺の腕にしがみついて静かになった。
何のために許可を求めてきたんだと内心突っ込みつつ、片手でパソコンを操作し、頑張る。他の事務員からの視線が痛かった。
社長に告げ口されたら一発アウトな状況だと言うのに、振り払えないでいる俺は相当甘いんだろうなと一人自己嫌悪する。
それにしても、千秋は一体どうしたのだろうか。
もしかしたら俺を親のように思っているのかもしれない。千秋から話を聞く限り、ずっと独りで、その上、親とのコミュニケーションすらまともに取れていないらしかった。
年齢的にはあまり離れてはいないが、そんな環境で育ったのなら年上でそれなりに親しい俺を父親のように慕ってしまうのも無理はない。
ただ、ずっとこのままでいるわけにはいかない。千秋だって既にそれなりの知名度がある。いつまでもこのままでいいわけがなかった。
ちらりと、視線をパソコンの画面から左腕に寄り添う千秋へと移す。力強くしがみつき、顔を俺の肩に埋めていた。たまに生暖かい吐息が肩に感じられる。
「はぁ……」
アイドルとしての素質は十分だけど、千秋は精神に難がある。何とかなるといいけれど。
「んぅ……」
かなり無理のある姿勢だと言うのに、彼女は眠ってしまったらしい。
美人な上に可愛さも併せ持つのは反則だ。
★
それからというものの、千秋の行動はエスカレートしていった。
「千秋、そろそろ」
「まだ、仕事まで時間があるわ」
後部座席に座っている俺の膝の上に、千秋が乗っていた。傍から見たらアイドルに手を出しているプロデューサーの図……洒落にならない。
しかも豊満な胸を押し付けてくる上に、唇を首筋に押し当ててくるため、非常に不味い。
「あの、千秋……」
「嫌」
「嫌、じゃなくてだな」
「嫌」
さっきからずっと、千秋は頑なに離れようとしない。
「もっと髪を撫でてくれるかしら」
「はいはい……」
いきなり構ってちゃんの甘えたがりになった千秋。仕事とかはすこぶる好調で実力は依然伸び続けている。だが、仕事が終わったり、オフになった瞬間こうなってしまう。
やはり、複雑な家庭環境が原因なのだろうか。今まで、誰にも甘える事ができなかったのは、成長していく上で精神に与える影響が大きすぎるのかもしれない。
「プロデューサーっていい匂いするわね」
「別になんもつけてないけど」
「そういうのじゃなくて、プロデューサーの匂いのこと…………この匂い、とっても好き」
俺のシャツに頬を擦りつけながら、幸せそうな、柔らかい笑みを彼女は浮かべる。
――このままではいずれ取り返しのつかないことになるかもしれない。
そう思っていても、俺は未だに上手く拒むことができないでいた。もし拒んだとして、あっさりとやめてくれればいいが、万が一傷ついたりしたら、と思うと途端に何もできなくなる。
千秋のためを思うなら、強く突き放すべきなのだろうが、動けない。
結局、何もできずに二週間ほどが経った。
気が付けば、恋人のように寄り添いあうのが当たり前のようになっていた。毎回毎回拒否せずに、されるがまま、それでいて千秋はこの行為に飽きなかったのだから必然的にこうなるだろう。
勿論千秋は場所を弁えるが……主に楽屋の中とか、車の中など邪魔が入らない場所では、こうしているのが当然と言わんとばかりに、くっついて来る。
軽く注意するが、それでやめてくれたことは一度もない。
事務所では、事務員がいようと、アイドルがいようと構わず彼女は寄り添ってくる。呼び出されたりはしていないが、恐らく確実に社長の耳には俺達のことが入っているだろう。
いくら社長に腕を買われたとはいえ、アイドルとこんな関係続けていたら首になっても仕方がない。
千秋に気を取られて仕事も遅れることが多くなり、そろそろ本気で距離を取る必要がある。
「Pさん、最近元気ないですけど……大丈夫ですか?」
「別に、ちょっと寝不足なだけだよ、心配させてごめんな」
智絵里にも心配させてしまったようだ。やっぱり、色々ずれてきている。
こうなったら仕方ない。千秋を少しだけ突き放そう。フォローなんて頑張ればいくらでも出来る。
彼女が傷つかないことを祈るだけだ。
その日の夜、俺は千秋と二人で公園にいた。
遊具がたくさんある割には人気が無い、ひっそりとした寂しい公園だ。千秋はここがお気に入りで、よく俺を連れてここに来る。
「最近寒くなって来たわね」
「あぁ……もうすぐ冬だからな」
「プロデューサー、手繋ぐわね」
ぎゅっと、左手を握られる。千秋はすぐさま指を絡ませ、あっという間に恋人繋ぎの出来上がりである。
「温かい……」
愛おしそうに、小さく息を吐き出すように、彼女は呟く。
「ずっと……ずっと、こうやってプロデューサーを感じていたい」
握る手に力が籠るのが分かる。
――俺は思い切って、千秋に告げた。
「千秋……あのな……そろそろ、こういうのはやめにしよう」
「え?」
どういう意味? と何を言われたのか理解できないと言ったような表情を、千秋はこちらへと向ける。
「今だって、ファンや記者が俺達を負って来ていたら完全にアウトだ……恋人でもないのに、こんなこと、もうやめよう」
「……だったら……プロデューサーの、恋人に、して」
涙を零しながら、縋るような目で千秋は、俺の方へと手を伸ばす。
「いつだったか、アイドルだから恋愛は無理だと言う話に、千秋は納得していただろう」
「……いや……いやよ」
「千秋、ごめん」
千秋は、俺を親と見て甘えていたのではなく、単純に慕ってくれていたらしい。そのことについては素直に嬉しい、彼女がアイドルじゃなければきっと付き合っていただろう。
でも、彼女はアイドルで、俺はプロデューサーだ。恋人になるのは避けなくてはならない。
「絶対に、いやっ!!」
限りなく悲鳴に近い声色で千秋は叫び、一気に俺の胸元へと飛び込んだ。避けるわけにもいかず、受け止める。
「プロデューサー……!!」
千秋は涙に濡れた目で俺の瞳を覗き込んだかと思うと、一気にこちらへと顔を近づけた。
彼女が何をしようとしているのか気づいたときには既に遅く、そのまま何も反応できずに、俺は千秋のキスを受け入れてしまう。
「プロデューサー、好き……好きよ……プロデューサー……愛してる」
「千秋!」
か細い腕で精一杯俺の体を抱き、がりがりと両手で背中を掻き毟る。
「私を愛して……プロデューサー!! 私を、拒まないで、ずっと、ずっと一緒にいて。私の傍に、いて……ずっと、愛して……お願い……プロデューサー……」
ちゅっ、ともう一度、千秋がキスをした。
「ごめん……千秋」
気の利いた言葉の一つすら思い浮かばず、俺は項垂れる。
千秋は嗚咽を漏らし、今にも崩れそうになりながらも、必死に俺を抱きしめていた。
★
「…………」
闇に紛れて一人佇む少女がいた。
少女は暫くの間、公園で寄り添いあうプロデューサーと千秋を見つめていたが、数分後、踵を返して公園から出ていく。
その表情は暗闇で隠れ、見えることはなかった。
寝ます。
まだ半分くらい(震え声)
☆
千秋の告白を断って数日経った。結論から言って、何も変わらなかった。態度も何も変わらず、今まで通りひたすら俺との接触を求めてくる。
何回やめさせようとしても、黙りこくってより一層密着するだけだった。
仕事を黙々とこなしつつ、今後どうするべきかを真剣に考える。考えようにも何も思いつかないのが現状だった。
「Pさん……大丈夫ですか?」
いつの間にか智絵里が傍に来ていた。集中しすぎて気配に気付けなかったらしい。
「別に大丈夫だ。智絵里こそ、どうしたんだ?」
「…………」
智絵里はじっと、目を覗き込んでくる。その表情は暗かった。
何とも言えない空間が数秒たった後、彼女は口を開く。
「今日、私の仕事について来てくれませんか?」
「え? あぁ、別にいいけど」
遅れてしまった分の仕事は家で終わらせた。最近慣れてきたせいか、千秋に接触されても仕事に集中できるようになってきている。つまり、仕事面での悩みは解決したと言える。根本的な解決には至っていないが。
だから、たまにはいいだろう。智絵里ががんばっている姿を近くで見るのも。
「本当ですか?」
「あぁ」
ずい、と身を乗り出して確認してくる智絵里に、再度返事を返す。
その時の智絵里の表情はなんだか嬉しそうで、こっちまで微笑ましい気持ちになる。
少し待っていてくださいと、智絵里は準備を始める。
俺に付き添ってもらうことを伝えているのか、事務仕事をこなしている担当プロデューサーと一言二言交わした後、慌てて自分の荷物の所まで行き、いそいそと身支度を整え始めた。
相変わらず、一つ一つの仕草が可愛らしかった。狙ったものではないから、なおさら。
「待たせて……すみません」
「全然時間あるし、大丈夫だよ」
準備を終えた智絵里を乗せ、仕事先へと車を走らせる。
何ヶ月ぶりだろうか、智絵里の仕事を間近で見るのは。
「こうして一緒になるの、久しぶりだな」
「はい…………Pさんと離れ離れになって……とっても寂しかった」
「嬉しいこと言ってくれるなぁ。俺だって寂しかったよ」
「えへへ……私も……嬉しい、です」
「そうか」
智絵里の頑張っている姿をテレビでしか見れないのは、寂しかった。
智絵里のいない事務所も、寂しかった。
智絵里の成長していく姿、笑顔、仕草、もっと見ていたかった。
「Pさん、仕事までまだ時間があるので、ちょっとそこの駐車場に車を止めてお話しませんか?」
「ん? あぁ、いいぞ」
唐突な提案だったが、今智絵里が言ったように、仕事までまだ時間がある。車の外に出るのは危険だが、中で話すぐらいなら別に大丈夫だろう。
広い割にはあまり車の止まっていない駐車場に車を止める。目の前にはたくさんの遊具があり、子供たちが元気に走り回っていた。
「こうしてまともに智絵里と話すのも、久しぶりだな」
「最近忙しくて、中々Pさんと話せませんでした……ごめんなさい」
「はは……それは謝ることじゃないだろ。それに、忙しいって言うのはいいことだ」
忙しくなくなるというのは徐々にアイドルから離れて行ってしまうという事だ。それは本人が望まなくても勝手に訪れる。
爆発的に売れている智絵里にとってはまだ遠い未来の話だが、やはり、いずれ彼女にも訪れるのだろうか。
「あの……Pさん……」
「何だ? 智絵里」
「Pさんは最近、悩んでいますよね? ……いえ……困っていると言った方が、正しいですか?」
「…………」
智絵里はよく俺を気にかけてくれた。智絵里は気づいていたらしい、俺が悩んでいることに。結構普通にしていたつもりだった筈だが。
「あの……私は部外者ですけど……よかったら、話してもらえませんか? 私、Pさんの力になりたくて」
黙りこくった俺に、智絵里はそう告げた。
「別に、大丈夫だ。確かに悩み事はあるが……相談するものでもない、自力で解決してみせるよ」
「そう、ですか……」
悲しそうに彼女は俯く。なんだか悪いことをした気分だった。
「智絵里、ありがとうな。心配してくれて」
くしゃくしゃと、隣で項垂れている智絵里の頭を軽く撫でる。
「私は、Pさんの力になりたいんです……Pさんが困っているなら、助けたい……」
「別に、大丈夫だよ」
「…………Pさん」
俺は明るくそう答えるも、智絵里は笑顔を見せてはくれない。
というよりも、逆だった。智絵里は、普段の彼女からはかけ離れた、どこか冷たい雰囲気を纏っていた。
話していて薄々感じていたが、千秋のみならず智絵里もどことなく様子がおかしいように思える。
智絵里も、何か悩み事でもあるのだろうか?
その後、様子のおかしい智絵里を尻目に会話を切り上げ、彼女の仕事先へと向かった。
近くで智絵里の仕事姿を見ていたが、智絵里は前よりもずっと成長していた。今では普通にこなしていることでも、昔だったらきっと三倍の時間はかかっていただろう。
過去よりも幾ばくか自信を持てるようになったためか、温かくて微笑ましい空気を纏い、スタッフや共演者を笑顔にしていた。
彼女の仕事は順調に進み、予定よりもやや早めに終わった。
楽屋にて、智絵里は、
「あの……今日の私、どうでしたか?」
少し上目遣いになりながら、そんなことを聞いてきた。
「なんだか……成長したなーって思ったよ。これからもその調子でがんばれ」
「そ、そうですか……えへへ……これも、Pさんのお陰です」
ぎゅっ、と感極まったように智絵里は俺へと抱き付いた。
千秋とは違い、智絵里は妹のような存在であるため、精神衛生上とてもいい。アイドルに抱きしめられているだけでスキャンダルだから問題ではある。
「Pさん……これからも、ずっと私のこと、見ていてくださいね」
「あぁ、見守ってるさ、ずっと」
「約束ですよ? ……私のこと、見捨てないでくださいね……?」
「あぁ、約束だ。見捨てるわけないだろ」
智絵里が胸に埋めていた顔を上げ、俺の瞳を下から覗き込んだ。ふわふわした髪を優しく撫でながら、言葉を返す。
「それじゃ、次の仕事に行こうか」
「はい!」
向日葵のように温かい笑みを浮かべながら、智絵里は体を離した。
身支度を整え楽屋を出て、智絵里の次の仕事へと向かおうとした矢先に、本来ならまだ仕事から戻ってきていない筈の千秋と出くわした。
千秋もまさか俺がここにいるとは思っていなかったようで、驚愕の表情を浮かべていた。
「あれ? 千秋?」
「プロデューサー? あなたこそ何をしているのかしら、こんなところ……で……」
千秋の視線は後ろの智絵里へと向けられる。見る見るうちに智絵里を見つめる表情が険しくなっていく。
智絵里が一体何をしたって言うんだ。
「プロデューサー、行くわよ」
有無を言わさない口調でそう言うと、千秋は素早く俺の右手を掴んで引っ張り、この場から連れ去ろうとした。
体ごと引っ張られ、二歩三歩と足が進むが、不意に、浮いた左手を掴まれる。
当たり前だが、俺の左手を掴んで千秋を止めたのは後ろにいた智絵里以外ではありえない。
「まだ、終わっていません……約束」
振り返った千秋の目には、敵意があった。
「ねぇ……離してくれるかしら。プロデューサーも私も困っているのだけれど」
「……離しません」
智絵里も強い意志のある瞳を細め、千秋を睨み付ける。智絵里がこんなにも怒りを露わにするのを見るには初めてで、思わず戸惑った。
故に動けない。
「ふざけないで……緒方さんには緒方さんのプロデューサーがいるわよね? 人のプロデューサーを勝手に取るのは酷いと思うの」
「私のプロデューサーを――」
智絵里が言葉を途中で切る。何て言おうとしたのか、少しばかり気になった。
「千秋、悪いがまだ終わってないんだ。後でちゃんと説明するから、今はやるべきことをやってくれ」
俺が仲裁に入ると、途端に千秋は慌てだす。
「プロデューサー?! どうして――」
「また後でお願いします……黒川さん」
千秋の言葉を強い口調で強引に切り、智絵里は俺の手を引いてその場を離れた。
なんだか酷い罪悪感に襲われた。後ろ髪を引かれるような思いをしながらも智絵里に付き添う。
後ろで、千秋は俯き項垂れていた。
「千秋……?」
千秋の頬を、涙が伝ったような気がした。
ちょっと外食してきます
☆
結局、その日はずっと千秋の最後の姿が頭から離れず、仕事がやや手付かずだった。
半日、仕事に付き添って見守っていた智絵里は、どの仕事も滞りなく終わらせ、多少のミスはあれども些細なものばかり。
もう、全て、一人で出来ているのだ。
そこに少し寂しさを感じたが、その成長には素直に感動した。
千秋だって、すぐに彼女と同等になれる。
きっと、なれる……。
…………くそっ。
自分がプロデュースしているアイドルの成長を、未来を、俺が止めてどうするんだよ。
だが……俺が今の千秋から離れて、果たして彼女は大丈夫なのだろうか。
いや、自惚れるな。だからと言って俺がずっと傍にいても、彼女のためにはならない。
いつか、時期が来たら千秋の元を去ろう。それが最善の選択で、俺がすべき最後の仕事なのだろう。
そして、その時期はきっと近いんだろうな。
★
夜遅くの公園。ひと気は一切なく、たった一つの街灯だげか寂しげに灯っている。
月明かりさえも分厚い雲に遮られ、辺りは真っ暗だ。雪こそ降ってはいないが、とても出歩こうとは思いたくない寒さだった。
「やっと来たわね」
近づいて来る足音を聞いて、千秋がベンチから立ち上がる。
歩を進めるにつれ、足元からゆっくりと街灯に照らされる少女。
そこにいたのは緒方智絵里だった。二つに結んだ髪を左右に揺らしながら、毅然とした態度で千秋の元へと近づく。
「……こんな夜中に、何の用ですか?」
足を止めず、近づきながら、自分を呼び出した千秋に問う。
「これ以上、私のプロデューサーに関わらないでくれるかしら」
智絵里の質問に対し、有無を言わせない強い口調で千秋は返す。それでも智絵里は怯むことはなかった。
「嫌です……そもそも……Pさんはあなたのものではありません」
そう言って、千秋を睨み付ける。
「どうして……どうして奪おうとするの? 私のたった一人の……理解者を」
「先に奪ったのは……黒川さんです……私から、Pさんを」
「違うわ。プロデューサーは、私の所へ来てくれたの。自分の意志で、私の元へ来てくれたの」
千秋の言葉を聞いて、笑っているようにも、怒っているようにも見える表情を、智絵里はした。
「何が可笑しいのかしら」
その表情を笑っていると受け取った千秋が、苛立ちを込めた声で指摘する。
「Pさんから聞きました。黒川さんを……スカウトした時のこと……他にも、色々。あなたについて……聞きました」
くすり、と智絵里が小さく笑みを零した。
「――別にPさんでいなくても……黒川さんはきっと好きになっていましたよ……自分を助けてくれた、人を」
「……何よ、それ」
何を言われているのか理解できず、千秋は思わず聞き返す。
智絵里は、優しく微笑んだ。
「分かりませんか? 公園で黄昏ているところを、偶然スカウトされて、親を説得してもらって、プロデュースされて……例えそれがPさんではない他の誰かでも……あなたは好きになっていました」
言い聞かせるように、智絵里は断言した。きっとあなたは好きになっていました、と。
頭を押さえ、千秋は首を振った。
「そんなこと、ある筈がないわ。私はプロデューサーが、プロデューサーだけが好きなの」
「そうですか? かっこいい人が黒川さんの悩みを聞いて、親を説得しに行くだけでも……黒川さんはその人が好きになりそうな気がしますけど」
「やめて」
「別に、普通の人でも、プロデューサーをやっていなくても、助けてくれれば……誰でも好きになっちゃいますよね、黒川さんの境遇なら」
「やめてっていっているでしょッ!!」
叫びにも悲鳴にも聞こえる声で、智絵里の言葉を強引に止める。
「例え、平行世界があって、他の世界の私がプロデューサーではない誰かに助けられて、その誰かを好きになっていようと、関係ないわ。私は、プロデューサーを愛しているの。何も……他には何も関係ないッ!!」
びしっ、と智絵里を指差し、千秋は言葉を続ける。
「……あなたはどうなのかしら? 果たして本当に自分がプロデューサーだけを好きになるって言う自信でもあるのかしら?」
「ありますよ……私がPさんだけを好きになる、自信……」
いつも、何をやってもダメだった私を見て、私のプロデューサーになる人は次々と担当アイドルを私から変えていった。
「見てくれはいいが、他はダメだな」
「モデルすらもまともにこなせないのか、お前は」
「お前のせいで仕事が進まないし、俺が怒られるし、最悪だ」
「どうして、何をやっても出来ないんだ?」
「お前は正直に言って、アイドル向いていない」
自分に原因があるとはいえ、今まで担当プロデューサーになった人達は心無い言葉を私へぶつけた。
たまに根気よく私に付き合ってくれた人もいたけれど、伸びない私を見て諦めた。
私を変えてくれたのは、Pさんだけ。
どんなにダメでも、見捨てなかったのも、Pさんだけ
私のことを本当に理解してくれるのも、Pさんだけ。
Pさんは私を安心させてくれて、私の心にずっと寄り添ってくれる、最愛の人。
だから私も、Pさんに寄り添う。生涯、ずっと、永遠に。
「黒川さんとは、違う……私は、Pさんのことを本気で愛している」
「私だって、プロデューサーのことを、愛している」
対抗するかのように、千秋は強く言葉を返した。
「あなたのそれは……愛とは呼べません。黒川さんは……Pさんを本当に想ってはいません」
「いい加減にしてッ!!」
どこからともなく、千秋はナイフを取り出した。それは街灯の光を反射し、白く光る。
智絵里はそれを見ても、顔色一つ変えなかった。
「それを……どうするんですか? 私を……刺すの? ……本当に、あなたは……Pさんを困らせてばかり……まるで、昔の私のよう……」
「私は、プロデューサーを愛している。その想いは、誰にも否定させたりはしないわ」
「Pさんを困らせてばかりで……それが本当に愛だと思っているんですか?」
首を傾げながら、智絵里は問う。
千秋は、智絵里に向けていたナイフを下ろした。瞳には光も力もない。
「――もう……いいわ……これ以上、話しても、無駄だと分かったもの」
「あの……今度から、Pさんを困らせるのは……やめてください」
智絵里の言葉は、千秋には届いていなかった。
「話し合いで解決しようとしたのが間違いだったのよ……最初から、こうすればよかった」
暗い瞳を智絵里に向ける。嫌な気配を察したのか、智絵里が僅かに身構えた。
「あなたは、私達の邪魔なの……だから……消えてッ!!」
千秋はナイフを振りかぶり、一気に智絵里との距離を詰める。そして、彼女の喉元目掛けて勢いよくナイフを振り下ろした。
迷いはない。このまま行けば、ナイフの刃は間違いなく智絵里の喉を切り裂くだろう。
「消えるのは……あなたです」
智絵里は、千秋のナイフを持つ手を掴んだかと思うと、素早く右手に持ったスタンガンを押し当てた。
出力を弱めていたためか、気絶まで至らなかった。突然のショックに、千秋は右手からナイフを取りこぼし、体勢を崩してそのまま膝をつく。
ナイフを拾い、蹲る千秋を蹴り倒す。
千秋は悲鳴すらも出すことができず、うめき声を上げるだけだった。
智絵里は彼女に馬乗りになり、容赦なく腕にナイフを突き立てた。赤黒い液体が、湧き出て小さな泉を作る。
目を見開き、涙を零しながら、千秋は声にならない悲鳴を上げた。
それを見ても、智絵里は容赦なく二回、ナイフを突き立てた。
致命傷を外しながら、深い傷を負わせる。
「……もう二度と……Pさんに必要以上に近づくことはやめてください」
智絵里の目には狂気が宿っていた。それを間近で見た千秋は、心の底から恐怖を感じ、身体を震わせる。
ナイフを千秋の体から抜き取り、踵を返す。
街灯の光から離れ、溶け込むように、暗闇の中へと智絵里は消えて行った。
そして、血塗れの千秋だけが、街灯の下に残された。
コートや服はどこもかしこも血だらけで、どこから出血しているのか分からないような状態だった。
千秋は涙を零しながら、体を丸める。
震えながら、必死に自分を強く抱きしめた。
「プロデューサー……私を、愛して……」
零れた涙が、音もなく血と混ざる。
いつの間にか、空からは雪が降ってきていた。
「プロデューサー……」
やがて、千秋の涙は凍てつく。
更新終わり。
長い期間が空いてごめんなさい。
こんなSSでも待ってくれてる人がいて嬉しかったです。
★
ある日の朝、千秋が通り魔に襲われたと事務所から連絡を受け、俺は急いで駆け付けた。
薄暗い個室、そこで千秋はベットに横たわっていた。目を閉じて静かに眠る彼女は、造形の花のように、美しかった。
千秋は目を開き、天井から俺へ、ゆっくりと視線を移す。
「千秋……」
「プロデューサー……よかった……もう……会えないかと思った」
そう言って、彼女は涙を零す。
「大丈夫……なわけ、ないよな……すまない」
目頭が急に熱くなり、思わず俺まで泣きそうになる。
そんな俺を横目に見ながら、千秋は上体を起こした。痛みに表情を歪ませながら。
「誰が、こんなことを……」
俺は、答えなど期待せずに、ただ、頭の中に浮かんだことをそのまま口に出しただけだ。
答えなんて返って来くるはずない。精々、通り魔の特徴ぐらいだろう。その程度の考えで出た、下手したら嫌なことまで思い出させてしまう浅ましい呟きだった。
だが、結果は違った。
「緒方智絵里」
「え?」
「緒方智絵里よ……私を刺したのは」
俺は耳を疑った。今……千秋は何て言った?
「冗談、だよな……?」
千秋は口をきつく結び、真剣な表情で俺を見つめる。とても嘘をついているようには見えなかった。
だけど、信じることもできない。
「真実は変わらない。私を刺したのは、緒方智絵里よ」
「そんな……どうして? どうして、智絵里が、そんなこと」
智絵里に、そんなこと、できるのだろうか。智絵里は、そんなことするのだろうか。別に、智絵里の全てを知った気になっているわけではない……だが、にわかには信じがたい話だった。
――智絵里は、そんなこと、しない。
危うく口にしてしまいそうだった。
「緒方智絵里は、プロデューサーのことが好きだから、こんなことをしたのよ」
「……?」
千秋が、何を言っているのかよく理解できなかった。さっきから頭が回らない。
「緒方智絵里と私はお互いにプロデューサーが好きで、争った。私はそれで傷を負った……それだけなのよ……今回のこの出来事を説明するならば」
言葉は出なかった。
数分間、病室を沈黙が支配する。
「……どうして、警察に言わないんだ?」
ようやく出てきた言葉が、それだった。
「言わないんじゃないの……言えないのよ」
「脅されているのか……?」
智絵里に? 智絵里が本当に、そんなこと、するのか……?
もはや何を考えるべきで、何を信じればいいのか分からなくなってきていた。
「脅されてはいるけれど……緒方智絵里からではないわね。誰から脅されているのかも言ってはいけないことになっているの……ごめんなさい」
「なんだよ……それ……」
千秋は辛そうに、唇を噛み締める。ぎゅっと握り絞めた拳も、震えていた。
俺は、彼女の力になることはできないのか……?
信じ切れていない以上、智絵里を問い詰めるようなことはできない。彼女を脅している人間が誰かも分からない以上、何もできない。
出来ることと言えば、千秋に寄り添うことぐらいだろうか。
「プロデューサー……ごめんなさい……」
千秋はぽつりと、謝罪の言葉を述べた。
「……何に謝っているんだ?」
「体に傷が残ってごめんなさい……でも、私、がんばるから……体に傷があってもいいって思えるぐらい魅力的になるから……プロデューサーに好かれるよう、どりょく、するから……だから……」
――見捨てないで。
そう言って千秋は、顔を両手で覆い、泣き出した。
俺は、静かに椅子から立ち上がる。自分が今どんな表情をしているのか、見てみたい。
「千秋、また来る……とりあえず、今は安静にな……」
「プロデューサー……傍にいて……!」
「ごめん」
千秋の懇願を跳ね除け、俺は病室を出た。
病院を出て車に乗ったところで、堪えきれずに涙が溢れ出てしまう。
体を震わせながら、鼻水を啜りながら、何度も何度も涙を拭いながら、暫くの間、嗚咽を漏らしながら静かに泣き続ける。
「おかしいだろ……」
おかしかった。何もかも。
千秋は、体に傷が残って悲しんでいた。
でも、千秋は傷が残ったこと自体に悲しんでいたのではなかった。
傷が残ったことで俺に見捨てられるのではないかというところに不安を感じて、悲しんでいた。
しかもそれは、アイドルとしてではなく、異性として、だ。
……どうして、こうなったんだろうか。
俺は、何を間違えた?
誰か、教えてくれよ……。
涙が一粒、また落ちた。
寝ます。
過去が想像以上に長くて申し訳ないです。
★
暗い病室で、千秋は一人の男と話をしていた。
話し相手は初老の男性で、高そうなスーツを着こなしている。爽やかな笑みを浮かべながら、千秋を見つめていた。
「いやぁ、話を聞いてくれて助かった。本当、間に合ってよかったよ」
千秋は、憎悪を表情に滲ませながら、目の前の男を睨めつける。きゅっと結んだ拳が小さく震えていた。
「とりあえず、説明しに来たんだ。ある程度……その前に、ありがとうと言っておこう、あの状況で、話を聞いてくれて」
男は血に塗れた千秋の姿を思い浮かべながら言う。千秋にとっては不快な思い出でしかなかった。
「約束通り……プロデューサーを首にするのはやめて」
「ただ首にするだけじゃない。君に手を出した愚かなプロデューサーにもなる」
男はそう言うと、プロデューサーと千秋が、恋人同士のように寄り添い合っている写真を彼女の前に置いた。
「ファンの数が増えれば増えるほど、過激な者も少なからず増えていく。君のプロデューサーは社会的立場も悪くなるし、下手したらファンからも狙われるかもしれない……君の選択は懸命だよ」
千秋は写真に目を落とす。恐らくかなり遠くから撮ったものだろうが、無駄に画質は良かった。プロデューサーの顔も、千秋の顔も、はっきりと写っている。
「これはね、智絵里君が撮ったものなんだ。驚いたよ……いきなり千秋君を脅してくれなんて頼まれてね。いやはや、私が事務所にいなかったらどうする気だったんだか……」
けらけらと、笑えるような内容ではないのに、愉快そうに男は笑った。
「智絵里君が逮捕されたら我々の利益に大きなダメージが入るからね……千秋君にはすまないと思っているが、涙を呑んで堪えてくれ」
「…………」
悔しくて、何も言えなくて、もう枯れたと思えるぐらいに泣いたのに、また涙が溢れだす。
「それじゃ、そろそろ失礼させてもらうよ」
男はそう言って立ち上がり、扉の方へと向かう。
「私が……もし、プロデューサーのことなんかどうでもいいと思っていて、貴方の脅しに屈しないで、警察に言っていたらどうなるのかしら?」
振り返った男の顔には、殴りたくなるぐらい意地の悪い笑みが浮かんでいた。
「智絵里君には返り血が付いてなかった。それに、証拠となるようなものは何も残されていない。目撃者ですらいない……君は知らなかっただろうが、あの日の夜はね、私と智絵里君と智絵里君のプロデューサー三人で大きな仕事の相談をしていたんだ……だから、君を刺したのも智絵里君に似た誰かで、見間違いだろう」
今度こそ、男は部屋を出ていく。
「絶対に捕まるわよ……日本の警察は、優秀なんだから……」
千秋の言葉に、力はなかった。
涙が止め処なく、零れ落ちる。
「プロデューサー……隠し事をして、ごめんなさい……」
早く、プロデューサーに会いたい。
傷を負ってしまった分だけ、がんばらないと。
更新終わり
展開上、即座に回収しなければいけない伏線でした
あけましておめでとうございます
自分でも信じられませんが、SSの存在を忘れてました。ごめんなさい
近い内に投下させていただきます
★
少しだけ薄暗い社長室に俺はいた。出社早々社長に呼び出されたのだ。
やはり、千秋のことを言及されるのだろうか。
身構えて入室したものの、予想は裏切られた。
部屋の中には社長と、見慣れない少女が向かい合ってソファに座っていた。
社長から、呼び出された理由を教えられる。
「――新しい、アイドル……ですか?」
「あぁ、千秋君も智絵里君ほどではないが、もう十分だ。君にはまた他のアイドルを担当してもらう」
やはり俺と千秋のことは耳に入っていたのだろう。智絵里から外された時はともかく、千秋から外された理由は間違いなく、今までの日常が原因だろう。
社長室にいた女の子は、物静かな女の子だった。黒髪に澄んだ青い瞳が特徴の整った顔立ちの女の子だった。無地で質素な服を身に纏い、地味な印象を受けるが、清楚感がとてもある大衆受けしそうな女の子だった。
ただ、どことなく雰囲気が暗い。前髪で綺麗な瞳を隠してしまっているせいだろうか。
「……よろしくお願いします」
ぺこりと、彼女は小さく頭を下げる。よく通る綺麗な声だ。
「名前は鷺澤文香と言う。他の事務所から移籍してきた女の子だ。ちょうどいいから君に任せたいと思ってね」
「……そうですか……分かりました」
移籍か、どうりで見慣れないわけだ。
「それじゃ、任せたよ」
未だに千秋のことで悩んでいた俺はこの転機を喜ぶべきなんだろうが、素直に喜べないでいた。色々なことが引っかかっていて、何も解決していないような気がしてならないからだ。
「それじゃ、行こうか」
文香を連れて社長室から出る。
ふと、脳裏に千秋の姿が浮かび上がった。想像の中の千秋は、泣いていた。
千秋は、俺が担当から外れると聞いてどういう反応をしたのだろうか……。
――文香の担当になって一週間が経った。
一週間で、俺はある程度鷺沢文香という女の子を知る。
文香は無口で無表情で、あまり感情を露わにしない。ファンを笑顔にするアイドルが笑顔を浮かべないと言うのは中々に痛いが、整った顔立ちと清楚で大和撫子な雰囲気で何とか補えるだろう、多分。
そして、初期の智絵里よりも酷い運動能力。ダンスはとてもじゃないが無理というレベルだ。50メートル走のタイムも二桁だったという話も聞いた気がする。
前の事務所で努力したらしく、歌唱力は非常に高い。彼女の声は透き通っていて綺麗で、聴く者を魅了させる美しさがあった。加えて高い歌唱力も持っている。
欠点が目立つから前の事務所は手放したのかもしれないが、歌だけでも十分やって行けるだろうに。
まずは知名度と人気を上げるべく、小さな仕事から取っていく。
智絵里の時と同じく、最初は写真撮影などを主にやらせることにした。
人と会話するのが難しいと言う文香は、人前に出るのも苦手らしいが、そこは何とか頑張ってもらおう。
カメラマンと相談して、ポーズなどはあまり取らせずにごく自然な状態を収めさせるよう頼んだ。
結果、無表情で服装も地味目だが、溢れ出る清楚感と現代の大和撫子と言った雰囲気が早くも色々な人間に評価されて知れ渡り、ある程度の知名度を獲得するに至った。
文香の出だしは良好と言える。とは言え、無口無表情運動音痴と問題がそれなりに残っているが。
ともかく、高く評価されているという事実を俺は文香に伝えた。
彼女は戸惑ったような表情を浮かべるのみで、あまり喜んではいなかった。その反応に俺が戸惑う。
「なんだか……あまり、実感はありません」
「まぁ、そういうものなのかな」
短時間で爆発的に人気と知名度を上げて行った智絵里や千秋と違い、文香は時間をかけて徐々に知名度を上げて行った。
どんなマイナーな番組にも出ることはない、ただ写真にだけその身を写す文香。ネットでの高評価が人の興味を引きつけ、写真集と知名度は次々と上がっていく。
表舞台に立ったことは一度もないのに、文香についてだけ語るための掲示板も現れ、たくさんの人が集まっていた。
表舞台に立てるのも、時間の問題だろう。
文香と仕事をするようになって、それなりの期間が過ぎた。
なるべく思い出さないようにしているが、それでも時折過去を思い出す。
智絵里や千秋の姿が目に入る度に、俺はあの出来事を思い出してしまう。
千秋も、智絵里も、文香と仕事をするようになってから俺に関わってくることはなくなった。
智絵里はたまに視線が合うと微笑みを返してくれるが、千秋は視線が合ってもすぐに顔を逸らしてしまう。
仕事には集中できる。というよりも、半ば二人を忘れるために打ち込んでいるようなものだ。
時折、いっそのことアイドルに手を出したということでクビになった方がマシだったかもしれないと思う時もある。
「……あの……プロデューサーさんは、どうして笑わないんですか?」
「そうかな……俺は結構笑っていると思うけど……」
「……そう、でしょうか」
文香にも俺の態度は不自然に思われたらしい。確かに、事務所で笑うことはあまりなかった。精々愛想笑いぐらいか。
笑うことができなくなった、なんて恰好付けたような言い方は正しくない。正確には過去を引き摺りすぎていつも思いつめているだけだ。笑えるようなことも笑えない状態だ。
文香は大人しいが中々積極的な少女で、よく俺を気にかけては歩み寄ってきてくれる。だけど俺は、文香が俺に恋愛感情を抱いてしまわないように、敢えて壁を作って、心の距離を離して接している。
自惚れすぎだとか、ナルシストだとか、そんなことはもう気にしない。万が一でも文香が俺を好きになるなんてことはあってはならない。
時間が経つにつれ、文香もきっと慣れてくれるはずだ。それまではどうか耐えて欲しい。良い印象は持たれないだろうし、苦手意識が生まれるかもしれない、それでも恋愛感情を持たれないだけマシだ。
俺は心の中で文香に謝罪した。
彼女は何の事情も知らないのに勝手に俺に冷たい態度を取られている。
もしかしたら怖がらせているかもしれない。
でも、俺はこの態度を貫き通すしかない。
不意に携帯電話が鳴り響く。前に文香を売り込みに行った、大きな仕事に関係する連絡だった。
向こうはどうやら文香を採用してくれるらしい。何度もお礼を繰り返した後、電話を切る。
スケジュール表に仕事の日付を記入し、閉じる。
文香にとって初めてのライブだが……大丈夫だろうか。精神的なものは、どうあがいても本人次第だ。
悩むのは後だ。とりあえず、文香に連絡しよう。
俺はもう一度携帯を取り出した。
更新終わりです。一カ月も空いて申し訳ありませんでした。
エタることはありません(有言実行)
叔父の本屋でお手伝いをしていた私は、とあるプロデューサーに目を付けられて、スカウトされました。
アイドルなんてよく分からなくて、それに人前に出る仕事は苦手だと、私は断りました。
それでもその人は諦めず、熱心に私を誘いに来ました。私もその度に断りました。
結局私は、その熱意に負けてアイドルをする事になりました。
そこから二カ月ほど、プロダクションで働かせていただきましたが、散々な評価をされてしまいました。
運動能力もなく、特技もなく、喋るのも苦手で、雰囲気も暗い私は、アイドルになんか向いているわけがありません。
私をスカウトしたプロデューサーは最初の頃は熱心に付き合ってくれましたが、徐々に私をほったらかしにすることが多くなりました。
私は、プロダクションの人達に唯一褒められた声だけを磨くことに集中し、頑張りました。
ですが、努力は実らず、私には移籍の話が来ました。このままプロダクションにいられるよりも、他のプロダクションに売りつけた方がまだ儲かると言っていました。
別に心は傷つきませんでした。私が傷をつく時と言えば、感情移入した主人公が酷い目にあった時くらいです。
そして、私は違うプロダクションに移籍することになりました。前よりも本屋と自宅が近いので、正直助かりました。
新しいプロダクションで、私には新しくプロデューサーが付きました。
プロデューサーは、私が多くの欠点を抱えているのを理解しても、対して変化を見せませんでした。
いつも私を見ているようで、どこか遠くを見ている。そんな人でした。
私がプロデューサーと一緒に仕事をするようになって、一カ月ほどが経ちました。
プロデューサーはダメな私を見てもため息一つつかず、付き合ってくれています。
プロデューサーは何故かあまり笑いません。
プロデューサーは私といる時に、笑うことがありません。いつも無表情を貫いて、私に付き添います。
プロデューサーは私との間に、敢えて壁を作っているように感じました。
私が話しかけても一言二言返すだけで、すぐに話を終わらせてしまいます。
プロデューサーは時折、辛そうな表情や、悲しい表情を見せます。
私は心の中で、困らせてごめんなさいと、何度も謝罪しました。
時が経つにつれ、プロデューサーは私のせいで悲しんでいるのではなく、何か別の理由で悲しんでいることに気づきました。でも、私にはその理由が分かりません。
同時に、プロデューサーによく視線を送っている女性も見つけました。黒川千秋さんと、緒方智絵里さん。どちらも、私では足元に及ばないぐらいの国民的アイドルです。
私が事務所で本を読んでいると、黒川さんや緒方さんは度々、事務仕事をこなしているプロデューサーを盗み見ていました。
黒川さんは複雑な表情をしながら、緒方さんは微笑みながら、いつもプロデューサーを見ています。
私は、どうして二人がプロデューサーを気にしているのかが気になりました。
結局、理由は分からずじまいです。
私はプロデューサーに連れられて、とある会社に大きな仕事の相談をするために向かいました。
大きな仕事と言うのはライブで、もしやることになったら私はたくさんの人前で歌わなければいけません。
後日、私はオーディションも受けていないのに採用されてしまいました。プロデューサー曰く私のCDをあげただけだそうです。それだけで採用されるのでしょうか。
そしてライブ当日、私はとても緊張していました。プロデューサーは珍しく優しげな表情を浮かべ、私を励ましてくれました。
私が歌う番になって、ステージに立ちます。プロデューサーがライブ会場は小さいから大丈夫だと言っていましたが、私にとっては広く見え、たくさんの人がいて、思わず圧倒されました。
負けじと、私は必死に歌いました。
今までアイドルが歌う時は歓声が響き渡っていたのに、私の時は何故か皆静かでした。青白いたくさんのペンライトだけが、ゆらゆらと揺れていたのが印象に残っています。
歌が終わった時、大歓声が響き渡りました。
無事成功したことに胸を撫で下ろし、私は控室に戻りました。
控室の前にはプロデューサーがいて、私の方へと駆け寄ってきます。
「よく頑張ったな、文香。最高のライブだったぞ」
満面の笑みを浮かべたプロデューサーが、私を迎えてくれました。
プロデューサーが笑顔を浮かべたことに驚き、その笑顔が私の脳に焼き付きました。
――プロデューサーが、初めて笑顔を見せてくれた。
その事実が、ライブを成功させたことよりも、何よりも嬉しくて、思わず私も笑顔になったことを覚えています。
結局、笑顔を見せてくれたのはその一回きりで、その後は元通りになってしまいました。
前まではそんなことなかったのに、プロデューサーが私との間に壁を作っているのが、寂しく感じるようになりました。
私は何度もプロデューサーに話しかけますが、プロデューサーは応えはするものの相手をしてくれません。
本を読んでいる時に、ふとプロデューサーの笑顔が浮かび上がります。そして、視線が本からプロデューサーに移ってしまうことがよくありました。
プロデューサーのことばかり考えてしまって、読んでいる本が一ページも進まない時すらありました。
優しい表情を、もっと私に向けて欲しい。もっと、親しくなりたい。いつの間にか、日常的にそう思うようになりました。
既に自覚はしています。その手の本を私はたくさん見てきました。
これはきっと、恋なのでしょう。
私はプロデューサーを、好きになっていました。
更新終わりです
途中でプロットを変更したために整合性が取れなくなりました。
なので修正します。申し訳ありません。
――鷺沢文香。
それが、少女の名前だ。
アイドルの中でもトップクラスの顔立ちだが、アイドルには向かない大人しめの性格で、喋るのがあまり得意ではない。儚げな雰囲気を纏い、護ってあげたくなるような気持ちにさせる少女だ。
テレビで見かけることは少ないが、ライブにはよく出ているのを俺は知っている。
「久しぶり、です……プロデューサーさん」
「久しぶりだな、文香……」
小さく足音を鳴らして、俺の方へと近づいてくる文香。
手を伸ばせば触れる距離まで近づいた瞬間、倒れこむようにして、抱きついてきた。
「……どうして、私を置いていったんですか」
俺の背中に両手をしっかりと回し、上着に顔を埋めて、くぐもった声で悲しそうに文香は言う。
「…………ごめん」
色々言いたいことが浮かんでは、言葉にできずに消えていく。結局、謝ることしかできなかった。
絶対に離さないといわんばかりに、彼女が抱きしめる手に力を込める。
「文香……大丈夫か……?」
呼び掛けると、彼女が僅か数センチだけ、離れた。
「……プロデューサーさんのいない世界が、どれほど寂しくて、切なくて、悲しいものだか分かりますか? …………私はもう――」
文香が顔を上げる。その澄んだ青い瞳は、暗い光が灯っていた。
「――貴方がいないと、ダメです……」
そして、また頬を胸板に擦りつけたかと思うと、俺の上着をぎゅっと強く握り、震え始めた。
「貴方のいない世界が、こんなにも価値の無いものだとは思いませんでした……プロデューサーさんの事を考えてしまって……本を読むことさえ、満足に集中できませんでした……」
胸元が、水を吸収して湿り気を帯びる。文香は、肩を震わせて泣いていた。
「……プロデューサーさんに出会う前は……いえ、プロデューサーさんと出会ってからも、私は本が好きで……ずっと本を読んでいました……」
確かに、文香は本を読むのが好きだった。事務所でも控室でも、どこでだって彼女は本を読んでいた。
本を読んでいる文香の姿は美しく、たまに仕事を忘れて魅入っていたことを思い出す。
「……それぐらい本が好きな、私ですが……プロデューサーさん……最近の私を、知っていますか?」
文香がポケットから三枚の写真を取り出す。文香と俺のツーショットの写真と、俺が写っている写真が二枚だった。
俺が写っている写真二枚には、背後に他のアイドルも写っているのだが、背後に写っているアイドルの顔は、黒く塗りつぶされていた。それを見て、背筋に冷たいものが走る。
「……私……本よりも、プロデューサーさんの写真を見ている方が、長いです」
涙をたくさん零しながら、文香が笑みを浮かべた。
「……大変です、プロデューサーさん……どうすればいいでしょうか……?」
「文香……」
俺は、どうすればいいのだろうか。
傷つけたのは、千秋だけでは無い。そんな事、分かりきっていた筈なのに……。
何を考えるべきで、どんな言葉をかけるべきなのか何も思い浮かばない。
「プロデューサーさん……キス、してくれませんか?」
「それはダメだ」
大体、今俺達が話しているここは、普通の通路だ。いつ人が来てもおかしくないのだ。
しかも、文香は俺に抱きついている。それすらも十分に危うい。
文香には申し訳ないが、彼女の肩を掴んで強引に引き離す。顔を顰めて離すまいと文香も力を込めるが、非力な彼女が成人男性の力に敵う筈も無く、あっさりと文香を引き剥がす事に成功する。
「……………」
「文香の気持ちは嬉しい……だけど、ごめん……」
文香が俯く。ぽたりぽたりと、彼女の頬を涙が伝い、滴り落ちた。
「――ごめんなさい……プロデューサーさん……私、アイドル、やめます」
「お、おい……文香……」
文香が顔を上げる。その表情は涙に濡れていたが、満面の笑みを浮かべていた。とっても綺麗な笑顔だった。
「そうすれば……プロデューサーさんは恋人になってくれるんですよね?」
文香の言葉を聞いて、千秋の姿が脳裏に浮かんだ。仮に俺がどちらかを選んでも、まず間違いなくどちらか一方が傷つくだろう。
自惚れでは無い。恐らく、選ばれなかった方は傷つく。流石にないとは思うが、もう一度惨劇が起きるかもしれない。
そんな事なら俺はどちらも選ばずに二人とも傷つける。どんなに恨まれようとも、責められようとも、片方を選ぶわけには行かない。
「無理だ。文香がアイドルでなくても、俺は文香の恋人にはなれない」
「……そうですか」
文香が、また俯いた。彼女がどんな顔をしているのかは、前髪に隠れていて、見えない。
「……プロデューサーさんは、優しい人ですから、答えは知っていました……だから――」
彼女が唐突にポケットに手を突っ込み、さっきの三枚とは別の、もう一枚の写真を取り出した。
その写真を、俺に突き出す。
「――その優しさにつけこんでも、いいですか?」
文香が俺に突き出した写真には、俺と千秋が写っていた。
正確には、下着姿の千秋の体にキスをしている俺と、頬を赤らめて恥ずかしそうに瞳を閉じている千秋の姿が写っていた。
いつの間にか、盗られていたらしい。千秋と二人で会っていた所を。
「プロデューサーさん……今度は、キスしてくれますよね?」
文香が頬を紅潮させて、一歩踏み出す。その表情は期待に満ちていた。
「断ったら、ばら撒くのか?」
そう問うと、彼女は動きを止める。そして、くすくすと笑みを零した。
「……ごめんなさい、プロデューサーさん。脅迫は……本気じゃないと機能しないんです……」
表情から見て取れる。
鈍く、それでいて、怪しく、力強く煌めく青い瞳は、彼女が本気だと言う事を示していた。
「……この写真、一枚じゃないです……ですから、強引に奪っても、無駄、です……」
俺の目から、涙が零れた。何に対する涙なのかは、分からない。
「プロデューサーさん……キス、してください」
――千秋をこれ以上傷つけるわけには行かない。ここは、文香のいう事を聞くしかないのか……。
祈るように目を閉じて、静かに俺を待つ文香。彼女の肩に手を掛け、少しだけこちらに寄せながら、辺りを見回して人がいない事を確認する。
覚悟は決めた。
彼女の小さな吐息を肌で感じられる所まで、一気に顔を近づける。文香のふんわりとした甘い匂いが、鼻腔をくすぐった。
軽く唇同士が触れ合う。文香が流した涙の味がした。
唇を離しても、文香が追いかけてきてまた触れ合う。それを抵抗せずに受け入れる。
それが何回か繰り返された後、ようやく解放された。
文香は頬を紅潮させて荒い息をつきながら、満足そうな表情を浮かべる。
そして、おもむろに彼女は携帯を取り出した。
「……連絡先……教えてください……プロデューサーさん」
ぼんやりとした頭で、文香と連絡先を交換する。
彼女は、終始幸せそうな笑みを浮かべていた。
「……それでは……失礼します。メールは……ちゃんと返してくださいね……」
ちゅっ、と俺の首筋に小さくキスの跡をつけて、文香は去って行った。
何も変わらない。
何も変わっていない。
時間が経てば解決すると思っていた俺が、浅はかだった。
修正終わりです。
申し訳ありませんでした。
プロデューサーはどうやったら私の恋人になってくれるのでしょうか。
自分がアイドルだということも忘れ、今まで読んできた恋愛小説の内容を思い出しては自分とプロデューサーを登場人物に当てはめて考えます。
本を開いているのに、いつの間にかプロデューサーと恋人になった時の妄想ばかり浮かんできてしまい、やはり本を読み進められません。
やはり、告白が鉄則でしょうか……それとも、既成事実……。
プロデューサーと行為に及んでいる自分を想像して思わず顔が熱くなります。恥ずかしい。
当のプロデューサーは、机の前で何やら難しそうな表情をして切手?のようなものを眺めていました。悲しそうな表情を浮かべたり、辛そうな表情を浮かべたり、傍から見ると酷い有様です。
ただの切手ではないのでしょうか……?
プロデューサーは切手を机にしまうと立ち上がり、事務所を出て行きました。
私は好奇心に負け、プロデューサーが机に入れた切手を手に取ってしまいました。
プロデューサーが見ていたのは切手ではなく、プリクラと呼ばれる小さな写真でした。
プリクラには、プロデューサーと黒髪の女性が親しげに腕を組みながら笑顔で写っています。
私はそれを見た瞬間、胸が締め付けられるような感覚に陥ったかと思うと、黒髪の女性に強い嫌悪感と嫉妬心を抱きました。
こんな気分は初めてで、私はプリクラを手に取ったまま暫く固まっていました。
そして、プリクラに写っている黒髪の女性が同じ事務所に所属する黒川千秋さんだということに、私は気付きます。
だから黒川さんは時折プロデューサーに視線を送っていたのですね。
驚いたことに二人は付き合っていたようです。いえ……付き合っているのでしょうか? 千秋さんは笑顔でプロデューサーを見ていたことはありません。プロデューサーも、千秋さんとのツーショットの写真を複雑な表情で眺めていました。
もしかして二人は、別れたのでしょうか?
仮に付き合っていたとしても、これを使って脅せば二人を別れさせることは容易です。
ここまで来て、ようやく自分の中のどす黒い感情に気づきました。
気が付けば、プリクラを持つ手が震えています。
――この人は、プロデューサーの笑顔を独り占めにしていた。
この事実がどうしようもなく私の嫉妬心を煽り、大きくしていきました。
他のプロダクションに売られるぐらいの欠陥品である私に、プロデューサーは熱心に付き合ってくれた。
ため息の一つもつかずについてくれて、たくさんの時間を割いてくれた。
愛想笑いの一つですら浮かべることの出来ない私を連れて、必死に売り込んでくれた。
私の声を、歌を、褒めてくれた。
わざと壁を作っているのに、私が緊張している時は自分で壁を壊して、優しく励ましてくれた。
ライブが成功した時は、私を笑顔で褒めてくれた。
プロデューサーは本と同じぐらい、いえ……それ以上に、大切な人……。
私は暫くの間回想に浸り、プリクラを持ったまま佇んでいました。
気が付けば私の腕は誰かによって掴まれていました。
振り向けば、そこには黒川さんが立っていました。怒りに染まった表情と、殺気の籠った視線がとても印象的でした。
女性とは思えないほどの握力で私の腕を握り絞め、その痛みに思わずプリクラを手から放してしまいます。
黒川さんはそれを慌てて拾ったかと思うと愛おしげに胸に抱き、そして私を睨み付けました。
「これはあなたが勝手に触ってはいいものではないの」
黒川さんはそう言って立ち去りました。私は彼女の威圧感に圧倒され、何も言い返すことはできませんでした。
――負けたくない。
彼女なんかに、プロデューサーを盗られたくない。
プロデューサーを想う気持ちはより一層、強くなっていきました。
まずは私も、写真を撮らなければなりません。
★
ライブが終わってからというものの、文香は変わった。大きな仕事を成功させ、ある程度の自信がついたのだろう。
よく笑うようになったし、ほんの少しだけお洒落になった。相変わらず本ばかり読んでいるが。
そして、長い前髪を少しだけ切ってくれるよう何度もお願いして来る。
俺は当然断った。女性の髪に触るのは抵抗があるからだ。例によって二人を思い出すからである。
だが、文香にしては珍しく、中々譲らない。最善を尽くすが変になっても知らないぞと脅しのような忠告を何回もした後、文香の前髪を切った。勿論、ヘアカットハサミを用いて。
慎重に時間をかけて切ったこともあり、違和感のない仕上がりになった。
切っている間ずっと真正面から視線を受けており、かなり精神が削れた。青く澄んだ綺麗な瞳と視線が絡まる度に息が詰まるのだ。気を抜けば魅入ってしまう。
文香も切られている間、頬を薄らと桜色に染め、恥ずかしそうな表情を浮かべたりしていて心が休まらなかった。
智絵里とも、千秋とも全く違う魅力を持っているのだ、彼女は。全然慣れない。
文香もライブを終えて知名度と人気がある程度上がった。他のアイドルが歌っていた賑やかなものとは違い、文香の歌ったものは場違いなほど大人しめの曲だ。それ故に目立ち、話題になり、印象に残る。効果は抜群だった。
文香のCDはまだ発売していないが、発売すればそれなりに売れるだろう。少なくともあのライブに来ていた人達は文香の姿と歌を記憶に焼き付けてくれた筈だ。
それにしても――。
隣を歩いている文香に視線を移す。
前髪が少しだけ短くなった文香は、前と違って目が隠れていない。当然、写真に写る時も前とイメージがかなり変わる。
更に、微笑みを浮かべられるようになった。無理矢理作ったようなものではなく、ごく自然な感じの微笑みだ。
当然、人気が出た。文香はまさに、男性から見た理想の女性像を体現したかのような存在だからだ。
俺は、その唐突な変化に疑問を抱いた。
彼女が明るくなるのはいいことだが、ライブが成功しただけでそこまで変わるようなものなのだろうか。
「文香ちゃん、最近は凄く明るいね。もしかして好きな人でもできたんじゃないか? 恋をすると女は変わるって言うしな」
最近の文香を見た関係者はそうコメントした。好きな人の部分に内心過剰反応してしまったが、まさかな。あの文香に限ってそんなこと……。
いや、でも最近かっこいい俳優とかに話しかけられていたような。黙りこくって俳優に一方的に話しかけられているだけだったし、あの時はいつもの無表情だったから多分違う、はず。
思い返せば文香が男と接触する機会は結構あった。確認のしようがない。
考え事をしていると、不意に袖を引っ張られる。
「プロデューサー……あの……栞作ったので、よければ使ってください」
文香がバックから厳重に保管された栞を取り出した。丁寧な作りの栞だった。四葉のクローバーを押し花にして閉じたものだ。
――受け取った瞬間、文香の姿が過去の智絵里と被った。
背筋に冷たいものが走る。
その日から、文香を見る度に智絵里の姿が浮かび上がり、付き纏う。
☆
智絵里から、明確に好きだと好意を伝えられたことはない。ずっと妹のような存在だと思っていたから、恋愛感情云々については全く考えていなかった。
千秋に智絵里の好意を伝えられてから、俺は智絵里との思い出を見直した。
今思えば、不自然だった。いくら妹のような存在だと思っていたとしても、やたらくっついていた。
あんなにずっとくっつかれて妹のような存在は無理がある。というか全く意識しなかった俺はホモなんだろうか。
智絵里がよく抱き付いてきたことも、頭を撫でることを要求されたことも、手を繋いできたことも、全て好意からなるものではないかと思い始める。
千秋と時折不穏な空気を出していたのも、俺に好意を持っていたから……?
もしかして、千秋に嫉妬していたのだろうか。
俺は頭を抱える。
だとしたら、智絵里は本当に千秋を刺したのだろうか。千秋が死ぬかもしれないのに。
智絵里は臆病で、気が弱い。そんな子が、人を刺すなんてこと果たして出来るのだろうか。
過去に何度か見た、智絵里の不気味な暗い笑みを思い出すと、もしかしたらという考えが生まれたりもした。
智絵里は、俺のことを大切な人だと言っていた。
やはり智絵里は、俺のことが好きだったのだろうか。
それが本当なら嬉しいことなのだろう。あんなに可愛くて優しい子に好意を寄せられているのだから。
……だけど、どうしてこんなに胸が苦しいのか。
「…………疲れた」
智絵里と千秋、そして文香のことばかり考えてしまい、仕事が手につかなくなった。
精神的に疲弊したせいか強い眠気に襲われ、そのまま睡魔に身を任せる。
俺の意識は途絶えた。
★
目が覚めた時、視界いっぱいに文香の顔が映り込んだ。
青い瞳が俺の瞳を捉えて離さない。
何も考えられず、驚くことも出来ず、俺は固まった。
そして、気が付けば俺は文香とキスを交わしていた。
真っ赤な表情の文香がそれを隠すべく顔を伏せ、離れた。
「…………迷惑、でしたか……?」
小さい声を震わせながら文香はそう言った。
もはや何の言葉も出ない。
「……ご、ごめんなさい!」
文香は珍しく大きな声を出したと思うと、駆け足で逃げるように事務所を出て行った。
窓から入る夕暮れの日差しが事務所を真っ赤に照らす。事務所には事務員すら居らず、静かだった。
力が抜けたように、背もたれに寄りかかる。
「そうか……」
こうなったか。
★
後日、俺は社長室へと足を運んでいた。
社長に前日の夜に書き上げた辞表を差し出す。
「仕事の引継ぎ等はやります。それが終わったら、ここを出て行きます」
社長は何も言わなかった。辞表を受け取って頷いただけだ。
☆
プロダクションを出る数日前に、智絵里と話す機会を設けられた。
俺は単刀直入に聞いた。智絵里が千秋を襲った犯人なのかどうかを。
「私……Pさんの力になりたくて……ごめんなさい……」
智絵里は俯き、小さな声でそう弁解した。その発言も、刺したことを申し訳ないと思っているのではなく、【勝手に解決してごめんなさい】というような言い方だった。
何もかもが狂っていた。
思わず泣きそうになり、慌てて智絵里の下を離れた。
結局、何もかも俺のせいだった。智絵里も、千秋も、全て。
その後、文香にも、智絵里にも、千秋にも、一言の挨拶もせずに、俺はプロダクションを退いた。
退職金は桁を間違えてるんじゃないかと思うほど貰い、驚いた記憶がある。
結局、俺はプロデュースをしたくて、新しくアイドルプロダクションを作ったわけだが。
また同じことが繰り返されるのは、流石に酷いと言わざるをえない。
★
長い回想を終え、片手で傘を差しながら先導する智絵里の背中を見る。
智絵里は俺の手を引きながら、どこかへと向かっている。
強い雨のおかげで今の俺達を写真に収めるのは至難の技だが、気は抜けない。いつどこに記者が潜んでいるか分からないのだ。
雨に加え、大きな傘で智絵里も俺も顔が隠れているから恐らく大丈夫だとは思うが。
遂に、過去に担当したアイドル達全員と再開してしまった。
逃げるなってことなんだろう……きっと。
どんな結果になろうとも構わない。今は、皆の想いに向き合おう。
逃げずに、受け止める。
寝ます
智絵里に連れてこられたのは、大きなマンションだった。今はここで一人暮らしをしているらしい。
七階までエレベーターで上がり、そのまま智絵里の部屋へと通される。
居間は綺麗だった。というよりも、殺風景と言った方が正しいだろうか。テーブルや椅子、タンス、ソファ、大体の家庭にあるであろう家具は揃っているが、それ以外の、いわゆる趣味に関するものが一切ない。
智絵里の趣味には詳しくないが、最低限の家具しかここにはないのだ。もしかしたら他の部屋にあるのかもしれないが。
「……Pさんはソファに座っていてください……今、タオルを持ってきます……」
ソファに座れって……上も下も濡れているのだから座れるわけがない。
結局佇んだ状態で智絵里を待つ。タオルを持って戻ってきた智絵里から大きめの白いタオルを受け取り、取りあえず体を拭く。
「あ……えと……コーヒー淹れてきますね」
貰ったタオルで体を拭いている俺を眺めていた彼女は、はっと思い出したようにキッチンへと向かって行った。
タオルで拭いても乾くわけでもなく、立ったまま智絵里が戻ってくるのを待った。
数分後、智絵里が二人分のコーヒーを持って戻ってくる。
「智絵里もコーヒー飲めるようになったんだな」
「砂糖が入っていないと全然飲めませんけどね」
そう言って小さく笑みを零す。昔となんら変わらない可愛らしくて慎ましい微笑みだった。
昔はよく智絵里にコーヒーを淹れて貰ったっけな。懐かしい。
過去を思い出しながら俺はコーヒーに口を付けた。インスタントにしては結構美味しいコーヒーだった。それに、体も温まる。
コーヒーを飲み干してから数分、智絵里は何故か俯いたまま黙りこくっていた。
「智絵里、どうかしたのか?」
「……Pさんは、嘘つき……です」
そう聞くと、唐突に彼女は口を開いた。その声は小さく、感情の籠っていない無機質なものだった。
「私を、ずっと見守ってくれるって……そう言ってくれたのに……」
「……智絵里」
顔を上げた智絵里は暗く冷たい笑みを顔に貼り付け、嗤った。
その表情に恐怖を感じた俺は、思わず後退った。
不意に強い眠気に襲われる。明らかに異常だ。もしかしなくてもコーヒーに何か仕組まれていたのだろうか。
床に手を付き、倒れそうになるのを必死に堪える。
「今度こそ……ずっと私を見守って……Pさん……」
ぼやける視界を何とか定めながら、いつの間にか目の前に立っていた智絵里へと視線を移す。
彼女は身を屈めて目線の高さを同じにしたかと思うと、どこからともなく取り出した四葉のクローバーを口に含み、その状態で顔を近づけてきた。
抵抗することも叶わず、智絵里のキスを受け入れてしまう。智絵里は舌で、唾液に包まれた四葉のクローバーを俺の口内へと押し込んだ。
ぼんやりとした頭と気怠い体のせいでもはや何もすることができずに、智絵里が送り込んだ四葉のクローバーを体内に収めてしまう。
「……ち……えり……」
意識を失う直前、幸せそうな、優しい笑顔を浮かべている智絵里が見えた。
もはや眠気に抵抗する力もない。
俺の意識はそこで途絶えてしまう。
短くて申し訳ありませんが更新終わりです
ここからエンディング分岐です(多分)
期末試験→勉強がんばらなきゃ→期末終了→ガンダム→SSを忘れる→SSを思い出す
SS完結させなきゃ(使命感)
★
気が付けば布団に寝かせられていた。すぐに上体を起こして辺りを見渡す。
テレビ、本棚、机、ソファと、色々目につくが、明らかに違和感があった。窓の外に広がる光景を見て、違和感の正体に気づく。
窓の外には森が広がっていたからだ。どう考えても眠らされる前にいた智絵里のマンションではない。
布団から起き上がり部屋内を探索しようとした時、足首に違和感を感じた。
足首には冷たい金属の輪が嵌められており、そこから鎖が壁にまで伸びている。鎖は壁から生えているわけではなく、壁の向こうへと続いているようだった。壁の向こうに重しがあるのか、一定以上の距離を歩こうとすると鎖が伸びきってしまい、それ以上進めなくなる。
金属の輪はぴったりと足首についている上に中々に頑丈で壊れそうにない。鎖も同じだ。
どうやら監禁されたらしい。実行したのは恐らく智絵里だろう。どうやってここまで連れてきたのかは分からないが。
部屋には扉が二つあった。一つはトイレだった。
鎖の長さには余裕があり、用を足すことは普通にできる。もう一つの扉には鍵がかかっており、外に出る事は叶わなかった。
鎖は長く、部屋の中は自由に動くことができる。窓には鉄格子が付いており、万が一を想定しているようだった。
本棚にあるたくさんの本の中から二冊ほど適当に手に取り、時間を潰す。
これからどうなるのだろう。智絵里は俺を解放してくれるだろうか。そもそも、なぜこんなことに。
金属の輪は硬く、外れそうにない。多分ないと信じたいが、智絵里が来なかったら俺はここで衰弱して死ぬだろう。
焦りを胸の奥にしまい、俺は本を読むことに集中した。だが、それも長くは続かない。こんな状況なのだから、当たり前と言えば当たり前だが。
用意されていた布団の上に寝転がり、瞳を閉じる。白い天井を見つめながら、今までのことを振り返った。
まったく可笑しい話だ。学生時代に女性から好意を寄せられるようなことなんてなかったというのに。皆は俺なんかのどこに惹かれたのだろうか。
もっと、相応しい人間がいるだろうに。
扉の開く音が小さく部屋に響き渡った。視線を素早くそちらへと向ける。
見た目はいつも通りの智絵里が部屋へと入ってきた。
「おはようございます……Pさん」
昔となんら変わりない可愛らしい笑顔を浮かべながら、智絵里はいつも通りの様子で挨拶をした。
俺はすぐさま智絵里に詰め寄った。
「智絵里、これはどういうことだ? 犯罪だぞ、分かっているのか? 智絵里」
繋がれた鎖を手に持ち、智絵里に向かって突き出しながら声をきつくして問う。強い口調に怯えるかと思ったが、智絵里はただ微笑むだけだった。
「ふふふ……Pさんをずっと繋ぎ止めたくて……ずっと……考えていたんです」
――考えた結果、こうなっちゃいました……えへへ。
悪びれる様子もなく、彼女は小さく笑った。
「智絵里!!」
そんな様子の智絵里を見て頭に血が上り、彼女の両肩を強く掴む。鏡を見なくても俺が憤怒の表情を浮かべているのは分かる。なのに、智絵里は顔を赤らめるだけで、怖がったり悲鳴を上げたりするようなことはなかった。
「Pさんを困らせるようなこと……したくなかった、です……あの人のように……Pさんを困らせたくはありませんでした……」
「智絵里、いい加減に――」
「だから……痛くして……ください……」
唐突に告げられた言葉の意味が理解できず、毒気を抜かれる。
「何を言っている」
「……Pさんを困らせた罰として、いっぱい痛くしてください……アイドルを続けられなくなるぐらい……ぐちゃぐちゃにしても、いいです……」
いつの間にか、思わず後退ってしまいそうになるぐらいの異様な空気が、智絵里の周囲を漂っていた。
いつの間にか頬には智絵里の冷たい手が添えられ、彼女の顔が視界いっぱいに広がる。目と目が逢い、視線が至近距離で絡み合う。
唇に当たる柔らかい感触は、間違いなく智絵里のものだろう。
「困らせて……ごめんなさい……」
顔を離しながら申し訳なさそうに、智絵里はそう言った。儚い笑みを浮かべながら。
「そう思うなら、解放してくれ」
「それはだめ……です」
「智絵里の気持ちは分かった……だけど、こんな事で幸せになれると思うか? このままだと、近い内に警察沙汰になる。智絵里が捕まってしまったら、そこでもう幸せは終わるぞ」
「Pさんが私から離れていくことが一番不幸なことなんです!」
初めて聞いた、智絵里の大きくて、悲痛な叫び声。思わず狼狽える。
「どうして……どうして離れて行こうとするんですか? ずっと、見守ってくれるって……約束したのに……」
「……智絵里」
「もう離さないって、決めたんです……こうしないと、Pさんはどこかへ行ってしまうから……」
智絵里はそう言って、俺の背中へと手を回す。
「絶対に……離しません」
告げる声は冷たくて、愛おしそうで、楽しそうだった。
――そして、終わりの見えない監禁生活が始まる。
☆
監禁されて二ヶ月ほどが経った。暫くの間はずっと諦めずに説得を続けてきたが、この三週間ほどでそれも無駄だということが分かった。
既に反抗の意志は消え失せ、今では智絵里にされるがままだ。
「智絵里……喉が渇いた。水をくれ」
俺の左腕を両腕で抱きしめながら、肩に頭を預けてじっとしている智絵里に水を持ってくるように頼む。
水も食料も全て智絵里を通さないと得ることができない。仕事に行くときだけは料理を作り置きし、水も置いてくれるが。
「分かりました……ではPさん、口を開けてください……」
智絵里がおもむろに立ち上がったかと思うと、ポケットに入っているケースからナイフを取り出した。
また、これか。
止める暇もなく、智絵里は自身の腕にナイフで傷をつける。あっという間に血が溢れだし、次々と零れ落ちた。
「たくさん飲んでくださいね……」
「…………分かった」
智絵里がこちらへと腕を近づけた。もはや抵抗する気も起きない。傷口に口をつけ、溢れ出る血液を舌で舐めとり、啜る。口内一杯にツンとした鉄錆の匂いが広がった。
最初の方こそ驚き、止めるよう言い聞かせたが、結果として無駄だった。
俺が血を飲まなければ智絵里はいつまでたっても止血せず、挙句の果てに水をくれない。
「えへへ……おいしい、ですか?」
「おいしいよ……おいしいから……早く止血してくれ」
智絵里も馬鹿ではないから、毎日こんなことをしているわけではない。一週間に一回と言ったところだろうか。
傷は案外深くないようだが、多量の血が出るため、内心気が気でない。それに、消毒していると彼女は言っているが、それでも何かよくない病気になる可能性はあるだろう。何とかやめさせられないものか。
智絵里も智絵里でどうして何の躊躇いもなく自傷できるのだろう。想う気持ちはこんなにも人を歪ませるものなのか。
「Pさん……これ見てください」
智絵里が唐突に二つの通帳をこちらへと差し出した。二つの通帳に記されている金額の合計は、いくらアイドルとはいえ未成年の少女には手に余るほどの大金だった。
「もうちょっとだけ稼いだら、引退して……Pさんだけのアイドルになりますね……なんて……えへへ」
俺の膝の上に智絵里が乗っかり、甘えるように胸板に頬を擦りつける。上目遣いでこちらを見上げた。昔と変わらない可愛い顔立ちだ。本当に、見た目は何も変わっていない。
「だから、Pさんも……今度こそ、私だけのプロデューサーになってくださいね!」
くすくすと、智絵里は楽しそうに笑みを零す。
「…………」
アーニャはどうしているだろうか。多分怒っているだろうな。いきなり何もかも投げ出していなくなってるのだから。きっとアーニャにも迷惑をかけているだろう。
千秋と文香は大丈夫だろうか。自惚れが過ぎるが、少し不安だ。
全てに向き合おうと思っていた矢先に、これは……苦しいな。あの時、逃げずに向き合えばよかった。そうすれば、智絵里もここまで壊れるようなことはなかったはずだ。
後悔しても後の祭り。状況は既に手遅れだ。
智絵里はいつ正気に戻るのだろうか。所詮は行き過ぎただけの恋だ。ふとしたきっかけで解放されるかもしれない。
それとも、ずっとこのままだろうか。
「あ……忘れてた……今日は、結婚指輪持って来たんです」
そう言って、智絵里はポケットから小さな袋を取り出した。袋を逆さまにし、彼女の掌に零れたそれは、二つの指輪。緑色の宝石が四葉のクローバーを模したように並んでいる、綺麗な指輪だった。
それはおもちゃなどではなく、明らかに本物の指輪だ。あれだけの大金を所有していたのだ。高価な指輪の二つぐらい簡単に手に入れられるのだろう。
智絵里は僅かに大きい方の指輪を手に取り、俺の左手の薬指にそれを嵌めた。
にこにこ笑いながら、智絵里は残った方の指輪をこちらに差し出した。
「……指輪……つけてくれませんか……?」
ほんの少しだけ視線を逸らしながら、照れたように智絵里はそう言った。
指輪を受け取りながら黙って頷き、智絵里の薬指に指輪を嵌める。
「嬉しい……です」
感極まったように智絵里は涙を零した。指輪を用意したのも嵌めるように言ったのも智絵里だと言うのに。
「えへへ……いきなり泣いて、ごめんなさい……でも、これで、ずっと一緒です……」
「そうだな……」
智絵里は愛おしそうに、俺を抱きしめる。智絵里の身体は柔らかいが、思わず心配してしまうぐらい軽く、華奢だ。
「Pさん……大好き、です……」
「…………」
智絵里の温かい涙が、首筋に触れた。
ふと、頬に手をやると、いつの間にか涙が伝っていた。何で俺まで泣いているのだろうか。疑問に思う前に体が震え、涙が次々と溢れだした。
悲しみをこらえるように智絵里の体を力いっぱい抱きしめるが、嗚咽は堪えきれずに漏れてしまう。
――こんなはずじゃ、なかった。
四葉のクローバーを模した指輪を外す機会が一生与えられないことを、この時の俺は知らない。
死体となり、肉体が朽ちても、しっかりと嵌めているのだ。彼女と共に、この指輪を。
以上で終わりです。
近い内に次のルートを投下します。
プロット変更前→三人が最初から同じ事務所に所属している
プロット変更後→三人と順番に出会う
これのせいで過去の話が異常に長くなり、アーニャが空気になると言う事態になったので、次SSを書くときに気を付けます
監禁されて二週間ほどが経った。いまだに脱出できていない。智絵里の手料理を口移しやらで無理やり食べさせられたり、一緒にお風呂に入れさせられたり、一線を超えようとしてきたりと、精神的に気が気でない日々を送ってきた。
警察は動いていないのだろうか。アーニャは流石に警察に連絡を入れたとは思うが……どうだろう。
手がかりがなくて見つけることができないのかもしれない。そういえば、監禁されている自分ですらどこにいるのか分かなかった。
このまま、ずっと智絵里と一緒なのだろうか。それがいいこととは思えない。智絵里にとっても、自分にとっても。
二週間近く放ったらかしのアーニャの元に一刻でも早く駆けつけたかった。仕事先にも謝罪を入れなければ行けない。もっとも、ここから出られない限りは叶わないのだが。
何とか脱出できないだろうか。すべてに向き合おうって思った矢先にどうしてこんなことに。
嘆いても仕方がない。この足首から家に繋がれた忌々しい鎖を早く切らないと。
道具もなしに壊せるか分からないが、やってみよう。
暫くの間、鎖を破壊するために試行錯誤し、鎖を踏んで引っ張ったり壁にぶつけたり、色々やってみたがびくともしなかった。当たり前といえば当たり前だが。
疲れて倒れ伏していると、突如部屋の扉が開いた。智絵里は仕事に行ったばかりだ。忘れ物だろうか。
「プロデューサーさん……」
「文香……?」
部屋に入ってきた人物は智絵里でも警察でもなく、文香だった。
「どうして、ここに?」
「……プロデューサーさんを……助けようと思って」
山道がよほど辛かったのか、息が荒く、頬は上気していた。
「鍵がどこかにあるはずだ……疲れているところ悪いが、それを持ってきてほしい」
「必要、ないです」
「は?」
文香はポケットから見慣れない金属製の小さな何かを取り出した。俺へと近づき足元に屈んだかと思うと、その小さな何かを鍵穴へと差込み、もう一つ、似たような道具を取り出して同じく鍵穴に差し込んだ。
カチャカチャと両手を動かし、次の瞬間、鍵の外れる音がした。俺を苦しめてきた鉄の輪は文香によってあっさりと外される。
「まさか、ピッキングツールか?」
「……そうです……プロデューサーさんが捕まっていると思って……買いました」
まさか足枷もあるとは思わなかったと、文香は続けた。ピッキング技術はどこから学んだのだろう。果たして本で学べるものなのだろうか。
「とりあえずここを出よう」
「はい」
流石にないとは思うが、今ここに智絵里が戻ってきたらどうなるか分からない。
山道を二人で下りながら、気になっていたことを尋ねた。
「どうして、場所が分かったんだ?」
「……一人一人尾行して……確認しました。緒方さんが犯人だったのは……予想外でしたが」
ということはアーニャと千秋を最初に調べたということなのだろうか。
山の麓に車が一台、置いてあった。この車が文香のらしい。
「車で上ればよかったと、少し後悔しました」
山道を下っていて思ったが、麓から智絵里の家までは少し遠い。あまり運動をしない文香にとっては少しばかり辛いものがあるだろう。
車に乗り込みながら、これからのことを考える。といっても、真っ先に思いつくのはアイドル達のことではなく仕事のことである。いくつものスケジュールを放ってきてしまったのだから、まずは謝罪をしなければいけない。
車を発進させて暫くの間、俺達は無言だった。
「……プロデューサーさん……あの……私は、アイドルをやめました」
「は?」
文香は唐突に飛んでもないことを告げた。
「……アイドル、楽しかったです……こんなに楽しくできたのは、プロデューサーさんのおかげです……」
小さく笑いながら、文香は楽しそうに話した。
「……アイドルを、やめた?」
「引退したんです…………だから、プロデューサーさん――」
――私と、恋人になってくれませんか?
文香は運転中ということもあり、まっすぐ前を向いている。視線も前に向けられたままだ。
そんな状態なのにも関わらず、真剣な声色で彼女は俺に再度想いを伝えた。
俺は、どうするべきなんだろうか。確かめたわけではないが、すぐバレる嘘を彼女がつくとは思えない。つまり、文香は本当に引退したのだろう。
「脅して、ごめんなさい……困らせて、ごめんなさい……でも……どうか……」
文香の声に震えが混じる。拒絶されるのを怖がっているのだろうか。確かに、文香に脅されて困ったのは事実だ。
俺の返事は、対して時間がかからずに決まった。
「分かった。恋人になろう」
文香がブレーキを踏んだ。人けがないとはいえ、路上である。文香は少し驚いたような表情をして、こっちを見ていた。
「本当、ですか?」
確かめるように、文香は聞く。俺は黙って頷いた。
文香は動揺を隠すように車を走らせる。ハンドルを握る手が震えていて非常に危ない。というか止めてくれ。
「……本当だ…………その、智絵里のこと、千秋のこと、アーニャのこと……全て解決したら、恋人になって欲しい」
ここまで来たら後戻りはできない。俺は文香と添い遂げよう。
千秋、智絵里……そして、アーニャは納得しないかもしれない。それでも、いつか壊れそうな関係を続けるよりはマシだ。
とても文香に言えるような話ではないが、全て解決するなら俺は誰でも良かったのかもしれない。ただ、アイドルを引退してまで俺を求めてくるその直向きな姿に惹かれたのは事実だった。
俺に恋人ができればきっと皆諦めるだろう。智絵里とアーニャに至ってはまだ未成年だし、千秋だって二十代前半。彼女達にはこれからいくらでも出会いがある。それに、彼女達は魅力的だ。スキャンダルは御法度だが、俺よりいい男なんていくらでも見繕えるだろう。
そこまで考えて、ふと俺を監禁していた時の智絵里の姿が脳裏に浮かんだ。優しげな表情を浮かべ、幸せそうに寄り添い、可愛らしく微笑んでいた彼女が。
智絵里は、俺を監禁した。あの時、俺は余裕がなくて気付かなかったが今思い出せば……智恵理は今まで見たこともないくらい幸せそうで、いつも笑顔を浮かべていた。
俺がいなくなっているのを知って、彼女はどんな表情を浮かべるのだろうか。
そう思うと心が痛んだ。だけど、俺はもう決めた。文香と添い遂げ、他のアイドル達との決着をつけると。
俺がいくら傷つこうと、心を痛めようとも構わない。
「文香……俺なんかを好きになってくれて、ありがとう」
「……プロデューサーさんも……私を選んでくれて、ありがとうございます……」
前を見ながら運転する文香の頬がわずかに紅潮した。恥ずかしそうにしながら少しだけ身を屈ませている。
車で運転しながら二時間ほどが経過。智絵里はわざわざこんな長い道のりを毎日往復していたのかと驚きながらも、文香に送られてようやく自分のプロダクションへと辿り着く。
車から降り、事務所へと向かう俺の手を、文香が小さな手で優しく包んでくれた。
温かくて心強かった。
文香は頬を真っ赤に染めて俯いたかと思うと、いきなりこちらへと顔を寄せてきた。
完全に不意を突かれ事務所の入口の前で、唇が重ねられる。
文香は目を閉じず、その綺麗な青い瞳はまっすぐに俺を見つめていた。
「プロデューサー……?」
その声は、智絵里のものでも、千秋のものでも、ましてや目の前にいる文香のものでもなかった。
肩を掴んで文香を引き離し、声の主へと視線を向ける。
最後に会った日よりもほんの少しだけ髪が伸びたアーニャが、そこにいた。
寝ます
ちなみにまだ完結していません
>そういえば、監禁されている自分ですらどこにいるのか分かなかった。
>山道がよほど辛かったのか、息が荒く、頬は上気していた。
文香の担当を外れてどれだけ立っていようが
アイドルを見た瞬間状況を完璧に理解できるプロデューサーの鏡
>>675
ま、窓の外には森が広がっていたから(震え声)
描写してなくてごめんなさい。監禁生活中に智絵里が山奥に家を建てた的なことをPに言っていた感じでお願いします。
★
プロデューサーがいなくなってから二週間ほどが経った。
どうしていなくなったのだろう。アーニャは毎日そればかりを考えていた。
決まっていた仕事だけは終わらせた。毎日掛かってくる電話には全てプロデューサーが不在だと伝えた。いつ戻ってくるのかを聞かれたが、答えようがなかった。
捨てられたのだろうか、それとも鷺沢文香が何かしたのだろうか。どちらにせよ、手がかりが全くなくて、どうしようもなかった。
事務所のソファで膝を抱え、静かにプロデューサーが帰ってくるのを待つ。たまに来る来客は仕事の依頼人で、プロデューサーは不在だと伝えた。その内、来客が来ても出ることはなくなった。プロデューサーは鍵を持っているから。
ここはプロデューサーと私の家なんだと、アーニャはそう考え、じっとプロデューサーを待ち続けた。
ずっと……寂しさに体を震わせ、虚空を見上げながら。
その内、空腹を感じ始め、外に出た。近くのコンビニに向かい、適当にお弁当を買って事務所へと帰る。
いつの間にか事務所の駐車場には見慣れない車が止まっていた。
そして、事務所の入口の前に二つの人影を見つける。
二人はお互いの目を見つめ合いながら、触れるだけのキスを交わしていた。
女の方は、鷺沢文香。男の方は――。
「プロデューサー……?」
――プロデューサー……どうして? ……どうして……そんなに幸せそうな表情を浮かべているのですか?
★
感情が抜け落ちたような無表情のアーニャを連れて、俺達は事務所の中へと入った。
事務所は変わらず綺麗なままだ。
アーニャをソファへと座らせ、俺は向かい側のソファへと座る。文香は俺の隣に座った。
「アーニャ……ごめん。ちょっと事故に巻き込まれて、戻ってこれなかったんだ。迷惑をかけて本当にすまない……!」
テーブルに手をついて頭を下げる。
反応がないので上目で彼女の様子を探ると、アーニャは人形のように身動ぎ一つせず、背もたれに寄りかかったままだった。
「アーニャ?」
アーニャの瞳が潤み、涙が溢れ出す。真っ白な頬に涙の跡を残しながら、零れ落ちていく。
「プロデューサー……私の想いは、受け取ってくれないのですか?」
消え入りそうな声で、アーニャは言った。
まさか、今ここでその話題を出されるとは思ってもいなかった俺は、少しばかり放心した。
「ごめん……アーニャ。想いは、受け取れない」
俺はアーニャとそういう関係になりたかったから、何日も二人きりで過ごしたわけじゃない。アーニャはとても魅力的な女の子で、そんな子から好意を寄せられるのは嬉しい限りだ。きっと自制心がなければあっという間に手を出しているだろう。
「ダー……分かりました……困らせて、ごめんなさい……プロデューサー……」
アーニャは俯き、両手で顔を覆いながら、小さく嗚咽を漏らした。
こういう時、どうすればいいのか分からない俺は大変慌てた。色々フォローしようかと思ったが、文香に右手を強く握られ、制止される。
結局俺は、泣きじゃくるアーニャを見守るだけで、他には何もできなかった。
★
「アーニャさんに認めてもらえて……よかった……です」
「……そうだな」
よかったと言う割に顔が無表情な文香だ。そもそも認めてもらったと言うのだろうか、あれは。
アーニャはこれからはアイドルに専念すると言ってくれた。正直やめられても仕方がない状況だったから、そう言ってもらえて嬉しかった。
「後は、智絵里と千秋か……」
智絵里に至っては監禁という犯罪行為ですら平然と行ってくるのだから、慎重に対応しないと何が起こるか分からない。
「あの二人には関わらないでください」
二人にはどう対応したものかと考えていると、文香にしては珍しい、強い口調によって遮られる。
「それは……どういう……」
「あの二人にはもう関わらないでください…………時間が経てば解決します……」
少し俯きがちに文香はそう言った。
「だけど、千秋は俺の電話番号知ってるし……智絵里だって事務所の場所を分かっているようだったから時間に任せるのは難しいんじゃないか?」
むしろさっさと話し合って解決したほうが早い気がするが。
「……私がずっと一緒にいます……そうすれば、あの人達は手出しできませんから……」
「だけど……今終わらせておかないと何が起こるか……」
文香の存在によって二人が諦めるというのならそれで構わないが、智絵里の執念を垣間見た後だと、少しばかり不安が残る。
「……安心してください……私が、プロデューサーさんを守りますから……だから、もう……あの人達に関わらないでください」
有無を言わせない強い口調だった。こんなに頑なに関わるのを拒否するということは一体どういうことなのだろうか。
いまいち納得できないが……彼女なりに考えがあるのかもしれない。文香がそこまで言うのなら、そうするが……全て終わらせると決意したのに、これでいいのだろうか……。
「……分かった。だけど、智絵里達がなんかしてきたら流石に黙っていられないぞ?」
「構いません……プロデューサーさんから関わりに行って欲しくないだけですから……」
文香はそう言って、俺の手を取った。
「プロデューサーさん……不束者ですが……よろしくお願いします」
文香は頬をりんごのように赤くして、今まで見たこともない向日葵のような笑みを浮かべていた。
文香がこんなに楽しそうに笑うのを、俺は初めて見るかも知れない。
★
プロデューサーさんと恋人になってから、五年が経ちました。
私は叔父の古本屋を手伝ったり、プロデューサーさんの事務仕事を手伝ったり、大変だけど割と充実した日々を送っています。
プロデューサーさんのプロデュースは怖いくらいに成功を続け、最近の事務所には新しいアイドル、事務員、プロデューサーが来て、中々に賑わっています。
そろそろ狭さが目立ってきたようなので新しい事務所を検討中のようです。
「文香、万が一があったら困るからなるべく運転は控えてくれよ……」
プロデューサーさんが私のお腹を撫でながら、優しい言葉をかけてくれました。まだ膨らみかけですが、私のお腹にはプロデューサーさんの子供が宿っています。
正直、プロデューサーさんの愛情が分割されて子供に行くのは嫌ですが、それでもプロデューサーさんとの子供なので愛おしいです。
「今……時間あるか?」
「……大丈夫です」
私を呼びかけるプロデューサーさんは、少し辛そうな表情をしていました。今日が何の日かを知っている私は、大人しくプロデューサーさんに連れられて二人で事務所を出ました。
車に乗って向かった場所は花屋でした。プロデューサーさんが担当しているアイドルの実家らしいです。
プロデューサーさんは店員さんと一言二言交わした後、花束を買いました。
「…………」
車の中は、どこか重苦しい空気でした。私はそこまで気に留めていませんが、プロデューサーさんはまだ完璧に立ち直れてはいないようです。
数十分かけて着いた場所は、墓場でした。
プロデューサーさんはたくさんある墓を一瞥しながら、迷うことなく目的の場所へと辿り付きます。
「…………智絵里」
プロデューサーさんは、今は亡きアイドルの名前を口にした後、花束を墓石の前に供え、ポケットから取り出した四葉のクローバーをそっと添えました。
「それじゃ……」
そう言って、プロデューサーさんは思いの外あっさりと立ち去ります。
毎年こんな感じですが、毎年私が隣にいるからかもしれません。
そろそろ、死人に嫉妬させるのはやめさせて欲しいのですが……。それをプロデューサーさんに言うわけにもいかないので、せいぜい墓石を睨むだけです。私は何て嫌な女なのでしょう。
私がプロデューサーさんと恋人になった年、緒方智絵里は自殺しました。
同年に、黒川千秋さんは行方不明……アイドル業界から引退宣言もなしに消息を断ちました。警察沙汰にもなりましたがいつの間にか静かになっていたのを覚えています。
プロデューサーさんは緒方さんの自殺のせいで暫くの間、立ち直れず、毎日毎日緒方さんのことばかり考えていて私は毎日毎日嫉妬する羽目になりました。
その後、黒川さんの行方を探ったようですが、見つからなかったようです。本当はすぐ近くにいるのですが……案外気づかないようですね。プロデューサーさんは鈍感です。
そして、プロデューサーさんともっとも親しくて、私の次に近い人物……アーニャさん。青い瞳の中には未だに炎が燻っているのを、私は見逃しません。プロデューサーさんは鈍感なので気づいていませんが。
私とプロデューサーさんの夫婦生活は前途多難のようです。
プロデューサーさん……私は今、とっても幸せです。
――プロデューサーさんは、幸せですか?
更新終わりです
近いうちに次のENDを投下させていただきます
★
監禁されて二週間ほどが経った。智絵里は説得に応じる気配はない。
こうなったらもう自力で脱出するしかないと、俺はひたすらに足首から繋がっている鎖に攻撃を加えた。
結論から言うと、厳しい。素手はおろか道具を使っても厳しそうな頑丈さだった。
アーニャはきっと心配しているだろうし、仕事先にもさっさと謝罪しなければいけない。早く脱出したいのにこれじゃあどうしようもない。
もどかしかった。何かしたくても何もできない。智絵里は、俺がいくら怒鳴ろうとも罵倒しようともどこ吹く風で相手にしない。
不本意ながら暴力で脅そうとしても全て受け入れようとする始末。打つ手が本格的にないのだ。
壁に寄りかかり、読みかけだった小説を手に取る。智絵里が戻ってくるまで時間があるが、結局何をしても鎖にはダメージを与えることができない。
唯一破壊に使えそうなテレビは頑丈に張り付いていて動かせない。万が一テレビを壊すようなことがあったら智絵里は脱出を警戒してもっと拘束してくる可能性もある。
「…………?」
小説を読んでいると、外から車の音が聞こえてきた。智絵里が忘れ物でもしたのだろうか。
呑気に構えていると、突然ガラスの割れる音が盛大に鳴り響いた。
「何だ?!」
まさか、強盗が目をつけたのか? 智絵里はこの家が人通りの少ない山奥にあると言っていた。逆を言い返せば場所を特定しやすい上に、事件が起きてもすぐには気づかれない。
これはチャンスかもしれない。良心が残った強盗だったら、もしかしたら俺を助けてくれるかもしれないからだ。
不安、期待、恐怖……さまざまな感情が複雑に絡み合いながらも、俺は大人しく来訪者がこの部屋に来るのを待った。
廊下の歩く音が聞こえる。その音は徐々に近づき、遂にはこの部屋の前までやって来た。ガチャリとドアノブが動き、扉が開く。
「ここにいたのね……プロデューサー……」
「千秋!?」
千秋は驚く俺を意に介さず、足首についている鉄の輪と鎖に視線を移した。
「……鍵は、智絵里が持っているのかしら?」
「いや……智絵里は持っていない……多分、他の部屋のどこかにあるはず」
智絵里は、私から鍵を奪おうとしても無駄だと言っていた。持っていないから。
「分かったわ……すぐに探してくるから、待ってて、プロデューサー」
「頼んだ。千秋」
数分後、千秋が鍵を見つけ、それをこちらへと持ってきた。流石に人が助けに来るとは思わず用心していなかったのか、机の引き出しに普通に入っていたらしい。
「ありがとう、千秋。助かった……」
「お礼は後でいいわ。早く逃げましょう」
千秋に手を引かれながら、俺達は智絵里の家を後にする。
家の前には黒塗りの高そうな車が待機していた。二人で後部座席に乗り込み、千秋が運転手に帰るよう告げている。
車が発進し、でこぼこした砂利道を駆け下りる。
「どうしてここが分かったんだ?」
「女の勘よ……家の者に張らせたら案の定、智絵里が犯人だったわ。尾行されている前提で動いていたようだったから、だいぶ苦労したらしいわ」
「なんにせよ助かった……本当にありがとう」
助かって安堵したためか、ほんの少しだけ眠くなった。口数が徐々に少なくなり、車内に無言の空間が広がっていく。
眠気を吹き飛ばすような発言が千秋は唐突に告げた。
「プロデューサー。私、アイドルをやめたの」
「え?」
「プロデューサーのせいよ……もう、仕事中も家にいても、ずっとプロデューサーのことしか浮かばないもの」
千秋は、どうしてそこまで執念深く俺を想い続けるのだろう。
「アイドルをやめたら……千秋は……」
「別にいいの……もう十分、外の世界を楽しんだわ。それに、どんな不自由な生活でも、プロデューサーがいてくれるだけで違うものよ」
千秋が、俺の手に手を重ねる。
「プロデューサー……私のこと、今は好きでなくてもいい……好きになってもらえるように、努力するから……!」
最後の方は声が震え、重ねられた手は小さく震えていた。
「だから、お願い、プロデューサー……私と、恋人になって……」
今にも消え入りそうな声で、千秋はそう言った。千秋は俺の方へと寄りかかり、肩に頭を預ける。
小さく鼻をすする音が聞こえた。泣いているのか。
俺の答えは、僅か数秒で決まった。
「こちらからお願いするよ……千秋、俺と恋人になって欲しい」
隣で小さく咽び泣いている千秋が、愛おしかった。恋人を作れば、皆が想いを諦めてくれるだろうという打算的な理由も少しはあるが。
千秋の両親は許してはくれなさそうだが、そこら辺は後々考えるようにしよう。
「ほ、本当……プロデューサー? 本当に結婚してくれるの?」
「結婚、できるといいな」
認められるように努力しよう。
「嬉しい……嬉しいわ、プロデューサー……!」
千秋が抱きついてきたかと思うと大声で泣きだした。バックミラー越しに運転手と目が合い、非常に気まずい十数分を過ごすことになる。
色々危なかったしいところもあるけれど、アイドルを辞めるぐらい俺を執念深く想ってくれた女性だから、幸せにしないといけないなこれは。
千秋の温もりを右腕に感じながら、自分の事務所まで送り届けられる。
一時の別れを名残惜しそうにしている千秋の頭を撫でながら、また後で、と再び会うことを約束した。
千秋と別れ、俺は事務所へと向かう。
「アーニャ、大丈夫かな」
事務所にはいないだろうから、後で自宅まで様子を見に行こう。
入口の戸を開けながら、謝罪しなくてはいけない仕事先のリストを思い浮かべる。
「ただいま」
「プロデューサー……?!」
奥から聞こえてくる、聞き覚えのある声。まさかアーニャが中にいるとは思わず、驚いた。
「アーニャ、いたのか。ごめんな、何日も帰ってこなくて」
アーニャには心配かけたり迷惑かけたり、本当に申し訳ないと思う。全て不可抗力ではあるが。
「……無事でよかった、プロデューサー……!」
アーニャが目に涙を浮かべながら、俺に抱きつく。千秋と恋人になるといった手前こういうのはよくないが、今回ばかりは見逃してもらおう。
相変わらず女の子の髪はふわふわしてて触り心地がいい。
「プロデューサー……」
「アーニャ、悪いんだが俺は色んな所に謝りに行かなきゃ行けないんだ。それが終わったら、少し話したいことがある」
「ダー……分かりました、プロデューサー。私はここで待っています」
アーニャとの短い会話を終え、俺は早速迷惑をかけた人達の所へと車を回す。
全てを終えたのは、事務所を出てから六時間ほど経った時だった。目的の人物が不在だったり、長時間怒鳴られたりと散々な目にあったが、一通り回り終えた。後は後日、不在だった人のところへ謝罪に行くのみだ。
許してくれたところもあったが、怒鳴られたり、相手にされなかったところもあった。本当なら原因である智絵里を責めるべきなんだろうが、不思議とそういう気持ちになることはなかった。
責めたところでどうにもならないというのもある。
日も暮れてきた所で、事務所へと帰ってくる。宣言どおりアーニャはずっと待っていたらしい。
「おかえりなさい、プロデューサー」
「ただいま……」
アーニャとも決着をつけようと決意したが、どう切り出したらいいものかと悩む。
「アーニャ……その、聞いて欲しい話があるんだ」
「…………」
俺の真剣な表情を見て何かを感じたのか、アーニャは無表情になって少し俯いた。
「俺が一週間いなくなる前にさ……その、告白してくれたよな?」
「ダー……私は、プロデューサーのことが好きです」
数秒間で覚悟を決める。やはり、ここで彼女の想いを断ち切らなくては。
「……悪いアーニャ。俺には、恋人がいるんだ……だから、アーニャの想いには答えられない」
プロデューサーとアイドルだからと言った場合、千秋のようにアイドルを辞めると言い出しかねないから、千秋が恋人だったということにした。千秋には後で口裏を合わせるように言っておこう。
「そうですか……残念、です」
そう言ってアーニャは、俺の目の前で静かに泣き崩れた。
「ごめんなアーニャ」
床に座り込んだアーニャの頭をできる限り優しく撫でる。女の子を泣かせるというのはこんなにも罪悪感でいっぱいになるもののか。
智絵里も、泣いているのだろうか……。
文香はどうしているのだろう。届かないメールを今も送っているのかもしれない。
千秋はアイドルを辞めてまだ一週間も経っていないと言うのだから、文香の持つあの写真はまだ十分な効力を持つと言える。俺が返信しないことに怒って、あの写真を持ち込まれたら大変だ。
とは言っても打つ手はない。智絵里同様説得できないのだから。
アーニャを家まで送り届け自宅に戻ると、玄関の前には千秋が立っていた。千秋はこちらに気づくと明るい笑顔を浮かべ、駆け寄ってくる。ちょっと待て、何で自宅を知っている。
千秋は右手に、風呂敷に包まれた細長い物を持っていた。気になって尋ねても秘密と返されるだけだった。
「えっと、上がるか?」
「ねぇ、プロデューサー……少し、散歩したいわ。いいかしら?」
「あぁ、別に構わないけど」
今日は色々あって疲れたが、少しぐらい付き合うか。恋人だし。
静かな住宅街の中を二人で歩く。人気はなく、街は静まり返っていた。
なぜかこの辺の地理に詳しくないはずの千秋が半歩前を歩き、俺をどこかへ連れて行こうとしているようだった。
道は徐々に住宅が少なくなり、左手には山が見えるようになる。確かここをまっすぐ行くとそこそこ広い公園があったような。そこに行きたいのだろうか。
予想は的中し、千秋が向かっていた場所は公園だった。外灯の光は弱く、時折点滅している。遊具にもベンチにも人影はない。
千秋が俺の手を握り締め、空を見るように促した。
「綺麗な星空ね」
「あぁ、そうだな。とっても綺麗だ」
「そこは、君の方が綺麗だよ、とか、気の聞いた言葉が欲しかったわ」
何じゃそれと苦笑いを浮かべる。
雲はなく、空にはたくさんの星が瞬いている。もしかして千秋は二人きりでこれを見たかったのだろうか。そうだとしたら中々にロマンチストだなぁ。
ベンチに並んで腰掛け、黙って寄り添い合う。恋人というのは温かくていいものだな。寄り添う千秋の温もりを感じながらそんなことを思った。
ふと、遠くから足音が近づいてくるのが聞こえた。ゆっくりと顔を上げ、こちらに向かって歩いてくる人物へと視線を移す。
幽霊のようなフラフラした足取りに合わせるように、二つに結んだ髪がゆらゆらと揺れる。
「やっぱり……黒川さんの仕業だったんですね……」
そこにいたのは、智絵里だった。
シュシュは手首を覆い、可愛らしくてなおかつ大人しめの服に身を包んだ、いつもの智絵里。
だが、瞳は虚ろで光がない。千秋を見つめているようで見つめていないような、明らかに異様な雰囲気だ。
智絵里は何の躊躇いもなく腰から大振りの包丁を取り出し、構える。
――あの時、埋めればよかった。
ぼそりとうわ言のように言った智絵里の呟きは、聞き取れなかった。
「智絵里、落ち着けっ!!」
「下がって、プロデューサー」
身を乗り出した俺を、千秋が制す。
千秋はベンチから立ち上がり、ずっと横に抱えていた包みを開けた。中から現れたのは小さな剣。
「千秋……お前、それ……」
細長い刃に、見事な装飾の柄、手を覆う金属……武器に関してはあんまり詳しくはないが、多分レイピアだ。千秋の持つそれは模造であって欲しいが、模造に見えない。
「…………」
智絵里は据わった瞳で千秋を睨んでいるだけで、大したリアクションはない。
「……今度は、あなたが負ける番よ、智絵里」
千秋は腰を少し落とし、レイピアの切っ先を智絵里の喉へと向ける。
智絵里は剣を向けられているのにも関わらず、不敵な笑みを浮かべるだけだった。
……もはや彼女は、俺の知っている智絵里ではない。
俺の知っている智絵里は、臆病で、自分に自身がなさそうで、おどおどしてて、失敗が多く怒られては落ち込んで、失敗すると泣いて、それでも一生懸命レッスンに明け暮れて、仕事に成功したら喜んで、おいしいものを食べては幸せそうな表情を浮かべて、今ではもうトップアイドルの一人である、可愛い女の子だ。
傷つけるために大きな包丁を持ち、本物の剣を向けられても悲鳴一つどころか驚きもせず、怖がりもしない少女を俺は知らない。
――お前は一体誰なんだ……緒方智絵里……。
寝ます
まだ続きます
二人は睨み合い、視線だけで牽制し合っているようだった。
先に動いたのは智絵里。レッスンで鍛えられた瞬発力で一気に千秋に接近。包丁を振りかぶり、千秋の頭めがけて勢いよくそれを振り下ろす。
千秋は襲いかかる刃を柄で殴りつけた。包丁の軌道は逸れ、虚空を切り裂く。
「……ッ?! 智絵里、やめろっ!!」
智絵里は左手で腰からもう一本の包丁を引き抜き、目にも止まらぬ早さで千秋の腹部めがけて突き出す。
思わず目を閉じるのと同時に、鋭い金属音が響いた。目を開いて確認すると、千秋は完全な奇襲であったもう一本の包丁を弾いたようだった。
千秋はもう一度レイピアを構え、智絵里は両手に包丁を持ちながら千秋の出方を伺っている。
千秋が智絵里の喉を狙ってレイピアを突き、避けた智絵里が包丁でレイピアの刃を弾いた後、もう一方の包丁を振るう。千秋は戻したレイピアの柄でそれを受け止め、半歩下がってもう一度突きを繰り出した。
接近戦での二人の足裁きは、トップアイドルを目指して必死に練習していたダンスのそれと、非常に似通っていた。二人の動きは機敏で、軽やかで、常人ではとても真似できそうにない。
あんな至近距離で、命を容易く奪う武器を思いっきり振るって、嫌な金属音を幾度となく鳴らせながら、ひたすらに肉迫を繰り返している。半歩下がっては一歩前に出て、押されたら押し返すの繰り返しだった。
二人が命を奪い合うことに恐怖しているようにはとてもじゃないが見えない。互いに相手の命を狩り取るために必死になっている。二人を見て感じたのはそれだけだった。
ずっと激しい動きをしていたせいか、二人に既に疲れの色が見えていた。
甲高い音と共に、智絵里の左手にあった包丁が遠くへと弾き飛ばされる。同時に智絵里の振るった包丁が千秋のレイピアを半分にへし折った。
「もうやめろ、こんなことして、何になる……? 頼むから、もうやめてくれ!」
俺の声に二人が耳を貸す気配は感じられない。二人は、本気で殺し合いをしていた。
智絵里と千秋はもはや肩で息をしている状態だった。己の残った体力を振り絞るように力を込め、二人は走る。智絵里と千秋が互いに接近し、思いっきり刃を振るった。
智絵里が千秋を狙っていたのに対し、千秋は明らかに包丁に狙いを定めて振っていた。結果、智絵里の最後の包丁が弾かれる。残ったレイピアも全身にヒビが入り、今にも砕けてしまいそうだ。
荒い呼吸を整えながら、千秋が口を開く。
「私の勝ちよ……もう諦めなさい。そして、認めなさい。プロデューサーは、私を選んだの」
智絵里は俯いた。直後、脱力したように膝を付き、体を支えるべく地に手をつける。
泣いているらしく、雫が何滴か地面に落ちるのが見えた。
「Pさん…………ごめんなさい」
「…………智絵里」
泣きじゃくる彼女に対して、かける言葉が何も思い浮かばなかい。ただただ、痛々しい姿の智絵里を見て、胸を痛めるだけだった。
「……Pさん……来世は、私と恋人になってくれますか……?」
質問の内容はとてもぶっ飛んでいたが、ここで承諾して多少なりとも気休めになるのだったら、千秋には悪いが喜んで了承させてもらおう。
「あぁ、分かった……約束だ……」
「……よかった、です……ありがとう……Pさん……」
智絵里はゆっくりと立ち上がり、俺に向かって小さく笑みを浮かべた。さっきまでの狂気が微塵も感じられない、普通の笑顔。可愛らしくて、向日葵のように温かい笑顔だった。
どこかおぼつかない足取りで、智絵里はどこかへ歩いていく。少しの距離を進んだ後、智絵里は足を止めた。
街灯の光を反射し、小さく煌く何かが智絵里の足元に落ちていた。
「智絵里……やめろッ!!」
「智絵里!!」
考えるよりも先に体が動いた。千秋も気づいたらしく、彼女の名前を叫ぶ。
智絵里は落ちていた包丁を拾うと、シュシュを外した。その後、何の躊躇いもなく手首を切った。
手首の傷口からは血が溢れ出し、地面を黒く染め上げる。智絵里はずっと俺の名前を、うわ言のように呼びながら、座り込んだ。
駆け寄り、自分のワイシャツを脱いで彼女の傷口に押し当てた。これが正しい応急処置なのかどうかは分からない。とにかく止血のことだけしか頭には浮かばなかった。
「千秋、今のうちに家に帰るんだ……ここは俺に任せろ」
「分かったわ。また後で、プロデューサー」
とりあえずこのまま残っていると厄介なことになりそうな千秋を先に帰らせ、その後、智絵里の携帯を使って急いで救急車を呼んだ。
智絵里は小さな声でずっと俺の名前を呼び続けていたが、その内、気を失った。
駆けつけてきた救急車に智絵里を預けた後は、しばらく放心していた。
俺は待機するよう指示されていたので、そのまま後に来る警察を待った。思ったところでどうしようもない後悔を繰り返しながら。
★
ずっと、どうしてこの結果に行き着いてしまったのかを考えていた。
どうして俺は二人が争っている時、止めれなかったのだろう。止めようと思えば、身を挺してでも止められたはずなのに。
ただずっと、目の前の出来事をどこか遠い所で起きている他人事のような感覚で、それを見ているだけだった。
下手したらどちらかが死んでいてもおかしくない状況だった……。勝敗が偶然最善のものだっただけで、二人の様子から察するに、片方が死ぬというのは十分にありえた。
動けなかった理由が思いつかないのも自己嫌悪に拍車をかける。
俺はあの時どうして動かなかったのか、自分でも分からないのだ。
俺は、最低だ……。
「プロデューサー、そんなに自分を卑下しないで……プロデューサーは最低なんかじゃないわ……私の最愛の人で、最高のパートナーよ」
「千秋……」
「プロデューサー……もう、何もかも決着はついたの……だから、過ぎ去ったことにこれ以上心を痛めないで」
「…………」
「プロデューサー、私の手をとって……私が絶対に、あなた幸せにするから……」
「…………」
「プロデューサー……!」
差し出されたその手に、自分の手を重ねる。
とても温かくて、心地よかった。
ありがとう…………千秋。
★
千秋と恋人になって、早くも二年の月日が流れようとしていた。
アイドルを辞めた千秋は、父親の反対を乗り切って俺の事務所で事務員として働いてくれることになった。
アーニャは順調に実績を作り、今では全盛期の千秋達に遅れを取らないくらいのトップアイドルだ。コネやツテを駆使したとはいえ、トップアイドルになるには才能も必要だ。やはりアーニャにはそれがあったのだろう。彼女は今もアイドルをがんばっている。
最近はプロダクションの業績も良く、新しいプロデューサーや、事務員、アイドルも雇い、こっちも順調だ。
一つ問題があるとすれば、それは文香の存在だろう。
文香は事務所から枕を強制され、プロダクションを辞めたい。でもアイドルは続けたいから、どうか引き取って欲しいという話を俺にしてくれた。
流石に見過ごせず、文香を引き抜きたいという話を文香のプロダクションに伝えたところ、あっさりと承諾された。
文香も人気のあるアイドルで、清楚の塊で文学少女という中々いない逸材だというのに、なぜなのだろうと疑問しか浮かばなかった。
実は枕云々の話は全て文香の嘘で、俺は文香に騙されていたというのがオチだ。まぁ、ここまでなら別に問題でもない。文香はアイドルを続けてくれているし、基本的にいい子だから。
問題なのは、文香がいまだに俺を諦めていないらしく、積極的なアプローチを容赦なくしてくるところである。
「プロデューサー……隣、失礼します……」
俺がソファに座っていると当たり前のように横に座り、体を俺に預けながら黙々と読書を始めたり、不意を突いてキスをしてきたりと、中々に過激である。もちろん千秋が黙っていないが、文香は泥棒猫は黙っていてくださいと一閃し、聞く耳を持たない。
さらに問題なのは、アーニャが文香の真似をし始めるという暴挙に出たところだ。
「プロデューサー……その、疲れたので膝をお借りします」
そう言って俺の返事を聞かずにさも当たり前のように膝に頭を預けるアーニャ。こんなことが毎日のようにある。文香が不意をついてキスをすればアーニャも負けじと頬や首にキスをする。千秋は今にもレイピアを取り出しそうで危ない。
「プロデューサー! 私というものがありながら、これはどういうことかしら?」
「ま、待て……言っても聞かないんだよこの二人!」
「あなた達も、妬ましいからって横取りするような真似はやめて」
「いやです」
「右に同じです」
本を読みながらしれっと答える文香と、無表情できっぱりと告げるアーニャ。本当にもう……なんでこいつらは……。俺もただただ呆れるばかりである。
千秋に嫌な思いをさせたくないから、文香やアーニャを避けた時期もあったが、無駄だった。距離を離そうとすると、なりふり構わず纏わり付いてくるのだ、この二人は。同じ事務所にいる内は諦めざるを得ない。
千秋は毎日のように文香やアーニャ達を怒鳴り、二人は涼しい顔をしてそれを無視する。これが今の日常だった。
三人を見ていると、時折智絵里の笑顔が頭に浮かぶ。
智絵里はあの日、意識を失った後、部分的な記憶喪失になった。トップアイドルということもあり、面会はできなかったから本当かどうか確かめようがなかったのだが、智絵里のプロダクションにいる知人の情報によると事実らしかった。
その部分的な記憶喪失というのが、つまり俺のことである。今の智絵里は俺のことを一切覚えておらず、思い出すこともできないらしい。
正直なところ、このまま思い出さないほうが智絵里のためだと思う。
いつまでも俺なんかに囚われずに、幸せな人生を彼女には送って欲しい。
俺はいまだに彼女達に囚われたままだ。
目の前で一人騒ぐ千秋、読書をしている文香、千秋に反抗しているアーニャ、三人を見てそう思った。
情けないことに、俺はそれを見て苦笑いを浮かべることしかできなかった。
ごめん、千秋……。
★
夕暮れの事務所。いつもは人が増えて多少なりとも騒がしい事務所だが、今は静かだ。ちょうど皆で払っているらしい。
コーヒーを淹れ、椅子で寛いでいると、玄関の扉をノックする音が静かな事務所内に響き渡った。
事務所の人間ならノックせずに開けるだろうから……来客か。
椅子にかけていた上着を手に取り、着る。数秒かけて身だしなみを整えた後、来客に応じようと事務所の扉を開く。
来客の姿を確認して、俺は思った。
多分、死ぬまで彼女達から逃れられることはできないんだろうなと。
\(^o^)/オワッタ
最後のエンディングも近日中に投下します
前に分岐って言いましたが、よくよく考えると分岐じゃなくて平行世界みたいなものでしたごめんなさい
>>603から
「今度こそ……ずっと私を見守って……Pさん……」
ぼやける視界を何とか定めながら、いつの間にか目の前に立っていた智絵里へと視線を移す。
彼女は身を屈めて目線の高さを同じにしたかと思うと、どこからともなく取り出した四葉のクローバーを口に含み、その状態で顔を近づけてきた。
抵抗することも叶わず、智絵里のキスを受け入れてしまう。智絵里は舌で、唾液に包まれた四葉のクローバーを俺の口内へと押し込んだ。
ぼんやりとした頭と気怠い体のせいでもはや何もすることができずに、智絵里が送り込んだ四葉のクローバーを体内に収めてしまう。
「……ち……えり……」
意識を失う直前、アーニャの姿が浮かんだ。こんなところで、倒れるわけにはいかない。
ガクガクと震える両腕に力を込め、力が抜けそうになる体を必死に支える。目の前にいる智絵里の両腕を掴みながら、立ち上がる。
「P……さん……?」
「俺は、智絵里の想いには答えられない……悪いけど、諦めてくれ……」
「………」
智絵里は驚愕しながら、動かない。
「それじゃ……智絵里……また今度、ゆっくり話そう……」
壁に手を付きながら、ゆっくりと玄関へ向かう。意識が朦朧としていて、気を抜いたら一瞬で倒れてしまいそうだった。
「……待って……Pさん……私を……見捨て、ないで……」
俺がようやく玄関に着いたところで、慌てて追いかけてきた智絵里は、今にも泣きそうだった。
「見捨てないし、約束通りずっと見守っている……だから、がんばれ……智絵里」
倒れこむようにして扉を開ける。外は薄暗く、今も雨は降っていた。
「いかないで……Pさん……」
「さようなら、智絵里」
扉が閉まるその瞬間、智絵里の頬を涙が伝っているのが見えた。
ごめん、智絵里……。
★
時間が経つと徐々に意識は回復し、体中を襲っていた脱力感もなくなっていった。
事務所に戻ると、ソファにアーニャが座っていた。
「プロデューサー、おかえりなさい」
「ただいま」
できる限り、いつも通りに返す。アーニャはまだ年頃の少女だ。ここで下手に避けたりして傷つけると仕事にも響く。
椅子に座り、パソコンを開いて事務処理を始める。アーニャの仕事の量の割に、やらなければいけない事務仕事は少なかった。
「プロデューサー……少し、話がしたいです」
気がつけば、すぐ横にアーニャがいた。今の彼女は感情の機微に乏しく、今どんなことを思っていて、何を伝えたいのかが読めない。
「いいよ」
椅子を少し回し、アーニャに視線を移す。
告白の返事の催促だろうか、それとも普通に仕事の相談だろうか。
「…………」
「…………?」
アーニャは十数秒の間、黙ったままだったが、少しすると口を開いた。
「……私はずっと、一人ぼっちでした……幼い頃から、今まで……ずっと」
「…………」
俺はそれに対してどんな発言をすればいいのだろう。何も言葉が見つからない。
「パパとママは生まれてまもない頃に亡くなり、その後は親戚にお世話になって生きてきました」
アーニャは俯き、辛そうに表情を歪める。
「友人はいます……ですが、どこか距離がありました……原因は分かっています……この容姿と、雰囲気が日本人とは違うからだと思います」
確かに、アーニャはどこか近寄りがたいような雰囲気を持っている、俺はあんまり気にしたことはないが。容姿も日本人とは違うけど、とても綺麗だと思う。青い瞳とか銀色の髪とか。
まぁ……身長も高いし、容姿端麗ということもあって、学校では浮いてしまうかもしれない。
「私はいつしか、笑顔を浮かべることができなくなりました…………一人ぼっちの学校と、一人ぼっちの家を行き来するだけの毎日……私の生活は、それだけで、笑うところが何もなかったのがいけなかったのかもしれません」
――でも、そんな私を救ってくれた人がいました。
「アイドルになって、少しだけでも何かが変わるなら……そう思って、私はプロデューサーについていきました」
アーニャが椅子に座る俺に手を回し、抱き寄せた。
「プロデューサーは、私を変えてくれた……笑うこともできました……一人ぼっちじゃなくなりました……」
抱きしめる手に力が篭る。
「でも、同時にプロデューサーのことが好きになりました……ずっと事務所で、二人きりでいたい……触れたい……愛されたい……そう思うようになりました……でも、我慢しました……プロデューサーを困らせたくなかったから……」
「……アーニャの気持ちは分かった……今はその気持ちに応えることはできないけど、すごく嬉しいよ」
「プロデューサー……」
アーニャは顔を伏せた。俺は彼女の頭を撫でながら、諭すように告げる。
「アーニャがいつか引退して、まだ俺のことを好きでいてくれたら、その時はアーニャの想いに応える……これじゃ、ダメか?」
「!! ……ダメじゃないです、プロデューサー……とっても、嬉しいです」
アーニャは本当に嬉しそうな表情していた。こんなにも可愛いのに、どうしてずっと一人ぼっちだったのだろう。
「ありがとう……プロデューサー」
しばらく俺に抱きついていたアーニャは、仕事があることを思い出したらしく、仕事に行ってきますと言って、自分の荷物を持って事務所を出て行った。
俺にはアーニャがいる。いつまでも、他のことばかりに頭を悩ませている時間はない。
早く全てを終わらせよう、断ち切れば、いずれ彼女達は諦める。文香に関しては辛いところもあるが、そこは賭けだ。
★
俺はその日の夜、千秋に電話をした。
『プロデューサーの方から電話してくるなんて珍しいわね、どうしたの?』
「千秋、もう電話をするのも、会うのもやめよう」
『……どうして? どうしてそんなこと言うの? プロデューサー』
「千秋には悪いと思っている、でもいつまでもこんな関係を続けるのがいいことだとは思っていない。だから――」
――さよならだ、千秋。
必死に呼び止める声を無視して、通話を切った。その後も、絶え間なく着信が来る。
もしかしたら傷つけたかもしれないが、俺は知らない。なんと罵られようと、今後一切彼女に関わらない。
後は、文香か。千秋からの着信を切りつつ、俺は文香にメールを送った。
『もう関わるのはやめよう。さようなら、文香』
一方的な内容だと自分でも思う。だけど、これでいい。これぐらいしないと、きっと聞かないだろうから。
メールアドレスを変えて、携帯を放り投げる。携帯はずっと小さく点滅していた。
これでいい。多少なりとも彼女達は傷ついたかもしれないが、このまま関係を続けてもいずれもっと傷つくだけだ。無責任だとは思うが、ここで終わらせて正解だ。
俺にはアーニャがいる。それ以外に、いつまでも囚われている場合じゃない。
★
自己完結していたが、すんなりとうまく行くとは思っていない。
数日後、案の定、アーニャの楽屋には文香が踏み込んできていた。
「……プロデューサー……どういうこと、ですか……?」
「俺は言ったぞ。もう関わらないと……無責任で、全てを投げ出しているだけなのは自覚しているが、俺はもう過去に振り回されるのはやめた」
ちらりと、後ろにいるアーニャに視線を送る。
新しく作ったアイドルプロダクションと、新しい担当アイドルと共に、前に進む。二人で、トップを目指す。
俺がやるべきことはそれだけだ。
「脅迫の件を……覚えていないんですか?」
珍しく文香は焦っているようだった。感情がこんなにも表情に出ている文香はあんまり見たことがない。
「千秋には悪いと思っている。身体の傷に関しては謝っても謝りきれない……文香の行動次第では多大な迷惑をかけることになるだろう…………だけど、俺は関わらない」
できれば、愛想を尽かして欲しい。そうすれば、全員が不幸にならなくて済む。
「……そんな……どうして、ですか……プロデューサー……!」
縋るように、俺に向かって伸ばされた文香の手。それを遮ったのはアーニャだった。
アーニャは俺の手を取ったかと思うと、顔を寄せ、触れるだけのキスをした。避ける間もなく、反応もできず、呆気に取られてしまう。
「プロデューサーは私のもです。あなたには渡しません。鷺沢文香」
「…………嫌」
文香は瞳を潤ませ、大粒の涙を零す。彼女が涙を零す姿はとても美しかった。
文香は逃げるように立ち去り、アーニャは小さく笑みを浮かべた。
「……まったく、いきなりあんなことするなよ……びっくりした」
「ごめんなさい、プロデューサー」
でも、これできっと文香も諦めてくれるだろう。写真がどうなるかは分からないが、もしも最悪の事態に陥ったら、その時は覚悟を決める。
まだ少し気がかりがあるものの、これでようやく全てが終わったのかもしれない。
疲れた……。
「そろそろ時間です……行ってきますね、プロデューサー。私のこと、見ていてください」
アーニャが舞台へと出る。観客席からは歓声の嵐が発生した。
「がんばれ、アーニャ」
曲が流れ始めると徐々に会場は静まり返り、アーニャは前を見据えて歌を歌い始める。
人形のように完璧な容姿をした、白銀の娘アナスタシア。
この子なら、きっとすぐにトップアイドルになれるだろう。
雪を連想させるような青と白の衣装に身を包み、透き通るような透明感のある綺麗な歌声を皆に届ける。
とても可憐で、儚くて、美しかった。
☆
遠い夜空に浮かぶ星達のように、いつかその輝きを失うまで、歩き続けよう。
いつか光を失い、堕ちる私を受け止めれくれる人は、すぐそこにいる。
だから、惜しみなく、その人のために輝こう。
私が消える、その日まで――
後は後日談で終わりです
★
あれから一年後、アーニャが突如として行方不明となる。すぐに警察に連絡したが、手がかりがまったく無く、まさに神隠しのようだった。
アーニャがいなくなって三日後、アーニャの携帯から連絡が来た。
電話から聞こえてくる声はアーニャのものではなく違う人間の、忘れもしない、文香の声だった。
とある場所に来るように言われ、時間を指定される。誰かにこのことを言ったらアーニャがどうなるか分からないと、文香は言った。
俺は言いつけを守り、誰にも言わず、一目散に指定された場所へと向かう。指定された場所は、人気のない山奥だった。通路が途中で微妙に途切れていたりするような、そんな山だ。
暫くの間、そこで待った。俺が着いてから数分後、指定された時間を少し遅れて車の音が聞こえた。
一台の自動車がこの山奥に来ていた。車の中からは千秋と智絵里が降りてくる。アーニャの姿は見当たらない。
二人も見た目は変わらない。ただ、どこか雰囲気が重く、それでいて異質だった。この二人は危険だと、本能が告げている。
文香だけでなく、この二人も関わっているとは、一体どういうことなのだろう。
「頼むから……アーニャを返してくれ」
「……考えておくわ」
ここまでしておいて、すんなり返してくれるわけはなかった。
千秋が黒くて質量のある物体をこちらへと投げて寄越す。誰がどう見てもスタンガンだった。ずっしりとしていて少し重いそれを拾い上げる。
「それを自分に使って、プロデューサー……抵抗したら、あの女の命はないわ」
「……痛いかもしれませんが……我慢してくださいね……Pさん」
智絵里はふんわりとしたワンピースに身を包んでおり、腕は晒されている。手首には切り傷が多く、喉にも引っかき傷のようなものが多数見えた。
「智絵里……お前……」
「プロデューサー、早くして……」
智絵里の傷の理由を訪ねようとするも、千秋に急かされてしまう。
俺が二人の言うことを聞かないと、アーニャが殺される。冗談を言っているようには見えないし、悪質な冗談を言う必要もない。
「…………くそっ」
スタンガンの電源を入れ、自らの腕に押し当てた。強い電流が全身に走り、体が動かなくなる。
意識を失うまでは至らなかったものの、激痛と痺れが強く、もはや自分の意志では体は動かない。
そんな俺を二人は抱えて引き摺り、車の後部座席へと入れた。両手を後ろに組まされてから手錠を嵌められ、寝かせられる。
数十分後、体の自由は取り戻したが、いつの間にか両足にも錠をつけられており、もはや逃げることはままならない状況へと陥っていた。
千秋の運転でたどり着いた場所は、大きな豪邸だった。高い木々に隠されるように、山奥にそれはあった。
俺はそこへ連れて行かれ、大きな玄関を通される。
智絵里も千秋も、何も喋らない。ただ黙って、俺をどこかへと連れて行く。
連れて行かれた広い部屋には足首を鎖で繋がれたアーニャと、近くで静かに読書をしている文香がいた。
「プロデューサー……!」
「アーニャ!」
鎖を引きずって鳴らしながら抱きついてくるアーニャを受け止める。特に目立つような外傷はないが、大丈夫だろうか。
「……お久しぶりです……プロデューサーさん……」
文香が本を閉じてこちらへと視線を向けた。
「どういうことか、説明してくれるんだよな?」
怒気を含ませた声で、三人に問う。三人は武装していないが、両手両足を塞がれた状態ではとてもじゃないが反抗できない。
「……Pさんを……皆で協力して皆のものにしようってことになったんです」
「私も、それに賛成したの」
「……右に同じです」
「智絵里達が何を言っているのか、俺には全然理解できない!」
これは、本当に智絵里達なのか? 目の前の少女達が、俺のよく知る智絵里達かどうか分からなくなっていた。非現実的で、意味が分からない。
「どうしても、プロデューサーが欲しかったの……捨てられても、諦められなかった……」
「これは犯罪なんだぞ? 警察だって動いている。自覚はあるのか?!」
「……犯罪を犯してでも、Pさんが欲しかったんです……おかしいですか?」
「おかしいよ! おかしいに決まってるだろ!」
俺がいくら怒鳴ろうとも、千秋と智絵里は要領を得ないと言った感じで首を傾げている。
本当に、どうしてしまったんだ……。あまりにも異様な三人を見て、俺は言葉を失った。
「……だから、プロデューサーさん……ここで五人、静かに暮らしましょう?」
「ふざけるなっ!!」
未だに脳の理解が追いついていない。文香が何を言っているのかが分からなかった。
「Pさん……ずっと一緒ですよ……えへへ……夢みたい……」
智絵里は笑った。それはよく知っている、昔から何ら変わらない普通の笑顔。なのに、何かがおかしかった。その違和感には気づけない。
「プロデューサー……ずっと一緒よ……もう、離さないから……」
千秋は腕を組みながら、そんなことを言った。あんなに理知的な女性だった千秋はどこへ行ってしまったのか。
「……プロデューサーさん……もう、諦めてください……」
青みがかった瞳が、いつの間にか目の前にあった。文香の青い瞳はどこか暗く、まるで深海のような瞳だった。
「どうして……!」
喉まででかかった言葉が、出ない。もはや何を言っても無駄な気がしてならなかったからだ。
「プロデューサー……」
アーニャは震えながら、泣いていた。
――俺は、選択を誤ったのか……。
もっと、しっかりと向き合って、解決するべきだった。
後悔しても、遅い。
もう、取り返しがつかなそうだ…………。
その日から、アーニャと俺を含めた五人の歪んだ生活が始まった。
智絵里や千秋、文香は今でも仕事をしているようだった。三人全員が仕事に行くことはあまりないが、毎日一人か二人は仕事に行っている。
当たり前のように、俺とアーニャの外出は認められなかった。
俺もアーニャ同様軽い拘束をされ、二人で身を寄せ合って数日を過ごした。
「プロデューサー。どうして、私達を拒絶するのかしら」
「……うるさい。もう放っておけ」
困ったような表情の千秋に、素っ気なく返す。
「……プロデューサーさん……どうして逃げるんですか?」
「…………放っておけって言っただろ! もう俺達に近づかないでくれ!」
立ち上がって睨みつけ、近づいてこようとする二人を牽制する。
数日間、俺はずっと近づく智絵里達を拒否していた。どうしても三人が受け入れられないからだ。
しばらくすると皆身を引いてくれるのだが、今日は違った。
文香がおもむろに、白い粉を取り出しこちらへと投げたのだ。
「……寿命が縮むのであまり使いたくないのですが……それ以上、私達を拒絶するなら……使います」
「なんだ……これ……」
薬……? これを使った所でどうなる?
「それは麻薬よ」
「麻薬?!」
なんでそんなものを持っている……。
まさか、千秋達は、麻薬を使っておかしくなったのか?
「勘違いされるのも嫌だから断っておくけれど、私達は誰一人使っていないわよ……使うのは、プロデューサー……」
「誰が使うか!」
「……私達が無理にでも入れるんですよ? ……プロデューサーさんの意志は関係ありません」
文香は真顔で、そう告げた。あまりにも鬼畜で無慈悲すぎるその言葉に、思わず耳を疑う。
「……冗談、だよな?」
麻薬を俺に使うなんて、そんなこと……そんなことが……あり得るわけ、ない。
「冗談を言っているように見えるのかしら?」
「……これ以上……反抗するのなら……使います」
――依存性が高いので、すぐに私達を受け入れたくなりますよ?
目の前の少女達は、いつからこんな風になってしまったのだろう。
涙が頬を伝うのを感じたが、拭う気も起きなかった。その内、千秋が舌で涙を舐め取った。
結局、その時から俺は抵抗するのをやめた。
★
「プロデューサー、好き……大好き……」
千秋は座り込む俺を抱きしめながら、何度もキスをしたり、首を甘噛みしたりと、好き勝手にやっていた。
背後では文香が壁を背に本を読み、智絵里は今は仕事でいない。
アーニャは俺の左腕を抱きしめ、特に何も言わずにじっとしていた。最近はアーニャも色々としてくるようになった。拘束されているだけで、千秋や智絵里達と同じ扱いだということを理解したからだ。
文香も、智絵里も、アーニャも、千秋も、それぞれが毎日のように俺に愛情を求めてくる。俺は無心で、それに応えるだけの毎日だった。
償いでもある。皆を変えてしまったのは紛れもなく俺だから。
――俺は選択を誤った。
ごめんな、皆……。
完結しました。
読んでくださった方、レスしてくださった方、ありがとうございました。
また見かけたら、よろしくお願いします
このSSまとめへのコメント
完結期待してます
ゆっくりオナシャス!
完結おめでとうございます
なかなか楽しめました。
乙、こうなるとはな。
お疲れ様です。
内容の整理に時間がかかりましたが、
とても面白かったです。
面白かったです。
この人の書くss惹かれるものがあるけど
これはなかなか来るものがあるね
俺やっぱりハッピーエンドが好きだなって実感した
壊れてしまった物語
名先