志希「Noisy World」 (98)
※前作 まゆ「Dear my moon」と同じ世界線の話。
まゆ「Dear my moon」 - SSまとめ速報
(https://ex14.vip2ch.com/i/read/news4ssnip/1504796118/)
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正直にホンネを話すならば。あたしは両親が大好きだった。もう二度と会うことはないだろうなんて冷たく言い放ちながら、心の隅っこでは復縁して笑い会える日々を望んでいた。
控えめながらも優しく愛情を注いでくれたママが好きだった。
そして、ダッドも……大好きだった。とてもとても、素晴らしい一人の科学者の姿が目に焼き付いていた。
いつかあの人の隣に立つ。あの人に認められるような科学者になる。そう思ったから目指した。頑張った。スポ根とは相性が悪いあたしだけど、あたしなりに努力したのだ。
なんやかんやてんやわんや、紆余曲折を経て辿り着いた。そして────対立した。
なんてことはない。あたし達は"出来すぎた"。だからこそ、両者はどちらも正しくしかし、全く真逆の解を弾き出したのだ。科学者にとっては致命的な結果だ。
最後まで折れることなく、二人は自分の理論を展開し合った。
決して交わり合うことができない二分化は決定的な物となり、決別した。
けれども正真正銘あたし達の溝はそれだけだった。それだけだった、筈なのに─────
あんな破滅を迎えるなんて、思っていなかったんだ。
『……志希。アイドルごっこは、もう済んだか』
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これは、記憶だ。あたしが今まで生きて体験してきたことをあたし以上に覚えているという、メモリーだ。
────今から18年前。あたしは岩手のとある病院で生まれた。ごく普通の、田舎に位置する町の小さな病院だ。
ギフテッドだからって、馬小屋で産まれたりなんてしない。特別な星空の下に生まれたりもしない。
そこには壮大な国際問題が絡み合った政略結婚も、莫大な資金がかけられた人体実験も介在しない。
生まれたときはこんな茶髪だったなー。ん?そりゃそうさ、ダッドもママも生粋の日本人なのに地毛がこんな色の子供が出来るわけないってゆー。
突然変異だったら面白い話になるかもしれないけど、これは後天的。とは言っても、別に美容院で染めてもらってるわけじゃあない。
化学実験を何度もしてる内に自然とこの色になっちゃったんだよね。いや、これはほんとほんと。
あ、でも蘭子ちゃんの銀髪は地毛だって言ってたよ?
歌鈴ちゃんの赤色の瞳も、別にカラコンを入れてるわけじゃないんだって。
世の中には色々と不思議があるもんだよねえ。
兎にも角にも、この時の志希ちゃんは至ってノーマルだった。幼児平均よりもちょっとくらい立つのが早かったりとか
言葉を話すのが早かったりしたらしいけど、正直これは誤差レベルの話だ。
ルービックキューブを初めて完成させた年齢と同じくらいどーでもいい。あんなのは指標にはならない。
非常に好奇心旺盛で、ベビーカーやらカートを抜け出してはふらふらと歩いていってしまうので、ママは常に抱っこをしてなければならなかったとか。でも、これもさして珍しい話じゃない。
そもそも一体、何処までいけば普通じゃなくなるのだろう?
最早あたしは自己を普通とは定義しないけど、"普通"の基準を決めるのも、いち人間のさじ加減でしかないのにね。
あたしが異常と診断されたのは6歳のこと。至って普通の小学生向けの計算ドリルを、あたしは僅か三日で全て解き終えてしまったのだ。
ああいや、これじゃ語弊があるかな。正確には『一日で解き終えたのは一、二年生向け』であり、『五、六年生向けまでのドリルを三日で解き終えた』と言った方が正しい。
いやいや。流石の志希ちゃんも、習ってない公式が使えるわけじゃない。
つまり、最初に解答をじっくり見たのさ。どうやって解を求めるのか、その仕組みをじっくりとね。
あとは簡単な作業だ。頭の中に"知識"として収容されたソレを使って、問題に取りかかればいい。
正解は一定の数しかないのだ。一々、一度見たドリルの解答欄なんて見に行く必要はない。
既知の問題なんて、見るだけで解答への道筋が浮かび上がってきてくれる。楽勝だ。
先生の話なんて聞かなくったって、興味の沸いた事柄はダッドのパソコンを借りて調べたし、教科書をさっと読み込んで、間違えた箇所はきっちり正解を覚えて穴を埋められた。
そうそう、その頃から先生の退屈なお話なんて真面目に聞いてられない子でしたー♪
ガミガミ怒られた。限られた時間は有効に使いたいって口答えしたね。
だってさ、既に知ってることを延々と45分も語り続けられるんだよ?
ネズミの体色はグレー……なら何故グレーか、みたいに繋げられるような話題なら兎も角、ここの鍵盤を押すとドが鳴って、右隣の鍵盤を押すとレが鳴ると言われているようなタイクツな内容を。
勿論、出来ない子たちを見下しているわけじゃないし、基礎教育の大事さだって分かっている。
でもそこに、連帯責任を課す意味までは理解できない。
そうするくらいなら、出来る子にも別枠で教育課程を設けるべきだと思うのだ。
変に足並みを揃えて抑制するより、もっと先の段階へと進ませた方が効率的だろう。
でなければ、必然的に平均点が下がってしまうのだから。
それでも無駄な時間を強いるんだったらせめて内職くらいさせて欲しい。飛び級の制度を知る前、あたしは毎日の様にそう思っていた。
暫く経つと、あたしは高校生のテキストに手を出し始めていた。
授業で出される問題は常につまんなかった。流れ作業だった。
ちゃんと授業も真面目に聞きながらやるからさとは言ったんだけど、それもまた怒られちゃったなー。
そんなこんなで、あたしはギフテッドと認定された。
日本には数少ない認定の専門家が、グーゼンあたしの住んでる近くには居たんだってさ。
神様から与えられし者。選ばれた者。授けられた才覚。つまり───天才だ。
普通の家庭なら、両手を挙げてバンザーイ!って喜んだりするところだろう。
或いは気味悪がったり、その利用価値について低俗な考えを巡らすものかもしれない。
でも、うちはそうじゃなかった。まるで当たり前のこととして受け入れた。
逆に「こうでなくては俺の娘ではない」とまで言い切ったらしい。
自信過剰すぎる?そうだね、実際出来の悪い子供が誕生したらどうしたんだろうね。
流石にそれだけの理由でネグレクトする親は人間の屑としか思えないけど、世の中にはありふれているわけだし。
歴史にifはないし、うちの親はそういうことはしないと思ってるけど………興味の尽きない仮定だ。
え?子が子なら親も親だって?うーん、それについては否定できないにゃー☆
あたしは死んでも自分のことを善人だなんて思わない、社会不適合者と罵られても否定はできない。
それでもまあ、セーフラインだったからこそ今こうしてシャバで過ごせているのだよ。
サイケデリックに彩られた世界を夢見たことがないわけではないけど、実行しようとまでは思わない。
踏み外してたらとっくに滝壺にでも落ちてるよ。真っ逆さまにひゅーんって。
ダッドはいわゆる単身赴任。家には月に一回帰ってくるかどうかと言った感じ。
だから、半分くらい母子家庭だったと言っても過言じゃないね。
彼は基本的には都内のアパートに一人暮らしをしていたから、詳しい生活風景は不明のまま。
食生活とか、ひどく不健康な毎日を送っていると軽く推測されるのに殆ど病気に罹ったことはない。
ママはイマドキでは珍しい専業主婦。ダッドは生活力ゼロで、家事の類いは一切出来ない。
そのくせ、たまに家に帰ってくると機材やら資料やらで散らかしてすぐまた出ていってしまったりもする。
だから料理も掃除も洗濯も、全部ママの受け持ちだ。うんうん、あたしも片付けデキマセーンシマセーン。
別に遺伝のせいにするつもりもないけど、勝手に物の位置を移動されると困るってゆーか。
掃除の必要性を感じないし、なんか……あちこちに物が散乱している部屋の方が、かえって落ち着いたりしない?しない?そう……。
もしママも片付けられない人だったら、うちはゴミ屋敷としてメディアの特集番組で話題にされてたかもね。いやあ、恐ろしい恐ろしい♪
毎日一緒にいると、ストレスなどから夫婦喧嘩が誘発されるというデータを耳にしたことがあるけど、その点、うちはたまにしか会わないからずっと一緒に居ることによるストレスは蓄積しない。
それもあってか、非常に夫婦円満な家庭だった。甘酸っぱく気難しい恋愛結婚ではなく、親同士の取り決めたお見合いで知り合ったので相性もバッチリ。
子供は男の子でも女の子でもどっちでも良かったらしいけど、一人は欲しかったとか。
だから志希ちゃんは親の愛情をたっぷりもらって育ったのでした。そりゃもう過保護なくらいに。
家で姿を見ることは少なかったけど、あの時からダッドのことは尊敬していた。
母子家庭だったのに、父親にばかり懐くのはおかしい?いや、そーでもないよ。昔は普通の父娘みたいに、肩車とかしてもらったりしてたしね。
だぼだぼな白衣を纏った小さな身体は見上げていた。その杓子定規のような父の背中を。純粋で、一点の曇りすらない綺麗な青の瞳で。
「あたしねー、大人になったらパパみたいな科学者になるー!」
「そう……お父さんきっと喜ぶわよ。あの人、志希と一緒に仕事したいって言ってたから」
「それでいつかは……パパさえも超えた、世界一の科学者になるんだ~♪」
……人によっては黒歴史だと思うのかもしれない。
己の幼稚さに呆れ果て、嫌気がさすというのも理解できる。
それでも、アインシュタインやエラトステネスだって生まれた時はオギャアオギャアと泣いていたんだし、どんなカタチであろうと、それが『一ノ瀬志希』を構成する一つの要素であることは間違いない。
ダッド……即ちあたしの父親は、その界隈ではかなり有名な科学者だった。
否、学者と言った方が適切かもしれない。彼は実にマルチだった。若くしてその才覚を発揮させ、海外のプロジェクトにも携わったりして賞をいくつも受け取っている実力の持ち主。
努力をしてこなかったわけじゃないけれど、努力でどうにかなる部分をとうに超越している。
あれもやはり、『天才』と呼ぶべき存在なのだろう。
だけど、ダッドがその名を轟かせているのはその功績によるもの"ではない"。即ち────悪名だ。
いわく、彼は世間では『炎上の一ノ瀬』なんて呼ばれたりしている。いや、本人はドライアイスみたいな人間だよ?そーいう燃え上がれーってゆー物理的な炎じゃなくて、ネット用語的な炎上って意味さ。にゃははー、あの時はまだマシだったけど。
今はインターネットやSNSの発展と共に、一部の学会の関係者しか知りえない情報がどんどん拡散されて発信者ですら手の届かない位置に行き渡るような時代になったからさ~。
エゴサなんてしようものならもう大変♪群衆心理の総力戦、陰謀論の応酬戦、虚飾で固められた真実が電波の虫となってぶんぶん五月蝿く電脳空間を飛んでいる。
殺虫剤で一匹一匹駆除しようと、いくらでも沸いてきて完全に殲滅することなんて不可能。
そんでもって、あたし達はそのモンスターハウスから自分にとって必要な益虫を探し出さないといけないわけだからやっぱり大変。
嫌な時代になったものだよねー。
まあ、ダッドがなんでそう呼ばれてるのかは何となく想像がつくでしょ?
言いたいことはズバズバ言う!社会性フィルターなんて天空に向けてポーイしちゃって、自分の主張をねじ曲げない!
そのくせ汚職もなくて、結果をちゃんと出してくるから処分も出来ないし、罠に嵌めようと企み目論んでも、全てかわし捻り潰す。
やることなすこと掟破りの変人で、ブラックラインに寄りに寄ったグレーに居を構え、常人には理解できないであろうレベルのことを常人に強要させたりもする。
だけど、きちんと相応以上の報酬も払うし他人を無下にはしない。
根っからの反逆児で問題児だけど、質実剛健で優秀な博士なのだ。
稼ぎはかなり良いはずだけど、うちに還元することはほぼ無いに等しい。
そのお金は全部、その次の研究のために費やされることになるからだ。
正に科学者になるべくして成った男。ヤバさで言えば、あたしはあの人の足元にも及ばない。
その手の輩から恨みを買うなんてのはしょっちゅうで、みんなやりたい放題のバーゲンセールだった。
迷惑メールや無言電話は大量に届き、マスコミや記者には有ること無いこと書かれまくり、尾けられまくり。
家の窓に向かって石が投げ込まれたこともあったし、放火未遂だってされたことがある。
そういったことをされてもあの人は全く動じなかった。彼は彼のスタイルを貫いたままだった。
そこも全て織り込んで結婚したのか、ママも沈黙を貫きダッドに訴えるような行為はしなかった。
文句の一つさえこぼすような真似はしなかった。まるで全てを受け入れた理解者みたいに。
正直、家庭をもった父親の振る舞いとしては下の下と言うべきなのだろう。
誰だって、世界一危険にさらされた一般人の家族~なんて言われてギネスブックに載りたくはない。
だけどあたしはそこに魅力を感じた。
圧力でひょいひょい意見を変えたり、付和雷同する人間なんて信用できない。
そんな人物よりは、頑迷なくらい自分の主張を曲げない方が素敵に思えた。
たとえそれが反社会的だと非難されるべきものだとしても、あたしの目にはそう映ったのだ。
中学生から、あたし達は岩手の片田舎から出て、東京の高級マンションで暮らすことになった。
んーん、心残りなんてなかったよ。別に岩手県と死に別れるわけじゃないんだし、来ようと思えばいつでも空気を吸いに来れる距離だし。お土産は故郷のフレグランス一年分~なんて。
というかここは、まだ見ぬ新天地に心を踊らせる場面だって。
冒険者が生まれ育った小さな町を抜け出して、新たな道を開拓するみたいに。新しい刺激ってクエストが待ち受けているんだよ?そんなの、楽しいに決まってる。
ずっと同じ場所に留まり続けていても、経験値は多く得られないのだから。
初見をたくさん観察していくことで、志希ちゃんはレベルアップするのである。
地元の自治体さんたちからは怒られそうな発言だけど、故郷は本当に何もない場所だった。
岩手県の中でも、あたし達の住んでた場所は特に田舎だったらしいけど。
自然は豊かだったし、人工物で溢れ返った東都の街並みに慣れてくると郷里が恋しくなる気持ちも分からなくもない。
けど、やっぱり利便性って難しい。
岩手にあって東京にないものよりも、岩手になくて東京にあるものが多すぎる。
手に入らなかったものが揃うようになったお陰で、選択肢がより一層増えて人生が楽しくなった。
人をダメにするというか、もうこの暮らしになれたら田舎では暮らせない気がするよ。
暖房の温もりに包まれて、冷房の快適さに飼い慣らされて生きてたいよね~。ふにゃ~。
……小学校はつまんなかった。自由を縛ってばかりの箱庭だった。
あたしにとってレベルの低い授業しかしてくれなかったし、特段興味を惹かれる事柄もなかった。中座して教室をサヨナラ~♪なんてわけにもいかないから、
仕方なく他の子とおんなじテキストを机に広げながら、頭の中で違う問題を解いてばっかいた。
面白くしてくれる人がいたら、何か変わったのかもしれないけど。
残念ながら、見当たらなかったな。
『私もそれなりに長く教職を務めてきましたが、こんな小学生初めて見ました。男女の見境なく、クラスメイトに抱きついて匂いを嗅ぐなどと……。失礼ながらご家庭での教育に問題があるとしか思えないのですが。それとも発達障害ですか。特別学級のクラスに移動させますか?』
『一ノ瀬、兎も立派な学校の財産なんだ。それを頭に入れろ。二度と勝手に触るな。お前が今回不問に処されたのは、単にお前の年齢が未熟だったからに過ぎない。チッ……法律に保護された異端児めが』
『単独行動、単独行動、単独行動!なあ、郷に入っては郷に従え、って言葉を知ってるか?貴様のような団体行動が出来ない人間が、社会じゃ一番要らないんだよ。年長者に言われたことは全部YESと言って従えばいいんだよ。分かったか!?』
確かに、あたしにも責任がないかと問われたら、嘘になる。
渡されたプリントを速攻で解き終わり、余白で内職を始めたりする生徒は関心・意欲・態度の面から見たら不良と言わざるを得ないだろう。社会の一員として、一定の規律を守る義務があるのだろう。
けれど、あたしが受けた"洗礼"はそれに留まるものじゃなかった。
『流石、一ノ瀬さんは優秀ですね。皆も見習いなさい。この問題は、予習をちゃんとしていれば解ける程度でしかありませんよ』
『三枝ちゃん。志希さんは天才なんだから、私達が邪魔しちゃ駄目でしょ?貴女程度の人間が一緒に勉強しようだなんて烏滸がましい話だわ』
『あいつ、あれで人生楽しく過ごしてんのかね?与えられた才能、才能、才能よー。そんなんでイージーモードにクリアしてよー。それでずるいとか思わないのかね?』
『一ノ瀬、貴女カンニングしたでしょ!?授業中寝たりしている貴女が100点なんて絶対有り得ないから!私の答案用紙を見て間違ってる箇所だけ訂正したんでしょ、正直に言いなさい!!』
うん?どんな小学校生活だったかなんて、もう一つも鮮明に覚えてないよ。いちいち、飛び交う"雑音"を気にしないってゆー。
もしかしたら、楽しい思い出もたくさんあったのかもしれないけど。
……ゴメンね、思い出せないや。
岩手では決して出会えなかった匂いがたくさんあって、ハスハスし放題。
自然の匂いもイイけど、やっぱり人の匂いには及ばない。
あ、いや物理でやったらいくらJCでも補導モノだからしてないよ?ちゃんと遠くからすんすんする程度ダヨ?節度は守る志希ちゃんなのだ。
……え?小学生の時にクラスメイトにやって怒られてただろって?
だって、あの時はそれが悪いことだって知らなかったんだもの。教えてくれなかったんだよ誰も。当たり前のことを、当たり前のことだって。まるでバートリ=エルジェーベトみたいにね。
仲良い人なら許してくれるんだろうけど、生憎とその頃のあたしにそんな存在は居なかった。
青い春とは無縁で、灰色と言うほど悲観的でもないけど、寂しい女の子だった。
一人の時間は好きだし、同時に必要なものとも思っているけど、ずっと一人が良いわけじゃない。素粒子はただそれ単体のみでは、なにも生み出せないしね。
流石は都内の高級マンションだ。近場で店も揃っているし、今までの行程が馬鹿らしく思えてくるほど便利だった。と言っても、あたし達は基本的に出不精で、外出する用事は買い物に行くくらいなんだけどねー。
セキュリティも万全で、精々不幸の手紙が届くぐらいになった。
あ、ダッド宛のラブレターも届いてたよ。まったくスミに置けないにゃー。これは娘として見張らなきゃ、なんてこれっぽっちも思うことはない。浮気なんて二次熟語は彼からは縁遠いものだろう。
それはそれで問題な気がするけど、何で二人が結婚して愛し合ったのか分かんないくらいドライである。
「大人には色々ある」って使い古された定型文を返されてしまったけど、結局今でも分からず仕舞い。
あたしの興味は3分持たないけれど、恋愛感情が3分待たないで冷めてしまうかと聞かれたら流石にNoだ。興味のあることには、一日中だって一年中だって夢中になれる。させてくれる筈だ。
てかもし飽きちゃうような行為だったとしたら、薬で脳をトロットロに犯してから及ぶから問題ない。
……え?それはそれで大問題?逆に?
にゃふ~。楽しいと思うんだけどなー。ムズカシーことを全部捨て去って、本能の赴くまま獣性に身を委ねて。快楽の海に溺れてびしょびしょになって、天にも昇るような気持ちでトリップできると思うのになー。
中学校でもあたしは浮きっぱなしのアウェイガールだったけど、そこに一つの転機が訪れた。
いや、今思えば遅すぎたと言うべきだったのか。それまでには何の進展も無かったのだから。
兎も角中学一年のサマーバケーション、ダッドはあたしにこう告げた。
「志希、今度私はアメリカにいる『協力者たち』と実験を行うために現地へ飛ぶ予定なんだがお前もついて来ないか。お前にとっては初の海外旅行ともなるし、良い経験になるだろう」
「海外、実験!?おー、いいじゃん~♪行く行く、連れてってー!」
あたしにとって初めての海外旅行。それも現代文明の最先端国家、アメリカに。断る理由がまるでない好条件。当然の如くあたしは心を躍らせていた。
高揚と緊張で夜も眠れず、交感神経が活発になってアドレナリンが出まくっていた。
飽くまで目的は観察、技術的にも足りないであろう自分はよくて補助を任される程度だろうけど、予習をしておくに越したことはない。ダッドの役にも立ちたかったから、あたしは様々な『予習』をしていた。我ながら、あたしらしくないことを。
────ただ一人、微妙な表情を浮かべていたママの理由を知らぬまま。
あたしのファースト・トリップ。インザUSAー。観光目的ではないので、あたし達は脇目もふらずに件の研究施設とやらへと向かった。
精々、帰りの航空機の待ち時間に免税店で最低限のお土産を買うくらいだと思っていたので別に不満はなかった。寧ろ、頭の中が実験のことでいっぱいだったくらいだしね。
当たり前の話だが、当時の志希ちゃんはまだ科学者の卵であり、うら若きJCであり、即ちこーいう本格的な研究作業を目にしたことはなかったのだ。
書籍や映像の中でしか見たことのない、語られることのなかった領域。それを目にしたら、感じたら、そこからあたしという研究者が始まるのだと。ヴァルミーの戦いを目撃したゲーテのような感想を抱いていたのだった。
空港からほぼ最短ルートを通って着いたのはオレゴン州、ポートランド。北アメリカの中では比較的栄えていると言っていい都市の一つである。
ダッドの迷いのない足取りから、ここに来たのは1度や2度じゃないことが分かった。連絡の取れなかった日は何度も海外へ渡っていたのかもしれない。
そして辿り着いたのは、如何にも研究所といった外観の真っ白な建造物。所見。ポリメタクリル酸エステル樹脂で塗装されたらしき、美しい科学研究所。まるで、どんな色にでも染められる聖処女の纏う純白のドレスみたいだと感想を抱いた。
輝かしい黄金色にも。凶乱めいた真っ赤な血の色にも。指一本でどんな化学反応でも起こせちゃう、危険物。
「わーお……中々大きいところじゃんー♪パパは普段からここで実験したり研究したりしてる感じ?」
「そうだ。と言っても、向こうが交通費を負担してくれる時でないと金銭面が厳しくてな。自らの意思で赴くというケースはあまりない」
……一応補足しておくが、本当にダッドは金銭面で困っているわけではない。ただ、割に合わないと思った依頼は容赦なく蹴ってるというだけ。つまりケーチー。
呆れるほどに合理主義で、寄り道ばっかの志希ちゃんとは正反対。
というわけだから、案内も最短ルートである。途中でいくつも気になる部屋を見つけたけど、散策は許可をとらないとキケンな扉を開いてしまいそうだったので大人しく後に続いた。
「……着いたぞ、ここだ」
……随分と本格的だ。そんな感想を抱いた。
そこに辿り着くまでに、いくつもの扉を通過してきた。
一部の部屋では最新式の指紋認証システムが導入されており、ステンレス鋼で出来た保管室まで完備されていた。
だが、ここは寧ろその真逆だ。常夜灯の微かな光源だけが照らす、仄暗く寂れている一室。その、誰も興味を抱かない部屋にある棚で隠された地下へと続く階段。
深淵に誘い込まれるかのように、あたし達は秘密の研究室へと足を踏み入れた。
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蛍光グリーンに染まる暗がりの研究室。真っ先に鼻腔をくすぐったのはグリセリン。酢酸カリウムの匂いもほんのりと漂っている。
それから────人間の匂いも、する。でもちょっと変な感じだ。これは決して、健常な人間から発せられる臭いではない。
てっきり不衛生な研究者たちが集まっているのかと思ったのだけど、これは────
「アシュフォード、例のサンプルとやらはどれだ」
「やあイチノセ、後ろに連れているのは娘さんかい?キミに似てなくて可愛いね。これは将来大層な美人さんになるんじゃないか?ははっ。……実験動物(サンプル)はあそこで眠っている彼だよ。見て分かる通り既に生命活動は停止しているが、まだ五臓六腑は綺麗なものさ。品質としては最高級で申し分ないと自信があるね」
─────。ダッドに続いて、部屋に入ったあたしの視界に飛び込んできたもの。
中央に配置された白いベッド。そして、そこに居たのは……人間だった。
白衣を纏った金髪の科学者の言葉通り、とうに動かなくなった死体である。
カエルの解剖はクラスメイトが周りでドン引くのも気にせず、喜んでホイホイと進めていった志希ちゃんだが、流石にいきなり人間の死体を見せられては身体が硬直する。
動揺を悟られないようどうにか抑えて、顔を上げて父を観察(み)る。
「ほう……流石はDr.ヘクセンタックの仕事だ。如何に身寄りのない死人とは言え、これを日本で用意するのは非常に骨が折れるところだった。世間話は必要ない。早速、実験に取り掛かるとしよう」
「おいおい、一応あの堅物な理想主義者を仲介したのはボクなんだぜ。……と言っても、キミは始まらないよね。うん、作業に入ろうか」
ダッドは澄ました顔で淡々と準備を整えていく。その一挙一動に淀みがなく、慣れていることを窺わせた。
……流石にあたしも馬鹿じゃない。この実験が、限りなく違法であることを認識していた。
これでもし、正義感に駆られて父を糾弾しようと決起したり、嫌悪感から拒絶反応を示したりするような真人間だったとしたら、何か変わったのだろうか。
けれど、そのあたしの心は冷えていく一方だった。さっきまであった嫌悪感がすっと抜けていく。慣れていく。どんな失敗も、リカバー可能な範囲で抑えて最終的には全て直してこれた。成功できなかったことなんて無い。
頭が、身体が、受け容れていく。この異様な光景に、脳が早くも"適応"しはじめたのだ。こうなるとあたしはもう止まらない。どんなことでもやりきってしまう。
ダッドが必要なものを取りに奥の部屋へと消えた後、片割れの科学者は手を止め、そしてそのまま此方に向き直って、小さく頷いた。
「初めまして、Ms.イチノセ。ボクの名前はアシュフォードだ、宜しく。いきなりでびっくりしたかい?ふふ、でも絶対に他言は無しだ。ボクだけじゃなく、キミのお父さんも困ることになるからね」
「これ……なんの実験?」
それは、実験というより儀式と呼べそうな光景だった。
中央のベッドに寝かされている一人の人間。それを囲むように位置された無数の機材。投薬用の薬剤が陳列する棚の横には、見たこともない装置が物々しい雰囲気を放っていた。
今ここで、正に魔女裁判が行われていると説明された方がまだ信じられるくらいに。
「……フム?キミも科学者志望だというのに、彼から教えてもらってないのかい?まあそれもそれでイチノセらしいっちゃらしいのかもしれないね。なら、さぞ驚いただろう。びっくりさせてごめんね」
アシュフォードと名乗った男は、少し軽薄な様子でペラペラと喋り出した。どうやら、アメリカンジョーク交じりの回りくどい言い回しをもった饒舌家らしい。
黙々と器具を並べ立てるダッドを横目に、随分とあたしに情報を話してくれた。
『完璧な人間』という命題がある。全知全能、神の領域にまで踏み込んだ人間の到達点。
────通説から言って、完璧な人間など存在しない。これは何も、無人島生活を一人でこなせるかなどと言う生易しい話ではなく、人間の不完全性を完全になくすことが出来るかという仮定においてである。その場合どう頑張ったところで、必ずそこに限界が生じる。よって、完璧とは言い難いのだ。
或いは遺伝学的な観点から見れば、どんなヒトゲノムにも個人差があれ、最低1以上の欠陥が生じているらしい。
その意味で捉えても、絶対的な完全性を見出だすことは不可能であろう。
だが、現存していないというだけで造ることが出来ないとは誰にも証明されてはいない。
"ヘンペルのカラス"みたいに、今現在完璧な人間が確認できないからといって世界中のどこにも完璧な人間が居ないという証明にはならないし、これから白いカラスが誕生しないとも限らない。何より、そんな極上の命題を学者たちが放っておけるはずもないのである。
この問題に、至極真面目に取り組んでいる一人がダッドだった。『完璧な人間を作るための実験』。それを、彼の人生全てを費やして完成させるべき至上命題と打った。
アシュフォード自身も、そんなダッドに同調して研究に協力を申し出たらしい。その為には手段を選ばず、時折死刑執行を間近に控えた囚人や孤独死した哀れな人間を使って、人体実験を繰り返してきたのだと。"材料"の斡旋に必要な環境も整えているのだと。
まったく悪びれる様子もなく、白人の科学者は言う。
「もし生きている人間で試して問題が発生してしまったら、責任問題が生じて研究が続行できなくなるからね。もう土の肥やしにしかならない死人を再利用しているんだ。寧ろ、感謝されるべきじゃないか?だって、どれだけ綺麗な言葉を並べ立てたとしてもボクらのご先祖様たちだって、死んだ人間を解剖してその中身を改めたからこそ、ボク達は人体の知識に肖ることが出来ているんだし。"Fair is foul, foul is fair"って言うだろう?」
「……ふぅん」
全く、科学者というやつはどいつもこいつも。他人のことを言える義理はないけど、確実にこれだけは言える。
この目の前の科学者たちはあたしよりトンでる。倫理をかなぐり捨てて、常識を投げ捨ててる。まるで映画に出てくるようなマッドサイエンティストだ。
そして、あたしも興味を持った。晴れてあたしもマッドの仲間入り。
父親が研究しているものを娘が追うのは至極当然の流れだから?
若しくはそれが人類存亡の至上命題に対する、絶対的な解に成りうるかもしれないから?
いいや、違う。そんなのは建前に過ぎない。"だって、キョーミを惹かれるから"。理由はたったそれだけで十分だった。
誤字訂正です……
中身を 改める → 検める ですね
────端的に言ってしまえば。ダッドは、典型的な極右主義者だった。
デモなどに参加することは一切なかったし、自らの主義主張を演説に盛り込むこともなかった公私混同に厳格な父だが、娘であるあたしは知っている。小学生の頃はよく理解できていなかったが、今ならはっきりとその意味が分かる。何度も聞かせてきた彼の口癖のような言葉を。
「……志希、今の日本は敗け犬だ。先の大戦にて、敗戦国となったあの瞬間から我々日本国民は虐げられ、徹底的に牙を抜かれ、嘲られ……その悲惨な結末がこれだ」
普段は冷たい人間なのに、そのことを語るときだけは妙に熱かったのを憶えている。
いつも眼鏡の奥に常に検算をしているような沈んだ瞳を宿し、喜怒哀楽の感情が欠けた感情の起伏が薄い父にしては珍しい行動だった。
……今思えば、あれが彼の根底、行動基盤なのだと何よりも言外に語っていたのだろう。
「政府中枢は欧米諸国に毒され、最早腐敗しきっていて信用に値しない。必要な研究費用さえ用意せず、また研究の必要性すら理解できない。結果として私は、外国の研究施設を借りてずっと牙を研ぎ続けてきたわけだ。耐え難い屈辱と嘲弄にその身を焼かれながらな」
「……」
誰よりも日本のことを愛している男が、日本の研究所で働かない理由が正にそれだった。
或いは、彼が愛していたのは現在ではなく過去の日本なのかもしれない。
それゆえに、その慟哭と絶望は深いものだったのなら。
その決意は、きっと何物にも変えることなどできないくらい固いだろう。
ダッドは尚も、熱を帯びた腕を握りしめて語り続けた。
「私は……私は私の研究で以て再び日本の栄光を取り戻す。暴力などといった低俗な手段を用いずに、その完全性と特異性で制圧してみせる。……尤も、私は無血開城という幻想は抱かない。現在の世の中のシステムでは、どう足掻いたところで争いは避けられない運命にある。必要最小限度の"犠牲"が出ることは承知の上だ。ああそうだ、それを暴虐だと、悪徳だと詰るのなら大いに構わない。どれだけ綺麗事を並べ立てようが、踏み出さなければ何も変わらない。革命(か)えられない。私は『完璧な人間』を造る。この復讐の第一歩としてな」
────そう、思い出した。彼の原点が何であったかを。
その男を学者たらしめている、根源的な部分を。
「……。『完璧な人間』、ねぇ……」
勿論あたしは知っている。否、今の世界では誰もが大体のことを調べようと思えば調べられるのだ。
それなのに、自らの無知を晒すだけの民衆は一体何だと言うのか。ただ膨大な量の情報の山に怠けているだけ。ただ誰かが仕掛けた悪意の罠に引っ掛かってしまっただけ。
今や日本国民の大半が所持し、社会生活でも必須になりつつある手のひらサイズの最新デバイスは、持ち主の大半がそのスペックを活かしきれずに宝の持ち腐れになっている。
ハル=ノートも。東京裁判も。GHQの打ち出したWGIPも工作も、全部調べて知識として理解している。
それを踏まえた上で、あたしは中立である。無所属、Maverickってヤツだ。
もし今より良い環境が用意されていると言われたら、あたしはそれに飛び付くだろう。景気が悪くなり、日本経済が回らなくなったと判断すればすぐに日本から出ていくだろう。
その程度だ。祖国であり、愛国心もあるけど強い執着まではない。
ナチスの台頭は第一次世界大戦の"やり過ぎ"な講和条約だったヴェルサイユ条約の所為だとか、太平洋戦争はABCDラインの包囲と、実質的な最後通諜であったハル=ノートによって迫られた戦争だったとか、そもそもアメリカ合衆国の現政府は、原住民であるインディアンに賠償し相応の責任を果たすべきだとか。
全部全部、どっちもどっち。なるほど今日のあたしはAが悪いと思った。でも明日のあたしはBが悪いと思うかもしれない。お涙頂戴満載のベストセラーなノンフィクション小説とか、プロパガンダにも似たような映画を見たり聞いたり読んだりしたら、ひょいひょいと意見を変えてしまうのだろう。
それくらいでしかない。明日は明日の風が吹く。明日はあたしの風が吹く。
だってそもそも、人間ってそういう生き物だ。自由な生き物だ。
お偉いさん方が作った憲法なんぞに保障されなくとも、我々は自由なんだ。
『勝てば官軍。負ければ賊軍。その当然の帰結に何の疑問も抱かない。戦わなければ生き残れない。強くなければ生き延びられない。弱ければ殺されて死ぬ。知恵を絞っても死ぬときは死ぬ。覆すことのできない壁が存在する』
『弱い者は強い者に捕食され、それを更に強い者が食らう。しかし一定数以上増えた強い者は餌が少なくなって、段々とその数を減らしていく。その繰り返しの中で。そんな生物としては当たり前の矜持を、人類は捨ててしまった』
『誰もが平和に生きて、誰もが平和に暮らそうと安寧を求めた結果、自浄作用は意味を失い本来有り得ない数の人類が生み出され共存し、有限の資源を食い潰し始めた。そうして必要なかった筈の地球問題を解決する必要に迫られている』
ダッドの掲げる理想。人類史上二度目の"冷たい戦争"。『完璧な人間』を利用した未曾有の経済テロ。未来の繁栄を見据え、人類を正しい在り様に回帰させる革命。
それらは全て、彼が今の人類に絶望したがゆえに弾き出した結論だ。
しかし地球上で、おおよそ人類ほど文明を発展させた種族はいない。
単純にその点を挙げるならば、人類は確かに他種族より優越した存在なのだから、下等生物たちの生殺与奪権を握ることに何の疑問も生じないし。傲慢だけどちゃんとルールには則っている。いや、それにしても。
つまり、あたしはこう言いたいのだ。
「あたしはこんな人間が、そんなだから大好きなんだ。愚かで蒙昧で不完全で不確定で、醜く矮小な人間をあたしは愛している。それなのに、あたし達は自分を自分で"測りきれない"んだから!人間は本当に凄いと思っている!可能性に満ち溢れている!未知数だ!」
全然興味が尽きない。無限のように沸いてくる。人間のことをもっともっと知りたい。
幾らでも知識を増やしても、まるで知った気になれない。足りない。だって変わり続ける。既知に変わった未知がまた未知になる。一を識って二を知れないでいる。いつまでも、いつまでも永久に。
そんな人間のことがいつでも大好きで、大好きだった。
……ああ、漸く答えがまとまった。
そこで口に出さなかったら、きっと何も変わらないままだったのだろう。だけど確かに口にしたんだ。そして───運命の歯車は廻り始めた。
「……ねぇパパ。『完璧な人間』って、何をもって完璧とするの?」
それは、核心に最も近い問い掛けだっただろう。
機械的な作業をしていた腕は止まり、振り向いたダッドの顔には僅かに機械ではない、感情の色が宿っていた。
「お前にしては随分と短絡的な質問だな。客観的、数値的に見て全てを満たすモノを即ち完璧と云う。それ以外の解など存在しない」
「んにゃ。そんな揚げ足取り的なことは聞いてない。"パパにとっての完璧"は何なのか、聞きたいだけー」
僅かながら、止まっていた腕をダッドは動かし始める。淀みなく、機械仕掛けのように話しながらも作業は滞らない。
「それは決まっている。感情の全消去だ。文明を発展させる要素は、本能と理性、知性と実力で満たされている。感情という不確定で曖昧な物は、人間を狂わせる原因でしかない」
「……人間から感情を取り上げたら、きっと人間が人間である意味を失ってしまうよ。人間であるからの感情であり、感情あっての人間だ。あたしはそう思う」
「ふむ……確かに、感情を人間以外が活かしているとは言いにくい。感情という概念がヒト固有のモノであることは間違いないだろう。だが同時に感情というものは大きな枷だ。より上へと至る進化の妨げだ。感情をもっている限り、人間は完璧というステージには上がれない」
「本当に?本当に、そうかな」
「何……?」
今度こそ、一人の研究者は完全に手を止めて此方へ向き直っていた。その後に続く言葉を待つために。興味を惹かれたがゆえに。
「少なくとも、あたしはそんな存在を完璧な人間とは認められない。だってそんなの、切り捨てちゃっただけでしょ。徒労を。浪費を。そんな救いのない結末で誰が喜ぶのさ。完璧な人間ってゆーのは、葛藤も、幸福も、喪失も、虚無さえも内包したモノでなくてはならないってね」
それは衝撃だったのか。ダッドの思考エレベーターがフリーズする。
数秒の沈黙を置いて、稼働が再開される。そして仮借なき眼差しで検めるように愛娘の総身を見渡し、厳かに頷いた。
「成る程、成る程。つまりお前は私を否定するのだな、志希。私の理論では完璧な人間を造ることは出来ないと。お前の考えは、私とは全く異なるものだと言うのか」
「そうなるね。別におかしくはないじゃん?だってほら、まだ未完成な研究なんだしー。色んなアプローチがあって、然るべきでしょ?」
あまりに大胆不敵なる宣告に、アシュフォードは傍観せざるを得なかった。
他の誰が入れる訳もない、一対一。
これが頭の固い、学者同士であったら多分不毛な争いにまで発展していたのだろう。だがそうはならない。これは天才と天才による、正解のない親子喧嘩だ。一番近しい存在が、同じ志を抱いている者が、異なる結論を出したことによる対立問答だ。
「これは面白い。まさか己が娘に対立意見を吹っ掛けられるとは。……だが志希、今のお前では素人目も同然だ。実際がどうであれ、学会では意見を出す資格すら得られないのが現状。お前のその考えを世界に通用させたいと思うのであれば、お前はまず科学者というステージに立たなければならない」
「うん、じゃあそうしよう。井の中の蛙、大海を知らず……なんて言うしねー。そうと決まればほら、ささっと今日の実験に取り掛かろうよ♪ダッドのアプローチにも勿論興味があるからさ~」
……こうして。道は分かたれた。ただ殉じていただけの憧憬は今、確かな形を得て現実と成った。
もうその背中を眺めることはない。
手のひらの蝶は胸の中の蟠りを脱ぎ捨て、自由なる大空へ羽ばたき始めた。
ダッドの匂いを表すなら、C6H4Cl2。パラジクロロベンゼン。劇物なんだけど、苛烈性はどこか欠けていて致命的じゃない。
……今にして思えば、彼とて昔は純粋な人間だったのかもしれないと思う。間違っても、彼はサイコパスなどと呼んでいい類いの人間ではない。
歴とした一人の科学者なのだ。ただ、大衆から乖離しているというだけで。
『志希。写真を撮るから笑って見せろ。口角が上がっていた方がヒトの認識では良く映る。科学的根拠もある』
『はいはーい♪にこっ。こんな感じー?』
『ふむ。実によく映えている。あまり黄金比過ぎるのも、却って不気味の谷に近づく恐れがあるからな』
『ブキミノタニ?なにそれ面白そー♪ねえパパ、あとで教えてー』
───。思えば、あたしがまだギフテッドの片鱗を見せる前。あの人は優しかった。きっと変えてしまった原因は、この志希ちゃんにある。
あたしが"科学者"にならなかったら、彼が踏み出すことも無かったのかもしれない。
だからと言って、あたしが悪いわけでもないし。何を言っても始まらないのだが。
その日の夜。ホテルの部屋に戻ると一番に、ママが話を切り出してきた。大事な話だと、張り詰めた様子で心痛の表情を浮かべながら。
「志希。あの人のことを……どうか嫌いにならないであげて。あの人を理解してあげられるのは……貴女だけだから」
「……。ママは、どうして」
どうしてパパと結婚したのか。どうして彼に同調できたのか。どうして……そんな瞳で見つめてくるのか。複雑に絡み合った問いかけ。しかし、誰よりも尋ねられた本人が一番不思議そうな顔をしていた。
自嘲とも諦観ともとれる口調でママは答える。
「……さあね。彼の理想が、具体的に世界にどんな影響を及ぼすのかなんて分からないし、私なんかがその仕組みを理解できる筈もないわ。……でもね。あの人……ずっと独りだったの。肉親にすら理解を得られずに、他人からは疎まれ、蔑まれ、否定され……それでも、彼は自分だけの理想を追い求め続けた。私はそんなあの人の、手伝いをしてあげたかった……のでしょう」
────曰く。お互い、親に強要され不本意だったお見合いの場で。その男はとある理想を語ったらしい。
周囲には煩わしいお見合いを早く終わらせようと、わざと嫌われるためにあのような稚拙なことを口にしたのだと受け取られていた。
しかし、その話を一人真面目に聞いていた女には分かった。その言葉が真に彼の本心を述べたものなのだと。
短くも込められた想いの強さに、胸を打たれて。その概要は理解らなくても、それだけは判った。それが、嬉しかった。
それまでの人生で女は曖昧な人生を送ってきた。
親に言われるがままに潰しのきく大学を出て、憧れもない一流企業の事務職に就き、ひたすらに家事スキルを磨き、ただ年を積み重ねた。
漠然とした将来設計に沿って、ただその生命を浪費してきた。
結婚願望も育児願望もあったが、性行為には然したる興味はなく、身を焦がすような恋愛メロドラマにも憧れず、"一緒に居て楽しいと思える人"と過ごしたいと願っていただけだった。
……それは、確かに幼稚な演説だった。
票を稼ぐために政治家が甘い言葉で謳う守れもしないマニフェストでもなく、小学生たちが各々自由にプリントに記入した将来の夢のような。
失笑と溜息が周りから上がった。業を煮やした女の両親は席を立ち上がろうとして。
その言葉を、聴いた。
「……貴方の理想(ゆめ)が見たい。貴方についていきたい。どうか私に、同じ道を歩かせて下さい。……ずっと、お側で」
「どんなに頑張っても、私では辿り着けない。私はあの人の後ろをついていくことで精一杯。それが限界。だけど貴女は違う。志希なら……貴女なら、あの人の隣に立てる。貴女は……私の『希望』なのよ、志希」
「希望……」
───そこで気付いてしまった。結局、ママもあたしのことを見ていないのだと。
愛娘としてではなく、ダッドの理想のための副次的な価値として見られていると。……哀しかった。ただただ、空しかった。
あたしのことを、付属物なしで見てくれる人なんてこの世界の何処にもいないという事実が。より一層、あたしを孤独と寂寞感に奔らせた。……のかもしれない。
『希望を志す』で、志希ってゆー。希望、希う望み。
希望とはなにか?パンドラの匣を開けて、最後に残ったもの。それが、希望だ。
……正直、あたしにはよく分からなかった。
それから志希ちゃんは、『科学者』になるために積み上げ続けた。
中毒性が極めて薄い、新型麻酔薬の開発及び配合に関する論文。
メンタルヘルス障害の治療に応用できる、躁鬱両対応用の香水の開発。
あとは……ダッドやアシュフォードさんの手伝いで薬品を少々……。
にゃはは、確か合法的な成分しか使ってないので言ってもいいんだけど、これはヒミツ。守秘義務があるからね。どこのお偉いさんの依頼だとか、口が裂けてもお教えできない。
惚れ薬の研究してたのもこの頃だったよーな。
兎に角色んなことに手を伸ばした。あたし自身、一度に詰め込むよりも同時多角的に進める方が向いているというのもあるしね。
何回か授賞式で受賞した気もするし、学会にダッドの付き添いとして参加したこともあった。ナントカ教授って有名な人と会合したこともあった気がする。
月並みでも、一部の州で名前が残るくらいは活躍してたね。
繰り返すけど、ダッドはやっぱりケチなのである。だから、自分の関わる研究にしかお金を出してくれない。
あたし自ら吹っ掛けてしまったのもあるし、まあ仕様がない。なので金策の為の研究もそれなりにした。流石にトッキョは悠長すぎるので取ってないけど。
十四の誕生日を迎える頃。Happy Birthdayだとか、ケーキを予約しただとか、そんなふつーのプレゼントは贈られなかった。
代わりに、与えられたのは一枚の招待券(チケット)。
「志希。この間の論文で、お前の飛び級編入が認められることになった。ハーバードには些か劣る大学だが、日本の大学とは比べるべくもない。お前にとっては"いい薬"にもなるだろう」
含みのある言い方ながら、冷たい鉄の響きでダッドが手渡してくる。
その用紙にあたしはさっと目を通して。即断即決で返答した。
「飛び級……飛び級ねー。うん、分かった。受ける。だってその分、早くダッドに追い付けるんでしょ?だったら見過ごす手はないよね」
そしてあたしはそのチケットを手に取った。行く権利があった、なら進むべきだろう。
中学の学生生活なんて、きっと続けても変化はなく飽きるだけだと知っていた。ショートカットすることに躊躇いなんてない。どうせすぐに補えるのだから。
大学では高度なケミカルや、バイオロジカルなんかを学べた。
常に進化を。基礎を磐石に。始めに定礎を。未知をその手に。幾度となく続けられた実験の日々は、"科学者"一ノ瀬志希を構築していった。
結局のところ。大学で学ぶことが重要だったんじゃなく、単により多くのものに触れる機会と時間が必要だっただけなのかもしれない。
そういった意味では、日本で勉強するのも、海外で勉強するのも何ら変わらない。
……今では、そう思わなくもない。
あれから3年経って。勉強に疲れ、研究に疲れ、思案に疲れ。ふと、空を仰ぎ見た拍子に……あたしはある結論に至った。
───ああ、これじゃ駄目だ。だって、結末(カタチ)が見えてしまったから。
このまま行けば、あたしはダッドと同じように立派な科学者になれるだろう。
凡百を切り捨て、特別を慈しみ、合理を極めて、でも、それじゃ駄目なんだ。ダッドと同じじゃ意味がないんだ。
一流の大学で学んで、研究者たちと実験を共にして。それは科学者になる為の十分条件であって必要条件じゃない。この道の終末(オワリ)の景色は見えている。
なら、どうすればいい?そんなの簡単だ。それは────
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「……流石の私も、疑問以外の解答が浮かばない。何故、ここに来て手放した?あと一年、大学院なら更に数年お前は学ぶことが出来た。学者としての地盤にもなっただろう。逆に言えば、途中で退いた時点で評価は得られまい。教えろ志希。お前は一体、何になろうとしている?」
ダッドは若干苛々していて、一束の書類をあたしに提示しながら語気鋭く迫ってきた。
無理もない。そこに書かれている内容はあたしも知ってる内容。詰まる所、あたしが某大学を中退したという証明の文書のことである。
天才奇才が集まる場所ゆえに、それ自体がダッドの経歴に傷をつけるものではないが、泥を塗ったという指摘はごもっともであろう。だから当然、反論も用意してあった。
「んー……?そうだね、強いて言うなら科学者だよ」
「空事を。飽き性が祟ったのではないだろうな」
ふーむ。おおよそ実の娘に向ける物とは思えない程、鋭利な眼光。どうやらダッドは、あたしがふざけてると思ってるらしい。
それは困る。あたしは根っこはフマジメだが、いつでも戯れてるわけじゃない。
だからあたしは説明した。相似していて折り合わない親ガエルに。
「極点への到達法が唯一無二である、なんて誰も決められない。郷に入っては郷に従え。資格や身分が必要ならばそれは揃えよう。けど、そのプロセスまでは縛られたものじゃないでしょ?」
尚も嘯く小さな科学者に、何か感じ取るものがあったのか。はたまたそれは、失望の末の産物だったのか。
アーティフィシャルな歯車みたいに機械質な靴音を立て背を向けて、これから日本に帰国するという実の娘にダッドは簡素な別れを告げた。
「……そうか。好きにしろ」
……そうして少女は旅立った。自らの生まれ育った地、日本に。
資金面に問題はなかった。少なくとも、大学に通っていた間にした研究の成果として一生を過ごしきれるくらいの財産は持っていた。
日本じゃなきゃいけなかったのかと問われたら、それはきっとNoだ。それでも、日本にやり残したことがあったような気がしたから戻ってきた。
そしてその判断が、あたしの人生を大きく変えることへ繋がるとはまだ誰も、知らない。否。誰にも、知り得ない。
特別見慣れたわけでもない都会の街並みを、ふらふらと宛てもなく彷徨う。
宛てはこれから探すモノ。帰国して早々、編入した高校でアタリを引いた志希ちゃんは、特別に化学室の鍵をゲットすることが出来まして、大変満足なのでした。ちゃんちゃん。
……なんてね。楽しいのは間違いないけど、満たされているとは言い難い。
刺激物を求めるのは、人間の本能だ。辛いなら火傷するぐらいとことん辛く。甘いなら骨髄を溶かしつくすほど何処までも甘く。スパイスのないカレーなんてただのカレーだ。
誰にでも作れる。なら、別のカレーを探したくなるだろう。
「はー……タイクツ。もっとこう非日常的なことよ、あたしの目の前で起きろー!っていっつも思ってるんだけど中々遭遇しないもんだにゃ~」
工事中の鉄骨が崩れてガッチャーン。脳漿をぶちまけたJKの惨死体ー。
ダンディでヤングな石油王から突然愛の告白が。一目惚れの恋心、プライスレス。
目の前に隕石が突然落下!それを手にした志希ちゃんは謎の組織と地上戦を繰り広げることに!
やったねとっても理想でハッピーなエンジョイライフー。……etc、etc。
そんなお話は中々現実には廻ってこない。ケミカルJKは喜劇作家の夢を見ない。世界は平凡に満ち溢れている。平和、と言えば聞こえが良いが本当に平和かと問われたら答えに詰まる。
偽りの平和とまでは言わないけれど、目に見える場所だけの安穏とか嵐の前の静けさとかそういった類いだ。
息が詰まるような膠着状態の心理戦を、いつまでもいつまでも展開している。場末の出版社に連載してる、露骨な先延ばし漫画のように。
心が安息できるわけでもないのに、ハラハラの一つもない中途半端などっち付かずを続けている。不完全燃焼にも程がある。つまらないが過ぎる。
「でもまぁ、やっぱり日本の匂いは落ち着く~……。これがノスタルジーってやつ?うんうん、取り敢えずここら辺の香りを採取して試験管に詰め詰めして
色々アレコレしちゃうのも悪くないかなー」
予定は未定、居所は不定。善は急げ。急がば回れ。夢遊病患者のように法則も意味もなく歩いて、
起きるかもしれないエマージェンシーコールを待ち続けて数十分。Oh,ついに発見。
最初に反応を示したのは聴覚。それから視覚。遅れて嗅覚。五感をフル稼働。
少なくとも、あたしにとっては見慣れない光景がそこには広がっていた。
「はーい、じゃあカメラ回しますね。3、2、1、キュー」
思いっきり街の中といった歩道に、十数人の集団がところ狭しと広がって歩いていた。
真っ先に目を引くのは大きなカメラ。それにマイク。堅苦しいニュース番組って感じじゃない。ドラマかなんかの撮影か。
取り敢えず……思い立ったら一人背水の陣で特攻隊ってゆー。
「おっ、何々?面白そうなことやってるじゃん♪にゃっふーカメラ回ってる~?マイク入ってる~?ワレワレハ地球人デアルー!この星を滅ぼしに生まれたのであーるー!」
「おぁっ、あっ!?」
不意に体と体が触れ合うまでに身を寄せてきた少女に、慌てた一人のカメラマンがバランスを崩してそのまま転倒した。ヒューマンエラー発生。これはひょっとすると、刺激が強すぎたヤツかもしれない。
それを起点として辺りが騒がしくなり、現場に混乱の渦が広がる。
「えっなっ!?カ、カメラストップ!」
闖入者に対して一斉に怪訝な目を向ける一同。敵意と言うよりは困惑の方が大きい。
撮影班とは明らかに色の異なる少女もまた、怪訝な視線を投げかけるばかりだ。対応に困っているのが目に見えて分かる。
……それにしても、対応が遅い。同じ事を向こうでもやったが、あちらのメディアはとても素早い対処だった。
欠伸をして、このまま何もなかったかのようにお家まで帰ってガレージで新たな開発でもしようかと思った矢先。
「あー、こら。駄目だよ撮影中に勝手に立ち入っちゃ。特にバリケードとかで仕切られてるわけじゃないけど、一応これでもロケ撮影の最中なんだ」
志希ちゃんを呼ぶ男の声を聞いて、その場に縫い止められた。
出てきたのは成人男性の平均くらいの身長の、黒いスーツ姿の男性。匂いからして25歳くらい。至ってフツーの容姿。けれど、その他大勢とは明らかに違っていた。
「キミがここの責任者?ふーん……くんくん……。おっ、イイ匂いだね!健常的でありつつ、適度にむさ苦しくない良い汗の匂いと……これは薄荷、かな?心地よい匂いを漂わせつつ、なるべく目立たないように抑えられてる感じのコロンだ」
「……聞いてないな。君、こういうことをすると場合によっては威力業務妨害で警察につき出される可能性もあるんだからな。俺らは道路使用許可も取ってないし、無闇に争うつもりもないけど面倒事に巻き込まれるのは嫌だろう?だから、今後は気をつけてくれよ」
何だか不服そーな顔をしていた帽子の人とかも、彼の決定に黙々と従っていた。エラそうにはしてないけど、エラい人だったのか。周りから色んな視線が注がれるけど、気にせずに観察を続行する。
「ふむふむ……。ねえ。キミ、何をやってる人なの?
ギョーカイ人なんでしょ?マネージャーとか?」
「ま、遠からずだな。一応、アイドルのプロデューサーをしている者だ。君ももしアイドルに興味があったら、オーディションとかに来てくれれば……」
「へぇ。アイドル……か。うん、じゃあ今度行くからよろしくね~」
「即答!?な、ちょ、おい……!」
丁寧に両手で差し出された名刺をじっくり眺めた後、それをポケットに仕舞う片手間で返答する。逡巡の必要はない。何故なら、
「だってアイドルって楽しいものなんでしょ?キミを観てれば分かるよ。今この時が何より幸せ、って顔してる。それにキミからはイイ匂いがする!うんうん、人事担当者の千の美辞麗句よりも説得力がある根拠だよ~♪」
「……」
半ば呆れた様子で、肩を落としたスーツの男性が息を吐いた。それは否定や拒絶と言うには柔らかすぎる、有り体に言えば苦笑というやつだった。
つまりそれは、受け入れたということ。
帰国して早々見つけた興味深い観察対象に、あたしは挨拶がわりに悪戯っぽく笑ってみせた。
「それじゃこれから宜しくね、"プロデューサー"?」
こうしてあたしはアイドルになった。オーディション……は一応受けたけど、特に覚えてないや。
あ、はいはい!No.04の子の匂いがクラリセージとリトセアの混ざり具合がとっても……。
うん。正直別にアイドルに拘りは無かった。TVとかで目にしたことはあっても、憧れは抱いてないしね。
まあでも魅力的だ。今までのあたしが味わったことのないフレーバーではあるし、芸能界ならとても多くの人間関係、化学反応、その有り様を観察できる。女の子の匂いも沢山堪能できる。
────いや。それもあったけど、本当の所を言うならば。一番興味を惹かれたのは、きっと。
「プ、ロ、デュー……サー!隙ありー!ハスハスハスハス~♪」
「なんっ!?おま、いきなりだな!?……ったく、事務所内でもなるべく周りに人が居ない時を選べよ。まゆとか辺りから不興を買うと大変だぞ」
LIVEで出たエンドルフィンが冷めやらぬ内に、ダイブ・トゥ・プロデューサー。
高ぶっていた交感神経を更に倍プッシュ♪ライブとライブ後で二度楽しめるってゆー。
「大丈夫大丈夫~♪もし見られちゃっても、まゆちゃんもお仕事を頑張ったご褒美の名目でプロデューサーのフレグランスを堪能しなよーって言ったら、きっと許してくれるって♪」
「それって何の解決にもなってないよなァ!?」
窘めながらも、何だかんだプロデューサーは許してくれる。同じ事務所に所属している他のアイドル達も、みんな優しい子ばっかりだ。
みんな魅力的な匂いだし、誰一人として同じではない。
アイドルのお仕事は思ったより楽しかった。新鮮だった。未知だった。
レッスンは少々タイクツで、失踪してしまうこともあるけれど、ライブはとても魅惑的でエクスタシーだった。
ドーパミン以外にも、未確認の脳内分泌物が会場内にどんどん生み出されていく行程は、正に大規模な化学実験といった感じ。まるで箱庭の中のミニチュアのよう。
「しっかし、プロデューサーは真面目だよねぇ。仕事に仕事、お私事おシゴト。最初はまさかと思ったけど、あたし達全員を誰一人欠けることなく導いてくれてる。皆の魅力を最大限に引き出して、それを抽出してファン達に振り撒く、プロデュース。大変なはずなのに、キミはいっつもキラキラした目をしているよね。オキシトシン……いや、セロトニンかな?兎も角そーいう幸せ成分に満ち溢れてちる。あたしが言うのもナンだけど、自由が欲しいって思ったことはないの?」
あたしと大概他人の事を言えないが、プロデューサーは明らかに異常の域である。
183人のプロデュース。スタッフ達との交流。オフの日のアイドル達との交流。24時間365日、自分の時間なんて無いに等しい。それでも彼は笑って過ごしている。
見返りばかりを求めるなと偉い人は言うけど、それって人間的に正しいのか疑問だ。
少なくとも、志希ちゃんは楽しいコトやこういうゴホウビがあるから続けられるのだ。
傍から見れば、美女や美少女に囲まれた毎日は官能的にすら映るのかもしれない。けれど結局、プロデューサーが楽しいかどうかはプロデューサーのカラダに直接聞かなきゃ分からないのである。
まぁ、具体的にはお口ちゃんのことだけど。自白剤を投与してでも聞きたい質問に、プロデューサーは気軽に答えてくれた。
「自分が好きなことをやってるだけだからな。ま、出来るなら運動系の付き合いは程々にしてほしいが……全然、苦だなんて思ったことはないよ。家に帰って寝る間は一人だから、まるっきり自由時間が無いってわけじゃないし」
誤字訂正……
満ち溢れてちる →満ち溢れてる
あたしと大概 →あたしも大概
プロデューサーの言に嘘偽りはない。匂いを嗅げばそれは判る。
だけど彼が自分に嘘を吐いているのも、また事実だと知っている。あたしは斟酌なく問い続ける。
「ねえねえ、プロデューサーはどうしてプロデューサーなの?具体的には、キミの志望動機を聞きたいってゆー!」
プロデューサーは生まれたときからプロデューサーだったわけじゃない。
まさか183人ものアイドルを抱えると、知っていたわけでもない。
なのに、彼はごく当たり前のようにそれを受け入れた。それは彼の基本骨子に関わる部分が影響している。そう認識しているから、験して観察する。
「動機……か。そうだな、俺は沢山の笑顔を作りたいんだ。ファンにも、アイドルにも、勿論スタッフ達にも。そのためにアイドルのプロデューサーになったから。世界中の誰かが、"今この時、幸せだ"って感じてくれたらそれ以上に嬉しいことはない」
淀みない返答。揺るぎない口調。確固とした信念。
穢れなき聖人君子を思わせる眼は、やはり少し澱んでいた。アイドルすら魅了する、その笑顔。……になる数マイクロ秒前。
あたしの目が捉えたのは、瞳孔が開き取り憑かれたように不乱な瞳。
「ふんふん、それは中々キョーミ深い返答。キミってば奉仕体質なのかにゃー。ほら、メイドさんとかがよくもってるってゆーヤツ。誰かのために尽くすことに幸福を感じるってヒトだったりするのかもねー」
───或いは。そんな病名を聞いたことがある。
『自分は誰かを救わなければならない』といった強迫観念。自己陶酔とも、自己犠牲ともされる一種の呪いを。
「……そんな立派なものじゃないよ、俺は。全部自分のためにやってるに過ぎない、ただの低俗な自己満足だ」
「……ふーん?」
その時のプロデューサーの反応は、今まで見たことのないソレだった。
……いや、本当は知っている。初めて会ったときに、その片鱗があったコトを。
ああそうだ。だから興味を持った。その他大勢の中でキミだけが特別だったのは、きっと────
「……ヘンな、ユメ」
────長い夢を、見ていた気がした。時計の針が指し示す時刻は8時。紛うことなき遅刻だ。
睡眠時間がいつもより少なかったわけでもないが、夜更かしをしていたのも事実である。
昨夜はクランベリーとラズベリーを砕いて、混ぜ合わせたみたいな赤い月だった。果たして甘いストロベリームーンか、不吉の前兆ブラッドムーンか。月は狂気の象徴。狼男のシンボル。月光に照らされた薬は、吸血衝動を発症する毒の花。
甘美な気分で見惚れちゃって、余韻に浸っている内に時間がどんどん過ぎていき、脳の睡眠作業が疎かだった。
「うーん……今日は個人レッスンだけだけど、流石に顔出さなきゃまずいよねーん」
遅起きすら放棄して、二度寝へ一直線になりかけた脳にカフェインを投与。
カップとコーヒーメーカーから馨るクロゲン酸、トリゴネリンを身体中の隅々まで浸透させ、寝起きの頭を覚醒させる。本来ならここで身体と脳のスイッチを完全にオンにするために、朝食を摂るべきであるのだが、残念ながら時間がない。
本格的な朝食を摂るのはパスして、レッスンルームへと向かった。
というわけでレッスン終了後。夜には会議に行ってしまうというプロデューサーを捕まえるために、プロデューサーの事務室を三回ノックしてそのままオープン。
「やっほープロデューサー♪早速なんだけど志希ちゃんが昨日作った、特製パフュームのヒケンタイになってもらいたいんだけ……、ど……」
「……ん、志希か。どうした?」
言葉が途切れる。遠慮もなしに開け放たれた扉の向こうの人物はしかし、特に驚いた様子もなく柔らかな笑顔で此方を迎えてきた。
その、彼の。微細にして多大な存在感を放つ"違和感"に、自然と視線が誘われる。
「……プロデューサー、それ……」
「それ……?あ、あぁ。まゆと話し終えてから外し忘れていたのか。悪い、隠す意図はないんだ。後でちゃんと皆に話すつもりだったんだが……」
見惚れるほどの美しさを放つダイヤモンド。シルバーリング。永遠の絆、若しくは愛。その証。
女の子なら誰だって憧れるその魔の輝きが魅了するは、志希ちゃんとて例外ではない。
大事そうにプロデューサーの左手薬指に嵌められたそれの意味が何であるか、流石に即座に理解出来ないほど浅い付き合いではなかった。
「……正式に、まゆと婚約することを決めたんだ。勿論、お前らのプロデュースは最後まで責任を持つ。絶対に支障は出さない。これは、その後の話だ。単なる約束事さ。つまり、今までと特に変わらないと思ってくれていい」
「────」
命題。『あたしにとって、プロデューサーとは何か』────
『このドレス、最初は白かったんだー。……って言ったら、信じる?……にゃはは、台本だよダイホン!質問に答えられなかったキミは、あたしの洋館に永遠に幽閉されちゃうかもね?』
客観的事実。一ノ瀬志希はアイドルで、彼はその担当プロデューサーである。
客観的事実。一ノ瀬志希は18歳の少女で、彼は25歳の成人男性である。
客観的事実。一ノ瀬志希とプロデューサーの関係は、お互いが被験者で実験者である。
そして、主観的事実。あたしは────プロデューサーに、恋愛感情を抱いている。
「───ああ」
キミを困らせたいほど、真実の愛だけれど。
その綺麗な笑顔を、あたしだけに独占(み)せて欲しいって願っているけど。
いつか冷めてしまうのだろうこの感情が、まだ生きている内にホルマリンの浴槽に堕ちて堕として、そのまま永遠にしてしまいたいけれど。
あたしの欠けた孔は、きっと完成しないままが良いのだろう。
「……志希、大丈夫か?」
或いは、一昔前の寂しい女の子だったら答えは違ったのかもしれない。もっともっと、キミにどっぷりだったら独り占めしようと思った可能性は十分にある。
薬を使って。香水を使って。あたしの全てで、もう戻れない場所までトリップしちゃって。
───なのに、すっかり棘を抜かれてしまった。
もっと貪欲に魅了係数とか忠誠度を上げておくべきだったのに、そうしなかった。
まゆちゃんとそういう関係になっていっているのも、知っていて放置していた。
応援していたと言ってもいい。彼女にはある種の親近感を抱いていた。
『佐久間まゆレポート』。観測者一ノ瀬志希。
"違和感"と向き合い続けた少女。彼女の生き方は好きだった。自分には到底真似出来ないことだから。
彼女は全てを肯定し、許容した。けれども、彼女は全てを許容されたわけではなく、肯定もされなかった。
それはそうだろう。そんな単純な方程式ではこの世は成り立っていない。だから苦しんだ。
自分は悪い子なのだと思い自罰した。それでも、罪を重ねてしまう、重ねることを選び続けるその純粋性を。あたしは、いたく気に入っていた。
心の何処かで。まゆちゃんならそれも良いと思っていた。彼女もまた、志希ちゃんと同じく外れてしまった共有者。だから、と心が言い訳する。
「ううん、何でもなーい。何でもなーい。プロデューサー、まゆちゃんを幸せにしてあげてね」
「お、おう……?」
振り返らなかった。何故なら、得るものがないから。これ以上この命題に固執することに、何の意義も見出だせないから。
肺に流れ込んだ嫌な芳香がビリビリと横隔膜を刺激し、咳嗽反応を起こしかけた。
そうして、部屋の外に出ようが屋外に出ようが、気管支のあたりに残留した黒い靄のような異物はその後も、決して晴れることがなかった。
「うー……にゃー……やる気出なーい……」
自宅のソファーに撓垂れ掛かりながら、片手だけで丁寧にスマホを操作していく。
妙に気だるいのは先程まで寝落ちしていた所為であろう。
いくら昼間と言えど、秋の中頃にタンクトップとホットパンツのみの部屋着は流石に肌寒い。なので、袖が余りぎみのブカブカな白衣を羽織る志希ちゃんである。白衣は正装~。
朱い月夜から一ヶ月。と後ちょっと。ずーっと、自堕落な毎日を送っていた。未だに胸の辺りにある残留物が、息苦しくなるような成分を放出して止まない。
これが、まゆちゃんの言っていた恋の病というシンドロームか。成る程、自棄のように色んな香水を試したというのになに一つ慰められた感じがしない。
ただただ味気のないフレーバーを消費していくばかりの日々。
"恋心"という反応は空恐ろしい。この喪失感はまさに未知だ。
「……」
だのに、まるで興味が湧いてこない。この『未知』は、研究したくない。
この先は地獄であると決まっているからか。或いは───
「ん、電話……フレちゃんからだ」
フレちゃんから個人的な電話が掛かってくることは非常に珍しい。
正確に言えば、前例がない。如何に気だるいとは言え居留守を使うのは憚られた。
SNSのネット回線を経由した、無料通話の画面をスライドする。
『もしもし?……シキちゃん?』
声に混ざった迷いの色。少し震えがちな呼吸音。そのことから、あまり気分のいい用件でないことはすぐに分かった。
フレちゃんは普段、自由奔放に楽しく生きていて悩みとは無縁の子のように見えるが、その実しっかりと芯の通った真面目な子である。
あまり表には出したりしないが、あたし視点からだと事務所内でも結構気を遣ってる場面が散見される。
裏を返せば有り得ない話ではないのだった。フレちゃんが沈むというのは珍しいけど、異常なことではなかった。
だからまずは問題の程度を推し量ることから始めた。────それが、致命的だったとは知らないまま。
「……いいよ、フレちゃん?なーんでもあたしに言ってくれて。絶対に邪険にはしないよ?」
それが、あたしに保障できる限度だ。フレちゃんが沈むことは何度かあったけど、今まで声をかけてあげたことはない。そこまで頼られたことがないからだ。
つまりこれはファーストステップだ。なればそのように対応する。
そう思って、かけてあげた言葉だった。
……だが、帰ってきたのは予想外な言葉だった。
『ううん、違うの。違うの………あのね……?』
『プロデューサーがね………刺されたの』
「────は?」
辺りはシン、と静まり返っていた。
照明がやる気なさに全灯しているそこは、小さな舞台。先程まで、アイドル"一ノ瀬志希"によるソロLIVEが行われていた会場。目を閉じて意識を向けずとも、あちらこちらに余韻が充満している。
熱狂、激情、高揚、耽溺、心酔。あらゆる成分が精製され、混ざり合い、化学変化を起こして更に、変化を続けていったその果てが。
「終わったよ~。プロデューサー、どうだった?」
「……ああ、最高だったよ。志希」
そう言ってくれたのは、たった一人の観客。
あたしの魅力を引き出してくれるプロデューサーであり、あたしに魅了されて、あたしを見出だした、ある意味あたしが最もステージで魅了させなければならないファンの一人。───特別な、存在。
「そりゃ上々。んじゃ、帰ろっかプロデューサー。あたし達の事務所に」
「ん、今日はステージの"残り香"を採取しなくていいのか?いつも通り機材の片付けも観客席の清掃も時間をずらしてあるんだが」
「んーん。もういいの。少なくとも今日のところは、だけど。ビミョーに勿体無い気がしなくもないけど、今日はもう充分満たされちゃったし。だって、これからも君と一緒に居続ける限り……アイドルを続ける限り。見せてくれるんでしょ?このキラメキを」
それは、一種の心変わりであるかもしれなかった。『完璧な人間』という命題を、忘れ去ったわけでも興味を失ったわけでもない。
だけど今はそれ以上に、『アイドル』という研究を続けていたい、あたしの居場所はそこにあるんだと、自然に思うようになっていた。
それほどまでに一人の人間に依存していた、とも。
「……ああ、そうだな」
……そう。永遠に続くものなどないのに、あたしは勝手に永遠を求めてしまっていたんだ。終わらないと、盲目的に信じていたんだ。
この魔法が解けることは無いと。夢見る少女のように願っていた。
そんな、楽観視を嘲笑うかの如く現実は重く圧し掛かり。
……嗚呼。楽しい時間はすぐに過ぎ去って。終告の鐘と共にお城は今、廃墟と化す────。
────。危うく、思考のブレーカーを落としきった後復旧を放棄するところだった。
完全に埒外から落とされた落雷の一撃に、全身の電気回路がしっちゃめっちゃかに掻き乱された気分で。
『刺された』。さされた。ササレタ。どう頑張っても、解釈は一つにしか行き着かない。
頭がクラクラして視界がぐらりと揺れた。まるで刺されたのはあたしだったかのように。
神経を針で弄くられたんじゃないかと思うくらい、身体の自由が利かなかった。
「刺さ、れた……?そ、れで……プロデューサー、は……?」
言葉を紡げ。立ち止まるな。そこで会話を切るのは簡単だが、それじゃ意味がない。
事実として、刺されたことを認めよう。沈んでゆくのは簡単だが、現実を受け入れなければ先に進むことはできない。
一言に刺されたと表現しても、色々ある筈だ。凶器は包丁やナイフだけじゃなくて、アイスピックかもしれない。或いは刺されたのはわき腹かもしれない。
正しい心臓の位置を把握している民間人なんて、一体何割いるやら。それをしっかり実践できる人間なんて更に限られる。
あの人は喧嘩が得意なタイプではないが、腐っても成人男性の抵抗力はある。しかも場所的に都内の一角だ、周りにいた人たちだって黙って見ていたわけではないだろう。だから、だから。
『……』
そうやって答えを出さないでくれ。やめろ、やめろ、ふざけるな。
分かってしまうんだ、電話口から聞こえるフレちゃんの鼻を啜る音と言い淀んだ空気が。
何を示しているかなんて頭が勝手に察してしまうんだ。
その思考を止めろ。今ならまだ間に合う。そこから先は取り返しがつかなくなる。
自分で自分の首を真綿で締めるような真似は止せ。
それでも聞きたくないんだ。僅かに残った、下らない、価値のない希望を捨てたくないんだ。
『プロデューサーは……もう、死んだの。お医者さんが、確認したの』
……震えた掠れ声が、電話口から聞こえてきた。
「──……そう」
思わずスマホを地面に叩きつけたい衝動に駆られた。
厄介みたいに、物を破壊することで自己の鬱憤を晴らす人間の気持ちが分かってしまった。最悪の気分だ。
心肺停止ですらない。死亡確認も済んでいる。つまり既に終わっていることだった。
あたしが介入する余地なんて全くなくて、運命は巡りだしてしまっていて、もう歯車を巻き戻すことすら叶わない。正真正銘のゲームオーバー。
スマホを握る腕の力が抜けていって、身体を支える足の力もなくなっていって、砂場のお城みたいにそのまま崩れていくような感覚だった。だけど壊れることができない。
何もかも投げ出して崩壊してしまえばきっとそれは楽だろうに、天上にも昇る快感だろうにあたしの残った脳が拒絶する。逃げることを神様は許してくれない。
『都内の……十字架病院に皆来てるから。その…シキちゃんも、待ってるから』
「……うん」
それが、絞り出せた精一杯の返事だった。電話を切り終えた瞬間にあたしはその場に倒れこんだ。
……目の焦点が合わない。アル中じゃないのに腕の震えが止まらない。
胸の辺りがズキズキするのは多分肋間神経痛のせいじゃない。
頬をなぞる涙の理由が、単なる異物混入に対する作用だったらどんなに楽だったことか。
きっと鏡を見たらひどい顔が映るのだろう。それでもなんとか足を動かす。
あたしは家族と縁が切れているため、仕送りなんてしていない。アイドルとしての稼ぎは全て私用……特に、失踪用にいつでも用意してあった。お金には困っていない。
交通機関を渡り歩く余裕なんてなかった。タクシーを呼んで、そのまま乗り込んだ。
行き先を告げると、タクシーの老運転手は空気を察してかその後は話し掛けて来なかった。
気を遣ってくれたのだとしたら有り難い。今のあたしは、とてもそんな余裕を持ち合わせていないのだから。
タクシーが走行する間、ぼんやりとしたことを考えていた。
どんな顔で接すればいい。いや、接しなければいけないか。病院には皆が居る。プロデューサーだけじゃない、皆に対する顔も用意しなければならない。
「……」
演技レッスンを思い出す。才色兼備な志希ちゃんは最初から演技も上手にこなせた。
……仮面を被るのは得意だった。何かを偽るのは得意で、"誰か"を演じるのは十八番だった。だから今回も出来るだろう。ボロを出すことなく、『一ノ瀬志希』でいられるはずだ。
俯いていられる時間は思いの外短かった。タクシーは病院の正面入り口に止まった。
タクシーを降りる前から、玄関口に顔見知りを1人視認できた。
……こんな事態でも雪崩れ込むアイドル達を導く役を買って出てるのであろう、マジメな美波ちゃんがあたしを見つけるなり此方へ合図をしてきた。
彼女は顔色が悪く、冷房に当たりすぎたかのように蒼白だったが普段の慈母的な明るさを保っていた。
「あっ、志希ちゃん。えっと、プロデューサーさん達は地下の方に……」
「分かった。美波ちゃん、お疲れー。んじゃーあたし行くねー」
「えっ?あ……うん!」
会話は必要最小限に抑える。あたしのボロが出る危険が高まる、というのもあるが────
当然のことながら、事務所のみんなだって精神状況はクリアじゃない。下手に刺激することは双方にとって良いことが何一つない。だから早めに切り上げる。
……美波ちゃんの袖は、不自然に濡れていた。表情はいつも通りだったが、眼は赤く充血し、少し腫れていた。何度も指で擦った証だ。
このやけに退廃的な病院の光景が、現実感がちっともなかった先程の電話での会話が紛れもないリアルだということを否が応にでも脳に植え付けてくる。
undefined
エレベーターホールまでの僅かな道のりでも、至るところに知った顔が見えた。
流石にお仕事の関係などで全員は集まってないが、あたしは結構遅かった方らしい。
一足早く済ませたのか、もしくは心の準備が整っていないのか。大半のアイドル達は地下ではなく1階に集まっているようだった。
それでも方針は変わらない。最短ルートで一直線。事故を防ぐため、階段はスルーした。
玄関口から一分もかからないで地下へ移動する。
……その筈だった。
「────ッ!?」
その道の途中で不意に、言い様の知れない悪寒が全身を駆け巡った。
例え振り向いた先に爆弾があるとしても、振り向かずにはいられなかった。
何故なら、"それ"を無視した場合の不安を拭えるだけの理由がなかったからだ。
「智絵里ちゃん……智絵里ちゃん……?」
「……」
そこに居たのは、キャンディアイランドのユニットメンバー三人だった。
即ち、杏ちゃんとかな子ちゃんと智絵里ちゃんである。三人とも、壁際に設置された水色のソファーに腰をかけて座っている。
かな子ちゃんの状態は、ほぼ美波ちゃんと同じ感じだ。気丈な彼女とは違い、今でも涙を目に浮かべているものの普段通りの自分でいようと必死に振る舞っている。……が、その隣。
「……あぁ、志希。来たんだ……」
此方に気づいて声をかけてきた杏ちゃんすら視界に入らないくらい、その存在感と重圧は並大抵のものではなかった。
吸い込まれる。ブラックホールみたいな、智絵里ちゃんの乾ききった瞳からは。涙の一滴すら窺えなかった。だというのに計り知れぬ絶望が漂っている。
満たされた虚無感。空っぽでありながら、濃縮された暗黒色の闇を内包したその矛盾。
────アレヲミテハイケナイ。
ドロドロに崩れたコールタールの匂い。急に身体が揺れ出し、焦点が定まらなくなる。
────アレニフレテハイケナイ。
此方を引きずり込むような、闇への招き。眩んだ視界が警鐘を鳴らす。
────アレハ、イッタイナンダ?
それは、呪いに等しい感情の果て。憎悪を超え、慟哭を象り、怨嗟を孕み、深く精神を犯した───
「……杏ちゃん、よろしくね」
「……ん」
半ば丸投げにも近いパスだったが、杏ちゃんは二つ返事で快諾してくれた。
決して視線をやることはなく、但し意識は少し引っ張られたまま。
少し進んで、地下行きのエレベーターがあたしを迎え入れた。
地下一階。地上とさして高度は変わらないのに、とても空気が重くそれだけで息苦しさを感じる程だった。
エレベーターの扉が開くと、すぐ目の前にアイドル達が集まっている部屋が見えた。
卯月ちゃん、未央ちゃん、凛ちゃんの3人と拓海ちゃん────それにまゆちゃんだ。
エレベーターの駆動音に気付いた彼女たちの視線が一気に此方へと向けられる。
「……っ」
凛ちゃんが何かを言いかけて途中で止めた。歯噛みしているその感情の矛先は……取り敢えず、あたしではないようだった。ならいい。
5人のアイドルが一斉に目を逸らす中を進んで、部屋の奥まで入っていく。
目に毒なほど真っ白なベッドの上に、一人の男性が眠っていた。普段のスーツは酸化した血色を滲ませていて、死亡時の経緯からか顔は少し苦痛に歪んでいて、今にも起き出しそうな安らかな……という感じではない。
胸の辺りを中心に、刺されたショックで皮膚が痛々しい具合に変色している。
────好きだったその優しい瞳は、もう開くことはない。
「……プロデューサー」
危うく、感情のダムが決壊しそうだった。目を覚まして!死んじゃ嫌!
そんな風に泣きついたら、零れ落ちたあたしの涙の滴でプロデューサーが生き返るかもしれない……なんて、ドラマチック・ストーリーを夢見がちな頭が描いて否定する。
その横たわっている身体はとっくに温度を失ってしまっていて。
消毒液に浸された身体からは生者の匂いがするわけもなく。
冷蔵庫のような手を握るだけで、出かけた掠れた泣き声を抑え込んだ。
……そこで、違和感に気付いた。
「……?」
握った手とは反対の手。左手。プロデューサーの袖が不自然に捲れていた。
捲れているのは左手だけ。病院の関係者が処置のために捲ったのであれば、卯月ちゃん達が戻している筈だ。
───記憶が呼び覚まされる。
夏場でも一切長袖のYシャツを捲ることなどなかった彼。その違和感は───その『傷』を見ることで、一つの確信に変わった。
……彼の左手首には。
右から左にかけて、刃物か何かで切りつけたような痕が残っていた。
一年中紫外線から保護されてきた白い腕では、薄いピンク色の筋は特に目立つ。歪な直線。形状から言って恐らくカッターナイフ。それも一回ではない。明らかに数回に亘って、年月はバラバラに刻まれたものだと推測できる。
「ねえ。これ……どういうこと?」
背後に感じた気配に問いかける。
いつの間にか外にいた彼女たちが、霊安室に入ってきていることは分かっていた。
振り返ると、全員が沈痛な面持ちでわけが分からないといった顔をしていた。
ただ一人、表情に変化の見られないまゆちゃんを除いて。
「逆に、皆さんには何に見えます?想像力が試されますね」
嘲笑。余りにもこの場に相応しくないその態度に、思わず瞠目した。
普段の彼女を知っている者なら、誰もが驚いただろう。あのまゆちゃんが、プロデューサーが死んだと言うのに微笑っている。
その様子は、智絵里ちゃんとは違うベクトルの狂気を孕んでいた。
「……ねえ。まゆ、そのこともだけど……そろそろ教えてよ。まゆは知ってるんでしょ?プロデューサーに親族が一人も居ない理由」
「────!」
『来ない』ではなく、『居ない』。それはつまり、もうこの世には居ないということだ。
頭の中で何かが繋がったような気がした。幾つもの光景、幾つもの疑問点。
自己犠牲的ですらあった奉仕精神。お互いに深くまで干渉しないとして、あたしが目を向けてこなかったプロデューサーのブラックボックス。
「……どうして?皆さんに教える必要が何処にありますか?少しは自分の頭で考えてくださいよ。こんなの不毛です。いたずらに創口を広げるだけですよ」
「っ……お前、ふざけんなよ……。この期に及んで、仲間に言えないことがあるってのか!?アタシ達を信頼出来ないってのか!?なあ、まゆ!!」
激昂した拓海ちゃんがまゆちゃんに掴みかかる。
凛ちゃんが止めに入ろうとしたが、途中で静止した。気圧されたわけではない。そこには迷いがあった。何が正しくて、何が悪いのか難問にぶち当たった表情をしていた。
胸倉をきつく掴まれたまゆちゃんは小さな声で「……離してください」と言ったが、
拓海ちゃんは「ああ離してやるさ。お前が話す気になったらな」と反発する。
……ふと、人を試すような笑いに歪んでいたまゆちゃんの口元から、笑みが消える。
ドンッ!!という何かを叩く音が辺りに響き。
次の瞬きをする随に、まゆちゃんが視界から消えていた。
否、目にも止まらぬ早さで壁際まで拓海ちゃんを押し込んだのである。刃を一杯に開いた状態のハサミを、拓海ちゃんの首に突きつけながら。
きっと、その場にいた誰もが信じられない気持ちになっただろう。
彼女は掴みかかられた体勢から足が床についたタイミングで大きく踏み込み、その反動と勢いのまま拓海ちゃんに飛びかかり、そのまま突き飛ばしたのである。
それは、ステップレッスンの応用とも呼べる技術だった。原理は分かっていても中々出来ることでもないのだが。
「……拓海さんは、こんなことをされた状況で話せと言われて話す気になりますか?」
刃先から首までの距離はおよそ数十センチ。ついうっかりでくしゃみでも出てしまった場合、骨折まではいかないにしても洒落にならない事態になることは想像に難くない。
唾液を喉に通すことすら、命懸けの作業のように感じただろう。
────本物の敵意。濁った鉄色の双眸からは一触即発の念が迸っていた。
だったのだが。まゆちゃんはあっさりと、まるでペン回しでもするかのように、くるくると凶器を手の内で弄んだ後、笑顔でポケットへとしまった。
「……何なら暴力を振るって無理矢理聞き出しますか?それもいいでしょうね。まゆじゃ拓海さんには敵いませんから。満足の行くまでどうぞお好きなように。但し、それで何が変わるわけでもありませんが」
「チッ……」
圧倒的優位に立っていたにも関わらず、心底つまらなそうにその利を放棄して自らを嘲る少女の感性は、畸形じみているとさえ思えた。
拓海ちゃんも激するどころか冷やされてしまったのか、矛を収めた。
しかし、もうこの空気は澱んでいく一方だった。
しかし匂いは至って、いつものまゆちゃんだ。深紅の薔薇の香り。とても美しく、可憐でそれでいてどこか危険なフレグランス。
だが、その先は嗅ぎとれない。怒ってるのか、悲しんでるのか、それすらも分からない。
それなら普通は混ざった匂いがするものなのに、それすらしない。がらんどうに入力された虚数の如く。
「……ねえ、拓海さん?さっきはどうしてこずえちゃん達を帰したんですか?まるでプロデューサーさんの傷を隠すみたいに」
「……んなこと、決まってんだろ。ガキ共に見せられるかよ……こんなもの……」
「───『こんなもの』?」
その一言で、再び空気が張り詰める。虚数は虚数のまま、何かが入力されていく。
禍つき重厚に、夥しく爛々と。薔薇の血で満たされた杯を思わせる声音で。
「ねえ皆さん。どうして、そんな目でプロデューサーさんを見るんですか?」
「……」
「やめてくれませんかねぇ?そんな"悪いものでも見るかのような目"をプロデューサーさんに向けるのは。うふふ……結局貴方達も、そちら側から出て来れないんですね」
怒りや憎しみなどとうに超越した、祟りや呪い。それに類する怨念。
およそ人に向けていいものとは思えないドス黒い感情を漲せ、第二の幕を開きそうになった霊安室に、静止の声が響いた。
「もう……もうやめよ?みんな色々あって、混乱してるんだよきっと。こんな風に傷つけ合うことなんて……皆だって、したくないはずだよ。だから、まゆちゃんも落ち着いて……ね?ね?私達……仲間でしょ?」
涙声まじりの未央ちゃんの、渇いた声。
それは今の脆くなった志希ちゃんの心を揺さぶるには十分だったが、負の感情とは別のもので満たされている、まゆちゃんの鋼には一切通じていないようだった。
「仲間……。……ええ、そうですね。正しくは『元』仲間ですが。それでも……まゆも、皆さんと一緒に過ごした日々は楽しかったですよ」
「『元』って……なんで……」
「……。まゆは、アイドルを辞めます。今の私にはそれ以外にやるべきことがありますから」
『やるべきことがある』と少女は語った。アイドルを辞めてまでまゆちゃんがすること、それは、皆の嫌な想像を掻き立たせる言葉としては十分だった。
それまで泣き通しだった卯月ちゃんが、必死に絞り出す。
「まゆちゃん……ヘンなことするつもりじゃないよね?」
「……」
「復讐なんて、誰も望んでないよ。あとは警察と、検察の人たちに任せよう?プロデューサーさんだって、きっと自分が死んだ後でも安穏に、まゆちゃんにアイドルを続けて欲しいって思って───」
感情の焦点が、ぎらりと移り変わった。それは、彼女の琴線に触れたのか。
リボンの少女の身に内包された、夥しい負の感情が鋭利な刃物となって首筋に宛がわれ、紡がれる言葉を断ち切った。
「言葉の選び方には気をつけてくれますか?勝手にプロデューサーさんの気持ちを捏造しないで下さい。……不愉快なんです、そういうのは。何も、知らないで────」
「──っ」
動き出したまゆちゃんに対し、凛ちゃんたちが思わず警戒の構えを取ったが、当の彼女はそれを意に介さぬかのようにすり抜け、プロデューサーの元へ身を寄せた。
「……。誰に、理解されないとしても……。私は……私だけは、どんな時も……最期まで。貴方の、味方で……」
その時まゆちゃんは一瞬、潤んだ目を見せ、そのままプロデューサーの指に口付けをし……それっきり、顔を見せることなく病院を去っていった。
そして───もう二度と、彼女と事務所内で会うことはなかった。
病院内は明かりが点いてないと錯覚するくらい、暗澹たる有り様だった。
奏ちゃんのスッと伸ばされた手を目印に、フレちゃん達と合流して青空色のソファーに腰を下ろす。
「美嘉ちゃんは?」
「……お手洗いよ」
「そう」
会話が継続しない。それはそうだろう。さしもの志希ちゃんであっても、この空間を満たして幸せ空間に変えることは難しい。
通りかかるアイドル達へ取り留めも無い相槌を返すだけの作業が無為に続いた後。
薄紫色の尻尾のような髪を揺らし、手をポケットに突っ込んだままの飛鳥ちゃんがベンチの隣へと座ってきた。
「やあ、志希。このセカイはどうやら、代わり映えのしないドラマがお望みらしい。神様ってヤツは悲劇作家を気取っていてね。いつだって、偶然に殺されるのは浅はかな独裁者ではなく只一人の善人と相場が決まっている。全くボクらはとんだ茶番につき合わされてるんだ。……ああ、ホントに観測者たちは一体いつまでこの俯瞰風景を───」
「飛鳥」
奏ちゃんが低い声で呟いた。窘めるようなその言葉に、はっとした飛鳥ちゃんは改めて此方の顔を確認した後、歯噛みして席を立った。
「……すまない。まさかキミがそんな状態だとは思っていなかった。……っ。ああくそ、ボクはまた間違えたのか……?」
静けさに包まれた病院でなお、聞こえない声量で独り言ちながら退席しようとする飛鳥ちゃんに問いかける。
「何処へ行くの?」
緊張の入り雑じった声。引き留める意思はない。
その疑問に、立ち止まるのすら煩わしい気も漫ろな様子で返される。
「何処へでも。心無いことを言ったヤツとは一緒に居たくないだろう?……正直に話せば、ボクも平静とは言い難い。なにせボクの一番の理解者だったんだ、彼は。ここは一旦間をおいた方がお互いの為だろう」
目を細めて、哀愁的な口調で飛鳥ちゃんは裏口のドアの外へと消えて行った。
さて、微妙に弛緩していた空気は再び凍りついた。
鼓膜の内部へ入ってくる音は泣き声、泣き声、泣き声。誰一人として私語をしている者が居ない、頭のおかしくなりそうな沈黙が脳髄を支配しようと手をかけてきたその時。それまで奏ちゃん以上に大人しかったフレちゃんが、静寂を破った。
「シキちゃん」
「なんだい、フレちゃん」
「……ゴメンね」
「なんで。フレちゃんが謝る理由がない」
そう。これは誰が悪いわけでもない。
外を歩いていたら隕石の破片に衝突されたレベルの、事故のような話だ。
生まれて生きて、街中で通り魔に遭って殺される確率なんてよっぽど低い。
それらを警戒するより、まだ交通事故や病死を警戒した方が現実的なくらいに。
「でも……ううん、そうだね。こういう時は何て言えばいいんだっけ……?」
「こういう時……か……」
言葉が出てこないこの状況で。フレちゃんは次の言葉を模索しているようだった。
ならばと志希ちゃんも俯いて思案する。『こういう時、何て言えばいいか?』
──なんだ、簡単なことじゃないか。
「フンフンフフーン♪みんなー宮本シキデリカだよ~♪」
鬱屈とした空間に軽剽な高音が響き渡り、フレちゃんを含む周囲の反応が驚愕に彩られる。……直後にマジメ風紀委員長の痛い視線を浴びて、声のボリュームを小さくしつつ。ニヤリと笑ってみせる。
「んにゃ、予行だよ。明日、レイジーレイジーとして昼番組に出演するじゃん?今からドタキャンってのも難しいだろうし、ちゃんとして臨まなきゃ楽しみにしてくれてたファンにも申し訳が立たないでしょ♪」
それは間違いなく事実だった。普段なら打ち合わせすることもなくぶっつけ本番で間に合ってしまうのが、あたしたち二人だったけれど。
今回ばかりは、そうはいかないかもしれないから。という、建前。
「……そっか。そうだよね、フレちゃんたちはアイドルだもんね」
フレちゃんが一呼吸置く。その所作はスイッチの切り替えの意味を持っていたのか。
一拍後、フレちゃんはいつものテンションで笑顔になって。
「にゃっはー!一ノ瀬フレちゃんのお通りだ~!アレ?もしかして、私たち……入れ替わってる~!?」
「ワーオ、ビックリ!アタシたち、どうして入れ替わっちゃったんだっけ?フレちゃんの魔法のせいだっけ?カペステール・ド・マリー・ガラント~!」
「お、戻った戻った♪んじゃーこれでいつもどーり!レイジーレイジーのShow must go on~!」
病院内に迷惑がかからないように気を付けつつ、あたしとフレちゃんは予行演習を進めていく。
───そう。これでいい。"一ノ瀬志希"は、"宮本フレデリカ"を救えたのだから。
その地獄のような一日から、2週間が経った。
……プロデューサーの後任は決まったものの、シンデレラガールズプロジェクトの解体を止めることは出来なかった。
元より、あの無茶を無茶のまま押し通して結果を残すハイスペックなプロデューサーありきの一大計画だったのだ。
それでもあたし達は、将来有望と目されていたアイドルたち。引く手は数多で、事務所を移籍してアイドルを続ける者、アイドル経験をステップにして夢を目指す者……各々がそれぞれの道へと、再び歩き始めた。
勿論後任のプロデューサーの下にも、数十人のアイドルたちが残る結果となった。
「……ごめんね、志希ちゃん。出来ればずっとみんなの事務員として働いていたかったんだけど、もう、私たちじゃ本当に……どうにもならない状況でね……」
「ちひろさんのせいじゃないですよ。大丈夫、大丈夫♪これで生き別れるわけじゃないんですから、きっとまた……会えますって」
プロデューサーが最後に取り付けてくれた仕事の終わり際、ちひろさんから声をかけられた。
彼女も彼女でアイドル達以上に憔悴しきっており、最後に見せた笑顔は弱々しく、多大な責任を負わされてしまっているであろうことが伺えた。
とは言っても、ちひろさんは何とか事務員は続けられるらしい。
これは企業レベルでは大規模公演の話は纏まっていたものの、一般販売にまで及んでいなかったのが幸いしてチケットの回収・返金などといった騒動などには発展せずに収められたのが大きい。
卯月ちゃん、凛ちゃん、未央ちゃんらを中心に、プロダクションは再興を始めたのだった。
───中にはプロデューサーの死を認められない子や、その心の傷から立ち直れない子も何人か出てしまい、ショックで寝込むどころか、身体にまで影響が及んだ子も少なくない。
あたし達の大半は第二次性徴が始まり、『青年期』の最中の多感な少女たちだ。
身近な人の死に影響を大きく受けてしまうのは仕方のないことだろう。
……特に、聞いた話だと智絵里ちゃんは重症で、ずっと心療内科に通い詰めているらしい。
現在は主に同年代の子たちがケアしにいってるみたいだけど、回復の兆しは今のところ無いらしい。無理もないのかもしれない。
下手したらプロデューサーは肉親よりも近しい、皆にとって大切な存在だったのだから。
人は真に大切なものがないと生きていけないと、あたしは思う。
形は違えど、誰しもが一つは抱えて拠り所にして生きている筈なのだと。
例えばそれは物だったり、音楽だったり、スポーツだったり、愛だったり────。
……にゃはは。どうしてヒトは、脆く壊れやすいモノばかりに追い縋ってしまうんだろうね?
……残念ながら、プロデューサーを殺害した通り魔は取り逃してしまったらしい。
一説には山梨県の山奥に逃げ込んだとされていて、追跡捜査を行っているとか。
期待なんて、心の底からしていない。死者一名、軽傷者数名。歴史的大事件でもないのだから、警察の連中のやる気などないだろう。
男の身元は割れたが、浮かび上がった名前から怨恨の線は非常に薄いことが分かっただけだった。
目撃者証言によれば、何の前触れもなくナイフを取り出し……「誰でもいい」という風だったという。
これも別に、珍しい話じゃない。昨今の無差別殺人の動機はこれが増加傾向にあるのだから。
何か特別なことがあるわけじゃなく、運がなかったから。間が悪かったから。そんなふざけた理由で、あの人の命は散らされたのだった。
───そして。プロデューサーのことについて。
彼の遺品の整理のために、部屋の撤去のために行った先で見た物は。
「やっぱり……、か……」
簡潔に言ってしまえば、正に仕事人間といった風の家だった。成人男性ならおよそ持っているであろう嗜好品は一つもなく、本棚にぎっしりと詰められているのは全てあたし達が出ている雑誌などで。
単価100円もしないレトルトや、軽食用のゼリーが冷蔵庫には入っていた。それだけなら特に問題の一つもなかったのだが。
テーブルの上に置かれていた『それ』が、異質さを放っていた。
白い紙袋。
───ソラナックス錠。世間一般的に言えば、"精神安定剤"。
精神系の病気を抱えた患者が服用する、それなりに効果の強い薬。同じく机の上に置かれていた処方箋には掛かり付けの心療内科の名前と、……つい最近にも処方された痕跡が、残されていた。
一つ確かなことを言うのであれば、恐らく『彼女』だけはこの事実を知っていたということのみ。それも、今となっては何の意味も持たないのだが。
4日後、予定が決まっていた全ての業務を終え……一枚の辞表を残して、まゆちゃんは行方不明となった。
それと同時期に、プロデューサーのマンションに安置されていた筈の彼の遺体が棺桶ごと、姿を消した。
あたしの勘が正しければ、恐らくまゆちゃんも同じ解に辿り着いたのだろう。
火葬される前に遺体を回収する。そうしなければ、生き返らせることが不可能になる。
具体的な手段など思い付いてないし、あるのかさえ分からない。
それでも、諦めきれない問題が確かにあるんだそれを放棄したくないんだ。
確率論にゼロは存在しない。絶対なんて信じない。未来はこの手の中に在る。
あたしは科学者だ、それを証明してみせる。
……方法を模索する。死人を蘇らせることすら可能とする偉業を。
原始以来、人間は常に進化することで生態系におけるその勢力を伸ばし続けてきた。
素手よりは棒きれ、棒きれよりは投石や弓矢だ。そうしたら今度は石を防ぐための鎧が出て来て、それを貫く刀が現れた。
刀は銃に負けて、やがてそれが大型化し、戦車に積まれ、飛行機にも積まれた。果てには原爆が開発され水爆が実験され、最強の兵器として核ミサイルが登場した。
確実に相手に勝つには、同じ土俵でなく一歩上の段階に立っている必要がある。その繰り返しで世界は廻ってきた。
人類史上初の総力戦となった第一次世界大戦、イープルの戦い、ソンムの戦い。
機関銃や戦車、毒ガスといった未知の存在を前にした人々は無力であり、一方的な蹂躙を敷かれるだけであった。その次に戦艦が圧倒し、航空機が席巻し、原子力が用いられ、やがて電磁兵器の時代がやってくる。
現代科学の更にその上。科学を上回る技術────科学の発展した現代でもなお、超常現象に値するオーバーテクノロジー。即ち、魔法。
「……そうだ。確か、あの時のサンプルが────」
元々科学者であるはずのあたしが、魔法なんて言葉を口にするのは可笑しな話だろう。
UFOも宇宙人も、否定はしない。居ないことの証明が出来ないことには、物好きのオカルトマニア達を馬鹿にすることはできない。
寧ろ、居てほしい。居たらそれはそれで喜んで飛び付いて匂いを堪能したい。
未知の物体に抱くのは興味と好奇心。決まっている。
そんなあたしだが、魔法は存在すると信じている……というより識っている。
───それは、まるでクラスメイトにでも話したくなるような冒険譚。
あたし達は一度、アイドルの仕事の中途に『異世界』に喚ばれたことがあった。ワオ、なんてファンタジー。だけどこれがアクチュアル。
その時に見たのだ。"こちら側の世界"には存在しえない奇跡の具現を。
当たり前のように魔法が行使され、ゲームのようなポーションが製作できて、あたし達すらも物語のヒロインとなって力を振るったその軌跡を。
「……と言っても、そんな簡単にはまた喚んでくれないよにゃー……」
理論は分かったが、依然として問題は山積みのままだった。
立証どころか、実験すら難しい机上の空論を振り翳すだけのペテン師に等しい。
それでもこの空の難題に、取り組まなければならないのが現実だ。
あたしは手始めに、異世界へ飛ばされた時の状況の把握・再現を行うために数日分の食糧を確保しに行った。
大量の食糧を買い込んで自宅に戻った折。
「……およ?」
鍵をさしたが、回らない。否。"既に鍵が空いていた"。外出している僅かな間に、鍵が破られていた。
空き巣の可能性。こんなボロアパートだが、進退窮まった者なら手を出すことも、考えられなくはない。警戒する。
自宅で料理をすることのない志希ちゃんゆえ、包丁なんて置いていないが、来訪者は強盗目的で武装している可能性が十二分にある。だが。
「ふんふん。鬼が出るか蛇が出るか……」
此方も護身用……目的でもないが、筋弛緩剤くらいなら持ち歩いている。
……いや。プロデューサーも、通り魔に刺されて殺されたのだ。なら、或いはここで人生が終わるというのも一興かもしれない。
そんな、半ば破滅的な気持ちを抱いて、扉を開けた。
玄関には成人男性のものらしき、黒い革靴が置いてあった。当然ながら、元々そこにあったものではない。
玄関口から見渡す範囲に怪しい人影はいない。リビングの扉に手をかける。
開けた扉の隙間から蛍光灯の光が漏れる。ビンゴだ。
やがて、扉が90度に回転し───
「ダッ……、ド……?」
────そこに居たのは。居る筈の無い人物。
しかし、正真正銘、本物のダッドだった。
手入れが雑な白髪混じりの顎髭。背に定規でも入れてるかのような直立姿勢。
面白味の欠片もない、シンプルな黒縁のメガネからのぞくアイスブラック。
居る筈の無い男。招かれざる来訪者。会うことはないと思っていた男が、佇んでいた。
ピッキング……などといった手段を講じることはないだろう。恐らく、アパートの大家にでも家族関係を理由に部屋へと入れてもらったのだ。
なら、そうまでして会いに来た理由は何だ?あたしは逡巡する。目の前の男は一人暮らしの娘を心配するような人間味を持ち合わせていない。
必ず、なにか他の目的があるはずである。
「ふっ。久方ぶりに実の父と再会してもその反応か。安心したぞ。お前と私が科学者として対立していることを、忘れた訳ではないらしい」
「……」
……言葉が見つからない。何て返せばいいのかなんて、遠慮しているわけではない。
言語を紡ごうとして、口が縺れる。ありすちゃんや、仁奈ちゃんとは違う。
会って話をすれば溝が埋まるなんて、そんな次元の話じゃない。けれど、二度と再会を望んでいなかった訳でもない。
この複雑な感情は、定義が難しい。出力が上手くいかない。
「研究が進んでいるのなら何よりだがな、お前が停滞を極めている内に私は第二段階へと進んだぞ。……遂に完成した」
今日は研究の成果を見せに来たのだと言うダッドは、右腕で持っていた透明な袋から黒いUSBメモリのような何かを取り出した。
いや、一見どこからどう見てもただのUSBメモリと認識してしまいそうな形状だが、その本質は全く別のものである。それは、彼の研究に必要だったもの。
成る程、理解出来てきた。研究者は自身の研究を見せびらかす性分にある。
よくあたしも、プロデューサーを被験体として呼び出したりするが、それは同時に彼が成果の見届け人になってほしいという願望でもある。
自分一人で抱えていては、その研究の価値はガラクタに過ぎないからだ。
他の誰かに認めてもらうこと。それは科学者にとっての必要事項。
「このデバイスを用いれば、人の脳に直接私の記憶をインストールさせることが出来る。マイクロチップと違って継続的に埋める必要はないから、メンテナンスもしなくていい。言わば、私という存在の続きがこの世界で生きることを約束させる装置だ。今はまだたった一つしか作れていないが、まあ十分だろう」
「……わお」
完璧な人間を作るためのプロセス。その第二段階。ダッドの頭脳をもってしても、数十年では決して達成し得ない偉業を成すための解決策。
元来、人間は保って140年程度しか生きられないという限界を抱えている。
それを取っ払うことで、人類は新たな一歩を踏み出すことが出来る、輪廻転生を人為的に起こすという、あまりにも冒涜的な試みだ。
その手のひらサイズの装置は、奇蹟の具象化と言って差し支えない。
「当然、記憶の継承体には若く、脳の負荷に耐えられる児童期が適正となるが……そのためにわざわざ他人の子供を用意するのは非効率的過ぎる。何せ、その子供を私の転生存在とさせるのだ。そう都合よくはいくまい。だからクローンを用いることにした。クローンならば、造物主に権限が委ねられているからな」
簡単に言うダッドだが、現代ではクローン人間を作ることは違法である。
生まれながらにして個の生命は平等とされている。その有り様を誰かが規定することは、人道に反することになる。
研究にクローンを用いることを長らく認めてきた米国でさえも、ヒトクローンの作製には否定的だ。
「ってゆーか、クローンじゃ非効率じゃないの?いくら便利だって言っても、短い寿命を繰り返んじゃ……」
「それは誤認だな、志希。まあ、無理もないが。お前が言いたいのはクローン・ドリーの件だろう。だが、既にノッティンガム大学を始めとしたいくつかの大学の研究で結果が見えてきている。その内、『クローンは短命である』という認識は覆されることになるだろう」
ほうほう。それは初耳だ。ダッドから離れて、もう学会に顔を出したりすることも無くなって久しいので、最新の研究データは少し疎い面がある。
クローン人間は兎も角、クローン動物の工場化が進む一方な研究結果だと思うけど、これでもやはり前者の合法化の動きに繋がるとは思えない。
「それでもクローン人間は違法だと言いたげな顔だな。公にしてはならないことくらい、分かっているとも。SF映画のような培養器が実用化されていれば話は別だが、現実は未だ代理出産という方法に頼らざるを得ない。それは世界中のどの研究所でも同じことだろう。私の研究所が一番進んでいるという自負はあるがな。ゆえに、実験は極めて内密に信頼のおける人員と共に研究所内で執り行う。そうすれば何の問題もない。そのために志希、お前を呼びに来たのだ。お前に……代理母になってもらうために」
「え────?」
何かの聞き間違いだと信じたかった。しっかり聞き取れているというのに。
彼の話の内容を正しく全部理解していたのに。それくらいの衝撃だった。
代理母。それはつまり。あたしが、クローンの子供を妊娠するということ。
「愛華はやや歳を取りすぎている。母胎としては及第点といったところだ。だがお前は適齢だ。別に性能は求めるべくもないが、最高のコンディションだろう」
「……断ると言ったら?」
「……なにを拒むことがある。私の研究の助力となるのは癪か。だが、科学者であれば他人の研究の完成体というものに関心は湧くはずだろう。そして喜べ。この研究が完成した暁には、お前は最高の栄誉を得ることになる。さしずめ"原初の聖母(マリア)"といったところか。案ずるな、これでも私はお前の父親だ。世界一安全で快適な環境を約束しよう」
ぞっとするほど平静な声音で、ダッドがそう告げる。それは最早狂気の相と言って差し支えない振る舞いだった。
自らの延命のために、最適なクローンを作るために、己が娘を代理母とする。
レベルの高い変態であっても躊躇するような行為に、彼は葛藤の一つもないという。流石の志希ちゃんと言えども、これには青ざめて顔をひきつらせるばかりだった。
「……ふむ。成る程、確かにアンフェアだ。名ばかりの名誉と地位ではなく、ちゃんと実利も用意しよう。具体的には、私自らがお前の研究のスタッフとなりその補助をすることを、だ。私の一年をお前に捧げるのだ。悪い話ではないだろう?」
「う、そうじゃなくて……そう、アイドル!今の志希ちゃんはアイドルだから、ほら、そういうのは……」
「アイドル、か……。だが、何の問題もないだろう。お前を担当していたプロデューサーが死に、お前は今休業中の身の筈だが」
わざわざ、調べてきたのか。揺るぎない面持ちでダッドは痛いところを突いて指摘してくる。
……その通りだった。色々な事務所からスカウトを受けた志希ちゃんだったが、その全てを断って、今はこの研究に没頭している。よって、今はアイドルではない。
「……憐れなことだ。然したる理由もない通り魔などに刺されて人生に幕を下ろすというのは。今まで大事に積み上げてきたものが全て茶番に成り果てる最期。はっ、社会のシステムに虐げられるわけでもなく路傍で死に絶えるとは落伍者には相応しい末路と言ったところか」
「……っ!」
「癇に触ったか。娯楽を解さぬ私ではないが、アイドルのプロデューサーなどと。そんな低俗なものに何を惹かれた。あの男を……好いていたとでも言うのか」
「……、ち」
違うと。否定しかけた言葉は、しかし喉を通らなかった。
音を消失した聲。二度目の嘘は吐き出せない。その、あたしの反応を受けて。
───心底、冷えきった失笑と溜息を聞いた。
「これは驚きだ。まさかお前が恋愛感情などというものに惑わされるとは。ふん。下らないことで手間を取らせるな。二つ返事でついてくると思っていたが、睡眠薬が必要の様だな。ここで逃亡を許せば面倒なことになるのでな、手早く済ませよう」
そう言ってダッドが取り出したのは、容器いっぱいに液体が満たされた小型の注射器。
あたしはそれが何であるかを知っている。正にかつて研究していた、効力の強い睡眠薬。
強行手段。あれを射たれたら最後、あたしの人生が大きく歪められるだろうことは間違いない。
しかし逃げようとしたところで腕を掴まれて、その場に崩れ落ちた。
「痛っ……!ちょ、ま、待って……!は、話し合おう、ダッド!こんなのおかしいって……!」
右腕を強く掴まれる。流石に成人男性の腕力だ。必死に体を動かして抵抗するが外れない。
その拍子に近くにあったラックが揺さぶられ、上に置いてあったものが床へと雪崩のようにぶちまけられる。落下の衝撃で実験器具などが散乱するが、ダッドは全く気にも留めない。
「何を馬鹿なことを。元より、お前を創り、育て上げたのはプランの内の一つだ。お前は実験を成功させるためのファクターとして、必要だったのだ。自分の存在理由を全うしろ。私がその歯車の最適解を出そう」
「────!!」
───それは、人間ゆえの弱さだったのか。
『貴女は私の希望なのよ。志希』
───それは、あたしの傲慢だったのか。
『自分の存在理由を全うしろ』
それまで、思いのままとまでは行かないまでも、あたしは大抵の事は成し遂げてきた。
ダッドの隣に立つことだって、憧れや挫折や苦悩とは無縁のまま、ただ当たり前のように『立てる』と思って突き進み、そして実際そうあった。
だから、今回もそうなると勝手な希望を何処かで懐いていたんだ。
なのに。なのに。
「これは教育だ。アイドルなどといった虚飾に現を抜かし、己が持って生まれた才を溝川に流すに等しい狼藉は"科学者として"認められない」
たった一つ願った、平凡な祈り。それは正に今、虚しく散っていった。
空いていた穴が埋まることはなく。
欠けていた孔が満たされることはなく。
もう、なにもかも、喪って。───仮面が剥がれる。
「やめて、パパ……!」
気付いた時には、涙で視界が覆われていた。痛みと驚懼で反射的に溢れ出たものか。それとも───
思考の暇もない。猶予など与えられない。冷酷無比な現実の前に。
冷たい顔が近付く。終わりを意味する注射器が迫る。その、先端の針が、静脈をめがけて───
「ァ、ァァあああああああああ────!!」
────ポチャポチャ、と。水音が響く。その音しか聞こえない。
金属のような冷たい男の声も、聞こえてこない。
暗い。心を不安にさせるほど暗い場所だ。しかし、明かりはついている。
脳が今はまだ、意識が不鮮明で視界が不透明ゆえに把握できずにいるが、直にこの暗がりに眼が慣れてくれば、しっかりと認識できるだろう。
───紅い滴が垂れている。何か人間の根源的な匂いが充満していっている。
手を動かそうとすると、なにか鋭利な物に当たって軽く皮膚を擦りむいた。
この液体は何だったか。この匂いは何だったか。
この────自らの指先から流れ落ちるものの名前は、何だったか。
やがてぼやけていた意識は覚醒し、ピントの合ったレンズが捉えたその、近くに転がっている割れたガラス片は。
───べったりと、真っ赤な血で濡れていた。
「あ……ぁ……」
頸動脈を一刺し。試験管程度の小さなガラス片でも、大の男を殺すには事足りる。
すぐ側で斃れ込んでいる男の首筋から、大量の血液が流れて周囲へ広がっていく。
落とした衝撃で少し針が歪んだ注射器も、散乱した実験器具も、すべて真紅に染まっていく。
───何も本気で殺したかったわけじゃない。憎んでたわけでも、恨んでたわけでもない。
それでも、あたしの身体は勝手に動いてしまっていた。自己防衛反応。
あたしが。殺してしまった。たった一人の……父親を。
記憶が追い付いていなかった。咄嗟の事だった。生物の本質。それが正常に機能しただけのこと。至極当然の結末。
若しくは、このケースは正当防衛に当たるのか否か。法律問題。
それら全ての思考を断ち切る鋭利な斬撃が、横から志希ちゃんの頭を掠めた。
「……志希。あ、なた────」
……最初から、居たのか。許容限界を超えてなお無理やり動かしていた脳が、弾け飛んだ。リビングの方から出てきた一人の女性が。
────携帯電話。ママが、持っているのは携帯電話。
そのブルーライトを帯びた画面に、「110」の文字列と通話用ボタンが映っていた。
何をするつもりかなんて、愚問だ。あたしの想像した通りだ。
直接脳をつんざくような勢いで、最適解が告げてきた。
「……っはぁ、はぁ、はぁ、はぁっ……!」
────気が付けば馬乗りになって、ママの首を絞めていた。あたしの天才性が理性を上回り、電気回路に直接命令する。
遠くに放り投げられた携帯電話に目をやると、暫くの間通話状態となっていたが応答がないと見るや、暗転した。だが、通話自体はかかってしまっていた。
流石に抵抗は激しい。鬼女の形相で、狂乱じみた獰猛さで、喉を圧迫せんとする両の手の甲に、飾り気のない爪を立ててくる。
裂かれた皮膚から血が滲む。肉に達しようと、爪は容赦なく食い込んでくる。痛い。
けれど、ここで手を放せば間違いなく殺される。だから、必死に食い付いた。
あたしの貧弱な握力では頚椎を砕くことは叶わない。せめて、意識を奪うまではと長い間首を絞めていた。
祈るように時間経過を待った。攻防は激しく、永久に続くかもしれないという不安を押し殺すために、身体を内側に宿る天才性に預けた。
5分か。10分か。15分以上かかっていたかもしれない。
───あたしの心拍が落ち着いた時には既にママの身体は動かなくなっており、首元に不格好な蝶が灼けつくまで手のひらを宛てがっていた。
「……」
これで、二人目。これで全部だった。
だって、どうすれば良かったのだ?"どうすれば殺さずに収められた"?
平静じゃない人間とは、落ち着くまでまともな会話を望めない。どう口頭で説明を試みたところで、警察を呼ばれておしまいだ。
通報は悪戯だと思われるかもしれないけれど、それはそうでなかった場合の可能性を排除できる程
信頼できるものじゃない。もしも通報されて、本当に捕まって。
それで何になる?例え弁護士にありのままの全てを話して証拠を提示して、後々裁判で正当防衛が認められ無罪判決を勝ち取ったとしても、その間拘束されているあたしの時間は空白はどうする?どうしてくれる?
謂われもない悪意の波に巻き込まれるのは必至だろうし、間違いなく社会への復帰は難しくなるだろう。
受刑者じゃないのだから役所共が仕事を斡旋してくれるわけでもない。
ダッドの研究だって、明るみになってしまう。多分、その責任も背負わされるのだろう。
あたしの人生はここで歯車を狂わされることとなるのだ。
いいや、いいや、そんな瑣末事より。
プロデューサーを生き返らせるための作業が出来なくなってしまう。
それは嫌だった。それだけは誰にも邪魔などされたくなかった。
ただでさえあたしには時間がないのに、不要な時間を浪費してしまえば、救える筈の者さえも間に合わなくなってしまうことだってあるかもしれない。
だから殺した。口封じのために。錯乱してたとはいえ。実の母を。産みの親を。自らの手で。
「違う……違う……、違う……?」
口に出して否定する。首を振って否定する。そしてその判断を、頭が否定した。
何が違う?違うものか、これがありのままの姿だ。これが真実だ。現実を受け入れて前に進まなければそこに未来は無い。
尤も、このケースに関して言えば、何をしても八方塞がりだろうけど。
「……ははっ、あはは、あはははははは」
笑うことしかできない。なんだ?なんなんだ?この世界は。救いがないにも程がある。メリーバッドエンドすら許してくれない、天国なんてものに行けるとは思ってなかったけど、これじゃ地獄参りすら怪しい。最悪のバッドエンディングじゃないか。本当にこれしか道はなかったのか?
アメリカから帰国して、プロデューサーと出会ってアイドルを始めて。そこまでは間違ってなかった筈だった。ならばどこからあたしは間違えた?
何をすれば正解だった?何を願えば、何を望めば叶えてくれたというのだ。
プロデューサーの間が悪かった。運がなかった。
じゃあ悪いのはプロデューサーか?
プロデューサーに罪があるの?プロデューサーに罪はないよ。悪いのはあたし?そうだ、父親と母親を殺したのだ。悪いのはあたしだ。
それは、逃れようのない真実だった。
……ああ、そうだ。そうやって、あたしは現実から逃げていた。
冷たくて辛くて苦しくて怖くて、どうしようもない痛みから目を背けていた。
厭なことはなるべく考えないように務めた。一度考え始めると終わらなくなってしまいそうになるから。
物事の焦点をズラして一ノ瀬志希を俯瞰した。"観測者"一ノ瀬志希として、"一ノ瀬志希"の偶像を造り上げ続けた。
ギフテッドで、トリックスター。飄々として、いつも楽しげに人生を謳歌して、悩み事なんて蹴っ飛ばして、安定を嫌って、気ままに動いて、……心をどこかに置きやって。
暫くすると、どっちが本当のあたしか分からなくなった。
真っ白だったのか。真っ紅だったのか。キャンバスはもうグチャグチャで、それはもう色とは呼べなかった。
自己言及のパラドックス。
詰まる所、一ノ瀬志希という少女は凡百と何ら変わらぬ望みを持っていたのだろう。
志希ちゃんは確かに天才で、エキセントリックで、生まれついての科学者だったけれど。
他とは違う視点を持ち、普通とは言い難い価値観を持ち、一般からは程遠い才能を宿していたけれど。
それらはすべて、その平凡さを殺して、殺されて、自ら切り捨てた末なのだと。
そのツケが回ってきた結末が、これだ。
「時間がない?」「取り返しのつかない?」それは、ウソだろ。
例えあたしが居なくても、まゆちゃんはその偉業を必ず成し遂げるだろう。
そこにあたしは必要ない。じゃあ何故あの時、そんなウソを吐いた?
そんなの、明白だ。取られたくなかったからだ。プロデューサーを手に入れることの出来るチャンスを逃したくなかったからだ。
喪った哀しみも、得た哀しみも、───愛情も。
全部全部プロデューサーへの感情で代用しようとしたからだ。ただ、それだけ。
あたしが狂った原因を説明するには、それだけで足りていたのだ。
「あはははははははははは!!あはは、はは、はははは……っ」
「ああ、────ごめんね」
……それは、何に対しての謝罪か。
判りきった事実を語る事はない。一ノ瀬志希は止まらない、否、止められない。
愛とは論理的、数学的に突き詰めれば必ず破綻する式だ。
故に、そこに理由は必要ない。整合性を求めてはいけない。
人類を愛した獣は今、野に放たれた。
鉛空に白衣がはためく。風は心地よいと言うよりは、吹き付けているといった感じだ。
志希ちゃんが立っている場所はイギリス、グラストンベリー修道院。
この地はとある伝説が眠る地として知られている。
5世紀から6世紀に跨がり、ブリテンを統治していた理想の王───アーサー王。彼の遺骨が眠っているとされる墓がある場所だ。
───そう。"この世界に唯一現存する魔術師"に会うために、あたしはここまで来たのだ。
理論は構築できた。準備は完了した。万が一の"保険"も用意した。後は、ほんのちょっぴりオカルトを撹拌し、この実験を始めるのみ。
これより始まるは、一ノ瀬志希の全てを賭けた大実験。
────さぁ、Magical showの幕を上げよう。
以上となります
誤字すまない……あと文字数オーバーのぬるぽもすまない…… 直していただけると幸いです
乙
夢中で最後まで読んだわ
理性がありながらも徐々に狂気的になる様は恐ろしい
このSSまとめへのコメント
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