『えへへ、来ちゃった』
『おお、よく来たな、千石。まあ、上がれよ』
あれはまだ、僕と千石との関係が破綻する前。
自宅に訪れた千石を、僕は自室に連れ込んだ。
僕が知る千石撫子は長く伸ばした前髪で目を隠していて目立たず大人しい女の子だったのだが、その日の彼女は珍しくヘアバンドをつけて前髪を上げていた。可愛らしい顔立ちだった。
「ふむふむ、なるほど。気合い充分ですね」
「あれは千石なりの気合いだったのか?」
「それはもちろん。落とす気満々ですよ」
今更そう言われても、もうどうにもならない。
僕はどうやら俗に言う鈍感系主人公らしいので、前髪を上げキャミソール1枚でミニスカートを穿く千石の気合いとやらに気づけなかった。
「いえいえ、ちゃんと気づいていましたよ」
「いやいや、全然気づかなかったよ」
「またまた、謙遜は要りませんって」
「君は僕の何を知っているんだ、扇ちゃん」
「私が知っているのは、愚か者には罪が憑き物だということだけです。なのであなたの罪は、愚かなあなた自身がよくおわかりでしょう? 」
愚か者の罪物語。
愚か者には罪が憑き物。
この物語に名前を付けるならばまさに。
そのタイトルが相応しいと、愚かにも思った。
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『暦お兄ちゃん! ツイスターゲームしよ!』
いつもと違い女性的な魅力を前面に押し出してくる千石であったが、その発想力は所詮中学生というべきもので、愚かにもこの僕に対してツイスターゲームを挑むという愚行を犯した。
「愚かですねぇ。魂胆が前髪透けて見えます」
「まあ、女子は大抵男子よりも身体が柔らかいし体重も軽いから有利なことは確かだけどな」
「いやいや、勝ち負けはともかくとして阿良々木先輩に蛇みたく絡みつくつもりなのは明らかじゃないですか。観点を間違えずに、論点をずらすのはやめてくださいよ、この愚か者」
ツイスターゲーム。
指定された箇所に手足を乗せる室内遊戯。
ツイスターには詐欺師という意味もある。
ひねり、ねじり、絡み合う遊び。
それを扇ちゃんは、蛇に例えた。
赤い舌をチロチロ出して、馬鹿にしたように。
「そんなゲームを受けて立つなんて、どれだけ女子中学生と絡み合いたかったんですか?」
「僕はただ、吸血鬼の特性を利用しただけだ」
「利用ではなく、言い訳に使ったわけですね」
僕に残る吸血鬼の特性。過去の過ちの代償。
それを用いれば、有利なゲームだと思った。
多少無理な体勢でも、それこそ関節が外れようとも、短時間で回復出来るならば支障はない。
そんな建前を言い訳にして僕は受けて立った。
『うう……どうしよう。足が届かないよぉ』
『おいおい、千石。もう降参か?』
思いの外簡単に、あっさり趨勢は決した。
千石の身体は柔らかいけれど小柄である。
遠く離れた箇所には、足が届かなかった。
「なるほど。つまり阿良々木先輩は女子中学生の股の間から顔を出していたという訳ですね」
「ゲームだからな。やむを得なかったんだよ」
「それは違います。だって現に、あなたは私の黒タイツに包まれたふとももに顔を挟まれて、気持ち良さそうにしているじゃありませんか」
たしかに現に僕は扇ちゃんの股の間から顔を出しているが別にそんな体勢を望んではいない。
「要するに私のせいだと仰りたいのですか?」
「君のせいも何も、当時と同じ体勢を実演してくれと頼んできたのは扇ちゃんじゃないか」
「何をご自分の都合良く解釈しているのですか、この愚か者が。私の黒タイツに顔を挟まれたいとあなたが願ったから挟んであげたのではないですか。感想くらい言ってくださいよ」
感想。乾燥。黒タイツは乾いている。
乾いた笑みを浮かべて、カラカラと。
サラサラしたタイツの感想を述べた。
「扇ちゃんの匂いがする」
「気持ち悪いですねぇ。この愚か者は」
「ちなみに、千石の股からは……」
「どうせおしっこの匂いがしたんでしょう?」
「君はなんでも知ってるな」
「あなたが女子中学生のおしっこの匂いに不埒にも興奮を覚えただけですよ、この不埒者」
グリグリとふとももで両頬を挟まれながら。
ゲームの前にお手洗いに行った千石のことを思い出して、確かに僕は期待していたと認めた。
『僕が支えてやろうか?』
『えっ!? い、いいの?』
『ああ、安心して任せろ』
あの時、不安定な千石を僕は支えてやった。
「それで、腰に手を回したわけですか」
「ああするしかなかったんだよ」
「対戦相手を支えるなんて、愚かですねぇ」
もっともな指摘だ。あり得ない提案だ。
だが、あの時はああするしかなかった。
理由は定かではないがそう思ったのだ。
「そんなの簡単ですよ。少しでも長くゲームを続けたかったからに決まっているでしょう?」
そうなのだろうか。
そうかも知れない。
僕はもう自分自身のことが信じられなかった。
「私は阿良々木先輩のことを信じていますよ」
「愚か者を信じるなんて、君も変わってるな」
「いいえ、変わっているのはあなたです。だから、そんな奇人変人がこれから何をしようとも私は微塵も驚いたり動揺したりはしません」
奇人変人。奇妙で変わり者な、人間。
その表現が適切であるかどうかは不明だ。
そもそもの話、僕は人間なのだろうか。
吸血鬼もどきの人間なのか、果たして。
人間もどきの吸血鬼なのか、わからない。
「人間ですよ。叔父さんもそう言ってました」
忍野メメの言葉だけが人間性を保証していた。
『暦お兄ちゃん……』
『どうした、千石。顔色が悪いぞ』
ゲームを続行して、しばらく経った頃。
千石の顔色が悪いことに僕は気づいた。
青い顔をして冷や汗が額に滲んでいる。
「どうやら、物語は佳境を迎えたようですね」
「いや、残念ながら物語はここでおしまいだ」
「そんなわけないでしょう。悪い冗談にも程がありますし、そもそもセンスがありません」
センスがないと言われても対応に困る。
僕に話せるのはここまでで、後はない。
その先は何もなかった。その筈だった。
「体調を崩した彼女を阿良々木先輩が介抱して、それで終わりなんてあり得ませんよ」
「だけど、本当にそれだけなんだ」
「それではこちらをご覧ください」
そう言っておもむろに、扇ちゃんはスカートを捲り上げて、黒タイツをスルリと下げた。
「い、いきなり何をするんだ扇ちゃん!?」
「ああ、安心してください。偶然にもタイツの下にブルマーを穿いていたので平気です」
慌てて目を逸らした僕に、扇ちゃんは何てことないようにタネを明かして、昏く嘲笑をした。
『どうしてブルマーを穿いているんだ?』
『暦お兄ちゃんに褒めて欲しかったから……』
ブルマー姿の扇ちゃんを見て思い出した。
あの時、千石もブルマーを穿いていた。
しかし、どうしてそのことに気づいたのか。
「こんな風に見せつけられたからでしょうね」
「千石がそんなことをするわけないだろ」
「いやいや、あの子ならやりかねませんよ」
あの大人しい千石に限ってそんな筈ない。
いくらなんでもブルマーを見せるなんて。
しかし、そうでなければおかしいのは事実。
いかに奇人変人であろうとも、この僕が女子中学生のスカートをめくることなどあり得ない。
「まあ、阿良々木先輩が犯罪に手を染めるかはともかく、ヘタレな愚か者に女子中学生のスカートをめくることは不可能なので、向こうから見せてきたことは間違いないでしょう」
然り。扇ちゃんの推理に納得せざるを得ない。
状況証拠は全て、千石の行動を裏付けている。
しかし、それが不可解なことには変わりなく。
「あとは動機を究明するだけですね」
「動機……」
「彼女が一体何故、スカートの下に穿いていたブルマーを阿良々木先輩に見せたのか。その動機をあなた自身の口から聞かせてください」
「……僕は何も知らないよ」
何も知らない僕は扇ちゃんのブルマー姿に釘付けで、下がった視線を持ち上げるように萌え袖に包まれた手のひらで顔を挟み持ち上げられ。
「いいから洗いざらい吐けよ、この愚か者」
昏く、真っ黒な瞳に映る情けない自分の顔と無理矢理向き合わされて、堪らず僕は白状した。
『実は今朝からお腹が痛くて……』
『そう、だったのか……』
『お部屋を汚しちゃってごめんなさい』
あの日、ゲームに没頭していた僕の耳に。
ぶちゅっ!
と、なにやら多分に水気を含む音が聞こえて。
初めは気のせいかと思い、気にしなかったが。
気づくと千石が蹲っていて、そして次の瞬間。
ぶりゅりゅりゅりゅりゅりゅりゅりゅぅ~っ!
ツイスターゲームの上に下痢便の海が広がり。
僕の手や足に、生温かい液状の便が付着して。
それを鼻先に近づけた瞬間、意識が、飛んだ。
「フハッ!」
あの時と同じように、扇ちゃんが噴き出した。
僕は咄嗟に耳を塞ぎ狂気から逃れようとした。
そうしなければ、あの日湧き上がった愉悦が再び自分を狂わせるような気がして、怖かった。
「おっと、これはこれは大変失礼しました」
「僕は悪くない。僕は悪くない。僕は……」
「大丈夫ですよ、阿良々木先輩。私は……いえ、僕はあなたの味方です。安心してください」
「扇ちゃん……いや、君は扇くんなのか?」
「そうです。ブルマーを穿いた、忍野扇です。忍野メメの甥っ子ですよ。安心しましたか?」
ブルマーを穿いた扇くんはなんだかとても魅力的で、僕の不安定な精神を安定させてくれた。
『大丈夫だ、千石。僕は何も見なかった』
『ほんと……?』
『ああ、何もなかったんだ。だから大丈夫』
僕はその日の出来事を全て忘れることにした。
それは千石の為であり、自分自身の為だった。
そうしなければ、人間じゃなくなると思った。
「そうしてあなたは過ちを犯したわけですか」
「……申し訳ない」
「いえいえ、別に責めているわけではありませんよ。むしろ私が咎めたいのは、阿良々木先輩が彼女の真意を便と共に汲み取ってあげられなかった点です。本当に鈍くて愚かですねぇ」
あの日、糞を漏らした千石の真意。
そんなことは考えてもみなかった。
あの時の僕は自分の保身で精一杯だった。
「もしかしたら、その日の出来事が彼女を決定的に狂わせてしまったのかも知れませんね」
「僕のせいなのか……?」
「ええ、あなたの罪です」
一方的に僕を断罪した扇くんは、おもむろに。
「罪には罰を与えましょう」
ぶりゅっ!
膝の上に跨った彼はブルマーのまま脱糞した。
ぶりゅりゅりゅりゅりゅりゅりゅりゅぅ~っ!
「フハッ!」
ブルマーごしに、肌に伝わる生温かさ。
それは、僕が背負うべき罪の筈なのに。
とても心地良く感じた。認めたくない。
「フハハハハハハハハハハハハハッ!!!!」
扇くんの盛大な哄笑が高らかに響き渡る。
まるで少女のようなその嗤い声は美しく。
愉悦と狂気に包まれて、自己を見失った。
客観的に見せつけられると、あの日の自分がいかに狂っていたのかが身に染みて、震えた。
「どうしたんですか? 阿良々木先輩」
「僕は……愚かだ」
「ようやくお気づきになられましたか。それは何よりと言いたいところですが、ところで」
扇くんは昏い瞳でこちらを見据えて。
キョトンと可愛らしく小首を傾げて。
ニヤニヤと嗤いながら、指摘をした。
「どうして再び、罪を繰り返したのですか?」
「は?」
「まさか憔悴し切った阿良々木先輩が懲りずにまた盛大に哄笑するとは思いませんでしたよ」
何を言っているんだこの子は。理解出来ない。
哄笑していたのは君で僕は怯えていただけだ。
それなのにどうして、そんなおかしなことを。
「牙、見えちゃってますよ?」
「あっ」
言われて気づく。
吸血鬼の牙が剥き出しであることに。
それはすなわち、大口を開いていた証であり。
「あの子のブルマーを穿いた上で糞を漏らして愉悦に浸るなんて、本当に度し難いですねぇ」
ブルマーを穿いていたのは僕で。
その姿で糞を漏らしたのも僕で。
盛大に哄笑したのも、僕だった。
後日談というか、今回のオチ。
「みっともない姿を見せて、ごめん」
「いえいえ、目の保養になりました」
あの後、すぐに僕は身を清めてから。
醜態ならぬ臭態を晒してしまったことを詫びた。
というか、オチではなくウンチをしてしまった件について、僕は素直に扇ちゃんに謝罪した。
そして改めて、今回の過ちについて整理する。
「このブルマーは恐らく、あの日、漏らした千石が僕の部屋に置いていったものだろうな」
「あるいは買い取ったのかもしれませんよ」
何を馬鹿な。それだけは絶対にあり得ない。
全くこの子は僕をなんだと思っているのだ。
そんな抗議の眼差しを送ると、扇ちゃんは。
「いまならなんと私のブルマーが5000円です」
「買った!」
なんて、お約束はさて置き。
財布の中身をカラカラにしてから、閑話休題。
改めて、問題点を洗い出す。
「ツイスターゲームがそもそも問題だったな」
「そうですね。女子中学生と行うゲームとしては、一般的に不適切であると言えましょう」
不適切なゲームを適度に切り上げることを疎かにした結果、今回のような事故が起きたのだ。
「事故ではなく、事件ですけどね」
「せめて事案に留めておいてくれ」
泣く泣くそう願い出ると、扇ちゃんは少し考えるそぶりを見せてから、きっぱりした口調で。
「いけませんね。揉み消しは認めません」
と、言ってから、わざとらしく胸を隠しつつ。
「揉ませませんよ」
なんて言われると僕としても、そもそも君に揉めるくらいの胸があるのかと言いたくなるもので、しかしそれを口にしたらそれこそ事案が発生して、事件となり、立件されてしまいそうな気がしたので、やむなく黙秘権を行使した。
「それと、最も大切なことなのですが」
「まだ何かあるのか?」
「私は阿良々木先輩とこうして戯れ合った思い出をなかったことになんてしたくありません」
そう言って、扇ちゃんは萌え袖で包まれた存外温かい手のひらで僕の両頬を挟み込み、昏い瞳を閉じ、額をこちらの額にコツンとぶつけて。
「だから忘れないでください。この愚か者」
「ああ……わかった」
たとえ、どんな罪を犯しても。
たとえどれだけ罪を重ねても。
それを背負い忘れないことが。
愚かな僕に課せられた使命であると理解した。
【罪物語】
FIN
おまけ
「意味なんてないわよ」
友達はいらない。
友達を作ると、人間強度が下がるから。
かつて僕はそのような主義主張を掲げていた。
「意味なんて、嫌いだもの」
僕がそのような思想を抱くことになった原因は、高校1年生の時に起こったクラス内で発生した出来事に起因していて、その騒動の中心人物が多数決によって迫害されたことにより、人の群れに対し失望したことが主な理由である。
「嫌い」
もっともあの時、他ならぬ僕自身が身に覚えのない事件の主犯に仕立て上げられそうになっていた為、そのように仕向け、そして立ち居振る舞いに失敗した老倉育に対して心から同情しているかと言えば、そうでもないというのが本音であり、以来ずっと複雑な思いを抱えていた。
「嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い、嫌い!」
そんな老倉育に対して、どのような印象を持っているかと言うと、簡潔に述べることは困難を極めるのだけど、それでも敢えてひとことで言い表すのならば、やはり不器用という印象だ。
「自分ひとりの力で何もかもを手に入れたようなお前が、私は心底憎たらしくて堪らない」
蛇蝎の如く嫌われて。
親の仇のように憎まれて。
それでもそんな不器用な彼女を放っておけず。
「元気そうで何よりだよ」
僕は今日も甲斐甲斐しく幼馴染の世話を焼く。
「どうして雨なのにシーツを干してるんだ?」
「だから、意味なんてないわよ。嫌いだもの」
ベランダに干してあったシーツに目が留まる。
今日は土砂降りなので、乾く兆しはなかった。
なので、ひとまず取り込もうとしたのだけど。
「触らないで」
「でも、今日は土砂降りだぜ?」
「触るなって、言ったのに……!」
シーツを取り込む僕に、老倉は抗議した。
以前はそれで、手の甲をペンで刺された。
とはいえ、僕には吸血鬼の回復力があるので、その程度の怪我はすぐに完治するし、その人外の回復力を他の誰かに見られる心配のない今ならば、別段警戒する必要はなかった。
「大きいバックに入れて、コインランドリーで乾燥させた方がいいと思うけど、どうする?」
「余計なことしないで」
「じゃあ、そうするか」
長らく自宅に引きこもっていた老倉は会話のキャッチボールが苦手であり、特に僕が相手だと全て否定で返してくるので、まともに取り合わず、濡れたシーツを丸めてバックに詰めた。
「なんで急にシーツを洗濯したんだ?」
「意味なんてないって言ってるでしょ」
最寄りのコインランドリーにて、濡れたシーツを乾燥機に入れ、ドラムがグルグルと回転する様子を眺めながら、乾くまで手持ち無沙汰な僕と老倉は、一見雑談とも見て取れるものの、その実、完全に一方通行な独り言を呟き合った。
「阿良々木の息の根を止める夢を見たのよ」
「へぇ……それはなんとも、縁起が悪いな」
「すごく気持ち良くて、おねしょをしたの」
老倉育が今、なんと言ったのかは知らない。
少なくとも断じて僕の耳には届いていない。
そういうことにして、独り言に耳を傾ける。
「阿良々木」
「ん?」
「今の、聞かなかったことにして」
「ああ。わかってるよ」
老倉の独り言に、僕は相槌を返す。
すると彼女は何やらモジモジして。
僕の袖をくいくいっと引っ張った。
「阿良々木」
「なんだよ」
「やっぱり聞いて」
「ちゃんと聞いてるよ」
「聞かなかったことにしてって、言ったのに」
僕は呆れない。
溜息を吐かない。
不器用な老倉の隣で、聞こえないふりをする。
常時情緒不安定な老倉育は、俯いて何やら考え込んでいたり、そして忍笑いをしてみたり、かと思えば頭を抱えて恐慌状態に陥ったりする。
「うう……阿良々木におねしょがバレた。恥ずかしい。死にたい。消えてなくなっちゃいたい」
一見すると狂人じみてはいるが、今となってはそれを彼女の個性として僕は受け入れ、あまり心配することなく、黙って落ちつくのを待つ。
「阿良々木。そこに居るの? ねえ、阿良々木」
老倉育はしきりに僕の名を呼ぶ。
そして僕が隣に居ることを確かめる。
時折、おずおずと袖口を引っ張る。
「阿良々木、耳を塞いで」
僕が黙って乾燥機を眺めていると、彼女は安心したように綺麗なハミングで鼻歌を奏でた。
それは先日、数ある物語シリーズの楽曲の中で、僕が個人的に気に入っている扇ちゃんのテーマ曲を老倉に聞かせたもので、正確な旋律から察するに、その日以来、お風呂にでも浸かりながら口ずさんでいたのかも知れないと想像すると、この不器用な幼馴染が愛おしく思えた。
「別に、意味なんてないわ」
「ああ、わかってる」
「意味なんて、嫌いだもの」
友達はいらない。
友達を作ると、人間強度が下がるから。
しかし果たして、友達が居なかった僕は、人間として高い強度を持ち合わせていただろうか。
「私は阿良々木が嫌い」
全てに対し、嫌いと嫌いが嫌いで嫌いの嫌いへ嫌いな嫌いは嫌いを嫌いだと口にする彼女は。
「私は私のことが嫌い」
手を握りたいけれど、握ったら壊れてしまいそうで、人間としての強度は感じられなかった。
「阿良々木」
「なんだよ」
「今すぐ消えて」
僕は消えない。
少なくとも、乾燥が終わるまで。
老倉育の隣で、乾燥機を眺める。
「阿良々木」
「なんだよ」
「お前が消えたら、私はどうなるの?」
老倉育の存在理由は簡単だ。
アンチ阿良々木暦。それが彼女の生きる意味。
僕が居るから老倉が居て、恨み、憎み続ける。
「阿良々木」
「なんだよ」
「やっぱり消えないで」
簡単で、簡潔で、そして複雑な僕達の関係性。
非常に不器用で、とても面倒くさいけれど、それは確かに生きていると実感出来る関係性だ。
「子供が欲しいわ」
乾燥機が止まり、さあシーツを回収しようとした矢先、老倉育がおかしなことを口走った。
「どこかに落ちてないかしら」
そんな、犬や猫じゃあるまいし。
捨て子なんて居たら、大騒ぎになる。
なので、そのような妄言は聞き流して、乾燥機からせっせとシーツを取り出していると。
「阿良々木のような子供を、阿良々木みたいな恩知らずにならないように育てたいのよ」
身も蓋もないことを言われた僕は、仕方なく、乾いたシーツを片手に老倉に尋ねてみた。
「それに何の意味があるんだ?」
すると彼女は、しばらく考えてから、頷いて。
「意味なんかないわね」
「そうだな」
「まったく。だから、意味なんて嫌いなのよ」
ご理解頂けたようでなによりだと僕も頷いた。
「ひとまず」
老倉育は自分の考えを総括するように呟いた。
「何よりも先決なのは、子供の前で今日みたいにおねしょをしないようにすることよね」
「フハッ!」
思わず愉悦を漏らすと老倉は怪訝な面持ちで。
「阿良々木」
「なんだ?」
「どうして嗤うの?」
「意味なんかないさ」
例えば将来、僕みたいな子供の前でおねしょをしてしまった彼女の様子を想像してみたり。
例えば、シーツをバッグに押し込んだ際に香った彼女の尿の匂いに鼻腔をくすぐられたり。
意味を探そうとすればきっと見つかるだろう。
「意味なんて、嫌いだからな」
そうやって、なんでもかんでも意味を見い出そうとするこの世の中は酷く無意味だと思った。
「阿良々木」
「なんだ?」
「もう二度と嗤わないで」
「どうしてだよ」
「幸せそうに悦に浸るお前が嫌いだから」
そう言って僕を睨みつける老倉育の顔が、見たこともないくらい真っ赤に染まっている。
困った幼馴染だ。これが嗤わずにいられるか。
「フハハハハハハハハハハハハハッ!!!!」
「もう二度と嗤うなって、言ったのに……!!」
「フハハハハハハハハハハハハハッ!!!!」
老倉に叱られながら、僕は盛大に哄笑した。
意味もなく高らかに、無意味な愉悦を振り撒き、無い物ねだりをするこの世の中を嘲嗤う。
無論、この無意味な物語に後日談などない。
必然、気の利いたオチなどあるわけもない。
意味なんて、嫌いと嫌いが嫌いで嫌いの嫌いへ嫌いな嫌いは嫌いを通り越して、嫌いだから。
【無物語】
FIN
余接がノーパンで阿良々木が尻子玉食われるの書いた人か
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