律子「SIGNAL」 (43)
二人はまたほっと小さな息[いき]をしました。
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このssはB'zのSIGNALを元にしています。
読む前に聞いていただけると少しは楽しめるかもしれません。
……youtube? 僕の家にCDあるから借りてく?
――――――――。
轟音にも似た声援と拍手の中、臆する事無く彼女はステージに立っている。
何万人もの視線を一身に受けて静かに笑みを浮かべている。
「自信無いですよぉ……」
ここにいる全ての人間を魅了している彼女がアイドルに向いていない訳無いじゃないか。
ああ、今すぐにでも引退を撤回させてやりたい。
彼女の声が、マイクに乗り拡大される。
お別れの言葉を伝えるために。
――――――――。
この日、アイドル秋月律子は引退した。
――――――――。
ステージでこもった熱量を冷ますように、夜風に当たりながら外を歩く。
潮風と月明かりが二人を優しく包んでいた。
会話は無い。
心地いい沈黙が二人の間に漂っていた。
俺から言わなきゃいけない事があって、その言葉を伝えた。
星で影が出来そうなほど済んだ空気の夜だった。
――――――――。
この日、アイドルとプロデューサーの一線を超えた。
――――――――。
引退後すぐに彼女はユニットのプロデュースに入り、俺もまたソロで4人を平行してプロデュースする事になった。
多忙な日々が続きそうな事は分かっていた。だから一つの提案をした。
ご両親へ挨拶に行ったときは緊張で死ぬかと思った。
「返品は受け付けないよ?」と言われたが、返品する気などさらさらない。
朝、寝顔を見るために早起きするのが楽しみになった。
夜、隣にあるあったかさを感じながら寝るのが幸せすぎてなかなか寝付けなかった。
――――――――。
だいたい、3ヶ月前の話。
…………。
外はすっかり暗くなり、格闘していた書類の山は平地と言ってもいいくらいに減っていた。
腹の虫が鳴き出しそうな午後7時。
律子「プロデューサー、まだ帰りませんか?」
P「ん。もう少し残ってく」
律子「わかりました。夕食の準備して待ってますね」
P「ん」
アルミサッシのドアが軽い音を立てて閉じる。
肉じゃががいいな。
¶「いいっすねー。あんな美人の奥さんが家で待ってるなんて。
あー俺も帰ったら誰か家で待ってないかなー!」
P「……ちょっとしたホラーだぞそれ」
¶「温もりが恋しい!」
P「最近冷えるしな。風邪とか気をつけろよ?」
¶「違う! 人肌! 幽霊でも可!」
後輩の行く末が不安になった午後7時。
山を越えたことで眠気が頭をもたげてきた。
¶「あー、俺も早く真美をトップアイドルにし痛た! 大人が中学生に手をあげたら犯罪になるんですよ!」
P「中学生に手をつけようとしてる大人が何を言うか」
¶「そんなことはないっすよ。合法っすよ合法」
軽口を叩きながらも打鍵音は止まない。
¶「ふー。肩こりましたね」
後輩が胸ポケットから煙草を取り出す。ちなみに事務所は全室禁煙だ。
寒空の下燻らす煙草は旨いだろうな。
¶「ちょっとタバコ吸ってきますね」
P「俺も行く」
¶「あれ? プロデューサーさんタバコ吸われましたっけ?」
P「律子に言われて禁煙中……だった」
たまにはいいよな。
そもそもアイドル時代喉に悪いから辞めてくれって理由だったし。
常夜灯の頼りない明りで照らされた階段を上る。
ドアを開けると、屋上は街明りが届かずに暗闇が溜まっていた。
暗闇に二つ蛍日が灯る。不完全燃焼した煙を肺に流し込む。
命が縮む味がした。
軽く息を吐く、煙が夜空に溶けていった。
あらかじめ買っておいた缶コーヒーのプルタブを押し込むと小気味いい音が鳴る。
P「要る?」
¶「いただきます」
空いていない方の缶コーヒーを軽く放ると左手だけで受け止められる。さすが元キャッチャー。
¶「寒くなってきましたね」
P「もう秋飛び越して冬だな」
同じタイミングで息を吐く。
しばらくしたら吐く息も白くなる季節がやってくる。
指先に熱を感じる、火種がすぐ近くまで迫ってきていた。
足で吸殻を踏み潰してそのまま排水口に蹴りいれる。
¶「…………」
P「あ、悪い」
差し出された携帯灰皿に気づいた後だった。
¶「戻りますか」
P「そうだな」
戻ろうと足を踏み出した一歩目、首から掛けていた社用携帯が震える。
相手は、懇意にしているディレクターだった。
P「はい、お疲れ様です765プロです。はい、ええ存じております。
……それはずいぶんと急なお話ですね。少々お待ち頂けますか? 後程折り返させていただきますので。
はい、失礼します」
¶「何の話ですか?」
P「……ゴールデンの箱番組、急に空きが出来たから響に入ってほしいって」
¶「良かったじゃないですか!」
P「うーん、急すぎてどうにも。そもそもなんで空きが出来たんだ?」
¶「さあ?」
P「……それに、あの番組のメイン司会者嫌いなんだよなー」
事務所に戻る。
ドアを閉じるときに見た屋上は暗く、寂しく思えた。
P「よ、お疲れ様」
響『おつかれさまだぞ!』
P「何してた?」
響『お風呂はいってた。……あっ! そ、想像しちゃダメだからな!』
P「してないしてない」
響『それでどんな用事なんだ? もしかして、声が聞きたくなったとか?!』
P「俺はお前の彼氏か、違うわい。明後日レッスンの予定が入ってる日があったろ?」
響『あったね』
P「詳しいことはまた明日話すけど、その日テレビ収録に変更な」
響『りょーかいだぞ』
P「よろしくな。じゃあお休み」
受話器を下す。軽めの音が鳴り接続が切られる。
¶「彼女ですか?」
P「響だよ!」
¶「彼女じゃないですか。二股先輩」
P「黙れ童貞後輩」
先ほど決まった話を伝え終わり、ようやくすべてのスケジュール調整が終わる。
都合よくレッスンだけの日で良かったよ。
隣を見ると童貞後輩もあらかた仕事を片付けたようにみえる。
¶「腹減りマックスですよマックス」
P「そうだな。こんな時間だしな」
左手の時計を確認するともう8時半。
よいこは帰る時間だ。
P「よし、飯食いに行くか!」
¶「ゴチになります!」
P「ゴチにされます」
…………。
律子「待ってたんですよ」
P「……ごめん」
うつむかれた視線は、栗色の前髪に隠されて見えない。
いつも自分を見上げるその背丈が、いつもより小さく見えた。
P「……仕事で遅くなって連絡入れるの忘れてた」
罪悪感から頭をかく。
ただ申し訳ない気持ちで口が回らない。
律子「……じゃあしょうがないですね。明日の朝ごはんにしますよ?」
P「お、おう」
律子「ほら、そんなところに突っ立ってたら風邪ひいちゃいますよ。
お風呂湧いてますから、ちゃっちゃと入っちゃってください」
張り付いていた陰りが消え、笑みが浮かぶ。
目を細め、薄い上唇を軽く曲げる、見る人を穏やかな気持ちにさせるような笑み。
その笑顔が、アイドル時代に自分が教えた笑顔だと気付いたのは、湯船につかって彼女のことを考えていた時だった。
P「……スーツ、タバコ臭かったのに小言の一つもなかったな」
…………。
スタンドライトの電源を切ると、今日一日という日が落ちる。
風呂上りで心地よく温まった体が毛布に包まれて、意識が落ちていく。
薄い明りが灯っていた。枕元で何か本でも読んでいるんだろうか。
自分より少し冷えた彼女の体温を感じる。
また今日も君に優しくできなかった。
その頭を胸に抱いて眠りたい。
一緒にいられることだけ望んでいたのに。
手をつないでふざけたい。
そんなことを思っていると、また次の朝が来る。
…………。
寝ぼけた頭が揺り動かされる。肩を掴まれてゆらゆらと。
働いていない脳みそに起床をうながす声が届く。
律子「朝ですよー。起きてくださーい」
P「……あと5ふ痛た」
ほっぺたをつねられた。
ゾンビのようにのろのろと起き上がる。
P「おはよ」
律子「はい、おはようございます」
鼻孔を朝のにおいがくすぐる。パンの焼けたにおい、コーヒーのにおい。
カーテンからこぼれる朝日。どこかから聞こえる鳥のさえずり。
印象派の描いた点描のような色彩の幸福。
気づけば、その幸福の源を抱きしめていた。
P「おはよう」
律子「おはようございます。ダーリン」
木目調のテーブルの上には軽くつまめるような朝食が並んでいる。
カップを手に取り、コーヒーをすする。体が目覚めていくように苦みが染みわたる。
なんとなくつけられたテレビの中では誰かが胴上げされていた。
横目で見ながらパンをかじる。サクッと小気味いい音が鳴り、香ばしいにおいがはじける。
律子「もう出ますね」
P「直出直帰だっけ?」
律子「うん」
のそのそと朝の時間を味わっている自分とは違い、彼女は既に準備をすべて済ませていた。
普段事務所で見るスーツ姿も家で見るとまた違った印象を受ける。
玄関まで付いていく。素足にフローリングが寒い時期になってきた。
ドアを開けると朝日がまぶしい。
律子「行ってきます」
P「いってらー」
背中が見えなくなるまで手を振ってみる。
大通りに出た彼女が、少し恥ずかしそうに手を振るのが見えた。
P「さぶっ」
朝の空気は、パジャマ姿には少しきついほど寒い。
ドアを閉め、暖かな室内に逃げ込む。俺も出る準備をしないといけない時間になっていた。
…………。
石焼き芋売りの声が、開け放ってある窓から小さく聞こえた。
秋の昼過ぎ、手持ち無沙汰で眠くなる時間。トラブルも火急の案件もないのでのんびりとした時間が流れている。
何となくスマホで明日の天気を確認してみる。雨だそうだ。
ホワイトボードの名前欄の横にはそれぞれの字で「外出」の文字が踊っている。
小鳥さんもちょっとした用事で出ているので事務所には俺一人しかいなかった。
涼「こんにちはー」
訂正、今増えた。
P「おう涼ちゃん」
涼「……こんにちはー!」
P「……おう涼くん。だから睨むのを止めよう。迫力はないけど」
座っていてもそれほど身長差が無いので凄みというか迫力を感じない。
気性とか顔立ちとかも関係してるだろうけど。あまりくりくりっとした目で睨まれても、ねぇ。
P「今日はどうした? 姉ちゃんはいないぞ?」
涼「知ってますよ。知っててきたんです」
雑多になりつつあるデスクにカラフルな封筒が置かれる。
ニコニコと、開けて開けてと書いてある笑顔を見ると姉弟だなと思う。
P「開けていい?」
涼「どうぞどうぞ」
手に取り封を開ける。中には長方形の紙切れが2枚。
下から4分の1ほどの場所に切り取り線。映画のチケットだった。
涼「知ってます? 感動できるって話題なんですよ」
P「名前くらいは」
朝のニュースで何度か見た記憶がある。
名前も知らない金髪の外人さんが出ていた記憶と、真実の愛がどうのこうのと言ってた記憶がある。
P「でもなんでくれた? っておい明日やんけ」
涼「最近、律子姉ちゃんが寂しいって言ってましたよお兄ちゃん?」
P「こっちも忙しいんだよ」
少し前屈みになり、涼が覗き込むようにして俺を見る。
本心、心の奥底をさぐる様な瞳の色で。
涼「お兄ちゃんがプロデューサーになっちゃいますよ?」
P「……わかったよ義弟」
P「ってなわけで頼む」
¶「いやっす」
断られた。
外回りしていた後輩の開口一番に断られた。
P「……前、お盆休みがどうしても欲しいってとき、仕事かわったよな~」
¶「…………」
P「小鳥さんがビックサ」
¶「変わります! 変わります! 是非是非に変わらせてください!」
P「おー、変わってくれるか! いやー、いい後輩をもったもんだ」
有給は誰かの犠牲の上に成り立つらしかった。許されないことだ。うん。
といっても、その日は基本個人主導での仕事で打ち合わせなどの業務もないため問題はないはず。
彼女のスケジュールも確認し、たいした業務がないことは確認済み。
なので彼女の仕事を誰かに押し付ければミッションコンプリートとなる。
P「後は律子の仕事を小鳥さんに押し付けて」
小鳥「ピヨッ!」
我関せずとキーボードを叩いていた小鳥さんの手が止まった。肩ほどで切りそろえられた髪が揺れ、恐る恐るといった様相で振り向く。
手を合わせ頭を座っている小鳥さんよりも深く下げる。
P「お願いします!」
土下座せんばかりの心境で固まっていると、頭に手を置かれた。
頭の中身が詰まっているか確かめるようにチョップをされている。
小鳥「はぁ、今回だけですよ。次からはちゃーんと前もって申請してくださいね?」
P「恩に着ります!」
小鳥「プロデューサーさんのためじゃなくて、律子さんのためですからねー」
…………。
P「ってなわけで明日休み」
律子「そんな急に……」
男のチャーハンが並んだダイニングで今日のあらましを彼女に説明した。もちろんチケットは俺が買った事にしてある。
……手を叩いて大喜びしてくれると思っていたんだけど、表情はめんどくさいと言うかなんというか曇りがち。
律子「明日の仕事どうするんですか? あなたの分も私の分も」
P「律子の分は小鳥さんに頼んできた」
律子「そんな……悪いですよ」
P「大丈夫だって、快く頼まれてくれたから。久しぶりにデート行こうぜ」
律子「それは嬉しいんですけど……でも……」
煮え切らない。そんな彼女の様相に理不尽な苛立ちを覚える。利己中心的で自己中心的な苛立ち。
なんで喜んでくれないんだという、相手を自分の思うがままに動かそうとして、失敗するような苛立ち。
P「じゃあいいよ」
酷く低い声が空気を震わせた。自分の口から出たとは思えないような声。
喋っている自分を俯瞰で見ているような気分だった。
律子「あ、待って! う、嬉しいんですけどぉ、こ、心の準備が」
結局、彼女は午前だけ事務所に顔を出して、12時に待ち合わせをしてお昼を食べて、その後映画を見よう。ということになった。
スーツ姿の律子を連れてのデートも悪くないな。
そんな事を思い浮かべながら、今日という日が過ぎていく。
小学生が遠足を楽しみにするようになかなか寝付けずに布団の中でじっと朝がくるのを待っている。
枕元ではほのかな明かりが灯っている。その明かりで彼女がまだ起きているのだと知る。
P「まだ寝ないの?」
律子「もう少ししたら」
背中に柔らかい温かさを感じる。誰かがそこにいるという安心感。
そうだ、俺はこれを求めて律子といるんじゃないのか。二人でいるだけ、それだけを求めていたんじゃないのか?
なにか、大切な事に気づいた気がしたけど。
その気づきは水の中にこぼれ落ちた墨汁のように、意識とともに霧散して忘れてしまった。
「お休みなさい」
朝、やけに寒いなと思いながら起きると既に隣はもぬけの殻になっていた。
時計を見ると既に9時を回っている。もう高い位置にある太陽が部屋を照らしていた。
P「起こしてくれりゃいいのに」
枕元に自分のスマホが置かれていた。
……間抜け面な自分の寝顔と、先に出ます。朝ご飯はテーブルの上にという簡単なメッセージ。
ぬくいベッドを抜けダイニングへ。
足元が寒くないと思ったら知らぬ間に用意されていたスリッパを履いていた。
適当にテレビをつけ、置かれていた朝食を暖める。朝のぼんやりとした時間が過ぎていく。
気がつくと身だしなみを整え終わっていた。さて、12時まで何をして時間をつぶそうと考えたとき、電話が鳴った。
ポケットに入れているスマホではなく、社用携帯が。
…………。
木々が後方に飛ぶように過ぎ去る。
助手席に投げられたスマホのスピーカーから響の困惑と涙をこらえるような、助けを求める声が響く。
心の中で毒づく。だからあの番組の司会者は嫌いなんだ!
ってかうちのアイドルを何だと思ってやがる!
響『じぶ、自分どうすれば』
P「大丈夫、すぐ行くから。今はあいつに任せて響は裏に隠れててくれるか?」
響『うん……!』
引き抜きたいんだったら俺らに一言言いやがれ!
十把一絡げのアイドル集めなら勝手にやってろ!
アクセルをベタ踏みする。エンジンが悲鳴を上げ風景が糸を引くように過ぎ去る。
フロントガラスには小さな点が降り注いでいた。雨が降り出していた。
¶「すいません、俺も連絡受けてきたんですけどどうしていいのか分からなくて」
P「アイドルを守ってくれただけで十分だよ。状況は電話の通り?」
¶「はい、勝手に引き抜こうとしていたみたいです。……響にプレッシャーかけてたっぽいです」
P「だからあいつ嫌いなんだよ。権力を魅力かなんかと勘違いしてやがる。
お前は響についてあげててくれ。話つけてくる」
…………。
P「お久しぶりです」
「久しぶりだね。どうしたの? 目の色変えて」
…………。
「いいでしょ? 彼女だってこっちの方がいいよ」
P「響を評価なさってくれている事は感謝します。ですが響は我が社のアイドルです」
「そんなことは知ってるよ」
……………。
「腹減ったよ。この話は後にしよう後に」
P「いえ、ここで金輪際直接アイドルと交渉することは辞めていただけると約束してください」
「わかったわかった! わかったからこの話は終わり終わり!」
朝飯分の熱量を消費しきった体を畳に預ける。どこかでカロリーを摂取しないと死ぬ。
控え室の天井がやけに眩しく感じた。目を閉じてもまぶたがほんのりと赤みを帯びている。
ふと、右目だけが何かに遮られたのか真っ暗になった。
響「……ごめんね」
声が降ってきた。小雨のような情けない声が。
P「響は何も悪い事してないよ。あやまるな」
響「うん。……ありがと」
暗闇の中、ほほに水滴が触れた。気のせいだと思う事にした。
¶「あー腹減りましたねー」
入りますよー。といった感じで後輩がノックもなしに控え室のドアを開けた。
心情的にも物理的にも冷たい空気が控え室に流れ込むのを感じた。
P「空気を読むって知ってる?」
¶「読んだから入ってきたんじゃないですか」
腹筋の要領で起き上がる。
腹に力を入れると胃がねじれるような音が控え室に鳴り響く。
響「ぐぎゅーっ」
P「俺じゃない」
¶「あんたですよ」
別の場所からもう一発。
¶「俺じゃない」
P「あんたですよ」
響「お腹減ったな! お昼行こうよ!」
ひまわりの咲くような笑顔がはじける。ただその笑顔を見れただけで今日一日の苦労が吹き飛ぶようだった。
ん? 今日一日? 何か大切な事を忘れている気がしている。なんで今日は休みだったんだっけ?
P「…………今何時?」
¶「14時ですけど」
天気予報では午後からバケツをひっくり返したような雨が降ると聞いていた。
信号機や道路が雨で薄い膜をつけたようになっている様が目に浮かんだ。多分外は寒い。
P「悪い、予定思い出した」
思い出すのが遅すぎた。
…………。
信号が雨で薄く広がっているように見える。停止を義務づけられた色でうすぼんやりと。
片足の貧乏ゆすりが止まらない。さっさと動け。
今日携帯に来た連絡はさっきのトラブルがらみでの連絡だけだった。それはつまり催促のメールは来ていないということ。
ワイパーがフロントガラスに上を忙しなく動いている。
赤が青に変わった。タイヤが数回空転した後風景を置き去りに車が走り出す。
大粒の雨が車を叩き付けていた。雨で出来たカーテンの中を裂くように車は待ち合わせ場所に走る。
P「…………」
指先がハンドルを小刻みに揺らす。ゆっくりと、法定速度を守った車が先行している。
そこを退け。確認もそこそこに追い越す。風景が流れ出す。
人には怒り方ってのがあると思う。例えば爆発するタイプ、俺とか。
体育会系は怒るときに怒ってその後はからっとしてるやつが多い気がする、後輩とか。ねちねち怒るタイプ、多分千早。とことん話し合うタイプ、多分春香。
そこそこ付き合いが長くなればその人物の怒り方とその対処方法みたいなのが見えてくる。
でも連絡が一切無いってことは今まで無かった。むしろしつこいくらいに何をしているかまだ来ないのかと問いただされた記憶しか無い。
P「……ああ! どうせもう家に帰ってるんだろ?!」
ナレータの機械的な声しか聞こえない電話を補助席に放り投げる。
そうだ、どうせ三十分も待ったところで家に帰るよ律子なら。だから俺が今こうやって待ち合わせ場所に向かっている行為はガソリンと時間の無駄だ。
と何度も何度も体の中に住んでいる薄汚い動物が俺に語りかける。放っておくと皮膚を破って取って代わられそうになる。
動物の咆哮の代わりにアクセルを踏む。信号機はつがいの様に雨に降られていた。
…………。
駐車場に停める手間が惜しい。雨の降る路肩に車を乗り捨てる。
雨が降って濡れる人ごみ、街、街灯、アスファルト。全てが膜がかかったように薄く輝いていた。
人ごみの中、うつむいて傘をさしている彼女を見つけた。見間違うはずも無い見つけられない訳も無い。
傘は車に置いてきた。荷物は財布以外持っていない。濡れたアスファルトに革靴はよく滑った。
お願いだからまだ黄色いままでいてくれ。赤にならないでくれ。
律子「遅刻。ですよ」
P「ごめん」
律子「まーったく。あなたの頭は鳥頭ですかー? 詰まってますかー?」
P「すいません。…………あの律子さん、痛いです」
律子「……濡れますから。傘に入ってください」
P「…………ごめん」
律子「いいですよ。あなたは私がいないとだめなんですから」
P「はい。おっしゃる通りでございます」
律子「……本当ですか?」
P「はい」
律子「……しょうがないですねぇ。本当に」
P「え? 知ってたの?」
律子「ええ。真美のプロデューサーから連絡受けてましたからね」
P「なんで連絡くれなかったんだよ……」
律子「えっと、えへへ」
P「……ん? 電源切れてる?」
律子「昨日遅くまでゲームしてたら充電するの忘れてました」
P「本読んでたんじゃないのか」
律子「あんな慌ててるダーリン見られたから良しとします」
P「止めてくれよ……」
律子「そばに私がいるありがたみが分かりましたかー?」
P「はい。身に染みて」
律子「……ふふっ」
P「……ははっ」
相合い傘で雨に降られる街を歩く。残念ながら涼に貰ったチケットは無駄になってしまった。
肩が温かく濡れていた。惚れてる方が濡れている。
街の喧噪は耳に届かず、朝が来なくなった夜のように静かで。それでも律子の声だけがはっきりと鼓膜を、胸を震わせるように届いて。
隣で笑う彼女の笑顔は自然な笑顔を見せてくれていて。
気の早い奴らがもう木にクリスマス用のライトを取り付けていて。でもこの温かい雨の音を聞いているとまだ冬が来るのは先のように思える。
それまでに、いやこれから。その笑顔を曇らせないように。二人を照らす明かりのように互いを照らし合えるように。
一歩、二人の距離を縮める。言葉にしないけど、恥ずかしくて出来ないけど。伝わるように。
君がいるだけでよかったと。それだけでよかったと伝わるように。
信号は青く灯っていた。
SIGNALはGREENに収録されてるぞ。
……これで5人目か、先が長い。
お疲れ
昨日は響で書いてた人?
>>37
ちゃうねん。
>>39
違うのか……
今までの四人の話はどこかで読めたりしない?
>>40
今までの4人はあなたの心の中に。
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