【ミリマス】琴葉は過度なスキンシップ行為を訴えたい! (52)


「すみません、こっち向いてください!」

「今回の噂についての真相を――」

「相手は高校を卒業したとはいえ、まだ未成年だって聞いてますが」

「これがきっかけになってユニット解散とか……!」

「自社で売り出し中のアイドルに手を出す罪悪感は無かったんですか!?」


次々にがなり立てられる質問と、通りを照らすフラッシュの雨。

被写体を、カッターで切りつけるような、鋭いシャッター音が幾重にも重なる。

そうして熱……。純粋な情熱でなくて、好奇や妬みが織りなす歪んだ形の下卑た熱意。

それが、画面越しでも強く感じられた。

お陰で肩が震えるような寒気を感じ、田中琴葉は乾かしたばかりの髪をくしゃり。

使い終わったドライヤーを手早く片付けると、改めてベッド上のスマホと向かい合う。

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「――と、言うワケで今回の熱愛騒動。まさか人気上昇中のアイドルが、
これまた"まさか"の自社のプロデューサーと恋仲だった事実にネット上では非難の声も吹き荒れています。
当然、ファンにとっては裏切られたと感じられて仕方がない所ではありますが……」

「そうですねェ……。彼女にしろ、相手のプロデューサーにしろ、この件は軽率だったと言わざるを得ない。
実を言えば私もファンの一人だったので、いや、この話を聞いた時は驚いたのなんの――」


そうして、カメラがスタジオに戻った後の、キャスターとコメンテーターのやり取りに困ったように顔をしかめる。

アイドルは、応援してくれるファンの存在があってこそ。

確かにそれは正論である。聴いてる琴葉の耳も痛い。

何時解けるとも知れぬ魔法の結晶。

ガラスの靴を履いて芸能界に入った以上、それは何人たりとも犯してはならない絶対遵守の不文律だ。


軽んずれば何らかの不利益を被り、破れば当然罰が下る。

具体的には芸能界からの即時引退。

そこまで極端で無いにしても、一度失った信用を取り戻す道は並大抵の苦労ではない。

なので同業者である琴葉自身、キチンとその事を理解して、
だからこそ自分を応援してくれている不特定多数の彼・または彼女らをガッカリさせてしまうような、
軽率な振る舞いは取らないよう日頃から気を使って過ごしているつもりだった。

――例えば、彼女が何らかの番組に出演をして、司会から「琴葉ちゃんは彼氏とかいるの?」といった質問が飛んで来たとしよう。

そんな場合、琴葉はほんの一瞬驚いたような表情を浮かべ、それから恥ずかしそうに照れ笑って、


「いません。……あの、遅れてるって思われちゃうかもしれませんが、まだ、恋っていう物がよくは分からなくて」

と、返答するイメージトレーニングも事前に『予習』して準備するぐらいだ。

まさに備えがあれば憂いは無し。

琴葉とはそうした抜かりのない少女であるし、逆に言えば、それ程までに『アイドルに恋愛は御法度!』な価値観が世間には強く根付いている。


……だが、しかし、それでもなのだ。

本日、最も世間を沸かせる事になった噂の二人に限っては、その名分も規律も束縛力も大した意味は持ちはせずに。

これまでの自分を支えてくれた多くのファンを、業界内の関係者を、

何より一緒に活動するユニットの仲間を裏切ってまで成就させたかった熱い"恋愛"!

衝動のままに行動を起こした渦中の二人の関係を……琴葉は少し、羨ましいとさえ思ってしまう。


二人で手を取り愛を与え、愛を見つけ、愛に生きて――そうして、愛するが故に愛に殉ずる。

「……だけど、こんな風に考えちゃうの、私もアイドル失格になっちゃうかな」

琴葉は小さく嘆息した。

それから枕を抱き寄せると、流れ始めた次のニュースをぼんやり眺めながら、
例えばこれが自分だったら――自分が"愛"に生きるならば、その相手は誰かと考える。

すると、すぐさま浮かんで来てしまう。

迷うことなく想い描いた意中の人物の後ろ姿。


「……っあぅ!」

耳まで赤くなった琴葉は、妄想をかき消そうとするように枕の中へ顔を埋めた。

「ち、違うから! プロデューサーは、そういうのじゃなくて――」

そうしてもごもご口走った言い訳は、この場の誰に聞かせるモノでも無し。

琴葉は、真っ赤になった頬っぺたを両手で隠すように押さえつけると、

「そっ、そうだ! お風呂上がりのアイス食べなきゃ!」なんてベッドからそそくさと立ち上がった。


……しかし、彼女はまだ気づいていない。

いや、多くの人間がつゆとも思っていなかった。

だが事態は着実に進行し、その晩、"ある可能性"に思い当たった琴葉の部屋の明かりは随分遅くまで消えなかった。

===

「ふぇっくしゅん、ぶぇっくしゅん、ぶぇーっくしょん!!」

さらに畜生、バーロー、こんにゃろーめっ!! まで続けて決める事ができりゃ、世間的には立派なクシャミスト。

嘘だ。別にそーゆー肩書きはありゃしない。

そもそも、一説によればくしゃみはある種の呪いだとか。

呪いには呪い返しと相場も決まってる。

古くは「くさめくさめ」とまじない言葉を唱える事で、魂が肉体を離れていくのを防ごうとしたなんて話もある。

だけどご存知ココは765プロの、ご存知劇場内事務室。

空調設備は年中無休、室温湿度快適至極。

一見くしゃみとは無縁の環境で、盛大にかましてしまったのは単純にちょっと恥ずかしいな。


おまけに事はそれだけで収まらない。

この突発性くしゃみによって、「ヤダ!? 汚い!」と身近な所で悲鳴が上がる。

具体的には膝の上だ。

わざわざこっちに振り返って、小さな彼女は目尻を吊り上げた。

「ちょっと、お兄ちゃん酷いんじゃない? どーして桃子が座った途端にくしゃみなんか」

と、キャンキャン言うのが周防桃子。

一応補足を挟んでおくと、『お兄ちゃん』とはつまり俺の事だ。

でも、別に実の兄であるとかそういう事実は一切無いし、だからって義理の兄貴でも無いのである。

桃子の使う『お兄ちゃん』は、単に年上の男を指す言葉として彼女が採用している愛称で、
まぁ、俺がそう呼ばれるようになった詳しい経緯は有るのだけど、簡単に説明してしまえば、
俺がアイドルやってる桃子ちゃんのプロデューサーだからそう呼ばれるようになったってワケ。


「詳しくは時間がある時にまた話そう。――これ、過去編が生まれたら差し替えられる予定の台詞」

「お兄ちゃん誰と話してるの?」

俺は怪訝そうな桃子を見下ろして、「悪いな桃子、さっきは急に鼻がムズムズしてさ」とくしゃみの件について謝った。

「でも、こうも考えられないかな? ――もしかすると、俺の事がどっかで噂されてたのかも! 765のプロデューサーは仕事の出来る敏腕だって」

「そーお? 桃子、敏腕は鼻水垂らさないって思うけどな」

「じゃあ、女の子が話題にしたとかは? 見て見て、すれ違ったあの人カッコいいー!」

「ココ、外じゃなくて劇場なんだけど。……大体、道を歩いてる時にだって、いるかな? そんなキトクな人」

「自慢じゃないが顔はいいぞ?」

「……自惚れもそこまで行けば立派立派」


桃子は呆れた様子だけど、鼻をかむ為のティッシュを取ってくれる。

生意気な口調とは裏腹に、こういう気遣いをちゃんとしてくれるのが彼女の良い所だ。


「ありがと、桃子」

「どういたしまして。……あっ、でもでも、さっきの話、可能性はゼロじゃないのかも」


――はてな?

可能性がゼロじゃないって事は、つまりその手の噂を桃子はどっかで聞いたのか?

……だったら、当然訊かない手はないってもんだ。


「もしかして、桃子には心当たりがあるのか?」

「うん」

「それは、仕事が出来るって方か? それとも女の子の噂の方か!?」

「えーっとね……女の子の噂の方になるかな」


次の瞬間、俺は小さくガッツポーズを作ったね。

膝の上の桃子がやけにニヤニヤしてるけれど、そういう些事はどうだっていい!

――実の所、切実な話、俺には出会いが無かったんだ。

そりゃあ、付き合いのある連中は言うさ。

俺がアイドル事務所に勤務してて、さらにはプロデューサーをやってるって知ると、決まって「じゃあアイドルの彼女を作れるのか!?」なんて。


だけど、アイツらは大前提を忘れている。

そもそもアイドルとは、彼女たちは、会社の大事な大事な『商品』なんだ。

磨けば光る宝石の原石。

それは何とも得難い財産で、個人が好き勝手にしていいもんじゃない!


だから、どれだけ飛び切りの美人とお知り合いになろーが、事務所で沢山の女の子たちに囲まれよーが、
相手がアイドルならそこに自らの春は求めちゃいけない、させない、沈黙の掟。

オメルタ! 我々アイドルプロデューサーは、常に自らの自制心と抜き差しならぬ関係なんだ!!


……しかし、それはあくまでアイドルが対象の場合であって――


「それって小動物系で有名な音響スタッフの正美ちゃんか? それともスタイリストのボイン宮内ちゃんか?
待って! ひょっとするとデザイナーで美魔女の室塚さんや、照明の元気っ子メイちゃんかもしれない!!」


スタッフは例外、素人はノーカン!
アイドルでなければモウマンタイ!

職場が職場であるだけに、男女比における女性の割合は平均より遥かに高く。
……そういえば、ウチの専属カメラマンも女性なんだよな。

すると勢い勇んで尋ねる俺に、桃子は笑いが堪えられないといった顔でこう答えた。


「ううん、その人、最上って言うの」

「も、がみ……? 最上ちゃんってーとぉ――」


――何故だろうか? その響きには凄く馴染みがあるぞ。


「うん! お兄ちゃんの事『頼りにならない』って♪ 後は『お調子者で能天気』とか『落ち着きが無いのは浮気性の証拠』だとか」

「……はっ、はは! そんなの単なる噂だろう?」

「事実だよ。桃子がこの耳で直に聞いた。この前静香さんが言ってた」

「あぁ~~い~~つぅ~~めぇ~~~!」


次の瞬間、俺が構えていたガッツポーズは怒りの拳に変化した。

もがみ、しずか。最上、静香っ!

最上静香と言えば俺が担当しているアイドルじゃないか!?


「アイドルじゃないか!?」


二回も言った!!


「でもお兄ちゃんの言う通り女の子だよ?」

「あれで男だったらある意味ご褒美だわい!」


全く桃子にしろ、この場に居ない静香にしても、どっちも可愛い顔して発言自体に可愛げが無い!

……と、俺はこの場に居ない少女の嘲笑を想像してオーバーに「ぐぬぬ」と唸ってみせる。

だって、その位しないと気持ちのやり場が見つからないし。

俺は作業中だったパソコンモニタに向き直ると、


「しっかし、なるほど、そうかそうか……。だったら! こっちにだって考えがあるって話だぜ」

「うわ、お兄ちゃんワッルイ顔してる……」


「そりゃあそんな顔にもならいでか! 静香の言う頼りにならない、不甲斐ないダメプロデューサーとしましてはね、
現状使える手札の中で精一杯プロデュースを頑張らさせて貰いますよォ。――っとすると、手始めにこの飛び入りの仕事を任せちゃるか?」


そうして、桃子の頭越しに覗き込んだ画面には、大きく『夏の特番怪談旅行企画。美食と温泉&曰くつき旅館一泊二日』(仮)の文字が踊っていた。

舞台はうどんで有名なK県にある山奥の旅館。

沢から引いてきた名水を使った手打ちうどんと、地元の野菜をふんだんに使った山菜料理が有名な一方、知る人ぞ知る心霊スポットとしても近年人気上昇中。


「ふふっ、へへへ、ふへっへっへっ……! 静香めぇ~~、カメラの前で霊に襲われ、驚きの余り鼻からうどん出すがいいわ!」

「お兄ちゃん……。そういう仕返しの方法って、世間じゃインケンって言うんだけど、知ってる?」


桃子が呆れた様子で言うが無視だ!
そのままカタカタとキーボードを操作して、今後のスケジュール表を更新。

……よし! これで静香にとってもこの夏は、忘れられない夏になるだろうな!


「あれ? だけどホントにお仕事増やせるんだ。桃子、お兄ちゃんがさっき言ってたのって、ただの冗談だって思ったのに」

「ん? ん~……その辺は最近色々あったからなぁ」

「色々?」

「ああ。……まっ、あんまり楽しい話じゃない」


と、桃子に応えはしたけれど。
残りのスケジュールも埋めなくちゃいけないから、俺は手を休めずに口だけ動かし続ける。


「本当だったら俺達こそ、この手のゴシップを憎むべきだけど。……桃子だって、例の事務所が出した熱愛報道は知ってるよな?」


すると桃子はほんの一瞬、僅かにその身を固くさせて。


「う、ん。……知ってる。プロデューサーと付き合ってた人だよね」

「そうだ。片方がアイドルだったから、社内恋愛がスキャンダルにまでなっちゃったあの二人だ。
……ただ、本人たちには悪いけれど、例の一件によって仕事の枠が空いた事実は動かせない。
元々彼女の所属してたユニットは結構人気があった方だし、今頃は他所の事務所だって、自分トコのアイドルをねじ込むべく営業中だろう」


さらに言えば、その中でも特にフットワークの軽かった俺は、
いち早くフリーになった枠の奪取と確保に成功し、誰にどの仕事をやらせるかなんて割り振りを決める作業を進めていたんだけど。


「……なんていうか、他人の不幸に付け込む感じだね」


不意に桃子が呟いたから、思わず動かしてた手を止めてしまった。

……確かに、今回の仕事の手に入れ方は、見方によっちゃそうも見える。

潔癖さからは遠く離れ、競争社会のそのものだ。


「だけど桃子、空いた仕事は誰かが埋めなくっちゃいけない」

「それは、桃子も分かってるよ」


プロなんだから――と、事務所でも一番の芸歴の所持者は感情を押さえた声音で返す。


「なら、そういう事を言うなよ。……大体、何時も自分で皆に言ってるじゃないか。芸能界は厳しい所――」

「やる気がないなら他所に行け! でしょ? ……だけど、厳しさと気持ちの割り切り方は別」


そうして、桃子は何ともやるせないため息をつくと。


「別なんだよ、お兄ちゃん。……でも、それがアイドルになるって事だから――ううん、プロとしてお仕事をするって事だもんね!」


今度はさっきまでとは逆で、桃子は気丈な笑顔で上を向いた。

それは、彼女たちの鎧、同時にこの上ない武器でもあって――全く、敵わないんだもんな。


「うん、桃子たちは強いな」

「トーゼン! アイドルだもん。お仕事はタフじゃなきゃやっていけないんだよ」

「ははっ、それも違いないな」


何とも頼もしい桃子の返事。

俺は同意の相槌を一つ打って、止めていた作業を再開した。

暫くの間、部屋にはパソコンを操作する音だけが粛々と響く。

そうして、スケジュールの調整がひと段落つくタイミングを見計らっていたんだろう。

「ねぇ、お兄ちゃん」と、遠慮がちに桃子が口をきいた。

次いでポンっ……と椅子の背もたれにするみたいに、俺に頭を預けて続けたんだ。


「一応、伝えておくんだけど……。もしも、もしもね? 桃子がおんなじ事をするんだったら、
その時は、恋も仕事も、両方取っても文句を言わせないようなアイドルになるよ」

「桃子……!」


押し付けられた彼女の背中は温かかった。

でも、それ以上に桃子が話してくれた決意――彼女のやる気の表れが、もっとずっと、俺の胸をじんわりと熱くさせてたんだ。


「そうだな。トップアイドルの桃子になれば、恋だって、仕事だって、他の何にしたって誰にも文句は言われないさ」


言って、俺は彼女の頭に手を置いた。

こうして大人が子供を撫でるなんて、褒め方としては随分容易いかもしれない。

だけど何千回の「ありがとう」より、こっちの方が、言葉数は少なくても伝わる物があるって感じるから。

……何より俺はプロデューサーとして、桃子の前向きな情熱に何とか応えてあげたかったんだ。


「ん、もぉ……。お兄ちゃんは、すぐそうやって子ども扱いする」


なんて、桃子も口では言うんだけど、褒められて満更でもない様子を見せる。


「因みにさっきの話だけど、それって俺が手伝っても良い野望か?」

「とっ、当然でしょ? お兄ちゃんは桃子のプロデューサーなんだから!」

「ははっ、だったらその時には、俺は桃子と一緒にトッププロデューサーだ! 常にアイドルの為に行動をして、アイドルを想いアイドルに生きる!」

「それが、トッププロデューサー?」

「ああ! 世界中どんな仕事だって、俺が桃子と一緒に行ってやるぞ!」


すると桃子は、呆れたように肩をすくめて、


「ふーん……。まぁ、いいんじゃない?」


口の端がちょっとニヤついている。どうやら悪い返事では無かったらしい。

……だけど、そうなると俺には一つの疑問が残る。


「とはいえ……。桃子がトップアイドルになって、俺がトッププロデューサーになって。
じゃあ、桃子の恋の相手ってのは一体誰になるんだろうなぁ」


そう! これこそ俺の疑問なんだ。

トップアイドルにつり合う相手と言えば、それこそ世界有数の大富豪か、有名人の中の有名人じゃないとダメなハズだ。

桃子だったら芝居の道もあるワケだから、選択肢としては俳優とか、監督とか、その辺りが第一候補だろうか?

……まっ、何にせよ彼女のパートナーとなる相手はこの上ない幸せ者だ。


「……ばーか!」


だけど、そんな事を考えていると、腹部に走った鋭い痛み。

思わず肺から空気が漏れて、「ぐぶっ」とか何とかいきんでしまう。

膝の上に座っていた桃子が、何の前触れもなく繰り出してきた肘打ちのせいで――ってかそこってみぞおちなんですけど? 人体の所謂急所ですけど!?


「暴力に、訴えるなんて……!」

「知ーらない。桃子はただ、座り直そうとしただけだよ」


だけど、反論も虚しくぬけぬけと言い放つ桃子。

これは、つまりアレだろうか? あんまり子ども扱いするなって事か。

……確かに頭を撫でるにしても、調子に乗っていつまでも触り過ぎてたかも。


「あーあ、お兄ちゃんがそんな調子なんじゃ、さっきの話は夢物語だね」

「おいおい勝手に見くびるなよ。桃子がやる気を見せてくれたんだから、俺だってそれに応えたいプロデュース魂がだな――」


ふつふつ煮えたぎってるぞ! ……と、俺が言葉を続けようとした時だった。


突然、発声もクッキリとした「おはようございます」が事務室中に響き渡った。

一体誰が来たんだろうと、俺と桃子が一緒になって声のした方へと視線をやれば、そこには立ち姿の綺麗な少女が堅苦しい雰囲気で佇んでいて。


「琴葉!」

「おはよう、琴葉さん」

「……おはようございますプロデューサー。それに、桃子ちゃんもおはよう」


ニコっと笑って扉を閉める。

それも後ろ手に済ませばいい所を、わざわざ体を向け直して、丁寧に閉めるのが生真面目な彼女らしいと俺は思った。

そして琴葉は、まるで定規を背中に入れてるみたいにピシッとした姿勢でこちらに向かって歩いて来て、
俺と桃子の前で立ち止まると、部屋の中をぐるっと大きく見回したんだ。


「二人きり、だったんですね」


尋ねる彼女は笑顔だけど、声の調子は妙に重くて少し震えている。

心持ち表情も険しいかもしれない。

一体何がどうしたんだ? 劇場にやって来るまでの間にトラブルでもあったんだろうか?

……そう考えた俺と桃子が無言で顔を見合わせると、琴葉は大きなため息を一つ吐き出し、肩を落としてゆっくり喋り出した。


「プロデューサー。プロデューサーは例の熱愛報道は知ってますか?」

「熱愛報道? ――あ、ああ! 琴葉もアレを知ってたのか。今、桃子ともその話をしてたトコで」

「そ、そう! そうだよ琴葉さん。お兄ちゃんと――うん、アレについてお話してて」

「そう……。二人とも知っているんですね」


そう言う琴葉の表情は依然として固く、どう見たって俺達と共通の話題がある事を喜んでるようには見えない。

むしろ何故だかガッカリしたような、いや、ある意味では期待通りの結果にかえって落ち着いてしまったかのような。


「ねぇ、琴葉さん一体どうしちゃったの?」なんて、この空気に堪えられなくなってしまったのか、
桃子がこそこそ耳打ちするけれど、説明して貰いたいのは俺だって同じだって。


「プロデューサー」

「あ、ああ! どうした琴葉?」

「私、以前から気になってた事があったんです。ただ、それもこういうお仕事をしてる場合、普通の事かもしれないと勝手に納得してた事が」

「琴葉が……勝手に納得してた事?」

「ええ」


次の瞬間、琴葉は右手を自らの襟首に差し込んだ。

まるで背中から何かを取り出すポーズ。

そんな彼女の迫力に圧倒され、何をするのかと怯えて固まる俺と桃子。

その、冷や汗まで感じ始めた俺達の眼前で琴葉の右手がゆっくりと上がっていく……。


「やっぱり、近過ぎるって思うんです」


琴葉が静かに言い放った。

同時に右手が掲げられた。

桃子が眩しさで反射的に薄目になって、俺は無言でただただ眺めていた。


「こと……は……?」


嗚呼、何という事だろうか?

そこには定規が光っていた。

鈍く、重く、冷たく鋭く、息苦しいまでの銀色をして。

そこには定規が光っていた! 楽に一メートルは計れてしまいそうな、メタリックな光沢眩い長尺が!


「どうして?」


琴葉が呟いた。


「どうして!?」


俺と桃子だって同時に驚いた。


「どうしてプロデューサーは桃子ちゃんを……膝の上に乗せたまま仕事をしてるんですか?」

「それは座らせてくれって、桃子が!」

「っていうか、琴葉さんもドコから――それ、定規で何したいの!?」


現場は阿鼻叫喚である。

実に凄惨で混乱の空気感が、決して広くはない劇場の事務室を掌握せんと渦巻いていた。


しかし次の瞬間、そんなまとわりつく焦燥の空気を切り裂いて、鋭く突き出された長尺が俺と桃子の間に割って入る。

当然、「わっ!」「うひゃあ!?」と悲鳴を上げてしまう俺達。

……だって、あからさまに危ないじゃないか!?

見てくれ! 数センチも無い僅かな隙間にどれだけのスピードとコントロールなのか!?


けれど、獲物を扱う琴葉はてんでお構いなし。

至極当然といった涼しい顔で、万に一つの確率でも失敗する気が無いんだろう。
そう言えば彼女の特技はフェンシング――なんて、俺が緊急性の無い情報を思い出したりしてる内に。


「さあ、二人とも早く離れてください」


ゆっくりと、一音一音ハッキリとした彼女の命令。

だが見据える瞳は赤く滾り、血潮を纏った日本刀もかくやと鋭い眼光を突きつける。

……語気を荒げても無いのにこの迫力!

この世ならざる琴葉の放つ怒髪の念が、その全身から染み出るように感じられた。


げに恐ろしきは静かに揺蕩う少女の笑顔といった所。

琴葉の口元は美しく微笑んではいるが、その目は完全に瞳孔も開いてしまい、下手な返答をすれば一太刀のもとに切って捨てられる緊張感。


「も、桃子。ここは大人しく言われた通りにしよう」

「う、うん。……なんか、ごめんねお兄ちゃん」


桃子がいそいそと離れて行ってしまう。

そうして、俺も悟ってしまう。……なるほど、ひと肌が恋しくなるってこういう事か。

だって、さっきまでは気にも留めてなかった、重量感がフッと喪失したせいで、俺は何とも言えない不安と心淋しさに奥歯を鳴らす勢いだもの。


……だがしかし、こんなモノは、これから訪れる真の恐怖の前ではほんの触りでしか無かったんだ。

俺から離れていった桃子はすぐさま事務室の壁に寄って、カニ歩きで扉の前へと辿り着く。

そこは唯一、この部屋から安全に脱出できる出入り口で。


「それじゃあお兄ちゃん、桃子はもうレッスンに行くね!」


もっ、桃子ーーーーっ!? と縋りつくような心の叫びは当然届くハズも無くて。

彼女はピッ、とカッコよくアディオスのジェスチャーを決めて、そのままドアノブに手を掛けた。

だけど、扉はすぐに開かない。

何故ならドアノブを回そうとした瞬間に。


「桃子ちゃん」


背後から名前で呼び止められ、桃子の肩が可哀想なくらいビクンって跳ねる。

琴葉の澄み切った呼び掛けは、返事よりもしゃっくりのような小さな悲鳴を引き出して。

……すまん桃子! 俺の首筋に真剣のような長尺が押し付けられていなかったら、何か助け舟を出せたかもしれないのに!!


悔しいが状況の打開策が一つも見つからない。

身動きも取れないままでいると、ギシギシと錆びついた音をさせて桃子が首だけで振り返った。


「な、なに? 琴葉さん……」

「お節介かもしれないけど、今日もレッスン頑張ってね」


長い長い一拍を置いて、パタンと扉が閉められると、再び部屋は密室となった。

おまけに、あれ程切羽詰まった『頑張ります!』は、人生でもそうそう聞いたことが無いぞ?


「……行っちゃいましたね、桃子ちゃん」

「あ、ああ」

「それで、私の用事なんですけど」

「あ、ああ!」


うぅ、さらに付け加えてだ。

俺だってすこぶる従順な返事をしてる。

長尺が離れていくのと連動したみたいに、気付けば椅子からも立ち上がって、校長室に呼び出された生徒もかくやと琴葉を見つめていた。


「プロデューサー、これを見てください」


そんな俺の気持ちとはお構いなしに、まるで何事も無かったかのように琴葉が長尺を背中に仕舞い
(情けないが俺は心底この時ホッとした)

その代わりに見覚えのあるA2サイズの紙を取り出す。

紙は、劇場のあちこちに貼られている"お知らせ"に使われてる物で、例えば室内での野球禁止だとか、廊下は走っちゃいけません、みたいな約束事が書かれている。

そこに今回、性格が表れるキッチリとした手書き文字で、デカデカしたためられてたのは。


「――"アイドルとプロデューサーの"?」

「"過度なスキンシップは禁止します"。……突然で驚いたかもしれませんが、プロデューサーなら私の気持ち、きっと分かってくれますよね?」

===


きっと分かってくれますよね?

琴葉の言ったその言葉に、「分かってくれなきゃヤダヤダヤダ!」って乙女心が潜んでいるのは理解できる。

女の子は建前行動が基本だってのは、俺の心のメモ帳に教訓として太字でしっかり書いてあるし。

でも、接触禁止ってどういう事だ? 触ればかぶれるウルシみたいに、アイドルはいつから毒性を持つようになったんだ。


「プロデューサー? 聞いてますか」

「えっ? ああ、聞いてる聞いてる」


ただ少ぉし距離が近いですね。

琴葉、さっきまでより数歩分は詰めて来ちゃいないか……?


「私、例の熱愛報道をニュースで知って――思ったんです! これは決して他人事なんかじゃない。
他所の事務所で起きた事が765プロでも起きないように、プロデューサーとアイドル、その距離感を再確認するべきじゃないかって」

「な、なるほど……。一応理由があったんだな」


すると、琴葉は眉をひそめて。


「……プロデューサーは、私が考え無しにこんな事を言い出したって思ったんですか?」

「いや、決してそんな事は――」

「私だって、好きでこんな事をするんじゃないんです。でも、起こってからじゃ手遅れだし、誰かが心を鬼にしてでもやらないと。……じゃないと、皆、優しいから」


彼女は、さらに俺との距離を縮めて喋る。

きっと思考が先走ってるんだ。

どことなく思いつめてるような表情をして、グイグイと前に乗り出す姿勢は琴葉の本気の表れだ。


「だけど琴葉」


俺は彼女の肩に両手を置いて、これ以上の接近を一旦食い止めると。


「少し、気にし過ぎじゃないか? っていうか、もっと俺を信用して欲しい」

「信用、ですか?」

「ああ! 例の報道であったみたいに、プロデューサーがアイドルに手を出すなんて事をホントに俺がするかどうか」

「それは……確かに、プロデューサーは彼女も居ないですし、皆もそこは納得するかな――」

「う、ん……? ま、まぁ、そういう事実も判断材料の一つとしてな」

「分かりました。プロデューサーがそこまで言うなら」


言って、琴葉の体から力が抜ける。

今の説明で納得してくれたみたいで良かったけど……。

やけにあっさり引き下がって、それってつまり、俺がモテないさんだってのが彼女達の共通認識って事か?

――気になる。まぁ、それを今から確認しても仕方が無いし、話が前にも進まない。


「安心してくれていいよ琴葉。それに、何度も言うけど信じてくれ。俺はアイドルには絶対手を出さない!」

「はい、ちゃんと理解してます。ただ――」

「ただ……何だい?」


すると琴葉は、応える代わりに視線を自分の肩にやった。

肩と言えば、彼女の接近を阻もうとして置きっぱなしになってた俺の両手がそっくりそのままなワケで。


「わっ、悪い! 琴葉が言ってる傍から俺は――」

「そんな! プロデューサーは悪くないです!!」


琴葉が強く首を振って、すぐさま俺の行為を庇う。

だけど、彼女の勢いはそれだけで止まらなくって。


「私の言う、過度なスキンシップってもっとこう――」


支える両手を押し込むように、琴葉の体との距離が縮む。

そうして彼女の頭が俺の肩に、しなだれるようにして預けられる。


「不必要に、相手の体に触れてみたり、プロデューサーと、直接、指を絡め合ったり」


言って、琴葉は合わせ鏡をするみたいに、強引な動作で互いの手と手を結び付け合った。

俺は「琴葉の手、凄く柔らかいな」とか「うぉっ!? 指細いのに力が強い……!」なんて情報を処理する事に必死過ぎて、
拒否するどころか抗う事も出来ず、相手のやりたいようにされるがまま。


お陰でバランスを崩した俺は、彼女の誘導で元いた椅子に座らされる。

こんなの一種のマウントポジション。勿論、地の利を得たのは圧倒的に琴葉側だ。


「こ、琴葉?」


俺の小さな呼び掛けを無視するように琴葉の脚が滑らかに動く。

どうしていいかも忘れたまま、膝の上、ズボン越しに掛けられた柔らかくも存在感ある新たな負荷は、
さっきまで上に座っていた、小学生の桃子とのソレとは範囲も重みもワケが違っていて。


「……だけど、こうして膝の上に座るのは……ギリギリ許される範囲なのかも」


彼女は、まるで自転車の荷台に乗るみたいに、俺の膝上で器用にバランスを取った。

下半身はこちらの脚に対して垂直。

上体だけをこっちに向けて、そうすると、すぐ目の前に真剣で緊張してる琴葉の顔が。

憂いと恥じらいを合わせた困り眉に、薄っすら色づく綺麗な肌。

俺を直視する二つの瞳の反射、その中に映り込んだ光景さえ確認できる至近距離で、

形の良いピンクの唇がしっとりと開き、微かに届くその吐息は、内包する熱っぽさまでをも俺に伝えようとしているみたいだった。


だから、「わ、分かった」と答えるだけで息苦しくて。


「分かったから、降りるんだ琴葉。……よく、うん……気を付けるからさ」


なのに、琴葉は絡めている指に力を足して。


「いいえ、まだ……まだダメです!」

「だ、ダメ……っ!?」

「だって、桃子ちゃんは座ってたじゃないですか。もう既に、何らかの感情変化が起きてるかも……。
本当にこのスキンシップが適切だったかどうか、限界までキチンと確かめる必要があります」

「そっ、その安全管理や耐久テストします的主張は一体何なんだ……!?」


どっちかって言うと今の君の方が色々ダメっぽいぞ!

なのに、琴葉はより安定感を得られるように、さっきよりもっと深い位置へワガママに体を押し付けてくる。

当然そんな事をすると、彼女の柔らかな体の部位が――世間じゃお尻と呼ばれるその部分が、余りよろしくない場所に厳しい負荷を掛けるワケで。

「こと、はっ……!」

堪えろ! 堪えろ俺の理性――ジャングル・シベリア・アフリカの大地!

そうだ、俺はベテランの旅行会社ガイド。

平和ボケした観光客御一行様を連れてる時に、現地の猛獣と出会ったみたいな冷静さで今すぐトラブルシューティング……!!


なんて、意識を誤魔化す事で存在を消してしまえたらどれ程事態は楽だろうか?

最早冷や汗を超えて脂汗まで滲み出した、気圧された蛙のような俺を食い入るように琴葉が見つめる。

その瞳はゆうに蛇を超えて、一足飛びで猛禽類――鋭い爪とクチバシを持った、カッコいい鷹みたいじゃないか。


そうして、良い匂いのする髪の毛をいじらしく揺らしながら、近付く彼女の唇が耳元で淫靡に囁くのは。


「すぅ」

「えっ」

「ぜ」

「ん…♪」


――すえぜん、SUEZEN、すぇっ、据え膳!!?

激しく狼狽える俺を他所に、一音一音ハッキリと伝え終わった琴葉がふぅーっと細い息を吐き出す。

すると、それに釣られるみたいに「んっきゅ!?」なんて、みっともない音が大音量で喉から漏れる。

……誰だ、こんな状況で生唾なんて飲んだ奴は――。


「っ、俺だー……!」

「……もう! そういう返しをされちゃうと、いくら大人しい私だって『いただきます』をしちゃいますよ?」


プロデューサー? と、からかうように琴葉は小首を傾げるが、そうすると君、可愛い小さな君の顔が、頬ずりするみたいに俺の横顔に当たって擦れるって知ってたかい!?


――くそっ! さっきから頭がクラクラと熱い。

確かに、琴葉が言った通り据え膳食わぬは男の恥。

一度でも敷居を跨いだら外には七人の敵がいて、懐には常に辞表を隠し、殺伐とした現代社会を刹那で生き交う様は武士の如く。

明日をも知れぬ生活なら、ここで一時の快楽を享受して許されるのは道理かもしれん。

……そうだ、そう! そうだともさ。

考えようによってはここが既に現生のヴァルハラ。

我が前世は恐らく名の有る戦国の強い武士で、勇敢に戦って手に入れた御褒美こそがこの"はらいそ"一等地なのかも……!?


「あ、あの? プロデューサー?」

気付けば、琴葉が顔を覗き込んでる。

ああ、何て澄んだ目で俺を見つめるんだ。

君が持ってる可能性は、まるで炊き立てで粒の立った銀シャリのようじゃないか!

単体でも十分旨いんだけど、その時その時の旬なオカズでポテンシャルはより強く輝く。

何故ならそれを可能にする、幅広い食材と手と手を繋げる柔軟性、バランスの良さをその身に備えているからだ。

だから琴葉、調和のとれた君の姿、プロデューサーとして俺は誇らしくもあり怖くもあるよ。


「ぶ……しは……」

「えっ?」

「武士は……、食わねど、高楊枝……っ!」


最後に――何てことない塩おむすびでも美味しいのは、きっと必要としている心と体に最高のタイミングで染み渡るからだろうね。


「ふんぬっ!」


脳内ポエムとマッシブな掛け声の合わせ技を一つ、俺はグッとへそ下に力を込める。

それから、ずっと絡められていた両手を琴葉の支配から脱出させて、今度は自由になった俺の方から彼女の体に腕を回した。

つまるところ、簡易式お姫様抱っこの格好だ。


「きゃっ!?」


琴葉が驚いた声を上げて両腕を俺の首に回す。

一瞬だから許して欲しいと心の中で唱えながら、彼女を床へと降ろした後で、俺はまた上に乗られちゃ堪らんと座ってた椅子から立ち上がった。


「さぁ、悪いけどテストはここまでだ」

「プ、プロデューサー」

「琴葉、俺は君の担当として、また一人の分別ある大人としても、これ以上のスキンシップチェックが必要無いと判断する!」


まぁ、多少なりと強引だったけれど、これ以上続けるのはマジのマジで危ない。

俺達は北風と太陽だ。

古来より頑ななハートを熱いパッションがほだしてしまうように、鋼のタフな自制心も、蕩けるボディの温もりを前にいつか必ず溶かされてしまう。


「……やっぱり、プロデューサーを信じてよかった」


琴葉が、おずおずと首に回していた腕を外し、次いで真っ赤な顔をほぐすように、躊躇いがちな微笑みを浮かべたんだ。

それは、自分の取った行動に、一つも後悔してないと暗に言ってるようで。


「琴葉が……俺を信じる?」

「はい。いつも、プロデューサーは私達に一生懸命ですから、どんなに強引に言い寄られたって、相手がアイドルである限り、アナタはプロデュースに徹するハズだって。
……嬉しいです。私の事、ちゃんと大事にしてくれてるって事が分かりましたから」


そうして、琴葉はほんの一瞬だけ目線を下にすると。


「……ううん、分からされちゃった、かな?」

「そ、それは……。いっ、幾ら琴葉でも俺を買い被りすぎだ!」

「でも、私を傷つけませんでした」

「それだって……結果的にそうなったってだけで……」


と、反論する俺は歯切れも悪い。……だって、だってそうじゃないか?

もしもあのまま、密着状態が続いていたら、俺は、琴葉だけじゃなくて、もっと多くの人を傷つける事になったかもしれないんだ。


だけど琴葉は、そう言って俯く俺に向けて。


「それが、大事だって思いますよ」


眼差しは、何より力強く。


「誘惑に負けるのは簡単です。最初から拒絶するのはもっと簡単です。だけど、プロデューサーはそうじゃなかった。
アイドルとしての私の事、アイドルとしての私達の事を本気で考えてくれてるからこそ、最後は強い意志を見せて、立場を貫き通したんです」

「琴葉……! 君は、俺の事を――」


そんなにまで深く思ってくれて……。

マズい、このままじゃみっともなく泣いてしまいそうだ。


「ありがとう。俺、プロデューサーとしての気合を入れ直せた気分だよ」


言って、目頭の熱い顔で俺も微笑み返す。

それはとても素直な感謝の気持ち。

担当アイドルにここまで信用してもらって、涙をちょちょぎらす事の何がみっともないと言うだろうか?

すると、そんな俺の反応を受けて、琴葉も急にドギマギと視線を泳がせ始め。

「あっ、あの……わ、私だって、さっきのでは思うところがあったって言うか……。
プッ、プロデューサーの膝に座ったりとか、耳元であんな言葉を囁いたり。――演技に熱も入っちゃって……」

「じゃあ、さっきのは全部演技だった?」


訊けば、琴葉は「はぅっ!?」と恥じらうように体を縮め。


「そ、そ、そのつもりです! ……あぅ、自分でも、驚くぐらい夢中になった時間でした」

「……うん! 確かに、凄い迫力だった」

「うぅう~~……! ほ、褒めて貰えるのは嬉しいですけど――今になってみると、凄く恥ずかしいですね」


でも、そう言いながらも琴葉が見せてくれたのは、大きな舞台で一仕事を終えた時のような充実し切った表情だった。

それは、ある意味では俺がプロデュースを続けていける原動力。

……彼女の担当プロデューサーとして、琴葉が寄せてくれる期待を裏切らないよう改めて気を引き締めないと!


――とはいえ、決意を新たにしたところで、だからこそひとこと言うべき事がある。


「だけど、抜き打ちのテストはこれで最後にして欲しいな。今回は何とかなったけれど、流石に刺激が強すぎたって言うか――」


そう、何度も言うがさっきの絡みはギリギリだった。

今後も俺がアイドルのプロデュースを続けて行けるように。

何より琴葉を悲しませたりしないために必要な注意と約束なんだ。


……なのに琴葉は、キョトンと不思議そうな顔になると。


「えっ? ――さっきので刺激が強すぎました?」

「……えっ?」


一体何を言い出すんだこの子。

俺は呆気に取られて琴葉を見た。

すると、彼女の方も困惑したように見つめ返して来て。

戦士よ、選ばれし闘いの申し子よ。

本当の『刺激』はこれからやって来るのじゃよ……なんて、そう脅しを掛ける占い師が如く。


「こんなのは、まだ序の口ですよ?」


刹那、俺の背中をゾクゾクとした悪寒が走り抜ける。

突然の嫌な予感に慌てて目線をやると、琴葉の手には新たなアイテム――

いつぞやの張り紙を取り出した時みたいに、召喚されたアーティファクトは電話帳並みの厚みを持った紙の束で。


「私の事を本気で考えてくれるプロデューサーだから、私も本気でアナタの役に立ちたくって。
……大丈夫です! 私、昨日の夜に様々な危険シチュエーションを想定した対策マニュアルを作って来ましたから!」


なんて、微笑む彼女は天使の笑顔。

対する俺はどんな顔だ? ……少なくとも笑顔は引きつって、腰が引けていた事だけは間違いない。


「それじゃあまず、最初の"はじめに"から一緒に読んで……一つずつチェックしていきましょうね♪」


===

――さて、俺と琴葉の『補習』はまだ続くが、物語としてはここで一旦の幕引きとしよう。

とにもかくにも765プロの、賑やかなある日の出来事はこれでおしまいどっとはらい。

===

以上おしまい!

構想段階では他にも志保やら紬やらの出番もありはしたんですが、それはまた別の機会にでも

では、最後までお読みいただきありがとうございました。

琴葉は真面目だなぁ....
乙です

>>1
田中琴葉(18) Vo/Pr
http://i.imgur.com/NGhomXO.jpg
http://i.imgur.com/NWqStXu.png

>>9
周防桃子(11) Vi/Fa
http://i.imgur.com/3Gw96ND.jpg
http://i.imgur.com/qhAWzNu.png

おつおつ!楽しかった!
幕引きしないで!お願い!


琴葉の迫力に気圧されて一方的にやられっぱなしな桃子で草

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