開かない扉の前で (992)
◆[Alice] A/a
とりあえず見てみなさい、と言って祖母が差し出してきた通帳の名義は、どうみてもわたしのものになっていた。
なんだこれ、と思いながら開いてみると、だーっと並んだ残高欄の果ての果てには、
いまいち実感の湧きにくい額がそっけなくぽつんと記載されている。
非現実的な額ってほどではないけど、それでも何気なく見せられた自分名義の通帳に入っていたら、
大きな戸惑いを覚えても不自然ではない程度の額。
そういうわけで、わたしはとりあえず呆然とした。
「なにこれ」
「うん。わたしもびっくりした」
祖母はそう言って、食卓の上の湯のみに口をつけて緑茶をずずっと啜ったあと、ほうっと溜め息をついた。
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彼女の顔つきも、ここ二、三週間でかなり変わった。というかやつれた。
溺愛していた息子が二十代前半にして死んでしまったんだから、無理もないだろう。
叔父が亡くなったのはつい先月のこと。
夜中に歩いてコンビニに煙草を買いに行ったら、
信号待ちのあいだに突っ込んできた(と思われる)車か何かに撥ねられたらしい。
らしいというのは、まだ事故の相手が特定できていないから。
どうも、ひき逃げという奴らしい。
ひょろながくて痩せっぽちだった叔父のことだから、車に軽く当たられただけで道路を何バウンドかしてあっさり死んでしまったんだろう。
「ああ、痛いな、うん。これはやばいな」なんて苦笑くらいしたかもしれない。
今頃は賽の河原で子供たちに混じって石積みでもしていることだろう。そういう姿を想像するとちょっとだけたのしい。
こんな想像をするからと言って、べつに叔父のことが嫌いだったり、叔父が死んだことを悲しく思っていなかったりするわけじゃない。
素直に悲しんで見せるよりも、皮肉っぽい想像のなかに彼の死を閉じ込めてしまう方が、
韜晦に満ちた叔父の生涯の締めくくりに捧げるものとしては、なかなかにふさわしい弔いのように、わたしには思えるのだ。
実際、たいした隠蔽力だ。誰にも気付かれずにこんなものまで遺すんだから。
「これって、まさかとは思うけど」
通帳の数字と日付、数年前からの定期的な入金の記録。
祖母は「びっくりした」と言っているから、たぶん知らなかったのだろう。
「そう。あの子、あんた名義の通帳に、だいぶ入れてたみたい」
「なんでまた」
「なんででしょうねえ」
呆れたみたいに、祖母は溜め息をついた。
叔父が死んで以来、溜め息の数と暗い顔をしている時間が増えた祖母だったけど、今はどことなくうれしそうに見える。
悲しいのを通り越したら呆れが、呆れを通り越したら笑いが湧き出てきたんだろう。
祖母のそういう表情を見るのはひさしぶりだから、わたしはなんだかうれしくて、
死んだあとでさえ人にそんな顔をさせられる叔父のことを考えて誇らしくなった。
それと同時に、彼女の心を少しでも安らがせるためにも、はやくひき逃げ犯が見つかってほしいとも思った。
きっと叔父自身は、気にしていないだろうけど。
まあ、死んじゃったんだから、気にすることもできないんだろうけど。
「本当は、あんたが高校を卒業してから見せようかとも考えたんだけど」
と、祖母は言う。
「……なんだか、秘密にしておくのも、ばからしくてね。わたしもおじいちゃんも、いつまで生きてるかわからないし」
そうして彼女は困ったように笑った。
わたしは通帳の数字から目を離して、自分の湯のみに口をつけて、ずずっと緑茶をすする。
「どうして、わたし名義でこんなお金が?」
「口座は、わたしが昔、あんたのお母さんに作らせてたんだけど……どういうつもりなんでしょうね」
「大いなる謎ですね。親なき子だからですかね」
「どうでしょうねえ」
肩をすくめた祖母の声をききながら、わたしは叔父がよく腰掛けていた定位置の方を見て、その空白をたしかめた。
叔父は、金銭的に余裕がある生活を送っているようには見えなかった。
口癖は「金がない」と「金がほしい」だった。
結婚もしていなければ彼女もいなかったし、特に金のかかる趣味があったわけでもなく、
酒も呑まず飲み会にもほとんど行っていなかった。
そんな生活でどうやったら金がない状態になるのか、と、
わたしはちょっと呆れていたんだけど、蓋を開けてみたらこういうことだ。
どういうことだ。
「預かっておこうかとも思ったけど」
と言って祖母はちらりと通帳を見たかと思うと、鼻で笑うように息をつき、
「好きにつかいなさい」
とまた困り顔をした。
はあ、とわたしはあっけにとられた。
◇
そういうわけで、自由にできる七桁の財を大いなる驚きとともに得て、
そのお金で最初にわたしが最初にしたことはといえば、高校の屋上でサボり仲間に缶コーヒーをおごることだった。
九月になって最初の金曜日。
八月上旬頃は各地で猛暑日が連続したとかなんとかと、天気予報士が額に汗をにじませながら言っていたけど、
下旬頃から一気に気温がさがりはじめて、残暑なんて言葉は最初からなかったみたいに肌寒くなった。
季節は手品みたいにあっというまに景色と感覚を塗り替えて、
おかげでわたしも、半袖で平気で出歩いていた先月までの自分の気持ちがわからなくなってしまっていた。
急に冷えるようになって、鼻風邪をひいたらしいケイくんは、
わたしが手渡したあたたかい缶コーヒーを受け取ると、ありがとうも言わずにプルタブを捻って飲み始めた。
「感謝の気持ちがたりないよ」
とわたしが抗議すると、
「気持ちはあるよ」
と彼はどうでもよさそうに答えた。
「声に出さないとわかりません」
「感情表現が苦手なんだよね」
「居直らないでよ」
は、とバカにするみたいに鼻で笑って、ケイくんはまたコーヒーに口をつけた。
吐き出した息が白くなるほどの寒さではないけど、先月までの暑さを思うと、世の終わりかとでも言いたくなる。
「居直りっていうかね、これでも表に出してるつもりなんだ」
わたしは呆れて溜め息をつく。
「あのね、ケイくん。わたしたちのご先祖さまとか、いろんな人達が、
そういう表現が苦手な人のためにとっても大切な発明をしてくれてるんだよ。それはね、言葉っていうの」
「はあ」
「それを使うと不思議なことにね、ケイくんみたいな超がつくくらい不器用な人でも、
たった一秒、文字にしたら五字ほどで相手に感謝を伝えられるんだよ」
「うん」
「ご先祖さまは偉大だよね。はい、ケイくん?」
「ありがとう」
「よくできました」
ケイくんはまたバカにするみたいに笑った。
べつにわたしだって、どうしても彼にお礼を言ってほしいわけではなかった。
ただどうでもいい思いつきをぺらぺらと並べてみただけだ。
本当のところなんでもよかった。
彼が返事をよこすかどうかさえどうでもよかった。ただなんとなく口が止まらなかっただけだ。
わたしのそういう傾向については、たぶん彼も見透かしていると思う。
放っておかれると、中身のない言葉を延々と、だらだらと、並べ始める。
それはひょっとしたら、内面のからっぽを見透かされまいとする自己防衛なのかもしれない。
うちの学校の屋上は開放されていない。
生徒はもちろん教師でさえ必要に駆られたときにしか出入りできない。
というのも、開放してしまうと当然危ないし、くわえて人目につかないのをいいことに、
悪さをしたりいかがわしいことをしたりする生徒が出てくるから。
なのだが、ケイくんはどうしてか東校舎の屋上の合鍵をもっている。
そのおこぼれにあずかって、わたしもここでたまに授業をサボってお昼寝をしているのだ。
というより、ケイくんがここでサボっていたところをわたしが偶然発見して、
口止め料代わりに屋上への侵入手段を共有させてもらっている、というのが正しいのだけれど。
とはいえ、今は放課後で、べつに授業をサボっているわけじゃない。
缶コーヒーを一気に飲み干してしまうと、
彼は制服のズボンのポケットから煙草の箱とライターを取り出して、いつものように火をつけた。
「不良」とわたしが言うと、
「そのとおり」と楽しげに頷く。
咎めはするものの、彼に喫煙癖があろうと飲酒癖があろうと本心ではどうでもいいし、
彼の肺が何色をしていようとわたしの肺とは関係ない。
むしろ彼が煙草に火をつけて、その煙をたっぷりと吸い込んで、
やがて吐き出すときのその表情を見ると、安心にさえ似た気持ちを覚える。
どうしてなのだろう?
……分からない。
「それにしても、その金、さっそく手をつけたわけか」
サボり仲間同士の気安さからか、あるいは屋上という空間が妙にそういう気持ちにさせるのか、
わたしはケイくんに、わたしについてのいろいろなことを話していたし、ケイくんもけっこう、自分の話をしてくれていた。
少なくとも、クラスの友達よりも彼の方が、わたしの家庭事情について詳しいことを知っているだろう。
もちろん、それがすなわち絆の強さや信頼の重さをあらわすわけではない。
なにもかも包み隠さずに話し合うから良い友だちだなんて、幼稚園児の発想だ。
友だちだからこそ言いたくないことだってたくさんある。
ケイくんは煙草の灰を空き缶の縁で落とすと、足元にその灰皿を置いた。
「ゴミ収集の人が困るよ」
「俺は困らない」とケイくんは言う。
それはそうだ、とわたしは思った。
「でもバカな使い道だな、缶コーヒーってさ。普通こういうのって、進学とか、何かあったときのためとか言って、とっとくもんだろ」
「うん。そう思ったんだけどね……」
言葉を続けようとしたけど、どう説明していいかわからなくなって、やめた。
そういう使い方をするところを叔父がもし見ていたら、きっと呆れて笑うだろうから?
そんな想像に心地よく浸りたかったから?
あるいはわたしは、叔父が大切に使ってほしいと思って遺しただろうお金をこんなふうに消耗することで、
こんなお金なんかよりも、もっと生きていてほしかったのだと、けっして伝わらない主張をしているつもりなのかもしれない。
よくわからない。
「……だけど?」
言葉に詰まったわたしを見て、ケイくんは続きを促したけど、わたしは何も言わずに、かわりに景色を眺めた。
放課後の屋上から見える街並。
今日は朝からよく晴れていて、夕陽はずいぶんと綺麗に街を照らしていた。
こんなに良い天気なのに、肌を撫でる空気は秋のつめたさ。
それはある意味で幻想的と言えなくもない光景だった。
なんだか、現実味がない、嘘くさい、加工した風景写真みたいな、つくりものめいた美しさ。
そう感じてしまうのはきっと自分のせいなのだろう。
「……なんだか、億劫だな」
わたしのそんな言葉に、ケイくんは新しく煙草をくわえながら反応した。
「なにが?」
「……生きてるのが?」
は、とケイくんはまた笑った。
「ね、一本ちょうだい」
「いやだよ」
「なんで?」
「そんなこと言い出したことなかっただろ。どういう心境の変化?」
「べつに深い意味はないけど……」
「一本二十三円」
「ケチくさい」
「割り切れるものは割り切っておくことが大事なんだよ」
「ふうん」
煙草をわけてもらえなかったわたしは、フェンスの網目をぎゅっと手のひらで掴んでみる。
金網に指の肉が食い込んで痛い。
学校の敷地内を、ぼんやりと見下ろす。
下校しようとしている生徒たちの姿が見える。階下から吹奏楽部の音階練習、剣道部が外周を走っている。
武道場から畳を打つような音、体育館からバスケットボールの跳ねる音。
みんな頭をからっぽにして打ち込んでいるんだろう。それがどうしてわたしにはこんなに平坦なんだろう。
「セロトニンの不足だよ」とケイくんが言った。
「なにが?」
「そういうことを考えるのは、脳内物質の問題らしいよ」
「……」
「頭のなかが不調だと、気分が落ち込んで、感情がわかなくなって、幸福が感じ取りにくくなって、だからつまんないことを考えるんだってさ」
「へえ」
「解消する方法を知ってるよ」
「どんなの?」
「日光を浴びること、適度な運動、栄養バランスのとれた食事」
ケイくんは皮肉っぽく笑った。
わたしはその言葉を聞き流しながら、いくつかのことを思い出した。
母さんのこと、叔父のこと、妹のこと。そのどれもがなんだか遠い。
どうして叔父は――お兄ちゃんは、死んでしまったんだろう?
煙草を買いにいって、信号待ちで、事故で。
お兄ちゃんは、どうして、お金を遺したんだろう?
そのお金を、わたしにどうしてほしかったんだろう?
分からないことばかりで、嫌になる。
「なんだか、遠いな」
そう言って、わたしは空を眺める。
影が後ろに伸びていく、反対側の空が藍色に濃さを増していく、何もかもが融け合ってまざりあって、よく見えなくなっていく。
昔のことを思い出しそうになる。
わたしはそれを、可能なかぎり素早く頭の内側から追い出してしまう。
そうやって今日まで生き延びてきたのだ。
そうして最後に残るのは、お兄ちゃんが死んでしまった、という感慨ですらない感想だけ。
お兄ちゃんは死んでしまって、わたしはこれから彼のいない世界で生きていかなければならない。
「……どうしてなんだろう?」
思わず、そう声をあげたとき、ケイくんが不可解そうにこちらを見た気がした。
わたしは彼の方を見ていなかったから、彼の視線がどこに向かっていたかは、本当のところ分からなかったけど。
「なにが?」
少ししてから、ケイくんはそう訊ねてきた。
なにが? なにがだろう。なにが、"どうして"なんだろう。
自分でも、やっぱりよく分からない。
だから、言葉にできる部分だけを、問いにして答えてみた。
「どうしてお兄ちゃんは、わたしにお金を遺したりしたんだろう?」
彼はまだ二十代で、やろうとしていたことも、行きたい場所も、きっとあったはずなのだ。
わたしに遺しただけのお金があれば、きっと、いろいろなことができたはずなのだ。
それなのにどうして彼は、わたしにそれを渡してしまったんだろう。
どうして自分のために、そのお金を使わなかったんだろう。
それがひどく、申し訳ないことに思える。
「俺が知るわけない」とケイくんは言ったけど、もちろんわたしだって答えを期待していたわけじゃなかった。
「本人に聞けよ」
「だって、もう死んじゃったし」
「そりゃそうだ」、とケイくんは楽しげに笑った。
わたしは彼の、こういう取り繕わないところが好きだった。
「わたしは悲しい」。でも、「彼は悲しくない」。それは本当のことだ
だったら、わたしの感情を鏡写しに真似されるよりは、まったく気にならないと笑ってくれた方がだいぶやりやすい。
こっちだって神妙そうな顔をせずに済むし、文句だって言いやすい。
取り繕った言葉だって言わないで済む。
気遣われたら、平気な顔をしないといけない。大丈夫だって強がらなきゃいけない。
でも、彼にそんな態度をとられると、わたしは反対に、ちょっとくらい気を遣ってくれてもいいじゃないか、とか、
そんなめんどくさいことを考えそうになって、そのちょっとした不満が鼻の奥をつんと刺激して、
不覚にも、泣きそうになる。
そういうとき、彼は決まってこっちを見なかった。
おかげでわたしは涙をこらえる理由が見つけられなくなって、我慢できなくなる。
ケイくんは、何も言わない。からかいも、笑いもしない。
だから近頃のわたしは、彼といるといつも、最後には泣き出してしまう。
それでも五分もしてしまえば、泣き続けるのにも疲れてくる。
尽きない悲しみがあったとしても、それをずっと貫けるほど肉体は付き合いがよくない。
彼は気を遣わないわけじゃない。
必要以上に気を遣わないことが、気遣いすぎだと言えるくらいの、彼なりの気遣いなのだろう。
疲れるくらいに泣いてしまったあとは、赤い目を拭って、息をととのえて、滲む視界をもとに戻さなきゃいけない。
わたしがそうなるまで、ケイくんは黙って煙草を吸っている。
やがて落ち着いた頃に、タイミングを見計らったみたいに、なにかを話しかけてくる。
そのときだってきっと、深い意味なんてなかったんだと思う。
「……そういや、死んだ人に会える場所があるって噂、聞いたことがあるな」
頭の奥に宿った痛みに額をおさえたまま、わたしはケイくんの方を見る。
彼は、しくじった、という顔をした。
たぶん、思わず口をついて出てしまった話題が、悪趣味なものに思えたのだろう。
彼にはそういう、変な潔癖さがある。
「それ、どんな話?」
わたしは、ただのくだらない噂か何かなんだろうと、そう分かっていたのに、
どうしてか変に気になって、思わず聞き返してしまった。
ケイくんは少しためらうような間を置いてから(彼が“ためらい”なんてものを見せるのはかなり珍しい)、
不承不承という顔つきで、視線をこっちに向けないままで答えてくれた。
「ただの噂、都市伝説だよ」
「ここらへん、都市じゃないけど」
「フォークロアって言えば満足か?」
「どんな?」
もちろん、信じたわけでも期待したわけでもない。
……いや、ひょっとしたら、期待したのかもしれない。なにかに、縋り付きたかったのかもしれない。
ケイくんは困り顔のまま、足元の缶を拾い上げて煙草の灰を落としてから、話しはじめた。
なんかいいな
この2000年代前半のジュブナイル小説みたいな感じ
「……隣の市に、遊園地の廃墟があるの、知ってる?」
「あの、心霊スポットとかっていう?」
「そう。ずっと放置されてとっくに荒れ果てるけど、観覧車とかメリーゴーラウンドなんかは残ってる。
草だらけで近付きにくいけど、簡単に入れるし、忍びこんでる奴はけっこういるらしい。肝試しにはいいところだろうしな」
「そこが?」
「残っている建物のなかにはミラーハウスがあって、その奥にひとりの女の子がいる、って話。
なんでもその子が、訪れた人間の望む景色を、なんでも見せてくれるって話だ」
「……景色?」
「俺も詳しい話は知らないけど、その人が見たいと望む光景、過去の思い出や、ありえたかもしれない可能性、もしくは――」
――死んでしまった人間と、再会できるって話もある。
ケイくんはそう言って、「つまらない噂だよ」と言わんばかりに肩をすくめた。
わたしはなんとなく溜め息をついてから、空を見上げる。
その瞬間、鼻先にぽつりと何かがあたる。
雲のない空から、雨粒が降り始めた。
ケイくんが舌打ちをする。わたしの頭のなかを、いくつかの景色が過ぎる。
無性に走り出したいような気持ちになる。何かを叫びたいような。でも、何を叫びたいのかなんて自分じゃ分からない。
「……雨だな。戻るか」
話を打ち切ろうとするみたいに、ケイくんは空を睨んだ。
わたしが別のことを考えている間に、雨は一気に強くなってきた。
ケイくんがフェンスから離れて校舎へ戻ろうとする。
わたしは晴れた空の下の雨に打たれながら、まだ街並を見下ろしている。
「おい、どうした?」
怪訝げな声。わたしは振り向かずに、言った。
「……ね、ケイくん。もしよかったら、そこに案内してくれない?」
「そこ?」
「その、遊園地」
「……タチの悪い噂だぜ。何にもないに決まってる。心霊スポットなんていっても、事故が起こった記録だってないんだ。
放置されて景観が不気味になったからあれこれ言われてるだけで、何のいわくもない」
「うん。それでもいいんだよ」
わたしはそこで、彼の表情が気になって、振り向いた。
不思議と、心配そうな顔をしていた。
“心配そうな”彼の表情なんて、わたしはそのとき初めて見た。今日はずいぶん、珍しいものを見ている気がする。
「ちょっとした、暇つぶしっていうか、儀式っていうか、ただの肝試しでもいいんだけど、何かしたい気分なんだ」
「……探検?」
「そう、それ」
本当は違うのかもしれない。本心からそんな軽々しい気持ちだったかと訊ねられれば、違うような気がする。
藁にもすがるような思い、というのとも違う。
そこまで切実ではないにせよ、面白半分というほど軽薄でもない。
かといって、廃墟に対する好奇心だとか、そういうものがまったく含まれていないとも言いがたい。
感情の割合なんて、自分でも分からない。
しいていうならきっと、何かをすることで、気を紛らわせたかったのだろう。
とにかく、その場所に行ってみたいと思った。
なにもないなら、なにもないことを確認したい。
なにかあるなら、それがなんなのか知りたい。
「だめかな」
わたしは、そう訊ねた。ケイくんは少しの間沈黙してから、仕方なさそうに苦笑した。
「……ダメだって言ったら、ひとりでも行きそうだもんな」
「うん」
「じゃあ仕方ない。言っておくけど、見に行くだけだぞ」
「……ケイくん、そんなに付き合いよかったっけ? 心配してくれてるの?」
純粋な問いかけを、ケイくんはバカにするみたいに笑った。
「何もないとは思うけど、仮に何かあったら、俺の寝覚めが悪いだろ」
それだけだ、とそっけなく呟いてから、ケイくんはこちらに近付いてきて、
わたしの背中をぽんと押して、「早く中に戻るぞ」と、いつもよりちょっとだけやさしい声で言った。
その瞬間も、廃墟のミラーハウスのなか、ひとりで立っているかもしれない女の子のことが、
どうしてだろう、わたしの頭からは、離れてくれなかった。
つづく
乙
おつ
おつおつ
おつです
乙です。
登場人物的に旧作の姪の話に関係してるのかな
◇
台風だ、と何日か前からテレビで言っていた。
けれど後になってみれば、問題は台風そのものではなかった。
詳しいことはわたしには分からなかったけど、気象予報士が言っていたいくつかのキーワードを抜き出すことはできる。
台風は東海地方に上陸したのち、日本海上で温帯低気圧になった。
そこにいくつかの要素が絡まった。太平洋側からの暖かく湿った風、もうひとつの台風。
結果としての線状降水帯。夜中降り続く打ち付けるような雨粒。
関東から東北に及ぶ長い帯状の雨は数日間降り続いて、
いくつかの堤防が決壊し、いくつかの川が氾濫し、いくつかの街で特別警報が発令された。
一言で言えば、未曾有の大雨だった。
死者数名、負傷者多数、建物被害は甚大、農作物被害は深刻、避難指示、避難勧告を受けた人はかなりの数に及ぶ。
ニュースでは土砂崩れや建物の倒壊や沈没、道路を飲み込んだ圧倒的雨量の映像ばかりが流れ続け、
避難している人たちの不安そうな表情が痛々しいくらいに繰り返された。
(あとになって考えてみれば、わたしの家の近所の橋が崩れて通行不可になったことは、
全国ニュースでは一度流れたかどうかというところだった)
そうしてそれから十日もしないうちに、今度は海外で地震が起きた。
コンビニの募金箱は、それまでは関東から東北に及ぶ広範囲の豪雨災害への義援金を目的とするものとされていたが、
地震が起きた翌日には、百万人が避難したチリ沖地震の被害への義援金へと名目を変えていた。
いずれにしてもわたしの周りでみんながしていた話はといえば、
チリの地震や津波警報のことでもなければ、他県で起きた土砂崩れのことでもなく、
インパクトのある沈んだ道路の映像のことでもなければ、死者数や被害を被った建物の数のことでもなかった。
全国ニュースでは一度しか流れなかった橋を通れない不便さ。
それが一番の話題だった。
つまり、そういうものなのだ。
被害の大きさや関わった人間の数が物事の重大さを決めるわけではない。
近さが、それを決める。
わたしにとっては、中国で爆発事故が起きようとバンコクで爆破テロが起きようとそれはさして重大なことではなく、
信号待ちの間にひき逃げされた男の、どこにでもあるような他愛もない死の方が、よほど大きな問題だった。
世間から見れば大きなはずの問題が、わたしにはとても些細なことで、
世間から見れば些細なはずの問題が、わたしにはとても重要だった。
◇
だからわたしは、チリで地震が起きた週の土曜に、ケイくんとふたりで例の遊園地の廃墟を訪れた。
べつにコンビニで募金箱に小銭を入れたりもしなかったし、特にニュースを気にかけたりもしなかった。
「そういえばチリで地震だってね」
「最近おかしいよな。温暖化のせいだな」
というのがわたしとケイくんが交わしたその地震に関する唯一の会話だった。
それ以降はどちらも、遠い国のだめになった建物のことや死んでしまったひとびとのことについては何も触れなかった。
例の大雨から一転、その日は気持ちのいい秋晴れだった。
公共交通機関を乗り継いで隣の市までやってきたわたしたちは、
そこから更に電車やらバスやらを駆使して移動した。
なにせお金なら余るほどある。
ケイくんとふたりきりで出かけるのは、この日が初めてだった。
というよりは、屋上以外の空間で彼と会うのも、初めてだという気がする。
たまに廊下ですれ違うことがあったけど、わたしも彼も互いに話しかけなかった。
それは暗黙の了解のようなものだ。
自分には、誰にも知られていない"誰か"がいる、という事実が、わたしの心をいつも少しだけ強くしてくれる。
そのケイくんは、寂れた木造のバス停留所に降り立った途端、
似合うはずがないのに似合っている爽やかな青いシャツに身を包んだまま、いつものように溜め息をついた。
初めて男の子と出かけるんだからと、ちょっとだけその気になって、
あざといくらいにフェミニンなワンピースを着てみたりもしたんだけど(おろしたてである)、
案の定ケイくんは無反応だった。まあ、過剰反応されたらこっちがびっくりしていたところだけど。
毛先だってちょっと巻いてきたのに。
位置上目で留めるの、ちょっとむずかしかったのに。
言うことといったら、
「草がすごいって言ったのにワンピースにヒールのサンダルって、バカなのか?」
とかだ。
「パンプスだもん」
とわざわざ言わなきゃいけないのが悲しい。
ヒールは低めのにしたし、なんて言ったら視線の温度が五度は下がりそうだ。
ケイくんは馬鹿にするみたいに笑ったかと思うと、
「探検の基本はジーンズにスニーカーだろ。なにせスニーカーは、足音があまりしない」
と、オモチャの剣を自慢する小学生の子供みたいな調子で言った。
いわく、スニーカーの語源は「Sneak」なのだとか。それがどうした。
とはいえ、たしかにけっこう歩くかもしれないのにパンプスで来てしまったあたり、
やっぱりバカだというのには反論はできない。
「ちなみにジーンズはどうして?」
「目立たないから」
納得できるような、できないような。
とにかく、そんなどこかそぐわない調子で、わたしたちは歩き始めた。
つい先日のことだというのに、豪雨なんてなかったみたいに街並は平和だった。
ブロック塀に挟まれた狭い道は、きっと十年前もこんな景色だったのだろう。
塀の向こう側に見える民家の敷地のトタンの壁には、キリスト教の聖句風の怪しげなポスターが張られている。
田舎ではよくある光景だ。
しばらくわたしとケイくんは、のどかと言ってもいいような静かな景色に紛れて歩いていた。
車もほとんど通らなければ、人の姿だってろくに見なかった。
目を閉じると濡れた土の匂いがした。
なにもかもが嘘みたいに平和な景色。
それが、ある曲がり角を見つけたとき、変わった。
あきらかに、そちらに曲がる道だけ、何かが違った。
冷静に考えればすぐに分かる話だ。
横の民家の庭から伸びた木が枝を伸ばして、上から狭い道を覆っている。
そのせいで日があまり差し込まず、他の場所よりいくらか翳って見えてしまうのだ。
ただそれだけ。ただそれだけのはずなのに、なんだか踏み入るのがためらわれた。
わたしたちふたりは何も言わずに一度立ち止まってから、視線を合わせて、黙って頷き合って、そちらへと進む。
暗い道を歩きながら、わたしはケイくんの方を盗み見た。
彼はこちらに気付かずに道の先を見ている。
案内を勝手に押し付けたから、道が合っているかどうかを確認しながら歩いているのかもしれない。
「ねえ、ケイくん」
沈黙がなんとなく気まずくて、わたしは声をかけてみた。
「なんだよ」
「どうしてわたしたち、こんなところまで来ちゃったんだろうね?」
ケイくんは一度立ち止まって、あたりの様子を確認した。
道の脇から伸びた木々の梢が空を隠している、右手に見えるブロック塀の向こうは古い家々。
この一本道の先、翳る道を抜けたところに、光を浴びた小さな坂道がある。
ケイくんが一向に返事をよこさないので、わたしはなんだか不安になった。
たしかに、怒らせても仕方ない言葉だったかもしれない。
でも、なんだか……本当にそんな気分だったのだ。付きあわせているのがわたしだと、分かっているけれど。
「ケイくん……?」
もう一度声を掛けたとき、彼はふたたび歩きはじめた。
返事もしてくれない彼の背中を、わたしは何も言えずに追いかける。
そんなに怒らせちゃったのかな、と、また不安になる。
どうしてだろう。
他の人相手だと、あんまりこういうことにはならないんだけど。
ケイくんは、なんとなく、わたしが何をしても、いつもへらへらバカにして、それでも普段通りに振る舞ってくれるような気がして。
だから、やり過ぎてしまうのかもしれない。
坂道を昇るケイくんの歩調ははやい。わたしの方を振り返りすらしなかった。
ようやく立ち止まったのは坂を登り切ったときで、そのときも彼は前を向いていた。
わたしは彼の背中しか見ていなかった。だから、気付くのが遅れた。
「ケイく……」
言いかけたとき、わたしはケイくんの肩越しに、古い観覧車を見た。
「……あそこみたいだな」
まだ少し、距離があった。ここから見るかぎり、高台にあるらしい。
あたりには民家が少ないらしく、周囲は林のようになっていて、ここからでは、どこが入り口なのかも分からない。
わたしたちのすぐ目の前は下り坂になっていて、その先には細い川があった。
堤防になっているみたいだ。
少し先に、五メートルくらいの、石造りの橋があった。車が一台通れるかというくらいの、狭い橋だ。
坂を降りてしまうと、付近の民家や周辺の林が邪魔をして、観覧車はまた見えなくなってしまった。
ケイくんは黙ったまま橋の上へと進む。
「ケイくん、ごめんね」
「……なにが?」
わたしの言葉にようやく立ち止まって、彼は振り返った。本当にきょとんとした顔だった。
「……怒ってたんじゃないの? さっきから、返事してくれないから」
「……ああ、聞いてなかった」
平然と言う。わたしはどう反応するべきか、困ってしまった。
怒るべきなのか、ほっとするべきなのか。
心情としてはあきらかに後者だったが、表面的にはむっとして見せた方がよかったかもしれない。
「そんなことより」、と、ケイくんは橋の上で立ち止まったまま、わたしの方をじっと見つめてきた。
「……なに?」
思わずわたしはからだをこわばらせる。
彼にまっすぐ見つめられるなんてことは、ほとんどない。
いつもは隣に並んで、互いの顔を見ずにいるから、ときどき彼と目を合わせると、わたしは前を見ていられなくなる。
もともと、人に見られるのが苦手だった。
「一応、訊いておきたいんだけど、もし、噂が本当だったら、どうする?」
なんでもないことを訊ねるような自然さで、彼はそう問いかけてきた。
「えっと、ミラーハウスの噂が本当だったら、ってこと?」
「そう」
「どうかな。抽象的すぎてよくわからない噂だし、どうするもなにも……」
「本当に?」
ケイくんの真剣な表情に、わたしは思わず立ち止まって考えこんだ。
橋の上で彼と向かい合ったまま、ついこのあいだ聞いた話を頭のなかで反芻する。
望む景色を、見せてくれる。
望む景色。
「どうする気もないなら、どうして突然、来ようなんて思ったんだ?」
どうしてだろう。
「おまえは、どんな景色を望んで、あそこに行こうとしてるんだ?」
わたしは、しばらく考えてから、首を横に振った。
「……よく、分からない」
でも、きっと、彼の言う通り、わたしはどこかで、その噂話に期待していたのかもしれない。
見たい景色がないなら、行きたい場所がないなら、目指すものがないなら、
歩くことは無意味だ。
逆説的だけれど、だからわたしは、何かを望んでいるのだろう。
だって、歩いているんだから。
「……そっか」
ケイくんは、わたしの答えに満足したふうでもなく、けれど問いを重ねることもなく、再び歩き始めた。
わたしたちは、橋を渡った。
◇
関係者以外立ち入り禁止、の文字があった。
わたしたちはそれを無視して敷地内に忍び込んだ。
錆の目立つ大きなアーチをくぐった向こうには、閉ざされた大きな門が見えた。
幸いというべきか、もぐりこむのは難しくなかった。
少し草むらを経由すれば、すぐに園内に入ることができた。
その際ぬかるみで靴が汚れて声をあげたら、
「だからそんなので来るもんじゃないんだ」とケイくんは真面目な声で言った。
「どうしてそう、考え無しなんだ?」
わたしは大真面目に考えてから、
「天気予報で雨が降るって言われても、傘を持ち歩かないタイプなんだよね」
と答えた。ケイくんは、よくわからない、という顔をする。
「たぶん、どっか浮かび上がってるんだよ」
そんな話をしていたら、いつのまにか曇り模様になっていた空から、ぽつぽつと細かな雨が降り始めた。
「……最悪だな」、とケイくんは言った。
わたしは特に何も感じなかったけど、ひとまず頷いておいた。
敷地内は、思ったほど荒廃した様子ではなかった。
まずいちばん近くにあった建物は、シャッターが閉ざされていた。
建物の位置と大きさを見るに、土産物や食べ物を取り扱っていた売店か何かだったのだろう。
近くには「園内への飲食物の持ち込みはご遠慮ください」という立て札。
すぐに目についたのは飛行機の形をしたアトラクションと、
そこからフェンスを挟んだ向こうにあった小さな小屋。
歩き疲れたわたしたちは、ひとまずそこで雨宿りを兼ねて休憩することにした。
幸い、フェンスには人一人通れるくらいの小さな隙間があった。
鎖で遮られてはいるけれど、おそらく出入り口だったのだろう。
廃屋のなかは思ったほど荒れていなかった。
従業員用の休憩室か何かだったのか、埃を被ったテーブルと、使われていたらしい扇風機がそのままにされている。
畳の上には正体不明の何かのかけらが散乱していたし、障子は破れて木枠以外はほとんど残っていた。
黒ずんだ木枠の向こうは裏手にある山の斜面に面していて、すぐ傍から植物の匂いがした。
「蛇でも出そうだな」とケイくんが言う。あんまり脅さないで欲しい。
ぽつぽつという雨音は、強まりもしなければおさまりもしなかった。
わたしは鞄のなかに入れてきた水筒で水分補給をした。
「そういうところは、妙に準備がいいな?」
「うん。もっと褒めて」
ケイくんは鼻で笑った。
壁には埃の被ったカレンダーが貼られたままになっていた。
日付は十数年前のものになっていた。
こうして見てみると、わたしが生まれた頃も、まだ営業していたのか。
勝手に、もっとずっと過去のものだと思い込んでいたけれど。
「少し休んだら、歩きまわって探さないとな」
「何を?」
「ミラーハウス」
「……うん」
ひとけのないレジャーランドの中を歩いていると、自分が奇妙な夢に入り込んだみたいな気分になる。
こんなに現実感にあふれる建物すらあるのに、それすらもディティールの凝った悪夢みたいだ。
耳鳴りのしそうな静けさと、雨粒のささやかな音が、その感覚をいっそう強めた。
しばらくふたりで黙り込んだまま、雨の音だけを聞いていた。
今日はなぜか沈黙が落ち着かなくて、うろうろと歩きまわっていると、不意に建物の外から物音が聞こえた。
思わずケイくんの方を見たけれど、彼が何かに気付いたような様子はない。
「ね、いま……」
わたしが声をかけると、彼は怪訝げに眉を寄せた。
「なにか、聞こえなかった?」
「なにかって?」
「なんか、物音」
「……猫でもいるんじゃない?」
「……そうなのかな」
妙に気になって、障子を開けて外に顔を出し、あたりの様子を見渡してみた。
目の前は草木に阻まれて歩けそうになかったし、すぐそばの斜面のせいで視界は悪かったけど、
横を見れば広がる敷地の一部が覗けた。
どくん、と心臓が嫌な鳴り方をした。
人影が見えた。
「……ケイくん、あれ」
わたしの声に、ケイくんは少し早足で駆け寄ってきた。
「あそこのアトラクションのそば」
「どれ?」
「コーヒーカップみたいなの。あのそばに、ほら……」
「……なに?」
「いま、人影が……」
「どこ?」
「……えっと」
もういちど目を凝らしてみたけれど、人らしき姿はもう見えなかった。
どこかの陰に入ってしまったのか、それとも見間違いなのか。
「……少し、過敏になってるんじゃないか」
ケイくんは、溜め息をついてから、拳をつくってわたしの肩を軽くトントンと二度叩いた。
「……そうなのかな」
そうなのかもしれない。
なんだか、あの橋を渡ったときから、妙に気分が落ち着かない。
聞きとりにくい声で、誰かに話しかけられているような。
強い風の音に隠れて、誰かがわたしに何かを言おうとしているような。
そう分かっているのに、わたしがどれだけ耳をすませても、言おうとしていることがまるでわからないみたいな。
もちろん、風なんか吹いていないから、そんなのはただの錯覚でしかないのだけれど……。
少し、雰囲気に呑まれてしまっているのかもしれない。
でも……本当に見間違いだったのだろうか?
「もう少ししたら、また歩いてみよう。……雨、止んでくれるといいんだけどな」
ケイくんの言葉に反して、雨は止む気配を見せてはくれなかった。
つづく
7-2 最初にわたしが →わたしが
>>31
過去作を踏襲した別物ととらえてもらえればいいと思います
過去作を前提とした話ではないので読んでいなくても問題ありません
おつです
姪スレも好きだったので楽しみです
◇
雨が少しだけ弱まったのを確認してから、わたしたちは園内を歩き回ってみることにした。
目的地はミラーハウス。
幸い少し進んだ先に園全体の全景が描かれたガイドマップがあって、わたしたちは目指す方向をすぐに把握できた。
ミラーハウスという建物を、わたしはそのとき初めて見た。
ぱっと見た雰囲気は、他の建物とそう大差ない。
しいていうなら看板などの色合いが他のものに比べて落ち着いた印象だが、
その色も錆びと剥げとくすみでよく分からなくなってしまっている。
てっきり小さな建物だと思っていたのだけれど、意外な大きさと広さがあった。
一度立ち止まって、建物を見上げたあと、ケイくんは平然と中へと踏み入っていった。
わたしは少し緊張を覚えながら(……どうしてだろう?)彼の背中を追いかけた。
入り口からは細い通路のようになっていて、脇にはチケット売り場のようなカウンターがあった。
わたしたちは当然のようにそこを素通りする。
「ケイくん、ねえ」
「なに?」
声を掛けても、彼はこちらを振り返らなかった。
なにかがおかしいとわたしは思った。でも、何がおかしいのかは分からない。
そうこうしているうちに、ケイくんはミラーハウスの中へと入っていく。
わたしは覚悟をきめて彼の背中を追いかける。
万華鏡のなかに入り込んだような気分だった。
迷路は薄暗く、青白い光に照らされている。
想像していたよりもずっと、意識が混乱した。足元がぐらぐらして、立ちくらみを起こしそうになった。
鏡にうつった自分自身の姿を視界の端に見つけるたびに、ばくばくと心臓が震えた。
「ね、ケイくん……」
ケイくんは返事をせずに、慎重な足取りで、迷路を進み始めた。
何かがおかしい、とわたしはもう一度思う。
「なにか、変な感じがしない?」
「変な感じ?」
「なんなのかは、よくわからないんだけど……」
ケイくんは一度立ち止まって、わたしの方を見てから――どのわたしがわたしなのか分からなくなったみたいだった。
「ここ」
と声をあげると、声の方向で本物のわたしの姿を見つけてくれた。
彼はわたしと目を合わせて、溜め息をついた。
「……思ったより、混乱するものだな」
「足元を見るとかすると、分かりやすいかも」
「それじゃミラーハウスの楽しみがないだろ」
……目的を見失ってはいないだろうか。
と、そこで、わたしは違和感の正体に気付いた。
「……ねえ、ケイくん」
「だから、なんだよ」
「照明が、ついてる」
わたしの言葉にケイくんは天井に視線をやった。
青白い照明が、ところどころから薄っすらと周囲を照らしてる。
ケイくんは何も言わなかった。
「……どういうことかな」
わたしの疑問はそのままに、今度はケイくんが口を開いた。
「俺も、気になったことがあるんだけど、いいか?」
「なに?」
「……綺麗すぎないか?」
言われて、わたしは辺りを見回す。
綺麗過ぎる? そうだろうか? 暗くて見えにくいけれど、床には埃が積もっているように見える。
でも、言われてみれば……。
鏡が、綺麗だ。埃も、曇りもない。
こういう場所は、鏡に汚れがついていると、鏡が鏡だと分かってしまうから、
入場前に客にビニール手袋をつけさせるところもあるという。
でも、仮にそういう扱いをされていたとしても……それはいつの話なんだろう?
簡単に忍び込めるようなこの場所が、いつまでもこんなに綺麗に保たれるものだろうか?
「……ねえ、ケイくん、ミラーハウスって、迷路だよね?」
「まあ、そういう場合が多いだろうな」
「どうしてこんなに、簡単に入れちゃったんだろう?」
「……ていうと?」
「建物をそのままにしておくにしても、こんなふうに鍵もかけずに開け放しておくことってある?
万が一子供が忍びこんだりしたら、出られなくなるかもしれないよね?」
「……なあ、俺たち、どのくらい歩いたっけ?」
「ほんのすこしだと思うけど?」
「……どこから来た?」
ケイくんの言葉に、わたしは、来た(と思われる)方を見て、通路を探してみる。
でも、見つからない。
まっすぐ歩いてきたんだから、背中には来た道があるはずなのに、振り向いた先には鏡がない。
そうこうしているうちにわたしはくるくると回ってしまって、どっちが前なのか、後ろなのか、分からなくなってきた。
そうしている間、ケイくんは黙って動かずにいた。だからわたしは、かろうじて方向感覚を失わずにいられた。
やはり、うしろには鏡しかなく、前にしか道がなかった。
わたしは急に不安になる。
「……なにか、変じゃない?」
わたしの声に、彼は静かに溜め息をついた。
「話しているうちに、わかんなくなっちゃったのかもな。行き止まりにでも入り込んだんだろう」
その言葉を、彼自身も信じきっていないのは明らかだ。
だってわたしたちは、まっすぐ歩いてきたんだから。
「……とにかく、出口をさがさないとな」
ケイくんの言葉に、頷く。
ふたたび彼が前に一歩踏み出したとき、わたしはまた声を掛けた。
「ねえ、ケイくん」
「なに?」
「……手を、繋いでくれる?」
彼は一瞬黙りこんだかと思うと、何も言わずにわたしの手をとった。
それから、仕方なさそうに溜息をつく。
「……ありがとう」とわたしは言った。本当は、それどころじゃなかった。
なんだか、ひどく――肌寒い。
既に目的は探検じゃなくて、出口を探すことになりつつあった。
行き止まりから歩いてきたわたしたちだけど、一本道ばかりで、分かれ道なんて見つからなかった。
いったい、どこから行き止まりに迷い込んだんだろう。また見逃してしまったんだろうか?
それとも本当に……行き止まりに入り込んだわけではなかったのか。
わたしたちは、出口に向かっているんだろうか? 入り口に戻っているんだろうか?
「……なあ」
と、ひそめた声で、ケイくんが言う。
「なに?」
「何か、聞こえないか?」
わたしたちは一度立ち止まって、黙り込んだ。……何かが、たしかに聴こえる。
なにか? 違う。
声だ。
「誰か、いるのかな」
そう言ってわたしは、自分の言葉に、ぞくりと背筋が粟立つのを感じた。
誰かって、誰?
「……ひとつだけ、納得できそうな説明ができるけど、聞くか?」
ケイくんは、小さな声でそう言った。わたしは彼の方を見て小さく頷く。
知らず知らず、彼の手を強く握っていた。
「ここ、廃墟になってるとはいえ、取り壊しになってないだろ。
なんでも元の持ち主が、いつか再建するつもりで所有したまま建物を残してるらしい。
それで、アトラクションや建物を、たまに元の従業員が清掃したりしてるらしいんだ」
「……つまり、清掃中ってこと?」
「だとしたら照明がついていてもおかしくないし、人がいてもおかしくないし、鏡が綺麗なのも変とまでは言えない」
たしかに筋は通っていたけど、納得できる気はしなかった。
「……人のいる方にいけば、出口にはたどり着けるかな?」
「たぶん。でも、見つかったら怒られるぞ」
「……謝るしか、ないよね」
ケイくんはわたしの方を見た。彼には悪いけど、わたしは一刻も早くこの場を離れたかった。
「……とりあえず、声の方に進むか」
わたしは頷いた。
それから、声の聴こえる方に近づこうとするあまり、二、三度鏡に肩をぶつけるはめになった。
そうしながらもどうにか方向感覚を見失わずに、徐々に誰かのいる方に近付いていった。
わたしは、声の方に向かってきたことを、徐々に後悔しつつあった。
その声は、どこか変だった。
だからと言って、戻ろうと振り返ったところで、鏡ばかりで道が分からない。
それに、実際に戻ろうとするのも不安だった。
もしまた通ってきた道が見つけられなかったら……? それを確認するのが、怖かった。
近付けば近付くほど、声のひびきがはっきりと聞こえてくる。
陶酔するような、うたうような、女性の声だった。
――"How would you like to live in Looking-glass House, Kitty?
I wonder if they'd give you milk in there?
Perhaps Looking-glass milk isn't good to drink――"
わたしはなんとか、それを聞き取った。
――"Oh, Kitty!
how nice it would be if we could only get through into Looking-glass House!
I'm sure it's got, oh! such beautiful things in it!"
握った手のひらに、ぎゅっと力を込める。
不意に、声が止む。
小声で、ケイくんのことを呼んだ。
彼は何も言わずに、通路の先を見ていた。
彼の視線の先には、鏡の迷路の出口があった。
それなのにわたしは、迷路から出たのではなく、いま迷路に入ったかのような錯覚を覚えた。
鏡の通路の向こうは、そっけない壁。そちらもまた、青白い照明で薄暗く照らされている。
その果てには、大きな扉があった。
洋風の、大きな扉だ。両開きで、上部は丸みを帯びている。
物語にでも出てきそうな、上品な扉だった。
その前に、こちらに背を向けて、ひとりの女の子が立っていた。
薄暗くてよく見えないけれど、後ろ姿だけだと同い年くらいに見える。
声を掛けるのを、なぜかためらう。
そうしているうちに、彼女が扉に向けて腕を伸ばすのが見えた。
彼女はそのとき、小さな声で何かを言った。
「待っててね」、と、わたしには、そう言ったように聞こえた。
ドアノブを捻って、彼女は扉を開ける。
わたしは思わず息を呑んだ。
その扉の先は、鏡になっていた。
にもかかわらず、彼女は足を一歩踏み出して、
当たり前みたいに、その中へと吸い込まれていく。
その間際、わたしは鏡の中の彼女の片目が、わたしの姿をとらえたような気がした。
もう片方の目は、眼帯に覆われていた。
そして彼女の背中が消えてしまうと、わたしとケイくんの前には、大きな扉の奥の鏡と、そこに映る自分の姿だけが残されていた。
つづく
44-12 残っていた → 残っていなかった
おつです
おつ
その場に残されたわたしたちふたりは、互いに顔を見合わせた。
後ろには鏡の迷路、正面には開いたままの扉と大きな鏡。
さっきまでそこにいた女の子の姿はもうない。
鏡の中に溶けるように消えてしまって、今は鏡にすら映っていない。
今みた光景を受け止められずに、言葉を失った。
「……なんだ、今の」
「……見たよね?」
ケイくんは返事もせず、訝しげな顔をして、目前の扉へと近付いていった。
「あぶないよ」
とわたしは思わず言った。
「……なにが?」
「……えっと、何がだろう?」
自分でも、よくわからなかった。なんとなく、口から出てしまったのだ。
「……おまえも見たんだよな?」
ケイくんは鏡に歩み寄りながら、そう訊ねてきた。
うん、とわたしは頷きながら、辺りの様子を見てみる。
鏡の迷路の出口は、ごく当たり前の通路になっている。それらしい装飾もない。ただの壁。
その先にはただ、開かれた扉と、大きな鏡だけ。
明らかに迷路の果て。
でも、出口がない。
ケイくんは、落ち着いた足取りで鏡に近付くと、それに指を伸ばした。
「……何かの仕掛けか?」
「仕掛け?」
「アトラクションの一部とか」
「さっきのが? まさか……」
「そうじゃないとしたらなんなんだよ?」
「……あのね、ケイくん。たしかに、現実的に考えたら、ありえないことかもしれないけど、
ひょっとして、わたしたち、なにか変な状況に巻き込まれてるんじゃない?」
「……変な状況?」
「うん。だって、見たでしょう? さっきの、女の子」
「やっぱり、見えたよな? 黒い服の……」
「うん。眼帯をして、何かをぶつぶつ言ってて、鏡に……」
「……たしかに、何かの仕掛けだったとして、俺たちを騙す理由もないし、大掛かりな仕掛けが必要になりそうだ」
「ここは何年も前に閉園した遊園地だし、あんなのを再現できるような精巧な仕掛けがあるとも思えないし……
それが動作している理由もない。ましてや、ここはそういうコンセプトの場所じゃないはずだし」
「となると、問題は振り出しだな」
ケイくんは溜め息をついてから、鏡に伸ばしかけた手を下ろした。
「さっきの女は何者で、この鏡は何なのか?」
「それは、わからないけど、なんとなく分かるよ」
「……なにが?」
ケイくんは、やっぱり気付いていないみたいだった。
「前、見て」
「前……?」
「あわせ鏡になってるよ」
正面にあるのは、扉の奥に埋め込まれた大きな扉。
そしてわたしたちの後ろには、ミラーハウスの迷路が、さっきまでたしかにあった。
それなのに、正面の鏡は、わたしたちの背後に、大きな鏡を映している。
ケイくんが後ろを振り返る。わたしもそれに従う。
やっぱり、後ろには鏡しかない。
「……これは、つまり」
「閉じ込められちゃった、みたいだね」
出口が見つからない、どころか、来た道さえ戻れなくなってしまった。
「というわけで、ひとつ提案してもいいかな、ケイくん」
「なに?」
「つまりね、この状況をどうにか現実的に解釈しようとするよりはむしろ、
素直に認めちゃった方が建設的だと思うんだよ」
「認める、というと?」
「超常現象」
ケイくんは深々と溜め息をついた。
「なんでそんな冷静なんだよ、おまえ」
「……そんなことはないんだけどね」
顔に出ないタチだというだけだ。
それにしても……さっきからなんだか、現実感がない。
夢の中みたいだ。視界にうつるものをなんだか遠くに感じる。
ケイくんは背後の鏡に近付き、手のひらで触れた。
「……鏡だな。どう考えても」
「うん」
と、わたしが頷くと同時に、ケイくんが思い切りその鏡を蹴りつけた。
大きな音がした瞬間に、壁がわずかに揺れた気がした。
それでも、鏡は不思議と割れなかった。
「……冗談だろ。どうするんだよ、これ」
わたしも、ケイくんが触れている鏡の方に近付いて、手のひらでその感触を確かめてみる。
ひんやりとしたつめたさ。なんでもない鏡。ただ、映っている自分たちの姿が、ひどく白々しい。
わけがわからなくて、頭痛すら覚える。
「悪い夢でも見てるみたいだ」
とケイくんは言う。本当にそのとおりだとわたしは思う。
窓も、ドアもない。出入り口はない。……そのうち、酸欠にでもなりそうだ。
わたしは、正面の鏡へと近付いていく。
「どうした?」
ケイくんの質問に、振り返る。
「扉のかたちを、してるよね」
ケイくんは、黙ったままだった。呆れているのかもしれない。
「さっき、女の子が、こっちに向かって消えていった。とにかく、調べてみない?」
ケイくんは少しの間黙っていたけれど、最後には仕方なさそうに頷いてくれた。
気持ちは分かる。
ただの鏡だと思いたい。でも、既に状況はおかしなことになっている。
その結果自分たちがどうなるのか、分からない。
でも、他にどうすることもできない。
わたしは黙って、ケイくんに右手を差し出した。
「……なに?」
「手」
彼はわたしの手をとった。
うん、とわたしは頷いてみせる。
彼は緊張した面持ちのまま、ちょっとだけ笑った。
同じように、わたしの表情もこわばっているんだろう。
手を繋いだまま、わたしたちは、虎の巣穴に忍びこむみたいに足音をひそめて、
慎重に、鏡か扉か分からない何かへと近付いていった。
慎重にすることに意味があったのかは分からないけれど、とにかくそうしないと進めなかった。
そうして、鏡に触れられそうなくらい近付いたとき、
鏡面がわずかに波打ったのを見た。
思わずケイくんの名前を呼ぼうとした、のに、
ひかりが、
視界を覆った。
白い光が埋め尽くした景色のなかで、聴力も不意に失われる。
鋭い音が波として耳の隙間を揺さぶり埋め尽くすのを感じる。目からも、耳からも、溺れるように感覚が失われていく。
かろうじて、繋いだままの手のひらを握る。
握り返すような感触を、感じる。
何かに飲み込まれるような、感覚。
意識が、不意に途切れる。
◆
そうしてふたたび意識が浮かび上がったとき、わたしとケイくんは手をつないだまま、
見覚えのない瀟洒な街並に立っていた。
起きたのでも、意識を取り戻したのでもない。
長いあいだぼーっとしていて、いまハッと意識がはっきりしたみたいな、そんな感覚。
そんな感覚で、わたしたちは、どこかのテーマパークを思わせる洋風な街並に立っていた。
急に、夜だった。暗い街並、空には星と月。
目の前の石造りの街路は坂になっていて、左右には壁のような建物が立っている。
ランプのようなデザインの街灯が等間隔に狭い道を照らしている。
音はない。何の音もしない。動物の気配はない。鳥の声も猫の足音も犬の遠吠えも聞こえない。
人の気配も、やはりない。
後ろを振り返ると、閉ざされた扉があった。
遮るような高い壁に、埋め込まれるようにして、厚い鉄扉が立ちふさがっている。
ケイくんが、その扉を軽く押した。思ったよりも簡単に扉は開いたけれど、
その先にはやはり見覚えのない街並が広がっているだけだった。
「……ここ、どこ?」
ケイくんが思わずこぼしたようにそう呟いたけれど、もちろんわたしにも答えは浮かばなかった。
「……日本なのか?」
「ヨーロッパっぽくも見えるね」
「どちらかというとイエメンとか、そっち系にも見える」
いずれにしてもエキゾチックというか、異国情緒ただようというか。
……さすがに現実逃避もしたくなる。現実かどうか、怪しいけど。
「なんでこんなことになったんだっけ?」
「……わたしのせいかなあ」
「……俺のせいでもあるなあ」
来ようと言ったのはわたしだし、この場所の存在を教えてくれたのはケイくんだ。
お互い素直に謝ったけど、どちらかというとわたしに責任がある気がする。
「ごめんね」
「いや、いいよ。そのうち覚める夢だと思うことにした」
……それがよさそうだ。
「……厄介なことになったな」
「意外と落ち着いてるね、お互い」
「叫び声でもあげて駈け出した方がいいなら、そうしてもいいけど」
「追いかけるのが疲れそうだから、やめて」
「……あまりにもおかしな状況で、呆気にとられるくらいしかできねえよ」
たしかに、そうかもしれない。
人というのは、予想がつくことにこそ恐怖を覚えたり、不安になったりできる。
暗がりから狼が、背後から幽霊が、海から鮫が出てくるかもしれないというなら、おそろしい。
でも、あまりに脈絡がないと、恐怖すら覚えない。そんな感覚は麻痺してしまう。
それとも、恐怖が閾値を超えているのか。
もう、よくわからない。
「……とにかく、どうしよう?」
「……どうしよう、なあ」
わたしたちはしばらくその場で立ち尽くしていたけれど、残念なことに展望は開けそうになかった。
いつまで立っても何も起こらない。
「とにかく、歩く?」
「……そうしよう」
ケイくんが仕方なさそうに頷いてくれたので、わたしたちは歩き始めた。
選択肢は前と後ろ両方にあったけど、わたしたちはとにかく前に向かって歩くことにした。
どちらにしても知らない道だから同じだし、扉をくぐってみても特に何も起こらなかっからだ。
だったら、最初来たときに向いていた方向に進む方が自然に思えた。
乾いた夜風が吹いている。少しの肌寒さと、足首の痛みを、わたしは感じ取る。
「どうして夜なんだろう?」
「それをいったら、どうしてこんな景色なんだろう、が先だな」
そんなことを話していると、不意に物音が聞こえた。
わたしたちは顔を見合わせてから、坂を上り切った。
そこは円形の広場のようになっていた。
中央には噴水があり、中央には何かの石像が飾られていて、それを囲むようにベンチが置かれている。
そこに、奇妙なものが動いていた。
犬のぬいぐるみ……のように、見える。
安っぽい、クリーム色の毛並みはくるくるにねじれていて、目玉は縫い付けられたボタン。
奇妙な動きで立ち止まって、辺りの様子をうかがうように首を左右に振ったかと思うと、ふたたび歩き始める。
背中にはゼンマイがついていて、一定のリズムでぎいぎいと回っている。
「……こいつは悪夢的だな」
とケイくんは言った。たしかに、とわたしは思った。
わたしたちがその子犬の動きに視線を奪われていると、不意に誰かの声が聞こえた。
思わず、身をこわばらせる。その声の主は、わたしたちが来たのとは別の道から、すぐにあらわれた。
「やあやあ、今日は。今日は」
わたしたちは、また唖然とした。
その男は――たぶん男だと思うのだけれど――どこから声を出しているのかわからなかった。
わたしは最初に、どこかに本物の声の主が隠れていないかを確認したし、ケイくんもそうしたと思う。
服装に変わったところはない。といっても、それはそれだけで十分過ぎるくらいに不自然ではあったのだけれど、
それでも体のことに比べれば、全然奇妙だとは言えなかった。
シルクハットに燕尾服。何かの映画でしか見たことがないような洋装で、ステッキを機嫌よさそうにくるくると振り回している。
石造りの地面を叩くように歩く革靴の音は軽快だ。
“それ”の体は、大小、太さ細さ、さまざまなかたちの色付きゴム風船で出来ていた。
「――やあ、今日は、御機嫌いかが。久しぶりだね、その後どうです」
わたしたちが黙っていると、風船の紳士は当然のように言葉を続けた。
それも明らかに(風船だからどこが正面かはわからないけど、服装の向きを見るに)こちらを向いて。
顔は赤。シルクハットをかぶっている。首元に黄色の細い風船が伸びているが、その下は服で隠れていてよく見えない。
手指は更に細く小さい風船でできていて、その奇妙な指で彼(?)はステッキを掴んでいる。
「どれ、その子はどうした」
とそいつは言って、いつのまにかわたしたちの足元へやってきていたゼンマイ仕掛けの子犬をステッキでつついた。
「いかんな、きみ。順路を破ってはいかん。いや破るのは好きにするがいいが、私には責任が持てなくなる。
まあとはいえだ。きみの人生だ。きみの好きにするもよいだろう。しかしねきみ、勝手というのはどこにいっても許されぬものだよ。
団体行動を乱してはいかん。いまのうちに肝に銘じておきなさい。きみのためを思ってこそ言うのだよ。さあ、皆が行ってしまう。戻りなさい」
戻りなさい、と彼は言って、ステッキで何度も子犬を突つく。
(決して強く叩いているというわけでもないのに、わたしはなぜかその光景に烈しい反感を覚える――)
子犬はしばらくクンクンと録音音声らしき声を垂れ流していたけれど、やがて静かな声をあげて、
風船紳士がやってきた方の道へとゆっくりと進んでいった。
ケイくんは、静かにわたしの手のひらを握る力を強めてから、
「あんた、言葉は通じるのか?」
と、風船に向けて話しかけた。
風船は一瞬、動きを止めたかと思うと、さっきまでと同じようにステッキをくるくる回し始め、
「――やあ、今日は、ご機嫌いかが。久しぶりだね、その後どうです」
と言った。
わたしは静かに瞼を閉じて、落ち着け、と、意識を強くもとうとしたけれど、
立ちくらみのような気持ちの悪い感覚が、ぐらぐらと足元を揺さぶっている気がして仕方なかった。
つづく
おつです
おつ
わたしたちが唖然として立ち尽くしていると、風船紳士は不意に動きを止めた。
彼は燕尾服の内ポケットから銀色の懐中時計を取り出して時間を見た(と思う。目がないけど)。
「おや、失敬。もう時間です。私はこれにて。あんまりお酒は、飲まんがいいよ」
そう小さく呟いたかと思うと、彼は燕尾服のなかに慌ただしく時計をしまいこみ、
またステッキをくるくるとさせながら、さっきの子犬が歩いていった道を戻っていった。
あたりには噴水の音だけが響いている。
街灯の明かりがモノクロ映画みたいに重々しい。
何か不自然な感じがして、わたしは噴水に近付いた。
でも、おかしなところはない。水面は街灯の明かりを受けて、ただ当たり前にきらめいている。
そのとき、なぜかぞっとして、わたしは自分の足元を見た。
「どうした?」
「……なんかいま、影が、動いたような」
「……そりゃ、おまえが動けば動くだろ」
「そうじゃなくて……」
勝手に、動いたような。
わたしは頭を振って、落ち着こうとする。
もう何を考えようと無駄だという気がした。
「……ケイくん、どうする?」
彼もまた、困り果てたというふうに天を仰いだ。
本当に綺麗に、星が見えた。それは、でも、きっととても遠くにあるもの。
もしかしたらとっくになくなっているかもしれないもの。
「さっきのあれ、追いかけてみるか」
「やっぱり?」
「どうせアテがあるわけでもないしな」
「……うん」
出口。帰り道。そんなものがあるのだろうか?
わたしたちはどうしてこんなところにいるんだろう。
誰かにぜんぶ説明してもらいたい気分だ。
そうしてこんなところから早く離れて、すぐにでも帰りたい。
――でも、帰りたい場所なんて、どこにあるというんだろう。
わたしたちは噴水の広場を抜けて、風船紳士の消えていった坂を登っていった。
その先からはぎいぎいぎいぎいと耳を覆うような音のつらなりが聞こえた。
さっきと同じ、ゼンマイ仕掛けの子犬だった。
違うのは数だ。十数匹の従順そうな子犬が、わたしたちの前を横切るように歩いていく。
「どこへいくの?」とわたしは試しに訊ねてみた。
子犬たちは一斉にわたしの方に顔を向ける。ちょっと気味の悪い光景だ。
それから彼らは、困ったみたいに顔を見合わせて何かを相談するような身振りをする(器用なものだ)。
そうして頷きあったあと、何も言わずに歩くのを再開した。
道は、左右に分かれていた。右に向かう下り坂の方へと、犬たちは歩いていった。
「昇るか」とケイくんは言った。
「……うん」
どうして昇ろうと思ったのか、ケイくんは言わなかったし、わたしも訊かなかった。
(何かを判断する基準なんて、わたしたちふたりはどうせ持っていない)
とにかくわたしたちは左に向かった。
結果から言ってしまえば、その判断は正解だったのだと思う。
何かしらの、"それらしき"ところには辿りつけたからだ。
でも、本当のところはどうなのだろう?
ひょっとしたら、下り坂を選んでも、何かの変化には辿りつけたかもしれないし、
もしかしたらそちらを選んだ方が、わたしたちにとって、もっと都合の良いことが起きたのかもしれない。
わたしたちは、選ばなかった未来、"こうじゃなかったかもしれない現在"を知ることができない。
もしもあの日、出かけようとしたお兄ちゃんを止めていたら?
お兄ちゃんが、わたしがさんざん言っていた通りに、煙草をとっくにやめていたら?
たとえば、もしあの日の気温が一度でも低かったら、お兄ちゃんは出かけていなかったかもしれない。
そんな些細な違いだけで、すべては違ったかもしれない。
いずれにしてもそんな“もしも”を考えることに意味はない。
そうしなかったわたしたちがどこに辿り着くかなんて、分かりっこない。
坂を昇った先は、また広場のようになっていた。けれど、さっきよりもずっと広く、何もかもが大きい。
今度は、中央近くに花壇があった。
花壇は四つのスペースに分かれている。扇型に切り分けられた円の隙間が、裂くような石路になっていた。
花壇のひとつには、白いスミレ。ひとつには、紫のアネモネ。ひとつには、黄色いクロッカス。ひとつには、オレンジのヒナゲシ。
花壇の中心、石路の交点には、小さな木があった。
"ざくろ"だ。
「……なんでもありだな」とケイくんが呟いた。
枝には花が咲いている。けれど木の足元には、熟れて裂け、中身を晒すざくろの実がいくつも落ちていた。
もはや奇怪さを通り越して、神秘的ですらあった。
夜の景色は、さながら"星月夜"。
種々の花々の並ぶ花壇、整然とした十字の石路の中央は、花を咲かせたざくろの木。
なるほど、これもまた悪夢的だ。
そして、円形の花壇の向こう側に、高い壁が見えた。
わたしたちはそちらへと歩いていく。
(……濃厚な花の香りが鼻腔を侵す)
近付いて分かったのは、その壁に扉があること。
その扉が、木の枝に覆われていること。
その木の枝に隠されるように、ひとりの女の子が磔にでもされたみたいに吊るしあげられていたこと。
もはや、驚くことさえできなかった。
その子が誰だとか、ここがどこだとか、今がいつだとか、そんなことはもう、頭から抜け落ちてしまった。
からたちの木、その突き刺さりそうな枝、壁をうめつくさんばかりに伸ばされたその棘が、ひとりの少女をとらえている。
この景色がいったい何を意味しているのか、わたしにはまったく分からない。
にもかかわらず、景色は勝手に動く。
現実感なんて、もはやない。
驚きも恐怖も、既に感じない。
からたちに捕まった少女が、瞼を静かに開いた。
(彼女の細く頼りない腕を、からたちの棘が突き刺している――)
「――ああ、来てくれたの」
と、少女は笑う。
わたしたちは、その光景に呑まれる。
「でも、残念。やっぱり、間に合わなかった」
吊るしあげられたまま、少女は微笑みを保ち、どこも見ていないような目で、わたしたちの方を見ている。
「……だって、一度、逃げ出したものね」
彼女はわたしのことを知っているみたいな口振りで、
でもわたしは、彼女のことなんて知らない。
「ねえ、どうしてわたしを置いていったの? どうしていまさらここに来たの?」
抑揚のない声で、少女は続ける。
「あなたのせいで――わたし、死んじゃった」
彼女は最後にそう言うと、愉しそうに笑いはじめる。
声は徐々に膨らんでいく。
それと同時に、彼女の体が砂のように崩れはじめたかと思うと、夜風に舞って遠くへと流されていく。
不意に、からたちの枝が、意思を持っているかのように左右に開けた。
わたしはケイくんの手をぎゅっと掴む。
これは悪い夢なのだろうか?
それとも何か、妙なことに巻き込まれただけの現実なのだろうか?
目の前の大きな扉は、出口なんだろうか。
それとも、入り口なんだろうか。
ぜんぶ、わからなかったけど、わたしたちは声も交わさずに頷き合った。
他に、選べる扉がなかった。
だからわたしたちは、その扉の取っ手を掴んだ。
開くかどうか、確かめてもいなかったのに、勝手に開くと思い込んだ。
こちらへどうぞと言わんばかりに、からたちの枝が避けたから。
そうしてそれは、実際開いた。
不意に、まばゆい光。
また、視界を覆う。耳が、音に呑まれていく。
"待っててね"、と、光に灼かれた視界の中で、そんな声がかすかに聞こえたような気がした。
つづく
74-9 なかっからだ → なかったからだ
75-7 中央には何かの → その中心には何かの
おつです
おつ
◇[Diogenes] R/a
僕と彼女にとって、だいたいの会話がそうであったように、
その日、篠目あさひがその話を僕にしたのだって、
たいした理由があってのことではなかったのだと思う。
「消えちゃうらしいよ」
と彼女は言った。
僕たちは、昼休みの図書カウンターの内側で、ふたりそろってパイプ椅子に座って、
それぞれに別々の本を読んでいた。
八月の末だ。
どこか遠くの街で大雨が続いているらしく、
水浸しになった道路をかき分けるように進む車の映像が、
テレビでは朝から繰り返し何度も放送されていた。
そんな日だったけど、その雨は僕たちの暮らす街にはまだ辿り着いていなくて、
だから窓の外の景色は実に平穏な、夏の終わりにうってつけの、少しうつろな晴れ空だった。
「消えちゃうって、なにが?」
僕は本のページに視線を落としたまま、斜め隣に座る篠目に訊ね返す。
「人が」
篠目はいつものように、話している内容にも相手にも興味がないのだけれど、という感じの、
静まり返った水面のような無関心な表情で、どうでもよさそうにそう言った。
僕はそれまで本に集中していて、彼女の話を適当に聞き流していたから、
それが何の話なのか結局思い出すことができなかった。
「……何の話だっけ?」
そう訊ねても、彼女はやはり腹を立てることすらせず、
向けられた問いにただ当たり前のように答えてくれた。
「遊園地」
「遊園地?」
「の、廃墟」
こちらの質問に対する篠目の返答には、
おおかたの人間がするような修飾や補足というものがいつも欠如していた。
数学の問題で、結果として出てくる答えだけを書いて、
過程の計算や手順をいっさい省いてしまうような話し方。
当然それは難解で、僕だけじゃなく、大多数の人間にとって、
彼女はかなりやりづらい相手であるらしい。
「……遊園地の廃墟で、人が消える」
と、とりあえず僕は、意味もわからないまま、彼女の言葉をつなげてみた。
「そう」と言ったきり篠目は黙りこんでしまって、やはりその言葉に関する補足をしてくたりはしない。
そんなぶつ切りの情報だけを渡されて興味を持てという方が難しい。
だから僕は篠目の話にたいした関心を覚えなかったし、
話の全容をつかめないからといって、あえて質問を重ねるようなことはしなかった。
「そうなんだ」
と、ただ頷く。彼女といると、だいたいいつもそんな調子だ。
「ねえ、碓氷」と、彼女は僕のことを呼んだ。
「なに?」
「碓氷は、どうなの?」
「……なにが?」
「叶えたい願いって、あったりする?」
僕は面食らって、篠目の方を振り向いた。彼女はページに目を落としたままだった。
「何の話だっけ?」
と、僕はもういちど訊ねた。
「だから、遊園地の廃墟の話」
急に脈絡のない質問になったかと思ったら、篠目のなかでは、ちゃんと話がつながっているらしい。
遊園地の廃墟で人が消えることと、叶えたい願いがあることとのどこに関連があるか、
僕にはよくわからなかったけど、たいして気にせずに、彼女の質問について考えてみる。
そうして、すごく悩んでしまった。
なにかあるはずなのに、それをどう言葉にしていいか分からない。
漠然としたイメージは湧くのに、それをどう口に出せばいいのか、わからない。
しかたなく、僕は首を横に振る。
「急に言われても、ピンと来ないな。……篠目はどうなの?」
篠目は、僕の言葉に何秒か考えるような間を置いたあと、緩慢な動作で面を上げて、こちらを見た。
「わたし?」
「そう」
「わたしは……」
篠目は、黙りこんでしまった。
真剣に考え込んだ様子の彼女には悪いけど、僕は彼女の個人的な望みになんてほとんど興味がなかった。
昼休みの図書室の利用者は少ない。
日に焼けたカーテンに濾された日差しが、薄暗い室内にかすかに差し込んでいる。
僕と篠目のほかに、いま、この場には人間なんていなかった。
そんななか、僕は黙りこんだ篠目を思考の隅に追いやって、自分のことを考える。
放課後のバイトのこと、午前の授業で出された課題のこと、家のこと。
僕が考えごとをしているあいだも、篠目は結局黙りこんだままで、
僕たちは昼休みの時間を、退屈しのぎの本を読み進めることすらできないまま不毛に使いきってしまった。
◇
MDは、決して劣ったメディアというわけではなかった。
容量に優れていたし、CDよりも持ち運びが容易で、カセットテープより再生にまつわるストレスが少ない。
ディスクがカートリッジに入っているから、傷や汚れによる破損も少ない。
持ち運びに難のあるCD用のポータブルプレイヤーと違い、MDプレイヤーはポケットにだって入った。
それでも、問題点をあげようとすると多岐に及ぶ。
ダビング可能な機材の普及率の低さや、ダビング作業自体の手間とかかる時間の多さも一因だろうし、
デジタルコピーに関する権利関係のゴタゴタで普及が進まなかったのもそうかもしれない。
MDによる音源の販売は多くのデメリットのせいで広まらず、その結果、
MDは買ったCDから音楽を移し替える用途でしか機能しなかった。
そして、CDからわざわざ音楽を移し替える手間をかけるほどの意義を、
多くの人間はMDに見出だせなかった。
音質だって、他のものと比べてよかったわけでもない。
携帯電話の普及によるインターネット利用者の増加、
それによって流行しはじめた音楽のダウンロード配信。
くわえて、ハードディスクドライブを内蔵した携帯音楽プレイヤーの知名度の高まり。
より使い勝手の良い機器の登場により、MDの需要はみるみると減っていった。
マルチメディアと称した、CDドライバ内蔵のPCの普及によって、
CDの録音・コピーが容易になり、利便性が高まったのも原因のひとつだろう。
あらゆる要因が、MDにとっては逆風となった。
すべての風向きと巡り合わせが、MDを衰退へと向かわせてしまった。
決して、他のものに比べて圧倒的に劣っていたというわけではない。
ただ、大きな流れのなかにあって、MDはあまりに無力だった。
それは実に哀れな姿だった。
時代の徒花。
従来のメディアに取って代わる新たな媒体として登場し、
一時は流行としてもてはやされ、カーオーディオにだって取り付けられていた。
それが今となっては、誰からも忘れ去られようとしている。
用済みとなり、誰にも相手にされず、姿を消してしまいつつある。
誰も名前を呼ばないし、誰も姿を探さない。
いつなくなってしまったとしても、誰も気付かない。
忘れられた存在。
ある一時期のみ務めを果たし、それを終えたら見向きもされなくなる存在。
やがては完全に、姿を消すことになるだろう。
もはやMDは役目を終えてしまった。
たしかにそこにあったはずなのに、ただ一時期衆目を集めただけで、
定着する前に廃れてしまった。
何の為に生まれたのかさえ、今となっては分からない。
何か悪いことをしたわけではない。
ただ、時代にそぐわなかった。期待されただけの役目を果たせなかった。
状況と事情が大きく変化して、それについていくことができなかった。
それはつまり、ただ不運だったということだ。
◇
放課後になると同時に、鞄からMDプレイヤーを取り出して、イヤフォンをつける。
姉が以前使っていたものを、譲り受けたものだ。
かつて音楽好きだった姉は大量のMDとプレイヤー、コンポを所有していて、
最近になって、邪魔だからという理由でまるまる僕に渡してきた。
勝手に処分してくれ、ということだろう。
最初は厄介なものを押し付けられたと思った。
姉の音楽の趣味の大部分は、僕と重ならないからだ。
そう思いながら、一応MDの中身を確認してみると、
(おそらく当時付き合っていた男や、好きだった芸能人の影響のおかげで)
僕にとってもそんなに悪くない音楽がけっこうな確率で含まれていた。
姉にとってのゴミの山が、僕にとっては宝の山になったというわけだ。
そのおかげというべきいか、せいというべきか、とにかく僕は時代に逆行して、MDを偏愛していた。
音楽をかけてから、立ち上がって鞄を持つ。
周囲のクラスメイトたちの話し声を掻き分けながら黙々と歩いていると、
自分が透明人間にでもなったような気分になる。
誰も僕に声をかけないし、誰も僕を気にかけない。
もちろん、僕だって話し相手すらいらないと思うほど達観してはいないし、
人付き合いに倦むほど他人と関わってきたわけでもない。
自分以外のクラスメイトたちの仲のよさそうな姿を見て、羨望を覚えることはある。
とはいえ、わざわざ自分から声をかけたり、今更どこかに混ぜてもらいたいと思ったりするわけでもない。
最初から友達がいなかったわけではない。
ただ、だいたいのクラスメイトとは話が合わなかったし、予定も合わなかった。
彼らが楽しんでいる遊びが僕には楽しめず、彼らの言うジョークの笑いどころが僕には分からなかった。
それは、彼らの、というより、僕の問題なのだろう。
多少、疎外感は覚えるけれど、話の合わない相手と無理に一緒にいるよりは、
ひとりで好きなことをしていた方が疲れないし、気持ちも軽い。
人にはその人なりのスタイルというものがある。僕にとってもこれがそうなのだと思うことにした。
周りからは、強がりにしか見えないかもしれないけれど。
聴く音楽は、できれば日本語でないものが望ましい。
歌詞が頭の中に入ってくると、余計なことを考えてしまうことが多いから避けてしまう。
そこに個人的な好みが加わると、自ずと聴く音楽の傾向は定まってくる。
最近はスティングばかりを聴いていた。
流れ始めたのは、十数年前に映画の主題歌として使われていた曲だ。
いちばん気に入っている曲だった。
イヤフォン越しに聞こえてくる周囲の騒がしさを無視して、
なるべく人の視界に入らないように、邪魔にならないように廊下を歩く。
一緒にいたいとは思わない。でも、誰かの邪魔をしたいとも思わない。
だから僕はなるべく不自然ではなく、なるべく不愉快でもない存在でいようと努めている。
それが達成できているかどうかは分からない。
そういう心がけでいる、というだけだ。
昇降口を出て、空を見る。やはり、雨は降りそうにもない。
なんとなく、そのまま立ち止まってしまう。
溜め息が出る。
やらなければいけないこと、考えなければいけないことはたくさんある。
それなのに近頃は、なんだか何をするにも億劫で、気分が乗らない。
このままじゃ駄目だと思う自分はいるのに、どうしてか、体が重い。
寝不足というわけでもないのに、頭がぼんやりと働かない。
いつからだろう?
ちょっと前までは、もっと、違ったような気がする。
それなのに最近は、麻酔にかけられたみたいに、いろんなことに鈍感になっている。
自分自身の緩やかな変化を、僕はたしかに感じている。
それなのに、それをどうすることもできない。
そのことに対する焦り(……なのだろうか?)に、じわじわと考える力を奪われている。
どうしてだろう? 体調がすぐれないのだろうか?
季節の変わり目だ。気温の変化も、少し激しいように感じる。
調子を崩してもおかしくはない。
でも、そういうことではないような気がした。
僕はあまり体調のことを考えないようにしながら、
しばらく昇降口の側の壁にもたれて目を閉じた。
やがて、頭痛は収まってくれた。
ポケットに手を突っ込んで、時間を確認しようとしたとき、携帯を教室に忘れてしまったことに気付いた。
思わず舌打ちをする。
戻るのは面倒だったが、さすがに教室に置いていく気にはなれない。
やむを得ず校舎へ戻っていく。教室は三階だ。面倒だったが、仕方ない。
少し休んでいるうちに、大抵の生徒はもう移動してしまったらしい。
廊下も教室も、人の姿が一気に少なくなっていた。
部活に行くなり、帰宅するなり、どこかに繰り出すなり、いろんな過ごし方がある。
僕にも、このあとの予定があった。
無駄に時間を過ごしてしまったから、少し急いだ方がいいかもしれない。
そう思いながら教室に入ると、残っていた生徒がふたり居て、両方が僕を見た。
女の方は知っている相手だった。男の方は、見覚えはあるけれど、名前は知らない。
教室に残って、何かを話していたみたいだ。
僕は彼らの邪魔をしてしまったことを後悔しながら、あまりわざとらしくならないように、
それでも少し急いで、何も言わずに自分の机へと向かう。
「どうしたの?」と、女の方が言った。
僕は机の中に手を突っ込んで、携帯を取り出す。
そしてそのまま教室を出ようとした。
「無視かよ」
と男の方が言った。
僕は思わず固まり、振り返った。両方、こちらを見ている。
失敗した、と思った。まさか、自分に向けられた声だとは思っていなかった。
何を言おうか迷い、戸惑っているうちに、沈黙が流れる。
ひどく嫌な感じがした。
男の方が、僕から視線を離した。
「何考えてるか分かんねえんだよな、こいつ」
「ちょっと……」
「どうせ聞こえてねえよ。音楽聴いてるんだろ。俺たちの声なんて聞くつもりありません、って態度だ」
「やめなよ」
僕にとっても彼にとっても残念なことに、周囲の様子を把握するために、音量はいつも低めにしていた。
「気に入らないんだよな。いつもつまんないって顔してさ、自分だけどっか周りから一歩引いてるみたいな顔して、
気取って距離置いて、馴れ合わないのがかっこいいとでも思ってるのかもしんないけど、
ただ誰にも相手にされてないだけだろ」
「やめなって。どうしてそんなこと言うの?」
「ムカツくんだよ。こいつ、俺たちみたいな奴のことバカだと思ってんだ。
何の悩みもない脳天気で気楽な奴らだと思ってる。そういう奴ってのは態度で分かるんだよ。
顔を見れば分かる。自分だけがつらいと思ってる顔だ。自分だけが不幸だって思ってる顔だ。自分だけが特別だと思ってるんだ」
耳元で音楽が流れている。
女の方が、気まずそうな顔で僕の方を見た。男は黙って外を見たままだった。
「……ごめん」
と、僕はとりあえず謝っておいた。
多少驚いたし、いくらか傷ついてもいた。
でも、それ以上に、誰かからそんなふうに思われているということに、
気付けなかった自分の迂闊さが恥ずかしかった。
とはいえ、それを気にしても仕方ない、と僕は頭を切り替えることにした。
そんな僕の態度に、彼はいっそう腹を立てたみたいに眉を逆立てた。
もしかしたら、聞こえないと思って言っていた言葉が聞こえていたと分かって、引っ込みがつかなくなったのかもしれない。
「おまえさ、人生楽しくねえだろ」
何も言わずに、黙ってその男子の顔を眺めた。
そして、なんだか不思議な気分になる。
それ以上その場にいても、かえって気まずい思いをするだけだと思い、僕は彼らから視線をはずした。
このあとはバイトが入っている。時間が余っているわけじゃない。
僕は忘れ物を取りに来ただけだ。
あんまり気にしないようにしたけれど、廊下に出たとき、思わず溜め息が漏れた。
少し歩いたとき、後ろから、「ねえ、待って」と声を掛けられた。
さっきの女子が、教室から飛び出してきた。
落ち着かないみたいに視線を揺らしながら、僕に何かを言おうとする。
「……その、ごめん、ね?」
どうして彼女が謝るのか分からなくて、僕は戸惑った。
「いいよ、べつに、気にしてないから」
もちろん嘘だったけど、嘘だからどうなるというものでもない。
「あのさ、碓氷くん」
「なに?」
「えっと、その、さ」
彼女は何かを言いかけたけど、結局何も言わなかった。
少し気になったけど、時間を置いたせいでさっきの彼の言葉が胸に重く引っかかり始めたし、
なにより僕は今は急いでいた。
「ごめん。今日用事あるから、もう行かなきゃ」
彼女ははっとしたようにこちらを見て、気まずそうに顔を逸らした。
「……そっか、ごめん」
彼女に背を向けてから、携帯の時間を確認する。幸い、まだ急がなきゃいけないほどの時間じゃない。
MDプレイヤーに指を伸ばして、音量を少しだけ上げる。
――おまえさ、人生楽しくねえだろ。
それにしても不思議だ。
――どうして、分かったんだろう?
――彼らは、人生が楽しいのだろうか?
その二点が、とても、不思議だ。
それもきっと、僕の側の問題なのだろうけど。
つづく
おつ
◇
バイトが始まる十五分前には、もう店についていた。
家から自転車で十分くらいの場所にあるガソリンスタンドで、一年の頃からバイトをしている。
この店を選んだことに特別な理由はない。
ほどほどに近かったから、ほどほどに時給がよかったから。
あとは、休みが少なかったから。
学校が終わったあと、四時から閉店の九時までの五時間、僕はその店で毎日のように働いている。
日曜日が定休日だから、だいたいの場合は週六日。土曜日と祝日は八時間の勤務。
人件費をギリギリまで削りたがる上の都合で、余計な人員を確保せず、
今いる人数だけで回すかたちが基本になっている。
(オーナーと店長、事務の女性がひとり、社員がひとり、バイトがふたり)
休みが思うように取れないからと続かない人間も多いけれど、
僕に限って言えば、毎日のように働けるのは嬉しいことだった。
退屈しのぎになるし、金も入る。
特に欲しいものがあるわけでもないし、目的があるわけでもないけど、
金というものはあって邪魔になるものではない。
一度、店長にきかれたものだった。
「碓氷はそんなに働いて、金の使い道とかどうしてるの?」
「特に……」
「遊んだりはしてるんでしょ?」
「あんまり。友だち少ないので」
「彼女とかは?」
「いないですから」
「じゃあなんか趣味とか?」
「特には……」
「……おまえ、何が楽しくて生きてるの?」
そうだ。そのときも僕は、肩をすくめたのだ。
「さあ?」
と笑って見せたのだ。
◇
うちは大手の看板を借りただけの個人経営のスタンドで、
だからマニュアルもなければ規則と呼べるものもほとんどない。
車に関する作業をインパクト片手に学生がやらされることもあるし、
それでだいたいの場合問題なく回っている。
学生が作業を任されるような店で客は不安がらないのかと最初の頃は訝ったものだが、
ここは二十年以上前からそのように回っていて、
今となっては固定層の客しか来ないのだと言う。
契約している企業なんかを除けば、近所の年寄りやその家族が来るばかりというわけだ。
うちが潰れないのは、先代社長の人脈で、
大手の企業や会社の給油やタイヤ交換なんかをうちでやってもらえるように話を通してあるかららしい。
オンボロでサービスもよくないスタンドの経営が、それで毎年黒字だというのだから驚きだ。
そういう店だから店内の雰囲気も大雑把で、
学生が煙草を吸っていようが、外の人間に見つかりさえしなければ何のお咎めもない。
学生だろうがなんだろうが煙草を吸い放題、らしい。
一度休憩室でシンナーを吸っている奴がいて、そのときは店長が半殺しにして二度と来るなと追い出したそうだ。
基準が分からない。
だいたい二時間に一回くらい小休憩を与えられて、その隙にみんな二階に繋がる階段の狭い踊り場で煙草を吸う。
そこまでいくと『見て見ぬふり』ですらない。
そんなことが当たり前の店の中で、僕は煙草を吸っていない。
興味がないわけではないけれど吸う機会がなかったし、金もなかった。
ここに来てから何度も「吸ったら?」と聞かれたけど、人に言われるといっそう吸う気がなくなるものだ。
そういうわけで僕はもらった小休憩の時間を、水筒の中にいれた水を飲みながら過ごしている。
水筒の中身はもともとお茶なのだけれど、学校で飲みきってしまって、それを一度洗ってそこに水道水を入れている。
あんまり気にしたことはないけど、他人から見ると苦学生みたいに見えるらしい。
甘ったるいジュースを飲むよりは、水道水を飲んでた方が気分が楽だというだけなんだけど。
あるいは、もしかしたら、こういう日々を削り取るような行動こそが、近頃の憂鬱の原因なのかもしれないけど。
水道水というのもぬるいとまずく感じるもので(もともとそう美味くはないけど、それ以上に)、
最低限喉を潤す以上は飲む気になれない。だからこそいいのだとも思う。
溜め息をついて、不意に今日の放課後のことを思い出した。
ふたりの男女。
男の方は知らない。
女の方は知っている。
生見 小夜。
クラスメイト。中学が一緒だった。小学校も。昔は仲がよかったような気がする。いつのまにか疎遠になった。
どうして? どうしてだっけ。忘れてしまった。考えなくなったからかもしれない。
彼女は何を言いかけたんだろう。たいしたことではないのかもしれない。
でも、妙に気になった。
いや、妙なことでもないのかもしれない。
どうなんだろう?
『かもしれない』、『かもしれない』。自分のことなのに、よくわからないことばかりだ。
自分の気持ちさえ、あんまりはっきりと考えたくなくなったのは、いつからだろう。
考えるのは、金のこと、家族のこと、学校のこと、バイトのこと。
自分のことは、いつ頃からか、考えなくなった。
篠目の言葉を思い出す。
――叶えたい願いって、あったりする?
……どうなのだろう。
願い。
少し考えてから、ふたつのことが思い浮かぶ。
金のこと、姉のこと。
でも、そのどちらもが、途方もないことのように思える。
遊園地廃墟のミラーハウス? 叶えたい願い?
頭にちらつくのは、生見小夜の声。
小夜啼鳥の童話。ナイチンゲール。 そんなささやかな連想。
彼女が俺に向けて声を発したのはいつぶりだろう?
とっくに存在を忘れられていたと思っていた。
でも、だからどうだというわけではない。
と、僕は思おうとする。そうしている自分を見つけて、自嘲する。
そして、すぐに忘れようとする。……近頃は、そんなふうに、自分の感情に打ち消し線を引くことが増えた。
叶えたい願い。
それにも打ち消し線だ。
つづく
100-12 べきい → べき
おつです
◇
土曜の昼過ぎに、黒いドラッグスター250が店にやってきた。
フルフェイスのヘルメットを脱いで出てきたのが、自分と同年代くらいの女だった。
「満タン」
とだけ言って、彼女はバイクを降りると、ショートカットの髪が額に張り付いたのを疎むように顔を振った。
愛想もなければ他に言葉もなかった。
給油を終えて、代金のやり取りを済ませると、彼女はあっといまに去っていった。
昼休憩のときに、休憩室の暑さを嫌って店の裏手のコンビニに行くと、そのドラッグスターが止まっていた。
彼女は雑誌コーナーで立ち読みをしていた。店に入った僕の方をちらりと見ると、すぐに視線を逸らす。
かと思うと、もう一度こちらに視線をよこして、「ああ」という顔をした。
僕は店の制服のままだったから、すぐにさっき会った相手だと分かったのだろう。
こちらから声を掛けずにいると、彼女は黙ったまま再び雑誌に視線を落とした。
顔見知りの店員に声を掛けられながら、飲み物を買う。
節約はしているが、生活費を切り詰めてまでというほどではない。可能な限り削って、という感じだ。
極端なやりかたでは、身も心も持たない。ただでさえ、精神的に弱い人間だという自覚はある。
飲み物を買ったりするのは避けていたが、気温次第では持ってきた水筒だけではどうしても足りなくなる。
喉が渇くのだ。
店を出て軒先でスポーツドリンクに口をつけたとき、例の女の子が店から出てきた。
紙パックの野菜ジュースにストローをさして口をつけたところで、僕と目が合う。
僕はとっさに視線をそらした。
僕は彼女を意識の埒外に追いやろうとしたが、彼女は黙ったまま僕の近くまでやってきた。
なんだろうと思って見ていると、どうやら目的は僕の脇にあった灰皿らしかった。
煙草をポケットからひとつ取り出して、彼女は口にくわえて火をつけた。
どうみても未成年のように見えたが、不思議とその様子は似合っていた。
じっと見ていると、彼女は疎ましそうにこちらを睨んで、煙を吐き出した。
「……何か?」
「いえ」と僕は否定して視線を逸らした。
そこで話が終わるかと思ったら、彼女は苛立たしげに言葉を続ける。
「何か言いたいことがあるんでしょう?」
「特には」
「あんたみたいな人、大っ嫌い」
「本当に何もないんだ」と僕は言った。彼女は怪訝そうに眉を寄せた。
言うか言わないか迷って、結局言った。
「はっきり言うと、あなたにそんなに興味がないんだよ。どうでもいいんだ。
ちょっと目に入ったから見てただけで、べつに何にも思うところはない。さまになってるなって、せいぜいそれくらいだ」
どうでもよかったから、言葉を返してしまった。
どうでもよかったから、どう思われようがかまわなかった。
彼女は僕の言葉に、少し意外そうな顔をして、煙草にまた口をつける。
「あんた、変な奴ね」
「どうだろうね」
「変よ。普通、わたしみたいな奴に話しかけられたら、へらへら笑って逃げ出すでしょう?」
「べつに、僕がここを立ち去る理由がないと思うから」
「理由、ね」
女は何か考えるような素振りを見せた。
「ねえ、あなた名前は?」
僕は一瞬面食らったけど、名前を教えたところで生まれるような問題があるとは思えなかったから、結局答えた。
「碓氷遼一」
「遼一、ね。わたしはすみれ」
「すみれ?」
「そう、すみれ。ねえ、遼一」
突然の名乗りにも呼び捨てにも、僕は対して戸惑いを覚えなかった。
ただ、どうしてだろう。彼女の声をきいていると、頭がすっとするのを感じる。
僕が持っていないものを彼女がもっているような気がする。
「あんた、死にたがりでしょう?」
空気が、しんと止まるのを感じた。周囲から音が消えたような気さえする。
「どうして?」
「目が死んでるもの」
ひどい言われようだ。
「目で分かる」と彼女は言う。
「目で分かるのよ」
「そういうもの?」
「ねえ、今暇?」
「まあ、休憩中だから」
「わたしと一緒に行かない?」
「どこへ?」
「どこか」
「どうして急に?」
「道連れがいてもいいと思ったから」
「悪いけど、バイト中なんだよ」
「サボっちゃえばいいじゃない」
「そうもいかないよ」
「どうして?」
「どうしても」
彼女は心底不思議だというふうに首をかしげた。
「どうして? 働くのが好きなの?」
「そういうわけじゃない」
「好きでもないことをやってるの? どうして?」
「みんなそんなもんだろう」
「みんなそう言うわよね。やらなきゃいけないことをやらなきゃ生きていけないんだって。
でも、わたし、違うと思う。生きていくためにやらなきゃいけないことをやらなきゃいけないなら、
そのせいでしたいことができないなら、わたし――べつに、生きられなくてもかまわない」
僕はちょっと感心した。
「全部全部投げ出して、好きなことばっかりしてたいって、思うじゃない? その方がきっと、ずっと気持ちいいのに」
それはずいぶん、分かりやすい甘言だ。
「……たしかにバイトは嫌だけどね。かといって、きみと一緒にどこかに行きたいかと言われたら別にそうじゃない」
「どっちもやりたくないことってわけだ」
「そういうことになるね」
「だったら、あんたのやりたいことってなに?」
「……さあ、なんだろうね」
彼女は僕の方を見て笑う。僕も思わず笑った。
きっと彼女は、質問の答えに既に勘付いていたことだろう。
不思議と、そういうことが分かった。さっき会ったばかりの人なのに。おもしろいものだ。
彼女は手を振り上げながら、僕の方に何かを投げてよこした。
まだ半分以上中身の残った煙草と、安いライターだ。
「また会いに来るよ。気が変わったら、一緒にどっかへ行こう」
「……気が向いたらね」
また彼女は笑って、去っていった。
僕は手の中に残された煙草のパッケージを見ながら、少しだけ考えごとをした。
やりたいこと。
叶えたい願い。
少し滑稽だという気がした。
◇
「碓氷! おまえこっちやれ!」
夕方のピークタイムだった。
現場帰りのトラックと帰宅途中の現金客が押し寄せて、ただでさえ混みあう時間だ。
ひとりが煙草休憩に入っているときに混みあうタイミングが来てしまった。
店に居たのは僕と社長だけ。店長は月末だというので集金に行っていた。
べつに回そうと思えば回せない数じゃない。落ち着いていれば、問題なくこなせる仕事量だ。
問題は社長の仕事の振り方だ。
こっちが何かをやっているときも構わずに指示を出してくる。指示に従えば効率が落ちるし、従わなければ怒鳴られる。
普段は配達にばかりいってろくに店にいないから、社長と時間が被ることはまずないのだけれど、
この日は偶然、それが忙しい時間に重なってしまった。
まいったな、と僕は思った。こうなるとあとで絶対に小言が始まる。
自分のせいで怒られるのは仕方ない。
でも、どうしようもないことは……。
仕方ないことだけれど……。
たしかに、僕の動きは良いとは言えなかった。
それは僕自身の能力の問題だ。
僕はなるべく、できることはこなそうと思うし、可能なかぎり最善を目指そうと思っている。
もちろんその心がけだけでは意味がない。
僕は基本的に真面目に仕事をこなそうと思っている。
それでも失敗をするし、判断ミスをする。僕はとても愚鈍な人間だからだ。
ミスは指摘されるべきだし、非難は甘んじて受け入れるべきだ。
僕は能力があるとは言いがたい人間だ。
それでも僕は僕なりに一生懸命にやっていくしかない。
……やっていきたいわけじゃない。……やっていくしかない。
案の定、客の流れが途絶えたとき、社長は顔を真っ赤にして僕に説教をはじめた。
曰く、やる気がないなら帰れ。曰く、お前がやっているのは仕事をしている振りだ。曰く、やりたくないことをやらないで済ますってわけにはいかないんだ。
曰く、楽な仕事に逃げていても見ていれば分かる。曰く、そんなことでやっていけるほど世間は甘くない。
はい、はい、はい。と僕は返事をする。
本当に分かっているのか、と彼は言う。
はい。
何を言われてるか分かるか。
はい。すみません、自分の判断ミスでした。
お前もここに来て半年以上になるんだぞ。いい加減何を優先していいかくらい分かるだろ。
はい。すみませんでした。
掛けの客は適当にやったってどうせ店に来るんだ。現金の客を大事にしてくれ。うちの売上に関わるから。
はい。
何か言いたいことがあるのか?
ありません。
言いたいことがあるなら言っていいぞ。
ありません。
本当に頼むぞ。
はい。気をつけます。すみませんでした。
心は鈍くなっていく。
◇
結局のところ、咲川すみれとの出会いは、僕にとってのひとつの大きな分岐点だったのだと思う。
僕はひょっとしたら彼女に会うべきではなかったのかもしれない。
あるいは、彼女の言葉に耳を貸すべきでなかったかもしれない。
そんな『もしも』の話は、けれど無意味だ。
僕の頭も心も、ひたすらに鈍さを保とうとしていた。
何も感じないように、できるかぎり平坦でいられるように。
そんな僕の気持ちの蓋に、あのときのわずかな会話だけで、すみれは隙間を作ってしまった。
おそらく、すみれだけではない。
篠目あさひが世間話のつもりでしただろう奇妙な質問。
生見小夜と一緒にいた男子生徒の言葉。
いろんな出来事が、いっぺんに起きてしまった。
何も起きなければ、自分を保っていられた。けれど、起きてしまった。
だから僕は、揺らいだ。
――やりたくないことをやらないで済ますってわけにはいかないんだ。
――そんなことでやっていけるほど世間は甘くない。
叱られた日の帰り道の途中、不意に、小夜の顔が頭に浮かんだ。
突然、何もかも投げ出して、この街から逃げ出したい気持ちになる。
叫び出したいような、気持ち。
でも、そんなのはきっと子供っぽい感情だ。そう分かっているから、僕は自分の気持ちを殺す。
感情のままに動いたって、誰も認めてなんてくれない。僕にはやらなきゃいけないことがある。
でも、それでも、何かに置き去りにされているような焦燥感が離れない。
何かを間違えてしまったような感覚。
いつものように、その感覚を押し殺して、鈍くなろうとする。
――そのせいでしたいことができないなら、わたし、べつに、生きられなくてもかまわない。
――だったら、あんたのやりたいことってなに?
それなのに、頭の中で耳鳴りのように響くすみれの言葉が、僕の感覚を、視界を、妙にはっきりと、くっきりとさせていく。
感覚が、痺れを覚えるほど、鋭敏になっていく。
つづく
おつです
◇
翌週の月曜の朝のことだった。
「いま、平気?」
そう声を掛けてきたのは生見小夜だった。僕は怪訝に思いながら頷いた。
「ちょっときて」
彼女は少しためらいがちな素振りで、僕のことを廊下の方へと手招きした。
僕は頷いて、彼女の後を追う。
彼女は僕がついてきていることを確認すると、すたすたと廊下を進んでいく。
向かう先は廊下のはずれ、上階へと繋がる、あまり使われていない校舎端の階段だった。
踊り場までやってくると、彼女は「ふー」と溜め息をついて、僕の方を見た。
「えっと、遼……一、くん」
続きを待って黙っていると、彼女は不安がるみたいに言い直した。
「……碓氷くん」
「……なに?」
彼女は僕と目を合わせようとしなかった。
怯えられているのかもしれないし、気味悪がられているのかもしれない。
「あのさ、先週は、ごめん」
僕の方を見ないままで、彼女はそう言った。
「どうして生見が謝るの?」
「どうして、って?」
「生見が僕に何か言ったわけでもないのに」
「えっと、それは……」
どうも、彼女の話は要領を得ない。
それとも、違うのか? 僕が彼女の言葉を理解できないだけで、彼女の言葉にはちゃんとした脈絡があるのだろうか。
よくわからない。
「なんとなく、怒ってるのかな、って」
生見小夜の言うことは、やっぱり僕にはよく分からない。
「……ううん、ごめん、うそだ」
と、少しして、生見は自分の言葉を否定した。
「逆だった。ねえ、碓氷くん……あのとき、どうして怒らなかったの?」
僕は、その問いに面食らった。
「どうして、って?」
「けっこう、ひどいこと言われてたでしょ」
まあ、たしかに。いくらか傷ついた。
でも……。
「別に、その通りだと思ったから」
僕の答えに、生見小夜がぎゅっと手のひらを握りしめたのが分かった。
苛立っているのかもしれない。そういうことがたくさんある。
「なにそれ?」
「それに、あんなことで怒っても仕方ない」
「……なに、それ。達観してるのがかっこいいとでも思ってる?」
まっすぐにこちらを見つめる生見小夜の眉はつり上がっている。
さっきまで謝る気だったらしいのに、今はこれだ。気持ちは、わかるけれど。
「べつに、そういうつもりじゃないよ」
「だったら、なに?」
「……」
別に、答えてもよかった。どうでもよかったから。
でも、そんな態度で、何かを推し量ろうとするような態度できかれると、なんとなく……反発心を覚える。
答える義務はない、けれど。
まあ、いいか。
「怒るのって、エネルギーがいるだろう」
「エネルギーが、もったいないって意味?」
「まあ、そうなる」
生見は呆れたように溜め息をついた。質問に答えただけで、どうしてそんな顔をされなきゃいけないんだろう?
「……碓氷くん、変わったよね」
彼女はそんなことまで言った。
「なんか、遠くなった。壁があるみたい。誰も近付けなくしてるみたい」
生見小夜は、ときどき、抽象的なことを言う。昔からそうだった。
「距離をおいて、測って、近付けないようにしてる。
昔は違った。もっとまっすぐ、わたしと向い合ってくれた。今の碓氷くんは、何を考えてるのかわかんない。
昔は……遼ちゃん、そうじゃなかった」
そう言って、彼女は俯いた。
冗談だろう。そう思った。
遠くなったのも、近付けないのも、何を考えているのか分からないのも、僕に言わせれば彼女の方だ。
昔はそうじゃなかった?
彼女の知ってる僕にそぐわなければ、僕は生き方を正さなければならないのだろうか。
いちいち何かに腹を立てなければいけないのか?
「……ちがう、こんなこと、言いたいんじゃなかった。まちがえた」
生見小夜は、前髪をかきあげて、瞼を閉じた。
「ごめん。ちがう。そうじゃなくて、なにか、悩みがあるなら、いつでも……」
それから彼女は、僕の目を見て、どこか怯えるような顔をした。
「……いつでも、聞くから、って、そう言おうと思ったの」
最後まで言い切る頃には、彼女は僕の方を見ていなかった。
◇
放課後に、「碓氷くんいますか?」と教室にやってきた人がいた。
入り口に一番近い席に座っていた奴がちらりとこちらを見た。どうやら名前は覚えてもらっているらしい。
僕は立ち上がった。
「いたいた」
と彼女は平気そうに笑う。変わった人だ。
「碓氷くん、今日も部活出ないつもり?」
小さな体だ、とまず思う。中学一年生くらいにすら見える。顔つきもそれくらい幼い。
これで最上級生で、先輩だというのだから驚きだ。
「……出ませんけど。どうかしましたか?」
うちの学校は、特別な理由がないかぎりアルバイトは許可されていないし、特別な理由がないかぎりは部活動への参加を義務付けられている。
そして僕に特別な理由はない。
それでも僕は金がほしかったので、サボりやすそうな文芸部に入部して、許可をとらずにバイトをしていた。
ごくたまに、店が休みだったりしたときにだけ顔を出すようにしているけれど、
部員たちは僕の名前を覚えていないだろうし、僕も彼らの名前を覚えていない。
そうじゃない人がいるとしたら、目の前のこの人くらいだろう。
「文化祭。もうすぐでしょ。部誌、どうするの?」
「ああ。書きません」
「どうして?」
「忙しくて」
「ほんとにー?」
「ほんとに」
「怪しいなあ」
「怪しくないです」
「なんで碓氷くん、部活出ないの?」
「バイトあるんで」
「なんでそんなに働くの?」
「お金がほしいので」
「なーんでそんなに、お金ほしいの?」
「……あるに越したことはないですから」
「……ふーん?」
意味ありげに首をかしげて、子供みたいに彼女は拗ねてみせる。
この見た目で文芸部の部長だというのだから、なかなかおもしろい。
くわえていうなら、何かをさぐろうとするような、観察するような、うかがうような、目も。
「……部長は、暇なんですか?」
「んや。これから部誌まとめる作業しなきゃだよ」
「だったら、俺なんて相手にしてないで作業をしたほうが……」
うーん、と彼女はちょっと笑いながら腕を組む。
「そんなこと言わないでよ。きみだって部員でしょ、いちおう」
「いちおうって、言っちゃってるじゃないですか」
「あはは」と彼女はわざとらしく笑う。
「ま、きみはちょっと特別だから」
「そうですか」
「あれ、信じてない?」
「冗談ですよね?」
「うーん、どうかなあ」
部長はへらへら笑って、「ま、気が向いたら顔出してよ」、と、どうでもよさそうに笑って去っていった。
ごくまれに、彼女は似たような質問をしに僕のところにやってくる。
意味ありげなことを言っていたようだけど、おそらく、幽霊部員の様子を定期的に覗きに来ているだけだろう。
さて、と僕は溜め息をついて、イヤフォンをつける。
今日もバイトだ。……バイト。こんな生活を、いつまで続けるんだろう? もうずっと変わらないのかもしれない。
今日は久しぶりに、小夜と話した。部長に会った。でも、どうしてだろう。
すみれのことばかりを、思い出してしまう。
つづく
おつです
◇
バイトが終わった九時過ぎに、僕は店の敷地の脇に立ち尽くしていた。
何か理由があってのことじゃない。早く家に帰りたい気持ちもあった。
でも、なぜだかそれが億劫だった。
僕は鞄からMDプレイヤーを取り出して音楽をかけた。
手持ちの音源を片っ端から突っ込んで作ったオリジナルプレイリストのMDは、
ランダムにすると基調も統一性も見えないわけのわからない流れを生み出す。
僕はしばらく音楽に身を委ねて休んでいた。
敷地に止めた自転車のそば、街灯には虫がたかっていた。
灯りの消えたガソリンスタンドのそばは薄暗い。車の通行量は少ない。
月は雲に隠れていた。
ふと思い出して、僕は鞄から例の煙草を取り出した。
すみれが、別れ際に僕に渡した煙草とライター。
暗い中でこうしていると、いろいろなことが分からなくなってくる。
いや、最初から、僕にはわからないことばかりなんだけれど……。
バイクが一台、道路を通り過ぎていく。
煙草を一本、箱から取り出して眺めてみる。しばらくそれを続けた。
MDプレイヤーからざらざらと歪んだノイジーなギターサウンドが聴こえる。浮遊感のある甘やかなボーカル。
"マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン"。
血なまぐさいバンド名は、何度聴いてもあまり似つかわしいとは思えない。
僕は煙草を口にくわえてみる。
なぜか、妙に頭が冴えはじめる。
急に意識がはっきりと現実感を持つ。
僕はライターを煙草の先に近づける。
そっと火を点ける。
「……ん」
後ろから物音が聞こえた。
「吸いながらじゃないと、点かないよ」
僕は、驚いて振り返った。
それが誰なのか、暗くてよく分からなかった。
でも、すぐ傍に止まっていたバイクには見覚えがある。
ドラッグスター250。
「いるとは思わなかったな。たまたま通りがかったから、来てみただけなんだけど」
「……」
「あれ、わたしのこと、覚えてない? ……なわけないか」
「ああ、うん」
立っていたのは、すみれだった。
「ちょうど、きみのことを考えてたんだ」
「わたしも。素敵な偶然だと思わない?」
本当にそうなのだろうと思った。
僕は彼女のことを思い出したから煙草を口にくわえたのだし、彼女も僕のことを思い出したからこの道を通ったのかもしれない。
「ひどい顔をしてる」と、彼女は言った。
「暗いせいだろうね」と、僕はすぐに嘘だと分かる嘘をついた。暗さなんかでごまかしがきくものか。
僕はイヤフォンを外した。
光を避けるように街灯に近付こうとしない彼女の表情は、僕からはよく見えない。
彼女はポケットから煙草を取り出して、くわえて火をつけた。
僕も彼女に言われたとおりにしてみた。今度は火がついた。
煙が口の中に流れ込む感触に戸惑いを覚える。
想像していたより嫌な感じはしなかった。
「ねえ、遼一」
「……よく覚えてるね、人の名前」
「あんたは忘れたの?」
「覚えてるよ」
「言ってみて」
「すみれ」
「自分でも不思議なの」
彼女は楽しそうに笑う。
「どうしてあんたの名前なんて覚えてるのかな」
僕にしたってそうだ。
印象深かったから? ……どうして、印象深かったんだ?
「あんた、わたしが知ってる奴に似てるのよね」
「……へえ。そうなんだ。彼氏か何か?」
「いないから、そんなの。……妹」
「ふうん」
どうでもいい、と、そう思った。どうしてそんなことを訊いてしまったんだろう。
彼女は煙草を足元に捨てると、靴の裏で踏みつけた。
「ねえ遼一、あんた、死にたがりなの?」
「どう思う?」
「わたしの見立てだと、そうなんだけど」
「残念ながら、死にたがりとは言えないと思う」
「そう」
どうでもよさそうに、彼女は呟くと、片手に何かを掴んで、こちらに差し出した。
「……なに?」
それは、ヘルメットだった。
「死にたがりじゃないなら、退屈してるんでしょ? 一緒に行かない?」
「どこに」
「ここじゃないどこか」
彼女は真顔でそう言った。
「ここじゃないどこか……?」
「そう」
月を翳らせていた雲が、ゆっくりと流れていく。
そのとき、彼女の姿が月光にかすかに照らされた。
彼女はひそやかに笑っていた。
なにか、とても楽しい内緒の話を、僕だけに打ち明けてくれるような表情で。
「あんた、生きてて楽しい?」
そんな、小馬鹿にするみたいな問いかけ。
僕は答えずに笑った。
連想したのは蛇だった。
楽園の中央には二本の樹が生えていた。
一方は生命の、一方は知恵の。一方の実は永遠の生命を与え、一方の実は善悪を教える。
知恵の実だけが、食べることを禁じられていた。それを食べたら、死んでしまうから。
知恵の実を食べなければ、楽園で幸福に過ごせたのかもしれない。
それでも彼らは知恵の実を食べずにはいられなかった。なぜか?
好奇心? 反抗心? 禁忌を破る愉悦?
それが禁断の実だと知らなかったから? 蛇のそそのかしかたがあまりに狡猾だったから?
いずれにしても、その実を口にした先に待っていたのは、楽園からの追放と果てのない苦役だった。
バカバカしい、と、その連想を鼻で笑う。
彼女が差し出したヘルメットが禁断の実だとしたら、ずいぶんと滑稽な話だ。
僕は差し出されたヘルメットを受け取った。
彼女はまた笑う。
「ねえ、そうだよね」と、彼女は楽しげに呟く。
その目は僕の方をまっすぐに見ている。
「――生きてるって、最高につまんないよねえ?」
だからさあ、と彼女は僕の肩をバシッと叩いた。
「ここじゃないどこかにいこうよ、わたしたちが心の底から笑えるようなところが、きっとあるはずだもんね!」
その言葉のばかばかしさに、僕も笑った。
「どこだよ、それ」
「知らないよ、そんなの」
と言って、彼女はバイクにまたがって、後部座席をパシパシ叩いた。
「ほら、行こう!」
「だから、どこに」
「知らないよ! どこかないの? 行きたいとこ」
行きたいところ。
そう言われたとき思い出したのは、篠目あさひの言葉だった。
「遊園地」
「遊園地?」
「……の、廃墟」
「いいセンスじゃん、遼一」
僕は彼女の真似をして、煙草を足元に捨てて靴の裏で踏みにじってみた。
どこかに行けそうな気がした。
「ねえ遼一、あんたのことなんて欠片も知らないけど、わたし、あんたのこと好きになってきた」
僕は笑った。
「それは、素敵な偶然だね」
彼女も笑った。
そのようにして、僕たちは自ら楽園を後にした。
つづく
おつです
◇
彼女の誘いに乗るべきではなかったのかもしれない、と、
そう思ったのはだいぶあとになってからのことで、
彼女の後ろで打ち当たるような風を受けている間は、
ただ流れていく景色のことだけを考えて頭をからっぽにしていた。
そんな時間は久しぶりだった。
目的地の正確な場所を僕らはふたりとも知らなくて、
ヒントは僕が朧気に記憶している地名くらいのもので、
あとはコンビニに置いてあった地図を頼るしかなかった。
僕らは何度かコンビニに寄って地図を眺めてみたりした。
そのたびにすみれが煙草を吸うので、彼女の持っていた煙草はあっというまに減っていって、
結局新しく買い直していた。
「マイセン」
店員はいくらか訝しげな目を向けてきたけど、結局売ってくれた。
「すみれさ」
店先の灰皿の前で煙草に火をつけた彼女に声を掛けた。
いくらか、疲れで頭がぼんやりしていた。
「ん?」
「いくつなの?」
「内緒」
すみれは笑った。どうでもいいか、と僕は思った。
「ねえ、どうかな? わたしたち、目的地に近付いてると思う?」
「標識が偽物じゃなければね」
「あんた、くだんないこと言うよね」
「嫌い?」
「どうかな」
「癖になってるんだよ」
「なにが?」
「なんだろう。はっきり言わないことかな」
「"どうして?"」
「さあ? そろそろ行こうか」
時刻は十一時を回っていた。
「急ぐ旅でもないけどね」
「どうかな」
「帰りたい?」
「まさか」と僕は言った。本心なのかどうかは自分でも分からなかった。
家のことが気になっているのはたしかだ。
学校や、バイトのことや、いろんなこと、それから……。
でも、帰りたいかと訊ねられると――。
「さ、行こう」とすみれが言ったので、僕は彼女に従った。
結局、遊園地に辿り着いたのは日付が変わる頃だった。
閑静な街並や狭い道路を走り抜けるとき、バイクの排気音が気になったけど、
今時間起きている人がいるとしても、きっと「うるさいなあ」と思って特に何もしないだろう(普段の僕だってそうだ)。
準備の悪い僕たちは懐中電灯すら持っていなかったから、携帯のライトを使ってかろうじて辺りを照らした。
「バイク、停めとくの嫌だなあ」
と、すみれは心配そうにしていたけど、ここまで来て引き返すなんて僕はごめんだった。
そう伝えたら、彼女も結局、遊園地の敷地内へとついてきた。
ひとりにされるのが嫌だったのかもしれないし、僕に対して責任感のようなものを覚えたのかもしれない。
真っ暗闇の遊園地はただでさえ不気味だったし、廃墟だというのだからなおさらだ。
僕たちは何を目指しているかも分からずに歩きまわった。
そうしてときどき、錆びた柵にもたれて煙草を吸ったりもした。
そもそも、ここが目的地なのだ。僕たちは到着している。
「ね、空見て」
煙草の煙を吐き出しながら、不意にすみれが言う。
「星、綺麗」
「たしかに」と僕は言った。
「星座とか、分かる?」
「いや」
「わたし、知ってるよ。秋の星座は、カシオペア、アンドロメダ、くじら……今も見えるのかな」
と、彼女はささやくように言ったけれど、僕にはどれのことだか分からなかったし、そもそもくじら座なんて言葉自体初めて聞いた。
真っ暗闇の遊園地から見える星空は煌々と輝いて綺麗だった。
周りには空を切り取る建物も光もない
ひょっとしたら、大昔の人間の見た星空も、こんなふうだったのかもしれないと、ぼんやり考えた。
それとも、その頃の空と今の空は、やはり違っているのだろうか?
過去と今では、今と未来では、いろんなものが変わってしまっているのだろうか?
「くじらは怪物なんだよ。お姫様を食べちゃうんだ」
「……?」
すみれの言葉に、僕は首を傾げた。
「そういうお話」
「誰かがくじらに飲み込まれる話なら、僕も知ってるよ」
「どんなの?」
答えようと思って、僕は口ごもる。
今の自分のその状況が、その話に似ているような気がしたのだ。
「ヨナ書だよ」
「なにそれ」
「聖書」
「詳しいの?」
「べつに。ちょっと興味があって」
「悩みでもあるの?」
「子羊だから」
「ジンギスカン、美味しいよね」
「ついでに毛が黒い」
「それも聖書か何か?」
「いや。慣用句」
「ふうん。バカみたい」
「たしかに」
どうでもいいようなやりとりが心地よかった。
それから僕たちはまた歩きまわり始める。
べつに新しいものを得られもしなかったし、天啓も降りてこなかったし、腹の底から笑えもしなかった。
ここじゃないどこか?
馬鹿らしい。そんなものどこにもない。
子供にだって分かる。
僕たちは「ここ」にしかいられない。言葉遊びでもなんでもなく、文字通りそうなのだ。
そんなことを、どこかうんざりした気持ちで考えていたとき、僕らは“それ”を見つけた。
最初に気付いたのは僕だった。
一瞬で背筋が粟立った。
思わず立ち止まった僕の方をすみれが見たけれど、彼女が“それ”に気付くまでは少し時間がかかった。
無理もない。
女の子がひとり、建物の前に立っていた。
真っ黒な服を着て、建物の真っ黒な影に溶け込むようにして。
そして、僕らの方を見つめながら、何も言わずににやにやと笑っていたのだ。
それに気付いたとき、すみれは怯えたような頼りない声をあげた。女の子の薄笑いは消えなかった。
やがて彼女は、口を開いた。
「ひさしぶり。元気だった?」
その存在の唐突さ、その理解できない発言、不気味な姿、不気味な衣装、不気味な笑み。
どこをとってもぞっとするような女。
でも、何よりも僕らを混乱させたのは、
彼女のその顔と声が、すみれにそっくりだったことだ。
すみれは、信じられないものを見たような顔で、彼女を見る。
「……あんた、誰」
すみれが問う。
「わかってるくせに」と彼女は笑う。
僕とすみれは後ずさり、互いに体を近付ける。
それを見て、女の子はまたにやにやと笑い始める。
「寄っていかないの?」と言いながら、彼女はうしろの建物を示した。
僕は暗闇に目を凝らし、近くにあった看板の文字をどうにか読み上げる。
「……ミラーハウス、か?」
「そう。今なら、鏡の国に連れていけるよ」
「……鏡の国?」
「そう。あなたが望む景色、なんでも見せてあげる」
僕たちは黙りこんだ。少女は、また笑う。
「心配しないでよ。夢みたいなものだと思ったら?」
……夢だと思いたい相手に言われるのも、妙な気分だった。
「……ね、どう?」
女は言う。僕の方を、じっと見ている、気がする。
「あなたは、叶えたい願いとか、ない?」
その問いかけを聞いたとき、篠目がしていた話の意味が、ようやく僕の中でつながった。
夢、幻覚、心霊現象、超常現象、都市伝説、フォークロア。
いずれにしても、目の前にいるこの少女には、現実を超越したような、高みから見下ろすような不思議な雰囲気がある。
空には月と星、地上には奇妙な生き物が三匹。ひょっとしたら、ひとりは生きてさえいないかもしれない。根拠もなく、そう思った。
雰囲気に呑まれたのだろうか?
それとも、彼女の言葉が、僕の心のどこかに響いたのだろうか?
そんな他人事めいた気持ちでしか、自分の感情の動きさえ掴めない。
でも、たぶん僕には、見てみたい景色があったんだと思う。
きっと僕は、どこかで篠目の話を覚えていて、
だからこそ、こんな場所に来ることを提案したんだと思う。
僕は、何も言わず、彼女に近付いていく。
引き止めるような、すみれの声。
僕は振り返らなかった。
女は満足そうに頷くと、僕の背後に視線をやり、
「"すみれ"は」と、知るはずのない名前を告げて、
「どうする?」と笑みを浮かべたまま訊ねた。
すみれは、答えずに、
「……あんた、誰」と、そう繰り返す。それは、僕にはなんでもいいことだった。
「誰でしょう?」と女は笑い、建物の中へと歩き始める。
僕は何も言わずに、彼女についていく。
すみれは何も言わなかった。
僕は一度だけ振り返って、「来ないの?」と肩越しに訊ねた。
彼女は、苦しげに俯いてから、僕の方へと駆け寄ってくる。
そうして僕らは、ミラーハウスに足を踏み入れた。
つづく
おつ
おつです
◇
「……ね、どういうことだと思う?」
肩で息をしたまま辺りの様子をうかがって、すみれはそう訊ねてきた。
「どれについて?」と僕は訊いた。
「どれって?」
「どうしてミラーハウスの奥の扉が知らない街に繋がっていたかってこと?」
「それもだけど」
「さっきの女の子はどこに行ったのかってこと?」
「それもだけど、そうじゃなくて」
「じゃあ、どれのこと?」
「本気で言ってる? それとも現実逃避してる?」
「……これが果たして現実なのかな」
「現実だと思いたくないのはやまやまなんだけどね」
ぐるるる、と音がした。
摺るような足音。
「……来た?」
ひそめた声で、すみれが言う。
「……来たみたいだね」
僕たちはそのまま息を止める。
「逃げた方がいいんじゃないのかな」と僕は言った。
「でも、音を立てたら……」
気付かれる、とすみれが言いかけたところで、角の方から彼は姿を現した。
すみれの体がびくっと揺れる。僕も多分揺れたと思う。
たっぷり三秒ほど、硬直した。
黄褐色の毛並みとたてがみ。
逞しい四本足でのそのそと歩き、無機物のような瞳をこちらに向けてくる。
目線こそ僕らより下にあったけれど、体躯の大きさは比べ物にならない。
牙を向けば、僕らの腕くらいならやすやすと噛みきれそうだ(というか、噛み切れるのだろう)。
"彼"というのはそういうことだ。鹿と同じくらい、彼らの性別を見分けるのは容易い。
声も出せずに硬直した場面が、彼が踏み出した前足で動く。
僕らは翻って全力で逃げ出した。
「……なんで、わたしたち、ライオンに追われてるの!」
裏返った声で、すみれが叫んだ。そんなの僕にだってわからない。
夜の遊園地(廃墟)に忍びこんだら、ミラーハウスの前でドッペルゲンガーみたいな女の子に出会いました。
彼女にしたがって建物の中に入ったら、いちばん奥に大きな扉がありました。
扉を開けたら鏡があって、女の子はその鏡をすり抜けて進んでいって(?)、
僕らも鏡に触れてみたらすりぬけてしまって、気付いたら西欧風の箱庭めいた街並に立っていて、
いつのまにか女の子はいなくなっていて、何がなんだか分からずに歩いていたら女の子の代わりにライオンと出会いました。
おしまい。
脈絡の無さが古い童話めいていた。
「遼一、どうしよう?」
走りながら、すみれは混乱した様子で言う。
笑い話だ。
「どうしようって、逃げるしかないよね?」
肩越しに振り向くと、ライオンはバネのように追いかけてきている。
「逃げきれないよ! ライオンだよ? ライオンより速く走れるわけない!」
「べつにライオンより速く走る必要はない」
「え?」
「きみより速く走ればいいだけだ」
すみれは一瞬考えるような間をおいてから、意味を察したのか、悲痛な声をあげた。
「……わたしが食べられてる間に自分は逃げられるからそれでいいってこと?」
「そういうことになるね。いいんじゃないか。生きてるの、つまらないって言ってただろ」
「あんただって死にたがりじゃない!」
「僕は死にたがりじゃないよ」
「死にたい死にたい言ってる奴に限って、危機に瀕したらこんなもんよね、結局生きてることに実感が沸かないだけなんじゃない!」
「それ、自虐? もっとシンプルな考え方があるよ」
「なに?」
「仮に死にたがりだとしても、痛いのは嫌だし、生きながらかじりつかれるのはごめんだ」
「……それは本当に、そう思うけどね」
なんて言っている間に、すみれが足をもつれさせた。
慌てて僕は彼女の腕を引っ張ってスピードを上げる。
彼女はかろうじて転ばずに済んだ。
「腕、痛い! 肩も!」
「ありがとうが先だろ」
すみれは鼻を鳴らした。
「……どうもありがとう。あんたってとっても偽悪的ね」
「皮肉を言う余裕があるのは結構なことだけどね」
「お互い様でしょ?」
そうこう話しながらも走る速度は緩められない。……とはいえ、後ろから迫る四足獣も、必要以上に距離を詰めてはこない。
いたぶられている気分だ。
追いかけっこの本質は速さ勝負じゃない。体力勝負だ。
もし圧倒的に体力に自信があるなら、ゴールが設定されておらず、期限が決まっていないのなら、
勝つのは速い方じゃない。より長く走っていられる方が勝つ。
いいかげん、すみれも体力の限界が近いらしい。
他人事みたいな街灯の灯りが憎々しい。
不意に、見上げた夜空に、僕は思わず笑ってしまった。
「……なあ、すみれ」
「なに?」
「月に目ってある?」
「何言って……」
と、すみれは僕の視線の先を追いかけて、言葉に詰まったみたいだった。
貝殻のような笑みを浮かべた三日月のすぐ上に、ふたつ、銀色の円がある。
星というには大きすぎ、月というには小さすぎる。
「笑われてるみたいね」
「……」
見下されて、笑われてる。
「悪夢的だな」
「言ってる場合?」
と、後ろからの気配が近付いてくる。
飛びかかってくるのが分かった。
まずい、と思った瞬間に、すみれの背中に手を置いて前方に押しやっていた。
すみれの体が前へと飛ばされていく。彼女の体が地面に向かって倒れていく。
僕もその勢いでひっくり返って尻餅をつく。
牙、が。
目の前にあった。
ああ、これは死んだな、と一瞬、考えて。
同時に、ちょっと待てよ、と思う自分を見つける。
僕はそれを望んでいたんじゃないのか?
自ら選びとることもなく、終わってしまうこと。
赤信号の交差点で、背中を押されてしまうこと。
眠っている間に、誰かが首をしめてくれること。
僕はそれを、期待していたんじゃないのか?
その瞬間、
パン、と大きな音がして、僕はとっさに目を瞑った。
奇妙な静寂の後、うしろから、「遼一!」と声が聞こえる。
瞼を開くと、ライオンの姿は消えていた。
「……なに、いまの」
「遼一、それ」
すみれが、傍らの地面に落ちている何かを指差す。
ゴムの切れ端のような……。
「……風船?」
僕らは、目の前で起きたことがよく理解できなかった。
それでもとにかく互いの無事を確認すると、立ち上がって周囲の様子をうかがう。
何の気配もしない。落ち着いてみたところで、よくわからない街並。月にはやはり、目があった。
「ここ、どこ?」
「どこだろうね」
僕たちは息を整えながら、それでも立ち止まることができずに歩き続けた。
立ち止まったところで何かが分かるとは思えなかったし、歩き続ければ、さっきの女の子に会えるかもしれない。
そうでないにせよ、何か、事情を知っている誰か(誰だろう?)に出会えるかもしれない。
「……誰か、いるのかな」
疲れた声で、すみれは言った。もちろんそんなのは僕にもわからない。
夜風がやけに冷たかった。
「さっき、転んだとき、怪我しなかった?」
そう訊ねると、すみれはちょっと気まずそうに頷いた。
「うん。平気」
しばらく何も考えずに歩き続けたけれど、誰とも出会わなかった。
やがて、その道の果てに行き着いた。
似たような街並は、正面にも続いている。けれど、大きな水路が邪魔していて、向こう側にはいけない。
橋は見当たらない。
道は左右に伸びていた。
僕らのいる地面は、円形の水路に囲まれているらしい。
「橋がないね」とすみれが言う。
「あったところで、渡るべきかどうか、わからないけどね」
彼女は不安そうに押し黙った。
「とにかく、橋を探してみようか」
うん、と彼女は頷く。
水路と道との間には白い鉄製の柵が張り巡らされていた。
僕は水路の向こうの街並の方に視線を向けてみる。
夜の暗さで、向こうの様子はわからない。
「……なにか、声みたいなのが聞こえない?」
不意に、すみれがそう言いながら、水路の向こうを睨んだ。
耳を澄ませると、たしかにどこかから誰かの声が聞こえる。
「灯りが見える」
灯りが、暗い水路の向こうに、見える。
人がいるのだろうか?
近付いていくたびに、声をはっきりと感じる。
誰かの話し声。何を話しているのかは、よくわからない。何を言っているのかも。
あちら側が、あたたかな光に照らされているのは分かる。
でも、景色はぼんやりとしていたし、人々の話し声もくぐもったように聞き取りづらかった。
すみれはあちら側の人々に声を掛けようと何度か試みた。
でも、何度試してみてもあちらからはどんな反応も帰ってこなかった。
やはり、そこまでの間にも橋は見当たらなかった。
でも、どこかにはあるはずだ。
歩いている途中で、柵の傍にいくつかの銅像が並んでいるのを見つけた。
なんでもない銅像のように見えた。特に偉人や功績者を称えるようなものにも見えなかった。
ただ銅で出来たマネキンのような。
すみれはひとつひとつ、こわごわとその像に触れていた。
そのうちのひとつに触れたとき、何かおかしなことに気付いたような顔をして、
こつこつ、と手の甲で叩き始める。
「これだけ中が空洞になってる」
「へえ、そう」
だからなんだ、とは言わないでおいた。
「ね、この像、少しだけあんたに似てない?」
僕は何も言わなかった。
それからは特別何も見つけられなかった。結局橋なんかないと分かったのは、ふたたび例の灯りが見えてきたときだった。
どうやら一周してしまったらしい。橋は結局、どこにも見つからなかった。
「閉じ込められてるみたい」と、気味悪そうにしながらすみれは言う。
「とにかく、内側を探索してみようか」
「……うん」
頷いてみせたものの、すみれが体力の限界を感じているのは疑いようもない。
僕だって、徒労感と倦怠感と混乱で、冷静さを失わないのが精一杯だ。
水路に沿って歩くのをやめ、内側へと引き返した僕たちは、いつのまにか広場のような場所に出ていた。
人の話し声。
僕とすみれは目を合わせて、そちらへと向かう。
最初はよくわからなかったけれど、そこにはちゃんと人がいた。
シルクハットに燕尾服。大柄の、洋装の男。彼を中心に集まっているのは、小さな子供たちのようだった。
座り込んで、彼の方をじっと見ている。
子供たちの表情は、こちらからでは見えないけれど、男の姿はしっかりと見ることができた。
広場の隅の街灯に照らされた彼の顔は、白い無表情の仮面に覆われている。
白い手袋をした両手からは糸が垂れている。足元で踊っているのは、人形……。
操り人形、マリオネット……。
やがて劇は終わり、男は「今日はこれでおしまい」と言う。子供たちは不平の声を漏らしながらひとりひとりと去っていく。
子供たちの顔もまた、同じような仮面で覆われていた。
ヴィネツィアのカーニバルを連想する。
違うのは、子供たちが着ているのは普通の服だということ。
そのことに子供たちは何の疑問も抱いていないということ。
真夜中に、こんな人形劇があって、それを見るためにたくさんの子供たちが集まっている。
「悪夢的」、と、今度はすみれが言った。
名残惜しそうに立ち去ろうとしない何人かの子供に、人形師は飴玉をひとつずつ渡した。
仮面の子供たちはその場を後にしていく。
最後に残ったのは僕たち二人と、人形師の男だけだった。
彼は言う。
「ごめんね。もう飴玉はない。きみの分はないんだよ。本当に残念だけれどね、きみの分はない」
遠くから笑い声が聞こえた気がした。
男は荷物を片付けると、落ち着いた足取りで広場を後にした。
残された僕らは、広げられた光景の異様さに立ち尽くした。
僕に至っては吐き気すら感じていた。
足元が覚束なくなるような、悪夢と現実の区別が奪われるような、存在と非存在の境が消え失せるような、不気味さ。
「大丈夫?」とすみれがこちらを見上げながら言う。
「大丈夫」と僕は言う。
「……なんなのかな、ここ。わたしたち、変な夢でも見てるのかな」
ライオン。月。水路。銅像。マリオネット。仮面。
悪夢以外だとしたら、いったいなんなんだ?
「象徴だよ」、と声がした。
すみれが僕の服の裾を掴んだ。
広場の入口、アーチの傍に、ミラーハウスの少女が立っていた。
「あるいは、比喩」
「……なんなのよ、ここ」
と、すみれが言う。
「だから、その話をしてるんでしょう?」
女の子は笑う。黒服が月明かりの下で、魔女みたいに見えた。
「鏡は、鏡の世界に繋がってる。そこは扉を開けた人が望む景色。でも、その人が何を望んでるかなんて、鏡は知らない。
だから鏡は問いかけるの。"あなたが望む景色はどこ?" ここは、その質問の答えの途中」
「……望む景色?」
「扉を開いたのは、あなたよね?」
そう言って、彼女は僕の方を見た。僕は頷いた。
「だったら、鏡はあなたに問いかけてるの。"あなたのことを教えて"って」
「……意味がわからない」とすみれは言った。
「そもそも、あなたは誰なの?」
すみれの問いに、彼女はまた笑った。
「"ざくろ"」と、彼女はそう言った。
すみれは、その答えに動揺したように見えた。
「そうじゃなくて、あんたは、何なのよ」
「さあ? わたしにもよくわからない。それより……」
彼女ははぐらかすふうでもなく、本当にわからない、というふうに首をかしげて、言葉を続ける。
「ついてきて。連れて行ってあげる。あなたたち、迷いそうだから」
「連れて行くって、どこに……」
「鏡の国。あるいは、あなたたちの言葉を借りるなら……」
少女は、皮肉っぽく笑った。
「あなたたちが、心の底から笑えるような場所」
つづく
おつ
おつです
◇
ざくろと名乗った少女の姿は、見れば見るほどすみれにそっくりだった。
彼女の名前を聞いてから、すみれは一言も喋らなくなった。
何か考えているふうでもあり、思い詰めているふうでもある。
少し気になったが、僕が気にしたところで分かることなんてひとつもなさそうだった。
ざくろの案内に従って、僕らは街路を歩き始めた。
既に見慣れつつある奇妙な街並は、けれど相変わらず僕の目には異郷として見えていた。
異郷。
象徴?
異郷……。
「ひとつ訊きたいんだけど」
ざくろは振り返らずに「なに?」と問い返してきた。
「さっききみは、ここが質問の答えの途中って言ってた。それってつまり、ここが心象風景ってこと? 夢のような……」
ざくろは、ふむ、と小さく声をあげてから答えてくれた。
「心象風景。そうかもね。どうかな?」
帰ってくる答えは要領を得なかったけれど、僕はかまわず質問を続けた。
「だとすると、この街並も象徴なのかな」
「……人によっては」とざくろは言う。
「街なんかじゃない人もいるかもね」
「たとえば?」
「工場とか、お城とか」
僕はそれ以上質問を重ねなかった。
ざくろは、街路の脇に立ち並ぶ家々のうち、ひとつの前で立ち止まった。
他のものと比べても、特別なにか変わったところがあるようには見えない。
彼女は躊躇わずに中に入っていった。僕達も後に続く。
最初に感じたのは黴の匂いだった。
入り口の脇は小さな部屋にそのまま繋がっていた。すぐ傍には通りに面した窓があり、小さな棚が置かれている。
古びた本が何冊か置かれている。背表紙のタイトルは読めない。
どこの言葉で書いてあるのかもわからない。頁をめくっても、きっと同じことだろう。
剥き出しの梁が天井から突き出している。床は石でできている。肌寒いのはそのせいだろうか。
部屋には暖炉もあり、そのそばにはテーブルと椅子。卓上には燭台もあり、蝋燭も刺さっていたが、火は消えていた。
その隣には、籠に入った四つの林檎。
ざくろは燭台を持ち上げると、そばにあったマッチで蝋燭に火をつけた。
埃っぽい家の奥へと、彼女は進んでいく。奥はどうやら台所になっているみたいだった。
そのまままっすぐに進むと、行き止まりのような場所へと突き当たる。
床には、古びた板が置かれていた。
ざくろはかがみ込み、その板を持ち上げる。
姿を現したのは、地下への階段だった。
その先は暗い。
ざくろは、一歩一歩、慎重そうにその階段を降りていった。
空気が厭な湿り気を帯びている。
階段の先は、広い空間だった。
石の壁、石の床、空気はひんやりと冷たい。天井には灯りが見えたが、すべて消えている。
蜘蛛の巣。
太い柱の向こうには木材でできた柵のような囲いがあり、その中には無数の瓶入りワインが貯蔵されていた。
ワインの地下貯蔵庫……? 民家の地下だけあって、樽などでの保管ではない。
瓶には埃が被っていた。貼られているラベルも同様だが、文字は手書きのように見える。
当然のように、読むことはできなかった。
周囲を照らすのはざくろの手にしている蝋燭の灯りのみ。
だから僕たちは、彼女とはぐれてしまうわけにはいかなかった。
この暗闇、この広々とした空間、似たような柱と壁。
そのなかで方向を見失ってしまえば、きっとここから出ることは難しいだろう。
知らず、呼吸を止めていた。
重々しい、いっそ刺々しいほどの、空気。
なんだろう? なにが問題なんだろう? ……よくわからない。
ざくろの足取りを追いかけて、僕とすみれは進んでいく。
彼女は柱と柱の間を、ワインとワインの間を、迷うこともなく進んでいく。振り返れば暗闇、彼女の進む先以外も暗闇。
どこに何があって、どこから来たのかなんて、僕たちにはもうわからない。どこを目指しているのかさえ。
途中で、僕は何かに躓いた。足元を見ると、それは一冊の本だった。赤い装丁。なんとなく、それを拾い上げてみる。
ページをぺらぺらとめくってみる。ほとんど期待はしていなかったが、文字として読むことはできた。
“In vino veritas.”“vulnerant omnes,ultima necat.”
“Non omne quod licet honestum est.”“Mundus vult decipi, ergo decipiatur.”
“Peior odio amoris simulatio”“Aliis si licet, tibi non licet.”
何語なのかもよく分からなかった。僕は本を閉じて、置く場所もなかったから、結局床に置き直した。
ざくろは先に進んでいく。
僕はそのあとを追いかけていく。
行き着いた先は、行き止まりになっていた。
ただの壁ではない。何か、奇妙なかたちをしていた。飾りがついているのか、なにかの彫刻でもされているのか。
ざくろの蝋燭の灯りが、正面の壁を照らす。
それを見たとき、背筋が粟立つのを感じた。
すみれが声をあげて、僕の背中に隠れる。
人骨が、壁に埋め込まれているのだと最初は思った。床近くに頭蓋骨が壁を作るように並び、その隙間を石か何かで埋めているのだと。
そこから骨は縦に伸び、横に並んだ頭蓋と合流し、七つの骨で十字を描いていた。
他の部分は石ではない。壁をつくっている無数の突起もまた、よくみると骨のように見えた。
壁に人骨が埋め込まれているのではない。積み上げられた無数の骨が、壁を作り上げているのだ。
似たようなものを、本で読んだことがあった。
カタコンベ。
知らず、後ずさる。
ざくろがくすくすと笑った。
目眩と動悸。
僕は間違ったのだと思った。僕は、ここに来るべきではなかった。どこかで引き返すべきだった。
いや、今だって、逃げ出すべきなのかもしれない。
けれど、どこに行ける?
照らされているのは髑髏の壁。
後方はただ暗闇。ここ以外にも、まだ闇に覆われているだけの骨の壁があるのだろう。
階段を昇って街中を歩きまわったところで、出口などあるかどうかも疑問だ。
水路に囲われたこの街。
最初からこの場所で、僕達が選び取れる道なんてなかった。
「怖いの?」
ざくろは笑う。
汗がにじむのを、僕は感じる。
不意に、
目前の壁がカタカタと音をあげはじめる。
あざ笑うように音を立てる。段々と大きく響いていく。
言葉を失い、呆然と立ち尽くす。
その音がひときわ大きく鳴り響いた直後、骨の壁は粉末のようにさらさらと砕け散り、塵になって床に散らばった。
それを、ざくろは踏みつけた。
「行きましょう」と彼女は言う。蝋燭の灯りが離れていく。
すみれが僕の服の裾をつかむ。
僕は何も言わずにざくろの後を追った。
他にどうしようもなかった。
そうして進んだ先に、小さな木製の、古い扉があった。
金具には錠前がついていた。
ざくろがそれに触れると、かたんと音を立てて、錠前は床に落ちた。
そして彼女は、僕らに道を譲る。
「どうぞ」とばかりに手のひらで扉を示す。
後ろを振り向いて、僕はすみれの表情をたしかめる。
彼女は怯えているように見えた。
でも、
もう、ほかにどうしようもない。
僕達がいまここにいるのは、僕のせいなのかもしれない。
でも、それを語るのはもう手遅れだ。
あるいは目の前にあるいびつな景色が、僕自身の心象なのだとして、
景色に溶け込むような家のなか、気付かれないような板の下の階段、覆い隠すような暗闇の奥、
人骨でできた壁の向こう、その先の、鍵のかかった扉。
これが象徴なのだとしたら、この先にある景色は、本当に僕が望んだものなのだろうか?
それとも僕自身の望みというのは、こんなふうにどこか奥底に隠されているのだろうか?
これが比喩なのだとしたら、この扉を僕は僕自身から隠してきたのではないのだろうか?
そうだとしたら、この先の景色を見ることは、僕にとって、望ましいことなのだろうか?
わからないけれど、うしろはやはり暗闇で、引き返すことはもはやできない。
手遅れをあざ笑うように、ざくろが蝋燭の火を吹き消した。
僕は扉に触れて、ゆっくりとそれを押し開けていく。
そうして、静かに、その先へと、一歩、踏み出した。
つづく
おつです
◆[Paris] A/b
お兄ちゃんは、やさしくて、強くて、おおきくて、あたたかい人だった。
わたしに怒りをぶつけたことも、数えるほどしかない。
わたしが車の前に飛び出しそうになったときと、わたしが友達と喧嘩したとき。
あと、何度か。もう思い出せないような記憶だけれど。
いつも落ち着いていて、感情の揺れ動きというものとは無縁で、
そのせいでわたしは、お兄ちゃんの本心というものを、結局知ることができなかった。
韜晦とやわらかな微笑。沈黙と本棚。
ジャンルを選ばない音楽と映画の海。煙草の匂い。
お兄ちゃんが死んだあと、わたしは何度か、彼の部屋に何度かこっそりと忍び込んだ。
本当は、"こっそり"する理由なんて、どこにもなかったんだけど。
大きな本棚につめ込まれたたくさんの本は、わたしにはよくわからないものばかりだった。
お兄ちゃんが遺したお金。
それをわたしはどうすればいいんだろう?
どうしてお兄ちゃんは、それをわたしに遺したんだろう。
ひょっとしたら、わたしはそれが知りたかったんだろうか。
あの人が何を望み、何を考え、どんなつもりで生きていたのか。
急にいなくなってしまったせいで、それを聞けなかったから。
あの微笑の裏に含まれていた何かの存在に、わたしはたしかに気付いていたのに、
結局、それを知ることができなかったから。
◇
鏡の向こうに、よくわからない街があって、よくわからない何かがいて、わけがわからないまま、変な扉に行き着いた。
ケイくんとふたりで何度か話し合いを重ねた結果、確からしい経緯はそんな具合だった。
そうしてわたしたちはその扉をくぐった。それがわたしたちの直前までの認識だ。
そして現在。
わたしたちは、真昼の住宅街に立っている。
今度は、外国風の街並なんかじゃない、日本の、しかもどこかで見たことがあるような景色だった。
すぐ傍の児童公園で、ちいさな子供をつれた主婦たちが話をしている。
通りの並木にはかろうじて緑。
「……ケイくん」
「……ん」
お互いに、唐突な変化に言葉を失う。
「ここ、どこ?」
「さあ」
「ミラーハウスは? 遊園地は? へんな街は? 夢?」
「さあ」
「いったい何が起きたんだろう」
わたしたちは辺りを見回して、何かの手がかりになりそうなものを探す。
が、何もない。どこを見ても、現実的なものしかなかった。
「ひょっとして……出口だったのかな」
わたしの思いつきに、ケイくんは訝しげな表情で「ふむ」と考えこんだ様子を見せた。
「というと?」
「さっきまでの、あの、変な場所からの、出口。で、なんか、別の場所から出ちゃった、みたいな」
「……・ふむ」とケイくんはもういちど鼻を鳴らす。
「いまいち納得いかないが、そう考えてもよさそうだな」
そう言って不審げに目を眇めると、彼は視線をあちこちにさまよわせた。
「……いや、でも待て」
「うん?」
「今何時だ?」
言われて、わたしははっとした。
ケイくんが腕時計を見て、考えこむように唸った。
「何時?」
「午後二時半」
わたしは空を見上げた。曇っていたけれど、厚い雲の向こうに太陽の光が見える。
……蒸し暑さを覚える。
さっきまでは夜で……その前までは? 昼過ぎだった? ……もう、覚えていない。
「……太陽の位置」
「時計、アテにならないかもしれないな」
わたしは携帯を取り出して画面を見てみる。
時間は……。
「……ん」
やはり、午後二時半頃になっていた。
それと同時に、おかしなことに気付く。
電波が入っていない。
「どうした?」
「電波が」
「電波?」
ケイくんもまた、ポケットから携帯をとりだして画面を見る。彼はまた不可解そうな顔になる。
「ホントだ。通信できない」
いろいろと試してみたけれど、やはりダメだった。ネットに繋がらない、データ通信ができない。
「……どう思う?」
とわたしは訊ねた。
「……わからない。ここ、どこだろう?」
ふたたび不安を感じ始めたわたしたちは、とにかくあたりに手がかりを探してしまう。
本当はすぐそばにいる人に、いろんなことを訊いてしまえばよかったんだけど、それはなんとなく憚られた。
どうしてだろう。
公園ではしゃぐ子供たち、談笑する母親たち、やわらかな真昼の日差しを浴びて光る街路樹の葉。
邪魔者みたいに、思えたからだろうか。
そんなことをぼんやり考えていたとき、不意に、わたしの脳裏をよぎる記憶があった。
「……ねえ、ケイくん」
「ん」
「わたし、ここ知ってる」
ケイくんは、返事をくれなかったし、わたしもそれを待たなかった。
意識が、どこかに引きずり込まれるような感覚。
目の前の景色に吸い込まれたような。
「……大丈夫か?」
「……え?」
「顔色、悪い」
少し、驚いたのかもしれない。
ケイくんは、何も聞かないでくれた。
彼は、本当に、不思議になるくらい、何も訊いてこない。
「とりあえず、案内してくれるか」
「……どこへ?」
そう訊ねると、ケイくんは不思議そうな顔をした。
「……近場のコンビニかな」
わたしは少し考えてから、納得した。
◇
知っている場所とは言っても、そう何度も来たことがあるわけではなくて、案内なんてほとんどできなかった。
それでも近くを歩いて、なんとなく大きな道路に出そうな方向へと向かっているうちに、ようやく一軒のコンビニに辿り着いた。
歩いているうちに、わたしは何か奇妙な感覚を覚えた。
何かがおかしい。
通りを走っている車、歩いている人々、街並。なんだろう、見慣れない街だからだろうか?
よくわからない。どこが、というのではない。何かがおかしい。そう感じる。
ひとまず、わたしたちは店の中に入ってみる。
そうして、やはり、街を歩いているときと似たような感覚を覚える。
わたしはそれが何なのかよくわからなかったけれど、
ケイくんは少し入り口で立ち止まったかと思うと、すぐに傍にあった新聞を手にとった。
慌てた様子で。そんな彼の姿を、わたしは初めて見た。
彼は手にとった新聞の隅を見ると、わたしを手招きしてその一部を指で示した。
違和感のあるニュース。一面。でもそこじゃない。
日付だ。
2008年9月12日、とあった。
「……あ」
遅れて、状況を理解した。
首を巡らせて、店内の様子を見る。
棚に並んでいる商品、雑誌の表紙、駐車場に並んでいる車、信号の形。
ケイくんが、何か言いたげにわたしを見る。わたしは言葉を返せない。
七年前の日付だ。
つづく
おつです
◇
店の軒先で煙草に火をつけて、ケイくんは黙りこんだ。
わたしはただ、その隣にしゃがみこんで、通りを走る車の流れを見つめていた。
空は2008年の空で、道路も2008年の道路で、信号も2008年の道路で。
終わったはずの漫画が表紙を飾る雑誌があって、キャンペーンポスターは過去の日付のままで。
それをどう消化していいかわからなかった。
タイムスリップ? 過去の世界? いろんな考えが浮かんでは、打ち消されていく。
二本目の煙草に火をつけたあと、ケイくんがポツリと、
「厄介なことになったな」
と、そう呟いた。
わたしはしゃがんだまま彼の顔を見上げた。
こっちを見てはくれなかった。ただ、どこを見ているのかもわからない目で、遠くの方をじっと睨んでいるように見える。
あるいは、何も見てはいないのかもしれない。
「厄介なことになったね」
わたしもそう言った。彼はひとりごとのように続ける。
「望む景色。過去の思い出。ありえたかもしれない可能性。あるいは……」
都市伝説の、噂だ。続きは、なんだったっけ。そうだ。死者との再会。
2008年。
そうか、とわたしは思う。
まだ、お兄ちゃんが生きている。
「……ああ、そうか」と、ケイくんがおかしそうに笑った。
「なに?」
「いや。リーマン・ショックの直前だ」
◇
リーマン・ショックが起きた年だった。
そのときはまだ消費税は5%だったし、アメリカに黒人大統領は誕生していなかった。
スマートフォンなんて言葉すら普及していなかったし、ラインなんて存在もしていなかった。
マイケル・ジャクソンもスティーブ・ジョブズも、
ガルシア=マルケスも、J・D・サリンジャーも、
志村正彦も忌野清志郎もアベフトシだって生きていた。
そのはずだ。
けれど、わたしにとってもっとも重要なことは、そうではない。
わたしにとって重要なのは、ここではまだ、お兄ちゃんが生きている、ということ。
周囲の人たちに少しだけ悲しみを振りまいたあと、あっというまに忘れ去られてしまったひとつの死。
その死は、ジョブズやマルケスや清志郎の死と比べるとあまりにもちっぽけで、些細で、軽微だった。
世界は、その死によって傷一つ負わなかった。
お兄ちゃんの死は、世界、あるいは人類、社会、なんでもいい、それらにとって何の損失でもなかった。
にもかかわらずわたしにとっては、他の誰かの死よりも、"お兄ちゃん"の死こそが問題だった。
たとえその死が、わたし以外の誰かにとっては、ただ何千分の一のものでしかなかったとしても。
大きなはずのものが小さく見えて、
小さなはずのものが大きく見える。
いつもそうだ。
◇
おかしな状況に置かれていることは明白だった。
確かなのは、携帯電話の通信機能が使えないこと。
周囲の状況から見ても、通りすがりの人たちがしている会話の内容から言っても、ここが七年前の九月だということ。
悪い夢だとしても、まだ覚めてくれそうにはない。
問題は単純だ。
仮にこの奇妙な事態が現実だとしても、それが何を意味していて、
わたしたちに何を求めているのか(あるいは、いないのか)、それがわからないこと、
それがわたしたちを黙り込ませた。
幸運なことは、三つあった。
紙幣のデザインが変更されたのは、2008年より更に前。
だから、使おうと思えば、財布のなかに入っていたお金は(まったく問題ないわけではないが)使えそうだったこと。
そしてわたしは、遊園地に行く前に、お兄ちゃんの遺したお金のうち、けっこうな額を引き落としていた。
(特に深い理由があったわけではないけれど、たくさん、無駄にしてしまいたかったから)
おかげで、とりあえず数日間、状況に光明が見えなくても、どうにか生きていくことはできそうだった。
ふたつ目の幸運は、わたしたちが投げ出されたこの場所が、どこか遠い国や世界ではなかったこと。
よく知る街ではないが、わたしたちの住むところまで、そんなに時間もかからずに向かえそうだった。
おかげでわたしたちがひとまずとるべき行動は、ひとまず決まった。
家へと向かうこと。
向かったところでどうなるか、という問題については、ふたりとも考えないことにした。
まずはとにかく、状況をより正確に理解したかった。
もし、家に行ってみて、何もわからなかったとしたら、また、例の遊園地へと向かってみよう、とケイくんは言った。
何か、ヒントがあるかもしれないから、と。
もちろん、この状況が、"ヒント"や"解決法"なんてものをわざわざ用意してくれるような、
そんな善意あるものなのだとしたら、の話だけれど。
最後の幸運は、ひとりではなかったこと。
本当のところ、いちばんの幸運はそれだった。
◇
「わたしのせいなのかな」
「なにが」
「この状況」
「なぜ?」
「望んだ景色、死者との再会。ひょっとしたら、わたしが望んだから……」
「ああ、望んでたのか」
「なかったとは、言い切れない、かな」
「まあ、だとしても、違うだろうな」
「どうして?」
「七年前まで戻る理由がない。"この時間"でなくちゃいけない必然性がない」
「……」
「仮におまえの望みの結果こんな状況になったとして、おまえに何の罪がある?
妙な噂話をきいて、それに何かを期待したとしても、そんなのはちっとも悪くない。
こんな結果になることを誰が予測できた? こんなバカげた出来事の責任を追及するなんてナンセンスだ」
「……うん。ケイくん、なんかやさしいね」
「違う。妙な思い込みで気でも使われたら鬱陶しいから言ってるんだ」
「なんか、冷静だね」
「言ったろ。そのうち覚める夢だと思うことにしたんだ」
「……」
「会いに行くか?」
「え?」
「叔父さんにさ」
「……うん」
◇
会ってどうしたいのか、それもよくわからないまま、それでもわたしはお兄ちゃんに会いたいと思った。
ケイくんは、黙ってそれを受け入れてくれた。
とにかく近くの停留所に向かい、そこから路線バスに乗って地下鉄駅を目指した。
乗り合わせた乗客たちはわたしたちのことをごく当たり前の存在のように受け入れていて、それがひどく落ち着かなく思えた。
「聞いていいかわからないけど」
座席に座ってから、ケイくんはこちらを見ないまま口を開いた。
「なに?」
「さっきの住宅地。知ってるって、なんで知ってたんだ?」
「……」
「答えたくないならいいけど。放り出されたのがあそこだってことに、意味があるのかもしれないから」
黙っている理由が思いつかなかったから、わたしは簡単に答えた。
「お母さんの家があるの」
「……お母さん?」
「うん。お母さんの家」
ケイくんはそれ以上何も訊いてこなかった。
小学校にあがる前の年から、母とは一緒に暮らしていない。
いきさつは複雑だけれど、結果だけ言ってしまえばシンプルだ。
母はわたしの父とは違う男の人と再婚し、その人との間に、わたしにとっては異父妹となる娘を産んだ。
そうしていまは、親子三人で、バスが背後に置き去りにしてきた街で暮らしている。
どうしてわたしが母と離れて生活しているのか、その理由についてよく考える。
わたしが、母の再婚を嫌がったから。母の再婚相手となる男性を受け入れられなかったから。
そのあたりのことはよく覚えていないし、事情を知っているだろう祖父母も、お兄ちゃんも、何も教えてくれなかった。
訊ねれば教えてくれただろうけど……。
わたしが小学校にあがる頃から、母はわたしの暮らす家(つまり、母にとっての実家)にも顔を出さなくなった。
お盆も正月も。たまに顔を出したかと思えばすぐに帰った。電話すらほとんどよこさず、祖母からのメールにも返信がないらしい。
だからわたしは母の電話番号を知らないし、メールアドレスも知らない。ラインのIDだって、わからない。
それでいいと思っている。仮に知っていて、わたしが連絡をしたとき、返信がこなかったら、どうしていいかわからないから。
今でも覚えているのは、小学校一年生のときの運動会。母は見にくると言っていて、わたしは前日からそれを楽しみにしていた。
当日の朝になって、母から祖母に連絡があり、妹が熱を出したからいけないと言われたらしい。
それから半年間、母はほとんど連絡をよこさず、ひさびさに実家に顔を見せたのは、家族旅行のおみやげを置きにきたときだった。
わたしは母に期待することをやめた。
あるいは、母にというよりは、
自分が愛される存在だと、そう思うのをやめたのかもしれない。
「……雨が降りそうだな」
ケイくんの言葉につられて、わたしは窓の外を見た。
灰色の空がいまにも泣き出しそうだった。
つづく
197-7 ……・ → ……
おつです
◇
バス停を降りて、わたしはケイくんと一緒に、自分の家の近くまでやってきた。
新聞の日付を信じるなら、今日――と言ってしまうのは違和感があるけれど――は金曜日。
時間的に、お兄ちゃんはまだ学校にいるはず。それが終わったら、バイトに向かうはずだ。
最初に、わたしの家へと向かうことにした。
とにかく、そこに自分の家があるのだということを確認しておきたかった。
この混乱した状況のなかで、頼りにできるかもしれないもの。
それをたしかめておきたかったから。
たとえば、ずっとむかしに一度行ったことのある街に、長い時間を経てもういちど訪れたときのような、
既視感と違和感をないまぜにしたような奇妙な感覚が、わたしの視界を霧のように覆い尽くしていた。
ちがうのは、普通とは逆だということだ。
あったものがなくなっているのではなく、なくなったものがある。
その不思議な感覚。
街を歩きながら、その感覚は強まっていく。
近所にあった、潰れてしまった個人商店。
店主のおじさんが亡くなってから、経営を奥さんが継いだのに、うまくいかずに潰れてしまった。
道路から店の中を覗くと、顔見知りだったおじさんは、レジの向こうで新聞を読みながら座っていた。
耳にのせた鉛筆、浅黒い肌。強面だったけど、おもしろい人だった。
よく、お兄ちゃんとふたりで、ここに買い物にきた。アイスを買って、軒先のベンチで一緒に食べた。
近所の公園には、むかし居着いていた白い猫がそのままの姿で眠っていた。
わたしたちの足音に気付いたのか、少し目を開いたあと、静かにすがめて、また眠り始めた。
わたしが中学に上がる年の冬、その猫は道路で死体になって見つかった。
道の途中でわたしは立ち止まる。そしてこれがどういうことなのかと考える。
あの交差点には信号ができて、あの道は新しい道ができてから誰もつかわなくなって、
あの建物は取り壊されてコンビニになって、幅員の狭いあの道路は広くなって、
そんなことばかり、目につく。
その景色は思っていた以上にわたしを混乱させる。
ささやかなはずのひとつひとつの変化が、わたしの前にまざまざと立ち現れる。
いつのまにかたくさんのことが変わっていったこと、
そのひとつひとつの変化を自分が忘れていたことを、否が応でも意識させられる。
そうしてようやく辿り着いた自分の家の景観も、変わっていないようで、やはり変わっている。
……いや、それだけだろうか?
何か、違和感がある。
目の前にある家と、自分が暮らしていた家。
そのふたつの間に、何かもっと絶対的な乖離があるような気がした。
時間の流れだけでなく。
「……ねえ、ケイくん」
「ん?」
「これが夢じゃないとして、さ」
「ああ」
「わたしたちが、元の時間に戻れる手段がなかったとしたら、どうなる?」
「……どうなるって、どうにもならないだろうな」
「うん。そうだよね」
そのときは、どうすればいい?
誰がこんな話、信じてくれる?
警察にでも言ってみる?
それとも、家族を頼る?
想像すると、ちょっと背筋が寒くなる。
目の前にある自分の家が、他人の家のように見えたせいで、そんな不安を覚えてしまった。
それまでわたしは、なんとなく、祖母やお兄ちゃんに話せば、なんとかなるのではないかと思っていた。
事情を話して、説明すれば、わたしがわたしだと解ってもらえるのではないかと。
そんな根拠のない自信がぐらぐらと揺れてしまう。
自分の家。そのはずだ。目の前にいるのに、その自信が、薄れていく。
「……あの」
と、か細い、頼りない声が後ろから聞こえて、わたしたちはびくりとした。
驚いて振り返ると、面食らったのか、彼女は身を竦めた。
「……あの。うちに何か、用事ですか?」
赤いランドセルを背負った、女の子。
その顔を見て、最初に覚えたのは驚きと戸惑いだった。
"うち"。
言葉が出ないわたしの横で、ケイくんが口を開いた。
「きみは?」
「……」
怯えたような、警戒したようなようすで、彼女は視線を逸らした。
「えっと……この近くに住んでる人に用事があって、たぶんこのあたりなんだけど。佐野さんのおうちって、ここかな?」
一瞬、ケイくんが何を言っているのかよくわからなかったけど、状況を咎められないためだと少ししてからわかった。
少しでも下手を打てば、面倒なことになりかねない。
警察でも呼ばれたら? 身分証でも出す? かえって疑われそうだし、自由も保障されるとは限らない。
「……いえ、知りません。うちは碓氷です。この近くには、そういう苗字の人は住んでいないと思う」
"碓氷"。碓氷。碓氷。
女の子はそれだけ言うと、玄関へと向かい、扉の前で立ち止まったかと思うと、肩越しにこちらを振り向いた。
「……まだ何か?」
怪訝そうな表情。
わたしは、とっさに、訊ねた。
「ねえ、あなた――名前、なんていうの?」
「……」
彼女は、何か迷うような素振りをみせたあと、仕方なさそうな顔で、その名を口にした。
「ホノミです」
「……ホノミちゃん?」
「はい」
「……稲穂の穂に、海って漢字だったりする?」
彼女は不可解そうに眉をひそめた。
「わたしのことを知ってるんですか?」
穂海。穂海。
「あなたの苗字、碓氷って言うの?」
「……いえ。わたしの苗字は、茅木です」
「ずっと前から、ここに住んでるの?」
「……はい。あの、お姉さん、誰ですか?」
「わたしは……」
わたしは。
誰なんだろう。
不意にケイくんの手がわたしの腕を掴んだ。
「いろいろとありがとう」と彼は言う。
「引き止めてごめん。時間に遅れるかもしれないから、俺たちはもう行くよ。さよなら」
少女は静かに頭をさげて、「いえ」と視線を落とした。
ケイくんに引っ張られたまま、わたしのからだはわたしの家だったはずの場所から離れていく。
頭がくらくらする。
あてもないくせに歩き続けて、しばらくしてから、ケイくんは口を開いた。
「さっきの、誰だ?」
「……」
「おまえじゃないよな」
「……うん」
「誰だ」
「……妹」
「さっき言ってたっけ。でも、同居してないって……」
「うん。妹は」
わたしたちが放り出された、あの住宅街で、お母さんと、わたしがお父さんと呼べなかった人と一緒に暮らしている。
「だったらなんで……」
「……わかんない」
何がどうなって、そうなったのか。どうしてこの時間にいるのかもわからないのに、
その時間の知っているはずの場所が、わたしの知っている過去と違うなんて、
意味がわからない。
いったい、この状況は、なんなのか。
「お兄ちゃんを、さがさないと」
わたしの言葉に、ケイくんは戸惑ったような顔をした。
「たしかめないと。いったいここが何なのか。じゃないと……」
わからなくなる。不安になる。世界が足元から崩れていくような気がして。
わたしたちが元いた場所が本当に現実だったのかすら、
わたしの記憶がたしかなものなのかすら分からなくなってしまいそうで。
ケイくんは思い悩むように髪をかきあげて、
「分かった」
と頷いてくれた。
つづく
おつです
◇
ずっと前に、ケイくんが言っていたことがある。
「ときどき、不思議になるんだよな」
この世界にはたくさんの人間がいて、たくさんの生き物が居て、俺はたまたま、"俺"だ。
俺として生まれて、この腕、この脚、この体を、この心を、心らしきものを、"俺"だと感じる。
だから、"俺"は俺の身に起きたことを、俺の気持ちを、何か重大なことのように感じる。
でも、それは結局、俺が俺だから思うだけで、
客観的に見れば、どこにでもあるありふれた、陳腐で凡庸なものにすぎない。
それはきっと、現在と過去との関係に似ている。
私達の意識は"今"にある。
だから、今起こっている事、今抱いている気持ちを、なにか特権的なものとして扱ってしまう。
けれど、連綿と続く過去を振り返ってみれば、
その一瞬一瞬に抱いてきた気持ちだって、「今」と同じくらい大切なものだったはずだ。
その価値が本来同一であるなら、今だけを特別扱いする理由はない。
要するに私たちは、意識というまやかしにごまかされて、物事の価値を見誤っているのだ。
"わたし"の意識がここにある。だからわたしは、いま、ここにあるわたしを、何か大切なもののように感じる。
"わたし"の意識はいまにある。だからわたしは、いま、この瞬間を、何よりも重大なもののように感じる。
けれど、数直線を書いてみて、一秒ごとに並べてみれば、わたしの生れる前であろうと、わたしが死んだあとであろうと、
一秒はひとしく一秒でしかない。
わたしたちは、「自分」という余計なものさしを持ってしまったせいで、世界の価値を勘違いしている。
大きい物を小さく感じ、小さいものを大きく感じる。
近しいものほど重要で、遠いものほどささやかで。
そんな勘違いを、平然としてみせる。
彼の言葉の意味は、わたしには半分もわからない。
それでもなんとなく、わたしなりの解釈のようなものもある。
物事は本来的に等しく無価値だ、ということだ。
◇
最初に向かったのは、お兄ちゃんが昔働いていたスタンドだった。
時間は四時を回った頃だった。
この年の平日、この時間帯なら、お兄ちゃんは既に店先に出て働いているはずだった。
けれど、いない。
お兄ちゃんはいない。
どうしてだろう、と考えても、何もわからなかった。
何が「どうして」なのかすらわからない。とにかく、何もかもが今はわからなかった。
わたしたちはしばらく店の前で立ち止まったあと、再び歩き出した。
次に目指したのはお兄ちゃんが通っていた高校だった。
とにかく彼の姿を確認したかった。
◇
制服姿の学生たちが校門からまばらに外へと流れていく。
わたしとケイくんはふたりでその場に立ち尽くす。
祈るような気持ちだった。
とにかくお兄ちゃんがこの世界にもいることを確認したかった。
そうすることでしか、この世界がわたしの知っているものだと確信が持てない。
わたしはどこにいるのか。
それが知りたかった。
不思議なことに、お兄ちゃんを見つけることはとても簡単だった。
数分も経たないうちに、お兄ちゃんは昇降口から姿を現した。
あの頃の姿をしていた。
わたしが子供だった頃の姿で、生きていた。
誰かと一緒に。
それは女の子だった。
黒髪を背中まで伸ばした、綺麗な女の子だった。
それが誰なのか、わたしはすぐにわかった。
わたしが生まれる前から、お兄ちゃんと仲が良かったひとりの女の子。
いつからか、お兄ちゃんが、彼女の話をすることはなくなった。
少なくとも、バイトを始めた頃には。
そのふたりが、並んで歩いている。
楽しそうに笑いながら。
どうしてわたしはそれにショックを受けたんだろう。
自分でもよくわからなかった。
彼らはわたしたちの姿をちらりと見てから、そのまま横切っていった。
お兄ちゃん、と、
とっさに呼びそうになって、思いとどまったわたしをわたしだけは褒めてあげたい。
「あの!」
他人相手にするみたいな言い方で、わたしは彼らを呼び止めた。
見知った人が、自分に向かって見せる怪訝げな表情が、どれだけ自分を傷つけるのか、
わたしはそのときはじめて知った。
ふたりは立ち止まって、戸惑った表情でわたしの方を見る。
冷静に考えれば当たり前なのだ。
お兄ちゃんは、この年、まだ高校生で、わたしのことを知ってるとしても、
わたしのこの姿を見て、わたしだとわかるわけがない。
それでも何かを期待せずにはいられなかった。
その冷たい目を見ていても。
「あの、碓氷遼一さんですか」
わたしの問いに、お兄ちゃんは、何か戸惑ったような顔になった。
「……きみは誰?」
その問いに対する答えの代わりに、わたしは質問を重ねた。
「碓氷愛奈という女の子を、知ってますか?」
お兄ちゃんは、
首を横に振った。
「知りません。……きみは誰?」
◇
人違いでした、と無理のある言い訳をしてから、わたしはその場を後にした。
ずいぶん歩きまわった。長い距離を移動した。
そのせいで髪だってボサボサだったし、埃だらけのところを通ったせいで服だって汚れていた。
そういえばお腹だってすいたような気がする。何か食べたっけ?
頭がくらくらした。
知りません。知りません。
不思議な感じがした。
これまでに味わったことのないような感覚だ。
自分のからだが自分のものじゃないような感覚。
いったいなにが起こったんだ、とわたしは自分に問いかけてみる。
さっきのはたしかにお兄ちゃんだった。
でも、お兄ちゃんはわたしの名前を訊いてもわからないと言った。
じゃああれはお兄ちゃんじゃない?
違う。お兄ちゃんは死んだ。
死んだのに、どうして生きてるんだ。
それはここが2008年だから。
でもお兄ちゃんが生きていた2008年なら、わたしだってたしかにいたはずなのに。
お兄ちゃんの傍に生きていたはずなのに。
……やっぱりこれは、悪い夢?
くらくらと揺れる視界を引きずったまま、何かから逃げるみたいに歩く。
ケイくんが後ろから声をかけてくれている。
うん、大丈夫だよ、とわたしは答えている。それも分かる。
大丈夫ってなんだ?
お兄ちゃんがわたしを知らないなんてありえない。
そうじゃなかったらわたしはどこにいるってことになるんだろう。
でも、ありえないなんてことを言ってしまえば、そもそもこの状況自体がありえないものだ。
2008年? タイムスリップ?
奇妙な夢だと、そう考えたほうがずっと納得がいく。
こんなわけのわからない状況を、理屈で理解しようとする方が、狂気の沙汰だ。
高校から離れて、大通り沿いの薬局の敷地に入り、店のそばの自販機まで歩いていく。
機械に背中をもたれて、わたしは息を整える。
心臓の拍動が現実的だった。
喉が渇く。息が詰まる。手の先がしびれるような感覚。そのどれもがぜんぶぜんぶ現実的だった。
でも、夢というのはそういうものだし、そうであるならこれが夢ではないと言える保証なんてどこにもない。
手のひらで顔を覆った。
どうすればいいのかわからなかった。
ケイくんは何も言わない。わたしも今は何も言ってほしくなかった。
何を考えればいいのかも今はわからなかった。
とにかく今すぐに誰かがこの場にきて、分かりやすい説明をしてくれないものかと思った。
さもないと今すぐにだって叫びだしてしまいそうだった。
そこに、声が降り立った。
「どうしたの?」
わたしは、黙ったまま、視界を遮っていた手のひらを下ろした。
声のした方には、小さな女の子が立っていた。
中学生くらいの、女の子。
でも、お兄ちゃんの高校の制服を着ている。どこか探るような、瞳。
「あんた、誰」
怪訝げに訊ねたのは、ケイくんだった。警戒? 興味本位に声をかけられたことに対する苛立ち?
でも、彼女は怯みもせずに、言葉を続けた。
「迫間 まひる」と彼女は名乗った。でも、名前なんて知ったところで彼女のことはひとつもわからないままだ。
「何の用?」とケイくんは取り合わなかった。
「べつに?」と迫間まひるは笑った。
「ちょっとおもしろそうだと思って。さっき、碓氷に話しかけてたところを見たからさ」
わたしは、返す言葉を失った。どう答えるのが正解なのか、それが分からなかった。
「あんた、碓氷遼一の知り合いか?」
「ん。ま、ね。でも、わたしあの子にはそんなに興味ないんだよね。どっちかっていうと、きみたちの方」
「……」
「ちょっとさ、どっかでお話しない? ちょっとくらいなら、奢るよ」
笑った彼女のその言葉に、頷いてしまったのはどうしてだろう。
他に頼るものがなかったからか、その笑みに、何か懐かしいものを感じたからか。
それは両方だったのかもしれない。
つづく
おつです
◇
「夢ってことにされたら困るかなあ」と迫間まひるは言った。
「だってこの世界があなたの夢ってことになったら、
わたしの存在だって夢ってことになっちゃうでしょ。そりゃ、否定はしきれないけどね」
平然と笑いながら、彼女はカップのなかのメロンソーダをストローでかき混ぜる。
からからと氷が鳴る。
高校からさして離れていない場所、道路沿いのファミレス。
わたしとケイくんは彼女と向い合って座っている。
興味本位だよ、とあっさり言った、目の前の女の子に、わたしたちの身に起こったことをすべて話してしまったのは、
彼女が無関係の第三者だからかもしれない。
彼女がわたしの話を信じようが信じまいが、わたしたちにデメリットはない。
それにわたし自身、状況を整理するために、誰かに話を聞いてほしい気持ちがあった。
迫間まひる。彼女については、奇妙な印象をどうしても拭えなかった。
軽薄で何も考えていなさそうにも見えるし、何かを重く抱え込んでいそうにも見える。
気安く親しげな雰囲気も感じるが、どこか踏み込ませようとしないような一線も感じられる。
得体が知れない、何を考えているかわからない、そんなイメージ。
彼女の言葉について少し考えた後、わたしはカップを持ち上げてストローに口をつけた。
ファミレスとはいえ、ひさびさにゆっくりと落ち着ける場所にきて、静かに飲み物を飲むことができる。
いいかげん、状況が混乱しすぎてわけがわからなくなっていたところだ。
こういう機会があったのは、ちょうどよかったのかもしれない。
迫間まひるは、夢だとしたら困る、と言った。
「でも、そうだとしたら……いったいなんなんだろう」
正しい答えを期待したわけじゃない。ただ、考えるヒントがほしくて、そうひとりごとのように呟いた。
むー、と子供みたいな顔で唸りながら、まひるは自分の鼻の頭を親指で撫でた。
どうやらそれが彼女の何気ない癖らしい。
「とっても現実的な解釈をしてみてもいい?」
「……なに?」
「ぜんぶ、きみたちの妄想」
「……」
ケイくんが溜め息をついた。
「白昼夢、でもいいよ」
「妄想? この状況が?」
「ううん。きみたちが、七年後の未来の人間だって話」
わたしは、彼女の言葉の意味がわからずに眉をひそめた。
彼女はメロンソーダに口をつけて楽しげに笑った。
「現実的に解釈すると、ね」
「どういう意味?」
「きみたちの話を総合すると――」とまひるは座席の背もたれに体重を預けた。
「変な鏡、変な女の子、変な街、変な景色。そこに関してはおいておくとして……。
君たちは、2015年から2008年までタイムスリップした、ってことだよね?」
「……うん」
「まず、タイムスリップなんてことは日常的にはありえない。
現にそれを目の当たりにしたわけじゃないわたしとしては、
きみたちがわたしをからかってるって考えるのがいちばん現実的。じゃない?」
……確かに、彼女の立場からすれば、そういうことになる。
「だから、妄想か白昼夢。精神疾患かドッキリでもいいけど?」
軽薄に笑うまひるの表情を見て、それまで黙ったままだったケイくんが舌打ちした。
「嫌な奴だな、あんた」
「ん? なにが?」
「言いたいことははっきり言えよ」
ケイくんは、本当に苛立っていたみたいだった。表情はいつにもまして機嫌悪そうだった。
その表情に、まひるは笑う。
「いくら凄まれたって、きみたち2015年から来たんでしょ? そのときにはわたし二十代だし。
逆に過去のきみたちがもしこの世界にもいるとすれば、街のどこかでランドセル背負ってるわけだよね?
そう思えば、あんまり怖くはないかなあ。むしろ笑っちゃうくらい」
ケイくんはまた舌打ちをした。彼の不機嫌さの理由が、わたしにもなんとなく分かる。
柳に風が吹くような手応えのなさ。
たしかに話を聞くけれど、親身になるというのではない。
バカにするわけでもないけれど、真剣に考えているというのでもない。
まひるには、結局、他人事なのだ。
「ま、あんまり怒らせてもあれだし、結論から言っちゃうけど……つまりさ。
夢とか妄想とか言ってても、話が進まないんだよね。否定しきれないから」
「話が進まない?」
「うん。だから、きみたちの認識がとりあえず間違っていなくて、かつ、夢でもないってことから話を進めようよ」
「……」
それはつまり、今、この状況が、わたしたちに現実として降りかかっていると認めること。
常識的な考え方を一旦放棄して、超自然的な仮説を検討してみること。
それはある意味で当たり前のことなのに、どうしても、そう考えるのは困難だった。
「そういう前提に立って話をしてみようか」
少しだけ前のめりになって、まひるは笑みを浮かべたまま続ける。
「まず状況の整理。きみたちは2015年の人間。で、今は2008年。つまり、きみたちは七年後から来た」
「俺たちの認識からすれば、ここが七年前ってことになる」
「……つまり、タイムスリップってことだよね」
そこまではわたしたちも考えていた。あまりに白々しくて、まともに考える気にもなれなかった。
そんなことを真面目に考えるのが馬鹿みたいに思えて。
けれど……そんな理由で思考停止することの方が、バカみたいなのかもしれない。
「少なくともそういうことになるけど、変わったのは時間だけじゃないよね?」
まひるの言葉に、黙りこむ。
そこからが問題になる。
お兄ちゃん――わたしの叔父――碓氷遼一。
さっき、対面した。わたしは彼を間違えない。
「ねえ、確認するけど、きみの言うお兄ちゃんっていうのは、碓氷のことでいいんだよね?」
まひるは、そう言った。
「……うん」
「碓氷遼一。間違いない?」
「そう」
「でも、碓氷はきみの名前に反応しなかった。一緒に暮らしていたはずなのに」
「……うん」
「くわえて、きみが碓氷と暮らしていたはずの家には、きみじゃない女の子が住んでいた」
「……」
「大きな変化はこのくらいかな?」
「……そう、だね」
「じゃあ、ここからは仮定」
そのいーち、と言って、まひるは子供っぽく指を立ててから、メロンソーダにまた口をつける。
「世界が変わっちゃった、って可能性」
「……変わった?」
「つまり、作り変えられた」
「……一気に規模が大きな話になってくるね」
わたしの呆れた溜め息に、まあ可能性だから、とまひるは笑った。
「ま、これも夢とかと同じかな。否定もできないし、かといって認める根拠もない。それはふたつめも同じだけどね」
「……ふたつめって?」
「そのに」と今度は指を二本立てて、まひるは楽しげに笑う。ケイくんが呆れたような溜め息をついた。
「並行世界」
「……並行世界」
正直にいうと、わたしが最初に考えた可能性もそれだった。
わたしたちは時間だけでなく、世界も移動したのではないか、と。
「並行世界」とケイくんが呟く。
「枝分かれした世界。可能世界。多世界解釈」
「言い方はなんでもいいけどね。"論理空間における異なる諸事態の成立"とか?」
呪文のような聞き馴染みのない言葉を吐いて、まひるは空になったカップの中の氷をかき回す。
からからと氷が鳴る。
「"他のすべてのことの成立・不成立を変えることなく、あることが成立していることも、成立していないことも、ありうる。"」
まひるはそう続けた。
「ま、受け売りだけどね」
「……並行世界だとしたら、なんなの」
わたしの言葉に、まひるとケイくんがそろって押し黙った。
「並行世界だとしたら、何が分かるの」
わたしが知りたいのは、説明じゃない。
そうだとして、それがいったい何を意味していて、それをわたしがどうできるのか、というところだ。
この状況がいったいなんなのか。わたしが知りたいのはそれだけだ。
「そんなの知るわけないよ」とまひるはきょとんとした顔で言った。
「ある状況が何を意味しているか、なんて人間に分かるわけないじゃない?
わたしがこの街に生まれたことは? あの両親のもとに生まれたことにどんな意味があるのか?
わたしがわたしとして生まれたことにどんな意味が? そんなの説明できないよ」
わたしたちにできる説明はいつだって、"どのように"だけだよ。
"なぜ"はわからない。そういうものでしょう?
ましてやきみにそれをどうできるかなんて、そんなところまで考える義理はわたしにはないよね?
今度はわたしが黙る番だった。
「……でも、そうだなあ。ね、一個質問していい?」
わたしはなんとなく、このまひるという女の子を怖いと感じ始めていた。
でも、どこかで、それと同じくらいの真逆の気持ちも覚え始めている。
「きみの知ってる碓氷遼一ってさ、どんな人間だった?」
「……どんな、って」
「質問を変えるね。きみは、さっき出会った碓氷遼一と、きみの知っている碓氷遼一との間に、何か違いのようなものを感じなかった?」
「違い……?」
「うん。違い」
違い。
――知りません。……きみは誰?
わたしは。
たしかに、違和感を覚えた。
誰かとふたりで、楽しげに並んで歩くお兄ちゃんの姿。
それは、たしかに、わたしが知っているお兄ちゃんの姿とは遠い。
それは、わたしが知らなかっただけなのかもしれないけど、でも、それにしたって、
さっき見たお兄ちゃんには、昔からずっとお兄ちゃんが宿していた影のようなものが感じられなかった。
あの韜晦を感じられなかった。
それとも、今のわたしが、この頃の彼と同年代くらいの年齢だからそう思うだけなのだろうか。
「ないかな?」とまひるが言った。
「……あるといえば、あるような気も。でもそれは、こちらの見方の問題かもしれないし」
わからない、と曖昧に首を振ると、「そっかあ」とまひるは少し残念そうにした。
「どうして、そんなことを訊くの?」
「んや。どっちにしても彼は、きみのことを知らなかったわけだ」
「……」
「きみ、名前、なんだっけ?」
「愛奈。……碓氷愛奈、です」
「この世界――って呼び方、なんかバカバカしいけど。ここで碓氷……遼一の方と暮らしている女の子は、なんだっけ?」
「わたしの、妹。父親が違う……」
「ふむ。なるほどね」
「なにか、分かるの?」
「いや、まあ、思いつきっていうか、今現在の情報だけで判断すると、だけどね」
そう前置きしたあと、まひるはちょっと躊躇する素振りを見せた。
「……なに?」
ケイくんが、小さく舌打ちした。それでも彼は何も言わない。
わたしはまひるの目を見る。
「つまりさ、仮に並行世界の仮説が正しいとして、ここがきみにとってどんな並行世界かっていうと」
「……うん」
わたしは一瞬、寒気のような感覚を覚えた。
続く言葉は、あっさりと吐き出された。
「ここは、きみがいない世界なんだよ」
つづく
おつです
◆
初期値鋭敏性って言葉を知ってる?
ものすごく簡単に言うとね、『最初の状態が少し違うだけで結果は大きく変わる』みたいなこと。
たとえば、この世界にはきみがいない。
碓氷愛奈という少女がいない。
最初からいなかったのかもしれないし、もしかしたら死んでしまったのかもしれない。
ううん、死んでしまったのだとしたら碓氷が名前くらいは知っているだろうから、いなかったんだろうね。
その結果どうなるだろう?
たとえばきみは碓氷と暮らしていた。詳しい事情は知らないけど、とにかく碓氷と暮らしていた。
そして、きみの母親がきみのお父さんとは違う人との間につくった子供は、碓氷とは暮らしていなかった。
でも、この世界ではその子が碓氷と暮らしている。
名前や見た目はそのままだったの? それっておもしろいね。
勝手な想像で悪いんだけど、つまりきみのお母さん、再婚して子供を産んだんだよね。
半分血の繋がった妹と一緒に暮らしていなかったってことは、つまり、きみは母親と暮らしていなかった。
どうしてそうなるのか、わたしにはよくわからないけど。
じゃあ仮に、この一連の流れにきみがいなかったら、どうなるかな。
仮に。きみのお母さんは、きみのお父さんと結婚しなかった。あるいは、きみのお父さんとの間に子供をつくらなかった。
そして離婚したとして、きみの妹のお父さんと再婚するとする。
きみの妹が生まれる。そして彼女がきみの家で暮らしているということは、
『きみがいないから』、きみのお母さんはきみの家で暮らしている、とか、あるいは子供を預かってもらっている、とか。
そこには碓氷遼一が住んでいるわけだから、ふたりは当然、一緒に暮らすなり、一緒に過ごすなりしていることになる。
きみがいない。
だから、この世界はこうなってる。
どうかな。納得できないかな。
◇
わたしは黙り込んだ。何を言えばいいのかよく分からなくなってしまった。
頭をよぎったのは、校門から出てきたときの、お兄ちゃんのあの表情。
楽しそうな笑顔。
あんな顔を、わたしは見たことがない。
お兄ちゃんはいつも、大人びた表情をしていて、どんなときも、平然としていて、
あんなふうに、子供みたいに楽しそうに笑うことなんてなかった。
グラスに浮かぶ結露に触れる。視線が自然と落ちていく。
何も言える気がしなかった。
耳から入ってきた情報をうまく整理できない。
それじゃまるで……。
わたしがいたから。
わたしがいたから、お兄ちゃんは。
誰とも笑い合わずに、
寂しさを隠すような顔で、
生き続けていたかのような。
わたしがいたから。
お兄ちゃんはお母さんと一緒にいられなくなって。
わたしが――いたから。
「――納得できないな」
そう言ったのは、ケイくんだった。
まひるが、目を丸くする。
ケイくんは退屈そうに前髪を揺すり、ウーロン茶の入ったグラスに口をつけた。
「どうして?」とまひるは言った。
ケイくんは少し間を置いてから、静かに話し始めた。
「……理屈は分かる。たしかに、そういうふうに考えることもできる。
でも、それがどうして『そう』じゃなきゃいけない?」
「どういう意味?」
「仮にこの世界が並行世界だとする。ここが『こいつ』のいない世界だとする。
でも、『だから』こうなったなんて言い切れるか?」
「……というと?」
「並行世界なんてものを仮定してしまえば、可能性は無限だ。
こいつがいなかった世界、こいつがいた世界。俺たちが見たのがそのふたつだとする。
ここがたしかに、そういう世界だとする。でも、だ」
彼はまっすぐにまひるを見据えた。ほとんど、睨むような目で。
「『こいつ』がいなかったからこの世界はこうなのか?
あんたの言葉を借りるなら、初期値鋭敏性……その初期値の差だけで、本当に世界がここまで違っているのか?」
「でも、そうじゃないとしたらなんなの?」
「たしかに、この世界は、可能性として有り得るかもしれない。実際に目の前に広がってる。
でも、並行世界の存在を前提にするなら、『こいつがいても、こいつの叔父がそうだった世界』だってどこかにあるんじゃないのか?」
まひるは、考え込むように目を伏せた。
「『こいつが母親と暮らした世界』『こいつが妹と暮らしていた世界』あるいは『叔父がいなかった世界』。なんだって言えるだろう」
「……」
「どうしてこいつの妹が、『こいつのいない世界』でも同じ名前で同じ顔なんだ?
あんたの言う初期値鋭敏性ってものを問題にするなら、こいつの母親が同じ相手と再婚すること、同じ名前をつけることだって変じゃないか?」
「……」
「もっといろんなことが変わってもいいはずだ。でも、違いはそういうところだけだろう。
『こいつがいなくて』、『叔父が別人みたいになっている』。『妹が叔父と暮らしている』」
「……でも、だったら、どう説明するの?」
「作為的すぎるんだよ」
ケイくんは不快そうに眉間に皺を寄せて、吐き捨てるようにそう言った。
「並行世界なんて普通に生きてたら存在すら確認できないんだ。それなのに俺たちは巻き込まれてる。
変な状況だ。その変な状況を、自然現象みたいな理屈で解釈するのが間違ってる。
仮に無数の並行世界があったとしたら、俺たちは何かの悪意によって、この世界に招き寄せられたんじゃないのか」
「誇大妄想的だね」
「はじめから妄想的な説明しかできないような事態なんだよ」
「じゃあ、いったい何なの?」
「こういうのはどうだ? ここは無数の並行世界の中で、もっともこいつにとって不愉快な世界だっていうのは」
「……」
「単にこいつがいなくて叔父が変化してるっていうのは、まあ納得がいく話だ。
でも、どうしてそこに妹のことまで関わってくる? それだと分かるような妹がいる?
初期値鋭敏性って理屈に則るなら、こいつの家は引っ越してるかもしれないし、誰かが死んでるかもしれない」
隕石が降って人類が滅亡してるかもしれないし、解決不能の疫病が蔓延して危機に瀕しているかもしれない。
でも、ここはこうだ。
仮に並行世界間の移動が無作為なものだったとしたら、もっとわけのわからない世界に巻き込まれたってよかったはずだ。
「だからこれは、誰かの悪意なんじゃないのか?」
「悪意?」
「俺には、そうとしか思えないけどね。俺たちの前に、あんたみたいな人間が現れたことも込みで、だ」
ケイくんは、そう言ったきり黙り込んだ。まひるは何も反論しなかった。
「……そうかもね。たしかに」
けれど、わたしはなにひとつ救われなかった。
並行世界? ふたりとも、それを前提に話をしている。
でも、そうじゃないとしたら? 世界が無数なんかじゃなく、このふたつしかなかったとしたら?
だとしたらやっぱり、わたしがいる世界と、いない世界しかなくて。
わたしがいない世界の方が、お兄ちゃんは幸せそうだった。
そういうことにはならないだろうか。
「ところでさ、きみたち、このあとどうするの?」
「……このあと?」
「だって、この世界にあなたたちの居場所なんてないんじゃない?」
「……」
ケイくんがまた、何かを言いかけた。
「ごめん、言い方が悪かった。行き場がないんじゃないかな、って思ったの」
「……だったら?」
「ふたりとも、うちに来ない?」
その一言に、わたしたちは呆気にとられた。
「……どうして?」
「どうしてって、人助けに理由はいらないでしょ?」
「……胡散臭いな」
ケイくんは睨めつけるような目でまひるを見ている。
さっきからずっとこうだ。
「いい加減、イライラするな、あんたと喋ってると。
人助け? 冗談じゃない。あんた、そういう人間じゃない。見れば分かる。
目を見れば分かるんだよ。そういうの、通じる相手を選べよ」
「余裕ないね、きみ。でもいいの? 泊まるアテ、あるの?」
そう言ってまひるは窓の外を見た。もう、暗くなりかかっている。
「明日以降、どうするかは置いておいて。とにかく今日は宿が必要なんじゃない?」
ケイくんは舌打ちした。
「何考えてるんだ、あんた」
まひるは、少し考えるような間を置いたあと、笑った。
「おもしろそう、かな」
また、ケイくんは舌打ちをした。
つづく
おつです
◇
まひるの部屋は地下鉄駅から十分ほど歩いたところにある六階建てのマンションの一室だった。
彼女はそこで一人暮らしをしているという。
トイレ、浴室洗面所、バルコニー、エアコン、クローゼット付き1K。
玄関で靴をそろえると、「どうぞ」と彼女はわたしたちを室内に手招きした。
「狭いし一部屋しかないけど、まあ三人寝れないこともないからね」
おじゃまします、となんだか奇妙な気持ちでつぶやきながら上がり込んだ部屋には、あまり物が置かれていなかった。
テレビ台の上のテレビ、本棚の中の本、
小さな収納ラックには、無機質な印象の部屋のなかで少しだけ浮かび上がった旧世代のゲーム機。
「ゲームなんてするんだ。意外」
場にそぐわない素直な感想をわたしが漏らすと、まひるはきょとんとした顔で、「しないよ?」と返事をよこした。
だったらどうしてあるんだ、と思ったけれど、考えないことにした。
まひるが一人でこの部屋に住んでいる理由だってわたしには関係ないし、
彼女の部屋にゲーム機があるかないかだってどっちだってかまわない。
絨毯の上にはちいさなクッションとシンプルなテーブル、その上にはカバーに覆われた文庫本。
たしかにやりようによっては三人寝られなくもなさそうだった。
それでも、見ず知らずの他人を泊める気になるのは不思議だったけど、
けっきょくわたしたちには他に行き場なんてなかった。
「とりあえず、ふたりとも、お風呂入る? すぐ沸かすけど」
間延びした口調でそんなことを言うと、彼女は手慣れた様子でぱたぱたと浴室の方へと向かった。
「ありがたい、けど……」
「ん?」
「着替えが……」
わたしの声に、彼女は廊下の向こうから返事をよこした。
「あ、うん。わたしの貸すよ。ちょっと小さいかもしれないけど。ケイくんも」
「……俺に女物の服を着ろっていうのか」
「借りる立場で贅沢言っちゃだめだよ」
まひるの言葉に、ケイくんは溜め息をついて額を押さえた。
「……いい。今日はこの服で寝るから」
あはは、とまひるの声が浴室で響いた。
「冗談だよ。ちょっと待ってて、たぶん、あると思うから」
まひるは白い柔らかそうなタオルで手を拭きながら部屋に戻ってくると、
クローゼットの方へと近付いて、取っ手を握る。
そして一瞬硬直した後、
「ちょっとそっち向いてて」
と照れたように笑う。
わたしたちは顔を見合わせてから、体ごと後ろを向いた。
そのまま横目にケイくんの顔を見ると、彼は気まずそうに天井に視線を向けていた。
こんなケイくん、はじめてだ。
「あったあったー」
軽い声のあと、クローゼットを閉める音がした。
「もういいよ。ごめんね」
わたしたちが振り返ると、たしかにまひるは女物の服と一緒に、男物の青いパジャマを持っていた。
「あとこれ、下着」
と彼女はにっこりと笑ってわたしたちの目の前でトランクスを広げた。
なんとなく気まずくて、わたしは目をそらした。
「……誰のだか知らないけど、さすがに下着は借りる気になれない」
「大丈夫だよ。未使用だもん。ほら」
と言って、彼女は下着についたままになっているタグをこちらに見せた。
「……一人暮らしなんじゃないのか?」
「ん、そうだよ」
「彼氏が泊まりにくるとか?」
「まさか。そんなのいないもん」
だったらどうして男物の下着を常備しているんだろう。
「ま、あんまり詮索しないのが良い男だよ、ケイくん」
そうやってまひるが当たり前のように「ケイくん」と呼ぶのに、わたしはなんとなくもやもやしたものを感じたけれど、
たぶん彼女に他意はないのだろうし、ケイくんも気にしたふうではなかったし、
そもそもそういうあれこれについてわたしは何かを言えるような立場ではなかった。
「そういえば、ふたりはどんな関係なの? 愛奈ちゃんの事情はなんとなく聞いたけど、ケイくんは?」
どんな関係、と言われて、わたしたちはまた顔を見合わせた。
「……どんな、と言われてもな」
困ったように、ケイくんが頭を掻いた。
「ともだち、かな」
わたしはケイくんの方を見ないようにしながらそう答えた。
「ふうん」
まひるはなんだか意外そうな顔をした。
「まあいいや。さっき何も食べなかったけど、お腹すいてる? なにか作っちゃうけど」
さっきまで彼女に何か得体の知れないような印象を抱いていたわたしは、
そんなふうに親切にされると、申し訳ないような、うしろめたいような気持ちになった。
それでも、今日(という言い方でいいかわからないが……)は遊園地に行く前からずっと歩きっぱなしで、
湯船につかってゆっくり休みたい気持ちも、着替えて体を落ち着かせたい気持ちも、否定できなかった。
わたしはケイくんの方を見た。
彼はまだ困り顔をしていたけど、わたしの方を見て小さく頷く。
「甘えておこう。どうせ俺らには関係のない相手なんだし」
「そうそう。お姉ちゃんに甘えておきなよ」
まひるはからから笑う。
「お姉ちゃんって、おまえいくつだ?」
「ん。高三」
高三、とわたしはちょっと驚いた。
身長や体型が子供っぽいせいで、てっきり一年生だと思い込んでいた。
「きみたちは?」
「……高一だった」
「じゃあ、どっちにしたってわたしがお姉ちゃんなんだね」
まひるは満足げに腕を組んで頷いたかと思うと、キッチンへと向かった。
カウンターの上に置いてあった髪留めをとったかと思うと、髪を後ろでひとつに結んで、制服のまま冷蔵庫を開ける。
「何食べたい?」
わたしは、少し考えたけれど、結局、思いついた言葉をそのまま吐き出していた。
「……オムライス」
まひるは面食らったような顔をした。
「オムライス? で、いいの?」
「……うん」
「ケイくんも?」
「なんでも、ありがたくいただきます」
まだ少し皮肉っぽい調子でそう呟くと、ケイくんは羽織っていたシャツを脱いで、床に腰を下ろした。
クッションはおろか絨毯すら拒否するように、フローリングの上で。ケイくんらしいな、とわたしは思う。
「わたし、手伝う」
そう言ってキッチンに向かうと、まひるは楽しそうに頷いた。
つづく
おつ
おつです
◇
「あのさ、愛奈ちゃんって、ひょっとして」
「……」
「あんまり料理とかしない?」
「……ごめんなさい」
手伝うとは言ったものの、わたしの行動は「手伝い」にすらなっていなかった。
オムライスをつくるのはまひるに任せて、わたしはコンソメスープ作りを任されたのだけれど、
具材を包丁で切り分けるというたったそれだけの作業さえ、手間取ってしまう。
「あんまり、やったことなくて。ダメだと思うんだけど」
「ううん、べつにダメってことはないと思うけど。でもなんか意外だったから」
「意外?」
「うん。普段は家の人がしてるの?」
「……うん。意外って、どういうこと?」
「なんとなく、自分のことは自分でするタイプなのかな、って」
「そうできたらいいんだけど」
「そうかな」
まひるは一瞬、わたしから目をそらした。
「自分のことを全部自分でできるのって、ひょっとしたら寂しいことかもしれないよ」
◇
まひるのつくってくれたオムライスと、わたしの切り分けた不格好なじゃがいもの入ったコンソメスープを食べてから、
ケイくんは何も言わずにそっぽを向いた。
「ケイくん」
とわたしが声を掛けると、彼は仕方なさそうに笑って、
「ごちそうさま」
と言った。そんなリラックスした様子の彼を、わたしは随分久しぶりに見たような気がした。
そんなに久しぶりではないはずなんだけど、そう思うとわたしの胸がちくりと痛んだ。
夕食を食べ終えて少し休んでから、まひるは片付けを始めた。
わたしは食器を洗うのを手伝おうとしたけれど、「お風呂、入っちゃいなよ」と断られて、
厚意に甘えてしまうことにした。
◇
ひとりきりの浴室、見慣れないシャワーノズル、自分のものとは違うシャンプーボトル。
わたしはシャワーを浴びながら自分の姿を見た。
ひどく頼りない体に思える。
何かおかしいような気がする。頭と体のバランス、手足の長さ、指先のかたち。
なんだかひどく子供っぽく思える。
わたしはなるべく鏡を見ないようにしながらシャワーを浴びて、髪と体を洗い、
少し抵抗を覚えながら、ヘアゴムで髪を留めて、浴槽に体を浸した。
ゆっくりとあたたまってく体、めぐっていく血。
それを感じながら、これはやはり現実なんだろうと思った。
今、わたしの身に起こっていることはすべて。
お兄ちゃんのこと。ケイくんのこと。まひるのこと。お母さんのこと。穂海のこと。
考えて、考えても、ぜんぜん、なんにも分からない。
わたしの身に何が起きて、これからわたしがどうすればいいのか。
ひとりきりで考えていると、急に心細くなる。
浴槽の中で膝を抱えて、右手を後ろに回して自分のうなじに触れてみる。
ここが、わたしの知っている世界とは別の世界だとしたら、
わたしは、どうしたら元いた世界に帰れるのだろう。
元いた世界は、どうなっているんだろう。
あちらから、わたしはいなくなってしまっているはずで、
だとしたら、お祖母ちゃんもお祖父ちゃんも、心配しているはずだ。
ケイくんだって、こんな変なことに巻き込まれているより、早く帰ってしまいたいはずだ。
でもわたしは、帰りたいんだろうか。
お兄ちゃんのいない世界に。
わたしはいつも誰かを巻き込んで、誰かの重荷になってばかりいる。
祖父母だってきっと、わたしがいない方が……。
わたしがいなければ、お母さんと喧嘩したりせずに、今でも一緒にいられたかもしれない。
ひょっとしたら、お兄ちゃんだって、この世界でそうしていたように……。
ケイくんは、違うと言ったけれど、わたしは、
わたしは、やっぱり、わたしが生まれなかった方が、何もかもうまくいったんじゃないか、と、
そんなふうに考えてしまう。
◇
考えごとに沈んでしまうとどうしようもなくなってしまうもので、
ひとりでいるといっそう深みにはまってしまうから、わたしはそうそうに浴室を出て、
まひるに借りた着替えを着て、ドライヤーで髪を乾かして、そのあいだずっと鏡で自分の姿を見ていた。
顔。
わたしの顔は、わたしにはやはり、どこか、おかしく見える。
変な思いが、浮かんでは消えていくけれど、
わたしはわたしがどうしたいかと考えるのをやめて、
ケイくんと、祖父母のことを考えることにした。
巻き込んでしまったケイくんを、元の世界に帰してあげないと。
祖父母だって、きっと心配しているから。
だからそのために、わたしは帰らなきゃいけない。
元いた場所に。
◇
「明日からのことなんだけど」
少し買い物をしてくるから、といって、まひるは部屋を出ていった。
気を利かせてふたりきりにしてくれたのかもしれない。
実際、わたしはケイくんとふたりで話したいことがあった。
ケイくんは濡れたままの髪をタオルで拭きながら、我が物顔で冷蔵庫をあけて、
中に入っていたミネラルウォーターをコップに注ぐ。
「……ケイくん」
わたしの声を無視して、彼はふたつめのコップを用意して、そっちにもミネラルウォーターを注ぐ。
わたしは何も言わずに差し出されたコップを受け取った。
「……」
「感謝の気持ちは?」
「……ありがとう。ケイくんのじゃないけど」
「ま、そりゃそうだけどな」
「……それで、明日からのことって?」
「とりあえず、どうするかってこと」
「どうするか」
「そう。こんなとこ、長居したっていい気分にはならないし、早々に帰りたいだろ」
やっぱり、ケイくんはそうなんだろう、とわたしは思った。
「……ごめん。巻き込んで」
「え?」
彼はちょっと驚いた様子でこちらを見てから、タオルで耳の辺りを拭いて、
「いや、そうじゃなくて」
「ん?」
「……まあ、いいや。とにかくそれで、ひとまず今日はここに宿を借りるとして、明日から」
ケイくんはちらりとテーブルの上を見た。
煙草と携帯。当然この年にはまだスマートフォン用の充電器なんてないから、電池が切れたらそのままだ。
もっとも、どっちにしても使い物になりそうにはないんだけど。
「煙草、吸いたいの?」
ケイくんは首を横に振った。
「……いや。さすがにな」
まあ、ここで堂々と吸われても戸惑ったところだ。
「それで明日からなんだけど」
と、何度か遮られた話の続きを、ケイくんは仕切り直した。
「分からないことだらけだけど、元の世界に戻る方法を探さないといけないよな」
「あるのかな」
「一応、思いつくのはふたつあるな」
「……言ってみて」
「まず、あの遊園地にもう一回行ってみる」
「……うん。だよね」
あそこから来たのなら、あそこから帰れるかもしれない。
それはいちばんまっとうな考え方だ。
入口と出口が同じものだとしたら。
「じゃあ、明日、行ってみよっか」
「ああ」
「……でも、もうひとつって?」
「あのときの、黒い服の女がいただろ」
「あのとき」
ミラーハウスの中で見た、あの女の人。
「あの女を探す、っていうのだ」
「でも、見つかるかな」
「分からない。でも、あいつも俺たちと同じ場所を通ってきたはずだ。だったら、こっちにいるかもしれない」
どっちにしても、骨が折れるけどな。ケイくんはそう言って、壁にもたれた。
「あの女が、何か知ってるかもしれない。まあ、ミラーハウスにもう一度行って、それで帰れるっていうのが一番だけどな」
ケイくんが言ってるのは、きっと、「そうじゃなかったとき」の話だ。
あの遊園地のミラーハウスにもう一度行っても、何も起こらなかったとき。
わたしたちは途方に暮れてしまう。だからそのときは、あの女の人を探すしかない。
でも、どっちも駄目だったら?
……そんなことは、いま考えても仕方ない。
「それじゃ、あした、ひとまず遊園地に行ってみようか」
「……なあ、大丈夫か?」
「なにが?」
ケイくんは、自分でも何を訊いたのかよくわからない、というふうにもどかしげに首を振った。
「いや。べつにいいんだけど」
「……変なの」
そう言ってから、わたしはミネラルウォーターに口をつけた。
少し考えてから、
「大丈夫だよ」
と答える。
「わたしは大丈夫」
そう言った。自分に言い聞かせていたんだと、そう気付いたのはあとになってからだった。
◇
しばらくするとまひるが帰ってきた。買い物というのはどうやら歯ブラシだったらしくて、
「さすがに買い置きなかったから」
と笑っていたけど、わたしとしては男性用下着の買い置きがあることの方がよっぽど不思議だった。
それでもさすがに、世話になっておいて深く立ち入る気にもなれない。
当たり前のようにわたしたちによくしてくれるまひるを見ながら、彼女のことがどんどんと不思議になっていく。
この人は、どこか、お兄ちゃんに似ている。そう思った。
「ねえ、まひる」
と、声を掛けてから、呼び捨てでいいものかどうか、ためらったけれど、
「なに?」
と気にしたふうでもなく返事をしてくれる彼女の表情を見て、考えないことにした。
「ちょっと気になったんだけど、まひるは、お兄ちゃんと、どういう関係なの?」
「関係? ってほど、関係はないけど」
「知り合いではあるんだよね?」
「うん。そうだね」
まひるはテーブルの上に置かれていたミネラルウォーターのペットボトルを見て、
「わたしも飲もー」とコップをもうひとつ持ってくると、クッションの上に腰を下ろした。
「部活の後輩なんだよね。碓氷。碓氷くん。わたし、文芸部の部長でさ」
「文芸部……」
「きみたちのいた世界ではどうだった? そっちでも、碓氷は文芸部?」
「たしか、そのはず」
「そうなんだ。不思議なもんだよね、性格は、聞くかぎりじゃ全然ちがうのに。
これはやっぱり、ケイくんの言ってた話の方が信憑性があるかな」
それはともかく、とまひるは確かめようのない話を打ち切った。
「それで、碓氷は部員なんだけど……正直、わたしは彼のこと、あんまり好きじゃないんだよね」
「……どうして?」
「説明を求められると、難しいかな。いい子だと思うよ。友達も多いし、彼女もいるし。
でも、うん。そうだね。碓氷の方の問題じゃなくて、わたしの問題かな。
わたしが、碓氷を個人的に好きじゃないだけ。なんていうか、気質の問題かな」
「気質……?」
「うん。気質」
「よくわからない」
「碓氷は前向きで、過去にこだわらなくて、良いやつだよ。悪いことも間違ったこともあんまりしない。
人気者ってほどじゃないけど、後輩にも先輩にも好かれるタイプだし。
誰かを思いやれるし、面倒見もいいし、見た目もまあ悪くないし、でも……」
「……でも?」
「正しすぎる。正しすぎる人とは、話があんまり成立しない」
「……」
「だから、わたしはあんまり好きじゃない」
本当に、個人的にね。まひるはそう言った。
正しすぎる人とは、話があんまり成立しない。
正しすぎる人は、怖い。
中学校のとき、母の日にお母さんにプレゼントをするか、という話になった。
その頃よく話していた、四人くらいのグループでの話だ。
わたしは、母の日にプレゼントをしたことがない。
母の日に顔を合わせたことなんて、ほとんどないから。
だから、プレゼントはしたことがない、と言った。
グループの中のひとりは、驚いた顔をしていた。
そのくらいはしようよ、と、困った子を見るような顔で笑った。
そこで話は終わった。
べつに言い訳したかったわけでもないし、話を聞いてもらいたかったわけでもない。
それでもわたしの中には、少しだけ、肌に刺さった抜けない棘のような暗い気持ちが残った。
惨めさに近い何か。
正しさは、どんなときでも正しいのだろうか。
あるいは母にも、何かあるのかもしれない。
わたしが、母の日に何も贈れないのと同じように、
母にも何か、『できない理由』があったのだろうか。
よくわからなくなる。
「うん。だからわたしは、碓氷が苦手」
中途半端な沈黙を嫌ったみたいに、まひるはそう言ってかすかに笑った。
わたしは、少しだけ反応に困って、小さく笑った。
笑えたと、思う。
つづく
おつです
◇
翌日の朝早く、わたしたちは学校へ出かけるまひると一緒に家を出た。
早めに出かけると言ったわたしたちに、まひるは忙しい中でトーストを焼いてくれた。
着る服も、彼女が用意してくれた。服ならばいくらでも用意できるというような様子だった。
わたしは制服姿のまひるを見送ってから、
「もし遊園地にいって、そのまま帰れたら、服を返せないね」
と言った。ケイくんはバカバカしそうに笑った。
「妙なこと気にするんだな」
「借りたものは返さないといけないでしょう?」
「時と場合によるだろうな」
ケイくんはそう言ってしまうと、あっというまに階段を降りていった。
その朝は爽やかな秋晴れで、
わたしはそれが自分にとって過去のものなんだと、一瞬わからなくなってしまった。
通りに出ると、空に流れる雲も道路を走る車も、並ぶ建物のひとつひとつも、
何もかもすべていつかは変わっていってしまうものばかりで、
そのままの形で保たれるものなんてひとつもないのだという気がした。
わたしたちは近くのバス停に立ち、時刻表を見て、言葉もなく立ち尽くす。
ねえ、ケイくん、と、わたしは声を掛けようとしたけれど、
言葉は喉のあたりに詰まってわたしを息苦しくさせるだけだった。
こんなバカげた状況のなかでも、わたしは未だに正しい振る舞い方を探してしまって、
それがわからないからいつまで経っても戸惑ってばかりだ。
この世界に来る前から、ずっとそうだ。
浮かび上がらないように、変だと思われないように。
バスに乗ってからも、わたしたちの間に会話なんてほとんどなかった。
いつだってわたしは、わたしを取り巻く世界のルールがわからないままで、
どう振る舞うのがふさわしいのか、ずっとわからない。
◇
遊園地までの道のりは、あちらの世界で――感覚的には昨日――通ったのと同じ道のはずだった。
暗い道の先の坂。その先の橋。不思議と、前通ったときと印象は変わらない。どうしてだろう。
二人きりで歩いていると、なんだかまた、夢の中を歩いているように現実感が薄れていく。
ねえ、ケイくん、とわたしはもう一度声に出しかけて、やっぱり何も言わなかった。
帰りたくない、なんて、そんなことを言いかけたのはどうしてだろう。
自分でもよくわからなかった。
◇
橋の上で、立ち止まった。もう少し歩けば、あの遊園地にたどり着く。
「どうした?」と、ケイくんは首をかしげる。
わたしはうまく言葉にできない。
「ケイくん、わたしは、このまま帰っていいのかな」
「……どうして」
「お兄ちゃんが、言ってた。ずっと前に言ってた。起きたことには、必ず意味があるはずだって」
「……意味」
「何かが必ずあるはずなんだって言ってた。だとしたら、わたしが今ここにいることにも、何か意味があるのかもしれない」
「あのさ、それは」
「分かるよ。ケイくんはきっと、そんなの嘘だっていう。でも、この世界はケイくんの言うとおり、わたしにとってだけ奇妙な世界で……」
ケイくんは、静かにわたしの顔を見る。
彼の表情はいつだって真剣だ。
彼はそういう人だ。
一見、斜に構えていて天邪鬼のようにも見える。でも違う。彼は、彼と同じ話法を使う人の話を、絶対に聞き流さない。
彼は自分独自の価値観と考え方を持っている。価値観の合わない人間にも、その価値観を基準に話をする。
だから、そういう人には彼が、意味の分からない、理屈の通じない人のように見える。
そうではない。
「だから……」
だから?
だから、なんだというのだろう。
わたしたちにだってわたしたちの世界があって、
こっちに迷い込んでいるあいだに、あっちがどうなっているかなんて、確かめないと分からないのだ。
ケイくんにはケイくんの事情があって、わたしはそれを自分の都合で邪魔できない。
「……ごめん。なんでもない」
わたしはケイくんの方を見ることができなかった。
顔をそむけたまま、止めていた足をふたたび動かす。
「とりあえず、この後どうするにしても、あの場所の様子だけ確認しておこう」
「……うん」
「まだ何にもわからないんだ。ひとつずつでも、いろんなことを確かめないと」
わたしはもう一度頷く。
ケイくんの言うとおり、今は余計なことを考えない方がいいのかもしれない。
そう思って、わたしは再び歩き始めた。
そのとき、不意に気がついた。
「……ねえ、ケイくん」
「なに?」
「わたしたちが最初に来たとき、遊園地ってどのタイミングで見えたっけ?」
「……遊園地? どうだったかな。最初に目に入ったのは観覧車で」
たしか、坂を登りきったときに、と、ケイくんは言いかけて、立ち止まった。
彼は橋を戻り、坂道の上へと引き返す。
そこから、遊園地の方を見る。
わたしも彼のことを追いかけた。
観覧車は、見えない。
わたしたちは目を見合わせる。
「……とにかく、言ってみなきゃな」
「うん」
けれど無駄だった。
遊園地のあった場所には草木が生い茂り、木々の枝に邪魔されて敷地内に入ることすら難しかった。
ほとんどの遊具やアトラクションは取り壊されるか撤去された様子だった。立入禁止の看板だけがやけに綺麗だった。
ミラーハウスの姿なんて、見つけることすらできなかった。
わたしたちは立ち尽くした。
つづく
おつです
◇
「気は済んだ?」
そう後ろから声をかけられるときまで、わたしたちはずっと一言も喋らなかった。
驚いて振り返った先には、ひとりの女の人が立っている。
黒い服を来た女……。
あなたは、と一瞬声をあげそうになって、言葉を止める。
ミラーハウスで見た女の人だと、そう考えてしまった。
けれど、違う。眼帯をしていない。
喪服のような真っ黒な恰好。裾の長い黒いワンピース、灰色のストール。
長い前髪の隙間から覗く瞳はつぶらで愛らしい。
けれど……その笑みは、どこか作り物めいている。
いつのまに、そこにいたんだろう。
まったく気が付かなかった。気配も、足音も感じなかった。
「誰かが紛れ込んでるとは思ってたけど、ずいぶん皮肉な話ね」
女の人……いや、違う。
服の色が暗いせいで錯覚していた。
顔を見ても、体格を見ても、同年代くらいの女の子だ。
それなのに、なぜだろう、違和感があった。
白い白い肌。
冷たそうな肌。
何か、変な感じがする。
風景からどこか浮かび上がっているような不自然さ。
けれどふと目を離した隙に、すぐにでも消えてしまいそうな存在感のなさ。
この世のものではないような、と、そんな陳腐な言葉さえ出てきそうになる。
「はじめまして、アイナ」
と、彼女は、わたしのことを正しい名前で呼んだ。
ぞくりと、背筋に悪寒が走る。
わたしの名前を、知っている。
ケイくんが、わたしの半歩前に踏み出した。
「あんたは?」
彼の言葉に、彼女は笑う。
「名乗ったところでどうするの? 名前なんて知ったからって、それで何かが分かるつもり?」
「違う。名前はどうでもいい。聞きたいのは、あんたが何かってことだ」
「何って?」
「どうして、こいつの名前を知ってる?」
「……」
「こいつが普通の奴なら、まあ、名前を知っていることもあるかもしれない。
でも、こいつは普通じゃない。こいつの名前を知ってる奴なんて、どこにもいるわけがない」
女は、笑っている。
「紛れ込んだって言ったな。この状況を引き起こしてるのは、おまえなのか?」
「そういう言われ方は心外」
と女は言って、ひらひらとスカートを揺らしながらケイくんに歩み寄る。
「勝手に入り込んできたのは、あなたたち」
「……」
たしかに、とわたしは思った。
わたしたちが勝手に来て、勝手に巻き込まれた。
「でも、わたしが連れてきたと言えば、そうかもしれない」
「何者なんだ、おまえ」
「よく知らないの。気付いたらこうだったから。というか、その話、今、大事?」
その声に、ふと、思い出すことがあった。
ミラーハウスを抜けた先の、見慣れない街並の先。
あの坂道の上の広場で、からたちに吊るし上げられた少女。
この子の声は、あの子にそっくりだ。
「大切なのは、あなたたちがどうしたいかってこと。帰りたいんだったら、帰り道を用意してあげないこともない」
「……いやに親切だな。何か目的があって、ここに俺たちを巻き込んだんじゃないのか?」
「勘違いしないで」と女は言う。
「あなたたちは偶然巻き込まれただけ。だから、あなたたちのことはどうでもいい。ていうか、使い回しのこの世界自体、もうどうでもいいんだけど」
話していることの意味がわからなくて、わたしとケイくんは黙り込んだ。
「……どうも、わからないな」
「べつに、分かってもらう必要もないから。それで、どうする? 帰りたいなら、案内するけど」
「……」
巻き込まれた?
紛れ込んだ?
……。
――残っている建物のなかにはミラーハウスがあって、その奥にひとりの女の子がいる、って話。
――なんでもその子が、訪れた人間の望む景色を、なんでも見せてくれるって話だ。
……わたしたちが見た景色は?
わたしたちが見たのは、鏡の中に、一人の女の人が入っていく光景。
わたしたちは、そのあとをついてきた結果、ここについたに過ぎない。
「……ねえ、あなた、本当に、人の願いを叶えられるの?」
わたしの問いかけに、ケイくんも女の子も、そろってこっちを見た。
「ここは、誰かが望んだ世界なの?」
「……そういう言い方もできる、ってだけ」
退屈そうに溜め息をつくと、彼女は前髪を指先で弄りはじめた。
「……さっき、わたしの名前を呼んだ。あなたは、わたしのことを知ってるんだ」
女は、表情を動かさない。わたしの声を無視して、そっぽを向いている。
「皮肉、って、言った。それ、どういうこと?」
「――ねえ、帰りたいの?」
「この世界は、何なの?」
「帰るの? 帰らないの? どっち?」
この子がミラーハウスの主で、現に誰かの望んだ世界を見せる力があるとするならば、
ここは誰かの望んだ世界だ。
単純に想像するならば、わたしたちがミラーハウスの中で追いかけてきた、あの眼帯の女の人。
彼女の望む世界だということになる。
けれど……この子はたしかに言った。
使い回しの世界だと、たしかに言った。
意味するところはよくわからないけれど、それはつまり、この世界は本来、違う用途で生まれたということだ。
この世界が、誰かの望んだ景色の、そのひとつの形だとしたら?
これを望むのは、誰だろう?
この世界を、もっとも望みそうな人は?
――あちらよりもこちらで、より幸福そうな表情をしていたのは?
「……この世界のような景色を、誰かが望んだ。だからあなたは、その誰かをここに連れてきた。違う?」
彼女は溜め息をついた。
「そうなるかな」
「……教えて。この世界を、誰が望んだの?」
わたしは、本当は、訊くべきではなかったのかもしれない。
「本当に知りたいの?」と呆れた調子で溜め息をつく。本当は知りたくなかった。けれど、訊かずにはいられない。
見なくてもいい景色も、聞かない方がいい真実も、そこらじゅうにあるのだと、わたしは知っていたけれど。
「……碓氷遼一」
と彼女は言った。
「あなたの叔父さんが、わたしのお客さん」
そう言って、彼女は顔をしかめた。
つづく
おつです
◇[Stendhal] R/b
姉が家を出ていったとき、愛奈は泣かなかった。
僕だって、驚きはしたけれど、すぐに戻ってくるに違いないと思っていた。
両親と姉との間でどんな話し合いがあったのか、詳しくは僕も知らない。
僕が中学生だった頃の話だ。
当時姉はシングルマザーだった。二十四歳で、まだ若かった。
年若くして結婚し子供を産んだ彼女は、ときどきそれを後悔しているふうでもあった。
一度、姉は僕の前で口を滑らせた。
「別に愛奈を産んだことに後悔はないけど……」
でも、と彼女は続けた。
「早まったかな、とは思う」
僕はそれを聞いたとき、姉のことを咎める気にはなれなかった。
十も年の離れた姉の人生を、十四歳だった僕は理解することができなかったし、
それから何年か経つ今でも、彼女のことをどうしても一方的に憎むことができない。
生きることは迷路を歩くようなものだ。
長く続く回廊はいくつにも枝分かれし、そのときどきに違った扉を僕たちの前に差し出す。
僕らはそのたびに、その時なりに最善だと思える道を選ぶ。
時に簡単に開きそうな扉を、時に進みたい方向に続いているように見える扉を、時に自分でもなぜそれを選ぶのかわからないような扉を。
そして、一度選んだ扉の先から引き返すことはできない。
通路を遡ってみようとしたところで、他の扉は既に閉ざされてしまっている。
日々は選択の連続で、僕たちはその先の未来を覗き見ることができない。
一見易しそうに見える扉の先が幸福に続いているとは限らず、そのとき最善に思えた選択が間違っていなかったとも限らない。
選んできた扉が選ばなかった扉よりも良いものだったという保証はどこにもなく、
選ばなかった扉が選んだ扉よりも良いものだったとも言い切れない。
そのなかに、どうしても忘れることができない『選ばなかった扉』がある。
あの扉を選んでいたらと、後悔してしまう扉がある。
姉にとっても、きっと。
あるいは、僕にも。
◇
目が覚めたとき、そばにはすみれがいた。
雨の音と、空気の奇妙な冷たさ。現実感は希薄なのに、肉体には奇妙な疲労感がある。
「やっと起きた」
と、傍らから声が聞こえた。
すみれが傍に居た。
僕は体を起こして、周囲を見回す。
どこかの廃墟のような場所に、僕はいた。
眠ってしまっていたらしい。
灰色の空から雨が降っている。意識を失う前までのことを思い出そうとするが、頭がぼんやりとしてはっきりしない。
「遼一?」
「……うん。大丈夫。ここ、どこ?」
すみれは溜め息をついた。
廃墟のような建物……。天井はある。左側には壁があり、右側には壁がなく、外に繋がっている。
右手に広がる空間には背の高い野草が生い茂っている。その向こうは、高いネットに覆われている。
なんだろう、と思ってすぐに気付く。ゴルフの打ちっぱなしの施設のようだ。どうやら、長い間使われていない廃墟のようだが。
「わかんない」
とすみれは首を振った。
「眠る前までのこと、ちゃんと覚えてる?」
「……なんとなくは」
僕は首を巡らせて、もう一度周囲の様子をうかがう。
どうやら、僕は放置させた古いソファに横になって眠っていたらしい。
「あの、ざくろって子は?」
訊ねると、すみれは複雑そうな顔でまた首を横に振った。
「わかんない。わたしもさっき目覚めたばかりで、何がなんだか」
「……どこなんだろう、ここ」
「分からない。ね、遼一。さっきまでのって、夢じゃないよね?」
「……どうなんだろう。ここじゃ何にも、分からない」
「遼一が目をさますまでの間、ちょっとだけ、考えてたんだけど」
すみれはそう言って、ソファの側の壁にもたれる。
「やっぱり、いくら考えてもわかんない。ひとまず、ここがどこなのか、確認しないといけないよね」
「……だね」
「時計見る限り、一応時間は午前八時ってところかな。携帯は圏外だし……」
「うん。分かった」
「どう? 歩いても平気そう?」
「ああ。ここにずっといても、仕方ないしね」
ひとまず立ち上がり、僕たちは建物の出口を探す。と言っても、すぐ傍に階段があって、どうやら事務所の方に繋がっているらしい。
ガラスの破片、破れた緑色の絨毯、周囲から伸びた草花が道をいくらか覆っているが、歩けないほどではない。
階段を登りきると、閉ざされたままの扉があったが、誰かが以前通ったのだろうか、ガラスが割れていて、人ひとりが通れるくらいの穴が空いていた。
抜けた先の事務所は散乱していた。なにかの書類、古い雑誌やカレンダー、何かのメモ。
右手には出入り口があった。僕らは何の問題もなく外に出ることができた。
外から建物の様子を振り返ると、閉められたシャッターにはスプレーで落書きがされていた。
出た先には舗装された道がある。とはいえ、公道というよりは、何かの施設内のような雰囲気だった。
山の中のようで、道の周りは高い木々に覆われていて遠くまでは見通せない。
地図もなければ現在地もわからない僕たちは、とにかく歩き回ってみることでしか状況を掴めない。
「見覚え、ある?」
「いや」
「だよね」
厳密にいえば、既視感のような感覚はある。
けれど、それが具体的にいつ、どこを示すものなのかは、分からない。
「見覚えのない場所にいるっていうことは、やっぱり夢じゃないのかもね」
「かもしれない」
とすると、あのミラーハウスの出来事も、その先の奇妙な空間も、あのざくろと名乗った少女も夢ではなく、
ここは、あの子が示した扉の先なのだろうか。
――鏡の国。あるいは、あなたたちの言葉を借りるなら……
――あなたたちが、心の底から笑えるような場所。
ざくろは、そう言っていた。
あの不穏な扉の先、幻想のような街並の向こう。
その先が、打ちっぱなし施設の廃墟? ……たしかに笑い話だ。
「あのざくろって子」
また、僕がその名前を出したとき、すみれの表情はまたこわばった。
「何者なんだろう」
「……さあ?」
施設から離れるように歩いていく。
本当に山の中なのか、丘のようになった場所から、僕たちは道にそって坂を降りていく。
「変なことになっちゃったな」とすみれは疲れたみたいに息を吐いた。
「別に困りはしないだろう」と僕は言った。
「なにが?」
「ここがどんなところでもさ」
「どうして?」
「そのつもりで来たんだから」
「……」
『ここじゃないどこか』に行こう、とすみれは言って、
僕は彼女の手をとったのだ。
「そうかもね」とすみれは言う。
月曜日の夜の、ただの気まぐれ。
彼女の手をとったとき、僕の気持ちはもう、普段の生活から離れたがっていた。
だから、いい。
奇妙なことが起きても、なんでも。
「今日は火曜の朝なのかな」
「昨日は月曜だったから、そうなるのかな」
「八時……普通だったら、もう学校に行ってなきゃいけないのにね」
「今更だね」
「うん。そうかも」
そう言ってすみれは、リズムをとって跳ねるように前方へと足を伸ばしていく。
「朝の割には、空気があったかいね」
「そうだね……」
「今のところ、ライオンに追われそうな気配もないし、周囲の様子も、異世界みたいな調子じゃないし」
「……ま、ライオンがいないだけありがたいね」
「遼一がミラーハウスに入ろうとするから、あんな目に遭ったんだよね」
「結局食べられなかったし、いいんじゃないか」
「……そういえば、あれ、結局なんだったのかな」
すみれが、独り言のように呟く。
「ざくろの話を聞く限りでは、どうやら心象世界というか、心象風景みたいなもの、みたいだったらしいけど」
「あんたの心の中にはライオンがいるわけ?」
「しかも風船でできたライオン」
「仮面をつけた子供たち。目のある月」
「ふむ」
「橋のない閉じ込められた街。骸骨でできた壁」
「……」
「あんたの心象風景、病みすぎじゃない?」
「……深層心理のあり方までは、僕にはどうしようもないかな」
「……少し、解釈してみてもいい?」
「解釈?」
「あの子、象徴って言ってた。あれは要するに、見たままそのものの姿じゃなくて、あんたの中の何かの象徴なんだよね、きっと」
「ふむ」
「とすると、それを解釈することってできそうじゃない?」
「つまり、夢占いとか、夢分析みたいなこと?」
「そのふたつを同列にならべるの、わたしはちょっと抵抗あるんだけど、詳しくないし、どっちかっていうと夢占いかな」
「なるほど」
「もちろん、適当な話になるけどね。まずあのライオン……」
「ライオン、ね。いきなり追われたんだっけ」
「あれ、追いつかれたら死ぬ、って思ったよね」
「だね」
「焦燥感……それも、身の危険を覚えるくらいの。そういうものが、あんたの中にある」
「ふむ」
「でも、そのライオンは風船でできてた。風船ってことは、中身がない、空っぽ、実体がない。
つまり、何か具体的なものじゃなくて、抽象的でとらえどころのない恐怖」
「それらしいっていえば、それらしいね」
「くわえて、あの街には橋がなかった。水路に阻まれていた。しかも水路を挟んだ向こう側には、あたたかそうな光があって、人の気配がした」
「……」
「あんたにとって、温かい人の気配は『橋の向こう』……たどり着けない場所にあるもの、ってところかな」
「月は?」
「何か大きなものに見下されている、って感じかな。ライオンと橋のことを含めて考えても、あんたは出口のない場所に閉じ込められて、追い込まれてる」
「なるほど」
「いくつか並んだ銅像のうち、あんたに似てる銅像だけ、中身が空洞になってた。他のはそうじゃなかった。
つまり、『他の人には中身があるのに、あんたには中身がない』、と、あんたは思ってる」
「子供たちの仮面と人形劇は?」
「わかんない。でも、人形師が子供たちに渡した飴玉は、『あんたの分だけなかった』。あんただけ、それを与えてもらえない」
「……地下のワイン庫は?」
「わかんない。ただ、あの子は扉が望む世界の入口、みたいなことを言ってた。その入口が、あんたの場合かなり分かりづらい場所にあった。
他の民家とほとんど変わらないような家の、しかも奥まで入らないと分からない地下への階段のさらに奥。
しかも、その中は暗闇。ようするに、あんたの望みは、深くて暗い場所に隠されてる。あんた自身でも見つけられないような場所に」
「……へえ」
「どうかな。おもしろくない?」
「こじつけっぽいかな」
「けっこういい線いってると思うんだけどな」
僕は、あの地下室で見つけた本に書かれていた一文を思い出す。
あのときはわからなかったけれど、今は思い出せる。どこかで読んだ本に書いてあった。あれはラテン語だ。
"In vino veritas."――酒の中の真実。
そしてあそこはワインの地下貯蔵庫……『酒の中』だった。もちろん、あの言葉は額面通りの意味ではないはずだけれど。
だとすると、あの地下貯蔵庫の奥の扉が、『僕の真実の望み』なのかもしれない。
まるで、偽物があるかのような言い草だ。
「面白い話ではあるかもね」
「あんまりピンとこない?」
「どうかな。そんな言い方したら、たぶんどうとでも受け取れそうで……」
と、言いかけたところで、立ち止まる。
「……すみれ、ここ」
「ん?」
「この道。見覚えがあるんだけど」
「……見覚え?」
「ここ、あの遊園地の敷地じゃないか?」
「え……?」
僕の言葉に、すみれは辺りを見回す。
「この道。通った記憶がある」
「え、でも……こんな場所だった?」
道の脇は背の高い野草に覆われている。広い敷地のほとんどすべてが埋め尽くされている。
昨日あの遊園地に辿り着いたときは、こんな様子ではなかったはずだ。
もちろん、夜だったから視界は悪かったけれど、こんなに草が生い茂ってはいなかった。
「でも、この先、たぶん、僕らが入ってきた道だ」
「……とにかく、進んでみよう」
僕らは話すのをやめて、少し早歩きになって道の先に進んだ。
やがて、木々に覆われた視界が開け、道の先が見える。
小さなゲートがあり、近くには立入禁止の看板があった。
すみれは、黙ったまま後ろを振り向く。呆然とした様子だった。
「ホントだ……」
僕も、彼女にならって確認してみる。
様子は随分と違うけれど、たしかに同じ場所だ。
「……ここ、バイクとめた場所だよね」
「ああ」
「……バイク、ない。盗まれちゃった?」
「……いや」
「でも、ないよ」
「……もしかしたら、もっと面倒なことになってるのかも」
「面倒なことって?」
「……まだ、分からないけど。ひょっとしたら、ここも、あの変な世界の続きなのかも」
「続き?」
鏡の国、望む景色、心の底から笑えるような場所……。
ざくろと名乗ったあの子は、いったいどこに行ったんだろう。
……とにかく彼女に、今のこの状況について説明してもらわなければならない。
つづく
おつです
◇
足がなかったから、歩き通すしかなかった。
すみれのバイクはどこにもなかったし、ざくろの姿も見つけられなかった。
ようやく大きな道路に出たのは、三十分以上何もない道路を歩き続けたあとで、
やっとのことで見つけたコンビニの新聞で、僕たちは妙なことに気付いた。
「八月十八日」
発見したのはすみれだった。見た記憶のある表紙の雑誌だ、というところから違和感を覚えたらしい。
新聞は、一月以上前の日付になっていた。
これは妙なことになったな、ということで、でもとりあえず疲れていたから、近くにあったファミレスに入って休むことにした。
すみれはハンバーグを頬張って美味しそうに笑みを漏らす(意外な感じだった)。
僕は若鶏の唐揚げを食べながらあたりの様子ばかりを気にしていた。
「それ、一個ちょうだい」
「どうぞ」
「わたしのも分けたげる」
「ありがとう」
「なんだか変なことになったね」
そう言いながらも、彼女はどうでもよさそうな感じだった。
「年号は合ってた」と僕は言った。
「うん。日付だけ違った」
「言われてみると、ちょっと暑い」
「秋服なのが恥ずかしいよね」
「たしかに」
周りはみんな、まだ薄着だ。
僕はすみれが切り分けてくれたハンバーグを咀嚼してから、水を飲んだ。
「……あの子、いないね」
すみれは、辺りを見回しながら言った。ざくろのことだろうか。
むしろ、この場にざくろが居合わせたとしたら、それはそれで不思議なことだと思うんだけど。
「そりゃ、八月なら、わたしのバイクもあそこにはないよね。まだ行ってないんだから」
「でも、遊園地の遊具が撤去されてたのは? 逆なら分かるけど、ないのはおかしくない?」
「ホントだ。なんでだろう?」
「なんでだろうね」
見当もつかなかった。
「これ美味しい」とすみれは嬉しそうに笑う。
「ホント美味しい」と僕も頷く。
どっちも物事を真正面から考えるのは苦手なタチみたいだ。
「ね、タイムスリップしたのかな、わたしたち」
「だから、遊具がなかったろ。それに、あんなに草は生えてなかった」
「んじゃ、並行世界だ」
「SFだな」
「他にないもん。いや、夢とかでもいいけどさ」
「たしかに他にないかも」
「ね。だったらさ、この世界にはこの世界のわたしたちがいるのかな?」
「たぶん、そうじゃない?」
「じゃ、学校なんかは、この世界のわたしたちが行ってるんだよね」
「そうなるね」
「だったら、わたしたち、自由だよ」
「……」
素晴らしい思いつきみたいに、すみれは笑みをうかべた。
いたずらを思いついた子供みたいな顔で。
「わたしたち、明日の予定がないんだよ。学校も行かなくていいし、家に帰らなくてもいいし、勉強もしなくていい」
「ふむ」
「それってさ、最高じゃない?」
本当に楽しそうに、すみれは言う。
「わたしたち、この世界では、何者でもないんだよ」
それって、最高だよ。すみれはもう一度繰り返した。
たしかに、と、僕は思ってしまった。
だって、何もしなくていいのだ。
バイトなんてしなくてもいい。家に帰らなくてもいい。学校なんて、行かなくてもいい。
見たくないものは見なくていいし、やりたくないことに追われて時間と自分をすり減らすこともない。
ああ、と僕は思った。
それって最高だな。
「遼一、財布にいくら入ってる?」
「そんなに入れてないけど……」
「でも、いくら入ってる?」
「……三万ちょっと」
「けっこう入ってる。わたし、十五万ある」
「なんでそんなに?」
「家出少女だから」
「初耳」
「そのうち帰る気だったけどね。お金を使い果たしたら。ううん、そんなことどうでもいい」
そんなことより、とすみれは言う。
「八月でしょう?」
「みたいだね」
「観たい映画があるの」
「……映画?」
「見逃したの。いろいろあって」
「……はあ」
「家の近くの映画館でやってなかったの。だから見れなくて」
「うん」
「……やってるかな?」
「かもね」
「観たい」
「あのさ、僕が言うのもなんなんだけど」
「なに?」
「帰る方法、探した方がいいんじゃない?」
「なんで?」
「宿がない」
「ホテルでもいこうよ」
「金は尽きるよ」
「バイトでもしようよ」
「無理だろ。そんなことするくらいなら、元の世界に戻ったほうが楽じゃない? 学校やめてバイトしたっておんなじだろ」
「あー、そっか。バイトはなしだ」
この子は本気で言ってるんだろうか。
「でも、悪くないかもね」とすみれは言った。
「なにが?」
「元の世界に戻ったら、わたしたち、学校やめてさ、ふたりで働いて一緒に住むの」
「なんで?」
「ふたりで働けば、お金、なんとかなるでしょ。それでさ、お互い好き勝手するの」
「……」
「何にも縛られないで過ごすの。ね、不思議な感じ。そんなふうにできるんだなって、今思った」
……この子は。
本当はすごい子なのかもしれない。
「たしかに、そうできたら楽しいかもね」
「でしょう?」
素晴らしい思いつきみたいに、すみれは笑う。
「観たい映画みてさ、行きたいところに行ってさ。仕事なんて、やめたいときにやめちゃって、
明日のことなんて考えないでお金使って、そういうふうに……そんなふうに生きてさ」
「……」
「……分かってるよ。嘘だよ。真に受けないでよ」
「いや」と僕は首を横に振った。
「悪くない」
ひとりじゃないなら。
そう思った。
「でも、まずは帰らないとな」
「……遼一、帰りたいの?」
「帰りたいか帰りたくないかはひとまずおいておいて、帰り道を見つけてから考える方が安全だ」
「わたし、帰りたくない」
「……」
「だって、ここが本当に別の世界だったら、わたしたちは、それを言い訳にできるよ」
「言い訳?」
「わたしたちは、自分の意思で全部を投げ出したわけじゃない。ただ、変な出来事に巻き込まれて、帰れなくなっただけ。
帰れなくなったから、仕方なく、好き勝手生きてくだけ。でも、帰ったら……帰ったら、自分で選ばないといけないんだよ」
「……投げ出すか、投げ出さないかを?」
すみれは頷いた。
言い訳。
たしかにな、と僕は思った。
都合のいい言い訳だ。
帰り道が、見つからない方が。
「……状況を整理してからにしない?」
「……」
「僕やきみの家がどうなっているか確認して、できたらざくろを探して、帰る手段を探して……。
それでも見つからなかったら、どうにかしてこの場所で生き延びる方法を探すしかない」
「……うん、そうなるよね」
この世界で生きていく?
たいした夢想だ。無理に決まってる。
でも、どうしてだろう。
この子が言うと、できそうな気がした。
笑い話だ。
「……ね、遼一」
「うん?」
「そういうことで、いいからさ」
「うん」
「明日、映画観に行かない?」
「あのさ」
「分かってる。でも観たいの、観たかったの、我慢したの。我慢してたの、ずっと!」
「……」
「……我慢してばっかりだった」
「……うん。それは分かる」
「駄目、かな」
「いや。いいよ、それは別に。でも、今晩はどうする? 食べ物は、まあ、金があるからどうにかなるとして……」
「だから、ホテル」
「いつ帰れるのかわからないし、収入のあてもない。金ばかり使ってられないよ。服の替えだってないんだし」
「……そっか」
すみれは、そう頷きかけて、ううん、と首を横に振った。
「ある!」
「……ん?」
「この世界のこの時間に、わたしたちがいるなら、ある」
「……どういう意味?」
「わたしたちがこの世界にいるなら、この世界で同じような姿をしてるなら、わたしたち、自分の家に行ける。そこには服がある」
「……」
こいつ。
正気か?
「わたしたちは、わたしたちのふりをすることができる」
「同じ姿をしているとは、限らない」
「だったら、確かめないとね」
すみれは、さっきからずっと、楽しそうだ。ここに来る前よりも、ずっと。何かから解き放たれたみたいな顔をしている。
あるいは僕も、笑っているかもしれなかった。
それからすみれは、何かを思いついた顔で、また笑みを浮かべる。
「八月なら、わたし、家にいない」
「どうして?」
「この頃も、家出してたから。……そうだ。夏休みなんだ」
「……」
「遼一、わたしの家に行こう」
「どうして?」
「“わたし”、いないはず」
「ここが違う世界なら、いるかもしれない」
「どっちにしても、行かなきゃ確かめられないよ」
「……」
「行こう」
僕は思わず笑ってしまった。
そうだ。
これ以上、何がどうなるっていうんだ?
僕らのせいじゃない。
変なことに巻き込まれたんだ。手段は選んでいられない。
「悪くない」と僕は言った。
つづく
おつです
◇
そして僕らは八月の夏空の下を歩いた。
目が覚めた直後、少しだけ降っていた雨は、歩いているうちにいつのまにか止んでしまっていた。
今はもう、清々しいくらいの晴天だ。
バス停までの道のりをすみれは鼻歌をうたいながら歩く。
「いい天気」と笑う。
「たしかに」と僕も頷く。
「絶好のお出かけ日和」
「そうだね」
僕は少しだけ笑う。
「なんで笑うの?」
「あんまり楽しそうだから。そういうイメージはなかった」
「そりゃ、あんたにしたらそうかもね」
「そうだね」
「雨と晴れ、どっちが好き?」
「どっちも」
「雨が好きって言うと、変な顔されない?」
「かもしれない」
「変な顔されるから、言う相手を選ぶようになった」
「そういうこともあるだろうね」
「そんなことばっかり」
「かもしれない」
そんな話をしながらバス停についた。
空は本当に綺麗な青色をしていて、僕は何かを思い出しそうになった。
それが何か大切なものだったような気がして、少し考えてみたけれど、結局何も思い出せないままだ。
「わたしの家、ちゃんとあるかな?」
すみれは、そんなことを心配しはじめた。
この世界がどういうものか、今ここがどういう状況なのか、彼女はどうでもいいみたいだった。
ただ、着替えと金と寝る場所だけが問題だというみたいに。
たしかに本当はそれ以外に問題なんてないのかもしれない。
すみれといると不思議な気分になる。どうやっても生きていけそうな気がしてくる。
◇
すみれの家があるという住宅地についたのは昼過ぎのことだった。
そこは僕の知っている場所だった。姉が住んでいるはずの場所だ。
すみれには何も言わなかった。僕は彼女の案内に従いながら、姉の家を探してみたけれど、どこにもその家は見つからなかった。
なんだか不思議な気分になった。どういう基準でこの世界が変化しているのか、僕にはよく分からない。
知る必要もないのかもしれない。
すみれの家につくと、彼女は堂々と玄関の扉を開けようとしたが、鍵が掛かっていた。
「ふむ」と彼女は少し考えるような素振りを見せた後、ポケットから小さなキーケースを取り出してその中の一本を鍵穴に差し込んだ。
鍵はあっさりと開いた。
「開いた」とすみれは僕の方を振り向いて笑った。僕も笑っておいた。
不思議だと思ったけれど、あんまり深く考えないことにした。
深く考えたところでどうなるというものでもない。
彼女は当たり前のように玄関の扉を開けた。「ただいま」とすら言った。
「誰かいるかもとか、思わないの?」
僕は一応、そう訊ねた。
「見つかって、何か問題ある?」
「ないとも限らないと思うけど」
「まあ、たぶん大丈夫」
「そういえば、妹がいるって言ってなかった?」
「……たぶん、この時間はいない」
その言い方に何か含みを感じる。
すみれは靴を脱いで、当然のように家の中へと上がり込んでいく。
「なに止まってるの?」
「上がっていいの?」
「それこそ、不自然でしょう」
「……たしかに」
すみれは廊下を進み、奥になった階段を昇る。
僕はそれを追いかけた。
他人の家の匂いがした。
「……ね、あの、変な街、あれは、心象みたいなものだって話、したでしょ?」
「ああ、うん」
彼女は階段を昇りながら、こちらを振り向かずに話し始めた。
「さっきは言わなかったけど、あの、ざくろって子」
「……うん」
「わたしの妹にそっくりなの」
「……」
「ていうかね、わたしの妹、ざくろって言うんだ」
「……」
「どういうことだと思う?」
「さあ?」
「だよね」
僕らは揃って首をかしげた。
すみれの部屋は、色褪せて見えた。
「わたしの部屋だ」と彼女は言った。
「本、CD、雑誌、DVD、服、小物……うん。わたしだ」
「ホントに?」
「見て」と言って彼女が僕にさしだしてきたのは、古い学習机の上に置かれていた一冊の教科書だった。
「わたしの名前」
たしかにそこには、咲川すみれと書いてあった。
「去年のだけど、たしかにわたしの名前」
「……」
「あとの問題は、こっちのわたしがどういう生活を送っているかだけど……」
「こっちのすみれ、今もどこかにいるのかな?」
「どういう意味?」
「こっちのすみれがあっちに行ってたりして」
「めんどくさそう」
「……こっちのすみれも似たような性格だとしたら、鉢合わせしても問題なさそうな気はするな」
「そうかも」
すみれは軽く笑った。
「それで、これからどうする?」
「ん。どうしよっか」
すみれはそう言いながらベッドに横になった。
「……疲れた?」
「まあ、うん。歩きっぱなしだったし」
「たしかに」
「ねえ、ちょっと眠ってもいい?」
「……誰か来たらどうする?」
「どうしようね……」
そう言いながら、彼女は瞼を閉じてしまった。
そのまま寝息を立てはじめる。僕は溜め息をついた。
まあ、べつにいいか、と思った。
誰かに見つかって、たとえば不法侵入かなにかで警察を呼ばれて、それで?
僕たちは奇妙なことに巻き込まれた。そして自分の家を訪れて休んだ。
それはそんなに悪いことだろうか?
ひょっとしたら、たいして悪いようにはならないかもしれない。
そう考えるのは開き直りなのか。
それとも僕は、本心ではこんな事態をどうでもいいと思っているのかもしれない。
そんなことを考えて、頭を使った気になったところで、僕も少し眠くなった。
僕はすみれに一応声を掛けてから、部屋の隅にあったクッションを枕にしてカーペットの上に座り込む。
どうしてこの部屋が色褪せて見えたのか、少し分かった気がした。
この部屋にあるものは、色彩が薄いのだ。
鮮やかな色のものがほとんどない。それは不思議と心地よい気がした。
僕はそのまま眠ることにした。
何か悪いことになるかもしれない、とも思う。
でも、その予感は本当だろうか?
“悪いこと”ってなんだ?
現状以上の悪いことなんて、どうやったら起きるんだ?
僕にはよく分からなかった。
つづく
おつです
◇
目をさましたのは夕方を過ぎた頃だった。
「起きた?」と、すぐ隣からすみれの声が聞こえた。なんだか楽しそうだった。
「うん……今、何時?」
「四時ちょっと前。お腹すいたから、ごはん買ってきちゃった。なにか食べる?」
そう言って、彼女は傍に置いてあったビニール袋に入ったおにぎりを取り出した。
スナック菓子に炭酸飲料、よく見ると酒とつまみと煙草も入っている。
「……酒盛りでもするの?」
「あはは」とすみれは他人事っぽく笑う。
「どう? お腹すいてない?」
「先に、シャワーを浴びたいかな」
「あー、そっか。替えの服、ないけど」
「いいよ。明日買う」
「うん。選んであげる」
すみれは楽しそうだったし、僕も否定しなかった。
「誰も帰ってきてないの?」
「たぶん。そういう家だから」
どういう家だよ、と僕は思ったけど、べつに問い詰める気にもならなかった。
「歯ブラシ買ってきたよ。いる?」
「いる」
「あとね、インスタントカメラ」
「なんで?」
「いえーい」
ぱしゃ、とすみれは勝手に僕の写真を撮った。
「……なに、急に」
「なんとなく」
本当に理由はなさそうだった。
とりあえず僕はすみれの案内に従ってシャワーを浴びて、それから部屋に戻ってすみれの買ってきたおにぎりを食べて、
この世界のすみれの部屋のなかで、遠慮がちに煙草を吸った。
僕はいくらかすみれに遠慮を感じていたけれど、よく考えればこいつだってこの世界においては不法侵入者なのだ。
そう考えると何もかもがどうでもいいような気がして、何かおもしろいものでもないかと部屋をあさってみたりした。
「あ、クローゼットの引き出しはあけないでね」
「なんで」
「下着が入ってるから」
「この世界では違うかもしれない」
「とかいいつつ開けようとしない」
「下着がひょっとしたらジョン・コルトレーンのレコードになっているかもしれない。その可能性を誰かに否定できると思う?」
「遼一、意外と欲求に素直。言葉はひねくれてるくせに」
なにせ途中で酒が入っていた。アルコールが入ると性格が変わる。気分が変わる。気持ちが変わる。
からだのなかの物質の変化。それだけで景色すら違って見える。
すみれの顔だって紅潮していて、気分よさげに緩んでいて、おかげで僕も気分がよかった。
「ね、そんなに下着って見たいもの?」
「べつに。物珍しいから」
「見せたげよっか?」
「……」
「ん?」
「冷静に考えると、そこまで見たいものでもないかも」
「うそつき」とすみれは笑った。たしかに僕は今嘘をついたような気がする。
とはいえ彼女も本気ではなかったらしく、どうでもよさそうに溜め息をついただけだった。
「遼一」
「なに?」
「何か話をして」
「何の?」
「遼一の」
「話すことなんてなんにもないよ」
「ホントに?」
「本当に」
「でも、何か話して」
「どうして?」
「なんとなく、だけど。わたしと遼一は仲間だから」
「仲間」
仲間。面白い表現だった。
「ね、遼一はどうして死にたがりなの?」
「べつに、死にたがりってわけじゃない」
「そう?」
「ただ、なんていうか……そうだな」
「うん」
「たとえば、僕らは、べつに望んで生まれてきたわけじゃないだろ?
頼んだわけじゃない。頼んだわけじゃないのに、勝手に生んだんだ」
「……うん」
「勝手に生んでおいて、後は何が起きても知らないから好きに生きろなんて、無責任だって思わないか?」
「……」
「生んでやっただけで感謝しろとか、育ててやった恩がどうとか、親には感謝して当たり前だとか、そういうの……気持ち悪いんだ」
「……ふうん?」
「退屈?」
「少しね」
◇
それから二時間ほどばかみたいな話をしながら過ごしたけれど、その間玄関の扉の開く音は一度もしなかった。
すみれのいうとおり、そういう家らしい。
酒を飲んで満足した僕らはふたたび眠ることにした。シングルのベッドで薄いタオルケットにくるまって抱き合って眠った。
べつに何もしなかった。不思議とお互い文句も言わなかった。
当たり前のように朝が来て、そのときもやはりすみれの家で、日付もおかしなままで、すぐ傍からすみれの寝息が聞こえた。
そうして僕たちは片付けをしてからすみれの家をあとにした。
まずは服屋の開店を待つ為に、近くにあるという喫茶店に行ってコーヒーを飲んで暇を潰した。
特に話すこともなかったから、雑誌ラックに立ててあった雑誌で暇をつぶしながらトーストを食べた。
服屋に行くと僕よりもすみれが楽しそうにはしゃいだ。僕は普段の自分なら選ばないようないくつかの服を買わされた。
不思議と悪い気はしなかった。
買い物を済ませたあと映画館に向かった。
すみれの観たがっていた映画は昼過ぎからの上映で、僕たちはそれまでウィンドウショッピングをしながら暇を潰すことにした。
ただなんとなく、目抜き通りを歩きながら。
篠目あさひが僕の前に姿をあらわしたのは、そんなときだった。
◇
はっきり言って、僕は篠目の姿を見たとき、とても混乱した。
図書委員。そう、図書委員。僕と一緒に図書カウンターの中にいた。そういうことを思い出す。
すると、どんどんと「ここに来る前」の自分のことを思い出してしまう。記憶はするすると頭の中に巻き取られていく。
篠目あさひは僕の顔を見て唖然としていた。
「碓氷……?」
僕は彼女の「唖然とする表情」なんてものを初めてみた。
けれど、表情のことを除いてしまえば、篠目あさひは僕の知っている篠目あさひのままだった。
顔つきも背丈も喋り方も、篠目あさひはあくまでも篠目あさひ的だった。
そして、僕はあくまでも冷静になろうと心がける。この篠目あさひは、僕の知っている篠目あさひではない、と。
「……あなた、誰?」
「……誰、って」
どういうこと、と僕が訊ねようとしたとき、篠目の視線は僕から逸れて人混みの方へと流れていった。
僕は、その視線の流れを追う。隣にいたすみれも、同じようにした。
さすがにどきりとした。
そこにいたのは僕だった。
僕と、生見小夜だった。
仲良さそうに、並んで笑って歩いている。
なるほど、と僕は思って、篠目の方をもう一度見る。
彼女は、僕ではない『僕』を見ていた。
つづく
おつです
◇
映画の予定を繰り下げて篠目あさひと喫茶店に入ったのは、たいした理由があってのことじゃなかった。
それでもそのまま映画館に入る気にはなれなかったし、篠目も僕に聞きたいことがあるような顔をしていた。
ただひとり、予定を狂わされたすみれだけが少し不機嫌そうにしていたけれど、
僕の都合を考えて仕方ないと思ってくれたらしい。最後には黙っていた。
「あなた、誰?」
と、街で僕と顔を合わせた直後、開口一番に篠目は言った。
「誰、と言われても」と僕は困ってしまった。
とにかく落ち着いて話でもしてみようじゃないか、と僕らはどちらが言い出すでもなく喫茶店に入った。
別に聞きたいことがあるわけでもない(こっちの篠目の話を聞いたところで、僕には何の関係もない)。
それでも話す気になったのは、単に興味が湧いてきたからだ。
人には、人生のうちにどんな努力をしても絶対に顔を見ることのできない相手がひとりだけいる。
それは自分自身の顔だ。
鏡は左右が反転している。映像を撮っても写真を撮ってもそれが「実際の顔」とは言えない。
そんな自分の動いている姿を、僕はさっき目の当たりにしてしまった。
そのせいで、なんとなく、この世界にやってきたことは、僕にとって何か意味のあることなんじゃないかという気がしてきた。
ただの誇大妄想かもしれない。
そして実際にテーブル席で篠目と向かい合って座ると、彼女が自分のいた世界の彼女とどう違うのかわからなくなってしまった。
「あなた、誰?」
そうもう一度訊ねてきた篠目の様子は、やはり僕の知っている彼女とさして変わらないように思えた。
「碓氷遼一」
と僕は言う。
「うそ」
と篠目は言う。
まあ、そういうだろうと分かっていたので、
「だよね」
と頷く。
「似すぎてる」
「うん?」
「兄弟では、ない」
「兄弟にしては似すぎている」って意味だろうか?
「あなた、碓氷の何?」
何、と来た。
難しい質問だった。
「逆にひとつ聞いてもいい?」
篠目は怪訝げに眉を寄せただけで返事をよこさなかった。
彼女らしいと言えば彼女らしいけれど、そんなふうに警戒してみせる篠目の表情をあまり見たことがなかったから、少し意外に思う。
「きみは、碓氷遼一のなに?」
「わたしは……」
言葉に詰まったあと、篠目はひらひらと店内に視線を泳がせた。
広い店じゃない。僕ら以外の客は二、三組。店員がコーヒーを運んでくる。僕は何も言わずに口をつける。
篠目はそれから何も言わなかった。続く言葉はいつまで待っても出てこなかった。
答えが浮かばない、というふうではない。
言いたい答えがたしかにあるけれど、言葉にしたら嘘になってしまうというような表情で口をつぐんでいる。
僕は質問を変えることにした。
「さっき、碓氷遼一がいたね」
「やっぱり違うんだ」
「なにが?」
「他人事みたいな言い方するから」
「残念だけど、あれもどうやら碓氷遼一だ」
「……」
話してもよかったし、話さなくてもよかった。
篠目を前にすると不思議な気分になる。
この世界の人間に対して、僕は何を言ってもいいし、何も言わなくてもいい。
なぜなら、本来関係がないから。
自分が圧倒的優位者になったような、万能感――錯覚。
「篠目あさひ」
と、僕は声に出してみた。
篠目は目を細めた。
「……あなた、誰?」
本当に、篠目だ。
彼女は、思考の道筋を言葉にしない。
僕は、その思考を結論から逆流して推測するしかない。
何も語らずに死んだ人間の行動から、何をしようとしていたのかを推測しようとするみたいに。
どうして名前を知っているのか、と彼女は思ったのだろう。
だから、何者なのか、と訊ねてきた。
「図書委員?」
と僕は訊ねてみる。
篠目はさすがに不気味に思ったみたいだ。僕はなんだかおかしくなって笑った。
「遼一、性格悪ーい」
となりで退屈そうにコーヒーを飲んでいたすみれが口を挟んできた。
僕もさすがに自重することにした。
「女の子いじめたいだけならもう行こうよ。わたし、映画見たいんだってば」
「ん。まあ、それでもいいんだけどね」
「……あなたたち、何なの?」
「言わないよ」とすみれは言った。
「ていうか、言ったって信じないでしょ?」
まるで悪者みたいな台詞だ。
僕らがさっきから言っている言葉は。
「それ以前に、あなた、遼一とどういう関係なの?」
「委員会仲間じゃないの?」
すみれの言葉に僕が適当な返しをすると、篠目は意外そうな顔をした。
「……違う。学年が一緒なだけ」
「……へえ。なるほどね」
こっちの僕は図書委員じゃないらしい。納得がいくといえばいく話だ。
「……話が進まない」
焦れたように、篠目は吐き捨てる。僕は笑いだしたくなる。
「なにせ、話を進めたいなんて思ってないからね」
それでも、篠目は席を立たない。
知り合いに瓜二つの人間が、自分を知っている。
彼女じゃなくても、投げ出したら落ち着かないだろう。そう思うと不憫な気もしてくる。
「篠目はさっき何をしてたの?」
昔からの友達みたいに、あっちの篠目に話しかけるよりずっと気安く、僕はそう訊ねた。
篠目は少し考え込むような様子だったが、このままでは埒があかないと思ったのか、結局話し始めた。
「碓氷を見てた」
「……なぜ?」
篠目は答えない。
「好きだからでしょ」とすみれがあっさりと言う。
「あなた、ストーカー?」
篠目は答えない。
否定すらしないのが答えのようなものだった。
つづく
おつです
◇
そこからべつに話が弾むわけもなくて、篠目と僕らは別れようと思ったんだけれど、
お互いに別れるためのきっかけもなくて、最後にはなぜか彼女を映画に誘っていた。
ここまで来ると僕の気まぐれにすみれも慣れきっていて、諦めたように「どうぞお好きに」と笑っただけだった。
別に悪い映画でもなかったけど、篠目は「期待はずれだった」と観終わったあとに肩をすくめた。
「観たかった映画なんだろ」
「観なかったほうがよかったかも」
「なんだかそれって寂しいな」
「うん。だから、観なければよかったの」
僕とすみれの会話を横で聞きながら、篠目は戸惑ったように視線を泳がせていた。
あの浮世離れしたような態度とは違う。
まるで、ごく普通に、コミュニケーションが苦手な女の子みたいだった。
僕たち三人は、それからまた喫茶店に入った。
別に話したいことがあったわけでもないけど、別れるきっかけも掴めなかった。
沈黙を持て余しながら、僕は、ずっと気にしないようにしていたことについて考えてしまった。
学校のこと、バイトのこと、家のこと……。
そのあたりのことは、べつにどうでもいい。
誰かが迷惑しているかもしれない、誰かが割りを食っているかもしれない、でも、そんなのは俺の知ったことではない。
気がかりなのは、ひとつだけ。
愛奈が、どうしているのか、と、それだけ。
でも、それだってきっと、罪悪感が後付した心配に過ぎないのかもしれない。
自分の気持ちなんて、自分でもよく分からない。
◇
ずいぶんと長い沈黙を破ったのは、篠目だった。
「ねえ、あなたたちは、何者なの?」
「……何者?」
何者。何者なんだろう。それもよくわからなかった。
「そんな質問、するだけ無駄だよ」
そう言ったのはすみれだった。僕もそう思った。
「……そうかもしれない」
さっきまでとは違う様子で、篠目は頷く。
「ねえ、あなたたち、ひょっとして、何か困ってる?」
「……どうかな。困っていると言えば、困っているかもしれない」
「実はね、わたしも困ってるの」
そうですか、と僕は思った。それ以外に感想の見つけようがなかった。
篠目は僕らにかまわず話を続けた。
「あのね、碓氷――もうすぐ殺されるの」
「……」
はあ、と思った。
「殺される?」
「うん。ねえ、最近この街で起きてる殺人事件について、知ってる?」
急に、物騒な話になってきた。
「学生が殺されてるの。四人。全部夕方の四時頃。ナイフで刺されて。何回も何回も刺されて」
「……」
「次は碓氷が殺される」
「……ちょっと待ってもらっていい?」
「なに?」
「犯人は捕まってないんだよね」
「そう」
「誰が疑わしいとか、そういうのは?」
「なんにも分からない」
「じゃあ、どうしてきみは次に狙われる人が分かるの?」
「夢で見たから」
篠目は自分でもちょっと笑いながら言った。
「全部、夢で見たの。殺される人の顔、殺される瞬間の出来事。夢で見た通りの人が、夢で見た通りに殺された」
「……」
からかっているんだろうか、と、少し思う。
「今は……碓氷が殺される夢を見る」
すみれがバカバカしそうに笑った。
「だってよ、遼一。どうする?」
「そうだね、どうしようね」
本当に、どう反応していいのか、困った。
「あんまり、いい気分はしないかもしれないな」
べつに篠目の言うことを真に受けたわけじゃない。
夢で見た……? 誇大妄想かなにかとしか思えない。
でも、僕らは既に不思議なことに巻き込まれていて、だから、彼女の言葉を否定する理由もはっきりとは見つけられない。
だからといって、それが自分にとって重大なことだとは、あまり思えない。
どうしてだろう。
「……僕たちも困ってるんだよ」
篠目は、僕の顔をじっと見つめてくる。
「実は僕たちはこの世界の人間じゃないんだ」
と、僕もやはり、言いながらその言葉のバカバカしさに吹き出してしまった。
この世界の人間じゃない。おもしろい。
「並行世界って言って伝わるかな。とにかく、こことは違う世界から来て……こことは少し違う世界から来て……放り出されたんだ」
「……帰れないの?」
「……そうだね」
帰りたいかどうかも、よくわからない、と、そう言ったら混乱してしまうだろう。
「当然、この世界には僕の居場所に僕がいて、この僕の居場所はどこにもない。それは楽ではあるんだけど、大変でもある」
「分かるような気がする」
「とにかく、厄介な状況ではあるんだ」
「それなのに映画を観てたの?」
「うん。途方に暮れてたから」
「……」
篠目は呆れたみたいに溜め息をついた。
「……帰る方法、あるの?」
「どうかな……あったら、考えることが減っていいんだけどね」
篠目は僕の言い方が引っかかるみたいに眉を寄せた。
「……行き場がないなら、わたしの家に来る?」
今度は、その言葉を僕らが訝しむ番だった。
「帰る手段を探すにしても、そうしないにしても、とにかく、拠点は必要でしょう?」
「家の人は?」
「いないから大丈夫」
「……」
「そのかわり、手伝ってほしいことがある」
「……なに?」
「事件を未然に防ぎたいの」
僕は、少しだけ考えた。
「協力しろ、と?」
「そういうことになる」
「ふむ」
「おもしろそうだね」とすみれは言った。本当に面白がってるみたいだった。
まあ、たしかに、いつ帰れるかもわからないのに、いつまでもすみれの家にいるわけにもいかない。
とはいえ、それは篠目の家でも同じことではあるのだが……。
「……答えは後でいい。とにかく、今日はうちに来たらいい」
僕は少しの間篠目の表情をうかがったが、結局溜め息をついて頷いた。
「まあ、とりあえず、助かることは助かるしね」
つづく
おつです
◇
篠目の家には誰もいなかった。誰もいない家ばかりにやってきてしまう。
「親御さんは?」と訊ねると、
「離婚調停中」と返事がかえってくる。
そうですか、と僕は思った。
僕とすみれはすぐさま篠目の私室に通された。彼女は僕たちのためにコーヒーを入れてくれた。
「粗茶ですが」
「コーヒーだと思うけど」
「粗コーヒーって語呂悪いし」
そうですね、と僕は思う。
「それにしても、本当に碓氷そっくり」
「本人だからね」
「仕草がぜんぜん違うのに」
そう言われても、僕はこっちの僕をあまり見ていないから分からない。
篠目の部屋は意外と普通な感じだった。一番目につくのは本だ。綺麗に整頓されている。他のものは収納されているらしい。
「綺麗な部屋だね」と僕はとりあえず思ったとおりの感想を言った。
「散らかってますが」と篠目は言う。
「いや、綺麗だって言ったんだけど」
「社交辞令です」
本当に、この子との会話は難儀だ。
「掃除とか整頓とか、好きなので」
「ふうん」
「遼一は嫌いでしょ」と、堂々とした態度でクッションに腰を下ろしたすみれが言った。
「なんでそう思う?」
「部屋、散らかってそう」
正解だ。僕は掃除とか片付けとか、そういうあれこれが大の苦手だった。
基本的に自室は混沌としている。
何がどこにあるのか、どうしてそれがそこにあるのか、僕は自分のことなのに分からなかったりする。
「ふたりは恋人同士?」
「ふたりって、誰と誰?」
篠目の質問に問を返すと、彼女は僕とすみれを交互に指差した。
「違うよ」
「うん。違うね」
「ただのお友達?」
「友達ですらない」
「どういう関係?」
「しいていうならセフレだね」
「せふれ」
すみれの軽口を、篠目は鸚鵡返しした。
「知らない世界」
「すみれ、適当なこと言わないでくれる?」
「でも、わたしたちの関係を言い表す的確な言葉だと思うの」
「どこが」
「お互いがなんかもやもやして、すっきりしなくて、楽しいこととか気持ちいいことがしたくて、一緒に行動してる」
「……それがセックス?」
「観念的セックス」
違うと思う。
「あの。そういうの、よくないと思います」
篠目が僕の方をまっすぐに見てそう言った。
「僕もそう思う」
「よくないと思うのに、そういう関係なの?」
「そういう関係じゃない」
「つまり、なんとなくもやもやして、楽しいことがしたいから一緒に行動しているわけではない?」
「……ではない、こともないかもしれない」
「つまり、観念的セックスフレンド」
「その言い方やめて」
僕はなぜか落ち込んだ。
「それで、結局、どういう関係?」
答えないと、またすみれと篠目がふたりで話を混沌とさせるような気がしたから、僕は真面目に答えることにした。
質問に真剣に答えるというのは、あんまり得意ではないんだけど。
「偶然会って、話してるうちに……意気投合、して」
「したっけ? 意気投合」
「したことにしてくれ。話が進まないから」
頭を抱える僕を見て、すみれは楽しそうにけらけら笑った。
「それで、妙な都市伝説の話になった」
「都市伝説?」
「そう、都市伝説。廃墟の遊園地のミラーハウスに行くと……」
そこまで言って、そういえばこの話を僕に教えてくれたのは篠目だったと思いだした。
「聞いたことない? その話」
篠目は首をかしげた。
「聞いたことない」
「……」
それがなにを意味するのか、今の僕にはよく分からなかった。
「……とにかく、その噂のミラーハウスに行って、出てきたら、こっちにいた」
「つまりふたりは、行きずりの関係」
「その言い方やめて」
「……行きずりって、何かダメな言葉だった?」
「ダメじゃないよ。遼一の頭がやましいだけ」
勝手にやましいことにされてしまったが、今の流れだと否定もしにくい。
すみれはそのまま、篠目の方を向いた。
「えっと……名前、なんだっけ?」
「篠目あさひ」
「あさひ。変な名前」
「あなたは?」
「咲川すみれ」
「綺麗な名前」
「……それ、変な名前って言われるより妙な気分ね」
すみれはちょっと嫌そうだった。
「ふたりは並行世界から来たって言ってたけど、そのミラーハウスが原因ってこと?」
「そう。まあ、いろいろあったんだけど……」
すみれが、面倒そうに手を振った。僕もひとつひとつ説明する気にはなれなかった。
「望んだ景色を見ることができる、って噂だったんだ」
「景色?」
「そう。ミラーハウス。で、出てきてみたら、この世界だった」
「じゃあ、ここはあなたたちが望んだ景色?」
「……そういう解釈になるかな、やっぱり」
「あなたたちの世界って、こっちとどう違うの?」
「遊園地の様子が違った。乗ってきたバイクもなくなってた」とすみれは言う。
「噂も流れてた」と僕。
「あとは?」
「……きみの言ってた、殺人事件って奴。けっこう話題になってるんだろ?」
「あ、うん。ワイドショーなんかで取り上げられてる」
「じゃあ、それもあっちにはなかった」
「殺人事件を望んでたの?」
「……ある意味じゃ、そうかもね」とすみれは皮肉っぽく言った。
僕はもうひとつ思いついたことがあったけど、言ったら何を言われるかわからなかったので黙っておいた。
「何か、思い当たることがあるって顔、してるよ」
それなのに、篠目はあっさりと看破してしまった。
本当に、この子はどっちの世界でも変わらない。
僕の韜晦を、彼女はあっさりと見透かしてしまう。
相性が悪いのだ、きっと。
「……さっき、僕がいた」
「うん」
「生見小夜と歩いてた」
「……イクミサヨ?」
すみれが、怪訝げに眉を寄せた。
「僕の、幼馴染。あっちじゃ、あんまり話をしなかった」
「生見さん? そうなの?」
「じゃあそれじゃない? 遼一」
とすみれ。
「望んだ景色。たぶんそれだよ。生見さんってこと一緒にいたかったんじゃない?」
「……」
僕は何も答えなかった。否定も肯定も、できそうにない。自分でもよくわからなかった。
そうと言われれば、そうかもしれない。
「自分でもよくわからない」と僕は正直な気持ちを話した。
「ともかく、わたしたちに関係する目に見える変化って、それくらいだもん」
「……すみれの方だって、何か変わってるかもしれない」
「それは否定しないけど」
「ところで」
と篠目は話を区切った。
「わたし、あなたのこと、なんて呼んだらいいの? 碓氷って呼んだら、混乱しちゃうでしょ?」
「それを言うなら、僕も篠目を篠目と呼んだら混乱する」
「わたしのことはあさひでいい」
「じゃあ、僕も遼一でいい」
「遼一。うん、分かった」
「……」
すみれは何か言いたげな顔をしていたけれど、結局何も言わなかった。
「でも、どうすれば帰れるのかな、そうすると」
「……とりあえず、そっちに関しては、ひとまずいいよ。考えてもわかりそうにないし」
僕はそこで話を変えた。
「それより、あさひの夢の話」
同級生と同じ顔をした同じ名前の女の子を、下の名前で呼ぶというのは、慣れるまで変な気分がしそうだった。
「それと、殺人事件の話」
「そうだったね」
「一応きいておくけど」とすみれは口を挟んだ。
「誇大妄想の類じゃないよね?」
篠目――あさひは、少し虚空を見つめてから、ぼんやりした調子で、
「保証はできないかも」
そう、困ったように呟いた。
つづく
おつです
◇
「ちょっと順番が前後するけど、最初に事実から話すね」
あさひはいくらか悩んだような素振りを見せたあと、そう言って話し始めた。
「最初に報道された事件は、先月のこと。七月二十日。地下鉄駅の通路の物陰。夕方。混雑している時間帯だった」
「……今日、何日だっけ?」
「八月十九日」とあさひは言った。ちょうど一ヶ月が経とうとしているわけだ。
「殺されたのは、近くの高校の二年生だった。刃物かなにかで。何箇所か刺されて」
「……」
「ちょうど夏休みに入ったばかりで、どこかに出掛けて帰っているところだったみたい。犯人は捕まってない。
人混みの中だったのに、犯人の目撃情報は極端に少なかった。でも、ないわけじゃなかった」
「目撃情報……」
「そう。殺された男の子と言い争っていた人がいたのを見た人がいた。
その人によると、同年代くらいの男の子と険悪な雰囲気だったのを見たらしい」
「……ちょっと待って」
「なに?」
「犯人、捕まってないんだったよね?」
「うん。でも、報道された情報はそこまで。あとは、ワイドショーなんかでいろんな憶測を挙げてたりしたけど、すぐに事情が変わった」
「……ああ、そうなるよな」
「ん、どういうこと?」
話を黙って聞いたままコーヒーを飲んでいたすみれが顔を挙げた。
「ひとつの事件として見るのと、連続の事件として見るのでは事情が変わってくるだろう」
「ああ、そういう……」
「あれこれ憶測しているうちに、データが増えたってことだな」
こくり、と、あさひは頷いた。
「二人目はね、うちの学校の女の子だったよ」
「……」
「七月二十七日。この子は、家の近くの雑木林で死体が見つかった。
おんなじように、刃物で刺されて亡くなってた。こっちは目撃者なんてほとんどいなかった。
人気のないところで、死体が見つかったのも、翌朝になってからだったって」
「……うちの学校、か」
それは、僕にとっても、自分の学校ということだ。
「僕の知ってる子かな」
「分からない。弓部 玲奈さんっていう、先輩だった」
「……ユベ、レイナ」
知らない名前だった。
「あさひは、知ってる人?」
彼女は、少し、何かを思い出すような表情になった。
「綺麗な人だったよ。でも、怖い人だった」
「怖い?」
「なんだろう、ね。どことなく、なんだけど」
「一応、定石通りの質問をしてみるけど、その前にひとつ」
「なに?」
「あさひは、その事件について、いくらか調べているんだよな?」
こくり、とまたひとつ頷く。
「ニュース、新聞、ワイドショーで調べられるだけの情報は、一応。
それから、被害者の友人関係なんかも、できるかぎり……。ツテがないから、同じ学校の人のことだけだけど」
「……なるほど」
あさひはそこで、ふう、と溜め息をついた。
「一応、これが、報道されてるふたつの事件」
僕は怪訝に思って質問した。
「……"報道されてる"。ずっとそう言ってたな」
「そう」
「順番が前後する、って言ってたのは?」
「うん。そういうこと」
「どういうこと?」
話を半分に聞いていたすみれが、どうでもよさそうに訊ねる。
「報道されてない殺人があるんだろ」
「どうしてそれを、あさひが知ってるわけ?」
「うん。だからね……それを、夢で見たんだ」
すみれは「ふむ」と眉を寄せた。
「胡乱な話になってきたね」
「ずっと胡乱だよ」と僕は言った。
「最初からずっと」
「そうだね」とすみれは頷く。
「正解」と、だいぶ遅れて、あさひも頷いた。
「まず、わたしが夢を見るのは、わたしが眠っているとき。あたりまえだけど……」
「まあ、そうだろうね」
「夢を見るタイミングはバラバラだけど、最初に見たのは七月の頭頃だった」
「……頭、か」
「うん。数日間。変な夢だなって思ってた。次の夢を見たのは、七月半ば頃。それが、最初に報道された事件」
「……どちらも、夕方に刺し殺される夢だった、ってこと?」
「うん。一つ目は、学校帰り、だと思う。詳しい様子までは分からないけど、物陰から突然、刺し殺した」
「……ひとついい?」
「なに?」
「あさひは、殺しの場面を夢で見てるんだよな?」
「そうだね」
「それが本当か、本当だとして、実際に起こったことを見ているのか、そこらへんの事情は一旦棚上げする。
でも、その場面を見てるんなら、犯人の姿や顔は分かるんじゃないのか」
「ううん。分からない」
「どうして」
「犯人の視点の夢だから」とあさひは言う。
「わたし、人を殺す夢を見てるの。いまは、碓氷を殺す夢を見てる」
なるほど、と僕は思った。
「夢で見た内容は……報道された内容とは、一致してる?」
「少なくとも、二件目と三件目……さっき話した、死体が見つかったものについては、一致してた」
「駅と、雑木林」
「そう」
「犯人の声は、聞き取れなかった。でも、いくつか、被害者側の声は聞き取れるものもあった」
「どんな?」
「それは……少し曖昧だから、あとで整理したい」
「了解。一件目と四件目の被害者は?」
「……行方不明ってことになってる」
「どこの誰なんだ?」
「うちの学校の生徒」
「……」
ずいぶん、偏っている。
「駅での殺人じゃ、目撃情報があったんだよね」
「そう。死体は発見されていないけど、警察も二人の行方不明を事件と関連付けて調べてもいるみたいで……」
「とすると、犯人は……」
こほん、とすみれが咳払いをした。
「遼一と同じ学校の生徒で、三人の同校生徒と何かの形で関わりがあり、かつ、二番目の被害者とつながりのある人物」
僕とあさひはとりあえず頷いた。
「そのうえで」とあさひが言葉を引き継いだ。
「碓氷とも、何かの形で知り合いだと思う」
「……でも、このくらいのこと、警察ならすぐに分かるはずじゃない? どうして犯人が捕まってないの?」
「犯人が学生ではない可能性、単に無差別殺人である可能性、いずれかが模倣犯である可能性、
行方不明が事件とは無関係の可能性、行方不明の人間が犯人である可能性……」
「……多角的視野」
「それでも、いくらか絞ってはいそうだけど」
「次の夢を見たってことは……犯行は続く可能性が濃厚ってことか」
「もし、行方不明になったふたりが、本当に殺されているなら、だけど」
なるほど。これは、厄介な話だ。
あさひの夢を信用するなら、情報はかなりまとまって手に入る。なにせ彼女は、犯人の視点で当の出来事を見ているのだ。
でも、そこで得た情報を信用しない場合、可能性は一挙に広がってくる。犯人どころか事件の全容さえ、はっきりしなくなる。
この世界の碓氷遼一が、本当に殺されるかどうかでさえ……。
それで、"誇大妄想の類じゃないと保証はしかねる"わけだ。
「行方不明になったふたりは、さっきも言ったけど、うちの学校の生徒。
一人目が、沢村 翔太。二人目が、寺坂 智也」
少なくとも、死体は発見されていない。
あさひの夢では、沢村は、どこかの公園かなにかにある公衆トイレのような場所で。
寺坂は、どこかの古い建物……小学校かどこかの、使われていない校舎のような場所で。
それぞれ刺し殺された……というより、"刺し殺した"、という。
「発見された二人の名前は、さっき言った通り、弓部先輩と……もう一人は、他校の、鷹野 亘って人」
「そのうち、殺されたこと、殺された日時が分かっているのも、発見されたふたりだけってことだ」
あさひは頷いた。
「鷹野 亘くんは、七月二十日、弓部先輩は七月二十七日」
「夢を見るようになってから殺されるまで、数日のスパンがあるとすると……最初の事件は、七月の上旬か」
「そうなる、と思う。最初に夢に出てきたのは沢村くん。学校に来なくなったのは、たぶん、七月六日頃」
「寺坂っていう奴の方は?」
「夢を見たのは、八月の頭頃だった。でも、夏休みに入ったから、いなくなったのがいつなのかは……」
「いなくなったのは、たしかなの?」
「……確証があるとは言わないけど、彼、野球部だったらしいから、一応聞いてみたら、部活に出てないって」
僕は、頭の中であさひの話を整理してみる。
まず、最初にあさひは、同じ高校の生徒、沢村翔太が公衆トイレかどこかで殺される夢を見る。
そして、彼は七月六日に失踪する。
次に、七月の半ば頃、駅で他校の生徒が殺される夢を見る。
七月二十日に、鷹野亘が実際に殺される。これは報道もされる。怪しい人物の目撃情報も、ここであった。
さらに三番目は、弓部玲子という同じ高校の先輩だった。
彼女は自宅近くの雑木林で、殺された(おそらく)翌朝に発見される。
最後が寺坂智也。使われていない校舎のようなどこかで、彼は殺される。
寺坂がいついなくなったか、実際にいなくなっているのかについては、はっきりとはしないが、それらしくはある。
そして八月十九日の今、篠目あさひは碓氷遼一を殺す夢を見ている。
……それにしても。
参ったな。
知っている名前がいくつかある。
「とにかく、人がこれ以上死ぬのは困る。協力してほしい」
特に困っていなさそうな口調で、あさひはそう言った。
「……そうは、言っても、どうする気?」
「そんなに難しくないよ」とあさひは言う。
「他のときは、知らない人ばかりだったから、名前を知ったのはあとになってからだった。でも、今回は違う」
「……」
「次は、碓氷が殺される。時間は、おそらく夕方。だったら、碓氷を監視しておけばいい」
おいおい、と僕は思った。
てっきり、ミステリー的な展開になるんだと思っていたぞ、と。
「一人じゃ心許なかった。それに、人の命が懸かってるのに、「おそらく」じゃ行動したくない。
そのためには、時間も足も何もかも足りなかった。でも、三人いれば大丈夫」
「ちょっと待って」とすみれ。
「わたしも頭数に入ってるの?」
あさひはすみれが飲み干したコーヒーカップを指差した。
う、とすみれは呻いた。安い賃金になりそうだった。
「ちゃんと犯人を捕まえたら、わたしもあなたたちに協力する。悪い話では、ないと思う」
ふう、と知らず溜め息が出た。
「……とすると、そろそろこの世界の僕のところにいかないとまずいわけだ」
「できたら、あまり目を離したくない」
それはそうだろう。なるほど、ストーキングにも道理があったわけだ。
「場所は?」
と僕は訊ねた。
「場所が分かれば、追いかけなくても済むかもしれない」
「本当に夢のとおりに起きるとは限らない」
「……」
それを言ったら、殺人自体がそうなってしまう。
「なるほどね」と、とりあえずそう言っておいた。
たしかに……死んでからじゃ遅い。
「それで……僕はどこにいるんだろう?」
「わからない。家かな?」
「だとしたら問題」とあさひは言う。
「碓氷は、自宅で刺されるみたいだから」
つづく
おつです
◇
この世界の僕の行動範囲について、僕は何も知らない。
家の位置は、とりあえず一緒だと考えていいと思う。
でも、生見小夜と行動を共にするということを、この僕はしない。
それをしているという時点で、僕にとっては理解不能の他人と変わらない。
そうなってしまうと、結局は足を使うしかなかった。
頭でいくら考えたところで優位になんて立てやしない。
とにかく僕たちは――安くはない交通費を払ってまで――僕の家に向かった。
思った通り、場所は僕の知っているところに違いなかったし、様子もあまり変わったようには感じなかった。
問題は、僕の姿が見えないことだった。
困ったことに、家の中にいるのかどうかさえ分からない。
僕の家は民家の並ぶ通りにあったから、どうしても人目につくし、長時間ぼーっと立っているわけにはいかない。
そうなると距離を置いてどこかから様子を窺うしかない。
そういうことのできそうな場所は、近所の駄菓子屋の前のベンチとか、子供たちが遊ぶ公園とかしかなかった。
見通しが悪いせいで、怪しまれずにずっと目を離さずにいるというのはほとんど不可能なように思える。
「ずいぶん人がいいよね」と僕は言った。あさひは何のことだか分からないみたいだった。
「きみは夢を見ただけだろ?」
「ん。まあ」
「夢なんて所詮夢だろ。誰にも内容なんてわからないんだし、知らんぷりしてほっといたって良いわけだ」
「べつにそれでもいいんだけど」とあさひは言う。
「寝覚めが悪いでしょう」
「夢だけに?」
「まさしく」
「なるほど」
八月の日没は遅い。公園のベンチから道端を眺める僕たちに見向きもせずに、男の子たちが遊んでいる。
すみれが退屈そうにあくびをした。
「不謹慎だよ」と僕は咎めてみせた。
「僕の命がかかってるんだぜ」
「あはは」とすみれは安っぽく笑った。僕も笑った。
「何してるんだろうね、僕は」
「生見さんと、さっき街にいたし、帰ってこないかもね」
「電話番号とか、知らないの?」と僕はあさひに訊ねてみた。
「誰の?」
「僕の」
「どうして?」
「あったら便利かなと思って」
「だって、碓氷と話したことないもん。遼一は、そっちのわたしに番号教えてたの?」
状況が状況だけに、何気ない質問もいちいちややこしい言い回しになってしまう。
「そういえばお互い教えてなかったかも」
「ほらね」とあさひは言ったけれど、何が「ほらね」なのか分からなかったし、たぶんあさひにも分からない。
「たいくつ」と眠そうな声ですみれが言った。
「遼一、何か面白い話をして」
「面白い話?」
「そう。じゃあ、あんたの話をしてよ」
「僕の? どんな?」
「そうだなあ……。あんたは、どうしてこんなところに来ちゃったの?」
「……」
すみれはどこか眠たげな顔で、どうでもよさそうにそう訊ねてきた。
あさひもまた、興味はなさそうだった。
「僕の家族の話をしたっけ?」
「家族? ……どうだったかな。聞いたような、聞いてないような。たぶん聞いてない。
でも、親に対する恨み言を言ってたのは覚えてる」
「恨み言……?」
そんなの、言ったっけか。
「勝手に産んだんだ、って」
「ああ……」
僕はそのことについて、特に何も言い足さなかった。
そうだな、と僕は考えた。どこから話せば伝わるだろう。
きっと、どこから話したところで、うまく伝わらないんだけど。
「僕にはひとり姉がいるんだ」
「お姉さん?」
「そう。けっこう歳が離れてて……もう結婚してるんだけど」
「ふうん」
「それで子供を産んだ。僕が……そうだな、たしか、八歳くらいのときだったはずだよ」
「お姉さんはいくつだったの?」
「二十歳かな」
「じゃあ、お姉さんとの年の差より、お姉さんの娘との年の差のほうが小さいのね」
「うん。だから、そうだな。妹みたいな存在なのかもしれない」
「……妹、ね。それが?」
「うん。でもね、姪が生まれて一年経ったかどうかって頃に、姉は離婚したんだ」
「ふうん」
すみれは特に興味も沸かないようだった。それはそうだろう。珍しい話でもない。
「姉は家に戻ってきて、僕らと一緒に暮らしてた。
でも、更に一年が経った頃、新しい恋人ができたんだ」
「はあ」
「それで妊娠した」
「……」
「姉は当然のように子供を産んで再婚しようとしたけど、姪は嫌がった。
嫌がった……うん。物心ついてない頃のことだから、本人がどう思っているかは分からないけど……。
とにかく、強い拒否反応みたいなものを見せた」
「……なるほど」
「でも、子供が出来た。姉は再婚しないわけにはいかなかった。
相手の男の方も、拒絶されると他の男の子供のことなんかどうでもよくなったみたいで……。
姉は姪を残して家を出て、その男と、その男の子供と暮らし始めた」
「それで?」
「なにが?」
「今は?」
「今もだよ」
すみれは少しうんざりしたみたいだった。
それから少し考え込んだあと、ああ、なるほど、と小さな声で呟いた。
「だから、なんだね」
「なにが」
「勝手に生んでおいて、って奴」
僕は少し考えた。
「……うん。そうなのかもしれないな」
姪を放り出した姉。
姪のために何もしようとしない姉。
そのまま、もう、数年が経ってしまった。
いろいろと事情はあるらしかった。
新しく姉の夫になった男は、なかなかに困った人間で、
結婚する前こそ僕や僕の両親の前で大きなことを言っていたけれど、
今となっては姪の面倒を見る気なんてさらさらなさそうだった。
その男の両親にとっては姉とその男の子供が初孫にあたるらしく、
こっちの姪のことばかり気にかけるうちの両親には、「こちらのことも考えろ」と腹を立てているらしかった。
そもそも、最初の男と姉が分かれたのだって、若くして結婚した姉が、結婚生活というものにうんざりした部分が大きかった。
同年代の人間はまだ好きなことをして遊んでいるのに、育児や家事に追われて好きに出かけることもできない日々。
その感覚は僕にだって理解できないわけじゃない。
でも、勝手だとも思う。
勝手な理由で姪は生まれた。勝手な理由で、まず実の父がいなくなった。
禍根を残さないようにという理由で、養育費を求めないかわりに、姪と顔を合わせないようにと姪の実父は言われた。
当時としてはそれが最善だと思えた。……今となっては、何が良かったのか分からない。
どちらも子供だったのだ。
勝手に産んで、
放り投げて、
それでも子供は親を愛さなければいけないのだろうか?
……いや。
それでも子供は、不思議と親を愛してしまう。そうであるからこそ、親を求めてしまう。
姪を見ていると、そう思う。
それは、とても痛ましい景色だ。
姉はもう、あたらしい子供と、あたらしい旦那と、あたらしい家で、あたらしい生活を始めていて、
それはもう、姪と姉が一緒に暮らしていた時間を、量的にはずっと上回ってしまっている。
僕はいつも不思議だった。
姪を放っておいて、それで当たり前の家庭のような生活を送れる姉の神経が。
彼女の側には彼女の都合があるのだろう……僕にだってそれは分かる。
けれど……。
「それで?」
「うん?」
「それが、どう繋がるの?」
ああ、そういえば、僕がこっちにきた理由について話していたのだった。
「……いや、うん。どうだろうな」
「?」
「あんまり、関係なかったかもしれない」
「なにそれ」とすみれは笑った。
僕も合わせて少し笑った。
そうして今も、姪は僕と一緒に、姪にとって祖父母にあたる僕の両親と暮らしている。
今でも、姉と顔を合わせる機会がたまにあると、情緒不安定になる。
異父妹と会えば、なおさら。
だから僕は……金を……貯めようと思った。
きっと、姉はあの子に何もしないから。姉があの子にすることは、すごく限られているから。
勝手に産んだんだ。勝手に産んだんだから、親にはその責任ってものがある。
それを親が果たさないなら……誰かが代わりにやらなきゃいけない。
それでも子供が親や大人を恨んだら、黙ってその言葉を引き受けなきゃいけない。
だって、本当に、産んだのは大人の勝手なんだから。生まれて苦しむことを、子供が選んだわけじゃないんだから。
そう、思った。でも結局……僕だって、姉と同じことをしているんだ、今は。
「……僕も、放り出して逃げてきたんだな」
結局、どれだけ言い繕ったって、そういうことだ。
僕だって、つらくなって逃げ出してきたんだ。
その日、僕たちは日が沈むまでその公園にいた。
暗くなってから、「僕」と生見がふたりで並んで一緒に僕たちの前を横切っていった。
こちらに気付きすらしなかった。
僕たちは暗くなってから、あさひの家へと戻ることにした。
そしてゆっくりと休んだ。僕は愛奈のことを考えたけれど、
逃げ出した身でどれだけ考えてみたところで、結局は帳尻合わせめいていた。
つづく
おつです
◆[Cassandra] A/b
お兄ちゃんが死んだと聞かされた日、わたしは泣いた。
そのときの自分が何を思ったのかもわからない。何を考えていたのかもわからない。
わけもわからずに、それでも両目からぽろぽろと涙がこぼれるのを止められなかった。
何がそんなに悲しかったのか。
彼にもう会えないのだと、そのときに実感していたわけでもない。
かわいそうだと、彼を哀れんでいたのでもない。
それでもわたしは泣いていた。
泣いている自分を、悔しいとも思った。
どうして泣いてしまうのか、と。
そんな自分を卑怯だとも思った。
理由は、今でもよく思い出せない。
それでもお兄ちゃんは死んでしまって、
死んでしまった以上は二度と会うことができない。
それはとても当たり前のことなのだ。
お兄ちゃんのことについて考えるとき、わたしが思い出すのは彼の笑顔のことだった。
怒ることも悲しむこともなければ、思い切り笑うということすら、彼はしなかった。
とても穏やかに笑った。破顔する、というのとは違う。表情はゆっくりと変わっていく。
その表情のゆるやかな変わり方が好きだった。
けれどあれは、今思えば、
意識的にそうしようとしていたからこそ、あんなふうに静かだったのではないだろうか。
お兄ちゃんについて、わたしは何も知らない。
一緒に過ごしてきたのに、なにひとつ思い出せない。
本が好きだった。音楽が好きだった。映画が好きだった。ひとりで旅行にいくのが好きだった。
それから?
わたしはお兄ちゃんについて、いったい何を知っていただろう。
◇
あなたの叔父さんが、わたしのお客さん。
そう言って、女は苦しげに顔をしかめた。
わたしは、ああ、やっぱりそうだったのか、と、そんなふうに思った。
「お兄ちゃんが、この世界を望んだの?」
「そういう言い方もできる」と彼女は言った。
「お兄ちゃんは、この世界にいたの?」
「それは確か」
「お兄ちゃんは……」
わたしは、何を訊ねるべきかもわからないまま問いを重ねようとした。
それを遮ったのはケイくんだった。
「なあ、帰れるんだろ?」
彼はうんざりしたような口調でそう言った。
「帰れるんだったら、とっとと帰ろう」
「でも」
「いいから、帰るぞ」
「ケイくん!」
わたしの声に、彼は気まずそうに視線をそらした。
「少し、話をさせて。お願いだから」
彼は押し黙る。わたしは黒服の女の方へと向き直った。
「ねえ、あなたはお兄ちゃんが何を望んだのか、知ってるの?」
女は溜め息をついた。
「わたしがそれを知っているとして、それを聞いてどうするつもりなの?」
「知らないの?」
「……残念だけどね、わたしは知らない」
彼女はそう言った。
「どうして? あなたが願いを叶えたんじゃないの?」
「……ねえ、少し落ち着いてくれる? ……うるさい」
その冷たい言葉の響きに、わたしは背筋がざわつくのを感じた。
ふう、ともう一度、彼女は溜め息をつく。
「どうでもいいでしょ、そんなこと。不満なら、そう。
ほら、わたしにも守秘義務っていうのがあるって思ってくれてかまわない」
とにかく、わたしがそれをあなたに伝える義理はひとかけらもない。
「うるさい」
と今度はわたしが言った。
「教えろ」
女の人は少し面食らったみたいだった。
「やめろよ」とケイくんが言う。
「もう少し待って」
「やめろって」
彼はそう言ってわたしの肩を掴んだ。
「聞いてどうする」
「どうって?」
「いいから帰るぞ」
「どうして?」
「夢なんだよ。全部悪い夢なんだ。考える必要のないことなんだよ。どうでもいいだろ、そんなこと」
「ちょっと黙ってて!」
口調が荒くなるのを止められなかった。
「……大切なことなの」
「本当に知らないの」
女は言う。
「わたしは結果から推測できるだけ。何を望んでいたかは本人にしか分からない。
だいたいのことは分かるけど、でもそれは、あなたたちが見たものから推測できるものとおんなじ」
「……お兄ちゃんは……」
わたしが。
この世界にはいなくて。
わたしのかわりに穂海がいて。
お母さんがいて。
お兄ちゃんは……。
思っていたのか。
わたしがいなければ、
わたしがいなければ幸せだったって。
「――どうするの? 帰るなら、帰る。帰らないなら帰らない」
「……ね、ケイくん。お兄ちゃんは、わたしなんていないほうがよかったんだって思う?」
わたしの肩に手をおいたままのケイくんにそう訊ねる。
彼は、少しの間黙っていた。
それから、心底呆れた、馬鹿馬鹿しいというふうに溜め息をついて見せた。
「あのな、冷静に考えてみろ」
その声のあまりの軽さに、わたしは戸惑った。
ケイくんはまるで、小さな子供の言い間違いを諌めるような調子で続けた。
「たしかにこの世界にはおまえがいなかった。でもよく考えてみろ。もうひとつ大きな違いがある」
「……大きな違い?」
「時間だよ」とケイくんは言った。
「叔父さんはここだと高校生だ。おまえの叔父さんは二十代だったんだろ。
そう考えれば単純だろ。叔父さんはやり直したいことがあったんだよ」
「……やり直したこと?」
「それが何なのかは俺にも分からない。でも、そんなの、誰にだってあるだろ?
やり直せるものならやり直したいことなんて、誰にだってある、と思う。
叔父さんの心の底にはそういう願いがあったんだと思う。あのとき女の子に告白してればとか、そういう類の」
「……」
「誰にだってあるんだ。後悔してることなんて。だから叔父さんは別の可能性を見てみたかったんだ。
そう考えるほうが自然じゃないか? いや、そもそも……この世界が本当に叔父さんが望んだ世界なのか?
俺たちは、べつの誰かがくぐった扉からここに来たんだ。だったら、その人の望んだ世界って考えたほうが自然だ」
「……」
「さっきこいつは、この世界を望んだのは碓氷遼一だと言った。でも、本当にそうかなんて分からない。
仮にそうだったとしても、おまえのことを叔父さんが疎ましく思っていたなんてことにはならないと思う。
叔父さんはただ、実際に自分が辿った人生とは別の可能性を見てみたかっただけなんじゃないのか?」
「……」
「なあ、思い出せよ。おまえの叔父さんは、おまえのことを疎ましく思っていたと思うか?
叔父さんがそう言っていたか? 生きていた頃、叔父さんはどういう人だった?
――その人は、そういう人だったのか?」
お兄ちゃんが。
どういう人だったか。
そんなの。
「……わかんない」
頭のなかが、ぐるぐると、混乱していた。いろんなことが頭をよぎって、わけがわからない。
「わかんないよ……」
お兄ちゃんは……わたしを。
「おまえがいなければ幸せだったなんて、そんなことあるわけない。
そんな考えは責任転嫁だ。おまえの叔父さんは、そんなふうに身勝手な考え方をする人だったのか?」
「……違う」
「だったら」
「違うけど!」
わたしは、
何を思えばいいのか、わからない。
「でも、そうなのかもしれない」
「……帰ろう。悪い夢なんだよ、こんなのは」
空はきれいな秋晴れで、
わたしの吐き出した息をどこまでも高く吸い込んでいく。
少し日差しはあたたかで、
それでもわたしの視界は灰色にくすんでいる。
「ねえ、本当にここは、お兄ちゃんが望んだ世界なの?」
女は、不自然に慎重そうな仕草でわたしとケイくんの表情を順番に眺めた。
そして一言、
「そう」
と頷く。
「……ケイくん、ごめん」
「……なんだよ」
「ケイくんは、先に帰って」
後ろから、息を呑む気配が伝わってくる。
「わたしは知りたい。お兄ちゃんが望んだ世界のこと。この世界が、どうなっているのか」
「……知ってどうするんだよ」
「わからないけど……」
「よく考えろよ。この世界には、叔父さんはいないんだ。
この世界にいるのは、昔の、しかもおまえが知ってるのとはべつの叔父さんなんだ。
どれだけたしかめたって、叔父さんが本当に何を望んでいたかなんて分からない」
それに第一……と、ケイくんはそこで言葉を止めた。
続きは言われなくても分かっている。
お兄ちゃんは、死んでしまった。
死んでしまった人間の願いなんて、知ったところで何になるだろう?
「でも知りたいの」
「……」
「お兄ちゃんのことを知りたい。お兄ちゃんが、どうしてこの世界を望んだのか。
何に苦しんで、何が悲しくて、何を望んでいて、何を思って、わたしにお金を残したのか」
「……人のことなんて、理解できないよ、きっと」
「でも、それはわたしにとって大事なことなの。どうしても、知りたい」
「たいしたことない話なのかもしれないよ」
「それならそれでかまわない」
そう口では言ったけれど、本当はわたしは、何か望んでいたのかもしれない。
お兄ちゃんがもっていた望み。お兄ちゃんが考えていたこと。
そこに何か、意味深いものがあることを。
「……わかったよ」
「うん。それじゃあ、先に帰ってて」
「何言ってんだ、バカ」
と言って、彼はわたしの頭を軽く叩いた。
「いたい」
「おまえみたいな危なっかしいのを放っておけるか」
「……ケイくんって、お人好しだよね」
「うるさいな。でも、なるべく早く済ませよう。……おまえの家族だって、心配してるかもしれないだろ」
「……あ、うん。そうかも。ケイくんの家族もね。……やっぱり帰ったほうがいいんじゃ」
「うるせえ」
と、ケイくんはまたわたしを叩いた。
「どうせまひるに服を返さなきゃいけなかったんだ」
「……ふたりとも、まだ帰らないんだね?」
黒服の女は、呆れたみたいに溜め息をついた。
「まあ、べつにいいんだけど」
「……ごめんね」とわたしは一応謝っておいた。
「でも、わたしから教えられることはないよ」
女はそう言って、わたしから目をそらした。
何かを隠したように感じられた。
「気が変わったら、すぐに言って。
ここまで来るのは不便だろうから、どこかに場所を変えることにする」
「……場所」
「そうだね。……このあたりで一番高い建物のてっぺんにいることにする」
「このあたりって……どのあたりだよ」
「この時期だと……うん。あと二年もすれば、一番じゃなくなるはずだね」
「……あ」
どこだか、分かった。
「じゃあ、もし帰りたくなったら、そこに来て」
そう言って、女の人は去っていった。
つづく
おつです
◇
女の人が去ってしまったあと、わたしたちはとりあえず歩いて、ようやく見つけたファミレスに入ることにした。
本当は、あの女の人を呼び止めようと思った。彼女にいろいろなことを確認するのが、一番手っ取り早いはずだからだ。
彼女はお兄ちゃんの望みを知らないと言っていたけれど、それでも顔や姿は見たはずだし、言葉も交わしただろう。
そのときの様子や、お兄ちゃんの何気ない言葉のひとつでも聞き出せれば、これからの行動方針の参考くらいにはなったかもしれない。
でも、彼女に話す気はなさそうだったし、それならいくら詰め寄ったところで仕方ない。
それに、なんとなくだけれど……わたしは彼女に、なんとなく嫌な雰囲気を感じていた。
その嫌な雰囲気というのは、別のどこかで感じたことがあるもののような気がしたけれど、それについてはあまり考えないことにした。
考えるべきことは他にあった。
「さて」とケイくんが口を開いた。
「これからどうする?」
それが問題だった。
ここに来るまでの間少し考えてみたけれど、やはりたいしたことは思いつかない。
頭に血がのぼっていたからといって、よくまあ考えなしに沈没間近の豪華客船に進んで残ろうとするようなことをしてしまったものだ。
いくらか気分が落ち着いた今になっても、やはり間違った判断だったとは思わないが、それにしてもとっかかりがなさすぎる。
とりあえずわたしたちはドリンクバーを頼んだ。割高にはなるが、お腹は空いていないし仕方がない。
日が出てきて気温があがったせいか、少し暑さを感じていた。まだ残暑が抜け切らないらしい。
だというのに熱そうなコーヒーをすすりながら、ケイくんは拗ねたみたいにわたしと目を合わせようとしなかった。
「あの、怒ってる?」
「怒ってはない。腹が立つだけだ」
「それって同じでは?」
「……そうだな。『頭にくる』じゃなくて、『腹が立つ』ってことだ」
「えっと?」
「なんとなくで解釈してくれ。べつにいいんだ、俺のことは。俺は最初から負けてるんだ」
「……何に?」
ケイくんは答えるかわりに、カップをテーブルの上に置いた。
「いいんだって、俺のことは」
もどかしそうに首を横に振って、ケイくんは話を変えた。
「それより、これからのことを話そう」
そう言われても、わたしにはケイくんの態度が気になって仕方なかった。
さっきは心強さが勝ってなんとも思わなかったけれど、彼はどうして残ってくれたんだろう。
無理矢理にだってわたしを従わせることだって、彼ならできたはずだ。
乗りかかった船だから責任を感じているのだろうか。
「最初に決めておきたいことがある」
「あ、うん」
「まず、期間。多少金はあるが、何日もこっちで耐えられるような余裕はない」
「期間……」
「余裕がなくなるとストレスが溜まる。ストレスが溜まると何をやってもうまくいかない。先の見通しは大事だ」
「……うん。そうだね」
「寝床に関しては、まあ、まひるがアテにできるだろうが……だからってずっと世話になるわけにもいかない」
わたしは頷いた。そう考えると、わたしたちにはあまり時間的余裕はない。
彼女は「帰りたくなったら会いに来て」と言ったけれど、それだって、いつ気が変わるか、忘れてしまわないか、わかったものじゃない。
それに……もし、元来た世界で同じように時間が流れていたとしたら、家族も心配している。
下手をしたら、浦島太郎みたいになりかねない。
「だから、あんまり長くいることはできない。長くても一週間だ」
「一週間」
「ひとつの目安だ。本当なら、今日明日で帰れるのが一番いい」
「……そうだね」
いろんな事情を考えるなら、一週間でも、ケイくんとしては多すぎるくらいだろう。
わたしはケイくんに甘えている……いつもそうだ。
わたしは、黙って頷いてから、心のなかで更に短く期限を定めた。
……今日を含めて、三日。明後日まで。もし、それで収穫がなければ、きっといつまでいても変わらない。
「とりあえず、ひとつめはそれでいいな。次は、勝利条件だ」
「勝利条件、というと」
「何をしたら、目的が達成されたことになるのか、だ。何を探してるかも分からずに歩き回っていても埒が明かない」
「目的……」
「おまえは、叔父さんが何を望んでいたのかを知りたいと言った。俺には、そのためにこの世界でできることなんて、見当もつかない」
「……」
わたしにも、よく分かっていなかった。この世界で何をしたら、お兄ちゃんの気持ちが分かるのか?
そのためには、きっと、この世界のお兄ちゃんの様子や、その周りで起きている出来事を見るしかないのだろう。
その結果、お兄ちゃんの望みについてなんて、なにひとつわからないかもしれない。
でも、わたしが知りたいのは、この世界のこと。お兄ちゃんのこと。
「さっきも、似たようなことを言ったかもしれないが、一応改めて言っておく」
「……うん」
「他人の心なんて覗いたところで、きっとろくなことはない。知れるとしても、知らないでいるのがマナーだと思う」
「……うん。そうだね」
他人の日記が目の前にあるからといって、興味本位でそれを眺めて、その人の思いを覗くのは、きっと浅ましい行為だ。
そのなかに、他人を呪う言葉や、他人を蔑む言葉がないとも限らない。
もしそれを見つけてしまったら、わたしはお兄ちゃんに落胆せずにいられるだろうか……?
きっとわたしは、どこまでも勝手な生き物なんだろう。
わたしはケイくんの言葉を受けて、頷いた。
「でも、やります。お兄ちゃんには悪いけど。わたしはお兄ちゃんのことを、知らなきゃいけないって思う」
いけない、ね、と、ケイくんは小さな声で呟いた。
「そのために、最初にわたしがすることはひとつ」
「というと?」
「この世界のお兄ちゃんと、話すこと」
「……そうなるよな」
そうなる。何よりもそれが手っ取り早い。
少なくとも、何かの足しにはなるはずだ。
この世界からわたしがすくい上げることのできるものなんて僅かに違いない。
それでもやるしかない。
日記ひとつ残さなかったお兄ちゃんの心の中を、わたしは勝手に覗き見る。
彼の思いをわたしが知らなければ……彼は、報われない、ような、気がする。
「……さっきは詳しくは言わなかったけど、ひとつ疑問があるんだよな」
「というと?」
「あの女、俺たちがこの世界に"紛れ込んだ"って言ってただろ」
「たしか、言ってたと思う」
「ここが叔父さんの望んだ世界だ、というようなことも言った」
「うん」
「でも、"紛れ込んだ"って言い方をされると、俺たちは別の人間の扉に紛れ込んだ気がしないか?」
「……あの、眼帯の人?」
「そう。仕組みがわからないから何とも言えないけど、単純に想像したら、あの人の望んだ世界に紛れ込んだような気がするんだよな」
わたしは少し考えたけれど、ケイくんが言ったとおり、仕組みがわからないので何とも言いがたかった。
「……まあ、俺の考えすぎかもしれないし、問題にもならないのかもしれない」
「あの女の人は、"使い回し"とも言ってたよ」
わたしの言葉に、ケイくんが頷く。
「意味深ではあるが……まあ、俺たちには関係のない話かもしれない」
「少し気にはなるけどね」
「そういえば」と、思い出したようにケイくんが声をあげる。
「"このあたりで一番高い場所"って、どこのことだ?」
「ああ。それ」
「分かるのか?」
「うん。二年で一番じゃなくなるって言ってたから」
「……」
「二年後に、そこより大きなビルが完成するはずだから」
「……ビル?」
「うん。そのビルが完成するより前なら、一番高い場所は……」
街の中心部に十五年以上前からある、ひとつのオフィスビル。
保険会社が保有している三十階建のそのビルの頂上には、無料で開放されている展望台がある。
彼女はきっと、そこで待っている。
つづく
おつです
◇
両親の不在が、わたしの心の奥底に暗い影を落としているわけじゃない、とは、もちろんわたしには断言できない。
けれど、それを理由にわたしが何かしらの性格上の欠陥を持っていたとか、精神的不安定さを抱えていたとか、そういうこともなかった。
と思う。たぶん。
問題なんて、誰だって大なり小なり抱えているものだ。
他人のそれと比べて、自分のそれが特別違うものだとは、わたしは考えない。戒めるまでもなくそういう実感がある。
ケイくんはそれを、初期値の違いだと言った。
ケイくんのお母さんが言い残した言葉や、ケイくんのお父さんがケイくんのお姉さんにしたことや、
ケイくん自身が考えたたくさんのことについて、わたしはほんのすこしだけ知っている。
べつに秘密にしているわけじゃない、とケイくんは言ったけれど、
わたしはそのことについて誰かに話す予定もないし、また話すべきでもないと思っている。
ケイくんはわたしとは違う。抱えている問題も、持っている強さと弱さの質も、わたしとはまったく違う。
でもそれは、人間がふたりいれば当たり前に浮き彫りになるような個体差でしかない。
◇
やることは決まった。
とはいえ、("この世界の")お兄ちゃんが学校を終えるまでは、話しかけるのも簡単ではない。
幸いまひるはお兄ちゃんと部活が一緒だと言っていたから、彼女を頼ればなんとかなるかもしれないが、
どちらにしても放課後までは手も足も出せない状態ということになる。
そうなるとわたしたちにできることは、昼の間は何もないことになってしまう。
途方に暮れたわたしにケイくんが提案したのは、図書館に行くことだった。
「元いた世界とこの世界がどの程度違うのか、把握しておいて損はないと思う」
迂遠な方法だという気もしたが、たしかに試してみる価値はありそうだった。
ひょっとしたらこの世界は、わたしたちが気付いているよりももっと大きな形で違っているかもしれないのだ。
(日本の首都が東京じゃなくなっているとか)
とにかく地方紙のバックナンバーならば図書館の蔵書にあるはずだし、
それを見ればこの世界に起きたさまざまなことについて、いくらか学べるかもしれない。
問題は、わたしたちが、七年以上前の記憶をしっかりと持っているかどうかということだ。
さて、図書館には駅からバスで三十分近く揺られなければならない。
停留所の名前は「図書館前」で、着いてしまえば目前に駐車場を挟んで白くて大きな建物がそびえている。
「……ねえ、ケイくん、ところで、今日って何曜日?」
「……さあ?」
わたしたちは朝起きてから、テレビも新聞も見ていなかった。携帯は使い物にならない。
日付すら怪しい。
「休館日だったりして」
「いや。車がいくらか停まってる。大丈夫だろ」
実際、図書館は開いていた。自動ドアをくぐった先にはコルクの掲示板がある。
わたしたちはそこで開館予定の案内ポスターを見た。
やさしいことに、かたわらの壁にはホワイトボードがあって、そこには今日の日付があった。
九月十三日。少しさびしく見えるが、おそらく何かの催しや企画があるときに記入するスペースなのだろう。
「……あれ」
「どうした」
「土曜日だね」
「ああ。休館日は月曜だろ?」
「うん。ううん、そのことじゃなくて……」
ケイくんは不思議そうに眉を寄せた。
「学校。休みでしょう?」
「……ああ、そうか」
お兄ちゃんの学校が終わるまでの時間潰し。そのつもりだった。でも、そもそも今日、お兄ちゃんが学校に行っているとは限らない。
「ちゃんと確認しとけばよかったな。時間を無駄にした」
「ううん、どっちにしても、休みってことになったら、簡単に捕まえられないよ」
まひるに相談して、と言いかけて、朝方、まひるが制服姿で学校に行くと言っていたのを思い出す。
「……部活に出てるかも」
「ああ、同じ部活って言ってたな」
「出てれば、だけど……」
「……あてもなく探すよりは、いくらかマシだろうな。どっちにしてもまひるにはもう一度会いにいかなきゃいけないだろうし」
どうする、とケイくんは訊ねてきた。わたしは少し考えた。
「……ちょっとだけ、新聞見ていこう。焦ったところで仕方ないし」
べつに、何かを恐れて後回しにしたつもりではない、と、自分ではそう思っている。
受付で新聞の縮刷版の位置を教えてもらい、あまり人気のない館内を歩いていく。
この図書館には何度も来たことがあるわけではないが、わたしの知っているそれとかわりはなさそうだ。
土曜日とはいえ、近くに大学があるせいだろうか、わたしたちより少し上くらいの学生たちの姿がいくつも見受けられた。
新聞の縮刷版というものをあまり目にしたことはなかったけれど、眺めてしまえばなんということはなかった。
わたしたちは特に調べたいことがあってきたわけではない。
とにかく起きたことだけ確認したいだけだ。そうであれば、見出しだけ追っていっても事足りる。
(書いた人には失礼かもしれないけど、時間もまた有限の資源なのだ)
そして少なくとも全国紙の見出しには、わたしたちに大きな違和感を与えるような内容のものはなかった。
なつかしさは、あったかもしれない。
昔は理解できなかった出来事。なんだか騒がれているなあと思っていただけのこと。
そういうことを、この年になって改めて見てみると、世界の見え方が変わるような感じがした。
わたしは、世界は徐々に変わっているんだと思っていた。
でも、そうではないような気がした。
世界が変わったのではなく、世界を見るわたしのまなざしの方が変わったのだ。
そんな感じがした。それもまた錯覚なのかもしれない。
世界は変わっている。でも、その変わり方は、いつもそんなに大きくは変わらないのかもしれない、と。
少なくとも……まなざしの変化ほど大きく変わることはないだろう。
わたしがそんなことを思っていると、ケイくんが不意にわたしの肩を指先でとんとんと叩いた。
「なに?」
今度は、指をよっつならべて上下に揺らし、「ちょっとこい」のジェスチャー。
図書館だからって、小声なら話せると思うんだけど。人気のある場所でもないし。
わたしはケイくんの横に近付いて、彼が手にしていた紙面に目を下ろした。
地方紙……2008年、8月……。
ささやき声で、「これ見ろ」とケイくん。
その言葉にしたがって、わたしは見出しに目を落とす。
少年 遺体で発見……。刺殺……現場には凶器と見られるナイフ……先月の事件……関連を調べて……。
被害者の名前は……。
「……沢村翔太……?」
「こんな事件、あったか?」
「……あった、のかな。わかんない」
「書き方によると、どうもこれだけじゃないみたいだ。この前にも、何かあったらしい」
「……だったら、なかったと思う」
そんなことがあれば、辺りで騒ぎになっていたはずだし、ニュースだってうるさかったはずだ。
第一、お兄ちゃんだって、この時期は高校生で、それだったら、話題の端にのぼっていてもおかしくないはずだ。
そんな記憶は一切ない。不安がらせないためにニュースを知らせなかった?
でも……こういうことがあるからあなたも気をつけなさい、と、おばあちゃんならそのくらいのことは言ってきそうだ。
「どうも、はっきりしないかな……」
「俺は記憶にないんだよな。他のニュースは、ああ、たしかにこんなことがあった、って思い出せるのもあるんだが……」
これはピンとこない、とケイくんは肩をすくめた。
「まあ、関係ないかもしれないが……少し物騒だ。俺たちも気をつけた方がいいかもな」
「うん。……ね、ケイくん」
「なに」
「少し、外を歩かない?」
わたしたちはロビーにあった自販機で紙カップのあたたかい飲み物を買った。
ケイくんはコーヒー、わたしはカフェラテだ。
湯気が立つカップを持ちながら、入口から出てすぐに脇の道に進んでいく。
丘陵地に立つこの図書館の南側には、なだらかな坂道に並ぶ木々の間を縫うような遊歩道がある。
秋になれば紅葉が綺麗だけれど、見頃にはまだ早い。木々の葉は瑞々しいとまでは言えないにせよ、緑に青に染まっていた。
鬱蒼としているというほどではないけれど、遠くを見ることはできないほどに、植物は密生している。
たぶん、誰かが通りがかりでもしないかぎり、誰もわたしたちに気付かないだろう。
誰も、わたしたちを見つけられないだろう。そんな気がする場所だ。
少し、肌寒い気もした。日差しはかすかに暖かかったけれど、吹き込む風は冷たい。
木漏れ日は弱々しく儚げに思える、と、もし口に出したら感傷的だと笑われただろう。
わたしはモネの絵を思い出した。思い出したあと、あれに比べたら、目の前に広がる景色は少し、当たり前すぎると感じる。
あるいは……モネが絵にしたもともとの景色も、こんなふうに当たり前のような姿をしていたのだろうか。
モネのような景色を見るための才能が、わたしにはないだけで?
……よく分からない。
わたしはカフェラテに息をふきかけてから口をつけた。
少し熱い。
「ねえ、ケイくん」
「なに」
「ありがとう」
「……なにが」
「わたしのわがままに付き合ってくれて」
「成り行きだから」
「最初からそうだった?」
ケイくんは返事をしてくれなかった。わたしは彼の表情を横目で覗く。
いつものように退屈そうだ。
そういえば、今朝からずっと、彼は煙草を吸っていない。……たいした意味は、ないのかもしれないけれど。
「ごめんね」
「いいよべつに」
「うん。あのね、ケイくん」
「なんだよ」
少しうっとうしそうに、前を向いたまま、ケイくんは言う。
彼のそういう態度はぜんぶ、きっと、見かけより柔らかいものなんだと、わたしはなんとなく気付いていた。
「手をつないで歩きませんか?」
わたしは、そう言ってみた。
ケイくんは、呆気にとられたみたいだった。
「なぜ?」
わたしはケイくんが右手に持っていた紙カップをするりと奪った。
そうしてから、彼の左手の前にそれを差し出す。
彼は左手でそれを受け取る。
開いた右手をわたしの左手が掴んだ。
「……なんだよ、いったい」
「なんでもない」
これはわたしのずるさかな、と少しだけ思った。
わたしは、少しずつ、余裕を取り戻しつつあった。
お兄ちゃんのこと、穂海のこと、お母さんのこと、考えることはたくさんあった。知りたいこともたくさんあった。
でもそれは、眼前をすべて覆い尽くしてしまう暗幕のような悩みではなくて、
ただ本棚の片隅に並べたままいつまでも手をつけられない読みさしの本のようなものなのだ。
もしその本を読み終えることができなかったとしても、きっとわたしは生きていける。
ただ、今はそのことが、どうしても気になっているだけで。
そんなふうに考えるだけの余裕が、今のわたしにはあった。
だからわたしは、彼の指に自分の指を絡めてみて、どきどきしながら軽く握ってみたりした。
これはわたしにはけっこう勇気のいることだったんだけれど、
ケイくんは平然と左手でカップを持ってコーヒーなんて啜っている。
こなれた感じの態度がなんとなく寂しかったけど、わたしはわざと彼の顔の方を見ないことにした。
嫌がられないだけでよしとしよう。
文句のひとつも言わないというのは、これはもう相手がケイくんだということを考えれば奇跡のようなものだ。
とはいえ会話が急に途切れてしまって、わたしは少し不安になった。
そこでケイくんの方を見ると、彼もちらりとこちらを見た。
目が合うと、わたしは照れとも困惑ともつかない落ち着かないきもちに胸の奥がざわつくのを感じて、
思わずごまかすように笑ってしまった。
彼は合わせて笑ってくれることもなく、はあ、と呆れたような疲れたような溜め息をつくと、不意に、
――キスをしてきた。
一瞬だった。
一瞬だったので、何が起きたのか理解するのに時間がかかった。
「ケイく……」
思わずわたしは手をはなしそうになった。
ケイくんは放してくれなかった。おかげで距離を取ることもできない。
今のは何かと訊ねるには、距離が少し近すぎる。
それからも彼は何にも言わなくて、わたしも何も言えなくて、木の葉の落ちる音が聞こえそうな静寂があたりに満ちていた。
いやだったとかそういうわけではなくて、
とはいえ、前もってなにかあるべきじゃないかとかも思うし、
でも、いまの状況ですることとは思えなくて、
かといって、わたしの態度だってたしかにいまの状況にはそぐわないものだったかもしれなくて、
でもそもそもどんなつもりでそんなことをしたのかとか、
いろいろ考えているうちに分からなくなって、
思わず、
「ケイくんは……」
と、声が出てしまった。
「……ん」
返事をしてくれたことに、まずほっとした。
「……なんか、慣れてる?」
彼は立ち止まった。
「あのな」
「だって、なんでもないみたいだった」
「……あのなあ」
「違うの?」
ケイくんは黙った。
「……そろそろ行こうぜ」
とケイくんは言った。
「うん」
そうだね、とわたしは頷いた。
今するような話では、ないのかもしれない。
わたしとケイくんとの間に、どのような言葉がふさわしいのかも、よくわからない。
たとえばこんなタイミングで、好きです、付き合ってくださいなんて話をするものだろうか?
そういうのは、足場がしっかりしている人たちがする話なのだ。
無人島に遭難したふたりの男女が、結婚してください、なんて話をするだろうか?
そんなのは結局、平穏が前提の余興にすぎない。
もしするとしても、こうなるだろう。
『もし、無事に帰ることができたら、僕と結婚してくれないか』
そう、全部は無事に帰ってからのお話だ。
わたしはイメージの中で、男役をケイくんにして、女役をわたしにしてみた。
返事はこうなった。
『でもね、ケイくん、わたしは、結婚とか、家族とか、そういうものがよくわからないの。
誰かとずっと一緒にいるってことがどういうことなのか、ぜんぜん想像できないの』
あっというまに過ぎ去ってしまった唇の感触がそれでも得がたいものに思えて、
わたしはしばらくカフェラテに口をつけることができなかった。
つづく
おつです
◇
そんなよく分からないやりとりのあとも、わたしたちはふたり並んでバスに乗らなきゃいけなかった。
妙にそわそわと落ち着かない沈黙は、けれどそんなに居心地悪くはなかった。
ケイくんは何も言わなかったけれど、ひょっとしたら……もう、頭を切り替えているのかもしれない。
図書館に行ったのは、完全に、とまでは行かなくても、わたしたちのこれからの行動を考えると無駄足に近いことだった。
もちろんまるっきり収穫がなかったとは言わないけれど、それは今の状況には関係のないものだ。
とにかくわたしたちは図書館からとんぼ返りして、今度はお兄ちゃんが通っていた高校に向かうことにした。
昨日来たばかり……お兄ちゃんの姿も、昨日見たばかりだ。
さて、危惧すべき問題はいくつかあった。
一、まひる、お兄ちゃん、そのどちらかが学校にいてくれるかどうか。
二、いるとして、問題なく接触することができるか。
三、その両方に問題がなかったとして、お兄ちゃんと向き合ってちゃんと話をすることができるか。
四、仮に会話することができたとして、わたしはそこから何か意味あることを引き出すことができるか。
とはいえやるしかなかったし、やるとなれば考えることは少なかった。
「まひるは文芸部だったな」
「うん」
「少し厄介だな。部室の位置がわからないんじゃ、いるかどうかも確認できない」
「……そうかな?」
ケイくんは少し不思議そうな顔をした。
校門についたときは、人の姿はあまり見当たらなかった。土曜の昼下がり。
それはそうだろう、という気がした。
それでも人がまったくいないわけではなかった。わたしは昇降口の方から校門に向かって歩いてくる二人組の女子生徒に目をつけた。
「少しいいですか?」
とわたしは声をかけた。ケイくんは面食らったみたいだった。
「はい」
少し戸惑ったみたいに、二人は立ち止まってくれた。
「すみません。ちょっとお尋ねしたいんですけど、文芸部の部室はどちらでしょう?」
「文芸部……? 知ってる?」
ふたりは顔を見合わせて、首を横に振った。
「でも、文化部なら南校舎でしょ?」
「南校舎……」
「――ねえ、ちょっと。まずいよ」
ふたりの片割れが、不意に小声でそう言うのが聞こえた。
もうひとりも、あ、というふうに口を抑えた。
それから少し考える素振りを見せて、
「ご用事でしたら、職員室の方にご案内しますよ」
少しこわばった顔でそう言い加えた。
さて、どうしたもんかな、とわたしは考える。
さすがに職員室は避けて通りたいところだ。
「ああ、そうですね。そっちを訊けばよかったんでした。でも面倒でしょう。職員室の場所だけ教えてもらえますか?」
二人組は戸惑ったような表情になる。
「三年の迫間まひるさんを知っていますか? 文芸部の方で、わたし、彼女に部活のことで呼ばれてきたんです」
ふたりは顔を見合わせた。
「ええと、わたしたち、他校の者でして。文化祭のことで何か相談があるとかで……」
口からでまかせをいいながら、わたしは、他校の人だったらきっと制服で来ただろうなあ、とぼんやり思った。
でも、ふたりはそのあたりのことを疑問に思わなかったらしい。
「ああ、そうなんですか」とほっとした様子で息をついていた。
「職員室は、昇降口から入ってすぐのホールを右に曲がると見えると思います。やっぱりご案内しましょうか?」
「いえ、場所だけ分かれば大丈夫です。顧問の先生に案内してもらえるはずですから」
どうもありがとうございます、と頭を下げて、わたしは堂々とした素振りで昇降口に向かった。
「無理がある」とケイくんは言った。
「そう?」
「他校の人間なら制服を着てくるはずだ」
「それはわたしも考えた」
「どうせ職員室にいけば案内してもらえるなら、最初から職員室の場所を聞くだろう」
「言われてみれば」
「よくこんな無茶する気になったな」
「だっていざとなったら逃げちゃえばいいし。それに、堂々としてればそんなに疑われないかなあって」
「……まあ、それはそうだろうが。でも、妙に警戒されてたな」
「うん。人ってもっと他人に無関心なものだと思ってたよ」
「まあ、普段ならそうかもしれないけどな」
「……普段? って?」
「高校生の死体が見つかったばっかりだって、さっき新聞で見たろ」
「ああ……」
なるほど。知らない人を警戒するくらいはするか。
「とはいえ、俺たちはどう見ても高校生にしか見えないだろうから、そんなに疑われはしないだろうけどな」
「男女二人組だしね?」
「それは理由になるのかな……」
「男二人よりは疑わしくないと思う」
「……まあ、そういう人もいるかもしれない」
話しながら、わたしたちは昇降口に入った。靴は、少し迷ったけれど、適当な下駄箱に隠して、脇に置いてあったスリッパを借りることにした。
「とりあえずまひると合流できないと、ただただリスキーだね」
「南校舎か……。どうやっていくんだろうな」
「外観で大雑把な位置は把握できるでしょ。ま、職員室を避けて歩こうよ」
そういうわけで、左右に伸びた通路の様子を窺い、物音をあまり立てないようにしながら、わたしたちは左側へと進んだ。
「ちょっとどきどきするね」
「ちょっとどころじゃない」
「後悔してる?」
「乗りかかった船」
「泥舟でごめんね」
「沈んだら竜宮城でも探すよ」
「竜宮城……うん。そうだね……竜宮城か」
「どうした」
「ううん。この世界が竜宮城かもしれないよね」
「ああ?」
ケイくんはちょっと苛立ったみたいな顔をした。
ピリピリしてる。さっきはあんなことしたくせに。
「ほら、浦島太郎が元の世界に戻ると……」
「ああ、なるほど」
「それはちょっと困るね」
「本末転倒だな」
「うん」
「まあ、玉手箱さえ開けなきゃいいだけだろ」
「そうかな?」
「そんなもんだろ」
「どうかな」
わたしたちは「こっちかな?」という方向に進んでいく。平然と話をしながら。
足音もあんまり隠していない。
人気がないから調子に乗った、というわけではないけれど、あんまり隠れたら帰って誰かに勘付かれそうな気もしたのだ。
実際、いざとなれば逃げればいい。なにせわたしたちには、捕まってバレたところで困るような身元なんて存在しないのだし。
そう考えると、わたしたちはけっこう危険な存在なのかもしれない。
何をやっても咎められない……。
「……あとで考えよ」
「こっちの方かな」と思った方に、都合よく渡り廊下があった。とりあえず、「南校舎」という名前の通り想像すれば、だが。
「問題はここからだな。何階建てだ、ここは」
「四階建てかなあ」
「部室にプレート、あると思うか?」
「あったら嬉しいね」
そうして、実際あった。使用されているらしい教室には、プレートが取り付けてあった。
そして、どの教室からも、話し声も物音も聞こえない。ほとんどの部活は活動していないらしい。
「不思議なくらい都合がいいな」
「信号に引っかからない日だってあるよ」
「おんなじ話か? それ」
「わたしたちが校門にいたときに、まひるが気付いて降りてきてくれれば、いちばん都合がよかったよね」
「……まあ、そういう言い方をすると、そこまで都合がいいわけでもないか」
「人気がないのは……事件のせいかな、やっぱり?」
「それもありそうだ」
「リーマンショックを予期してみんなナイーブになってるのかも」
「後に起きることを知っている立場にいる人間としては」とケイくんは言った。
「そういうふうに見えなくもないだろうな」
◇
文芸部の部室は三階にあった。扉の向こうから話し声が聞こえる。
雰囲気は、どうやら生徒たちだけだが……顧問でもいると面倒だ。かといって、ここで突っ立っていても危ない。
「どうする?」とケイくんが小声で言った。
「まひるがいなかったらまずいよね」
「顧問がいてもまずい」
「そうだね。じゃあ、こういうことにしない?」
わたしはわざとらしく人差し指を立てて見せた。
「もし不法侵入を咎められたら……バカで非常識で考えの足りない人のふりをしよう」
「……全部事実じゃねえかよ。身元の確認されたら?」
「んー、偽名とかでいいんじゃない?」
「……もう真面目に考える気ないだろ」
「失敗したときのこと考えたって仕方ないよ」
言いながらわたしは扉をノックした。
「バカ!」
とケイくんが控えめな声で呟くのを無視して、わたしは引き戸を開けた。
「失礼します。まひる、いますか?」
「あ、愛奈ちゃん」
まひるは平然とこちらに手を振ってきた。ホワイトボードに向かって、何かを書き込んでいるところだったようだ。
他の部員たちは、三、四人。全員生徒だ。教師はいない。賭けには勝ったらしい。
まひるは笑う。
「大胆だね。とりあえず、中入っちゃって。ケイくんも」
「……まひるは動じないね、ケイくん。すごいよね」
「俺に言わせれば、おまえも似たようなもんだよ」
ケイくんは溜め息をついた。
さて、とわたしは少し緊張しながら部室の中の生徒の顔を見回す。
お兄ちゃんは……いない。
わたしは溜め息をついた。安堵なのか落胆なのか、自分でも区別がつかなかった。
つづく
おつです
乙
SS速報でガチな恋愛ものを書ける人っていたんだねぇ
「よくここまで来られたね、ふたりとも」
まひるはにっこり笑う。その笑顔がなんとなく、作り笑いめいていた。
どうしてだろう、と少し考えて、まあそういうこともあるだろう、と納得する。
わたしだって教師や大人に取り囲まれれば愛想笑いくらい浮かべる。
まひるが誰に対してそうしていたって、誰かに責められる謂れもないだろう。
「先輩、その人たちは?」
訝しげな顔をする部員たちに、まひるは平然と返事をする。
「わたしの友達」
「が、どうして部室に?」
「さあ? どうしてだろう?」
「あ、ううん。お兄……」
言いかけてこの呼び方はまずいかな、と思い直す。
そもそも、呼び方以前の問題か。他の人がいる前で、わたしが「碓氷遼一」を知っているように振る舞うと不自然だ。
「それで、どうだった?」
まひるはそう訊ねてきた。わたしは頷いた。
「うん。まあ、どうにか」
帰る方法は見つかった、とこれだけで伝わるだろうか?
「どうして学校に?」
「少し確認したいことができたから」
「ふうん……? そっか。そうだね。うん。ちょうどよかったかもしれない」
「……何が?」
「そのまえに、ね、ふたりとも、ちょっと相談に乗ってほしいことがあるんだ」
「……相談?」
どちらかというと相談したいのはこちらの方なんだけど、と思いながらも、あたりの目を気にして頷く。
部室にいる生徒はまひるを含んだ四名。全員が女子。さっき「先輩」と呼んでいた人がいたから、下級生も含まれるのだろう。
「実はね、今月末にうちの学校の文化祭があるんだよ」
「はあ」
「それでわたしたち文芸部も、部誌を出すことになってるんだけど……」
まひるはそこで一呼吸おいて、にへらっと笑った。
「ちょっと困ったことになってるんだよね」
「困ったこと?」
「手伝ってくれるとうれしいかな」
「断る」
ときっぱり言ったのはケイくんだった。
「あはは。ケイくん、わたしのパンツ履いてる分際で偉そう」
軽い口調のまひるの呟きに、三人の部員たちが顔を見合わせてこそこそと話を始めた。
「下着……」「どういう関係……?」「変態……」
「殺すぞ」とケイくん。まひるは平気そうに笑う。
ていうか、まひるの風評にも被害がありそうだけど。
「否定しない……」「まさかほんとに……」「先輩って意外と……」
やっぱり。
「それで相談って?」
ケイくんが見知らぬ女の子にどういう目で見られようとわたしは痛くも痒くもないので、話をそのまま進めることにした。
まひるは目を丸くしたあと、ちょっとつまらないような顔をして、「そうそう」と話を戻す。
「部員たちがね、部誌に寄稿してくれないんだよ」
「はあ。それは大変ですね」
ケイくんはあからさまに不機嫌な顔をして、勝手に部室の奥に入り込むと、出しっぱなしにしてあったパイプ椅子にドンと腰掛けた。
「このままだと部誌の総ページ数が8ページ」
「ずいぶんぺらぺらだね」
「うち2ページは表紙、と表紙裏の白紙」
「実質6ページか」
「そのうち5ページの担当者はわたし」
「……この場にいる奴らは何をやってるんだよ」
ケイくんの呆れたような口調に、三人の部員たちが顔を見合わせる。
「この三人はまあ、がんばってくれてるんだけど、みんな一年生だからね。ちょっと遅れがあるのは仕方ないし」
「他の部員は?」
「大半が幽霊部員。ほら、わたし人望ないから」
そうは見えないけれど……。
「でね、よかったらふたり、何か書いてくれない?」
「は……?」
ケイくんはイライラしているみたいだった。
わたしもまあ、戸惑いはした。
「部外者だよ、わたしたち」
「うん。そうだけどまあ、べつに問題ないし」
ないんだ。ありそうなのに。
開け放した文芸部室の窓からは中庭の大きな欅が見えた。
首でも吊れそうな太い枝だな、とわたしはぼんやり思う。
「……大半が幽霊部員っていっても、全員じゃないんだろ?」
「まあ、あと数人はいるんだけど……なんか面倒で」
まひるがあっさりした口調でそう呟くと、他の部員たちが困った顔で頷いた。
それにしても、この子達も順応性が高い。まひるが平然としているから、気にしていないのかもしれない。
「一応、わたしも部長だし、書いてくれそうな人に声かけたりもしたいところなんだけど」
「しろよ」
「うん。でもね、あんまり興味を持てる相手がいなくてさ」
「先輩ひどい」「ひどーい」
部員たちの声。みんながからからと笑った。
「こっちも興味なくて、あっちも書く気ないのに、書いてくれって声かけるのって、ほら、失礼じゃないかな?」
「……」
どうやらまひるは、真剣にそう思っているようだった。
「だからって、わたしたちに言われても」
「うん。べつに無理に頼もうとは思わないんだよ。薄くても問題ないっちゃないわけだしねー」
でもほら、見た目がね、とまひるは苦笑する。
「多少厚い方が、迫力あるでしょ?」
「そんなの、数枚分白紙の原稿並べて、タイトルに『タブラ・ラサの不可能性』とでも書いとけよ」
「あは。意味分かんないけどそれ採用」
まひるは本当に面白そうに笑った。
「ケイくん、名前はなんて書いておく?」
「俺の名前でやるな」
「でもケイくんのアイディアだし」
「ページの水増しなんて、読む奴の心証悪くするだけだ」
「でもほら、なんか現代アートっぽくない? 他人の顔色窺わない感じもまた」
「バカかよ」
ふたりが話す姿は、とても自然なものに見えて、わたしはそのせいでいくらか落ち着かなくなる。
「他に部員はいないの?」とわたしは訊ねた。
「他……?」
まひるは、その話はさっきしたはず、と言わんばかりの顔をした。
わたしは少し考えた。
「えっと……ほら、前に話してた、碓氷って人とか」
ああ、という顔を彼女はする。
「今はいないよ」
「どうして……?」
「用事があるって言って、抜けちゃってる」
「……ね、彼は原稿を書いたの?」
「ううん。いまのところ。気が向いたら書くって言ってたけど、わたし興味ないし」
「……」
わたしは興味があるんだけど、とまひるに言ったところで仕方ない。
「まあ、ふたりとも、よかったら部誌に協力してよ。ほら、バックナンバー参考にしていいから」
そう言ってまひるは壁際の書棚を指差す。
「……そのうち戻ってくると思うよ」と、最後にまひるは言った。
わたしは溜め息をついて、書棚に近寄る。
仕方ない。今は待つしかない。自然に顔を合わせるために。
いや、この場で会うことが果たして自然なのか、わたしにはわからないけど。
退屈しのぎに、わたしは示されたバックナンバーのいくつかを手に取った。
「ところで、あの、質問なんですけど」
さっきからこそこそ話をしていた部員たちが、わたしとケイくんを交互に見ながら口を開いた。
「ふたりは付き合ってるんですか?」
「いいえ?」
「先輩とはどういう関係なんですか?」
ケイくんは何も答える気がないらしい。わたしは小さく溜め息をついた。
「わたしは会ったばかりだけれど」と言ってから、ケイくんを指差す。
「この人は下着を借りるくらいの関係性らしいですね」
ケイくんは、好きに言え、というふうに肩をすくめてみせた。
「服が汚れた。替えがなかった。そいつが持っていた。借りた。それだけだよ」
端的でありながらも不機嫌そうな強い口調に、女の子たちは圧倒されたみたいだった。
気になることがまだあるようだったけど、さすがにそのまま続ける気にはならなかったらしい。
三人が黙ると、今度はまひるが手を打ち鳴らして、またホワイトボードに向かった。
わたしたちのことはとりあえず放置して、話し合いを再開するらしい。
内容は、どうやら、さっき言った文化祭のこと。
「ついに今月末かあ。あっというまだね」
「しばらくバタついてたもんね……」
「でも、本当に文化祭するつもりなのかなあ。何かあったら……」
「そうは言っても、そんなこと言ってたら学校来られないし」
「それはそうなんだけど……」
「こら。話聞いてる?」
「はい」「聞いてます」「すみません」
……バタついてた?
「ねえ、まひる……」
「ん?」
「バタついてるって?」
「あ、えっと……知らない? あの、ほら。うちの高校の生徒が……」
「……ひょっとして、例の死体か?」
黙っていたケイくんが口を挟むと、まひるは気まずげに頷いた。
「そうそう。さすがに、うちの高校だけで二人目だからね……」
「怖いよね」「犯人、捕まってないんだよね?」「さすがにもう終わりじゃないのかな……」
「関連性が見つかったってテレビで言ってた」「なにそれ?」
「ほら、一人目の男の子と、うちの学校の沢村って人が同じ中学で……」
「だったら、無差別じゃないってことなのかな?」「でもさ、無差別じゃないとしたら、うちの学校の生徒が怪しくない?」
「たしかに。個人的な恨みとかでってことでしょ?」「でも、沢村先輩は知らないけど、弓部先輩が恨まれるとは思えないけど……」
「……あのさ、わたし知ってるんだけど、うちの部の碓氷先輩ってさ……」「碓氷先輩?」
「被害者の男子生徒ふたりと同じ中学だったんだって……」「え、嘘」「じゃあ何か知ってるのかな?」「心当たりあったりして」
「本人が犯人だったり?」「ちょっと、やめなよ」「ごめん、冗談」「でも、可能性としてはあるよね。全員と繋がりあるわけでしょ?」
「みんなストップ。あんまり良い趣味じゃないよ。不安なのも分かるけど、今は忘れよ?」
まひるの声で、女の子たちの会話が止んだ。
まひるが趣味の良し悪しを気にするのは少し意外だった。
わたしは少し今の話題について考えてから、部誌のバックナンバーを手慰みにパラパラとめくりはじめた。
なんとはなしに目を通し始めたのだが、不思議と目が止まるページがあった。
おなかがずいぶんすきました
すきました ので ごはんをたべます
たぶん いつもの サラダとスープ
玉子がない から うまくいかない
あとで掃除をしようと思って
こたつに入って テレビをつけて
そうしたらほら もう動けない
今日の降水確率は
どうやらずいぶん高い様子で
平らな平らな灰色ぐもは
気鬱のわけには恰好で
灰色の雲があるせいと
いつもの玉子がないせいで
こんな怠惰な生活です
そういうことにしておきました
「生活」と題された詩のようだった。
作者の名前はない。
四つか五つほど、似たような詩が並んでいる。
こういうのだったらわたしにも書けるかもしれない。
……そういえば。
お兄ちゃんは、元の世界の、お兄ちゃんは、高校時代、何かを書いていたはずだ。
わたしはそれを読んだことがある。お兄ちゃんに隠れて、勝手に部屋に忍び込んで。
どんな内容だったっけ……?
――風船は、がらんどうなので、
――からかうように、ぱちんと弾け、
……なんとなく、思い出せる部分と、思い出せない部分がある。
少し、思いつく。
ひょっとしたら、この世界のお兄ちゃんと話すよりも、お兄ちゃんの考えに近付けるかもしれない方法。
この世界の、この時間のことをヒントに、お兄ちゃんと過ごした日のことを、わたしが思い出す。
そうすることによって、わたしは改めて彼に近付けるかもしれない。
それはちょうど、本と読み手の関係のようだ。
ある種の読み手が文章を読むとき、彼は文章そのものを読んでいるだけではない。
文章から読み手自身の思想や記憶を連想し、“書かれていないこと”を読み始める。
そうすることによって、文章は完成する。
この世界、この時間という“文章”を、
わたしという読み手が、わたしの記憶と思想のはたらくままに任せ、“解釈”する。
結果、そこに新しい“物語”が生まれる。
それは不可能ではなく、突拍子もない夢物語でもないように思える。
試しにやってみよう。
お兄ちゃんは、どんな文章を書いていたっけ?
◆
風船は がらんどうなので、
軽くて しかもみんなのっぺらぼうです
針でつつけば ごらんのとおり
からかうように ぱちんと弾け
川面に浮かんだ あぶくのようだ
風船は がらんどうなので
割れてもだれも気にしません
割れてもだれも気にしないのに
割れてもだれも気にしないことを
みんながみんな気にしていません
みんな気にせずぷかぷか浮かんで
よくも平気でいられるものだ
どんなにぷかぷか浮かんでも
どうせ割れるか萎むかするのに
◆
――そうだ。
お兄ちゃんは……“風船”が好きだった。
“好き”? 違う。
愛着を持っていた、と言っても間違いだ。
お兄ちゃんは、風船に、“何か”をオーバーラップさせていた。
お兄ちゃんの書いた文章を隠れて読んだとき、なぜだかたまらなく怖くなったことを覚えている。
そこに何が書いているのかは、わたしにはわからなかったけど。
お兄ちゃんはやさしくてあたたかい人だった。
でも、それは本当だろうか? 仮に事実だったとして、それだけ、だっただろうか。
あの韜晦の裏に、お兄ちゃんが隠していたもの。
わたしはそれを、もしかしたらどこかで目にしていたんじゃないか……?
つづく
おつです
◆
リノリウムの床の上、並んでいたいくつもの扉のことを思い出す。
高い天井、開けた空間、壁に向かって、けれど壁に接さず、扉は三つずつ規則正しく並んでいた。
それぞれに異なった意匠、色合い、大きさ、高さ、厚さ。
けれど、それらは本質的に似通っていた。
人間そのものと似ている。
人にはそれぞれ、個性というものがある。固有性というものがある。
髪や肌や目の色に始まり、性別、目鼻立ち、手足の長さ、爪の形、体型、骨格、歯並び……。
どれをとっても個性があり、ほとんど誰とも重ならない。どこかが似通っていてもどこかで違っている。
人間の顔がある。
目が大きいのもあれば小さいのもある。鼻の位置が高いのもあれば低いのもある。
髭が生えているものもあればないものもあり、唇が薄いのもあれば厚いのもある。
でもそれはあくまでバリエーションであり、個々の違いは、さまざまな顔を一貫する共通点に比べればごく些細だ。
扉もそうだ。
意匠は違う。大きさも厚さも、それぞれ違う。デザインのコンセプトだってそうだろう。
でも、本質は同じだ。
その扉たちは、どこも繋がっていない。
ドアは本来、遮断の為の壁に、開閉できる開口部を作る為に存在している。
つまり、扉は壁についていなければ意味がない。ただ扉だけがあるならば、それは何の用も成さない。
どこにも繋がっていない扉。いくつ開け放してみてもどこにもたどり着けない扉。
そこはドアのショールームだった。
あの夏、わたしとお兄ちゃんは手を繋いで、ドア製造工場のショールームに向かった。
当時わたしは小学生で、お兄ちゃんは高校生だった。
関連企業の製品宣伝を兼ねた催事が、その事業所の敷地内で行われた。
子供向けのヒーローショーがあるというので、退屈していたわたしと、珍しくバイトが休みだったお兄ちゃんは、そこを訪れた。
そういうことは覚えているけれど、印象に残っているのはむしろ、賑やかな催しものではなく、立ち並ぶドアの光景だった。
どこにも行き着けず、繋がれず、ただそこで無表情に立ち並ぶだけの無数の扉。
それをわたしは少し怖いと思った。
あのときお兄ちゃんが言ったことを、わたしは不思議と思い出せる。
「たくさんあるね」とお兄ちゃんは言った。
「うん」
「全部ここで作ってるんだろうね」
「なんだか不思議」
「なにが?」
「なんだか……分からないけど、少し怖い」
お兄ちゃんは、そうだね、と少し笑った。
「たぶん、どこにも繋がっていないからだろうね」
そうだ。
お兄ちゃんはそう言った。
「扉を開けてもどこにも辿り着けないのは、怖いね」
◇
扉が開く音がして、わたしは物思いを中断させられた。
「おかえり」とまひるが扉の方を見て笑った。
わたしはそちらに視線をやる。
「あ」と思わず声が出たけれど、小さすぎて、たぶん誰にも気付かれなかっただろう。
「ただいま戻りました」
と、彼はそう言ったあと、わたしとケイくんの方を見て怪訝げに眉を寄せた。
「誰……」
そう訊ねかけて、彼は息を呑んだ。
わたしたちは、彼と既に顔を合わせている。
昨日、まひると出会う前、この学校の校門で、わたしは一度彼に声を掛けた。
碓氷愛奈を知っていますか。
知りません。君は誰ですか。
「わたしのともだちです」とまひるは言った。
「部長の……?」
「部誌の製作の手伝いをしてくれます」
「……部外者なのに?」
「碓氷くんよりあてになるもの」
「……相変わらずひどい言いようですね」
「それより、頼んでたものは見つかった?」
「ああ、ありましたよ。これでよかったんですよね?」
そう言って彼は、一冊の本をまひるに差し出した。
「あ、うん。これこれ。ありがとう」
わたしはまひるのほうをちらりと見た。彼女は嬉しげに本の表紙をこちらに向ける。
"R62号の発明・鉛の卵"……安部公房だ。
「ねえ、きみ、昨日……」
お兄ちゃん……"碓氷遼一"は、わたしの方を見て何かを言いたげにする。
わたしは体がこわばるのを止められない。
ああいったい、この人を前にしてわたしに何が分かるだろう。
それでもここは……お兄ちゃんが望んだはずの世界だ。
「こんにちは」とわたしは笑ってみせた。
碓氷遼一は面食らったような顔をした。
「ああ、こんにちは」
まひるも人が悪い、と言うべきなのか、それとも、彼がここに来ることを言わなかったのは彼女なりの気遣いと考えるべきか。
たぶん、後者なんだろうな。なんとなくそう思う。
「昨日も会った気がするけど……」
「そうですね」とわたしはかろうじて答える。
「ああ、やっぱり。それで、手伝いって……?」
碓氷遼一の質問に、まひるが答える。
「うん。部員たちのやる気がないから、よその人に協力してもらおうと思って」
「いやだから、部誌ですよね……?」
「筆名使えばバレないバレない」
三人の下級生たちがクスクス笑う。
わたしとケイくんは顔を見合わせて軽く溜め息をついた。
「許可取ってるんですか?」
「いや、だからね、碓氷くん。バレないんだってば」
「……マズイですよ、いくら夏休みだからって部外者は」
「うんうん、そうだね。碓氷くんはいつも正しいね」
「……聞く耳持たないんだからなあ、まったく」
ああ、本当だ。
この碓氷遼一は――お兄ちゃんとは違う。
まったく、違う。ぜんぜん。顔つきや、姿形は似ているのに、仕草も表情も言葉も……全部お兄ちゃんじゃない。
本当に、こんな人から、わたしのお兄ちゃんについての何かが分かるんだろうか……?
自分の不安を、頭を振って否定する。
だからこそ、と、ついさっき考えたばかりのはずだ。
「ねえ、碓氷くん、それでお願いがあるんだけど」
「なんですか」
「そっちの子。愛奈ちゃんていうんだけど、その子に原稿の書き方教えてあげてくれる?」
「……なんで俺が」
"俺"だって。
こんな人が、碓氷遼一を名乗っていると思うと、なんだか変だ。
……いや、違うのだろうか。
ここがお兄ちゃんの望んだ世界だとしたら、むしろ、この姿こそが、お兄ちゃんが望んだ自分のあり方なのかもしれない。
そう考えると、無性に落ち着かない気分になる。
「こっちの」と、まひるはケイくんの腕を引っ張った。
「子には、わたしが教える」
「俺は書かない」
「きみは書くよ、ケイくん」
妙に確信のこもった声で、まひるは言った。ケイくんは返答に窮したみたいだった。
「そういうわけで協力してあげて」
「協力って、部長、未経験者なんですか、ひょっとして」
「うん。いや、どうかな? 知らない」
「知らないって……」
碓氷遼一は頭を抱えた。
なんだか、こういうふうに見ると、お兄ちゃんというよりは、ただお兄ちゃんに似ているだけの、同い年くらいの男の子に見える。
いや……一応、高校二年生だから、わたしの一個上なのか。
じゃあ、先輩ってことになる。そう考えて思わず笑うと、碓氷遼一はこちらを見て毒気を抜かれたように溜め息をついた。
「きみ、書けるの?」
「書けます」
「何を?」
「風船についての詩とか」
「風船……?」
碓氷遼一は怪訝そうな顔をした。
ピンとこないらしい。
「詩……?」
「小説がいいよ」とまひるが言った。
「部長はやたら小説推しますね」
「小説がいい。なんでもありだから」
「詩だってなんでもありでしょう」
「そう? 詩ってむずかしくない?」
「人によると思いますよ」
「でも愛奈ちゃんはきっと小説向きだと思うんだ」
「本人の意思に任せましょうよ」
「じゃあ本人の意思と碓氷くんの手腕に任せるから、よろしく」
そう言うとまひるはケイくんの方を向いた。本当に放り投げるつもりらしい。
「……参ったな」
口車に乗せられた格好になった碓氷遼一は、困ったように顎のあたりを人差し指で掻いた。
「よろしくお願いします」と、わたしは言う。
緊張や違和感もどこへやら、ふたりのやりとりを見ているうちに、わたしはこの状況が楽しくなってきた。
「……わかったよ」
わたしは心の中でまひるに感謝した。大事なことは何も伝えていないのに、彼女はしっかり配慮してくれる。
恩返し、考えとかないと。
さて、とわたしは頭を切り替える。
この人に隠された、お兄ちゃんの望みを暴いてやる。
きっと、どこかに含まれているはずだ。
そうして、確かめてやる。
どうしてこの世界に――お兄ちゃんの望んだはずの世界に――わたしがいないのか。
「よろしくお願いします。……碓氷先輩」
つづく
おつです
◇
「何を書くにせよ」と碓氷遼一は言う。
「結局は本人がどういうつもりなのかだけが問題なんだ」
「どういうつもり、っていうと?」
「何を書きたくて書きたくないか。だから本来強制されることでもないし教わることでもない」
碓氷遼一は、ずいぶんとはっきりとした言い回しを好む様子だった。
そこには予断や冗談が挟まる隙間さえなさそうに思える。
それについての判断を一旦保留にして、わたしは彼との会話を続ける。
「つまり、ひとりで考えろ、と?」
「それが一番だと思う」
そんな会話のあとに彼はわたしの前に原稿用紙をさしだした。
引きうけたようなことを言っていたけれど、どうやらあんまり乗り気ではないらしい。
まあ、とはいえわたしとしても、本当は文章の書き方なんてまったく興味がない。
原稿用紙を受け取って、筆記用具を借りる。シャープペンシルを手に考え込んだふりをする。
さて、何を話したものだろう。
「碓氷先輩」
「なに?」
「ちょっと意見を聞きたいんですけど」
「うん」
「突然、未来から来たって言われたら、どうします?」
「時をかける少女か?」
言われてみれば。
「何言ってんだって思うだろうけどな」
「ですよね」
「タイムリープもの?」
「え、何が?」
「いや、そういう話を書くのかと……」
「なんでわたしが?」
「……」
碓氷遼一は不機嫌そうに眉をひそめた。さすがにちょっとからかいすぎたか。
「えっと、それはともかくです」
ああそうか、この状況だと、碓氷遼一にとってわたしは、一個下のよくわからない後輩ってことになるんだな。
なんだか不思議な感じがした。
彼から見たら、まるで物語みたいだろうな。
たとえばほら、ある日突然奇妙な女の子に出会う。
その子と話して仲良くなる。そして何かのきっかけで、彼女が未来から来たことを知ってしまう。
実は彼女は彼の姪で、死んでしまった彼の面影を追って不思議な力で時間を遡ってきたのだ、と。
あとひとつくらい何かを足せば、本当に物語みたいだろう。
もっとも、それを裏側から眺める気分はあんまり良いものとは言いがたかった。
本当に、ときどき、生活というものは、「物語みたいだ」と、他人事のように思わせてくれる。
その現実感の遠さが、反対に「物語らしさ」を剥奪していくような気がする。
「……ともかく?」
わたしははっとして彼の顔を見た。怪訝気な表情。おかしなやつだと思っているのかもしれない。
「未来から来たっていうのは、とりあえず、いいです。じゃあ、未来を知ってるって言われたら?」
「信じないだろうと思うよ」
「そうですよね」
「確かめようもない」
「うん。たしかに。なるほど……」
「それがどうしたの」
「ううん。未来を知ってても、誰も信じてくれないなら、意味がないなあ、って」
「まるで知ってるみたいに言うね」
「あはは」
とわたしはこっちの世界に来てからはじめてわざとらしく笑った。
ケイくんやまひるほど、気の抜ける相手ではない……。相性が、あまりよくない、ということだ。
なんとなく、"当たり前のことを、当たり前にできる、当たり前な人"、という感じがする。
「知ってることは知っていますよ」
でも、わたしは正直に答えることにした。
結局のところ、率直さというものを軽視するべきではないようだ。
曖昧にしたってごまかしたって、話はいつまでも進められないままだ。
もやもやとさせていたってストレスが溜まるだけの平行線。
そんなに時間があるわけでもない。切り込んでいかなければならない。
もちろん、かといって、こんな言葉、どうせ信じてもらえないだろうけど。
「どのくらい未来について?」
「七年後くらい。まあ、知っていることは、ですし、当たらないかもしれないけど」
「じゃあ訊きたいことがひとつあるんだけど」
「はい?」
「ハンターハンターってちゃんと完結する?」
「……わたしが知るかぎりでは、まだ終わってませんね」
「そっか。ふうん。いつ終わるんだろう」
……前言撤回。
この人も、やっぱり、どこか変だ。
お兄ちゃんとは、違う意味で。
「碓氷先輩って……変ですね?」
「心外だな」
といって、碓氷遼一は溜め息をついた。
「カサンドラってあるだろ」
「はい?」
「カサンドラ」
「……なんですか、それ」
「ギリシア神話。知らない?」
有名だと思ったけど、と碓氷遼一は首を傾げる。本当に変わった人だという気がしてきた。
参考になるんだろうか? 色んな意味で。
「神様の寵愛で予知能力を手に入れたんだけど、神様の呪いでその予知を誰も信じてくれなくなったっていう、女の人」
「なんですか、その……」
「うん。タチ悪いよね、神様って。まあ、神様っていうか、アポロンなんだけどね」
ああ、アポロンなら納得。やりそう。
「まあ、そんなのなくたって、予知なんて誰も信じないだろうけどね」
「先輩は……」
「ん?」
「未来と過去、どっちかを見られるとしたら、どっちが見たいですか?」
「ん。柳田国男とか好きなの?」
「違います。ただの質問です」
「そっか。残念」
どうして柳田国男が出てくるんだろう。衒学趣味な人なんだろうか……。
いや、違う……。
柳田国男。
お兄ちゃんも読んでた。
柳田国男なんて読む高校生、なかなかいない。
ひょっとしてお兄ちゃんは……。
自分の知識を、ひけらかえしたかった? だから、こんなふうに?
あるいは、誰かに話を聞いてもらいたかった?
もしかしたら、もっと単純に、自分の好きなものについて、誰かと話したかったのかもしれない。
今の段階じゃ、何も決めつけることはできないけど。
「そうだなあ。どちらかというと、未来がいいな」
「どうしてですか?」
「過去のことは、まあ、本なり映画なりで、事実はどうあれ、なんとなく輪郭は掴めるだろう。
でも、未来のことはどうしようもない。見当もつかない」
「……三日以内に」
「ん?」
「世界的な金融危機が起きますよ」
あるいは、起きないかもしれないけど。
本当のところ、わたしは、「この世界」については何も知らないし。
碓氷遼一は目を丸くして、何か考えるような間を少し置いたあと、笑った。
「それは困ったね」
カサンドラ。
でも事実は逆だ。
わたしは過去が見たかった。だからわたしはここにいる。
「ところで、先輩」
「ん?」
「人を殺したいって思ったこと、ありますか?」
なんてことのない調子で言ったつもりだったけど、碓氷遼一は言葉に詰まったみたいだった。
「ないよ」
と、それだけだった。「なにその質問」、なんて戸惑った声もない。
「きみはあるの?」
その反撃に、わたしはうまく応えられなかった。
それからわたしは、どうでもいい会話をしながら、適当な文章をでっちあげた。
何かをでっちあげるのは苦手じゃない。わたしの存在だって気持ちだってほとんどでっちあげのようなものなのだ。
碓氷遼一はアドバイスらしいアドバイスをしてくれなかったけど、それが逆によかったのかもしれない。
おかげで余計なプレッシャーもなく自由にやらせていただけた。
わたしの書いた文章が小説じゃなかったことに、まひるは少し不満げだったが、それでも感謝はしてくれた。
文章を書きながら、わたしは、お兄ちゃんが書いた詩のことを思い出した。
“風船は がらんどうなので、
軽くて しかもみんなのっぺらぼうです
針でつつけば ごらんのとおり”
あの詩の風船は、まるで、人間のことのようだった。
"針でつつけば ごらんのとおり"……。
わたしの頭をよぎったのは、ケイくんが図書館で見つけた新聞記事。
刺殺……凶器と見られるナイフ……。そして、さっきの噂話。
でも、この連想には根本的な破綻がある。
あの詩があった世界では物騒な事件なんて起きていなかった。
この世界にはあの詩は存在しない。
だから、繋がりにもヒントにもなるはずがないのだ。
でも、
もしこの世界が、お兄ちゃんの願いを反映しているとしたら?
その自問の答えを、わたしははっきり言葉にできずにいた。
つづく
おつです
◇
結局、部活が終わる頃には夕方になってしまっていた。
どちらにしても、今はまひるを頼るしかないから、待っていなければいけなかったんだけど。
そうして帰り道、わたしはケイくんとまひるのふたりに声をかけた。
「ねえ、まひる、悪いんだけど、今晩も……」
「うん。かまわないよ」
まひるは本当に気にしない様子だった。
「それでね、ケイくん」
「ん?」
ケイくんはなんだか気疲れした様子で、名前を呼んでも反応が鈍かった。
「悪いんだけど、今日は先にまひると帰っていてくれない?」
「……はあ?」
「お願い」
「……どうするつもりだ?」
「べつに、深く考えてるわけじゃないんだけどね」
ちらりと、碓氷遼一の方を見る。
彼は荷物をまとめて、立ち上がるところだった。
「気になることがあって」
確証も何もない、ただの直感。
そんなもののために、わたしは今行動を起こそうとしている。
「……」
ケイくんは、静かにわたしを睨んだ。
「……なに?」
「なんでもない」
まひるは、少し不思議そうな顔をしていた。
「いいの?」
「なにが?」とわたしは訊ねる。
「愛奈ちゃんがいいなら、いいんだけど……」
わたしは二人の方を見て、頷いた。
それから、部室を出ていった碓氷遼一の姿を追う。
◇
わたしの考えは、ひょっとしたら見当違いのものなのかもしれない。
余計なものに気を取られているだけの。
きっと、間違いだ。
でも、もしそれが本当だったら、わたしは、それをケイくんに知られたくないと思った。
自分で、たしかめたいと、そう思った。
碓氷遼一は家への道のりを歩く。
きっと、このまま帰るつもりなのだろう。
昨日見たときは、あの人と一緒だった。
あの人……名前はなんと言ったっけ?
たしか、そう、生見……。
生見小夜とか、そんな名前だったっけ。
子供の頃、顔を合わせた記憶がある。
高校に入る頃には、たしか疎遠になっていたと思うけど……。
こっちでは、少し状況が違うらしい。
さて、とわたしは考える。碓氷遼一は、振り返らずに歩いていく。
それは当然だ。
尾行なんてされたら、普通ならすぐに気付く、と、そう思う人は安易だ。
歩いているとき、人は普通、そんなに振り返ったりしない。
慣れた道なら尚更だ。
後ろから近付いて友達を驚かせようとして、なかなか気付かれなくて焦れたことのある人だって、少なくないだろう。
後を追うことは、容易いとまでは言わないが、難しいことではない。
そう自分に言い聞かせながらも、わたしの心臓は弾んでいた。
追って、何があるというのだろう? その答えは、自分でも分からない。
夕暮れ時の見慣れた道を歩きながら、
わたしは何もかもぜんぶが夢みたいだと思った。
空に架かる電線の影、隊をなして飛ぶ鳥の群れ、オレンジがかった寂しい街の夕暮れ。
懐かしい気持ち。
それは風景のせいだろうか。それとも夕焼けの切なさのせいだろうか。
胸の奥に何かがつかえるような……苦しさ。
わたしは、いま、ひとりぼっちで、死んだ人の背中を追っている。
夕焼けの街の中を。
徐々に伸びていく自分の影を見ながら。
その濃さに戸惑いながら。
どこかで間違えてしまった気がする。
わたしは、何かを間違っている。
いったい何を?
碓氷遼一。
お兄ちゃん。
何を憎んで、何を求めていたのか。
分からない。
見えるのはいつも背中だけだ。
どこまでいっても、わたしはもう彼に追いつけない。
わたしがいらなかったのだろうか。
何を憎んでいたのだろうか。
分からない。
遠く、前方を歩く、姿。
それが奇妙に眩しく見えた。
その瞬間、
「お兄ちゃん!」
と声が響いた。
遠くて、何を話しているのかは、わからない。
でも、彼女が彼に飛びつくのは見えた。
ランドセルを背負った少女。
昨日出会った少女。
茅木穂海。わたしの妹だったかもしれない子。
遠目でも分かるくらいに、幸せそうに笑っていた。
彼は彼女を抱き上げた。
わたしは、自分の感覚を恥じた。
何を心配していたのだろう、わたしは。
あんなふうに、彼はあたたかに笑っている。
その横顔が、わたしの立っている場所からでも見えた。
碓氷遼一は、殺人者かもしれない。
どうしてそんなことを思いついてしまったんだろう。
あんなふうに笑う人が、人を殺すなんて。
しばらく、彼らの姿を眺めていた。
ふたりは何か言葉を交わしたあと、手を繋いで去っていく。わたしの方なんて、見向きもせずに。
わたしの存在になんて、気付きもせずに。
ああ、わたしは、あの景色のなかに、どうしていられなかったんだろう。
わたしがいた世界では、あんなふうにふたりが手を繋いで歩くこともなくて。
だから――。
わたしは結局、どこまで行っても……。
視線を外す。もう、帰ろう、と、そう思った。
これ以上見ていてもつらいだけだ。わたしはいったい、この世界に何を期待していたんだろう。
わからなくなって、俯く。自分の影のかたちだけが、やけにくっきりと疎ましい。
――不意に。
「お兄ちゃん!」
と、また声が聞こえた。
さっきと同じ、子供の声。
でも、響きが違う。
今度の声は、なんだか、さっきより切迫した、悲痛な――。
思わず、道の先を振り返った。
状況が、さっきとまったく違う。
碓氷遼一は……? 倒れている。隣に、穂海がいる。膝をついて、彼を呼んでいる。
誰かが、傍に立っている。手に、何かを持っている。あれは……。
刃物……?
刃物を持った「誰か」が、緩慢な動作でこちらを見る。
灰色のパーカー、ジーンズ、深く被ったフードと前髪、それから距離のせいで、顔は見えない。
若い男……だろうか。
「誰か」は、わたしの方を向いたまま、何かを迷うみたいに立ち尽くしていた。
頭が、うまく働かない。景色の意味が掴めない。
突然、わたしの後ろから、怒声のようなものが聞こえた。
「誰か」は、わたしの背後の方を見たのだろうか。そうして、なんだか場違いに落ち着いた様子で走り去っていく。
――観察してる場合じゃない。
碓氷遼一。
わたしの叔父。
お兄ちゃん。
刺されたの?
駆け寄ろうとするのに、うまく足を動かせている感じがしない。それでもいつのまにか、わたしは彼の傍に立っていた。
血が、アスファルトを濡らしている。
「愛奈」と、わたしを呼ぶ声に、そのときはじめて気付いた。
顔をあげると、ケイくんが傍に立っていた。
「救急車、呼べ。携帯は使いものにならない。おまえなら公衆電話のある場所と場所の説明くらいできるだろ」
「……ケイくん、なんで」
「いいから呼べ。……いや、救急車でなくてもいい、ここらへんは民家が多い。誰か人を呼べ」
「ケイくん……」
「いいから。あとはその子に付き添っていてやれ。とにかく誰か来るまでここにいろ。
それから、誰かにその子とそいつを任せられそうなら、できたら身を隠せ。面倒になったら動きにくい」
「ケイくんは……?」
「今の奴を追う」
「……でも、刃物」
「おまえはここで待ってろ」
「ケイくん!」
「大丈夫だ」
何の根拠もないくせに、ケイくんは平然とそう言った。
どこか、怒っているみたいに見えた。
本当にケイくんは行ってしまって、わたしは、穂海と、苦しげに息をするお兄ちゃんと、その場に取り残された。
「誰か」とわたしは声をあげた。泣きじゃくる穂海の耳にすら届かなかったのではないかと思うくらい、頼りない声だった。
どうして……こんなふうになってしまうんだろう。
それから、まぶたをギュッと閉じて、働かない頭を無理やり動かそうとする。
――救急車。
いま必要なのはそれだけだ。
お兄ちゃん、ケイくん……。
頭のなかでぐるぐると、言葉にすらならない何かが、渦を巻いていた。
つづく
おつです
◇[Munchausen]
妙なことに巻き込まれて、随分経ったような気がしていたけれど、考えてみればまだ二日目の夜だった。
言ってしまえば退屈な日常からの脱却だけが目的だったのに、並行世界やら殺人事件やら奇天烈なワードばかりが飛び出してくる。
業報というならば、そうなのかもしれない。
あさひの家には本当に彼女以外誰も帰ってきていなかった。
僕とすみれは彼女が淹れてくれたコーヒーを飲みながら休むことにした。
しばらくすると、すみれは昼間買った僕の服を広げてタグを外しはじめる。
「明日はどれ着る?」と彼女はご機嫌な様子だった。
暢気なものだと感心するが、この状況では彼女みたいな態度の方が正解なのかもしれない。
あさひは僕たちのくだらないやりとりにいちいち頬を緩ませていた。
そんなふうにしていると、つい色々なことを忘れそうになって、だから僕は人と話をするのがあまり好きじゃない。
エネルギーというのは針のように集中させておくべきだ。
その他一切を犠牲にしても達成するべき何か。そのために残しておくべきだ。
何もかもに怒り、腹を立て、祈っていてもどうしようもない。
果たすべきこと、守るべきことがあるなら、そのひとつのことだけをひたすらに思うべきだ。
無闇に怒ったり悲しんだりするのは、エネルギーの浪費だ。
有限の資源を散逸させていても仕方ない。
見事に、散逸してしまっている。
それが今の僕だ。何の気力も湧かない。
二日目。
そろそろ元の世界のことを思い出してしまう。
軽い気持ちの逃避行だったが、さすがに一時の熱がさめると冷静に我が身を顧みずにはいられない。
あちらでも同様に時間が経っているなら、そろそろ捜索願でも出されかねない。
妙な騒ぎにでもなったら面倒だが……まあ、そのときは、「何も覚えてない」でやり過ごそう。
すみれは僕に買わせた服を眺めて満足気に頷いている。
僕の方は、たいした理由ではないけれど、彼女はどうしてこんなところに来てしまったんだろう。
それもまた、どうでもいいことなのかもしれない。
放置されたままになっているはずの彼女のバイクのことを思い出したりするのは不毛だ。
僕らはその夜、余計なことはあんまり話さずに過ごした。
あさひもすみれも、この世界の僕が死ぬかもしれないことなんてどうでもいいと思っているみたいに見えた。
そして、僕は実際に、どうでもいいとも思っていた。
ただ僕にはいつも、愛奈のことが気がかりだった。
僕が死んでしまったら、いったい誰が彼女のために何かしてやれるというんだろう。
そう思うのは思い上がりだ。自分でもそう分かっている。
けれど……。
結局のところ、僕は言い訳がましいだけの人間なのかもしれない。
そう結論づけてしまうと、それ以上は考えずに済んだ。
どんな言葉を並べたところで、言い訳にしか聞こえないからだ。
あさひとすみれが何かを話している。きっと、生活にまつわることだろう。
食事と睡眠と……。そういうことを遠くに感じてしまうのはきっと、現実逃避なのだろう。
「明日はどうしようね」と僕はふたりに声をかけてみた。
「どうしようって?」
「刺されるのは夕方だろう」
「ああ、そういう意味」
それまで何をして過ごせばいいんだろう。僕たちにはやるべきことなんてひとつもないような気がする。
「そうだね」
とすみれは頷き、あさひは考え込んだ。
「うちでオセロでもしてたら?」
「なんでオセロなんて」
「だって、暇をつぶせそうなのがオセロくらいだもの。それともテレビでも見てる?」
映画のDVDなら何枚かあるよ、とあさひはなんでもない顔で言う。
冗談かどうか、わかりにくい。
「あさひはどうするの」
僕の質問に、彼女は困った顔をした。
「わたしは……碓氷のストーキング」
「……ああ」
そういえば今日も、彼女は昼間から、碓氷遼一の姿を追っていたんだっけ。
彼は生見小夜と一緒に歩いていた。
その姿を、彼女は延々と追いかけていたのか。
なるほど、そうなると、あさひと一緒に行動するのはよくないかもしれない。
同じ顔をした人間が同じような場所にいたら面倒ごとになるのは目に見えている。
そういうことなら、僕らは別行動をとるのがいいかもしれない。
「じゃあ、昼間は暇つぶしでもしていようか」
と、その夜はそういう話でまとまったのだけれど、実際に時間を持て余すと何をしていいか分からなかった。
どうやら僕には、余暇を使い切ることで不安や憂鬱を見ないふりをする傾向があるらしい。
暇な時間が出来ると余計なことばかり考えてしまうのだ。
あさひは早くに出掛けてしまって、その朝、僕とすみれはふたりで家の中に取り残された。
鍵は玄関の植木鉢の下に入れておいてくれればいいから、と、月並みな隠し場所を教えられた後、
僕らはモーニングコーヒーを飲みながらオセロに興じたけれど、すぐに飽きてしまった。
「変な話」
とすみれは苛立たしげに言った。
「どこまでいってもわたしたち、楽しいことなんてできないのかもね」
そうだね、と僕も頷いた。
これは心のありようの問題なのかもしれない。
傾向。
「ねえ遼一、あさひの話、信じた?」
「さあ?」
「どうでもよさそう」
「実際どうでもいい」
考えるだけ無駄だ。
やるべきことは決まってるんだから。
「遼一は、何考えてるかさっぱりわからないね」
「そうかもね」
何も考えていないんだから当たり前だ。
「すみれは信じたの?」
「半信半疑。夢を見たのは本当かも」
「だったらどうでもいいだろう」
「どういうこと?」
「どっちにしても、あさひに協力するしか、今のところ出来ることもない」
帰る手段をさがさなければ、とは思う。
でも、それは、鞄の中にしまいこんだままの課題をしなければと思うような、そんな程度の気持ちだ。
愛奈のことさえ、僕は投げ出してしまいたいのかもしれない。
自分のことだってよく分からない。
愛奈は僕を軽蔑するだろうか。
それは少し嫌だという気がしたけれど、仕方ないという思いもある。
もともと、無理筋だったんだ。
僕は、いったいなんなんだろう。
どうしてこんな場所にいるんだろう。
いつだって、そんなことばかり考えてしまう。
自分が何を望んでいたのかさえ、よく分からない。
こんなときにも思い出すのは、不思議と愛奈のこと。
それから小夜のことだ。
僕はオセロの白石を置きながら考える。形勢は不利だ。
いつだってそうだ。白いものは黒いものに塗りつぶされていく。
それでも僕は石を置き続ける。でもどれだけ局地的に白い領地を取り戻せたところで、結局は黒く塗りつぶされている。
隅ばかりを取られているのだ。
そういう傾向がある。
何度ひっくり返したつもりになったって、大勢は決している。
それでも石を置ける限りは石を置き続けるしかない。
終わりない後退戦。
「遼一、弱いね」
呆れたようにすみれは言う。
そうだね、とまた僕は頷く。
「僕もそう思ってたところだ」
結局、あさひが一旦家に戻ってきた昼過ぎまで、僕らはコーヒーを飲んで過ごした。
せっかくの新しい服だったけれど、すみれに選んでもらったものだったけれど、
だからといって出掛けたくなるほど、僕は殊勝な性格ではないようだ。
つづく
おつです
◇
間違えたのはおそらく僕だ。
すみれは何もしなかったし、あさひだってじっと耐えていてた。
我慢できなかったのは僕だけだ。
自分自身に嫌気がさす。
本当に嫌気がさす。
そういうとき、僕は自分なんか死んじまえばいいんだと思う。
跡形もなく消えてなくなってしまえばいいんだ。おまえなんていないほうがマシだった。
どこにもおまえの居場所なんてないんだ。誰もおまえを必要となんてしていない。
おまえの無能が人に迷惑をかける。おまえの存在が人を不愉快にさせる。
なによりも誰よりも僕自身が――僕に苛ついている。
あさひは午後三時頃に一度自宅へと戻ってきて、僕とすみれのふたりと合流した。
それから碓氷遼一の家へと向かった。遼一は昨日と同じような時間に、昨日と同じ道を歩いていた。
僕たちは一定の距離をとって碓氷遼一の背後を歩いていた。彼が家につくまでずっとだ。
彼が家についてしまうと、日が沈んで空が暗くなるまで、前と同じ公園から様子をうかがうしかなかった。
問題が起きたのは、すみれが飲み物を買いにいったときだった。
僕たちは三人とも、少しのあいだ、家から目を離していた。
ずっと眺めていたら、通りすがりの人間に怪しまれる。監視するにも、うまくごまかしながらやらなければいけない。
当然、素人の拙い小細工など、素人に看破されてもおかしくない。
「こんにちは」
と、僕らはあっさり背後を取られた。
「俺に何か用事?」
振り向いてはいけない、ととっさに思った。顔を見られてはいけない。
それは僕の声だった。
どう聞いても僕自身の声だ。
僕とあさひは二人で固まった。
「……ああ、碓氷くん」
と、あさひは無理がある冷静さで反応した。
「こんにちは。家、このあたりなの?」
「それは無理があるな」と碓氷遼一は言う。
「ごまかすのはなしにしよう。いったいどういうつもりなんだ?」
「……」
「正直言ってあんまり愉快じゃないよ、篠目」
「ばれちゃった」
あーあ、というふうに、あさひは作り笑いをした。
僕は口を挟まずに、振り向かずにいる。
「それで、篠目、ここ数日、いったいどうしたっていうんだ?」
碓氷遼一の質問に、あさひは黙り込んだ。
当然と言えば当然だ。
夢であなたが刺されていたので、なんて、そんなことを言ってどうなる?
篠目は何も言わずに苦笑する。
「言えないのか」
「ちょっとね」
「正直さ、篠目……こう言い方はしたくないんだけど」
彼は吐き捨てるように言った。
「気味が悪いんだよ」
その瞬間、頭がカッとなった。
「悪いんだけど、俺はおまえがあんまり好きじゃないし、だから周囲をうろつかれると迷惑なんだ」
僕は顔を上げない。振り返らない。
「わかった」
と、少しの沈黙を挟んで、あさひはそう言った。
悪いね、と碓氷遼一は言った。
悪いなんてこれっぽっちも思っていない声だった。
それが僕にはわかる。
――だから。
背を向けて立ち去ろうとした碓氷遼一の肩を掴み、強引に振り向かせてその頬に拳を突き出した。
頭に血が昇っているのが自分でも分かった。
そうして僕は、気付けば何度もこう繰り返していた。
おまえは僕じゃない。おまえが僕であってたまるものか。
そんなこと認められない。おまえなんか僕じゃない。
僕はおまえを認めない。
碓氷遼一は、僕の顔を見て呆然とした様子になった。
それから立ち上がって、まとまらない考えを振り切ろうとするみたいに、そのまま歩み去っていく。
僕は彼の背中を追いかけようとする。足を動かして、でも覚束ない。彼の背中に追いつけない。
玄関の扉。碓氷遼一が吸い込まれていく。……違う。そうじゃない。そこはおまえの居場所なんかじゃない。
おまえなんかがいていい場所じゃない。
玄関の扉の前で膝をつく。
耳に入ってくる音は自分が吐き出す呪詛だけで埋め尽くされていた。頭のなかだって、今起きたことでいっぱいだった。
あんな姿をしている人間は、あんな言葉を吐く人間は僕じゃない。
落ち着いて、と誰かが何度も繰り返しているのが聞こえた。
落ち着いて、遼一。
僕は呼吸をする。脳に酸素が行き渡っていない感じがした。それを自覚できたら、あとは深呼吸をすればよかった。
吸って吐いてを繰り返しているうちに、届いていた声の主がわかるようになる。すぐそばのあさひだった。
僕はなぜか泣いていた。
何かが耐えきれなくなってしまった。
自分がどうして泣いているのかもわからないのに悲しくて仕方ない。
たったあれだけのやりとりが、どうして僕をこんなに打ちのめしたのか、自分でもわからない。
「大丈夫だよ、ねえ、遼一。ほら、行こう?」
あさひはそう言って僕の肩をそっと撫でた。
僕は、立ち上がろうとして、
最初はただの違和感で、
次にやってきたのが熱だった。
僕はうしろを振り返って、
そこに誰かが立っていた。
「……え?」
あさひのその声が、奇妙に遠く聞こえた。
自分の背中を見る。何かが、突き立てられている。
――刺さっている。と、そう思った途端、急に血の気が引いた。
意識が酩酊するようにぐらつく。
「あ……」
何かに気付いたような、あさひの声。
いや、僕も、その瞬間、気付いた。
あさひが見ていた、碓氷遼一が自宅で刺される夢。
それは違ったんじゃないか。
この世界の碓氷遼一ではなく、この僕が刺される景色を、彼女は夢に見たのではないか、と。
そんな符号に、頭が回る。
ナイフを握る誰かを、見る。
見覚えが――ない? ある?
――ある。
これは……誰だ。
――おまえさ、人生楽しくねえだろ。
見覚えが、ある。クラスメイトだった。名前は覚えていなかったけれど、あさひの話を聞いているうちに思い出せた。
僕がこの世界に来る前、放課後の教室で、生見小夜とふたりで話をしていた男子。
沢村翔太。
この世界では、篠目あさひが、連続殺人の被害者のひとりとして数えていた人物。
たしか、死体は見つかっていなかった、と言っていた。
死んでいなかった?
でも、どうして……。
彼は、僕の顔を見て、不愉快そうに口元を歪ませて、一言、
「死ね」
と、簡単そうにそう言った。
一瞬のうちに、ぐるぐるといろんな思考がまわったけれど、
痛みのせいで、すぐに途切れた。獣みたいなうめき声が自分の口から漏れるのがわかった。
後ろから、足音が遠ざかっていく音がする。
僕は、痛みにやられながら、自分の声を聞いた。
それはたぶん、頭の中だけで響いていた。
おまえは、ほっとするべきだよ、と。
ようやく死ねるかもしれない。
よかったな、と。
おつです
週末まで更新滞ります。
◇
生きていることが嫌になったのがいつのことだったのか、僕はよく覚えていない。
取り立てて理由があったわけでもないと思う。
両親は健在、肉体は健康、金に困っているわけでもなければ、人生観を揺るがすような大きな出来事があったわけでもない。
ただ、子供の頃からずっと思っていたことがあった。
人はいつか死ぬ。
どうせ死ぬ。
何を大切にしても、何を守ろうとしても、何を欲しがっても、結局は全部なくなってしまう。
それ自体は、今にして思えばたいしたことではないのかもしれない。
その事実以上に僕を打ちのめしたのは、誰もその気持ちに共感してくれないことだった。
僕の不安、僕の絶望、僕の恐怖、それを誰もわかってくれなかった。わかろうとしてくれなかった。
そんなことを考えるのは幼稚でくだらないとでもいうみたいに。
はっきりとした答えなんて、誰も僕に教えてくれなかった。
何を得ても、結局はすべて失われてしまう。
そう考えた途端、僕の意識はもはや「今ここ」ではなく、無時間的無空間的な「どこか遠く」に運ばれてしまう。
目の前に起きる出来事のひとつひとつに反応し、感情を揺さぶられることが馬鹿らしいことに思えてしまう。
結局のところ、僕の身に起きることのすべては、そう遠くない未来になかったことになってしまうのだ。
誰かの記憶に残ったところでその誰かもいつかは死ぬ。
僕らが遠い昔の人間に思いを馳せるときのように、あらゆる人間の感情は意味のないものとして消え去ってしまう。
現に、過去に生きたなんでもない人たちのことなんて、僕はなにひとつわからない。
どうせなくなってしまうなら、なんとなく生きるというのもひとつの手立てだろう。
でも、どうせなくなってしまうなら、何もせずに死んでしまうというのも、ひとつの手立てなのではないか。
苦しむくらいなら、悲しい気持ちになるくらいなら、最初から全部ほしがらなくてもいいんじゃないか。
そうやってただ消えていってしまえれば、それはもう、ひとつの正解なんじゃないか。
それを子供っぽい理屈だと、誰かは笑うかもしれない。
その誰かの言葉だって、死んでしまえば何の関係もないものだ。
面倒だと思うことも、嫌だと思うことも、全部やめてしまって。
ただ誰からも忘れ去られたように消えてしまえれば、と。
僕はそんなことを思っていた。
◇
次に目をさましたとき、僕は半分安心して、半分絶望していた。
すぐ傍にはあさひとすみれがいて、僕はあさひのベッドに横になっていた。
すみれは泣きはらしたような真っ赤な目で僕を見て、
「死に損なったね」
と言った。
ああそうか。死に損なったんだ。そう思った。
こういうときの僕は諦めがいい。
今はまだそのときじゃないんだ。そう思えた。
「刺されたような気がする」
「うん。刺されたよ。でも、浅かったみたい」
「浅かった」
「病院にはいけなかったから、わたしとあさひがなんとかしたよ」
「悪かった」
「うん。でも不思議」
「なにが?」
「死なないでって思っちゃった」
思わず笑うと、背中がずきりと痛んだ。よく生きていたものだ。
「刺した奴は?」
「逃げた」
「……ごめんなさい」
そう声をあげたのは、あさひだった。
「……なにが」
「気付けるはずだった。刺されるのが、遼一かもって」
彼女は俯いて、こちらを見ようともしない。
そう考えるのはわからないでもない。
でも、違う。
「気付けるわけないよ」と僕は言った。
「わかるわけないんだ。そういうものなんだよ」
慰めのつもりでさえなかった。あさひは納得しかねるように首を横に振る。
僕は、体を起こす。そうすることができた。
痛みというのは不思議なものだ。l
どれだけ頭で考えたところで、自分は肉の塊でしかないと、嫌でも実感させられる。
「沢村翔太だった」
と僕は言った。
すみれはピンと来ない顔をした。反対に、あさひはすぐに何のことだか分かったみたいだった。
「……沢村くん?」
「間違いないと思う。顔を見た」
「どうして沢村くんのこと……」
「あっちで、知り合いだった」
「でも、沢村くんは」
「ね、何の話してるの?」
言っている意味がわからない、というふうに、すみれが苛立たしげな顔をする。
僕は一度話を整理することにした。
「僕とすみれが元いた世界に、沢村翔太っていう名前のクラスメイトがいた。
僕を刺したのは、そいつだ。顔を見た」
「……沢村翔太、ね。なるほど。なんでかはわからないけど、そいつが通り魔なのね」
「でも」とあさひが口を挟んだ。
「沢村くんは、もう死んでる」
「え?」
「七月の始め頃、わたしは沢村くんが刺し殺される夢を見た。それから彼は行方不明になってる」
「……あれ、でも、じゃあ、どういうこと?」
「死体は見つかってない」と僕は言った。
「あさひが夢で見たのは、刺されるところまでだ。死んでなかったのかもしれない」
現に、僕だってあさひの予知夢の通り、「碓氷遼一の自宅で」「夕方」「誰かに刺された」。
そして生きている。
「……だったら、その沢村って奴を捕まえればいいのかな」
「でも、おかしいよ」
あさひは戸惑ったみたいに声をあげた。
「沢村くんが犯人だったら、最初に沢村くんを刺したのは誰なの?」
「……それは、わからないけど、でも、たぶん、考える必要はない」
「どうして?」
「どっちにしても、僕らが連続通り魔犯をどうにかするには、現に僕を刺した沢村を捕まえるのが手っ取り早い」
「そう言われれば、そうだけど」
刺されたっていうのに、随分冷静だな、と自分で思う。
けっこうショックを受けている気もするけど、それもどこか遠い。
「問題が、ひとつだけあるかな」
考え込むような沈黙のあとに、あさひがそう口を開いた。
「沢村くんは、死んでないにせよ、行方がわからないってこと」
「……それは、困ったな」
「少し休もうよ」とすみれが言った。
「あさひだって、今朝は夢を見なかったんでしょ?」
「ん……まあ。誰かが刺されるような夢は、見なかったけど」
「だったら、ちょっと休憩にしよ? すぐにどうにかできるような問題でもないよ、きっと」
ね、と言って、すみれは僕の頭を枕の方に押しやった。
「……休憩」
僕にはなんだか、それが珍しい言葉のように思えた。
つづく
おつです
すみません。もう少しだけ投下遅れます。
◇
沢村翔太の死体が発見されたというニュースが流れたのは、その日の夕方のことだった。
僕たちはそのとき、あさひの家でゆっくりと"休憩"をしていた。
沢村翔太の死体は僕が通っていた高校の校門で発見された。
当然のように刃物で刺された形跡があったらしいが、ひとつ問題があった。
それは、発見された段階から、既に死後かなりの時間が経っていた、という点だ。
少なくとも今日や昨日殺されたわけではなさそうだという。
夕方のニュースでは、それ以上詳しいことは教えてくれなかった。
"休憩"はそのように打ち破られ、僕たちは起きたことと起きなかったことについて検討することになった。
「遼一を刺したのは、間違いなく沢村翔太だったの?」
「間違いなく、と言われると、自信はないけれど、おそらく」
僕達の前にはあさひの家のダイニングテーブルが広がっている。
そのうえには三人分のコーヒー。
景色はどこまでも静物だ。
現実感は既になくなっていた。人の生き死にも、自分が刺されたという事実も、
今の僕にはなんだか他人事のように思えてしまう。
ときどきそんな感覚に支配されている。
僕の視界を僕はただ眺めているだけで、そこに僕はなにひとつ関わっていないような錯覚。
僕は沢村翔太に刺された。
そう思う。
けれど、絶対の自信はない。
状況が状況だったし、今となっては記憶さえも曖昧だ。漠然とした印象でしかない。
あのとき僕は、自分に向けられた悪意のようなものを、ただ沢村翔太に重ねてしまっていただけなのかもしれない。
けれど……少なくとも、沢村翔太だった、と僕は思う。
「でも、沢村翔太は死んでいた」
少なくとも、沢村翔太が刺されたのが昨日今日のことでないというのなら、僕を昨日刺したのは彼ではない、と言える。
普通の状況だったなら。
「疑問がふたつあるね」
すみれがそう口を開いた。
「遼一を刺したのが沢村翔太じゃなかったとしたら、遼一を刺したのは誰だったのか。
もうひとつは、沢村翔太が殺されたのが昨日より前だったんだとしたら、なぜいまさら死体を運んだのか?」
「運んだ?」とあさひが疑問を口にする。彼女の言葉にすみれは頷いた。
「校門なんて目立つところにわざわざ置いたってことは、見つけてほしかったってことでしょう?」
夏休み中とはいえ、学校には教職員も部活動をする生徒たちも出入りしている。
そこに付け加えるなら、どうして「誰かに見つかるような危険を冒してまで」校門前に死体を置き去りにしたのか。
「これを全部、納得のいくように、矛盾ないように説明するのは、意外と簡単だよね」
すみれの言葉を聞いて、彼女が僕と同じ可能性に思い当たっていたことがわかった。
たしかに説明するのは簡単だった。新たな疑問こそいくつも出てくるものの、矛盾をなくすのは簡単だ。
「遼一を刺した沢村翔太と、発見された死体である沢村翔太は別の人間」
その言葉に、僕は頷く。あさひだけが、なんだかピンとこないような顔をしていた。
「えっと、つまり、どういうこと?」
あさひは体験していない。だからとっさには思い浮かばないのだろう。
けれど僕たちは、既に同じ人間がふたり以上存在できる状況を知っている。
僕たち自身だってそうなのだ。
「どちらかはわからないけど、どちらかが、"別の世界"から来た沢村翔太だ、ってこと」
特に驚いた顔もせず、ああ、なるほど、とあさひは頷いた。
「沢村翔太は僕らと同じような方法で、別の世界からこの世界へとやってきた」
「そして、どちらかがどちらかを殺した。状況を整理すると、どっちがどっちを刺したかも簡単かもしれないね」
「というと?」
「どうして沢村翔太の死体を、誰かに発見される危険もいとわずに校門まで運んだのか。
それは死体を発見させることで、何を誇示するためだったのかな?」
「誇示」
たしかに、わざわざ人目のつくところに死体を運んだということは、発見させることで何かを誇示したかったからかもしれない。
誰に対して?
「これは単純な推測だけど、沢村翔太の死体を、しかも死後かなりの時間が経った刺殺体を見つけると、どうなる?」
「どうなる、って」
「……沢村くんは、容疑者ではなくなる」
あさひの言葉に、すみれが頷いた。
「これも単純な推測で証拠は何もないけど、あさひの夢の話と総合すると、ひとつの仮説が生まれる。
あさひの夢では、最初に刺されたのは誰だっけ?」
「……沢村くん」
「そうだったよね。最初に殺されたのは、沢村翔太。死体は見つかってなかった。それが今になって発見された」
僕たちはそれを、ふたつの可能性で考えていた。
まず、沢村翔太はあさひが夢で見た通りに殺されていて、死体が発見されていないため行方不明のままだった可能性。
もうひとつは、あさひの夢がただの夢でしかなく、沢村翔太の失踪は立て続きに起きた殺人とは何の関わりもないという可能性。
「沢村翔太は、沢村翔太を容疑者から外す為に沢村翔太の死体を今になって置き去りにした」
すみれのその言葉は、荒唐無稽なようで筋が通っている。
誰も死者を疑わない。
「だとしたら、今になってその必要が出てきたってことだよね。どうしてかな?」
僕はその言葉で、誇示、と言った彼女の言葉の本当の意味を理解できた。
「碓氷遼一を殺しきれなかったから」
僕は思い出す。
あのとき、僕の傍にはあさひがいた。
けれどあさひには、沢村翔太の顔がよく見えなかったはずだ。僕の体が間に挟まっていたし、彼も帽子を目深に被る程度の対策はしていた。
だからあさひには、彼の顔は見えなかった。
けれど、刺された僕は、彼と目が合った。
「単純に考えて、これは遼一に対するアピールだよね」
すみれの言葉に、けれどあさひが首を傾げる。
「でも、それっておかしくない? 遼一たちなら、沢村くんがふたりいる可能性にすぐ思い当たるでしょう?」
「沢村翔太が、刺した相手が"こっちの遼一"じゃないって気付いてればね」
ああ、そうか。
沢村が、自分が刺したのが"こっち"の碓氷遼一だと思っていたら、その碓氷遼一に顔を見られたと思ったのだとしたら、
死体を見せつけることには意味がある。少なくとも告発されることはなくなる。
でも、そうかもしれない。
あさひの話によれば、殺人の大半は人混みの中や、日没前に起きた。
まるで目撃されることを恐れていないみたいに。
それもそう考えると自然なことかもしれない。
現に犯人は発覚を恐れていなかったのだ。
死体を置き去りにするところを見つかったところで、痛くも痒くもなかったことだろう。
沢村翔太は死んでいるからだ。
現場から沢村翔太の痕跡が発見されたところで怖くもない。
そのとき沢村翔太は既に死んでいるからだ。
「顔を見られて、沢村翔太が犯人だと誰かに気付かれたら、死体を見せつけてやればいいわけか」
なるほど。
そう考えると、こちらに来たとき僕やすみれが考えたことなんて、ずいぶん控えめだったかもしれない。
「疑問がひとつだけある」
すみれはそう話を続けた。
ひとつだけで済むだろうか、と僕は思ったけれど、口は挟まない。
「どうして沢村翔太は、遼一を殺しきらなかったのか、ってこと」
「……そばに、わたしがいたからじゃない?」
あさひの言葉に、すみれが首を横に振る。
「だったら最初から、ひとりでいるところを狙ったはず」
「……たしかに」
もし顔を見られても、死体を出せば追われずにすむ。だったらその場で逃げなくても、殺しきってしまえばよかったはずだ。
そういう自負があったからこそ、彼は隣に人間がいる場面で僕を刺したのではないのだろうか。
「そもそもの問題なんだけど」とあさひが口を開いた。
「どうして沢村くんは人を殺したりするの?」
「そんなの考えたってわかんないよ」
すみれの答えはあっさりしていた。
「人が人を殺す理由なんてわかるわけないでしょ」
ああ、でも、と彼女は続ける。
「自分を殺す理由なら、なんとなくわかるような気がするけどね」
つづく
おつです
◇
自分を殺すという言葉には二種類の意味がある。
一方は精神的な、一方は肉体的な意味を孕んでいる。
誰でも自分を"押し殺す"ことがある。
滅私奉公という言葉の通り、自分を"殺して"公に従うことは美徳に数えられる場合さえある。
また、"自殺"する者もある。
自分が嫌になったとき、自分自身でいることに安らげないとき、自分を許せないとき。
あるいは、自分自身を諦めたとき、何もかもに疲れ果てたとき、深い悲しみや絶望に囚われたとき。
人は自らの手で自らを縊る。
そういうことを考えると、生きるということは……としたり顔で何かを語りたくなる。
そのどれについてもよく知らないくせに、それらしいことを嘯きたくなる。
沢村が自分を殺したとしたら、それは精神的な意味でも肉体的な意味でもないような気がした。
その意味が、今の僕にはわかるような気がする。
生きるというのは岐路の連続だと、誰かがそれこそしたり顔で言っていた。
僕たちは刻一刻と迫りくるいくつもの可能性の中から常にひとつを選び取り続ける。
不断の選択。
自分は何も決断していないと思っている人間がいるとしても関係ない。
彼はただ一秒ごとに決断しないということを決断し続けているだけに過ぎない。
目の前に似たような扉が三つある。作りも同じように見える。たどり着く場所がどこかは分からない。
そのどれかを開いて身をくぐらせてしまえば、もう後戻りはできない。
選ばなかった扉は二度と開くことはできない。
僕たちはその扉の向こうにあったはずの景色を決して見ることはできない。
けれどもし、それを覗き見ることができたら。
その扉の向こうに、自分が選んだものより上等な景色が広がっていたとしたら。
そこを自分によく似た誰かが歩いているとしたら。
その自分を、その扉をくぐったかもしれない自分を……。
その扉を選ばなかった自分は……。
その景色を眺めている自分は……。
◇
両親が悪い親だとは思わない。
でも、問題のない親だとも思わない。
どこの家だって似たようなものだ。何かしらの点で、家庭は完璧ではない。
完璧な人間がいないのだから当たり前のことだ。
今現在の自分の性格や精神の在り方を家庭環境や周囲のせいにしていいのは子供の内だけだ。
そもそも人間の在りようにおいて、何かひとつの原因にすべて由来が帰結してしまうほど単純なものなんてひとつもない。
すべては複雑に、曖昧に、重なり合い、結びつき、混じり合っている。
それでもなお生きようとするなら、よりよく生きようとするなら、何かのせいにしていても始まらない。
自分のせいにしても始まらない。
それは僕のせいではないし、誰かのせいでもない。
それでも僕はそれを受け入れ、消化し、あるいは自分なりに削り取ることで生きようとするしかない。
それでも僕は、ふとした瞬間に、ああ、あれが原因だったのかもしれないな、とぼんやり思う。
何かのせいにする、というような鋭い気持ちではなく、ただ、ガラス越しに魚を眺めるようにぼんやりと。
あるいは、祖父のせいであったのかもしれない、と。
◇
祖父は不潔な生き物だった。
ろくに体を洗わないものだから肌はいつも浅黒く汚れ、酒を飲むと赤みがかっておそろしく奇怪に思えた。
背中を曲げ、足を引きずって歩く彼は、服もほとんど洗わずに毎日を過ごした。
味の濃いものを好んで食べるせいで血圧が高く、目はいつも赤く充血していた。
朝新聞配達をしている以外では、家にいても何もしていることはない。
ただ畑を耕して、ぼろぼろの自転車で出かけて……彼の日々はそんなものだった。
父とは何か必要がないかぎり会話しようとせず、ただ四六時中家で顔を突き合わせている母だけが祖父の相手をしていた。
僕とは、年に一度か二度しか会話しなかった。
母にとって祖父は舅だった。
血縁はなく、だから私は他人なのだ、と母はときどき漏らしていたことがあった。
祖父はよく嘘をついた。それもつまらない嘘を。
都合の悪い話になると逃げる癖があった。
畑仕事の後に手を洗おうとしないので、彼が食卓に現れるとテーブルがひどく汚れた。
薄黒い手で子供に触れるのを母はひどく嫌い、祖父を罵ったものだった。
彼が歩くとそこかしこが汚れた。それを母が咎めると、祖父は意地の悪いようににんまりと笑い、何も言わずに歩いていくのだ。
もう頭がおかしくなりそう。わたしが我慢しなくちゃいけないの? どうしても頭に来るの。
そう言って母が父に言った。あなたから言ってください。あなたのお父さんでしょう。どうしてあなたは何も言わないの。
父は答えない。
ねえ。と母。
父は答えずにテレビを見ている。
お父さん? と母は父を呼ぶ。
不意に父は母を振り返り、笑った。
今の見たか、と父は言う。
何を、と母。
今の車のCM。新型だ。
話を聞いて。
聞いてるよ。
だったらどうして返事をしないの?
ジジイのことだろう。俺にどうしろって言うんだ。
あなたのお父さんでしょう? わたしのお父さんじゃない。
……。
都合が悪くなると聞こえないふりをするのね。本当に親子って似てくるのね。
なに?
そっくりって言ったのよ。
それは僕にとっては呪いに近い言葉だった。
僕は祖父を嫌っていた。蛇蝎のごとく、と言ってもいい。
蝿や蛾を厭うように、祖父のことを避けていた。
汚いから、なんだか、気持ち悪いから。
姉は、そんな僕の感情を、母による洗脳だ、と言った。
子供にとって、親は絶対みたいなところがあるから、わたしたちはお母さんが嫌ってたから、おじいちゃんが嫌いだったけど……。
今にして思えば、おかしいのはお母さんの方だったのかもしれない。
なるほど。
でもそれは……一緒に暮らさなくなってから姉が言ったことで……一緒に暮らさなくなったから言えることだ。
ましてや、愛奈のことでさんざん喧嘩した母を、姉は煩わしく思っているのだろうから。
どこでもいいから母の間違っているところを探して、それを理由に母を間違っていると思いたいのだろう。
何もかもが複雑で、誰が悪いというのも簡単じゃない。
父は祖父について何も言わなかった。ときどき、本当にときどき怒鳴りつけるように叱ることはあったけれど、それだけだ。
よくよく考えてみれば、父は家のことを、ほとんどすべて母に任せきりだったかもしれない。
僕や姉や祖父のことも。
ひょっとしたら愛奈のことも。
母はよく我慢していたのだと思う。
それでも一度歯止めがきかなくなってしまうと、ほとんど狂ったように祖父を責めた。
幼稚園児のようなことだ。
食事の前には手を洗え、風呂に入る前には体を流せ、服は毎日取り替えろ、嘘をつくな。
父がいないところでは、ただ祖父はニンマリと笑うだけだ。
父がいるところでは、すぐに部屋に戻っていなくなってしまう。
全員が揃うのは、いつも夕食のときだけで、
だから夕食の時間になると、よく母が祖父を怒鳴りつけたものだった。
手を洗ってください。
洗った。
汚いでしょう。
汚くない。
服だって何日取り替えてないんですか?
替えたばかりだ。
父は黙っている。
母はこらえようとする。
やがてどちらもが怒鳴り声をあげはじめる。
父もそれに混ざる。
僕と姉はただ黙々と食事をとっている。
夕食というのは基本的に苦痛な時間だった。
食事を食べ終えるまでそこから離れてはいけないという、一種の地獄のようだった。
このような経験によって得られた(と、僕が思っている)性質がふたつある。
まずは、食事を食べるのが早いこと。
これは学校でよく驚かれたものだった。
もうひとつは、近くで大きな声を張り上げられても、まったく反応しないこと。
名前を呼ばれても、それに気付かないこと。
前者はともかく、後者は少し問題だった。
おかげで、とは言いたくないが、今にして思うと、僕があんまり人と仲良くなれなかったのも、
彼らが話している内容を、本当の意味で聞いてはいなかったからかもしれない。
父は祖父にそっくりで、親子は似てくるものだという。
母は祖父と血のつながりのない人間だ。
では僕は?
姉は?
姉は女性だから、また違うかもしれない。
でも、僕は?
父が祖父に似ていくように、僕も父に似ていくのだろうか。
だとしたらそれは、祖父の三番目の模造にすぎないのだろうか。
僕の生は。
だとすれば……。
僕もまた、やがてはあんなふうに、汚く、不潔な生き物になり、
子や孫から毒虫のように嫌われて、妻を亡くし、日がな一日退屈に過ごし、
誰かに嫌がらせをしては、あんなふうにニンマリと笑うようになるのか、と。
だとするともう、生は一種の絶望でしかないように思えた。
僕はもう、ただ、いつかは、あんなふうに嫌われて、あんなふうに生きるだけの生き物なのだと。
僕は不潔な生き物の卵なのだと、そう思った。
◇
愛奈は僕ほどではなかったけれど、彼女が生まれた頃も祖父はまだ生きていたので、その影響はたっぷり受けていた。
まず、名前を読んだり話しかけたりしても、なかなか返事をしないこと。
次に、誰かが近くで口論や喧嘩をしていたりすると、咳をすること。
口論が止まらなければ止まるまでいっそう烈しく、愛奈の咳は続く。
「ねえ、お兄ちゃん。パパに会いたいな」
何年か前、愛奈はそう言ったものだった。
「パパがどんな人だったか、覚えてる?」
「うん。あのね、眼鏡かけててね、茶髪でね、背はそんなに高くなくて……」
愛奈の思い出は、二歳か三歳頃の記憶にしては、正確だった。
そういうものなのかもしれない。
「でも、死んじゃったの」
そういうことに、彼女の中ではなっていたらしい。
実際には死んでいなかった。ただ離婚しただけのことだ。
そして今は、別の女の人と結婚して、普通に子供を作っているという。
たぶんうまくやっているんだろう。
「ママはどうしてあいなのとこにいないの?」
「うん……」
「あいなのこと……」
嫌いなの、と、訊こうとしたんだろうな、と思って、胸が詰まるような思いがした。
僕は愛奈のことを抱き上げた。
そうだ、そのとき僕たちは、見晴らしのいい丘の上の公園で、ベンチに腰掛けて、一緒にジュースを飲んでいたんだ。
あの初夏の日暮れ。
「愛奈、お兄ちゃんは一緒にいるよ」
僕はそう言った。きっと、愛奈は僕の言葉の意味の、半分だって理解しちゃいなかっただろう。
「一緒にいるから大丈夫だよ」
それでも彼女は笑ってくれた。
誰も、望んで生まれてきたわけじゃない。勝手に作って、勝手に産んだんだ。
勝手に生んでおいて、後は何が起きても知らないから好きに生きろなんて、無責任だ。
生んでやっただけで感謝しろとか、育ててやった恩がどうとか、親には感謝して当たり前だとか、そういうのは気持ち悪い。
勝手に産んだんだ。勝手に産んだんだから、親にはその責任ってものがある。
それを親が果たさないなら……誰かが代わりにやらなきゃいけない。
それでも子供が親や大人を恨んだら、黙ってその言葉を引き受けなきゃいけない。
誰もやらないなら、僕がやる。
だから僕は……でも、今の僕は……。
何を思っているのかさえ、自分ではわからない。
つづく
おつです
おつです
∵[Pollyanna]S/a
それは蒸し暑い初夏の日差しが少し弱まり始めた日暮れ前のことで、
わたしと遼ちゃんは近所の公園でベンチに並んで座っていた。
その頃の愛奈ちゃんはほんの小さな赤ん坊で、
だからわたしもまだ彼女に醜い嫉妬や羨望を覚えたりはしていなかった。
わたしと遼ちゃんを見ると大人たちはいつも不思議そうに首をかしげたものだった。
わたしたちは一緒にいても一緒にいるだけで、何かで遊んだりはしゃいだりはしなかった。
ただお互いがそれぞれに好き勝手なことをして、なんとなくそばから離れないでいた。
わたしは遼ちゃんのことが好きだったし、遼ちゃんもわたしのことを嫌ってはいなかったと思う。
だからわたしたちは、ほとんどくっつくみたいにして、ベンチに隣り合って座ったまま、
たとえば彼が黙々とルービックキューブの面を揃えようとしているのを、
わたしは口も挟まずに眺め続けていたりしていた。
それがたぶんわたしたちの関係の最初のかたちで、なんとなくだけど、それはずっとそうなんだろうと思っていた。
遼ちゃんは、同じ年頃の男の子と比べても取り立てて変わった子というわけではなかった。
口数が少なくて周囲から一歩引いたようなところはあったけれど、
それは達観していたり老成していたりというよりはむしろ、引っ込み思案で及び腰な性格が理由のように見えた。
そんな彼とわたしが仲良くなったのは、べつにお互いの波長があったからとか、そんな特別な理由があったわけではなく、
ただお互いに周囲に上手く馴染めなくて、偶然に話す機会があって、たまたま家が近かったから、ということでしかない。
小学二年生のときに転校してきたわたしを、最初に学校まで案内してくれたのは遼ちゃんだったし、
登下校を一緒にしているうちに、いつのまにか一緒にいるのが当たり前のようになって、
特に話すこともないのに四六時中一緒にいたりして。
だからわたしはわたしが遼ちゃんの特別だと思っていたし、
遼ちゃんも遼ちゃんがわたしの特別だと思っていたと思う。
一緒にいたときは、そういうことをぼんやりとしか感じられなかったけれど、
ずいぶん時間が経った今にして思えば、ああ、あのときわたしたちは、たしかに互いの特別だったのだな、と、
そんなふうに思うのだ。
◇
遼ちゃんとわたしが疎遠になったのに、なにか大きな事情があったわけではない。
それまでお互いがなんとなく一緒にいたのと同じように、
なんとなく一緒にいることができなくなって、距離ができてしまったのだと思う。
それでもわたしは遠目で遼ちゃんの様子をうかがっていたけれど、
中学を卒業する頃には言葉を交わすことだってめったになくなってしまっていた。
それでも一緒の高校に進学したから接点がまったくなかったわけでもないけれど、
不思議なもので、理由や大義名分でもないと話しかけることもむずかしくなってしまった。
昔はむしろ反対で、特別な理由でもないかぎりあんまり離れもしなかったのに。
それはたぶん愛奈ちゃんがいたからなんだろうけど、
愛奈ちゃんのせいと言ってしまうのは、当然ながら身勝手な話で、
事実としてはわたしのせいなのだろうと思う。
いつしかわたしは、遼ちゃんと話すのが怖くなった。
いつからか、彼の瞳にわたしが映っていないような気がして、怖くなった。
目の前にいても、どれだけ近くにいても、彼にはわたしのことなんて見えていないように思えた。
その目を見ているのが怖かったのだ。
それでも年をとるにつれて、人間関係も広がっていって、
わたしは遼ちゃんがいないときに話せる相手を見つけられたし、
遼ちゃんだってそれは同じだと思う。
ときどき女の子とふたりで話しているところを見かけることもあった。
部活の先輩とか、委員会で一緒の子とか。
そういうとき、彼はいつもそれが当たり前のようなごく自然な顔をしていた。
おかげでわたしの方も、気にしている自分がなんだかばかみたいに思えて、
あんまり彼のことを気にしないように努めるようにしていた。
努めている、ということは、気にしている、ということなんだけど。
そういうわたしの気持ちというものは、心の奥底の方で固着してしまって、
たとえば彼と同じ空間にいるだけで彼のことを少し気にしてしまうのも、それでも話しかけられずにいるのも、
わたしのからだが自動的におこなってしまう反射のようになっていた。
これが恋なのかどうかさえ、わたしにはよくわからない。
◇
「生見って、好きな奴とかいるの?」
同じクラスの沢村くんがそう話しかけてきたのは、九月のある放課後のことだった。
夕方のバイトまで少し時間があまって、友達はみんな部活に出ていて、
暇だから教室に残って本でも読んでいようかと思っていたら、彼がわたしのところにやってきたのだ。
わたしは正直、この沢村くんという人があまり得意ではなかった。
よく話しかけられるし、それに返事もするのだけれど、
彼にはなんだか、相手の顔色や話をうかがうようなところがまったくないように思えた。
それはそれで美徳ではあるのかもしれないけど、
わたしは彼のそういう態度が、相手に対する見くびりのように見えて苦手だった。
そんな相手に向けられた突然の質問だったから、わたしは思わず戸惑った。
「どうして?」
興味本位だよ、と沢村くんは笑った。
「生見ってあんまり男子と話してるとこ見ないから、どうなのかなって思って」
わたしはあんまり男の子と話すのが得意じゃない。
特に理由があるわけではなくて、昔から話す機会が少なかったから、
何を話せばいいのかわからないのだ。
ちょっとした会話のやりとりくらいだったらできるけど、
個人的な話をすることはあんまりない。
話しかけてくるのだって、沢村くんを含むほんの一握りで、
その誰もが、わたしだから話しかけるというよりは、分け隔てなく話しかけるというような人ばかりだった。
「どうって、べつに」
人の話を相槌を打ちながら聞くのはそんなに苦にならないのだけど、
話題が自分のこととなると、いつも言葉に迷ってしまう。
他の友達に同じことを訊かれても、うまく答えられない。
ただ、いつも、思い浮かぶのは同じ顔で、でもそれだけだ。
それが恋なのかどうかさえ分からない。
たぶん恋なんだろうなと思う。
でも、それをいまさらどうできるのか、わたしにはよくわからない。
とっさに、「沢村くんの方はどうなの?」と訊いてみた。
訊くべきじゃなかったのかも、と思ったのはあとからだった。
沈黙を嫌う臆病さから、会話をできるだけ長引かせようとしてしまうのは、わたしの悪い癖だ。
興味のないことを訊いてしまうなんて、失礼なことだ。
遼ちゃんといたときは……無理な会話なんて、しないでいられたのにな。
そう思うけど、そんな思いすらもう今では慣れきってしまっていた。
沢村くんは、何かを言いかけて口ごもってしまった。
そういえば、と思い出して、わたしは言葉を付け足す。
「ほら、弓部先輩……」
わたしが弓部先輩の名前を出した瞬間、彼は表情をこわばらせた。
「弓部先輩?」
「うん。あれ、違うっけ?」
沢村くんが弓部玲奈というひとつ上の先輩に好意を寄せていたのは結構有名な話で、
わたしの耳にもその噂が聞こえてきたから、とっさに口に出してしまったのだけれど……。
彼の表情を見るに、避けた方が無難な話題だったのかもしれない。
「弓部先輩がなに?」
「ううん。なんか前に、ほら、ふたりがいい感じだって噂があったから」
嘘だった。
沢村くんが一方的に、弓部先輩に言い寄っている、という内容の噂だった。
それを直裁的に言うのはさすがにはばかられて、わたしは言い換えた。
「あの人とはなんでもないよ」
不機嫌そうに息をつくと、彼はそっぽを向いた。
子供みたいな人だな、と思う。
話題を変えようと思って、わたしは頭の中から彼に関する情報を探す。
「えっと、沢村くん、今日は部活はいいの?」
「ん。ああ、いいんだ」
「部、休みなの?」
「そういうわけじゃないけど……まあ、べつに絶対参加ってわけでもないから」
「なにかあったの?」
興味なんてないのに、やっぱり話を続けてしまう。
これってひどいことだよな、とやっぱりわたしは自分で思う。
でも、やめられない。
人にどう思われるかが怖くて、いつも、人の顔色をうかがってしまう。
「べつにいいだろ」
案の定、沢村くんは不機嫌になった。
「それより、さっきの質問の答えが気になる」
「質問?」
「だから、好きな奴とかいるの?」
「……」
答えなければいけないのだろうか。
そう思ったときには、わたしの視線は、自然と、遼ちゃんの席の方へと向いていた。
どうしてだろう。
ばかみたいだ。
「……碓氷?」
「――」
とっさに、息を呑んだ。
「よく、目で追ってるもんな」
「……そんなこと」
あるけど、まさか沢村くんに気付かれているとは思わなかった。
彼はもっと、鈍感な人間だと思っていた。
勝手な侮り。反省するべきかもしれない。
「あいつのこと、好きなの?」
「そういうわけじゃ」
「趣味悪いな」
「……」
――余計なお世話だ。
と、言ってしまえない自分が、歯がゆかった。
その瞬間、廊下から足音が聞こえてきた。
足音は、わたしたちの教室へと近付いてきて、やがてその主が姿を見せた。
わたしは心臓が跳ねるのを感じた。
イヤフォンをつけたまま、彼は一瞬、わたしと沢村くんの方に視線をよこした。
それからすぐに、興味を失ったように目を逸らし、自分の机へと向かう。
わたしはなんだか、この状況を誤解されているような気がして、
そう思うとたまらなく不安になって、思わず声をかけてしまった。
「どうしたの?」
聞こえなかったのか、彼は机の中から何かを取り出したかと思うと、それを持ってそのまま教室を出ていこうとした。
その背中に、沢村くんが鋭い声をかけた。
「無視かよ」
その声に、彼はこちらを振り返って、驚いたような顔をした。
何か、深く傷ついたような顔をしていた、と思う。
わたしの目が、信頼に値するならば。
少しの沈黙のあと、何も答えない彼に向けて、沢村くんが言葉を続けた。
「何考えてるか分かんねえんだよな、こいつ」
「ちょっと……」
「どうせ聞こえてねえよ。音楽聴いてるんだろ。俺たちの声なんて聞くつもりありません、って態度だ」
「やめなよ」
どうしてそんなことを言うのか、わたしにはまったくわからなかった。
彼がしたことが、そんなふうに言われても仕方ないほどのことだとは、わたしにはどうしても思えない。
「気に入らないんだよな。いつもつまんないって顔してさ、自分だけどっか周りから一歩引いてるみたいな顔して、
気取って距離置いて、馴れ合わないのがかっこいいとでも思ってるのかもしんないけど、
ただ誰にも相手にされてないだけだろ」
「やめなって。どうしてそんなこと言うの?」
どれだけ止めても、沢村くんはわたしの声なんて聞こえないような表情のまま、声を荒げていた。
「ムカツくんだよ。こいつ、俺たちみたいな奴のことバカだと思ってんだ。
何の悩みもない脳天気で気楽な奴らだと思ってる。そういう奴ってのは態度で分かるんだよ。
顔を見れば分かる。自分だけがつらいと思ってる顔だ。自分だけが不幸だって思ってる顔だ。自分だけが特別だと思ってるんだ」
そこまで言ってしまうと、彼は口を閉じて不満そうな顔をした。
わたしは何を言えばいいのかわからなくて黙り込んでしまった。
彼はただ――遼ちゃんは、ただ、何かを諦めたような顔をして、小さく口を開いた。
「……ごめん」
その声は、いつもと同じ。以前と同じ。穏やかで、でも、どこか、頼りないような、芯がぶれているような、声。
遼ちゃんの声は、何かの皮膜を挟んだみたいに遠く思えたけれど、それ以上に、
久しぶりに彼の口から聞いた言葉が、そんなものだなんて、そんなのあんまりだ、と思った。
わたしの気持ちも、遼ちゃんの表情も、まったく気にした素振りもなく、
歯止めがきかなくなったみたいに、沢村くんは言葉を続けた。
「おまえさ、人生楽しくねえだろ」
遼ちゃんは、その言葉を受けて、表情をほんの少しだけこわばらせた。
わたしは言葉を失った。
逃げるようでもなく、腹を立てたようでもなく、彼はそのままの表情で、背を向けて教室を出ていった。
何も言わねえのかよ、と、沢村くんが不機嫌そうに吐き捨てた。
怒りに似た感情が、じわじわと胸の内側で固まっていった。
わたしは沢村くんを睨んでいた。
「……なに?」
言ってしまうのは怖いような気もした。
でも、結局わたしは言わずにはいられなかった。
「勝手なこと言わないで」
「……なにが」
「――遼ちゃんのこと、なんにも知らないくせに、勝手なこと言わないで」
そう言ってしまうのはとても怖いことで、わたしは思わず泣きそうになった。
間違っても沢村くんの前で涙なんて見せたくなかったので、わたしは荷物を持って慌てて立ち上がった。
教室を出てすぐのところを、遼ちゃんは歩いていた。
「ねえ、待って」
思わずそう声をかけたけれど、何を言えばいいのかは考えていなかった。
彼がゆっくりとした動作で振り返る。
その瞳が、ちゃんとわたしの方を見ていることに、少しだけ安堵する。
「……その、ごめん、ね?」
とにかく、謝らなければ、と思って口にした言葉だったけれど、
本当はそんなことを言いたいわけじゃなかった。
遼ちゃんは、作り笑いを浮かべた。
「いいよ、べつに、気にしてないから」
そんな表情に――わたしが騙されると、彼は本当に思ったんだろうか。
わたしが、彼の強がりを見破れないと、彼は本当に信じたんだろうか。
そのことが無性に悲しかった。
「あのさ――」
遼ちゃん、と言いかけて、口に出すことができなかった。
「――碓氷くん」
言葉にできたのは、まるで他の人のことを言っているような呼び方で、
わたしはその事実がひどく苦しかった。
それでも彼は、それが当然のことのように、表情ひとつ変えなかった。
いつのまにわたしたちは、こんなに遠くなったんだろう。
「なに?」
「えっと、その、さ」
うまく、言葉にできない。言いたいことは、ちゃんとあるはずなのに。
わたしが言いよどんでいるうちに、彼はあっさりと話をやめにしてしまった。
「ごめん。今日用事あるから、もう行かなきゃ」
諦めに近い感情が胸に浮かぶのをとめられなかった。
それは、そうだ。
わたしはもう、彼にとってなんでもない。特別でも、なんでもない。
もう彼には別の友達がいて、別の特別がいて、だからきっと、わたしなんていなくても平気なんだろう。
「……そっか、ごめん」
彼はそのまま、わたしに背を向けて歩きはじめてしまった。
取り残されたまま、わたしは少しの間じっと立ち尽くしていた。
わたしも、バイトにいかなくちゃ、と、そう思ったのは少し後のことで、
そう思えるようになるまでの間、わたしはずっと、考えても仕方のないようなことばかりを、ずっと考えていた。
つづく
おつです
◇
遼ちゃんが学校に来なくなったのは、
そんな会話をした翌週の火曜日だった。
わたしはその前にほんのすこしだけ彼と話をした。
それなのに、彼にはわたしの言いたいことなんてなんにも伝わっていなかったみたいだった。
それも仕方のないことなのかもしれない。
わたしは結局、彼にとってはもうなんでもないのだろうから。
それでも、もはや何の関係もないような相手だったとしても、
気になって仕方なくて、ストーカーみたいに家の近くまで行ってしまったわたしは、
やっぱり少し変なんだろうか。
インターフォンを押して訪ねてみるつもりにはどうしてもなれなくて、
(……扉を開けた彼が、わたしの姿を見つけてあの目を向けてくるのが怖かった)
結局家のまわりをぐるぐるするだけで、
近所の人の目が気になって、すぐに引き返すことにした。
その途中で、昔よく遊んだ児童公園を見つけたものだから、
あたかもそこで一休みするのが目的だったというように、
自販機で温かい飲み物を買ってベンチで休むことにした。
少なくともそれならば、誰にも何も言われることはない。
そう思っていたんだけど……。
「人探し?」
突然そう声を掛けられて、わたしはビクリとした。
振り返ると、そこに立っていたのはひとりの女の子だった。
小学生くらいの――ふつうの、女の子。
でも、なんだろう……? 何か、おかしいような気もする。
どこが、というわけではないのだけれど……。
彼女は、わたしが座っているのとはべつの、ひとつ隣のベンチに腰掛けて、
膝の上に白い猫をのせていた。
「こんにちは」と彼女は笑った。
その笑顔は、なんだか、どこか、技巧的に見えた。
つくりものめいて見えた。
「こんにちは」とわたしは鸚鵡返しした。
わたしがこの公園に入ってきたとき、この子はいただろうか?
ぜんぜん、気が付かなかった。
女の子は、そこにいるのが当たり前のような、そこが彼女のための空間であるかのような、
そんな雰囲気をたたえていて、その表情は、わたしをほんの少しだけ萎縮させた。
固まってしまったわたしに、
「人探し?」
と、彼女はもう一度訊ねてくる。
とっさにうまく返事ができなかったわたしを見て、女の子はくすくす笑った。
なんだか、ずっと年上の女の人にからかわれているような、そんな気さえした。
「人探しってわけじゃ、ないけど……」
「そうなんだ。はずれ」
少女はそう言いながら、膝の上の猫の背中を柔らかに撫でた。
「……どうして、そう思ったの?」
わたしがそう問いかけると、彼女はまた――例のつくりものめいた表情で――笑う。
「ただの勘、みたいな? でも、やっぱりあんまりアテにならないね」
「……あなた、誰?」
「わたしのことは、いいじゃない」
そう言って彼女は、それ以上踏み込ませないと言うみたいに、すぐに言葉を続けた。
「それより、ねえ、お姉さん。突然なんだけど、何か叶えたい願いとか、ある?」
「……え?」
「なんでも、ひとつ、ひとつだけ、願いが叶うよって言われたら、どんなことを願う?」
わたしは、その突然の質問に、一瞬だけ漠然とした景色をイメージして、
それからすぐ、わからなくなった。
公園はもう、夕日の橙で染め上げられていた。
影が濃く長く伸び始め、景色のなかの黒はひそやかにその領土を広げ続けている。
秋の風のざわめき、しめやかな虫の声、子供たちの話し声が、道の向こうから聞こえてきた。
そんな景色のなか、彼女の表情だけが、工芸品のように浮かび上がっている。
この場にそぐわないような、
それでもなんだか、輪郭が景色に滲み溶け込んでいるような、
奇妙な存在感。
「……お姉さん、お返事は?」
小さい子供を相手にするみたいな話し方で、彼女はわたしに答えを求めた。
「どうして突然、そんなことを?」
「ただの世間話だよ。こういう話、嫌い?」
「そういうわけじゃ、ないけど……」
「ねえ、どうかな? お姉さんは、どんなことを望む?」
……やっぱり、変な子だ。
どこがというわけじゃないのに、どこかがおかしい。ずれている。
「……あなたは?」
「わたし?」
驚いたみたいに、彼女は目を丸くして、
「それを訊かれるのははじめてかな」と、小さな声で呟いた。
「わたしはね、うん。決まってるの」
「どんなの?」
「そうだなあ。会えなくなった友達と、もう一度会えますように、かな」
「……ふうん」
わたしは、その願いごとが、とても自然で当たり前のものに見えて、
彼女に奇妙な恐れを抱いていた自分を、ほんのすこしだけ軽蔑した。
「お姉さんは?」
「……うん。そうだね。だったら、わたしは」
どうしてだろう。
当たり前みたいに、答えてしまった。
「……友達と、仲直りできますように、かな」
「喧嘩したの?」
「ううん。そういうわけじゃ、ないんだけど。なんだか、お互い、距離ができたっていうか……」
「それって、きっと……寂しいよね」
どうして、そんな話をしてしまったんだろう?
ひょっとしたら、誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。
ずっと、ずっと。
「ねえ、お姉さん。だったらさ、その願い――」
その瞬間、ぞわり、と、悪寒のようなものが、背筋を走ったのがわかった。
「――叶えてあげようか?」
その、なんでもないような、たった一言で、わたしは硬直してしまった。
子供向けのアニメのモノマネみたいな、よく聞くような台詞なのに。
わたしは、どうしてか、途方もなく不安になった。
とっさに首を横に振ったのは、臆病だったからだろうか。
「そう……? 残念」
本当に残念そうに、彼女は溜め息をついた。
「……そういうことは、自分でなんとかしたいの」
わたしのその言葉は、半分くらいは本音で、半分くらいは、言い訳だ。
「そういうものなんだ」
なんだか納得がいかないような顔で、彼女は首をかしげる。
その仕草のひとつひとつは、ごく当たり前の、少女のように見えるのに。
「でも、わたし、お姉さんのこと、好きになっちゃった」
「……え?」
「だから、応援するくらいはいいでしょう? 上手くいきますように、って」
「……うん」
その言葉には、どうしてだろう、素直に頷けた。
ほんの少し、心が軽くなった気がする。
「うん。だったら――応援するね」
ありがとう、と言いかけた瞬間に、少し強い風が吹いた。
砂埃が舞い上がって、わたしはとっさに目を瞑った。
わたしが再び目を開けたとき、女の子の姿は、もうそこにはなかった。
風にさらわれでもしたかのように。
不意に、後ろから足音が聞こえる。
振り返ると、そこに見覚えのある女の子が立っていた。
さっきまでの子とは違う。ランドセルを背負っている。
「……愛奈ちゃん?」
わたしがそう声を掛けると、彼女は怯えたように視線を揺らした。
でも、どうしてかこちらから目を離そうとはしない。
いろんなことが一度に起きて、わたしは少し混乱した。
さっきの女の子は、どこに行ったんだろう。
あたりを見回しても、さっきの子はいない。
愛奈ちゃんが、わたしの目の前にいる。
何かを言いたげに、こちらを見ている。
「あの……わたしのこと、分かる?」
遼ちゃんとわたしが疎遠になる前までは、何度か顔を合わせたことがある。
中学の頃だって、まったく会っていなかったわけではないはずだ。
覚えているかもしれない、と思ってそう訊ねたのだけれど、
愛奈ちゃんの返事はもっとはっきりとした肯定だった。
こくん、と彼女は頷いた。
彼女の表情は真剣で……なんだか、切羽詰まっているように見える。
「あの、小夜さん」
「……どうかしたの?」
「……お兄ちゃん、知りませんか」
「え? わたしは、見かけてないけど」
そうじゃない、と言うみたいに、彼女は首を横にぶんぶん振った。
「家にいないんです」
「……そうなんだ。どこかに行ったのかな」
また、首を横に振った。どうしたんだろう。何が言いたいんだろう。
「……家に、帰ってこないんです」
それは、さっきと同じ意味の言葉じゃないのか、と、少し怪訝に思ってから、
わたしは彼女の言いたがっていることに思い当たった。
「……いつから?」
「月曜の夜から、ずっと、帰ってこなくて」
「……月曜の夜?」
今日は……木曜日だ。
家に帰っていない?
無断外泊? あの遼ちゃんが? ――まさか。
「小夜さん。お兄ちゃんがどこに行ったか、知りませんか」
愛奈ちゃんは、震える声でそう言ってから、嗚咽をこぼした。
「お兄ちゃん、このまま帰ってこなかったら、わたし……」
遼ちゃんが、いなくなった? どうして?
何かの事故に巻き込まれた? もっと悪いこと?
それとも、彼は……。
「……わたし、ひとりぼっちになっちゃう」
愛奈ちゃんは、本当に小さな声で、怯えたようにそう呟いた。
彼女の瞳からぽろぽろと涙が流れるのを、わたしは呆然と眺めていた。
つづく
おつです
◇
泣きじゃくる愛奈ちゃんをベンチに座らせて、わたしは自販機で温かいお茶を買って彼女に渡した。
ありがとうございます、と、こんなときも愛奈ちゃんは礼儀正しかった。
「それで、遼ちゃんが家に帰ってないって……」
愛奈ちゃんは、わたしの言葉にこくんと頷いた。
それ以上、続きはないらしい。
遼ちゃんが、帰ってこない。
遼ちゃんが、いなくなった。
わたしはそれを、どうしてだろう、意外だとは思わなかった。
遼ちゃんはいつも、そこにいるのにいないような顔をしていた。
いついなくなってもおかしくないような、そんな。
でも、同時に、ありえない、とも思った。
遼ちゃんが愛奈ちゃんを残してどこかにいなくなるなんて、ありえない。
それはわたしの、勝手な思い込みだったのだろうか?
愛奈ちゃんは俯いたまま深く息を吐き出して、それからゆっくりと吸い込んだ。
そしてわたしの方を見上げる。
「月曜日、お兄ちゃんはいつもみたいに学校に行きました。
わたしが最後にお兄ちゃんに会ったのはその日の朝です。
お兄ちゃんは高校に入ってから、ほとんど毎日、学校が終わったらそのままバイトに行っていました」
とても小学生とは思えない、丁寧で落ち着いた話し方だった。
そういう子なのだ。
「火曜の朝に、おばあちゃんがお兄ちゃんのバイト先に連絡しました。
バイト先の人によると、お兄ちゃんは閉店までしっかり働いていたそうです。
特に様子がおかしいわけでもなかったと言われたそうです。
おばあちゃんは、何かあったのかもしれないと言って、バイト先の人に事情を説明しました」
愛奈ちゃんの話し方はとても真剣だったけれど、なぜだろう、
それが子供の言うことだというだけで、ある種のおかしみのような気配が生まれる。
それって悲しくないだろうか?
「おばあちゃんが、学校には風邪を引いたと連絡して、バイト先の人にも似たような説明をしました。
どうして、とわたしは思ったけど、もしお兄ちゃんが戻ってきたとき、妙な噂になるといけないから、と言ってました。
そうして今日になりました。おじいちゃんはいつものように仕事に行って、おばあちゃんもいつもみたいに家事をしています。
まるで困ったことなんてなんにも起こってないみたい」
それを恨まないであげてほしいな、とわたしは思った。
どんなときでも、そうせずにはいられないのだ。
「小夜さん、お兄ちゃんを、どこかで見かけませんでしたか?」
愛奈ちゃんは、何かにすがりつくみたいな目でわたしの方を見た。
残念だけど、とわたしは首を横に振った。
「わたしが遼ちゃんを見たのも、月曜日が最後なの。わたしが見たとき……」
遼ちゃんは。
そうだ。
――怒るのって、エネルギーがいるだろう。
ああ、あのときのあの言葉は、もしかしたら、
そんなエネルギーは残っていない、という意味だったのかもしれない。
遼ちゃんは……。
「遼ちゃんは……普通だったよ」
そのときわたしは、愛奈ちゃんに嘘をついた。
それがどうしてなのかは、自分でもよくわからない。
そうですか、と愛奈ちゃんは目を伏せた。
愛奈ちゃんはそのあと、何かを考えるみたいにずっと黙り込んでしまった。
そうしてまたポロポロと涙をこぼし始める。
自然と溢れてきてとまらないみたいに。
そうやって涙を流せるのが、ほんのすこしだけ羨ましいとも思った。
同時に、ほんのすこしだけ、怒りに近い感情が自分の中で渦巻くのに、気付かずにはいられなかった。
どうしてだろう。
でも、それは、わたしがどうこう言えることじゃない。
愛奈ちゃん。
彼女は知ってるんだろうか?
遼ちゃんのことを、ちゃんと分かっていたんだろうか?
◇
遼ちゃんのお姉さんが愛奈ちゃんを残して家を出ていったときから、
遼ちゃんのなかで何かが変わったのがわたしには分かった。
彼はそのときから、ごく当たり前の子供時代を投げ捨ててしまったように思えた。
まるでそこで得られるものが取るに足らないがらくたにすぎないというように、
何かを楽しむことも、何かではしゃぐことも、声をあげて笑うことだってしなくなった。
ただ気遣うような愛想笑いと、本音の見えない追従があるだけ。
その韜晦に秘められたものがなんなのか、わたしはほんのすこしだけ分かるような気がしていた。
それも、分かったつもりになっていただけなのかもしれない。
「どうしてこんなことになるんだろう?」
公園のベンチに並んで腰掛けて、ただぼんやりと過ごしていたとき、
遼ちゃんは突然そう言った。
わたしは遼ちゃんから、愛奈ちゃんのことやお姉さんのことを聞かされていたから、
遼ちゃんが気にする理由もわかるような気がした。
でも、それは遼ちゃんが抱え込むようなことではないはずだ、とも思った。
だって、わたしたちはそのとき、まだほんの子供だった。
今だってまだ、子供でしかない。
「僕にはどうしても分からないんだよ」
本当に、心底疑問だというふうに、彼は言うのだ。
「愛奈ちゃんのこと?」
「どうして平気なんだ? どうしてそんなことを、平気でできるんだ?」
「平気じゃ、ないのかもしれないよ」
「だとしても……」と遼ちゃんは言う。
「平気じゃないとしても、そんなのおかしい」
「うん……」
でも、仕方ないよ、と、わたしはそう言った。
遼ちゃんは苦しげに俯いた。
「……間違ってる」
――遼ちゃんのことを、わたしは、愛奈ちゃんは、分かっていたんだろうか?
そんな疑問の答えは、とっくのとうに分かりきっている。
分かるわけなんか、ないのだ。
◇
立ち上がろうとしない愛奈ちゃんを連れて、彼女の家まで向かった。
遼ちゃんの家に行くのは初めてではないけれど、珍しいことではあった。
遼ちゃんは自分の家に友達を連れて行こうとはしなかった。
どうしてなのか、遼ちゃんは言おうとしなかったけど、わたしにはなんとなく分かるような気がする。
遼ちゃんの家にわたしが行ったとき、遼ちゃんのお母さんとお祖父ちゃんは口喧嘩をしていた。
いつもなんだ、と遼ちゃんは恥ずかしそうに言っていた。
そういうことなのだろうと思う。
愛奈ちゃんはわたしを家の中に招いてくれた。
もう、お祖父ちゃんはとっくに亡くなっている。
家には遼ちゃんのお母さんがいた。
愛奈ちゃんの面倒を見るために、それまでしていた仕事をやめて家にいるようになったのだと聞いていた。
「なんだか久しぶりじゃない?」と、当たり前みたいに笑うおばさんが、
わたしはほんのすこしだけ怖かったけれど、ほんのすこしだけかわいそうだと思った。
遼ちゃんがいなくなったのに。
まるでそれを認めたくないみたいに。
わたしは、それをそうだと分かったうえで、それでも他に放つ言葉を見つけられなかった。
「遼ちゃんのことなんです」
「ああ、うん」
おばさんはキッチンに向かって、麦茶とコップを用意してくれた。
もう九月なのに、風は冷たいくらいなのに。
それがなんだか寂しいと思った。
「帰ってこないの」
おばさんはそれ以上何も言わなかった。
どうぞ、と差し出されたコップに口をつけて、麦茶を飲む。
「どうしてだろう?」
「どうしてでしょうね」
「何も言わずに無断外泊なんてする子じゃないし、もう三日も連絡がないなんて……」
「警察には?」
おばさんは小さく首を横に振った。まるでその言葉を恐れていたみたいだった。
それから彼女はつけっぱなしになっていたテレビに視線を向けた。
ぼんやりとした、何も見ていないような目だな、とわたしは思う。
小夜ちゃんはランドセルを置いて手を洗った。
それから自分の分のグラスをもってきて麦茶を口にすると、鞄を広げてプリントを取り出した。
宿題らしい。
宿題。
「小夜ちゃんは、何か聞いてない?」
期待のこもった目で、おばさんはわたしを見た。
「すみませんけど、何も。遼ちゃんとは、あんまり話してなかったから」
「そう、よね。子供の頃、仲が良かったって言ってもね」
そうじゃない、とわたしは思ったけれど、うまく説明できる気がしなかった。
ただ、遼ちゃんはわたしに何も教えてくれなかった。
ただそれだけなのだ。
「何か、抱えてることがあるなら、話してほしいって、わたしはそういうことを言ったんです」
「……それって、いつ?」
「月曜の、朝です」
「……」
「遼ちゃんは、わたしには何も言ってくれなかった」
いろんな可能性が、あるとは思う。
何かに巻き込まれた、と、そう考える方が、もしかしたら自然なのかもしれない。
でもわたしは、遼ちゃんは自分の意思で、どこかに行ってしまったような気がしてならない。
遼ちゃんは……。
どうしてわたしは、遼ちゃんと一緒にいることができなかったんだろう。
以前のように、ただ一緒にいるという、ただそれだけのことができなくなってしまったんだろう?
どうしてもそれがわからない。
「何か、追い立てられてるみたいだな、と、思ってはいたの」
おばさんは、そう言った。
「思ったことを口に出さない子だったし、自分でこうと決めたことは、絶対に譲らないところがあったから……。
危なっかしいとは、思っていたの。でも、当たり前みたいに過ごしているから、わからなくなっちゃった」
自嘲するみたいに笑って、彼女は言葉を続ける。
「ねえ小夜ちゃん。わたしが悪いんだと思う?」
「おばさんは、わたしが悪いと思いますか?」
「……」
「わたし、ひとつだけ分かることがあります」
「……?」
「何が起きたにせよ、遼ちゃんはきっと、自分のせいだ、自分の責任だって思ってます」
「……そうかもしれない」
そう言って彼女はまたテレビに視線を投げ出した。そうして何かに気付いたみたいに声をあげた。
わたしも画面に目を向ける。
隣町で殺人があったとの報道。
死んでいたのは四十代の男性で、二人の娘と暮らしていたという。
誰かに刺されていたらしい、と言っていた。
職場の人間は、二日ほど前から連絡がつかず、不審に思って自宅を訊ねたときに死体を見つけたのだという。
不思議なことに、二人の娘についても行方が知れない。
姉の方は学校にもあまり顔を出さず、ときどきバイクに乗って帰ってこないこともあった、と近所の人間が訳知り顔で言っていた。
バイクがないから、今回もただ帰っていないだけなのかもしれない、と。
妹の方は、真面目で挨拶もちゃんとする良い子だった、と同じ人物。
何かに巻き込まれていないといいんだけど、と、そこで話は終わった。
死体。
おばさんの表情がこわばるのが見て取れた。
大丈夫ですよ、心配しなくてもきっとそのうち帰ってきますよ。
そんな気休めがわたしにはどうしても言えなかった。
遼ちゃんは帰ってこないかもしれない。そう思うと胸が締め付けられるような思いがした。
◇
翌日の学校にも、やはり遼ちゃんの姿はなかった。
不思議なことに、その日は沢村くんも学校を休んでいた。
うるさいくらいの健康優良児だった彼が病欠なんて、珍しいと思ったけど、わたしは気にも留めなかった。
わたしはその日、クラスの人たちや、文芸部の人なんかに話を聞きに行った。
でも、誰も遼ちゃんのことなんて誰も知らなかった。
文芸部の部長さんは、「ただの風邪じゃないの?」と不思議がっていた。
クラスメイトたちは、「そんな奴居たっけ?」とでも言いたげだった。
わたしの苛立ちが誰かに伝わればいいと思った。
最後に、わたしは図書室に向かった。
図書委員の女の子はわたしと同じ学年で、篠目さんという名前だった。
彼女に、碓氷くんのことについて知らないか、とそれとなく訊ねた。
「来てない」と彼女はそっけなく言った。まるでわたしなんてとっとといなくなってほしいみたいな言い方だった。
「いないの?」と彼女は聞いてきた。
「そうみたい」
「遊園地かもしれない」
「遊園地?」
「そんな話をしたから」
冗談だと思って、わたしはそれ以上話を聞かなかった。
誰も遼ちゃんの行方について知らない。
どうしてわたしたちは後悔ばかりなんだろう?
つづく
おつです
◇
お姉さんの友達は、なんだか遠くに行ってしまっているみたい、と、公園で出会った少女が教えてくれた。
「遠く?」
彼女は例の精巧な表情で、戸惑ったように俯いた。
「具体的には、ちょっと、わからないかも」
「……どうして、遠くだって思うの?」
「探してみたの。ほんのすこしだけど。でも、見つからなかった」
本当にちょっと話をしただけなのに、彼女はわざわざ探してくれたんだろうか。
……わたしは遼ちゃんの特徴も伝えていないのに。
その空回りのやさしさがうれしくて、わたしは彼女の頭を撫でた。
彼女は不思議そうな顔でわたしの顔を見たあと、にっこりと笑った。
その表情のまま、言葉を続ける。
「たぶん、何かに巻き込まれたんだと思う」
不穏な言葉に、わたしは頷く。そうだね、と。
それ以外に何も考えられない。
「わたしにも探れないくらいだから、ひょっとしたら、神様と同じくらいの力に巻き込まれたのかも」
その大袈裟な言い回しがなんだかおかしくて、わたしは笑ってしまった。
「がんばって、探してくれたんだね」
「ん……まあ、がんばって、ってほどではないんだけどね」
「……神様と同じくらいの力って、どういうこと?」
女の子は、わたしの質問に首を傾げた。
「そのままの意味。わたしが探せないくらい遠くってことは、神様と同じくらいの大きさの力だと思う」
なんとなく、この子の持つ不思議な雰囲気を感じ取ってはいた。
だから、神様と同じくらいの大きさ、という彼女の不思議な比喩のことも、すんなりと受け入れられた。
「どうすればいいのかな」
「友達のこと?」
「うん。何かに巻き込まれてるんだったら、心配だな」
「どうしようもないよ」と彼女は言った。
その言葉には、深い実感のようなものがこもっていた。
どうしようもないことをたくさん知っているみたいに。
「でもね、ほんのちょっとなら、手助けできると思う」
そう、彼女は言った。
「ほんのちょっとだけど」
「本当?」
「うん。言葉を伝えることくらいなら、できるかもしれない」
言っている意味はよくわからなかったけれど、わたしは頷いた。
「ありがとう」
「どういたしまして。それで、なんて伝えたらいいかな」
訊ねられて、口ごもった。
なんて伝えたらいい?
わたしは彼に、何を言いたいんだろう。
「……そう、だね」
「うん」
わたしは――。
その言葉が、届かないと知っているから、彼女に言ったところで、どうにもならないと知っているからこそ、
いま、言葉にすることができるような気がした。
でも、それはただの錯覚でしかなくて、言いたい言葉なんてちっともまとまらない。
遼ちゃんに言えることなんて、本当にあるんだろうか。
だってわたしは、これまでずっと、遼ちゃんと言葉も交わしていなかったのだ。
そんなわたしが何を言ったところで、遼ちゃんに伝わったりするのだろうか。
彼はどこかに行ってしまった。それは、彼自身の意思のようにも思える。
わたしに、引き止める権利なんてあるだろうか。
愛奈ちゃんのことを言い訳にしてしまうのは簡単だ。
でも、わたしは、本当は愛奈ちゃんのことなんかより……。
「……」
本当に、どうしてわたしたちは、いつも後悔ばかりなんだろう。
「お姉さん?」
「そうだね。じゃあ、一言だけ、お願いしてもいい?」
彼女は頷いた。
「それじゃ、あのね――」
つづく
おつです
◇[Stockholm]R/b
沢村翔太の死体が発見された日の夜、僕は自分の荷物を確認していた。
この世界に来るときに持っていた荷物。
つまり、バイト帰りに咲川すみれと会って逃避行を始める前までに、
僕が背負っていた鞄に入っていた荷物のことだ。
ここ何日かの間、妙な話にばかり付き合わされて、そういうことをする機会があまりなかった。
鞄の中にはお気に入りのMDプレイヤー。それから水を入れていた水筒。財布。
使い物にならない携帯電話。それから、一冊の本。
なんだか懐かしいような気持ちで、僕の持ち物を眺めてみる。
プレイヤーにはいろんな音楽を片っ端から詰め込んだプレイリスト。
聴き尽すことはいつまで経ってもできないような気がする。
水筒は、まだ少し中身が残っていた。
それももう飲むことはできないだろう。できるにしても、したくはないだろう。
財布には多くもなければ少なくもない金。
それも、すみれと来てからいくらか使って減っていってしまった。
月初めに給料が出たばかりだったので、たまたま金が多く入っていたが、それもやがては尽きるだろう。
携帯電話は、鳴らないし、どこにも通じない。ライトと時計とカレンダーとメモ帳くらいにはなるかもしれない。
でも、もともとそうだった。僕の携帯はライトと時計とカレンダーとメモ帳くらいの機能しか果たしていなかった。
このわずかな持ち物を見て、これが僕の人生なんだと思った。
これが僕がここまで持ってきた人生のすべてなのだ。
それ以外のほとんどすべては、僕には得られなかったか、得られたにしても失われてしまったか、
あるいは僕が望んで手放してきたか、とにかくそのいずれかなのだ。
今、現にここにあるもの。それが僕のすべてなのだと思う。
こんなものを後生大事に抱え込んでいたって仕方がないじゃないか、と僕は思った。
最後に、本の表紙に目を止めた。
たしか、図書館の除籍本をもらったのだったか。
それとも、どこかの店で自由文庫の棚を見つけて、手に取ったのだったか。
それは、谷川俊太郎の『二十億光年の孤独』だった。
僕はパラパラとページをめくって、その詩集をぼんやりと眺める。
そのうちの一節に目が止まる。
『かなしみ』と題された、有名な詩だった。
少しだけ、いろいろなことを思い出せそうな気がしたけれど、
それがなんなのかは結局わからないままだ。そんなことばかり繰り返している。
何をなくしたんだろう。
あるいははじめから持っていなかったのか。
かつて僕がほしいと思っていたもの、どうしても手に入れたいと望んでいたもの、
それがなくては耐えられないと思うほど好きだったもの、どうしようもなく求めてしまったもの。
そのどれもが、なぜだろう、ひとつたりとも鞄に残っていない。
あるいは、ひょっとしたら、そんなものは最初からなかったのかもしれない。
どうしてだろう。
「遼一……?」
不意に声を掛けられて、頭をあげた。
すぐ傍に、すみれが立っていた。僕は自分が篠目あさひの家のリビングのソファに腰掛けていることを思い出した。
「どうしたの?」
「いや、少し」
「少しって。まだ休んでないと、傷治らないよ」
「どうせすぐには治らないよ」
「そうは言っても休んでてもらわないと」とすみれは言った。
「もしかしたら荒事になるかもしれないし」
「荒事?」
「沢村翔太のこと。もうひとりの方は、生きてるかもしれないんでしょ」
「ああ、うん」
「何か考えごと?」
「……いろいろね。なんだか急にわからなくなって。ねえ、すみれ、あのさ」
彼女はキッチンの水道でコップに水を飲んで、それを一気に飲み干した。
それから僕の方を向きもせずに訊ねてくる。
「なに?」
「それって僕らがやらなきゃいけないことなのかな」
てっきり、責められるかと思ったけど、違った。
「ごめんね」
彼女は、そう言って謝った。
「そうだよね。べつに、わたしたちがやることじゃないのかもしれない」
「……どうしたの?」
「……刺されるなんて思ってなかったから」
ああ、そうか、と納得した。
それは、そうだ。
僕が刺されて、すみれとあさひはそれを見た。
僕らはどこか現実感がないまま過ごしていた。
でも、あの痛みは、熱は、本物だった。
人が刺されれば、血が出るのは当たり前だ。
僕らは気付かないふりをしていたのかもしれない。
すみれがあんまり落ち込んだ顔をするものだから、僕は言い出しづらくなってしまった。
べつに、刺されて、死ぬのが怖くなったわけじゃない。
ただ、自分が考えなくてはいけないことが、他にあるような気がするだけだ。
僕は、この世界の僕のことを思い出す。
彼が、僕が、あさひに投げかけた言葉を思い出す。
あんなふうに、あんな言い方を、あんな態度を、あんな……。
あの姿を見て、僕にはすべてが分からなくなってしまった。
何が正しくて、何が間違っていたのかも。
最初からわからなかったのに、一層、分からなくなってしまった。
僕は溜め息をついた。
「沢村翔太が……沢村翔太が犯人だったとして、次に何をするか、僕らには分からない。
あさひが今夜、夢を見るかどうか。後のことは、それから考えよう」
「……うん」
「ねえ、すみれ。さっきは妙な弱音を吐いたけど、僕は沢村翔太を止めるつもりだよ。
もし彼が続ける気なら、だけど。だって、この世界の僕が死んだら……」
この世界にもいるはずの、愛奈が悲しむだろうから。
でも、どうなんだろう。僕が死んだら、愛奈は悲しむだろうか。
……この世界なら、そうかもしれない。
だとすれば、僕がここに来たことにも、意味があるのかもしれない。
それはただ、ごまかしだという気もするけれど。
あるいは僕は、ただ、彼が正解だったと、そう思っているのかもしれない。
「……とにかく、僕はやる。すみれこそ、不安なら無理に付き合うことないよ」
「わたし?」
「一応女の子だから」
「一応って何?」
「言葉のあやだよ」
すみれは笑った。
◇
その晩に見た夢のことを、あさひは次の日の朝教えてくれた。
僕たちはあさひの家の近くのコンビニで朝食を買った。
サンドイッチとパンとおにぎりと、食べ物はたくさんある。飲み物だってある。
寝床があって食べ物があって……足りないものが思いつかない。
「碓氷がまた襲われる」
灰皿の傍で煙草を吸う僕とすみれに、彼女はそう教えてくれた。
「どっちの?」
「分からない」
「刺されてた?」
「うん」
傷はほとんど痛まなかった。
まるで自分が不死身でもなった気分だった。
さて、どうしようね、と誰かが言うべきだ。でも僕は言わなかったし、二人も何も言わなかった。
ただ、あさひだけが少し俯いた。
「ごめんね」
「なにが?」
「なんだか、巻き込んじゃったね」
「きみだってそうだろう」と僕は言った。実際、彼女だって巻き込まれた側だ。
「わたし、なんにも知らないふりをしてればよかったのかな。碓氷だってきっと、わたしに助けてほしいなんて思ってないだろうし」
「かもね」
でも、それは僕達にはどうでもいいことだった。
「ねえ、あさひ。あなたは間違ってないと思うよ」
そう言ったのはすみれだった。僕はふたりのやりとりを黙って聞いていた。
「それは、あなたは見て見ぬふりをすることもできた。でも、止めようとしてる。それって正しいことだと思う。
正しいことがなんなのか、わたしにはわからないけど、知ってしまったからにはどうしても見逃すことのできないことってあるもの」
「……ありがとう」
とあさひは言ったけれど、僕は別のことを考えていた。
でも、考えるのは後にすることにした。
どのみち今は、このふたりと行動を共にするべきだろう。
「……それで、どうする?」
僕たちは一度あさひの家に戻り、そこで話をすることにした。
僕の問いかけに、二人は目を見合わせる。
「また、張るのか? 後手に回って、今度もやられっぱなしじゃ同じことだろう」
「どういう意味?」
「いまのところ、あさひの予知夢は百発百中だ。僕も刺された。あさひの夢を頼りに現場を抑えるだけじゃ後手に回ることになる」
「でも、他に……」
「もし沢村翔太が、僕達と同じように世界を渡ってきたとしたら、沢村翔太はどこに潜伏しているんだろう?」
「どこ、って?」
「僕達に宿がないように、沢村翔太にも宿がないかもしれない」
「ちょっと待って。まさか、沢村翔太の居所を探ろうって話?」
「もちろん見つけられる確信があるわけじゃないけど、ただ何かが起きるのを待っているよりはいい」
そうだね、とあさひは言った。
「たしかに、そうかも。何かが起きる前に沢村くんを取り押さえられたら……」
「……そういえば、ひとつ疑問があるんだけど」
すみれの言葉に、僕とあさひは彼女の方を見る。
「取り押さえて、どうするつもり? まさか、説得が通じるなんて思ってないよね?
仮説が正しいなら、沢村はもう四人殺してるんだよ」
僕はあさひの方を見た。どうする。『どうする』?
沢村翔太はこの世界の人間ではなく、既にこの世界の人間を四人殺していて、更に殺し続けようとしている。
沢村翔太はこの世界では既に死んでいる人間だ。
警察に引き渡す? ……それも、不可能ではない。
おかしなことだと思われはするだろうが……。
いや、でも、こんな状況の僕達が証言なんてできるはずもない。
たとえその場を目撃したとしても。
かといって、捉えて説教をしたとしても、彼にはもう失うものなんてないだろう。
同じことを繰り返さないなんて、保証はどこにもない。
どうなる?
どうなるんだ?
あさひは何も言わない。
僕はそのとき、ごく自然にひとつの打開策を思いついていたけれど、
それをこの場で口にだすのは憚られた。
「あさひ。次に碓氷遼一が刺されるのは、やっぱり夕方?」
「……うん。そうだと思う」
「場所は?」
「たぶん、だけど……あの、碓氷の家から少し歩いたところの、丘の上。住宅街に、広い公園があるの、分かる?」
「……ああ、うん」
「あそこ、だと思う。碓氷のそばには、小学生くらいの女の子がいた」
「……遼一、大丈夫?」
「うん……」
愛奈。
愛奈。
この世界に来てから、僕は愛奈の姿を見ていない。
見られなくてよかった、という気もする。
もし、愛奈の姿を見てしまったら、僕はまともではいられないかもしれない。
どうにかなってしまうかもしれない。
結局僕は、愛奈を利用していただけなのだろう。
ただ、理由がほしかった。
だから、愛奈を、そこに押し込めた。
それはきっと愛情じゃない。
憐憫ですらない。
けれど思考は、つじつま合わせのように愛奈について考えてしまう。
「沢村翔太が、どこに潜伏しているか、か」
すみれが、考えをまとめようとするみたいに人差し指で額を抑えた。
「少なくとも、この世界の沢村翔太の家、ってことはなさそうだね。
家族がいてもいなくても、失踪したり死体が見つかったりしてるわけで、人目を集めやすい」
「ということは、その近辺というのもあり得ないだろうな」
「かといって、学生の身分でホテルみたいな宿泊施設っていうのも、考えにくいよね」
僕らがそうであるように、彼も普通に働いたりはできないはずだ。
一時的にはともかく、いつまでも身を隠し続けることはできないだろう。
「となると、どうなるの?」
「金がかからず、人目につかず、頻繁に出入りしたりしても誰にも怪しまれない場所……」
僕の言葉に、あさひがひとつ条件を付け加えた。
「もうひとつ。死体を隠していても見つからないような場所」
「……そうか」
沢村翔太は、この世界の沢村翔太の死体を校門まで運んだはずだ。
そうなると、それまで彼は、その死体をどこかに隠していたことになる。
「でも、死体の隠し場所は、潜伏場所とは限らないんじゃない?」
「……たしかに」
「……そもそも、沢村はどうやって死体を校門まで運んだんだ?」
「そんなの……」
沢村が車で身動きをとっている、という可能性もない。
運転技術に関しては、年齢的には考えにくいが、べつにどうとでもなるだろう。
ただ、その車をどうやって手に入れるのか、という問題が残る。
もし盗んだりしたなら、そこからたちまち足がつくということも考えられる。
車じゃないとすると……。
「鞄に詰め込んで、タクシーかなにかで近くまで移動した。そこから徒歩で移動した、とか」
「それは難しいと思う。沢村の死体は五体満足の状態で発見されたんだろうから」
「根拠は?」
「もしバラバラだったら、報道されてるはずだから」
「……」
バラバラ殺人が起きると、ワイドショーかなにかではすぐに猟奇的だと騒がれるが、実際には違う。
あれは、人間の死体をなんとも思っていないからできることだ、というわけではない。
殺人の隠蔽を目論んだときにこそ、バラバラ殺人は意味を持つ。
死体は重いし、そのまま運ぼうとすればどうしても目につく。
車かなにかに隠すことができれば別だが、そうできないときは、鞄にでも詰め込んで運ぶしかない。
そして、鞄に詰め込むなら、なるべく目立たないように、小さく切り分けて、少しずつ運んで隠すのがいい。
死体を切り分ける行為は、人を殺してしまった人間がとる行動としては、かなり合理的だ。
そうだ。そう考えると、逆に考えてしまえば。
「沢村翔太の潜伏場所は、学校から近いのかもしれない。車を使わなかったと考えると、だけど」
「学校の近く……。でも、そんなところに、死体を隠すようなところなんて……」
ない、だろうか。
死体は臭う。人が立ち寄る場所には隠せない。普段誰も近付かないような場所……。
どこかに隠すとしたら、どうする?
「……あさひ。沢村翔太は、どこで殺されたんだっけ?」
「……え?」
「夢で見たんだろ?」
「あ、うん……。どこかの、公衆トイレみたいなところだったと思うけど」
公衆トイレ。
沢村に死体を隠すつもりがなかったとしたら、
死体は、沢村が移動するまで、ずっとそこにあったんじゃないのか。
……そんな考えは突飛だろうか?
沢村は失踪したことになっていた。彼を探す人がいれば、近辺はくまなく探すだろう。
……そうだろうか?
沢村が死んでいたと、そう知っていたのはあさひだけだ。
ただの家出だと思われていたら、そんな詳しい捜索なんてするだろうか?
……今は仮説でいい。
「"学校帰りに刺された"。あさひはたしか、そう言っていたっけ?」
「……うん。そうだったと思う」
この条件を満たしている場所はないか?
学校帰りだと言うなら、学校の近く。そうでなければ、死体を運ぶのは難しい。
死体があった場所から校門まで、沢村翔太は、おそらく背負うか何かして、それを運んだ。
しかも、誰にも見咎められずに。それが可能な距離だった。
そして、誰にも見つからないような場所。
使われていないような公衆トイレ……あるいは、その近く。
公衆トイレ……。近隣に、公園なんかはあるが、人通りがないわけじゃない。
異臭騒ぎでも起きれば、すぐに死体は見つかるだろう。
……公衆トイレ?
「ねえ、あさひ、本当に公衆トイレだった?」
「……どういう意味?」
「それ、学校のトイレじゃなかったか?」
僕の言葉に、あさひは静かに息を呑んだ。
「……わからない。視界、揺れてたし、暗かった。夕方だっていうのと、なんとなく、どこかの公衆トイレだったってことしか」
「ね、遼一。さすがに学校のトイレだったら、あさひでも気付くんじゃない?」
「男子トイレでも?」
「……そっか」
「……学校のトイレ、だったかもしれない。でも、どうだろう。断言はできない」
「でも、沢村翔太が殺されたのって、たしか七月の始め頃って言ってなかった?
夏休みならともかく、生徒がたくさん出入りしているような場所で殺して、発覚しないもの?」
「あさひの夢の話だと、刺されたのは全部夕方頃だ。
言葉に惑わされそうになるけど、七月の日暮れは遅い。空が赤くなったり周囲が薄暗くなったりするのは、
おそらく六時過ぎから七時くらいだろう。そのくらいの時間なら、熱心な運動部くらいしか残っていないと思う。
これは仮定だけど、もし沢村が校舎内の、あまり使われないようなトイレで殺されたとしたら、見つからない可能性はある」
「仮定、仮定ね」
「そもそも、断定できる根拠がないから、仮説くらいしか立てられない。
それに外れていてもべつに損はしない。前と同じように、あさひの夢に出た場所に向かえばいいだけだ」
「わかってる。べつに文句はないよ」
「でも、その仮説に従うと、沢村くんは、死体を学校のどこかに隠していたってことになるのかな」
「……でも、休み中ならまだしも、登校日でしょう? そんなに長い時間、隠しきれる?」
「ありえるかもしれない」とあさひは言った。
「あると思う。誰も近付かないような、死体の隠し場所。
うちの高校、もともとは東校舎に部室棟があったんだ。でも、南校舎が新設されて、そっちに移った。
老朽化が理由って話だったけど、東校舎は取り壊されずに残ってる。
でも、本校舎からだと結構歩かないといけないから、あんまり人が近付かないんだ」
「だとすれば」と僕は言った。
「沢村翔太自身も、そこに隠れている可能性がある」
「ぜんぶ、憶測だけどね」と、すみれが言う。僕は頷いた。
「確認する価値はあると思う」
誰も異論は唱えなかった。
もちろん、これが全部、子供の遊びのような馬鹿げた仮説の上に立っているものだと、三人とも分かっていた。
つづく
おつです
◇
沢村翔太について、僕が思い出せることはほとんどない。
けれどあえて語ろうとするなら、彼は特に印象的な部分のない男子だった。
風変わりなようにも見えなかったし、特に大きな問題を抱えているようにも見えなかった。
どこにでもいるような、と言ってしまうと違うけれど、かといって、何か特別なところを感じたことはない。
僕達は三人並んで高校に向かった。制服なのはあさひだけで、僕とすみれは私服姿だった。
誰かに怪しまれたら一発でアウトかもしれない。
「いざというときは、街で偶然会った遼一に、わたしが用事を頼んだことにするよ」
あさひはそう言ってくれたし、その言い訳は実際心強くもあった。
そのくらいの理屈なら、ある程度通るだろう。
ある程度、だけれど。
僕たちは昇降口から堂々と校内に入り込んだ。
誰かに何かを言われるかもしれないとも思ったが、誰も何も言わなかった。
それどころか、僕ら以外にも私服で出入りしている生徒はいるようだった。
事件続きだというのに、警戒心が薄いものだ。
それもまた、仕方のないことなのか。
それとも何か、僕が知らないことがあるのか。
どっちでもかまわないと僕は思った。
あさひの案内にしたがって、僕らは東校舎に向かった。
渡り廊下の先の扉には鍵がかかっていたが、彼女が少し揺するとすぐに開いてくれた。
「知ってる人は知ってるの」と彼女は言った。
そのまま進もうとして、僕は立ち止まった。
先を歩いていたふたりが、僕の方を振り返る。
「……どうしたの?」
「二人とも、ここで待っててくれない?」
「どうして?」
「沢村はナイフを持ってる」
「だから?」
「一応、きみたちは女の子だし……」
「その細腕でフェミニスト気取り?」
すみれの挑発に、僕は黙った。
「それに……」
「『それに僕は、死んだってかまわないから』って?」
「……そういう意味じゃないけど」
「あんたは怪我してる。一人の方が危ない。じゃない? わたしも行く」
そう言って、すみれはあさひの方を向いた。
「あさひはここに居なよ」
「……でも、わたしが言い出したことだし」
「でも、あんた、とっさに動ける? 庇わなきゃいけない相手がいる方が危ないんだよ、こういうのは」
「……」
「決まりね」
◇
あさひを校舎の入口に残して、僕とすみれは東校舎の中へと進んでいった。
「ねえ、遼一。本当のことを言うと、ひとりになりたかったんじゃない?」
「分かってたなら、叶えてくれてもよかっただろう」
「危ないってば」
「別に僕が死んだって、きみは構いはしないだろう?」
「ここまで来てそれを言う? 後味が悪いじゃない。わたしがあんたをここに連れてきたんだからね」
僕らは廊下を歩いていく。すべての窓は板で塞がれていたから、人目を気にすることもなかった。
「こんなところで死んでらんないでしょう? わたしたちはこれからだって、心の底から笑える場所にいかないといけないんだからね」
すみれの言葉に、僕は思わず笑ってしまった。
「遼一が笑った」
「そんなに珍しい?」
「とても」
「そうかい」
どうでもよかった。ただなんとなく笑ってしまっただけだ。
「ねえ、すみれ。僕らはあの扉をくぐってきたわけだけど……
あの女の子は、望む景色を見せるって、そう言ってたけど……」
「……それが?」
「僕らは、心の底から笑える場所に行こうって、そう話したよね」
一階には、何もなかった。念のためにトイレも覗いたけれど、誰もいないし何の痕跡もなかった。
階段を昇りながら、話を続ける。
「ひょっとしたら、ここがそうなのかもしれない」
「どういう意味?」
「つまりね、この世界では、僕は……『僕』は、心の底から笑っているのかもしれない。
僕たちは、その景色を、たしかに、『見せてもらって』るんだ」
「……」
「だから、僕は思ったんだ。僕が心の底から笑うには、世界の条件を変えるしかないんだ。
とっくに手遅れで、そんな景色は、もともと僕がいた場所にはありえなくて、だから、僕はここに来たのかもしれない」
すみれは何も言わなかった。二階もまた、一階と同じように窓が塞がれていて薄暗い。
「そんなのわかんないよ」とすみれは言った。
「でも、それはこんなところじゃないよ、きっと。わたしたちには分からないものが、きっと隠れてる」
「……そうかもね」
「わたし、けっこう後悔してるんだ。こんなのさっさと終わらせて、帰ろうよ。
そうしたら、一緒にお茶でもしようよ。ね、遼一。わたし、あんたがいれば、そこそこやれそうな気がするんだ」
「……その言葉は、嬉しいけどね」
でも、僕が思い出したのは、生見小夜のことだった。
そういうものだ。
僕たちは三階に続く階段を昇った。
つづく
おつです
三階にたどり着いた瞬間に、空気がぴしりと音を立てて変わるのを感じた。
具体的に何がどう違うというわけではない。
ただ何かが決定的に変わっていた。
閉ざされた窓、薄暗闇の廊下、ずっと続いている。
教室の扉はすべて閉ざされている。
誰の気配もない。
ただいつまでも続いているのだ。
やめておけばよかった、と僕はほんのすこしだけ思った。
僕はこんなところに来るべきではなかった。
僕はこんなところに来るつもりではなかったのだ。
「大丈夫?」とすみれが訊いてきた。何がだろう、と僕は思う。
「真っ青だよ」と彼女は言った。
僕は首を横に振る。
大丈夫? と僕は頭の中で繰り返した。
僕はただ歩いていただけだ。
何もおかしなところなんてない。
すみれが喉を鳴らすのを聴いた。
僕たちはただ廊下を歩いている。
薄暗い、光の刺さない、埃っぽい空気。
なんだか、少し前にもこんな場所を歩いた気がする。
どこだろう。
もしかしたら、あの地下貯蔵庫だろうか。
この世界に来るときに覗いた、あの。
僕は不意に、あのときに見つけたラテン語の本のことを思い出した。
ただ箴言を並べただけのような言葉たち。
今の僕は、いくつか、その言葉を思い出せるし、その意味も知っている。
あのときは、不思議と忘れていた、というより、意識できなかった。そういうつくりなのだろう。
"In vino veritas."――酒の中の真実。
酒の中。
ワインの貯蔵庫。カタコンベ。あの暗闇、饐えた匂い。
僕は一度、あの貯蔵庫の先にあった扉が、僕の望みだったんじゃないか、と、そう思った。
さっきすみれに話したのだって、そういうことだ。
でも、そうなのだろうか?
そうではなくて、ひょっとしたら、あの光景こそが、僕にとっての真実だったんじゃないか?
あの空虚、あの暗闇。
あそこには愛奈の姿も、愛奈を思わせるものも存在しなかった。
そして埃をかぶった本にはこんな一節があった。
"Peior odio amoris simulatio"――愛の見せかけは憎しみよりも悪い。
"Aliis si licet, tibi non licet."――たとえ他人が許しても、自分自身に許されはしない。
"Non omne quod licet honestum est."――許されることすべてが正しいとは限らない。
あの光景は……僕が愛奈を、本当の意味で愛してもいないし、大切にもしていないのだと、突きつけていただけなんじゃないか。
僕にとってはあの空虚こそが真実で、
金を貯めるとか、愛奈と過ごすとか、そんなのはすべて言い訳でしかなく、
僕はただ、愛奈を大事にするという大義名分の上に、自分自身の生を懸命に生きることから逃げているだけなんじゃないか。
それを僕は心の奥底ではわかっているんじゃないか。
そんなことばかりが、どうして頭をよぎるのか?
最初から気付いていたからじゃないのか?
「……」
不意に、僕は立ち止まった。
気付いたのは、そうしてからだった。
「遼一……?」
肩越しに振り返るすみれ。
その向こうに、立っていた。
沢村翔太だった。
僕の視線の先を追って、すみれのからだがきゅっと小さく縮こまるのが分かった。
僕はなんとなく、こうなるのが分かっていたような気がした。
「遼一」とかすかな声で彼女が僕のことを呼んだ。
「すみれ、悪いんだけど、やっぱり君はあさひのところに戻ってくれないか?」
「え……?」
「少しふたりで話したいことがある」
「でも」
「大丈夫だから」
すみれはしばらく僕と沢村のことを交互に眺めていた。
沢村はその間何も言わなかった。どこかに行こうともしなかったし、襲い掛かってくるようなこともなかった。
どうしても納得がいかないような顔をしていたけれど、すみれは結局そのまま階段の方へと戻っていった。
「無茶しないで」と最後に彼女は言ったけど、僕がする無茶なんて何があるだろう。
さて、と僕は沢村と向かい合う。
沢村は黙ってこっちを見ている。
鏡でも見ている気分だった。
◇
「久しぶりだな」と沢村は言った。
「会ったばかりだろう」と僕は言った。
沢村の様子は、僕がこちらに来る前と、なにひとつ変わっていないようにも見える。
姿も、立ち居振る舞いも、何もかも。
「それもそうだな。痛かったか?」
「少しね」、と僕は言う。「でも、ほんの少しだよ」
「さっきの子は?」
「友達だよ。たぶんね」
「おまえはひとりじゃなかったんだな」
「そうだね。……ねえ、いくつか聞きたいことがあるんだけど」
「そうだろうな」と彼は言う。「俺も話したかったのかもしれない」
「僕に?」
いや、と彼は言う。
誰かに、さ。
きみは、ひとりでこっちに来たんだな。
「そうだな」、と彼は言った。「ひとりだった」
いったい、いつこっちに来たんだ?
「それは、どっちの意味だ? あっちの時間か、こっちの時間か」
両方かな。
「おまえがいなくなってから、三日と経っていなかったと思う。どうだったかな。一週間くらいだったかな。
覚えていないな。なにせ、けっこう前だから。おまえはいつ頃こっちに来たんだ?」
ついこの間だよ、と僕は言う。
八月十八日。
「それはすごいな」と沢村は言った。
「一昨日じゃないか。ずいぶんこの世界に慣れてるな」
そうか、と僕は思った。
今は、八月二十日。
それで、きみはこっちの、いつに来たの?
そのズレが、僕の気になっているところだった。
「たいした時間じゃない」と彼は言った。
「ほんの半年前だよ」
僕の疑問のひとつは、その一言で解けた。
僕がこちら側に来る前、沢村翔太はまだあちらにいた。
沢村がこちらに来るタイミングは、だとすれば、僕よりも後だったはずだ。
にもかかわらず、どうして沢村は僕たちが来るよりも前に、人を殺せたか?
簡単なことだ。
こちらとあちらを行き来したとき、僕たちだって同じ日から同じ日に飛んできたわけじゃない。
あの扉をくぐったときに、時間のズレがあるのだ。
そして、沢村の場合は、僕たちよりも大きく過去にずれた。
理由は知らない。理由なんてなさそうだ。
「それで、ここに来たのはどういう用件だ? というより、ここに俺がいるとよく分かったな」
べつに確信があったわけじゃないんだけどね、と僕は言う。
まぐれ当たりだよ。
沢村は嘲笑した。
「やっぱりお前は、そういう奴だな」
その言葉の意味が僕には分からない。
「それで、もうひとつの質問の方だ。用件は、いったい何だ?」
僕は呼吸を整える。
◇
「きみはいったい、どうして人を殺したりしたんだ?」
「やっぱり、止めに来たんだな?」
「少し違う。話を聞きに来た」
「返答次第じゃ、俺を殺さなきゃいけないからか?」
「……」
「そうなんだろ?」
「……」
「まあいいさ。なんだったっけ。どうして人を殺したりした、って?
どうしてそれがわかったんだ? って、これは自白だな」
「知る限りだと、四人だ」
「……四人? どうして知ってる?」
「知ってる奴がいた」
「そうか……。まあ、そういうものかもしれないな」
「……それで?」
「なんだっけ?」
「どうして殺したか、って話」
「まるで審問官だな」
「どうでもいい」
「審問っていうのは、よくないぜ」
「……」
「審問っていうのは、つまり、善悪や当否を裁く側の人間の語法だ。
客観性、公平性を拠り所に、他人の是非を決める立場の人間の話法だ。
でもな、そんな俯瞰的な立場なんてありえない。客観性も公平性もありえない。
にもかかわらず審問を行うとどうなると思う?」
「……」
「錯誤するんだよ。自分が裁く立場に値する上位者で、自分の判断が正当なはずだと誤解してしまう。
だから、何かを裁くっていうのは地獄なんだ。自分がまるで、ひとつも瑕疵のない善人のような気分になってしまう……。
まあ、俺が言えたことでもないけどな」
「それは自虐?」
「かもしれない。いや……こういう話をするときは、どうしても自虐的にならざるを得ないもんだ」
「でも、どうでもいいんだ。……どうして殺した?」
「その答えも、同じだな。『なぜ』なんて分からないよ。そうだろう?
どうしてここに行き着いたかなんて、俺たちには分からない。俺だって、結果として人を殺した自分を知っただけだ」
「そういうので煙に巻かれたくない。教えてくれよ。なあ、きみは、生きてて楽しかったんじゃないのか?
だったらどうしてこっちにいるんだ? どうしてこっちに来たんだ?」
「俺がそう言ったか?」
「……」
「生きてて楽しいって、俺が一回でも、俺の口から言ったか?」
「……なんなんだよ」
「べつにいいさ。どう思ってもらっても。俺がおまえを詰ったのは、ただ不幸ぶった顔つきが気に入らなかったからだよ」
「……」
「自分以外を馬鹿だと思って、平気で他人を侮って、そうして平気で羨むような、そんな拗ねた目が気に入らなかった。それだけだ」
「……」
「例の廃墟の遊園地。なあ、おまえもあそこを通ったんだろ? 俺もそうだよ。そこでざくろに会った。
ざくろに会って、こっちに来た。あいつはとんだ詐欺師だよ。あいつには、望みを叶えるなんて器用な真似できやしなかったんだ」
「……どういう意味だ?」
「気付いてなかったのか? あいつは俺たちの望みなんて叶えちゃいないよ。
あいつにできるのは、ただ、ふたつの世界を結ぶことだけだ。適当な口車に乗せておけば、
こっちに来た段階で、乗せられた奴はこう思う。『ああ、自分の形がこういうふうに叶った世界なんだ』ってな」
「……どういうことだ?」
「分からないか? ふたつ、よく似た異なる世界がある。客はどちらかの世界から来る。
すると、その変化に気付く。そしてその変化を、『自分の願望の投影』として解釈する。
ああ、本心では自分はこういうことを望んでいたのか、と、勝手に受け取る。
だからこの世界は俺たちにとって、事後的に『願いどおりの景色』に見えるんだ」
「……」
「本当はざくろにそんな力はない。あいつは、繋ぐことしかできない」
「なあ、そんなことはどうでもいいんだよ。どうして殺したりしたんだ?」
「分からないか? 本当に?」
「……」
「別に煙に巻きたいわけじゃない。それはそんなに難しい話じゃないからだよ。
ただ、まあ、そうだな。順番に話そう。俺だってこっちに来てから、いろいろ見たよ。
いろんなものを見て、いろんなことを考えた。そうしてそのうち嫌になって帰りたくなった。
でも、改めて考えてみると分からないんだ。本当に俺はあっちに帰りたいのか? 帰ってどうするんだ?
誰が俺を待っているわけでもない、誰も俺を求めちゃいない、そんな場所にもう一度帰って、平気で暮らしたいのか、って」
「……」
「答えはすぐ出たよ。別に帰りたくなんてない。どうだっていいんだ、こっちもあっちも」
「理由になってない」
「聞けよ。そうしているうちに、こっちで過ごしている俺の姿を見て、馬鹿らしくなったんだ。
ああこいつはなんでこんなにばかみたいに笑ったりしてるんだろう、どうしてばかみたいに生きてるんだろうって。
そうしたらだんだん憎らしくなってきた。感じないか? 俺の顔で、俺の声で、まるで楽しそうに笑う自分を見て、
なあ、おまえなら殺したくならないか?」
「……他は」
「ん?」
「他の人たちは、どうして?」
「……ああ、なんとなく、個人的に、な」
「……」
「弓部玲奈、鷹野亘、寺坂智也……俺が殺した。理由に関しては言いたくないけど、そうだな。よくある理由だよ」
「よくあってたまるか」
「こういう状況になったら、俺でなくても誰か殺したくなるさ。だろう?」
「……」
「おまえを殺そうとした理由と、ほとんど変わらないよ。
気に入らないから……あるいは……逆恨みって言ってもいい」
「そう分かってるなら、どうして殺した?」
「失うものなんてないからさ」
「だったら、殺さなくても別によかった」
「でも、殺しても別によかった」
「……」
「平行線だよ。これ以上は」
「……小夜は」
「……」
「小夜も、殺す気だったか?」
「……どうだろうな。おまえの次には、殺したかもしれない。
そう言ったら、おまえは俺を殺してでも止めるだろう?」
「……」
「俺にはわからないな。おまえは全部持ってるようにみえるよ。
俺が持ってないもの、全部持ってて、そのうえでそれを蔑ろにしてるように見える」
「……」
「俺はおまえみたいになりたかったんだ」
ああ、本当に、鏡でも見ているみたいだ。
◇
「安心しろよ。もう殺さない」
「……」
「今まで、たまたま誰にも見つからなかったから、続けてきただけだ。
誰かに追われてまで、そんな面倒をしてまで、続ける気はない」
「それを僕は信じるか?」
「さあ。信じてくれてもかまわないし、信じなくてもかまわない。
どっちにしろ、俺はやめるよ……とりあえず。あとのことは、ざくろ次第だな」
「……ざくろ」
「ああ」
「あの子は……何なんだ?」
「知らない。ただ、あるがままのものだと思うよ」
「……なあ、きみは知ってるのか? あっちに、帰る方法」
「……そうだな。知っている、と言えば知っている。ざくろに会えばいい」
「だから、そのざくろは、どこにいる?」
「あいつはどこにでも現れる。待ってりゃそのうち会えるだろう」
「……きみは、どうする気だ?」
「言ったろ。ざくろ次第だって。でも、そうだな……。
おまえは、殺してやりたいな。いつか、殺してやりたい。でも、とりあえずやめておいてやるよ。
どうせ、死んだも同然の人間だ。野垂れ死ぬのを待つさ」
「……」
「おまえ、帰りたいのか?」
「……ああ、そうだね」
「だったらひとつ、教えておいてやるよ。ざくろに言えば、たしかにあっちに連れ戻してくれる。
でも、さっきも言った通り、ざくろにできるのは繋ぐことだけだ。
そして、俺やおまえがそうだったみたいに、ざくろの案内にしたがってあっちとこっちを行き来するとき、
時間がずれるんだ。そのズレは、大きいときもあれば、小さいときもある。
一週間で済むときもあれば、何年もズレることもあるらしい。言いたいこと、分かるか?」
「……」
「俺たちの肉体はそのままだ。そのまま、何年もずれ込むかもしれない……。
それは、扉をくぐってみなけりゃ分からない。一種の賭けだな。
つまり、俺たちはもう、こっちに来た時点で、ざくろの扉をくぐった時点で、俺たちは元通りになんて戻れない。
そういうことを、よく考えておいた方がいいぜ」
「……覚えておくよ」
「そうだな。そうしてくれ。……それじゃあ、お別れだな」
つづく
478-3 夏休み → 土日
602-4 訊ねた → 訪ねた
おつです
◇
その日の夕方、僕たちは碓氷遼一の姿を探した。
彼の家の近くの公園に、僕らはまた訪れた。
何度似たようなことをやっても懲りない。
ほかの手段が思いつかない。
公園のベンチには一人の女の子が座っていた。
それは見覚えのある女の子だ。
穂海だ。
彼女は僕に気付いて、なんだか変な生き物を見るような目をした。
「お兄ちゃん?」
穂海は僕のことをそんなふうには呼ばなかった。
穂海。
姉は愛奈の父親である元夫と離婚したのち、再婚し、穂海を産んだ。
そして今、夫と、穂海と、三人で生活している。
愛奈だけを残して。
僕はそれをまちがいだと思った。
そんなのはどこか変だ、いびつだ、おかしい、あってはならない、と思った。
けれど……。
どうして穂海がここにいるんだ?
どうして穂海が僕のことを「お兄ちゃん」と呼んだりする?
「お姉ちゃんは?」と僕は試しに聞いてみた。
「お姉ちゃん?」
穂海は首を傾げる。
「……誰のこと?」
「誰って、愛奈だよ」
「……お兄ちゃん、どうしたの?」
僕は立ち上がった。
「お兄ちゃん、その人たち誰?」
穂海はすみれとあさひを見上げた。
こんなに滑稽な話があるものだろうか?
碓氷遼一がどうしてあんな人間なのか。
どうして僕はあんなにも、彼に相容れない印象を覚えたのか。
結局のところ何もかもがはっきりしていた。
この世界には愛奈はいないのだ。
愛奈がいない世界で、僕はずいぶん幸せそうだ。
愛奈さえいなければ、何もかもうまくいったみたいに。
きっと姉は、母との間に何のしがらみも持っていないだろう。
穂海もまた、祖父母に愛されて過ごしているのだろう。
この世界の僕は、僕として生きているのだろう。
平然と。
当たり前に。
問題なんてなにひとつないかのような顔で。
そんなことが許されていいのか?
僕たちがその場から離れてすぐに、後ろから声が聞こえた。
振り返ると、碓氷遼一がこちらを睨んでいた。
少し、怯えているようにも見える。
僕はその姿を、ただ、なんとなく、見つめる。
赤の他人でも見つめているような、
でもどこか、何か大切な、忘れてはいけないものが宿っているような、
そんな姿を。
彼は穂海の手を掴んだ。
彼のような素直さで、僕は愛奈を愛しているのだろうか?
僕と彼とで、何が違った?
僕はどこで間違えてこんな生き物になった?
どうして僕は、こんなところに来てしまったんだ?
何もかもがわからない。
◇
その日の夜、僕らはあさひの家で休んだ。
翌朝あさひは夢を見なかった。
テレビのニュースでも、誰かが刺されたなんて情報は流れてこなかった。
「ねえ遼一、あのとき、あいつとどんな話をしたの?」
すみれはそのことについて聞きたがったけれど、僕はうまく説明できなかった。
「でも、とにかく止まったみたいね」
たしかにその通りだった。あさひはもう夢を見なくなった。
でも、考えてみればおかしな話だ。
どうしてあさひは、沢村の目線の夢を見たのだろう?
どうして沢村が殺そうとした人々の夢ばかり見たのだろう?
この街には、死んでしまう人間なんてたくさんいるはずなのに。
これからも、たくさん死に続けるのに。
どうしてあさひは、沢村に関わる死だけを前もって教えられたのだろう?
きっと、どれだけ考えても、正解なんてないんだろうと僕は思った。
世界がふたつある理由を、あのざくろという女の子すら知らないのかもしれない。
僕たちは、「なぜ」を知ることができない。
物事はいつだって、ただそうあるだけのもので、
僕たちがしているのは、ただ解釈でしかない。
「とにかく、遼一が止めてくれたってことなんだよね」
すみれはそう言って話をまとめた。
「違うよ」と僕は言った。
「僕は何もしてない」
その言葉を言った瞬間、僕は本当に泣きそうになってしまった。
僕は何もしていない。ただ振り回されていただけだ。
◇
僕たちはあさひのいれてくれたコーヒーを飲みながら話をした。
これが夢だったらどんなにいいだろうな、と僕は思った。
「これからどうするの?」
あさひにそう訊かれたときも、僕はうまく返事ができなかった。
「帰るよ」とかろうじて返事ができた。
荷物を整理しなければいけないな。
「方法は?」
「分からないけど、でも、見つかると思う」
そんな話をしながら、僕の頭をよぎっていたのは、沢村の言葉ばかりだった。
元通りの時間に帰れるとは限らない。
そもそも、帰ってどうする?
お前は帰りたいのか?
僕のことなんて誰も待っていないかもしれないな、と僕は思った。
でも、それも仕方ないことだろう。
いつまでもあさひに迷惑をかけているわけにもいかない。
「とにかく、探してみないことにはな」
「そっか」とあさひはあっさりと頷いた。
「いろいろありがとう。がんばってね」
ありがとう、がんばってね、か。
用済みって意味だ。
なんて、そこまで卑屈でもないけれど。
つづく
おつです
もうしばらく滞ります
◇
僕とすみれはあさひの家を後にして、夏の街を静かに歩いた。
誰も彼もが僕に比べるといくらかマシな顔をしているように見えた。
程度の差こそはあれど、僕ほどろくでもない顔をしていそうな人間はそういないだろう。
なにせ、鏡を見なくても自分でそうだと分かるくらいなのだ。
抱え込んだ荷物、着まわした服、充電の切れた携帯電話、MDプレイヤー。
いつ戻ってきてもいい、とあさひは言った。
あてがなかったら今晩だって、と。でも僕は、もうあさひの家には戻らないだろうと思った。
二度とあさひに会うことはないだろう。そんな確信に近い予感が僕の胸のうちにはあった。
僕とすみれはあてもなく八月の街を歩いた。
空には押し潰したようなはっきりとしない灰色雲がのっぺりと広がっていた。
太陽が隠れたせいでくすんだ街の色彩は、その雲と相まって平坦な印象をもたらした。
陽の光が届かない空の底で、僕たちは迷子の蟻のように歩くのをやめられない。
沢村翔太が言っていた話を、僕はなぜかすみれにするつもりになれなかった。
この世界の仕組み、ざくろのこと、沢村のこと、その全部が、言ってはいけないことのような気がした。
ねえすみれ、きみはあっちに帰りたいか?
そう訊ねてみたかった。
あんたはどうなの、と、そう聞かれたとき、答えが思いつかないからだ。
沢村は、ざくろには願いを叶える力はないと言った。
ただ、世界がふたつに分かれていて、それを僕たちは願いが叶ったように錯覚しているだけだと。
本当だろうか?
なら、どうして、愛奈がいないんだろう?
愛奈だけがいないんだろう?
碓氷遼一がいた。
沢村翔太がいた。
篠目あさひがいた。
生見小夜がいた。
穂海さえも、そこにいた。
それなのにどうして、愛奈だけがいないんだ?
この世界がふたつに分かたれていることには、意味がないのだろうか?
あるのだとしたら、どうしてそこに愛奈だけがいない?
僕は、この世界から何を汲み取ればいい?
どこにいけば――心の底から笑うことができるのだろう。
僕は贅沢を言っているんだろうか。
沢村の言ったように、僕はただ不幸ぶっているだけなのかもしれない。
僕がやらなければいけないこと。
僕がしたいこと。
僕が望んでいること。
僕が欲しかったもの。
そのどれもがなんだか、とても陳腐でありふれていて、簡単に掻き消えてしまいそうに思える。
アーケード街の外れのコンビニに立ち寄って、すみれは久し振りに煙草を吸った。
僕も一本分けてもらった。
八月の終わり頃、もう景色は秋に近付いていく。
街路樹の緑さえも、少しずつ褪せていく。
でも、それは僕には関係のないことだった。
夏が過ぎ秋が来ようと、それは僕には関係のない夏で、僕には関係のない秋だ。
僕の居場所はここではない。
でも、だったら、どこがそうだと言うんだろう。
いったいどこに、僕の居場所なんてあるというんだろう。
僕は、愛奈にそれを求めていたのかもしれない。
彼女が、僕の居場所になってくれること。
僕を必要としてくれること。
でも、愛奈もいつか、大人になるだろう。
僕の力なんて必要としなくなるだろう。
僕以外の誰かに手を差し伸ばされて、そっとその手を受け取るだろう。
僕はそれを止められないし、止めたくもない。
そうなるのがきっと、愛奈にとって良いことだから。
でも、そのとき僕は、何もない僕は、どうすればいい?
どこにいけばいい?
誰がいてくれる?
僕には何もない。
僕は……。
煙草が燃えている。灰になっていく。煙が体の中に沁みていく。
それを眺めているだけだ。
不意に、風が吹き抜けて煙を巻いた。
空耳だろうか?
誰かが僕の名前を呼んだ気がした。
「どうしたの?」とすみれが言う。
僕は首を横に振った。
「いや」
空耳に決まっている。
僕の名を呼ぶ人なんて、この世界には誰もいない。
いたとしても、それは、僕ではない僕を呼んでいるだけだ。
けれど、そのときもう一度風が吹いた。
声が、何かの声が、耳に届いたような気がする。
「すみれ」
「ん?」
「いま、何か聞こえた?」
「……さあ。風の音なら」
「……そっか」
小夜啼鳥の物語を思い出す。
僕は何を期待しているんだろう。
作り物の夜鳴きうぐいす。ナイチンゲール。
誰かが僕に何かを呼びかけた。
そんな気がしただけだ。その声は、どちらにしても僕には聞こえなかった。
ただ風が吹き抜けただけだ。
「――」
そう思ったのに、不意に僕の視界を、ひとりの少女がかすめた。
最初は勘違いだと思った。僕の知っている彼女と、着ている服が違ったから。
でも、そうとしか思えない。僕は何かを言おうとして、すみれに声をかけようとした。
そのときには、すみれが声をあげていた。
「――ざくろ!」
僕達の前を横切っていった少女は、そんな声はまるで聞こえていないみたいに通りの向こう、人混みの中へと歩いていく。
その後姿を、すみれは呆然とした様子で眺めていたけれど、やがてこらえきれなくなったみたいに駆け出した。
僕は少しの間、どうしたものか考えた。すみれを追おうと思わなかったわけじゃない。
でも、何かが僕の足を動けなくさせていた。
身動きが取れるようになった頃には、すみれの姿は僕には見えなくなっていた。
後ろから肩を叩かれたのもそのときだ。
驚いて振り返った先に、さっき通り過ぎていったのと同じ顔がにっこりと笑っていた。
黒衣のざくろだ。
「こんにちは」と彼女は言った。
僕はその一瞬で、何かを悟ったような気になってしまった。
「こんにちは」と返事をした。
つづく
おつです
◇
さざめき立つ街並みの中で、僕達は灰皿を挟んで隣り合って並んだ。
すみれのことを追うべきなのかもしれない。僕はそう考えている。
この世界で一度はぐれてしまったら、僕は二度とすみれと会えないかもしれない。
でも、追う気にはなれなかった。
すみれが気にならなかったわけじゃない。でも、それ以上に、この子に確認したいことがあった。
「ずいぶんと久し振りな気がするね」
手始めに、僕はそう声をかけた。
「そう?」とざくろは不思議そうな声をあげる。
「ほんの少しだよ」と。あるいは本当にそうかもしれない。
「僕はきみのことを探していたんだよ」と、そう言ってみた。
でも、それは半分くらいは嘘だ。どうでもいいから、そう言ってみただけのことだ。
「いくつか質問があるんだけど」と、僕が言おうとしたのと同じことを、ざくろは僕に訊ねてきた。
「いい?」彼女は僕の方を見ていた。僕は少し考えてから頷いた。
「どうぞ」
「そう。ありがとう」
彼女は僕にそうお礼を言ってから、手に持っていた缶コーヒーのプルタブをひねってあけた。
「あなた、何かした?」
「"何か"?」
言葉の意味が分からず復唱すると、彼女はうかがうように僕の顔を見た。
「ううん。ちょっと変な感じがしてね。気のせいなのかもしれないけど、何かが入ってきた感じがしたの。あなたのところに」
「……何かって、何?」
「それがわからないから聞きたかったの。でもいい。知らないみたいね」
「……他の質問は?」
「うん。こっちに来て、どう?」
「どう、って?」
「楽しめてる? あなたの願いが叶った世界」
ざくろは白々しく笑ってコーヒーに口をつけた。
僕は溜め息をついた。
「僕の方からもいくつか質問してもいいかな」
「どうぞ」
「きみは誰?」
「わたし? わたしは、ざくろ」
「そう。前も聞いたね。すみれの妹さんも、そういう名前らしい。きみにそっくりだって」
「ふうん。そう」
特に興味もないというふうに、ざくろはそっぽを向いた。
「それはそうでしょうね。だって、わたしがそのざくろだもん」
「……"どっち"の?」
「あえていうなら――」とざくろは素直に応じてくれた。
「あっちのざくろ」
「次の質問をしてもいい?」
「どうぞ」
「きみは何が目的で、こんなことをしてるんだ?」
「失礼な言い方。わたしはただ、みんなの望みを叶えてあげたいだけ」
「沢村翔太に会ったよ」
「……誰、それ?」
「きみが連れてきたうちの一人だよ」
「そう。そんな人もいたかも」
「彼が言うには、きみには人の望みを叶える力なんてないらしい」
「――」
ざくろの表情が、ほんの少しだけ不快そうに歪んで見えた。
「きみにはただ繋ぐことしかできない。そう言ってた。僕にはよく分からなかった。でも、考えてみれば納得もいくんだ」
「……どうして?」
「僕と沢村が同じ世界にいたからだよ」
「……」
「僕の願いを叶えた世界と、沢村の願いを叶えた世界、そのふたつが一致していたからってわけじゃないだろうね。
単に、きみが僕達を運べる先が、この世界がなかったから、と考えた方がしっくり来る」
「……」
「つまりきみは、僕たちをからかっていただけなんだろう?」
ざくろは何も言わない。僕はそれを答えだと思った。
「昔ね、一匹の猫がいたの」
ざくろは不意に、そう話し始めた。僕たちの周囲にはいまだ絶えない雑踏が当たり散らすように響いている。
「その猫を助けた女の子が死んでしまった。世界は女の子を失ったまま、ずっと続いていた。
でもね、あるとき、ひとりの男の子が現れたの。その子は知らず知らず、ずっと後になってから、再びそこに立ち戻った。
……言っている意味、分かる?」
何の話かはわからない。僕が首を振ると、ざくろはこう言った。
「一度去った時間を、再び訪れたの」
……つまり、過去に戻った、という意味だろうか。
「そしてその男の子は、ううん、その男の子じゃないんだけど、分かりやすく言うと、その男の子は、
その女の子を助けてしまった。猫は轢かれて死んでしまった。それが最初」
「……」
「そのときから、世界はふたつに分かれたんだって。たくさんの場所を行き来したから、わたしはその光景を見ることもできた」
「……世界が、ふたつに分かれた」
「そう。猫が死んだ世界と、猫が死んでいない世界」
「そんなことがあり得るの?」
「それを問うことに意味があると思う?」とざくろは大真面目に言った。
「現にあなたは世界をふたつ眺めているのに?」
僕は一瞬呆気にとられて、それから笑った。
「たしかにね」
「その男の子がそうだったように、あるいはわたしがそうなってしまったように、そういう不自然な力を持ってしまう人はたくさんいるみたい」
「不自然な力」と僕は繰り返した。不自然な力、不自然な力。
「ふたつの世界を繋ぐことができるのも、わたしが最初じゃないみたいだし。
あの子たちはふたりでひとつだったから、片方が死んじゃってからできなくなったみたいだけど。それにわたしみたいに、時間までは変化しなかった。
ああ、ううん。この今はまだ、彼女は生きてるか」
「……なるほど」
さっぱりわからないけれど、理解できそうにもなかったので、わかったふりをして話を続けることにした。
「つまり、種は二つあるわけだ。不自然な力と、分かたれた世界」
「そう。おもしろいでしょう?」
「そしてきみの力は、世界と、時間を、移動する力?」
「そう。そして、誰かを巻き込むこともできる」
「当然、願いを叶える力なんて持っていないわけだ」
「そう。あの抽象的な世界のことは、わたしにもよくわからないけど、たぶん、あなたが言った通りのものだと思う」
心象風景――。
そして、ざくろの言葉が真実ならば、この世界の在り様は……。
「バタフライエフェクト」
「そう。なんだかあなたとは、趣味が合いそうね」
初期値鋭敏性。
猫が生きるか死ぬか、少女が生きるか死ぬか。
その些細な変化から始まって、世界にはあらゆる変化が起きた。
結果、この世界には愛奈がいない。穂海は当然に、この世界の僕と一緒にいる。
穂海は穂海という名前で、僕は僕のままで、愛奈だけがいない世界。
おかしな世界。
不自然だという気もする。
でも、そうと言われれば、そうとしか思えない。
そこにざくろのような存在が介入する。
あちらの世界から姿を消し、こちらの世界を訪れる人間が現れる。
そうしてさらなる変化が加わる。
互いが繋がった状態が、既にひとつの世界になってしまったように。
これは悪意でもなんでもない、ただほんの少しいびつなだけの変化。
この世界の僕は生見小夜と一緒に歩き、
この世界のあさひは僕と同じ委員会ではなく、
この世界の姉は僕たちと一緒に暮らしている。
そのすべては、何の作為でもなく、ただ、結果的にそうなってしまっただけの話。
きっと、そうなんだろうな。
なるほど、としか今は思えない。
分かっていたことだ。
僕が生きていることにも、愛奈がいないことにも、なにか劇的な理由があるわけじゃない。
僕はただここに来てしまっただけの人間で、そこには何の意味も理由もない。
ここに来るべきではなかった。
「ねえ、あなたは後悔してるの?」
僕は正直には答えなかった。
「そういうわけじゃない」
でも、知らなければよかった、と思った。
こんな世界が存在することを、知りたくはなかった。
僕があんなふうに生きていた世界が存在することを、知らなければよかった。
そう思った瞬間、僕の胸にふとひとつの疑問が浮かんだ。
「きみは……何がしたかったの? 本当に、僕らをからかっているだけだったの?」
彼女は口を閉ざして、そのまま微笑みを浮かべた。
「……ねえ、帰りたい?」
「……」
「あなたは帰るべきだって、わたしは思う」
「そうかもしれないね」
「今、あなたを送り帰すことができる。どうする?」
「今?」
「そう。今。これを逃したら、いつになるかわからないし、わたしの気が変わってしまうかも」
「どうして、今、そんなことを言う?」
「もう十分に、堪能してくれたみたいだから」
「……すみれは」
「心配しないで」とざくろは言う。
「あれでもわたしの姉だもん。悪いようにはしない。すぐに帰ってもらう」
そのときのざくろの笑みには、何か昏いものが含まれているように見えたけれど、僕にはそれがなんなのか、よく分からなかった。
「……帰るよ。僕も、帰るべきなんだと思う」
そうだ。
これ以上こんなところにいても仕方ない。
この世界には、何の用事もない。僕の願いが叶った世界でもなんでもない、こんな他人事の世界には。
◇
「少し、目を瞑ってくれる?」
そう言って彼女は僕の手をとった。
刺された傷が、今になってほんのすこしだけ痛んだ。
瞼を閉ざす。
「開けて」と彼女は言った。
そのときにはもう、僕はあの、一度見た奇妙な場所にいた。
あの、地下貯蔵庫。
背後には扉がある。
あたりは真っ暗闇だ。
ざくろの言葉を信じるなら、ここは既に僕の心象風景。
このからっぽの真っ暗闇が。
「出口までは、案内してあげる」
そう言って、ざくろは近くにあった燭台を手に取ると、マッチを取り出して火をつけた。
あっさりとしたものだな、と僕は思った。
そんなものなのかもしれない。
ざくろの先導に従って、僕は歩き始めた。
埃っぽい、黴臭い空気の中、僕は隣にすみれがいないことをほんのすこしだけ寂しく思った。
「すみれのことなら、大丈夫。わたしが全部伝えておくから」
ざくろはこちらを見ずにそう言った。
「ねえ、沢村が言ってたのを聞いたんだけど、もうひとつ質問があるんだ」
「なに?」
「きみはたしかに、世界を繋ぐことができる。でも、その繋いだ先の時間は、大きくズレることがあるって」
「……うん」
ざくろは否定しない。
「だったら僕も、元いた時間には帰れないのかな」
ざくろは考えるような間を置いた。
「わからないけれど、でも、大抵の人の時間が大きくズレるのは、その人達が行きたい時間を持っていないからだと思う。
だから、あなたの場合は平気だと思う。帰りは、もとの時間に行くことが多いの」
「もうひとつ、質問してもいい?」
「なに?」
「すみれと僕は、一緒に帰ることはできなかったの?」
「できなくはないけど……」ざくろは少し言いにくそうにした。
「でも、さっきは一緒にいなかったでしょう?」
なるほどな、と僕は思った。
「さっきから、どうしたの?」
ざくろはまた前を向き直った。僕は蝋燭の灯りがちらちらと揺れているのを眺めながら、言葉を続けた。
「――きみは嘘をついているよね?」
ざくろが、ゆっくりとこちらを振り返った。その表情からは、何の感情も読み取れない。
「どうしてそう思うの?」
「そんなにたいした疑問じゃない。根拠も、そんなに多くもない。でも、さっきからきみの言葉は不自然だ。
すみれと僕が一緒に帰れたなら、どうしてすみれと僕が一緒にいたときに姿を現さなかったんだ?」
「それは、たまたまはぐれたときに会ったから……」
「違うね」と僕は言った。反駁する隙を与えないように、口を動かす。
「きみは僕とすみれが別行動するタイミングを狙っていたんだ。僕がひとりになる瞬間を」
「……いきなりどうしたの?」
「そして、きみは僕だけを先に元の世界に帰してしまいたかった。僕が厄介だったんだ。
すみれに対して何かをするために、きみは、僕にいられると不都合だった。違う?」
「……」
「いったい何をするつもりなんだ?」
「ここまで来て、今更それを言うのね」
「正直、してやられたよ。目を瞑るだけでここまで戻ってくるなんて思ってなかった。
それに、気付くのも遅れた。だけど、さすがに見過ごせない。きみはいったい、何を企んでいるんだ?」
僕は立ち止まる。ざくろもまた、僕を待つように足を止めた。
暗闇の中で、彼女の姿の輪郭だけがぼんやりと浮かび上がり、足元にだけ闇と同化する影を作っている。
ふう、と短く、ざくろが溜め息をついた。
ほんの少し、また、何かを考えるような間をおいて、彼女は口を開く。
「本当は、誰もに言いたい話ではないんだけどね」
そんな前置きをしてから、ざくろがこちらを向き直った。
「言っても、ピンと来ないでしょうけど……あなたと一緒の時間にすみれが帰ってしまうと、少し困るの」
「……どうして?」
「わたしが死んでいるからよ」
ざくろは表情もろくに変えずにそう言った。
「わたしは父に殺されるの。すみれがバイクでどこかに出かけているときに。
ううん。あなたとすみれがこの世界にやってきた夜に、わたしは父に殺されたの。
そして父に殺されてから、わたしはこういう存在になった」
「……」
僕の頭は、その言葉の意味をよく理解できなかった。
目の前にいる少女が、急に得体の知れない怪物のように見え始める。
「それは……おかしい」
「どうして?」
「きみがあの夜に死んで、そういう存在になったんだとしたら、おかしい。
だって、きみはあれ以前からも、僕たちのような人間をこっちに繋いでいたんじゃないのか?」
かろうじて頭を働かせながら、僕はどうにかそう訊ねた。
ざくろの答えはシンプルだった。
「わたしは時間から解き放たれた。わたしの時間はもう、あなたたちと同じようには流れていない。
普通の時間が一本の線だとしたら、わたしの時間は二本の線を無作為に行き来する、線と線とを結ぶ線。
だから、あの夜にあなたたちと出会ったわたしは、あの夜に生まれたばかりのわたしではなかった」
「……言っている、意味がわからない」
「だからね、わたしはすみれを、あなたの時間に帰したくないの。
だってそうでしょう? 自分が逃げ出している間に妹が殴り殺されていたなんて、そんなにショックなことはないじゃない?」
「……」
僕はうまく答えられない。説明されたことのすべてが、なんだか本の中の出来事のように現実感を伴わない。
「これでいい? だからわたしはこう言ったの。"悪いようにはしない"って。だって、わたしのお姉ちゃんだもの」
ざくろはそれだけ言うと、自分の言った言葉を振り払おうとするみたいに歩くのを再開した。
僕はもう何も言わずに、彼女の後を追いかけた。
そのとき、不意に僕の足が何かに躓いた。
音に気付いたのか、ざくろは立ち止まってくれる。僕は蝋燭の灯りで、その何かの正体を見た。
それは写真立てだった。
中には、セピア色に褪せた一葉の写真が入れられている。
僕は吸い込まれたようにその写真立てを手に取った。
映っているのは、僕と、姉と、それから愛奈だった。
「どうしたの?」とざくろの声が聞こえた。
不意に僕は泣いてしまいたくなった。
どうしてこんなことになってしまったんだろう?
どこで間違ってしまったんだろう?
それが、本当に、ただ、一匹の猫の生死を境に、食い違ってしまうだけのものに過ぎなかったのだろうか。
そう思うとたまらない気持ちになった。
姉さん。
愛奈。
巻き戻しの方法はないのか? やり直すことはできないのか?
どうしてこんなことになってしまったんだ?
僕はその場に膝をつき、写真立てを地面に落とした。
顔をあげることもできないまま、ただぼんやりと、頭の中をさまざまな言葉がよぎるのを、ずっと止められずにいるだけだった。
もう、どこにも行きたくないような気がした。
ずっとこの場に、ただ蹲っていたい気分だった。
僕は、ほんの少しの間だけ、本当に涙を流した。
ふたたび僕が立ち上がったのは、何かの覚悟を決めたから、というわけではない。
ただ、衝動のような強い感情が、胸のどこか昏い部分から、滲み出てくるのを感じる。
「ねえ、ざくろ――」
僕の声は、自分でも分かるくらいに冷えていた。
それでも、そうしないわけにはいかなかった。
ざくろは、僕の言葉を待っている。何も言わずに、ただじっと待っている。
だから僕は、もう体の内側にその考えをとどめ続けることができなかった。
「――ひとつ、お願いがあるんだけど」
つづく
おつです
¬[Jerusalem] S
まだわたしたちが当たり前の姉妹でいられた頃、ざくろが教えてくれた。
花の名にまつわるふたつの神話。
一つ目はこうだった。
あるところに、ひとりの女の子がいた。
アポロンは、他の多くの女を求めたのと同じように、彼女を見初め、彼女を求めた。
けれど、彼女には婚約者があったので、その求めを受け入れるわけにはいかなかった。
かといって、もしも自分がアポロンの要求を拒めば、彼は自分や自分の周りの人間に激怒して罰を与えるだろう。
自らの境遇に苦悩した彼女は、貞潔の女神にこう祈りを捧げる。
「どうか私を、人間以外の姿にしてください」
女神アルテミスは彼女の祈りを聞き届け、その身を一輪の花に変えた。
それが"すみれ"。だから、花言葉は「誠実」。
二つ目は、また別の話。
あるところに、ひとりの女の子がいた。
彼女の母親が亡くなったあと、父親は彼女に対して情交を迫った。
彼女はその求めから逃れるが、自らの境遇を嘆き、母親の墓前でその命を絶った。
神は彼女を憐れに思い、その魂を花に宿らせ、父を鳶に変えた。
そして、鳶が決してその花のなる枝に泊まらぬようにさせた。
それが"ざくろ"。花言葉は「愚かしさ」。
ふたつのお話には類似点と相違点がある。
同じなのは、情交を迫られること。
異なるのは、片一方は自らの祈りを聞き届けられ花になり、片一方は自ら嘆き擲った魂を花に宿らされたこと。
このふたつの神話はギリシアのものだったはずだ。
でも、ギリシア神話について書かれた本をいくつか探したけれど、
わたしはこのふたつのお話を見つけることができなかった。
彼女は何か思い違いをしていたのかもしれない。
代わりにわたしが見つけたのは、"ざくろ"にまつわるふたつのお話。
一つ目は、酒神バッカスにまつわるもの。
占い師に、「いつか王冠を戴くことになる」と言われたひとりの妖精は、
酒神バッカスに「王冠を与える」と欺かれ、弄ばれて捨てられてしまう。
妖精は悲嘆に暮れ、そのまま死んでしまう。
あまりの様子に気が咎めたバッカスは、彼女をざくろの木に変えて、
その実に王冠を与えたという。だからざくろの実には、王冠に似た部分がある。
二つ目は、冥府の女王ペルセポネにまつわるもの。
デメテルの娘ペルセポネは、冥府の支配者であるハデスにさらわれる。
ペルセポネを見初めたハデスが、彼女を妻にしようと拉致したのだ。
怒ったデメテルがゼウスに抗議すると、ハデスは一計を案じた。
ペルセポネにざくろの実を食べさせたのだ。
神々の間には、冥界の食べ物を口にしたものは、冥界に属するという掟があった。
ペルセポネは、一年のうち、食べた実の数に応じた時間だけ冥界にいなければならなくなり、結局ハデスに嫁ぐことになった。
そして豊穣の神であるデメテルは、ペルセポネが冥府にいる間だけ、地上に実りをもたらすことをやめた。
これが冬という季節の始まりの神話。
三つすべてに、相似点がある。
まず、すべてに共通するのが、合意を待たない強引な交合の求め。
鳶とバッカスの物語に共通するのが、女の子は死に、その後哀れみから花になったこと。
最後に、鳶とペルセポネの物語に共通するのが、近親姦のモチーフだ。
ざくろに変えられた少女は父に犯されそうになり、自死した。
そして、ハデスにさらわれたペルセポネは、そもそもゼウスとデメテルの子であり、二人は姉弟だった。
くわえてハデスもまた、ゼウスとデメテルの兄であったので、ペルセポネはハデスの姪にあたる。
ざくろは自らの名前を恥じていた。
「わたしがすみれならよかったのに」とざくろは言った。
だってこんな名前、なんだか呪われている。
花言葉だって、"愚かしさ"なんて、と。
「でも、ざくろには他の花言葉もあるでしょう?」
わたしはそう言って彼女を諭した。
王冠に似た部分があるから、権威の象徴とされていたって話もあるし、再生のシンボルとも言われる。
花言葉だって、愚かしさだけじゃない。円熟した優美、結合……。
それに、すみれだっていい意味ばかりじゃないわよ、とわたしは続けた。
「小さな幸せ、慎ましい喜び……わたしは大きな幸せを求めちゃいけないってわけ?」
わたしがそう言ったとき、ざくろはようやく笑ってくれた。
「それに、白昼夢っていうのもあった。でも、こんなの気にするだけ無駄。名前は名前でしかないんだから」
そう、わたしはそう言った。
べつに、気にすることはない。
名前なんて、所詮、音の連なりでしかない。
名前で人間の何かが決まるなら、世界中の人がみんなおんなじ名前だったらどうなるの?
誰もが同じ境遇になるの? そんなわけはない。
こじつけで不幸になることはない。
わたしたちはわたしたちなんだから。
「ねえ、ざくろ。だったらざくろが、思い切りやさしくて、思い切り幸せな人間になって、ものすごく有名になればいいの。
世界中のひとたちが、ざくろって言葉を聞いた瞬間に、とっさにやさしさと幸せを思い浮かべるくらいに。
神話や聖書よりも先に思い浮かぶくらいに。言葉の意味なんて、そんなものよ」
ざくろはくすくす笑って頷いた。
「だったらすみれも、ものすごく大きな幸せも手に入れないとね」
「そうよ。そういうもの」
そう言ってわたしたちは、くすくすと笑い合った。
わたしたちは仲の良い姉妹だった。
母が死んで、父が変わってしまうまでは。
◆
――水滴の音が、ずっと聞こえていた。
ふと、目が醒めたとき、わたしはそれを意識した。
目が醒めてそれに気付いたというわけではない。
というよりはむしろ、その音がずっと、絶え間なく続くのを聞いていた自分に、気が付いた。
そんな感じがした。
同じように、わたしは遅れて、目をずっと瞑っていたことに気付き、頭が鼓動のような痛みを訴えていることに気付き、
自分が拘束されていることに気付いた。
驚いて瞼を開いても、状況はつかめないままだった。
黴臭い匂い、水滴の落ちる音、暗闇の中にちらちらと揺れる蝋燭、張り付くような湿った空気。
意識の連続が、唐突に絶たれて、それから急にこの場に放り込まれたような気がする。
わたしは、いったいいつ、意識を失ったのだろう?
そして、この状況は、いったいなんなのか?
考えてみても、頭に響く痛みをこらえながら記憶を辿るのは難しかった。
静かに、自分の手足を見る。
何かが、わたしの手足を縛っている。これは、植物の蔓? あるいは、枝……だろうか。
その蔓は、わたしの体を椅子にくくりつけていた。
身をよじって振り返ってたしかめる。どうやら、アンティーク風の、上品そうな椅子だった。
漫画や映画でしか見たことがないような代物。
背もたれと座の部分は、赤い革張りになっている。
わたしの手は椅子の肘付きの部分の上にのせられ、そこで縛られている。
足もまた、椅子の脚の部分に、長い蔓でくくりつけられていた。
これは悪い夢だろうか?
それにしてはいやに……感覚が、意識が、はっきりとしている。
痛みも、変に現実的だ。
けれど、ここは、どこなのだろう?
よく見れば、わたしは奇妙な服を着せられている。
真っ黒な、ドレスのような衣装。
水滴の音が響いている。
わたしは、どうしていたんだっけ?
何も、思い出せない。
そこに、向こうの方にずっと続く暗闇。
差し出されるような蝋燭。
体が重くて、うまく頭が働かない。
どれくらい、じっと座ったまま、痛みが引くのを待っていただろう?
水滴の音と、蝋燭の灯りだけが、わたしの意識を保たせていた。
やがて、暗闇の向こう側から、カツカツと足音が聞こえ始める。
そして彼女が現れた。
真っ黒な服を着て、どこか青ざめた顔をして、ざくろが現れた。
「具合はどう?」と彼女は訊ねてくる。わたしはうまく返事ができなかった。
「混乱してるみたいね」
口がうまく開かなかった。
何を言えばいいのかも、わからない。
「ねえ、すみれ、わたしが分かる?」
「……」
「わたしのことが、分かる? ねえ、すみれ……」
朦朧とした意識は、目の前で起きていることをたしかに認識しているけれど、
それをうまく消化できずにいる。
「わからないかもしれないね。……だって、一度、逃げ出したものね」
わたしは、何も返事ができない。
「ねえ、どうしてわたしを置いていったの? どうしていまさらここに来たの?」
彼女は、ただ冷たい目で、わたしを見ている。
「あなたのせいで――わたし、死んじゃった」
分かっていたでしょう、とざくろは言う。
「あなたは、わたしからも、お父さんからも逃げたのよ。そして自分だけ、へらへら楽のできる場所に逃げようとしたの。
だから、わたし、お父さんに殺されて、こんな姿になって――お父さんのことも、殺しちゃった」
「……どういう」
そこでわたしは、ようやく声を発することができた。
自分でも驚くくらい、かすかな声だった。水滴の音にかき消されそうなほど。
「どういう、意味……」
「そのままの意味よ」と、ざくろは言う。
「ねえすみれ。わたしが嫌い? わたしが悪かった? 鬱陶しかった?
すみれ。すみれ。どうしてあなたがすみれなの? どうしてわたしがざくろなの?
どうしてあなたがざくろじゃなかったの?」
どうしてあなたじゃなかったの?
彼女はそう言った。
彼女の右手に握られている、鈍く輝くひとつの刃物に、わたしはそのときようやく気付いた。
「ね、分かる? すみれ」
鋏だ。
「分からないわよね。あなたは、すみれだものね……」
ざくろは、振りかぶる。
わたしは、身じろぎもできない。ただ、それを見上げているだけだ。
それは、ゆっくりと、ゆっくりと、わたしの目前へと迫ってくる。
それはきっと、本当なら、一瞬の出来事だったのに。
わたしはそれを、ただ――見ていた。
つづく
おつです
◆[Lima] A/b
ケイくんが、碓氷遼一を刺した人間を追いかけた。
わたしは、取り残されたひとりの少女と一緒に、ただ横たえたままの碓氷遼一を見ていた。
公園には電話ボックスがあった。救急車を呼ぶことは簡単だった。
数分後、救急車がやってくると、少女と碓氷遼一は一緒に運ばれていった。
話を聞きたいからここにいてくれと言われたけれど、わたしは隙をついてその場から逃げ出した。
警察を呼ぶのは忘れていた。怖かったから、わざと忘れたつもりになっていたのかもしれない。
わたしの足は勝手に動いていた。途中で何度も転びそうになった。
電柱やブロック塀に何度もからだをぶつけそうになるくらいふらふらだった。
意識していないと縁石をはみ出して車道の中心にまで放り出されそうだった。
誰もわたしの手を引いてくれたりはしない。
お兄ちゃんはいない。
わたしにはもう誰もいない。
ぐるぐると似たようなことばかりが思い出される。
お兄ちゃんが死んだあの夜のことを思い出した。
わたしは彼の死を翌朝まで知らずにいた。
ぐっすりと眠って、当たり前に夢を見ていた。
いつものように置き去りにされる夢だった。
目を覚ましたらお兄ちゃんはいなかった。
まひるの部屋に向かったのは、単に他に行き場がなかったからだと思う。
この世界にわたしの居場所があるとしたら、きっとそこ以外にはない。
まひるは既に帰ってきていて、わたしに何かを言ったけれど、ろくに返事もできなかった。
彼女はわたしのために冷たい飲み物を用意してくれた。
それって素敵なことじゃない? ねえ、どう思う?
わたしはフローリングの床に座り込んでぐるぐると混乱したまま膝を抱えた。
(――からたちの枝を思い出す)
ぐるぐるぐるぐるといろんなことを思い出して、いろんなことを考えたつもりになる。
本当は何も考えちゃいない。ただ浮かびあがる連想を止められずにいるだけだ。
お兄ちゃんは死んでしまったんだとわたしはもう一度思う。
――愛奈、お兄ちゃんは一緒にいるよ。一緒にいるから大丈夫だよ。
嘘つき。
嘘つき。
嘘つき。
死んだくせに。
本当はわたしのことなんて、居ないほうがよかったって思っていたんでしょう?
わたしなんて居ないほうが幸せだったんでしょう?
だから、穂海と手を繋いで、あんなに幸せそうに笑えたんでしょう?
本当は、お兄ちゃんは、お母さんと仲直りしたかったんだって、わたし知ってたよ。
お母さんのことが大好きだったって知ってたよ。
お兄ちゃんは、お母さんのことを、そんなに責めていなかったんでしょう?
穂海のことを、愛してもいたでしょう?
穂海の父親のことも、許していたでしょう?
だってわたしは聞いたもの。
お兄ちゃんは、お祖母ちゃんと話していたもの。
「理屈では引き取るべきだと分かっていても、他の男の子供と一緒に暮らして、その子の世話をして、お金を払わなきゃいけないと思えば、
それが、仲がいいならともかく、あまり懐かない子なら、感情で拒否してしまうこともあるだろう」って。
「僕が彼の立場でも、ひょっとしたら、受け入れることはできないかもしれない」って。
「姉さんだって、愛奈が憎いわけじゃないだろう。でも、今の旦那は、自分の娘と他の男の娘とじゃ、やっぱり気持ちが違うと思う。
そう考えると、旦那を説得してまでそうするべきなのか、とか、いろいろ考えちゃうんじゃないか?」
お兄ちゃん。お兄ちゃん。わたしそれでもよかった。
だって言ってくれた。
「代わりにはならないかもしれないけど――」
お兄ちゃんは言ってた。
「――いざというときは、僕があの子の傍にいるよ」
そう言ってた。
言ってたのに。
だからわたしは、お兄ちゃんさえいればよかった。
お兄ちゃんが一緒にいてくれるならそれでよかった。
でも、お兄ちゃんは違ったの?
やっぱりわたしは厄介者でしかなかったの?
わたしは重荷だった?
お兄ちゃんも、わたしなんかいない方がよかった?
お母さんもわたしのせいで苦しかったの?
お祖母ちゃんもわたしのせいでつらかったの?
わたしが家族を台無しにしたの?
わたしなんか生まれて来ない方がよかったの?
こんなこと考えたら、きっと余計に心配させるから、余計に不安にさせるから、余計に世話をかけるから。
だからわたし、ずっと我慢してきた。
怖くてもつらくても、泣かないようにした。
勉強だってがんばったよ。
みんなと仲良くしようとしたよ。
目の前のことに集中して、いろんなことを経験して、
それでいつか、お兄ちゃんやお祖母ちゃんを心配させないくらいに立派になって、
それでお母さんにいつか会いにいって、
気にしてないよって、
穂海にだって、変なわだかまりなんて全部なげうって、
好きだよって、愛してるって、あなたはわたしの妹なんだって、
いつか、そう認められるって思ってた。
そうしていつか、お兄ちゃんが幸せになれたら、その幸せの手伝いをしたいって、
わたしもその幸せの一部になりたいって、
そう考えてたわたしは、やっぱりとんでもないばかだったのかな。
血溜まりの中で横たえる彼のあの姿が、
膝をついて泣いていた穂海の姿が、
わたしの中でお兄ちゃんの姿と重なって、
その場にいられなかったわたしの存在がどこまでも恨めしくて、
頭の中の情景をかき消すことができない。
「愛奈ちゃん……?」
まひるの声が聴こえる。聴こえている。それは分かる。
「ケイくんは、どうしたの?」
わたしの体が、勝手にピクリと跳ねたのを感じる。
声を出そうとして、口を開く。喉が絡まって、うまく声にできない。
やっと出てきたのは、かすれたような、不細工な音。
そのときまで、わたしはケイくんのことを思い出しすらしなかった。
そんな自分を、心底おそろしいと思った。
「ケイくんは……」
ケイくんは。
ひとりで、あのときの誰かを、追いかけた。
刃物、を、持っているはずの相手を、ひとりで。
ケイくんは、たぶん、丸腰で、
もし追いついたとしたら、そのとき……ケイくんは、無事で済むのだろうか。
「ケイ、くん……」
わたしは、どうしてあのとき、ケイくんを止めなかったの?
そう思ったら、居ても立ってもいられない気持ちになるのに、
もう、立ち上がる気力さえない。
言い訳のしようもない。
携帯はどっちにしても使い物にならない。
ケイくんには、連絡できない。
「ケイくん、が……」
声がかすれて、うまくしゃべれない。
「ケイくんが、死んじゃったら」
そのことばを、それでも口にした瞬間、
「どうしよう、わたしは……」
背筋に、寒気のような感覚が走った。
「ごめんなさい……」
誰に、何を、謝っているのか、それが、自分でも分からない。
こらえようとしていたのに、視界が潤むのを止められない。
膝に額を押し付けて、わたしは涙を抑えることを諦めた。
「わたしのせいだ……」
「愛奈ちゃん」
「わたしが連れてきたせいだ……」
「愛奈ちゃん」
「わたしは……」
「愛奈ちゃん」
不意に、無理やり、わたしの顔が引き上げられた。
まひるが、目の前まで来て、わたしの両方の頬を手のひらで挟んで持ち上げたのだ。
ケイくん、ケイくん、ケイくん。
言葉が意味を失って、ただの音みたいになる。
空気の振動も伴わないくせに、ずっと頭の中で鳴っている。
それをせき止めるみたいに、
「てい」
額に軽い痛みが飛んできた。
……。
「……痛い」
「でこぴんしたからね」
「ひどい」
「ひどくないよ。愛奈ちゃんの方がひどいよ。さっきからわたしのことずっと無視だもん。
ちょっと落ち着いて。いま、相当トンでたよ」
まひるは、わたしの目の前に座って、安心させようとするみたいに微笑をたたえて小首を傾げた。
わたしは、また泣きたくなった。
「お兄、ちゃんが」
「うん」
「わたし、お兄ちゃんのこと、追いかけて、お兄ちゃん、が、刺されて、誰かに。
ケイくんが、救急車、呼べって、言って、いなくなった。刺した人、追いかけて」
「……刺された? 碓氷が?」
「わたし、ケイくんが……」
――ああ、わたしは、なんて、嫌な人間なんだろう。
「ケイくんに、なにかあったら、どうしよう、って」
まひるは、戸惑った表情のまま、それでもわざと明るく振る舞うみたいに、笑った。
「ケイくん、警察に任せればよかったのに。そういうとこ、男の子なのかな。
大丈夫だよ。ケイくん、器用そうだし、危なかったら逃げると思う。そのうちここに来るよ」
「……ちがうの」
「……なにが?」
「わたし、ほんとは、ケイくんのこと、心配してなかった」
「……」
「わたし、ケイくんが死んだら、わたしのせいだって、ケイくんが怪我したら、わたしのせいだって、
最初にそればっかり、考えてた」
「……」
「ケイくんのこと、心配してたんじゃない。わたし、のせいなら、ケイくん、きっとわたしを恨むって。
わたしのこと、嫌いになるって、まっさきに、そんなこと考えてた」
「……」
「どうしてわたし、こうなの……? 今だって、どうしてこんなことしか考えられないの?
どうして、ケイくんのこと、心配してないの? わたし、ケイくんがいなくなったら、わたしはどうなるんだろうって、
わたしが、またひとりぼっちだって、そればっかりだ……」
わたしは――
「こんなところに、ケイくんを連れてきたから……わたしが、わたしが刺されれば、どうしてわたし、
ケイくんを止めなかったの? 危ない目に遭うなら、わたしが行けばよかった。
ケイくん、わたし、が……わたしが。わたしは……」
――自分のことばかり、考えている。
つづく
おつです
◆
わたしはいつのまにか眠ってしまっていたらしかった。
そう気付いたのは夢の中にいることに気付いたからだったけれど、
それが夢だと気付いた瞬間、目の前に広がっていた光景は全部綺麗に消え失せてしまった。
何もないところにいる、のではない。
ただ目の前に広がるすべての事物が名前を失って、
それがいったいわたしにとってどういう存在なのか、
はっきりとはわからなくなってしまったような、
そんな不自然な景色だった。
そこには温かみも冷たさもなく、虚ろというのでも満ちているというのでもなく、
ただ茫漠とした"何か"が曖昧に広がっているだけだった。
時間、あるいは、世界、未来、それとも可能性……。
わたしはその"何か"に名前をつけようとしたけれど、
結局うまくはいかず、ただ"何か"としか呼ぶことができなかった。
意味。
言葉。
色。
景色。
音。
声。
――ある状況が何を意味しているか、なんて人間に分かるわけないじゃない?
――わたしがこの街に生まれたことは? あの両親のもとに生まれたことにどんな意味があるのか?
――わたしがわたしとして生まれたことにどんな意味が? そんなの説明できないよ。
声。
音。
意味。
言葉。
わたしの目の前に広がる景色。
わたしの身に起きた出来事。
お兄ちゃんは、どうして死んでしまったんだろう?
わたしは、その答えを、どうしてだろう、この世界でつかめるような気がしていた。
でも、本当は、そんなことにも、理由も意味はないのかもしれない。
今目の前に広がっている、塗り絵の元絵のような、縁取りだけの空白の世界のように。
音に、色に、意味を求めることは、無駄な期待なのだろうか?
わたしたちはそこに、意味を望んで、意味を求めてはいけないのだろうか?
それは、徒労に過ぎないのだろうか。
結局、わたしは何を得ることもできず、ただ誰かを傷つけてばかりだ。
わたしはいいかげん、目の前の景色に飽きてきた。
夢から醒めないとな、と、夢の中で思う。
意味のない空白の景色。
ここにいたって、きっと得るものはない。
ケイくんは、無事だろうか。今考えるべきなのは、きっとそれだけだ。
ケイくんが無事に戻ってきたら、わたしたちはもう、元の世界に帰ろう。
わたしが妙な考えを起こさなければ、きっとケイくんだって危ない目に遭わずに済んだんだから。
こんな場所にいたって、きっと、意味なんて、なにも見つけられない。
だから、もう、諦めないと。
どれだけ探したって、お兄ちゃんが死んだ理由なんて、きっとわからない。
お兄ちゃんがお金を遺した理由だって、わからない。
お兄ちゃんは、もう、死んじゃったんだから。
だからいいかげん、諦めて、わたしは……現実に帰らなきゃいけないんだ。
お兄ちゃんのことを、忘れて。
◇
――起きたことには、必ず意味があるはずだ。
◇
わたしが目を覚ましたとき、部屋の中には誰もいなかった。
まひるもケイくんも、誰も。ここにいるのはわたしだけだ。
わたしは財布だけを手にしてそっと部屋を出ると、歩いてすぐのところにあるコンビニに向かった。
そこで見覚えのある煙草とライターを買ってみた。
年齢確認はされなかった。まだそんな時代じゃなかった。
軒先の灰皿の隣に立って、わたしはぼんやりと空を眺めた。
いつのまにか雨が降り出していた。
小さな小さな、浮かぶような白い粒が、夜の空から降り注いでいた。
わたしは、静かに煙草をくわえて、火をつけた。
流れ込んでくる煙の苦さ、紙の焼ける匂いに、思わず顔をしかめる。
それにも、じき慣れた。
深く吸い込もうとして咳込む。
思わずかがみ込んでしまった。
煙が目に沁みて、視界が潤む。
そうしていつかはこんな痛みだってマシになっていく。
楽になって忘れていく。
だったらわたしは消えてしまいたい。
膝をかかえたまま、煙草を唇に挟んで、静かに雨粒が落ちるのを眺めている。
ケイくん。まひる。
お兄ちゃん。
お母さん。
お祖母ちゃん。
……お父さん。
◇
「……何してるんだよ、こんなところで」
わたしは返事をしなかった。
「煙草なんてやめとけよ」
わたしは返事をしない。
「愛奈」
顔をあげない。
泣いていたから。
「……なんで」
やっとのことで、わたしは声を上げた。
「ケイくんは、吸ってるくせに、わたしはだめなの」
「それは……なんでか、分からないけど。でも、よくない」
「じゃあ、ケイくんもやめてよ」
「……考えてみる」
わたしは顔をあげて立ち上がり、灰皿に煙草を投げ捨てた。水の中に落ちて、煙草は小さく音を立てる。
「……ごめんなさい」
ケイくんは、いつものように呆れた溜め息をついた。
「どうして一言目が"ごめんなさい"なんだよ。"大丈夫だった?"とかだろ、普通。謝る理由がどこにあるんだ?」
「だって……」
「言ったろ」とケイくんはわたしの言葉を遮った。ほとんど奪い取るみたいに、わたしの手から煙草の箱とライターを掠め取る。
そうして彼も煙草をくわえて火をつけた。
「セロトニンの不足だよ」
煙が静かに立ち上って、雨の粒をほんのすこしだけ隠した。
いくらか躊躇うような素振りを見せてから、ケイくんは結局、言葉を吐き出す。
「首尾はどうだった、って、訊かないのか?」
「首尾?」
「犯人、追いかけただろ、俺」
「……どうだったの?」
ケイくんは、黙り込んだ。
わたしは、彼が無事に戻ってきたら言おうと思っていたたくさんの言葉を、なにひとつ口に出せないままだった。
「……ケイくん」
「ん」
「ケイくん」
「なんだよ」
「ケイくん……」
「だから、なんだよ」
本当に言いたいことは、どうしていつも言えないんだろう。
それを求めたら、きっと、拒まれるから?
それとも、拒まれないかもしれないと思っていても、それでも拒まれることが怖いから?
「ケイくん……帰ろう?」
「……」
「わたし、もう、やだ」
「……なあ、愛奈――」
そうして彼は、いつのまにか呼ぶようになった、わたしの下の名前を、当たり前のように呼んで、
わたしにほんの少しだけ寄り添ってくれる。
「俺は……」
何かを言いかけて、でも彼はそこで話すのをやめてしまった。
何を見つけたというわけでも、何に気付いたというわけでもなく、
ただ、続けるべき言葉が彼の中で形にならずにうごめいているみたいに、わたしには見えた。
わたしは彼の手のひらから煙草の箱を奪い取った。
そうして、もう一本を取り出して、唇にくわえる。
そのまま、彼の煙草の先の火に、わたしのくわえた煙草の先を触れさせた。
息を吸い込むと、火が移った。
そうしたらもう、彼は何かを言う気も失ったみたいだった。
わたしが煙草を吸うことについてさえ。
そうしてわたしたちは、並んで煙草をくわえたまま、静かに手を繋いだ。
雨が降るのを眺めていた。
つづく
おつです
∴[Dorian Gray]K/b
理由があったわけじゃない。
きっかけがあったわけでもない。
それでも、嘘でも誇張でもない。
自分が、自分を取り巻く景色が、
何が足りないわけでもなく、何が欠けているわけでもなく、
それなのに、
俺は、ただ、憂鬱でしかたなかった。
なんとなく。
わけもなく。
嫌いというのとは違う。憎いと言っても、もちろん違う。
楽しめないわけでもないし、何もかもに価値がないと悲観しているわけでもない。
ただ、なんとなく、どこか遠いような、何か隔たりがあるような、そんな奇妙な感覚。
起きながら眠っているような、夢を見ながら醒めているような、あるいはそれは、たとえるならば、
一枚の皮膜。
その一枚の皮膜が、俺の視界をときどき覆う。
夕方のニュースが、救急車のサイレンが、月曜の朝の曇り空が、真夜中に観た映画が、
誰かと過ごした思い出が、いつか読んだ本の些細な台詞が、地下鉄の吊り広告が、
ダムの傍にある「いのちの電話」の看板が、コンビニの優先で流れるポップソングが、
全部が鋭い刃物みたいに、やけに刺さって仕方なかった。
棘みたいに付けなくて仕方なかった。
その棘が、いつのまにか俺の中で少女のイメージをとった。
どこかで見たというわけではない、現実に見たというわけでもない。
ドラマや映画や小説や漫画や、そんなありとあらゆるもののなかの、
その『傾向』と『性質』を備えたものを寄せ集めて作り上げられたような、
ひとりの、泣いている女の子。
きっと、誰の中にもいる、俺の中にもいる、ひとりの少女。
彼女の視線を、俺はふとした瞬間に感じる。
振り返っても、その姿はない。ただのイメージなのだから、当たり前だ。
でも、彼女はいる。
夕方のニュースや、動物の死体や、あるいはもっと日常的な風景の一部として。
空気に混じった塵のように、いろんなものに形を変えて、その少女は世界に存在し続けている。
◇
屋上の合鍵は、そもそもは俺の持ち物ではなかった。
去年生徒会長をしていた先輩が、職員室に出入りできるのを良いことに、屋上の鍵を持ち出して合鍵を作った。
そうして鍵を作った彼女は、その鍵を一回千円でカップル相手に貸すことで金を儲けていた。
それに満足すると、彼女はそれを俺によこした。
俺は選ばれたわけではなく、彼女がその気になったときに、たまたま彼女の近くを通りかかっただけにすぎない。
「内緒だよ。これがバレたら、大変なことになるから」
誰にも言わない、って、約束してくれたら、あげるよ。
そうして俺は、開かないはずの扉を開ける鍵を手に入れた。
偶然。
すべて、偶然なのだと思う。
初期値鋭敏性。
俺はたまたま、屋上に至る扉を開ける鍵を手に入れた。
授業をサボって昼寝をする癖がついた。
そして、ふとした瞬間、碓氷愛奈が俺の領域にひょっこりと顔を見せた。
◇
自分でノブをひねって扉を開けたくせに、彼女は扉が開いたことが不思議でしかたないような顔をしていた。
そうして俺が煙草をふかしているのを見て、なんだか変な顔をした。
まるで俺を見た瞬間に、何か別のものを見つけたみたいな顔だ。
俺もまた、彼女を見た瞬間、何かを思い出しそうになった。
その目が、表象の少女に似ていた。
碓氷愛奈は、普通に笑い、普通に喋り、普通に過ごす、普通に振る舞う、けれどどこか寂しそうな女の子だった。
でも、寂しそうな女の子なんてどこにでもいる。抱えこんだ寂しさなんてありふれている。
だから、たぶん、そこじゃない。
俺が碓氷愛奈を特別に思ったのは、それが理由じゃない。
それは理由のひとつだったかもしれないけど、すべてじゃない。
俺はその答えを知っている。
時間だ。
◇
誰にも告げ口をしない、という条件で、屋上の共有を持ちかけてきた碓氷愛奈は、
少しすると当たり前のような顔で俺の時間に割り込んでくるようになった。
自分でも意外なことに、俺はそれを不愉快とは思わなかった。
ただ、自分が不愉快に思っていないという事実に、少しだけ苛立った。
まるで誰かにかまってほしかったみたいじゃないか。
ひょっとしたら、それは事実かもしれないけれど。
そんな俺たちは、べつに他人同士の関係から進もうとも思わなかった。
彼女はべつに俺と友達になりたかったわけではなく、俺の方もそうだった。
だから平気だったのかもしれない。
彼女が近くに居ても、鬱陶しくなかったのかもしれない。
要するに、彼女は俺に興味を持っていなかったし、興味がないのに興味があるふりをしたりもしなかった。
ただの暇つぶしのように、俺たちは話をしていた。
今にして思えば、罠だった。
あらゆるものは、最初から特別なわけじゃない。
時が経つにすれ、その重大性が増していく。
ふと見た花よりも、育てた花が愛しいように、
見ず知らずの猫の死よりも、飼い猫の死が悲しいように、
暇つぶしでやっていたことが、いつのまにか自分から切り離せない性質になるように、
反復した感情が、そのとき以上のものに膨らんでいくように、
時間がすべてを変える。
碓氷愛菜は、俺にとって、他の誰かとなんら変わるところのない、いてもいなくてもいいような存在だった。
そして、何かの転機があったわけでもなく、理由やきっかけがあったわけでもなく、俺たちはただなんとなく過ごし続けた。
だから、俺は気付きすらしなかった。
碓氷愛菜のことなんてなんとも思っていないと、俺はそう思い続けてきた。
◇
「名前、なんていうの?」
彼女がそう問いかけてきたとき、俺も彼女の名前を知らなかった。
べつに知ろうとも思わなかった。それは、そんなに重要なことではないように思えた。
何組なのかとか、部活はどこで委員会は何だとか、得意や苦手がなんだとか、期末テストの順位とか、そんなことはどうでもいいことに思えた。
話をされたら聞いたかもしれないし、覚えたかもしれない。
でも、実際、そのときまで、名前のことが話題になることはなかった。
俺は彼女の質問に答えなかった。
「ねえ」
俺が彼女の質問を無視するのは、よくあることだった。そのたびに彼女は、俺の肩を揺すった。
どうでもいいことでも。どうでもいいことなら特に、彼女はそうした。それ自体が目的みたいに。
俺はやっぱり、そうされるのが不思議と不愉快ではなかった。
この理由は説明できると思う。
他の人間の言葉は、俺に裏側の痛みを感じさせることが多く、彼女の言葉はそうではなかった。
彼女の棘は外ではなく内に向いていた。だから、俺には刺さらなかった。
そういうことなのだと思う。
だから、俺は彼女が不愉快ではなかったのだと思う。
もちろん、こんなのは全部、後付の理屈でしかないのかもしれないが。
「ねえ、名前……」
本当は名前なんてどうでもよかったんだけど、俺は教えなかった。
どうでもいい質問をされるたびに、俺は答えない。彼女は不満そうにする。
俺はそれを楽しんでいた。いつのまにか。
「当ててみたら」
と俺は言った。
彼女は少し考えた素振りを見せてから、
「佐々木小次郎」
と真顔で言った。俺は笑わなかった。
「ハズレ?」
「当たると思ったのか」
「じゃあ宮本武蔵?」
「……」
「今度から武蔵くんって呼ぶね」
「……慶介」
「ん?」
「佐野慶介」
「慶介……」
くだらないノリに気恥ずかしくなって、思わず明かした俺の名前を、彼女は響きをたしかめるみたいに繰り返した。
「わたし、碓氷愛奈」
「へえ、そう」
「慶介、くん。慶介くん。ふうん」
「なんだよ」
「なんでもない。ふうん。慶介くん、ね」
「俺がつけたわけじゃない」
と思わず俺は言い訳した。
「親がつけたんだ」
「べつに文句なんて言ってないでしょ?」
「何か言いたげだったろ」
「べつに、普通の名前だと思うけど」
「……そうかよ」
「ケイ、くん、かな」
「なにが」
「呼び方」
「なんで」
「だって、なんか、慶介くんって、そぐわない」
「……文句じゃないのか、それは」
「そうじゃなくて、その呼び方が、この場にね」
「……何が言いたいのか、わからないんだけど」
「符牒があったほうが楽しい」
「そうかい。よろしく、あーちゃん」
「それ、わたしはべつにいいけど、ケイくんは平気なの?」
俺の方が平気じゃなかったから、その呼び方は二度と使っていない。
俺は碓氷愛奈には負けっぱなしだった。
◇
碓氷愛奈。
特別な存在じゃない。
みんなのうちのひとりだ。
ささやかな存在だ。
たとえば、ある日突然彼女が死んでも、世界は傷一つ負わないだろう。
周囲の人たちに少しだけ悲しみを振りまいたあと、あっというまに忘れ去られてしまうだろう。
あまりにもちっぽけで、些細で、軽微な存在。
彼女の寂しさも、悲しみも、きっと世界にとってはよくあるもので、
取り沙汰するにも値しない、とてもささやかなもので、
彼女のそれよりも重大な問題が、きっとそこらじゅうに転がっている。
でも、俺の隣にいたのは彼女だった。
◇
倒れた碓氷遼一と、
泣きじゃくる女の子と、
走り去っていく誰か。
そのとき、呆然と立ち尽くしていた碓氷愛奈は、
その場で一番気にかける必要のない存在だった。
それなのに俺は、彼女のその表情を見て、
どうしても、なんとかしなければと思った。
この悪趣味な出来事の連続の、その始末をつけなければいけないと思った。
傍にいた方がよかったのかもしれない。
別の方法なら、もっとうまくいったかもしれない。
でも、俺は腹を立てていた。
いったいこの世界は、この子にどれだけ悪趣味な景色を見せ続けるんだ、と。
どんな理由があって、どんな必要があって、この子を傷つけているんだ、と。
だから俺は追いかけた。
正解だったのか、間違いだったのかは分からない。
知りたかったことを知れた、とは思う。
でも、知りたくなかった、とも思う。
それは後悔しても仕方ないことだ。
一度、開けてしまった扉。くぐり抜けてしまった扉。それはもう、閉じてしまっている。
やっぱりあっちの扉に進めばよかった、なんて理屈は通じない。
やり直しはきかない。
とにかく俺は追いかけて――碓氷遼一に出会った。
つづく
726-21,24 愛菜 → 愛奈
おつです
◇
進む道はどこまでも古びていた。
古臭い家の並ぶ通り、夕焼けの下で景色は馬鹿みたいに幻想的だった。
俺は、彼の姿をあっさりと見失っていた。
曲がり角を曲がったときにはもう、背中も見つけられなくなっていた。
でも、結局、その人を見つけるのは簡単だった。
通りには路地がいくつもあった。一本道だったわけでもない。
身を隠そうとするなら、それは簡単だったろう。
あるいは、俺は見失ってしまったのだから、言い逃れでもされればそこまでだったかもしれない。
けれど、俺には彼がそうだと分かった。
きっと、俺だから彼がそうだと分かった。
街を切り分けるような河川の上に伸びる橋。
その歩道の欄干の上で両腕を組んで、彼は水面を見下ろしていた。
あたりはもう暗くなりはじめていて、互いの顔すら影がさしてはっきりそれとは分からない。
それでも、俺ははっきりとそれが誰だか分かったし、そのことに気付いた瞬間、多少混乱した。
なにせ、さっき倒れていた人間と同じ顔をしているのだ。
細部は違うかもしれない。けれど、それは明らかに碓氷遼一だった。
悪い夢でも見ているのかと思った。
立ち止まったままの彼に近付いて、俺はその横顔を確かめる。
ここ数日で、何度か見ただけの顔。知らないはずの顔。
それがもう、俺にとってはその他大勢とは違う意味を持っている。
何も言わずに、俺は隣に並んだ。
そうして気付く。
背丈はほとんど同じくらいだ。
顔立ちも、お互い、同年代なんだと思えるくらい。
服装だって、髪型だってそうだ。今の俺と、何も変わるところがない。
「……訊いてもいいかな」
俺は、そう声をかけてみた。
どう思うのだろう。彼には俺が、どう見えているのだろう。
同年代の普通の学生だと、思われているんだろうか。
まさか、未来から来たとは思いもよらないだろう。
「――あんた、なんて名前?」
彼はちらりとこちらを見た。まるで興味がなさそうな顔だ。
――ふと、彼の呼吸が浅いことに気付く。
「名前……」
何か感じ入るところがあったかのように、彼は繰り返した。
「名前……そうだね。誰なんだろう、僕は」
「何言ってんだ?」
「ときどき、僕は思うんだ。僕はひょっとしたら、僕が僕自身だと思っている当の人物ではないのかもしれないって。
僕は僕を僕だと思い込んでいるだけの別人なんじゃないかって。僕は、本当は、碓氷遼一じゃないんじゃないかって」
「心配するなよ」と俺は言った。
「あんたはたぶん碓氷遼一で合ってるよ。そんなことを疑い始めたらキリがない」
「きみは僕を知らないと思うけど、そう言ってもらえると安心できるよ。ありがとう」
回りくどい言い回しをする奴だ。俺はいくらか面倒になったが、一応は年上相手だ。言わずに置いた。
「少し訊きたいことがあるんだけど、いいかな」
「どうぞ」と彼は言った。俺は頷いて頭の中で言葉を整理した。
「さっきあっちで、碓氷遼一が刺されてるのを見た」
「――」
「一瞬、混乱したよ。どうして二人いるのかって。でもすぐに分かった。
あんた……『あっち』の碓氷遼一だな?」
彼は、そこでようやく、能面のようだった無表情に、ほんの少し驚きの色見を加えた。
「『あっち』、って?」
「あんたも、ざくろに会ったんだろ?」
彼は黙り込んだままだった。沈黙が、肯定のようなものだ。
「ざくろが言ってた。ここは使い回しの世界だって。『碓氷遼一がわたしのお客さん』だって、あいつは言ってた。
考えてみればそうだ。『あっち』のあんたは、こっちに来たことがあるんだ。あいつは、帰ったとまでは言ってなかった」
「きみは?」
「俺の話はあとでするよ。たぶん、話が前後するから」
「そう」
「――なんだかつらそうだな」
「気にしないでくれ」
「……そうか」
気にするなというなら、気にすることはないだろう。それにたぶん、彼の様子も、俺の質問と無関係ではない。
「俺が訊きたいのは、どっちにしてもひとつだ。――あっちで碓氷遼一が刺されていたことと、あんたは、関係があるのか?」
「……」
「単純な質問のはずだ」
「……そうだね」
「それは、どっちだ?」
「……僕が刺した」
何かを諦めたみたいに、彼はポケットから小さな刃物を取り出した。
血が、ついている。
「ホームセンターで売ってた。アウトドア用品だね。
こっちでも六月のあれはあったみたいだから、てっきり売ってもらえないかと思ったけど、運がよかったな」
他人事みたいに、彼は言った。
ほんの少しだけ、俺は身勝手な怒りを覚えていた。
「なあ、そんなことはどうでもいいんだ。……どうして、そんなことをした?」
いや、違う。本当に俺が訊きたいのは、そんなことじゃない。
いつのまにか、俺だって知りたくなっていた。
その疑問をうまく言語化できないうちに、碓氷遼一は答えにもなっていない答えをよこした。
「……どうして、なんだろうね」
彼は、逃げもしない。
べつに、捕まってもいいと思っているわけでもなさそうだ。
ただ、何もかもがどうでもいいみたいに、投げやりになったみたいに、彼はただ、水面を見ていた。
「よくわからない。よくわからないな……。よくわからない」
俺は何も言えなかった。何を言えるだろう。俺は彼のことなんてなにひとつ知らないのだ。
「わからないんだ。どうしてだろうね、どうしてだろう……」
耳を塞ぎたくなる。彼は何度も同じ言葉を繰り返した。
どうしてなんだ?
どうしてこんなところにいるんだ?
どうしてこんなことになったんだ?
わからない。わからないな。
「きみもざくろに会ったのか?」
やがて、さっきまでの話なんて忘れたみたいに、彼はそう訊ねてきた。
まるで、本当に、刺したことなんて忘れたみたいに見えた。
今話していたことを全部、忘れてしまったみたいに。そのくらい、彼の表情には、不思議な静寂があった。
「きみはもう知ってるかな。どうなんだろう。ねえ、ざくろには、人の望みを叶える力なんてなかったんだ。
この世界は、ただ、分かれてしまったふたつの世界で、ざくろにできるのは、それを繋いで、そこを行き来するだけだったんだって」
「……」
「だからね、全部、意味なんてなかったんだ。この世界の僕が小夜と一緒にいたことも、愛奈がいないことも、穂海が笑ってることも。
全部、全部、誰が望んだわけでもない、ただ、そうなっただけのこと、らしいんだ」
「……」
「そんなのさ、そんなの、あんまりじゃないか?」
「……」
「ああ、ごめん。きみに言っても、わからないよな」
「分かるよ」と俺は言った。彼は不思議そうに目を細めた。
「俺は、愛奈とこっちに来たんだ」
また、彼の表情にひびが入った。
「2015年……七年後。俺と愛奈は、そこから来た。あんたを探しに来た」
「……ああ、そうか。時間が大きくズレることもあるって、ざくろはそうも言ってたな。そういうことも、有り得るのか」
「……」
「僕を探しに、か。……じゃあ、七年後、僕は愛奈の傍にはいないってことかな」
「……」
「……探してもらうほどの人間じゃないのに」
「そうみたいだな」
彼はそこで、初めて笑った。
「どうして、刺したか、か……。うん。たぶん、だけど、認めたくなかったんだろうな。
愛奈がいない方が、僕が幸せそうだなんて、そんなのさ、そんなの……」
あんまりだ、と、彼はまた繰り返した。
俺には、この人の考えてることなんて、かけらも分からない。
でも、言いたいことはある。
「だったら、幸せになればよかっただろ」
彼は俺の目をまっすぐに見た。
「愛奈がいた方が幸せだったって、こっちのあんたには愛奈がいなくて残念だったなって、笑えれよかっただろ。
愛奈がいなくてかわいそうだって、そう思えるくらい、あんたが幸せになったらよかっただろ。
そう思えなかったってことは……あんたが、ざくろの言葉に釣られてこっちにいるってことは、結局、違うんだろ。
あんたは……心のどこかで、愛奈がいるせいで不幸だって、いない方が幸せだって、自分で認めてたんだろ」
そうじゃない、と、言ってほしかった。口にした言葉が自分に刺さって仕方なかった。
だって、そんなの……あんまりだ。
愛奈が求めていた人。
愛奈が一緒にいてほしかった人。
その人が、そんなふうに思ってるなんて、心のどこかのひとかけらでさえ、そんなことを考えてるなんて、思いたくなかった。
俺は否定してほしかった。
そして、実際、彼は否定した。
「それは、少し、違うと思うんだ」
何かを伝えようというよりは、自分の考えていることを整理しようとしているみたいに、彼は言葉を続けた。
「愛奈のせいじゃない。それは分かる。それは結局のところ、僕の問題なんだ。
でも、愛奈がいない世界では、僕はそんなことで悩んでいないみたいだ。だから、結局、それもバタフライエフェクトなんだろうね」
「……初期値鋭敏性」
「そう。どうしてだろうな。愛奈は大事だ。愛奈のために、がんばらなきゃ、って。あの子が何か困ったら、僕がなんとかしなきゃって。
僕が、あの子の、親代わりとまではいかない、それでも、寄る辺になれたらって、そう思ってた。それが僕の責任だ。
誰もやらないなら、僕がやらなきゃいけない。そのためなら、僕の人生なんてどうなってもいいって思った」
そう言ってから、ほんのすこしだけ間を置いて、いや、違うな、と彼は自分の言葉を否定する。
「違う。最初から僕は、自分の人生なんてどうなってもいいと思っていて……ただ、そこに愛奈という大義名分を当てはめただけなのかもしれない」
「……」
「わからない。わからないよな。そうやって、僕は僕自身から逃げて、だから、なんにもないんだろうな。
愛奈がいなくなったら、僕はからっぽだ。愛奈がいつか、僕を必要としなくなったら、僕は、ひとりだ。
そうなったら、もう何も残らない。僕は、それが怖いんだ。ずっとずっと怖いんだ。
だから、考えないようにして、傷つかないようにして、機械みたいになりたかった」
「……なんとなく、わかったような気がするよ」
「……なにが?」
「あんたは、背負い込みすぎたんだ」
彼はからっぽな目をしていた。
「……そう、なのかな」
「あんたはもっと、愛奈を大事に思うのと同じくらい、自分のことも大事にしなきゃいけなかったんだ」
「……」
愛奈が、あんなふうになった理由が分かった気がした。
あんなふうに自分を責めてばかりいる理由が。
この人は、ずっとこんな顔をしていたんだ。
愛奈の前で、幸せそうになんて笑ってなかったんだ。だから愛奈は不安だったんだ。
ずっと、自分が周りを不幸にしてるって思い込んでいたんだ。
この人は――愛奈のためにがんばって、愛奈のために、自分を擲って、そうすることで自分自身の人生から逃げて、
そうすることで、愛奈を不安にさせていた。
金を貯めて、遺して、それがこの人なりの、大事に仕方だったんだろう。他にやり方が思いつかなかったんだろう。
だから愛奈は――この人といても、安心できないままだったんだ。
自分がいてもいい存在なんだって、そう思うことができなかったんだ。
……それをこの人のせいだと、そう言って責める権利が、俺にあるだろうか?
何も背負っていない俺が?
この人はきっと、今、俺と同い年くらいで。
俺はただ、倦んでいただけで、誰のためにも生きていなかった。
理由はどうあれ、この人は愛奈のために生きて、死んだ。
愛奈の生を支えようとして、それを一面的には成し遂げた。
彼を取り巻く空虚が、こうして、別の世界で刃物になって誰かを悲しませようとしている。
それを俺は、裁けるだろうか。身勝手だと、自分の問題で他人を傷つけるなと、憤る権利があるだろうか。
法になら、あるかもしれない。
でも、俺自身には、ないような気がした。
それでも……どうして、どうしてもっと、上手くいかなかったんだ、と、そんな言葉を吐きたくもなるけれど、
結局そんなのは、他のありふれた後悔と同じで、言っても仕方ない結果論なのかもしれない。
「刺して、しまったな」
長い沈黙の後、彼はそう、静かに呟いた。
「……もう、戻れないな」
その言葉に、不意に恐怖が湧き上がるのを感じる。
やってしまったこと。そのせいで彼は、もう本当に、幸せになんてなれないかもしれない。
彼が幸せになれなかったら、愛奈だってきっと、そうなのだろう。
あるいは、本当の意味で、彼が未来で幸せになれなかったのは、
この時点で、彼がこの世界の自分自身を刺してしまったからなのかもしれない。
そう気付いた瞬間、たまらなくなった。
自分には何も変えることができないんだと、そう言われたような気がして。
何かを言わなければいけないと、そう思ったけれど、言葉なんてひとつも思いつかなかった。
彼の瞳は、とても空虚な色をしていた。
俺の言葉なんて、届きそうになかった。
つづく
おつです
◇
本当は、俺は、腹を立てていたはずだった。
愛奈を残して、死んでいってしまった人。
碓氷遼一を刺し、愛奈を混乱させた人。
その両方に腹を立てていて、その両方が目の前にいたのに、
俺は彼になにひとつ言う気になれなかった。
自分に彼を裁く権利があるなんてどうしても思えなかった。
それなのに、結局俺は何も言えないままだった。
何を言うべきだったのかも、わからない。
碓氷遼一は、どこかに行ってしまった。
愛奈は救急車を呼べただろうか。
こちらの世界の碓氷遼一は、無事なんだろうか。
そんなことがとりとめもなく頭のなかで浮かんでは消えていったけれど、
本当のところ俺はなにひとつ考えられなかったのかもしれない。
誰が悪かったんだろう、と俺は考えてみた。
どう答えたとしても、それは間違っているような気がした。
どれかひとつでも違えば、誰も悲しまない世界はあり得たかもしれない。
でも、もうそんな段階じゃない。
ありとあらゆる間違いを正してしまえば、きっと世界の在り様は、今とはまったく違っていたのだろう。
そうしていたら、この世界と同じように、愛奈は生まれていなかったかもしれない。
俺だって、愛奈とは出会っていなかったかもしれない。
いまこの瞬間に至るまでの道筋を否定しまえば、それは誰かの存在を否定することになるだろう。
蝶のはばたきが誰かを消してしまうかもしれない。
あるいは、蝶のはばたきが別の何かを生んでいたかもしれない。
そんなことを考えて、どうなる?
俺はひとりで橋の上に取り残されたまま、夕陽が西の山の向こうに沈んでいくのを眺めていた。
煙草をふかしながら、ここ数日のあいだに自分の身に起きたことを順不同に考えてみる。
ただこうなってしまっただけのことだ。
碓氷遼一は、これからどうするのだろう。
俺は、彼に何かを言うべきじゃなかったのか。
何かを変えられるなんて、思い上がっているわけではない。
それでもなにか一言くらい、言えたはずじゃないのか。
そんなことを考えているうちに日が沈んで夜が来てしまった。
あたりは夕闇に包まれて真っ暗だ。
煙草はなくなってしまった。
俺は考えているのがバカバカしくなって、もと来た道を戻り、碓氷遼一が刺されていた場所に戻ることにした。
警察が来ていた。俺の知っている顔はもうどこにもなかった。
◇
愛奈と連絡を取る手段はなかった。
でも、あいつのことだから、俺と合流しようと思えばまひるの部屋に戻るだろう。
少し時間はかかったけれど、結局俺もそこを目指すしかなかった。
案の定、彼女はそこで泣き疲れたみたいに眠っていた。
隣に座っていたまひるが、茶化すみたいな口調で声を掛けてくる。
「遅いよ。どこでなにしてたの?」
「……ちょっと」
どう説明していいかわからなくて、そうごまかすしかなかった。
まひるは小さく溜め息をつくと、困ったように笑った。
「愛奈ちゃん、心配してたよ。ケイくんに何かあったら自分のせいだって」
「……こいつは、この期に及んでまだそんなこと言うのか」
少し、軽率だったかもしれない。こいつの心境も、もっと慮るべきだった。
そんなこと、いまさら言ったって仕方のないことだけれど。
このところ、いろいろあって疲れていたんだろう。
声を潜めるでもなく話をしているのに、愛奈は目をさますようすもなかった。身じろぎさえもしない。
――俺が出会った相手について、俺はこの子に話すべきだろうか。
話すとしたら、どんなふうに話したらいい?
こいつのせいじゃない。
でも、こいつはきっと、全部を聞いたら、やっぱり自分を責めるのだろう。
自分なんていらないんだって、繰り返すだろう。
「ケイくん」
「……ん」
「お風呂入る?」
「……」
まひるは、当たり前みたいな様子だった。
変な女だ、と思う。俺たちは妙なことばかり言っているのに、なんにも揺らいでいない。
「……ちょっと、気になってたことを聞いてもいいか?」
俺が不意にそう声をかけると、まひるは何気なく頷いてくれた。
「この部屋のことなんだけど」
「家賃?」
「違う。そんなの聞いても役に立たないだろ。そうじゃなくて、男物の下着とかやらないゲームとか、そういうものについて」
ああ、とまひるは困り顔をした。答えてもらえないなら、それでいい。そう思ったんだけど、やっぱり控えるべきだったかもしれない。
「気になる?」
「言いたくないなら、別にいい」
「あ、ううん。そういうわけじゃないんだけど、誰にも話したことがないから、どうかな、うん……どう話そうかな。
少し気持ちの悪い話だと思うし、たぶん、引いちゃうと思うんだ」
「……無理にとは、言わない」
「そうだよね……。うん。クローゼットの中は、女の子の秘密なんだ」
「……何言ってんだ?」
「うん。……クローゼットの中にはね、男物の衣類だけじゃなくて、ゲームとか、おもちゃとか、少年漫画とか、いろいろ入ってる」
「……実は心の性別が違うとか?」
「ちがうちがう。そんな言い方失礼だよ。わたしのは、なんだろうね、ちょっと、変なんだと思うんだけど」
要領を得ない話し方で、でも、まひるは話してくれるつもりがあるみたいだった。
「……愛奈ちゃん、寝てるね。少し、歩きながら話さない?」
俺は、愛奈をひとりにするのがなんとなく嫌だったけど、かといって、ここで彼女が目を覚ましたときに、何を言えばいいのかも分からなかった。
しかたなく、俺はまひると一緒に部屋を出た。
◇
少し歩くだけで、賑やかな通りに出た。
ちょっと離れたところに飲み屋街があるらしくて、おかげで通りは騒がしい大人たちでいっぱいだったけれど、
おかげで俺たちは妙な沈黙を持て余さずに済んだ。
そういう空間だから、かえって話しやすかったのかもしれない。まひるはよどみなく話を始めた。
「わたしにはね、弟がいるんだ」
「……弟? って、ことは、弟の私物?」
まひるは首を横に振った。
「ううん。死んじゃったの。わたしが幼稚園の頃だったから、二歳の頃だったかな」
「……死んだ?」
「うん。死んじゃった」
「それは……」
「まあ、それはいい。……ううん、良くなかったのかな、よくわかんないんだけどね」
「……」
「それでね、なんだろうな。べつに普通に生きてたつもりなんだけどね。中学くらいの頃かな。
同級生の男の子がね、なんだかゲームの話とかしてるの。わたし、あんまり興味ないタイプだったんだけど、
そういう話聞いてるとさ、ああ、弟も生きてたら、そういうゲームとかやってたのかなって思って、
そう思ったら、なんか買っちゃって」
「……」
「もちろん、やらないんだよ。でも、一回そうやってからね、なんか、ああ、こんな漫画読んでたんだろうな、とか、
年頃になったらこんな服着て、きっと下着もこんなのつけて、なんて、そんなふうに、想像して……。
まるで生きてるみたいに。きっとこのくらい背が伸びて、こんな顔になって、って、想像して……。
それが、うん。わたしのクローゼットの中身」
「……」
「ごめんね、説明しないで服貸しちゃって。気味悪いよね」
「……俺は、別にいいんだけど」
「直さなきゃ、って、思っているんだけどな。誰にも言えないし、みんな知ったら気味悪がるよね。
でも、でもね、そうしてるときはさ、なんだか、生きてるみたいな感じがするんだ。傍にいるみたいな感じがする。
変だよね。死んじゃってるのに。でもなんだか、存在するのとは違う形で、傍にいるみたいな感じがするんだよ」
それからまひるは、思いついたみたいにこちらを振り向いた。
「ひょっとしたら、そっちの世界では、わたしの弟が生きてたりするのかな」
「……」
「だとしたら……わたしは……」
その言葉の続きを、まひるが口に出すことはなかった。
俺は彼女の言葉の頭のなかで繰り返した。
存在するのとは違う形で、傍にいる。
つづく
おつです
◇
さっき聞いた話を、うまく整理できなかった。
何かが掴めそうだという気がしたが、そんなのは結局錯覚に過ぎないのかもしれない。
部屋に戻ろうというまひるを先に行かせて、俺はそのあたりを適当に歩くことにした。
煙草を吸いたかったけれど、今は持っていない。
いつのまにか、雨が降り出していたみたいだった。
道路を行き交う車の群れは、濡れ始めた黒い路面にヘッドライトの光を散らしながら進んでいる。
自分の身に何が起きているのか、わからなかった。
何がこんなに、頭を痛めているのか。
視界が滲むのはどうしてか。
この感情を、どこに向ければいいのか。
俺にはもうわからない。
結局、まひるの部屋に戻る以外に、方法なんてなさそうだった。
でも、愛奈が目をさましたら、俺は何を言えばいいんだろう。
おまえの叔父さんと話したよ。
彼にもいろいろあったみたいなんだ。
抱え込んだ重い荷物があったみたいなんだ。
そんなことを、愛奈に告げてどうなる?
またあいつは自分を責めるだけだ。
でも、どう足掻いたって、もう俺は否定できない。
いっそ全部知らない方がマシだった。
なにもかもがぐるぐると渦巻いて、複雑に頭の中で絡まって、
それをどうすることもできない。
そんなときに、愛奈の姿を見つけた。
コンビニの軒先で、吸い慣れない様子の煙草を吸いながら、愛奈は屈みこんでいた。
今に泣き出しそうに見えた。
彼女に何を言えばいいのか、そればかりを考えている。
雨が降り出している。
どうして、こんなことになったのか。
それを考えても意味がないと、知っている。
「……何してるんだよ、こんなところで」
軒先でかがみ込む彼女に、俺は静かに歩み寄った。
返事はない。くわえた煙草から、煙だけが立ち上っている。
いったい、何をどういえばいいんだろう。
「煙草なんてやめとけよ」
口を衝いて出るのは、そんなどうでもいいような言葉だけだ。
俺には何にも言えやしない。
それでも、返事はない。
「愛奈」
名前を呼んでも、顔をあげすらしない。
泣いているみたいだった。
「……なんで」
と、彼女はようやく声を出した。
絞り出すみたいな声だった。
「ケイくんは、吸ってるくせに、わたしはだめなの」
出てきたのがそんな言葉で、俺は少しほっとしてしまった。
どうしてだろうな、と思ってしまう。
こいつが煙草を吸うのが嫌だなんて、わがままだ。
俺が言えた義理じゃない。
「それは……なんでか、分からないけど。でも、よくない」
「じゃあ、ケイくんもやめてよ」
その表情が、縋りつくみたいで、俺は困ってしまった。
「……考えてみる」
愛奈はゆっくりと立ち上がって、灰皿に煙草を投げ捨てた。
底に溜められた水に落ちて、煙草は静かに音を立てた。
「……ごめんなさい」
これだ。
自分が嫌になる。
「どうして一言目が"ごめんなさい"なんだよ。"大丈夫だった?"とかだろ、普通。謝る理由がどこにあるんだ?」
「だって……」
「言ったろ」
俺は愛奈の手から煙草とライターをかすめ取った。
そこにどんな意味があるのかはわからない。
でも、もう考えるのも面倒だった。
ただ、煙草に火をつける。
いつものように。
「セロトニンの不足だよ」
愛奈は何も言わなかった。そのことにほっとしたなんて、どうかしてる。
どんな言い方をすればいいのかわからない。
それでも、何も言わないでいるのも、違うような気がした。
いや、違う。
俺は、ひとりで抱え込むのが嫌だったのかもしれない。
「首尾はどうだった、って、訊かないのか?」
「首尾?」
「犯人、追いかけただろ、俺」
「……どうだったの?」
本当は、そんなことはどうでもいいみたいな顔だった。
こいつの見た景色の意味を、俺は知らない。
自分の大切な人が、血だまりの中にうずくまっている風景。
その人が、自分を知らないという事実。
自分じゃない誰かが、その人を呼んでいる光景。
こいつにしかわからない。
「……ケイくん」
「ん」
「ケイくん」
「なんだよ」
「ケイくん……」
「だから、なんだよ」
「ケイくん……帰ろう?」
俺は返事をしなかった。
やっぱり、すがりつくみたいな表情をしていた。
「わたし、もう、やだ」
それでいいのか、と聞きたかった。
このまま帰ったら、きっとこいつは、本当にこの世界から何も持ち帰れない。
ただ、傷つきにきただけだ。
「……なあ、愛奈――」
なんて言えばいい?
「俺は……」
俺は、知っている。ひょっとしたら、伝えるべきなのかもしれない。
この世界にいる叔父さんとは違う、『おまえを知ってる叔父さん』が、こっちの世界に来てるんだよ、って。
ひょっとしたら、話せるかも知れないって。
俺は、伝えるべきなのか?
でも、そうしてどうなる?
結局、結果はなんにも変わらない。
なにも言えないまま、俺は喋るのをやめて煙草の煙を吸い込んだ。
こいつが自分を責め続けるのは、きっと、なんにも変わらない。
不意に、愛奈が俺の手のひらから煙草の箱を奪い取った。
何かを証明しようとするみたいに、彼女はそこから一本、煙草を取り出してくわえる。
そして、一瞬、
するりと流れ込むように距離が詰められて、彼女のくわえた煙草の先と、俺の吸っていた煙草の先が触れた。
思わず、思考が止まった。
彼女が息を吸うのが分かった。
火が移ると、彼女は「どうだ」という顔をしてみせる。
それから、なんにも気にしていないみたいな顔で、俺の方から目をそらす。
彼女の手が、静かに俺の手をとった。
俺は何も言わなかった。
雨が降っている。
何を言えばいいのか、わからないままだ。
つづく
741-8 笑えれ → 笑えば
754-2 おかげで通りは → 通りは
おつです
◇
「ねえ、ケイくん」
「ん」
「わたし、わたしさ」
「……なんだよ」
「わたし――」
◇
結局、離す理由も見つけられなくて、手を握りあったまま、俺たちはまひるの部屋に戻った。
扉の前で、ほんの一瞬だけ目を合わせて、その手を離した。俺も愛奈も両方とも何も言わなかった。
まひるは当然みたいな顔で俺たちを迎え入れた。それから、夕飯のこととか、風呂のこととか、あれこれと訊いてきた。
煙草の匂いのことや、今までどこでどうしていたのかなんてことは、まったく訊いてこなかった。
俺は、さっき愛奈に言われた言葉のことを考えた。
――ケイくん……帰ろう?
――わたし、もう、やだ。
「なあ、まひる」
「……ん?」
「明日、俺たち、帰るよ」
まひるは、俺の方を見て、いくらか驚いたような表情をした。
「明日?」
「うん」
「帰れるの?」
「たぶん、大丈夫だと思う」
確認の意味で、愛奈を見る。彼女は静かに頷いた。
「うん。大丈夫」
「そっか。……なんだか、急に来て急に帰っちゃうんだね」
まひるは不思議な表情を見せた。単に、別れを惜しんでいるというのでもなさそうな。
それはそうだ。惜しむほどの関係性なんて、俺たちの間にはない。
だったら、これはなんなんだろう?
よく分からないけど、気にしないことにした。
まひると愛奈はふたりでキッチンに立ち、遅い夕食を作り始めた。
俺は窓の外で降る雨を聞きながら何かを考えようとする。
料理が出来上がると、三人揃って食事をとった。
まひるの料理はこなれていて美味かった。
それがなぜだか悲しくて仕方ない。身勝手な感情だとわかっているつもりなのだけれど。
この世界を去ると思うと、愛奈の身に起きたさまざまなことのすべてが俺の頭にのしかかってきた。
母親のこと、叔父のこと。
――わからない。わからないよな。そうやって、僕は僕自身から逃げて、だから、なんにもないんだろうな。
俺にはよくわからない。
――愛奈がいなくなったら、僕はからっぽだ。愛奈がいつか、僕を必要としなくなったら、僕は、ひとりだ。
わからない。
―― そうなったら、もう何も残らない。僕は、それが怖いんだ。ずっとずっと怖いんだ。
わからない。
誰のせいなのか、何が間違っていて、何が正しいのか。
誰も悪くないなら、どうしてなのか。
それを知りたい。
夕食を食べ終えると、愛奈は壁にもたれて静かに座っていたが、やがて、疲れていたのだろう、目を閉じて眠ってしまったようだった。
俺は彼女の閉じた瞼からのびた睫毛の長さを、なんとはなしに眺めている。
小さな女の子みたいに見える。
迷子になって、不安で、寂しくて、怖くて、どうしたらいいかわからなくて、それでも涙をこらえている、そんな子供みたいに見える。
いつだって、本当は泣き出したいくらい不安なくせに、寂しいくせに、
取り繕って笑って、無理をして、それで本当にときどき泣いて、少しあとには何もなかったみたいな顔で笑おうとして。
……こいつのために、何ができるんだ、なんて、そんな思い上がりは持ってない。
そんなに殊勝な人間じゃない。
考えてみれば分かる話だ。
どうしようもないことばかりだ。
親と暮らせない。頼りにしていた家族が死んだ。
それはきっと、替えがきかないものだ。
他の何かでは、埋めることのない空白だ。
その空白のせいで、こいつは今だって崩れそうになっている。
取り戻せないとわかっているのに、すがりつこうとしている。
『……わたしのせいかなあ』『ごめんね』『……ごめん。巻き込んで』
『わたしのせいなのかな』『……ケイくん、ごめん』『……ごめんね』『……ごめんなさい』
『……ね、ケイくん。お兄ちゃんは、わたしなんていないほうがよかったんだって思う?』
もう、その扉は開かないのに。
開かないと、自分でもわかっているはずなのに。
それでも、こいつは、ずっと、今までも、これからも、ずっと、開かない扉の前で、もう来ない迎えを待ち続ける。
期待しているわけでもないのに、離れることもできずに、いつまでも。
◆
「ねえ、ケイくん」
「ん」
「わたし、わたしさ」
「……なんだよ」
「わたし――生まれてこないほうが、よかったのかな」
バカ言えよ、と俺は言った。
◇
それでも、俺の言葉なんて、信じてないみたいな顔をしていた。
いったい、どうしたらこいつは自分を許してやれるんだ?
どうして、自分が悪いって、自分のせいだって、そんなふうに自分のことばかり責めるんだ?
誰かのせいにして泣きわめいたっていいはずだ。
誰かを恨んだっていいはずだ。
おまえのせいじゃないって、俺は、何度も言ってきたつもりだ。
おまえに責任なんてない。おまえに何の罪がある? おまえがいなければ幸せだったなんて、そんなことあるわけない。
何かが、この子を縛り付けているんだ。
からたちの枝みたいに絡みついて、がんじがらめにして、逃げられなくしている。
俺は……。
◇
「ケイくん」
考えごとに沈み込んでしまっていた。
声に顔をあげると、まひるが困ったような顔をしてこちらを見ている。
「……ん」
「コーヒー、飲む?」
「……いや、いい。ありがとう」
「そう?」
首を傾げてから、彼女は含み笑いを見せた。
「……なんだよ?」
「ううん。なんか、ケイくん、ひねくれものって感じなのに、お礼は素直に言うんだなって思って」
ひねくれもの。……まあ、いい。
「べつに、礼くらい言うだろ」
「うん。それはまあ、そういう言い方をすればそうなんだけどね」
「感謝の気持ちくらいなら、言葉に……」
――あのね、ケイくん。
――わたしたちのご先祖さまとか、いろんな人達が、そういう表現が苦手な人のためにとっても大切な発明をしてくれてるんだよ。
―― それはね、言葉っていうの。
そうだ。
……俺は、教えてもらったんだった。
言葉にしないと分からないというなら、言葉にするしかない。
その結果、伝わらないかもしれない。何も変わらないかもしれない。
でも、ぐだぐだと考えるのを続けるくらいなら、
いっそ俺も、覚悟を決めるべきなのかもしれない。
それが、なんのためにもならない結果になったとしても。
「……どうしたの、急に黙り込んじゃって」
「いや」
「さっきから、へんなの」
「ちょっと、いろいろ考えてたんだ」
とりあえず、頭のなかで漠然と、自分がやることを決めた。
そうしてしまってからは、それ以上そのことについて考えないことにする。
余計なことを思いついたら、決意が鈍ってしまいそうだ。
それで、思わず俺は、碓氷遼一のことを考えてしまった。
――だから、考えないようにして、傷つかないようにして、機械みたいになりたかった。
あのときの彼の表情が、どうして、なんだろう、瞼の裏にちらついて、離れない。
つづく
乙
おつです
◆[Rapunzel]A/b
わたしが目を覚ましたのは、朝の四時半頃だった。
まだ、ケイくんもまひるも眠っていた。
わたしはまひるのベッドの半分を借りて、一緒になって眠っていた。
遠慮したのだけれど、まひるに強引にそうするように言われていて、ここに来てからはずっとそうしていた。
彼女を起こさないようにこっそりとベッドから抜け出す。
朝はまだ暗く、薄手のカーテンの隙間から覗く空はぼんやりと青褪めている。
そのまま、すり足で玄関へと向かった。
借りたパジャマのままで外に出ると、九月の朝は起き抜けの肌にはひんやりと冷たい。
覆うような霧雨が、音もなく降り注いでいた。
通路の手すりに体重をあずけて、街の姿を見下ろした。
くじらのおなかの中みたいに見えた。
七年前の景色。
別世界の景色。
それはたしかに、わたしの知っているものとどこか違う。
でも、どこがどう違うのか、と言われても、うまく説明できない。
街中が、どこか遠くの国の王様の死を悼んでいるように静かだった。
通りを走る車、ジョギングをする人、霧雨。
絵の中の景色のようだった。
夢を見ているような気さえした。
世界は少し肌寒くて、吐き出す息はほのかに白んで立ち上っていく。
急に心細くなって、わたしは身震いしてから両手を口にあてて息を吹き付けた。
この冷たさに、わたしは覚えがある。
ほんの少し、だけれど、思い出せる。
春にも、夏にも、秋にも、冬にも、思い出せる記憶がある。
手のひらの温度。
抱き上げられたあたたかさ。
不意に、背後から物音がした。
まひるがあくびをしながら、扉から出て来る。
「起こしちゃった?」
「ん。うん」
「ごめんなさい」
わたしの言葉に、まひるは笑った。
「気にするようなことじゃないよ」
「そうでもないと思うけど……」
「そう? そうかも」
まひるはわたしの隣に近づいてくると、触れ合うほどの距離に並んで、同じように手すりにもたれた。
「寒くないの?」
「……少し」
「あんまり冷えると、よくないよ」
「まひるは、中に戻って」
「ケイくんとふたりきりで? それは、うーん」
「……あ、そっか」
そういう配慮みたいなものは、わたしの頭の中にはあんまり用意されていなかったみたいだ。
たしかに、まひるからしたら嫌かもしれない。
「霧だね」とまひるは言った。
「うん」
「この時間は、まだ暗いね」
「そうだね……」
べつのことを考えていたせいで、どう返事をすればいいか分からなかった。
まひるは気を悪くしたふうでもなく笑う。
「ね、愛奈ちゃん。少し話してみたいことがあったんだけど、いいかな」
返事をせずに、ただ彼女の顔を見る。
これまでと変わらない、器用そうな笑みだ。
そんな笑みで、彼女はいつも、いつも、刃物みたいなことを言う。
「愛奈ちゃんは、ケイくんのこと、どう思ってるの?」
静かな風が吹いて、霧雨を舞い上がらせた。
一瞬だけのことだった。
「気付いてるよね、愛奈ちゃん」
何を、とは訊かなかった。
どうせ、最後にはわたしが答えに窮するに決まっていた。
「お兄ちゃんが、ね」
「ん……」
「お兄ちゃんが、むかし、教えてくれた話があるの。大きな魚に、食べられてしまう人の話」
「魚……?」
「神さまがね、ある人に話をするの。堕落した街の話。その街の悪辣の為に、神さまはその街を滅ぼさなきゃいけない。
だから、街に向かってそのことを伝えなさいって」
「……それは、聖書かな」
「なのかな。わからないんだけど。それでね、でも、その人はその街に向かうことを拒むの。
どうして悪辣を尽くす、しかも敵国の街のために、自分が出向かなければならないのか?
神が滅ぼすと決めたなら、どうしてそれを伝える必要があるのか? そして彼は、神さまの言葉に逆らって逃げようとする」
でも、神さまは彼が乗った船のまわりに嵐を降らせた。そして彼は船から放り出される。
海の中で、彼は大きな魚に飲み込まれ、腹の中で三日三晩を過ごして悔い改める。
そして彼は考えを変え、悪辣の街に向かい神の言葉を伝える。
街の人々はその言葉を聞き届け、驚くことに素直に改心する。
神さまは、街を滅ぼすという言葉を、それによって翻した。
預言者は、これに腹を立てた。
神さまが、やさしいと彼は知っていた。だから、悪辣の街が改心すれば、神はそれを許すだろうと彼は気付いていた。
それだからこそ彼は伝えることを拒んだのだ。悪にはふさわしい報いがあってほしかったから。
そのあと、どうなったんだっけ……?
「ヨナ書だね」とまひるは言った。
「"あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。
ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか"」
「……ヨナ書?」
「旧約聖書かな。たしか、選民思想の否定と……神が言葉を翻すこともある、という根拠って解釈があったような気がする」
「そうなんだ」
「それが、どうしたの?」
「うん。わたし、ときどき不思議になるの。お兄ちゃんは、どうしてわたしにあんな話をしたんだろうって」
大きな魚にのまれた男の話。
お兄ちゃんは、どうしてそんな話を知っていて、わたしに何が言いたくて、そんな話をしたんだろう。
お兄ちゃんは、その話のどこかに、自分を重ねていたのだろうか?
だとしたら、それは誰だろう。どこに、だろう。
――愛奈、お兄ちゃんは一緒にいるよ。
見晴らしのいい丘の上の公園で、わたしとお兄ちゃんはたしかに一緒にいた。
―― 一緒にいるから大丈夫だよ。
あのときの、お兄ちゃんの表情を、わたしは今でも覚えている。
一緒にいる、と、そう言った。
それはもう、嘘になってしまった。
でも、あのときわたしが感じた気持ちは、一緒に居てくれる、という、そんな言葉に対する安心じゃなかった。
あのときの、お兄ちゃんは、泣き出しそうな顔で笑っていた。
寂しくないと、強がるみたいに。
本当は、わたしは、お母さんのことなんて、もうとっくに諦めていて、
ただ、お祖母ちゃんと、お祖父ちゃんと、それからお兄ちゃんがいれば、
それで、それでもいいと思っていた、のかもしれない。
あのときからわたしは、思っていたのかもしれない。
わたしは、お兄ちゃんに居てほしくて、泣いていたわけじゃなかったのかもしれない。
わたしはただ、あの寂しそうな表情の理由を、お兄ちゃんが隠していた何かを、
結局最期まで分かってあげられなかったことが悲しかったのかもしれない。
わたしは彼のために何もできなかった。
それが悲しくて、だから、彼が何を考えていたか、どうしても知りたかったのかもしれない。
彼もまた、魚の中にいたのだろうか。
「くじらについてのお話なら、もうひとつあるね」
まひるは、不意にそんなふうに話し始めた。
それは、こんな内容だった。
エチオペアの王妃カシオペアは、その娘、アンドロメダの美しさを誇り、海の神の孫娘よりも美しいと褒め称えた。
それが海神の孫娘の怒りを買った。
孫娘に泣きつかれた海神は、エチオペアの海岸に化け鯨を差し向けた。
鯨は津波を引き起こし、作物を台無しにし、街を恐怖の底に叩き落とした。
そこで、その美しい姫君は生贄になった。
罪のない彼女が化け鯨の口に飲み込まれようとした瞬間に、馬のいななきとともにペルセウスが現れた。
メデューサ退治の帰り足に姫が岩にくくりつけられているのを見たペルセウスは、化け鯨にメデューサの首をつきつけた。
たちまち鯨は石になり、海底へと沈んでいく。
ペルセウスはその姫君を連れ帰り、やがて彼女と結ばれたという。
海に沈んだ憐れな鯨は、空に浮かんで星座になった。
遠い、古い、神話のお話。
「ピノッキオの冒険もそうだね。勤勉を目指しながら何度も怠惰の誘惑に負けるピノッキオは、大きな化け鯨に飲み込まれる。
……ああ、別の魚だったかな」
くじら。
くじらとは、なんだろう。いったい、何の比喩だろう。
迷い、嫉妬、憎悪、失望、落胆、混乱。
「でも、愛奈ちゃんは大丈夫だと思う」
わたしはまひるの方を見た。
「愛奈ちゃんにはペルセウスがいるから」
わたしは、アンドロメダではない。
そんなことを言ったって、意味のないことだ。
「わたしは……まひる、わたしはね、誰かとずっと一緒にいるっていうことがどういうことなのか、ぜんぜん想像できないの」
「……」
「ケイくん、と、一緒にいたいよ。でも、わたしは、ケイくんが……」
うまく言葉に、できない。
何を、どう、説明すればいいのか、どういう言い方なら、伝わるのか。
「失うことと手に入らないことなら、どっちが悲しいのかな」
彼女は、天気の話をするみたいに、そんなことを言った。
「怯えることが間違いだとは、わたしには言えない。だから、それもひとつの生き方だねって、そう思うけど」
遠くを見るような目で、彼女は霧に包まれた街を見下ろしている。
「ある意味だと、それは悟りの境地なのかもしれない。際限のない欲望と手を切って、何も求めなければ、
傷つくことも失うこともない。ただ物事があるがままにすぎるのに任せていれば、穏やかに生きられる。
でも――“愛奈ちゃん”はそれでいいの?」
わたしは、言葉の意味を咀嚼するのに手間取った。
霧の粒が肌にまとわりつく。
溶けてしまいそうだ。
蒸気のような雨。
居心地の悪くない朝。
晴れを望むわけではない。
雨は嫌いじゃない。
でも、少し、ほんの少し、肌寒い。
「わたしたち、動物だよ」
「……」
「平気な人はいるかもしれない。でも、愛奈ちゃんは、それで平気なの?
ケイくんが、たとえば、誰か別の人と……そうなったときに、愛奈ちゃんは、平気なの?」
「わたしは……」
「わたしたちは、欲望する。食べ物を食べる、水を飲む、眠る、寒ければ服を着て、暑ければ服を脱ぐ。
触れられたいと思うし、触れたいと思う。触れることで傷つきたくないとも思うし、気安く触れられたくないとも思う。
自分を変えたいとも思うし、自分を守りたいとも思う。自分を憎むことで、自分を守ろうとしたりする」
誰かが言ってたんだ、とまひるは言った。
「わたしたちは、自分が本当に求めているものを、まず誰かに与えることでしか、手に入れられないって。
でも、そんなの変だよね。だって、それじゃあ、お返しを催促してるみたい。
“わたしはあなたにこんなことをしてあげた。だからあなたもわたしに同じようにして”って言うみたい」
与えた人からしか受け取れないなら、最初に与えた人は、誰から受け取ったんだろう。
それってやっぱり、変な理屈だよね、と、彼女は言う。
「挨拶、みたいなものだと思うんだ。“おはよう”って言っても、返事が来るとは限らない。
相手が“おはよう”って言ってくれないなら、どうしてこっちから言わなきゃいけないの、とも思う。
でも、だからって、言われるのを待ってるだけじゃ、やっぱりなんにも進まないのかも」
言われても返事をしないんじゃ、なんにも変わらないのかも。
どうなのだろう。
わたしは――
渡すことの方が簡単で、求めることのほうがむずかしいような気がする。
好きです、と、そう言うよりも、好きになってください、好きでいてくださいと、そう伝えることのほうが、ずっと怖い。
ずっと一緒にいてください、って、
ずっと一緒にいたいです、って、
そう思うことは、好きでいてと求めることなんじゃないのかな。
わたしは、そんなふうに求めていいほど、求められるほど、良い人間なんだろうか。
「……欲望」
わたしは、そう口に出してみた。
欲望、欲望。
わたしの“欲望”は白い息になって、かすかに空に透けながら浮かび上がった。
そのまま、誰の耳にも届かないまま、高く高くに立ち上っていく。
一緒にいたい。
一緒にいて。
少しだけ、違和感がある。
わたしがケイくんに言いたいのは、本当にそんな言葉だろうか?
もっと、何か別の、言葉だという気がする。
わたしは、今日、帰ろうとしている。この、よくわからない場所から。
お兄ちゃんのこと、ケイくんのこと、お母さんのこと。
お兄ちゃんが刺された景色、わたしがいない景色、くじらのおなかの中みたいな景色。
「今日で本当にお別れなのかな」
まひるは、静かにそう呟いた。
「わたしたちは、きっとぜんぶすぐに忘れちゃうんだろうね」
どうしてだろう。
その言葉が、わたしには、まひるが初めて口にした本音のように思えてならなかった。
つづく
おつです
◇
あたりまえのように朝が来て、まひるは制服に袖を通した姿で、わたしたちの為に朝食を用意してくれた。
彼女が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、わたしとケイくんは静かに朝のニュースを眺める。
わたしたちは、この世界に着たときに着ていた服を着て、昨日の出来事についての報道を見ていた。
たいしたことは言ってくれなかった。
ケイくんは何か言いたげな、けれど何か言いあぐねるような顔をしていた。
でもわたしは何も訊かなかった。
たいした会話もしないまま、まひるが出かける時間になった。
彼女が鍵を閉めるので、わたしたちも一緒に部屋を出ることにした。
それじゃあね、とまひるは言った。
それじゃあ、とわたしも言った。
元気でね、と彼女は言った。
まひるも、とわたしは言う。
それで本当にお別れだった。
外ではまだ霧雨が降り続いていて、まだ夢の中にいるような気がした。
青褪めた朝を、わたしたちは傘もささずに歩いた。
地下鉄駅の構内で、人々はせわしなく改札口に飲み込まれていく。
切符売り場に小銭を放り込むと、一瞬だけ、何かが変わったような気がした。
ぞろぞろと続く人並みの中で、わたしたちは付かず離れずの距離を保ったまま並んで歩いた。
車両の中は、そこそこ混み合っていたけれど、わたしたちは労せずに座席に腰掛けることができた。
隣り合って並びながら、扉が人々のからだを文句を言わずに飲み込むのを内側から眺めている。
変な気分だった。
この中の誰とも、わたしは同じ時間に生きていないのだ。
彼らにとってこの時間こそが故郷で、わたしはそこに迷い込んだ旅人に過ぎない。
どこまでも観客だ。
知っている街。
記憶のかなたに宿っている街。
それは、けれど、異郷のようだ。
ケイくんはずっと黙っていた。
列車が動き始める。
地上へと抜けると、車窓の外に、朝の日差しがまとわりつくように棚引くのが見えた。
霧は光の粒みたいだった。
座標を移動していく。
身じろぎもしないまま。
体に負荷がかかる。
わたしたちは移動している。
何かを言いかけている。
口ごもっている。
窓の外では霧雨が降り続いている。
頭のなかで繰り返される。
血溜まり。
駅につくたびに、車両の中は段々と混み合ってきた。
胃袋の中身が膨れ上がっているみたいだ。
膨れ上がった魚みたいだ。
時間と景色が流れていくのを眺めている。
目的地は決まっている。
あの高いビル。
その先に、わたしたちが帰るべき街がある。
でも、わたしは、そこに帰ってどうするつもりなんだろう。
いま、ここにいるあいだは、ケイくんは頼まなくても一緒にいてくれる。
でも、帰ってしまったら……?
――欲望。
◇
目的の駅につくと、車両の中の人々は蛇のように流れ始めた。
やがて通路が別れると、糸がほつれるようにそれぞれに分かたれていく。
まだ、互いに言葉もなかった。
頭の中をゆっくりとかき回されているみたいな気がした。
何に? 何かに。
改札を抜けて駅を出ると、街並みは真っ青に色あせていた。
何かが終わってしまったような感じがする。
「……不便だな」
とケイくんがひそかにぼやいた。
「なにが?」
「ナビが使えない。2008年っていうのはどうも」
「わたしたちは新しいものに慣れすぎたんだね」
「そんなもんなんだろうな」
「何かが加わったり、なくなったりしても、当たり前にその生活に馴染んでいくんだろうね」
「そうだな」としか、ケイくんには言いようがなかったみたいだ。
目的の場所に向かって、傘もなく歩いていくしかなかった。
この街で今、もっとも高い場所。三十階建てのビル、その頂の展望台。
そこにざくろはいるはずだ。
たいして入り組んだ地形だというわけでもないのに、目的の場所をなかなか見つけられずに、わたしたちは街をさまよう。
わたしはときどき立ち止まって、空を見上げてみた。
雨が真上から降り注ぐ光景を見るのが好きだった。
自分が空へと昇っているような気がして。
ケイくんはわたしのそんな気まぐれにも、文句のひとつも言ってこなかった。
ようやくたどり着いたときにはだいぶ雨に濡れてしまっていたが、建物に入るのを躊躇うほどではなかった。
入る前に、わたしは建物の高さをたしかめてみた。
わたしはここに来たことがある。……お兄ちゃんと一緒に。
中に入ると、綺麗な制服を着たふたりの女の人が受付の向こうからわたしたちのことをちらりと見た。
ケイくんは気にせずに先に進んで、展望台まで直通のエレベーターを探した。
一階はただのエントランスで、ほとんど何もなく、探すのに苦はなかった。
わざとらしい表示のされたエレベーターの前で、わたしとケイくんは目の前の扉が開くのを待った。
この塔のような建物の頂上に、彼女は本当にいるのだろうか。
からかわれただけなのかもしれない。
あるいは、最初からずっと。
扉は、静かに開いた。
わたしたちはふたり一緒にその箱へと足を踏み入れた。
ガラス張りの窓からは外の風景が見える。
ケイくんが目的の階のボタンを押した。扉は静かに閉じられていく。
たどり着くまではもう開かない。
何かが途切れてしまったような気がした。
さっきまでの当然のような沈黙も、何もかも。
エレベーターは静かに昇っていく。
街があっというまに小さくなっていく。
さっきまで見上げていた建物も人も車も、全部が全部遠ざかっていく。
すべてと距離が置かれ、何もかもがわたしから離れていく。
そうやって全部なくなっていく。
小さな、小さな粒のようになっていく。
ふと、ケイくんが、
「ごめん」
と、小さく呟いた。
わたしは目の前の景色から目を離すことができないまま、言葉の意味を考える。
「ごめんって、なにが?」
「言うべきだった。……会えたかもしれない。そうしたら、なにか変わったかもしれない」
「ケイくん?」
「おまえの叔父さんだったんだ」
「……なにが?」
「碓氷遼一を、刺したの。おまえの叔父さんだったんだよ」
「……どういう意味?」
「向こうの世界の、過去の、碓氷遼一が、こっちにいたんだ。俺は会った。言葉も交わした。
でもどうしてもおまえに言えなかった。どうしてだろうな。なんで言えなかったんだろう。
でも、言うべきだった。おまえは会えたんだ。七年前の姿だったけど、あの人はおまえを知ってたんだ」
「……そっか。ケイくん、会ったんだ」
彼はもう、それ以上言葉を続けようとしない。
「ずるいな。……そっか。お兄ちゃん、こっちに、まだいたんだね」
「……話したかったか?」
「それは……ううん。どうだろうね」
どうだろう。
どうなんだろう。
分からない。
もう、気付いてしまった。
わたしが望んでいたのは、知ったところでどうしようもないことなのだ。
わたしはただ、彼のことを、もっと分かってあげられるわたしでいたかった。
それはもう、手遅れのことなのだ。
わたしたちはエレベーターに乗り込んだ。
扉はもうしまって、箱は昇り続けている。
この扉は、もう閉ざされている。
次の場所にたどり着くまで、開かない。
そしてわたしたちは、次の場所へ向かうしかない。
戻れたとしても、全部はもう終わってしまったことだ。
――本当に?
そんな声が聞こえた気がしたけれど、それが誰の言葉なのか、よくわからない。
エレベーターは昇り続けて、街は遠ざかっていく。
◆
風船は がらんどうなので、
軽くて しかもみんなのっぺらぼうです
針でつつけば ごらんのとおり
からかうように ぱちんと弾け
川面に浮かんだ あぶくのようだ
風船は がらんどうなので
割れてもだれも気にしません
割れてもだれも気にしないのに
割れてもだれも気にしないことを
みんながみんな気にしていません
みんな気にせずぷかぷか浮かんで
よくも平気でいられるものだ
どんなにぷかぷか浮かんでも
どうせ割れるか萎むかするのに
◇
扉が静かに開いた。
灯りは付いているのに、最上階の通路は薄暗く寒々しい感じがする。
わたしたちは箱を抜け出して、通路の先へと進む。
展望台へはすぐにたどり着いた。
ガラス張りの壁の向こうに、街並みはある。
けれど、わたしの目に最初に飛び込んできたのは、そうではなかった。
青褪めた街を背負って立つ、黒い服の女の子。
ざくろは、たしかにそこに立っていた。
わたしたちの姿を認めると、彼女はかすかに微笑した。
「―― そっか。今日なんだね」
その言葉の意味を考える前に、彼女は話を続けた。
「安心して。ちゃんと送り返してあげる」
その表情の、素朴な柔らかさに、わたしは戸惑いを覚える。
今までの彼女はずっと、皮膜の向こうに隠れたような、そんな得体の知れない相手に見えてしかたなかったのに、
目の前にいるざくろは、なんだかひとりの女の子みたいだった。
「……ね、始まるのね。ここから」
誰かに話しかけるような、ざくろの言葉の意味はわからない。
わたしは、静かにケイくんの手をとった。
「お兄ちゃんが、この世界のお兄ちゃんを刺した理由、なんとなく分かる気がするの」
「……」
「わたしも穂海に、どうかしたら同じことをしたかもしれない、って」
「愛奈」
「お兄ちゃんが誰かを傷つけることをするなんて、思ってもみなかった。
たとえ、違う世界の自分自身でも。でも、それはたしかなことなんだよね」
「……」
「ねえ、やっぱりわたしたちは、ものすごく勝手な生き物なんだね。
わたし、お兄ちゃんを轢いた人が憎いよ。過失だったとしても。
でも、お兄ちゃんが誰かを刺したとしても、それを責める気にはどうしてもなれないの」
わたしは―― そうだ。
「どうしてそんなことをしたの、って、そこまで追い詰められてたのに、どうしてわたしは何もできなかったの、って……。
そんなふうにしか、どうしても思えない。正しさなんかより、わたしは、親しい誰かのことのほうが、きっと大事なんだ」
「……」
「わたし、間違ってるよね」
そんな言葉で保険をかけるのも、やっぱり間違っているかもしれない。
「――加害者側からの、理屈ね」
不意に、ざくろがそう言った。
わたしは、彼女を見上げる。
塔の上の少女、黒い服の少女、わたしたちをここに連れてきた人、お兄ちゃんを、ここに誘い込んだ人。
「刺した人にどんな理由があったとしても、刺された方は、関係ない。
刺された方は、ただ痛いだけなのよ。たとえどんな理由があっても、刺された方は、血を流すの」
血は流れたのよ、とざくろは言う。
「目の前で、刺された人の前で、あなたは言える? あなたの叔父さんが誰かを刺したとき、その刺された誰かに、そう言える?
"お兄ちゃんにも、理由があったんだ"って。ねえ、言えるの?」
わたしは、だから、やっぱり間違ってるんだ。それは、たしかだ。
「――ねえ、流れた血を贖うものってなんだと思う?」
彼女は、まっすぐにわたしを見下ろしている。
「それはね、やっぱり血なのよ。血は血でしか贖えない。だからね、"血は流されないといけない"」
「血……?」
「そうよ。そうじゃないと不合理でしょう?」
どうしてだろう?
ざくろは、泣き出しそうな顔をしているように見えた。
「痛みを与えられた人間が、ただ痛みを堪えていれば済むなんて、そんなの間違ってる。
理由があったから、事情があったから、人を傷つけていいなんて理屈にはならない」
だから、血は流されないといけない。
ざくろはそう繰り返してから、何かを覆い隠すみたいに笑った。
「……まあ、これはどうでもいい話だね」
こっちにきて、とざくろはわたしたちを手招きした。
手を繋いだまま、わたしたちは彼女の立つ場所へと向かっていく。
ガラスの向こうには、灰色の空と静かな街並みが、無音のままひらべったく広がっている。
「誰かが誰かを傷つけてる。あなたのお母さんが、あなたを捨てたように。
あなたの叔父さんが、誰かを刺したように。わたしのお父さんが、わたしを殴って、わたしを殺したみたいに」」
と、そう、ざくろは言う。
「でも、誰かを傷つけた誰かにも、理由はある。そんなふうになってしまったのは、その人だけのせいじゃない。
環境、遺伝子、何かの出来事、世間、社会の雰囲気、法律、もっと根深い、"大いなる不安"とでも呼ぶべき何か。
連綿と続く歴史がつくった、社会通念。流布される常識。そんなものが、わたしたちの行動を縛り付けてる。
わたしたちはそれを、自分の意思で決めたことだと信じているけれど、でも、その意思を決めているのは……誰なのかな」
ねえ、そんな"誰か"なんていると思う?
「ねえ、わたしたちが心の底から笑える場所ってどこだと思う? そんなものがあると思う?
居心地が悪いのよ。なんだか何をやっても無理やり笑わせられてるような気がする。
幸せってなんだろうってずっと子供みたいなことを考えてた。死んだいまになっても考えてるの。
ねえ、なんだかそぐわないのよ。わたし、きっと欠陥品なの。世間っていうのは、多数派が作るでしょう。
だったら、多数派にとっての幸福が少数派にとって幸福でないことは当たり前でしょう。
馴染めないの。淘汰されるの。居心地が悪い……だから、心の底から笑える場所なんてどこにもないのよ。
そんな場所に産み落とされて――傷つけて―― それが“誰のせいでもない”なんて、ねえ、理不尽じゃない――?」
わたしはただ、彼女の言葉を黙って聞いていた。
何の話なのかは、分からない。
彼女は、きっと、誰かに傷つけられていた。
分かるのは、それだけだ。
わたしは、何かを言いかける。
そのとき、背後から、声が聞こえた。
「――ずいぶんな理屈ね」
その声は、ざくろのものに似ていた。
わたしは、背後を振り返る。
足音は近付いてくる。
最初に目に入ってきたのは、やはり、また、黒い、黒い服。
そして、片目を覆う、眼帯。
その瞬間に確信した。
わたしはこの人を見た。ついこの間――この世界に、やってくる前に。
わたしは、この人を追いかけて、この場所にやってきた。
その人は、わたしとケイくんのことなんて見えていないみたいに、まっすぐにざくろに視線を向けていた。
「ねえ、ざくろ。あなたの言いたいことは分からなくもない。血は、流されないといけない。
でも、それは他の誰かの血ではないはずよね。遼一が、こっちの遼一を刺した。それは、事実かもしれない。
でも、ねえ―― そうさせたのは、ざくろ、あなたじゃない?」
ざくろは、からかうように笑った。
「そんなことを言うために、ここまで追いかけてきたの?」
「ようやくわかったのよ」とその人は言った。
「さっきの話を聞いて、ようやく分かった。あなたがどうして、こんなことをしたのか。
誰かを迷い込ませて、その人を混乱させているのか。ただ繋ぐだけの力しかないくせに、どうして"願った景色が見える"なんて言ってたのか。
ようやく分かった。……あなたはただ、"自分を苦しめた世界"を、"苦しめたい"だけなのね。
誰かを傷つけることで、自分が流した血を贖わせているのね」
ざくろは何も応えない。
「ずいぶん探した。見つけるまで、時間がかかった。あっちこっちを行き来して、あなたを追いかけた。
あなたの背中を探して、わたしはずいぶん時間を無駄にした。でも、考えてみれば、何も追いかける必要はなかったのね……。
あなたは、"どこにでもいる"んだものね」
黒衣の女の人は、ざくろを片目で見据えたまま、片方の手のひらで自分の眼帯をそっと撫でた。
「――あなたを止める。絶対に。それがわたしの責任だと思うから」
目の前で起きていることの意味が、わたしにはうまくつかめない。
戸惑ったまま、知らず手に力がこもる。
彼の手のひらは、静かに握り返してくれた。
にらみ合いのような沈黙が落ちたけれど、それはほんの数秒のことだった。
「なんだか気まずいところを見られたね」
ざくろはそう言って、わたしとケイくんの顔を交互に見た。
「帰してあげる。約束だから」
彼女の笑顔は、どこか優しく見えた。
血。
流される血。
まるで、夢を見ていたみたいな、そんな気分だった。
――"How would you like to live in Looking-glass House, Kitty?
I wonder if they'd give you milk in there?
Perhaps Looking-glass milk isn't good to drink――"
――"Oh, Kitty!
I'm sure it's got, oh! such beautiful things in it!"
「ねえ、目を閉じて――」
最後にわたしは、ケイくんと、ほんのすこしだけ目を合わせた。
彼は、何かを言いかけて、結局言わなかった。
両の瞼を、わたしは閉じる。
もう、何も見ない。
「――お別れね」
そんな言葉だけで、わたしたちの奇妙な旅は終わる。
何もわからないままに。
◆
白い光が見えた気がした。
白い光が瞼の向こうに見えた気がした。
白い光が瞼の向こうの遠く先に見えた気がした。
あまりにまぶしくて、目をひらくことができなかった。
その光がおさまって、ようやくわたしがわたしの体を認識できるようになった頃、手のひらはからっぽになっていた。
ふと気付けば、わたしは真っ白な景色の中に立っていた。
わたしは、さっきまでケイくんがいたはずの場所をたしかめた。
そこにはもう、ただ真っ白な空白があるだけだ。
「ケイくん」、と、彼の名前を呼んでみたけれど、返事はない。姿すらないのだから、当たり前かもしれない。
手を繋いでいたのに。
あたりを見回してみたけれど、彼の姿はなかった。
「ケイくん」と、もう一度名前を呼んでみる。
あたりは物音ひとつない静寂に包まれていて、発したはずのわたしの声でさえどこかに掻き消えてしまったみたいに思えた。
景色は真っ白だ。
わたしは真っ白な通路に立っている。
床も、壁も、天井も、光でできたように真っ白だ。
境目と境目が曖昧に思えるほど、真っ白だ。
通路の壁には、さまざまな意匠の施された、さまざまな扉が、等間隔に並んでいる。
回廊の果ては、見えない。どこまで続いているのかも、さだかではない。
わたしは手近な扉のノブを掴んで見る。ノブはピクリとも動かない。
ひとつひとつ試してみる。どの扉も、開かない。
どこか、見覚えのある扉が多かった。学校の教室の引き戸のようなもの、わたしの家の玄関のものによく似た扉、
まひるの部屋の扉、さっき見た、エレベーターの扉、どこかの喫茶店のような、ガラスのはめ込まれた扉(磨りガラスのように向こう側の景色は覗けない)。
どれもこれもが開かない。
やがて、通路の果てまでたどり着く。いくつの扉を試したのかさえ分からない。
たしかなのは、開く扉はひとつもなかったということだけだ。
通路の突き当りは、左右に分かれていた。見れば、両方とも、さっきまで歩いてきたような通路がずっと続いている。
「ケイくん」
呼んでみても、返事はない。
似たような扉が続いているだけの通路の、どちらに進めばいいと言うのだろう。
どちらにいってもどこにつくか分からないなら、どちらにいっても同じことかもしれない。
どちらかに何もないとわかれば、もと来た方へと戻ればいいだけだ。
わたしは、なんとなく、そちらの方が近かったからというだけの理由で、左の通路へと曲がった。
また、扉が延々と続いているだけだ。
扉は等間隔で続いている。
わたしはひとつひとつそれを点検していく。
開かない扉だけが立ち並ぶ通路のどこかに、例外が、あるいは、誰かの姿がないものかと。
やがて、また突き当りに差し掛かって、通路は左右に分かれていた。わたしはため息をついて、後ろを振り返る。
そのときになってようやく気付いた。
歩いてきた廊下が、なくなっている。
わたしのすぐ後ろ、さっきまで扉が並んでいた廊下がなくなって、そこには一枚の扉が正面に立っているだけだ。
その両開きの大きな扉に歩み寄り、わたしは輪のような取手を掴んで引いてみる。
開かない。
押してみる。開かない。持ち上げてみても、横にずらしてみようとしても、開かない。
開かない。
「……ケイくん」と、もう一度わたしは彼の名前を呼んでみる。
彼はどこにいったんだろう。
わたしはどこにいるんだろう。
どうしてこんなことになる?
わたしはこんな扉をくぐった覚えなんてないのに。
戻れないなんて、思いもしなかった。
打ちのめされかけた心を、どうにか平常に保とうとする。
強がる必要は、本当なら、そんなにはないような気がする。
本当は、叫んでしまいたかった。
でも、そうしてしまったら、二度と立ち上がれないような気がした。
蹲って泣いて、助けを待つくらいしかできなくなりそうだ。
この状況はわけがわからないけれど、ここ数日でそんなことはいくつもあった。
心が保つかぎりは、ひとまず、たしかめてみないといけない。
わたしは、開かない扉に背を向けて、左右に別れる通路のどちらへ向かうかを考える。
どこに向かえばいいのかを。
でも、そもそもの話――わたしに、行きたい場所なんてあったんだろうか?
つづく
おつです
◇
どのくらい歩いたかは、もうわからなくなってしまった。
ひとつの扉の前で立ち止まる。
それは見覚えのある扉だった。
何度も何度も、目にした扉だった。
お兄ちゃんの部屋の、扉だ。
どこまでも伸びる白い廊下の、その途中に、見逃しそうなくらいさりげなく、その扉はあった。
他のどの扉とも、違ったところがあるわけでもない。ただ何気なくあるだけだ。
それなのに、わたしにはその扉がそうだとすぐに分かった。
そうなのだ。
結局、わたしはこの扉の前で立ち止まってしまうのだ。
そして、ノブを捻ってしまう。最初から分かっていた。見た瞬間に気付いていた。
ドアは、どうしてだろう、驚くほど簡単に開いた。
見覚えのある景色だった。
家具の配置もカーテンの色も、本棚に並ぶ背表紙の文字も、わたしが知っているものと同じだ。
お兄ちゃんの部屋だ。お兄ちゃんの部屋だと、すぐに分かった。
同時に、この部屋の主はもう、ここに現れることはないのだと、そう分かった。
たとえこの景色が夢のようなものだったとしても、それだけは揺るがない。
当たり前のように、部屋の中に足を踏み入れる。
本の匂い、少し埃っぽい空気。どうしてだろう。
たった数日、家から離れていただけ。それだけなのに、ずいぶん懐かしいような気がした
この数日間の出来事に、いったいどんな意味があったんだろう?
お兄ちゃんは、どうしてお金なんか残したんだろう。
お兄ちゃんは、どうして死んでしまったんだろう。
お母さんは、どうして――
この景色は、わたしにいったい何を伝えようとしているんだろう。
わたしは、なんとなく、並ぶ背表紙の中の一冊に目を止めた。
それはたまたま、ジャック・ラカンの「二人であることの病」だった。
べつにたいした意味なんてなかった。
ただ、パラパラとページをめくって、たまたま開いたページ。その記述が目に飛び込んできた。
◆
"まず明らかなように、個人の意味作用が、なにかしら耳にきこえた文句とか、ふとかいまみた光景とか、通行人の身ぶりとか、
新聞を読んでいて目についた《糸くず》とかの効力を変えるのは、ただの偶然によるのではない。
そこで、こまかく見ていくと症状はなんらかの知覚、たとえば、無生物や感情的意味あいのない対象に関してだけではなく、
もっぱら社会生活の諸関係、つまり家族や仲間や隣人との関係について現れることがわかる。
新聞を読むという点でも同様の意味が出てくる。
解釈妄想は、われわれが別のところでも述べたように、踊り場や街路や広場の妄想なのである。"
◆
"運命の晩、さしせまる処罰の不安のなかで、二人の姉妹は女主人たちの心像に自分たちの禍の幻影をまぜあわせる。
彼女たちが残虐なカドリールへと引きずり込むカップルのなかで彼女たちが嫌うのは、彼女たちの苦悩である。
彼女たちは、まるでバッカス神の祭尼が去勢でもするように、目をえぐりとる。
大昔から人間の不安を形づくっている冒涜的な興味こそが彼女たちを駆り立てるのだが、
それは彼女たちが犠牲者を欲する時であり、また彼女たちが、のちにクリスティーヌが裁判官の前で
無邪気に《人生の神秘》と名付けることになるものを犠牲者のぽっかり開いた傷口のなかへ追い詰める時である。"
◇
わたしはページから目を離すと、本を元の位置に戻した。
いま読んだ文章がわたしに何か重要な示唆を与えるものであるかのような錯覚を覚える。
それが"解釈妄想"でなくてなんだろう?
けれど、そう、"解釈妄想"と呼ぶならば、そうだ。
たとえば、遠くから聞こえるクラクションの劈きを、自分に向けられた警告であると感じるかのような、
ファッション雑誌のコラムの文章に、政治的な暗号があると思い込むかのような、
何もかもに、目に見える以上の意味があると勘違いしているかのような、
それを解釈妄想と呼ぶのなら、わたしは。
あるいは、この状況にも、
母さんがいなくなったことにも、
お兄ちゃんが死んでしまったことにも、
お兄ちゃんがお金を遺していったことにも、
そこに意味が隠されていると考えるのは、
それはもう、似たような妄想ではないだろうか。
ため息をついてから、違和感を覚える。
部屋の様子をもう一度眺めてみる。何かが変だという気がした。
どこか……何か……なんだろう。
そうだ。お兄ちゃんの部屋は、昔、お母さんが使っていた部屋と、扉で繋がっていた。
その扉はずっと使われていなかったけれど、それでも、たしかに繋がっていたはずだった。
でも、その扉があった場所に、今は本棚が立っている。
どうにか動かそうとしたけれど、簡単なことではなかった。
本の重みのせいで、そのまま動かすことはできない。かといって、中身を取り出すとなると骨が折れる。
かといって、それらの本を雑に扱う気になれなかったのも事実だ。
一冊一冊、わたしは本棚から本を取り出していく。
「嘔吐」「水いらず」「黒猫・アッシャー家の崩壊」「幸福な王子」「ドリアン・グレイの肖像」「モンテ・クリスト伯」
「嗜癖する社会」「孤独な群衆」「箱庭療法入門」「洗脳の世界」「論理哲学論考」「死に至る病」「生誕の災厄」「時間への失墜」
「夏の夜の夢・あらし」「テンペスト」「リア王」「ハムレット」「かもめ・ワーニャ伯父さん」「桜の園・三人姉妹」
一冊一冊、積み上げていく。
「桜の森の満開の下・白痴」「すみだ川・新橋夜話」「タイムマシン」「夜の来訪者」「オイディプス王」「アンティゴネー」
「Xへの手紙・私小説論」「モオツァルト・無常という事」「物語の構造分析」「映像の修辞学」
「全体性と無限」「ドン・キホーテ」「外套・鼻」「河童・或る阿呆の一生」「人間椅子」「芋虫」「パノラマ島奇譚」「玩具修理者」
「幽霊たち」「ガラスの街」「オラクル・ナイト」「予告された殺人の記録」「百年の孤独」「鏡の国のアリス」
文字。言葉。紙とインク。
「大工よ、屋根の梁を高く上げよ・シーモア序章」「ナイン・ストーリーズ」「元型論」「自我と無意識」
「精神分析入門」「夢分析」「車輪の下」「デミアン」「人間の土地」「アメリカの鱒釣り」
「文鳥・夢十夜」「嵐が丘」「若きウェルテルの悩み」「シーシュポスの神話」「ツァラトゥストラはこう言った」
こんなにたくさん言葉があるのに、誰も、お兄ちゃんのことなんて教えてくれない。
このすべてが、お兄ちゃんの韜晦なら、空の本棚は、ひょっとしたら――。
中身をすべて床の上に吐き出させると、本棚はようやくわたしの腕でも動かせるくらいになった。
ずらすように横に押すと、やはり、そこには扉が隠されていた。
今度は、見たことのない扉だった。
少なくとも、お母さんの部屋に通じていたものではない。
この空間では、お母さんとお兄ちゃんの部屋はつながっていない。
そこに意味を感じ取るのも、やはり解釈妄想と呼ばれるべきだろうか。
確かめるしかなかった。
本当は泣きたいくらいに怖かった。
ずっと心細かった。
何にも分からない、わたしはもうなにも知りたくない。
それでも、目の前の扉を開けるしかない。
他にどこにも行けない。
g
ふと、足元を見ると、一枚の写真が落ちていた。
古い、古い写真。
そこに映っていたのが誰なのか、わたしには最初、よくわからなかった。
少しして、気付いた。
お兄ちゃんと、お母さんだ。
幼い頃のお兄ちゃんと、その頃のお母さんだ。
たぶん、家の玄関の前で、ふたり並んで立っている。
お母さんが来ているのは、高校の制服だろうか。
写真の裏側を見ると、そこには次のような記述があった。
[Plaudite, acta est fabula.]
わたしは……目の前の扉を開ける。
それは、どこに繋がっているんだろう。
わたしは、どこに向かっているんだろう。
そんなことは分からないままだ。
今までだって、ずっと、そうだ。
ずっとずっと分からなかった。
何を求めて、どこに向かって、何が欲しくて歩いているかなんて、
ずっとずっとずっとずっと、いつだって、わからないままだった。
そうやってどうにか歩いてきた。
何が待ってるかも分からない扉を開けて、
戻れないかもしれないことなんて承知で歩いてきた。
知ってしまったら戻れないことだって、
進んでしまったら失ってしまうものだって、
覚悟を決めたら擲ってしまうものだって、
自分がいつか大事に思っていたものだって忽せにしながら、
それでもわたしは進んできた。
ずっとそうして来るしかなかった。
望んだわけじゃない。
そうするしかなかった。
"――It takes all the running you can do, to keep in the same place."
全力で走ってきたつもりだ。
お兄ちゃんに、お祖母ちゃんに、お母さんに、いつか、認めてもらえる。
わたしの全身を、全身で誇れるように。
でも、それでもとどまることなんてできなかった。
世界はわたしのことなんて平気で置いてきぼりにする。
そうしてわたしはいつかひとりぼっちになって、
どこにも辿り着けないまま、誰にも褒めてもらえずに、誰にも認めてもらえずに、
それでも息を続けていかなければいけないんだろうか。
扉の向こうは下り階段になっていた。
埃と黴の匂いの混じった湿った空気が、地下から吹き込んでくる。
風の音が怪物の吠える声のように聞こえる。
どうしてこんな場所に踏み込んでいかなきゃいけないんだろう?
わたしはここを通らなきゃいけないのだろうか?
でも、それは仕方のないことだ。
この扉しか開かなかった。
ここに至る扉以外のすべては閉ざされていた。
探せばもっとあったかもしれない。
でも、とにかく今はこの先に進むしかない。
このおぞましくすらある階段を降っていかなければいけない。
一歩踏み出すと、冷たい風がわたしの首筋をするりと撫ぜる。
身をすくませるような怖気。
この先へ降りていくことは、間違っているのかもしれない。
本当は正しいべつの扉があって、今からでも、探せばそこにたどり着けるのかもしれない。
でも、でも……そんなことを言っていたら、いつまで経ってもひとつの扉なんて選べない。
べつの扉の先に向かったところで、やっぱりここも間違いなのかもしれないと足踏みするだけだ。
そう分かっていても、踏み出すことがおそろしいと、そう思ってしまうのは、やっぱり間違っているんだろうか。
この扉はなにかもが間違いで、わたしの選択はなにもかもが間違いで、この先にはなにひとつ残っていないかもしれないと、
それをたしかめるのがおそろしいと思うのは……。
だからわたしは二歩目を踏み出せずに、ただ吹き付けるような冷気を浴びながら、どうしようもなく立ちすくんでしまう。
答えを見るのはいつだっておそろしい。
踏み出すことはいつも。
だから、
「――」
肩を掴まれて、おどろいて、怯える余裕もなくて、
そうして次の瞬間には、安心していた。
ケイくんが、そこにいた。
「……探した」
息を切らして、彼はそこに立っていた。
額に滲んだ汗を拭って、わたしの目をまっすぐに見た。
「なんて顔してるんだよ、おまえは」
分からない。
わたしは今、どんな顔をしているんだろう?
とっさに、俯いて、彼に見られないようにしてしまう。
どんな顔をしているんだろう。
「なあ、大丈夫か?」
大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫だろうか?
そんなことを考えて、笑ってしまった。
「……わかんない」
「……なんだそれ」
呆れたような声が嬉しかった。
探してくれた。見つけてくれた。それが嬉しかった。
それでなにもかもが十分だと思えてしまうくらいに。
だから、わたしは、わたし自身がいつか彼に言ったのと同じ言葉を、自分自身に、口にせずに呟いた。
言葉にしなきゃ、伝わらない。
「……ケイくん」
「ん」
「ありがとう」
目を丸くしたかと思うと、彼はすねたようにそっぽを向いた。
「どういたしまして」と、彼の口調はそっけなかった。
つづく
821のgは誤入力です。
おつです
◇
「この先なのか?」
ケイくんは、わたしの顔を見て、そう訊ねてきた。
わたしたちは、扉の向こうの暗い階段を見下ろしている。
「行こうぜ」とケイくんは言う。
彼はわたしの方を見ずに、さっさと歩きはじめてしまう。まるで怖いものなんてなんにもないみたいだ。
「待って」
と言いながら、わたしは彼の後ろを追う。
一段一段とくだるたびに、暗闇がその濃さを増していくようだった。
呼吸さえもおぼつかなくなるような、濃厚な黒だ。
息が詰まるような。
「ケイくん、待って……」
「待たない」
ケイくんは、振り返ってもくれなかった。
「……なにか、怒ってる?」
ケイくんは、ほんの少し、ためらうみたいな間を置いた。
「べつに、そういうわけじゃないけど」
一歩進む度に、闇が深くなる。彼の姿も、表情も、わたしの目にはわからなくなる。
まだおぼろげに影が見えるうちに、彼の服の裾をわたしは掴んだ。
「ね、ケイくん……ここ、どこだと思う?」
ケイくんは、返事をしてくれない。
「ケイくん……?」
「分からない。たぶん、夢みたいなものなんだろうな」
「夢……?」
「そう、夢」
彼の口調が、どことなく、わたしを不安にさせた。
「たぶん、夢みたいなものなんだよ」
彼はもう一度繰り返した。
「たいした意味なんてない」
「……そうなのかな」
ケイくんは、どうしてだろう、真っ暗闇の中を、灯りさえもたずに、足早に歩いていく。
惑いも迷いもなく、どんどんと奥深くへと。
やがて、階段が途切れた。
酸素が薄いような気がする。どこかから、水滴の落ちる音が聞こえる。
ケイくん、と、また呼んでしまいそうになって、やめた。
わたしはいつも、ケイくんの名前を呼んでばかりいる。
返事をしてほしくて、かまってほしくて、不安で、それをごまかしたくて、無性に呼びかけてしまう。
それはきっと、あんまりよくないことなのだ。
わたしの不安定を、彼に押し付けてはいけないのだ。
そう思ったら、何も言えなくなって、苦しくなった。
階段の先は暗闇で、どこまでも吸い込まれそうな暗闇で、たとえその先に足場がなかったとしても不思議ではないような暗闇で、
わたしは進むことがおそろしくなった。
「なあ、愛奈。おまえに聞いておきたいことがあるんだ」
「……なに?」
彼が声をかけてくれたという、ただそれだけのことが、どうしてか、今は嬉しかった。
そんな内心の動きを気取られたら、鬱陶しがられそうな気がして、わたしは感情が声に乗らないように、声を落ち着かせた。
この暗闇の中で、それが無愛想に聞こえなかったか、それが少し心配だった。
「この先に進んで、帰れたとしてさ」
「……うん」
「おまえ、どうする気だ?」
「……」
どう、する。
その言葉の意味が、わたしにはよくわからなかった。
「どういう意味?」
彼は、わたしの問いかけを一度無視して、暗闇のなかを歩き始めた。
まるでその先に何があるのかを知っているかのような歩調で。
「だって、帰ったら、おまえ、ひとりぼっちじゃないか」
「――」
「結局、ひとりぼっちじゃないか。こんな奇妙な旅までして、なんにも得られずに、ただ帰って、誰もいない」
「……」
「なあ、愛奈。ひとつ言いたいことがあるんだ」
「……なに」
「ここから無事に帰れたらさ、俺と――」
心臓がどくりと跳ねた。
それと同時に、何かが警鐘を鳴らす。
どうしてだろう。
次に言われる言葉が、わたしにとってなにかよくないものなのだと、そのときに既に分かってしまった。
「――俺と、もう関わらないでくれないか?」
「……え?」
それでも、その言葉に、思わず頭がまわらなくなった。
わたしの様子なんておかまいなしに、ケイくんは歩幅を変えずに進んでいく。
予期していた言葉は――心のどこかで、そう言われるんじゃないかと思っていた言葉は―― それでもわたしに突き刺さった。
それでも、引き離されないように、手だけは彼の服から離せずに、
置いていかれないように、足だけは止められずに、
ただ、何事もなかったみたいに、彼についていく。
「……こんなことになるなんて思ってなかったんだ」
ケイくんは、そう言った。
「俺が、軽率だったよ。おまえに変な噂話を聞かせたせいだ。そのせいで、こんなことに付き合わされるハメになった。
そりゃ、義理がないわけじゃないし、おまえが憎いわけでもない。でも、正直……ここまでのことは、俺には重荷なんだ。抱え込めないよ」
「……」
「俺は、叔父さんの代わりにはなれないよ」
「そんなの……」
そんなの、ケイくんに求めてない、と、
わたしは本当にそう言えるだろうか?
煙草の匂いに、彼の博識に、背丈に、
お兄ちゃんの姿を、重ねていなかったと、わたしは言えるだろうか?
「死人に重ねられるのは、つらいよ」
「……」
「おまえは結局、俺のことなんて見てないし、だから本当は、おまえは俺のことなんて必要としてないんだ」
「……」
「そうだろ。たまたま、近くに俺がいただけだろ? おまえはべつに俺じゃなくてもよかったんだろう?
都合の良い相手がたまたま俺だっただけで、おまえは俺を必要としてるわけでも、俺を好きなわけでもない。
ただ近くにいただけだ。それなのに、どうして俺がこんなものまで引き受けなきゃいけないんだ?」
「違う」
「馬鹿らしいんだよ」
「……違うよ、ケイくん、わたしは」
「だったら、なんだっていうんだ。言ってみろよ。なあ、どうせ俺のことなんて、寂しいときに近くにいてくれるだけの相手だって思ってるんだろ」
「違う」
「だから、だったらなんなんだよ」
わたしは。
でも、ケイくん、わたしは。
想像できないんだ。
誰かとずっと一緒にいるってことが、どういうことなのか。
誰かがわたしと、ずっと一緒にいてくれるなんて、そんなことがありえるのかってことが。
そんなの、都合の良い妄想にしか思えない。
誰も、わたしのことなんて見てくれない。
好きになってくれない。見放されていく。いつか、去っていく。
そう思っていた方が――わたしが安心できる。
重荷。頭のなかで、その言葉を繰り返した。
わたしは、彼の服の裾から、そっと手を離した。
「……ごめんね」
「……ああ」
「わたし、大丈夫だよ」
「……」
「ひとりで、大丈夫」
「本当か?」
「うん。本当」
「……」
「先に行って」
暗闇の中に、足音が響き始める。
徐々に遠ざかっていく。
その音を聞きながら、わたしは静かにその場に腰を下ろした。
少し湿ってひんやりとした、石畳の感触。
そのまま、体を仰向けに横たえた。
やがて足音は聞こえなくなる。
どんな言葉を期待していたんだろう?
目を開けても閉じても、もう暗闇しか見えない。
誰かの呼吸さえ聞こえない。
怪魚のおなかのなか。でもわたしには、祈る神さえいない。
目を、閉じている。
呼吸だけを意識する。
それ以外のことが、今は難しい。
頭のなかでぐるぐると、同じような考えごとがめぐっている。
それをどうすればいいのか、今は分からない。
ずっと、分からないままかもしれない。
「……こういうのも、自業自得っていうのかな」
わたしの声は、たぶん、この暗闇に響きすらしなかった。
つづく
822-8 来ている → 着ている
おつです
◇
暗闇に横たえている。
冷え冷えとした空気がある。
むせ返るような沈黙がある。
ここはとってもまっくらで、
だからとっても安心だ。
だあれもわたしを呼ばないし、
だあれもわたしを傷つけない。
ここは静かで何もない。
喉の奥に、かすれるような違和感を覚える。
胸の奥が熱を持つ。
この感覚はなんだろう。
――ごめんね。
そんな声が、どこからか、聞こえてくる。
――あなたは、間違って生まれてきたのよ。
お母さん。
お母さんの声。
――ごめん、愛奈。
咳が、出た。
また、似たような響きで、声が聞こえる。
――きみのために、何かできたらって思ったけど……。
お兄ちゃん。
お兄ちゃんの声。
――僕には重荷だったんだ。
咳が、止まらない。
咳が、咳、咳が、喉を、首元を、えぐるような咳が、止まらない。
――重荷なんだ。
咳にまぎれて、笑みがこぼれた。
今、この今、わたしは何かを掴もうとしている。
それはたぶん、狭隘で閉塞的な空間でしか手にできない何かだ。
深い穴の底で見るような、果てのないトンネルの中で見るような、狭い箱の中で見るような、この暗闇の底で見るような、
そこでしか得られないような、何か。それが今、わたしの手元まで来ている。
それがあると楽だ。
それさえあれば他に何もいらない。
暗闇は、ただ親密にわたしを受け入れてくれる。わたしを取り囲んでいる。
それは、『かもしれない』の集合体だ。
あの暗がりに、誰かの背後に、視界の隅に、握りしめた手の中に、何かが『あるかもしれない』。
シュレディンガー、二重スリット、量子力学の比喩。
光は波か粒子か、定まるのは観測者がいるからだ。
観測者がいなければ、それは不明確のまま。
"明"言されなければ、"明るみ"にさらされなければ、"暗がり"はすべてを内含する。
"無明"の中では何もかもが"不明"だ。
"不明"であることは、何ひとつはっきりしないということだ。
その暗渠のなかで、わたしを苛む声。
お兄ちゃんに会えるかもしれない、と聞いたとき、わたしが引き返さなかった理由が、今なら分かる。
はっきりさせるのが怖かった。お兄ちゃんの憎しみ、わたしを重荷に思う心、それは、"明るみ"にさらさなければ、ただの"可能性"にすぎない。
もし、会ってしまったら、話してしまったら、観測してしまったら、それは確定してしまうかもしれない。
知ってしまったら、戻れないかもしれない。
だから、わたしはここにたどり着いたのだ。
この暗闇の中で、わたしはわたしを維持できる。
何も知らなければ、何の事実もなければ、わたしは傷つかない。
わたしを苛む空想を、けれど、空想だと分かった上で、そこに溺れながら払いのけ続けることができる。
そうしているのが楽なのだ。
聞こえる声すらも、"そうだったかもしれない"という可能性にすぎず、
だからわたしは、ここでなら傷つかない。傷つききらない。
だったら、生きていける。
この暗闇がわたしの居るべき場所だ。
知ろうとしないこと、考えないこと、絶え間ない自傷的な空想に苛まれながら、事実を確認せずにいること。
どこにも向かわず、何も求めないこと。
それがわたしの居場所、それだけがわたしの安らぎ。
それでいい。
それでいいのに、咳が止まらない。
誰も来ないから、わたしは泣くことができる。
嘆くことができる。思いのままにわめくことができる。
誰かに聞こえるかもしれないと思ったら、泣くことさえ上手にできない。
目を閉ざしていれば、何も見ないで済む。
今までだってそうだった。
ずっとそうやって生き延びてきた。
こうなりたかったわけじゃない。
……咳が止まらない。
ここでわたしが、わたしを諦めてしまえば、きっとずいぶん楽になる。
そうすればなんにもいらなくなって、誰もいなくなって、そうすればわたしはなんにも気にしないで済む。
あとは、この声が、止むのを待つだけだ。
その頃にはきっと、わたしも抜け殻のようになっているかもしれない。
この暗闇の中で、わたしはただ、わたしを否定する言葉だけを聴き続ける。
そうしていつか消えてなくなって、
さよならだ。
苦しかったのだろうか?
つらかったのだろうか?
悲しかったのだろうか?
寂しかったのだろうか?
すべてが今は暗闇の中に溶けていく。
やがてわたしも小さな小さな粒になって、この体は消え失せて、
誰からも気にされずに、誰からも忘れられて、そうやって生きていけるようになる。
この声が止む頃には。
◇
咳がとまらない。
――重荷。
――重荷。
――重荷。
――重荷。
◇
「――あのな」
と、声がした。
「なに寝てるんだ、こんなところで」
それは、"明"らかに他の声とは違っていた。
「必死に探してたこっちがバカみたいだろうが」
わたしは、ほとんど考える暇もなく、瞼を開いていた。
ほのかにあたたかい光が見えた。
深い暗闇を、その小さなあかりはやわらかく削り取っている。
ライターの炎。
その火を握っているのは、ケイくんだ。
寝転んだわたしの傍に、彼は座り込んでいる。
「……なんで、戻ってきたの」
「……戻る?」
いかにも不審げな顔で、彼は首をかしげた。
「さっき……」
「さっき、なんだよ」
どっちだろう。
どっちが、幻だったんだろう。
炎が"明"かりになって、彼の表情を照らしている。
ライターの火が、蛍の光みたいだと思った。
蛍なんて、見たこともないけど。
「こんなところで休んでたら、何もかも嫌になっちまうぞ」
「……」
「……おまえがそれでいいなら、それでもいいのかもって、今までの俺なら、そう言ってたかもしれない。
でも、もうだめだな。そんなふうに気取ってもいられないな」
「……ケイくん?」
「いや、まあ、いいか。……ほら、立てよ」
そう言って彼は立ち上がり、それから、わたしに向けて手を差し伸べた。
わたしは―― その手を受け取った。
「ずいぶん探したよ。なんだか迷路みたいなつくりをしてたな」
「うん。まっくらで、分からない」
「……明かり一つ持たなかったら、そりゃそうだろうな。ほら、今なら見える。見てみろよ」
ケイくんに言われて、わたしはあたりの様子を見る。
「――」
暗闇は払いのけられて、
そこにあるのは、ただほんの少し広がっているだけの、石造りの地下室だった。
貯蔵庫……だろうか。周囲にある木製の柵に並べられているのは、ワインの瓶か。
……なんだか、ばからしくなってしまう。
「行こうぜ」と、ケイくんはわたしの手を握り直した。
わたしたちは、先へと進んでいく。
もう、さっきまでの暗闇はない。明るみにさらされて、けれど光は、陰ならぬ影を作り出す。
何もかもを照らすことはできないとでも言うみたいに。
「真っ暗闇の中にいたら、そりゃ、分からないか。でも、きっとおまえはずっとここにいたんだろうな」
「……どういう意味?」
「なんで、叔父さんのことをおまえが知りたがったのか、ずっと不思議だったんだ。
叔父さんはきっと、おまえのことを愛してたし、大事にしてたって、俺は思う。
でも、おまえは不安だった。疑ってた。単純に自信がないって話じゃなさそうだ。なんでかなって、ずっと思ってた。
叔父さんと話して、なんとなく、なんとなくだけど……分かった」
「……」
「あの人は、言葉や態度にできなくて、だから、ものやかたちでしか表せない人だったんだと思う」
「……ケイくん?」
「はっきり言うべきだったんだ。それが支えになるって、あの人だって知らないわけじゃなかっただろうから。
それとも、たしかに言っていて、でも、少なすぎただけなのかもしれないけど……」
まあ、人のことはいいか、と、ケイくんは頭を振った。
何かをごまかそうとするみたいに、彼は饒舌だ。
「おまえが、俺に言ったんだ。"声に出さないとわかりません"ってさ。
たぶん、それが全部なんだ。それで全部なんだよ」
「……何の話?」
「そうだな。どう言えばいいんだろうな」
「……うん」
「つまり……なんて言ったらいいかな。
俺は、そうだな……。おまえに居てほしくて、おまえから目を離したくなくて……違うな。
なんて言えばいいんだろうな」
「……ケイくん?」
「ちょっと待て、今考えてるから。おまえが落ち込んでると落ち着かなくて、泣いてるのを見るとどうにかしたくなって。
それで……違う。こんなんじゃダメだな」
「……あ、あの、ケイくん?」
「なんだよ。ちょっと待てって。なんだろうな、いったい」
「けっこう、すごいこと、言ってるけど……」
「つまりさ」と、わたしの声なんて無視するみたいな勢いで、彼はこちらを振り返って、まっすぐにこちらを見た。
「俺はおまえのことが好きで、おまえがいなきゃ困るんだ。なあ、言ってること分かるか?」
彼の表情は、ライターの灯りに照らされて、その光は、繋いだままの彼とわたしの手さえも明るみにさらした。
頬、に、ほんの少し、赤みがさしている、ように見えた。
わたしは、突然、顔が熱くなるのを感じた。
「……な、なんで急に」
「ん」
「なんで、急に、そんなこと言うの?」
彼は、開き直ったみたいな、すねたみたいな顔をした。
「言わなきゃ、分かんないだろ。ここまで言わないと、おまえはずっと俺のことなんて信じないだろ? ここまで言ったって、きっとまだ信じきれないだろ?
だったら、おまえが信じるまで言うしかないだろ。それとも、なあ……やっぱり俺なんかの言葉じゃダメかな」
わたしは、うまく返事さえできずに、うつむいた。
これは、幻じゃないのかな。
都合のいいだけの、幻じゃないのかな。
わたしはただ夢を見ているだけで、まだ暗闇に横たえていて、そこに妄想を浮かべているだけじゃないのかな。
「ケイ、くん……」
「なあ、叔父さんがおまえを恨んでたかもって、おまえがいなければ幸せだったかもって、そんなこと、本気で思うか?」
「……」
「俺は、おまえと叔父さんがどんなふうに過ごしたか、知らない。知らないから、無責任な言い草になると思う。
でも、思い出せる限り、思い出してみろよ。おまえと過ごした叔父さんは、どんな顔をしてた?
楽しそうじゃなかったか? おまえをどんな目で見てた? おまえを憎んでたと思うか?」
「……」
「前も似たようなことを言ったっけな。でもさ、結局、そういう問題なんだと思う。俺が今言った言葉だって、きっとそうだよ。
――おまえが、それを信じるか、信じないか、それだけのことなんだよ」
わたしは、静かに考え込んだ。
何を、どう、言えただろう。
ただ、いま言われた言葉のすべてが、頭の中を掻き乱して、ショートしそうだった。
ケイくんは、ふたたび前を向いた。目を合わせるのが恥ずかしくなったみたいに見えた。
わたしは、彼に手を引かれたまま、彼の背中とか、首筋とか、後ろ髪とかを、ぼんやりと見上げる。
そうしてふと、思い出した。
「……ね、ケイくん。昔見た夢のことを、今思い出した」
「……どんな?」
「真っ暗な海が、荒れ狂ってるの。わたしは、小舟にのって、波の間を必死に進んでいく」
「ああ」
「どこかに、たどり着こうとしてるの。でも、あたりは真っ暗で、波は荒々しく山みたいに盛り上がって、
わたしが乗っている船は何度もひっくり返りそうになる。オールを漕いでも、ほとんど意味なんてない。そういう夢」
「なるほどな」
「……なるほど、って?」
「いや、有名な話を思い出したよ」
「どんな?」
「どっかの太陽神話だったか……。
朝、神の英雄が東から生まれる。そして日の車に乗って、空の上を動いていく。西には偉大な母が待ち構えていて、その英雄を飲み込んでしまう。
そして暗い夜が訪れる。英雄は、真夜中の海の底を航海するはめになる。そこで、海の怪物と凄まじい戦いをする。
一歩間違えば、死んでしまうかもしれない、生き残れないかもしれない、そんな危険な戦いだ。怪魚に飲み込まれるって話もあるんだったか。
そして、その戦いを生き延びると、英雄はふたたび東の空に蘇る。死と再生の元型……"夜の航海"って言ったっけな」
太陽、夜、魚、航海。
暗い夜、波浪は激しく、生命すら脅かされる。
その暗闇を抜けた先で――日が昇る。何もかもが"白日にさらされる"。それは、必ずしも、祝福ではないかもしれない。
でも、その連想は、今はどうでもよかった。
「そうじゃないの」
とわたしは結局言うことにした。
「ケイくんは……灯台みたいだね」
「……灯台?」
「うん」
「そんな良いもんじゃないと思うけどな。それに、灯台だったら困る」
「どうして?」
「身動きがとれない。迎えにもいけない。ここにも来れない」
「……そっか」
だったら、彼を……何に例えるべきだろう?
そんな考えは、きっと、うまく回らない頭が、どうにか思考を維持するために空転していただけの動作でしかなく、
たぶん、わたしの頭はもう、彼の言葉でいっぱいだった。
ほんのすこし歩いただけで、わたしたちは簡単に向こう側の扉にたどり着く。
その扉の先にもまた、貯蔵庫が広がっている。
今度は少し、構造が入り組んでいた。
◇
ラプンツェルの童話を思い出した。
何年か前に、映画になった、有名なグリム童話。
あのお話を、今ではいろんな人達が知っているけれど、本当の姿は、ほんの少し違う。
お兄ちゃんの持っていた本を読んで、わたしはそれを知った。
ラプンツェルというのは、野菜のことだ。日本だと、ノヂシャと呼ばれる。
物語の冒頭に、まず夫婦がいる。
彼らはなかなか子宝に恵まれず、ようやく妊娠したと思ったら、妻が弱ってしまう。
それで、妻は近くの家の庭のラプンツェルを食べたがり、夫はそれを盗み取って妻に与える。
そこは、魔女の家だと知られていて、だから近付こうとするものは誰もいなかった。
その魔女は、夫がラプンツェルを盗んだことに気付いて怒り狂うが、話を聞いて顔色を変える。
そして、ある交換条件を出した。
庭のラプンツェルを好きなだけ食べてもいい。
その代わり、子供が生まれたときには、その子をわたしに差し出しなさい。
夫婦はその条件をのんだ。
無事に生まれた子供は、ラプンツェルと名付けられて、魔女に連れ去られていった。
娘はやがて美しい少女になり、魔女は彼女を高い塔の中に閉じ込める。
そこには扉もなければ梯子もない、ただ窓だけがある高い塔だ。
魔女は、ラプンツェルの長い髪を梯子の代わりにして、塔の中へと出入りする。
美しい娘は、世界から隔絶され、塔の中をすべてとして生きる。
けれど、何年か後、その塔の傍を、ひとりの王子が通りかかり、ラプンツェルの美しい歌声を耳にする。
王子は心惹かれ、塔を昇る入り口を探すけれど、どこにもそんなものは見つからない。
それで彼は、毎日塔の近くへと出かけていくようになった。
そしてある日、魔女がラプンツェルに髪を下ろしてもらうのを見たのだ。
王子は、賭けのような気持ちで、魔女のいない隙をつき、ラプンツェルに声をかけ、髪を下ろしてもらおうとする。
そして、彼女は髪を下ろした。
ラプンツェルは、男というものを初めて見た。王子は、自分が彼女の歌声に惹かれたことを話し、彼女を安心させる。
そうしてふたりは惹かれ合い、王子はラプンツェルを妻にしたいと言い始める。
彼女はそれを受け入れるが、彼女は塔の下へと降りられない。
そのため、彼女は王子に、会いにくるたびに絹紐をもってくるように頼む。それを撚って髪の代わりに塔を降りようとしたのだ。
魔女が塔を訪れるのは、大抵"昼間"で、だから二人は日が暮れた"夜"に会うと約束した。
ところが、約束は思わぬところで破られる。
ラプンツェルは、うっかり口を滑らせて、魔女に王子の存在をほのめかしてしまうのだ。
ラプンツェルを閉じ込めているつもりだった魔女は、この事実を知って怒り狂い、彼女の長い髪を切り落として、誰もいない砂漠に追放してしまう。
その日の夕、何も知らずに塔を訪れた王子は、いつものようにラプンツェルに髪を下ろすように頼む。
魔女は、ラプンツェルの長い髪を窓から垂らす。
そして、塔の中へとあらわれた王子に、こう言うのだ。
――あの綺麗な鳥は、もう巣の中で、歌っては居ない。
王子は、ラプンツェルを失った悲しみから前後不覚になり、塔の上から身を投げ出した。
なんとか命はとりとめたものの、茨に刺されて目を潰し、"盲"いてしまった。
彼は体を引きずって、木の実や草を食べて、ラプンツェルを思いながらさまよった。
そして数年ののち、悲嘆の旅路のは手に、王子は彼女が棄てられた砂漠へとたどり着く。
彼女は、二人の子供を産んで、そこで暮らしていた。
ラプンツェルは、王子の姿を認めると、首へ抱きついて涙を流した。
その涙が王子の目に入ると、盲目だった彼の目は、ふたたび"光"を取り戻す。
王子はラプンツェルを国に連れ帰り、ふたりは国中に歓迎され、幸福に暮らす。
けれど、魔女がその後どうなったのか、知るものは誰一人いない。
◇
ラプンツェルは"妊娠"していた。
これは過保護を諌める寓話であるともとれるらしい。
"過剰な保護"、世間との隔絶により世間知らずだったラプンツェルは、初めて見た男というものに心を簡単に許し、
それ故に"妊娠"した。それによって魔女が王子の存在に気付いたという話もある。
"適切な行動を取るためには、それについての知識を身につけていなければならない"。
それは、たしかに面白い受け止め方だ。一面的だという気もするが、べつにそれがすべてと言うつもりもないのだろう。
魔女とは何か、両親の存在はどうなのか、王子は何なのか、なぜラプンツェルは王子に最初からロープのようなものを頼まなかったのか。
どうして魔女は、娘をラプンツェルと名付けたのか。
童話だからと言ってしまえばそれだけかもしれない。けれどここには、汲み尽くしがたい何かが含まれているようにも見える。
どうしてラプンツェルの涙が王子に"光"を取り戻させたのだろう?
それは比喩なのかもしれない。
王子の暗闇と彷徨。それもまた、"夜の航海"なのかもしれない。
旅の果ての砂漠で彼がラプンツェルと出会い、"光"を取り戻したのは……。
べつに、この物語に自分を重ねたわけじゃない。わたしはラプンツェルでもなく、王子でもなく、魔女でもなく、両親でもない。
でも、そのすべてに、わたしがいるような気がした。
わたしは塔の上に閉じ込められ、
あるいは、塔の上に閉じ込め、
"盲"目になってさまよい、
あるいは、"暗"い旅の果てに"光"を取り戻し、
そして、生き延びるために、愛しい人を失うことを受け入れる。
……けれど、魔女は、どこに行ったのだろう。
(――あの綺麗な鳥は、もう巣の中で、歌っては居ない)
◇
わたしとケイくんの前に、階段がある。
石造りの黒い階段は、わたしたちの上方へと伸びている。
二人で並んで、昇っていく。
その先には、白い扉が見えた。
白い扉。見覚えのない扉。まだ、開けたことのない扉。
その先に、わたしたちは向かっていく。何が待っているのかも知らないまま、それでも。
その先に。
わたしたちは、扉を前に、目を合わせ、頷き合う。
わたしは、手を伸ばし、ノブを掴む。
扉は、簡単に開いた。
そして、光が溢れ、わたしは一歩、先へと踏み出す。
光に、わたしは覆われていく、その瞬間、突然に、
(――笑い声が聞こえる)
手が、手の中の手が、なくなっていた。
わたしは振り返る。
彼のからだが、宙に放り出されている。
何かに引きずられたように、暗闇の中に落ちていく。
わたしはその先に、黒い服の女を見た。
(彼女が牙を剥いて笑っている――)
けれどわたしのからだは既にそこにはなく、
◆
まばたきのあと、わたしのからだは、遊園地の廃墟にあった。
背後には既に、固く閉ざされたミラーハウスの扉しかない。
彼の姿はどこにもない。
辺りは暗く、何かを悼むように、ただ雨だけが降り注いでいた。
――東の空が、ほのかに赤く、雲を照らしている。
脈絡のない朝が、唐突にわたしの前に現れていた。
つづく
おつです
◇[Monte-Cristo] R/b
――夕陽が傾こうとしていた。
夜が近付いている。
橋の上を離れて、僕はひとりで歩き始めた。
何処に向かうでもなく、何処に行くでもなく、歩くしかなかった。
橋の向こうからこちら側にやってきて、僕はもうあちら側には戻れない。
懐には血に濡れたナイフがある。
僕が見たもの。僕がしたこと。いろんなことがよくわからないうねりになって胸の内側を這いつくばっている。
けれどそれは重要ではない。
たとえこれがあろうがなかろうが、僕がしたことはひとつだ。
僕は一人の人間を刺し、一人の少女を泣かせた。
穂海のあの表情。
僕が僕を刺したときの穂海のあの表情。
あの表情!
さっきまで、僕と話していた彼。
彼の名前は、なんというのだろう。
愛奈がこの世界にいる、と聞かされたとき、僕の頭を支配したのは一種の諦めだった。
もう、何もかもがあからさまに示されてしまった。
僕はもう、愛奈のためになんて言葉を言う資格を失ってしまった。
たったひとりの大切な存在。大切にしてきた存在。大切にしなければいけないと信じてきた存在。
彼女に見抜かれてしまう。
芝居は終わりだ。
彼女は知る。彼から聞いて知る。僕の醜さを、あるいは勘付いていたかもしれない僕の妄執を、彼女は知る。
僕は死ぬ。愛奈にはきっとなにひとつ残せないままで、愛奈のためになにもできないままで、
僕自身すらなにひとつ得られないまま、死ぬ。
僕はこんな姿のままで死んだのだ。
だから愛奈は僕を探しにこんなところまで来なくてはならなかったのだ。
どうしてだろう、はっきりとそうわかった。
街は夕焼けに染まっていく。空は紫を帯びていく。
途方に暮れているわけにはいかない。
僕はどこかに向かわなきゃいけない。
どこかに……でも、どこに行けるっていうんだろう。
僕を迎え入れてくれる場所なんて、はじめからどこにもないのに。
◇
川沿いの道をぼんやりと歩きながら、僕はこれまでのことを思い出そうとしていた。
いったい何が僕をこうしてしまったのか、それが分からないままだ。
河川敷の遊歩道を、誰かが散歩している。僕はその姿を眺めている。
街並みが昏くなっていく。
やがて、僕は自分の進む道の先に、ひとりの人間を見つける。
彼女は、待ち構えるように立っていた。
僕からは何も言わなかったし、彼女も僕のことを呼ばなかった。
それでも目を合わせて、お互いの姿を認めているのが分かる。
立っていたのは篠目あさひだった。
僕は彼女の立ち姿に、ひどくつくりものめいた気配を感じた。
その表情のひとつにさえも。
「少し、話そうか」と彼女は言った。彼女にしては、とても明晰な声音だった。
僕は返事をせずに、彼女の傍まで歩いていった。
彼女は歩き出し、僕はその隣をついていく。
街はよく見知ったはずの空間だ。それなのに、どことなく、異郷のような雰囲気がある。
それと同時の言い知れぬ懐かしさ。
これはいったいなんだろう。
「今朝、夢を見たの」
その溶けるような一言だけで、彼女が僕の存在に驚かない理由が分かった気がした。
「遼一」と、まだ一言も言葉を発していない僕のことを、彼女はそう呼ぶ。
もう、気付いているのだ。
「あなたがやったんでしょう?」
僕は、返事をしなかった。どう返事をすればいいのかも、わからない。
「ねえ、遼一……どうなの」
彼女は、その答えを既にわかっているはずだ。それなのにどうしても、僕の口から言わせたいらしい。
まるで裁判所みたいだ。
『タルトを盗んだのはあなた?』
もし問われたら、僕は認めるしかないだろう。
『だったら、首を刎ねないとね。刑が先、判決は後』
どうせ罪状は否定できない。
止めてくれるアリスもいない。
「……僕が刺した」
結局、認めるほかないような気がしたし、そもそも、認めたところで失うものなんてないような気がした。
たとえ誰が知っても知らなくても、僕自身は知っている。
そうである以上、僕にとって僕は刺した僕以外の存在ではありえない。
だったら、他人が知っているか知らないかなんてことは、些細なことだ。
「どうして?」とあさひは続けた。僕は彼女の方を見ない。僕と街の間にはまだ一枚の鱗がある。それが剥がされきっていない。
僕はそれをどうしたらいい?
「わからない」と、そう答えるしかない。
でもそれは逃げだ。僕は許せなかった。
愛奈がいない世界の僕が幸福な顔をしているのを許せなかった。
どうして?
それは僕ではないのに。
いつもそうだ。
まだ、何か、剥がれていない膜がある。
そして僕は、できるならそれを剥がさないでいたい。
「僕には、何が正しくて何が間違ってるのか、もう分からない」
そんな、取るに足りない一言を、あさひはすぐに笑った。
「そんなの、最初から誰も知らないよ」
そのとおりだと、僕は思った。
「……ねえ、遼一、わたし、少しだけ分かったの」
「……何を?」
「ねえ、わたしの家にいかない?」
「……」
「少し、あなたは落ち着くべきだと思う」
僕は、ほんのすこしだけ考えて、結局従うことにした。
なんだか、何もかもがどうでもいいような気がした。
◇
そしていま、僕とあさひは夕日がさしこむ彼女の家のダイニングで差し向かいになってテーブルを挟んで座っている。
あたりには沈黙が――無音とは違う、沈黙が――漂っている。
あさひが入れてくれたコーヒーがカップに入っている。綺麗な意匠のソーサーには金色のマドラーとスティックシュガー。
あさひは何も言わずに僕にそれを差し出して、僕は何も言わずにそれを受け取るでもなく受け取った。
違う、受け取ったつもりなんてない。でも、気付いたら差し出されていて、受け取ったことになっていた。
いつもそうだ。
いつだってそうだった。
いつのまにか、僕は受け取っていた。受け取るつもりのないものを、差し出されていた。
そして、抱え込んで、いつのまにか、その重さで崩れ落ちそうになる。
引き受けたつもりのないものを、いつのまにか引き受けている。
夕日が沈めばやがて夜が来る。
外では雨が、蒸気のような雨が、辺りを覆い隠そうとしている。
僕らは屋根の下にいる。
壁があり、床があり、窓がある。
雨は、外に吹き付けている。
ここではない。
床に投げ捨てた僕の鞄から、MDプレイヤーが顔を覗かせている。
スティングの例の曲を思い出す。
シェイプ・オブ・マイ・ハート。
『I know that the spades are the swords of a soldier
I know that the clubs are weapons of war
I know that diamonds mean money for this art
But that's not the shape of my heart』
知っている。
スペードは兵士の剣、クラブは戦う為の武器、
ダイヤは賭けで得られる富を象徴する。
けれどハートは……僕のハートの形をしてはいない。
あんなに綺麗な輪郭じゃない。
あんなかたちなんかで、人のハートは表し切れない。
頭の中で、その曲を流し続ける。
『Those who speak know nothing
And find out to their cost
Like those who curse their luck in too many places
And those who fear are lost』
優雅と言えば優雅な時間かもしれない。
「すみれは――」と、あさひは口を開いた。
「どうしたの?」
「さあ。どうしたんだろう」
「遼一は、帰ったんじゃなかったの?」
「そうするはずだった」
「遼一たちがいなくなってから、もうずいぶん経ったから、てっきり帰ったんだと思ってた」
「僕としては、それは昨日くらいの話なんだ。なんなら、今日かもしれない」
帰り道の途中で、僕はざくろに頼んでこの世界に帰ってきた。
そして出てきたら、日付はずいぶん変わっていた。変な話だ。
あさひからすると、もう三週間くらいは経っていることになるのだろう。
僕もまた、ざくろと同じような動きに巻き込まれてしまった。
もはや僕にとっては、空間と同じように、時間もまた座標に過ぎない。
「どうして……碓氷を刺したの?」
「どうしてだろうな」
「……」
「許せなかった。許したくなかった。でも……」
でも、なんだ?
続く言葉なんて、言い訳にしかならない。
「いいよ」
「……なにが?」
「たぶん、わからないから、もういいよ」
そう言ってあさひはうつむきがちにコーヒーに手をのばす。
僕もそれを真似て淹れてもらったコーヒーに口をつけた。
美味しい、というのは分かる。
これをたぶん、美味しい、と呼ぶんだろう、と、それは分かる。
僕は責めてほしかった。
責めて責めて責めて責め抜いてほしかった。
間違ってるってそう言ってほしかった。
ごめんなさいと、謝らせてほしかった。
それは、でも、加害者の理屈だ。
赦しを求めることすらも、おそらくはしてはいけない。
裁かれることすらも、求めてはいけない。
誰かを傷つけるというのは、たぶん、そういうことだ。
「遼一について、ほんのすこしだけ、わかったようなことを言ってもいい?」
「……どうぞ」
「遼一はたぶん、子供の頃、特に勉強しなくてもテストで良い点がとれたし、何もしなくても足が早かったでしょう」
「……どうだろうな。よく覚えてない」
「きっと、そうだと思う。だからなの。だから、遼一は自分が嫌いなの」
決めつけたような言葉。それは、でも、もう、耳慣れてしまった言葉だ。
それに、間違いだとも、あまり思わない。
「出来たっていう経験があるから、出来なくて当たり前のことでも、できるはずだと思っちゃう。でも出来ない。だからつらい。
最初から出来ない人は、ある意味で楽よ。出来ないことをできるようにするために、努力するって訓練を子供の頃からするからね。
半端に恵まれちゃった人ほど滑稽なものってないよ。――遼一って、かわいそうね」
「……わかったような、ことを、言うね」
「そう言ったもの」
僕は、べつに否定しなかった。
「気に入らないことを、許せないのね。思い通りにいくことばかりだったから、気に入らないことがあると、許せなくなるのね」
あさひは、そうやって僕の幼児性を暴いた。
「――わたしと一緒」
そう言って笑う。そして彼女は話を続ける。
「生きるはずの人を殺すことと、死ぬはずの人を生かすことと、いったいどんな差があるんだろう」
「その説によると」と僕は反駁する。
「医者と殺人者の間に違いがないように聞こえるね」
「『人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね』」
「ブラックジャック?」
「そう」
彼女はくすくす笑う。僕は……笑えない。
タルトを盗んだのは赤のジャックだ。
「それでも……」
と、僕は言う。
「それでも、誰かを傷つけるべきじゃない」
「……」
そうじゃないと、姉のことを赦してしまうことになる。
でも僕は、もう、責める権利を失ってしまった。
どんな理屈があっても、感情があっても、事実があっても、
人を傷つけた人間は、人を傷つけた人間を責められない。
それをもし認めてしまえば、
理屈さえあれば、感情さえあれば、事実さえあれば、誰かを傷つけてもいいことになる。
だから僕は……。
「綺麗な言葉だね」と彼女は言った。
「嘘みたいに綺麗な言葉」
僕は何も言わない。
「でも、望むと望まざるとに関わらず、わたしたちが生きているのはきっとそういう世界なんだよ」
「……」
「それはきっと、遼一も知っていることでしょう?」
「でも、刺すことはなかった」
他人事みたいに、僕はそう言った。
「刺すことは、なかったな……」
「後悔してるの?」
「たぶんね。きっと、沢村もそうだったんだと思う」
「……」
「もう帰れない」
「それじゃあ、これからどうするの?」
「……」
「碓氷は、死なないよ」
あさひは、不意にそう言った。
「碓氷は死なない。何事もなかったみたいに、生き続けるよ。
碓氷の代わりに遼一が刺された。そのときの傷を、遼一は碓氷に返した。
ひょっとしたら、それだけのことなのかもしれない」
「それは……慰め?」
彼女は首を横に振った。
「違うの。これは、きっと事実なの。あなたが彼を刺したことで変えられることなんて、最初から、ひとつもない。
あなたは――何も変えられないの」
その言葉は、けれど、
今の僕には、どうでもいいことだった。
つづく
856-14 彼女は塔の下へと → 塔の下へと
857-11 は手に → 果てに
おつです
◇
話はたいして弾まなかった。
窓の外で夕日が当たり前に沈んでいき、僕達の沈黙は湿気のようにべたついて鬱陶しくなりはじめている。
僕達が宿を借りたときと同様に、すみれの家族は帰ってくる気配すら見せなかった。
やがてあさひは立ち上がった。
「何か飲む?」
「何かって?」
「お酒ならある」
「酒……?」
「なんだろう、ワインだったかな」
彼女はダイニングを出て行った。キッチンに酒を取りに行ったのかもしれないし、こっそりと警察を呼ぶつもりなのかもしれない。
どちらでもいい、と僕は思った。
結局、彼女はすぐに戻ってきた。グラスをふたつとワインのボトルを抱えて。
僕は立ち上がって彼女からボトルを受け取った。
彼女は不慣れな様子で栓を抜き、グラスを並べてそこに注いだ。
「よかったのか?」
「いいの」と彼女は言う。
「どうせわたしのものじゃないし」
自分のものじゃないから、問題なんだと思うのだけれど。
とはいえ、それをいまさら僕が気にするのは、なんだか妙な話だという気もする。
「どうぞ」と彼女は僕にグラスを差し出した。
ほんのすこしだけ迷ったのはどうしてだろう。
ワインなんて口にしたこともない。
けれど僕はそれを受け取った。
彼女は、また僕と差し向かいの位置に座りなおす。
そしてグラスをこちらに掲げた。
触れ合ったガラスの縁が鈴のような音を鳴らす。
僕はほんの少し、その臙脂の液体を口に含んで飲み下した。
味はよく分からなかった。
「本当はね」、と、僕は話し始めた。
「今よりほんの少し普通に近い子供だった頃には、未来に対して希望をもっていたことだってあったんだよ」
「本当に?」
「いや、嘘かもしれない」
「どっちが嘘なの?」
「そうだな。つまり、今よりは、希望を持っていた、かもしれない。でも、それは今よりずっとぼんやりとしたものだった」
ぼんやりと……そう、ぼんやりと。
僕は、思っていた。
希望、というよりは、むしろ、欲望のようなものを。
けれどそれは近付けば近付くほど曖昧になってまた遠ざかるような代物だった。
真夏の逃げ水のような。
「たとえば、僕にも好きな子がいた。それが、今よりは強かった希望というものかもしれない。でも、よく考えてみると分からないんだ。
僕は別に、その子と一緒にいたいとか、どこかへ行きたいとか、何かをしたいとか、そんなことは考えたこともなかった。
一緒に夏祭りに行きたいとか、クリスマスを過ごしたいとか、あるいは好きな音楽を言い合ったり休日に出かけたりね、
そんなこと、僕は別にしたくなかったんだ。映画なら一人で観る、食事も一人の方がいい、本の感想なんてあまり言葉にしたいものじゃない。
そうしてふとわかったんだ。僕には、『誰かと一緒に何かをしたい』って欲望がことごとく抜け落ちてるんだって」
一人の方が楽だ。
何処へ行くのも気楽でいい。
好きなところに行けるし、好きなタイミングで移動できるし、好きなものを食べられるし、好きなときに帰れる。
気まぐれや気分で行動しても誰にも文句をつけられることがない。
誰かに気を使って合わせたりしなくていいし、誰かに付き合わされることもない。
乱されない、揺るがされない。
乱されないから、誰のことも疎まずに済む。
誰のことも嫌わずに済む。
どれだけ好きだと思っていた相手だって、何かの事情で、嫌気がさしてしまうことがある。
落胆してしまうことがある。失望してしまうことがある。
そんなのはごめんだ。
僕は、僕の中の誰かに対する思いを、ずっと守っておきたい。
それを永遠のように保持していたい。
だったら、知らなければいい。知らせなければいい。
覆い隠して、見ないようにして、見えないようにして、触れないことで、それは永遠になる。
"Mundus vult decipi, ergo decipiatur."
あさひは何も言わない。僕はまたグラスに口をつけて考える。
少し、違うような気がした。
そこにはまだ、自覚している以上の何かが秘められている気がする。
それがなにかは分からないが、何かがまだ明かされていない。僕自身にすら語られていない。
僕の希望、僕の欲望、僕の失望。僕をこの場に運んできたなにものか。
それは大河が海に流れ着くような宿命だったのか。
それとも風に乗った種が地表に根を張るような偶然だったのか。
あるいはそんな考えは、犯した罪から逃れたいがための責任転嫁か。
いずれにせよ、そこに何か隠されている。
けれど、そんなことを考えて何になるんだろう。
イメージしてみる。
愛奈は、さっき出会った名前も知らない誰かと一緒に、僕を探しにくる。
愛奈はどんな姿をしているのだろう。
それは僕の知っている愛奈の姿とどのくらい違うのだろう。
七年。そのとき僕は愛奈の傍には居ない。きっと死んでしまうんだろう。
"vulnerant omnes,ultima necat."
僕のいない世界。
それはずいぶん簡単にまわりそうな気がする。
何もかもがうまく回るような気がする。
僕という余計な歯車をはじき出した機械。
それはずいぶん綺麗に動きそうに思える。
僕は所詮余計もので、いるだけ邪魔なまがいもので、
不潔な生き物の卵で、
所詮いつかは誰にとっても不愉快なだけの何かになる。
それはもう決まっていることのように思える。
そんなふうに思うのはけれど、あるいは自己憐憫にすぎないのだろうか?
愛奈を守ろうと思った。愛奈のために生きようと思った。
それはどうしてだ?
それはきっと、そうでもしないと僕は、誰にも存在を許されないような人間のままだと思ったからだ。
僕の醜さを僕は知っている。
その縋りつくような惨めさを、僕だけは知っている。
だからこそ僕は、誰かのために生きることでしか、誰かのために生きると決めることでしか、
自分の存在を了解できなかった。
自分がここにいてもいいのだと、どうしても思えなかった。
"Aliis si licet, tibi non licet."
僕が考え込んでいる間にあさひは立ち上がった。何かつまむものをとってくる、と彼女は言う。
僕は返事をしなかった。
どう考えても間違っている。
どこかしら間違っている。どこがというのではない。何かが欠けている気がする。
数分後、あさひはナッツとキャンディチーズを盛り合わせた皿を持ってきた。
差し出されたチーズの包みをほどきながら、僕はまだ考えていた。
僕は愛奈のために生きることで僕自身を認めようとした。
そうすることが正しいように思えたから、褒められるべき、許されるべきことのように思えたから。
愛奈は僕にとって生きる理由になった。
生きていていい理由だった。
逆を言えば僕は愛奈がいなければ怪物の卵に過ぎず――
つまり愛奈は恰好の理由だった。
僕が周囲に、僕はここにいてもいい存在なのだと、そう主張するための、彼女は理由に過ぎなかった。
愛情ではない。
"Peior odio amoris simulatio"
いつのまにか空になったグラスにあさひがワインを注いでくれた。僕はそれに口をつける。
僕は、僕自身が生き延びるために、生きていていいんだと信じたいがために、愛奈を利用した。
そうすることで許されようとした。
僕は愛奈がいることでしか許されないと思っていた。
けれど――この世界には、愛奈がいない。
愛奈がいない世界で、碓氷遼一は許されている。
あるいは、自分自身を許している。
居て当たり前の存在のように、受け入れられるのが当然のような顔で、
生見小夜と街を歩き、
穂海と手を繋ぎ、
平然と笑い、
当たり前に歩き、
あさひを気味悪がる。
僕と同じ怪物の卵なのに。
愛奈がいないと生きていることにさえ自信を持てないのに。
どうして碓氷遼一は笑っていられた?
そんなことが――許されるのか?
"Non omne quod licet honestum est."
認めよう。
僕がこんな有様になったのは、おそらく、祖父の姿のせいじゃない。
そこに起因する(と僕が思っていた)僕の憂鬱さえも、本当はそうではない。
おそらくは、そういうものだ。
どれだけ皮を剥いで肉を抉って見せたところで、自分では見えない、自分では辿り着けない、そういう場所に真実が存在する。
僕の目では、僕がどんな人間か、どうしてこんな有様になってしまったのか、確かめられない。
僕にとっての真実は、つまりこういうことだ。
僕自身の憂鬱の原因を家庭環境に押しこめ、
その憂鬱を愛奈を利用することで軽症で済ませようとして、
それによって自分の正当性を担保し、その正しさで誰かを審問し、
そして傷つけることで裁いたつもりになった。
審問の話法。
誰かを裁くとき、裁く者の善悪は常に留保される。
そして僕は人を傷つけ、
僕の傍には誰もおらず、
僕は誰にも必要とされず、
僕の代わりは山ほどいる。
愛奈にとって、あの彼がその役をなすように。
生見小夜にもきっと、ふさわしい誰かがいるだろう。
もともと僕が演じる役は用意されていない。
僕はもう、誰かの劣化品ですらない。
怪物の卵。
いや、怪物そのものだ。
認められたいだけの、許されたいだけの、受け入れられたいだけの、求めるだけの、
与えることも認めることも許すことも受け入れることも愛することもできないままの、
怪物だ。
――ごめん。ちがう。そうじゃなくて、なにか、悩みがあるなら、いつでも……。
――……いつでも、聞くから、って、そう言おうと思ったの。
小夜は、そう言ってくれた。
でも、僕に何が言えたっていうんだ?
全部全部話したら、小夜だってきっと僕のことなんて見放していっただろう。
小夜が僕を気にかけてくれたのは、僕が何も話さずにいたからという、ただそれだけの理由に過ぎないように思える。
ただ彼女は、不可解を理由に気にしていただけで、すべてが明るみにさらされれば、すぐにうんざりしていっただろう。
僕はそう思う。それが事実だと思う。それが事実だとしか思えない。
「ねえ、遼一――遼一は、何が欲しいの?」
「……え?」
「何が欲しくて、ここまできたの?」
……必要としてくれる人がほしかった。必要としてくれる人が必要だった。
そうじゃないと自分が存在していていいのかわからなかった。
誰にとっても不必要な存在なら、早々に消えてしまいたかった。
誰かに、ここにいてもいいんだと、
僕はここにいるんだと、
それでいいんだと、
言ってほしかった。
俺は間違ったのか。ほかに何かやりかたがあったのか。俺は何かを見逃したのか。
自分のせいにするのは傲慢だと誰かが言う。どんなときでも正解を選べるなんて空想だって。
それは事実だ。僕たちは無謬ではいられない。
でも、そういう問題じゃない。
どうすればよかった? どうすればいい? どうしてこんなことになってしまうんだ?
この期に及んで自分のことばかり考えてしまう。
――碓氷くん、変わったよね。距離をおいて、測って、近付けないようにしてる。
――昔は違った。もっとまっすぐ、わたしと向い合ってくれた。今の碓氷くんは、何を考えてるのかわかんない。
――昔は……遼ちゃん、そうじゃなかった。
過去や、犯した罪や、醜さなんて、そんなものは所詮ごまかしにすぎないのかもしれない。
僕は単に、誰かに聞いてほしかっただけなのかもしれない。
誰かに、そばにいてほしかったのかもしれない。
小夜啼鳥の童話を思い出す。
遠い遠い昔の話だ。
時の中国の皇帝の、絢爛豪華な御殿には、風光明媚な御苑があった。
その広大な地にあるものはなにもかもがすべて美しくきらびやかで、訪れた人々はそこにあるなにもかもに感心し褒めそやしたが、
そのなかでももっとも美しいのはさよなきどりの歌声だと、誰も彼もが口を揃えて譲らなかった。
旅行者たちは国に帰るとまっさきにその鳥の声について語り、学者たちはやはりさよなきどりの声にまさるものはないと本を著し、
詩人たちはきそってその歌声を言葉のなかに顕そうとした。
けれど、その皇帝は、その広大な庭の持ち主である皇帝は、それまでさよなきどりの声を耳にしたことは一度もなく、
その鳥の存在さえ、御苑について誰かが著した本を読んで初めて知ったくらいだった。
そこで彼は、さよなきどりの歌声をどうしても聞いてみたいと、侍従長に命じてこれを探させた。
さて、侍従長が御殿の台所で下働きをしている娘をつかまえて、彼女に話を聞いてみると、彼女はなんでもないことのようにこう言ったのだ。
――まあ、さよなきどりですって、わたしはよくしっておりますわ。ええ、なんていいこえでうたうんでしょう。
――きいているうちに、まるでかあさんに、ほおずりしてもらうようなきもちになりましてね、つい涙がでてくるのでございます。
下働きの娘は侍従長をさよなきどりの元に案内し、その鳥に皇帝の前で歌うように説得した。
鳥はその言葉を受け入れる。
さよなきどりの歌声に、そのあまりのうつくしさに、皇帝の目からは涙があふれて止まらなかった。
そして、鳥は皇帝に召し抱えられた。
鳥かごを与えられ、外出を許されるのは日に何度かで、出かけるときは決してひとりにはしてもらえず、
けれどそれでもさよなきどりの声はうつくしいままだった。
それからずいぶん経ってから、皇帝のもとに、別の国からの贈り物として、細工物のさよなきどりが届けられた。
ネジを巻くと、宝石がちりばめられた細工物の鳥は、本物とまごうばかりの声を鳴らす。
節も乱さぬその細工鳥に、御殿の人々は夢中になった。なによりも、見た目は本物よりもずいぶん綺麗だったからだ。
けれど、誰もが気付かぬうちに、本物のさよなきどりは姿を消した。
それでも、細工の鳥の音があるというので、誰もそれを気にとめない。
それからずいぶん経った後、ふとした瞬間に、けれど作り物のさよなきどりは壊れてしまう。
どうにか直すことはできたものの、大切な部品が疲弊していて、しかもそれを直す手段がない。
皇帝は、大事にしなければならないと、年にたったの一度だけ、その鳥の音を鳴らすことにする。
それから更に五年が経ち、皇帝は病に伏せる。
―― それで、どうなったっけ?
よく思い出せない。
小夜啼鳥。
さよなきどり。
よなきうぐいす。
ナイチンゲール。
さよなきどりの声。
誰もが聞いている。
当たり前のように、その声に励まされ、癒され、慰められている。
僕は―― そんな声を聞いてみたかった。誰もが耳にしたことのある、その声を、僕も、聞いてみたい。
けれど僕は、そんな声を聞いたことがない。そんなものがあるなんてことすら、信じられない。
僕だけが、その声を聴くための聴力を持っていないかのような、そんな気さえする。
鳥の声は、僕の耳には届かない。
それとも、僕は、宝石細工の小夜啼鳥の出来損ないだろうか?
使い物にならなくなって、誰にも相手にされなくなるだけの。
同じ節ばかりを繰り返す、聞き慣れてしまえば退屈なだけの。
――なかなかいいこえでうたうし、ふしもにているが、どうも、なんだかものたりないな。
「……僕は、認められたい。必要とされたい。自分が、居てもいい人間なんだって、思いたい」
どうしてだろう。
どうして僕は、そう思えないんだろう。
どうしてそんなことを、重要なことだと思ってしまうんだろう。
きっと、気にしていない人なんてたくさんいる。
当たり前に、自分を許せる人、認められる人、そういう人もいる。
その人達なりの苦渋に悩まされながら、それはけれども、僕のそれとは、少し違うような気がする。
「……誰かの評価でしか自分の価値をたしかめられないとしたら、それはとても不幸なことだと思うけど」
あさひは、見透かしたようなことを言う。僕はグラスの中身を飲み干す。
たしかに、と僕は思う。自分で自分を肯定できないなら、どこにいっても幸福になれはしないだろう。
どこにいっても、心の底から笑えやしないだろう。
でも――誰にも愛されず、誰にも必要とされず、そんな自分を、どうして肯定できたりするだろう。
「あなたの欲望のなかに、"あなた"はいない。"誰か"の欲望のなかにしか、"あなた"はいない。"あなた"の欲望の中にも、"誰か"はいない。それって、悲しいことだよね」
あさひの言葉は、けれど、僕にはよくわからないままで、ただ、今は小夜の言葉を思い出している。
――ごめん。ちがう。そうじゃなくて、なにか、悩みがあるなら、いつでも……。
――……いつでも、聞くから、って、そう言おうと思ったの。
愛奈。
いつか、愛奈が、僕にとっての小夜啼鳥になってくれると思った。
「――言ってほしい言葉を言ってくれそうな相手を探していただけなんだね」
――あの綺麗な鳥は、もう巣の中で、歌っては居ない。
つづく
おつです
◇
僕とあさひの間にそれ以上の会話はなかった。思考もまた、それ以上は続けられなかった。
虚ろに広い洋室のなかで、僕たちは向かい合って座ったまま目も合わせなければ言葉も交わさない。
ただ酒を飲み交わすだけだ。
遠くの方から犬の鳴き声が聴こえる。車の走る音が聴こえる。誰かの怒鳴り声が聴こえる。
けれどそれらすべてが今この場所とは関係がない。
やがてあさひはもう降参だというかのように何も言わずに立ち上がった。
階段を昇る足音が聞こえ、ドアが開き閉まる音が聞こえ、やがてシャワーの水音が聴こえはじめた。
あとは勝手にしろと言われたみたいだった。
僕はグラスの底に残った何ミリかの赤い液体を口に含む。
電灯のあかりがよそよそしく刺々しい。もはや沈黙すらない、静寂ですらない無音がここにある。耳鳴りのような無音だ。
しばらくぼーっとしている。何も考えられない、何も思いつかない、何も思い出せない。そんな時間がずっと続いていた。
時計の秒針の音がやけにうるさく、苛立たしいほどに遅く感じられる。
不意に、叩きつけるような音が響きはじめ、そういえば雨が降っていたんだ、と僕は思い出した。
窓の外を眺める。外では雨が降り続いている。犬の鳴き声が聴こえる。
景色が灰色、灰色だ。
その夜僕は眠れなかった。あさひはもう僕の前に顔を見せなかった。
僕は勝手に浴室を借りてシャワーを浴びて、ダイニングのテーブルに突っ伏してイヤフォンをつけて音楽を聴いて夜を過ごした。
少しも眠れられないままやがて朝日が昇った。
ふと思い出して鞄をあさると、すみれの煙草が入っていた。
僕は身支度を整えて外に出た。雨は止んでいたが、街はひどく静かに青褪めている。
夢の中にいるみたいだと僕は思った。
煙草に火をつける。その光がやけに暖かかった。
さて、どこにいこうか、と僕は考える。
◇
でもどこにも行き場なんてありそうにもなかった。
僕はイヤフォンをつけて音楽を聴きながら街を歩くことにした。
どこまで歩いてみても何も見つけられそうにない。何も聴こえやしない。
イヤフォンから流れてくる音楽、とめどなく流れてくる音楽、遠い時間の遺物。
聴こえてきたのはSUM41だった。
姉が遺したものではない、僕が、僕が入れた曲だ。
「pieces」だった。
This place is so empty
My thoughts are so tempting
I don't know how it got so bad
ひどく肌寒い。どこにも行き場がない。
結局僕はどこにもいけないままだ。
橋を越えた先に、昨日僕がはじめて人を刺した場所があった。
もう何も残ってはいない。それは過ぎてしまったことだ。取り戻せない。
通り過ぎてしまった扉だ。
そのまま歩いていく。見覚えのある景色。いつか、小夜と一緒にいた公園。
昨夜の雨に濡れて、灰色の景色はひどくうつろに、心細く見えた。
ベンチに腰かけて、どうしてこんなことになったのかと僕は考える。
空気はとても綺麗で、綺麗な分だけその空虚を引き立てていた。
イヤフォンからは音が鳴り続いている。
血の代わりに音が流れているみたいな気がした。
そんなふうにからっぽになって、自分じゃないもので自分のなかを満たして、
そのときはじめて僕はようやくほんのすこしだけ安らぐことができる。
◇
――ねえ、どうして高いところってのぼりたくなるんだろうね?
――こわくないよ。うん。へいきだもん。
――ね、お兄ちゃん、わたしね……。
◇
そうして、考えるのをやめたときに限って、頭の中に声が響く。
思い出そうとしたときは、かけらさえも思い出せなかったのに、そんなときにばかり思い出せる。
あるいは、考えるのをやめたからこそだろうか。
あの高いビルの上、展望台から眺めた景色。
どうしてあんな場所にいったんだっけ。もう、覚えていない。
でも、愛奈と僕は、ふたり、電車に乗って、街を歩いて、そうしてあの塔に向かったのだ。
あのとき、どんな言葉をかわしたんだっけ。
僕は、なんて答えたんだっけ。
◇
空は白から青へとうつり、光は薄闇を簡単そうに満たしていく。
やがて幕が開くように景色は色を変えていく。
僕はまだ濡れたベンチに腰掛けている。
街の景色がうつろいはじめ、人々が姿を見せ始めた頃、僕は歩き始めた。
――どうして、高いところってのぼりたくなるんだろうね?
どうしてだったかな。
もう一度昇れば、思い出せるだろうか。
つづく
おつです
◇
霧雨に煙る街を僕は歩いた。
場所も姿も僕の知っているままの高いビルを見上げて、僕はひどく落ち込んだ気分になる。
僕は、こんなところに昇りたくなんてない。
そう思った。それなのに、足は止まらない。
このまま外にいたって、どうせずぶ濡れになっていくだけだ。
他に行くべき場所も戻るべき場所もない。選べる道なんて他にはなかったのだ。
(――本当に?)
そんな声が聴こえた気がしたけれど、それは錯覚だと自分でもわかっている。
建物の中には人の姿がなかった。
奇妙な空間に迷い込んでしまったような、そんな違和感を覚える。
人の姿がない。にもかかわらず、気配がある。気配だけがある。
誰かの話し声が聴こえた。
でも、それさえも、そんな気がしただけのことだ。
夢の中に迷い込んだような、不思議な感覚だった。
僕は、入ってすぐの場所にあった、展望台への直通エレベーターの扉の前に立つ。
エレベーターは、今は上に止まっているらしい。
ボタンを押してからしばらく待たされた。
いくらか間抜けな音を立ててから、扉は開いた。僕は他にやりようも思いつかずに、結局その扉をくぐるほかなかった。
ガラス張りの窓の向こうで街が離れていく。
ああそうだったと思い出した。
高いところに昇る理由。
――ねえ、どうして高いところってのぼりたくなるんだろうね?
――たぶん、なんだけどね……。
ずいぶん時間がかかるエレベーターだ。
ゆっくりと昇る小さな小箱だ。
辿り着く場所は決まっているくせにもったいぶっている。
結末はもう決まってるのに。
扉が開いて、そうしたら僕にはもう分かってしまう。
エレベーターが音を立てて止まる。
待ちくたびれたと僕は思った。
「――あなたを止める。絶対に。それがわたしの責任だと思うから」
――不意に聴こえたその声に、眩暈がしそうになった。
僕は、けれど急がなかった。
通路をゆっくりと歩いていく。不思議なくらい寒々しい空気があたりを満たしている。
やがて階段が見えてきた。
向こうに大きな窓が開けている。
その前に、ふたりの少女が立っている。
片方はこちらに背を向けて、もう片方は、その子を挟んでこちらを向いている。
ふたりは向かい合っている。
黒い衣装の二人組。
僕は、彼女たちを知っている。
片方はすみれ。
片方はざくろ。
ふたりはよく似ている。そのことを僕は知っている。
鏡写しのように似ている。
すみれの背後には階段があり、ざくろの階段には窓が――窓がある。
「……間一髪、で、間に合わなかったね」
すみれの肩越しに、ざくろと目が合う。彼女はおかしそうに笑った。
「何の話?」自分に言われたものだと思って、すみれは訊ねる。
それから、視線が彼女を向いていないと気付いて、こちらを振り返った。
「……遼一」
すみれもまた、僕に気付いた。
彼女は見慣れない黒い服に着替えていたし、片目が眼帯で隠されていた。
それでもすみれはすみれだった。
時間。
僕は、何を言えばいいかわからなかった。
ただ、高い場所に向かおうと思っただけだったのだ。
「結局ね、あなたたちは何も変えられないの」
ざくろは、僕達ふたりを見下ろしながら、言う。
「なんにも、変えられない」
すみれが、ざくろに向き直った。
「そんなの、分からない」
「無理なの」とざくろの声がした。
“背後”からだった。
「変えられないの。少なくとも、“今”のわたしにもすみれは追いついていない」
振り返ると、そこにざくろがいる。同じような姿のままに。
もう一度、僕は前を見る。そこにもやはり、ざくろがいる。
さすがに、混乱しないわけにはいかなかった。
何よりも、正面に立っているざくろが、驚いたような顔をしていたのが意外だった。
「変えられないの」と、今度は別の場所から聴こえた。階段を昇った先の壁の影から、またざくろが現れた。
「“今”のわたしにも、やっぱりすみれはわたしに追いついていない」
今度は、そのその背後から、またひとり。
「“わたし”は、ここにいる最初の“わたし”は、この光景を見た。だから知ってる」
今度は、正面に立つざくろの背後から、現れた。
何もない場所から不意にあらわれるようにして。
万華鏡めいた景色だった。
「ずっと先の未来まで、すみれがわたしに追いつけないことを、わたしは知っている」
「嫌がらせって、さっきすみれは言ったよね。そのとおり」
「ねえすみれ、そのとおり。どうしてこんなに未来のわたしが集まったんだと思う?」
次々と現れる。
ミラーハウスの中にいるみたいだ。
どのざくろの視線もすべて、すみれへと向かっている。
「嫌がらせ、だよ」
そう言って、ざくろが笑い、その影からまたざくろが現れる。
声は重なり響き合う。
「ねえすみれ――本当にわたしを捕まえられる?」
「本当にわたしを止められる?」「わたしは無理だと思うな」「現に捕まえられていないから」「あなたにわたしは止められないから」
「だからこれは鬼ごっこなの」「終わらない鬼ごっこなの」
「あなたはまだわたしを捕まえてくれない」「わたしは待ってるのに」
「あなたはまだわたしを諦めてくれない」「からかわれてるだけだってわかってるのに」
「絶対に無理なの」「アキレスと亀なの」
「同じ場所にとどまるためには絶えず全力で走っていなければならない」
「あなたが走ればわたしも走る」
「同じ速さでわたしも走る」
「ランニングマシーンみたいなものなの」
「あなたがどれだけ速く走っても、地面が反対に進んでいくの」
「あなたがどれだけ速く走っても、わたしは更に遠ざかっていく」「時間が流れれば流れるほどわたしは遠ざかる」
「だからあなたはわたしに追いつけない」「追いつけないの」
「これはもう決まっていることなの」
「ねえすみれ、あなたは最後のわたしを見つけられる?」
「諦めなくてもいいし、諦めてもいい」
「続けてもいいし、続けなくてもいい」
「だって結果は変わらないから」
「あなたは永遠にわたしに辿り着けないから」
「あなたがわたしの扉をくぐる」「わたしはわたしの扉をくぐる」
「あなたが見つけるわたしはいつもわたしには過ぎ去った時間で」
「その時間のわたしが捕まっていないことをわたしは知っている」
「だからこれは嫌がらせなの」
「ううん、拷問なの」
「あなたが大好きだよ、すみれ。放課後の校舎と、ガソリンの匂いと、木洩れ日の並木道と、古い図書館と同じくらいに」
「あなたが大嫌いだよ、すみれ。神話と、冷たい言葉と、馴れ馴れしい人と、あの痛みと、家族と、お酒と同じくらいに」
「あなたは追いつけない」「――だって、一度、逃げ出したものね」
◇
――不意に哄笑が響き、
――光が溢れ、
――“ざくろ”たちは姿を消した。
なにもかもが夢だったみたいに、さっきまでと同じように、立っているのはひとりとひとり。
すみれとざくろが、また向かい合っている。
「……ね、すみれ、それでもわたしを追いかける?」
にっこりと、ざくろは笑う。
その問いの答えを、ざくろは既に知っているのだ。
すみれがざくろを追い、そしてざくろを捕まえられていないことを、ざくろは知っている。
ざくろが不意に手のひらを胸の前で広げ、
彼女の指先がぼんやりと光った。
その淡く鈍い光が、ゆっくりとその手から離れていく。
静かに、その光がかたちをなしていく。
ざくろの背後に、扉があらわれた。
「ね、すみれ、どうする? この扉の先に、あなたが望んでいる景色は、きっとないけど」
すみれは、けれど、
とうに覚悟は決めていたというような声で、応えた。
「それでも、ここに集まったあなたの中で、一番向こう側にいたあなたのその未来を、わたしが捕まえているかもしれない」
「そう。そうかもしれない」
すみれは、ふと、僕の方を振り返った。
「遼一、ごめんね。やっぱりわたしが、巻き込んでたみたい」
その片目が、瞳が、綺麗だと思った。
「もうひとつ、ごめんなさい。でも、わたしはもう、自分のことで手一杯だから。
遼一、あなたも、自分のことは自分でなんとかして」
どうにかして、あげたかったんだけどね、と、すみれは言う。
「気にしてないよ」と僕は言った。
彼女は頷いて、ざくろへと向かっていく。ざくろの体は、すみれの手をすり抜けた。
それを知っていたみたいに、すみれはそのまま手を伸ばし、ドアの把手を掴む。
扉が開く。
その向こうには、けれど――
深い、深い暗闇が横たえている。
「――待っててね」
そんな声が、かすかに聴こえた気がした。
それがすみれを見た最後だった。
つづく
おつです
◇
僕とざくろだけが、展望台に取り残された。
さっきまで見た光景、それも今はどうでもいいもののように思える。
階段の上にざくろが立っている。
その表情が、穂海のそれと重なる。
穂海のことなんて、ろくに覚えちゃいないのに。
僕が初めて人を刺したときの、あの穂海の顔を思い出す。
穂海は僕を許さないだろう。僕が穂海でも、そうするだろう。
僕自身もまた、僕を許しはしないだろう。
もし許してしまったら、帳尻が合わなくなる。
僕も、誰かを許さなくてはならなくなる。
だから僕は、僕を許してはいけない。
でも、許さないというのは、どういうことを指してそう呼ぶんだろう。
ただ許さないと、そう思い続けていれば、許さないことになるのか。
それともそれは、ただ、許していないと思い続けることを咎から逃れる免罪符に使っているだけなのか。
よくわからない。
誰かが誰かを傷つける。それに傷ついた誰かがまた誰かを傷つける。
傷つけられた誰かは誰かを許さない。傷つけた誰かも誰かを許さない。
誰がツケを払うんだ?
それでも、復讐なんて無益だなんて月並な言葉で割り切れるほど、話も事も単純じゃない。
痛みは、循環しないといけない。
「あなたはどうするの?」とざくろは言う。
僕は答えられなかった。
「それにしても、驚き。どうしてここに来たの?」
「……」
「めぐり合わせっていうのかな」
答えない僕に、ざくろは退屈そうな溜め息をついた。
「どう思う? すみれは、わたしを捕まえられるかな」
「……期待してるの?」
僕のその問いに、彼女は、馬鹿な質問をした子供を見るように目を細めて、唇を歪めて笑う。
上弦の月のようだと、僕は思った。
見下されているみたいだ。
いや、今は、現に、見下されている。
見下ろすこと。
見下されること。
なぜだろう、今になって、沢村が僕を不快に思っていた理由が分かった気がした。
これは……不快だ。
◇
『ねえ、どうして高いところってのぼりたくなるんだろうね?』
――たぶん、だけどね……高い場所からの方が、よく見えるからだよ。
『よく見えるって、なにが?』
――いろんなもの。自分が普段立っている場所。いろんな場所を、俯瞰できる。
『フカン?』
――高いところから、見下ろせる。そうすると、遠くまで見渡せるし、低い場所から見るよりも、街がどうなっているのかわかりやすい。
『ん、んん?』
――視点を変えれば、いや……見方を変えれば、うつる景色も違う。そうすることで、自分が立っている場所を確認できる。
『……んー?』
――自分がいる場所についてよく知るためには、自分がどこに立っているかを知るためには、高い場所から見下ろすことも必要なんだ。
『変なの』
――なにが?
『だって、ここから見える街のどこにも、お兄ちゃんも、あいなもいないよ』
――……。
『あいな、ここにいるもん』
――……。
『お兄ちゃんは、どこにいるの?』
◇
「つまらない、ね」
ざくろは、そう言った。
「わたしはもういくけど、あなたは?」
僕は答えない。
僕は階段を昇る。
そして、ざくろを通り過ぎ、窓の傍へと歩み寄る。
見下ろす街は、以前と変わらない。
でも、この街は、僕の知っている街ではない。
よく似ているけれど、違う。
この街に愛奈はいない、この街は愛奈を知らない。
「ねえ、聴こえてるの?」
ざくろの声が、今は、耳障りだ。
「ねえ、人を刺すって、どんな気持ちだった?」
ざくろの声が、今は……。
「そんなふうになっても、生きていたいものなの?」
今は……。
「……うるさいな」
僕は、うしろを振り返らずに、そうとだけ言った。彼女はおかしそうにケタケタと笑う。
「何がおかしいんだ?」
「ううん。誰かを傷つけた人間が平然としてるのって、おもしろい。それって、もっとなじってほしいって意味でしょう?」
「……すみれの目は」
「なに?」
「すみれの目は、きみがやったんじゃないのか」
「……それがなに?」
「気になっただけだよ。姉の目を抉る気持ちはどんなだろうって」
「……」
「誰かを傷つけた人間。加害者。たしかに、そうだな。べつに、言い訳する気も自己弁護する気もない」
「……」
「でも、審問っていうのは、よくないらしいよ」
「知ったようなことを言う。わたしは"被害者"だよ」
「一面的にはね」と僕は言う。「でも、刺した」
「順番が違う」とざくろは言う。「わたしが最初に傷つけられた」
「滑稽だな」と思わず口に出さずにはいられなかった。
「きみが自分で言ったんだろう。"わたしは時間から解き放たれた"って」
「それでも、"このわたし"を基準にした時間的前後は存在する。それが世界の時間とは異なる意味だとしてもね」
それはつまり、彼女もなんのことはない、僕らと同じ地を這う蟻だということだ。
「傷つけられた人間は、誰かを傷つけてもいい?」
「……」
「だったら、きみを傷つけた人間が、誰かに傷つけられていたとしたら、それは許される?」
今度はざくろが黙り込む番だった。
「べつに文句を言いたいわけじゃない。僕が言いたいことって、そんなことじゃないんだ。
きみを貶すつもりも、裁くつもりもない。僕にだってそんな資格はない。
傷つけたとか傷つけられたとか許すとか許されたって話は、たぶん、単純じゃないんだ」
「……」
「傷つけるって、そもそもなんだろう? どうすれば、誰かを傷つけたことになる?
情状酌量の余地があればいいのか? それとも過失ならば見過ごされるべきか?
故意でなければいいのか? 反省や後悔の有無は判断材料になるか? ――無駄なんだ、そんな話」
「……」
「どんなに着飾って見せても、言葉で正当化なんてできやしない。正しさっていうのは法律とは別の問題なんだと思う。
僕らは、この世に生まれた時点で、"正しさ"とかいうものに対して取り返しようのない遅れを持たされてるんだ。
どれだけ言葉で取り繕ったところで、上手にごまかしてみせたって、僕らは逃げられない」
「――逃げられない。だから、誰かを傷つけても仕方ない?」
「違うよ」
「だったら、なんて言いたいの?」
傷つけることを肯定すれば、僕は姉が愛奈にしたことを認めることになる。
姉を許してしまうことになる。
けれど、姉を許さないことは、姉のしたことを間違いだったと思うことは、
それはそのまま、穂海の生誕を呪うことになる。
彼女が生まれたことを、間違いだったと呼ぶことになる。
傷つけることを否定すれば、僕は僕自身を認められないし、ざくろを認められないし、姉を認められない。
自分が生まれたことそのものが間違いだったような気さえしてしまう。
そうだとすれば、それは僕を産んだ両親の判断が間違いだったことになり、
とすれば両親を産んだ祖父母が間違っていたことになり、
けれどそうなれば、その判断に至るまでのあらゆるすべてを間違いと呼ぶことになり、
結果、この世界は"誤った世界"になってしまう。
正しさなんてものは存在しない。
どこにも存在しない。
僕達が普段正しさだと思っているものは、すべて、なあなあの決まりごと。
単なる社会規範、慣習、あるいは、"法律"の言い換えにすぎない。
ものを盗むのはよくない。
でも、所有という概念そのものが、人間が勝手につくった決め事にすぎない。
人間は自然の占有者、借地人にすぎない。
だから僕たちは、正しさなんて言葉とはさっさと手を切ってしまえばいい。
正しさとか、間違いとか、そんな言葉遊びに付き合ってやる必要なんてない。
それは単に、「それがあった方が円滑に話が進むから」という、ただそれだけのルールに過ぎない。
サッカーを円滑に進めるために、「ボールに手で触れてはいけない」とルールを決めておかなければいけないのと同じだ。
誰かがはじめたその遊びのルールのなかに、僕たちはいる。
―― そのうえで、けれど、僕は僕を許せない。
だったら、なんて言いたいの? ざくろはそう言った。
「――もっともらしいことを言って、正当化しようとするんじゃねえよってこと。
たとえ誰に傷つけられたにせよ、順番がどうだったにせよ、ざくろ……"きみ"も刺した。
たしかにきみも傷つけられた。でも、"それとこれとは別"なんだ」
ざくろは短く嘆息して、やはり笑った。
「肝に銘じておく」と言ったけれど、どうやらその気はなさそうに見える。
「それで――あなたのそれは、審問ではないの?」
どうだろうな、と僕は思った。
「もう、行くね」とざくろは言った。
「あなたと話してると……とても、胸が、ざわざわして、落ち着かない」
「じき落ち着くよ」
「……どうして?」
「さっきのきみたちには、そんな様子なかったからな」
「……そう、そうね」
それからざくろは、ゆっくりと瞼を閉じた。
苦しそうに、胸のあたりを手で抑えていた。
その指先が静かに体を昇っていく。
彼女の爪が首筋に力強く食い込んでいくのを、僕はぼんやりと眺めている。
「消える……いつかは、消える。いずれにせよ、血は流れているもの」
言い聞かせるようなその響きが、静けさにこだましたように思えた。
僕は窓の外を見下ろしている。
ふと、沈黙が静寂に変わった。
振り返ると、彼女はいなくなっていた。
◇
――怖くない?
『なにが?』
――高いところ。
『こわくないよ。うん。へいきだもん』
―― そっか。
『お兄ちゃんこそ、こわくないの?』
――うん。平気だよ。
『ホントに? なんか、つらそうに見えるよ』
―― そう?
『ときどきね』
―― そっか。ときどき、そう見えるか。
『ね、お兄ちゃん』
――ん。
『お兄ちゃんのこと、ときどき、ずっと遠くにいるみたいに思うの』
――遠く?
『うん。なんだかね、さっき、お兄ちゃんが言ってたみたいに。
あいなや、ママや、おばあちゃんたちのこと、高いところから、フカン、してるみたいって』
――俯瞰、してるみたい、か。
『うん。だからかもしれない。一緒にいても、お兄ちゃんはひとりだけ、高いところにいるの』
――……。
『違う場所から、あいなたちのこと見てるの』
――……。
『お兄ちゃん、わたしね、お兄ちゃんのこと、好きだよ』
――……。
『いつか、お兄ちゃんが、わたしたちといっしょにいられるようになったら、いいね』
――……。
『高いところから景色を見るのもきれいだけど、ほんとにそこに行かないとわからないことってたくさんあるでしょう?
それに、ここは少し、さびしいもの。こんなくもりぞらの日は、よけいにそんな感じがするね』
――……。
『それにほら、あんまり高すぎると、見えなくなってしまうものってあるでしょう』
――……。
『なんていうんだっけ? ほら、えっと……灯台……』
――……灯台下暗し……?
『そう! お兄ちゃんは、灯台だから。……そっか。だから、お兄ちゃん、そこにいるんだね』
――……?
『お兄ちゃんは、高いところから、みんなを案内して、みんなの船が迷わないようにしてるんだね』
―― そんなに、いいもんじゃないよ。
『そうかなあ。でも、高いところは、きっと寂しいから』
――……。
『だから、ときどきはおりてきて、そしたら、あいながいっしょにいてあげるから』
――……。
『だから、お兄ちゃんも、あいなといっしょにいてね』
◇
どうして今更思い出すんだ?
どうして今まで忘れていたんだ?
もう戻れない。戻り方を忘れてしまった。
高い場所から降りる。
俯瞰するのをやめる。
それってどうやるんだ?
壁があるみたい、と小夜は言った。
自分だけが、周りから一歩引いてたような顔をしている、と沢村は言った。
あなたのそれは、審問ではないの? ざくろすら、そう言った。
つまりそういうことだ。
壁を作り、距離を置き、上段に構えて自分すらを裁く。
そうすることで僕は僕を維持してきたのだ。
僕は僕自身を裁き続けることで僕自身を維持してきたのだ。
かくあらねばならないという像を自らに強いて、
そうやってここまで生きてきた。
何かの期待に答えるように、何かのルールに則ったように、自分を縛り付けて歩かせてきた。
他の生き方なんて、僕は知らない。
知ったところで今更だ。
戻れない。……戻れない。
展望台の窓から街が見える。何にも変わらない。
ガラスに映り込んだ自分の顔つきにすらうんざりする。
そして不意に、その表情をのせた肩の向こうに、扉を見つけた。
振り返ると、扉がある。
不意に、耳に、声が届いた。
どこか遠くから、運ばれてきたような、声。
――わたしは、待ってる。
それは、ついこのあいだ聞いたような、ずっと長いあいだ聞かなかったような、そんな声だ。
甘く優しく耳朶を打つ。
その響きに、僕は、今、何かを思い出そうとしている。
扉を、見つめる。
つづく
533-2 不思議なものだ。l → 不思議なものだ。
599-3 小夜ちゃん → 愛奈ちゃん
おつです
◇
僕は、窓の外の景色にもう一度目をやる。
この窓からは世界を見渡せる。そんな気がする。
ここにいるかぎり、何もかもわかりきっている。そんな気さえする。
けれど今、かすかにガラスにうつる僕自身の顔と、その背後の扉が僕の呼吸をひそかに荒くさせる。
さっき聴こえた声は、なんだったんだろう。
時がたつに連れて、それが単なる空耳とは思えなくなってきた。
なにか、啓示のようなものにすら感じられる。
けれど、今は、それは何かあやふやなものとしてしか、僕のなかには存在していない。
振り返った先の扉を見たときも、たいした感慨なんてわからなかった。
なぜとか、どうしてとか、そんな言葉は言い飽きた。
問題は、僕にこの場所を離れる気があるかどうか。
それだけだという気がする。
体ごと振り向いてしまうと、僕はもうその扉と向き合うしかない。
僕は、把手をつかみ、扉を開く。
その先にあるのは、やはり、暗闇にしか思えない。
横たえた暗闇、その先にもきっと、何か劇的な変化なんてもwのはないのだろう。
ただ、今ここにあるすべてと変わらない何もかもがあるだけなのだろう。
それでも僕は、その扉の先へと向かうことにした。
誰かが泣いているような気がした。
◇
扉をくぐった先は、けれど、さっきまで見ていた景色となんら変わらないものだった。
展望台、高い場所、さっき見た通りだ。
鏡の中に入ったみたいにさっきまで見下ろしていたのと同じ景色が広がっている。
けれど、さっきまでとは違う。何かが、違う。
一瞬、僕は自分が元の世界に帰ってきたのかと思った。
でも、それが間違いだとすぐにわかる
大きな窓から外を見ると、相変わらずの曇り空の上に、月がふたつ、浮かんでいる。
まだ昼だというのに、やけにはっきりとした輪郭で、たしかに浮かんで見える。
僕は、窓に背を向けて歩き始めた。
もう扉の先の景色は向こう側につながっていない。ただ厄介なオブジェに過ぎない。
展望台の窓から離れ、僕は階段を降りる。
どこかには行かなければいけないんだ。
通路の先には冷え冷えと鋭い光を宿すエレベーターの扉がある。
僕は人の気配のない通路を進んでいく。
エレベーターは閉ざされている。
僕は、スイッチに触れる。
下に向いた矢印の背景が、橙色に灯る。
やがて機械の音が聞こえる。近付いてくる。
音を立てて扉が開く。
僕は、しばらく迷っていた。
――お兄ちゃんのこと、好きだよ。
そんな声が聞こえる。
――でも、それだけじゃ足りないから、お兄ちゃんはここにいるんだよね。
そんな声が。
エレベーターは降り始める。
僕は空に程近い場所から離れつつある。
もう鳥の声も姿も見えない。離れていく。
町並みが近付いていき、やがて、建物の影になって完全に見えなくなった。
エレベーターはそれでも降り続けている。
一定のスピードで、動いているかどうかもわからないほど静かに。
そのままどのくらいの時間が経っただろう。
変化があるまで随分と長い時間だった。
あまりにも長過ぎたせいで、暇つぶしに時間を計ってみたけれど、二百を越えたあたりで諦めてしまった。
それでもまだ扉が開かない。
僕は下降している。
下降していく。
いいかげん、機械音にうんざりしてきた頃、ゆるやかにエレベーターが止まった。
突然、扉が開く。
僕は、自然と一歩を踏み出した。
何も思わず、何も考えず、気付いたら進んでいた。
その先は暗闇で、振り向くともう、扉はどこにもなかった。
そして僕が立っていた場所は、西欧風の箱庭めいた街だった。
すみれと一緒に、僕が最初に辿り着いた街。
他人事みたいな街灯の灯りが、やけに刺々しく僕に降り掛かってくる。
景色は夜、空の色は黒、月の数はふたつ。
僕はまた放り込まれている。
今度は風船のライオンもいない。
仮面の男も子供もいない。
そうだ。
ここは広場だ。
飴が配られていた広場だ。
その中心に、僕は立っている。
そして、『誰か』が僕を取り囲んでいることに、そのときようやく気付けた。
前方に高い石段があり、その上に木製の古い椅子が置かれている。誰かがそれに腰掛けている。
あたりを見回すと、四方もまた同様だった。石段があり、誰かが腰掛けている。
みんな仮面をつけていた。
正面の誰かが言った。
「きみは死ぬ」
それは僕の声に似ていた。
「逃れようもなく死ぬ。何もできないまま死ぬ」
「きみは人を傷つけた」
「もう戻れない」
「許されない」
「きみはきみが許さなかった人と同じことをした」
「もう許されない」
「誰一人きみを受け入れようとはしない」
彼らは僕を見下ろしてる。
彼ら、あるいは、それは僕だ。
彼らが口にした言葉は僕が僕に告げ続けた審判だ。
僕がさっきまで立っていた場所がそこだ。
不意に、公園の隅に据えられた樹上から声がした。
「きみ自身を否定し、裁き、審問しているとき、きみは否定されるべききみ自身から逃れて、否定する側に立っている」
それもまた僕の声だった。
木の枝は、彼らが立っている石段よりも高い場所にある。
「きみは、自分を上段から審問し、裁くことで、裁かれる場所、本来立つべき場所から逃れ出ている」
そして今度は、建物の上から。
「そう言っているきみは、どこに立っているんだ?」
繰り返されている。
「いまのそのきみの思考さえも、裁かれるべき場所に立っていなかったきみを裁く語法でしかない」
思考はより高い場所へと向かっていく。
木を越え、建物を越え、塔を越え、やがて鳥も雲も越え、そしていつかは、ああ、そうだ。
あのふたつの月は、あの眼差しは、僕が僕を見ている目そのものなのか。
そうやっていつしか、僕の思考は地上から離れていった。
僕が現に生きている場所を離れ、抽象的で観念的な空間へと向かっていった。
それがまるで重大な本質的な問題であるかのように。
けれど、そうすることで僕は、自分を取り巻く周囲の何もかもを地上に置き去りにして、いつしか概念化していた。
自分が立っている場所を履き違えれば、自分が何を求めているかも、自分が何をなすべきかも、見失って当然なのかもしれない。
僕らはどこまで行っても地を這う動物だ。
空は僕らの住処ではない。
そんな当たり前のことを、僕は忘れてしまっていたのだろうか。
言うなればこれは裁判だ。
裁判官はひとり、被告も原告もひとり。
すべてが僕で、でも、全員が僕から離れている。
僕が立つべき場所は、裁判官の席ではない。
被告席だ。
原告席は僕が傷つけた人のものであって、僕のものではない。
裁きの法も、僕が決めることではないし、裁きをくだすのも、僕の役目ではない。
僕が立つべき場所はここだ。
そう気付いた瞬間、僕の周囲にいた僕の姿が消え失せた。
空を見る。
あの月も、もうどこかへ消えてしまっている。
そしてふたたび視線を地上に戻したとき、僕の目の前に広がっていたのは、
見覚えのある、僕の過ごしていた街に似ている、そんな場所だった。
不意に、声が聴こえた気がする。
愛奈の泣き声。
誰にも秘密で部屋の隅で泣いていた愛奈の声。
穂海の泣き声。
僕が僕を刺したときの、穂海の泣き声。
裁くのは、誰かの仕事だ。
目の前に広がっているのは公道だった。
夜の景色の中で、ときどき車がヘッドライトの光を撒き散らしながら走っていく。
人通りは少なく、街灯の灯りも乏しい。
そこで僕は、道路の向こう、横断歩道の先に立っている、ひとりの男を見つける。
二十代半ばくらい、だろうか。
体つきは細く、頼りない。彼はポケットから煙草を取り出してライターで火をつけた。
どうしてだろう。
それが僕自身の姿だとすぐに分かった。
そうして、わけもなく、ただ、直感した。
これから見る景色が、おそらく、僕に下される判決なのだろう。
誰かが僕に下す審判なのだろう。
歩行者信号はまだ赤のままだ。
自動車が何台か通り過ぎていく。
男はまだ煙草を吸っている。
僕は自分の目に見える景色をなんだか不思議に思った。
自分が既に死んでしまった人間だという気がしてきた。
信号が点滅を始める。
車の音が響く。
通りの向こうの男は信号を見ている。暗がりのなかで、それがはっきりとわかる。
不意に車のエンジン音が近付いてくる。
見覚えのない車だ。
僕はその車に気を取られる。
自動車用信号は黄色になっている。
車は減速しない。
その車が交差点にさしかかったとき、ヘッドライトの光が、向こう側の歩道の影を照らした。
そこには誰かが――立っている。
僕は、背筋が粟立つのを感じた。
ほんの一瞬のことだったのに、男の背後に立つその人物が、僕が少し前に見た人間と同じ顔をしていることに気付く。
――沢村翔太だ、と僕は思う。
沢村翔太が、僕と話したときと、変わらない姿のまま、そこに立っている。
一瞬の出来事だった。
沢村の腕が、男の背中へ伸びていく。突き飛ばすような……あるいはその通りの……スピードで、伸びていく。
(――ヘッドライトの灯りに目を灼かれる)
思わず、車の方を見る。減速する様子はない。このまま通り抜けようとしている。
歌うような鳥の鳴き声が、遠くの空から聴こえた気がした。
(――煙草が指先を離れていく)
つづく
723-3 優先 → 有線
723-5 付けなくて → 抜けなくて
おつです
∴[Cheshire Cat]K/a
おそらくは、夢のような光景だ。
俺は、その光景の中で、愛奈を眺めている。
愛奈の隣には、俺ではない誰かがいる。
俺ではない誰かの隣で、愛奈は笑っている。
そんな光景を見た。
そこに俺はいない。
愛奈の笑顔に、俺は必要とされていない。
俺が居なくても、きっと、愛奈は生きるだろう。
それは、愛奈がいなくても俺が生きるのとパラレルだ。
それはきっと、愛奈が見た世界。
あるいは、碓氷遼一が見た世界。
自分なんかいなくても、世界は平気で回ると、そんな当たり前のことを、まざまざと見せつけるだけの景色。
それは、当たり前で、どこにでもある景色で、でも、
当たり前のことを、どこにでもあるものを、それでも悲しいと思うのは、いけないことだろうか。
◇
広場の中央近くに花壇があった。
花壇は四つのスペースに分かれている。扇型に切り分けられた円の隙間が、裂くような石路になっていた。
花壇のひとつには、白いスミレ。ひとつには、紫のアネモネ。ひとつには、黄色いクロッカス。ひとつには、オレンジのヒナゲシ。
花壇の中心、石路の交点には、小さな木があった。
"ざくろ"だ。
枝には花が咲いている。けれど木の足元には、熟れて裂け、中身を晒すざくろの実がいくつも落ちていた。
夜の景色は、さながら"星月夜"。
種々の花々の並ぶ花壇、整然とした十字の石路の中央は、花を咲かせたざくろの木。
そして、円形の花壇の向こう側に、高い壁が見えた。
その壁には扉があり、木の枝に覆われている。
そのなかに秘められたように、ひとりの女の子が、磔のように吊るし上げられている。
からたちの木、その突き刺さりそうな枝、壁をうめつくさんばかりに伸ばされたその棘が、ひとりの少女をとらえている。
それが誰だか、俺は知っている。
"ざくろ"だ。
彼女の細く頼りない腕を、からたちの棘が突き刺している。
どうして俺は、こんなところにいるんだ?
俺は、愛奈と一緒に、帰ろうとしていた。もうすぐ、階段を昇りきり、扉を過ぎ去るはずだった。
それが、どうして今、こんな場所にいる?
からたちの枝にとらわれたざくろは、何も言わない。
彼女の声は、背後から聞こえた。
「おはよう」と彼女は言う。
振り返ると、そこに黒衣のざくろがいる。
広場の中央、ざくろの木の下に彼女はいる。
ここは、と訊ねることは無駄だという気がした。
どうして、と問いかけることも、同じように。
「あなたに、選ばせてあげようと思うの」
ざくろは、俺の方をまっすぐに見ている。
「何を?」
「あなたを、これからある地点に連れて行こうと思う。そこであなたには、選択権が与えられる」
「ある地点……」
「それを話さないと、フェアじゃないね」
ざくろはそう言って笑う。
「これからあなたが見る景色で、あなたは何かをすることもできるし、しないこともできる。
何もしなければ、あなたは、今のまま、そのままでいられる。でも、何かしてしまえば、あなたは……
今のあなたは、どこかに消えてしまうかもしれない」
「……」
言葉の意味を、測りかねる。頭はまだ、うまく働かない。
彼女の言っている意味が、よくわからない。
言葉通りの意味だとしたら、俺がそこで、何かをする理由がないような気がする。
何かしたら消えて、何もしなければ消えずに済むのなら。
「すぐに連れていく」と彼女は言った。
「目を、少し、瞑ってくれる?」
「ひとつ、いいか」
「なに?」
「それが済んだら、俺はもとの場所に帰れるのか?」
「……あなたがそれを選びさえすればね」
そして俺は目を瞑る。
(――鳥の声が聴こえる)
◇
そして、俺は、ここに立っている。
交差点の前、横断歩道の傍、
道路の向こう側に、誰かが立っている。
それは、碓氷遼一の姿に見える。
彼はただ、ぼんやりと、視線をこちらに向けている。
俺は、不意に気付く。
自分の斜め前に、ふたりの男がいる。
片方は、煙草に火をつけて、立っている。二十代半ば頃の、男だろうか。
その横顔、それは、碓氷遼一のそれに似ている。
あるいは、そのもののように見える。
その後ろに立っている誰かは、彼の様子をうかがっている。
ヘッドライトの光がちらついている。向こうから車がやってきている。
不意に、音が止まった。
「ここは、碓氷遼一が死ぬ地点」
とざくろの声が聞こえた。
一切は音を失っている。彼女の声だけが聴こえる。
時間が止まっているみたいだった。いや、その通りなのだろう。
「背中を突き飛ばそうとしているの」とざくろが言う。
俺は、斜め前に立つふたりの男を眺める。
「あなたは、これから起きることを、変えられるかもしれない」
でも、よく考えてね、と彼女は言う。
「何が起きるかを、よく考えてね」
一台目の車が通り過ぎる。
世界が音を取り戻し、時間が当たり前に流れる。
"これから起きること"。
"突き飛ばそうとしている"。
"死ぬ地点"。
突き飛ばされることで、碓氷遼一は死ぬ、ということか。
それは、つまり、突き飛ばされなければ、碓氷遼一は死なないかもしれない、ということか。
向こうにいる碓氷遼一は、それを眺めている。
信号は赤だ。
彼はそうすることしかできない位置に放り込まれた。
俺は?
俺は、俺は……こちらにいる。手の届く距離にいる。
だとすれば。
俺がここで、"何かを"すれば、碓氷遼一は死なない。
"あなたには選択権が与えられる"とざくろは言った。
信号はまだ赤のままだ。
碓氷遼一が死ななければ、どうなる?
愛奈は、泣かずに済むだろうか。
少なくとも、あんなに、自分を責めたりせずに済むんじゃないか。
時間さえあれば、碓氷遼一と話し合い、わかり合うことができたんじゃないか。
そう考えれば、俺が取るべき選択なんて、決まっているような気がする。
――けれど。
"でも、何かしてしまえば、あなたは……今のあなたは、どこかに消えてしまうかもしれない"。
消える?
それって、どういう意味だろう。
頭をよぎるのは、親殺しのパラドックス。
ここで、碓氷遼一を助けてしまえば、
愛奈は俺と向こうの世界に行くことなんてなくなり、
そこであったなにもかもがなかったことになり、
俺も、こんなところに迷い込まないことになる。
そして、ここにいる俺がいなくなってしまえば、碓氷遼一を助けるものもいなくなる。
そうなれば碓氷遼一は死んでしまい、
そこから先の何もかもがなかったことになり、
愛奈は俺と向こうの世界に行くことになる。
そして俺はここでまた碓氷遼一を、助けるか助けないか、選ぶことになるかもしれない。
それって、どういうことだろう?
"今のあなたは、どこかに消えてしまうかもしれない"。
ざくろを見れば、その結論は出るかもしれない。
彼女が時間を無制限に行き交うこともできるように、俺もまたそういう存在になるのかもしれない。
永遠に、時間の檻のなかに閉じ込められ、そこから脱することができなくなるのかも。
あるいは、そんなことすらなく、ただ未来だけを変えて、今ここにいる俺だけが消え失せてしまうのかもしれない。
もっとシンプルに考えよう。
ここで俺が何かをすれば、その時点から過ごしたすべてがなくなってしまう。
これから生まれる命、これから死んでいく命、これから付けられる傷、これから癒えていく傷。
そのすべてが、なかったことになり、世界はバタフライエフェクト的に変化していく。
初期値鋭敏性。
それが愛奈を消したように、俺がここで何かをすることで、誰かが消えてしまうかもしれない。
誰かの未来を書き換えてまで、俺は愛奈の悲しみをいくらか軽くすることを選べるのか。
いや、もっとシンプルに、だ。
ここで俺が何かをすれば、
愛奈と俺がさまよった数日間のすべてが、なかったことになってしまう。
木々の遊歩道も、夜のコンビニも、何もかも。
俺は、それを失えるだろうか?
なくしてしまってかまわないと、思えるだろうか?
起きてしまったことを、本当に変えられるのか?
そんなのありえない、とも思う。けれど、ざくろなら、ざくろだったなら。
彼女なら、できてしまうかもしれない。この俺が消え失せて、愛奈が悲しまない未来を、作れるかもしれない。
逆から、考えてみよう。
ここで俺が何もしなければ、碓氷遼一は死ぬ。
ざくろの言葉を信じるなら、それなら俺は、このまま存在し続けられる。
そして、元いた場所、愛奈がいる場所に、帰ることができる。
……けれど、碓氷遼一を見殺しにしたその後に、俺は愛奈と一緒にいられるだろうか?
それを、俺自身は許せるだろうか?
いつのまにか、また、音が消えている。
ざくろが、傍らに立っている。
「……おまえは、いったい何なんだ?」
そう問いかけずにはいられなかった。
「こんなの、どこに選択権があるっていうんだ。どっちを選んだって、ろくな結果にならない」
ざくろは、俺の姿を笑っている。楽しんでいる。
「おまえは、いったい、何がしたいんだ? どうして、俺をここに連れてきたんだ?」
「あなたが、いちばん、まともなままだったから」
ざくろは、そう言った。
「まともな人は、苛立たしい」
吐き捨てるような彼女の言葉を、俺は聞いた。
悲しそうな目をしている。そんな場違いな印象を覚える。
「もっと傷ついて。わたしは、それを見たいの」
何がどう狂ったら、ひとりの少女が、こんな姿になるっていうんだろう。
こんな、神様みたいな姿に。
うんざりだ。
何が正しいとか、間違ってるとか、裁くとか裁かれるとか、痛みとか、何の話なのか、さっぱり分からない。
俺はここに立っていて、生きていて、
人が死ぬ姿は見たくない。
誰かが悲しむ姿も見たくない。
誰かを好きになったりする。
誰かを憎んだりする。
ただそれだけのことじゃないのか。
それだけで十分じゃないのか。
……違うのか?
不意に音が聴こえる。
エンジン音が近付いてくる。
歩行者信号が点滅する。
車のヘッドライトが近付いてくる。
斜め前の男が手を伸ばした。
きっと一瞬の出来事。
それがスローモーションに見える。
誰かを突き飛ばそうとする手。
選択権が与えられている。
選択権?
選択権――。
――生まれてこないほうが、よかったのかな。
俺は、
◆(K/c)
突き飛ばそうとする誰かを、気付けば組み敷いていた。
車はブレーキすら踏まずに通り過ぎていく。
横断歩道の信号が青になった。
誰もが呆然としている。
俺に抑えつけられた誰かも、音に驚いて振り向いたこちらの碓氷遼一も、
あちらで眺めているしかなかった碓氷遼一も、俺自身でさえも。
頭で考えたことなんて、そんなに多くない。
でも、嫌だった。
目の前で、大事な人の大事な人が死ぬのも、誰かを見殺しにして生き延びるのも、
そんなふうに生きていく自分も、嫌だった。
子供のわがままのような感情だとわかっている。
理屈なんてあったもんじゃない。
それでも、どうして、どうして俺が“そんなこと”に巻き込まれなきゃいけないんだ。
誰かが死ぬとか、殺されるとか、どうしてなのか知らない、わからない。そんなの、俺には関係ない。
どうしてそんなものを強いられなければいけない?
俺はただ、もっとシンプルに生きていたいだけだ。
小難しい利害なんて、向いていない。
正しいとか、間違っているとか、そんなものに振り回されたくない。
この結果が、より悪い結果を引き連れてきたとしても、俺は、こうするしかにあ。
たとえ、こうしたことで俺自身が消えてしまっても、愛奈と一緒にいられなくなっても、
こうしなかった俺のまま愛奈と一緒にいるよりは、ずっと愛奈の方を向いていられる気がする。
会えなくなったとしても。
あの木々の遊歩道、夜のコンビニ。
それはたしかにあったことだ。
俺は、それを知っている。
たとえ、消えてしまったとしても。
――存在するのとは違う形で、傍にいる。
たくさんの言葉が、声が、音が、景色が、急に胸をいっぱいにして、
気付けば俺は泣いていた。
◆
「残念ね」と声がする。
「お別れね」と声が言う。
お別れ。
お別れだ、と俺は思う。
◆
「ケイくんは……灯台みたいだね」
「……灯台?」
「うん」
「そんな良いもんじゃないと思うけどな。それに、灯台だったら困る」
「どうして?」
身動きがとれない。
迎えにも行けない。
彼女のところに行くことができない。
――お別れだ。
つづく
おつです
◇[Nightingale]
僕はそれを眺めている。
誰かが、沢村の体を突き飛ばし、馬乗りになって彼を抑えつけている場面を見ている。
ただ見ている。
景色はざらつき、歪み、音は遠くなりはじめていた。
僕の意識はどこか遠いところへとさらわれつつある。
やがて、断線するように、ぷつんと視界が途切れた。
真っ暗な景色の中、最後に聴こえたのは甲高い鳥の声だった。
――わたしは、待ってる。
鳥の声。
神さまの言いつけを破った男は、怪魚に呑まれてしまう。
作り物の小夜啼鳥に心を委ね、本当の小夜啼鳥を軽んじた王様は病に伏す。
不意に、僕は光のない真っ暗な場所に立っている自分を発見した。
光源なんてひとつもないのに、自分の体だけが確かに見える。ほのかに光っているみたいに思えた。
僕の目の前を、二人の少女が通り過ぎていく。追いかけっこをしているみたいだった。
彼女たちの笑い声は僕の耳には届かない。片方はいつまでももう片方に手を伸ばして、もう片方はいつまでも片方から逃げ続けている。
ここまでおいで。
彼女たちの姿が暗闇に飲み込まれて見えなくなる。
僕の体に宿った光が、不意に足元から広がっていく。
やがて景色は、暗闇ではなくなった。
そこに広がっているのは、鏡の迷路だった。
鏡、鏡、鏡。奥行きも広さも、とても分からない。
足元には砕けた何かの破片がある。
僕はここに至るまでの道筋を思い出そうとする。
始まり。すみれに誘われて黒いドラッグスターに乗って街を駆け抜けたときのこと。
碓氷遼一と生見小夜の姿を見たあのときのこと。
篠目あさひの夢の話を聞かされて、あっさりと信じたときのこと。
碓氷遼一と顔を合わせたときのこと。
沢村翔太と話をしたときのこと。
碓氷遼一を刺したときのこと。
すみれ。
すみれは、どこに行ってしまったんだろう。
心の底から笑える場所が、きっとどこかにあるはずだと、僕を誘った女の子。
でも、僕にはもう分かっていた。
自分で自分を肯定できないなら、どこにいっても幸福になれはしないだろう。
どこにいっても、心の底から笑えやしないだろう。
そして今、僕は僕自身を肯定できない。
心の底から笑うことなんて、できやしない。
幸せになんて、なれやしない。
でも、もうそんな段階じゃない。
ミラーハウスの鏡が砕けていく、そんなイメージが流れ込んでくる。
鏡の破片のひとつひとつに、僕が出会った人々の顔があった。
愛奈、穂海、すみれ、あさひ、ざくろ、沢村、碓氷遼一、名前も知らない誰か。
そのどれもが音を立てて床に落ちて砕けていく。僕はただその様子を眺めている。
鳥の声はまだ聴こえている。
僕の体は何かどろりとした液体の中へと沈んでいく。
さっきまで見えていた景色は既になくなり、僕を今まで運んでいた奇妙な力ももう失われている。
そんな気がする。
僕は深いところへ落ちていく。
光のないところ、暗い海の場所のようなところ。
僕の意識は曖昧になり、思考は脈絡を失い始めた。
まず言葉が、
次に声が、
最後に音がなくなった。
ふとした瞬間まばたきをして、目を開けたら、僕の目に飛び込んできたのは、ひとつの扉だった。
どうして突然、目が覚めるように体の感覚を取り戻したのか、
思考が正常さを取り戻したのか、そんなことは僕には分からない。
問題は、目の前に扉があり、その背景は真っ黒だということだった。
ただ、空間に浮かび上がるように扉だけがそこにある。
交差点で見た光景。
僕を、彼が助けていた場面。
別に、僕を許したから助けたわけではないだろう。
彼はただ、僕が死んでしまったら悲しむ人がいるから、僕を助けたに過ぎない。
僕のためじゃない。
それでも僕は、その景色に従うことにした。
もう、この扉の先に何が待っていたとしても、その景色に従おう。
今の僕にできるのは、ただそれだけのことに思えた。
いったいどこに連れて行かれるかは分からない。
拍子抜けするような場所かもしれない。
また暗闇の中なのかも。
それでもかまわないと思った。
僕は、今までだってずっと流されていただけだし、これからだってそうしていくだけだ。
◇
ふと目を開くと、僕はあのミラーハウスの前に建っていた。
東の空に太陽が浮かんでいる。
朝が来たのだと僕は思った。
◇
僕は、もといた世界に戻っていた。
すみれと旅に出る前にいた、あの当たり前の日常の世界に。
僕があちらに行っている内に、こちらでは二週間が経っていた。
家に帰り着いた僕を迎えたのは両親と愛奈で、愛奈は泣きながら僕に抱きついてきた。
僕に何も言わなかったし、僕に何も求めなかった。ただ何も言わずに帰ってきた僕に抱きついてなかなか離してくれなかったのだ。
彼女が胸の内側に溜め込んでいるわがままのことを僕は思う。
こんな顔をさせたのが自分自身なのだと思う。
その上で僕は謝らなかった。
それはエゴだという気がしたのだ。
◇
まずは家族に、次に警察に、それから学校に、バイト先に、それぞれ事情を聞かれた。
二週間ものあいだ、いったいどこで何をしていたのかというのだ。
僕はそのすべての問いに、何も覚えていない、と答えた。
本当のことを話しても信じてもらえるとは思えなかったし、当人が覚えていないと言ってしまえばそれ以上追及もできないだろう。
実際、僕はあれから今までの間に過ごしたあの時間のことを、もはや現実のようには思えなくなっていた。
あれは悪夢のようなものだったのではないか。でも、それでも僕はたしかに僕自身を刺したのだ。
記憶にあるかぎり、それは事実なのだろう。
バイト先の上司は無断欠勤を咎めてしばらく腹を立てていた。どうやら家出でもして遊んでいたものと思われているようだ。
僕はべつに言い訳しなかったし、聞き流すことに決めていた。そんなことにかかずらって消耗している場合じゃなかった。
さいわい、学校では交友関係の狭さが幸いして、僕に何かを訊ねるような相手は二人しかいなかった。
ひとりは狭間まひる。
「怪しいなあ」と、いつものようにどうでもよさそうな顔で追求してきたが、僕は相手にしなかった。
彼女はいつものように、たまには部活に出てね、部誌の原稿を出してね、と、決まり文句のような言葉を吐いていなくなった。
もうひとりは篠目あさひだった。
「ひょっとして行ったの」と彼女は言った。その話し方が、向こうのあさひとどこか違うような気がして、僕は不思議に思う。
「どこに?」と僕は訊ねた。
「遊園地」
相変わらずの説明を省いた喋り方が、かえって僕を安堵させた。
「そうだね」とだけ、僕は答えた。他のことは一切喋らなかった。
そのようにして僕は以前のような僕の――意味もなく価値もなく欲望もない――日々を取り戻した。
思えば思うほど、夢のような体験だったと思う。
でも、夢ではない。
沢村翔太は、この世界にはいなくなっていた。
何よりも恐ろしいのは、誰も彼のことを気に留めていないということだった。
◇
隣町で殺人があったとの報道が、連日ワイドショーを賑わせていた。
死んでいたのは四十代の男性で、二人の娘と暮らしていたという。
誰かに刺されていたらしい、と言っていた。
職場の人間は、二日ほど前から連絡がつかず、不審に思って自宅を訊ねたときに死体を見つけたのだという。
不思議なことに、二人の娘についても行方が知れない。
姉の方は学校にもあまり顔を出さず、ときどきバイクに乗って帰ってこないこともあった、と近所の人間が訳知り顔で言っていた。
いまだ行方不明のままの二人の少女を、警察は目下捜索中だという。
おそらく、見つかることはないだろう、と僕は思う。
◇
周囲は、僕のことを腫れ物かなにかのように扱った。
家族は家出だったんじゃないかと疑っていたし、バイト先の人はあまり具体的な話を聞きたがらなかった。
学校ではもともと腫れ物扱いだ。
部活に顔を出すと、部長にしつこくあれこれ聞かれるんじゃないかと思ったが、そうはならず、むしろ他の生徒の視線の方が疎ましかった。
妙な噂が流れているらしいということだけは分かったが、その詳しい内容を教えてくれる宛もない。
僕はイヤフォンをつけてMDを流し、学校での時間を受け流し続けた。
以前と同じ生活だ。
僕は、僕自身を刺したとき、この日常へと帰ってくることを諦めた。
それなのに、今、ここで当たり前に生活している。
何もかもが嘘だったみたいに。
◇
久し振りに部室に顔を出すと、相変わらず物静かそうな部員たちがこそこそと何かを話していた。
僕は自分の定位置に腰掛け、本を広げた。
二週間。二週間学校に来なかったからといって、変わったことなんてほとんどなかった。
テレビや新聞はさまざまなことをやたらと喚いていたけれど、僕にはそれが実感を伴って迫っては来ない。
今目の前にあること、今僕が過ごしている場所。
そのすべてがなんだか嘘みたいに思える。
定位置に腰かけて本を開こうとしたところで、部長に話しかけられた。
「調子はどう?」
「……特に、変わりないです」
彼女は、相変わらずの妙な笑みをたたえたまま、僕の隣に椅子を持ってきて座った。
「なんだか、落ち込んでるみたいに見えるよ」
「そんなことは、ないです」
「そうかなあ」
「そのはずです」
「はず、か」
部長はくすくす笑った。
「おかしいですか?」
「碓氷くんは、相変わらずおもしろいね」
どこか、おかしかっただろうか。僕にはよく分からなかった。
「はず……うん。はず、ね」
部長はそう何度か繰り返すと、おかしそうに笑った。
「そんなにおかしいですか?」
「そういうわけじゃないんだけど、ちょっと弟に似てたから」
「……部長、弟さんいたんですか?」
「うん。死んじゃったけどね」
◇
部室のドアがノックされたのはその会話の少しあとのことだった。
扉を開けて入って来たのは小夜だった。
彼女は部室の中を見渡して、僕の姿を見つけるとすぐに近付いてくる。
「ちょっといいかな」
いくらかためらいがちな様子で、それでも彼女は僕の方をまっすぐに見ていた。
どこか懐かしい、澄んだ瞳。
いつも思っていた。
この子の目はどうしてこんなに穏やかに見えるんだろう、と。
彼女に言われるがままについていくと、向かった先は屋上に至る階段だった。
昇りきると、屋上に向かう扉がある。
けれど、その扉は開かない。鍵が閉まっているのだ。
彼女はその扉の手前、一番上の段に、敷いたように積もった埃を気にすることもなく座り込んだ。
「とりあえず、座ったら」
彼女がそう言うので、僕は仕方なく隣に腰を下ろした。
直接話すのは久し振りだというのに、以前よりもすんなりと彼女と一緒にいられるような気がする。
いろいろあったせいで、僕の中にあった妙なものがうまく機能していないのかもしれない。
それでも戸惑っていないわけではなかった。どうして、急に声をかけられたりするんだろう。
彼女の表情が少しこわばっているのが、頭の中で、向こうで見た彼女のそれと勝手に比較される。
僕は、あんなふうにこの子を笑わせることができない。
「聞きたかったの」と、振り絞るように小夜が言った。
「でも、何から聞けばいいのか分からない。難しくて。何を言えばいいのかも、ずっと考えてたんだけど」
でも、でもね。
「心配した。帰ってこないんじゃないかって、心配、したよ」
僕は言葉を失った。
そんな言葉を言われるなんて、想像もしていなかった。
そんな言葉を僕に言うのは間違ってるって、ふさわしくないって、そう言おうと思って――やめた。
それは、きっと僕が決められることではないんだろう。
「ごめん。今まで、ずっと、何も言ってこなかったのに、突然こんなの、変だよね」
何も言えない僕に、彼女は言葉を続ける。
堰き止めていたものが溢れ出るみたいに。
「ね、遼ちゃん。いったい何に巻き込まれてきたの? 神様と同じくらいの力って、いったいなに?」
「……どこで、それを言われたの」
「教えてくれた人がいたの。いつのまにか、いなくなっちゃったけど」
「……そっか」
「そういえば……」
何かを思い出したように彼女は顔をあげて、それから、言いづらそうに口を歪ませた。
「……ね、何か、声が聴こえたりした?」
「声?」
「聴こえなかったなら、べつに、いいんだけど……」
声。
小夜には、全部話すべきかもしれない。僕がしたこと、僕が見たこと、僕が行った場所。
信じてもらえないだろう。それでも、すべてを語るべきだという気がした。
僕が、逃げ出したことを。
「少し、長い話になると思う」
「……うん。大丈夫」
「声は……たぶん、聴こえたと思う」
小夜は、その言葉に、安心とも動揺ともつかない、不思議な表情を浮かべた。
「そっか。……聴こえたんだ」
それから僕は、長い、長い話をした。
僕が、人を刺すまでの話を。
話を終えた僕の膝に、彼女は静かに手を置いた。
どうしてそんなことになるのか分からなかった。
「ごめんね」と、それでも小夜はやっぱり謝るのだ。
「どうして、謝るの?」
「気付けなかった」
まるで、自分に責任の一端があるかのような顔をする。
彼女は――僕の一部を引き受けているみたいな顔を、する。
「どうして、怒らないの」
「……」
「どうして、責めないの」
「……」
「僕は、きっともう……」
「ね、遼ちゃん。昔、遼ちゃんが話してくれたお話、覚えてる?」
「……話?」
「うん。神さまの命令に逆らって、大きな魚に食べられた預言者のお話」
ヨナ書。怪魚に呑まれた男の話。それをいつか、小夜に話したことがあっただろうか。
「あのお話の終わりを覚えてる? どうして、悪いことばかりをする街を、神さまが裁かなかったのか、って」
「……」
「"あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。
ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか"」
「……」
「ねえ、遼ちゃん。遼ちゃんがしたことが、たとえ許されないことだったとしても、だから嫌いになったりなんて、できないよ。
遼ちゃんもきっとそうでしょう? 愛奈ちゃんが誰かを傷つけたって、きっとあの子と一緒にいるでしょう?
正しさなんて……きっと、無視できないにしても、いちばん大切なものじゃないんだよ」
小夜啼鳥の童話の終わり。
それを突然に思い出す。
あの話の最後、病に伏せた王のもとに、本物の小夜啼鳥が姿をあらわすのだ。
変わらぬ美しい声で歌うと、鳥は、ふたたび窓辺を去っていく。
細工鳥もよく働いたから壊してはいけないと王を諌め、自分のことを誰にも秘めるべきだと助言をして、
また歌いにやってくると約束を残して。
その歌声で、王の病は癒える。
そして、彼の亡骸を拝むつもりでやってきた家来たちに、顔を上げてこう言う。
――みなのもの、おはよう。
ああ、そうだ。
眠りから覚める。朝が来る。そこで物語が終わったんだ。
そこは美しい世界じゃない。何もかもが平等な世界でもない。
小夜啼鳥は歌う。幸福な人のこと、不幸な人のこと、貧しい漁師や百姓のこと、王の王冠ではなく心のことを歌う。
完璧な世界ではない。小夜啼鳥は、その世界のあるがままを歌う。
劇的な許しもなく、圧倒的な平和もなく、何もかもが満たされる結末ではなく、ただ王は、ありふれた日常へと帰っていく。
複雑で不平等な、この世界。心の底から笑える場所なんて、きっと、この世界のどこにもない。
きっと、僕が生きるべき場所も、そんなふうに、何もかもを簡単に割り切ってしまうことのできない、この日常なのだろう。
けれど今は、単純に、小夜の声が、言葉が、嬉しくて、それだけで何かを取り戻せたような気がした。
「ねえ、遼ちゃん――もう、ひとりで抱え込まないでよ」
僕は、思わず両手で顔を抑えてしまった。
返事さえ、うまくできない。
「わたし、ここにいたよ。遼ちゃんが、話してくれるの、相談してくれるの、ずっと待ってた。
待ってただけ、だったけど、でも、そばにいたんだよ」
膝の上にのせられた手のひらに、ほんの少し力がこもった気がした。
「わたし、遼ちゃんのこと、ずっと、待ってたんだよ」
僕は、うつむいたまま、小夜の言葉を噛み締めながら、同時に背後にある扉のことを考えた。
屋上へ出る扉。決して開かない扉。僕はその先の景色を知ることができない。
そこにあるもの、ないもの、決して知ることができない。
たとえばその先にはざくろやすみれがいて、あるいは愛奈やあの男の子がいるのかもしれない。
僕はおそらく、不釣り合いに恵まれている。
同じことをした誰かより、おそろしいくらいに恵まれている。
それを、受け取ってもいいのだろうか。
僕はそれにふさわしいだけのことをしてきたのだろうか。
“あなたの欲望のなかに、"あなた"はいない。"誰か"の欲望のなかにしか、"あなた"はいない。"あなた"の欲望の中にも、"誰か"はいない。それって、悲しいことだよね”
僕は――。
「小夜」と、その音が、自分の口から出るのを、久し振りに聴いた気がする。
「一緒に居て欲しい」
「……うん」
「もう、ひとりじゃ無理なんだ」
「……うん」
「わけが、わからなくなって、もう、どうしようもない。だから……」
「――愛奈ちゃんを、守ろうとしてたんだよね」
「……違う、僕は」
「違わないよ。……大丈夫だよ、遼ちゃん」
「……」
「遼ちゃんが愛奈ちゃんを守るなら、わたしが遼ちゃんを守るから」
彼女の指先が、僕の頬にかすかに触れた。自分の手のひらで抑えているせいで、その姿が全然見えなかった。
触れられるまで気付けなかった。
「やっと、話してくれたね」
僕の手を、彼女は僕の目から引き剥がす。
泣き顔を見られるのも、相手が小夜なら、仕方ないことだと自然に思えた。
◇
僕が戻ってきて数日が経った頃、母さんがひそかに教えてくれた。
僕がいない、その間に、姉さんがこの家を訪れたという。
ただでさえ僕がいなくなって気を揉んでいた――であろう――母さんに、姉さんが言ったことは、母さんの感情を烈しく揺さぶった。
戸籍を移したい、と姉は言ったのだ。
どういうこと、と母は訊ねた。
いいかげんはっきりさせたほうが、母さんも楽でしょう、と姉は言う。
わたしが楽かどうかの問題じゃないわよね、と母さんが言った。
そこでわたしの責任にしようとしないで。どうしてそんなことを言い出したの?
姉は答えなかった。
結局その日はそれ以上話をしなかったという。
突き詰めて言えば、それは金の話だった。
専業主婦として穂海を育てている姉は、夫の収入を頼りにして生活している。
夫の方が、一緒に暮らしているわけでもない他の男の子供に金を出すのを渋っているのだろうと母は推測していた。
それがアタリだろうと僕も思った。
学校からの集金が遅れるようになってからしばらく経つ。
ついには、口座に金が入っていないから給食費の引き落としができないと通知まで来ていた。
両親に、娘の食費や衣料品代を出したという話もまったく聞かない。
そして、弟である僕が行方不明になっていたときでさえ、両親にそんな話をしたわけだ。
ここまで来ると、なんだかよく分からない。
姉のことを悪い人間だと思ったことは一度だってない。
根っからの悪人だと思ったことなんて、一度だってない。
一度だって、ない。
それでも、もう、そういう問題ではないのだ。
正しいとか、悪いとか、そういうことではなく、僕たちは、それでもこの日々を生き延びていくしかない。
この日常を、やり過ごしていくしかない。
◇
その日から、僕と小夜はふたりで帰るようになった。
べつに、それで何が変わるというわけではない。
何かが解決するというのでもない。ただ、何気ない話をして、一緒に歩くだけのことだ。
久し振りに話してみると、どうやら互いが互いにそれぞれの様子を窺っていたのだと分かってバカバカしくなった。
もっと早く話していればよかった、と小夜は言った。僕は、あまりそうは思わない。
今ある結果に、そんなに不満は抱いていない。それに、贅沢は言えない。
この結果だけでも、僕には十二分だ。
ある日、校門の手前で、篠目あさひに呼び止められた。
「どうしたの」と訊ねると、彼女は少し不思議そうな顔をした。
「前と違う」
「何が」
「顔」
「……まあ、いろいろあったから」
「そう」
「……何か、あったんじゃないの?」
「うん。沢村翔太のこと」
「……沢村?」
「もう、心配しなくていい」
僕には、その言葉の意味がよくわからなかった。
行方知らずになった沢村が、帰ってきた、という意味だろうか。
でも、沢村が、こっちに戻ってくるなんて、僕には思えない。それに、それを篠目が僕に話す理由も分からない。
「……妙な夢でも見た?」
「ううん。しばらく見てない。だから大丈夫」
篠目の言うことは、やはり、よくわからない。
「わかった。ありがとう」
とにかくそう伝えると、彼女は何も言わずに僕に背中を向けた。僕もまた、もう彼女に用はないと思った。
「それじゃあね、遼一」
何気なく、その声を聞き流して、
驚いて振り返った瞬間には、篠目あさひの背中はどこにもなかった。
遼一、と、僕を呼ぶのは。
その彼女が、“沢村のことは心配しなくてもいい”ということは……。
「……遼ちゃん?」
隣にいた小夜が、心配そうに僕を見上げているのに気付く。
僕は、それ以上深くは考えないことにした。
すみれのこと、ざくろのこと、気にならないわけではない。
でも、きっと、いくら考えたって、もう分からない。
◇
終わりかけの夏はいつのまにか過ぎ去って、季節は秋に変わり、けれどまだ、紅葉の見える季節にはなっていない。
やがて、景色はまた移り変わっていくだろう。
僕は通い慣れた道を小夜と一緒に歩いている。
それだけのことで、以前より、心がいくらかマシになっている。
けれど、問題はここからだ。
僕が見過ごしてきた欲望。
僕が軽んじてきた僕の言葉。
それを拾い上げてもらった。
僕がしてしまったもの、僕が軽んじてきたもの、僕が大切にしたいもの。
それと、向き合っていかなければいけない。
守ったり、守られたりしながら。このからっぽの僕自身を、誰かにふさわしいように、少しでもマシにしていきながら。
小夜と別れ、僕は自分の家の扉の前に立つ。
そのあたりまえの日常の空間に、向かっていく。
扉を開ける。
「ただいま」と僕は言う。
少しして、とたとたと、軽い足音が聴こえてくる。
リビングの扉から、愛奈が半身を覗かせて笑った。
「――おかえりなさい!」
つづく
おつです
◆[L'Oiseau bleu]A/a
わたしがいない間に、二週間が経っていた。
わたしが帰ってきてから、二週間が過ぎた。
季節はもう、秋へと移ろっていた。
わたしが帰ってきた日の夜、おばあちゃんはわたしを抱きしめてくれた。
警察の人に事情を聞かれたけど、どう答えればいいのかわからなくて、何も言えなかった。
二週間の間野宿をしていたにしてはわたしの服装は綺麗で、どこかにさらわれていたとしても綺麗で、
だから結局警察は、不良少女の家出という現実的な解釈をしたのだと思う。
たいしたことは聞かれないまま終わってしまった。
おばあちゃんは高校に届け出てはいなかったみたいで、だからわたしは、
季節の変わり目にタチの悪い風邪を長引かせていただけだと、周りには思われていたようだった。
その奇妙な現実的な感覚は、かえってわたしの頭を混乱させた。
わたしの世界では相変わらずお兄ちゃんは死んでいて、相変わらずお母さんは傍にはいなかった。
お兄ちゃんが貯めてくれたお金もそのまま残っていた。ただ時間だけが流れていた。
そのせいでまるで、あの世界で起こった何もかもが悪い夢だったんじゃないかという気さえした。
――言ったろ。そのうち覚める夢だと思うことにしたんだ。
結局、彼の言葉の通りになったのかもしれない。
そのうち覚める夢。
けれど、夢から覚めたはずのわたしの傍に、ケイくんはいない。
それがどうしてなのかは、分からない。
でも、よく考えてみたら、ケイくんがこっちに帰ってきていたとしても、わたしはケイくんを見つけられないかもしれない。
同じ高校に通っているとはいえ、この学校の生徒なんて何百人といて、
その中で彼だけを見つけ出すなんて至難の技だし、わたしは彼のクラスも知らなかった。
もちろん見つけ出そうと思えば名前を頼りに探すことだって出来ただろうけど、それはしなかった。
屋上の鍵は閉まったままになっていた。彼はわたしの前に姿を見せない。
そうである以上、ケイくんは帰ってきていない、と考えるのが、自然なことに思えた。
それでも毎晩夢を見るたびに、ちらつくのはざくろの言葉、ケイくんの声。
――俺と、もう関わらないでくれないか?
――だからね、"血は流されないといけない"。
不吉な響きと、拒絶の言葉。
それがわたしの心を不安にさせなかったと言えば、嘘になる。
一週間前の土曜、わたしはひとりで例の遊園地の廃墟へと向かった。
同じような道のりを一人で歩いて、ミラーハウスのあった場所まで。
その日は雨は降っていなかったし、奇妙な物音も聴こえなかった。
ミラーハウスだった建物は、もうどこにもなかった。
◇
ケイくんのいないままの高校で、文化祭が開催された。
どこにも行き場もないまま、わたしはあちこちをうろうろしたり、校舎裏で本を読んだりして過ごした。
たまにクラスメイトに話しかけられたりもしたけど、何かを手伝えとか、そんなことも言われなかった。
べつに仲が悪いわけでもない、苦手なわけでもない、ただひどく疲れていたし、
わたしが顔を出して楽しい顔をするのは、果実だけを横取りするようで憚られた。
それに、楽しい顔なんてできそうにもなかった。水を差すくらいなら、誰にも見咎められないところにいた方がいい。
校舎裏の古い切り株に腰かけたまま、ページをめくる手がふと止まった。
風が肌を撫でていった。
わたしは思う。
苦しかったのだろうか?
つらかったのだろうか?
悲しかったのだろうか?
寂しかったのだろうか?
こっそりとお兄ちゃんの部屋から持ち出した本。
紙面に目が止まる。
"かたわらにいないと
あなたはもうこの世にいないかのようだ
窓から見えてる空がさびしい
ひろげたまんまの朝刊の見出しがさびしい"
こちらの世界に帰ってきてから、わたしは、お兄ちゃんの部屋の本棚の中身と、祖母が残していたアルバムを眺めた。
写真に映るのが嫌いな人だったけれど、それでも、お兄ちゃんの姿はそのうちの何枚かにちゃんと残っていた。残っている。
その写真の中で、お兄ちゃんは笑っている。笑っていた。
そうなのだと思った。
いつか、遠くの薔薇園に、家族で行ったことがあった。
家族で、といっても、祖父母とお兄ちゃんと、それからわたしだけだったけれど。
生憎の曇り空で、人気は少なかったけれど、西洋風の庭園に広がる色とりどりの薔薇たちは、
見られるかどうかなんてはじめから気にしていないかのように綺麗だった。
そんな景色のなかで、わたしはお兄ちゃんと、少しだけ話をした。
どんな話をしたんだっけ。たしか、神さまの話だ。神さまの、悲しみについて話をしたのだった。
それはどこにでもありふれていて、取るに足らないもので、それでも捨て置けないものなんだと。
そんな話をしたのだった。
そのとき、お兄ちゃんは、どんな顔をしていたっけ?
わたしは、そのとき何かを言って、くだらない、子供っぽいことを、きっと言って、
お兄ちゃんはそのとき、笑っていたのだった。
そうだった。笑っていた。
笑っていたのだと、わたしは思い出した。
苦しかったのだろうか?
つらかったのだろうか?
悲しかったのだろうか?
寂しかったのだろうか?
きっと、そのどれもが正解だ。
でもきっと、それだけじゃなかった。
それだけじゃなかったと、わたしは信じてもいいだろうか。
……違うか。
それだけじゃなかったと、今のわたしは、そう思える。
きっと、それだけじゃなかったと、そう思う。
そんなふうに思うことに、誰かの許可なんて、いらない。
誰かに許してもらう必要なんて、どこにもない。
ここにいることも。
誰かを好きになることも。
誰かと一緒にいようと思うことも。
そうしてもいいのだろうかと、誰かに求めたところで仕方ない。
きっと、そうなのだろう。
そう言ってしまいたくなるのは、きっと、自分に自信がないからで、
それでも、誰かに許してもらえることを期待しているからで、
その浅ましさが、弱さが、でも、どうしてだろう、わたしには、
そんなに、悪いものだとも、思えないような気がしていた。
◇
「……何やってるんだ、こんなところで」
不意に、そんな声が聞こえた。
「ひとりなのか?」
聞き覚えのある声だなあ、とわたしは思った。
なんだか、まどろみのような心地だった。
「……なんだか、悪いような気がして」
「何が?」
「楽しむのが」
「誰に」
「……ううん。どうだろう、いろんな人に、かな」
「楽しむのに、悪いも何もないだろう」
「ほら、それでも、お通夜に携帯でお笑いの動画を見る人はいないでしょう」
「……ひどい例えだな」
「でも、そういうこと。遠慮というよりは、粛み、という感じ」
「分からなくは、ないけどな」
「笑えないわけでも、楽しめないわけでもないの」
「……」
「でも、今はもう少し、喪に服していようかと思って」
「喪、か」
「……ね、どこに行ってたの?」
「長い話になる」と彼は溜め息混じりにいって、わたしの背後に腰掛けた。
同じ切り株に、わたしたちは背中合わせに座っている。
風がまた吹き抜けて、本のページをめくる。
木々の梢で赤らんだ葉が、いくつかひらひらと舞い落ちていく。
「どうしても聞きたいっていうなら、話してやってもいい」
「そんなに、興味があるわけじゃないかな」
「……なんだよ。気になるだろ、少しは」
「聞いてほしいの?」
「いや。でも話すよ。面倒なところだけ、省略するけど」
「うん。そのくらいが、ちょうどいいかな」
彼がわたしの背中にかすかに体重をかけた。
「ね、ちょっと重い」
「悪いな。さっき帰ってきたばっかりで、疲れてるんだ」
「……さっき?」
「ちょっとした賭けに巻き込まれてたんだ。もっとも、俺がどう動くかが対象の賭けで、俺が賭けたわけじゃないけど」
「ふうん」
「まあ、でも、結果だけ見れば、俺は騙されなかったってことになるんだろうな。あいつの負けだ」
「……じゃ、勝ったの?」
「だから、俺は参加者じゃなかったんだよ。……でも、まあ、勝ったっていえば、勝ったな。ここにいるわけだから」
「大変だったんだ」
「そう、大変だった」
「……帰ってこないんじゃないかって、思ったよ」
「俺も、そう思ったよ」
「でも、帰ってきたんだ」
「帰ってこないと、また拗ねる奴がいそうだったからな」
「……大丈夫だったよ」
「それはそれで、ちょっと残念な気もするものだな」
「そうなの?」
「いなくても大丈夫って言われるよりは、いないと困るって言われた方が嬉しい」
「……」
「たぶん、そんなもんだよ。多かれ少なかれ、人間なんて。誰かに、必要とされたがってる。必要としてくれる誰かを必要としている」
「そうかも」
「でも、大変だったよ。なあ、俺がどうやって帰ってきたと思う?」
「わかんない。そもそも、どこに行ってたの?」
「ちょっと、いろいろな。案内役がいないせいで、あちこち時間を飛んで回ってたんだ。ざっと、三日間くらい、望む時間につくまで行き来してた。
途方に暮れたよ。なんだかよく知らない世界まで混じってくるし、あいつらの追いかけっこも続いてたし」
「……そうなんだ?」
「ああ。大変だった。……伝わらないか?」
「うん」
「参ったな」
「ね……」
「ん」
「帰ってきてくれて、よかった」
「……」
「ホントは、不安だった。心配、してた。だって、だってさ」
さっきから、高ぶっていた気持ちをどうにか押さえ込んで、ようやく落ち着いてくれたと思ったのに、
だからもう、振り向いても平気だと思ったのに、また、だめになりそうだ。
それでも、もう、振り向こうと思った。
彼の顔が見たくなった。
「ケイくんがいないと、困るよ、わたし」
彼は、わたしが振り向いた気配を感じたのだろうか、肩越しに少しだけ首をかしげて、わたしと目を合わせて、笑った。
ケイくんは、何気ないふうを装ってみせた。
「そうかい」
その照れ隠しが、ひどく懐かしい。
「言ってくれた言葉、無効になったりしないよね?」
「……どれのことだ?」
「全部」
「……ま、そうだな」
「ね、だったら、わたし、ケイくんと一緒にいてもいいかな」
「……」
「だって、ケイくん言ってたもんね。わたしがいなきゃ、困るんだって」
「……そんなこと、言ったっけか?」
「言ったもん」
「……言ったな」
「だよね」
「……なあ、なんか」
「なに?」
「ちょっと、変わったか?」
「……そう、かな。そんなこと、ないと思うけど」
「いや、でも」
「もしかしたら、気分が変わったからかもしれない」
「気分?」
「もう少し、信じることにしたから。いろんなもの」
「……そっか」
わたしは立ち上がった。校舎の向こう側から、楽しそうな声が聴こえる。
こことそことの距離は、ほんの少し、遠い。
でも、今はべつに、ここでいい。このままでいい。
わたしは、切り株の上に膝を揃えて載せて、彼の首筋に自分の腕を回した。
肩に頭をのせてみたら、彼はくすぐったそうに身をよじった。
「なんだよ、急に」
「べつに、なんでもないよ」
「……敵わないな、ホントに」
そんな声が、当たり前に帰ってくることが、今は嬉しくて仕方ない。
彼には、それがちゃんと分かっているんだろうか。
「ケイくん」
「……なんだよ」
「……おかえりなさい」
彼は、おかしそうに笑って、それから、首筋にまわしたわたしの手の甲を、指先で撫でた。
「……ただいま」
空は晴れやかに澄みわたっている。
わたしたちは自分たちの身の回りに起きたことなんてひとつも変えられないままだった。
彼の話だとあの追いかけっこは終わっていないらしい。きっとまだ、彼女が彼女を追いかけている。
あの扉をくぐって、何度も何度も繰り返しているのだろう。
たどり着けるかも分からない場所を目指し続けている。
それをどうするべきなのか、どう思うべきなのか、わたしにはわからない。
過去は変えられないし、開けられない扉は開けられないままだ。
今となっては、お兄ちゃんの真意なんて、鍵のかかった扉の向こうにしまい込まれている。
わたしはやっぱり、その扉を潜り抜けることができない。
でも、その向こうが、悲しみや寂しさだけではなかったはずだと、今のわたしは、信じることができる。
それだけではなかったはずだと、思い出すことができる。
そして今は、彼が傍にいてくれていて、それを許してくれていて、
だからもう、足りないものなんてひとつもないような気がしている。
わたしは心の中だけで誰かにごめんなさいを言った。その意味は、きっと誰にもわからないし、わたしにも本当はよくわかっていない。
でも、ごめんなさいを言った。
「少し、寒くなってきたね」
なんて、そんなことを、平然としたふりをしながらいいながら、
きっと、今日のこの瞬間のことを、わたしはいつまでもいつまでも忘れないだろうな、と、ぼんやりと思った。
「……そうだな」と、ケイくんは、なんでもいいような相槌を打った。
また風が吹いて、落葉をさらっていく。
「そろそろ、行こうか」
わたしは、そう言って彼の体から離れて、立ち上がった。
「どこに?」と彼は言う。それでも、わたしに合わせて立ち上がる。
「わたしたちは日常に帰らないとね」
は、と彼は笑った。
わたしたちは、手を繋ぎ直して、校舎裏の切り株に背を向ける。
無言のまま前を見ている彼の横顔を見て、
そういえば、まだちゃんと、わたしの方から好きだって言ってないな、と、どこか場違いなことを思ったけれど、
それは、次の楽しみに、照れた彼の顔をもう一度見るために、とっておこうと、そう思った。
そんなことを考えたとき、わたしの胸の内側に、なんともいえないあたたかくて満たされた感じがじんわりと広がって、
それはあまり覚えのないもので、わたしを少し戸惑わせたけれど、
でも、ぜんぜん悪い気はしなかったから、これはよいものだなと思った。
この気持ちを言葉にしようと思ったら、きっと簡単なんだろうな、とわたしは思った。
でも、言葉にはしないことにした。きっと、その方がいい。
冷たい風がまた吹き抜けていくけれど、わたしの手のひらは、彼の手のひらに包まれたままだった。
おしまい
おつです
乙
おつです
( ´ー`)y━・~~~
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