高垣楓「私、猫になりたいんです」 (125)

・楓さんがモデル時代にスカウトされるお話です。
・アニメ版ではなく、オリP出てくる感じです。
・昔同人誌で発表したSSを少しリライトしたものになります。
・ねこが出ます。ねこかわいい。
・けっこう長いのですが、よろしければ是非どうぞ。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1478946603

ねこですよろしくおねがいします

 唐突な話になりますが、私の家には幾つかのガラクタがあります。
 例えば、飲み屋の店先によくいる、とっくりを携えた狸の置物。
 異国の情景が三〇〇〇ピースに分割されたジグソーパズル。
 ずっしりとした重さのある白木の木刀。
 リンゴのようにつややかな色をしたダルマ。
 ソーラー電池で常に右手をゆらゆらさせる招き猫。
 己の役目を果たすことなくオブジェと化しているダーツボード。
 凄まじい音と共に回る金属ブレードの扇風機。

 きりがないのでこの辺りでやめますが、何故こんなガラクタに囲まれた生活を送っているのかと言えば私の悪癖が原因なのです。
 端的に申し上げれば、私、お酒が好きなのです。

 すごく、好きなのです。

 いえ、これではお酒が悪いと言っているように聞こえるかもしれませんが、
 そうではありません。

 あくまで悪いのはお酒を飲み過ぎて、分別を失ってしまう自分なのです。

 飲み屋の前で狸の置物が欲しいと駄々をこねたり、
 ドンキホーテでガラクタを買い込んでしまったり、
 あまつさえ五分ほど遊んで飽きてしまう等と言った行動を取る自分自身が悪いのです。

 もちろん、そんな事をいたしてしまった日の翌日は、
 鈍い頭痛と共に後悔の念が押し寄せるわけですが、人の反省はかくも脆いもの。
 ついついアルコールの気持ちよさに身を委ね理性を消滅させ、
 ガラクタを抱えて帰宅してしまうのもまた人の性でしょう。

 ともかく、そういった風にして私の家には少しずつガラクタが増えていくのでした。

 そしてまた唐突な話ではありますが。
 どうやら昨日の夜、また私の悪癖が出てしまったようです。
 ただ、今回私が手に入れてきたものは、どうやらいつもとは違うようで。
 ガラクタと呼ぶのはいかがと思われるしろものだったのでした。

     1

 ぷにぷにした何かで頬を撫でられる夢をみていました。
 それはとても幸福で気持ちが良く、安らぎに満ちていました。

 やがてそれが夢ではなく現実だと気付かされたのは、
 携帯電話の目覚ましアラームと、鉛が詰まったような頭痛のせいです。

「あ、またやってしまったな。もうお酒なんて飲まないぞ」

 とその瞬間は思うのですが、それが実行に移された試しはあまりありません。
 鈍い痛みとぷにぷにの感触に挟まれ、しばし私は夢現の間をたゆたっていました。

 しかし私とて職を持つ身。
 今日も仕事がありますし、いつまでもこうしているわけにはいきません。
 起き上がろう、と意を決した時。
 はて、このぷにぷにしたモノはそもそもなんだろう、と気付くのでした。

「にゃおーう」

 目を開いて一番に飛び込んできたのは、世間一般に白猫と呼ばれる獣でした。
 頬に押し付けられていたぷにぷにはいわゆる肉球。
 それがひっついた前足はすこし汚れてはいるものの、ミルクみたいな白色。
 全体の大きさは両の掌にすっぽり収まるくらいで、少々ちいさいように思えます。

 そして何より特徴的なのは、その目。
 左が金で、右が銀。いわゆるオッドアイなのです。

「なーおぅ」

 目を覚ました私に驚いたのか、前足をゆらゆらとさせています。
 それが少しソーラー招き猫の挙動に似ていて、思わず笑ってしまいました。

「にゃおぅ」

 猫は前足をあげるのをやめ、今度は鳴き声で何かを訴え始めます。
 昨日の出来事を必死に思い出そうとしますが、わかるのは酔いの深さのみ。
 さすがに全く記憶にないのは久し振り。ダーツボードが知らぬ間に壁にかかっていた時以来です。
 あの時は財布に押し込まれたドンキホーテのレシートが所業を知らせてくれましたけれど……。

 今回も何か手がかりはないか部屋を見回したところ、
 部屋の中央に段ボールが放り出されていました。
 中にはタオルが敷き詰められています。
 アルコールでひたひたになった脳みそでも、大体の事情は察することが出来ました。

 ゴミ捨て場の扇風機を持ち帰った実績がある私です。
 偶然がいくつか重なれば、捨て猫を拾ってもおかしくはありません。

 とりあえず、ずっと呆けているわけにもいかないので立ち上がります。

 キッチンの方へ移動すると、猫もそれにあわせて付いてきました。
 水を飲もうと蛇口を捻ると、猫はたんっと軽やかな音と共にシンクへ跳躍。
 私のコップを顔でどかし、蛇口からの水をべろべろと舌から貪り飲んでいます。
 喉が渇いているのでしょう。

 それならきっとお腹も減っているはずだ、とシンクの下を漁ってみることにします。
 さいわい酒飲みの備蓄品は猫の好みと合致していそうです。

 ……奥まった場所に放置されていたサバの水煮缶、これならよさそう。
 ぱかりと開けてシンクに置いてやると、相当はらぺこだったのか、
 缶を食い破りそうな勢いでがっつき始めました。

 私もコップに水を注いで一息。
 うっすらと鈍痛や吐き気が薄まっていくような気もします。
 まぁ、錯覚なんですけども。

 キッチンの窓からみる住宅街は、まだ半分眠っているご様子。
 冬から春に切り替わりつつある朝は、
 光は柔らかいのに風は冷たいというちぐはぐさで、ちょっとおもしろいです。

 いつもは欠伸をすると、どこまでもその空気の振動が伝わっていきそうですけど、
 今は缶とシンクが擦れるちいさな金属音だけが響いています。

 目からぱりぱりになったカラーコンタクトを外して、
 化粧をしたまま眠り込んだことを思いだしてため息をひとつ。
 そういえばシャワーも浴びてない。
 もうすぐ二十五歳なのになぁ、なんてぼんやり考えはじめた辺りで、
 猫は食事を終えました。
 前足で顔を拭い、ぺろぺろと舐めています。

「にゃーおぉ」

「おそまつさまでした」

 満足して人心地……いや、猫心地ついたのか。
 猫はとてとてと部屋まで歩いていき、段ボールの中で丸まってしまいました。

 さて。
 沢山考えることはあるけれど、とりあえずシャワーを浴びよう。
 化粧を落として……今日の分は、メイクさんに任せればいいか。
 シャンプーとボディソープを間違えないようにして。
 服は、渇いているのがあったかな? あるはず。
 時間は、けっこうまずいかも。

 洗面所と部屋をばたばたと往復。手早く準備をしなきゃ——あっ。
 段ボールを覗き込み、携帯電話でパシャリ。

「猫が、ねころぶ。ふふっ、ふふふっ」

 まるでお餅みたいになっている猫はとても可愛らしい。
 私の悪癖も偶には良い方へ転ぶじゃないか、なんて思うのでした。


     2

 モデルというお仕事の季節は、世の中とずれていることが多々あります。
 本日の撮影は公園でしているのですが、冬の残り香で肌寒いのに格好は夏真っ盛り。
 動かないでいると鳥肌が立ってガタガタ震えそうですが、
 もちろん、撮影の際にそんな顔をするわけにもいきません。

 さいわい寒い時はライトが当たり始めれば温かいのですが、これが夏場になると大変です。
 とても暑い上に格好は秋物、ライトで体感温度は更に上昇。
 かといって汗をだらだらかくわけにもいかず、ではどうするのかというと気合いで抑えるわけです。

 モデルを始めたばかりの頃はそんなこと出来るわけないでしょ、
 とだらだらと汗をかいてはメイクさんに拭ってもらっていたのですが。
 これが不思議なもので、慣れると出来るようになるのです。
 いやぁ、人って不思議ですね。

 ポージングだってぎこちなく、ひたすらカメラマンさんに怒られてばかりでしたが、
 今となってはお手の物……というほど大したものではありませんけど、
 スケジュールを押さない程度にはこなせるようになりました。

 最初はこんな仕事続かないな、と思っていましたけれど、もうこれで三年目。
 生存競争が厳しい世界ですし、来年もこうしていられる保証はないのですが……割と気に入っています。

 私もこうみえて一応は女子なので、自分が綺麗になるのは嬉しいし楽しいのです。
 メイクさんの技術は魔法というか一種の詐欺みたいですし、
 スタイリストさんの選ぶ服はとても素敵です。
 シャツ一枚とっても、こう、ぴしっと着させてくれるというか。
 私が自分で着るとへなっとしてしまうのですけど。

 というわけで、今日も綺麗に変身させて頂けました。
 夏物のホットパンツに、ぱりっとした白色のシャツ。
 シンプルだけど高そうなイヤリングなんかも。素敵です。

「高垣さん、いけるゥ?」

「はい、大丈夫です」

 カメラマンさんに呼ばれたので、撮影場所へ。
 噴水を前にして撮るようです。
 物珍しさからか、周りに人集りが少し出来ていて、
 ちょっと芸能人みたいだな、なんて思ったり。

「じゃ、いこっか」

「お願いします」

 一礼して、撮影開始。
 カメラマンさんの指示に従ってポーズを取ったり、
 あるいはアドリブしたり。
 いずれにしても自分が前に出るのではなく、
 自分が着ている服が活きるようなポーズを。

 ブランドのロゴマークがあるならそれを隠しては駄目ですし、
 ブーツの形が崩れるように立ってはいけません。
 私が所属する雑誌はOL向けなので、
 あまり腰を入れたりはしゃいだ様子はみせず、
 落ち着いたポーズと表情を心がけます。
 まぁ、そもそもはしゃぐことが私の性格からいって難しいのですけれど。

 撮影の時は色々な事を考えます。
 今日は主に猫について。

 ご飯はどんなのがいいかな。
 ペット禁止の物件だけど、黙ってればバレないかな。
 メイクさんに猫を飼っている人がいたので、色々聞いてみた情報も整理。

 猫の爪には色々注意した方がいいよ、引っ掻かれると腫れるから。
 ちょっと暴れても爪は切ること。

 トイレのしつけ方について。

 窓はしっかり閉めて、なるだけ鍵もかけること。
 けっこう普通に開けちゃうから。

 爪研ぎ板を必ずおくこと。
 壁の代わりにボロボロになってもらうべし。

 意外かもしれないけど、牛乳はあまり飲ませては駄目。

 色々な事が思い浮かんでは消えていき、
 目の前のフラッシュと交錯していきます。
 他の人は無心でいる事が多いそうですけど、
 私は色々と変なことを考えていた方が結果が良いことが多いです。

「いいよォ、高垣さん。なんか今日調子よくない?」

「そうですか?」

「うんうん、いつも可愛いけど、今日は特別可愛いねェ。いい感じ!」

 とりわけ今日はうまくいったのか、カメラマンさんに褒めて頂けました。
 これならずっと猫のことを考えていればお仕事もうまくいって、
 ブランドの指名もばんばん取れちゃうかなぁ、なんて妄想してしまいます。

 撮影が一区切りついたのでベンチで休憩していると、横にさっと座る人影。

「楓、珍しく楽しそうね」

「そんな。いつも楽しいですよ」

「あんたはいつも仏頂面なんだから、今くらいがいいわよ」

 そうやってワハハ、なんて笑うのはマネージャさん。
 三年前、大学四年生の私をスカウトして、モデルの道に引き込んだ人です。
 年は四十歳くらいなんですけれど、 ビックリするくらい美人でおしゃれ。

「あなたがそのまま撮影してもらった方がいいのでは?」とよく思います。

 私以外にも沢山のモデルさんをマネジメントしているのでいつも忙しそう。
 けど、こうして時々様子を見に来てくれる面倒見のよさも素敵です。

「表情がやわらかい。どうしたの、男でも出来た?」

「いえ、全然そんなことは。実家からはお見合い写真がどっさり届いてますけど」

「おー、楓もそんな年か。何歳だっけ?」

「今年で二五になります」

「もうそんなかー。はやいねぇ。三年かー。あたしも年とるわけだ」

 ぐぐっと背伸びをしながらマネージャさん。
 私も最近肩こりがすごくて、なんて言うと、
 あんたはまだ若いだろ、なんて怒られました。

「……猫を拾ったんですよ。楽しくみえるのはそのお陰かも」

「猫ォ? あんたそれ、まずいよ。三十路手前でペットにはまると、一直線になっちゃうから」

「そうなんですか? 経験談?」

「観測から導き出される傾向、ね。男にハマるのと一緒」

 否定的な意見が続くわりに、マネージャさんは楽しそうです。

「でも、可愛いですよ。写真、みます?」

「ふぅん、どれどれ……へぇ、白猫なんだ」

「しかも、オッドアイなんですよ。これは寝てるのでみえないですけど」

「ふぅん……あんたとお揃いね」

「……そうですね」

 普段から色つきコンタクトレンズをつけていたので、
 他の方には指摘されませんでした。言われてみればその通りです。

 私は撮影の際、過度にモデル自身が目立つのは良くない、と考えています。

 あくまでも主役は服。
 雑誌が売れて、載ってる服が売れて、ようやくブランドにメリットが出てくるのです。
 これが例えば芸能人や、モデルでも人気が確立していて、
 その人だけで雑誌や服が売れるなら話は違うのでしょうけど……私はそんな売れっ子ではありません。
 だから私は、撮影や外に出る時、必ずコンタクトレンズをして瞳の色を揃えます。

「まぁ、その話はいいんですよ。それよりマネージャーさん、猫ですよ、猫」

「……はいはい、天海春香ね。あんた、意外とアイドル好きなの?」

「実はお笑いと並んで、結構好きです」

「意外ね。なんでよ」

「そりゃあ可愛いですから。ダンスや歌もすごいですし、みてて楽しいですよ」

「あ、そう」

 マネージャさんは一瞬うつむいて何かを考え込む素振りをみせましたけど、
 すぐに猫の話へ戻ってきました。

「で、オッドアイの猫だっけ。
 でもさ、そういうのって耳が聞こえなかったりするんでしょ?」

 恥ずかしながら先ほどまで知らなかったのですが、
 メイクさん曰くそういう傾向があるらしいです。
 この子がそうなのかはまだわからないですけれど。

「外にいたら生存競争に不利ね」

「家の中で飼うので、問題ありません」

「……ま、あんたが楽しければいいんじゃない?
 でも爪とかには気をつけなさいよ。モデルは肌が命なんだから」

「それは、気をつけます」

「あと、服に毛とかひっつけてこないでよね。
 ただでさえあんた、みっともない格好が多いんだから」

「そ、それも気をつけます……」

 最近は結構がんばっているんですけど、中々マネージャさんは手厳しいです。
 確かにスカウトされた頃はお洒落に無頓着で、
 今思えばとんでもない格好をしていた気もします。

 そもそも、それを言い出すと。

「……マネージャさんは、なんで私をモデルにしようと思ったんですか?」

「はぁ? なによいきなり」

「いえ、ふと気になって」

 私の唐突な質問に、マネージャさんはウーンと唸っています。
 当時のことを思いだしているのでしょうか。

 やがて三十秒ほどたったのち、そうねぇ、と顔を上げました。

「原石が一切磨かれずに歩いてた。
 周りが節穴で、最初に声をかけたのがあたしだった。そんだけ」

「……そうなんですか」

 だとしたら、驚異的な目です。
 あんなもっさい人をよくスカウトしようと思ったなぁって。

「あたしの見立てではこれからもバンバン成長して、
 ガンガン稼いでたーっぷりと儲けさせてもらうんだから。
 まだまだ投資は回収してないわよ」

「あ、あはは、頑張ります……」

 そこでマネージャさんは、ぐいっとこちらに身を寄せてきました。
 やけに深刻というか、真面目な顔をしています。

「丁度いいや、今話そう。ちょっと、あんたに話が舞い込んでるのよ」

「え、何ですか? どこかのブランドからご指名でも?」

「んー、ちょっと毛色が違う感じ。ま、楓次第なんだけどさ」

 ごほん、と咳払いを一つ。

「あんた、女優とかって興味ある?」

「……はい?」

 予想だにしない発言に、随分間抜けな返答してしまいました。
 じょ、女優ですか。
 えっちでアダルトなヤツとかじゃないですよね。

「ま、そんな大層な役じゃないんだけど。
 とある監督があんたのビジュアルに興味もったらしくてさ。
 そんな喋らない役だから大根でも大丈夫、とかいう話だけど」

「はぁ……」

 モデルの中には、女優やタレントへ転身していく人もいます。
 仕事はがらっと変わりますので単純なステップアップとは違うけれど、
 うまくいけば事務所に貢献できる金額も大きくなります。
 ウチの売れっ子稼ぎ頭もそうですし。

 それに、いくらテレビ離れと謳われる昨今とは言え、若い子たちの興味はまだまだ健在です。
 そういった方面へ進みたい、と公言している同僚の子は少なくありません。

「……全然、考えたこともないです」

「だと思った。楓は無欲というか……なんも考えてないもんね」

「む、そんなことありません」

「どうせ今日だって猫のことばっか考えてたんでしょう」

 それは、その通りです。

「女優だけじゃなくて、タレントとかはどう?
 あんた意外と面白いこと言うし、バラエティとかいけるかも。
 あ、でもワイプとかは駄目そうね。興味ないと寝そうだし」

 色々言われて混乱してきました。
 女優? タレント? あと、ワイプって何だろう?

「あ、歌手は?
 前、あんたカラオケで如月千早の『蒼い鳥』歌ってたじゃない。すごい上手かったわよ」

「い、いや、あの……どうしたんですか、いきなり。
 っていうか、うちの事務所ってそんな手広くやってましたっけ?」

 確かにウチはそこそこ大きい事務所ですし、
 モデルから転身した人も何人かいます。
 でも、それにしたってマネージャさんが挙げたのは幅が広すぎます。

「いいから。どうなのよ。興味、ある?」

「……いや、先ほども言ったとおり、考えたこともなくて」

「なら、今から考えておきなさい。
 そういう話が来るって事は、あんたも次のステージにいく時期なのかもってこと」

 じゃ、あたしは他の様子みてくるわ、とマネージャさんは立ち上がり、
 去っていきました。
 私はそれをぼんやりと見送ります。まるで台風が過ぎ去った後のようです。

 なんというか、こう言ったら他の方に失礼かもしれませんが。
 全く嬉しくないというか、そもそも何が起きているのか全然わからないというか……。

 その後はスタジオに移動して別の撮影が始まったのですが、
 一転、表情やポーズに精細を欠く私にカメラマンさんが頭を抱えていました。

 いや、本当に、すいません。
 でも、いきなりあんな事を言って混乱させるマネージャさんも、良くないと思います。


     3

 先ほどから腕がぷるぷるしています。
 決して飲み過ぎでお肉がついてしまったわけではなく、
 筋肉の疲労でぷるぷるしているのです。

 駅前のペットショップで必要なものを購入し自力で運んできたわけですが、
 それがいけませんでした。
 日頃から体型維持のため軽い運動はしていますが、ここまでの事態は想定していません。

 猫缶を開け、ガラクタをどかし、
 部屋の隅にトイレを設置したところで、限界。
 私は浜に打ち上げられたクジラのように、床へ横たわりました。

 生き物を飼うって大変なんだなぁ、と筋肉で実感する中、
 たらふく食べてすっきり用を足した猫が、
 目の前でぺろぺろ前足を舐めているわけですが……まぁ、よしとしましょう。

 私は床に寝そべったまま手近にあったリモコンで、テレビをつけます。
 適当にチャンネルを回していると、音楽番組で千早ちゃんの姿をみつけました。
 丁度、トークを終えたところでしょうか、ステージに移動します。
 司会者が新曲であることを告げ、カメラが切り替わりました。

 なんとなく、しっかり聞きたいな、と思い体を起こしてきちんと座りました。
 画面に映ったセットは藍色の森みたいで、幻想的な感じがします。
 その中心にいる千早ちゃんは白を基調としたドレス風の衣装で、とてもきれい。
 生オーケストラの音楽が響いて、それに千早ちゃんの透明感溢れるボーカルが重なります。

「すごいなぁ……」

 所帯じみた部屋が、異世界へ塗変わってしまいそう。
 狸の置物やダルマ、ソーラー招き猫だって、この歌の魔法にかかれば、
 すぐに千早ちゃんの従者に変身してしまいそうです。
 まぁ、いらないかもですけど。

「……これ、全国で流れてるんですよね」

 ふと、どれだけの人がこの歌を聴いているんだろう、なんて気になりました。
 テレビは老若男女、様々な人が視聴しているはず。
 百万人? いや、ゴールデンタイムだし、もっと多いのかな。
 ちょっと想像できない規模の話です。

「女優、タレント、歌手……」

 仮にそのような道を希望して、叶うのだとしたら。
 私も千早ちゃんのようにテレビに出たりするのでしょうか。
 相変わらず、全くイメージが出来ません。

 元々、私はあまり話すのが得意ではありません。
 自分の意見というものを伝えずになぁなぁで生きてきたところがあります。

 ましてや人前でこんな風に歌ったり、
 誰かになりきって演技をしたり、
 そんな自己表現からは最も遠い場所にいると思います。

 千早ちゃんは、一体どんな気持ちで歌っているんでしょう。

 お仕事だから?

 うぅん、そんな感じもしません。

 じゃあ、楽しいから?

 間違ってはいないでしょうけど、その一言で終わらせるのも違う気がします。

 ……アイドルのお仕事はとても大変だと思います。
 歌も踊りも演技もトークも色々な事が求められるわけで。
 売れっ子になれば睡眠時間だって満足にとれない、なんて聞きますし。

 けれど、彼女達は逃げ出さない。
 大変なことがあってもそれに立ち向かって、ステージに立ち続ける。

 そこには何か、理由があるのではないでしょうか。

 ウーンと悩んでも、私が千早ちゃんになれるわけでも、
 彼女の心がわかるわけでもありません。

 やがて歌い終えた千早ちゃんが笑顔で一礼し、CMへ。
 私もぱたんと床に倒れこみました。

 まだ腕はぷるぷるしているし、答えは何も出ないし、
 ご飯も食べていないし、化粧も落としていません。

「……ねぇ、君はどう思う?」

 ごろごろしてる猫に問いかけるけれど、大きな欠伸が返ってきました。

 興味ないね、自分で考えれば?

 そんな風に言われたみたいで、ちょっとむっとします。

 そういう態度を取るのなら、こちらにも考えがあります。
 私はベッドの上に放りだしていたペットショップの紙袋に手を伸ばしました。
 取り出したるは、カラフルな毛の塊がついたプラスティックの棒。
 いわゆる、ねこじゃらしです。

「ほーらほら」

 目の前でふりふりすると、色の違う目がきょろきょろと左右に動いています。
 更にねこじゃらしの速度を増してやると、
 本能には抗えないのか、前足を上げ体を投げ出し捕食せんと食らいつきます。

 私はぷるぷるの腕も忘れて一心不乱にねこじゃらしを揺らし、
 猫も小さな体に秘められた本能を覚醒させ、あらゆる駆け引きが行われました。

 たっぷり30分は遊んだでしょうか。
 私もさすがに腕が疲れたし、猫も満足したのか毛繕いを始めたのでお開きへ。

 悩みに何一つ答えは出ていませんが、少しすっきりしました。
 考えすぎても仕方ありません。
 なるようになーれ、と置いておくことにしましょう。

 それにお腹も空いてきました。
 化粧を落として、お肌のケアもしないといけません。

 立ち上がり、ようやくぷるぷるが収まってきた腕を揉みほぐしながら、
 あっ、と気付きました。

「猫、名前決めないと」

 すっかり忘れていました。どうしましょう。
 あまり凝ると性格上、時間がかかりそうです。
 どうしよっかな。なんだって可愛いですよね。

 ふと、シンクの上に置かれていた朝の缶詰が目に入ります。

「……サバ。君は、サバ。おいしそうに食べてたし、ね」

 猫——サバはこちらをちらりと見やりましたが、
 またすぐにテレビの方に向き直ってしまいました。

 呼んでいる内に覚えてくれるかな。
 そんなことを考えながら、私は千早ちゃんの歌を口ずさみます。

     4

 それからの日々は概ねサバと共にありました。
 最初の頃は今までと同じように外で飲んだりもしていたのですが、
 どうもソワソワしてしまい、気持ちよく酔うことが出来ないのです。

 お腹を空かせていないかしら。
 朝ちゃんと猫缶を開けてきたかしら。
 窓を閉め忘れて外に出てカラスに虐められたりしていないかしら。

 まるで水をかけた乾燥ワカメのように不安がもりもりと増えていくわけです。

 そんなわけで、お仕事が終わった後は自宅へ直帰する割合が増えました。
 お酒自体は家でも飲めますし、
 ガラクタを拾ってくる醜態を晒すこともありません。
 お陰様で部屋の容積は現状維持できています。

 それに、サバとも少しずつ仲良くなった、と思います。
 ねこじゃらしはバリエーションを増やすため徐々に買い増しされました。
 ガラクタが数多く置かれた部屋は格好の遊び場でもあるらしく、
 よく立体的な動きをしています。

 体も大きくなってバネが強くなったのでしょう、
 カーテンくらいなら余裕で駆け上がっていきます。
 代償としてあらゆる場所がボロボロになっていき、
 退去時の言い訳に苦労しそうですけども。
 どうしよう、敷金が返ってきません。

 そうそう、名前を呼んであげるとこちらを振り向くようになりました。
 機嫌が良ければ『遊んでくれよ』とせがんで来ますし、面倒くさいなら欠伸です。
 どうやら右の耳がすこし悪いようですけども、外に出ない限りは問題ないでしょう。

 猫は中々気まぐれな事が多く、こちらの思い通りの行動は取ってくれないのですが、
 そこが可愛いのです。

 そのようにして、一ヶ月ほどが過ぎました。

 ……けれど、例のお話は一向に考えがまとまっておらず。
 マネージャさんと会う機会もなかったので放り出し気味です。

 ちょっと現実逃避が過ぎるよなぁ、なんて思い始めた頃合い。
 それを見抜かれたのか、マネージャさんから突然電話が来ました。

 ねこじゃらしを揺らす手を止め、ぽちぽちと操作をして電話に出ます。

『明日の現場、一時間はやく来るように』

 挨拶もそこそに、マネージャさんが用件を切り出してきました。
 電話口からは喧噪が響いています。
 どこかの飲み屋さんとかでしょうか。
 ちょっと、酔ってるのかな?
 あ、今気付いたんですけど、サバと一緒に飲み屋にいけば、万事解決ではないでしょうか。

『……ちょっと、聞いてる?』

「あ、はい、大丈夫です。明日、一時間はやく集合」

『よろしい。……あー、あとさ、全然関係ないんだけど。
 楓ってさ、撮影の時って一回もコンタクトレンズ、外したことなかったっけ?』

「え? 多分、ないですけど……」

 思い返しながら、んっと声を上げました。

「……そういえば、一回だけあるかもしれません」

『いつだっけ? あたし、知らない』

「一昨年の冬くらい、だったかな? それがどうかしました?」

『……まぁいいや。ただの興味本位だから。そいじゃ、遅れないように』

 ぶつんと電話が切れました。
 サバが宙ぶらりんのねこじゃらしを口でもぐもぐしながら、
 不思議そうに私を見上げていました。
 私も多分、似たような顔をしているのでしょう。

 なんで、マネージャさんはそんなことを聞いたのかしら。
 少し気になったので、押し入れから段ボールをひっくり返して、
 件の雑誌を捜してみることにしました。

 一応、自分が載った雑誌はもらえるので、記念というわけではないですがとってあります。

 押し入れには様々なものが——言うまでもなく大部分がガラクタですが——詰まっており、
 目的の段ボールへ辿りつくには骨が折れました。

 段ボールを開けて、ぺらぺらと雑誌を捲りながら記憶を掘り起こしていきます。

「んー、確かコートを着た気がしますけど……どの辺だったかな……」

 いくつかの雑誌を捲るにつれ、段々と思い出してきました。
 朝、コンタクトレンズをつけてる時に、
 落として踏んづけて割ってしまったのです。

 その頃は予備なども持っておらず、カメラマンさんに事情を説明して、
 後で修正入れてもらえる様に頼んだ覚えがあります。

 ……ん? でも、それじゃあ写真の私はオッドアイではないわけで。
 マネージャーさんは一体なんの話をしてたんだろう?

「一昨年の十一月号……あ、これだ。このコート、覚えてる」

 私が載っているページはブランド指名を受けたわけでもないので、特に特徴のないカットでした。

 しかも前後に目玉の大物モデルの特集があって、緩衝材みたいな扱いになっています。
 ページ埋めとまでは言いませんが、正直、人の目に留まる可能性はかなり低いでしょう。

 カーキ色のコートをぱりっと着こなす様子は、
 割と良い写真にみえるので悲しさにも拍車がかかりますが……。

 じーっと自分のカットを見つめていると、あっと思わず声を上げてしまいました。

「一つだけ、修正されてない」

 私もこうして現物を持っているのでチェックはしたはずですが、
 その時は気付きませんでした。
 マネージャさんはこのことを言っていたのかしら。

 でも、いまさら、なんで?

 不思議な感覚は更に深まりますが、答えは出そうにありません。
 首を傾げていると、積まれた段ボールのてっぺんで、
 サバも首をちょこんと傾けていました。

 世の中、わからない事ばっかりだね、と彼に呟くと、にゃおあ、と返答。
 その通りだね。私にはそんな風に聞こえたのでした。


     5

 翌日、指示通り早めにスタジオ入りしました。
 白い布で囲われたスペースでは、今まさに撮影が行われているようです。
 アップテンポなBGMが流れていて、元気な掛け声が響いています。
 私がいく普段の現場とはちょっと空気が違いますね。

 パイプ椅子が集められた休憩場に、
 こっちこっち、と右手を挙げるマネージャさんの姿がみえました。
 ぷかぷかと煙が揺らいでおり、喫煙中だったご様子。

「おはようございます」

「あぁ、おはよー」

 マネージャさん、大きな欠伸。
 まるで猫みたいですね、と伝えたら、
 私も大きな欠伸をしてしまいました。伝染というやつです。

「……で、今日のご用件は?」

「ん、まぁ色々とね」

 この前の続きじゃないのかな、と首を傾げる私を尻目に、
 マネージャさんはじっと撮影ブースの方をみやっています。

 ブースでぱしゃぱしゃ撮影されているのは、いわゆる若くてぴちぴちの子です。
 明るい色の髪の毛をくるくるに巻いていて、ずっと見ていたら目が回りそう。
 とびきりの笑顔を弾けさせ、腰をくねっと入れて元気さをアピール。

 うーん、すごい。
 同じモデルなのに、別次元の生き物のようです。
 いや、実際にそうなのかもしれないですけど。

「若い子ですね」

「ティーン向け雑誌の撮影ね。楓も参加してく?」

「むりです」

「コスプレになっちゃうわよねー。……お、来た来た」

 マネージャさんが身を乗り出すようにしたので、私もそちらを注目します。

 モデルが交代するようです。

 次にやって来たのは黒い髪をロングに伸ばした女の子。
 ちょっと表情が硬いというか、緊張しているように見えます。
 はじめての子かな?
 最初はそうなるよねぇ、うんうん、なんて思い出したり。

 ……あれ。でも何となく、ちょっとさっきの子と雰囲気が違いすぎるような?

「これ、同じ雑誌の撮影なんですか?」

「そうよ。なんで?」

「いや、さっきの子は髪の毛くるくるで、元気な感じでしたけど……この子はクールな感じというか」

「あんた、ぼーっとしてる割りによく気付くわねぇ」

 みれば周りの撮影を終えたモデルさんや、
 スタイリストさんなんかも皆その子をみています。

 ……あー、このちょっといやな空気、偶にあるかも。

「あの子、モデルじゃないんですね?」

「ご名答。デビューし立て、目下売り出し中のアイドル、渋谷凛だそうよ」

「渋谷、凛ちゃん……」

 切れ長の目。長い髪の毛。
 身長は一七〇には届かないですけど、結構高い感じ。
 アイドルといったら可愛いイメージがありますけど、
 凛ちゃんはどちらかといえば美人さんですか。
 クールビューティというやつでしょうか。

 さておき。
 こういうケースはちょくちょくあります。

 昨今のファッション雑誌は何も被写体の全てが専属のモデルというわけではありません。
 女優さんやアイドルさんが務めることもよくあるのです。

 スケジューリングは大変になるんですけど、
 芸能人の知名度が付加価値になるので重宝されるわけですね。

 私は専業でない方の仕事も参考になるので好きなんですけど……
 現場レベルだとあまり快く思わない方もいるようで。

 雑誌の紙面は有限です。
 モデル側からみれば単純に仕事が減るわけですしね。
 水着の、いわゆるグラビアでも似たような話を聴いたことがあります。

「でもデビューし立てだと、あんまり部数にはならないんじゃ?」

「そういうこと。ぶっちゃけ、バーターなのよね」

「それは、また……」

 バーターというのは、抱き合わせの事を言います。

 例えば、売れっ子のAさんを出演させる代わりに、
 まだ実績はないけど売り出したいBさんを一緒に出演出来るように手配する、
 といった感じでしょうか。

 ともあれ、アウェイでバーターともなれば、もう状況は不利どころじゃないはずです。

 実際、みんな目が怖いですもん。
 どれ程のモノか品定めしてやろう、といった感じの匂いがぷんぷんです。

「大変ですねぇ」

「……いや、それがね、中々面白いのよ」

「何がですか?」

「この不利な状況はね、あえて作られているんだって」

 はて、どういう事でしょう。
 普通、モデルは現場の仕事が円滑に進むように気を配ります。
 別に現場の方に媚びるわけではないですが、
 手作りのお菓子を配ったりする方もいますし。
 ……まぁ、私はしないですけど……。

 ともかく、不利にならないように立ち回るのが重要ではあります。

「あの子のプロデューサーがね、そうさせてるんだって。
 もっと簡単な仕事もあるけど、あえて厳しいステージに放り込む、と。
 それで成長を促すわけね」

「はぁ……大変ですねぇ」

 そんなことを話している間に、撮影が始まります。
 カメラマンさんも、やはり初めて撮る相手と呼吸をあわせるのは難しいもの。

 ポーズに修正が何度も入り、撮影はスムーズにはいきません。
 その度に凛ちゃんは頭を下げ、やり直していきます。

「……あんなに怒られてたら、成長どころではないのでは?」

「でも、やる理由があるわけ。なんでだと思う?」

「いえ……どうでしょう。よくわかりません」

 マネージャさんは思い出し笑いをしたのか、くすっと微笑みます。

「笑っちゃう感じなんですか?」
「いや、おかしいとか、批難する意味ってわけじゃないんだけどね。
 ただ単純に、すごいな、って。そんなド真ん中ストレートなんだーみたいな」

 マネージャさんが凛ちゃんから視線を切り、違う方向をみやります。
 そこにはスーツを着た男性の姿。
 雰囲気からすると、年は私と同じくらいでしょうか。

 あれが、そのプロデューサーなのかしら。
 肩書きからもっと年配のイメージでしたけど……。

 プロデューサーさんはブースから少し離れた場所で、凛ちゃんを見守っています。

 その表情をみていて、はっとなりました。

 こんなに不利な状況なのに。
 周りに味方は誰もいないのに。

 その人はとても自信満々で——笑ってすら、いるのです。

「彼ね、大まじめな顔で言うのよ。
 『凛なら出来るからです』って」

 やがて、辺りがざわつき始めます。
 先ほどまで手間取っていた凛ちゃんとカメラマンさんの息が、徐々に合っていきます。

 いや、正確に言うなら——カメラマンさんが、撮らされています。

 主導権は明らかに凛ちゃん側。
 最初の不安そうな表情はどこへやら。
 威風堂々と、まるで彼女の写真集を撮っているみたいです。

 ……確かに、モデルの人と比べたら技術が稚拙なところはあるかもしれません。
 今だってロゴマークが隠れました。
 スカートも少し皺になっているようにみえます。
 ポーズと着ている服の雰囲気がマッチしていない気もします。

 モデルの究極は、一つのカットで一〇〇枚撮影したとき、
 その一〇〇枚全てが使えるクオリティである事です。

 凛ちゃんの仕事は、それには到底及びません。
 全く使い所のないデータも沢山あるでしょう。

 けど、それで良いんだ、と思ってしまいました。

 ちょっとくらい下手でも、良いじゃないかって。
 そんな細かい部分をいくら突き詰めても、今の凛ちゃんの魅力にはかないそうにありません。

 私達はしばし言葉を失っていました。
 誰もが時間を忘れていたのです。

 BGMもいつの間にか停まっていて、
 辺りはフラッシュが炊かれる音と、カメラマンさんの掛け声だけ。

 とっくに予定時間は終わっている事に気づいた偉い人がぱんぱんと手を叩き、撮影は終了しました。

 ——すごい。こんな撮影、そう何度も見られるものじゃない。

 みんな、言葉を失っていました。
 戸惑っていた、とも言えるかもしれません。
 次に自分が何をすれば良いのか、わからなくなってしまったというか。

 かくいう私もそうだったのですが、ふと思いつき、

 拍手をすることにしました。

 ただの雑誌の撮影で拍手なんて、見たことも聞いたこともないけれど。
 凛ちゃんの撮影にはそれだけの価値があったと思えたのです。

 やがて周りの方も少しずつ追従してくれて、拍手は大きくなりました。
 ちょっとした騒動みたいになって、
 隣のスタジオからもがやがや人が集まってしまったくらいです。

 凛ちゃんはびっくりした様子で、何度も頭を下げていました。

「……いやー、すごいですね。こんな事、あるんですねぇ」

 私はもう感心しきりでした。
 これが才能というものなんでしょうか。すごいなぁ。

「……拍手までして。あんまり悔しそうじゃないのね」

「へ。何でですか」

「モデルの面子は丸つぶれじゃない。
 みなさいよ、あの辺。白けきってるわよ」

 確かに、今日撮影していた子たちの気分は良くないでしょう。
 けど、そうなってしまった理由は明らかですし、
 彼女達もわかっているようにみえます。
 これからどうするか、というのは彼女達次第ではないでしょうか。

「いいじゃないですか。雑誌も売れるし。
 モデルの子も良い刺激になりますよ」

「……良い刺激、ね。
 仮に渋谷凛があんたの雑誌に殴り込みにきてものほほんとしてるんじゃないの、楓は」

 うーん、それは、そうかも。
 すごいなぁ、って単純に思っちゃうだけな気がします。
 私の反応に不満があるのか、マネージャさんは何だか難しい顔をしています。

「変な顔してますよ」

「そりゃあ、ねェ……」

 どうしたものかなー、なんて首を捻っています。

「こんな言い方あんまり良くないかもしれないけど、
 あの子はきっと才能があるのよね」

「そうですねぇ。近いうちにバンバン売れて、CDとか出しちゃうんじゃないですか。
 せっかくだし、サインもらってこようかな」

 あっ、と思いつく。

「サインを、くださいん。ふふっ、ふふふっ」

 私の渾身の駄洒落にマネージャさんは一度眉をつり上げて、
 アホねあんたは、と噴き出すように笑いました。

「でも、そっか。
 あんたは澄ましてるより、そっちの方が魅力的よね」

「何がですか?」

「こっちの話。……じゃ、この前の続き、話そっか」

 やはり来ますか。いよいよ覚悟を決めなければいけません。

「うちはさ、タレントや女優、歌手は所属してるでしょ」

「はい、そうですね」

「でも、アイドルはいない」

「その通りです」

 マネージャさんが、凛ちゃんたちの方へ視線を向けます。
 二人は真面目な顔と笑顔がくるくると入れ替わり、はたからみても良いコンビ。

「この前の話は、実はちょっと嘘。
 映画のお誘いじゃなくて、あったのは引き抜きの話。

 ——楓。あんた、アイドルに誘われてるわよ」

 プロデューサーさんがこちらに気付いて、
 ぺこりと頭をさげてきました。
 私は見事にフリーズしていて、返すことが出来ません。
 全く予想だにしない場所から隕石が落ちてきたみたいな感覚です。

「アイドル? 私が?」

「そう。あんたが、アイドル」

「今年、二十五歳になるんですけど」

「先方、ご承知済み」

 さっきまで考えていた事が、全て吹き飛びそうです。

 女優やタレント、歌手とは全然話が違います。
 だって、それこそ千早ちゃんや凛ちゃんは私よりも一回り年下なわけで。

 それなのに、アイドル?

 私はねこじゃらしでキョロキョロするサバみたいに、
 二人を交互に何度もみやっていました。

 マネージャさんはすっとぼけた顔をして煙草を取り出しているし、
 プロデューサーさんは名刺を取り出しながらこちらへ歩いてきます。

 いったい、何が起きているのか。
 さっぱりわけわかめ、です。


     6

 大混乱は継続中です。

 私はスタジオの隅で、借りられてきた猫のように小さくなっています。
 そういえばサバは最初から堂々としていた気がしますが、私はそこまで器が大きくないようで……。

 スタジオ、といっても先ほどまでいた撮影スタジオではなく、新宿にあるダンススタジオです。

『折角だからレッスンの見学をしてみませんか』

 とプロデューサーさんに誘われ、
 ハイともイイエとも答えた記憶がないのですが、
 いつの間にかタクシーに乗せられて、
 この場所まで連れてこられました。恐るべき手際です。

 ともあれ。
 ダンススタジオでは、七人の女の子がレッスンに励んでいました。
 その中には先ほどの凛ちゃんもいて、額に玉のような汗を浮かべて頑張っています。

 手拍子や身振り手振りで指導する女性の足下にはCDラジカセ。
 流れているのはマリオネットの心で、激しいダンスが見所な765プロの人気曲です。

 七人の女の子はダンスにばらつきもありますし、
 テレビで星井美希ちゃんたちが踊っているそれと比べると、
 技術的にはまだまだの所があると思います。

 けれども、その熱意というか。
 簡単なことではない、というのはみるだけでわかりますし、
 やってやるぞー、という気力もびしびしと伝わってきます。

 彼女たちも千早ちゃんや、その他の売れっ子アイドルのように、辛いことに堪え忍ぶ理由があるのです。

「すいません、コーヒーと紅茶、どっちが良いですか?」

 私がぼーっとその様子を見ていると、いつの間にやら隣にプロデューサーさんの姿が。
 緊張をほぐすためにアルコールが欲しいです、
 なんて言えるわけはないので、コーヒーを頂くことにしました。

「あ、はい、コーヒーで……ありがとうございます」

「缶ですけど、どうぞ。これくらいでしかお持てなし出来ず、申し訳ないです」

「いえ……みてるのが楽しいので、全然、その、いいです」

 私とプロデューサーさんは並んで女の子達のレッスンをみつめています。

 彼女達はアイドル候補生、あるいはデビューし立ての駆け出しアイドル。
 ライブのバックダンサーなどで実戦経験を積み、
 ゆくゆくはソロデビューやユニットを組んでいく予定なのだそうです。

「ま、ダンス自体はまだまだなんですけどね。やる気だけはあるので」

「えぇ、その……すごいです」

 そして私はますます混乱するのです。

 目の前のこの人は、私をアイドルにしたい、そう思って声をかけてきたわけです。

 もちろん、といって良いのかわかりませんけど、
 七人の女の子達に私より年上の人はいません。

 全てが年齢で決まるわけではないと思います。
 けど、それにしたってこのハードなダンスレッスンを私がこなしている様子は、
 自分で言うのもなんですが、想像が出来ません。

 アイドルは他にも、トークだって、歌だって、色々な事が求められるわけで。
 そもそも、私はそのどれにも自信がありません。

「とまどってますか?」

「……はい、もちろんです。だって、その……アイドルは、あの子たちみたいに若い人達がやるものですよね?」

「一般的には、そうですね。……ちょっと、場所変えましょうか」

 レッスン場でお喋りは、みんなの邪魔になりかねません。
 私はプロデューサーさんの後についていき、
 パイプ椅子と長机の置かれた休憩スペースへ。
 ジュースの自動販売機があり、スポーツドリンクがみっしり並んでいます。

 私達は向かい合うように、パイプ椅子に腰掛けました。
 ちかちかする蛍光灯。
 今までの人生で嗅いだことのない不思議な匂い。
 違う場所に足を踏み入れたんだ、と五感が訴えかけている感じ。

 ふと、マネージャさんと初めて会った時の事を思い出しました。
 街で声をかけられて、まごまごしている間に事務所まで連れて行かれて。
 お化粧されて、服を着せられて。

 まるで魔法をかけられたように変わった自分をみて、勘違いしてしまった夏の記憶。

 今この瞬間も、それと同じ事なんだよなぁって変な気持ちになりました。

 プロデューサーさんが熱心に語りかけてきます。
 年齢の事は気にしなくて良い。最近はそういうアイドルも少なくないから。
 レッスンはハードかもしれないけど、体力に合わせて段階的に難易度をあげていく。
 歌も同じで、まずは発声練習から。

 みんな最初から出来るわけじゃなくて、徐々にその才能を発揮していく——。

 不安がる私に、マネージャさんも言葉をかけてくれました。
 服をどうやって選ぶのか。
 化粧の仕方。
 ポーズとは何か。
 魅力的にみえる歩き方について。
 現場での立ち振る舞い方。

 他にも数え切れないくらい、様々な事を教えてもらいました。
 そのどれもが参考になったし、血肉になったし、自分を助けてくれる術でした。

 走馬燈、というわけではないのですが、今までの仕事を思い出します。
 楽しいことも、辛いことも一杯ありました。
 カメラマンさんに怒鳴られることだってあります。
 指名が全然取れなくて、後輩に実績でどんどん追い抜かされることだって何度もありました。
 今年で契約を切られてしまうんじゃないかって焦るし、将来の保証なんて何一つないのです。

 プロデューサーさんは敢えて伏せているのでしょうけれど、アイドルもそこは同じでしょう。

 けれど、どれだけ辛い事があったとしても。
 次の日には、また現場へいかないといけない。

 私は、千早ちゃんや凛ちゃんの気持ちを考えました。

 なぜ、あなたはアイドルを選んだの?

 それならば私は、私へ問わねばいけません。

 なぜ、あなたはモデルを選んだの?

 けれど、そこで気付くのです。


 私はマネージャさんに手を引かれていただけ。
 その道を望んだのではなく、
 ただ目の前に用意されたレールに乗せられて、何とかなってしまった。

 その場所に適度な心地よさがあったから、居座ってしまった。

 こうなりたい、こうしていきたい——
 そういった将来の展望が私には圧倒的に欠けています。

 プロデューサーさんが声をかけてくれて、仮にその道へ進んだとしても。
 そこに私の意思がなければ、結局は今と同じです。

 そのような中途半端な気持ちで、凛ちゃんのような表情が出来るでしょうか。
 あの様な拍手を浴びるようなお仕事が出来るでしょうか。

「高垣さん? どうしました?」

「……すいません」

 無理に決まっています。
 いや、それを言い出したら……
 モデルの仕事だって、はなから向いていなかったのかもしれません。

 私よりすごい人は沢山います。
 いつか追い抜かされて、私の仕事がなくなる日はそう遠くないかもしれません。

 そんな事を考えたら、私は無性に恥ずかしくなりました。
 自分がここにいる事自体が、何かの間違いなのだと強く感じました。

 私には何もないのです。
 たまたま周りの力を借りることが出来て、それがうまくいっただけなのです。

「……私、今日はこれで失礼させて頂きます」

 返答を待たず、私は駆けるようにその場を後にしました。
 失礼だとわかってはいます。

 けれどもう、あの場所にはいられなかったのです。
 人と話すことが苦手な私は、人前で泣いたこともありません。
 それだけはどうしても避けたかったのです。

 スタジオを出て、階段を降りて、そこにマネージャさんがいたときも、
 私はその場から逃げようとしました。
 手首を掴まれ、抱き留められ、頭を撫でられ、そこで私は初めて涙を流しました。

「ようやく、本当の楓に会えた」

 三年もかかったけれど、とマネージャさんは笑いました。


     7

「楓は、ほんとーに本音を言わない子だなぁってずっと思ってたわ」

 車を運転しながら、ゆっくりとマネージャさんが語り始めました。
 私は兎みたいに真っ赤になった目からコンタクトレンズを外しています。
 普段、人前でオッドアイを晒すことはありません。
 マネージャさんは、その事も指しているのだと思います。

「だからね、猫の事を嬉しそうに話すのはちょっと良いなって思った。
 三年も付き合って猫のことかよって気もするけどさ」

「……私は結構、マネージャさんには色々話していたと思いますよ」

「かもね。けど私が思うに、あんたはもっとそういう事をしなければいけなかったのよ。
 あらゆる人に対して、ね」

 車が信号に捕まり、緩やかに停車しました。

「……多分、怖いのです」

「その目が原因?」

「……子どもの頃に、よくからかわれた覚えがあります。
 その目、こわい、とか。みえてるの、とか。
 何も変わらないはずなんですけどね」

 私が辛かったのは、みんなと同じようにみえている、
 それを説明してもわかって貰えない事でした。

 自分からはみえない瞳の色について訊ねられ。

 自分にしかわからない事を必死に伝えようとする。

 けれどそれを逆手にからかわれ、理解してくれる人もいない。

 いつしか言葉というものを、信用出来なくなっていました。


「だから楓は隠した。本音と一緒に」

 すべて、嫌になってしまいました。
 自分以外の誰かに言葉で伝える、そういう事をひたすら避け続ける日々を過ごしました。

 その結果、自分に嘘をつくことばかりがうまくなった気がします。
 いつまで経っても悩んでいる振りをして、
 答えを出さずに誰かに決めてもらう。
 そういう事に慣れきっていたように思うのです。

「楓は、モデルをやめたい?」

「……わかりません。何で、このお仕事を続けていたのかも、わからない……」

 マネージャさんは少し呆れたように苦笑しました。
 信号が青に変わり、車が加速し始めます。
 停車した時と同じように、ゆっくりと。

「そこは別にシンプルで良いでしょ。
 綺麗になれるのが嬉しい。
 良い写真が撮れたら楽しい。
 そういう喜びは楓だって感じていたはず」

「……けれど、それだけで仕事が続けられますか?
 辛い事に耐えられますか?」

 マネージャさんはハンドルを切りながら、
 それは楓の問題だからあたしにはわからない、
 と答えました。

「生きていくって事は色々ある。
 給料貰って、おいしいご飯食べて、猫を飼って。
 そういう達成感だって、重要な事でしょ」

 けれどそれは、モデルでなくても、アイドルでなくても、達成できる事です。
 マネージャさんもわかっているのです。

 やはり私には、千早ちゃんや凛ちゃんのように、あの場所であんな風に戦える理由が見当たりません。

「マネージャさんは、なんで今のお仕事をしてるんですか」

「そうねェ……色々あるわよ。
 担当してる子が活躍すれば嬉しいし。好きな業界に関われるのも楽しいし。
 偶にこういう子の面倒みれるのも、意外と好き」

「ご面倒をおかけします……」

「いいのよ。大体あんたは今まで手が掛からなすぎ。
 仕事をする理由に悩むなんて、もっと早くに通過するもんよ。
 まぁ、それもあんたらしいけど」

 そういって、マネージャさんはアクセルを踏みます。
 何かを振り払うようにもみえました。

「それにさ、他に面倒なこと、腹が立つことなんて山ほどあるんだから。
 無能なくせに給料がっつり貰って、ゴルフばっか上手くなってく上司とか。
 仕事が山積みなのにせっかく育てた新人クンがやれ退職しますだとか。
 色々あるよ、あたしもさ。楓とおなじ」

 そういって笑うマネージャさんの横顔は、けれど充実感に満ちているようにもみえました。
 彼女にも、この場所で戦う理由があるのです。

 車からみえる景色は、だいぶ私の知っている場所へ近づいてきました。

 帰り道によく寄るコンビニ。

 人のいないがらんとした公園。

 夜の小学校に明かりはありません。

 それでも行き交う車や、通りのマンションや家々には明かりがついていて、そこには人の営みがあります。

 色々な人が働いて、その明かりをより良いモノへ変えようとしています。

 星の数ほどあるお仕事が、そこで働く人々が、みんなでこの世界を回しています。

「理由は仕事をしながら見つけることも出来ると思う。
 そういう意味では、モデルでもアイドルでも良いんじゃって、あたしは思うけどな」

 私はその言葉に返すことが出来ません。
 この世界のなかで、私は何が出来るのか、何がしたいのか、まだ言葉にすることが出来ません。

 私はじっと目を閉じて小さく息を吐きました。
 今日起きた、色々な事を思い出します。

 朝、サバにぺちぺちと頬を叩かれ起こされて、猫缶を開けました。
 電車に乗って夏に変わりゆく街並みをみつめました。
 凛ちゃんのとてつもない撮影に感動しました。
 プロデューサーさんの熱心な話を聞きました。

 あぁ、そうだ、プロデューサーさんに悪い事をしたな、とようやく思い至ります。
 とりあえず、謝らないと。
 機会はあるかな。
 あんなに熱心に誘っていただいたのに……。

 いや、そもそも、なんで私なんかを誘ったのかな。
 マネージャさんに聞いた事もありましたね。
 原石でしたっけ? プロデューサーさんにも、ちょっと聞いてみたいかな。

 やがて車は私の住むアパートの下へ停車しました。
 外へ出ると、結構強い風が吹いています。

 とっぷり暮れた空には大きくまあるい月が浮かんでいて、寝転んだサバみたい。

 それ以外の星はあまりみえなくて、細切れになった雲たちが風に吹き飛ばされていきます。
 少し、心が落ち着いたような気がしました。

「送っていただいて、ありがとうございます。
 それと、プロデューサーさんにも……」

「ん、今日のことは謝っておくよ。
 また話を聴きたいっていうならセッティングするし。
 やるかやらないかは、あんたが決めなさい。で、それはしっかりと伝えてあげること」

「はい……」

 それじゃあたしは帰るよ、とマネージャさんは車のハンドルを握ります。
 けれど何かに気付いたのか、マネージャさんが窓から身を乗り出しました。

 視線の先には、私のアパート。

「楓って二階の角部屋だったよね?」

「あ、はい。そうですけど」

「不用心ね。ベランダの窓、開いてるわよ」

 見上げると、開いた窓からカーテンが揺れていました。
 緑色のそれは表面に細かい傷が付いていて、ぼろぼろです。

 はっとして、私は駆け出しました。

 息を荒げて階段を登り、バッグの中をひっくり返すように鍵を取り出して、部屋の中へ。

 風が真っ直ぐに通り抜けていきました。
 当たり前ですけど、普段はそんなこと絶対にありえません。

「サバ? どこ?」

 電気を点けて、名前を呼びます。
 餌も水も空っぽ。返答は、ありません。

 必死に朝のことを思い出します。
 窓は、閉めたはず。けれど鍵をかけたかどうかは覚えていません。

 最近のサバは体も大きくなって、力も強くなりました。
 あるいは、自力で扉をあけてしまったのかもしれません。

 部屋の中、サバがいそうな場所は全て捜しました。
 けれど、いません。
 体中の力が抜けて、私は座り込んでしまいました。

 昨日の夜から置きっ放しの段ボール。
 部屋を占拠するガラクタの山。
 それらはまるで死んだように黙り込んでいます。

 いつの間にか、主は私からサバにすり替わっていたのかもしれません。

「……探しにいくわよ」

 いつの間にか、マネージャさんが部屋の中にいました。
 携帯電話を操作しながら、私の方へ、手を伸ばします。

「切り替えなさい、楓。あんたが拾ったんでしょ。途中で投げ出すなんて絶対にダメ」


     8

 猫のいそうな場所、というのは全く見当がつきません。
 メイクさんに事情を連絡すると、色々な場所を教えて頂けました。

 車の下、建物と建物の隙間、塀の上、人の来なさそうな場所。
 私は近くを徘徊しながら、そのような場所をみつけては頭を突っ込み、サバの名を呼んでいきます。

 不安は歩く毎に大きくなっていきます。
 もし、事故にでもあったりしたら。
 他の猫と喧嘩にでもなったら。

 サバはずっと人の手に飼われていたし、耳も半分聞こえません。
 野生で生きていけるはずがないのです。

 いつしか私は、夜の公園へ足を踏み入れていました。
 噴水や遊歩道のある大きな公園ですが、この時間に人はいません。
 私は公園の中を歩き回り、ゴミ箱やベンチの下、木の上、茂みの中などを捜しました。

 それでもサバの姿は見つかりません。
 夜に飲み込まれてしまったような、嫌な感覚ばかりがぞわりと皮膚を這い回っています。

 やがて私は、噴水前のベンチに座り込んでしまいました。
 この時間では水が噴き上がることもなく、辺りはしんと静まりかえっています。

 なぜ、サバは外に出てしまったのか——その疑問が頭の中をぐるぐると回っています。

 最初は、ただの興味本位だったかもしれません。
 カーテンを駆け上がるのと同じように、
 重い引き戸を開ける事がただ楽しかった、という事も考えられます。

 いずれにせよ、ベランダへと飛び出たサバはとても驚いたに違いありません。
 天井は手の届く高さではなく、見たことのない青色をしていて。
 天然の光は眩しく、彼が嗅いだことのない様々な匂いに満ちていたことでしょう。

 私の部屋だけで完結していた彼の世界は、その時、限りない広がりを見せたのです。
 好奇心旺盛な彼はきっと心が躍ったに違いありません。
 色も、匂いも、広さも、全てが今までとは全く違っている。

 足を踏みしめる度に、今までとは違った刺激がやってくる。
 そんな外の世界に魅せられたとしても、不思議ではないのかもしれません。

 けれど、待って。よく考えて。

 外に出ても、楽しい事ばかりじゃない。
 辛い事だって、沢山あります。

 他の猫と違うその目の色を、からかわれるかもしれない。

 それを正す君の言葉は、伝わらないかもしれない。

 やがて言葉も嗄れて、ひとりぼっちで平気なんだと自分に嘘をつくことになるのかもしれない。


 ねぇ、本当にそれでいいの?
 それでも君は、この世界を歩いていくの?

「あ、いたよ。プロデューサー?
 ……あれ、いないじゃん。まぁ、いっか」

 その時、鈴の鳴るような声がしました。
 目線を前に向けると、こちらへ歩いてくる人影。
 制服を着た女の子——凛ちゃんです。
 そして彼女の胸には、慣れた手つきで抱きかかえられたサバの姿が。

「サバ!」

「ふーん、この子、サバって名前なんだ。面白いですね」

 感心したように頷きながら、凛ちゃんがサバを私の方へ抱きかかえさせてくれます。

 いつもミルクみたいに真っ白だった毛は、ところどころ汚れて灰色になっていました。
 額の辺りに、赤く腫れて毛の抜けてしまったところもあります。

 それでもサバは何食わぬ顔。
 むしろ狼狽する私をみて、何が起きたんだよ、と戸惑っているようでした。

 それが、何だかおかしくて。ほっとして。
 私はサバを抱きかかえながら、ぽろぽろと涙を流していました。

「良かった……本当に、良かった……」

「気持ち、わかります。ハナコが……あ、ハナコは、犬なんですけど。
 昔、散歩中にリードが切れちゃって。
 一目散に逃げて、大変だったことがあるんです。
 それをみつけたのも、こんな夜中だったなぁ」

 みると、サバには少しサイズ違いの首輪とリードがついています。
 その花子さんのものでしょうか。
 また逃げられたら大変ですし、仮としてつけてくれたのでしょう。

「あの……ありがとうございます。
 サバを見つけて頂いて……何とお礼を言えば良いのか」

「うん、いいですよ。どうせ暇だったし。プロデューサーだけじゃ頼りないしね」

 みれば凛ちゃんの制服も泥だらけで、髪も無造作に跳ねています。
 私のいない場所で悪戦苦闘していたのでしょう。何だか申し訳ない気持ちで一杯です。

「あの、プロデューサーさんも一緒に捜してくれていたんですか?」

「高垣さんのマネージャーさんから連絡もらったみたいで。
 今ならポイント稼げるから急いで来い、って言われたみたい。
 ……って、これ、言っちゃ駄目だったかな?」

 しまったな、後で怒られるよ、なんて顔をしかめる凛ちゃん。
 マネージャさんもずる賢いというか。一体、どっちの味方なんでしょう。

 サバは疲れているのか、私の腕の中でうつらうつらしています。
 凛ちゃんは携帯をいじりながら、プロデューサーどこいっちゃったのかな、と呟きました。

 私はずっと浮かんでいた疑問を彼女へぶつけるチャンスだ、と思いました。

「あの、凛ちゃん。一つ、聞きたい事があるんですけど」

「あ、はい。なんですか?」

「凛ちゃんは、なんでアイドルをしているんですか?
 色々と、大変なこともあるかと思うんです。今日の撮影の序盤だって……」

「うわ、そういえば見られてたんでしたっけ。何だか、恥ずかしいな……」

 あの拍手、私が最初にしたんですよ、と伝えたらますます恐縮してしまいました。

「それくらい、素晴らしい撮影でしたよ。
 ……でも、序盤はとても辛かったと思います」

「やばいなーって思ってました。心臓が痛くて。もう帰りたい、って」

 凛ちゃんは撮影の時を思い出したのか、ぶるっと一度震えました。

「けれど、逃げなかった」

「うん……まぁ、そうですね」

「ダンスレッスンだって、あんなハードでした。
 学校にもいって、レッスンもして、仕事もして……大変じゃありませんか?」

「……なるほど。改めて口に出すと、けっこう頑張ってるのかもしれないですね。
 少なくとも、一年前の私よりは頑張ってる。
 ……そっか。じゃあ、去年なくて、今あるものがその理由なのかも」

 凛ちゃんはウーンと悩んだ後に、一度だけ頷きました。
 それから何故か、辺りを見回します。

「どうしました?」

「いや……うん、いないから良いか」

 月明かりと、噴水を照らす柔らかなライト。
 それに浮かび上がる凛ちゃんの頬は少し赤いように、私には見えました。

「プロデューサーが、信じてくれるから。
 『お前のありのままを出してこい。凛なら出来る』って」

 ——凛なら出来る。

 魔法の呪文みたいに、凛ちゃんはその言葉を三回繰り返しました。

「それはもう、うるさいくらいに。
 私は、まだ自分の事を信じることがうまく出来ないけど……
 プロデューサーの事なら、ちょっとくらい信じてもいいかな、って」

 凛ちゃんはまだそわそわと辺りを見回しています。

 おそらく、死んでも聞かれたくないのでしょう。
 その気持ちは何となくわかります。

 二人が良いコンビだという見立ては、間違っていなかったようです。
 お互いが信じ合って、それが良い仕事を生んでいるのでしょう。

「それに、ありのまま、っていうのが結構楽しくて。
 例えばダンスも最初は下手なんですけど……練習する度にうまくなるんです。
 その成長をありのまま、ファンにみせろ。
 そうすればファンはきっとお前をもっとみたくなるはずだ……って、これで良いのかな……?」

 ありのまま。
 繰り返されたフレーズに、大きな意味があるように感じました。

 それを受け止めてくれるプロデューサーやファン。
 その期待に応えられるように自分を磨いていくアイドル。
 世界の彩りはきっとその関係性で作られているのでしょう。

「高垣さんも、アイドルになるんですよね?」

「えっ? いや、私は、そんな……」

「あれ、違いましたっけ。
 プロデューサーがあれだけ語ってるってことは、もう内定でも出ているのかと」

 うわ引くー、なんて言っている凛ちゃん。内容が少し、気になります。

「……参考までに、なにを話していたのですか」

「……それは、私の口からはなんとも。
 ただ、自分の担当アイドルに向かって、
 担当したい人の魅力を延々と語るのはどうなのか、とかは疑問に思いますけど。
 ……まぁ、でも、その馬鹿正直っていうか、一生懸命なのがプロデューサーの良い所なのかもしれません」

 その時、おーい、とこちらに呼びかける声がありました。
 マネージャさんとプロデューサーさんです。

 プロデューサーさんは、ペットを入れるプラスティック製のゲージを持っています。
 あれもハナコさんのものかもしれません。
 凛ちゃんが立ち上がり、スカートを二度三度払いました。

「それじゃあ、後は本人から聴いてください。私は楓さんとレッスンするの、楽しみにしてますから」

 そう言って凛ちゃんは颯爽と去って行きました。
 プロデューサーさんと少しだけ言葉をかわして。
 少しだけ膨れっ面を敢えて作る凛ちゃんと、
 うろたえるプロデューサーさんの顔がちょっと面白いです。

「まいったな……凛、なんか変なこと言ってませんでした?」

 苦笑しながらプロデューサーさんが近づいてきます。
 私はその問いに、色々言っていましたよ、とだけ答えました。
 内容について話すと凛ちゃんが隠したかった事もばらしてしまうので、やめておきましょう。

 プロデューサーさんがケージを開けてくれましたけれど、
 サバはいつの間にやらぐーぐー寝ていましたので、お断りしました。
 今はこの温かさを腕の中に感じていたい、そう思ったのです。

 マネージャさんは少し離れた所で煙草を吸っています。
 ふわふわと夜に煙が立ち上って、月の輪郭に消えていく様子をしばらくみつめていました。

 私とプロデューサーさんは、幾つかの当たり障りのない言葉をかわしました。

 先ほどはすいません。

 いえ、こちらこそ突然で申し訳ない。

 猫のこと、ありがとうございます。

 大体、凛がやっちゃいましたけど。


 ちぐはぐなやり取りは、一番話さなければいけない事のタイミングを伺っていたからでしょう。
 やがて意を決したのか、プロデューサーさんはこちらへ向き直りました。
 あまりのも真っ直ぐさに、私も思わずどきっとしそうになってしまいます。

「コンタクトレンズ、外してるんですね」

「はい、そうですけど……マネージャさんから、聞きましたか……?」

 プロデューサーさんは、私がオッドアイである事をしらないはず。
 マネージャさんの方をみやると、呆れた様子で首を横に振っています。
 その様子は少し楽しげなようにも見えました。

 再びプロデューサーさんの方をみやると、誇らしげに胸をはっています。

「一昨年の十一月号、冬のコート特集です」

 そういえば昨日、それについてマネージャさんと少し話しました。
 押し入れから段ボールをひっくり返して、豆粒みたいな修正漏れをみつけて……と言う事は、もしかして。

「えっ、あの、小さな写真で気付いたんですか?」

「そうです。やっぱり、俺の目は間違ってなかったんだ。
 くそ、マネージャさんも意地が悪いな……いや、高垣さんの意思を尊重したのか……」

 なにやらぶつぶつと呟いていますが、その、つまり、どういう事でしょう?
 そんな昔の写真が、どうして今ここで?

 混乱する私をみかねたのか、マネージャさんがこちらへ歩み寄ってくれました。

「実は楓の引き抜き話は、一年前からあったのよ」

「い、一年前?」

「当然、事務所の重要な戦力である楓を渡すわけにはいかないので断ったわ。
 けど、話はそれで終わらなかった。
 あんたに目をつけたのは、すっぽんもかくやというくらいにしつこい男だったわけ」

「ちょっと、人の心証をさげるような表現はやめてくれませんか。行動力のある男とか、色々あるでしょう」

 不満げに口を尖らせるプロデューサーさんは、少し子どもっぽくみえました。
 こういう所もあるんだ、と不思議な気持ちになります。
 きっと、凛ちゃんも同じようなステップを踏んだのでしょう。

「あたしが飲みに行く先々に現れたり、仕事終わりを待ち伏せしたり、
 デスクに座っていると頻繁に電話がかかってきたりするのを行動力の一言で片付けたくはないわね」

「はは、偶然ですよ、偶然」

 う、うわぁ。なんか、他にも意外な部分が掘り起こされてしまっています。
 凛ちゃん、本当にこの人を信じて、大丈夫なんですか。

「……ま、これでもルールは守ってると思うのよ。
 別に楓に突撃することだって出来たわけだし。
 あんたからアイドルになりたい、って言われたら、うちは止めようがないしね」

「けど俺はそういうのはフェアじゃないと思うんですよね。
 まずマネージャーさんに話をきいてもらうのが筋だと。
 ……まぁお陰で、こんなに時間がかかっちゃいましたけど」

 頑固なマネージャさんと、粘り強いプロデューサーさん。
 この一年間における二人の壮絶なやり取りが、なんとなく思い浮かべられます。

 その渦中に知らず私の存在があったとなると、申し訳ないやら、嬉しいやら、複雑な気分です。

「ま、拒否ってた理由はさっきの通りだけど。
 あんたに会わせてもいいかなって思ったのは、昨日がはじめて。
 あんな豆粒みたいな写真を頼りに一年間も通ってたんだって知ったら、根負けせざるをえないでしょ」

「あ、じゃあ、昨日は二人で飲んでたんですね」

「昨日だけってわけでもないんですけど。その度に奢らされるんで、俺の財布はすっからかんですよ」

「言っておくけど、楓の方が飲むんだから。見た目と違って、ぜんぜん、一筋縄じゃいかないわよ?」

「それはとっくに覚悟の上です」

「あ、そ。ならいいけど」

 やがて言いたいことは終わったのか、マネージャさんは手を挙げて煙草の灰皿を探しにいってしまいました。
 後は、あんたたちでやってちょーだい、そんな風にみえます。

 辺りはしんと静か。
 遠く、国道から車の音が聞こえるくらいです。

 空には丸い月が浮かんでいて、すーすー寝ているサバの寝息が耳にかかってきて。

 色々な疑問がありました。
 その中、凛ちゃんからは一つの答えを聴くことが出来ました。
 けれど私の中には、まだまだ沢山の迷いや答えの出ていない問いがあります。

 その全てを棚上げにし続けるのは、限界があると私は知りました。
 いつかは、前に進まなければいけないのです。

「……私を、なぜ、アイドルに誘うのですか?」

 こぼれた言葉は、震えていたかもしれません。
 あらゆる恐怖や不安が、先の見えない夜みたいに私へ襲いかかってきます。

 プロデューサーさんは、私をじっと見つめました。
 そして迷いのない、真っ直ぐな言葉を私に投げ込んできます。

「俺もこの道のプロです。勝算や打算、否定はしません。
 高垣さんのビジュアルは十分、アイドルでやっていけます。
 マネージャさんから聞かされたキャラクターだって魅力的だ。
 モデルだと表に出せない部分がアイドルなら全て武器になる。
 レッスンがうまくいくかは、俺の領分でもあります。
 なぁに、凛だって最初はへたくそで根性だってなかった。

 大丈夫、楓さんなら出来ます」

 自分の意思を、自分の言葉に乗せて伝える。
 私が諦めてしまった事を、プロデューサーさんはきっと愚直に続けてきたのだと思います。

 出来るのかもしれません。
 私も凛ちゃんと同じように輝けるかもしれません。

 けれどやはり、怖いのです。
 この瞳が、この言葉が、否定される事に怯えているのです。

「……怖いですか?」

「……はい、とても」

「俺も怖いです。
 自分がプロデュースした子が、否定されたり、受けいられなかったりしたら、つらい。
 その子の人生を壊しているのかもしれないって、思うこともあります」

「……それでもあなたは、私を選んだ」

 そう、選んだのです。
 星の数ほどいる女性から、彼が、私を選んだ。

「……さっきのは言ってしまえば捻り出したもので、もっとシンプルな理由があります。
 それになら、ぜんぶを賭けても良いと思うんです」

 一番根っこの部分、全ての理由。
 月明かりの中で、プロデューサーさんは二、三度目を瞬かせて。
 少しだけ照れたようにはにかみながら。

「あなたの瞳がきれいだから」

 まるで愛の告白のみたいな言葉を、私に投げかけてきたのでした。


     9

 空が白み始める頃合いに、私とサバは家へ帰り着きました。
 買い置きの猫缶をむしゃむしゃと頬張るサバを眺めながら、色々な事を考えました。

 浮かんでは消えて、砕けては元通りになって。
 その全てが色々な棚に仕舞い込まれた後に、私は本当に遠い記憶に辿り着きました。

 部屋の隅で膝を抱えて泣いている、小さな私がいます。
 子どもの頃、新しい春が来ると私はいつもそうしていた様に思います。

 自分の瞳の色がきらいで。

 からかわれるのがいやで。

 それをやめて欲しいと伝える言葉も空っぽで。

 私はひとりぼっちで泣くほかなかったのです。

 だからいつからかひとりぼっちでも平気なんだと自分にも嘘をついて。

 それは大人になっても、多分、変わることはなかったのだと思います。

 部屋の隅で膝を抱えることがなかったとしても。
 涙を流すことがなかったとしても。
 私はこの部屋に閉じこもり、泣いていたのです。

 サバはぺろりとご飯を平らげて、軽やかに跳躍しました。
 軽快な歩幅でガラクタの山を通り抜け、
 窓辺からじっとガラス越しの空を見上げます。

 その外には途方もないほど広い世界。
 辛いことも楽しいことも沢山ある、ガラスの向こう側。

 部屋の隅で泣いていた小さな私が顔をあげました。
 手の甲で涙を拭い、立ち上がります。

 ガラクタの山を飛び越えて、サバのすぐ隣にちょこんと座りました。

 二度三度、こわごわと撫でてから。
 彼女は私へと向き直り、にへらっと笑うのでした。

 左右の色が違う、金目銀目を輝かせて。


 遠い記憶の幻は、そのようにして朝の光に溶けて消えました。

 サバは窓ガラスに前足を当て、懸命に引いています。
 私はガラクタの山をよっこいしょと越えて、サバの隣へ座り込みました。
 白い毛並みをゆっくりと撫でます。

「きみは、外に行きたいんだね」

 瞳の色が他の誰かと違っていても。
 その事で傷ついたとしても。
 嘘を吐かず、ありのままの姿で、外へ出る事を望むんだね。

 かちゃん、と小さな音がしました。
 私は無意識に鍵を外していました。

 サバはすぐさま自分の力で引き戸をあけ、テラスへと躍り出ます。

 カーテンが大きく揺れ動きました。
 私も外へ出ます。
 びっくりするくらい静かで、けれど風は強く、朝の光は斜めに強く降り注いでいます。

 サバは手すりへと飛び移り、じっと私をみつめています。
 左右で色の違う瞳が、朝焼けの光に輝いていました。

「あなたの瞳がきれいだから」

 ぽつりと呟いた言葉は、きざで、恥ずかしくて、けれどまっすぐで。

 私がサバに感じる思いと同じでもありました。

 それなら、良いのかもしれない。
 私の瞳も、このままで良いのかもしれない。

 少なくともプロデューサーさんは、それで良い、と伝えてくれたのです。

 サバが前足で顔を拭った後、私に何かを語りかけるように鳴きました。

「——ありがとう」

 彼がそう言ったのかはわからないけれど。
 私が伝えたい思いは、今ようやく言葉になりました。

 気が遠くなるほど長い間閉じ込めていた私の思いは、そうやって再び外へ出ることが出来たのです。

 サバは一度だけ欠伸を返した後、軽やかに跳躍し、階段の踊り場へと飛び込みました。
 十秒も経たないうちに入り口から躍り出て、こちらを見上げます。

「いつでも帰ってきて、いいんだからね! ここは、サバの場所でもあるんだから!」

 声は遠く。
 掠れた声は、彼の半分聞こえない耳には届かなかったかもしれません。

 けれど一度だけ振り向き、歩き去って行くその背中。
 にゃおあ、と鳴き声が響いた——そんな風に私には思えたのでした。

 私はそのまま、彼が消えた道をしばらく見つめていました。

 街が少しずつ目覚め始めているのを感じます。
 太陽の位置が少し高くなり、光の色が変わりました。
 新聞配達のアルバイトさんが原付で風を切りながら駆けていきます。
 どこかのおじいさんおばあさん夫婦が、にこやかに笑いながら朝の散歩をしていました。
 近くのお家から焼き魚の匂いが風に乗って運ばれてきます。

 私はぐっと背伸びをしました。
 骨がぽきりと鳴って、思いの外それが大きく響いてびくっとなって、唐突に一つの決意をしました。

 部屋の中に戻り——段ボールを片付けなきゃ、改めてみるとガラクタが多いなぁ、ねこじゃらしはどうしよう——
 色々な事を考えながら、私はベッドへ放り出していた携帯電話を手に取りました。

 登録したばかりの番号を探して、ボタンを押します。

 朝だから迷惑かな、でもかけちゃった、どうしようかな、中々出てくれないな。

 コールが鳴り続いて、さすがにそろそろ切ろうかなと思った頃合い、私は思わず呟いてしまいました。

「プロデューサーさん、電話に、でんわ」

『……今、出ました』

 まさか聞かれると思っていなかったので、さすがの私もうろたえてしまいました。
 ちょっと酷すぎる駄洒落に、頬がダルマみたいに赤くなっていくのがわかります。

 恥ずかしながら弁明をして、それが更に墓穴となって、けれどこれも私のありのままだとも思いました。

 電話口に静かな沈黙がおりました。
 プロデューサーさんは、私の言葉を待っています。
 そうでなければ駄目だと、お互いがわかっていたのです。

 私は、何度か息を吐きました。
 心臓がばくばくと音を立てています。
 自分の気持ちを伝えるのってこんなに緊張するんだ、と改めて気が付きました。

 私はうろうろと部屋の中を歩き回り、サバの痕跡を何個もみつけ、
 やがて巡り巡って洗面台の前へと立ちました。

 大きな鏡の中に、私がいます。
 たくさん泣いて、兎みたいに赤くなった瞳の中心は、
 やはり何度みても人とは違う色をしていました。

 けれど、もう、いいのです。

「ちょっと長いお話なんですけど……聞いてくれますか?」

『えぇ、どうぞ。高垣さんの話なら、大歓迎です』

 私は、もういないサバの姿を思い浮かべます。
 つやつやの毛。
 左右で違う、金と銀の瞳。
 やんちゃな性格。好奇心に満ちた立ち振る舞い。

「私、猫になりたいんです」

 一拍の沈黙の後——じゃあ、ねころんで聞きますね、そんな返しがあって。

 思わず笑ってしまうと共に、あぁ、これでいいんだ、と思いました。

 部屋には朝焼けが広がり、無数のガラクタから薄い影が伸びていました。
 そこで遊んでいたサバの姿を一つずつ言葉にしながら、これからの日々を想像します。

 辛かったり、楽しかったり、色々な事があるでしょう。

 それでも私は、この色の違う瞳で世界をきちんと見て。
 自分の言葉で思いを伝えて。
 ありのまま、生きていくのです。

    — 了 —


以上です!
ここまで読んでくれた方、ありがとうございました。
ご意見、ご感想などいただけるとうれしいです。

ちなみにSS速報VIPに投下した過去作としては、

■デレマスアニメ版
武内P「ハンバーグを食べにいきましょう」蘭子「ほぇっ」
武内P「ハンバーグを食べにいきましょう」蘭子「ほぇっ」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1443948950/)
■ミリマス奈緒と志保
奈緒「志保、私、アイドル辞めて実家帰ることにしたわ」
奈緒「志保、私、アイドル辞めて実家帰ることにしたわ」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1443966541/)

この辺があります。

面白い

おつおつ


いい話だった

お疲れ様でした

良い話だったけど、苦労して探してくれた猫をその日のうちに放しちゃうのはどうかなって思う

パンツの人だ
いい話でした

いい話や…

面白かった
サバが居なくなるのが少し

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