茜「文香ちゃんの素朴な疑問」 (59)
爽やかな汗の匂い、という文章に差し掛かったところで、鷺沢文香はふと、本の文字を追う目を止めた。
そして、事務所のソファに腰掛けたまま、じっと考える。
爽やかな汗の匂い。
雰囲気を伝える文章表現としては、特別に珍しいという程のものではないが、しかし――
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爽やかな汗の匂いとは、具体的に一体どのような匂いなのか。
鷺沢文香は突然のことの様に、それが気になった。
そういった抽象的表現に具体性を求めることはある種とても野暮な行いであるし、鷺沢文香も当然その辺りのことは弁えていた。
しかし、彼女がアイドルとなってから得た変化――成長欲と冒険欲が、事務所きっての文学少女である彼女に、その一歩を踏み込ませた。
全ては、アイドルとなる以前の自分自身から脱却する為。
そして引いては、ファンに分け与えられる歓びを、一つでも多く増やす為。
鷺沢文香は『知』に対してより一層、貪欲となっていた。
だからこその、湧いて出た疑問である。
果たして爽やかな汗の匂いとは如何なるものなのか。
鷺沢文香はこれまで書物から得てきた知識を基に仮説を組み立て、疑問の解決に最適な方法を思案する。
まず、『爽やかな』という形容詞から察するに、時間の経過した汗ではない。
一般に汗が悪臭を帯びる主たる要因は、時間経過による細菌繁殖や酸化であるためだ。
また、当該の匂いを持つ人物の要件として、普段から一定以上の運動をしていることが挙げられる。
日常的な運動は新陳代謝を活発化させるため、結果として悪臭の原因成分を多く含む汗が作られにくくなるのだ。
更に付け加えるならば、汗を流す人物に付帯するイメージも重要であるだろう。
プラセボに代表されるように、イメージのもたらす効果は非常に大きい。
今回の場合に求められるのは『健康的な爽やかさ』、つまり表情豊かな笑顔の絶えない人物が望ましい。
以上の点から、日常的な運動の習慣を持ち頻繁に汗をかく、笑顔の似合う人物の、運動を終えた直後の匂いを嗅ぐと良い――という答えが導かれる。
そこまで考えたところで、鷺沢文香は一つ後悔を覚えた。
まとまった人数でのライブを終えた後ならば、何もせずとも比較的容易に条件が出揃うこと気が付いたのだ。
実際に彼女が『ライブ直後のアイドルの匂いを嗅ぐ』などという大それた真似が出来るかどうかは不明な話だが、しかしただ条件を揃えるだけならば、ライブというシチュエーションはこれ以上なかった。
しかし、次のライブはまだまだ先の予定である。
レッスン場に行ってみるという選択肢も思いついたが、しかしそれだけの為にレッスンの邪魔をするわけにもいかないとして、却下した。
もはやこの疑問の解決は難しいかと鷺沢文香が諦めかけた、丁度その時だった。
「おっはようございまーす!!! 今日もランニング日和のいい天気ですねー!!!」
事務所のドアが、元気さの有り余る挨拶と共に勢いよく開かれた。
声の主は、姿を見るまでもなく誰であるかの判別がついた。
「……おはようございます、茜さん。今日もお元気そうで、何よりです」
「あっ、文香ちゃん! おはようございますっ、文香ちゃんも元気そうで何よりですね!!」
果たしてドアを蹴破らんばかりの勢いで突入してきたのは、紛れもなく日野茜であった。
おそらく挨拶の言葉通りにランニングをしてきたのであろう――輝く汗が、その全身に浮かんでいた。
それも、眩しいばかりの笑顔を添えて。
「……」
「? どうかしましたか、文香ちゃん? あっ、読書中でしたか! これは失礼しました! 私、これからシャワーを浴びてきますから、どうぞごゆっくり――」
「……あの、茜さん」
体を振り向かせ駆け出そうとした日野茜を、鷺沢文香はソファから立ち上がり、呼び止める。
囁き声に近い声質の鷺沢文香の声をしっかりと耳で拾った日野茜は、即座に向き直り、笑顔で返事をする。
「はいっ、何でしょうか、文香ちゃん!」
「……一つ、茜さんにお願いがあるのですが……よろしいでしょうか?」
「お願い、ですか? もちろん、私にできることなら喜んで! 体力を鍛えるんですか? 握力を鍛えるんですか? それとも、両方ですか!!」
唐突な頼み事も快く引き受けようとする日野茜のその姿勢には、彼女の持ち味である熱さばかりでなく、どこか気持ちの良い清々しさがあった。
普段ならば、汗の匂いを嗅がせて欲しい、などと口に出してお願いすることなど到底出来ない鷺沢文香も、そんな真っ直ぐさに助けられてか――
目の前の彼女になら、頼める気持ちとなった。
「その、実は……」
「はい、何でしょう!」
明るさに満ちた笑顔で続きの言葉を待ち受ける日野茜は、鷺沢文香にとってこの上なく頼もしかった。
だからこそ鷺沢文香も、安心して次の言葉を紡いだ。
変態に文章力を与えた結果がこれだよ
「茜さんの、匂いを――嗅がせて欲しいのです」
「なるほど、匂いですね!! 分かりました! では早速――はて? 匂い、ですか?」
「はい、匂い、です」
「……?」
「……?」
数秒の間、鷺沢文香と日野茜は、首を傾げて互いを見つめ合った。
果たして先に沈黙を破ったのは、日野茜の方だった。
「えっと……匂い、といいますと、その……匂いのことでしょうか?」
「はい、鼻腔の嗅覚受容神経によって脳に認識される、匂いのことですが……」
「……?」
「……?」
そして再び、二人は首を傾げて見つめ合うに至った。
しかし日野茜の方は、更に謎が増したような表情に変わっていた。
「匂い……匂い……? わ、私の……?」
「あの、茜さん……?」
鷺沢文香にとって一つ誤算であったのは、自分が頼みやすいことと、実際に相手がそれを引き受けてくれるかどうかは、また別の問題であるということだった。
無論、鷺沢文香としても、誰もが手放しで引き受けてくれるような願いではないことは重々承知していたが、しかし、日野茜の気持ち良さにそれを失念させられた形となった。
果たして予想だにしなかった頼まれ事に日野茜の混乱は深まり、彼女はその情報の処理に追われた。
瞳に螺旋の模様を浮かべながらも、飲み込めることだけを、少しずつ飲み込んでいく。
そして数秒後、僅かながらも情報の整理が終わったのだろう日野茜は、恐る恐る口を開いた。
「え、えっと、文香ちゃん……?」
「……? はい」
「にっ、匂いをかぐのはその、大丈夫、なんですけどっ」
「! 本当、ですかっ」
「で、でもですね? 今は、ダメです……私、すごく汗をかいているので……一度シャワーを浴びてからなら、大丈夫、ですっ」
しとろもどろになりながらも、日野茜はしっかりと譲れない点を示しつつ、言葉を紡いだ。
しかしそれは、鷺沢文香にとってもまた、譲れない点であった。
「それでは、駄目なんです」
「えっ?」
「このお願いは、今の茜さんでなければ――駄目なんです」
この上なく真剣な調子で、鷺沢文香は告げる。
その様子に日野茜も思わず感化され、気持ちが真っ直ぐに正された。
「文香ちゃん……その、理由を聞いても、いいでしょうか……?」
「……はい。私が先程まで読んでいた本に、『爽やかな汗の匂い』という表現が出てきたのです」
「爽やかな汗の匂い、ですか……具体的にどんな匂いかは分かりませんが、でも、イメージすることはできますね」
「はい、それが文学の面白いところです。……けれど、私はどうしても今、それが具体的にどのような匂いなのかを知りたいのです」
「それは……どうしてですか?」
「……私は、アイドルとなる以前まで、ただの本の虫でした。いえ、それどころか、知識を頭に詰め込むことで、世界をそれなりに知った気でさえいました」
「……」
「でも、アイドルとなってから、自分の思っていた以上に、自分の知っている世界が狭いことに気付きました。
いえ、それだけでなく、知識として知っていることでさえ、その半分も理解できていなかったことを知りました」
「……文香ちゃん……」
「だから、曖昧な理解に留めておくことは、出来る限りしたくないのです。しっかりと己の身で理解をして、そしてそれを、誰かに伝えられるようになりたい。
そうすることが何より、私をアイドルの舞台に上げてくれたプロデューサーさんや、応援してくれるファンの皆さんへの恩返しになると思うのです」
「……」
鷺沢文香の言葉を、日野茜は受け止める。
落ち着いていることの苦手な彼女が、しっかりと、耳を傾けて。
言葉の意味を咀嚼し飲み込むことが苦手な日野茜も、鷺沢文香のその想いは、同じアイドルとして十分以上に理解できた。
だから、考えた。
考えて、そして、覚悟を決めた。
「……分かりました。文香ちゃんの熱い気持ち、しっかりとこの胸に、受け止めましたっ」
「! では……」
「えっと、すごく恥ずかしいです……けどっ。文香ちゃんのためなら私、協力します!!」
顔を真っ赤に染めながら、日野茜は宣言する。
鷺沢文香は安堵と驚きで思わず目を見開き、息をすぅ、と吸い込んだ。
「……本当、ですか?」
「ほっ、本当、です!!」
「本当に、良いのですか……?」
「いっ、いいんです!!!」
鷺沢文香からの今一度の問い掛けに対しても、日野茜はあくまで強気に答えてみせる。
その表情は恥じらいを隠すかのようにぎこちなく、しかしそれは同時に、彼女の覚悟の大きさをも示していた。
対人経験の豊富でない鷺沢文香も、目の前の彼女が乙女としての羞恥を必死で堪えて引き受けてくれたことを感じ取り、理解した。
だからこそ、胸の内からは自然と、感謝の言葉が浮かび上がってきた。
「……有難うございます、茜さん」
言葉の扱いには少なからず自信のあった鷺沢文香も、それ以外の言葉がどうしても見つからなかった。
時に言葉というのは、感情の大きさを越えられないものなのだと、知った。
だから鷺沢文香は、微笑みで気持ちを示した。
我儘に応えてくれた優しい彼女に、せめて少しでもそれが伝わるように。
大晦日と新年にかけてこんなSS書くなんて……
遅れて来たサンタさんかな
「い、いえいえっ、文香ちゃんは同じアイドルの、大切な仲間ですから!! 仲間のためならこれくらい、何てことないですよ!!!」
日野茜は、笑顔でそう言い切ってみせる。
そこまで感謝される程のことではない、と。
――恥じらいの窺える、ぎこちない、強張った笑顔。
けれどもそれは、確かに鷺沢文香のための笑顔。
鷺沢文香も思わず頬が綻び、胸の暖かさが増す。
「茜さん……本当に、有難うございます。いつか必ず、お返しをさせてください」
「そ、そんな、お返しなんていいですよ!」
「いえ、大切なことですから。私も、茜さんのために、何かをしたいのです。……大切な、仲間のために」
「! 文香ちゃん……」
「……これもまた、我儘、でしょうか?」
「い、いえ、そんなことは! ……嬉しい、です」
日野茜は少し俯いて、緊張の緩んだ笑みを溢す。
先程までの強張るばかりだった彼女の表情から力が抜けた様子を見て、鷺沢文香もまた歓びを覚え、微笑んだ。
ちらりと顔を上げた日野茜と、目が合う。
「……」
「……」
二人は照れの混じった笑みを投げ合い、しばしの間、見つめ合う。
そして、互いの呼吸が整ったところで、鷺沢文香が一歩、前へと踏み出した。
「それでは……時間が経ってしまわない内に、失礼します――」
「!!! あっ、まままま待ってください!!」
突然の日野茜からの必死の静止に、鷺沢文香は思わず足を止める。
驚きに目を見開きながら、鷺沢文香はもじもじとした様子の日野茜の言葉を待つ。
「え、えと、はっ、恥ずかしいので!! その、ゆっくり、ゆっくりでお願いします!!」
先程よりも顔を一層真っ赤に染め上げながら、日野茜はせめてと心の準備期間を求める。
それが拒絶の言葉などではなかったことに鷺沢文香は安堵し、そして、優しく頷いた。
「はい、分かりました。では、ゆっくりと――」
そう返事をして鷺沢文香は緩やかに一歩ずつ、日野茜に歩み寄る。
対する日野茜は、顔を真っ赤に染めたままぎゅっと目を瞑り、身体に力を入れていた。
鷺沢文香には、そんな彼女がまるで口付けを待っているかの様に見えて、微笑ましくなった。
とても初心で、愛らしい様子。
もし同性でなかったなら、ここで過ちを犯してしまっていたかもしれない――と、鷺沢文香は少し、冗談の様に思った。
僅かな間を経て、鷺沢文香は日野茜の目の前まで辿り着き、彼女の両肩に手を置く。
「……っ!!」
鷺沢文香の両手が肩に触れた瞬間、日野茜の身体がビクっと、緊張で震えた。
顔の赤らみは増し、力の入った眉は絵に描いたかの様に八の字を形作っている。
そんな日野茜の様子が、より一層口付けを待っているかの様な印象を強めて、鷺沢文香は一瞬、ドキリとした。
これから及ぼうとしている行為に対する背徳感が、彼女の中で急激に増す。
胸の鼓動が徐々に高鳴り、顔の温度が上昇を始める。
そもそもとして、アイドルの汗の匂いを嗅ぐというのは背徳的な行為ではないのかという、一度は忘れたはずの根本的な疑問が、再び鷺沢文香の頭に渦巻き始めた。
緊張に身体を震わせる日野茜を目の前にして、鷺沢文香は数秒の間逡巡する。
彼女の『知』は、結論を出した。
「それでは、茜さん。……失礼、します」
「――っ!! は、はいっ……」
果たして鷺沢文香は、行為に踏み切った。
互いの頬同士を触れ合わせる様な形で、日野茜に顔を近付ける。
――元々が我儘、背徳からの行いであるのだから、途中で挫けてしまっては、それに付き合うと言ってくれた彼女に申し訳が立たない――というのが、鷺沢文香の導いた答えだった。
「っ……」
相手の体温が近付いたことを察した日野茜が、身体を更に緊張させる。
思わず息を飲むと、強張った彼女の声帯が、意図せぬ音を立てた。
髪の毛が触れ合うと、鷺沢文香の存在をより一層強く感じて、胸の高鳴りが増した。
そして、彼女が汗の匂いを嗅ぐすぅ、という音が耳に入ると――
「――っ!!!」
日野茜の緊張は、頂きに達した。
いつの間にか掴んでいた鷺沢文香の服の裾を、彼女は無意識にギュッと強く握りしめる。
そんな日野茜の緊張は、勿論鷺沢文香にも伝わっていた。
もし逆の立場だったならと考えると、やはり近い内にお返しをしなくてはならないと思わせられた。
しかし行為の最中、鷺沢文香の『知』は、そんな理性を置き去りにしていた。
日野茜の匂いを嗅いだ彼女の意識は、深く、夢中の底へと沈み込んでいた。
その匂いには、どこか覚えがあったから。
鷺沢文香が思い出すのは、日野茜がこの部屋に入ってくる前に考えていた方法のこと。
――ライブを終えた後の、あの瞬間の記憶。
疲れと、それを上回る高揚感。充足感。
あの清々しさ、爽やかさ。
無意識の領域で覚えていた、匂い。
――ああ、自分の中にもあったのだと、鷺沢文香はふと思い至って、満たされた気持ちになる。
自分の中に眠っていた、歓びの欠片。
輝く碧を見つけた時の様な、爽やかな、幸せを感じる、あの匂い。
知っていたことに気付けていなかったのだと、今やっと、気付くことができた。
誰かに伝え切る自信は、まだ持てない。
でもきっと、昨日よりは上手く伝えられる。
だから――そう。
次のライブが、待ち遠しい。
鷺沢文香は、そう思った。
そして、そこまで思考が巡った後に、彼女の意識はようやく理性の下へと戻ってくる。
気が付けば、緊張の極致にある日野茜が、まるで解放の時を待つかの様に服の裾を握りしめていた。
「……」
この時、鷺沢文香の頭にふと、行動の選択肢が浮かんだ。
真っ先に浮かんできたのは、謝辞を述べて身体を離すこと。
正道としか言い様がなく、本来的に採るべきはこの行動であると鷺沢文香も理解していた。
実際、彼女の理性は間違いなくそうしようと、一度は肉体に働きかけた。
しかし、彼女の『知』が、衝動が、その選択を押しのけた。
押しのけて、そして強引に、もう一つの選択肢を身体に、そして意識に、決定づけた。
――この幸せな匂いを、もっと味わっていたい。
――もう少しだけ、強く。
果たして鷺沢文香は、日野茜の肩に添えていた手を背中まで回し、彼女を柔らかく抱きしめた。
突然の抱擁に、日野茜も驚きから思わず目を見開き、掴んでいた鷺沢文香の服の裾を手放す。
「!!? えっ、あ、あのっ、文香ちゃん……!?」
「……すみません、茜さん。後出しのお願いで、申し訳ないのですが――」
鷺沢文香は、更に身体を寄せる様にして、日野茜を抱き込んだ。
「もし、嫌でなければ――どうかもう少し、このままでいさせてください」
「え、ええええっとぉ……!? あっ、だ、駄目です文香ちゃんっ、い、や、という訳じゃないですけど、汗がっ」
日野茜は、声が裏返ってしまいそうになりながらも、必死に言葉を紡ぐ。
「私、すごく汗かいてますからっ……文香ちゃんに汗、付いちゃいます……!!!」
「それでしたら、私は構いませんから……もう少しだけ、お願いします」
「だ、だだだ駄目ですっ、汚いですからっ……!!!」
「汚くなんか、ありません。……幸せ、です」
「――っ!!?!?」
日野茜には、鷺沢文香がたった今しがた経験してきた無意識世界の旅路のことなど、当然知る由もなく。
結果として、極端に言葉足らずとなった鷺沢文香の言葉に、日野茜の情報処理能力はあっけなく限界を迎え――
プシュー、と音が立ちそうな勢いで、全身の力が抜けるに至った。
為されるがままとなった日野茜と、思うがまま幸せな気持ちを堪能する鷺沢文香。
しばらくの間、その状態は続いた。
そして、それが打ち切られたのは、やはり訪問者の力によるものだった。
「美嘉ちゃーん!! おはよー! ドアの前で、何やってるの?」
「「「!?!!?」」」
突然の第三者の声に、鷺沢文香は反射的に日野茜から離れ、日野茜もまた、不意に理性を取り戻す。
そして二人は、ドアの向こうから聞こえてきた声――赤城みりあから挨拶を投げ掛けられたであろう、『美嘉ちゃん』を探す。
果たして、『美嘉ちゃん』ことカリスマJKアイドル城ヶ崎美嘉の姿は、僅かに開いていたドアの隙間、その向こうに認められた。
「み、みりあちゃん、おおお、おはよっ。え、え~っと、そのぉー……」
いたく狼狽した様子の城ヶ崎美嘉は、赤城みりあの方と、二人の方とで、視線を慌ただしく移動させている。
どちらに何と言おうか、判断をしかねている様子だった。
「どうしたの美嘉ちゃん? 中に誰かいるの?」
「あっ、うん……ちょっと、取り込み中、かな……? あ、アハハハ……」
赤城みりあをドアに近付けないよう手のジェスチャーで留めながら、城ヶ崎美嘉はどうしようかと迷っていた。
二人の行為を――具体的に何をしていたかまでは把握していないが――覗いてしまっていたことを謝るのはまず当然として、赤城みりあがこの場に居ることを何より悩んだ。
謝る段になった時、赤城みりあは間違いなく、二人に何をしていたのかを尋ねるだろう。
それは悪意などではなく、純粋に彼女の可愛らしい好奇心として。
城ヶ崎美嘉もそれが気にならないと言えば嘘になるし、出来るならば根掘り葉掘り聞いてみたいくらいだった。
しかし、城ヶ崎美嘉が目撃した光景の中には、汗をかいていると主張する相手を抱きしめた上で、幸せと述べる場面もあった。
ともすれば非常にデリケートでセンシティブな問題かもしれず、そうすると踏み込み方には気を付けなくてはならない。
ここで下手を打てば、最悪、二人を大きく傷付けた上で話が終わってしまうだろう。
日野茜と鷺沢文香は、何かを誤魔化すことが得意な人物ではないと城ヶ崎美嘉も知っていたし、そうなってしまうことは避けたかった。
また、赤城みりあをそういった問題に触れさせてしまうことも、躊躇われた。
ひょっとすれば自分が何でもない話を誤解しているという可能性も考えられなくはなかったが、それでも妹よりも年下である彼女には、まだ早いと感じた。
果たして城ヶ崎美嘉は、悩んだ末に結論を出した。
ひとまず赤城みりあには何とかこの場を後にしてもらい、二人にゆっくりと謝罪、事情を聞く。
それがおそらくはベストの選択だと、城ヶ崎美嘉は考えた。
だが――そんな城ヶ崎美嘉の苦悩は、徒労に終わる。
「みっ――みみみみ、美嘉ちゃん!?!!?」
「み……見て、らしたのですか……?」
城ヶ崎美嘉は、顔を真っ赤に染めた日野茜と鷺沢文香から、声を掛けられた。
当然の運びと言えばそうだったが、本当に、何かを誤魔化すことが不得意な二人だと城ヶ崎美嘉は思った。
「……えっと……うん、ゴメン。途中からで、二人が何をしてたかは分かんないけど……見てた」
ここまで来たら、もはや誤魔化そうと考えるだけ裏目に出てしまうだろうと考えて、城ヶ崎美嘉は正直に打ち明ける。
「と、途中からというとっ」
「……どこから、でしょうか……?」
日野茜と鷺沢文香は、更に城ヶ崎美嘉に追及の言葉を投げ掛ける。
回答を求められる彼女も、半ば自棄になっていた。
「えーっと……確か、茜ちゃんが文香さんに、恥ずかしいからゆっくり、って言ってたところから、かな」
城ヶ崎美嘉は、出来事の順番の奥に追いやられかけていた記憶を手繰り寄せながら、嘘偽りなく述べる。
彼女が部屋に入ろうとした時、僅かに隙間の空いていたドアの向こうから、日野茜のその発言が聞こえたのだった。
何事かと思い隠れて覗き込んでから、赤城みりあに声を掛けられるまで、城ヶ崎美嘉はじっと、時に顔を赤らめながら、二人の様子を眺めていた。
「? 茜ちゃんと文香さん、中にいるの?」
「え、あ、うん。そうだよ」
「「!!!」」
赤城みりあからの問い掛けにも、城ヶ崎美嘉は正直に答える。
若干うっかりの返事でもあったが、しかし二人の声は赤城みりあにも聞こえているため、今更隠しても仕方ないだろうという判断だった。
彼女をその場に留めるジェスチャーも、打ち切った。
結果、赤城みりあは躊躇なくドアまで足を運び、僅かに隙間を空けるばかりだったそれを、開け放つ。
「茜ちゃん、文香さん、おはようございまーす!」
赤城みりあは持ち前の無邪気な笑顔を携えて、日野茜と鷺沢文香に挨拶を投げ掛ける。
姿の見えていた城ヶ崎美嘉ばかりに気を取られていた二人は、緊張の度合いを更に高めた。
彼女の声によって城ヶ崎美嘉に気付いたことすら、二人は忘れかけていた。
「みっ、みりあちゃん、おはようございますっ」
「……おはようございます、みりあちゃん」
「? どうしたの二人とも? 何だか顔が赤いよ?」
「えっ!? そ、そうですか!? あ、あははははっ」
「……」
果たして赤城みりあからの素直な問い掛けに、日野茜はぎこちなく笑い、鷺沢文香は言葉に迷い黙ってしまう。
見かねた城ヶ崎美嘉が、助け船を出す。
「えっとね、みりあちゃん。茜ちゃんと文香さんは自主レッスンしてたから、だから顔が赤くなってるんだよ」
鷺沢文香と日野茜は、はっとして城ヶ崎美嘉を見る。
苦笑しながらも城ヶ崎美嘉は、二人にウィンクを投げて意図を伝える。
心強い味方を得たことに安堵した二人は、僅かばかり安堵して、息をつく。
「へ~、そうなんだ! そっか、だから二人とも汗をかいてるんだね!」
赤城みりあは、無邪気に納得した様子を見せる。
三人はこのまま平和に場が収まるかと思ったが、ふと、鷺沢文香は疑問を覚えた。
「……? 私も、ですか?」
二人とも、という言葉に、鷺沢文香は引っ掛かかりを感じた。
確かに日野茜は実際にランニングを行ってきたために、汗をかいている。
しかし自分は、特別な運動などは何もしていないはずだと、首を傾げた。
「うん、だって、顔も服も、汗でぬれてるよ?」
「――ッ!!」
赤城みりあからの素直な指摘に思い至るところあって、鷺沢文香は動揺する。
――先程、汗が付いても構わないと押し切って日野茜を抱きしめたのは、他ならぬ自分であると気付いた。
今更ながらに恥ずかしさを覚え、顔が真っ赤に紅潮する。
「? 文香さん、さっきよりも顔赤いけど……どうしたの? もしかして、具合悪いの?」
「な、何でも、ありません……少し疲れが、出てきたのかもしれないです」
心配そうに尋ねてくる赤城みりあに罪悪感を覚えつつ、鷺沢文香は答える。
日野茜に対するそれと相まって、視線の置き場が定まらなくなった。
「ほ、ほら、そんな汗まみれじゃ、今日のお仕事できなくなっちゃうよ。二人とも、シャワー浴びてきたら?」
慌てて、城ヶ崎美嘉がフォローを試みる。
今の二人と赤城みりあとでは噛み合わせが良くないと感じて、一度二人を退避させることにした。
「あっ、そうです!! 文香ちゃん、シャワーを浴びに行きましょう!!」
「は、はい……そうですね、では……」
鷺沢文香と日野茜も上手くその提案に乗り、今度こそ場が収まるかと思われた。
しかし、二人が部屋を出ようとした寸前――
「あれ? そういえば――」
「? どうしたの、みりあちゃん?」
「さっき美嘉ちゃんが言ってた、茜ちゃんの、『恥ずかしいからゆっくり』って、どんなレッスンなの?」
「「「!!!!!」」」
――赤城みりあが、爆弾を投下した。
城ヶ崎美嘉はしまったという表情になり、鷺沢文香と日野茜は、再び顔の温度が急上昇した。
「なっ――ななななな、何でもありませーーーーーーーーーーーーーーんっっっ!!!!!」
熱量が臨界に達した日野茜は、思わず全力で叫び、そして無意識に鷺沢文香の手を掴んで、駆け出していた。
かろうじてシャワー室のある方向には向かっていたが、動揺からほとんど前は見えていなかった。
しかし幸いなことに誰にもぶつかることなく、手を引かれていた鷺沢文香の働きによって、二人は無事シャワー室に辿り着いた。
その後も、鷺沢文香と日野茜は行為の恥ずかしさが尾を引いて、シャワー室で互いの一糸纏わぬ姿に照れたり、あるいは日を跨いでからも、ふとした拍子に相手を意識してしまうようになったりしたのだが――
それはまた、別の話。
かくして鷺沢文香は疑問を解決し、アイドルとしての成長をまた一つ得ることができたのである。
後日、城ヶ崎美嘉に事の仔細を説明した二人は、『二人とも、何してんの』と呆れられたそうな。
終わり。
乙
そうか、あなたのような人を紳士と呼べばいいのか
年始から何書いてんだよ乙
鷺沢文香が日野茜の汗の匂いを嗅ぐふみあか話が読みたいと思って
年末で休みに入ったからつい
ただギャグのつもりで書いたのにもれなく変態呼ばわりされているのはどういうことなの
あと誰か二人が意識し合う湿度高めのお話書いて
天才乙
でもみりあちゃんに説明する過程は?
>>44
みりあちゃんへの説明はお姉ちゃんが頑張ってくれている、はず
乙
ふみあかすばらしいよふみあか
同じ人が書いてるのか知らんが
最近知ったこのふみあかとかいうものはよい。実によい
ふみあかはイイゾ~
乙
いいですねこれ
お姉ちゃんが頑張る話をちょっと書くかも
わっふるわっふる
一応途中までは書けたけど、あんまりギャグっぽくなくなってしまったのと
割と強めな美嘉みりあになってしまったのでそこだけ注意かもしれない
美嘉「みりあちゃんの素朴な疑問」
走り去る日野茜と鷺沢文香を見送って、城ヶ崎美嘉は一息つく。
怪我の功名とはいえ、結果的にこの場は何とかなった。
日野茜と鷺沢文香を傷付けることなく、また同時に、赤城みりあが好奇心で誰かを傷付ける、なんてこともなかった。
着地点としては、これ以上ない。
しかしだからこそ、問題は着地した後にこそあった。
そう、着地の後。
鷺沢文香と日野茜がこの場を離れ、落ち着いた状態になる、というのが着地点ならば。
「茜ちゃん、どうしたのかな? 恥ずかしいって、どんなレッスンなんだろう?」
「そ、そうだね、どういうレッスンなんだろうねー……」
――必然として、残されるのは城ヶ崎美嘉と、好奇心の満たされない状態の赤城みりあとなる。
こういった状況に陥ったのは、覗きに終始してしまった自分にも理由があると城ヶ崎美嘉は考えていたし、だからこそ、赤城みりあに納得のいく説明をするのは、自身の役目だと理解していた。
重々、理解はしていたが、しかし――
正直、荷が重いと感じていた。
城ヶ崎美嘉は、鷺沢文香と日野茜を『何かを誤魔化すのが得意ではない』と評したが、しかし彼女自身もまた、誤魔化すことが特別に得意という訳ではなかった。
カリスマギャルとしての城ヶ崎美嘉を守るための見栄は張るが、それは多くのファンを抱えるプロとしての意識、矜持からであり、人を騙すために積極的に嘘をつくことなどは滅多にない。
精々が、プロデューサーをからかうための冗談といった程度である。
そもそもが、自分自身に嘘をつくことを嫌うからこそのギャルというスタイルであり、だからこそアイドルとしても城ヶ崎美嘉は、ストイックだった。
レッスンでもライブでも、他のどんな仕事でも、手は抜かない。
プロとして、ファンのことを大切にしつつも、自分自身には嘘をつかない。
それが、城ヶ崎美嘉の在り方だった。
故に、何かを誤魔化すことに関しては、日常の一つでありながらも、全く専門外の技能とも言えた。
これが例えば宮本フレデリカや塩見周子、速水奏であったなら、きっと飄々と切り抜けてしまうのだろうと、城ヶ崎美嘉は思った。
もっとも、彼女達が得意なのは誤魔化すことではなく『煙に巻くこと』であったが、しかし今必要なのは、むしろその力だった。
というのも、相手は無垢のメタファーと言っても過言ではない小学五年生の少女、赤城みりあ。
下手な嘘は、罪悪感を伴って自分に返ってくる。
テレビやライブなどとはまた違った類の緊張感が、城ヶ崎美嘉にのしかかる。
そんな彼女の心中を他所に、赤城みりあは無邪気に口を開く。
「あ、そうだ! 美嘉ちゃんは、見てたんだよね? 二人のレッスン!」
「う、うん、見てたけど……ほら、ドアの隙間からだったから、あんまりよく見えなかったんだよね」
「え~、でも、レッスンだってことは分かったんだよね? ちょっとでもいいから、教えて教えてー!」
痛い所を突かれたと、城ヶ崎美嘉は思った。
そう、一番最初、二人が何をしていたのか分からないと言ったにも拘らず、彼女達を助けるために、二人は自主レッスンをしていた、なんて下手な誤魔化し方をしてしまった。
焦りがあったとはいえ、あれは悪手になってしまったと、城ヶ崎美嘉は後悔した。
これで知らない、分からないで押し通すことは、不可能となった。
加えて、この矛盾にメスを入れられてしまえば、絶体絶命の危機が訪れる。
冷や汗が出そうな緊張を押し隠しながら、城ヶ崎美嘉は一先ず、赤城みりあからの質問に答えることとした。
己の持ち味を活かし、尚且つ最大限嘘はつかない様、彼女は赤城みりあに攻めの手を打つことをここで決心する。
「う~ん……みりあちゃんにお願いされちゃったら、中々断れないなー」
「じゃあ、教えてくれるの!?」
「でも、一つ条件付き。これが広まっちゃうと、文香さんと茜ちゃん、傷付いちゃうから。――だから、絶対秘密にすること。良い?」
「うん、分かった! 絶対、ナイショにする!」
「よーし、じゃあ、指切りげんまん、しよっか」
そうして、城ヶ崎美嘉は赤城みりあと小指を絡ませ、指切りの約束を交わす。
楽し気に指切りげんまんの歌を口ずさむ赤城みりあを見て、城ヶ崎美嘉は為すべきことを一瞬忘れてしまいそうになったが、兎にも角にもこれで一つ、口止めのプロセスが完了した。
僅かながらも安堵が生まれ、思考には大きな余裕が出来てくる。
続きはまだかの
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