取り留めもない短編おり小説 (9)

 いつもと違う枕の硬さで目が覚めた。なかなか、気持ちのいい目覚めではない。

「んー……」

 蕎麦殻に頭を付けて眠るのは、未だにどうも慣れない。俺はすぐに起き上がって、スタンドライトを置く棚と一体化した目覚ましを止めに掛かった。
 朝はあまり好きではないが、二度寝はもっと嫌いだ。色々と人を焦らせる朝の日差しは、強制力を孕んでいるようで気に入らないが、無理に逆らうのも性に合わない。
朝日差し込む東向きのカーテンを開け終わると、金属製のドアから無機質なノック音が響いた。

「おはようございます。先輩、昨日は良く眠れましたか?」

 ソフトな出張風俗でも頼んだか、と記憶を漁ったが、自分より頭一つ低いその顔を見下ろすと、確かに旅行に同伴している後輩であった。寝ぼけは怖い。

「おはよう、後輩。そこそこかな」

「あまり聞きませんね、年下に対するそういう呼び名は」

「倒置法か」

 眼の前に立つ後輩は、俺の振ったレトリックには触れずに、英語圏での兄弟の区別の論議を始める。そういう文化の違いは、赤毛のアンの講義の時まで延期してくれ。
 彼女もさほど面白くなかったらしく、すぐに講釈を打ち切った。

「あ。まだ、問題あるようなら……着替え、手伝いましょうか」

 やめてくれ。俺だって少しは慣れた。


SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1364552996

 ロビーに降りると、茶色のポシェットを肩から提げた例の後輩が、俯いたように立ち尽くしていた。

「今日の君は、眩しいね」

 彼女は、俺の言葉でやっと隣の存在に気付いたように顔を上げる。その微笑みは、何かを秘めたような、薄氷が溶けかかったような、そんな危うさを思わせる。

「さっきと、同じじゃないですか」

「あぁ。随分と早起きなんだな」

 寝起きは特に気にしなかったが、今日はツインテールか。白くて、妹のようで、物理的にも眩しい。とても。

「昨日は制服でしたからね。いつまでもあんなネイビーブルーに包まれていては、気が滅入ります」

 それもそうだ。来週から衣替えというこのシーズンは、一番暑さが堪える。

「そろそろ、出ましょうか。朝食は、徒歩五分の牛丼屋さんです」

「関西に来て、牛丼ってのも乙でいいな」

「えぇ。分かってくれて何よりです」

 部費じゃ、ホテルで朝食代を払うには足りない。それがよく分かっている、二人の間の言葉遊びみたいなものだった。

「先輩っ」

「ん、どうした」

「髪も服も、よく似合ってますよ」

 そう言って微笑う彼女が、玄関の自動ドアに差し掛かろうとした、ちょうどその時。どうやら俺は、地雷を踏んだらしい。

「君は、一人だとあまり笑わないんだね」

 後輩から、微笑みが消えた。

「今日は、並盛でよかったのかい」

「……はい。お小遣いも少ないので」

 店を出た俺達は、特に目的もなく歩いていた。この時間だと、観光客向けの商店街も一斉に息を潜めてシャッター街の様相を醸しだしており、会話もないせいで、本当に静かだった。

「早く出過ぎちゃったかもね。今日はどこに行こうか」

「……」

「特にないなら、僕が決めてもいいかな」

「先輩は————」

 彼女は立ち止まり、一歩遅れて俺も足を止める。こちらを向きながら頑なに足元を見つめる後輩と、何も言わずにその震える頭を見下ろす先輩。他に誰もいない、店も開いていない。今はその状況に、安心していた。

「先輩は今、楽しいですか」

「誰かと旅行するってのは、わくわくする」

「私は今、なんだかぐちゃぐちゃです」

「……あぁ。それは僕も一緒で————」

「違います!」

 顔を上げた彼女の足元では、数滴の雫が石畳を黒く染めていた。

「ずっと、先輩のほうが辛いのに! 私が涙を流して、先輩はそうやって! 優しく、何も言わないのに、私は!」

「……うん」

「もう、ぐちゃぐちゃです……」

 感情が爆発する彼女の前で、俺は。俺は何もできず、ただ。ただそこに、佇んでいた。この光景は、二度目だ。
俺は、この子を慰めていいのだろうか。抱きしめて、頭を撫でる————そんな権利が、あるのだろうか。

「先輩が元に戻るまで、絶対、弱いところは見せないようにしようと思ったのに」

「ごめんな」

 幼い頃戯れで友人を傷つけた時の後悔のような感覚に、胸が締め付けられる。

「ほら……ハンカチ、使うといい」

ぶっきらぼうに、一言で謝罪を済まそうとするような俺が示せる優しさは、これくらいしかなかった。

 がさがさとしたペンキ塗りのベンチは年季が入っていて、その感覚が逆に落ち着きをもたらしている。
そこに座るかの後輩は、今朝の微笑みの裏に隠れていた本当の彼女であり、いつにも増して、触れるとすぐに崩れそうな儚さを感じさせた。

「落ち着いたかな」

「……はい」

 缶入りのカフェオレを手渡すと、彼女はまた微笑んでこちらを見つめる。目尻に溜まる光は、もう乾きかけていた。

「ハンカチ、ありがとうございました」

「構わないよ、捨てても」

「では、また弱いところが見えそうになったら、使わせていただきます」

「そうか」

 噴水が立てる水音がよく響く。水着を着た少年少女が遊ぶ時間には、まだ早いらしい。しかし、しっかりとした目線で俺を見上げる彼女にも、横目で意味もなく噴水に目を向ける俺にも、平等に初夏の日差しが降り注いでいた。

「隣、座ってください」

 それから俺達は、他愛もない話に花を咲かせた。隣のクラスがどうだとか、帰ってからの部活の予定とか、本当に取り留めもない話題だった。そんな中で、目に見えて明るさを取り戻していく彼女を見るのは、とても嬉しかった。
 程なくして、俺はこの公園を離れることを提案する。
 一面真っ青な大空。きらきらと煌めく流水。快諾する彼女の笑顔が先程よりも輝いて見えるのは、夏の訪れを待つ高翌揚感によるものだけではなかった。

 辺りは暗くなり始めていた。二人の間には、荒い息遣いが流れる。

「疲れないかい」

「少し、疲れますね。先輩は大丈夫ですか?」

「まぁ……僕は大丈夫かな」

「羨ましいですね。体力はそのままのようで」

 木製の道標に刻まれた白文字は、山頂まで一キロメートルもないことを示していた。

「もう少しだから、頑張ろうな」

「は……はい」

 よく整備された登山道は登りやすかったが、いかんせん登り始めが遅かったので、ペースを上げて登りざるを得なかった。彼女には無理をさせることになるが、ゆっくりしていては間に合わない。

「ほら、着くよ」

 日が沈む。昼と夜の境界が曖昧になる頃だった。俺達は、山頂に到着した。

「わぁ……綺麗」

 港湾都市が日没を迎えようとしている。
大空一面に広がった青い絵の具は、夕日と夜闇のグラデーションに替えられていた。夜空と夕焼けの境界面は、美術の教本でのベン図のような綺麗なマゼンタを見せるわけでもなく、だがそれより自然な色をしている。
眼下には、人工的でもなお暖かさを見せる黄色い光が広がっており、大空の営みに反駁するような人間の強さを思わせる。

「ここに、来たかったんですか」

「そうだよ」

 地球が毎日与えてくれる、マジックアワー。薄明、トワイライト————この数十分は、いつでも見れるものじゃない。

「これを、私に?」

「そう。僕も、見たかったし」

 二人とも、眼前の風景を見つめたまま会話する。表情は分からないけれど、彼女の声は震えていた。

「泣いたら、見えないよ」

「分かっ、てますよ」

「落ち着いたら、宿に戻ろう」

 返事はなかった。代わりに彼女は、俺の前に立ち、そのまま俺に体重を預ける。

「……当たってるぞ」

「いいです、別に」

「そうか」

 軽くて小さな後輩に応えるように、俺は静かに腕を回してやる。

「私、決めたんです」

 相槌を打つ代わりに、腕の力を少し強めた。今は、それだけで十分だった。

「先輩が女性のままでも。もう、戻れなくなっても! 私は————」

 薄明の趣は、もはや辺りから消え去っている。大自然の芸術は、そろそろ終演のようだった。

 宿に戻ると同時に、いやに自信満々な後輩が俺の部屋に入ってきた。

「ちょっといいですか、先輩」

 ベットに座る俺とは対照に、彼女は仁王立ちのまま動かない。

「私、先輩のその大きくなった胸が嫌でした」

 Cカップに指を差す。

「可愛くなった顔が嫌でした」

 鼻先に指を突きつける。

「小さくなっちゃった背も、嫌でした!」

 今度は、拳を握りしめて。

「全部、全部……受け入れられませんでした」

 俺だって、受け入れられない。二人しか知らない、この事実を。
 ある朝、俺は女性の身体になっていました、なんて、今時匿名掲示板にも立たないテンプレネタ、誰が起こると思おうか。
 誰も信じてはくれなかった。『何言ってんだ。お前は昔から、正真正銘の女だったじゃないか』と。
 気が付けば、記憶の波から、俺達二人だけが取り残されていた。

「もうこの人は、先輩じゃないんだって。そう思おうともした」

「……あぁ」

「でも! できなかった……」

 気が付くと、二人で涙を流していた。この身体になってから、随分と涙もろくなった。

「私……先輩が好きです! 貴男が女性のままでも! 貴女が男性に戻っても! ずっと、ずっと……!」

「おはようございます。先輩、明日からは一部屋でいいですよね?」

 私の胸の中で微笑む後輩に、逆らう理由はなかった。

おしまい

さよなら

http://i.imgur.com/VCQX6Nd.jpg

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom