大学教授「私がアイドルのプロデューサーだと」 (131)

今日中に終わる

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そうだ、と高木は頷くと

「実は、あと2、3年したら今の会社を出て独立しようと思っていてね。しばらくは今の会社のお世話になろうと思っているが、いつかは自立して芸能プロダクションを創りたいと思っているんだ」

高木はそういうと左手をカップに伸ばしてコーヒーを啜った。かつてはブラックを愛飲していた彼だが、今日は砂糖とクリームをたっぷりと加えていたことを思い出した。

「独立というからには、今の会社からまるまる人材を引っ張ってくるのではなく、私の会社で独自に人材をスカウトしてプロダクションを回したいと思っているのだよ。
そのためには事務員もいるだろうし、マネージャーもいるだろう。そして何よりもプロデューサーが必要だ」

そういうと彼はゆっくりとスプーンをとってコーヒーを混ぜた。

「君が芸能プロダクションのプロデューサーだということは知っているよ。君が新しくプロダクションを設立しようというのなら、私も応援しよう。しかし、私がプロデューサーというのはどういう事かね。それに、アイドルとは」
注文したエスプレッソが運ばれて間もなくの高木の言葉に私は面食らったが、それだけ言うとブラックのままカップに口をつけた。
「いや、少し驚いてね。君が突拍子もないことを言うのはいつもの事だが、私がアイドルのプロデューサーとは君の冗談にしてはおもしろいじゃないか」

高木はスプーンを回す手を止めて

「今の会社は、業界では中堅のプロダクションでね。私も最初は歌手としてプロダクションのお世話になったが、全く売れなくてね。
当時の社長の勧めで、マネージャーやプロデューサーとして俳優や歌手をサポートする仕事をさせてもらったのだが、ある時一人のアイドルのプロデューサーを任せられてね」

そこで彼は一口コーヒーを啜って

「音無小鳥君というのだが知っているかい」

高木とは長い付き合いだが、お互いに仕事の話をすることはほとんどなかったように思う。
そもそも高校からの付き合いだが、私が大学に進んでからは会う機会も滅法減り、今日顔を会わすのもおよそ10年振りという具合である。
彼との交友が今でも続いているのは互いの波長が合っているからなのか。

「済まないが、知らないね。私が芸能界に疎いのは君も承知だろう」

そう言うと彼は少し口角をあげて

「そうだったね。いや、失礼した。ところでその小鳥君だがね、彼女はそれまで私がロデュースした誰よりも素晴らしい才能を持っていたのだよ。俳優なんて目じゃない、溢れ出る輝きとでも言おうか、そういう才気がある子だった」

そこで彼は突然大きな声をあげて笑い始めた。
ちょうどコーヒーに口をつけていた私は危うくカップを取り落とすところであった。

「済まない。どうも気恥ずかしくてね。それで私は彼女のプロデュースをすることになったのだが、何分、私もアイドルのプロデュースというのは慣れないことだったし、ましてや相手は中学生の女の子だ。最初はどうしたものかと頭を抱えたものさ。
だが、彼女の才能に助けられて次第に仕事も増えてきてね。順調にレッスンも仕事も進もうとしていた矢先だった、日高舞という女の子が現れたのは」

日高舞、彼女の名前には聞き覚えがある。もう10年以上昔のアイドルだったか。私でも知っている名前だ。

「彼女はまさしく神の子と言うに値する才能をもった子だった。何せ、デビューして半年でトップアイドルの座に腰を下ろしてしまうのだからね。どの現場でも日高舞、日高舞だ。
それまで活躍していたアイドルも日高舞に負けまいとして熱心に活動するものだから、ぽっと出の新人などいる場所もなくなってね。仕事も入らないし、金が回って来ないからレッスンもできない。
結局小鳥君は2年ほどでアイドルを辞めてしまった」

「まあ、彼女がアイドルを辞めたのは
私の所為でもあるがね。もっとしっかりとしたプロデュースをしていれば、彼女の才能があればトップアイドルになれたかもしれない。諦めなければね。
実際、日高舞はその一年後に電撃結婚して、芸能界を引退してしまった訳だから。
しかし、その前に私が諦めてしまったから、彼女を諦めさせてしまったから、結局アイドル音無小鳥は死んでしまった。
社長も同情的でね、私も音無君も引き続いてプロデューサーと事務員として雇って頂いた。
まあ、同僚のプロデューサーは私のことを酷くこき下ろしたものだが」

大学教授??

空になったカップを見つめて、目を細めると、私に向き直って彼は口を開いた。

「私はアイドルを育てたいのだよ、君。日高舞や音無小鳥のような才能をもった女の子をね。彼女たちには他のものにはない輝きをもつ宝石の原石だ。人の心を変えてしまうような輝きをもつ宝石なのだよ。
私はその輝きが見たい。その輝きが人の心を動かす所をみたいのだよ」

そう言うと、彼は再びカップに目を戻して、ひどく興味深そうにカップの底に乾いたコーヒーを見つめた。

飽和量を超えた砂糖がカップの底に溜まっている。この十年ほどの間に、何が彼をこれほど変えたのかを少し理解したような気がした。
私は先ほどの話には感想を控えてもう一度質問した。

「それで、私がアイドルのプロデューサーというのはどういうことなのかね」

高木は思い出したようにはっと私に視線を移し、かつてのように目を輝かせて口を開いた。

「そう、そのことだよ。君には私の新しいプロダクションでプロデューサーをしてもらいたいのだ。
正直、給料などは雀の涙ほどになるだろうし、体力的にも精神的にも大分負担がかかることになるだろう。幼い女の子を相手にするのだから、当然だ。
しかし、できる限り」

「待ってくれ高木」

彼にしては勢い込んだ話ぶりに少々驚いたが、私は彼の話を遮った

「なぜ私がアイドルのプロデューサーになるのかね。
いくら暇だとはいえこれでも大学教授だ。私には果たすべき職務がある。芸能界に興味もないというのに、ましてや私がプロデューサーとして芸能界に入るなどということはあり得ん。
何より先ほどの話では君がアイドルを育てたいと言っていたではないか。君がプロデューサーとして活動するのではないのかね」

柳沢教授かと思ったが口調が違うな

そう言うと、高木は苦笑して

「いや、済まない。年柄もなく急いてしまったよ。そう、君をアイドルのプロデューサーにしたいというのには私なりの理由があるのだ。まず君は素性が明らかだ。
アイドルをサポートするプロデューサーがアイドルを手篭めにしたりしてもらっては困るのでね。君と私の長い付き合いだ、その点について君は非常に安心できる。新しく若い男の中から誠実でティンと来る者を見つけるのは大層骨が折れることでね。君は私が知る者の中で最も誠実で教養ある人物なのだよ。
そして君は大学教授だ。たくさんの学生達を教え、導いてきた経験がある。
アイドルと勝手が違うのは十分承知しているが、アイドルを導くために必要な人間性を君は既にもっていると思う」

私は、冷めてきたコーヒーを啜りながら彼の話に耳を傾けた。高校時代から突拍子もないことを言い出す人間であったが、よもや私にアイドルのプロデューサーになれ、と言いだすとは驚いたものだ。

「高木、私はもう50だ。この年まで学問一筋にやってきた。今更芸能界へ、それもアイドルのプロデューサーとして入ることなどできまい。
芸能界のことなどさっぱり分からないし、ましてや音楽やダンスなどの知識なぞ皆無だ。
お前のように体が元気な訳でもない。
なにより私には大学教授という職がある。お前は私にこの職を辞めろというのか」

高木は嬉しそうに

「ああ。君には大学教授の職を辞して、私の新しい会社に来て欲しい」

「私は音楽やダンスなぞ分からん」

「これから学んでもらうさ。あと2年もあるんだ」

「体が動かん」

「とてもそうは見えないね」

「若い女の子の相手などできん」

「大学で手慣れたものだろう。それに何も君だけじゃない、私やマネージャーもいるんだ。」

「もう50だぞ」

「私もだ。区切りの年だよ。新しいことに手を出す時期じゃないかね」

嫌な奴だ。
意地悪い笑みを浮かべて私を見る高木に心の中で毒づいた。

「本気か」

「本気さ」

そう言うと高木は一息ついて言った。

「高校時代を覚えているかね。すっかり昔の話だが」

当然だ。
高木との交流が、会う機会の少なくなった現在まで続いているのは、ひとえに高校時代があるからだ。

「君と出会ったのは2学年のころだったかね。いろいろあったものだが、卒業の日に君は一本のカセットテープをくれたろう」

憶えている。1970年代のことだ。ビートルズの時代が終わったころ、私は当時歌手を目指していた高木と一緒に、あるロックバンドを結成していたのだ。といっても、本当にやる気があったのは高木だけで、私を含めた他のメンバーは嫌々付き合っていたのだが。

しかし、私は音楽のことなど全く分からないながらも高木の歌を聴いて彼は本物だと思った。
結局楽器すら調達出来ずにバンドは解散するのだが、作詞とドラムを担当することになっていた私は、高木に歌ってもらうために1つの詞を作った。
気恥ずかしくて渡すタイミングを失ったのを、最後になるからと自分で朗読して卒業の日に渡したのだ。当時は電話も何もかも不便だったから、手紙を書いたりカセットテープに声を吹き込んで別れの際に交換し合ったものだ。

それから高木は歌手を目指して上京し、私は京都の大学へと進んだ。
もう30年以上前の話だ。
まさか今になってそんな恥ずかしい話をする訳でもあるまい。

「何が言いたい、高木」

すると、高木は過ぎ去った高校時代を彷彿とさせる輝いた目で苦笑交じりに言った。

「今更ながら打ち明けるがね、その中に入っていた君の詞は、私のデビュー曲の詞なのだよ」

少し、驚いた。
私は今、何を感じたのだろう。まるで高校時代に戻ったかのようなあの感覚。あの時私の心を揺さぶった高木の歌が今、確かに聞こえた。

少し、間が空いてしまった。私は冷え切ったコーヒーをかき混ぜながら

「つまり、私に作詞の才能はないということかね。デビュー曲、売れなかったんだろう」

高木は乾いた笑いを発してその場を濁した。

初耳である。
歌手としてデビューしたことは知っていたが、まさか私の詞を使っていたとは。若い頃にCDをくれと言っても、頑なに拒んでいたのはこのためっだたのか。

「まあ、それはともかくとして。私は君と仕事がしたいのだよ。君は私がティンときた数少ない人間の一人だ。君のような人材を一から探すのは大変な苦労なのだよ」

どうやら高木は昔と変わっていないようだ。初めて会ったときも「ティンときた」などと言って話しかけてきたのだった。
その時のことがふと頭に甦り、変わったのは私なのかもしれないと思った。

「しかし高木、お前がどんなに言おうとも私は大学教授を辞めるつもりはないよ。これは私の天職だ」

そう、私は大学教授という職業に誇りを持っている。学問一筋にひたすら精進を続け、大学教授になったのだ。
変わることは悪いことではない。私は今の立場に、十分満足しているのだから。

高木は街頭に目を逸らして、思案している風である。

満足している。私は満足しているのか。実際のところ、学問をする悦びというものに出会うのは五年に一回くらいである。その悦びのために生きていると言ってもいいほどの驚きと感動ではあるが、私は本当にそれに満足しているのか。

いや、学問の悦びだけではない。
私が大学教授という職業に誇りを持っているのは、後進の育成の点においてである。私という器に入っている知恵を若者の器に余すことなく流し込んで行く作業、これこそが私の悦びである。
私より大きな器を持つ者に数多く出会った。そのような者に出会う度に、私は大学教授であることを誇りに思うのだ。
私は彼らを応援することができる。彼らを羽ばたかせることができる。そして彼らを輝かせることができるのだ。
若者の育成こそが私の悦びである。そう、私は満足している。しているのだ。

高木はゆっくりと私に視線を戻して、

「うむ。君は素晴らしい大学教授だよ。教育者としては一流の人間だろう。だが君の天職は大学教授ではなく、アイドルのプロデューサーだと私は断言しよう。
彼女たちの可能性は無限大だ。底知れぬ器を持っているのだよ。
彼女たちを応援して欲しい。彼女たちを羽ばたかさせて欲しい。そして彼女たちを輝かせて欲しい。そう、人の心を揺さぶるほどに」

そう言うと高木はエスプレッソを頼んだ。少しして運ばれてきたコーヒーを
ブラックのまま一口含んだ高木をちらりと見て、私は冷え切ったコーヒを一口に飲み干した。

嫌な奴だ。そう、昔から。思えばあの頃から私はプロデューサーだったのかもしれない。高木のために詞を書いたあの頃から。

満足しなかったのも当然だった。高校時代、私は既に高木というアイドルに出会っていたのだから。

そう考えて、私の目の前でブラックを不味そうに飲む高木は、およそアイドルらしい風貌をしていないことが無性に面白かった。
一瞬、もう一杯エスプレッソを頼もうと思った。高木と思い出話に花を咲かせようと思った。
しかし、プロデューサーになろうという決意を固めた今、不意に不安が込み上げてきた。果たして私はプロデューサーなれるのか。

「考えさせてくれ」

と私は呟いた。
ちょうどブラックに砂糖を入れようとしていた高木は、大声で笑った。やはり高校時代と変わらない、あの笑顔で。

「何がおかしい、高木」

つい上がりそうになった口角を引き締めて、私は詰問した。

「いや、なに。君がそう答える時はいつだって答えは決まっているだろう」

嫌な奴だ。

「昔から変わらないねえ」という高木の言葉を振り切るように、私は席を立った。

「また、会おう」

「ああ、近いうちにね。プロデューサー君」

砂糖とクリームをたっぷりと加えたコーヒーを、高木はうまそうに飲んだ。私は傍に置いたコートと鞄を取り、出口へと向かった。

会計を済ませた私の背中に、高木の声がかかる。

「いい返事を期待しているよ。もし承諾してくれたなら、私のデビューシングルを贈呈しよう」

ハードボイルドだな

プロデューサーになる決意をするまで
終わり



期待

続き投下

高木との会談から2ヶ月、私は東京行きの新幹線に乗っていた。5月中旬平日の早朝、比較的空いていた自由席を選び、内陸側の座席に腰を下ろした。私と高木は静岡の出で、見慣れたものとはいえ、富士山を見ることを密かに楽しみにしていたのだ。
窓の外を眺めながら、私はこの2ヶ月のことを思い出した。

プロデューサーとなることを決めたものの、今まで芸能界に興味を抱いたことはなかった。
大学の同期や教え子に芸能界で活躍する者もいたが、時折手紙に同封されるコンサートや舞台のチケットを使って見に行くくらいのもので、学生の時から学問一辺倒にやってきた私が芸能界でうまくやれるのか不安であった。
ましてやアイドルのプロデューサーである。音楽やダンスの素養、トークやバラエティの素養も必要になるだろう。

クラシックにはいくらかのたしなみがあったが、音楽にはお世辞にも素養があるとは言えない。
ダンスについても、能や歌舞伎はよく観るが、昨今のダンスには縁がなく、なにより私自身が何か踊ったこともないし、これから踊ることもないと考えると、不安は膨らむばかりであった。
それでも50という年でアイドルのプロデューサーをしようと決めたのは、高木と仕事ができること、そして何より無限の可能性をもつというアイドルを育てたい、輝かせたいと思ったからだ。

これまで大学でも多くの素晴らしい才能をもった学生を育てる機会に恵まれた。卒業後政治家や評論家、企業経営者などとして活躍している者も多くいる。
しかし、その誰も高校時代に出会った高木を超える才能を持ってはいなかった。その高木が無限大だ、と言う才能をもつアイドルに純粋に興味があった。

とはいえ、すぐに大学を辞め、プロデューサーになることができるわけではなかった。
大学を辞めるとなると、4、5年単位でシラバスその他を組んでいる大学側に多大な迷惑をかけることになってしまう。私個人としてもやり残した研究もあったし、何よりも、今私が育てている学生を見捨てることはできなかった。

結局、学部長や総長との話し合いの末、来年度の入学生からは講座をもたないこと、高木が独立するという2年後までは大学教授の職を続けることが決定された。
それでもかなりの学生を途中で見捨てることになってしまったが、助教授の水谷が面倒を見てくれるそうだ。彼は私の後任として教授職につくはずで、「...私に任せてください?」と言っていたが、彼であれば何の心配もいらないだろう。

そうして大学を辞める段取りを整え、会談から2ヶ月経った先ごろ、高木は急に私を東京に呼び出した。彼が独立するまでのプロセスと、私のプロデュース業の展望について話がしたい、ということだった。
プロデューサーになる決意はしたものの、これから先どうなるのかは全く分からない。しかし、不安はあったが、高木なら必ず上手くやるという確信があったし、その高木の計画がどのようなものか見るのが楽しみであった。

それから私は駅で買った新聞を取り出した。一面に出ているのは、私が研究室でかけているラジオから流れていたニュースと大して変わりはない。
読み進めていくと、私の知人の一人である与党議員の記事があった。脱税疑惑をかけられているようだ。実際、脱税していても不思議ではないだろう。政界には知人も多いが、懐で何を考えているか分からない人物も多い。派閥間の闘争などもよく聞く話だ。

急患だ。
どのくらいかかるか分からん

待ってるよ

test

スポーツ面には格闘家のステゴロ・ザウラーが700戦連続勝利の記録を達成したことが大きく書かれていた。昨日、日本で試合が行われたらしく、対戦した菊地真一という人物も健闘したらしい。

新幹線が発車してしばらくたったころ、私に声をかける者がいた。
新聞から顔を上げると、非常に小柄な少女で、つやつやした綺麗な髪を耳の下で三つ編みにして二つのおさげにしている。前髪は少女らしく切り揃えられ、頭のてっぺんからは小さなくせ毛が木の芽のようにぴょこんと両側に開いていた。12、3歳くらいかと思われたが楕円形の眼鏡をした顔は非常に落ち着きがあり、大人びた様子も漂わせている。不思議な少女だ、と一目見て思った。

「あの、すみません。隣に座ってもいいですか」

よく通る、落ち着いた声だった。

「ええ、それは構いませんが、どうして」

そう問いかけると、彼女は右斜め後方の座席を見やって、

「私の隣のおじさんが眠ってしまって」

彼女の視線をたどると、30代と思われるスーツ姿の男性がだらしなくも肘掛に頭を載せ、隣の席に手を伸ばして眠っていた。大方、仕事で疲れた彼が彼女にもたれかかるようにして眠ってしまったのだろう。年頃の彼女にしてみれば迷惑な話だ。

「それから、もたれかかってきたので。座ってもいいですか」

断る理由はなかったが、このような少女が一人旅とはどういうことかと疑問に思った。

「ええ、どうぞ。窓側がいいですか。後で富士山も見えますし」

新聞を畳んで鞄に入れ、立ち上がろうとすると、

「いえ、わざわざ席を移っていただくのも悪いです。そのままでどうぞ」

と言って、さっさと通路側の席に座ってしまった。年上の気遣いをきっぱり断るとは、なかなか勝気なようである。おもしろい少女に出会ったものだ。

「それならいいのですが。一人旅ですか」

私は腰を下ろしながら、気になったことを聞いてみることにした。

「はい。一昨日から従兄弟の家にお世話になっていて、東京に帰るところです。母はもう少し向こうに残るそうで、私だけ帰ることになりました」

「へえ。従兄弟さんは何処にお住みになっているのですか」

「京都です。ちょうど、大学の近くにあるんですよ」

よく聞くと、その大学とは私が教鞭を執る大学であるらしい。もしかすると、私もその家を通り過ぎたことがあるかもしれない。

しかし、この少女の親もひどいものだ。いくら大人びているとはいえ、こんな年端もいかない少女を一人で家に帰すとは。

「しかし、お母さんはよく一人で帰させてくれましたね。女の子の一人旅ほど怖いものはないのに」

そう言うと少女はいくらか怒ったように

「私はもう15歳です。高校生ですし、一人で家に帰るくらいどうということはありません」

高校生か。見た目からてっきり中学生かと思っていたが、その落ち着いた風を見ると納得できる気もする。
高校生の女の子の一人旅もどうかと思ったが、これ以上言うと気分を損ねてしまいそうだったので、話を変えることにした。

「これはすみません。お名前は何とおっしゃるのですか」

「秋月律子といいます。春夏秋冬の秋に月、律子は法律の律に子どもの子です」

律子。名は体を表すというが、この子は正にその通りだ。そう思って、いい年をした大人が名乗りもせずに、年端もいかない少女を質問責めにしていたことに気がついた。

「すみません、秋月さん。こちらから名乗りもせずに。私はあなたの従兄弟さんが近くに住んでいるという大学で働いている者です」

そういって名刺を手渡すと、おそらく初めて名刺をもらったのだろう、彼女は興味深そうにそれを眺めた。そして少し驚いた様子で

「大学の教授さんだったんですか、しかもとっても有名な大学の。すごいですね」

「まあ、私などは端くれ者だけれどね」

実際、昔から理科型の大学であったから文科型、しかも近代外交史が専門の私は講義の数も多くなく、専ら研究に時間を費やしていた。
大学の教授は往往にして殻に閉じこもるタイプが多いから、親しい同僚というのも多くはない。しかし、大学という場はあらゆる知が結集していることは間違いない。自分の専門分野について何時間でも話せるのが大学教授だ。30年もいると、専門外の言語学や経済学にまで詳しくなってしまった。

彼女はしばらく名刺を見つめて、ふと私をみると、

「最初に見たとき、先生みたいだな、と思ったんです。先生って呼んでもいいですか」

先生という言葉は耳に馴染んでいる。

「ええ、どうぞ。何とでもお好きに呼んでくださって結構ですよ」

少女との話はおもしろかった。年齢にそぐわない知識と、しっかりとした判断力をもっていることはすぐに分かった。
まるで大学の研究室の学生たちのように、たくさんのことを質問してくるので、私もつい難しい答えを返してしまうこともあったが、彼女はよく理解しようとしてくれた。
高木の言う「ティンとくる」という訳ではないが、彼女には何か感じるものがあった。こういう場合、高木ならアイドルとしてスカウトするところだろうが、私にはまだそんな事はできないし、どちらかと言えば彼女はアイドルよりも学者の方が似合っているように思った。

話に興じている内に、新幹線は富士山を窓側に捉えていた。

「ああ、富士山が見えますよ。私などには見慣れたものですが、やはりいつ見ても美しいものです」

そう言うと彼女は、はっと窓の外を見たあと恥ずかしそうに言った。

「あの、ごめんなさい、先生。さっき断っておいてこんなこと言うのは失礼ですけど、席、替わってくれませんか」

そう言えば、私は大柄な方である。横は高木ほど広くはないが、身長はかなりある。小柄な彼女からは、私が富士山に被って見えないのだろう。

「はい、はい。分かりました。」

そう言って窓側の席を譲る。年不相応に落ち着いて見える彼女だが、富士山を見る目の輝きは、まるで小学生の女の子のようだった。
不思議な少女だな、と思いながら、私も富士山をゆっくりと楽しむことにした。

私たちはその後もたくさんの話をした。意外にも彼女は少女漫画を好むようで、鞄には数冊の漫画を忍ばせていた。
私はその内の一冊を借りて少し読んでみた。私は昔から漫画やアニメには疎かったが、最近の若者の流行はこうしたサブカルチャーであるらしい。後学のためにも、と思って読んでみると、なかなか面白かった。
些か性描写が過ぎると思われたが、秋月さんを見ると顔を真っ赤にさせていたので、自覚はあるようだ。

驚いたのは、彼女がコンピュータに詳しいことであった。
大学、特に文科型はアナログ志向があり、私が本格的にコンピュータに手を出したのOSWin95からだったが、最近は助教授の水谷がやたらとコンピュータに詳しいこともあって、無駄に知識がついていた。彼女は3.1、DOSさらには8001のN-basicまでと話題が豊富だった

また、私などは本体の社名とロゴでありがたがるものだが、彼女は一つ一つのパーツにも気を使うようで、苗字が一緒のあの大手と何か関係があるのかと思ったので聞いてみると、その大手とは違うらしいが、親御さんもコンピュータ関係の店を経営しているそうだ。

彼女との会話は実に楽しいものであった。新たな知識を得るには人と語り合うことが最高の手段である、と誰かが言っていたが、新たな知識を得ること、つまり人と語り合うことは私の最高の楽しみの一つであった。

東京に着いたのは9時過ぎであった。これから自宅に帰るという秋月さんの背中はとても小さく、一人で行かせるのもどうかと思ったが、彼女はしっかりしているし、ご両親もそれを分かって一人で帰したのだから、と考え直して彼女とは駅で別れることにした。
「ありがとうございました」と言って背を向けた彼女はやはり小さく頼りげなく見えたが、高木との約束の時間も近いので、私はタクシーを拾うべく出口へと足を向けた。

新幹線の中まで
終わり

test

プロダクションは都心のビルだった。高木は中堅プロダクションだといっていたが、どう見ても中堅ではなさそうだ。ワンフロア貸し切りという訳ではなく、この六階建てのビル全てが事務所のようで、どうやらレッスン場も一つ併設してあるらしい。
私は少し気後れしたが、思えば毎日通っている大学に比べれば、大したことはなかった

入り口を抜けて左右をみると、このプロダクションに所属している芸能人のポスターやパンフレットが置いてある。歌手、俳優、アイドル、スポーツ選手、声優、芸人など職種は多岐にわたっている。その中には私も知っている顔も幾つかあった。私はパンフレットを一つ二つ取ってフロントへ向かった。

フロントの女性に高木を呼んでもらい、ラウンジのソファに腰を下ろした。
今、10時過ぎという頃合である。芸能プロダクションというからにはもっと騒々しいものだと思っていたが、確かに人の往来は激しいものの意外にも落ち着いた雰囲気が漂っており、拍子抜けであった

私は手に取ったパンフレットをめくってみた。どうやらミュージカルの案内のようだ。西洋人の男性と日本人女性の恋物語が主題らしく、西洋人を演じるのはなかなか年季のいった男性だった。五神武彦という名前は私も知る大物俳優のものである。日本人の方は神長瑠衣という美しい顔立ちをした女性で、元アイドルという経歴が書いてある。こちらもどこかで見たような顔だった。

「待たせたね」

少し離れたところから声が聞こえた。高木である。右手に大きな封筒を抱えて、急ぎ足でやってくる。

「いや、こちらこそすまないな、高木。10時という約束だったのに」

私は立ち上がって高木に非礼を詫びた。

「いや、構わないさ。この業界は時間厳守がモットーだが、時間どうりに進まないことの方が多いからね」

高木は嬉しそうに左手を差し出し、私たちはがっちりと握手をした。

「前に会ってから2ヶ月だ。私たちがこんなに短い間隔で会うことは久しぶりだね、君。だが、この2ヶ月で君は非常に大きな決断をしてくれた。
大学教授の職を辞するという決意は容易くできるものではないはずだ。君がその決断をしたことは、私を信頼してくれているからこそだと考えている。私は全力を尽くしてその信頼に応えたい、君を最高のプロデューサーにすることによって。
まあ、この話は上でじっくりしよう」

そう言って高木は歩きだしたので私もパンフレットを鞄に入れて、後ろから追いかけた。

高木は慣れた足取りでエレベーターへと向かいながら

「プロデューサーといってもすぐになれるものではない。事務処理、音楽監修にダンスの監修、レッスン場の確保に指導者の獲得、企業への営業、アイドルの心身の管理、挙げればキリがないほど仕事はたくさんあるのだ。それら全てを君はマスターしなければならない。
君の役目はアイドルを育てることだ。技術的にも、人間的にもね。そのためにはこれらの仕事上のスキルは必須なのだよ。
もちろん、君にこれら全てを背負ってもらう訳ではないがね」

そう言いながらエレベーターに乗り、3階のボタンを押した。

「しかし、所詮独立したてのプロダクションには人手も金もないからね。プロデューサーである君がマネージャーや事務員の仕事を兼ねることになるだろう。重労働だが、君ならやってくれると信じている」

エレベーターを降りると、高木は私を一つの部屋へ導いた。小さな会議室らしく、「楽にしていてくれ」と一言残して高木はどこかへ行ってしまった

私はパイプ椅子に腰を下ろし、今更ながらアイドルのプロデューサーになどなれるのかと思った。
音楽やダンスの素養と言っても50歳だ、物覚えも悪いし、体力にも不安がある。芸能界のしきたりなどにも詳しくない。
仕事を取ってくるにしても、私には芸能界にこれといったコネもない。なにより、アイドルの心身の管理には苦労するだろう。大学で多くの女学生を相手にしているとはいえ、14、5歳の少女の扱いには慣れていない。
高木はあと2年でなんとかすると言ったが、果たしてうまくいくのだろうか。それに、私は大学教授の職をあと2年勤めることになっている。プロデューサー業一筋に精進できるわけではないのだ。

果たしてこの選択は正しかったのだろうか。そう考えて、ふと葉巻が欲しくなった。
長年愛好してきた葉巻だが、プロデューサーになると決めてからは止めていた。子供の前で吸うものでもないし、ストレスのはけ口としては不健康にすぎるものだからだ。この年齢でプロデューサーだ。健康のことは今まで以上に気を配らなければならない。30年近く吸ってきたせいか、止めるとイライラしがちになってしまい、不安がこみ上げると吸いたくなる時がある。

しかし今は不安など抱えている場合ではなかった。今は死に物狂いで努力するだけだ。高木の信頼に応えるために、そして私の彼への信頼を証明するために。
たとえ失敗しても、これから先生きられるだけの貯金はある。不安になるのはプロデューサーになってからでも遅くはない

しばらくして部屋のドアが開き、高木が入ってきた。その後ろからは一人の女性がのぞき見えた。
事務員らしき服をきた20代半ばと見える女性。緑色を基調とした制服に胸のリボンとインカムの黄色がよく映えている。インカムの上の口元には特徴的なホクロがあり、この女性の母性的な優しさが垣間見えるようである。その手には3つのカップを載せた盆をもっていた。

「紹介しよう、うちの事務員の音無小鳥君だ。君に話したように今でこそ事務員などという仕事をやっているが、かつてはアイドルをしていたのだよ」

音無さんは、3つのカップをそれぞれ高木、私、そして彼女自身に回し、高木の前には大量の砂糖を置いた。そして、私に微笑んで

「はじめまして。音無小鳥と申します」
と挨拶した。

なるほど、高木がトップアイドルの才能があるというだけあって、とても魅力的な女性である。彼女の落ち着いた雰囲気が自然と気分を和わらげる。
今朝、新幹線の中で出会った秋月さんもとても落ち着きのある少女であったが、やはりいくらか無理をしていたのだろう。音無さんにはは彼女のような固さのない、柔らかな大人の女性の落ち着きがあった。

「はじめまして。高木の旧友で、大学の教授をさせていただいております。音無さんのことは、高木から伺っていますよ」

そう言って立ち上がり、名刺を渡した。
彼女は少し頬を染め、名刺に目を止めて、

「恥ずかしいです。もう10年も前の事なのに」

そう言うと、高木に困ったような目を向けた。

高木は気づかなかったように私に向き直り、

「さて、今日ここにきてもらったのは、君に今後進むべき道を提案するためでね。小鳥君にも同席して欲しかったから、わざわざ東京までご足労願うことになった次第だ」

そういうと高木は右手に抱えていた大きな封筒をごそごそと紐解き始めた。

音無さんが私に目を向けて、

「あの、コーヒーはブラックでよろしかったですか。高木さんが先生はいつもブラックを飲むとおっしゃったので」

「ええ、ありがとう。とてもおいしいですよ」

そう言うと、彼女は「良かった」と呟き、コーヒーに砂糖とミルクを少し入れてスプーンでかき混ぜた。いつの間にか、先生と呼ばれることになったらしい。嫌な気はしないが。

「ところで高木さん、私がいる必要があるってどういうことですか」

カップに口をつけながら尋ねる音無さんに、高木は封筒から書類を引っ張り出すのに苦労している様子で

「ん、いやなに、私がこのプロダクションを出て新しいプロダクションを開くときに、君には事務員として来てもらいたくてね」

なるほど、この女性なら事務員にぴったりだろう。高木が連れて行くと言うくらいだ、有能であることは間違いない。それにこの母性的な落ち着きは人を和ませてくれる。
仕事を終えて帰って来た時に笑顔で出迎えてくれる音無さんが目に浮かんだ。そう考えてふと音無さんを見ると、

「ピヨーーーーーーーッ、聞いてませんよ高木さん。高木さんこのプロダクション辞めちゃうんですか。しかも、私を連れて行くってそんな」

先程の落ち着いた雰囲気からは想像もできないほどの驚きようであった。どういう意味かは分からないが、しきりにピヨピヨと呟いている。あまりの驚きように私は口をつけていたカップをとり落とすところだった。

「あれ、君にはまだ話していなかったかい。そうだよ、あと2、3年もしたら独立しようと思っていてね。社長には話をしているから、もう私が担当しているのも半ばセルフプロデュースの神尾君くらいで、あとはプロダクション経営の仕事ばかりだ。君なら気付いているかと思うが」

高木は思いの外書類を取り出すのに苦労している様子である。中の書類を掴み、封筒を振り落とそうとしたが、無駄であった。

「そりゃあ気付いていましたけど、まさか辞めるだなんて思わないですよ、もう30年もこの会社にいるのに。
私はてっきり社長が高木さんを後継者にしようとしているのだとばかり」

高木はついに封筒を引き裂き、書類を取り出した。

「ここで出ていかないとチャンスはもうないだろうからね。それに社長はまだまだやる気十分だよ」

高木は分厚い書類をテーブルの上にボンと置き、コーヒーに砂糖とミルクをたっぷりと加えた始めた。

「話をもどそう。その独立にあたって小鳥君には事務員を、そしてプロデューサーを君に頼もうということなのだがね」

「ピヨヨヨーーーーーーーーッ、先生がプロデューサーですか。そりゃあ只者ではないオーラを出していましたけど、プロデューサーだなんて。私はてっきり先生は新しいコメンテーターかなにかだと思っていましたけれど」

コメンテーターはあまり好かない。テレビに出たことはあるが、それは私の専門分野の解説者としてであったからで、よく知りもしない時事問題や芸能ニュースにコメントする気は起こらなかった。

「うむ。彼にはプロデューサーを任せるつもりだ。彼も既に大学教授の職を辞する決意を固めている」

「へぇ。じゃ、何ですか。先生もいつものように心のティン線に触れてスカウトしたというわけですか」

やはり高木はどこででも「ティンときた」と言うようだ。「ティンときた」などと言って幼い音無さんに声をかける高木の姿が頭に浮かんで、少し笑みがこぼれた。

「いや、彼とはもう30年以上もの付き合いだよ。出会ったときからティンときていたのだが、独立のことを考え出した頃から、プロデューサーは彼にしようと決めていたのだ」

「仲がいいんですね」

「そうだねぇ。不滅の友情という奴かな。ねぇ、君」

高木はやっと砂糖とミルクを入れ終え、おいしそうにコーヒーを啜った。

「ああ、高校時代からの切っても切れない仲だな」

そう返すと、音無さんがしばらく難しい顔で考え込んだ後、恍惚とした表情を浮かべて、

「高校時代。不滅の友情。うふふ。有り余った情欲は親友へと向かうのね。切っても切れない仲、それはすなわちホモセックス。うふふ、うふふふふ。高校時代の高木さんと先生。アリだわ。うふふ。うふふふふふふふ」

どうやらどこかへトリップしているらしい。今朝秋月さんに読ませてもらった少女漫画に出てきた、妄想癖のある少女にそっくりの表情であった。

「大丈夫かね、彼女は」

些か心配になって高木に問いかけると、

「いつものことでね。これが無ければ彼女はパーフェクトなのだがねぇ。まあ、話を先に進めようか」

そういうと高木は3部ある書類の束の一つを私に渡し、もう一つを音無さんの前に置いた。

「これは今から私が独立するまでのプロセスをまとめたものでね。この通りになるとは思わないが、出来るだけこれに沿って動いていきたい」

書類を斜め読みすると、どうやら高木は、ここしばらく、経営の仕事をしているらしい。社長として必要なスキルを、彼も身につけようとしているようだ。
独立はおよそ2年後ということで、その間に私が為すべき事が大まかに書かれていた。どうやら高木は私を評論家としてテレビに出していくつもりらしい。テレビには何度か出演したことがあるが、より本格的にテレビに関わることで、経験値を得ようという算段だろう。
このプロダクションに所属することは、私が国立大学の教授であるため不可能であるが、高木個人が私的にプロデュースをしてくれるらしい。

そして、京都にあるこのプロダクションの教習所でのボイストレーニングや歌唱レッスン、ダンスレッスン、演技指導や会話講座などに参加することになるらしい。プロの歌手やアイドル、俳優のレッスンに同席させてもらうことも、社長が認めてくれているようだ。

ふむ。だんだんアイマスっぽくなってきたか?

期待

続きまだー?

止まってしまったのかな?

この上ない計らいであるが、大手であるこのプロダクションの懐の大きさ、そして高木の剛腕あってのものだろうことは容易に想像できた。

「えらく懐の大きな会社だな。独立するプロデューサーにここまで目をかけるとは」

「まあ、30年もいればいろいろな貸しができるものなのだよ。それよりも、これらのレッスンや講習は君がプロダクションに入れない以上、もちろん無料ではない。私が全額出したいところだが、あいにくそんな金ははなくてね、半々ということでどうだろう」

意地の悪い笑みを浮かべて高木は言った。この30年間のことはお互いに知らないことも多いので、深くは聞かないことにした。レッスン料などについては、問題はない。独り身で分不相応の給料をいただいているし、金にある程度の余裕はあった。

「構わないよ。しかし、私を評論家としてテレビに出していくつもりのようだが、私はタレントのような真似をするつもりはないぞ」


評論家として専門でもないことをペラペラ話すことも躊躇われたが、最近の私立大学によく見られる、大学の体面に泥を塗るようなタレント教授にはなりたくない。

高木は微笑んで、

「まず、君には真面目な討論番組の評論家として活動してもらうつもりだ。既にレギュラーが決まっている。君は評論家としての信用を得るには十分な経歴と実績がある。もちろん、これから先彼らの信用を保つのは君の発言次第だが、君なら上手くやってくれると信じているよ。
君は専門でもないことをペラペラ話すことには抵抗があるだろうが、そこは我慢して欲しい。君なら大学の名を背負って、上手く発言する事ができるはずだ」

高木はそこで一息つき、甘いコーヒーを啜った。

「もちろん、私はこうした討論番組だけに君を出演させる訳ではない。報道番組の解説者はもちろんのこと、バラエティ番組にも手を広げたい。アイドルの人気が爆発的に伸びるのはバラエティ番組によることが多いからね。君が昨今のタレントじみた教授に嫌悪感を抱いているのは分かっている。アイドルも一度色物として見られたら、もうお終いだ。しかし、バラエティ番組に出る以上は、一種タレントのようなキャラクターがなければならない。君には申し訳ないが、ある程度のプライドは捨ててもらいたい」

そう言って高木は頭を下げた。
「君をテレビに出すのは君に経験を積んで欲しいこともあるが、何より芸能界での知り合いを増やして欲しいのだよ。番組の出演者だけでなく、芸能界に携わる全ての人と関わって欲しい。いわゆるコネというやつだね。この業界ではコネが物を言う。如何に多くの人と知り合い、気に入ってもらうかだ。普通は私のように長い時間をかけて作っていくものだが、君には時間がない。そこで君自身が表舞台に出ることが一番の方法だと思ってね。また、テレビだけではなく、ラジオやインターネットを使ってみようとも思っている。
うちのプロダクションには京都に支部があるのだが、それはまあ、芸能人の卵を育てている所でね。そこからも仕事が回るようにしておこう。様々なレッスンと共に、芸能活動と大学の仕事という三足のワラジだ。負担は多かろうが、こちらもできる限りサポートしていくつもりだ。もちろん表面上では君は個人として活動することになるがね」

そう言うと、高木は私の様子を伺うように見つめた。
時間がない、そうである。日高舞はたった半年でトップアイドルの座に登ったというが、それはその才能の上に高度なレッスンや、所属していたプロダクションやプロデューサーの芸能界につながる太いパイプがあったからであろう。しかし、これからアイドルのプロデューサーになる私は全てがゼロからのスタートだ。この年まで音楽やダンスには縁がなかったし、高木のようにあっという間に討論番組のレギュラー枠を取れるようなコネもない。

あまりに遅すぎるのだ。ならば死に物狂いでやるしかない。たとえ大学の体面に泥を塗ることになろうとも、芸能界の荒波に乗っていかなければならない。そのためには私のつまらないプライドは捨てる必要がある。

「構わないさ。お前の思う通りにしてくれればいい。それで、私はどんなキャラクターになればいいのかね」

この言葉を聞くと高木は微笑んで、私がレギュラーを務めることになるという討論番組の詳細を渡した

実際のところ、高木が社長と合わせてプロデューサーもすればいいと思うが、彼には彼なりの考えがあるのだろう。それに、せっかく教育者としての欲望を満足させてくれそうなプロデューサーという仕事をさせてくれるというのだから、断る理由もない。

「うふふふふふふふ。あの漫画のまるで4巻のような展開ね。いいわぁ、少し強引な高木さんに押し込まれる先生、うふふ」

先程から不気味な声を発していた音無さんだが、彼女が口にした漫画の名前に聞き覚えがあるような気がした。あれは確か秋月さんが読んでいた漫画だったか。

「音無さん、その漫画の主人公は確か妄想癖のある少女ではありませんか」

主人公の名前を出した。

「えっ、先生知っているんですかっ」

「知っているといいますか、今朝一巻を読んだのですよ」

確か少女がことあるごとに学校の先輩の妄想をするものだったか。少々性描写が過ぎるところもあるように感じたが、少女漫画というものはそういうものなのだろう。

「一巻、それならまだ全然。あの作者が腐るのは三巻からだもの。いやだ、先生が本当にそういう人なのかと思っちゃったわ」

相変わらず音無さんはブツブツ呟いているので、高木が横から口を出した。

「君が少女漫画を読むだなんて、どういう心境の変化かね」
全くだ。今まで少女漫画になど手を触れたことすらなかった。

「なに、今朝の新幹線で隣の女の子が読んでいたのでね。そういえば、プロデューサーたるもの少女漫画は読んだ方がいいのかね

ふと疑問に思ったことを尋ねた。

「アイドルの気持ちを理解するために、ということかね。さあ、少なくとも私は手を出したことはないね。ティーン雑誌や女性誌は読んでおいて損はないだろうが。もし読みたいなら小鳥君に頼めばいくらでも貸してくれるさ」

「ピヨピヨーーーっ、いやいやいやいや、ダメですよ。男の人に見せるようなものじゃありませんからっ」

何故か焦ったように言う音無さんであった。

これは名作の予感!
全力で支援ピヨ!!

渡された書類をみると、私の出演する討論番組は日曜夜の番組で、評論家や専門家、国会議員などを招いてディベート形式で政治や経済、外交問題などについて意見を述べ合うもののようだ。私が毎週ラジオで聞いている討論番組である。また、一度出演したこともあった。

「この番組には一度近代外交史の専門家として出たよ。なかなか刺激のある体験だったけれど、この番組はひどく堅い討論番組だぞ。大学教授として出演するのは大いに光栄だが、芸能界にコネなどつくれまい。政財界にはつくれそうだが」

「ああ、こんな番組にアイドルは出ないしね。この番組は足がかりに過ぎないのだよ。この番組から各テレビ局に評論家、解説者として呼ばれるようにして行きたい。そして最終的にはバラエティというわけだ。それに、政治家や評論家のコネほど頼もしいものはないじゃあないか。そもそも君は今でも至るところにコネをもっているしねぇ。もっていないのは芸能界くらいだろう」

確かにあの大学の教授をしていると、政治家や起業家、官僚などの知り合いも多い。

「なるほど、この番組のレギュラー枠を取ったのは君の芸能界におけるコネということかね」

「まさか。こういう番組に私のコネなど関係ないさ。君をレギュラーにすることはテレビ局が決めたことだよ。君はこの番組やこの局の他の番組にも専門家として出演したことがあるらしいが、そのときの評価が良かったのだ。君は知識の幅が広いし、レギュラーとしては使いやすかったのだろう。私はこの前一緒に飲んだこの番組のディレクターから一足先に話を聞いただけさ。近いうちに君に正式な出演依頼が来るはずだ」

なるほど、大学教授である私に対する仕事らしい。高木は足がかりにせよと言ったが、果たしてこの番組でどんなことをすればいいのやら。
もう一度書類に目を通すと週に一度、金曜夜の収録のようだ。私も今一度勉強し直さなければならない。

「それから、音楽やダンスなどは京都でのレッスンに参加することになるようだが」

基本的には地元の歌手や俳優、アイドル、芸人の卵のレッスンに参加するようだが、50代の素人など邪魔にもなるだろうし悪い気がする。

「ああ、それについては、社長も快諾してくれてね。
君自身が技術を身につけると共に、芸能人の下積みがどんなものか知って欲しい。
東京に来た時は、プロのレッスンを見学してもらおう。プロの芸能人と知り合ういい機会だし、実際にプロデューサーやマネージャーの仕事を学べるだろう」

高木はそう言って、冷め切ったコーヒーを一気に口にいれると、

「そういえば、京都の支部で君の大学の学生がアルバイトとして働いているみたいだよ。杜若薫君というらしいが知っているかい」

「いや、知らないな。少なくとも私の講座にはいなかったよ」

大学には無数の学生がいる。私は近代外交史が専門だから、理科型の学生の講座は持っていないし、文科型の学生も、関わりのある者は限られている。1年ごとに入れ替わるのだ。講座を聴講している学生を覚えるので精一杯である。

高木は私の答えを聞くと立ち上がり、

「それでは会議はここまでにしよう。わざわざ東京まで来たんだ。プロのレッスンを見学していってくれ。小鳥君は仕事に戻りなさい、夜にだるい家で一杯飲もう」

その場はこれで散会した。音無さんはやっとこちらの世界に戻って来たらしく、「ピヨッ」と一声鳴くと、冷めたコーヒーを無理矢理飲み干し、

「それじゃあ、先に行って待っていますね。先生も頑張ってください」

と言って会議室を後にした。

その後、私は高木に連れられてプロダクションの社長に挨拶をし、激励の言葉を貰った。その後はレッスン場に移動してレッスンを見学したり、高木がプロデュースしている女優のテレビ収録などを見学させてもらった。

夜には高木に連れられて「だるい家」という寂れた居酒屋に入った。中では音無さんが既に出来上がっており、店員と思われる若い女性に絡んでいた。もう1時間も飲んでいるらしく、結局高木は早々に音無さんをタクシーに詰め込んで、送っていってしまった。呆気に取られて一人で寂しく飲んでいると、先ほど絡まれていた女性の店員が話しかけてきた。小川さんというらしく、普段は昼間だけのシフトなのだが、今日は仕事を終えて帰ろうとしたときに音無さんがやって来て絡まれたということで、今もなし崩し的に店員の仕事をしている

それから、よく来るという高木と音無さんの話をしてくれた。一人酒の肴には些か面白すぎたが、音無さんの新たな一面を見れたように思う。高木にしろ、音無さんにしろ、アイドルというのはああした破天荒なところがあるのかもしれない。そう思うとこれから先のプロデュース業に一抹の不安を抱いた。
高木は音無さんを送り届けて帰って来たが、あいにく新幹線の発車時刻も迫っていたので、酒はまたの機会に、ということになった。

帰りの新幹線に乗り、ふと携帯電話を開くと、見慣れないアドレスからメールが届いていた。

「今日はありがとうございました。新幹線の中でのお話、面白かったです。無事に家まで帰ってきました。先生のような人がいる大学に行けたらいいなと思います。失礼します。
秋月律子」

彼女が大学生になるころ、私はもう教授ではないのだと思うと、少し寂しくなった。もう夜も遅いのでメールに返信はせず、明日の講義の内容を練りながら、東京を発った。

だるい家とか久しぶりに見たわww
アケマス懐かしスww

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