琥珀の中に息づく (36)

一次創作です
よろしくお願いいたします

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 なにかを得ると、必ず同じだけ別のなにかを失ってしまう。
 それは逆になったとしても等しく成り立つ。

 人間に与えられたキャパシティは生まれながらに決定されるものだと、僕は思っている。

 実体にのみならず、精神的なものに対しても、質量は保存される。

 それを踏まえた上で、一度失ってしまえば、二度とは埋めることのできないものも存在する。

 ひと二人が横並びで入れるぐらいの狭い路地の中ほどに、胡散臭げなその店は存在した。

 薄汚れた暖簾を潜ると中は狭く、壁は何段ものの無骨な棚で覆われている。
 その棚には所狭しと香水瓶のようなものが置かれていた。
 客は誰もいない。

 入口に入って正面奥にはカウンターが据え付けられている。
 手前側にはスチールパイプの椅子が、居心地悪げに置かれている。

 カウンターを挟んで向こう側には店主らしき男が座っていて、僕の存在に気付いているのかいないのか、目を閉じたまま微動だにしない。
 年齢すら判別しづらいその風貌は、特にこれといった特徴もなく、少し目を離すだけで思い出せなくなりそうな気がした。

 声をかけるべきかを迷っていると、いつの間に目を開けた彼が、僕に椅子に座るように促した。

 ここまで来たのだから覚悟を決めなければならない。
 僕は本能的な恐怖から挫けそうになる心を律して腰掛けた。

 「ここがなにを取り扱う店なのかをご存知で?」

 柔らかではあるものの、抑揚の少ない声音で尋ねられる。

 「ええ」

 彼の目を見つめながら首肯する。

 「ひとの記憶、ですよね」

 彼は、表情らしい表情を浮かべないまま、こちらを見つめ返している。
 まるで僕の心の奥底を覗き込もうとしているように。

 「その通りです。私は記憶の売買を生業としています。そしてあなたはその目的でここに立ち寄った、と」

 それで間違いはないだろうな、と言外に問われた気がした。

 「はい」

 「それでは取引の話をしましょう。あなたはここで記憶を売却することができるし、またここに取り扱いのある中で他者の記憶を購入することもできます」

 機械が読み上げるように、淀みない語調で話される。
 あれよという間に話が進みそうになったので、一度制した。


 「あの」

 「なんでしょう」

 「そもそも記憶を売るとか買うとか、本当にできるんですか?」

 与太話程度の噂でしか聞いたことがなかったので、真相をまずたしかめておきたかった。
 もっとも僕は、そんな信憑性に欠けた話にさえ現にこうして縋りついているのだけど。

 「ごもっともな質問です」

 しかし彼の方も、このやり取りには慣れているらしかった。

 「皆さん、たしかに最初はそう仰られます。ですのでここは一つ、実際にお見せしましょう」

 そう言って彼は懐から小さな香水瓶を取り出した。薄桃に色付いた液体が充填されている。
 それをカウンターの上に置き、蓋を外した。途端に微かに甘い匂いが辺りに漂う。

 「突然ですがあなたは昨日、夕飯を召し上がられましたか?」

 質問の意図がわからなくて面食らってしまう。

 「……はい」

 僕はカレーライスを食べた。


 「ではいまから目を瞑って、それを食べた時間帯や感じた味など、昨日の夕飯に関係することを思い出せる範囲で思い出してください。私がいいと言うまで」

 訝しく感じながら、言われた通りにする。頭の中で昨日の風景が像を結ぶ。
 暫くすると段々思考に靄がかかってきて、妙だなと思い始めた頃に彼から声をかけられた。
 彼は香水瓶に蓋をする。


 「いまこの香水瓶にその記憶を閉じ込めました。質問です。昨日、あなたは夕飯になにを召し上がられましたか?」

 いまの一連の流れでできるものかと思いたかった。それだけ簡単なことなら誰もこんな怪しい店にまで来ない。

 だけどそう思いながらも文句の一つも言えないのは、たしかに僕が昨日の夕飯について思い出すことができなくなっていたからだ。

 「……どうして」

 まったく思い出せないわけではなくて、朧げながら浮かぶような浮かばないような、そんな感覚がある。
 だけど、なにを食べたかは皆目見当もつかなかった。

 にわかに心臓が早鐘を打ち始める。彼は本当に記憶を抜き出すことができる。


 それから彼は香水の中身を僕の目の前の空間に一度だけ吹き掛けた。
 その甘い匂いを嗅いだ瞬間、失われた記憶は鮮烈なイメージとなって去来する。

 カレーライスだ。
 感動といってもいいぐらいの衝撃だった。その味さえ、うっすらと思い出せる。

 「このようにして香水に記憶を抽出し、再現させます」

 「吹き掛けることで、再現された記憶は抽出された記憶の長さにも依存しますが、二時間もすれば使用者の記憶からは消えてしまいます」

 相変わらず温度のない表情が淡々と告げる。

 どうにも彼のことが、ひとの皮を被った慇懃な悪魔のようにしか見えなかった。


 「心に淀む嫌な記憶を綺麗に削ぎ落すことも、見ず知らずの他人の人生を覗き見することも叶います」

 「ここで行われた取引の中身に関する情報は、どこにも漏れる心配はありません」

 そう言いながら彼は、人差し指を立てて口元にあてがう。


 「さて、売却と購入。あなたはどちらになさいますか」

 驚くばかりで考えがついていかないが、なんとか立ち直って答える。
 夢にも望んだことが叶うのだから。

 「売却で」

 僕の声は、だけど震えていた。
 彼は何百枚もある契約書の内の一枚に判を捺すように、きわめて事務的に頷いた。

 「基本的に売却額は二束三文ですが、それでも宜しいでしょうか」

 「はい」

 「かしこまりました、それでは」

 彼は懐からまた別の瓶を取り出して、蓋を外して机の上に置いた。

 琥珀色の液体が、目の前で揺れている。



 「目を閉じて、可能な限り鮮明に思い出してください。あなたが十分だと感じたら、やめてください」

 浅く何度か、呼吸をする。
 僕は思い出し始めた。

 僕は売却額(本当に二束三文だった)を受け取った。
 彼は初めて興味を示したように、記憶を閉じ込めたばかりの香水瓶をためつすがめつ眺めている。

 「あの、」


 「続けてのご依頼ですか」

 彼は目線だけをこちらに寄越した。

 「はい」

 「売却と購入。どちらになさいますか」


 「購入で」


 「購入の場合、売却とは違い、少しお値段の方が張りますが、それでも宜しいでしょうか」

 「はい」

 「かしこまりました。どのような記憶をお求めでしょうか。当店は現品限りですので、ご期待に添えない可能性もございます」

 店の中には、ゆうに百は越えているだろう数の香水瓶で溢れかえっている。
 少なくともその数だけ、この店に訪れた客がいる。

 彼らはなにを忘れたがったのだろう。そんなことを少しだけ考えた。


 「それを」


 僕が指さしたのは、ついさっき自分が手放した記憶だった。

 彼の表情は変わらない。

 「こちらはあなたが今し方売却された記憶ですが、これで間違いありませんか」

 答える代わりに首を縦に振る。


 「かしこまりました」

 但し、という前置きがつけられる。

 「購入の前にお客様に、一度その記憶を体感していただく決まりがございます」

 加えて、という前置き。

 「当店、返品返金には対応しておりませんので、悪しからず」


 彼が香水の中身を吹き掛けた。



 光の粒が僕に降りかかるようにして記憶が呼び起こされる。

 気が付くと僕は泣いていた。

 涙は、止めようにも止まらなかった。


 自分のしてしまったことの重大さと愚かさは、承知していたつもりだった。

 だけど、こうなることはわかっていた筈なのに、いざ本当に踏み切れば、想像していたよりも遥かに辛かった。


 一人の女性がそこには映し出されていた。二人で笑ったり、喧嘩したり、僕が忘れ去った思い出には、彼女との思い出がたくさん詰まっていた。
 僕の中に抱えられていた、感情の奔流だった。

 失ってしまったものは、もう元には戻らない。


 死別した妻のことを思い出していた。彼女にまつわる様々な記憶が苛烈に襲い掛かり、そして過ぎ去っていく。

 涙の理由には様々な言い訳があるけど、一番はやはり、彼女のことを、大好きな笑顔を思い出せた喜びだった。


 だけど時間が経てば、僕はすぐに彼女のことを忘れてしまう。
 なによりも大切な筈の時間を、自ら抜き出してしまったことに対する後悔が、胸を握り潰さんばかりに押し寄せてくる。

 もう僕は、この香水なくしては、亡き妻を想うことすら叶わない。

 この涙のように、もう二度と戻ることはない。

 「病気で逝ってしまった妻のことを、本当に愛していたんです」

 自分の声が、知らずわななく。


 「彼女を亡くしてから、何度も何度も死ぬことを考えて、それでもできなかった」

 「そんなことをすると、あの世で彼女に合わせる顔がなかったから」


 「こうして記憶を取り出してしまえば、痛みを堪えなくても、彼女を愛し続けられると思っていたんです」


 誰に咎められたわけでもなく、言い訳のような言葉を並べる。

 目の前に座る彼に対して。
 そして、自分自身に対して。

 その必要もないはずなのに躍起になった。


 「でも僕はもう、彼女を愛する資格すら持っていない」

 耐えがたい痛みを、忘れてしまいたかった。
 でもその痛みに生かされていた部分も、たしかにあった。

 彼女が自分の中にいないということが、なにも痛まないことによってわかる。

 「なにもないんです」

 今やその痛みは、琥珀色の中にしか存在しない。
 寂しさで頭がおかしくなってしまうんじゃないかと思った。


 やがて彼は、あくまでも怜悧な表情のまま、小さく呟いた。


 「ひとの死に関する記憶を売却される方は少なくありません」

 「ですが私は、そうして忘れ去られた方を気の毒に思うことはありません」


 彼の感情に関して、彼自身が言及するのを初めて耳にする。
 そして意外にもそれは、彼らしからぬ言葉だった。



 「関わりの深い相手の死を忘れるというのは、それほどまでに苦しまなければならないことでしょうか」

 「果たしてあなたは本当に、奥様を愛する資格を失ったのでしょうか」

 「……どういう、ことですか」

 僕は呆然と訊き返す。
 彼の言葉には、不思議な力が宿っているような気がした。

 悪魔と形容するには場違いなほどに、純粋な。


 「記憶は経年と共に薄れゆくものです。私がなにをせずとも」

 「怒りや悲しみ、喜びさえ。それがどれだけ心に深く根差していても、です」

 「痛みが痛みですらなくなる。幸せが幸せですらなくなる。それはとても恐ろしいこと」


 「本当に悲しいのは、なにが悲しいのかを思い出せなくなってしまうことなのではないでしょうか」


 彼は香水瓶を、生き物のようにそっと持ち上げて、僕の両手に握らせる。

 「香水を使い切ったら、また私の元へ来てください」

 「同じものを用意させていただきますから」


 それから彼は、僕の目を見た。

 「来店したあなたと、その思いつめた表情を見た瞬間から、察しはついていました」

 「あなたが心の優しい方だということを。その心が無残にも傷付いてしまっていることを」


 私に申し上げることがあるとすれば、という前置き。

 「どうか、あなたの選択を、否定しないでください」

 「きっと、私だったなら、泣いて喜んでしまうと思います」


 「なにせ、二人の思い出を永遠に色褪せないように保管してもらえたのだから」

 「この琥珀にとじこめて、世界でたった一人、愛するひとに大切にしてもらうのだから」


 「だから私には、それこそが愛なのではないかと思えてしまうのです」


 綺麗な詩を諳んじるように、言葉が紡がれる。
 僕は初めて、彼の口角が僅かに上がるのを見た。

 それは本当に、優しい笑みだった。

 「私としたことが、お値段を伝え忘れておりました」

 そうして彼が僕の記憶の値段を告げる。

 「……本当に?」

 だけど僕はその値段が信じられなくて、尋ね返してしまう。


 「値段を吊り上げすぎましたかね。見たところ素敵な記憶のようでしたので、高く設定し過ぎたかもしれません」

 「ですが、これよりもお安くでは、残念ですが譲れません」


 彼が提示したのは、記憶を売却した時と同じ金額だった。


 「それでは取引成立です。お好きにお使い下さい」


 今一度、手渡された香水瓶を見つめる。
 琥珀色の中に息づく記憶を。

 僕の選択が果たして正しかったのかはわからない。
 正直に言うと、まだ後悔する気持ちは残っている。

 それでも少なくとも、僕は胸を張って妻を愛していると言える気がした。

 「あの、すみません」

 「本当に、ありがとうございました」

 深く頭を下げる。

 「いいえ、私はできることをしただけです」


 そんなことよりも、という前置き。

 「記憶の処理にお困りであったり、劇場よりも劇的な体験をお求めでしたら」

 男は怪しげに笑う。

 「是非当店を、ご贔屓に」

以上になります。
ありがとうございました。

一次が少なくて寂しかったんだ
他の人にも読ませてくる

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