【艦これ】五十鈴の調子が悪いようです【SS】 (37)

はじめてのスレ立てなんで上手くいくかドキドキ。ちなみにハトプリ派。
ちょと長いけど、付き合って頂けたら幸い。

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 凪である。
 しかし、この海原が静寂に包まれることはなかった。
 静けさを破るものは、無数の発砲音、スクリュー音、そして着弾音である。
 同時に巻き上がる膨大な水しぶきの中を、縫うように駆け抜ける影が一つ。
 よほど時勢に疎い人間でない限り、それを見て、ある一つの言葉を思い浮かべるだろう。
 ――すなわち、深海棲艦。突如として深海の彼方から姿を現した、人類共通の敵である。
 あるいは、それに加えて「駆逐イ級」という言葉を思い浮かべる者もいるかもしれない。
 そして、軍事知識に明るい者ならばすぐにその考えを打ち消すはずである。
 この影には、深海棲艦に共通の有機物と無機物が合わさったかのような奇怪さが存在しない。明らかに、人の手によって形作られたと分かるつるっとした外見をしているのだ。
 その正体は、連合海軍によって設計・製造された演習標的である。
 では、先程からこの標的に向けて何度も発砲し、それでいながら一向に有効打を与えられていないものとは、何か。
 それは、一人の少女である。
 いや、少女という形容が正しいのかどうか。
 何故ならば、普通の少女は14センチ単装砲と同等以上の威力を誇るサブマシンガン型の艤装をやすやすと扱いはしない。
 何故ならば、普通の少女は忙しく立ち働き、主をサポートする妖精たちをまとわりつかせていたりはしない。
 何よりも、普通の少女は海面を滑走しない。
 ――艦娘。
 かつての大戦を戦った艦艇たちは、今また人類未曾有の窮地に対し、自らの魂と戦力の全てを人間大の艤装へと変え、人類の元へ舞い戻って来た。
 そしてそれをまとい、自由自在に操り戦う少女たち……それを総称して、艦娘と呼ぶのである。
 この少女に与えられし名前と艤装は、五十鈴。
 かつて長良型軽巡洋艦2番艦として竣工された艦艇の、魂と戦力を受け継ぐ娘である。
 だが、与えられしその力が、今日は思うように振るえない。
 軽々と扱えていたはずの艤装が、妙に重く感じる。艤装を身にまとうやいなや、急激に拡大するはずの五感も平常時のそれと大差を感じなかった。
 自らをサポートするはずの妖精との同期も上手くとれていない。本来、妖精と艦娘とは一心同体のような存在であり、何も意識せずとも手足の延長のように立ち働いてくれるものなのだが、今は心に強く念じなければ、その姿さえ霞んで見えなくなりそうだった。
 腰部に装備された魚雷発射管など、起動できる気がしないありさまである。
「なぜだ……? どうして……?」
 自問自答するが、それで好転するはずもなく。
 母艦から演習終了を告げる通信が飛ばされ、それで、この日の演習は終了となった。
 撃墜数0。
 これは、軽巡洋艦クラスの艦娘では最強とも噂されている五十鈴にとって、ありえない数字であった。



 現在、我が国における海上防衛の一大基地として知られる横須賀鎮守府はしかし、その役割に対して、施設の規模はかなり小さなものである。
 これはこの施設が、艦娘の登場に合わせて建設され、かつての鎮守府の名を引き継いだことに由来している。
 本物の軍艦を多数扱うならばともかく、平時は人間と変わらぬ艦娘と、その艤装、それ

らを送り届ける母艦の運用に特化した施設とするならば、あまり大がかりなものとならないのはものの道理であった。
 結果として、口さがない者に横須賀鎮守府の外観を語らせればそれは、
「まるで学校のよう……」
 と、なるのである。
 そんな鎮守府の最奥、最も守りを厳重なものとしている場所に艦娘たちの寮が設けられていた。
 見た目は他に立ち並ぶ建物と大差ない代物だが、その中身は充実した保養施設となっており、内部には図書室、娯楽室、専用の美容師を揃えた理髪室などが用意されている。食堂や浴場といった、名前だけなら通常のそれと変わらぬ施設も、一般兵卒が使うものとは比べものにならぬ豪華さであった。
 この中でできないことといえば、それは買い物くらいなものであるが、それすらもネット通販を利用すれば大概のものは取りそろえられる。しかも、艦娘がそれらに料金を取られることは一切なかった。
 こんなことをしていては、一般海兵から不平不満も出そうなものであるが、各国が揃える最新鋭の軍艦ですら深海棲艦に手も足も出せず壊滅したことを考えると、身ひとつでこれを相手取る艦娘に対する待遇としては、
「安すぎるもの……」
 なのである。
 現在、この寮に存在する食堂を利用しているのは一人のみ。
 五十鈴である。
 少女の前に置かれているのは、飯と根深汁、そして漬けもののみであった。
「いただきます……」
 五十鈴はそれらに対して行儀良く手を合わせると、ゆっくりと箸を伸ばした。
「あらあら……、一体どうしたの?」
 と、その背中から声がかかり、箸の動きが止まった。
「……由良か、おどろいたじゃないか」
「おどろいたのはこっちよ。こんな時間に、しかもそんな食事だなんて、体の調子でも悪いの?」
「そういうわけではないのだが……」
(こうなるのが嫌だから、他の人間と時間をずらしたのだが……)
 つくづく、縁のある相手だと思う。
 長良型軽巡洋艦4番艦由良の名を受け継いだこの娘は、自分と同時期に艦娘として覚醒し、また、同じ長良型の艦娘ということで何かとまとめて扱われてきた。
 一番の戦友といってもよい間柄なのだが、今日ばかりは少々間が悪かったといえる。
「調子が悪くないのなら、もっとしっかり食べないとだめよ。今日は五十鈴ちゃんの好きな、ストロベリーのアイスだってあるんだから……」
 そう言いながら、由良はビュッフェ部分を指差す。
 深海棲艦の跳梁により貿易網が寸断され、我が国の食卓事情も幾分かつつましい今日この頃であるが、そこはさすが艦娘寮というべきか、種々雑多な料理がチェーフィングディッシュの上を賑わせている。
「いや……いいのだ、私はこれで」
「どうして?」
「私には、そのようなものを食べる資格がない」
「食べる資格って……何かの時代劇に出てきそうよ? そのお食事」
「私たちが、このような贅沢な暮しをさせてもらえているのは、艦娘であるからだ」
「そうね。正直、艤装に選ばれた時は怖かったものだけど、家族に仕送りもできるし、今では感謝しているわ」
「だから、私にはそのようなものを食べる資格がないのだ……」
「ええっと……」
 話が最初に戻ってしまい、由良は困惑して

しまったようだ。
「もしかして……もしかしてなんだけどさ……五十鈴ちゃん、演習のこと気にしてる?」
「ぐ……」
 図星を突かれ、飯が喉につかえてしまった。
「なんだ……そんなことだったの」
「そ、そんなこととはなんだ!?」
「艦娘だって人間よ? 調子が悪い日だってあるわよ」
「調子が悪かったですまないこともある!」
 思わず握りしめてしまった箸が、べきりと音を立ててへし折れた。艤装を外した艦娘は普通の人間と変わらぬから、これは常日頃からの訓練による成果である。
「わ、私の存在意義は艦娘であることにあるのだ……それがあんな失態を……!」
「んー」
 由良はあごに指を当てしばらく考え込むと、食堂隅に備え付けられたモニターのスイッチを入れた。
『……と、以上がこれまで当代の赤城さんが上げてきた戦果の一覧でして、いや、なんとも壮観なものですねえ』
『いや、さすがは一航戦の力を受け継いだ艦娘であるというべきでしょうか。それだけに、今回の引退がおしまれますよ』
『どうでしょう? ここはもうしばらくの間、現役でがんばっていただくというわけにはいかないのでしょうか?』
『いや、それは無理というものです。と、いうのもですな。艦娘の力というのはある時期に至ると急激に衰えていくものでして、はい。一説では、艤装がより戦闘に適した若い娘を選ぶからではないかと言われております』
『むう……残念なものですなあ』
『いやいや、次代の戦力も着々と育っておりますよ。きっと、そのうちのいずれかが新しく赤城の名を受け継ぐことになるのでしょう』
『楽しみな話ですな。ところで、当代の赤城さんですが三ヶ月後の引退式を経た後、本土に帰還してそのまま結婚式を挙げられるのだとか?』
『ええ、発表によるとお相手は四菱重工の役員岩崎氏だそうで、こちらのフリップに岩崎氏の経歴を――』
「これは、赤城さんの引退に関するニュースか。最近はいつテレビをつけても、この話題で持ちきりだな」
 そこまで告げ、じろりと由良の方を見やる。
「それで、このニュースがどうしたのだ? 確かに赤城さんの引退は残念だが、だからこそ私たちがしっかりとしなければだな――」
「ちがうちがう、大事なのは引退の方じゃなくて、その後よ」
「その後……というと?」
「結婚よ、結婚」
「な……結婚って、お前」
「別に艦娘じゃなくなったって、お嫁さんになっちゃえばいいじゃない?」
「そんなもの……私たちが話題にするのは、早すぎる!」
「あらあら……そうかしら?」
 ぐいっと顔を近づけられ、思わず目を逸らしてしまう。
 目の前の少女は、時折同性の自分でさえもどきりとさせられてしまうような、なんともいえぬ色気を感じさせることがあるのだ。
「わたしは、五十鈴ちゃんならいいお嫁さんになれると思うんだけどな……」
「か、顔を近づけるな」
「あら……あらあら、ごめんなさい」
 ついと顔を離され、ようやく五十鈴はひと息つけた。
「ともかく、いざとなったらお嫁さんになっちゃえばいいんだし、気楽にやればいいのよ。元艦娘なんて引く手あまたなんだし、ね」
 言うだけ言うと、由良は食堂を後にしてしまった。
「はげまし……にきてくれたのか? 一応」
 まだばくばくと鳴っている胸を押さえなが

ら、五十鈴は自問自答した。
「それにしても……」
 人の気も知らず、気楽に語っていたコメンテーターの言葉を思い出す。
 その中で語られていたある事柄こそが、今現在五十鈴を最も悩ませていることだし、きっとそれを察したからこそ、あの親友はここに来てくれたのである。



「輸送任務……ですか?」
 艦娘寮とは隣り合う形の建物には、主に鎮守府内参謀部の機能が集約されている。
 中でもこの部屋は豪奢な内装が施されており、鎮守府内でも高位に位置する者が使用する場所であることがひと目で分かるつくりとなっていた。
 部屋の中には、士官服に身を包んだ60男が二人。
「そうだ。三ヶ月後、トラック泊地で行われる当代赤城の引退式に合わせ、あれを同地へ届けよというのが司令部の指示だ」
「あれ……と、申しますと?」
「長門の艤装だよ」
 重苦しい沈黙が室内を満たす。長門の艤装、という言葉に込められたものの重さが、そのまま質量を得たかのようであった。
 ――戦艦長門。
 ビッグセブンの一隻として名を連ね、かつての大戦では帝国海軍の象徴として扱われたこの戦艦も、艦娘の艤装へ形を変えこの世界に舞い戻ってきている。
 だが、いまだにその担い手となる娘は現れておらず、この横須賀鎮守府に半ば死蔵される形で保管されているのだった。
「広告塔……ということですか?」
「そうだ、様々な形で印象操作をしてはいるがな。やはり、今回の赤城引退は痛手だよ。実際の戦力云々よりも、士気の低下が問題だ」
「それで、長門の艤装を引退式に陳列させる……?」
「そうだ。実戦には参加せず、内地で温存され、その存在のみで人々の心を高翌揚させる……大戦時の長門を思えば、ふさわしい仕事であると思わんかね?」
「実戦で使えない以上、せめて置き物として役に立て……ですか?」
「そういうことになる……な」
 やがて、どちらからともなく溜め息がもれ出した。
「年端もいかぬ娘達を戦場に送り出し、戦えぬ装備とあらば飾りとしてでも活用する……か」
「分かってはおりますが、しかし、これは……」
「それが、人類の現状なのだ」



 一ヶ月後。
 五十鈴と由良は船上の人となっていた。
 彼女たちが乗りこむ輸送船には、本国からトラック泊地へ向けられた物資が満載となっており、これが前線で戦う兵士たちの命を繋ぐのである。
 それに加え、現在、この輸送艦にはあるものが積み込まれていた。
「長門の艤装……か」
「あら、五十鈴ちゃんは見に行かないの?」
 甲板で風に当たりながらの独り言を聞かれ、ぎくりと肩をこわばらせる。
 現在、船内では船長の「粋な計らい」により、希望者には間近で長門の艤装を見学する機会が与えられている。
 これには、わざわざ艤装の護衛として派遣されてきた士官たちが難色を示したものだが、なんといっても船長は船上における神に等しい存在だ。
 そんなわけで、長門の艤装は船内の一室に

安置され、非番の乗組員たちは部屋の隅で居心地悪そうにしている士官たちの視線を受けながらも、記念撮影などに興じているのである。
 ちなみに由良は、真っ先に記念撮影を行っており、その写真をメールに添付して鎮守府に残った艦娘たちに自慢していたものだ。
「……私はいいさ。今は、自分の艤装に集中しないと、な」
「まだ……調子、戻らないんだ?」
「ああ、日に日に悪くなっている気がする。今日の定時哨戒も、思うように速度が出せなかった」
 あれ以来、五十鈴の不調は続いていた。
 体調は良い。日頃の心がけもあって、万全といってよい状態を維持している。
 だが、どうにも上手く艤装の力を引き出せないでいるのだ。
 かつては自分の手足の如く操れていた装備ひとつひとつの挙動が重く、その動きはどこまでもぎこちない。
「私と艤装との間で、なにかがずれてしまっている……そう感じるんだ」
 だが、そのずれがなんなのか。それが分からない。
 いや、なぜそうなっているのか、予感はあるのだ。だが、それを口にしてしまうと現実のものとなってしまいそうな気がして……。
(私は……こんなにも弱かったのだろうか)
 こんな不安など吹き飛ばせない己の弱さに、憤慨してしまう。
「こんなことでは、本当に嫁にでもいくしかなくなるかもしれない、な……」
「五十鈴ちゃん……」
 由良が何かを告げようとした、その時である。
 船内全体に警報が鳴り響き、にわかに緊張が船を支配した。
「――これはっ!」
「深海棲艦だ! いくぞ由良!」
 こうなってしまえば、五十鈴の切り替えは早い。
 打ち出されたかのような早さで格納庫へ走り出し、由良もそれに続く。
 船内の持ち場へ移動する乗組員たちをかわしながら、あっという間に自身の艤装へと辿り着いた。
 長良型軽巡2番艦五十鈴の艤装は、各所が折りたたまれた状態で格納されており、すぐさま出撃できる態勢を整えられている。
 この格納庫には艦娘用のカタパルトも装備されており、艤装を装着した艦娘が素早く出撃できるようになっているのだ。
「こいっ!」
 五十鈴が自身の艤装に右手をかざし、命じる。
 ――だが、何も起きない。
「五十鈴ちゃん、どうしたのっ!?」
 後から追いついてきた由良が同じように右手をかざすと、やはり格納されていたその艤装が弾け飛び、自ら意思を持ったかのようにひとりでに装着されていく。
 これが本来あるべき光景であり、艦娘の艤装は持ち主が望めば、その脱着は意のままであるのだ。
「艤装が……反応しない!」
 五十鈴はこの事実を前にし、がく然とした声をあげる。
「反応しないって……そんな!」
「まさかとは思っていた……そうではないかと……だが、何もこんな時に!」
 悔しさのあまり、五十鈴は床板へ拳を打ちつける。
 艦娘の艤装が主に反応しないとなれば、その理由はただひとつ。
 艤装が主の任を解き、元の人間として解き放ったのだ。
「――っ!」
 絶句したのは、由良であったが……ハッチの開放音によって我を取り戻す。

「とにかく、わたしはいくね! 五十鈴ちゃんは安全なところへ!」
 それだけ言い残し、下駄にも似たカタパルトへ両足を乗せた。
「軽巡由良、出撃!」
 かけ声と同時、電磁式のカタパルトが射出され、由良の姿は海原へと消えていく。
 格納庫には、五十鈴が……いや、五十鈴の名を受け継いでいた少女が一人取り残された。
「こんな……私は……」
 涙すらも出ない。
 少女はただ一人、己の無力さを噛みしめていた。



 艦橋では様々な情報が飛び交い、ありていにいって船長をはじめとする乗組員たちは浮き足立ってしまっていた。
 輸送任務の最中に深海棲艦と遭遇すること自体は、決して珍しいことではない。それを覚悟しているからこそ、艦娘たちを護衛として乗艦させてもいるのだ。
 だが、この日彼らの前に立ちはだかった深海棲艦はまさしく、ものが違っていたのである……。
「戦艦ル級……それもフラッグシップタイプだと……!?」
 部下から上げられた報告を聞き、船長は顔面蒼白といった体であった。
 ――戦艦ル級。
 戦艦型に分類される深海棲艦の中でも、上位に位置する存在である。
 しかも、フラッグシップであるならば黄金の燐光を身にまとい、なまかな攻撃では傷ひとつつけることすらかなわぬ強力な個体となるのだ。
「見間違いではないのか!?」
 すぐさまそう問い返してしまったのも、無理のないことであっただろう。
 高度なステルス能力を持つ深海棲艦に対し、既存のレーダーは全くの無力である。
 そのため、海上での索敵は目視を頼りとする前時代的なものへと退化しており、見張りや哨戒に出ていた艦娘の見間違いということもない話ではなかった。
 だが、
「深雪から転送された映像、モニターに回します!」
 緊張した声と共にモニターへ大写しにされた映像を見て、艦橋の一同は息をのむ。
 その姿は、ひと言で例えるならば、
「異貌の美女……」
 と、なるであろう。
 長身ではあるものの、背丈は人間のそれと一切変わらず、青白い肌を未来的な装束に包み、両手に盾のような形状をした砲戦用の艤装を手にしている。
 人の手による艦船では決して追いつけぬ速度で海上を滑走するその姿は、艦娘の一人であるかのようだ。
 だが、艦娘は不吉な燐光をその身にまとったりはしない。
 これはまぎれもなく……、
「せ、戦艦ル級……これほどの大物が、なぜこんな海域に!?」
 再びがく然とした声を上げ、船長は頭を抱え込んでしまった。
「な、なあ……話に聞いてたほど、とんでもないたまじゃなさそうじゃないか……?」
 管制にあたっていた乗組員が、ぽつりと漏らす。
「そ、そうだな……俺、艦娘が深海棲艦を倒すムービー見たことあるんだ……あんなのよりずっとでかくて不気味なやつを、砲撃でさ」
「あ、ああ……艦娘の方々なら、あんなやつ簡単に……」
 言葉をかわすのは、この中でもとりわけ若い者たちだ。
 彼らも、知識としてモニターの中にいる存

在がどれほど危険で恐ろしいかは知っているだろうに、そう口にせずにはいられないのである。
 だが、恐怖で口を開かずにいられないのはベテラン乗組員とて同じことだ。
「見かけでまどわされるなよ……深海棲艦っていうのは、強力な個体ほど人間に近い姿なんだぞ」
「こんごう……あたご……かつて自衛隊が保持していた艦艇の数々も、あれと同じやつに沈められたんだ。こんなちゃちな輸送船より、遥かに強力な船がだぞ」
 艦橋内を、重苦しい沈黙が包み込んだ。
 それを引き裂いたのは、艦娘のモニタリングに努める管制官である。
「哨戒中の吹雪、白雪、初雪、深雪、交戦に入ります!」
「五十鈴と由良はどうだ!? 経験豊富な彼女らも加われば、あるいは……」
「そ、それが……」
「何かあったのか!?」
「由良からの通信によると、五十鈴の艤装は着装に応じず……その、艦娘の力を失ったのではないかとのこと!」
「な、なんだと……!?」
 今度は沈黙のみではない。
 冷えた手で心臓をわしづかみにされたかのような、恐怖と絶望が一同の胸に染み渡った。
 それまで、彼らはまだ信じていたのである。
 艦娘がなんとかしてくれる。必ず自分たちを守り抜いてくれると。
 それを強く裏付けていたのが、護衛艦隊の隊長を務め、これまで数々の武勲を重ねてきた五十鈴の存在だったのだ。
「神は、我々を見捨てられたのか……!」
 船長職にあるまじき弱気な発言を漏らすが、それを咎められる者など、この場にいようはずがない。



 こうしてうなだれ始めてから、どれほどの時が流れたのだろうか。
 実際のところは数分にも満たない間だが、五十鈴を名乗っていた少女にはそれが無限の時にも感じられた。
 今頃、仲間たちは絶望的な戦闘に身を投じているに違いない。
 敵がどのような存在であるかは、艦娘に共通して渡される通信用のデバイスから漏れ聞こえた声で分かっていた。
 おそらく、万全の自分が加わっていたとしても勝ち目のない相手……。
 それでも、仲間と共に海の藻屑と消えるのならば、それでこの輸送船が逃げる時間を少しでも稼げるのならば、まだ己を許せただろう。
 だが、今の自分はその資格すらも消失しているのだ。
「お若いの? そんなところで何をしているんだ?」
 その背中に、声がかけられた。
 振り向けば、そこに立っていたのは剃髪に見えるほど髪を短く剃り落した60男である。
 小肥だが立派な体格をしており、柔和な表情を浮かべていた。
「あなたこそ、こんなところで何をしているのですか?」
 少女は驚いた。
 自分以外に、こんな時にこんな所で油を売っている人間がいるとは思わなかったのである。
 しかも、この船に乗って一ヶ月が過ぎているが、このような乗組員を見た覚えがなかった。
「俺か? どうも駄目そうなんでな、こうして最後のお楽しみに来たわけよ」
 そういって男が掲げて見せたのは、一本のウィスキーである。
「そ、そんなものどこで……?」

 少女はそれに、また驚かされた。軍規に照らし合わせれば、当然こんなところに存在するはずがない品物だ。
「ま、誰だか知らないが上手いことやって積み荷に潜り込ませたんだろうよ。そういうはしっこいやつ、俺は嫌いじゃあない」
 言いながら男は早くもウィスキーの栓を開け、中身を美味そうに口へ含む。
「――ふうっ、昔は酒なんか大嫌いだったが、いや、この頃は悪くないと思うようになってきたな」
 そう言ってから、男はじろりと少女をねめつける。
「それで話を戻すが……お前さんはこんなところで何をしているんだ?」
「で、ですから私には、もう戦う力が……」
「力がないから、戦わない……?」
「そ、そうです。当り前じゃないですか!?」
「お前、力があるから戦うのか?」
 その言葉が不思議と胸に突き刺さり、少女は二の句を告げなくなった。
「がっかりだねえ……俺はよ、艦娘ってのは戦う意思を持った人間がなるものだと思ってたんだぜ? それが、役目を背負わされたから仕方なくそうするときたもんだ」
「だ、誰もそこまでは! それに、あなたにそんなことを言われる筋合いは!」
「あるね。大いにある。俺は戦ったぞ。役目を負わされたからではなく、自分がそうしたいから戦った。右を見ても左を見ても、周りはばかばっかりだったが、それでもだ」
 その言葉には重みがある。決して口だけのものではないのが、少女には伝わってくるのだ。
「……それにまあ、少しはましなばかも中にはいたからな。俺が戦って、そういうやつらが助かるってんならそれは悪くなかった。お前さんはどうだ? え?」
「私は……」
 少女は自分の胸に問いかける。
「私だってそうだ! 由良を、仲間たちを助けたいと思っている!」
「その言葉に、二言はないかえ?」
 そう問いかける男の目には、無限の愛情が込められていたのである。
 決意と共に少女がうなずくと、もう目の前に男の姿はなかった。
 代わりに現れたのは――。



 瞬間、時間にして万分の一秒にも満たぬ刹那の時。
 船体が大きく水面へと沈みこんだ。
 その時、輸送船の内部では、確かに質量が生まれていたのである。
 その重さ、実に33800トン。
 それはこの時代において、再び生を、戦う機会を得たものが発した、歓喜の叫びでもあったのだろうか……。



「なんて力……これがフラッグシップだというの……」
 戦艦ル級が放つ砲撃を、済んでのところでかわしながら由良はそうひとりごちた。
 艦娘としての戦歴は長い方である彼女だが、それでもこれほどの大物と戦うのは初めてのことであった。
 先程から、彼女を含めた艦娘たちは回避行動に専念しており、防戦一方といった体である。
 それほどまでに、歴然とした戦闘力の差があった。
 ル級が持つ主砲の威力と射程は由良たちのそれを遥かに上回っており、直撃はもとより、至近弾ですら命に関わる傷を負うのは間違いない。
 艦娘の艤装には衝撃から身を守る加護が備

わっているが、軽巡や駆逐のそれは、さほど強力なものではないのである。
 これは鎧に身を固めた長槍兵にナイフ一本で立ち向かうかのような所業であり、もはや蛮勇であるとさえいえた。
(それでも……)
 やらなければならない。
 輸送船に積まれた長門の艤装を失えば全軍の士気は確実に低下するであろうし、何よりあの船には、戦う力を失った彼女の親友がいるのである。
(私の戦力でやつを倒すには……)
 すぐさま答えを出す。
 例えナイフ一本であろうとも、至近距離から組みつき、急所にそれを突き立てれば勝機はある。
 すなわち――、
(懐に潜り込んで、至近弾を浴びせるしかない!)
「吹雪ちゃん、白雪ちゃん、初雪ちゃん、深雪ちゃん、援護して!」
 叫ぶや否や、仲間たちの応答も聞かずに突貫を開始する。
 名を呼んだ彼女の仲間たちは、まだ艦娘として日も浅く、とてもこの大役は任せられない。
 自分がやるしかないのだ。
 戸惑いとぎこちなさはあるものの、仲間たちがおこなった援護射撃は確かに一定の効果をあげた。
 わずかな時間、ル級の意識はそちらへ向き、隙ができたのである。
(いける!)
 だがそれは、浅はかな考えであった。
 上位の深海棲艦が何より恐ろしいのは、人間のそれに匹敵する理知的な戦い方をすることにある。
 まして、ル級からすれば未熟な艦娘たちの援護射撃など見え透いたものであり、すなわち気を取られたように見えていたのは、最も手強いであろう由良をおびき寄せるため、わざと作った隙だったのだ。
 ル級が備えた砲塔の一基が向きを変え、海面へ向けて砲撃を加える。
「ああっ!」
 その着弾による衝撃波で海面が巻き上げられ、由良の動きが一瞬止まった。
 その一瞬で、ゆっくりとル級の砲塔がこちらに向けられるのを、由良ははっきりと知覚する。
「ごめん――」
 誰に向けられて放たれたものであったか。
 死を覚悟しながらそう口にした時、果たして弾け飛んだのは由良の体ではなかった。
 轟音を上げ飛来した砲弾が直撃し、ル級の左半身を盾型の艤装もろとも吹き飛ばしていたのである。



『――ッ!』
 なんとも形容しがたい、異様な叫び声がル級の口から放たれた。
 千切れ飛んだ半身を残る腕で庇うようにしながら後退りするその姿を見て、
「なんという威力だ……14センチ砲とは比べものにならない……」
 少女は、そう呟いた。
 拡大された彼女の視野と、その肩に乗った妖精の視覚がリンクし、すぐさま発射角度の修正が行われる。
 今、少女が身につけているのは五十鈴の艤装ではない。
 腰部を基点に展開され、一対の巨椀の如き威容を誇るその姿はまぎれもなく……。
『長門の艤装……! 五十鈴ちゃん、それは!?』
 通信機を介し、由良の声が聞こえる。
「話は後だ。全員、ここは私に任せて後退しろ!」
 そう指示を出しながら、少女は……いや、

連合艦隊旗艦の魂と戦力を受け継ぎし艦娘長門は、すぐさま次弾の発射態勢をとる。
 だが、ル級とていつまでもその動きを止めているものではない。
『――ッ!』
 咆哮を上げながらも高速機動を開始し、次弾を回避することに成功する。
 着弾による衝撃波でクレーターの如く陥没する海面を尻目に、残る全砲門が長門に向けられた。
 その動きとは対照的に、長門は微動だにせずその場へ立ちつくすのみだ。
「くるがいい……!」
 そう呟くのと同時、ル級の砲門から一斉射撃が放たれる。
 左半身の消失により、全火力の半分を失ったとはいえその火力は圧倒的のひとことだ。
 流星の如く降り注いだ砲弾が次々と長門に着弾し、爆炎と衝撃波で巻き上げられた海水がその姿を覆い隠す。
『――ッ!』
 ル級が再び上げた叫びは、勝利を確信したことによる歓喜のものであったか。
 だが――、
「長門型の装甲は伊達ではないぞ!」
 瀑布の如く降り注ぐ海水の中から、傷ひとつない長門がその姿を現した。
 すでにその主砲は狙いを定められ、主の命令を待つばかりとなっている。
『――ッ!』
 今度ル級が上げた叫びは、まぎれもなく恐怖からくるものだ。
 敗北を確信した深海棲艦は素早く身を翻し、逃走に移ろうとするが、それを見送る長門ではない。
「全主砲、斉射! 撃て!!」
 艤装が生き物のようにうごめき、向けられた砲塔から一斉に火が放たれた。
 敵の攻撃に身をさらしながらも照準修正を続け放たれた、狙い澄ましの一撃である。
 この攻撃から逃れる術などあるはずもなく……。
 戦艦ル級は木端微塵となり、大海の藻屑と消え果てたのである。



 ――数年後。
 長かった残暑もようやくひと段落したものか、心地よい秋晴れを浴びる横須賀鎮守府の一室で、長門は書類と格闘し続けていた。
 あの日――。
 長門の艤装に認められ、新たな力を授かった彼女に待ち受けていたのは、書類地獄という名の新たな戦場であった。
 司令部曰く、連合艦隊の象徴でもある長門は来るべき決戦の時まで温存しておきたい。
 司令部曰く、そもそも、一度の戦闘でこれだけ資源を貪り食われたのでは、割に合わない。
 艦娘の艤装とて、何もないところからあれだけの戦力を発揮するわけではない。
 当然、力の代償として相応の弾薬や燃料などを妖精による経口摂取という形で補充することになるわけだが……。
 長門の艤装に住み着いた妖精たちは帰投するやいなや、輸送船に満載されていた物資を食いつくしてしまったのである。
 あの時、妖精たちが鋼材や弾薬を文字通りむさぼり食う様を見つめていた乗組員たちのなんともいえぬ表情を、長門は生涯忘れることができないであろう。
「結局、長門の名を持つ者はこうなる宿命なのか……」
「まあまあ、わたしだってつきあってるんだから、ね?」

 隣の執務机から、こんなところまで腐れ縁の親友がそうなぐさめてくれる。
 その時、こん、こん、とノックする音と共に、執務室の扉が開かれた。
「コーヒーを淹れてきましたよ……長門さんはブラックで、陸奥さんはミルクと砂糖たっぷりのやつでしたよね?」
 湯気が立つコーヒーを運んできてくれたのは、今は長門を名乗る彼女に代わり、五十鈴の艤装に選ばれたツインテールの少女である。
「あ、この写真。先代の赤城さんが引退した時のやつですよね?」
 それぞれの前にコーヒーを置きながら、五十鈴は目ざとくそれを発見する。
 額縁の中では、先代の赤城とまだ年若さを感じさせる長門が、握手を交わしていた。
「確か、この時の戦いで長門さんは今の艤装に選ばれたんでしたっけ?」
「そうよ、ちなみにそれまで長門ちゃんが身につけてたのが五十鈴ちゃんの艤装で、わたしは当時、由良ちゃんのをつけてたわね」
「はあ……お二人に負けないよう、私もがんばらないといけませんね」
「あまりがんばりすぎると、お前も書類の山を任されることになるぞ」
 そうやって軽口を叩く余裕は、かつての長門にはなかったものである。
 あの日、確かに彼女は変わった。そして、そのきっかけを与えてくれたのが目の前に現れた不思議な男であったが……。
(あれは、やはりそうだったのだろうか……)
 後日、なんとなく旧帝国軍の資料本を読んでいた長門は、その中に存在する一枚の写真を見て驚愕したものだ。
 ――山本五十六。
 あの時、長門の背を押してくれた男の姿は、この有名すぎる帝国軍人とうり二つのものだったのである。
(艦娘の艤装には、かつて軍艦だった頃の魂が宿っていると伝えられているが……)
 自分も身に覚えはあるし、艦娘の中には当時の戦場を見てきたかのような口ぶりで話す者もいる。
 それを踏まえると、あれは長門の魂がかつて自らに乗船していた軍人の姿を取って現れたものではないか……?
 このことだけは、隣にいる親友にも言えない。自分と自分の艤装だけの秘密にしようと、固く心に誓っている長門なのである。
「それじゃ、演習に行ってきます。お二人ともがんばってください!」
 そう言いながら、元気いっぱいに五十鈴は飛び出していく。
 扉が完全に閉まるのを確認してから、長門はこほんと、咳払いをした。
「はいはい……」
 苦笑しながら、陸奥は自分のコーヒーと長門のそれを取り替えてくれる。
「見栄なんて、はらなきゃいいのに……」
「そ、そうはいかない! 私には、ビッグセブンとしての誇りがだな……」
 そう言いながらコーヒーをすする長門の相好が、たちまちほころんだ。
 午後のひと時、こうやって甘いコーヒーをすするのが、彼女の楽しみなのである。



 読みづらくてごめん。
 もう一本あるんで、そちらで改善しますです。
 というわけで、投下していくよ(別スレは立てられなかった)。

 タイトル『貧鈍』
 設定、世界観は一本目と共有。

 春島、という通称にはそぐわぬ暑さであった。
 気温は27度ほどであるが、まとわりつく湿気がそれを何倍にも感じさせる。
 しかし、町外れにあるその茶屋を訪れた娘は汗ひとつかかず、むしろ涼しげな雰囲気さえ漂わせているのであった。
 年頃としては、20代にさしかかったばかりというところである。
 腰の辺りまで伸ばした黒髪は三つ編みにされ、チュークドレスと呼ばれるこの辺り伝統の民族衣装に身を包んでいた。厚めのレンズをつけた眼鏡に阻まれ、顔立ちはよく分からない。
 南海のこの地において、古き日本の茶屋を思わせる店内には、他の客がいない。茶も出すが酒も出すこの店が混み始めるのは、陽が沈み始めてからなのだ。
 それでも娘はあえて店内の席を選ばず、ささやかながらも用意された縁台を選ぶ。すると店の中から老婆が一人、手ぬぐいとよく冷えた緑茶の乗った盆を持って現れる。
「そばを……」
「はいよ。……そうだ! 今日は生み立ての新鮮な卵を仕入れてるんだよ」
「まあ、それは何より。では、お願いします」
「あい、あい」
 待つこと数分。
 老婆が運んできたざるそばと、その脇にそえられた生卵を見て、娘の喉がごくりと鳴った。
「悪いね、こんなものしか出せなくて」
「いえ、何よりのものですよ」
 謙遜する老婆に、娘は朗らかな笑顔で返す。
「何しろここは、トラック諸島なんですから……」
 そう告げる娘の黒髪を、南海の風が優しくなで上げた。



 ――トラック諸島。
 その地理的重要性と泊地能力の高さから、かつての大戦において我が国の一大拠点が築かれたこの地は、跳梁する深海棲艦の脅威に対抗すべく、再び日本軍を中心とした連合軍の拠点として整備されていた。
 となると、長い駐留生活の末、この地へ愛着を持つ軍人が現れるのも当然というべきことで、この茶屋は退役した日本兵の老爺が妻と二人で開いたものなのである。
 食材は本国に存在する支援団体が用意したものを、月に一度、我が国が島民へ向けて輸送する支援物資と共に送り届けてもらっている。
 それによって作り出される日本料理は、現地の人々よりもむしろ、祖国の味に餓えた日本人の間で好評だというのはご愛嬌といったところであろうか。
 この娘も無論、祖国の味に餓えた一人である。
 卵をそばの上に割り落とし、手早くたぐって食べる姿はなかなか堂に入ったものであった。
 娘は山盛りにされたそれをどんどんたぐり、久しく味わっていなかったそばと生卵の味に舌鼓を打つ。
 その間、店の前を横切ったのはジープが一台のみで、娘はそれを気にすることもなく見事そばを完食せしめた。
「ふう……幸せです」
 老婆が運んできた冷茶のおかわりで喉をうるおしながら、娘が満足げに呟く。
「や……?」
 娘の目がきらりと光ったのは、ちょうどその時のことであった。
 それを見咎め、異常のきざしを感じ取ったのは、数々の修羅場を潜り抜けることで得た勘働きによるものが大である。

 だが、それを抜きにしても、昼間のこんな時間帯に、島で数台しか営業していないタクシーが、先ほど店の前を横切っていったジープを追うように走って行くというのは、
「そうそうありえることではない……」
 のである。しかも、島の中央部へ向かうこの先には人気のない山林が広がるばかりなのだ。
 こうなると、娘の行動は早い。
「おばさん、お勘定ここに置いておきますね!」
「ちょっとちょっと、こんなに貰えないよ」
「いいから……そのかわり、ちょっとカブを貸してください」
「そのくらい、お安いごようだけど……」
「ありがとう、すぐに返しますね」
 こうして娘は、たっぷりとこころづけの含まれた勘定を縁台に残し、店の脇へ停められたカブへ乗り移ると、すぐさまタクシーの後を追っていったのである。
「何かあったのかしら……大丈夫なのかねえ」
 食器を下げながらも心配そうに呟く老婆の肩を、厨房から出てきた老爺が叩く。
「なあに……あの子に限って心配はいらねえさ」
「だって……」
「何せあの子は、一航戦赤城なんだから、な……」



 老爺が赤城、と呼んだ娘がカブを走らせると、ほどなくその場面に出くわした。
 ひとことで表すならば、これは誘拐である。
 狭い山道を塞ぐように停められたジープの中へ、まだ小学校へも通っていないのではないか? という年頃の少女が一人、さるぐつわをされて押し込められようとしていたのだ。
 下手人と思わしき男は三人、いずれも典型的なミクロネシア人の容貌をしていて、内一人は少女をジープの中へ押し込めようとしている。
 そのジープに道を塞がれているのだから、先のタクシーは当然停車しており、その運転手と思わしき男が気絶させられて道に放り出されていた。
 となると、今にも連れ去られようとしている少女はこのタクシーに乗っていたものであろうか……?
 考えている暇はない。
 赤城はカブを横滑りに停車させ、男たちの前に降り立った。
「なんだこいつ!?」
「こんな話は聞いてないぞ!」
「おい、お前! とっとと失せろ!」
 なまりのひどい英語である。
 見るからに屈強な体をラフな格好に包んだ男たちであるが、赤城は彼らの恫喝を受けても平然としたものだ。
「その女の子を置いて、さっさとここから立ち去りなさい」
 言いながら、少女を抱いた男の元へ歩み出す。
 あまりに自然なその様子に、男たちは一瞬呆気にとられたものだが、やがてはっとしなおして手ぶらな二人が赤城の前に立ち塞がった。
「てめえ、なめた真似してんじゃ――」
「なめてるのはどっちです?」
 どこをどうしたものであろうか?
 傍から見れば、赤城の体が少し揺れ動いただけである。しかし、次の瞬間には立ち塞がった男たちが脳天から地面へ落とされ、気絶していたのだ。
「な……? あ……?」
「無駄なことはしないことです」
 少女を抱えた男は、あまりのことに言葉もないといった有様であったが、しかし、すぐさま我を取り戻して後ろ腰に手を回す。
 が、そこへ拳銃が挟まれていることはすでに看破していた赤城だ。

 ひと息に間を詰めると、男のひ腹へ当て身を喰らわせていたのである。
「むうん……」
 がくりと倒れる男の腕からさっと少女を奪い取り、さるぐつわを解いてやった。
 すると少女は、母親にすがりつく子供そのままに赤城の胸へ顔を押しつけ、盛大に泣き出したのである。
「よし、よし……もう心配はいりませんからね」
 赤城は数分ばかり、少女の背中を撫で、あやしてやっていただろうか。
 やがて少女が落ち着くと地面へ降ろしてやり、
「ちょっと、待っててくださいね」
 そう言って倒れ伏すタクシーの運転手へ駆け寄ると、手早く気付けを施した。
「むう……あ、あんたは……?」
「ただの通りすがりですよ……何があったのですか?」
「わ、分からない。俺はその子の父親に、この辺りまで娘を届けるよう頼まれたんだ。そしたら、こんな目に……」
「そうなの……?」
「うん、おとーさんにのっていけって。ピクニック、だよ。おとーさんも、あとからすぐいくって」
 少女の様子を見るに、嘘ではなさそうだ。
「その父親の顔は分かりますか?」
「い、いや……帽子を深く被っていたから……」
「ふむ……」
 赤城は、しばし思案し、
「運転手さん、悪いのですが、これで戻った先にあるお店にこの子を届けてあげてください。赤城が頼んだと言えば、いいようにはからってもらえるはずです」
「ええ!? それじゃ、あなたがあの……」
 赤城からこころづけを握らされた運転手は、信じられないようなものを見る目で彼女を見た。
 ――トラック諸島に住んでいて、赤城の名前を知らぬ者はおそらくいないだろう。
 かつての大戦時、栄光の一航戦として活躍した航空母艦の戦力と魂を受け継いだこの艦娘は、このトラック諸島において日夜深海棲艦の脅威から人々を守り続けているのである。
「内緒ですよ? 今日はオフですので……」
 そう言いながらウィンクしてみせると、日系ミクロネシア人らしき運転手はそれだけで天にも昇らんという顔だ。
「それじゃ、お譲ちゃん。悪いけどもう一回このタクシーに乗ってもらっていい? 私もすぐに追いつきますから……」
 赤城と離れ離れになると見て、少しむずがっている少女をなだめながらもタクシーへ押し込んでやる。
「ほんとにほんと? おいてったりしない?」
「ええ、そんなことはしませんとも。そうだ、お名前はなんていうんですか?」
「えっとね、あたしは文月っていうんだよ」
「文月ちゃん、ね。私は赤城といいます。ついたら、お店のお婆ちゃんにジュースでも出してもらうといいですよ」
 最後に頭をひと撫でし、送り出してやった。
「さて……と……」
 赤城は倒れ伏す下手人たちの様子を見ながら、チュークドレスの胸元を探り出す。
 豊満な胸の谷間に隠されていたそれは、傍から見れば飛行機の……それも大戦時に活躍した複葉機の模型である。
 だが、細部の作りと質感は明らかに模型の範疇へ留まっていない。
 しかも、コクピットにあたる部分では指人形ほどの大きさをした妖精が、かしこまった様子で計器をいじり、発進の合図が整ったことを敬礼でもって赤城に伝えているのである。
 となると、これは玩具などではなく、空母に属する艦娘が操る艦載機型の艤装であるに違いない。
「頼みましたよ」

 艦娘と妖精とは感覚がリンクしており、多くの言葉を交わす必要はない。
 ただそれだけの短いやりとりを終え、赤城は空中に向けて艦載機を放ったのである。
 すると、搭乗した妖精がベテランパイロットも顔負けの操縦テクニックを披露して巧みに風を捕まえ、見る見る内に高空へ昇っていくではないか。
 その速度は、明らかに複葉機のそれではない。
 これこそが艦娘と現代兵器の間にある絶対的な壁であり、艦娘の艦載機はマッハ10を軽々と越えたスピードで、ミサイル以上の威力を持った搭載火器を放つことができるのだ。
「これでよし、と。あとは……」
 今度はポケットから携帯電話を取り出し、何事か打ち合わせを始める。それが済んで通話を切ると、再び別の番号をコールし、また短く打ち合わせをした。
「それじゃあ、頼みましたよ」
 携帯電話をしまい、借りてきたカブに乗りこむ。下手人の男たちには、あえてなにもしなかった。
 そして赤城は、そのままカブを走らせると、文月を送り出した茶屋へ戻って行ったのである。



「それで、この子がその……?」
「文月、だよ?」
「はあ……?」
 老爺が経営している茶屋には二階席も用意されており、今は赤城が借り切っていた。
 そこで髪を下ろし、眼鏡を外して普段に近い装いとなった赤城の手から、たっぷりと白砂糖のかけられた白玉を与えられていた文月は、にっこりとそう答えたのである。
 それに困惑顔を向けるのは、加賀と吹雪であった。
 それぞれが正規空母と駆逐艦の戦力を受け継ぐ艦娘であるが、今は赤城同様に私服へ着替えていた。
 山道での大立ち回りから、二時間ほどが経過している。
 連絡を受け、二人が駆け付けてくる間に赤城は文月からおおよその事情を聞き取り終えていた。
 とはいえ、分かったことはそう多くない。
 第一に、この少女が父親に言われるままタクシーへと乗せられたこと。これは山道で聞いたことと同じだ。
 そして第二に、この少女が自分の名字と住所を思い出せずにいる、ということが分かった。
 最初は文月という名字であろうと考えた赤城であったが、どうも聞き取るにこれは下の名前であるらしく、では名字はなんというのか? と尋ねれば、
「しらない」
「文月は、文月だよ」
 などという答えがかえってくるのである。
 赤城からそのことを聞き、吹雪がううんとうなって見せた。
「住所はともかく、そんなことがあるものなんですか? ね? 文月ちゃん、本当に分からないの?」
「わからないよ、文月は文月だもん」
「私も、散々聞いてみたのだけど……」
「まあ、小さい子だからそういうこともあるのでしょう」
 それより、と加賀が切り出した。
「赤城さん、あなたはこの事件を、私たちの力だけで解決するつもりなんですね?」
「え? そうなんですか?」
 困惑する吹雪をよそに、加賀は全てお目通し、といった風情である。

 赤城と加賀は艦娘として覚醒する前、同じ道場で弓術を学んでいた仲であり、道場内では「双龍」だとか「龍虎」だとか呼ばれていたものだ。
 そんな付き合いの長い二人であるから、相手の考えはすぐに分かるのである。
「吹雪さん、この子の服装をよく見てください……」
「え? いや、かわいいな~と思いますけど」
「……トラックではそうそう手に入らない上等な品です。つまり、この子の実家はかなり裕福な家庭で、しかもこの子を見るに日系人であるということですね。それが現地で不可解なトラブルに巻き込まれたということは……?」
「あ……!」
 そこまで言われ、ようやく吹雪も合点がいった。
 現在、トラック諸島には二千人からなる日本人が暮らしている。
 それは駐留軍人や、この茶屋を営む老爺のような帰化によるもののみでは無論なく、多くが技術的・教育的な支援を行うために日本から派遣されてきた有志であった。
 これは、長期に渡る深海棲艦との戦いにおいて必要不可欠な措置である。戦争とは、油や銃弾のみでまかなえるものではないのだ。
 その日本人の、おそらくかなり地位の高い者が現地で誘拐事件に巻き込まれている……。
 これは下手をすれば、日本政府と、トラック諸島を収めるミクロネシア連邦政府との外交問題にも発展しかねない事案であるのだ。
「この子自身のためにも、出来る限りは私たちで解決したいと思っています」
 文月に与えていた白玉のうち、ひとつを自身がほおばりながら断固たる決意で赤城はそう口にした。
「ところで……」
 と、口にしたのは加賀である。
「青葉はどうしたんですか? 何やら慌てた様子で艤装を着こんで行きましたが……」
 この場にいない仲間のことについて彼女が触れた時、どたどたと慌ただしい足音が階下に響き渡った。
「赤城さん、言われた通りにしゅざ……もとい、犯人の正体を突き止めてきました!」
 その勢いのままに、襖を開いて現れた少女こそ、青葉型1番艦の魂と戦力を受け継ぎし艦娘、青葉である。
 彼女だけは他の三人と違い、セーラー服型の制服に、自らの艤装をまとったフル装備となっていた。
「……青葉、騒がしいですよ」
 そのままテーブルの上に置かれたラムネをわしづかみにしようとした青葉の手をはたき、加賀が軽くたしなめる。
「むー、喉が渇いてるんですよう。青葉、秋島まで行って聞き込みしてきたんですから」
「秋島に……?」
「犯人たちはわざと放り捨て、この子に後をつけさせておいたんですよ」
 そう言いながら赤城が見せたのは、自らの艦載機である。

 あの時――。
 赤城は艦載機型の艤装を飛ばすと同時に、気絶から覚めた男たちを空から追跡するよう命じていたのだ。
 狙いは的中し、気絶から覚めた男たちはそのことに気づかぬまま、この茶屋とは山を挟んで反対側にある船着き場へ向かい、日に二本の定期船で秋島へと渡って行ったのである。
 定期船を降りた男たちが向かったのは、秋島の中心部に存在する洋風の屋敷であった。
 そこまで突き止めれば、あとは簡単だ。
 赤城の命を受け、海上を直接渡った青葉が付近の住民に聞き込みをしてくるだけでよい。
 それにしても……。
 艦載機のパイロットを務める妖精はぐったりと疲れ切った顔をしているが、これは加賀たちが到着するまで文月の遊び相手を務めていたからである。恐れを知らぬ小さな航空兵も、子供の相手だけは苦手であったようだ。
「それにしても、秋島……ですか。やはり、という気もしますが……」
「私、秋島には行ったことないんですけど、どういうところなんですか?」
「そうですね……。トラック諸島は俗に春島、夏島、秋島、冬島、日曜島、月曜島、水曜島、金曜島と呼ばれる八つの島で構成されていますが、秋島はその中でもあまり日本人を好まない人が多く住んでいる島です」
 トラック泊地へ着任して間がない吹雪の質問に、加賀が丁寧に答えてやる。普段は仏頂面で、ほとんど感情を表に出さない彼女であるが、こういう時の面倒見は驚くほどによいのである。
「なんでかっていうと、それはミクロネシアにおけるクランの重要性が関係しているんですよ」
「クランっていうのは、あの、ゲームとかで出てくる……?」
「そう! そのクランです! 血縁を中心とした、ひとつの共同体ですね! でもって、伝統的な農業で生計を営む秋島には日本人を好まないクランが多く存在するわけで……って加賀さん、痛い! 痛い!」
「……残念ながら、友好的な人ばかりではないということです」
 脇から解説役の仕事を奪った青葉の頭を掴み、無表情にげんこつを押し当てながら加賀がそう締めくくった。
「じゃあ、文月ちゃんをさらおうとしたのはそういう……?」
「あ、いや、それが、青葉もそう思っていたんですが……」
「何……? 違ったのですか?」
 これには、さすがの赤城も驚いた様子である。
 吹雪が口にしようとしていた通り、赤城もこれは日本によい感情を抱かぬクランの仕業と考えて、
「まず、間違いはない……」
 と、考えていたのである。
「艤装を浜に置いた青葉は、そのまま秋島の中心部に潜入、周囲で農家を営む皆さんに聞き込みを開始しました……そして、そこで分かったのは恐るべき事実で、加賀さん! ギブッ! ギブッ!」
「……余計な脚色はせず要点だけを話してください」
「あいたた……屋敷の主はピアイルック家っていう、昔からあの辺りを支配してきた有力者なんですけど、今の当主であるマウさんは若いころ日本にも留学した経験のある、バリッバリの親日家だったんですよ、これが」
「ふむ……」
「それに、ピアイルック家は義理任侠で知られた家系で周囲の評判もよくって、どうも話を聞く限りだと誘拐なんてする人達じゃなさそうだな~と、青葉は思ってしまうのでした」
「でも、実際に誘拐しようとしたわけなんですよね……?」
「……私としては、この子の父親が何故一人でタクシーに乗せたのかも気になります。まるで、わざと誘拐しやすくしたような……」
 喧々諤々、といったところであろうか。
 得られた情報に対する状況の不可解さに、艦娘たちはそれぞれが思い思いに自分の考えを口にしていた。
「赤城さん、いっそそのピアイルック家に乗りこんでしまうという方法もありますが?」
「いや、それはやめておきましょう。やるにしても最後の手段です」
 加賀の意見に対し、赤城はあくまでも冷静である。なるべく秘密裏な処理をすると決めたからには、どこまでも慎重を期するべき、と考えているのだ。
「では……?」
「文月ちゃん、このおうちでしばらくいい子にしていられる?」
「文月、おうちにかえれないの?」

「場所が分からないし、分かっても今はまだ、ね。私も、なんとか都合をつけて日に一度は必ず来るようにするから……」
「うー……」
 文月は少しだけむずがったようであったが、
「うん、いいよ。あたしがまんするね」
「よし……」
 少しだけ目尻に涙を浮かべながらそう答えた少女を、赤城は抱きしめてやらずにはいられなかった。どうにも保護欲をかきたてられる少女なのである。
「ピアイルック家に関しては、私の妖精に見張らせておきましょう。それなら、何かあってもすぐに対処できるはずです」
「青葉も、何かやりますか?」
「あなたは、文月ちゃんの親を探してみてください。特徴のある名前だし、すぐに分かると思うのだけど……」
「はい、任せておいてください!」
 どんと胸を叩く青葉に対し、加賀はけげんな顔である。
「妙にやる気ですね。そういえば、泊地を出ていく時もやけに勢い込んでいましたが……?」
「ああ、それならこれを兵隊の皆さんに売ってた件を見逃すと言ってあげたんですよ」
 そう言いながら赤城がひらりと見せたのは、一葉の写真であった。
「げえっ」
「青葉……あなたはまたこんなことを……お金に困ってるわけでもないでしょうに……」
「いやあ、これはその……なんというか……真実の姿を伝える使命といいますか……あ、ちょっと、痛い痛い痛い痛い」
「加賀さん、一応は約束してあげたわけだから、そのくらいにしてあげて、ね」
 騒ぎ立てる年長者たちを尻目に、吹雪は赤城の手からこぼれ落ちた写真を拾い上げる。
「これは……」
 思わず苦笑を漏らしてしまったのも、仕方のないことであっただろう。
 非番の日に街へ出かけた姿を隠し撮りしたものなのだろう。写真の中では、加賀が暑さに思わずシャツの襟を伸ばし、手で風を仰ぎ入れていた。
 そうなると当然ながら、普段はきちりとした着こなしで隙もない彼女の豊満な胸が、一部とはいえ見え隠れしてしまっているのである。



 一週間の時が流れた。
 残念ながら状況は一向に変わらず、何も分からない日々が続くのみである。
 いや、分からない、ということが分かったというべきであろうか。
 日頃から記者まがいの活動をしてはばからぬ青葉が精力的な聞き込みや調査をしてなお、文月という名の少女を娘に持つ家は見つからぬのである。
 念のため、青葉は名字の方でも探りを入れているのだが、やはりこれも該当者が見つからない。
 そうなると、
「これはもしや、あの子が嘘をついているのではないか……?」
 という結論に至ってしまうのは自明の理であったが、これは軍務の合間を縫うようにして茶屋へ通い詰めている赤城が、
「あの子は、嘘を言っているように思えません」
 と、断じていることである。
 そして、赤城の観察眼に関して、トラック泊地の艦娘たちは絶対の信頼を置いているのだ。
 となれば、あとは例のピアイルック家に何か動きが起こるのを待つしかないのであるが、赤城が二人ずつ交代で見張りにやっている艦載機妖精たちが伝えるところでは、あれ以来、ピアイルック家の人間は日に数人が春島へ繰り出し、文月の姿を探し求めるばかりで、他の動きがないのである。

「こうと決めたからには、意地でもこのやり方で通すことが肝要ですよ」
 と、笑いながら話す赤城であったが、やはりその内心にじりじりとしたものがあったことは否めない。
 何より、幼い文月を狭い茶屋へ押し込めるようにして暮らさせているのである。
 これは再度の誘拐を防ぐ当然の措置であるとはいえ、健康な少女の心身に負担をかけていることは考えるまでもない。
 唯一、幸いといえるのは文月が老夫婦になついてくれていることだろう。
「もちろん、お客さんにばれないようにですけどね……たどたどしい手つきで、お爺さんの仕込みを手伝ったりしてくれてるんですよう」
 などと老婆は、まんざらでもなさそうに赤城へ語ったものだ。
 その状況が動いたのは昼過ぎ、泊地内に用意された士官食堂で赤城がカレーを食べていた時のことであった。
 本国の鎮守府ならば特別あつらえの艦娘用食堂があるが、遠方の泊地ともなれば過度な贅沢はできない。それでもさすがに一般兵卒と士官の食堂は区別されており、きちんとした給仕がついて食事を提供している。
 そして心得た顔で給仕が運んできたのは、
「バケツにカレーを盛ったような……」
 見る者によってはかえって食欲を失いかねない代物であったが、赤城は幸せそうにそれを食べていたのである。
 そうやってしばらく食べ進んでいたのだが、ふと、緩んでいた双眸がきりりと引きしまった。
 そして赤城は素早くカレーを食べ終え、食堂を辞していったのである。



 本国の鎮守府が、
「まるで学校のような……」
 と称されるほど、コンパクトにまとめられているのに対し、複数の桟橋や戦闘機用の滑走路、それらを運用するための各種施設がそびえ立つトラック泊地の威容は、いかにも基地らしい基地のそれであるといえる。
 これは国内の各種施設で役割を分担できる本国に対し、ここ一カ所で防衛や、数少なくなっているとはいえ貿易の機能を担わなければならないトラック泊地の用途をかんがみれば、当然の選択であるといえる。
 そういったわけでそれなりの規模を誇るトラック泊地なわけであるが、そうなると当然、人気の少ない場所が出てくるものである。かつての時代ならばともかく、対人戦などはなから想定されていない現代の基地ともなれば、なおのことだ。
 具体的に言うならば、所属する艦娘のために設けられた居住施設裏のことである。
 艦娘という、最前線の兵士にとっては信仰の対象ともいえる偉大な存在が住まう場所に用もなく近づく者など、あるはずはないのだ。
 これは、赤城がこれからすることにとっては、まことに都合のよいことであるといえる。
 居住施設の裏庭に出てきた赤城は、茶屋を訪れる時のようなラフな格好ではない。
 ミニスカートのような袴と弓道衣を身にまとい、更にその上から胸当て、屋筒、かけを身につけ、右肩には大盾のようなものを装着している。
 さらに手に持った長弓を見れば、これは一風変わった弓道着なのだろうと思ってしまいそうだが、そうではない。
 これこそが正規空母赤城の艤装であり、中世的な趣のこの装備には、現代兵器を遥かに凌駕する恐るべき戦力が秘められているのだ。
 その証拠に見よ! 赤城がたった今放った一矢は瞬く間に音速を超え、高空へと消え去って行くではないか!

 再び赤城がつがえた矢を見れば、その先端には妖精が必死の形相でしがみついているのが分かった。
 そして再び音速を超える一矢を放てば、それは空中で見る間に形を変え、九六式艦戦の姿となるのだ。無論、操縦席に座るのはしがみついていた妖精である。
 これが本来の正規空母型艦娘による発進シークエンスであり、文月を救った時の簡易なものとは次元が違うものと分かる。
 放たれた矢――艦載機――は合計で二本。うち一本は、例のピアイルック家へ向けられたものだが、一本は春島内地へ向けられていた。
「――何か進展があったのですか?」
 音もなく赤城の背後に立ちながら、加賀がそう問いかけた。このトラック泊地において、そのような芸当ができるのは彼女を置いて他にいないだろう。
「ピアイルック家の方で動きがありました。当主らしき男が春島へ来ています」
 これは、見張りについていた妖精二人のうち、一人が後を尾けて得た情報である。
 ――空母型の艦娘とその妖精は、距離を隔てていても意思の疎通を可能としている。
 深海棲艦との戦闘においては偵察などで威力を発揮する能力であるが、やりようによってはこのように、密偵としても働かせられるのである。
「では……?」
「ええ、今のは援軍です。これでピアイルック家の方へ二人、当主の方へ二人ついているわけですから、まず間違いはないでしょう」
 これは尾行や見張りにおいて当然の心得である。もしも、ピアイルック家の見張りにつけていた妖精が一人きりであったならば、当主の尾行をする間にそちらが手薄となってしまっていただろう。
 このような任務においては、とにかく複数で行動させ、密な連携を取っていくことが重要となるのである。
 ――が、この場合においてはひとつ問題が存在した。
「……また、ボーキサイトを消費してしまいますね」
「……提督には、後で謝っておきましょう」
 このように、かくも便利な空母型艦娘の艦載機運用能力であるが、当然、無償でこれだけの力を得られるわけではない。
 艦載機を操る妖精たちは、ひとつ行動を終えるたび、多量のボーキサイトをねだってくるのである。
 この戦時下において、限りなく私的な理由で軍事物資を消費するわけであるから、それを誤魔化す司令の苦労は語るまでもないだろう。



 元来、トラック諸島を有するミクロネシア連邦は小規模な農業と水産業を中心とした地産地消の気風が高い国であり、貨幣取引を用いた経済活動に対しては、乗り気ではない……とまで言わずとも、積極的なものではなかった。
 そんな中、皮肉にも彼らの方針を変えたのは他ならぬ深海棲艦の出現であった。
 深海棲艦の脅威に対するため、この地へ我が国を中心とした防衛部隊が配備されたことはすでに語ったが、そうなると、否が応でも駐留兵を始めとする外国人と現地人の間で、物の行き来が発生することとなる。
 代表的なところでは水がそうだが、どうしても現地で調達せねばならない品々は多いし、現地人にとっても、深海棲艦の影響による魚場の縮小を補うだけの収益が必要不可欠だったのである。
「その結果生まれたのが、この賑わいというわけです」
「はあ……勉強になります」

 再び赤城がつがえた矢を見れば、その先端には妖精が必死の形相でしがみついているのが分かった。
 そして再び音速を超える一矢を放てば、それは空中で見る間に形を変え、九六式艦戦の姿となるのだ。無論、操縦席に座るのはしがみついていた妖精である。
 これが本来の正規空母型艦娘による発進シークエンスであり、文月を救った時の簡易なものとは次元が違うものと分かる。
 放たれた矢――艦載機――は合計で二本。うち一本は、例のピアイルック家へ向けられたものだが、一本は春島内地へ向けられていた。
「――何か進展があったのですか?」
 音もなく赤城の背後に立ちながら、加賀がそう問いかけた。このトラック泊地において、そのような芸当ができるのは彼女を置いて他にいないだろう。
「ピアイルック家の方で動きがありました。当主らしき男が春島へ来ています」
 これは、見張りについていた妖精二人のうち、一人が後を尾けて得た情報である。
 ――空母型の艦娘とその妖精は、距離を隔てていても意思の疎通を可能としている。
 深海棲艦との戦闘においては偵察などで威力を発揮する能力であるが、やりようによってはこのように、密偵としても働かせられるのである。
「では……?」
「ええ、今のは援軍です。これでピアイルック家の方へ二人、当主の方へ二人ついているわけですから、まず間違いはないでしょう」
 これは尾行や見張りにおいて当然の心得である。もしも、ピアイルック家の見張りにつけていた妖精が一人きりであったならば、当主の尾行をする間にそちらが手薄となってしまっていただろう。
 このような任務においては、とにかく複数で行動させ、密な連携を取っていくことが重要となるのである。
 ――が、この場合においてはひとつ問題が存在した。
「……また、ボーキサイトを消費してしまいますね」
「……提督には、後で謝っておきましょう」
 このように、かくも便利な空母型艦娘の艦載機運用能力であるが、当然、無償でこれだけの力を得られるわけではない。
 艦載機を操る妖精たちは、ひとつ行動を終えるたび、多量のボーキサイトをねだってくるのである。
 この戦時下において、限りなく私的な理由で軍事物資を消費するわけであるから、それを誤魔化す司令の苦労は語るまでもないだろう。



 元来、トラック諸島を有するミクロネシア連邦は小規模な農業と水産業を中心とした地産地消の気風が高い国であり、貨幣取引を用いた経済活動に対しては、乗り気ではない……とまで言わずとも、積極的なものではなかった。
 そんな中、皮肉にも彼らの方針を変えたのは他ならぬ深海棲艦の出現であった。
 深海棲艦の脅威に対するため、この地へ我が国を中心とした防衛部隊が配備されたことはすでに語ったが、そうなると、否が応でも駐留兵を始めとする外国人と現地人の間で、物の行き来が発生することとなる。
 代表的なところでは水がそうだが、どうしても現地で調達せねばならない品々は多いし、現地人にとっても、深海棲艦の影響による魚場の縮小を補うだけの収益が必要不可欠だったのである。
「その結果生まれたのが、この賑わいというわけです」
「はあ……勉強になります」

 行き交う人々の流れに飲み込まれそうになりつつも、吹雪は青葉の講釈にいちいち相槌を打っていた。
 トラック諸島の中でも最大の人口を誇る春島の中で、更に最も人口密度の高い市場である。
 最大の人口を誇るといってもせいぜいが二万人程であるが、それだけの人間が一斉に必要な品々のやり取りを行う場所なのであるから、そのわいざつさは推して知るべし、だ。
 いかにも場離れしていなさそうな吹雪などは歩く先々で露店から声をかけられ、とうとう売りつけられたチョコバナナが手に握られていた。
「それにしても、こんなところでチョコバナナなんて売ってるものなんですね……」
「もともとバナナは特産品だったんですけど、駐留した日本兵が作ってるのを見て現地民の間でも流行ったんですよ」
 そう話しながら歩く二人が着ているのはチュークドレスであり、通りには同じような格好をした女性が大勢練り歩いていた。
 青葉など、それに加えて麦藁で編んだ帽子まで被っており、なかなか堂に入った変装ぶりであるといえる。
「さ、ここを抜けてもう少し歩きますよ」
 そう告げる青葉の案内で活気溢れる市場を抜けると、先ほどまでの人ごみが嘘だったかのように周囲は静まっていき、むき出しの地面を舗装した道路を除けば、トラック諸島に元来から存在する自然風景そのままの景色が広がって行く。
 そこをもう少し歩いて行けば、現れるのはこの景観とマッチしているとは言い難い、洋風建築の建物群である。
 ここはトラック諸島滞在者の中でも、とりわけ裕福な者に向けて整備された高級住宅地であった。
「あれです」
 その中にある一軒の屋敷を指差した青葉は、周囲に人気がないのを確認すると近くの木立へ分け入っていく。
 道路や屋敷から容易には見えぬくらいの奥にまで入り込むと、枯れ枝や草を入念に組み合わせて作られた小さな野営地が存在していた。
 二人の接近に気付いたか、野営地からもぞもぞと這い出してきたのは二人組の妖精である。
 無論、赤城の使役する妖精たちだ。
 彼らはここを拠点とし、屋敷の様子を見張っていたのである。
「お疲れ様です」
 吹雪が持参の水筒から冷たいお茶を汲み、妖精の手でも食べられるサイズに握ったおむすび(?)を手渡すと、妖精たちは歓喜してそれに貪りついた。主に似てか、なかなか食い気のある連中なのだ。
「おっと、タイミングよく出てきましたよ」
 青葉の声に身を伏せながら屋敷を見ると、玄関口から出てきた二人の男が、うなずぎあっているところだった。
 片方はこれがピアイルック家の当主なのだろう、精悍な風貌をしたミクロネシア人であり、同年代のもう片方はぴしりとしたスーツに身を包んだこれは日本人である。
「吹雪さんは、そのままちょっと身を伏せててくださいね」
 言いながら青葉は、いつの間に取りだしたのか望遠レンズ付きのカメラで何枚もの写真を撮り終えている。改造が施されたこれは、いささかのシャッター音も漏らすことはない。
 そして当主らしき男は、どこかやつれたところがある日本人の肩を力強く叩き、表へ停めていた黒塗りの車で走り去って行ったのである。
「――ッ!」
「いえ、こうなったらもう寄り道することもないでしょう。あなた達はここで見張りを続けてください」

 テープを早回しにしたかのような独特な言葉で訴える妖精に、青葉は冷静に返した。妖精と艦娘とは、このようにして意思の疎通をおこなうことが可能なのだ。
「ふむ……あの日本人は高遠さん、というみたいですね」
 望遠レンズを通じて表札を見ながら青葉が言った。
「高遠……高遠……聞き覚えがありますよぉ、ふむふむ」
 そう呟く青葉の口角が上がっていくのを、確かに吹雪は見届けていた。
「吹雪さん、これはちょっと面白くなってきましたよぉ」
(本当に嬉しそうだなあ……)
 もっと、もっと、とねだる妖精におむすびのおかわりを与えながら、吹雪はそう思わずにはいられなかった。
 当人は大戦時、従軍作家が乗り込んでいた重巡洋艦青葉から受け継いだ魂の影響だと言い張っているが、これは明らかに、本人の天性によるものなのである。



「外交官……ですか」
 翌日、例の茶屋で文月に絵描きをさせて遊ばせながら、赤城と加賀は青葉の報告を聞いていた。吹雪がこの場にいないのは、定期の警備任務に出かけているためである。
「はい、なんでも先祖代々政府の高官を務めてきたという家柄で、入り婿である今の当主は本国の奥さんに頭が上がらないそうですよ」
「ふむ……」
 赤城は青葉に、茶請けとして出されていたタピオカ粉のクッキーを勧める。タピオカの原料であるキャッサバはミクロネシアでさかんに栽培されており、これはこの地における一般的な菓子なのだ。
 そして、自身もそれをぱくつきながら渡された資料に目を通していた赤城の目が、鋭く細められた。
 中に挟まれていた数枚の写真を手に取り、それを文月の方に掲げる。
「文月ちゃん、これに見覚えはある?」
「うん、あたしのパパとおうちだよ」
「青葉、その高遠という男の家族構成は?」
 間髪を入れず尋ねた加賀の問いかけに、青葉はむんと胸を張って見せた。
「もちろん、その辺りもぬかりはありません。主の名前は高遠陽一で、子供は娘が一人、ちょうど文月ちゃんと同じくらいの年頃みたいですよ。しかも、毎日こっそりと使用人が町へ出ては、娘を見かけなかったかと聞いて回っているそうです」
 ただ、とその後に付け加えた。
「文月、という名前ではないようなのですが……」
「そんなはずが……やっぱり、この子が嘘を……?」
「いえ、それはないでしょうし、青葉ちゃんの調査も間違ってはいないでしょう」
 いぶかしげになる二人をよそに、赤城は何やら得心の面持ちであった。
 その目が注がれているのは、文月の描いている絵である。
 幼子としては……という注釈こそつくものの、なかなか達者に描かれたそれは、どうやら海上を航海する船舶のようであった。
 しかもその船舶には、明らかに戦闘用のものと分かる砲塔が描かれているのである。
「文月ちゃん……」
「なあに?」
「どうやら、明日にはおうちへ帰してあげられそうですよ」
「ほんと!?」
 ぱあっと明りが灯ったような笑顔を見せる文月をよそに、赤城はといえば苦虫を噛み潰したような顔だったのである。

 ミクロネシアに関する様々な書籍や、日本の伝統文化などに関して記された書籍をみっしりと収められた本棚を並べ、窓際にはアンティーク調のデスクが置かれたそこは、いかにも外交官のそれにふさわしい書斎であるといえる。
 長年使い込み、むしろ新品時よりも風格を備えるに至った愛用のデスクに納まりながら、しかし、高遠陽一は仕事に手がつけられる心境ではなかった。
 その目が向かうのは、デスクの片隅に置かれた写真立てである。
 写真に写されているのは、彼がこの世で最も愛する存在……自分の娘である。
「天使のような……」
 と形容して差し支えのない、愛くるしい笑顔を浮かべるその姿を見ながら、彼は娘の名前を呟いた。
 だが、呟かれたその名前は、文月ではない。
「なぜだ……? どうして、こんなことに……?」
 ほんの情操教育のはずであった。いや、仕事のためとはいえ、長く国を空けて滅多に娘と会えぬことが、寂しく感じられたというのはもちろんある。
「だが、それで呼び寄せたあの子がこんなことになるとは、あんまりではないか……!」
 他に誰一人として存在しない、書斎での呟きである。
 その声を聞く者はおらず、すぐにまた静寂が舞い戻った。
 だが、こん、こん、と扉を叩く音がその静寂を破った。
「旦那様、失礼します」
「入れ……」
 扉を開けたのは、本国にいた頃から彼を助けてきた執事である。
「これは……?」
 その執事から差し出されたものを見て、高遠の眉がひそめられた。
 それは、一通の封筒であった。
 なんの変哲もない事務用の品である。おかしな点があるとすれば、宛先も差出人の名も書かれていないことであろうか。
「いつの間にやら、ポストに入れられておりまして……」
「ふむ……」
 これも職業病といえるのかもしれないが、高遠は律義にペーパーナイフでもって、封筒を切り裂いた。ただこれだけのことでも、今の彼には重労働のように感じられる。
 中に入っていたのも、変哲ないコピー用紙であったが、しかしそこに書かれた文面を見て、高遠の疲労は吹き飛んでしまったのである。
 そこに書かれていたものとは――。

 あえて冷房を切られた室内にはじっとりと湿り気を帯びた空気が充満しており、ただ座っているだけでも汗ばみそうな程であった。熱帯性気候であるトラック諸島の夜は、日本の夏と同様に暑いのである。
 そんな中でも、赤城は汗ひとつかかず杯の酒を口に運んでいた。
 例の茶屋、二階座席である。
 赤城は文月を救ったあの時と同じように、髪を三つ編みにまとめ、伊達眼鏡をかけた平服姿となっている。
 机の上には肴として鰹のたたきが並べられ、半分ほどはすでに赤城が食してしまっていた。トラック諸島が位置するこの海域は太平洋諸島地域で最も多く鰹が生息しており、日本人が持ち込んだローストビーフにも似た調理法も今ではすっかり定着している。
 部屋の中には他に誰もおらず、貸し切りとなった店内には老夫婦が酒の支度をしているのみであった。
 ――文月の姿は、茶屋のどこにも見当たらない。
 十数分ほどの間、1人でゆっくりと酒を楽しんでいるように見えた赤城であるが、わずかにその目がすぼめられ、
「高遠陽一、さんですね」
 ささやくように障子へ呟くと、同時にそれが開かれた。
 現れたのは、まさに高遠陽一である。
 高遠は初め、この席に座っているのが妙齢の女性であることに面喰らったようであったが、それでも職務で培った度胸故か、赤城の向かい側にどかりと座り込み、憔悴した様子など一片も見せない。
「……で?」
 そのまま自分の側に用意された酒を盃に流し込み、ぐいと煽ってから高遠は口を開いた。
「いくらだ……?」
「いくらだ、とは……?」
「とぼけるな……!」
 押し殺してはいるものの、その声にはかすかな怒気が含まれている。
「身代金が目当てなのだろう? 誘拐犯めが……!」
「さて、あの手紙にはそんなこと、ひと言も書いていませんでしたが……」
 浴びせられた怒気に眉ひとつ動かさず、赤城も自分の盃を煽る。
 赤城が自分の妖精に命じ、密かに高遠へ送った手紙に書かれていた内容とは、以下の通りである。

 ――娘は預かっている。返して欲しくば、町外れの○○という茶屋へ今夜尋ねて来い。

 極めてシンプルなこの手紙に誘われて、高遠はこの場所を訪れたのである。
 そしてなるほど、件の手紙には娘を誘拐したなどとは一切書かれていない。ただ、預かっていると書かれたのみだ。
 ――何故ならば、
「誘拐犯、とは、あなたとお友達のことでしょう……?」
「……な!?」
「図星のようですね」
 にやりと笑う赤城に、高遠ははっとした様子を隠せずにいた。
「いえ、実際に友人だったのかどうかは知りませんでしたが、ピアイルック家の当主が過去に日本へ留学していたこと、あなたと当主が同年代であることを考えると、そうであってもおかしくはない、と」
「仮にそうだったとして――」
「あなたはピアイルック家の当主マウさんと結託し、文月ちゃんの誘拐を画策した」
 口を挟む隙は与えない。
 もはやこの場は、赤城による高遠陽一の断罪場へと変貌しているのである。
 そして赤城は、
「……他ならぬ、文月ちゃんを守るために」
 ――そう断じたのである。
 それを口にする赤城の瞳は、断罪者のそれではない。
 目の前にいる一人の父親に心から同情し、哀れに思っている人間のそれであった。
「――文月、などという名ではない」
 高遠は、呻くように声を絞り出す。
「私が娘に与えた名は――」
「文月、です」
 あえて赤城は、その名を告げさせなかった。
「あなたの娘さんは、睦月型駆逐艦7番艦の戦力と魂を受け継いだ……艦娘、文月です」
「ああ……!」
 どうしょうもなく漏れてくる嗚咽と涙を、高遠は留めることができなかった。

「本国へ確認を取りましたが、保管されている文月の艤装に妖精が宿った日付と渡航記録から考えると、文月ちゃんが目覚めたのはトラックへ訪れてからほどなく……というところでしょうか」
「ああ……」
 ひとしきり泣いた後、高遠はうなだれるばかりであった。こうなってしまえば、後は赤城の推測が当たっていたのかどうか、確認を取るばかりである。
「覚醒する以前の名前も思い出せなくなっていたのは、幼い彼女の精神が艤装に宿ったそれと混ざり合い、安定していなかったからでしょう」
 艦娘の中には、大戦時の情景を自分の目で見たかのように語る者も多い。艤装に宿る魂の影響を受け、精神が汚染されるからだと声高に語る学者もいるくらいである。
 まだ未熟な文月の精神が飲み込まれかけたのもむべなるかな……というところであったが、今少し時間を置き、自らの艤装と接触させることで以前の記憶も取り戻していくであろう、というのが赤城の見解である。
 と、いうのも、こうなったのは本国とトラック諸島……自らの艦娘と遠く距離を隔てられた艤装が強くそれを求めた結果である、と見ることができるからだ。何しろ、無意識のうちに文月が、かつての睦月型駆逐艦文月の絵を描いてしまうほどである。
「そして、覚醒した彼女の様子を見たあなたは……」
「そうだ。怖くなった……」
 高遠は、再び苦悶に顔を歪め己の髪をかきむしった。
「貴様に分かるか……!? 愛する娘がある日突然、自分の名前すらも思い出せなくなった父親の苦しみが! そしてその娘を、戦いに送り出さねばならない悲しみが!」
「だから……」
「そうだ、だから私は考えた。あの子が失踪したことにして、どこかへ匿ってしまおうと。どこか、争いのない場所へ……」
「それで昔からの知り合いだったマウさんに頼み、今回の自演誘拐を決行した――足がつきやすくなると分かっていて、自分で文月ちゃんを送らなかったのは、自作自演とはいえ、娘が誘拐される様など見たくなかった、というところですか?」
「……そうだ。貴様さえ現れなければ、あの子を無事に保護することができた。分かっているのか!? お前がしたことで、あの子は命のやり取りをさせられることになるのだぞ!」
「……艦娘として目覚めた場合は、本人もしくは身近な者がその旨を届け出なければならない、子供でも知っていることです」
「法など知ったことか! 私には、あの子の幸せを守る義務があるのだ!」
 そう告げた高遠の眼に、ぎらりとした光が宿った。見ればいつの間にか、その手は懐に差し入れられているではないか。
 銃声が、周囲へ響き渡った。

「おい! 銃声がしたぞ!」
「高遠の身に何かあったんだ! お前たち、かまわねえから中に乗りこめ!」
 茶屋からほど近い林へと身を潜めていたピアイルック家当主マウは、連れてきていた屈強な男たちにそう命じた。
 男たちは雄たけびを上げながら、暗がりの中を突進していく。これだけの人数がいれば、誘拐時のようなへまはやらかすまい。
 かつての留学時、見知らぬ土地で一人困っていたところを助けてくれ、それ以来変わらぬ友情を育んでいる友のため、彼はどんなことでもやり遂げる覚悟であった。
 だが――、
「うわっ!」
「なんだこいつ!?」
「ぎゃっ!」
 暗闇の中から男たちの悲鳴が聞こえ、すぐにそれもしなくなった。
「おい! お前たち、どうした!?」
 マウは懐から拳銃を引き抜き、自らも暗闇の中へ駆け込んだ。すると、男たちが昏倒する中へ闇からにじみ出すようにして立つ女の姿が目に入った。
 加賀である。
 赤城のそれとよく似た艤装を身につけた彼女は、しかし弓型の艤装を用いることなく、素手のみで男たちを叩き伏せていたのだ。
 倒れた男たちは、これもまた自らの艤装を身につけた吹雪と青葉が細引き縄でふん縛っていた。ロープワークは、海に生きる者の基本だ。
 彼女たちの姿を見て、その正体をまごう者などいようものだろうか。まして、マウは日本への留学経験もあるのである。
 留学当時、新聞に載っていた写真は先々代加賀のものであったが、艤装の形は同じなのだ。
「か、艦娘か……」
 半ば恐慌状態に陥りながらも、マウは手にした拳銃の引き金を引く。致命傷にならぬよう、脛の辺りを狙ったのはせめてもの良心であったか。
 が、狙いあやまたず加賀の左脛に命中した銃弾は、見えない障壁に阻まれたかの如く弾かれ、むなしく地面を転がるばかりであった。
 これこそが、艦娘の艤装が宿す防護の力だ。深海棲艦との戦いにも耐え得る加護を、たかが拳銃弾如きが貫ける道理などないのである。
「……頭にきました」
 言葉と共に、加賀が蹴り上げた地面が轟音を上げ、凄まじい勢いで弾き飛ばされる。対戦車バズーカの直撃でも浴びせれば、これだけの破壊を生み出せるだろうか。
 艤装を装着した艦娘に宿るのは、防護の力だけではない。
 かつて大海原を駆け抜けた艦艇の機関出力と、同等の剛力がその体にみなぎるのである。
 加賀ほどの大型空母に搭載された機関を思えば、これでも蟻をつまむほどの力しか込められていないのだと知ることができた。
「……まだ、無駄な抵抗をするの?」
「は、はは……」
 加賀の問いかけに、マウは力なくへたれこみ、その手から滑り落ちた拳銃が、からりと乾いた音を立てた。

 銃声が鳴り響いた茶屋の二階席、しかして、赤城は傷ひとつなく悠然と座していた。
 対面には、手首を抑えながら呻く高遠の姿。今度の呻きは、娘にまつわる苦悩からくるものではなく、肉体に与えられた痛みによるものだ。
 机の上には拳銃と赤城の箸が投げ出され、せっかくのたたきと酒を無残に飛び散らかしてしまっている。
 あの時――。
 高遠が拳銃を引き抜くや否や、赤城は目にも止まらぬ速さで箸を投げ、見事に高遠の手首へ命中させていたのである。
 手裏剣術でも使ったものか……。
 ともかく、赤城ほどの達人がこの至近距離から投擲したのならば、ただの箸といえども立派な凶器と化すのだ。
 痛みに呻く高遠を見ながら、赤城は眼鏡を外し、三つ編みにされた髪をほどいていく。
「あ……あ……」
 変装の解かれたその姿を見て、高遠が呆気に取られたような声をあげた。
「一航戦、赤城です……観念しなさい」
 がっくりとうなだれる高遠の背中へ、駆け寄る者が一人あった。
 文月である。
 加賀たちと共に隠れ潜んでいた彼女は、騒ぎが収まったと見た艦娘たちによって送り出され、この場へ駆けつけたのだ。
「おとーさん……」
「あ……ああ……」
 愛する娘の姿を見て何を思ったか……ともかく、高遠の目には滂沱の涙が溢れ、頬を濡らしたものである。
「文月はね、かんむすになってもおとーさんのこどもで、そのことはずっとかわらないんだよ」
 そんな自分の父親を、文月は優しく抱きしめる。
 愛する娘に抱擁されながら、高遠はいつまでも、いつまでも泣きじゃくり続けるのであった。

「もうすぐ、ですね」
「ええ……ちゃんと、初めて会うふりをしないと駄目ですよ?」
「わかってますよぉ」
 艦娘の居住施設に設けられたリビングにて、ぷくりと頬を膨らませる吹雪を見て微笑みながら、赤城はせんべいをかじっていた。
 数日後のことである。
 事件を秘密裏に解決した赤城の結論は、高遠の罪を咎めることはしないというものであった。
 かといって、艦娘の力に目覚めた文月をそのままにしておくことはできない。
 そこで赤城は、数日間を置き、ゆっくりと親子の時間を過ごさせてやってから、文月を通常の手続き通りに、艦娘として届け出させることにしたのである。
 そして今日は、文月がこの泊地へ受け入れられる予定の日となっているのだ。
「それにしても……」
 加賀はひと口茶をすすりながら、深い溜め息をついた。
「貧すれば鈍すると言いますが……あの父親の言っていた言葉は、私たちの忘れていたものを思い出させましたね」
 その言葉に、うなずいたのは吹雪である。
「私たち、当り前のように戦ってますけど……本当はそれって、異常なことなんですよね……」
「高遠は、文月ちゃんを争いのない安全な場所へ匿うつもりだったそうです」
 二人の様子を見ながらも、しかし、赤城の瞳には決然としたものが宿っていた。
「……でもね。深海棲艦が跳梁するこの世界で、そんな場所がどこにあるっていうんですか?」
 赤城の問いに答えられる者はいない。
「そ、そういえば青葉さんはどうしたんですか?」
 ふいに訪れてしまった沈黙に耐えかね、吹雪は努めて明るい声を上げながらそう尋ねた。
「ああ、青葉ちゃんなら、私の頼みで買い物に出かけてもらっています。文月ちゃんの仲間入りをお祝いして、ケーキのひとつも用意したいですからね」
「ケーキですか? いいですね!」
「ええ、青葉ちゃんもこころよく買い出しを引き受けてくれましたよ」
「こころよくって……青葉さん、また何かしたんですか……」
「ふふ、秘密です」
「……そろそろ出迎えにいきましょうか」
 二人のやり取りを尻目にしていた加賀が、やおら立ち上がると玄関に向けて歩き出した。
「ああ、ちょっと、待ってください~」
 慌てて吹雪が後を追いかけ、赤城も立ち上がる。
 と、赤城のポケットから一葉の写真が滑り落ちた。
 やはり青葉が隠し撮りしていたものなのだろう、写真に写っているのは、艤装を身につけた吹雪の姿である。
 ただ、隠し撮りだけあって微妙に際どい角度から撮られた写真であり、スカートの中にある白いものがちらりと見えてしまっているのだ。
 野草のような可憐さを秘めたこの少女は、兵たちの間で密かに人気があるのである。

 了。

 あれだね。艦娘がもし、「普通の女の子が艤装に選ばれて~」みたいな設定だったら、こういう話も生まれるのかな?
 そう思って書きました。
 色々と拙いところがあると思うけど、やれるだけのことをやってみたよ。

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