【アイマス】夢の信託 (189)
・地の文
・そこそこ長くなる予定
・独自設定、独自解釈有
・推敲しながら投下
よろしければお付き合いください
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1468244118
夢を、見ていた。
私の目の前には緑色の海が広がっている。
私の動きに合わせるように波が打ち寄せ、引いていく。
私の声に反応して、大気を震わせるようなざわめきが返ってくる。
夢を、見ていた。
右と左、どちらへ行くべきか。
玉と珠、どちらを取るべきか。
何を悩む必要があるのだろうか。
夢を、見ていた。
降るような星空の下に、私ともう一人。
私が口を開き、もう一人も口を開く。
ぶつかった二つの視線は、同じ方向へ向けられる。
夢は、やがて醒める。
***************************
私はアイドルが好きだ。
でも、アイドルなりたいとは思っていなかった。
私がアイドルになれるなんて考えもしなかった、という方が正確かもしれない。
アイドルというのは、『何か』を持っている人がなるもの。
持たざる者である私はただ憧れを抱くだけ。
だから私は考えたのだ。
アイドルを一番近くで支えることができる存在になろうと。
自分の手で、アイドルを最高に輝かせてみせるんだと。
――――――
――――
――
「765プロダクション……ここね」
地図を片手にビルを見上げる。
窓にはご丁寧に『765』の文字が存在を主張している。
……ガムテープで。
「ホントに大丈夫なのかしら」
一抹の不安を覚えつつも、階段に足をかける。
『故障中』と書かれた入口のエレベータに、更なる不安を掻き立てられた。
とはいえ、私が取りうる選択肢はそんなに多いわけではない。
所詮は経験もなければ後ろ盾もない、19の小娘に過ぎないのだから。
「ここの社長はそんなこと気にしないって話だったけど……」
色々と情報収集をしているうちに行き当たったのが、この765プロだった。
実績の有無は関係なく、重要視されるのはその人となり。
何を基準にしているのかはよく分からないけれど、それなら私にもチャンスはあるはずだ。
扉を前に深呼吸を一つ。
不安と緊張を追い出してからノックをする。
「失礼します。先日連絡をさせていただいた、秋月律子と申します」
雑用でもなんでも構わないから、とにかく実地で経験を積んで。
あわよくば人脈なんかも手に入れて。
アイドルのプロデューサーとしてやっていくための下地を作ろう。
もしここが私の夢を叶えるに足りない場所ならば。
出来うる限りの経験だけは頂いて、それを足掛かりに余所に行けばいい。
その時の私は、そんなことを考えていた。
一先ずここまで
今月中に終われば……くらいの速度になると思います
お付き合いいただけましたなら、幸いです
おつ
***************************
思い返すと、随分と失礼なことを言った気がする。
――最初は事務でもなんでもいいから、とにかく働かせて欲しい
オブラートに包んでいても、発言の内容が変わるわけではない。
従業員を募集しているわけでもない所に押しかけ、こんな発言をする人間を誰が雇うのか。
少なくとも、自分が経営者なら丁重にお帰り頂いている気がする。
にもかかわらず、私は今765プロにいる。
失礼な物言いをする私の、一体どこが気に入られたのだろう。
色々と資格を取っていたのが評価されたのか。
いや、でも履歴書もろくに見てなかった気がする。
その辺りのことは正直よく分からないけれど、チャンスには違いない。
夢に向けた経験を積む絶好の機会だと、前向きに捉えよう。
――――――
――――
――
「はい、どうぞ」
二人分のコーヒーをテーブルに置く。
テーブルを挟んだ向かいには、先輩事務員の音無小鳥さん。
いつの間にか用意されたお菓子は、小鳥さんがどこからともなく用意してきたものだ。
「ありがとうございます、律子さん」
「後輩相手にそんなにかしこまらないで下さい」
「うーん、そういう性分なんですよ」
そう言って微笑むその表情は、同性の私をもドキッとさせるものだった。
こんな綺麗な人がなんで事務員なんだろう。
もし私がプロデューサーなら、なんとしてでも口説き落として、アイドルとして売り出すのに……
「……さん、律子さん?」
その声に我に返ると、小鳥さんが怪訝な顔をしている。
いけない、つい自分の世界に入り込んでしまった。
「は、はい。なんでしょうか」
「お仕事慣れましたか、って聞こうとしたんですが……」
「そうですね。今のところ問題はないと思います」
「はぁー、出来る人はやっぱり違いますねぇ」
「何を言ってるんですか。いいお手本がいるからですよ」
他人からそんな風にストレートに褒められるのには慣れていない。
顔の前でパタパタと手を振りつつそう答える。
「またまたー」
小鳥さんはしきりにこちらを持ち上げようとするけれど。
小鳥さんの仕事を参考にすれば、大抵のことは何とかなった。
分からないことも、教えを請えばすぐに解決策を示してくれた。
要するに、小鳥さんはとても仕事ができる人だったのだ。
……だからこそ、聞いておきたいことがあった。
「あの……」
私の声のトーンが変わったことで何かを察してくれたのだろう。
小鳥さんは姿勢を正して私と視線を合わせてくれた。
「私、役に立ってますか?」
それは、仕事を覚えるうちに頭をよぎるようになったこと。
今、765プロには三人のアイドル候補生がいるだけ。
近くもう一人加わるという話だけど、それでも決して多いとは言えない人数だ。
そんな規模の事務所に、果たして二人も事務員は必要なのだろうか。
ましてや、元々いた小鳥さんはこんなに優秀だというのに。
「私やプロデューサーさんは助かってますよ?」
その言葉に嘘はない。
小鳥さんの目を見れば、それくらいのことは分かる。
「そう言ってもらえると気が楽になりますけど」
でもなんだろう。
何かが引っ掛かっている。
「事務もそうですけど、レッスンの付き添いなんかもしてもらってますし」
今のところ、プロデューサーは一日のほとんどを外回りに費やしている。
デビューに向けた売込みなんかで忙しいらしい。
だから、自然とそのフォローを私もするようになっていた。
レッスンの付き添いもその一環。
レッスンの現場を体感できるというのは、私にとっても願ったりのことだった。
将来プロデューサーになれたとして、その経験が必ず役に立つはずだから。
だから決して苦ではない……はずなのだ。
なのに、喉に小骨が刺さったような違和感がある。
「どうかしましたか?」
話を振っておきながら、自分の世界に入ってしまっていた。
でも、そんな私にも小鳥さんは優しい眼差しを向けてくれる。
だからなのだろうか。
私の口から、心中に漂うモヤモヤがあふれ出てきた。
「私が最初、ここに来た時に言ってたこと、覚えてますか?」
夢に向けた一歩を踏み出そうと扉を開けた日。
気持ちが空回りした挙句、相当に失礼なことを言ってしまった。
でも、そこに嘘だけはなかったと思う。
「ふふ、ちゃんと覚えてますよ」
――いつか自分のアイドルをプロデュースしたい
――そのためなら、最初は事務でもなんでもかまわない
――経験も何もない自分に、一歩を踏み出すチャンスをください
「……まぁ、いきなり押しかけてあんなこと言ったら忘れるはずありませんよね」
思わず頬をかく。
一方の小鳥さんは、いたって真面目に言葉を繋いだ。
「あの時の律子さん、すごく真っ直ぐな目をしてましたから」
顔に熱が集まってくるのがわかる。
そんな風に言われるとちょっと、いや、かなり恥ずかしいです。
「夢に向かって脇目も振らずに走り出す……青春っていいですよねぇ」
視線を上げると、今まさに羽ばたかんとする小鳥さんがいた。
……多分、この表現が一番適切だと思う。
「……小鳥さん?」
「は、はいっ」
普段はとても頼りになるお姉さんであるところの小鳥さん。
彼女は時々、突然上の空になってしまうことがある。
そういう時は頬を染めたり、少々だらしのない笑みを浮かべたりしていることが多い。
おそらく、深く追求しないほうがいいのだろう。
少し温くなったコーヒーで喉を潤し、お菓子を口に入れる。
そうやって仕切り直しをした後、小鳥さんが口を開いた。
「……それで、あの時の話がどうかしたんですか?」
「ああは言いましたけど、この事務所に私は必要なのかなって」
「大丈夫ですよ。アイドルの卵なら、これから社長が見つけてきてくれます」
小鳥さんが言うには、社長の人を見る目は確からしい。
一方で、経営者としては大らかすぎるきらいがあるとのことで。
「だから、律子さんが来てくれて、本当に心強いんですよ」
その言葉は、私に対する信頼が滲み出ていて。
その分だけいたたまれない気持ちが湧き上がってきた。
「……私、謝らないといけません」
そんな言葉がこぼれた。
向かいに座る小鳥さんは、静かにこちらを見つめている。
そっと、続きを待ってくれている。
だから私は、落ち着いて話ができた。
大人の包容力って、こういうのを言うんだろうな。
「私、最初はこの事務所のこと、腰掛けくらいに考えてたんです」
夢以外に何も持っていないような私を受け入れてくれたのに。
「経験を積んだら、もっと大きなところに行けばいいやって」
恩知らずなことを言っている自覚はある。
でも、小鳥さんは相変わらず優しい目をしていた。
「でも、なんででしょうね? 今はそんな風には考えられなくて」
業界では弱小もいいところの事務所。
夢に続く道があるのかどうかも確信が持てない。
なのに。
いつの間にか私はこの事務所が好きになっていたようだ。
まだまだ足りないものだらけだけど。
でも満たされるような、不思議な感覚。
「ふふ」
小さく、嬉しそうに笑う小鳥さんの視線を追う。
そこには社長直筆の『絆』の文字。
「縁は深まれば絆となり、絆は決して切れることはないんですよ」
受け売りですけどね。
そう言って小鳥さんは笑う。
私がこの事務所の扉を叩いたのは、目に見えない縁に導かれたから?
この僅かひと月ほどで、その縁は絆にまで深まった?
正直よく分からない。
分からないけど、私がこの事務所を好きになっているのは事実。
「でもまあ、夢を叶えるには随分回り道な気がします」
回り道、で済むのかどうか。
この道の先が袋小路でない保証などどこにもない。
でも、きっとつながっている。
そう思わせる何かが、ここにはある気がしていた。
「いいと思いますよ」
それが何に対する肯定なのか、咄嗟に分からなかった。
「回り道した分だけ、色んな景色が楽しめますから」
「……それもいいかもしれませんね」
今はまだ、寄り道を楽しむ余裕はないけれど。
小鳥さんの言葉を素直に受け入れている自分がいた。
どうやら私は、少しずつ変わっていきているらしい。
とりあえず推敲が終わっているところまで
なお、現段階では765のアイドルは揃っていない設定です
お楽しみいただけたなら幸いです
乙です
***************************
今日もプロデューサーは外回りに忙しい。
だから、午前中は真のダンスレッスンに付き添い。
ただの送迎……のはずだったのに。
「律子も一緒にどう?」
真の一言が、すべてを変えてしまった。
「へ?」
一体どこから声を出したのか。
そんな風に思うほど、変な声が出た。
そんな声が出るくらい、突拍子もないお誘い。
「ボク、隣に誰かいる方が気合が入るんだよね」
そんな私の戸惑いを置き去りにして、真の言葉が続く。
「それにさ、律子も見てるだけじゃ退屈じゃない?」
真の言わんとすることは分かる。
分かるんだけど。
「む、無理よ。そもそも私運動神経ないもの」
だけど、そんな私の主張は通じないようだった。
「貴音やあずささんの誘いは受けたのに?」
いや、あれはボーカルレッスンだったし。
それに、発声練習を一緒にやっただけで……
そんな私の言い訳にも、真は揺らがなかった。
それならばと、トレーナーさんに視線を送ったんだけど。
「面白そうね、やってみましょうか」
退路を断たれてしまった。
恐る恐る真を見やると。
「やーりぃ」
憎らしいほどに爽やかな笑顔が待っていた。
こんなはずじゃなかったのに……
――――――
――――
――
疲れた体に鞭を入れ、屋上への扉を開く。
待っていたのは、半分くらいの背丈をした自分の影。
落ち着いて、深呼吸を一つ。
レッスンを思い出しながらステップを踏む。
貰ったアドバイスを反芻して。
隣にいた真の動きを思い描いて。
何でこんなことをしているんだろうか。
自分のことなのによく分からなかった。
いつの間にか、影が自分の身長を超えていた。
ギィ
そんな時、金属が軋むような音が聞こえた。
人に……見られていた?
その衝撃が私を凍りつかせる。
「…………プロデューサー、い、いつから、そこに……?」
不自然な姿勢のまま振り返ると、そこには見慣れた人の姿が。
どうにか絞り出した声は、動揺がそのまま表に出たようだった。
「んー、律子が首をかしげながら同じステップを繰り返してたあたり?」
言いながら、プロデューサーがステップを踏む。
私と大差ない、たどたどしいステップ。
見覚えのあるそのステップは、随分前に引っかかっていたところだ。
と、いうことはつまり……
「律子ってさ――」
足を止めたプロデューサーが何かを言おうとしている。
よく分からない何かが爆発した。
「い、いや、違うんですよ。これには特別な意味はなくてですね、そう、プロデューサーを目指すならレッスンの知識も必要になるかなって」
正体不明の何かに突き動かされ、考えるよりも早くしゃべりだしていた。
自分で自分が何を言っているのか、さっぱり分からない。
「真に誘われてやってみたんですけど、やっぱり自分の運動神経の無さを痛感しちゃって。まあ、それはそれで仕方ないって思うんですけどね」
何でこんなに必死になっているんだろう。
でも、止めることができなかった。
「あ、あずささんや貴音に誘われてボーカルレッスンをかじったときは、今よりはちょっとはマシだったんですよ? まあ、素人に毛が生えた程度ですけど」
「律子」
支離滅裂なまま溢れ出していた言葉は、ただ一言、名前を呼ばれただけで止まった。
こちらを見るプロデューサーの目を見て、自分がこんなに取り乱した理由がわかった気がした。
恐怖。
無理だとか向いてないだとか。
誰かにそう言われることが怖かったんだ。
でも、プロデューサーの目には、否定の色が一切浮いていなくて。
そのことに安心している自分がいたから。
だから私は気付くことができた。
「楽しかったか?」
結局、プロデューサーが言ったのはそれだけだった。
ゆっくり、落ち着いて、自分の心に問いかける。
出来たのはほんの少しだけ。
みんなには到底及ばないのは分かっているけど。
自分一人だったら触れようとも思わなかった世界を、ちょっとだけ体験できた。
「そう、ですね……楽しかったんだと、思います」
出来なかったことに悔しさを感じて。
もし次があったらなんて、そんな風に思ったんだろう。
だから私は屋上の扉を開いたんだ。
「そうか」
嬉しそうに、優しく笑うプロデューサー。
私の想いが肯定されたようで、思わず笑みがこぼれてしまった。
「律子、アイドルやってみないか?」
笑顔が、凍りついた。
短いですが今日の分はここまで
お楽しみいただけたなら幸いです
おつおつ
***************************
プロデューサーがアイドルをスカウトしようとしている。
それは分かる。
スカウトしようとしているのは私らしい。
意味が分からない。
「私が、アイドル…………ですか?」
「そ」
「あの、私がなりたいのはアイドルのプロデューサーで……」
私みたいな平凡な人間がアイドル?
アイドルはもっと、特別な『何か』を持った人がなるものじゃないの?
「え、アイドル嫌い?」
意外そうな表情で、見当はずれの問いが返ってきた。
「……アイドルが嫌いなのにプロデューサーを目指すと思います?」
「それもそうだよな」
少し考えればわかることだと思うんだけど。
「じゃあなんで?」
心の底から分からない、そんな表情だった。
……私からすると、なんで分からないのかが分からなかった。
目を引くような容姿をしているわけでもない。
運動神経もあるとは言い難い。
ましてや歌が上手いわけでもない。
「だから、私にアイドルなんて務まりませんよ」
断る理由を並べて、そう締めくくる。
実際に口にすると、我がことながら落ち込みそうになる。
でもまあ、人には向き不向きがあるのだし、それはもう仕方のないことなんだ。
だからこそ、私はプロデューサーになるという夢を追っているんだから。
「いや、そんなことはどうでもいいんだ」
「………は?」
そんなこと。
私だって人並みに悩んだりするのに、それを、そんなこと。
何ともいえない怒りが込み上げてくるのがわかる。
「大事なのは、やりたいかどうか」
「だから、私には無理ですって」
プロデューサーの言葉を断ち切るように声を出す。
その声には、隠しきれない怒りが混ざっている。
それに気付かないとは思えないんだけど。
「今日無理でも、明日できるようにするのが俺の仕事だから」
プロデューサーは気にした風もなく言葉を繋ぐ。
そこには何の気負いもなかった。
「でも、やりたくないのなら、俺にできることはないから」
伝わってくるのは真摯な姿勢。
プロデューサーは、ひたすらまっすぐに私を見ていた。
「だから、小難しいことは置いといて、やりたいかどうかだけ、聞かせて欲しい」
「…………やりたいか、どうか」
我知らず呟きがこぼれる。
私はどう思っているんだろか。
「そんなに急ぐ話でもないから、答えが出たら教えてくれ」
考え込む私を見て、時間が必要だと思ったのだろうか。
そう言ってプロデューサーは話を切り上げる。
「レッスンが楽しいと感じられたんなら、アイドルはもっと楽しいぞ?」
その言葉が私に届くころには、屋上には私一人になっていた。
「私が、アイドル……」
小さな小さなその声は、誰に届くこともなく燃えるような空に溶けていった。
***************************
頭が重い。
日の光が目に突き刺さるようだ。
疲れているのに、変なところが冴えている、そんな感じだった。
「……はぁ」
何度目の溜め息か、数えるのを止めたのはいつ頃だっただろう。
与えられた選択肢は、それほど厄介なものだった。
「からかってるとか、そんな雰囲気じゃなかったものね」
考えもしなかった選択肢。
そんなものがあるなんて、想像したこともなかった。
憧れがあったから。
そうなれるなんて思いもしなかったから。
だから今の私があるのに。
「…………はぁ」
グルグルと同じところを巡る思考。
止まらない溜め息。
なんでこんなに煩わされなきゃならないんだろう。
「律子、文章が面白いことになってるぞ?」
「ひゃっ」
後ろから声をかけられて我に返る。
パソコンの画面には意味不明な文字が羅列されていた。
……何やってるんだろ、私。
とりあえず元の状態に戻しながら、声の主を振り返る。
そこには、いつもとなんら変わらないプロデューサーの顔があった。
「……あなたのせいなんですけど」
恨めし気な声が出た。
厳しくなっているだろう目つきは、何も寝不足だけが理由ではない。
そもそもプロデューサーがあんなことを言わなければ、一晩思い悩むこともなかったのに。
それが筋違いだと分かってはいても、そう思わずにはいられない。
「じゃあ、お詫びしないとな」
プロデューサーは、そんな私の感情をふわりと受け止める。
まるで手ごたえがないのに、全部見抜かれているような、そんな感覚。
自分が駄々をこねる子供のように思えてしまう。
「もう昼食べた?」
「い、いえ、まだですけど」
「それじゃ行くか」
「え? ち、ちょっと待ってくださいよ」
そんな私の葛藤に取り合うこともなく。
さっさとプロデューサーは扉へ向かって歩き出してしまった。
どうにも釈然としないものを感じながら、パソコンの電源を落とす。
――――――
――――
――
「腹が減ってはなんとやらって言うしな」
「……はあ」
強引にたるき亭に連れ込まれ、目の前からは美味しそうな匂いが漂っている。
少し時間を外したせいか、店内には主のいない席がいくらか見て取れた。
「腹いっぱいになったら、いい考えも浮かぶだろ」
「……そんな単純な話じゃないです」
「いいからいいから」
幾ら抗議をしようと、すでに料理はそこにあり。
その匂いに私のお腹は正直に反応していた。
せめて、仕方なしにというポーズをとって箸を手にする。
……食べ物に罪はないものね。
「律子は難しく考えすぎなんだよ」
目の前の料理にお腹が安心しだした頃、プロデューサーがポツリとつぶやいた。
「自分の将来のことなんですから、悩みもします」
「迷った時こそ、シンプルに考えなきゃ」
「そうは言いますけどね」
「んじゃ、アイドルやりたくない?」
「…………それは」
プロデューサーから発せられたのは、至って単純な質問。
そして私は、それに即答できなかった。
「ほら、簡単だろ?」
「なっ……」
心のどこかでは分かっていたのかもしれない。
私は、アイドルをやってみたいと思っているのだ。
でも、そんな風に軽く言われたくはなかった。
人から見たら簡単なことかもしれないけど。
私は、真剣に考えているんだから。
「他人事だと思って適当に言ってませんか?」
つい、そんな言葉が漏れた。
普段仕事を振ってくる時のような。
そんな、いつもと変わらないプロデューサーに少し腹が立ったから。
「他人事じゃない」
静かな一言。
私にはそれが、とても重く響いた。
「俺はプロデューサーだ。だから、他人事じゃない」
私の感情をしっかりと受け止めて、揺らぐことのない視線。
穏やかなのに、その向こうに熱を感じる目。
プロデューサーである以上、アイドルのことを他人事に考えるわけがない。
彼はそう言っている。
「ごめんなさい。相談に乗ってもらってるのに……」
それに引き替え、自分はどうなんだろう。
自分で踏み出す勇気がないのを棚に上げて。
それでいいんだろうか。
「気にするな。わざわざ怒らせた俺が悪い」
「…………へ?」
「それだけ大事なことなんだろ?」
どうしてこの人は私の心を波立たせるのだろう。
もっと普通にしてくれてもいいじゃない。
そんなことを思う反面、変に納得している自分もいた。
普通にしていて、自分の心に素直に従うような私だろうか。
ここに至るまで、色々理屈をつけては言い訳を探していたじゃないか。
私に特別な『何か』なんてない。
そんな私がアイドルになんてなれるわけがない。
なら、私にできることをすればいい。
そうだ。
私は私のアイドルをプロデュースしてやるんだ。
それが間違いだとは思わないけど。
……答えはそこにあったんだ。
「律子はプロデューサーになりたいんだよな?」
「はい」
そう、それが私の原点。
だから私は、765プロの扉を叩いたのだ。
「アイドルにとってのプロデューサーがどんな存在か、身を持って学べるぞ?」
確かに、そういったことを考えないではなかったけど。
私を見つめるその目に悪戯っぽい光を認めては、素直にうなずくことができない。
「失敗も成功もまとめて経験できるいいチャンスだ」
「失敗が前提にあるのはどうなんですか……」
「平坦な道なんてつまらんよ」
「私は、できるなら避けたいです」
あくまで自分の夢の為に。
それで構わないんだと、プロデューサーは言っている。
プロデューサーになるための寄り道なら、どう転んでも損にはならないと。
「それに、稼ぎ手が増えるとウチとしても助かる」
「それは……よく分かります」
「律子は夢の足掛かりになる。事務所は潤う。良いことばっかりだな」
「あからさまに丸め込みにかかってませんか?」
「背中を押してると言ってもらいたい」
「物は言い様ですね」
言葉とは裏腹に、随分と前向きになっている自分がいる。
今一度、自分自身に問いかける。
私はどうしたいのか。
やっぱり答えは、すぐそこにあった。
「プロデューサー」
色々と言い訳まで準備してくれたけど。
でも、自分の言葉で告げないと格好がつかないじゃない。
「私、中途半端なことはしたくないんです」
だから、見つけた答えをそのまま口にする。
「やるからには全力で頑張ります。だから、よろしくお願いします」
頭を下げる。
自分にどれだけできるのか、そんな不安はもちろんあるけど。
それ以上にワクワクしている自分がいる。
目の前にあったのは、無邪気な笑顔だった。
一先ずここまで
お読みいただけたなら幸いです
乙
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「あの、もう一度言ってもらっていいですか?」
みんなとレッスンを受けるようになって少し経った頃。
それは、突然やってきた。
「律子に仕事が入った」
やっぱり聞き間違いではなかったらしい。
「私、まだステージに立てるようなレベルじゃないと思うんですけど?」
「別に歌って踊れってわけじゃないから大丈夫」
「……どういう仕事ですか?」
「ヒーローショーの司会だ」
今も時間のある時は事務の手伝いをしているから、事務所の事情はよく分かっている。
それがどんなものであれ、仕事がもらえるだけありがたいことなのだ。
でも、わざわざアイドルにさせる仕事なの?
「知り合いにその手の仕事をしてるのがいてな。開いた穴を埋めてくれないかって」
普段司会を務めるスタッフが体調を崩してしまい、欠員が出てしまった。
間の悪いことに、その日は複数のステージがあってその穴を埋めることが出来そうにない。
そんな愚痴を聞かされた時、プロデューサーの頭に私の顔が浮かんだらしい。
「なんで私に?」
「適任じゃないか」
真はヒーローに代わって悪役を倒してしまいそうだし、その方が似合っている。
あずささんは悪役にさらわれる役の方が輝きそう。
貴音は独自の世界観を展開してしまいそうで、司会には向かない気がする。
そして、つい先日事務所にやってきた水瀬伊織はというと。
未知数の部分が大きすぎて、突発的なこの仕事を任せていいのかどうか。
妥当、という単語が頭をよぎる。
「……分かりました。せっかくのお仕事ですからね」
「よろしくな」
「もちろん、しっかり務めさせてもらいますよ」
――――――
――――
――
結論から言えば、私の仕事は大過なく終わることができた。
関係者からも好意的な評価をもらえた。
だから成功と言っていいのだろう。
でも。
「……はぁ」
左右交互に視界に入ってくる自分の靴を見ていると、溜め息が漏れた。
それは決して、疲れから来るものではない。
「どうした?」
隣を歩くプロデューサーに届いてしまうくらい、大きな溜め息だったらしい。
決まりの悪さから頬を掻く。
「いえ……あの子たち、私のことなんて覚えてないんだろうなって」
ステージに集まる視線も歓声も。
全ては、舞台狭しと躍動するヒーローたちに向けられたもので。
それはもちろん当然のことなんだけど。
どうにも胸の中がモヤモヤとしてしまう。
「それが悔しい、か」
「そう……ですね」
プロデューサーの短い言葉が、スッと入り込んできた。
何でこんなモヤモヤを抱えているのか、分かった気がする。
あんな風にキラキラした目を、私にも向けて欲しいだなんて。
仕事をきっちりとこなしただけでは満足できないだなんて。
「律子もアイドルらしくなったもんだ」
そう……なのだろうか。
答える術を持たないまま、歩を進める。
「あー、司会のお姉ちゃんだー」
俯きがちに歩いていると、そんな幼い声が聞こえてきた。
顔を上げた先には、小さな女の子。
「お姉ちゃんかっこよかったよ!」
それだけを言うと、女の子は踵を返した。
「あ、ありがとう。気を付けて帰ってね」
咄嗟に出たのは、そんな月並みな言葉だった。
なのに、女の子はこちらを振り返って笑顔を見せてくれた。
「うんっ!」
女の子に応えて手を振る。
人込みで見えなくなるまで。
「……覚えられてたじゃないか」
「……はい」
事務所への道を歩く。
背筋は、自然に伸びていた。
***************************
人というのは現金に出来ている。
目の前にニンジンがぶら下がっていたら、脇目も振らずに走ることができるのだから。
私に向けられた、たった一つの笑顔。
ただそれだけのことで、一心不乱にアイドルに取り組むようになった。
そして、願わくばもっと、なんて。
……私も随分欲張りになったものだ。
――――――
――――
――
「律子と伊織は俺と一緒に外回りな」
「そんなの、アンタだけで十分じゃない」
私が言葉を発するよりも早く、隣から不平が漏れた。
そんなことよりもレッスンに集中したいと、横顔が主張している。
伊織は、今一つ協調性に欠けるきらいがある。
ただ、その才能が本物であることも間違いない。
……あっという間に追いつかれた私が言うのだ、疑う余地はないだろう。
「名前だけで仕事取って来いって言うなら、そうするけど?」
「ぐっ……」
確かに、水瀬の名前を出せば仕事は取れるに違いない。
それくらい、水瀬の名前は大きかった。
ただ、そこには伊織の意思も実力も介在することはない。
それは、何より彼女が忌み嫌うことだった。
だからこそ彼女は、自分の力で道を切り開くことを選んだのだろう。
「まあ、それでも仕事は取れるだろうし」
「わかったわよ! 行けばいいんでしょ、行けば!?」
意地悪く言ってのけたプロデューサーの表情は、いつもと変わらない。
時々、彼の本心がどこにあるのかわからなくなる。
彼は彼なりに、必要だと思ったからそうしているのだろうけど……
「他の子たちはどうなってるんですか?」
「あずささんは雑誌の取材。やよい、雪歩は貴音とレッスンだ」
このままでは空気が重くなるばかり。
そう思って話の矛先を変える。
伊織の後から入ってきたやよいと雪歩。
彼女たちは、まだまだ基礎固めの時期だった。
「あれ、響は?」
「響は真の仕事に付き添い。現場を見てみたいんだと」
「……我慢できずに飛び入り、とかにならないでしょうね?」
「真もいるし大丈夫だろ。もしそうなっても響なら何とかなりそうだし」
やよいや雪歩と同じ時期に入ってきた響は、二人と違ってかなり動ける。
ことダンスにかけてなら、真にも引けを取らないだろう。
だからまあ、プロデューサーの言うことも分からないではないのだけど。
じっとしているのが苦手というか、元気が有り余っているというか。
どうにも一抹の不安が拭えない。
「ふん。あれくらいなら私にもできるわよ」
「確かに、総合力でいえば伊織の方が上だな」
「アンタ……ホントにそう思ってるんでしょうね?」
「そうでなきゃ営業に連れて行かないさ」
「ま、まあ、分かってるんならそれでいいのよ」
不満げに口を挟んだはずの伊織は、気勢をそがれてそっぽを向く。
その頬はかすかに色づいていた。
真正面から認められることに慣れていないのだろうか。
なぜか鏡を見せられたような気分になってしまった。
***************************
プロデューサーは、外回りのその足で打ち合わせに行くという。
正直なところ私も、そして多分伊織も、これ以上歩くのは無理だった。
レッスンで多少の体力は付いたと思っていたのだけど。
それとは別の疲労に襲われていた。
……あの人は、いつもこんなことをしているのか
「ただ今戻りました」
「あ、お帰りなさい」
迎えてくれた小鳥さんに応じる余裕もなく、ソファに吸い込まれていく。
足が棒になるって言うのは、まさにこういうことなんだろう。
どうやら、向かいに座り込んだ伊織も大差はないらしい。
確認するまでもなく、顔にそう書いてある。
「二人ともお疲れ様。はい、どうぞ」
声も出せない二人の前に、湯気の立つマグカップが差し出される。
ほのかに甘いココアの香りが、疲れた心に沁みるようだった。
「ありがとうございます、小鳥さん」
「……ありがと」
カップに口をつける動作は、まるで鏡に映したかのようだった。
私が感じているやわらかい甘さを、伊織も同じように感じているんだろうか。
「それで、どうでしたか?」
「どうもこうもないわよ!」
取り留めのないことを考えていた私とは対照的に、伊織が鋭く反応する。
疲れが一段落つくと、不平が顔をもたげたらしい。
「か弱い伊織ちゃんを、好き放題連れ回してくれちゃって」
「まぁまぁ。プロデューサーさんも意地悪してるわけじゃないんですから」
「そんなの分かってるわよ。でも、疲れたものは疲れたの!」
「……伊織ちゃん、もしかしてココアの気分じゃありませんでした?」
「そ、そういうことじゃなくて!」
「疲れた時は甘い物のほうがいいかなって思ったんですけど」
「だから、その……それは、感謝してるっていうか……」
最初は苦笑を浮かべていた小鳥さんが、今はしょんぼりとした顔をしている。
不満を吐き出そうとしていたはずの伊織がオロオロし出した。
小鳥さんが芝居をしているのは、少し落ち着けば分かりそうなものなのに。
目の前の光景は、水瀬伊織という人間をありのままに表わしている気がする。
自己中心的な言動が目立つけど、決して他人を思い遣れないわけではないのだ。
なぜかそのことが嬉しかった。
「……なによ?」
いつの間にか顔に出ていたのだろうか。
少し口を尖らせながら、伊織がこちらに視線を向ける。
「素直になりきれない伊織が可愛くて」
「なっ……なに言ってんのよっ!」
「そういうとこ、普段からもっと見せて行けばいいのに」
「バ、バッカじゃないの!?」
そう言ってそっぽを向く伊織は、少し赤くなっていた。
私の言葉を否定しないということは。
まったく、素直じゃないんだから。
とりあえず本日はここまで
事務所が少しだけ賑やかになりました
お楽しみいただけたなら幸いです
乙
***************************
それからすぐのこと。
私に、オーディション出場の話が持ち上がった。
プロデューサー曰く、この前の営業が実を結んだらしい。
地方局のとある番組への出演をかけたオーディション。
合格すれば一つのコーナーでメインゲストとして扱ってもらえる。
ステージに立つことも出来る。
それは願ってもない話なんだけど。
「私と伊織で枠を争うんですか?」
「当然、出場者は他にもいるけどな」
別にそこは問題ではなくて。
何で同じ事務所の人間で争わなければならないのか。
その小さなしこりが、妙な存在感を放っていた。
そんな私を見透かしたかのように、プロデューサーが付け加える。
「辞退しても構わないぞ? 本気でやれないなら、出る方が失礼だしな」
「上等じゃない。伊織ちゃんの実力を見せつけてやるんだから」
隣から聞こえる、やる気に満ちた声。
素直に頷けない私とは対照的だった。
アイドルにやりがいを感じるようになったのは本当。
その為に努力をしてきた自負はある。
でも、私は伊織のようにアイドルになる明確な意思があったわけじゃない。
そもそもがプロデューサー志望だったわけで。
そんな中途半端さを抱えた私が、伊織と枠を争うだなんて……
パンッ
フラフラとさまよう思考に、手を叩く音が割り込んできた。
顔を上げると、プロデューサーと目が合う。
『大事なのは、やりたいかどうか』
かつて投げかけられた言葉が響く。
あの時私を揺り動かした言葉。
口には出さなくても、それが聞こえてきた。
同時に湧き上がってきたのは、初めての仕事で得た様々な想い。
一つの仕事を全うした充実感。
舞台における主役ではないという悔しさ。
笑顔を向けられる喜び。
それらを受け止めると、心はあっさりと決まってしまった。
「伊織、負けないわよ?」
「それはこっちのセリフよ」
そう答える伊織の顔は、気持ちいいくらいに清々しかった。
私も、そんな顔が出来ていたらいいな。
――――――
――――
――
伊織は伊織で考えがあるらしい。
二言三言プロデューサーと言葉を交わすと、どこかへ出かけてしまった。
「それでプロデューサー。私は何をすればいいんでしょうか?」
『やるからには全力で』
アイドルとして頑張ると決めた時、そう宣言した。
だから、出来ることは全部やっていこう。
「ん? いつも通りのレッスンだけど?」
「……へ?」
肩透かしを食った気分だった。
せっかくこっちがモチベーションを上げているというのに。
「特訓とか、対策とか……」
「特にないよ」
いつも通りと言えばいつも通りのプロデューサーなんだけど。
怒りとも呆れともつかない感情が湧き上がってくる。
「いくら背伸びしても律子は律子。上ばかり見てると躓くぞ?」
何とも複雑な表情の私を前に、プロデューサーはそれだけを告げる。
その言葉が届くころには、私は一人にされていた。
「今まで通り、私は私らしく……」
多分、そういうことを言いたかったんじゃないかと思う。
目の前の出来事に合わせていくんじゃなく、秋月律子として歩けるように。
その為にも、足元をしっかりと固める必要があるから。
都合のいいように解釈している気がしないでもないけど。
そうやって前向きに捉える方が精神衛生上好ましい気がした。
「でも、やっぱり合格したいわよね」
当然ながらそんな欲もあるわけで。
ならせめて、レッスンに向ける意識だけでも変えていこう。
私らしい私を表現できるように。
あの時の笑顔に、また会えるように。
***************************
事務所に帰ってきた今になっても、まだどこかフワフワしている。
目を開けたまま夢を見ているような感じだ。
目の前には苦笑気味のプロデューサー。
傍目にもわかるくらい、落ち着きがなかったらしい。
「プロデューサー。私、合格したんですよね?」
「何をいまさら」
「いえ、夢でも見てるみたいというかなんというか……」
「……おめでとう、律子」
「ありがとう、ございます」
プロデューサーは、一転して慈しむような表情になっていた。
それがスッと心の中に入ってきて、じわじわと現実感がわいてくる。
噛み締めるように、束の間目を閉じる。
そこには、あの子の笑顔が映っていた。
「ねぇ」
視界の外から、芯の通った声が響く。
しっかりと背筋を伸ばして前を見つめるその姿が、ありありと浮かんできた。
「私と律子、どこに差があったのかしら」
「……あくまで俺の感じたことだけど、それでいいか?」
しっかりと頷く気配がする。
私が伊織の立場だったとして、こうも素早く切り替えができただろうか。
私にはないその強さが、少し羨ましかった。
「技術の差というより、姿勢の差……かな」
「……つまり?」
「技術的な面では、そんなに差があったとは思えない」
プロデューサーのその言葉に少なからぬショックを受ける。
伊織に才能があることも、その上で努力を積んでいることも承知していたけど。
多少はあったはずのアドバンテージは、この短期間で埋められてしまっていたのだ。
「伊織の場合は、意識が自分に向き過ぎてるように見えたな」
「オーディションは自分をアピールする場でしょ? 何がいけないのよ」
「パフォーマンス自体に問題はないんだが」
プロデューサーはそこで言葉を切って、コーヒーに手を伸ばす。
どう伝えるべきかを整理しているようだった。
「誰に向けたパフォーマンスなのか、それが見えづらかった」
「……どういうことよ?」
「いち観客として見ると、凄いんだけど引き込まれなかったんだよ」
辛辣な言葉だった。
ましてや相手はデビュー間もない新人。
それはおそらく期待の裏返しなのだろう。
横で聞いている分にはそう判断できるけど、当の本人は……
「どうすれば良くなるの?」
「それこそ感覚的な話だからな。実際に経験を積むのが一番だと思う」
「そ。ならよろしくね」
「わかったよ。まったく……」
ポリポリと頭をかくプロデューサー。
言葉にならなかったその続きが聞こえてくるようだった。
この先、同じような状況になったとして。
その時も今日のような結果が得られるのかどうか。
仲間として頼もしく思いつつも、背筋に冷たいものが走るのを止められなかった。
***************************
本番までのそう多くはない時間。
みんなの支えをこんなにも強く感じたことはなかった。
相談に乗ってくれて。
アドバイスをくれて。
時には遠慮のない指摘をされて。
お陰で、今の私にできる準備は全部やったと言えるくらいに充実していた。
そして、あっという間に時間は過ぎ去っていく。
台本は穴が開くほど読み込んだ。
考えられる限りのシミュレーションもした。
これなら上手くいくんじゃないかな、って。
そう思ってたんだけど。
「秋月律子です。よろしくお願いします」
そう挨拶した後のことは、ほとんど覚えていなかった。
主役になれるなんて思ってもいなかった私は。
遠くから見るだけだった世界に足を踏み入れた私は。
舞台の上で何を見て、何を聞いて、何を話したんだろう。
――――――
――――
――
両肩にかかる重さで我に返った。
最初に認識できたのは、目の前にある見慣れた顔。
そして、肩に乗せられた大きくて、あったかい手。
「…………プロ、デューサー?」
「ガッチガチだな、おい。俺がわかるか?」
軽い声と明るい笑顔。
それはいつものプロデューサー。
「……えっと、はい、大丈夫、だと思います」
「そんなんでこれから歌えるのか?」
からかうような気やすい口調で話しかけられる。
普段と大して変わらないのに、どこか違う気がする。
……そうか。
私を気遣って、あえてこんな風にしてるのか。
私を見据える瞳の、その奥に見える色がそう教えてくれた。
「ごめんなさい、プロデューサー」
「ん? なんで謝る?」
「私、頭が真っ白になっちゃって……」
「反省なんて後からできる。今やるべきことはそうじゃないだろ?」
「このままじゃ私、ステージなんて……」
肩に乗せられた重みに、少しの力が加わった。
まるで、私の弱気を追い払うかのように。
その熱に励まされて、でも、不安は後から湧いてきて。
いっそ、目も耳も塞いで蹲ってしまいたかった。
「よし。目を瞑って、深呼吸」
心の内を読み取られたのかと思った。
驚きに視線を上げると、さっきと変わらない瞳がそこにあった。
プロデューサーを信じて、言う通りにしてみる。
光が見えなくなった途端、一層大きな不安が襲ってきた。
落ち着け、落ち着け。
呪文のように繰り返して、深呼吸をする。
「いいか律子。お前は一人じゃない」
その言葉が、呼吸とともに取り込まれる。
途端にみんなの顔が浮かんできた。
色々と余裕がなくなっていた私を気にかけてくれて。
レッスンに付き合ってくれて。
わざわざお茶を用意してくれて。
「みんなが支えてくれてるんだ。怖いものなんてないだろ?」
肩に乗せられた手は、いつの間にか添えるだけになっていた。
でも、その熱はしっかりと私の中に巡っている。
これ以上格好悪いところを見せるのは、なんだか悔しかった。
だから、目を開けて伝える。
私は大丈夫だと。
「ありがとうございます」
しっかりと目を合わせて。
見返す目に、気持ちが伝わったことを知る。
「行ってきます」
短く告げて歩き出す。
光が射す、その場所へ。
――――――
――――
――
どうにもこうにも現実感がない。
疲労と興奮とその他よく分からない感情で足元がフワフワしている。
「お疲れ、律子」
「ありがとうございます」
そんな私を待っていたのは、労いの言葉とペットボトルだった。
喉を通る冷たい水が、少しずつ私を現実に引き戻す。
お陰で少し冷静になれた……のはよかったんだけど。
さっきの有様を思い返して、追い立てるように焦りが迫ってきた。
私はちゃんとできていたのだろうか。
「あ、あのっ! 私、大丈夫でしたか?」
ひっくり返りそうな声が口をついて出た。
何がどう大丈夫なのか、自分でもよく分からない問い。
答えは、苦笑とともにやってきた。
「あー、前半はまぁ、思わず笑いそうになるくらいガッチガチだったな」
「そ、それで……?」
聞くのは怖いけど、聞かないのはもっと怖かった。
とんでもないことを口走ってはいなかっただろうか。
「それだけ。他におかしいところとかはなかったけど?」
その声音に嘘は感じられなかった。
どうやら、最悪の事態は避けられたらしい。
準備してきたことが役に立った、ということにしておこう。
……当の本人がロクに覚えていないのは問題だけど。
「歌で持ち直したしな。まあ及第点だろ」
その表情に、ようやく安心できた。
それはいいんだけども。
いざ落ち着いてみると、さらに色々と思い出してしまった。
私が晒した失態も、プロデューサーのフォローも。
あの時の私は、なんであんなに……
「律子、どうかしたか?」
「い、いえっ、なんでもないですっ!」
顔から火が出るっていうのは、こういう時に使うのね。
現実逃避をしたがっている自分が、心の中で冷静に分析している。
「やっぱり疲れたか?」
「ですから大丈夫ですっ! それよりほら、帰りますよ!」
こちらに身を乗り出すプロデューサーに、慌てて身を引く。
誤魔化すために出した声は、思いのほか大きかった。
恥ずかしさを押し隠して、そのまま踵を返す。
遅れてついてくるプロデューサーの鈍さが、今はありがたかった。
本日はここまで
分量的に大体半分、というところまで来ました
引き続きお付き合いいただけましたなら、幸いです
乙
りっちゃんかわいい
***************************
とても満足のいくものではなかったけど、後悔するのはやめた。
反省の種は幾らでも出てくるけど、それを前に進む糧にして。
あのTV出演を経て、また私の意識が変わった気がする。
自分一人では何もできなかった私。
みんなの支えを自覚して、ようやく格好がついた私。
じゃあ私は、みんなの為に何ができるのだろう。
そんなことを考えるようになっていた。
その変化は多分、事務所の仲間が増えたことと無関係ではないだろう。
「律子さん、もう大丈夫ですから上がってください」
「そうですね……それじゃ、お言葉に甘えさせてもらいます」
気が付けば、765プロには私を含めて13人のアイドルが所属していた。
当然、人が増えれば事務作業も増える。
だから私は、暇を見ては小鳥さんの手伝いをしている。
「お先に失礼します」
「お手伝い、ありがとうございました」
事務所を出ると、赤く染まった街に迎えられた。
訳もなく振り返り、見慣れたビルの、見慣れた窓を見上げる。
街が眠っても窓の灯りはついたまま……そんなことも増えてきた。
それは、私たちが前に進んでいるという何よりの証拠だろう。
でも、それを手放しで喜ぶことができなかった。
社長も小鳥さんもプロデューサーも。
裏方にかかっている負担が、どうしても気になってしまう。
今の私は、アイドルとしての立場を第一にしたいと思っている。
みんなも、そのように扱ってくれる。
でも、どうしても気にかかってしまうのだ。
――――――
――――
――
色々と考え込んだせいだろうか。
何となくモヤモヤとしたものが吹っ切れなくて、意味もなく寄り道をしてしまった。
辿り着いた先には、燃えるような空を映した川が流れていた。
考えなしに土手に寝転がって、その空を見上げる。
「……こんなに大きかったかしら」
ここしばらく、こんな風に空を見ることはなかった気がする。
頭を空っぽにして、ただただ目の前の光景を眺める。
「この空の広さに比べたら、私の悩みなんて……」
そんな月並みなことを呟く。
空が広かろうが、風が心地良かろうが、私の悩みとは何の関係もない。
そんなことは百も承知だけど、それでも少しだけ心が軽くなっていた。
……私も大概単純らしい。
どれくらいそうしていただろう。
いつの間にやら、空の向こうに夜の色が混ざり始めていた。
帰り道を急ぐ子供の声。
散歩中の犬の鳴き声。
夜の向こうからやってくる飛行機の音。
それに……どこかで聞いた覚えのある声。
雑多な音の中にあってなお、存在感を失わない声。
力強いのに、どこか儚さを感じる声。
起き上がり、耳を頼りに声の主を探す。
求める人物は、橋げたの下にいた。
「千早、こんなところでどうしたの?」
「……秋月さん」
静かに振り向いたのは、如月千早。
先日事務所に加わった仲間の一人だった。
「ちょっと自主トレを」
「ここで?」
「ここなら、あまり迷惑にならないと思って」
頭上からはひっきりなしに車の音が降ってくる。
確かにここなら、多少大きな声を出しても問題ないだろう。
「でも、向こうまで千早の声が聞こえてきたわよ?」
「……そう」
さっきまで寝転んでいた辺りを指さす私に、短い言葉が返ってくる。
目の前の千早が、遠ざかるかのような錯覚。
すぐそこにいるのに、差し出した手が届かないような。
それは、これまでにも何度か感じていた。
事務所での待ち時間。
レッスン後のミーティング。
なんてことのない雑談。
みんなと同じところにいるのに、一歩引いていて。
いつもどこかに、孤独の影を感じさせて。
きっと何か理由があるんだと思う。
知り合って間もない私なんかが踏み込んではいけないのかもしれない。
でも、そのまま放っておきたくはなかった。
せっかく縁あって同じ事務所の仲間になったんだから。
『縁は深まれば絆となり、絆は決して切れることはないんですよ』
いつだったか小鳥さんが教えてくれた言葉。
今の私にとって、とても大切な言葉。
「ねえ千早」
だから、私から一歩を踏み出そう。
例えそれがお節介だとしても。
「私に歌、教えてくれない?」
「私が、秋月さんに?」
千早は不意を突かれたような表情になっている。
そんな千早に、しっかりと頷きを返す。
「トレーナーさんでは駄目なのかしら」
「いろんな方向から意見が欲しいのよ」
私には大それたことはできないだろう。
それでも、関わっていこうと思った。
「でも……」
「人に教えることで、千早にも見えてくるものがあると思うのよね」
こういう変化球を使うようになったのは、誰の影響だろうか。
でも、それも悪くない。
「お願い」
「…………そこまで、言うのなら」
「ありがと、千早先生」
私の言葉に、千早の目が見開かれる。
こんな顔もするんだ。
「先生なんて大げさな……」
「それもそうね」
それは多分、小さな一歩だと思う。
こういうところは臆病というかなんというか……
でも、踏み出さなければ始まらないから。
「じゃあ、私のことも律子って呼び捨てにしてくれない?」
「え?」
「なんだかくすぐったいのよ。わかるでしょ、千早センセ?」
「…………わかったわ、律子」
千早は、少しだけ柔らくなった表情で答える。
少しの呆れと、少しの恥ずかしさが見え隠れする表情。
いつか、一人ではどうにもならない困難が訪れた時。
差し出した手を、掴んでもらえるように。
助けを求めて、手を差し出してもらえるように。
まずは、ここから。
***************************
千早との特訓が実を結んだのかどうなのか。
いつの間にやら、オーディションでは合格できる方が多くなっていた。
他の事務所との合同イベントなんかにも呼ばれて。
ミニライブでも空席が目立たないくらいにはお客さんが来てくれるようになった。
何と言うか感慨深い。
始まりはたった一人の笑顔だった。
それが今、数えきれない笑顔に支えられている。
「ただ今戻り……」
雑誌の取材を終え、事務所の扉を開く。
いつものように出迎えてくれた小鳥さんは、口の前に指を立てている。
続く言葉を飲み込んで視線を巡らせると、その理由はすぐにわかった。
応接用のソファーに横たわる人影。
眉間に少しシワを寄せて、プロデューサーが眠っていた。
寝苦しいなら、もっとちゃんとしたところで寝ればいいのに。
「珍しいですね」
「ちょっとお疲れだったみたいで」
「完全に寝入ってるみたいですけど」
「無理にでも仮眠を取ってもらって正解でした」
邪魔にならないよう、ひそひそと会話が交わされる。
それにしても、プロデューサーのこんな姿を見るのは初めてかもしれない。
裏方が疲れたところを見せたら士気にかかわるとか何とか。
いつだったかのプロデューサーの言葉が思い出される。
そして、少なくとも私が知る範囲では、その言葉は実行されていた。
「そんなに忙しいんですか?」
小鳥さんの隣の席に腰かけ、そんなことを聞いてみる。
……聞くまでもなく分かっていることではあるんだけど。
「みんな、順調にステップアップしてますから」
嬉しい悲鳴ですよ、と笑顔で付け足す小鳥さん。
人が増えて、仕事が増えて。
でも、そんなことはおくびにも出さないで。
「……まったく」
感心と呆れが混ざり合った吐息が漏れた。
一言くらいくれてもいいのに。
「小鳥さんも、無理はしないでくださいね?」
「あはは。ありがとうございます」
プロデューサーもそうだけど、小鳥さんだって疲れているだろうに。
そう思って声をかけるけど、朗らかな笑顔で返されてしまった。
これ以上追及しても効果はなさそうだ。
そんな結論に達した時、小鳥さんの向こうのホワイトボードが目に入った。
みんなのスケジュールが書き込まれたそれは、空白の方が少ない。
人数が増えたことも理由の一つなんだろうけど。
何よりも、みんなの努力が実を結び始めていることを教えてくれた。
「……お疲れ様です」
誰に向けられたかもわからない呟きは、誰にも届かないうちに溶けていった。
「さて小鳥さん、何を手伝いましょうか」
袖をまくって伝える。
私は私にできることで支えになろう。
一先ずここまで
事務所に全員揃いました
ですが全員には触れられないと思います
お楽しみいただけたなら幸いです
***************************
「アンタって、歌のこととなると容赦ないわよね」
「そうかしら?」
「そうよ」
「律子がそう言うのなら、そうなのかもしれないわね」
恒例となった千早との特訓の帰り。
とりとめのない話をしていると、物言いたげな顔を向けられた。
「なによ?」
「いえ、鬼軍曹殿の前で言うことじゃないわ」
「アンタねぇ」
「ふふ」
言葉を濁した意味が全くなかった。
でも、不思議と腹が立つようなこともない。
それよりも何よりも、こういう雑談が出来ていることが嬉しかったから。
「まったく、言うに事欠いて鬼軍曹はないでしょうに」
「あら、みんな感謝してるのよ?」
「それはどーも」
あの日、泥のように眠るプロデューサーを見てからというもの。
何かの力になりたいと、そう強く思うようになっていた。
とはいえ、私にできるのは事務の手伝いか、あとはみんなのレッスンを見ることくらい。
そして気づけば、鬼軍曹などと呼ばれるようになってしまった。
「いっそのこと、本当に鬼になってやろうかしら」
「ふふ、お手柔らかにお願いね」
それはまあいいとして。
ここ最近、千早の表情が柔らかくなった気がする。
最初の頃は、それこそ必要なこと以外は話しもしなかったのに。
「千早、何かあった?」
「どうしたの、突然」
「前に比べて壁を感じなくなったから」
「直球ね。まあ、心当たりはあるのだけど」
苦笑しながら答える千早。
やっぱり変わったわ。
「この前ね、駅前でCDの手売りの仕事があったの」
「なんでまた駅前で?」
「今思うと、色々と気付かせたかったんだと思うわ」
千早の顔には、自嘲の笑みが浮かんでいる。
それなのに、何かが吹っ切れたように見えるのは何故なんだろう。
「もちろん歌も歌ったわ。CDは何枚か売れたけど、ほとんどの人は足も止めてくれなかった」
「……ちなみに時間帯は?」
「ちょうど今くらいかしら」
その言葉に空を見上げる。
燃えるような色の向こうから、紫色の夜が押し寄せていた。
この時間の駅前を通る人と言えば、大抵は帰宅途中の人だろう。
その足を止めることがどれだけ難しいか。
それは、考えるまでもないことだと思うのだけど。
「私、もう少しできるつもりだったんだけど、甘かったみたい」
でも千早は、そんな理由では納得できないようだった。
「でね、今の私ではこの辺が限界かな、ってプロデューサーが」
少し前の千早なら猛然と食って掛かっていくような、そんなことを言われているのに。
当の千早は、むしろさっぱりとした顔をしていた。
「人を振り向かせるには、技術以上に熱量が大切なんですって」
「あの人は……」
要するに、千早の歌は上手いだけで響かないと。
プロデューサーはそういうことを言っているのだ。
言葉を選ばないというか、敢えてそういう言葉を選んでいるというか。
「力不足を痛感している相手に向かって、ひどい人よね」
憤慨しているのは言葉だけのことで、その表情は柔らかかった。
プロデューサーの言葉が千早のこの表情を引き出した、ということなのだろう。
感心もしたし、嫉妬も感じた。
いつか私がプロデューサーになった時、あの人のようになれるんだろうか。
「まあ一応、アドバイスもくれたのだけど」
「なんて?」
「もっと周りに目を向けて、如月千早を豊かにしろ、ですって」
千早につられて、私も空を見上げた。
空の赤は随分と後退していて、あと少しで星が見えそうだった。
「だからね、ありがとう、律子」
「……え、なに?」
「何でもないわ」
私たちを追い越すように吹いた風のせいで聞き逃した言葉。
その代わり、目の前には柔らかい笑顔があった。
***************************
少しずつ、でも確実に。
私を支えてくれる笑顔の数は増えている。
今では、ミニライブの席が足りなくなるくらいに。
「みんなー、今日はありがとー!」
溢れる緑のサイリウム。
背中を押してくれる歓声。
以前の私には想像もできなかったものがそこにある。
それはとても幸せなことだと、素直にそう思える。
そんな充実を感じる傍らで、頭の片隅から離れない光景があった。
それは、眉をしかめたプロデューサーの寝顔。
それ以来、何でもない筈の日常に様々な異物を見つけるようになった。
いつまでも消えない事務所の灯り。
平気そうに振舞うその隙間から零れ落ちる、疲れた背中。
僅かに見える、目の下のクマ。
気にし過ぎているだけであれば。
けれど、そうではない。
上手く隠してはいるけど、分かってしまうのだ。
私に夢を見せてくれたその人は。
今、どれだけのものを背負っているのだろう。
今、夢のただ中にある私は。
どう報いればいいのだろう。
私は……
***************************
考えてもそう簡単に答えが出るはずもなく。
……いや、考えるまでもなく答えは分かってはいるんだけど。
プロデューサーに報いるなら、アイドルとして頑張っていけばいいだけだ。
あの人は私をアイドルにしてくれた人だから。
それが一番、あの人が喜んでくれることだろう。
そのことに疑問があるわけではないんだけど、でも……
どうにもこうにもしっくりこないものがあった。
「小鳥さん、コーヒーでいいですか?」
「あ、私がやりますよ」
「ついでですから、座っててください」
「そうですか? それじゃあ……」
事務の仕事が一段落着いて、いつもの会話が交わされる。
いつも通りの、休憩の合図。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
色々考えてみても、今まで以上のことができるわけではなかった。
だから、相も変わらず小鳥さんの手伝いをしている。
……前より頻繁に手伝うようにはなった、かな?
随分と増えた事務作業の量は、今の事務所の状況を教えてくれる。
ひいては、プロデューサーの肩にのしかかるものの重さも。
「どうかしましたか?」
視線を巡らせると、こちらを覗き込む小鳥さんの顔があった。
どうやら、無意識の内に深刻な顔になっていたらしい。
いけないいけない。
「いえ、事務の仕事も随分増えたなあ、と」
嘘は吐いていないけど、本当のことも言っていない。
そんな言葉で誤魔化してしまった。
「そうですねぇ。でも、律子さんのお陰で助かってます」
「私が来た頃には考えられませんでしたね」
「あはは。そうかもしれませんね」
そんなに時間が経ったわけでもないのに、何となく懐かしくなる。
どうやら小鳥さんも同じらしい。
「事務所の仲間も増えましたし、律子さんも今や立派なアイドルですものね」
「まさかこんなことになるとは思ってませんでしたよ」
「さすがはプロデューサーさん、というところでしょうか」
「……まあ、感謝はしてます」
私の言葉に、小鳥さんが嬉しそうに笑う。
そう。
確かに感謝しているのだ。
でも、だからこそ……
「でも、時々思うんですよ。これでいいのかな、って」
「律子さん?」
「ほら、私って元々は事務のアルバイトで入ったじゃないですか」
このところ居座り続けていたモヤモヤがこぼれる。
いい加減一人で抱え続けるのに疲れていたのかもしれない。
「人も仕事も増えて大変なのに、アイドル続けてていいのかなって」
不意に静寂が訪れる。
その静けさに負けて、自分の言葉を後悔し始めた時、小鳥さんが口を開いた。
「……律子さんは、アイドル楽しいですか?」
「はい」
こうやって即答できるくらいには、楽しい。
それは間違いないことだった。
「よかったです」
小鳥さんはいつものように笑っている。
見ているこちらを安心させてくれる、優しい笑み。
「みんなが元気に楽しく活動してくれるのが、私の元気の源なんですよ」
「元気に楽しく、ですか」
「はい。ですから律子さんも笑顔で、ね?」
アイドルの活動に疑問があるわけではない。
私自身これからも頑張っていきたいと、そう思っている。
けれど、それとは別のものが生まれ始めていて。
多分、小鳥さんもそれに気付いているんじゃないだろうか。
天秤は、どちらに傾くのだろう
本日はここまで
今月中に終われるのか、ちょっと怪しくなってきました
お付き合いいただけましたなら、幸いです
***************************
そろそろ自分でも認めないわけにはいかなかった。
私は、もう一つの夢も追ってみたいと、そう思っているらしい。
でも、だからと言ってアイドルへの情熱が冷めたわけでもなく。
私は、どうすればいいんだろう。
どんな悩みを抱えていようとも、関係なく日々は流れていく。
ステージに立ったり、取材を受けたり、ラジオに出演したり。
アイドルとしての、忙しくも充実した日々。
『やるからには全力で』
その誓いに恥じないよう、誠心誠意取り組む。
少しだけ変わったことがあるとすれば。
私に何が求められているのか、それを感じ取れるようになったことだろうか。
それは、これまでの経験が自分の力になっているということ。
あるいは、プロデューサーという夢がはっきりと意識されるようになったからかもしれない。
どちらにしても、アイドル秋月律子にとってみればいいことだった。
その日の私はオフだった。
だからゆっくりしようと、そう思っていたんだけど。
習慣というのは恐ろしい。
目覚ましをかけたわけでもないのに、いつもの時間に目が覚めてしまった。
「二度寝……って感じでもないし」
本当はゆっくり寝ているつもりだった。
けど、こうもすっきりと目が覚めてしまっては仕方がない。
独り言をつぶやきながら起き出す。
「……事務所にでも行きますか」
朝食を簡単に済ませると、やることが無くなってしまった。
だから、最初に頭に浮かんだところに行くことにした。
――――――
――――
――
「よし、帰れ」
事務所の扉を開けて、挨拶をしようとした矢先のことだった。
目が合ったプロデューサーは、そう言い放った。
あまりのことに固まってしまった私に、次の言葉が飛んでくる。
「今日の律子はオフ。オフは仕事しない日。だから帰れ」
ぶつ切りに、簡潔に。
有無を言わせない口調だった。
「いや、あの……」
「疲れてる奴を駆り出すほど忙しくないから大丈夫だ」
なんとか口を開いても、言葉を続けさせてくれない。
取り付く島もない、とはこのことか。
「せっかくのオフなんだ。一度整理してみろ」
「……え?」
「抱えてるものを話せるようになったら、その時は相手になるから」
プロデューサーに、悩みのことを言ったことなどないのに。
なのに、見抜かれていた。
「なんで……?」
「そりゃお前、俺はプロデューサーだぞ?」
まるで答えになっていないその言葉には、妙な説得力があった。
同時に、どうあっても今日は帰らされるのだろうと思い知らされた。
「……分かりました。失礼します」
「おう、またな」
気楽な声に見送られ、事務所の扉を閉める。
何と言うか悔しくなってきた。
解決の糸口くらいは見つけて、プロデューサーの鼻を明かしてやりたいものだ。
「……って言ってもねえ」
悩みの答えが道端に落ちているわけでもなく。
かといってこのまま素直に帰ったところで何かあるとも思えない。
そんなことをつらつらと考えていると、目の端に公園が映った。
予定があるわけでもないし、ちょっと寄っていきますか。
いい感じに木陰になっているベンチを選んで腰掛ける。
まだ早い時間だからだろう、降り注ぐ日差しは柔らかかった。
「要するに、どっちを選ぶかっていうだけなのよね」
このままアイドルとして活動を続けるか。
プロデューサーとしての道に足を踏み出すのか。
どっちを選んでも、後悔はしないだろう。
どっちを選んだとしても、未練は残るだろう。
こればっかりは自分の意思で選ばないといけない。
それは分かってるんだけど。
私は、足踏みを続けていた。
「あれ、律子さん?」
いつも通りの堂々巡りをしていると、元気な声が割り込んできた。
「やよい……」
「どうかしたんですか?」
いつも元気で明るくて、それをみんなにも分けてくれるような、そんな彼女が。
こちらを窺うような、心配そうな表情を浮かべている。
……ひょっとしなくても、私のせいなんだろうな。
「やよいこそ、どうしたの?」
「私は、レッスンまで時間があったのでちょっとお散歩しようかなーって」
そう言って隣に腰を下ろす。
質問に質問を返しても、何も言ってこなかった。
「いい天気ですねー」
「……そうね。まさにお散歩日和、かしら」
「でも、のんびりするのもいいかもですね」
そう言ったきり、やよいは空を流れる雲を追いかけている。
そこにいたのは、いつものやよいだった。
悩みに直面しているその時に、親しい人が傍に居てくれる。
何も言わず何も聞かず、ただ、いつも通りで居てくれる。
……涙が出そうだった。
「……やよい、ありがとうね」
「なにがですか?」
「こうやって隣にいてくれて」
「私、こういう時どうすればいいのかよく分からなくて」
申し訳なさそうな顔でこちらを見る。
そんな顔をする必要は、これっぽっちもないのに。
「だからせめて、お母さんがいつもしてくれるみたいにしようって思って」
いつまでもやよいにそんな顔をしていて欲しくなくて。
感謝を込めて、ついでに恥ずかしさを誤魔化すように。
少し強めに、やよいの頭をくしゃくしゃにする。
「はわっ」
「もう大丈夫だから。そんな顔しないの、ね?」
「ほんとーですか?」
「ええ、やよいのお陰よ」
自然と笑顔になれた。
こちらを覗き込む顔に、花が咲く。
「ねえ、やよい?」
やよいの気遣いが嬉しかったから。
いつもと同じやよいの表情に安心したから。
だから、聞いてみたくなった。
「今、やよいの前にケーキとプリンがあるとするじゃない?」
「ケーキとプリン……ですか?」
「どっちか一つしか食べられないとして、やよいならどっちを選ぶ?」
アイドルかプロデューサーか。
やよいがどう答えたからといって、何が解決するわけでもないのは承知している。
でも、傍にいてくれたやよいとそのまま別れるのは、何か違う気がした。
「うーん……一つしかダメなんですか?」
「そうね。両方食べたらご飯が食べられなくなっちゃうもの」
「うー、それもそうですね……」
何とも抽象的で、本人以外に意図が伝わらないような質問。
それなのに、やよいは真剣に考えてくれている。
そんなやよいだからこそ、こんなことを聞けたのかもしれない。
「……決めました!」
嬉しそうに目を輝かせてこちらを見る。
やよいは何を考えて、どちらを選ぶのだろう。
「みんなを呼んで、一緒に両方食べます!」
「……へ?」
まったく想定していなかった答え。
何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
……今の私は、さぞかし間の抜けた顔をしているんだろうな。
「美味しいものはみんなで食べるともっと美味しいですから!」
そんな私にはお構いなしに、やよいは答えの理由を教えてくれる。
「それに……みんなで分ければ両方食べられるかなーって」
ちょっと恥ずかしそうに、それ以上に楽しそうに、やよいは笑う。
一つを選べないから、両方欲しいから、だからみんなで分ける。
「でもそれじゃ、やよいの分が少なくならない?」
「それはそうなんですけど、これならどっちも無駄にならないと思うんです」
そうか。
選ばれなかったものを無駄にしないために、みんなで共有するのか。
「そっか」
「ダメ……でしたか?」
「そんなことないわ。やよいらしい、って思ったもの」
「えへへー」
「ありがとね」
自然と口をついて出た、感謝の言葉。
言われた方はきょとんとしている。
「やよいのお陰で、ちょっと楽になったわ」
「うー、よく分かりませんけど、お役に立てたなら良かったですー」
ベンチを彩る木陰が、随分色濃くなっている。
レッスンの時間は大丈夫だろうか。
「はわっ、そろそろ行かないとダメかもです」
「今日はありがとね」
先ほど伝えた気持ちがまた零れた。
今度は笑顔が返ってきた。
「律子さんが元気になってくれて良かったです!」
「レッスン、頑張ってね」
「うっうー、頑張りますよー!」
元気な声と、あたたかな笑顔を残していくやよいを見送る。
その背中が見えなくなるまで。
木陰の隙間から、一筋の光が降ってきた。
一先ずここまで
完結は月をまたぐことになりそうです
お付き合いいただけましたなら、幸いです
おつ
***************************
選択肢が目の前に提示されていても。
必ずしもどちらかを選ばなければならないわけではない。
そう教えてもらって、驚くほど心が軽くなった。
ならば、あとは答えを見つけるだけ。
私に何を求められているのかじゃなく。
私が何を求めているのか。
それを知るために、事務所へと足を向ける。
「おはようございます」
扉を開け、数時間前に言えなかった挨拶をする。
案の定というかなんというか、最初に目が合ったのはプロデューサーだった。
「おう、おはよう」
「ちょっと調べものしますので。何かあったら呼んでください」
「ほどほどにな」
どうやら、顔つきからして今朝の私とは違っているらしい。
プロデューサーは少し驚いた後、嬉しそうな、安心したような表情を浮かべている。
たったあれだけのやり取りで、心境の変化を見抜かれてしまったのか。
……嬉しくもあり、気恥ずかしくもあった。
「小鳥さん、ちょっと資料お借りしますね」
「ええ、どうぞ」
誤魔化すように矛先を変え、目当てのものを取り出す。
それは、765プロの活動の記録が詰まっていた。
……平たく言えば、単なるアルバムなんだけど。
まだ人数が少ないころは、私もよくカメラを構えていたっけ。
かつてレンズ越しに切り取った情景を見ながら思い出す。
突然、真新しい衣装に身を包んだ私が登場した。
確か、アイドルになって初めて衣装をもらって、合わせてみた時のやつだ。
当の本人が噴き出しそうになるくらい、顔が強張っている。
『りらっくすですよ、秋月律子』
見かねた貴音に、そう声をかけられたのを覚えている。
……あのころはまだフルネームで呼ばれてたのよね。
ページをめくる手が止まる。
そこに、私の初仕事が写っていた。
ステージを存分に使って躍動するヒーローたちと、その脇に立つ私。
悔しい思いもしたけど、あの時あの笑顔に出会えたから。
だから、今の私がいる。
そこから先は、段々と賑やかな写真が増えてきた。
雪歩が淹れたお茶を飲む伊織とやよい。
貴音に礼を言われた雪歩が、何やら慌てているのが微笑ましい。
更にページをめくると、そこに春香お手製のお菓子が加わるようになって。
亜美と真美が我先に手を伸ばす様子が写されている。
レッスンの様子を切り取ったものには、真と響がいた。
止まっているはずの彼女たちが今にも動き出しそうな、そんな躍動感にあふれた写真。
これは仕事に向かう前だろうか。
千早が、美希を起こそうとしている。
確かこの時は、なかなか起きない美希に私が雷を落とそうとして。
それをあずささんに、やんわりと止められたんだっけ。
ああ、そうだ。
私はやっぱり、この事務所が、みんなが好きなんだ。
写真の中の私が笑っていられたのは。
みんなのお陰なんだ。
心のどこかで、カチリと、音がした。
みんなになら。
みんなだから。
「プロデューサー。仕事が終わったら、ちょっといいですか?」
私は、私の心に従うことにした。
***************************
屋上に出ると空には星が瞬いていた。
星を従えこちらを見るのは、下弦の月。
やわらかい風が心地良かった。
背後から扉の開く音が聞こえた。
振り返ってみると、そこにいたのはやっぱりプロデューサーで。
その両手には缶コーヒーが握られていた。
「ブラックと微糖だけど?」
「……微糖でお願いします」
「知ってる」
えくぼを作ったプロデューサーが隣にやってくる。
渡された缶を受け取り、プルタブを開ける。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
掲げられた缶を打ち合わせる小さな音。
それが過ぎ去ると、束の間の静寂が訪れた。
喉を通り過ぎるコーヒーが、なぜかいつもより苦い気がした。
「……律子もこれからは俺の同僚、か」
静寂を破ったのは、プロデューサーの言葉だった。
弾かれるように隣を見た私の目に、複雑な笑みを浮かべた顔が映る。
「………………なんで」
寂しそうな、苦しそうな、でも、嬉しそうな。
色んな感情を飲み込んで一つの形にしたような笑みだった。
「律子。俺の仕事は何?」
「プロデューサー、ですね」
「そういうことさ」
今まで、具体的ことは何一つ相談してこなかったけど。
秘めたものも筒抜けになってしまうような。
そんな関係になっていたらしい。
「一応聞いておくけど、律子がそうしたいから、なんだよな?」
「はい」
目を合わせて、しっかりと頷く。
それだけでたぶん、私の決意は伝わったと思う。
でも。
想いはちゃんと、言葉にして伝えたかった。
「プロデューサーには感謝してるんですよ?」
それが、この人に対する礼儀だと思うから。
「あの時声をかけてもらわなかったら、私がアイドルなんて想像すらしませんでしたから」
「……俺からすると、自然な流れだったんだけどな」
「お陰さまで、夢の舞台に立つことが出来ました」
視線を上げると、夜空を彩る星が見える。
そこには、みんなと、プロデューサーと歩んだ今までが浮かんでいた。
「本当に夢のようで……」
辛いことも苦しいこともあったはずなのに。
こうやって思い返してみると、楽しいことしか思い出せない。
でも。
「……俺のせい、になるのかな」
「え?」
思いがけない言葉に、視線を戻す。
風に乗ってやってきた雲が、月を隠していく。
「俺がもっとうまくやってたら、律子に余計な心配かけずに済んだのかなってな」
「そんなことっ」
自分でも驚くほど、大きな声だった。
でも、プロデューサーが悪いわけじゃないから。
ただ、私がそうしたいと思っただけだから。
「きっかけは確かに、プロデューサーや小鳥さん、社長の負担が増えたことかもしれませんけど」
でもそんなのは仕方ないじゃないか。
人間、出来ることには限りがあるんだから。
「私だって、元々はプロデューサーになりたくてここに来たんですよ?」
違う。
そんなことが言いたいんじゃない。
「それよりなにより、私はみんなが好きだから。私にできることをしたいって思ったんです」
「律子……」
いつもなら恥ずかしさに負けて言えないようなセリフ。
でも、撤回するつもりはない。
「色々考えて、これまでのことを思い出して。私、気付いたんです」
いつの間にか、雲はどこかに消えていた。
月はやっぱりそこにあって、優しい笑顔をこちらに向けている。
「私は、何より事務所のみんなが大切なんだって」
相変わらず、プロデューサーは複雑な表情をしているけど。
さっきよりも明るい顔になっているのは、きっと気のせいじゃない。
「だから、アイドルとしての夢や憧れは、みんなに預けることにしたんです」
「……預ける?」
「このところ、ずっと考えてたんですよ。私はどうしたいのか、って」
「で、プロデューサーの道を選んだと」
「まあそうなんですけどね。でも、アイドルも諦めたくなくて」
プロデューサーの頭の上に疑問符が浮かんでいる。
ちょっとした優越感だった。
「だから、考え方を変えることにしたんです」
疑問符は相変わらず浮かんだままで。
目で続きを促された。
視線を空に戻して、出した答えを伝える。
「アイドルとしての夢はみんなに預けて、全部まとめて背中を押そう、って」
アイドルとして夢を追いかけたいという気持ち。
みんなの夢を後押ししたいという気持ち。
どっちも本当だから、なかなか答えが出せなかった。
それならいっそ、私の夢もみんなに持って行ってもらえばいい。
それで、私の夢もみんなの夢も、まとめてプロデュースしてやるんだ。
「まあ、傍から見れば単なる屁理屈なのかもしれませんけど」
「ふふ、ははははっ」
唐突に笑い声が響いた。
そこには、してやられた、と言わんばかりの表情が踊っている。
「いやー、参った。まさか律子がそこまで欲張りだったとは」
「誰かさんのお陰ですね」
「まったく。誰だよ、律子をこんなにしたのは」
視線を交わし、示し合わせたように笑い出す。
悩んで考えて、ようやく見つけたその答えは、この人には受け入れてもらえたようだ。
ただ、それが嬉しかった。
「でも、けじめはつけないとな」
ひとしきり笑いあった後、プロデューサーが真面目な表情に戻る。
「そうですね。ファンの人たちにも、事務所のみんなにも」
「できるか?」
「もちろんです」
考えるまでもないことだ。
これは私が、私自身の言葉で伝えなければいけないこと。
そうでなければ、どうしてこの先、胸を張って歩けるというのか。
「さすが、俺が見込んだ……アイドルだ」
「……プロデューサー?」
言葉の端が、微妙に揺れている。
思わず顔を覗き込むと、決まりの悪い表情が待っていた。
「そこは気付かないフリをするのが、いい女なんじゃないか?」
「それは失礼しました」
返ってきた言葉は、いつものプロデューサーのものだった。
別に知らないフリをしてもよかったんだけど。
でも、今このときに要らないモヤモヤを残したくはなかったから。
「……はぁ、わかったよ」
いつまでも視線を外さない私に、プロデューサーが両手を上げる。
「後にも先にも、俺がスカウトしたのは律子だけだから」
視線を遠くに飛ばしたプロデューサーは、呟くように教えてくれた。
空に浮かぶ星が一つ、地平線の彼方に流れていった。
「だからまあ、俺にも思うところがあるんだよ」
冗談めかした笑顔を貼り付けて、プロデューサーがこちらを見る。
……目が笑えてませんよ?
緩やかに吹いていた風が止んで、二人を静寂が包んだ。
すっかり温くなったコーヒーを飲み干す。
……苦い。
「悲しくもあり、嬉しくもあり、ってな」
沈黙を破ったのは、今度もプロデューサーだった。
さっきまで貼り付いていた笑顔は、もうない。
「男心も複雑なんだよ」
この人は、アイドルとしての私を惜しんでくれている。
自分の手で答えを掴んだ私を祝福してくれている。
それが嬉しかった。
言葉をなくし、二人して空を仰ぐ。
一段と賑やかに、星が空を彩り。
月は変わらずに笑っていた。
***************************
アイドルを止めてプロデューサーになる。
受け入れてもらえるのか、なんて心配は杞憂に終わった。
そりゃもちろん、引き留める声もないではなかったけど。
最終的にはみんな受け入れてくれた。
――夢を預ける
そんな私の身勝手な言い分にも、みんな頷いてくれた。
か細い縁に導かれて始まった私の夢は、今や断ち切れない絆で支えられている。
無性に嬉しくて、涙が零れて。
その時のみんなの笑顔は、絶対に忘れないだろう。
一方でファンのみんなはというと。
驚きの声、悲しみの声が私に届けられた。
それはとても辛くて、でも、とても嬉しくて。
形は違ってしまうかもしれないけど、必ずステージに戻ってくる。
私にできる約束は、ただそれだけで。
それでも、私を応援してくれるという声が聞こえてきた。
私は、本当に恵まれている。
今更になってそのことに気付かされた。
――――――
――――
――
そして今。
私は、最後のステージに向けて汗を流している。
「今日も気合十分だな」
「当たり前です。これで最後なんですから」
「本当に最後だと思うか?」
「ええ、もちろん」
顔を出したプロデューサーは、激励に来たんだか冷やかしに来たんだか。
如何にも何かを企んでいるかのような笑顔を見せている。
多分、いつも通りの私で居られるように気を遣ってるんだと思う。
私が『最後』という言葉に囚われないように。
……好意的な解釈に基づけば、だけど。
「なんにせよ、悔いだけは残さないようにな」
「……ありがとうございます」
でも、きっとそうなんだと思う。
それくらいは顔を見ればわかるから。
「じゃ、俺は打ち合わせに行ってくるから」
ヒラヒラと手を振りながら去っていくプロデューサー。
その背中に頭を下げる。
これまでの私を出し切ること。
それが、あの人への恩返しになると思うから。
だから。
***************************
その日、私は光射す表舞台に別れを告げた。
「みんなー、今までありがとー!」
客席は緑の光で埋め尽くされ、私の言葉に一つひとつ反応を返してくれる。
アイドルとしてステージに立つのは今日が最後。
それはファンのみんなも分かっているのに。
それでも、私の背中を押すように、応援の声が途絶えることはない。
思わず涙がこぼれそうになって、何とかこらえる。
望むことすら思いつかなかった舞台。
そこに今、私はいる。
ここにいられることに、幸せを感じている。
だから最後まで笑顔でいたい。
それが、みんなにできる最後の恩返しだと思うから。
「これが私の、アイドルとしての最後の歌です」
あらためて言葉にすると、その重さを実感する。
……私はやっぱりアイドルが好きだったんだ。
「魔法をかけて!」
――――――
――――
――
鮮やかな光に彩られたステージを降り、アイドルの時間が終わる。
背後から押し寄せる熱はまだ冷める気配がないけれど。
もう、私はそれに応えられない。
「お疲れ」
いつものように迎えてくれたプロデューサーは、いつもとは違った表情をしていた。
いつになく優しい目の光には、ほんの少しの悔しさが混ざっている。
「魔法、解けちゃったな」
「……なに気障なことを言ってるんですか。似合いませんよ?」
「少しは感傷に浸らせてくれよ」
冗談めかしてはいるけど、それはきっとこの人の本音。
その気持ちは私にもわかる。
だから、胸の底の問いを形にする。
「じゃあ、一つ聞いていいですか?」
「なんだ?」
「なんで私だったんですか?」
肝心な部分が足りない言葉。
でも、きっと通じている。
すぐそこにある目がそう教えてくれる。
「……あの日、律子がどんな顔してたか、知ってるか?」
返ってきた言葉は、やっぱり肝心なものが欠けていた。
でも、分かる。
あの日。
私が一歩を踏み出すきっかけになった日。
少しずつ伸びる影を相手に、私はどんな顔をしていたんだろう。
「勝手に片思いだと決めつけてる顔」
「…………え?」
「悔しそうで、嬉しそうで、でも諦めてる顔」
その言葉に、思わず頬に手を当てる。
確かに、心当たりがないわけではない。
その一歩を踏み出すまで、私はそう考えていたんだから。
「腹が立ったんだよ。そんな顔する必要ないのにって」
懐かしむように。
哀しむように。
誇るように。
プロデューサーの顔には微かな笑みが浮かんでいた。
「……ありがとうございます」
これ以外に、今必要な言葉が見当たらない。
だから、今の気持ちを全部乗せて伝える。
「フラれた男にそれはないだろ」
予想外の言葉に慌てて顔を上げる。
待っていたのは、悪戯に成功した子供の顔。
腹立たしい。
実に腹立たしい。
「でも実際、俺個人としてはアイドル続けて欲しかったんだ」
そんな私の感情の波に差し挟むように言葉が届く。
……この人は本当に卑怯だと思う。
「ところがプロデューサーとしては、律子の顔が曇るのは避けなきゃならん」
軽い口調とは裏腹に、その顔は真剣だった。
「さようなら俺のアイドル。ようこそ頼もしい相棒、なんてな」
この人の本心が、少しだけ見えた気がする。
私は、この人に応えられていたのだろうか。
これから、応えていけるのだろうか。
「プロデューサー……」
「ま、いざとなったら一日限定とかで復帰してもらえばいいんだけどな」
この人は。
どうしてこう人の気持ちを波立たせるのか。
今日くらい、感動的な話で終わらせてくれてもいいのに。
「そんな思惑、吹っ飛ばしてやりますよ」
……でも。
その気遣いが有難くないと言えば、それは嘘だろう。
「プロデューサーを超える立場になればいいわけですよね?」
アイドルとプロデューサー。
二つの夢を同時に追うなんていう贅沢。
その為の道を残してくれるというのだから。
「お、宣戦布告か?」
「そうとらえてもらって結構です」
目の前のこの人を超えられないようじゃ。
その道を歩むなんて夢のまた夢だろう。
だから、これは単なる区切り。
私の夢は終わってないんだから。
「ですから、これからもよろしくお願いします、プロデューサー」
言葉に込めた気持ちは、プロデューサーには筒抜けなのかもしれない。
そう思うと照れ臭くなるけど、しんみりするよりずっとマシだ。
みんなに夢を預けて、その背中を押して。
私の夢も一緒に連れて行ってもらって。
そして今度は、私自身の手で。
<了>
律子の話を書こうと思い至ってから4ヶ月と少々
ようやく着地できました
思いの外長くなってしまいましたが、ご満足いただけたのなら幸いです
お付き合いいただきましてありがとうございました
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