ゲームは一日一時間 (132)


僕は心からゲームが好きだと断言できる。

ひたすらやりこむし時間も宿題も何もかも忘れてプレイする。
電池が切れれば買いに走ったし、今では充電式になっている。
となれば充電しながらも僕は寝そべりゲームをするのである。

さて、そんな人ならきっと一度は耳にする言葉があると思うのだ。

それが「ゲームは一日一時間」という耳が痛くなる言葉である。
確かに目も悪くなるし勉強する時間とやらも失くなってしまう。
良くないことだとわかっていても折り合いはなかなかつかない。

そこで僕が出した結論が一つある。子供の小賢しい反逆だと思う。

母に伝えれば「そんな事より勉強しなさい」と勉強を勧められていた。
父に伝えれば「お前は天才だ。定時帰宅も夢じゃない」と褒められた。

あろうことか家庭内で賛否両論が巻き起こったのである。

そんな他愛ない家庭内分裂はさておき、僕は今のところ困っている。
それは何故か。僕は神など信じていないが信じざるを得ないからだ。
「神は時に残酷だ」と言うが本当に文字通り時に対して残酷だった。

「一日を一時間にするゲーム」をはじめたからである。



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あなたは 幸せ ですか?


全てのはじまりは、僕の携帯に届いた、この一通のメールだった。

前述の「一日を一時間にするゲーム」のはじまりより、少し前の話だ。
その時の僕は、一年もゲームを絶ち、進学校の合格を勝ち取っていた。
受験勉強の反動とも言えるだろうけれど、僕は堕落した生活を送った。

それゆえに、僕は入学後、はじめてのテストで赤点を取ってしまった。

「このまま、大学に入るまではゲームをやめなさい」と言われた。
両親が僕の将来を憂いているのは理解していたが、少しこたえた。
「いい成績をとったら、ゲームする事を認めてほしい」と言った。

両親はそれを承諾し、僕は日々勉強に勤しむことになった。

しかし、入学後に行われた、はじめてのテストが四月末。
次に行われた前期中間テストが行われたのは、六月上旬。
一ヶ月程度を勉強に費やして、覆せる高校ではなかった。

「確かに、前より順位は上がった。でも、これでようやく中の下でしょ」

進学校では、誰もが常に「勉強はしていない」という体を装っている。
しかし、実態は「この程度では、勉強しているとは言えない」である。
入学早々から大学進学を目標とする彼らには、太刀打ちできなかった。

「この成績じゃあ、せいぜい、ゲームは一日一時間かしら」


その言葉は、僕にとって、言い表せない感情を生む要因となっていた。

確かに堕落していたのは僕であり、両親の言うことは正しかった。
しかし、僕はこの一ヶ月の間は、寝る間も惜しんで勉強していた。
女々しいが「頑張ったから」という甘い言葉を、僕は望んでいた。

結果が全てなのか。僕は虚脱感を覚え、膝から崩れ落ちた。

このとき、ゲームよりも「努力が認められなかった」ことが辛かった。
結果が全て。両親は有名大学卒のエリート同士で結婚していたらしい。
だからこそ、教育という言葉に対し、人一倍以上に関心を寄せていた。

「きちんと勉強する。だから」

「だから」の言葉の次には、僕の口から何も飛び出しはしなかった。
両親は「努力を認めてほしい」というニュアンスを、別に解釈した。
僕の言葉を「ゲームをさせてほしい」と、そう受け取ったのだった。

「一晩くらい、外で頭を冷やしてきたら。ゲーム脳じゃないの」

その言葉に、僕は大人気もなく反論してしまい、口論になってしまった。
最終的には水掛け論になってしまい、僕は財布と携帯を持ち、家を出た。

深夜に、近所の公園のブランコで揺られていたら、僕に一通のメールが届いた。


あなたは 幸せ ですか?

 ○はい ○いいえ


送信先のメールアドレスは文字化けしていて、とても判別できない。

冷静であったなら「スパムメールか」と、すぐに削除していただろう。
しかし、僕は冷静ではなかった。「冷静を装っていただけ」であった。
よく見るとチェック・ボックスまで付属していた。中々に凝っている。

幸せ。

幸せとは何だろうか。単純であり、最も複雑な問いだと僕は思った。
他人が客観的に僕をみたならば、僕は、幸せであると言えるだろう。
進学校に合格し、両親のどちらもエリート中のエリートなのだから。

では、主観的にみたならば、どうだろう。

いくら僕が原因とはいえ、あのような言い方をしなくてもいいのではないか。
そこまで考えたところで、僕は自己嫌悪をしていた。何て浅ましいのだろう。
両親は僕の事を思って言ってくれたはずなのだ。多少、言い方が悪くともだ。

「僕が生まれてきたのは、両親にとって、不幸だったのかもな」

もっと優秀であり、素直な子供であれたなら、きっと両親は幸せだろうに。
そう考えれば、僕の存在自体が不幸の原因なのかもしれない。そう思った。
つまりは「僕の現状が不幸」ではなく「僕の存在そのものが不幸」なのだ。

そんな事を考えていたとき、携帯電話の着信音で我に返った。


そこには、僕の幼なじみの名前が表示されていた。

「幼なじみ」と彼女を形容するには、あまりふさわしくないかもしれない。
何故なら、彼女とは小学校低学年のときに、彼女の引越しで疎遠になった。
それでも僕が「幼なじみ」と呼ぶのは、恐らく。きっと、そうなのだろう。

その唯一の繋がりがなくなれば、僕は彼女との接点がなくなるから、だろう。

どこか、彼女の存在に固執している自分がいることに気付いた。
しばらく静かに考えよう、と思っても鳴り止む気配はなかった。
何かしら用事でもあるのだろうか。僕は、通話ボタンを押した。

「もしもし。久しぶり。元気にしてた?わたしは元気よ。とっても」

「そう。それは、よかった。僕は、あまり元気じゃないよ。じゃあ」

「どうせ、喧嘩でもしたんじゃないの。悪いのは、主には、あなた」

何というか、今までずっと隣にいたのではないか、と思うほどだった。
そして、歯に衣着せぬその言い方も、変わってはいないようであった。
そこで僕は気付いた。彼女の方から聞こえる音は、いったい何なのか。

「—————変わったとしても」

「—————きになる。絶対よ」

「—————たとき、聞かせて」


「ああ。これ。演劇用のビデオ。音声字幕付き。おかげで吐きそうなのよ」

「窓を開けるから待って」という彼女の言葉の後には、溜息がこぼれていた。
疲れているのだろうか。そういえば、彼女は、何か用があったのではないか?

「ねえ。久しぶりの連絡には、何かしら、用事があったんじゃないのかな」

「ええ。そう。でも、用事は済んだ。わたしのこと、覚えてるかな、って」

「忘れるわけないよ。どこまで行っても、君とは、幼なじみなんだからさ」

僕がそう言うと、彼女は「どうも」と少し不機嫌そうな声をあげた。
「あなたは、わたしに用事はないの?」そう問われて、少し悩んだ。
用事か。用事というほどではないが、聞いてみたいことはあるのだ。

「ええと、僕のことで申し訳ないんだけど。僕って、幸せだと思うかな」

「幸せよ。少なくとも、悲劇のヒロインを気取れてる限りは。違った?」

「当たりかな。そうだよ。僕は、幸せなんだよ。そう言ってほしかった」

そんなこと言わなくても、わたしが幸せにしてあげるから。必ず。
それにしても、どうしてそんなことを聞くの?そう彼女は言った。

「僕に、奇妙なメールが届いたんだ」


「それって、幸せを運ぶ不幸のメールじゃない。わたしのところにも来た」

一瞬でも、僕は耳を疑った。何なのだろう、その矛盾に満ちたネーミングは。
どうにも、彼女は何かしらの詳細を知っていたようなので、僕は尋ねていた。

「これって、スパムメールの類なのかな。それにしても、有名なの、それ」

「有名よ。わたしのところだと、全員知ってる。ああ、だから、あなたは」

どうやら、僕が幸か不幸か尋ねた理由を、彼女は察してしまったらしい。
「それはいいけどさ」と僕は続け、メールの詳細に関する言及を求めた。

「あくまで噂だから、半信半疑で聞いて。これは、不幸を感じた人に届く」

「そして『はい』と『いいえ』の選択で、どちらか一方を選んで返信する」

「確か『はい』なら『お幸せに』と届く。けれど『いいえ』は、違うのよ」

彼女の言葉の端々から、焦燥感とも取れるような抑揚を感じ取っていた。
何なんだ。僕は、このメールを受け取ったことによって、どうなるのか。
「絶対に選ばないで」と彼女は僕に何度も前置きをして、静かに言った。

「『いいえ』を選んで返信すると『幸せになりましょう』とメールが来る」

「わたしの学校で『いいえ』を選んだ人がいたの。今はもう、いないけど」

「自殺したのよ」


「『いいえを選ぶ。どうせ、噂なんだからな』そう言って、彼は選んだ」

「その日から、彼は一変していた。どこに行っても、彼はおかしかった」

「彼の一挙一動は、わたしたちのそれとは、なんだか、違う気さえした」

だから、絶対に『いいえ』だけは選ばないで。真剣な声音で彼女は言った。
あなたには、そうなってほしくはないの。あなたは、わたしが幸せにする。
そうも続けていた。僕は、彼女のあまりある気迫に押されていると感じた。

「大丈夫だよ。僕は、幸せなんだから。そんなことはしない。心配ないよ」

「そう。それなら、いいんだけど。絶対よ。辛いのだったら、相談してよ」

もう、それができるようになったのだから。彼女は、静かにそう呟いた。
何だか申し訳なくなってしまい、謝罪しようとした時、雑音が聞こえた。
携帯の充電がないせいか、音質が悪くなってきている気がする。まずい。

「ありがとう。もう、充電もないみたいだ。家に帰って、謝ってみるよ」

「そうよ。そうしたほうがいい。わたし、あなたのこと、信じてるから」

「ああ。そうそう、言おうか迷っていたのだけど、言う。わたし、明日」

通話は切れた。かけ直そうにも、僕には充電できる手立てがなかった。
帰り道の自販機でアイスコーヒーを購入し、それを土産に家へ戻った。

「こんな時間まで、何やってたの」


僕が帰り道で抱いていた淡い期待は、母の厳しい声によって砕かれた。

帰ってくるなり、僕の言葉を待つ事もなく、激しく批難されていた。
玄関で立ち尽くしている僕に同情したのか、父が母を止めに入った。
「コーヒー」と僕は父に対し、かろうじて声を絞り、部屋に戻った。

どうして。どうして、こんなことになってしまったんだろう。

帰ってくれば、母が僕を「心配していたのよ」と言ってくれるはずだった。
僕は「ごめんなさい。さっきは、酷い事を言った」と謝罪するはずだった。
ぎこちないながらも、日々の中で、それは解消されていくはずだったのに。

僕は着替えもせずに身体をベッドに投げ出し、携帯の充電をはじめた。

充電開始と共に、僕は噂の「幸せを運ぶ不幸のメール」とやらを見ていた。
「あなたは 幸せ ですか?」その無機質な十文字は僕に選択を迫っていた。
僕は。僕は、本当に幸せなのか?先ほどの自省はどこかへ消えてしまった。


あなたは 幸せ ですか?

 ○はい ○いいえ


そう。このメールは、幸せを運ぶ。そして、不幸を感じた人のもとへ届く。
つまり、僕は、不幸なのだ。それならば、僕を幸せにしてほしい。だから。


あなたは 幸せ ですか?

 ○はい ●いいえ


「いいえ」を選択し、最後に小さく溜息をつき、僕は送信ボタンを押した。


すると、すぐにメールの着信音が鳴り響いた。

僕は、その音を聞いて、すぐに表情が青ざめていくのを感じていた。
まさか。僕は自殺する事になるというのか?いたずらじゃないのか。
彼女の真剣な声を思い出して、僕は震えるように携帯を覗き込んだ。

件名 : 幸せになりましょう

鳥肌が立つのを感じた。幸い、本文は表示されない設定にしていた。
良かった。僕は、恐怖を感じながらでも、指をボタンにかけていた。
部屋の外からは、父と母の話し声しか聞こえない。それに安堵した。

誰かの声が、これほど救いになると思ったのは、いつ以来だろう。

「自殺した」「おかしくなった」と、彼女の言葉を反芻していた。
僕はまだ、自殺するような理由も、おかしくなる理由だってない。
なら、どうして自殺した?その自殺は、偶然ではないのだろうか。

まだ、指はボタンにかかったままだった。

僕は「偶然」という、何の根拠もない言葉を盾にしていたと思う。
指をボタンにかけて、押そうと思ったり、やめよう、と思ったり。
ベッドの中で思案する時間がいくらか続いたとき、事は起こった。

「ねえ。話があるから、入るわよ。さっきのこと…いない?」

扉がノックされ、一瞬で緊張状態になった僕の手に、力が入った。
僕は吸い寄せられるように、その本文だけを目に焼き付けていた。
僕の思考が白く染まってゆくのが判った。本文には、ただ、一言。

「あなたの『一生のお願い』は何ですか?」


気がついて携帯で時刻を確認したら、二十四時を迎えようとしていた。

身体が痛いと上体を起こし、ゆっくりと辺りを見回してみた。
どこだ、ここは。僕は、先ほどまで、自室にいたはずなのに。
「ええと」と、背後からの声に振り返ると、男が座っていた。

「こんにちは。あ。いいえ。こんばんはですか。どうも。こんばんは」

「こんばんは。あの。ここは、どこですか。そして、どなたですか?」

彼は、どこか頼りなさそうな、スーツ姿の青年くらいの男だった。
「これは、失礼しました」と慌てて謝罪の句を述べ、彼は言った。

「俺は。いえ。わたくしは、ただの記録係です。どうぞよろしく」

「この部屋に来たのも、何かの運命ですよ。たくさんありますし」

「わたくしでよかった、と思っていただければ、幸いなのですが」

記録係。何を記録するというのだろうか。僕の睡眠の様子をか?
とてもそうとは思えない。考えを汲んだかのように彼は続けた。

「ええと。この部屋は『一生のお願い』を叶える部屋なんですよ」

部屋と呼べるほど小奇麗なところではない。廃墟と呼ぶべきだろう。
よく見てみると、この部屋には窓も、そしてドアすらも存在しない。
深呼吸を繰り返しながら脳に酸素を送り、状況の整理を求めていた。

「お客様は、メールに対し『いいえ』とお答えなさったはずです」

「メール。ああ。幸せですか、という内容のメールでしょうか?」

「その通りです。ですから、幸せにしましょう、という部屋です」


「では、仮にその話を信じるとしましょう。願いを叶えてくれるのですか」

「はい。とは申しましても、叶えるのは、わたくしではないのですけれど」

「あなたではないのですか?この部屋には、あなたしか居ないようですが」

「ああ。それは、こちらにパソコンがありますので。送信して、叶えます」

「送信先は、神様です。神様も多忙ですから。自動で叶えてくれるのです」

「神様は報告書だけお読みになって、人の幸せを願い続けているのですよ」

「ちなみに、願いは願ったその日を起点に叶えてくれますので、ご安心を」

「世界は一つですから。二つ作れるなら、その日以外も起点にできますが」

ずいぶんと俗な神様だ。電子機器まで使って、願いを叶えてくれるとは。
「コーヒーいかがですか」と彼が差し出してくれたそれを、僕は飲んだ。

「ええと、状況がいまいち掴めないので、願いと言われても。思いつきません」

「この部屋の目的は、何ですか。ただ願いを叶えるだけでは、フェアじゃない」

「目的。すごく現実的なのですが、単純に『信仰』と言ったところになります」

彼の話を要約すると、過去と比較して信仰とやらが薄れてきているらしい。
故に、神様がこうして人を集め、奇跡を与え、神を信仰させているとの事。
神様も楽な仕事ではないらしい。どうやら、地道な営業の上にあるようだ。

「そして。わたくし共のメリットとしては、一生のお願いをいただける事」


「一生ですから、一生を賭けるに値する神様へのお願いです。つまり信仰」

「神様を信じるからこそ、願うのです。これは、神様にとって有益なので」

「というわけで、内容につきましては、双方とも非常にフェアなのですよ」

残念な事に、彼は手元のマニュアルをちらちらと見ながら話をしていた。
「ああ。でも、本当なんです。信じてください」彼はすごく慌てていた。
非現実の中ながら、内容は確かに現実味があり、とてもフェアと言える。

「お話は判りました。『この部屋から出してほしい』と願えばどうですか」

「申し訳ありません。それはよく尋ねられますが、それはできないのです」

「と言うのも、お客様の一生分のお願いですから。対価に見合わないので」

なるほど。僕は納得した。一生を賭けて「ここを出たい」と願うのは、嫌だ。
願い。願いか。僕は記憶を辿ってみて、一つ、とある願いを思い出していた。

「一つあるかもしれません。お願いが」

「本当ですか。ありがとうございます」

「やった」と心から喜んでいるようである彼を隣に、具体的に言葉にしてみた。
それを告げると、彼は一瞬で顔面蒼白になった。何ですって。彼は驚いていた。
彼はパソコンと顔を合わせ、言った。もう一度、願いを口頭にてお願いします。

「僕の『一生のお願い』は—————」


「…メールしてみます。少々、お待ちください。ああ、それと、もう一つが」

「観測者を選択いただけます。誰になさいますか。彼とか、オススメですよ」

普段の僕の耳に入らないような言葉を、僕はすぐに反復していた。
「ご説明がまだでした」と再びマニュアルを手繰り、彼は言った。

「願いを叶えた際、お客様が『幸せ』か『不幸せ』のどちらか、判断する者です」

「例えば、とある願いを叶えた。それによって、最終的にお客様がどうなったか」

「不幸せならば、その願いは、取り消し。また、新たに願いをお選び頂けますよ」

「幸せでしたら、その願いは確定。そのまま、その現実の中でお過ごし頂けます」

「厳正たる存在でなければなりませんので、信用に足る人物を選定しております」

彼は業務用らしきデスクから「こちらです」と、僕にリストを差し出して言った。
言葉は悪いのだが、風俗のちらしのようだった。顔が見えなくなっていたからだ。
「重ね重ねすみません」と前置きしてから、この写真集の理由を彼に尋ねていた。

「観測者ですので、判ってしまっては、お客様も過ごしにくいかとの配慮です」

「しかし、ルールはルールですので、お客様には例外なく、お伝えしています」

「そのおまけ、と言ったところでしょうか。前は、特に選べなかったのですが」

「選択いただいた観測者は、此方の世界から、お客様のところへ向かわれます」


疑心暗鬼になるかとも思うのだが、神様のフェア精神は中々なものだった。

選べるというので、僕は男性から女性まで、様々な観測者に目を通していった。
と、その中でも、一際に大きく装飾された女性らしき観測者が目を惹いていた。

「この人は、どうなんでしょうか。オススメって書かれてありますけど」

「ああ。思い出せばこの人のせいでしょう。その装飾は、過去の物です」

「選べなかった観測者が、選べるようになった理由。彼女は、失敗した」

「あるお客様が自らを『不幸』と認識せずに『幸せ』と思われたのです」

「現実は確定され、あるとき『不幸』とお気付きになられ、お客様は…」

「その観測者も、何か理由があったようなのです。しかし、失敗は失敗」

「神様に思うところはありますが、失敗だけはいただけません。けれど」

それまでは、わたくし共の中でも、尊敬に値する人物だったのですが。
しかし、それ以前に、わたくしは彼女が苦手です。人を騙すのですよ。
さらには、手段を選ばなくなった。だから、オススメはいたしません。

「ええと。僕は、この人にします。ごめんなさい。気になってしまって」

「かしこまりました。お客様の選択に、わたくし共は水を差せませんよ」

では、こちらで登録させていただきます。彼はそう言い、椅子に座った。
「返信がきました」と言って、ディスプレイをこちらの方へ向けてきた。

「は?」


「平均寿命は何歳ですか。これは、どういう意味なのでしょうか」

「ええと。恐らく、猶予期間のようなものではないでしょうか?」

「多分、八十歳くらいじゃないかな。だいたい合ってるはずです」

猶予期間。何のことだろうか。ぴんとこないが、恐らく八十歳くらいだ。
男女の平均を同一に考えても、せいぜい、八十数歳くらいだとも告げた。

「はい、かしこまりました。では、そのように返信しておきます」

返信をして数分。返事は中々来ないようだった。ロスタイムらしい。
願いを叶えるときも、取り消すときも、少々くらいあるとのことだ。
「しかし、事象は確定しておりますので安心して下さい」と言った。

「心が折れそうです」と、彼は苦々しい表情をしていた。

表情でそれを問うと、再びディスプレイを向けてきた。これはひどいな。
「死ね」「スパムかよ」と言った内容だった。確かに、僕もそう思った。

「こういう仕事って、辛くないですか。幸せとか、不幸せだとか」

「たまに、そう思います。わたくしも、まだ不慣れなものでして」

「でも、お客様を幸せにできるのです。最高の仕事だと思います」

彼の爽やかな笑みに煽られ、僕は今までの出来事を回想していた。
両親は言葉は、別に、僕でストレス発散することが目的ではない。
そう考えるようになった僕は、やはり願いを取り消すことにした。

「ごめんなさい。やはり、先ほどの僕の願いは、取り消しで」

そう言った瞬間に、世界が割れるかのような激しい地鳴りが起こった。
「お客様」と、先に僕の身の安全をしてくれた彼も、また慌てていた。

「僕の願いを、取り消して欲しいのです!それに、どうしたんですか」

「取り消してほしいですって?ああ、間に合うことは、ないでしょう」

「恐らく、もうすぐメールが来るはずです。ああ、来ました。これを」


件名 : ゲームは一日一時間

本文 : 一日を一時間にするゲーム

願いは取り消せないというのか。僕の願いは、聞き届けられたのか。
一日を一時間にするゲーム。世界のシステムすら、書き換えるのか?
人間が構築してきた定義そのものまでを、たった一つの僕の願いで?

「お願いします。取り消してください。こんなこと、あってはいけない」

「いいえ。もう、間に合いません。神様は、もう、はじめたのですから」

「お客様の想像された通りに、この世界は再び創造されてしまうのです」

青ざめていく僕を、彼もまた、蒼白になりながらも謝罪を続けていた。
「これは、もしかすると、神様の新たな試みなのかもしれません」と。
「だから『ゲーム』と称したのかもしれません」と、彼は続けていた。

「これは、覆せないのですか。僕は、一時間の世界で生きてゆくのですか」

「はい。ですが、方法は一つだけ、存在します。不幸になればよいのです」

「願いは、取り消されます。お客様は、この世界に戻ってこられるのです」

そうだ。その手があった。僕はこれから『不幸』になればいいのだ。
僕の意識が薄れていくのが判った。世界は今、創造されているのだ。
さらに大きくなる激しい地鳴りの後に、彼は声を絞り出し、言った。

「幸せになるために不幸になるには、探し出すしか、他にありません!か」


あなたは 幸せ です。


僕が次に目覚めたのは、ノックの音と共に、母親が部屋に入ってきたときだった。

後々聞いた話だが、僕はベッドの中で酷くうなされていたらしい。
それを母が見つけて、僕を揺り起こしたところ、飛び起きたのだ。

「酷い寝汗。大丈夫?熱でもあるのかしら。ああ、無いようだけど、気分どう?」

「あ。ええと、うん、大丈夫だよ。あの、さっきは、ごめんなさい。酷いことを」

「いいのよ。さっきは、お母さんも、酷いことを言っちゃったし。ごめんなさい」

こうして僕は母と仲直りした。しかし、何かしらの違和感が拭えなかった。
どうして、あそこまで激高していた母が、ここまで優しくなっているのか。

「ねえ。何か、良い事でもあった?ああ、その、変な意味じゃなくて」

「ないわよ。ああ。あるとするなら、仲直りできたこと、かしらねえ」

ご飯食べましょう。もうすぐ学校でしょ。その言葉で、僕は気付いた。
そういえば、僕は、あと数時間もすれば学校に行かなければならない。
ベッドにどれくらい包まっていたかは定かでないが、もう時間はない。

「早くご飯を食べちゃって。夜も遅いし、お皿も洗って寝ちゃいたいの」

「ああ。うん。すぐに食べるよ。すごく、美味しそうだ。いただきます」

僕は、幸せいっぱいの夜食を食べ終わり、ごちそうさまを告げた。
幸せ。幸せ?なんだっただろうか。僕は、何か、忘れていないか。
腕を組み、思案に耽っていたとき、母親の一言で全て思い出した。

「あなた、一週間もしたら、学校でしょう?早く、寝なさいよ」


一週間。

なぜ、一週間なんだ。今はゴールデンウィークでも、なんでもないはずだ。
なら、なぜ。僕は、記憶を辿っていく。今のこと。少し前のこと。少し前?

『お客様の想像された通りに、この世界は再び創造されてしまうのです』

そうだ。僕は、願った。「一日が一時間なら、ずっとゲームができるのに」と。
「それなら、僕は約束を破らずにいられる」と、そう、願ったはずだったのだ。
もし、本当にそうなっていたとするなら。一週間。一日は一時間。七時間後か?

「お母さん。変なことを聞くかもしれないけど、一日って、何秒だっけ」

「ちょっと。あなた、数学のテスト、大丈夫?三千六百秒に決まってる」

その言葉を聞いた瞬間には、心臓が破裂するかもしれないと、僕は思った。
激しい動悸。目眩もする。喉元に溜まった粘液の香りが、僕の鼻を擽った。

「なら、一日は、一時間。そうだ。そういうことで、いいんでしょう」

「あなた、本当に大丈夫?熱があるんじゃない?顔色だって、悪いし」

「いや。大丈夫。大丈夫だから。ごめんなさい。もう寝ることにする」

世界のシステムが変わった。僕は、家中の時計をみていた。
「0」「10」「20」「30」「40」「50」だけだ。
この世界は、本当に一日が一時間になった世界だと判った。

僕は、この世界でどうやって生きていけばいい?


一週間後。正確には七時間後に、僕は起こされた。

外はまだ暗いようだ。「今日は夜か」と呟く父に頭を抱えた。
となると、いずれ、朝も昼も来るということになるのだろう。
ということは、時間の概念だけが変化した、と考えるべきか?

「早くご飯食べないと、遅刻しちゃうわよ。一日終わる前に家を出て」

母の言葉から推測するに、恐らく午前七時頃なのだろう。
元の世界では、午前八時には学校へ向かっていたと思う。
窓から外を見ると、夜に、小学生が整列して歩いていた。

「ほら。鞄持って。期末試験に向けて、頑張って。応援してるわ」

「うん。行ってくるよ。それじゃあ、お母さんも、家事頑張って」

制服を見るに、やはり僕は同じ高校に通っているようだ。
再三だが、変化したのは時間の概念のみ、と結論付けた。
すぐに慣れるはずもなく、僕はどうやら遅刻寸前らしい。

教室に行くと、何だかいつもと雰囲気が違うようだとすぐに察した。

話を聞くと、どうやら転校生が来るという話なのだそうだ。
男子は「可愛い人だといいな」女子は「かっこいい人なら」
誰しも、何かしらの変化を求めているらしい。僕もそうだ。

「席につけ。今日は、転校生を紹介する」


僕は、あまりの驚きに声も上がらなかった。

何度も見た顔。幼少期より、ずっと大人びて、綺麗になったと思う。
男子は一斉に笑顔になり、女子は苦々しいような表情であると見た。
幼なじみであり、僕にとっては色々思うところのある、彼女だった。

「今日から、よろしくお願いします」

一礼する姿も、そして黒板に自らの名前を書く字も流麗なものだった。
小学校のときも、好きな子の名前をあげるとき、一番にあがっていた。
恐らくこの学校でも、もてるのだろうなあ。そう思った。間違いない。

「はい、落ち着けお前ら。いいか、この後体育館に向かえ。すぐ済む」

どういうわけか体育館へ招集らしく、僕たちはぞろぞろと向かった。
彼女の周りには、今のところは、女子がさながら円陣の如く集った。
女子同士の牽制であったり、探りあいがあるのかもしれないと思う。

体育館に到着すると、壇上には数名の見知らぬ大人が立っていた。

「ええと、本日より、皆さんを教えることとなった」と、校長は言った。
教員が増えたということか。進学校なのだから、教育には力が入るのか。
数名の男子が「あの先生、すげえ美人だよな」等の会話が聞こえていた。

確かに非常に美人だが、僕としては、彼女が転校してきた事に驚いた。


僕たちは、教師陣の紹介を終え、教室に戻っていた。

僕のクラスの担任である先生は、威厳を撒き散らしていた。
気持ちは分からなくもない。美人が二人も増えたのだから。

「こちらは、本日より副担任となられる、数学の先生です」

「あ、では、どうぞ。自己紹介だとか、仰りたいこととか」

副担任は「どうも」と気だるげな声をあげ、黒板の前に立った。
前の席の男子の言葉を借りれば、大人のお姉さんであるらしい。

「ああ。おはよう。今日からよろしくな。数学教える。以上」

ダークブラウンの綺麗な髪に手櫛の如く手を入れ、掻いている。
「どうぞ」と担任はふられ「あ、終わりですか」と困っている。
僕の焦点としては、見てくれより、その性格の大雑把さだった。

「じゃあ、授業は明日からだ。以上。それまで休みだ」

その声で休み時間となったが、時計を見る限り十分ほどだ。
先生はどちらも出て行ったので、僕は彼女の方を見ていた。
すると、こちらに気付いたのか、一瞬、僕に微笑していた。

「知らないふり」をしているわけでは、なかったか。


「はい、今日はこれで終了。解散だ」

先生はいつもより張り切っている。隣の副担は面倒そう。
何のために教職員になったのだろうか。よくわからない。
僕は、彼女の方を見て、また目があった。こちらに来た。

「ねえ。あなた、いつになったら、わたしに話しかけるの?」

「あ。ごめん。なんというか、ほら。忙しそう、だったから」

「というか、どこか静かなところにでも行きましょう。案内」

そう言われて、何故か先に出て行く彼女を追いかける形になった。
恐らく、教室では動揺が広がっているのではないだろうか。嫌だ。
学校の案内をしながら、僕は思い当たる静かな場所を探していた。

「あ。ここなら、誰もいないみたいだ。少しだけ借りようか」

そう言って、僕は適当な椅子を借り、彼女の対面に腰を下ろした。
彼女は「疲れた」と嘆きながら、机に対して、身体を預けていた。

「最近、いきなり引越しになって。もう、くたくたよ。疲れた」

「学校に来たら、女の子に囲まれるし。早く収まらないかしら」

「僕が見た限り、しばらくは、収まらないだろうな。恐らくは」

「学校に行くのが嫌になりそうよ」


「君なら、もっと頭のいい所に入れたと思うんだけどな」

「それもできた。けど、なんて言うか。理由があるのよ」

「理由。一つランクを下げて、上位を取りたい、とか?」

「どうかしら。なんて言うか、詳しくは言いたくないの」

何だか釈然としないような返答を貰い、少し困った。
まるで、この学校でなければいけないような答えだ。

「もう遅いし、そろそろ帰らない?ご飯食べられないよ」

「ああ。もう、そんな時間。わたしも、帰ることにする」

階段で一階まで降りて行き、先生方にもさようならを告げた。
靴を履き替え、玄関口で彼女と落ち合った。家はどこだろう。

「家は、昔のところと同じ。誰も入ってなかったみたいだから」

「そうなんだ。ご両親は元気かな。よろしく、言っておいてよ」

「ええ。きっと、喜ぶわよ。それじゃあ、また。学校で会おう」

彼女に背を向け、僕は帰り道を歩いた。空には星が瞬いている。
何だろう。この違和感は。言葉に出来ない、この違和感は何だ?

僕は、何か、見落としていないか?


家に戻ると、やはり温厚な父と母が僕を迎えてくれた。

父は、今日は早くに仕事が終わったらしい。読書をしている。
母は、本当に楽しそうに料理を作り、僕におかえりを告げた。

「あなた、先にお風呂入っちゃう?お母さん、後でもいいけど」

「じゃあ、そうしようかな。先に貰うよ。すぐ出てご飯にする」

ねえ。どうして、そんなに優しいの。そう聞きたかった。
元の世界の父と母のイメージから、かけ離れすぎている。
これは、僕が望んだから、全てが変わってしまったのか?

「お父さん。お父さん。ご飯できましたよ。食べましょう」

「ああ、ありがとう。すぐに行くよ。ちょっと待っててよ」

「あなたも、席について。すぐにいただきますをするから」

父は読書を中断し、席についた。僕もそれに習い席についた。
揃って「いただきます」でご飯を食べ始める。とても美味だ。
僕は、父と母の変化に対し、恐怖すら覚えていたように思う。

「ねえ。お父さん。お母さん。もし、仮に。なんて話なんだけど」

「仮に。仮にだよ。一日が二十四時間だったなら、どう思うかな」


「二十四時間」

父と母は、揃ってその言葉を反芻し、目を丸くしていた。
すぐに笑い出したが、僕の表情から、何かを察していた。

「ごめんな。お父さん、そんな事言われると思ってなかったから」

「お母さんもよ。ええと。仮にでしょ。そうねえ。考えておくわ」

父も「そうするよ」とだけ言って、口に運びながら考えている様子だった。
しかし、食事が終わっても、依然として何かしら答えは出ないようだった。

「部屋に戻るよ」

そう告げ、僕は部屋に戻って、ある事に気がついた。
今日は、携帯をチェックしていなかった気がすると。
よく見たら、また、充電が切れている。充電しよう。

充電器にさし、数秒待ってから電源を入れた。

メールは来ているだろうか。彼女から、とか。
心の何処かで、僕は期待していた節があった。
問い合わせてみると、予想外のメールの数だ。

八件も?


件名 : あなたは 幸せ です。
件名 : あなたは 幸せ です。
件名 : あなたは 幸せ です。
件名 : あなたは 幸せ です。
件名 : あなたは 幸せ です。
件名 : あなたは 幸せ です。
件名 : あなたは 幸せ です。
件名 : あなたは 幸せ です。

送信日時は、一日ずつ。正確には一時間ずつだ。
わけがわからない。幸せです、とは何のことだ。
「あなたは」とあるあたりに、僕が幸せらしい。

どれを開いても、本文は添付されていないようだ。

一件目。二件目。三件目。四件目。五件目。どれも本文はない。
全て見ておくかと思い、最後の古いメールを開いた。八件目だ。
そのメールには、唯一、本文があるメールだった。なんだろう。


件名 : あなたは 幸せ です。

本文: 本日より、観測をはじめます。


そのメールを見て、すぐにわかった。観測者からのメールだと。
幸せか不幸せか判断しているのだと。その結果を報告している。
これは、報告義務があるのだろうか?返信してみることにした。

「あなたは、観測者なのですか?」


「はい」

たった二文字の無機質なメールは、さらに不安を助長させていた。
これ以上探ろうとしても、僕は、何の答えも得られない気がした。
しかし、メールの送信者が観測者である以上、恐らく人であろう。

思い出した。

僕は、不幸にならなければいけない。彼はそう言っていたはずだ。
しかし、それに反して、送られてきたメールには、幸せとあった。
まずい。僕は、願いを取り消せなくなる。それだけは、いけない。

続けて、またメールの着信音が鳴った。


件名 : よろしくお願いします

本文 : あなたを幸せにします


さながら告白のようなメールだが、僕にとっては宣戦布告だった。
観測者もまた、彼と同様に人を幸せにする役目を担っているのだ。
それに反して、僕は不幸せにならなければならない。矛盾だろう。

僕は、幸せになるために、不幸せになるのだ。


あなたは 幸せ です。


「お前、人の話聞いてんのか。前出て、この問題解け。お前だよ」

空に瞬く星を眺めていたら、僕は副担任の授業で当てられてしまった。
数学だ。僕はあまり、数学が得意とは言えないので、困ってしまった。

「すみません。聞いていませんでした。集中します」

「それがいいな。教科書も出しとけ。寝たら立たす」

言葉は悪いが、副担任の授業は非常に解りやすいのだ。評判だった。
それなのに、どうして星を眺めていたか。昨日の観測者についてだ。
僕は観測者の願いに反して、不幸せにならなければならないことだ。

「あー、誰にするかな。名前覚えてないんだよな。よし、お前だお前」

そう言い、副担任は彼女を指名していた。転校二日目で無理はない。
仮に本当に一人の名前すらも覚えていなければ、少々落胆しそうだ。
しかし、彼女の名前は覚えているようだ。顔立ちだっていいもんな。

「はい」

彼女は、やはり頭がよかった。すらすらと黒板に答えを写していく。
「へえ」と副担任も声をあげて感嘆していた。珍しい光景だと思う。
ニュースで、五日後には朝になると言っていた。寝る頃には、朝か。

「そろそろ、お前は立ってろ」


教科書を出すのを忘れて、再び星に目を落としたところ、立たされた。

しかし、仕方がない。一瞬でも約束を破ってしまったのはいけない。
僕が反省しているのを確認すると「座っていいぞ」と言われ座った。
僕は、今度こそと授業に集中していたら、すぐに終わってしまった。

「そろそろ、ご飯の時間じゃない。一緒に食べない?」

「いいよ。食堂でいいかな。ご飯、買ってないんだよ」

対面に席につき、もそもそと大人しくご飯を口に運んでいた。
彼女は満足そうに、僕の倍近くあるご飯を食べていたと思う。

「君はよく食べるな。ああ、こんなこと言ったら、失礼かな」

「そんなことないわよ。だって、わたし、太らないのだもの」

「きちんと運動をしているし、カロリーも、考えているから」

「それに、人の前だからって量を調節するなんて事、無理よ」

彼女らしい回答で、何だか安心していた。変わらないと思った。
「ねえ、何か話題はないの?」とふられて、僕はまた、困った。

「面白い話は僕にはできないよ。君だって、知ってるだろう」

「知ってるけど。つまらない話を、面白くしていけばいいの」

「他愛ない話も、いつか面白いと思う日だって来ると思うの」

「絶対に。わたしは、そう思うけど」


「あなたは、嘘をついたこと、あるかしら?」

「あるよ。もちろん。胸張って言えないけど」

「わたしは、ないわよ。今のところの人生で」

それはすごい。しかし、彼女が言うからには、事実なのだろう。
今のところは、ということは、いずれ嘘をつくときが来るのか。

「じゃあ、君が嘘をつくときって、どんな時かな?」

「そうねえ。何か、もう大変なときでしょう。多分」

「今まで正直だったし、必ず騙されるわよ。ふふふ」

確かに。積み上げてきた信頼を崩してまで、嘘をつくとは考えない。
然るに、その嘘は恐らく受け入れられるのだろう。悪い笑みだった。

「ああ。そういえば、この学校に演劇部はあるのかしら」

「ううん。ええと、僕の記憶では、なかったかなと思う」

「そう。今さら、作れはしないわよねえ。どうしようか」

そういえば、彼女は演劇のビデオを見ているとも言っていた。
過去、彼女が演劇部だったという話も聞いていた。可哀想だ。

「僕でよかったら、協力するけど。どうする?」


職員室で、新規の部活を作りたいと話したが、却下された。

理由は単純だ。まずは部員がいないこと。五人はいるらしい。
そして顧問の先生もいないことだ。どちらも、難題であった。

「よし、諦める。個人でビデオでも見て練習することにする」

「君は、ずいぶん諦めがいいなあ。清々しいと言えるほどだ」

「どこか別のところでだってやれるし。一度はやりたいのよ」

と言って、彼女は鞄から台本を取り出した。外国のものらしい。
聞くところによると、先日見ていたビデオの書籍版らしいのだ。

「いつか、この演技、やってみたいのよねえ。頑張ろうっと」

「まずはできる環境を作らないと。僕も何かあれば協力する」

「そういえば、その本、僕も読めるかな?読みたいんだけど」

「ダメよ。読んだら、あなたに見せられなくなる。却下です」

どうやら、彼女は、僕に見せてくれるつもりのようだった。
ならば、諦めよう。楽しみは、後にとっておくものだろう。

「ああ。今日は、わたし、先に帰るから。用事があるのよ」


そんなわけで、彼女は終礼後にそそくさと帰ってしまった。

僕は五時間目。五日目の体育で疲れ果てて、空腹で死にそうだった。
放課後なり、僕は、すぐに食堂へ向かい、パンをいくつか購入した。
またもやもそもそとパンを齧っていると、副担の先生がやってきた。

「よう。お前、腹減ってんのか。朝飯、ちゃんと食ってんのか?死ぬなよ」

「食べてますよ。ああ、そういえば、先生はどうして?放課後ですよ今は」

「担任いるだろ。そろそろ生徒の顔を覚えろって言われてな。面倒すぎる」

確かに、先生は僕たちの事を「お前」とか「君」としか呼んでいない。
本当に人の名前を覚えていなかったのか。教職員だと言うのに驚きだ。

「で。ついでに、生徒とも親交深めたらどうですか、だってよ。嫌すぎる」

「それを、担当の生徒の僕に言うのって、どうなんですか。人間性がもう」

「うるせえな。あたしは、別にいいんだよ。この仕事するだけで精一杯だ」

「あたしの昼飯のパンやるからよ、親交深めたことにしとけ」とパンを渡された。
もはや賄賂ではないか。親交をお金で買おう、というその発想が、どこかすごい。
「嘘だ」と先生は笑い、僕の対面に腰を下ろした。話でもしてくれるのだろうか。

「ああ。お前は確か。誰だっけ。名前。ああ、思い出した。覚えてるぞ、お前は」


「お前は」には、恐らく立たせた生徒であるから、という意味があるのだろう。

不名誉ながら、美人の記憶に残れただけに、よしとしようと思った。
先生はさり気なくたばこを取り出したので、慌てて僕は止めていた。

「ここ、喫煙室とかねえのかよ。教職員用のトイレに一本流してたんだが」

「ありません。それにトイレ詰まりますし警報機なりますよ。怒られます」

「お前は、それにしても、口調が固い。もっと気楽に喋れよ。鳥肌が立つ」

「そんなことを言われても。だって、先生ですし。目上の人には敬語です」

「黙って言うこと聞け。お前の次の数学の成績、出席点だけゼロにするぞ」

国家権力の横暴だった。僕は仕方がないので、目上の人に対し、慣れない口調で話した。
それを見ると先生は満足そうに「それでいい」と言い、ついには、たばこに火をつけた。
「歳食ってるからって、まともな人間なんざ、数えるほどしかいねえんだよ」と続けた。

「少なくとも、あたしは、まともな人間じゃないけどな。真似すんなよ」

「しませんよ。火消してください。臭い残ったら怒られるの僕らですよ」

「わかったよ。お前は姑か。ああ、なら、吸えるとこでも行くとするか」

「お前も来い。飯ぐらいなら、奢ってやるよ」と笑顔で言われて、頷いた。
大雑把だけども、根は良い人なんだな、と僕は先生に対し、感嘆していた。

まだ、星は綺麗だ。


先生の隣を歩くと、想定通りに、羨望の視線が僕に刺さっていた。

態度であったり、言葉が悪くとも、外見は素晴らしいものがあるからだ。
「お前何やったんだよ」「非行にでも走ったか」と校内で言われていた。
先生が「うるせえな」と一喝すると、誰もが、そそくさと消えていった。

「先生って、何でこの仕事に就いたのですか。いや、就いたの。分からない」

「あたしは、そうだな。担当したやつらが、どうなっていくのか、知りたい」

「良くも悪くも、あたしらが手を貸すわけだ。未来への手助けができるわけ」

瞳をきらきらさせて語る先生の顔は、さながら夢を抱いた少女のようだった。
やはり「根はいい先生なんだろうな」と僕は思う。でも、言葉は悪いけれど。

「よし、金ねえな。ファミレスな。決定。教師ってのは、安月給だ。辛い」

「喫煙席、空いてればいいけど。それにしても先生、言葉遣いが酷すぎる」

「お前は、希望だの、道徳だの言う教師が好みか。そうなってやろうか?」

もう、今さら先生のイメージは覆らない。しかし、それがいいところだと思う。
再三になるが、言葉は悪い。けれど、建前より本音を大事にしているところだ。
「先生は、そのままでいいよ」と言うと「なめたこと言ってんなよ」と笑った。

少なからず、夢より、現実を教えてくれる教師の方が、僕は好みだ。


「で。何にする。高いもん頼むなよ。教師を敬ってるならな」

「なら、とりあえずシンプルに、ハンバーグセットにするよ」

「ギリギリだな」と財布と顔を合わせ、焦っている先生がおかしかった。
それに反して、先生は、割と値の張るメニューを恐れずに注文していた。
そういえば、僕は先生について何も知らない。先生も恐らくそうだろう。

「先生って、普段は何してるの。ほら。趣味とか、その辺だけど」

「あたしか。あたしは、仕事が恋人ってところだ。他に何もなし」

「仕事一筋か。すごいな。なのに、すごく教師らしくないと思う」

「いいんだよ。まともな教師じゃねえしな。ほら、さっさと食え」

「うん。いただきます。美味しそうです。どれから食べようかな」

僕の言葉の意味を辿ってくれたのかは分からないが、先生も僕に聞いた。
「お前は、普段何してんだよ。遊びに行ったりしてんのか」と、適当に。

「僕は、どちらかと言うとインドアです。読書だとか、ゲームとか」

「そうか。今度は、担当クラスに問題がなくてよかった。楽でいい」


「遅くに申し訳ありません。彼の副担任をしている者ですが」

先生の口から、ここまで丁寧な言葉が飛び出したことに、恐怖していた。
あまりにも失礼だが、ギャップがありすぎる。先ほどの先生は、何処へ。
「すみません」と、遅くなった経緯を母に話してくれているようだった。

僕は、母に「すぐに戻るよ」とだけ告げ、先生をすぐに呼び止めた。

「ありがとうございます。わざわざ送って、説明までしてくださるなんて」

「いいんだよ。お前は、話し方戻ってんぞ。遅くなれば、親も心配だろ?」

「ああ、うん。そうだった。話し方。それじゃあ、また、明日。頑張って」

先生は「ああ、また明日な」と背を向け、手を振りながら去っていった。
何だか格好いいなあ、と僕は思わざるを得なかった。いい大人だと思う。

「ただいま。遅くなって、ごめんなさい。今度からは、気をつけるから」

「別にいいわよ。いい先生じゃない。今度会ったら、お礼を言わなきゃ」

両親もそこまで心配している様子ではなかったので、僕は部屋に戻った。
「ご飯は後で食べる」と、母に告げ、僕はベッドに入り、眠りに落ちた。

まだ、違和感は拭えなかった。


あなたは 幸せ です。


それからの僕と言えば、テスト勉強に頭を悩ませていた。

幸いなことに、彼女は頭が良かったので、勉強を見てもらえた。
数学に関しては先生がいたが、訪ねると面倒そうな顔をされた。
しかし、最終的には仕事を投げても教えてくれる。いい先生だ。

「この問題が分からないようでは、上位は難しいと思うわよ」

厳しい言葉だが、納得できるだけの根拠がある彼女の言葉だった。
僕も、それはわかっている。一日一時間では、さらに厳しいのだ。

「一日が、二十四時間に戻ってくれたら」

僕は何気なくそう呟いていた。彼女は、その言葉に唖然としていた。
というより、何かに怯えているような顔をしていた。なんだろうか。

「あ。ええと。ああ、あの先生、わたし、どこかで見たことあるかも」

あまりにも急な話の方向転換で、僕は吹き出しそうになっていた。
触れてはいけない話題だったなら、僕もそれに乗ろう、と思った。

「分からない。どこだったかしら。どうしてか、覚えてないのよねえ」

恐らく、いきなり口から飛び出した言葉に、理由付けができないのだろう。
なんとなく分かる。誤魔化す際に口から出る言葉は、あまり役に立たない。

「なら、そっくりさんなんじゃないの?」


僕が世界のルールを変えたのが、六月上旬。

「一日は一時間」の定義に則れば、かなりの月日が流れてしまった。
もう既に夏も終わり、冬も、最後の方に突入してしまう事となった。
その頃には、彼女と先生の尽力もあり、成績上位に食い込んでいた。

「わたしのおかげよ。感謝して。あ。ええと。だから。感謝よ感謝」

「うん。感謝してる。ありがとう。この恩はきっと忘れないと思う」

先生にも感謝を告げると「飯奢れ」と金銭が絡む要求をされてしまった。
僕は苦々しい顔で踵を返すしかなく、いずれ何らかの形で返そうと思う。

そしてすぐに春になり、僕は、ようやく二年生になっていた。
未だに、僕は、不幸になる手立てを掴めないでいた。困った。
困ってはいても、僕は、少しこの現実を受け入れ始めていた。

何故なら「一日が一時間」という定義以外に、変化がないからだった。

朝の朝礼と、最後の終礼で、合計一時間。そして、各授業で一時間ずつ。
合計七時間だ。つまり、一週間かけて、実際の一日の授業を終えるのだ。
それ以外に変化がない世界の中、僕は、心から幸せを実感していたのだ。

「お前ら。また、あたしのクラスだぞ。喜べよ。何で嬉しそうじゃねえんだよ」


「先生。おはようございます。わたしは、先生の授業、好きですけれど」

そう答えたのは彼女だった。そして先生も、かなり生徒に馴染んできている。
その大雑把な性格と、嘘を吐かない素直さが、生徒の評判を呼んでいたのだ。

「そうだろ。お前は分かってる。出席点に、少しだけおまけしといてやるよ」

「それに比べて、お前は。何でげんなりしてんだよ。勉強教えてやっただろ」

「そうだけど。先生の授業は、解りやすいけど、テストが難しいから。うん」

仕事は慣れたけど、難易度の調整なんて、慣れてねえんだよ。ほっとけ。
先生はそう言い、すぐに新入生の名前を覚える作業に入っているようだ。
仕事に慣れたのに、そこには慣れていないのか。難しいものなのだろう。

「ああ。今日から、お前ら二年生の数学を教える。問題起こすなよ。以上だ」

先生は、相変わらずの自己紹介であった。それでもうけているらしい。
「よろしく先生」「出席点ゼロにしないで」などの声が上がっていた。
授業の準備があるらしく、先生は、そそくさと職員室へ消えていった。

「一時間目なんだっけ。宿題、答え合わせしない?気が気じゃないんだ」

「間違ってたら、間違ってたらでいいじゃない。失敗を恐れてはダメよ」

「何度失敗したっていいのよ。最終的に正しい答えに行き着けばいいの」

「人生だって、そういうものだと思う」


>>44 修正です。

☓ 朝の朝礼と、最後の終礼で、合計一時間。そして、各授業で一時間ずつ。
○ 最初の挨拶と、最後の終礼で合計一時間。そして、各授業で一時間ずつ。

>>45 修正です。

☓ 「先生。おはようございます。わたしは、先生の授業、好きですけれど」
○ 「先生。先生が担任で嬉しい。わたしは、先生の授業、好きですけれど」

表現が適切でないと判断したのでこちらに修正します。
脳内で修正して以上の通りにお読み下さい。

投稿を続けます。


「昨日、数々の名曲を生み出していた、作曲家の—————」

ようやく訪れた、とある休日の朝のことだった。今日は一日朝だ。
「あの作曲家が、亡くなっちゃったんだって」と母が僕に言った。
そう言えば、聞いたことがあった。僕すらも知っている人だった。

「でも、この人だって、いい歳行ってたし、寿命なんだろうな」

「そうねえ。最近、お母さんの周りでも何人か亡くなってるの」

「そうなんだ。人間、いつ死ぬか、分からないもんだって思う」

「お母さんは、あなたが大学行くまでは、とても死ねないわよ」

「もっと長生きするよ。平均寿命は、八十歳なんだ。だいたい」

だが、僕もちらほら耳にするが、人の死に触れることが増えた。
気のせいだろうか。たまたま、タイミングが合致していただけ?
僕は、また、何かしらを見落としている気がしている。何をだ。

僕は、何を見落としている?


「先生。こんばんは」

「おう。こんばんは」

校門の前に立っている先生に挨拶をし、僕は教室に向かっていた。
今日の星も綺麗だ。最近、この景色が少しずつ気に入りはじめた。
教室へと続く廊下を歩いていると、教頭先生がすごく慌てていた。

「廊下は走ってはいけません」と語る教頭先生が走っていた。

本来なら「いつも言ってるのに」と思うが、教頭先生は厳格な人だった。
つまり、ルールを破らなければならない事が起こっているのだと思った。
既に教室に居た彼女に「教頭が走っていた」と言うと静かな声で言った。

「まだ、知られてないみたいだけど。校長先生、亡くなったみたいなのよ」

「さっき、教室の鍵を借りに行ったら、そういう話が聞こえた。本当なの」

「分からない。僕は、走っていたことしか知らなかった。亡くなったの?」

互いに論証ができない会話を数分続け、先生が重い表情で入ってきた。
さすがに、普段から軽快な先生でも、人の死に対しては、こうだった。

「静かにしろ。騒ぐな。いいか。今日、校長先生が亡くなったんだと」

その後に待っていたのは、やはりと言った具合に、教室の騒々しさだった。
先生も想定していたのか、特に注意する声はなかった。無理もないことか。

そういえば、もう、僕の中にあった違和感は、消えていた。


あなたは 幸せ です。


「本日未明。特徴的なタッチで知られる、画家の—————」

人の死を報じるニュースは、日を追うごとに増えていくような気がした。
今まで目に留めていなかったからなのかは、それは、わからないけれど。
今現在。僕が願った日から、約三百六十五時間が経過しようとしていた。

つまり、一年ほどが経過した。

僕は、完全にこの世界と同化したと言えるほどには、馴染んでいた。
起きて夜でも驚かない。人と遊ぶ際に三日間と言われても動じない。
それほどまでには、僕はこの世界に慣れきってしまったのだと思う。

「先日亡くなった、名著を生み出し続けた、作家の—————」

慣れてはいたけれど、慣れてきたからこそ、見えてきたものがあった。
それは前述にもあるが、人の死が増加しているという事に他ならない。
以前の世界では、ここまで頻繁に報道されることなど、なかったはず。

「緊急で原稿を差し替え、お伝えします。衆議院議員の—————」

何かしらの変化が起こっていることに、僕は気付きはじめていた。
そして、言葉にならない共通点が浮かんできたことだって、そう。

いったい、次は、誰が亡くなる?


「ねえ。今度、お祭りがあるみたいなの。行ってみたい。行きましょう」

明瞭かつ、端的に要件を伝えてきたのは彼女だった。お祭りか。
テストも終わり、少しだけだが、僕は、また順位をあげていた。
母は「頑張ったじゃない。続けて頑張って」と僕を褒めていた。

「ちょっと。聞いてるの?お祭りに行こうと誘っているのよ」

「ああ。うん。いいよ。もちろん。一緒に行く。それでいい」

「じゃあ、決まり。三日くらいは、遊びましょう。たまには」

「いいよ」と僕が答えると、彼女は、嬉しそうに笑っていた。
「約束破ったら、殺すわよ」とも言うあたり、楽しみなのか?

「青春してんな。俺らには、その青春わけてくれないのか」

と、彼女が去った直後に、教室の友人たちは、僕に声をかけた。
「というか、彼女をくれ」と続けていた。とても正直だと思う。
「俺らも、夏祭りまでには、彼女作るか」等と意気込んでいた。

僕は、少しだけ期待していたと思う。


「お待たせ。待った?待ってないわよねえ。言ってみたかっただけ」

「今、僕が来る瞬間見てたでしょう。待ってるはずはないと思うよ」

彼女はシンプルな浴衣姿で、僕の目の前に現れてくれていた。
普段は自信満々な彼女が「似合ってる?」と聞いてくるのだ。
もちろん似合っているので、そう告げたら喜んでいるようだ。

「行きましょう。何食べる?たこ焼き。お好み焼き。わたあめかしら」

食べ物しか頭にないのだろうか。もっとお祭りらしいものもあるはずだ。
あまり大きな祭でもない為、特に彼女とはぐれることもないのが幸いだ。
つまるところ、手を繋ぐこともなく、なんというか絶妙な距離感だった。

「あなた、何やる?射的とか、金魚すくいとかが、祭の定番よ」

「僕は型抜きでいいよ。シンプルながら、奥が深い遊びなんだ」

本当に奥が深い遊びだ。もう既に五枚近くを僕は失敗している。
隣で鼻歌を歌いながら遊んでいる彼女は、パーフェクトだった。
「あなた、不器用ねえ」と笑ってくれてるあたり、よしとする。

「歩いていたら、喉が渇いたかも。何か買ってこようかしら」

「うん。なら、僕が買ってくるよ。待ってて。何がいいかな」

「ありがとう。なら、お茶にする」


「楽しかった。今日は付き合ってくれて、ありがとう。感謝してる」

「いいよ。僕も祭に興味あったし。久々にはしゃいじゃったよ、僕」

「祭って、そういうものでしょう。わたしだって、そう。楽しいし」

神社の一角にあるベンチで、僕たちは喉を潤しながら座っていた。
特に何も語らずとも、間は十分に埋まっていたと思う。多分だが。
「つまらない話だけど」と言うと「面白くすればいい」と笑った。

「ええと。君は、もう、前言ってたような嘘はついたかな?」

「まだよ。嘘は一回だからこそ、よ。あなたは、どうかしら」

「僕は、ここ最近はついてないな。つくような悩みもないし」

「そう?わたしには、そうは見えないけど。嘘なら、今のよ」

「悩みがどうの、ってやつかな。悩み。僕には、そんなもの」

「別に探ってるわけじゃないわよ。ただ、そう思っただけよ」

「そっか。でも、悩みか。ああ。悩みってほどでもないけど」

「一日が二十四時間だったなら、君はどう感じるだろうか?」


僕は、それを口にしてから「しまった」と思っていた。

彼女は以前、その話題について避けようとしていたはずだった。
なのに、今、こうやって僕が話を掘り返そうとしている。ああ。
彼女の方を振り向くと、やはり、怯えたような顔でそこにいた。

「あなたは」

「あなたは、一日が二十四時間である、と言いたいの?」

「そ、そんなに、真剣に考えてくれなくていいよ。ただ」

「いいえ。話して。これは、冗談とかではないの。早く」

彼女の視線に圧倒された僕は「仮に」を繰り返し、言葉を選んだ。
世界が変わる前の世界のこと。あの部屋の事。時間という概念を。
彼女は、僕の言葉を、一言一句聞き逃すまいとしていた。何故だ?

「僕の知っている世界は、一日が二十四時間だったんだ」

「一日に朝と昼と夜が来て。時間に追われることもない」

「信じられないだろうと思う。変な話をして、ごめんよ」

「いえ。いいのよ。わたしこそ、ごめんなさい。本当に」


「あなたは、元の世界に戻りたいって、思うかしら?」

「そうだな。僕は、この世界でもいいとは思ってるよ」

「でも、帰れるなら、帰りたい。ここは違う世界だよ」

そう告げると、彼女は寂しそうに「そう」とだけ呟いた。
「あなた、今、幸せ?」そう聞かれて「うん」と返した。
彼女は含むものがあったようで、僕に率直にこう言った。

「なら、わたしが、あなたを本当に幸せにしてあげる」

彼女は、涙を流していた。どうして、泣く必要があるんだ?
それも、寂しそうな表情に、どこか微笑が混じったような。

「ねえ。なら、わたし、言っておこうと思う。あなたに」

彼女はベンチから立ち上がり、僕の前に立っていた。
その背に、どこまでも輝く黄金の月がそこにあった。

「わたしは、黙っていたけれど」

「気付いてるかもしれないけど」

「わたし、あなたの事が—————」


「花火。綺麗じゃない」

彼女の言葉は、市販の小さな花火で打ち消されてしまった。
小さな花火だったけれど、僕たちには、それで十分だった。

「言葉の続きは、然るべき時にでも、言おうかしら」

もう、そこには涙はなかった。吹っ切れたような顔だった。
でも、僕は、彼女の言葉を察していたような気がするのだ。
何を言おうとしていたか。だって、僕も、そうなんだから。

今さらになって、こんなに素直になれるとは。そう思っていた。

「そろそろ帰りましょう。帰れば、もっとご飯が食べられる」

「その通りだ。今日は、ありがとう。また、来年も来たいな」

「ええ。わたしもよ。また、来年も一緒に来ましょう。祭に」

途中まで彼女を送って、僕たちはそこで別れた。
家に戻ると「楽しかった?」と両親に問われた。
僕はすぐに「うん」と答え、食事に手をつけた。

「いい夏の思い出になったよ」


あなたは 幸せ です。


それからと言うもの、僕と彼女の距離は少し縮まったと思える。

「やっとねえ」と母に言われ「やっとか」と父も言った。
「結局俺らには青春はなかった」と同級生は嘆いていた。
「付き合い始めちまったか」と先生に冷やかされもした。

変化は、それだけではなかった。

彼女は、何やら、あの日から変わってしまったように思う。
小難しい顔をして、事あるごとに腕組みをし、悩んでいる。
「どうしたの」と聞くと「何でもない」と帰ってくるのだ。

「あの先生。どこかで見たことあるのよねえ」

と、毎回の如くそう濁しているのだ。よく分からない。
それ以上を尋ねるなら、曖昧な答えしか帰ってこない。
彼女は、あまり誤魔化すことに向いていないと思った。

そして、これは別の事なのかもしれないのだが。

学校の教員が、あまり期間を置かずに二名も亡くなったことだ。
校長先生からはじまり、続けて教員が二名。あまりに不自然だ。
僕の見落としとやらは、気のせいではないのかもしれないのだ。

世界は、どう創造されたというのか?


ある日、僕はそろそろ先生に借りを返そうと思った。

二年の後期中間テストで、かなりの成績を修めたのだ。
両親は大喜びし、僕に、いくらかのお小遣いをくれた。
そのお金で僕は先生に「飯奢れ」の約束を果たすのだ。

「先生。今日、学校終わってから、暇だったりする?」

「暇じゃねえよ。教職ってのは暇じゃねえ。分かるか」

「そっか。前言ってた、ご飯の約束を守ろうと思って」

「今日の分の仕事は、終わってるからな。早く行くぞ」

と言っても、先生が向かった先はファミレスであった。
僕の財布の中身を気にしてくれているのだろうか?
先生は一番安いパスタを注文し、たばこに火をつけた。

「お前が出世したら、高いもん奢らせてやるからな」

「言葉がおかしいよ先生。奢らせてやるってなんなの」

「気にすんな。注文きたぞ。いただくとするか。ごち」

「うん。いただいてください」


「いい生徒を持って、あたしは嬉しい。感涙だ。最高」

一食奢っただけで、僕のイメージはかなり変わったようだ。
パスタをくるくると巻きながら、淑やかに口に運んでいる。
こういうところだけ見れば、女性らしいと思うんだけどな。

「お前は、どうだ。最近。困ったことねえか。助けてやるぞ」

約七百円で先生の手助けが購入できた。ありがたいと思った。
しかし、困ったこと。人生は上手くいっていると思っている。
「なんでもいいからよ」と続けるので、僕は、思案を続けた。

「あ」

「何だよ。言ってみろ」

「もし、一日が二十四時間なら、どう思う?」

先生は目を丸くしていた。どうやら、驚いているようだった。
突飛な話をされて、信じるという方がどうかしていると思う。

「ごめんなさい。変なこと言った。忘れて」

「それはいいんだけどよ」とパスタを頬張りながら先生は言う。
それはいいなら、何が気に留まったのだろう?分からなかった。
表情だけで尋ねると、先生は、想定外の答えを僕に告げていた。

「その話されたのは、お前で、二人目なんだよ」


なんだって?

二人目。ということは、もう一人も同様の質問をしたということだ。
この世界のシステムに気付いているものなど、そうは居ないはずだ。
記録係と、観測者。神様。他に居ない。そんな話を、僕は、どこで。

「まさか。彼女から、ですか」

「そうだ。あいつから聞いた」

どういうことだ?彼女が、どうしてそんな話をする必要がある?
ただの気まぐれだったというのか。そう考えるのが自然だろう。
情報が足りない。彼女は、いったい、先生に何を問うていた?

「他に。他に、彼女は、何か言っていたのかな。その件について」

「それは悪いが、言えない。生徒のお願いだ。それに考えてみろ」

「彼氏に言えねえようなことを、あたしに喋ってる。分かるだろ」

「…僕だけには、言えないことだと」

そういうことだ。先生は二本目のたばこを取り出し、火をつけた。
考えろ。彼女は何をしようとしている?ただの興味本位ならいい。
けれど、もし、そうでなかったら。僕は、何を考えるべきなんだ?

「誰だって、嘘くらいは吐く。あたしだってそうだ。気にするな」


家に帰ったら、母が熱を出していることに気がついた。

過労なのだろうか。毎日忙しそうであるから、そうなのだろう。
僕にできることと言えば、薬局に走り、母を看病するくらいだ。

「ごめんねえ。なんだか、心配かけちゃったみたいで」

「いいよ。いつも頑張ってるんだもん。気にしないで」

あまり上手くできたとは言えないが、消化に良いものも作った。
「おいしい」と笑ってくれたが、お世辞でも嬉しいものだった。
実際には、僕が味見したときには、母のより幾分も劣っていた。

「美味しいわよ。人に作ってもらったものだから、なおさら」

「ごめん。もうちょっと練習してみるよ。お母さんみたいに」

「悪いけど、洗濯とか、皿洗いとか、できる範囲でお願いよ」

「任せて。いつも見てるんだ。できるに決まってる。寝てて」

そう言うと、母は「任せたわよ」と言って、ゆっくりと目を閉じた。
僕は、何故か、その顔に恐怖していた気がする。死を直感したから。

「ただいま」


「ああ。お帰り、お父さん。お疲れ様。お父さん、大丈夫?」

「大丈夫だ。少し、身体がだるくてな。熱でも、あるのかな」

また熱なのか。集団感染していないだけ、ましだと思う。
どうやら、僕だけは家族内で例外であるらしい。何故だ?

「お母さんも熱を出したんだ。今から家事をやる予定なんだ」

「そっか。すまんが、任せていいか。お父さんも少し寝るよ」

「うん。大丈夫。後で何か、食べやすいものでも持っていく」

「助かる。それじゃ、よろしく頼む。後々起きるかもしれん」

そう言い、父も寝室に入っていった。どうなっているんだ?
もう十一月であるし、季節の変わり目は過ぎている頃だろう。
すぐに治ればいいのだが。両親とも、風邪など引かないのに。

そう思ってはみても、両親の体調は、回復する兆しもなかった。

こちらの時間で毎日毎日看病しても、全く熱は下がらない。
どこの医者に連れて行っても「風邪でしょうな」で終わる。
どの医者も、やぶ医者の世界だ、と言うのか?ふざけるな。

僕は学校にも行かず、両親の看病を続けた。

父は、今まで取らなかった有給を全て使い、回復に努めた。
母も料理を作れなかったので、買ったり、僕が作っていた。
体調は日々、悪化していく一方だった。苦しそうな寝息だ。

母は言った。

「もう、お母さんも、お父さんも、長くないのかもねえ」


「お前が、大学入学するまでは、死ねないから、安心しろ」

父は、母の気弱な言葉に対し、そうフォローしていた。
珍しく堅実な父が豪快に笑い、僕まで笑ってしまった。

「そうねえ。あなたが結婚するまでは、お母さんも、死ねない」

「ねえ。どこか、大きい病院を探そう。このままじゃダメだよ」

「いいんだ。信用してる医者に行った。それでも、風邪だった」

「絶対に違うよ。何かの病気だ。じゃなきゃ、おかしいでしょ」

珍しく朝になったその日に僕は両親をタクシーに押し込んだ。
近くの大病院に連れて行って、順番を待ち、両親を座らせた。
両親とも「大丈夫」を繰り返していたが、そんなわけはない。

しかし、診断結果は、変わらず。

「ほらな。すぐに治るから。今日は、寿司でも、とるか」

「たまには、いいですねえ。あなたも、好きでしょう?」

両親は見え透いた言葉で、僕を励まそうとしているのが分かった。
辛いなら、辛いでいいじゃないか。どうして、そこまで気を使う。
言いたくても、儚げな両親の笑顔で、それは言葉にならなかった。

「うん。僕も、お寿司が食べたいな」


そんな生活を続けて三週間程経ったある日、彼女が家へやってきた。

しばらく学校に出ない僕を心配していたのよ、と彼女は言った。
「これ、ご両親に」と、彼女はゼリーなどを買ってきてくれた。

「ねえ。少し、話でもできないかしら。少しだけでいいのよ」

「分かった。お母さん。お父さん。ちょっと、出てくるから」

僕は両親にそう告げ、何かあった時の為と、玄関先を指定した。
彼女もそれでいいらしく、廊下の壁にもたれながら、言った。

「心配してる。わたしだけじゃない。先生も、みんなもそうよ」

「ごめん。でも、おかしいんだ。何か。両親の体調が治らない」

「どこ行っても風邪。風邪。風邪。まともな医者が居ないんだ」

「僕は多分、もうしばらく学校を休む。そう言っておいてくれ」

「…分かった。クリスマスには、あなたにも、会えるかしら?」

彼女もまた、微かに微笑して、そう言った。寂しそうな表情で。
ごめん。僕は先に謝って「まだ分からないんだ」と告げていた。
どうして、彼女は寂しそうな顔をするのか。僕と同じだからか?

死を、直感していたからか?


それから数日。両親はもう、意識も定かではなかった。

食事を口に運んでも、結局はもどしてしまうのだ。
入院を勧めたが、頑なに拒むので、できなかった。

「無理矢理にでも、連れて行くべきなんじゃないか」

僕は、ただ呼吸音だけが聞こえる部屋で、そう呟いていた。
本当に死んでしまうかもしれない。それだけは、絶対嫌だ。
母は気がついたのかカレンダーを見て、僕に笑って言った。

「もうすぐ、クリスマスなのねえ。サンタは来るかしら」

「僕は、お母さんと、お父さんの病気回復を願うんだよ」

「ありがとう。でも、もう心配しなくてよくなると思う」

母のマイナスを示唆した言葉を聞いていられなくなっていた。
「何かあったら呼んで」と、僕は部屋に戻って、涙を零した。

そういえば、もうクリスマスか。本当に早い。一年が。

それは、だって、一年が二十四分の一になってるんだもんな。
凝縮されてる、なんて言い方は変だけど、その通りなのだし。
そう。二十四時間の、二十四分の一の世界だから。それなら。

…それは、あまりにも、まずいことなんじゃないか?


そうだ。僕は、どうして、こんな簡単な事に気が付かなかった?

あの日から、時間の概念だけが変わった世界が創造された。
そして、神様からのメールの内容だ。「平均寿命は?」だ。
どうして僕に平均寿命を問うたのか。仮説が合っていれば。

平均寿命という概念も、神様が捻じ曲げたとしたら?

他の事は、神様は何も尋ねなかった。朝と昼と夜の関係の事も。
つまり、そこには、手を加えなかった。もし、そうだとしたら。
二十四分の一という事は、逆に言えば、こうなるんじゃないか?

…二十四倍速で、人々は寿命を全うし、死に至る、と。

世界を創造するにあたり、神様は独自のルールを付け加えたのだ。
確かに、正しい定義の時刻で、八十年も観測させるなど、異常だ。
そう考えれば、神様は「猶予期間」を設定したということになる。

記録係の言葉通りだったわけだ。これは、本当に猶予期間だったのだ。
となれば、願った日から換算すれば、恐らく両親の余命は幾許もない。

僕は、正確な計算ができる自信がなかったので、学校へと電話した。

「どうしたんだよ。いきなり」なんて言われたが、構っていられない。
僕の声音を見て、すぐに、真剣な雰囲気になってくれた。ありがたい。
「計算をお願いします」と言うと戸惑っていたが、すぐにしてくれた。

「いいぞ。言ってみろ」

計算はこうだ。八十から現在の年齢を引いて、二十四で割る。
そこから出た数値を、一年。つまり三百六十五にかけるのだ。
それを「一日は一時間」のルールに則り、時間に直してみる。

「これだ」


あの日から換算して、両親は、十二月前には死に至ることになる。

彼女と僕は、僕の方が早生まれだが、卒業式前日に死に至る。
電話口から「どうした。返事しろよ」と先生の声が聞こえる。
「すみません」と震えた声で一言を告げ、僕は電話を切った。

もう、両親の余命は、数時間もありはしなかった。

僕は、その理論はあくまでも仮説だと証明する為に、裏付けをとった。
今までニュースで報道されていた人物を、僕は年齢順に並べていった。
すると、あの日から、亡くなっている人物の年齢は小さくなっていた。

その瞬間には、僕の全身の力が抜けた。

理論は、悲劇的な形で論証されることになってしまった。
そして、僕の両親も、その裏付けの欠片となり亡くなる。

「嘘だろ」

僕は誰も居ない自室の中で、そう呟いていた。嘘だ。嘘だろ。
神の領域に土足で踏み入った代償は、人の死となって現れた。
僕は。僕は、軽率な事をしたんだ。やってはいけないことを。

「ねえ。神様。お願いだ。僕を助けてくれ。願いは取り消しでいい」

「違う。願いなんて、そもそも要らない。信じるから、助けてくれ」

「誰でもいい。時間の価値を知った。僕が死んだっていい。助けて」



「助けてくれよ。僕が、悪かったんだ」


僕の声で再び目を覚ましたのか、母が僕の部屋にやってきた。

「何を泣いているの?」と問われて、僕も「大丈夫だよ」と答えていた。
どこか、少しだけ、両親の気持ちが分かった気がした。辛いものだった。
それを見かねたのか、母は優しい声音で、僕を諭すように笑顔で言った。

「ねえ。少し前に『一日が二十四時間だったら』って、言ったでしょう」

僕はそれに頷くと、熱があるであろう頬に手を当てながら、母は考えていた。
「あ。思いついた」と言うと、ぽんと胸の前で手をたたき、僕にこう告げた。

「お母さんなら、もっと、人と話したかったかな、って思う」

「お父さんに言ったら怒られるけど、お母さんは、もうダメ」

「二十四時間あれば、もっと、生きられたんじゃないかって」

「二十四時間あれば、もっと、人の事を好きになれたと思う」

「いっぱい話して、人の事を知って。人のことを好きになる」

「お父さんとも、毎日、十分くらいずつ、デートしてたのよ」

「少しの時間の中で『この人しかいないな』って、思ったの」

「それでねえ。きっと、あなたには、厳しくなってると思う」


「だって、時間がいっぱいあるのよ。立派な人になってほしい」

「そのお母さんは、すぐに怒るわよ。あなたの事が、心配だし」

「お父さんは、どうかしら。お母さんのこと、止めてくれるわ」

「怒りすぎだぞ、って。止めてくれる。お母さんは、そう思う」

「できることだったら、卒業式。みたかったけど、ごめんねえ」

「いいんだよ。僕が悪いんだ。僕が全部、悪いんだよ。ごめん」

「お母さんは、何も悪くないんだよ。全部。何もかも、僕だよ」

そう。僕が全部悪いのだ。浅ましい願いさえ、考えなければ。
母の言う通りだ。自分の事は、自分が一番わかっていたのだ。
あの世界の母も、根本的には、何も変わっていなかったのだ。

「お母さん、あなたのその姿見て、よかったなあ、って思うわ」

「だって、ちゃんと考えて、悩めてるんだもの。大人になった」

「もう、お母さんが居なくたって、大丈夫よ。保証してあげる」

「夢の中でねえ。お母さんは、あなたに、謝ろうとしてたのよ」

「何か喧嘩しちゃって。お父さんに怒られて、やっと気付いた」

「ごめんねえ。後のことは、よろしくね。幸せになってほしい」


僕は母に肩を貸し、再び寝室へと連れて行った。

眠りに落ちる直前まで、母は僕に対して、謝罪を続けていた。
謝るのは僕の方だ。人の運命すら捻じ曲げた人間なのだから。

「お母さんは、寝たか」

話を聞いていたのか、隣に眠る母をちらりと見ながら父は言った。
「寝たよ」と言うと、安堵したように、こちらに来るよう促した。

「お母さんは、何か言ってたか」

「僕に、幸せになってほしいと」

そうか。荒い息を繰り返しながら、父は深く溜息をついていた。
お父さんも、そう思う。お前には、幸せになってほしいと思う。
父はそう言い、また、深く溜息をついた。呼吸が苦しそうだ。

「お父さんは、お母さんみたいに良い事は、言えないけどな」

「幸せになれよ。お前の為に、金はある。好きなように使え」

「後悔するな。一秒たりとも、無駄な人生なんて、送るなよ」

「これは、なんて言うか、遺言だ。約束だぞ。幸せになれよ」

「うん。僕は、幸せになる。守るよ。約束を。男の約束だよ」

父は、僕の言葉を聞くと「少し寝るよ」とだけ言い、眠りに落ちた。
父もまた、優しい。父の大きな左手は、母の右手を握りしめていた。
僕の家族は、何一つ、寸分足りとも変わってはいないと、気付いた。

そのまま、僕の両親は、目を覚まさなかった。


あなたは 不幸せ です。


僕が意識を強く持ったのは、観測者から、不幸が告げられたからだ。

そうだ。僕は、幸せになる為に、不幸せにならなければならない。
僕が不幸で人生を終えれば、僕の願いは取り消され、世界は戻る。

大きな背中をしていた父も、小さくも大きな存在だった母も。

ふたりは二つの小さな壺の中に収められ、僕の元へと帰ってきた。
葬儀その他の段取りをしてくれていたのは、他でもない、先生だ。

「大丈夫なわけもねえだろうが、しっかりしろ。前を見て歩け」

「はい。すみません。ありがとうございます。僕は。強くなる」

「そうだ。あたしから、まともな事は言えねえけど。強くなれ」

いつもぶっきらぼうな先生が、今日を境に、少し優しくなっていた。
僕が泣いていると、黙って隣に居てくれた。ただ、隣にいてくれた。
彼女はどうしてか、泣き喚く様子もなく、現実を静かに受け入れた。

「お前が困ってりゃ、あたしが手を貸してやる。だから前を見ろ」

「今は不幸でも、いつか幸せにしてやる。あいつもいるだろうが」

「はい。僕には、ふたりが居ます。すぐに立ち直ります。すぐに」

「すぐじゃなくてもいい。気持ちの整理は、そうそうつかねえよ」

「ゆっくりでいい。少しずつでも、前に進めりゃあ、それでいい」


「先生が言っていたように。わたしも、あなたを幸せにする」

彼女は、何かを決意したような声で言った。僕には分からなかった。
ありがとう。僕がそう言うと、気にしないで。そう言って、笑った。

僕はこのまま行けば、不幸なままに人生を終えられる。

それが、僕にとっての幸せなのだ。ふたりには悪いのだけど。
彼女と先生のおかげで、僕は少しずつ、立ち直り始めていた。
僕は、彼女より早く余命を終える。それが唯一の救いだった。

救い。

どうして、救いなのだろう。彼女は死なないで済むからか?
ふと、僕の思考を駆け巡ったその言葉に、僕は悩まされた。
言葉の綾だろう。僕はそう結論づけて、考える事をやめた。

その頃には、僕はついに三年生になっていた。

四月。僕はついに、学年でも上位十人に食い込んでいた。
父と母の言葉を思い出せば、これくらいは、楽なものだ。

「お前。ずいぶん成績あげたじゃねえか。鼻が高い」

そう言って笑ってくれた先生の表情には、陰があった。
恐らく、未だに、僕の心配をしてくれているのだろう。
僕が「大丈夫ですよ」と静かに言うと、先生は言った。

「強くなったな」


「そうでもありません。彼女と、先生のおかげですよ」

「あたしは、何にもしてねえよ。あいつのおかげだな」

「僕は、先生が先生で、本当に良かったと思ってます」

「そうか。そう言ってくれると、担当した甲斐がある」

「はい。本当ですよ。また、ご飯食べに行きましょう」

そう言うと、先生は「今度は奢ってやるよ」と笑ってくれた。
もう、いつまでも、心配はかけられない。強い男になるのだ。

そして、僕を探しに来たのか、職員室に彼女が来た。

「あら。ああ。先生とお話をしていたの。なるほど。先生」

「電話中みたいだ。また今度にしよう。そろそろ帰ろうか」

「ええ。そうしましょうか。帰りましょうか。お腹すいた」

「ああ。はい。では、そのようにお伝えしておきますので」

先生は、たまに別人と思うような喋り方をするな、と思った。
職員室を出て行こうとしたが、彼女は、動こうとしなかった。
それを聞いていた彼女は、何かを思い出しているような表情。

「わたし、あなたを、必ず幸せにするから。よろしく」

そう言って彼女は走りだし、休み時間なのに、そのまま出て行った。
どうしたというのだろう。わけがわからない。それにしても、彼女。
ああ。そっくりだ。誰にだっけ。そう。思い出した。僕は、呟いた。

「…君は、観測者に、そっくりだ」


あなたは 不幸せ です。


「もし、一日が二十四時間だったら。あなた、そう言ったでしょう」

その翌日。彼女は、今まで回避していた話題を、自ら掘り返していた。
いったい、何の心境の変化があったならば、彼女を変えてしまうのか。

「色々、思い出した事があるのよ。わたしは、どちらでもいいわよ」

彼女は、それ以上語らなかった。語るタイミングではなかったのか。
それは定かではなかったが、言いたいことを言ったような顔だった。

「そう。そう言えば、今年のクリスマスこそ一緒に過ごしましょう」

「いいよ。いいけど、まだ夏前じゃないか。冬は、まだ先すぎるよ」

「そう?すぐだと思うけど。違ったかしら。約束よ。破ったら死ぬ」

針千本より、幾分も重い刑を告げられてしまった。けど、破らない。
昨年のクリスマスは、両親のこともあり、実感すらもわかなかった。
僕は知らないうちに、ずっと隣で支えてくれる彼女に惹かれていた。

そう。前より、ずっと。

そう言えば、彼女に好意を伝えていなかったな、と僕は思い直した。
僕の余命は、来年の二月まで。彼女もそうだ。口には、出さないが。

それまでに、彼女に伝えたいと思った。


彼女の言葉通り、僕たちには、すぐに秋が来た。

夏は受験勉強で忙しかったそうだが、前年と同じく、夏祭りに行った。
そこでも、僕は彼女に好意を伝えることはなかった。かわされるのだ。
正しいタイミングではないというのか?それほど、上手く逃げられる。

そして、その頃には、学年の二十分の三の人数が亡くなっていた。

誰も、その事について不自然だと思わないらしい。神の力なのか。
日に日に減っていく同級生の席を見て、僕は、息が苦しくなった。

あと。あと少し、我慢すれば。僕が死ぬだけで、全ては元に戻るんだ。

そう言い聞かせて、僕はベッドの中で、毎日啜り泣いていたと思う。
僕と話してくれた同級生。他愛ない話でも、楽しかったものだ、と。
彼女の言う通りだった。いつか、面白いと思う日が来た。それが今。

何かしらの行事につけては、恋を語った。何もかもを語り合った。

それらが一つ一つ、走馬灯のように僕の中を駆け巡っていった。
僕が殺した。軽率に僕が願ったから、誰もが死んでいくんだと。

それまでの生活費は、生命保険と、ふたりの遺した預金だった。
少なくとも、僕の余命の日までは生きるには、十分すぎる程だ。
ねえ。お父さん。お母さん。また、いつもの笑顔で、笑ってよ。

この違和感は、どこから来ているのか、僕には未だに分からなかった。


「あら。先生。こんばんは。調子、どうかしら。いい感じ?」

「そうだな。ぼちぼちだ。この仕事も、もう辞めてえと思う」

体育の時間が終わり、体育館から、廊下へ差し掛かったときだった。
彼女と先生が話しているのを見て、何を話しているのか気になった。
それにしても、珍しい組み合わせだ。滅多に見られない美人ふたり。

「まったく、お前は、大した女だよな。脱帽しちまいそうだ」

「そんなことないわよ。これは、愛の結晶というものなのよ」

「うぜえな。うぜえぞお前。暑苦しいから、こっち寄んなよ」

話を聞いていても、何の話をしているのか、さっぱり分からない。
それにしても、いつから彼女と先生は、あそこまで仲良くなった?
まるで、旧知の仲であるようなくらいに。不思議すぎる。何故だ。

と、そこで同級生が体操服の裾を引き「教室へ戻るぞ」と合図した。

「ちょっとだけ」と言い、同級生も気になって様子を見ていた。
「何だ覗きかよ」と言われてしまったが、確かにそうだと思う。
そしてチャイムが鳴り、先生が戻る直前に、彼女はこう言った。

「先生は『一生のお願い』が叶うなら、何を願うのかしら?」


「先生って、いつから、彼女と仲良くなったんですか?」

そんな事を尋ねたのは、終礼をした直後のことだった。
その声を聞いたのか、彼女もこちらにやってきていた。

「こいつとか。仲良くはないな。少なくとも。間違いない」

「でも、前。親しげに話してるのを、見ちゃったんですよ」

「くそ。お前は覗き魔か。なら、教えてやる。知り合いだ」

「そうよ。先生は、わたしの前の学校の、数学教師なのよ」

「話し方も髪型も変わってたから、全く気付かなかったの」

なるほど。彼女の話は、全くの嘘ではなかったということか。
先生も認めているし、そうなのだろう。はじめて知った事実。

「あの時の先生は、すごくお淑やかに話すのよ。面白いわよ」

「お前は、相当性格悪いな。その事喋ったら、成績はゼロだ」

「じゃあ、何で先生は、そんな性格になっちゃったの?謎だ」

「そんな、大層な話じゃねえよ」


「ああ。分かりやすく喋ってやる。職場に、上司が居たとする」

「クソ上司は、ミスを犯した。そいつを、あたしに押し付けた」

「もちろん、あたしは怒る。そうしたら、上司は知らんぷりだ」

「だが、この仕事に愛着があった。辞めるわけにはいかないな」

「ってなわけで、今度はお前のところに来たってわけだ。以上」

大人の世界は深い。将来の僕の働く意欲を根こそぎ奪っていった。
先生のような優良な教師に反して、そんな人もいるのか。怖いな。

「僕。教師にはなりたくないな、って、思っちゃったよ。怖いもん」

「この仕事は、割と面白いぞ。お前みたいな面倒なのに当たるがな」

言い方が酷すぎる。確かにお世話になったが、そこまで面倒だろうか?
それを聞いていると、彼女は「面白いわねえ」などと言って笑うのだ。

「そろそろ、お前らも帰れよ。あたしは、まだ、仕事が残ってんだ」

そう言われては仕方がないので、僕と彼女は並んで帰宅することにした。
「僕って面倒?」と彼女に言うと「本当に手がかかると思う」と答えた。

少しは、器用な人間になりたいと思った。


「ねえ。あなたは、わたしのこと、好き?告白しなくてもいいから」

それに好きと答えれば、それはもう、告白なのではないかと思う。
しかし、彼女は真剣に聞いていた。ならば、真剣に答えるとする。

「好きだよ」

彼女は嬉しそうに笑った後に、すぐに寂しそうな表情をしていた。
まただ。また、この顔。僕は、君に何を言ってしまったんだろう。

「そう。なら、いいわよ。ありがとう。ありがとう?何か変かしら」

「うん。用事は済んだ?これは、告白だと思うんだけどな。どう?」

「ええ。これで、もう、大丈夫。けれど、これは告白じゃないわよ」

「もっとちゃんとしたシチュエーションで言え」ということか。
僕もそうだが、彼女もなんだか、手がかかるなと思ってしまう。
大丈夫とはどういう意味なんだ。愛情確認であるらしいのだが。

「もうすぐ、クリスマスねえ。雪でも、降ればいいのだけど」

「降るんじゃないかな?その日は、夜だったらいいと思うな」

「わたしも、その方がロマンティックだと思う。願ってるの」

願いか。そう言えば、彼女はどうして、先生にあの質問を?
観測者だとか、記録係の彼のようなことを聞いたのだろうか。

どちらにしても、世界はもうすぐ終わるのだ。


「願いは叶った。今日は、雪だって。嬉しい。雪が降るのよ」

クリスマスの日。学校は、既に冬休みだ。このまま卒業間近まで。
高校生の身分なので、それに相応しいような店で食事をしていた。

「プレゼントも用意してあるんだ。あまり、高くないけど」

「いいのよ。あなたのくれるものなら、何でも嬉しいわよ」

僕は、自らの預金通帳から出したお金から、彼女にプレゼントした。
親のお金に手を付ける気にならなかった。見栄を張るべきではない。

「最高のクリスマスになった。ありがとう。嬉しかった」

「いいよ。お互い、受験勉強で忙しくなる。会えないし」

彼女には、何も知らないで過ごしてほしい。僕はそう願っていた。
僕らは、各自で受験勉強をし、各自で受験し、卒業前に集合する。
言うなれば、次に彼女に会えるのが、僕らにとっての最後なのだ。

「ありがとう。ずっと、ずっと。大切にするから」

「そう言ってくれると、プレゼントしてよかった」

「うん。また、来年。あなたも、色々頑張ってよ」


そして、ようやく年明けだ。僕らの余命は、残り八十時間ほどだった。

彼女から年賀状が来ている。ああ、先生からもだ。ありがたいな。
僕もふたりに出したし、いい年になればいい、と楽観視していた。

実際、僕が受験する大学は、卒業式を終えてからだった。

なので、勉強する意味はなかったのだが、両親の教えで勉強していた。
男の約束もしたし。母のお願いも聞いている。幸せになってやるのだ。
願いが取り消されたら、それは「予習になるだろう」と思ったからだ。

時間の価値を知った今、ようやく、僕は人生の価値も知れた気がする。

このまま、僕は不幸せのまま人生を終える。少し怖い気がしている。
どちらにせよ、一度、死んでしまうことになる。死ぬのは怖かった。
しかし、そうしなければ現実は変わらない。このままではいけない。

「さて、勉強しないとな」

そうして日々、と言っても時間単位だが、勉強をしていればすぐだった。
勉強して、勉強して、勉強して。少し休憩して、コンビニ弁当を食べて。
たまに、母の料理の味を思い出して作ろうとはしてみたが、不味かった。

少し悲しくなって、僕は人の声が聞きたくなった。

年明けから迷惑だろうが、先生に電話してみることにした。
年賀状に番号が書いてあった。「困ったら」というように。

「もしもし。先生ですか」


「もしもし。お前かよ。どうした。あけおめだな。あけおめ」

「あけまして、おめでとうございます。声が聞きたくなって」

「ガキくせえな」と言った後、先生はすぐに優しい声音になっていた。
それに気付いて笑うと「笑ってんじゃねえよ」と、先生も笑っていた。

「ま、そんな時もあるわな。遠慮せずにかけてこい。いつでも出るぞ」

「はい。先生は、調子はどうかな。仕事に追われてる感じなのかな?」

「お前も言葉遣いが変だぞ。敬語になったり忙しいやつだな。本当に」

「ええと。尊敬してるんですけど、先生の言葉通りに喋ろうとすると」

「そうかよ。どうでもいいが。あたしは、やること、ほとんどねえぞ」

そうなのか。受験前だし、やることは多いのではないのだろうか。
とは言っても、次に集まる頃には、教室には半分も居ないだろう。

「暇なら、ゲームとかどうですか。面白いですよ。オススメします」

「あとは、そうですねえ。神社へ参拝とか。お礼参り。じゃないや」

「お前がら悪いな。あたしの事言えねえぞ。それに神は信じてない」

「そうですか。僕は、信じちゃってた」


「神様なんぞよりに頼むよりかは、幸せは自分で掴み取れよ」

「放っときゃ、降ってくるもんでもねえぞ。そういうのはな」

「信じるものは、なんてのは、嘘だ。掬われるのは、足元だ」

どこか、説得力のある言葉だった。さすが、現実を教える教師だった。
確かにそうだ。僕はもう、神に願うつもりはない。先生の言う通りだ。

「うん。その通りだ。僕は、まだ信じてるけど。僕は強くなるからいい」

「縋らないし、願わない。僕は、神様がいると、頼りたくなっちゃうし」

「お前。なかなか、成長したんじゃねえのか。あたし、割と、好きだぜ」

「ごめんなさい。僕は、先生とは付き合えないよ。教師と生徒はダメだ」

「殺すぞ。誰がお前みたいな青くせえガキと付き合うんだ。褒めてんだ」

僕と先生は、どこかおかしくなり、互いにげらげらと笑いあった。
ああ、先生は、先生であって、先生じゃないんだよ。そう思った。

「ありがとうございました。それでは、ことよろ。長生きしてくださいよ」

「うるせえよ。言われなくても、お前より長生きするんだ。さっさと切れ」

「はい。それでは、失礼します。先生」


「もう、卒業式の二日前か。教室。すごく、寂しくなっちゃったな」

「そうねえ。おかげさまで、わたしの寿命も、もうすぐだって思う」

教室には、もう数名の生徒しかいなかった。誰もが勉強していた。
この異常事態に気付かないのか、それとも、目を瞑っているのか。
恐らく後者だろう。何故なら、彼女は、どこか察しているからだ。

それは、君が。

そうじゃない。そうじゃないはずなんだ。もう、時間はない。
二日前。正確には、二時間前だ。廊下を見ても、誰もいない。

「わたしも、もうすぐ、死んじゃうの。きっと、あなたも」

僕たちは、学校の閉鎖されている屋上で、死について語っていた。
この世界が終わるまでは、少なくとも、夜であるらしい。綺麗だ。

「もっと、長生きしたかったな。あなたと、一緒にいたかった」

「小さい頃から一緒。疎遠になって、わたしは不幸だと思った」

「引越しが決まって、わたしは喜んだ。あなたに会えるんだと」

「そして、あなたも、わたしのことが好きだった。相思相愛よ」

「なのに、ここで終わっちゃうのよ。卒業もせずに、ぶつんと」

「何もかも、僕のせいだよ。ごめん」


「いいのよ。わたしは、これから、自分勝手なことをしようと思う」

「わたしは、わたしのために、あなたを幸せにして、不幸にするの」

「先に謝っておく。ごめんなさい。この気持ちだけは、伝えたいの」

「これが、最後になるかもしれないし」

そう言うと、彼女は屋上からさらに上にある、給水塔の上に登っていく。
「おいで」と手招きされ、僕もはしごに上り、彼女の隣に並び、座った。

「星が綺麗。なんて言うか、星に手が届きそう。届かないけど」

「君は、現実的だ。先生にそっくりだよ。そう思わないかな?」

「同じ事を考えてる、という意味では、そうだと思う。本当に」

しんみりした表情でそれを告げると、彼女は大きく深呼吸をした。
その横顔は、何だか赤いように思った。ああ、きっと、彼女は。

「わたしは、あなたのこと、好きよ」

「うん。僕も、君の事が—————」

僕がそう言う前に、彼女は、僕の口を唇で塞いでいた。
まだ、なのか。僕が君に告白するのは、まだなのか?
一瞬であっても、僕の口の中に、幸せの味が広がった。





…幸せの味、だって?


あなたは 幸せ です。


僕は、そのメールを受け取った瞬間、崩れ落ちそうになっていた。

幸せ。幸せだって。そう記載されている。残り一日。一時間だ。
僕は、不幸にならなければいけないはずだった。なのに、僕は。

「今まで、ありがとう。さようなら」

その声が聞こえて、僕が背後を振り返った時には、彼女は居なかった。
どうして。それに、このままではまずい。世界が書き換わらないのだ。
さようなら?どういうことだ。別れの挨拶じゃないか。彼女は、何を?

「ねえ。どこにいるの。いるんでしょう。出てきてよ」

しばらくそう叫んでみたし、あたりを探しまわってみたが、どこにも居ない。
残り一時間もない。僕はこの短時間で、どうやって、不幸になればいいんだ?
自殺。ダメだ。それでは、幸せのまま人生を終えてしまう。失敗するだろう。

不幸だと僕が感じて、観測者にそう思わせなければならない。

騙すしかない。そう思っても、観測者は日々、正確に心情を汲んでいた。
今のメールだってそうだ。となれば、僕は、観測者を騙せはしないのだ。
少なくとも、神様の使いなのだ。観測者は。観測者。彼は、そう言えば。

『幸せになるために不幸になるには、探し出すしか、他にありません!か』

記録係の彼は、こう言っていたじゃないか。探し出すしか他にないのだと。
そうだ。どうして、今まで忘れていたのか。彼は、こう言いたかったのだ。



「観測者を探せ」と。


時間は少ない。もう、残り五十分。両親のように体調を崩してはいない。

となれば、突然死するという方が自然だろう。死因は多々あったはず。
同一の条件であったのは「八十歳に至れば、死亡する」というものだ。
思い出せ。全ての事柄を。世界が書き換えられた翌日からの、全てを。

僕が最後まで拭いきれなかった、違和感を。途中で消えた、違和感の理由を。

一つ一つ、何もかも、僕の心情一つすらを確実に回想していく。
僕が願ったこと。一日が一時間になったこと。記録係の言葉を。
彼女が転校してきて、何が起こった?そして、何を見て聞いた?

情報というパズルのピースを、一つずつ、はめ込んでいく。

ゆっくりと、ゆっくりと。思考を明瞭にしていく。
外側から、内側へと。パズルは、完成していった。
そして、やがて。それは、完成し、僕は理解した。

ああ。

全てではないが、僕は、分かった気がする。
僕は、携帯を取り出し、電話をかけていた。

「屋上で待ってる」

それだけ言って、しばらくして。予想していたかのようにやってきた。
きっと、いずれは気付くと思っていたのだろう。そりゃあ、そうだよ。
考え直してみれば、あまりにも不自然すぎるんだ。ねえ、そうでしょ?





「先生」


「いきなり呼び出して、ご挨拶じゃねえか。こんばんは、だろうが」

「あなたが、観測者だったわけだ。僕は、もう、気付いてしまった」

「悪いが、何のことかいまいちでな。説明でも、してもらえるか?」

先生は。観測者は、たばこに火をつけ、ゆっくりと紫煙を吐き出した。
残り三十分。僕は、観測者に賭けるしかない。僕の幸せを委ねるのだ。

「思い出せば、最初からおかしかった。赴任早々の挨拶。まずは一つ」

「空に星が輝いてるのに『おはよう』だなんて、普通なら言わないよ」

「それに、朝飯だとか、昼飯だとかも。この世界の中では言わないよ」

「朝も昼も、たまに来る位の世界なんだから。それはおかしいと思う」

「そいつは、あたしが寝ぼけてただけだ。これは、証拠にならないな」

「あくまで、まだ、しらを切ると」

先生は立ち去ろうともせず、ただ、僕の話を聞いているだけだった。
「本当に証拠があるのか」と、僕を試しているようにも見えていた。
屋上からたばこを投げ捨てると、二本目のたばこに火をつけていた。

「なら、決定的な証拠があれば、先生はそれを認めてくれるかな?」

「ああ。いいぜ。しかし、今の発言は、認めたわけじゃねえけどな」

「なら。先生の、決定的な矛盾は」





「どうして、まだ、先生は生きているの?」


「この世界では、誰もが八十歳で死に至るんだ。それは誰もがなんだ」

「記録係の彼も、言ってたよ。神様は『猶予期間』を設定した、って」

「僕の調べでも、誰もが、あの日から二十四倍速で死んでいったんだ」

「校長先生も。元担任の先生も。親も。同級生も。皆、死んでいった」

「なのに、どうして、先生だけは、いつまでも死なないのか不思議だ」

先生は、一瞬だけ目を細めて「そうか」と呟き、たばこを投げ捨てた。
もう諦めたのだろうか。先生は、空に瞬く星空を眺めて、深呼吸した。

「そうだ。あたしが、観測者だ。ばれねえと思ってたんだが」

「あっちの世界から派遣されてよ。最初は、世界に戸惑った」

「だが、あたしがそうだと突き止めて、お前は、何を望む?」

何を望む。そんな事は決まっている。観測者も、人を幸せにするのだ。
裏を返せば、人を不幸せにする方法だって知っていて然るべきなのだ。

「先生。時間が、ないんです。僕を」

「ダメだ。そいつは、ルール違反だ」

「あたしは、幸せにするのが仕事だ」


「あたしは、どんな手を使ってでも、お前を幸せにしてやるからな」

「絶対だ。これだけは、譲らねえ。誰の言葉でも、神様とやらでも」

「それじゃ、ダメなんだ。僕は不幸になって、ようやく幸せになる」

「悪いが、それは聞き届けられない。ゲームオーバーだ。幸せにな」

「お前は、この世界の中で生きていく。永遠に。永劫に。ずっとな」

そんな。記録係の意図を、僕は読み間違えたというのか?あり得ない。
彼は、心から人の幸せを願っていた。そんな彼が、間違えるだろうか?

「………」

先生はずっと黙ったままだった。残り十分。先ほどから秒刻みにメールが来る。
やめろ。僕は、幸せじゃない。不幸にならなきゃいけない。幸せじゃないんだ。

あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。

あなたは 幸せ です。

あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。

「お前が願った世界だ。願ったり叶ったり。文字通りの世界なんだぜ」


あなたは 幸せ です。

「そうだろ?一日中、ゲームがやり放題だ。最高じゃねえのか」

あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。

「ゲームは一日一時間。神とやらも、上手いことやったもんだ」

あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。

「お願いです。もう、時間がない。人を幸せにするんでしょう」

あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。

「ああ。幸せだろ?好きな女と一緒になれた。最高じゃねえか」

あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。

「あたしは、役目を果たした。次の担当のところに行くだけだ」

「言われたろ。あたしは、どんな手段でも使うと。その通りだ」

「お前は、人選ミスをしたんだよ」


「あたしは、嘘吐きなんだ。目的の為なら、誰だって騙してやる」

あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。

「残りは三分だ。世界は確定されて、お前は幸せだ。よかったな」

あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。

「このままいけば、全人類滅亡まで、割とすぐじゃねえか。うん」

あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。

「仕事が減る。楽でいい。感謝してる。後は死んでくれりゃいい」

あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。

「だが、先に言っとく。あたしは、お前のこと、嫌いじゃねえよ」

「むしろ、相当気に入った部類だ。またいつか、会えりゃいいな」

「お前。携帯鳴ってんぞ。気付けよ」


「もしもし」

「ああ。まだ死んでないかしら。生きてるか。よかった」

「今、お取り込み中?けれど、ごめんなさい。割り込む」

「このままだと、あなた、死んじゃうんだもの。嫌だし」

「それに、せっかくキスまでしたのよ。死なれたら困る」

「言ったはずよ。わたしがあなたを幸せにしてあげると」

そうだ。よく考えれば、僕も自室で消えていたじゃないか。
「居ない?」と、母の困った声が聞こえていた、その理由。
「わたしのところにも来た」とそう言っていたじゃないか。

「まさか、あの部屋にいるのか」

彼女は、自らが不幸であると神様に訴えたのだ。
そして、あの文を見て、あの部屋に飛ばされた。
つまり、彼女が今やろうとしていることは一つ。

「やめろ。君は、自分の生を願えばいい。やめてくれよ」

「嫌です。わたし、バッドエンドを見るのは嫌いなのよ」

「準備はいい?ええ。わかった」

「あなたを、元の世界に返してあげる。幸せになってよ」

「一生のお願いなんだもの。叶わなければ、意味が無い」

「やめろよ。ダメだ。僕だって、バッドエンドは嫌だよ」

「ごめんなさい。あなたが生きてれば、わたしは、幸せ」

「わたし、言ったでしょう。自分勝手な事をする、って」



「幸せになった代償。わたしの幸せを、あなたにあげる」


「でも、心配しないで。また、わたしは転校してくる」

「父に頭を下げて。あなたと一緒の学校がいい、って」

あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。

「そして、また、あなたに会って恋をするのよ。絶対」

「また、お祭りに行くの。そして、クリスマスも一緒」

あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。

「ねえ。やめてくれ。僕は、君と一緒じゃなきゃ嫌だ」

あなたは 幸せ です。

「あなたにプレゼントをもらって、もっと好きになる」

あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。

「また、あなたとキスをして。また、きっと結ばれる」

あなたは 幸せ です。

「あ」


「どれだけ世界が変わったとしても、この想いだけは変わらない」

あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。

「また、あなたの事を、好きになる。絶対よ。わたしの事だもの」

「そうそう。いい忘れてた。あなたの、告白のことなんだけれど」

「また、あなたが、新しいわたしを好きになったとき、聞かせて」

あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。

「待ってくれ。お願いだ。君は自らの生を願うんだ。僕は嫌だよ」

「もう、時間はありはしないの。あなたを、元の世界に帰すのよ」

「さようなら。今まで、ありがとう」

その声と共に、どうやら、僕の寿命も訪れていたらしい。
嫌だ。嫌だ。言いたくても、声が出ない。息ができない。
僕の意識がなくなる直前に「死んだか」と、声が響いた。

あなたは 幸せ です。
あなたは 幸せ です。

僕から電話を取り上げ、先生は僕の方を見ずに、彼女に言った。

「もしもし。てめえの願いは、あたしがきっちり叶えてやるよ」

「せいぜい、七時間もすりゃあ、この世界は書き換えられるぞ」

「てめえが死ねば、こいつは不幸せ。元の世界に帰れる。幸せ」

「あたしの仕事は、これで終わるってわけだ。あたしも幸せだ」

「だから」

「最後に、聞かせてやるよ。大好きな女の声だぞ。よかったな」

薄れゆく意識。僕は先生に携帯電話を耳に当てられているようだ。
ああ。もう。そう思った時には、僕の瞼はゆっくりと閉じられた。
最後に聞こえたのは、どこまでも優しい声音の、彼女の声だった。

「さようなら」




「わたしの『一生のお願い』は—————」


あなたは 不幸せ です。


 業務報告書

今回の観測者の担当していた少年一名が、自殺。
帰還した際に、一時的に記憶を失っている様子。

一日目を過ぎて、ようやく記憶を取り戻すに至る。
二日目には、現実を現実と認識しなくなった様子。
三日目に対象者の友人の名前を呟き、錯乱状態に。

四日目に異常行動。深夜徘徊。精神異常とみられる。
五日目。対象者の友人に謝罪する。自我を取り戻す?
六日目。友人の名を呟き、学校の屋上から飛び降り。

補足事項として、同時刻には対象者の友人も自殺。
心理的ストレスの可能性。後追い自殺の線が濃厚。

対象者は「不幸せ」にて人生を終了。再度願いは叶えず。

「彼女の記憶を取り戻したい」との対象者の願いを却下。
「世界は取り消されたので、記憶も存在しない」と説明。

数時間ほど錯乱状態に陥り、しばらくして復帰を確認。
「僕が殺した」と呟き、帰るも、精神異常は見られず。
前述五行は、帰還した際、一日目に行った説明である。

以上をもって、業務報告を締めくくる。


「なんなんだ、これは。あなたは、二人も殺したんだ!」

その部屋の中には、二人の男女がデスクを挟んで座っていた。
記録係と呼ばれる人物は、怒りを露わにし、観測者を責めた。

「幸せにするのが、あなたの仕事でしょう。何だこれは」

「観測者が、人の選択に介入までして。やりすぎですよ」

「あいつは元の世界に帰るのが幸せだった。そうだろ?」

観測者と呼ばれる人物は、たばこに火をつけ、紫煙を吐いていた。
「終わったもん、がたがた言ってんじゃねえ」と記録係に言った。

「神様への復讐ですか。失敗した、逆恨みをしてるんだ」

「復讐か。ああ。そうかもな。その為に死んでもらった」

「適当に願い叶え続けた結果がこれだ。目も覚めるだろ」

「自動で願いを叶えて、報告書を眺めるだけなんだから」

観測者は、時計を気にしているようだった。次の仕事があるからか。
それは定かではない、と記録係は結論付け、続けて観測者を責める。

「あなたは、私利私欲の為に二人を殺したんだ!大切なお客様を」

「全部。全部。あなたが壊した。大切なお客様の幸せを。未来を」

「そうだ。御託はいいから、さっさと送信してくれ。そろそろだ」


「分かりました。では、これで送信します。首が飛びますよ、あなた」

「嘘とか書いてないですか?嘘なんか書けば、すぐに、消されますよ」

「分かってる。ああ、それと、次の仕事はいい。やることあるからな」

記録係はキーボードをタッチし、業務報告書の通りに文字を連ねていく。
「ふう」と一つ溜息をついたあとに「送信」ボタンをクリックしていた。

「終わりました。あなたは、もう、終わりですよ。二人も殺したんです」

「一回くらいなら、まだ失敗で済む。けれど、これは意図的なものです」

「ああ。お前勘違いしてるようだがな」

「あたしは、誰も殺しちゃいねえよ。一人目を殺したのは、神様なんだ」

「あたしは昔、とある男を担当した。願いを叶えた。そいつは不幸せだ」

「だが、神様はお忙しいわけだ。あたしは散々抗議した。不幸せだとな」

「なのに「お忙しい」を盾にして、そのまま、人生を確定させやがった」

「だから、これは、その復讐なんだよ」

「全部。全部。全部壊してやった。あいつらの何もかも。希望も未来も」

「全部、全部、全部。何一つ残らないくらいに、潰した。全部。だから」

「だから」


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「全部、上手く行った」

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


「何を。何を言ってるんですか。あなたは、ふたりを殺したんですよ」

「ああ。あたしは、あいつらを殺した。だが、殺しちゃいないんだよ」

観測者の言葉に、記録係は困惑しているようであった。
「遊ばれているのか」と記録係は怒りをぶつけていた。

「仮に。神様の件が事実だとしても、あなたは神様に背いたんですよ」

「ですが。今まですみませんでした。わたくしは、何も知らなかった」

「いいんだよ。誰にも言ってなかったことだし。ああ、言ったっけな」

「しかし。今回の事案に関しては、庇いきれない問題となるでしょう」

「わたくしも、思うところはあるのです。願いを叶える事の自動化に」

「一生のお願いをそんなに軽々しく扱って良いわけがないと思います」

「あなたはわたくしの心を、神様に形は違えど代弁して下さいました」

「それには感謝します。ありがとうございます。そう言えば、ですが」

記録係がそこまで言ったところで、メールの着信を知らせる電子音が鳴った。
「返信が来たようですよ」と、記録係は少し観測者を心配する様子を見せた。

「おかしいな。きちんと送信できていなかったみたいです。何でだろ」

「しっかりしてくれよ。お前の言葉で、首が飛ぶかどうか変わるんだ」

「飛びますよ。途中まで読んだ神様は、憤慨どころではない様子です」

「そうだろうな。ざまあみろ。てめえは疫病神だって書いといてくれ」


「おかしいな。送信は上手くいってるはずなのに。文章が削除されるんです」

「あたしの呪いだな。神罰くらいたくねえって文章が叫んでんだよ。多分な」

「何を言っているんですか。さて、文章も再度書き上げました。後は送信…」

「なんだ、これ」

記録係は恐ろしいものを見るかのように、悲鳴に近いような声をあげていた。
「どうなってるんだ」と、困惑した表情を隠し切れないような様子も伺える。
見ていた観測者は、声をあげてげらげらと笑う。そしてたばこに火をつけた。

「嘘を書いたら、途中で消されるはず。でも、文章が消えていくんです」

「消えていく。そりゃ、お前にとっちゃ死活問題だな。職を追われるぜ」

「なんでなんだ。何回書き上げても、書いた途端に、全てが消えていく」

記録係は、消えていく文字のスピードに抗うようにタイピングをはじめる。
それを観測者は楽しそうに眺めている。それに気付いた記録係は、問うた。

「あなた。何か、事情を知っているんじゃないですか。どうしてですか」

「さっき、言っただろ。あたしは、殺したけど、殺しちゃいないってな」

耳を傾けながらも、記録係は一心不乱にタイピングをやめることはなかった。
可哀想なものを見るかのように観測者は眺めていた。そして、言葉を連ねる。

「神様に背いた、なんても言ってたろ。だが、ずっと神様に仕えたまんまだ」

「あいつは、あたしのお気に入りだ。そうそう殺したりなんかするわけねえ」

「それに、言うだろ。『お客様は神様』だなんて。上手いこと言いやがるぜ」

「…それなら、あたしは、そっちの神様に着くんだ。これは背いてねえよな」




「疫病神なんざ、くたばっちまえ」


「あたしは、あの世界に随分と慣れちまったみたいでな。勘違いがあった」

「七時間後には、世界は書き換わる。ありゃ、嘘だ。正しくは、七日後だ」

「紙を丸めるのは早いが、しわだらけの紙を伸ばすのは時間がかかるんだ」

「つまり、今日。たった今から、世界は再び書き換わるんだぜ。幸せだろ」

「真実は嘘に塗り変わってる途中なわけだ。消えていくのは、その証拠だ」

「なぜ。あのご友人は『対象者を元の世界に帰還させたい』との願いでは」

「そんなもんは、あの女が死ねば、対象者は不幸だろ。願うまでもねえよ」

「一緒に居りゃあ、情も湧く。あたしが失敗した対象者と、同じようにな」

「あいつは不幸に死んだ。時間は三年前の六月上旬に巻き戻り、確定する」

「そして、世界終焉のロスタイム。何を願ったかは、最後のお楽しみだよ」

「あなた。そこまで理解してて。神様すら騙して、わたくしまで騙したと」

「いいか。まず、お前を騙さなけりゃ、神に報告書届かねえだろ。それに」

「神様の目は覚めて、あたしらの仕事も、本当の意味で成功するってわけ」

「騙して悪いな。だが、お前があたしに言った罵詈雑言よりか、安いだろ」

「さ、仕事だ仕事。はじめようぜ。お前は書類の書き直しだ。あたしもだ」

「はい!」

「あなたは、何も変わっていなかったんだ。反省しています。すみません」

「うるせえ。頭なんぞ下げられるのは、性に合わねえ。さっさとやろうぜ」

「あいつ。ゲームが好きなんだとよ。インドアな野郎が多くなったもんだ」

「女と一緒になって、ノーマルエンド。そして、バッドエンドを味わった」

「あたしも、煽られてやりこんじまった。薄給だってのにな。笑わせるよ」

「二つのエンディングを見た今、何が残るか。それは、一つしかねえよな」





「…残るは、ハッピーエンドだけなんだよ」


 業務報告書

今回の観測者の担当していた少年一名が、自殺。
帰還した際に、一時的に記憶を失っている様子。

一日目を過ぎて、ようやく記憶を取り戻すに至る。
二日目には、現実を現実と認識しなくなった様子。
三日目に対象者の友人の名前を呟き、錯乱状態に。

四日目に異常行動。深夜徘徊。精神異常とみられる。
五日目。対象者の友人に謝罪する。自我を取り戻す?
六日目。友人の名を呟き、学校の屋上から飛び降り。

補足事項として、同時刻には対象者の友人も自殺。
心理的ストレスの可能性。後追い自殺の線が濃厚。

対象者は「不幸せ」にて人生を終了。再度願いは叶えず。

「彼女の記憶を取り戻したい」との対象者の願いを却下。
「世界は取り消されたので、記憶も存在しない」と説明。

数時間ほど錯乱状態に陥り、しばらくして復帰を確認。
「僕が殺した」と呟き、帰るも、精神異常は見られず。
前述五行は、帰還した際、一日目に行った説明である。

以上をもって


 業務報告書

今回の観測者の担当していた少年一名が、自殺。
帰還した際に、一時的に記憶を失っている様子。

一日目を過ぎて、ようやく記憶を取り戻すに至る。
二日目には、現実を現実と認識しなくなった様子。
三日目に対象者の友人の名前を呟き、錯乱状態に。

四日目に異常行動。深夜徘徊。精神異常とみられる。
五日目。対象者の友人に謝罪する。自我を取り戻す?
六日目。友人の名を呟き、学校の屋上から飛び降り。

補足事項として、同時刻には対象者の友人も自殺。
心理ストレスの

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


「はじめようぜ。ハッピーエンドをな」


「あたしが自己紹介してんだろうが。寝てんじゃねえよ。起きろ」

僕はその声によって起こされた。ここは教室?なぜ、僕はここに。
夢を見ていた気がする。彼女が僕の幸せを願い、死んでいった夢。
そして僕は、それに耐えられなくなって、死んでしまったような。

そうだ。

夢じゃない。何で。僕は死んだはずだ。教室を見回してみた。
誰もが僕を見て、くすくすと笑ってる。全員が、生きている?
先生。先生。観測者。どうして。いったい、何があったんだ。

「聞いてんのか。あたしみたいな美人。願ったり叶ったりだろ」

「先生。なんで、ここに。僕は。彼女は、どうなったんですか」

「わけわかんねえこと言うな。ナンパか?後で屋上まで来いよ」

その声に、亡くなった元担任。今は担任?が苦笑いをしていた。
何故。世界が巻き戻っている?死んだことが取り消されたのか?

「ああ。これであたしの自己紹介は以上だ。お前らよろしくな」

「何か悪そう」「でも、いい先生っぽい」と矛盾した意見が出ていた。
僕の頭の中は疑問で膨れ上がって、今にも、破裂しそうになっていた。





「転校生を紹介する」


「呼び出して悪いな。今は、おはようございます、だったっけな」

「ええ。おはようで正しいですよ。やはりあの世界はあったんだ」

「もう、存在しねえがな。神は、今回の件で頭を冷やしたらしい」

「それはいいです。先生は、仕事を終えたのに、ここにいるのは」

「ああ。そういう細かいネタばらしは、あたしには向いてねえよ」

「後は、あの女から聞けよ。ついでに、礼も言っといてくれよな」

「わかりました。僕にはやはり、先生には敬語がいいみたいです」

「そうかよ。悪かったな。色々と。謝っても、許されねえけどな」

「いえ。いいんです。こうして、僕たちはハッピーエンドだから」

「そうか。お前は、やっぱり強くなったな。気に入ってよかった」

「長々と話をするのは性に合わねえ。聞きたいことは一つだけだ」

「お前は、今。幸せになったか?」

僕は一瞬で、先生の複雑な問いに対して「はい」と答える事ができていた。
先生はそれを聞くと「よかった」と、穏やかで優しい声音で、僕に言った。
「じゃあな」と軽く手を振り、携帯電話を取り出し、そこから立ち去った。

「久しぶり。地獄から舞い戻ってみたけど、感想はどうかしら」


次に屋上に現れたのは彼女だった。あの日、死んでしまった彼女。

「細かいことは」と言うあたり、彼女から全てが語られるのだろう。
にっこりと笑って、僕の隣に駆け寄ってきた。感動の再会だろうか。

「わたし。最初に言ったでしょ。あなたの事を信じてる、って」

「二十四時間だったら。わたしは、その言葉も信じていたのよ」

「それに、不幸のメールのことも知ってた。そして、思ったの」

「ああ、あなたは、あのメールに返信して、変わったんだって」

「そして、夏の日。あなたの言葉から、少し、疑問が生まれた」

「世界のシステムについては理解した。寿命の事で、考えたの」

「観測者は誰か。わたしは、あなたが気付くより先に気付いた」

「前の学校の自殺した彼。あなたの変化。先生の言葉遣いとか」

「先生は、態度も言葉も髪型も、名前すらも全て変わっていた」

「先生は前に、自殺した彼を担当していたんじゃないかしら?」

「わたしが偶然にも転校してきたのは、大きな誤算でしょうに」

「あなたはこの世界に戻りたいと言った。それがあなたの幸せ」

「なら、それを叶えてあげようと思った。わたしが死んででも」

「だって、あなたの事が好きだもの」


「一日は二十四時間である。そう前置きしたら諦めてたかしら」

「そして、お互いの意図を確かめてた。人を幸せにする目的を」

「先生は、最初、あなたの両親の死亡による不幸を狙っていた」

「けれど、先生はわたしが計画の邪魔になると思ったらしいの」

「なぜなら、あなたは、わたしのことが好きだったからなのよ」

「いつか不幸はお前によって幸せに塗り替わる。そう言ってた」

「でも、言ったのよ。わたしは死んでも彼を幸せにしたいって」

「そうしたら、お前をあいつの不幸の予防線にすると言われた」

「もし、幸せになったとき、お前があいつを不幸にしろよ、と」

ああ。先生が僕たちに言った「付き合っちまったか」はそういうことか。
そして、僕だけには言えない事情。僕が知ったら、計画は破綻するから。

「わたしは泣きながら了承した。それを見て、先生は言ったの」

「あたしはお前らを殺すが、絶対に幸せにしてやるからよ、と」

「それを聞いて、悟った。この人になら、命を預けられるって」

「計画の内容も聞いた。神様の構築した理論を利用する内容を」


「神は絶対じゃない。それがロスタイムというイレギュラーだ。先生は言った」

そうだ。記録係の彼も言っていた。ロスタイムという存在のことを。
先生は何もかもを知り尽くした上で、僕と彼女を殺す計画を立てた。
僕たちを幸せにするためだけに、僕たちを、不幸に陥れようとした。

「対象者の不幸せでの死亡によって、願いの取り消しは確定される」

「その時点で、あの日へと巻き戻ることは決定。で、世界は一つよ」

彼女と先生は、僕が不幸を抱えたまま死に至る瞬間を待っていたのだ。
先生は完全なる悪役へと身を落として、彼女は命を賭してまで待った。
ふたりの言う通りだ。僕は手が掛かるし、面倒な生徒だったわけだな。

「この仕事」というのも、観測者の仕事だったというわけだ。

何かしら噛み合ってないなと思わざるを得なかったのは、そういうことか。
ならば「まともな教師でない」だとか「お前より長生きする」も納得する。

「最後の一時間。幸せになったけど、わたしは不幸を選んで送信した」

「すると見事にお爺さんの記録係の部屋に飛んだ。渋くてかっこいい」

「もし、あなたの記録係のところに飛んだら、先生の計画は頓挫する」

「わたしの計画が成功しても、先生の計画が潰れればフェアじゃない」

「でも、あなたの記録係は言ってた。部屋はたくさんあるから、って」

「それを信じて飛んだら、ばっちり。記録係も正直者でよかったわよ」

「で、わたしはあの部屋から電話した。そして、わたしは願ったのよ」





「一日を二十四時間にするゲームを」


「あなたは元の世界へ戻る。けれど、そこで会うのは何も知らないわたし」

「そんなのは嫌だもの。だから、元の通りに世界を創り変えてやったのよ」

「同級生も、先生も、両親も死んだの。そんな世界なんて、いらないもの」

「あなたは元の世界に戻って、わたしはこの世界からあなたの世界へ行く」

「何も知らないわたしは、何もかもを知っているわたしに成り代わったの」

「あの日。あなたが願った日を起点に。タイムラグで、それは叶ったけど」

「言ったでしょう。自分勝手な事をするって。自己中も度が過ぎたかしら」

「そして、観測者の選定は先生を選んだ」

「お世話になったもの。恩返しをしないと。これからは幸せしかないもの」

「ずっと幸せが続くんだもの。幸せのメールを送り続けるだけの楽な仕事」

「先生に言ったら『お前を神を崇めてもいいぜ』なんて、褒められたのよ」

「以上で、ハッピーエンド。お分かり?」

ああ。彼女の言葉で、全てのパズルのピースが埋まった。
彼女の愛は重い。しかし僕には大歓迎の愛だと断言する。
彼女の唯一の嘘は「さようなら」だった、というわけか。

見事に騙された。少しだけ頭を抱えてしまいそうだった。
屋上での言葉は、文字通り同じ計画の事を指していたか。

「そう言えば。君は、最後の電話で『あ』とか、何か気付いてなかった?」

「ああ。あれ?演劇の台本を読んだだけよ。最初の電話で聞かなかった?」

「やりたかった台本を、一番にあなたに聞かせてあげられた。ハッピーよ」

まさかそんなところまで演技だったとは。迫真の演技という他にない。
彼女は、引越し中の車内から電話してきたわけか。ビデオを見ながら。
完全に忘れていた。というか、彼女の言葉は、全て真に受けていたが。

このメールは、本当に「幸せを運ぶ不幸のメール」だった、というわけだ。

思い出してみれば、先生の言葉と態度だったり、彼女のそれもおかしなものだ。
疑問に思ったが言葉にできなかったのは、嘘をつかずに嘘をついていたからだ。
言葉にするということは、難しいものだな。今になって、そう思い始めていた。

「さて。そろそろ、あなたからわたしへの、愛の告白の瞬間よ」


「ハッピーエンドは、これをもって締めくくられるのよ。わかるかしら」

「もちろん。ああ、けど、その前に君の告白が聞きたいな。ダメかな?」

「いいわよ。わたしは、あなたが好きです。付き合って。愛してるわよ」

「一生離さないわよ。文字通り一生を賭けたわけだし。あなたも一生よ」

「うん。じゃあ、言うよ。僕も、君のことが好きだ。君を一生愛するよ」

「そう。それでいいのよ。ふふ。ふふふ。ふふふふ。顔がにやけちゃう」

「最高のシーンが台無しだよ。なんてことだ。これは嘆かわしいと思う」

「わたし、まだ大根役者だから。これから演技もよくなっていくと思う」

「演技は困るよ。さも幸せそうですみたいじゃ嫌だ。幸せになるんだよ」

「そう言えば、あなたはもう一つ『一生のお願い』が願えるじゃないの」

「ああ。でも、僕は願わない。神様に頼ってちゃ、幸せになれなそうだ」

「でも。その代わり、僕は君に願うんだよ。願いって、そういうものだ」

「ゲームは一日一時間。これからは君の隣で大切な時間を使っていくよ」

「親にも謝るんだ。やること多いけど、時間はある。大切な時間がある」

そこまで言ったところで、僕は携帯の着信音に気付いた。でも、続ける。
だって、見なくたって、誰から何が送られてきたか、わかってるんだし。
さて、この言葉で、僕たちのハッピーエンドを締めくくるとしようかな。

「ずっと、僕の隣に居てほしいんだ」

「言うなればだけど。これが、僕の」










「一生のお願いだ」


件名 : 一生のお願い

本文 : お幸せに。


おわり


「ゲームは一日一時間」は以上です。
読んでいただいた方、ありがとうございました。
補足修正を兼ねて、html化依頼は後日に提出する予定です。



読みやすいし面白かった

>>1は他にもなんか書いてた?

乙!すごくよくできたSSだった 何より伏線回収と演出がすごい
最後付近は鳥肌が収まらなかった

>>1の他の作品も読んでみたい
サイトとか他に公開してる作品とかあったら教えてください

なにこれすごい

これは史上最高の神SS

乙乙!いいもんだった
この読み口、普段読んでる二次の人だと見た
この前「よわくてニューゲーム」書いた人であってるよね?

高橋名人の名言から壮大なストーリーが…乙乙

乙、面白かった
もしかして、弱くてニューゲーム書いてた人?


>>122 >>123 >>126 >>128 さん

確かに「よわくてニューゲーム」を書きました。
サイトとかはないです。Twitterならしてます。
そこでSSの一覧とか公開してるくらいだったり。

補足修正は後日行います。


>>77 修正です。

☓ その翌日。
○ その翌週。

>>117 修正です。

☓ 「先生に言ったら『お前を神を崇めてもいいぜ』なんて、褒められたのよ」
○ 「先生に言ったら『お前を神と崇めてもいいぜ』なんて、褒められたのよ」

--

以上で補足修正を終わり、html化依頼を提出します。
その他間違いがあってももう書き込みません。

それでは、ありがとうございました。


やっぱりお前さんだったか、今回も素晴らしかった

いやー面白かった
やっぱ弱くてニューゲームの人だったかwwwww
また新作楽しみにしてます

にしても序盤の進学校で下の方でゲーム好きな主人公とかゲーム我慢できてるとこ以外完全に俺じゃんwwww
とか思ってたら中盤からキツくなってきたでゴザル

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