【モバマス】P「天国の扉を鳴らせ」 (83)
地の文メイン。
独自設定あり。
未熟者ゆえ、人称等でミスがあるかもしれません。
どうかご容赦ください。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1491998200
*
「……あなたが辞めるとなると、ずいぶん苦しくなりますね」
「そんなお世辞を言われてもね。寄る年波には勝てんさ」
「お世辞ではありませんが……まあ、言っても仕方ありませんしね。ともかく、あと一年。よろしくお願いします」
「ま、ボチボチやらせてもらうよ。今まで通りだ」
「それで結構ですよ。……あ、引き継ぎなんかの準備は、しっかりと!お願いしますね」
「……引き継げるやつ、いるのかね」
「……頼みますよ、ほんとに」
「一癖があまりに強いからなあ、あの子たちは……」
*
幼い頃の私には、夢があった。
ブラウン管越しに見る輝く世界に、いつか私も、なんて。
子供ならではの、無垢でありきたりな願い。
あのときは、きっとなれるって思ってた。
少し経って、たぶんなれるって思うようになった。
もうちょっと経つと、なれるといいな、っていう希望に変わった。
そこからしばらくすると、なれないかもな、って後ろ向きになって。
それからすぐに、無理だよ、って諦めるようになった。
ありきたりだった私の夢。
すぐに散ってしまった私の夢。
それを、今更拾えと言われても。
どうすればいいのかなんて、わからないよ。
*
「……北条さん。ちゃんとやる気、ありますか?」
「えー? あるよ、あるある。ちゃんとやってるつもりだけどなー」
「……本当ですか? どうにも、こう……手応えがないというか。全力を尽くしているような気がしないんですが」
「そうかな? でも、ちゃんと今日のメニューもこなしたよね。上がっていいでしょ?」
返答がくる前に、レッスンルームの端にまとめてあるカバンの元へ向かう。お小言なんて聞きたくない。態度や意欲はともかく、やれと言われたことはやったんだ。
「あ、ちょっと!北条さん!?」
「じゃ、お疲れ様でーす。また次のレッスンでー」
ひらひらと手を振って、逃げるようにトレーナーから離れる。退出したルームのドアを閉める寸前に、
「……もうっ!」
という怒ったような、呆れたような声が聞こえたけれど、別に振り返ったりはしない。
シャワー室で少し滲んだ汗を流し、帰途へ着いた。
レッスン場から一番近い駅の前に、大きな交差点がある。
そこに建つひときわ大きなビルの外壁には、私が所属している芸能プロダクションに関連する広告が頻繁に載せられる。
島村卯月がリリースする新しいCDのジャケット。
本田未央が行なったライブのダイジェスト。
渋谷凛がタイアップした他社商品のイメージ画。
(……すごいすごい。ほんとにすごいと思うよ)
こんな有名人たちがいるプロダクションに、私もまたスカウトされた。
今をときめくアイドルたちを間近で見る機会もある。
身体的な距離はすごく近い。
だけど、私の心は遠く遠く彼女たちから離れてる。
私は、もう夢から醒めていたから。
家に帰ると、まっすぐに自室に向かった。
やたら綺麗な勉強机にカバンを放り投げ、ベッドに倒れこむ。軽く流したつもりでも、アイドルのダンスレッスンは中々に疲れる。目を閉じて力を抜けば眠ってしまいそうだった。
重くなるまぶたをなんとか持ち上げ、ポケットからスマートフォンを取り出して画面を点灯させた。
メッセージが溜まっている。
学校の友達からのものが多い。
グループトークが大半か。
私が返事をする必要がありそうなものにだけ返信をした。
家族からも一件。
大した要件じゃない独り言のような内容だった。
最後に残ったのは、プロダクションからのメッセージだった。事務を担当している千川さんから。
トレーナーさんからレッスンの件でも聞いたかな、とあたりをつけたけれど、その予想はまるで外れていた。
千川さんからのメッセージ内容は、
『あなたの担当をするプロデューサーが決まりました。明日出社し次第、指定する事務所を訪ねてください』
というものだった。
結構大事な要件なんだろうと思ったけれど、私にとっては睡眠欲を妨げられるほどのものじゃなかった。
了解した旨を送信したあとは、そのまま目をつぶって眠りに落ちた。
はよ
期待
元ネタの映画とは特に関係なしかな?
>>8
すこーしだけ、話になぞらえてるところが出てくる予定です。
ガッツリパロディにはならない、はず……
あ、誰かが命を落としたりはしません。安心です。
翌日、学校から解放された私は言われた通りにプロダクションに向かった。私とて別に、何でもかんでも反抗したいというわけではない。
千川さんからのメッセージに書いてある事務所へと足を向けた。
私がいるプロダクションは大きなビルを保有している。それ全体が一つの大きな事務所ではあるのだが、所属しているアイドルは余りにも多い。
それゆえ、複数人いるプロデューサーに担当アイドルを割り振り、それぞれに小分けにしたビルの一区画を事務所として割り当てているのだ。
(えーっと……十二階か。随分上の方だなあ)
エレベーターに乗り込み、十二の数字をタップする。重力感と浮遊感を感じながら上層へ。
(……いい事務所に迎え入れて、やる気を出さそうって気だったりして。……なんて、もしそうでも効果無いけどね)
指定されたところは、十二階の右奥突き当たりにあるらしい。エレベーター前のフロア見取り図で場所を確認し、その方向へ。
(……ここかな。第七事務……合ってるよね)
ドアに掛かっているプレートで確認してから、軽く二度ノックした。
しかし、しばらく待っても返事がない。
再度叩いてみても反応が返ってこないので、おそるおそるノブに手をかけてゆっくりと開けてみた。
「……ヘーイ!!!」
開けた瞬間に爆音のバックミュージックと共に大きな声が耳に届き、とっさに手を放した。
元どおり閉まったドアを見つめる。
(……え、急に何。どういうこと?)
カーニバルでかけられるような音楽が流れていた。
確か、この建物は各室完全防音だったかな。
ドアを開けたから中の音が漏れてきたのだろうか。あんな大きな音が鳴っていれば、当然ノックなど到底聞こえない。それで返事がなかったのか。
納得はできたが、理解は追いつかない。
(……どんな経緯があったら、事務所であんな音楽が流れるわけ?)
出オチじゃねーか!
一つ深呼吸をし、気持ちを整えてからもう一度ドアを開けてみる。
気のせいでもなんでもなく、やはり中ではアップテンポな激しい音楽が流れていた。
やかましさに少し顔をしかめながら部屋の中に入ると、こちらに背を向けた一人のグラマラスな女性が、黒い長髪を振り乱しながら情熱的に踊っていた。
(……どういう状況よ、これ。他に人は……)
室内に視線を走らせると、少し離れた位置にあるウッドテーブルに肘をついて黄昏ている女性を見つけた。
「……あの、これ何やって……って、うわっ」
近寄った身体が思わず仰け反る。
その女性から、強いアルコールの匂いがした。
よくよく見れば、女性の手にはグラス。テーブルにはまだ中身の入ったワインボトルが。椅子に座る女性の足元には空になった瓶が何本か転がっていた。
「……あら。どちらさまかしら?」
私の存在に気づいたようで、アルコールレディはほんのり赤い顔をこちらに向けた。
「……あの、北条加蓮っていいます。こちらに行けって言われたんですけど」
「……? ごめんなさい、聞こえないわ」
(音楽を止めるよう言ってよ……!)
依然、黒髪ダンサーは脇目も振らずに踊り続けている。大した体力だ。
「北条加蓮です!!ここに行けって言われたんで来たんですけど!!」
「北条さん……? ごめんなさい、聞いていないわね。プロデューサーさんが来るまで、少し待っていてもらえる?」
「……わかりました。……あの、これ何やってるんですか?」
「……酒盛りよ?見ての通り」
「いや、あなたじゃなくて。……あっちの人は?」
「……踊っているわね」
「いいんですか? 放っておいて」
「いいわよ、あのままで。……あ、何か飲む? 赤と白ならどっちが好みかしら」
「未成年ですけど」
「あら……それは残念。……のあ、それは?コーヒー?」
急に何を言い出すのか、と思ったが、アルコールレディは私の背後に目をやっていた。
なんだろうと振り返ると、私の目と鼻の先ほどの距離に、怖いほど均整がとれた顔立ちの銀髪の女性が立っていた。
驚きで身体がビクリと震えた。
(……いつの間にいたのよ。全然気づかなかった……)
「…………どうぞ。コーヒーよ」
そう言って、銀髪女性は手に持っていたソーサーとマグカップを私に手渡した。
「えっ、と……あの、ありがとうございます」
お礼に対して小さく頷くと、銀髪女性は部屋の奥の方へすっと消えていった。
その後ろ姿を見つめていると、隣からお酒の匂いが混じった小さな笑い声。
「……ごめんなさい、不思議な子でしょ?悪い子じゃ、ないんだけど」
と言うアルコールレディ。
(……あなたも大概不思議ですけど、とは言えないよね。……てゆーか、なんなのこの状況……)
内心で嘆きながら、もらったコーヒーに口をつける。
ブラックでは、私には少し苦い。
ソーサーに乗せてくれていたフレッシュとシュガーを入れてかき混ぜた。
誰か、現状の説明と打開をしてくれないだろうか。
そんな望みは天に届いたようだ。
ドアが開く音が、ご機嫌なサンバに混じって私の耳に届いた。
「おはようござ……って、うるさっ! 何をやってるんですか一体!」
……困った、かなり長くなる予感がしてる。
ゆっくり書いていくので、長い目で見守っていただけると嬉しいです。
おつおっつ
乙
唐突なヘレンは腹筋に悪い
入ってきたのは、まだ幼さが少し残るメガネをかけた少女だった。私とは同い年ぐらいだろうか。
彼女は、私にとっては酷く混沌として見える室内の状況にも怯まずに声をあげた。
「ヘレンさん! 事務所でダンスをするのはやめてください!うるさいですよ!」
「……清美、そう感じるということはつまり、あなたがまだ世界を感じられていない証拠!」
「何言ってるんですか!?」
「考えるんじゃない……感じるのよ!」
「ちょっと理解できないので。止めます」
清美、と呼ばれた少女は、黒髪ダンサーの足元で爆音を奏でるラジカセのスイッチを切った。
「ヘーイ!!」
「ヘーイじゃありません! これは没収です!!」
「……ふっ、あなたの選択は、それでいいのね?」
「いいに決まってます!……次、志乃さん!」
踊りをやめて不敵に微笑むダンサーに背を向け、少女は今度はこちらに向かって叫んだ。
「事務所でお酒を飲むのはやめてくださいって言ってるじゃないですか!何度目ですかこれ!」
私の隣のアルコールレディが小首を傾げた。
ほんのりと赤い頬が手伝って、何とも色っぽい。
「……数えていないから、わからないわ。何度目だったかしら……」
「具体的な数字が欲しいんじゃありません! ……志乃さんのも没収です!」
「ああっ、そんな……まだ半分も残ってるのに」
「ワインってそんなにぐびぐび飲むものじゃないでしょう!? 半分も飲んだんなら……って、何本飲んだんですかこれ!瓶散らばってるじゃないですか!」
「それは私じゃないわ。のあが空瓶を持ってきて置いていったのよ」
「のあさん!?」
「……何かしら、清美」
銀髪女性が部屋の奥からこちらへ顔を出す。
「これ!のあさんが散らかしたんですか!?」
「……ええ。そうね」
「なんでそんなことするんですか!」
「……これこそが、ふさわしい演出。ただ、そう感じたから……それじゃ、ダ」
「片付けてください!」
「……それじゃ、ダメかしら」
「片付けてください」
「……わかったわ」
しずしずと、のあと呼ばれた銀髪女性はこちらへ寄って瓶を拾い始めた。
清美と呼ばれた少女は、
「まったく、もう……」
と怒りながら、没収したボトルやラジカセを部屋の隅にある鍵付きのロッカーに収納した。開けたときにちらりと見えた中身には、言及しないことにしよう。
何はともあれ、まともそうな人が来てくれたのはありがたい。
「……あの、ちょっといいかな?」
「はい? …………どちら様でしょう。お客様ですか?」
「えっと、千川さんにここに行けって言われて来たんだけど。担当プロデューサーが決まったからって」
「……ああ、ということは、あなたが北条さんですか」
「そうそう。何か聞いてるのかな」
「ええ。新人が入るから、プロデューサーがいない間に来たら迎えてやって欲しい、と。もう少しだけ待っていただけますか、じきにプロデューサーも帰ってくると思うので」
「そっか。……って、ちょっと待って」
「はい?」
「……アタシ、ここに所属するの?」
「……そう聞いてますよ?」
雰囲気からして、嘘はなさそうだ。
自分でも薄々気づいてはいたが、本当にそうだったか。
バン!と大きな音が鳴って、入口のドアが開いた。
「たっだいまー!帰ったよ、ヘレンさん!あたし頑張ったよ!さあご褒美の登山をさせてもらおうかな!?」
「ヘーイ!いいところに帰って来たわね愛海!ライブバトルといきましょうか!」
「ええ!?ちょっと待ってよご褒美は!?」
真っ先に飛び込んできたのは、頭に二つお団子をこしらえた少女。一目散にヘレンと呼ばれた女性の元へ向かい、じゃれ合いだした。
「……ったく、うるっさいわね」
次いで入ってきた女性が、鬱陶しそうに舌打ちをする。険しい表情をしたそんな彼女に、ワイングラスを持った酔いどれが絡みにいった。
「おかえり、時子。……何か飲む?」
「……何があるの」
「ワインは清美に取られちゃったから……お茶かコーヒーぐらいしかないわ」
「コーヒーでいいわ。こんな時間からアルコールなんて取らないわよ」
「あら、そう……」
にわかに騒がしくなる室内。
そんな中、どこか儚げな顔をした少女と、なんとなくくたびれた雰囲気がある男性が静かに入ってきた。男性は、それなりに歳を重ねていそうだ。初老と表現してもいいかもしれない。
「あ、プロデューサー。ほたるさんも。おかえりなさい」
そんな二人を、清美と呼ばれた子が出迎えた。
「……清美さん。ただいま戻りました」
「ただいま。変わりはないかい?」
「ありません……残念ながら。……あ、北条さんがもう来られてますよ。あちらに」
「お、そうか」
プロデューサーだという初老の男性は、柔和な表情を浮かべながら私の方へ歩いてきた。
「や、君が北条さんだね?」
「えっと、はい。そうです」
「ああ、かしこまらなくて良いよ。私が今日から君を担当することになったプロデューサーだ。よろしくな」
「……はい。その、お世話に、なります……?」
私が、所属するのか。
……ここに。
室内を見渡す私を見て、プロデューサーは困ったように笑う。
「すまんね、うるさいだろう。まあ悪い子はおらんから、仲良くしてやって欲しい」
ドタバタと騒がしい室内。
癖の強そうな面々。
仲良く、と言われても。
やる気がなかったツケがきたということだろうか。
(アタシじゃ、やっていけると思えないんだけど……)
その日は、とりあえずということでお互いの自己紹介をし、解散する流れとなった。
(……個性的だった…………)
皆がみんな、あまりにも。
あれがアイドルか。恐ろしい世界だ。
密度の濃い数十分を思い返す。
「ふっ、貴女が新しく入る新人、ね。私は……ヘレン! 世界という高みを目指すのなら、私のことはよく覚えておくことね!」
「……柊志乃よ。よろしく……あ、ごめんなさい。酔いが回ってきたから、座らせてもらうわね……」
「……高峯のあ。今は、ただの人間……舞台に立てばまた、別の色を持つけれど」
「棟方愛海でっす! いやあ、いいお宝をお持ちのようで! 早速少しばかりテイスティングを……あ、プロデューサー。だめ? やっぱり? ……ちょっとだけだよ? だめか。ですよねー」
「財前時子。…………なにかしら、それ以上の言葉は要らないでしょう」
「冴島清美です。先に申し上げておきますが、この事務所の風紀を乱す行為は、超☆風紀委員である私が許しませんので!」
「……あの、白菊ほたる、です。あまり、私には……近づかない方が、いいかもしれません。……その、よろしくお願いします……」
小腹が空いたので、家に帰る途中、目に付いたファストフード店に入った。夕食は家にあるはずだから、注文したのはフライドポテトとジュースだけ。
窓際の二人がけの席に座り、ボーッと窓の外を眺めながらポテトを咀嚼する。
ジャンクフードの、濃い味付けが好きだった。
昔よく食べていたのは健康という目的を中心に据えた薄味のものが多かったから、その反動なのかもしれない。
年甲斐もなくちょっとしたノスタルジーに浸っていたが、テーブルの脇に立つ影に気がつき、ゆっくりと顔を上げた。
「……あ。奈緒じゃん」
「やっぱ加蓮だったか。偶然だな」
「そうだね。それ、夕飯?まだ早くない?」
奈緒が持つプレートには、ハンバーガーにポテト、ドリンクと一食分でもおかしくない量が乗っている。
「……いや。間食の、つもり」
「……多くない?」
「まあその、色々あってさ。相席いいか?」
「ふふ、ダメって言ったら?」
「食い下がるぞ。ある程度まで」
「じゃあしょーがないかな。どーぞ」
「どーも」
奈緒は、同じプロダクションに所属しているアイドルだ。私より半年ほど早くにスカウトされ、ちょっと前にデビューもしている。
たまたまレッスンで一緒になったことがあり、そのときに親しくなって連絡先の交換もした。そこまで頻繁に、ではないが、ちょくちょく連絡を取り合う仲だ。
「加蓮、ポテトだけか? 好きだなージャガイモ」
「いや、晩ご飯家にあるからだよ? ハンバーガーも好きだけどさ。奈緒みたいに大食らいじゃないし?」
「うっ……否定できない。違うんだよ、食べたくて食べてるわけじゃないんだ。事情があるんだよ……」
「なにそれ、どういうこと?」
「……察してくれ……」
「ヒント少ないよ」
そんな風にとりとめのないことを話していたが、なんせお互い芸能事務所に籍を置く身だ。
次第にそっち方向へ話は流れていく。
「奈緒、ちょっと前に合同ライブだっけ、あったんでしょ? どうだったの?」
「んー……まあ、プロデューサーさんは良かったって言ってくれたんだけどさ。自分ではちょっと、ミス多かったかなーって感じ」
「ふーん……自分に厳しいね。いいじゃん、良かったって言われたんならさ」
「まーなぁ……そうなのかなあ。……加蓮は?なんかないのか?」
「アタシ? アタシは……あー、うん。担当プロデューサーが、決まった、みたい」
「へー、良かったじゃんか! どこになったんだ? あたしと一緒だったり?」
「……奈緒、第二? だっけ?」
「そう。第二事務所」
「残念だけど、違うよ。私第七なんだって」
「そっか、残念…………って。え、第七!? マジか!?」
「うわっ、なに急に。マジだよ?」
「第七って、あれだろ!? すっげーベテランのプロデューサーさんがいるっていう、あそこ!」
「ベテラン? ……まあ、確かにプロデューサーは結構な年だったと思うけど」
「だよな? めちゃくちゃ腕利きだって噂だぞ! こりゃ、あたしなんてすぐ抜かれちゃうかもな!」
「……あはは。……どうだろうね?」
キリのいいところで会話は切り上げ、店を出た。
奈緒とは店の前で別れ、一人家路を歩く。
(……眩しかったなー、奈緒)
初対面の時はもっと自信がなさそうで、随分弱々しく見えていた。
だけど、彼女も今はすっかりアイドルっぽかった。何か心境の変化があったのか、それとも場数を踏んだからか。
なんにせよ、彼女との距離もまた、遠くなったように感じた。それが少しだけ寂しい。
(……それにしても。そんなにすごい人だったんだ、あの人。ただのおじーさんにしか見えなかったんだけど)
今日初めて会った、初老の男性。
奈緒が言うには、少しばかり個性が強めの、扱いが難しいアイドルたちを見事に御し、活躍の場を与えているらしい。
(確かにまあ、個性は強烈だったな。簡単には言うこと聞いてもらえなそう…………あれ?)
そこまで考えて、あることに気づいた。
そんな人が担当する部署に配属されたということは、もしかして。
私も、扱いが難しいと思われているということだろうか。
(……嘘でしょ? ……そんなこと、ないよね?)
顔合わせが終わった翌日からは、オフィス十二階の第七事務所が私の拠点になった。
プロダクションに関連する用件で動く際は、直接行くのではなく基本的に一旦事務所に顔を出すように。そんなこんなの取り決めを綴ったメッセージが昨晩冴島さんから届いた。
今日の予定はレッスンだったけれど、その連絡の通りに事務所に向かう。
「……おはようございまーす。……えっ」
ドアを開けるのがおそるおそるになる。
初めて行ったときがアレだったので、これは仕方ない。
ただ、さすがにあんな突飛なことはそう度々はないだろう、とは思っていた。
(思ってたのに……!!)
ドアの向こうには、能面のような無表情でムチを片手に仁王立ちする財前さんと、その前に跪く棟方さんがいた。
「……言い残すことは、あるかしら」
「あの、ですね。ほんとに、わざとじゃないんです。あの、つまずいて。それで、体勢が崩れて、ちょっと、お身体に、ね? 触ってしまいまして……」
バシィッ!!という鋭い音。
ムチを床に振り下ろした音だ。
棟方さんの弁明が止まる。
「……言い訳を聞きたいわけじゃないの。……遺言を、聞いてあげてるのよ」
「……スンマセンっしたァッ!!」
謝罪と同時に、棟方さんは入り口めがけて全力で走り出した。
「えっ、ちょっと……!」
入り口の方、ということは、つまり私がいる方だ。
「うわっ、加蓮さん!? どいてどいて、お願い!!」
「捕まえなさいッ!」
後ろから、鬼気迫る表情に変わった財前さんが追走している。
そんなことを言われても。
反射的に、とっさに道を譲ってしまった。
「ありがと!!ほんとに!!」
逃げ去る棟方さんを、
「……チィッ!!」
と大きな舌打ちを残して財前さんが追いかけて行った。
あまりの出来事にぽかんと呆けていると、後ろから声をかけられた。
「……あの、おはようございます」
「あ、白菊さん。……おはよう」
「……大丈夫、でしたか?ぶつかったりとか……」
「ううん、平気。ありがと……あの、あれ、今の。放っておいてよかったの?」
「……ええと、はい。割と……よくあることなので」
「……よくあるんだ。……あの、アタシ、大丈夫かな? 財前さんに叩かれたりしない?」
「……平気だと、思いますよ? 時子さんは優しいですし……さっきのは、無理もないと思うので」
「そっか、よかった」
優しいとは、あまり思えないけれど。
トラップをつけた方がいいと言われたので、これからはつけることにします。
更新遅くてごめんなさい。プライベートがせわしい……
>>31
トラップじゃない、トリップですね、失礼しました
「おいおい、今出て行ったの誰だ?」
開けっ放しになっているドアから、プロデューサーがひょっこりと顔を出した。
「あ、プロデューサー……おはようございます。えっと、愛海ちゃんと、時子さんが……」
「まったく、また棟方がなんかやったのか。仕方ない奴だな」
がしがしと強目に頭をかき、事務所の室内を見回す。それから、首をかしげた。
「……あれ、白菊と北条だけか。残りのみんなは?」
「……あの、わからないです。どうしたんでしょう……」
「予定時間きてるよな。……やれやれ、柊やヘレンはともかく、冴島なんかはどうしたんだ……」
「あの、プロデューサー。何かあったんですか? 全員集合ってことでしたけど……」
「ああ、うん。一応仕事持ってきたんだよ。説明は一度で済ませたかったんだが」
「仕事ですか。……あの、私もですか?」
「ああ、もちろん。全員参加だ」
白菊さんとプロデューサーの会話をぼんやり聞き流す。仕事の話は私には関係がない。
そう、思っていたのだけれど。
「ん? おいおい、北条」
「……? なに?」
右から左へと話を聞き流していたら、プロデューサーから声をかけられた。
タメ口でいいと昨日に言われていたので、遠慮なくそうさせてもらっている。
「なにひとごとみたいな顔してるんだ。……お前も、参加するんだぞ?」
言われた言葉を、すぐには飲み込むことはできなかった。
ぽかんとした表情になって、ひどく間抜けに見えたかもしれないと後になってから思った。
「……え?」
「ん? どうした?」
「……アタシが、参加する?」
「ああ。全員参加と言ったろう」
「いや、ちょっと待って。アタシ、ここに来たばかりなんだけど」
「そうだな」
「無理でしょ。レッスンも何もしてないよ?」
「ん? いや、してただろ? ウチに入ってからひと月ほどレッスンをしていると聞いてる」
「基礎的なのだけだよ。他の人と合わせたりなんて、とても」
「合わせたりはこれからやれば良い。基礎を固められてれば問題ないよ」
「一ヶ月だよ? 固まるほどのものはできないってば」
「……案外心配性だな、北条は」
淡々と言うプロデューサーは、笑顔からまるで表情が変わらない。
より一段と笑顔を深めた一言に、私の反論はまったく抑え込まれてしまった。
「なに、大丈夫さ。一人でやるわけじゃあないんだから」
結論から言えば、まったく大丈夫ではなかった。
考えるまでもなく、当然の話。
だけど、まずはそこに至る過程を。
仕事を持って来た、という話を私と白菊さんが聞いたのち、だいたい一時間ほどで第七事務所の面々は集まった。
財前さんと棟方さんは、それぞれ不機嫌そうな顔と疲れ切ったような顔で連れ立って戻って来た。
残る四人は屋上にいたらしい。
ヘレンさんと高峯さんがダンスで競い合い、それを肴に柊さんはお酒を飲んで、そんな自由な三人を冴島さんがなんとか引っ張って来たようだった。
のちに聞いた話だが、冴島さんはプロデューサーが自身で『アイドルの中にまとめ役がほしい』と別部署から引っ張って来たらしい。
間違いなく適役だと思う。
それはともかく、全員揃ったところであらためて、プロデューサーから仕事の詳細を聞かされた。
「ゲリラライブの、サプライズゲスト?」
冴島さんが繰り返した言葉に、プロデューサーは深くうなずく。
「ああ」
「……んー? それ、おかしくない? そもそもゲリラライブって告知とかしないんだしさ、サプライズもなにもないんじゃないの?」
さっきまで疲労感いっぱいだった棟方さんも、仕事の話を聞いてすぐに元気が戻った。
プロ意識がなせる技だろうか。
「いや、おかしくはないぞ。あくまでライブの主導は第一事務所のアイドルだ。そこに、周りには内緒で乗り込む」
「…………なるほど」
説明を受けて、高峯さんが小さく呟いた。
「……サプライズを受けるのは、観客だけではない。そういうことね」
「うん。正解だ、高峯」
「へえ……面白そうじゃない。観客のついでに第一の連中も一緒に嵌めるってわけ」
「滾るわね!なかなかナイスな仕事を持ってくるじゃない、プロデューサー!」
財前さんとヘレンさんは、かなり乗り気のようだ。
(……いやいやいや、いいの?色々ぐちゃぐちゃになっちゃうんじゃないの?)
そんな私の不安を代弁してくれるかのように、考え込んで口を閉ざしていた冴島さんが手を挙げた。
「待ってください、プロデューサー」
「ん? なんだ冴島」
「ちゃんと方々の許可は取れてるんですか。風紀を乱すようなことには加担できませんよ」
「あー……うん。だいたい取れてる。細かいとこはこれからだが、大丈夫だ」
「そうですか。なら、私から異存はありません」
(ないの? 結構フワッとしてるよ?)
私の心情ほど深くは踏み込んでくれなかった。
「あ、そうそう。ついでに北条のデビューもそのときにやるから」
(軽くない?)
「あまり勝手ばっかりはしてやるなよ。色々考えて、ほどほどにカバーしてやったりもしてくれ」
(雑!!)
私の内心はまるでまとまっていなかったけれど、とりあえず話が落ち着いたところで予定通りのレッスンに、ということになった。
この日は第七事務所メンバー揃ってのレッスンだったようで、プロデューサーも含めた全員でミニバンに乗ってレッスン場へ向かった。
やけに信号に引っかかることが多かったが、運転席のプロデューサーはまるで苛立った様子もなかった。年齢ゆえの落ち着きかな、と感心する。
レッスン場では、今までも私を担当してくれていたトレーナーが待っていた。
普段はにこやかな笑顔を絶やさないタイプの人なのだけど、私たちの一団を見たときには一瞬だけ口元が引きつっていた。
プロデューサーを見た途端にいつも通りの笑顔に戻ったのは、責任者が同伴していることの安心感からかな。
その辺りは正確にはわからない。
誰かと一緒にレッスンをするのは、別に初めてというわけではない。奈緒をはじめとして、何度か合同でやった。
一人でやるよりも、トレーナーの目が分散される分手抜きがバレなくてむしろ好きだったりする。
ただ、これまでと今日は違う状況で。
(……デビュー、かあ)
本気で向き合うことができなくて、ずっと手を抜いていたレッスン。
それでも、いざアイドルに実際になれるとなれば気持ちも変わるんじゃないか、という思いが少しだけあった。
(……なんにも感じないって言ったら嘘だけどねー…………)
だけど、期待していたような大きな感慨は心のなかに湧いてこなかった。あまりにも突然にその時が来たからだろうか。
だから、私は今まで通りにレッスンを受けた。
その日も、その日以降も。
外面だけは真面目に。
要所で力を抜いて。
周りにはバレないように。
七人もいれば、トレーナーの目は私だけを見ているわけにもいかない。
欺くのは簡単だった。
プロデューサーが持ってきた仕事は、ずいぶん急な案件だった。知らされた日から数えて、残っていた時間はおおよそ三週間ほど。
本来なら、デビューという大事な一山を待つ私は一秒でも無駄にはできないはずだった。
だというのに、私は与えられた準備期間の全てを無為に過ごしてしまった。
その結果は、言うに耐えない。
誤解のないように言っておくが、イベント自体は大盛況だった。
元々ゲリラライブを画策していた第一事務所といえば、今やすっかり売れっ子である島村卯月や三村かな子を擁する、プロダクションでも随一の面子を誇る部署だ。
そこに、さらにアイドルが追加で加わるとなれば盛り上がらないわけはない。
酷かったのは、私だけだ。
第七事務所メンバーの一人として歌って、踊って。
今日がデビューだということを告げて。
ささやかだけど拍手をもらって。
ミスは連発してしまったけれど、なにも批判されたりだとか、罵倒されたりがあったわけじゃない。
ただ、私が誰の記憶にも残らなかっただけ。
何もできなかった。
邪魔にならないように、眩しい舞台の隅っこに、ただ引っかかっていただけ。
それがデビューを果たした私、北条加蓮だった。
初仕事の翌日の、ちょうど夕暮れ時。
事務所の屋上に立って、安全柵に寄りかかりながらぼんやりと思考にふける。
(……もし。もし、スカウトされてから、ずっと真面目にやってたら。……今頃、どんな気持ちだったんだろ)
晴れ晴れとした、誇らしい気持ちだったのかな。
ためらいなく自分が子どもだったと言えた時代は、私の今の立場は確かに夢だったはず。
なのに、気分は優れない。どころか、淀んで濁った不安になるような感情が、心の中にずっと澱のように溜まっている。
(……気持ち悪いな)
気を抜いたら、ムカムカとしたものがこみ上げてきそうだ。
私は、後悔をしているのだろうか。
反省しているのだろうか。
答えはきっと、どっちもYESで。
だけど、これから頑張ろうとも思えなくて。
なんて、勝手な。
そう思った。
自分で自分が嫌になりそうだ。
「北条」
低い声で不意に名前を呼ばれたが、特に慌てることもせずに声が聞こえた方を振り返った。
プロデューサーが、優しい微笑みを浮かべながらこちらへ歩いてくる。
「プロデューサー。なに、どうかしたの?」
つとめて明るく振る舞う。
弱いところは見せたくない。
そんなちっぽけな見栄。
くだらない意地。
意地を張るなら、もっと別にそうすべきときがあるだろうに。
そんな声がどこかから聞こえてきそうだ。
「うん、ちょっとな。……よいせ」
プロデューサーは私の隣に立って、同じように柵にもたれかかった。
少しだけ疲れた風に、ふう、と一つため息をつくと、
「……後悔してるか?」
開口一番、そうプロデューサーは言い放った。
表情が固まる。
私は、なにも答えられなかった。
それを見たからか、隣から少しだけ困った風な笑い声。
「……してそうだな。愚問だったか」
「……あはは。なに、急に」
私の問いには答えず、プロデューサーは淡々と言う。
「……『もし、スカウトされた日からずっと真面目にレッスンをしてたら』、『仕事の話を聞いたときからでも、力を入れていれば』。……考えてるのは、そんなところだろう」
見透かすような黒い瞳が、私の目を真っ直ぐに射抜いた。悪いことをしたと自覚のある子どものように、私は目をそらしてしまう。
そんな様子を見て、プロデューサーは肩をすくめた。
「……気づいてたんだ」
力を抜いてるってことに。
トレーナーの目は誤魔化せていたと思ってたのに。
「わかるさ」
「すごいね。さすが凄腕プロデューサーだ」
「別に凄腕ってわけじゃない。私に担当を、という話が来た時点で、北条のレッスンの様子は聞いていたしな。初めから手を抜いてるって疑ってかかれば、見抜くのなんてわけはないよ」
「……ちゃんとレッスンやってないのわかってて、どうしてそのままステージに立たせたの?」
恨み言を言うつもりはない。これは単純な疑問だった。
「それはまあ、アレだ。そっちの方が話が手っ取り早く進むと思ってな。単にレッスンちゃんとやれって言っても聞いてくれんと思ったんだ」
何かしら心にモヤモヤがあった方が、他人の話に耳を傾けられるだろう?
プロデューサーはそう続けた。
どうだろう。そうなのかな。今、私がこうして素直に話しているのが、その答えか。
彼は温和そうな優しい顔はそのままに、だけど目だけはずっと真剣に、
「……よかったら、教えてくれないか。どうして手を抜いていたのか。練習や努力が嫌だ、性に合ってないと言うなら、そう考えるようになった理由を」
と問いかけてきた。
特訓とか練習とか、下積みとか努力とか、気合いとか根性とかはキャラじゃない。
体力がないから。
私はそう言って、はじめはスカウトを断ろうとした。いったいどこまでの話を聞いてるんだろう。
もしスカウト時の話を知らなかったんなら、よくもまあ、そこまで他人の考えをピタリ当てられるものだ。
プロデューサーの真っ直ぐな目に圧されて、私の心の中に溜まったものは口からこぼれてきた。
言うつもりはなかったのに、話し始めると止まらなかった。
面白くもない、私の、過去。
アタシさ、ほんとは昔、アイドルに憧れてたんだ。
今では良くなったんだけど、小さい頃はあんまり身体が強くなくて。
一言で言えば病弱だったの。
病院にいることも多くて、他にできることもないからテレビっ子でさ。
よく一日中テレビを見て過ごしたっけ。
そんな風に日々を過ごす中で、もちろんアニメやバラエティなんかもよく印象に残ってるんだけどね。
幼いアタシの心を強く強く揺さぶったのは、アイドルだったんだ。
今じゃもう見かけないけど、ブラウン管の中で。
キラキラした舞台の上で、弾けるような笑顔で。
ステージいっぱいを使って踊って、観客さんたち全員に届くように歌って。
眩しいぐらいに輝いてた。
アタシがいた灰色の世界の中で、アイドルだけが綺麗な色を持ってるみたいだった。
小さい子どもがあんなのを見ちゃったら、憧れないなんて無理だよ、きっと。
だけど、その頃アタシの周りにいたのは大人が多かったの。病院で過ごす時間ばっかりだったから。学校にもあんまり行けなかった。
同じように夢を語れる子どもは、遠くて。
そんな環境で生きてたら、いつの間にか無駄にひねくれて聡くなっちゃった。
理想と現実の違いがわかるようになって。
テレビの中とテレビの前に、どれだけ遠い距離があるのかも悟って。
輝くアイドルと、寝伏せるアタシの違いがわかって。
夢は儚いものなんだって、気づいちゃった。
それからかな。
アタシが、自分を諦めるようになったのは。
何をするにしても、自分じゃ無理だって思うようになったのは。
だって、そうでしょ?
みんなが夢を目指して頑張ってたとき、アタシは病院で腐ってた。
この差はきっと大っきいよ。
そんなアタシの夢が、今更叶うわけない。
……そう思ったってさ、仕方ないじゃん。
「……なるほどな」
腕組みをしながら耳を傾けていたプロデューサーは、静かに言った。
「……スカウトされてさ。嬉しくなかったって言ったら、嘘になるよ。昔、なりたかったものにならないかって手を差し伸べられたんだもん。……でも、アタシはもう諦めてたの。自分じゃ無理だって」
そう、諦めていた。
でも、今でだって、なれるものならなりたいと思う。
だけど、もしなれなかったら?
がむしゃらに頑張ってもダメだったら?
その時はきっと、子どもだった時よりもずっと大きく傷つくんだろう。
それが、私は怖くて仕方ないんだ。
「北条。……もう一ついいかい」
「……なに?」
「北条は、アイドルになって輝きたいという思いはある。……そこに、間違いはないんだな?」
「……そう、だね。それは、間違いないと思うよ」
「そうか。ならいい」
目を瞑って一度頷いてから、プロデューサーはまた口を開く。
開こうとした。
「……ヘーイ!!! グッイブニン、エヴリワン!!」
ただ、ドアを叩き開けるけたたましい音と、ヘレンさんだとすぐにわかる大声が、プロデューサーの声をかき消してしまった。
「加蓮! 話は聞かせてもらったわ!」
「へ、ヘレンさん?」
「……ヘレン。お前、いつからいた?」
「三分前ぐらいかしらね」
「じゃああんまり聞けてないだろう」
「ずっと聞いていたのあから補足はもらってるわ。無問題よ!」
「高峯……ん、その高峯はどこいった?」
「帰ったわ」
「自由か」
「彼女もまた、ワールドクラス。そういうことよ」
「わからんなあ……何を言ってるのか」
プロデューサーが頭を抱えそうだ。
そんな彼には目もくれず、ヘレンさんは私を指差した。ビシッと音がしそうな勢いで。
「そんなことはどうでもいいの。……今、必要な言葉をあなたに贈るわ、加蓮」
「あ、アタシ? ……なんですか?」
一体何を言われることやら。
私の中ではヘレンさんは、言動がぶっ飛んでるなんかスゴイ人、という位置付けだった。行動が、私の常識では読めなかったから。
だから正直、真面目なアドバイスが来るとは思ってなくて。
だからこそ、意外なその言葉は私の中に響いた。
「貴女の魂に、従いなさい! 」
ヘレンさんの強い意志を持った吠えるような声が、したたかに私を揺さぶる。
「失敗が怖いなら、そんなものねじ伏せられるだけの努力をすればいい! 夢が潰えるのが怖いなら、守れるだけの力をつければいい! 過去の呪縛に囚われているのなら、未来のために振り切りなさい!」
一息ついて。
最後はやっぱり、ヘレンさんらしいこの一言で。
「それができることが、世界レベルたりえる資格!! 私は常にそうしてきたわ!!」
言いたいことを言いたいだけ言いたいように言った後は、ヘレンさんは黒髪を翻して颯爽と屋上から去っていった。
ふー、というため息が、隣から聞こえた。
「……ヘレンめ。まったく、いいところを持っていくやつだ」
「えっ?」
「私も、さっきいい感じのことを言おうとしてたんだぞ、一応」
「あ、そうなんだ。……えっと、別に、言ってくれたら聞くよ?」
「そうか? ……じゃあまあ、簡単にな」
ゴホン、とわざとらしく咳払いをして、プロデューサーは話し始めた。
「……北条はまだまだひよっこだ。これから先、ずっと長い人生が残ってる。過去ばかりを見ているのは不合理だ。北条の未来と過去なら、未来の方がずっと大きいんだから。『ああしていれば』、『こうだったら』と振り返るのは、私のように老い先短くなってからでいい。……これぐらいの歳になれば、そんな後悔も楽しめるから」
「今は、未来に思いを馳せなさい」
私が生まれるよりもずっと昔から生きてきた人の、確かな言葉。
二人の言葉の全てを受け止めて、飲み込めたわけじゃない。そう簡単に整理できるほど、私の心は簡単な構造をしていないから。
だけど、体のどこかに、しっかりと動いた場所はあって。
見える景色は、ほんの少しだけ明るくなったように思った。
「……アタシでも、アイドルになっていいの?」
「もちろんだ」
「だいぶひねくれちゃってるよ?」
「なら、私が真っ直ぐな道を用意しよう」
「…………諦めそうになったら、支えてくれる?」
「当然」
「支えきれなかったら?」
「私の力不足だな。でも、倒れてしまっても、何度だって起こすよ。北条に立つための意思があるなら」
「夢が散っちゃったら……一緒に、拾ってね?」
「ああ。……拾いきれないぐらいに散らばってしまったら、二人でまた、新しく同じ夢をつくろう。人の夢は儚いと書くけれど、二人いればそんなかんじにはならない」
「……うん」
太陽は地平に沈みきって、空は神秘的な青と橙のグラデーション。
夢みたいに綺麗で涙が出そうなこんな空の下、また夢を追いかけることを許してもらった。
ありがとう、とは。
言いたいけれど、まだ素直には言えなくて。
いつか必ず、あなたに言うから。
少しずつでも、真っ直ぐに前を向いて進むから。
「プロデューサー、……私を、よろしくね」
「うん。一緒にいこうな」
二人から、優しい説教をもらってから。
レッスンに臨む姿勢も、確かに変わったみたいだった。
私自身気持ち新たに取り組もうと思いはしたのだが、あからさまに態度を変えるのは少し気恥ずかしかった。
だから、ちょっとずつ、ちょっとずつ慣らしていくつもりだった。
……その、つもりだったのだけど。
「あれ? 加蓮さん、今日はやる気が違うね? 本気なのかな?」
「……え。そ、そう?」
「うんうん。間違いないね。あたしの目は誤魔化せないよ!」
「……えっと、どこでわかったの」
「いやー、今まではサイズのわりにバウンスが小さいなと思ってたんだよね。今日ぐらいのが妥当だよ、一目見たらわかるよ!」
「どこでわかったの!?」
「お山だよ! ありがとう!」
「なんのお礼!?」
「眼福のだよ!」
「……うるさいわよ、貴女たち。くっだらないことでベラベラと」
「あ、ごめん時子さん! 時子さんのも見てるよ! 時子さんはいつも全力だからあたしすっごく嬉しいよ!」
「豚ァ!!」
「痛い!!」
時子さんのムチが愛海ちゃんを襲った。
思わずクスリと笑ってしまう。
こういうやり取りは結構よくあって、二人は仲が良いんだな、といつも思う。
それを言ったら、ムチがこちらに向かってくるから言わないようにはしているけれど。
ちなみに時子さんからは、
「あまり私のやる気を削ぐような真似をするんじゃないわよ。そろそろ躾けてあげようかと思ってたんだけど、手間が省けてよかったわ」
というお言葉をもらった。
……どうも、周りには私のやる気のなさはバレバレだったらしい。
初仕事では残念な結果しか残せなかった私だけど、プロデューサーは何も気にせず仕事を次々に持ってきた。他のみんなも、手を抜いていた私が仕事に参加することを気にも留めなかった。
私自身は、自分に納得ができるようになるまでは表に出るべきじゃないと思っていたのだけど。
「柊、冴島、高峯。仕事持ってきたぞ」
「あら……なにかしら」
「合同ライブ」
「ライブ……。お酒はあり?」
「なしだなあ」
「殺生ね……」
「当然ですからね、それは」
「じゃあ、清美ちゃんは腕章なしね?」
「なんでですか!」
「のあは天体望遠鏡禁止」
「…………困るわ」
「のあさん? 持ってきたことありませんよね?」
「初お披露目の予定だった……それならどうかしら」
「どうもこうもありませんけど!?」
「…………そう、つい先週新しい望遠鏡を買ったわ」
「だからなんですか!? 持ってきてもどうしようもないでしょう!」
「あ……私、初物のワインを取り寄せたの。清美ちゃん、一緒にどう?」
「未成年です!!」
「より、よく見える……ファンたちが照らす、サイリウムの星の光……」
「誰が上手いこと言えと!! ダメですからね!?」
「一人で飲むのは、寂しいわね……。あ、そうね、ライブに持っていきましょうか」
「志乃さんっ!!!」
「……これマズイな。北条、お前も参加してくれ。冴島だけじゃ厳しいかもしれん」
「えっ?」
「加蓮ちゃんはポテトなし、ね……」
「いや、持っていきませんよ?」
「…………加蓮、ハンバーガーはやり過ぎよ」
「持っていきませんってば! ていうか、私が参加しちゃダメでしょ!? そんな急に!」
「いや、いいよ別に。平気平気」
「プロデューサー!? いいの!?」
「お願いします加蓮さん! 一人じゃ無理です!」
「清美ちゃん!? え、ほんとにいいの!?」
その経歴の長さや辣腕を活かしてか、プロデューサーは結構無理や無茶を押し通した仕事を持ってくることが多かった。それはマイナスの意味ではなく、プラスの意味で。
簡単に言えば、私にとっては分不相応な、とかそういうことだ。
*
「あ、北条。来週月曜に収録入れたから空けといてくれな」
「……また急だね。収録って何。もしかしてテレビ?」
「そうだ」
「いいの? 私がテレビなんて出て。デビュー間もないのに」
「いいよ、一言で言えばバーターだから」
「あ、そうなんだ。……誰の?」
「第ニ事務所の渋谷」
「他所の!?」
「いいだろ別に。あとついでに白菊と棟方、冴島あたりもねじ込んでみるか……財前やヘレンは嫌がるだろうし、柊、高峯を出すのも何だから今回は四人で」
「四人!? 一人に対してバーター四人!?」
「大丈夫大丈夫、多少の無理は通るから」
「……ほんとに大丈夫なの? ちなみに番組は?」
「Mステ」
「ミュージック・ステージ……!? 金曜のゴールデンじゃん! 絶対ダメでしょ!」
「大丈夫大丈夫、多少の無理は通すから」
「『通す』って言っちゃってるし……知らないよ私」
「大丈夫大丈夫」
と、こんな具合で。
私がデビューした際のゲリラライブへの乱入も含め、中々の破天荒っぷりだ。
こういうところが、ヘレンさん筆頭のハチャメチャな人たちにうまくハマったのかな、と思う。あの人たちも、プロデューサーの言うことだけはよく聞く。現場のスタッフさんたちの言うことは平気で無視して自分らしさを押し通すのに。
……もしかしたら、担当している人に合わせていて、今はそういう仕事を中心に持ってきているのかもしれない。プロデューサーは凄腕だという噂だから。
*
(……なんて、さすがにそれはないかな?)
「ちょっと加蓮さん! 考え事してる暇ないよ! 引いてる引いてる!!」
考え事に耽る私を、愛海ちゃんの焦った声が現実に引き戻す。
「うわっ!? あ、ちょっ……あぶなっ!」
「ちゃんと握って! 大物っぽいよ! 支える!? お山持っていい!?」
「別のとこ持って!! ねえ愛海ちゃん!」
「なに!?」
「なんで私たち今釣りなんてしてるの!? しかも本格的に漁船に乗って!」
「知らないよ、プロデューサーに聞いてよ!」
「ヘーイ!! それはね、加蓮、愛海! マグロの一本釣りがしたいと、私が直訴したからよ!」
「何を直訴してるんですか!?」
「てゆーか、それで仕事取ってきちゃうプロデューサーもプロデューサーだよ!」
「無駄口叩いてねーで気合い入れて引けオラァ!! 釣らねーと帰れねーぞ分かってんのかァ!?」
「船長厳しいし! 私たちアイドルじゃなかったっけ!? 仕事おかしくない!?」
「何事も経験ね、加蓮! 応援は任せていいわよ!」
「ヘレンさんも引くの手伝ってくださいよ!!!」
バラエティ色の強い仕事から、アイドルらしさの強い仕事まで。第七事務所に舞い込む仕事は実に多彩だ。
*
「…………高峯のあと」
「し、白菊ほたるの」
「……ミッドナイトラジオ。始めるわ」
「……始まります。今日も、あの、よろしくお願いします……」
「…………よろしく」
「のあさん、最近何か変わったことはありましたか?」
「…………そうね。ライブの仕事があったのだけど」
「ああ、この間の……清美ちゃんたちと一緒の?」
「ええ。私と志乃はいつも通りだったのだけど……清美と、加蓮がいつもよりはしゃいでいたように見えて。…………微笑ましかったわ」
「なるほど。それは素晴らしいですね」
「ええ、素晴らしいこと……」
「…………」
「…………」
「早くゲスト紹介して!? 放送事故か!! ツッコミせざるを得なかったからだよ!!」
「…………リスナーのみなさん、驚いたかしら。今怒涛のツッコミをしたのが、今日のゲストである北条加蓮よ」
「か、加蓮さん。マイク入ってますから、もう少し声は落として……」
「えっ、私が悪いの? 仕方なくない? 収集つかないでしょ?」
「……このあと、きっちりオチは考えていたわ」
「えっと……だ、そうですけど」
「絶対嘘だもん。ラジオで無言とか初めて見たよ?」
「…………そう? わりと、よくあることだけれど」
「そうですね。だいたい毎週……」
「それ普通じゃないから! ていうかミッドナイトラジオって何、今夕方だし!」
「…………まるで深夜のように、静かなラジオ。それが由来」
「ウッソでしょ!?」
*
「グラビアの仕事? あたしに?」
「ああ。棟方と、あとウチからは柊と北条」
「マジで! いいの? タッチは?」
「ノータッチな。見るぶんには許そう」
「ですよねー。まあでも楽しみだよ! 服越しのお山もオツなものだけど、剥き出しになってるのは格別だもん!」
(おっさんか)
「そうだな、楽しんでくるといい」
「他の部署からも来るの?」
「ああ。第三から高橋と松本」
「おお!」
「第四から佐藤と兵藤」
「おおお!!」
「第五から及川だ」
「最高じゃん!!!」
「コンセプトは『制服コレクション』な」
「水着じゃないの!!?」
(このメンツで制服……!!?)
「水着にしようよ! そっちのが絶対映えるよ! 今夏だしちょうどいいでしょ!?」
「秋用の仕事だからダメだ。棟方はブレザー、柊は白セーラーで、北条は黒セーラーな」
「あ、私もセーラーなんだ。……志乃さんのセーラー服ってあんまり想像できないんだけど。大丈夫?」
「予想外だからいいんだ」
「あ、そう……志乃さんOK出してるの?」
「まだ話してない。柊ならたぶん平気だろう」
「そうかな……?」
最終的には、志乃さんもOKを出した。
……渋々だったけれど。
(……ブレザーしか着たことないから、セーラー服ちょっと楽しみかも)
私は純粋に楽しみだった。
*
「北条さん! いつも応援してます!」
「あはは、ありがとうございます」
「ずっとファンでいるつもりなので! これからも頑張ってくださいね!」
「はい、もちろん。応援、よろしくお願いしますね!
………………ふぅ。……ね、プロデューサー、握手会ってこんな感じでいいんだよね?」
「……うん? うん。大丈夫だぞ」
「だよね」
「どうした? 急に」
「いや……向こう見てたらさ。不安にもなるよ?」
「時子様! 貴女に絶対の服従を誓います!」
「あら、なかなか良い心がけね? ……ただ、一つ言わせてもらおうかしら」
「はいっ!」
「頭が高いわ、この豚!」
「ああっ、ありがとうございます!」
「ほたるちゃん、いつも応援してるよ! 頑張ってね!」
「あ、ありがとうございます……あの、誕生日を教えてもらってもいいですか?」
「え? 十月十日だけど……」
「ええと、じゃあ天秤座ですよね。……今日のラッキーカラーは……青なので、この青い折り鶴をどうぞ」
「うん? あ、ありがとう……?」
「愛海ちゃん、こんにちは! いつも見てますよー、頑張ってくださいね!」
「ありがとう、おねーさん! 握手だけじゃなくて、特別にハグしよっか?」
「え、いいんですか? じゃあお願いしよっかな?」
「うんうん、じゃあギューッとね! …………うひひっ」
「……ほら。あれ握手会なの?」
「うん。……まあ、うん。あっちはあっちであれでいいし、北条は北条で大丈夫だ。不安なら冴島を見て安心しよう」
「清美ちゃん、いつも応援してます!」
「ありがとうございます!」
「これからも清く正しく、頑張ってくださいね!」
「もちろんです! 風紀を乱さぬように頑張りますよ!」
「……な?」
「うん。普通だね。安心した」
*
周りに振り回されたり、慣れないことに翻弄される日も多かったけど、私は私なりに毎日を懸命に過ごしていた。
手抜きせずにアイドルをやるということは決して楽ではなくて、レッスンも仕事も大変だった。
斜に構えたりひねくれたりはできない。そんな余裕はないから。
真っ直ぐに正面からぶつかって、全力を使い果たす日々。
無理をしていないか、と両親から心配されるようになるほどに、私は以前とは違う日常の中を生きていた。
疲れる日は当然多いし、失敗して落ち込む日も多い。
楽に生きるという観点のみで言うなら、きっと私の変化は愚かしく映るだろう。
だけど、私は現状に限りなく満足していた。
かつて憧れていたものに。
一度は諦めたものに、少しずつでも確かに近づく道の上にいると、確信できていたから。
こんな日々が一生続けばいい、なんて風にも思った。
……でも、そんなのは当然無理な話で。
第七事務所に配属された頃は桜が咲く春だったが、今や紅葉さえ終わった冬のはじめ。
時が進むということは何かが変わる。
良しや悪しには関わらず、だ。
変わりゆくことを実感することになるその日も、私は日常の一部となった事務所へ向かった。
第七事務所は基本的に騒がしいことが多いけれど、その日は静かなものだった。
私が入った時に居たのはほたるちゃんだけで、彼女はソファに座って静かに雑誌を読んでいた。
「あ……加蓮さん。おはようございます」
「おはよ。他のみんなはいないの?」
「はい。私たち以外はお仕事みたいです」
「そっか。じゃあプロデューサーも付き添いかな」
「そうですね」
「ってことは、レッスン場までは歩きかー」
「そうなりますね。……まあ、そんなに遠いわけでもありませんから」
レッスンの予定時間まではまだ余裕があった。だから、その時間つぶしがてらほたるちゃんととりとめのない話をしていた。
最初の頃はお互いにどこかよそよそしいところがあったけれど、密度の濃い時間を一緒に過ごす中で、すっかり親しくなることができた、と、私は思っている。
そんな友人同士の会話を遮るように、コンコン、と事務所のドアが小気味好い音を立てた。
第七事務所の面々ならばノックなんてしないはず。
誰だろう、と思いつつも、
「開いてますよ、どうぞー」
と扉の向こうに声を返した。
「失礼します」
入ってきたのは、グリーンのオフィススーツを着た事務員のちひろさんだった。
「あら、ええと……加蓮ちゃんとほたるちゃんだけ? プロデューサーさんは不在ですか?」
「うん、いないですよ」
「……えっと、何かご用件があれば、伝えておきますけど」
「そうですか。じゃあ、お言葉に甘えて。……これ、渡しておいてもらえますか?」
そう言ってちひろさんがほたるちゃんに手渡したのは、A4サイズほどの茶色い封筒だった。
「そこまで急を要するわけでもないんですけど、それなりに重要な書類なので。よろしくお願いしますね」
一度簡単に念を押してから、ちひろさんは事務所から出て行った。
「……重要な書類だって。なんだろうね?」
「……み、見ちゃダメですよ。やっぱり」
「ダメだとは言ってなかったよ?」
「いや、でもやっぱりダメですよ。これはちゃんとプロデューサーさんに……あっ」
「危ない! ……大丈夫?」
プロデューサーのデスクの方へ向かおうとするほたるちゃんが、ソファに足を引っ掛けてしまった。
幸いコケたりはしなかったものの、体勢を崩してしまった際に封筒からは手を離してしまって。
封が空いた封筒の中身が、床に散らばってしまった。
「だ、大丈夫です。でも、ああ……」
「あらら。ま、怪我しなかったからよかったよ。ささっと拾っちゃお」
「す、すみません……」
「いーよいーよ。……これは見ちゃっても仕方ないよねー。だって事故だもん」
「あの、あんまり見ないようにしましょうね……?」
そんな軽口を叩きながら、私とほたるちゃんは床に広がった書類に手を伸ばした。
言いながらも私とて、仕事における分別ぐらいはつけているつもりだった。自分が見てはいけないものだったら、すぐに目をそらすつもりだった。
「………………え」
だけど、最初に拾った一枚に書かれていた文字は、私にとってはとてもショッキングで。
すっかり目を奪われてしまった。
「……ほたるちゃん」
「はい? ……あ、加蓮さん、ダメですよ。そんなにじっと見ちゃ……」
「ほたるちゃん。これ……これ、見て」
私の様子を不思議に思ったようで、ほたるちゃんは可愛らしく首をかしげたあとにおずおずと私の手元を覗き込んだ。
「…………なん、ですか。これ」
それから、私と同じようにピシリと固まった。
私が拾ったそれは、プロデューサーの本名が記入された、退職届だった。
*
「プロデューサー、いる!?」
レッスンが終わった後は直帰していいという指示だったが、私とほたるちゃんは真っ直ぐに事務所へと戻った。
ドアを開けてすぐにそう言ったけれど、目当ての人は見当たらなかった。
事務所にいたのは、清美ちゃんと時子さんと、のあさんだけ。
「……急にどうしたんです、加蓮さん。プロデューサーは会議があるそうで、今はいませんよ」
と、清美ちゃんが冷静に私に言った。
「いつ帰ってくるの?」
「さあ、そこまでは。……どうしたんですか、ほんとに。ほたるさんもですけど、そんなに険しい顔で」
怪訝そうにそうたずねる清美ちゃんに、さっきちひろさんから受け取った封筒を押し付けた。
「……さっき、レッスン行く前にちひろさんが置いてったの。…………中身、退職届だった。プロデューサーの名前が書いてた!プロデューサーがやめるってことだよね!?」
「……退職届、ですか。……そうですか。仕方ありませんね」
私たちとは違って、清美ちゃんは特に驚いたそぶりも慌てたそぶりも見せなかった。
ただ少しだけ、寂しそうな表情を浮かべた。
「……なんで、そんなに落ち着いてるの!? やめるんだよ、プロデューサーが!」
「……落ち着いてください、加蓮さん。仕方ないじゃないですか」
「仕方ないってなに!? プロデューサーがやめるのに、なんとも……」
「うるっさいわよ加蓮」
思わないの?
そう言おうとしたが、不機嫌そうに顔を歪めた時子さんに制止された。
「ちょっとは黙って話を聞きなさい。幼な子じゃあるまいし、ピーピー鳴いていい歳じゃないでしょうが」
険のある物言いに少し気圧される。
「…………時は、人を待たないもの。無情にも思えるけれど、それが理よ、加蓮」
続くのあさんの意味深な言葉が、私の頭を冷やした。
「……あの、どういうことですか?なにか、事情が……?」
私と同じくプロデューサーの退職に動揺していたほたるちゃんが、隣からそうたずねる。
「……プロデューサーは、次の春をもって退職されます。これは間違いありません」
ほたるちゃんの問いに、清美ちゃんが答えた。
「ただ、プロデューサーは退職を望んではいませんし、プロダクション側もプロデューサーの退職は望んでいません。……仕方ないんです」
一度言葉を切って、清美ちゃんは少し俯いた。その顔はさっきのものよりも明らかに寂しげで、彼女だって平気なわけではないんだと気づいた。
「プロデューサーは、今年で六十五歳。……定年退職を迎えますから」
清美ちゃんはそう言うなり、封筒の中から書類を取り出した。
「退職届は……これですね。……ほら、ここに書いてあるでしょう」
清美ちゃんが指差したのは、退職事由の欄。
さっきは退職届という文字に目を奪われて見落としていたが、そこには、『満六十五歳となるため、会社規定の定年制に従うところによる』と記載されていた。
翌日、私たちは全員事務所に集められ、プロデューサーの口から改めて退職することを伝えられた。
その時に初めてそのことを知った愛海ちゃんは、私やほたるちゃんと同様明らかに慌てていた。
同じく初めて知ったはずの志乃さんとヘレンさんは、対照的にいたって落ち着いていた。大人組はどこか別の機会で知っていたのか、それとも年齢から察していたのか、時子さんやのあさんも含めていつもと変わらない態度だった。
そのことが、私に自分が子供だということを感じさせてくるようで、少し悔しかった。
ちなみに清美ちゃんは、プロデューサーにスカウトされる際に、じきに定年になるということを伝えられていたらしい。
「……まあ、そういうわけでな。私は今年度でここを離れることになる。それでだ、最後の餞別と言っちゃなんだが、大きめの仕事を取ってきたんだ。……これをバッチリ成功させて、晴れやかな気持ちで私を見送って欲しい」
プロデューサーが取ってきた、という仕事は、第七事務所と第二事務所が年明けに合同で行うライブイベントだった。
大きめというだけあって、その会場は今までにやってきたライブの会場とは規模が違った。
第二事務所と一緒にやるということを考慮しても、かなり強気の姿勢で選んだと思える。
大きなライブの話を聞いたけど、正直私はそっちに思考を回せるほどの余裕が頭になかった。
プロデューサーがやめる、という一事だけが頭の中でぐるぐる回って、他のことは締め出されているようだった。
いつかのように、また私は屋上でぼんやり佇んでいた。
あの時の悩み事は、自業自得だった。
だけど、今のこれは、私じゃどうしようもない。
一体どうしろと言うんだろう。
(……どうしようもないじゃん)
嘘つきめ、と内心で彼を非難する。
支えてくれると言ったのに。
倒れても起こしてくれると言ったのに。
……一緒に夢を見てくれると、言ったのに。
やめてしまうんなら、そんなの無理じゃないか。
わがままだっていうのはわかってる。
まだ一年弱の短い付き合いの中でも、プロデューサーは私を支えてくれたし、挫折から救ってくれたし、夢を見るために手を貸してくれた。
だけど。
(足りないよ……)
どうしてそんなに急なんだ。
あんな言い方をされたら、もっとずっと、一緒にいれると思うじゃないか。
折り合いなんて、そんな簡単につけられるわけがない。
聡いつもりだった。大人びているつもりだった。
でも、そんなことはなくて。
まだまだ私は子供で。
だから、もっともっと、頼れる人には頼りたかったんだ。
「屋上が好きだな、北条は」
あの時と同じように、優しい低い声が私を呼ぶ。
あの時同様沈み込んだ気分の私は、また驚くこともなくプロデューサーの方を向いた。
「……別に、好きってわけじゃないよ」
違うのは、明るく振る舞えないところ。
「そうか」
プロデューサーは私から二歩ほど離れた位置で立ち止まって、安全柵にもたれかかる。意図的か否か、それはあの時よりも遠い距離。
「……北条がウチに来てから、もう半年以上経つな」
「……そうだね」
「前にこんな感じで話したのがちょうど半年前ぐらいか?」
「うん」
「あの時と比べると……随分変わったように思うな。北条は」
「そりゃあね。いっぱいむちゃくちゃな経験させてもらったもん。変わらない方が変」
「……むちゃくちゃだったか?」
「だったよ。所属して早々、ライブに出されたりさ」
そこで失敗したのに、すぐにまた次のライブに出演させてもらったり。
デビュー間もないのにゴールデンタイムのテレビ番組に出させてもらったり。
バラエティ系の仕事もたくさんしたし。
アイドルらしい仕事をしながらも、はちゃめちゃな周りとのギャップでびっくりしたりもした。
一年にも満たない期間の思い出が、胸に浮かんでは消えていく。
むちゃくちゃだった。
大変だった。
厳しいことも辛いこともあった。
……だけど、今までの人生で、きっと一番輝いてた日々だった。
ずっと、続いて欲しかった。
そんな子どもみたいなことを、私は思ってたんだ。
「……さみしいよ、プロデューサー」
「……ごめんな」
そのあと、どんな風にプロデューサーと話をしたかはあんまり覚えてない。
恨み言を言った気もするし、嘘つきだと罵った気もするし、子どもみたいに駄々をこねた気もする。
そんなわがままな私に対して、プロデューサーはなんの言い訳もせずに、ただ耳を傾けていた。
プロデューサーは、車で私を家まで送ってくれた。
自室のベッドに脱力して倒れ込んだ。
私より年下の子たちだっているのに。
手を煩わせて、心配させてしまった。
別れ際に、プロデューサーから封筒を受け取った。
中身が何かは気になるけれど、今は見る気になれなかった。
スマートフォンに入っている連絡を見る気にもなれなくて、私はそのまま目を瞑った。
翌日のオフをはさんで、次の日はレッスン日だった。来たるライブに向けて、第七事務所総出でレッスン場へ。
私はまだ気持ちの整理はついてなくて、暗い顔だったと思う。他のみんなはそれまでと変わらない様子で、なんて強いんだろうと思った。
薄情だとは思わなかった。
そんな人たちじゃないことは、一緒に過ごした私がよく知っていたから。
レッスンが始まっても、私は気もそぞろで集中できなくて。ミスは多いし注意してもパッとしないしで、指導を受ける態度としては最低だった。
それを見かねてだろう。
「……トレーナー。ちょっと止めなさい」
時子さんが、レッスンを中断させて私を室内から引っ張り出した。
二人だけの静かな廊下で、時子さんが口を開く。
「……加蓮、私が以前言ったことを忘れたのかしら。私のやる気を削ぐような真似をするなと、言ったわよね?」
時子さんは、仕事に対してどこまでも真摯だ。
だからこそ、たとえレッスンでも気の入っていない人間がいるのは不愉快なんだろう。
「……ごめんなさい」
「大方、あの男がやめるってことでウジウジしてるんでしょう? ……あなたがどう思おうがどうだっていいけど、私の前でそんな態度を取るのはやめなさい。鬱陶しい」
「……時子さんは、平気なの?」
「アァン?」
私よりも、長い付き合いなのに。
付き合いの長さと思い入れが比例するとは限らないけど、往々にして長ければ長いほど思いも強くなるものだろう。
「……なんとも思わないの? プロデューサーがやめるんだよ?」
「思わないわけないでしょう。愚問にもほどがあるわね」
「……えっ」
「……あの男は、本当に有能だった。私が望んだ相応しい舞台を用意し、私のやりたいようにやることを許した。私に、新しい楽しみを、新しい生き方を提示したわ。……まあ、望まないものを大量に押し付けてきたりもしたけれどね」
心底嫌そうな言い方をするけれど、その表情はどこか懐かしむように見えた。
「どんなに少なく見積もっても、私は確かにあの男に恩があるわ。だったら、それは返すのが道理。……というよりも、そうしなければ私の気が済まないのよ」
時子さんは吐き捨てるように、真っ直ぐな言葉を言った。
「あの男は、私がアイドルであることを望んだ。望まれたなら、そうあるだけ。そうあるために、今できることをしているだけよ。あの男がやめようが、私がそれについてどう思おうが今は関係ないわ」
あなたはどうなの、と。
そんな目を向けられた気がした。
だけど、返事を返す前に、時子さんはさっさと室内に戻ってしまった。
(私は……)
どうすべきなのか。
答えは、わかってる気がした。
だけど、やっぱり心許なかったから。
不安だったから。
他のみんながどう思ってるのかを聞きたかった。
志乃さん。
「……やめてしまうのは、当然寂しいわ。だけど、別に今生の別れじゃないでしょう? また会うことはできるし、お酒を一緒に飲むこともできる。だったら、そう深く考えても仕方ないんじゃないかしら。……今は、彼のために。晴れやかに見送るために、頑張るだけ、ね」
のあさん。
「…………出会った以上は、別れるのが定め。それは不変の運命。…………それでも。たとえ身体的な距離が離れたとしても、繋いだ心まで離れはしない。……その繋がりがあるなら、私は多くは望まないわ」
清美ちゃん。
「私は、プロデューサーに頼まれました。『大変だと思うけど、ウチでなんとかアイドルたちをまとめて欲しい』と。……頼まれたからには、やり通します。超☆風紀委員の名にかけて。……今は、それしか考えてません」
ヘレンさん。
「プロデューサーは、最高のパートナーだったわ。そんな彼に、私がすべきことは一つだけ。それは、世界で最も輝くこと。遠くにいても側にいると錯覚するほどに、私は強く大きく輝くわ!」
私と同じように退職に動揺していた二人も、今は真っ直ぐ前を向いていた。
愛海ちゃん。
「あたしさ、こんなんじゃん? プロデューサーにはいっぱい迷惑かけたし、いっぱいお世話になったよ。たぶんだけど、めちゃくちゃ心配してると思うんだよね。『自分がいなくなって、棟方は大丈夫か』ってさ。それは凄く嬉しいんだけど、やっぱり見せたいじゃん。あたしは大丈夫だよって。プロデューサーがいなくても、ちゃんとアイドルやれるよって。……安心してもらいたいからさ、今は頑張ろうって思うんだ」
ほたるちゃん。
「……私は、運が悪いです。前にいた事務所は倒産して、そこをプロデューサーさんに拾ってもらったら、今度はそのプロデューサーさんがやめてしまう。不幸だなって思いました。……でも、不幸だから不幸せってわけじゃありません。とても幸せな日々を、もらいましたから。だから、今度は私が返す番なんです。ファンの皆さんと……プロデューサーさんに。笑顔や幸せを届けたい。もう、失敗するのは嫌ですから」
みんながみんな、色んな想いを抱えながら、自分にできることをしている。
(……じゃあ、私は?)
どうしようもないことに振り回されて、周りに迷惑をかけて。
また、後ろ向きに立って佇んでる。
何もかも諦めてた、あの時と同じように。
愛海ちゃんもほたるちゃんも、私よりよっぽどしっかりしてて、よっぽど強い。
一番心配されてるのも。
不安に思われてるのも。
私じゃないのか。
もらったものに比して、全然何も返せてないのも。
きっと私だ。
(……バッカみたい)
せっかく、昔捨てた夢をもう一度拾えたのに。
憧れた輝く舞台へ続く道に、今立っているのに。
こんなんじゃ、また灰をかぶっていたあの頃に逆戻りだ。
プロデューサーがいなくなったからもうダメだ、なんて。そんなのでいいわけない。
いなくなったら、今の私の見る影がなくなるぐらいに頑張るんだ。
大きく強く成長して、それから言わなきゃ。
(今の私があるのは、プロデューサーのおかげだよって。プロデューサーがいたから、ここまで来れたんだよって!)
それが、私にできることで。
きっと私がすべきことだ。
(……でも、今日はもうレッスンも終わったし、時間も遅いし。……帰ろ)
帰途につくと、見知った二人組を見かけた。
今度のライブでも一緒になる同年代の二人。
小走りで駆け寄って声をかけた。
「奈緒、凛。お疲れっ」
「え?」
「あ、加蓮じゃんか。偶然だな?」
凛とは、以前テレビ番組の収録で一緒になって以来友人として付き合いがあった。元々親しい奈緒と同じ第二事務所所属だということが仲良くなれた大きな一因だ。
せっかく会えたんだからどこかで話でも、と、私たちは近くにあったバーガーショップに足を踏み入れた。以前に奈緒と遭遇したのと同じ店。
前とは違う窓際に座り、くだらない話を楽しむ。
以前は若干の後ろめたさを奈緒に対して感じたけれど、今はそれもなくなっていた。
「……しかし、あれだな。結構平気そうだな? 加蓮」
「え?」
「ちょっと心配してたんだよ、奈緒と二人でさ。……第七のプロデューサー、やめちゃうんでしょ?」
「ああ、そのこと。……うん、もう平気だよ。会ったの昨日だったら、慰めてもらってたと思うけどね」
「昨日はヘコんでたのか……ま、立ち直れたんならよかった。……一緒に頑張ろうな、加蓮!」
「うん。凛も、よろしくね?」
「もちろん」
そういえば、と、一つ思い出す。
プロデューサーから受け取った、あの封筒。
何が入ってるんだろう。
カバンの中に突っ込みっぱなしだったから、今もまだそこにあるはず。
カバンを漁って封筒を取り出すと、奈緒が興味深そうに覗き込んできた。
「なんだ? それ」
「わかんない。プロデューサーにちょっと前に渡されてさ。なんだろ」
テーブルの上にひっくり返してみると、出てきたのはクリアケースに入った白いCDディスクと、何枚かがクリップで束ねられた紙束。
「CD? と……これ、楽譜だね」
凛が紙束を掴む。
五線譜の上に音符が踊るそれは確かに楽譜だ。
「タイミング的に、ライブ用の曲かな?」
「にしては少なくないか? 楽譜一曲分ぐらいしかないだろ」
もう一度封筒を振るうと、底の方に留まっていた紙切れがヒラリと落ちてきた。
そこには、プロデューサーの書いたものらしい丁寧な文字。
『次のライブのために作った、北条のソロ曲だ。
最後の置き土産、ということになるかな。
バラードでちょっと難しいかもしれないが、
今の北条ならきっと歌える。
頑張れ。曲名は、【薄荷-ハッカ-】だ。』
見た瞬間に、?がじんわりと熱くなった。
そんな様子を見た奈緒と凛が、私の手の中にある手書きの手紙に目を落とす。
「薄荷……」
「……粋なことするね、加蓮のプロデューサー」
「……うん。ほんとにね」
「……なあ、凛。薄荷ってミントのことだよな?」
「ん? うん、そうだよ」
「へー……そういや、ミントとかの食べ物系も花言葉ってあるんだっけ?」
「……食べ物系って……まあ、あるよ」
そういえば、凛は花屋の娘だと聞いている。
草花に関する知識に詳しいようだ。
「ミントっていっても色々あるけど、薄荷だよね。薄荷の花言葉は『貞淑』、『美徳』と、あとは……」
これを聞いて、本当に粋なことをする人だと改めて思った。
「『迷いから覚める』、かな」
私は、ライブに向けて全力を尽くした。
本番当日までは、プロデューサーが持ってきた仕事にしては長めの三ヶ月という猶予があった。
だけど、余裕はとてもない。
任されたソロ曲もそうだが、その他にも練習する必要がある曲はたくさんある。ユニット曲も、全体曲も、バックダンサーとして出る曲も。
体力をつける必要だってあった。
全てを完璧にするのは無理なのかもしれない。
だけど、それを諦めていいとは思えなかった。
私の一年間を。
真っ直ぐに、全部ぶつけるんだ。
もう、後悔なんてしたくない。
本音を言えば、時が過ぎていくのは惜しい。
それは、別れの時が近づくということだから。
だけど、やっと動き始めた私の時間を、二度と止めたくはないから。
止めちゃいけないと、思うから。
時の流れと一緒に、前へ進むんだ。
惜しんでいたって、そうじゃなくたって、等しく時間は過ぎる。
三ヶ月という短くはない時間も、私たちにとってはあっという間だった。
「……頑張っておいで。みんななら、きっと上手くいく。信じてるぞ」
柔らかな言葉に背中を押されて、私たちはスタンバイのため、舞台裏に入った。
もうあと三分もしないうちに、幕は開いて。
……プロデューサーと一緒の、最後の仕事が始まる。
そのことを思うと胸が少しだけ疼くけれど、振り返っちゃいけない。
もう迷わないって、決めたんだから。
アイドルとして輝くことが、プロデューサーにできる最大の恩返しだと思うから。
ビーッ、というブザー音とともに、幕が徐々に上がっていく。最初は第二、第七事務所全体での楽曲。
スタミナに、不安がないと言ったら嘘になるけど。
最初から全力だ。
(温存なんて、しないから……ちゃんと逃さず見ててね、プロデューサー。……私の、全力を!)
下見をしていたから知っていたけれど、会場は本当に広かった。
そんな広いところにお客さんはいっぱいまで入っていて、突き抜けるような歓声がイヤーモニター越しにも聞こえた。
圧倒はされる。
でも、それで怯んだりはしない。
私はもう、そんなにヤワじゃないと信じてる。
光り輝くこの舞台で、しっかりと立つことができるはずだから。
*
本番は、練習よりも段ちがいに疲労がたまる。
ライブのセットリストは半分を過ぎて、残すところも少なくなってきた。
ユニット曲やバックダンサーとしてのステージは終わり、残る私の出番は、ソロ曲『薄荷-ハッカ-』と、ラストの全員での『お願い!シンデレラ』だけ。
椅子に座り込んで、息を整える。
自分のスタミナのなさが恨めしい。
今、歌っているのが奈緒。
その次が凛。
そして、その次が私。
あの広いステージにたった一人立つと思うと、足が震えそうだ。モニターに映る奈緒は楽しそうに踊っている。
(……私も、あんな風にできるのかな?)
自分でした問いの答えに詰まる。
疲れと重圧が、自信をぐらぐらと揺らす。
だけど、そんな私に、
「大丈夫」
と。
そう答えてくれたのは、いつの間にか周りに集まっていた仲間たちだった。
「自信を持ちなさい。あなたはもう、以前のあなたじゃないわ」
ヘレンさんにそう言ってもらえると、本当にそうだと思えるよ。
「落ち着いて……自分らしく、ね」
志乃さん。うん、志乃さんみたいに、自分らしく。頑張ってくるね。
「無様な姿を見せるんじゃないわよ。もう二度とね」
時子さんは厳しいけど、それは優しさの裏返しだよね。知ってるよ。
「………………楽しむことも、肝要。忘れないで」
そうだね、のあさん。せっかくの夢の舞台なんだもんね。
「ファイトです! ……あ、でもハメを外し過ぎちゃダメですよ!」
清美ちゃん……今日ぐらいは許してほしいな。でも、ありがとう。
「緊張してるならマッサージしよっか? ……あ、ちゃんとしたやつだよ?」
遠慮しとくよ愛海ちゃん。その言葉で緊張もほぐれたし。
「……頑張ってきたの、知ってますから。自分を信じてくださいね」
うん、ほたるちゃん。頑張ってきたよね。……絶対、成功させるから。
「……北条さん! そろそろスタンバイ、お願いします!」
「……はいっ!」
自分一人じゃ不安で仕方なかったのに、みんなからほんの少し言葉をもらうだけで、今はもう大丈夫だと心から思えた。
誰よりも頼りになる仲間たち。
なんて安心感だろう。
見ててくれる。
あの人たちと……プロデューサーが。
「北条っ!!」
大好きな低い優しい声が、私を呼んだ。
ゆっくりと振り返ると、ニッコリ笑うプロデューサーの姿。
「……夢を、叶えておいで。信じてるぞ!」
うん。
「大丈夫。貴方が育てたアイドルだよ!」
*
その日見た景色を、私は一生忘れない。
眼下に広がる客席には、楽しそうに笑うファンのみんな。泣いてる人もいたけど、それは悲しみの涙じゃないよね?
優しく光って、海のように揺れるサイリウム。
その波間に立って歌う私の姿は、みんなの記憶に残ったかな。
何度も夢見て、一度は捨てて。
そしてもう一度見たいと、確かに願った夢の光景が、そこには広がっていた。
*
*
ライブが終わった次の日。
みんながオフで休日になっているところ、私はプロデューサーに無理を言って海に連れて行ってもらっていた。
二人並んで浜辺に座り込む。
「……プロデューサー、いつまでいるんだっけ?」
「そうだな。……あと、二週間ほどかな」
「そっか」
「引き継ぎの準備は終わってるから、私がいなくなったあとも心配しなくていいぞ」
「……まあ、その辺は心配してないけどさ」
引いては戻る波の音が鼓膜を揺する。
心地よい、優しい音。
「……どうしてまた、海に来たいなんて言ったんだ?」
「んー? ……昨日、光の海を見ちゃったから、かな? 本物も、見ておきたいなって。迷惑だった?」
「いいや?」
「ならよかった」
正直、二人になれる静かなところなら、どこでもよかったのだけど。どうせならと思って、雰囲気の出そうな海を選んだ。
「プロデューサー」
「うん?」
「……ありがとう。私を、アイドルにしてくれて。私の夢を、叶えてくれて」
「……アイドルになれたのは北条の力だし、夢が叶ったのは、北条が頑張ったからだろう」
「そういう風に言うと思った。素直に受け取ってよ、お礼はさ。私だって照れるんだよ?」
「そうか。なら、どういたしましてと言っておこうか」
「うん。……ずっとそばで、っていうのは無理だけどさ。これからも、見守ってくれるよね?」
「ああ、もちろん。……ちゃんと、見守らせてくれよ? あんまり小さな光は、私には見えないぞ。歳だからな」
「ふふっ……うん。任せてよ」
「頼むな。……まあ、あまり心配はしてないが」
「え。してよ」
「信頼してるということだよ。……あの光景を見たんなら、もうアイドルは諦められないだろ?」
「……それは、そうかも」
くしゅん、と、隣からクシャミをする音が聞こえた。
「……うん。やっぱり冬の海は冷えるな。そろそろ帰るか、北条」
「うん。そうだね」
プロデューサーはゆっくりと立ち上がり、駐車している車の方へ歩いていく。
一度大きく息を吸い込んで、離れていく立派な背中に向かって叫んだ。
「……プロデューサーっ!! ありがとう! 大好きだよっ!!」
*
神様がくれた時間は、こぼれていく。
きっとそれは時間だけじゃなくて、大切な思い出も、大事な人も、少しずつ手のひらの隙間から流れ落ちていく。
だけど、それでいいんだと思う。
こぼれ落ちてしまっても、離れて、いずれ手が届かなくなってしまっても。
大切なものは、決してなくなったりしないから。
繋がっていた時間は、心から消えたりはしないから。
……さよなら、プロデューサー。
おしまい。
……長過ぎる。前書いたのの倍ぐらいある。
ちゃうねん、コメディとシリアスがいい感じに混ざったのが書きたかってん。……実力不足? せやな。
でも、これだけは言わせてほしい。
読んでいただいた方、誠にありがとうございました。
またどこかでお会いできましたら。
乙といいたいがうまく言葉にできない
>>72
「?がじんわり~」ってなってるかな。
頬です。ほお
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