五十嵐響子「紐帯」 (106)
字の文有りモバマスssです。
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ハンドルに手を添えて、握る手に少しだけ力を籠める。
ルームミラー越しに後ろの様子を覗いてみても、他の車の影が一つも見えない瞬間が度々ある。
アクセルを少しだけ緩めて、備え付けのデジタル時計に目線を向ける。
午後十一時を少し越えて、すっかりあたりは更け込んでいた。
延々と続く夜道に車を走らせていると、助手席に座っている彼女の気配を見失ってしまうことがある。
それは煙草の煙が消えるみたいに、自然に失われてしまう感覚に近い。
ばかばかしいことだと思いながらも、横目で彼女がそこにいるのかを確かめてしまう。
そうして隣りに目線を向ける度に、やはり彼女はそこに座り続けているし、飽きることもなくずっと眼前に流れる景色を眺めている。
変装のためにかけている鈍い金色のふちの眼鏡が丁寧に輝いていて、頭のかたすみでこれでは余計に目立って逆効果じゃないかと思った。
冬が融け、漸く春の兆しを感じられるようになった季節のことだった。
カーナビゲーションにアイコンが浮かんでいる。
「響子」
左手をハンドルから離して、髭の生えつつある顎を撫でた。
「はい」
僅かな間を置いて、口元に柔らかい笑みをたたえながら、彼女がこちらを向いた。
ふちの細い眼鏡の向こう側に、琥珀色の瞳がのぞいている。
「お腹、空いてないか。すぐ先にコンビニがあるみたいだけど」
こんな時間になにかを食べるのもどうだろうと思いはしたものの、彼女があまり夕飯を摂っていないことの方が心配だった。
「そうですね」
少しだけ俯き加減に悩む素振りを見せると、やがて彼女は照れたように表情をほころばせた。
「寄ってもらっても、いいですか?」
僕は頷いて、車を揺らさないようにハンドルを切る。
下道とはいえ都心から一時間も運転を続ければ、景色の殆どはいたって平凡な街並みに切り替わる。
商業用地と住宅用地の混じった街を走っていると、この近くのどこかに帰り着く家があるような錯覚を覚える。
誰の目にもつかないような、小さな一軒家が。
目的の場所まで、まだ三十分ほど道のりがある。
僕も彼女も、車に乗っている時はラジオも音楽も聴かない人間なので、車内は静かだった。
こんな夜中にも、街のはずれにある小さなコンビニエンスストアは煌々と明るい。
車を停めて外に出ると、残っていた冷気が身体を擦り抜けた。
しんとした空気に巻かれながら、連れ立って店の中へ入った。
籠を持って店内を回る彼女から離れて、自分の分の買い物を済ませる。
コーヒーと、あとは適当に目についたガムを購入した。
彼女は小さなパンを幾つかと、ペットボトルの紅茶を購入する。
車に戻って車内灯をつけた。
手に提げられたビニール袋から彼女が購入した商品を取り出す度に、かさかさという音が立つ。
彼女の膝に乗せられたそれを見てみればパンが二つ、どちらも総菜系のものだった。
「そんなにお腹空いてた?」
笑いながら尋ねると、彼女は少しだけ頬を赤らめて首を振った。
「こんなに私は食いしん坊じゃありませんっ」
そう言うと彼女はそのうちの焼きそばパンを手に取り、袋を開けて中身を取り出す。
そのまま慎重な手付きでもって半分にちぎると、片方を僕に差し出した。
「半分こ、しませんか?」
そこにきて漸く、彼女の選んだパンが二つとも僕の好みのものであることに気付く。
「気を遣わなくてもいいのに。でも、ありがとう」
素直に受け取って、礼を言う。
厚意に遠慮したところで、彼女がそれを聞いてくれないことは経験的にわかっている。
「だって、一緒に食べた方が美味しいじゃないですか」
彼女は嬉しそうに微笑んで、それからパンにかぶりついた。
相槌を打って、僕も食べる。
心をくすぐられるような、面映ゆい心地がする。
彼女はアイドルで、僕は彼女のプロデューサーだった。
振り返れば、五十嵐響子というアイドルは常にひかりを放ち続けていたように思う。
赤みがかかった髪をサイドにまとめて、いつもにこにこと微笑んでいる。
あらゆる場面において、彼女はなによりも笑顔が似合った。
見た目には取り立てるほどの特徴を持たない子ではある。
それでも、彼女には華があった。
なんでもない風景さえ、彼女がそこに佇むことで色付いた。
彼女は、欠かすことのできないパズルの大切なピースだった。
それは彼女の美徳の一つと呼べた。
公式プロフィールで自分の趣味を家事全般と答えるアイドルを、僕は彼女以外に知らない。
家事とは誰にだってこなせるものであり、生活の一部であるはずなのに、彼女はそれを趣味として挙げていた。
どうしてなのかと理由を尋ねると、驚いたことに彼女自身うまく答えられないらしかった。
曰く、気が付けばなんとなくしているらしく。
曰く、そうしていると心が落ち着くからと。
そう言いながら頬を掻いて、彼女ははにかんだ。
彼女の魅力はひとえに、そこにあるのだと思う。
彼女が事務所の仲間入りをしてから、それまでよりも事務所の雰囲気が明るくなった。
それは決して思い込みでも誇張でもない。
そしてその変化の源は、常に彼女だった。
事務所にいる間はいつも、誰かの世話を焼きたがった。
よく使う資料をファイリングして、目につきやすい場所に置いてくれた。
いつも自分にできることがないかを探し、そうでなければ差し入れとして簡単なおやつを作って振舞ってくれた。
事務所が忙しい時期には、年少組のアイドル達の面倒も率先して見てくれた。
聞けば、アイドル達の住む女子寮の寮長のような役割も担っていたらしい。
彼女のいう家事とはただ掃除や洗濯をするだけに及ばず、誰かの手助けをしているという方が意味合いとしては近い。
ただ、それを人助けと呼ぶのは、ニュアンスを掴めていない気がする。
詰まるところ彼女は、相手の願いを受け止め、それを叶えて喜ばせるのが好きなだけなのかもしれなかった。
その行為を彼女が家事と訳したのは、アイドルになる前はそれが主として、自分の家族に対して向けられたものであったからなのだろう。
彼女の家事は、やはり一般に呼ばれるそれとは一線を画していると、今でもそう思う。
その行為の先には常に相手がいて、その相手に対する働きかけに意義があった。
たとえ小さく地道なことであっても、逆にそうであるからこそ、きちんと気持ちが届くのかもしれない。
彼女の家事について、ひいてはその奥にある彼女そのものについて理解が深まるほど、彼女の輝きを感じられた。
アイドルとしての彼女は、普段事務所で見せている雰囲気とは少し異なる。
愛らしい見た目からは想像もつかないほど、負けず嫌いなところがあった。
つい間違えてしまうステップや、今一つ切れを演出できない振り付けに出会うと、身体が覚え切るまで復習を重ねた。
勢い込んで臨んだ本番ので、それでも自分の思ったようなパフォーマンスを発揮できなかった日は、悔しくて涙を零すこともあった。
そうして時々つまづきながらも、前を向き続けることだけはやめなかった。
良いアイドルになれるようにと、ずっとそれだけを目指しているように見えた。
彼女は、瑞々しい新芽だった。
デビュー当初の彼女は、不思議なくらい人気が出なかった。
僕も彼女もまだまだ新米で、空回ってしまうことが少なくはなかった。
努力の割に思わしい結果を得られない日々が続いて、彼女には辛い思いをさせてしまった。
それでも、同僚の前では見られたくない姿を晒すことはなかった。
いつものように一歩引いたところで、にこにこと微笑んで家事をこなしていた。
普段は周囲から頼られることが多いだけに、安易に弱音を吐きづらくなっていたのかもしれない。
「どうすれば私は、輝けるんでしょう」
その代わり、僕と二人でいる時に、彼女が弱音を聞かせてくれたことが増えた。
困ったような表情に少しだけ思い詰めた様相を呈して、後ろ向きな言葉を吐いた。
思うように運べなかった仕事の後悔ごとを話してくれたし、アイドルとはどうあるべきかという想いも聞かせてくれた。
皆にひかりを振りまける存在でありたいと。挫けそうな人に、勇気を与えられるようになりたいと。
僕はそれに相槌を打ち、時々返すべき言葉を返して、後は静かに聞いていた。
申し訳なく思う一方で、嬉しくも思った。
普段から甘えることが苦手な彼女が、この時ばかりは甘えてくれていたから。
一頻り言い終えると、決まって彼女は謝った。
それからまた、夜中に影を探すように、懸命にひかりを追い求め続けた。
どんな仕事も手を抜かず、楽しむ時は皆で一緒に。
彼女のアイドルとしてのスタイルは、明快にして簡潔だった。
その眩しさもある。それと、彼女が抱えている清らかさと。
僕が彼女に対して最初に抱いた感情は、ある種の敬意に似ていた。
時々、息抜きと称して彼女を連れ出すようになった。
大抵の場合はスケジュールの空き時間だったり仕事先までの送り迎えに、車で近くを寄り道をする程度のものだった。
辺りを転がしながら、することといえば、ただ話すだけ。
僕も彼女も、車に乗っている時はラジオも音楽も聴かない人間だった。
僅かでも気を抜ける隙間を作ることができればというくだらない発想で、それでも自分なりに考えた結果だった。
そうすることで、彼女に気を遣いたかった。遣っているつもりだった。
なにかと理由をつけてドライブに誘う僕に、彼女はいつも笑って乗ってくれた。
きっと、なにもかも見え透いていた上で。
話の内容も他愛なく、だけど、そうであるほど心地良かった。
たくさん話をした覚えがある。今でも思い出せるのは、どれもくだらないことばかりだった。
彼女がリラックスした顔を見せてくれたりすると嬉しかった。
たとえ小さく地道なことであっても構わなかった。
それが、僕が彼女にできる家事だった。
プロデューサーである僕には、特に世話を焼いてくれた覚えがある。
仕事が長引いた夜には夜食の差し入れをくれることもあったし、書類仕事を覚えてサポートしてくれることもあった。
そうした彼女の厚意に遠慮をしても、半ば強引に世話を焼かれた。
そのくせ、僕がなにかお礼をしたいと言うと、普段からの恩返しなのだからしなくてもいいと断られた。
だったらと、僕は仕事の上で彼女に還元することにした。
質の良い仕事を。周りの仲間と切磋琢磨しつつ、幸せで、夢のある時間を。
そうしてまた気が付けば、彼女からのお返しに満たされていることが常だった。
いつの間にか、彼女が折れてしまわないようにと始めた習慣に、別の意義が息づいていた。
回数を重ねていく中で、馴染みの場所のようなものも幾つかできた。
春先になると道沿いに綺麗に桜が咲く遊歩道もその一つだった。
夜になるとナトリウムランプが点灯して、その淡い色合いが花弁をくるんだ。
彼女がいたくそれを気に入ってからは、時間を見繕っては訪れるようになった。
オフの日に外を出歩いていても、目に入るものや思考に紐づいて彼女のことを考えることが増えた。
意識をしないと、視線が勝手に彼女を探すようになっていた。
いつの間にか僕は彼女のことを好きになっていた。
心の殆どを占められて漸く、それを認めることができた。
持つべきではない感情だという自覚はあった。
彼女は仕事上のパートナーであり、その身は彼女一人のものではなかった。
プロデューサーの自分が身勝手な想いをぶつけるなんて、絶対にしてはいけない。
それは人生をかけてアイドルをしている彼女に対して、これ以上なく酷い仕打ちでしかなかった。
感情を自覚してからも、以前と変わらないように彼女に接することを心掛けた。
人付き合いに長けている彼女は、感情の機微に聡いから。
心の奥底にしまい込むように努めた。
彼女がより高みに昇り詰めていくのをすぐ隣りで見ていながら、信じもしない神様に祈りたくなることがよくあった。
彼女は誰よりも綺麗だったし、愛らしかったし、魅力的だった。
アイドルとしての磨きがかかるたび、胸の奥がちくりとした。
柔らかい笑顔を向けてくれるたび、目を逸らしたくなった。
それでも僕は彼女のプロデューサーだったから、最高の彼女を演出する役割を担い続けた。
それからも彼女は、アイドルを続けた。
悩みや迷いを抱えることはあっても、決して諦めることなく。
相変わらず身の回りの世話を焼いてくれたり、いつだったかはホームパーティに招待してくれたこともある。
季節を重ねる度に、小さな家事のやり取りの中に、彼女の柔らかい笑顔が心に焼き付いた。
アイドルとしての彼女は、着実に実力を身につけ、立派に咲き誇れるようになっていた。
メディアに登場しない日はないほど、人気を得るまでになった。
伸び悩んでいたことさえ、遠く昔に隠してしまったかのように、完璧に。
彼女が二十歳の春のことだった。
彼女はドームでスプリングライブを敢行し、大勢のファンからさんざめく喝采の雨に巻かれた。
彼女にとっても挑戦的な規模の箱で、そこで誰をも唸らせるほどのステージを決めてみせた。
もちろん今日に至るまでに、クオリティの高いものを作れるようになってきてはいた。
だけどその日のライブは、過去のどの瞬間の彼女をも超えていた。
その夜は東京でちょうど桜が見頃で、春にさえ祝われた彼女を隣りに乗せて、女子寮まで車で送った。
文句一つつけられないようなステージをこなして、それなのに終演後の彼女には晴れやかな笑顔がなかった。
間違いなく今までで一番の出来だったのに、まるでそうだったからこそ、戸惑いを覚えているような。
助手席で彼女は、身体中の神経をほどいてしまったように、シートに背中を預けて眠り込んでいるようだった。
赤信号で車を停めた時に、眠ったものだと思っていた彼女が、こちらを向いた。
「Pさん」
「うん?」
「正直に、聞かせてもらえますか」
「うん」
彼女は一度くちびるを舐めて、浅い呼吸を置く。
「今日のライブは、何点でしたか?」
小さな子供のような声色だった。
「満点だよ、僕としては」
改めて今日を振り返りながら、真面目に答えた。
「そう、ですか」
「じゃあ響子は、自分で何点つける?」
フロントガラスを見つめて、彼女は暫く黙り込んだ。
「九十点、です」
そう言って、力のない笑みを浮かべる。
信号が変わり、彼女を揺すらないように慎重にアクセルを踏む。
「はじめは、スカウトで入ったこの世界でした」
彼女のしなやかな声は、いつだって花のように脆く美しいものを想起させる。
「なにもかもが初めてで、だけど、すぐに好きになりました。私には信頼できる優しい仲間がたくさんいたから」
彼女がもう一度、こちらを向いた気配があった。
「アイドルを始めた頃は、今よりもずっと、アイドルをできていた気がするんです」
「アイドルを?」
「はい。もっとファンに楽しんでもらいたいとか、どうすればもっとたくさんの人に聴いてもらえるのかとか、そういうことばかり考えていました」
彼女が短く息を整える。さっきの言葉の余韻が切れてしまう前に続けた。
「今は違うんです」
「今はただ、今のように過ごせるのが嬉しくて仕方ないんです。今日だって」
「ファンに届けるというよりも、自分がそうしたいから歌っていました」
きっと、アイドルとしては失格です。
穏やかに、彼女はそう呟いた。
ライブをするその姿を袖から眺めているだけでさえ、彼女が心の奥底から楽しんでいることがわかった。
ステージの上で、心を優しく握られるような、強引なまでの魅力を振りかざしていながら。
今日というライブを作り上げるにあたって、彼女がどんなに時間と努力を費やしたのかを僕は知っている。
それなのに、そんな自分がアイドルの資格を失っていると彼女は言う。
疲労からか、時折彼女は眠たげにまぶたを瞬く。
そういえばずいぶん昔にも、彼女なりのアイドル観を聞かせてくれたことがあった。
誰か一人にだけではなく、皆に平等にひかりを振りまける存在でありたい。
挫けそうな人に、勇気を与えられるようになりたい。
「こんなにも自分というものの在り方が不安定だったのに、」
「心から気持ち良く歌えました。ファンのありがとうが、全部聞こえたような気がしました」
「間違いなく、人生で一番のライブでした」
彼女は落ち込んでいるようにも、喜んでいるようにも見えた。
彼女が佇んでいたステージを思い返す。
ファンが声を枯らして応援するアイドルを。
スポットを満身に浴びて、悠然と立つその居姿を。
生涯掛かっても触れることのできない宝石の輝きが、乱反射を起こしているようだった。
そのひかりに晒されると、立てなくなるくらい切なくなって、それ以上に綺麗だと感じた。
そうして、何度も何度も重ねて思うのは――――
ただ、彼女には笑顔が一番似合うということだった。
やがて僕と彼女は、女子寮の駐車場に辿り着いた。
車を停めて、エンジンを切って、まったく穏やかな気配の満ちる中で、聞こえるのは微かな呼吸の音だけだった。
言葉は自然に口をついて出た。
「今日のライブは、本当に素敵だった」
彼女はこちらを見つめて、少しだけ困ったようにはにかんで、なにも言わなかった。
「一曲目のサビ前のステップ、完璧だったじゃないか」
その一言で、彼女の表情に驚きが混じった。
難度の高い振り付けで、何度も繰り返し練習を重ねている姿を見ていた。
それが本番では、呼吸をするように自然に決められていた。
その瞬間を袖で見ていて、嬉しさのあまり、すんでのところで声が出てしまうところだった。
「新曲の高音部もちゃんと伸びてたし、リズムも捉えられてた」
指折り数えるようにして、彼女の成長点を挙げる。
「MCだって盛り上がってた。時間の配分もぴったりだった」
他にも良かったところは、数えきれないくらいあった。
たくさんあった課題点のすべてを、彼女は綺麗に克服してしまった。
気の遠くなるような彼女の努力がきちんと報われていることを、すべて教えてあげたかった。
「響子のライブを見ながら、ただ嬉しかったんだ」
「僕と一緒に歩んできたアイドルが、こんなにも大きくなってくれたことが」
そう言って彼女の、その小さな頭を撫でた。
苦しくなるほど、美しい。
その輝きは、必ずファンの心に届く。
自分らしく輝きたいようにひかるアイドルのことを、ファンはきっと温かく見守ってくれる。
一生懸命なその姿を、ずっと追いかけてくれる。
「響子の頑張りは、ちゃんと届いている」
彼女が頑張る姿を見ているのが好きだった。
彼女が自分のことをうまく褒められないのなら、その分まで代わりに僕が彼女のことを褒めてあげたい。
無責任なこの言葉に、彼女を笑顔にする力が宿っていてほしかった。
彼女がふわりと微笑む。
花が香るようにそっと頬を緩ませて、僕を見ている。
柔らかくて、息が詰まってしまうほどの表情だった。
「ありがとう、ございます」
その大きな瞳のふちに、真珠のような涙が溜められていく。
やがて彼女が、小さくまぶたを震わせた。
彼女の頬を涙の筋が這う。
ひかりの乏しい車内でそれは、小さな星のように映った。
頭を撫でながら、なにを泣くことがあるんだと笑ってやった。
整ったメイクを崩して彼女はただ、ごめんなさいと言った。
そうして次の瞬間に彼女の両手は、震えながら、頭を撫でていた僕の手を掴んだ。
掴んで、ついと引き寄せた。
「あなたのことが好きです」
ぎゅっと目を閉じたまま、祈るように、恐れるようにして、彼女は言った。
言葉は水のように、遅れて滲むように理解できた。
短い一節と、僕の手を掴む彼女の手の震えとがある。
ただそれだけのものによって、胸のうちを感情が渦巻いた。
彼女の嗚咽が、潮が満ちるようにして次第に大きくなっていた。
僕は彼女の手を、空いていたもう片方の手を重ねて包んだ。
苦しむように泣きながら、彼女は力なく僕の手に縋った。
きめの細かい手先を包んで、ひたすら震えが収まるのを願った。
今この瞬間は、どんな言い訳も関係なく、そうしなければいけないような気がした。
そうしていながら、今なお信じられなかった。
自分と同じように彼女がそう想ってくれていたことが。
疑うつもりも、否定するつもりもなく、ただ正しく受容することができなかった。
自分の中でなんとかつけられていた折り合いが、崩れていく。
喜びよりも、痛みの方が先行した。
僕は、どうすればいいのだろう。
「響子」
暫くして落ち着いた頃に、彼女の名前を呼んだ。
目を開けた彼女と視線がぶつかる。
辛そうな顔をしていた。
その瞬間に、嫌でも理解できてしまうものがあった。
彼女の瞳の中に、僕が抱えているものとそっくりの痛みを見出せた。
「……ごめん、なさい」
「謝らなくていい」
「Pさんのことを困らせるつもりはなかったんです」
消え入りそうな声で、彼女が呟いた。
「困ってなんかないよ」
彼女の手を握ったまま笑ってみせようとして、うまく表情が作れなかった。
「でも、ごめん。響子の気持ちには応えられない」
彼女が、静かに息を吐く。
どこにあるのかも判然としない臓器の痛みが、ずっと暴れていた。
「いいんです、いいんです」
口角を僅かに上げて、申し訳なさそうに笑う。
「本当はずっと言うつもりはなかったんですけど、なんというか、Pさんに褒めて貰えて、嬉しくなっちゃって」
彼女は目尻に涙を残したまま、努めて明るく振舞った。
「忘れて、なかったことにしてください、すべて」
彼女はひどく穏やかに、そう告げた。
目の前で彼女が痛々しく傷付いていくのが、手に取るようにわかった。
その想いを言葉にするのに、どれだけ勇気が必要だったことだろう。
彼女は自分が背負っているものや、遂げたい夢を秤にかけてもなお、伝えてくれた。
それがどういう結果に至るのかも決まりきっているのに。
これまでの二人の関係を壊してしまいかねない言葉だというのに。
きっと彼女は自分が言ってしまったことを、これから先も悔やみ続けるのかもしれない。
それを想像するだけで、心にひびが入ってしまう思いがした。
そのひび割れから、染み出すものがあった。
それを自覚した時には、もう自分では抑えられなくなっていた。
僅かだった流れはとめどなく溢れ、やがて制御が利かなくなってしまう。
口にしないと決めた言葉さえ、呆気なく口に出てしまった。
「僕だって」
声が震えるのを押しとどめようとして、中々収まらなかった。
「響子のことが好きだ」
「ずっと好きだったんだ」
どうしてか、泣いてしまいそうになっている。
言葉にして初めて理解できることがあった。
不安で、恐ろしくて、寄る辺を失ってしまったような心地がした。
彼女も同じようなことを感じていたのだろうか。そんなことを思った。
「P、さん」
呆けた表情をして、彼女が僕を見つめていた。
目があってしまう。
そうして綺麗な顔をくしゃくしゃにゆがめて、恐らく彼女も僕の痛みを悟った。
なにかを言おうと口を開いて、なにも話せなかった。
彼女の瞳が、またしても潤う。
本当に好きだった。
ずっと痛かった。
その視線や、線の細い輪郭や、愛らしい声さえ。
それとまったく同じだけ、愛おしい。
この感情を、なんというのだろう。
お互いに相手を想っていることが判明した今、どうしてこんなに苦しいのだろうか。
僕と彼女には立場がある。
彼女がアイドルとして、僕がプロデューサーとしていなければ、そもそも出会うことも想いあうこともなかった。
時に呪わしく感じられるそれが、しかし二人にとっての紐帯に他ならなかった。
「でも、響子には未来がある」
静かに、言い含めるように伝えた。
僕と彼女はもう、昨日までの関係に戻ることはできない。
なにも知らないふりをして笑いあうことは生涯叶わない。
お互いに抱えているものの中身を知ってしまった今、最も憂慮すべきことは、彼女のこれからの活動だった。
この苦しみによって、無垢な笑顔を曇らせてしまわないだろうか。
華々しい未来に、影が差してしまわないだろうか。
当たり前のように享受できていた日常が、「つぎ」の瞬間には立ち消えてしまわないだろうか。
いつ訪れるとも知れない「つぎ」が、怖かった。
彼女のことが、なによりも大切だった。
それ以上に恐ろしいのは、彼女の輝きが減じられてしまうことだった。
彼女の誇りに、これまでに欠かすことなく続けてきた努力や、背負い続けてきた夢に、傷を付けたくない。
いつまでも、彼女の支えでありたかった。
それでも彼女のことが、心の底から好きだった。
一体、僕はどうすればよかったのだろう。
ふと、握りしめられている方の手に、温かな圧力を感じる。
彼女は自らのその柔らかな手指に、僅かに力を籠めていた。
「車に乗って、息抜きをするのが好きでした」
涙の滲んだ声が聞こえる。
「私のために気を回して、それを全然鼻にかけることもしないで、Pさんは笑っていてくれました」
「とても、嬉しかったです」
「人気の出なかった私を、未熟だった私を見捨てることもしないでくれました」
「ずっと一緒に頑張ってくれました、頑張っているところを見ていてくれました」
「とても、嬉しかったです」
彼女の手の温かみが、ひかりのように優しく包んでくれている。
「正直に言うと、苦しいです」
「人をこれほど好きになるのも、その人に好きと言ってもらえるのも、すべて」
「でも私はこの苦しみさえ、愛おしく思います」
あなたとだから、耐えることのできる痛みです。
まぶたを赤く腫らしながら、彼女は小さく微笑んだ。
僕は彼女になにごとかを伝えたくて仕方がなかった。
うまくまとまらない言葉を、なんとかして。
それでも口を開いてしまうと、ぼろぼろに泣いてしまう予感があった。
「私はこれからもアイドルを続けます。叶えたい夢も、歌いたい歌も、まだまだたくさんあります」
「でも、どれも私一人ではどうにもできないことが多くて、」
「やっぱり、私のプロデューサーは、あなたでなければ、だめみたいです」
困ったように、嬉しそうに、笑い声を零した。
とうとう我慢することができなくて、僕は少しだけ泣いてしまう。
視界がぼやけている僕の手を優しく取って、温め続けてくれる。
「Pさんも、苦しいですか」
優しい声が降る。
「ああ」
やっとの思いでそう答えると、ゆっくりと彼女は頷いた。
「よろしければ、私と一緒に耐えていただけませんか」
壊れものに触れるようにそっと、彼女が囁いた。
小さな家事のやり取りに。受け取った言葉の温かさに。
僕は本当に彼女に救われてばかりだった。僅かでも、彼女に報いたかった。
「どうか、任せてほしい」
僕が頷くと、彼女の頬に朱が差した。
照れたように、愛らしくはにかんでいる。
二人で負ったこの痛みが、いつまでも消えることなく二人だけのものであればいい。
そればかりを祈った。
やがて彼女は日本を代表するアイドルとして、海外でも何度かライブツアーを敢行できる程度には大きな存在になった。
そうしてトップアイドルと呼ばれるようになり、一時代を牽引する一人になった。
屈託のない笑顔を浮かべて、多くの憧れを集めた。
どれだけ人気が出ようと、彼女は家事を続けることをやめなかった。
いつになっても変わらず、細やかな心遣いが伺えた。
それは分け隔てることなく、僕にも向けられていた。
あの夜を越えても、まるでなにもなかったように、僕と彼女はいた。
そう振舞おうと決めたわけではなく、あくまで自然に過ごすことにした結果、以前と比べて大した変化が生まれなかっただけだった。
共に仕事をこなし、難題に向きあい、冗談を交わした。
なんでもない瞬間に視線がぶつかることは、少しだけ増えた。
息抜きも、依然として続いていた。
彼女の仕事がいよいよ忙しくなったおかげで、もうめっきりと頻度は落ち込んでしまったけど、それでも僅かな隙間を縫うようにして。
そうして今年も、もう何度目か数えることもやめてしまった春が再び訪れた。
普段ならもうとっくに上がっている筈なのに、と思った矢先のことだった。
ラジオの収録を終えてスタジオから彼女が出てきたのは、午後の十時を少し回った頃だった。
スタッフ用の出口から歩いてきた彼女がこちらに気付いて、少し駆け足気味にやってくる。
「Pさん?」
「お疲れさま」
元々スタジオから直帰というスケジュールだったせいか、彼女は驚いているようだった。
「なにかトラブルでもありましたか?」
僕は首を横に振った。
「そういうわけじゃないんだ」
要領を得ることができず、彼女が首を傾げる。
「もう少し遅いかもしれないけど、これから桜を見に行かないか?」
そう誘うと彼女は、あっとした表情を浮かべて、すぐに笑顔に変わっていった。
そうして、柔らかく頷いてくれる。
久々の息抜きに選んだのは、花見だった。
「軽いものを食べたので、大丈夫です」
夕食になにを摂ったかを尋ねると、彼女は気まずそうに笑った。
スケジュールが押していたせいで、ろくろく食べることができなかったらしい。
結局、そのまま車を走らせることになった。
目的の場所には、日付が変わる少し前に辿り着いた。
訪れてみると、桜はもう殆どが散ってしまっていた。
黒々とした幹には薄桃の花弁に交じって、緑の葉が目立ち始めている。
振り落ちた花弁に彩られた遊歩道を並んで歩いた。
今年は開花が例年より少し早かった、とか。
今年の桜は、これはこれで綺麗だ、とか。
そういえばいつかの年は信じられないくらい満開に咲いていて凄かった、とか。
たしかその年は全国のライブツアーに出演した、とか。
桜の記憶が枝葉を伸ばして、どちらともなく思い出を話しあった。
彼女がアイドルを引退し、女優に転身することを表明して、業界は少なからず揺れた。
会見の席で、未だに人気が衰えていないのにどうしてそう決断したのかと記者から問われて、彼女は小さく笑った。
小さく笑って、決めていたことなのだと答えた。
彼女は三十歳に差し掛かろうとしていた。
産まれてからアイドルに至るまでの年月と殆ど同じだけ、彼女はステージに立ち、夢を配り歩いた。
人気に衰えがないとはいえ、今の彼女はもう昔のようには振舞えない。
それは彼女自身が一番わかっていることだった。
彼女はひとたび完成したその姿から、緩やかな下り坂を歩くようにして、綺麗に失っていった。
その都度、今の自分にできることを考えて、最後の瞬間まで美しくあった。
焦ることも、恐れることもしなかった。
実際僕に対して引退を考えていると打ち明けてくれた時も、晴れやかな表情をしていた。
彼女は最終的に、自分というアイドルの在り方に満足していたようだった。
どれだけ労っても、労いきれない。
「楽しかったです」
彼女はそれだけ呟いた。
浮かべる笑みには、どこかかげりがある。
「楽しかった」
僕はそう言葉を返した。
僕と彼女は、世界の最果てにあるような小さなベンチに隣りあって座った。
ナトリウムランプの灯りが、空間を暖かく染めている。
時計を見ると、ちょうど日付が変わった瞬間だった。
彼女は僕に、これからの展望を聞かせてくれた。
彼女はいつだって多くの夢を抱えている。
舞台や映画に立つ機会を増やしたいこと。いつかは指導する立場にもなってみたいこと。
皆にひかりを振りまける存在でありたいこと。誰しもに勇気を与えられるようになりたいこと。
今の彼女なら、なんだって叶えられる。
「Pさんは、まだうちの会社に?」
「うん、そのつもり」
「また、プロデューサーさんですか?」
「いいや」
小さくかぶりを振る。
「少しだけど昇進することになった。事務所仕事が増えるらしい」
「そうですか」
彼女はくすぐったそうに笑った。
彼女はプロダクションを離れるわけではなく、同じ会社の中にある違う部署に籍を置くことになる。
ただ、建物の中ですれ違うことはあっても、ろくろく話すことさえ叶わなくなる。
活躍する場所も、働き方も、働く時間帯さえずれてしまう。
「つぎは、もう少し見頃に来ようか」
僕はそう提案した。
咲き残っている夜桜に見惚れていた彼女が、こちらへ振り向いた。
赤みがかった髪に、花弁が一枚乗っている。
「つぎ、ですか」
言葉をなぞるように、彼女は繰り返した。
「うん」
それから暫く間があった。
降りしきる桜だけが、僕たちの周りを舞っていた。
「はい」
ごく短い返事と共に、大人びた表情がほころんでいく。
彼女の表情に、いつかの面影があった。
それから実に十年振りくらいに、彼女が涙を零す姿を見た。
車を停めている場所までの帰り道を歩きながら、ふと彼女が僕の顔を覗き込んだ。
高揚する心を、なんとか押しとどめようとしているようだった。
「指切り、しませんか」
愛らしくはにかみながら、彼女が小指を立てて、僕の前に差し出してくる。
「うん、なにを?」
僕は、人懐こい笑みを浮かべる彼女に尋ねた。
「つぎも、そのつぎも、これから先ずっと、一緒に来ましょう」
ささやかで、彼女らしい約束だった。
温かな感情が、ふくふくと沸いてくる。
「いいよ」
僕も手を差し出して、静かに指を絡ませた。
「ずっと、ずっと、約束しよう」
僕たちは桜の樹の下で、子供のように永遠を願った。
以上になります。
読んでくださり、ありがとうございました。
乙
ってか生殺しかよおぉぉぉぉぉぉ!!
いや、これはこれで悪くないと言うか雰囲気は好きだけどさぁ……
このなんとも言えないお預けくらった感がもう、ね……
とりま乙、良いもん読ませてもらった
いいSSだった
響子ちゃんかわいいからね、毎年桜観にいくしかないね
いい響子ちゃんでした
好き
タイトルが読めない
ググったけどよくわからない
赤い糸的なものか?
乙乙
こういう文体すき
素敵な響子ちゃんをありがとうございます
>>104ちゅうたい
帯のごとく紐のごとくしかと結ばれた厚い絆
そんな意をこめたタイトルと思われるよ
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