【TOX2】 R1 ミラの手を離さない (30)
このSSはテイルズオブエクシリア2のIFものです。
原作で死んだキャラクターが死ななかったり、原作で死ななかったキャラクターが死んだりします。
タイトルはこんなんですが、分史ミラ、ほとんど出ません。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1391602174
◇◇◇
エレンピオス首相の乗る、旅船ペリューンの中央ホールにて。
"本物の"ミラ=マクスウェルを呼び出そうとする、その儀式は完了を迎えようとしていた。
広大なホールの大部分を飲み込むように、次元を裂いて出現した大穴が開いている。
まるで巨大な落とし穴の様なそれは、マクスウェルを縛っている時空の狭間へ通じる入り口だ。
マクスウェルは四大精霊の力で消滅から免れているが、彼女以外の者がそこに落ちれば消滅は免れないだろう。
「粘るねぇ……」
リドウ・ゼク・ルギエヴィートは冷ややかな嘲笑を口元に浮かべ、大穴の縁からその光景を見ていた。
時空の狭間に落ちかけている女性の手を、異形の青年が必死に掴んでいる光景を。
落ちかけているのは"偽物の"マクスウェル――分史世界から"鍵"の力によって連れられてきたもう一人のミラだ。
それを助けようとしている青年はルドガー・ウィル・クルスニク。
形式的にはリドウも所属するクラン社のエージェントであり、本来ならその偽物のマクスウェルを殺して然るべき立場にいる人間だった。
偽物のマクスウェルが正史世界に居座り続ける限り、本物のマクスウェルはこちらに来られない。
それはつまり、最後のカナンの道標が存在する分史世界への扉が開かれないということを意味する。
クランスピア社のエージェントが果たすべき役割は、分史世界の破壊と道標の収集だ。
だから役職から考えれば、ルドガーもこちらに協力して当然なのだが、
(まあ、そんな展開になるなんて思ってなかったけど。まったく。"道標"が手に入らなきゃどの道みんな死ぬっていうのにさぁ……)
人類に課せられたオリジンの審判――5つのカナンの道標を集め、カナンの地にいる大精霊オリジンの下に辿り着くという試練。
無事にオリジンの下に辿り着けた場合、その者の願いをオリジンはひとつだけ叶えるという。
だが逆に、定められた"時間制限"までに試練を達成できなければ――
少なくとも、人間にとって愉快なことにはならないだろう。世の中そういうものだ、とリドウは鼻を鳴らした。
だから偽物のマクスウェルは、何としてでもここで始末せねばならない。
(世界を救うために……なんて柄じゃないし、実際そんなものはどうでもいいけど)
それでも自分が成功し、成り上がっていくために、この世界はまだ必要だ。
放っておいても、いずれ偽物のマクスウェルは狭間に落ちるだろう。
ルドガーはクルスニク一族のごく少数に発現する"骸殻能力"まで用いて術に抗っているが、それも長くはもつまい。
――それでも、逆転される目があるというのは我慢ならないものだ。
リドウは足元にうずくまっている小さな少女に目を向けた。
「あきらめちゃダメ、ミラ――!」
叫ぶのはエル・メル・マータ。ルドガー達と一緒に行動している、正体不明の少女。
だがおそらくは彼女こそが――
(なら、この餓鬼を殺すわけには行かないが……焦らすくらいには使えるだろう)
リドウは小刀を取りだし、これ見よがしにエル目掛けて振りかぶる。
「――お前は、諦めろ」
さあ、その偽マクスウェルの手を放し、この少女を助けにこい。ルドガー・ウィル・クルスニク。
◇◇◇
次元の狭間に通じる大穴の縁で、ルドガーは二つの光景を見ていた。
虚無に落ちかけているミラ。凶刃を突き立てられようとしているエル。
両方を救うことは出来ない。ルドガーは歯噛みしながら自覚する。その力は自分にはない。
術式に飲み込まれかけたミラを咄嗟に掴んだ自分の左腕は、引き戻そうとしてもぴくりとも動かない。
引き込む力が強すぎるのだ。もともと、この術式は彼女を正史世界から追放するためのもの。
骸殻能力で生み出した槍を穴の縁に突き刺し、それを命綱代わりにして、自分はようやくミラを支えていることができる。
状況は絶望的だ。
このままこの状態で耐えていれば、外の仲間が助けに来てくれるかもしれない。
生体回路に利用されているジュードやアルヴィンが、自力でその束縛を断ち切ってくれる可能性もゼロではない。
だが――それを待っていれば、確実にリドウの刃はエルに突き立てられる。
ならば、エルを救うことは出来るか?
おそらく、出来るだろう。この大穴から即座に脱し、リドウとエルの間に割り込むことはできる。
ただし、ミラを見捨てて、この左手を離せば、だ。
――そんなもの、どちらも選べるわけがない!
「放――して! このままじゃ、エルが!」
ミラが叫ぶ。それでも、彼女の顔には死と相対した恐怖がありありと浮かんでいる。
ミラ。分史世界のミラ。自分が破壊した世界の、ただひとりの生き残り。
滅びは彼女のすぐ傍にあった。自分が消滅することへの恐怖を、彼女はずっと胸の内に抱えていた筈だ。
それでもなお、彼女は強くあろうとする。自分を見捨て、エルを救ってと、懇願する。
それに呼応して自らの胸中に浮かんだ弱気な想いを振り払うように、ルドガーもまた声をあげた。
――しっかりしろ!
なんの足しにもならない、ただの励まし。
泣きそうな笑みを浮かべるミラに、ルドガーは更に言葉を重ねた。
――誰が、エルのスープを作るんだ!
その言葉に、ミラは僅かに目を見開いた。
「ごめん……」
――分かってくれたか。
そんな安堵が、胸を満たす前に。
「スープは、あなたがつくってあげて……」
震える声で、どうしようもない別離の言葉が告げられた。
(……え?)
ルドガーが声をあげる余地もない。
彼女を掴んでいた手が、彼女自身によって振り払われる。
骸殻で強化されているとはいえ、既に限界だった握力は、あっさりと彼女の手を離してしまった。
――あ。
時の歩みが緩慢になる。まるでその光景を、よく目に焼き付けろとでもいうように。
死の恐怖にぎゅっと閉ざされた彼女の瞳が遠ざかっていくのを、ルドガーは呆然と眺めた。
◇◇◇
(これで……良かったのよね)
元マクスウェル。分史世界のミラは、身を包む浮遊感に背筋を泡立たせながら、そう呟いた。
どうせ、この身は偽物だ。消滅した分史世界の残り滓。いずれは消える運命だった。
その価値は、まだ十年も生きていない、あの小生意気な少女とは比べるべくもない。
ここで自分が死んで、エルが助かるのが正しい。
(ああ、それでも――やっぱり、怖い……)
次元の狭間の圧力に、自分の身体が綻び始める。
精霊の力を捨てた自分に抗う術は無い。死が、すぐそばまで迫ってくる。
恐怖から目を逸らすように目を閉じた。視覚を放棄し、代わりに得たのは身を包む悪寒と――
――指先を包む、柔らかな暖かさ。
「え……?」
目を見開き、ミラはそれを視界に認める。
同じように次元の狭間を落ちながら、こちらの手を握りしめるルドガーの姿を。
◇◇◇
決断するのにそれほど時間は要らなかった。
右腕を振るい、槍を地面から引き抜く。同時に、大穴の縁を力いっぱい蹴り飛ばした。
術式の真上に飛び出し、一瞬だけ体を浮遊感が包む。次の瞬間には、それが落下に切り替わると予測しながら。
「なぁ……っ!?」
「ルドガー……?」
こちらの行動に驚愕の叫びをあげるリドウと、言いようのない不安に顔を強張らせるエル。
その両方を見ながら、ルドガーは空中で槍を投擲した。
「チィッ!」
驚愕していたリドウは一瞬だけ対応が遅れた。飛んできた骸殻の槍を右肩に食らい、壁際まで吹っ飛んでいく。
これでエルから奴を離すことは出来た。あとは、きっと仲間が上手くやってくれるだろう
浮遊が落下に切り替わる。色のある世界は遠退き、この身は底の無い、黒き次元の狭間に落ちていく。
――最後に、穴の縁からこちらを見下ろす、泣きそうな少女の顔を見た。
「待って! 待ってよルドガー! 約束! カナンの地、一緒に行くって!」
すまない、とルドガーは唇を動かす。
小さな相棒との約束は果たせそうにない。エルを裏切ってしまったという事実が胸中を抉る。
だが、それでもなお、ミラを見捨てることは出来なかった。
分史世界で彼女と出会い、こちら側に連れてきてしまった時、自分の胸を満たしたのは罪悪感だ。
彼女を騙し、自らの住む世界を破壊することに加担させてしまった。
恨まれても仕方がないことだし、その後、しばらくはどうやって接すればいいのか分かりかねた。
だけど、今は違う。
ミラへの罪悪感が消えたわけではない。だが、それを凌駕するほど強い思いがこの胸にある。
落下する闇の中、手を伸ばし、追いついたミラの手を握りしめた。
恐る恐る目を開き、そしてこちらをの姿を認めてぽかんと口を開ける彼女に、弱々しく微笑みかける。
「っ、ば、馬っ鹿じゃないの!? あなた、エルはどうするつもり」
言いかけて。
そんな問いかけは無意味だということに、すぐ気づいたのだろう。ミラは再度目を瞑り、はあ、と大きく溜息をついた。
「全く、もう――本当、馬鹿なんだから……」
泣き笑いのようなものを浮かべて、ミラもまた手を伸ばしてくる。
骸殻を解除したルドガーは、その手に応じた。その手を引き寄せ、至近で笑いあう。
――遥か頭上で、術式が砕かれる音。
差し込んでいた正史世界からの光が消え、彼らは完全な闇に飲まれた。
◇◇◇
「やだ……! やだよ、こんなの! ルドガぁーーーー!」
少女の悲痛な叫びが、ペリューンのホールに木霊する。
こうして、ルドガー・ウィル・クルスニクはその日、正史世界から姿を消した。
◇◇◇
――数時間後、クランスピア社の社長室にて。
「これは君のミスだな、リドウ室長」
クラン社の社長である壮年の男――ビズリー・カルシ・バクーは巌の様な顔つきをさらに厳めしくしながら、そう言った。
「まさか、あそこまで偽物にご執心だとは思わなかったんですよ」
相対するリドウも、苦々しげにつぶやく。その言葉に偽りはない。リドウにとってもルドガーの行動は予想外だったのだ。
(いや、本当にまずったな……これで貴重な"橋"の材料が一人減った)
頭の中で今後のことを計算するリドウ。その様子を見透かすように、薄い笑いを浮かべながらビズリーは次の言葉を放った。
「それで――どうするのかね? 最後のカナンの道標への道は開いたが、肝心の探索者が欠けてしまったぞ?」
「私が行けばいいでしょう?」
「さて、どうだろうな。気づいているだろうから隠すようなことはしないが、"鍵"の少女が君に協力すると思うかね?」
「どうですかね。抜け殻みたいになってましたけど」
リドウは思い出す。あの直後、無事にミラ=マクスウェルは召喚された。
だが、それを囲む連中の仲間に笑顔はなく、エル――本当の"クルスニクの鍵"である少女もまた、魂が抜け落ちたような無表情だった。
問題はまだあるぞ、とビズリーが続ける。
「仮に、彼女が君に協力して、だ。純粋に、道標を取ってくるための戦力が足りん」
「私では不足だと?」
「ああ、不足だ。次の道標は"最強の骸殻能力者"――未だ、ハーフまでしか骸殻能力を展開できない君に勝ち目はあるまい」
「それはルドガー・ウィル・クルスニクも同様でしたが」
「だが、彼には仲間がいた。協力してくれる仲間がな。彼らは君に力を貸すまい。
では我が社の他のエージェントをつけるか? いや、彼らも頑張ってはくれているが、それでもマクスウェルとその仲間達より実力は劣るだろう」
「……なら、どうするおつもりで?」
訊ねつつも、既にリドウは次にビズリーが口にするであろう内容が予測できていた。リドウにとって、最悪の内容を。
「ユリウスを呼び戻す」
やはりそうきたか。リドウは内心で舌打ちし、反駁した。無駄なことだと、どこかで分かってはいたが。
「ですが、あいつはテロリストとして指名手配中――」
「もともと仕組まれ、陥れられただけだろう――それはお前が一番よく知っていると思ったが?」
「……っ!」
リドウは歯噛みする。ユリウスを陥れたのは、他でもないリドウ自身だ。
「ルドガーの実兄であるユリウスになら、マクスウェルとその仲間たちも協力することに吝かではないだろう。
奴の行動は、全てルドガーを守るためのものだった。その事実を伝えればなおさらだ」
「……ちっ」
おそらく、ビズリーの言う通りになる。
リドウは目の前の男の才覚を知っている。エレンピオス一の――否、世界一の大企業であるクランスピア社の頂点は、恐ろしく高い。
彼がこうして断言する以上、それは予言と変わらない。ユリウスは戻ってくるし、マクスウェル御一行は彼に協力するだろう。
「マスコミには冤罪だったと発表させる。君は即刻、ユリウスの現在地を特定したまえ――リドウ"元"室長?」
「……っ!」
言いたいことがなかった訳ではないが、咄嗟には皮肉の利いた捨て台詞も浮かばない。
退室の礼もそこそこに、リドウは社長室から飛び出した。
中断
◇◇◇
ノブを回せば特に抵抗なく扉は開いた。
合い鍵を持つ兄が指名手配犯になっても、鍵は変えていなかったらしい。
あいつらしいな、と呟いて、ユリウスは懐かしの我が家へ足を踏み入れた。
何も変わっていない。綺麗に整理されているキッチン用品も、几帳面に清掃されている部屋も。
いや―― 一か所だけ、変わっているところはあったか。
「……こほん」
「……」
何と声を掛けて良いか分からず、注意を引き付けようとやってみた咳払いにも反応はない。
ダイニングキッチンに置かれた大きなテーブルに、ひとりの少女が腰かけていた。
入ってきたユリウスからは背中しか見えないが、彼女の名前は知っている。エル・メル・マータ。
ルドガーと一緒に居た少女であり、正史世界では失われた"クルスニクの鍵"でもある。
協力することになったジュード・マティスから聞いた話だと、彼女はあれからずっと、この家に閉じこもっているらしい。
最後の"カナンの道標"がある分史世界へ行き、それを持ち帰るには彼女の協力が必要だ。
(リドウなら"ふん縛って無理やりにでも連れて行けよ"とでも言うかな)
だが、ユリウスはそれをしない。したくない、と言った方が正確かもしれないが。
聞こえないように溜息を吐いて、ユリウスはテーブルを回り込み、エルと向かい合う。
深く俯いて視線の合わない少女に、ユリウスはそれでも声を掛けた。
「……一応、改めて自己紹介しておこうか。前に何回か会ってるけど、状況が状況だったしな。
ユリウスだ。その……ルドガーとは兄弟だった」
ルドガー。その単語に、僅かに震える様に少女は反応した。だが、それもすぐに消える。
再び降りた沈黙の帳に、ユリウスは気まずげに顔ごと視線を逸らした。
(説得なんて、俺のキャラじゃないよな……ファンからも逃げ回ってたのにさ)
窓から見えるトリグラフの夜景を眺めながら、そう独りごちる。
掛けられていた嫌疑は全て冤罪だったという各種法務処理と、メディアへの説明を終えたのが今日の昼。
その後、ビズリーから現在の状況を説明され、ルドガーと行動を共にしていたマクスウェル達との折衝。
そうやって気づけばこの時間だ――ルドガーの死からも、もう四日ほどが経つ。
疾風怒濤の勢いで周囲の状況は変化している。明日には最後の道標を求めて、分史世界に旅立たなくてはいけないというのだから。
そこまで状況を思い返して――身体に蓄積されていた疲労が噴出したのだろう。あるいは、この場所に居るからかもしれない。
僅かな口寂しさと、内臓を軽く捻られるような空腹感を覚えた。
「……腹、減ってないか?」
「……」
エルは答えない。が、減っていないということはないだろう。
聞いた話では"彼ら"が頻繁に様子を見に来ているらしいが、出された料理にはほとんど手を付けないという。
"エルの気持ちは分かる気がするんです"――彼らの一人である、ジュード・マティスは言っていた。
"エルの為にご飯を作ってくれていた二人が、同時に消えてしまったんですから"、と。
(俺だって、分からないでもないけど、な)
ユリウスは再度テーブルを回り込み、キッチンに向かった。返ってこない答えをいつまでも待ち続けるほど酔狂ではない。
「答えないならそれでもいいけどな。俺は腹が減ったから、何か食べるぞ。
といってもこの時間になるとどこもやってないし、適当に作るしかないが……」
と、そこまで言って、はた、とユリウスは気づく。
ここ最近、料理はずっとルドガー任せだった。それ以前は外食かデリバリーだったので、包丁を握った経験はほとんどない。
(……まあ、何とかなるだろう)
深く考えず、とにかく目についたトマトを使って何か作ろうと考える。
ヘタだけ取ったトマトを丸ごと沸騰したお湯に放り込み、ポテトマッシャーで押し潰し、調味料を振りかける。
そのまましばらく煮込んでどうにかトマトスープに見えるものを拵えると、二人分を深皿に移してテーブルに運んだ。
片方の皿をエルの前に置いてユリウスも席に着く。俯いた少女は相変わらずの無反応だったが。
「食べるなら、冷めないうちに食べなさい」
それだけ言って、ユリウスは自分の分のスープを匙で掬い、黙々と口に運ぶ作業を開始した。
「……ねえ」
そうしてエルが口を開いたのは、ユリウスがスープの三分の一を平らげたころだった。
かちゃり、と匙を置いて、ユリウスはスープ皿から顔をあげる。
エルも先ほどまでよりやや顔をあげて、垂れた前髪の間からこちらを垣間見る様にしていた。
「メガネのおじさんは……ルドガーのおにいさんなんでしょ?」
「ああ、そうだよ」
「悲しくないの?」
エルの持つ透き通るようなエメラルドの瞳に視線を注ぎ、ユリウスは続きを促した。
「ルドガーがいなくて、エルは……かなしいよ。約束、一緒にカナンの地に行くって、約束してたのに」
(カナンの地、か)
ユリウスは胸中でその単語を繰り返す。
カナンの地。クルスニク一族が骨肉の争いを繰り返してまで手に入れようとする甘美な果実。
その争いに巻き込まれれば、遅かれ早かれ結末はやってきただろう。こんな、幸せとは程遠い結末が。
(俺は、守れなかった。たったひとりの弟を。何を犠牲にしてでも守ると誓ったあいつを)
その意味を噛みしめるように、天井を仰ぎ見る。
これでエルがどんな表情をしているのかは分からなくなったが、同様に、少女からもこちらの顔は伺えなくなった。呟く。
「悲しいよ」
そう、悲しい。いまの自分の胸中を占拠する感情は多種多様だ。
不甲斐ない自分への怒り、どうしようもない虚脱、およそ言語化できない衝動――
だけどおそらく、一番広い面積を占めているのは悲しみだだろう。
こんな自分を兄と慕ってくれた、愛する弟を失ってしまったことへの悲しみだ。
「ルドガーは……あいつは、小さい頃から一緒だったんだ」
「生まれた時からじゃなくて?」
「色々、事情があってね。だが、あいつに関する記憶はひとつ残らず覚えてる――悲しいさ、もちろん。
たったひとりの家族が、いなくなったんだ」
「じゃあ、おじさんはどうして平気なの?」
理解できない、という困惑を声音に乗せてエルは言った。
「エルも家族はパパだけだよ。もしもパパがいなくなっちゃったら……考えるのもヤだけど、きっと、すごく泣くと思う。
あと、ルドガーとミラ……エルのミラがいなくなっちゃっても。エル、昨日までずっと泣いてたし。
もしかしたら、明日も泣くかもしれない。どうしておじさんは泣いてないの?」
その疑問を突き付けられて。
改めて、ユリウスは自分の頬に触れてみた。涙は一筋も流れていない。その痕すらない。
ルドガーが死んでから四日間、自分は一度も泣いていない。
悲しみは確かにある。だが、泣いていない。その理由をユリウスはすでに見つけていた。
「悲しいけど……大人になるとね、悲しくて泣きたいときにも、悲しくないふりをしなくちゃいけなくなるのさ」
「どうして?」
「大人にはやらなくちゃいけないことがたくさんある。それをこなす為には、泣いている暇なんてなくなってしまうんだよ」
「……エルにもやらなくちゃいけないこと、あるよ」
ぽつりと、目の前の皿に注がれた赤く濁った液体を見つめながら、エルが呟く。
「カナンの地、いかなきゃ。パパと、それにルドガーとも約束したもん」
「……そうか」
エルのその言葉に対して、ユリウスは何を言うでもなく、ただ頷いた。
それはおそらく、この少女にとって最後の分水嶺だ。
その約束が無くなってしまえば、もう少女を繋ぎとめている物は無くなってしまう。
だから――ユリウスは胸に浮かんだ本音を隠し、あえてどうでもいいことを口にした。
「なら、まずはしっかり食べないとな。腹が減ってちゃ、目的地まで歩けない」
「……うん」
エルがスプーンを手にし、少し冷めてしまったスープを口に運ぶ。
「どうかな?」
「……おいしくない」
だろうな、とユリウスは頷いた。
残ったトマトの皮の触感は最悪だし、味も調味料とトマトがそれぞれ主張し合って刺々している。
「不味かったら残しなさい」
「ううん。食べる。食べなきゃ……パパに会えなくなっちゃうもん」
それからは二人とも無言で、ただかちゃかちゃと食器の音だけが部屋に響いた。
「……ルドガー……っ」
ただ一度、俯きながら不味いスープを食べる少女が、鼻声でそう呟いた以外は。
――次の日、彼らは最後の道標がある分史世界に旅立った。
中断
再開
◇◇◇
『そんな、どうして……カナンの道標は全部そろっているのに』
きっかけは、その言葉。
『分史世界だったってことだよ! 俺たちの世界は偽物だったんだ!』
きっかけは、その激情。
『僕たちのしてきたことが……全部、無駄だった?』
きっかけは、その絶望。
当時は自分も彼らと同様、そうした黒い底なし沼のような不浄に飲み込まれた。
否定はしない。自分達の世界こそ正史世界だと信じ、数々の分史世界を破壊してきた。
その正当化の理由を失ってしまえば、行き場を失った罪悪感に飲まれるのは必定。
分史世界のミラを騙し、姉殺しに加担させ、あまつさえ彼女を真のマクスウェル召喚の為に、結果的にとはいえ生贄に捧げた。
"相棒のエル"も死んだ。とどめの一撃から咄嗟に父親を庇った彼女を、自分は誤って殺してしまった。
その事実に足がすくみ、自分は地面に膝をついた。
――だけど、それはほんの序の口だ。
時は流れた。仲間たちはここが分史世界であるという事実から目を逸らすかの如く、精力的にそれまでの仕事に取り組み始めた。
ジュードは源霊匣を完成させた。レイアは敏腕記者として名が売れ始め、アルヴィンは商売人として大成した。
ガイアスとローエンはエレンピオスとの和平を結び、偏見を取り去った。エリーゼもカラハ・シャールの学校を首席で卒業したらしい。
クランスピア社は分史世界対策室を縮小させ、兄のユリウスも無駄に力を使うことなく、穏やかな日々を過ごしていた。
そして、自分はラル・メル・マータと出会った。
"相棒のエル"と同じ色の瞳をした女性。彼女に惹かれたのは、その瞳の色のせいでもあるのかもしれない。
自分とラルは紆余曲折の末に結ばれて、やがて"娘のエル"を授かった。
ラルに対しては複雑な感情を抱いていたが、それでも同じ時を重ねるにつれ、自分たちの間には確かな愛情が芽生えていた。
幸福だったのだ――"娘のエル"が、クルスニクの鍵であると判明するまでは。
――社長、一体何を言って……
『娘を渡せ、ルドガー。そのクルスニクの鍵を譲与することを条件に、正史世界と交渉する。我々の世界を存続させる為に』
――そんなの、変だ。なあ、ジュード。何か言ってくれよ……
『……ごめん、ルドガー。でも、僕は……』
――ああ、レイア。聞いてくれよ、ジュードがおかしいんだ。疲れてるのかな……
『ねえ、ルドガー。現実を見てよ。他に方法なんて……』
――アルヴィン。これは嘘なんだろう? お前が仕掛け人になって、悪ふざけをしてるだけなんだよな?
『……ちっ。そんなんだったら、どんなにいいか……』
――なあ、エリーゼ。君からアルヴィン達に、冗談が過ぎるって……
『……冗談で、私たちがこんな悪趣味なことすると思いますか……っ!?』
『ねえ、分かってあげてよー、ルドガー……』
――ローエン。ローエンなら、きっと何か別の方法を考えてくれるだろ?
『……申し訳ありません、ルドガーさん』
――ふざけるな。俺に、俺にエルを二度も殺させる気か!?
『それをお前が言うのか。数多の分史世界を破壊し、ここに立っているお前が』
――頼む、ミラ、ミュゼ。大精霊なら分かるだろ? こんなの、正しくなんかないって……
『ごめんね、ルドガー。でも、私達の世界はここしかないの』
『私は"この世界の"マクスウェルなのだ。この世界の人と精霊を守る義務がある。
今回も"その為"に顕現した。分かってくれ、ルドガー』
有りもしない希望を信じるには、時が流れ過ぎていた。
誰もかれもが大人になり、切り捨てられる強さを獲得していたのだ――自分以外は。
だから、殺し合う他になかった。
かつて一緒に旅をした仲間たちを、殺す他に手段はなかった――
(いや……違う。ひとりだけは……違った)
『――ルドガー! よせ! それ以上力を使えば、お前は……!』
仲間たちは、世界の為に苦汁を呑んで"娘のエル"を利用しようとしたのだろう。
だがひとりだけ、純粋にルドガー・ウィル・クルスニクの為を思って仲裁に入ろうとした者もいたのだ。
――それを理解できたのが、殺してしまってから何年も経った後だというのは、皮肉という他にないが。
◇◇◇
――そこで、ようやく目が覚めた。
「ふ……む?」
重い瞼を押し開くと、ぼやけた視界に赤色が染みた。窓から見える湖の水面に、燃えるような夕日が反射している。
つい、寝てしまったようだ。エルがいなくなってから、どうにもだらけてしまっている。
ヴィクトルは頭を振りつつ、背を預けていたソファから起き上がった。
床に転がっていた、無意識で外していたのであろう仮面を取りつけながら、大きく一度伸びをする。
眠気は瞬時に去り、鋭敏な感覚が戻ってくる。同時に、その感覚のセンサーが来訪者の存在を告げた。
「……ついに、来たか」
この瞬間が来るのは知っていた。以前、自分は訪れる側だったが。
だが、その時の結果までなぞるつもりはない。
正史世界の自分をここで殺害し、オリジンの審判を越えて、正史世界の存在として再誕する。
ラルを失い、仲間をこの手で殺めてしまった時から、自分はそれだけを望んで生きてきたのだ。
玄関扉を押し開け、外に出る。赤く照らされるウプサーラの湖畔に佇む、5つの人影を見た。
エル。ジュード。ミラ。ローエン。予定通りだったその4人までを確認して、
「……ユリウス……?」
イレギュラーである最後のひとりに、思わずその名前を口にした。
◇◇◇
「さて……これは結局、どういうことなのでしょうか」
ローエンは口元をナプキンで上品に拭いながら、小声で同じ席に着くミラとジュードにそう問うた。
その視線は、この分史世界の出身であるエルを慮るような感情に濡れている。
自分たちを出迎えてくれた仮面の男はエルの父親であり、ヴィクトルと名乗った。
今は彼の邸宅に招かれ、早めの夕食を終えたところだ。
念願叶って父親に会えたエルははしゃぎ、出された料理をこれでもかというほど頬張って、そして今はソファの上で眠ってしまっていた。
久しぶりに見せる少女の天真爛漫さに思わず頬が緩くなるが、しかし、喜んでばかりもいられない。
「ここに来る前、ビズリーさんはルドガーではなく、エルが真のクルスニクの鍵だと僕らに告げた……」
自分自身に確認するような口調で、ジュードが思考を纏め始める。
エルが"鍵"であることは、分史世界から道標をどうやってもってくるのか、という点について争論になった際、ビズリーから明かされていた。
「つまり、エルはこの分史世界におけるクルスニクの鍵だっていうことになる。
ルドガーはおそらく、正史世界の鍵だったんじゃないかな」
「しかし、それでは……クルスニクの鍵には分史世界を破壊せずとも正史世界に移動し、物を持ち込める力がある、ということになりますね。
エルさんが私たちの世界に来ていたのに、この世界は今もなお存在しているのですから」
「……ええ。もしそうなら、僕たちは――」
ローエンの言葉に、僅かにジュードの顔に影が差す。
自分達は多くの分史世界を破壊し、また、そこに住む人々の存在をも消した。
その重圧は、ジュードの肩にも十分すぎるほど乗っている。
それが、もし。もっと穏便な解決手段が存在していたのだとしたら――
「いや、それはどうだろう。これまで集めたカナンの道標は時歪の因子自体と融合していた。
時歪の因子自体は、鍵の力を使っても正史世界には持ち込めないと思う」
ジュードの顔色の変化を見て取ったのか、ミラが言葉を挟んだ。
「時歪の因子は分史世界を発生させる核そのものだからな。
例えるなら、分史世界と正史世界は同じ大きさの水槽のようなものだ。
水槽の中身である魚を移し替えることは出来るだろうが……」
「水槽そのものを、もう片方の水槽に入れることは出来ない。そういうことですね?」
後を引き取ったローエンに、そうだ、とミラが頷く。続いて、僅かに顔を明るくしたジュードが声をあげた。
「でも、それならこの世界を壊さずにカナンの道標を手に入れることができるかもしれない、ってことだよね?」
「そうなるな。無論、道標が時歪の因子と同化していなければ、の話だが……」
「それは、ユリウスさんと相談しなければなりませんが」
ローエンが視界を動かす。テーブルに設けられた席は6名分。
内、エルと自分たちに宛がわれた分を除けば、二つが空になっている。
少し、二人だけで話がしたい。そう言って、その席についていた二人は屋敷の奥に連れ立って行った。
「結局――何者なのでしょうね、あのヴィクトルさんという御仁は」
◇◇◇
「ルドガー、なんだろう?」
雑多に本が詰め込まれた、ヴィクトル邸の書斎で。
ユリウスはヴィクトルと一対一で向き合っていた。だが、その間に剣呑な雰囲気はない。
あるのは気まずげな、まるで見知らぬ相手の古傷を見てしまったような感覚だった。
ユリウスの問いかけに、僅かな沈黙を挟んでヴィクトルが頷く。もとより隠す必要はない。ない、筈だ。
「……こうまで変わっても、分かるものか」
「ああ、分かるさ。何年あいつの料理を食ってきたと思ってるんだ……」
やや俯きながら、ユリウスが呟く。
確証を得たのは出された料理を前にした時のことだった。
食材の切り方の癖。食器の趣味。そして何より、もう二度と口にすることはないと思っていた味付け。
それら全てが死んだ弟、ルドガー・ウィル・クルスニクと同一のもの。
ならば、このヴィクトルと名乗った男の正体は。
「ルドガーにあった可能性の一つ。俺からみて、未来に存在するかもしれなかったルドガーだ。
この世界は、俺たちの世界よりも時が進んでるみたいだな」
「ああ。正史世界とは色々と変わっているだろう? ここまで来たのなら、完成した源霊匣はもう見た筈だ」
「確かに色々と変わったようだ――どうしてこの世界のドクター・マティス達やビズリーを殺した?」
「彼らは、私からエルを奪おうとしたのだ。正史世界との交渉材料にすると言ってな」
「……なるほどな。それで、この世界の俺も殺したのか?」
「それは――」
僅かに視線を下に逸らし、ヴィクトルは言い淀んだ。だが、すぐユリウスへと向き直る。
「聞きたいことは別にある筈だが? 君たちはカナンの道標を求めてここまでやってきたのだろう?」
「――ああ、そうだ」
言われて、ユリウスも話を逸らすのを止めにした。やめにしようと、決心した。
「残る最後のひとつは、"最強の骸殻能力者"」
妙に粘つく唇を湿らせ、唾を飲み込む。さきほど食べたトマトスープの味が、喉の奥に落ちて行った。
「――つまり、お前だ。この世界で<ヴィクトル>の称号を持つ、お前を殺さなければ手に入らない」
ユリウスは一挙動でコートの裾を跳ねあげて、腰のホルスターに収めていた双剣を抜き打ちする。
最強のクラウンエージェント。その名称は伊達ではない。
一息に五メートルの距離を詰め、それでいて僅かにもぶれない刃筋は、的確にヴィクトルの急所を斬り裂く軌道を描く。
だが、ヴィクトルはその場を微動だにしなかった。
避けることができなかった、のではない――単に、直前で止まる刃なら避ける必要が無かっただけだ。
「……私を殺せないか、ユリウス。私と、君の知るルドガーは別物だろうに」
「……ああ、そうだよ。確かに違う。弟のルドガーは死んだ。死んだんだ……」
(やはり……)
この分史世界は、途中まで確かに正史世界と同じ道筋をたどっていた。偏差からみてもそれは明らかだ。
だからヴィクトルは、本来ならここに来るのはユリウスではなく、ルドガーであると思っていた。
しかし、やってきたのはユリウスだ。ならばどこかでイレギュラーが発生したに違いない。
そんなヴィクトルの思惑を他所に、ユリウスはヴィクトルの首筋に突き付けていた短剣を退いた。
そのまま数歩後ずさり、書斎の椅子にどさりと腰を落とす。
「……もう、何度も分史世界のあいつを殺している。まだ出来ると、そう思っていた……くそっ」
「……ユリウスは、どの世界でもユリウスなんだな」
「なんだと?」
「戯言だよ……ほんの、戯言だ」
ヴィクトルはそう言いながら、本棚の一つを探った。話し合いの場にこの書斎を選んだのは、何も防音効果だけが理由ではない。
ある段に入っているタイトルをごっそり数冊抜き取り、その奥から小さな鍵付きの箱を取り出す。
「本題に入ろう。カナンの道標についてだ。確かに、この世界における"最強の骸殻能力者"は私に他ならない。
さらに――」
ヴィクトルは仮面を外し、その素顔を曝した。時歪の因子に浸食されている、その素顔を。
「――私はこの世界を更生する時歪の因子の影響を受けている。このままでは、私を殺さない限り道標を摘出することは不可能だろう」
「……他に方法がある、とでも言いたげだな」
「ああ、あるとも」
「なんだって?」
ヴィクトルの肯定に、ユリウスが飛び起きるようにして食いついた。
「ここからは胸襟を開けて話をしよう。私の目的は、正史世界のルドガーに成り代わることだった。
ここに来る"私"を殺し、オリジンの審判を越え、正しく正史世界の存在として生まれ変わりたかったのだ」
「……」
瞬間、ユリウスから殺気が膨れ上がる。
おそらく、次は刃を止めることはしないだろう。その気配を察し、ヴィクトルは間を置かず言葉を続けた。
「だが、既に正史世界のルドガーはいなくなった。もう、手ずから奴を殺す必要はない。
あとはオリジンの審判を越えて、正史世界の存在としてやり直すだけだ。
そこで、君と取引がしたい」
「……取引の内容は?」
「私とエルの身の安全を保障し、正史世界へ連れていくこと。
対価として支払うのは、これだ」
そう言って、ヴィクトルは箱を開け、中身を机の上に並べて見せた。
それは五つの、正史世界では失われてしまった――
「――馬鹿な。カナンの道標がどうしてここに?」
ユリウスが目を見開く。そこにあったのは、彼らが今まで苦労して集めていた全てのカナンの道標だった。
「驚くことはないだろう。この世界を私は分史世界だと認識できていた。その理由は簡単だ。
道標を集めても、カナンの地が出現しなかったからだよ。よって、この道標はもはや不要となり果てた。
とはいえビズリーの言ではないが、正史世界との交渉材料になるかもと思い、こうして保管しておいたのだがね」
「……なるほど。確かに筋は通っているな。道標の問題はこれでクリアできる。
だが問題はまだあるぞ。
お前自身がこの世界の核である時歪の因子なら、いかに鍵の力を使っても他の世界に移動することは出来ない」
「それについても考えてはあるさ。もとより、正史世界に行くつもりだったのだから。
――そもそも、私に憑いているこれは、私が時歪の因子化したものではない。
もとよりこの世界にあった、別の時歪の因子が私に憑りついたものなのだ」
「……そうか。最強の骸殻能力者になった際に、最も正史世界と偏差がある存在がお前になったんだな。
だが、それならどうする?」
「簡単な話だ。もっと偏差があるものを生み出せばいい。幸い、心当たりが一つある」
「それは?」
「……君と一緒に来たメンバーに、マクスウェルがいただろう? 当然、この世界にもマクスウェルは存在する。
だが、それはミラ=マクスウェルではない。彼女は8年前に私が殺した。今のマクスウェルは別の精霊が代理を務めている。
現在は精霊界にいるのだろうが、それを人間界に呼び出せば、私よりも大きな偏差が生まれるだろう」
「この世界のマクスウェルを呼び出し、時歪の因子を憑依させたうえで殺すということか。
だが、その方法が――」
「あるだろう、クランスピア社には。かつてリドウが行った、マクスウェルを召喚するための術式が。
すでにこの日の為、準備は整え終えている。あとはマクスウェルを討つ戦力があればいい。
君と一緒に来た彼らも、迷いこそすれ納得してくれるだろう」
所詮は分史世界の出来事だ。そう、ヴィクトルは締めくくった。
「……」
ユリウスは顎に指を添え黙考した。その表情からは何も伺うことができない。
結論は、最初から決まっていたのかもしれない。さほど時間を賭けず、ユリウスは短剣を鞘に納刀した。
「……彼らにいまのプランを伝えてこよう。鍵の――エルの精神衛生上から見ても、それがベターな選択の筈だ」
それだけ言い捨てて、ユリウスは部屋の出口へと向かう。
「――ユリウス。私は、胸襟を開けて話をしようと言った」
だが、ドアノブに手を掛けた瞬間、背後から放たれたヴィクトルの声に、その動きを止める。
「……何が言いたい?」
「私は全てを話した。そちらも、胸の内を多少は曝してくれてもいいと思うのだが……」
「何を言ってるのか分からない――」
「ルドガーが死んだ以上、君がビズリーの命令を素直に聞くとも思えない」
ユリウスの言葉を遮って、ヴィクトルが有無を言わせぬ調子で言葉を紡ぐ。
「だが実際、君はこうして、カナンの地を出現させるために動いている。ならば、そこには何かあるのだろう――
ビズリーに尻尾を振ってまで成し遂げたい、願いが」
「……」
「ついでにいうのなら、先ほど君が私に殺気を向けたのは、私が正史世界のルドガーとしてやり直す、と発言した瞬間だった。
既にそちらのルドガーが死んでいる現状、あそこまで殺気立つ必要はない筈だが?」
そこまで胸の内を読み当てられて。
ユリウスはゆっくり、努めてゆっくりとヴィクトルの方へと振り返った。
「……ああ、そうだ。俺は決心したんだ」
その声からは、震えるほど悲壮な決意がにじみ出ている。
あの日、ルドガーが死んだと伝え聞いた瞬間に、既に覚悟は決めていた。
「――オリジンの審判を越えて、ルドガーを取り戻す。それが俺の目論んだ、たったひとつの願いだよ」
中断
このSSまとめへのコメント
続き楽しみなのにもう更新されないの…?