Helleborus Observation Diary  (436)



【0】



 今となってはとても昔のことのようで、けれど歳月にしてみればまだ数年前の話。

 小学生の頃、かなりのお祖母ちゃん子だった私は、たくさんの時間をお祖母ちゃんの家で過ごした。
 自分の家がどちらかと聞かれたら答えを迷うくらい、朝も夜もそこに居続けた。

 両親が忙しそうにしていたことも大きな理由だけれど、やはり一番の理由は、私がお祖母ちゃんのことを好きで、なついていたからだろう。
 だから、お父さんの転勤が決まったときも、私は積極的に付いていこうとはしなかった。

 まあ、ここはさして都会ではなく住むのに適していて、幼稚園から仲良くしていた友達と離れたくなかったという事情もある。
 いきなり知らない土地に行くと言われて気が乗らないのもあたりまえのことだし、
 私自身がこの場所を気に入っていたというごくごく普通の理由に言い換えてもべつにかまわない。


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 両親からの質問と私の返答は、とてもシンプルなもので、

 ──お母さんとお父さんと一緒に行きたい?
 ──べつにどっちでもいいよ。

 ──じゃあ、お祖母ちゃんと今までみたいに過ごしたい?
 ──まあ、それは、うん。

 たしか、そんなあっけないやり取りで、お祖母ちゃんの家にとどまることが決まった。
 というより、決められた。初めから私の意思なんてものは意味をなしていなかったように思える。その真偽はどうであれ。

 もしかしたら転校するかもしれない、と告げていた当時の友達は私がここに居続けることを喜んだ。
 抱きつかれて、泣きじゃくられて、どうしてか私もつられて泣いた。
 あまり泣くという行為や涙そのものに縁が無いから、ぱっと思い出せるうちで最後に泣いたのはその時だったように思える。


 私から見たお祖母ちゃんは、真面目で、すごく優しい人だった。
 褒めるときはちゃんと褒めてくれて、叱るときはちゃんと叱ってくれる。
 子供は子供らしくしてるのが一番と、口癖のように言っていた。私としては結構ワガママを言っていたつもりだったけど、それでも足りないというように世話を焼いてくれた。

 ああでも、コーヒーや紅茶には砂糖を入れて飲みなさいと言っていたのは、単にお祖母ちゃんの好みだったのかな。甘いもの好きだったし。
 お祖母ちゃんの影響を受けた部分も結構ある。性格については、多分そんなに似てない。私はだいぶ不真面目で、別段優しいわけでもない。

 似ているのは、食べ物の好みとか、そういう部分。甘いものは私も好き。辛いものは少し苦手。
 テレビはあまり観ない、本はそこそこ読む、夜に弱くて朝はそれなりに強い、つまり早寝早起き健康体。
 趣味も、ちょっとだけ影響を受けた。当時はあまり惹かれなかったものなのに、今では毎日のように触れている。

 嫌いなものは、そこまで、いや、まったくと言っていいほどなかったと思う。
 そういうことを私の前では口にしない人だったし、それ以前にお祖母ちゃんの嫌いなものに触れる機会が少なかった。
 でも、ひとつだけ言えることがあるとするなら、お祖母ちゃんは、軽々しく他人と約束をしない人だった。
 果たせない約束、果たす気のない約束、果たしてくれないと思う約束。


 ──どんな些細なことでも話せる友達と、心から好きだと思える人を見つけなさい。
 ──それは、絶対に受け身では駄目、自分でちゃんと考えて、慎重になりすぎる必要はないけれど、選ばれるよりは選ぶようにしなさい。

 一言一句はっきりと覚えている、私がお祖母ちゃんと唯一交わした約束。
 その約束の真意とか、そういうものは何も分からないまま、差し出された小指に、曖昧に指を掛けた。

 周りに友達がいっぱいいるのは当たり前で、好きな人は周りにたくさんいて、わざわざ口にせずともいろいろなことが伝わって。
 幼く狭い世界では、重ねるようだけど、本当にそれが当たり前で。目に見えるものが全てで、それはこのままずっと変わらずに続くものだと思っていて。
 私の経験は、私自身の辿ってきた道で、これまでの自分とこれからの自分は地続きになっていて。
 誰かと関わって、少しずつでも影響を受けて、変えられて、もしその誰かと離れても、変えられた私はそのままで。

 選ばれるよりは選ぶように。
 選択を、誰かに委ねるか、自分で下すか。

 ふと振り返ったときに、元来た道に戻れるのは、そのどちらなのだろうか。




【1】






 目の前に差し出された小指。
 私のよりも、幾分か細くてしなやかなそれを視界に捉えながら、ついさっき言われた言葉を思い浮かべる。

 えぇと、私の聞き間違いじゃないよなあなんて思ったけど、できればそうであってほしかったけれど、それはまずなさそうだった。なにせ相手は目の前に座っているのだから。
 どう考えたって間違えようがない。ない、ないのだが、いや待ってくれ。隣に座っている友達と斜め前に座っている友達もご飯を食べる手が止まってる。
 けれど、この場にうまく言い表しがたい空気をもたらした帳本人は、私を含めた三人の困惑なぞなんのそのでにこにこ笑って、こっちを見ている。

 ……うん、えっと、正直なにがなんだか分からない。

 想定外な出来事に対処するために必要なのは、多分、その状況を整理すること、なはず。とりあえず気持ちだけでも落ち着きたい。
 頭が真っ白になっているわけではないから、そこまで落ち着いてないってわけでもない。でもかといって冷静でもいられない、みたいな。首が勝手に傾く。


 晩秋、風流っぽい言い回しをするなら、雪待月やら小春日和の候とでもいったところか。
 日が完全に短くなってきていて、なんとなく憂鬱さと物寂しさが入り交じった季節。外で息をすれば白が空に溶け、肌を刺す寒さが襲ってくる。

 今日は久しぶりの秋晴れで、こんな天気なら中庭に行ってお昼ご飯を食べるのが習慣になっていたけど、最近はもう毎日のように学食のお世話になっている。
 テーブルの上には各々の食事と、すぐ近くの購買で買ったプリンが置いてある。

 そして目の前に座っているのは、私の友達の一人。
 桃、と私は名前をそのまま呼んでいる。他にはももちんやらもももやらあった気がするが、いつの間にかお蔵入りしたようだった。
 思い返してみると、私は今まで桃に対してあだ名のような呼び方を一度もしていない。初めて名前を聞いたときから、ずっと桃のままだ。

 持ったままでいた箸を置いて、目を戻してから、桃に訊ね返してみる。

「あのさ、桃、もっかい言って」

「……うん?」

「さっきはなんて?」

「さっき……あ、あー、これね」


 これねこれね、と桃は小指を立てたまま手をぷらぷらさせる。
 僅か数十秒前のことを忘れたわけではないだろうけど、桃に限ってはそうとも言い切れない。
 私がこのまま黙って待ってれば話し始めてくれる。……かな。結構ビミョーな感じがする。

「なんていうの、あまりものどうし付き合っちゃわない? っていう提案」

 桃がこういう時に続きを自分から話し始めるのは珍しい。
 それに言ってる内容まで珍しい。いやまあ珍しいって言葉は適切じゃないかも、この場合はなんて形容するべきか。
 少なくとも友達同士での日常会話で出てこないことはほぼ確実だと思う。

「あまりもの」

「そう、あまりもの」

「……具体的に言うと?」

「ふゆとわたし、だけど……あれ、伝わってない?」

「どうだろ、分かるような分からないような」


 桃は小指を引っ込めて、少し悩んだように腕を組む。様子からして冗談を言っているわけではないようだ。
 ふゆと、で私に指を向け、わたし、で自分に指を戻す。それは分かるから、と伝える間もなく、

「栞奈ちゃんは、前から彼氏さんがいるじゃん」

 と私の横に座っている栞奈に話が飛んだ。

 栞奈は、多分私たち四人のなかで一番まともな女子高生。成績優秀で部活も真面目。文武両道を体現している優等生。
 それでいて真面目すぎるようなきらいはなく、メリハリが出来ているタイプで、何気ない所作に頭の良さを感じる。
 実際、制服もそれなりに着崩していて、スカートの丈も四人の中では一番短かったりする。

 そんな栞奈の「そうね」という返事で、ああそういえば彼氏がいるとかなんとか言ってたような気がしなくもないな、と遅れて思い出した。
 いつか写真を見せてもらったことがあった。印象は……特に覚えていないけど、仲は良さそうだった。付き合ってるなら当たり前か。
 自らそういう話をしたがるタイプではないからすっかり忘れていた。同じ学校ならともかく、栞奈のお相手さんは他校だし。

「つーちゃんも……あっ、つーちゃん改めましておめでとう」


「お、おー。ありがとう」

 こっちはこっちで、戸惑った様子を少しも隠すことなく、私を見ながら返事をする。
 それもちらちらとではなく、じっと。特徴的な大きな瞳で、じぃーっと、見つめてくる。

 つかさのこういうところは、控えめな反応を向けてきている栞奈とは対称的に思える。
 感情の発露がストレートで、表情にも態度にも出やすい。細い身体と俊敏な動きも相まって、どこにいても目に付く。
 座っていると分かりづらいが、手足がそこそこ長い。身長はこの中で一番低いけど、クラスでは真ん中くらい。高校に入学してから一年のうちに何センチか伸びたらしい。

 あと、少し前に恋人が出来たらしい。
 テーブルの上のプリンは三つともつかさのものだ。細やかなお祝いとして三人から一つずつ渡した。

「伝わった?」

「まあ……」

 栞奈とつかさに恋人がいる。桃と私はあまりもの。『付き合っちゃわない?』という言葉。
 そこから照らしてみると、簡単に答えに行き着く。


「どうかな?」

「いや、どうって言われても」

「楽しいと思うよ?」

 なんだか押しが強い。必死さとは違うけど、迂闊に流せもしないような。

「楽しい例をあげよ、楽しい例を」

 何をどう返事すればいいのか分からないから、とりあえずおどけて見せる。
 言葉を選んでる暇もない。私と桃より、栞奈とつかさの居心地を優先する。

「えと、土日に遊んだり、夜に電話したり、学校から一緒に帰ったり……」

 指折り、桃はあれこれと数える。
 どれもしたことがあるようなものばかり、でも、言っている桃は少しだけ楽しそうに相好を崩している。
 まるで、その場面を想像しているように。……私もしてみたけど、そんなにっていうか、現実的な範囲を出ない感じで、普通? だった。

「どれも付き合わなくてもできるじゃん」

「そうでもないよ」

「んー……そうかな」


「だって付き合ってたらもっと楽しい気がするし」

 なんて言いながら、「ね?」と桃はつかさの顔をちらりと見る。
 一瞬きょとんとして、何を思ったか「そうだぞー」とうんうん頷きを返すつかさ。めっちゃ流されて言ってる感が半端ない。

「ちょっとちょっと、ふつーに困ってるよ」

 ふわふわしたやり取りを見かねて、先ほどから静観していた栞奈が助け船を出してくれる。
 が、その先を続けるつもりはないらしい。デリケートというか、単に口を挟むのが面倒な話題だからだろう。

「あーそのー、大丈夫大丈夫。ちょっと驚いたのと、少し考えてるだけ」

 言うと、思った通りに栞奈は「そっか、悪いね口挟んで」とあっさり引き下がった。

 そして何事もなかったかのように食事に手を付け始める。
 関わるには関わったからあとは二人で話せ、ということだろう、多分。

「ちょっと気になったんだけど」

「うん」

「桃はわたしと付き合ったらなにをしてくれるの?」


 最初に聞くべきことはもっとあるはずだけど、単純に思ったことを口にしてみる。
 つかさの目はまだこちらを向いているけど、この際気付いていない振りをしよう。

「さっき言ったみたいなことだよ?」

「遊んだり?」

「うん、うんうん」

 またしても、ほわあ、と効果音が出ていそうなくらいに桃の顔がほころぶ。
 そういうことじゃなくて、と言いたいのはやまやま。困った顔でもしてみればいいのか。

「もうちょっと練ったらまた聞かせて」

 掘り下げようともして、結局そうはしなかった。なんだかもっとふわっとしたのが飛んできそうだと思ったから。
 それにせっかくのランチを残してしまってはもったいない。柱の掛け時計を確認すると、もうあまり休み時間が残っていなかった。

 もそもそ食べていると、予鈴とともに「次の時間は体育らしいよ」と食べ終わった二人が食器を片付けて行ってしまう。
 らしいよってなに。すっかり忘れてたけど。
 残される桃と私。食べるペースはどちらも遅め。体操着に着替えなきゃいけないし、このままでは遅刻必至だ。


「次の体育って、種目分かる?」

「マラソン」

「うわ」

「ふゆ、うそだよ。先週の続きで、自由時間だと思う」

 うだうだ話しながら、どっちもペースを速めようとはしない。
 もう遅刻確定だろうと思っているところに「一口食べる?」と今度は指ではなくスプーンが私に向く。
 マイペースというか、なんというか、こういうところはとても気が合うところだと思う。

「なら隅っこで暇つぶししてよう」

「……んー、わたしは少しだけ動こうかなって思ってた」

「そう、がんばって」

 ひらひらと手を振ってみると、桃は自分の前髪をさらりと撫でるように梳いて、そのまま耳に掛けた。
 そして、すぐに笑う。眼鏡を掛けているわけでもないのに、くいっと眼鏡を上げるようにこめかみの辺りに触れながら。

「今日はバドしよっか」


 どうやら、提案すれば私は断らないだろうと確信を持っているみたいだ。
 桃は最近になって、こういうふうに私の振る舞いを読んでくることが多くなった。

「いいね」

 まあたしかに、断りはしないから間違いではない。
 
「ふゆはバド得意?」

「どうかな。あんまりやったことない」

 先週の体育は四人でテニスをした。
 クラスの人たちは体育館でぬくぬくドッジボールとかバレーをやっていたけど、つかさと桃の思いつきでそうなった。

「そうなんだ……あ、うん、そっか」

 半笑いで桃が頷く。

「……いまなんか失礼なこと考えたでしょ」

「いやいや、全然」と桃は両手を振って否定したけれど、表情までは誤魔化しきれていなかった。

 シングルマッチ総当たり戦。
 ばりばり現役運動部の栞奈は仕方ないにしても、帰宅部のつかさと桃にも惨敗した。
 私が打つとテニスボールがあちらこちらに飛んでいく。明後日の方向って上手い喩えだな、と思うくらい。



「食べ終わったし、そろそろ行こっか。……あ、わたし片付けてくるね」

「お、ありがとー、やさしー」

 学食のおばちゃんとにこにこ会話してから戻ってきた桃と連れ立って廊下を歩く。
 他の生徒の姿はない。ちょっと急いだ方がいいのだろうか。桃の横顔を盗み見て、まあいいか、となった。

 ふと思ったけれど、さっきのアレもそういうことだったりするのかな。桃からだけってわけではないけれど、私は人に何かを提案されれば、まず断らない。
 自分でその何かを決めるのが面倒だから。ちょっと押されれば、割とあっけなく傾く。そういう自覚はある。
 それに頼まれることの希少さが拍車をかけている。私に頼み事をしてくる人なんてそうそういないのだ。

 だとすると……。
 いや、だとしても、とりあえずの感想はさして大きくは変わらない。

 もし仮にそういう関係になるとしたら、こういうふうにふわふわしているのはあまりよろしくない。


「んー……」

 そんなことを思ったがすぐに、ちょっと違うかも、と歩きながら頭を振る。
 階段に差し掛かったところで足を止めると、桃も同じように足を止め振り返った。

「どうしたの?」

 至近距離から私を見つめる、透き通った瞳。
 私より背が頭半分くらい高いから、必然的に見下ろされる形になる。

 一年と半年前、桃と初めて出会ったときに抱いた印象は、"綺麗な子"だった。
 どこが綺麗かっていうと、全体的に。サラサラの黒髪とか、すらっと伸びた脚とか、姿勢の良さとか。
 顔も……なんか、勝手に評価するのも悪いけど、品のある? 美人系? だと思う。

 けれどなんとなくゆるい。ふわふわしている。普段の表情、雰囲気、ちょっとした仕草が。
 吹けばどこかへ飛んでいってしまいそうで、見ていて少し不安になる。

 そうか、と気付く。簡単なことだ。
 桃自身がふわふわしているのだから、ふわふわしているのはある程度のところまでは致し方ないのかもしれない。

 正しくは、ふわふわしすぎているのはよろしくない、だろうか。


「……あ、これもちが」

 う気がする、と言いかけて、それも違うのではと心の中で指摘する。
 ちが? とこちらを窺う目に、いや、と即座に返す。

「……あーあのね、桃って歩きかたが綺麗だよね、って」

「え? え、え、っと……」

「それだけ。ごめんね急に立ち止まって」

「……ううん。ちょっとおどろいた、えと、よろこんでいいやつ? だよね?」

 桃の言う、楽しい楽しくない以前に。
 私の思う、ふわふわしているしていない以前に。

 真面目な提案をしているのであれば断りはしない、というのがどうなんだろう。
 ……なんて。

「うん、よろこんでいいやつ」

 直感的に判断してみると、そこまで怖くはないだろうと思えてしまう自分が少なからず意外に思えた。





「ふゆ、これからなにか用事ある?」

 六限の授業が終わると、桃が隣の席から話しかけてきた。少し眠気に誘われていたのもあって、ぐいんと伸びをしてから「んー特には」と返す。
 一応、あることはあるけれど。あまり大したことではないから、なにか用事があると言うなら、そっちに合わせることはできる。

 担任が教室に入ってきて、細かい連絡を済ませてお開きとなる。掃除当番は先週だったから今週は休みのはずだ。

 通学用の鞄に荷物を入れて、上着に袖を通しつつ横を向く。
 桃も同じように帰る準備をしてるところで、私の視線に気付くとすぐにこちらを向いた。

「じゃあ、駅までいっしょに帰ろうね」

 そう言いながら、椅子を戻して隣に並んでくる。そういえば最近お互いに予定があって一緒に帰っていなかった。
 わざわざ用事があるかを聞いてきたのは、私が自転車で桃は地下鉄だからだろう。普段は校門で別れるから、駅まで歩くことはあまりない。

 既にジャージ姿に着替えていた栞奈は今日も部活があるようで、一言「またあしたー」と教室を出て行った。


「そうそう、マフラーを新調したのです」

 桃は鞄の横ポケットに手をやって、くるくる巻かれているマフラーを取り出した。
 幅が広めで、どっちかといえばストールに近い気もするけど、生地は厚めだからどうなんだろう。違いが分からん。
 色は白っぽいベージュに何色かのパステルカラーが入っているもので、たまに桃が身につけているカーディガンと同じような色合いだった。

「巻いてくださりますか」

「えー、自分で巻きなよ」

「朝に練習したんだけど、上手く巻けなかったの」

「今日そこまで寒くないから、また練習してらっしゃい」

「えー……」

「……わかったわかった。仕方ないなぁ」

 もっと寒くなれば、私もマフラーやら首元を覆うものを引っ張り出す必要がありそうだ。
 これぐらいでへこたれてたら今年の冬は越せないぞ、という眼差しを桃に向ける。

「なんかこうやって巻いてもらうの、新婚さんっぽいね」

 めっちゃ鮮やかにスルーされた。その感想は分からなくはないけど。新婚さんが巻くのはネクタイかな。
 今時そんなステレオタイプな夫婦はいるのだろうか。ていうか、巻き方こんなでよかったかな。


「ありがとう。ふゆの巻き方にしてみたかったんだよね」

「ちゃんと巻き方覚えた?」

「ん、んー……」

 視線を落として、マフラーをぐいぐい。首を捻ってから私を見て、「まあまあ」と一言。
 絶対明日になっても覚えていない気がした。

 教室の掃除の邪魔になっていたので、そそくさと廊下に出る。窓から吹き付ける風はわずかに温い。

 クラスメイト数人とすれ違って、まばらに手を振る。大半は私じゃなくて桃に挨拶をしているのだろうと思う。
 桃はけっこう社交的。私は……まあ、人付き合いが苦手ではない程度、なのかな。あまり三人以外とは話さない。

「あれ、靴変えたの?」

 階段を降り、下駄箱から靴を取り出すと、桃は不思議そうに私の手元を指さした。

「よく見てるね」

「ふふん。なんだかいつものよりもスポーティーな感じだね」

「間違って履いてきたの。制服だと浮くからいつも履いてない」

「あ、そうなんだ。わたしも走りやすい靴買おっかな」

 ふゆと同じのとか、と陽気に笑う。もちろん冗談だろう。

「じゃあ帰りますか」

 桃が靴紐を結び終えたのを確認して言う。いつもほどきっぱなしの私と違ってえらく真面目なこと。


 そんなこんなで外に出る。
 駐輪場に自転車を取りに行こうとすると、桃は察してくれたのかこくっと頷いて足を止めた。

 鍵を開け、サドルが少し高めなスポーツタイプの自転車に跨がる。すいすい漕いで桃のところまで戻って降りる。
 そのまま自転車を押して校門まで歩いていると、後ろから「おーい」と大きな声が聞こえてきた。

「あ、つかさか」

 ぜいぜい息を切らして、つかさが私たちのところに走ってきていた。

「はーっ……。二人ともわたしを置いて帰っちゃうなんてなんてひどいなー」

「教室出てったからもう帰ったんだと思ってた」

「んーまー……なんつーか、呼び出しってやつ」

 軽い口調で、つかさは未提出の課題を出しにいったということを口にした。
 提出期限が今日までだったらしいが、そんな課題には聞き覚えがなかった。隣の桃も同じことを考えているようで、口元に指を添えて首を傾げていた。

 桃、私、つかさの順に並んで歩く。この三人になると、たいてい私が真ん中になる。
 自転車があるから外側に行きたいのだけれど、桃はすぐに私の左側を取るし、つかさも自然に逆側に来る。
 挟まなくたって逃げはしないのに。信用ないのか……いやそもそも二人を無視して自転車に跨がって帰ったりしたこと自体ないのだった。


 学校から駅までの道は、まっすぐ行けば十分ちょい。東口へと繋がる道を通るのが最短ルート。
 ただ道幅が狭いから、自転車で通るには充分だけど複数人での歩きには向かない。
 なのでいつもぐるっと遠回りして西口の方に向かう。こっちの方が人通りが多いし、街灯があって夜でも明るいからだ。

「ふゆゆとその愛車を見てるといつも思うんだけどー」

 つかさは私の自転車をポンポン叩いて、明らかな思いつきを口にする。

「ふつーにパンツ見えない? てか見える、ゼッタイ」

「はあ」

 質問かと思ったけどそうじゃなかったみたいだ。言ってるうちに自己解決されても困る。
 それにしても、パンツて。女子高生が街中で言う言葉とは思えない。

「ふゆゆ乗ってみてよ」

「そのフリで乗るかなぁ……まあいいけどさ」

 つかさの言ったことには特に気を遣わずに、いつも通りに跨る。
 すると、すぐに聞こえる「おお」という声。

「すげー、全然見えない。鉄壁じゃん」


 それだけ言って、つかさはさっさと前に歩いていく。ゲンキンなやつってこういうこと。
 髪先を摘んでぼーっとこちらを見ていた桃は、私の視線に気付くと一瞬で目を逸らす。……なんだろ?

 しばらくゆるゆると歩きながら他愛のない話に興じる。話題は今日の体育について。

 分かりきったことだったけれど、バドだったら得意ということもなく、テニスとそう変わらなかった。来たシャトルを返すので手一杯。桃のミス待ち。
 でも桃もあまり得意でなかったのが幸いして、勝負としてはあまり酷いものではなかった。どんぐりの背比べ感がやばかったのは忘れることにする。

 一方で、つかさは栞奈とまたテニスをしていたらしい。「今日は三勝二敗、先に十回勝った方にジュース奢りなのだ」と。ほんと仲良いな。
 一年の時は二人と別のクラスだったから、どのようにして仲良くなったのかは知らない。四月には今の感じだったはずだ。

「つーちゃんって昔から運動得意だよね」

「んーそんな得意ってほどではないけどー、まあ体動かして汗流すのはいいよね」

「そうだね、うん。運動はたまにならたのしい」

「んじゃ次の体育またテニスする? この前負けたからリベンジ!」


 この組み合わせも仲が良い。いやどこかのペアは仲悪いとかそういう意味はなく、シンプルに。
 小中学校が一緒のところで、何度か同じクラスになったことがあるとかなんとか。幼馴染っぽいやつ、とつかさが前に言っていた。

 昔の自分をよく知っている同級生がめっちゃ身近にいるのってどんな感覚なんだろう。
 私にはそういう人がいないから、だいぶ未知の領域だ。今度それとなく聞いてみようかな。

「もう着くけど、どこか寄ってくの?」

 そろそろ駅が見えてくるところだったので、桃に声をかける。
 おそらくなにもないんだろうと思うけど、まあ一応。

「このまま帰るつもりだった、けど」

「そっか。行きたいとことかないなら、ここで、だね」

「うん……えっと、そうだね」

「じゃあ、また明日ね、ばいばい」

 階段を下っていく姿をちょっと見ていると、桃がちらっと振り向いた。
 手を振り返すのを忘れていたと思ったみたいだ。やっぱり律儀。





「……ふゆゆはさ、アレどうすんの?」

 信号と歩道をいくつか越えたところで、つかさは落ち着かない様子で私にそう訊ねてきた。

 二人になった途端露骨にそわそわし始めて、お互い無言になっていた。
 質問があるんだけど私から聞いてほしい、と言っているのかと思ったくらいだ。

 やや遅足で進んでいる方角、西の空には夕焼けが広がっている。
 この季節になると、午後四時半にはもう日が入っていってしまう。だから早めに帰りたいんだけど……今日はまあ仕方ない。

「アレって?」

「昼の、その、ももちゃんのやつ」

 若干、緊張しているような顔。出会って間もない頃によく見た記憶がある。
 基本的につかさは気にしいな傾向がある。気にしいって使い方あってるのか分からないけど、神経質とか心配性とは違っているはずだ。

「ああ、うんと……」

 答えようとして、答えがないことに気付く。
 どうするって、どうするんだろう。その場ではなんて言ったんだっけか。


「さあね、どうするんだろ?」

 思ったままを口にすると、つかさはがっくりと肩を落とした。
 そして、わたしに聞くなよ、と声を出さずに口だけ動かす。聞いてきたのはつかさの方なのにね。

「桃の考えてることが全然分からないから、どうするもしないもないでしょ」

「んー……そんなに分かんないの?」

「え、いや逆に、桃の考えてることって分かる?」

 そりゃ一年も友達をしていれば、なにを考えてるかくらいはなんとなく分からなくもない。
 つかさみたいに物凄く分かりやすいってことはないにしろ、表情に気持ちが出ていることは少なくない。

 でも、それは多少なりとも程度の差はあれど誰にでも言えることだ。
 エスパーでもサトリでもない普通の人間は、相手のことを分かっている気になっているとしても、それはそこそこの域を出ない。

「いやわたしもまったく」とつかさは言う。ちょっと意外。私よりは分かるだろと思ったから。

「ていうか、そんなに気になる?」


 最初に言われた時は驚いたけど、私自身がもうさしてそのことを気に留めてはいなかった。
 桃も昼休み以降その話をしてこないし、私からする理由もない。真意があるにしろないにしろ、それを問い質す理由もない。
 もうちょっと考えて的なことを言ったから、もうちょっと考えてきてくれるだろう、という甘い考え。だって、それしかないし。

「そりゃ気には……うぅん、あーいや」

 ええもうめっちゃ気になります、と言われても困ったけど、こうして微妙な反応をされても変な感じになる。
 しばらく、つかさは念仏を唱えるように「あー」とか「うーん」とか言っていたが、結局押し黙ってしまった。

「桃がすっごく真面目な感じだったら、私も同じように真面目に考えなきゃなっては思うよ」

 という私の返答に、つかさはぱちぱちと目を瞬かせる。

「ふゆゆは、抵抗とかまったくないの?」

「抵抗って?」

「……あぁその、ちょっとは自分で考えよう」


 そんなこと言われましても。というか、説明面倒だからって私に丸投げしたな。

 抵抗……抵抗? イエスかノー、ではないにしろ。

「桃ならべつに知らない人ってわけでもないし、そういう意味での抵抗ならそんなにない」

「ないのか。いや、でもふゆゆならそうかも」

 つかさが勝手に納得してくれる。「そういう風に取るか……」とぼそぼそ聞こえたけど。
 ていうか私ならそうって、どういう納得の仕方か分からないが……ま、解釈はつかさに任せることにする。

「ふゆゆとももちゃんの二人ならないと思うけど、変に仲悪くなったりしないでよ?」

 やっぱり一番言いたいのはそういうことなんだろうなと思った。

「きっと大丈夫だと思うよ」

「他人事だなあ……。けど分かった分かった、干渉するのはよくない」

 大きい目が糸になったんじゃないかと思うくらいに目を細めながら、つかさは頷く。
 そして、どこからかぐいっと手を伸ばしてきて、ハンドルを握っている私の手を柔らかく包み込んできた。


「でももしなんかあったら、わたしを頼ってくれてもいいんだからな」

 二人の友達だから、と続けたつかさの表情はまたしても真剣なものに戻っていた。

 そんなに深刻に捉えるなんてとも思ったけれど、私が考えてなさすぎるのかもしれない。
 そう指摘されているようで、返答に詰まる。詰まったところでなにもない。なにも変わらないのだが。

 ちょっと気になったことがある。つかさの言う『干渉しない』は、私の認識とは少し違っている。
 桃も栞奈も、つかさはそこそこ微妙なところがあるけど、一人一人が独立している感じはある。
 それは各々の気質の問題でもあって、いい意味で言えばそういう信頼関係があるとも言える。

 でも、干渉しないわけではない。お互いに思うところがあって干渉しないようにしている、が正しいのだと思う。
 誰が言い出したわけでもないのにそうなっているのだから、そういう関わり方が私たちにとってベストとは言わずともベターなのだろう。

 ひょっとしたら私が知らないところで、いろいろと変わってきているのかもしれない。
 目に見えないものを定義するのは難しい。見えるものだって難しいけれど、それとは別に。





 朝起きてすること。
 それは、軽く走ること。

 私の家の近くにはけっこうな長さの川があって、いくつかの大きな橋と、河川敷には舗装された道が続いている。
 あまり傾斜がなく車も通らないから、マイペースで走るのには最適なルートだ。自然もそのままで、走っていると気持ちがいい。

 朝にランニングを始めたのは昨年の夏だから、もう一年以上続けていることになる。
 始めた理由は、朝起きて暇だったからなんとなく。ぼーっとしているのもいいが、それならなんでもいいからしたいと思ったから。
 美容のためとか、健康維持のためとか、そういったことは全然ない。そういう理由なら逆に続かなかったとすら思う。

 けどそれなりに成果というか、効果のようなものは出ている。朝ご飯が美味しく食べられるのだ。
 って言っても、サラダと果物しか食べないけれど。小食気味だから、ちゃんと食べているだけでもいいことである。

 走りながら腕時計で時計を確認すると、もう五時を過ぎていた。
 この時間に走っている人はそこそこいて、これからの一時間で人数が増える。
 人気のランニングスポットであるとともに人気のサイクリングスポットでもあるので、ちょっと周りに気を付けなければならなくなる。


 だからその前に、さっさと往復して帰路に就く。寒いし寒いし、あと寒いし。
 自分がもともと寒がりなのもあって、手袋をぴっちりはめてモコモコのウインドブレーカーを羽織っていても寒い。
 昼と夜は耐えられても、朝の寒さは苦手だ。心持ちの問題だと思うが、少し気にして厚着をしてしまう。
 十二月でも元気に走っていた昨年が懐かしい。今思えばすごかったと思う。ハーパン生足とかのときもあったし。

 私が走るのと同じタイミングで走っているのは、だいたい四人か五人。
 今いるのは、めっちゃガチガチの服装で走っている二人組のお兄さん、多分サッカー部の男の子、大学生くらいの帽子のお姉さん。
 ほぼ毎日顔を合わせるものだから、自然と会釈をするようになっていた。まあお姉さんからされて返すだけだけど。
「どうも」とにこやかな笑みを向けられて、「どうも」と同じように返す。で、走っていく。お姉さんはめっちゃ速いから、後ろ姿はすぐに小さくなっていく。

 ふと河原に目を向けると、水上に鴨の集団がたむろしていた。パンかなにかを放りこまれるのを待っているっぽい。
 階段を下りて近付いていくと、一旦逃げていったけれどすぐに戻ってきた。ごめん、ねだられてもなにも持ってきてない。


 すーっと澄んだ空気を吸い込む。太陽が出て、日差しが差し込んできた。低い位置にある鼠色の雲はゆったり動き、水面を鈍く染める。
 休憩ついでに体育座りで鴨を眺めていたら、そのうち私に興味をなくしたらしく対岸に泳いでいってしまった。
 ぱしゃぱしゃと小さい音を立てて、今度は鴛鴦がやってきた。後ろの石段に両手をついて、ちょっと観察する。鴛鴦はめったに逃げてかない。
 鮮やかなのが雄で、色味が少ないのが雌だったかな。最近気付いたことなんだけど、鳴き声も若干異なっているみたいだ。
 そのどちらとも違う鳴き声が聞こえて振り向く。木の上にトンビがとまっている。こっちもエサ目当てだろう。

 あまり野鳥に詳しくないので、すっごく有名どころのものしか分からない。あ、白鳥だ、と思い込んでいたものが白鷺だったり。
 本屋で野鳥図鑑と数十分睨めっこして諦めた。今日もいるなー程度に留めておく方が楽しいし性に合っている。

 秋の河原沿いを彩る木々にしても、それなりに同じことが言えるかもしれない。
 紅葉といえば、モミジにカエデにイチョウに、結構いろんなのがあるけど、色付いているのは目で見ればはっきりと分かる。
 だけどそれらについて、見たもの以上のことを想像したりするのは難しい。相手が人間でも難しいのだから、他の種ならなおさらだ。


 砂利道を歩き、堤防の傍ら水の流れが堰き止められ、小さな草むらが出来ているところに目を向けると、今日もいた。

 一匹の白鳥。仲間の飛来を待っているのだろう、十月に姿を確認してからずっとこの場所に留まっている。
 いつも「おーい」と声をかけると近くまで寄ってくる。寂しいのか、単に近付いてくるものが珍しくてなのか。分からないけれど、他の白鳥と比べれば人懐っこい気はする。
 でも今日は羽繕いに夢中らしく、声をかけても気付いてくれない。一度駄目なら引き下がるのがマイルールなので引き返す。

 もしかしたら好きで一匹だけでいるのかな。だとしたら、私が声をかけるのも考えなきゃいけない。
 勝手に気持ちを推し量ってしまうのは、私の悪い癖だと思う。体が冷えてきたのでもう一度走り始めながら、そんなことを思う。

 秋が終われば、当然のように冬が来る。艶やかな草木も徐々に次の春に向け色を落としていく。
 今は中途半端で、冬になりかけてはいるけれど、まだ冬ではない。
 昨年は十二月半ば頃に多くの白鳥を見たので、それまでは私が影ながら見守っていようと思うのだった。





 教室の窓を開けて、新鮮な空気を取り込む。閉め切られていた空気は重く、ちょっとだけ苦い。

 ここに来て、やることはやった。ので、自分の席に座って鞄から本を取り出す。
 授業とはまた別のお勉強、というとなんかすごい真面目っぽいな。趣味の延長……にしても真面目っぽい。

 今日の授業の予習は前の休みに済ませた。それほど量はないし、難しいものを出されたこともない。
 簡単な問題を、時間をかけずに解く。答えがあるものはそれでいいから楽。
 ぼーっと眺めて、目が滑ってきたところで本を閉じる。栞を挟むのを忘れたことに気が付いて、ページを読んでいた位置に戻す。

 目が覚めていない。走って、ご飯を食べて、自転車を漕いでここまで来て、だから眠さとは違うけど、頭がまわらない。
 こういう時に、家だったら嫌々寝室に戻るかリビングのソファにもたれかかったりして時間が過ぎるのを待つけれど、今はどうしようか。
 予習を済ませてしまったのがここらで効いてくるとは。じゃあ次の予習をしよう、とはならない。そこまで真面目ではない。


「……眠い」

 そう言えば眠くなったりしないかな、と思って、でもそうならないことは分かっていて。

 教室には私以外の誰もいないが、ちょっとだけ周りを気にする。
 私の次の子が来る時間まではまだまだある。騒いだって、なにをしたって自由な時間だ。

 席を立って、教室内をふらふらうろつく。

 目に付くものは多々あるけれど、目の前を見ていれば一番大きなものに目が向く。
 黒板の落書きはいかにも女子高生が書きましたって感じで、黒板のその部分だけがきらめいているようだ。
 教卓に手をかけ飛び乗り、座ってみる。昨日授業中にやってみたいと思ったことだった。

 先生の目線ってこんな感じなのか。……ずっとやってると噎せそうだな、これ。
 溜息のような咳が漏れる。教室全てに掃除が行き届いているわけではないから、埃っぽくても仕方がない。

 足を揺すると、呼応するように上半身も一緒に揺れる。こうしてるとブランコみたいで楽しいかも。

「……」

 不意に鼓膜を揺らす音に、びくりと体が硬くなる。
 とん、とん、という軽快な音。この音がなんの音かは、まあ足音なんだけど。


「おはよー、冬見さん。今日も早いね」

「おはようございます、先生」

 それほど耳が利くわけではないが、パンプスとスニーカーの音の違いくらいは分かる。
 生徒のでなければ、必然的に先生のということになる。

「……で、なにしてるの?」

「えっと、暇だったので……あ、降ります降ります」

 言いながらお尻をずらして、足から着地する。
 スカートを払っていると、「降りなくてもいいのに」と変に申し訳なさそうな顔で言われた。

「でも、意外かも。冬見さんって落ち着いてるし」

「さっきまでも落ち着いて座ってましたよ」

「……教卓に?」

「教卓に」

 あまりに真面目っぽく答えたせいか、先生はワンタイミング間を空けて、笑い始めた。
 そういうタイミングとかが大分変わってる人だと思う。気が付くと一人でぷるぷる震えてたりする。


 担任を二年連続でしてもらっているから分かるけど、この人も学校に来るのが早い。
 でもこの時間に教室に来るのはなかなかない。というか、多分これが初めて。

「あー! 冬見さん、いつもお花ありがとうね」

 私から目を外した先生が教室の後ろの方を向く。
 そして駆け寄っていった先には、一本の花瓶。いつの日か家から持ってきた私物だ。

「いえいえ、勝手にやってるだけです」

「そう? 先生、冬見さんのお花をけっこう楽しみにしてるんだけどなぁ」

 優しくておっとりしているところがある人だからというのもあるかもしれない。先生の、生徒からの人気はすさまじい。
 廊下を歩けばみんなに挨拶されている。授業の質問と称して、個人的なあれそれを話されることもしばしばらしい。

 距離感が近いようで遠いのはきっと意識してのことだろう、生徒と自分からはそこまで仲良くはしている感じはしない。

 四月の初めの頃に、みなさんの自主性をうんたらかんたら、と言っていたことがあった。この通り、みんな綺麗さっぱり忘れていると思うけど。


「このお花は?」

「チョコレートコスモスです」

「コスモスかー……すっごくいい香りね、あ、チョコレートの香りなのね」

「はい」

 聡明なところがある先生だけれど、花についてはあまり造詣が深くないらしい。
 でも新しい花を飾るとその花の名をいつも聞いてくるあたり、ちょっとは好きなんだろうか。

「部活で育てたの?」

「まあ、そうです。自分で思ってたよりもたくさん咲いたので、持ってきました」

「ふうん……えっと、冬見さん、頑張ってるんだね」

「でも、そこそこですよ。一応、部長なので……」

 私は一応部長。で、この先生が一応顧問……なわけだけど。

「そっか。今度ひさしぶりに部活してるときにお邪魔していいかな」

 発言の通り、めったに(というかまったく)部活に来ない。定時になるとすぐに車で帰っていく。
 朝早く来ているのは、今の時間に仕事をしているからだろう。見かけ通りに、仕事はかなり出来る人らしいし。


「不定期ですけど、ええと、かまいませんよ」

「うん。お花についていろいろ教えてくれると嬉しいかも」

 私もそこまで知らないけど、と思ったけど、頷きを返した。

 不定期というのは本当のことで、先生も自由なのだから私も自由にやらせてもらっている。
 しかも部長といっても部員自体が私一人だし、やるもやらないも私次第なわけだ。
 先生は、どうせ来ないし。あ、来てほしいとかそういうことではなくて、むしろ来ないでほしいかもしれない。いきなり来られたら多分けっこう困る。

「切り花って、もって一週間くらいかな」

「そうですね。毎日水を替えても、五日とか六日とかです」

「ふんふん、なるほどね」

 先生が上着のポケットからスマートフォンを取り出すのが目に付いた。
 私を気にせずに、すっすっと操作して、チョコレートコスモスに向ける。写真を撮るらしい。
 ぱしゃりと音がしてから、いいよね? という目を向けられた。大丈夫です、と頷くと何枚かアングルを変えて撮り始めた。


「誰かに見せるんですか?」

 何の気なしに質問すると、先生は目を丸くして視線を外した。
 そして「あはは」と笑ってスマホを下に引っ込める。変な質問だったかな。

「わたしの母親と妹がお花とか大好きな人だから、冬見さんの育てた綺麗なお花を見てほしいなーって」

 どうやら家族の話をするのが恥ずかしかったらしい。
 胸元まで垂れたネックレスを落ち着かなそうに弄って、はぐらかすように苦笑する。

 誰かに見せるため、か。
 花なんて、実際のところ見てくれる人は少ない。興味がない人の視界には映らない。
 だって、ここにいる人にとっては今この時が花だろうから。もしくは花よりも輝いているものを持っていると思っているから。

 お互い話題らしい話題なんてないなか、少しだけ話をした。なんてことのない世間話。
 チョコレートコスモスの色が先生の好きなワインの色みたいだとか。お酒を飲む人と初めて知った。
 先生は花と絡めて何度か私を褒めてきた。釈然としない気持ちはあったが、特に嫌な気はしなかった。

 育ちやすいような環境を整えただけで、私自身はなにもしてないのに。
 本当は野ざらしの方が幸せだったかもと思うのも、どうせ枯れるなら教室に持って行こうと思ったのも、どっちつかずの私の都合だ。





 思い返してみると、最近の授業は退屈そのものだった。

 文化祭やら球技大会、マラソン大会なんかの行事も終わり、まだまだ先の冬休みを待つように、ゆるーくべっとりとした空気のまま授業が進む。
 それは今日も例外でなく、一限目から寝ている人がちらほら。運動系の部活に所属している人が多いのもあると思うけど、それにしたってという感じ。

 数学の授業を聞き流しながら、隣の席に目をやる。
 桃が授業中に寝ているのを、私は今まで見たことがない。いかにも寝てそうではあるのになあ。

 ひなたぼっこをしながらすやすや寝息を立ててそうな雰囲気。窓際の席で、にわかな日差しとストーブからの熱を感じて、みたいな。
 でも真面目な子だからそれはないか、と納得する。内面よりも外面を、いややっぱり内面を、というように思考が移り変わる。

「ねね、この問題やってきた?」

 小声で桃が話しかけてくる。指を差した先には、課題のプリント。
 ぱっと見では埋めてあるようだけど、どこか解けない問題でもあったのかもしれない。

「やってきたよ、見る?」

「うん、答えだけ……あ、やっぱり見せて」

 私からプリントを受け取った桃は、二枚を見比べて満足そうに頷く。
 そして、プリントになにかを書き込んで、今度は私に向けてふわりと笑みながら頷き、「はい」と返してくる。


 落書きでもしてきたのかな、と思いながら返ってきたプリントを見ると、

『髪はねてるよ』

 と書いてある。冗談だろう、と思いながら窓の反射で確認すると、本当にはねている。
 髪を手で梳きながら目を向けると、桃はくすくす口元を隠して笑っていた。

「かわいい寝癖。ふゆにしては珍しい」と普通の声の大きさで桃が言ってくる。

「授業中……」と言いかけて、周りも騒がしいことに気付く。
 先生は廊下側の席をうろちょろしていて、いつの間にか話し合いの時間になっていたようだった。

「どうしたの? 寝坊したの?」

「や、違う。……多分風だ。自転車だから。てか言ってよ」

「ふふ、朝から気付いてたんだけど、自分で気付くかなーって黙ってた」

 まだちょっとだけ、と桃はこちらに手を伸ばしてくる。


 何事か、と思ったけれど、すぐに髪のことだと理解して黙って受け入れる。
 桃の手はひんやり系だ。髪、というか頭皮? でその冷たさを感じる。
 四枚も五枚も服を着て少し火照っていた体には心地良い。十分間くらいは触れてくれてもいいくらい。

 そういえば、自分からはよく私に触れてくるのに、私から触ろうとすると桃は避ける。必ずと言っていいほど。
 癖のようなものなのだろうか。分からなくもないけど、うーん。
 ためしに、もう直っているはずなのに私の頭に触れている桃の手に、私の手を重ねてみようとする。

「…………」

 無言で避けられてしまう。まあ、ここまでは想定内。
「えいっ」とわざと間抜けな調子で言いながら、宙をさまよう桃の手首を捕まえる。

 触った感じ、見た目以上に細いな、と思う。青白いとまではいかないけど、血管がはっきり見えるほどに白い桃の肌の色も影響しているのかもしれない。
 私が掴んでいるその部分だけが、熱を帯びたように赤くなる。白の中に赤の斑点は、夏の屋台を想起させる。
 自分の体温が移っているみたいで、気恥ずかしいような……だったらやめろという話なんだけど。


 俯きがちな桃の表情は、無表情? あまり変化の兆しが感じられない。
 べつにその反応で物足りなくはないけど、もしかして触られることへの嫌悪感が勝ってたり。
 ぱっと手を離したら、桃は赤くなっている部分をさすって、なにかのまじないをするように三本の指でゆっくりなぞった。

 そして、「新発見かも」と穏やかな顔つきで顔を上げる。

「ふゆにいたずら好きな一面があるなんて」

「……」

「でも、いきなりだとびっくりするよー、すごく」

「……お互いさまじゃない?」

 桃から触れてこなかったら、私も桃に触れてみようとは思わなかった。

「……んー、そうかな?」

「私だってびっくりしたよ」

「あ、そうなの? そうなんだ、そっかそっか」

 と桃は小刻みに首筋と肩を揺らす。
 それに伴って落ちた目元を見て、ついつい指摘してしまう。


「そこ、喜ぶところ?」

「うん。私にとっては嬉しいことだよ」

 それは私と同じ動機のようで、なにかしらの純度が違っているような気がした。

 問題の解説が始まって、お互い前を向いて話を聞く。
 こうなってしまうと、やっぱりすることがないし退屈になる。目が乾燥するし、自然と溜息が出てしまいそうになる。

 握っていたペンを手元に置き、またしても話を聞き流すのに適した姿勢を取る。
 目で解答を確認する傍ら、時計をちらっと見て授業の残り時間を確認する。これが終われば昼休みだった。
 ということで、今日のお昼ご飯について思索を巡らせる。まだちょっと早いけど、暇つぶしには丁度良い。

 この季節は、なぜだか無性に冷たいものが食べたくなる。
 アイスにプリンにヨーグルトに。食堂のむわっとした暖房だと、二割増し、いや五割増しくらいそう思う。
 いつも通り日替わりランチにして、ご飯の量を少なくしてもらおう。んで、食後に冷たいもの。それで時間的には余裕が生まれそうだ。

 そんなこんなで、思っているほど空いていないお腹を擦っていると、次の授業までの課題プリントが前からまわってきた。
 後ろの席にまわそうと……って、つかさがダイナミックな突っ伏し方で爆睡していた。

 腕を枕代わりにするわけでもなく、ただ額を机にくっつけて。絶対起きたら赤くなってるやつだ。
 私の体を隠れ蓑にしていたらしい。昨日のバイトの疲れでも溜まっているのだろうか。
 ていうか、いいのか先生も。朝に見て分かったけど、教壇からはこの位置で寝ているとバレバレだ。隠れるどころか、むしろ目立つ。


 へいへい、と声をかけようとして伸びかけた手を止める。なんだか別にそのままでもいいかって思った。
 そーっと起こさないように頭から首にかけての位置にプリントを置く。同時に、びくっとつかさの肩が跳ねる。
 今思ったけど、寝ている人間って虫みたいでホラーだ。どう動くか分かんない異次元のムーブ。
 若干しゃくりかけながらおそるおそる指を離して、戻る。

 すると、真横から何度目かの視線を感じた。

「……なにか?」

「……んーん、べつにー?」

 手を振りながら、脚もぱたぱたさせる。
 子供みたいな仕草で、ちょっと笑いかける。

「いたずらじゃないよ、これは」

「え?」

「……いや、なんでもない」

「……んー?」

 そういう意味の視線かと思ったけど、違ってたか。単純に私が目に入っただけか。

 桃は私から目を切って、もう一度「んー」と呟きながら、自分のプリントをクリアファイルにしまう。
 その拍子にごにょごにょと口元が動いたが、何と言っているのかまでは読み取れなかった。





「そろそろテストだよね。勉強してる?」

「ぜんっぜん。気付くと一日終わってる」

 廊下を歩きながらの栞奈からの質問に、手を横に振りながら答える。

 十二月の初めには後期の中間考査がある。すっかり忘れていた感があった。それもそのはず、前の試験からあまり月日が経っていないのだ。
 それに先週には校外模試なんかもあって、まあ当然勉強なんてせずに出たとこ勝負だったわけだけど。散々な出来を想像するだけで気分が落ちる。

 テスト期間が来るまでは、試験に向けての勉強なんてしない。
 私はそうだし、みんなもそうだと思う。毎日欠かさず勉強するなんて、そこまで勉強が好きな人はいるのだろうか。

 この学校はそこまで頭が良いところではない。普通よりちょい上くらい。だから、みんながみんな勉強が必要なわけじゃない。
 する人はするし、しない人はしない。しなくたって余程でない限り進級は出来るし、卒業も出来るだろう。
 そんなことを考えながら、階段を上る。私に勉強が必要かそうじゃないかはよく分かっていない。学生の本分は勉強とは言うが、他に没頭している何かがなければ他人からそういうことを言われることもないだろうと思う。


「そういえば霞って、普段は家でなにしてるの」

「なにって……いろいろ? 本読んだり、寝てたり」

 他には、映画を観る。なにか食べる。ただ床に寝転ぶ。二度寝する。三度寝する。四度……中身らしいものがまったくない気がする。
 栞奈は部活が夜まであるから、家に長くはいないのだろう。「なんかちょっと見てみたい」と言われて、ええ……、となる。
 なにをしているか、と聞かれても困る。大半が方針などなくただ適当にしていることなのだ。寝てばかりだとは恥ずかしくて言えない。

「ていうか、どういう質問よ」

「や、ちょっと気になっただけ」

 歩き進んで、渡り廊下を通る。昼休みだけあって生徒が入り乱れていて、体を小さくして避けながら行く。

「栞奈は勉強して……るか、してるね」

「いや、最近は私も全然。部活忙しくてさ、先輩引退したばかりだし」

 そうはいっても、私よりはちゃんとしていそうだけど。
 栞奈は成績がすごくいい。正直言って、この学校のレベルには合っていない。
 それほど勉強しなくとも、余裕で学年一位とか取れそうな感じはする。この学校で一位でも意味ない、と前の考査の時に言っていたことを思い出す。

 先輩が引退した、ということは今まではまだ引退していなかったってことか。
 好きなんだねぇ……と思う。三年間毎日のように部活なんて、想像できない。


「あ、キャプテンこんにちはー」

 渡り廊下の半ばに差し掛かったところで、私たちとは別の色のリボンをした生徒が挨拶をしてきた。
 ベリーショートの髪、跳ねるような歩き方と活発そうな印象で、いかにも運動部っていう雰囲気だ。

「はい、こんにちは」

 栞奈が挨拶を返すと、にこっと笑って深々と礼をして友達のところへ駆けていく。
 めっちゃ先輩っぽい。それも普通に学校生活を過ごしていたらあまり拝めない、かなり尊敬されているタイプの先輩だ。

「ていうか、キャプテンだったんだ」

「そうね。言ってなかった?」

「うん初耳。なんか、たいへんそー」

「まあ、そこそこ大変ではあるかも」

 でも小学校の時も中学校の時もやってたし、と栞奈は笑う。
 なるほど。リーダー役が板に付いているのは、そういう事情ないし経歴があったのか。


「ああ、そだそだ。みんなでお出かけするとして、海と滝ならどっちがいい?」

 ぱんと手を打ち、話題を変えるように栞奈は声のトーンを一つ上げる。
 お出かけ、海と滝、と口の中で反復する。景勝地やらマイナスイオンやらという単語が頭に浮かんだ。

 すっごく適当に「滝かな」と言うと、「へえー滝かー」と私に合わせたような反応が返ってくる。

「じゃあ次のテスト休みに、みんなで滝に行こう」

「……え、これすぐ最近の話だったの?」

「そりゃそう。最近遊んでなかったじゃん」

「それは、うん。でも、私が決めていいの?」

 少なくとも栞奈の中では海と滝は同列で、だから私にどちらがいいか聞いてきたのだろう。
 だとすれば、四人で多数決とかそういうことをした方がいいのではとちょっとだけ思った。

「いいの。いつも私とつーが決めてばっかだから、たまには霞の意見も聞かないとって思ってね」

「そっか。うん、それもそうだ、……いつも悪いね、なんでも決めさせちゃって」

 つかさがふと思いついたように誘ってくるか、栞奈がそれまでの何気ない会話から拾ってくるか。
 私から、もしくは桃から四人でなにかをしようという提案を投げかけることは少ない。
 桃と二人になれば、どちらもぐだぐだなにかをしようとしたりしなかったりするのだけど、物事を決めるのにはエネルギーを使うのでしんどい。


 昨年までは、ほぼ二人きりでいたから『休日にどこかへ出かけてなにかをしよう』とかもなかったわけだ。
 季節のイベント事にはお互いてきとーにぼやぼやしながら行ったりしたが、それも指で数えられる回数だ。
 つまり行動力のある二人と関わるようになって、やっと決められるようになったという。私は、どちらにしても決めていないのだけれど。

「でも滝って、なにするの?」

 優柔不断にもなりきれない自分の軽薄さを顧みながら、適当な質問をする。成長する気はさらさらないらしい。

「それ私も思ってた。なにしよっか。一応、滝壺と、紅葉観れるところ行って、わーってしてればいいと思ったんだけど」

 どうかな、とちらっとではなくしっかり私を見て聞き返される。
 結構真面目な方で私の意見を参考にしたいっぽい。空腹とは別の意味で胃が音を立てそうになる。

 いいんじゃないかな、という意味を込めて頷く。
 紅葉シーズンの終盤なので、そういう観光地的な場所は混み合うはずだ。出店で食べ物とか売ってそうだし、家族連れも多そう。
 そうした賑やかな雰囲気であれば、特になにも考えずとも楽しめると思う。私の中の楽しいは、どうやらワクワクするようなものとは異なっている。


 そういえば昨日、付き合ったら楽しいことができる、と桃は言っていた。昨日の今日でほぼ忘れかけていたけれど、ふと思い出す。
 恋人の(というと変な感じはするし、むずむずするが)関係性の話なのか、それともまた別の意味での楽しいなのか。
 後者の方であってほしいな、と少しだけ思う。前者は……そもそも分からない。

 桃と私の思う楽しいは、恐らく一致していない。気が合うところはあるから、まるっきり違うことはないのは分かる。
 でも、その意味を狭めていけば、決して小さくはない隔たりが生まれてくることは間違いないだろう。
 その窮屈な感覚みたいなものを、私は見えるようにしてしまいたくはない。

「だよね。わーってしてるのが一番いいと思うよ」

「んー、そう言ってくれると思ってた。どうしてもやることなかったら、温泉にでも入りに行こ」

「近くならいいんじゃない」

「滝から走って一時間くらいのところにあるはず」

「それ、遠くない?」

「まあね」


「しかも最近寒いし……」

「それなりにね。まあでも厚着して、あとは気合いでなんとかなるでしょ」

 そうなのかなー。ならなそうだなー。栞奈はこういう、たまにスパルタなところがある。

 寒い、から連想して、そろそろ朝に走るのも夕方、ないし休日の昼間に変えることも考えなきゃな、と思った。
 今年の冬は絶対に寒い。断言する。何かしらの融点が上がったことで、体とは違う場所が寒さに耐えられない気がする。

 ふと気付くと、手に持っていたアイスが指先から伝わった熱で溶けかけていた。
 そう、こんな風に。それまでしっかりカタチを保っていたものが、でろんと液体になってしまうかもしれないと思ってしまう。

 このアイスと違って不可逆的なものでありそうなのがなんとも、余計にたちが悪そうだ。

 教室に着くと、「おそいぞー」とつかさが机をぽんぽんして席に座るように促してきた。
 早歩きで向かっていたのだが、席の近くでもう一度急かされる。そんなに待ち遠しいものなのか。
 じゃんけんでデザートを買いに並ぶ二人を決めようとなり、栞奈と私が負けて、そして買ってきたのだ。


「おかえり。ふゆはなに食べるの?」

 桃が自分の存在を主張するように、前のめりになりながら椅子を寄せてくる。

「抹茶。桃は?」と抹茶アイスを片手に答えると、「わたしも抹茶」と腕を伸ばしてくる。

 取ったのは、私の腕だった。それもそのはず、抹茶アイスは一つしか買ってきていない。
 こういうことが、いや、まあ冗談か。冗談なはず。うん。浮かびかけたものが言葉になる前に、思考を断ち切る。

「じゃあラムレーズンと半分に分けようね。はいこれスプーン」

「わーい」

 お好きなようで。そんなことだろうと思った。
 というわけで、アイスを掬って桃に食べさせてあげた。

「あ、これおいしいね。じゃあわたしからも、食べて食べて」

「うん」

 ……しかし、食べさせあう意味はどこにあるのだろう。
 そう思っているうちに、アイスが口元に配給されてくる。


 まあ今までも、そこそこの頻度で食べさせあったりはしているような気はする。
 桃はそういうのが好きらしい。私も誰かとなにかを共有するのは嫌いじゃない。

 食べる。ひんやりしてて美味しい。
 舌の上でとろけるやわらかさと、ふわりと抜けていくラム酒の香り。
 アルコール濃度なんぱーなのかは知らないけどお酒っぽいから、これは大人の味っていうのかな。

「つかさも食べる?」

「え」

 物欲しそうに見てきたので言ってみると、つかさは正面から額でも叩かれたように仰け反った。
 いやなにその反応。首痛めそう。

「や、やーわたしは、栞奈と交換するかなぁー」

 なんて言って、気を取り直すように前のめりに戻ってきてから、黙々といちごミルクアイスを食べている栞奈の肩に腕をまわす。


「なにいきなり」

「えっ友情アピール?」

「……うーんでも、つーにはあげたくないかな」

 そう返しつつ、つかさの表情の変化を見て、栞奈は手の甲で口元を覆う。
 へぇー、と私まで言いそうになった。こういう風な仕草をする栞奈は初めて見たかもしれない。

「ていうか、これはいいのかい?」

「へ?」

「……あはは、なんてねー。はい、あーん」

 よく分からない会話が二人の間で交わされている間、桃はアイスが乗ったスプーンをこちらに向けたままでいた。
 ので、スプーンの近くに顔を近付けて、ありがたく頂戴する。色で分かっていたけど、抹茶味だった。

「こっちも美味しいね」

「うんうん」


 それから授業が始まるギリギリまで食べさせあいをして、残りは普通に食べた。
 案外食べさせてもらうのもいいものだな、と思った。楽なのはいいことだ。

 午後も午前と変わらず、集中力なんて微塵にも感じられないような雰囲気で授業が進む。
 話の二割程も頭に入ってきていないように思えて、かといってぼーっと前を見ていてもそれはそれで目立つので、教科書を見ているふりをする。
 板書がほぼない授業だと、ここがしんどい。席が後ろの方でよかったと思う。
 よく眠いことを瞼が重いとは言うが、瞼が軽いとは言わない気がする。だから表現としては正しくないような感じだけど、いつも私は瞼が軽い。

 あまり意識はしてないが、寝る場所とそうでない場所は分かれていて、ここはそうではない。
 だから、眠くもならない。と、多分違うんだろうけれど結論付ける。

 普段疲れるようなことがなければ眠たくならなくて当然だ、と。
 単純にそう思ってしまうのは、なんだか悲しいような気がするから。





 今朝先生と部活について話したからというわけじゃない。
 週に一回は放課後部室に行こうと決めていて、それがたまたま今日だったわけだ。

 クラスから少し遠いところにある部室はただの空き教室で、園芸部らしい設備などはなにもない。
 あるのは教室の備品と、いくつかの花瓶。あとはほんの少しの私物だけで、一目見てすぐに活動的でないのが分かってしまう。

 いつもと違うことといえば、物の少なさゆえに無駄に広く感じられる教室に私一人じゃないことだ。

 桃を連れてきた。いつもは部活行くとなれば教室でバイバイだったけど、今日はそうはならなかった。
 ホームルームが終わるとすぐに、桃はマフラーを私の前に出してきた。気のせいかもしれないが少しだけ気後れするように頬を赤くして。
 今日も巻けなかったから巻いてほしい、という意味だと思った。だから、私が帰るまで待っててねってことでここまで引っ張ってきたのだった。

「初めて来たけど、なんかもう居心地いい」

「あー、私がいるから?」

「そうそう、むしろそれ以外にない」


 冗談めかした笑みをこぼしながら、桃がすっと立ち上がる。ぐるっと部屋をまわるように歩き回って、窓の方へと近付いていく。
 風によって膨み、不規則に揺れていたカーテンを手で抑えながら、反対の手で窓枠に触れた。

「ちょっと寒いし、閉めていい?」

「あぁうん、いいよ」

 桃はゆるく笑って、窓とともにカーテンまで閉め切ってしまう。
 こもった空気を換気するために開けていて、私も寒いなと思ったところだったのでちょうどよかった。

 外から聞こえていた他の部活の声などが小さくなり、代わりに部屋の中の微かな音が耳に響く。

 机の私から見て逆側の椅子には戻らず、こちらに向けて歩いてくる。
 さっきまで風に乗って部屋中にただよっていた花の匂いが、より甘いものへと変わる。
 私の横を通るとき、窓を開けたままだったら聞き逃していたような、か細い吐息が聞こえた。


「ふゆの髪、また戻ってきてるよね」

 と言いながら、桃は私の肩に手を置いてくる。

「やっぱり?」

「うん」

「めっちゃオリーブオイルみたいな色になっちゃってる」

 自虐するように言う。髪の内側の、染められている部分を梳く。
 ワンポイントとかインナーカラーっていうのだったか。校則では特に髪色指定などはないため、目には付くだろうけど何も言われない。
 どことなくお嬢様然としている人が多くて、そんなに分かりやすく染髪している人はいない。クラスの中でも数人くらいだったと思う。

 でも染めている私も、べつに自分からすすんでってわけではない。
 高校入学直後に初めて行った美容院で、私のことを大学生だと勘違いした陽気なお姉さんに言われるがままに染めてしまった。
 意志薄弱なのと、大人っぽく見られたことへの微々たる嬉しさと、髪色なんてどうでもいいしという気持ちと。
 一回染めたら染めたで芋づる式にお金と労力がかかってしまうことなんて考えていなかった。変に戻っていると嫌だから、すぐ染め直してしまうのだ。


 耳を出す感じにサイドの髪を掻き上げて、桃の方へと持っていってみる。

「でも、さっきの授業中にね、色が落ちてきた感じもいいなって思ったの」

 桃が明るい調子で言う。授業中にって……ああ、数学の授業の時かな。
 その授業の時のように、桃が後ろから髪に触れてくる。抱いた感想はまあまあ同じだった。

 そういえばいつだったか、髪色について桃の不評を買ったようなことがあった。

 美容院のお姉さんに『絶対似合う! 似合います!』と言われるままにミルク色くらいの明るさにしたら、『えー……』みたいな反応をされた。
 ちゃんと言葉にしてあれこれと言われたわけでもないけど、なんとなく伝わるものがあった。
 自分の髪色に対してこれといってなにも思うところがなかったことも相まって、それからはなるべく明るいのは避けて暗めの色にするようにした。

「あ、もう編み込みはしないの?」

「んー、めんどいからしない」

「そっか、そっかー」


「下ろしてると、色が落ちてるの目立ちにくいし。あれはあんまり似合ってたとも思えなかったから」

「わたしは似合ってるなーって思ってたよ」

 さらさらと私の髪を流していた指が止まり、手が肩に移動してくる。

 染めている右サイドの髪を片編み込みにしていたのはたしかほんの数ヶ月だけだったのに、よく覚えているものだ。
 桃は、しばらく変わっていない……はず。上品さを感じるタイプのサラサラストレート。美人だからより似合うやつ。
 センターパートにしている時としていない時があって、今はしている。していた方が大人っぽさが増して私は好きかもしれない。

 ていうか、私も意識していないだけでそこそこ見ているみたいだ。

「じゃ、気が向いたらしてくるよ」

「ほんと? うれしい」

 桃の声が一段弾み、肩にかかっていた力がふわっと軽くなる。


 首だけ後ろを振り向くと、中腰になっていた桃の身体がすぐ近くにあった。

「けど私だけなのはうーんって感じだから、そんときは桃も一緒にしようね」

 視界の正面にある綺麗な髪を見て、そういう桃も見てみたいとちょっと思う。
 旅は道連れではないけれど、自意識過剰にも誰かの期待がある状態で髪型を変えて……というのは一人では照れが入りそうだった。
 桃が相手だからってわけではなく、そんな風な状況にある時点で。

「うん、うんうん。おそろいってことね」

「そうそう、おそろいってこと」

 答えている間に、桃の表情がぱあっと華やいだ。
 お揃いというのは桃にとって嬉しいことの一つなのかもしれない。多分。

「今から上行くけど、一緒に来る?」

「なにしに行くの? あっ水やり、かな」

「ううん、見に行くだけ。今やったら夜冷えちゃうから」

「そっか、たしかにそうだね」


 立ち上がって、すぐに行こうと目で促す。
 ちらっと見て戻ってくるだろうし、荷物はそのままでもいいだろう。

 机上の鍵束を手に取り部室の外に出る。
 出てから、本来なら事務か顧問のすべき鍵の管理を私がしていることの不思議さを思う。

 なんでも、私の前の部長の時からそうなったらしい。先生が顧問になってから、ということだと思う。生徒よりも早く帰ってしまうから。

 ほんの数年前までこの部活はそこそこ活動的だった、と人づてに聞いたことがある。
 中庭の花壇と屋上庭園はその一種で、賑やかだった頃はこの部活が管理を一手に担っていたらしい。
 でも今じゃそんなのは少しも見る影がない。黙っていても人手の獲得が容易な緑化委員会に中庭の管理は委託され、園芸部は、庭園と呼べるかも曖昧な広さになってしまった屋上の植物の管理だけを任されるようになった。
 活動が減れば、当然のごとく予算は削られ、部員は減少……もともと多かったというのもよく分からないけど、今の三年生の代でついに入部希望者がゼロになってしまった。

 らしい。……らしい。
 頭の中で考えてみたけれど、特になにも思うところはない。
 なにせ正直どうでもいい。以上。


 屋上へと続く扉を開ける。空は暗くなりかけていて、外に出てすぐに「寒いね」と桃は私を見た。

「桃の家はもう暖房出した?」

「うん。ストーブと、あとコタツも」

「家の人みんな寒がりなんだっけ」

「そうそう。これから四月までずっとお世話になるはず」

「なるほどね」

「あ……ふゆも入りに来る?」

「どうして?」

「なんだか入りたそーな顔をしてるような気がしたから」

 そう言って、桃はからかうようにくすくす笑う。
 コタツへの羨望が顔に出ていたらしい。全然そういう感覚はなかったけれど……。

「なんてね、冗談じょーだん。ふゆとコタツを囲んでみたいなぁっていう、わたしの願望」

「……そっか」

 目を逸らしてどんな顔をしていたのだろうと頬を触ろうとしたタイミングでそう言われると、なんていうか、不安になる。


「まあたしかに、コタツは魅力的だよね」

「ね」

 他意や含意は本当にないみたいだったので気を取り直して返答し、曇り空を見上げて端の方へと歩き始める。

 中庭を見下ろして、それから周りに目を戻す。桃は私については来ないで、塔屋近くのプランターの前に中腰の姿勢でいた。

「ここにあるお花って、全部ふゆが育ててるんだよね」

「うん、そうだよ」

「すごいね。綺麗だし、いろんな種類あるし、かわいいし」

 ミニバラの八女津姫、グリーンランド・フォーエバー、ウインターマジック。イングリッシュローズのジュビリー・セレブレーション。トルコキキョウの森の雫……。
 挙げていけばすぐに言い尽くせる程の種類だけど、ここにはいろいろな花がある。

 身体はこちらを向いてはいないが、口調から桃が楽しそうにしていることが伝わってくる。
 花や自然なんかを桃は好いていて、これまでも街中でそういうものを見かけた時に反応を示していた。


 けどここで育てている、部活の花についての話をするのはこれが初めてだったと思う。
 いつも通りの柔らかい足の運びで私の方へと向かってくる桃を目で捉えながら、少しだけ気恥ずかしくなる心の動きに気付いた。

「育てるのってやっぱり大変? ……あ、大変なのは大変だと思うけど」

「ううん、そうでもないよ。育て方は決まってるし、多少ほっといても育ってくれる花たちばかりだから」

「そうなんだ。んー、でも、すごいなーって思うよ。わたしは」

「……褒めようとしてくれてる?」

「うん」

「そう。……そうだね、ありがとう」

 やっぱり今日はやたらと褒められる日らしい。
 こんな日めったにない。というか初めてかもしれない。

 普通に過ごしてて褒められるほど真面目でもないし、私を褒めることにメリットなんてほぼないように思える。
 私はその時は少し嬉しくなるかもしれない。でもそれだけっていうか、言葉を貰ったところで還元できるもの──リターンの方法なんて知らない。

 まあでも普通に考えて、今桃が褒めてきたことに打算とかはないのだろうけど。じゃあなぜ考えた? というと、なんでだろ。理由はない。


 そういえば私だって、昨日桃のことを褒めたじゃないか。
 姿勢とか綺麗だよね、って。咄嗟に何か言おうとして、出てきた言葉が桃を褒める言葉だった。

「桃が褒めてくれるの、実は結構嬉しい」

「嬉しいんだ」

「褒められることってめったにないからね。今だって嬉しさを噛みしめてる」

「ならもっと褒めようかな」

「そんなに私に褒めるところってあるかな」

「あるよ、たくさん」

 自信ありげに頷かれる。わざわざ否定するのは自意識が強いみたいで嫌だったから、即座に「ありがとう」と口にしておく。
 その上で、数とかを比べる気はないけど、桃の褒めどころとかいいなと思うところについて考えてみる。


「桃にもたくさんあるよ」

 と試しに言ってみると、

「そっか。こういうのって、自分では分からないよね」

 と少しの間の後に、苦笑混じりの言葉が返ってくる。

「で。それで……」

「それで?」

 普通そうだよね、って同意しかけてたところだったが続きがあった。

「うん。えっと、たとえばー、とか、聞いてみてもいい?」

 たとえば。
 たとえばか。

「完全に私の好みになっちゃうけど、それでもいいなら」

「あ、うん全然……ていうか、むしろその方が聞いてみたいかも」

 ハードルがぐんと上がった。わくわく顔? にこにこ顔? に桃の表情が変化する。
 単純に容姿についてとかそういうことを言おうとしたけれど、それを眼前にしてしまうと何となく気が引けてくるものだ。


 そう思って、出かかっていた言葉を引っ込める。言われ慣れているかな? と思ったのも束の間。もう脱線していることを考える。
 どうせなら言われたことのないような言葉にしたいなと思ったのはどうしてだろう。たまに自分が謎に思える。

「……やっぱり面と向かって言うのは恥ずいから、言わないのはだめですか」

「だめではなくもないけど、わたしとしては、すっごくすごく気になるからだめってことにしてもいいですか」

「あーその、よくないです」

「よ、よくないですか……」

 なんだろうこの敬語の応酬は。
 こういう、私の変な振りに乗ってくれるところもいいところか。若干楽しそうな桃の様子を見て、私も自然に笑みがこぼれてくる。

 いろいろと感性が合うよね、と真面目に冷静に普段から思っていることを考えてみると、容姿の次に浮かんでくるのはそういった類いの言葉だった。
 でも、そういうのって言ってしまっていいのかという不安を抱く。私が勝手に思っている桃の内面についてのイメージを本人に言っていいのかと。

 ていうかまず褒め言葉でもない気がするし……人を直接褒めるのって案外難しい。


「運動得意だよね、とか」

 上手くそういうのが伝わらないような言葉を探したけれど、一旦考えてしまうと駄目だった。
 ので諦めて、無難な解答に落ち着かせる。昨日体育で惨敗した記憶に引きずられてることは否めないが、これは本当に思っていることだった。

「ふゆは運動得意な人が好きなの?」

「ん、まあ、いいよねーと思うよ」

「そっかー。って、わたしはそんなにだと思うよ」

「そんなにって? 運動が?」

「うん」

 桃は頷いて、手を後ろで組む。
 私の返答を待っているのだろうと思って困りかけたけれど、それは杞憂だった。

 声には出さず、桃は何かを呟く。その様子は頭の中でメモ帳を捲っているかのように映る。

「でも、でも……うーん。ふゆに言われると、嬉しい、気がする。うん、嬉しい」

 そしてしばしの沈黙の後、桃が言ったのは自分を納得させるような言葉だった。


「そんな無理して喜ばなくても」

「ううん、無理なんかしてないよ。自分では思ってなかったことだったから、ちょっと」

「さっきの私と同じ?」

「そうなのかな?」

「多分ね」

 あらためて思う。人を褒めるのは苦手だ。
 それが桃相手ならなおさら。だって、こういう風に微妙なことを褒めたとしても、最終的には嬉しそうに受け取ってくれるだろうから。

「もうそろそろ帰ろっか」

「暗くなってきちゃったね」

 そもそもの話、桃と接していて嫌なところなんてどこにもないのだから、取り立てて良いところを考えたことなんてなかったのだ。

 桃は私にやさしくしてくれるし、いろいろと合わせてくれている。
 だから私は考えずにいられるのだと思う。

 そうすると、私は──。


「……」

 扉へと続く道を歩きながら、はっとする。
 やっぱりこういうのって会話が終わってから思いつくように出来ているのかもしれない。咄嗟の時に、身体はでたらめにでも動くとしても口はうまく動いてくれないのが私の悪いところだ。

「……あ、なんか思いついたような顔してる」

 桃の表情を見て確かめようとした時にはもう、その思いつき、あるいは言葉にはできない心象の発露を見透かされていた。

「え、分かった?」

「なんとなく」

 当てたことが嬉しいみたいだった。にこーっと歯を見せて桃は笑う。

「じゃあ、何考えてたか当ててみて」

「えと、それは無理だよ」

「だよね」

「うん」

 無意識のうちに、違うことを言おうと決めていた。
 理由はない。けれど、おそらくこれで間違ってはいない。

 こうやって、なんでもないような話ができること。
 それが私にとって、桃と一緒にいて一番にいいなと思えるところなのだ、と。
 私の心の中に留めておく分には、そういう結論に至るのは至極単純なことだった。

本日の投下は以上です
書き溜めゼロなんでマイペースにいきます

ふむ…
期待

おつおつ





 私のスケジュール帳は、バイトのシフトによってほぼ埋め尽くされている。

 バイト先は家の最寄り駅近くの花屋で、一年の春から働き続けている。
 学校では園芸部、外では花屋のバイト。こうして考えてみると、毎日が花に囲まれている生活だ。

 平日は定休日である火曜日を除いて二日か三日、授業が終わってから閉店まで、
 土日は開店から夕方までか昼過ぎから閉店までのどちらかの時間で働いている。

 働き始めた理由は、店長をつとめている人がちょっとした知り合いで、「よかったら働きませんか」と誘われたからだった。
 どうしてもバイトがしたいというわけではなかったけれど、休日に暇を持て余していた私はすぐに二つ返事で了承した。
 後で聞けばその時は特に人員不足というわけでもなかったようで、私を誘ったのはただの思いつきだったらしい。


 アルバイトというだけあって業務はそこそこ楽なのだと思う。他の花屋のことは知らないので詳しくは分からないけれど、たいして疲れはしない。
 開閉店の作業、水揚げ、接客、レジ打ち、ラッピングにアレンジメント作り……。そこそこすぐに覚えられることのみで、一切の面倒事は店長やパートの人がやってくれている。
 それで給料をもらえて余ったお花までもらえるのだから、学生としては少し長いかもしれない労働時間でもかなり満足していた。

 今日は土曜日。そして今はお昼休憩の時間だった。
 華やかな売り場と違って事務所の中に置いてある物は多くなく、雰囲気はまるで異なっている。
 冬場は暖房が入っているため、休憩になったらすぐに事務所に駆け込むことが多い。
 売り場は冷蔵庫くらいに寒くて、とてもじゃないが上着を脱いだままではいられない。

 がた、という音とともにドアが開いた。
 目を反射的に音の方向へと向けると、私と同じように昼休憩に入ろうとしている店長が肩を手で抱きながら入ってきてきた。

「お疲れさまです」

「あ、はい。お疲れさまです」


 箸を止めて返事をする。私の隣に腰かけた店長──瑠奏さんは大きな包みを広げ始めた。

「どうかしましたか?」

「……いや、いつも思ってたんですけど、すごい食べますよね」

「むしろ霞さんの方が食べなすぎだと思いますよ」

「まあ……それは、そうかもですね」

「まだ高校生なんですから、少しくらい多く食べても損はないと思いますよ。霞さんは結構華奢ですし」

 そう言って、瑠奏さんはお弁当箱をこちらに差し出してきた。
 中には彩り豊かで綺麗なおかずが盛り付けてあった。食べろということなのだろうか。

「遠慮なく。どうぞ?」

「はい。じゃあ、その、いただきます」

 卵焼きを口に運ぶ。柔らかくて、普段食べるものよりも甘い味が舌を刺激する。
 瑠奏さんの作る料理はいつも美味しい。私が作っても多分この味にはなってくれない。


「お客さまからいただいたものもありますから、食べてくださいね」

 仕事のとき、瑠奏さんは誰に対しても敬語を使っている。崩しているのは見たことがない。
 あまり徹底していないが、従業員同士はなるべく敬語で話すという決まりがある。店長だから率先して守っているのだと思う。
 歳が二十代で、パートの人の方が年齢が上というのもあるのかもしれない。業界内でこのくらいの歳での店長はかなり珍しい、と以前誰かが言っていた。

 パートの人達や社員さんは、私にはほぼタメ口だ。
 学生バイトは歳と位が一様な分、接しやすいのか、それとも娘のような歳の差だからか。
 いずれにしても、どちらでもいい気がする。呼び方や敬語の程度では関係性はさほど変わったりしない。

「ところでですけど、秋ですね」

 と瑠奏さんは言った。


「もう終わりそうじゃないですか?」

「紅葉はまだしているので、わたし的にはまだ秋です」

「なら秋かもですね」

「ええ。落ち葉が出てきたら、手のひらいっぱいに拾ってぶわーってすると楽しいですよね」

「そうなんですか?」

「したことないんですか?」

 きょとんとした顔を向けられる。
 ないですね、と答えるな否や、瑠奏さんは小さく咳払いをして、再度こちらを見た。

「カエデ、モミジ、ミズナラ、コナラ、ハゼノキ。あとはヤマザクラやメグスリノキがあると、すごく楽しいですよ」

 大きな手振りで私に伝えようとしている様子はとても楽しげで、やっぱり自然が好きなんだな、と思った。

 たまに瑠奏さんのこういう無邪気さというか、天真爛漫さが垣間見えることがある。
 前はもう少し違ったというか、いやそれは私の見方とかが変わっただけかもしれないけど、ていうか多分そうなのだけど、とにかく。
 そのたびに、かわいい人だな、と思う。変な意味はなく、ただ単純に。

「今度やってみます」


「人が居ないところならいいですけど、道でやるときはくれぐれも気を付けてくださいね。
 何も知らない通行人の人に見られたりすると、すっごく怪訝な目をされてしまうので」

「実体験ですか?」

「いえ、違いますよ。わたしの友達の話です」

 瑠奏さんは話を切るように、瞳を細めながら微笑した。

「秋といえば、恋愛の季節じゃないですか」

 そして不意に、そんなことを言う。

「そうなんですか?」

「霞さんもせっかくの高校生、そして季節は秋。そういう楽しい話とかはないんですか?」

 一瞬だけ焦りかけた。が、それは表出するものではなく瞬きの合間に収まった。
 でも鋭いのか何なのか、タイムリーすぎるような話であることはたしかだった。

「ないですね」

「本当ですか? はぁー、そうなんですか」

「はい」

「そうなんですね。……まあでも、仮にそういうなにかしらがあったとしても、霞さんはわたしには教えてくれなさそうですけど」

 別にそういう意図はないのだろうけど、字面だけ追えば薄情だと言われているみたいだった。
 どう答えればいいのか迷う。受け流すにもタイミングが取りづらい人相手なので出来そうにもなかった。


「や、違いますね。わたしには、ではなくて、誰にでも、ですよね」

 瑠奏さんはにこりと目元を緩めて私を見た。
 当てずっぽうではないような、確信めいたような視線だった。

「でも、教えてくれなくて全然いいです。わたしも特にそれほど興味があるというわけでもないので」

「いやその、そういうのがあったなんて言ってないですけど……」

「ですね。あ、でもやっぱり気になるかもしれないです。霞さんに限っては」

「はぁ、どっちなんですか」

 適当に返事をする。

「ふふっ、霞さんは分かりやすいですね」

 なぜか楽しそうだった。

 他人の恋愛事情に興味を持ったことなんて今までなかった。だから、どういう心境で楽しそうにしているのかはまったく分からない。
 でも、知り合いならそういうことを気にして普通なのだとは思う。一般的に。私も友達の話を聞いているのは別に嫌じゃない。
 私が瑠奏さんの立場だったらと思うと、……まあ気になるのかな? 気にしてと言われたら気にしてしまうくらいには。

 瑠奏さんに恋人とか、そういう相手がいるとは聞いたことがない。
 親には「早く相手を見つけなさい」と言われていると、前に愚痴を零してきたことがあった。


 よく男性のお客さんからお花をもらっていたりするのは、あれはそういうのではないのかな。他にも、この机の上のクッキーとかもそうだし。
 嬉しいです、とにこにこしながら受け取っている姿を見るたびに、人徳というか愛想の良さのようなものを感じていた。

 定休日以外はずっと仕事をしているだろうから、どうしてもここでの印象ばかりになってしまう。

 なんかそういうのとか、嫌っていそうな──もしくは興味なさそうな感じがした。壁があるというか、恋愛は別に、みたいな。
 だから恋バナ(なのかな?)を振ってきたときは驚いた。意外と楽しそうなのでもうちょっと驚いた。

 会話が途切れてから数十秒後、お茶をずずっと飲んだ瑠奏さんは興味深そうな顔で私を見つめてきた。
 別のことを考え始めていたところだったから、少し反応が遅れる。まさかバレてはいないだろうけど。
「なんですか」、の「な」が出かかったところで瑠奏さんが声を出そうとしていたので踏みとどまった。

 それから何かを言うかどうか迷うような顔をして、結局言おうと決心をするように真面目な表情で頷いてから再度こちらを見てきた。

「霞さんはモテそうですよね、美人ですし、おっきいですしスタイルも良いですし」

 と言って、瑠奏さんは手早く片付けをして事務所から出ていった。
 躊躇ったのはなんでだろう、案外普通なことで拍子抜けする。考えれば分かる気がしなくはないけど、勘ぐりすぎかもとも思う。

 美人とかそういうのはお世辞だろうから置いといて、モテませんよ、とひとり呟いた。






 お昼過ぎになると客足がまばらになり、座りながら作業することができるようになる。
 午前中はほぼずっと立ちっぱなしだということもあって、マイペースに一息つきながら、というのは気が楽に感じられる。

 瑠奏さんは今、店の二階部分を使ってフラワーアレンジメントの教室をしている。土日のどちらかの午後はいつもそうで、その時間は店番を任されていた。
 今日お店に入っているもう一人のパートの人は、結構遠くのコンサートホールにスタンド花を配達しに行っていて今はいない。

 そういうわけで、店内には私一人だった。お客さんが入ってこない限りは……、と思った途端に女性が来店してきた。よくあることだ。

 店内はシックな雰囲気で統一されている。花屋というとかわいらしくポップな印象を受けるけれど、この店はそういう雰囲気がコンセプトらしかった。
 壁にはクリスマス用の、ポインセチアが大きく描かれた広告が貼られている。まだ一ヶ月以上前だというのに。まあそれは他の職業でもそんなものなのかもしれない。

 この店を御贔屓にしてくれている、所謂常連さんが多いから、大体のお客さんの顔は憶えている。けれど今来たお客さんは初めて見る顔だった。


 初めてのお客さんは、大抵はアレンジメントやブーケを頼む。誕生日などのお祝いで誰かに贈るため、というのが多いからだ。
 そしてそのアレンジやブーケは去年バイトを始めたばかりのときに一通り作れるように練習したけれど、いざ作るとなると緊張してしまうのが常だった。
 だから、出来れば切り花でブーケとかは頼まないでほしいな、と思っていた。店員としては少しよろしくないかもしれないけど。

 使う花の指定が細部まであれば楽なのだけど、大概そんなことはなく、おまかせでというのがほとんどだ。
 赤系で、とか、バラをメインに、とか言ってくれるお客さんが神様に見えるほど、特に要望もなく複数種類欲しい、と注文する人は多いのだ。
 本音を言うと、メインの色とその他の色まで細かく指定があってほしい。アクセントや、その季節らしいカラーを入れたいというときに、お客さんからのニーズと違ってしまっていてはいけないからだ。

 訊き逃してはいけないことも多く、たとえば病院へのお見舞いに持っていくものだったら匂いだったりサイズだったりを考慮しなければならない。
 私だったら全部伝えるけど、みんな誰もが制約を知っているわけではない。話して、えっそうなんですか、と驚かれるのは割とよくあることだ。

 作ってみてからでは遅く、作り直すこともしばしば。イメージと違うと怒られてしまったりもたまには。
 大手だと最低二年くらいはお店で出すものは作らせてもらえないと聞いたことがある。ぺーぺーの高校生である私が作っているのって、本当にいいんだろうか。


 ここのお店に入ったときに特に重要なこととして言われたのは、コミュニケーションは私たちから積極的に、だった。
 瑠奏さんみたいに知識が豊富で器用にコミュニケーションが取れればいいけれど、私はまだ未熟というか、下手だし苦手だ。

 そのお客さんはさして迷うこともなく、季節外れの向日葵を数輪買っていった。

 しばらくループリボンを作ったりカウンター内の掃除をしていると、瑠奏さんが階段から降りてきた。
 棚の上の荷物をちらっと一瞥してから、私の方へ視線を飛ばしてくる。取ってほしいようだった。

 瑠奏さんは身長が低くて、私とは二十センチ差くらいあるのかな。つかさとかよりも小さい。
 指摘すると気にするというか、変な空気を出してこられるので、特に何も言わずに段ボールを取って渡した。

「ありがとうございます」と瑠奏さんは良い笑顔で跳ねるように言って上階へと戻っていく。
 自然な笑顔っていうのは生得的なものなのか、それとも後天的なものなのか。私の知っている瑠奏さんは、昔から自然な笑顔を私に向けてくれていた。

 すべきことを順繰りに済ませていくうちに、外の天気は秋晴れから夜へと移り変わり始めていた。
 向かいの美容院の街灯がチカッと点くのが見えて、あと少しで今日のバイトも終わりなのだと気付いた。


 人はいないしいいだろうと欠伸をしていると、見知った顔が入店してくる。身体が少しかたくなる。
 思わず目を逸らして、それでもまあ気になってしまって向き直ろうとしたところで、ふふっと微笑する声が耳に届いてきた。

「や、おつかれさまー」

 と、部活帰りらしいジャージ姿の栞奈がひらひら手を振りこちらに寄ってきた。

「いらっしゃい。栞奈も、おつかれさまかな?」

「うん。たまたま通りかかったから来てみた」

「そっか」

「やっぱ働きものだね霞は」

「そうかな、今さっき欠伸してたけど」

「あはは、だね。……あ、そだ。今日は普通にお客として来たんだけど……」

 そう言って、栞奈は店内を見回す。

 私がバイトをしている姿に興味があるとかで前に来てくれたのは夏休みだったかな。それからたまに来てくれる。
 学校関係の知り合いだと、このバイト先に今まで来たことがあるのは栞奈だけだった。


「自分用? それとも誰かに贈るための?」

「お母さんの誕生日用。ほんとは昨日だったんだけどね」

「なるほどね……。今の季節だと、ガーベラとか、あとはオーソドックスにバラとか。アレンジメントで良かったんだよね?」

「うんうん、そうね」

 予算は? と訊ねると、四千円まで、ということらしかった。

「それだと、ガーベラだけだったら二十ちょっと、バラだけなら十二、三本くらいかな。
 ガーベラとバラは見栄え的に合うから、両方使っていい感じにまとめられれば……って思うんだけど」

「お花はたくさん種類があったほうがいいかな」

「わかった。なるべく多めに使ってみるね」

「よろしく。あー、友達に作ってもらったってお母さんに自慢できる」

「いやその、恥ずかしいからやめてよ」

 曖昧な調子で答えながら、花束の構成について考える。


 基本的にアレンジメントは、メイン、サブメイン、ラインフラワー、アクセント、ボリューム、グリーンの六つから逆引きして決めていけばいい。
 アルストロメリアとスカシユリで可憐な雰囲気を、ワレモコウで落ち着いた雰囲気を出す。
 スペース埋めをアストランティアで、ヘデラで緑を補いつつ……と、おおかた決まってきた。これでいこう。

 秋らしいカラーで、少しでも大人っぽさというか、そういうものを出せればなと思う。
 年上や、お世話になっている人へのプレゼントは、ちょっと背伸びしているぐらいの方がいいと思う。
 私目線ではそうだ。おまかせのようだから、勝手に栞奈もそうだと思っておく。揺れるとそれが出てしまいそうだから、ここは自分に都合良く。

「じゃあ今の霞を写真に収めて、つーに送ろうかな」

 作業台でオアシスに花をさし始めると、栞奈はスマートフォンを取り出して私に向けてきた。
 ちらっと見て目を逸らす。思わずむっと表情を固くした拍子に、パシャ、というシャッター音が耳に届いてきた。

「なんでつかさに……ああいや、まあつかさならいいや」

 話しながら作るのは久しぶりで、そっちへの対応が少しぶっきらぼうになる。


「いいんだ?」

「減るものじゃないしね」

 反応がだいたい分かるから。わーっていう感じのやつ。うん。
 それは栞奈にも伝わったみたいで、「やめとこ」と手元で操作していたスマートフォンにかけられていた指がぴたりと止まった。

「じゃあ、桃に送ろうかな」

「うん。えっと、それも別にどうぞ、って感じなんだけど」

「あ、そうなんだ。そんならこっちはほんとに送ることにしよう」

 指がもう一度動き始める。「ほんとに送ったよ」という声とともに見せられたのは桃とのトーク画面。

 やっぱりやめてよ送信取り消しできるでしょ、と反応すべきかどうか迷ったけれどそうはしなかった。
 その代わりに適当に言葉を発しながら笑った私を見て、栞奈はなぜか楽しそうに笑みを返してきた。

「桃、見たら多分喜ぶよ」

「そうかな」

「多分ね。ほら、なんかよく『写真撮ろー』ってしてるじゃん。二人で」

「んー……あーまあ、してるね」

「霞からってのはあんまりないだろうけどね」

「そうかもね」


 ラッピングも秋っぽく包んで、ホチキスでカチカチと止めていく。
 リボンをつけて、セロハンを左右対称になるように貼り、丁寧にアレンジを包む。

「こういう感じでどうでしょうか」

「うん。やっぱり頼んで良かった」

「満足してくれたならなにより」

 くっきりした二重の瞼と長い睫毛が楽しげに揺れていて、本心から言ってくれたのだと嬉しい気持ちになる。

「じゃあこの作ってくれたのと、霞と、私も入るか」と栞奈は今度は内カメにして、再度私にスマホを向けてきた。

「これは誰にも送らないやつね」

 栞奈はそう言ってパシャパシャと何枚か撮っては、角度か何かがしっくりこないといったような微妙な表情で撮り直しを要求してきた。
 二階からフラワーアレンジメント教室の人達が降りてきて、栞奈もその流れに混じるようにして帰って行った。
 じゃあね、と手を小さく振って見送り、ドアを閉めて振り向くと、瑠奏さんが私をまじまじと見つめていた。意味ありげな視線。


「なんですか?」

「いえ。お友達、かわいらしい方ですね」

「そうですね。優しいし、しっかりしてる子です」

 いいですねー、と瑠奏さんは頷く。

「今度、ほかのお友達も連れてきてくださいよ」

 ぱちっと手を打ち、良いことを思いついたような顔でそう続ける。

「はあ、まあ……いいですけど」

「霞さんはお友達の数はあまり多くはないでしょうけど」

 あはは、と笑って否定はしなかった。普通に事実だったから。
 ていうか瑠奏さんも知っていて言っているあたり、少しだけ酷い人だと思う。

 もし連れてくるとしたら、もう桃かつかさだけだった。
 で、それはなんとなく……うん。なんでか分からないけどすすんではしたくない。
 自ら来るならまだしも、呼ぶというのは、ちょっと。授業参観の時みたいな気分なのかな? わからないけど。

「気が向いたら、そのうち」

 と、そう言って誤魔化すことにした。

本日の投下は以上です

読んでるよ





 部室でぼーっとしていたらSHRまでの時間が迫ってきていたので、早歩きで教室を目指す。
 部室はなんとなく落ち着く。あまり居着きたくはないが、一人になれるし広さがちょうどいい。

 今日はいつも通り早く学校に着いたのだけど、花瓶を洗っているときにはもう次の人が教室に来てしまった。
 週番だったらしく、少しだけ仕事を手伝った。といっても、身長の低めなその子の代わりに黒板の上の方を消したくらいだけど。

 話が好きそうな子でいろいろ話しかけられて、最初のうちは答えていた。でも終わりが見えなさそうだったので部室に行くと理由を付けて逃げた。

 単純な質問に答えるだけだったから、今考えてみると楽だったのかもしれない。普通にそのまま答えていればな、と反省する。もしくはその子のことを聞けばよかったな、とも思う。
 これだから友達が少ないのだろう。こういうきっかけを逃すと後々響いてくるのかもしれない。頬をつねって再度反省する。

 そしてその、つねった拍子にどうしてかは分からないけれど、好きな形の雲の話とか、好きな動物の話をしてくれていた子の存在を思い出した。
 小学生の低学年か、それよりも前か……いずれにせよまだ小さいときの記憶だ。


 転校や進学で沢山の人や友達と出会って別れてを繰り返すと、不必要だと感じたものから忘れていってしまう。大抵のものは感じることすらなく忘れる。
 その中で忘れずにいるのは大切だと思っているからなのか。相手にとっては多分、いやきっと、私なんて取るに足らない存在だとは思うけれど。

 記憶に容易に蓋は出来ないものだなぁ、と目を細めていると後ろから私の名前を呼ぶ声がした。

「ふゆゆ、おはよー」

 振り返ると眠たげな調子のつかさがゆるく手を振ってきていた。
 私も手をあげて挨拶を返すと、安堵したような面持ちでこちらに駆け寄ってくる。

「眠そうだね」

「うん。昨日遅くまで電話しててさ」

「そっか」

 噂の恋人さんとなのかな、という考えが頭に浮かぶ。
 きっとそうなのだろう。そうじゃないかもしれないけどそんな気がする。


「ふゆゆはいつも眠くなさそうだよね」

「日付が変わる前には寝てるから」

「へぇー。あんまテレビとか見ないんだっけ?」

「そうだね、あんまり。たまには見るけど」

「ふーん。まあなんかふゆゆはそんな感じだよねー」

 そうなんだ、と私は自分のことを言われているのに他人事のように答えた。どう答えればいいのか微妙に思えたから。
 そしたら案の定、「んな他人事みたいに」とツッコミが入った。互いに目を合わせてくすくす笑う。

 つかさと話すと、自分の自然な反応を引き出されている──引き出してくれているように感じる。

「やっぱりふゆゆはワールド持ってるよね」

「なにワールドって」

「自分の世界というか、他とは違う系のなにか」

「つまり変わってるってこと?」

「平たく言えばそんな感じ」

「うーん」

「あ、ふつーに褒めてるんだよ」


「いやそうは言ってもねぇ……」

 他人から変わってると言われて素直に喜ぶ人はいないだろう。もしいるとすれば、そういうふうに見られたいと思っている人か、なんでも好意的に捉えることのできる人のどちらかだと思う。

「私だって可能な限りは多数派から外れていたくないって思ってはいるんだよ」

「んーでも、そういう人は友達と話合わせるためにテレビとか見たりするんじゃない?」

 たしかにそうだし、私も昔はそうだった。
 周りから外れていたくないと思うのは誰にでもあることで、外れないために適当な取っ付きやすい話題で話を合わせることは、まあ言っちゃなんだけど一番簡単な方法だ。

 そうじゃなくなったのは、関わる人がそういう話をしなくなったからというだけのことなのだろう。
 取り巻く環境への最適化というよりは、主体性がないために周りに合わせているだけ。
 でも何らかの物事を延長するにあたっての手続きを必要としないなら、それはそれとしてそのまま享受してしまう方が楽だ。


「でもそのふゆゆワールド、わたしはかなりいいと思うよ」

 つかさは冗談めかしたような口調でそう言いつつ、親指を立てた。

「ももちゃんもゆるふわなワールド持ってるし、栞奈はちょっと超人的な感じするし、あーわたしってけっこー普通なんじゃねーのって思える」

「ふうん。てことは、つかさは普通でいたいんだ?」

「まあそれはね。全部じゃなくとも、何個かは普通さをもっていたいじゃん」

「そっか」

「どうしても普通でいられない部分もあると思うし」

「難しいね」

「そ。まあ朝からする話じゃないねー」

 というようなことを話しているうちに、もう教室の前までたどり着いていた。
 まばらな話し声がして、その中にさっき話した子の姿を見つける。目があって、少しだけ隠れがちに手を振られる。


「とーかちゃん、おはよーございまーす」

 ちょっと驚いている私をよそに、つかさは黒板の近くに先生を見つけるやいなや、小学生でもしないようなわざとらしく間延びした挨拶をした。
 視線を戻すと、さっきの子はまだこちらを見ていた。ううん……これはどういう反応をすればいいのか。

 てきとうに会釈をすると、へらーっとした笑みが返ってきた。これはこういうコミュニケーションなのかな? と思った。今度直接聞いてみよう。

「おはようございます、つかささん」

 つかさはいつも先生にがんがん絡んでいく。お気に入りらしい。
 私も「おはようございます」と言うと、きっちりと挨拶を返してきたあとに、先生ははっとしたような表情をした。

「つかささん、あの、ちゃん付けはやめようね。これでもいちおう先生だから」


「はいはーい、わかってますよーとーかせんせー」

「もー……。ああ、今日はちゃんと寝ないで授業受けなさいよ」

「がんばりまーす」

「あっそうそう、テスト勉強はちゃんとやってるの?」

「え、せんせー、テストはまだまだ先ですよ?」

「でもつかささんは、今からやってないと補習かかっちゃうじゃない」

「んー……たしかに。それはたしかにですけどー」

 ともだちみたく楽しそうに会話をしてるなぁとぼんやり二人を眺めて、自分の席へと向かった。





 その後は特にこれと言ってなにもなくただ授業を受けて、気付けば放課後になっていた。

 今日も栞奈は部活で、つかさは用事があるとかなんとかで、帰りは必然的に桃と二人になった。
 部室は……まあいいかなと思って行かなかった。週明けだから、花たちの様子は朝と昼に見にいったのだった。

 この前からの続きのように桃のマフラーを巻いてあげる。三日続ければそれはもう習慣になっているという話があるように。
 帰るよとなったときにちょっと落ち着かなそうになる桃を観察するのも面白いかもと思ったのだけれど、そういうのはなんとなく悪いなと思って、私の方から「ほら」と促した。

 校舎の外に出ると、しとしとと細かい雨が音らしい音を立てずに降っていた。

 自転車を置いて帰るかどうか、と迷いながらスマホで明日の天気予報を確認する。快晴。

「傘入らせてもらってもいい?」

 と言ってみたら、

「あっうん、ぜんぜんいいよ」

 と桃はあっさり受け入れてくれた。


「ふゆ、濡れるからもうちょっと寄って」

「いいの?」

「うん。……あ、そういうの気にする?」

「そういうのって?」

 訊ねると、桃は少しだけ表情を固くした。

「近い、とか」

「いやないない」

 間が生まれないようにすぐに返事をする。
 ついでにハンドルを横にずらして桃に寄る。小さな水たまりからはねた飛沫で僅かに足が濡れた。

「こういう場合は気にしてもおかしくないって思った」

「んーでも、お願いしてるのは私の方なんだから、近寄れでも離れろでもどっちでも大丈夫だよ?」

「いやその、そうじゃなくて。……気付いてないみたいだけど、相合傘ってことになるじゃん、これ」

「ああ、たしかに」

 言われてみれば、と思い桃に目を向けると、
 やっぱり気付いてなかった、というような苦笑が返ってくる。


「したことなかったっけ」

「ない。ないない」

 ないよ、と考えているうちに付け加えられる。

「写真撮るときとかもっと近いから、なんで今更訊くんだろーって思った」

「たしかに。ちょっとわたしが意識しすぎてたかな」

「……」

「……あ、ちがうのちがうの」

 何も言ってないのに、というか言う前に、あたふたしている感じでふいっと目を逸らされる。それに触れずに頷いて、横目で様子を窺っているうちに、桃は息を整えてから再度こちらを向いた。

「あの、ぜんぜん関係ないんだけど、写真っていうとさ」

「……栞奈から送られてきたやつ?」

「よくわかったね。そうそう、ふゆの写真」

 と桃はコートのポケットからスマホを取り出す。

 いやいや、と反射的に左手を伸ばして画面を覆う。


「やめてよ恥ずかしいから」

「そう?」

「じゃ想像してみて。友達に自分の写真が映ってる画面見せられるの、恥ずかしくない?」

「うん恥ずかしい」

「ならしないでよ」

「ごめん。働いてるときのふゆを見るの初めてで、ちょっとうれしくなって」

 桃はふわふわ笑って、手に持っているスマホを元に戻す。そして、「かわいかったから保存しちゃったんだよね」と嬉しそうに一言。

 こういうことになるなら、栞奈に適当なこと言わずに『送らないで』って言うべきだった。なんだ『別にいいよ』って。あのときの自分を恨む。
 まあ、喜んでくれているなら……いや、逆にそっちの方が恥ずかしさが増す。いっそのことイジってくれた方が気が楽だ。今日ここまで何も言われなかったから、言ってこないのではないか、と期待していた部分があった。

 私が墓穴ったせいで桃に連想させたのだから、悪いのはどう考えても私。適当なことばかり言わないように努めよう。何事も考えてから発言と心の中で誓う。
 でもきっと今から一分後にはその誓いごと忘れてるんだよなぁ。最近そんなことばかり思う。


「栞奈ちゃんって、ふゆのお店によく来るの?」

「いや、たまに。今まで何回か」

 答えると、なにかを思いついたように桃はすぐ近くから目線を外し遠くを見る。僅かに歩調が早まった。

「よければなんだけど、わたしも行ってみていいかな」

「あ、うん。いつでもどうぞー」

「え、ほんと? 実はね、前から行ってみたいなーって思ってはいたんだよね」

「へえ、そうなんだ」

 土曜日にした瑠奏さんとの会話を思い出す。

 桃が来たら瑠奏さんはどういう反応をするのかな、と思ったけど、あの人は身長が高めの同性を見ると動揺する習性があることを思い出した。
 それってどんな習性だよ、という自己ツッコミはさておき。

 ぼとぼとと傘に落ちる音がして、雨が少し強くなってきたことに気付く。傘の外に出した腕にはすぐに雨粒が滴った。


 桃もそれに気付いたようで、傘を持つ腕と私の肩とが触れ合うかというくらいまで身体を寄せてくる。

「いきなり行っても迷惑かなって思ってたのもあるけど、一番はやっぱり機を逃していたっていうか、そういう感じで……ふゆがいいなら今度行ってみるね」

「うん」

 律儀だなぁ、とぼんやり思う。迷惑だなんて思うわけないのに。
 まあ、何かを突然の思いつきで実行しようとしたけど、それまで放っておいたせいでなにかしらの手順を踏む必要性が出てきてしまった、という経験は私もある。

 ていうかそんなことだらけなのだ。

「言ってみてよかった」

 と桃は言ったけれど、栞奈が桃に私の写真を送らなかったら、多分バイト先に行ってみたいのバの字も出ていなかっただろう。

 きっかけというものは普段注視して見ようとしていないだけで、そこらへんに無数に転がっている。そのかわりずっと放置してると拾い上げるのは難しくなる。
 それが存在している地面や空間はほとんど変わっていないはずなのに。

「ちょっと駅前のお店寄っていかない?」

「いいよ。買い物?」


「えっと、そう。それもあるんだけど……」

 ほら、と桃は傘越しに薄暗い空を指差す。
 雨宿りも兼ねて、ということだとすぐに気付く。

 私も桃につられて周りを見る。勢いをさらに増した雨は白驟雨と呼べるようなもので、等間隔に植えられている街路樹の木の葉からは、閉め忘れた蛇口のように断続的に水が流れ落ちていた。
 傘の外を見れば、街灯がレモン色に光っている。この通りは昔はすべてガス燈だったはずだけれど、ちょっと見ないうちにそうじゃないものが入り混じるようになっていた。

「ふゆはこういうとき、家に連絡とかする?」

「しないかな」

「そっか。なら、わたしもいいかな」

 なんて会話をしているうちに駅前について、さてどこに行くかというふうに視線がかち合う。

 どちらもそんなに行きたいところはないよね、と自転車置き場のある商業施設にそのまま入ることにした。
 二人で放課後どこかに寄るなんて初めてかもしれない。思いつく限りだと今年の春に桃の家に行ったことくらいで、それは私からしたら『寄る』かもだけど、桃目線だとそうじゃない。

 ほぼ毎日一緒に帰っていてそうなのだから、それはもう"機を逃していた"、とは言えないなと思った。





 商業施設の入ってすぐの場所にフードコートがあったので、ちょっと巡ってからここで軽食をとろうと決めて館内をぶらつくことにした。

 壁に貼られているフロアガイドをちらっと見ると、二階はファッション関係、三階はアミューズメント系など、階数ごとに大まかに店の系統が分かれているみたいだった。
 桃は迷いなく三階まで上がった。今の時間というのもあって、フロアはそこそこ混雑していた。

 少し歩いたところで、「もしかして初めて?」と桃が足を止めずに振り返る。

「お恥ずかしながら」

「ふゆはあんまり出歩かなそうだもんね」

「まあね。てことで案内よろしくね」

「うんうん。わたしもそのつもりだったから、任せて」

 エスカレーターから歩いてすぐのところにある、ゲームセンターの前を通る。
 私たちと同じ制服を着ている生徒の姿が見える。他の学校の人もいるけど、こういうときはなんとなく目につくものだ。


 暇をつぶす目的ならそうだろうと足がそちらを向きかけていた。が、桃の目当てはゲームセンターではなかったらしい。
 そこも通り過ぎて、割と大きめの本屋の前まで来た。

「参考書をちょっと見たいんだけど、いい?」

「いいよ。……て、桃。もしかして受験用?」

「そういう感じ」

「わーまじめだ」

「格好だけでも受験しますよ感を出したくて」

「ああ。そういうところから差が付いていくのね」

「いや、いやいや、ふゆとわたしの成績そんな変わらないし……ていうかむしろふゆの方がいつもちょっとずついいじゃん」

「そうだっけ?」

「そうだよー」

 なんとも言えない恨めしげな視線が飛んできた。

 参考書コーナーに着くと、桃はどちらかというと苦手だという理系科目の参考書をパラパラと見始めた。


 大々的な帯に辟易しながら同じものを手に取る。ちょっと読んですぐに戻すくらいには、何が書いてあるのかさっぱりだ。

「でも私、受験するかどうかはまだ決めてないんだよね」

「え、ほんと?」

 桃の表情が一瞬にして凍る。
 そんなに驚くことなのかと思う。

「それってつまり、卒業したら働くってこと?」

「んーまあ、そうなるね」

 そりゃニートするってわけにもいかないだろう。
 高校は何の気なしに入ったけれど、それだって多少なりとも思うところはあった。だから、その先は私にとって手に余るようなものである気がしてならない。

 やりたいこととかないし。これから先、受験までの一年ちょいでそれを見つけられるとは思えない。
 勉強しない理由をそういう風に作り出している……わけではないと思う。考えられていないだけ。でもそれはきっといつまで経っても変わらない。

「どっちにしろ、ちゃんと考えたうえで決めないとね」

「そっか。やっぱりふゆって真面目だよね」

「そう?」


「だってなんとなく"自分は進学するんだろうな"ってわたしは思ってるし、わたし以外でも結構な人がそうだと思うから」

「……んー、そっか」

 結構な人。つまりそれが普通なのかな。
 聞かれたことにちゃんと答えようとすると、自分が普通から外れていることに気付かされる時がある。

 つかさが言っていたのもこういうことなのだろう。
 ここにはいない誰かに合わせて「私も進学かな」と答えるべきところだった。けど私はそうはしなかった。こういうある種の噛み合わなさを積み重ねれば、変わっているとみなされても不思議じゃない。

「ふゆ?」

 桃が私の顔を覗き込んでくる。考え込んでしまっていて返答が疎かになっていたからかな。

「なんでもない。でもまあ私も進学なのかな」

「そうなの?」

「特に理由はないけど。……ないなら、桃と同じ進路がいいなって」

 今のところは、と付け加える。
 桃は僅かに驚いたような素振りをしてから、くすくすと笑った。


「ちゃんと考えないとって言ってなかった?」

「とりあえず先延ばしにしとくのが吉だと思ったのもあるかも」

「先延ばしにしたらわたしと同じ進路になるのね」

「まあね。主体性がないもので」

「そんなことないでしょ」

 桃がまた笑う。「いやそうなんですよ」と答えたら笑ったまま流された。ひどい。

「そういう未来を想像するのは、ちょっと楽しいかもね」

「どういう未来?」

「桃と一緒の大学に通ってー、みたいな」

 目の前の棚には大学名が書かれた参考書が並んでいる。いわゆる赤本ってやつだ。
 近くの大学のものに指を掛ける。まったくの偶然だったのだけれど、学校で受けた模試で私のレベルに合っていると出ていたところだった。

「今とそんなに変わらなそうだけど」と桃は首を傾げた。


「たしかにね。でもそこがいいんじゃないの」

「てことは、ふゆは今と変わらない方がいいと」

「うん」

「今のままがいいのね」

 繰り返し二回言ったし、なにやら含みのある言い方に感じた。直感。本に向けていた目線を外して、桃の方を盗み見る。
 すると今度は桃が考え込む番になったようだった。さっきまでは前屈みで表情がよく見えたのだが、しゃんとしている姿勢では身長差も相まって、マフラーがかかっている口元の様子までは覗けない。

「たしかに、ふゆとの大学生活は楽しそう」

 どう反応すべきか迷っているうちに、逸らしていた目を私に合わせて、桃は口を開いた。
 杞憂だったみたいだ。私の直感なんてそんなに当たらない。桃の心情を勝手に予想して、変なことを口走ってしまっていなくてよかった。

 ほっとしていると、「あ、そだ」と桃は私が手に持っているのと同じ本を取って呟いた。

「もし同じ大学になったら、一緒に住む?」

「えぇ? いや、それは、はは……」

 思わず変な声と渇いた笑いが出る。


「え、そんなに嫌?」

「嫌ってことはないけど……、冗談じゃないの?」

「……んー、冗談じゃないって言ったら?」

「ちょっと考える。で、まあ多分だけど、そういう未来もありかもなー、って思うんじゃないかな」

「あはは。なら冗談じゃないってことにする」

 と言って笑う桃を見て、「やっぱり冗談だったのね」と安心した。

 その後、ちょっとの間、お互い手に持っていた本や、他の参考書について話をして、そのうちの何冊かを買った。
 暇なときに開いて勉強したらめっちゃあたまがよくなるかもな、と思った。

 会計を終え本屋を出ると、向かいにある雑貨屋が目に入り、「あ」と閃くことがあった。買おう買おうと思ってそのままにしていたものの存在を思い出す。

 桃に確認を取ってお店に入る。さっきの本屋とは違って、明るい照明が白い床に反射していて目が痛くなった。

 文房具に化粧品、キッチン用品などを見て巡る。青ペンが切れかかっていたなーとか、この化粧水おすすめだよーとか、そんなことを話しながら歩いているうちに目当てのものを見つけた。

「手帳?」

「そう手帳」


 私が手に取ったものは、日記帳とスケジュール帳と、その他もろもろが一緒になった多機能な手帳だ。今使っているのと同じもので、十二月始まりだから今の時期に買っておこうと思っていた。
 商売用語だとエンドって言うんだったかな、目につきやすい通路に置かれているもので、ポップには日本一売れてるとかそういうことが書いてあった。たしかに使いやすいし、続けることが苦にならないような設計がなされている。

「ふゆはどういうこと書いてるの?」

「バイトの予定とか日記とか。まあほぼ日記かな」

「その日あったこととか?」

「そうそう。もちろん今日のことも書くよ」

「わたしと一緒に帰った……とか?」

「それはほぼ毎日だから書かない」

「あ、そっか。ほぼ毎日だもんね」

 仲良くなったばかりの頃は毎回書いていた、とは言わなくていいよね。もし言ったとしたら顔をあげられなくなりそうだった。

「ふゆが日記つけてたなんて知らなかった」

「まあ学校に持ってかないし」

「たしかに見たことない」

「たまに見返すとちょっと前の自分ってこんなこと考えてたんだーってまぁまぁ楽しくなるよ」

「そうなんだ。……なんか、興味湧いてきたかも」


「へぇー、なら買ってみたら?」

「んーでも大丈夫かなー。続けられるか心配」

 私のイメージだと桃は几帳面なタイプだから、ずっと続きそうではあるけどなぁ。

 適当なマインドでやった方が忘れたときの罪悪感やらなんやらがないから続くのかも……いや、それは個々人の気の持ちようだから関係ないか。

 私が買いに来ただけだから桃に勧める理由はない。けどなんとなく勧める感じになっていた。
 日記仲間を欲していたのかもしれない。もちろん交換日記みたいなのをするつもりはないし、お互いに見せたりもしないんだろうけど。

「ならお揃いで買おう」と同じものをもう一つ取って、桃に手渡す。

 すると桃は『それならいいか』というように朗らかに笑った。


「ふゆのこといっぱい書くようにするよ」

「おー、たとえば?」

「今日はルームシェアを提案してやんわり断られた、とか」

「えぇ……いやまあ、ご自由に書いてください」

「そうする」

「うん。じゃあ買いに行こっか」

 もう冗談かどうか聞くのはやめにしておいた。

 時計を確認するともうそろそろいい時間になっていて、軽くご飯を食べて、外に出る頃には雨は上がっていた。

「今日すごく楽しかった」と別れ際になって桃が言ったので、「私も楽しかったよ」とそれに追随する。
 言おうとしていたちょうど同じ時に言われたものだから、先を越されて悔しいような、不思議な気持ちになって、次にふたりでここに来るときは私から誘おうと気付けば考えていた。

 一人になって夜道を自転車で進みながら、こういう遊んだり買い物に行ったりすることが、これからは増えてくるのだろうなぁとなんとなく感じた。

本日の投下は以上です。

よんでます

待ってる





 翌日の朝は、少なくとも昨日よりはちゃんと週番の子と会話することができた。
 途中、珍しく(最近では二度目だけれど)先生が教室に来て三人になり、話を聞く側にまわれたことが良かったのかもしれない。

 先生が朝早く来たのは、放課後に部長会があることを伝えるためらしかった。
 月一で決まった曜日にあるのは知っていたし、諸々の持ち物などは過去のものを流用すればいいので不都合は生じないと説明すると、先生はほっと胸をなで下ろしていた。

 そしてその放課後になると、栞奈が話しかけてきた。
「部長会初めてなの」と。そういえばこの前、三年の先輩が引退して部長になったと言っていた気がする。

「どういうことをするの?」

「ただ各部の部長が集まって話をする」

「……だけ?」

「だけ」

「ふうん。それはなんか、すっごく退屈そう」

「退屈だよ、実際。時間の無駄とまでは言わないけど」

「霞がそう言うってことは……まあ、察した」

 栞奈は面倒そうな表情をつくって苦笑する。
 言い方を間違えたような気がして、私は少し後悔した。


「今日はせっかくの休みなのに、運悪いなぁ」

 そう言って栞奈は窓の外を見つめて、深い溜め息をついた。
 それになんと返せばいいのか分からないまま、栞奈の横顔をちらと覗く。けっこう疲れていそうな顔をしていた。

 ひとまず机の上の荷物を片付けて、二人で教室の外に出る。
 大変だね、とか、疲れてるね、とかそういうことを言えればいいんだけど。そういうのって、実際つらい人からすると、わざわざ言われては迷惑かもしれない。
 廊下を歩いているうちになにか言うことが見つかるだろうと思ったけれど、結局思いつかなかった。

「そういえばさ、この前は来てくれてありがとう」

 だから、がらっと話題を変えることにした。

「こちらこそ。うちのお母さんね、すごく喜んでくれたんだよ。
 いい友達がいるのね、って。なんだか私の方まで鼻が高くなっちゃった」

「ならよかった。正直、ちょっと不安だったんだよね」

「喜んでくれるか? ってこと?」


「そう。友達のお母さんに向けて、っていうのは初めてだったから」

「んー、霞はもっと、自分に自信持っていいと思うよ」

「それ、お店のパートさんにも言われるんだよね。
 そういう気持ちっていうのは出ちゃうものだから、みたいな」

 だから、なるべく隠すようにはしていた。
 おどおどしている店員がいたら漠然と不安になるのは当然のこと。
 まあ……高校生か、もう少し大人に見られたとしても大学生くらいのバイトが色々としようとしている時点で、不安になる人はなるだろうけど。

「バイトだけじゃなくてさ、もっと広い意味で自信持っていいと思うよ。霞は、一年生から部長やってるし、周りと比べて落ち着いてるし」

「あ、うん」

「それと桃が、写真見て喜んでたし」

「それは……関係ある?」


「かわいいって言ってたよ。ライン見る?」

「もう昨日桃から直接言われたから、大丈夫」

「そっかー。桃にめっちゃ好かれてるもんね、霞は」

「……なんで嬉しそうなの?」

「いや、なんとなくね」

 さっきまでの憂鬱そうな表情から一転、栞奈はいたずらっぽく笑った。

 そんなふうなやり取りをしているうちに、会議室の前についた。
 中から聞こえてくる声は騒がしく、あぁこんな感じだったな、と先月のことを思い返す。

 初参加で緊張しているからなのかもしれないが、ひとつ咳払いをして、真剣そうに姿勢を正す栞奈を見て、これが部長のあるべき姿と感心した。





そして退屈な部長会を終えて教室に戻ると、桃とつかさがトランプで遊んでいた。

 スピードをしている最中だったみたいで、きびきび手を動かす二人を手近な席に座って眺める。

 教室には他のクラスメイトの姿はなかった。運動部の子が多いクラスだからなのか、それともたまたまか。
 隣の教室からは明らかに大人数の、明るい話し声が聞こえてきていた。

 戦況は見た感じ白熱しているみたいだった。二人とも体育のときくらい動きが俊敏だ。

 自分の席に座った栞奈はというと、部長会で渡された資料に目を通していた。

「あ、これ終わったじゃん」

 というつかさの声で、勝負が決したことに気付く。

 手に汗握る戦いどころではないくらい熱い勝負だったみたいだ。つかさは手だけでなく額に汗を浮かべている。
 それをコートの袖でぐいぐいと拭い、ペットボトルのお茶を一口。そんで「もっかい!」と胸の前に人差し指を立てる。

「……てか、どうして暖房入ってるのに厚着なの?」

 まあ私も思っていたことだけど、栞奈が呆れ口調でつかさに問いかける。


「二人を待ってたんだよ。すぐ来ると思ってたから、着たまま」

「あれ、私つーと帰る約束してたっけか」

「ん、してない。でも四人全員休みなんだから遊びたいじゃん?」

「それなら前もって言ってくれればよかったのに」

「約束しなくたって遊べるのが友達じゃん?」

「まあ、そうね」

 面倒になったのか同意したのか、栞奈はつかさに向けて頷く。
 ふっと笑ったつかさは、今度はちらりと正面の桃に目を飛ばしてまたにかっと笑った。

「で、おふたりさんが持ってるそれはなんなの?」とつかさは資料を覗き込んでくる。

 今日の議題? 話題? は年度末に出される文集についてだった。
 部長が各部の紹介と活動報告などについて書くもので、去年は先代の、三年の先輩たちにお願いをして私はやらなかった。

 大半の部活は、見開き程度書いていたけれど、お察しの通り園芸部は数行だったような記憶がある。
 めぼしい活動をしていなかったから仕方ない。私はまず部活自体にそんなに顔を出していなかったから、当時の実態についてはよく知らないのだが。

 ただそれが影響したのか否か、「ちゃんと書いてくださいね」と文集担当の生徒が言ったときの視線は、私に注がれていた気がした。



「おとなのまねごと」と小学生に何かを教えるように言って、栞奈は紙をファイルにしまう。

 たしかに、そう形容するのが丁度いいかもしれない。
 こういう表現は栞奈らしい。語彙力……表現力の差かな?

 それに対して「へー、なんか難しそうだね」とつかさは興味なさげな棒読みで返答する。そして、

「最初はババ抜きして、すぐ飽きて、今度はスピードしてたんだけど、わたしが弱過ぎてねぇー」

 と、あっさり話を終わらせて、切り終えたトランプを私達に向けて差し出してきた。

「栞奈これから暇っしょ? 人数多かったら大富豪できるし、やろやろっ」

「いいよ。下校時間までね」

「わかってるって。んでふゆゆは?」

「あぁうん。参加しまーす」

「よしきた! じゃあまずルールの確認からはじめよ。大富豪はいろいろとローカルルールが多くてやんなっちゃうからねー」


 ようやくつかさは上着を脱いで、ぺらぺらとルールの説明をし始めた。
 まあなんかいろんなことを言っていたが、やっていくうちに分かってくるだろうと聞き流す。

 手持ち無沙汰を誤魔化すようになんとなく桃の方を見ると、桃の方も私を見ていた。
 暇つぶしにじぃっとそのまま見続ける。すると、「そこ! 見つめ合わない!」というつかさからの謎の指摘が入る。

「仲良し二人組で逸らしちゃだめゲームでもやってんの?」

「やってない」

 否定したのは私だけだった。桃はくすくす笑っている。

「じゃあふゆゆはわたしともやってみよう」

「いや、やってないって言ったんだけど」

「いいからいいからー。はい、すたーとぉ」

 ぱち、と手を打ち鳴らして、つかさは私を見てくる。
 なんだこれ、と少しためらいながら、まあしょうがないなと付き合うことにする。


 数秒後、つかさはへらーっと笑いながら目を逸らした。

「……え、はやくない?」

「んー……なんというかー、恥ずかしくなった」

「あぁそう」

「逆にきみたちよくこんなに恥ずかしいことできるな」

 前髪をくいくいと弄りつつ、つかさは桃と私に、気持ち桃に対して多めに視線を飛ばす。
 その桃が頷いて、机に肘をつけていた私の腕をつかまえて、つかさの方へと掲げながら言った。
 
「つーちゃんがすぐ逸らしちゃうのは、ふゆが相手だからじゃない?」

「えー? あーまぁ、その可能性もある」

「ためしにわたしとやってみる?」

「やってみる」

 言葉通りに二人は見つめ合う。ちなみに私の腕を掴んだままで。数十秒経っても逸らすことなく。
 そして実験成功だとばかりに二人は笑って、すぐに私にも笑いかけてくる。



「ふゆゆがべりきゅーとなのが原因でした」

「なにそれ」

「慣れてるつもりだったけど、なかなか修行が足りないなーわたしは」

「……」

 大真面目な顔でつかさはうんうん頷く。どういうことなのか、正直いって掴めない。……まぁ、べつになんでもいいようなことだ。

 ぱっと手を離した桃は、「ごめん。つい無意識で」となぜか謝ってくる。あぁいやべつにという意味を込めて手を振ると、「さすが仲良し二人組」と栞奈が言ってくる。

 桃と私が特にってわけでもないだろうし、仲良し四人組でいいんじゃないかな? という疑問は持ったけれど、会話の流れからして間違いではないし口にはしなかった。

 大富豪が始まると、ああこんなルールもあったな、と思いながら楽しめた。
 細やかな記憶はないけれど、覚えている限りでは小学校の時以来だった。こういうトランプゲームなんかは、たまにやると楽しい。


 つかさは自分の番がまわってきたらあまり考えずに持っているカードを出す。そのせいで最後に禁止あがりカードしか残っていなかったりして、ほぼ自滅する。
 栞奈はパスを多用してると思ったら、いつの間にか親を取り、一度に多くの枚数を出してターンを継続して、一抜けしている。一戦前の勝ち方なんてもはや芸術的。

 その二人で大富豪と大貧民は決まっていて、間の桃と私の順位が入れ替わる感じで、何戦か終える。富める者はさらに富み、貧する者はさらに貧する、という感じだった。

 それから小休憩を挟みつつ大富豪を続けて、四枚の六で革命を起こしたつかさが一抜けするとほぼ同時に、下校時刻を伝えるチャイムが鳴った。気付かないうちに、もう十八時過ぎになっていた。

「わたしの勝ちで終わりー。気分いいなー」

「つー、勝ち逃げはずるい。もう一戦」

「えー? 下校時刻までって言ってたのは栞奈じゃん?」

 初めて大富豪になったつかさが栞奈を煽る。前から思ってたことだけど、栞奈は勝負事にけっこうこだわるタイプらしい。
 また今度やろうね、とみんなで言いながら下校の準備をする。その間も、つかさは勝てて嬉しそうな様子だった。

「つぎはわたしが大富豪スタートな」

「はいはい。ははー、つー大富豪さまー」

 仲良し二人組ってこっちのことを言うんじゃないかな。


 見回りの先生が電気を消しにきたので慌てて校舎から出ると、外は思いのほか寒く背が縮こまった。

 握り拳をつくって息を吹き込み、手を擦り合わせながら歩く。「じゃ、私らバスだから」と栞奈がつかさと一緒に反対方向に進んでいく。

「私ら仲良し二人組も帰ろっか」

 何の気なしに言うと、桃の肩がぴくと跳ねた。そして、わずかに顔がふにゃっと緩む。
「う、うん」と目を逸らしながら返答してくる頃には、もう元に戻っていたけど。

「ごめん。よく考えたら恥ずかしいね」

 校門から少し歩いたところにある信号で足を止めて、桃の顔を覗き込みながら言う。そりゃみんなの前と二人きりとでは違うか。
 わたしらなかよしーわーわーって感じでもないし。お互いに。

「や、うれしいなって、思って」

 けれどこちらを向いた桃の表情は、また柔らかなものになっていた。素直に喜んでくれているみたいで、私も言葉面だけだった恥ずかしさを実感して、頬のあたりが熱くなる。

「ふゆ、照れてる?」

「えぇと、うん」

「ふふふ、言ってきた本人が照れるなんて、面白いね」

 桃はちょっと困ったように笑う。その通りだった。


 歩いているうちに、さっきまでの凍てつくようだった寒さにも慣れてくる。ここらへんは市街地で街灯はあるけれど、秋と冬の境あたりの空は澄んでいて、目を凝らさなくとも星が光っているのが見える。

 星の名前とかを知っていれば、そういう話をできるのにな。まぁ単純に星綺麗だねって感じでもいいと思うけど。

「あっ……と、もう着いた」

 そんなことを考えているうちに、駅は間近まで迫っていた。いつもより早く感じたのは気のせいか。

「着いたね」

 と歩いている間ほぼ無言だった桃が頷く。

 それじゃあ、と言いかけたところで、

「ねえ、ふゆ。あの……」

 少し迷ったような小さい声で呼び止められる。
 言葉の続きを待っていたが、何か緊張しているような、ともすれば言葉を探しているような間が空いた。


「うん。何?」と桃の顔を見ながら聞き返す。

「えっと……明日は部活?」

「え、部活? 行こうとは思ってたけど、何かあるの?」

「あぁその、えっと、明日も一緒に帰りたいなぁって」

 もっと他のことを言うのかなと思ったから、少しだけ拍子抜けした。てっきり、これからご飯行こうとか、またこの前みたいにぶらぶらしようとか、そういうのかと。

 一緒に帰ろう、と誘うなら明日でもいいのに。ていうかまず断らないのに。
 まあでも、私から誘うかっていうとそれはないだろうし、それ以前に、誰かを誘う時って、どんな内容でも緊張するよねと勝手に納得した。

「ならこの前みたいに、また部室に来てよ。そのあと一緒に帰ろう」

「わかった。じゃあ、また明日ね。おやすみ」

本日の投下は以上です





 朝に見た天気予報は晴れのち雨だったけれど、午後三時を過ぎても柔らかな日差しが照り続けていた。
 授業が終わってからSHRまでの間で、スマホの電源を入れて天気予報アプリを見る。予報はすでに変わっていて、今日のうちはこのままらしい。

 そういえば今日初めてスマホを見たな、なんて思って、たまっていた通知を確認する。メルマガやらの中に瑠奏さんからのメッセージがあることに気付く。

 内容は今月の後半からのシフト表の写真と、何か変更があれば──という文。

 写真には販促や告知の日程といったものも併記されていて、そうか今年もこの季節か、と思う。
 花屋にとっての年末は、一年の間で、五月まわりの次に忙しいと言っていいかもしれない。

 体力がなかったからか、去年はわりとしんどかった記憶がある。休憩時間は事務所でへばっていた。
 まあ、とはいえ、それは私だけの話じゃなくて、いつも陽気でやさしいパートさんも若干やつれているように見えたくらいには、なにかと忙しくて大変だった。

 そんな中でも瑠奏さんは「わたし、昔から体力にだけは自信があるんです」と一人元気に接客をしていた。

 店長だから表に出さないようにしているのかな? と最初は思っていた。でもどうやらそういうわけでもなさそうで、本当に疲れてない様子だった。


 パートさんはそういう瑠奏さんを見て「いいわねー、二十代って」と言っていた。

 それを聞いて、私は十代だけど体力がないんだよなぁ、と勝手に落ち込んだ。
 でもまあ多分、今は去年よりちょっとだけましになっていると思う。

 今年はなんとか足手まといにならないようにしないと、と意気込む。
 いつもの意気込みだけで終わってしまう性分が出てこないように、瑠奏さんにそういう趣旨のメッセージを送っておく。

『それは助かります。でも、べつにいつも通りでかまいませんよ』

 スリープモードになるとほぼ同時に返信が来た。
 こういうものがそうだというあれそれはないけれど、瑠奏さんらしさが出ていて、自然に自分の口角が上がるのを感じた。

 今日はもう解散だと告げる先生の声がして、やば、と思いながらスマホをポケットに仕舞い、机の中から持って帰る分の教科書ノートを鞄に詰め込む。
 そうしてから隣の席を見ると、桃とつかさが小さな声で話していた。


「ふゆゆがスマホ見てにやにやしてるなんて珍しい」

「ね。わたし、初めて見たかも。歴史的瞬間」

「ねー」

 なに言ってるんだか。あまりにも謎な会話。

「バイト先の店長から、ちょっとね」

「ふゆゆ、店長? 男? 女?」

「え? 女の人だよ」

「へぇー、若い?」

「そうだけど……えと、なに?」

「べつにー、なんでもなーい」

 会話に入ったらもっと謎になってしまった。
 その謎を解明するべく、どういうこと? という視線を横に向けてみるも、桃は首を傾げるだけだった。
 誰にも伝わらない会話だったみたいだ。真のワールド持ちはつかさなのかもしれない。


 そうこうしていると「あ、つかささん」と教壇の方に居た先生がこちらに向けて声を発してきた。すると、

「ア、ワタシキョーバイトダッタンダカエラナクチャー」

 と妙な言語を発して、つかさは見たこともないような速さで教室から出て行く。

「あ、行っちゃった」

 先生はつかさを追うわけでもなく、割とどうでもよさそうにそう言って、残っていた生徒たちに挨拶をしつつ教室を後にした。

 なんだったんだろう? とまたつかさに疑問を感じながら、教室の入り口から出るところで、私の意を汲み取ってくれたのか桃が口を開いた。

「つーちゃん、今日の数学のテスト全く解けなかったみたい」

「それで、先生にびびってたの?」

「うん、そうじゃないかな」

「へぇ……あ、桃はテスト解けた?」


「わたし? えっと、最後の問題は分からなかったけど、それ以外はそこそこ。ふゆは?」

「私も同じ感じかな。それほど悪くはないとは思う」

 話しながら階段へと差し掛かる。桃に上か下かとジェスチャーされたので、少し考えて上の方向を指差す。

「そういえば、わたしたち、テスト前日にトランプしてたんだよね」

「たしかに。考えてみればそうだ」

「ふゆもつーちゃんも栞奈ちゃんも何も言わないから、良いのかなあって思ってた」

 テストだからといって取り立ててしない人。触れたくなかった人。忘れてる人。
 どれが私なのかはお察しの通りで、どれが酷いのかというと、一番最後。うん。仕方ない。

 さっきの教室最寄りの階段でのやり取りで、行き先は屋上となっていた。
 上が屋上で、下が部室。鞄のポケットから鍵束を取り出す。

 鍵を回して鉄扉を開けると、びゅうと吹き付けた大きな風で前髪が崩れた。
 桃とここに来るのは二度目。けど、この前とは何かが少しずつ違っているように思えた。

 桃は私よりも数歩先に歩いていって、フェンス越しに見える景色を眺める。もう一度吹き付けてきた強い風で、長い髪の毛がふわりと舞っていた。


「このお花、まだ葉っぱだけなんだ」

 すぐに満足したのか戻ってきた桃は、私の近くにあったプランターに目をとめた。

「うん。二月の後半くらいに咲き始めて、四月か、長くて五月の初めくらいまで咲いてる花なんだよね」

「ふうん。前来た時から、なんとなく気になってたの」

「この花のことを?」

「うん」

「そうなんだ」

 言われてみればたしかに、他の花は咲いていたり、蕾であったりするから、ぱっと見て葉っぱと土と肥料だけのものは目立っている。

 私たちは半身ほどの間をあけて並んで、その花──クリスマスローズのプランターの前に腰を下ろした。

「どういうお花なの?」

「スマホで検索してみれば?」

「それでもいいけど、せっかくだしふゆから聞きたい」

 あまり知らないんだけどなぁ。
 ……まあ、いいか。


「名前は、クリスマスの頃に咲くからクリスマスローズ。でも、それは原産国? でのことで、こっちではクリスマスにはめったに咲かないし、ローズっていうけどほんとはバラ科じゃない。
 冬の花だけあって寒さには強くて、いろんな種類の色とかたちがあって。
 これは、片方は緑っぽい花で、もう片方は黒っぽいの。育てやすいし、いい花だよ」

 私の下手な説明に、桃はふむと頷く。
 気になるというのはそのままの意味だったらしい。

「ふゆはこのお花が好きなんだね」

 そして、穏やかな声でそう言ってきた。

「そう見える?」

「なんていうのかな、このお花に向けてる目が、他のお花に向けてるものよりもっと優しい気がする。……あ、間違ってたら、ごめん」

「いや」

 実際その通りで、わかるものなのだな、と思った。
 一番とか二番とか、順位付けは出来ないけれど、思い入れがある花はどれかと問われればクリスマスローズが思い浮かぶ。

 私がわかりやすいのか。
 それか、どっちもということもあるかもしれない。

「クリスマスローズは、小さい頃から近くにあったし、育ててたからかもね。それと……」

 それと、なんだろう。自分で言っといて。
 普通に言ってもいいことだけれど、言わなくてもいいことのような気がして、続けることを躊躇する。


 けれど、その躊躇を表に出すのはなんとなく桃に迷惑かなと思って、桃の目が私の言葉を待つようになる前に口を動かす。

「いろんな思い出がある気がして、思い出そうとしたんだけど、あんまり覚えてなかった」

「ふゆは昔のこととか、あんまり覚えてないんだ?」

「うーん。まあ、そうかも」

「だから、日記をつけてるの?」

「どうなんだろう。そんな面もあるけど、ただの日課というか、作業というか」

「へえー。あ、でもわたしは日記にあんまり登場しない……」

「って言ったっけ?」

「うん言ってた。そんな感じのことを」

 桃は「あれ、じゃあ……」と小声で続けて、しゅんと沈んだような顔をした。
 そして、地面を見つめてうむむと呻る。こんなことで、と思ってしまうけど、なぜか、申し訳ない気持ちになる。

 私って気付けば桃のことばかり書いてるな、と恥ずかしくなって以来あまり書いていないのだと、正直に言った方がいいのだろうか。


 困る私をよそに、不意に顔を上げた桃は、何を考えたか、膝に置いていた手を私の肩に置く。

「わたしもふゆと、思い出になることがしたい」

「うん……うん?」

「あぁその、えと、ちがう。ふゆの思い出になるようなことを、わたしも一緒にしたい」

 唐突に出てきた言葉は、いつものように抽象的すぎてついていけない。
 ニュアンスの違いか何なのか、言い直したけれど、どっちにしたって私には伝わってこなかった。

「えぇと、話の流れが見えないんだけど。……つまり?」

 そう訊ねると、桃は私から目を外し、逡巡するように視線をさまよわせる。
 けれどやがて、一呼吸おいて、

「つまり、わたしと、デートしてみてほしいなって」

 と力のこもった瞳で、言った。


 思い出になること、から、デートしてほしい。
 繋がるか? 繋がら……いや、まあ繋がるんだろう。

 私には突飛なことに思えることでも、桃の中ではちゃんとプロセスがあるのだ。きっと。

 考えてから納得するまでの十数秒間、桃はそわそわした様子で、私の答えを待っていた。
 私が断らないなんて、わかりきっていることだろうに。

「いいよ。いつ、どこに行きたいの?」

 それでも言った瞬間、ぱっと桃の目に輝きが宿った。

「いいの?」

「うん」

「じゃあ、日曜日とか、どうかな」

 日曜日……。
 こういう時は経験上、先延ばしにしない方がいいはず。

「うん。空いてるよ」

「行く場所は、わたしが決めてもいい?」

「そうしてくれるとありがたい」


「あとは……かわいい服を着てるふゆが見たい」

「かわ、えっ?」

 思わずごほ、と咽せる。
 いつ、どこで、の次に服装指定とくるか。

 もうそろそろついていけなくなってくる。……あ、最初からか。

「スカート履いてるの見たことないし」

「いや毎日見てるでしょ」

 今だってがっつり履いてる。

「そうだけど、私服では見たことないなって」

「……スカートを履いてくればいいの?」

「できれば。履いてきてくれるとわたしが喜びます」

 拳をぎゅっと握りしめて言う桃が少しおかしくて、私は少し笑った。

「わかった。忘れてなければね」

「うん。あっ、ふゆはわたしに……なにかある?」

「うーん……いきなり言われても、なにも」

「じゃあ、思いついたらなんでも言ってね」

 ちょっと考えたけど、現状の桃に求めることはなにも思いつかなかった。


 どうも思考力が足らないように思えてならない。そんなこと言ったら、語彙力も想像力も洞察力も全て足りないけど。

 帰りがけ、「ひとつ、気になることがあるんだけど」と前置きして、率直な疑問について訊ねる。

「遊ぶ、じゃなくて、デートなの?」と。桃はすぐに首を小さく縦に振った。

「うん、デート。言い方は、けっこう大切」

「大切なんだ?」

「大切なの」

「なら、デートってことで」

「デートってことで」

 私の言葉を復唱して、桃は頷く。そして恥ずかしそうに笑う。
 流されているようにも思えたけど、桃のそういう表情を見て、それでもいいような気がした。





 なんとなくずっと機嫌良さげな桃と駅まで一緒に歩いた後、自転車に跨ってバイト先に向かう。

「珍しいですね。霞さんがお休みの日に来るなんて」

 事務所に入ると、私が来たことに気付いた瑠奏さんが、パソコンを操作している手を止めて振り返った。

 さらっと下ろした髪に、ブルーライトカットの眼鏡。いつもの瑠奏さんよりもきりっとしている風に見えて、無意識に居住まいを正す。

 机の上には、プリントアウトされたシフト表。クリスマス向けのポスター。パートさんからの旅行のお土産のお菓子。『自己肯定感を10日間で富士山級に上げる方法』という本。

「次の日曜日、今日もらったシフトでは入ってたんですけど、やっぱり休みにしてもらうことって出来ますか?」

 土日はだいたいバイトだから、桃と会うには休みを作らなきゃならない。今週末もばっちり二日とも入ることになっていた。
 連絡はメッセージでもいいかもと思ったけれど、急に休んだりシフト変更をしたことがなかったから、作法がわからなかったし、直接言いに来た。


 何事も初めては緊張するもので、もしかしたら咎められるんじゃないかと少し緊張していたけれど、

「はい、わかりました。いいですよ」

 瑠奏さんはあっさり言って、パソコンに目を戻した。

 カタカタカタとキーボードを叩く音が耳に響いてくる。
 へぇーお正月向けのプロモ作りかー…………あれ?

「すみません。友達と会うことになって」

 あまりにあっさりしすぎていたから、理由を求められているのかな、と思ってそう言うと、
 こちらに向き直った瑠奏さんはきょとんとした顔をして、それからくすくす笑った。

「このシフトはあくまで仮のものですし、従業員のプライベートについて口出しはしませんよ」

 ……言われてみればその通りだった。
 もう既に意味ないのに、いやあははそうですよねぇと誤魔化そうとする。が、口に出さずに愛想笑いと雰囲気だけでそうしようとしたから余計に変な感じになった。

「でも少しでも聞いちゃうとちょっと気になりますね。
 ……もしかしてそれって、デートだったりしますか?」

 喋らないでいると、瑠奏さんがそう言ってきた。
 人の悪いような笑みで。……小学生か、この人は。

 反射的に発しかけていた「出かけるだけですよ」という言葉を喉元付近で止める。


 デート……桃曰く、言い方は大切。
 なら統一しとかないと桃に対して失礼なのでは、と考える。私もそれには同意したし。

 それまで富士山と言っていたのにいきなりマウントフジとかフジヤマとか言うのも変だしね。違うか。

「そうなりますね」

 答えるや否や、瑠奏さんは「おぉー」と声を上げた。
 そしてやや前のめりに、「学校のお友達ですか?」と続ける。

「えぇと、そうです」

「……もしかして、お手紙をくれた方ですか?」

「手紙? あ、そうですその子です」

 そんなこともあったなあ、なんて考える。

「わあ……すごいですね」と瑠奏さんはぱちぱちと拍手する。

「すごいですかね?」

「どちらかと言えば、お相手さんがすごいです」

「私のことを誘うなんて、ってことですか?」


「ええ、かいつまんで言えばそうですね。……勘違いされたくないので言いますけど、霞さんが悪いってことではないですよ」

「あ、はい。よくわかんないです」

「相手に伝わるか伝わらないかのギリギリを攻めるのって楽しくないですか?」

 そんな高度な会話なんて私には出来ない。
 でもまあ、そういうことの出来る頭の回転が速い人ってすごいなと思う。前々から考えていないと無理だ。

 沈黙を伝わっていないと捉えたのか、瑠奏さんはまた笑って、

「霞さんがそういう星の下に生まれた人ってことです」

 もっと伝わらないようなことを言ってきた。

 頭の中で今まで言われたことを整理する。
 ……やめた。考えても分からない気がする。

「そういえば、以前にもそういう子がいましたよね?
 なんとか……なんとか、かんとかさん。あっ全然覚えてなかったです」

 今度はわかる話だったけれど、入ろうとしたタイミングで事務所の電話が鳴った。

 すぐに仕事モードの顔に戻った瑠奏さんが電話に出る。
 メモを片手に長話になりそうな空気だったので、机の上の本を見ながら待つことにした。


 一番大事なのは周りの環境らしい。
 あとは自分を責めないこと。へぇー。

 なるほどなぁと読み進めているうちに、電話は終わったようだった。

 内容はスタンド花の注文に関しての相談だったらしい。
 多分、瑠奏さんが作るんだろう。単価が高いから、私が作る日は一生来ない。ていうか来ないでくれ。

「今のうちに、クリスマスにもお休みを取っておいた方がいいですね」

 瑠奏さんは再度緩やかな顔を作って、笑いかけてくる。
 視線で、どうしてですか? と訊ねる。

「クリスマスの日にも、またデートすることになるかもしれないじゃないですか」

「いや、今週末デートするからクリスマスにもっていうのは、いくらなんでも早計だと思いますけど……」

「そうですかね? 人間そうそう変わらないと思いますよ」

「その方には期待ですね」と瑠奏さんは一人で結論付けて、メモに大きく『霞さんはクリスマス休み!』と書き込む。
 いつも元気な人だけれど、今日の瑠奏さんはそれ以上に嬉しそうで、私をからかうこと以外に、もう少しなにかいいことでもあったのかなと思った。

本日の投下は以上です

もっと書いてええよ





 迎えた日曜日。余裕を持って三十分ほど前に待ち合わせ場所に着くと、桃はまだ到着していないようだった。

 休日だけあって、午前の今でも駅の近くは沢山の人で溢れている。駅構内は特に人が多くて、いま私が立っている所は文字通り芋を洗うような状況だった。

 待ち合わせ場所としてはこの上なく分かりやすい。でも、明らかに周りの雰囲気に合っていないよなぁ、と色のついたガラスを見ながら思う。

 ゴシック様式、ケルン大聖堂、ノートルダム大聖堂……だったかな? 社会科は世界史選択ではないから、もしかしたら間違ってるかもしれない。去年のテスト前の詰め込みで学んだことは、カタカナ文字はかなり覚えづらいということだけ。

 これが花の名前なら簡単に覚えられるのに。
 でもま、それは仕事だから覚えざるを得ないだけか。店に入ってきた花たちに、名前と値段を書いた紙を貼っていくうちに勝手に覚えている。

 暗記とか物覚えには退屈でつまらない反復作業が大事なのだろう。
 薄い絵の具でも何回も重ね塗りをすれば輪郭がはっきりしてくるのと同じで、潜在意識への刷り込みができればいい。


 初めはとっつきにくいと感じたものでも、毎日目にしていれば次第に慣れてきて、印象は柔らかくなっていく。
 たとえば花についてきたカナブンとか。そういうのにも、慣れてしまってどうでもよくなった。慣れって怖い。

 とまあ、そんなくだらないことを考えている間に、改札を通って出てくる集団の中に桃の姿を見つける。

 私がここに着いてから五分。つまり待ち合わせの二十五分前。律儀な桃のことだから時間前に来ると思っていたけど、それを見越して私も早く来たのだけれど、実際にその通りで安心する。

 桃は季節感のあるブラウン系の装いに、半日足らずの外出にしては少し、いやすごく大きいようなリュックを背負っていた。

 この人の多さではやむないが、ざーっと辺りを見回した桃は私のことを見つけてはくれなかった。
 桃はそのまま手摺りに寄り掛かって、手鏡を取り出して髪を整え始める。背中側に位置する私には気付いてくれそうにない。

 なので私から近付いて、後ろから「おはよ」と声をかける。


「わ、おはよう」

 振り向き、手を胸元に上げて目尻を緩める桃からは、遠目で見た先程よりも更にかわいらしい印象を受ける。

 普段はつけていないアクセサリーをしていて、髪も少しだけいじっているようだった。学校でのものとはまた違う桃の新たな一面を見ている感じがして、ちょっとばかし不思議な気持ちになる。

「ね、もしかして待った?」

「ううん、全然。私も今さっき来たとこ」

「そっか、なら良かった」

 いかにもなやりとりを交わした後、桃は私のつま先からつむじまでをじぃっと眺めて、控え目に微笑んだ。

「ちゃんと着てきてくれたんだね」

「あーまぁ、忘れてなかったから」

 黒色のチュールスカートを摘み上げて答える。
 普段履くのは制服のスカートとバイトの時のジーンズくらいなもので、私服でスカートを履くなんて久しぶりだった。


「これでよかった?」

「うん、とっても。やっぱり思ってた通り似合う」

「そうかな、ありがとう」

 平然と答えたけれど、実は内心ほっとしていた。
 期待に応えられたみたいでよかった。家を出る少し前まで迷って決めた甲斐があった。

「桃も似合ってるよ。大人っぽいし、なんか上品」

「え、うれしい。妹に決めてもらったんだよね」

「妹さんにか。ほんと仲良いね」

「そうそう、やさしくてかわいい自慢の妹なんです」

 お互いの服を褒め合う。ありそうでなかったこと。
 これもいかにもなやりとりなのかな?

「じゃあ、ふゆ。行こっか」

「うん。バスだったよね?」


 場所は桃が決めるという約束だったので、私の方からは特に意見せずそのままお任せした。
 駅からバス一本で行くことが出来る、自然公園に行くことにしたと、金曜日の放課後に言われた。

 寒くなく、外出にはちょうどいい天気だった。
 晴れてよかったね、と桃が視線を空に向ける。たしかに、雨だったらさすがに外はきつかっただろう。

 案内をしようとしてくれているのか、私の一歩先を行く桃の足取りは軽い。
 その様子は、平日とは違う休日のゆったりとした空気感に似合っている。

 乗客の少ないバスに乗り込んで、後ろの方の席に腰掛ける。

「なんか、いつもよりテンション高いね」

 発車後に思ったことを言うと、桃は言われて初めて気付いたとでも言いたげに、目を丸くした。
 けれどすぐ、理由を思いついたように、

「だってせっかくのふゆとのデートなんだし」

 左手で緩く握り拳を作って笑う桃につられて、自然と私の口角も上がる。


「そっか、今日はデートだったね」

「……ひょっとして忘れてた?」

「ううん、忘れてないよ。ただちょっと緊張するなって」

「ふうん。あ、じゃあきのう寝れなかったりした?」

「いや、それはぐっすり寝たけど」

 デートってことで、いちおう長くなっていた髪を切って、中途半端だったところは染め直した。いつもより短い間隔で行ったから、「デートすか?」と美容院のお姉さんに言われた。

 デートという言葉の意味をスマホで検索した。
 遊ぶこととの違いは私にはよくわからなかった。

 きっと休日に友達と二人で外で会うということは、桃にとってはありふれていることで、緊張するほどのことではないのだろう。
 私は……なんていうか、よわい十六にして情けない。ぎこちなさとか、慣れてなさとか、そういうのを見透かされてなければいいのだが。

 けれどまぁ、そういう緊張感も含めて楽しい一日になればいいな。
 お金じゃないけど、無い袖は振れない。





 バスに揺られること一時間と少々、目的地に到着する。
 車内での会話は途切れることなく、桃がすごく楽しみにしてくれていることが伝わってきた。

 チケットを買い受付を済ませて入場すると、すぐ正面には石段と噴水、そして多くの花が並んでいる。
 自然公園の名前に違わず、溢れんばかりの自然が広がっていた。

 顔を上向ければてっぺんが白く染まった山々がそびえている。空気は街中よりも心なしか肌寒く、きれいに澄んでいる。

 家族連れ、カップルらしき人、飼い犬を連れた人と、入場客はそれなりに多いはずだけれど、広さのせいかそれをあまり感じない。
 山容水態と言うには整備が行き届いていて人工物っぽい。それでも、かなり好みな空気感と雰囲気だった。

 もし周りに誰もいないのなら、いますぐ走り出したくなるような場所だ、と思った。
 私たちのすぐ横を、小さい男の子が高い声を上げながら駆け抜けていく。少し経ってその子の名前を呼びながら追いかけてくる親御さんと思しき人の顔には柔和な笑みが浮かんでいた。


「気に入ってくれた?」

 園内の雰囲気に魅了され思わず声を洩していた私を、桃が横から覗き込んでくる。

「ふゆと来るならこういう場所かなって」

 そう続けて、にっと笑う。
 どの程度伝わるかわからないけど、「ありがとう」と気持ち大きめの頷きを返した。

 それから、水色よりも淡く爽やかな秋の空に誘われるように、二人並んでゆっくりと歩いて園内を周りはじめた。

 見頃を過ぎ黄色に色を落としたコキアを眺めて、石段を流れる水の音を聴いて、高いところから花壇の写真を撮って、池の中に小さな魚を見つけた。

「ウグイかな」と桃が小声でささやく。

「私はわかんないけど……魚詳しいの?」

「ほんのちょっとね。たまにお父さんと釣りに行くことがあって」

「へー釣りかぁ。魚を釣って、食べたり?」


「そう、食べたり。高校生になってから、どうせ暇だろって付き合わされるようになったんだよね」

「楽しいの?」

「どうだろー。お父さんに言って、今度いっしょにやってみる?」

「いいけど、機会があればね」

 堤防に座って、海に釣り糸を垂らし水平線を眺めてぼーっとするのは楽しそうではあるけど。
 どちらかと言うと、せっかくの娘との貴重な時間を私が入って邪魔していいのだろうか、とかそういうことを考えた。

 もう少し奥へと進み、秋の花とパンフレットに写真付きで載っている場所に着いたが、あいにくコスモスやマムはもう散ってしまっていたようだった。
 もう十一月も終わりに近付いている。管理された場所で狂い咲きが望めそうにないのはやむない。

 ちょっと残念そうな表情をしている桃に、せめて写真でもと私のスマホのフォルダに入っていた二種の写真を見せると、喜んでくれた。


 足漕ぎのゴーカートがある場所や、首長竜のようなキャラクターのボートがある場所を通る。
 ゴーカートは親子で溢れ、ボートは稼働期間外だったけれど、イチョウの枯れ葉が浮かぶ水面から届く風は冷たくて気持ちが良かった。

 その近くに大輪のビオラが咲いていた。目を留め足を止めたのは私たちだけだった。花より団子ならぬ花より遊具。それが普通なのかもしれない。

 そしてまた先へと、ゆるゆる歩いているうちに気付く。
「ここ、前にも来たことあるかも」と。

「そうなの?」

「て言ってもめっちゃ小さいときだから全然覚えてないんだけどね。……幼稚園くらいのときかな?」

「そっかー。幼稚園なら、家族と?」

「そうそう、お祖母ちゃんと」

 今よりもずっと小さかった手を、あやすように引いてもらった記憶が頭に残っている。
 その日は私の誕生日だった。ような気がする。


 人は誰かに言われた言葉そのものを覚えていなくとも、それについてどう感じたかは覚えている。
 なんて、どこかの誰かが言っていたけれど、たしかその日、お祖母ちゃんから何か嬉くなるようなことを言われて、私はとても喜んだのだった。

「桃は?」

「……わたし?」

「前に来たことある?」

「あるけど、わたしもふゆと同じで覚えてない」

「一緒だね」

「あはは、そうだね。でも……」

 今日のことは忘れないように記録に残しておこうよ、と桃はコートのポケットからスマートフォンを取り出して、半歩私との距離を詰めてくる。
 何枚も写真は撮っていたが、今日初めてのツーショット。交互に半目になって何回か撮り直した。


 舗装された大通りの終着点は、紅葉した樹木が立ち並ぶ、ひらけた芝生の広場になっていた。

 周りの様子から察するに、ここまで歩いてきた人が足を休める場所のようだった。
 大きな鍋を囲んでいる集団や、小さなテントを張っている人たちがいる。かすかに白い煙がもくもくしている。

「よし到着」と言って桃は大きなリュックを下ろす。

 そして、その中からレジャーシートを取り出したかと思うと、他にもいろいろ出てきた。

「運動しようかなって」

 とグローブを渡される。野球のやつだ。

「ふゆとキャッチボールしてみたかったんだよね」

「息子とのキャッチボールを夢見る元野球少年の父親みたいな?」

「んーそっか。うちのお父さんの夢は、娘のわたしが代理で叶えたのか」

「いや桃のお父さんの夢については知らないけど……」

 ってことは、キャッチボールをしたりするのだろう。
 釣りに、キャッチボールに。めっちゃいい親子だ……。


 せっせとコートを脱いで、数メートル離れる。
 肩をぐるぐるまわす桃のマネをして、私も右腕をぐるぐるさせる。

「じゃあさっそくいくよー、えい」

 桃が振りかぶって投げたボールは、大きなフライとなってきれいな弧を描く。

 顔の前にグローブを構えると、「わっ」と言っている間にボールが収まる。
「ナイスキャッチ!」と褒められる。素直に嬉しい。

「私もいくよー、とりゃー」

 下手な投げ方でも案外飛ぶものだ。
 桃の捕り方は慣れていそうな感じだった。

「えーい」

「おりゃー」

「えーい」

「うりゃー」

 ゆるーい掛け声とともに、ボールが往復する。

 ジャンパースカートとチュールスカートを纏った私たちにはぴったりの空気感じゃなかろうか。


 と思ったのも束の間、慣れてきたら、投げるたびに何か適当に単語を言ったり、普通の会話をするようになった。

「これで桃の目的は果たせたー?」

「いまひとつ果たせたー。でも、もっともっと数えきれないくらいいっぱいあるよー」

「へえー、それは、いいことだねー」

「でしょー、次は、フリスビーしよー!」

「フリスビー? えぇーと、いいよー!」

 桃が後ろに下がっていくのでどんどん投げる距離が伸びていき、私たちの声も比例して大きくなっていく。

 腕より先に喉が疲れそうだったけど、そういう会話は新鮮で楽しいと思って、しばらく会話のキャッチボールの方も頑張って続けることにした。





 運動を一時間近くした後、桃に「そろそろお腹すかない?」と言われてお昼にすることにした。
 外していた腕時計を見ると、正午はとっくに過ぎていて、ギリギリお昼かな? というくらいの時間だった。

 レジャーシートにブランケットにアウトドア用の折り畳みの簡易テーブル。
 大きいリュックも納得だった。準備の良さへの称賛よりも背負ってきた重さで疲れていないかなと心配になる。

 キャッチボールやフリスビー、フラフープなんかは真面目にやろうとすると時間が溶けるものだと知った。
 フリスビーを投げる時に、桃が「わたしを飼い犬だと思って、さぁひと思いに!」と言っていたのが面白かった。実際に犬のように前に飛び跳ねてて笑ってしまった。

「お友達とお昼一緒に食べたら? ってお母さんがお弁当持たせてくれたんだ。それでいい?」

 頷くと、リュックからこれまた大きな包みが出てくる。
 クロスを解く途中、桃は動きを止め私をちらっと見て苦笑した。


「わたしも少し手伝ったんだけどねー。普段料理しないから、あんまり手伝えなかったの」

「そうなんだ?」

「本当は全部自分でって思ってたんだけど、朝ばたばたしてたから、時間ないでしょって言われちゃってさ」

「ばたばた……」

 なんだろう、あんまり想像がつかない。

 桃はくすっと笑って、お弁当箱を手に取る。
 ぱかっと開けられたそこには、彩り豊かないろんな種類のサンドイッチが詰められていた。

「ささ、食べて食べて」

 と促されて、一番端っこのものを手に取る。

「いただきます」

 口に入れるとすぐにサーモンとクリームチーズの甘味が広がる。胡椒がピリッときいていて、まとまっている味だった。

「んー、美味しいね」


「ちょっと多めに持ってきたから、好きなのいっぱい食べていいよ」

「おぉー、ありがとう」

 普段の私は学食の小ランチでもお腹いっぱいになるくらいの少食だけれど、今日は多く食べられそうな気がする。

「あ、てか桃が手伝ったのって? それ食べたいな」

「もう食べてるよ」

「じゃあこのサーモンの? そっかー、美味しいよ」

 という私の当たり障りのない感想に、桃は卵サンドを嚥下してから、「ううん」と首を振る。
 違うということらしい。

「え、じゃあなに?」

「食パン」

「食パン?」


「ホームベーカリーだから、簡単」

「へ、へぇー……」

 すごい変化球だった。ていうか手伝ったの域を超えている気がする。食パンって主食じゃん。

 手元をまじまじと眺めると、時間がかかりそうなイメージだからなのか、サンドイッチが何倍も増して美味しそうに思えてくる。

「ありがとね、桃。なんかめっちゃいいと思う」

 隣同士で靴を脱いで足を伸ばしているこの状況が、距離的に、視覚的に近かったからだろうか。
 すぐそばに見える桃の長い髪めがけて、私の腕が伸びる。ほぼ無意識的な行動だった。

「……」

 でも、私の腕は途中で停止してくれる。
 桃って身体を勝手に触られるのあんまり好きじゃないと思うよ、と操縦席から指令が飛んでくる。


 ……ただ、その指令は普通に遅かった。
 中途半端に上げかけられた左手を見つめると、同じように見ていた桃と目が合う。

 すると桃は私の手を取って、自分の頭の上に乗せた。
 そして、ぽんぽんと宙と髪を往復させる。

「どういたしまして」

「うん」

 桃がちょっと頬を赤くして、声を出さずに微笑する。私も同じように笑おうとしたけれど、どうにも不自然な感じになった。

「なんか、走り出したい気分……」

「え?」

 声に出ていた。目に見えて困惑される。


「その、いいよ。走ってきたら?」

「いや」

「……あ、わたしも一緒に?」

「……いや、気分の問題っていうか」

「実際に走りたいわけではなくて?」

「実際に走りたいわけではなくて」

 ふうん、と桃は分かっているのか分かっていないのかという感じで相槌を返してくる。

 私も分からなかった。


「じゃーんけーん」

 不意に、桃が気の抜けたような声を発する。

「ぽん」

 グーとグーがかち合う。あいこ。よく分からないけど。
 チョキ。グー。パー。チョキ。パーとグー。
 二百四十三分の一って。

「負けたから、飲み物買ってくる。何系飲みたい?」

「何系って、うーん。温かいの……コーヒーとか?」

「コーヒーか。ちょっと待っててね」

 桃はスニーカーを履いて、すたたっと駆けていく。
 なぜ急にって感じだけど、多分桃自身が喉乾いていたか何かだろう。

 それにしても今日は至れり尽くせりだ。まさか進んでパシられてくれるとは。

 一人になってすぐに、びゅうと木枯らしが吹いて髪が揺らされる。
 前髪を抑えるときに、さっき触れた桃の髪のことを考える。……キューティクルが違うのかな? うまい言い回しが思いつかないが、とりあえずとても柔らかかった。


 白身魚フライのサンドイッチを一口かじりつつ、視線を手元から解放しているうちに、気持ちは霧散していく。

 毛並みのいい白猫が、すぐ近くのベンチをひとりじめしてひなたぼっこをしている。じっと見つめていると、こちらを向いて大きなあくびをした。
 すべり台やロープで遊んでいる子どもたちの声がする。近くのレジャーシートからお母さんに連れられるようにして男の子がやってきて、「これあげる」と市松模様のクッキーを渡される。

 橙色に染まったメタセコイアが並んでいる大通りの方を振り向けば、純白のウェディングドレスを着た女の人二人組が、カメラマンらしき人に写真を撮られている。

 サンドイッチをひと口かじる。やっぱり美味しい。
 野点をしたくなるような風情だと思った。桃が買ってきてくれるコーヒーを待っているというのに。

 桃っていい子だよね、と再認識する。穏やかで、やさしい。桃と関わったらみんな桃をいい子と言うと思う。
 霞ちゃんって運だけで生きてるよね、と中学三年生の頃に言われたことを思い出す。たしかに、私は運がいいのかもしれない。

 そこらに何枚もある落ち葉のじゅうたんを見て、また一つ思い出すことがあった。
 近くの黄赤茶色を両手いっぱいにかき集め、薄い雲の流れる空へと放り投げる。


 ひらひらと舞い落ちてくる様子を観察する。青と白が一瞬違う色に染まる様は、なるほど、たしかに楽しい。
 もう一度集めてぶわーっと舞わせる。違う広がり方。

「なんか楽しそうなことしてる」

 戻ってきた桃が、私を見てくすくす笑う。

「おかえり」

「ただいま。はい、コーヒー」

「ん、ありがとう。何円だった?」

「百二十円。わたしもやってみようかな」

 それから順番に落ち葉を投げ合った。
 投げている間、見ている間、なぜか時間の流れがとてもゆったりしているように感じた。





 結局、その後はあまり動かずに、お互いに持ってきた本を読んだり、どこからか漂ってくるシャボン玉を目で追いかけたり、またキャッチボールをした。

「ねえ、ふゆ。もうそろそろ帰ろっか」

「そっか。もうそんな時間になってたのね」

 腕時計を確認すると、指し示されているのは午後五時。
 今日は楽しい一日だった、と思った。





「わたし、実はデートって今日が初めてだったんだよね」

 帰り道のバスで、桃が不意に口を開いた。

 乗客は朝と違って私たち二人以外に誰も居なかった。
 バス停で同乗した人たちはみな途中の温泉街で降りて行った。日曜日だというのに。私たちは明日普通に学校だ。

「生まれてからってこと?」

「そうそう」

「私も初めてだよ」

「そうなの? なんか意外だね」

「それは、こっちが言いたいセリフ」

「えぇ、そうでもないと思うけどなぁ」

 ふゆはかわいいんだし、と桃はくすっと笑う。
 いやいや私なんか、と言うのはいろいろと不毛な気がしたので、ただへらっと笑っておく。


「そういう反応も……ま、いっか」

 桃は私から目を逸らして、咳払いをひとつする。

「今日は、どうだったかなって」

「今日は……あっという間だった」

「あはは。わたしもそう思う」

「それと、楽しかったよ。すごく」

 率直に言うと、桃の顔がぱあっと晴れやかになる。

 緊張に、不覚に、いろいろあったけれど、単純に楽しかった。桃が私を楽しませようとしてくれていることが伝わってきた。
 仲の良い友達がそうしてくれて、楽しくないわけがない。

「わたしもとっても楽しかった。またこういう風にデートできたらなって、むしろなんで今までしてなかったんだろうって、後悔してるくらい」

「また誘ってくれれば、いつでもいいよ」


 楽しかったし、次があればいいな。
 そう思って言ったことに、桃は僅かに表情を曇らせた。
 けれどすぐに、気を取り直したようにこちらに向けて笑う。そのときにひとつした頷きは、何かの決心を固めるかのように見えた。

 バスが駅に到着する。
 降りてすぐに呼び止められる。

「聞いてほしいことがあるの」

「はい」

 まだ何も言っていないのに、桃が今から何を言おうとしているかが、なんとなく分かってしまった。
 ただの錯覚かもしれないけれど、この空気感を、私は既に知っているように思えた。

 居住まいを正す桃につられて、私の背筋も伸びる。

 走り出したくなる。今回は本当の意味で。


「わたしは、ふゆにわたしだけが出来ることをしたいし、そういうことで嬉しくなってもらいたい。
 ふゆとわたしの思い出になることを、いまの友達の関係よりももっと近い関係で、わたしたち二人で見つけていけたらなって、そう思うの」

 ゆっくりと五本の指で、私の手のひらを包み込む。
 そして、私の目をじっと見つめる。そのたった数秒間がどうしてかとても長く感じる。

「だから、わたしと付き合ってみてほしいです」

 今までに見たことのない表情で、桃はそう告げてきた。

 握られている指先から、たしかな温度が伝わってくる。
 私よりもつめたいはずなのに、今はあたたかい。
 体温が混じり合って均される感覚。数秒単位でなく黙っていれば、そうなっても仕方ない。

 思い出になることをしたい、と桃は言っていた。
 それが今日の課題であり、目標だったのだろう。

 桃が私のためにいろいろと考えてくれたこと。
 それだけで嬉しかったし、私にとっては思い出に残るようなことだった。

 でも、それは一面的にであって、全てがそうってわけではないんだろうと思う。


 分からないけど、多分。私の持っている想像力の限界。

「相手は、本当に私でいいの?」

 と私は訊ねる。
 他に訊きたいことは特に浮かばない。

「うん、ふゆがいい。だって、ふゆは素敵な子だから」

 と桃は答える。ガベルが鳴っているように錯覚する。

 買い被りすぎだと思うし、自分に対しての適切な言葉としては受け入れ難い。
 けれど、ここまでまっすぐ言われてしまうと、見えるところで過剰に自分を卑下することは桃に対して失礼になるように思う。

 もうちょっと真面目に考えてきて、というようなことを私は言った。
 それで、桃はちゃんと考えてきてくれた。考えてきた結果が、以前言われたことと大筋で変わりなく、今言われたことなのだろうと思う。


 私も真面目に考える。カリキュレイトする。
 結果はすぐに出る。以前とそれほど変わりない。

 断る理由がない。受け入れた先よりも断った先を想像できない。桃に何か問題があるようには思えない。問題があるとしたら私の方で、それは今のところ私にも分からない。

 だったら、と思う。雪崩的に。
 私は目先の選びやすい選択肢に流されていく、どうしようもない人間だから。

 そして──そもそもの話、桃から「付き合って」と言われた時点で、私の取る選択肢は既に決まっていたようなものだったから。

 私は、息を吐いて、桃をまっすぐ見て頷く。
 頷きだけでは伝わらないかもしれないと思って、

「これから、よろしく」

 そう言って、握られている手のひらに力をこめ、桃の手を握り返した。


本日の投下は以上です。
期間が空きましたがまた書きます。

前にも書いてた?
オリジナルは珍しいから失踪せずに頑張って

おつです

両方とも恋愛感情なさそう

おつです



【2】



〈Ⅰ〉


 手のひらの中で、スマートフォンが静かに震えている。

 薄く瞼を開くと、カーテンの隙間から初冬の淡く柔らかな日差しが入り込んできている。

 ロック状態のまま震動を続ける画面に表示されている時刻は六時二十分。
 十分おきのスヌーズの二回目。六時ちょうどに鳴ったものと一回目のスヌーズはまったくもって記憶にない。

 アラームの時間ぴったりに起きられるほど、わたしは朝に強くない。
 昨日は二時間スペシャルの刑事ドラマが面白くて、二夜連続の夜更かしをしてしまった。
 この季節になると就寝前のリビングから自室に戻るまでの道のりが億劫になってしまう。

 上向きにしていた体を反転させ、枕に顔をうずめる。まだこの温かさと安らぎに包まれて眠っていたいという思いから、ぐりぐりと強く擦ると、鼻と目元が少し痛くなった。

 意識がふわっとしていないと、二度寝するのは難しい。
 いつもなら惰眠をこれでもかというくらいまで貪れるはずなのに、今日は視界がクリアになってしまっている。

 眠気を取り戻そうとしているうちに、ちょっと時間が経過していた。部屋の外から、階段をのぼる音がする。
 それに次いで、がらっとわたしの部屋のドアが開けられた。


「姉さん、起きて。もう朝だよ」

 とわたしを揺する声の主は、三歳下の妹のひなみ。

 今日は起こしてくれる日だったらしい。ひなみはわたしと違って朝に強い子だから、週に二、三度起こしてくれる。
 三度目のスヌーズが鳴る前に止め、起き上がる頃には、ひなみが部屋のカーテンを開けてくれていた。

「朝ご飯はトーストだよ」

「そうなんだ」

「そうなんです。一人で朝食を取るのは味気ないから、姉さんはさっさと起きましょう」

「うん……ていうか、はやいね」

 ひなみ一人で、ということはお母さんとお父さんはもう仕事に行ってしまっているらしい。
 うちの両親は共働きで、会社勤めをしている。お互いの職場の距離が近いらしく、朝は一緒に出勤していく。

「パパもママも年末は忙しそうだよね」

「寂しい?」

「というより、心配。どっちもこの時期やつれてない?」

「たしかにそうかも」


「ていうか姉さんいるし、寂しいわけないよ」

「わたしも、ひなみがいるから寂しくない」

 おうむ返しするように言って、昔からしているようにひなみの髪を撫でる。

 ここ最近の、中学に入ってからのひなみはすごく大人っぽくなった気がするけれど、こうして撫でてあげると嬉しそうに頬を緩めるのは変わっていない。
 わたしよりも少し短めの髪の毛がさらさら揺れる。

 ただその二秒後に「やめい」と頭を退けて距離を取られた。
 ちょっとだけ怒っているような、拗ねているような、そういう調子になるのは、以前と変わったこと。

「あんまり子ども扱いしないで」

「子ども扱いっていうか、妹扱いかな」

「その妹に起こされる姉さんってどうなの」

「それは、わたしもまだまだ子どもなので」

「いや、そこ開き直っちゃダメでしょ」

 ひなみはわざとらしく苦笑しながら立ち上がって、部屋の外に向かう。

「準備しとくから、その寝癖直して顔洗ってきて」


 とっくに眠気なんてないのに、やっとの思いでベッドから這い出る。
 小学生からずっと決して広くはない部屋のスペースを陣取っている学習机の上には、半開きの英単語帳と、良くも悪くもない数学の小テストと、進路調査票と、それから水玉模様のデザインの手帳。

 最後のそれを見るだけで、自分の顔が緩むのがわかる。
 そっと表紙に手をかけて、ぱっと開く。まだまだ始めたばかりだけど、これから徐々に埋まっていくことを思うと、気持ちがぐいっと上向く。

 スマートフォンのロックを解除してホーム画面を見て、すぐに閉じる。
 よし、今日も一日がんばろう。というルーティン。力は勝手に湧いてくる。

 さっと朝の支度を整えて、日焼け止めを塗って、すでに温められていたコタツに入って、テレビからする情報番組の音を聞く。
 今朝はわたしの住んでいる地域で初雪が観測されたらしい。平年より三日ほど早く、これからますます寒さが増していくでしょう、と。

 今よりも寒いのだと想像しただけで身震いがして、肩に手を当てながらぐでっと床に倒れ込んだ。
 カーペットの毛が頬に当たる。寒さに怯えていたはずなのに、ひんやりとした感触は気持ちがよかった。

「二度寝しないで食べてよ」

 いつのまにか隣に座っていたひなみから「まだ食べてないけどあんまり寝てると豚になるよ」と重ねて鋭い指摘が飛んでくる。


「でもひなちゃん。寝る子は育つって言うよ?」

「けど姉さんは今以上に育ちたくないでしょ?」

「はい、食べます食べます」

 体を起こして、トーストを口に運ぶ。
 わたしは一枚だったけど、ひなみは三枚食べていた。

「ていうかひなちゃん呼びやめて」

「どうして。かわいいのに」

「子ども扱いされたくない」

「してないよー。わたしだってまだ子どもなんだよ」

「さっきと話題がループしてるし……。はい、姉さん。プリーズセイ、ひなみ」

「ひなみ?」

「わんもあわんもあ」

「わかった。ひなちゃんは封印ね」

 思春期なのはもちろん、なにかと背伸びしたいお年頃なのだろうか。


 わたしはココアだというのに、ひなみはブラックコーヒー。前はおねえちゃんって呼んでくれてたのに、今は姉さん呼び。

 よく友達から抜けてると言われるわたしを反面教師にしてくれているのかな。
 だとしたら、わたしはもっと姉らしくならなければならないのかもしれない。

「無理そうだよね」

「ううん、姉さんなら大丈夫。いけるいける」

「えっなに。もしやわたしの心を読んだ?」

「いや、適当に言っただけ。そんなにビビらないでよ」

 まずそもそも、姉らしいってなんだろう。威厳?
 ベタにほっぺにジャムでも付いていないかなと見てみたけれど、付いていたのはわたしの方だった。

「そいえばさ、姉さんの友達に会いたいなー」

 二人で家の外に出て歩いていると、ひなみがふと思いついたような口調でそう言ってきた。

「誰のこと?」

「えっと、ふゆさん? 前からちょくちょく登場してたけど、最近は輪をかけて登場率高いから気になる」


「登場率って、そんなに話してた?」

「話してるよ。気になる気になるめちゃ気になる」

「じゃあ、ふゆに言ってみるね」

「やった。あ、絶対だからね?」

 念を押すような言葉とともに、ひなみが悪戯っ子のような笑みをわたしに向けてくる。
 どうしてそういう表情になったのかはわからなかったけれど、うんと小さく頷く。

「楽しみだなあ、ふゆさん。どんな人なんだろー」

 ひなみは指を組んで、目をキラキラさせる。

 わたしも考えてみる。ふゆはどんな人なんだろうって。

 気になる人。素敵な人。仲良くなりたい人。ついこの間から付き合っている人……は、秘めておくべきことなのかな。
 そういえば、付き合っているんだ。そう、付き合ってるんだった。ふゆとわたしは付き合っている。改めて言語化すると、顔の中心に熱が宿りかける。

 でもこれは、ふゆがどんな人であるかじゃなくて、わたしとの関係性であったり、気持ちだった。質問の答えとしては適切でない。

 答えを探しているうちに会話は終わった。そんなわたしを見て、ひなみは更に関心を深めたような顔をしていた。





 おはよう、と下駄箱から廊下までの道のりで何人かの友達に声をかけられて、それに答えつつ教室に入る。

 わたしの席は窓際の後ろの方で、そこにはいつもお昼を食べているわたしを含む四人が固まっている。
 このクラスには運動部の子が多くいて、その子たちで大きな集まりができている。そこに属していない、その他の小さな集まりのうちの一つがわたしたちだ。

「ももちゃんおはよー」

「おはよー、桃」

 後ろから挨拶をされて振り返ると、つーちゃんと栞奈ちゃんが手をひらひらと振ってきていた。ふわりと鼻をくすぐった制汗剤の香りは、朝練帰りの栞奈ちゃんのものだろう。

 つーちゃんは小学校からの友達で、このクラスではほんとに数少ない帰宅部仲間。笑った顔がかわいい子。
 栞奈ちゃんはつーちゃんからの紹介で二年生になってからできた友達で、バスケ部の部長をしている。わたしたちのグループのまとめ役。

 一緒に席に向かうと、二人は机を繋げてオセロをしていたみたいだった。
 ざっと見た感じ、黒が優勢かな。黒を打っているのは栞奈ちゃんの方だ。


「さあ、つー。私にボコボコにされる続きを早くしよう」

「いやいや、ちょっと角取ったくらいで調子乗んなし」

「おお、威勢はいいねー」

「スマホゲームで鍛えたわたしの力を見せてやる!」

「見せるにはもう遅いんだけどね」

 栞奈ちゃんが五枚を黒にひっくり返す手を打つと、つーちゃんはうっと小さくうめく。
 それを見て、栞奈ちゃんはにやりと笑う。よくクイズ番組なんかで見るような、勝負師の顔だと思った。

 そんな二人のやり取りを立ったまま眺めていると、微笑ましいような気持ちが溢れてくる。仲が良いって、とてもいいことだと思う。
 あからさまに顔に出てたのか「桃は私を応援してくれてるみたい」と栞奈ちゃんが話を振ってくる。

「え、マジ? ももちゃん敵?」

「や、わたしはどっちも応援してるよ。がんばれー」

「なんか心がこもってない気がする」

 ええ、ふつうに本心だったのに。言い方の問題かな。

 つーちゃんが悩みながら黒二枚をひっくり返しているのを横目に、二人のひとつ前の自分の席へと進む。


 通学鞄を下ろして、隣の席に目を向ける。すぐに気付いてくれたみたいで、

「おはよ」

 と右手を軽く胸の前に出して、ふゆがいつものように頬をわずかにあげて挨拶をしてくる。
 少し高めの、きれいで透きとおっているような声だ。

 ただ挨拶されただけなのに、言葉ではうまく言い表せないなにかが、胸の内に広がったように思える。
 こういうことが、よくある。ていうかほぼ毎回こう思う。じわぁーっとなる。なにかが。

 声がいいからかな。がやがやと耳に届くいくつもの他の人の話し声を聴いても、こうはなりそうにない。

 ふゆの机の上には参考書と本が出されていた。参考書には見覚えがあって、一緒にモールに行ったとき買ったものだ。
 同じものを買ったのに、わたしはまだ一度も開いていない。本屋の袋に入ったまま机に平積みされている。

 ふゆはわたしのことをまじめと評するけど、わたしからしたらふゆの方が全然まじめだと思う。

 もう一冊は、『完全版 星空の辞典』というタイトルの本だった。


 間が空いたかなと思って、ちょっと咳払いをしてから挨拶を返そうとすると、声が後ろにぐっと伸びてしまった。
 きっと、自分以外には気付かれないくらいの違い。気になるけど、気にしてもいられない。

「桃、外寒くなかった?」

「うん寒かった。息が……あ、ここでも出る」

 はぁーと息を吐くと、白い息が上にのぼっていく。

「まだ先生来てないから、ストーブついてないんだよね。勝手につけたら怒られるかな?」

「んー……ダメだとは思うけど、つけても藤花先生は怒らなそう」

「まぁそうだね、待っていようか」

 ふゆがそう言うとすぐに、担任の先生がやってきた。ストーブがつくと、待ってましたという感じに教室の前に人が集まって、わたしたちの周りは依然として寒いままだった。

「そこのお二人は寒くないの?」とふゆが後ろを向く。

 わたしもつられて振り向くと、オセロ盤は既に片付けられていてた。結局どっちが勝ったんだろう。

「体育館の方が寒いから慣れた」と栞奈ちゃんが言って、
「わたしは贅肉あるから無敵」とつーちゃんが言う。


「栞奈はさすがだとして、つかさは痩せてるでしょ」

「おお。えへへ、お褒めいただき光栄です」

 両手を前に出して歯を見せて笑うつーちゃんに、ふゆは少し考えるような様子になったあと、困った顔をする。

「え、もしかして言わされた?」

「痩せてるなんて言われたことないし、うれしーなー」

 つーちゃんのポニーテールが左右にぴょこぴょこと揺れる。見ていると、なんだか和んだ。

「ふゆゆも痩せてるよー、むしろ痩せすぎだよー」

「それ、褒めてるようでディスってきてない?」

「ディスってはないけどー。てか、なんかこういう女子っぽいやりとり、めっちゃむずるな」

「むずる。……むずむずする?」

「そう。しない?」

「まあ、うん。ちょっとわかる」

 そこでなぜか、つーちゃんの目がわたしの方を向いた。
 同意を求められた気がして、首を縦に振る。むずむずするかは、言われる人によると思うけど。


 つーちゃんでも、栞奈ちゃんでも、しないと思う。

 ふゆとするのは……どうかな。審議が必要。

「栞奈はむずらないでしょ?」

「まあね。部活とか、そんなのばっかりだし」

「ならちょっとやってみてよ」

 そう言われた栞奈ちゃんは、半ば面倒そうに一呼吸して、満面の笑みでふゆとわたしを目で捉える。

「桃ちゃんと霞ちゃん、ふたりともすっごくかわいーよ! スタイル良くてー、制服もかわいく着こなせてー、私なんかー、近くにいることも申し訳ないくらい比べものにならなくてー、とにかくすっごく憧れる!」

 言い終わった後すぐに、つーちゃんが机をバンバン叩きながら吹き出すみたいに笑い始める。
 ふゆとわたしは、そっくりそのまま同じような苦笑混じりの表情をして、「笑うところだよ?」と栞奈ちゃんに指摘される。


 そう言われては笑うしかないと「あは、は」と笑う。その様子を見てか見ずか、ふゆが口元を抑えて笑い始める。

「栞奈さっすがー。わたしにも言ってくれていいんだぞ」

「つーは褒めるところそんなにないでしょ」

「いや急にひどくない?」

「褒めてほしいところを言ったら褒めてあげてもいいよ」

「なにそれー、栞奈性格わるー」

「そういうの言えるところはいいんじゃない」

 一日に何回も見る、二人のじゃれあいが始まった。
 見てて飽きないけど、疲れないのかなと思う。お互い楽しんでやっているから、疲れないのだろうけど。

 なかなか着地しなさそうな会話の応酬を見ていたところで、そろそろ予鈴が鳴りそうな時間。

 ホームルームで、先生が「明日からのテスト期間には二者面談をするので……」と真面目なトーンで言っていて、はっとするような思いになる。
 そうだ、明日からテスト期間だった。完全に忘れていた。





 とはいえ、わたしは帰宅部なのでテスト期間になっても普段と変化があるわけではない。

 うちの学校のテスト期間は、試験日の一週間前から部活などが制限されるもので、ごく一般的な感じだと思う。
 普段から放課後すぐに家に帰るわたしにとっては、せいぜい勉強時間が増えるだけで、嬉しさとは無縁だ。

 部活をしていた中学生のときは、この期間をとても楽しみにしていた覚えがある。
 学校が終わってすぐ家に帰られて、夕方から寝ることができて、夕食は家族全員で食べられて……テスト期間にしては、あまり勉強をしていたようなエピソードはなかった。

 栞奈ちゃんは土日は休みだけど、今週は部活があるらしい。テスト期間ってなんなんだろう? と言っていた。
 ふゆもつーちゃんもアルバイトをしていて、変わらずいつも通りの頻度で入るらしい。だからなにもないのはわたしだけ。ちょっと疎外感を覚える。

 高校入学時のわたしは、部活に入る気がなかった。

 慣れない環境に四苦八苦しているうちに、一年生の春はあっという間に過ぎていて、どこかに入部するタイミングはなくなってしまっていた。
 高校でできた友達からいろいろと誘われはしたし、先生からも入ったらどうかと言われることはあったけれど、どの部もあまり関心が持てなかった。


 でも今となっては、その選択は正解だったのだろう。
 その種目や活動が本当に好きなら、学校の部活動以外でもできる。事実わたしは、中学のときの部活について思い出すことはほとんどなかった。
 たいして好きではなかったのだ。

 今日は半分自習みたいな授業ばかりで時間の流れがハイテンポに感じられ、一人でぼやぼやーと空想をしていると昼休み、放課後と時間が移り変わっていた。

「桃。今日バイト早いから、先帰るね」

 と掃除終わりに言われて、てっきり一緒に帰るものと思っていたから、面食らう。
 また明日と言う前に、ふゆは手を振って教室の外に行ってしまった。残念な気持ちが、後から押し寄せてくる。

 けど、こういう日もあるよね。毎日一緒に帰ろうと約束しているわけではないから。

 言ってくれただけ、嬉しい。
 そう自分を納得させていたときだった。

 ふゆが早足で教室に戻ってきて、わたしの前に右手を出してきた。


「マフラー、巻くの忘れてたから」

「え、マフラー? あ、うん」

 わずかな驚きを抑えて、鞄の中からマフラーを取り出す。渡すと、いつもみたいに手際良くてきぱきと巻いてくれた。

「ありがとう」

「どうも。じゃあ、また明日ね」

「うん、また明日。……えと、自転車、気を付けてね」

 今度は言えた。でも、その嬉しさよりも驚きが勝る。

 たしかに毎回マフラーを巻いてもらってはいたけど。
 けど、一度は帰っていたし。あまり振り返るイメージのないふゆがわざわざ教室まで。

 まさか、それだけのために戻ってきてくれるなんて。
 姿が見えなくなるまで、ひらひらと振っていた手に熱が帯びる感覚を抱く。それに合わせて、勝手に口角があがる。


 いつのまにか隣に立っていたつーちゃんに声をかけられて、帰路につく。

 校舎を出てからちらりと自転車置き場の方を見たけど、当然ながらふゆの姿はなかった。

「なんだか、二人で帰るの久しぶりな気がしない?」

 つーちゃんに訊かれて、頷く。マフラーをしている首元がとても暖かい。

「いつぶりか、ももちゃん覚えてる?」

「夏休み前くらいじゃないかな?」

「あぁ、そうだったっけね?」

「忘れちゃった?」

「いんや、忘れてない忘れてない」

 首を横に振った数秒後、ほんとは全然覚えてない、とつーちゃんは笑う。
 わたしはあの暑い夏の日をしっかり覚えていたから、もしかしたらわたしは記憶がいいのかもしれない。

「今日はバイト休みなんだね」

「なんだよね」


 バイトが休みで落ち込むなんて、さすが勤労学生。

「明日からテスト勉強しないとだ」

「やだ。したくない。それに明日はバイト」

「わたしもしたくないなぁ。勉強したくない」

「二人で勉強したくない同盟つくろ。そんで栞奈とふゆゆに対抗しよう」

「対抗しても、あの二人は自分でちゃんと勉強するから、わたしたちが取り残されるだけだと思う」

「わたしゃ中学受験で燃え尽きたんだよう。勉強なんてなんにも意味ないんだよう」

 駄々をこねる園児のような言い方をして、つーちゃんは何度か溜め息を吐く。息はこの時間でも変わらず白い。

 わたしはそれを横目に、中学受験というワードにけっこうな懐かしさを抱いていた。もう五年前とかになるのかなとか、つーちゃんの方が楽に突破していたなとか。
 どうにも、そんなに経ったようには思えない。でもまた違う高校を受験して、つーちゃんとわたしはいまここにいる。思えば遠くへ、ってやつだろうか。

 今回まずいとさすがに危ないんじゃないかなという趣旨のあれそれは、迷ったけど言わなかった。
 そういうことは、先生がもう言っていそう。栞奈ちゃんにも言われていそう。食傷気味な人のところにすすんでパンを与える人がいたら、その人は極悪人だ。


「進路調査票も書けないし、出せないし」

 つーちゃんは気だるげに、地面の小石を蹴る。

「たしかつーちゃんは進学だったよね」

「そうそう、ふんわりと。東京いければなんでもいい」

「東京かぁ、遠いね」

「新幹線使えばすぐだけど、ほら遠距離ってイヤだから」

「あー、なるほどね」

「ももちゃんは?」

「わたしも進学。でも、こっちの大学だと思う」

「あぁ、やっぱりそうなんだ」

「そうなんですよ」

「そんで話変わるけどさ、これから暇だったらちょっと寄り道してかない?」

「うん、いいよ。どこ行く?」

「まー、いろいろと。明日から勉強せねばだし、今日くらい遊ばねばというね」

 空中にペンでなにかを書くような仕草をしながら、つーちゃんは歩調を早める。


 地下鉄に乗り、わたしたちの最寄り駅よりも前の駅で降りる。最初に足を止めた場所は市街地の外れの工事現場だった。
 そこには、休工中、と書かれた目立つ色の大きな看板が立っている。つーちゃんが言うには、ここは数年前からずっと休工中らしい。

「あ、いたいた。違法労働ウサギちゃん」

 これまたどでかい三角コーンの横に、なんとも言えないような表情をした黄色いウサギの……これはなんて言うんだろう、立ち入り禁止のバリケード? を見つけたつーちゃんが、声のトーンをひとつ上げる。

 二十匹以上は居そうなウサギの群れは、全員が鉄パイプで繋がっていて、頭とお腹にぽっかりと穴があいている。
 これは……と思う。ウサギの微妙な表情も納得だった。焼き鳥の串に繋がっている具みたいだ。そういう表現自体が、あれだけど。

 パシャリパシャリと、つーちゃんは制服のポケットから取り出したスマホを構えてシャッターを切る。
 一匹を撮ったり、並んでいるのを撮ったりと、楽しそうにしている姿をわたしも写真におさめる。撮られ慣れているのか、決め顔でピースをしてくれた。つーちゃんとウサギの親和性。


「工事現場によく居るのは、ピンクのウサギなんだけどね。けっこう珍しめの黄色がここにいるって情報をキャッチしたんだ。なんか、実際見るとミス・バニー感あっていいじゃん」

「えー、そうなんだ。今まで見たことはあったけど、気にしたことはなかったかも。つーちゃん、こういうの好きなんだ?」

「いや好きっていうか、コレクター的なね。ウサギだけじゃなくてさ、いろんなのが居るんだよ」

 肩をわたしに寄せて、スマホの写真フォルダを見せてくれる。カエル、イルカ、キリンなどの写真が並ぶフォルダには『労基違反あにまるず』と名前が付けられていた。

「んじゃ、ウサギは捕獲したし次行こうか」

 足取り軽く紫のリュックを揺らしてまた歩き始めるつーちゃんは、スマホを見ながらぐいーっと背中を後ろに逸らして空を見上げる。

「飛行機が飛んでるな」

「そうなの?」

「この前に入れたアプリでさ、いま飛行機がどこを飛んでるかーみたいなのがあるんだよ」

「飛行機、乗ったことある?」


「旅行で何回か。内臓がぐわんとなって嫌い」

「嫌いなのに見てるんだ」

「見るのは好きだからね」

 背の高い木々が並ぶ街道を抜けると、東西に長く伸びる飛行機雲が見えた。

 掴めないかなと思って空の白に向けて手を伸ばしたら、つーちゃんがわたしを見てにこっと笑った。そして、真似するみたいに「四人で乗ってどっか行こうよ」と細い腕を空にかかげた。

 アプリのモンスターをつかまえるために時々立ち止まるつーちゃんの様子を見たりしながら、しばらく歩く。信号待ちをしているときに外国っぽい人に道を聞かれる。
 ささっとつーちゃんが俯きがちにわたしの後ろに隠れたので、適当で下手な英語で駅までの道のりを教える。

 お礼がしたいと言われて、いやいやーはばないすとりっぷ、と断ると笑顔でサムズアップして外国っぽい人は駅の方向に歩いていった。

 信号を渡った先のコンビニに寄ると、つーちゃんはカップラーメンとホットスナックとその他もろもろを買っていた。曰く、おなかめちゃすいたらしい。
 わたしもせっかくだから飲み物とお菓子をかっておいた。ひなみにあげたら喜んでくれるはず。

 コンビニからちょうど三分くらいの、小学校の頃によく遊んだ公園のベンチに腰掛ける。
 麺をずるるると啜るのを見ていると、わたしも少しお腹が空いてくる。でも家に夕飯があるから、我慢する。


「あのコンビニ、二日に一回くらい行ってたけど、さっき店員さんに『いつもありがとうございます』って言われたから、もう行きたくなくなっちゃった」

「あー、わかるかも。知り合いみたいになっちゃうと、身構えちゃうよね」

「そうそー。うちのバイト先だと、そういうの禁止なんだよね。リピーターが減る可能性があるって。いま身をもってわかった」

 つーちゃんは「さよなら」とコンビニに向けて呟く。
 薄い関係の切れ方は鋭くてあっけない、とかそういう言葉が頭に浮かんだ。

 空を見上げると月と星が見える。辺りの街灯が煌びやかすぎて、ここまで暗くなっていることに気付かなかった。

 座っているベンチはできたばかりのものみたいで、塗料がピカピカではがれていない。
 手を置く場所のような突起が三つ付いていて、わたしたちの間にも一つある。

 この公園ってこんな感じだったかな。もっと、みんなの憩いの場みたいなイメージだったけど。
 よく見てみたら、看板の注意書きが十五個もあって、ブランコとジャングルジムが使用禁止になっていた。


 公園内に一人たりとも子どもがいないのは、寒さのせいじゃなかった。

「これ、なんたらアートって言うらしいよ。ちょっと趣味が悪い感じの、なんだったかな」

「つーちゃんって物知りだよね」

「ネットサーフィンの賜物よ。なお、学校の成績は……って自分で言ってて悲しくなるな」

 明日からテスト期間であると、また忘れていた。
 三次関数のグラフが頭を過ぎる。あの形みたいなベンチだった。

 なんたらアートのせいかはわからないけど、仕切り一つ分以上の距離を感じて、つーちゃんの方に体を寄せる。

 すると、つーちゃんは不思議そうに目をぱちぱち瞬かせ、それからなにかに気付いたように手をポンと打った。

「思ってたこと言っていい?」

「うん」

「ももちゃん、身長また伸びた?」

 と空いている手をわたしの頭の近くに持ってくる。
 立ってみて、と促されて立ち上がると、つーちゃんはわたしの周りをぐるぐるとまわる。


「伸びてるかな」

「若干ね、伸びてる気がする」

「よく寝てるから、止まらないのかも」

 夜更かししがちだけど、その分、日中寝ている。

「小学校のときは同じくらいだったのにね。ももちゃんどんどんおっきくなってくから……」

 そこまで言って、つーちゃんは、「あ」と続きを止める。

「こういう話イヤだったらごめん。忘れてた。ももちゃんあんまり好きじゃないよね?」

 べつにそんなことないよ。とも言い切れないから、曖昧に首を動かす。
 いやほんとごめん、とつーちゃんは言葉を重ねる。なんだかわたしの方まで、ごめんという気持ちになる。

 つーちゃんがベンチに座り直す。ぐにぐにと頬を引っ張って伸ばしてを繰り返して、わたしに向き直った。

「で、ここからが本題なんだけどさ」

「あ、うん。なんでしょう」


 つーちゃんはすぐには言ってこなかった。

 待っている間、脈がはやくなる。けっこう神妙そうな表情をしているものだから。
 二分くらい経って、つーちゃんはレジ袋のなかから、さっきコンビニで買っていたガトーショコラをわたしに向けてきた。

「ももちゃん、おめでとう。ふゆゆと付き合うことになったんでしょ」

「えっ」

 人が驚いたときの反応は、固まるか大きな声を出すかのどちらかだと思う。今のわたしは自分でもびっくりするくらい大きな声を出していた。

 ガトーショコラを受け取る。受け取ったら認めることになるけど、そこまで考えられなかった。

 隠すつもりはなかった。というかそもそもふゆと交際をオープンにするかそうでないか話してすらいなかった。
 デートの日から、ふゆとわたしの関係の名前は変わった。でも、そこから一週間以上が経っても、特にそれらしいことはしていなかった。

 次の日の朝にふゆに「よろしく」と言われたくらい。
 その言葉に喜んでいるまま、時間が経っていた。


「……ふゆに聞いたの?」

「や、ふゆゆにきけるわけねーじゃん?」

 ならなぜ知っているんだろう。
 ふゆが言っていないとなると、わたしの口が勝手に動いたりしていた?

 無意識に唇をぱくぱくさせて困惑していると、

「まあ、見てればわかるよ。栞奈も気付いてるだろうな」

「今までと、そんなに変わってた?」

 自覚はない。まったくない。

「さっきの、ドラマのワンシーンかなんかだと思ったよ」

「さっきのって、ああ……見てたんだ」

 右手でマフラーを弄ると、つーちゃんは頷く。

「ももちゃんとふゆゆは目立つからね。ちなみにクラスの人たちめっちゃ見てたよ」

 ふゆが目立つのはわかるけど。わたしは、やっぱり身長だろうか。
 あのときは周りなんて見れていなかった。不意打ちのようなものだったから。本当に目立っていたのだとしたら、ちょっとじゃなく恥ずかしい。


「まあ、よかったよかった。おめでとうおめでとう」

 ぱちぱちぱちと、つーちゃんは手を打ち鳴らす。

「ふゆゆめちゃかわいーしな。お似合いだよ」

 お似合い。……お似合い。
 ふゆに見合うような人に、わたしはなれるだろうか。

「でもあまりものどうし、とか言ってたときは、さすがのわたしでもどうなることかと思ったよ」

「それは、なんていうか、言葉の綾なの」

「だろうけど。ふゆゆに伝わってると思う?」

 伝わってると思う? なにが?
 と思いながら、曖昧に頷く。ふゆは察しがいいから、なにかしらは思ってくれているはずだろう。

「てかこのことは黙ってた方が、まあ、いいよね」

「そう、だね。誰かに訊かれたら、ちゃんと隠さずに言うべきなのかな?」

「うーん、どうかな。公言してる人もいるっちゃいるけど、やめといた方がいいと思うよ。そういうの、ふゆゆ困りそうだし」


「困りそう……うん、たしかに」

「そこらへんは相談して決めた方がいいとは思うけどね。
 二人が楽しいのが一番。その他は二の次くらいの認識で、いいと思う」

「ねえ、つーちゃんのお相手さんは、どんな人なの?」

 不意に質問したからか、つーちゃんはぎょっとした顔になる。けれどすぐに気を取り直して、教えてくれる。

「体力がはんぱない。頭がめちゃいい。好きな食べ物は味噌ラーメンと天ぷらうどん。一人っ子。足が速い。ディズニーランドが好き。歌が上手い。スマブラ強い」

「へー……えっと、ほかには?」

「アコギで弾き語りできる。インスタに毎日空の写真をあげてる。野草に詳しくて、たまに食べてる。あとは、クレーンゲームがめっちゃ上手い……人?」

 なぜ人が疑問形なのだろう。という疑問は置いといて、つーちゃんの横顔がきらめいていた。

「すごく好きなんだね」

「そりゃあすごく好きじゃなきゃ付き合わないっしょ。……フツウそうでしょ?」

 首を傾げて、問われる。

 好きかどうか。付き合うか。


「あ、今のナシナシ。これフツウハラスメントじゃん」

 わたしの頭がまわるよりはやく、つーちゃんが両手をぶんぶん振って訂正する。
 フツウについては、深く考えないことにした。不意に別のことが頭に浮かんだ。

「つーちゃんがそういうふうに楽しそうにしていると、わたしもうれしいよ」

「え、ありがとう。でもなに急に?」

「元気なのはいいことだよーって話」

 わたしたちの髪の長さが今とちょうど反対くらいだったときから比べると、つーちゃんは明るい方向に変わった。

「それは、ももちゃんだってそうだよ」

「……そうかな?」


「高校入ってから、ずっと楽しそうだよ。自分ではあんま気付いてないかもしれないけど、わたしにはそう見える」

「それはきっと、まわりのみんながいい人たちばかりだからだよ」

 思ったことをそのまま言うと、つーちゃんはわたしの目をじっと見つめて、少し不思議そうに頬に手をやっていたが、やがてなにかに納得したように首を何度か縦に振った。

「ま、これからも仲良くしてね」

 と胸の前に拳が出てくる。意味がつかめずに首を傾げると、「グータッチ。ゴリとミッチーが二年かけたという、あの、伝説の」と大真面目な顔で言ってくる。
 拳を合わせる。つーちゃんの手は小さい。

 家に帰ると、制服姿のひなみがコタツに入って勉強していた。テスト勉強だという。わたしもそれに倣って勉強をしたけれど、襲ってくる眠気には勝てそうになかった。
 お風呂に入っているときに、朝にひなみが言っていたことを、ふゆに伝え忘れていたことに気付いた。

本日の投下は以上です。
>>189 いくつか書いてましたけど、過去のを今載せるのもあれなので終わったら載せます。終わらなかったらごめんなさい。

おつです

唐突のスラダンネタワロタ

マルチアングルなんやね





 翌日、六時二十五分に目を覚ますと、ベッドのすぐ近くに置かれている椅子にひなみが座っていた。

「今日はフルグラと飲むヨーグルトだよ」

「そうなんだ」

「そうなんです……って、このやり取り昨日もやったじゃん」

 ひなみは渋い顔で立ち上がり、部屋から出ていく。
 レースのカーテン越しに覗く外の天気は曇っていて、日が差し込んできてはいない。

 枕元に転がっているスマートフォンは、画面の明かりがついたままだった。
 どうやら昨日は見ながら寝てしまったらしい。寝ぼけ眼を擦りながら、機能停止まであとわずかのそれを充電ケーブルに繋ぐ。

 液晶が少し明るくなる。すると、暗がりでも画面がはっきりと見える。ふゆとわたしの、メッセージアプリのトーク画面。

 最新のものはこの間の日曜日のもので、

『今日は楽しかったよ。夜は寒いみたいだから、風邪ひかないようにね』

『うん、ありがとう。ふゆもあったかくして寝てね』


 わたしが最後に送った文には既読がついている。
 それから返信はなし。この文に対しては、あまり返信しようがないから、当然といえば当然なのだが。

 ふゆとわたしは、そんなに連絡を取ったりしない。
 というか、そもそもふゆが誰かとメッセージをしている様子をあまり見たことがない。

 いつもの四人のグループトークでもあまり発言していない。
 わたしも同じくしなくて、グループトークではつーちゃんが一人でひたすらスタンプを送ってきたりしている。

 そういえば、来週は四人で遊びに行くらしい。場所は滝で、温泉にも行くらしい。
 この前に栞奈ちゃんがそのことをグループで伝えてきていた。それに続いて三つのスタンプが並ぶ。

 アニメの女の子のキャラクタースタンプがつーちゃん。
 無料ダウンロードした猫のスタンプがわたし。
 最初から入っているウサギのスタンプがふゆだった。

 昨日ふゆに伝え忘れたことに気付いたわたしは、ひなみにそのことを言ってみると、
「姉さんはほんと忘れっぽいよね。また忘れないうちにメッセージでも送ったら?」と呆れ気味の溜め息が返ってきた。


 よく考えたらひなみの頼みだって会話の流れから出てきたなんでもないことな気がしたけど、反応を見るにわりと楽しみにしている感じだった。

 なので、その助言通りに送ってみることにした。

 でもトーク画面を開くと、そこで手が止まった。
 文を打つ前に画面をスワイプしてこれまでを確認してみると、ふゆとラインを交換してからの一年半でたったの十往復しかしていなかったのだ。

 しかも、

『今日は休み?』『起きたら熱っぽくて』『お大事に。あとでノート送る』『うん』『ていうか連絡してごめんね。寝てたほうがいいよ』『ありがとう。寝ます』

 という、一年生のときにわたしが風邪を引いたときのものが、そのうちの三往復だった。

 というわけで(というわけで?)、迷った。普通迷ったりしないんだろうけど、なぜか迷った。時刻が二十三時を過ぎていたことも影響して、画面を開いたまま時間が過ぎていた。

 そしてそのまま寝てしまって、今に至る。
 まあ、今日学校で言えればいいよね、とベッドを出る。
 慣れないうつ伏せで寝ていたからか、体の節々が痛かった。





 昨日と同じ時間に登校すると、教室ではクラスの子たちの多くが机に向かっていた。

 ふゆとつーちゃんは学校の問題集を解いていて、栞奈ちゃんは頬杖をついて、ぼうっと窓の外を眺めている。
 全員に挨拶をして、席に座る。教室にはもう暖房が入っていた。

「昨日家に帰ってからわたしはとてつもないことに気付いたんだ」とつーちゃんがわたしに向けて口を開く。

「英語と数学って赤点だったら冬休みに補習じゃんね」

「うん。補習あるね」

「サマスク皆勤のわたしは、ウィンスクには通いたくないんだよ」

 サマスクっていうのはサマースクールの略語で、この学校の先生と生徒が言っている補習の名前。ウィンスクについても同じく、ウインタースクール。

「しかも主の聖誕祭の日もあるらしいんよね」

「せいたん……あ、クリスマスのこと?」

「そうそー。ということで、頑張ることにした」

 決意の感じられるような表情で言って、つーちゃんが問題集に目を戻す。


「みんな暇なら集まって勉強会しない?」

 数秒後、次に口を開いたのは栞奈ちゃんだった。
 その提案を聞きながら、鞄から一時間目の教科書とペンケースを出す。不意に出かけたあくびを我慢する。

「おー、いいねー」

「つーは特に頑張らないとね」

「まーわたしが一度本気出したら余裕よ」

「それはどうだか。私が教えてあげてもいいよ?」

「いや、なに、わたし一人でできるよ」

「でもこの前の小テストの点数、にじゅ──」

「わー! わーやめろ! 言うな言うな!」

 つーちゃんが大声を出して、栞奈ちゃんの席に前のめりに体を寄せる。

 小テストが返ってきたときは、わたしたち三人にどや顔で見せつけてきていたのに。
 自虐はいいけど、友達にいじられるのは恥ずかしいということかな?

 栞奈ちゃんの配慮はしっかりしていて、声は点数を言いかけた部分だけとても小さく、クラスの他の人に聞かれるということはなかったと思う。


 しばらくなされる二人の言い合いが止むと、そのまま視線はこちらに向く。

「桃と霞は? 来るよね?」

 ふゆが視線でお先にどうぞと促してきたので、「うん。混ぜてもらえるなら」と答える。「私も」とふゆが続く。

「よし決まりだ。場所はどうする? 私の家はいろいろと無理」

「学校でいいんでねーの。ちなみにわたしの家も狭いので無理」

 もう一度ふゆと視線がぶつかる。言葉にしない譲り合いが起きて、「うちでいいなら」とわたしが先に言った。

「なんか悪いね。それで、いつにしようか? 休みの日はさすがに家の人に迷惑になるよね?」

「あんまり騒いだりしなければ、まぁ大丈夫だよ」

「だそうです。つー、お口チャックできる?」

「いや、わたしももちゃんち何度も行ったことあるし、もはや顔パスだかんな。なめんな」


「ていうことなので、平日にしよっか」

「ていうことってなんだよ!」

 吼えるつーちゃんをちらと見て「あのさ」とふゆが胸元に小さく手をあげる。

「もし平日なら、火曜日がお店の定休日だから、その日にしてくれると私としてはありがたいかなって」

「お、いいじゃん。火曜日ならわたしもバイトないしな」

「私もいいよ。桃は?」

「大丈夫だよ」

「じゃあ火曜日ね」

「そーいやわたしら仲良いのに、勉強会ってのはしたことなかったな」

 手元の問題集を閉じて、つーちゃんが首を傾げる。

「だって一人の方が集中できるし。勉強って本来一人でするものでしょう?」

「うげ、元も子もないこと言うなー。てかじゃあなんで今回はみんなで一緒にやろうなんて言ったんだ」


「そんなの決まってるでしょ。その方が楽しそうだから。
 ほら、三人寄れば文殊の知恵ってよく言うでしょ」

 そう言って栞奈ちゃんは、
 いち、でわたし、
 にー、でふゆ、
 さん、で自分自身を指差す。

 つーちゃんの顔がぷるぷる震えだすのを見て、栞奈ちゃんはくすくすと笑い始める。

「ナチュラルにわたしを外すな! ムカつく!」

「はいはい。勉強会楽しみだなー」

「勝手にまとめるな! くそー!」

「女の子が使う言葉ではないね。はしたないはしたない」

 二人は今日も通常営業です。

 そしてこれで、ふゆとひなみを引き合わせることになる。今日の目標を図らずも達成する。
 ひなみは学校が終わったらたいていまっすぐ家に帰ってくるから、おそらく会えると思う。五月にふゆが学校帰りに家に来たときは、なぜかいなかったけど。

 つーちゃんは昔からの知り合いだし、家に来る人数が多い方が、ひなみも喜んでくれるはずだ。
 みんなでの勉強会。わたしも楽しみだな。





 午前最後の授業は体育で、着替えは休み時間に教室で行う。
 この着替えっていうのが、わたしはどうにも苦手……得意じゃない。

 自分が下着姿である状態そのものが落ち着かない。
 中学校のときは、みんな肌を見せないように器用に着替えていたはずだったけど、
 いま視界に入る人たちはそのままの姿で廊下に出たり、友達同士でくっついたり触り合ったりしている。

 そういうものなのだと、一年生の初めに理解した。理解はしたけど、わたしはどうにも慣れない。見られていると思うと落ち着かない。

 これって、自意識過剰なのかな。
 きっとそうだ。
 でも一人だけわざわざ教室から遠い更衣室を使うわけにもいかないし、誰かからなにかを言われたとしても、それは社交辞令とかお世辞の類で、過剰に反応するのもおかしい。

 それに今の季節は、制服の下に何枚も着ているものがあるから、まだ大丈夫だ。
 脱いで、着る。それだけのこと。
 終わったと息を吐くと、後ろから視線のようなものを感じる。

 慌てて振り向く。けれど、誰もこちらを見てはいない。

 後ろに目が付いてるわけではないから、当然だ。
 換気のためと開けられている窓から、カーテン越しにお昼時にしては冷えた風が吹きつけてくる。そうだ、今日は曇りだった。


「どうかした?」

 着替え中のふゆが、向き直ったわたしに訊ねてくる。
 体育の時間の、ひとつ結びにしているふゆもかわいい。……じゃなくて、問いかけに反応する。

「わたしって、自意識過剰だよね?」

「なに、なにそれ」

「ふゆはそう思わない?」

「……いや、私は、そう思ったことはないけど」

 ふゆが怪訝そうに眉を寄せる。

 なんだか言わせてしまったみたいになる。実際言わせているようなものだけど。

「なら、いいの。ちょっと気になっただけ」

「そう? そっかー。まあ、そういうときもあるよね」

 ふゆはこういうとき、いつも踏み込んでこない。わたしだったら理由とか、どうしてそう思ったのかを聞いてしまいそうなのに、ふゆはそうしない。

 そういう距離感の取り方が、もどかしくもあって、嬉しくもある。


「ふゆはやさしいね」

「……やさしさ感じる要素あった?」

「うん。いつもやさしい」

 見つめると、居心地悪そうに目を伏せられる。
 そういう反応もまたかわいいと思う。だからなのか、ついつい困らせたくなってしまう。ふゆには悪いけど。

 近くの二人は机にもたれるようにして、話をしていた。

「今日も仲良しこよしね」と栞奈ちゃんがこくこく頷いて、駆けるように歩いていく。
 それに続いたつーちゃんは、わたしたちを交互に見たまま後ろ歩きで教室から出ていく。

「なぜ先に行く。……遅れるし、私たちも行こう」

 上の体操着を羽織ったふゆが、一歩進んでわたしの隣に並んでくる。
 そこから走って二人に追いついて、四人で体育館に向かった。

 体育はここのところいつも自由時間で、今回もそうだった。が、クラス委員の子の提案で、全員でドッジボールをすることになった。
 チーム分けは出席番号の奇数偶数で、三人とは別々のチームになる。


 同じチームの子に話しかけられて、コートの中央に向かって数歩前に出る。
 ドッジボールってジャンプボールから始まるんだった。

 タイミングを合わせて跳ぶと、対面している子より早くボールに指先が触れた。

 ボールがコートの中を縦横無尽に動く。それによって、みんなの足も動く。
 キュッキュッという運動靴のスキール音がアーチ型の体育館の高い屋根で反響する。

 つーちゃんと栞奈ちゃんはボールを持つと二人で意味ありげな視線を交わしつつわたしばかり当てようと狙ってきて、何回目かで当てられてしまった。
 ふゆはボールが回ってくると、外野に向けて大きくフライを投げていた。わたしには投げてくれなかった。そしてわたしが外野からふゆめがけて投げるとかわされた。

 わたしの方のチームが勝つと、同じチームの友達が何人か内野から駆け寄ってくる。そのうちの一人の子がわたしの腰に手を回してきて、ぎゅうっときつくハグされる。

 首の近くに顔をうずめられて、身動きが取れなくなる。
 こちらの匂いを嗅ぐような息遣いと、その子の体操着から漂う柔軟剤の甘ったるいような香りに、口の中が渇いていく。
 わたしは誰にも当てていなかったのに、どこか喜ぶところがあったのかな。


 体を離されたとき、その子の口がなにかのかたちに動いていた気がしたけれど、わたしも同じように動かせたか自信がなかった。

 次はうまく反応できるといいけど、と数秒目を瞑る。
 そのうちに、ボールの投げ合いがまた始まった。

 一回目は拮抗していた勝負が、今度は短時間で決した。

 三人たちの方のチームが勝ち、わたしの方のチームは負けた。目の前の喜び合いを眺める。
 その途中、目がある一点で止まる。
 ふゆとの距離を詰めて、笑顔で手を握る子がいた。

「あっ」と弾かれたように声が出る。どうしてそういう反応になったか、それは単純に珍しいと感じたからだと思う。

 ふゆはクラスの人たちとあまり関わりを持とうとしていないから、こういうふうに誰かと仲良さげにしているのはめったに見ない。
 つーちゃんと栞奈ちゃんもそういう傾向があって、他のグループの人たちと、授業とかで必要なこと以外の会話をしている印象はない。

 ……ああ、けど栞奈ちゃんは、他のクラスの同じ部活の人とは仲良さそうにしているかな。
 今のクラスにはいないけれど、廊下や学食でバスケ部の人と会ったりすると楽しく会話している。


 突然手を握られて、ちょっと驚いたり、困ったりしないのかなと思ったけど、ふゆはなんでもないような様子で、その子と目を合わせて話をしている。

 もしかして、けっこう仲良いのかな……。まったく知らなかった。

 でも、まあ、ふゆと仲良くしたい子がいるというのは、なにも不思議なことじゃない。
 わたしだって最初はそうだったのだから、気持ちはわかる。

 だから、よかった、と素直に思う。
 それはきっと、いろいろな意味でだった。

 無意識に頭を振ると、「ね」と斜め前から声がかかる。

「あれは瑞樹ちゃん。吹奏楽部所属で、生徒会の会計。
 一年生のときのクラスは私とつーと同じで……って、そんなの同じクラスだし普通に知ってるか。そもそも桃は友達だよね?」

 線一本隔てたところにいた栞奈ちゃんが、授業で教科書の文章を読み上げるときのようにわたしに言って、それからふゆの方を向く。


「うん、知ってる。友達だよ。……でもどうして?」

「見てたから、その見てる桃を私は視界で捉えた」

 なんだか、英語の翻訳みたいな言い方だと思った。

「……そういうふうに見えてた?」

「いや、ただ見てたからって、それだけだよ。桃がどう思ってるかとかは、知らないしわからない」

 と、わたしに体の向きが戻る。
 そして、つーちゃんに冗談を言うときみたいに笑いかけられる。

「あ、もう始まるみたい。次もちゃんとずばーんと当ててあげるから、覚悟しといてよ」

 次の試合、栞奈ちゃんになにかを耳打ちされたふゆが、若干面倒そうに、小さく「おりゃー」と声を出しながら、わたしの方めがけてボールをゆるく放ってきた。





 放課後になって、ふゆと二人で園芸部の部室に向かう。

「文集を書くから残ってく」とふゆがファイルを片手に告げてきて、ならわたしも一緒に勉強していようと思った。

 ばいばいまた明日と廊下ですれ違う友達に挨拶をする。
 その中には体育の時間にハグをしてきた子もいて、でも、手を振りつつ目を向けたら逸らされた。

 わたしたちの教室と園芸部の部室の間には職員室があって、そこでふゆはなにかを思い出したように足を止めた。

 そして、テスト期間につき生徒入室禁止(ノックの後に元気な声で用件をお伝えください)、と張り紙がなされている扉をノックして、
「二年の冬見です。辻井先生いらっしゃいますか」と声をかける。

「はいはーい。冬見さん、と、本橋さん。どうしたの?」

 担任の藤花先生が出てきて、訊ねられる。先生のことはみんな藤花先生と呼んでいるから、辻井先生って一瞬誰のことだろうと思った。
 腕にはこれから二者面談で使うと思われる、ぶ厚い本を抱えている。そういえば、ふゆは進路調査票になんて書いたのだろう。

「文集用の写真を撮りたくて……カメラをお借りできるって、前に先生が言っていたので、借りられたらなと」

「あー……でも冬見さん。いまテスト期間中だけど、大丈夫?」


「すぐ終わります。なんていうか、テストよりもそっちの方が気になってしまって」

「なるほどねー、テスト前にふと気になって部屋の掃除とかしちゃう感じ?」

「そうですね。そんな感じです」

「んー、わたしもあったなぁ、そういうこと。うんうん、ちょっと待っててね?」

 バタンと扉が閉まる。そうだ、先生は園芸部の顧問をしているんだった。
 ……いや、そうだっていうか、初めて知った。

 すぐに戻ってきた先生は、「わたしの私物なので、気をつけて。まあ、冬見さんなら大丈夫か」とふゆにカメラケースを手渡した。

 ふゆが一通りカメラの使い方や撮り方などを教えてもらっている間、手持ち無沙汰を覚えて、側にある四角く小さい窓の外を眺める。
 人のいない放課後の校庭を見るのは珍しい。耳を澄ますと、体育館の方からはボールの弾む音が響いてきていた。

「本橋さんは、付き添い?」という先生からの問いかけに、
「のような感じです」とわたしが答える前にふゆが答える。


「そう。もしよかったら部活、入らない? あ、こんなときだけ顧問ぶりたいとか、そういうんじゃないからね? 冬見さん」

「あっはい。思ってないですよ?」

 薄く反応したふゆと藤花先生の目がわたしに向く。

「え……っと、でも、いいんですか?」

 自然とそう訊き返していた。
 いままで考えたことがなかった。ふゆと同じ部活。

「いいんですかっていうか、ねえ、冬見さん?」

「あぁその、活動はほぼしていないから、入っても入らなくても変わらないと思うよ」

「そう、悲しいことに。名簿に名前が載るくらいで。部員数でどーこうはないから、特に勧誘もしてこなかったんだよねー」

「部員が多くても、それはそれでなので、私としてはやりやすいですけど」

「そうよねぇ。冬見さんが入ってくれて、部長してくれて助かってるよ」

 またしてもわたしを見て、ふゆと先生は控えめに笑う。
 誘われているのかそうでないのか、つまるところどっちなのだろう。


「あぁもうこんな時間。二人ともテスト勉強も頑張ってね。特に数学、今回はわたしじゃないから難しいよー。あと、カメラは明日返してくださいね」

 と先生は朗らかな調子で言って、コツコツと靴を鳴らして歩いていく。

 廊下の一本の道のりだけで、いろいろな学年の生徒に話しかけられて、その度に止まって話を聞いている。
 やっぱりみんなに好かれているんだ。わたしも先生が担任でよかったと思っていたから、納得かもしれない。

 ていうか数学、難しいんだ。理系科目は苦手だから、頑張らないといけない。中学での貯金はとうに尽きていた。

「先生って、ちょっと変わってるよね」

 という隣からの呟きに、うんと軽く頷いた。

 今日は曇天ではあるけれど、これ以上暗くなってもいけないし、ということで、部室に荷物を置き、先に屋上へと写真を撮りにいくことにした。
 
 鉄扉の鍵を開けたふゆに続いて、外に出る。
 屋上に来るのは、これで三回目だった。



 カメラの設定をしているふゆを横目に、前に進んで手すりをつかみ、東側の校庭の様子を眺める。
 やっぱり人はいない。中庭にも人はいない。少し遠くでは、新幹線が線路を通過していっている。

 不意にパシャリと音が聞こえて振り返ると、わたしにカメラが向いていた。

「なんだか、似合うね」

「似合うって?」

「花と、空と、桃がかな。でもこれは消さなきゃね」

 ふゆがカメラを操作する。言葉通りにわたしが映った写真を消しているみたいだった。
 ファインダー越しのわたしは、お花と曇り空が似合うらしい。前にふゆが「晴れより曇り空の方が好き」と言っていたことを思い出す。

 好きな空模様に似合うと言われて喜ぶのは、さすがに論理が飛躍しているだろうか。

「さてと、ちゃっちゃと撮っていこう」

 場所を移動しながら、お花を写真に収めていくふゆの背を追いかける。
 ここにあるお花はすべてふゆが育てたもので、お気に入りのお花たちなのだと思う。


 ひとつひとつを撮りながら名前を言って、わたしに教えてくれる。
 その声音が、表情が、撮っている姿がとても楽しそうで、思わず「ふふ」と声が漏れる。

「もっと詳しく聞いてみたいって言ったら、ふゆ、教えてくれる?」

 前にここに来たときに、ひとつのお花のことは聞いた。
 でも、そのほかのお花についてはまだだった。

「まあ、うん。でも、そんなに気になる?」

「気になる」

「どうして?」

 どうしてって。

「わたしもお花が好きだから。それに、ふゆが育てたものなら、なおさら気になる」

 そう言うと、ふゆははっとしたような表情になって、カメラを持っていない方の手で眉間に触れる。

「この間の自然公園も楽しかったよ。紅葉が綺麗で、咲いているお花たちも色鮮やかで……」

「そっか。桃は、そうだったね」

「うん……うん?」

 桃はの"は"という部分が気になって視線で問いかけると、ふゆはカメラを下ろして苦笑する。
 まとっていたやさしげな雰囲気に、少しだけ影が落ちた。


「たいしたことじゃないんだけどね」

 記憶の中から言葉を見つけるように、一拍置いて、

「けっこう前……もう何年も前に友達にね、『花なんて、見ても貰ってもなにも嬉しくないでしょ』って言われたことがあって。
 そのとき、ああ、たしかにそうだよねって、思った。
 贈り物をされるなら形に残るものの方がいいって人もいるし、形に残らないものなら、まだ食べ物とかの方がもらって嬉しいかもしれない。
 枯らしたら相手になんとなく申し訳ないし、枯らさなくともすぐに捨てることになる」

「うん」

「だから、あんまり話すことに慣れていないっていうか。
 もし花のこと嫌いな人だったらどうしようとか考えて、自分からは話してこなかったから」

 理由を訊かれても困るし、とふゆは笑う。

 なにについての理由だろう、と考えているうちに、ふゆは次の言葉を並べていく。

「でも、話さないだけでさ、どう思っているかなんて、ほんとはどうでもいいの。嫌いなら嫌いで、興味ないなら興味ないで。食べ物の好みとかと同じでさ、良いとか悪いとかってないでしょ? 
 けど、なんていうかね。つまりさ」

 つまり、と今までの言葉とうまく繋げるようにもう一度言って、話の終着点を探すような間が空く。
 ふゆがこうやって、長く話をしてくれるのは珍しいことかもしれない。

 やがて、なにかいい言葉がひらめいたみたいに、ふゆはひとつ頷いて顔を上げた。

「桃が花を好きなの、勝手だけど私はうれしいなって」



 予想外の言葉にわたしが黙ると、この場所にしんと沈黙が流れた。目を合わせようとしたら、ふゆの顔がふいっと横に逃げる。

 風は吹いていなかったけれど、その動きでふゆの髪が揺れる。耳元のベージュカラーの髪が、曇り空からのわずかな明かりで、つやつや光っていた。

 意味を考えながら、足を動かして横顔を追いかける。照れたみたいに目の下を赤くしたふゆを見て、どきりと心臓が一度大きく跳ねた。
 話しすぎた、とその表情が告げてきていた。

「わたしでよければ、いつでも話してくれていいよ」

「……そ。まぁ、そもそも桃以外には……」

「……わたし以外には?」

「話せる友達がいないから、桃が聞いてくれるなら、それも、うん」

 うれしいよ、とふゆは足元に咲くお花を見てはにかむ。

 途切れ途切れだった言い始めにしてはさらりと言った、その最後の言葉が、頭の中で鳴り響く。

 ふうん、そうなんだ。
 わたし以外の友達には、話さないんだ。


「やっぱり、すごく素敵だと思う」

 思ったことを考えないまま言うと、ふゆは「ん?」と普段通りの表情で、首を傾げた。

 ふゆが、と言いかける。でも、
 お花を育てることが、と喉から出かかる前に言い直す。

 その方が、ふゆを困らせないかなと思ったから。
 いまはなんとなく、困らせたくなかった。

「そっか。なら、そうだ。桃も育ててみる?」

 ふゆは歩き出して、塔屋のすぐそばにあるプランターの前にしゃがみ込む。
 そのお花の名前──クリスマスローズは、この前教えてもらったから、ちゃんと覚えていた。

「お花を育てたの、小学生以来だよ。大丈夫かな?」

「まぁ大丈夫。そんときは、なに育てたの?」

「ひまわりとあさがお」


「学校でみんなに配られるやつ?」

「そうそう」

「そっか。ちゃんと育てられた?」

「うん。たしか、種まで」

 わたしもふゆの隣にしゃがむ。距離は十五センチ。
 肩が触れそうなくらいまで近いのに、もっと近付いてみたくなる。

「なんか前まで来ちゃったけど、種類はこれでいい?」

「ふゆの一番のお気に入りでしょ?」

「まあ、そうだね」

 このお花にひときわ強く向ける、やさしい表情。
 わたしも育てたら、ふゆはもっと喜んでくれるかな。

「だったら、これがいい」

 視線を合わせてから、まっすぐ前に手を伸ばし、プランターの縁にかけていたふゆの手にそっと重ねる。

 ふゆの好きなお花をわけてもらって、育てる。
 それは、なんだかとても素敵なことのように思えた。

本日の投下は以上です。

訂正
252
「お花を育てたの、小学生以来だよ。大丈夫かな?」

「お花を育てるの、小学生以来だよ。大丈夫かな?」

おつ

おつです

乙。女子校だったのか。





 それから園芸部の部室に戻り、下校時間ギリギリまで勉強して家に帰ると、お母さんがリビングのコタツで溶けていた。
 お父さんはまだ帰ってきていなくて、お母さんに訊いてみたら、今日は泊まり込みだという。

 ひなみはお母さんの隣でノートを広げていて、集中するためなのかイヤホンを耳にかけている。

 近寄って手を振ると、「姉さんおかえりー」とすごく小声で言われた。音楽を聴いていると、声の音量調節が難しいらしい。

 真面目に勉強しているひなみを見ていると、自分の不真面目さというか、意識の低さを突きつけられるような思いになる。
 中学生の頃は、学校自体がそういう校風だったというのもあるけど、勉強しないと周りに置いていかれると思って、もっと計画的に勉強をしていた気がする。

 今は焦りが足りていないのかな、やる気が眠気に負ける。前だってテスト期間でも寝ていたわけだけど。

 部屋に行き制服から着替え、ベッドに倒れ込む。
 そして今日あったことを思い出す。すぐに眠気がやってきて、それをスマホを開くことで阻止する。そしてスマホを操作しているうちに時間が過ぎる。悪循環。

 しばらく寝転がってからリビングに戻ると、お出汁のいい香りが鼻をくすぐった。


「今日はおでんだよ」とお母さんがキッチンから声をかけてきた。

「わー、美味しそうだね」

「……あれれ? 流行ってるんじゃなかったの?」

 お母さんは不思議そうな顔でちらっとひなみを見る。
 その見られたひなみは、「わーい」とキッチンに向かって、漬物の乗った小皿をテーブルへと運んでくる。

「この季節はやっぱりおでんだよねー。はい、姉さんの」

「ありがと。わたしも運ぶよ」

「あーいいよ。姉さんは座ってて座ってて」

 ひなみに言われるままに、椅子に座る。
 座ってから、いいのかなぁと思う。いろいろと。

 テレビのバラエティ番組からする音に耳を傾ける。
 するとまた眠くなってくる。ゆらゆらーと首が揺れる。

「どうしたの、ぼーっとして」

 席についたお母さんが、箸を片手に首を傾げる。
 その視線の先はわたし。……あ、わたしのことか。

「ぼーっとしてたかな?」

「してたよ。白目剥いてたよ」


「えー?」

「いや白目は嘘よ。で、どしたの?」

 ちょっと信じてしまった。
 どうしたもこうしたも。眠気に理由はあるのかな。

「ママ、ちがうよ。姉さんがぼーっとしてるのはいつものことだよ」

「あらそうだった。桃はパパと同じぼんやり族だった」

 対面の二人がうふふと楽しそうに笑い合う。
 たしかに、うちの家族を二つに分けるとしたら、わたしとお父さん、ひなみとお母さんになると思う。

「そうねー。なにか外で買い食いしてきた?」

「んーん、食べてきてないよ」

「そう……いつでも腹ぺこの桃ちゃんはどこに行ってしまったの」

「……どこに行ったのかな?」

 わたしがいつでも腹ぺこだったときって何年前の話なのかな。
 今よりも活発に動いていたとき、とすると、三年前くらい。そんなに昔の話ではなかった。

 食べる量が減ってもなかなか終わらない成長期。
 遺伝にしては、もうお母さんの身長を軽く越してしまっている。


「うーん、寝不足?」

「ではないと思う」

「じゃあ、テストが嫌で現実逃避?」

 お母さんがテレビを見ながら、質問を重ねてくる。
 なんだか取り調べを受けているみたいだ。

 テストが嫌……そう言われるとそういうふうに思えてしまうけど、口を軽く引き締めて首を横に振る。

「ちゃんと勉強してるの?」

「まぁ、ぼちぼち」

「そう。ま、したくないならしないでも、お母さんはいいと思うけど」

「勉強は、そこまで嫌いじゃないから大丈夫」

「そう? なら、うぅーん……それならもうなにも思いつかないなぁ」

 会話が途切れたタイミングで、ずっとテレビの方を見ていたひなみの顔がこちらを向く。

「…………」

 その表情で、いろいろと察する。
 どうやらわたしはいま心配されているらしい。


「そんな、心配しなくてもいいよ。たしかにぼーっとしてたけど、理由は本当になにもないから」

 浮かぶことはそれなりにあったものの、特にこれと決められるような心当たりはなかった。

「なら、いいの。昔から嫌なことがあっても、内側に溜め込んでなかなか言わないじゃない? だから、たまに訊いておかないといけないわねー、っていうのが今」

「ありがとう。でも、ほんと、なにもないよ」

 そもそも、わたしはなにか溜め込んでいるのだろうか。

 その心当たりもない。なんとなくのもやもや、じわぁーっとなる気持ちならあるけど。
 それは、ここ最近になって頻度が多くなってきたように思える。けれど、それにしても、特に溜め込んでいるという自覚はない。

 でも、お母さんが言うなら一理あるのかもしれない。
 必ずしも自分のことを自分が一番よく知っているわけではないと思う。

 人に言われて気付くことだってある。わたしは、そういう言葉に振り回されたり、影響されやすいから、鵜呑みにしすぎるのはいけないことだと思うけど。

「ママ、ひとつ忘れてるよ」

「なあに?」


「姉さんがぼーっとしてる理由。それは、好きな人ができた、とか!」

 ひなみが箸で大根をつかみながら、難問の答えを導き出したときみたいにキラッと目を光らせる。お母さんは目を細めてくすくすと笑う。

「あらあら、それはそれは。……で、ひなみは? 最近どうなの?」

「え、どうしてこっちに飛ぶの? なんもないです」

「なんもないってことはないでしょう? ほら、なんでもいいから話してみんしゃい」

「なんもないです。とりあえずお勉強頑張ってますー」
 
「そりゃいい子いい子。で、ひなちゃんは学校でなんかあった?」

 ごまかしのような言葉をするっと聞き流すお母さんに、ひなみはむうと唇をとがらせる。
 そんな様子をすぐ隣で見たお母さんは、にやーっと頬を緩めて、ひなみの髪を撫で回した。

 わたしと二人でいると少し背伸びしている感じがするけど、お母さんお父さんの前では等身大の中学二年生なんだなぁ、と感心なのかよくわからない感想を抱く。



「ひなちゃんかわいい」

「姉さんはひなちゃんやめて」

 今の流れではバレないと思ったのに、顔が一瞬でツンっとしたものに戻った。
 わたしはだめなのか。いったいなぜ……。

 ひなみの学校トークを聞いたあと、お母さんはコタツに入ってすぐにすやすやと寝息を立てて眠り始めた。

「お母さんとてもお疲れみたいだ」

「だね。心配」

「心配するなっていつも言われるけど、心配だよね」

「うんうん。それだし、姉さんのことも心配してるからね」

「そっか」

「成績とか」

「あ……うん。これからちゃんと勉強しますとも」

 そんなに成績悪いってわけでもないけどなぁ。


 それから二人で洗い物をして、わたしは自室に戻った。
 すぐにベッドに倒れ込みたい気持ちはあったけれど、我慢して学習机に向き合う。

 提出課題用のノートを開いて、数問解き進めているうちに段々と集中してきた。

 暗記科目はギリギリに詰めていけばいいから、まずは数学二つを重点的にかな。

 一時間くらい経って、ふとつーちゃんの言っていたことを思い出す。頭に浮かんでくる空想の波によって、一瞬思考が数式とは別のものへと移り変わる。

「クリスマスは、ふゆとデートできたらいいなー……」

 となんとなく声に出したけれど、一ヶ月も先のことで、ちょっと気が早い……早すぎるかもしれない。
 空想が広がっていくうちに、目の前の視界がぼやけてきて、また眠くなってくる。授業中はそうでもないのに、どうしてだろう。

 追試にかかりたくはないし、補習にかかってしまうとさらに面倒らしいし、やれることはやっておこう、と気を取り直して再びペンを握った。





 コンコン、とわたしの部屋のドアをノックする音によって、すうっと意識が浮上する。

 スマホの画面に映っている時刻は午前九時。遅刻だ。
 え、どうしよう、と目の動きだけであわあわする。
 いやでもアラームが鳴っていないから、今日は平日ではないはず……あ、やっぱり、土曜日って表示されてる。

 ひとりで一喜一憂していると、ドアの向こうからお母さんの声がする。

「起きなさーい。下につかさちゃん来てるから」

 その言葉で眠気が一気に飛ぶ。
 ついでに体もベッドから飛び出した。

「つーちゃん? ちょっと待って待って」

「待たない。早くしなさい」

「あ、うん。十分だけ、いや十五分待ってって」

「はーい、伝えとく。十分ね」

「えっ、十五分って……」

 ドアの向こうからの返答はなく、代わりに廊下を歩く足音が聞こえる。ええ……。


 急いで着替えて顔を洗って歯を磨いて髪を整えて下の階に降りる。
 洗面所に置いていたはずのヘアピンが見つからなくて、その場にあった洗濯バサミで代用しようとしたけど、さすがにと思って部屋に戻ったから時間を少しロスした。

「ももちゃんやほー」

 なにか用事でもあったかなとリビングを眺めると、つーちゃんはひなみとコタツに入ってスマブラをしていた。
 コタツの上に目を移すと、学校の英単語帳が置かれている。わたしのではないから、多分つーちゃんのだ。

「おはよ。お待たせしました」

「うん。まぁ、ももちゃんママにどうせだからあがってって、って言われたから、待っていたわけだけども」

「あ、うん。そうなんだ?」

 リビングにお母さんの姿はなく、寝室にでも行ったのかなと思ったところで、廊下から歩いてくるのが見える。
 ちゃんとお化粧していてスーツ姿だった。今日はお昼から出勤のようだ。

「そうそー。柚子がいっぱい届いて……えいっ、うちのお母さんがももちゃんちに持ってけって、えいやっ」

 コントローラーを操作しながら、片手で器用に指差した場所には、ダンボール箱が一つあった。
 近寄って中を開けてみると、本当に柚子がびっしり入っていた。美味しそう。


「つかささん、なかなかやりますねー。ソフト持ってるんですか?」

「最近スイッチ買ってねー」

「そうなんですねー。ジュース賭けましょう」

「いいよー。次ももちゃんも混ざる?」

 誘われて、なぜか「たまにはやってみよう」とお母さんが入ってきて、四人で三回対戦した。
 順位については割愛する。ひなみが強かったとだけ。

 つーちゃんは午後からアルバイトがあるみたいで、成り行きに午前中はうちで勉強していくらしい。
 ひなみは近所の友達の家に出かける、と足早に家を出ていった。
 わたしも部屋に一度戻って、勉強道具を持ってくる。ここ数日はほんとに特定の教科しかやっていなかったので、気晴らしに別の教科に目を向けてみることにした。

 立ったついでにお母さんに頼まれて三人分の飲み物を準備する。
 キッチンでケトルのお湯が沸くのを待っている間に、ひそひそとした会話が耳に届いてきた。

「つかさちゃん。あの子、授業ちゃんと受けてる? ぐーぐー寝てたりしない?」

「いや、寝てるとこなんて見たことないですよー?」


「あ、やっぱり。わりと内弁慶な性格してるから、そうじゃないかとは思ってたのよねぇ。だから家ではおねむなのかしら」

「そうなんですかね? でもあの、安心してください。ももちゃんは体育以外だいたい寝てるわたしよりは全然真面目なので」

「あら、それはつかさちゃんママに報告しないと」

「やーめてー、くーださーい」

 わたしが近付くと、ぱっと会話が止んだ。
 ばっちり聞こえていた。……でも、悪口ではないし、聞こえていないふりをしておいた。

 時計の長針短針がてっぺんで重なるくらいまで、時折話したりしながら、まぁまぁ集中した時間を過ごした。
 普段のわたしならこの時間くらいまで寝ていただろうから、ちょっと得したような気分になる。

 コタツにだらんと身を完全にあずけていたお母さんは、たまに「わかんなかったら教えてあげる」と言ってきたけれど、
 ためしに聞いてみると「そうね。これは……自分で考えなさい」と梯子を外してきた。……ええ、まぁ。その通りだ。


 つーちゃんはというと、うぐぐぐと眉間を寄せて唸りながら、栞奈ちゃんが作ってくれたというテスト対策の問題を解いていた。
 なにそれわたしもほしい、と思いつつ、つーちゃんは今も昔も頑張り屋さんなんだなぁと、うれしくなった。

 ペンを置いて柚子をいただいていると、立ち上がったお母さんが、

「じゃ、アフタヌーン出勤しまーす」

 と言って、財布からお札をぴらっと出して渡してきた。

「これで二人でランチでも行ってきなさい」

「え! いいんですか?」

「いいのよー、息抜きと、柚子のお礼だと思ってー」

「まじですかー。ありがとうございます。うちのお母さんにも言っときます」

「うん。では、いい午後をー」

 手をぶんぶんと速く振って、良い笑顔で部屋から出ていく。仕事のこと、そんなに好きなのかな。
 ワーカーホリックという言葉が頭に浮かんだ。





 コートを着て、家を出る。わたしたちの家周辺は高台に一軒家が並ぶ住宅街になっていて、お店はほとんどない。
 なので歩いてバスに乗って、つーちゃんがアルバイトをしているお店の近くの駅まで向かう。

 そういえばわたしたちはそこそこ家が近いのに、わたしは地下鉄通学で、つーちゃんはバス通学だった。
 定期だとどっちが安いんだろう、とか、栞奈ちゃんもバス通学だったかな、とかそういうことを考えながらバスに揺られる。

 天気は二日連続の晴れ。風は弱め。
 バスの中は暖房でだいぶ暑くなっていた。

「なに食べようね」

 駅に着いて、つーちゃんに訊いてみる。
 土曜日のお昼時だけあって、ぐるっとその場でまわって目に入るお店には並びの列が出来ている。

「ビッグマック食べたい」

 もらったお金から考えると、もう少しお高めなところにも行けるように思えたけれど、つーちゃんはアルバイトの前にがっつり食べたい気分なのかな。

 同意の意味で頷いて、お店に入る。セットを二つとナゲットの注文を済ませると、結構いいお値段だった。残ったお金は、あとでお母さんに返そう。


 二階の四人席に向かい合って腰掛ける。高校生っぽい男女の団体が近くの席で大きな声で話している。それを見て、つーちゃんがちょっと嫌な顔をしていたので、窓際のカウンター席に移動した。

「アルバイト、何時までなの?」

 とトレーの上のポテトをつまむ。塩が偏っていて舌がびりびりとしびれる。

「今日は七時まで。明日もある」

「わー大変」

「まぁ楽しいから。お金も稼げるしー」

「そっか。んー、わたしもバイトしてみようかなー」

「えー……えー、反対。ももちゃんぜったい変な客に絡まれるよ」

「つーちゃん絡まれるの?」

「連絡先渡されたことなら何度か。受け取れませんよーって言ってもしつこく渡してくる人いるよ。怖いよ」

 怖いよ怖いよー、とつーちゃんは脅かすような低い声で五本の指を動かす。
 連絡先、と考えを巡らせる。うーん……。


「ふゆももらったことあるのかな?」

「そりゃあ、わたしはカフェだから多いのかもだけど、ふゆゆだってお花屋さんでしょ? 接客業なら当然あるんじゃない?」

「……うん、たしかに。そうだよねー」

「……あぁ、そっか。彼女としては心配?」

 つーちゃんが首を傾げて、問いかけてくる。
 漠然ともやっとする気持ちがあって、溜め息が出てしまいそうになるのを、口を結んで堪える。

 それから遅れて、彼女というワードに、たしかにどっちも彼女になるのかなと、そういうことが一瞬だけ頭の中を掠めた。

「心配というか、えっと、渡されたときのふゆはどんな感じなんだろうなって」

「いや、まー愛想笑いしかないっしょ。マジであの手の輩はメンタル鬼強いから、会計終わっても勝手に自分の話ずっとしてくるよ。ほんとに怖いよ、ももちゃん」

「……わ、わかったわかった。わたし、バイトはしないから。そもそもする気ないけど、しないから」

 ずいっと前のめりになった、つーちゃんの大きな目に気圧された。


「それがいいと思う。ていうか、まず、ももちゃんはバイトする必要ないじゃん」

「うーん……でも、それを言ったらつーちゃんだって」

「いやぁー、わたしは趣味多いから出費多いし、お小遣いあんまり多くないから。旅行とかも行きたいしー」

 ゲーム、漫画、おしゃれ、ディズニー、アイドルのライブ──と、つーちゃんは指を一本また一本と倒していく。

 その姿を眺めて、わたしって無趣味なんだなと思った。

 服や靴といった身の回りのものは買ってもらえるから、お小遣いの使い道は食べものくらいしかない。
 だけど、それについても今はそこまで食べなくなったし、前もって外で食べてくると伝えておけば、今日みたいにお母さんとお父さんはお金を握らせてくれる。

 休みの日にはお父さんに釣りとかキャンプに連れていってくれて、それも楽しいけど、趣味かというと……あれは同行してるだけなように思える。

 あ、でも……と、自然に思い至る。
 ふゆからもらうお花を育てているうちに、ガーデニングが趣味になるかもしれない。

「なに急にニコニコして」


「え? ニコニコしてる?」

「してるしてる」

 自分の顔を摘むと、ほんとに頬が上がっていた。
 下に引っ張るとすぐに戻った。が、隣から笑われる。

「ま、それはいーとして……ちょっと待ってて」

 つーちゃんはコーラをずずっとストローで飲み干し、席を立つ。ポーチを持っているから、お手洗いかな。

 待っている間にガーデニングについて調べてみようと、コートのポケットからスマホを取り……家に忘れてきた。
 ポテトのかけらを口に放り込んで、窓の外を眺める。カメみたいな雲がカメのように空を流れていく。
 反射している背面から、二つの影が近付いてくるのが見える。

 振り返ると、さっきの高校生集団のうちの男女二人組だった。
 なんか明らかにわたしを見ている。わたしはこのお店の店員さんではないし、連絡先渡されたりしないよね。

「桃ちゃん? 久しぶりー」

 女の子の方がにっこり微笑みながら話しかけてくる。男の人の方はスマホをいじりながら、ちらちらとわたしの顔を見たり見なかったりしている。
 名前を知られている。どうやら人違いではないらしい。

 ていうか、店員さんでなくても連絡先は渡される。


「えっと、久しぶり」

 言いながら、目の前の二人が誰であったかを考える。

 悩むまではいかず、すぐに思い出す。中学校が同じだった人たちだ。
 女の子の方は、たしか三年間ちがうクラスだったけど、一回か二回くらいは話したことがあったと思う。

「元気してた?」

「うん。この通り元気ですよ」

 苗字も下の名前も思い出せなくて、なぜか感じた申し訳なさからか敬語になってしまう。

「さっきのって、つかさちゃんだよね?」

「そうです……だけど……、どうして?」

「ん、一緒の学校なの? っていうか、そうだったね」

「うん、よくご存知で。いま同じ学校だよ」

 知っているのにわざわざ訊いてきたってことは、なにか意味があるのかな。
 という深読み。ただの世間話かもしれないけど、普通、他のクラスの人の進路状況まで知っているのかな。


 男の人の方が初めて口を開く。

「元気なの?」

「そりゃ元気でしょ」と女の子が答える。

「だってほら、噂がさぁ……」

「あーね。でも逆に元気になりそうじゃん?」

「あーあー、なるほど。まぁたしかに?」

「あんたさっきからキョドっててキモいよ」

「うるせーよ。そら緊張するだろうがよ」

 目の前で二人が暗号のような会話を始めて、置いてけぼりにされる。
 いや、最初から意図がわからないのは変わっていない。宇宙に来てしまったような感覚。午前中に見たthatが五個並んでいる英文を想起する。

「噂って、なんのこと? わたしは聞いたことないけど」

 聞き流し続けてもよかったけれど、話しながらちらちらとわたしを窺う二人の様子に、わたしの中のセンサーが反応して、勝手に口が動いていた。

「いや、も……本橋さん。知らないってことは」

「ないでしょ」

 と連携プレーを見せてくれた二人の目が、わたしを探るように向く。


 なんか、なんていうか……なにをしているんだろう。

「んー、でも、わたしは知らないよ」

 言いたいことがあるなら、はっきり言うべきだと思う。
 迂遠な会話は嫌ではないけど、それが今の状況に適しているかというと、適してはいないから。

 なおも怪訝げな顔がこちらを向いている。……それで終わり、ではいけないのかな。

「ほんとに知らないよ」

 念を押すように言って、つーちゃんの荷物と、二人分のトレーを持って立ち上がる。
 ばいばい、と手首を上向ける。つーちゃんのリュックがとても重くて、なにが入っているのか気になった。

 ちょうど良いタイミングで、つーちゃんがお手洗いから出てくるのを見つけて走り寄る。

「あ、ももちゃん片付けてくれたんだ。あざまー」

「うん。どいたまー?」

 そうしてお店の外に出る。
 カメのかたちの雲は東の方角にまだ見えた。

本日の投下は以上です。

おつ





「ももちゃんこれからどうすんの? 帰る?」

 お店から出てすぐに、つーちゃんはリュックの肩紐をつかみながら、わたしの顔を覗き込んできた。
 さっきの二人について訊いてみようかと思ったけれど、わたしとしても忘れた方がいいと思ってやめた。そもそも、つーちゃんは感知していないのだ。

 駅前の大きな時計台の示す時刻は午後一時半。帰って勉強だと思うと、もう少しだけ外にいたいかもしれない。

「どうしよ。なにも考えてなかった」

「勉強道具は? って、訊かんくても手ぶらじゃん」

「そう。なにも持ってない」

「カラオケでも行きたい気分だけど、あいにくわたしもう時間あんまないんだよね」

 二時からなんだよねー、と指をくるくる回す。
 家での出勤前のお母さんと同じように、楽しげな表情になっている。
 つーちゃんも労働が好きなんだろうか。

 なんとなく疑問に思ったけど、アルバイトって何分前くらいにお店にいかなければならないんだろう。
 なにかしらの準備や着替えとかもあるはずだし、十五分前くらいかな?


 だとすると、つーちゃんのお店の場所は知らないけど、ここで油を売る時間もそこまでないんじゃないかと思う。

「特に見たいお店もないし、帰ろうかな」

「そっかー。ならまた、月曜に学校で」

「うん」

「ももちゃんママにお礼言っといてね」

「わかった。わたしの方も、言っておいて」

「おっけー」

 つーちゃんが腕を空にぴんと伸ばして、駅とは反対方向に歩いていく。

 さて、家に帰ってなにをしよう。古典かな。
 とぼんやり考えながら、わたしも歩き出す。

 不意に背中に大きな声がかかって、それがつーちゃんの声だと思って振り返る。

「会いにいったら?」

「え?」

「わたしのバイト先から近いし、ここからも近いよ」

 ちょっとなに言ってるかわからないと思ったけれど、すぐにふゆのことだと考えが及ぶ。


「でもふゆ、今日バイトなのかな?」

「知らないの?」

「知らない」

 はっきり答えると、つーちゃんは口をぽかんと開けた。
 そしてそのままなにかを言おうという感じに、細くした目を横に流した。

「でも、前に土日はたいていバイトって言ってたよ。会えるよ、多分」

「でもいいのかな? ……あ、いいって言ってた」

「のか。ていうかそもそも行ったことない感じ?」

「うん。迷惑かなって、思ってて」

 いつでもいいよ、とたしか言われたけど。

「や、ふゆゆって迷惑とか言わないでしょ」

「まぁ、うん」

 そうなんだけどね、と心の中でつぶやく。

 そうなんだけど、なんとなく、ふゆが相手だと思考の中に抵抗……ハードルのようなものが付いてまわってくる。
 それは、出会ったころからのことで、ふゆの性格をちょっとずつ知るようになってからも、変わっていない。
 今までの友達が相手ならこんなことはないのに。なかったのに。


 行動を起こすためには、頭を叩かれたときのような衝撃か、緩い水の流れのようなものが必要だけど、今の状況ではそれがない。

 つーちゃんはわたしの表情をじっと眺めてきていた。
 それにようやく気付いて、取り繕うように笑う。

「行ってみようよ。ていうか、行こう!」

 すると、つーちゃんは明るい調子でそう言って、わたしの後ろにまわり、背中を両手でドンと押してきた。
 その衝撃で、足が一歩前に出る。

「せっかくだから、ね?」

「えっと……」

「もー。行かないならわたし一人で行くよ。ふゆゆと両手でハート作ってツーショット撮っちゃうよ。めっちゃ顔面盛ってインスタのストーリーにあげちゃうよ?」

「わたし、インスタやってないよ」

「いや知ってるけど。そういうことじゃなくてだね……」

「……ほんとにするの?」

「いや、しないよ。でも、もしかしたら、天文学的な確率でするかもしれない」

 つまりしないってことでは。
 それに、べつにつーちゃんなら……。

 ……なら?


「わかった、うん。行こう」

「じゃあほら、早く行こ」

 つーちゃんはわざとらしく肩をすくめてきて、わたしはなんだか申し訳ない気持ちになった。

 駆け足で先を行くつーちゃんに追いついて、多くの人が行き交う駅近くの道を、並んで進む。

 カメのような雲はこの数分で見えなくなっていた。
 あの雲はもうゴールしてしまったのかもしれない。
 どこに? それはわからないけれど、多分上の方に。

 信号を渡って、短いトンネルを抜け、駅の西側に出る。
 そしてまた信号を渡って大きい通りに出ると、灰色のコンクリートの上にある、お花の絵が描かれた黒い看板が目に入ってくる。

「じゃ、わたしもう時間だから」

 といつの間にかわたしの数歩後ろにいたつーちゃんが、ニコっと……いや、にやにやっと笑いながら敬礼のポーズで走り去る。

「えっ一緒に行くんじゃないの……」

 とぼやいたけれど、多分つーちゃんには届かなかった。

 綺麗に皺無くラッピングされた二本の黄色いバラを持った女の子が、立ち止まっているわたしを追い抜かしていく。
 場所はここで間違いないらしい。聞いてはいたけど、駅からほんとに近かった。


 少し迷って、でもまぁここまで来たからには、と覚悟を決める。
 いったん自分の中で納得してしまえば、続けることにある程度は抵抗が薄れてくる。
 ただの思いつきだけど、わたしはそういう性格だった。

 軽く髪を梳いて身だしなみを整える。
 ふゆに会うならもっとちゃんとした装いをして来ればよかった。でもそれは後の祭り。

 お店の方に向き直ると、黒いエプロンを着けている女の人が店先で屈んだ姿勢でいた。
 ぱっぱっとエプロンをはらう仕草をして、立ち上がったその女の人と目が合う。

 長い黒髪を、白色の大きなシュシュでサイドに結んだ、小柄な店員さんだった。

 わたしを見上げたその店員さんに、一瞬だけぎょっとしたような顔をされて、わたしもびっくりする。
 けれど瞬きの間に、その表情は少女的で柔らかなものに切り替わっていた。

「あら、こんにちは。あいていますよ」

 と会釈される。さっきのはなにか、見間違いだったのかな。
 わたしも倣ってお辞儀をする。

「どうぞ、お店の中に。ここ、少し段差になっていますので、お気をつけて」

 と流れるようにお店の中に導かれる。


 一呼吸おいて、開け放されているドアの内側に足を踏み入れる。
 多種多様なお花に気を取られながら、挙動不審にならないようにゆっくりと百八十度見回したけれど、お店の中にふゆの姿は見当たらない。

「ごゆっくりご覧になってください。お探しのお花などがございましたら、どうぞお呼びください」

「あ、はい。その……」

「はい、どうされましたか」

 わたしが答えるよりも先に、「あっ」となにかに気が付いたように口元に手をやって、くすっと微笑まれる。

「待っていてくださいね。いま呼んできますから」

 え、察してくれたのかな……?
 頷くと、わたしの横を屈みがちに通ってカウンターの奥へと歩いていく。

 その拍子に胸のあたりのネームプレートに、店長と書かれているのが見えた。

 店長さんだったんだ。
 ふゆが楽しそうにラインしていた人だ。

 お店の中にわたし以外のお客さんはいなかった。
 改めて見てみると、すごく雰囲気のあるお店だ。


 ちょっと待っていると、カウンターの奥の扉の向こうからエプロン姿のふゆがやってくる。

「えっと、いらっしゃい、ま、せ?」

 ちらちらと隣の店長さんを窺いながら、ふゆが挨拶をしてくる。わたしの顔を見て、肩が僅かに跳ねる。
 様子からして驚いているみたいだけど、それもそうだよね。驚くよね。うん。

「近くまで来たから、寄ってみたんだ」

「あ、うん。でも、来るなら連絡してくれればよかったのに」

「スマホ家に置いてきてたから……」

「スマホを? なら、仕方ないか」

 いつものように、ふゆが小さく笑う。
 よかった。来てよかったんだ。

 そう安心すると、意識せずとも、目が下に移っていく。

「やっぱりかわいいね」

「ありがとう。このエプロン、かわいいよね」


「そうだけど、着ているふゆもかわいい」

「そっか、ありがとう。……って、ちょっと、瑠奏さん、なんで笑ってるんですか」

 急に恥ずかしそうに身をよじるふゆの視線を追う。
 その先の店長さんは、わたしたちを見て、目尻と頬を緩めていた。

「いえ、お仲がとてもよろしいようで」

「はぁ、そうですか」

「お二人を見て、わたしも自分の若かりしき頃を思い出しました。十代のオーラにあてられて、消えてなくなりそうですね……」

 店長さんは、よよとわざとらしく泣き真似をする。

「瑠奏さんだって全然若いじゃないですか」

「でも、高校卒業したのもう十年前ですよ?」

「ピチピチの二十代じゃないですか」

「いいえ、もうこんなにヨボヨボです。それに、ぜんぜん! ぜんぜん……ぜんぜんって! 霞さんヒドいです!」

「……いや、思ってないですよね」

「あ、はい。思ってないです。思ってないですよ?」

「ですよねー」

「と、ここでの霞さんはこういう感じなんです」と店長さんはわたしを見てにこっと微笑む。


 それを聞いて、はっと気付いたようにふゆが目を伏せる。
 ふゆと店長さんは仲が良さそうだった。というか、仲が良いのだと思う。とても。
 つーちゃんと栞奈ちゃんみたいな。わたしでは、ちょっと難しいことかな。

 こういうふうに誰かと軽口のようなものの交わし合いをしているふゆを見るのはあまり見なくて、だから新鮮に映った。

「つかぬことをお訊ねしますが、今日は霞さんが呼んだわけではないんですか?」

 そのままわたしに訊いてきているみたいだった。
 ふゆはなんとなく居心地悪そうにしている。若干迷いながら、口を開いて言葉を紡ぐ。

「そうです。わたしが勝手に……」

「あ、いえいえ、そういうわけではないんです。お友達を連れてきてくださいと、以前お願いしたんですよ。
 でも、そうですね……わたしは退散しますので、ごゆっくりどうぞ」

 店長さんはエプロンのポケットから手袋を取り出して、わたしたちに背を向けた。
 けれど、その一歩目で足がぴたっと止まって、きらきらとした表情でわたしに首を傾げた。

「大事なことを忘れていました。お名前を伺ってもいいですか?」


「桃です。この子の名前は」とわたしの前に手のひらをかざして、間髪入れずにふゆが答える。

 言われてしまったから、わたしもはっきりと首肯する。
 紹介してくれたみたいな様相だと思った。

 そしてそれは、なんとなくうれしかった。

「桃さん、ですか。わかりました。では、ごゆっくり」

 深々と四十五度に頭を下げて、軽い足取りで、今度は本当にお店の外に向かっていった。
 姿が見えなくなると、ふゆはわずかに地面の方を向いていた顔を上げた。その表情には、申し訳なさそうな苦笑いが浮かんでいる。

「なんかごめんね。瑠奏さん、私の学校生活のことすごく心配してくれてるみたいで、たまに訊いてくるんだよね」

「わたし……友達のこと?」

「そうそう。あ、大丈夫。桃のことはそんなに話してないから」

「そっか。そっかー、そんなにって?」

「そんなに。たまに。だって、桃かつかさか栞奈のことしか、言うことないから」

「わたしも妹とか、お母さんに話してるから、同じだね」


「変なこと言ってないよね?」

「いや、わたしたち、変なことしてないじゃん」

「うん、それもそうか」

 会話が一段落して、またふゆのことを眺める。

 厚手の黒のニットに、細い脚の形がくっきり出るジーンズ。
 お店だから仕方ないのかもしれないけど、もうちょっとかわいい服装の方がふゆには似合うと思う。
 でも、これはこれで、似合っている。ふゆはどんなタイプの服でも似合うのだ。

 普段と唯一違うところは髪型で、サイドの染められている部分と右耳の翡翠色のピアスをはっきり隠すように、旋毛からストレートに下ろしていた。

 いつもとそれほど変わらない。変わりなく、でも、会う場所で大きく変わることを知った。
 背中を押してくれたつーちゃんに、心の中で感謝する。

 実は一人でお花屋さんに来るのは初めてだった。
 それが視線などのあれこれで伝わったのか、単にお客さんとして扱われたのか、ふゆが店内を案内してくれる。


「ふゆ、勉強してる?」

 鉢入りのお花を見ながら、手頃な話題を振る。
 コートを着ていても肌寒い店内で、ニットとはいえ上着を着ていないふゆは寒くないのだろうか。冷凍庫に入ったことはないけど、冷凍庫みたいだ。

「まあしてるよ。さっきまでも事務所でしてた」

「休憩時間だったの?」

「ん。さっきちょうど休憩終わりだったの。桃の方は? ちょっと眠そうだけど、もしかして徹夜してるな」

「え、してないしてない」

 素早く手を振って否定する。
 眠そうって。ここ数日で何回も言われている気がする。

「隠さなくてもいいのに。ここに来たのは息抜き?」

「本当だよ。今日はお昼くらいまでつーちゃんと勉強してたんだ。それで、ここの近くでお昼食べて、その流れで」

「へー。つかさと? 頑張ってるんだね」

「うん。つーちゃん、今回は気合入れてるから」

「だね。私もバイト終わったらやらないとなー」

 屋上にいるときみたいに、この前のデートのときみたいに、ふゆは明るい調子だった。
 この前に屋上で言われたことを思い出す。今日は二回もそのことについて考えていた。


 生花、観葉植物と場所が移り変わる。ふゆが左手を出したときに、小指と薬指の間にしている無地の絆創膏が、色白の肌とのコントラストで目立っていた。

 白くて触ったら冷たそうな陶器に、雪のように白い花が五輪挿されている。アネモネは赤やピンクのイメージが強かったけど、これはなんだか今の季節にマッチしていて、他のものよりも早く目を引いた。
 その隣には、化学講義室で見るような、目盛りの付いたフラスコにお花が生けられていた。「へえー」と声に出すと、ふゆが「結構売れるんだよ」と教えてくれた。

 おにぎり一個分ほどの大きさのサボテンが淡い色の木目の木箱の中に並んでいて、二百円の値札がテーブルに付いている。意外と安いんだ、と思った。

 観葉植物コーナーの右脇には、上階への階段があった。
 上にもなにかスペースがあるのかな? と前まで行く。

「二階は教室。瑠奏さんが、フラワーアレンジメントとか、ハーバリウムとか、生け花とかを教えるところになってる。今日はなにもないから、電気消えてるでしょ?」

「たしかに……そうなんだ。ふゆも教えてるの?」

「いや、私は一階の店番だけだよ。専門的なことは、少しずつ勉強はしてるけどあんまり分からないから」

「え、その勉強もしてるんだ。すごいね」

「実際は免許とかがいるから、出来ないんだけどね。暇つぶしに本とか読んでるだけ」


 それでもすごいよ、と言おうとしたところで、ふゆが先に言葉を継ぎ足した。

「でも、ありがとう。褒めてくれて」

 褒めようとしたわたしが褒められたみたいで、自然にちょっと笑うと、ふゆもつられたように笑った。

 階段の前から移動すると、今度はわたしたちの腰ほどの高さのテーブルに、いくつもの雑貨が置かれている。

「わ、きれい」

 大きな松ぼっくりや、流木という商品名の流木? 花柄のカップが並んでいるテーブルの一帯に、際立ってきれいなものを見つけた。

「それは、ハーバリウム。さっき上で体験教室やってるって言ったやつ」

「ふうん、ハーバリウム……え、かわいいね。かわいくて、きれい」

「あはは、語彙力小学生か。ま、ハーバリウムってきれいだよね」

 一番大きな角型の瓶に入ったものを見ていたけれど、隣にはボールペン型のものや、変わった形をしたものが何種類もあった。

「買おうかな。体験、って言ってたけど、これって自分で作れるものなの?」

「んーどうだろう。小学生くらいの小さな子でも作ってるから、出来ないことはないと思うけど、この売り物くらいのレベルにするのは難しいんじゃないかな」


「なら買うことにする。ふゆって好きな色は何色?」

「うーん、緑色かな。桃は橙だっけ?」

「え、話したことあった? よく覚えてたね」

「いや、普段桃が身につけてるものに、橙系多いから」

「そっか。そうだった」

 多くの選択肢の中から、話しているうちに、これだというものを見つける。

 底が入り口と比べて少し広がっている瓶の下半分に橙色のお花が、上半分に緑色のお花が線対称に詰められている。
 その二色が混じり合っているような中央では、一本の長い茎に、一枚ずつの橙と緑の花びらが、蝶の羽のようになっていて、手を触れて動かしたわけではないのに、ひらひら舞っているように錯覚した。

「ふゆの好きな緑色と、わたしの好きな橙色。いいと思わない?」

「そう。いいんじゃない?」

「てきとう?」

「ううん。桃がいいと思ったものなら、それを選べばいいと思うよってだけ。店員はお客さまの意見を尊重して見守る姿勢が大切だって、瑠奏さんが」


「そっか。うん、わたしが気に入ったから買います」

「じゃあこっちに。あとは他に買ってく?」

 首を横に振ると、正面のレジカウンターに案内される。
 そこでは店長さんが、気付かぬうちにいたお客さんに、お花を丁寧にラッピングしている。
 清涼感のある、少し前に教室で見たお花。隣のふゆに視線で問うと、「トルコキキョウだよ」と小声で教えてくれた。

 そのままの流れで、店長さんが会計をしてくれた。
 カウンターに商品を出すと、お店の前で見たような、少女的で自然な笑顔を向けられた。

「桃さん。お買い上げありがとうございます。ラッピングはお付けいたしますか?」

「いえ。自分用なので大丈夫です」

「かしこまりました。瓶はガラスとなっておりますので、お気を付けてお持ち帰りください」

 店長さんがふゆに目を飛ばすと、ふと思い至るようにわたしの隣から動き始める。
 その様子を目で追っていると、体の正面からの視線に気付く。いたずらっぽさの比率が増したような、それでも真剣さも感じる表情がわたしの顔をとらえている。

「霞さんのこと、よろしくお願いしますね」

 紙袋を取るために、レジカウンターの奥側にいるふゆには聞こえないような、小さくて、でも芯の通った声で、そう言われた。


 不意を突かれるような言葉に、思わず普段喋りよりも大きな声で「はい」と返事すると、あっけに取られたような顔になったふゆが前に出てくる。

「瑠奏さん。いまなんて言ったんですか?」

「また来てくださいねって、言いましたよ?」

 店長さんは「ね?」と言わんばかりに、わたしにウインクをしてくる。
 それを見て、ふゆは怪訝そうに眉を寄せる。

「桃は、なんて言われたの?」

「え、えー……っと」

 と、なんだか少し怖いふゆの目から逃げるように店長さんを見ると、ぱっとすぐに逸らされる。
 ちょっとでも渋ったのだから、本当のことを言うしかない。そもそも、隠す必要性は微塵にもないのだけど。

「えっと、霞さんをよろしくお願いしますって」

 ふゆがエプロンの裾を掴んで、呆れたような溜め息を吐く。
 けれどあっさりと流すように、居住まいを正して、

「まあ、また来てよ。テスト期間終わったあとにでも」

 ハーバリウムの入った茶色の紙袋を受け取る。
 おまけです、と店長さんからレモン味ののど飴もいただいた。

 ふゆに手を振って、店長さんにぺこっと頭を下げる。


「今度は学校での霞さんのことを教えてくださいねー!」

 と店長さんがお店の外のわたしに向けて元気な声を出すと、ふゆはさすがに「ちょっと!」と焦ったような声を上げていた。

 その様子を見て、勝手な心配事がひとつ減った。
 余計なお世話かもしれないけど。心の内に秘めておくなら、いいよね。

 でも、店長さんは、ふゆとどういう関係なんだろう。

 それが少しだけ気になったから、また来ようと思った。

 駅まで歩いて、地下鉄に乗って、そしてまた歩いて家の前まで着くと、玄関横のガレージで、お父さんが青色の大きなバイクを洗車していた。

 流され損ねた泡が平坦なコンクリートに留まっている。
 それを避けながら駆け寄って道端の自動販売機よりも身長の高いお父さんと並ぶと、自分がとても小さく感じた。

「おー、お帰り。出かけてたのか?」

「うん。友達に会ってた」

「そうか。その袋は?」


「お花屋さんで、ハーバリウム買ったんだ……わかる?」

「へぇ、ハーバ? わからんな。お菓子ならもらおうと思ったが。これから水飛ばしに走りに行くけど、後ろ乗って夜飯でも食べに行くか?」

「んーん、遠慮しとく」

「そうか残念。まあいいや。いまテスト期間だって? ほどほどに頑張れよ」

 濡れるぞ、とホースを持ったお父さんに手でしっしっと傍に追いやられる。
 バイク気を付けてね、と言いながら家に入る。お母さんもひなみもまだ帰ってきていなくて、家には一人だった。

 リビングに入ってすぐに、紙袋をあける。
 そして箱の中から丁寧に、ハーバリウムを取り出して、こたつ机の上に置く。

 きらきらしている。スマートフォンのライトをつけて照らすと、さらにきらきらが増して輝いていた。


 もぞもぞとコタツに入って、コントローラーを探り掴むと、電気がついたまま……お父さんかな。お母さんに怒られるよ、とガレージのお父さんに向けて呟く。
 でもそのおかげで、すぐに体が温まる。

 ふゆに帰ったら勉強すると言ったので、眠くならないうちにお昼のまま出されていた勉強道具に手をつける。

 今日はふゆに会えたからかな。なんだか頑張れそうな気がした。勉強に頑張るって、考えてみたら変なのかもしれないけど。
 ふゆに会う前にあった、わたしには身に降りかかったわけではないが少し嫌だったことも、今ふと思い出すまで忘れていた。

 そして今思い出して、でも、ふゆとのひとときで上書きされたように、それか教科書の古文の随筆を見ているうちに、もう見えなくなっていった。

 夕暮れ時になって、ひなみが家に帰ってきた。
 わたしの体の左前に置かれているハーバリウムを見ると、

「なにそれー、かわいい。どこで買ったの?」

 と嬉々としたような反応を示して近寄ってきた。

 ふゆがアルバイトをしているお店で買ったことを伝えると、ひなみは「へー、ふゆさんの!」と笑顔で頷いていた。





 次の日、昨日と同じ時間に起きてリビングに降りると、そこには誰もいなかった。
 テレビの電源を入れて、コタツにもぐりこむ。電源がまたついている。

 ふと外の様子を眺めると、窓の外にひなみとお父さんの姿が見えた。
 気になって窓を開ける。なんか食べてる。

「姉さんおはよ。パパとチーズフォンデュしてた」

「朝から?」

「うん。野菜美味しいよ。姉さんも食べたら?」

 玄関からスニーカーを持ってきて、外に出る。
 風が少しあって肌寒かった。どうして外で?

「外で食べるからいいんだよ」

 とお父さんがわたしの質問に先回りする。

「それ、釣りに行ったときも言ってたね」

「言ってたか? まあ、沢山あるから食べな」

 上着を取ってきてから、竹串に刺された野菜や魚介類たちをチーズの海で転がした。
 ちょっと時間が経つと、お母さんが起き出してきて、やや呆れた様子でわたしたちに加わった。

 それから午後になると、お父さんとお母さんは出かけてしまったので、コタツでひなみと勉強を始めた。

 聞いていなかったけれど、どうやらテストは明日と明後日の二日間らしい。
 話しかけたりして邪魔してはいけないなと、すぐに自室に戻ることにした。

 理由はないけど、今日も勉強が捗った。無心で過ごすうちに、休日の時間があっという間に過ぎていた。
 ひなみが夜ご飯だと呼びにくるまで、そんな具合でペンを握っていた。

本日の投下は以上です。

おつです。
あたたかい雰囲気だけど、こっから進むのか?

おつ





「どうだったん? ちゃんと行ったの?」

 月曜日の朝、校舎裏の自動販売機の前でリュックを背負ったつーちゃんに遭遇して、そう訊かれた。

 つーちゃんは一番下の段のホットレモンを買っていて、迷わずわたしも同じボタンを押した。
 筐体の中で温められたペットボトルは飲むには適していたけれど、冷えた手には熱いくらいで、キャップの上の方を持つのがやっとだった。

「行ったよー。すごくいいお店だった」

「へー、ふゆゆはどうだった?」

「どうって?」

「様子とか。接客とか?」

 もともと訊いてきた側のつーちゃんが、首を傾げた。

「いつも通り、かな。二人でいるときの感じ」

「ふーん。ふゆゆと二人でいるときの感じって?」

「え、なに。どうしたのつーちゃん」


「いや気になって。わたしらいるときと、けっこーちがうもんなの?」

「……どうかな? 変わらないと思うよ」

 なんていうか、答えに困る質問だった。
 でもよく考えると、わたしが言い方を間違ったせいのように思えた。

 そのことに気付く前にした要領の得ないようなわたしの回答に、つーちゃんは淡々とした様子で頷いた。
 そこで会話が切れたので、求められている答えではなかったのかな? と思ったけれど、そのうちに次の話題に切り替わる。

 他の人たちが自動販売機の前まで来たので、立ち話をやめて教室に向かって歩き出す。

 階段をのぼったり、廊下を歩いている最中に何人かの友達に話しかけられる。
 いや、話しかけられるというか、朝の挨拶とちょっとした世間話を振られて、なんとなくそれに言葉を返す。
 その間つーちゃんは黙ったままだった。

「ももちゃんやっぱ友達多いね」

「去年と今年で、同じクラスになった人けっこう多いから」


「わたしはー、去年のクラスメイトともー、まったくー、話さないけどー」

 なぜか急に抑揚のない言い方。
 せっかくなので真似してみる。

「たしかにー。栞奈ちゃんとー、だけだねー」

「いや乗らなくていいから」

「そっかー。乗らなくていいかー」

「乗ってんじゃん。乗らなくていーから。まーももちゃんわりといつもそんな感じだけどさ」

「そうかな?」

「いや、そこはそうかなーー? くらいしないと」

「そうかなーー?」

「あ、うんうん。そんな感じそんな感じ」

 つーちゃんが言葉とともにぱちぱち手を叩くと、わずかな沈黙が訪れて、同じタイミングで笑った。

「ていうかさー、家で勉強してたらさぁ、ママンにめっちゃ驚かれたの。逆にどうしたんだって心配されてさー、困った困った」

「これまでそんなに勉強してなかったんだ?」

「やーもうそれはゼロよ。ちゃんと通ってるだけいいって口では言ってるけど、ほんとはちゃんと頑張って勉強している娘の方がいいよね」

 はーっと息をついて、物憂げな表情でつーちゃんは廊下の突き当たりへ目を向けた。


「いい成績取ったら、もっと驚かれるんじゃないかな」

「あーいいねそれ。赤点三つくらいに抑えよう」

 つーちゃんがそう言ったときに、わたしたちの後ろからつーちゃんの頭めがけて手が出てきた。

「あだっ」

 二人で振り向く。栞奈ちゃんが貼り付けたような笑顔で、つーちゃんを小突いていた。

「赤点一つも取らないようにね。やるからには徹底的にやるよ」

「げっ栞奈、叩くなし! 言われなくても、昨日の分はちゃんとやったぞ」

「よしその調子。まあ別に、私が手綱を握る必要なんてないんだけどね」

「つんでれー?」

「ツンはしててもデレてないわ。ほら、わからないところあったらホームルーム前に教えるから、さっさと教室入るよ」

「はぁーい。栞奈まじやっさしー」

 教室の扉を潜り抜けると、先週と同じく多くのクラスメイトが机に向かっていた。
 テスト期間は教室の空気がどことなく重い。そんなに普段と変わることなんてあるのかなと、あることはわかっているのに頭の中で思った。





 昼休み。いつものように四人で学食に向かう。
 今日の学食は三学年の生徒が券売機とテーブル席に所狭しと並び座っていて、普段より盛況だった。

 教室の静寂さとはちがい、幾分かがやがやとしている。
 栞奈ちゃんに席の確保を頼まれて、日替わり定食の代金を渡して、ふゆと二人で空いている席を探す。

 今日みたいに混んでいると、四人で固まって座ることのできる席を探すのは難しい。
 テストの範囲まで終わらないかもしれないという四限の授業が長引いたこともあって(五分オーバーで間に合った)、席確保戦線からは遅れをとっていた。

 ぱっと見て空いているところはあるけれど、そこにはたいてい水の入ったコップが置かれている。

 通路側を中心に見渡している間に、ふゆが先に窓際の席を見つけてくれた。

「うーん。最近なんか見られてる気がするんだよね」

 四人分の水を汲んできて、向かい合って席に腰を下ろしたときに、ふゆが呟くように言ってきた。


「わたしそんなに見てるかな」

「あぁごめん言葉足らずで……桃のことじゃないよ。教室にいるときとか、移動教室のときとか、そういうときに、どこからか視線を感じるんだよね」

「そっか。誰かはわかってるの?」

「うーんと、一人……二人、いや三人?」

「それって、わかっていないのでは」

「まあね。だから、普通に気のせいかもしれない」

 この前わたしも同じようなことを思っていたな、と思ってきょろきょろ周りを確認してみる。
 すると、今のことじゃないよ、というふうに正面のふゆがくすっと微笑んだ。

「ふゆもそういうこと気にするんだ」

「まあ、人間誰しも……ってわけでもないかもしれないけど。一度気にすると、無駄に気にしちゃったりするよね」

「わかる。そうだよね」

「たいていは考えても仕方ないことなんだけどね」


「しかし、ここでちゃんと考えなかったことこそが、あの惨劇の原因となることに、二人はまだ気付いていないのであった……」

 いきなり斜め前に現れた栞奈ちゃんが、怪談話を読むときのようなテンションで、静かに食べ物の乗ったトレーをテーブルに置いた。

「変なナレーション入れないでよ栞奈」

「あはは。なんの話してたの?」

「最近スナイパーに狙われる妄想をよくしてるって話」

「えー、なにその設定。シリアスだね」

 もともと、ふゆなりのジョークだったのかな? 仔細には訊かなかったけど真面目に反応してしまった。
 微妙なツボに入ったみたいに笑い合う二人を見ているうちに、つーちゃんがやってくる。

 お昼の席順はいつも固定で、わたしの隣には毎日きつねうどんのつーちゃん。
 斜め前には今日はカツカレーの栞奈ちゃん。前には小ランチのふゆだった。

「つーって、面談もう終わったんだよね」

「うん終わったよ。とーかちゃん、マジで怖かったー」


「それは普段の行いが悪いからだ」

「うっさい。栞奈はいつ? 二人もまだ?」

「私と霞は水曜。桃は今日だったよね」

「そうそう。今日なんだよねー」と答える。

 いつもなにかと忘れがちなわたしだけど、さすがに今日が二者面談であることは覚えていた。

 それにしても、栞奈ちゃんってすごい。
 プリントで日程が配られたとはいえ、自分以外の日程まで把握しているなんて。

「つーちゃん、どういう話したの?」

「まあいろいろ。学校の話とか、文転しないかとか?」

「え、文転? するの?」

「いやしないしない。選択肢として言われただけ。担任はとーかちゃんがいいし」

「そうなんだ」


「あとは、困ってることないかー、とか」

「聞いてる分には、とても怖いようには思えないけど」

「まぁ。雰囲気だよ雰囲気。いつもみたいな軽いノリで行ったら、教室の中がすげー真面目オーラだったから」

「なるほど」

「それにわたし、その場に進路の紙もってったから」

「それが原因じゃん」とふゆと喋っていた栞奈ちゃんの顔がこちらを向く。

「まーそうなんだが。栞奈も出し渋ってたくせに」

「私は行ける学校の選択肢が多すぎて悩んでただけ。期限には出したよ」

「それ、わたしが馬鹿で悩んでいないとでも?」

 横列の二人がいつものような会話を始めると、正面で焼き魚を口に運んでいるふゆと目が合う。
 ターン制みたいな会話方式だ、と思った。会話はまだしていないのだけど。

 二秒、三秒と目が合ったまま時間が流れる。金縛りにあったみたいに、なぜか掴んでいるスプーンが止まる。


 ふゆはゆっくりと大きな瞬きをした後に、目を落として小さく二回瞬きをして、止めていた箸の動きを再開した。

「今日はバイトないし、終わるの待ってるよ」

「うん」

 わたしが頷くとほぼ同時に、つーちゃんと栞奈ちゃんのやり取りも一段落ついたようで、そこからは四人での会話が始まった。

 話題は、日常生活で地味に嫌なことについて。
 脈絡なくつーちゃんが言い始めて、それでもその話題は話題名の通り地味に盛り上がった。

 ふゆとわたしはかなり抽象的なことばかり言っていたけど、つーちゃんと栞奈ちゃんはどんどん地味じゃなくなっていって、その様子もまた面白かった。

 四人で順番に意見を出していって、教室に戻ってからどれが一番地味に嫌か投票するまでに至り、
『定食メニューについてくる味噌汁のなかなか外れてくれない蓋』がふゆとわたしの二票で一位となった。

「楽しかったので次回の開催まで各自ネタをためておくように」とつーちゃんが大真面目な顔で言って、
「地味に嫌なことはない方がいいじゃない」と栞奈ちゃんが冷静に話をまとめたところで、昼休みは終わった。





 放課後。教室の外の椅子に座り待つこと三十分。
 扉から出てきた前の順番の子に声をかけられて、教室の中に足を踏み入れる。

 掃除のときのまま、多くの机は後ろに下げられていて、教室の中央に四つの机が合わさって置かれている。
 その机の上には、わたしが書いた進路調査票。いくつか重なったファイル。それからこの間に職員室の前でも持っていた厚い本が並べられていた。

「長引いちゃって、待たせたよね。うん。どうぞ、掛けてください」

 つーちゃんが言っていたこととはちがって、藤花先生の醸し出す雰囲気はいつものように和やかだった。

「面談をする全員に訊いていることが、大きく分けて六つあります。今回はそれに従って進めていきますね」

 と藤花先生は記録用らしい白紙のメモを取り出す。

「まず一つ目は、進路について。本橋さんは、四年制の大学進学を希望ということで、これを書いたときから気持ちは変わっていませんか?」

「はい、変わってないです」


「うん。ここに書いてある五つを見る限り、県内か、遠くても隣県希望で、学部はいまいち定まっていないと。
 将来やりたいこととか、叶えたい夢があるってわけではない?」

「そうです。今のところは、はい」

「親御さんと進路についての話はした?」

「少しですけど、しました。お父さんもお母さんも、進路は自分で決めなさい、って言ってくれました」

「うんうん、そっか。まあ、高二のこの時期ではっきりと定まっている人は少ないから、まだまだ考えていて大丈夫だよ」

 ふふふと笑いかけられて、自分の肩が張っていることに気付く。机の下で握りしめていた腕をスカートの上に下ろして脱力する。
 一対一で先生と話すことは稀なことで、緊張していた。

「二つ目は進路と被るけど、成績について。本橋さんは一年生からの成績を見るに、理系科目よりも、文系科目の方が得意なんだよね。力を入れて勉強している感じかな?」

「いえ、えっと、わたし普段はぜんぜん勉強しないので……えっと、テスト前の詰め込みの結果だと思います」


「そっか。今回のテスト勉強はちゃんとしてる?」

「はい。その、追試はちょっと、と思ったので」

 わたしの答えに対して、藤花先生はにこやかに笑って、手元のファイルの中から進路調査票の横に、白紙に青文字の紙を出した。
 どうぞ、と示されて手に取る。ささっとメモに文章を書き込み終えて、先生は再び口を開いた。

「これはこの間の模試の結果です。今からなら、もうちょっと上のレベルの大学を目指してもいいと思うけど、そうなると数学は結構頑張らないといけないかな」

「数学……は、やっぱりちょっと苦手で」

「そうね。うちの学校の定期テストのレベルと模試では、また一つちがうからねぇ。あ、今回は難しいけどね」

 前にも聞いたけれど、先生の言う今回は難しいって、相当なのでは。
 わたしにとっては、「わたしの作る問題は簡単だよ」と言っている先生の作った問題ですら、結構解きあぐねている。

「わかりました。頑張ります」と頷く。そう言ったからには、今日家に帰ったらまず数学の問題集を解かないと。

 そこから他の科目の成績についての話を少しして、数学や理系科目の勉強方法について書かれたプリントを受け取る。
 本橋さん、と上の方に書かれているので、生徒一人一人に向けて準備されたものだと思う。


「うん。では三つ目。友人関係について。本橋さんは、冬見さん、山口さん、つかささんの三人と特に仲が良いみたいだね。
 そこについては、うん、それ以外の友達についても、なにか問題があったりするかな?」

「ないですよ。みんな、やさしいので」

「思うことがあれば、なんでも言っていいんだよ」

「えっと、ほんとうにないですよ」
 
「そっか。ま、すごく仲良さそうだもんね。今はなくても、このさきになにかあれば、先生に相談してね。話聞くから」

 次の質問は、部活やアルバイトについて。わたしはどちらもしていないので、話すことはなく省略。
 藤花先生も学生時代は帰宅部だったと言っていた。

 その次の質問は、冬休みの過ごし方について。
 冬休み、というワードにあまり現実感を持てなかったけれど、たしかに冬休みまであと一ヶ月くらいだった。

「最後の質問は、言っちゃうとフリーなんだけど、学校生活とか、家のこと、学校の外のこととか、なんでも、相談したいことや困っていることはあるかな」

 なにかはあるかもしれない、と考える。
 でも、ここで言うようなことは何一つ浮かばない。

「いえ、ありません」



「そっか。重ね重ねになるけど、なにかあれば、先生に気軽に声をかけてね」

「はい。そうします」

 藤花先生が頷いて息を吐いたところで、最後の質問ということはもうこれで面談が終わりだということに気付く。
 一年生のときも早かったけど、今回はもっと早かった気がする。

「みんなは、どういう相談をしているんですか?」

 時間があまってしまって、なんとなく気まずい空気感になることを避けようと、あたりさわりのない質問をする。

「んー、そうだね。個人情報だから、具体的には話せないけど。今までは部活動の人間関係とか、友達同士のいざこざ、恋愛相談とかが多かったかなぁ」

「そうなんですか。みんな、たいへんですね」

「うん。だからこそ、先生がそれを聞いてガス抜きしてあげないといけないんだ。
 歳が近い方が話もわかるでしょうって、わたしだってもう十個くらい離れているのに、他のクラスとか他の学年の生徒がたくさんやって来るのは、ちょっと困るんだけどね」

 そう言って藤花先生は、いろいろなことを思い出すような遠い目で微笑んでから、「いまのは秘密ね」と柔らかな声色で、唇の前に人差し指を立てた。





 教室を出ると、ぐっと疲労感が押し寄せてきた。

 面談中は終始和やかに会話していたつもりだったけど、緊張の方も終始解れていなかったみたいだ。
 組んでいたりしたわけでもないのに、足が痺れていた。

 でもふゆを待たせているのだから、と感覚が正常になっていない両足に鞭打って、すぐに廊下を歩き始める。

 わたしの前に面談を受けていたクラスメイトたちは、悩みがたくさんあったみたいだ。
 人数と面談に要していた時間を頭の中で計算する。わたしは他のクラスメイトと比べて二十分近く短かった。

 園芸部の部室は、一階の下駄箱とは反対側の突き当たりにある。
 この前の木曜日と同じく、職員室の前を通って向かう。

 十七時過ぎの校内はしんと静寂に包まれていて、自分のそろそろと歩く足音だけが響いている。

 教室を出てから、誰とも出くわさないまま進む。
 職員室からするコピー機と思しき機械音。それも通り過ぎれば聞こえなくなる。

 だから、部室へ続く曲がり角に至ったときに、その曲がった先からする話し声に、すぐに気付いた。


 ふゆの声だ、と思った。
 相手の声は……うまく聞き取れない。
 でもそれが誰なのかは、なんとなくわかる。

 その子がなにかを言って、それにふゆが頷いている。

 コンクリートの壁に背中をあずけて、目を瞑って時が過ぎるのを待つ。
 無意識のうちにそうしていたけど、なぜだろう。盗み聞きはよくないからかな。

 やがて、角の向こうからしていた声が止む。
 その代わりに、たったと駆けるような足音が耳に届く。

 その子はわたしを見つけると、にっこりと会釈して、それから前髪を直すような仕草をしながら、わたしの前を通過していく。
 ちらりと見えたその表情には、明らかに笑顔とは別の感情が籠っていた。

 その子の後ろ姿が見えなくなるまで待って、部室に入ると、ふゆが「遅かったね。もう帰ろっか」と机の上の荷物をまとめ始めた。

 よくない想像がじわじわと広がり、頭の中で渦巻く。

 ただ話していただけだなんて、どうにも思えない。
 だって、あんな表情をしていたのなら……。

 下駄箱で靴を履き替えて、自転車を取りに行ったふゆを待って、並んで校門を抜ける。


「ねえ、さっきのって……」

 気付かぬうちに、わたしの口は動いていた。

「さっきの? えっと、あぁ、瑞樹ちゃん?」

 ふゆはなんでもないように問いを返してくる。

 わたしの表情も、声音も、きっといつも通り。
 崩れたりはしていない。動揺しているときほど、外に出る態度は変に冷静になってしまう。

「部室のほうから歩いてきたから、ふゆとお話してたのかなって」

「そうそう。勉強してたら部室のドアが開いてさ、桃かなーって思ったらちがくて、私と話がしたいって言われて」

「そうなんだ。……どういう話?」

「なんか、友達になってくださいって」

「なんて答えたの?」

「うん。まぁその、いいよって」

 その言葉を聞きながら、赤信号の前で立ち止まる。
 次と、その次の信号も赤になっている。メモリはあと二つ。


「ここ最近何回か、朝に話してて。それで、言ってきてくれたんだと思う」

「そっか」

 頷いて、それで終わりにすればよかった。
 もう遅いのは自明だったけれど、そう、今みたいに信号が青に変わるタイミングで、別の話題に切り替えて、空想が悪い針路へと向かわないようにすればよかった。

 でも、続きの言葉が、どこからか漏れ出た液体のように滲出していく。

「よかったね」

 表面上は問題のない言葉で、
 けれど、その言葉の矢印の方向が問題だった。

 ふゆの方は向かずに、わたしの方を向いている。

 よかったね、ともう一度わたしは口の中だけで呟く。
 どうして? と間髪入れずに自分に問いかける。答えはいくつか思い浮かぶ。

 ふゆに友達ができたから──そういう気持ちがないわけではないけれど、一番の理由にはなり得ない。
 ふゆが隠さずに教えてくれたから──隠すようなことだと思うのは、わたしの捉え方の問題かもしれない。

 どうにか矢印をふゆに向けようとしている。
 そうしたってなにも意味はないのに。……だって、もう何度も同じようなことばかりを考えていて、その答えはわかっているから。


 まだ、「友達になりたい」だったから。
 そして、わたしはもう、ふゆと付き合っているから。

 友達になりたいと言われたからといって、必ずしもそれ以上を求めるようになると考えるのは、短絡的な思考だと思う。

 あの子のあの表情も、わたしの見間違いかもしれない。
 あれは悪い方向へと捉えてしまうわたしが作り出した幻覚で、本当はただあの場所にいたわたしに驚いて、表情を崩していただけかもしれない。

 つまり、さっき起きた出来事だけに、過剰に心を乱されているわけではないのだと、そう思う。

 だって、誰かに友達になりたいと言われて、それを無下に断る人なんてほぼいないと思う。
 わたしだってそう言われて断ったことはないし、やさしいふゆなら絶対に断ることはしない。

 だから、わたしが考えているのは、もっと他のことで。

 わたしが躊躇してしまうようなハードルを、簡単に越えていってしまう人たちがいる。
 ハードルだとは微塵にも思わずに、越えている自覚なしに、前へ前へと進んでいく人たちがいる。

 そういう、変えようのない事実についてだった。


 ふゆにわたしよりも仲の良い友達ができたら。
 友達よりももっと深い関係の、恋人ができたら。

 ふゆがそういった素振りを見せたことは一度もない。
 去年は仲良くなってからいつも二人でいてくれたし、それは今年もそこまで変わってはいない。
 デートをしたことがないと言っていたから、きっと今までもそういう相手はいなかったんだと思う。

 でも、これからのことはなにもわからなくて。

 もし仮に、ふゆにそういう人ができたとしたら。

 そのときは、わたしのことなんて、気にも留めなくなってしまうのではないか。マフラーを巻いてくれなくなるのではないか。
 そのときは唐突で、気が付いたときにはもう遅いのではないか。

 そしてわたしは、すごく後悔するのではないか。

 そうなる前に、なんとかして繋ぎ止めたかった。
 わたしの存在を、ふゆの記憶に刻んでおきたかった。

 ほどなくして、分かれ道となる駅までたどり着く。

 その間の会話の内容も、相槌を打ったり、質問に対して返答したこともはっきりと覚えている。
 また明日ね、と言われて、それに同じ言葉を返す。

 もっと話したかったけれど、わたしが背を向けたので、ふゆは自転車に乗って行ってしまう。

 ひとりになって、地下鉄に乗って、家まで歩く。
 その道のりが、今日はなぜかいつもよりも長く感じた。

今回の投下は以上です。

訂正
>>302

わたしには身に降りかかったわけではないが少し嫌だったことも、今ふと思い出すまで忘れていた。

わたしの身に直接的に降りかかったことではないが、少し嫌だったことも、今ふと思い出すまで忘れていた。

おつ




〈Ⅱ〉


 そろそろ朝に走るのをやめにしようと考えていたはずなのに、あと数日で十二月となる今日になっても、いつもの河川敷に足を伸ばしていた。

 どうしてかっていうもっともらしい理由はないけど、走らなくとも起きる時間は変わらないし、雨で走れない日はなんだか落ち着かない。
 寒さはまあまあだけど、軽くストレッチをして走っているうちに慣れてくる。二週間前くらいまではあんなに寒い寒いと思っていたのに、人間の身体って不思議だ。

 ただ外の明かりはまばらな街灯を除くとないに等しくて、ほどよく明るくなるまで待っていると、家を出る時間が後ろ倒しになっていく。
 十二月後半の冬至まで、日の出の時間はどんどん遅くなっていく……のかな? 冬至ってそういう意味だったか、正直覚えていないけど、そういうことにしておく。

 河川敷を走る人たちの数は日に日に減っていた。
 最後になるまで粘ってもいいけど、さすがに一人で走るのは心細いしなぁ、と考えながら速いリズムで動かしていた足を止めて、端の階段を降りる。
 
 あの一羽の白鳥はどうしているかな、と思ったから。

 僅かに泥濘んだ砂利道を歩き、いつもの場所に至る。

「……いない」

 最後に見に来たのは何日前だっただろうか。
 そこまで経っていないはずだったけれど、そこにはあの白鳥の姿はなかった。



 別の場所に行ってしまったのかな。
 それとも、気の合う仲間を見つけたのかな。

 もう見られないとなると、この場所に来る理由がなくなってしまったことになる。
 変わらず朝に走っている理由でもあったし、勝手にちょっとだけ仲間意識を抱いていたこともある。

 でも、もし仲間を見つけたのだとしたら、それはいいことに違いない。

 石段に腰掛けてしばらく待ってみたけど、開けた水上にあの麗しげな姿が見えることはなかった。
 ふと思ったことを小さく呟いて、元来た方向に引き返す。

「やほー。どったの?」

 振り向きざまに声を掛けられて、閉じていた目を開く。
 そこに立っていたのは、いつもすれ違っている帽子のお姉さんだった。

「……え、私、ですか?」

 挨拶以外で話かけられるのは初めてで、普通に戸惑う。
 お姉さんは帽子を外して、私に一歩近付く。いつもものすごい速さで走っているから、顔をしっかり見るのも初めてだった。

「うん。キミ以外いないっしょ?」

「あ、っと、ですね。……ですね」


「ん。で、どったの? アンニュイな顔してたけど」

 お姉さんは首をぐーっと傾げる。その動きが滑らかで柔らかくて、放っておいたらそのまま一回転してしまいそうな気がした。

 フレンドリーな感じに、若干びっくりしながら考える。
 アンニュイな顔なんて、自分ではしているつもりはなかったけど。

「ちょっと前から、あのあたりにずっと一羽だけ白鳥がいたんです。でも、今日はいなくて。
 毎朝ってわけではないですけど見にきてたので、どうしたのかなーって、ちょっと心配で」

「白鳥って、鳥の? ほわいとばーど?」

「えっと、そうですよ?」

 私がそう言うと、お姉さんは大仰に頷いて、

「いい子!」

 と半ばわざとらしくぱちぱち手を打ち鳴らした。

「はい?」

「いや、自然派と言うべきか? キミはいい子だねぇー」

 人の良い笑顔で、肩をぽんぽん叩かれる。
 フレンドリーだ、とまた思う。最近はよくフレンドリーな人に話しかけられる。

 ……いや、まずフレンドリーな人しか他人に積極的に話しかけてこないか。


「キミのことはねー、前から気になってたんだよー?」

「そうなんですか?」

「私よりもすらっとしてておっきいしぃー、走り方はまぁアレだけど、走ってる時のおめめがキリッとしてていい感じだし?」

「はぁ」

 まぁアレって。

「んー……私より年上には、なんとなく見えないな? てことは高校生?」

「……これって、もしかしてナンパとかですか?」

「あは、ナンパ違うよー。で、高校生?」

 ナンパ違うらしい。当たり前か。

「はい、高校生ですよ」と答える。


「あー、やっぱりそうかー。そうだと思ったんだよ。どこ高?」

 知らず知らずのうちに、独特なペースに乗せられている気がする。

 お姉さんは私から視線を外して、転がっている石で水切りを始めた。
 その様子を目で追うと、左手のサイドスローで放られた石は、何度も跳ねて対岸に到達した。

 なんか今すごいものを見たような。
 ……私の見間違いかな? あ、右手の二投目も対岸に。

 まぁそれはいいとして、お姉さんは良い人そうだし、あえて言わない理由もないので高校名を答える。

「へー、あそこの高校。うちのか……おっと、おっとおっと、んー、へー、制服が県一かわいいとこだよね」

「あ、私はねー──」とお姉さんも高校名を言った。

 頭の良い感じの響きの名前の高校。のが多いな。の、三年生らしい。
 ていうか、お姉さんは高校生なんだ。てっきり大学生だとばかり思っていた。醸し出す雰囲気が、何というか、余裕に満ちていて大人っぽいから。


「部活とかやってる系?」

「園芸部に入ってます」

「自然派だ」

「自然派ですね」

 自然派って何だろう。

「私は何部に入ってそうに見える?」

「陸上部とかですか?」

「はずれー。正解はクイズ研究会の幽霊会員こと帰宅部でしたー」

「へぇ、そうなんですね」

 笑うタイミングかどうか分からなかったけど、とりあえず口元だけ笑っておいた。

 お姉さんが砂利道の突き当たりへと歩き出したので、私も後ろをついていく。
 疲れてはいなさそうだったし、もう一走りしそうな感じだったけど、階段を上がったお姉さんの身体は、舗装されたランニングコースとは逆を向いていた。


 くるっとターンをしたお姉さんが、じぃっと私を見る。
 そして、何かを思い出すように頭を捻ってから、大きく口を開いた。

「なんてゆーか、最近はもうとにっかく寒すぎて、今日出てくる前に温度計見たら氷点下だったんだよ? 氷点下!
 やーばいよね! ほうしゃれいきゃくー、からっかぜーって感じ。あ、カイロ要る? うん、いっぱいあるからもらっといて?
 で、でー、そんなんだからさ、さっすがに今の時間に走るのはおしまいにしよっかなって思っててー、もう会えなくなるかもしれないキミには挨拶しておきたかったんだよね。
 この前なんて帰りにケーサツの人に声かけられて、ランニングですーって言ってるのに、この服装でだよー。
 二十分くらい、まだ明るくないしアナタは若いんだから気をつけなさいだのなんだの口煩く言われちゃってー、キミも気をつけたほうがいいよ?
 何が言いたいって言うと、まぁもう今年の冬はここに来ることはないかなーっていうね。だから歴戦の盟友に別れの挨拶をー、って、これはさっきも言ったっけ?」

 すごい早口。その間にカイロを三枚も受け取る。
 警察、歴戦の盟友と引っかかるワードが多くて、言っていることを理解するまで時間がかかって、反応が遅れる。

「キミにはまたどこかで会えるといいな。またねー?」

 そのうちに、お姉さんはピースをした手を前に伸ばして、帽子を被り直して軽快に走り去っていった。

 文字通り、嵐のような人だった。
 そして、お姉さんがもう来ないとなると、あの白鳥のこともあるし、私もどうしたものかなぁと少し思った。





 今日は空気の抜けてきていた自転車をお休みさせて、徒歩と地下鉄で登校した。
 というのも今日の学校は午前授業で、お昼を食べてから、先週みんなで決めた通りに勉強会をすべく、桃の家に向かうことになっていたから。

 テスト前で疲れている先生と授業を受けるよりはテスト勉強をしたい生徒の利害が一致したように、四時間中三時間が自習だった。
 黙々と参考書やノートに目を落とす周りの人の様子を見ながら、私もそこから外れないように手を動かす。

 そうしていると時間はすぐに過ぎていって、気付けば四人で横並びに地下鉄の座席に腰掛けていた。

 桃の家の最寄り駅は今乗っている路線の終点で、乗り降りが多い私の家の最寄り駅を過ぎると、他の乗客はまばらになっていく。

「初めておじゃまするけど、桃の家って一軒家?」

 私たちの乗る車両に、他の乗客がいなくなったタイミングで、栞奈が桃にそう訊ねた。

「うん。よくある感じの、二階建ての一軒家だよ」

 と桃が言うと、

「ももちゃんちめっちゃ広いよ。栞奈驚くなよー」

 とつかさがなぜだか得意気な表情で、桃と栞奈に笑いかけた。


「つーちゃん。ハードルあげないで」

「いや、あげてないよー。ももちゃんお嬢だからー」

「あ、それはわかるかも。桃ってお嬢様感あるよねー」

 つかさと栞奈の二人は揃ってうんうんと何度か頷く。

 お嬢様感ね……たしかに、分かるかもしれない。
 そういう人がそれなりに多めなうちの学校でも、桃は際立ってお嬢様感があると思う。

「まぁそういう栞奈の家も広かったな」

「そうね。広めではあるけど。でも私の家はマンションだから、一軒家には憧れがある」

「何階だっけ? めっちゃ高くなかった?」

「んー、つーの数学の点数と同じくらいよ」

「うわっ、もうそのネタ擦るなよー」

 酸味の弱いりんごみたいに顔をほんのり赤くしたつかさが、がしがしと栞奈の肩を揺する。
 私の隣に座っている桃は、それを見てふふふと笑みをこぼしていた。


「霞は桃の家に行ったことあるんだよね」

 栞奈の一言に、学校を出てから今までほとんど話していなかったなぁと思いながら「うん」と声に出して頷く。
 それを聞いたつかさが、薄い黒色のタイツを履いた脚をぷらぷらと揺すりながら、興味深そうな表情で私の横顔を覗き込んできた。

「広かったっしょ?」

「そうだね。庭にプールがあった」

「いや、プールはないでしょ」

「あれ、そうだったっけ?」

「あはは。ふゆゆほんとに行ったことあるの?」

「あるある。でも、ちょっとだけだったから」

 たしか三十分くらいだったんじゃないかな。
 二年生になったばかりの、四月の半ばの学校帰りに桃に誘われて、バイトがなかったので二つ返事で行って、特にすることもなく帰った。

 その三十分をどう使ったかについては、はっきりとは思い出せない。
 でもたしか、椅子に座ってお茶菓子を食べながら、桃と桃のお母さんと会話をして……って感じだったと思う。多分。記憶違いでなければ。


 駅に着いて、勉強会ならという感じに、改札を出てすぐのコンビニに寄って飲み物やお菓子を買い込む。
 学校とそこまで距離は離れていないはずなのに、乗った駅よりも北に位置しているからなのか、肌寒さは明らかに増していた。

 桃と私で、みんなで食べ飲みするものの会計をしている間に、つかさは焼き芋を、栞奈はコロッケを買って外で食べていた。
 お昼を食べてからあまり間があいていないけれど、二人はもうお腹が空いてきていたらしい。

「小腹と中腹と別腹が空いたよー」

 と呟くつかさの持つレジ袋は大きく膨れていた。

 家の前まで着くと、こういう感じのお家だったなーということを流石に思い出す。

 ネイビーの外壁に、木目調の玄関まわり。大きい車とバイクが置かれているガレージ。
 周りには白い壁が特徴的な、同じ外形の一戸建てがいくつも並んでいるからか、桃のお家は少し目立っているように感じた。

「ただいまー」

 と桃が鍵を使って扉を開けて、それに続いてぞろぞろと中に入る。

 外観とは違って真っ白な壁に囲まれた玄関には、一足のスニーカーが置かれている。
 そこに二足、三足、四足と靴が増えていって、最後に扉をくぐった私の靴で五足となる。


 最初からあったものはデザインの感じから妹さんのかなと思っていると、部屋の先から足音が聞こえてくる。

「あ、ひなちゃんいたのか。これ、この間の」とつかさが慣れた様子で妹さんにレジ袋の中から何かを渡して、栞奈と共に廊下を進んでいく。

「こんにちはー」

 靴を揃えていると、私の目線に合わせるようにしゃがんだ桃の妹さんに、元気に挨拶される。
 話には何度か出てきていたけど、何気に初対面だった。

「こんにちは。えーっとー……」

「ひなみっていいます。ひなちゃんでも、ひなみちゃんでも、ひなみでもひなでも、ふゆさんの好きなように呼んでください」

「そう。なら、ひなみちゃんって呼ぶね」

「はーい。……あっ、さっきどさくさにまぎれてふゆさんって勝手に呼んじゃいましたけど、よかったですか?」

「うん、いいよいいよ」

「わー、ありがとうございます!」

 立ち上がって隣り合うと、ひなみちゃんはまぁいろいろと桃の妹だという気がした。

 桃が廊下の先から戻ってきて二人が並ぶと、それをさらに強く感じて、思わず目を左右に動かす。


「どうしたの?」

「どうしたんですか?」

 あ、やっぱり姉妹。似た感じの反応。
 ひなみちゃんの方が中学生なだけあって快活そうだけど、姉妹で雰囲気って似るものなんだなぁ、と感心のようなものを抱く。

 二人の後に続いて、居間に入る。栞奈とつかさは既に上着を脱いでコタツに足を入れていた。
 ひなみちゃんが人数分のコップを持ってきてくれる。それを受け取って、コタツ上の四角テーブルの空いている辺に座る。
 と、隣にひなみちゃんがやってくる。

「ひなみ、こっち」

「えー姉さんの隣はイヤ。ふゆさんの隣がいい」

 ひなみちゃんがそう言うと、桃は気まずげに私を見て、両手を合わせた。
 その様子を見たのか見ないのか、ひなみちゃんは桃に似た厚めの唇で緩い微笑みのカーブを作って、立ち膝のまま桃の近くに移動する。

 別にかまわなかったけど。親交を深めるという意味で。
 それはそれでちょっと変だろうか? 変かもしれない。

「ふゆゆもう懐かれてんじゃん」と反対側に座るつかさがけらけら笑っていた。





 勉強会というワードに、ちょっと勉強してすぐに休憩という名の遊び時間になるイメージを持っていたけど、たまに軽く話しながらも目は大体ノートを向いていた。

 その大きな理由は、つかさがかなりやる気だったこと。
 つかさが遊ぼうとしなければ、栞奈と桃も遊ぼうとはしないから。

 細かい事情についてはよく知らないけど、補習には絶対にかかりたくないらしい。

 栞奈は自分の勉強は一切せずに、つかさに付きっきりになって教えていた。
 声を聞いてるとなんかいろいろとスパルタだった。声音はいつも通り落ち着いていて優しいけれど、休ませずに進んでいく感じが。

「私は二年生の範囲はもう全部終わらせてるから」

 と最初に言っていたのも、本当のことなのだと思う。

 ついこの間は忙しくて勉強してないって言っていたけど、栞奈の勉強してないは一般学生とは違っていそうだ。

「ここは凡ミスさえなくせば大丈夫そうね」

「おー、なんで解けてるのか全然わかんねーけど」

「壊れた時計でも一日に二回は正しい時刻を指すって言うからね」


「なんだそれー! バカにしてる?」

 そして普段あれだけ「赤点がー追試がー」と言っているつかさは、やる気さえあれば科目によってはなんとかなるタイプらしい。
 そこには栞奈も少しだけ驚いている様子だった。

 桃はすらすらと日本史の問題集を解いていた。たしか、文系の方がまあまあ得意と前に言っていたと思う。
 教えてほしいくらいだけど、暗記科目って教えるも何もないか。必要なのは、やっぱり根気とかかな。

 ひなみちゃんは今日まで定期テストだったようで、明日からの普通の授業に向けての予習をしていた。
 テスト明けなら遊んでいてもいいのにと思ったけれど、私たちに合わせてくれたのかもしれない。

「学校での姉さんってどういう感じなんですか?」

 桃が席を立っているタイミングで、ひなみちゃんと目が合うとそんなことを訊ねられて、それにペンを止めて反応する。

「家での様子は分からないけど、そんなに変わらないと思うよ」

「ぼーっとしてます?」


「してる時もあるね」

「そうですかー」

「うん」

「あ、そういう時の姉さんって、何も考えてないように見えて、実はいろいろ考えてるんですよー」

「そうなんだ」

 桃に関する雑学のようなものを教えてもらった。

 学校の中と外で人はそこまで変わらないと思うけど、箱の中を覗けないのなら、その様子について訊いてみたくなるのは当然か。
 この前の土曜日に、瑠奏さんも桃に訊こうとしていたし。あれは、割と恥ずかしかった。

 吹き抜けになっている階段を降りてきた桃は、頭を悩ませながら数学の勉強をし始めた。
二日目(今週の金曜日)にあるからか、つかさもさっきからずっと数学をしている。

 私は数学についてもそこまで苦手ではないから特に問題はないと思うけど、先生が今回は難易度高めって言っていた気がする。
 確認くらいはしておいた方がいいだろうか。


 でも提出課題は結構前に全て終わらせてしまっている。
 さすがに栞奈みたいに、全範囲を網羅しているとまでは言えないけど、今回のテスト勉強はいつもと比べて身が入っていた。

「時間がないし、もう数学は暗記だと思って解法のパターンを頭に入れなさい。このパターンが出てくるの三回目でしょう?」

「はい、わかりました! 栞奈先生!」

「よろしい。で、ここ間違ってるよ」

「はい、どうも! ありがとうございます!」

 ベテラン講師とベテラン生徒は変わらずそんなやり取りを続けている。

 誰に聞かせるわけでもなく二人で喋っているのに、ちょっと面白いのはなんでだろう。
 私のフィルターを通すと、栞奈は竹刀を持っているように見えたし、つかさはハチマキを巻いているように見えた。

 桃がリモコンを操作して、僅かに暗くなってきていた部屋の電気を点ける。
 私の座っている場所から正面の壁掛けの時計を確認すると、勉強をし始めてから三時間少々経っている。


 スパルタ塾はそのままに、レジ袋に入ったままだったお菓子を取り出し、桃に声をかけて休憩することにした。

「ふゆさんは成績良いんですか?」とひなみちゃんに質問されて、
「普通くらいだよ」とチョコレートを食べてから答える。

「とても知的なオーラを感じます」

「そうかな? ありがとう」

「いえいえー。好きな食べ物ってありますか?」

「なんでも食べられるけど、肉よりは魚派かな……?」

「わたしも魚派です!」

 ひなみちゃんと会話している間、桃は戸惑った様子で、明らかに落ち着きがなくなる。
 んー……まぁ、気持ちは何となく分かるけど。

「二人はすごく仲良しなんだね」

 私がそう言うと、ひなみちゃんはえへへと笑って、身体をぐいっと桃の方に倒す。
 そしてそのまま太ももに顔をつけ……たかは角度的に見えないけど、膝枕的な構図になっているはず。

 制服のスカートの下に敷いていたクッションと一緒に二人のいる辺に移動すると、桃は慣れたように、ひなみちゃんの髪に細い指をするすると滑らせていた。


「ふゆさんもどうですか?」

 と心地良さそうに瞼を閉じているひなみちゃんが、すすすと頭を移動して、片方の太もものスペースを空けた。

 桃だけじゃなく、向こうの二人の視線も感じる。遊んでないで勉強しなさいという圧か。
 ひなみちゃんの頭は重くないだろうけど、そこに私が加わって二人分となれば重いだろうし、一人の方が寝心地も良いはずと思って、「いや」と固辞する。

 桃がお姉ちゃんしているところは初めて見るし。
 本物の妹が目の前にいるのに、私まで妹のようなことをする必要はないんじゃないかな。

「……あ、そうだ。ふゆちょっと来て」

 小分けのお菓子を何個か食べ終える頃には、ひなみちゃんは満足したらしくもう起き上がっていて、コタツから出た桃が手招きをしてくる。

 私も立ち上がって後を追いかけると、桃は階段を上って、二階へ進んでいった。
 そして行き着いたのは桃の部屋だった。ベッドと学習机とテーブルと、コタツがここにも。
 きちんと整頓されていて、可愛らしい部屋だ。

 でもなぜ突然部屋にと思ったけど、桃の視線で何となく意図が伝わる。


「飾ってくれてたんだ」

「うん」

「気に入ってくれたようで」

 こくこくと桃は二度首肯する。二色で彩られたハーバリウムを見つめる瞳が、少しだけ泳いだように思う。
 そういえば、今日の桃はいつもよりもだいぶ口数が少ない気がする。もともと、そこまで多く喋るタイプではないけれど。

 居間に戻ろうとしたところで、すっと腕を引かれる。
 桃のひんやりとした手の感触に「わっ」と思わず跳ねたような声が出る。

 フローリングに足裏を這わせるように移動してベッドに腰を下ろした桃と、腕を取られたまま立っている私。
 いいのか分からないけど私も座った。

「どうぞ」

 と桃は微妙な表情でスカートをぽんぽん叩く。

「ど、どうぞ……」

「なるほど……」

 さっき、私がみんなの前だからと恥ずかしがっていたと思ったのかな。


 それとも、拒否されたと思ったとか。私がめっちゃ眠たそうに見えて、なんてことも。全然眠くないけど。

 一応目を擦って瞬きをしてみる。うん、全く眠くない。

「えっと、いいの?」

「いいよ」

「……あ、反対にしない?」

 特に言語化できるような意味はなかったけど、桃がしたように脚をぴちっと閉じて太ももをぽんと叩く。
 そのままの流れで、両手を後ろに伸ばして、ふわふわした生地のオルテガ柄のブランケットにつけた。

 まあ何かそっちの方がしっくりきたというか。今思い付いたけど、さっきまでひなみちゃんにしていたのだし、連続でさせるのは申し訳なかった。

 ぱっと私の手を離した桃に、どうぞという意味を込めて笑いかける。
 すると桃は和やかに頷いて、私に向けて上半身をぽすんと倒し、ゆっくり瞼を下ろした。

 このありそうでなさそうな状況について考えているうちに、桃の細い息遣いが聞こえてくる。

 私の脚よりは絶対に桃のものの方が柔らかそうだな……なんていう場当たり的な思い付きはさておき。
 スカートの布一枚越しには、私の肌に桃の体温は伝わってこなかった。





 桃が起き上がるまで待って階下に戻ると、栞奈、つかさ、ひなみちゃんの三人は、お菓子を片手に雑談に花を咲かせていた。

「おふたりとも今日泊まっていきませんか?」

「あー、わたしん家もう夜ご飯作ってくれてると思う」

「私もそうかな。ごめんなさいね」

「わー、いえいえ。そうですよねー。次はぜひ泊まりに来てくださいね」

「いいね、ひなちゃん。五人でお泊まり会するか」

「したいですしたいですっ!」

 三人の会話の感じと、勉強道具がテーブルの上からなくなっていたことから、もうそろそろお開きになりそうだと思った。

 その直感は半分当たりで半分外れだったようで、つかさは一回だけと栞奈に言ってひなみちゃんと五回ほど対戦ゲームをして、それから勉強会は解散となった。

 桃とひなみちゃんに玄関先まで見送られて、外に出る。
 コタツや床暖房で身体の芯まで温まっていたせいか、寒暖差で身が縮こまる。

 つかさはここから家が近いみたいで、でも地下鉄駅とは逆方向らしく、その方向に、手を振りながら歩いていった。


「なんか、勉強会っぽさ皆無だったね」

 私と二人きりになると、栞奈は大袈裟に溜め息をついて、申し訳なさそうに苦笑した。

「遊ぶのは遊ぶ日にってことでいいんじゃない?」

「そう? ま、それはそうね」

「うん」

 と頷いた私を見て、栞奈はすっと表情を戻した。

「改めて感じたけど、誰かに教えるのって難しい」

「へぇ、栞奈でもそうなんだ」

「……ん。私でも、って?」

「えっと、栞奈は成績良いし、運動部の部長してるから、今までも誰かに教える機会はあっただろうなって」

「あ、そういうこと。それがあまりないのよ。部長している手前、頼ってもいいんだよって姿勢でいるつもりだけど、何だか遠慮されることが多いかな。
 ま、逆に私からうるさく言うのは、強制しているみたいで嫌だから、軽口とかノリ以外ではしないように心がけているけど」

「あれ、てことは今教えてるのは、つかさが栞奈を頼ったからなんだ」


「そ。あのつーが真剣な表情で頑張りたいって言ってきたから、それなら私が出来る範囲で力になりたいなって。
 まぁそれがけっこう大変なんだけどね。つーは頑張っているけど、流石に一、二週間では厳しいところもある」

 言葉を区切った栞奈は、何かを省みるように目を細めて、右手でこつんと耳の上辺りを叩いた。

「私は、自分に出来ることを出来る範囲でしているだけだから、人に教えるのは向いていないのかも。
 自慢じゃないけど、だいたい何でも覚えられるし、感覚で出来てしまうから、それを一から噛み砕いて説明するのはいつも使っていない頭を使う作業で、難しい」

 出来てしまう、という言い回しが栞奈らしいなとちょっとだけ思った。
 つかさが前に栞奈のことを"超人的"と評していたのも、あながち間違ってはいないのかもしれない。

「なのに時間割いて教えてあげてるなんて、栞奈は優しいね」

「まーね。でもどうせ私は点数取れるから、暇な時間の有効活用法だよ」

「栞奈が言うと説得力ある」

「それに、こんな時くらいしか私は役に立たないから」

「そんなことはないでしょ」


「あはは、釣り合い取るためにちょっと自虐してみた。
 ま、私の見立てだとつーは一年の範囲から壊滅的だと思ったんだけど、そうでもなかったことが不幸中の幸いというかね」

「そうなんだ」

「うん。つーと桃って、中学は中高一貫校だったんだよ。なら少し納得かなって。知ってた?」

「ううん、知らない」

 普通に初めて聞く情報だった。
 いや、どこかで聞いてはいたけど忘れていたのかな。

「ていうか、霞は残らなくてよかったの?」

「どこに?」

「どこにって、桃の家に」

「え、どうして?」

 純粋に訊き返すと、栞奈は横目で私を見つめてきた後、ああ、と正面を見ながら軽く頷いた。

「桃の妹ちゃんがもっと話したそうにしてたの、気付いてたでしょ?」

「まぁ何となくは、うん」


「そういう場合は、霞だったら残っていきそうだから」

 栞奈の中の私像はどんな風になっているのだろうか。

 実際、私は夜ご飯の心配はないし、桃が迷惑じゃなければ残ろうかなと思いはしたから、合っているけど。

「また次がありそうだしいいよね、みたいな」

「ん、たしかにそれもそうね」

 言いながら、栞奈はくすくすと笑う。

「そういえば、イクラはロシア語って知ってた?」

「知らないけど……急にどうしたの?」

「聞きかじりの知識を言い合うの、つーといる時によくやってて、霞ともやってみようかなって」

「なるほどね」

「ちなみに向こうではキャビアもタラコもまとめてイクラなんだってさ」

「……栞奈って魚卵マニアなの?」

「いや違うけど。はい、次は霞のターンね」

 と私に無茶振りしながら、今度はいつもつかさ相手にしているような、悪そうで楽しそうな顔をする。
 とりあえず何かは言わなくちゃならんっぽい。


 私は何を言うべきかけっこう迷って、

「映画のニモって、昔見たことあるんだけど……」

 と魚介に引っ張られた思い付きを口にすると、

「あ、カクレクマノミ?」

 と栞奈がクイズの答えを当てるような、反射的な速度で返してくる。

「ううん、ではないって話。あれはイースタンクラウンアネモネフィッシュで、近縁種?」

「へぇ、そうなんだ」

 さすがに知っていると思ったから二段構えでいったら、知らなかったみたいだ。まずは一安心。

 そこから連想されることまで話すかについても迷って、でも栞奈は何度もお店に来てくれていたなと思い出して、そのまま言うことにする。


「共生してるイソギンチャクは英語だと海に咲いているアネモネっていうのが由来でシーアネモネ。
 クラウンっていうのは、そこから来てるんじゃないかな。
 それで、同じシーアネモネって名前のバラの品種があって、イソギンチャクに形が似てる」

「え、そんなのあるんだ。調べてみよ」

 栞奈は黒のコーチジャケットからスマートフォンを取り出して、すっすっと滑らかに入力、検索した。

「きれいね。霞のお店にも置いてあるの?」

「たまに入荷してくる。見た目が珍しいから、すぐ売れていく印象」

「ふうん、すごいね。知らなかった」

「うん。じゃあ私は終わりで、栞奈のターン」

「はいよ……んー、どうしよっかな……」と栞奈は腕を組んで悩んだような素振りを見せる。

 けれどさっきの私よりは、早く沈黙を破って、

「クマノミって、生まれる時は性別がなくて、基本的にみんなオスになるんだけど、群れの中でメスに性転換するんだってさ」


「へー……そんなのどこで知るの?」

「生物の資料集に載ってた。群れにメスがいなくなると、一番大きい個体がメスになるらしいよ。で、メスになるとオスには戻れないの。
 資料集にフローチャートみたいなのが載ってて、それがカオスすぎて印象に残ってた」

 意味ありげにこちらへと視線をずらして──多分、その図について思い出して、栞奈はにこっと笑った。
 それが私の反応をうかがうような笑い方に思えて、そんなに面白いのなら、私も見てみようと思った。

 そして、次は私の雑学披露ターンかなと考えたけど、駅に着いたタイミングだったからか、それきり栞奈は続きを求めてはこなかった。

 栞奈は家に帰ったら、通話をしながらまたつかさに分からないところを教えてあげるという。
 つかさをもっといじれるから楽しいと、本当に楽しそうに言っていたけど、まさかそこまでしてあげるなんて。

 こんな優しくて出来た友達ほかにいないぞ、つかさ……という何目線か分からないような思いを抱いた。

本日の投下は以上です。

おつです

訂正
>>33
一匹→一羽
>>45
「うん。私にとっては嬉しいことだよ」 → 「うん。わたしにとっては嬉しいことだよ」
>>236
五月→四月





 中学三年生のちょうど今頃の時期、この高校に志望校を決めた時のことを思い出す。

 高校受験をするかどうかなんて、普通なら迷わない。
 けれど私は少し迷って、かといって誰に相談するでもなく、気付けば最終的な判断を下す十二月になっていた。

 当時住んでいた県とは別の、今住んでいる県の高校を受けることは決まっていたから、
 そうなると必然的に取り得る選択肢は狭まっていって、その時の担任の先生が示した最も安全な選択肢を取った。

 日程上可能な二校を受けて、この高校を選んだ。
 その理由は、校舎が綺麗だとか、煩わしいことがなさそうだとか、いろいろあったような気がする。

 確実に合格するかどうかと、通いやすいかどうか。
 出願するまではこの二つについてしか考えていなかったから、この学校の校風などについては入学するまで全く知らなかった。

 進路調査票の空欄を埋める時、私は桃とした会話を思い浮かべて、あまり考えることなく大学進学に丸をつけ、模試の際にも書いていた県内の大学の名前と学部を記入した。

 何かは書かなければいけない。きっと周りのみんなはちゃんと何かを書いて提出している。


 もし白紙で出すようなことをすれば、先生に迷惑がかかるし、そういう印象を持たれるようになる。
 ないとは思うけど、それによってもっと他のところへと波及するかもしれない。

 それを避けるためにも、とりあえず無難なことを書いて、今の私にはまだ考えられないことだと先延ばしにするつもりだった。

「冬見さんは、県外には出たくないんだよね」

「はい、できれば」

 先生との二者面談の途中、以前受けた模試の結果が返ってきた。
 自分の感触よりも出来ていたようで、つるつるとした素材の紙の上に並ぶ文字列は、何となく非現実的なもののように思えてくる。

「何か理由があるなら、教えてくれないかな」

「理由は、特にないですけど……どうしてですか?」

「そのね、冬見さんの成績なら、もうワンランク上の大学に推薦を出すことも出来るから」

 県外にはなっちゃうんだけどね、と付け足しながら、先生はクリアファイルの中から大学名のびっしり書かれたプリントを取り出した。


 渡されるがままに、そのプリントの上半分を眺める。
 知っているような知らないような大学名の羅列に、どう反応すべきか分からない。

「どうかな?」

 と先生のうかがうような目が向く。
 中途半端な会釈を返すと、こことかはどう? といくつかの大学と学部を指で示される。

 所在地、大学名、学部……。

 サイズの違う靴を履いている時のような感覚。
 ……いや、まぁそれは当たり前のことだけど。

 それ以前の話だとは、言わない方がいいだろう。
 面談が始まってから今までの会話ごとひっくり返すことになってしまう。

「考えておきます。でも私は、将来についてあまり考えられていないですから、本当にその大学に行きたい人にその枠を使ってあげてほしいです」

「そっか。うん、でも一応資料は渡しておくから、読んでみて興味が持てたら言ってね。冬見さんなら、わたしも全力でサポートするよ」

「わかりました。ありがとうございます」

 軽く頭を下げると、先生はふうと小さく息をついた。
 私のこの反応も、もしかしたら織り込み済みだったのかもしれない。


 調査票に書いた、今のところの志望校に向けての学習方法について書かれたプリントを受け取る。

 そして、少しそれについての話をした後に、先生は目元をわかりやすく緩めて、握っていたボールペンをカチっとノックした。

「昨日は冬見さんたちと勉強会をしたって、つかささんから聞いたよ」

「はい、しましたよ」

「つかささん、ちゃんと勉強してた?」

「栞奈がつきっきりで教えてましたよ」

「そう。ならこのあとの面談で、山口さんにお礼言わないとだなぁ」

「お礼ですか?」

「そうそう……あっ、その時の山口さんって、自分の勉強を全然しないでつかささんに教えてたの?」

「そうですね。してなかったですよ」

「うわぁ、それはほんと、ほんと申し訳ないなぁ……」

 頭を抱え込むようにして視線を下向けた先生を見るに、栞奈にそれとなく頼んでいたのかもしれない。
 私が知らなかっただけで、先生はつかさに相当気を揉んでいたみたいだ。

 当のつかさは、このままだとふつーに留年しそうだぜぃ! とかって笑顔にピースで言っていた気がするけど。
期末テスト後あたりに。
 私には関係ないことだけれど、いたたまれないような思いを抱く。


「わたしがつかささんに勉強しないとー、分からないところは教えるよー、って言っても、あんまり耳に入っていないみたいだったのになぁ……」

 ぼやくような口調で言ったあと、はっとしたように先生は私を見た。

 どうやら無意識に口に出してしまったようだった。
 一瞬だけ、そういう時に特有の気まずい沈黙が流れた。

「友達と先生とじゃ、ちょっと違うんじゃないですかね」

「うん。まぁそうだよねぇ」

「先生とは仲良いからこそ、みたいなこともあるかもしれないですし」

「……え、そう見える?」

「なんとなく友達みたいだなーって思ってました。よく話してますし、その、お互い名前呼びじゃないですか」

 そう言うと、先生はあぁと小さく頷いた。

「春先につかささんから、名字じゃなく名前で呼んでほしいって毎日のように言われてたから」

「先生って、押しに弱いタイプなんですか?」

「あはは、正解」

 先生は肩にかかるゆるくウェーブした髪をはらって、少し恥ずかしそうに笑った。


「あ、でも冬見さんもそうじゃない?」

「言われてみるとそうかもしれないです」

「んー、じゃあそれが原因で困っていることとかは?」

「困っていること……いや、ないと思います」

「本当に?」

「……えっと、私ってそういう風に見えますか?」

「ううん、そういうわけじゃないけど。冬見さんって困っていても話さなそうだから」

 そういう風には見られていないのだと安堵したのと同時に、以前瑠奏さんに言われたことと同じようなことを言われて、自分の瞬きが多くなるのを感じた。

 大人の目線から見た私はそうなのだろうか。
 憶測や決めつけだとしても、そういう見られ方をしてるのだとしたら、他の人にだってそう思われているかもしれない。

 でも、困っていること……再び思考を巡らせてみても、特に何も浮かんではこない。

「部活とか、アルバイトでは?」

「部活は、先生も知ってる通り私一人なので」

「あ、うん。そうだよね」


「文集の原稿ももうすぐ書き終えますし、問題ないです」

「部活、冬休みはどうするの?」

「そうですね……えっと、さすがに毎日学校には来られないですし、いま屋上にあるものは家に持ち帰ろうかと思ってました」

「そっか。うん、その方がいいね」

「はい。バイトについても、お店の人やお客さんは優しくしてくれる人ばかりなので、困ってることはないですよ」

「今のところは大丈夫です」と私は言った。

「それに本当に困ったことがあったら、その時は誰かに相談しますよ」

「うん、そっか。わたしでもいいし、わたしじゃなくても、本橋さんたちなら聞いてくれるんじゃないかな」

「そうですね。聞いてくれると思います」

 私が頷くと、先生も同じように頷く。
 最初に出た名前が桃だったことに、なぜか安堵する。


 その後もなされる問いかけに、大して迷うことなくすらすらと言葉を並べながら、そういう模範解答的な答え方がかえって心配される一因な気がしてくる。
 言われた先生の方も、私の中での事実とはいえ、暖簾に腕押しのような返答を何度も続けられたら困るだろう。

 悩みの一つや二つはあった方が正常なのかもしれない。
 客観的に見て、心配されて当然なのだ。きっと。

「あとは、何か質問とかはないかな?」

 と最後に先生は訊ねてきた。

 ありませんと即座に答えようとして、でもそれはそれでと思ってちょっと考えてみることにする。
 私のそういう気持ちが伝わったのか、先生は立ち上がって窓の方へ向かい、薄ピンク色のカーテンを閉めた。薄曇がかかっていた空は紫色に染まっていた。

「なんでもいいんですか?」

 と戻ってきた先生に訊ねる。

「なんでもいいよ。冬見さんとこうやって話せる機会って貴重だから」

「そうですかね」


「うん。冬見さん、普段はガード固いし」

「あ、はい」

 そんなつもりはないのに、反射的に返事してしまった。

 まず最近はそこそこ話していたように思ったけど。
 でもまあそれは、他の生徒に比べたら話していないってことかもしれない。

 私はようやく思い付いたことを口にする。

「先生は、昔から高校の教師になりたかったんですか?」

「ん、もしかして冬見さんは先生に興味あるの?」

「いや、そういうわけではないですけど。単に気になったので」

「あぁ、なるほど。んー、どうだろうなぁ……」

 先生は昔のことを思い出すように、視線を上向けて悩んでるようなポーズをとる。

 しばし待っていると、先生は椅子にきちんと座り直すように姿勢を正してから、私の方へと目を戻した。

「多分、昔からってわけではなかったよ」

「そうなんですね」


「具体的に考え始めたのも、三年生になってからだったかな」

「なら、何かきっかけとかってあったんですか?」

「きっかけ……というか、それまでは目の前の勉強で精一杯で、その先について何も考えてなかったんだよね。
 でも、わたしには歳の離れた妹がいてね、両親が仕事で忙しいのもあって、よく勉強とかを見てあげていたの。
 それが楽しかったのと、シンプルに学校が好きだったから、進路を決めるってなった時に、この道を選んだんだと思う」

 話に耳を傾けていると、言葉を結ぶように「答えになってるかな?」と問いかけられたので、「はい」と声に出して頷きを返す。

 先生の妹さんについては、前に何かを話した時に名前が出たことがある気がする。
 たしかその時も今と同じように、首筋からすっと伸びている銀色のネックレスを握っていたはずだ。

「それって、妹さんからもらったものなんですか?」

「え? あぁ、うん……そうそう、妹からね」

 ぱっとネックレスから手を離すと同時に、急に今まで合っていた目が、宙を泳いだ。
 なんだろう、もしかして触れちゃいけないことだったのだろうか。


 怪訝に思う気持ちが顔に出ていたのか、持ち直すように先生はこほんと咳払いをした。

「うちの妹、いま大学生で海外に留学しててね、これはお姉ちゃんが寂しくないようにってもらったものなの」

「へー、海外に……」

「うん」

「すごく仲良いんですね」

「そうそう」

 頷いた先生は、普段教室で見るような微笑み混じりの笑い方ではなく、もっと慈愛に溢れたような、あんまり喩えが浮かばないような表情で笑う。

 きっと先生は妹さんだけじゃなく、家族のことがとても好きなんだろうと思う。
 ただの推測だけど、そういう感じがした。

「でも、よく分かったね」

「なにをですか?」

「このネックレスのこと。もしかして冬見さんのもそうなの?」

「あぁ。えっと、はい」


 私のはもらいものってわけではないけど、それでも同じようなものだと思う。
 髪を耳にかけるようにして上げて、右の耳たぶに触れると、立体的になっている部分だけが少し冷たくなっている。

「じゃあ、大切なものなんだね」

「……そうですね」

 昔のことを思い出しながら、私が今までしてきた選択には意思がどれほど含まれていたのだろうか、とふと思う。

 話の流れにはそぐわないし、結論なんてない問いだと初めから分かっている。
 でも一度考えてしまうと、怖い夢を見た後のように、しばらくの間は頭から出ていってくれない。

 消極的な選択にもいくらか意思は含まれる。
 選択権がないってことはありえなくて、いずれにしても意思をもって何かを選んでいる。
 だとしたら、その責任は全て私に帰結するのだろうか。

 そんなことを考えているうちに面談の時間は終わった。
 出来ることなら先のことよりも、今のことを見ていたい。明日からのテストは、少し考えるだけで憂鬱だけど。





 普段の放課後よりも少し遅れてバイト先に着くと、平日の夕方なのに五、六人のお客さんが来店していた。
 すぐに着替えて、これから上がりのパートさんと交代し、お正月の予約用紙が積み重なっているカウンターに入る。

 用紙を備え付けのファイルにまとめて、注文を受けて、売り尽くしのための値引きをして……と業務をこなしていると、時間はあっという間に過ぎていく。

 休日の朝のように忙し過ぎてもつらいけれど、逆に暇すぎるよりはほどよく忙しい方がマシだ。
 でないと、今日みたいな日にはひたすら歴史用語やら化学の公式やらが頭の中を駆け巡っていそうで、それはそれで困る。

 そういう日でも、十九時半を過ぎる頃には客足が鈍くなる。
 店内を移動しつつ花の残量を見て、発注内容があっているかどうか、水が濁っていないかなどを確認していく。
 この仕事は以前はパートさんの仕事だったけれど、いつの日からかこの時間に一人でフロアにいることの多い私がするようになっていた。

 まあ、でもそれだって流れ作業のようなものだから、もう慣れたものだ。
 あらかた終わってきたこともあって、ペンを止めてぼんやりと何か別のことを考えそうになっていると、事務所の方から瑠奏さんがやってきた。

「霞さん、お疲れさまです」


「あ、お疲れさまです。もうすぐ終わりますよ」

「そうですか。じゃあ、掃除しちゃいましょうか」

 今日は早めに閉めの作業をするらしい。
 用紙を瑠奏さんに渡した後、二手に分かれて店内を掃除していく。

 その間、もうお客さんは来ないだろうと判断したのか、瑠奏さんは割と普通目な声量で私に話しかけてきた。
 内容は、大通りにあるカフェの新商品、スタンド花をせっかく作ったのに直前になってキャンセルされたこと、と移り変わっていくうちに、今日の面談についての話になる。

「推薦をもらえるのなら、ありがたく受け取る方が良いのではないですか?」

 と瑠奏さんはきょとんとしたような表情で言う。

「楽できるなら楽しましょうよ。楽することは悪いことではないですよ?」

「そうなんですよね」

「ですです。それにしても、霞さんって成績優秀だったんですね。テスト期間でも入ってくれているので、てっきり勉強は捨てているのかと」

「さすがにそれは……」


「ふふ、冗談です。霞さんは真面目ですから、成績が良いことくらいわかります」

「いや、ただちゃんとやっていないと迷惑がかかるので」

「迷惑ですか。何に対してですか?」

 瑠奏さんと店の真ん中付近で合流する。
 何に対してって言われると、それは。

「やっぱり霞さんは大人ですね」

 そんなに間が空いたわけではないけど、瑠奏さんは私の返答を待たずしてそう続ける。
 話し方やニュアンスからして、ただの褒め言葉ではないように思えた。

「ずっと子供でいるよりは良いんじゃないですか?」

「まぁ、それはそうですよ。わたしみたいに何歳になっても子供扱いを受ける大人になるくらいなら……」

「あ、すみません」

「謝らないでください、今更身長は伸びませんし顔つきも変わりませんし」

「あっはい」

「まあ冗談はいいとして、子供は小さな大人ではないって言うじゃないですか」

「えっと……まぁなんとなく聞いたことはあると思います」


「あれはつまり、子供であることを経験しないと大人にはなれないってことですよね」

「そうなんですかね」

「実際のところは分かりませんけど」

「……えっと、つまりどういうことですか?」

「つまり、」

 瑠奏さんは一拍置くように溜息をつき、細い首筋をすっと伸ばして私を見上げる。

「とりあえずでもいいですから、大学には行っておいた方がいいと思いますよ」

「……えっと」

「何か問題があるわけではないのでしょう?」

「まぁ、多分」

「って、結局途中で辞めてしまったわたしが言ってもぜんぜん説得力がないですよね」

 瑠奏さんは真面目な顔をすぐにやめて、おどけるように苦笑する。


「……その、やっぱり、そうだったんですね」

「はい。言ってませんでしたか?」

「聞いていたかもですけど、記憶にはないです」

「まぁ、かなり昔のことですからね……」

 過日を懐かしむように、瑠奏さんは大人っぽい表情で私に笑いかける。

 きっと瑠奏さんが思い出しているのは、私がまだ小学生だった頃のことだろう。
 瑠奏さんは二十歳くらいで、その頃にはもう、大学を辞めてしまっていたのだろうか。

 毎日会っていたはずなのに、鮮明に覚えていることは少ない。
 きっといろんなことを忘れている。忘れたくないようなことも。逆に忘れたいようなことの方が覚えているのかもしれない。

「おばあさまなら、霞さんに何て言うんでしょうね」

 瑠奏さんはささやくような声音で言う。

 今まではその時のことを話して来なかったから、その言葉が少なからず意外に思える。

「それは……自分で決めなさい、じゃないですかね」


「そうですね、お嬢さま」

 自然な流れで発された言葉に目が開く。
 からかうような表情で、瑠奏さんは私を見ている。

「懐かしくていいじゃないですか」

「……あれって何だったんですか?」

「あれは、おばあさまとの戯れですよ」

「あの、よく分からないです」

「ふふっ、たまには昔話もいいですね」

 ちゃんと答えてくれなさそうだし、そもそも深く訊ねる意味もないので諦めた。
 どうして急に昔のことを話そうとしたかは、十中八九気まぐれかな。

 動いているうちはそれほど寒く感じないのだが、こうして長い時間立ち止まっていると途端に冷えてくる。
 会話が途切れると尚のことそれを感じて、自分の腕を抱くようにしてさすると、瑠奏さんはふっと口角を上げて、私の動きを真似した。

「もう閉めちゃいましょうか。着替えてきていいですよ」

「あ、はい。分かりました」

 早く帰そうとしてくれるのはいつものことだけど、今はテスト期間だからか更に早い。


 事務所に戻って帰りの身支度を整えていると、ロッカーに置いていたスマートフォンがブルブルと小刻みに振動していることに気付く。
 通知の内容からして、つかさと栞奈が桃と私を含む四人のグループで金曜のことについて話しているようだ。

『明後日は走るので動きやすい服を持ってきて』

『あいよー』

『あと荷物も軽めに』

『はーい』

『つーはスマホ見ずに勉強してなさい』

『はあ? 今もやってるし! なめんな!』

『はいはい怒らないでー』

『栞奈きーらーいー』

『はいはい、とりあえず明日明後日頑張ろー』

『うん!』

 既読を付けたので、適当なスタンプを押す。
 すると、つかさから、

『ふゆゆバ終?』

 と間髪入れずレスポンスが返ってくる。


『そう』

『おつかれい』

『ありがとう』

『わたしはさっっっすがに今日は休んだよ』

『そっか』

『うん。そんな楽勝そうなふゆゆも明日明後日はりきっていこー』

『楽勝じゃないけど、おー』

 つかさが何かのキャラクターのスタンプを送ってくる。
 同時に「ありがとなのー」と音声が流れてひえっと心臓が跳ねる。

 何がありがとうなのか。私と同じで適当かな?
 と思っているうちに、栞奈が「どういたしまして」とデフォルメされたパンダが舌を出しているスタンプを送ってきた。

『栞奈のそのスタンプかわいいな』

『そうでしょ。いる?』

『え、ほしー』

『ポイントあるからあげるよ』

『わーいやったー栞奈だいすきー』

 すぐにグループ内にパンダのスタンプが何個も連打されてくる。


 桃はまだ見ていないっぽいけれど、もしかして勉強中だろうか。
 いや、もしかしなくてもテスト前日であれば勉強していて当たり前な気がする。

 それにしても、本気で走るのか。冗談だと思ってた。滝から温泉まで、何キロって言っていたかな。

 そこそこの距離を走るとなると、桃のことが少し心配になる。
 運動は得意なのだと勝手に私は思っているけど、桃は結構体力がない。

 九月のマラソン大会でも、ひと目見てわかるくらいへろへろだった。
 折り返し付近でリタイアしようと私から言い出そうと思ったほどで、走り終えた後もしばらくぼけーっとしていた。

 ちなみに栞奈はぶっちぎりで校内一位。すごい。体力おばけっていうのはこのこと。
 途中まで一緒に走っていたつかさもそこそこ高い順位だったらしい。帰宅部なのを考えると、つかさもすごい。

 なんとなく今回も二人はいつもの如く競争し始めそう。
 私は競争する気概なんてないし、それとなく伝えて桃と走って(歩いて)いこうと思う。まだ二人が競争するかは分からないけど。

 友達とどこかに出かけるとなれば、こういう風にいろいろ先回りして考えてしまいがちなのは、これまでに出かけた回数が少ないからだろうか。


「桃さんはどうなんですか?」

 レジ締めを終えて戻ってきていた瑠奏さんが、ふと思いついたように訊ねてくる。
 ちょっと考えて、さっきの話からいって進学するかどうかだと察する。

「大学進学って言ってましたよ」

「そうなんですね。この前から気になっていたんですけど、桃さんとは親友なんですよね?」

「親友と友達って、何が違うんですか?」

「ええと……さあ? 自分で言っておいて何ですが、親友がいたことないのでわからないです。霞さん次第じゃないですか?」

「そうですか。まぁ、そうですよね」

 そもそも、親友っていうか今は……。
 いや、そんなに簡単に分けられるものではないか。

「おばあさまにも教えてあげたいですね」

 優しげに小さく笑みを溢した瑠奏さんは、シュシュを外して眼鏡をかけ、パソコンの画面へと目を向ける。
 いつものことだけど、まだ仕事が残っているらしい。

「そうですね」

 と少し遅れて頷きを返しながら、この繋がりは出来ることならいつまでも切れてほしくないと、心の一番外側で思った。

今回の投下は以上です。
間隔が空いてしまい申し訳ないです。

おつです





 一日目の試験をまあまあな感触で終え、独特な脱力感を覚えながら教室を出る。
 ちょっとだるい感じの私と違い、いつものように涼しい顔をしている栞奈と二人で向かったのは体育館。

 学校指定の体育館シューズの靴紐を結んでいる私をちらっと見ながら、

「じゃあ、さっさと終わらせちゃうから」

 と栞奈はカゴに入ったボールを両手で掴む。

 半円の外側に立った栞奈の手を離れたボールは、綺麗な弧を描き、リングに吸い込まれていく。
 連続で何本か放ると、その度にネットがシュッと高い音を立てる。

 入った本数を指で数えてみる。十回シュートを決める度に次の場所に移動しているみたいだ。
 一つの場所はだいたい十三、四本で終えていて、十本で終わるところもあった。

 なんというか、素人だから分からないけど芸術的だ。
 一切乱れない規則的なフォームで、まるで機械のようにシュートを決めている。
 ぱちぱち拍手したくなる感じ。ていうか今している。


「すごいね」

 コートの外からそう呟くと、私たち以外に誰もいなかったせいか、声が体育館内に大きく響く。
 すると栞奈がリングの下から私めがけてボールを投げてくる。ノーバウンドでキャッチできずにわたわたしているうちに、すぐ近くに栞奈はやってきていた。

「ありがとう。でも外しすぎたから恥ずかしい」

「え、アレで?」

「うん」

 手でぱたぱたと顔を扇いで、栞奈は苦笑する。
 毎日のように放課後練習を頑張っているのは知っていたけど、実際にバスケをしている栞奈は初めて見る。

 このところ多い体育の自由時間でも、人数の関係でバスケはしていなかった。

「いつもどれくらいやってるの?」

「はっきりとは決めてないけど、シューティングは朝と練習後に五百本くらいかな。今日は朝に四百やったから、もうすぐ終わり」

「へぇー、すっごい」


「ま、日課なのよ。勉強もそうだけど、こういう再現性を高める作業は嫌いじゃないから」

「栞奈ってやりこみタイプだよね」

「そうだよ。知らなかった?」

「うーん、そんな感じっては思ってた」

 トランプとかオセロとか、前にみんなでやったゲームなんかも、めっちゃ手練れだったし。
 もっと正しく言うと、やりこみタイプというよりは、勝負事では積極的に勝ちにくるタイプかな?

 さっきもそうだったが、何かに取り組んでいる時の栞奈の表情は真剣そのものだ。
 言うなれば目がマジってやつ。私は逆立ちしてもそうはなれなさそうだから、すごいなと常々思っていた。

「まぁそこが、私の良いところであり悪いところ……とは分かってるのよ」

「うん……そうなの?」

「周りを引っ張っていけるタイプじゃないからね」

 困ったような顔をして私からボールを受け取った栞奈は、もう一度リングの方へと走って向かっていき、シュート練習を再開する。

 やっぱり運動部は大変だ。それが団体競技なら尚更。栞奈みたいにキャプテンならより一層。
 水飛沫のようにネットを揺らし続ける栞奈を見ながら、そんなことを考えた。





「なんかノってきたから、もう少しやっていこうかな」

 黒色の長袖Tシャツを捲って、栞奈はコートの外にいる私にそう告げてくる。
 何本も連続でシュートを決めていて、すごい全然止まらないなーと思っていたところだった。

「長くなりそうだから、霞は戻って勉強しててもいいよ」

「んー、でも今日ちょっと疲れたから」

「そしたら遊んでればいいじゃない」

「邪魔になるかなって」

「なるほどね」

 教室では、桃とつかさが明日の数学のテストに向けて勉強しているはずで、邪魔にはなりたくない。

「霞は数学得意だから、心配しなくていいか」

「まぁ赤点はないと思うし」

「とか言いつつ、ちゃんと家では高得点取るために勉強しているって私にはバレてるぞ」


「えー、バレてたかー」

「不真面目そうに見えて中身めっちゃ真面目だよねっていうのが、霞に対しての公式見解」

「なんの公式だそれは」

「秘密の公式」

 とかなんとか、胡乱な会話をしている時に、ガラッと体育館の扉が開く音がした。栞奈が鳴らしているのと同じ運動靴の音が廊下から耳に届く。

「やっぱりキャプテンでしたかー」と栞奈を見つけるなり駆け寄っていくのは、いつぞや廊下で見たことがある一年生。

「誰かと思えば、渡辺じゃない。何しに来たの?」

「えー、シューティングですよー。キャプテンいるかなーって思って、ほらほらちゃんと着替えてきましたし」

「ふうん、そう」

「もー。あたしが来て嬉しいですか? 嬉しいですよね? やったーあたしも嬉しいです! 来てよかったー」

「私まだ何も言ってないよ」

「またまたー、キャプテン素直じゃないんだからー」

「はいはい」

「あ、パス出ししますよ? ていうかしちゃいますよ」

「いやしなくていいから」


「なんでですかー、しますよー」

 渡辺、と呼ばれた子はぐいぐいと栞奈に迫っていく。
 見た目の印象通り明るい子だ。語尾の全てにハートマークが付いていそうな話し声は、聞いているだけで胸焼けしそうなようなくらい甘い響きをしている。

「あのね、渡辺」

 と栞奈が露骨に面倒そうな口調で言って、こちらを指差す。

 私の姿を確認したその子は、遠目で見て分かるくらいに「わひゃっ」と肩を跳ねさせる。お化けを見た時のような反応はやめてほしい。
 そして栞奈に連れられてこっちにやってくる。なぜかしょんぼりとしていた。

「これはすぐ調子に乗る問題児の後輩」

 栞奈はその子の背中を押して、頭を下げさせる。

「どうもー、こんにちはー……」

「こんにちは」と微妙な気持ちで挨拶を返す。私には普通の喋り方なんだ。

「いきなりうるさくして申し訳ないです」

「あ、いや体育館だし」

「ほんと、ほんと申し訳ないですー」

「はあ」


「その、キャプテンのお友達さんですか?」

「あーえっと、そう」

 私の返答に、何かを感じ取ったのかもしれない。
 渡辺さんは途端にさっきの勢いを取り戻し、上目遣いで見つめてくる。

「もしかして、キャプテンの彼女さん?」

 私との距離をじりじりと詰めようとする渡辺さんの後頭部を、栞奈が「こら」と素早くチョップする。
「あいたー」とオーバーに頭をおさえる渡辺さんは、痛がっているのになぜか嬉しそうにしている。

「なに訊いてるの。彼氏いるって渡辺に何度も言ってるじゃない」

「でもそれは非実在カモフラ系彼氏なんじゃないかって、本当は校内に彼女がいるんじゃないかって、あたしたち一年の間では噂なんですよ?」

「いないし、どうしてそんなことする必要があるのよ」

「だって、キャプテンに訊いても彼氏さんとのこと惚気ないしー。部活ばかりでデートとかもしてないみたいだし、インスタだってお友達との写真ばかりじゃないですかー」

「ちゃんといるから、変な噂を流すのはやめて」

「あたしが言ってるワケじゃないですよー」

「渡辺しかいないでしょ。それにこの先輩にだって相手がいるのよ。冗談でもそういう質問はやめなさい」


「えっ……それはそれは、大変失礼しました」
 
 急にかなり萎れた様子で、また頭を下げられる。
 会ってすぐだけど、感情の上下がジェットコースターな子だというのははっきりと分かった。

「いいよ、全然」

 そう言うと、私の目をじっと見た渡辺さんは、背丈と同じく小さめな唇を弓なりに曲げた。

「ありがとうございます、冬見先輩。やはりお優しい」

「……私、名前言ったっけ?」

「ふふふ、あたしたるもの、この学校の見目麗しい人のことは大体把握しているのですよ」

 ドヤァと効果音が聞こえそうなくらい得意げに胸を張る渡辺さんに、「うわぁ……」と栞奈が頬を引きつらせる。
 本気ではないにしろ、だいぶ引いているっぽい顔だ。

「わ、キャプテン。ジョークですからね。ほんとはキャプテンと仲の良い方たちを把握しているだけですからね」

「そっちの方がきもいけど……ていうか、それならさっきの霞への質問は何だったのよ」



 そうだ、たしかに何だったのだろう。
 二人で目を向けると、渡辺さんは一瞬表情を途切れさせて、

「えへ」

 と甘えるように舌を出した。

「渡辺?」

「あ、あっほんとごめんなさい!」

 叫びながら、脱兎の如く逃げる渡辺さん。
 栞奈が付き合わずに追いかけないでいると、ちょっとしたら戻ってきた。

「こんな感じでも、一年生の中だったら一番上手なの」

「はーっ、キャプテンに褒められると照れますねー」

「こんなところで練習してる暇あれば勉強しなさいってくらい、毎回追試にかかってるんだけどね」

「うぐっ、それを言われると弱いです……」

「でもそれが渡辺の判断なら、私は何も言わないよ」

「そっ、そうですよねー。あたしは一日でも早く愛するキャプテンと一緒に試合出たいですし、練習しないと」

 一瞬たじろいだ渡辺さんは、すぐに取り直したようにへらっとした口調で言葉を紡ぎ、栞奈を二の腕を取ろうとする。


 それを一歩後退して躱した栞奈は、ちょっと悔しそうにする渡辺さんにふっと笑いかけながら、体育館の照明によっててかてかと光っているボールを渡した。

「まぁあんまり気負う必要はないよ。渡辺とはどうせそのうち一緒に出ることになるから」

「えー? そうなんですかー?」

「うん、多分ね」

「そいじゃ、出たらいっぱいアシストしちゃいますよー。ほかの先輩より、あたしのパスの方がいいに決まってますし」

「はぁ、またそうやってすぐ調子に乗る……」

 テンポのいい掛け合いの後、栞奈は自分の練習を終わりにして、渡辺さんのシュート練習に付き合い始めた。

 議論の余地なしに、栞奈はめっちゃいい先輩だ。
 さっきまでの調子の良い顔ではなく真剣な面持ちになる渡辺さんも、多分めっちゃいい後輩なのだろう。

 これぞ運動部の青春、という感じがする。
 比喩じゃなくまとう空気がきらきらしている。これが俗に言う青春の輝きなのだろうか。

 そんな二人に飲み物でも買ってこようかなと思い、体育館からすぐの場所にある自動販売機に行ったところで、

「霞ちゃん」

 と、横から声がかかった。


 顔を向けると、淡いピンク色の長財布を手に持ったクラメスメイトの子がこちらを覗き込んできている。

 きっちりと左右対象に結ばれたリボンに、膝丈より少し長めのスカート。
 あるのか分からない校則を一つも破っていなさそうな見た目からは、彼女の真面目さがうかがえる。

 彼女は最近友達になってほしいと言ってきた子で、最近よく視線を感じる子。
 視線を感じるのはこの子だけじゃなくて、この子の友達らしい人からもだけど、今はその話はいい。

「瑞樹ちゃん」

 そう呼んでほしいって、月曜日に言われた。

「自習室で勉強してたの。で、喉渇いて。冬見さんは何してたの?」

「私は体育館でバスケ」

 をする栞奈を見ていた。
 と言おうとしたが、瑞樹ちゃんが途中で「へー」と頷いたので、最後まで言わずに言葉を止めた。

「桃ちゃんと一緒に?」

「ううん、栞奈と一緒に」

「あぁ、栞奈ちゃん。たしかバスケ部だもんね」

「そうそう」


「霞ちゃんは何買うの?」

 話が途切れると、間を置かずして質問をしてくれる。
 途切れさせるのはほぼ百で私だから、毎回負担を強いてしまっている。

「決めてなかったけど、お茶にしようかな」

「なら霞ちゃんに会えたことに運命感じたから、一緒のお茶にしよ」

「運命ね」

「ふふっ。そう、運命」

「そっか、うん。どうぞ」

 また会話が終わる。何も分からない会話だ。自動販売機の駆動音と、ピッというボタンの音。
 お茶に口を付け、はぁと白い息を吐いた瑞樹ちゃんは、「そういえば」と体を反転させて自動販売機に背中を預け私に正対した。

「霞ちゃんって一人っ子?」

「うん」

「へー、やっぱり」

「……というと?」

「んー、なんかそれっぽい?」


「そっか。瑞樹ちゃんは?」

「お兄ちゃんが二人いて、末っ子だよ」

「へえ、お兄さん。大学生?」

「二人とも大学生」

「上の兄弟がいるって、なんかいいね」

「うんうん」

「優しくしてくれそう」

 自傷ダメージにならないように気を付けながらだと、それ以上の話の広げ方が思い浮かばなかった。

 また次の話題を振ってくれるから、話自体は続いた。同じことを問い返すことはあっても、基本的には私の話。
 それで瑞樹ちゃんは楽しいのかなぁとは思ったけれど、価値観は人それぞれで、彼女からしてみたら楽しい楽しくないの物差しではないのかもしれない。

 けど、もしかしたら次はないかも、と思う。

 今まで私に興味を持ってくれた友達(になりかけた人)もこういう感じで、
 あまり仲良くなれたとは言えずフェードアウトしていったことを考えると、既視感を覚えずにはいられない。

「次からはなんとかしよ」

 そう呟いてみたはいいが、具体的に何をとまでは考えないあたり、また同じようになるのは目に見えている。


 まあ、でも、そうなったらそうなったで……。

「……いいと思ってるんだろうな、きっと」

 口にするつもりのない言葉が、意図せずこぼれる。
 追って、溜息が出た。頭の中で思うのと言葉にしてしまうのとでは、意味がまるで違ってくるように思えたから。

「独り言きーちゃったー」

 そこに校舎の影からつかさがひょこっと出てくる。

 なにかやってるなと思ったら、頭を左右に振り低い位置で結ったポニーテールを揺らしながら、顔の前で手を丸めて双眼鏡を作っている。
 聞いた、というよりは見たことを表すポーズ。

「見てたなら、話しかけてくれればよかったのに」

「垣間見は楽しい」

「なにそれ古典?」

「うむ。それにわたしは知り合いではない」

「それはそうだが」

「まーわたしも苦手だから、気持ちはわかるわかる」

 つかさは跳ねるような足取りで私の隣に並び、肩をぽんと軽く叩いてきた。


「苦手ではないよ。話してて、いい子だと思うし」

「ん? んー、いや、苦手ってのは、人付き合いの方」

「……あー、それは苦手」

「だよね。どうにも苦手なんだよなー。学校の人付き合いとかは特に」

 手を離して、つかさは制服の外ポケットから小銭を取り出し、おしるこを買った。
 ホットドリンクの温度は五十五度付近、という雑学を披露してきた後に、その場にしゃがみ込む。

「ふゆゆにさ、わたしの中学の時の話ってしたっけ?」

「聞いたことないと思う」

「そ。聞きたい?」

「つかさが言いたいことなら」

 普段はあまり合わない目線を合わせると、二重瞼の大きな目よりも、長い睫毛に目がいく。
 あまり見ていても話しづらいかなって視線を下ろしたら、つかさのイメージに似合うハイカットのスニーカーが存在を主張してくる。
 つかさは何でもないような素振りで言った。

「わたしさ、中学三年の夏休み前から卒業まで学校に行かなかったんだ」


「それって、いわゆる」

「不登校だな。理由はまぁいろいろだけど、でかかったのは人間関係とか人付き合いをミスったことでさ。だから、今でもちょっと苦手なんだよ」

 私の返事を待つように、つかさは閉口して視線を手元の缶に向ける。

「そうなんだ」

 頭の中で五秒数えてから言うと、

「いや、反応薄いな……」

 と、つかさは困ったように頬を掻いた。

「わたしの百八個はある秘密のうちのひとつを教えてあげたのに」

 煩悩の数、あるいは除夜の鐘の数。とツッコミを入れる場面かと思ったけど、なんとなくスルーする。

「私の秘密も言った方がいいかな」

「ってなるのを、へんぽーせーというって栞奈が教えてくれた」

「なにそれ。秘密を明かすと、相手も明かしてくれるってこと?」

「相手のことを知れば知るほど仲良くなれるらしいよ」


「じゃあ今仲良くなれたんだ」

「なにをー。わたしとふゆゆは元から仲良いだろー」

「そうだね」

 うん、とつかさはニコニコ笑う。
 二年になったばかりの頃には、こうして普通に話せるほどに仲良くなれるとは思っていなかった。

「さっき言ってたけど、ふゆゆって一人っ子だったんだ」

「がっつり聞いてたんじゃん」

「耳がいいからなー。ちなみにわたしも一人っ子」

「ん、知ってる。前に桃に聞いた」

「へー……あ、んで栞奈はお兄さんがいるな。イケメンの、医学部の」

「それは知らなかった」

「栞奈は家族のことを話す時はちょっと不機嫌になる」

「そうなの?」

「なんか地雷っぽいから、気を付けた方がいいよ」

「そういう話はしないから大丈夫」

「ま、そうだよねー」

 けらけらと笑うつかさに釣られて、私の口元も緩む。


 覚えている限り、栞奈の不機嫌な様子なんて、私は見たことがない。
 機嫌の管理が上手い印象を勝手に抱いていたけど、つかさと二人の時はそうでもないのだろうか。

 つかさの言った通り、相手のことを知れば知るほど仲良くなれるのだろう。
 瑞樹ちゃんが立て続けに質問してきてくれるのはその一環で、私のことを知ってくれようとしている。

 価値観もそうだけど、友達の距離感も人それぞれ。やはり私は傍から見てガードが固いんだろうか。

 ひとつ言えるのは、私には相手のことを知りたいという欲求が不足しているのかもしれないということ。
 ……かもしれないっていうか、そうだ。知らなくてもなんとかなることなら、積極的に知りたいとは思わない。

「教えてくれた秘密のお返しはどうしたらいい?」

「やー、いいって。わたしが勝手に話しただけだから」

「でもそれじゃフェアじゃない気がする」

「たしかにそうかもだが……」

「じゃあ貸しいちで」


「あー、わたしそういうの普通に忘れるタイプ」

 首を振りながら言ったあと、不意に何かを思い付いたように、つかさはおしるこの缶の底を、ぽーんと手のひらに押しつけた。

「そんじゃ明日までにふゆゆに訊くこと考えとくぜい」

「私から言わなくてもいいんだ」

「あっそれもそっか」

「……いや、それでいいよ。明日までね」

「ちなみに何についてでもいいの?」

「うん。まぁなんでも」

 お手柔らかに、と付け足そうとして、別にいいかと口を閉じる。
 つかさの中での秘密の程度は分からないが、比肩するようなものを持ち合わせてはいないような気がしたから。

 明日は数2と日本史のテスト。終わったら滝と温泉。
 加えて、つかさからの質問に答える。そのほかにも細々とだけどやるべきことがある。

「明日は楽しみだね」

 缶の内部に残った小豆をどうにか飲もうと悪戦苦闘しているつかさに、そう努めて明るく声を掛けた。

今回の投下は以上です。

おつです

おつ





 はいそこまで、という先生の言葉で、二日目のテストを終える。
 感触は一日目と同じくまぁまぁ。数学は先生が言った通り少し複雑な問題が多く、日本史は記述式は少なく記号を選ぶ問題が多かった。

 回答用紙の回収から戻ってきたつかさは、「答え合わせしよーぜっ!」とテンション高く栞奈に声をかける。

 その様子を見るに、どうやら今日のテストは何とかなったみたいだ。
 昨日は下校時刻まで教室で勉強をして、その後は栞奈と二人でカフェに行って遅くまで確認をしていたらしい。

「いいけど、まだ半分だから調子に乗らないように」

「わかってるって」

「あ、ここ違ってるよ」

「え、マジ?」

「ここも」

「うわ」

 ……大丈夫なのかな。序盤の方のはずだけど。

「わたしたちも答え合わせする?」

 桃がつかさたちを眺めつつ、日本史の問題を手に椅子を寄せてくる。
 日本史は特に自信があったみたいで、明るめな表情でそれを何となく察する。実際、私が迷って外した問題も正答していた。


 そういうわけで、誰一人としてテストの手応えに落ち込むことなく、遊びに向かうこととなった。

 行き先へはてっきりバスなどで向かうのかと思っていたけれど、つかさのお母さんが車を出してくれることになっていたようだった。

 そして桃と栞奈はつかさのお母さんと面識があったようで、待ち合わせ場所で会うなり気さくに挨拶を交わしていた。
 私も車に乗り込む際に挨拶をすると「あなたが写真でよく見るふゆゆちゃんね」となぜか握手を求められる。
 応じようとしたら、つかさが「いーからいーから」と助手席から腕を伸ばしてそれを遮った。

「これからも娘と仲良くしてあげてください」

 そう続けたつかさのお母さんに対して、つかさはちょっと苛立ったように肩を叩くことで対抗していた。

 車内では最近じわじわと人気が出てきているらしい(つかさ談)アイドルの曲が延々とかかっていた。

 つかさもつかさのお母さんも、意外なことに栞奈もそのアイドルが好きらしく、お気に入りの曲やメンバーについてのトークを聞き流しているうちに、目的地に到着する。

 生活圏以外の地理には疎くて知らなかったが、桃とのデートの際に通った道から、一本分岐したところに滝があるらしい。
 そうすると、走って向かう温泉も、帰りのバスで団体客が降りていった温泉地のことのようだ。
 車窓からの田畑や低山が並ぶような風景には見覚えがあって、隣に座る桃に視線を飛ばすと、意図が伝わったようですぐに頷きが返ってきた。

 橋の上にある駐車場に降り立つ。外気はかなり冷え込んでいて、もう十二月ということもあり、見頃だとかなり綺麗だという紅葉はほぼ見られなくなっている。


 つかさのお母さんの車が走り去るのを見送り、南の方角からする激しい水音に耳を傾けていると、

「ふゆゆ、ももちゃん、栞奈。こっちこっちー!」

 と、つかさが数メートル前方から手を振ってくる。相変わらず動き出しが速い。

「つー、そんなに急がなくても滝は逃げないって」

「知ってる。しかしわたしが速いのではなく君たちが遅いのだ」

「ちゃんとした返事になってない。減点二十点」

「いやなんのテストだよ!」

 つかさと栞奈は、二人でハーフマラソンの大会に出た時に買ったというお揃いのジャージを着ていた。
 ベースカラーは同じで、差し色やフードの紐が、つかさは鮮やかなブルー、栞奈は暗めのグレーと色違いになっている。
 その配色はそれぞれのイメージ通りなように思えるし、逆なようにも思えた。

「この先はかなり段差あるみたい」

「わ、ほんとだ。しかも濡れてるね」

「転ばないように気を付けて」

 なんて喋りながらとぼとぼ歩く桃と私を先導するように、二人が滝壺へと続く遊歩道を進んでいく。


 その遊歩道の入口には、滝の詳細な説明や、落石注意、熊出没注意の看板が立っている。

 地面を埋め尽くすような落ち葉や、岩に生えた苔は見て分かるほどに湿っている。
 立ち並ぶブナの樹皮が異様に白く見える。侘び寂び。幽玄。そんな言葉が浮かぶ。

 進んだ先にある石段は幅が狭く、一人通るのがやっと。
 シーズンが終わりかけで人がいなくて良かった。

 滝が見え始める。高低差が凄くて白くて勢いがあって迫力がある。以外あんまり言葉で言い表せない。
 来た道を振り返ればかなり急な登り坂。斜めに生えた木々の隙間から見える空は初冬に映える淡い青色。

「夏だったら飛び込みたいくらい綺麗ね」

 滝壺に着くなり、栞奈は水面を見ながらそう言った。
 たしかに、さまざまな形をした小石がはっきりと見えるほどに澄んでいる。

 全体を俯瞰するように広く周りを見ると、岩肌に飛沫によって出来たミストが煙のように降り掛かっていて、小さな虹を形作っている。
 晴れていることや清流の反射も影響してか、辺りはきらきらと神秘的な輝きに包まれていた。

 滝の上には、一本だけ黄葉している木があった。


 雪が積もったらここはどうなるのだろう。来る途中の道路に赤と白のポールが立っていたから、ここはたくさん雪が降るのだと思う。
 これだけ大きい滝は凍らないだろうけど、近くの岩には氷柱がぶら下がってそうで、今よりも荘厳な雰囲気になっているのかもしれない。

 示したわけではなかったが、四人同じタイミングでやや濡れた岩場に腰を下ろした。
 私のすぐ隣で、流れる水に触れた桃の指先がびくっと跳ねる。

「冷たい?」

「かなり……手が凍りそう」

 水飛沫ですら冷たいのだから、直に触れたらめっちゃ冷たいということは容易に想像出来る。

 桃が私の手の甲を濡れた指でなぞる。

「……なに?」

「えっと、なんとなく」

 なんとなくらしい。しばらく手の甲で遊ばせてあげた。

 水を飛ばしあっているつかさと栞奈の様子を見て、私も桃にしてみようと思って、でもやらずにおいた。
 飛ばすには水に触れなきゃいけなくて、バイトで冷たい水には慣れているとはいえ、指が寒くなるのは嫌だった。


 最近は水仕事をしているうちに指の間が切れていたりする。今もそのかさぶたがひとつやふたつ。それに染みたら痛いに違いない。

「スキありっ」

 急に足元に水をかけられる。なぜか栞奈に。
 履いているのは運動靴で、メッシュ生地をつたって靴下や皮膚へと一気に水が染み込んでくる。

 声を出すより先に、とりあえず私はやり返した。

「おっと、やるねぇ霞」

「ぎゃー! ガチで濡れたし!」

 割と勢いが出てしまって、栞奈の向こうのつかさまで、いや、栞奈は後ろにジャンプしてほぼ避けたからつかさだけかなり濡れた。

「ふゆゆ許すまじぃー!」

 ラケットを振るようにビシャっと打った飛沫が、私のジャージの腰から下を直撃する。
 撥水加工された生地でよかったが、まぁ多少は濡れた。普通に寒い。

「あはは、ウケるウケる」

 そんな私を見た栞奈が珍しく手を叩いて爆笑する。
 今もまたあっさり避けていたけど、部活で敵を避ける時の経験が活かされているのかな? 反射神経を分けてほしい。


 つかさはその栞奈を狙ってもう一度水を切り、桃はなぜか私に物欲しそうな目を向けてくる。

 状況から考えて、どうやら水をかけてってことらしい。みんな濡れているし仲間はずれは嫌ってことかな。

 両手で掬った水を隣の腕に溢すと、桃は「ありがとう」と小さな声で言って満足気に口元を綻ばせる。嬉しいならいいけど。

「おーい栞奈、ジャン勝ちで靴下脱いで水に入ろうぜ!」

 それはさすがに季節を間違えている気しかしない。
 どう考えても真夏にする遊び方だろうに。

「えぇ、それはバカとしか」

「なに? ビビってんの?」

「そんな安い挑発には乗りません」

「ふうん?」

「あ、霞と桃ももちろん参加で」

 いや乗ってるじゃんか……なぜか私たちも入れてるし。
 この凍えるような冷たさの水に足を浸けることを想像して、ぶるっと肩が震えた。





 三十分から一時間ほどの間、滝壺でわいわい遊んだ。
 結局みんな水の中に入ることになったのは言うまでもなく、五年分くらいのマイナスイオンを経皮吸収した。

 それから来た道を戻り、更に進み、神社や屋台のある場所で休憩を取る。

 境内をぐるりと周る傍ら、つかさと栞奈はリュックから御朱印帳を取り出して、季節限定だという銀杏の刺繍入りの御朱印をもらっていた。

 来年のお正月は神社で短期のバイトをする、とつかさが団子を頬張りながら少し自慢するように言っていた。
 口ぶりから察するに、巫女服に憧れがあるようだった。

 私たちが滝壺にいる間は誰一人として降りてくる人はいなかったのだが、神社の横の滝見台には疎らに人がいた。
 やはりあの急な坂を登り降りするのはキツいってことだろうか。年齢層を見るに、恐らくそうなのだと思う。

 そして温泉まで走っていくという段になると、これもまた言うまでもなく二手に分かれることになった。
 今回は風呂上がりのアイスをかけての戦いらしい。かなり速めなペースで走る二人の後ろ姿は、あっという間に見えなくなる。

 隣を歩く桃は、少し足取りが重い様子だった。
 それもそのはずで、滝壺から神社までの距離はそこそこあって、体力自慢の二人のペースについていけば疲れもするだろう。


 歩みを止めた桃が靴紐を緩く結び直している間に、何か言うことがあったなとそれを思い出そうとする。
 足を動かすのを再開して、少し経って思い出す。

「そういえばね」

 と私より先に、桃がこちらを覗き込んでくる。

「ひなみがまた会いたいって言ってたの」

「ひなみちゃんが?」

「ふゆのこと気に入ったみたいで、また家に連れてきてーって」

「気に入られることなんてしたかな」

「あと、お母さんも会いたいって」

 ひなみちゃんと、桃のお母さん。
 家へのお誘い。

「へぇ、それって……」

「え?」

「あ、ううん何でもない。この土日?」

「ふゆに予定がないなら、うん。忘れないうちに」

「日曜の午後なら空いてる」

「ほんと? じゃあ日曜日にしよっか」

「次の日テストだし、勉強道具持っていっていい?」


「わたしも勉強するつもりだったから……その、時間が余ったらベクトル教えてほしいな」

「いいけど、まさかそっちが真の目的?」

 私の冗談に、桃はふふっと笑うだけで答えなかった。
 まぁ勉強ではないにしろ、決まった目的なんてないのだろう。

 歩いていくうちに地域の学校やスーパーなどが見えてきたが、昼下がりの微妙な時間帯だからか人の気配はあまりなかった。
 シャッターの降りた喫茶店の外にある室外機の上に、猫の親子が寝転んでいる。反対の車線では、何か分からない鳥が囀っている。

「私もね、そういえばなんだけど」

 今の流れだとさっき言おうとしていたことにちょうど繋げられると思い、そう切り出す。

「前に、桃も花を……クリスマスローズを育ててみたらって話になったじゃん。覚えてる?」

 桃はすぐにはっきりと頷く。
 忘れられていなくて、ちょっと安堵する。

「それで、どうしようねって考えていたんだけど、うちに鉢植えのクリスマスローズがあるから、日曜日に桃のお家に持っていくのはどうかなって」

「でも、持ってくるのって大丈夫なの? その、鉢植えの重さとか……」

「大丈夫。地下鉄で行くし、そんなに重くないから」

「そっか。それなら、うん。よろしくお願いします」


 妙にかしこまっているなとは思ったけど、私が提案したからではなく、本心で言ってくれているようだった。
 私の趣味に興味を持ってくれたことや、屋上で話を聞いてくれたことを含めて、それが素直に嬉しかった。

「あと六キロだって。走ろっか」

 温泉郷まであと六キロメートル、と書かれた看板を桃は指差す。割と距離を歩いていた。

「いいけど、疲れてない?」

「ううん。むしろ元気になった」

 桃は私に見せるように腕まくりをして、力こぶを作る。
 腕全体がかなり細いのに、その部分には意外と筋肉があった。
 それから前に数歩進んで、振り返った桃が言う。

「痩せたら体力まで落ちちゃったの」

「てことは、昔は体力あったんだ」

「うん。それでも今よりは、ってくらいだけどね」

 朝に走っている時よりは遅くて、ジョギングよりは速いくらいのまあまあな速さで走り始める。

 十五分ほどで息が切れてきていた桃に話しかけるのは少し躊躇われて、
 マジシャンズセレクトや、私のものより柔らかそうな桃の太ももについてなど、ぼんやりと頭に浮かんだことについて考えながら走った。


 武家屋敷を思わせるような厳かな見た目の旅館に着いてからスマホを確認すると、グループトークに「先に温泉入ってるよ」と栞奈からメッセージが来ていた。
 受信した時刻は五十分前で、分かっていたが今回も本気で走ったらしい。

 白い提灯が吊り下げられた、掃除が行き届いていると感じられる入口から中へ入り、フロントで日帰り入浴の手続きをする。
 地下の大浴場がオススメですよ、と受付の人が教えてくれたので、そっちに向かう。

 途中には金屏風や、錦鯉が泳いでいる池があり、日帰りとはいえ値段より豪華じゃないかと半ば感動する。

 赤い暖簾をくぐった先の脱衣場は広く、鍵付きのロッカーは空いているものが多い。
 二人からの返信は来ていないから、いくつかの温泉のうちのどれかに入っているのだろう。

 汗で湿った服を脱ぎながら、誰かと一緒にお風呂に入るのっていつ振りだろうと考えたが、そもそも温泉自体が中学校の修学旅行以来だった。
 でもその時も、誰かと一緒に入った気はしなかったと思う。転校したばかりで友達がいなかったからだろう。

 すぐ隣にいるはずの桃の動きは鈍く、音一つしない。
 バレないように様子を窺うと、まだ着たままのTシャツの裾に指が中途半端に掛かっている。


 無意識に出かかった言葉を喉奥に押しとどめて、

「先に行ってるから」

 とだけ告げて、タオル一枚だけ持って大浴場への引き戸を開ける。

 するとすぐに、廊下を通ってくる時にも感じた檜の匂いが鼻をくすぐってきた。
 全体的に薄暗いが、格子上の檜が窓の役割を果たしていて、そこから陽の光が差し込んできている。その奥では川が流れているのが見える。

 頭と身体を洗っているうちに、桃がやってくる。
 シャワーを片手に手を振ると、控えめに手を振り返してきてくれた。

 桃は髪が長いから洗うのは大変そうだ。あそこまで綺麗だと、手入れなどにかなり時間をかけているのだろうと容易に想像できる。

 洗い終えて、吹き付ける風に肌寒さを感じながら湯船へと足先を付け、温度の具合を確かめてから浸かる。
 家だとシャワーで済ませることが多いから、こうして熱いお湯に足を伸ばして浸かるのは本当に久しぶりだった。

 一つ左の湯船に何か浮いている、と思って目を凝らすと、様々な色のバラだった。"薔薇風呂"と案内板のようなものに文字が彫られているのが目に入る。
 それに書かれた文を読むにそちらの方がお湯の温度が少し低めなようで、一度上がって移動する。

「となり、入るね」

 後ろから桃の声がしたので、見ないまま頷いて、一人分くらいの間隔を空けて湯船へと足を進める。


 入ってみると、こっちの湯加減の方が丁度良かった。
 でも長湯は体質的なものなのか無理なので、肩まで浸かっているとだんだんと身体に熱がまわって視界がぼやけてくる。
 おそらく摘み立ての花弁からする甘い香りは、檜と喧嘩していなく、良い感じに調和している。

 小さい頃はよくのぼせていたなぁと思いつつ、段になっている部分に腰を掛けると、桃もそうしていたみたいで顔の高さが同じになる。
 お湯のせいか火照ってピンク色に変化した頬や、お団子にまとめた髪が新鮮だった。

「桃も温泉得意じゃない感じ?」

 ばっちり目が合ってしまったので、そう訊ねてみる。

「……ふゆもそうなの?」

「こうやってたまに来るくらいならいいけど、まぁ落ち着かないよね」

「うん」

「それに、熱いの苦手なの。あーあつい……」

 熱くなった首から上を手のひらでぱたぱた扇ぐ。
 血流が活性化されているのはいいことなんだろうけど、それによる心地良さは長くは続かない。

「意外な弱点だ」

 硬かった表情を崩して、くすっと桃は微笑む。
 ほんの一瞬だけ目が揺らいだ気がしたけど、まあ気のせいだろう。


 湯船に再度浸かって、体力ゲージが秒を追うごとになくなっていくような感覚を味わう。

 すると不意に、首筋に冷たい何かが触れる。

「ひゃあっ」

 と思わず高い声が出て、身体が跳ねた。

「二人ともここにいたんだ」

「遅いぞー。わたしらもう上がるよー」

 首をめぐらせて見れば、栞奈とつかさが床にしゃがんでいる。
 冷たいのはつかさの手だった。なんなんだ。

「ふゆゆ、わたしなんか変わってない? わかるぅ?」

「んーわかんない」

「もぉー、ちゃんと見てくれよなー」

 身体の向きを変えて見てみたけど、いつも通りのつかさで違いがないように見える。
 言わせたいことじゃないんだろうけど違うのは、顔全体が茹で上がったように上気していて、目がとろんと潤んでいること。


 そんなつかさを見て、栞奈は口元に手をやって笑っている。保護者的な笑い方だ。

「サウナで私に勝負を挑んだりするから、この子少しダウン中なの」

 あぁどうりで……。
 テンションがおかしいのはサウナのせいか。

 というかなぜか熱を帯びたような視線が私の身体の一部分に固定されている。
 ……これもサウナのせいかな?

「で、どう? 霞は気に入ったんじゃない?」

「あ、うん。この薔薇風呂のことでしょ?」

「そうそう。何かで聞いたことあってね、霞と来るならここかなって、前々から目星はつけてたのよ」

「それはまた、どうも」


「おとなりの桃は?」

「うん。わたしも……」

「ならよし。外で涼んでるから、気にせずあとはお二人で、ごゆるりと」

 半ば桃の言葉を遮るようにして、栞奈はフラフラ歩くつかさを浴場の外へと引っ張っていった。
 一体いつからサウナに入っていたんだろう。

「……私たちもサウナ入ってみよっか」

 冗談でそう言ってみると、桃の表情は瞬時に微妙なものに変化する。

 桃ってこんなに分かりやすく反応していたっけ。
 まあ誰しも苦手なものは顔に出る……いや、出ない方が希少か。

 てことは、サウナも苦手と。
 入ったことはないけど、それは多分私も同じだ。

「じゃあ五分経ったら上がろう」

「うん。その、ありがとう」

 と、桃は控え目に笑った。マッチポンプみたいだったけど、とりあえず頷きを返した。





 髪を乾かして、少し桃のことを待ってから、休憩所のようなところで栞奈とつかさに合流する。
 つかさは既に回復しているようで、アームが弱そうなゲームコーナーのクレーンゲーム機で遊んでいた。

 先客が休憩所を後にして目の前の卓球台が空いたので、なんとなくそこに四人で集う。
「負けた人は飲み物奢りで」と栞奈がラケットを構えた。個人戦だとすれば悪い方の意味で結果が目に見えているので、ダブルスを提案すると、あっさり可決される。

 うらおもてでペアを決めたら、つかさが相方になった。
 ちょっと練習しようという流れになって何回か打ったり打ち返したりをしてみたが、サーブからして覚束ないのは私だけで、他三人は器用に卓球をしている。

 栞奈はピンポン球に回転をかけているし、桃も見よう見真似で同じようなことをしている。
 捻りのないものでも打ち返せるか半々なのに、あんなのされたらひとたまりもない。

「先に言っとくけど、ごめんつかさ」

「ん……いや、わたしは勝つぞ」

 そうつかさは意気込んでいたが、まぁ普通に負けた。
 ちょっとぐらい手加減してくれてもいいんじゃないか、と思うくらいには私が集中砲火で狙われた。


 こっちも栞奈との勝負は避けて桃を狙ったけれど、その桃がそつなく返してくるからあまり意味がなかった。
 それにつかさもなぜか急に対戦中に精細を欠き始めたから、もはや一対二どころか〇対二だった。

「いってらっしゃい」と桃が手を振って見送ってくれる。

 桃もいつの間にか普段の様子に戻っていたようだった。
 相当温泉が苦手だったのか。というか、語弊がある表現かもしれないけど、落ち着かないのが苦手なのだろう。

 ……いや、桃「も」じゃなくて桃「は」になった気がする。廊下を連れ立って歩くつかさの様子がおかしい。
 何か深い考えごとをしているように俯いている。

「ほぼ私のせいだから、つかさは自分のだけでいいよ」

「うん」

「栞奈はコーヒー牛乳で、桃はフルーツ牛乳だっけ」

「うん……」

「私は何でもいいや。つかさは何にするの?」

「……」


「……つかさ?」

「えっ? え、あ、なに?」

「いや、なんかぼーっとしてるから」

「あ、うん」

 と、何に対しての反応も乏しい。

 エレベーター横の自動販売機の前に着いたところで、ふと昨日の会話を想起する。
 秘密のお返しの件。

「今日までの質問、考えてきてくれた?」

「あー、質問な。質問なー……」

「忘れてたのね」

「いや、うん。質問ね……」

 忘れていたらしい。まぁ私もだけど。

 つかさは顔をこちらに向けたが、目が合うわけでもなく、代わりに妙にじとーっとした視線が私の上半身に注がれている。

 いや上半身っていうか、胸部。服の内側。さっき温泉内で感じたのと同質のもの。
 反射的にその眼差しとの間に壁を作るように腕を抱いた私を見てか見ずか、つかさはごくりと喉を鳴らす。


「それって」

「うん?」

「それって何カップあんの?」

「え」

「あっ」

 つかさは口元を押さえて、まずいという顔をする。
 急に夢が醒めて現実に戻ってきたような、そんな顔。

 一瞬にして、湯冷めするほどにこの場所の空気が凍った気がした。

 まさかそういう路線の質問だとは思わなくて、呆気に取られて口を噤んだ私とは対称的に、

「や、ミス。ミスった。今のなし、忘れて」

 と、つかさはあたふたした様子で声を上擦らせ、いつもっぽくオーバーに両手をすごい速さでわちゃわちゃ動かす。

「……なんでもって約束だから、べつに答えてもいいよ」

「こ、答えなくていい。友達にセクハラしたくない」

「もうしてるのと同じじゃない?」

「ごめん」

 許しを請うような目をされると、ちょっと困る。


 私の薄い反応を悪いように捉えたのか、つかさは「うちの学校水泳ないしさ」とか「意外とでかいなーなんて」とかいろいろ言葉を重ねたが、
 驚きはしたけど怒ったりしたわけじゃないから、弁解というより更に深く自白させてしまった。

「謝らなくていいよ。今までも訊かれたことはあるから」

「は、誰に?」

「誰にって。そういうことを訊いてくる人はいるでしょ」

「あーまぁ」

「まさかつかさがそうだとは思ってなかったけど」

「ごめんなさい」

 でも、私たちが特別しないだけで、友達同士の会話としては普通なのかもしれない。
 学校で、特に体育の時間なんかにクラスメイトがしている会話が耳に入ると、そういった話題になっていることは多々あるように思う。

 それに前にもつかさからセクハラめいた何かを言われたことがあるような気がする。

 パンツ見えそうだとか、腹筋触らせてとか、彼氏いたことあるのとか……こうして考えると案外普通寄りなのかな。


「で、質問は?」

 とはいえ私にはつかさをイジって楽しむ趣味はないので、打ち切って話を戻す。
 これでまた同じことを訊かれたら、この先つかさを『他人の胸の大きさが気になる人』と意識して過ごすことになるかもしれない。

「あー、えっと……」

 当たり前だがそうはならなくて、つかさは咳払いをする時のように、丸めた手のひらを唇に当てた後、わざとらしくキリッとした表情で頷く。

「ももちゃんとどうなったの」

「……どうなったって?」

「……」

 それくらいわかるだろって言いたげな瞳と唇の動き。

 ……まぁわかる。わかるが、このことについては、意味を取り違えて不用意なことを言うのは避けたい。
 私だけのことだったらいいけど、そうじゃないのだし。

「桃とは、付き合うことになったよ」

 声にしながら思ったことを、間髪入れず付け加える。

「でもわざわざ訊かなくても、もう知ってるでしょ」


「うん。……お見通しか」

 別にお見通しとか、そんなのじゃない。
 つかさなら私より先に桃に訊くよね、っていうただの勘だった。

「答えを知ってる質問でよかったの?」

「あー、じゃあもうひとついい?」

「どうぞ」

「いつまでとかって、ふゆゆの中ではある感じ?」

「それは考えたことなかった。でもまぁ、桃が満足するまでじゃないかな」

 つかさが口を開けて、数拍だけ固まった。

「やっぱりふゆゆって変わってるな……」

「そう?」

「まー、そこが良いところか」

「……ありがとう?」

「どいたま。ついでにわたしのことも褒めて」


「えっ。つかさは、目がきらきらしてて綺麗だと思う」

「もう一声」

「涙袋がデカい」

「目ばっかだな。ちなみにこれ天然」

 照れ隠しなのか、ほのかに赤い色が差した頬を両手で包んで、つかさはぱあっと明るく笑う。
 かわいい仕草と笑い方。とても真似できそうにない。

「そのチャームポイントの目で見守っててください」

「おー、言われなくても」

 もうちょっとこう、具体的なことを言えればいいのだが、なにぶんいろいろなことが不透明すぎる。
 では鮮明にしたいのかといえば、それはまた別の話で。

 でもせっかく友達から彼女へと関係が変わったのだから、桃にはそうなって良かったと思ってほしいし、この関係を楽しいと思ってほしい。

 我ながら抽象的すぎるなと思うけど、そのためにまず私がすべきことは、今までと比べてより能動的に、桃という人について知る努力をすることだろう。

 知らないことをどうにかするには、それを知るための努力をするか、もしくは知っているふりをするしかない。
 知っているふりは楽で労力を伴わない。が、楽した分だけどこかで必ず皺寄せがやってくる。


 なら努力する、ないしそういう意識を持って相手と接することを心掛ける方が、長い目で見て悪いようにはならないはずだ。

「ね、行きの車の中で流れてたアイドルの曲、つかさのおすすめ教えて」

「なに、もしや興味持ってくれた感じ?」

「まあそんなところ」

「へぇーそういうことなら、あとでMVのリンク送るよ」

 そしてそれと同時に、つかさとか、周りのことについても知っていこうとしなければならないだろう。

 そうでないと、桃とのことも、私自身の在り方も、意図せぬ方向へと進んでしまいかねない──と思う。

「お、栞奈からラインだ。早く戻ってこいって」

「うん。戻ろう」

 頼まれていた飲み物を買って先ほどの場所に戻ると、つかさのお母さんが迎えに来ていた。

 旅館を出る際に隣り合った栞奈が、「長かったけど、つーと何話してたの?」と訊ねてくる。
 そういえば昨日はスルーしたのだったと思いながら、「桃と私の話」と答えると、栞奈は理解がいったように前を歩く桃に目を向けた。

 その栞奈が視線を上向けたのに釣られて、ふと見上げた空は深い群青色に染まっている。
「ブルーモーメント」と呟く声がハモる。中学校の理科の授業で聞いたことを覚えていたのだが、結構有名な言葉だったのか。


 この場所から家が一番近いのは栞奈で、大きなマンションの前で車を降りる際に、私が出発時に言われたようなことを、つかさのお母さんから言われていた。
 そして次に近い私が最寄駅の近くで降ろしてもらった時も、また同じようなことを言われる。

 口調は軽いものだったが、つかさのお母さんは、つかさのことを、特に友達付き合いについてかなり心配に思っているみたいだった。

 それにはきっと、つかさが昨日教えてくれたことが関係している。
 人付き合いを間違えたと言っていたし、何かと気にする素振りを見せるのは、それを経てのことだと思うから。

 中高一貫だったということは中学受験をしていて、でも人付き合いの関連する何かを契機として学校に行けなくなってしまって、
 おそらく周りの環境をリセットするために、高等部には進まずに私と同じ高校を受けて……と知っていることと推測を繋ぎ合わせるように考える。

 考えて、なら、つかさと同じく学校を変えた桃はどうだったのだろうと思う。

 つかさと同じように何かがあってなのか、幼馴染のつかさと一緒の高校を望んでなのか、もしくは特に理由らしい理由はないのか。
 普段なら思わないはずなのに、こればかりは少しだけ気になった。

 だって、もし桃がそのまま進学して、今の高校を受験していなかったとしたら、桃と私が出会うことはなかったはずだから。

今回の投下は以上です。

おつです

このSSまとめへのコメント

1 :  MilitaryGirl   2022年04月19日 (火) 22:49:06   ID: S:a2GOC7

今夜セックスしたいですか?ここに私を書いてください: https://ujeb.se/KehtPl

2 :  MilitaryGirl   2022年04月20日 (水) 01:48:55   ID: S:qtj2rR

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3 :  MilitaryGirl   2022年04月20日 (水) 21:05:48   ID: S:Ud9ZHV

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4 :  MilitaryGirl   2022年04月21日 (木) 00:19:42   ID: S:3g2N8K

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