映姫「霧の湖で、恋を知る」 (55)
・東方プロジェクトの映姫、チルノ中心SSです。
地の文、百合要素有り。長めですが、書き溜めはあります。
よろしくお願いします。
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―――恋の歌。
あの夏の日に、貴女が教えてくれた歌。
私はきっと、この先忘れることはないだろう。
貴女に出会えて、本当に良かった。
―水無月ノ第二日曜日―
梅雨も半ばにさしかかり、じっとりとした暑さが続くこの時節。
今日はたまたま晴れているものの、不快指数の高さはただ事ではない。
昨日まで降り続いた雨のおかげで、今日の幻想郷はまるで蒸し風呂状態だ。
そんな気候にはめげもせず、私、四季映姫は、その日も各地を説教して回り、声を張り上げていた。
「―――だから、何度も言っているでしょう!惰性が人間を一番ダメにするのです。そもそも博麗の巫女として自覚があるのなら」
「もう、しつこいわねえ。別に私だって好きでダラダラしてるんじゃないのよ?ただ、こう暑くっちゃ」
「冬は冬で『こう寒くっちゃ』と言っていましたし、春秋は『こう良い気候だと眠くなって』と言っていましたよね!?貴女は一体いつやる気を出すんですか!?」
他ならぬ閻魔に、こうまで言わせる神職の者というのもどうなんだろう。
そんなことを思いつつ、ジト目で『博麗の巫女』こと博麗霊夢を睨んでやるも、一切効果なし。
まるで馬の耳に念仏というか、蛙の面に……いやいや。
ともかく、霊夢は私の事などまるで意に介さないように、きわめてマイペースな振舞いをみせる。
「私は私なりに、きちんとした生活を送っているつもりよ?」
「ほう、どんな風にです?」
「朝ごはんを食べて、洗濯して、境内を掃除して、あとはボーっとして」
「その『ボーっとして』が良くないと言うのに!」
「はいはい。分かったってば」
ぼんやりと虚空を眺めながらそんな風に返されれば、力も抜けるというものだ。これ以上、彼女に何を言っても仕方がないだろう。
私は『はあ』とわざとらしくため息をつくと、次の場所へと向かうべく、仕度を始める。
「今日はここまでにしておきますが、最後に一つ。貴女は少し時間を無駄に使いすぎる」
「有効活用していると言ってほしいわね」
「やかましい!……こほん。ともかく、人の身である貴女にとって、一生など、あまりに短い時間なのですからね?それだけは忘れないように」
「はいはい」
聞いているのやらいないのやら。
少しムッとしつつも「それでは」と言って私が玄関に向かおうとすると、後ろから「ちょっと待って」と霊夢の声が飛んでくる。
「何です?」
「二つだけ。まず一つ。素敵な賽銭箱はあちら」
「帰りますね」
「連れないわねえ。それともう一つ」
「……今度は何ですか」
「人里の人間ならともかく、それ以外であんたの話をまともに聞くような人妖は、幻想郷にはいないわよ」
「皆、自分の性分をよく分かってる奴らばかりだし、今更それを変える気もないだろうしね」
それだけ言うと、霊夢のごろりと横になったであろう音が聞こえる。
『さっき私が説教したばかりでその態度か』と怒る気には、到底なれなかった。
結論から言えば、霊夢の言葉は正しかったという事だろうか。
あの後、さらに幻想郷を巡った私は、そんなことを痛感した。
永遠亭。
蓬莱山輝夜の所に向かえば「わざわざ私なんかに説教するためこんな所まで来るなんて、閻魔様も大概暇なのね」と呆れ顔で言われた。
紅魔館。
パチュリー・ノーレッジに「本ばかりでなく、外の世界を実際に見てみること」の大切さを語れば「そのために今、水晶玉を改良中なのよ」と軽くかわされ。
レミリア・スカーレットに「慈悲と自省の大切さを知らなければ地獄に堕ちる」と説けば「そうだとして、私がそんな運命を恐れると思う?地獄なんて退屈しなさそうだしね」と笑われた。
たまたま見かけた因幡てゐに説教しようと近づいた時には、彼女謹製の落とし穴へと落とされた。
しかもその後で「あー!何やってんの、せっかく鈴仙を落とそうと思ってたのに!」と、逆に説教される始末で、もはや言い返す気力もなかった。
「あんたの話をまともに聞くような人妖は、幻想郷にはいないわよ」という、霊夢の言葉が頭をよぎる。
本当は、以前から自分でも気付いていたのだと思う。
ただ、私自身がそれを認めたくなかったというだけの話で。
幻想郷に集まる人妖は、一部を除き、弱肉強食の中を好き勝手に生き抜いてきた連中の集まりだ。
つまりは、気儘で、それでいてプライドが高く、他人に言われた程度で簡単に己の生き方を変えたりはしない。
「分かってるんです」
誰にともなく、私は呟く。
「分かってるんですよ。私だって」
自分でも聞き取れないほど小さな声は、吹き渡る風の音にかき消され、消えていった。
ポチャリ、ポチャリ。
湖へ、私の投げた石の沈む音だけが響き渡る。
落とし穴へと落ちた後、どうにもやるせなさに襲われた私は、霧の湖にてしばしの休息を取っていた。
高く高く昇っている太陽とは裏腹に、私の心は沈んでいる。
ポチャリ、ポチャリと石を投げれば投げる程、心も、深く、深く沈み込んでいった。
私のやっていることは何なんだろう。もしかして、とても無意味なことなのではないだろうか。
考えても仕方ないとは分かっていても、頭にはそんなことばかりが浮かんでしまう。
「今日はもう、帰りましょうか」
自分自身がこんなに後ろ向きになっていては、人に何かを説くことなどできない。ならば、今日はこれ以上、無理をすることもない。
そう考えて、私が重い腰を上げようとした時の事だった。
「……何やってんの?」
不思議そうな目で私に声をかけてきたのは、かつて説教をした覚えもある氷精・チルノだった。
「ふーん。どこに行っても、誰も閻魔様の話を聞いてくれないから、落ち込んでたんだ」
「……まあ、そんな所です。それと『閻魔様』なんて堅苦しい呼び方をしてくれなくても良いですよ。映姫と呼んでください」
「分かった。えーき」
湖のほとりで、私はチルノへと今日の出来事を話していた。
自分でも、この子に悩みを話すなんて、馬鹿なことだとは分かっている。
私は閻魔なのに。人を裁く立場として、ある意味で誰よりも強くなければならない閻魔が、妖精などに弱みを見せてどうするのだ、と。
それでも、今は誰かにこの気持ちを聞いてほしかった。いくら閻魔といえど、一人で全てを抱え込めるほどには、私は強くない。
「それで、えーきはどこに行ってきたの?」
「博麗神社に永遠亭。それと、紅魔館へも」
「大変だね」
「慣れたものですよ。休日も殆ど、各地を説教して回っていますから」
私が言うと、チルノは目を丸くして驚いてみせる。
「よく知らないけど、えーきって普段も『さいばんちょう』とかいう仕事してるんでしょ?それで、お休みの日も、人に会ってお説教して潰しちゃうの?」
「ええ」
「それじゃあえーきは、いつ休んだり、遊んだりしてるの?」
「……そうですね。最後に丸一日休んだのは、いつだったか」
言われてみれば、ここ最近はきちんと休んだ記憶がない。
平日は当然ずっと仕事に追われていたし、そうでなくとも素行の気になる者の所へ行って、説教をしていたからだ。
「もしかして、えーきの所って、お休みでもお休みしちゃいけない決まりなの?」
「え?いえ、そんなことはないですよ。毎週土日には、皆きちんと休めるようになっています」
「じゃあ、誰かに『働け!働け!』って言われてるとか」
「それもないです。あくまで、私が自主的にそうしているだけで」
「ふーん……」
チルノは、私の話を聞くと、何やら難しい顔をして考え込んでみせる。
「えーきは、本当に頑張り屋さんだね」
「!」
「だって、そんな思いまでしても、あんまり人に話を聞いてもらえないんでしょ?あたいだったら、親友の大ちゃんやルーミアやみすちーにそんな風にされたら、がまんできないもん」
「えーきはそんなに頑張ってるのに、みんなひどいね。あたいは前、えーきに言われたこと、ちゃんと覚えてるよ!もっと命を大切にしなさいって」
感服したような目で、私の事を見つめるチルノ。
その顔を見て、私は何だか救われたような気分になった。
(……ああ、そうだったんですね)
私は、ただ誰かに認めてもらいたかったんだ。例え、人妖にあまりきちんと話しを聞いてもらえなくても、私がしていることは、決して無駄ではなかったんだと。
そんなことを考えていると、チルノは難しい顔に戻って続ける。
「だけど、いくら何でも、たまには遊んだり、しっかり休んだりしなくちゃダメだよ!そんなに働いてばかりじゃバカになっちゃう」
「休むのはともかく、遊べと言われましても。私は、何かで楽しく遊んだような経験なんて殆どないんですよ。だから、何をしていいやら」
「むー……じゃあ、そんな遊び初心者のえーきでも、楽しく遊べる遊びを教えてあげる!」
チルノはそう宣言すると、人差し指を高く空に掲げて叫んだ。
「おーにごっこする子、こーの指とーまれ!!」
わーっ。きゃーっ。
わらわら。わらわら。
どこから集まってきたのやら、チルノが叫んだ途端に、たくさんの妖精たちが、チルノを目指して一目散に飛んでくる。
その数、ざっと二十から三十といった所だろうか。
さっきまでの静けさがまるで嘘のように、姦しい空間が目の前に広がっていた。
「それじゃあ、えーきが鬼ね!10数えたら皆を追っかけて捕まえてね!」
「こ、これだけの数の子たちを相手にするのですか!?」
「んー……これでも、いつもよりは少ない方だよ。今日はとっても蒸してて暑いから、出てこれない子もいるのかな」
絶句。
そうこうしている間にチルノが「それじゃよーい、すたーと!」と号令をかけ、妖精たちは「ワーッ」と、散り散りに逃げていく。
「まだ用事がありますので」とこの場を離れるのは簡単だが、この子たちもせっかく集まってくれた訳だし、何よりここまでのことを私へしてくれたチルノに申し訳ない。
こうなった以上は、覚悟を決めるしかないだろう。
(勝負とあっては仕方ありません。妖精相手と言えど、勝敗の白黒はきっちりつけさせていただきます!)
自分でも呆れる程無駄に闘志を燃やしつつ、私は10カウントの後、妖精たちを一匹残らず捕まえるべく、大空へと飛び立っていった。
翌日。
「あいたた……腕が、腰が、足が……全身が痛い……」
裁判所の更衣室にて、私は筋肉痛に悶絶していた。間違いなく昨日の鬼ごっこのせいである。
白熱の鬼ごっこはかなりの長期戦となり、私の肉体は思った以上の大打撃を受けてしまった。
そのせいで、こうして今日の仕事にまで差し支えが出る始末である。今更、慣れないことをするべきではなかったかもしれないなと思っても、全ては後の祭りだ。
「少々、本気になりすぎましたかね……いたたっ」
「おはようございまーす……何やってるんです?四季様」
「お、おはようございます、小町」
服を脱ぐのにも苦労して、ヒーヒー言いながら着替えていると、小町が怪訝な様子で入ってくる。
無理もないだろう。私だって、長い閻魔生活の中で、朝からこんな状態になるのは初めてだ。
「筋肉痛ですか?」
「はい。昨日珍しく運動してきたんですが、どうも張り切りすぎてしまったようで」
「へえ、そんなことが」
……嘘ではないから閻魔的にもセーフだろう。
さすがに「妖精たちと鬼ごっこをして鬼をやったのはいいんですが、思うように捕まえられず、本気になりすぎてしまいました」とは、恥ずかしくて言えない。
でも、仕方がないではないか。
何しろ彼女たちときたら、追いつめられると瞬間移動して私の背後へと逃げていったり、光の屈折を利用して身を隠したり、はたまたこちらの気配を探られるせいで、そもそも近づけなかったり。能力が、反則的に鬼ごっこ向けの者が多いのだ。
昨日行ったのがいわゆる『増え鬼』ルールだったおかげで、こちらも少しずつ戦力を増やして応戦はしたものの。私でも簡単に捕まえられる程度の妖精が、鬼になったからといって、大した戦力になる訳もなく。
おかげで、こちらはぶっ続けで三時間も飛び続けるハメになってしまった。流石に疲労困憊もするというものだ。
とはいえ、何も考えずにただ無心で彼女たちを追いかけ回すのは思いの外面白かったし、終わった後は充足感があるのと共に、妙にすっきりとした気分にもなったけれど。
大の字になって倒れている私へ向かって「お疲れ様!楽しかったでしょ?」と、にこっと笑うチルノの顔が浮かぶ。私はハーハーと息を切らせながらも、「ええ、とても」と頷いてみせるしかなかった。
思いがけない形ではあったけれど、良い気分転換をさせてくれた彼女には、感謝しなければならない。
「本当に珍しいですね」
「ええ。何しろ普段は内勤ですし、運動なんて中々」
「そうじゃなくて、そんなに楽しそうにしているのがですよ」
「え?」
「気付いてないんですか?だって、さっきから四季様」
―――とてもいい笑顔ですよ。
「何かいいことでもあったんですか?」とからかうように言いながら、着替えを終えて出ていく小町。
私は、何だか今更になってそんな姿を見られたのが気恥ずかしくなりながら、その後ろ姿を見送るのだった。
―水無月ノ第三日曜日―
紅魔館の図書館に立ち寄り、先週パチュリー・ノーレッジへ説教をするついでに借りていった本を返却すると(そう、借りたものは必ず返す。これは難しいことでも何でもなく、極めて当然の話なのです。どこかの魔法使いさん)私はその足で霧の湖へと向かった。
「チルノ、いますか?」
「あ、えーきだ。やっほー」
湖のほとりで呼びかけてみると、上空から返事と共にチルノが笑顔で降りてくる。
何の約束もしていなかった割にはすぐ会えたことに内心で安堵しつつ、私は持ってきたバスケットをチルノに向けて差し出した。
「こんにちは、チルノ。これは先週私と遊んでくれたお礼に持ってきたお菓子です。妖精の皆さんと分けて食べてください」
「わあ、お菓子!?えーきが作ったの!?」
「ええ。簡単なクッキーですが」
「すごーい!」
キラキラと目を輝かせるチルノ。本当に喜んでくれているようで、私は内心ほっとした。
このお菓子は昨日、アリス・マーガトロイドの家を訪ねて、作り方を教えてもらって作ったものだ。
突然現れた私にアリスはまた説教かと身構えていたようで、私が「お菓子作りを教えてください」と言った時の彼女の驚きようったらなかった。
というか、座っている椅子ごとひっくり返っていた。いくら何でもあんまりな反応だと思う。
「みんなー、お菓子があるよー!」
チルノがこの前と同じように上空で叫ぶと、あっという間にたくさんの妖精たちが集まってくる。その数は、おそらく先週集まった数以上か。きっと皆、甘いものには目がないのだろう。
ふと「みんなー、説教するよー!」と叫んだらどの位の子たちが飛んでくるかな、などと考えたが、おそらくただの一人も出てこないというのがオチだろう。
それで素行の悪い者たちが皆集まってくれるのならば、こちらも苦労しないのだけど。
「クッキーだー!」
「おいしそー!おねえちゃんありがとー!」
「何枚まで食べていいのー?」
がやがやと、バスケットはあっという間に妖精たちの手で取り囲まれてしまう。
そんな様子を見て、私は(念のため多めに焼いてきて正解だった)と、ほっとした。
もし一人でも行き渡らない子が出たら、大変な騒ぎになってしまっただろう。
「そうですね。この数ですと一人二枚くらいまでは、大丈夫だと思いますよ」
私が答えると「はーい!」という妖精の返事を合図に「いただきまーす!」の大合唱が響く。
妖精というと、私は、もっとわがままだったり気まぐれだったりする印象を持っていた。
だが、こうしてみると、皆子供っぽいけれど良い子達ばかりで、どうやらこちらの誤解だったようだ。
閻魔らしからぬ偏見でものを見ていたということで、これは反省しなければなるまい。
(私もまだまだですね)
そんなことを思いつつ、私はしばらくの間、クッキーを美味しそうに頬張る妖精たちの様子を眺めていた。
「そういえば、おねーちゃんだーれー?」
クッキーを食べ終え、幸せそうにしていた一人の妖精が私を指さしながらそう言うと、他の妖精たちもつられたように「だれだろー?」「しらなーい」「この前、鬼ごっこやってくれたよねー?」などと騒ぎ出した。
今更そんな疑問が出てくるあたりは、やっぱり妖精なんだなと内心で苦笑していると、チルノが「えへん」と咳払いをして、私を皆へと紹介する。
「この人はね、しきえーきっていうんだよ。『さいばんちょう』っていう、すごく難しいお仕事をしていて、あたいたちよりも、ずーっと色んなことを知ってるの」
「しきえーきさん?」
「おしごとしてるんだー」
「色んなこと知ってるのー?」
「どんなことー?」
「とにかく、あたいたちの知らないようなこと!」
キラキラと、さっきチルノから向けられたのと同じ種類のまなざしが、いくつも私に向けられてくるのが分かる。
それ自体は嬉しいのだけれど、何だろう。あまり良くない予感が、ヒシヒシとするのは気のせいだろうか。
そんなこととはつゆ知らず、チルノは、私の予感などまるで気付かないように言った。
「良かったら、みんなも自分の知らないこと、聞いてみるといいよ!」
―――ああ、もう駄目だ。そう思った時には、全てが遅かった。
「空って何で青いのー?」
「どうしてお腹が減るの?」
「どこかで聞いたんだけど『うみ』ってなーにー?」
チルノの言葉を皮切りに、私は妖精たちから怒涛の質問攻めにあう。
「空が青いのは、上空で『レイリー散乱』という現象が起こっているからです!お腹が減るのは、生物が活動している中で常にエネルギーを消耗しているからで、海というのは『れいりーさんらんってなーにー?』
ああ、もう!」
一つ答えては、また一つ。妖精たちの言葉は次々と、まるでこちらめがけて一斉掃射される弾幕のように飛んでくる。
しかも、避けるどころか、全部真正面から受け止めなければならないから、尚のことタチが悪い。
結局、まだ高かった太陽が西日に変わって沈みかけるまで、私はそれに答え続けなければならなかった。
「あ、もうこんなじかんだ」
「おねえちゃん、色々おしえてくれてありがとう!」
「私もかえらなきゃ。おねえちゃん、ありがとー。じゃーねー」
手を振りながら元気に飛び去っていく妖精たちを見送ると、私は先週と同じように、その場へばたりと大の字になって倒れこんだ。
「えっと……大丈夫ですか?映姫さん」
「ご、ごめんねえーき。あたい、みんながあんなに色々聞きたがるなんて思ってなくて」
申し訳なさそうに私の顔を覗きこんでくるのは、チルノと、先週瞬間移動で私を苦しめてくれた妖精の2人。
私は、倒れ込んだまま顔だけチルノの方を向くと、ヒューヒューと息を切らせながら呟いた。
「……チルノ。貴女の言動は、少し軽はずみすぎる。私だって何でも知っているわけではありませんし、普段説いているのはあくまで生き方の姿勢についてで、理科や生物学ではないんです」
そう。私は閻魔であって、学校の先生ではないのだ。
門外漢の分野について、いきなり分かりやすく解説してくれと言われても無理がある。
まあ、少なくともこの子たちよりは長く生きているから、それなりに色々なことを知っているつもりではいるけれど。
だからと言って、妖精たちの質問に答えるなら答えるで、少し準備をさせてほしいものだ。
(まったく。この後の予定が台無しですね)と、心中で思う。本当は、妖精たちにクッキーだけ渡したら、すぐにでもここを離れるつもりでいたというのに。
ただ、今日の出来事が、私にとって全く時間の無駄であったかといえば、そんなことはない。おかげで、いくつか気付くことのできた点があるからだ。
一つ。妖精は、意外と知識欲が旺盛である。知識を得ようとするのは良いことだ。誰かが彼女たちの手助けをしなければならない。
一つ。私が定期的に来て指南役を務めても良いが、相手がこの人数ではとても手が回りそうもない。助っ人として、このすぐ近くに住んでいる知識の魔女でも連れてくるという手もあるが、おそらくは色々教えている途中で、むきゅーと倒れてしまうだろう。
一つ。言動を見るに、今私の目の前にいる二人は、妖精たちの中でもだいぶ頭の回る方の子たちである。
「ふむ」と私は一人ごち、起き上がると、まだ申し訳なさそうにしているチルノの頭をそっと撫でた。
「もう良いですよ、チルノ。それに、ええと」
「あ、私の事は大妖精と呼んでください」
「大妖精ね。以後よろしく」
「はい。チルノちゃんともども、よろしくお願いします」
私が言うと、大妖精はペコリと頭を下げる。
どうやらこの子は、チルノ以上にしっかりとしているようだ。
そういえば、先週チルノが言っていた『親友の大ちゃん』とは、この子のことかもしれない。
もしそうならばますます好都合だと思いつつ、私は二人に向けて問いかける。
「チルノ、大妖精。突然ですが、貴女方、寺子屋へ通ってみる気はありませんか?」
「寺小屋(ですか)?」
私が言うと、チルノも大妖精も、不思議そうな表情を浮かべてみせる。
「そうです。拝見するに、今日色々話していて、私の話を一番理解していたのは、貴女方二人でした。閻魔の身で言うのも何ですが、寺子屋の授業は、私の話をただ聞くだけよりも、もっとためになるものです。
上白沢慧音には、私から話を通しておこうと思いますし、いかがですか?」
「でも、今まで寺子屋に通うなんて、考えたこともなかったです」
「いきなり言われても、困っちゃうね。それに、あたいが居ると、それだけで周りは冷えてきちゃうんだよ?大丈夫かな?」
そう言って、突然の話に不安そうな表情を見せる二人。それも、無理のないことだろう。私自身、妖精が寺子屋へ通うなんて話は、聞いたことがない。
私は、そんな二人を諭すように続ける。
「ですから、とりあえず二人とも、夏の間だけ通ってみれば良いでしょう。あともう一つ。以前のチルノでしたら、周りのものを無闇に凍らせてしまう悪癖がありましたが、今はそんなことないでしょう?」
「うん!えーきに言われて、あたいもすっごく考えて、やっぱり遊びでそういうことをするのって良くないなって思ったから。もう、カエルだって凍らせてないもん」
「だったら、心配するようなことは何もないですよ。寺子屋に通えば授業で学ぶことばかりでなく、人間のお友達もできると思いますし、どうですか?」
「うーん……」
「どうしよっか、大ちゃん」
まだ迷っている様子の二人に、私はさっきから温めていた、とっておきの殺し文句を繰り出した。
「今よりも、もっとさいきょーなお姉さんになれますよ?」
「さいきょーなお姉さん?」
「ええ、貴女方は元々、妖精としては強すぎるほどの力を持っている。
そこに頭脳が加われば、妖精たちは、いえ、妖精たちだけでなく、人間の子供たちだって、知恵も力も持ち合わせた貴女方を、とても頼りにすることでしょう。悪い話ではないと思いませんか?」
私がそう言うと、チルノは目を輝かせて「行く!」と言ってきた。つられるようにして、大妖精も「チルノちゃんがそう言うなら」と頷く。
内心で、ニヤリと笑みを浮かべる。
我ながらここまでうまくいくとは思っていなかったが、全て計画通りである。
実際、勉学は人間以外の者にとっても、重要なものだ。
例え力の強い妖怪であっても、頭の方が足りなかったばかりに身を滅ぼした話などは、枚挙に暇がない。
妖精の中でも特に力の強いチルノと、しっかりとした性格の大妖精が、勉学を学ぶことでより賢くなってくれたなら。きっと、妖精たちの良きリーダーとなって動いてくれるだろう。
その中で、二人が他の妖精たちにも色々なことを教え、成長させていってくれたなら万々歳だ。
「それでは、私は早速、上白沢慧音の所に行ってこようと思います」
「うん!ありがとう、えーき!またね!」
「本当にありがとうございます、映姫さん。暗くなりかかっていますし、気を付けてくださいね」
ふわりと空に浮かびながら振り返ると、チルノは笑みを浮かべながら大きく手を振っていて、大妖精は丁寧に頭を下げたまま私の事を見送っていた。
随分対照的な二人だなあ、と私は思う。あれで普段は良い親友関係を築けているというのだから、不思議なものだ。友達というのは、案外そういうものなのかもしれないけれど。
(大妖精は、本当に良い子ですね。チルノも、ちょっとおてんばが過ぎるけど、根はとっても良い子。……あれ?あの二人って、実はやっぱりそっくりだったりするんでしょうか?)
どうなのだろうか。二人とも、良い子に違いはないのだけれど。
私は、二人が豆粒のように小さく見える程上空に浮かぶまで、彼女たちを見つめ続けながら、そんなことを考えていた。
チルノたちが寺子屋へと通う話は、とんとん拍子に進んでいった。
上白沢慧音も時折湖でチルノたちと会っているらしく、最近の彼女が以前よりも理性的になっているのは知っていたし、夏の暑さ対策も兼ねて是非お願いしたいとのことだった。
また、念のために、幻想郷の管理者である八雲紫にもこの事を伝えたが、面白そうに笑うだけで、特に問題がある訳でもなさそうだった。
人里の中には幻想郷縁起を読んでおり、チルノが寺子屋へ来て大丈夫かと心配をする者もあったが、最終的には慧音の人望と「あの閻魔様や賢者様のお墨付きだから」という事で納得されたらしい。
「あの」がどういう意味かは気になる所だが、結果的にはうまくいったのだから良いだろう。
七月一日から、八月の夏休みが始まるまでの一ヶ月。
あくまで試験的にという形ではあるが、無事にチルノと大妖精は、寺子屋へと通えることになった。
―水無月ノ第四日曜日―
昨日の土曜日は、チルノと大妖精へ、寺子屋で使う道具の一式(鞄や教科書など)を渡しに行った。
上白沢慧音が『自分が渡しに行く』と言っていたのだが、彼女だって忙しい身だし、何よりチルノたちが寺子屋に入るというのは、私が決めたようなものである。
ここは私が行くのが筋というものだ。
チルノは「まさか、あたいが寺子屋に行くことになるなんて思わなかったよ」と言いながらも、どこかわくわくとした表情を浮かべていた。
大妖精も、この前と変わらない丁寧な対応をしてくれたけれど「私も、寺子屋へ通えるのが楽しみです」と言うその顔は微笑んでいた。
無理もあるまい。彼女たちにとって、今回の話は、本当に思いもよらなかったことだろうから。
二人の笑顔を見ていると、何だかこちらまで嬉しくなってきてしまい、胸がほっこりと温かくなるのを感じることができた。
そして、今日は久しぶりに幻想郷中を説教しながら巡っている。
何だかんだとしているうちに、二週間も間を空けてしまった。こんなに長い間、どこにも説教へ行かなかったのは久々だ。
全てを公平に見る閻魔として、いい加減妖精たちばかりに構っている訳にもいかないだろう。
(……だというのに、朝から込み上げてくる、この物足りない気持ちは何なのでしょう?)
あちこちでいつもの様に説教していても、胸の内に湧くのは、どこか、一人でいることを寂しいと思う気持ち。
以前までは、今日と同じように一人で行動をしていてもこんな感覚はまるでなかったというのに、一体何がそうさせるのか。いくら考えても分からない。
(まあ、あまり考えすぎない方が良いのかもしれませんね)
それよりも、先週まで説教に行けなかった分を取り戻さなくてはならない。
命蓮寺や魔法の森といった箇所を回り(アリスには、クッキー作りを教えてくれたお礼に、いつもより一時間も多く説教をしてきた。サービスだ)今、私は博麗神社までやってきていた。
「―――ふうん」
この前よりはややマシといった態度で私の話を聞いていた霊夢が、一通り私が話し終えた後に何やら頷いてみせた。
その態度が不躾なものに思えて、若干眉をピクリと動かすも、霊夢はまるで動じた風もない。
ため息をつきたいのを堪えて、私は平静を装いながら、霊夢に尋ねる。
「……何ですか」
「説教の仕方が、以前と違うと思ってね」
「そうですか?そんなつもりもないのですが」
霊夢の言葉に、私は思わず首をかしげた。
彼女には、ほんの数週間前にも説教をしたばかりだ。それで『以前と違う』などと言われても、戸惑ってしまう。
「ううん、大分変わったわよ。閻魔様も、日々話し方の訓練でも積んでるのかしら?偉い偉い」
「……やっぱり、からかってるだけですね」
「もう、一々冗談が通じないわねえ」
プイと私が顔をそむけると、霊夢は呆れた様な声で言った。
そして、そのまま机の上に置いてあったお茶を一口啜ってから「でもね」と続ける。
「変わったっていうのは本当よ」
「どんな風にですか?」
「そうね。一言で言うなら、ものすごく抽象的で分かり辛かった話が、少し具体的になって分かりやすくなったって所かしら」
「私としては、そっちの方が良いと思うわよ」という霊夢の言葉を聞きながら、私はようやく「ああ」と納得した。
先週妖精たちにされた、大質問大会のおかげだ。
何しろ最初の方は勝手が分からなくて、ついつい難しい言葉を使って答えていたものの、妖精たちにとっては、ただでさえ知らないものをそんな言葉で説明されても理解できるわけがない。
だからこそ『妖精でも分かる言葉』を選びつつ、物事を説明するという技量を、あの数時間で手に入れざるを得なかったのだ。
おそらく、今日の私はその影響もあって、無意識に『相手へきちんと伝わる言葉』で話そうとしていた、ということなのだろう。
勿論、普段からそんなことは当たり前に心がけているつもりだったが、言われてみれば私の言葉は人にきちんと通じていなかったのかもしれない。今も霊夢から『ものすごく抽象的で分かり辛い』と言われてしまった程だ。
同じ説教をするのなら、伝わらないよりは伝わる方が良いに決まっている。私は『これは忘れないようにしなければ』と、愛用の閻魔帳に、この事を書き付けていく。
霊夢は、そんな私を眺めながら、のんびりと言った。
「まあ、今日は会った時から、以前と雰囲気が違うなと思ってたんだけどね」
「そうなんですか?」
「うん。何というか、前よりも丸くなったわね、あんた」
「失礼な。体調管理は普段からきちんとしています。一キロたりとも太ってなんていませんよ!」
「……そういう意味じゃないんだけど」
「そういえば、あんた最近チルノやら大妖精と仲良くしてて、一緒にいることが多いらしいじゃない。その影響かもね」
ポツリと呟かれた霊夢の言葉は、メモを取るのに必死になっていた私の耳には、もう届いていなかった。
―文月ノ第一日曜日―
七月に入り、いよいよ幻想郷も夏めいた、晴天の日が続いていた。
気温は日を追う毎に上がっていき、日中の日差しもきつくなっている。
「今日はまた、一段と暑いですね……」
思わずそんな独り言を洩らしつつ、私は時折ハンカチで汗をぬぐいながら、霧の湖に向かって飛んでいた。
「おーい、えーきー」
「映姫さん、こんにちは。わざわざ来ていただいて、ありがとうございます」
「チルノ、大妖精。こんにちは。待たせてしまいましたか?」
「ううん、あたいたちも今来た所だよ」
そう言って、チルノは笑顔を見せる。
その様子を見て、私はとりあえず一安心した。
今日彼女たちと会うのは、先週二人に会った時から決めていた約束である。
何しろ、二人が寺子屋に通い始めて丁度一週間が経ち、この先も寺子屋へ通えるかを見極めるのに、大事な時だからだ。
それに、妖精が寺子屋へ通うなんて、幻想郷史でも初の出来事だし、私もその発案者として、常に様子を見ておく必要があるだろう。
「今日はまた、一際暑さがこたえますね。私もここに来るまでに、すっかり汗をかいてしまいました」
「いよいよ、夏が来たって感じがするもんね。あたいは暑いの苦手だから、嬉しくないなあ」
「私もです」
「ふふっ。まあ、夏は夏にしか楽しめないことも多いですし、そういうことを探すのも良いんじゃないでしょうか。それで、早速なんですが、寺子屋はどうですか?」
「あ、その話なんだけどね」
私が本題を切り出すと、軽くさえぎるようにして、チルノが口をはさんでくる。
「ここで話してもいいんだけどさ。良かったら、別の所へ行かない?」
「私もさっき、チルノちゃんとそのことで話していたんです」
「別の所?良いですけど、何処にですか?」
「人里の甘味屋さん。この前、迷惑をかけちゃったお詫びもしたいし」
そう言って、チルノはペコリと頭を下げた。
そんな彼女を見るのは初めてのことで、私はどう返事をしたものやら、戸惑ってしまう。
「まだ気にしていたんですか?半月近くも前のことなのに」
「でも、迷惑かけちゃったのは本当のことだしさ」
「とはいっても、貴女たち、そんなにお金も持っていないでしょう。大丈夫ですか?」
「それは大丈夫!任せて!」
何故か胸を張り、チルノはそう宣言してみせる。大妖精は、そんなチルノを見ながら、ただニコニコと微笑んでいた。
こうして、私一人だけ訳が分からないまま、私たちは連れだって、人里の甘味処へと場所を移すのだった。
「―――あらためて伺いますが、寺子屋はどうですか?二人とも、うまく馴染めていますか?」
「うん、楽しいよ!もう友達もできたし!」
「はい。皆さん良い方ですし、授業もとても面白いです」
かき氷を食べながら、私たちはそんな会話をする。
ちなみに、チルノはいちごミルク、大妖精はメロン、私は宇治金時を、それぞれに注文していた。
小さなお店だが、味は決して悪くない。今日のような、初夏の晴れ渡った日に食べるのにはぴったりの、爽やかな甘味を私たちはしばし堪能した。
「そうですか。それを聞いて、まずはほっとしました。それで、普段はどんな授業を受けているのですか?」
「あたいは、人間の一番ちっちゃい子たちと一緒に、ひらがなとカタカナを習う所からやってるよ」
「私は、一応それはできるので、もうちょっと上の年の子達と一緒に、漢字やそろばん、歴史について学んでいます」
「大ちゃんはすごいよねー」と言いながら、いちごミルクをぱくつくチルノ。
だが、チルノだって十分にすごいと私は思う。
普通の妖精ならば、知識欲があっても集中力はあまりないから、授業の間中ずっと静かに座っているということがそもそも難しいはずだ。
しかし、この二人に関しては、それよりも学ぶ喜びの方が大きいらしい。それぞれ交友関係もきちんと築けているようだし、通い始めて最初の週としては、これ以上ない出足だろう。
(この様子なら、今後も特に心配はなさそうですね)
正直な所、不安もかなり大きかったので、目の前で楽しそうに語る二人を見て、私はほっと胸を撫で下ろした。
それと同時に、ちょうど目の前の容器も空になる。私は、二人の容器も空になっていることを確認すると、ガタリと椅子を引いて立ち上がった。
「二人とも、寺子屋を気に入ってくれているようで安心しました。さて、食べ終えましたし、そろそろ出ましょうか」
「そうだね、もう出よっか。おばちゃん、ごちそう様ー!今日も美味しかったー!」
「ごちそう様でした。また今度、チルノちゃんと来ますね」
言いつつ、チルノと大妖精は、そうするのが当たり前と言わんばかりのごく自然な動作で店の外へ出ようとする。
財布も出さず、会計の前も素通りしてだ。
「ちょ、ちょっと!」
一体何をしているのかと、私は慌てて二人を引き留めた。
「待ちなさい!二人とも!」
「? どうしたの、えーき。そんなに慌てて」
「どうしたのじゃないですよ!お支払いはどうするんですか!?」
「あたい、お金持ってない」
「私もです」
「ええ!?」
二人の言葉に、私は思わず衝撃を受ける。だって、さっきはお詫びがしたいと言っていたのに、話が違うではないか。
(まあ、何となく、店に入る前からこんな予感はしていましたが、やっぱりですか―――)
そう思い、仕方なく私が懐から財布を取り出すと、お店の女将さんらしき人が、笑いながら姿を見せる。
「ああ、いいんですよお金なんて。チルノちゃんには、いっつもお世話になってるからね」
「……え?」
「あれ?あたい、話してなかったっけ?」
「みたいだね。ダメだよ。映姫さん、ビックリしちゃってたでしょ」
「一体、どういうことですか?」
怪訝な顔で私が聞くと、大妖精はこちらへ向き直って言った。
「ええとですね、チルノちゃんと私で、去年から、人里の方たちに氷を配っているんですよ」
大妖精と女将さんの説明してくれた所によると、二人は、去年あたりから人里を回り、無償で氷を配給しているらしい。
さすがにチルノは氷精だけあって氷なんていくらでも作れるし、その氷は溶けにくく、特に鮮魚や精肉を扱っているような店では大変に重宝しているということだ。
「ということは、今日私たちが食べたものも」
「うん!あたいの作った氷を使ったやつだよ」
「今朝も持ってきたもんね!」とチルノが言うと、女将さんは「そうね。ありがとう」と微笑みかけた。
「でも、無償で氷を配るなんて。チルノは、何でまたそんなことを?」
そう尋ねると、チルノは少し恥ずかしそうに、鼻の頭をポリポリと掻きながら言った。
「あのね、あたいたちは妖精だから、いたずらが大好きでしょ?でも、あんまりいたずらしてばっかりだと、流石に里の人たちにも悪いかなって思うようになって。
だから、あたいがこうやって氷をあげれば、少しはみんな、妖精の事を許してくれるようになるかなって。一人だと回りきれないから、大ちゃんにも協力してもらってるけど」
「チルノちゃん、初めてここへ来たとき、こう言ったんですよ。『今までいっぱい悪戯したお詫びに、あたいが好きなだけ氷をあげます。だから、これからもあたいの仲間たちが悪戯するかもしれないけど、許してあげてね』って。
そんな風に言われたら、怒れませんよ。それに、今はこうして、一杯活躍してもらっていますし」
女将さんの目線を追って台所を見てみれば、沢山の野菜が、チルノの氷を使って冷やしてあるのが見えた。
「夏場は特に食べ物が傷みやすいですから。チルノちゃんが来てくれるようになって、うちも本当、食べ物の管理が楽になったんですよ」
そう言って、女将さんは笑って見せる。
チルノは、そんな言葉を聞いて、照れくさそうにはにかんでいた。
「あのさ、えーき。このことは、私と大ちゃんとえーきだけの秘密だからね。他の妖精たちに言わないでね」
「え?何故ですか?」
「だって、おばちゃんの前でこういうことを言うのも悪いけど、あたいも妖精だから、人をびっくりさせたりするのがすごく楽しいのは知ってるんだ。
でも、あたいがみんなに隠れてこういうことしてるって知ったら、みんな、今みたいに楽しくいたずらできなくなっちゃうでしょ?だから」
「チルノ……」
思いがけない彼女の言葉に、私は言葉を詰まらせる。
一見すると能天気で、いつも仲間たちとはしゃいで笑っているイメージしかなかったチルノが、実はこんなに色々なことを考えていたなんて。
「……チルノ。私は、生まれてから一度も悪戯なんてしたことがないので、その楽しさは分かりません。人を無闇に驚かせるのも、良くないことだと考えています。
本当は妖精たちを集めて説教して、これから先、もうそういうことはしないと誓ってもらえるのが、一番良いと思っています」
「……」
私が敢えて厳しい言葉をかけると、チルノは目に見えて落ち込んで、シュンとした顔になる。
そんな彼女に構わず、私は続けて
「……ですが、貴女のその仲間を思いやる気持ちは大変に素晴らしいものです。私は、貴女の優しさに免じて、今回の話を胸にしまっておこうと思います。……チルノこそ、こんな話は、小町には秘密ですよ?」
「!」
人差し指を唇に当てながらそう言うと、チルノは途端にパアッと顔を明るくした。
「えーき!ありがとっ!」
「わわっ!いきなり抱き着かないでくださいっ」
「えーきー♪」
私が言っても、チルノは満面の笑みを浮かべながら、しばらくの間ずっと私に抱き着いていた。
そして、抱き着かれた驚きと恥ずかしさから私がワタワタとする一方、女将さんと大妖精は、そんな私たちの様子を微笑みながら眺めていた。
チルノたちと別れてからしばらく経っても、彼女の温かさは体に残っていた。
氷の妖精で、周囲を冷やす力を持っているのに、抱きつかれれば温かいなんていうのもおかしな話なのだけど。
でも、彼女の温もりを思い出すだけで、心までも暖かくなるような気がする。
(本当に楽しかったですね)
甘味屋さんで美味しいものを食べて、たくさんお喋りをして。
以前チルノの言っていた言葉が身に沁みる。時には、こうやってのんびりとすることも大事なのだ。
(それにしてもチルノったら、嬉しいことを言ってくれるんですから)
今日、別れる直前に、チルノがそっと耳打ちしてくれたことがある。
「あのね、えーき。あたいが里の人たちに氷を配ったりとか、色んなことを考えるようになったのって、えーきのおかげなんだよ。
えーきが、ずっと前、初めて会った時に『貴女は少し迷惑をかけすぎる』なんて言ってくれたから。だからあたい、自分なりに頑張って、色々やってみたんだよ」
それを聞いた私は、あまりの嬉しさに、思わず涙が出そうになった。
(また近いうちに、会いに行きましょう)
次に会ったら、何をしよう?どんなことを話そう?
そんなことを思うだけで、楽しみな気持ちが抑えらえれなくなりそうで。
本音を言えば、毎日だって彼女に会いたい。もちろん、そんなことはできないと、分かってはいるけれど。
「……チルノ」
ここにはいない、彼女の名を呼びかけながら、家路へと着く。
オレンジ色に輝く夕日が、やけに眩しかった。
その晩、私は夢を見た。
晴れた日の空のように青いワンピースを着た少女と、朝から幻想郷のそこかしこを飛び回る夢。
少女の顔は何故か見えないが、その声は、どこかで聞き覚えのあるものだった。
彼女は、どこへ行っても、楽しそうに笑い声を上げていた。
彼女が笑うと私も嬉しくなって、二人で一緒に笑いあった。
やがて、一日が終わり、夕焼けが沈むころになると、少女は「もう帰らなきゃ」と言いだした。
その言葉にハッとする私をよそに、「バイバイ」と言って、彼女はふわりと飛び立とうとする。
そんな彼女の腕を、思わず、私は掴んでいた。
「ねえ、まだいいでしょ。もっと、二人で色んな所へ行ってみましょうよ」
私が言うと、少女は寂しそうな、悲しそうな、声で言った。
「ダメだよ、えーき。今日はもう時間切れ。また今度ね。ほら、えーきだって早く行かなきゃ」
「待ってください!待って……」
気が付けば、少女の腕を掴んでいたはずの私の右手には目覚まし時計が握られており、時計の針は、始業の三十分前を指していた。
いつもなら、執務室でコーヒーでも淹れながら、一日分の仕事の資料に目を通しているような時間だ。
「……うああ!ち、遅刻です!」
朝食を食べるどころか、ろくに身支度を整えることすらできずに、私は大急ぎで家を飛び出す。
始業十分前。もうそろそろと自分の持ち場へと向かっていたであろう小町は、まだ仕事着ですらない私とすれ違い、まるで何か信じられないものでも見たかのような顔をしていた。
……結局、閻魔の名に懸けて、この日私は遅刻することなく、始業時間きっちりに仕事を始めることができた。
―文月ノ第二日曜日―
前日、チルノ率いる妖精たちと大かくれんぼ大会を決行したり(全員見つけるのに五時間を要した)チルノと大妖精から寺子屋での出来事を聞いたりして過ごした私は、今日はお昼までのんびりとした時間を過ごし、それから地霊殿を訪れていた。
半分は、部下としての古明地さとりと仕事についての打ち合わせを行うため。もう半分は、友人としての古明地さとりと親交を深めるためである。
仕事の打ち合わせは毎月行っているが、一人の友人として彼女に会うのは実に久々だ。
いつもなら、その打ち合わせが終わって早々に引き揚げ、各地を説教して回るのだが、今日はあらかじめゆっくりしていく旨をさとりに伝えてある(と言っても、胸の中で「今日はゆっくりしていきますから」と思っただけだが)
そのためか、打ち合わせそのものも、どこかいつもより和やかな雰囲気で進んでいった。
「……と、上半期の報告は、こんな所でしょうか」
「ご苦労様。貴女も、貴女のペットの子たちも良く働いてもらっていますね」
「ええ。自慢の家族ですから」
さとりは淡々と答えると「さて、お仕事の話はここまでにしませんか?」と問いかけてくる。
時計を見れば、キリよく午後三時。たしかに、タイミングとしては丁度良い。
私が「そうしましょうか」と頷くと、さとりはお燐を呼び、書類を片付けるのと、コーヒーを二杯淹れてくるように申し付けた。
「はいはーい!」と返事も良く、書類を持って部屋を飛び出していくお燐。ちなみに、私が今日ここへやってきたとき、その書類を準備してくれたのも彼女だ。
そんな彼女の姿を見て、私は思わず『小町もあれくらい良く働いてくれたら』なんてことを考えてしまった。
その後、すぐに運ばれてきたアイスコーヒーを飲みながら、私とさとりはとりとめもないことを話した。
お互いの近況や、さとりの家族の話。人里で起きている出来事。
「こいしは、相変わらず放浪しているんですか?」
「そうなんですよ。まったく、いつもどこをほっつき歩いているんでしょうか」
「昨日、妖精たちのかくれんぼに、いつの間にやら勝手に混ざってましたが」
「……何やってるんだか」
「自称『マスター・オブ・かくれんぼ』だそうです」
「そういえば、地底では『最近閻魔様が説教に来る回数が減った』ともっぱらの噂なんですが。サボってるんですか?」
「い、いえ別に!そういう訳ではないですよ!?」
「でも、昨日も遊んでたんですよね?」
「たまたまです!たまたま!」
他にも色々なことを話すうち、さとりはふと思い出したかのように、こんなことを尋ねてきた。
「それで、どうなんですかチルノさんとは。上手くいきそうなんですか?」
「ええ。最初はどうなることか率直に言って心配しましたけど、あの子も上手く寺子屋でやっていけそうです」
「そうじゃなくて、貴女がですよ」
「私?何のことです?」
またまた、といった様子でさとりは言った。
「好きなんでしょう?チルノさんの事」
「……ブフッ!」
一体、何を言いだすのかと思えば。
突然のさとりの台詞に、思わず私はゲホゲホと咳き込んでしまう。
そんな私の様子を見ながら、さとりはニヤニヤとした笑みを浮かべていた。
「な、何を言うんですか、いきなり」
「隠そうとしたって無駄ですよ、映姫。何しろ私はさとりの妖怪ですから」
「いえ、それは分かっていますが……」
隠そうとしていたつもりもないし、そもそもたしかに私はチルノへ好意を抱いているが、そういう意味でではない。
恋愛事などではなく、あくまで、一人の友人としてという話だ。
「ふむ。『一人の友人として』ですか」
「ええ。ですから、変な意味なんてまったくないんですよ」
私が言えば、さとりも負けじと続ける。
「例えお燐やお空のように、心の読めない者が、今日の映姫の相手をしたとしても分かると思いますよ?貴女がどれだけチルノを好きかって」
「……ほう?そう言い切るからには、何か根拠があるんですか?」
さとりの言葉に、私はムッとして言い返す。だって、本当にやましいことなど何一つないというのに、何故こんな言われ方をしなければならないのか。
すると、さとりは「本当に気付いていないんですね」と呆れた様子で言った。
「だって映姫、今日ここへ来た時からチルノのことばっかり話しているんですもの」
「え?そ、そうでしたか?」
「そうですよ。『最近暑いですね』と季節の話を振れば『ええ。チルノがいれば涼しくなるんですけど』と返されましたし『妖怪の皆さんは、少しは真面目に説教を聞くようになりましたか?』と尋ねれば、『全然ですよ。まったく、少しはチルノを見習ってほしいものです』と言っていました。
挙句、さっきだって飲み物に浮かんでいる氷を見ながら『そういえば、チルノは今頃何をしてるんだろう』なんて考えていましたし」
「さ、最後のは、心が読めなきゃ分からないでしょうが!」
「まあ、たしかにそうですけど。でも、とにかく今日の映姫がチルノの事ばかり考えているというのは事実ですよ。そういえば映姫、今日は随分ゆっくりとお見えになりましたね。お昼までは何をされてたんですか?」
「え?えーと、チルノから『たまにはしっかり休め』と言われていたのを思い出しまして、のんびりしてました。丁度日曜でしたし」
「ほら」
「あっ」
慌てて口をふさぐも、もう遅い。それ以前に、そんなことをしても、相手がさとりの時点で無意味だ。
そのことに気づいて、恥ずかしさに赤面しそうになるのをどうにか堪え、私はさとりに反論する。
「で、でもだからって、私がチルノの事を好きだなんて」
「……夢」
「夢?」
「月曜日、危うく遅刻しそうになったんですよね?」
そう言われて、私はハッと思い出す。
たしかにさとりの言う通り、月曜日は遅刻しそうになったし、それは全てあの夢が原因だ。
そして、顔こそ見えなかったけれど、今にして思えばあの少女は―――。
「『まだいいでしょ?もっといろんな所へ行ってみましょうよ』ですか。意外と、可愛い所があるんですね」
「うああ!?人の心を勝手に読まないでください!」
「失礼。さとりですから」
私が怒りをあらわにしても、たいして反省した様子もなく、さとりはコロコロと笑ってみせる。
そこがさとりのさとりたる所以なのはこちらも重々分かっているけれど、それにしても、やっぱり読まれたくない部分は読まれたくないものだ。
「まったく、いくら何でも、そんな恥ずかしい所まで読むなんて」
「しょうがないじゃないですか。見えちゃうんですから」
「しかし、何で貴女が、私が月曜日に遅刻しかけたことを知っているんですか?それに、月曜日の事なんて私も言われるまで忘れていたのに、どうして夢が原因と分かったんです?
いくら何でも、相手の忘れている事まで読めるわけじゃないでしょう?」
私が尋ねると、さとりは何でもないことのように答える。
「ああ、遅刻しかけたのを知ってるのは、小町さんから聞いたんです」
「あの子ですか。まったく、お喋りなんだから……。それで、もう一つの方は?」
「だって、自己管理をしっかりしている貴女の事ですから、体調不良で遅れたとは考え辛いし、まして夜更かしして寝坊なんて絶対にありえない。
だというのに……これも小町さんから聞いた情報ですが……更衣室に飛び込んでいく映姫はいつもより髪もぼさぼさで、どう見ても何かトラブルに巻き込まれたなどの理由ではなく、起き抜けの状態で出勤してきていた。
ということは、何か普段では絶対に見ないような、よっぽど楽しい夢でも見ていた」
「当たりでしょう?」と、さとりはニコッと微笑んでみせた。
正直に言って、文句のつけようもない位大当たりなのだけど、それが何だか面白くなくて、思わず私は話を逸らす。
「むう。それにしても、何で貴女が小町からそんな話を聞いているんですか?普段は、あまり接点もないでしょうに」
「だって、私と小町さんは恋人同士ですから」
「……え?ええっ!?」
「貴女の部下という立場の者同士、愚痴ったり色々しているうちに……って、そんなことよりもです」
「そんなこと!?」
私にとって衝撃の情報を『そんなこと』の一言で片づけると、さとりはズイッとこちらに迫ってくる。
「これで分かったでしょう?ご自分が、どれだけチルノさんの事を想っているか」
「いえ、いくら何でも、一回夢に出たくらいで」
「じゃあ聞きますが、映姫の夢に、私が出てきたことはありますか?」
「いいえ一度も」
「でしょうね。では次。正直に言って、チルノさんとなら、毎日でも会いたいと思いますか?」
「会えるものなら是非」
「ええ、分かってました。それでは最終問題。映姫が以前、私の友人として、最後に地霊殿まで遊びに来たのはいつのことだったでしょうか?」
「さていつでしたか」
「正解。私も覚えていません。仕事の打ち合わせでは毎月顔を合わせていますけど、こんな風に色々と雑談したのは、本当に久々ですよ」
言葉の端にチクリと棘を込めながら、さとりは私にそう言った。
「そんな、友人を平気で何年も放っておける映姫が、チルノさんには毎日でも会いたいと思っている。これは、どう考えても友人としての『好き』とは違うでしょう?」
ニコリと笑い、さとりはそう言ってみせる。
私は、もはや反論も言い訳も出来ずに、頷くことしかできなかった。
「ようやく認めてくれましたね、映姫」
「……自覚はなかったんですよ、本当に」
「じゃあ、これで映姫とチルノさんが恋人になるようなことがあれば、私がキューピッドな訳ですね」
「うるさいです」
面白そうに笑うさとりにツッコミつつ、私は一つため息をついた。
まさか自分がチルノに恋をしているなんて思ってもみなかったが、言われてみれば、なるほど。最近の私の生活はずっとチルノを中心に回っていたし、その中で少しずつ彼女の魅力にハマっていってしまったのかもしれない。
何より、チルノは可愛いし、良い子だし。
それにしても恋。恋か。
最後に恋なんてしたのは、はたしていつのことだっただろうか。甘酸っぱくて淡い、あの気持ち。
……あれ?
「『よく考えたら恋なんて生まれて初めてかも』って、へえ、初恋なんですか。それじゃあ、自分で気付けなくてもしょうがないですね」
「し、仕方がないでしょう!今までずっと、仕事が恋人だったんですから!」
「逆ギレしないでくださいよ」
「逆ギレなんてしてないもん!!」
呆れるさとりに向かって、私は思いっきり怒鳴りつける。
思わず子供じみた口調になってしまった私の咆哮が、地霊殿中に響き渡った。
「私が、チルノの事を好き……」
夕方、地霊殿からの帰り道。ふらふらと飛びながら、考えるのはそのことばかり。
今は、来週の食料の買い出しなどをするため人里へ向かっているのだが、その飛び方はいつもに比べて実におぼつかない。
結局あの後も、さとりから「いつ告白するんですか?」「せっかくの初恋なんですから、実らせられるように頑張ってくださいね」などと散々からかわれてしまい、思考は完全にそちらへ向いてしまっていた。
「告白だなんて、もしそれでうまくいったら、私、チルノと、こ、こ、恋……きゃー!」
空中で一時停止し、一人身悶える。
周囲に誰もいないのは確認しているが、もし誰かいれば、きっと何事が起きたかと思う光景だろう。
一通り悶えてから落ち着きを取り戻すと、私は誰にともなく「こほん」と咳払いを一つして呟く。
「まあ、善は急げとは言いますが、もう少し待ちましょう。チルノに告白するのなら、ちゃんと心の準備をしたいですし」
「あたいがどうかしたの?」
―――瞬間、まるで紅魔館のメイド長がそうしたかのように、時が止まるのを感じた。
その声は、今最も聞きたかったはずのもので、同時に今最も聞きたくなかったはずのもので。
バクバクと鳴り響く心音を聴きながら『ギギギ』と音がしそうな程不自然な動作で振り返れば、思った通り、見慣れた青いワンピースが目に入る。
「チ、チ、チルノ!?」
「あ、やっぱりえーきだ。やっほー」
そこには、屈託のない笑顔を浮かべるチルノの姿があった。
まさかこんなタイミングでチルノと出会ってしまうとは。運がいいのか悪いのか、分からないにも程がある!
「こんな所で会うなんて珍しいね。えーきは買い物?」
「は、はい。食料品をちょっと。そういうチルノは?」
「あたいは今日、寺子屋の子たちと遊んでたんだよ!」
そう言われてよく見れば、チルノの服は所々砂や泥で汚れている。
きっと、以前に言っていた寺子屋の友達と一緒に、一日中外で遊んでいたのだろう。
共に学ぶだけでなく、日曜日にまで遊ぶようになるとは。私が思った以上に、チルノは寺子屋へと馴染んでいるようだ。
……と、それは良いのだけれど。まさかその帰り道で、こうして私と出会ってしまうとは。
「そ、そうですか。楽しそうで何よりです」
「うん!えーきのおかげだよっ。えーきが寺子屋に通えるようにしてくれたから、あの子達と友達になれたんだもん」
「本当にありがとう!」と言って、チルノは本当に嬉しそうな、楽しそうな笑みを浮かべてみせる。
その表情は、自分の気持ちを知ってしまった今となってはあまりにも魅力的で。
私は、さっきまでとは違った意味で、再び心臓がバクバクと鳴るのを感じていた。
「それでね、その子たちと缶けりとか、けん玉とかして遊んでたんだけど、もうそろそろ日が沈んじゃうし、あたいも帰らなきゃって思って。えーきも気を付けてね?」
「え、ええ。ありがとうございます」
「じゃあ、またねっ」
そのまま「バイバイ」と手を振り、チルノはふわりと夕焼け空に向かって飛び立とうとする。
(ああ、行ってしまう)と思った私は、まるで先週見た夢をそのまま再現するかのように、彼女の手を握り締めていた。
「ま、待ってください!」
「? どうしたの、えーき」
「あの……その……」
どうせ出会ってしまったのなら、ここでこのまま、何もせずに別れたくない。せめて、もう少しだけでも一緒にいたい。
そう思って行動してしまったが、いざとなると言葉が全く出てこない。
「チルノ、わ、私、貴女の……」
「あたいの?」
「貴女の…………家に行ってみたいです。来週の日曜日なんて、予定、空いていませんか?」
(ああ、へたれだなあ)と自分でも思いながら私が言うと、チルノは再び、私が驚く程に表情を明るくして見せる。
「空いてる空いてる!えーき、うちに来てくれるの?わぁ!」
「チ、チルノ?」
「あ、ごめんね?何か、えーきがうちに遊びに来てくれると思ったら、すごく嬉しくなっちゃって」
興奮した様子で、頬を紅潮させながらそう言ってくるチルノ。
そんな彼女の言葉には、こちらの方が嬉しくなってしまう。なけなしの勇気を出した甲斐があったというものだ。
「じゃあ、来週の日曜日の朝に、湖に来て!いつもあたいたちが遊んでるところ!」
「わ、分かりました。そこで待ち合わせてから、チルノの家に案内してくれるんですね?」
「うん!時間はどうしよっか?」
「私は、何時でも大丈夫ですよ」
「じゃあ、えーきといっぱい遊びたいから、9時!」
「楽しみにしてるからね!じゃあね!」と言って、チルノは飛び去って行った。
一方の私は、そんな彼女を見ながら思う。その時には、きっと、この気持ちを伝えなければ。
「―――日曜日、私も楽しみにしていますよ。チルノ」
私は、チルノの後ろ姿を見送りながら、ギュッと拳を握りしめた。
―文月ノ第三日曜日―
昨夜は、なかなか寝付けなかった。
何度もカレンダーを見て、今日が約束の日であることを確認したり、どういう言葉でチルノに告白するべきか、何回も考え直したり。
いざ布団に入っても、目を瞑ると脳裏にチルノの笑顔が浮かんできてしまい、ドキドキして、とても寝られたものではなかった。
(恋をするって、こういう事なんですね)
好きな人のことを想うだけで、こんなにも胸が高鳴って、頬が熱くなる。
今までは単なる知識でしかなかった『恋』というものを身をもって感じ、私は自分がどれだけチルノの事を想っているか、あらためて実感していた。
ようやく眠りへ落ちた時には、既に深夜の二時を廻る頃だった。
しかし、習慣というのはたいしたもので、昨夜それだけ遅くなったにも関わらず、今朝もいつも通り六時には目が覚めた。
欠伸をもらしつつ、顔を洗って朝食を食べる。その間もずっと、夕べから続いているドキドキは治まらないままだった。
今まで生きてきて、こんなに緊張した朝はかつてない。閻魔試験の合格発表の日だって、今朝とは全く比べものにならない程だ。
朝食を終えた私は時間をかけて丁寧に歯を磨き、昨日の内に選んでおいた服へと袖を通す。
そのままもう一度洗面所へと足を運ぶと、滅多にしない紅を唇へと引いた。
(化粧なんて、自分の顔だちを嘘で誤魔化すようで、あまり好きではないんだけれど)
とは思いつつも、これから一世一代の告白なのだ。このくらい気合を入れても、バチはあたらないだろう。
外へ出る。
今日も晴天。早朝にもかかわらず、夏の日差しは既にカンカンと幻想郷を照らしていた。
雲一つない空を見て、これはきっと吉兆だなと自分に言い聞かせる。
「行ってきます」
誰にともなく呟くと、私は手にお土産用のバスケットを握り、タンッと地面を蹴って、大空へ向かって飛び出していった。
「おはよー、えーき!」
「おはようございます、チルノ」
約束した時刻より十分ほど早く、私は湖へと到着し、チルノの家へと案内されていた。
その最中も、彼女はうきうきとした様子を隠そうともしない。私は『本当に今日という日を楽しみにしてくれていたんだ』と、嬉しい気持ちになった。
「えーきが来るっていうから、頑張って片付けたんだよ」
そう言って、チルノはエッヘンと胸を張る。言われて部屋を見てみれば、なるほど、綺麗に整頓されていた。
「ありがとうございます。わざわざ、私なんかのために」
「だって、えーきに汚い部屋なんて見せたくなかったんだもん。それに、そういうえーきだってお化粧なんてしてる!あたいに会うから、そんな風にしてくれたの?」
「は、はい。似合いませんか?」
内心ドキドキとしながら私が尋ねると、チルノは微笑みながら「ううん。すっごく、綺麗だよ」と言ってくれた。
その一言だけで、私は天にも昇る心地になる。
「そこ、座ってて!お茶持ってくるから。喉乾いたでしょ?」
私をベッドへと座らせると、チルノは忙しなく台所へ向かって駆けていく。
本当に良い子だなあ……と思うと同時、どこまでもいつも通りなチルノのおかげで、少しリラックスできていることに私は気が付いた。
(とにかく、最善を尽くしましょう。例えそれでどんな結果になっても)
胸の内で決意を固め、私は台所でパタパタと動き回るチルノの背中を眺めるのだった。
それからしばらくの間、私たちは色々とお喋りをしたり、チルノが寺子屋で覚えてきたという遊びをしたりして、楽しい時間を過ごした。
お昼に、私が前日から用意していた特製のお弁当をチルノへと差し出せば、チルノは負けじとおやつの時間に、自家製だというアイスクリームをご馳走してくれる。
(こんな時間がいつまでも続けば良いのに)と思いながらも、そろそろ本題に入らねばと、私は気を引き締めた。
「チルノ」
「どうしたの?えーき。アイスクリーム、美味しくなかった?」
「いえ、アイスはとても美味しかったですよ。そうじゃなくて、実は今日、チルノにどうしても伝えたい、大事な話があるんです」
「話?どんな?」
「……突然ですが、チルノには今、好きな人はいますか?」
この子には、遠回しな言い方は通じない。
そう思い、直球で尋ねると、チルノは目を丸くして驚いた表情になる。
「本当に突然だね」
「ええ。すみません」
「謝ることはないんだけどさ。でも、好きな人かあ。それって、あたいが誰かに恋してるかどうかってことだよね?」
『恋』という単語に思わずドキッとするものの、それを極力悟られないように、私は平静を装って答える。
「ははははい。そそそう、そうです。チルノが、誰かここここ恋をしている人がい、いるのか、どうかを、わ、私は、聞いてい、いるのです」
「えーき、顔がまっ赤だよ。風邪?」
「い、いえ、至って平熱ですし、元気です。それで、ど、どうなんですか?」
「んー……」
ドキドキと心臓を高鳴らせる私の様子など知る由もなく、チルノはしばし逡巡すると、やがてその首を横へと振った。
「いないよ」
「そ、そうですか……」
『何でいきなりそんなことを聞くのか、よく分からないけど』と言いたげな表情で、チルノはそう答える。
私は、チルノが私以外の人を好きだという可能性が消えた嬉しさ半分、自分もそういう対象として見られていないという悲しさ半分で、気の抜けた返事をした。
「珍しいね。えーきがそんな話をしてくるなんて」
「え、ええ。私だって女の子ですから、人並みには、そういう話に興味だってあるんですよ」
「そっかあ」
私の苦しい言い訳に、怪しむでもなく納得した様子のチルノは「じゃあさ」と続けて
「えーきは今、好きな人、いるの?」
「へ!?ななな、何を」
「だって、最初に聞いてきたのはえーきじゃん」
「でも、その様子だと、いるみたいだね。えーきの好きな人って、どんな人なんだろ」と言って、チルノは面白そうに笑ってみせる。
一方の私は、ドキドキがおさまらず、顔が赤くなりそうなのを必死でチルノに見られないようにしていた。
チルノは、そんな私の様子に気づかない様子で続けた。
「あたいはさ、よく考えたら、まだ人に恋ってしたことないかも。恋って、誰かが大好きで、ちゅーしたいと思ったり、いっつも一緒にいて遊びたいって思うようなことなんでしょ?
あたい、大ちゃんもルーミアもリグルもみすちーも寺子屋の友達も、それからもちろんえーきのことも、みんな大好きだけど、そこまで好きな人がいるかどうかは、まだ自分でも分かんないや」
「……そう、なんですか」
「うん。多分、これから先も、あたいに恋なんて関係ないと思うし。で、それがどうかしたの?」
不思議そうな顔で、チルノはそう尋ねてくる。
その瞳からは、彼女が恥ずかしがって、嘘をついているような様子は微塵も見受けられなかった。
(……当たり前ですよね。チルノは、本当に裏表がない、正直な子ですから。そういう所まで含めて、好きになってしまったんですから)
一方の私は、そんなチルノの言葉に、何も言えなくなり、黙りこくってしまった。
人に恋をするという感情が、まだ分からないというチルノ。そして、これから先も、恋なんて自分とは無関係だというチルノ。
だとすれば、今日の私の告白は。
「……」
「えーき?どうしたの?やっぱり具合悪い?」
何も言わず俯く私を見て、チルノはおろおろと心配そうな顔をする。
そんな彼女の様子を見ながら、私は迷っていた。
今なら、まだ引き返せる。
このまま告白してもおそらくうまくはいかないだろうし、それならこの場はどうにか誤魔化して、これからも良い友人として過ごせばいい。
(でも、それでいいのですか?私は―――)
もしチルノにフラれれば、もう一緒にいることだって気まずくなる。私のことを大好きだと言ってくれたのは事実だし、友人だっていいじゃないか。
頭ではそう分かっていても、感情の方が追い付いてこない。
こんなことは生まれて初めてで、だんだんと、何が正解なのかも分からなくなってくる。
(チルノとは、ずっと一緒にいたいけど……それでも私は、自分の気持ちを誤魔化し続けながら、友人としてチルノと一緒にいたいわけじゃない!)
そんな嘘で塗り固めた気持ちのままチルノと友人でいるなんて、私にはとても耐えらないない。
それに、今日は最善を尽くすと自分で決めていたはずだ。ここで逃げて帰って、それが最善だろうか?
(いえ、絶対に違います。それでいいはずがないんです)
私に『頑張れ』と言ってくれたさとりの顔が脳裏に浮かぶ。
ここで逃げたら、彼女の気持ちまで無駄にしてしまう気がする。
(それに、何より私は閻魔だから……曖昧なものは許さない!白黒は、はっきりつける!)
―――覚悟は、できた。
何度か息を大きく吸って、吐いてを繰り返してどうにか落ち着きを取り戻すと、私は意を決してチルノへと告げる。
「ちゅーなら、したいですよ。私は」
「え?」
「チルノとなら、ちゅーしたいって言ったんです!」
「え、えーき?」
突然の私の豹変ぶりに、チルノは戸惑った表情を見せる。
その顔を見て一瞬だけためらったが、一度堰を切った私の言葉はもう止まらなかった。
「私だって、恋なんてしたことなかったです。貴女よりずっと長く生きていますけど、初めての経験だったんです」
「う、うん」
「おまけに、貴女のおかげで友人からはからかわれますし、仕事には遅刻しかけますし!」
「え!?何か知らないけど、それ、あたいのせいなの!?」
「そうですよ!貴女のせいで……貴女が……」
「え、えーき。よく分かんないけど、分かった。えーきって、あたいのこと」
コクリと、私は頷いてみせる。
「そうです。私は、閻魔なのに。全ての者を、公平な目で見なければいけない立場なのに……それでも、貴女は私の中で特別な存在になってしまったんです」
そこまで言ってから顔を上げ、チルノの目を見つめる。
彼女の顔は、ひどく驚いて困惑していて、自分がチルノをこんな風にさせているのだと思うと、何だかとても申し訳なかった。
それでも、ここで止まる訳にはいかない。まだ、一番大事な言葉を、私は言っていない。
「チルノ。私は」
言わなければならない。
もっと一緒に楽しい時間を共有したい。辛いときには支え合いたい。ちゅーだって、何度もしてみたい。
この、私のありったけの想いを伝える上で、一番大事な言葉を。
「好きなんです、チルノ。貴女の事が、誰よりも」
――言った。身体が震え、思わず涙がこぼれそうになりながらも、私は彼女に『好きだ』と告げた。
ついに言ってしまった、と私は思う。これでもう、後戻りは完全にできなくなってしまった。
怖い。チルノの顔を見ることができないで、目をギュッと瞑り、俯く。
私もチルノも黙ってしまい、カチリ、カチリと、時計の音だけが無機質に響いていた。
しばし間を置いた後、おもむろにチルノが口を開く。
「えーき」
私は、掌を固く握りしめた。
「ごめんね」
以上で前編終了です。
別スレ立てようかと思いましたが、このまま後編行かせて頂きます。
チルノ「霧の湖で、恋を歌う」
―――新しい友達ができたと思っていた。一緒に遊んだり、話したり、とても楽しかった。
でも……『友達』として見ていたのは、あたいだけだった?
ねえ、あたいはどうすればいいのかな。
―文月ノ第三月曜日―
窓から差し込む夕日を頬に受けながら、あたいは机に頬杖をついて、ぼうっと過ごしていた。
寺子屋の授業はもう終わり、今教室に居るのはあたいだけ。
けーねには悪いんだけど、今日の授業は半分も耳に入っていない。
大ちゃんにも「チルノちゃん大丈夫?具合悪いの?」と随分心配をかけてしまった。
「大丈夫だよ。でも、今日は少し一人になりたいから」と無理に笑顔を浮かべたら、どうにか納得してくれたみたいだったけど。
―――好きなんです、チルノ。貴女の事が、誰よりも―――
(いきなりそんな事言われても、どうしていいか分かんないよ……)
昨日からずっと、考え続けているのはこの事。
友達になれたと思っていたえーきからの、突然の告白。
えーきは、震えて泣きそうになりながら、あたいに『好きです』と言ってくれた。
恋人になってほしい。こんなことを誰かから言われる日が来るなんて、全然思ってもみなかった。
(……あたいは、どうすればいいんだろ)
考えても考えても答えは浮かばずに、あたいは今日何度目になるか分からないため息をついた。
もちろん、えーきのことはあたいも大好きだ。一緒にいると楽しいし、色んなことを教えてくれるし、かけがえのない人だと思ってる。
でも、その『大好き』という気持ちは……大ちゃんやルーミアと同じように『友達』としてだと思っていたから。
恋についてなんて、考えたこともなかった。自分とは関係ないものだと思っていた。
だから、えーきを大好きだっていうこの気持ちが恋なのかどうか、あたいには全然分からない。
ぐるぐるぐるぐる。
色々なことを考えすぎて目を回しそうになっていると、不意に後ろから、肩をポンッと叩かれた。
「一人で居るなんて珍しいな。どうした?」
「あ、けーね。いたんだ」
「『いたんだ』って、あのなあ。お前たち生徒をここに置いたまま、教師が先に帰れるか?」
振り返ると、そこには、あたいの言葉に少し呆れ顔になったけーねがいた。
その手には、寺子屋中の鍵を一つにまとめた輪っかが握られている。
外を見れば、もう辺りは薄暗い。ついさっきまでは見えていた夕日も、沈みかけていた。
「けーねも、もう帰るの?」
「ああ。それで、もう皆帰っただろうと思って、教室へ鍵をかけに来たんだがな」
「ごめんね、こんな時間まで残ってて。怒ってる?」
「いやいや、別にそんなことはないさ」
けーねは、軽く首を振ってあたいの言葉を否定すると「ま、それはともかくだ」と言いながら、あたいの隣へと座り込む。
そして、その表情を少しだけ真剣なものにしながら、あたいへと訊ねてきた。
「チルノ、本当に何かあったんじゃないか?」
「……何でそう思うの?」
「毎日教え子の様子を眺めていれば、そういうことは嫌でも分かるものさ。悩みがあるなら聞くぞ?」
静かな声で、そう言うけーね。
じっと真剣な瞳で見つめられて、あたいは、けーねにだったら話してもいいかなって思った。
「……ん。ありがと、けーね」
「教室では『先生』だろう?」
「いいじゃん。今はみんなもいないんだし」
「はあ。まったく、困ったやつだな」
けーねはわざとらしくため息をつくと、あたいの頭をポフッと撫でてきた。
それで、あたいは何だか無駄な力が抜けて話しやすくなった気がして、やっぱりけーねってすごいなって思った。
「授業中から、どうも様子がおかしいとは思っていたんだがな。珍しくぼんやりとしていたようだったし。それで、何があった?」
「うん。あのね――」
そこまで言ってから、あたいははたと気がつく。
(あたいが恋の相談なんてしたら、けーねに笑われないかな)
自分で言うのも何だけど、恋愛なんてあたいのガラじゃない。
ただでさえ訳分かんなくなってるのに、今笑われたりしたら、あたいはきっとすっごく凹むと思う。
そんなことを思ってあたいがためらっていると、けーねは何かに気が付いた様子で、微笑みを浮かべながら言った。
「大丈夫だよ、どんな相談でも絶対笑ったりしないから。
昔は『何となく尻にビー玉を詰めたら抜けなくなった』なんて半べそをかきながら相談してきた子だっているんだぞ?もちろん、すぐに医者へ連れて行ったがな」
……あたいは、やっぱりけーねってすごいなって思った。
「……そうか。告白されたのか」
「うん。誰から、って所までは言いたくないんだけど……ごめんね?」
「何、構わないさ」
「むしろ、そこをきちんと尊重できるのは偉いぞ?相手の気持ちをきちんと考えていないとできないことだからな」と言って、けーねはあたいの頭を優しくなでる。
その手はすごく温かくて、あたいは何だかそれだけで、とても安心することができた。
「それで、あたいはどうしていいか分かんなくなっちゃって。『ごめんね、少し考えさせて。せめて一週間くらい』って言ったら、その人は『そうですか。それでは来週の朝、また来ますから』って、逃げるみたいにして行っちゃって」
「なるほどな。返事を来週に保留したのはいいが、どう答えるべきかが分からない」
「うん」
あたいが頷くと、けーねは「うーん」と腕組みをして考え込む。
「チルノとその人というのは、どういう関係なんだ?」
「友達だよ。最近一緒に遊んだり、話したりすることが多くなって」
「という事は、チルノの方もその人に対して、少なからず好意を持っているわけだ」
「うん、大好き。すごく尊敬もしてるし、一緒にいると楽しいし。だけど」
「その『大好き』が、恋愛的なものかどうか分からないという訳だな」
「うんうん」とけーねは納得したように頷いてみせる。
それから、けーねはまた、あたいの頭をポフッと撫でると言った。
「たしかに難しい問題だが、一つ助言をしよう」
「助言?」
「ああ。上手くいけば、チルノが今その人に抱いている感情の正体が、つかめるかもしれない」
「本当?どうするの?」
「まあ、そう慌てるな」
今、あたいがえーきに抱いている気持ちの正体さえ分かれば、えーきにどう返事をすれば良いのか分かるかもしれない。
そう思って、勢い込んでけーねに迫ると、けーねはそんなあたいを「どうどう」と落ち着かせてから続ける。
「まず、その人と初めて出会った時から今までの出来事を、思い出せるだけ思い出してみるんだ」
「え?そんなことでいいの?」
「大事なことだぞ。騙されたと思ってやってごらん」
本当に、それであたいがえーきに抱いている気持ちの正体が分かるのだろうか。
そんなことを思いながらも、あたいはけーねの言葉を信じて、目を瞑って一つ一つ思い出していく。
えーきと出会ってから、これまでの事を。
~~~~~~~~~~
初めてえーきに会ったのは、幻想郷一面がお花畑になったみたいに、たくさんの花が咲いたときの事だった。
会ったばかりのあたいに長々とお説教をしてくるものだから、最初は正直な所むかつくやつだとしか思わなかった。
後から知ったことだけど、みんなもあまりえーきのお説教は好きじゃなかったみたい。そうだよね。誰だって、むやみにお説教されたりするのはいやだもん。
でも、思えば、えーきはあたいの事をきちんと『叱ってくれた』初めての人だった。
あたいは妖精だから、今まで色んな人たちに悪戯して、何度も『怒られた』ことはある。
けれど、それは、悪戯された人たちがそのことに対して怒っているだけで、あたいの事を考えてくれてたわけじゃなかった。
そんなあたいのことを、えーきは叱ってくれた。
あたいの目をまっすぐに見て、このままじゃいけないんだよってことを伝えるために、厳しい言葉をかけてくれた。
嬉しかった。
もちろんえーきは閻魔様だから、みんなにそうしてるんだって知ってるけど。それでも。
妖怪からも、れーむやまりさみたいな強い人間からも馬鹿にされるあたいに、同じ視線で真っ向からぶつかってくれて、嬉しかった。
それからしばらくして、久しぶりに会ったえーきが元気をなくしてるのを見て、何とかしてあげなきゃって思った。
一緒に鬼ごっこをしたら、すごく疲れてたみたいだけど、最後には笑ってくれた。
甘味屋さんに連れて行ってあげた時は、あたいがみんなに氷をあげてるって話に、とてもびっくりしていた。
えーきのそんな顔を見るのは初めてだったけど、何だか可愛かった。
えーきのおかげで、こうして寺子屋へも通えるようになった。
だから、今まではあまり一緒に遊べなかった、人間の子とだって遊べるようになった。
友達がいっぱい増えて、嬉しかった。
本当に、何度お礼を言っても足りない位、えーきには、ありがとうの気持ちでいっぱいだ。
~~~~~~~~~~
ふと、えーきの笑顔が頭に浮かんだ。えーきは普段真面目な顔をしていることが多いから、あまり見られない表情だけど、とっても可愛いからもっと見せてもらいたい。
一通りえーきとの思い出を振り返ったあと、あたいの心に残ったのは、そんな思いだった。
「……うん、思い出してみたよ。その人とのこと、いっぱい」
あたいが言うと、けーねは真面目な顔で訊ねてくる。
「本当に、もうこれ以上は思い出せないというほど、その人との記憶を辿ってみたか?」
「うん」
「ふむ。それで、どんなことを感じた?」
「やっぱり、あたいにとって、その人は特別な人なんだってことと……もっと笑っていてほしいってこと。大好きな人には、笑っててほしいの」
「そうか。そこまで相手の事を思いやれるとは、チルノは偉いな」
そう言ってあたいの頭を撫でながら、けーねは「では」と言って、とんでもない言葉を続けた。
「次に、その人が、自分以外の誰か別の人……まあ、例えば私だとしよう……と、口付けをしている姿を思い浮かべてみる」
「ええ!?く、口付け?」
「うむ。平たく言えば、キスのことだな」
あくまでも落ち着いた声でそう言うけーね。
一方のあたいは、けーねのそんな言葉に驚いて、目を白黒させてしまう。
「え、え?誰かと誰かがキスするなんて、あたい、そんなの考えたこともないんだけど」
「いいからいいから。ほら、早く」
「う、うん……」
けーねに急かされて、あたいはさっきと同じように目を瞑った。
でも、そうは言っても、急にけーねとえーきのキスしている所なんて想像することが出来なくて、困ってしまう。
(けーねってば、なんで急にそんなことを言うんだろう……あ、そういえばこの前、図書館で読んだまんがに、デートのシーンがあったっけ)
紅魔館へ遊びに行ったとき見た、何故か図書館の本棚の裏へ隠すように置かれていた、とっても甘い少女まんが。
(へえ、パチュリーってこういうのも読むんだ)と思いながら読んだのを憶えている。
あたいは、そのまんがのキャラをえーきとけーねに置き換えて想像してみた。
えーきと、けーねが、キスしている場面を。
~~~~~~~~~~
舞台は人里。周りに人はいるんだけど、二人は完全に自分たちだけの世界に入っちゃってる。
けーねとえーきは仲良くデートの真っ最中。えーきはお洒落な格好をして、あたいにも滅多に見せてくれないような満面の笑みを浮かべている。
二人はとっても楽しそうに色々なことを話してるんだけど、だんだんと周りの人気がなくなってくると、会話も減って、その代わりにえーきの表情がとってもうっとりしたものになって。
そんなえーきに向かって、けーねは優しく囁いて。
「愛していますよ、映姫」
「ええ、私も……」
そう言って、けーねの唇は、吸い寄せられるようにえーきの唇に重なって……。
~~~~~~~~~~
「……やぁ!!」
「おっと!……危ないな。こんな所で暴れちゃいかんだろう」
ハッと気づいたときには、私の腕はけーねにがっちりと握られていた。
自分でも気が付かない内に、暴れだしそうになっていたらしい。
何だか分からないけれど、あたいはハアハアと息が切れて、喉まで渇いてしまっていた。
けーねは、そんなあたいが落ち着くのを待ってくれてから、訊ねてきた。
「どうだった?その人と私がキスをしている姿を想像してみた感想は?」
「何か……うまく言えないんだけどね、すごくいやな気分になった」
「いやな気分というのは、どんな気分だ?なるべく具体的に言ってみろ」
「……うんと、怒ってるのと悲しいのとが、ごちゃ混ぜになったみたいな気分。それで、けーねのことが、一瞬だけ、すごく嫌いになったの」
こんなことを言っていいのかどうか迷いながら、それでもあたいはけーねにそう言った。
本当は言いたくなかったけれど、どうしてもそう思ってしまったから。
けーねは全然悪くないはずなのに、どうしてそんなことを思うのか、分からないけれど。
「けーね、あたい、悪い子になっちゃったの?」
涙が溢れそうになるのを堪えながらあたいがけーねに聞くと、けーねはとても優しい笑顔で「悪い子になんてなっていないさ」と言って、あたいの事をぎゅっと抱きしめてくれた。
けーねに抱きしめられてると、あったかくて、安心できて、あたいは思わず「うわぁん!」と声を上げて泣いてしまった。
けーねは、あたいが泣き止むまでずっと背中をさすってくれていたけど、やがてあたいが落ち着くと、静かな調子で言った。
「覚えておくといい、チルノ。初めて知る感情だろうが、それを『嫉妬』と言ってな」
「しっと……?あの、パルスィがいっつもしてるってやつ?」
「そう。さっきチルノの言った通り、怒りと悲しみがないまぜになったような感情の事だ。不思議なもので、この感情は自分にとって『特別だと思える』者にしか湧かないものでな?
私とその人が口付けしているのを想像しただけで、私に嫉妬してしまうということはだ。つまり、お前はそれだけその人の事が、特別に大好きだという事なんだと、私は思うよ」
「もちろん、恋愛的な意味でな」と言って、けーねは微笑んだ。
あたいは、そんなけーねの言葉に『そっかぁ、あたい、そんなにえーきのことが好きだったんだ』と、どこか他人事みたいに考えていた。
寺子屋を出てみると、外はすっかり暗くなっていた。気付かない内に、随分けーねと長く話していたらしい。
「湖まで送っていくか?」と言われたけれど、あたいはこれ以上けーねに心配をかけたくなくて「大丈夫だよ」と自分の胸を叩いてみせた。
そんなあたいを見て、けーねは面白そうに笑っていた。
「じゃあ、私は行くからな。気をつけて帰るんだぞ」
「うん、ありがとう。けーねも、遅くまでつきあわせちゃってごめんね?」
「気にするな。教え子の相談に乗るのも教師の仕事だし、お前にも元気になってほしかったし」
そこまで言うと、けーねは「それじゃあな」と言って、空へと飛び立っていく。
あたいはいつもみたいに笑顔で、ブンブンと手を振って、その後ろ姿を見送った。
家に帰りつくと、何だかご飯を作る気にもなれなくて、あたいはベッドの上へどさっと倒れ込んだ。
昨日、今日と、初めて体験することが多すぎて、本当に目が回ってしまいそう。
でも、けーねのおかげではっきりと分かった。あたいは、えーきが好きなんだ。
(友達で終わるんじゃやだ。えーきがあたいに想ってくれているみたいに……あたいも、えーきの恋人になりたい)
ここまで考えていると、もやもやが晴れて、心が軽くなった気がして、すっきりした。
週末になったら、えーきにきちんと「私も好き」と言わなくちゃ。
(えっと、こういう時って、相手のどこが好きっていうの、ちゃんと言った方が良いんだよね。えーきの真面目な所が好きで、笑った顔が可愛くて好きで、負けず嫌いな所も―――)
探しても探してもまだ出てくる気がして、えーきの好きな所探しは終わらない。
そんなことをしているうちに、いつの間にか、あたいは眠ってしまった。
ピカピカと眩しいお日様の光で、あたいは目を覚ました。
枕元の時計を覗くと、最初の授業が始まる時間は既に過ぎている。
(やっちゃった)と思いながらも、こうまで寝坊をしてしまうと、今更騒いでもどうにもならない。
あたいは昨日の晩ご飯を食べていなかったこともあって、たっぷりと朝ご飯を食べると、昨日とはうって変わって清々しい気持ちで、寺子屋へと飛び立った。
寺子屋へ着いた後で、けーねから思いっきり頭突きされたけど、その日の放課後、けーねは優しく「頑張れよ」って言いながら、こぶの出来た頭をそっと撫でてくれた。
掌の温かさを感じながら、あたいは「うん!」と頷いて、にこっとけーねに笑ってみせた。
―文月ノ第三土曜日―
「……ひっく、ひっく、うえぇ……」
泣きながら酒を呷る四季様を眺めながら、あたいは頭を抱えていた。
職場から少し離れた居酒屋に着いて、初めの一杯を飲むなり、四季様は「好きな子にフラれた」と泣き出してしまったのだ。
思えば「明日、時間空いていませんか。一緒に飲みましょう」などと昨日言われた時から、何か嫌な予感はしていた。
四季様は滅多にそんなことを言うお方じゃないのに、一体どうしたんだろう、と。
まあ、最近四季様にも好きな人ができたと恋人のさとりから聞いていたから、多少それ絡みではないかとは思っていたけれど、まさかこんな話とは。
「どうせ、私なんて、私なんて……ぐすっ」
「そんなに泣かないでくださいよ、四季様。それに、飲みすぎですって」
「これが、泣かずに、飲まずに、いられますかっ。……ひっく、うぇぇ……私なんかじゃ、あの子とは釣り合わないって、分かってたけど、分かってはいたけど……」
「まだフラれたと決まったわけじゃないんでしょう?返事は来週まで待ってくれって、そう言われただけなんでしょう」
「……ダメですよ。あの子は、恋愛になんて興味がないって。自分とは縁がないって、はっきりそう言っていたんですからあ!」
そう言ってオイオイと泣き崩れる四季様を、周りで飲んでいる鬼たちは珍しそうな目で眺めていた。
そんな奴らの視線をしっしっと手で追い払うも、無理もないだろうなあとあたいも思う。
長い事この人の部下をやってきたが、こんな姿を見るのは初めてのことだ。
「ほら、みんなから見られちゃってますって。まず、一旦落ち着いてくださいよ」
このまま泣かれていたのでは、ますます注目を浴びてしまいかねない。
お店にも迷惑をかけてしまうだろうし、何より後で恥をかくのは四季様だ。
そう思ってあたいが言っても、四季様は止まらない。
「小町はいいですよね……聞きましたよ。さとりとラブラブなんでしょう?」
「ラブラブって、そんな。いえ、そうじゃないと言ったら嘘になりますけど」
「そうなんでしょう?うぅ……何で、こんな、ズボラで、いい加減で、仕事をしない子にまで恋人がいて、私には……」
「いやあ、さとりはそんな私に尽くすのが喜びだって言ってくれてますし」
「のろけるんじゃありません!何ですか、分かりやすく鼻の下を伸ばして!」
だんっ!と四季様が机を叩き、机の上の徳利が倒れる。
いけないいけない。今の四季様に恋人の話なんてしたら、火に油を注ぐようなものだ。
すわ、このままお説教タイムに突入かと、あたいはハラハラしながら四季様の言動を見守っていたが、四季様はそのまま俯いて、黙ってしまった。
どう声をかければいいのかあたいが計りかねていると、四季様はポツリ、ポツリと漏らしだす。
「……分かってます。貴女は一見ズボラなようで、実はきちんと周りを見て、しっかり気配りの出来る子なんです。
それに、誰に対しても偏見を持たず、公平な目で見ることができますし、さとりが惹かれるのも納得なんですよ」
「……四季様?」
「人が恋に落ちる人というのは……当然ですが、皆、何かしらの魅力を持っているものなんです。貴女も、あの子も、そう……それに比べて、私は……」
この人は、一体誰なんだろう?いつもあたいが仕えている、あの四季様でいいんだよね?
自分に自信を失くし、いつになく弱々しい様子の四季様を見ながら、あたいの頭にそんな疑問が浮かんでしまう。
一方の四季様は、そこまで言うと、目に涙をいっぱい溜めながら続けた。
「ぐすっ。あの子は、可愛いし、優しいし、友達も多くてみんなから好かれている子ですし……私は、説教ばかりだし、あまり周りから好かれる方ではないですし……こんな私が、あの子の恋人になんて、初めからなれるわけが……」
……むっ。
酔っているのもあるのだろうが、さすがに今の言葉は聞き捨てならない。
人には、言っていいことと悪いこととある。今の四季様の発言は、完全に後者だ。
「……お言葉ですが四季様。その台詞はいただけません」
「……そのって、どのですか?」
「『あまり周りから好かれる方ではない』です」
あたいが言うと、四季様は一旦泣き止み、きょとんとした顔を浮かべた。
長年四季様の部下を務めているあたいには分かるが、あの顔は『私、何か間違っていますか?』の顔だ。
(ええ間違ってますよ、間違いなく、って何だかややこしいな)
そんなくだらないことを思いつつ、あたいは続ける。
「たしかに四季様は説教くさいですよ。ええ、それはあたいだってそう思います」
「うっ」
「でもそれは、相手の事を本気で思っているから、敢えてそうしている訳でしょう?」
「は、はい……」
自分でも、最後にこんな声色を出したのはいつだったかというくらい、真剣な声であたいは四季様に語りかける。
すると四季様は、まるであたいの勢いに気圧されるようにして、頷いた。
「今時、そこまで相手の事を考えて叱れる大人がどれくらいいます?少なくとも、あたいには到底無理なことです」
「ですが、それは私が閻魔だからで」
「あたいだって色んな上司に仕えてきましたけどね、四季様ほどそれができるお方はただの一人も見たことがありません」
これは、詭弁でもなんでもない事実だ。
この方ほど、せっかくの休日を犠牲にしてまで、あちこちへ説教に出向ける上司を、あたいはついぞ見たことがない。
普段は照れくさくて言えないけれど、あたいはそんな四季様の事を、深く尊敬しているのだ。
「そ、そうでしょうか……。でも、普段から、貴女に対してもそうですけど……私はお説教ばかりですよ?嫌われても当然でしょう」
「ええ。たしかに、四季様の事を『説教くさい、嫌な奴だ』と思う輩もいるでしょうけどね。でも、少なくともあたいは、嫌いな上司に誘われたって、飲みになんか来ませんよ」
ぐいっと四季様に迫りながらそう言うと、ようやく四季様は少しだけ微笑んでくれた。
「……ありがとう、小町。そんな風に言ってくれるのは、貴女と、チルノくら……い……」
そこまで言うと、四季様はかくっと崩れ落ちてしまった。もう随分と飲んでいたし、仕方のない話だろう。
すっかり眠ってしまった四季様を抱え上げつつ、あたいは店への支払いを済ませると、外へ出る。夏のこの時期、昼間は嫌になるほど暑いが、夜はまだそこまででもない。
このまま四季様を抱えて帰っても、汗だくになってしまうようなことはないだろう。
「それじゃ、帰りますよ。四季様」
一言呟くと、あたいは空へと飛び立つ。四季様を起こしてしまわないように、出来る限りゆっくりと。
さて、まず目指すべきは四季様の家。それと、四季様を送り届けたら、さっき四季様の言っていた『あの子』の家にも行かなくては。さっきの話によれば、明日が勝負だというのに、この人はまったくもう。
どうやら、今夜の帰りは遅くなってしまいそうだ。
「むにゃ……チルノ……それでも、私は、貴女が……好きなんです……」
「……やれやれ。さとりから聞いたときは本当かと思って疑ってましたけど、やっぱり『あの子』って……」
そう呟きながら、あたいは少しだけ速度を上げて、四季様の家へと向かうのだった。
―文月ノ第四日曜日―
ズキズキとした頭痛で、私は目を覚ました。当然、目覚めて早々から、気分は最悪である。
布団から起き上がり、周りを見渡せば、そこは自分の部屋。いつの間に寝てしまったのか、全く記憶がない。
胸がムカムカとするような気持ち悪さもあり、どうやら、昨夜はかなりひどい酔い方をしてしまったようだ。
「夕べは、どうしたんでしたっけ……たしか、小町と一緒に飲んでいて、私の愚痴を聞いてもらって……」
痛む頭に鞭を打ち、私は少しずつ昨日の出来事を回想していく。
小町に、チルノにフラれたという話をしたこと。
小町に、どうせ私なんてと自虐をしたこと。
小町が「四季様は周りから好かれないような人ではない」と言ってくれて、嬉しかったこと。
……それからの記憶が、すっぽりと抜けている。
一生懸命思い出そうとすると、一際強く頭が『ズキリ』と痛んだ。
「うっ」と一つ呻き、布団の中で体を丸めてどうにか痛みをやり過ごす。
こんな調子では、今日一日は、部屋から出られないかもしれない。
まったく、今日はせっかくの日曜日だというのに。
……日曜日。
何故か、その単語が頭に引っかかった。
―――ごめんね、少し考えさせて。せめて一週間くらい―――
「あぁ!そうですよ!チルノ……うぐっ」
布団からガバリと身を起こし叫んだが、頭の痛みと気分の悪さに耐えられず、またすぐに私は布団へと倒れ込む。
こんな所でうずくまっている場合じゃない。例えあの子の答えが分かりきったものだとしても、それでも私は行かなければならないのだ!
そう頭では思いつつも、身体はまるで言うことを聞いてくれなかった。
起きあがることすらままならないのだ。とても、霧の湖まで飛んでいくのは無理だろう。
(……ごめんなさい、チルノ)
不意に、涙が一粒こぼれ落ちた。
頭がズキズキと痛むせいなのか、約束の場所へ行けない悔しさからなのか、それとも、もっと別の感情からなのか。
涙は一度出始めると止まらず、ポロポロと流れていく。
(最低です、私は。閻魔なのに、約束を破ってしまうなんて。チルノ、本当にごめんなさい)
「うぅ……喉が乾きました。お水、飲みたいですね……」
ようやく涙も止まり、少しだけ気分も落ち着いてきたところで、私はひどい喉の渇きに気が付いた。
服の袖で目尻にたまった涙をごしごしと拭き取ると、よろめきながらもどうにか立ち上がって、台所で水を飲む。
けれど、生ぬるいだけの水は、全くと言っていい程私の乾きを癒してはくれなかった。
(チルノは、今頃どうしているでしょうか)
布団まで戻り、倒れ込むようにして横になると、私は、彼女のことが気にかかった。
今頃、どうしているだろう。まだ、一人で私を待ちぼうけているのだろうか。
それとも、いつまで経っても来ない私に業を煮やし、怒ってしまっただろうか。
いずれにしても、申し訳ないという気持ちばかりが溢れてくる。
(本当に、駄目な閻魔ですね。私は。好きな人との約束一つ、守ることができないんですから)
見るともなく天井を眺めながら、私は自己嫌悪の気持ちでいっぱいになる。
ふと、チルノの笑顔が頭に浮かんだ。明るくて社交的で、何より他者への優しさというものを覚えたチルノ。
今の私に、その隣へ並ぶ権利なんて、とてもあるとは思えなかった。
(……でも、もしかしたら行けなくて良かったのかもしれませんね。もし今日行ったとしても、あらためてフラれてしまうだけで。何しろ、私なんか、あの子とは釣り合わないんですから)
フッと、そんな気持ちがこみ上げ、私が自嘲していた時だった。
どんどん!どんどん!と、家のドアが大きな音をたて、数回ノックされる。
わざわざ私の所へ訪ねてくる客なんて滅多にいないのに、誰だろうと、私は辛さを押し堪え、玄関へと向かう。
「……あ」
「……おはよ、えーき」
そこには、明らかに機嫌の悪そうな、しかめっ面をしたチルノの姿があった。
まさか彼女がここに来るとは思っておらず、すっかり動転してしまった私は、彼女の顔を見つめたまま固まってしまった。
一方彼女は、そんなこちらの様子は全て分かっていると言わんばかりの様子で、私へ話しかけてくる。
「……お酒」
「え?」
「夕べ、こまちとお酒飲みすぎて、体調崩しちゃったんでしょ」
「な、何で貴女がそんなことを」
「今日は、色々話したい事があって来たんだけどさ。横になってた方が楽だよね?」
「ま、待ってください。せっかく来てもらったんですし、まずはお茶でも淹れますから」
「いいから」
有無を言わさぬといった様子の彼女の口調に、私は「はい……」と情けない返事を返すことしか出来なかった。
寝室まで辿りつくと、チルノは手に持っていたバッグの中から大きめの水筒を取り出し、その中身をコポコポとコップへと注ぐと、私へと差し出してくれた。
水筒からはカラカラと小気味良い音が聞こえ、おそらくは彼女お手製の氷がいくつか入っていることが、容易に想像できる。
チルノのくれた、キンキンに冷やされた麦茶はとても美味しくて、私は、さっきの生ぬるい水を飲んだ時とは全く違う満足感を味わうことができた。
「ありがとう、チルノ。とても美味しいです。良ければ、もう一杯頂けませんか?」
そう私が言うと、チルノは今日会ってから初めて、少しだけ笑みを見せてくれた。
「今日は、本当にすみませんでした」
お茶を飲み終えて、ようやく一息つくと、私はまず謝罪の言葉を口にした。
何しろ、彼女との約束を、こちらの一方的な都合で破ってしまったのだ。
謝って許されることではないと分かってはいるが、それでも謝らなければ気が済まない。
チルノは、私の言葉を聞くと、また機嫌の悪そうな表情に戻り、ぷいっとそっぽを向いた。
「何で謝るのさ」
「だって、チルノとの約束を破ってしまって」
「それはもう、別にいいよ。昨日こまちに会った時言われたから」
「こ、小町ですか?」
予想外の言葉に私が戸惑っていると、チルノは「うん」と頷いて続ける。
「昨日の夜遅くにうちまで来てさ。こう言ってたの。『四季様は、多分今日飲みすぎて明日は動けそうにないだろうから、申し訳ないけどチルノの方から四季様の家まで出向いてやってほしい。頼む』って」
「こまちがあたいに向かって、あんな真剣に頭を下げたのなんて初めてだよ」とチルノは笑うでもなくそう言ってみせる。
そういえば、昨晩の記憶は未だ戻らないけれど、家まで戻った記憶すら全くないのだから、もしかすると小町が送り届けてくれたのかもしれない。
その上、さりげなくチルノにフォローまで入れてくれて―――
って。
「ちょ、ちょっと待ってください!どうして、小町が私とチルノが約束していたことを知ってるんですか!?」
「え?えーきが言ったんじゃないの?」
「言ってませんよ!」
むう。これはどういうことか。どうして私の好きな子がチルノと分かっていたのか、あとで小町に問い詰めなくては。
……もっとも、彼女がフォローを入れてくれたおかげで、今日こうしてチルノに会えたのだから、お礼も言わないといけないけれど。
「それよりもさ」
ブツブツと私が呟いていると、今まで聞いたこともないような、チルノの真剣な声に意識を引き戻される。
チルノは改めて私の方に向き直ると、明らかに怒気を含んだ声で呟いた。
「ひどいよ。えーき」
「……はい」
申し開きもしようがなくて、私はシュンと俯いた。
「本当に、ごめんなさい」
「その『ごめんなさい』は、何に対してのごめんなさいなの?」
「だから、今日の」
「さっきも言ったでしょ?今日の事は、あたいは怒ってないの。そうじゃなくて、怒ってるのは昨日の事だよ」
「昨日?」
私の言葉に、チルノはこくっと頷いた。
「昨日ね、こまちが来た時に言われたの。『四季様は、もうあんたにフラれたものだと思い込んで、ひどく落ち込んでる』って。『だから告白を受けてくれとは言えないが、せめてこれからも、四季様の良い友人であってくれ』って。
これ、本当のことだよね。それで、えーきは今日、湖に来れなくなるくらい、お酒を飲んじゃったんでしょ?」
「……はい」
「あたい、先週言ったよね。『返事はせめて来週まで待ってね』って。それは、あたいにとってえーきはとっても大事な人で、でも、それが恋っていうのかどうか分からなかったから、だからそう言ったんだよ。
簡単に答えが出せるようなことじゃなかったから。なのに、えーきは勝手にあたいにフラれたと思い込んで、次の日寝込んじゃう位お酒まで飲んで……」
そこまで言うと、チルノはプイっと頬を膨らませて、私から顔を逸らす。
「だから、あたいは怒ってるの。まだ返事もしてないのに、えーきったら勝手なんだもん」
「……チルノ」
彼女の言葉に、ズキリと胸が痛んだ。
―――ああ、そうか。この子は、こんなにも真剣に、私の事を考えてくれていたんだ。
私の告白を受け入れるにせよ受け入れないにせよ、軽はずみに返事をしたくなかったから、少し待ってくれと言っていただけなんだ。
それなのに私は、一体何をしていたんだろう。
(……なんてバカなことをしていたんでしょう、昨日までの私は)
一人で勝手にフラれたと思い込んで、落ち込んで、小町にもチルノにもひどい迷惑をかけて、心配させてしまった。
あまりの申し訳なさに、胸がはちきれそうになり、私はチルノに向かって自然と頭を下げていた。
「……あらためて、ごめんなさい。チルノ」
「その『ごめんなさい』は」
「貴女の気持ちも考えないで、一人でヤケになってしまって。本当に、ごめんなさい」
「……ん。もう怒ってないよ」
顔を上げると、優しい笑顔を浮かべるチルノが見えた。
そんなチルノの笑顔につられるようにして、思わず、私も微笑んでしまった。
「ねえ、えーき。あのさ」
「何ですか?」
ひとまず落ち着いて、もう一杯チルノのいれてくれた麦茶を飲んで一息ついていると、チルノが何やらもじもじとしながら私へ話しかけてくる。
「まだしてなかったよね。告白の、返事」
ピシリ。
チルノの怒りも解けて、ようやく落ち着いたと思ったのに、私の心臓の鼓動が急速に早くなっていく。
そうだ。ついつい、約束を破ってしまったことばかりを気にしていたけれど、今日の本題はそこではないか。
(ああ、チルノと仲直りできて良かったですけど、いよいよもってフラれてしまうんですね……)
内心で逃げ出したいような気持ちに駆られるも、もしここでそんなことをすれば、さっきの仲直りが台無しだ。
布団を被って耳を塞いでしまいたいのをどうにか堪え、私は精一杯の勇気を出してチルノへと返事をする。
「……はい。チルノの気持ち、聞かせてくれますか?」
「うん。今日はそのために、ここまで来たんだもん」
チルノはそう言ってニコリと笑うと、しっかりと私の目を見つめて語り始める。
「えーきから告白されたあの後ね、一生懸命考えたの。あたいにとって、えーきはどんな人なんだろうって」
「……ええ」
「それで、やっぱりあたいにとってえーきはとっても大事な人で、大好きな人だって所までは分かってたんだけど、それが恋愛って意味なのかどうかまでは分からなくてさ。
一人で考えてたんじゃどうしても分かんなかったから、けーねにも相談したりしてね。それで、ようやくあたいも自分の気持ちが分かったんだけど」
そこまで言うと、チルノは私から一瞬、ふいっと視線を逸らす。
だけどすぐに、顔を若干赤らめながらも私へと視線を向け直して続けた。
「あたいもね、えーきが好き。恋愛の意味で、大好き。えーきの恋人になれるんなら、すごく嬉しいよ!だから……こんなあたいだけど、恋人にしてくれますか?」
「……ええ、その返事は分かっていましたよ、チルノ。でもせめて、これからも、良い友人として、一緒に居られたらと……」
「……へ?」
「……え?」
一瞬の、静寂。
まるで、二人の時が止まってしまったかのように、静かな空気が場を包む。
そして、お互い全くと言っていい位噛み合っていない会話をしていることに気づき、私とチルノは同時に間の抜けた声を上げた。
「あたいは、えーきと恋人になりたいって言ったんだよ?」
「ええ、ですから断られるのは分かっていましたから、せめて良い友人としてと」
「友達じゃやだよ!えーきには、恋人になってほしいんだってば!」
「……え?」
「えええええっ!?」
言葉の意味を理解した瞬間、頭の中がスパークして、白く弾けたようなショックが、私の脳裏を駆け巡った。
正直に言って、嬉しさよりも信じられなさの方が先立ってしまい、私は自分自身の耳を疑ってしまう。
(チ、チルノが……私に、恋人になってほしいって……たしかにそう言ってましたよね。間違いないですよね!?)
「い、いいのですか?私なんて、全然、チルノの恋人としてふさわしくないのに。それに、チルノは恋愛なんて興味ないって」
「それは、先週までの話だよ。さっきも言ったでしょ?けーねに相談して、自分の気持ちが分かったって。あたいは、えーきのことが好き。まじめで、可愛くて、みんなのことを真剣に考えてるえーきの事が、大好きなの」
カアッ。
チルノからのあまりにも嬉しい言葉に、私は自分の顔が、音をたてて赤くなっていくのを自覚する。
「……本当にいいのですか?」
最後にもう一度だけ。
確認の意味も込めてそう訊ねると、チルノは赤面して俯きながらもこう答えてくれた。
「は、恥ずかしいからあんまり何度も言わせないでよ……。あたいは、えーきが大好きです。だから、こんなあたいでよければ、恋人になってください」
「……チルノ」
彼女の体を抱きしめながら、私は囁くように返事をする。
―――ありがとう。私と末永く、一緒に居てください―――
そう言うと、チルノは何も言わずに、私の体をギュッと抱きしめ返してくれた。
―翌年 文月ノ第四土曜日―
―――それから。
私たちの日常は少しずつ変わっていったけれど、概ねそれは全て上手くいっていて、私もチルノも満ち足りた日々を送っていた。
チルノと大妖精は『四月の始めから十月の終わりまで』という条件で、寺子屋へと通うことになった。
大妖精は一年中ずっと寺子屋へ通っていても良さそうなものだけど、彼女は空いた期間で他の妖精たちに、自分の学んだ知識を少しずつ教えているらしい。
私の想い描いた理想通りの図になっていて、それを聞いたときは嬉しい気持ちになったものだ。
私も一ヶ月に一度ほど有給を取って、慧音の寺子屋で道徳の授業をしている。
チルノがいつも世話になっているから、そのお礼の意味も込めてだ。
慧音によると『チルノは割と普段から真面目に授業を受けているけれど、貴女が来た時は特段だ』とのこと。
喜べばいいのやら、照れれば良いのやら。思わず赤面してしまった。
冬が来ればチルノは寺子屋へは通えなくなってしまうけれど、また次の春が来れば通えるようになる。精一杯、色々な知識を吸収してほしい。
週末の過ごし方もすっかり変わった。
以前は休みの日といえば、とにかく幻想郷を回って説教をすることしか頭になかったが、今ではそれは土曜日だけのものになっている。
日曜日には、のんびりしたり、チルノとデートをしたりするようになった。やっぱり、いくら閻魔といえども、週に一日位はそんな日が必要なのだ。
ただ、土曜日の説教巡りも、愛しい恋人は同伴の上でだけど。
「れーむー。遊びに来たー」
「チルノが『今日は神社で遊びたい』というもので。あ、私の事はお構いなく」
「鬱陶しい!」
「霊夢!説教に来ました!」
「あたいの目から見ても、最近のれーむはダラダラしすぎだと思う」
「帰れ!」
相変わらず私たちの話はきちんと聞いてもらえないことも多いけど。
少なくとも、前よりは理解してもらえるようになったし、一人で回るよりもずっと楽しいし。これはこれで良いかと納得している。
今日も今日とて、一通り幻想郷を巡った私たちは、霧の湖のほとりで休憩を取っていた。
あちこち飛び回った心地の良い疲れを、湖の冷たい水で癒す。以前は一人で行っていたそれも、二人でならば尚更疲れが取れる気がする。
「今日も暑いですね」などとチルノへ話しかけつつ、ふと隣を見てみれば、チルノが何やら言いたげな様子でウズウズとした表情を浮かべていた。
「ねえ、えーき」
「何です?チルノ」
「あたいさ、この前寺子屋の友達から、歌を教えてもらったの。今日みたいな夏の日に出会って、恋人同士になった二人の歌」
まるであたいたちみたいだよね、と笑いながら、チルノは可愛く「聞いてくれる?」と訊ねてくる。
その様子が微笑ましくて「ええ。私もチルノの歌、聞きたいもの」と頷きながら返事をすると、彼女ははにかみながら、湖に向けて朗々と歌いだした。
運命的な出会いを果たし、惹かれあっていく二人の歌。
私は目を瞑り、その優しい歌声をただ、静かに聴いていた。
―――恋の歌は、夏の空に響いていく。
―――私たちの想いを乗せて、響いていく。
この先。
秋が来て、冬が来て、春が来て、また夏が来ても、私の想いは変わることはないだろう。
来年もその先も、五年、十年と時間が過ぎていっても。
『いつまでも貴女と一緒に』と願いながら、今、こうして隣に座る彼女を、ずっと大切にし続けるだろう。
チルノ。
誰よりも大好きで、誰よりも大切な、チルノ。
貴女に出会えて、本当に良かった。
以上になります。お付き合いありがとうございました。
今回は、以前某所に投稿した「霧の湖夏恋歌―キリノミズウミカレンカ―」というお話を再度編集して投稿させていただきました。
久々に読んでみて、書き直したかった所を直せて満足です。
少しでも楽しんでいただければ幸いです。
乙。涙が出た
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