泉「未来へのテトラード」 (28)
さっくりP視点の地の文SSです。
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予想外、という言葉は、自分自身あまり好んで用いたくはない。
何故ならば、予想外を予想していなかった時点で落ち度は自分にあると宣言しているようなものだし、なにより予想外という言葉を用いらざるを得ない状況下では、既に未来は自分の手から離れ、縦横無尽に、遊び盛りの子供のように動きまわっているからである。
そんな事をふと考える。
それは、すなわち今がその時であることを表していた。
「はい、出来たよご飯」
簡素な、おおよそ新しいとは言えないテーブルの上に、コトン、と小気味よい音を立てて陶器の皿が置かれる。程よく色違えた白の皿の上には野菜の絨毯が敷かれ、そこで愛を育むかのように熱された鶏肉とベーコンが寄り添い合っていた。
少し涼しげな部屋に、たちまち料理の匂いと温かみのある湯気が立ち込める。この職業に就いてからは長らく感じることがなかった遠い感情だ。
「……私の顔に何かついてるの?」
意図せず、俺の視線は彼女に向いていた。それに気づいた彼女は、訝しげに首を傾げ、この視線の所在を訊ねてきたのである。
「いや、なんでもない」
すかさず取り繕うと、そう、と気のない返事をして再び台所へと去っていく。居間から見えるコンロには、フライパンが一つと鍋が一つ置かれているので、恐らく再び彼女はここにやってくるだろう。
もわもわと鼻を躍らせる良い香りを感じていると、俺の脇、丁度左隣の椅子から、可愛げのある声が聞こえた。
「えっへへ、イズミンの料理はおいしいんですよぉ!」
何ともおとぼけた、緊張感のない声である。
「せやでー。こればっかりは金じゃ買えんからなあ」
そして向かいの椅子からも、今度は芯のあるはつらつとした声が聴こえた。
――もしも俺に妻や子供が居れば、と考える。
朝起きて寝ぼけ眼ながら挨拶をして、着替えてテーブルにつけばおいしい食事がでて、元気な子供と共に食事を楽しんで仕事へと出かける。
なんと素敵な事だろうか。
昨今では食事を担当する男性も多いと聞くが、残念ながら俺にその技能はないし、そもそもそんなものに時間を割く余裕がある程猶予のある生活をしていない。
もし、もしもだ、そんな生活を受け入れて、こうして支えてくれる人が居るならば、俺は毎日仕事に明け暮れたって疲れを知らず、フルシーズン戦い続けることができるだろう。
もしも。それが毎日で、日常であれば、の話である。
「こーら。……二人とも準備してよね、もう」
困り顔の少女は、ため息をつきつつも笑う。
同様に、各々謝りつつ、朝食用の皿の移動を始めた。
三人の少女。それは妻でも子供でもない。
ただはっきりと分かる事といえば、一つだけ。
彼女たちは、アイドルだ。
……故に、突如訪れた予想外の現実に俺はただ困惑する他なかったのであった。
*
――遡れば、おおよそニ週間前ぐらいだろうか。
おおよそ忘れることなどできないであろう、その日は大きめのライブがある日だった。
ドームで、円状に配置されたライブステージにて代わる代わる舞いながらパフォーマンスをする三人のアイドル。
次の世代への新たな波、ニューウェーブのユニットライブであった。
悔しくもまだ日本を代表するユニットと呼べる知名度は誇っていないが、着実にファンを増やし、新進気鋭、今後に成長の余地が見える彼女らは期待されていると言えるだろう。
結局、いつもより大きなライブ会場でもいかんなく力を、それぞれの個性を発揮して存分にライブを盛り上げ成功に導いたのだが、問題はその後である。
――久しぶりにゆっくり休むといい。
ライブが終わり興奮冷めやらぬ中、用意された控え室に戻ると歓喜に湧く彼女らを自由にさせつつも、俺はひとつ言い放った。
実を言うと、ここ最近に限っては、彼女らに休みらしい休みは殆ど無かった。
それも当然のはずで、この日という一大イベントの前とあってはひっきりなしに練習の時間が設けられ、日夜特訓の毎日だったからである。
尤も、こういう日を設定されては彼女たちも休もうにも休めないのだろうけども。
ともかく、そういった練習のかいあって成功という結果に終われたのだから、ここらで一つ思いっきり羽根を伸ばしても構わないだろう、というのが俺の考えだった。
事実、練習の最中弱音を吐く姿こそなかったものの、流石に平常の姿では居られず、心なしか疲労の色が時折垣間見られたのである。
「ほんとーですかぁ!?」
鮮やかな少女めいた桃色の衣装を身にまとった少女、村松さくらはいち早く俺の声に反応した。
三人でそれぞれタイプが異なるこのニューウェーブの中で、底抜けの天真爛漫さがアピールポイントのさくらは、ライブ中と変わらず笑顔で、隣同士の少女に声をかける。
その内、綺麗なロングヘアの少女は訝しげに俺に振り向いて訊ね返した。
「……いいのかな、もらっても」
歓喜の輪の中からでた静かな声色の、俺は心中苦笑してしまう。
さくらと比べると滅法落ち着いているように見えるこの少女は大石泉という。ユニットの芯的存在で、いつも冷静で静かでありながらも、心の奥に宿る熱い心は歌声にしっかりと宿り、ステージでも他の二人を引っ張る無意識のリーダーである。
「ええねんて。Pちゃんがそうゆーてるんやし!」
一方、そんな二人とはまた違った雰囲気の少女は土屋亜子である。二人に比べても明らかに違う、一見雰囲気を壊しかねない要素を持つ彼女だが、ライブやテレビ番組の出演時では周りを見ながら適時必要な役回りをしっかりこなせる、機転の効くタイプのアイドルだ。
泉は真面目だがそれに突出しすぎる面があり、亜子はそれをフォローすることも出来れば、時折場違いな方向を進んでしまうさくらを誘導する事もできる、影のリーダーと言えよう。
たった三人だが、それでも豊かな個性が集まるユニットは常に空中分解の危険性を孕んでいる。
しかし、それでもこうして続けていられるのは一人ひとりがちゃんとアイドルの意識を保てているからでもあるし、三人同士で真に理解しあっているからなのだろう。
普通、ユニットを組めば大体役割分担を決めるのが当たり前なのだが、こと彼女達においては自然に任せているのはそのせいだ。
俺が割って入る必要性がないほど、彼女たちは仲良しなのである。
さて話を戻すと、こうして無事ライブが終わったのだから休みを設けよう、という俺の考えはきっちりと彼女たちに浸透しているようであった。
口々に何をしよう、どこへ行こう、そういった話題を巡らせている。
「そういえば、休みはどのくらいなん?」
その時、ふと思ったのか亜子がこちらを向いて訊ねてきた。
ん、と一つ間を置くと、俺はしばし考える。
いや、決して考えていなかった訳ではないが、休みを与えようという考え以外は別段重要視していなかったのである。
俺の務めるプロダクションはアイドルの数もそこそこ居る上に、誰が稼ぎ頭であると決める必要がないほど、それぞれ頑張ってくれている。
故に、必要であれば一週間ぐらい見積もっても罰は当たるまい。
……それ以前に、上に判断を仰いでいないのだから俺も無策に違いないのだが。
まあ、彼女たちを担当しているのは俺なのだから、上も許してくれるはずだ。
現にこの後の仕事は主にライブ後に発売するライブ映像をまとめたDVDの宣伝にまつわるものばかりだから、それをきっちりこなせば後は空けようと思えば空けられるのである。
それは、俺が彼女の仕事を選り好みできる立場にまでなっていることに他ならなかった。
「どのくらいほしい?」
ここで、俺はあえて意地悪な質問をしてみる。
仕事の重要性を知っている彼女たちだから、一週間も二週間も休みを取るのは憚られるのだろうか。なんてことはない、ちょっとした冗談の強い訊き方である。
しかし、少し三人で話し合った後に泉が放った答えは、存外きっぱりとしたものであった。
「……うん、三日がいいな」
「三日だって? ……少なくないか?」
思わず俺も彼女の言葉に反抗する。
自分で訊いておいて何だが、このがんばりに対して三日というのは少し謙虚すぎるというのではないだろうか。
そんな俺の視線を物ともせず、泉は続ける。
「ううん、大丈夫。今頑張らないと駄目だし、何よりPが上手く調整してくれたから、そんなに疲れてる訳じゃないよ」
そういってくすりと微笑む彼女には、不思議とライブ後の雰囲気はなかった。
取り繕っているのだろうかと隣のさくらを見ても、彼女と同様の表情である。
どういう訳なのだろう、という不自然な俺の視線を感じたのか、亜子が一歩前に出てくると不意に俺の肩を叩いた。
「ほんと、わかってないなー。アタシらはPちゃんが担当やったから、好きにできるんやで?」
その言葉に、俺は無意識にと後ろの二人を見る。
二人とも、それぞれ向きは違えども笑顔を見せていた。
「……一週間って言われてもオーケーするつもりだったけど、本当に三日でいいのか?」
「大丈夫でぇす!」
念のため訊き返した俺の声に、ブイサインをつきだしてさくらがにこりと笑った。
結局、彼女らの統一された意見に従って休みは三日間という事になった。
これから一週間程度はテレビに出ずっぱりになることは既に確定していたので、それが落ち着いたおよそ二週間後、改めて日時を指定して終日オフを宣言することとなったのである。
それにしても、あの短時間の相談でどうしてすぐに三日という結論を導き出したのだろうか。
軽く推測してみると、やはり仲の良い三人だから一緒にどこかへ二泊三日で旅行に出かけるのかもしれない。
顔の売れているアイドルだから、過度の露出を控えるように、とだけは言っておこうか。
彼女たちの輝かしい笑顔をそこそこに、退出の準備をする俺なのであった。
*
改めて、目の前の状況から過去の回想、それも間近の物を再生してみる。
――そう、今日は三日目だ。
彼女たちが指定した希望連休は一昨日から始まっているのだから、それから二日後の今日は彼女たちにとって連休の最終日となるはずである。
俺は俺で、連休明けの仕事の打ち合わせがあったり、事務所に居る他のアイドルの面倒をみたり、それ以外にも事務所自体の資料整理など仕事がないはずがない。
ニューウェーブが休日を楽しんでいる最中、俺はいつもどおり仕事をしていたのだ。
そうして二日間のニューウェーブの居ない日が過ぎると、三日目は俺も事務所から休日を頂いたのである。
やはり彼女たちの練習に付き合ったり、仕事の付き添いをずっとしていると休みという存在とはどうしても縁遠い物となってしまう。
この業界にプロデューサーとして入った時点でそれぐらいの生活は覚悟していたのだが、存外この事務所は裏方にまで気を配ってくれており、慰労という名目で俺にも休日を与えてくれたのである。
尤も、常識で言えば週に一回の休日すら無い時点で気を配る以前の問題なのだが、そこは目を瞑っておく。
そして、この三日間では当然彼女たちとは連絡をしていない。
事前に連休最終日翌日以降の予定に関しては説明してあるので、事務所で合流することになっているのだ。
というのも、もういちいち連絡しなくても理解してくれる段階にまで来てくれているという理由もあるが、何より折角の休日に仕事の人間から連絡があっては気が滅入るというものだからである。
そう、今日は三日目。
俺は久方ぶりに訪れた休日に入るために目を覚ます。
やはり時間に追われることなく自由に起床できるのは素晴らしいものだ。
癖のついた髪に手をあてつつ時計を確認すると、およそそれは午前九時を指している。
本来であればもう事務所から飛び出して仕事を始めている時間なのにな、と普段の忙しさに思わず苦笑する。
さて、珍しい休日なのだから、気晴らしにどこかに買い物に出かけようか?
そうすれば今後のために良いアイデアでもできるかもしれないし、次の仕事に活かせるかもしれない。
――そんな他愛のない考えを霧散させたのは、寝室の扉の先からの音であった。
コト、コト。タッタッ。
不自然な物音。
眠気の先へと旅立ちそうな意識の首に縄をかけられて引き戻された。
何だ?
立ち上がろうとした怠惰な動きの体を瞬時に動かして咄嗟に扉に近づくと、扉に耳を当ててみる。
すると、先ほどと変わらず――まるで俺のことなど気にしていないかのような緩慢な動作音を鳴らしながら何かをしているではないか。
空き巣、という言葉が瞬間頭に浮かぶが、それにしては少し様子がおかしい。
なにせこの時間だ、深夜帯ならともかく顔の割れやすい朝、しかもこんな物音を立てては見つけてくださいと言わんばかりの様子なのだ。
しかし、見覚えのない音がすれば警戒するのは当然のこと。
俺はそっけない寝室に立てかけられていた捨てる予定の適当な棒を持ち出すと、そっとドアノブに手を開け、一気に開く―― !
「あ、おはよう、P。……って、なにしてるの?」
予想外の光景が広がっていた。
俺の借りているアパートは随分と質素なもので、狭いキッチンとダイニングが一部屋とその奥に寝室が一部屋というものだ。
その奥から俺がダイニングと呼ぶべきか迷うほどの部屋へと踏み込むと、なんと長い髪を軽く結った泉がそれを揺らしながらテーブルに食器を並べていたのである。
そしてその横ではさくらが乾いたテーブルを布巾で拭いており、後ろでは亜子が床をフローリングワイパーですいすいと動き回っていた。
その二人も、俺の情けない姿を見て朝の挨拶をする。いつもどおりの、元気な挨拶だ。
こちらも慌てて返事をするが、現状だけは理解できない。
硬直した脳みそを解凍させようにも、一向に理解が追いつかないのだ。
それほどに今の状況が非日常であり、現実には存在し得ないものだったからである。
しかし、そんな凝固した意識の中でも、ただ一つだけ放てた言葉がある。
……それは、どうしてここに居る、という言葉だった。
得も言えぬ、刹那程停止した間を砕いたのは、楽しそうにテーブルを拭いていたさくらだった。
「今日はプロデューサーさんがお休みだって聞いて、遊びに来たんでぇす!」
絡まり煩雑になった耳と意識をつなぐ線を必死に解いて咀嚼する。
要するに誰が俺の休日を彼女らに伝え、それを聞いた三人が俺の家に遊びに来た、ということだろうか。
なるほど、そうであれば現状にほどほど納得はいく。
彼女たち三人の顔に罪悪感は全くなく、侵入したという気概は感じられない。
ともすれば、気になる点は一体誰がそれを伝えたという点に尽きる。
さくらの返答から微かな笑い声を上げて亜子が今度はハンドワイパーで数少ない家具を撫で始めた時、俺は正解へ直球の質問を投げかけようとするが、すんでの所でそれを取りやめた。
彼女たちは別に悪事を企ててでここに居るわけではない。
伊達に三人と付き合っているのではないのだから、それぐらいはゆうに感じ取れる。
なのにそれをわざわざ責めるのは何だか憚られるのだ。
――第一、薄くはあるが心当たりがある。
俺の家を知っていて、かつ俺の知らぬ所で自由に出入りできる権限を持つ人物。
それを軽く察した時、俺はおもむろに部屋に戻って携帯電話を開いた。
後ろから何となく刺さる三人の不思議に思う視線を無視して、電話帳からとある人の名前を決定し、発信する。
ぷるるる、ぷるるる。ぷる――。
五コールもしない内に電話回線が開かれる。
言いたいことは一杯あるが、とりあえずは挨拶から始めようか。
会話の流れを順序立てて話そうとする俺を真っ向からぶった切るように、電話先の人はこう言った。
――びっくりしましたか、と。
*
カチャリ、と食器と食器が接触する小気味よい音が部屋に響き渡る。
それも一つではなく、二つも三つもであるのだから、それが珍しい光景であるのは自分自身よくわかっていた。
午前九時十五分。
快適ともいうべき起床からまだ十五分という短い時間の内に、俺は知らず知らず疲労を蓄積させていた……否、嘆息をまき散らしていた、と言うべきだろうか。
この部屋には俺一人しか住んでいないのだが、時折訪れるゲストのためにテーブルだけは四人がけのものを用意している。
一人暮らしで贅沢と思われるかもしれないがそんなことはなく、これは事務所からプレゼントされたものだし、何より狭い部屋にこの四角いテーブルはとんでもなく邪魔であった。
隣に座るさくらがフォークを可愛く握ってハムとレタスを同時に口に運ぶ。シャキ、という音が新鮮な朝をより演出していた。
泉は泉でテーブルに常備している海苔を茶碗の中のご飯に器用に巻きつけて、小さく包んで食べていた。
「……あはは、なんかごめんな、Pちゃん」
思い思いに朝食を楽しむ最中、不意に亜子がお茶を飲んでから一つ呟く。
――謝罪という行為をする理由を探るためには、少しだけ過去に戻らなければなるまい。
起床直後、突然出会った俺と三人。
その諸元を確認するために電話を掛けた相手とは、我がプロダクション唯一の事務員こと千川ちひろであった。
事務員と言いながらも並々ならぬ美貌を持っており、運命の歯車が少しずれていれば彼女こそこの事務所のアイドルになっていたのではないかと思う程だ。
では何故ここで彼女に発信したかというと、原因は彼女の立場にある。
そもそもこのアパートは事務所が所有しているもので、千川ちひろはそこの管理も兼ねているのだ。
一応衛生や設備の維持管理は別の人に委託しているのだが、名義的な管理人は千川ちひろとなっているのである。
つまり、彼女にとっては社員の部屋の鍵など無意味に等しいと言っても過言ではない。
無論それらは大事な理由、つまり非常事態のために持っているのであって、決して悪用するために握っているのではないのだが、今回の件に関しては何とも言いがたい理由であった。
「普段お世話になっているプロデューサーさんのために何かしたいって、あの子達がいってたんです」
電話口から聞こえた彼女の言葉は、からかうのでもなければ真摯な声でもない、朗らかな声色であった。
まるで一仕事終えたかのような明朗さ。
だがこちらからしてみれば、とんでもないサプライズである。
「だからって、わざわざ秘密にするこたないじゃないですか……」
そんな精一杯の俺の抵抗に、彼女はふふ、と笑った。
「最近激務でしたし、それでいて同じことの繰り返しの日々でしたからね。プロデューサーさんも何だかつまらなそうな顔してたの、気づいてます?」
「え?」
携帯電話を持っていない方の手を思わず頬に押し当てる。
まさか、そんなはずは。
「他の子の中でも勘の良い子は心配していたぐらいですから、相当でしたよ。それでまあ、ちょっとしたサプライズを、ですねっ」
少し静まり返った調子を語尾では上げて朗らかに彼女は喋る。
……どうやら、いつの間にか俺の表情筋は垂れ落ちていたらしい。
決してそんなことを意識していたはずではないのだが、自分でも気づかない位だ、ここはそれに気づいた子を褒めるべきなのかもしれない。
つまらない所で失敗してしまったものだ、と一人心中嘆息しつつも、電話口に意識を戻す。
「……とにかく、この状況はちひろさんがやったんですね?」
話を振り返らせると、ちひろさんはすぐに肯定した。
「はい。他にも行きたがる子は居ましたけど、ここはプロデューサーの愛娘にだけ絞らせて頂きました」
「愛娘とはなんですか、愛娘とは」
あいにく血の繋がった子供などこの世に存在していない。
まあ、彼女の言う通り、二人三脚どころか四人五脚で歩んできたニューウェーブの子達に対してはこと娘と言っても差し支えない程に親しみを感じているのだが。
「どうせプロデューサーさんは休日にどこかに行こうにも仕事のことを考えちゃって休みらしい休みができなさそうですし、ここは騙されたと思ってあの子たちと一緒にプライベートを楽しんでみたらどうでしょう……ね?」
残念ながら、ぐうの音も出ない程には正論である。
たった十数分前、出かける折には仕事の事を考えていたのだから、俺の頭もいよいよ染まってきているな、と浅く息を吐いた。
そして語尾で念を押すあたり、彼女の予測にも自信があるのだろう。
思い通りになるのは中々受け入れがたいのだが、ここは彼女に従うとしよう。
何より、ニューウェーブの子達が心配してくれたのだから、それを受け入れることに抵抗などあるはずもない。
「――今日一日だけですけど、楽しんでくださいね。それでは失礼します」
そう言い残して、声が無機質な電子音に切り替わる。
恐らく彼女は今日も仕事だ。
今までの勤務状況を鑑みるに、彼女こそ休みが必要なのだろうと思うのだが、それを考えるのはまた後にすべきか。
巡り巡って戻ってきた意識が、インスタントの味噌汁の味を認識した。
「ところで、今日は何をするつもりなんだ?」
おおよそ状況を理解した所で、次は未来へと予定を立てなければならない。
「……うーん、特に決めてないかな、なんて」
朝食が始まって十分程度経過した今、テーブルの上に珍しくたくさん置かれた皿の中の料理は少しずつ欠け始めていた。
そして同様に珍しく空腹な俺のためにご飯のおかわりをよそってくれた向かいに座る泉は、はい、と手渡すと同時に苦笑した。
どうやら嘘をついているようには見えず、今回の行動は本当に短絡的だったのだと理解する。
泉の隣の亜子はむしゃむしゃと美味しそうに朝ごはんを頬張るし、俺の隣ではさくらがデザートに用意されているフルーツをご飯と一緒に食べている。
これが計画された行動だとしたら、俺は彼女たちを落第せねばなるまい。
無論、俺の家にやって来る事自体は結果として計画的と言えなくもないが、恐らくちひろさんからはまさか三人が来ることを俺が知らないとは思っているはずがない。
そんなちぐはぐさを認識するやいなや、俺もつい笑ってしまった。
「まあ、そういうのも悪くないか。……でも、せっかくの休みによかったのか?」
ひんやりとした茶を胃に注いでひとまず一服すると、ふと俺は三人に訊ねる。
一応休み自体は無いわけじゃないが、それでも完全に仕事と切り離された連休が取れることなど滅多にないのだ、貴重な休日をこんな所に使ってもいいのだろうか、と思ってしまうのである。
しかし彼女達は一様に首を振り、そしてさくらが笑いかけた。
「いつもお世話になってるプロデューサーさんのためなら、お休みいーっぱい使っちゃいますよっ」
箸をおいて握りこぶしを作り、ふん、ふんと俺の目の前で上下させる。一見意味の分からない行動だが、どうやら彼女なりにアピールをしているようだった。
「さくらの言う通りやで。したくてしてるんやから、気にしたらあかんってな!」
一生懸命伝えようとするさくらを見て、亜子がはは、と笑ってから代弁する。
これが嫌々させているようなら俺は悪人と言うべきものなのだろうが、一生懸命付き合ってきたからだろうか、それなりに信頼してくれているようだった。
「そうだ、Pはどこに行きたい?」
二人の笑顔を見て俺も気を許し始めた頃合い、小さく盛られた自分の分の料理を平らげた泉が突然俺に訊ねてきた。
「どこに行きたい、って言われてもなあ」
勿論、今日の予定の話である。
俺は咄嗟に起床直後の事を思い出す。
すると、休日だから出かけようと思って入るものの、肝心の場所については全く考えていないことに気づいた。
これがスカウトだったら行きたい場所などどんどん出てくるのだが、自分が個人的にいきたい場所となるとすぐには思いつかないのであった。
「はいはーい! 私は遊園地にいきたいでぇす!」
「いやいや、いきなりすぎるわ……」
手を挙げるさくらに、亜子がため息を吐いてツッコミを入れる。
テレビでもよく見る光景だ。
それは、彼女たちの行動がテレビのディスプレイを通しても変わっていないことの証であった。
「そっか……じゃあ、家で休もっか」
苦笑いしながら、泉が一つ漏らす。
彼女の中では色んなところに行って気分転換をしてもらおう、という考えがあったのかもしれない。
それは大体の人が取りうる方策だし、出かけて気分転換をすることにきっと間違いはないだろう。
しかし、中にはプライベートの過ごし方がわからない人間だって居るものだ。
それが俺であるという事実には微かに悲しみを覚えるが、さしあたって今考えるべきはそれではない。
食器を片付け始める泉の俯いた顔を眺めていると、ふと一つだけ予定が浮かんだのだ。
「――ああ、そうだ。日用品の買い物でもしたいかな」
……なんともロマンのない予定である。
しかし、存外彼女たちの食いつきは悪いものではなかった。
「日用品かー。安心してや、Pちゃん。安い物知ってるから!」
彼女特有というべきか個性というべきか、アイドルに似つかわしくないような節約思考を発揮する亜子は、テレビの前に置いている小さなテーブルから来たばかりのチラシを取り出して、安いと思しき紙を絞り始めた。
何も今始めなくても、と思うが、それが彼女なりの気遣いなのかもしれない。
「ふふ、日用品か。何だかPらしいね。……じゃあ、食べ終わったらにする?」
次第にさくらと亜子でチラシを眺めあって方や値段を見、方やおいしいものを見つけるよくわからない状況になっている最中、泉は微笑みながら、俺に問いかけた。
……表情が硬かった日が随分と遠い昔のように感じる。
変わり果ててアイドルとなった泉を含め三人のそれぞれの笑顔を見ながら、俺は長めの朝食を摂ることとなった。
*
がー、がー、というタイヤの摩擦音から開放されると、すぐさまひんやりとした心地良い空気と愉快なミュージック、そして雑多な人声に包まれた。
――首都郊外にあるショッピングモール。
自宅のアパートに泊めてある、場違いな真新しい車に乗ってここを訪れた俺達は、早速入り口近くの食料品売場にやってきていた。
このショッピングモールは全国に展開しており、入店しているテナントも全国的に有名なあらゆるブランドもあれば一風変わった趣味色の強いテナントもあるなど、おおよそ休日スポットに相応しい総合ショッピング施設である。
今日は平日ながら朝から多くの人がここに集い、どのテナントもそこそこ賑わっているようだった。
「東京から少し離れても、人はいっぱいだね」
帽子を深くかぶった隣の泉が、ふと見上げるようにして俺に振り向いた。
「まあな。どこにだって人はいるんだから不思議じゃないさ」
彼女の手には赤色のポストイットが握られており、そこには泉の文字で必要な物がいくつか書かれていた。
その紙は俺が普段仕事にも使う物で、パソコンまわりから飛び出すのは大層珍しい。
「あの時のライブも、どこから来たーって感じやったもんな」
泉と俺の間から亜子が顔を出す。
トレードマークのメガネを外し、頭には野球帽を被っているその姿は一見亜子とは思えないぐらいであるが、そこから生まれる笑顔の独特さは消せず、にひひ、と白い歯を見せるその表情は甚く安心感を覚えさせてくれた。
「みぃんな楽しく、できましたっ」
続いてさくらも泉の手を抱いて飛び出てくる。
「さ、さくら……もう、いきなりやめてってば」
「えっへへ、ごめんね~」
突然の事に驚きながらも、泉は苦笑してその手を抜けだそうとはしなかった。
「ほらPちゃん、遊ぶんもいいけどまずはあっちにいくでー!」
店内の至る所に吊るされた案内表示板を指さすと、亜子が俺の手を取って前に歩き出し、つられるようにして俺も前に出る。
どうやら買い物前の遊びが過ぎたらしい。
時は金なり、と言うべきか、もしくは安売り商品の売り切れを危惧したか、亜子はやる気いっぱいの姿勢で迷うこと無く歩みを進めていた。
出遅れた泉とさくらは笑って謝りつつ、俺達の後を追っている。
この雰囲気が、最近ではどことなく好きになっていた。
適度な近さ。ずっと独り身で仕事をしていた俺にとって、彼女たちの担当というのはある意味賃金以上の何かなのかもしれない、と引きつられながら俺はふと思った。
「えーと、ハンガーと、洗剤と…あ、歯磨き粉安い」
日用品コーナーに進めば、そこはもう亜子の独壇場である。
平常時の値段など覚えていない俺から見れば驚異的な記憶力で、今がどの程度のラインなのか的確に見極めて教えてくれる。
泉の手に握られたメモに書いてある商品は勿論、あるといい物で安い物は度々俺に薦めてくるのだから、彼女はセール販売員か何かだろうか、と笑ってしまう。
「ねえねえプロデューサーさん、これ便利ですよぉ!」
さくらは便利商品、いわゆる時短アイテムとも言うべきか、そんなアイデアが勝利して商品化されたワイパーを持ってきて見せてくる。
確か、というか確実に今日亜子が握っていた物をさくらも見ていたはずなのだが……。
「まあ、それも買っとくか」
「……じゃあ、これはどうかな」
えへへ、とにこやかに微笑むさくらを他所に、今度は泉がきょろきょろと周りを見渡して何かを見つけたのか少し離れると、手袋型のスポンジを持ってくる。
「む、そうきたか。ならPちゃん、こんなんどう!?」
使い方について解説を聞いている間に亜子までも似たような事をしてきた。
どれもこれもなるほど、と思わせる便利なものばかりで、比較的手間を掛けることを嫌う俺は勧められた商品をカートに入れていく。
しかし、どんな便利な商品もちゃんと使えば、の話なのだが、それは置いておくとしようか。
「あ、こっちにジュースがあるよ、イズミーン!」
ひと通り日用品コーナーを物色し終わると、今度はその先にふと見つけた飲料水コーナーにさくらが踊るように進んでいった。
まるで子供だ、と思ってしまうが、実際彼女たちは子供なのだから別段おかしなことではない。
どちらかといえばおかしなのは、子供に大人のドレスを着せて働かせる俺の方だろう。
いつでも純粋に楽しく生きるさくらがよりいっそう素直に居られるのなら、こんな時間も良いものだ。
「こら、そっちは流石に目的じゃ――」
「いや、いいよ」
慌てて制止させようと動き出す泉の肩を掴んで引き止める。
こちらを振り返った泉は、少し困った顔をしていた。
「買い物って案外こういうものじゃないか? ……ほら、泉も美味しそうなものあったら持ってきていいぞ」
本音を言えば既にカートにはメモに記載された物以外の商品がいくつか混じってしまっているので、もはやそんなものはあってないようなものであるのだが。
「……じゃあ行く」
内心泉もそういうった事がしたかったのかもしれない。普段からさくらの性格を羨んでいた泉ならあり得ない話でもない。
「二人とも元気やねー。Pちゃんと一緒に出かけられんのがよっぽど嬉しいんかな?」
後ろ姿のまま角を抜けていった二人と他所に、隣に居る亜子がにひ、と笑ってこちらを見た。
「俺と出かけてもしょうがないだろう」
これがデートとかいう名義のものなら別だっただろうに、生憎彼女たちとはそのような爛れた関係ではない。
そう言ってカート押す手を緩めて惰性で進む俺に、亜子は俺の腕をこつん、と叩いてきた。
「プロデューサーの癖にわかってないなあ。みんなずっとPちゃんと一緒やから、こんな時間が楽しいんやろ?」
そういうものだろうか?
ここまで紆余曲折を経てきたが、決して男性的に素晴らしいアピールをしてきた事は一度もない。
精々人として、プロデューサーとしてあるべき行動を、あってしかるべき行動をとってきただけである。
「……だと嬉しいな」
しかし、それでもそういう風に感じてくれているのなら悪い気は決してしない。
「そうそう。――ほら、Pちゃんも行くで!」
カートを押していた俺の左手がどけられて、そこに彼女の手が入り込む。
二人で押すものでもないだろうに、腕を引っ付けて歩く姿はさしずめ親子だろうか。
「転ぶからゆっくりな」
「アイドルだから大丈夫だって!」
根拠の無い発言のままに、そのまま俺達も二人の後を追うのであった。
*
「はは、これだと俺の家が便利になっていくな」
昼食時、人の多いショッピングモールの中でも特に混雑しているフードコートの喧騒に包まれながら、俺達は各々の食べたい料理を食べ始めていた。
四人がけの小さなテーブルの隣にはあの時よりも更に荷物が増えた二段カートがある。
結局、二段カートに置かれたカゴには、本来買う予定だった日用品や買い置き用のインスタント食品や飲み物だけでなく、薦めてきた商品や話題の食べ物、そして三人のほしいデザートなど、いつのまにかそこそこの量になっていた。
更に昼食までに色々店を回ったせいで、カゴに一杯どころか三人の手にも持っているような状況である。
当然ながら彼女たちの手に持っているものは雑貨や服で、決して納豆を持たせているのではない、と予め説明しておきたい。
プレゼントときいて心配する泉や終始ニコニコしているさくらも普段通りの買い物をし、最初は値段を格闘していた亜子も、今では純粋に物を買うことを楽しんでいるようであった。
無論、安い値段を見つけて買うことも楽しみといえば楽しみではあるが、商品そのものに楽しみを覚えなければ楽しい買い物は成立しないのではないかと思う。
そういう意味では、俺の財布が軽くなったのは無駄ではなかろう。
「それにしても、よくこれだけ買い物できたな。こんなに買い物をするのは多分初めてじゃないか?」
塩ラーメンをすすり、熱くなった喉を水で癒やすと、俺はふとカートの中身をみて呟く。
事実、買い置きや予備といった概念なく買い物をしていた俺にとって、まさか今の身分でカートを使う時が来ようとは思いもしなかったのである。
「え~、これが普通ですよぉ」
「さくら、普通じゃないから。……でも、家族だったらこんなものなのかもね」
食事途中で箸を置いた泉が、静かにそう言った。
「家族なー……そういや泉。弟は今どうなん?」
「どうって言われても……ふふ、元気だよ。楽しくやってるみたい」
弟とは、無論泉の弟のことである。
泉がアイドルとなる際、女子料へと引っ越しを行ったため、家族とは年に数回しか会えない状況が続いている。
同様にさくらや亜子も静岡から東京に引っ越ししているため、帰省という形態をとっているのであった。
幸いなのは、まだ静岡が東京からそう離れていないことだろうか。
「……みんな、大丈夫か?」
誰しもがいつかは親元を離れる。だが、いくら個人差があるとはいってもこの年で一人離れて仕事をこなすことまで普通だとは思いたくない。
だから、つい口にしてしまったのである。
「……えっへへ。大丈夫ですよぉ、プロデューサーさん」
蕎麦を上手くすくい上げてつるつると滑らせていたさくらが、ねえ、と泉と亜子にも話しかけた。
「電話ですぐ会えるし、プロデューサーさんが居るから寂しくないてないですよぉ!」
「俺ってどういう存在なんだろうな?」
彼女の言葉に思わず苦笑してしまう。
ここまでの歩みでそれなりに信頼関係はできている事は既に確認できてはいるものの、実際一人の人間として、彼女たちにとって俺はどうあれているのだろうか。
必要な時、必要なだけ助けをやれているか?
困っていた時、それを察することができていたか?
少し回想してみても、それらが全てできていたとは思わない。
全知全能でない限りそんな事は不可能だし、それよりもかなり劣る俺にとっては、百の内十もできていれば良い所だろう。
そんな俺でも彼女たちからは良く見られていた。それは彼女たちの立場を利用した物ではないと思いたいものである。
「……どうって、ねえ?」
「そこでアタシに振るんかいっ」
やや回答に詰まった泉が亜子をちらりと見ると、亜子はため息で返してみせた。
「まあ……居なきゃ駄目な、空気みたいな感じとか」
「言わんとしていることはわかるが、その表現は相手を傷つけるぞ泉」
空気と呼ばれて喜ぶ人間はそうそう居まい。たとえどんな意味であったとしてもだ。
「許してやってー。泉はそういう子やから」
「ちょっとやめてよ、そういうの……。私だってあの頃とは違うんだし」
知ってる、と亜子に反応しようとしかけたのは黙っておこうか。
「でも泉の言う事と大体同じよ。この年で親元離れてるけど、Pちゃんがいるなら寂しくはないみたい。最初は違ったけどね」
最初というのは恐らくデビュー前後の時だろう。
あの時は俺も不慣れであったし、彼女たちも全く別世界へ踏み込んだばかりだったから失敗も多くて不安だったに違いない。
「……なんか恥ずかしいな、こういうの。でも本当だよ。少なくとも、後ろは見なくて大丈夫だから」
時に親しく、時に遠く。
俺は今までありとあらゆる手段を以て出来る限りの手助けを行ってきた。
時に見逃すことはあるけれど、時に間違うこともあるけれど。
そうして、彼女たちはいつのまにかこんなに強くなったのだ。
「……最近つまらん顔してたんは、なんで?」
過去を思い出していると、ふと亜子の目が鋭くなった。帽子の奥から見える彼女の顔にいつもの色はない。
「Pちゃんが親心を持ってくれてるからアタシらも寂しくなくやっていけるんよ。でもそんな顔されたら、アタシらはどうすればええの?」
泉が亜子をと俺を交互に見る。やってしまった、というよりも何かを見定めるような視線だ。
「……勘の良い子なら、って話だったけど、まあお前たちなら当然だよな」
俺はラーメンのスープに視線を落とす。僅かな油分が水面に模様を描いている。
「はは、悪いな。ちょっと疲れが溜まってたらしい。ちひろさんにも言われた」
何だか無性に喉が渇いたので咄嗟に水を飲み、笑って答える。それでも亜子の瞳に変わりは訪れていなかった。
「いつからだろうね? 何というか、Pの気持ちが素っ気無くなったんだ。その時からさくらと亜子と一緒に、なんでだろう、って考えてた」
カリン、とコップの中の氷が転がる。店内を明るく彩る音楽は、平日でも訪れる人達を祝福しているようだった。
どうしてだろう、と俺も思う。
いつからなのかということすらも覚えていないことを訊かれても答えようがないのだ。
仕事が単調になってきたからだろうか。プロデューサー業に飽きが来てしまったからだろうか。
いくつもの原因を思い浮かべては霧散させる俺を引き戻したのは、明るい音楽と対照的な声となったさくらであった。
「……プロデューサーさん、今の私達じゃ、だめですかぁ?」
ハッとして正面を見る。
そこには心配している表情の泉が居て、どうしてやれば解決できるだろうか、と企む亜子が居て、純粋な瞳でこちらに真意を投げかけるさくらが居た。
しかし、それらの顔は一見何でもない表情だ。
ただの表情。テレビでよく見るような、ありふれた普通の表情そのものである。
他人が見れば今の泉は落ち着いていて、今の亜子は朗らかにお金のことでも考え、今のさくらは元気にニコニコ笑っている、と思うだろう。
だが俺にはそう見えなかったのだ。
ではどうして俺がそう見えるのだろうか――自問がそこに至ると、己の身に絡みついた懐疑の紐が、そっと、音もなく解けたような気がした。
「……案外、寂しいのは俺の方なのかもな」
固いクッションに背を預けると、ぎゅ、と音がなる。
右手にコップを持てば楽な姿勢で水が飲めたのにな、と思うが、もはや手遅れである。
「プロデューサーさんがですかぁ?」
時間的にそろそろ昼食を終える子が居てもおかしくはないが、中でも早々に昼食を終え、先程買ってきたシュークリームを食べ始めていたさくらは訝しむ様子もなく首を傾げた。
「いや何、ちょっと勝手に親心を感じてただけだ」
「ふふ、何それ」
泉が俺の言葉に反応して笑みを漏らす。
「何だろうな、ずっと一緒にいるせいで、まるで子供の世話をしてるみたいに感じてたらしい」
「さくら達はもう子供じゃないですよぉ」
シュークリームを頬張る姿はさしずめ少女そのものだが、彼女の言うことも尤もである。
つまるところ、どうしても心配してしまうようだ。
デビュー前の迷いを知っているから、失敗した後の失意を感じているから。
穴が空いているなら、俺はそれを埋める。俺がそうするのはそれが仕事であり、義務だからだ。
だが、穴はいつまでも空いている訳ではない。
勿論直した穴がまた空くことだってあるが、埋めていく内に彼女たち自身でそういった穴を埋める事ができるようになっていたのだ。
それでも俺は埋め続けた。
義務感に追われて、といえばそれは絶対に嘘である。
……それは、不安だった頃の彼女たちの幻影を未だ見ているからだ。
結局、つまらないと感じていたのは同じ映像を何度も何度も見ていたからである。
同じ景色を見続けていれば、例えそれが美しかろうと飽きてしまうものだ。
少し先を見れば全く違った景色が見えていたはずなのに、俺はいつしか根っこの部分でA‐Bリピート再生にモードを切り替えていたのである。
目の錯覚から覚めると、亜子が姿勢よく座りなおして首を揺らした。
「アタシらはどんどん成長するけど、Pちゃんも成長せな駄目よ? 隣、歩いてもらわなあかんからね!」
彼女の目尻が下がる。
今の俺の立ち位置は、きっと彼女たちの遥か後方か、それとも別の道に迷い込んでいるかのどちらかなのだろう。
「大丈夫だよ、亜子。Pが成長してなかったら、私達が特訓に付き合ってあげればいいじゃない」
「さくらもプロデューサーさんの先生になりまぁすっ」
言いたい放題である。言いたい放題だが……これが彼女たちが考える、俺との距離なのだ。
俺の考えていた距離よりもずっと近い、本来の距離、そして、あるべき距離。
思い返せば、少し前に発していた泉の言葉は俺が思っていた物と違うのかもしれない。
『後ろは見なくても大丈夫』という彼女の発言に根拠は含まれていないが、もしも、その隠された根拠が『自分で見ることができるから』だったとすれば――。
「……じゃあ、しばらく先生になってもらおうかな」
朧気ながら原因が見えたような気がして、いつしか俺は、そっと笑っていた。
*
「たっだいまー。あー、疲れた」
「ここは俺の家だぞ……」
大量の荷物を四人で不平等に分けつつ家に辿り着いた頃には既に日は落ちて、大体の家では晩御飯を楽しんでいるだろうという時間であった。
結局、昼食を楽しんだ後は再び買い物に戻ったり、アミューズメントコーナーでエアホッケーをした上にさくらに腕を引かれて四人でプリクラをとったりと、休む間もなく時の道を駆け抜けていったのである。
とりあえず四人がけの四角いテーブルに持ち手が伸びたビニール袋を置くと、亜子は隣の部屋のソファに座って体を伸ばし、それを見たさくらも亜子に抱きつくようにして隣に座って背伸びをした。
ただ唯一泉だけはそんな二人の姿を見て呆れつつも、置かれたビニール袋の中身を取り出しては用途別、収納別に荷物を選別している。
「泉も疲れたろ。荷物は後でいいから、今は休んでこい」
勿論今日の晩御飯用に購入した生鮮食品類は冷蔵庫にしまわなければならないのだが、それは俺がすべき仕事であって、遊ぶために来た彼女たちがする事ではない。
しかし、俺の意思に反して泉は小さく首を横に振った。
「今出さないと意味が無いから」
どういうことなのだろう、と問い返すと、泉にしては珍しくお茶を濁されてしまった。
「あ、泉ゴメンゴメン、アタシらも手伝うわ」
要領を得ないので再度内容を変えて質問しようと台詞を考えていた所、先程までソファに座っていた二人がテーブルに戻ってきたのだ。
「うん、よろしく。さくらは今日の料理の材料を洗っておいてくれる?」
「りょうかーい、だよっ!」
本物から見ればなんて不敬な敬礼だと思われそうだが、にこやかに笑ってするその姿に悪意は全く感じられない。
そうして、亜子はテーブルの片付け、さくらは料理の準備を開始した。
「それじゃ泉、終わったら料理に来てなー。出来るだけ早めで。さくらだけじゃ嫌な予感がするから」
「もぉ、私だってできますよぉ!」
特に臆すること無くテーブルに分けられた野菜類をおもむろに洗い始めるさくらをからかいながら、亜子は何やらビニール袋を持ってソファに座った泉に声を掛けた。
「こっちはすぐ終わるから、さくら、待っててね」
「泉は料理しないのか?」
ごく自然に発言しているが、そもそもアイドル三人がこぞって俺の家に来て料理している時点でおかしい事に俺は気づかなければならない。
だが、あまりにも自然すぎて――まるで買い物から帰ってきた家族のような――思考に間を挟む隙すらできなかったのである。
「あー、泉は別件でね。ほらほら、Pちゃんも手伝ってー」
ちょいちょいと少し離れた隣で手招きする亜子に誘われるがまま、俺は亜子に近づくと晩御飯のための準備を手伝うことになったのであった。
しかし、時は突然に変化の軌道を描く。
――なあ、Pちゃん。成長ってなんやと思う?
おぼつかない動きで包丁を操るさくらを他所に、徐々に熱されつつあるフライパンの表面を眺めながら亜子はふと呟いたのだ。
そのフライパンには油がひかれており、時期に肉や野菜を炒める場となるだろう。
それまでの待機時間に、突拍子ではあるが俺は少し考えてしまう。
成長とは、辞書的に述べるならば生物や物事が発達し大きくなる事である。
子供がやがて大人になることも成長だし、ニューウェーブのファンが増えていっている事も成長と呼べるだろう。
しかし、亜子の横顔に見える瞳には、そんな単色化された意識は映っていなかった。
何を以て成長と言う?
単純が故の複雑さが、この言葉には含まれているような気がした。
「そうだな……自立する事、とか?」
至極単純な回答であり、それが間違いだとは思っていない。
人に限らず、全ての動静物は生を為せば死を迎える。
その長い命の中で、一番発達した時点までを成長と言い、またそこから死へと向かうまでを老化と言う。小学生や中学生でもごく当たり前に習うような事だ。
加えて、俺という立場の意味も加味してみる。
成長ということは、俺の年齢からすればあまり使われない言葉である。
無論、それは身体を指して使う場合であり、プロデューサーという職業においてはこの言葉ほど身近な物はない。
例えば俺自身。
一年目、初めてこの業界に飛び込んだその年は散々であった。
営業先からは無視され、怒られ、呆れられ、それでも行くしか無くて、もういっその事死んでしまえたらどれだけ楽だっただろうか、とすら思えるような毎日であった。
しかし、そんな俺を事務所の皆は支えてくれたのだ。
本気で心配してくれる子もいれば発破をかけてくる子もいるし、各々の持っている知識で改善できないか模索してくれる子も居た。
それぞれがそれぞれ頑張ってくれて……自分のことすらまだまだぐらついた土台の上であるにも関わらず、俺を助けてくれたのである。
だから、今俺はこうしてここに立っているのだ。
それは間違いなく成長と言えるし、開花とも言えるだろう。
そして、それはアイドルにとっても言える。
ニューウェーブといえば、最初から綺麗に舞い、数多のファンに歌声を届けられていたわけではない。
デビュー前は本人たちの戸惑いや不安もあって中々芽がでず、華々しい他のアイドルの映像を見ながら、自分たちは閑散とした商店街で商品の宣伝をしていることもあった。
だが、今ではもはやそんな影は無い。
綺羅びやかなイルミネーションの中、三人で分身を描くかのように息のあった踊りと歌を届け、あふれんばかりの観客に楽しさや幸せを届けられるまでになっていた。
勿論それは彼女たちが見えないところでも必死に練習したおかげでもあるが、俺やトレーナーの人、そしてアイドルの先輩や後輩達の交流があってのことだ。
そうして支えられて、彼女たちは成功し、それぞれが一人で立って歌った。
もう後ろは見てもらわなくてもいい、というのは、彼女たちが自立した証だ。
彼女たちが成長したから、自立というステップにまで進んだのである。
だから、成長というのは自立することなのだと思う。
俺にしろ、彼女たちにしろ、だ。
「……ホントにそぉですかぁ?」
亜子が俺の回答に反応する前に、ボウルに切った野菜を入れていたさくらは手を止めてこちらを向いた。
「違うのか?」
少なくとも俺はそう感じていた。
全く自立していると自負している訳ではないが、数年プロデューサー業をやって来た現在はそれなりに自分で考えて動けていると思っている。
それでも、さくらはうーん、と野菜くずが付着したままの手を所在なさ気にふりふりと揺らしながら唸っていた。
「正直な、アタシもそれは違うと思う」
「亜子も……?」
予想外のブーイングに思わず戸惑ってしまう。
どこが違うのだろうか、と思い直してみても、一度決まりきった回答を身に宿してしまった時点で間違いなど気づくはずもない。
第一、今日の昼時の会話では亜子自身も成長という言葉を用いていた。
その時の意味は、概ね俺の答えた意味で合っていたはずだ。
それなのにどうして、という言葉を飲み込んで、俺は彼女の言葉を待つことにした。
「だって、もしそうだったら……みんな成長しなくなりますよぉ」
そうして出てきたさくらの言葉は、微笑みと共に表れた。
言われれば言われるほどますます訳が分からなくなる。
誰しも成長すれば独りでに歩く。それが当たり前であるはずなのに、さくらどころか亜子までもそう言っているのだ。
一応彼女たちの担当である手前、どうしかして答えを探そうと必死で過去の記憶や教訓をほじくりだすが、この広い言葉の海では正解を見つけることはとうとうできなかった。
途端、沈黙する。
まるで禅問答でもしているかのような感覚に陥り始め、この雰囲気をどうしてくれようか、と道を外して考え始めたその時。
「準備できたよ。遅くなってごめんね」
背後から、静かな声が聞こえたのだ。
さくらとも亜子とも違う、落ち着いた声色。無色で透き通ってはいるが、どこか幼気なその声を俺は恐らく忘れはしないだろう。
「あ、やっとできたんだあ、イズミン!」
ぱたぱた、と近づこうとして手に野菜が付いていることを思い出し、さくらが慌てて手を洗う。
亜子も先程とは違って笑みを浮かべ、俺達とは少し離れてテーブルに立っている泉のもとに寄っていった。
当然フライパンの火は消しているが、せっかく熱したフライパンを冷ましてしまうような行為は亜子なら嫌うだろうと思っていたのだが、存外そんなことはなく、さも当然かのように行ってしまった。
「ほら、何してるの。Pも来て」
「え?」
おもむろに手招きをする泉を見て、思わず呆気にとられてしまう。
一体何が起きているのか、そして一体何が起きるのか。
全く言葉の意を解せぬまま、戻ってきたさくらに手を引かれ、俺はキッチンを後にする。
そして連れて来られたのはキッチンカウンターの向こうであった。
そこはカーペットとローテーブル、そしてソファとテレビが置いてあるリビングのような場所である。
ここは最初さくらと亜子が帰ってくるやいなやソファでくつろいだり、その後泉が交代するようにソファに座ったりしていた。
しかし、今キッチンからここに連れて来られる意味が無い。
準備が終わって料理が始まったばかりとはいえ、晩御飯の調理を中断してまでするようなことなのだろうか。
狭いベランダへと繋がれている大きな窓からは薄暗い夜空が見えた。
「もー、やっぱりPちゃんはまだまだやなー」
何も聞かされていないのでどう反応することもできず、ただ困惑して立ち尽くしていると、亜子がやれやれといった風に呆れて見せた。
「いや、まず何があるのか教えてくれよ」
だが、こちらから言えることはただこれだけである。
それを訊かないことには何も始まらないのだ。
恥も外聞も知ったこっちゃない、と直球で質問すると、完全にお手上げ状態の俺の視線を導いたのは、何かを期待したような目をしていた泉であった。
「まあ、分からなくても不思議じゃないよね、ふふ。……はい、じゃああれを見て?」
こちらを見つめてくすり、と微笑んだあと、泉はおもむろにテレビの横、部屋と不似合いな程真っ白なテレビ台を指さした。
テレビはデジタルではあるものの、いつ頃買い替えたのかすら思い出せない程に古く、また使用頻度もそこまで高くないために俺にとって無用の長物となりつつある。放送に限ってはかくもいわんや、である。
日常的に使う事といえば専らニューウェーブのライブ映像であったり、参考になりそうな先輩やライバルのミュージックビデオなどを見る事である。
そのためか、テレビ台の下に収納されたブルーレイレコーダーだけがテレビ台よりも更に異色を放っているのであった。
「何って、普通のテレビじゃ――ん?」
いつもの背景と同化したテレビを見ろと言われても、見えるものはただの静物である、と軽く一瞥し、泉に再度視線を向けようと思ったその時だった。
「気づきましたかぁ、プロデューサーさんっ」
誰よりも早く、さくらが俺の変化に気づく。
たった少し視線を戻しただけなのにな、と彼女の観察眼には恐れ入る。
「あれは……アルミラックか? しかも何か載ってるな」
テレビの横のデッドスペースに置かれているのは小さな銀色のラックで、恐らく二千円もしないシンプルなものだろう。
それでも真新しさを感じるのは、今日までそんなものは部屋に存在しなかったからである。
話の流れで言えばよくわかる。
恐らく俺と亜子、そしてさくらがキッチン側で作業をしている間、泉が別行動でこのラックを組み立てていたのだろう。
しかし感ずるべきはそこではなく、もっと大本のところである。
「わざわざ置いてくれるのはありがたいが、一体どうして?」
アルミラック、もといテレビ台と俺の居る距離はそれなりに離れており、ここからじゃラックの上に載っているものが何か、判別できそうにはない。
一方、彼女たちはあれがどういうものなのか、どういう理由であるのかといった事が完全に理解しているようで、疑問を抱くことなく、すんなりと俺をそのラックの下へ誘導したのである。
「これは無駄遣いじゃないよ。とってもイイもんだからね!」
歩くにつれて形がはっきりし始め、ついに俺の視線が『それ』を捉えると、俺が驚く間もなく亜子は笑った。
二段の細長いラックに置かれていたものは、四色のグッズであった。
そしてそれらの四つのグッズには、確かに見覚えがあったのである。
「やっと気づいたね」
泉は俺の袖を摘んで、左右へ僅かに揺らした。
「いや、これは……今日買ったやつじゃないか」
そう、俺の今見ているそれらは、今日出かけた店で自由に買い物をしていた時、三人がそれぞれ色々な物を買った中の一つなのだ。
「これ、何に見える?」
泉の問いに、改めてそれらを注視する。
一段目には真っ赤なリボンとヒマワリのアクセサリー、そして二段目には黒いブレスレットと青の毛糸のテディベアが置かれている。
彼女たちが買ってきたその当時の事を思い出して記憶と絵合わせをしていた時、亜子は声を詰めてはっきりと言った。
「アタシがPちゃんの言う『成長』が違うと思ったのは、やっぱり変わることだけが成長じゃないと思ったからなんよ」
やはり彼女は、成長という言葉に何か違和感を抱いているようだ。
何故ならば、一般的とも言える意味合いに異議を唱えるのはよっぽどのことだからである。
「もっといっぱいライブをやっても、いっぱいファンのみんなを楽しませても、やっぱり私はみんなと一緒に居たいなぁ」
さくらは言う。
そういえば、先程キッチンで彼女は確かこう言った。
――もしそうだったら、みんな成長しなくなる。
これがどういう意味なのかを考えると、予め予習していたかのように難なく解答にたどり着くことが出来た。
「アイドルをやってもやってなくても、人はいつか変わってしまう。だからこそ、私達は変わらずに居たいと思うの」
つまり、成長することがやがて別れに繋がるという因果関係を、彼女たちは真っ向から否定しているのだ。
成長することは変わること。変わることは今までと別れを告げる事。
当たり前のような事だが、それでもニューウェーブという存在は変わらずに居たい。
「家族みたいなもん。年取るし、家も出るかもしれない。けどなPちゃん、どれだけ変わっても、ここを離れても、みんなと居た事、Pちゃんが担当についてくれた事を昔の話にしたくないんよ」
彼女たちが持つ確固たる絆が、そう叫んでいるのである。
「難しいことはわからないけど、みんなと一緒に楽しくできるなら私、がんばります! ……それじゃ、だめかなぁ?」
俺は、いつの間にか変わって然るべしという概念が植え付けられていたのかもしれない。
要は見方の問題だ。
変わるという成長もあれば、変わらないという成長もあるのである。
世の中が変わり続けるからこそ、そのままでいるということがどれだけ難しいことか、この業界にいてわからない筈がない。
「……それで、このラックか」
真っ赤なリボンはさくら、ヒマワリの髪留めは亜子、青のテディベアは泉。そして、黒のブレスレットは――。
「私達は私達だけじゃなくて、Pもいて私達なんだよ。だから、私達はトリコロールじゃなくて、テトラード。……色はちょっと違うけどね」
そう言って口に手を当て、泉が小さく笑う。
いつまでも変わりませんように。いつまでもこのままでありますように。
決して悪い意味ではない。人は成長し、どんどん変わっていく。
その中で、心だけは、人の繋がりだけは変わらずに居たい。
この歪なテトラードは、彼女たちなりの誓いなのであった。
「……変わったなあ、お前たちも」
不意に俺は呟いてしまう。
かつて彼女たちは、不安に揺れ動いていたり、やる気が空回りしていた時があった。
その時期は、まるで目の前しか見えていないかのような様子であったと俺の記憶が告げている。
しかし、今は遥か遠くの未来までも見据えているのだ。
一辺倒にしか考えていなかった俺に、そんな彼女たちをどうこう言えるはずがなかった。
「じゃあ頑張ろうか、変わらないために。……言っておくが、難しいぞ?」
冗談がてら、軽く脅しをかけておく。
この世界で変わらずにあり続けるのがどれだけ難しいか、彼女たちも重々承知しているはずだ。
「わかってるよ。だからこれをここに置くの」
それでも宣言するということは、つまりそういうことなのだ。
俺と彼女たちの絆は、彼女たち三人の絆に比べれば軽薄である。
だからこそ、彼女たちは俺の部屋にこのテトラードを設置した。俺の部屋に刻まれた確かな証拠は、思いが朽ちずあり続けるために、そして俺がそれを忘れないためなのだろう。
「まあ、そういうことよ。……あー、変な話しちゃったなあ。ご飯作ろか、泉」
「あんまり得意じゃないもんね、亜子は。ふふ、私も手伝うよ」
話がつんと張り詰めると、まるで今まで息を止めていたかのように亜子が息を大きく吐いた。
普段の性格を考えればやむ無しか。
「さくらもおいしい晩御飯、がんばりますぅ!」
二人の会話に入るようにさくらが二人の手を取った。
仲良く笑う彼女たちの絵は、今まで幾度と無く見てきた光景だ。
しかし、これからは違う。
「――よし、俺も手伝うよ」
三色の過去と四色の今。それが未来まで続きますように。
限りなく遠いこの先をテトラードで彩れるように、俺は彼女たちの後を追うのであった。
[おわり]
三人のメダルSR記念にという当初のネタから飛びに飛んで今頃という……ごめんよ、ニューウェーブ。
お疲れ様でした。
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