速水奏「カエルの面に××」 (30)

 風邪をこじらせて臥せっているはずの彼女は、
 プロデューサーだけにそのメッセージを送った。

 速水奏のプロデューサーは、とにかく馬鹿正直だと、もっぱら評判だった。
 細やかな気配りができない代わりに、裏表のない快活な人物だ。

 奏のほうもそれをよく知っているからこそ、短い言葉で済ませた。

「アイドルを辞めます」

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1490620227

「なぜ」

 時間をおいてプロデューサーの返事が来る。

「とにかく」

 と、奏はひどく不器用な手つきで文章を打つ。

「なんでも」

 プロデューサーが奏の住む賃貸アパートを訪ねてきたのは、日が暮れたあとだった。
 インターホンの音に、もそもそと布団の中でスマートフォンを操作しはじめる。

 以前の自分だったら――と、奏は考える。
 すぐにでも、来てほしかったのだけれど。
 そう言って、悪戯っぽく笑うこともわけなかった。

 馬鹿正直なプロデューサーの困った顔をからかっては、
 さて、この人にはどこまで伝わっているのだろう――
 そんなスリルのようなものに身を捩っていた。

「どうして」

 冷たく湿った指先では、うまく文章が打てない。

 結局、自分のしようとしていることの結果は同じなのだから、
 と思うけれど、すぐに玄関へ向かうことも、迂遠な言い回しを止めてしまうことも、
 奏にはできなかった。

「どうして来たの」

 いままで、ずっとそうだった。
 面倒な手続きを経なければ、プロデューサーとのコミュニケーションはうまく取れず、
 迂遠な言い回しでもって、馬鹿正直なプロデューサーをからかっていなければ、
 今度は自分が馬鹿なことをしでかしてしまいそうだった。

 それも、いまの自分には似つかわしくない――そう思いながらも、結局、奏はこのやり方しか知らなかった。

「速水、部屋に居るのか」

 そして、プロデューサーは、奏の期待通りに戸を叩いてくれた。

「鍵なら」

 いつもなら、もっと時間をおく。が、そうも言ってられない。

「鍵なら開いてるわ」

 プロデューサーはためらいがちにドアを開け、奏の部屋へと入った。
 床に、洋服と下着とが散らばっていた。

「速水」

 彼は部屋の隅で塊になっている布団へ声をかけた。

「風邪で顔でも変わったか」

「その通り」と、奏はプロデューサーのスマートフォンへメッセージを送った。

「声が出せないのか?」

 頭から被った布団の中の暗闇、奏の目に涙が滲んだ。
 微かな震えに気づいて、プロデューサーは戸惑った。

「どうしたんだよ。急に、辞めるなんて、びっくりするじゃないか。なにか、嫌なことでもあったのか……?」

 すすり泣く声が、布団の塊から漏れた。
 その声は、以前の細く美しい声ではなく、太く、痰の絡まったような泣き声だった。
 プロデューサーはぼんやりと、なにかを察した。

「病院、行ったか」

「行ってないわ」と、ようやく布団の中から返事が返ってきた。
「行けるわけない。こんなんじゃ、外にも出られない」

 すすり泣きは、慟哭に変わった。
 その泣き声は、ワー、オウッ、オウ、……こんなところであろうか。

 プロデューサーは塊の傍へ屈みこんだ。そして、布団をそっと撫でた。

「いやっ、やめて……」

 奏はかなり強く抵抗した。が、プロデューサーは無理やりに布団を剥がした。

「速水、お前……どうした」

「だから、いやなのよ……」

 そこには、涙で顔中を濡らした大きなカエルが、居た。

「たまげたな」

 プロデューサーが呆気にとられていると、そのカエルは顔を覆って泣きに泣いた。

「私、なにか悪いことしたかしら。どうしてこんなことが起こるのよ、ねえ、プロデューサー……」

「いつからだ?」

「昨日から……」

「ふぅむ」

「夢だと思ったの。寝て起きたら、元に戻ってるって……でも夢じゃないのね、プロデューサーがここに居るってことは……」

「ああ、そうだなぁ」

「そうだなぁ、じゃないわよ。貴方ってホントのんきね」

「一緒になって慌てても仕方ないだろ」

「そこは、頼もしいけど。ゲロゲロ。ねえ、この姿、気持ち悪いでしょう……」

 大きなカエルはうつむいて、また涙をボロボロと落とした。

「俺、爬虫類は好きだぜ」

 プロデューサーはペタリとカエルの肩に手を置いた。

「慰めになんか、ならないわよ……!」

「ごめん」と、プロデューサーは立ち上がった。
「ところで、速水。ごはんは食べたのか」

「…………」

「食べてないんだな。なんか買ってくるよ」

「待って、置いてかないでよ!」

「あ、一緒に行く?」

「行けるわけないでしょ!」

「じゃあ待っててくれよ。大丈夫、すぐ戻ってくるから……」

「そういう問題じゃなくて……」

 結局、奏の押し負けだった。プロデューサーは言葉通りすぐに帰ってきた。
 大量のミネラルウォーターとインスタント食品を袋いっぱいに入れて。

 二人は床へ直に座って、カップ麺を啜った。

 プロデューサーは不思議な気分だった。
 奏は顔だけでなく、体までがカエルそのものだった。
 頭髪どころか体毛もなく、わずかに湿った皮膚が筋肉の動きに伸び縮みしている。

 しかし、プロデューサーにとって、カエルへの変身以上に不思議だったのは、
 どうして彼女が速水奏だとわかるのか――そのことだった。
 カエルはカエルだが、彼女はいまもなお速水奏で、そのことに違和感もなく腑に落ちてしまっている。
 そして、それはきっと自分にとってだけなんだろうな、と妙な確信があった。

「味、変わらないか」

「ン……いつもよりおいしいくらい」

「そうか」

 プロデューサーは、まだなにか入ったままのビニール袋を隅に追いやった。
 一応、ソレ用の食べ物も買ってきていたのだ。

「ねえ、プロデューサー」と、奏は大きな口を開いた。
「気持ち悪いでしょう」

「俺は平気だぜ」

「そうね、そう見える」

「これからどうする?」

「どうしたらいい?」

 そう言って、奏はパカっと口を開けた。
 それはどうやら微笑らしい――、が、すぐにまた泣き出してしまった。

「どうしたらいいのよ。一生このままだったらどうしよう、アイドルなんて無理。
 外へだって一生出られない。どうしよう、ねえ、プロデューサー」

「とにかく、食ってから泣けよ。悪かったよ、俺も」

「なにが悪いの? プロデューサー、悪いこと言った……?」

「先のことは、もう少し落ち着いてから話そうってこと」

 そう言って、プロデューサーはカップ麺のスープをぐいっと飲み干した。

「健康に悪いわよ」

 腹を満たして、なんとなく映画など観始めると、その状況に慣れてきたらしい。
 プロデューサーと奏は肩を並べて、テレビ画面に見入っていた。
 俳優の顔がアップになって、奏はポツリと呟いた。

「もう、私はダメね」

「そうか」

「あんな風にはなれないのね」

「映画の登場人物みたいに?」

「そう。憧れだった」

 なんでもない場面なのに、奏は泣いた。

「今日は泣いてばかりだな」

「いつも、独りで泣くからね」

 彼女はパカっと口を開け、微笑した。

「泊まっていくよ」

「布団、ないわよ」

「昨日は眠れたのか」

「……ぐっすり」

「嘘が下手になったなァ、そこはずっとそのままでもいいんだぜ」

「ひどい人」

 ぐすん、と奏は水かきのついた手でプロデューサーの肩を叩いた。

なんやこれ
なんやかこれ!?

 奏の好きな映画を2本観終わってから、風呂に入った。
 順番はプロデューサーが先で、石鹸などと一緒に置いてあるカミソリに、少しだけ影のような心配事が湧いた。
 けれど、彼は奏を信じることにした。

「熱いお湯は、やめておいたほうがいいかもな」

「優しいのね」

 プロデューサーはいい加減に髪を乾かすと、ベッドに寝転んだ。
 そうして、ある童話を思い出そうと努めた。
 詳しい話の筋はほとんど忘れてしまっていたけれど、ともかく、
 カエルの変身はキスで魔法が解けるものと相場と決まっている。

 彼の心は奏との出会いにまで遡った。
 出会ってすぐ、キスをせがまれた。

 年頃の娘さんが……、馬鹿正直に言って聞かせて、奏はきょとんとしていた。
 二度、三度と繰り返して、ぷーっと吹き出した彼女に、ようやく彼は気づいた。

 なーんだ、冗談だったのか。

 あの日交わされなかったキスは、互いにとって特別で、
 プロデューサーにとっても、奏にとっても、忘れがたい思い出だった。

「プロデューサー、上がったよ」

 奏の口は、あの日と違う。けれど、プロデューサーには同じのような気もした。

「寝よう」

「うん、寝よう」

 二人で寝ると、そのベッドは狭かった。
 抱き合って、ようやく体が収まるくらいだ。
 体をよじるたび、パイプがギシギシと唸った。

「プロデューサー、あったかいね」

「お前の肌は冷たいな」

「カエルだもの」

「なあ、奏」

「なによ」

「一緒に暮らさないか」

 奏はぎゅっとしがみつくように、彼の体を抱いた。

「アイドルができなくて、一生外に出られないなら、俺が面倒見るから、一緒に暮らそう」

「ありがたい申し出ね」

「そうだろう」

 暗闇の中で、お互いの瞳を覗くと、心の底まで見えるような気がした。

「でも、ダメよ」

「どうして」

「カエルだもの。私は醜くなったから」

「綺麗なときだって、そう変わらんぜ」

「結果としてはね」

「愛してるんだ」

 プロデューサーは、奏の冷たい肌をあたためるように、自分の体をこすりつけた。

「カエルを?」

「お前をだ」

 彼は彼女を抱き寄せて、湿った口にキスをした。

 触れた瞬間から、お互いに目を閉じて、透明な言葉が音もなくすり抜けていくのをじっと聴いていた。
 そうして、魔法は解けた。

「奏……」

 奏は自分の頬に両手を当て、それから慌てて裸体を隠した。

「私ったら」

 顔を赤らめる奏から、目をそらして、プロデューサーはベッドを出た。

「帰る」

「カエル?」

「帰宅します」

「あら、泊まっていくんじゃなかった?」

「そんな嘘に、騙されるなよ」

 彼は身繕いを済ませると、部屋を出て行った。
 部屋を出る直前、後ろを振り返って、奏に言った。

「明日から、また仕事だぜ」

「ねえ、プロデューサー」

「なんだ」

「もう一日、おやすみを貰ってもいい?」

「……いいとも、風邪、こじらせたんだものな」

「それともう一つ」

「なんだよ」

「キスしてくれない?」

「馬鹿」

「おやすみ」

「ああ、おやすみ」

 ベッドのシーツに湿気が残っている。
 奏は暗闇に白い手のひらを浮かべた。
 水かきは、ずいぶん小さい。

以上です。読んでいただきありがとうございました。

おつ

乙です

なんだこのプロデューサー、ただのカエル好きじゃねえか

何これ綺麗

何となくミュージアムのカエル男思い出したわ

あなたの素晴らしいssを読んだおかげで、
奏限定SSRが当たりました。本当にありがとう。

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom