【氷菓IF】奉太郎「伊原摩耶花という女」 (121)
氷菓が摩耶花ヒロインだったらというSSです。
学園要素多めで推理要素はほぼゼロになっています。
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1
世の中には、永遠に不変なんてありえない。どんなものも、時がたっていけば劣化していく。
車も家も金も。人間だってそうだ。顔のしわが増えていけば、肉体や精神は衰えていく。
地方新聞にたまに出る、満面の笑みをうかべた高翌齢者の写真とともに、いくつになっても元気な○○さん。といった見出しが躍るが、あれはただ衰えが緩やかなだけだ。
街並みだって変わる。地方都市に分類される俺の住む神山市だって、昔は農村だったと聞く。
形が変わってしまうのか、壊れてしまうのか。方向性はともかく未来永劫不変のままなんてわけはない。
壊れてしまった場合は、二度と元には戻らない。
俺の隣に立つ、中学から愛用している学生服の色おちを嘆く福部里志にそんな話をした。
里志は苦笑しながらこう言った。
「フォローしてくれているのかな。ホータローは」
「どういう意味だよ」
俺がそう返すと、人差し指をぴんと立てこちらに向けてくる。
男子にしては小さな背丈で、短髪に切られた髪の毛。大きな瞳。
いわゆる童顔というやつで、中学時代、先輩を中心とする女子からは人気があった。
「一つ気になることがあるんだ」.
あごをしゃくって、言ってみろ、と合図をする。
「どんなものとは、目に見えないものも入るのかな?」
俺は少し間を置く。一際声を大きくしていった。
「もっと具体的に言ってくれ」
「目に見えないものを具体的にだって? そりゃ無茶振りってもんだ」
そんなことを言いながらも、里志の横顔は上を向く。指は口元に置かれた。
その間、俺は周囲を軽く見回してみた。
その間、俺は周囲を軽く見回してみた。
すぐ隣にいる里志とも大声で話さなければならない程に、周囲は騒がしかった。
朝っぱらからよくそんな元気があるものだと感心する。
入学式前の校舎内ロビーは、新1年生でごったがえしていた。
奥の方には、階段があり、登って行けば一年生の教室がある。
目的はその横、俺たちの遥か前方にある掲示物。
あれを見ないことには、階段は登れない。
手短に済ませたいことなのだが、なかなか列が進まない。
強引に前に進んでやろうともおもったが、不運なことに俺たち二人の周囲にはセーラー服ばかりが集まっていた。
ポンポンと里志に肩を叩かれる。答えがきまったようだ。
「絆とか、人のつながりとか」
俺はそれを受けつぐ。少し言うのをためらって、
「愛とか? 友情とか?」
今度は里志が。
「輝かしい青春の思い出! 煌めき! そしてほろ苦い初恋!」
「あるのか?」
俺の平坦な返しに、里志はおどけた。
「願わくば、これからできますように。それができるかどうかは、あれにかかってる」
そういって目を前の方へ向ける。
今日から高校生活が始まる。今回はその最初のイベント。クラス替えである。
心躍らないといえばうそになるが、こうも長引くと苦痛になってくる。
前方からはまた歓声。喜びの声も、何度も聞いていると耳障りになってくる。
確認したのなら早くどこかへ行ってくれ。
「あんなの大したことじゃないだろう。自分は自分。人は人」
里志に対しても思わずそんな言葉が口をついてしまう。
「夢がないねえ。高校に入っても変わんないよ。ホータローはさ」
俺は、変わらない、という言葉で、うやむやになっていた話題を思い出
「さっきの話な」
「え?」
「目に見えないものも変わるかって話」
里志は、ああ、とうなずく。
こいつがどう思っているのかは知らないが、俺と里志は特段深い仲というわけでもない。
学校外で遊んだことはないし、お互いの家も知らない。どうして付き合うようになったのかよく思い出せない。けれどこうして、互いの姿がみえれば雑談はする。ある程度のつながりはあるといっていいだろう。
「変わるさ。そりゃ」
言葉は自然に出ただろうか。
「その心は?」
「クラスが違えば、俺とお前は会わなくなる」
これは里志だから言えることだ。俺たちの付き合い方とは大きな矛盾があるのだが
こいつとなら腹を割って話せるのだ。
「ただ疎遠になるだけならいいさ。けど壊れてしまえば元には戻らない」
俺は自分でいいながら、過去を思い出してしまう。俺の不注意で壊してしまった関係。
あれこそ元には戻らないだろう。
里志のぶっ、という吹き出し笑いが俺を現実へ引き戻してくれる。
「疎遠になるだけで安心だよ。けれど違いないねえ。
そしてそれぞれお互いの知らない友人ができると。同じ部活にでも入れば話は変わってくるだろうけど」
「入らないぞ」
「だろうね」
話しているうちに、ある程度人は減っていた。里志は動きだし、人をかき分けて前に進んでいく。
不本意ながら俺も里志の後に続く。
「ねえホータロー。見えるかい」
掲示板が見える位置までたどり着いた。最前列ではないが、視力に問題がなければ見える位置だ。
里志は指をさす。掲示板にはられているのは、新入生の名前が書かれた模造紙。
うえにはA、Bといったアルファベットが書かれている。そう。あれはクラス替えの表だ。
「幸か不幸か。君と僕の関係はまだ続くみたいだねえ」
三年A組の枠に折木奉太郎、福部里志の名が記されている。
少しうつむく。表情がほくそ笑んでいるのは、うまく隠せているだろうか。
顔を上げると、隣の、さわやかな笑みを浮かべる男子へ手を挙げた。
意図を察したそいつも手同じ仕草をした。
瞬間、周囲の喧騒は収まっていないにも関わらず
掌が軽くぶつかるとほぼ同時、パチンと小気味良い音が響く。
何気なく、もう一度表を見た。確かに書かれている折木奉太郎。
けれどある名前をみつけて視線が寄せられる。試験会場でみかけたから同じ高校だとは知っていたが。
俺は神様だとか運命なんて信じない。信じないから天罰が下ったのか。
こいつとは同じクラスにはならないでくれと、祈っていたのに。
伊原摩耶花という名がすぐ上に記されている。晴れていた心はみるみる曇っていった。
おわりです
え?
E-mail欄にsagaって入れると良い
後、『おわりです』って言い方だと作品そのものがこれでオワリかと思ってまうが
『(今日の分の書き込みが)おわりです』って事で良いんよな?
入学前の話でいいんだよね?
三年A組っておかしくない?
わざわざ1番最初に1って書いてあるんだし1章が終わりってことでしょ
ここで終わったら意味不明だし
2
県立神山高等学校。通称神高。かなりの伝統を持つ学校であり、戦後間もないころから存在している。
なんていうのは入学式で、恰幅のよい白髪頭の、まさに校長の姿をした校長が新入生へ向けていった言葉だ。
それを聞いてすぐに意識が別のことに向いてしまったので、後の話は記憶にない。そんなことを里志に話した。
「あははは。それあるある。小学校の頃から思ってたんだよね。もっと生徒が興味を持つ話をすればいいのにって」
「校長のスピーチなんてもう形式的なものだしな。それで」
俺は欠伸をかみ[ピーーー]。口を押えるのを忘れずに。
「データベースなら神高をどう紹介する?」
朝。ホームルーム前の空き時間。俺の質問に対面に座る男子は指を口元に当てる。
中学からの付き合いであるこいつは、データベースを自称し、あらゆることについて膨大な知識を持っている。
その探究心が小指の先でも学校の勉強にも向けば、実力テストで赤点を連発することもなかっただろうに。
「部活動の殿堂さ。神山高校はね、市内の高校で最も部活動が盛んな高校なんだ」
「へー」
「中でも文化系の部活動には幅広い部が存在している」
里志は笑っている。なぜだろう。いつものようなニコニコとした笑みとは少し違う。
いたずらを考えているような、嗜虐的な笑み。里志は俺の疑問をよそに、話を続ける。
「部活動の勧誘見たろ? ポスターだって所狭しと張られてる」
「そうだな」
残念ながら興味が持てず、俺は素気無い反応をしてしまう。けれど里志の笑みは深まるばかりだ。
「その神山高校で部活にも入る気がないホータローは、貴重な高校生活を浪費しているのさ」
おい、なぜ俺を貶める。
「入ってないのはお前もだ」
笑いをこらえている里志へ反撃。だが
「残念ながらそうじゃないんだな。手芸部に総務委員。趣味でサイクリング」
撃沈。考えてみれば、高校生活でこいつが何もしないはずはないのだ。
俺は自らの不覚さをごまかすように、周りへと意識を向けた。
入学して一か月。そこそこ生徒のあつまった1年A組の教室は、いたるところで雑談の輪ができあがっている。
俺自身もクラスメイトたちの顔と名前が頭に入り、少しばかり性格も見えてきた。
入学当初は里志と二人突っついていた弁当も
ほかの中学出身の面々が混じるようになり、それなりに関係は築けている。
俺には似合わないセリフだが、わりと楽しい。
これから一年間。ずっとこのままとはいかないだろう。
程度はどうであれ、何か変わることもあるはずだ。だけど今だけはこのゆるい雰囲気に浸っていたい。
「あのさあ」
突然頭上から声が降ってくる。声のトーンに少し不機嫌さが混じっていた。
俺は頭を上げ、息を飲んでしまった。
指定のバッグを担いだ女子生徒が見下ろしている。
伊原摩耶花。俺や里志と同じ、鏑矢中出身の女子生徒だ。薄い茶色がかかったショートカット。
「そこどいてくんない。 あたしの席なんだけど」
普段吊り上っている目は一層不機嫌そうにゆがめられる。
こいつの小動物のような見た目に騙された男子の噂は、その手の話に疎い俺も知っている。
「あー、ごめんごめん。伊原さん、同じクラスだったんだね。とりあえずよろしく」
里志の言葉に、返したのは、たった一度のうなずきだけで、ツンとした表情に変化はなかった。
突然、どくっと心臓の音が耳に響く。ぎゅっと胸が締め付けられる。
蘇ったのは数年前の記憶。教室。周囲にいる同級生たち。そして…
「ねー まやかー 今日漫研、見に行こうよー」
自席についた伊原の前に、いつのまにか別の女子生徒が来ていた。その子の声で、俺は意識が戻る。
胸の痛みも消えた。
「ごめーん。今日は歯医者の予約入れてるの」
さっきまでとは違う伊原の声。ワントーン高い楽しそうな声。
「じゃあ明日はー?」
「明日のことはわからないわよ。 そんなことより昨日さー」
自席で頬杖を突きながらそんな会話を何の気もなしに聞いていると、視界に入ってきたやつがいた。
「なんだ、席に戻ったんじゃなかったのか」
「失礼な。 それとも早く戻れっていう遠回しな嫌味かな」
俺は鼻を鳴らす。里志は笑みを絶やさず続けた。
「ホータロー、 いいのかい、ほんとに」
少しの間をおいて言う。
「なにがだよ」
我ながら白々しいと思う。そんなことしても何の時間稼ぎにもならないというのに。
「待って。言い忘れてた。 少しだけテンションの下がることいっていいかい?」
「喋っても俺が聞くかわからんぞ」
登校したクラスメイトが通っていく。
俺の陣取る教室の廊下側最後部座席は、朝は人の往来が激しく、落ち着かない。
「これはホータローと伊原さんの問題だから僕がどうこう言えることじゃない。
ホータローの気持ちも分からない。 けど、僕から見るとね、ほんとにいいのかな、って思えてくるんだ。
こんな目の前にチャンスがあるのにって」
里志の言葉にふっと息を吐く。「何のチャンスか知らんが」言葉はスムーズに出た。
「やらなくてもいいことであることは確かだな」
「でたね 省エネ」
里志の細い人差し指が俺に向いた。俺はやんわりとそれを払う。
「僕の乏しい人生経験から言うとね、こういうのってきっかけなんだよ。
本当の意味で絶対無理だ駄目だおしまいだ、ってことなんてそんなにないと思うんだ」
「予防線を張るな予防線を」
「ある偉い人もこう言っていたよ。方法は必ずどこかにある。できないことはない、ってね」
「誰が言ったんだ? あたりまえのことを格言風に言ってるだけだろう」
「ごめん。僕がつくった。たまには提唱者になりたいこともあるさ」
そういって、えへへと笑う。俺はちらりと時計をみた。まだ教師は来る様子はない。次は教室全体を見る。
ほかのクラスメイトはそれぞれのグループで話に夢中だ。よし。いいだろう。
「おい里志。少しだけテンションの下がることをしていいか。」
俺は答える間も与えず、目の前のニヤつく男の頭に拳を鉄槌のごとく振り落とした。
きょうはおわりです
おつです
3
いつぞやのニュースで、子ども一人だけの食事は非行につながるなんていうデータが流れていた。
今の俺こそまさにその状況に置かれている。初めてではない。親父の帰りが遅い日はこうして一人、黙々と飯を頬張っている。
そんな俺は小中とタバコ一本吸ったことないのだから実は大したやつなのではないか。
俺は最後にのこった味噌汁を飲みながらそんなことを考えた。台所へ持っていきすぐに水道の蛇口をひねる。
少し汗ばんだ腕に、ひんやりとした水が気持ちいい。
正確に言うと、今は家にいるのは俺だけじゃないのだがそいつはすでに食べ終わったらしい。
俺が帰った時にはすでにリビングにはいなかった。
洗剤をしみこませたスポンジで、ゆっくりと皿をこする。
季節は初夏。空気は蒸し暑さを持つようになっている。
だがまだ日の入りの時間は早い。台所の窓の外にはすでに闇が広がっている。
夕飯は一人きりだが、俺は不満はない。親とも喧嘩らしい喧嘩はした覚えがない。
気恥ずかしいので口にはださないが、毎日汗水たらして働いていることには感謝している。
食器を洗った後、ソファーで膨れた腹を休ませる。
ぼんやりとテレビを見ていると、日本全国の頑張る人たち! みたいな趣旨の番組が流れていた。
元プロ野球選手がサラリーマンとなり
慣れないパソコン操作にぎこちなく指を動かして、四苦八苦する様子が映し出されている。
「お風呂あがったよー」
唐突に、陽気な声が耳に入ってきた。と思うと、頭が撫でられる。
撫でられるというのは少し語弊があるかもしれない。かなり暴力的な手つきで、そこに愛も情もない。
折木智恵。俺の実の姉である。
「あっそ」
なんだかしばらく絡んできそうな雰囲気だったので、あえて素気無く返答する。が
「ねぇ、お姉ちゃんにお風呂上りのコーヒーは?」
バスタオル越しの姉貴の顔は相変わらずのニヤケ面。ソファーの上から俺を見下ろす。
部屋に引き返す気はなさそうだった。姉の目は、俺が幼少期の頃から幾度となく見たものと同じ
嗜虐的な色に染まっている。
「立ってるんだから自分でいれろよ」
「ったく、コーヒー一つ入れるのも怠けるわけ?」
「怠けてるのはどっちだよ。お前だお前」
ため息をついた俺を見ても、姉貴は楽しそうに笑っている。いつから始まったのだろうか。
こうして理不尽なことをいって弟をからかうのは姉貴の専売特許だ。
親も注意しないし、それどころか面白がっている節がある。
俺は姉のおもちゃ扱い同然の立場を打開しようと、一度反撃を試みたことがある。
小学六年か中一ぐらいのころだったか。そんなんだからいままで彼氏の一人もできないんだ、と言った。
結論を言うと無意味だった。
「そうなったらあんたの彼女になるから大丈夫よ。そんでいつか結婚しようね」
そういった後、俺を抱きしめた。胸で。
今なら軽い冗談で流せるが、当時の俺は色欲や色恋に免疫をもたない純粋な少年。
いかんせん刺激が強すぎた。
姉貴の見事なカウンターパンチを食らった俺は口をパクつかせることしかできなかった。
「結局 神高かー」
別の方角から姉貴の声。いつのまにか、ソファーに移っていたらしい。
一人分のスペースを空け、俺の右隣に座っていた。
「あぐらかくなよ。 みっともない」
「あんたも女の子みたいなポーズとってるじゃん」
かわいい、とからかってきた。俺は慌てて体育座りよろしく折り曲げていた脚を、元に戻す。
「姉貴的には不満なのか?」
「別にー。 あ、そうだ。それであんた部活は?」
「入ったと言ったら?」
ぷはっ、と姉貴は吹き出した。
自分から聞いておいて、想像つかないわーと手を叩いて笑っている。
「特に興味があるものもなかったからな」
「なら古典部に入ってみる?」
姉貴の唐突な提案だった。首をひねって隣を向く。俺の疑問は表情に現れていたらしい。姉貴は続ける。
「何をするってわけでもないけどね。まあなんでもありの自由気ままな部活動よ。
今年は部員もたくさん集まってるみたいだし」
「そんな部活に魅了されるやつらがいるのか」
ならそれはそれで由々しき事態だ。俺はダラダラは好きだが他人の邪魔をするつもりはない。
けれど部室を借り切ってまでするのはほかの部活動に失礼ではないのか。
「わけはあるみたいだけどね。どう。当ててみる?」
「ヒントをくれ」
姉貴はすでに用意していたらしく、即答してきた。
「女子が部長」
女子、の方にアクセントが置かれたということは、答えは女子でないと成り立たないことということになる。
部長が女子だから部員が増えたという論理が成り立つわけだ。
「その部長が」
「部長が?」
覗き込んでくる姉貴。いたずらっ子のような無邪気な笑み。
「かわいいから、とか」
姉貴はふーん、と腕を組む。わざとらしく勿体付け
「やるじゃない。さすが私の弟」
正解したようだが、嬉しくない。同じ男子として情けなさすぎる。
「下心か」
「いいじゃんいいじゃん。それも含めて青春青春。ほら」
姉貴はテレビ画面を指さす。テレビのコーナーはいつのまにか、軽音楽に励む女子高生へと切り替わっていた。
かなりの歌唱力を持ちながらもステージに立つと声がか細くなってしまうボーカル女子が
自身の努力と仲間の尽力によって懸命に恥ずかしさを克服しようとしていた。
「ああやって色々変えようとするのもいいかもね。まあそれはそうとして」
姉貴はこの話終わり、というように手をパンパンと叩く。
「
さっさと熱々のホットコーヒー入れてよ。ほら早く行った行った」
言い返したいことは山ほどあったが、それもまた浪費だと考え直し黙ってソファーを立つ。
「そうそれでよし。 困ってる女の子を助けるといいことがあるわよ」
一体どの口がいうのか。姉の戯言を聞き流し、湯を沸かしはじめる。
本当に。本当に世の中は勝手だ。ありのままの君でいいと言ったり、変わらなくちゃいけない、と言ったり。
たぶん正しい答えなんてないのだろう。同じ人間でも変わらなくていいこともある。
変わらなくちゃいけない面だって、ある。
ほどなく、年季の入ったやかんが湯気を吐き出し始めた。ついでなので自分の分も入れることにする。
その日の俺は少しぼんやりとしていたらしい。ちょっと考え事をしていたせいか
淹れたのが熱々のコーヒーだったことが記憶から抜け落ちていた。
淹れたホットコーヒーをお姫様気取りのお姉さまに献上いたすべく持った。
手に取ったのではない。麦茶を持つような感覚でわしづかみにして持ってしまった。
淹れたばかりの湯気のそそり立つマグカップを。視線がマグカップにあったのならすぐにテーブルに置いただろう。
けど不運なことに、ドジなことに、俺は持つとほぼ同時に歩き出しその上に視線はリビングにあったため
冷静な危険回避ができなかった。
うわっ、と小さく発し、マグカップを投げ出すように放してしまう。
あっという間だった。
こんな時、物体はスローモーションに見えると聞いていたがあれは真っ赤なウソだったらしい。
「あー、あんたやってくれたねー」
騒ぎを聞きつけた姉貴が台所へのそのそとやってくる。立ち尽くす俺をどかすとマグカップを慎重に触る。
「あたしのカップじゃないの。ったくもう使いものにならないわね。ほらあんた何黙ってんの?」
「…すまん」
絞り出すように声を出す。姉貴は頭をわしわしとかくと、ふっ、と息を吐き出した。
目の前に、一瞬だけ稲妻が見えた。姉貴が、軽く俺の背を叩いたらしい。
「大丈夫? やけどしてない?」俺はうなずく。「そう」
笑ってそういって、こう続けた。
「壊れてしまったものは元には戻らないのよ。気にすんな弟よ」
そういって布巾を渡し、去っていく。
性格はともかく推理力に関しては一流の姉貴だが、今回は少し読み違えをしていた。
俺はカップを割ったことに落ち込んでいるわけじゃない。反省はするが落ち込みはしない。
連想してしまったからだ。思い出してしまったからだ。
俺の足元にはどす黒い液が零れ落ちている。
飲む時はあんなにいい香りなのに、今は強烈な悪臭を放っている。
割れてしまったマグカップ。あちこち散らばる破片を呆然とみていたら、胸のあたりが締め付けられた。
終わりです
最終章予告
葉山「やったか?」
八幡(?)「GYAAAAAAAAAAA!!!!!!」
八幡「あぁ、俺は…好きなのか…。」
闇八幡「俺はお前だ!」
闇八幡「黒幕はお前をりようしている。」
八幡「俺、比企谷八幡は…を愛し続けます。これから先ずっと一緒にいてくれないか?」
そしてすべての交錯した世界は加速して行く
多重人格者の俺の復讐するのは間違っていない
最終章
『闇夜を切り裂き未来を手に掴む。』
④
4
割ってしまった姉貴のマグカップは、あたりまえだが俺が弁償することになった。
自ら不注意だったばかりに、ただでさえ軽い俺の財布に余計な出費を強いることになってしまった。
そんな事情もあって、少し節約しなければならない。今日の昼飯はあんぱんと牛乳ですませることにする。
「折木、早めにな。腹ペコなんだからよ」
「先に食べててもいいぞ」
昼飯グループの中の持ち弁組の一人にそう声をかけていく。
彼の行く先には里志やその他の面々がいた。
教卓の方では、四限担当のナナフシのような体つきをした老教諭が
伊原に段ボール詰めの教材の運搬を頼んでいた。
特に係りが決まっているわけではないから、多分たまたま捕まってしまったのだろう。
そこをこころもち早足で素通りし廊下に出る。
俺は高校生になった直後、つまりは入学式直後。特にこれといって何の感慨も抱かなかった。
小学校から中学校へ行くのは大きな変化だろう。
ランドセルがなくなり、制服が義務付けられ、教科担任制度が組まれ部活動も本格化する。
俺が高校生になったと実感したのは、購買を初めて利用した時だった。
何かドラマチックな出来事が起きたわけじゃない。
ライトノベルや漫画でしばしば見かける、購買コーナーでの暴力沙汰レベルの昼飯争奪戦も
若くてきれいな売り子もいなかった。
それでも、あのゲロとしか思えないくらいにまずい給食を食べなくて済むのだと分かったとき
俺は救われた気分になったものだ。
目的地にたどりつく。行列、というほどでもなく、並んでいるのはほんの数人だった。
この込み具合ならすぐに済みそうだ。
腕時計の針をみていると、とんとんと肩を叩かれる。
「やあ、折木くんじゃないか」
振り向くと、女子。
「なんだよそのとぼけた顔は。もう忘れたのかい? 共に受験地獄を乗り切った仲間だっていうのに」
「いや。思い出した」
そのスローテンポな喋り方はあいつ一人しかない。
沼地だ。沼地蝋花。去年。中学三年の頃。
高校受験に多少なりとも危機感を持っていた俺は、適当に自らあしらえた学習塾に通っていた。
その学習塾で、沼地と俺はともに机を並べ、勉強はもちろんいろいろとくだらない話をしたものだ。
俺が名を答えると、「覚えててくれたんだ」と笑う。
「で、どうだ? 沼地、高校生活は?」
「まぁ、テキトーにやってる。汗臭い毎日で、青春とは程遠いけどさ」
「部活は立派な青春じゃないのか」
「そうだけどそれだけじゃあちょっとね。やっぱりこう、彼氏をつくったりとか」
俺は軽く吹き出した。
「お前には似合わない言葉だな」
「そりゃ失礼だぜ折木くん。あたしだって一応乙女なんだ」
俺は軽く背伸びして、売り子に目を向ける。
客は少ないので早く済むかとおもったが売り子も一人だけらしい。
顔こそ営業スマイルを決めているものの、焦っている様子が声色から伝わってくる。
思っているより時間がかかりそうだ。
「それにしても、おまえ受かってたんだな」
入学しても姿が見えないからてっきり落ちたのかと思っていた。
「ふふふ。あがいてみるもんだね。 あたしが神高なんて、ダンク決めるより不可能だって思ってたけどさ」
「そんなことないさ」
なんてことを沼地には言ったが本意は違った。
心の中の俺は腰を抜かすほどに驚いていた。
沼地とは別々の中学だから本人の談話だが
こいつは中学に入学してから中三の夏までひたすらにバスケットコートを走り回る日々で
机に向かうことはほとんどなかったらしい。
バスケ推薦をしようにも、沼地の背丈は女子の平均以下。枠はほかの長身選手に奪われてしまった。
親には学力を重視しない実業系の高校を勧められ、沼地もそのこころ積りだった。
そこへ熱血系統の担任教師が登場。
彼は鼻息を荒くして、彼女ほどの選手がレベルの高いところでできないのはもったいないと
挑戦させるよう両親を説得。
そんなこんなあって、神高を受験し見事合格。というわけらしい。
俺はすでに最前へと来ていた。代金を払ってパンと飲み物を受け取ると列を外れた。
しばらくして沼地も追いつく。
「わたしさ、全国目指そうと思ってるんだ」
なし崩し的に連れ立って歩く。
「ほう」
「いやいや、社交辞令的な目標じゃないぜ。 マジのマジだ」
「マジか」
ここで気の利いた激励の言葉でも返すべきなのだろうが、それどころではなかった。
俺が物事に深くのめり込まないように、日常にドラマを感じることができないように。
沼地蝋花という女は、こういう性格ではなかったからだ。
どこかダウナーというか、ドライ。
「今は一年だから無理だろうけどさ。あたしが三年になるころにはきっと」
「今年の一年は、うまいやつが揃ってるのか?」
俺の問いに、沼地は軽く首を横振って、いつものような薄い笑いを浮かべた。
「道なきところに道をつくるのも、意外と楽しいもんだぜ」
俺は再び教室へ向かう。
沼地は、食後にシュート練習するからと昼飯片手に出て行ったため途中で別れた。
これも高校入学後に始めたことらしい。
今、目の前の階段を上り、右に曲がれば一年生の教室である。
俺は二段飛ばしでそれを上り、躍り場にさしかかる。
窓から見える中庭。そこにあるベンチで隣り合う男女の後ろ姿見える。
朝方は煌めく太陽が庭を照らして晴れ渡っていた空は
いつのまにかたまった雲の塊が陽を隠している。
それはまるで俺の抱える奇妙なもやもやのようだ。目を背けるように、体をターンさせる。
「きゃあ」
甲高い叫びが聞こえ、体に衝撃が走る。
段ボールと、そこからとびだす資料やらボードやらその他よくわからないもの。
よろける体を必死で食い止める。
「あぁ…」
相手は女子生徒だった。散乱する資料集をみて呆然としている。
立ち尽くしている俺と目があってしまう。伊原摩耶花だった。
彼女もまた、口を震わせ、俺を見ている。
時間が止まったように周囲の音が途切れて俺の視界が別のものに切り替わった。
また見える。夜の場面。電灯が照らす、かすかな光。その下にいる俺と伊原。
俺は手を差し伸べ、彼女はすぐにそれを掴む。
「摩耶花― 待ってよー」
その声ではっ、となった。伊原の後ろからやってきた女子生徒の声。
俺は、ぐっと腹に力をいれ前に進む。
「…すまん…」
俺の声は伊原に届いただろうか。
5
眠い目をこすって昼の授業をこなし、掃除を適当に済ませる。
帰りのHRが終了し帰路につく。これがいつものパターンだ。
だが今日は雨が降っていた。昼休みに曇っていた空は昼過ぎから雨に変わり、雨音は帰宅が近づくにつれて大きくなっていった。
ずぶ濡れ覚悟で帰ろうとする者。雨が弱まるのを待つ者。
その他、電話で迎えを呼ぶ者。俺は教室を出てしばらく程廊下を歩く。
入学当初は迷子になりかけたこともある校舎もいまではすっかり馴染みの場所。
通りかかった昇降口ではいくつかのグループが、井戸端会議を繰りひろげていた。
見知った顔もあったが素通り。
目的の教室へと入る。瞬間。目に入ってきた光景にため息が出てしまった。
図書室には俺と同じ帰宅難民が何人もいて、一人で落ち着いて座るのはあきらめるほかなかった。
室内には、図書室とは無縁の、髪を染め短いスカートをはいた女子や
ガタイのよい運動部系の男子などが読書に励んでいて、その光景は不思議さを感じさせた。
私語はほとんど聞こえない。図書室内はいつもと変わらず静謐な秩序が保たれていた。
一応、神山高校は市内一の進学校。
彼らのような人種も、根っ子の部分は勤勉なのか。それとも。
俺は受付を担当する女子生徒を見る。あいつがしっかりとこの場を統制しているからか。
今日の図書当番に当たっているのか、伊原摩耶花はカウンター席に座っていた。
彼女もまた黙々と何らかの作業をしている。
空いている席をなんとか見つけ座る。
本音をいえば今すぐ机に突っ伏したかったが周囲に合わせて本を開くことにする。
適当に古本屋の100円コーナーから選んできた文庫本。
かつて親友だった二人の海賊の話で、冒険活劇やヒューマンドラマの要素が盛り込まれている。
空き時間を見つけては読み進め、中盤ほどにさしかかっていた。
栞をさしていたページを開き読み始める。
数行程読んだところで一度目をそらす。再度読んでも同じことだった。
俺はだいぶ伸びた爪で乱暴に頭を掻く。今日はいろんなことがありすぎた。
たとえば、今受付にいる伊原摩耶花。
あいつの姿を視認。一気に今日の事件が脳裏によみがえってくる。
あの後、俺は逃げるようにその場を立ち去ってしまった。
道義的観点に照らせば悪手だろうが、果たして、俺が手助けすることをあいつが望んでいたのだろうか。
そして沼地蝋花。
のんびりとした喋り方は中学時代そのままだったが、立ち振る舞いが大きく変化していた。
あのセリフ。全国に行きたい。道なきところに道をつくる。
あいつとは塾だけの付き合いだったが熱のこもった喋りをする人間じゃなかった。
俺と似て、ドライ。神山高校を受験するのだって、話を聞く限りだと熱血教師の焚き付けで決めたことだ。
けれど今では自主的に目標をぶちあげ、昼休みにまでも練習している。
変わったのだ。あいつは。
塾の空き時間でバカ話をして、講義が終わってからも、帰路につかずダラダラと話し込んでいた沼地じゃないのだ。
ふと時計を見ると、ここに来てから約一時間が経過していた。
周囲も少しずつざわつき始める。下校の時刻である。窓の外では雨は未だに働いていた。
けれどさっきまでの土砂降りというわけではなく、その勢いは弱まっている。
もう少し待てば完全に止むのではないか。そんな希望を胸に抱く。
周囲の生徒も同じ考えのようで、席を立つ者は誰一人いなかった。
「閉館時間でーす。みなさん帰宅してください」
その状況を一人の声が変えた。図書委員、伊原摩耶花である。
ため息や、ぶつぶつと文句を漏らす声があちこちから聞こえる。
しぶしぶといった手つきで皆帰り支度を始めている。
いったん終わりです
乙です
沼地さんかあ
どう展開させるんだろ、原作通りならこの後……
おつ
他作品のキャラ出すなら一言書いてほしい
乙です
俺はしばらく座っていることにした。
ここで帰宅してしまえば、人。人。人の雑踏に飲み込まれてしまうことになる。
それならば、多少帰宅が遅れても、しばらく待つことを選ぶ。
けれど。俺の思惑通りにはならなかった。
図書館の出入り口の方。貸し出しカウンターには異様な光景が広がっていた。
人間の心理とは面白いもので多くの難民たちが、本の面白さに目覚めたらしい。
似たようなことに覚えがある。友人との待ち合わせにコンビニを使った時のこと。せっかくだからと、コンビニでつい何かを買ってしまったことがある。
今のような、帰宅難民の行列もそういうことなのだろう。暇つぶし用に読んだ本に柄にもなく熱中し、続きが気になってしまった。そんな心理が見て取れた。
作戦変更。今の状況ならすぐにここを出るのが得策だろう、と俺は席を立つ。
視界に、伊原摩耶花が入った。
貸出用の機械はもう一台あるにも関わらず、あいつはたった一人でこなしていた。
その表情には、焦りの色が浮かんでいる。
気の毒だがそれが図書委員の仕事である。俺は鞄を肩にかけ、うつむき加減に出口へと向かった。
その時に聞こえた声。客というのは勝手なもので、早くしてよねー、などという声が聞こえる。足を止めた。
本を片手にした何人もの男女が一列にならんでいる。俺は再び出口の方向へと歩き出す。
一人では回転率が悪いだろう。皆の帰宅がそれだけ遅くなるだろう。ひょっとして雨はまた強くなるかもしれない。そして、困っている女子に手助けするのは人として当たり前のことだろう。
出口目前で曲がり、カウンターへと入った。
伊原摩耶花は、俺の横顔を見た。目をはっと見開いて、こっちを見ている様子が横目に見える。
俺は視界に入っていないフリをして、カウンター対応を始める。
最初の方、伊原は何か言いたげにちらちらと様子をうかがっていたが、結局、何一つ言葉はかけられなかった。
6
受付係が一人増えたのは大きかった。みるみるうちに行列が減っていき、あっという間に帰宅ラッシュは終了。
ちょうどタイミングよくあらわれた司書から、礼と帰宅の許可をいただいた。
俺は一足先に昇降口へ向かう。雨は弱まってこそはいるものの、濡れても平気、というわけでもない。
玄関前に立ち尽くし、ぼんやりと外をみつめていた。
今の景色同様、俺の心中は薄暗い。間違ったことはしていないはずだ。
あいつとは二度と関わらない。その約束も、守った。対応中は一言も口をきいていない。
ふいに、背後からこんこん、と音がした。反履きだった靴を直す仕草。
それをしていたのは伊原摩耶花だった。
床をむいていた隙に顔をそらせばよかったのかもしれない。けれど伊原はすぐに顔をあげてしまった。
数年ぶりにちゃんと見た伊原の顔は、鋭い目をして俺を射抜いている。
降りしきる雨の音。周囲の生徒たちの声。目の前にある幼馴染の姿。
それは一気に消えていき、俺の意識は別の方向へ向かっていった。
かつて、まだ伊原と繋がっていたあの日々の記憶が蘇ってくる。
関係はいつから始まったのだろう。
親同士が仲良く、子どもが同学年で、家はウォーキングにもならない距離にある。
そんな状況があったせいか
幼稚園の頃には、伊原摩耶花と休日に家を行き来するのは当たり前になっていた。
小学校にあがると、それは少し変わった。
幼稚園までは、会うのは必ず親が同伴であり場所はどちらかの家だったのが、親不在のままでも会うようになった。
待ち合わせなんてしていない。どちらかがふらりと家を訪ねて、公園やら図書館やらに出かける。
それはほかの子どもとの交流の始まりでもあった。
いつの間にか、他にも家が比較的近所の男女が加わり、俺と伊原、一本線の関係が五角形に変わった。
そのつながりには、神山ペンタゴンなんていういかにもやっつけでつけた名前で呼ばれるようになった。
その変化はかなりの幸運といえた。
小学校低学年、とりわけ男子にとっては、男女二人組が行動する姿は、かっこうのからかい相手だ。
三人が加わったことで他の児童は、家が近いから仲が良い、ととらえたのだろう。
俺と伊原がはやしたてられるなんていうことは起きなかった。
けれど当時、目の前に娯楽に目を奪われていた俺たちは、そんな分析は何一つできなかった。
……ピピピピ。無機質なデジタル音ではっとなる。
俺が気づいた時、伊原が背をむけて携帯電話を取り出したところだった。
口元に手を当て話す横顔。
昔から変わっていない幼い顔立ち。俺はすぐにそこから目をそらし、再び前を向く。
もうこいつと俺は無関係。一度壊れた関係は二度と蘇らない
だけど壊れていなかったとしたら。何かが邪魔して、近づけないだけだとしたら。
まだ俺たちは糸で結ばれていて、どこかでぐちゃぐちゃに絡まっているだけなのかもしれない。
その時その時の状況を受け入れ、見たいものだけを見ていれば安寧の日々を過ごすのは簡単だろう。
だが幸せなのかは別だ。俺は今幸せか。
自問の末、すぐに答えは出た。
毎日教室で顔を合わせるクラスメイト。授業中、休憩時間、
ふいに目が合い、そのたびに昔を思い出し居たたまれなくなる日々。
変えてやりたい、と思った。雨がまた勢いを取り戻した。そっと横目で後ろを見る。
電話を終えたらしい伊原は、小動物のように縮こまり、鞄をかかえていた。
俺は息を大きく吐いた。
話題はどうしようか、と考え、廊下で派手に激突したことを謝らなければならないと気づいた。足を踏み出す。
一歩、一歩。また一歩。近づくごとに胸のあたりが熱を持っていく。自分でも聞こえるくらいに鼓動が高鳴っている。
伏し目がちな伊原は、近づく俺に気づいていない。俺は二歩分ほど離れた距離で止まった。
さすがに気配を感じ取ったのか、すっと顔をあげる。
俺は、伊原の訝しげに眉をひそめる顔を必死で見据えながら声をかけた。
「伊原」
のどから絞り出すように、そう言った。いつの間にか枯れたように乾いている唇。
昔のように、まやかと呼ぶことはできなかった。それが俺の弱さなのかもしれない。
当の伊原は表情は変わらず、何か言葉を返すわけでもない。
初夏の雨が、いつの間にか空気をじめつかせていた。
暑くもないのに背中あたりが汗ばんでいる。伊原はすっと顔を逸らし、か細い声で言った。
「…久しぶりね…」
そっけない態度。けれど俺は少しだけ安心した。
三年の時をえて交わした言葉。変化のきっかけになるだろうか。
なんてことを思いながらすぐに、どれだけ能天気な発想かに気づいた。
俺は今日、こいつを傷つけた。
「なぁ、伊原」
返事はない。
「今日はごめんな」
伊原の逸らされていた顔が急にこちらを向いた。はっと目を見開き驚いた様子の顔。
それはすぐに困惑の色に染まった。
「待って。待ってよ。なんで謝るの?」
しまった、と心中で舌を打つ。言うことに焦りすぎて説明を怠ったらしい。
俺はしどろもどろになりながらも事情を話した。
伊原も思い出したようで、ああ、あれ。と呟く。小さな肩を少し上下させ、同時にふっと息を吐いた
「帰らないの?」
「えっ?」
俺は予期していなかった言葉に間抜けな声を出してしまう。
「もうちょっと、弱まるの待ってみるさ」
さすがに、さっきみたいに目を見て言うことはできない。俺は自分が人の機微に疎い人間だと自覚している。
でもいくら俺でも、質問をはねのけてそう聞いた伊原のいわんとしていることは分かる。
「おまえはどうなんだ?」
でも認めたくなかった。みっともないことだと思いつつも、話を続けたかった。
続きはよ
「あたし迎え呼んだから」
よくよく見れば、薄いピンク色のスマホを手にしている。
「福部くんはどうしたのよ?」
「あいつは濡れるの覚悟で帰った.」
あのバカは、数人の仲間とともに、雨に濡れるのもオツじゃないか! これぞ青春!
などと意味不明な供述をして鼻息荒く校舎を出て行った。伊原にそのことを話すと
「小学生みたい」と評した。
「まったくだ」と俺は応じる。
そういうと会話は途切れ、場には再び沈黙が降りる。
俺は軽く頭を掻いた。話が弾んでいるとは言い難い。喋ってはくれるが、さっさと話を切り上げたいようだった。
ブブブ。振動音が聞こえる。瞬間伊原がスマホを操作した。
「もう着いたみたい。あたし行くね」
抱えていた鞄を傘替わりに頭のうえに乗せる。校門の方に車を待たせてあるのだろう。
よし。と意を決した呟くと、校舎の外へ向かって歩き出した。が、急に立ち止まる。
「ねえ」ほぼ同時にくるりと振り返る。
「さっき謝ったこと、気にしなくていいわ。今日、あたしのこと助けてくれたでしょう」
最後の最後で。今まで見せなかった顔を見せた。
曇っていた空に少しだけ切れ間ができて、光がのぞきこんだように。
伊原は片目をつむってこう言った「あれでチャラにしてあげる」
そういって、俺の返事も聞かずに去っていく。
元々小さな背がみるみる小さくなっていき、すぐに視界から消えた。
俺は近くにあった柱に倒れ込むように寄り掛かかる。
さっきまで誰かが同じことをしていたのか、ぬくもりが残っていて少し暖かい。
雨は少し弱まっていた。
こころなしか、分厚く空を覆っていた灰色の雲が少し晴れていて天候は少し穏やかさを取り戻している。
それはまるで今日俺が過ごした、激動の一日の終わりを告げているようでもあった。
あとは帰宅するのみ。今の時間なら姉貴が家にいるだろう。
連絡して傘をもってきてもらうか。校舎の奥の方にある、休憩スペース。
そこに公衆電話がある。肩の荷を下ろすように、一息吐く。俺は受話器を手にとった。
7
翌日。もうどれくらいあそこを見つめているのだろうか。
時間を確認しようと、手首をみやるが、今は家にいるということに気付いた。
すぐ頭の上に目覚まし用の時計があって、ちょっとばかし体をうかせば見ることができる。
けれど、今の俺の体は鉛を埋め込まれているのも当然なので、そのわずかな動きすら億劫だった。
再び、視線はベッド上の天井へ。目を瞑る。
俺は今日、学校を休んだ。激動の一日はまだ終わっていなかった。
昨日、伊原と別れた後あの後、姉貴に傘をもってくるよう頼んだのだが
面倒くさい。自分で来い。男の子でしょ。濡れるくらい我慢しろ。と反論する余地ももらえずに
電話を切られてしまった。
俺は俺で、これくらいの濡れ具合なら平気だろうと、すぐに風呂に入らずにダラけていたのがまずかったのだろう。夜になると寒気がしてきて、起きたら体がだるくものの見事に発熱していた。
俺は目を開ける。朝からずっと寝っぱなしだったのだ。今更熟睡するのはどうあがいても無理だろう。
ぐうう。と腹から間抜けな音が鳴る。体調も少しは回復してきたのだろうか。
少し早いですがいったん終わりです。
おつ
また気になるところで切りますねえ
乙。次がなるべく早ければ嬉しいな
まだなのか……
期待してるから早く書いてくれ……
作者です。投下はもう少しお待ちください。
プロットはできているのですが文章化が難しくて。
読んでくれていた方、
今まで放置していてすみませんでした。
待ってるぞー
ほんとに作者かは知らんが
体を起こし、パンでも菓子でもつまもうかと二階へ降りる。
俺はだるさが残る体を引きずるようにして、戸棚をあさった。
見つけた食パンをトーストし、マーガリンを塗りたくったそれを持ってリビングへ移動。
ソファーに座るとだらしなく股を開く。
沈黙の中、一人パンを頬ぼるというのもなんだか居心地が悪いので、BGM替わりにテレビをつけた。
画面が現れてすぐ、金切り声が聞こえて俺はびくりと体が震えた。
テレビドラマが流れていた。家の中らしき場所で、女同士がぎゃんぎゃんと何かを叫んでいる。
ところどころで、男の名が聞こえるから主婦向けの愛憎劇ドラマだろう。
元々ドラマの世界に浸る趣味もない俺は、何を思うわけでもなくそれを眺めながら、もそもそとパンをかじる。
からっぽの頭に浮かんできたのは伊原の顔だった。昨日。あれは本当に現実だったのだろうかと思う。
四年間、ろくに言葉をかわしていない、以前割ったマグカップのように、関係は決裂したと思っていた女子と話した。
ささやかだが感謝もされた。そこまで考えてはたと気づく。
ならこれからはどうすればいいのだろうか…。もう俺と伊原が会話する口実はなくなってしまった。
あれは、あの日だけのことで終わってしまう。伊原はあの日のことなどなかったかのようにふるまうだろう。
テレビの音が一層耳障りになった。女二人の罵り合いだった場面が、いつの間にか老婆が二人加わり四人での言い争いになっている。
溜息をつき、チャンネルを回す。
その直後に電話が鳴った。重い腰を上げ、心持ち急いで電話を取る。
「もしもし?」
という声は、聴きなれた声。トーンは高いが男子のものだ。
「里志か?」
八
電話のコール音。足を引きずるように、こころもち急いで一階に下りる。
受話器を取ると、聞き覚えのある声が飛び込んでくる。
〈やぁ。元気かい? ホータロー〉
「超元気だ」
俺はわざと、低めのトーンで言ってやった。
〈ははは。そのジョークができるなら、だいぶ回復したみたいだね〉
電話の主は里志だった。昨日は俺以上に濡れねずみとなって家路についたはずなのに、
聞こえる声にはいつも通りの快活さがある。
青春を謳歌するには、容姿やコミュニケーション力以上に、頑丈な体が必要なのかもしれない。
「ホータローの家、来ようと思うんだけどいいかな?」
「え?」
思わぬな問いかけに、呆けた声を出してしまう。
里志は、友人といってもいい仲である。
けれど何をするにもいつも一緒、なんてことはなくある程度の距離感は持っていた。
俺の疑問をよそに、里志は「家の住所読み上げてくれないかな」などと言っている。
「ねぇホータロー? 何黙ってるのさ」
「なんでもない」
俺は半ば投げやりに、見舞いに来てくれるよう伝えた。
里志の、やけに耳障りな声のリピートに耐えながら、自宅の住所を教えた。
電話をきって、ソファーに座る。
九
しばらくしてインターホンが聞こえる。
ドアをあけると 、やぁという快活な声。相変わらずの、憎らしいくらい晴れやかな笑顔。
「おう」
そう言って里志を家に通そうとした。が、背後にいる影に気づく。
俺は一瞬体動きが止まった。目を伏せていたそいつは俺が気づくと同時に顔を上げる。
伊原摩耶花がいつも通りの仏頂面で折れに向かって小さく頷いた。
「伊原か」
俺はそう言った。か細い消え入るような声だった。
場に沈黙が漂う。伊原と俺がよそよそしく見つめあう。そこへ助け船が入った。
「ホータロー、立ち話もなんだからとりあえずさ」
里志が開いた玄関の奥を指さし、悲痛な空気は消えていった。
俺は友人の華麗なフォローに感謝しつつ、家へ通す。
リビングでおののが腰かけると口火をきったのはやっぱり里志だった。
「その様子だと、すっかり元気になったみたいだね」
「雨風の中帰るなぞ、省エネ体質にはきつすぎた」
「ふーん、そうかい」
里志はすくっ、とソファーから立ち上がった。
「もう行くのか?」
「僕の役割はここまでだ。いや本来なら家に入るのは予定外だったけどね」
「お前何いって」「伊原さん」
里志が俺の言葉をさえぎって伊原へと顔を向ける。当の伊原はこくりとうなずいた。
俺の伸ばした足は、自然とさわさわと動く。なんだか自分の家だというのに居心地が悪い。
二人の間でなにか秘め事があるらしい。
「じゃ」と里志は軽く手を振って、玄関へと向かった。
なんだろう、と考えた。昨日の礼ならもう終わったはずだ。
重ね重ねの礼なら、言っちゃ悪いがはた迷惑だ。こっちも気を使う。
だがそれは違うだろう。俺の知る伊原は、周囲から煙たがれるくらいに、モラルやルールに厳格なのだ。
がちゃり、とドアの閉まる音が聞こえた。
静寂となったリビング。家の外に聞こえる、小学生のはしゃぐ声がいとおしく思える。
いつのまにか、俺の背中に冷たい汗が流れていた。たまらずリモコンに手を伸ばす。
「ねぇ折木」
同時に声がした。
「……おう、なんだ」
つとめて自然に。明かるくそう答える。
「風邪、大丈夫」
「ああ、もう平気だ」
「そうなんだ」
「ああ」
どうしてなのだろう。仮にも昔は学校内外で長く行動を共にした仲だ。
大げさかもしれないが絆ようなものが深まっていたはずだ。
どうやらコミュニケーションというものに、昔取った杵柄というものはないらしい。
幼馴染の女を前にしても、言葉がでてこない。
「あのさ折木」
「どうした」
「昨日はごめんっ!」
がばっと伊原が頭を下げる。突然の大声に俺の体が硬直した。
伊原の小さな手がぎゅっと拳をつくっている。俺はふっと一息。つとめてゆっくりと話す。
「待て待て。伊原。よく意味が分からなんのだが」
「はぁ?」
なんだか聞き覚えのある、間髪入れない伊原の突っ込み。
「待て待て。えっと…」
俺は昨日のことを思い出す。昨日、俺は伊原と久々に言葉を交わした。
距離を近づけたとはいいがたい。ただその場にいるから。話しかけないのは気まずいから。
そんな半ば義務的の動機でされた会話だった。
ふったのは俺の方。伊原はむしろ嫌がっている様子だったから謝るべきは俺のほうなのではないか。
それとも。
「昨日か」
俺の言葉に、伊原がうんうん、とうなずく。
「俺に対してそっけない受け答えしたことなら、気にしなくてもいいぞ」
伊原はぽかんとした表情を浮かべ、ぶつぶつといいながらまた考え込んだ。しばらくしてまたしゃべりだす。
「折木、あんたが熱だしたのは昨日雨に打たれて帰ったからよね?」
「それも一因だな」
そもそもの原因は姉貴の冷酷非道な対応だが。
「今日、折木、熱出して休みって聞いてさ、あぁ悪いことしたなぁってさ。あんたはあたしの図書当番手伝ってくれたのにさ。あたしはそれ無下にして」
「あれは俺が勝手にやったことだ。お返ししろなんておもっちゃいないさ」
「だとしても困っている人は助けるのは常識なのっ!」
静寂。そして俺はまた、伊原の一面を思い出していた。
熱い正義感ゆえまっすぐで、意地っ張り。一度きめたことはなかなか曲げようとしない。
それは自らの行いに対してもだ。
思い出せ。こういうときは。
「そう、かもな」
伊原の仏頂面はいつのまにか悲しみまじりのか弱い表情に変わっている。
この提案なら伊原は納得するだろう。もちろん俺だって…。
「なら伊原、別の方法で礼をしてくれないか」
「えっ?」
「頭下げ続けるのは嫌だろう? 俺だってお前のそんな姿はみたくないさ」
そう。自らの間違いを吐露するというのは、限りなく苦痛だろう。伊原ならなおさらだろう。
固く口を結んだ伊原は俺のそばへと体を寄せてきた。
「わかった。うん。何するの?」
これは嫌がる可能性だってある。最悪、二度と口をきいてくれなくなるかもしれない。
だけど立ち向かわなければ何も変わらない。ありのままでいい、なんていうのは逃げ口上というやつだ。
「放課後な、図書室を使わせてくれ」
「えっ」
呆けた伊原の顔。これはどう判断するべきなのだろう。
「あのさ、別にあたしに頼まなくても使えるけど?」
「違う」
そう。少しニュアンスが違う。本当の目的は図書室で本を読むことじゃない。
「伊原」
「なによ」
「本を読む、それはもちろんだ。昨日分かったよ。うちの図書室、意外と面白い本がいっぱいあるって。そういう意味じゃ、昨日は雨が降ってよかったって思ってる」
「う、うん。ありがと」
少し目をそらして、言った。家にきてから少しずつ態度が柔らかくなった気がする。
俺だっていつのまにか口数が増えている。
「それでさ、これからお前にいろいろと聞いていいか?」
「えっ?」
「時々図書室にきて、本について話しかけたり。まぁたまに教室でも話しかけたり、お昼を食べたり? そういうことをしていいか?」
「えーっと」
想定外の頼みだったらしい。視線がきょろきょろと空中をうろついている。
気のせいか、さっきより俺との距離が広がっている。やばい。ドン引きさせたか。
「伊原、わかってる。今、断ってもいいし、ここで受けても、おまえがやめろと言えばすぐにやめる。これだけは約束する」
伊原はぎゅっと口を結んだ。そして…
「…ごめん…」
そういって立ち上がる。手はカバンをつかんだ。
やはりそうなるよな。変わることは難しい。俺に背中を向けた伊原は微動だにしない。
そして…
「金曜日」
「えっ?」
「図書当番。あたしは毎週金曜だからっ」
「いいのか? 来ても」
そういうと顔だけこちらにむけた。表情はデフォルトの不機嫌そうな仏頂面。
「好きにしなさい。その代わりうるさくしたら図書室から放り出すからね」
そういってドタドタと音をたてて家を出て行った。
俺は伊原の言葉がすぐに呑み込めず、しばらくぼんやりと座り込む。
成功、ということでいいのだろうか。
一応伊原との関係は続くことになった。
いつの間にか、窓から差し込む日差しがソファーの半分を照らしている。
寝転ぶとちょうど腹の方に太陽があたるだろう。
夏は間近。けれど今日の太陽はぽかぽか陽気といっていい暑さだ。
俺はソファーに寝転び目をつむる。眠りにおちるのにそう時間はかからなかった。
以上。完結です。ありがとうございました。
複雑
待ってたから完結して嬉しい。
もっと続きが読みたい気持ちはあるけど、書いてくれてありがとう
乙
行くと来るの使い方がおかしい感じがするんだけど
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