油蝉が、窓の外の大きな桜の木で鳴いている。医者がカルテと僕の顔を何度か往復させると、静かにその病名を伝えた。
「不幸病」
不幸であることだけではない。人生に無気力で、何も目的もなく、幸せというものを感じることができなかった。
「そう落ち込むことはありません。幸せに感じれないのは、心が病にかかっているからです」
僕は医者のその言葉を、ただ黙って聞いていた。
「……ですが、この病には今、真っ当な治療法が確立されていません。となると、やはり対処療法ということになります」
「長ったらしい話は結構です。僕の余命はあとどのくらいなのですか?」
「…………半年、持てばいいでしょう」
半年
馬鹿らしい、と思った。実に馬鹿らしい。
17年棒に振った人生が突然、あと半年しか生きられないと言われた瞬間に、悔いへと変わるのが分かった。そして、馬鹿らしい、と心の中で吐き捨てた。
「とりあえず、幸福増進剤の注射と、思考洗浄、あとは不適切なマスメディアとの接触を避けてください」
そう言われると、僕は診察室を後にした。
制服のまま、僕は診療所の席に座った。地面についた染みを眺めて、そして笑った。目から涙が出た。嬉し涙だった。おそらく周りから見れば、不幸の病を知らされて、さぞ絶望しているのだろう、と思われることだろう。現に、僕の横にいるひとりの老人が、静かにハンカチを差し出した。あえて無視をして、そのまま下を向いていた。
支払いを終えたら、まっすぐ、僕は学校へと向かった。到着するまでには、僕がこの病気にかかったことがすぐに知れ渡るだろう。
不幸病は、実に恐ろしい病気だ。
人の心が、うまく物事を整理できなくなって、そしてある日、それが突然自らへの攻撃へ変貌する。幸せを認識できなくなり、覆い隠せないほどの絶望感とともに、膨らむ。そして、必ず自殺をする。
致死率100%。治療法は存在しない。
それが、この病が鬱と違う理由だった。
心の病でありながら、100%死ぬ。
この病気が学会で公認されてすぐ、政府は幸福増進委員会なるものを設置した。
国民が幸せでいること。幸せと感じることを使命とし、監視をしていた。かれらは、社会不適合者の収容所送りと、不幸病患者の回復を仕事としている。回復、と言っても、半ば実験に近いような、拷問によく似た洗脳だった。
社会は、仮初めの幸せに染まった。
無論、犯罪者の取り締まりが強化されたことも大きい。しかし何より、不幸になった人間たちを「幸福」にして社会復帰させることで、全てはうまくいっているように見えていたのである。
誰もが幸せだと感じ、幸せであることを望む世界。理想郷が実現した、とまで言われるようになっていた。
僕は、そんな社会のことを、心の底から憎むようになっていた。
玄関で立ち止まり、時計を見た。12時を少し過ぎていた。インターフォン越しに、学校に到着したことを告げる。
「2-8 北見 誠治。今着きました」
扉がカチリ、と音を立ててゆっくりと開く。靴を脱ぎ、校舎の中へ入る。下駄箱の中は相変わらず汚い。他の人のところは綺麗だが、僕には、自分の靴箱だけが汚く見えた。不幸病の典型的な疾患の一つだ。上履きを履き、教室へと向かう。
クラスメイトたちは、似たような顔で、大げさに心配して見せていた。「大丈夫か?」「かわいそうに」「どうして北見くんが…」
教師が一つ声をかけると、クラスにまた静寂が戻る。化学の公式を覚えるごとに、皆妙に嬉しそうだった。先生の話も、窓の外から見える景色も。教室の隅に植えられた花瓶の花も。
どれも僕の視界を除けば、の話であるが。
それからの話は、割愛しよう。機会があればまた書こう。僕の日常は、たしかに「不幸病」という言葉によって全て説明がつくようになったが、それ以外に面白いことは何もなかった。ただ、病気になって、死が近づいてくる、実感のないカウントダウンだった。
一ヶ月も経つと、夏休み一週間前のソワソワとした空気が学校を覆っている。
楽しそうな風景をよそに、手元で回していた万年筆の先からほんの少しインクが飛んだ。隣の席のショートカットの女子の髪の毛にそれがついた。彼女は僕のことを睨みつけたが、すぐに笑顔でそれを拭き取った。「大丈夫だよ」
不気味だ、と思った。
だがそれは、僕の心の中の感情でしかない。病によって生み出された、意味のない乾燥した感情だ。
そしてそんな些細な出来事がいくつか続くと、僕は田舎町に行かねばならなくなるのだった。
書き溜まったら、また更新します。
寝落ちしてたら明日の朝にでも。
都市部から車で3時間ほどの場所だ。
大きな湖と、矢野山という、標高1000メートルくらいの山に囲まれた、村落。
そこが僕の生まれ故郷だった。
窓の外では、田畑で仕事をする村人たち、野鳥を追っている野良猫。虫かごと網を持って隊列を組んだ小学生たちが意気揚々と山へ向かっていく。そんな風景があった。
実家に着くと、祖父も祖母も、僕の病気のことをひどく心配していた。ただ、返す言葉もなく、聞きながら生返事を返すので精一杯だった。
冷蔵庫から麦茶取り出し、カップ一杯のそれを一口で飲み干すと、僕は黙って外へ出た。蒸し暑いのは分かりきっていたが、それ以上に病気だと言われるのが嫌だったからだ。
行くあてが無いわけでは無かった。
小学校時代の知り合いの家に挨拶に行くことだって考えた。だが、こんな暑い中、長い距離歩く気にはならない。最終的に、家から徒歩20分くらいの場所にある図書館で時間を潰すことにした。日はまだまだ高く、幸いにも、それだけの時間を潰せるだけの本がそこにあったからだ。
小さい時から、あまり外の世界に関心を持たない性格だった。それこそ、「不幸病」なんて言葉ができる前なら、あまり取りざたされないような、その辺にある石ころみたいな人間だった。なにかをしたり、されたりすることに関心がなかった。当然、そんな性格の人間にまともな友達なんてできるはずもなかった。
だから、本に熱中していた。
本を読んでいる間は、他の全てを受容する必要がないのが、何より嬉しかった。風景も人間も、その本の世界にだけ集中すればいいのだ。だから、僕にとってそれはとても楽なことだった。
今回の場合も、僕は図書館で適当に本を3、4冊選んで、読書スペースの机の上にそれを重ねた。文字を追いはじめると、次第に周囲から物が消えていくような感覚になった。一人だけの静寂。本をめくる乾いた音だけが、それが本の世界であると気づかせてくれる唯一のものだった。
どれくらい経っただろう。天窓から差していた日の光はすっかり沈んでいた。結局、2冊目の7割くらいのところで、僕は切り上げた。
本を元の場所に返す作業は、我ながらすっかり慣れていた。昔、ここの司書になりたいと思っていた時があるくらいだ。どの棚にどの本があるのか、大体の検討はついていた。
これを繰り返す日々。
それで十分だ、と思っていた。
最後の本をしまい終えて、立ち去ろうとした。すると、
「誠治……くん?」
不意に後ろから名前を呼ぶのが聞こえた。
誰の声だろう、と頭の中を巡らせるが心当たりがない。その声は女性らしかったのだが、僕が女性と話すということはほとんど無かったからだった。逆にいうと、話したことのある女子たちのどの声とも、その声は違って聞こえていたのである。
顔を見せたくなかったが、僕はとうとう諦めてそちらを振り返り、声の主を見た。
ワンピース姿の、本を抱えた一人の少女。首からフィルムカメラと思しきものをぶら下げている。
あぁ、と僕は思い出した。あんな古めかしいものを持っているのは彼女しかいない。
「……久しぶり、由美だよ。覚えてるかな?」
そうだ。秋野由美。中学時代のクラスメイト。
図書館近くの公園に、僕らは腰を下ろした。山の向こうに沈んだ夕日が、そのシルエットを湖に照らしているのがよくわかる。移動販売の屋台でアイスを買い、その場に腰を下ろして頬張った。
「帰ってくるなら、教えてくれればよかったのに」
どうやって教えるというのだろう。僕はここから引っ越す時、誰とも連絡先を交換しなかった。小学校時代の連絡網を見ればわかったのだろうが、それをして、もし誰も出なかったり、あるいはとっくに引越しをしていて、全くの赤の他人がそれに出た時のことを想像すると、僕は怖くなってできなかったのだ。
それに、連絡をしたからといって会えるとも限らない。
「急に帰ることになったから、時間がなかったんだ」
「そっか……まぁ、しょうがないよね。みんな忙しいし」
小さな嘘をついたの僕をあざ笑うかのように、夏の大三角がゆっくりと姿を現した。
「懐かしいなー。覚えてる? 二人でここの広場で本を読んでたの」
言われて初めて、蘇る記憶。
生まれつき運動が苦手だった僕は、小学校の遠足でここに来て遊んだ時も、滑り台の下にある小さなトンネルのような場所で、本を読んでいた。
その時によく話しかけてきたのが、由美だ。彼女は僕と似たような境遇というわけではなかったが、本が好きだという点で似ていた。
当たり前の幸せを疑ったり、空の色を疑ってみたりすることが好きだという、特殊な人種の僕に、まさか似た友達がいたなんて信じられなかった。
だが、彼女と読んだ本……「少年の日の思い出」なんかは、特に印象に残っているのを覚えていた。読み終えた日の二人で共有したあの達成感。トンネルから出た時の風の気持ち良さ。そういうものが脳裏にまとまって蘇るみたいな感覚だ。
「忘れてはいないよ。でも、今の今までは忘れていたみたいだ」
嘘も真実もくちにしないように、僕は濁すような言葉を選んでそういった。
「……変わんないね」
由美は素っ気なく言った。
「何をしても、棒みたい」
「棒? ……あぁ、そうかもね」冷たいアイスを噛み締めると、奥歯にしみるような、鈍い痛みを感じた。「僕は棒だ」
「何をしても、嘘と本当の曖昧みたいなセリフしか言わない。反応もないし、凡庸だよね」
彼女は僕のことをレンズに収めると、シャッターを閉じた。フィルムを巻き取って、さらに二枚、撮影をする。
「その顔と目の色。好きだけどね」
「よせよ」僕は反論した。
「冗談は気味が悪い」
「被写体とカメラマンって、時に恋仲になることもあるでしょ?」
彼女がよくいっていたセリフだ。
もしかしたら、彼女は僕に気があるのかもしれない。いや、多分あるのだろう。似たような会話は何度もしていたし、その度に僕は聞き流すようにしていた。理由はよく覚えていない。
肩まで伸ばした髪と、透き通るような肌。低い身長のせいで、同い年とは思えないくらい、幼く見えるが、精神はすっかり大人の女性のそれだった。
「棒に恋して、何になるんだ?」
「分からない。だから、知りたいの」
彼女は突然立ち上がり、僕の腰の上に、向かい合うようにしてまたがった。誇示するように腰を動かし、いやでも意識がそこに集中する。体は倒れ、手の先に先ほどまで握っていたアイスは、地面にべとりと落ちていた。
白いワンピースの下に、わずかに下着のラインが見える。吐息はとても近い。麦わら帽子を首から下げながら、由美は僕を、もたれるように押し倒した。
「興奮してるの?」
「いいや、まったく」
彼女は、僕の言葉を遮るように二回キスをした。1度目は浅く、2度目は深く。押し込むように舌を絡めると口の中で唾液が混ざり合うのが分かる。呼吸は自然と荒くなった。
「このまま食べちゃおうかな」
汗が、暗くなったことで自動的についた街灯の光に照らされ、キラリと輝いた。
「もししちゃったら、どうなるのかな?」
「妊娠するから、中絶か、もしくは出産だろうな」
「あはは、考えてたんだ」由美はなぜか笑いながらそういった。
「任せるよ。興味がないんだ」
興味がない。
その言葉で、彼女はふと動くのをやめた。馬乗りになったまま、僕の顔の写真を一枚撮った。僕は地面に落ちたアイスをじっと眺めていた。由美がようやく立ち上がると、溜まっていた血が腰のあたりから一気に流れ出すのがわかった。
「ごめんね、変なことして」
「いいよ、別に。ストレッチくらいにはなったんじゃないかな」
僕は体を起こし、静かな夜に耳を傾けた。虫の音が、響いているのがよく聞こえた。
彼女は、2.3分ほど黙って座っていたかと思うと、立ち上がって僕の方を見た。
「誠治、もしかして、死ぬの?」
死ぬの? というその質問の真意を掴み取るまでに、僕はかなりの時間を要した。唐突で、自然な口調。悪意も善意もない。無機なプラスチックみたいなワードだけが、空虚に浮かんでいる。
「何でそんなことを?」
「勘が、そんなこと言ってた」彼女はカメラを元に戻し、帽子をかぶった。じゃあね、と別れの挨拶を告げると、そこから黙って去っていった。
風鈴の乾いた音が、余命宣告から一ヶ月たったことを告げていた。
残りの4ヶ月に、花が咲く気配はまだなかった。
ガバあるので訂正。
由美は幼馴染であり、小学校からのクラスメイト。
続き見たい
書き溜めてたので更新遅れました。
由美との偶然の再会から2日後、僕は近所の小さな公園に来ていた。特に訳はない。また家で色々言われることが嫌だったから飛び出しただけで、それ以上に理由はなかった。別に目的地が他でもよかった。
ただ、なぜその公園を選んだのかについて言うのであれば、それはそこが僕にとって、数えるに満たない思い出の場所の一つだったからである。
その公園は、周囲を森で囲まれ、だだっ広い芝の公園の真ん中に、いくつかの遊具が置かれているだけのシンプルな作りだった。
僕はその公園の、林のとある一角に秘密の場所を持っていた。その林というのは、都心にある公園とかよりはずっと森に近いもので、広葉樹の木々の隙間から差し込む暖かい光と、その木陰が作り出す独特の雰囲気、それからくる涼しさが好きだった。秘密の場所には、かつて僕が集めていた虫の標本が、その大きなブナの木の根元に埋めてあったのである。
なぜ今更それを掘り出すのか、僕は自分の意識を理解できなかったと同時に、理解しようとも思わなかった。
持ってきた手持ちのシャベルで、その根元を掘る。予想以上に根が邪魔をしていたが、やはりその場所に、僕は見覚えのある箱を見つけた。
10年も前に、祖母からもらった誕生日プレゼントのお菓子が入っていた箱だ。缶でできたその箱は、土の中で汚れていたものの、タイムマシンとしての機能は保っていた。僕はその箱を持ち上げると、木陰にあった切り株の上に座って蓋を開けた。
箱の中にあるはずだったそれは、ぐしゃぐしゃの土の塊となっていた。
それもそうだ。薬品やら、そういうことをするのに必要な道具は何一つ持っていなかったし、そういう知識を持ってすらいなかったのだ。ただ、昆虫学者だった祖父を真似て、こっそりと、真似事としてやっていただけだった。
僕はその粗悪な模造品の中に、かつての自分の最高のコレクションを見つけた。
カブトムシだったもの。
そう、この木のくぼみで、偶然見つけた、立派なオスだった。大切に手で持って持ち帰り、数日の間虫かごに入れて観察をした。ツノと甲殻の美しい流線型が、僕の目を釘付けにしていた。
それが死体だと気づいたのは、買い始めて3日目の朝だった。まったく、動かないことに対して疑問を持った時に気がついたのだ。僕はその死体を、さっさと捨ててしまおうとする母に抗議した。しかし、病原になると言って聞かなかった母は、それを外の庭に投げ捨てた。
潔癖症、という言葉を知らなかった頃の記憶である。
けれども僕はその美しさに惚れていた。
深夜になって、僕は懐中電灯を片手にこっそりと探し、それを見つけた。月の光を反射した鈍色のそれは、ますます美しく見えていた。僕はそれを、件の箱に入れ、そしてしまったのである。翌日の朝食の席で、母は僕に例の虫だったものがどうなったのかを質問した。
「あれ、やっぱいいや。生きてる方がいいもん」
僕はその時、人生ではじめての嘘をついた。
乙です。
僕は箱の中のそれを全部土の中に捨て切った。こんなものが、美しいと感じていたのか。そう自分に問うと、ぼんやりとした暗闇から、声にならない返事が届くような気がした。僕はそれを丁寧に埋めた。カナブン、クワガタ、アゲハチョウ、それらはもう殆ど土と変わりなかった。だからそれを土にした。僕はそこに墓標を立てることなどもしなかった。この大きな木が、墓標であり、彼らの新しい身体なのだ。
森を出る木にはなれなかったので、そこで昼食をとることにした。自分で握ったおにぎりを頬張りながら、額を流れる汗を拭った。森をじっと眺めると、向こうの方に一匹のカラスが飛んでいくのがわかった。都会と違う、自然のカラス。口に咥えていたのは、どこかで拾ったのだろうビンのフタのようなものだった。
その姿を目で追っていると、ちょうどカラスが止まった木の殆ど真下で、双眼鏡を片手に一心に文字を綴る男がいるのを見つけた。バードウォッチングをするにしては、随分と軽装だったし、何より見ているのがカラスであると言うことが僕の興味を引いた。
おにぎりの残りを口の中に押し込むと、僕は立ち上がって彼のいる方へ向かった。一度道を外れると、森の中は倒れた枝や低木のおかげで歩きづらかった。
「カラスを見ているんですか?」
僕は、殆ど無意識の自然体でそう聞いた。男はびっくりしたかのように、僕のことを見て体を震わせた。2.3呼吸おいて、彼はようやく「ちょっとした研究です」と返答した。
「カラスなら、都会とかの方がよっぽどいますよ。巣を観察するのも、都会の中のちょっとした公園に行けばすぐに見つかります」
「まぁ、確かにそうなんだけど」
カラスがその枝で二、三度泣いたのを聞くと、ずっと遠くから、別の一羽の鳴き声が聞こえた。
「ここの方が、彼の言葉が、よく聞こえるだろう」
彼は何かを手元のメモ帳に書き込んだ。僕はその鉛筆が綴った言葉のことをはっきりと覚えている。
エサ ドコダ
エサ キタ アル テキ コナイ
「へぇ、カラスが喋ることが分かるんですか?」
「まぁね」男は僕の方を自慢げに見た。髭の濃い、中年くらいの男だった。鼻が大きく、その上にかけているメガネが小さすぎるくらいに思えてしまう。
「彼は孤独なんだ。あぁ見えて、実はかなりの変わり者でね。仲間と飯を食うよりも一人で秘密のコレクションを集めることぐらいしか、楽しみがないのさ」
例のカラスを見上げたとき、不意にそれが自分をじっと見つめていたような気がした。
「でも、エサの場所を聞いたりしてましたよね」
「これは本能的な会話だよ。彼はそんなこと求めちゃいない。現に、聞いたけど向こうに飛んでいかないだろう?」
カラスはじっと地上の僕らを眺めていた。警戒している、というより、ただ見つめている、の方が正しいかもしれない。
ふと、いつもの学校にいる僕のことが頭の中によぎる。ただ、座って、興味なく外を見つめて、何を考えようともしない。そんな自分の姿がうっすらと目に浮かんだ。
「意思のない生き物は、生き物と言えるんでしょうか?」
僕は自分の口から漏れ出た言葉を、とっさに塞ぐように手で覆った。いつもの癖だった。どうでもいいような、ありきたりなことを疑う。意思のない生き物。僕は生き物なのだろうか?
侮蔑と疑いの視線を受けたくなかった僕は、すみません、と言ってその場から立ち去ろうとした。しかし、数秒後に、その男は僕の肩をポンとたたいて
「……面白いことを言うね」
まったく、予想外のセリフだった。
「生きる意思っていうのは、僕らの最も自由な部分だ。どんな生き物にもある。回帰的な意味では、生きるために生きる、って感じだけど」
男は僕が思った疑問に素直に答えた。
「でも、それがないからと言って生きてないとは言わない。昔は、こういう思考を持った人間のことを「青春」なんて、カッコつけて呼んだもんだよ」
「青春……ですか」
僕はその言葉を、本の中でしか見たことがなかった。そういう本の中の青春というのは、決まって恋愛や、友情、努力とか勝利とか、そういうもので煌びやかに光っていた。そして、僕にとってはあまりに眩しすぎた。
だが、この男は今、僕にまったく違う「青春」を定義したのであった。
「不幸病なんてのが、今じゃ巷で言われてるけど、あの病気はきっと、そういう青春を知らない人間達が作ったものなんだよ。そういう心を知らない人間が、形ばかりの幸せのために作った、幸福の代償さ」
男はニヤリと僕の方を見て笑った。僕は、その男の笑顔を見て、自然と顔が笑っていたことに気がついた。?がつりかけたのである。僕は笑うことはエネルギーを浪費すると考えたことがあったが、この笑いにはそういうものを感じる暇がなかった。
「よかったら、ここにおいで。僕の研究室があるんだ」
男は、僕の服の胸ポケットの部分に一枚の名刺を差し込んだ。先ほどまでは林に同化していて気づかなかったのだが、そこに一台のオフロードバイクがあることにも気がついた。男はその座席下の収納部に持ってきた双眼鏡などの道具をしまった。水筒を取り出し、一口に飲み干す。
僕は名刺の文字に目を落とした。
思索研究所 「森の家」所長
高村 悠次郎(たかむら ゆうじろう)
「その名刺を、インターホンのカメラに見せてくれ。すぐに扉を開けさせるよ」
僕はその名刺に書かれた住所を見て驚いた。たしかここには、肝試しで来たことのある大きな洋館が建っていたはずだ。ここから歩いて2.30分、といった具合だろうか。
「あの……ここって……」
「聞きたいことは沢山あるだろうけど、とりあえずおいで。君みたいな人が他にも沢山いるから、そこで話そう」
僕はさらに驚いた。僕みたいな人が、他に沢山いるというのか? その言葉がますます興味を引いているのが分かった。
「それじゃぁ、またね。北見くん」
「えっ……ちょっと」
僕が止めるのよりも早く、オフロードバイクはフルスピードで山道を走り去っていった。背中がやがて見えなくなって、僕は自分がすっかり興奮していたことに気がついた。
とりあえず、涼しい場所に戻ってから考えよう。
僕は森の中を早足で帰った。
何故だかいつもより、足取りが軽く感じられた。
とりあえず、第1章? 的な部分は投稿し終えました。また書き溜まったら更新しますね。
下手な文章でお見苦しい点ばかりですみません。
それでも応援してくれる方がいて、とても励みになります。
話題性があるかどうかは別ですが、ここに掲載先のまとめサイト等のURLを貼っていただければ拡散して貰って構いません。
完結できるように頑張りますので、今後とも応援よろしくお願いします。
乙です
夏特有の懐かしいというかちょっと切ない感じが心地良いです
次も気長に待ってます
帰宅後、僕はまっすぐ風呂場に行くことにした。そうしなければいられなかった。理由なんて考えようとも、考えたくもなかった。
全身を一通り洗い終えた後、木製の古い浴槽にどっぷりと腰を落ち着ける。わずかに開いた窓の外には、夏の虫たちが鳴く鬱蒼とした森が見えた。時折、向こうの道を通り過ぎる自動車のサーチライトがこちらに光を向けるが、それ以外にこの森に差す光は、頭上で悲しげに輝く月だけだった。
夏に入る風呂というものは嫌いではない。むしろ好きな方だ。汗もなんでも、僕の体に溜まったすべてのものが洗い流されるような気分。暑い季節に熱い湯船に浸かるというのはいささか変に思うかもしれないが、僕にとっては至極当然のことであるように思われた。
天井を見上げ、古い天井の黒いシミを眺める。頭の中にはさっきの狩野という男の言葉がよぎっていた。
「君みたいな人は、他にたくさんいる」
僕は生まれつき、自分がそんな特別なやつだと思ったことはない。どこにでもいるような、なんの取り柄もない石ころ。空っぽの人形。ウルトラマンの怪獣たちの人形を切った時の、あの中空の存在。
実の無い、形ばかりの仮面をつけた踊り子。崩れていく摩天楼。僕の中にあったのは、何者にもなれないが故に何者でも無い、価値のない空洞。そういう考えだった。
風呂から出ると、僕は母に呼び止められた。普段はほとんど会話をしない相手からの突然の言葉に、僕は緊張を隠しきれなかった。
リビングルームには、古典的な様相を呈した大きな暖炉とそれを囲むように配置された石が壁際のスペースを使っていた。床に敷かれた絨毯は、僕がそれこそまだ無垢な少年時代だったときからここにあるものだ。裸足でそこに立つと、いつだって僕は子供時代を思い出せた。
その絨毯の向こう側にあるダイニングテーブルに、僕は見慣れない二人の男の影を見た。片方は不似合いなまでに大きなシルクハットを被った黒づくめ、もう一方は、白い手袋と杖が印象的な、ニコニコと笑う老紳士だ。シルクハットの男がそれを軽く持ち上げて僕に会釈をする。僕は睨み返した。
「誠治。お二人があなたの病気を治して下さるんですって」
母はいつものような、どこか高貴な人間にでもなったような顔をしている。二人の机の上にはコーヒーが用意されていたが、どちらも手をつけた様子はない。母の顔には少し苛立ちが見られた。
「北見誠治くん。私は、幸福増進委員会の里山 護(さとやま まもる)、そしてこちらが顧問医師の千智英十郎(ちさとえいじゅうろう)先生だ。どうぞよろしく」
母からの目線を打ち切るために、僕はそのシルクハットの男と握手をした。彼は手袋を外さなかった。その方が良かった、と思った。
「さて、とりあえず本題に入ろう。……君にはもう伝えられていると思うが、我々はこれから、君の精神に取り付いたある種の病気を取り除かなきゃいけない」
英十郎が重たそうな口を開いた。
「治療……ってことですよね」
「理解が早くて助かる。つまりはそういうことだ、その一環として、君にはこれをつけてもらう」
英十郎が説明する横で里山がバッグから取り出したのは、何やら様々な器具やコードが絡まったヘルメットのようなものだった。
「VRはやったことがあるかな?」
「まぁ、……昔博物館で遊んだことなら」
嘘。僕はそういうものが嫌いだった。
「なら話は早い。これをつけて、僕たちが治療のために君の脳を解析するんだ。ここの正極隠電分子抑留装置が、交換制電流式プラズマを通して……」
僕の耳はその場で話を聞くのをやめた。窓の外から聞こえるスズムシの鳴き声にじっと集中した。
「つまり、君の思考の中にあるエラーを発見するんだ。そしたら、その部分を摘出手術する」
「ちょっと待ってください。息子の脳を切るっていうんですか?」
相変わらずそういう言葉にだけは敏感な母だった。無関心でありながら、いざ子供が怪我をしたりすると、あの人はヒステリックなまでに反応することがよくあった。
「いえ、そんなに危険なものではないですよ。今や技術も進歩しています。外部から神経系に直接作用する薬物の投与も並行して行います。こちらが作用すれば、手術の必要性も無くなります」
乙です
ボカロの幸福安心委員会を思い浮かべた
僕はそれから、長々とした説明をさらに聞かされた。母は心配こそしていたが、彼女にとっての最もの心配は僕が死ぬことらしく、とうとう例の手術の件について男たちの意見を飲んだ。
彼らは僕の方に、またあの気味の悪い笑顔を向けた。社交辞令のつもりなのだろうが、僕にはそれが理解しがたい。
「あの……」
説明を終えた里山に、僕は質問をした。
「治療すれば、僕は幸せになるんでしょうか?」
「あぁ、保証するよ。君は絶対に、幸せになる。この世に最高の幸福を感じ、毎日が素晴らしいものに感じるようになるよ」
魅惑の妙薬とは程遠い。声はまるで長いパイプを通して遠くから聞かされているみたいで、まるで耳に入ってこない。砂浜でおしゃべりをする観光客の言葉より、向こうから聞こえる海鳥の鳴き声の方がよく聞こえるのに似ていた。
「そうですか……なら先生方……」
僕は彼らの前に立ち、そして言い放った。
「ご遠慮します。お気遣いは嬉しいですが、僕は今のままでいいです」
英十郎が呆気にとられたような顔をした。それを見た里山が、冗談ですよね? と震えながら言った。僕はそれを押しのけるように、堂々と、言葉を口にした。
「これは僕の意思です」
二人の男が呆然を立ちすぐしていた間、母になんてことを言うのかと言われた。僕は無視をした。騒ぎを聞きつけて祖母と祖父が自室からやってきたが、男たちはすぐに元の笑顔を取り戻すと、大丈夫です、また来ます、と言って家から出て行った。
隙を見計らって、僕は部屋へと階段を駆け上がった。鍵を閉め、部屋を暗くしてベッドの上に倒れこむ。カーテンの隙間から、わずかに月の光が、変わらない光を漏らしている。憂鬱の中で、漏れ出るような感情を声にした。目を閉じて、呟く。
「幸せなんて、糞食らえ」
自然と、意識が閉じた。
>>47
アイデア自体はその曲からもらってたり、ここの板で見たいろんな作品を元に、書きたい、と思ったものを書いている感じです。
他にも質問等あれば答えます。
乙です
忙しくて少ししか書けなかった。とりあえず上げます。
翌朝、僕は朝食もとらずに家を出た。
初めての経験だ。腹の中が空っぽで、胃酸が出てキリキリと痛む。目もあまり覚めていない。
森の中を、例の屋敷へ向けて走っていく。昨日着たズボンのままだ。ポケットの中の名刺の住所と、記憶を頼る。流石にめまいがひどいが、そんなことを理由に家に居たくなかった。もしいれば、あの親たちが僕を「更生」するための治療に専念させようとすることが目に見えていたからだった。
森は静寂だ。
幻想によく似た様相を呈している。朝霧の合間を日差しが差し込む。夏だと言うのに、この辺りの朝はいつも涼しかった。その気温差ゆえに、霧が出ることも少なくない。
僕はその深い霧と森の中を、ほとんど勘を頼りに歩いていく。下手をすれば道を失うだろう。都会じゃこんな冒険はなかった、と心の中で思った。カラスの鳴き声。リスが木々の間を走り抜けて葉が揺れる。
広い交差点に出て、僕は車道沿いに村の方向へ歩き出す。この辺りの村は、昔僕が育った時そのままの風景を保っていた。生まれは東京だったが、育ちはこの小さな村だ。湖が綺麗で、村人の笑顔が好きだった。都会のような愛想だけの笑顔でなく、心のこもった笑顔。
一応訂正しておくが、僕は田舎と都会とどっちがいいのかなんて言う話をするようなタチじゃないし、そう言う話を馬鹿らしいと思っている。心のこもった笑顔とか、こもってないとか、そう言うありとあらゆるものが嫌いだ。嫌い、というより関心がない。
森の中で煙の匂いがした。炭炊き小屋の近くに来ているのだ。その煙が頭上へと登っていく。
高校へ通う時、僕はいつも、電車の窓から見える景色を眺めるのが好きだった。特に、夏。山あいから細く伸びる煙が描く、現代アートのような空が好きだったのだ。かといって、絵描きになるつもりなんてない。僕はその空が好きなだけだった。
大通りをしばらく歩き、住宅街のすぐ横にある自動販売機からスポーツドリンクを買う。ようやく喉を潤すことができた。こんなに美味い味だっただろうか。額から滴る汗が失った塩を、体の中に一気に吸収したみたいで、僕は少し目が眩んだ。
淀んだ視界の中で、僕はその交差点に猫を見た。
赤い首輪と金色の鈴が印象的な、黒猫だった。あぁ、シャムじゃないか。僕は思わず声を出して喜んだ。
シャム、というのはこの猫に僕がつけた名前だ。どこの家に定住することもなく、気ままに村の家々を転々とするその姿を見て、僕はシャムという名を思いついた。「舎無」という、つまり、家が無いという意味のダジャレだった。だがどうも、この猫はこの名前を気に入ったらしく、シャム、と呼ぶと、彼は振り返るようになっていた。
帰ってきたのか。
そんなことを言いそうな目つきで、シャムは僕を見つめた。背中と尾を一直線に伸ばし、朝の目覚めの運動と言わんばかりに、道のど真ん中であくびをした。
ドリンクをもう一口飲むと、僕はシャムに手を伸ばしてみせた。相変わらず、愛想の悪い猫だ。愛想が悪い、というより、感情がないの方が正しい。
そもそも猫に感情なんてないよな。
乙です!
次も待ってます
お久しぶりです。作者です。
ちょっと今リアルの方が忙しくて執筆が追いついていません。多分来週いっぱいこんな感じが続くと思います。一応、書けるときには随時更新するつもりですがその他は浮上が難しいと思いますので、みなさま保守の方よろしくお願いします。
シャムの首を軽く掻いてやると、小さくないて体を丸めた。首輪の鈴がちりり、と音を立てた。人を警戒するそぶりがない、というより、人は警戒するに値しない、と言わんばかりの自由人だ。
すると、シャムは僕の手元から突然走り出した。なにか気に触ることでもしただろうか。僕はシャムを呼びながら目で追った。彼はブロック塀に飛び乗ると、意味ありげに僕を見て鳴いた。そして、そのブロック塀の向こうに姿を消した。
僕は顔を上げて、その建物を見た。
あぁ、そうだ。僕は思い出した。この建物だ。さっきまでは全く気がつかなかったが、よく見てみればちゃんとその姿を留めているのが分かった。特徴的な黒い屋根。二階建ての古い建物だ。壁は赤煉瓦で作られていて、窓枠などは焦げ茶色の枠が付いている。
そういえば、ここは昔廃墟だったはずだ。しかし、その建物は明らかに工事が行われたようだった。肝試しのときに空いていたはずの巨大な壁の穴には、周囲とは色味の違う、新しいレンガがきっちり埋め込まれていた。空の先にぼうっと伸びていた灰色の煙突の先からは、もうもうと煙が上がっている。屋根の四方に付けられていた、この建物の不気味さを象徴するようなガーゴイルの像は、撤去されたようだ。
乙です
年度末はなにかと忙しいからね
お身体ご自愛くださいませ
お久しぶりです。どうにか空き時間を縫って書いた分だけ上げます。
僕は建物の正面に回り込んだ。入り口まで来るのに随分と時間がかかった。その門は、前に来た時と同じようなツタや草まみれの石レンガ製の塀だった。そこにかかっている表札は、元々……つまり僕がここに探検にくる以前、はるか前に住んでいた人物……住んでいた人が使っていたものの上に、ただ、養生テープを貼り付けて、マッキーの太い方を使った、ダイナミックな文字で
「狩野邸」
と書かれていた。例の研究所の看板などは見当たらない。けれども、僕の記憶の正しい限り、ここがその目的地であることは明白だった。
インターホンは、最近取り付けたばかりのようで、白い新品のそれだった。カメラはうだるような暑さの日差しを反射してギラギラと輝いている。僕の身長の2倍くらいはある鉄格子の扉が、まるで異世界への入り口であるかのような佇まいで出迎えている。
僕はそのボタンを二度押した。なぜ二度押したのかというと、手が震えたからだった。
今週の火曜日いっぱいまではリアルの方が忙しいので低浮上です。楽しみにしてくださってる方々には本当に申し訳ない……
乙です
リアル優先で気長に待ちます
乾いたインターホンの音声から、若い女性の声が聞こえた。「はい、どちら様ですか?」僕は、「狩野さんに、名刺を渡されたものです」と、手元に持った例のしおりを、カメラの前にはっきり見えるように出した。
「研究所は、奥の本館の方です」声は妙に通った感じで言った。「今開けますので、そのまま真っ直ぐ進んでください」
音が途切れると、ガシャリという音と共に、扉がゆっくりと開かれた。多分どこかから遠隔操作をしているようで、僕は自動で開くその扉を横目に、恐る恐る足を踏み出した。
内側にはそれなりの大きさの庭園が広がっていた。ホテルによくあるようなロータリーの中央には、石でできた噴水が付いている。しかしそれはヒビが入って壊れ、水が無造作に流れ出すだけで、よくある美しい庭園とは程遠い姿だった。それを囲むように置かれたいくつかのベンチも、管理する人がいなくなったことで腐食が進み、一部に穴が空いている始末。数日前の雨のせいか、全体的に色が暗く見えた。
目的の本館というのは、僕がさっき目にした赤煉瓦でできた建物のことだった。玄関のドアには、悪趣味な悪魔の姿をしたノッカーと、重々しい雰囲気が同時に漂っていた。そのすぐ足元に、不釣り合いなサイズの机と、よれよれの墨字で、
「ご自由にお入りください」
とただ、記されていた。
僕はその指示に従って建物の中に足を踏み入れた。玄関には靴を脱ぐ場所もない。多分洋館としてその昔、富豪の外国人によって建てられたりでもしたのだろう。入ってすぐの吹き抜けの階段は、その天井のステンドグラスから差し込む光で、解放的な雰囲気を醸し出している。
僕がそのステンドグラスをじっと眺めていると、すぐそばからヒッ、という女性の、怯えるような悲鳴聞こえたのを、僕は聞き逃さずその方向に顔を向けた。
「ゆ……由美?」
そこにいたのは……ちょうど何日か前に図書館で会った由美だった。尻餅をついて倒れている。僕は彼女の手を取って、立ち上がるように促した。
「怪我は?」
「私は大丈夫……ただ……」
彼女の視線を追うと、廊下の床に高価そうなティーカップ……幸いなことに、割れてはいないようだった……と、そこから茶色い液体が溢れているのがわかった。すぐに、由美の服にもそれがかかっていることに気がついた。もちろん僕の服にも、それが少しばかり、かかっていることが分かったし、多分淹れたてのコーヒーだったのだろうというところまで察しがついた。僕は途端に申し訳なくなって「ごめん……びっくりさせて」と、ありきたりな謝罪をした。
「一体何の騒ぎだね?」
ふと、聞き覚えのある声がして僕は振り返った。そこにいたのは、山の中で出会った狩野本人だった。耳に鉛筆を一本さして、二つのメガネをおでこのところまで上げているその姿は、さながらステレオタイプの研究者と言わんばかりの姿だった。前に会った時は気にならなかったが、ズボンから少しはみ出た贅肉の主張が強い。
「これはこれは…すみません、うちの姪が失礼なことを……すぐに着替えを用意させますので」
「別に、大した服装を着てきたわけじゃないので大丈夫ですよ」僕はそう言って、由美の方をじっと見た。
「知り合いなの?」
「森で会ったんだ。話をするために、ここにきた」
僕はそのまま、来客用の小さな部屋に通された。
リアルに余裕ができたのでまた投稿を本格的に再開しようと思います。お待たせしてすみません。
乙です
待ってるよ
その部屋に入ったとき、まず目に入ったのは大量の書籍で埋め尽くされた巨大な本棚! 床を埋め尽くしうず高く積もった挙動のような本!! そしてその間を縫うように歩く、一匹の黒猫だった。それがシャムであることに気がついたのは、彼がしゅっと地面に降りて、僕の方をじっと見た時に、その首についた鈴がチリリと鳴ったのを聞いた時だった。
「まぁ、適当に、そこらへんの本をどかして、座ってくれ。いや、別に、なんの不都合もないから」
そういうと、高村はそこにあった大きな本の山を一つ、なぎ倒すように動かした。ガサ、という音ともに、埃が部屋にまった。シャムはそれに(きっと足の毛が敏感なのだろう)やられて、前足の汚れをなんども念入りに舐めている。
僕は部屋の、その中央をほとんど占領していた本の山を、なんとか最小限踏むだけで済むよう細心の注意を払って、その椅子に腰掛けた。高村は、部屋の隅っこに……おそらくそこが、普段座る、主人用の席なのだろうが……置いてある、かなり古い時代のものと思われる椅子に腰掛けた。
「それでだ、あー」
高村は全く、森にいた時の落ち着きから、すっかりかけ離れていた。僕は、一応の礼儀を保つようにしていたが、次第に、なんだかそれがバカらしく感じられるようになった。
「何くんだったかな?」
「北見誠治です」
「そうだ、北見くん……そう」高村は顎に手を当ててなんども擦りながら、「どうして、急に来てくれたんだい。いや、別に不都合があったりするわけじゃないよ。ただ、純粋に気になったんだ」
「理由……別に大したものじゃないんです」
僕はそう言いながら、頭の中でどう言おうか悩んだ。別に、自分が例の幸福を感じられない精神疾患であると告白してもよかったし、彼……高村の研究に興味が湧いたとか、あとは単純に、ぶらぶらしていたら、ここへたどり着いたと言えば良い。しかし、僕はどうもそれらの行動について、少なからずの背徳感があった。それは、正直に全てを告白することも、それを偽ることについても、その両方においての話だった。
「ふむ……まぁ、特に気にしないでくれ」
僕は、目の前の人物が、この前森の中で出会ったその人であると信じることができなかった。
「それより、さっきは本当に済まなかった。あとで着替えを用意させるよ、今日はゆっくりしていきなさい」
「いや、別に、すぐ帰るので」
僕はまた、なぜか嘘をついた。
そして、その嘘が口から出た時、なぜか高村は僕の顔をじっと、まじまじと、見つめた。その視線は、まるでその奥にあるものを見透かす、超能力者の千里眼によく似ていた。あの瞳の向こうには、暗黒の世界と混沌にまみれた虹、あるいは、宇宙を内包した潜在的なエネルギーの胎動が映るのではないか。僕はそれが不思議でたまらなかった。
「……まぁ、君が帰るというなら構わないよ。あとで彼女に送り返させよう」
「いや、やっぱり残ることにします。その……親と喧嘩したんです。少なくとも、僕を今日1日の間は許してくれないでしょうから、どうか、泊まらせてください」
怯えていた僕は、その部屋のなかの、膨大な本の方に視線を向けて、その中にあった太宰治の全集に視線を向けた。赤茶けた背表紙には、彼の晩年の作品群がいくつも……人間失格…グッドバイ……それから……
「借りたいものがあるなら、自由に持って行ってくれ。というより、君にあげてもいいよ。ここの本はあまりに多すぎるんだ。それから、二階の客室の鍵を渡しておこう。君の部屋は、ここの真上にするといい」
彼は自分が座っていた椅子のすぐ横(本棚の向こう側であったこと、間に本の山があったことで僕にはそれが確実にどこにあるかわからなかった)から、一本の銀の鍵を取り出すと、放って僕に手渡した。それは、見た目通りの銀でできているからなのか、ずっしりとしていた。
「どれがいい?」
僕はとっさに、目に留まった本を指して
「ジキル博士とハイド氏」
と答えた。
前に投稿した部分で、狩野という人物が出ていますが、そこは高村です。間違えてしまいました。すみません。
乙です
よきよき
待ってるよー
遅れました……はい。
すみません。投稿頑張るとか言い出した後すぐ失踪しかけてしまって……
上げます。
例の、多重人格という概念について、僕は特に明確な意見を持っているというわけではなかった。多重人格は、ある種の人物に発生する精神の病などではなく、ただ、「普通と違う」ことを指しているだけなのだと、僕はそう思っている。
ジキル博士とハイド氏の薄い文庫本を読み終えた僕の元に、沸き立ての紅茶をまた持ってきたのは、由美だった。服装を着替え、清楚なメイド服を着たその姿は、昔の記憶の中にあった彼女と相容れないイメージがあった。
「……やっぱ、飲まない?」
「いや、飲む」
シンプルな問答の後、彼女はコーヒーをゆっくりと注いだ。注いだカップからたった湯気が、彼女の吐く息で渦を巻いた。
遠慮がちな彼女と話すのは、何だかとても奇妙な感覚だった。まるで、浦島太郎にでもなったような気分だ。僕が知らぬ間に、世界の時間はすっかり進んでしまったのかもしれない。もしくは、彼女の方が、ただ単に乙姫であるというだけなのかもしれない。僕から見たら、世界が変わったのか、彼女が元に戻ったのかというのは、区別できるわけでもなく、ただ、変化の結果がそこにあるだけなのだ。
コーヒーを一口飲み、そして、彼女の横顔をじっとみた。ベッドの脇に二人で腰掛け、カップを持っている。彼女の方は、両手で、息を吹きかけて冷ましながら、少しずつ飲んでいる。
「……なんで、由美がここにいるんだ?」
「……叔父の手伝いよ。あの人、一人じゃ何にもできないから」
「叔父?」
「あの人、私の叔父にあたる人なの。ちょっと変なところがあるから、家族とうまく馴染めなくて、ずっと一人で海外に行ってたの。三年くらい前に、ここを買い取って、それから暮らしてる」
なるほど、というありきたりな返事も返すことなく、僕はじっと彼女の話を聞いていた。
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