【オリジナル】男「没落貴族ショタ奴隷を買ったwwww」 (655)

・ 1 8 禁 で す (高校生も駄目だよ★)
・地の文ありです
・固有名詞ありです
・男×ショタです

駄目そうな人は気をつけてください

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 法整備されて間もないスカイカーから、祖父は自慢げに降り立っている。
 タカシもそれに倣う様にして降り立ち、それから軽い眩暈を振り払うかのようにぎゅっと硬く目を瞑った。
「タカシ」
「はい」
 呼ばれて慌てて祖父の後に続けば、そこはもう異次元への入り口とも呼べそうな光景が広がっている。
 と言っても妙にメカメカしいだとか、近未来的であるとか言うわけではない。
 逆だ。妙に古めかしいのだ。小物ひとつをとってもそう。大昔の日本を髣髴とさせるその場所は、
その『大昔』を生きたことがないタカシにとっては異次元と呼んでも差し支えはないだろう。
「なにをしている」
 あんぐりと口を広げていたタカシは、その呼びかけにハッとなって再び祖父に追いつくべく小走りをした。
 異次元への入り口は、朱塗りの鳥居。
 その先に続く大通りに立ち並ぶ飲み屋には、洒落た赤いちょうちんが鈴なりにぶら下がっていた。
 どの店にも入り口の脇には格子が設けられており、その中には見目の麗しい男や女、少年少女が
露出度の高い衣類を身に纏い、通りすがる人々を誘惑している。
 ――お兄さん、お姉さん、旦那さん、そこの御婦人。
 呼びかけは様々ではあったが、女性に対しては妙に気を使った呼びかけで、
それがなんだかおかしなものに聞こえてしまう。
 色町ですることなどひとつだろうに、こんなところでも『御婦人』は高尚でいなくてはならないらしい。
 なんとも不便な話だ。
 気取った身なりと態度で、それでも『知り合いに見つかりはしないだろうか』と
周囲をやや怯えた様子で窺う女性たちをすれ違いざまに見遣りながら、タカシはこっそりと苦笑していた。

「どうしたんだね」
 タカシの一メートルほど先を歩む祖父に「いいえ」と返事をする。
 御婦人たちを少々馬鹿にしていたタカシだが、実のところ花街を訪れた経験は数えるほどしかなく、
今回の来訪も数年ぶりのこととなる。彼女たちのように緊張こそしてはいなかったが、
なんとなく浮いているような気がして、視線が泳ぐのは止めようがなかったのだ。
 久しぶりに訪れたこの街は、記憶にある場所とは随分と様相が異なっており見るもの全てが新鮮に写る。
 まるで街全体がお祭りだ。性質上、風紀を乱すと批判も多いが、
花街の周辺地域が潤った経済状況であるのも、このテーマパークさながらの場所があってこそのものだろう。
「母さん卒倒するだろうなぁ……」
 本家に住まう鬱陶しいほどに過保護な母を思い浮かべ、タカシは苦笑した。
「黙っていればいいだろう」独り言のつもりの呟きは、きっちりと祖父に拾われたようだった。
 ――タカシは、日本を代表する企業の御曹司だ。様々な事業を手がけていたが、主となるのは
アンドロイドの製造販売だ。おかげさま日本シェア一位の冠はここ何年も譲ってはいない。
 そんな企業の次期CEOとなれば、それはそれは大切に育てられ言う自覚もあり、
今日のように祖父に連れられ花街へと繰り出したと知れれば母がどんな風に怒り狂うかは目に見えていた。

「気になるか?」
「いいえ、大丈夫です」
「そうか?」
 祖父は怪訝な顔をすぐさま引っ込めて、慣れた様子で大通りを進んで行った。
 カラカラと音が鳴る。祖父の足元の下駄と言う履物が奏でる音だ。
 彼の服装は着物、足元は下駄と言う、近頃流行している和装姿であった。
 大昔の日本でよく身につけられていたらしいそれは、近頃日本ではブームのようで、
 老いも若いもこぞって着物や下駄を好んでいた。タカシはと言えば、一度だけ着てみたものの、
あの動きづらさに辟易し結局シャツにスーツと言う何の変哲もない服装に落ち着いている。
 タカシは依然鳴り続ける小気味のいい音を耳にしながら、
みっともなくはない程度に視線を方々へと移動させ花街の景色を楽しんでいた。
「もう少しで着く。今日の店はそんじょそこらの店とは違うから期待しておけ」
 やけに嬉しそうに言う祖父に、タカシは『この人もまだ現役なのか』と妙な感慨が浮かんだのだった。
 タカシも女を知らぬわけではない。
 星の数ほど抱いた、などと言うだらしがない自慢話をするほどにこなしたわけではないが、
年相応にそれなりの経験をしていたし、女をわざわざ金で買うほどに飢えているわけでもない。
 遊女や、もっと低俗な売女を買うこともあったが、それほど『イイ』と言うわけでもなかった。
 人間の体の構造など大した違いはない。首の上についているものが美しいか否かで
やる気に差異はでるものの、行為の最中の快感については顔立ちに左右されるものではないだろう。
 祖父には気に入りの花魁がおり、週に何度かこの花街を訪れているというが、
そこまで女一人に夢中になれる彼のことをいっそ『可愛らしい』と思えた。

「ついたぞ、ここだ」
「はぁ……」
 タカシは気のない返事をしながらも、大きな興味を示しながらその店を見上げた。
 ――まるで寺だ。
 第一印象はそれだった。
 と言うよりも、仏堂そのものを模したような建物で、本来ならば、
 寺の内部へと続くのであろう入り口には格子が儲けられ、そこに美しい老若男女が
誘うような眼差しでタカシを見つめつつ座していた。
 数百年前ならば『罰当たりな』と顔を顰める者もいたのだろうが、今は時代も時代、
車が空を飛びアンドロイドが人間と区別がつかぬような顔をしているとなれば、
もとより宗教観の薄かった日本人はますます宗教に関心を寄せることもなくなり、
寺だ神社は単なるパワースポットと化しているのだから、咎める者の方こそ無粋なのであろう。
 タカシは縦にも横にもやたらと大きなその建物を上下左右くまなく見回すと、妙に感心し、
それから噴出した。
「なんだ?」
 突然笑い出した孫に祖父は怪訝な顔をし、それから背を叩き『早く入れ』と促す。
「なんでもありません」
 しかしタカシは笑いを堪えることもできないままに、妖艶な男女が手招きをする店内へと足を踏み入れたのだった。

「これはこれは」
 支配人の男は、手もみをしながら祖父へと近づくと恭しく頭を垂れた。
 蝶ネクタイが巻かれた首元から、バーコードが認められ、
なるほど、彼はどうやらアンドロイドのようだとタカシ納得をした。
 なんとなく腕の動きが不自然なのはその為だろう。自社製品には遠く及ばないなというのが感想であった。
 祖父はそれを気にした風でもなく「やあ」と言い、それから「いつものを」と短く指示を出す。
「どうぞ、お座りになってお待ち下さい」
 アンドロイドに言われ、タカシはビロード張りのソファへと祖父とともに腰掛けた。
「痛……ッ」
 尻をそこに落ち着けた瞬間だ、前頭部を鈍い痛みが駆け抜けたのは。
「どうした?」
「いえ……」
 こめかみを摩りながら「なんでもない」と返事する。
 近頃は少しばかり仕事が忙しく、持病の偏頭痛が時折ではあるが突如として現れるのだ。
 珍しいことではない。いつものことだ。忙殺されていると、まるで息抜きを請うかのように
体が訴えだすのだ。
「ただ頭痛です」
「大丈夫なのか」
「ええ」
 本当に大したことはない。いつものことだ。
 それでも気遣わしげに見遣る祖父へと「本当に平気です」と言えば、彼はそれ以上問うことは無粋と思ったのか、
大人しく口を閉ざした。
 タカシはたった一人の孫だから、気遣うのも当然と言えば当然かもしれない。
 しかしこうしていい大人である自分へと過保護に接するのは、タカシ自身が恥ずかしくもあるのだ。
 家の人間は過保護で仕方がない。
 タカシはそんなことを考えながら少しだけ目を瞑った。

「お待たせしました」
 支配人のアンドロイドに引き連れられてきたのは二体のコンパニオン型のアンドロイドで、
彼女たちはやけに上品な仕草で二人を二階へと誘った。
「楽しんでいってくださいましね」
 妖艶に微笑んだところで所詮アンドロイドだ。
 妙に白けた気分になったタカシであったが、大人しく二階へと続く階段を上って行く。 
「薄暗いな」
 階段は木製で、足によく馴染む絨毯が敷かれていた。
 その感触に気づいたのも数段上ったあとのことで、つまりそんなことにも気づけぬほどに
階段は薄暗く、注意の殆どはそちらに持って行かれていたのである。
「なに、そのうち慣れる」
「こちらです」
 コンパニオンが細腕で観音開きの重厚な木製扉を開け放つ。
「あれ……」
 思わず口をついて出た間抜けな言葉は、案内された場所の様相が、自身の想像に大きく反していたからだ。
 てっきり座敷へと案内されるのかと思えば、そこは大広間で、今からなにやら催しものが
開かれるようだった。
 予想と異なる展開に戸惑うタカシをよそに、祖父は指定席でもあるのか、
コンパニオンを差し置きズンズンと会場を闊歩し、そして部屋の奥のステージに最も近いソファへと腰掛けた。
 タカシも祖父に促されるまま四人掛けのソファを二人で陣取り、座り込む。
 ウエイターが持ってきたワインを飲み干しながら、タカシはこれから起こる『なにか』に
期待と困惑を抱いたまま、しかし顔には出さぬように努めながら備えていた。

 ぞくぞくと人が集まり、しかし互いに声を掛けぬまま各々がソファや椅子へと腰掛け始める。
 所謂一等席は、ソファのようだが、タカシは別に椅子でもよかったのに、と考えた。
 深く沈み込むそれに、完全に体を預けながらしかしタカシは欠伸を噛み[ピーーー]ために唇を噛む。
「……大丈夫か?」
「平気ですよ。少し眠いだけです」
 欠伸ひとつについてあれこれと言われては敵わない――、全く面倒だ、と思いつつ、
キリリと痛む頭をひと撫でして微笑んでやる。
「ならいいが……」
「大丈夫です。それよりお爺様、」
 遅れてやってきた二体のコンパニオンが、どうしたらいいのか、と言う顔でタカシを見ていた。
「ああ、君たちは下がってくれ」
 その失礼極まりない言葉に彼女たちは気分を害することもなく――、害しようがないが、素直に去っていく。
 なんのために用意したコンパニオンかよく判らないが、つまりは『箔をつける』ための行動なのだろう。
「お爺様、」
 何事かを呼びかけようとした瞬間、薄暗い大広間はそのままに、舞台に明かりが点った。
「うわ……」
 眩しさに目を眇めると、その間を縫うようにして舞台は雰囲気をがらりと変えた。
 女、男、女、男、男、女、女……、たくさんの人間だ。
「どうだ、美しいだろう」
「……はい」
 思わず目を奪われるような麗し男女が、まるで商品のように舞台に並んでいた。
 いや、彼らも商品には違いないが、その容貌がみな作り物めいているのだ。
 格子の中に並んでいた彼らも美しかったが、しかし今舞台に並んでいる彼らはそれとは比にならぬほどに
みな美しい。まるで作り物だ。そんな彼らが全裸で、一糸纏わぬ姿で並んでいるのだからたまらない。
 桃源郷か、或いは幻想か。
 そんな馬鹿なことを思いながら、タカシは舞台を凝視した。

『紳士淑女の皆様、ようこそお越しくださいました』
 袖から出てきたスーツ姿にシルクハットの男は、
慣れた様子でオーバーリアクションを取りながら挨拶をはじめた。
 挨拶は説明に変わり、いわく、ここは競売場であるとのことだった。
 店に出されている男娼や娼婦となにが異なるのかと言えば、『ランク』であるらしい。
 今舞台に並ぶ彼らは『初物』で、なおかつ『出自がよろしい』のが売りのようだった。
 みな没落貴族などから売り払われてきた子女であり、
なるほど、タカシが見たことがある顔がちらほらいるのも納得がいく。
 国が変わり政治が変わり、突然制度が革められ、お家取り潰しとなり突如として貧しくなった元貴族は少なくない。
 国は変わった。輸出入に対する鎖国が解かれ、飛行機の輸入なども盛んになり、富める者はますます富んだが、
 しかし今まで貴族と言う名の頑健な鎧に守られていた能無したちは没落するより他はなかったのだ。
 幸いにもタカシは庶民の、詰まるところの労働階級の頂点に家があったからどこかに売られることも
貧困に喘ぐこともなかったわけだが、もし、万が一自分が貴族であったのなら……、と思うと怖気が走る。
『初物としてお買い上げいただくこともできますが、なにせこの見目、この血統、是非ともペットにどうぞ!』
 司会の男は右から順に商品を紹介していく。
 由緒正しきナントカ家の三女だとか、女にしか見えない長男だとか紹介されているが、どうも彼らは
飼い主が『抱く側である』ことを前提に売られているようだった。
『入札は当然のことながら現金のみでございます!』
 入札は始まっている。まず競り落とされたのは、開国以前に農民を酷く搾取していた名家のご令嬢であった。
 芋虫を髣髴させるでっぷりとした親父に買われ、早々に舞台袖に引っ込んだ。

みて●るよ

『お次にご紹介するのは……』
 明るい声音で笑顔のまま言う男に反して、商品たちの顔はみな暗い。
 人生を諦めたような無表情の者、漁港に引き上げられた魚のような目をした者、赤く泣きはらした顔の者――、
誰一人幸せそうな者は居なかった。これから紳士の皮を被ったヒヒジイどもに手篭めにされるのだ、
当然と言えば当然であろう。
 ましてや相手はかつては自分たちが見下してきた庄屋などの労働階級の者たちだ。
 その感情は筆舌に尽くしがたいものに違いない。
 彼らの目には、きっと年若いタカシもその『ヒヒジイ』に映っているのだろう、
時折目が合う彼らのうちの何人かはひどく反抗的な目でタカシをにらみ返していた。
 ――これは思いのほか面白そうだ。
 元々サディスティックな性分を持つ自分自身を自覚していたから、
あの勝気な男娼や娼婦の誰か一人を買い取り思いのまま屈服させたい――、そんな感情が芽生えたのだ。 
 商品の顔を具に見ようと、タカシは一等席でありながら、わきをすり抜けようとしたウェイターに声を掛け
オペラグラスを所望した。三等席の客たちが使うもののようだが、一等席の人間が使ったところで問題はあるまい。
 双眼鏡型のオペラグラスには一本の持ち手がついていて、タカシは早速それを覗き込んだ。
 見れば見るほど、みな美しかった。
 女の見場が整っているのは当然として、男も素っ裸でなければ性別が判らぬようなものだとか、はたまた
男と判っていても妙な気持ちを抱かざるを得ないような艶かしい体躯を持った者もいた。
 これはノーマルでも少しばかり気の迷いを起こしてしまうだろう――、そんなことを考えつつ、
 しかしタカシは成人男性に欲情する趣味はてんでなく、その気になれるのは
精々思春期を迎えるか否かと言う年齢の少年だけである。
 とは言え基本的には所謂ノンケであったから、少女を買うつもりでいるが、
しかしたまの如何物食いもいいかもしれない、とタカシは口角を吊り上げ考えていた。

「あの首輪の少女が愛らしい」
 祖父の声にオペラグラスを一旦外し、彼の視線の先を再びレンズ越しに見る。
 華やかな顔をしているが、タカシの好みではない。派手すぎるのだ。
「そうですか?」
 祖父の言葉で気づいたが、時折首輪をした者が居る。
 もしかしたら抵抗の激しい人間にはそのような措置をとっているのかもしれない。
 オペラグラスをめぐらせれば、ざっと1/4ほどの商品の首が繋がれている。
 なにも身につけてない者よりも、首輪つきが気になるのは、おそらくタカシの悪い癖だ。
 抵抗しない人形よりも、うるさく喚く警戒心の強い猫の方が断然そそられる。
 そう、今まさに舞台の端で激しく抵抗をしている彼のような――。
 ボールギャグを噛まされている所為で、顔は少しばかり歪んでいた。
 会場のざわめきによって声はかき消されているが、おそらく出せない声で抵抗の言葉を吐いているのだろう。
 彼は首だけではなく手足も拘束をされている。
 身をよじり、会場を睨みつけ、そして暴れるのを背後から黒服に押さえ込まれている。
 落札した主人を殺しかねない眼光がそこにあった。
 あれにしよう。タカシは薄ら笑いを浮かべて考えた。
『お次に紹介するのは――』
 シルクハットの男が手を上げる。
 意気揚々とした紹介を耳にしながら、タカシは彼が紹介されるその時を待っていた。

 意外にも少年に入札をしたのは四、五名で、彼らはタカシの敵と呼ぶほどの存在ではなかった。
 歪んだ顔の所為か、それとも擦り傷だらけの体の所為か、みな彼のことは差ほど『趣味ではない』ようだった。
「こちらが御落札の御品でござます」
 アンドロイドの手によって、空気穴のある本皮製のトランクはタカシに引き渡された。
 一応服は着ているが、簡素なものであると付け加えられ、『生もの』であるから長時間の放置は――、
つまり未開封のまま部屋の放っておくのは望ましくない、という当然の説明がなされた。
 店の前で祖父に別れを告げ、馬車に乗って家路を急ぐ。
 スカイカーは大層便利であったが、趣がなく、タカシはあまり好きでなかったのだ。
 御者も馬も当然のようにタカシ自身のものであり、長年の付き合いにある彼らはタカシの足として
どこへでもついてきてくれた。勿論、御者がタカシの行動に口出しをするはずもない。
 間もなくして邸宅に到着すれば、手伝おうとする御者を制止して、タカシはトランクを自らの手で運び込む。
 道中も、屋敷にはいる直前も、トランクはくぐもった唸り声を上げていたが、
すれ違う侍女や下男は顔色ひとつ変えなかった。
尤も、顔色など変えようがない。彼らもまたアンドロイドであるからだ。
「さて」
 玄関から遠い、二階の自室に漸く到着すると、ランプに火を灯してタカシはにんまりと微笑んだ。
 自分でも気味の悪い顔をしているに違いないという自覚は大いにある。
 タカシは、興奮しているのだ。
 あの会場の雰囲気に充てられたのだろう、性的なそれではなく、初めて飛行機を見たときのような、
そんな純粋な興奮で胸が高鳴っていたのである。

 トランクのダイヤルを回し、そして蓋をそっと開け放つ。
 体を胎児のように丸めていた少年は、まず室内の僅かな光りにでさえ眩しそうに目を眇め、
それからタカシを見つけると、ひどくきつい眼差しで睨んできた。
 手足は枷で繋がれている。両手は両手で同士で足は別――、それならばよかったが、
 彼はその全てを体の真ん中辺りで繋がれていて、
どう足掻いても脱走などできないようないでたちでそこに納まっていた。
「やあ」
 タカシが声を掛ければ、しかし少年はうーうーと唸る。ボールギャグとはなんと味気ない風景だ。
 タカシは近くのデスクにまで歩いていくと、その引き出しに収められたはさみを持って帰ってきた。
 刃物を見て、一瞬怯える少年が可愛かった。
「動くなよ。今、切ってあげよう」
 むけられた刃物が余程怖いのか、少年は身を縮こまらせてそして硬直した。
 ギャグボールからにじみ出た唾液が、彼の情けない姿に拍車をかけ、しかし不思議なことにそれはタカシの
加虐心を満たしてくれる。
 刃物が安全に皮膚とベルトとの間に差し込まれたことに安心したのか、少年の体の力が一瞬抜ける。
 その隙を縫って、タカシはわざと刃先を首の付け根に当ててやれば、冷ややかな感触に相当驚いたのか、
再度緊張が強くなった。思わずにやけそうになるのを押し隠し、タカシは一気にそのベルトを断ち切ってやった。
「ほら、取れた」
 よだれで汚れたそれを、手近なゴミ箱に突っ込む。
 ランプの火が揺れると、少年の顔に落とされた影もふらりと揺らめいた。

「名前は?」
 会場で名は叫ばれていたが、しかし落札に夢中で彼のプロフィールなど聞き逃していた。
「……話すことはない」
 勝気な目がタカシを見上げ、数十秒の時間を開けてそう言った。
「いいや、話してもらうよ。私は君を買った。私は君の主人だ」
「俺は買われた覚えなんてないよ! ジンケンを無視するっておかしいと思わない!?」
 床に転がったままの姿勢で、首だけ持ち上げ言う姿が滑稽だった。
 くすくすと笑ってやれば、少年は「なにがおかしいんだよ!」と吼える。
 そうだ、これでいい。腹立たしさなど微塵も感じない。ただ、楽しいと思えるだけだった。
 少年が抵抗すればするほどタカシの楽しみは増えていく。
「なんだよ! なにがおかしいんだよ!」
 きゃんきゃんと犬のように吼え、少年は歯を食いしばっている。
 ああ、可愛い。タカシは歪んだ自分の嗜好を恥とも思わずに、少年を見下ろしていた。
「な、なに笑ってるんだよ! 俺を放せよ! チクショウ、放せよ!!」
 ひとしきり吼えさせたところで、タカシはトランクを蹴り飛ばした。
 衝撃に少年が怯えるのは当然のことで、きゅっと硬く目を瞑った少年の横にしゃがみ込むと、
更なる恐怖心を煽るために唾を吐きかけてやった。
「自分の立場を考えろ。貴族制度はもうない。いつまで御貴族様の坊ちゃま気取りをするつもりだ?
君の目が抉り取られて体を切り刻まれて豚の餌にされたところで、私を咎めるものはどこにもいないだろう。
何故なら君は私が買った『もの』なのだ」
「そんな……! ふざけんなよ、俺は俺だけのものだ!!」
「生意気を言っていいと誰が言った」
 細い顎を掴み、タカシは冷えた視線を投げた。

 タカシは貴族の、この貴族的な態度を嫌悪していた。
 なにをするわけでもなく、長く続く家系であるとか金が偶々あったというだけで称号が与えられ、
怠惰な生活を国で手厚く保護されのうのうと暮らし、それだけなら兎も角、
農民や商人を見下しきり人の上に人を作り、その下々の民の税で贅沢三昧の彼らが嫌いだったのだ。
 顔が歪むほどに頬を掴まれた少年は苦悶の表情を浮かべて「イハイ」と意味不明の言葉を漏らす。
「なにを言っているのか判らないね。ああ、私が手をどかせば話せるかな。放すつもりはないけどね。
痛いかい? 私はこのまま君の顎を砕くこともできるよ。そうされたくなかったら私の質問に答えなさい」
 一際右手に力を込めると、少年の目に涙が溜まっていった。
 それを確認して手を放すと、まずは最初にした問いと同じい「名は?」と質問をした。
 しかし不思議なことに、なんとなくではあるが彼がなんと答えるのかは想像ができた。
 そう、彼はおそらくこう答えるだろう――、
「……ショウタ……」
 そう。ショウタと。
 きっと会場で聞くともなしに聞いていたのが頭の片隅に残っていたのだろう。
 妙なデジャヴをかき消すようにして微笑むと、掌でショウタの頬をひと撫でした。
「そうショウタか。ようこそ、ショウタ」
 にこりと微笑み抱えてやれば、しかしショウタは殊更怯えた顔をする。
「君は今日から私のペットだ。可愛がってあげよう」
「ふざけんな! 嫌だ! 早くこれを放せ!」
 横たわったまま、がしゃんがしゃんと枷のついた手足を振り回しショウタは叫んだ。

 タカシはしばしの間、彼の暴言を楽しんだ。
「俺の爺ちゃんは大臣をしたことこあるんだぞ! お前なんか、すぐにでも捕まえてくれるんだよ!
俺にこんなことをしてただで済むと思うなよ! お前が俺にこんなことをしたってわかったら、お前こそ豚の餌だ!」
 貴族のお坊ちゃまとも思えぬような罵詈雑言が飛び出し、しかし稚拙なそれはいっそ愛らしいほどだ。
 タカシはショウタの前に椅子を置くと、それにすわり、そして口角を持ち上げたままで彼を見下ろした。
 止め処なくあふれ出す罵詈雑言を悠然とした笑みで受け止め、
そして彼の呼吸が荒くなる頃を見計らうと、先ほど取り除いたばかりのゴミ箱の中のギャグボールを
口内に突っ込んでやる。
 息苦しいのか、それとも恥辱のためか、ショウタは目を見開きタカシを見た。
「君のお爺様が大臣だったからなんだというんだ? 家はもうないだろう。
家は潰れ、そして君は売り出された。そうだろう?」
 ただ事実を淡々と述べていけば、しかしショウタの目には涙がたまり、それはすぐさま滝のようにこぼれだした。
 もごもごと何かを言いたげにしているが、如何せん口に異物を突っ込まれた状態ではそれも叶わない。
 タカシは溜息混じりに「諦めたらどうだ。お前はここに居るしかないよ」といいつつギャグボールを取り外すと、
ショウタはキッとタカシを睨んだ。
 唾液でぬらぬらと滑るようになった指をシャツで拭い、タカシはショウタの顔を手で掴んだ。
「うるさい、うるさい、うるさい! お父様は俺を迎えに来ると言った!」
「信じているのかい、それを」
 子供の純粋さに呆れと嘲りを隠し切れず、タカシはクックッと喉の奥で笑う。
「なんだよ、なんなんだよ!」
「ばかだなぁショウタは。お前はお前の父親が自殺をしたのを知らないのか」
「……え……?」
ショウタの目がまん丸になるほどに見開かれ、そしてタカシを見上げると「嘘……」と呟くように言った。
「嘘だ、嘘言うな!」
「本当だ。ほら」
 わざわざ女中に探させたのは、ショウタの父の訃報に関する新聞記事だった。
 もうひと月も前のものであったから探すのに随分と難儀したが、
優秀な女中はきちんとその記事を見つけ出してくれた。
 タカシがざっと読んだ感じでは、これから明るいとは思えぬ未来を悲観して一家心中を図ったようだった。
 唯一手元に残った僅かな財産は自殺当日の晩餐に全てつぎ込まれ、そのスープの中に致死性の高い毒物が
混入させられていたようだった。

 自分の顔の横に転がった新聞記事を、ショウタは目を忙しなく移動させながら読んでいた。
 ショウタにはきょうだいが居なかったようだ。なんとか家を建て直そうと試みたものの、
金を騙し取られて泥沼化、ショウタは売りに出され、もうどうにもならぬと諦めがついたところで
心中をしたようだった。
「嘘、嘘だ……だって、だって……」
迎えに来るって、いっていたもん。
ショウタはかすれる声で呟くと、そのうちヒッヒッとえづきそして泣き出した。
「嘘だ、嘘だぁ……!」
「諦めろ。お前は私に買われたんだ」
 嫌だ、嫌だ。お母様、お父様、お爺様お婆様。
 果てはペットの犬の名や家に仕えていた庭師の男の名までを口にしながらショウタは泣き続けた。
「お前は他に行くところなんてないんだよ」
 残酷な言葉を告げれば、ショウタの泣き声はどんどん大きくなった。
 耳障りなほどに大きなそれに辟易すると、タカシはショウタを再びトランクに閉じ込めるため、蓋を閉じに掛かる。
「やめ、やめろ!」
「うるさいからね」
近所迷惑、とつけたし、それから抵抗をものともせずに蓋を閉じた。
 くぐもった叫び声が聞こえる。
 うるさい、興が醒めたなと一人ごちると、タカシはその部屋のランプをふっと息で吹き消し
そして廊下へ出ると、待機していた下男を呼び寄せトランクを地下へと運ぶことを命じた。
 扉の向こうでは、いまだショウタが叫んでいた。
「ああ、地下についたらトランクからだしてやってくれ」
 下男は「はい」とだけ短く返事をすると、タカシの顔を見ることさえせずにトランクを廊下へと引っ張り出した。
 きっと明日の朝にはすっかり大人しくなっていることだろう。
 ずきりと頭が痛んだ。
 今日は頭痛がひどい。こんな日に子供の喚き声をいつまでも聞いている必要はないだろう。
 明日の夜にまた来ればいい、と結論を出し、タカシはさっさと自室に引っ込むことにしたのだった。


>>10
ありがとう

今日はここまで


速報は初めて?
メール欄に半角でsagaって入れると「殺す」とかがきちんと表示されるよ
あと、ここでは基本、作者はsageない。読者がsageる
詳しくは「初めてSS速報に来た方へ」ってスレを読んで

あと、悪いけど行間を一つあけてくれると携帯から見やすくなるから、手間じゃなければそうしてほしい

待っ●いるよ

>>20
うお、素で間違えてたわthx
>>21
ありがとう

 昼過ぎに目を覚ましたのは、女中が遠慮がちに「坊ちゃま」と呼びかけたからだ。
「なんだ?」
 寝起きで頭が回らない。昨夜は遅くに帰宅をしたから、眠りにつくのが必然的に遅くなってしまった。
 どうせ今日は仕事も休みだと気分よく惰眠を貪っていたというのに、台無しである。
 扉の向こうから彼女は「あの」と言いづらそうに切り出す。
「あの、地下室が……」
 騒がしくてたまらない。
 彼女はそう告げた。地下室にはショウタが居るはずだ。食事の必要もないと告げてあるから、
使用人たちがわざわざ地下へと赴くことはない。
 となると、ショウタが外にまで聞こえるような声で叫んだり暴れたりを繰り返しているということになる。
「そうか」
「あの」
「大丈夫、今行くから」
 クロゼットからてきてとうな衣類を引っ張り出して身にまとう。着ていた寝巻きはそのまま手に持ち、
扉のすぐ傍で待機していた女中に手渡した。
「悪いね、騒がしくして」
「いえ……」
 彼女は目を逸らしタカシを見ようとはしない。
 それはそうだろう、彼女は昨夜までは自分の主人は『全うな男である』と信じて疑うことさえなかったのだ。
 気持ちの悪いものをみ見る目をされたとしても仕方がないだろう。
 そこまで考え、はて彼女は生身の人間なのか、それともアンドロイドであるのかと言う疑問が浮かぶが、
しかし答えは見出せなかった。
 家の中の人間についてまで殆ど把握していないのは褒められたことではないだろうが、だがタカシは
その手のことに深くこだわる性質ではなかった。元来の性質なのだから致し方がない。
 そう、極度のサド気質なのもまたタカシの元来の性質なのだ。
 だから自室から階段を下るなる微かに響いてきたくぐもった音に、寝起きながら興奮を覚えたのだろう。

 地下室への入り口は壁を隔てているが、それでも声ははっきりと聞こえるのだから、
近くであったのならどれほど響くことだろう。
「活きのいい子供だ」
「え?」
「なんでもないよ」
 イジメがいがある。舌なめずりしたいような、自分でも不気味に思えるほどの感情をもてあましながら
タカシは地下への入り口が設けられた家の中心部へと向かった。

 タカシの住まうこの家は、回廊型をしている。
 邸宅の一階は一二の部屋から成っていて、まるで時計ようだ。
 時計のとおりに番号を振るうならば、玄関の丁度前の部屋は六、
タカシが先ほど下ってきた階段のある辺りは一に当たる。
 玄関を開ければすぐさま障子で閉ざされた部屋が姿を見せ、それから首を伸ばして左右を見やっても
同じく閉ざされた部屋と長く伸びた廊下があるだけで他にはなにもない。
 見る者によってはさぞや不気味に映ることだろう。
 それぞれの廊下を真っ直ぐ進めば直角に折れ曲がった廊下がまだ続くわけではあるが、
玄関からはその様子は窺い知ることができない。
 おまけに、部屋の全ては障子で閉ざされているから、家の様子も、家人の人となりも判断ができぬに違いない。
 きっちりと同じサイズの部屋が並ぶ家は、はっきりと言ってしまえは不気味で、タカシはあまり好きではなかった。
 成人の祝いにと祖父より賜った邸宅であったから文句は言えぬが、しかしこの不気味さよりも更に
タカシの頭を悩ませるのは、この不便な家の造りなのである。

 それぞれの部屋に添う形で伸びる廊下は実はその端と端は繋がっていないのだ。
 六を基点として、向かって右に進めば一で廊下は途切れ、
逆に進めばに一二にが行き止まりになっているということだ。
 何故こんな不便な造りにしたのかタカシには判らなかった。
 さて、ショウタを放り込んだ地下室は一二の部屋にある。
 正確には、一二の部屋の中へと地下へ続く入り口があるのだ。
 タカシは一二に赴く間、そのくぐもった叫び声を存分に楽しんだ。普段は不便極まりない廊下も、
今日だけは乙なものと思えるから性欲とは不思議なものだ。
 微かに聞き取れるのは「馬鹿」だとか「アホ」、それから「死ね」という言葉で、貴族のお坊ちゃまにしては
如何せん語彙力が貧困だ。
 と言ってもはっきりと聞こえるわけではなく、僅かな音を拾って「そう言っているのであろう」と
タカシが脳内で補完しているだけだから、もしかしたらもっと高等な罵詈雑言を吐いている可能性もある。
 いずれにせよそれはタカシへの悪態に他ならぬはずで、そうに違いないと思えば気分が高揚した。
 タカシは確実にショウタの存在そのものを楽しんでいる。

 ようやくたどり着いた一二の部屋の襖を開き、そして現れた純和風の客間の、その床の間へと一直線に進む。
 掛けられた巻物を無造作に捲り、そしてその先に続く扉を押し開くと階段が現れた。
 階段のその先は薄暗く、目視することは困難だ。左手で壁を探ると突起物に行き当たり、
それを指先で軽く押せば、壁に点在する電灯に上部から下部へと流れるように順に明かりが点っていった。
 そしてその微かな光りで満ちた階下をタカシが見下ろすと、まるでそれを見計らったかのように
「開けろ!」と言うしゃがれた声が今度ははっきりと響き渡ったのだった。
 地下室に入るにはもうひとつ扉を開けなくてはならない。
 そのような状態でもショウタの声がはっきりと聞こえるということは、相当な大声で叫んでいるということだ。
 その声にほくそ笑む自分自身に呆れつつも、わざと足音を鳴らしてタカシは階段を下る。
 一歩ごとにひんやりとした空気で満たされていく空間を楽しみながら足を運んでいく。
 扉は階段を下りきってすぐの場所にある。内部へと続く重厚な木製扉を押し開けば、
首輪と手枷足枷が嵌められた姿のショウタがそこに居た。
「おい、お前、これ外せ!」タカシを見つけるなりショウタは歯をむき出しにしてそう叫んだ。
「……挨拶もないのか」
「そんなもの必要ない! いいからこれを外せ!」
「それは無理だね。だって君、逃げるだろ?」
「当たり前だろ!」
 馬鹿正直に答えるショウタに思わず笑みが漏れた。
「ならなおさら外せないよ」
 タカシの言葉に、ショウタは手足の自由を奪う鎖をガシャガシャと激しく鳴らした。
 そんなことをしたところでその鎖が千切れることはないのは当然判っているだろうが、
そうせずには居られない、と言った様子である。

地の分は結構なことなんだけれども、もしよろしければ地文と台詞の間に行あけてくれるとうれしい。
今の状態だと見辛くて…

 手は手枷のほかには手錠を嵌めているから、自由は利きにくいだろう。
 それでも手は壁、足は床へと繋がる鎖はいずれも長いから、
地下室内のみにおいてはある程度は自由に動ける仕様だ。
 過度のストレスは反抗心を早くに磨耗させる。だからこそある程度の自由――、
逃げられそうで逃げられない状況をタカシは作ったのだ。
「これ、外せよ」
 ショウタはタカシを睨みつつ再びそう言った。
 変声期前の可愛らしかった声はすっかりしゃがれている。二、三日大人しくさせれば治るのだろうが、
これはこれで味があっていいものだと考える。
 今まで明かりひとつなかった地下に灯された電灯は、少しばかりショウタの緊張をほぐしたようだった。
「眠れたか?」
「眠れるわけがないだろ!」
 それではいつどうやって枷を嵌めたのかと考えれば、下男が力ずくでショウタを押さえ込んだのだろう。
腕や足に青あざが残るのはその作業の所為かもしれない。
 傷はつけるなと言っておけばよかったかもしれない。
「眠っておけばよかったのに。一日は長いよ」
「どういう意味だよ!」
 手負いの獣よろしく歯をむき出しでタカシを睨むショウタにタカシは平然と「今から犯すからね」と
言ってやる。
「へ……?」
 言葉の意味が判らないわけではないだろう。しかしショウタは口を開け、
そして暫くそうしていたかと思えば急に唇を戦慄かせ「やめろ」と蚊の鳴くような声で言い放った。

>>27
物凄い量になっちゃうからさ…

めんどくさくなっちゃったから今日はここまで
行間空けるのってSS速報では絶対なのか……
なんて面倒な……すまんかった……orz



絶対って訳じゃないけど、どのスレでも大体は言われるな

別に俺はどっちでもいいよ
別にくっついてても読めるし、好きに書けばよかね

>>31>>32
絶対ではないのかー
じゃあいい……のかな
アメ○ロみたいな場所でよく見る一行ごと開けてある文章って
スクロールが多くて苦手なんだよ
他人のSSについては全く気にしないし面白ければなんどもいいって人間なんだが
自分で書いたものがそれだとちょっとな
スマホから見ると何度も指を動かさなくちゃいけなくて面倒なんだ

VIPで書くには量が多すぎる、小説家になりたいわけではないからなろうも違う、
それで前から覗いていたここに書こうと思ったわけなんだ 許してくれ

見難いって人、すまんが無理そうだったら回れ右してくれ
頑張って見なくちゃいけないほどもモンでもないんだ 本当にすまん

「む、無理だ……! 俺、無理だ、そんなの……!!」
「無理? 無理だろうがなんだろうが今から君は私に犯されるんだよ」
 ショウタはタカシの言葉に鎖をカシャンと鳴らしながら後ずさった。
「嘘、嘘だろ、だって、だって俺は……」
 そう、ステージ上に立っていた彼らは『特別な』商品なのだ。
 初物で、血統もいい。
 初物とは言え慣らしぐらいは施され、玩具のひとつやふたつはくわえ込んだことがあるだろう――、
そう思われるだろうが、彼らは正真正銘の『初物』なのだ。
「知っているよ。尻なんて弄ったこともないんだろ?」
「だ、だったら……」
 そんな恐ろしいことはやめてくれと目が訴えているが、タカシはそれに対して「君は私が買ったんだ」と
冷ややかに言い放った。
 何の為の血筋か考えてみれば容易い。
 買い手はかつて貴族であった彼らに鬱憤を抱く者たちばかりだ。
 それらを服従させることにこそ意味があるのだから、体が受け入れやすく作りかえられていたら
なんの意味もない。
 一から主人の手で意のままに体を作り変えることができる――、それがこの商品が『特別』であるゆえんなのだ。
「大丈夫、ちゃんと仕込んであげるから」
「や、やめ、やめて……!」
 申し訳程度の綿の衣類は女の着るネグリジェのような形をしていて、
それをひん剥いてやれば彼は丸裸になる。
 簡素なそれの裾にに手を掛ければショウタは手を振り回し、爪を立てて抵抗を試みた。
 女がスカートを捲られることに抵抗するような姿は、そそるものがある。
「やめろ、おい、ふざけんなよ、おい……!」
 抵抗は思いの外激しく、そして爪先は時折タカシの頬を引っかいていく。

「おい、おいってば……!」
「……面倒だな……」
 たくし上げるのをタカシはやめて、襟元に手を伸ばし、タカシはそれを一気に引き下げた。
 簡素なボタンが飛び散り、そして布が裂ける音がした。
「おい、なんでもする、だから、」
 布を小さく丸めると、口にへと突っ込む。そうすればショウタはもうしゃべることができない。
 罵詈雑言は楽しんだし、しかしここまで来てこれ以上に弱音を吐かれたら興ざめだ。
 なんでもする? 冗談ではない。それ以上に許しを請われたらタカシのそこは萎えるだろう。
 あくまでも抵抗する気概のあるショウタでいて欲しかったのだ。
 それから数十分の間、ショウタは抵抗を続けた。尻に触れよう物ならば足を振り上げて拒絶を示す。
 望ましい反応だ。
「足を開きなさい」
 くぐもった声では何を言っているのか判らぬが、ショウタは首を振り抵抗する。
「仕方のない子だ」
 呆れたように言えば、勝気な目はキッとタカシを睨み、そうしていたかと思えばやはり馬鹿のひつ覚えか
足をじたばたとさせる。
 そんなショウタを放っておいて、これ見よがしに嘆息した。
「足を開きなさいとと言っている」
 二度三度と、先ほどと同じように首が振られた。
 目は涙か汗か、そんなもので潤んでいる。
「どうしても嫌なのか?」
 幼子に尋ねるように言えば、今度は首が縦へと振られた。
 そうだ、そう来なくてはこまる。
「困ったな……」
 困ってなどいないが一応は検討をするような素振りを見せるのは、勿論盛り上げるためだ。
 タカシはショウタの手足が届くギリギリの範囲まで遠ざかり、そして背を向ける。
 歯がゆいだろう。あと少しでタカシを襲えるというのに、彼にはそれができない。

 ところで、この部屋の入り口の真横には、ひとつの大振りな桐箱がある。
 下男に昨夜のうちに用意させたものだ。
 ふぅふぅと抵抗するショウタをちらと見遣ると、彼は相も変わらずタカシを睨んでいる。
「ショウタ、あの箱はなんだと思う?」
 判らない。そう言うように、ショウタは視線を落とす。
「面白いものがたくさん入っているよ」
 面白いのは、勿論タカシにとっては、だ。
 わざとゆっくりと歩み、そしてたどり着いた先でもったいぶりつつ箱を開く。
 蝶番の軋む音が響き、そしてその中に眠る全体的に黒っぽい物体のひとつを取り出した。
「これはね、鞭だ。ああ、ショウタは乗馬くらいしていただろうから知っているかもしれないね」
 ショウタの顔は面白いほどに血の気が引いていった。
 外にもディルドだとかアナルパールだとかいかがわしいものは一通り揃っていたが、
取り敢えずは鞭とローションを引っつかんでショウタの元へと戻っていく。
「お利巧なショウタには判るよね。さぁ、早く足を開きなさい」
 青ざめたショウタはそれでも強情に足と足の間をくっ付けたままでいる。
 引き裂かれた布を纏っただけの彼は殆ど全裸に近い状態で、その格好だからこそ寒さや恐怖を煽るのだろう。
 床に落とされた視線は最早持ちあげることにさえ恐怖を覚えるのか、床の上を左右に泳いでいる。
「開けろといっている」
 優しげな口調を引っ込めて、途端に命令口調へとなったタカシにショウタはわずかばかりの隙間を腿に空ける。
 それが限界だというような態度にタカシは笑った。
「それであけたつもりか?」
 ショウタにとって精一杯の譲歩であったのだろうが、タカシはまだ許すつもりはない。

「そうか。判った。それならそれでいい――、嫌でも言うことを聞きたくなるからね」
 ショウタがタカシの動きを確認すよりも早く、タカシは右手を振り上げた。
 手に持ったのは鞭。
 SMどころか性交さえしたことのないショウタに、タカシはどんな風に映っているだろう。
 振り上げた鞭がショウタの腿へと到達する頃、やっと彼は涙の溜まった瞳をタカシへと向けたのだった。
 パシッと乾いた音が響き、「うー」と言うくぐもった叫びが漏れ出る。
 タカシは休むことなく二発目を繰り出し、そしてショウタの左右の腿へと赤い線を残した。
「どうだ?」
 鋭い痛みにショウタは未だ「うー」と唸り声を上げている。
「足を開く気になったか?」
 ショウタは身を屈めて「うう」と唸り続け、痛みに耐えていた。
「ああ、言うことを聞けないようだね」
 すかさず言えば、ショウタは首を左右に振り
そしてあれほど抵抗していた腿に力を緩めて足を大きく開いたのだった。
「……よくできたね」
 えらいね、と頭を撫でてやれば、彼は身を強張らせたままそれを受け入れる。
「四つんばいになりなさい」
 残念なことに、今度はショウタは抵抗することなく言われたままのポーズを取った。
 もっと抵抗をして欲しいところである。どうも鞭を取り出すタイミングを謝ったかもしれない――、
そんなことを考えつつ、タカシはローションを開封して、それを手にたらした。
「足、もっと開いて」
 言われるがままに足を開くと、しりの狭間の穴が露になった。
 ローションを指に塗りつけると、タカシは無造作にその穴へと指を突っ込む。
 まずは一本。窄まった穴が抵抗を見せる。

「力を抜け」
 そう言われても未経験なショウタには容易いことではないだろう。
「抜けといっている」
 尻が小刻みに震えているのが妙に淫猥だった。
「抜きなさい」
 指は流石に乱暴に動かすことは憚られ、ゆっくりとした動きで尻の内外を行ったり着たりさせる。
 暫くそれを続けていると、コツを掴んだのか、指はにゅるんと尻の中に吸い込まれていくようになった。
「そうだ。それでいい」
 漸く指一本の行き来がスムースになったころ、二本目の指で入り口をつつく。
 これはなかなか上手くいかない。抵抗があるし、力の入った穴は小さくてなかなか入らないのだ。
 何度も何度も弄り倒し、漸く二本目が入るころにはショウタの腿は長く続く同一体勢に疲れたのか
震えだしていた。
「床へと体をつけてもいい」
 そう指示を出すと、ショウタは以外にもそれに従い、それに伴い尻の位置も下がる。
 彼の顔は碌に見えぬが、涙の溜まった目で必死でこの恥辱に耐えていることだろう。
「……いい子だ。そのうちよくなる」
 囁くように言ってもなんの慰めにもならないのだろう。ショウタはうんともすんとも言わぬまま、
されるがままとなっていた。

 弄り始めてどれくらいの時が経過しただろう。随分と長いことこうしているよう気がする。
 一時間か、一時間半か、或いはそれ以上だろうか。
 自分でも気の長いことだと感心しながら、タカシはすっかり緩んだそこから漸く指を引き抜いた。
 相変わらず床へと体を伏せているショウタであるが、その体が震えているのは精神的な打撃からくるものなのか
それともタカシが体を弄り倒しているからなのかは判らない。
 一方タカシはと言えば、目の前では広がった穴がパクパクと開閉しているが、
それにそそられるかと言えばそうでもない。
 もっと抵抗してくれないと燃えない、と言うのが正直なところだった。
 立ち上がってショウタの顔が確認できる位置へと移動すると、突如降り注いだ影に怯えた様子でショウタは
体を揺らした。
 視線がかち合えば、しかしそれから逃れるかのように慌てて目を逸らす。
 最早彼の中には抵抗の意志は殆どなく、心は恐怖で満たされているようだった。
 なんてつまらないのだろう。
「なぁ」
 呼びかける声にでさ怯えた仕草を見せるショウタに思わず溜息が漏れた。
「親父さんは、なんで君を売ったんだろうね」
 タカシの言葉にショウタはゆっくりと視線を上げた。
「どうせ心中するのに、なんで君だけ売り飛ばしたりしたんだろうね」
 涙を湛えた瞳が揺らめいていて、瞬きひとつで雫は零れ落ちそうだった。
「ショウタを裏切って置き去りにして……、きっと君のことなんてどうでもよかったんだな」
 そうタカシが言った瞬間、芋虫のように丸まっていたショウタは上体を跳ね上げさせ、
そして噛み付かんばかりの勢いで身を乗り出した。

 瞳に力が宿り、そしてタカシを睨む。
 ふさがれた口はなにを言おうとしているのかは判然としないが、布きれを突っ込まれた口は
必死でタカシへと何かを告げようとしているようだった。おそらく暴言だろう。
 そうだ、こうでなくては困るのだ。
 タカシは立ち上がり、ショウタを見下ろした。
「今日はここまでにしておこう」
 挿入するのはまた次回への楽しみとして取っておけばいい。
 タカシは桐箱まで歩み寄ると、その中に無造作に放置されていたアナルパールを掴み、
再びショウタの元へと戻ってきた。
「私が明日来るまでこれを入れておきなさい。
ああ、今夜は食事を用意してあげるから楽しみにしておくといい」
「――!!」
 要らない。
 そう言ったようだったが、タカシはそれに構うことなく尻にそれを突っ込んだ。
 悲鳴染みた声が鼻を抜けて響くが、タカシはそれに構わず、もう今日のところは興味を失ったオモチャへと
視線を移すことなく地下室を出て行った。
 ショウタはもっともっとタカシを楽しませなくてはならないのだ。
 一日や二日で全てを食らい尽くす必要も壊してしまう必要もない。
「楽しみだ……」
 浮き足立つ心をなんとか沈めて、タカシは地上へ出るべく階段を上って行ったのだった。


 
 タカシはデニムでチューリップの花びらを擦りながら、その整備された庭を歩いていた。
 広い庭だ。純和風の邸宅に不似合いではあるが、その家をぐるりと多い囲むようにしてチューリップが
植えられている。そして板塀の近くには、背丈を同じくする桜がずらりと並び、タカシを圧巻させた。
 この景色にタカシは見覚えがあった。この庭はタカシが成人するまで住まっていた邸宅――、
つまり本家の庭に他ならなかったのだ。
 ああこれは夢だ。タカシは美しい庭を歩きながらそう考えた。
 この場所を知ってはいるが、しかしそれが現実ではないと理解するのは容易いことだった。
 例えば桜。あの庭に植わっていた桜の木は高さが不揃いで、少しばかりみっともなかったはずだ。
 それに、庭の所々はまるでエラーを起こしたかのように、あるはずのないものたちが我が物顔で鎮座している。
 廃棄されたアンドロイドが山積みになっていたり、かと思えば書類の束が放置されていたりする。
 本家を出てかなり長いから、記憶がおぼろげになり、庭の細部までは思い出すことが難しいのだろう。
だから庭の様子が部分的におかしいのだ。
 アンドロイドの残骸に書類の山――、それらはタカシの現在の生活に密着しているものたちだった。
 だからこそタカシは『これは夢なのだと』と強く自覚するに至ったのである。
 しかし見事な桜である。現実の桜もこんな風に咲き誇るのだろうか、と考えつつ舞い落ちる花びらを眺めていると
桜の木の向こうから人影が突如として現れた。

『タカシさん』
 日傘を差した美しい女性だ。彼女は上品そうな笑みを浮かべている。
 あれは誰だっただろうと考えていると、女性は白い手袋をした細い腕を軽く持ち上げて左右に振った。
 そうだ、あれは姉だ。姉のミユキだ。
『ミユキ』口内で呟くように言えば、その名前がしっくりと胸に落ちた。
 しみこむ様なそれにホッと一息を吐き、タカシも彼女に向かって腕を振るう。
 夢とはいえ実姉を忘れるとは些かうっかりが過ぎるだろう。
 姉が嫁いで何年になっただろうか。
 ある代議士の家へと嫁いだから、そうそう会えなくなってしまったのだ。
 思えば、もう年単位で会っていないのだから、夢の中で顔を咄嗟に思い出せぬのも
仕方がないのかもしれない。
 彼女は裾の長いワンピースを器用に動かしながらタカシに近づいてきた。
足早に歩きつつも、チューリップを踏みつけたりしていないのだから感心をせざるを得ない。
『やっと追いついたわ』
 日傘を閉じながら、ミユキは微笑んで見せる。相も変わらず少女めいた人である。
 そんな少女のような彼女だが、どうやら妊娠をしているようだ。
 腹が僅かに膨れ、ワンピースの布地を押し上げていた。
『男の子だって先生が仰っていたわ』
『そう、よかった』
『ねぇ、お腹に触って?』
 え、と躊躇したのはつかの間で、気づけば手首はミユキの柔らかな手に引かれ、
そうしてその丸みを帯びた腹へと掌を当てていた。
 姉弟とは言え彼女は異性だから、なんとなく触れることに躊躇したのだ。
 そこは思いの外かたく、なるほど子宮が筋肉だという話は本当のようだと、タカシは妙な感慨に浸る。

『動く?』
『やだわ、まだ動いたりしないわよ。もっと先よ、動くのは。この前もそう言ったわよ?』
『――そうだったかな?』
『言ったわよ』
 もう、とミユキは頬を膨らませ、それから幸せそうに微笑んだ。
『名前、付けて下さいね?』
『――俺が? 何故?』
 名付け親に弟がなるというのは奇妙な話だ。
 だがミユキはふざけている風でもなく、やや困惑の入り混じった顔で
『何故ってどうして?』と逆に尋ね返すのだ。
 さもそれが当たり前の行為であるかのように。
『何故、俺が』
『何故ってタカシさん』
 ザっと風が吹いた。
 風は桜の木を激しく揺らし、姉の髪を乱した。
 花びらが散る。ピンク色の花びらを撒き上げながら、風は強く吹きつけていく。
『ミユキ?』
 花びらで霞む視界の向こうで、ミユキは未だ小首を傾げタカシを見ていた。
『何故って』
 乱れた髪を直しながら、ミユキは艶やかな唇を開ける。
『名前をつけるのは父親の役目でしょう?』

「……っ!」
 耳に響くのは、目覚ましの音だ。
 不快なその音は、人間工学で計算された『誰もがすっきりと目覚めを迎えられる音』らしいのだが、
タカシにとっては鼓膜に直接触れられているかのような気分の悪い音で、あまり好ましいと思えぬものだった。
「起床した。停止」
 誰もおらぬ寝室で、誰に聞かせるわけでもなくそういえば、どこからともなくポーンという電子音が響く。
『脳波を計測します……、起床を確認。目覚まし機能を停止します』
 天井からの声に、渋々とベッドから降り立つと、タカシは今しがた見た悪夢について思いをめぐらせた。
 あれは姉のミユキだった。ミユキとは随分会っていない。最後に会った時には『妊娠した』と言っていたはずだ。
 あんな夢を見るなんてどうかしている。
 性に関するサブカルチャーが比較的おおらかな日本においても、近親相姦が異常であることは間違いない。
 タカシはミユキに対してそんな不埒な感情はいだいたことがないし、いだくほどに飢えているわけでもない。
 夢とは願望や恐怖を象徴的に映し出すもののようだが、それは全くのでたらめなのではなかろうか。
 そうでなかったらあんな夢をみるはずがないのだ。
「坊ちゃま、おはようございます」
 冴えぬ気分のまま自室の扉を開け廊下へ出ると、待機していた女中がタオルを差し出した。
「おはよう」
 滑らかな動きは人そのもので、やはり彼女は人間に違いない、と確証のない考えを導き出した。
 彼女はタカシが階段を下るのを待つようにして、廊下のわきに寄り頭を垂れ続ける。
 それほどまでに恐縮する必要はないと思うのだが、祖父の代から親子で勤めている者が多いこの屋敷では、
タカシに対してまるで神か王の対するがごとく振舞うのである。
 息が詰まる思いだ――、それでもショウタのような子供を引きずりこむような褒められぬ行為についても
誰一人咎めるわけではないから、比較的好き勝手にしている方なのかもしれない。
 言われるがままに好きでもない代議士の下へと嫁がされた姉に比べれば、
過ぎるくらいの自由を貰っているのだろう。

 キッチンで朝食を済ませてから新聞に目を通していると、下男が大振りな旅行鞄をもってやってきた。
「坊ちゃま、お支度が整いましたよ」
「……なんの支度だ?」
 にこにこと微笑んでいた下男は「スカイカーレーシングですよ」とこともなげに告げる。
「なんの話だ?」
 今日は月曜日で、出勤をしなくてはならないはずだ。
 暢気にレジャーを楽しんでいる場合はではない。
「いやですね、スカイカーレーサーのご友人にお会いして、
レーシングの手ほどきを受けると楽しみにされていたじゃありませんか」
 新聞から目を離し、まじまじと下男の顔を見る。冗談を言っている素振りではなかった。
 今日は出勤して、新年が始まり次第早々に発売される新型アンドロイドについて様々な準備があるはずだ。
 発表は現社長である父の役目だが、その傍にタカシはついている必要がある。
それについての段取り話し合いもあるし、下男が今しがた伝えた娯楽関係の予定は当分の間――、
いいや、そんな馬鹿げた予定は確かに立てていた。
「……忘れていた」
 そう、忘れていたのだ。
 いつもと違う日常――、つまりショウタの存在だ、にかまけていてすっかり忘れていた。
 旧友がこのたび医者からスカイカーレーサーへの転向を果たしたのだ。
 スカイカーレーシングと言えば近頃誰もが注目するスポーツで、タカシも大きな興味を抱いている。
 カフェインが入った脳が、未だに寝ぼけている。
 きっと妙な夢を見て出鼻をくじかれたような気分になった所為に違いないとタカシは考えた。
「坊ちゃま、大丈夫ですか?」
「ああ、平気だ」
 意識は次第にすっきりとしてきた。
 スポーツマンタイプの旧友の笑顔が脳裏に浮かび、そして彼のレーシングマシンに乗せてもらえると思うと
心は躍る。それほどタカシはスカイカーを楽しみにしていた。
 だが。

「坊ちゃま?」
 タカシの表情に気づいたのだろう、下男がもう一度「大丈夫ですか」と尋ねた。
「大丈夫だ」
 先ほどと同じように返事をするが、しかしタカシはもうスカイカーに然したる興味を抱いては居なかった。
 そんな自分自身のことが不思議でならない。冷めつつあるコーヒーを啜りながら眉根を寄せるタカシに
下男はやはり怪訝そうな顔でタカシを見つめていた。出方を窺っているのだろう。
「すまないが」暫しの間を置いて、結局導き出した答えはひとつだった。「断りの連絡を入れておいてくれないか」
 久しぶりのまとまった休みだ。
 だからこそ旧友と会いたかったはずであるが、タカシが最も興味を抱いているのはショウタだ。
彼以上に興味の湧く、面白いことなど今はひとつもなかった。
「――お断りですか?」
「ああ」
 あれほど楽しみにされていたのに。そう言いたげな下男は、しかしなにも言わぬまま
「判りました」とだけ返事をしキッチンを去っていった。
 コーヒーを飲み干した瞬間に、ズキンと頭痛が走る。
 また頭痛だ。薬を飲んでおく必要がある。
「悪いが、今日は地下室で過ごす。夕方まで誰も降りてこないよう伝えてくれ」
 女中に申し付ければ、彼女はまつげを揺らしながら頷いた。

 ああ、怖がらせている。彼女にとって、タカシは少し前までは全うな主人であったのだろう。
 世間にとってもタカシは全うな人間のはずだ。今までそう思われるように生きてきたのだ。
 きっといたいけな子供をいたぶっていると世間に周知されれば、
この行為が合法であったとしてもタカシの立場はなくなるだろう。
 この悪い遊びがどこかへと漏れ出ることはあってはならぬこと。だがタカシはそれを隠す気にはならなかった。
 何故と問われたところで答えようがない。
 何故――?
 判らない。
「ストレスかな……」
「はい?」
 女中はタカシの声に返事をするが、いいやなんでもないと首を横に振ってやると、
仕事があるだとかてきとうな理由をつけて去っていった。
 汚れた食器を片付ける者が居らぬと気づいたのはその後のことで、タカシはそれらを手に取り
どうすべきか考えあぐねた結果、調理台の上にそれを放置したのだった。

 ショウタは平らなスープ皿を傾け、皿に直接唇をつけて中身を啜っていた。
 全裸でスープはカトラリーさえ用いずに飲んでいる。
 凡そ良家の坊ちゃまには見えぬ姿であるが、これはタカシが強要したことだった。
「美味いか?」
 椅子に座り足を組み、見下ろすようにして言うと、ショウタはウンでもスンでもなく、
ただ一瞬だけタカシを睨んだだけだった。
 尻に入れられた器具はそのままだから、その異物感は気分のいいものではないだろう。
「後ろ、抜こうか?」
 そう尋ねるも、しかし彼はタカシを無視するかのようにスープを飲み続けた。
 組んだ足を入れ替える瞬間、少しだけ空気が動くと、スープの香りに混じってなにか嫌な匂いがした。
 そういえば、連れて来たその夜からショウタを一度として風呂には入れていない。
 そう気づくと何とはなしに自分自身も汚れるような気がして、
タカシは「食事が終わったら風呂に入ろう」と提案をした。
 いや、これも提案と言うよりは決定事項で、ショウタが抵抗したとしても譲るつもりはなかった。
 ショウタは返事をしない。
 タカシは彼の首に続く鎖を思い切り引っ張り「風呂に入るよ」と語気を強めて言う。
 ショウタが掴んでいた平皿はコンクリの床に落下し、ガシャンと耳障りな音がし、
よくよく見れば皿の縁は少しだけ欠けていた。女中が困った顔をするだろうが、
持ち主はタカシであるのだから気にする必要はない。
「判ったね?」
 やはりショウタは返事をしなかったが、彼がジッとタカシを見つめてきたから、それだけで満足だった。

 ショウタはタカシを無視する方向で抵抗を始めたようだった。
 怒鳴っても手足をばたつかせても無意味と知り、最後の手段として持ち出したのが『無視』のようだった。
 とは言えまだまだ彼は子供だ、だんまりもそう長くは持たないだろう。
 台無しになった料理はそのままで、手枷と足枷をそれぞれ手錠と足錠に変えてから、
タカシは逡巡ののちにショウタを肩に担いだ。
 一瞬、ショウタが空気を盛大に吸い込む気配がしたが、無視決め込むことを思い出したのか、
そのまま空気は吐き出され、そして彼は大人しく肩に納まった。
「うちの風呂は広いぞ」
 その言葉も無視しているのだろう。
 これと言った返事も期待しないまま、タカシは地上に上がる階段を上って行った。

今日はここまで

いいね、乙

●たよ

>>51-52
ありがとう

以下エロパートなので注意

 風呂の通称は『二の部屋』である。
 ショウタの重みの分、若干であるが足音が大きくなったのだろう、
それを聞きつけた家のものたちが、それぞれの持ち場から顔を出しては、
事態を把握するとすぐに顔を引っ込めた。
 途中女中に声を掛け、てきとうな衣類を用意してくれと頼み、タカシはそのまま風呂場にショウタを突っ込む。
 なにせ衣類を引き裂いた夜からショウタは全裸だ。放り込むのは容易かった。
 浴室に放り込まれたショウタは、なにをするでもなくただ突っ立っている。
 タカシは自身も服を全て脱ぎ捨てると同じように浴室に入っていった。
「……!」
 その姿にショウタは驚いたようで、飛びのくようにして浴室の隅へと逃げる。
「なにをしている」
 だがその問いに答えることなく、ただ身を縮めて怯えた目でタカシを見た。
 背中を向けて、顔だけは捻るようにしてタカシを見ている。
 その稚拙な行動がおかしかった。
 アナルパールが収まったままの尻をこちらに向けて、なにを保護しているつもりでいるのだろう。
 その姿に、ショウタがまだ子供なのだと自覚し、そしてタカシは最悪なことに、嗜虐心が増すのを感じた。

「来なさい、洗ってやろう」
 腕を半ば無理やり引かれたショウタは、体をよろめかせながらタカシの前へと戻ってきた。
 まずは座らせ頭を洗う。オーガニックのシャンプーは、確か母の趣味だ。
女中か誰かが補充を繰り返しているのだろう、減ることはない。
 掌で伸ばしたシャンプーは柔らかな花の匂いがした。
 頭が終われば後は次は体だ。
 タカシはこれと言って声を掛けることもなく、突然ショウタの臀部に手を伸ばしてそれを引き抜いた。
「あ……っ!」
 思わずと言った風に漏れた声は、初めて会った日の幼さの残る声だった。
しゃがれた声が元に戻りつつあるのかもしれない。
「痛かったか?」
 それについては、ショウタは黙ったままだ。余程悔しかったのだろう。
 耳まで赤くし小刻みに震えているところを見ると、相当に辛かったのかもしれない。
 少しだけ反省をし、タカシは幾分か優しげな手つきでその狭間を洗ったやった。
 残りはボディタオルでいいだろう。大雑把な自身を自覚していたが、ある程度は丁寧に触ってやったつもりだ。
 手錠と足錠は、ショウタの一挙手一投足に反応して、その都度耳障りな金属音を響かせる。
 これは失敗だったかもしれない。もっと頑丈で軽いものを用意させるべきだっただろう。
 そんなことを考えているうちに、ショウタの体はそれなりに綺麗になった。

「お湯に浸かってなさい」
 命じられると、意外にもショウタは大人しくバスタブに沈んだ。
渋々と言った様子ではあるが、それでも素直にタカシの命令を聞いている。
 自身の体を洗う最中、こっそりとショウタを盗み見れば、時折小さな頭が揺れ、
濡れた毛先から雫が滴るのが見とめられた。
 ショウタは体が小さい。
 骨格は華奢、尻も小ぶりで、手足も細い。花街に売り飛ばされてから暫くの間、
まともな食事はしていたのだろうか。もっと栄養のあるものを食べさせたほうがいいのかもしれない。
 ――馬鹿みたいだ。
 一瞬で頭を駆け巡った、まるで善人のような思考に自分自身を嘲笑した。
 稚い子供を閉じ込め好き勝手しているタカシに、娼館をあれこれと言える資格はないのだ。
 なにを急に善人ぶっているのだろう。
 タカシは善人ではない。どちらかと言えば悪人であることは間違いがないだろう。
 ――それならばいっそ。
 蛇口を捻り、シャワーを浴びる。熱いお湯が体中に泡を落としていった。
 落下する泡を視界の端に見遣りながら、タカシは前も隠さずに立った。
 自分を覆うようにして突如として伸びた巨大な影に、ショウタは一瞬遅れを取ったものの
すぐさまバスタブの隅へと移動したが、しかし所詮そこは風呂で、逃げられる場所などたかだか知れている。
 乱暴にバスタブに踏み込み逃げ惑う体を捉えると、湯で濡れた体はするりと逃げた。
 背後から近づき、手荒に細い腰へと腕を巻きつけると、獰猛な征服感が湧き上がるのを感じる。

「あ……っ!」ショウタが小さな声を上げた。
 男の猛った性器が尻を掠めたのだから、恐ろしくないはずがないだろう。
 バシャリバシャリと、まるで小船が荒波の上を滑るかのような音が浴室に響く。
 相変わらずショウタは言葉を発そうとはしなかったが、
手足の抵抗は少しずつではあるが激しくなっている。
 タカシも無言でショウタの体を捉えると、腕の力で華奢な背中を押さえつけて
身動きが取れぬ状態へと持ち込んだ。
 もとより手足は碌に動かすことができぬのだ、尻を片手で開くことなど容易い。
 手に取ったボディソープを肉と肉の狭間に垂らし塗りつけると、
そこはあっという間に口を開けて見せた。
「や、やめ……!」
 ここまできて漸くショウタが言葉を発した。
 肩越しに振り返ったショウタの顔は恐怖に満ちていて、だが罪悪感は少しも浮かばないのだから救いがない。
「犯すと言ったはずだ」
「や、やだ、やめて、怖い、やだ……!」
 涙に滲んだ声と、細い手足が抵抗を繰り返す。
 やだ、こわい、やだ。
 言葉は次第に悲鳴に変わり、そのうちすすり泣きに変わった。
 タカシは構わず尻の狭間に指を沿え、そして穴を探ると遠慮もなしにその中へと指先を進入させたのだった。
「やめ、やめて、怖い……! ねぇ、やめて……!!」
 食事にさえまともにありつけなかったためだろう、ショウタの抵抗はタカシにとっては
蚊を叩き落すことよりも簡単で、体力の消耗からか、暴挙の五分後には
ショウタはバスタブの縁へとくたりと体を預けていた。
 言葉では相変わらず抵抗を続けていたが、そんなものは抵抗のうちには入らない。
 赤く縁取られた入り口が、パクりと口を開けた。
 ヒクヒクと蠢くそれに、タカシは己の身がひどく高揚しているのを自覚すると、心の興奮が更に高まった。

「や、やだ……やだ、」
 小さな入り口に、性器を宛がう。弱々しい腕は、二度、三度と振られるが、
拘束された上での抵抗は、なんの意味もなさないようだった。
「やめて、やめ……、助けて……、たす……、」
 小さな掌はバスタブの縁を掴んでいる。抵抗をしようと一時的にそこへと預けていた腕は振り上げられるが、
しかしバランスを崩したショウタは腹を強か打ちつけた。
 ぐっ、と小さな呻き声が聞こえるが、タカシは構わず腰を固定し続ける。
 随分と乱暴なことをしている。
 その乱暴な行為に興奮するのは、ショウタが『貴族の少年』だったというラベルが張り付いているからか、
それとも彼がこんな状況でさ抵抗を忘れないためなのかは判らない。
 ショウタはなおも声を上げ続けた。
「やめて、や……、お父さん、助けて……!!」
 ショウタがそう叫んだ瞬間に、タカシの性器はショウタの中に沈んでいた。
 肉が抵抗をするかのように蠢く。
「あ、あ……っ……い、いたい、痛いぃ……!!」
 ひぃひぃと泣き声が交じった悲鳴が続き、渾身の力でバスタブの縁を握る彼の手は白くなり、
そして体は小刻みに震えている。
 汗かそれとも水蒸気が液体化したものかがショウタの肌に浮かんでは滑り落ち、
そしてそれは尻の合間へも流れていった。
 皮膚の腰骨が動き必死で抵抗の様子を見せるが、肝心の粘膜は本人の意志に逆らい飲み込むような動きを見せた。
 粘膜が卑猥に動き、タカシの性器を舐めるようにして蠢く。

「ぁ、あ、あ……!」
 中に肉を収めてから数分が経ち、そうするとタカシもショウタの変化を感じ取っていた。 
 体の力は抜け落ち、もう表面的には抵抗する様子は見られない。少しだけ腰を動かすと、
抵抗ばかりを発していた声には甘さを含んだものも多少ではあるが交じるようになっていった。
「ん、ぁ、」
「ショウタ」
 髪からの雫が伝い落ち、耳たぶの端に水滴を溜めていた。それを吸うようにしたあと甘噛みすると、
ショウタは「ぁ、ん」とあからさまな嬌声を上げて見せた。
「気持ちいいのか」
「ち、が、」
 絶望と羞恥の入り混じった顔が振り返る。
 ちがう、ちがうと小さく繰り返すが、体の方はそうではないようで、タカシが腰を前後させると
内側は更なる奥へと導くかのように、或いは強請るかのように蠢いた。
「あ、や、やだ、無理、こ、怖い、ねぇ、怖い……!」
「その声はなんだ」
 ショウタの状態を逐一告げてやると、ショウタは「いや、いや」と言いながらも
そのうち腰を自ら動かすようになった。
「卑猥な音がしているね。じゅぷじゅぷ言っている」
「や、やめて……! ぁあ! あ、やぁ、やめ、ろよ……! あん!」
「やめて欲しくなさそうだけど」
「ちが、違う……! やめ、やめろ……!」
 渾身の力で手を掛けたバスタブを押すが、しかしそれは結合を深くさせる役目を担うだけで、
エネルギーは逃げの方向には働かない。
「……馬鹿だな」
 思わずそう言うと、ショウタはキッと睨み、だがそれも僅か数十秒のことで、
表情は次第に溶けていった。

「あ、あ、駄目、駄目……!」
「ああ、イきそうか」
「なに、これ、なに……!」
「なにって?」
「や、やだ、なんか来る、怖い、こわい!!」
 はて、とタカシは腰を動かすのをやめた。
 『怖い』は先ほどから幾度となく発されていた言葉であるが、今度は様子が異なった。
 『なんか来る』とは一体なんのことだろう。
 一瞬の思考の末に導き出したのは、ショウタは射精をしたことがないのかもしれない、
と言う結論だった。
 なるほど、初物と言うのはなにも後ろのことだけではないようだ。
 その考えに至ればますます興が乗る。
「ぇ、あ、え……っ?」
 ますます腰の動きが激しくなったことに、ショウタは戸惑いを覚えているようだ。
 体を仰け反らせはじめたショウタの腰を掴むと、性器が起立しているのが見て取れ、
悪戯心の芽生えたタカシはそこを握ると手を動かししごいてやった。
「な、なに、なに、これ……!」
 放っておいた水の張られた洗面器には、戸惑いに目を白黒させるショウタの顔が
はっきりと映し出されている。
 前をしごかれ、尻は穿たれ、なにもかもが初めてのショウタはもう全てに追いつくことができず
どうすればいいのかが判らないようだ。
 もみくちゃにされながら、乱れる思考の中で、それでも抵抗するような言葉だけは只管紡ぎ続ける。
「や、やだ、こわい、待って、待って……!」

 射精感が高まり、タカシは腰を打ち付けるようにして動きを激しくしていった。
 パンパンパンという肉のぶつかり合う音が響き、
その合間に「あん」と言う甘い声が混じる。
 腰を押さえつけている親指が肉に食い込み、それが何故かとても卑猥に見えるが、
何故そう見えるのかは判らない。
「待って……っ! ぁん、あ!」
 タカシは腰を前後し続けた。
「感じているじゃないか。この淫乱」
「ちが、違う……!」
 か細い制止の声も聞いてやるはずもなく、タカシは酷い言葉を吐きながらショウタの一番いい場所を
執拗に擦りあげてやった。
「感じているんだろ?」
「ち、ちが、あ、ぁ、あん、あ、ひぃ!」
 違う違うといい続けるが、性器からはぬめった汁が滴り続けている。
「気持ちよさそうだな」
「違う、違うも、あっ」
 あ、あ、と短い声が続く。
 性器を擦りあげるペースを早めると、その嬌声も次第に高く、大きくなり、
そして気づけばショウタは自ら腰をうねらせていた。
「あ、もう、もう、だめ、だめぇ……っ!」
 やがてショウタは短い悲鳴を上げた絶頂を迎えた。
 思い切り吸い込んだ酸素が上手く肺にまで至らず、苦しそうだ。それと同時にタカシの掌は濡れ、
青臭い匂いが充満した。
 脱衣所へと続くガラスに水滴が大量に付着している。それは心なしかいつもより多く見えるのは
気のせいではないかもしれない。

「あ……っ……あ……っ」
 はぁはぁと背中を揺らしながら呼吸を整えるショウタから性器を抜き出すと、肉は執拗に纏わりつき、
まるでタカシが出て行くことを拒否するような仕草を見せる。
 ぽっかりと開いた穴はヒクヒクと動き、そしてやがて閉じていった。
「……あ……」
 力を失った体はバスタブにぐにゃりとひっかかり、タカシに対して文句のひとつさえ放つことができぬようだ。
 時折「あ」と短い声を上げ続けているが、しかし言葉と呼ぶには短すぎ、それはどちらかと言うと
呼吸の断片のようなものだった。
 ――あっけない。
 出してしまった後は、急激にテンションが下がりつまらなくなる。
 尻を庇うでもなく、ただ力なく壊れた人形のような格好をしているショウタにも、ただ「つまらない」という
感情しか浮かばなかった。射精した瞬間に、もうどうでもよくなったのだ。
 興が醒めると、その小さな体も汚物か何かのように直視したいものではなくなる。 
 放っておいたとしても、誰かしらが面倒をみるだろう。
 そう結論付けたタカシは、色んな体液で汚れたバスタブの栓を引き抜くと、
一人湯から上がり、シャワーを浴びたのちにはショウタを振り返ることなくさっさと浴室を出て行った。
 脱衣所でタカシが衣類を整えた頃になってもショウタは出てこない。
 だがそれを心配する情さえ、もうタカシには浮かばなかったのだ。
 娼館での生活を少しだけ心配したのは、おそらくたんなる『気の迷い』だろう。
 なにか言葉の使い方がおかしいような気もしたが、『気の迷い』と言う言葉は
タカシの胸には随分としっくりと馴染んだ。
 そう、気の迷いだ。
 ショウタを買ったのだって、同じこと。
 毎日ステーキでは飽きるから、たまには不味いものも食べてみたくなるのだ。
 ただそれだけだ。
 脱衣所を出ると、たまたま通りかかった下男にショウタを任せ、自分はさっさと自室に引き上げた。
 あの様子ではどうで逃げられまい。
 そんなことを考えながらタカシは階段を上って行ったのだった。

きょうはここまで

楽し●よ

あけましておめでとうございます

おめでとう

今一番続きが楽しみなスレ

保守してくれる人thx
ちょっと私生活が忙しい感じがする…
更新が少しだけで申し訳ない
しかもショウタとの絡みがないという
すまん

 そのカフェは若い女性で溢れていた。
 緑がたくさん植えられている庭は、どこぞの国の御貴族様の庭を模したものらしく、
女性に人気である理由はその辺りにあるようだった。
 尤も、山も木もことごとく切り倒されている昨今の日本においては、
カフェに緑があるということ自体が珍しく、彼女たちがこの場へと惹かれる要因は
オシャレであること以前にあるのかもしれない。
 店のど真ん中に植わっているのは桜の木で、あの手の樹木ももう国内には数えるほどしかないことだろう。
 徹底した近代化が招いたのは緑の消失だ。それでも国策だというのだから致し方がない。
 戦争と大災害を想定した街づくり――、それは年老いた政治家たちが生み出した国策だったのだ。
 彼らはみな、半世紀ほど昔の青春時代を戦争一色に塗りつぶされていた。
 彼らはいざと言うとき、か弱い女子どもを丸ごとシェルターに避難させられるようにシェルターを作り、
若い命が散らぬよう、様々な対戦闘機設備を整えた。
 おかげで国土の殆どは鉄と油の匂いでまみれているが、これも国策と言うのなら仕方がない。
 そう、国策なのだから仕方がないのだ。
 鎖国前、日本は外国と戦争をした。
 おかげで人口の半数以上が死亡し、日本の人口は一時六千万人にまで減少したという。
今はなんとか立ち直っているが、それでもギリギリで一億人いるかいないか、といったところだ。
 こんな事態が二度と起こらぬよう、街は、いや辺鄙な村でさえ、この国は作り変えられたのである。
 しかしまぁ、人口が減少したといっても、百坪もない小さなカフェがこの賑わいだ。
 この女性たちはいったいどこから溢れてきたのだろうとタカシは考えつつ、
姉の背を前に高い声が溢れる庭を突っ切っていったのだった。

『こっちよ』
 姉は細い手でタカシの手を握り、引くようにして前を歩いている。
 その手は素手だ。白い手袋を彼女が嵌めていないのは珍しい。
 女性が安易に肌を露出するものではない、と言う考えは開国をしてからも根強く残っていて、
だから彼女はワンピースを身につけているときでも決して肘まで届く長い手袋を外さなかったのだ。
 一体どういう心境の変化があったのだろう。
 タカシは頭の片隅でそんなことを考えつつも、姉に手を引かれるまま、
関係者以外の立ち入りを禁じられているカフェのその二階へと足を踏み入れたのだった。
 この店は姉が出資しているらしく、彼女は美味いコーヒーが飲みたくなるとこうしてここを訪れるのだ。
『話ってなんだよ』
 タカシは額に浮かんだ汗をぬぐいながら尋ねる。
 二階は屋根裏部屋のような造りで、斜めに傾いた天井には窓が設けられていた。
 その向こうにはリニアモータートレインが走るチューブが宙に浮き、空の景観を汚している。
 今年の夏は暑い。猛暑だとかで、酷いところは気温が四九度を観測したらしい。たまらない。
『あのね……』
 勧められた椅子に座し、タカシはメタルボトルに入ったコーヒーを啜った。
『あの……』
 ミユキの口は、歯切れ悪く何度も『あの』と紡ぐ。
 だが、なかなか『あの』の続きをタカシに告げることができぬようだった。

『うん、なに』
 姉は溜息を吐き、それから観念したかのような顔で『子供は男の子ではないと困るんですって』と続けた。
『え?』
『女の子じゃ、困ると言われたの』
 ミユキの手は、その下腹部に添えられていた。
 なにか嫌な予感がして、タカシはそのマニキュアの施された爪を眺める。
 嫌な予感がなんなのかは判然としない。とにかく、不快――、
いや、不快であることとは様相の異なる、何かとてつもなく不気味ななにかが
そこに迫っているような気がしたのだ。
 よくよく見れば、姉の腹は膨れている。
 ああ、彼女は妊娠していたのだとタカシは思い出した。
『女の子だったの』
『……だから?』
 ミユキの眉はハの字に曲がり、それから言いづらそうに『人工授精にしてみては、って言われたの』と告げたのだ。
『は?』
『だから、この子、女の子だったの。だからね、この子を堕胎して、人工授精で――』
 姉が何を言っているのかが理解できず、タカシは眉間に深いシワを刻み付けた。
『ちょっと、ちょっと待ってくれ。なにを言っているのか……』
『ごめんなさい、タカシさんの言いたいことも判るの。でも、どうしても男の子ではないと駄目なのよ』
 判るわよね、とミユキは幼子を諭すように尋ねた。
 タカシは何故、自分がこんな話をされているのかが判らなかった。
 ミユキは憂い顔で、しかしもう覚悟を決めた顔でそこに佇んでいる。
 堕胎は、もう彼女の中では決定したことであるに違いない。

『ちょっと待ってくれ、だって――』
 姉がこれほどまでに冷酷であるはずがない。
いくら代議士の家に嫁ぎ男児を産まねばならぬと言っても、それはまた次に期待すればいいだけの話だ。
 今回腹に宿った子をわざわざ堕胎するというのは、おかしな話であろう。
『待って。待ってくれ。いくらなんでも堕ろすことはないだろう。だって、だって――』
 だって、折角宿った命なのだ。
『でも、確実に男の子が欲しいのよ。"ちゃんとした"男の子が』
『なに? どういう意味……、』
『駄目なの。私が男の子を産まないと』
『ミユキ……』
 椅子に座ったままのミユキの肩を掴もうとすれば、それを避けるかのように彼女は身を捩った。
『だから、ごめんなさい、タカシさん』
 唖然としたまま、タカシはミユキを見下ろした。
 俯いたまま、タカシと目を合せようとしない彼女は、見知らぬ女のように見えてしまう。
 彼女はこんなに冷酷なことをいえる女だっただろうか。いいや、そんなはずはない。
 何故なら彼女は――。

『なあ、考え直そう』
『無理よ』
『何故、だって? 男の子ならまた次に……』
『駄目なの、どうしても男の子がいいの。女の子なんて要らないわ。私はたくさん男の子を産まないと……』
 頑なになった様子で首を振るミユキに、タカシは閉口した。
 彼女は、こんな女ではなかったはずだ。
 タカシの愛した女は――。
『――!?』
 自身の頭を通り過ぎた言葉に、タカシはハッとする。
 今、タカシはなにを考えた? 愛した女? 姉を相手に何を考えているのだ。
 俯いたミユキのつむじを見た。子供の頃はタカシの方が背丈が小さくて、どんなに背伸びをしても
そこは見えなかったはずだ。今では簡単にそこは覗ける。
 いつからそうなった? いつから――。
『タカシさん、怒っているのは判るの。でも……』
 ミユキはやはり俯いている。
『お願い、一緒に病院に行ってくだらない?』
 何故そんなことをタカシに懇願するのだろう。
『堕胎には、』
 ミユキがゆっくりと顔を上げた。
『父親の同意が必要なのよ。だから、タカシさん、一緒に病院へ行ってくださらない?』
 ミユキの顔が持ち上がり、涙の溜まった瞳が露になる。
 父親? いったい誰が? 
『お願いよ』
 ミユキはもう一度言った。今度はタカシの目を見て。
 

 寝巻き用のロンTは湿っていた。
 真冬だというのにタカシは寝汗をかいていたようだ。おまけに襟ぐりは少しばかり延び、
その上シワが寄っている。眠っている間に酷く握り締めていたのだろう、
体全体はうっすらと汗をかいているのに、掌だけはサラリとしていた。
『目覚ましを解除します』
 頭上から降る声は無機質にそう告げて、カーテンは自動的に開かれた。
「……っ」
 窓から差し込む朝日は眩しい。強烈な光りに目を細め、
そしてタカシは粘ついた唾液を無理やり飲み込んだのだった。
 時刻は午前八時。休日に朝にしては少々早かったが、タカシには眠りなおそうという気持ちが起きなかった。
 ――また、気味の悪い夢を見た。
 この夢の所為で穏やかな眠りが台無しにされた。
 なんと気持ちの悪い夢だろう。生理的嫌悪感は吐き気までをも催させ、タカシは再び襟ぐりを握り締める。
 最悪の目覚めだ。
 欲求不満と言うわけではないだろう。性欲は満たされている自信があった。
 では何故姉のあんな夢をみたのだろう。
 行為に至っている夢ではないだけマシだろうか。
「参ったな……」
 額に浮かんだ汗を拭いながら、タカシはハァ、と吐息した。

 もうすぐ正月だというのに、万が一そんな不埒な夢を見てしまったら、姉の顔を直視できそうにない。
 いくらタカシが性根の捻じ曲がった男だとしても、近親相姦は頂けなかった。
 アダルトコンテンツにおいては妹モノだとか義理の姉だとか、背徳感を刺激するものは
いつの時代も人気があると聞くが、タカシはその手のジャンルにはとんと興味を抱けぬのだった。
 血を近くしくする者同士で行為に及ぶというのは気持ちが悪いだけだ。考えただけで身震いしそうになる。
そしてタカシはそのついでのように義理モノも嫌っている。
 義理だろうがなんだろうが、庇護すべき、或いは家族として接するべき相手に欲情するなど畜生のすることだ。
「そうはなりたくないな、流石に」
 だというのに、何故ミユキの気味悪い夢をみるのだろうか。
 無意識に姉の妊娠を心配しているのかもしれない。
 そう、代議士の家ならば男児が生まれたほうがいいに決まっている。
 ミユキの腹に宿っている子の性別を、タカシはまだ知らない。一番最初の夢では男の子だと言っていたが、
それはタカシの願望であり、実際はどうだかまだ判らないのだ。
「だからか……」
 きっと姉を心配しているのだ。だからあんな奇妙な夢を見るのだ。タカシはそう結論付けた。
 例えば姉が女児を産み落としたところで、タカシにはそれを変えてやることはできない。
 男児が生まれてくれと願ったところで、子の性別は受精段階で決まっており、のちのち願ったところで
未来は変えようがないのだ。
 タカシが心配しても詮無いことと充分に判っている。判っているが密かに心配することはやめられない。
 だからきっとあんな夢を見たに違いない。
「あほらしい」
 自分でも非生産的な思考に侵されすぎている自覚があったから、タカシは頭を掻き毟ると
全ての感情を洗い流すために部屋をでたのだった。

「お熱があるようなんです」
 タカシが階段を下っていくと、女の声がそう誰かに告げていた。
 声のボリュームは落とされていたが、何とはなしにその声が緊張していることだけは感じ取れる。
「どれくらいだ?」
 今度は男の声がそう尋ね返した。事務的に尋ねてはいるが、こちらの声も少しばかり硬かった。
「三十八度と少し。平熱はあまり高いほうではないようですから、少し心配で……」
「そうか……ご相談しよう。病院に行くべきだろうけれど、ウンと言ってくださるかどうか……」
「いいお返事をいただけると思えませんが。だから嫌だったんですよ、あんな乱暴な……。
なにかあったらどうするんですか」
 女の声は切羽詰っていて、誰かを責めるかのように――、タカシを責めていることは明白であるが、
そう吐き捨てた。
「やめなさい。私たちがご主人様に逆らうことは許されることではない。
これはそのご主人様のご意志なのだから従うしかないのだよ」
 二人の下働きの会話から推測するに、どうやらショウタは熱を出したようだった。
 片方は下男で、片方は女中であろう。
 女中はその後もタカシを責め、下男はタカシを擁護するような発言を繰り返していた。
 あれだけ無体をしたのだから、体調を崩すなと言うのが無理な話なのかもしれない。
 タカシは下りかけのまま途中で歩みを止めていた足を動かし、何食わぬ顔で階下へと進んでいった。

「おはよう」
 階段の前にいた二人ははっとした顔でタカシを見遣り、
それから掠れ声で「おはようございます」と短く挨拶をした。
「熱を出したのか」
「ええ、三十八度と少しなのですが」
 下男が言うと、タカシは考えるフリを一応は示してみせた。
 医者に連れて行きたくないわけではない。ただ、面倒であったから、自分で連れて行くのが嫌だったのだ。
「差し出がましいようですが、どうか、あの――、奴隷の少年に医療を受けさせてあげてください」
 女中は訴えるような眼差しでタカシを見つめ懇願してみせる。
 下男が制止に入るが、彼女は続けた。
「あの、もし、もしなにかあったら――、その、死んだりしたら、家の名を汚すことになりかねません。
お医者様は私が呼びますし、治療の最中は傍に居ります。ですから――、」
「判った」
 タカシの手を煩わすことがないのなら構わない。
 どこまでも冷酷で無責任である自分を自覚しているが、タカシはただただショウタの世話を焼くことが
面倒だったのだ。誰かが手を焼くのならそれはそれで楽でいい。
 タカシは頷きつつ、きょとんと間抜け面を晒す女中へと「その件は君に任せよう」と事務的に告げた。
社の中で使うような冷ややかな言葉に、女中は暫しの間そうしていたが、そののちにはハッとなり
「判りました」とホッとした顔つきで返事を返したのである。

 とにかくタカシは、ショウタについて手ずからあれこれと面倒を焼くことをしたくなかったのだ。
 そこまで面倒に思うくせに、乱暴を働くことについては未だ楽しみに思う気持ちがある。
 まるでエラーを起こしたアンドロイドだ。自社製品ではその手のリコールは一度としてなかったが、
他社製品には見られるアンドロイドの問題行動によく似ていた。
 自発的な思考をAIが行い、本来のプログラミングされた思考との間に齟齬が生じ、
上手く処理がなされずに極端から極端に走るという現象がそれだ。
 アンドロイドが思考しないのは遠い昔のこと、今では殆どの場合、彼らはパターンにパターンを重ね、
独自の、人間のそれに非常に近い『考え』を持つ。それが問題なのだ。
 例えば、母型アンドロイドが人間の子供を保護という名目で束縛をする『過保護』という行動がある。
 その一方で、保護だけを熱心に行いそのほかの母としての役目、
例えば食事の支度だとか洗濯には一切の手をつけぬネグレクトが見られるのだという。
 本来の家事を行い子供の面倒をよくみるバランスのよいプログラミングの上に、
アンドロイド自身が思考し、子に愛情を注ぐ行動に比重がよってしまったが故の行動だ。
 彼らの思考はイコール感情ではない。だからこそ起きてしまう事故なのだろう。

 そしてタカシはショウタに性欲を抱いている。それもかなり暴力的で熱烈なそれを。
 だが、それ以外についてショウタに対する興味は殆ど抱けないのだ。
 彼に対する感情は、非常にアンバランスで、まるでアンドロイドのエラー、それによく似ている。
 性欲と感情が必ずしも結びつくとは限らないのは、悲しいかな男の性ともいえよう。
しかし、感情をぶつけられ、体を繋いだとなればほんの少しでもそれらしい――、
例えばもう少し優しくしてやろうだとか、丁寧に扱ってやろうだとか、
つまりショウタに対してもう少し思いやりのある行動をとってもよさそうなものである。
 タカシにはそれが一切ない。思い浮かばない。
 ただただショウタを虐めたおしていたぶりたいのだ。
 頭の中でショウタの顔を思い浮かばれば、そのうち彼の顔は掻き消えそれはいつの間にか
裸体を晒し泣いている姿に変わる始末である。
 自分自身の内的なバランスが崩れていることを、タカシは自覚せざるを得なかった。
「いた……」
 頭が痛むような気がする。
 どうやら調子が悪いのは精神的なバランスだけではないようだ。
「坊ちゃま?」
 下男が気遣わしげにタカシを見た。
「いや……、」なんでもない、と手を振り、それから「大丈夫だ」と締めくくる。
 誰かと会話することが、今はとても面倒だ。
 自室に戻ると言い残し、タカシは再び下りてきた階段を上って行った。

 なんとも気持ちの悪い現状に、タカシは自分なりに頭を悩ませていた。
 そもそも自分は秩序を乱す人間ではないはずだ。
 なにがきっかけでバランスを崩しているのかが、自分自身でも判りかねている。
 姉の夢が原因だろうか。
 そうは思うが、彼女の安否を確認することさえできないのは、
彼女が多忙であることを充分に承知しているからだ。
 姉の夫にはまだ幼いきょうだいがたくさん居て、彼女は腹で子を養いつつ、
その怪獣のようなきょうだいの世話をも焼いていると人づてに聞いた。
 おまけに敷地内には夫と縁の近い者たちが住まっており、事実上同居状態のようなのだ。
 代議士の一族の考えることはタカシにはよく判らぬが、しかしその状況を聞いただけで、
一族内で『新参者』である姉が身重ながらにバタバタと動き回り、
生家なぞ気に回している余裕がないことは馬鹿でも判る。
 弟のことなどで気を煩わせてはいけない。
 タカシはそんな風に思っていた。
 姉を思う気持ちは多分にある。しかしショウタにはそれがない。
 ショウタにその感情の欠片でも与えてやれればいいのだが――、生憎それらしい感情を抱けない自分がいて、
タカシはそれが少しばかり恐ろしかった。
 タカシも薄々気づいてはいた。
 単にショウタが元貴族であると言う嫌悪感意外にも、なにかしらの感情をショウタに抱いているのだ。
 その正体がさっぱり判らない。
 ただ、ショウタに対してなんの感情をも抱いていないと無理に思いたがる程の内容であることは明らかだ。
「……ってぇ……」
 こめかみを手首の内側で押さえる。自分のひんやりした手が、少しだけ頭痛を和らげた気がした。
 頭の片隅にモヤがかかったように、感情のその正体――、これは早く突き止める必要がありそうだ。
 早くなんとかしなくてはならない。
 タカシは深く嘆息すると、ベッドへ倒れこんだのだった。

今日はここまで

エロを求めるショタコンの嗚咽が聞こえる

待って●るよ

続きはまだでござるか

ずっと 待っ⚫︎いるよ

この名前は・・・ いつものあなたか
嗚咽上げながら楽しみにしてる

こんばんは
 ト リ ッ プ が 思 い 出 せ ず に 困 っ て い ま し た
そんなわけで保守ありがとうございます

 医者が渋面してショウタの体を観察していた。
 奴隷を診るには所有者の立会いが必要だとかで、結局のところ、タカシはこの場に立ち会うに至った。
 青あざや擦り傷、その他にも酷い怪我を負っているショウタは、医者の前でも不貞腐れた顔を作り
一切口を開こうとはせず、また愛想を振りまくこともしなかった。奴隷失格もいいところである。
「限度と言うものをご存知ですかな」
 年老いた医者は、ショウタの態度についてなひとつ苦言を漏らすことはなく、
その代わりタカシへの説教は幾度も口にしていた。
「限度があるのですよ、限度がね」 
 聴診器などの医療器具をしまいながら、医者はタカシに向かってはっきりとそう発言した。
「楽しむつもりなら、限度を知っていただかないと。使い捨ての奴隷ならいいですが、
長く、つまり彼が大人になるまでくらいは、と思っているのならそれなりに手加減しませんと」
 殺すつもりはないのでしょう、と問われれば、タカシは「まぁ」と返事するより他はない。
 殺したいわけではない。死んでほしいわけではない。
 長く楽しむつもりなら、なるほど、それなりの手加減は必要だというのは頷ける。
「鞭は闇雲に振るえばいいというものではない。醜い傷が残ってそれを見るたびに萎えては
飼って置く意味もなくなるというものでしょう」
 それはそれで別に構わないのだが、傷跡が発熱しているとなれば話は別だった。
「頭は踏みつけてはいけません。尻に大きすぎる異物を突っ込むのも頂けない。
全く、愛玩用なのにこれほどの扱いを受けている奴隷を私は始めて見た。
殺さないのならそれなりの慈悲を」
 巨大ながま口のようなバッグを閉じると、医者はタカシを見上げ、「暫く虐待行為は禁止」と
命令口調で言ったのだった。

「さぁ、地下に戻りましょう」
 女中はショウタの手を引くと彼を立ち上がらせた。
 塗り薬をふんだんに塗りたくられたショウタは全身が包帯だらけだ。
流石にこの体に無体をする気にはなれず、タカシはされるがままの状態であるショウタを見送った。
 女中に手を引かれて歩く後姿は幼い。
女性で、身長が一六〇に満たぬであろう彼女よりも更に小柄で、そして痩せている。
 殴る蹴るの暴行を加えることは楽しいが、それを行うためには彼の体力を温存させることも必要だと、
タカシは時々忘れかけてしまう。本当に彼のことを性欲を発散するための道具――、
肉だとしか思っていない自分自身に少々引いてしまう。
「あ……っ!」
 それは突然だった。
 女中の声が響いたかと思えば、突然タカシに凝視されていたその小さな背中が崩れ落ちたのだ。
 ショウタは木目の床へとぺたりと座り込み、そして体の全てをそこへと密着させていた。
 倒れたのだ、と気づくまでに数秒を要した。
 タカシがそう認識した時には下男が脇をすり抜け、女中が「ショウタ様」と叫んでいた。
「ショウタ様!」
 女性特有のキンとした声が鼓膜を揺さぶり、しかしタカシは動くこともできずにその場に立ち尽くし、
ただその様子を窺うしかない。
 小さな手が左右に振られ、大丈夫だと訴えているようであったが、
タカシから見てもその姿が平気であるようには到底思えぬほどに非力で緩慢な動きであった。

 女中がしきりにショウタを呼び、そしてその合間で一瞬だけタカシを振り返ると睨んで見せる。
 ――それは一瞬のことで、当事者でなければ気づかぬほどの短時間であったが、
タカシは確かに彼女が自身に向けて、侮蔑と軽蔑、そして嫌悪感を投げ掛けたことを自覚した。
 雇われの身である彼女は何某かの文句を言うことこそなかったが、
それでもタカシは自分に向けられたその突き刺さるような思念には、反省という言葉を思い起こさせた。 
 やりすぎたのは判っている。また、まだ未熟な体に思い切り無体を働いたことも。
 だが彼は奴隷だ。それも元貴族の。
 下手したら一晩で殺してしまう輩もいるのだから、タカシの扱いはまだ丁寧なもので、
それに金を出したのは自分自身なのだから責められる言われはない。
 ショウタはタカシのオモチャで、だから好きなように扱っても誰にも責められる言われはなく――。
 頭の中を言い訳が駆け巡る。幾度も同じ言い訳が頭を駆け巡っていく。
「ショウタ様……!」
「……ぶ……から」
 ショウタはしきりに大丈夫だから、と繰り返すが、医者が言っていたように
安静にしている必要がありそうなのは確かである。
 ショウタはタカシのオモチャだ。オモチャ以外のなにものでもない。
 だが。

 言い訳が駆け巡るということは逃げを、或いは許しを請いたがっていることだと
タカシはとうとうその事実を認めた。
 ええいままよ、とタカシはショウタへと近寄ると、その細っこい体を見下ろしそしてその様子を窺った。
 包帯を巻いた腕も、足も細い。やたらと、細い。
 ――少年だからか、それともタカシのやる餌を食べなかった所為か、それとも元来細身であるのか。
 そんなどうでもいい話がぐるぐると周回し、今はそんなことをしている場合ではないはずだと
もう一人の自分が叱咤した。
 女中はタカシの存在を無視したまま震える声でショウタを呼んでいる。
 彼女が仕えるのはタカシであってこの奴隷ではないはずなのだが。
「私が」タカシは乾いた唇を舐め、やったのことでそう搾り出した。
「はい?」
 下男と女中の視線が突き刺さる。
 その視線に気おされ、タカシはやっとのことで「私が連れて行く」と言ったのだった。

 ショウタは身じろぎさえせず、体を緊張させたまま、タカシの腕に収まっていた。
 抱きかかえて歩くのは癪だったので、まるで荷物かなにかのように小脇に抱えて歩く。
 一二の部屋から下る階段では、危うくバランスを崩して彼を落としかけたが、
それでもショウタは悲鳴をあげるでも抗議の声を上げるでもなかった。余程調子が悪いのかもしれない。
 地下へとたどり着けば、そこは相変わらずの打ちっぱなしのコンクリでベッドさえない。
 入り口のあたりに置かれた例の桐箱の上へと取り敢えずは下ろしてみるが、さてどうしたものかと
考えあぐねていた。
 一々ベッドを用意してやるのも嫌だ。
とはいえ、体調の悪いショウタを布団も毛布もないコンクリの上へと放置することは流石に憚られる。
 ショウタは相変わらず俯いており、体調の悪さが伺い知れた。
 どうすべきなのだろうか。奴隷の身分に相応しい態度を取るならば『何も用意しない』と言う選択が
最も正しいものに思われた。
 だが、それでは彼を長く楽しむことが難しくなってしまう。
 だが、なにか用意してやることもタカシの意に反するのだから困ったものである。
 第一それは俺のキャラではない、とわけのわからないことを考えているうちに、
ショウタは桐箱の上で力なくその姿勢を崩して横たわった。
 ――これは本格的に調子が悪いのかもしれない。
「おい、」
 パシッと乾いた音が、地下一階のコンクリに反響する。
 一瞬なにが起こったのかよく判らなかったが、どうやらタカシはその手を払いのけられたらしい。
 どこにそんな体力が残っていたのだろうか、桐箱の上に身を横たえながらも、
ショウタは生意気な視線をタカシに向け、嫌悪感と侮蔑の念を必死で示していた。

「触るな……!」
 僅かに鼻に掛かった声は風邪の所為だろう。
 潤んだ瞳はタカシを睨んでいるが、しかしいつもほどに力はない。
 ああ、なんだ、まだまだ余裕はあるではないか。
 そんな風に思ってしまう自分は鬼畜に違いないとタカシは考えた。
「この期に及んで抵抗か」
「……っ!」
 横たわったままの体の、その背中を足で踏みつける。
小さな背中が軋むのを感じたが、タカシは構わずその背を何度も踏んだ。
「どうした、声を上げればいいだろ」
 強情にもショウタは口を引き結び、その痛みに耐えているようだった。
 潤んだ瞳が更に水を湛えるほどにそれを繰り返すが、しかしショウタは痛いの『い』の字さえ発することはない。
 なんて強情で、なんて生意気で、なんて、なんて――、楽しいのだろう。
 己の歪んだ癖を十二分に確認しながら、タカシは痩せた腕を掴んで、背中側に捻り上げてやる。
「ぃたい……っ!!」
 ショウタは漸く声を上げた。そうだ、この声を聞きたかったのだ。
 悲鳴を、泣き声を。一度堰を切ってしまった痛みに対する訴えは、もう我慢することはできないのだろう、
ショウタはか細くしゃがれた声で『痛い、痛い』と繰り返した。
 もう我慢などできない。

以下エロパート注意


 てきとうにローションを塗りつけた指を、乱暴に尻へと宛がった。
 ショウタはその身に降りかかろうとしていることをいち早く察すると、
手負いの獣のようによろめきつつ、無様に桐箱の上を這い回った。
 逃がさないというように、タカシはその腰を思い切り引っ張ると有無を言わせず固定した。
 弱々しい動きを片手で抑えることは容易く、ショウタはあっという間に胸と桐箱を密着させる形に至った。
 やめろとも怖いとも言わず、ただショウタは折り曲げられた腕を伸ばそうと苦心しているが、
しかし大の大人の手で押さえられては全く抵抗ができず、ただただ芋虫のように上半身を蠢かせるしかない。
 ショウタは歯を食いしばり抵抗を続けた。
 タカシは乱暴に弄くり倒していた尻から指を抜き去ると、己の勃起したそれをその穴に宛がった。
「ひ……ッ!」
 狭い穴に、肉が吸い込まれていった。発熱の為かそこはやたらと熱くてそして潤んでいる。
 尻が痙攣している。抵抗しようと動かされる腕は宙を彷徨いそしてぱたりと力なく崩れ落ちる。
 肉体からは抵抗らしい抵抗は見られないが、その顔だけはタカシへの嫌悪がにじみ出ていた。
それだけで、ねじ伏せた甲斐があったというものだ。
「ひ、ぃっ」
 穴の入り口は赤く色づいている。細い声が「痛い」と告げるがタカシは構わずに腰を進めた。
身勝手な行いは通常のタカシであればあり得ないことであるが、しかし相手は奴隷だ。
ならば何をしても構わない。
 折り曲げられた体の隙間から手を差し込むと、タカシはショウタの性器を探った。
 それは見事に勃起し、雫をたらしていた。

「なんだ……」
 呼吸の合間に嘲笑するようにそういうと、ショウタは真っ赤に染まった目でタカシを睨み、
そして羞恥のためか俯いた。
「淫乱」
 そう告げてやると、ショウタの呻き声が止まった。
 おや、と様子を窺えっていれば、そのうちかみ殺した呼吸は次第に抑えきれなくなったのか僅かに漏れ始め、
そしてそれらは嗚咽に変わっていった。
 どうやらショウタのプライドを木っ端微塵に砕いていしまったようだ。
 前回同じ台詞を吐いたはずだが、そのときの彼は「違う」と言い張ったはずだ。
熱が出て気が弱くなっているのかもしれない。泣き声がタカシの嗜虐心にまた火をつけると知ってか知らずか
ショウタは声を殺して泣いた。
 だがそれも時間の経過とともに鳴き声に変わり、そして喘ぎ声に取って代わることをタカシは知っている。
 ――案の定、暫く攻めたてていれば、ショウタは甘い声を漏らし始め、
その上器用に尻を動かし始めたのだ。
 嗚咽しながら「ぁん」と喘ぐという芸当をショウタは見せはじめ、
 淫乱と何度も何度も罵り倒したが、その声ももう碌に聞こえないのか、
仕舞にショウタは「もっと」とねだり始めた。
「駄目……あ、ぁ……! や、お尻、変……っ!
ぁん、あ……っ、ひっ……駄目、おかしい、おかしいよぅ……」
「感じてるんだろ?」
 タカシの声も耳に入らないのか、今では腰を自ら振っている。
 呆れるな、とタカシはその痴態を鼻で笑う。
 タカシが試しに、と一切の動きを止めてみれば、朦朧としたショウタはなにも考えることができないらしく、
ただただ快感を貪るように尻と足を動かし自ら挿入を促していく。
 正気に戻れば憤死モノだろうが、しかし今のショウタは「駄目」といいつつも一人での尻をうごかし、
ただ馬鹿のように喘ぐことしかできない。卑猥な音が尻から漏れ、その音にさえ感じるかのように
ショウタの喘ぎはどんどん大きくなっていく。

「あ、あ、キモチイ、気持ちいいよ……ぁ、あ、」
 小ぶりな尻が前後する。女のようにみっちりとした肉のあるそれではなく、腰を屈めれば骨の形がわかるそれは
しかしタカシの目には卑猥に映った。前後する尻とその穴はジュプジュプといやらしい音を立て、
そしてそれに呼応するようにショウタは喘いだ。
「ぁ……あ、お尻、と、とけ、る……っ」
 そう呟くようにショウタが言った瞬間、タカシは猛スピードで腰を動かした。
 ショウタは「ぁ」とも「ぉ」ともつかぬ謎の喘ぎ声を上げ、そしてタカシが射精するころには壊れたように
「あ、あ、あ、あ、」と繰り返すだけになった。
 タカシが腰を引いても、穴は引きこむように、出て行くことを拒むように締め上げる。
熱く熟れたそこは性器そのもので、タカシはその穴を只管楽しんだ。
 頭でもおかしくなったようにショウタは喘ぎ続き、そして何度も射精した。
「ぁ、あ、あ、……あ、ん、あ、あっ」
 腰の動きが早まる。あと少しだ。
「ぁ……!!」
 ショウタがいくと同時に、タカシもその穴へと射精した。

 汚れた体を桐箱に預け、ショウタは脱力していた。
 肩甲骨がゆれ、そして両足もブルブルと痙攣している。絶頂の余韻に浸ったままの体は、
穴から零れ落ちる精液に構う様子もないようだ。
 はぁはぁという呼吸が響き、それがどちらのものなのか判らなかった。
 熱がまた上がったかもしれない。真っ赤になった顔は、やはり汚れている。
貴族のプライドを完全に踏みにじってやったような、深い満足感で心が満たされる。
 真っ赤な頬に手を伸ばすと、やはりそこは熱かった。
 ふいに、足音が響いた。
 それから、何かを落下させる音。
「なに……」
 下男であった。
 衣類だの毛布だのをまとめて運び込もうとやってきたのだろう、
しかし彼はその手に抱いたもの全てを床へと落下させ、そして青ざめた顔でタカシを見ていた。
 いや、その視線はタカシへと送られるよりも、ショウタに向かっていた。
「なにをなさっているんです……!!」
 激怒、憤怒、つまりは怒りに染まった声がそう叫んだ。
 その怒声にショウタはぴくりと身じろぎし、そして億劫そうに顔を持ち上げる。
 タカシのショウタへと伸ばされた手は――、あろうことか、下男の手によって叩き落とされた。
「おい……」
 下男ごときがタカシの手を払い落とした事実が不愉快であった。
 男は持ち込んだタオルでショウタの体を清め、そして地を這うような声で「お医者様の言葉を忘れましたか」と
タカシを責めた。

 下男に責められる言われはない。ショウタは、タカシが金で買ってきた『モノ』だ。
好きに扱ってもいいはずである。
 手を伸ばし、奴隷に触れようとする。だが下男はさせるかと言わんばかりに自分の身を盾にしてショウタを庇った。
「お前……ッ」
 タカシは強引に下男の肩を引っ掴んだ。
 みしりと軋むような音がする。それでも下男はその場をどかず、タカシを見上げた。
「どけ!」
「どきません!!」
 強情にも下男はショウタを庇い、そして睨んでいる。
 この家に召抱えられている人間とも思えぬ行動だ。
 タカシは激昂している自分を自覚しつつ、その腕を振り上げた。
 それは、タカシのオモチャだ。タカシが買ってきたオモチャのはずだ。
 オモチャをどう扱おうがタカシの自由のはずだ――、
「動かないでください! 触らないで!」
 下男はそう叫んだ。
「……ッ」
 タカシは硬直した。
 振り上げられた腕はその形で止まり、踏み出そうとした足も床へと張り付いたままだ。
 普段は従順な下男が反発した所為か、或いは睨みつけた所為か、タカシは一歩も動くことができなかった。
 畏怖しているわけではない。従っているわけではない。
 ただ、動けなかったのだ。なにか呪縛のようなものが体中に絡みつき、それはタカシを硬直させた。

「貴方はおかしい……!」
 俯き表情は見ない。だが下男は小刻みに震えながら、絞り出した声でタカシの異常性をはっきりと指摘した。
「狂っている……!!」
 たっぷり十秒は間が開いただろうか。互いに距離を保ったまま、暫しの静寂が地下室を満たしていた。
 肩を震わせていた下男は、突如タカシに背を向けたと思えば、毛布で手際よくショウタを包みだし、
そして自らの腕にそれを抱いた。
 首から上だけを出した状態で毛布に包まるショウタの顔は、死体のようだ。下男は心配そうにショウタを見つめ、
それが終わると地上へと向かうべく足を踏み出した。
 地下に、足音が反響した。下男が歩くごとに毛布の端がゆらゆらとゆれ、タカシはその動きに酔いそうになる。
地下室の入り口まで歩いた彼はピタリと歩みを止めた。
「もう年末です……ご自分のお部屋の掃除はご自分でお願いします」
 先ほどとは打って変わった穏やかな声がそう告げる。
 その瞬間に、タカシは振り上げられた腕をゆっくりと下ろしたのだ。
 手を上げていたことさえ忘れていた――、タカシは消え行く二人の背中を見送ると、
溜息を吐きそして汚れた桐箱の上へと腰を落ち着けたのだ。

 指摘されるまでもない。近頃突如として芽吹いた強い嗜虐性は留まることを知らず、
その獣がひとたび目を覚ませば、タカシはもうその欲求をコントロールすることができずにいる自身を自覚していた。
 もとよりそのような性質は持ち合わせていたのだろう、しかし近頃のタカシはあまりにもおかしい。
 それに苦しむことさえなく、『ショウタは元貴族の奴隷なのだ』という言い訳のもと、
彼を躊躇なく犯す自分のこともよく判らなかった。
 そしてそれに罪悪感を覚えない自分自身を至極冷静に観察できる自分も居る。
 行き過ぎている自分の異常性を認めながらも、だからなんだという風に、何ひとつ反省することができない。
 もっとこう、なにかしらせめぎあうものがあってもおかしくはないはずだ。
 タカシは汚れた手で髪をかき乱した。
 そう、これも『悩んでいる体』を自分自身に向かってアピールしているだけで、
タカシ自身は何も悩んでいない。
 自分はこんな不気味な生き物だっただろうか。
 どうも調子が悪い。
 タカシは立ち上がると冷ややかに地下室を観察し、
それに飽きると上階へと向かうべく階段を上りだしたのだった。

 大掃除と言うものは概して楽しい作業ではない。
 一年分の汚れを掻き出し、新年に備える。
 寝るためだけに帰っている自室は、殆ど使われていないくせに埃はあちらこちらから姿を現した。
「くそ、なんだこれ……」
 絡みきったコードの束に、埃を被った記憶媒体、それに無造作に本棚に置かれたフィルム型パソコンは
随分と昔に廃れたものだ。
 去年もこうして大掃除を行ったはずだが、その様子がどうであったのかタカシはまるで覚えていないし、
そもそも去年も片付けたはずだというのに何故こんな風に既に化石と化した電子機器が自室にあるのかが判らなかった。
 要らないものは捨てる。ただそれだけの作業がどうにも難しい。
 とりわけ本棚の中身は酷いもので、もうとっくに電子書籍で入手したものまでが一冊どころか
二、三冊重複している場合もあった。
 まとめて捨てようと本棚に手をかけ、不要なものをどんどん抜き出していく。
 と、タカシは手を止めた。
 分厚い『AIの基本構造――思考とは何か 第十版』なる本の横に添えられるようにして置かれていたのは
アルバムだった。
 中身は何の変哲もない、ごく普通のアルバムだ。
 母が居て、父が居て、祖父が居て、そしてミユキがいた。二人で写っているもの、家族全員で写っているもの。
 そこには人間らしい微笑を浮かべる自身が居て、不思議なものを見ているような気分になった。
 近頃、こんな風に普通の人間のように微笑んだだろうか。
 学生時代のタカシは、ダサいことこの上ないシャツとニットベストで微笑みながら姉と一緒に写真へと収まっている。
 懐かしかった。この頃、この国は漸く開国された状況に慣れ始めたのだ。
 日傘を盛って少しだけ首を傾げた姉の顔に、タカシは指先で触れた。
 ミユキは元気だろうか。近頃はメールでさえ届かなくなった。
 あの人は、元気だろうか――。
 もう一度写真を指先でなぞると、姉が微笑んだような錯覚を覚えた。

『タカシさん』
 声が耳に木霊する。そう、鈴のような声をした女性だった。
『このお洋服、おかしくないかしら?』
 服装にとても気を使う人だった。
『もう、それじゃあ判らないわ。どれでもいいのね、男の人って』
 困った顔でさえ、美しい人だったのだ。
 会いたいと思う。姉の腹の子も心配だ――、男の子であればいいのだが。
 代議士の家に嫁いだ以上、望まれるのは男児だ。女児とて可愛いものであろうが、
政界で生きるにはやはり男の方が有利であることは間違いない。
 他の職業なら兎も角として、やはり政治家は男だ。
 タカシにはどうしてやることもできない問題であるが、できることなら男児を、と望んでしまう。
 優しい姉が苦しむ姿を弟としては見たくはないものだ。
「坊ちゃま」
 と、扉の向こうからノックとともにタカシを呼ぶ声がした。
 下男だ。
「……」
 すぐに返事をしてやるのは癪だ。下男は雇われている身でありながら、タカシに背いたのだ。
本来すぐに解雇してもいいところを、タカシにその意思がないことに感謝してもらいたいくらいである。
「坊ちゃま、すみません」
 再びのノックにタカシは顔を顰めた。
 アルバムを手にしたまま、扉に向かう。
「なんだ」
 扉越しに返事すると、タカシは耳をそばだてた。
「あの、お話があります」
 タカシはこれ見よがしに溜息を吐くと扉を十センチほど開けた。
どうせこのまま意地を張って開けずに居ても、下男は扉の前に居座り続けることだろう。

「なんだ」
 タカシは下男の顔を見遣り――、そして口をつぐんだ。
 彼の頬は赤くはれ上がっていた。
 慌てて扉を最大限に開けると、「それはどうした」と問う。
「ああ、これは大したことでは……」
「いや、拙いだろう。どうしたんだ」
 ここは彼の職場だ。怪我をしたとなれば雇い主であるタカシは病院へと連れて行く義務が発生するのだ。
「……少年に、少し蹴られまして。いえ、あの、わざとではないんです。
意識を取り戻した直後のことでしたので、私を坊ちゃまと勘違いして抵抗されたのでしょう。それで……」
 なるほど、事故と言うことらしい。
「あの、どうか、どうか少年を叱りつけたりはなさらないで下さい。私の不注意でもありますから」
「それはどうでもいいが、痛むか?」
「少し痛みますが平気です。それより、先ほどのご無礼をお詫びに参りました」
 頬を赤くした下男が深々と頭を下げた。
「やめろ、お前は悪くはない」
 ただ、自分が少しおかしいだけなのだ。
 原因不明の、常軌を逸した欲求に囚われる。
 ひとたびスイッチが入れば、もう止まらないし止められないのだ。

 タカシはまた髪をかき乱した。そしてはっとした。
 また『自身の行動に困惑している体』を自分自身へと向かって示している。
 何のためにそんなことをするのか判らない。
「坊ちゃま……?」
「いや、なんでもない。近頃は私の行動も行き過ぎている。お前が私をああいいたくなる気持ちも判る」
「坊ちゃま」
 下男は視線を泳がせ、それからまた頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした」
「いや、いい。それよりそこ、冷やせよ」
 はい、と言う返事を待たずに、タカシは扉を閉じた。
 タカシは意味の判らないわだかまりが腹に巣くうのを感じていた。
 一体なにが自分の中で起きているのかが判らない。
 下男の頬の怪我は心配できる。遠くはなれて暮す姉のことも。
 だというのに何故ショウタに対してのみあそこまで残酷で無慈悲になれるのか自分でも理解できなかった。
 奥歯をきつく噛み締める。
 するとこめかみにギュッとした痛みが駆け抜けていった。
 近頃の頭痛の原因はこれかもしれない。
 タカシはアルバムをベッドの上へと放り投げると、自分自身も横になったのだった。

今日はここまで

純文学よりの官能小説を読んでいるみたいだ
近未来なのにレトロ調な雰囲気も良いよ

こういうものがSS速報で読めるとは思わなかった


毎回楽しみにしてるよ


続き待ってる

保守とか感想とかthx

短い

 タカシは庭に立っていた。
 やはり庭は部分的に奇妙で、これが夢と気づくのは容易かった。
 夢と気づいても足が動かぬのは、目の前に展開された光景があまりにも不可思議であったからだ。
 ミユキが庭を駆けていた。少年と一緒に、だ。
 真夏の庭は太陽が照りつけ快適とは言いがたい。
 額に浮かんだ汗を拭いながら、タカシはミユキと少年をジッと見つめていた。
『待って、危ないわ』
 ミユキが少年に声を掛けた。
『ほら、お靴。紐が緩んでいるわよ』
 ミユキは日傘を少年に渡し、そしてワンピースの裾が汚れるのも構わずに自らがしゃがみ込んだ。
『自分で結べるよ』
 少年が不満げに言うと、ミユキは幸せそうに微笑み『そうなの?』と尋ね返す。
『できるよ』
『でもね、このお靴は結び方が少しだけ難しいから、任せて頂戴?』
 そういうと、少年はこっくりと首を縦に振った。
 微笑ましい光景である。
 タカシはいつしか背中の筋肉を緩め、緊張をほぐしていた。
 こんな幸せな光景に、なにかこの身を危険に及ぼす出来事など起こりえない――、そう思いながら、
こちらに気づいたミユキに向かって手を振ったのだ。

『タカシさん』
 しゃがみ込んだままのミユキが手を振った。
 ああ、ワンピースの裾が土と枯れた芝生で汚れている。
 土汚れは庭を駆け巡った時のものかもしれない。
『ワンピース、汚れる』
『あら』
 タカシの指摘に、ミユキは今気づいたといわんばかりに裾を見遣り、そして苦笑した。
『私ったら、駄目ね』
 汚れた裾を美しい手がなでる。ひとなでごとに汚れは落下し、しかし深く入り込んだ土は取れないのだろう、
僅かに茶色く染まった部分はそのままであった。
『着替えておいで』
『そうね』
 ミユキはゆっくりと立ち上がった。
 いや、立ち上がろうとしたのだ。
 その動きはは途中で途絶え、そして彼女の動きは完全に止まったのだった。
『ミユキ……』
 タカシはその様子を息を呑んで眺めていた。
 ただ、アホのように。
『駄目だよ』
 そう言ったのが少年だと気づくまでには時間が掛かった。
『駄目だよ』
 少年はそう言うと――、傘を、そう、その手に持った傘を、傘を――。
 ミユキの胸から抜き取ったのだ。

『……え……?』
 ミユキの白い頬に、鮮血が飛び散った。
 それから崩れる体。
 細い体が力をなくしたようにがくりと崩れ、そして、倒れこむ。
 まるでスローモーションのようだ。
 細く小さな体は芝生の上へと倒れこみ、そして庭は、ワンピースは、
土汚れなど比にならぬほど赤黒く汚れていた。
『駄目。駄目だから』
 ドサリと言う鈍い音がして、日傘が放り出された。
 真っ赤な光景に、タカシは未だ立ち尽くしている。
『ミユキ――!』
 声を張り上げ、彼女に駆け寄った。
 自分のものと思えぬ絶叫と、現実と思えぬ光景。
 いや、これは夢だ。
 夢だというのに、焦ることを止められれず、震えでもつれそうになる足で必死に彼女の元へと向かう。
『ミユキ、おい、ミユキ!!』
 頬を叩いても髪をかきあげても彼女の瞳は動かない。
胸に開いた穴から噴出した鮮血は、辺りを赤く染め、濡らし、そして汚した。
 タカシ自身の手も滑ったそれで真っ赤に染まっている。
『ミユキ、ミユキ!!』
 震えた声では名前のほかに何か呼ぶこともできない。やっとのことで搾り出した声は『救急車』、
しかし焦りのあまりタカシは、そのミユキの負傷の原因である少年を見上げ、そう懇願していたのだ。

『だぁめ』
 少年の顔が逆光でよく見えない。
 英数字の『1』の形に指を伸ばし唇に当てている少年は『駄目だよ』と言った。
 そこで漸く冷静になったタカシは、裏返る声で『貴様』と叫び、そして気づけば少年を芝生の上へと転がし
その襟首を引っ掴んでいたのだ。
『貴様、なにを、ミユキになんてことを……!』
 強い日差しが少年の顔を照らす。
 ああ、タカシはこの顔を知っていた。
 そう、よく知っている顔だ。
『……ショウタ……!!』
 不敵に微笑む顔に、タカシは強か拳を打ち込んだ。
『お前、お前、なんで……!!』
 何度も何度も殴る。
 ゴキ、だとかミシ、と言う耳慣れない実に気持ちの悪い音や感触が伝わるが、
タカシは加減なくショウタを殴った。
 タカシの拳はやがてすりむけ血が滲み、気づけばショウタは身動きひとつ取らなくなっていた。
 ハァハァと言う荒い呼吸は自分のものだ。
 襟首をつかまれたままピクリともしないショウタを見つめ、
しかしタカシはまだまだだと言わんばかりに力強くなおも殴り続けた。
『ふざけるな! ふざけるな……!!』

 傍らに横たわる姉の顔は少しずつ白さを増していく。
 彼女が完全なる死体に近づくまであと少しと言ったところだろう。
 タカシはそれを横目で見つつも、元凶であるショウタを殴る手を止められなかった。
 やがて首がおかしな方向に向いたショウタを芝の上へと捨てると、タカシは立ち上がった。
 厳しい真夏の日差しが首を焼いた気がする。
 ちりちりと燃えるような暑さと痛みを首に感じながら、タカシは二体の死体を見つめた。
 ああ、なにが起こっているのだろう。一体なにが。
 自分のシャツの裾も真っ赤に染まっている。
 芝生も赤くて、ミユキも真っ赤だ。
 おかしい。なにもかもがおかしい。
 独りでに漏れ出る笑い声が獣の慟哭かなにかに聞こえタカシは両耳を押さえながら笑い続けた。
 雲が流れ、日差しを隠し、そして先ほどまではあんなに天気がよかったのに、ポツリポツリと雨が降り出した。
 なにもかもが流れて言ってしまえばいい。そう、なにもかもを流してくれ。
 タカシは雨の中で笑い続けた。耳を押さえながら。
 芝生の隙間を、滑るように血液が流れていった。
 まるで川だ。流れ行く血液はどこへ向かうのだろう。
 なにもかもが異常で、おかしい。
 震える脚が限界を訴え、タカシは芝の上へと膝をついた。
『ミユキ……ミユキぃ……』
 力をなくした体を抱き、幼子のように声を上げる。
 たった一人の姉だ。かわいそうな姉、一体何故こんなことに――。

 元凶の全てはショウタだ。タカシは再びマグマのようにわきあがった怒りを胸に、
ミユキの傍らに倒れるショウタを見た。
 いや、見たはずだった。
 ――ショウタの死体は、そこにはなかった。
 血液だけがそこにあり、ショウタ自身の体はそこにはない。
 慌てて体を起こし周囲を見遣る。
『ショウ……タ、』
 干からびた喉が、漸くそう発音した。
 折れ曲がった首――、妙な形に歪んだそれを、支えることさえせずにショウタはそこに立っていた。
『酷イね』
 雨がタカシの頬を撃ちつける。かなりの強雨でタカシの頬は痛んだが、
しかしショウタは気にした様子もない。
『本当ニ酷イね』
 ひび割れた声がタカシを責めた。
 ジジジ、と言う奇妙な音がする。
『酷イ酷イ酷イ酷イ酷イ酷イ』
 壊れたようにそういうと、ショウタはタカシに一歩また一歩と近づいてきた。
 尻餅をついたまま、タカシは後ずさった。衣類が汚れるのも構わずに、ミユキの体を掻き抱いたまま
ショウタと距離を取るべく少しずつ動くが距離は縮まるばかりで効果は得られない。
『酷イ酷イ……俺ニダヶ、何デ酷イことスル乃?』

 歪な首には子供らしい細い腕が添えられ、そして元の形へと戻すべく乱暴にぐいぐいと押し続ける。
 そうこうしているうちにショウタの首は元の場所へと――、
辛うじて戻り、しかしその首は歪んだままだった。
『痛イよォ、酷イ……ォ兄ちゃン、酷イよ』
 ぱちぱち、と突如として火花が散った。
 ショウタの首からだ。
 彼の目から零れ落ちる黒い液体は何だろうか。いいや、そんなのは判りきっている。機械油だ。
 ショウタはアンドロイドだったのだ。
 人間の為のアンドロイドが人間に牙を向く。
 タカシは迫り来るショウタを畏怖して見つめた。
『痛イよぉ……』
『ショウ……タ』
 干からびた喉が張り付くような感覚がする。
 いったい何なんだ。こいつは何者なのだ。
 自問自答するが答えは見つからず、そしてショウタはまた一歩一歩、
覚束ない足取りでタカシへと近づいてくる。
『酷、』
 ごとん、と音を立て、ショウタの首が落ちた。
 落下した首の付け根には、シリアルナンバーが打たれている。
『ヒドォイョオオオオオオオ』
 落下した首が、絶叫をした。

 タカシはベッドの上で息を切らしていた。
 荒い呼吸、そして首筋を伝う汗。
 天井からはけたたましい目覚ましの音が鳴り響いていたが、
しかしタカシはいつもどおり停止命令を出すことができずにいた。
 唇が震えている。額に浮かんだ水滴は鼻筋を滑りシーツに落下していく。
 いくつも零れ落ちるそれを眺めながら、タカシは襟ぐりを掴んだ手をゆっくりと広げた。
掌の汗はシャツによって吸い取られていたはずだが、しかしまるで湧き水が湧き出るがごとく、
そこはすぐさま湿って行った。
 ――なんて気味の悪い夢だろう。
 タカシはじっとりとした掌をシーツで拭いながら考えた。
 近頃夢見が悪くて仕方がない。
 ストレスが溜まっているなどということはないはずだ。タカシはそんなに弱い人間ではない。
 一体、何だと言うのだろう。
 自分では認識をしていないだけで、ショウタに対して罪悪感があると言うのだろうか。
 今しがた見た夢を、目を瞑って反芻する。
 落下する首。その皮膚からはみ出ていたのは金属製のパーツで――、
つまり彼はアンドロイドであった。

 もし。もしもショウタがアンドロイドであったのなら? それならば心置きなく殴る蹴るができるだろう。
 だがタカシはそんなことは望んでいない。生身のショウタでなければ意味がない。
 だが何故?
 代用品で済むのならそれこそ健全でいいことではないか。
 いいや、そうではない。
 そうではない、とタカシは首を振った。
 タカシはショウタに執着している。手放す気持ちはない。生身でなくては意味がない。
殴り、蹴り、そして犯し心を蝕ませたい。
 だが、それが何故なのかは皆目見当もつかない。
 そこまでは判るのに、しかしその先が判らない。
 生意気な目、屈しない心、そして決して委ねられることのない強情な体。
 それが楽しくて仕方がない。罪悪感など微塵見ない。
 では何故妙な夢を見るのだろう。
「気持ちが悪い……」
 目覚まし時計は鳴り響いている。
 いい加減この腹の立つ音を止めたかった。
 タカシは眉間にシワを寄せたまま「起床した。停止」と命令を出したのだった。

今日はここまで

追いついた。続きに期待

 ているよ
見て●るよ

良い感じに背徳的

乙乙!
追いついた
期待

ずっとずっと 待って●るよ

乙!
期待

待ってるで。

すまんなートリあってるか不安だ
よいせ

うし、あってた!
あ、エロパートなしです
ごめんNA!

 正月も間近となると、テレビは各種イベントに向けて浮き足立った番組だけとなり、
タカシは辟易していた。
 普段は見向きもしないテレビに向かっているのは、単純に暇をもてあましていたからだ。
 あの日以来、ショウタは下男の部屋に保護されており、タカシの前に姿をあらわすことがない。
 時折怒声が聞こえてくるが、おそらくショウタが下男相手に悪態を吐いているのだろう。
 なんにせよタカシはショウタの体以外に興味は湧かなかったから、
彼が泣こうが喚こうがどうでもいい話であった。
 訪ねればいいだけの話であるのだが、あの奇妙な夢を見て以降、どうにも性欲が湧かなかった。 
 性欲のスイッチが切られたかのように、嗜虐心がなりを潜めている。
 ――今のところは、であるが。
 そんな理由から、タカシはリモコンを操作し然して面白くもないテレビ番組を見ているのである。
 オモチャを取り上げられればやることがない。
 必然的に見たくもないテレビを見ることになるわけだが、どの民放もお笑いや音楽、
つまらないドラマばかりで如何せんタカシはうんざりしていた。
 ホログラムの無駄遣いもいいところである。
 そんなアイドルだの芸人だので満たされた茶の間で怠惰な年末を過ごすこと数日、
衝撃的なニュースがタカシに齎されたのは二十八日の昼間のことだった。
 のんべんだらりと朝からテレビをつけていたタカシは、思わずソファから立ち上がりそのホログラムを凝視した。
『……アメリカ連邦共和国の世界最大手コンピューターメーカーのB社は
新たなAI技術を開発したとの発表を行いました』
 タカシはその報道をインターネットよりもいち早く届けるに至った『日本放送技術公社』の報道を
食い入るようにして見た。
 スクープ映像がひとしきり流されたのち、アナウンサは今後日本最大大手であるA社――、
つまりタカシの勤め先であり、ゆくゆくは運営の一切を任されることとなる実家の事業だ――、の
経営が厳しくなるのではないかと言う見解を示し報道を締めくくったのだった。
 タカシはテレビに向かって「電源off」と口頭で指示をすると、深くソファに沈みこんだ。

 ――頭の痛くなるような話だ。
 AIの新技術。その発想は、今正にA社の技術者たちがあと一年後の新作発表にあわせて開発を
急いでいるものであった。
 それは、端的に言ってしまえば、人造人間によく似た技術であった。
 体の一部を事故などで欠損した場合、それをメカニックで補う技術は疾うの確立され、随分になる。
 最早それは医療技術としては別段珍しいものではない。
浸透しきったそのその医療技術は多くのユーザーを生み出し結果パーツは安価となり、
ついには国の財政負担を軽くするまでに至ったと聞く。
 勿論A社も小規模ではあるが人工四肢部門を設けていた。先の大戦の結果であるが、
それなりの業績を打ち出しているのだ。
 今回B社が発表したのは人工海馬だ。
 つまり、B社の会見が事実であるのなら、人間の記憶や空間学習能力をつかさどる部位を、
人工物に切り替えることが可能と言う話だ。
『先ほどお伝えしましたB社の人工海馬についですが、ヤマザキさん、どうしょうか?』
『ええ、なんとこの海馬、アンドロイドに埋め込むことは当然ですが、人間に埋め込むことも可能だそうです。
様々な機関によって阻止されるでしょうが、理論的には可能とのことですよ。
つまり、体だけ別人に切り替えることも可能と言うことですね。それに、』
 なるほど、と女性アナウンサーがしきりに頷いている。
『それに、昨今では体の五割程度がメカニカルと言う方も珍しくないようですが、
オールメカの人間が生まれることも夢ではないということです』
 A社のやりたかったことは、まさにこれだった。
 『故人の意志を引き継いだアンドロイド』、それが作りたかったのだ。
 勿論今現在故人である場合にはどうにもならないが、今まさに死のうとしている者から
記憶を人工海馬にアウトプットし、一部の記憶――、あまりにもその人そのものであるのは問題であるから、
アンドロイドとして存在するために適さない記憶の削り取るという作業ののち、アンドロイドに埋め込むのだ。
 先を越された、とタカシは思わず舌打ちをした。

 A社は技術をほのめかすような発表を各デジモノ専門誌にしてはいたが、
情報漏洩をおそれて何ひとつ明確には発表していない状態であった。
 技術の類似性は歓迎されない。後だししたほうが真似たと思われても仕方がない。
 ――開発をもっと急がせるべきだったのかもしれない。
 尤も、今現在のタカシの立場では、それを行うことはできないのだが。
 国内シェアナンバー1の冠に胡坐をかきすぎたその結果の敗北としか思えなかった。
 実のところ、A社は行き詰っている。
 人工皮膚を開発したものの、それについても様々な弊害があり結局は廃止した。
 近頃はアメリカや新ソ連の後に続くばかりとなっているのがなんとも歯がゆい。
いつでもあと少しと言うところで追いつけぬのだ。
 様々な国から留学生を募っている国と、小さな島国ではやりようが異なる。
 優れた技術を膨らませることが難しいのだ。A社でも伸び代の多い国から技術者を募っているが、
しかしそう上手くは行かない。国によって他国の技術者――、いやもっとはっきりと言えば
鎖国の名残から、外国人を国内へと招き入れることについては未だ規制があるし、
運よく許可が下りても、A社内の技術者がみな英語を苦手としているために苦労して招いた技術者と
上手くコミュニケーションを取ることが難しいのだ。
 英語は地球語とよく言ったものである。共通の言語を話せなければ切磋琢磨することもできぬし
またスムーズな情報交換も望めない。
 このままでは、A社は時代遅れのアンドロイドメーカーと言う印象が染み付きかねない。
 アンドロイド販売の歴史はどこのメーカーよりも長く深いはずだというのに、
近頃では寧ろそれだけしか取り得がないようにタカシでさえ感じている。

 滑らかな関節の動き、人そのものの表情。
 それらは確かにどこのメーカーよりも勝っているが、
しかし今やアンドロイドは様々な多様性があり、例えば動きが歪であってもジェットエンジン搭載で
空を飛べるだとか、そうでないのなら人型から小型バイクへと形を代えるだとか、つまり
それぞれの企業はそれぞれの形で不自然な動きをカバーするべく工夫を凝らしているのだ。
 A社はエラーを起こしがたい思考パターンが売りではあるが、それだって冒険をしていない言われればそれまでだ。
 安全性ばかりを重視した結果、個性的な性質――、つまり性格だ、を持ったアンドロイドはA社の製品からは
生まれ得ない。生まれようがないのだ。
「……畜生……」
 爪を噛みつつタカシは呟いた。
 家を潰すことも、どこかに吸収合併されることも、どちらも有り得ないことだ。
 いや、あってはならぬことだ。潰してはならないのだ、あの会社は。
 あの会社は、ミユキの、姉の――。
『私だってできることならば男性に生まれたかったわ』
 日傘の下、俯き顔を隠したままミユキは言った。
『でも仕方がないの。だから結婚をするの。貴方が会社を守るのよ』
 日傘をどけた姉は、微笑んで『お願いね』と言葉を添えて、自分の夢をタカシに託したのだ。
 潰すわけには行かない――、そう考えれば矢も盾もたまらず、コートを引っ掴み一階へと向かった。
 祖父に会いに行くのだ。ここ暫くあっていないから丁度いいだろう。
「坊ちゃま?」タカシの足音を聞きつけたのか、下男が顔を出す。「どちらへ?」
「お爺様に会いに行く」
「今からですか?」
「ああ」
 コートに腕を通しながら忙しなく告げると、下男はタカシンのあとをついて来た。
「馬車で行かれますか? それともスカイカー、」
「馬車で行く」
「お待ち下さい、今私が御者を、」
「自分で言うからいい。お前は仕事の続きをしておけ」
 実際下男がどんな仕事をしているのかタカシは知らないが、そう気遣うように告げる。
 馬車を呼ぶくらいなんてことはない、ただ口を開けばいいだけだ。下男が御者に連絡をし、
タカシはぼんやりと玄関でそれを待つ――、無駄な時間だ。同じ敷地内にいるのだから、
さっさと声を掛けた方が早い。

「坊ちゃま、」
「なんだ! 私は忙しい!」
 半ば恫喝するように声を荒げると、下男は二度三度と口を開き、そしてその口は静かに閉じられた。
 八つ当たりが過ぎた――、そう思ったところで叫んだ事実は消せないし、下男は怯えたままだ。
「……悪かった。急いでいるんだ」
「いえ……、行ってらっしゃいませ」
「ああ」革靴に足を突っ込み、そしてふと思い出したように「ショウタを頼む」と口にする。
「……はい」
 何故そう言ったのか判らない。ただ自然とそう言葉が口をついて零れ落ちた。
 玄関扉を閉じて、厩へ向かう。同じ敷地内にあるとは言え、そこは屋敷から少しばかり離れていた。
 庭を抜け、裏庭へ向かい、その先に位置する。その道中に比較的広く取られた道が広がるのは、
当然馬を走らせるためである。
 競歩と言うべき速さで足を進め厩を目指していると、小気味のいい音が響いてくる。
 馬車だ。きっと下男が連絡を入れたのだろう。深い茶色が美しい馬車を馴染みの御者が操りながら
タカシに向かって近づいてきた。
「坊ちゃま!」
 そう呼ばれたところでタカシは足を止めた。あまり近づくのは危険だからである。
「急に悪い!」
 ひづめの音にかき消されぬよう声を張って言う。
 やがて馬はタカシの前に止まり、そして御者は「いいえ」と返事をした。
「実家まで頼む。お爺様に会いに行く」
「はい、判りました」
「なるべく最短ルートで」
 御者のはきはきとした声を聞きながら、タカシは馬車へと乗り込んだ。

 馬車はスカイカーのあとへ続いたり、はたまた馬車のあとへと続いたりしながら道を進んでゆく。
 車は大気を汚すとしてだいぶ昔に規制された為、行動を走るのは馬とスカイカー、スカイバイクのみだ。
 時々歩道をスカイボードが走るが、高さが二十センチ程度しか浮かばない上にスピードも出ないとなれば、
その用途は子供のちょっとした移動手段に限られていた。
 それでもこの国の発展はすさまじい。戦争によって苦汁を舐めた老人たちが陣頭指揮を執り
街づくりに際して可能な限り、至る場所へと最新の技術を埋め込んだためだ。
 雪が降っても路面が凍結することはない。犯罪が起これば瞬時に警備アンドロイドが犯罪者を拘束し、
被害者に怪我がある場合は医療アンドロイドが治療を開始する。雨風が強い日は空高くに張り巡らされた
風雨感知線がシールドを張る。万が一砲弾が降り注ぐような事態が起こったら、主要都市はすっぽりと
シールドの分厚いドームに覆われ、すぐさまドーム外の戦闘型アンドロイドが偵察と攻撃を始めるのだ。
 すさまじい発展に追いつけなくなりつつあるのは、A社かもしれない。
 遅れを取り『A社はもう駄目だ』と消費者に思われたらもう終わりなのだ。
そういうイメージこそが会社を破綻へと導く。
 脳内に広がる恐ろしい未来に、タカシは唇を噛んだ。
 子供のお守りをするだけのアンドロイドに未来などないだろう。
 性的な相手をするだけが取り得のアンドロイドなど既に時代後れだ。 
 ではどうすればいいのか。タカシにはそれすら思いつく能はない。
 目下の目標は人の記憶を受け継ぐアンドロイドであったが、それもB社の発表が先になされたとなれば
方向転換を図るべきとされるかもしれない。
 だがどうすれば――? タカシは自分の無能振りをいち早くに自覚していた。
勉強ができるとかできないの問題ではない。センスがないのだ。
 センスがないというのが技術がないことよりも厳しいことだ。技術は磨かれるがセンスはそうも行かない。
あれは天性のもので、のちのち様々なものに見て、触れて身につけたとしても、それは後天的なものであって
生まれつきのものには遠く及ばない。
 タカシにはそのセンスがない。どころか、皆無といっていいのかもしれない。

「参ったな……」
 参ったな、と愚痴を零すことしかできぬ。
これから祖父に会ったところでできることなどないとタカシは判っているのだ。
 判っていも会いたいと言う気持ちは抑えられなかった。
 一刻も早く祖父に会う必要が会ったのだが、馬車は遅々として進まなかった。
「どうした?」
 車内の伝声管越しに尋ねると、御者は『渋滞のようで』と短く返事した。
 確かに車窓からみえる道は混雑をしており、どの車も立ち往生している。
ドライバーは時として苛立たしげに、或いは時間を気にするかのようにしてみな落ち着かない。
それはタカシも同様で、「こんな時に」と思わず口走る。
 テレビも人も浮かれがちな年の瀬、こうして渋滞をしているのはおそらく地方都市も同じことであろう。
 かえって徒歩で向かったほうが早かったかも知れぬ。
 そうタカシが思った瞬間に、馬車は少しだけ動いた。前進と呼ぶにはささやか過ぎるほどの動きであったが、
しかし今正に下車して徒歩で向かおうかと考えてたタカシを車内へと引きとめるには充分な効果があった。
 浮き上がらせた腰を再び落ち着け、タカシは溜息を吐き出し続けた。
 結局この後、タカシが下車をしようと思うと同時に車がほんの少しだけ動くと言うことを繰り返し、
実家へと辿り着いたのは二時間後のことであった。


 この国、大日本帝国のトラウマは深い。
 羽のついた不気味な飛行船が横浜空港に寄せられ、それに人々があっと驚いていると、
突如として現れたのは軽甲冑を纏った軍人の大群であった。
 無国籍軍を名乗る彼らは日本人を殺め、捉え、そしてその奇襲作戦でもって、
日本を沈没させようと企んでいたのだ。
 ――と言うのはタカシが義務教育総合校に在籍をした九年の間に、幾度も聞かされた話だ。
 実害を受けたのは老人世代であって、タカシたちの世代ではない。
 殺されたのは多くの技術者と、それに研究者。今でこそ彼らは手厚く保護されているものの、
当時はボディーガードもなく道端を一人で闊歩していたと言うから驚きである。
 日本は技術を好んでガラパゴスかさせ、変態的にそれらを育むことに熱心な国で、
国内で技術そのものを保護し、決して諸外国へと明け渡すことのない『秘密』を数多く持っていた。
 それが狙われたのだ、と言うのが教科書による説明であった。
 主に水不足。どうもそれが悪かったようだ。
 世界がそれで喘いでる時代に、日本は豊富な資源に加え、次々と水を『何某かの技術』を用いて生産、
それを売りさばいていたことが世界的に問題となっていたようである。
 ただビジネスをしていただけ。だと言うのに突然の奇襲だ。
 国民はもとより政治家は怒り狂い、無国籍軍に対して報復活動を行った。
 それがどういうわけか第五次世界大戦へと発展し、なんとか勝利を収め、ボロボロの状態で終戦を迎えた日本は、
ある日突然にして鎖国を行ったのだ。大人しく従順な日本とは思えぬ行動であったのだろうが、
残り僅かとなった技術者、研究者たちが戦争中何故徴兵されなかったかと言えば、
この国を保護するためであったと言う。
 戦争中、都心部が中心に襲われた。
その隙を縫うようにして、地方都市へと様々な迎撃の為の施設を整えていたのだ。
 ――日本は変態的に技術をガラパゴスかさせることを好む国だ。
 それと気づかせずにこっそりと国を守ることに、技術者たちは力を入れていた。

「――だと言うのに何故道がこんなに混んでいるんだ」
 とてもではないが、そのメカニカル大国大日本帝国の道路とは思えぬような混みっぷりだった。
 今日ばかりはスカイカーが羨ましく感じたタカシである。
 ようやく辿り着いた実家の庭で、草臥れた顔のタカシは這い出すようにして馬車から降り立った。
 全てが最新のシステムで整備されている街とは思えないような混雑に、祖父に会うより前に
身も心も疲れ果ててしまった。
 ――芝の剥げた庭は相変わらずだ。
 その割には四季の花が咲き乱れ、その姿は圧巻である。ガーデナーだか庭師だかが世話をしているようだが、
そんな大昔に廃れた職業に未だ従事する者が居ることに驚きを隠せない。
 とは言えこの芝である。
 花々によって少しばかり晴れた気持ちが、足元の芝生を見てまた落ち込んでいくのを感じた。
 枯れた芝生はその庭に不似合いであったが、種が入荷されないとかで致し方がない状況のようだが、
それにしても見るに耐えない醜さである
「坊ちゃま!」
 どこからともなく聞こえてきた声に、タカシは俯き加減であった顔を持ち上げた。
 ずり落ちる眼鏡を押し上げながら息せき切って駆けてくるのは、馴染みの深い祖父の秘書である。
 名はサトウと言ったはずだ。
「サトウさん」
 手を「や」と上げ形ばかりの微笑を浮かべると、サトウはどういうわけかぎこちなく笑みを作りながら
「お久しぶりです」と返してきた。前髪が乱れ、撫で付けた髪が一筋額にかかっている。
額には汗が浮かび、眼鏡が少しだけ曇っていた。

「忙しかったかな?」
「いえ、年の瀬ですから忙しいのは仕方がないことです。社長に御用でしょうか?」
「ああ、まだ。お爺様はいらっしゃるか?」
「ええ……まぁ」どうにも歯切れが悪くサトウは返事をした。
「都合が悪いのなら、夜まで待たせてもらってもいいが」
 本当は一刻も早く会いたいと言うのが本音であったが、相手は日本有数の大企業の社長だ、
それならば待つよりほかはあるまい。
「いえ、そういうわけではありません。どうぞ、お屋敷にお入り下さい」
「ああ」
 サトウの態度が腑に落ちぬまま、タカシはサトウの半歩後ろに続いた。
 日光が眩しい。目を眇めて空を仰ぎ見れば、メカニカルバードが空を羽ばたいている。
見せ掛けの自然、それはなんと不自然なものだろう。数少ない野鳥を監視する目的の人工鳥らしいが、
タカシはどうにも好きになれなかった。
 そう、『あの子』は大型の鳥を機械仕掛けと判っていても怖がっていた、と思い出す。
『お兄ちゃん』
 成長途中の腕が、タカシの背後に隠れてメカニカルクロウをこわごわと覗いていた。
『噛み付かない?』
 メカニカルアニマルは全て人に害がないように設計されている。それはもう常識だった。
『噛み付くわけがないだろう』
 タカシは子供にぞんざいに言うと、馬鹿馬鹿しいと吐き捨てた。
「……坊ちゃま?」
 ハッとし、タカシは明滅を繰り返す視界を振りほどこうと、頭を振った。
 ――今の記憶はなんだ? 見知らぬ子供の影、そしてそれを冷たくあしらう自分。
 突如として押し寄せたフラッシュバックにタカシは頭を抑えた。

何かがおかしい。疲れているのだろうか。
 いいや、そんなはずはない。ここ数日間は休み通しで怠惰な毎日を送っているではないか。
 今のはなんだ――?
「坊ちゃま、どうなさいました?」
「いや……」
 鳥が羽ばたいている。嫌な鳥だ。
「なんでもない」
 タカシは慌ててサトウに走りよると、「それでお爺様だが」と切り出したのだった。

 屋敷の中は適度な温度に保たれ温かかった。
 玄関正面の大階段から祖父が降りてきたのは、タカシがコートをメイドに預けた直後のことだ。
「タカシ」
 悠々と降りてくる祖父にくらべ、屋敷内は慌しい。年の瀬であるからそれも致し方がないのだろうが、
それにしても忙しない空気ばかりが充満していた。
「どうしたんだ、突然。驚いた」
 心底驚いた、と言うような顔を作りながら、祖父はタカシへと近寄ってきた。
 何故祖父はこんなに暢気にしていられるのだろう。
 一抹不安と、そして大きな疑問が頭を駆け巡る。
「B社のニュースを……」
 ああ、と祖父は言った。やはり覇気のない返事であった。
 祖父はこれほどまでに腑抜けであっただろうか。
「それならば問題はない。わが社はわが社でそれなりに上手いことをやっている。
来年には国から託された事業が本格的に始動するしな」
「は?」
 そんな話は寝耳に水であった。
 聞いたこともない。
「箱庭計画だ」
 顰めた声は、それでもはっきりとタカシの耳へと届いた。

「それは……、ですが、わが社にそのような話が回ってくるとは……」
「一部の幹部しか知らぬことだ。まだペーペー扱いのお前に話が回るのはだいぶ先。
……こんなところで話す内容ではないな。来なさい」
「ああ、はい……」
 箱庭計画は、都市伝説のごとく囁かれている首府京都府の完全メカニカル化であった。
 今現在京都府は国の完全管理下に置かれており、半廃墟と化している。と言うのも、先の大戦で
非核弾を落とされ焼け野原と化したのだ。非核とは言えその威力はすさまじく、これがもし寺や神社が豊富な
東京都へと落とされていたら、と思うと肝が冷える。
 そのような状況になり随分経つが、京都府は未だ所々が焦げ付いており、
それならいっそと国が立ち入りを完全を制限したのだ。
 その都市を完全に甦らせる――、そのような計画であったのだ。
 そんな計画の一端をA社が担う。タカシはそれを全く知らなかったのだ。
 いくらペーペーとは言え、タカシの耳にだけは届いていいはずだ。奥歯を噛み締めると、ぎりっと嫌な音がした。
「お兄ちゃん」
「!」
 タカシは振り返った。
 誰も居ない。確かに子供の声が耳を掠めたような、そんな気がしたのだが。
「タカシ……?」
 やはり疲れているのだろうか。近頃頭痛も酷い。一度医者に見せたほうがいいのかしれない。 
「なんでもありません」
 なんでもない、少し調子が悪いだけだ。
 押し寄せる不気味さを振り払いたかった。
 タカシは足を速め、無理やりその気味悪さを胸の奥へと押し込めた。

「つまり、人が住まっているかのように偽装する、と?」
「そうだ」
「人が住み、人が営み、人が政治を行っている――、そういう場所だと他国へと錯覚させるのだ」
 それは、有事の際に国民の死傷者を最小限に済ませるための計画、と言うことらしい。
 今現在極々小規模の村で密かに行われている実験場所を京都府へと移し、その規模も拡大させる、とのことだ。
 村での実験はもっとシンプルらしい。村民二〇〇名のうち、ホンモノの人間は僅か一〇名。
国より選出された公務員が、二年をかけてその擬似村生活を体験し、
そして「生活に不安はない」と言う判定を下したのだ。
 もとよりアンドロイドに慣れ親しんだ世代だ。タカシたちの世代には、独自に顔をカスタマイズして
「俺の嫁」などと呼び憚らないドールフリークも数多く居る。
 そんな世代だからこそなせる業かも知れない。
 それらをもっと大規模に、そしてもっと細かく人としての生活を再現させるのだと言う。
「では、そこに実際に住まうのは公務員に限られており、例えば技術家も、医者も、大学も、全て見せかけの
虚像に過ぎぬ都市を作り上げると言うことですか?」
「そうだ」内密にな、と祖父は言う。
 にわかには信じられない話であった。
「二十年。二十年をかける予定の計画だ。そのために、秘密裏に様々な顔面、体型パターンを用意してある」
「国民にはどう説明をするおつもりですか」
「国民はなにも知らない。戦中に誰が国を守った?」
「……大日本帝国国防軍ですよね?」
 ああ、と祖父は頷いた。
「彼らの家系はその末端までが生粋の軍人だ。たとえ他の職業についていても、軍人としての品格や知性、
そして国への忠誠は並大抵ではない」
 それはタカシも知っていた。同級生にも居たが、彼らは本家より血の遠い末端の末端である存在であっても、
筋金入りの愛国者であった。それはもう、鬱陶しいほどに。
 先祖が先の大戦に勝利したことが、彼らの誉れでありアイデンティティであった。
「彼らの中に、何体ものアンドロイドを既に仕込んでいる。もう、何十年も昔から」
「……そんな馬鹿な」
 タカシは唖然とし、開いた口が塞がらなかった。

「戦争はそのうちまた起こる。この国は場所が悪い。太平洋に面したこの小国は、いつも必ず狙われている。
世界の実情は知っているだろう。確かにどこの国も『それなり』によろしくやっているように見せているが、
内情は火の車。いつどうなるか判らんと言うのが本当のところだ」
 いつ、日本の技術を、資源を食らい尽くそうと行動を起こすか判らない――、そういうことらしい。
 だからこそ、首府を限られた人間しか立ち入ることのできぬ場所とし出入りを制限し、
その上で『国の中枢機関を集約した場所』と言うイメージを定着させる。
 人間は実際に出入りするが、その大半はヒト科ヒト亜科のフリを巧妙に演じるアンドロイドと言うことだ
 信じられぬ話に、タカシは額を組んだ指に擦りつけ、自身の足元を見た。
「お前の同級生――、医者からスカイカーレーサーへと転向した男」
「ああ、はい」
 唐突に切り出され、タカシは追いつかない脳でもって、必死に旧友の顔を思い出す。
 笑顔の眩しい、如何にもスポーツマンと言う見た目の男だ。彼も確か、軍人の大伯父を本家にもつ軍人家系だ。
「あの男もアンドロイドだ」
「……は?」
「アンドロイドだ」
 眩しい笑顔が、突然歯車の塊に思えてくるから不思議なものだ。
 つまりタカシは、アンドロイドとリレーを競い、時としてサイクリングをし、
そして何故か馬に嫌われる彼を大笑いしながら乗馬を楽しんだと言うことだ。
 人の心に敏感な馬に嫌われるわけである。

「……他にも?」
 溜息混じりに尋ねれば、祖父は「さぁてな」と頬をにやつかせながら濁したが、
きっとタカシが人生で出会った何人もがアンドロイドであったのだろう。
 自社製品とは異なる顔、そして成長するからだ。少しずつ手を加えていたのだろうが、滑らか過ぎるそれに
全く気づけなかったのはA社の跡取りとしてただただ恥ずかしいばかりである。
「だからそんなにわが社の行く先を気に病む必要はない」
 祖父はしっかりとした声でそう言い放った。
 国の事業に一枚噛んでいる。となるとメンテナンスにもかなりの要員と時間を割かれることは必須であろう。
 それに対して国が相応の金額を支払わぬわけがない。
「安心していい、ということでしょうか?」
「だからそう言っている」
 食えない老人だ。
 孫のタカシまでに黙っていてどういうつもりだ、と攻める気には最早ならなかった。
 ただ、「そうですか」と気の抜けた返事が漏れ、タカシは漸く、その革張りのソファへと
緊張した背中を預けることができたのだった。

きょうはここまで
保守してくれた人ありがとう


なかなか面白い設定だね

乙 すごい話だ

見て●るよ

乙乙!

てす

明日にはどうにかしたい
保守してくれている人ありがとう

デート・ア・ライブの真那ちゃん
エロいのありなら下半身下着姿でおしっこ我慢できず限界おもらし

 国が打ち立てた計画は、タカシが想像するよりもはるかに壮大なものだった。
 まずは京都府を、との計画であったが、徐々に全ての都道府県の県庁所在地を箱庭化させるようであった。
 そして人々が逃げ込むべきシェルターはまた別の場所へ。これは秘密裏に用意されるものであって、
いざ『有事』を迎えなければ各県知事以外知ることもない。
 県知事も今ではよほどのことがない限り世襲制であるから、それが外部に漏れることもないだろう。 
 国民を守る。辛酸は二度と舐めない。
 老人たちは棺おけに片足を突っ込むような年齢になってもなお、国民のことを考えていた。
 さらりと説明されたその計画に、タカシ漸く肩の力を抜いた。
 掌にじんわりと浮いた汗もやっと引き始め、きつく握りこんだ拳も解けはじめた。
 とんでもない計画を打ち明けられた興奮と、そして自分自身の手によって歴史を変えるその期待に胸が震えた。
 単純な子供っぽい高揚だ。
 タカシは戦後に生まれた世代であるから、所謂『戦争を知らぬ子供たち』であり、
愛国心らしきものは希薄である。そんな若者は少なくはない。
 戦争になりさえしなければ――、自分自身に実害が及ばなければなんでもいい、そういう気持ちで居るが、
流石に『実害』を受けた祖父たちにそれを言うほどタカシの頭は弱くはない。
――ああ楽しい。
 タカシの気持ちは高ぶっている。久しぶりの興奮だ。
 ショウタを殴っているときとはまた別の興奮、知的興奮とでも言うのだろうか。
 頭が期待で満たされているのを感じた。

「口外はせぬように」
「判っています」
「計画は来年からと言ったが、来年度ではない。年明け早々に開発が始まる。
計画が始動次第――、そうだな、お前を現場に呼ぼう」
 すぐに異動させてやる、と祖父は人の悪い笑みを浮かべていった。
 孫だからと甘やかしているように見られてはいけないと、
わざわざ平社員からスタートした社会人生活であったが、それも終わりを告げそうである。
「いいんですか?」
 一応尋ねるが、「よいもわるいも」と祖父は返す。
「この話が我が社に降ってきたときから、お前をどうするかは決まっていた」
 タカシは決してできのいい孫というわけではない。だが、タカシは選ばれたのだ。
 この翁の孫に生まれたことも運命、この翁に計画へと引き入れられたこともまた同じ。
 計画は年明け早々とのことだから、退屈な正月を過ごす必要もなさそうだ。
 タカシは期待に高鳴る胸を何とか押し隠し、そして本家を後にしたのだった。

 五月も終盤に差し掛かった土曜日、タカシは首府京都にて箱庭計画に奔走していた。
 首府の箱庭計画と言っても、府全体を箱庭化するわけではない。
 まずは中心部の体裁を整え、それ以後少しずつ府全体を復興させていく見込みである。
 そして完全なる箱庭と化すのは、この中心部。
 ここが一部の官僚や政治家、そしてアンドロイドで構成された街となるのだ。
 タカシは首を左右にゆっくりと動かし肩の凝りをほぐしていた。
 空にはもう星が上っており、事務所から出てきた時間を鑑みれば
少なくとも夜二十時を回っていることは確かであるはずだ。
 ここのところは会議、現場、会議、現場。この繰り返しである。
 疲れも酷く帰宅は少々困難であるため、夜は眠るためだけに近くのホテルへと帰っているが、
それでも体は心地のよい疲労で満たされているのが常である。
 社会人となってから、このような感覚に体が満たされる瞬間と言うのは数えるほどしかなかったから、
タカシはこの疲労が決して嫌いなわけではない。
 ――ショウタには殆ど会っていない。
 そのか細い後姿を時折帰宅する屋敷の中で見るが、それを殴りたいとも犯したいとも思わない。
要するに昨年末からのタカシは欲求不満であったのだろう。
 満たされない、興奮が足りない。それらを物珍しいオモチャであるショウタに向けることで発散していたのだ。
生意気な話であるが、おそらく仕事に満足をしていなかったのだ。
 雑多な事務手続きは本来タカシでなくても済むことで、なにゆえ俺がこのような仕事をせねばならんのだ、
と言う傲慢なボンボンらしい矜持もあったのだろう。
 ――とタカシは自分自身で分析している。

 汚らしい奴隷を組み敷くなど悪趣味極まりない。
 元貴族であるからこそ価値のあるショウタであったが、今やその後姿はただの大人しい少年で、
忙しい合間に相手をさせてやるほどの存在でもなくなっていた。  
 そもそもタカシのセクシャリティは至ってノーマルで、
ショウタ相手に勃起することそのものが『事故』のようなものであったに違いない。
 そんなことを考えながら、タカシは一人の女性と顔を突き合わせていた。
 彼女がジッと見つめるのはタカシの瞳、それから顔、そして体温。 
 体の全面部分の観察が終わったらしく、彼女は「背中を向けてください」と事務的に言い放った。
 言われるがままタカシは彼女に背を向け、それから間抜けに直立不動を決め込む。
 少々の身じろぎは彼女の仕事に支障をきたさぬが、
大きく動けばまたスキャンを最初からしなくてはならなくなるだろう。
 全く、セキュリティ強化の為と言っても、少々時代を遡ることになる旧タイプのアンドロイドを使うなんて
どうかしている。スキャンに時間がかかって仕方がない。
 タカシの心までは見透かすことのできぬ彼女はやはり事務的に「結構です。お疲れ様でした」と告げた。
「どうも。お先に」
 タカシは自分の後ろへと並ぶ数名の『人間』に会釈すると、鉄製の重い扉に向かって歩き出す。
 外部と内部を遮断するように並んだ壁には未だなれない。タカシはその丈が十メートルを越すかどうか、という
威圧的なそれを見上げ、少し溜息をついた。
 今年の一月から始まった箱庭計画に伴い、タカシの出勤地は首府内に設置された簡素なプレハブ小屋へと移された。
それは別に構わない。暑いだの寒いだのは最新の空調で調節されているからそれらに苦しめられることはない。
 問題は、首府への進入退出に伴う手続きの煩わしさであった。

 首府への入り口は限られていて、京都府の中心部に位置するこの周辺は最新のバリケード――、
地下に瞬時に収納できる鉄製の壁だ――、で覆われているため、タカシは関係者専用の、
その壁の数箇所に設けられた手続き所と呼ばれる場所で検査を受けなくてはならない。
 危険物を持ち込んでいないか、或いは持ち出そうとしていないか、機密データを持ち帰ってはいないか、
或いは箱庭計画を無に帰す何かをしでかそうとしていないか。
 それらを体温から発汗までを入念に調査され、やっとのことで進入及び退出が認められるのだ。
 それが二箇所ある。
 中心部全体を覆う壁と、そしてそこから伸びた無数の通路の先にはまた丈の高い鉄の扉。
 まるで檻に入れられた動物だ。今ではすっかり姿を消した動物園と言う場所に押し込められた動物も、
こんな気持ちなのだろうか。
「結構です。お疲れ様でした」
 二回目の手続きを済ませ、タカシは漸く緊張させた肩の力を抜いた。
 人そのものの微笑を作る手続き係りのスキャンアンドロイドは、見た目はか弱い女性そのものであったが、
実際には他社のボディガードアンドロイドを流用し、A社のスキンを被せスキャン機能を追加させたものであった。
 つまり、何某かの悪巧みをしても人間の力では敵わない。
 安全にここを通過するためには大人しくスキャンを受けるよりほかはないが、
タカシはどうにもそれに慣れることができずにいた。
 祖父や政府関係者も毎度行っているものであるから、タカシだけが免除されるわけにはいかぬのは理解している。
 が、それが毎朝毎晩となるとなかなか億劫だ。
 億劫が億劫を呼び、そのうちタカシは帰宅することも減って行った。
 尤も、急ピッチで進められている箱庭計画を前に帰宅している余裕はないというのも事実だ。
 億劫以前に時間的余裕がない。 

 タカシはふぅ、と溜息を吐き、それから鉄扉に向かって歩き出した。足が少々重いような気がする。
疲労感は心地いいのに、億劫な気持ちに体が侵食されているような気がした。
 壁の向こうでは今の時間もアンドロイドが休みなく働いているのがなんとも不思議だ。
 鎖国以前のローテクな技術なら兎も角、今は全て正確に、高い安全性と技術をもってして
アンドロイドと人間が一体となり街を作り上げている。
 この調子で行けば二年後には京都府全体が箱庭として復活することであろう。
 そしてその箱庭を完成させるために、政治家たちも珍しく働いているようだった。
 完成した箱庭には人間は数えるほどしか居らぬが、それはごく少数の人間だけが知っていればいいことであって、
国民の大半は知る必要がない。そのための法整備も着々と進んでいるようで、
近頃出された法案は「県庁所在地及び首府進入制限法」であった。
 機密事項を集約する専門の土地とする場所には、政府関係者のみしか入れない、と言う法律だ。
 もとより国の管理地域である場合が多く、地主ともめることもないため、法案はつつがなく成立の運びとなりそうだ。
 戸籍謄本などの取り寄せも、インターネット経由でID認証を行い自宅で発行できる時代だ。
 国民の不便はあまりないのだろう。
 役所勤めなどと呼ばれる人々も随分と昔に滅んでいるし、問題はなさそうだ。
 計画は思いの外上手く進んでいる。

 夏の始まりのような蒸し暑さも夕方を過ぎればナリを潜める。
見上げた夜空はどこまでも透明で、星が美しく、少々冷えた空気が心地いいくらいであった。
 この上にシールドが張られ、いつでも『よからぬ出来事』から国を丸ごと覆い守っている。
 それがタカシたちのような若い世代には当たり前のことであるが、
老人たちは灰と化した街になにを思い過ごし、どのような屈辱のもとこの国を復興させ、
そしてこの殆ど完璧と思える防衛を施したのだろう。
 それをより完璧なものにするために、タカシは今こうして生きている。
 そう思うと、なんとも不思議な感情が体を駆け巡った。
 完璧な環境、これ以上なにも必要がないと思える環境が整っているにも関わらず、
危機感のないまま要塞を築き上げている自分が不思議だったのだ。
 空の彼方で赤いライトが時折明滅している。
 戦闘型アンドロイドが自分自身の存在を誇示し、他国に警告をしているのだ。
 きっとモスクワ連合の戦闘機かなにか領空に誤って進入したのだろう。
 大丈夫、大事はないはずだ。タカシは幾度かこんなシーンを見たのだから。
 タカシの顔を確認すると、アンドロイドが扉を押し開けた。
そのすぐあとから、タカシと同じようにして『人間』が鉄扉を潜り抜けるのが目に止まる。
「どうも」
 鉄扉の向こうでタカシのちょうど後ろへと並んでいた背広の男がすれ違いざまに挨拶をする。
「どうも」
 タカシもそう返すと、道路の脇に止められた自家用車――、馬車であるが、に向かって歩き出した。
 別に帰宅する必要はなかったが、そそろそなんとなく、
どういうわけか帰宅をしなくてはならないような気がしたのだ。
 こういう妙な感覚に囚われることが時々あると、タカシはその本能に従うことにしている。

「待たせた」
 御者に言うと、相手は「いいえ」と返事をし、そしてタカシが腰を落ち着けた頃を見計らうと、
スムーズに車を発進させた。
 馬のひづめの音が小気味よくタカシの鼓膜を揺さぶった。
 その音に耳を傾けるうち、だんだんと視界はぼやけ――、そう、タカシはまどろみ始めた。
 ああ疲れていたのだ。そう自覚する頃には、タカシの意識はすっかりと夢の中へと取り込まれていた。

 妙に小さい脚が、座したタカシの足の間をパンツの上から撫でていた。
 卑猥な動きは明らかにタカシを誘っており、そして挑発していた。
『おっきくなった』
 少しキーの高い声は、タカシを嘲笑うかのようではあるが、だがしかし少し苛立ちを含んでいる。
『だからなんだ』
 タカシは低い声で、なるべく冷静にそう答える。その誘いには乗りたくなかった。
『なにって……こんなにして、そのままここから出て行けるの?』
 読んでいた本を閉じると、かび臭い匂いが広がった。随分昔の本であるためかもしれない。
金の箔押しのされたそれを手近にあったテーブルの放ると、タカシはその脚の主を見た。
 よく知った顔だ。

『ショウタ』
 夢の中のタカシは冷静にそう言うと、その足首を右手で握り締めた。
『いた……ッ!』
『痛くしている。なんのつもりだ、娼婦のような真似をして』
 細い少年らしい足首は、まだ第二次性徴前であるためか華奢で、力を込めすぎれば壊しかねないほどであった。
『ちょっと、痛い……!』
『なんのつもりだと聞いている』
『なにって前も言ったじゃん』
『なにをだ』
『痛い、痛いってば! 離して!』
 悲鳴じみた声を上げながら、ショウタは握り締められた脚をどうにか開放してもらおうと体を捩った。
『ね、ねえ、やめて! やめてって!』
『二度とこんな真似をするな!』
 タカシはその脚を振り回すようにして開放すると、全くの手加減なくそうされた幼い体を見事に吹っ飛び、
ショウタはフローリングの上へと無様に転がった。
 涙に濡れた目がタカシを睨む。生意気な目だ。腹が立つ。
 まるで被害者のような顔をしやがって――、その台詞を吐こうと口を開くも、タカシは静かに唇を閉ざした。
『出て行け』
『……ッ』
『また痛い目にあいたいか。出て行け』
 二度の命令で、ショウタは這いずるようにしてその部屋から出て行った。
 恨みがましい目は最後までタカシを見ていた。


「坊ちゃん」
 掛けられた声に、タカシは肩をびくりと揺すって目を覚ました。
「到着しましたが」
 判然としない視界に目を瞬かせれば、そこは確かに自宅であった。
「お疲れでしたのでどうしようかと思ったのですが……」
 このまま放っておくわけにはいかないのは当たり前であろう。
 タカシは大丈夫だ、と掌を立てて示し、それから軽くストレッチをした。
「ありがとう」
 短く言うと、御者は頭を下げそして引っ込んだ。タカシが降りるのを外で待っているに違いない。
 視界と意識がはっきりと覚醒する頃、タカシは漸く自分自身の状況を把握するに至る。
 どうやらうたた寝をしていたようだ。確かに言われるとおり、疲れていたのかもしれない。
御者に起こされるほどに深い眠りについたことなど、ここ数年の記憶にはなかったのだ。
 凝り固まった体を充分にほぐしたのち、タカシは馬車から降りた。
「ありがとう」
 御者に声を掛けるとすぐさま玄関へと向かう。湿気を少々含んだ風が頬を撫で髪を揺らした。
 帰ることは御者に伝えていなかったため、出迎える者はいないだろう。
 少々面倒であるが、玄関は自分で開けるしかない。
玄関扉の脇に設けられた指紋認証器に親指を押し当てたのち、懐から取り出し鍵を鍵穴に差し込めば、
ようやく開錠となる。二度手間であるがセキュリティ面の強化を前には面倒を飲み込むしかない。
 まったく、物騒な世の中である。
この間もA社とは別のアンドロイド系家電を得意とする企業の社長宅が何者かに襲われたようだ。
 そんなことを考えていると、扉は音もなく開錠された。

 鍵を引き抜くと、タカシは「ただいま」とも言わずに屋敷の中に足を踏み入れた。
 足がむくんでいるのを感じる。靴下に包まれた革靴を脱ぎ捨てると、開放感が広がった。
 上り框に腰を欠け、暫くそのまま座り込む。どうやら、思っていた以上に疲れが溜まっているようだ。
 早いところ風呂に入って眠りにつくほうがいいに決まっている。
 それだけならばホテルに泊まるべきだった。本能などに従うものではない、余計な疲れを溜めただけだった――。
 そんな愚痴めいた考えを吐き出そうと溜息を吐いた瞬間、タカシの聴覚はなんともいえぬ違和感を捉えたのだ。
「――」
 なにか、かすかに鼓膜を揺さぶる物音を感じ、タカシは反射的に顔を持ち上げた。
 かすかな違和感はそれから暫く続き、タカシの首は自然と軽く傾いた。
 なにかいつもと異なる空気を感じたのだ。例えようのない、既視感とも言うのか。
いや、幾度も帰宅した家なのだから既視感と呼ぶのはおかしい。もっと微細な違和感。
 その正体を探ろうと、タカシはゆっくりと首をめぐらせる。
 感覚を研ぎ澄ませ、正体を探ろうと、意図的に視覚情報をシャットアウトする。
 聴覚、嗅覚。この二つをフル稼働させ違和感の正体を捜索に掛かった。
 すると、きゃあ、という声がかすかに耳へと届くのを感じた。
 女のような、子供のような声。随分と楽しげな声だ。そんな明るい声がこの屋敷に響き渡ることなど殆どない。
 この家にいるのは、数名の人間とアンドロイド、そして――、ショウタ。
 脱ぎ散らかしたような靴をそのままに、タカシは上り框に足を掛け一気にそこを上った。
 回廊を向かって左、つまり七の部屋の方向へと向かって進む。
 歩き進めるうちに、その声はだんだんと大きくなっていった。明るい、子供らしい声だ。
 八の部屋、九の部屋――、そして十一の部屋。ここは下男や女中が住む部屋だ。
部屋の内部は更に細かく分かれており、狭い家のようになっている。
 声は確かにその部屋から漏れていた。


「じゃあ次、俺ね!」
 明るいその声は先ほどと同じく主の年齢性別がはっきりとはしないものであった。
 だがタカシには判る。そう、それは明らかに――、ショウタのものだ。
 その声を確認した瞬間、どす黒い何かが腹の奥底で渦巻くのをタカシは感じた。
 主人の居らぬまに楽しげな声を上げる奴隷に対する苛立ちだろうか。
 いや、それとはまた異なるもののような気がしていた。
 何故腹を立てているのかがタカシ自身にも判らない。
 ショウタの声はまだ上がる。ゲームでもしているのだろう、相手の出方を待つような潜めた息は、
それにさえ子供らしい笑いが潜んでいて、それが妙に腹立たしい。
 ショウタは笑わない。いや、笑うことを許さぬのはタカシだ。そのショウタが、タカシの許可なく笑っている。
「やった!」
 またもや歓声が上がる。
 敵いませんわ、と諦めたような、でも幼子をあやすような声を上げているのは女中か。
 女中たちは「ショウタ様の勝ち」と子供の勝ちを認めるようにいい、そしてショウタは甘えるように
「もう一回! ねぇ、もう一回!」と明るい声で言ったのだ。
 ああ、腹立たしい。奴隷の分際で。
 否、俺のものだというのに、何を勝手に笑い、声をあげ、そして懐いているのだ。
 マグマが吹き出るように支離滅裂な怒りが突如として湧いたことに、タカシは気づいていない。
 何かのスイッチが入ったかのように、心中を嵐が襲い、そして急激に荒れて行った。
 襖を勢いよく開けると、バン、と派手な音が響いた。
 果たしてそこに居たのは数名の女中と下男、そしてショウタであった。
 使用人部屋の共同のリビングに当たるそこでは、テレビも着けっぱなしのまま、
テーブルの上には無数のカードが散らばっていた。
 ショウタは買い与えた覚えのないやや大きめのタンクトップにハーフパンツを身につけ、
正座をしてソファにちょこんと座っている。挙句、甘えた様子で女中の太ももに手を乗せていた。
 子供らしさを取り戻したような片方の手にはカードが握られており、
なるほど、使用人たちを巻き込んでカードゲームに興じていたようだ。
 笑顔のまま顔を固めて、タカシを見上げ、口はあんぐりと開けられた。

「何をしている」
 地を這うような声が自然と吐き出される。
 タカシが帰宅をするなどと夢にも思わなかったのだろう。小さな手からはカードが零れ落ちた。
 今しがたまでキャッキャと子供のように喜んでいた顔は、突如現れた悪魔によって
ゆっくりとその表情を変えていき、今では恐怖心が優勢となったその顔をタカシに晒している。
 無性に腹が立った。なににそんなに腹を立てているのかが判らなかった。
 下男がすっくと立ち上がると、乾いた声で「お帰りなさいませ」と口早に言う。
 彼らにとっても、今タカシが帰宅することはあまり歓迎できない事態であったようだ。
 女中たちはそそくさとカードをしまい、そしてタカシをチラと見ながら下男と同じように頭を下げた。
 何故こんなにも腹が立っているのかが判らなかった。
 子供らしい声を上げ、そして笑うショウタのなにが逆鱗に触れたのか、タカシは理解をしていない。
 タカシはそのカードが握られたままの手首を思い切り引っ張った。
「痛い……!!」
 甲高い声が響く。 
 今度こそ既視感を覚える。夢の中のショウタが叫んだ言葉と今しがたショウタが叫んだ声は一致していた。
「離し……!!」
「坊ちゃま!」
 女中たちのざわつく声がする。タカシはそれに構わずショウタの腕を引いた。
「おやめ下さい!」
 下男はタカシとショウタの間に割って入ろうとするが、
ショウタが一瞬だけ、すがるようにして下男を見た瞬間に、どういうわけか彼は少しだけ身を引いた。
「おやめ下さい」
 頭を下げ、ショウタの手首を掴むタカシの手を掴んだ。
 下男ごときが、タカシの腕を掴んでいる。それも、この薄汚い貴族の奴隷を庇うために。
 きっとそれが腹立たしかったのだろうと結論付け、タカシは制止の言葉も聞かずにショウタの腕を引っ張り
自室に向かうべく歩き出した。

「坊ちゃま!」
 悲痛な声が響き、そして女中たちの戸惑いを含んだ声がこそこそと発せられる。
非難であろうそれを一切無視して、タカシはショウタを引きずるようにしてずんずんと歩く。
 か細い声が「痛い」と訴えるが知ったことではない。
 ショウタはタカシの屋敷で、笑い、楽しげな声をあげ、そして使用人たちを懐柔した。
 それがとても腹立たしい。
 一体何故ここまで腹を立てているのだろう。
 制御しきれぬ怒りを恐ろしいと思う反面、何故か『当然のことだ』と思う自分もそこにいた。
 何故、どうしてこんなにも苛立っているのだろう。苛立つ必要がどこにあるのだろう。
「痛い! なあ、痛いってば!」
 ついに大声を上げて抵抗を示したショウタを振り返ると、タカシはその頬を思い切り張った。
 大きな音がしたと思うと、ショウタの体は床を滑るようにして転がった。
「ぃ……!」
 倒れた体をそのままに、毟るようにしてハーフパンツを引き摺り下ろす。
「や、やめ、やめろ……!」
 こんなところで、とショウタは短い悲鳴を上げた。
 まだ廊下だ。二階にもあがっていない。誰が顔を覗かせてもおかしくない状況に、
ショウタの抵抗は殊更強まった。
「やめろ、やめて……! 助け、」
 女のような高い声は耳障りであったから、タカシは首から外したネクタイをその口に突っ込んだ。
 くぐもった声は相変わらず抵抗を唱えているようであったが知ったことではない。
 下着もパンツも中途半端に下ろされた尻を引っ叩くと、ショウタの抵抗が緩まる。
 その隙に尻肉の狭間を無理やりにこじ開け、タカシはそこへ自身のそれを宛がった。
 腕は振り回され時々体を掠めるが、実質的な抵抗には程遠い。
 犬のような体勢のショウタを押さえつけるのは容易く、タカシはそのむなしい抵抗をものともせず、
乱暴に穴へと自身を突っ込んだ。

「――!」
 ひぃ、と悲鳴が聞こえた気がした。
 鳥肌の立った腕が幾度か抵抗をし、それから力なく下ろされる。
 握られた拳は真っ白で、どうも痛がっているようだということは判るが、怒りでスパークした頭で制御ができない。
 どうしたことか、暫くこのような無体を働いていなかった割にはショウタの体は従順にタカシを飲み込んで見せた。
 それすら何故か腹立たしく、苛立ちながら腰を打ちつけ続けるが、最早ショウタは抵抗を諦めたのか
ただネクタイの詰まった口で謎の音を発し続けてて居た。
 肉の薄い尻は明日痣ができるかもしれないが、そんなことよりも今はとにかくショウタをいたぶりたく、
タカシは一心不乱に腰を前後し続ける。
 廊下にくぐもった声が響く。
 ごく小さなそれは、しかしはっきりと聞き取れて、やがてショウタの声色が変わっていくことに気づいた。
「なんだ……」
 不意に身を屈めショウタの前に触れれば、そこは小さいなりに勃起していた。
「お前も興奮しているじゃないか」
 違う。そう言いたげに首がさらに激しく左右へと振られる。
「誰が来るか判らないものな」
 違う、そうじゃない。
 そう言いたげな頭は一瞬だけタカシを振り返る。大粒の涙を湛えた目はすぐさまそらされ、
「うん」とも「んん」ともつかぬ声の頻度が上がった。
「ん、ん、んう……!」
 苦しげな声は、ネクタイを突っ込まれた結果で、しかしそれはショウタにとってもありがたいことに違いなかった。
 少なくとも異物が入れられたままであれば、あからさまな嬌声を上げるような失態は見せずに済むのだ。
 それに気づけば外さない手はない。
 タカシはショウタの頭を床へと押し付けると、もう片方の手でその口に手を突っ込んだ。
 けほ、と言う小さい声とともにヒュッと息を吸い込む音がした。

「な、」
 何か抵抗の言葉をショウタが紡ぐ前に腰を動かす。
「ぁん!」
 予想通りにショウタの甲高い声は廊下に響いた。
 慌てて口に手を宛がおうとするショウタの腕を背後に引っ張り、その抵抗を抑え込めば、
ショウタはまたもやタカシの顔を睨むようにして見た。
「や、や、やめ、あ、ぁあ、あん……!」
 憎い男に犯されて声を上げる自分、また誰がいつ来るかも判らぬ場所ではしたなく声を上げる自分に
ショウタは半ばパニックを起こしているようだった。
 ひぃ、と言う声が時折響き、しかしそれが痛みの為だけではないことがタカシには判っていた。
 穴が卑猥に蠢く。なんともいえぬ引きこむような動きがタカシの性器の全体を包み込んだ。
「ぃあ……! あ、あ、あ!!」
 手は引っ張られ拘束されてもなお抗おうと、ほんの僅かな自由から逃げ道を模索しているようであったが、
大の大人に乱暴にまとめられ上げた腕がまともに動くはずもない。
 肉は蠢き続ける。抵抗とは真逆の反応で、まるでタカシが出て行くのを拒むかのようだ。
 それに――、ショウタの小ぶりな性器はしっかりと反応していた。
 悪戯心が頭を擡げたタカシは、それを指先でかすめる様に触れる。
「ぁ!?」
 目を白黒させたショウタが軽く振り向くが知ったことではない。
タカシがそれを繰り返せば、尻の圧迫は先ほどよりもきつくなり、そしていやらしくタカシを包み込んだ。
 そのまま腰を激しく進めれば、ショウタは娼婦のようにはしたない声を上げた。
「ぁ、あ、あ、ん、あん、あん、あ……ッ!」
 激しくなった動きについていけぬのか、時折頭を振っては抵抗を見せていたショウタは
やがて内股をすり合わせるような奇妙な動きを見せるようになった。
 何度も何度もショウタの肉を穿てば、次第に声は大きくなっていき、
 片手の拘束を外してやれば、ショウタは夢中で自らの性器をしごき始める。

「あ、いい……ッ!いいよぅ……!!」
 最早家人の存在など知ったことではないのだろう。
 皮膚を滑る汗が床に撒き散らされていく。
 水気で濡れたフローリングで、ショウタは何度も体勢を建て直し、タカシを受け入れやすいような格好をした。
 感じ始めたらショウタは理性を失う。
 アホのようにただ快感を貪ることに夢中になっていくさまが、哀れで面白かった。
 自分が居らぬ間に楽しげな声をあげ、使用人どもに懐いた素振りを見せた『健全』で『子供らしい』ショウタは
もうどこにも居ない。ただの雌犬だ。
 それに満足すると、タカシはショウタの『いい場所』を重点的に攻め立ててやる。
「あ、ひぃ……!」
 小柄な体がビクビクと震え痙攣を繰り返す。
「あ、ああ……!」
 奴隷らしく振舞わず普通の子供のように振舞おうとするからこういうことになる。
 タカシはそんなことを散漫に考えながら、射精した。
「この雌犬が」
 吐き捨てた言葉はショウタに聞こえたのかどうかは定かではないが、
その目は股間と同じようにしとどに濡れそぼっていた。

今日はここまで
保守ありがとう

おお久々
続き待ってる

待ってたよ~

 腕の自由がまるで利かなかった。いや、足も、そう、体全体の自由が利かなかった。
 ――金縛りだろうか。
 目だけ動く環境で、タカシは暢気にそんなことを考えていた。
 タカシは暗い部屋に居る自分自身を自覚した。どうも、ここは自室ではないらしい。
 昨晩は思う存分ショウタをいたぶって、それから――、それから?
 目だけをきょろりと動かし昨晩の己を思い出そうと試みるが、上手くはいかない。
判然としない記憶は霞に包まれたようで、なにもかもが夢のように感じられた。
 それよりも、とタカシはこの暗い部屋を見回した。
 なにもない。ただ漆黒が静かに広がっているだけだ。
 ただ、なんとなく覚えのある湿気た空気と、そして熱力だけは感じた。
 なにも聞こえないし、なにも感じない。ただあるのは体がひとつ、それだけ。
そんな不思議な感覚に包まれていた。
 と、不意にタカシは目を閉じた。
 突然に強烈な光りが降り注いだからだ。
 一瞬ホワイトアウトした視界は徐々に元へと戻りそしてまたすぐに薄暗い状態へと戻った。
 なにが起こったのかよく判らなかった。一瞬の光り。あれはなんだったのか。
 不自由な体を動かそうと試みるが、しかしやはり上手くは行かない。
 最大限に目玉を動かし、そして視界の端に、タカシはある人物を捕らえた。
 ――ショウタだ。
 正直、タカシは焦った。
 なにか悪い薬でも盛られたか、
または体を拘束されありと四肢の動きを脳波から阻害する拘束衣でも着せられたか。
 いずれにせよ、ショウタの謀反によって自身の自由が奪われたとしか思えなかったのだ。
 ところがショウタはタカシに興味を示した素振りもない。

 タカシに背を向け、そして頭が小刻みに、ほんの僅かな動きを見せていた。
 どうやら、タカシに背を向け話をしているらしい。だが誰に向かって?
 聴覚はやはり眠っているかのように鈍磨しなにも聞こえなかった。
 ショウタの動きがふと止まった。
 それから、彼は身につけていたシャツ――、そんなものをタカシは買った覚えはないのだが、
シンプルなものだ――、それをゆっくりと脱ぎ捨てていった。
 露になったのは傷一つないほっそりとした背中で、半袖からむき出しであった腕は少し焼けている。
真っ白な背中部分が艶かしく映った
 続いて彼はパンツを脱ぎ捨て、続いて下着を脱いだ。
 素っ裸になった彼は、やはりタカシに興味を示すことなく、そして。
 たった今、タカシは気づいた。
 タカシが横たわっている場所から一メートルほどの距離にはソファが置かれており、
そこには人間が座していた。
 ソファの背も垂れたはタカシの側にあるため、
タカシから辛うじて見えるのは人間の頭と、そしてほんの僅かに肩。
 それは今の今まで、ショウタの体で隠されていたのだ。
 耳は相変わらず聞こえない。
 ショウタは素っ裸のままその人間の前まで来ると、
誘うように乳首を弄りながら相手と向かい合う形で膝の上へと腰を落としたようだった。
 強請るように相手の手を引き、そして自分の下腹部、おそらく性器へとその手を導く。
 相手の肩が僅かに上下し、そしてショウタの表情がだんだんと溶けていく。
 ――最初に感じたのは怒りであった。
 なにをしているのか、と猛烈な怒りがこみ上げた。
 主人以外に股を開くなど、奴隷がしていい行為ではない。
 獰猛なタカシの怒りをよそに、ショウタの口はだらしがなく開き、
そしてそれが続いたかと思えば、急に力を失った。
 絶頂を迎えたのだろう、肩で息をしながら、相手の首に腕を回し、
そして体を摺り寄せて甘えたようにしている。

 ――なんだ、これはなんだ。
 相手に気を許しているかのようなショウタが気に入らない。
 タカシの許可なくショウタに触っている相手の人間が気に入らない。
 タカシは相手が誰であるのか見極めようと、その頭を凝視した。
 髪は短い。肩幅の広さと首の太さからみて、男であることは間違いがないようだ。
 そしてここはどこだろう。ソファは漆黒の皮製のような光沢。
どこにでもあるようなソファだ。
 男は首にネクタイを巻いているようだった。
 見覚えのあるネクタイ、のような気がした。
 誰だ、誰なんだ。
 不意に思い出したのは、そのネクタイに酷似したものを下男が巻いていたと言うことだった。
 力仕事の多い彼が、それを仕事中に巻くことはない。
 そう、確か長期休暇をとり実家に戻ると言っていた際に身につけていたものではなかったか。
 こみ上げる怒りが、体中を駆け巡る。
 だが、身動きの取れぬ体ではどうすることもできない。
 やめろ、それは俺のオモチャだ。そういいたいのに、声さえ出なくて歯がゆい。
 ショウタがなにかを話しながら一度ソファから降りると、
なにかを手に持ちそして再び男の膝へとまたがった。
 潤滑剤を手に取ったのだろうと判れば、更なる憤怒が湧いた。
 クソ奴隷が。とんだ奴隷だ。主人であるタカシ以外に股を開くなど、あっていいことではない。
 あっていいことではない。
 渦巻く腹立たしさと、それとは別の何かに体中を侵されながら、タカシは歯軋りをした。
 動かない。何故動かないのだ。辛うじて動く目玉で二つの影を睨み見るが、
そんな気配に気づくこともなく、
それらは怪しく絡みだした。
 ――なんて腹立たしく、なんて、なんて……。
 薄暗い部屋の中、タカシは苛立ちを湛えた瞳で影を睨み続けていた。

 鼓膜を揺さぶるのは不愉快極まりない目覚ましアラームの音だった。
 頭痛のする頭を支えながら、
タカシはもそもそと起き上がり「起床した。停止」と濁りの深い声で命令を下す。
 なんて寝覚めの悪い夢なのだろうか。
 それは紛れもなくただの夢であり、現実ではない。
 それについてここまでも心が揺れた自分が不愉快であったし、また理解不能であった。
 過去の記憶が作り出した不可解な夢は、
現実のようであってしかしそれとははるか対極に位置する存在だ。
 そう、決して現実ではない。単なる記憶整理の合間に見せられた、まったく意味のない虚像である。
 それに、オモチャを盗られたからと言ってなんだというのだ。
また新しいものを、いや、それ以上にいいものを買い直せばいいだけの話だ。
 たかが奴隷に心を乱されるなど、タカシに相応しいことではない。
 ――だというのに。
 こみ上げる不快感にタカシは顔を歪めた。
「クソ……」
 歪んだ表情の原因は夢の為だけではない。頭全体を支配するような頭痛だ。
 近頃頓に感じていた頭痛は、今日も朝から強く、ますます不快感が募った。
 小さく吐き捨てると、タカシはそのなにもかもを振り払うようにベッドを降り立った。

 タカシは下男の制止も聞かずに足元も覚束ないままのショウタの腕を引っ掴み、馬車へと押し込んだ。
 奴隷用の首輪を着けさせたから、逃亡の恐れはないだろう。
「坊ちゃま!」
 下男の声と、非難がましい御者の顔を見て見ぬふりをしつつ、
いつもの通り箱庭計画の拠点が置かれた首府中心部を目指した。 
 ショウタはなにも言わない。
憔悴しきった様子で、時折うとうととしては馬車の揺れにハッとなり、
そして目を覚ますということを繰り返していた。
 疲れているのであろうということは安易に知れたが、気遣うことをしてやる義理はない。
 何故ならショウタはオモチャであり、過剰に手を掛けてやる必要はないはずなのだから。
 俯いたままであったから、ショウタの顔はよくは見えない。
だが、タカシと居ることで、意識があるうちは少なくとも警戒し緊張を解けずに居ることは窺い知れる。
 それもどういうわけか、タカシにはとても楽しいことのように感じられた。
 己がどんどんと歪んでいっている自覚はあった。否、最初から歪んでいたのかもしれない。 
 最初から歪んでいた嗜好を、ショウタの存在が引きずり出したのだ。
 きっとタカシには生まれたときから加虐趣味があり、
ショウタの存在によってそれが目を覚ましただけに過ぎぬのだ。
体中に残る殴打したような青あざは、間違いなくタカシが着けたもので、
それを見ると何故か心が安らぐのを感じた。
 半袖からむき出しの腕にも、無数の青あざがある。
 徐にそこへと手を伸ばしてつねり上げると、ショウタは涙を溜めて、しかし声も出さずにそれに耐えた。
 ――馬車が止まった。
 到着を告げる御者の声に、タカシはショウタを引きずるようにして馬車を降りた。

「暫くは帰らない」
 御者に短く告げるとここのところ滞在を続けていたホテルを目差した。
 鉄壁の近くにあるホテルは、やはり鉄壁の向こうで働く人々が多く利用している。
 安いホテルではないためか、一般の宿泊客も比較的富裕層が多く、似たような嗜好のものが覆い。
故に奴隷を連れ歩く客も少なくなく、ショウタの存在も奇異に映ることはないだろうとタカシは踏んでいた。
 ホテルを目差すべく、歩く。
 手首を引っ掴まれたショウタは、タカシと歩幅が合わずによろけて転びそうになっているが、
実際には転んでいないので問題はない。
 よろけるたびに聞こえてくる「あ」と言うショウタの声もろくに聞かずに歩き続けた。
 やがて到着したホテルは、早朝の為か人もまばらであった。
 フロントに着くやいなや、ホテルマンが恭しくタカシを出迎え幾度も頭を下げる様が妙におかしい。
 そんな感情はおくびにも出さずに、タカシは「おはよう」と声を掛けたのだった。
「今日からこれもこちらの世話になる」
 身なりだけはキチンとさせてきたショウタの頭を押さえ込み、挨拶をさせる。
「左様でございますか。こちらの方は……」
 首輪が見えているだろうに、一応、と言った様子で伺いを立ててくるため、
タカシは短く「奴隷だ」と告げた。
 安ホテルなら兎も角、それなりのランクであるホテルは奴隷を主人の付属品と見なさず「客」としてカウントする。
 宿泊料金が二倍になることはタカシも充分に承知していた。
「お部屋は移られますか? 今のお部屋ですと、ベッドはおひとつしかございません」
「ああ、頼む。移動先はケータイに連絡してくれ。
すまないが『これ』を部屋まで持って行ってくれないか?」
「かしこまりました。お荷物もこちらで移動させていただいてもよろしいですか?」
「してもらえると助かる」
「かしこまりました」
「これを」
 タカシはチップである紙幣をホテルマンへと握らせる。
店舗での支払いは電子マネーが主流になった現代でも、チップだけはこうして現金で手渡されるのだ。
「ありがとうございます」
 ショウタをホテルマンへと任せると、タカシはさっさとホテルを去った。
 今日も忙しい。奴隷に心を乱されている場合ではないのだ。
 これから訪れる壁の向こうへの進入手続きに気が滅入りそうになりながらも、タカシは足を進めたのだった。

「生活に欠かせない公共施設は殆ど仕上がったということでよろしいかね」
 壁の内側、ガンガンとけたたましい騒音に晒されながら、男は叫ぶように尋ねた。
 視察に訪れた府知事だという男は、確かにテレビで見たことがある顔であったが、
短くまとめられた資料に一瞬だけ目をとせば理解できるようなことを一々尋ねてくる無能そうな男であった。
 現在京都府は完全に国の管理下におかれており、そのような役職は不要に感じられたが、
一応は、と言った感じで彼は府知事に就いていた。
 本日視察に訪れた彼をもてなすために、箱庭計画の一切を取り仕切るA社は比較的上層部の人間までもが
壁の内側を訪れていた。
 一昔前ならばこの手の公共事業にはゼネコンが深く食い込んでいたのだろうが、
人の作業では危険の多い現場の大半をアンドロイドの働きでまかなわれているため、
設計図の起こしやら素材の仕入れ以外は、アンドロイドを貸し出す会社、
アンドロイドを派遣する会社が担っている場合も少なくはなかった。
 今回の箱庭計画も例外ではなく、また情報漏えいの危険を考え、
より多くの部分をアンドロイドに頼っている。
「予想より半年は早く進んでいます」
 説明のため、タカシも大きな声で返事をした。
 早ければ早いほうがいい。
 予算を度外視するように、そんな指示を出されているA社は、
可能な限り作業を急ピッチで進めていた。
 二十年を掛ける予定である箱庭計画は、京都府全域及び各県庁所在までの建設と
人員の立ち入り制御の全てを視野に入れたものであって、京都府中心部の、
つまり心臓部分のみであるのならば二年後には完全に機能を回復できる計算だ。

 そのような説明を続けていると、
男は「それで、アンドロイドはいつから住ませるんだね」と大声で問いかけた。
 その場に居る全員が凍りつき、そしてタカシも同じように閉口した。
 誰かが聞いている可能性は極めて少ないが、それでも大声で口にしていい内容ではないはずだ。
 やはり無能なのだろう。
全員が押し黙った意味さえ判らぬようで、目をしばたかせ、男はジッとタカシを見ていた。
 何故答えない。早く答えろ――、そう言いたげな顔に、タカシはますます呆れた。
 あくまでこの復興建設はただの『復興』であって、それ以上でもそれ以下であってもならない。
 それをこの男は理解をしていないようだった。
 この箱庭計画の為に、既に数十年に渡り老人たちは努力を重ね、
今、漸く下地ができたところなのだ。
 まず、地方都市衰退を防ぐと言う名目で、
とりわけ繁栄している都市には転居や勤務が制限されており、
また娯楽施設や店舗なども都市にあるものは地方にも必ず姉妹店が置かれる決まりと成っている。
 おそらくそのような法律を作った老人たちは、
このような箱庭計画を戦後直後から検討していたのだろう。
 つまり、箱庭に進入できる人員が制限されていることについて、
全く不自然に感じさせないような下地を作ったのだ。
 立ち入り制限が不自然でないよう、また都会に思いを馳せる若者が無謀な立ち入りを決行しないよう、
長きに渡って国民をコントロールしてきたいに違いない。
 今回も当然その制限を適用させるつもりであるはずだ。
であるからして、この都市に住まう人間に化けた『アンドロイド』は
進入許可を得られた『人間』でなければならないし、
転居し、働き、そして生活を営むのが『人間ではなくアンドロイド』であると知られては決してならないのだ。
 知られたら箱庭計画の意味がまるでなくなる。
 ――それをこの男は判っていない。
 呆れてものが言えぬ。

 さらりと流すべきか、それとも――。
 それは突然だった。
 工事の轟音に紛れて、それとは異なる轟音が、かすかにタカシの鼓膜を振るわせたのだ。
 いつもとは異なる微細な変化に気づいたのはタカシのみであるようだった。
 突然落ち着きをなくしたタカシに府知事は怪訝な顔をしているし、
重役たちは無能な男にどうしたものかと眉を顰めるばかりだ。
 誰も異常に気づいてはいない。
 ゴンゴン、ガンガン。
 重ったるい、脳を揺らすような轟音は相変わらずで、それは工事によるものだと確認できた。
 しかし。
「――まただ」
「え?」
 タカシの呟きを拾った誰かが「どうしたのかね」と尋ねるが、
タカシははるか遠い空を見上げ、そして五感をフル稼働させていた。
 なにか、嫌な予感がしたのだ。
 そして――、
「伏せろ!!」
 タカシは肺一杯に埃っぽい空気を吸い込み、そして反射的にそう叫んでいた。
 舞い上がる土煙、飛び散る鉄片。
 一瞬空が赤く光ったのは気のせいではなかったようだ。
 それを確実に認識する間もなく、タカシは爆風に煽られ吹っ飛んでいた。
 近くにあった単管バリケードに背中を強か打ちつけ、その衝撃に思わず呻く。
 うっすらと目をあけるが、しかし黒い土ぼこりにまみれた視界ではなにも見えず、
爆音を浴びた聴覚は麻痺して周囲の音を拾えない。
 キイィンと言う耳障りな耳鳴りがするばかりで、それが余計に不安をあおり、
なんとか状況を把握しようとタカシは慌てて体を起こした。

 体を確認するが、怪我をした様子はない。
 いや、それよりも何が起きたのかを確認せねばなるまい。
 一体なにが、なにが起きている?
 目を凝らして周囲を見遣ると、土煙のその向こうで、また何かが光った気がした。
 ――まただ。また、来る。
 タカシは慌てて走り、なるべくその場を離れようと試みた。
 遠くで人の手が拉げて落ちているのが見えたが、知ったことではない。
 今は、そう、今は逃げることに専念せねばならないのだ。
 でも何故? いや、いったい何が起こっているのだ。
 工事現場での爆発事故か、それともアンドロイドの設計ミスによる誤作動か。
 いや、それはない。
 タカシは何故か確信していた。
 何故なら、空が『赤く光って』いた。
 それは即ち。
「……!!」 
 第二波だ。
 漸く回復しつつあった聴覚は、「助けて」と言うか細い声を拾ったが、しかし再び麻痺した。
 植えられていた樹木が吹っ飛んでいる。
 タカシは自分の横をすり抜けていく大木を横目に見ながら、自身の体もまた同時に飛ばされ、
まるで浮遊しているような感覚に陥った。
 小石や鉄片が体に当たる痛みがなければ、それは心地のよい空中散歩のようだ。
 タカシは飛び交う木々や、石や、それから得体の知れぬ塊が飛び交うのを見ていた。
 慌てつつも、何故か冷静にそれを眺める余裕はあった。
 腹に気持ちの悪い動きを感じるのは、おそらく未だ爆音が成り続いている証拠だ。
 音波が直接内臓に響いているのだ。
 もしかしたら死ぬのかもしれない。
 タカシは荒れ狂った景色を見ながら、ふいにそんなことを考えていた。
 そこまで考えに至り、今漸く『この光景』がなにであるのか、一体何が起きているのかを悟った。
 空に飛び交う、無数のゴミクズに交じって、なにかが光るのが見える。
 凧のようなものが地上めがけて飛んできている。
 いや、凧ではない。爆撃機だ。それはタカシの目で確認できるだけで三機はあった。
 それを追うようにして、飛んでくるのは――、おそらく大日本帝国の戦闘機だ。
 攻撃されている。
 これは侵略だ、とタカシは地面へと転がりゆく己の体の心配をそっちのけでそう悟ったのだった。

今日はここまで。
保守してくれた人ありがとうです。

乙です、待ってました~!
これからどうなってしまうのか…
続きも楽しみにしてます。

『人身御供と言うわけか』
 タカシはそう吐き捨てた。
 ミユキは困った顔でタカシを見つめ、そして『そんなつもりはないのよ』と言い訳じみた返答をする。
 それ以外のなんだというのだ、とタカシはミユキを見つめ、そして嘆息した。
『これだから貴族だの華族だのは……』
『そんな言い方、やめて頂戴……』
 涙声のミユキは、可憐な女性そのものであった。その彼女は今から――、そう、今から婚約を交わす。
 なんと忌まわしい婚約だろう。めでたさの欠片もない。
『愛がない』
『そんな……』
『だってそうだろう、奴隷と変わらない。そこに当人の気持ちがない。命令だ。拒否権はない』
『タカシさ、』
『惨めだ!』
 激昂したタカシの声に、ミユキはびくりとその細い肩を揺らし、ついには俯いた。
 タカシは猛烈に怒っていた。この女性に対して、酷い怒りを抱いていた。
生まれてこの方、ミユキに対してここまでの怒りを抱いたことはなかった。
 慕っていた。ずっとそうだ。ずっとそうだったのに。
『ミユキが拒否すれば、いいだけの話だ』
『私は、私は……』
 ミユキが、まるで見たことのない女に見えた。
 まるで悪夢だ。何故、一体なんだってミユキが――。
『最悪だ……! 今時政略結婚だなんて、馬鹿げている』
『私はそんなつもりはないわ……!』
『俺にはそうとしか思えないね。ミユキだけはそんなことはしないと思っていた!
結局ミユキは、ミユキは――』
 これを言ってしまっては、プライドは木っ端微塵に崩れ去る。
 そんなことは判っていた。タカシは口を噤み、そして拳を握った。
『馬鹿馬鹿しい……!』
 軋むほどに強く握り締めた手の内側は、かすかにぬめって居た。

 タカシははっとして目を開けた。
 暫くの間、気を失っていたようだった。
 あまりいい夢ではない。あれは、ミユキの結婚が決まった時の夢で――、
いや、今は夢の内容を思い出している場合ではない。 
 土煙舞う中、タカシは横たわったままで目の前の状況の確認を急いだ。
下手に動くと攻撃をされかねない。とにかく、状況をじっくりと確認する必要があった。 
 まず、建設が急ピッチで進められていた箱庭の殆どは破壊されていた。
これはあくまでもタカシの視点からの風景であったから、実際にいかほどの損害があったのかは判らない。
 アンドロイドの破片、傾いた鉄筋、そしてえぐれたような地面。それらの全てはタカシの近くに散らばる惨状だ。
 地面にぴったりと寄り添った状態でも、箱庭の状態があまりよくないことは見て取れた。
基礎を築いていた建物も、ほぼ完成間近であった建物のも、その多くは失われたようだった。 
 モスクワ連合かアジア合衆国か、それともオーストラリア中立国、はたまたアメリカ連邦か。
 どこかの国が日本帝国による防衛網と、強靭なシールドを打破して進入を果たしたのだと、
土煙にむせながらタカシは冷静に考えていた。
 空を見上げればその彼方では、無数の赤い警告ライトが点滅を繰り返している。
 こうなってしまっては、もうそんなものは無意味に違いないのに、
戦闘機に乗ったパイロット――、アンドロイドたちは律儀にも一応の警告を続けているのだ。
 破壊されたシールドが小刻みに揺れ、その向こうに『本当の空』を映している。
 赤いライトのその背景は、随分と薄っすらとした青色で、
平常時にタカシたちが目にする空の色とは随分と異なる覇気のない色合いだった。
 身を潜めるように建物の影へと移動をしたタカシは、
目の前で繰り広げられる映画のワンシーンのような惨状を固唾を呑んで見つめていた。

 まず、浸入を果たした爆撃機は、大日本帝国の戦闘機によって『繭玉』に変形させられた。
 これは強化凍結スチロールとか呼ばれるもので、それらを目標に向かって吹き付けると、
白い泡のようなものが吹き出し瞬時に目標物は凍結させられ、かつ繭状になり、地面へと激突をする。
 激突をするものの、衝撃吸収に優れた素材のおかげで、地面への墜落の衝撃も少ないし、
また内部からの破壊に強いため、万が一中身が凍結が不十分な目標が爆発を起こしたとしても、
外部への衝撃も最小限に済ませられる、と言う仕組みだ。
 大日本帝国の戦闘機は、国内に侵入を果たした爆撃機の全て――、タカシの視点から確認できるのは、
今のところ三機だ――、に強化凍結スチロールを吹きつけられ、歪な繭玉と化していた。
 それらが爆発することはなさそうだ。中のパイロットが人間であったのなら、とっくに死んでいるだろう。
 大日本帝国の戦闘機から降り立った戦闘型アンドロイドたちは、
繭玉に近づくとなにやら手を当て内部を窺っているようだった。
 おそらく超音波診断だろう。あれで『中身』が生存しているか否かを確認しているに違いない。
 アンドロイドたちはそれらの作業を終えると、
繭玉の中身について、心配をする必要がないと判断したのだろう、周囲を捜索し始めるような仕草を見せ始めた。
 一人、二人と、なんとか人と判る残骸――、視察団だ、を掘り起こしていく。
 無残にちぎれた腕を拾い集めては一箇所に置く。まるで発掘だ。
 もしかしたら生存者はタカシただ一人なのかもしれない。
 血液でさえ砂埃に覆われて、そこにあるのは人であった残骸、だがそれもあちらこちらが砂で覆われ
人の肉体であったという現実味が損なわれていた。
 せせこましく動く数体のアンドロイドは瓦礫をどけては人を探し出しているようであったが、
タカシに対しては全く興味を示していなかった。無事が確認された人間には興味がないのかもしれない。

 それにしても、とタカシは再び空へと視線を向けた。
 なんとも不自然だ。おびただしい数の爆撃機が空を埋め尽くしているのにも関わらず、
破壊されたシールドの隙間から、再度の浸入を果たそうとするものは一機もない。
 浸入、いや、これは偵察なのだろうか。この箱庭計画がどこからか漏れたのかもしれない。
 しかし、とタカシは壁の向こうを確認した。
 箱庭区画外、つまり箱庭建設地より外である壁の向こうにも、火の手は無数に上っている。
 遠くで複数のサイレンが鳴り響き、それらが一体どこから響いてくるのかを
正確に判断することは困難であることが窺い知れた。
 被害があったのは、ここだけではないらしく、シールドの穴も火の手と同様に複数存在し、
その全てから薄い色合の空が姿を覗かせていた。
 サイレンが鳴っている。熱い風に煽られる前髪を押さえ、タカシはその光景をじっと見た。
 心がまるで動かない。攻撃されている、侵略されている。だからどうだというのだ。
 タカシをもみくちゃにした爆風と一緒に、まるで恐怖や不安が抜け落ちてしまったようだ。
 密集した虫のような、綺麗に整列した爆撃機にも、恐怖をあまり感じない。
 もしも戦争になったとしたら? それについてもあまり現実的な感想や恐怖は抱けなかった。
 戦争を知らないタカシの脳は、この凄惨な光景を対岸の火事として捉えているのかもしれない。
 サイレンに交じって悲鳴が聞こえる。ああ、やはり壁の外でも被害はそれなりにあったのだろう。
 立ち上る煙、こげた匂い、それらまでは工事の為に設けられた壁では覆い隠すことはできない。 
 きっと外でも人が何人も死んでいるのだろう。国は何をやっているのだろう。
 完璧を自称した防衛システムは上手く作動しなかったのだろうか。
 悲鳴はなおも響いている。女、男、子供、少女、少年――、
タカシは立ち上がり、眩暈を振り払うようにして頭を振った。
 女、男、子供――、少年?

『我々は無国籍軍である』
 空高くより、訛りの強い発音で、そんなアナウンスが響いた。
 ああ、やはり無国籍軍なのか――。
 タカシの頭は一方ではアナウンスを認識し、もう片方では別のことを考えていた。
 少年、少年、少年。
 そう、少年だ。
 タカシは今朝、ショウタを家から連れ出したのではなかったたか。
 どこに預けた?
 頭を右手で押さえ、混濁する記憶を鮮明にしようと考える。
 ホテル――、ホテルに預けたのだ。
 タカシは東の空を見た。
 火の手が上がっている。
 背の高い建物はあらかた破壊されているようだ。
 ホテルはどうだろうか。
 タカシは力のあまり出ない足でふらりと立ち上がった。
 ここに来てタカシは、足元へと血が下っていくような、恐怖らしい恐怖を初めて抱いたのだ。
 一気に血の気が下る感覚、背中が震える気持ちの悪さ、せり上がる胃液。
 それは間違いなく恐怖と呼ばれる感情だ。
 目を見開き、東の空の、ホテルがあるであろう場所を見つめた。
『我々は無国籍軍だ』
 無遠慮なアナウンスが再度流された。
『大日本帝国には、食料と水の提供、そして我々の駐屯の許可を要求する』

 世界が混沌としていることを、日本人はみな知っている。
そしてこの国が鎖国のおかげで比較的裕福であることも。
 だがそれは先人たちが、国民たちが一丸となった対策故のもので、
どこか他の国を衰退に追いやって手に入れたものではない。
端的に言えば、この国の国民は『努力』を重ねてきたのだ。
 鎖国を緩和しある程度の輸入を許可したのも、また国民たちの努力の結果だ。
『我々は、食料と水の提供、そして駐屯の許可を要求する』
 壊れたMP3のように、同じアナウンスばかりが繰り返される。
 この平和は、この国が努力することで得たものだ。
 水と食料が欲しいからこの国を破壊しただと? そんな横暴が許されるものか。
 空に広がる爆撃機に、タカシは今さらの憎しみを抱いた。
 国を衰退させたのは、その国自身の責任だ。それを横から掠め盗ることなど許されるわけがない。
 いいや、やつらは許されると思っているのだ。なにせ肌の色で人間の価値を決めようとするクズ共だ。
 第四次世界大戦では捕らえた有色人種に地雷原を歩かせたと聞く。
 無国籍軍? 世界の平和と秩序を守るもの? ふざけるな。
 いや、それよりも、それよりも。
「ショウタ……!」
 ヒュッと肺一杯に吸い込んだ空気を、まず何に使ったかと言えばその言葉を発するためにである。
 重い足を、油が切れたように動きづらい脚を引きずるようにしながら、
タカシは箱庭計画区画外へと向かって走り出した。
 自嘲する余裕すらない。
 ただ、ショウタの安否が気になった。何故だから判らないが、とても気になったのだ。

 厳重なセキュリティを突破するのは難しいことであった。
 半分壊れかけたような旧型アンドロイドは、数回のスキャンで漸くタカシを『非危険人物』と判断し、
箱庭からの脱出に許可を下したのだった。
 外は、予想以上に破壊しつくされていた。
 やはり爆撃は、箱庭だけを狙ったものというわけではなさそうである。
 箱庭計画がなんの意味も為さなかったということだ。
 あと数年、せめて五年ほど早くこの計画が実行に移されていたのなら、人々への被害はもう少し軽かっただろう。
 分厚いシールドは、なんの役にたったのだろう。
 血みどろの死体や、破壊された家屋の横を通り過ぎ、
立ちふさがるスカイカーや馬車が転がる道路をなんとかすり抜ける。
 何故こうまでも焦っているのかが判らなかった。
 たかが奴隷、たかがクソ生意気な子供一人。
 失ったというところで大した痛手ではない。
 だが足は休むことなく進み続けた。まるでそれが本能だと言わんばかりに。
 体を休ませ、一刻も早く地下の避難シェルターへと逃げ込むべきだ。
 だというのに、何故。
 レンガのはがれた道路を歩み続け、漸くたどり着いたそのホテルの前、タカシは瞳が乾いていくのを感じた。
 ――燃えている。
 真っ赤な炎が立ち上り、そしてその熱風はタカシの瞳と皮膚をちりちりと焼いていた。
『我々は無国籍軍である。大日本帝国には――、』
「うるさい! うるさいうるさいうるさい!!」
 大音量で響く音を遮ろうと、タカシは大声でそう叫んだ。
 人の国を焼き尽くして提供だの駐屯だのとなにを言っているのか判らない。
おこがましいことこの上ない。いいや、奴らはこの上のなく浅ましい獣だ。
 あいつらはいつでも自分たちの方が上だと思っている。
 そう、いつでもそうだ。
 奥歯を噛み締め、タカシは燃え盛るホテルをにらみつけた。
 水だの、食料だの、いつでも無遠慮に奪っていこうとするのだ。
 無国籍軍を前にしては、今は全ての力が衰退したアメリカ連合国では盾にもならない。
 大日本帝国は、自力で奴らを撃退するよりほかはないのだ、昔のように。

「誰か水を、水をくれ……!」
 誰かがそう叫んでいた。ホテルマンだ。所々が煤けた制服でのた打ち回っている。
他にも焼け出された客が路上の転がっている。
 幾度か見回すが、そこにショウタの姿は無かった。
 早く、助け出さなくてはならないだろう。
 馬鹿だと思う。たかが奴隷になにを、と。
 タカシは尻のポケットに突っ込んでいたケータイを見る。
タブレット状のその画面には、いくつもの亀裂が入っていたが、なんとか画面の内容は読み取れた。
 今朝ホテルから受け取ったメールを開くと、移動した部屋が905五室であると判る。
 きっと最上階が空いてなかったのだろう、
グレードの低い部屋になってしまったことを詫びる一文が添えられていた。
 905号室は最上階より二階下だ。
 燃えているのはスイートが集まる最上階であるから、今なら間に合うかもしれない。
 考えようによっては、最上階などに通されなくてよかったかもしれない。 
 そうなっていては、おそらくショウタは――。
 背中がゾワッと冷たくなった。
 何故これほどまでに恐怖しているのかが判らない。
 だが、今のタカシにはそれらの感情を分析しているような余裕はない。
 破損したスプリンクラーがシュルシュルと音を立ててレンガを濡らしている。
清潔とは言いがたい霧雨の中に飛び込んで、タカシは頭からつま先までをも充分に湿らせると、
誰の制止も聞かずにホテルの中へと飛び込んだ。
 爆風か爆撃か、そのどちらかで破損した窓ガラスがヒビを作って窓枠にはまり込んでいる。
それを尻目に見ながら、エレベーター脇の階段へと足を進める。
 九階までの道のりは長いことだろう。徐々にいぶした匂いで濁っていく空気をやり過ごしながら、
タカシは上階を目差し階段を駆け上る。
 途中で玄関ホールを目差す人々とすれ違い、
その都度止められるがタカシは一言二言軽く礼を言うだけで制止を振り切り九階を目差した。
 一段二段と駆け上ると同時に、視界も悪くなる。
 やがて九階へとたどり着いた頃には、廊下は煙で満たされており、
薄暗い廊下はどちらが右でどちらが左なのか、それさえ判然とせぬほどになっていた。

 階段から最も近い部屋のプレートに901号室と刻まれているのを指先で確認する。
その隣は903号室だ。どうやら部屋は、廊下を挟んで奇数部屋と偶数部屋に分かれているようだった。
 ならば、この隣が905号室であろう。
 手でプレートに触れると、確かに『5』の数字が確認できた。
「ショウタ!」
 吸い込んだ煙は扱った。手探りで漸く見つけ出したドアノブは熱を持っている。
「ショウタ!」
 あらん限りの声で叫ぶが、返事はない。
 ドアノブを捻るがガチャガチャと引っかかるだけで、そこが開く様子は無かった。
「クソ……! ショウタ!」
 もしかしたらもうとっくに逃げているのかもしれない。
 馬鹿げている。馬鹿以外の何ものでもない。
 煙った空気を吸い込みつつ、タカシはそんな自嘲を繰り返しながら、
幾度も扉に向かって体当たりをした。
 二度、三度、四度。
 繰り返すうちに、ミシッと言う音が響いた。
 熱の為かなんなのか判らないが、ドアは通常よりも脆くなっているようだった。
 そのまま体当たりを続けると、扉は勢いよく開いた。
「ショウタ!」
 部屋の中の空気はまだ澄んでいた。
 グレードがスイートよりは低い部屋とは言え、そこは充分に広さの取れた部屋だった。
一枚ガラスが部屋の全ての窓に設置されているし、ソファは三脚もある。
 だがそのリビングにショウタは居らず、やはりもう逃げたのかもしれない、とタカシは考えた。
 トイレ、バスルーム、そのどちらにもショウタは居らず、残されたのは寝室のみとなった。
「ショウタ!」
 名を呼びながら絨毯を踏みしめ、寝室へと向かう。
「ショウタ!」
 ドアノブを捻りつつ、タカシは半ば祈るような気持ちを抱え、そこを開いた。
 ――果たして、ショウタはそこにいた。
 亀裂が広がった一枚ガラスの、僅かに残された透明部分から、階下を見下ろしでもしているのか、
彼は絨毯の上へと座り込み、ガラスにぺたりと手をついていた。
 ゆっくりと振り返ったショウタは、驚くべきものを見つけたような目をして、タカシを見た。
 大きく開いた瞳は呆気に取られているのか、緩やかに震えている。

「なんで……?」
 掠れた声が僅かにタカシの耳に届く。
「早くしろ、ここはもうすぐ火の海になるぞ!」
 ずかずかと近づき、ショウタの腕を引き立ち上がらせる。素足の足裏は、黒く汚れている。
「なんでだよ……」
 呆けた顔のショウタがもう一度問う。
「今はそんなことを話している場合じゃない。何故逃げなかった」
「なんで……」
 ショウタは俯き、そして前髪を右手で乱した。
「なんでなんだよ……」
 何故助けにきたのかと問うているのだろう。タカシは「いいから」と苛立ちながら言うと、
その腕を再び掴んだ。
 が、しかし、その腕は乾いた音を発しながら、タカシの掌を振り払ったのだ。
「なんでだよ!」
「今はそんなこと話している場合じゃ、」
「完璧だったのに!」
 吐き捨てた言葉には、憎悪が滲んでいた。
「お前……」
 死ぬつもりだったのか。
 そう紡ごうとした瞬間に「馬鹿じゃん」とショウタは吐き捨てた。
「ショウタ、お前……」
「ああやだ、また一番最初からだ」
「ショウタ……?」
「ああもう、ここまで完璧だったのに……なんでいつも……畜生……畜生……」

 ショウタが何に対して悪態を吐いているのか、まるで判らなかった。
 今まで、彼がタカシに向かって暴言を吐くことは多々あった。
 だが、今回のこれはそれとは様相が異なった気がした。
 今度はタカシが頭を抑える番だ。なにかがおかしい。一体なにがおかしいのか判らないが、
だが本能的におかしさを感じていた。
 苛立った目は子供の駄々とも違うような気がした。
 熱の為か、怒りのためか、瞳には赤く細い毛細血管が無数に走り、
そして小さな爪は髪をかきむしっている。
「なんでいつもいつも……なんで上手く行かないんだろう。なんで……」
「ショウタ」
 最早、タカシの声はショウタには届いていないようだった。
「全部、あの人の好みにしたのに。全部あの人に合わせたのに。
なにが駄目なんだろ……なんで……」
 仕舞にはショウタは泣き出した。
 情緒不安定な女を見ているような気味悪さがタカシを襲う。
 これは、誰だ。一体。いや、ショウタであることは間違いないのだ。だが。
 耳鳴りがする。
 この空間に、まるで空白ができたかのように、なにも聞こえなくなる。

『気持ちの悪い子供だ。やはり人工授精などするべきではなかった!』
 耳鳴りの合間、誰かの声が耳に響く。聞き覚えのある声だった。
 いや、聞こえているわけではない、これは幻聴だ。
「いッた……!」
 突然の頭痛にタカシは呻く。
『俺はそんなことをしてまで、技術を引き継がせるのはおかしいと言っているんだ!』
 その聞き覚えのある声は、タカシの頭を駆け巡った。
『俺を"買った"だけじゃまだ足りないのか! 水も記憶も知ったこっちゃない!
お前にも、世間にもうんざりだ!』
 この声は、一体、誰のものだろう。
 動悸がした。頭が痛い。
 一体、なにが。
「痛い……!」
 目の奥に軋むような痛みを覚えて、タカシは目を硬く瞑った。
 ショウタは相変わらず意味不明な言葉を呟いており、タカシには目もくれない。
 痛みで、涙がこぼれだす。こげた匂いが強くなっている。
 危険だ。そう判っているのに、一歩も足を踏み出すことができない。
 なんだ、なんだってこんな時に。
『俺の種を道具にしたな!』
 なんの話だ。
『大戦など俺には関係ない! 何人死んだ、俺の所為で!』
 唯一鮮明な右目に、チラつく赤いものが見えた。
 炎だ。
 そう認識しているのに、体は一歩も動かない。
「……さま!」
 誰かが、何かを叫んでいる。今度は幻聴ではない。
 しかしその声は、ショウタものではなかった。
 慌しい足音が、パチパチと言う音に交じって聞こえてくる。

 いつの間にか、部屋は炎で満たされていた。
 バン、と何かが弾ける音に交じって、天井が落下してくるのがスローモーションのように見えた。
 今度こそ死ぬのだろうか。
 煙った視界の中に、男の姿と天井が同時に見えた。
 知っている顔だ。あれは、家で使っている下男だろう。
 全身が濡れた男が、唖然とした姿で底に立ち、そして。
「ショウタ様!」
 そう叫んだのだ。タカシではなく、彼は、ショウタの名前を叫んだのだ。
 分厚い天井が落下していることに、それが自らの頭を目掛けてきていることに、
ショウタは漸く気づいたようだった。
「危ない!!」
 下男の声がやけにゆっくりと響く。
 熱風が頬を煽る。窓ガラスがパンと音を立てて爆ぜる。耐熱強化ガラスもこの熱には耐えられなかったのだろう。
 一気に入り込んだ酸素に、炎が一段と大きくなるのを感じた。
 ゴウゴウと燃え盛る炎。そして、落下する天井の一部。
 タカシは咄嗟に落下物を避け、そしてなんとか危険を回避した。
「ショウタ様!」
 落下した天井材と床に挟まれたショウタは、ぺちゃりとつぶれ動かなかった。
「どいて!」
 下男がタカシを突き飛ばす。
 なにもかもが判らない。
 下男がここに居る理由も、彼がショウタを優先する理由も、ショウタの意味不明な呟きも。

「ショウタ様、ショウタ様!!」
 ショウタの手はだらんと力をなくし、返答が無かった。
 呆気に取られたままのタカシは、ぼんやりとその様子を見つめるしかない。
 天井材をどけ、なんとかその体を救出した下男は、ショウタの頬を二度ほどぶったが反応はない。
「ショウタ様! 起きなさい、ショウタ様!」
「……痛い……!」
 幾度かの張り手で、漸くショウタは目を覚ましたようだった。
「……なんでお前、ここに居るの」
 呻くような声の後、ショウタがか細い声で尋ねた。
「この爆撃です、貴方になにかあったら……、怪我をされているじゃないですか!」
「……平気だよ」
「平気なわけがありますか!」
「平気だって。こんなの、治せばいい」
「皮膚が裂けてます」
「大丈夫だよ。治せるもん。あー……、骨、折れたかも」
「だから……! 貴方は無茶をしすぎる! 歩けますか?」
「うん、平気」
 熱風立ち込める部屋、タカシはただアホのように立ち尽くしていた。
 下男に支えられる少年はショウタで、ショウタを支えるのは下男。
そのどちらともが見知った人間であるはずなのに、まるで知らない人間のようだった。
「全部取り替えになるかな」
「どうでしょう、すぐに技師に見せましょう」
「うん。ねぇお前、この炎の中歩けるの?」
「歩けるわけないでしょう。何故早く避難されなかったのですか」
 二人はタカシに構うことなく不可思議な会話を続けていた。まるでタカシなど居ないかのように。
「実験、してたんだ」
 ショウタの視線が漸くタカシに向けられた。
いつもより幾分も穏やかな目は、タカシの知るショウタのそれでは決してなかった。
 警笛が鳴っている。なにかがおかしいと、この世の終わりを告げるようにけたたましくなっている。

「だめだよ。アレも失敗」
「……そうですか」
 ふいに、なにか光るものが目に留まる。
 ショウタの手だ。右の手の、肘から下、手首までの皮膚が思い切り裂けていた。
 しかし不思議なことに、そこからは僅かな血液がもれ出ているばかりで、
見た目に反してその出血量はきわめて少量であった。
 そしてその皮膚の中身。それが光っているのだと、タカシは鈍った思考で確認した。
「回収しますか?」
「ん、一応」
「判りました……、お前」
 下男がタカシに向かってそう呼びかけた。『お前』と。
「『ついてきなさい』これは『命令』だ」
 途端に体が機械仕掛けのように勝手に動き出す。
 これはなんだ。いつの日か、下男の罵声によって体の動きが不自然に停止した時と似ていた。
 自分の体であるにもかかわらず、その一切に関しての自由が奪われるような、異常な感覚だ。
 ――これは、なんだ。
 言われるがままに、タカシは下男の背後一メートルほどの距離に立った。
抵抗の言葉は紡げないし、体の自由は利かない。
 ――これは、一体なんなのだ。

「ねぇ、関節から取り替えようかな。なんか最近無茶な体勢ばかり取った所為か、ギシギシいうんだ」
「私では判りかねますから、お医者様と技師にご相談なさってください」
 ショウタの腕は、光っている。その皮膚の内部は、見事なメタルカラーだ。
 彼らは、一体なんなのだ。タカシは全身が粟立つのを感じる。
「やだなぁ、医者のセンセにまた怒られそう」
「おいたが過ぎるんですよ、『坊ちゃま』は。悪い遊びもほどほどになさらないと」
「うん……」
 おおよそ火事の現場に似つかわしくない、朗らかな会話は続いてく。
 得たいの知れぬ二人は、只管会話を続けた。
「危ない!」
 下男が突如叫ぶ。
 柱が倒れ、それからショウタを庇うように下男は動いた。
 かなりの重量があるのではないかと考えられる柱の衝撃を、下男は易々と腕と、そして頭部で受けた。
「……うわぁ……お前、それ大丈夫?」
「ああ、平気ですよ。お前、大丈夫か?」
 下男が振り向きタカシにそう尋ねた。
 下男の頭部は、拉げていた。
 陥没した頭部、そのあたりの皮膚は、柱からの摩擦で一部がこそげ落ちている。
 額から右眼窩の下までズルリと落ちた皮膚が、頬の下にぶら下がっていた。
 そして覗いたのは、ショウタの腕と同じメタルカラーの金属で。
「おい?」
 むき出しになった眼球がキョロキョロと動く。
 ああ、彼らは、彼らは。
「おい、大丈夫か?」
「あーあ、放心してるよ。回収できるかな」
「大丈夫でしょう。ちゃんと『催眠』を掛けてありますから」
「あ、そう。早く行かないと。俺まで燃えちゃう」
 タカシは自由にならぬ体で、声にならぬ悲鳴を上げた。
 そしてそれから暫くの記憶が、タカシにはない。

今日はここまで

>>184
保守と感想ありがとう

なにゃとおお

人類なんてどこにもいないさ

乙です。うおお続き気になる!
いつも読みごたえのあるものをどうもありがとうー

乙です!続き楽しみ!

待つわー
私待つわー

*****

 バラバラ、と言う不穏な音を立てて、爆撃機が上空を通過したのを青年は確認した。
 かなりの大きな音であったから、姉が怯えて暴れやしないかと少しばかり不安になったが問題はないようだ。
 青年の押した車椅子に、姉は静かに納まっていた。
 姉は病を抱えており、大きな音に弱いのだ。
「姉さん」
 声を掛けるが、返事はない。寝ているわけではないことは判っているが、とにかく返事は無かった。
 今日は暴れる気力がないらしい。
 と、またもや同じような音が響いた。
 今度は窓ガラスを振るわせるほどの音であったが、姉は相変わらず静かであったから、
青年はホッと胸を撫で下ろす。 
「嫌だな……」
 青年は短く呟いた。 
 はるか上空を行く他国の爆撃機に、この国を攻撃する意図がないことは確かであったが、
やはり気分のいいものではない。
 このまま他所の国では戦争が再び始まるのだろう。
 前回の第四次世界大戦は何年続いたのだったか。
 実害なき地で平穏に過ごしているとは言え、やはり戦争が始まるかも知れないという不安定な情勢には
心が乱されないわけではない。
 青年は途端に憂鬱になる気持ちを押し込めて、車椅子を押しつつ渡り廊下を行く足を速めた。

 この施設、国立農業開発実験所に男が招かれてから、もう三年が経つ。
 大学の二年の中盤でスカウトをされ、そのまま卒業と同時にこの施設へと入所した。
 しかし三年経つ今でも慣れないことは多い。
「おはようございます」
 すれ違いざまに人の声でそう掛けられ、青年は顔を引きつらせたまま「おはよう」と返事する。
 これだ。青年は、『これ』がとにかく嫌いであった。
 すれ違うマシーンは、アンドロイドと呼ぶらしい。
 彼らはみな、ぎこちない二足歩行、そしてツヤツヤつるんとした機械的なボディで、
にも関わらず言葉だけは人そのものの声と明瞭は発音で「おはようございます」と挨拶をしてくるのだ。
 これを気味が悪いと思わずにいられるわけがない。
 いっそ顔や体も人らしくあれば気味悪さも激減するのであろうが、
今のところそのような技術はこの国にはないようだ。
 とは言え、機械が人の姿に近づくのも遠い未来の話ではないだろうという確信が青年にはあった。
 近頃社会では、なにもかもを人工物で補おうとすることが流行のようだから、
きっと彼らが進化する日もそう遠くはないに違いない。
 例えば大学の同級生は、ありとあらゆる肉体の部品を人工物で補う実験を繰り返していた。
 今はまだ滑らかな人らしい動きには遠く及ばないが、近い未来にはそれらが実用化され、
体の一部を欠損した人々に明るい未来を齎すことだろう。
 無いものは人工物で補え。
 それは確かに便利で素晴らしい技術であるのかもしれないが、
青年はそれを手放しで歓迎する気持ちにはどうしてもなれなかった。
 時代遅れの石頭。そんな風に呼ばれたとしても、受け入れがたい気持ちが青年の眉間にシワを作らせる。
 この窓の下――、渡り廊下から一望できる、階下に広がる畑を眺め、青年は溜息を吐いた。

 人間の体が人工物で補える日が遠くないのだから、人工的な食べ物などもっと容易い。
 農業実験施設とは名ばかりのその巨大プラントの一画は、厳重な警備が為されていた。
 水耕栽培、擬似太陽光、通常の十倍の速度で成長をする不自然な植物たち。
 自然の流れに逆らったものからそうでないものまで、かなりの種類の食物を、
この国立農業開発実験所は雑多に栽培していた。
 今のところ、これらは間違いなく植物そのもので、遺伝的にも植物以外のなにものでもなかったが、
しかしいつ不自然な人工物に切り替わるか気が気ではない。
「そのうちパンが木になるんじゃないか」
 流石にそれはないだろが、今の政府ならどんなことでもやりかねない。
「ああ、ごめん、姉さん。行こうか」
 随分と長い間、立ち止まっていたようだ。
 物言わぬ姉が催促するように青年を見上げていた。
 ごめん、ともう一度言うと、再び車椅子を押して歩き出す。
 階下の植物が、人工風に煽られそよぐのを横目で見る。
 有事の際に、国民に等しく充分な食物を供給するための施設――、これがこの施設が建設された目的だ。
 随分と健全な名目を掲げられたものだ、と白けた気持ちになりながら、青年は目的地へと急いだ。

「姉さん、今日は元気がないね」
 そう問いかけるも、車椅子に座った女は再び振り返ることも、返事をすることもない。
 返事が帰ってくることは期待していなかったので、青年は返答のない会話を一人で続けていた。
 今日は天気がいいだとか、昨日の夜には流れ星が見えただとか、そんな他愛もない会話だ。
 つまらぬ一人きりの会話を十分ばかり続けていると、やっと青年の職場が見えてきた。
 大振りな、シルバーカラーの頑丈そうな扉が突き当たりに鎮座しており、
その先に隠されたのが青年の職場である。
「おはようございます」
 扉の真横に立つアンドロイドが滑らかにそう発音し敬礼をしてみせた。
 こいつにも返事をしたところでその言葉の意味など判りはしないだろうと思う。
 彼らが挨拶をするのはプログラムで、感情からの行動ではない。
 それでも挨拶には挨拶で返すのは人間の本能のようなもので、
男は違和感を飲み込みながら「おはよう」と返した。
「今日は肌寒いね」
「本日の最高気温は二十八度、平年並みですがお寒いようでしたら室温を上げますが」
「……いいよ、ありがとう」
 本当に、あとほんの少しでも人らしくあったのなら、これほどいい話相手はいないだろう。
 何の気なしに呟いた言葉にまで律儀に返事を寄越すのだからたまらない。
 異常で、不気味。だが数年後に進化した彼らはきっと、人々に愛される存在となるに違いない。
「失礼、どいてくれるかな。セキュリティを解除したい」
「お邪魔でしたね、すみません」
「いいや、大丈夫」
 青年は、アンドロイドの巨体が覆い隠すようにしていたスキャン端末に瞳を晒した。
網膜スキャンは自動的に行われ、数秒ののち、
スキャニング機能は彼をれっきとしたこの施設の研究員だと容易く認めた。
 と同時にプシュッと言う奇妙な音を立てて扉は開き、扉は二人を内側へと促した。
 ――このような扉を実に四回通過して、漸く男の職場にたどり着くのだ。
 セキュリティを異常に強化した扉は、外部と内部を断絶させる。
 男はなんとなく外界に名残惜しさを感じながら、扉の中に入っていった。

 随分厳重な警備であるが、それも仕方がない。男の実験は国が全面的にバックアップしているもので、
その資金は年間数千万円に及ぶ。厳重な管理がされるのも納得であろう。
 そして四回目の扉を、男は漸く突破した。
 だだっ広い部屋は、義務教育中に使った教室の四部屋分くらいにはなるだろう。
 扉から数メートル離れた部屋の片隅の、机が整然と並ぶスペースへと姉を連れて行く。
「姉さん、今日もここにいてくれ」
 車椅子の車輪にロックを掛け微笑んでやるが、当然のように彼女は返事をしない。
 厳重な管理を施されたこの施設に、姉はひどく不似合いな存在だろうと青年は思う。
 本来、この区域は彼女が立ち入っていいような場所ではない。
 と言うより、本当ならば姉をこんな場所へと立ち入らせたくはないと言うのが青年の本音だ。
「こんなところに……」。
 ――こんな、野蛮で薄汚い場所に。
 清潔で埃ひとつない空間で、青年は唇を引き結んだ。
 つれてきたくはない。こんな場所に。
 だが、姉には介護が必要なのだ。
 二十代の半ばでもあるにもかかわらず、重度のアルツハイマー病なのだから仕方がない。
担当医は便宜上超若年性のアルツハイマーと呼んでいるが、それが正式名称ではないことは確かだ。
 病気だから何なのだ、言われるかもしれないが、しかし青年以外が世話を焼こうにも、
姉は途端に凶暴に暴れだすのだから、彼自身が面倒を見るよりほかはないのである。
 青年がこの施設へとスカウトされた際に提示した条件のうちのひとつは、
高額な給料でもなく福利厚生の充実でもなく、姉を職場へと同伴させることの許可だった。
 それから彼女は幾度も検査を受けさせられ、情報漏えいが可能なほどの能力がないと判断され、今に至る。
「姉さん、ひざ掛けを掛けような」
 話しかけても、返事はやはりない。
 脳の萎縮がだいぶ進んでいることが明らかになったのは、前回の検査のことである。

 青年の親族は、女性が夭逝する。長くても三十代後半までと言ったところか。
一族外から嫁に来た母は健在であるが、青年と同じ血の流れを汲んでいる女性はみな早々にこの世を去る。
 呪われているとしか思えぬこの境遇は、ここ数代のものではなく、もう何十代も続くものであった。
 青年やその父の体に流れるのと同じ血を受け継いだ女性たちは、
みな超若年性のアルツハイマーに苦しめられるのである。
 近親婚を繰り返したわけでもない。ただ単純に、一族の血を持つ女児は成長したのち、必ず病に倒れるのだ。
 アセチルコリンが極端に低い体質、それだけが唯一判っている真実であった。
 理由は未だに判っていない。
 平和な世ならまだよかった。だが世界はこれ以上にないほどに混沌としている。
 一族のこの状況が非常によろしくないことは、誰の目にも明らかであろう。
 いつどこで第五次世界大戦が開戦されてもおかしくない空気なのだ。
 この大日本帝国は『不参戦』の姿勢を貫いているから、
たとえ開戦されたとしても巻き込まれることはないだろう。 
 だが万が一の有事の際は、患った女たちを保護することが難しくなる――、
そんな『万が一』の懸念を、一族の男たちはみな抱えているのだ。
 空襲に慌てふためきながら、女たちを抱えて走ることは殆ど不可能だ。
 軍人家系であったのなら、或いは国が何かしらの手立てを打ってくれたのかもしれぬが、
残念ながら一族の面子は凡庸そのもので、これと言って突出した役職に就くでもなく、
みな平々凡々とした雇われの身であった。
 とは言え、置き去りにすることはできぬ。
 なにが起きても姉だけは守らねばならぬと使命感に燃えたのは、青年の持って生まれた性分か、
それとも単なる義務感か。
 行動の根源となる感情がよりどちらに傾いているのかを、青年は考えたことなど無かった。
 無駄なことは考えぬ主義だ。でなければ、こんな事業に加担することなどできないだろう。
 青年は宛がわれた研究施設の大部分を埋め尽くす『それ』を、ついと見上げた。
「汚い箱だ」
 例えば青年も一族の男たち同様に凡庸であったのなら、こんなものは作らずに済んだのかもしれない。
 天井の高さは十メートルほどだろう。それに届くほどであるのだから、
『それ』が如何に巨大であるのかは説明するまでもない。
 立方体のその装置の上部からいくつもの金属製のパイプが伸び、
それは天井を貫き、そして研究所の外に繋がっていた。
 また、『それ』は一見すればただの箱のようである。六つある面のうち、五つの面は鉄板である。
 しかし一面だけはガラスで構成され、だがスモーク加工を施されているため、その中を覗くことはできなかった。
 大気中からある特定物質だけを抽出する特殊装置だ。
そしてそれは、潤沢な湿気と豊富な水資源を持つこの大日本帝国の持った環境でしか意味ない装置であった。

戦争に精を出しすぎたこの地球は、大気汚染が深刻だ。
 大気中の放射性物質の完全除去は難しく、どんな高性能なフィルタを用いても除去しきれず、
汚れた大気の為に平均寿命はどの国も四十までに下がっている。
 比較的汚染のマシなこの国も例外ではなく、なにもしなければ平均寿命は六十五歳ほどと聞く。
 近頃では肉体的な欠損も代替パーツで補うことができてきたため、金持ちはやはり九十ほどまで生きると聞くが、
それも庶民には縁のない話であろう。
 話が逸れたが、つまるところ、世界は人間の手によって混沌としてしまっているのだ。
 汚染された海水、度重なる干ばつ、森の消失、温暖かも手伝った湖やダムの枯渇。
 世界の話題はそんなものばかりだ。資源不足が戦争の原因と言っても過言ではない。
 そんな世界に嫌気が差した青年は、ある日講義中にふと思い立った構想を元に、
あるものの開発を思いついた。
 大学一年の後半で構想を練り、そして二年次に自分を売り込み、あれよあれよと言う間に
めでたくこの施設へと入所が決まったのだ。
 それがよかったのか悪かったのか、今となっては判らない。 


 青年がこの施設に入所する際に出した条件の二つ目は、この機械の設計図を誰にも見せぬことだった。
 部品は幼馴染の親が経営するアンドロイド制作会社に頼んで作らせた。
 無理にこじ開けようとすればそれは容易く大破し二度と同じ形に戻せぬよう青年が設計した。 
 加えて静音性を重視した機械は、姉を興奮させて暴れさせることもない。
 我ながら素晴らしい機械を作ったものであると思う。
 使用方法さえ人道的ならば、なおよかったのでなかったのであるが――。
 そこまで考え表情を曇らせかけた青年であったが、しかしそうするには至らず、
吐きかけた溜息さえ飲み込むこととなった。
 実験場の扉が突如として開かれたからだ。
 プシュッと言う開閉音に驚いたのは、物言わぬ姉ではなく寧ろ青年の方で、
一瞬の遅れをとって振り向けば、そこには五名のスーツ姿の男が立っていた。
 一人は知った顔で、この施設――、農業に携わる研究所としての、だ――の所長に据えられている男で、
他の四人は知り合いでもなければこの施設で働く人間でもなさそうであった。
「やあ」
 所長が青年に向かって手を上げた。
 ああ嫌な感じだ、と青年は考えた。所長の引き連れた男のうち二人には見覚えがあった。
 と言ってもやはり知り合いと言うわけではなく、
メディアへの露出が時折あることから見覚えがあると言うだけの話である。
 片方は農林水産大臣、もう片方は経済産業大臣だろう。
 この二人がやって来たと言うことは、
つまりこの機械が生産している『もの』を、実際に輸出にかけることになる、
と言うことなのだろうと青年は理解した。
 青年に求められているのは、この機械の製作、メンテナンス、そして『中身』の抽出――、
そしてその抽出物を国へと提供することであった。

「ほうこれが噂の」
 モミアゲの特徴的な農林水産大臣は機械を見上げ、取り敢えずは大仰にそう言った。
「こんなもので本当にできるのかね」
 そう漏らしたのはちょび髭の経済産業大臣だ。
 説明を求められていることは明白であったが、青年はあえて口を閉ざしていた。
ノコノコと就職しておいてなんではあるが、国が行おうとしている『商売』について、
青年は反対をしていたのだ。
 と言っても、一介の研究者に過ぎない彼に拒否権やら意見する力があるわけではない。
 ただ、それは非人道的である気がしてならなかったのだ。
 人道的でないことを厭うのなら、自分を売り込むべきではなかったと判っている。
「これが噂の水製造機かね」
 痺れを切らしたようにそう言ったモミアゲに、青年は致し方がなく頷いて見せた。
「はい。湿気が潤沢な大気から、水だけを取り出すように設計しました。
加えて、汚染物質を完全に取り除けるフィルタも同時に開発しました」
 わざと頭の悪そうな言葉を選んで答えたが、男たちは気にした様子もない。
 無駄に輝いていている二人の視線に、青年はうんざりとした。
 私利私欲の為にこれらを使わせるつもりは毛頭ない。
 だが国は使うのだろう。国と言う一個人ならぬ一団体は、金儲けの為にこの機械を利用するに違いなかった。
 ――世界は戦争をしている。
 この国にも一応軍隊はあるが、第一次世界大戦に参加したおりに敗戦し、その傷が癒える間もなく
『不参戦条約』を結ばされたため、国防目的と言う形でしかそれらは存在をしていない。
 様々な技術を開発しているこの国は、今も昔もありとあらゆる分野で、
勿論軍事面においても目覚しい開発力を誇っている。
 故に、その力をよからぬ輩が利用せぬように、
釘を刺されるようにして国際的に戦争への不参加を強制されたのである。
 よからぬ輩とは、『各国』にとって目障りなことこの上ない『各国』、
つまり互いに互いを邪魔者と見なしているためこの国がどこにも『味方』をせぬように牽制をしたのである。
 敗戦から暫くののち、この大日本帝国はどの国とも比較的良好な関係を築いている。
 それなりにわだかまりのある国もあったのは確かであったが、しかし外交においてはそれをおくびに出さず、
大人の対応を互いに続けている。
 親友だとか、仲がいいだとか、そう呼ぶには遠く及ばない距離感ではあるが、
付かず離れず、険悪な間柄である国は一国もない。

 兎も角として、大日本帝国はどの国も味方をせずにいるというわけだ。
 それが幸いしして、国内のみにおいては、
外界の燃え盛る炎が嘘のように穏やかな生活を国民は送っているのである。
 なんとも平和ボケしそうな大日本帝国民ではあるが、
可哀想なことに他国の民は睡眠もうかうかとれぬ状況だと聞く。
 あまりにも戦争が多い。
 世界は、腐り落ちる直前の果実のようだ。
 戦争、干ばつ、核汚染、海洋汚染、大気汚染、森林の大規模減少。
 そんな現実を鑑みれば、大日本帝国のなんと平和なことだろう。
 核汚染によって天然物の魚は食えなくなったが、
今や森の奥の実験施設で人工的に稚魚からマグロを育てることが可能な時代だ。
 もとより緑豊かなこの国は、植林に力を入れているし、
地上三階以上のビルの地下にはこの施設と同じように
緑を栽培する施設を設けることが原則として義務付けられている。
 つまるところ、この国は他の国に比べてかなり豊かで平和で、そして幸福度の高い国なのである。
 その平和を壊しかねないことを、国はしようとしているのだ。
「それで、一日何トン抽出できるのかね、水は」
「二トンです」
 青年はこともなげに言った。
「二トンが限度です」
 ちょび髭が呆気に取られた顔をした。
 本当は一日十トンはまず余裕であったが、あえてかなり少なめに申告をした。
「……それでは、君、」
 輸出するほどの量ではない。そう言いたいのだろう。
 おそらく商売にするには十トンでも少ないと感じるに違いない。
「ええ、でもそれくらいが限界でしょう」
 無駄なことは考えぬ主義だ。
それが人道的であろうが非人道的であろうが、本来は知ったことではなかった。
 だが、その非人道的な活動は、きっと姉の命に危険を及ぼす。
 青年は姉を守るために入所したのだ。
 ならばこの国を戦争に巻き込むことを良しとしてはいけない。

 大学時代、綺麗な水を国民に提供できたのならば、
そしてそれが自分にのみ可能にできる事業であったのなら、
平々凡々とした生活から抜け出し、きっとこのか弱い姉を一生の間、守っていけると考えていた。
 それがおかしな方向に転がり始めたと気づいたのは入所してからだ。
 いや、その可能性を全く考えもしなかったのは、青年が若く浅はかであったからであろう。
 自分が馬鹿であったのがいけない。
 この国は、世界で品薄状態である全てのものを錬金するがごとく売りさばいていた。
 何のためかと言えば、当然国内で供給の足りぬ資源を手に入れるためだ。
 石炭や石油、パームオイル、それにレアアースなど。
 今や贅沢品であるそれらを手に入れるために、そこれそ土や汚染の少ない食料、戦闘機までを輸出していた。
 そして今回は水だ。
 どんなに政府が研究に力を入れようとも、
なかなか飲料に適したレベルまで汚染度を下げることができなかったそれを、
若干二十歳の青年がいとも容易く作り上げたのだ。
 青年は、自分の知識が換金されているものだとは理解していた。
 ただ、換金に甘んじていたのは姉の為だ。
 決して戦争の火種を国内に作るためではない。
 世界は逼迫している。五年前よりも今、今より半年後にはもっと酷い状態になる。
 目に見えていた。
 そんな情勢下で、国は愚かにも火種を自ら作ろうというのだ。馬鹿げている。
 水は売ってはならない。
 そう、国内で『お偉方』が消費するのが精一杯の量にすることが望ましい。
 青年はそんなことを考えながら「それが限度です」ともう一度力強く言いながら微笑んで見せたのだった。

 *****

 浮上した意識に、タカシははっとした。
 奇妙な夢を見ていた気がする。タカシはタカシではなく、もっと若くて、そして姉が居て。
 いや、姉は居るがアルツハイマー病ではないし、嫁いでいる。
 記憶が混濁している――、それに自分の体が自分のものではないかのように重たかった。
 ――フィルタ、箱、戦争、姉。
 誰かの記憶が流入したような、妙な感覚だ。
 映画かなにかだろうか。いや、それにしては記憶が妙にリアルであった。
 タカシは子供の頃から空想家であった。
もしもA社を継がなくていい身分に生まれたならば、と想像をしたことが幾度あったか判らないが、
これほどまでに他人の人生に自分を重ねたことは無かった。
 断片的な夢により、未だ意識が混乱している。
「馬鹿か……」
 自分はタカシだ。見知らぬ男の夢に惑わされてどうするのだ。
 そんなことよりも――、頭が痛んだ。ジンジン、シクシク、と言うレベルではなく、ガンガンと痛んだ。
 煙を多量に吸い込んだ所為だろうか。
 そういえば、何故煙を吸い込んだのだろう――。
 そこまで考え、タカシは自分自身が恐ろしくなり、急な吐き気に襲われた。
 それは、ほんの少し前の出来事のはずだ。
 だというのに、あの強烈な記憶をタカシの脳は、暫くのあいだ忘れ去っていたのだ。
 迫り狂う煙と炎。まるで悪魔のようなあれらからショウタを救い出すべく、
まるでナルシストなヒーローのようにホテルへと飛び込んだのではなかったか。
 喉が痛むのも、目が妙に潤んでいるのもその火事が原因に他ならない。
 そしてその火事の現場でショウタは。
 そうだ、彼は下男と不可解な会話を続けていた。
あれも失敗だとか、なにもかもを『あの人』の好みに合わせただとか、ショウタは喚き散らしていた。
 そしてそれに対して全てを知っているような態度で返事をする下男がいたのだ。
 その姿は、昨日までの彼らとは全くことなる人間のように映った。
 いや、彼らが人間かどうかも怪しい。
 炎を反射して輝くメタルカラーの骨。
 あれは、本当に人間なのだろうか。
 彼らを人間だと思い込んでいただけなのではないだろうか。
 タカシはもしかしたら何も知らずに生きてきたのかもしれない。

「ぐ……ッ」
 こみ上げる吐き気は、しかし中身を出すほどの勢いは無かったようで、
喉に焼きつくような感覚だけを残して再び胃の腑へと逆戻りをしていった。
 なにもかもがおかしいと自覚をしていた。
 世界の全てがひっくり返されてしまったような、そんな感覚に陥る。体は未だに動かぬし、頭も痛む。
 ――それにこの部屋は一体なんだろうか。
 タカシはだだっ広い部屋の中心あたりに据えられた、木製の椅子に腰掛けていた。
 天井から降り注ぐ照明の光りはオレンジ色で、まるで舞台だ。
 しかし照明の光りは弱く、なんとも心もとない。
その上空気が湿っているのだから、この部屋の機能性は舞台とは程遠いだろう。
 だが、なんとなく舞台のようだと感じてしまうのだ。
 どうしてだろう、とタカシは嘆息しつつ考えた。
 まるで自分自身が、運命に翻弄される観劇の主人公のように思えたからかもしれない。
「馬鹿馬鹿しい……」
 今日の自分はいやにナルシズムに富んでいると思う。
 我ながら気持ちが悪いと自嘲した。
 なにもかもが驚くようなことばかりだ。
ただ判るのは、タカシの常識では追いつかないような出来事が今現在起きているらしいと言うことだけだ。
手に負えない出来事に、タカシは自分の陥った状況について考えることを半ば放棄しはじめる。
 だからこの部屋について『舞台のようだ』などと暢気に考えているわけで、
本来はもっと考えるべきことがあるはずだった。
 例えば急にこの国を襲ってきた無国籍軍についてだ。
 それなのに最も気になるのは自分にまつわるあれこれで、しかもそれすら手に負えないとおると、
タカシの思考はそこで停止してしまうのだ。
 体は動かない、下男と奴隷は妙な態度、そしてここは自宅であるはずなのに全く知らぬ部屋なのだ。
 世界など気にしている場合ではない。無国籍軍が攻め入った様にあれほど怒りを覚えたにも関わらず、
今のタカシはただ阿呆のようにして椅子に座り込んでいるよりほかはないのだ。

 瞳を巡らせて見えるのは、三脚の椅子と、その近くには医療器具のようなもの。
医療器具はまとめてワゴンに乗せられており、照明を反射して鈍く光っている。
 医療器具の用途は定かでないが、なんとなく、昔見たスプラッタムービーに登場した狂人が
主人公たちをいたぶる為に用いた拷問道具を髣髴とさせ、タカシの背筋はゾワリと冷えた。
 いや、そんなはずはない。
あの小さなショウタにタカシを拷問する術などあるはずがない、と気持ちを落ち着かせる。
 ここに拘束されてから――、正確には拘束などされてなく、
この部屋の、この椅子に座ることを命ぜられたのだが――、
おそらく数時間が経ち、しかしショウタや下男からアクションは今のところ何もない。
 自分の身になにが起こっているのかが全くわからなかった。相変わらず手足は動かない。
タカシはアホのように椅子に座り込んでいるだけで、部屋と外界を繋ぐ扉に近づくことはおろか、
立ち上がることさえもできなかった。
 そればかりか、奇妙な夢の残滓も相まって、記憶さえ曖昧なのだ。
実際にあった出来事と夢がせめぎあって、一体どれが本当であるのか判然としない。
 こんなこと、一度も無かったはずだ。そう、一度も。
 ――本当に?
「……う……ッ」
 誰か別の人間に問いかけられた気がして、またもや吐き気に襲われるが、
やはり食道からはなにも飛び出さなかった。
 不安で胸が満たされていく。
 馬鹿な妄想に取り付かれて不安になり、それでは駄目だと思考を停止させる。
 そして再び不安になって――、そんな非生産的なことを繰り返しているうちに、
重ったるい音と耳障りな甲高い音が立て続けに響き、そしてこの部屋唯一の扉が押し開かれた。
 そしてその奥から覗いた影は三つ。
 二つは大きくて、ひとつは小さかった。

「ああ、起きてたんだ」
 その声はショウタのものだった。
 LEDライトの明度が徐々に上げられていき、タカシはその眩しさに目を眇めた。
 その光りの所為でショウタの顔はよく見えずぼんやりとし、その気味悪さにタカシは口を引き結ぶ。
「さっき様子を見にいかせたら、寝ちゃってたってよーってアイツが言ってたんだけど」
 アイツとは下男のことだろうか。
 そんなことをぼんやり考えていると、ショウタは妙に消毒くさい匂いを漂わせながら近づいてきた。
 顔の実態が漸く見えてきた。
 半ズボンにYシャツと言う典型的なお坊ちゃまスタイルに身を包んだショウタは、
小生意気そうな笑みを浮かべてタカシを見ている。
細い腕の片方には包帯がぐるりと何十にも巻かれており、タカシは首を傾げた。
「それ……、どうした……」
 喉が熱を持っている。声は掠れていて、上手く発音できなかった。
 ショウタは一瞬怪訝な顔をし、そして――、イラついた顔をしたのちに「馬鹿!」と叫んだ。
 甲高い声に驚いたのはタカシだけではないようで、
ショウタが従えた二人の人物――、見慣れぬ男二人だ。片方は背が高くてひょろりとしており若い。
もう片方は眼鏡を掛けていて小さく初老だ――、も一瞬だけタカシを振り返った。
「馬鹿! 馬鹿! くそが! すぐに忘れちゃうんだから!!」
 突然ショウタは怒りをあらわにして、そしてひとしきり叫んだあと、
スリッパを履いた脚をタカシの腹をめがけて投げ出した。
 小さな脚はタカシの腹に見事に命中し、タカシは体を折り曲げて「ぐ」と声を漏らすが、しかし吐き気はない。
「ホテルで、ホテルで俺怪我したんじゃん! 見てたじゃん! なんですぐ忘れちゃうんだよ! なんで……!」
 ひどく興奮した様子のショウタに、タカシは混乱をした。
 若い男が呆れ顔で振り返り、そして嘆息すると「ぼん、少し落ち着いたらどうですか」と言った。
「うるさい! これはお前には関係ない話だよ!」
 はぁ、と若い男は溜息を吐くと、ワゴンの近くの椅子へと座れとショウタへと促した。
「おら、拗ねてないで椅子に座んなさいよ。腕、治すんですよね。ちゃっちゃとしてくれませんかね」
 男の「もうそれ以上はなにも言わない」と言う言葉に促されたショウタは、
不承不承と言った様子でその椅子に腰掛けた。

 タカシはその光景を、涙の滲んだ目でぼんやりと見ていた。
 二人の男は続いてワゴンの中身を確認したのち、手に何かを吹きつけていった。
匂いからして、消毒か何かだろう。
ツンとした匂いを漂わせたのち、男たちは指先までぴったりとフィットする手袋を身につけた。
 ――そうだ、ショウタはホテルで怪我をしたのだ。何故そんなことを忘れていたのだろう。
 気分が悪かった。
 なにか、タカシの知る世界に齟齬が生じているようだということは判るが、
その齟齬をひとつひとつ拾い上げようとすると途端に吐き気に襲われた。
「君、三種混合ワクチンをきちんと打っていれば、もっと早くに対処ができたのだよ」
「判ってる。でも注射嫌いだもん」
「そういう問題ではないのだよ。君が国の定めた注射を無理に回避したがために、
君の体を洗浄して破傷風菌を取り除くのに時間を要してしまった。
おかげで我々は二時間も時間を無駄にした」
「でも注射は嫌いだ」
「もう大きいのだから少しは我慢を覚えたまえ」
 そんな他愛もない会話をしながら、男はショウタの腕を包む包帯を解いていった。
 その瞬間、またもや意識が混濁しはじめた。
 ショウタは怪我をしている。それを今から治す。
その怪我はホテルでしたものだ。だが何故ショウタはホテルに居た?
 根本的な謎が頭に渦巻き始める。さっきまで把握していたことを次の瞬間には忘れている。
何故だろう。何故か判らない。一体なにが起こっている。
 混乱する頭で自分の現状を把握したくて口を開こうとするが、
若い方の男がさりげなく自らの唇に人差し指を当てた。
 しゃべるな、と言うことだろう。
 何故見ず知らずの人間にそのような指示を出されなければらぬのか、と苛立ちを覚えたが、
確かに『何か』に対して怒り狂っているショウタを目の前に、あれこれと面倒ごとを引き起こすのは憚られた。
 タカシは致し方がない、と口を閉ざした。
 仕方がないので三人を観察していると、どうやら初老の男は医者で、若い男は技師のようだった。
彼らはショウタの腕の、その負傷箇所を観察してはなにやら手を加えていた。

「君、一体何をどうしたらこんなに捻じ曲がるんだね。総指伸筋が断裂している」
「でもどうせ取り替えられるじゃん」
 子供らしい口調でショウタは言った。
「ぼん、あんたなぁ……、麻酔をかけんですよ。肉も切開くわけです。
そうすると、あんたの負担になることは間違いねぇんですよ」
 技師はぞんざいな口調で言いつつ、医者と息の合った連係プレーでショウタの腕からパーツを外していく。
 骨や筋肉、それから素人にはなにかよく判らないものたちが見え隠れする。
そして腕からすっかり外されたパーツたちは、シルバーのバットにカシャンと音を立てて放られた。
 続いて技師が透明なフィルムに包まれた新しいパーツを取り出す。
 当然のことながら、先ほど取り除かれたものと同じ形状だ。
 血まみれの手袋のまま、技師はそのパーツをショウタの腕に埋め込んで行く。
 カチ、だとか、パキ、と言う音を立てた暫くの後、技師はなにやら腕の中を弄くりまわしていたが、
そのうち一通りの作業を終えたのか、スッと指を引っ込めた。
 その後は手袋を外してしまう。彼の役目はもう終わったのだろう。
「あんたはしょっちゅう怪我をするから生体適合材料を使うしかねぇんですよ。
もっと自分の体を労わってくれりゃあ、あんたの遺伝情報を丸々コピーした生パーツを使えるってわけです。
いいですか、生体適合材料は大昔なら最新の技術だったかもしれねぇが、今は一般庶民しか使わない。
あんたら金持ちは拒絶反応の一切が起こらない生パーツを使えるんですよ。
ただしコピーには異様に時間がかかる。だから、」
「判ってる! もう、その話何度も聞いたよ!」
「それならば君、少しは自重しないかね。あまり下男さんを困らせるものではない」
 指先に縫い針のようなものを握った医師が、表情を少しも変えずにショウタを叱った。

「だいたいですね、あんたの年でセックスに耽るなんて爛れてんですよ」
 技師と医者の両方に罵られ、ショウタの顔は次第に不機嫌に歪められていく。
「いずれはすることになるんだからいいじゃん」
「君、そういう問題ではないのだよ。こら、動くんじゃない」
「なんで俺はしちゃいけないの!」
「あんたはしたいわけじゃねぇだろ。ガキが駄々こねているだけです」
「うるさいよ……」
「ほう、自覚はあるのかね、君。そもそも相手が……」
 医師の視線がタカシに向けられる。侮蔑を含んだそれに、胃がキリリと痛んだ。
 見ず知らずの人間に、あんな視線を寄越されるようなことをした覚えはなかった。
 いや、ショウタへの無体を非難しているのは判るが、
ショウタは奴隷で、その扱いをどうするも主人の自由のはずだ。
 なにせ、殺処分でさえ許可されているのだ。ただひとつ許されぬのは、放牧。
つまり家屋外での放し飼いや奴隷を捨てること。
 それ以外の全ては飼い主の権利として許されているのだ。なのに……。
 タカシは唯一自由になる表情筋を最大限に歪ませて不愉快を表現したが、医師は気にした様子もない。
「相手が『アレ』では不自然が過ぎる。君の行いを私は心底軽蔑する」
「先生に関係ないだろ!」
「動くんじゃないよ、君。とにかく、本来ならば生代替パーツを使うのが望ましいのだよ。
大人しくするつもりになったのなら、いくらでも私にそう言ってくれたまえ。準備は整っている。
……終わった。あとは忘れずに抗生剤を飲みなさい。一週間後にまたこちらに窺う」
「判ったよ。もう、口うるさい奴らばかりで嫌になる!」
 ショウタは一瞬だけ視線をタカシに投げ掛けるが、なんの言葉も掛けずに部屋を後にした。
 わざと踏み鳴らすようにして階段を上っていく音が、扉の空いた隙間から響いてきた。

「さて、君」
 医師に声を掛けられ、タカシはゆっくりと視線をそちらに向けた。
「調子はどうだね」
 なんの調子を窺っているのかがよく判らない。
 体、心、記憶。その全てがまともに機能してない今、それについての答えは「よくはない」の一言に尽きたが、
しかし総括して答えていいものかどうか悩んだ。
「どこの調子が悪いのか言えってさ」
 技師にそう言われ、なるほど、体調不良の全てを具に答えた方がいいらしい、と言う思いに至る。
「……たぶん、ホテルで体を打った。背中が痛む。喉も痛い」
「うん、そうだろうな。あんたもあちこち破損してるからね」
「記憶はどうだね」
 なんと答えたらいいものかと悩んでいた事柄をずばりと指摘され、タカシは息を呑んだ。
 彼らは全てを把握しているのだろう。ならば、とタカシは口を開く。
「よく判らない。なにか……、なにか、記憶がおかしい。自分のものではないはずの記憶が交じったり、
かと思えば、ついさっきの出来事を忘れてしまったりする」
「ふむ」
「可哀想に」技師の男が溜息混じりにそう言った。「あの坊ちゃんの所為で、あんたは滅茶苦茶だ」
「君、余計なことを言うものではない」
「だってそうだろ。体どころか頭までグチャグチャだ。どうしてくれんだよ、これ。
あの坊ちゃんに責任が取れんのか? 今までなら、」
「黙りなさい!」
 捲くし立てるように言葉を紡いでいた技師の口が、瞬間、貝のように閉ざされた。
 彼らは何かを隠し通すつもりだ。タカシは二人のやり取りを見つめてそう考えた。
 いや、もしかしたらこれは、お粗末な茶番なのかもしれない。
何かをタカシに伝えたくて、しかし伝えられずに、
致し方がなくこのような間抜けな茶番を繰り広げている可能性もあるだろう。
 疑いに満ちた視線で忙しなく二人を見たが、技師の視線は逸らされ、もうタカシを見ることはなかった。
 おそらく技師はなにかを口にすることはもうないだろう。しかし。
 しかし、医師は違ったようだ。
 二度三度と口を開閉させたのち、それから低く重ったるい声で「君、」とタカシへと問いかけた。
「はい」

「はい」
「君は、何者だ」
「え?」
「なに、確認だ。君は君について知っていることを私に話せばいい。
学生時代に自己紹介をする機会もあったことだろう。そんな風に、君を私に紹介してくれたまえ」
 普段のタカシならば、医師の言葉を鼻で笑い馬鹿馬鹿しいと詰ったことだろう。
 だが、今は状況が違う。
タカシは今、どこかがおかしいのだ。自分自身が自分自身ではないような、
いや、確実に自分自身が以前の自分とは異なる自信があるのだ。
 そんなはずはないと、もう一人の自分は頭の片隅は否定の声を上げていたが、
しかしタカシの理性はその異常事態を確信していた。
「……名前は、タカシ、です。誕生日は、十二月一日。血液型はAB。趣味は、スポーツ観戦。
大学は、K大の経済学部を出ました。今は、A社で働いています。彼女は居ません」
「家族構成を」医師は静かな口調で尋ねた。
「父、母、私です。姉は嫁ぎましたので、所帯は別です。同居はしておりませんが、祖父がおります」
「結構だ」
 脚を組みなおした医師は、真っ直ぐにタカシを見つめた。
「君はいつからこの屋敷に住んでいる?」
「二十歳の祝いに、と祖父から賜ったもので――、」
 あれ、とタカシは首を傾げた。
 何年この屋敷に自分は住んでいたのだろう、と。
「……ですから、」
 なにか言葉を紡がなければならない。そんな強迫観念に襲われた。
 おかしい、だとか、異常を来たしているだとか、そんなレベルではないような気がしてきたのだ。
「ですから、」
 語気が荒くなる。
 そんなはずはない。そんなことがあっていいはずは、ない。
「ですから……、」
 動かぬ体のままで、精一杯にかぶりを振ろうと試みる。だがそれさえも上手く行かない。
 タカシの体は、まるで動くことを放棄したようにして少しも自由にはならないのだ。
 おかしい、おかしい、おかしい。
 自分は一体どうなってしまったのだろう。
 恐怖で満たされ、血の気がサッと引いていく。頭が瞬時に冷え、腹の底から吐き気がせり上がる。

「自分の年齢ももう判らないかね」
 追い討ちを掛けるようにして、医者は静かに言った。
「そんな、はずは……」
「いいや、君は、君の事を忘れている」
「そんなはずはない!」
「では君の年齢はいくつだね。一体何年この屋敷に住まっているのだ」 
 淡々と冷静に質問を繰り返す医者の存在が恐ろしかった。
 だが、彼の声を遮ろうにも手が動かない。部屋を出ていこうにも、脚も動かないのだ。
 遮りようが、逃げようがない。
「お母上の名は? お父上の名は? 君は皇紀何年に生まれた?」
 タカシは愕然としていた。
自分自身に関するデータが、所々すっぽりと抜け落ちている事実を、今さらながらに認識したのだ。
いつから、忘れてしまったのだろう。一体いつから。
 それすら判然としない自分自身に底知れぬ恐怖を覚えた。 
 自分の中で、自分自身が曖昧模糊とした存在感のない生き物に成り果てている事実に
恐怖を覚えぬ者などいるのだろうか。
 一体いつから自分はこんな生き物になってしまったのだろう。
 一体、いつから。
「かわいそうに。君は『あの時』脳死状態となるべきだった」
「なに?」
 唇が戦慄いた。
 医師の目がジッとタカシを見ている。先ほどの侮蔑を含んだ目とは異なるそれに、寧ろ慈愛を含んだ眼差しに、
タカシはこの上ない恐怖を抱いた。
「君の脳は一度破損している。今の君は、人工的な脳を埋め込まれた、いわば二人目のタカシ君だ」

 心臓がどくんと高鳴るのを感じた。
 冷や汗が次から次へと噴出し、そして指先はどんどんと冷えていった。
 これを聞いてはならない。だと言うにも関わらず、しかし医師はその唇を動かし続けた。
 耳鳴りがする、眩暈を覚える、呼吸が浅くなる。
「君の脳は、海馬は、人工的なものだ。生パーツとメカニカルパーツを組み合わせたハイブリッド脳だ。
最先端の技術でもって、君は君のアイデンティティを保っている。
だがそれも全てが本当のものではない。君の記憶は――」
 医師が口を開き続ける。技師の制止も聞かずに。
 彼は無遠慮に、はっきりと言葉を紡いでいた。
「君の記憶は、人間性は、アイデンティティは、」
 視界が真っ白になっていく。
 彼が何を言っているのかよく判らなかった。
 人工海馬、それは海の向こうで最近開発されたばかりの代物のはずだ。
 なのに、何故。
 医者は自分を謀っているのだろうか。タカシは未だにそんな馬鹿げたことを考えていた。
 これほどまでに不調を来たしている自分自身に戸惑いを抱いてもなお、そんな風に考えていたのだ。
「君の全ては、以前の君をベースにしてはいるものの、
ショウタ君によって改竄されコントロールされた、いわばショウタ君の着せ替え人形だ」
 頭がスパークしそうだ。
 理解が追いつかない。いや、もう理解はしている。
 なにもかもの合点が行った。
 タカシはもうずっと前からタカシではなく、心も体も、
全てがショウタにコントロールされた傀儡であったのだ。
 だが、どうしてもタカシには判らなかった。
何故自分の体が、心が、思考の全てがショウタによってコントロールされるに至ったのか、
それだけが判らなかった。
 しかしきっとそれも。
「全部ショウタの手の内ってわけか……」
 技師がちらりとタカシを見た。
 哀れみを抱いた視線に怒りをぶつけたくなるが、
それすら自分自身の心から生み出されたものなのかどうか怪しいものだとタカシは考える。
 それを自覚すると途端に白けた気分になって、タカシの怒りは瞬時に冷めていった。
 もしかしたら、技師に怒りをぶちまけない自分ですら、
ショウタの手によるコントロールなのかもしれない。
 自分は一体なんなのだろう。
 タカシは消失したアイデンティティの片隅に、ショウタの嘲笑う影をみたような気がした。

今日はここまで。
保守してくれた人、感想をくれた人ありがとう。
あと待っててくれてありがとなー

コノシュンカンヲマッテイタンダー
今更だけどスレタイが騙して悪いが状態

注意:今回は男女間の肉体関係を髣髴とさせる文があります。

****

 幼児を抱えて一目を忍ぶのは容易いことではない。
 フードを目深に被った男が、空襲を避け、決して安全とは言えない不潔な地下道を通り抜け、
やっとの思いでこの街へと到達したのは、凡そ十分前のことだった。
 爆撃に遭うことも、襲われることも無く、なんとかこの街までたどり着けたことは
奇跡としか言いようがない。
 とは言え、自分が今現在置かれた状況を鑑みれば、
更なる注意を払って歩みを進めることが得策であるのは確かだ。
 決して目立ってはならない。
 三歳になったばかりの息子がむずかる都度「シッ」と小さな言葉でたしなめて、
有無を言わせず沈黙させる。そんなことを何度繰り返しただろう。
 決して誰にも見つかってはならない。何故なら男は今や立派な戦犯なのだから。
 ――男が水製造機などと言ういかがわしいものを作ったばかりに、この国を戦争へと導いてしまった。
 男の存在を、国民はそんな風に思っているに違いない。
 実際男の殺処分をけしかけるように、
いくつかの新聞では男の実名と顔写真を載せ『戦犯』と容赦なく書き責め立てた。
 水が悪用されぬよう、この国に戦争の火種を発生させぬよう、男は最大限の努力を続けたが、
平民である男の努力など高だか知れているし、国民の大半がそれを知るはずもない。
 尤も、男自身が火種となったのは確かだろう。何せ、国が傾く一因はあの製造機にある。
そして、愚かにも男は一瞬の間、製造機に対して金銭欲を抱いた。
ならばそれを作った男が責めて足られるのも道理かもしれぬ。
 判っている、こうなることは、判っていた。
 曇った空から漏れ出る僅かな日の光を、男は目を眇めて眺めた。
 姉が健康であったのなら、もしもそうであったのなら、この国はもう少し平和であっただろうか。
 今さらそんなことを思案したところでもう遅い。
 若かったあの頃、男は、きっと酷く浅はかだったのだ。

ん、トリップがおかしい?

IDの通り、>>231も自分です

 男が姉の治療費と引き換えに、国のお偉方相手に商売を始めたのは数年前のことだ。
安全な水を幾度も幾度も売りさばき、その利益を自身の生活と姉の治療費に当てた。
 それは役人が初めて施設へと訪れてから、およそひと月後には開始されていた。
この国は他国に比べれば、大気も水も汚染度が格段に低いものの、
正直に言ってしまえばどちらも健康を害するレベルであり、
こと水においては飲料には適しているとは言えないものであった。
 お偉方は疾うの昔から『やや安全』な飲料水を飲んでいたにも関わらず、
『更に安全な水』があると知るや否や我も我もと男の下へと詰め掛けた。
かくして男は、国の中枢を握る男たちへとそれらを売りさばくことを、合法的に許可されるに至ったのだ。
 利益の半分は所属していた研究所のもので、もう半分の半分は製造機の稼動に当てられ、残りは男のもの。
全体から見れば取り分は少ないように思えるが、男と姉の生活を保つには充分な資金が懐へと入ったのだ。
 最初は順調そのものであった。
 水の存在はお偉方の一部しか知らぬものであったし、
設計を知るのもメンテナンスを行えるのも男一人であったのだから、その身分はかなり優遇された。
だからこそ男自身の安全も保障されていたのだ。
 だが悪いことはできぬものだ。
 水の存在が口伝えで広がりを見せ、庶民にまでその存在が知られることとなるまでにそう時間は掛からなかった。
 まず水を巡って暴動が起きた。国は当然ながら、その暴動を終息させようと動いたわけだが、
しかし事態は収まらず、ついには男を捕らえ、拷問を加え、抽出量を増やすよう設計に変更を加えさせたのだ。
 男は当初、頑なに抽出量を増やそうとしなかったため、拷問は長引いた。
ついに根を上げ了承することとなるのだが、そもそもの間違いはこの了承にあったのかもしれないと
男は後々後悔することとなる。

 クオリティの低い水、つまり多少の汚染物が含まれるものでも良しとするならば、
一日の水の製造は五百トンにまで増やすことができる。
それでも今国民が日常的に口にしている飲み水よりも、汚染度がかなり低い値なのだ。
 抽出量の変更について報道が為されたころより、暴動は治まりを見せ始めた。
それを見計らうようにして、国は男に、全国に三百機もの製造機を作らせることを約束させた。
即ち、一日一リットルが一人頭の摂取量と計算して、
一億五千万人分の飲料水が一日あたり製造される計算だ。
大日本帝国の現在の人口は一億二千万人であるから、約三千万人分の『遊び』が生まれる計算である。
 遊び部分がどうなるかなど、言うまでもない。
国は、それらを当然のように、外国のありとあらゆる軍へと高値で売ったのだった。
 それからは戦争へとまっしぐらである。いや、正確に言うならば、各国はこの国に対してなにもしなかった。
 そんな世界に対して怒りを抱く者たちがこの国を襲ったのだ。それがのちの無国籍軍である。
 男は選択を誤ったのだろう。『安全な水』の製造は、秘匿しておくべきものだったのだ。
 やがて戦争が始まると、国民の怒りの矛先は水を生み出した男へと向かった。
男の生み出した水を口にして喉を潤すくせに、彼らは容赦なく男を責めたてた。
 勝手なものだ。与えられるものは握って離さないくせに、
それとこれとは別問題だと開き直って男を犯罪者扱いするのだ。
 勝手なものだ。実に勝手なものだ。
 道を歩けば石を投げられ、時として殴られる。それが男の日常となった。
 男は、戦争に借り出されてはいないものの、今や正真正銘の戦犯となったのだった。

 男はわが子を腕に抱き、周囲をそわそわと見回した。
 そして本当にここでいいのだろうかと、その朽ちかけのあばら家を困惑の面持ちで眺め続ける。
 家屋をぐるりと囲うのは、家屋よりも背丈の高い鉄格子だ。格子だけがやけに立派で、
その内側に置かれた家とは不釣合いと言っていいほどだった。
 ここに旧知の仲である女が住んでいるのかどうか、とても怪しい。
もしかしたら男を憎む誰かの罠かもしれない、という疑いが頭も擡げたが、
今さら引き返すこともできない。
 しかし、と考える。
 周りに家なんてないからすぐに判ると旧友である女は言ったが、
如何せんこの家は『ボロ』が過ぎるのだ。
 こんなところにあの一流の科学者――、
今や人体交換パーツの権威と呼ばれるあの女――、が住まっているとは、到底思えなかった。
ましてや先日電話越しでした会話によると、彼女自宅は実験室もかねているというのだから、
ここが彼女の住まいであるとはにわかに信じがたかったのだ。場所を間違えただろうか。
「お父さん……?」
 舌足らずな声で子供が声を掛ける。小さな手が男の衣類をぎゅっと掴み、離すまいとしている。
「大丈夫」
 安心させるように言うが、しかしこの短い言葉が、彼を安堵させるに至らなかったのは明白だろう。
幼い子供は、男の肩口に顔を埋め、外敵から自分を守るかのようにさらに体を丸めて見せた。
 それにしても酷いボロ屋だ。
 今時珍しい、壁までを木材で作られた平屋の日本家屋は、所々の窓にはヒビが入っており、
科学者が住んでいるとはとても思えぬ風体であった。
 犯罪者やストリートチルドレンの闊歩するここは、所謂スラム街と呼ばれる場所で、
周囲には建物と呼べるかどうかさえ怪しい建築物、ゴミ、そして転がって干からびた人の死体以外は何もない。
廃れた街の廃れた風景は、物騒や厄介ごとを常に抱えている。
真っ当な人間ならば、こんな場所に幼児を連れてノコノコやって来たりはしないだろう。
 男は尻のポケットを撫で、その固い感触に身震いをする。
 遠き日の遺産とも言うべき、リボルバー式の拳銃。護身用に入手したものであったが、
幸運にも使う機会には恵まれず目的地へと到達することができた。これからも使わずに済めばいいのだが。
 そんなことを考えながら、男は恐る恐るインターホンを押した。

『はい』
 ボタンをプッシュしてから十秒も待たずに、スピーカーから女の声が聞こえてきた。
 それは確かに知った声であり、男はその事実にひどく安堵した。
「俺だ。今ついた」
『ああ、アンタね。待ってたわ。今扉を開ける。侵入しようとしてくる輩がいたら、
"それ"で撃ち殺すのよ。いいわね?』
 物騒なことを平然と言ってのける女に顔を顰めつつも、
しかし男は警戒を解かずに周りをキョロキョロと見回したのち、
鉄格子に設けられた鉄扉が開くと、素早くその体を庭先へと滑り込ませ、
オートロックのその扉を勢いよく閉めた。
 鉄扉から玄関までは差して距離はない。メートルにして十と言うところか。
 男は乾いた薄黄色砂を踏みしめて玄関へと歩を進めた。
 辿り付いた――、男がそう思った瞬間に横開きの扉が開き、
スッとした鼻梁の、目鼻立ちのハッキリした女が顔を覗かせてきた。
 文句なしの美人だ。だがもう十数年前にはいやと言うほど観察した顔に、今さら然したる感嘆はない。
単に、久しぶりだと思っただけだ。大学時代の友人など、そんなものだろう。
 Webカメラで顔を見ることは頻繁にあったが、実際に対面するのは実に数年ぶりだ。
女は口に加えた煙草を指先で摘むと「待ってたわ」と言ったのちに、それを庭先に放って捨てた。
「入って」
「ああ」
 女に言われて男は家屋に足を踏み入れると、男はまず最初に違和感を覚えた。
土間が土間ではなく、大判の大理石が敷き詰められていたからだ。
 それから何の気なしに数メートル先の天井を見上げ、男は思わず口をあんぐりと開けることとなる。
 点在するカメラは自動発砲機つきのものだった。
「これで顔を登録して頂戴」
 女は掌に収まるサイズのタブレット型端末を男に差し出した。どうやら情報取得端末の類ではなく、
情報登録の為の端末のようだ。
 つまり、男と子供の顔を、その端末に登録しろと言うことだ。
「カメラを起動させて顔を映すだけ。
そうしたら、アンタと息子の顔はうちのセキュリティに登録されるわ」
 ――大丈夫、今はセキュリティを切ってあるの。
 女はそう言いながら端末を差し出した。

 確かにカメラは止まったまま動く気配はない。
この手のカメラは通常、始終左右を、或いは上下を観察して忙しなく動いているものだ。
 男は言われた通りにスリープ状態の端末を起こし、自身の顔を画面に映し出す。
画面に『登録完了』の赤い文字が表示されたのを確認すると、
事態を飲み込めていない息子の顔も撮影する。
同じく画面に四文字の感じが浮かび上がったのを男が確認するよりも早く、
女は端末を男の手から取り上げ、
そして「セキュリティ起動」と凛とした声で、はっきりと発音をしたのだった。
 ブン、と言う僅かな起動音が聞こえたその瞬間に、数台のカメラは男と息子、
そして家主たる女の顔までをも凝視するかのように観察を開始する。
その間およそ数秒だ。登録情報と顔を照らし合わせた結果、
三人が『外敵』ではないと判断したのだろう、カメラたちは忙しなく、
セキュリティカメラ然とした態度で動き始めたのだった。
「外観と中身はだいぶ違うんだな」
「ああ、内側はセキュリティを強化してあるのよ。物騒でしょ、このあたり」
 確かに女一人で住むには些か厳しい環境であろう。
 しかし男が訝しんでいるのはそのことではない。
外観はあばら家のまま、だがその周囲をぐると『判りやすく』鉄格子で覆い、
そしてセキュリティをわざわざ強化していることに引っかかりを覚えるのだ。
 「なんで……、」
 問いかけようとしたところで、男は口をつぐんだ。
 いいたくないような事情があるのかもしれない。
 この旧友は貴族なのだ。そして、所謂妾腹の子でもある。
 もしかしたら、家の事情――、それも実にくだらない身内同士の諍いによって、
こんな場所に閉じ込められているのかもしれない。そんなことを考えたのだ。
 その手の問題は、なにも珍しい話ではない。
「なぁに?」
 いや、と男は考える。
 そもそも『その手の問題』と言うもの自体が男の憶測であるかもしれないし、
この天才科学者――、と言えば聞こえがいいが、
実のところこの女は『変人』と呼ばれる類の人間であったし、
好き好んでこんな場所に住んでいるだけかもしれない。
 様々な面倒な話を避けるべく、男は「なんでもない」と短く返事をしたのだった。

「ろぼっと」
「え?」
 不意に息子が言葉を紡いだ。
 男が頭を駆け巡る些細な疑問に気をとられている間、
息子は物珍しそうにあちこちを観察していたようで、
目の前に見えたその珍しいものに対してそう短く発音し指差して見せた。
 丸い指が指し示すその先では、廊下に点在する照明が明滅を繰り返していた。
 どうやらセンサーが内蔵された照明のようで、『それ』が通り過ぎる都度、
光りが点いたり消えたりを繰り返しているようだ。
「ああ、アンドロイドって言うんだよ」
 人の形を模した、しかし足の代わりに車輪が取りつけられた、
その奇妙な機体の正しい名称を男は教えてやった。
 廊下のはるか遠くに見える突き当りから、数台のアンドロイドが行き来を繰り返している。
 きっとこのアンドロイドは愛玩用ではなく警備用だ。
例えば、男が今ここで銃を抜いたとしたら、
彼らは主人である女を守るべく警告を始めることであろう。
「さ、あがって」
「ああ」
 お邪魔します、と一言告げて土間から一段上のリノリウムに上がるべく靴を脱ごうとすると、
女は「ああ、土足でいいわ」と制してきた。
「土足でいいのか」
「スリッパじゃ、いざって時に逃げられないでしょ」
「ああ……」
 それだけこの地域は危険だということだろう。

 子供の順応は早い。
父から許可が出た今、なにも臆することはないと言わんばかりに廊下を闊歩している。
「……可愛いわね。結婚したなんて、最近知ったわ」
「……まあね」
 男は言葉を濁して微笑んで見せた。
「そういえばお姉さんはどうしてらっしゃるの?」
 姉が死んだのは、一年前のことだ。
 三年前まではそれなりに呼吸も健全に保たれていたが、症状が急速に悪化したのが二年前。
 男が憲兵に任意同行を命ぜられている間に亡くなったようだった。
 男は戦慄く唇を開き、「亡くなった」と答えるのが精一杯だった。
 もしも男がそばに居たのなら、彼女はまだ生きていたかもしれない。
 いや、だが――。
 それは、有り得ないのかもしれない。
 男は、鬼の形相を取った姉の死に顔を思い浮かべた。
醜く歪んだ顔から、その死が決して穏やかでなかったことは安易に知れる。
 そこまで他人に話す必要はないだろう。男はもう一度「亡くなったんだ」と短く告げた。
「気の毒に。私知らなかったから、お葬式にも行けなかったわ」
 眉を顰めた女に、男は首を振る。
「葬式はやってないから」
「……そう」
 女はそれ以上は言わず、こっちよ、と家を案内した。
深く追求してこない気遣いが嬉しかった。
「ここまで来るの大変だったでしょ」
「地下道を通ってきた」
 廊下をキュッキュと言う音を立てて進んでいく。
 その道中、いくつかメタルカラーの扉があったが、どれも入り口に網膜スキャンが設けられ、
簡単には立ち入ることができぬように処置されていた。
セキュリティレベルがどの程度なのかは判らないが、
一般の家屋にしては厳重な方だろう。
「急に連絡を寄越したから、驚いたよ」
「アンタのことが心配だったのよ。優秀な科学者が――、戦犯扱いなんて納得できないもの」
「……まさか俺もこんなことになるとは思わなかったよ」 
 男は白髪の随分増えてしまった頭をかき回しながら溜息を吐いた。

「酷い顔」
 女は小さく呟き、男の顔へと手を伸ばした。冷たい指先が頬に触れ、男は顔を顰める。
「ごめんなさい、痛かった?」
「少し」
 男の顔には、無数の傷があった。拷問された跡だ。
それに幾度かの殴打のおかげで、顔も相当に歪んでいる。
 やはり目立つのだろうな、と男はなにも答えずに苦笑した。
痛むのは、近頃道端で暴漢に襲われたものだが、敢えて口にしなかった。
 拷問の際に作られた怪我は、もう殆ど癒えている。
 だが、歪んでしまった骨までは自然に治ることはなかったのだ。
適性な処置をしたのなら、或いは元に戻ったかも知れぬが、男はその一切を拒否したのだった。
 何せ金がない。
そんなものに金を使うのなら、息子に少しでもいいものを食べさせてやりたかったのだ。
 と、女が立ち止まり、ふいにもう一度「ごめんなさい」と言った。
「なにが」
「恥ずかしいわ。同じ貴族として」
「君の所為ではない」
「でも、アンタにこんなことをしたのは、間違いなく私と同じ貴族よ。
憲兵には貴族しかなれないもの。この戦時下、彼らは戦地にも赴かずにいるのよ。
情けない話だわ……、本当にごめんなさい」
「やめてくれ」
男は掌を女へと向け、もう一度「もうよしてくれ」と制止の言葉を紡いだ。
「君が俺に何かをしたわけではない」

 男は全てを奪われた。酷い暴力も振られたし、財産まで巻き上げられた。
 確かに男は世界の全てが憎かった。特に憎いのは国の中枢を握る貴族たちだ。
男もとんでもないものを作ってしまったかもしれないが、
最初から、この技術を悪用せんとしていたお偉方も同罪ではないのだろうか。
自分たちが美味しい思いをしたのち、分が悪くなれば今度は大量に生産させ、
それが落ち着きを見せれば、頃合を見計らって国外に水を売りさばき、
その見返りとして様々な物品を手に入れている。
 一体どちらが悪であろうか。姉の為と甘んじていた男だけが悪いのだろうか。
 そう幾度も考えたが、責めるべきは今目の前に居る女でないのは確かだ。
 貴族と言うくくりで全てを捉えて憎むほど、男は愚かしくはない。
「……君の所為では、ないよ」
 それに、と付け加える。
「実験に付き合えば、俺たちを匿ってくれると君は言った。
どこに行っても石を投げられるから、その申し出はありがたい」
 だから気にしないでくれと告げれば、女はやっと曇っていた表情を明るく微笑ませてくれた。
 少し前の男ならば、突っぱねた申し出かもしれない。
だが、男には協力してくれる人間はもう僅かにしか残されていない。
 特に息子のこととなれば、戦犯の子どもなど誰も引き取ってはくれまい。
男は自分に万が一のことがあった場合を考え、女をよすがにここまでやってきたのだ。

「いいのよ。アンタが実験に協力してくれるのなら、例えアンタになにかあっても
絶対にこの子だけは守ってあげる」
「……ありがとう」
 もう自分の命などどうでもよかった。ただひとつ、息子の命さえ安全ならば。
 男が死守したいものなど、もう彼の命しかない。あとひとつあるとすればそれは。
「結局設計図は教えなかったの?」
 そう、設計図くらいだろう。
「ああ。教えていない。全部俺の頭の中だ」
「そう。それが賢明だわ」
 製造機の設計図だけは、男は絶対に口を割らなかった。
 同じ能力を有する機体であっても、それらはパズルのピースのように、
形も、組み立て順も異なっている。三百機すべてが、中身の設計はバラバラなのだ。
「よく死守できたわね」
「死ぬと脅した」
 リノリウムの床を踏みしめ、
物珍しげにそこら中をキョロキョロと見回しつつ先を行く息子に視線を落とし、
そして声を潜めてそう小さく呟く。
 どれほどの効果があるか判らぬ子供っぽい脅しであったそれは、思いの外効果覿面で、
男はなんとか自身の命と息子の命、そして製造機の設計を死守することに成功したのだ。
「俺がいなくてはあれは組み立てることも分解することもできない。
爆弾と同じだ。どこかひとつでも分解の順番を間違えれば即座に壊れる」
 男が生き残ったのは、皮肉にも製造機の存在があったからなのだ。
 この機械を失うことを、国は良しとしなかった。
「しくみは?」
「サージ電流」
 なるほどね、と女は頷いた。
「手順を誤ると電流が逆流するのね」
「そして燃え尽きる」
 片頬を上げるようにして男は笑った。

 汚染物質をろ過するフィルタとて、一般に想像されるただの漉し器ではない。
電流を流すことによって初めて有害物質をブロックすることが適う精密機器なのだ。
 国は男の作ったもの全てをどうにかしてモノにしたいと考えているようであるが、
果たしてそれが可能な人間はいるのだろうか。
 よしんば分解ができたとしても、
その先に待つのは英数字を組み合わせた四十桁にも及ぶパスワード入力画面だ。
 ブラックボックスたるフィルタの仕組みは、最後の最後まで足掻いて死守してみせるつもりだ。
 尤も、そこまでたどり着ける人間がいるとは到底思えぬが、
念には念を入れて男は製造機を設計したのだった。
 機械を作るにあたりパーツの鋳造に尽力してくれた幼馴染――、
アンドロイドを作っている会社の娘だ。実際にパーツを作ったのは、
彼女の家で働くアンドロイドだが――、とて、
それぞれ三百機分をランダムに発注されたそれらからは、
どこをどうすれば機体が出来上がるのかは判りはしないだろう。
 組み立てを行ったのも同じく彼女の家から貸し出されたアンドロイドであったが、
彼らは作業用機器であり、記憶媒体を持たぬアンドロイドで、
組み立て専属の、どちらかと言うとロボットに近い単純な造りのモノであるから、
機密漏えいの心配もない。

 男が巨大な製造機の製造に当たってわざわざ幼馴染に会社を指定したのには理由があった。
 あの会社が安全であるからだ。
 日本中から男がバッシングを受ける中、幼馴染の一族は、
陰ながら男の味方に回ってくれた唯一の存在なのだ。
 と言っても、望んで協力を申し出たわけではない。
 アンドロイド製造業を営む翁は孫娘に酷く甘く、そんな彼女のお願いと言う名の脅迫めいた要求を、
翁は渋々受け入れたのだった。
『お爺様に貴方への全面協力と保護の約束を取り付けたわ』
 笑顔でそう言った彼女は、だから心配しないで、と添えて
百体以上のアンドロイドを無償で男に貸し出してくれたのだ。
 彼女に男を出し抜こうだとか、そういう意志は絶対にない。
男が子をもうけた今でも、男に対して恋心を抱いているのは知っていた。
卑怯といわれようが、その移ろい易く不安定な気持ちにすがるよりほかに
男には道は残されていなかったのだ。
 ――と言った具合に、そういう意味で会社を安全と見なしていたわけだが、
幼馴染の会社が比較的安全だと確信を持てる理由はあとひとつあるのだ。
 それは、彼女の家が名門貴族として名を馳せる家であることに由来する。
 貴族には『美徳』と言うか、下らぬプライドがあるらしく、
貴族同士を潰しあうことをよししない『習性』があったのだ。
 男は貴族、それも名門貴族の手によって保護されている。
幼馴染の祖父は実業家であるが、しかしその親族には政治家やら官僚もちらほらといるのである。
 貴族同士は潰しあえぬ。 
 そうとなれば、男を保護しているという理由で幼馴染の家が奇襲を掛けられることもないだろうし、
虐待したいがために男を引きずり出そうとするサディスティックな輩に手出しをされることもない。
 アンドロイドは苦手だし、貴族も苦手であるが、強かにも男はそれらを利用し、
そして誰も死なないであろう方法を取ったのだった。
「これ以上誰も……」
 死なせたくはなかった。
 そのためには、貴族の協力を得ることが、男に唯一残された道だったのだ。

 案内された一室は、他の部屋とは異なりセキュリティが施されていなかった。
ソファやテレビが置かれ、そして区切り無く続く部屋にキッチンが見える。
女は二人をソファに座るよう促すと、自身はキッチンへと消えて行った。
「ところで、実験とはどんな実験だ?」
 キッチンカウンターの向こうでなにやら作業をする女の背に向かって、男は声を掛けた。
 匿ってもらう条件は『実験に付き合うこと』、ならばそれに協力せねばなるまい。
 彼女の研究内容を鑑みれば不安が無いわけではなかったが、
男は自ら切り出し『約束通り協力はする』と言う姿勢を示した。
 尤も、それがどんなに過酷な実験であったとしても、拷問ほどの厳しさはないだろう。
男はどんな実験にでも付き合うつもりでいた。
 ところが女は口を開かない。
相変わらずカウンターの中でなにやら作業を繰り返しているようだが、返答はなかった。
「おい?」
 不審に思い問いかけると、女は観念したような顔で振り返り、そしてこう告げたのだ。
「頭を開かせて欲しいの」
 今度は男が黙る番だった。
 男も、女がなんの研究をしているのか知っていた。
「開頭か……」
 男は辛うじてそう口を開いたが、紡ぐ言葉はもうない。
 覚悟をしていたとは言え、はっきりとそう告げられると即座に了承することはできなかった。
 そうだよな、と男は考える。それしか有り得ないだろう、と。

 女が患者の遺伝情報を丸々コピーした生体パーツを作り出す実験をしていることは知っていた。
 例えばある患者が事故で親指を失ったとする。
 女は失った親指の組織が『生きているうちに』その遺伝情報のすべてをコピーするのだ。
勿論、その指が『形を保っている』のならそのまま接合させるが、指が瀕死の重傷であった場合――、
例えば『グチャグチャで再建不可能』な場合、細胞から親指となる遺伝子を特定し、再現するのだ。
 培養には時間がかかる。そこで、女は3Dプリンタでそれらの遺伝情報を元に指を再現――、
再建というべきだろうか――、する技術を開発したのだ。 
 材料は人の細胞を構成するものたち。カリウムだとか、リンやナトリウム、etc.そういうものを使っ
コピーした情報を再建していく。
 ここまでは、既に女が数年前に完成させた医療技術である。
 だが、彼女はその先を見ていた。
 脳の『記憶』の復元と再建。それを追い求めていたのだ。
 細胞記憶と言うものがSFの世界で扱われるようになって久しいが、
彼女はそれを長らくの間、追い求め続けいていた。
 馬鹿げた疑似科学と笑う医者も多い中、
彼女は現実的な手法を用いてそれらを抽出することを目指していたのだった。
 ――と言うのが女からたびたび聞かせられた話で、
門外漢である男はどんな実験に自身が協力することとなるのかまでは知らない。
「できたのか? 記憶の再建」
「ある程度はね。新しいマイクロチップができたの」
「そうか」
「直接脳に埋め込めるレベルのものがやっとできたのよ」
 つまり、最初に記憶を抽出するということだろう。
 そのチップを埋め込む実験に、男は協力することになるに違いないと男は理解した。
 頭を開くことに抵抗が無いわけではない。寧ろ多大な抵抗がある。
 だが、息子の安全を保障してくれるというのなら――。
 男は自身が実験台になることも致し方がないと感じる程度には切羽詰っていた。
自身の親類からも放り出され協力者も数少ない今、男の身に万が一のことがあった場合、
幼い息子を守ってくれる後ろ盾はなにもない。

「だが、チップだけでは君の目指す『再建』には繋がらないだろ」 
 彼女の専門はあくまで『再建』だ。記憶の抽出だけでは物足りないはずである。
 脳の物理的な再構築はとても難しく、
例えば脳を破壊された患者の脳を3Dプリンタで再現するには、多大な技術力が要される。
生きているニューロンネットワークを構築することが難しいのだ。
それに、それを再現できたとして、実験するのは不可能だ。人道的に許されないだろう。
「うん、だからね、私、決めたの」
 女は湯気立つカップを持ってソファへと近づいてきた。
 目の前に置かれたのは、コーヒーとホットミルクのようだ。男は促されるまま、息子にミルクを、
自身は火傷しそうに熱いその濃いコーヒーを啜った。
「なにを?」
 カップから唇を話、そう問うと、女は口を大きく開けて笑った。
 真っ白い歯が見える。何故かそれが不気味に感じられ、男は気取られぬ範囲で眉を顰めた。
「アンタの脳をスライスさせてもらうことに決めたの」

 あまりにもさらりと女が告げるものだから、男はその言葉の内容を危うく聞き落とすところだった。
「は……?」
 男が漸く告げたのは、その一言だけである。とんでもない言葉を紡がれたようだが、
左から右へと耳が音を素通りさせていたように感じられる。
「脳みそと神経系を凍結するの。
そのあと、最新のレーザーで物凄く小さく小さくスライスするのよ。んで、
これも最近できた高解像度装置なのだけど、それでスキャンする。
スキャンしたら結果を起こして復元し3D化させる。
神経細胞は増えないから、やっぱり培養じゃなくて『材料』をつかって再現するしかないのね。
それが人工の脳になるんだけど、記憶って結局電気信号だから、ある程度は記憶を媒体に保存できる。
あとはニューラルネットワークさえ完全再現できれば同じ思考回路の脳みそができるってわけ」
「ちょっと待て!」
 男は思わず叫んだ。
 脳をスライスする。女はそう言ったのだ。
「……ちょっと、待ってくれ」
 女はうん、と頷き男を見ている。二人のやり取りを息子が不安げに見つめていた。
 脳をスライスするということは、つまり男の脳が失われるということだ。
 男は額に手をあて俯いた。どんなことでも協力するとは言ったが、精々実験の手助けとして、
脳を開き、マイクロチップを埋め込む、或いは脳の一部を切り取って遺伝情報をスキャンする――、
その程度の協力だと考えていたのだ。

「俺の脳はどうなる……?」
「オリジナルは消失するわね。切り刻むわけだから」
「完全に再現できるのか……?」
「させて見せるわ。すでに動物実験では成功している」
「人間では……?」
 その第一号に抜擢されるのが、自分なのだろうと男は考えた。
 これが震えずに居られるわけがない。突然声を荒げた父親に、
息子は不安げに視線を投げ掛けている。
 一瞬、ほんの一瞬だけ、男は息子の身の安否を後回しにしようとした。
 それを瞬間的に自覚して、顔がサッと赤く染まる。
おそらく二人はそのことに気づかなかっただろうが、
男は息子の安全と自身の体を天秤に掛けるような真似をしたことを恥じ、そして恐怖した。
「実験は成功しているのよ。最初はね、まず猿に学習をしてもらった。
自分を可愛がり遊んでれる飼育員Aと、日常的な接触が少ないながら、猿に暴力を振るう飼育員Bがいる。
やがて猿はAには懐き甘えるけれど、ふた月に一度訪れるBには威嚇をし警戒を示すようになった。
その状態で猿の脳を開き、凍結、スライス。そして再現された脳はつつがなく猿の中に戻されたのだけど、
『彼』は確かにAとBを認識したのよ」
 一息に女は喋り、そして「だから安全なのよ」と言わんばかりに微笑んで見せたのだ。
不気味な微笑だった。猿で成功したからなんだというのだろう。
その程度の結果が出たからと言って人間で実験を始めるなど馬鹿げているとしか思えなかった。
「なんで、俺なんだ……? と言うか、猿以外での実験は?」
 掌に滲む汗をパンツで拭いながら、男は乾いた声で尋ねた。
 動物実験と人間での実験では結果が異なることは珍しいことではない。ましてや彼女の実験は『猿』だ。
人間と意思の疎通を図ることができぬ『猿』が、
感情や記憶を以前と変わらずに保有しているという確かな保障はない。
「無茶を言う……考えさせてくれ」 

「アンタに『先』はあるの?」
 女は間髪入れずに残酷にも尋ねた。
「アンタはどこに行っても『戦犯』よ。例えばアンタになにかあったらこの子はどうなるの?
幼馴染のお家だって、戦犯の子供を引き取ってくれたりしないわ。
この子自身には落ち度はないのに、いきなりわけもなく襲われたりするようになるでしょうね。
アンタが道で襲われるのと同じよ」
「なにが言いたい……」
 男は息子を抱き上げソファから立ち上がる。
 女の思考が、僅かに透けて見える。
 もしかしたら、男はとんでもない場所へとやってきてしまったのかもしれない。
「判るでしょ? 私なら大事に育ててあげるって言ってるの」
「いや、そうではなくて……」
 先ほどから女が言いたいことが判然としないのは、
わざと核心部分を隠しているからだと男にも感じられた。
 彼女はわざわざ回りくどい話し方をしている。
 まるで、男が死ぬことを前提としているような話し方だ。
 脳をスライスして復元すると言っているのにも関わらず、
実験は失敗し、男の死がそこにはあるような口調なのだ。
 いや、そうではない。もっと別のたくらみがそこにあるのは確実だ。
「……人間での実験も成功しているわ」
「え?」
「私が、なんでこんな物騒な場所に好き好んで住んでいると思っているの?」
「……どういう意味だ……」
 空調がやけに冷えて感じられる。
 女の実験は、いつでも『再建』と『移植』に比重が置かれていた。
 考えろ、と男は自分を追い込んだ。彼女がなにをしでかそうとしているのか、考えるべきだ。
 ニューラルネットワークが構築されたところで、男の意識はそこにあるのか? いいや、ないだろう。
 それがいくら完璧なものであっても、そこに男の意識はないはずだ。
ではどうすれば脳は男が男たるゆえん、つまりアイデンティティを維持できるのか。
 あらかじめ記憶しなくてはならないだろう。そこまでは許せる。そこまでなら男も実験に協力できる。
だが、その『先』がきっとあるのだ。男の将来と違い、彼女の実験には確実に『先』がある。

「新しいマイクロチップはね、すっごく小さくて精密で、三十年分の記憶は維持できるの。
と言っても、まあそれを脳に埋め込んでおけば、
一年もすればアンタの人生の半分くらいは記憶してくれるでしょ」
 女は微笑む。いや、これは本当に微笑みなのだろうか。
まるで、実験が成功すると踏んでいる時の研究者の顔だ。
そこにはネズミを切り刻むことに対する慈悲などない。
ただ単純に、実験の成功を確信した、喜びの感情しかない。
 実験動物なのは、男だ。
「対象者の頭にマイクロチップを埋め込んで、記憶を抽出した。一年くらいね。
そのあとで、脳を切り刻む実験もしたわ。
再建した脳とマイクロチップは対象者の中に戻されたの。
結果、対象者は記憶が正常に保たれることを知ったのよ! だから大丈夫」
 興奮したかのように、女の瞳孔が開いている。
「信じられる? 一昔前は絶対にできないことだったのよ!」
「……対象者は、どこから調達した……?」
「この屋敷にはたくさん浮浪者が侵入しようとするから、実験材料には事欠かないのよ。
みんな元気な体でこの家の外に出て行ってるから平気よ」
「なんてことを……」
 おそらく女は、実験対象者の許可なく頭を切開いているに違いない。
 いや、それよりももっと考えなくてはならない問題がある。
 実験は成功している。ならば何故男を実験台にしたいと考えているのだろうか。
 男の背筋を伝っていく冷たい汗を、女は知ってかしらずか冷房を強めた。
腕に抱いた息子が震えたのは、恐怖からかそれとも寒さからか判らなかったが、
男はその腕の拘束を強める。

「浮浪者の記憶もそれなりに上手く抽出されたのね。
でも、私がやりたいのはやっぱり『再建』と『移植』なのよね。
脳って、やっぱり思考パターンと記憶が一番大事でしょ?
だから脳を切り刻んでニューラルネットワークを完全再現させて
思考パターンを同じくする脳を作りたいし、マイクロチップに保存された記憶を使って
その人のアイデンティティを再現したい」
「それは、成功しているだろ……?」
 ひりつく喉で、男は漸くその言葉を紡ぎだした。
 彼女は、浮浪者で何度も実験をしている口ぶりだった。
「そう! 本当に素晴らしいことよ!! 実験は全て成功しているの!」
 そう、実験は、成功しているのだ。
人の記憶を保存し、なおかつ思考パターンを再現することに、彼女は成功している。
 では彼女は、男を使ってどんな実験をしたいというのだろう。
 女は、今まで、欠損したパーツを新たに生み出し
『再建』し『移植』することに重点を置いた研究を繰り返していた。
 再建は成功している。つまり、残すところはあとひとつ。それらは禁忌とされることに違いない。
 嫌な予感がした。いや、男の考えは百パーセント当たっているだろう。
 人間は上を追い求める。
 脳の寿命は一五〇年と言われている。
 脳と記憶の再建が可能のなったのなら、
アイデンティティとその人独自の思考パターンは保存が可能となったということだ。
 その次に目指すところなど、馬鹿でも判る。
 『器』の変更だろう。

「……帰らせてもらう」
「なに言ってるの? 大事に育ててあげるって言ってるじゃない」
「断る! 息子を実験台にされてよしとする親がどこにいる!」
「ああ……そう……」
 不機嫌に歪んだ顔からは、正常な観念が失われていた。
 わざわざ『息子を育ててあげる』と女は言ったのだ。
 この時勢、戦犯として扱われる男と親しくしたい人間はそうはいない。
 彼女がどうして男に親切だったのか、今漸く男は理解した。
 男は、彼女の実験体だったのだ。
いや、それは最初から判っていた。問題は、息子も実験対象だったということだ。
再建された男の脳を、息子に移植する――、それが目的だったのだろう。
 若い体で新たな人生を送ることを可能とする実験、彼女はそれを行いたかったのだ。
 体のパーツは生み出せる。それらを繋げて新たな人間を作り出すことも容易となるのだろう。
 だが、金持ちの欲望は止まらない。
どうせ二度目の人生を送るのなら、新たな体で楽しみたい――、そんな要望もあるのだ。
「待ちなさいよ」
 女が怒りを含んだ口調で男を呼び止めた。
「上手く行くはずがないだろ!」
 そんなことが上手く行くとは思えなかった。免疫が拒絶反応を起こさないはずがない。
 だが。

「私知っているのよ。アンタとその息子だったら、拒絶反応は凄く少なく済むはずよ」
 何故知っている。その言葉と一緒に、男は唾を飲み込んだ。
「アンタが『そんなこと』をしなければ、
もう少しアンタに協力してくれる人間も多かったんじゃないの?」
「……どこで聞いた……」
 情けないことに、声が震えた。
 このマッドサイエンティストに、男は確かな恐怖を抱いている。
震える腕では、息子の体を抱くだけで精一杯だった。
「ああ、やっぱりそうなんだ!」
 しまった、と男は顔を歪めた。
 カマを掛けられたのだ。頭の回転が遅いのは、疲れの所為かもしれない。
 男は間違ってはならないところでまたもや間違えたのだ。
 また、間違えてしまったのだ。失敗をしたのだ。
「やっぱりその子、アンタとアンタのお姉さんの子供なのね!」
 嬉々とした女の表情に、男は口をつぐんで拳を握った。
 許されない行為の果てに、息子は生まれた。
「きっもちわるーい! でもアンタが変態でよかったと今は思うわ!」
 女はケラケラと笑っている。学生時代に好ましく感じられた明るい笑い声は、
今は不気味にしか感じられない。
 姉は悪くない。悪いのは自分ただ一人で、物言わぬ人形のような姉を無理に孕ませたのは男だ。
 意識がろくにない姉に行為を強要し、いっそのこと孕んでしまえと避妊さえしなかった。
 その結果が息子だ。
 腕の中の息子には二人の会話が何なのか判らないだろう。いや、判らずに居てくれと男は願った。

「とにかく、帰らせてもらう」
 帰宅に向けて足を一歩踏み出す。
 早くここから出なくてはならない。
 尻のポケットに入れた拳銃にさりげなく手を伸ばし、もう片方の手は息子の体を強く抱きしめた。
 早くここから立ち去らなくてはならない。なるべく早く。
「させるわけがないでしょ」
 男の耳元で、いつの間にか近寄っていた女の声がした。
 ゾワッと首筋が粟立つ。
 吐息が首筋にあたり、その場所には次の瞬間、鋭い傷みが感じられた。
 無理に振り変えれば、その場所から何かが首から抜ける感覚がした。
皮膚が裂けたのか、微量の血液が宙を舞うのも視界に写る。
 なにか薬を注入された。そう気づくも対処の仕様がない。
 拳銃に引っ掛けていた指を素早く首に移すと、生ぬるい感触と錆びた鉄のような匂いがした。 
「……!」
「逃さないわ」
 こんなにいい実験対象、そう居ないもの。
 悪びれるでもなく、女は心底嬉しそうに微笑んでそう言った。
 体が倒れこむ。指先が痺れて、視界がぼやけていった。
 次に目を覚ました時、男の体はどうなっているのだろう。
 不安、焦燥、怒り。
 それらの入り混じった感情を胸に押し込め、ただひとつ、
男に残された唯一の守るべきものの名を男は口にしていた。
 ごめんな、すまなかった、守るつもりだったのに。
 わが子さえ守れぬとは、なんと情けないことだろう。
 いっそのこと、この手で殺してやったほうが、まだマシだったかもしれない。
「お父さん……!」
 三年間、幾度も耳にした息子の泣きそうな声に、男は答えることができないまま、名前を呼んでやった。
 ――タカシ。
 そう男はか細い声で呼びながら冷たいリノリウムの床へと倒れたのだった。

今日はここまで。
>>230
ショタそっちのけになっていて本当にすまない……すまない……
そのうちショウタも戻ってくる……すまない……

待ってた!乙です~
続きも楽しみにしてます。

クライマックスかそれともまだまだ続くのか
どっちにしろ楽しみ

乙~毎回楽しみだよ~
完結は来年かな?

マッテイルヨ

ならsageようか

****
 膝丈までのワンピースタイプの検査衣は真っ赤に染まっていた。
 壁に掛かった額縁型テレビでは、神経質な女の声がなにやら緊迫した状況を伝えていたが、
それは殆ど耳には届かず、『彼』の耳を右から左へと素通りしていく。
『クローン人間の"権利"を巡り、暴動が……』
 機能が鈍くなった聴覚情報に変わって、視覚は通常の二倍、いや三倍の情報を取得しようと
忙しなく稼動しているように感じられる。
 ちりちりと網膜に焼きつく情報の大半は『赤』。それ以上でもそれ以下でもなく、
床の大部分を染めるその色は、男の感覚の全てをジャックしていた。
 ハァ、ハァ、と短い呼吸が繰り返される。
 肩から掌までが細かく痙攣し、立てひざを突いたままの脚も同様に笑っていた。
 素足の裏や足の指の間を湿らせるのは、赤。
 赤い水気の中心には中年女性が仰向けで倒れており、男はその腰辺りにまたがっていた。
 女は白衣を着ている。だが、その白衣も真っ赤に染まっており、彼女は少しも動かなかった。
 いや、動けぬようにしたのは男だ。
彼が、ぴくぴくと痙攣する彼女に、助けを求めて這いずる彼女に、
何度も何度も、その手に未だ握られたままのメスを突き刺したのだった。
『十五年前に確立されたクローン製造に関する定義によると……』
 血みどろの彼女は完全に絶命している。
 男は、ハァ、ハァと息を吐いた。
 ハァ、ハァと何度も繰り返し吐息しながら、今から二時間前のことを反芻していた。

 意識が浮上する瞬間に、いつもと何かが違うと感じていた。
 まず、爆音が聞こえない。爆撃機が地上を攻撃する音が、少しも聞こえなかった。
 その代わりに聞こえてくるのは、爆音と同等程度に不快な、
だが生命を脅かすような危険性を少しも感じない音で、
それはどうやら地面を掘削する音のようだと男は判断した。
 その重低音に辛うじて埋もれない程度の声音で、『それ』は『おはよう』と告げた。
 女の声だった。
 男はベッドに横たわったまま、声の方向へと顔を動かすと、
ほのかに首の筋肉が軋むのを感じつつも、その視線の先には華奢な女がいたから、
やはり自身に声を掛けたのはその女だと把握することができたのだ。
「……だ」
 誰だ。口はそう開いたはずであるが、
喉から飛び出したのはヒュウヒュウと言う呼気に伴う音ばかりで、その発音は判然としなった。
 真っ白いLEDライトが目に眩しい。
 よく見るとそれは手術室にあるような無影灯だと気づいたが、
しかし何故自身がそんなものに照らされているのかが男は判らなかった。
 その上、光りに慣れぬ視界は未だ女の正体を掴むことができず、
男は少しばかりの不安に襲われながら
周囲を確認すべく、首を左右に動かしてみた。
「もう少し横になっていて」
 女の声が短く告げたが、男の問いに対する返答はなかった。

「だれ、だ……?」
 男は性懲りもなくもう一度尋ねる。 
 今度は何とかハッキリと発音することに成功したが、
しかし彼は自分自身の声に驚きを隠せなかった。
干からびた喉は、皮同士がくっ付くような不快感があったが、それ以上に彼が驚いたのは、
その掠れた声でさえ確認できるほど、自身の声が少年のように『若かった』ことだ。
 霞が掛かったような脳は上手く機能しない。
彼は、気を抜けば意識を失いそうなほどの頭痛に襲われながら、
なんとか起き上がるべく、ベッドのはしに手を額につき、
そして目に染みる光りを遮るべく目を瞑りつつ体を起こした。
 否、起こそうという努力も束の間で潰えて、男は力なくベッドに沈み込んだ。
 体が鉛のように重くて、まるで言うことを聞かないのだ。
 頭も痛むし、両手両足はとにかく重くて、まともに動くことがままならない。
「その体にも、そのうち慣れるわ。大サービスよ。うるさい人がいるから」
「なに……?」
 どういう意味だ。
 そう問いかけようとした瞬間に、女は短く告げたのだ。
「タカシ君。今日アンタにはここを出て行ってもらうわ」
 タカシ――? 
 その名を耳にすれば、男――、否、タカシは、
己の意識が突然にクリアになっていく感覚に襲われた。
 違う、『そう』ではない。
 タカシはゆっくりとかぶりを振った。
 目の前の誰だか判らぬ相手に対して、懸命にかぶりを振る。
 違う、『そう』ではない、『それ』ではない、と。
 『それ』を耳にした瞬間、今現在自分の身を襲っている全ての事象がどうでもいいことのように感じられた。
 まず、『そう』ではないとと伝えなくてはならないと、そう考えたのだ。
 だが、男はふと思った。
『そう』ではないとは、なにが『そう』ではないのだろう、と。

 男の動揺を差し置き、女はツラツラと言葉を紡ぎ続けた。
 規則的な抑揚をつけて続けられる言葉は、どこかよその国の言葉のようにさえ感じられる。
「大丈夫、国へ申請する書類には、戦時下のいざこざで書類に不備があったことにしてあるから。
望むのなら医療機関も受診できるし、誰もアンタのことを気に止めたりしない。
アンタはアンタが望むように生きていけるのよ」
 女は矢継ぎ早にそう告げるが、それらはどれひとつとしてタカシの知りたいことではなく、
だが女がさも当たり前のように言葉を羅列していくものだから、押し寄せる混乱の中、
タカシはたった一つ、『違う』と懸命に、短く、幾度かに分けて発音した。
「とにかく、アンタはなんの問題もなく生きていけるから安心しなさい」
 安心などできるものか。何故ならば『それ』は『違う』のだ。
 か細い声での訂正を、女はなにも聞こえないように振る舞い今後の生活について進言し始めた。
 まず男はタカシと言う名であるということ。
 そして当面の生活の面倒は金銭的にもキチンと見てくれる人がいるということ。
 そして女自身が、今後はタカシに関わることはないと言うこと。
 ――理解が追いつかない。
 なにを言っているのだ、と彼は考えた。
 ぼんやりとした視界がだんだんと明瞭になっていく。
 眩しい光に未だ目を眇めてはいたが、二百万本の視神経はその女の容貌を把握し始めていた。
 彼女は、それを見計らうようにして、これ見よがしに溜息を吐いて見せる。
 タカシの頭の回転の鈍さに憤っているのか、それとも別の出来事が彼女を苛立たせているのか、
或いはその両方か。
 とにかく彼女はイライラとした面持ちで、タカシの横たわるベッドの周囲を歩き始めた。
 行ったり来たり、それを繰り返す姿は忙しなくて、
見ているタカシからしても気分のいいものではない。

 幾度もタカシの視界の端を通り過ぎる彼女に、タカシは只管『違う』と言葉を紡いだが、
その全てが無視された。やがてタカシは『違う』と告げるのをやめ、彼女を観察し始める。
 彼女が誰か判らなかったが、
とにかくいずれは『それ』が『違う』と言うことを理解してもらわねばならないと感じたのだ。
 シワの深く刻まれた顔、白髪の交じり始めた短い髪。
それらをよく観察したのちに、タカシは既視感を覚えた。
 彼女を知っているような気がしたのだ。
 だが、それらはタカシの記憶の片鱗へと引っかき傷を作るが、
しかし誰だと断言するまでには至らない。
あと少しで彼女が誰だか判りそうなのだが、しかしハッキリと『誰』と判断できぬのだ。
 忙しなくタカシの周囲を歩き続ける彼女がふいに歩みを止めた。
 そしてその視線はタカシへと注がれ、
口を軽く開き何某かを紡ごうと二度ほど開閉を繰り返して見せる。
強烈なほどに赤く塗りたくられたルージュは、あまり彼女に似合ってないように感じられた。
「もう二度と会わないって約束『させられた』から、先に言っておくわ」
 意を決したように口を開いた彼女は、それが不本意であると隠すことなくその表情で示している。
 横たわったままのタカシも、その表情からして今から『特別』なことを伝えるのだろうと悟って身構えた。
「先に言っておくわ、ゴメンナサイね」
「なに……? 意味、が、判らな、い」
 何を謝っているのだろうか。
タカシはまずそう考えたが、しかしそれを伝えるほどの体力はない。
 女はタカシの様子をちらと見て、それから、『失敗したのよ私』と先ほどと同様に早口で言った。
 失敗した。
 その言葉を耳にした瞬間、タカシは何故か背筋が震えるのを感じた。

「タカシ君」
 女は尚も言葉を紡ぐ。
 違う、『そう』ではない。
 だが何が『違う』のか、そして『そう』ではないのか、タカシにも判然としない。
 ただ、『違う』と言うことを伝えなくてはならないような気がしたが、
今タカシが最も気になっているのは、女の口にした『失敗』と言う単語だ。
「し、っぱい、した?」
「そう、失敗したの。だからその『体』もアンタの遺伝子から復元した、
アンタそのものの体よ」
 女の言葉の意味が判らなくて、タカシは眉根を寄せて見せた。
 今しがた女が告げた『復元したアンタそのものの体』と言う意味も判らなかったし、
『失敗』の意味も未だ判然としない。
 暫くタカシは考えていたが、答えは結局見つからず、
意味が判らぬという意志を告げるために首を左右に振った。
「判らないなら好都合だわ。……私だって適合すると思ったのよ。
絶対するはずだったの」 
「わから、な……」
「判らないの? ……でもそのうち思い出すかもしれない。
アンタの記憶はそのうちキチンと戻る。アンタは私を恨むでしょうね。だから、今言うわ」
 意味深に紡がれる言葉は、どれもが謎めいていて、タカシの頭にしっくりとはまり込むことがない。
 どれも知っているよ言葉のような気がしたが、
だがやはり決定的な答えを導き出すことができぬのだ。
 タカシは彼女の言葉を待った。言葉の続きを。
「残念ながら、アンタの息子は死んだわ」

 息子。死んだ。息子、死んだ。
 息子が、死んだ。
 その言葉に、ゆっくりと意識が覚醒していくのをタカシは感じた。
 タカシ、自分の名前はタカシではない。
 ではタカシとは誰だ。タカシ。タカシ。
「た、かし」
「そう、タカシは死んだ。だからアンタの名前は便宜上のものよ」
 タカシは死んだ。タカシは、死んだ。
 息子、死んだ、死んだのは、タカシ。
「タカシ……」
「もうすぐ、アンタの幼馴染が迎えに来るわ。よかったわね。
浦島太郎状態だけど頑張りなさいね。
戦争は終わってるわ。改めて言うわ、おはよう、タカシ君。
今はアンタが眠りについてから二十五年先の未来よ」
 タカシ。
 男の頭に閉じ込められた記憶が、ゆっくりと溶け出していく。
 タカシ。小さい手。三歳の子供。まだ、三歳。
 ――お父さん。
 舌足らずな声。なんだ、と答えた。
 ――ろぼっと。
 アンドロイドって言うんだよ。
 タカシ――、否、『男』はそう答えてやってた。そう、息子の『タカシ』に。
 男はゆっくりと顔を持ち上げた。女は背を向けている。無防備だ。
 テレビからはニュースが垂れ流されている。
画面はなにやら暴徒と化した人々を映し出しており、アナウンサーは冷静な声で現状を告げている。
『引き続きクローン人間を巡ってのニュースです。国会では、』
 ――お父さん。
 なんだ。
 ――お父さん。
 なんだ、どうした。
『次は、水製造機に関するニュースです』
 アナウンサーの声。
 右から左へと素通りする声であったが、その音だけはハッキリと男の脳に響いた。
 水製造機。その言葉を耳にした途端、頭の中で、何かがカチリと噛みあうような音がして、
男の意識は今まで以上にハッキリとしていった。

「息子、は」
 干からびる声で尋ねた。
「だから、死んだわ」
 女は悪びれもせずそう言った。
 つま先から、血流が一気に脳に向かって駆け上がるような感覚がした。
「でも、」
 女がなにか言いかけた。それを待たずに男はベッドから立ち上がり、
そして女に向かって突進した。
 うおおお、と言う声は自分の叫び声だろうか。獣の慟哭のような音が鼓膜を揺さぶっているが、
それが自分のものであると男は暫くの間判らなかった。
 足がもたつく。ちらと視界に飛び込んだ己の脚は、酷く痩せて見えたが、
それをものともせず女へと突進していく。
 渾身の力を込めて、女の体に体当たりをした。
 女と接触した右半身が酷く痛む。
 自身の体もろとも、女の体が体が床へと倒れていき、
景色がスローモーションのように緩やかに傾いていった。
 と同時に、彼女が引っ掴んでいたシルバーバットも一緒に床へと転がり、
そして中身のメスやハサミがリノリウムの上へとぶちまけれる耳障りな音が鼓膜を激しく振るわせる。
 女が制止をしようと手を振り回すが、男はその首を引っ掴み床へと押し付けると、
右の拳を振り上げた。
「やめ、」
 制止の言葉を短く叫ぶ女は、中年だと男は再度確認した。
手や顔にシワとシミが刻まれており、それだけの歳月が『経ったのだ』と知らされた。
 細い首だった。それに、骨っぽい顔の輪郭。
 だが、今ならハッキリと判る。その年齢を重ねた顔は、確かにあの女――、
『男』の『脳』を『息子』に移植しようとした、あの『マッドサイエンティスト』である。
 男は拳を握り締め、その頬に向かって拳を幾度も振り下ろした。

「ぃ……、」
 女が悲鳴を押し殺したような吐息を漏らす。
 それでも男は振り上げる腕を止めなかった。
 拳に、ミシッと言う感覚が伝わった。
自身の拳にヒビが入った音なのか、はたまた女の頬に打撃が入った音なのかは判然としない。
だが、男は夢中で拳を振り下ろしていた。
 ミシッと言う音が何度も伝わる。興奮の為か、その腕が止まることはない。
 やがて女の顔は赤く染まっていき、そして指先が痙攣しているのが見えた。
 それでもなお抵抗をする女に、
男は転がっていたメスを握るとその首元めがけて躊躇なく振り下ろした。
 鮮血が舞う。
すっぱりと切れた皮膚からは、切断された血管がビクビクと脈打ちながら血液を放出し続けていた。
 鉄臭く生ぬるい雫が口に入るが、男はそれでもなおメスを振り下ろし続けた。
 顔を、目を、そして首を。
 容赦なく加えられる暴力に、女の体からは生気が抜け落ちやがて沈黙した。

 ――どれほどそうしていただろうか。
女に馬乗りになったまま、男はぼんやりとその肉塊を見下ろしていた。
 男は、人を殺した。
たった今、その手で女の首を引っ掴み、引きずり倒して、人であった者をただの肉の塊へと変化させた。
 今さらながら震え始めた両手を握り締め、
男はおびただしい血液でぬめる床の上へとゆっくりと足の裏をくっ付けた。
 立てる。立てるが、しかしその脚は驚くほど細く、頼りない。
 真っ赤に染まった検査衣が鬱陶しい。血まみれのそれを脱ぎ捨てると、男はその部屋から脱出すべく、
メタルカラーの扉に近づいた。扉は、パスワードの入力を求めることもなく、すんなりと開いた。
 変わっていない。
 男が監禁され体の自由を奪われたあの日から、この部屋は然して変わっていなかった

 男――、タカシと名乗るよう言われた男は、その場に再び力なく崩れ落ちた。
 ぬるついた脚は未だ本調子ではないのか、
いつまで経っても、リノリウムの床が体温で温まり始めても、立ち上がることができなかった。
 いや、これは気力の問題だろうか、と男――、タカシは考える。
 息子が死んだ。三歳の息子が。
 その事実を頭に少しずつ刷り込んでいくと、死と言う概念を初めて認識し方のように、
突如として悲しみが胸に渦巻き始めた。
 それを過ぎると極度の悲しみからか吐き気が襲ってきて、男は耐え切れずにそのまま嘔吐した。
 だが、なにも出ない。吐き気は襲うのに、空っぽの胃は何ひとつ吐き出すことができなかった。
 女は本当にタカシを――、息子を殺したに違いない。
 元々失敗する確立の方が高い実験だったのだ。
「なんでだ……」
 タカシは呟いた。
 あまりにも不自然だと、タカシは考えたのだ。
 死体をひとつ築き上げたあとで冷静になるとは妙な話であるが、
タカシは覚醒した脳で、ふと大きな疑問を抱いたのだ。
 移植についての疑問だ。  
 男とタカシは確かに兄弟であり親子であったが、移植の成功率は一般の兄弟の確率と変わらない。
 女が何故、どうして男とタカシの移植が成功すると睨んでいたのか、タカシには未だ判らなかった。
 移植を成功させるにはHLA抗原と言う、細胞の表面にあるたんぱく質の一致が重要で、
それらがあることによって自己と他者は正しく区別され、即ち彼らの存在によって体は守られるのだ。
 免疫の一種と思えばいい。それらの一致なくしては移植は成功しない。
 そしてそれらは、元々親子では一致しにくいとされている。
 仮に父を◇◆型とし、母を○●型とすると、子は◇○、◇●、◆○、◆●の四タイプが生まれる。
即ち、兄弟間での移植の適合率は1/4。
 確かに男とタカシの適合率は高いものの、それは通常の親子に比べて、と言う程度なのである。
 例えば男を◇○型、姉を◇●型としても、生まれる子のタイプは同じく四種、
つまり男とタカシは兄弟間の適合率と変わらぬ1/4のままなのだ。
 何故女が、男とタカシを検査することなくHLAが完全一致するとの誤解を抱いていたのか、
男には理解ができなかった。
 移植は彼女の専門だ。移植の基礎部分で過ちを犯すはずがないのだ。
 だというのに――、一体なにが。 
 もしかしたら、誰かが意図的に男とタカシのHLA抗原が一致すると
嘘の情報を彼女に流したのではないか。
 そんな考えが頭を駆け巡った。
 だが一体誰が。
 タカシは、それを確めなければならないだろう。息子が死んだ、その理由を。
 だが、嘘の情報をリークするような人間がサッパリ思い当たらなかったのだった。
****

「タカシ君、君、大丈夫かね」
 医師の言葉に、タカシは「いいえ」と短く返事した。
「体はまだ動かないのかね」
 それには「はい」、と答える。
「頚椎かもなぁ。代替パーツ作ってねぇけど平気かな。『再現』に時間が掛かるかも」
 技師がなにやらブツブツと言っていたが、タカシにはそれに耳を傾ける余裕もない。
 タカシの記憶は、そして情動は、すべてがショウタの管理下に置かれている。
今しがた受けた告白は、タカシを呆然とさせるには充分な衝撃であった。
 少し前のタカシなら鼻で笑って否定したことであろうが、今はそれすらできない。
何せ、記憶が曖昧すぎる。タカシは今は、自身が何もであるかさえ判然としないのだ。
「君は君について知る必要がありそうだ」
 医師は淡々と告げていたが、しかしのその瞳はタカシを哀れんでいるような色合いをしていた。
 風ひとつ吹かない地下室だ。澱んだ空気はまるで、混濁したタカシの記憶そのもののようである。
「私はね、タカシ君。君を失いたくはないんだよ」
 タカシにとっては初対面とも言える医師が、苦渋を浮かべて言った。
彼は足を組みなおし、そしてその膝頭を組んだ掌で覆って見せた。
「君の頭を毎回開いているのはこの私だ。そして記憶を捏造しているのは、彼」
 親指でひょいと指した先のは技師が居た。彼も医師と同様に、苦い表情を取っている。
「君の開頭に何度も携わった。正直、それはいいことではない。
いや、同じ医師が同じ患者の手術をするのは構わない。
そうではなくて、そう何度も頭を開けるのは、決していいことではない。
頭は人間にとって重要な部位だ」
 それに、と医師は続ける。
「人の記憶を捏造するのは、楽しい仕事ではない」
「捏造してんのは俺だけどな……、今じゃな、人の記憶の五割程度は映像として抽出できるんだ。
俺はそれをコンピュータ上で弄って捏造する。全部あの坊ちゃんの依頼だ」

「……ショウタは、何者なんだ……」
 タカシは苦々しくそう吐き出した。
 タカシの記憶が捏造されたものならば、
そもそもショウタは奴隷でさえないのかもしれないと、漸くそこに考えが至ったのだ。
 タカシが買ってきた生意気な貴族奴隷。それがタカシの認識であったが、
それが事実である可能性はきわめて低いとタカシは自覚していた。
何せ、タカシは己の実態さえ判らぬのだから、他人に関する記憶などそれこそ怪しい。
 そして目の前の二人は、ショウタを知っているようである。
 この二つの事実によって、ショウタはタカシに買われてきた奴隷ではないということは、
殆ど確定した事実と考えていいだろう。
「何者なんですか……」
 二人のどちらかが答えてくれるに違いないと尋ねるが、返答はいつまで経っても帰ってこない。
 項垂れたタカシの耳に、吐息が届く。
「それは、知らねぇ方が幸せだ」
 答えたのは技師だった。
思わず顔を持ち上げるが、彼の眉間はシワが寄っており、タカシと視線がかち合えば、
首を左右に振って見せる。続いて医師へと視線を移せば、やはり彼も同じように首を振って見せた。
 話すつもりはない、と二人ともハッキリと意思表示している。
 おそらくそれは、ショウタの為ではなく、タカシの為に隠匿しようとしているのだ。
そう気づけばタカシはもう何も言えなくなる。
これ以上の衝撃が襲い掛かるなど、タカシには到底耐えられそうにない。
 全てを知る勇気など、あるわけがなかった。
「あんたは数年前、大きな事故に遭った。と言うより、テロに遭ったっつーか」
「……テロ?」
「ああ、テロだ。落ち着いて聞きたまえ。
この国の水が、とある製造機によって作られたものだと知っているね?」
 勿論だ、とタカシは頷いた。
「それを作ったのは、君だ。そしてそれが引き金となり、戦争が起こった」

「……ちょっと待ってください、意味が判らない」
 記憶の断片、ほんの少し前に見た夢の内容がふいに思い出されるが、
タカシは首を振って否定する。
 そんなはずはない、と。この国を戦争に巻き込んだ原因が自分であるはずはない。そう思いたかったのだ。
 あれは、ただの夢のはずだ。タカシにそれほどまでに大それたことができるはずもない。
 そう自身に言い聞かせるように頭を振るが、しかし医師の言葉が鼓膜に、脳に絡み付いて振りほどけない。
「君は、今も残る過激派の残党の手によるテロ行為にあったのだ。
それは明確に君を狙ったものだった。君がそこにいると、何者かがリークしたのだ」
 タカシの乗った車は、仕掛けられた爆発物によって大破したのだという。
「そして君は、」
 医師の瞳が揺れた。
「そして君は、妻を失った」
「つ、妻?」
 思わず声が上ずった。
 タカシは今しがたまで己を独身だと――、性嗜好が多少歪んでいようとも、不貞はしない主義だ――、
そう思っていたのだから、その事実に驚くのも無理のない話しだろう。
「ちょっと待ってください、妻って……」
 全く記憶にない妻。それを思い出そうにも、
記憶そのものが改竄されているのだから思い出されるはずもない。
「あとひとつ、これだけは教えておこう」
 医師が浅く息を吸い込み、タカシを真っ直ぐに見た。
「ミユキ君は、君の姉ではない」
「……嘘だ……」
 思わずそう返答するが、二人のどちらともがその言葉を肯定してはくれなかった。
 ――なにもかもが虚像で満たされている。
 タカシの中には、真実などただのひとつも、ひとかけらもないに違いない。
 ミユキはタカシにとって、何者であるのか、またショウタはどこから来たのか。
 タカシは誰なのか、一体なんなのか。

「じゃあ、彼女は、姉は一体何者ですか?」
 彼らは、おそらくタカシの味方となりうる人物なのだろう。
そして、ショウタにはあまり好意的ではないことも判る。
 タカシはその味方に縋るようにして返答を求めた。
 医師として、技師として、人の記憶を好き勝手弄り倒すことに拒否感を覚えているのだろうか。
 タカシは、彼らに期待をしていた。そう、ショウタを裏切ることを。
「姉は、何者なんですか……?」
「彼女は、」
 医師が口を開きかけたときだった。
「ミユキはアンタの奥さんだよ」
 静かな声が三人の会話に割って入ってきた。
「ミユキはアンタの奥さん」
 凛とした、少年の声。
 音もなく重い扉を開けたのか、それとも三人が話しに夢中になっていたのか、
ショウタはそこに居た。
 半ズボンに、Yシャツ、ニットのベストはお坊ちゃま然としており、
その態度はどこか威圧的にさえ感じられた。
「ぼん……」
 チッと、技師が舌打ちをした。
「酷いよね、二人とも。裏切るなんてさ」
「俺はぼんに雇われているわけじゃねぇ。裏切るもクソもねぇだろ」
「今は俺が雇ってるのと同じじゃん」
 お前は何を言ってるんだ。そう言いたげな小馬鹿にしたような表情で、ショウタは首を傾げて見せた。
 その顔は、貴族の少年らしいふてぶてしさがあった。
 タカシはその顔にひどい嫌悪感を覚え、そして視線を逸らした。

「いいや違う」医師は首を横に振った。「雇い主は、タカシ君だ」
「まだ言うんだ、そういうこと。馬鹿みたい。馬鹿じゃないの。
誰のおかげでこいつは生きていると思ってるの。なんでこんな死に損ないを雇い主だなんていうの」
「坊ちゃん、やめたまえ。それ以上は言っていいことではない」
「こいつを、生かしてやってるのは俺じゃん! そうしなかったらこいつはあのテロで死んでた!」
「ぼん」
「坊ちゃん」
 きつい声音での制止は効果がまるでないようだ。
 ショウタはその小さな口を目一杯広げ、そして言い放った。
「こいつの体はもう全部機械じゃん!
脳みそしか生身の部分がないなんて、アンドロイドと変わんない!
でもそうしないと助からなかった」
「いい加減にしたまえ!」
 医師が立ち上がり、ショウタの襟首を掴んで平手打ちをした。
 小さな体が一瞬だけ、その力に押されて斜めになった。
 タカシは、その様を冷静に見ていた。
 冷静に見てるしか、なかった。
「お前は機械なんだよ! ずっとずっとそうだった! 機械なんだ、機械!」
 キカイキカイキカイ。
 なにを言っているのか、判らなかった。
 タカシは機械。脳以外の殆どが機械。
「こいつらがアンタに頭を弄りたくないとか言っているのだって、
人間を機械にすることを怖がってるからなんだ!
別にいいことをしようと思ってあんたに本当のことを言ったわけじゃない!」
「坊ちゃん!」

「アンタがそうなったのは当然のことだよ! バチが当たったんだ! 
アンタは、アンタは、アンタは……、
アンタはいつだってアンタとアンタの姉ちゃんとその子供のことしか考えてなかった!
俺がどんなに惨めだったか判る!?」
 どんなに惨めだったか判るか。
 何度も何度も、ショウタは繰り返し問うた。
 肩を怒らせ、また、胸元をその手で押さえながら。
 だが、そのショウタの態度よりも、続けざまに襲ってくる真実の大群に、タカシはなすすべもなく、
言葉一つ一つを理解することもなく、ただただ為すがまま、されるがままになりながら、
ショウタの吐き出す真実の告白に耳を傾けていた。
「変態! 自分の姉ちゃんと子供を作った変態の癖に!!」
「ぼん」
 ――自分の姉と子供を作った。
 こみ上げる吐き気に耐え切れず、タカシは胃の中身をぶちまけた。
 吐瀉物で下半身が汚れるが、それに構うことなく中身を吐き出した。
「アンタは、俺のことなんてどうてもよかったんだ! 俺だって、俺だって……、」
「坊ちゃん!」
「俺だって、アンタの子供なのに!」
 悲鳴のような声だった。
 澱んだうす闇を切り裂くような声は、室内に木霊する。
 ショウタの叫びに呼応するようなその音の漣は、
タカシの鼓膜に絡みつき、纏わりつき、そして脳をえぐった。
「こども……?」
 信じられない気持ちで尋ねるように、
いいや、何かの間違いであるようにと願うように、祈るように呟く。
 ショウタの目がタカシを見た。
 真っ赤に充血した目は、燃えるような憎しみで満たされていた。
涙を湛え、しかしそれを一滴も零すまいするかのように、
真っ白になるまで拳を握り締め、襟元に宛てている。

「そうだよ! アンタは自分の子供をレイプしたんだよ! ざまあみろ!
アンタが大嫌いな俺のことを、アンタはあの時だけは見てた!
 "生きてた頃"は俺の顔を見るたびに目ぇ逸らしたくせに! 俺が邪魔だったくせに!
ざまあみろ! ざまあみろ!! 俺が悪いんじゃないのに! 俺のせいじゃないのに!!
なのにアンタは俺を邪魔者にした! ざまあみろ!!
 姉ちゃんと子供を作っただけじゃなくて、お前は自分の子供もレイプしたんだ!
変態! 地獄に落ちろ!!」
「ぼん、もうやめろ!」
「うるさい! うるさいうるさい!」
 ざまあみろ。支離滅裂にそう繰り返すショウタは、
タカシの記憶にあるショウタのどの姿よりも幼かった。
 初めてショウタを犯したとき、ショウタは叫ばなかったか。お父さん助けて、と。
 目の前が暗くなっていくのを感じる。 
「ぼん、落ち着け」
「離せ、離せよ!」
 技師がショウタを羽交い絞めにしている。
「許さない! 俺のことを邪魔者にしたお前を許さない! ざまあみろ……!!」
「ぼん……! いってぇな、クソ、引っかくな! おい、ぼん!」
「死んじゃえばよかったんだ! あの時、死んじゃえばよかったんだ!」
 技師の腕に爪を立て、ショウタは自身を阻む存在から逃れようとしている。
「死んじゃえばよかったんだよ、そうだ、死ねばよかったんだ!」
「こら、ぼん!」
 ついにショウタの目から大粒の涙がこぼれだした。それが合図だったかのように、
ショウタの動きが止まった。
「死んじゃえばよかったんだ……俺なんて……俺が死ねばよかったんだ……」
 はぁはぁと息を切り、ショウタは俯いた。
ひっひとえづくような声がして、そして技師の服を引っ張り無理やり顔を拭いて見せた。
「ショウタ……」
 震える声でタカシは名前を呼んだ。
 自分の息子だと名乗る子供の名前を、干からびた声で呼ぶ。
「おれ、俺なんて、死ねばよかったんだ……」
 ショウタは泣き続けている。

『お父さん』 
 
 ふいに、耳の奥で声がした。

 子供の声だ。幼児の、声。
 タカシは、何故かそれがショウタの声ではないと断言できた。
 そしてそれが、『息子』の『タカシ』の声だとも。
「タカシ……」
 呟いた声に、ショウタは、目を見開いた。
「やっぱり、俺なんて死ねばよかったんだ……」
 絶望したような目。
「お前は完璧じゃなかった。ホテルになんか助けに来なければ、完璧だったのに……」
 そう呟いたかと思うと、医療器具の入ったバットからメスを振り上げ、そして――、

****

 血に滑った足が気持ち悪い。
 タカシは足を床に擦り付け、なんとか殺人の記憶を体から追い出そうと努力した。
 だがそんなことをしても乾きかけた血液は取れてはくれぬし、女の死体が消えるわけでもない。
 肉塊と共に過ごし、凡そ一時間ほどが経った。
ぼんやりとアホのように佇むには、なかなか長い時間だろう。
 のそりと動き出したのは体中に血の匂いがして気持ち悪かったからだ。
 女の家に、男物の服などあるだろか。
 手術室を後にして、タカシはまずそんなことを考えていた。
 死体を隠さなくてはならないという意思よりも先に、そんなことを考える自分がおかしかった。
 なんとかタカシでも身につけられる衣類を引っ張り出して、
それらに漸く着替えたところで、突然その訪問者は訪れた。
 タカシの記憶では、セキュリティの強化されたこの家に訪れる人間はそういなかった。
 インターフォンが鳴らされ、モニタに映し出された『少女』の顔には見覚えがあった。
 タカシは暫しモニタの前で状況を把握しきれず、
そして混乱の入り混じった思考のまま『誰だ』と問うたのだ。
 モニタの向こう、彼女は怪訝な顔で首を傾げ――、
それはタカシにとって見覚えのある仕草であった――、
言葉少なに答えられた名に、タカシは仰天した。
『ミユキよ』
 そう彼女は返事したのだ。
 ミユキは、アンドロイド製造業を生業とする貴族の娘である。
水製造機量産に協力をしてくれたタカシの幼馴染で、
当時、協力者として立候補してくれた数少ない知人だ。
 最後に会ったとき、彼女は三十手前の女性であったはずだ。
だが、モニタの向こうでワンピースをまとう彼女はどう見ても十代の少女である。
 そして彼女は『今日、貴方……、タカシさんの目が覚めるって聞いたから、迎えに来たのよ』と告げたのだ。
 殺される前、確かにあの女は『幼馴染が迎えに来る』と言っていた。
そして女は『今が二十五年先の未来』だとも言っていた。だというのに、彼女は少女だった。

 タカシはハタと自身の声に対する違和感について思い出した。妙に若い、己の声。
それについての違和感は、女に対する憎しみを前にすっかりと記憶の彼方に放られていた。
 恐る恐る頬に両手で触れる。違和感はない。
 だが、確かに『体』に違和感を覚えるのだ。
 モニタの向こうで、タカシの混乱をよそにミユキはタカシを呼び続けた。
 待ってくれ、だとか、いや、と歯切れの悪い言葉をタカシが数回紡いだところで、
彼女は『開けるわね』と短く告げたかと思えば、なにやらモニタから姿を消した。
 身をかがめている。網膜スキャンをしているに違いないと気づくが、
彼女はタカシの制止も聞かずに鍵を開けに掛かっている。
 まずい。そう思った。何せタカシが今しがたまで眠っていた部屋には、そう、女の死体があるのだ。
 誰かが死体を目にするという可能性に直面し、タカシは漸く己のしでかしたことの重大さを思い出した。
 待ってくれ、と言う叫びに似た制止もむなしく、果たして扉は開け放たれ、
そして彼女は家屋に侵入してきたのだった。
 瞬間、タカシは息を飲んだ。
 彼女の姿に驚いたのではない。その衝撃は既に過ぎ去っている。
 そうではなく、扉のその向こう、そこにあるのは発展した都市だった。
いや、発展すべく工事を重ねている最中のビルの群れのだ。
タカシたちはその中にいたのだ。
 空の色が妙に薄い。敷地の外を馬車が通り過ぎ、
それとは不似合いな近未来的な街並みがそこにはあった。
 ビルからビルを繋ぐのは、空と同じく淡い青色のチューブ。
どうやら巨大なビルには、それごとに駅が存在しているようだ。
どういう仕組みなのか、チューブの中を浮遊するようにして球体が移動している。
球体の中には人が入っているようだった。
 浦島太郎状態、まさにソレだった。死ぬ前に女が言っていた台詞を思い出す。

「会いたかった……!」
 タカシの困惑と、感動と、そして恐怖、それらを破り去ったのは、ミユキの声だった。
 半ば体当たりするようにして、彼女はタカシに引っ付いてきた。
「おい……!」  
 思わず抵抗して腕を真っ直ぐに伸ばそうと試みるが、
彼女はそれをものともせずタカシの頬に手を伸ばす。
「昔のままね……」
 見上げる顔の位置が、近い。
 タカシは頭の片隅で、警報を鳴らしている自分に気づく。
そう、ミユキの顔が異様に近いのだ。
 タカシは――、男は、昔、一七〇cmほど身長があった。それに対して幼馴染のミユキは一五五cm程度。
タカシの記憶ならば、鼻の下辺りが丁度彼女の頭頂部であったのだ。
であるにも関わらず、彼女の身長は丁度タカシの目線程度。
身長差が僅か五センチ程度にしか感じられないのである。
「私、貴方が『成長』するのをずっと待ってたの……!」
「は?」
 潤んだ目は、タカシを真っ直ぐに見てくる。
身長差はごく僅かであったから、ミユキがタカシを見上げてくることはない。
「貴方の体が成長するのを、待っていたのよ」
 どういうことだ、なにを言っている。
 その言葉がまるで出てこない。
 成長するとはなんだ? 一体なにが起こっているのだ。
 タカシの混乱に漸く気づいたのか、ミユキは「あら?」と間抜けな声を出す。

「もしかして、あの人からなにも聞いていないの?」
 あの人とは、女のことだろう。途端に女の死体のことが頭を駆け巡りだす。
「あの人、何をしているの?」
 女の出迎えがないことを不審に思ったのだろう、
ミユキは迷うことなく土足のままでリノリウムの上へに足を乗せた。
「待て!」
 細い手首を掴む。ミユキは、きょとんとした顔をしてタカシを見ている。
 どうしたの、と言うミユキの言葉に応えられるわけがない。
 途端に心臓が早鐘を打ち始めた。
 そうだ、タカシは暢気にお喋りをしている場合ではないのだ。
 タカシは今、人を殺した。そう、殺人を犯したのだ。
 それがどれほど重罪であるのか、戦争を経験したタカシは忘れていた。
「……なにか、あったの?」
「いや……」
 しどろもどろになるタカシに何かを察したのか、
ミユキはタカシの手を振りほどいて廊下を奥へ奥へと進んでいく。
「待て!」
 声を荒げるが、彼女の足は止まらない。
 女を殺す時にはあれほどの瞬発力を見せた足が、どうしたことか、今は全く言うことをきかなかった。
一歩踏み出すたびに足はもつれるし、その足を踏み出す作業そのものがのろま臭くて時間が掛かる。
「待て!」
 悲痛な声にミユキは一度だけ振り返り、だが足を止めることなくズンズンと奥へと進んでいく。
 白いワンピースは彼女が歩くたびに揺れ、まるで逃げているようにさえ見えた。
 時すでに遅し、タカシがそこに辿り付いたときには、彼女は肉塊を見下ろしていた。
 白いヒールの端が、少し赤く染まっている。
 手に持っていたバッグは床に落下し、そして彼女はまじまじと女を見ている。
 どれほどの間、そうしていただろうか。沈黙を破ったのは、ミユキの方だった。
「大、丈夫。私がなんとかするわ」
 なんとかなど、できるはずがない。
 口を開きか掛けたタカシを制止するようにして、ミユキはスカートが汚れぬよう慎重にしゃがみ、
そして落下したバッグを探った。
「大丈夫、なんとかするから」
 ミユキは繰り返し『なんとかする』と呪文のように呟き続け、バッグから小型の――、
タカシが目にしたこともないような、薄く四角い端末を取り出し、なにやら操作をしていた。
「大丈夫。私が、私が貴方を助けるわ。私しか助けられないもの。
あの時、あの時だって、そうだったでしょ? 私は、貴方を助けられるわ……」
「ミユキ……、」
 ふいに名前を呼んだ。
 その声に呼応し、ミユキが視線を持ち上げ、そして、ふ、と柔らかく微笑んだ。
「大丈夫、大丈夫だから、安心して」
 ミユキは震える指で掌に収まった端末を操作し、そしてそれを頬に押し当てた。
どうやらそれは、ケータイ電話のようだった。
 大丈夫。
 大丈夫だから。
 子守唄のような声音の呪文を聞きながら、タカシは赤いぬめりに足を浸し続けていた。

****
「一八歳になったら娘と結婚してくれ」
 その男性はどうみても還暦を越えており、
その隣に座る少女は十五、六、どんなに大きく見積もっても
到底二十歳には見えぬような、幼い面差しをしていた。
「ミユキと、結婚をしてくれるね?」
 威圧的な態度で男性は言った。
 祖父と孫娘。外見だけを見ればそれくらいにしか見えぬ二人であったが、
遺伝的に戸籍的にもれっきとした親子である。
「ミユキは君を待つために、体まで変えた」
「お父様、そんなの私にとっては瑣末な問題よ」
「そうは言ってもな、ミユキ。あの頃……、お前が四十になろうとしていた頃の話だ。
お前はタカシ君、彼の死に絶望して結婚もしないで毎日泣き暮らしたね、十年も。
お前はそういう犠牲を払っているんだよ。それに、私たちは彼の水製造機についても協力をしている」
 そんなこと知ったことではない。タカシは渋面しそうなのを何とか堪え、茶を啜った。
 貴族らしい考え方だ。自分たちは何ひとつ悪くはない。悪いとしたらそれは他人。
彼らはそういう考え方をするのだ。吐き気がした。
 確かに水製造機の製造に力添えをお願いしたのはタカシで、
彼女が協力してくれた根底には彼女のタカシに対する思慕があったのは承知をしていたが、
しかしタカシは『自分を想ってくれ』などと言ったことは一度もない。
 そもそも、タカシの最初の移植――、
つまり息子のタカシに、父親である自分が移植されようとしていたとき、
彼女はすでに三十路を越えていた。 
 タカシにはその頃息子のタカシがいたし、
彼女の気持ちには応えられぬと、それまでに散々示していたはずだ。
 それを今さら持ち出されても……と思うが、しかし雁首そろえて威圧的に微笑まれては、
タカシは何ひとつ言い返すことができなくなる。
 ――その上タカシは、殺人の記録まで消してもらっている。
 なるほど、タカシは用意周到に罠へと導かれたと言うわけか。

「タカシ君」
 返答のないタカシに焦れたのか、男が語気を強めて言った。
「君の移植に失敗したあとの十年、ミユキは泣いて暮した」
「お父様、」
「それから十五年後今年、私は一瞬だけだが娘を失った」
 うう、と芝居染みた態度で男が目頭を押さえた。
 泣いているつもりか。
 白けた気持ちになりながら、タカシは茶を最後まで啜った。
「お父様ったら、私はここに居るわ」
 麗しき親子愛。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
「だがな、ミユキ。クローン技術は確立されてまだ十五年だ。
お前のクローンを作るのはいい。だが脳を移植すると聞いた時、
私がどんなに心配したか判るか?」
「お父様……、ごめんなさい」 
 ミユキがしおらしく謝った。
 つまり、ミユキはタカシが死んだあと――、脳は復元され保管されていたわけだが――、
十年はタカシを思って泣き暮らした。
その丁度十年目にクローン技術が正式に民間で扱えるようになったと発表を受け、
ミユキは自分のクローンを作り、脳以外を利用することにした。
 本来は遺伝元の人間に何か不幸な出来事に直面した際――、
それは専ら移植が必要とされる場合の事故や病気を指す――、
クローンの臓器や皮膚を用いて不足分を補おうという技術であるが、
ミユキはクローンの脳をすっぽりと取り外し、
自身の脳を移植することで己を若返らせたのである。
 そして彼女は十五歳の少女の体を手に入れるに至ったのだ。
 また脳だけの状態で保管されていたタカシも同様に、ミユキの移植成功を待ち、
同時期に育てられていたクローン人間へと己の脳を移植されたと言う話だ。

 だから私の方が少しだけお姉さんね。
 そんな風に少女めいた表情で言うミユキが気持ち悪かった。
 なにせ中身は五十五歳の女だ。だが彼女の中身はまるで成長しておらず、
初恋を抱えたまま人生の折り返し地点まで生きてきた痛々しいまでに幼い中年女性なのだ。
それが妙に気持ち悪くて、タカシはそっとミユキから目を逸らした。
「君は戦後生まれたことになっている。
故に君は戦犯としてではなく、まっさらな何の罪もない少年として表を闊歩できるのだよ、タカシ君。
そうなるよう便宜を図ったのは、ほかでもない私たちだ」
 タカシが石を投げられることも泣く真っ当に生きていられるのは自分たちのおかげである。
男はオブラートに包むこともなくそう言い放ち、
そして生活を支援しているのだからミユキの願いを聞き入れ結婚することは当たり前だと主張しているのだ。
 タカシはどうしても『はい』と返事をすることができなかった。
 誰も頼んでいない。何ひとつ、タカシが望んだことではない。
 タカシの中にあるのは姉への愛情と、そしてたった三歳で死んだ息子のタカシのことだけだ。
 他のことなどどうでもいい。
 あとひとつだけ気になることと言えば水製造機のことだろうか。
 タカシはツイと視線を泳がせ、時刻を確認した。
 この豪奢なリビング――、床は大理石、二人とタカシの座るソファは革張り、
天井からはシャンデリアが下がっている――、
に腰を落ち着けてから早二時間は経過している。幾度溜息を飲み込んだのか、
タカシはカウントすることを諦め、ただ只管に時が経つのを待っていた。
 ミユキのに対して、幼馴染としての情はあっても、それ以上のものは少しもない。
 その幼馴染としての情でさえ、近頃は緩やかに変容しつつあった。

 ――姉が病に倒れたのは、十代の半ばのことで、
それは他の一族の女に比べてだいぶ早い発病だった。
 タカシが誰かも判らなくなり、
次第に静かに人形のようになっていく姉の世話をしていたのは他ならぬタカシだ。
 人生の半分近くは姉の世話をしながら生きてきたのだ。
 それゆえか、タカシの姉への気持ちは次第に歪になっていき、
気がつけば女に向けるそれと同じ情を抱き悶々と過ごしていた。
 それが異常なことだとはよく判っていたし、随分苦しんだと思う。
 ある時、何が引き金となったのかは忘れたが、タカシは突然にその煩悶をかなぐり捨てたのだ。
 姉はなにも判らない。そして早々に死に行く身だ。
例えば夫でもこれほど丁寧に世話を焼いたりしないだろうというところまで、
タカシは姉の面倒を見てきたのだから、たった一つの願いくらいかなえてもいいだろうと考えた。
 魔が差したのだ。
 魔が差して、タカシは姉を汚した。
 たった一度のそれで、姉は身篭った。
 タカシはそれに戸惑うどころか喜びを覚え、そして姉に子を産ませるために堕胎が不可能な時期まで
姉の妊娠を隠し通した。
 あとは親戚一同を巻き込んだ修羅場と化したが、タカシにはその騒動でさえどうでもよかったのだ。
 姉はタカシの全てだった。ほかはどうでもいい。
 それが如何に歪んでいるかなど、他人に指摘されるまでもなく、タカシには充分に判っている。
 タカシはやっと手に入れたものを奪われるようにして失った。
 それを充分に理解しているクセに、タカシの痛い部分に着け込みあれこれと要求するこの親子に
近頃ではほのかな嫌悪感を抱き始めてさえ居るのだ。 
「私たちは君の殺人まで隠匿した」
 切り札だと言わんばかりに男はそういい、タカシを見た。

「――意味が判りません」
 タカシは幾度か押し込めていた溜息をこれ見よがしに吐き出したあと、率直にそう述べた。
 そう、意味が判らないのだ。
 タカシを愛娘と結婚させたいという意味がよく判らないのだ。
 タカシはタカシとして、男の言い方を借りれば『まっさらな何の罪もない少年』として生きてはいるが、
その中身は『戦犯』であったし、そもそもミユキに対して愛情の欠片も抱いておらぬのは
タカシの態度を見れば明白であろう。
 タカシはいつ戦犯であると明るみにでるかも判らぬ身の上であるし、貴族でもない。
その上娘を愛してもいない男へと嫁がせるなど、不自然なことこの上ないだろう。
 タカシにはそれが何よりも不思議であった。
「何が目的ですか?」
 わざわざタカシを保護するメリットもないはずだ。
「私は娘を思っているだけだ」
 なんて白々しい言葉だろう。きっと何かが隠されているに違いないが、その何かが判らない。
 タカシにはやらなくてはならないことがある。
 息子を殺した――、息子とタカシのHLA抗原が一致するとリークした人物を探さなくてはならないのだ。
 ミユキに構っている暇などない。
「俺はミユキを愛していません」
「知ってるわ」
 刺々しく告げたタカシの言葉に応えたのは、意外にもミユキであった。
 彼女は思いの外冷静に、凛とした声でもう一度『知ってます』と返答を繰り返してみせる。
「そんなこと承知しているのよ。だからいいの、形だけでもいの。私と結婚してくださらない?」
 正直な話、その申し出にタカシは面食らった。
 結婚だけでいいとはどういうことだろうか。

「結婚して、そうね、子供が生まれればそれでいいの。一人だけでいい」
「ミユキが子供を一人産むことに何のメリットがあるか俺には判りません」
「私は貴方の子供が産めれるのなら、」
「違う。ミユキ、君ではない。貴方だ」
 目的などないと言われたところで、それを易々と信じるほどタカシは馬鹿ではない。
何かしらの目的が、目の前の初老の男の胸のうちへと隠されていることは確実なのだ。
タカシはそれをどうしても聞き出したかった。
 もう二度と人に騙されたくはない。
 貴族は平気で嘘を吐く。タカシは貴族と言うだけでその一族もろとも嘘吐きだと知っている。
貴族の口車に乗せられて、タカシは息子を失ったのだ。
「目的などないと言っている。何度言わせれば気が済むんだね」
「嘘ですね」
「君がそう思うのなら永遠にそう思っていればいい。だが私に目的などないよ」
 嘘だ。タカシはもう一度口には出さず、心中でそう呟いた。
 信用するな、絶対に。
 両の目でしっかりと男を見据え男の腹を探ろうと考えた。
 なにか目的があるに決まっている。だが一体何が? タカシには財産もなければ特許もない。
あるのは戦犯の汚名のみだ。タカシをミユキに宛がい婚姻関係を結ばせるメリットは全くないはずだ。
 どれくらいの間そうしていただろう。
 タカシの視線から目を逸らすことなく佇んでいた男が、ふいに口を開いた。
「君の息子の記憶は残っている」
「……は?」
 今、男はなんと言っただろう。タカシは間抜けな声でたった一文字そう発音した。
 男は疾うの昔に冷め切ってしまった茶を優雅な仕草で飲むと、
「残っているんだよ、君の息子の記憶はね」と繰り返して見せた。

「……何の話ですか」
「記憶だけではない。脳そのもののスキャンデータも残っている。
現代の技術ならば脳から組織を拝借しクローンを作り出すこともできる。
今現在の法ならば、クローンを作ることも許されている。
君の息子は完全再現が可能なのだよ、タカシ君」
 息子が――、息子のタカシが、完全再現できる?
 タカシは瞬きをするのも忘れて男を見つめた。
 あの女、マッドサイエンティストは、確かに殺される直前『でも』と言い、なにか言葉を繋ごうとしていた。
それは、この事実を告げようとしていたのだろうか。タカシは今さらそんなことを考えた。
「脳の……記憶も、スキャンデータも、すべて……?」
「すべて揃っている」
 騙されるな、信用するに値する人物ではないはずだ。
 頭の中で警鐘がうるさく鳴り響くが、タカシの心は傾きかけていた。
 もしかして、と。そしてタカシは己の太ももに視線を落とした。
 体が縮んだこと以外については、
以前の自身となんら遜色なく自己を保持してこの世に復活を果たした自分自身。
息子の再現だけに関して言えば、それは何よりもの保障となる。
再現は可能なのだ。

『お父さん』

 三歳のタカシ。幼い我が子の声が耳に木霊する。
「ミユキと結婚するというのなら、君の息子を再現させよう」
 男の目的が判らない。
 金も名誉もないタカシに、何をさせようというのだろうか。 
 男は続けた。
「ただし、再現はミユキが出産を終えてからだ」
 無事子が生まれたら息子をこの世に復活させてやる。男は淡々とそう述べてた。
 もう、タカシがどんな選択をするか判っているのだろう。だからこそ男は条件を提示し続けるのだ。
「君の息子の再現も、生活の面倒も、全てを援助しよう。
大学を卒業するまでの学費も私が持とう。なんなら、我がA社へと入社させてもいい」
 A社は今やアンドロイドの国内シェアナンバーワンの冠を被っている。
傍目に見れば、これ以上にいい条件はないはずだ。
 警鐘は鳴っている。だが。
「判りました」
 タカシには、姉と、その間に設けた息子以外に大切なものなどなかった。
 男がにやりと不気味に微笑むのが判ったが、タカシにはもう引き返すつもりがなかった。
「十八になったら、ミユキと結婚します」
 また、間違えることになるのかもしれない。
 道を誤ることになるのかもしれない。
 だが、息子を復活させる以上に大切なことなど、今のタカシにはなかったのだ。
「結婚、します」
 タカシはもう一度はっきりと告げたのだった。

今日はここまで
保守してくれているので本当に助かってます
ありがとう

年内に終わらせたかったけどどうなるか判りません……
そして方々に特殊性のある人間関係が(近親系)があって申し訳ない……
すまぬ……すまぬ……

来てた つまり

ミユキ┬男┬姉
│ │
ショウタ タカシ

か、wktkしてきた

乙です。色々謎が明らかになってきてテンション上がる
楽しみに待ってるよー

おもしろい
がんばれ

ばあさんや 更新はまだかのぅ?

まって いるよ

1ヶ月+αで更新されてるのを見ると2月に入る位で更新されると睨んでる

すまない……すまない……
もう少し時間を下さい
保守ありがとうございます

がんばれ!のんびり待ってるよー

鳴かぬなら
鳴くまで待とう
ホトトギス

そろそろ更新くる?

待ってる保守

トリップあってるか不安……。

****
 その年、タカシの肉体年齢は十八年目の春を迎えていた。
 とは言え十四年間と少しの間は肉体の生育期間であったから、
タカシとして意識を保有しての生は僅か三年と言うことになる。
そのごく短い三年の間で、タカシは人生のやり直しを図っていた。
学生としての、いや、一人の少年としてのやり直しの期間を過ごしていたのだ。
 通常、子供は九年間の義務教育総合校での教育を経て卒業を迎えたのち、
その先の義務教育高等学校へと進学をしていく。
 しかしタカシの『体』はその手の学校に通った履歴が一切残されておらず、
故に、膨大な量のテストを受ける必要があった。それらを無事クリアして
なんとか義務教育総合校へと続く教育機関である義務教育高等学校へと在籍を果たしたが、
タカシが属した群れは、毎日のように勉学に励んだ学生のそれであり、
そのような場から遠のいて数年経つタカシは追いつくのがやっとであった。
 少しでも気を抜けば、成績ががた落ち、などと言うことになりかねず、
常に緊張をした三年間を送っていた。
 ――ミユキと結婚するだけで全てが丸く収まるわけではない。
 そう気づいたのは彼女との結婚を約束した後のことで、
それからはミユキの配偶者となるに相応しい男である振る舞いや学力を身につけるべく、
目覚めてからの向こう三年、殆どの時間はそれらの鍛錬に費やされた。
 自由時間はないに等しく、生活の全てはこの上ない苦行そのものであったが、
タカシは文句を言えるような身分ではなく、必死で日常を過ごして行った。
 思えば、前回のタカシの人生は早く短く過ぎ去った。
 学習した記憶よりも、戦犯として捕まり拷問を受けた記憶ばかりが強烈で、
『教育を受ける一般的な少年』と言う感覚を取り戻すのには多大な労力が要されたのだ。
 一度失った感覚は取り戻すのに時間が掛かる。
まず、目覚めてからの一年は、その感覚を取り戻すことに始終していたようにタカシには思える。
 だが、その感覚に慣れ、かつタカシと名乗ることになれた頃には、
その肉体の年齢に引きずられてでもいるのか、
思春期の少年然とした振る舞いをごく自然に取るようになっていた。

 つまり、思考回路が少年らしく変化し、中身が三十路を越えた男とは思えないような、
例えば、やや自信家で、少々我がままで、若干癇癪を起こしやすい、
そんな振る舞いを意図せず取るようになっていたのだ。
 これに一番困惑をしたのはミユキの父であろう。
 ある日の朝にはは息子のことなど忘れたかのように『ミユキとの結婚はない』と言い放ち、
その晩には『今朝の話は嘘だ』と思いつめた顔で告げるのだ。
 しかもそのジグザグとした不可解な言動はタカシ自身がコントロールしてわざと行っているものではなく、
自然と勝手にそういう思考回路になってしまい周りを振り回すのだというからたまらない。
 だが、周囲の人々以上に戸惑いっているのは他ならぬタカシであった。
 まず、感情がコントロールできない。
 子供っぽい自分を制することができない。
 そんな自分に遭遇するのは初めてのことで、
どこか精神的におかしくなってしまったのだろうかと危惧したものだ。
だが「しかしよくよく考えてみれば、
ミユキも中身が五十を越えた中年女とは到底思えぬような少女然とした振る舞いをそており、
そのような結果を鑑みれば、なるほど、
精神の成熟度は肉体に引きずられがちになることは決して珍しくないらしいと
タカシは判断するに至った。
 ある日は息子を人質に取られたことに怒り狂い『人身御供だ』と涙を撒き散らしながら叫び、
ある日は『すまなかったと』懇願をする。
いずれはこの激しい情動も肉体の成熟と共に落ち着くだろうと医師に――、
あのマッドサイエンティストの決して数の多くない門下生たちだ――、と告げられ、
それに安堵したのか、タカシの精神も次第に落ち着いていった。 
 ただし、タカシやミユキのような脳移植を受けた例は少ない。
 非合法な行いを戦中に行っていたマッドサイエンティストの例を含めればかなりの数になる術例も、
公式的なものとなればその数は激減した。
 そのため二人には長期的な診察が要されたが、肉体的には全くの健常であり、問題はないだろうと診断を下され、
移植を受けたあくる年には一般的な十六歳に交じって、それぞれ義務教育高等学校へと入学を果たし、
つつがなく三年間は刹那に過ぎ去っていった。
そしてついに十八の肉体的誕生日を迎えた翌日、タカシはミユキと婚姻関係を結んだのだった。

「流産したの」
 ミユキは夕食を囲みながらぽつりと告げた。
 二十一歳二ヵ月、婚姻関係をミユキと結んでから三年以上が過ぎ去った夜、
ミユキから告げられたその言葉にタカシは「そうか」、と短く返答した。
 つまり、また数ヶ月の期間をおきその後『お勤め』をせねばならないということだ。
 しかしタカシは、うんざりとすると同時にホッとしていた。
 ――着床しなかった、流産した。
 様々な理由があったが、種が悪いのか畑が悪いのか、ミユキはなかなか子を身篭ることができなかった。
 医師の診察を受け両者共に肉体的な問題は見受けられないとされていたが、
本当にそうであるのか怪しいものだとタカシは考えた。
 この国の出生率は四十年ほど前から落ちている。
ここ数年の間に算出が行われ、と同時にそれらは国から開示されることととなり、
漸く公に少子化現象が認められたのだ。
 兆候が見られはじめた最初の年は戦争の真っ只中にあったためか、
国民が「なんとなく」感じていたことであっても、データとして公にすることは憚られたようだ。
 そして戦争も終わった現代、国は出生人数を向上させるべく人工的な妊娠を奨励し始めた。
国民の大半もそれを受け入れており、夫婦の精子と卵子を受精させる一般的な体外受精は勿論のこと、
未婚女性には容姿や頭脳の優れた男性の精子を受精することができる『選別的体外受精』も人気であった。
これは、子供の性別も選択できる、非常に優れた受精方法だった。
 しかしミユキもタカシもあくまでも自然な妊娠にこだわったため、それらの方法を率先して取ることがなかったのだ。
「残念だわ」
 婚姻関係を結び、三年。となると、そろそろ保健所から体外受精のお知らせ、などという通知が届く頃だろうか。
そんなことを考えながら、タカシは野菜炒めを箸でつまんだ。
「気を落とすことはない。ミユキはまだ若い」
「ええ、そうね」

 タイムリミットははるか先のように思えるが、しかし、時間とは瞬く間に過ぎ去っていくものなのだ。
 ――最早自然妊娠は不可能なのではないか。
 タカシは顔には出さずに時々そんなことを考える。
 女性の五人に三人は自然妊娠が難しいとの裏づけがなされた昨今、
ミユキがその三人に含まれることは数度に渡る結果を見れば最早明白で、
それならば国の金銭的な支援も受けられる今、積極的に体外受精を受けるべきなのだ。
 出生人数の低下――それが叫ばれ始めてから十年ほどになるという話だ。
 深刻な大気汚染が原因のひとつではないかとされていたが、本当のところの原因は判らずじまいだ。
 国には特定する気がないのだから仕方がない。例え大気汚染が原因と確定したところで、
打たれる対策はさしてないに等しいのだから、あえて特定をせずにいるのだろう。
 そんな事情もあってかミユキの妊娠は遠い夢のように感じられていた。
肉体的に問題がない、などと言う言葉は詭弁であろう、と言うのは、
タカシを含め子を得られない夫婦たちの共通認識であるようにさえ感じられる。
 だが、今しばらくは子が生まれなければいいともタカシは考えていたのだ。
 彼女が無事出産をせねば息子の『再現』もまた夢と終わる。
それはなんとしても阻止せねばならなかったが、実のところ、タカシはまだ未来を決めかねていた。
 問題はそう、ミユキの父だ。
 彼がなにを思いタカシを女婿として迎え入れたのかが、その腹が判らぬ以上は動くことはできない。
 ミユキとの『お勤め』は少ないに越したことがないし、
タカシもさっさと体外受精に切り替えたいというのが本音であったが、それは彼女の妊娠を早めるばかりで、
タカシにとっての根本的な問題の解決は望めぬままになってしまうのではないかと危惧しているのだ。
 ミユキの子が生まれたとして、なにかと理由をつけられ息子の『再現』が行われず
『そんな約束をした覚えはない』と約束を反故にされる可能性も大いにある。
 それを阻止するためにも何故タカシがミユキへと宛がわれたのか本当の理由を知る必要があったのだ。
「お義父さんには?」
「伝えてないわ。着床したことも言ってなかったから。またがっかりさせたら可哀想だもの」
 額に掛かったか髪を細い指先で避けながらミユキは答えた。
「……また頑張ろう」
 心にもない台詞を口にすれば、少しだけこけた頬を微笑ませ、ミユキは「ええ」と返事をして見せた。
「男の子がいいわ。男の子なら、きっと貴方によく似ている」
「それは判らない。男児は母親に似るとも聞く」
 仲睦まじい夫婦が互いを支えあっているように見えるような薄ら寒い会話だ。
 タカシは溜息を飲み込んで食事を続けた。

「いつもと変わりませんよ」
 その探偵は、近代的な街並みにそぐわぬ煤けた屋台で、出所不明の肉をつつきながらまずそう切り出した。
 彼が日中のオフィス街に紛れ込むべくカムフラージュの為に着込んだスーツは、
普段愛用しているヨレヨレのコートに比べれば随分と上質なものに見える。
 赤い提灯が風に揺れ暗闇に光りの残像を残していくのを目で追いながら、
タカシは一先ず「つくね」と注文をする。
「私はネギマ……、貴方が指定した一族、どんな関係が貴方とあるのか判りませんけど、サッパリですよ。
まず『あの』一族――、毎回お尋ねしてますけど、この一族と貴方はどんな関係なんですか?
ああいいですよ、どうせ答えてくれないんですから」
「悪いな」
 タカシはくすんだ色のコップでアルコールを煽りながら形ばかりの謝罪をする。
 ――己の一族を調べるのは妙な気分だった。
 この二年もの間、タカシは自分を育んでくれた一族を、その末端まで探している。
一族特有の病に侵される女たちを守るべく、濃い親戚づきあいを続けてきた一族は、
ある者は戦火の中で、ある者は病で、ある者は――、タカシの生み出した水製造機の為に死んでいった。
迫害を受けたのだろう。暴行を受け死んだ者も少なくはなかった。
 だからこそ、タカシは自身の一族を探っているのだ。
「この一族、やっぱり一人を残して死に絶えてますね。ま、戦争がありましたからねー、仕方がないです。
何度も調べましたけど、女性一人だけしか生き残ってない。
 本家を継いだ人間もいませんし、末端の末端、ただ一人生き残った女で、彼女、今年三十五歳なんですけど、
アルツハイマー病で入院中です。若いのにねぇ。そして訪ねてくる親族は一人もおりませんし、
天涯孤独ってのは本当かと」
 その言葉に、タカシは胸を撫で下ろした。
 例えば、自分の見知った顔が生き残っていたのならば、
タカシはそこに赴き対象をしつこく尋問することになっただろう。
 そう、タカシは、自身の親族があのマッドサイエンティストへと誤った情報をリークしたのではないかと
疑っていたのだ。

 思えば、一族はタカシが戦犯となったことによって不利益を被った者の集団なのだ。
 そのタカシへと一矢を報いようとするのはごく自然な感情の流れであろう。
 一族の女たちは、呪われた持病の治療のため、自己注射を行っていた者も居た。姉もそのうちに一人だ。
薬剤の注入はもとより、大病院を受診する際にスムーズに診察が済むよう、血液検査が必用な場合はあらかじめ
血液を自宅で採取することもあった。
 つまり一族の者は、注射器の扱いになれていた。
 その上、一族間では密な親戚づきあいをしており、互いの知り合いを把握していた。
もしもタカシに憎しみを抱く親族が、姉の血液をタカシのものだと偽り提供したとしたら、
マッドサイエンティストが戦時中の混乱の中、
たった一度の血液検査のみで脳移植が可能であるかどうかを判断し、
最終的な検査を碌に行わずに移植をしたのにも合点がいく。
 報復の機会を虎視眈々と狙っていた一族の誰かによって、タカシも、またあのマッドサイエンティストも
陥れられたのかもしれない――、タカシはそう考えていたのである。
 通常は親子間で一致しないことが殆どであるHLA抗原であるが、息子のタカシはその特異な出自故に
タカシとの適合率は兄弟間のそれと同等の、1/4の確率までに引き上げられる。
 だが、それはタカシと息子との適合率としての話だ。
タカシと姉、二人合わせてての適合率ならば確率は1/4+1/4で1/2までに引き上げられるのだ。
姉と息子が適合しなかった場合、またはタカシと息子のHLAが一致した場合には、復讐は失敗に終わるだろう。
 だが万が一、姉と息子が適合しており、姉の血液をタカシのものだと偽っていたとしたら?
 マッドサイエンティストは、姉の血液をタカシのものと信じ、タカシの脳を息子に移植しただろう。
実際、あの女は何かの根拠を持って移植を遂行した。
 だが、実際には移植は成功することなく、息子は死に、そして表向きにはタカシも死んだ。
 タカシに復讐をしたいと望む者がをあの女に渡していたとすれば、
これ以上にいい報復はないだろう。
 タカシを苦しめて得をする人間は、考えてみれば己の親族であると言うのが最も妥当な考えだ。

 タカシは姉を助けるために政府へと技術提供をしたわけだが、
名声を博するようになるにつれ、国から一族全体の治療費を工面する動きが見られた。
つまり、一族全体がタカシのおかげで潤ったわけだが、それもある日を境に一転することとなった。
 タカシが戦犯となった為だ。
 親族たちにとって、タカシは自慢の存在から、国内に戦争の火種を作った悪魔となったのだった。
同時に、親族たちも迫害されるようになったのだから、
彼らにとってタカシの存在は悪魔などと言う生易しいものではなかったのかもしれない。
 復讐を誓うには充分すぎる要因をタカシは保持していたのだ。
「大丈夫ですか?」
 探偵に声を掛けられ、タカシはハッと現実へと引き戻された。
 単なる仮定であったが、可能性としては一番濃厚な線だろう。
「引き続き捜索しますか? 打ち切りますか?」
 ――タカシは、息子を諦めきれずにいた。
 再現される息子のことではない。『オリジナル』の息子のことだ。
 誰かがマッドサイエンティストへと嘘を吹き込んだことによって息子は死んだ。
その犯人を、タカシはどうしても突き止めたかったのだ。
 敵討ちなどと言う高尚なものを目論んでいるわけではない。
ただ、誰かのせいで息子が死んだのだと結論付けたかったのだ。
「あの……」
「引き続き頼む」
「判りました」
 冷たい木枯らしに頬をなでられながら、タカシは短く告げた。
 タカシの推測が当たっているのなら、犯人はすでにこの世に居ないかもしれない。
だが、タカシはその人物を知りたかったのだ。
 何故それほどまでに執拗に追い詰めたいのかと言えば、答えは単純明快だ。
「逃げたい」
 ぽつりと呟いた言葉に、探偵が「はい?」と返事した。
「いや、なんでもない」
 タカシは、自身の誤った選択で息子を喪ったことを悔いていた。
その思いは、一人で抱えるには重みがありすぎるのだ。それをどうにか小さくするには、
自分以外の誰かの所為で息子の命が喪われたということにしたいのだ。
 そうしなければ、あまりにも重かった。
 一族を探し出し、何かしらの理由を聞き出したい。
 だが、聞きだせる人間が居ないのなら、『諦めるしかない』。
 そんな風にして、タカシは自身を誤魔化し続けているのだ。

「……まぁ、なんでもいいですけどね」
 肉が焼けるくすんだ空気を振り払うように、探偵は酒を煽りつつ言った。
「私は金さえもらえれば文句はありませんよ」
 正直な男だ。 
 探偵は、一族ひとりひとりの死因を具に調べていた。何故殺されたのか、どんな人物だったのか。
だがタカシはそこまでは望んでいなかった。単純に一族が『生き残っているかどうか』を知りたかったわけだが、
それでは流石の探偵もタカシのことを訝るだろうから、それらしい理由を添えて調査を続けさせている。
 きっと誰がリークしたのかは判らず仕舞いであろう。
 探偵は自身が調べている一族が、悪名高き水製造機を生み出した戦犯の一族であると疾うの昔に知っている。
 タカシが水製造機を我が物にせんとしているだとか、または水製造機で不利益を被っただとか、
そんな線で調査を依頼されたと思い込んでいることであろう。
 クローン技術は一般的なものとして浸透してきたものの、
脳を挿げ替えるという使い方は一般的とは言いがたいため、
今目の前に居るタカシがまさかその『戦犯』だとは露ほどにも思っていないに違いない。
タカシは三十年近く前に失踪ののちに死体が見つかったということになっていたし、
その死体も暴行を受けたようにひき肉状態だったとの探偵の報告があるからこそ、
あのいけ好かないミユキの父が言ったように、タカシはまっさらな少年――、否、もう青年だが――、
として生きていけるのだ。
 死体が実際のところ誰の者であるのか、タカシは知る由もないし興味もない。
「それでですね」
 タカシが残り僅かとなった酒をグイッと飲み込むと同時に、探偵はそう切り出した。
「『こっち』についてもあまりいい結果をお持ちできませんでした。面目ない」
「うん、そうか」

 タカシが探偵に調べさせているのは、己の身内についてのみではなかった。
「真っ当に会社の親分をしてますよ。あ、カワください」
 あいよ、と大将は軽快な返事をひとつして、網の上へとその妙に黄色っぽい肉を並べていった。
「そうか……」
 二週間ぶりの報告には何ひとつ芳しいものがなく、タカシは口を引き結んで渋面した。
 ミユキの父親の動向について、タカシは二年もの間探っていた。
 タカシを女婿として迎え入れたその行動にはなにか目的が隠されているはずだと踏んでから早数年、
しかしあの男が尻尾を見せることはなかった。
「朝の出勤、それから退勤、会うの仕事関係の人間ばかりですよ。
大企業のシャチョーさんで怪しいやつってのは、大体ガラの悪いのとか人相が悪いのとか、
要するに真っ当でない人間と付き合いがあるのが普通ですけど、
清すぎるくらいに普通の生活をしてますね。貴族や政治家のお友達はたくさん居るみたいですけどね、
それも大して面白い会話をしているわけではない。いつもと同じですよ」
 タカシがこの探偵を雇い始めてもう二年になる。
その間定期的に繰り返される報告にはなんら怪しいものはないと言うのが現状だ。
 この探偵がタカシを裏切らないとも限らないため、他に九名の探偵を雇っているが、
みな口をそろえて「怪しい動きはない」との報告を繰り返していた。
「タカシさん、貴方が想像するようなことは、なにもないのではないですか?
もう二年も私はあの老人を追いかけてますよ。それこそストーカーのように。
今では彼の経歴を諳んじることもできますし、彼が愛用しているシェービングジェルの名前も判るほどだ」
 タカシの妄想ではないのか。雇った探偵はそれぞれ、その言葉をオブラートに包んで告げ始めている。
 頭の狂った義理の息子が義父をストーキングしている。しかも相手はあのA社CEOだ。
これ以上に面白いスキャンダルはないだろう。
 そのような醜聞が漏れ出ぬよう細心の注意を払い人選はしたつもりだが、
やはりかすかな不安は拭えずに居るのもまた確かだ。
 そろそろ潮時だろうか。タカシ自身もそんなことを思う時間が増えてきた。

 ただミユキ可愛さに、彼女の願いを叶えるべく義父はタカシをミユキに宛がったのではないか。
 戦犯の汚名を着せられたといっても、二十五年も前のことだ。
 以前のタカシ――、つまり『三歳で死んだ男児タカシ』の父であった男は、
公文書上では死亡したことになっているし、
今ここに生きるタカシは何の汚点もない人生を歩む戦後生まれの青年だ。
 戦犯でもなく、研究者でもなく、近親相姦で子をもうけた穢れた男でもない。
 そう、大企業の物好きのCEOが、身寄りのない才覚ある青年を引き取り娘に宛がっただけ。
 プレスにも顔を出すことのないタカシの存在は、A社の上層部ではそのように捉えられており、
ミユキの存在はと言えば「生体利用アンチエイジング」を受けた「ちょっと痛い娘」と言う程度の存在だ。
 クローンを栽培してその脳をくり貫き自己の脳を植えつける鬼のような所業が
「生体利用アンチエイジング」などと言う名称で罷り通っているのには驚きが隠せないが、
とにもかくにもミユキやタカシの存在はそのように捉えられていた。
 水製造機もなにもかもが関係ない世界で生きるまっさらな青年なのだ、今のタカシは。
 ただ娘を幸せにしてやりたくて、そんな男を――?
 怪しげな肉を口に運び、咀嚼する。
 ジワッっと肉汁が口に広がり、タカシはそのどこか焦げ臭い匂いに眉を顰めた。
そこはかとなく機械油の匂いがするような気がした。失敗したかもしれない。
「娘のほうも同様ですね。ご学友と会ってお茶をしたり、あとは定期的に病院へ通うくらいで。
あとは気分転換のために散歩をしていたり。この辺りは貴方もご存知でしょう」
 そう、ミユキは逐一その日のスケジュールをタカシに報告してきたから、それを知らぬわけではなかった。
 父が駄目なら娘を探ってみろと探偵に依頼を出したものの、
やはりこちらからもそれらしい話が漏れることはなかった。
「時々お墓参りに行ったりして、なんていうか、いい奥さんじゃないですか」
 いい奥さん、いい義父。その通りなのかもしれない。
 だが、やはり心の片隅に巣くう不安は打ち消せなかった。
 なにかがある。なにかがなければ、タカシを助けるはずがない。
 そんな風に思えてならないのだ。
 どうしますか、続けますか、と探偵が訪ねてくる。
 毎月費やされるこの費用も馬鹿にならない。だが、それでもタカシは「頼む」とたった一言だけで
周囲を疑い続ける道を選ぶのだ。
 人は疑うべき存在だ。二度と騙されないために、タカシは人を疑い続ける人生を選ぶのだ。

****

 タカシは焦っていた。
 ミユキが妊娠をしない。
 もう何度目だろう。流産について、そして月の物が来たと言う報告も、もう何度目になるか判らない。
「そうか」と言う答えも日に日にぞんざいになり、おはようの挨拶と同レベルの重みと化してしまった。
 数えるのもやめてしまった。着床したかと思えばすぐに流れる。
ミユキの母体に問題があるのかと思い検査をしたこともあるが、問題は一切見つからなかった。
排卵もある、卵子の質も悪くはない、子宮も健全に保たれている。
ではタカシのほうはどうかと言えば、こちらもミユキ同様に初期の検査では『問題なし』とされていた。
 『前回』の短い『生』では姉は妊娠をしたことから、DNAが全く同じ今回の体で何かしらの問題が
生じることはないと考えていたのだ。
 しかし、もうタカシには時間がなかった。
 何故か妊娠できないミユキ――、おそらく環境の所為だろう――、の
人工的でない自然な妊娠を待っている余裕はなかったのだ。
 もうこれ以上は待てない。待てないが、何をどうすればいいのかが判らない。
 人工的な妊娠をミユキに促すも、彼女は首を横に振り頑として頷かない。
 最早お手上げである。
 婚姻関係を結び、六年目の夏、タカシは自ら医院へと赴き再び自身の体を検査した。
それくらい、焦っていた。
 しかし医者から告げられたのは、タカシの望んだ答えではなく、
やはりタカシの精子にも問題はないこと、体外受精を勧めると言う旨の話だった。
 体外受精は今や珍しいことではない。多くの夫婦が利用しているし、
自然妊娠と同じくらいにスタンダードな妊娠方法だった。
 ミユキが何故そこまで自然な妊娠にこだわるのかが理解できなかった。
 偏見があった時代ならともかく、
今は広く受け入れられている子をもうけるその方法を厭う理由が皆目判らない。
 病院をあとにし、タカシは馬車に乗り込み家路を急いだ。

 信号で立ち止まると、浮遊した電光掲示板に
『クローン禁止法来再来年春施行決定』の文字が大きく浮かんでいるのが目に留まる。
 額に手をつき、大きく溜息を吐く。
 長らくの間、一部の国民から「受け入れがたい残虐な行為」とバッシングをされ続けていたクローンのパーツ買いが、
ついに法として禁止される運びとなったのだ。
 これに伴い、生体パーツの体の部位単品での製造は可能であるが、
人を丸々と作ることは禁止されることとなった。
 人を丸ごと作るよりも、生体パーツとして人の体の部分部分を生み出すことの方が技術的に難しく、
また金も掛かるために、その技術はあまり浸透していなかった。
 人間は卵子の核を取り除き、人の細胞を中に注入すれば勝手に育つ。
 だが、部分的な育成は、特別な細胞を要し、その権威であった博士が死亡したため――、
殺したのはタカシであるのだが――、パーツ生成が一般の流通に乗るまでに多くの時間が費やされたのだ。
 だが昨年の冬、ついにその技術が完全な形で確立され安定性を持ち、
その手の技術を身につけてきた専門医ならば誰でもパーツ生成を行うことができるようになったのだ。
 と、同時に、クローンは正式に禁止されることとなってしまったのである。
 即ちそれは、再来年冬以降は息子を『再現』できなくなるということだ。
 いかにA社が金持ちであり、そのCEOであるミユキの父が暗躍しようとも、
それなりに大掛かりな施設を要するクローンをこっそりと作り出すことは不可能だろう。
 今、無理やり作ればいい。そう考えるが、しかしタカシには、どこに息子の細胞があるのか、
また脳のスキャンデータがあるのか、それさえ教えられてなかったのだ。
 間抜けな話だと思う。散々『そこに保管してある』とされていた場所にもタカシは立ち入ることを許されなかったし、
許されたとしても、人を生み出すクローン技術には数千万の資金が要され、
ミユキの父のお情けでA社の子会社で身分を隠し平社員として働いているタカシにはそんな大金はなかった。
 タカシが息子を再現するには、ミユキが今すぐ妊娠をすることしか道がないのである。
 なんとしてもミユキには妊娠をしてもらわなくてはならない。そうしなければ、
好いても居ないミユキと婚姻関係を結び『お勤め』を果たしている意味がなくなる。
 ミユキの父が何を考えてタカシを女婿にしたのかは未だ明らかになっていない。
だが、どうやらそれをゆっくりと探っている時間はなさそうだ。急がなくてはならない。

あの男は、ミユキが出産をしなければ再現は行わないと言った。
どんなにタカシがごねても、約束は条件を満たした時にしか遂行されないだろうし、
最悪の場合約束を反故にされる可能性もある。
「チクショウ……」 
 舌打ちをしつ呟いた声は、馬車の揺れる音にかき消される。
 子供なんて欲しくはない。好きでもない女と自身のDNAが交じり合ったイキモノなど愛せるわけがない。
だが、子供が生まれないことには再現は行われない。タカシの息子であったあの子供は永遠に喪われるのだ。
 どんな声をしていたか、どんな顔で笑ったか。
年を追うごとにそれらの記憶はどんどんと磨耗していき、少しずつ日々の忙しさに混じって薄れていくのだ。
 それが恐ろしくて、タカシはを拳を強く握り締めた。
 姉から与えられた、ただひとつの存在なのだ、息子は。
 なんとしてもこの世に呼び戻さなくてはならないのだ。でなければ、タカシがここにいる意味はなくなる。
生きている意味が、ない。
 そうだ、生きている意味なんて、もう疾うの昔に喪われていたのだ。
 息子がいること、ただひとつそれだけがタカシがこの世に生きる意味なのだ。
 たとえ息子が呪われた子だとか、鬼の化身だとか、そんな風に身内から蔑まされたとしても、
姉が死んだあともタカシが生き続けるたった一つの理由だったのだ。
身勝手だと罵られても、息子には生きていてもらわなくてはらないのだ。
 だから、今すぐにミユキを説得しなくてはならない。
なんとしても、人工的な手段に頼ってでも子を産んでもらい、そして早くに息子を再現しなくてはならない。
 馬車が止まった。
 いつの間にか自宅に到着していた様だ。
「着きましたよ」
 御者が扉を開けると、タカシは礼もそこそこに庭へと素早く降り立った。
 結婚と同時に与えられた邸宅は回廊型をしている。
なんとも不便な造りで、タカシはこの家が好きではなかった。
 芝生を踏みしめ玄関へと向かう。その重厚な扉にはすぐにたどり着き、タカシは指紋認証をすべく
指先を小型端末に押しつけた。その僅か数秒の判定にさえタカシは焦れ、そして認証が降りた瞬間に
鍵穴へと鍵を乱暴に突っ込んで扉を開けた。
 なんとしてもミユキを説得する。誓いを胸に、靴を放り出すようにして脱ぎ、上り框へと足を乗せた。

 午後三時を回ったこの時間ならば、彼女は角部屋に当たる『八の間』でお茶でも飲んでいることだろう。
 タカシはすぐさま左を向いて八の間を目指した。
 己の足音がどすどすと醜く響く。ミユキはそのような乱暴な歩みをひどく嫌ったが、
そんなことを気にしている場合ではない。
「ミユキ!」
 歩みを進めつつ、怒気を孕んだ声で女の名を呼ぶ。
 子供を、産ませる。タカシの頭にはもうその考えしかなかった。
 ミユキはただの道具だ。息子を再現させるための手段に過ぎない。
 愛情の欠片もなく、ただ、息子の為の道具に過ぎなかった。それでもいいと言ったのはミユキだ。
だからタカシはそれを利用したに過ぎず、なにも悪くないはずだ。
 種が欲しいのならばくれてやろう。そこに愛情は欠片さえ、ひとしずくさえなかったが、
ミユキは確かに「それでいい」と言ったのだから。
「ミユキ!」
 タカシの濁った怒声に反応するかのように、八の間の襖が開けられた。
「タカシさん、大きな声を、」
「体外受精をしてくれ」
 タカシの乱暴な動作と声に眉を顰めつつ顔を覗かせたミユキは、やぶからぼうに告げたタカシの言葉に、
一瞬唖然としたのち、目を瞬かせて見せた。
 何を言っているのか理解しかねる――、そんな顔に見えた。
 しかし、そう思ったのはタカシのみだったのかもしれない、
 ミユキはぽかんと開けた口をすぐさま引き結び、そして口角を上げて見せた。
「嫌よ、絶対に嫌」
 タカシの鼓膜を振るわせたのはそんな言葉で、ミユキはきっぱりと拒否を示したのち、
優雅に小首を傾げて見せた。
「ミユキ……」
「二人で話し合ったでしょ、妊娠は自然の流れに任せようって。今さらなんなの?」
 ずり下がったストールを引き寄せ、ミユキは「嫌よ」と繰り返した。
 彼女が自然妊娠にこだわる理由が皆目判らない。
 体外受精は今やスタンダードな妊娠方法であるし、差別的に揶揄されることもない。
だというのに一体何故彼女は自然妊娠にこだわっているのか理解に苦しむ。

「時間がない」
 タカシは声をしぼませて正直に言った。
「クローン禁止法が可決された」
「そう」
 だからなんだというのか。そう言いたげな眼差しのまま、ミユキは真っ直ぐにタカシを見つめてきた。
 あれほどまでに息巻いて帰宅したというのに、彼女を説得する言葉はひとつも見つからない。
 どうすれば説得できるのか、どうしたら彼女がその気になるのか。
 渦巻く疑問は、頭の中で膨れ上がり、
だがその無為に過ごした時間からは、適切な言葉を見つけ出すことができなかった。
やがてそれは苛立ちに変わり、タカシはガシガシと頭を掻いた。
 ――ミユキは、これほどまでに物分りの悪い女だっただろうか。
 ふとそんな疑問が頭を掠めるが、しかしタカシは自身が思っている以上にミユキのことを知らない上に、
「どうでもいい人間」とカテゴライズしていることに気がついた。
 なにせ、彼女をその気にさせる言葉を見つけ出すことさえできぬのだ。
「ふふ……」
 静寂を破ったのは、ミユキの笑い声だった。
「ミユキ、」
「あははは!」
 彼女は体を「くの字」にまげて笑い出した。
 折り曲げられ揺れ出した体の向こうにティーテーブルが見え、
タカシはその対となる椅子に座す人物が居ることに、今さら気づいた。ミユキの父だ。
彼は二人の成り行きを黙って見つめていた。
「私、待ってたのよ! ふふ、おかしいわ、タカシさんったら!」
「ミユキ……?」
「私、クローンが禁止されるのを待っていたの! 気づかなかったの?」
 涙の浮かんだ目で、ミユキはタカシを見た。
 ああ、とタカシは今更ながら合点がいったのだ。
今までタカシは、ミユキをただの金持ちのあまり頭のよくない娘だと思っていたが、
タカシ自身もあまり頭がよくないのだと気づかされる。
 ――ミユキは、最初から息子を再現させるつもりなどなかったのだ。

「絶対嫌よ。なにもかもが全て嫌!
人工的に妊娠をするのも嫌、貴方の息子を再現するのも絶対に嫌、娘を産むのも嫌!」
 全部嫌なのよ、とミユキは捲くし立てるように言った。
 回廊の家には光りがあまり入らない。それを補うようにしている擬似太陽光LEDが、
彼女の病的にまで白い肌を照らしていた。
 おかしそうに笑う彼女は口許を醜悪に歪め、「馬鹿ねぇ、タカシさんったら」と言い放った。
「ミユキ……」
「貴方のお姉さんにできて、私にできないはずがないわ。
ねぇ、タカシさん、私が貴方のお姉さんに劣っているわけがないの」
 ミユキは涙で濡れた目元をきつく吊り上げ、そして真っ直ぐにタカシを見た。
 タカシの姉に自分が劣っているわけがない――、そう言い聞かせ、
つまり、彼女はずっと姉に張り合っていたということか。
――姉が自然に妊娠をできて、ミユキにできないはずがない。
彼女の自然妊娠に対する拘りは、そんなちんけなプライドによって齎されたものだったのだ。
 女として情を掛けられていないことを理解しているはずの彼女は、
愚かしくも心の底では姉に張り合っていたとうことだ。
 そんなこと、無駄だと言うのに。
 タカシにとって姉は唯一の存在であるし、他の者にその立場か挿げ替えられることはこの先ない。
 ましてや姉は死人であって、死者が生者より美しく記憶に刻まれているのは至極当然のことだ。
タカシの目に姉よりもミユキが美しく映ることはないし、女として上の存在になることもない。
 ミユキはタカシを侮蔑するような視線を投げ掛けている。その顔のなんと醜悪なことか。
 タカシも口許を歪めて彼女を見た。
「何度か妊娠したのよ」
 ミユキは不遜な態度でチェアへと腰を下ろした。
 彼女の向かいには、彼女の父が座していた。
「……流産しただろ」
「してないわ。妊娠するたびに、堕胎していたの」
「嘘だろ……」
 ミユキの告白に、タカシは頭を振るった。
「本当よ」
 ミユキがなにを考えているのかが判らなかった。
 そしてタカシは、己がショックを受けていることがなによりも意外であった。
 ミユキとの子供など要らないと、確かに思っていたのだ。だがどうだ、堕胎した――、
それも何度か堕胎したと告げられ、タカシは自身でも驚くほどに動揺していた。
「何でだ……」
「女の子だったのよ。女の子なんて要らないわ」
「何故だ」
「女の子なんて、貴方がなにをするか判らないじゃない」

 一瞬、頭が白くなるのをタカシは感じた。
 白くなった思考のまま、ミユキに近寄り彼女の衣類の襟元を掴み手を振り上げた。
「やめろ!」
 成り行きを静かに見守っていた義父が俊敏に動き、タカシの前に立ちはだかると、
その手を掴み、動きを制止させた。
老人の者と思えぬ力強さは娘可愛さ故に発揮されたものか、
枝のような腕はタカシの手首をきつく握り締めたまま、
ミユキを庇うようにして前に立ち、鋭い眼光でタカシを睨みあげてきたのだった。
 ミユキは父が動くのを見越していたのか、のんびりとした眼差しでタカシを見ている。
「タカシ君、ミユキから手を離しなさい」 
 地鳴りのような低い声で言われても、タカシはその手をミユキの襟元からどけることができなかった。
「離しなさい!」

 二度目の命令に、タカシは仕方がなく手を下ろした。 
 ミユキが優雅に微笑んでいる。穏やかな笑顔に無性に腹が立った。  
 タカシは近親者ならば誰もでもいいケダモノと言うわけではない。

ミユキの中ではそれが真実であったとしても、それは実際のタカシではない。
それは、確実に誤解である。
 ――だがそれを弁明してどうなるというのだろうか。
 元々上手く行くはずのない関係だったのだ。
 タカシにとってこの婚姻は目的があってのものであった。ミユキにしても同様だ。
誤解を正すことで修復されるような関係では、元々なかったのだ。
「男の子じゃないと駄目」
 ミユキがぽつりと言った。
「どうしても、男の子じゃないと駄目」
 選択的妊娠で、男児は確実に望める。しかし、彼女のプライドはそれを許さない。
だが、彼女は数回の堕胎を告白したのだから、姉に女性として劣ってるとは言えないはずだ。
 なにが彼女をここまで追い詰めるのかが判らない。
 いや、判っているはずだ、とタカシは考えた。

 彼女は、完璧でありたいのだ。
 誰よりも完璧であって、完璧な子供を産みたいのかもしれない。
望むような、完璧な女、そして母でありたいのかもしれない。
 だがその考えは結局のところタカシの思い込みかもしれぬし、
果たして彼女の心の奥底に巣くう答えが正しいものであるかどうかは判らない。
 それほどまでに、タカシとミユキは完璧とは程遠い夫婦であったのだ。
「貴方に言っても判らないでしょうね」
 彼女の感情の起伏についていけない。怒っていたかと思えば急に聖女のように微笑む。
不安定な精神状態は、タカシのせいなのだろうか。
 そもそも、子を望みながら堕胎を繰り返す精神状態は、真っ当とは言いかねる。
一体何人の子供を堕胎したのだろう。考えただけで、タカシは気分が悪くなった。
「アンタも知ってたのか」
 事の成り行きを見守るようにしていた義父に、タカシは問いかけた。
 ミユキの父と言うより、祖父と行った方が年齢的に相応しいような男は、
シワが深く刻まれた顔を左右に振ってみせる。どうやら彼もミユキの堕胎に関しては知らなかったようだ。
「タカシ君」
 老人がふいに口を開いた。
「水製造機が壊れつつある」
 今、このタイミングでなにを言っているのだろう。
「そんなことはどうでもいい」
 今はミユキの話をしている。娘が堕胎を繰り返していたことを、
この老人はなかったことにするつもりなのだろうか。
 タカシは拳をきつく握り締め、「どうでもいい」と繰り返した。
「君が死ぬより前から、その兆候は見え始めていた。水が戦争の元凶であると怒りを抱き、
テロにあった機体も少なくはない。
襲撃の衝撃によって、君の仕掛けたブラックボックス保護のプログラムが起動して自爆した製造機も数多くある」
「今、その話は必要がないはずだ!」
「三百機あった製造機は、今や百機ほどしかない。それも戦争を経たため、各所にほころびが見え始め、
修理が必要な状態だ。だが、これらは君にしか修理ができない」
「アンタ……!」
「全てを直すことを条件に、君の息子を再現しよう」

「は……?」
「お父様、なにを言っているの!?」
「国は今、修理が可能な技術者を欲している」
「お父様!?」
 ミユキの甲高い声が老人を激しく非難した。
 何故そんなことを言い出すのだ、酷い裏切りだ――、要約すればおおよそのの内容はそんなところで、
今にも始まりそうな親子喧嘩寸前の一方的な金切り声を、タカシはぼんやりと阿呆のようにして見ていた。
「ミユキを壊してしまったのは、私だ」
「お父様!?」
「私は、水製造機の利権が欲しかった。
君が死ねばミユキは必ず君を再現しようとすることは、判っていた」
 ああ、とタカシは納得をした。
 つまり、この老人がタカシと息子のHLA抗原が一致すると、『あの女』にリークしたということか。
 タカシが死ねば、ブラックボックスの中身は隠匿される。永遠に。
タカシが死んだのならば、その中身の謎が表に出ることはない。
 だがどうだ。もしタカシが記憶を保持したまま復活したとしたら。
 もしもその復活ののち、タカシがこの老人の言うこと全てに従う人形であったのならどうだろう。
 タカシは表向きには死んだこととになっている。
 こんなに早くほころびが現れるとは予想外であったが、老人はタカシが死ぬその瞬間には、
もうこの未来を予測していたのだろう。
 製造機は機械だ。いずれ壊れる。メンテナンスを要する状況になった場合、それを行えるのはタカシのみだ。
 タカシの命を握りこむことで、そして息子と言うニンジンを目の前にぶら下げることで、
タカシはいいようにコントロールされるに至ったということだ。
「――チクショウ……」
 最早、怒りさえ湧いてこなかった。
 自分の頭の足りなさにただただ情けなさを感じるだけだ。
「姉貴の血液はどこから得た」
「君の叔父さんからだ」
 なるほど、身内も確かにグルだったというわけか。
 噛み締めた唇から鉄の匂いを感じた。
 「俺を『買った』と言うわけか。あんたは」
 おそらく、叔父には大金が流れたに違いない。
「アンタ、俺を買っただけじゃまだ足りないのか」
 老人はなにも言わない。
「俺の『種』も道具にしたわけか」
 やはり、老人はなにも答えなかった。

 思えば、ミユキは唯一つ、タカシの子供だけを望んでいた。
 タカシに対して彼女が欲したのはそれだけだ。
 老人は、タカシに人間的な情を期待していたのだろう。
 子が生まれれば、それなりに愛情を感じるだろう。
その情はやがてはタカシをがんじがらめにすると考えたに違いない。
 息子の再現を条件に、好いても居ない女と添うことを決めたタカシならば、
ミユキとの間に設けた子もそれなりに愛するだろう、と。
 その子供を人質にすれば、おそらくタカシは言いなりになるだろう、と。
 老人は、タカシを手の内で転がせるとそう目論んでいたのだろうが、だがそれは甘い考えだ。
「だが残念だったな。俺はこうなった以上ミユキと交尾するつもりはない」
「タカシさ、」
「水も記憶も知ったこっちゃない! お前らの馬鹿げた目論見に巻き込まれた自分が情けない。
お前にも、世間にも、うんざりだ」
 タカシの人生は翻弄されっぱなしだ。
 ただの開発者であったのに戦犯と罵られ、そして騙され殺された。
 死んだと思ったら今度は勝手に生き返らされ、二度目の人生を歩み始めたかと思えば、
それは搾取されるためのものだった。
「水も、大戦も俺には関係ない! お前らが勝手に始めたことだ!!」
「タカシさん、」
「俺には関係ない! なにもかも!! 知ったことではない!
好きにしろ、もう好きにしてくれ、だがそこに俺を巻き込むな!」
 肩を怒らせ、心に渦巻くどす黒い熱を撒き散らした。
 タカシは、この老人の支配下で生きている。
 情けないことに、そうしないと生きていけないのが現状だ。
「大戦なんて俺には関係ない! だが世間は俺を戦犯だと罵る!
俺のせいで何人死んだ!? そう問いかけては石を投げる! 勝手だろ!
俺を殺し復活させたアンタが欲しかったのは利権だと!? 人を二人も殺して、
なにを成し遂げたかったのかと思えば、そんなことか! 馬鹿馬鹿しい!」
「君はあのまま生きていたとしてもいずれは殺されていただろう」
「だから『殺して』助けてやったってか。ご立派だな!」
「君が死すれば安全な水は再び供給困難となり、国民の体はたちまち病に侵されることとなる」
「そんなこと、俺の人生にも『あの子』の人生にもまったく関係のないことだ!
勝手に病気にでもなんでもなって死ねばいい!」
「君の命が安全な状態で保たれていれば、苦しむ国民は減るだろう。君の技術は保管されるべきものだ!
その技術は永久に保存されるべきもので、引き継ぐべきものだ!」
 まるで話しにならない。
 老人の語る理想はすべてタカシの人生を犠牲にした上に成り立つもので、
そこに無理やり巻き込まれ、既に僅か三歳で散った幼い命もある。
 憎しみが腹の中で増幅されていく。

「人を殺してまで……、俺は、『そんなこと』をしてまで、
技術を引き継がせるのはおかしいと言っているんだ! 
では俺が再び死んだらどする!? 技術は再び消え行くぞ! クローンは禁止されると決まった!」
「だから君の技術を私に開示しろと言っている」
「……はッ」
 呆れてものが言えなくなるというのは、こういうことだろう。
 ひとしきり怒りをぶちまけたのちに湧き上がったのは、呆れとそれに伴う嘲笑であった。
 この男は、金のことしか考えていない。
 金が全てなのだ。
 ミユキに対して多少の愛情はあるようだが、それも金の為の道具としか思っていないフシがある。
 息子を『再現』すると申し出たのも、『再現』が終わってしまえばミユキが妊娠を諦めると踏んでのことだろうが、
最大の目的はブラックボックスの開示であり、やはりミユキは二の次となっている。
つまり、愛娘に対して『死を望まない程度』には愛情を抱いているようではあるが、
その薄っぺらな愛情でさえ、何かしらの衝撃を与えれば剥離してしまうような脆いものなのではないか、
とタカシは考えた。
 現に老人は、ミユキの体調よりも先に製造機の内部を気にしているではないか。
 ミユキの存在は、老人の中では『二番目』なのだ。
 だが、事がそう上手く運ぶものだろうか。最大の障害はミユキの存在だ。
 再現を厭うミユキが納得するとは思えない。
 ――とはいえ、タカシも老人のことを批判できない程度には薄情なのは確かであろう。
 タカシはどう足掻いてもミユキを愛することはないし、そしてこの先、一切の生殖行為を行うつもりがない。
 ミユキなど、最早どうなっても構わなかった。
 もしかしたら生まれていたかもしれない娘たち、彼女たちのことを思うと胸は痛んだが、
生まれても居らずタカシを『お父さん』と呼んだことのない胎児よりも、
タカシにとってなによりも大切なのは、やはり三歳で無残にも殺された『息子のタカシ』だけなのだ。
 そう、タカシは誰よりも愚かなのだ。
 タカシにとって、息子は全てだ。
 息子が鼻先にぶら下げられたニンジンであるとわかった今、今後息子を再現することは
老人の思い通りに動かされることとなると充分に判っている。

 それでも、騙されていたと判っていても、タカシは愚かしくも望むのだ。
 息子の『再現』を。
「……再現が先だ。そうしなければ俺はアンタにブラックボックスの中身を決して教えない」
「判った」
 老人はあっさりと頷いた。
 もしかしたら、息子の記憶や脳のスキャンデータはないのではないかと危惧していたが、
しかしそれはないようだ。タカシは心中安堵していたが、それは顔に出さぬように努めた。
 二人の間で、取引は成立した。あとは息子を再現させるだけだ。
 だが――、
「冗談じゃないわ!!」
 金切り声が二人の間に割って入った。
「なんで、なんで、お父様、酷いわ、結局お父様、私を利用しただけじゃない! 私のことなんて、
私のことなんて、」
「違う、ミユキ、私はお前のことを可愛いと思っている」
「嘘よ! でなかったらこんな、こんな、酷い! どうして! どうして再現するだなんて言うの! 
そんなことしないって言ったじゃない! 私、私にタカシさんの子供をくれるって、言ったじゃない!」
 耳に突き刺さるような声は、酷い酷いと何度も泣き叫ぶ。
 再現は行われない――、最初からそのつもりであったことに、タカシは驚きなど感じない。
 正直、その可能性は大いにあると考えていたのだ。
 もしもそうされた場合、ミユキが出産した子供を人質にとってでも再現を行うつもりだったのだが……。
「そうしてやりたかったさ! だがミユキ、お前は自ら子供を……、」
「うるさい! 女の子なんて要らないの! 男の子じゃないと駄目なのよ!! じゃないと、じゃないと……、」
「落ち着きなさい」
「絶対嫌よ!! 絶対に嫌! 再現なんて認めない! 絶対に!!」
「ミユキ、」
 絶対に嫌。
 ミユキは勢いよく立ち上がり、そして襖を勢いよく開けた。
 白いワンピースが揺れている。
 いつの日か、タカシを迎えに来たあの日のように、ワンピースの裾がタカシをからかうように揺れていた。
 

***

 ガガガガガ、と大地を大きく削る音がする。
 今日もそこかしこで工事が行われているらしい。
「避難をしたいのよ。貴方にも一緒に居てもらいたい」
 ミユキはチェアに座り込んだまま、轟音にかき消されそうな細い声で呟いた。
「警備アンドロイドも居るだろ。避難したいならすればいいが、俺が一緒に居る必要はない。
そんなに心配なら、二台でも三台でもアンドロイドを増やせばいいだろ」
 タバコを携帯灰皿の上で押しつぶしながらぞんざいに答えると、ミユキは目元を吊り上げてタカシを見た。
「タカシさん、貴方はあの子がどうなってもいいって言うの!?」
 漂うタバコの煙を払い、ミユキは俯いてみせる。
 どうなってもいい? そうなのかもしれない。
 ミユキが『一人』で身ごもった末に産み落とした子供など、タカシには関係のない存在のはずだ。
夫婦相互の同意の上のもとにもうけた子供ではないのだから。
「俺には関係ない」
「酷い……! あんまりだわ!」
「あの子はミユキ、お前が勝手に『一人』で作った子だ。俺は種を利用されていただけに過ぎない」
「遺伝子上は貴方は父親なのよ!?」
「お前の卵子を勝手に利用され、例えば隣の親父が『お前の子供だから育てろ』と子供をつれてきたとして、
お前はその子供を育てようと思うのか? お前が主張するのはそういう話であるし、
お前が俺にしたことはそういうことだ。俺は忙しい。帰る」
「待って!」
 冷たい指先が、タカシの手首を掴んですがる。まるで蛇にまつわりつかれたような薄気味悪さを感じて、
タカシはその指を振りほどいた。
 部屋の出入り口である扉が随分と遠くに感じられる。
 待って、と叫ぶミユキの声に無視を決め込むと、漸く辿り着いた扉を開け放ち、
タカシは素早く部屋を後にした。

 飛び出すようにして玄関を開ければ、暖かい風が頬を撫でた。
 気温は二十度前後。花粉も飛ばずに過ごしやすい気候だ。
 他国の侵入に備えて上空をシールドで覆うようになったのは数年前のこと。
それと同時に、大日本帝国内の全ての気温も暑すぎず寒すぎずの気温に統一される技術も導入された。
今ではこの国は一年中『春』なのだ。なんとも不自然であるが、人の体は楽なほうへと流れ行く。
 それでも春を感じられるのだから、不思議なものである。 
「タカシさん」
 春の匂いに一瞬だけ気を緩めたタカシを不快な現実に引き戻したのは、
工事の低周波でもなく、少しばかりまぶしく網膜を刺激する日光でもなく、
自身に呼びかける、まだ幼い声だった。
「タカシさん、こんにちは」
 ミユキのものとは異なる、明らかに幼い男児の声は、しきりにタカシを『タカシさん』と呼び続けた。
「あの、タカシさん、話があるの!」
 無視して歩き出すタカシに近づくべく、足音は必死といった様子で追いかけてくる。
 ――気味が悪い。
 タカシは喉もとまでせり上がってきた言葉を寸でのところで飲み込むと、漸く観念して立ち止まった。
 茶色く変色した芝を踏みしる足音は次第に近づいてきて、それはタカシの嫌悪も知らずに、
リズミカルに音を奏でていた。
「おいついた!」
 はあはあと息を切らし、その子供はタカシを見上げ、そして汗で湿って張り付いた前髪を
乱暴に掻き揚げるとニコリと微笑んでみせる。
「あのね、」
 小さな手はタカシの手の甲を掴む。
 それは、何と言うことはない、ただの『親子』のスキンシップである。
だがタカシは、その柔らかい感触に物理的な、ゾワリとした不気味な塊が
背筋を辿って頭のてっぺんまで流れていくような感覚を覚えた。

「……忙しいんだが」
「ごめんなさい。あのね、」
 子供はもじもじとして、もったいぶった仕草でタカシを上目遣いに見た。
「……忙しいと言っただろ。話が無いのなら帰る」
「あ……っ」
 掴まれた手をするりと抜き取って、タカシは待たせている馬車へと向かって再び歩き出す。
「ま、まって!」
 今度こそ返事をせずにタカシは歩く。早く、一秒でも早くこの家から、この子供から逃げ出したかったのだ。
 風にあおられて、子供が愛用している赤ん坊用のシャンプーの香りがした。
 その匂いさえ気持ちが悪くて、気がつけば掌は、口と鼻を覆っていた。
 子供は、妻が一人で身ごもった子供だった。だが確かに四十六本の染色体のうち、
二十三本はタカシに由来するそれを持って生まれてきた子供であった。
 遺伝的には確かにタカシの子供である『それ』は、母親に倣ってタカシを『タカシさん』と呼ぶのだ。
それがどうにも気味が悪くて好きになれなかった。
 タカシは無視を決め込んで芝を乱暴に踏みしめながら足早に馬車へと向かう。
 ――五歳。可愛いさかり。
 世間一般ではそのように呼ばれているのだろうが、タカシには彼をそのように思えなかったし、
おそらくこれからもそうは思えないまま年を重ねていくのであろうと言う確信があった。
 実子を愛せないタカシを欠陥品と呼び詰る人間は多い。
だが、知らぬ間に種だけ採取され、
いつの間にか妻が『独りでに』身篭った子供のどこをどう愛せばいいと言うのだろう。
 妻でさえ今はただ忌々しいだけの存在なのだ。いや、妻と呼ぶのもおぞましい。
 妻――、ミユキは、ある日勝手に妊娠をした。
 ならば最初から体外受精をすればよかったものの、
六年前、そう、老人がタカシの息子の『再現』を申し出たあの日だ、その直後に、
彼女はあれほど厭っていた人工授精を『勝手』に行ったのだ。
 最早妻がなにを考えているのか判らなかった。
 いや、最初から互いを理解できるような関係性ではなかったのだろう。
 半ば強制的な、それも人質――、つまり息子のスキャンデータだ、を取られた上での脅迫めいた結婚に、
最初から愛情などない。

「帰る。自宅に向かってくれ」
 御者に告げると、彼は目を泳がせたのちに、ひとつ頷いて見せた。
 庭に乗り入れた馬車は厩舎に収められることなく乗り付けられたままとなっており、
それは早々にこの場所から立ち去ることを態度でミユキに、そしてこの子供に周知させたものであった。
 『妻子の住まう家』には十分ほど前に到着したばかりであったが、今日の『お勤め』はもう済ませたのだ。
長居する理由はなにひとつない。
 週一で顔を出してやっているだけ、ありがたく思ってもらいたいものである。
「タカシさん、あのね……!」
 馬車の外から、男児の声が響く。
 その必死の声に愛情のかけらも抱くことができなタカシは間違っているのだろうか。
いや、そんなはずは無い。
 タカシは馬車の内部にしつらえられたカーテンを開き、そして冷ややかに「離れなさい」と言い放つ。
「タカシさん、でも、」
「でも、じゃない。忙しいんだ」
「でも……」
「離れなさい、ショウタ」
 子供の――、ショウタの『あ』の形に開かれた口が静かに閉ざされ、そして小さく「ごめんなさい」と謝罪した。
真っ白い真珠のような小さな歯が、日光に反射して光っていた。
健全なそのつやつやとした輝きでさえどうにも不気味に見え、嫌悪感が募る。
 タカシがミユキに対して抱く感情は最早嫌悪しかなく、
その子であるショウタを見つめる瞳も冷たいものとなる。
 ショウタに罪が無いのは判っているが、抗いがたい嫌悪感にまみれた感情は、
どうしても拭い去ることが出来ず、この幼子を傷つけずに済ませる道は今後一切の接触を絶つ意外には
考えられぬというところまできていた。
「離れなさい」
 もう一度言うと、眉を八の字にしたショウタは震える声で再度「ごめんなさい」と謝罪した。

 丸い頬に、小さい手足。赤ん坊という生き物から人になったばかりの頼りないシルエットが静かに揺れる。
不完全な体は、だが、その端々に確かにタカシの遺伝子を引き継いでいると主張するように、
どことは断言できぬ微妙な体の部位、例えば四肢のラインやまつげの生え方、そのような些細な部位が
あの子……、たった三歳で強制的に人生を終了させられた『あの子』に似ているのだ。
 本来死んだ子に似た部分は好ましく思うものなのであろうが、姉の遺伝子が組み込まれていないショウタに
『あの子』と似通った部分があることが憎々しく思えてならなかった。
 そう、ショウタ自身にはなんの罪も無いにもかかわらず、
この一個の生命体が、ミユキの身勝手な想いのもと産み落とされた存在だと思うと、
どうにも受け入れがたいものとなるのだ。
 ショウタは遺伝子的にはタカシの子供であろうが、しかし姉の子供ではない。
 だというのに、何故こんなにも、そう、時折見せる表情でさえ、かすかに似通っているのだろうか。
 あの気持ちの悪い女、ミユキの血を引いているというのに。
 気持ちの悪い子供、気持ちの悪い妻、そして幼子を厭う自身、その全てが気味悪かった。
 馬車に乗り込み、天井からぶら下がった鉄のパイプ越しに「出してくれ」と御者へと告げる。
「ですが、お坊ちゃまが……、」
「いい、出せ」
 同じパイプから響く不満げな声に有無を言わせ命令を下すとタカシは口を引き結んだ。
 この御者も回廊の家で働く使用人たちも、誰も彼もがショウタを哀れんだ。
実の父に冷たくあしらわれる幼子に同情しない人間など居るはずもないだろうが、
タカシはそんな非難の視線すら気にならぬほど、とにかくショウタを受け入れられずに居た。
「出せ」
 再び強い口調で告げると、馬車はのろのろと発進する。
 窓の外で、「タカシさん」とくぐもった声が聞こえたが、タカシは窓のしつらえられたカーテンをめくることもせず、
ゆっくりと嘆息すると目を瞑った。
 もとより崩れていた思考とその感情が、端からほつれていきいつかバラバラに、完全に分離して
嫌悪だけが生き残って、まるで自身が鬼かなにかになるのではないかと、タカシはそんな馬鹿な危惧を抱いていた。

 ――どうにも息苦しい。
 この屋敷に赴くと、タカシはある種の息苦しさをいつでも感じるのだ。
 結婚当初に、妻の父から与えられたものであったが、不便極まりない造りで、
住み始めから住み終わりまで、
ついに好ましく思えることが一度としてないまま、タカシはこの家での生活を終えた。
 ショウタと一緒だ。
 屋敷にも、ショウタにも、息苦しさしか覚えぬままタカシはこの家を出たのだった。
赤ん坊のショウタが真っ黒い瞳でタカシを見上げたことを覚えているが、
その護るべき幼い顔にさえ、愛情を抱くことが出来なかったのだ。
 馬車の振動が太ももの裏に響く。
 こっそりと窓越しに背後を見やると、回廊の家の二階の窓、そこから、
幽鬼のごとき表情を浮かべた女のぼんやりとした影が見え、背中がぞっとするのを感じる。
 徐々に遠ざかる回廊の家はやがてはるか彼方にポツンと見えるばかりとなり、
タカシはその芥子粒のように小さくなった輪郭に、漸く安堵したのだった。
 この屋敷にタカシが戻ってくることは殆どない。週に一度か、或いは二週間に一度、
もしくは月に一度。タカシは「用事がある」と呼びだれることが無い限り、
屋敷の近辺へと近寄ろうとさえしなかった。
 タカシが本日ここを訪れたのには、もちろん呼び出しがあったからで、
その内容がどうにも物騒であったからだ。

 ――ショウタの命が狙われている。
 電話越しに激しくまくし立てられた内容は要約するとそんなところであった。
不気味という感情しか抱けぬ子供であったが、如何せん命が狙われている、
などとと告げられれば心配する程度の情はある。
 ミユキが告げた内容を端的にまとめると、
「近頃、ショウタの通う幼稚園へと脅迫状が届いた」と言うことだった。
 この何もかもがデジタル化される世の中で、脅迫状とはなんともレトロな話である。
 さっさと犯人を特定しなくては困る、とミユキは叫んでいたが、タカシにはおおよその目星はついていた。
 この国を戦争へと導いたとして、終戦から数十年経った今も水製造機を敵視する団体が数個ある。
おそらくそれらのうちのどこかに違いない。ショウタがA社の御曹司であるという話がどこからか漏れでたことによって
そのような物騒なものが送りつけられるに至ったのだろう。
 ――A社がアンドロイド製造の片手間に水製造機のメンテナンスを行うようになって六年経過した。
 当初は戦争を導いたとして水製造機に対して憎しみを向いていたテロ集団であったが、
今では標的を『A社メンテナンス部門社員』へと鞍替えし、A社本社ビルの前で怪しい動きを見せては
警備アンドロイドに拘束されるというパフォーマンスを連日繰り返していた。
 それに伴いA社の株価は下落、
その上、他社のアンドロイド開発も追い上げを見せたことから窮地に立たされていることもあり、
今や本社勤務となったタカシは、遺伝子上の息子のことなど二の次にしおなければなぬ程、切羽詰っているのだ。
「まずは抗議団体をどうにか片付け、それからショウタのことだ」
 ぽつりと呟いた自らの声は、驚くほど冷ややかで、それが妙に居心地悪く感じ、
タカシは備え付けのコーヒーメーカーから黒い液体を注ぐとそれを飲み干した。
 紙コップをダストボックスに放り込むと、再び嘆息し目を瞑る。

 連日行われる小規模な抗議デモがブランドイメージを低下させていることは確実だろう。
メンテナンス部門の社員の中には、危うく誘拐をされかけた者も居るという。
ブランドイメージの低下も問題であるが、人命に危機が及びかねない状況のほうが問題としては大きかった。
 しかし。
「それも、あと少しの辛抱だろうが」
 そう、手を拱いてばかりいるA社ではない。
 ここ数ヶ月の間の異常な賑わいを見せた抗議活動は、一年もすれば収束の兆しをみせることだろう。
抗議活動の類は、時期はまちまちではあるが、これまでも幾度かランダムに行われていた。
 問題は抗議などよりも、社員が誘拐されかけた、という事実のほうだ。
 今までいかに過激な活動をされたとしても、さすがに誘拐されかけるような社員はいなかった。
 社員を特別大事にしている、というわけではない。
 メンテナンス部門に属する人間は、それぞれ重要機密を抱えており、つまりそれは、
ブラックボックスの秘密を知っているということにつながる。
 秘密はパズルのピースのごとく細分化され、メンテナンス部社員の全てを集めないことには
秘密が意味を成すことはない。だが、万が一の可能性を考え、早急に対策を練る必要があった。
 団体を一斉清掃という手立ては流石にない。それはもう殆ど、団体の壊滅を意味しており、
血が流れることは必須であろう。ブランドイメージの低下どころの話ではなくなることは確かだ。
 だからA社は、社員の安全を確保できるだけのあるプロジェクトを立ち上げたのである。
 プロジェクトの名は『箱庭』
 それは、A社だけではなく、国防までをも視野に入れた盛大な作戦であった。
まずは今現在、A社が晒されている脅威から身を守るために発足されたプロジェクトであるが、
いずれは国の防衛までもを見込んだ計画だった。

 プロジェクト内容は名前のまま、つまり、擬似的な首都を作るという、壮大な目くらまし計画だ。
 先の大戦で焼け野原となった京都府を頑丈なセキュリティで固めて復興させる――、
端的に言えばそのような計画であったが、復興した都市に住まうのは、人ではない。
アンドロイドが住まい、政治を行い、病院を運営し、そしてアンドロイドが学校に通うのだ。
 国の中枢が集約された首都を新たに形成し、本物さながらに運営される巨大都市。
しかし実のところ、そこへと通い、或いは生活を営むのは政治家とその子に擬態したアンドロイドだ。
 実際の政は別の都市で行われ、そして子供たちも、国に用意された代替地へとこっそりと通う。
 万が一、再び炎がこの国を覆い尽くしたとしても、ダメージを最小限に抑えるべく、
ダミー都市を置くというわけだ。
 終戦後、そのような計画は確かにあって、再び訪れることが予測される災厄に備え、
かついて大日本帝国国防軍としてこの国を守り抜いた男たちの子孫に、
アンドロイドを密かに紛れ込ませという無謀な計画を国は遂行してきた。
 アンドロイドをどうするかまでの見通しは立っていなかったのが、今回の箱庭計画の発足に伴い、
漸くその使い道の目処が立ったというわけだ。
 そんな理由から、タカシは確かに忙しくもあったのだ。
 一分、いや、ほんの十数秒でさえ、
遺伝子上の息子と、そして戸籍上だけのつながりしか持たぬ妻へ注ぐことが厭わしかった。
 タカシにはやるべきことがあった。製造機のメンテナンス。そして部門をまたいでの箱庭計画への参加。
 それらの全ては――。
 馬車が速度を緩めていく。
 どうやら、あれやこれやと散漫に思考しているうちに、かなりの時間が経過していたようだった。
 車輪が小石に乗り上げ、ほんの少しだけバウンドすると、その後そろりと停車する。
 それから御者が馬車から一旦降りる音と、そしてタカシの横へと車外から近づく気配がした。
「お疲れ様でした。到着です」
 開け放たれた扉の前で、御者が恭しく頭を下げていた。
腹の中ではタカシのことをぼろくそに罵っているのだろうが、知ったことではない。
 メンテナンス業、そして箱庭計画。
 多くのことについて「どうでもいい」「面倒だ」と無気力であるタカシが必死で時間をやりくりするのには、
それなりの理由があった。

 降り立った先、赤茶色のレンガを革靴で踏み、タカシは頭上を見上げた。
空を射抜く勢いで高く伸びるビルの窓は空模様を反射しており、鏡のようだ。
実際には十階建のマンションは、上空からのテロに備え、十階以上を虚実の映像で補われている。
その、セキュリティオプションを最大限に盛り付けたその部屋の八階、
その中央の部屋がタカシの住まいであった。
 警備アンドロイドの瞳が一瞬の間にタカシの顔をスキャンし、登録された人物であると確認をする。
彼らの横をすり抜け、エントランスも同様に、
そして玄関からまっすぐ伸びた廊下の先にあるエレベーターへと飛び乗った。
 まもなく到着した八階のフロアを、足早に進んでいく。辿り着いた自宅の玄関扉の脇にしつらえられた
網膜スキャンに瞳をかざし、それが認証されると、ほんの僅かな音が開場をしめした。
 扉が完全に開くのを待たずに、タカシは自宅へと滑り込んだ。
「ただいま」
 タカシがハードスケジュールを望んでこなすのには、意味があった。
 水など最早どうにでもなってしまえ。そんな風に思っていた時期もあったが、今は違う。
 子供には、安全な水が必要だ。箱庭もそうだ。子供の身の安全を確保するためには、
それなりの環境が必要なのだ。
 革靴を脱ぎ捨てると、部屋の置くから小さな足音がした。
 「お帰りのようですよ」という女の声は、五年前に導入した女性型育児アンドロイドだ。
「……おとうさん!」
 子供の高い声が響くと同時に、それは飛び込んできた。
 さらさらとした髪がタカシの手の甲をくすぐった。髪が細いのは『あのひと』に似たからかもしれない。
「おかえりさない!」
 タカシの腰にぎゅっと抱きつくのは、一人の男児。年齢は五歳。
 ――死んだ三歳のあのときから、二年未来を生きている、かつて『タカシ』と名づけた幼子だった。
己の遺伝子と、そして最愛の姉の遺伝子を引継ぎ、記憶までをも完全に『再現』された子供。
 その男児を抱き上げると、タカシは微笑んだ。
「ただいま、シュウ」
 最愛の子供が、そこに確かに生きていた。

今日はここまで。
保守してくれた人、ありがとう。助かります。
遅くなってすみませんでした。

おもしろかった!
続きが気になる

来てた!乙!
あれだな…もう一度読み直すのは相当時間かかるし完結してからにしよう

来てた!お疲れ様です、どうもありがとう!!!
今までの謎がどんどん繋がっている感じがして、今回も面白かったです。

のんびり待機保守

ほしゅ

セルフ保守

セルフ保守

保守。楽しみに待ってるよ~!

来てたの気づかんかった
今回も面白かった、おつ

来てたの気づかんかった
今回も面白かった、おつ

次はいつかなー

ほしゅ

まだだ!まだ終わってない!

「ぼん!」
 技師の声が響く。
 スローモーションのように再生される目の前の映像には現実味がなく、
身動きの取れぬタカシはただじっとその様子を見守っていた。
 ショウタの手に握られたメスは、暗い照明を反射して網膜に焼きつくような光を放っている。
 細い腕が振り上げられ、その力がどこへ向かうのかも理解できぬまま、成り行きを見守るしかない。
 自分は刺されるのだろうか――、漸くそんな考えへと思考が到達した瞬間には、
その銀色の凶器は柔らかな皮膚へと深く深くめり込んでいた。
充分に刃が肉の内部へと落とし込まれると、それは次第にスライドを続け、
やがて十センチ程度の窓を作った。
 本来暴かれることのない皮膚の内側が、ぱっくりと開け放たれた窓から顔を覗かせて、
飛び散った血液はタカシの頬をしとどに濡らしていく。
 赤いフィルムで視界を覆われたかのように、世界の色が変わっていった。
 目に飛び込んだ血液は、明瞭な視界を奪い去り、目の前の出来事を輪郭でしか把握させてはくれない。
 肉が切り裂かれた。それだけがはっきりと把握できる事実であった。
 ――ただしその矛先は、タカシ自身に向かうことは無く、つまり彼の予見は見事に外れ、
メスは振り上げた本人、ショウタの腹を切腹のごとく真横一文字に切り裂いていたのだった。
 凶器は腹にめり込んだままだ。噴出す血液は瞬く間に床を赤い海に変えていく。
 医師が舌打ちをし、ショウタの手を強引に押さえた。
「動かすんじゃない。下手に動かすと、損傷が酷くなる」
「……いい……」
 か細い声で、ショウタは歯を食いしばりつつそう告げる。
「もう、いい」
「いいわけが無い。私は医者だ。目の前の怪我人を放っておけるわけが無い」
「もう、いい。疲れた」
「いいから、メスから手を離したまえ」
「いやだ……」

 離せ、離さぬという攻防はいつまでも続き、
その間も傷口からは血液が湧き水のように吹き出ては滴り落ちる。
やがて鉄臭さが鼻腔にまとわりつく程の血だまりが出来上がった頃、
ショウタの手からするりと力なくメスが零れ落ちた。
「坊ちゃん、いい子だ。今から止血を行い、同時に人工血液を輸血する。いいね?」
 医師の声が少しばかり上ずって聞こえるのは、気のせいではないだろう。
彼は赤く染まった掌を浮かせ、傷口を窺ったのち、小さなため息をもらすと「無茶ばかりする」と呟いた。
「もう、いい」
「よくない」
「いい……疲れた」
 疲れた、とショウタはしきりに言う。
 疲れた、疲れた。
 肉体的な疲れではなくて、精神的な疲れを告げていてるのであろう。
 ショウタはまだ子供だ。
 そう、子供なのだ、と唐突に理解した。
 判っていたはずの事実だが、それがはじめてストンと胸に落ちるような、奇妙な感覚。
タカシは、判っていなかったのだ。いや、判るはずもなかった。
ショウタは、タカシの子供なのだ。
「違う……」
 そういうことではない、とタカシは首を振った。
 血の海を見つめながら、かろうじて記憶の片隅に張る居ているかのような、
薄く崩れそうな感覚を感じ取っていた。
 ――これは、なんだ。

「返さなきゃ……」
「黙りたまえ」
 医師が細心の注意を払いつつ、ショウタの体を横たえた。
 細い手足がどんどん血の気を失い青白く染まっていく。
 その壊れそうな細さは、成長期さえ迎えていない少年の手足に他ならなかった。
 手足だけではない。よくよく観察を繰り返してみれば、ショウタの体はなにもかもが幼くて小さい。
 彼の年齢さえ碌に知らぬタカシであったから、それが年相応の体格なのかどうかは判断しかねたが、
骨の上に乗っている肉が、あまり多くはないことは安易に理解できた。
 ――何故、それほどまでにか細い体に無体を働けたのだろう。
 いくら記憶を書き換えられていたとは言え、理性の部分でセーブが効きそうなものだ。
 現にタカシは今、とても『焦っていた』。それは記憶の書き換えに付随するものではなく、
このシーン、つまりこの状況に応じて産み落とされた、今のタカシ自身からなる感情のはずだ。
 それは即ち突き詰めれば、タカシは『選択』の自由がないわけではなく、行動は自身の感情と理性の元に
コントロールが可能であると言うことに相違ない。
 タカシは、自身の選択でショウタを組み敷き穿ち、そして痛めつけたことになる。
 混乱、動揺、そして焦り。 
「返さなきゃ、駄目……」
 意識が混濁しているのか、意味不明な言葉ばかりを繰り返すショウタを、タカシはじっと見つめていた。
「かえ、す……」
 ショウタは自らが作り上げた肉の窓に指を伸ばしつつ、うわごとのように『返さなきゃ』と呟き続けた。

「返さないと、全部……」
「やめたまえ。これ以上の勝手は医師として承服しかねる」
「せんせい……」
「なんだね」
「あれ、こいつに返す」
 青白く変色した指先が、医者の指を掴む。蝋のように白い指先とは対照的な赤さに怖気が走る。
 現実味なく過ぎ去っていくやり取りは、
まるでタカシとは関係がない世界の出来事のように完結しているくせに、恐怖だけは明確に迫り来るのだ。
 行き場のない恐怖に、冷や汗が滴り落ちるのを、タカシはなんとかやり過ごしていた。
「判った。そのために腹を裂いたのかね。……無茶苦茶だ」
「痛くないよ」
 ただ体が思うように動かなくなるだけ、とショウタは呟いた。
「そういう問題ではないのだよ」
 医師は眉間によった自身のシワを伸ばすべく、血塗れたままの指先を額に押し付けると、
もう一度、「そういう問題ではないのだ」と繰り返した。
「止血する。体を動かすことの一切を禁じる。君、手伝いたまえ」
 技師はハッとした顔で頷くと、医師の傍らに膝をついた。彼のパンツが血の色の染まるのにも、
そう時間は掛からなかった。
「……例え君の体の五割がメカニカル化されていたとしても、
現にこうして君の体は君自身の『生命の危機』を訴え血を流している」
「え……?」
 思わず呟いた自身の声に、タカシ自身が最も驚いていた。
「タカシ君。坊ちゃんの体は君の体と然して変わりない。
半分が機械なのだよ」

 ビニル製の手袋を嵌めた医師は、ショウタの腹の中に躊躇することなく指先を突っ込んでいった。
 慎重に、内部に差し入れた指先を蠢かせている。
 ――一体何を『探して』いるのだろう。
 医師はこともなげにショウタの体の半分が機械であると告げ、そして奇妙に指を動かし続けている。
 なにをしようと言うのだろうか。
「……痛くはないかね」
「機械の体が、痛くなるわけないじゃん……大丈夫」
「何度も言うが、そういう問題ではない。
君は馬鹿ではない。私の言いたいことを理解しているはずだ」
「大げさだなぁ……」
 掠れた声は、微かに笑い声を含んでいたが、どうにもタカシには、それがとても不思議に思えた。
「メカニカル化された体と言うのはかなり頑丈で、多少の無理は利く。
だが、君は今動くこともままならない。それは体への負担がかなり重いと言うことだ」
「知ってる……」
「機械部分はどこかしらが損傷すると、生身の部分に麻酔薬を流出させる。
その場で負傷者を眠らせて損傷部位の破壊がそれ以上進まないようにするためだ」
「それも知っているってば……、まって、せんせい、くるしい」
「ああ、すまない」
 そう医師が答えると同時に、彼の手は動くことをやめた。
「……あった」
 たった一言だけそう告げると、医師は来たときと同じようにして手首を慎重に動かしながら、
ショウタの体外へと出ようとしているようだった。
 しかしその手には何かが握られているのだろう、皮膚の下で、時折ふくらみが移動するのが見て取れた。
「つまり君の体は損傷している。かなり深くね。わかるね」
 ショウタは静かに頷いて見せた。

「坊ちゃんの体は――、」
 彼は作業を続けながら、再び口を開く。
一瞬だけ投げられた視線により、これから紡ぐ言葉は全てタカシに向けるものだと推測できた。
「――坊ちゃんの体はね、あえてメカニカル化されたものなのだ。
いいかい、体の部位の殆どは生のパーツを作ることができる。なんにでも変化できる細胞が最近みつかってね。
つまり再生医学の始祖とも呼ばれるある博士が開発したそれよりも、より簡単に体を再生できる技術だったのだ。
だが坊ちゃんはあえてそれを拒み続けた。こと内臓に関してはね」
「何故……」
 医者の口ぶりから、ショウタの体がメカニカル化されているその理由は、
彼の無茶な行動からなる度重なる損傷とはまた別問題なのだろうということはタカシにも理解できた。
「何故ですか」
 喉が渇いて、言葉が上手く発せない。喉と喉が張り付きそうだった。
「先生、その話はいいよ……」
「君の所為だ、タカシ君」
「先生……」
 ショウタの手が弱々しく動き、血塗れたままのそれは医師の白衣を掴む。
 だが、医師はその制止をやんわりと拒絶し、そして言葉を続けた。
「君が『そう』なったのも、坊ちゃんが『こう』なったのも、元を辿れば全て『昔』の君の所為だ。
『今』の君には罪はないが、私は『昔』の君のことが反吐が出るほど嫌いだ。
……坊ちゃん、大丈夫かね。君の腹から私の手を出すよ」 
 医師の手の動きが止まった。
 ちらりと一瞬だけタカシを見遣り、そして医師は確認するようにショウタに向き直った。
 互いに目だけで合図をしあい、そして下された決断は『続行』であるようだった。

 タカシの知らないなにかが動き出そうとしている予感はあった。
そしてそれをタカシが拒否できる類のモノではないという予感も、
タカシにとって都合の悪いものであろうことも。
タカシの精神面に嫌な引っかき傷を残すことは、おそらく確実である。
「私はね、『昔』の君が大嫌いであったが、それでも坊ちゃんを救ったことだけは評価している」
「救った……?」
「君は、テロに会った際、坊ちゃんを助けた。君の一人目の息子、シュウ君と両方ね。
……これが君の全てだよ、タカシ君」
 ショウタの腹から腕を抜き取ると、医師はタカシにそれを見せた。
彼の指先につままれていたものは、小さなカプセルだ。それは銀色で、滑った血液でてらてらと濡れている。
 鉄の匂いが鼻の奥を突く。嫌な匂いだ。そしてよく知っている匂いだった。
「ここに、君の全てが詰め込まれたチップが入っている。頭を少しだけ開いてこれを接続させれば、
君は『昔』の君の記憶と今の君の記憶が交じり合って再び新しい君になる」
 ――どうするね。
 医師は選択肢のない問いを投げ掛け、タカシの返答を待っていた。
 答えなど決まっている。タカシは全てを知らなくてはならないのだ。

 流れ出た大量の血液の中に、ショウタが沈んでいた。
 血の気を失った顔は青白く、まるで死人のようだ。時折揺れ動く睫と、僅かに上下する腹によって、
彼がまだ辛うじて生きていることが判った。
 辛うじて――、タカシには、ショウタの命の灯火は今にも消えうせんばかりに見えるが、
医師も技師も慌てた様子はない。
 ならば大丈夫なのだろが、ショウタの顔はあまりにも青白く、
観察を続けることは、タカシの精神衛生上難しいことだった。
 タカシは椅子に座り込んだまま、死体のようなショウタからゆっくりと視線を外した。
「動けるかね」
 問われ、タカシは否と答えた。
「どこか損傷でもしたのかもしれないな」
 医師はタカシの体を検分しようとしているのか、衣類に触れた。
彼の行動を遮ったのはショウタだった。
「解除、D、A、Y、L」
 か細いショウタの声がそう読み上げた瞬間、体のこわばりがカクリと抜け落ち、
勢いあまったタカシは体全体が滑落していくような感覚を覚えた。
「もう自由に動けるよ……」
 はぁ、と大儀そうに嘆息したショウタは、それきり血溜まりの中で目を瞑ってしまった。
「君、坊ちゃんの傷は塞がったかね」
「一応」
 医師は短く技師に尋ね、技師も短く返答をした。
 タカシは二人の会話を右から左へと聞き流しながら、確認するようにゆっくりと手を開閉を繰り返す。
 自由に動く。
 続いて足を軽く動かす。そして上半身を。
 ぎこちなさは残るものの、全ての部位の稼動が確認できた。

「なるほどね……機械部分に制御をかけたわけか。Do as you like――、お好きにしなさいってか」
 ――自分勝手が過ぎるぞ、ぼん。
 技師が心底軽蔑した声でそう吐き出した。
 タカシには、どうにも医者と技師の立ち居地が判らなかった。
時折ショウタを批判し、また次の瞬間には過去のタカシを軽蔑と共に非難する。
 二人が二人とも、ショウタにも、タカシにも完全に味方をしているわけではないのは確かだが、
彼らが何故そのようにフラフラとしているのかが理解できない。
「もう手に負えないのだよ」
 タカシの疑問を汲み取ったかのように、医師が口を開いた。
「私はもう、君の記憶に手を加えたりはしたくなかった。
坊ちゃんがこれ以上君の頭を弄れといっても拒否するつもりではあった。
だが、彼が記憶を戻せと言うのならば、それは君にとっても坊ちゃんにとってもいいことだと考えた。
欠けていても不自然、補うことも不自然、どとらも自然とは言いがたい状況ならば、補われていた方がマシだろう。
それに、おそらく……」
 そこで医師は言葉を切った。
「聞こえるかね。いや、この地下では聞こえるはずがない。私の幻聴だろうか」
 医師の視線がつい、と天井に向かう。
「――再び、そう遠くない未来に戦争が始まるだろう」
「え……?」
「この国の防衛網は破られた。完璧とされていた防衛網が、だ。
密かに大日本帝国国防軍も動き出している。私は有事の際、軍医として借り出されることとなっていてね、
その通知がつい先日届いたのだよ。大昔の言い方で言えば『赤紙』とでもいうのだろうか」
「そんな……、」
「だから、私がもし死んだとしても、君と坊ちゃんが困らないようにしておきたい」
「困らないように……?」
 ぼんやりとして追いつかぬ思考のまま、阿呆のようにタカシは医師の言葉をリピートした。
「坊ちゃん、『箱庭遊び』はもう仕舞だ」
 医師の右手に注射器が光る。
 透明の液体で満たされたそれが、タカシの腕へと向けられた。
 今、ここで意識を失うわけには行かぬ。そんな気がしたが、医師は容赦なくタカシの腕を押さえつけに掛かった。
「ま……っ、」
 待ってくれ、話がある。
 そう紡ぎかけた唇は、腕からタカシを犯す液体に遮られ、
だらんとだらしがなく開け放たれたまま沈黙することとなった。
 訪れた抗いがたい睡魔に、タカシの意識はゆっくりと落下していく。
 深い深い意識の底へと、魂ごと落ちてゆく感覚は、恐怖とも、あるいは微弱な好奇心ともつかぬ、
奇妙な感覚だった。

きょうはここまで。
なんか……ほんとすみません……。
2ヶ月ルール突破しちゃってるけど大丈夫なのかな。
保守してくださった方、ありがとう。
あと3回くらいで終わらせたい。

きてた!
まってた!
まってる!

きてた!!乙です!!
相変わらず読み応えあって面白い。続きも待ってる!!

セルフ保守

のんびり待ってる保守

追いついてしもた
予想外にSF展開でワクワク

待ってる

待つわ~いつまでも待つわ~

ほしゅ

***

 子供は無邪気なものだと思う。
 親の思惑やら腹に抱えた葛藤やら、そう言ったものの一切を挟まずに、子供同士で勝手に仲良くなっていく。
「シュウ、あまりはしゃぐんじゃない」
「うん」
 後部座席を振り返ると、頬を真っ赤に染めるほどに興奮しきったシュウが居た。
その横に座るのはショウタだ。
 好きなヒーローの話で盛り上がる二人には、
運転席と助手席に座る両親の刺々しい空気に気づいていないようだった。
 車のフロントガラスの端に浮かび上がった英数字は、気温二十度、湿度四十%を示している。
一年に渡って気候が統一されているこの時代において、この機能の必要性がよく判らない。不要な機能ではないか。
そんなことを散漫に考える余裕は充分にあるが、如何せん遠すぎやしないか、と言うのが率直な感想だ。
 安全補助装置の付いた車を運転し始めて漸く一時間が経過したところであるが、目的地は未だに見えない。
大人が退屈をしているのだから、そろそろ子供たはぐずり始める頃――、
と思いきや、その気配は一向に見えず、できたばかりの友達とはしゃぎ続けていた。
 暢気なものである。
 空は真っ青で快晴。子供同士の初の顔合わせにはもってこいの天気であるが、
だがしかし、タカシの気持ちはどうにも晴れず、
ため息を口の中で作ってはなんとか飲み込む、ということを繰り返していた。
 ショウタの通う幼稚園に脅迫状が届いたことに伴い、
ミユキはいつにもましてぴりぴりと神経を尖らせ、幾度も避難を希望する電話をよこしてきた。
 昼夜問わぬ気がふれたかのような電話攻撃に、タカシはついに観念し、こうして仕事をパソコンに詰め込み
『家族四人』で避難するに至ったのだ。

 本来、現場を離れられる時期ではない。
 製造機のメンテナンスはいつもどおりに定期的に行っていればいいが、
急ぎ足で行わなければならぬ箱庭計画を抱えていのだる。
 夫婦関係はとっくの昔に破綻しているにもかかわらず、
少しでも隙を見せようものなら、外野はいとも容易く「これだから社長の義息子は」と陰口を叩くのだ。
 タカシは誰よりも懸命に働かなくてはならぬのだ。
にも関わらず、タカシはこうして家族四人、こんな僻地まで――、
「お父さん」
 シュウが身を乗り出しタカシの耳元へと顔を寄せた。チラと見遣ったのは助手席に座るミユキのことで、
慣れぬ女の存在に、シュウは少しばかり戸惑っているようだった。
「まだ着かないの? ええと、せーふ、えーと、せー?」
 運転席まで身を乗り出したシュウが、首を傾げて覚えたての単語を唇に乗せようとする。
「セーフハウス」
「そう、そこ。セーフハウス」
「まだ着かないよ。ほら、座ってなさい」
「うん。お菓子食べていい?」
「いいけど、ひとつだけ。お昼、食べられなくなるからな。ショウタにも分けてあげなさい」
「わかった」
 大人しく後部座席へと戻ったシュウは、出掛けに買った菓子の詰まった袋を探りながら、
ショウタとヒーローの話を続けている。
 バックミラーに映る二人を確認すると、タカシは再び視線を前方へと戻したのだった。
 道路の脇にはピンクの花をいっぱいにつけた桜の木がどこまでも植わっている。
その木の向こうに広がるのは田んぼで、随分田舎まで来てしまったものだと思うが、目的地は未だ遠い。
 タイヤが転がる道路は冷たい黒で、おそらくその下には国を保護するための兵器が埋まっているはずだ。
 暢気な田舎の風景には似つかわしくない警備システムは、
だが有事に際しては確実にこの国を保護してくれることだろう。
「セーフハウスね……」
 嫌味を含んだタカシの呟きに、助手席のミユキはキッと眦を吊り上げタカシを睨んだ。

 避難――、タカシには、それがとても大げさなことに思えた。
 A社のメンテナンス部門に属する社員が浚われかけたその理由は、
警備アンドロイドを通勤に同行させていないことに起因している。
 大戦後、国家の科学的な機密を握る研究者には、国から警備用アンドロイドが支給されるようになっており、
その家族にも四六時中彼らが張り付き生活を共にすることが当たり前のこととなっていた。
 だが、一般人――、
どんなに素晴らしい研究結果を出そうにも、一企業の勤め人程度では"一般人"と称されるのだ――、
にはそれがなく、ゆえの被害であったが、しかしミユキやショウタはそれとは事情が少々異なるのだ。
何せ、A社CEOの娘とその子供だ。高価な警備アンドロイドなど何台も所持できるだけの金銭的ゆとりがあり、
実際、庭には幾台ものアンドロイドが配置されていた。
 警備アンドロイドを一台の威力はすさまじく、例えば五人の軍人に武器を所持した状態で襲われたとしても、
彼らは軍人を死滅させ、かつ保護対象に傷ひとつつけることが無い。
 そんなものに囲まれ生活しているのだから、旧時代の警備システムのみが施された別荘――、
もとい、セーフハウスへと出向くほうが、よほど危険なように感じられた。
 一応アンドロイドはつれてきてはいるが、トランクに横たわった状態で収納されており、
いざという場面に直面したとしても、すぐに起動することはかなわない。
 まったく、危険で、かつ面白みもくそもない親子四人の遠足だ。
おまけに本来の目的は「避難」であるはずだというのに、警備を担当するアンドロイドはトランクの中、
全くもって危機感のない旅である。


 苛立ちをやり過ごすようにしてミント味の錠剤を口に放り込むと、奥歯で勢いよく噛み砕いた。
 バックミラーに映る二人の子供。うち一人は時折、物言いたげにタカシを盗み見見ている。
 自分の父親を『お父さん』と素直に呼ぶ子供の存在が気にかかっているようだが、
タカシもあえてあれこれとフォローすることもせずにドライブをスタートさせたのだ。
「お父さん、あーん」
 グミゼリーを挟んだシュウの指が、タカシに開口を迫る。
少しだけ後ろを向き、素直に口を開くと、人工的なグレープの味が口に漂った。
ミントと混じって妙な具合の味わいとなったが、タカシは微笑んだ。
「美味しい? もっと食べる?」
「ありがとう、でもお父さんはもういいよ、二人で食べな」
「わかった」
 細い腕を引っ込めたシュウを確認すると、タカシは視線を前方へと戻す。
と、そのときなにか大きな影がフロントガラスの上を通過した。
「鳥だ!」
 シュウが歓声を上げる。
 おそらく本物の鳥ではない。
国防や国民監視の名目で放たれたメカニカルアニマルだろう。
「お父さん、あれ、なんていう鳥?」
 真っ黒い翼に、それとそろいの瞳は親子を乗せた車の上をごく自然に旋回すると、そのまま遠く離れていった。
「カラスだよ」
 ふうん、とシュウは返事をした。
 二度目の人生を歩み始めたシュウは、家の外に出ることが、今日の今日まで殆どなかった。。
 いつになく興奮しているのもそのためで、彼にとっては、目に映るもの全てがものめずらしいようだった。
「さぁ、そろそろ着くよ。それまで少しだけ大人しくしてなさい」
 山はどんどんと深くなっていく。
 上空に張り巡らされた国防シールドがブレて、蜃気楼のような歪みを作っているのが見える。
地方に行くにつれ、カモフラージュは手抜きになっているようだ。やがて道路も、整備が追いつかなかったのか
砂利がそこかしこに転がる雑なナリへと姿を変え、
小刻みなバウンドを繰り返すほどの悪路に車中の全員が辟易し始めたころ、車は漸く到着をしたのだった。

 黒い立方体の建築物の前に車を停車させたタカシは、ミユキもショウタもほったらかしで、
ひとまずはシュウは後部座席から引きずり出すと、小さく身を屈める彼の背中をさすった。
「シュウ、平気か?」
 すっかり顔色をなくしうなだれるシュウは、座らされた木陰の下で、小さな頭を左右へと一度だけ振るった。
車酔いという未体験の衝撃に、体が追いつかなかったのだろう。
 戦時中はタカシに抱えられて西へ東へとどたばたと走り回ったものだが、
彼の体はその記憶を消し去っているようだった。
「いいよ、ビニール袋に吐いちゃいなさい」
「……でないの」
「でない? じゃあ横になるか?」
 こくりと頷いたのを確認すると、タカシはシュウを片手で抱え上げ、車へと向かった。
空いた片手でトランクを開けると、そこには『ヒト型』が横たわっており、
タカシはそれに向かって短く『起動』と命じた。
 その青年型アンドロイドは、力仕事もカバーする警備アンドロイドだ。
子供の警戒心を解くために、顔立ちこそ優しげなものに設定されているが、しかしその警備能力は
軍人数人を上回る本格的なものだった。
 彼は起動命令に従い狭いとランクの中で起用に動き、そしてタカシへと顔を向けた。
『声紋認証――、ユーザーIDを発声してください。声紋の確認と同時に警備システムが起動します』
 滑らかな肉声じみた声が発声を促した。
 近頃のアンドロイドは、盗難防止のため、シャットダウンののちの立ち上げにはユーザー認証が必要となっているのだ。
声紋とIDを同時に確認し、その後にパスワードの入力が求められる。
『確認しました。パスワードを入力してください』
 まるで血の通った人間のような質感の掌が差し出された。
 タカシはその掌へと、一本指を押し当てて五桁からなるパスワードを書き込んでいく。
『パスワードが認証されました――、』
「こんにちは、タカシ様」
 認証とともにアンドロイドは表情を緩め、人らしく微笑み「なにかお手伝いすることはありますか?」と質問をした。
 声はタカシの好みで、高すぎず低すぎないものに設定されている。

「ああ、ベッドのシーツを変えてくれ。
そのあと、部屋は片付いているはずだが、一応空調をフルに働かせて空気を入れ替えを頼む。
荷物はひとまず玄関へ。それぞれのバッグにはユーザータグがついているから、
のちほどそれぞれが希望した部屋に運んでくれ。」
「かしこまりました。シュウ様に吐き気止めは?」
「様子を見る。収まらないようだったら飲ませようと思う」
「判りました。どのお部屋のシーツを交換しますか?
「取り敢えずは……、シュウ、お父さんと同じ部屋でいいか?」
 シュウが小さく頷いたのを確認すると、タカシは二階の部屋を指定し指示を出した。
「シュウを早く寝かせてやりたい。なるべく早くに頼む」
「承知いたしました」
 アンドロイドがセーフハウスに消えていった頃、ミユキは漸く車から降り、
嫌味を滲ませた表情のまま革張りのトランクを自ら引きずり出した。
 タカシがアンドロイドを使っているために、ミユキとショウタは自分で荷物を持つしかない。
どうやらそれについて文句を言いたいようだが、
絶賛不機嫌週間のミユキはタカシと口を利きたくはないようだった。
ならばセーフハウスなどミユキとショウタ二人でくればいいものを、
『父親の務め』を果たすべきだとして、ミユキはそこだけは譲らず、
結局こうして四人で地方の山奥に来ることと相成ったのだ。
 女とは面倒なイキモノだ。なにを考えているのかサッパリ判らないし、
不機嫌になれば喚くか無視を決め込むかのどちらかだ。
 それにしても。

「不便だ」
 タカシはシュウを抱きかかえたまま、小さく嘆息した。
 ネットには辛うじて繋がっていたが、セーフハウスに避難している以上は出前だのを頼むわけにはいかないし、
そもそも、わざと人が集まらぬ場所を選び建てられた家であったから、近隣にはコンビニさえないのである。
近隣にレジャー施設は存在するが、それらは所謂『大人の遊園地』であり、
つまりは性産業に従事する者たちが集いし街であり、不健全極まりなく、妻帯者には些か不向きな遊び場なのである。
 尤も、避難時においてその手の遊びに興じるほどタカシの神経も図太くできてはいない。
「避難か」
 溜息とともにこぼれだす単語に、タカシは頭痛を覚えた。
 ――避難は本当に必要なのか、そしていつまで避難をしていればいいのか、
タカシはいつ自宅、そして仕事に戻れるのか――、
つまりタカシは、到着早々この田舎の生活の不便さに辟易し、
実行されるとは到底思えぬ脅しに屈している自分を恥、さらにはいつ帰宅できるのか、
そればかりが気になっていたのである。
「お父さん、気持ち悪いよう……」
「ああ、悪い。早く横になろうな」
 頭を微かに振るったシュウに振動を与えぬよう、なるべくゆっくりと歩みを進める。
 チラと見遣ったショウタが、物ほしそうな瞳でシュウを見ていたのを捉えるが、気づかぬフリを続けるしかない。
 ――幼い子供を、気味悪く思う。
シュウと然して変わらぬ年齢の子供に、優しく接してやることもできないのだ。
 ショウタはなにも悪くない。
媚びた態度もタカシが冷たく当たるが故に、なんとか気に入られようとしている所為であるし、
タカシを『タカシさん』などと呼ぶのもミユキを真似てのものに違いない。
 可哀想な子どもだと思う。父親は生まれながらにしていないも同然で、
しかし生物学上の父であるタカシはそこにいるのだから、甘えたくもなるのは道理であろう。

 だが、どうしても愛せないのだ。
 今や試験管ベイビーなど珍しくもなく、性行為の末に生まれ出た子供と言うのは、明らかに少数派である。
そのような現状においても、世の生物学上の父親たちは立派に父としての務めを果たしているのだから、
つまりショウタを愛せないのはタカシ側の問題であって、その問題を作ったミユキの所為でもある。
 羨ましそうなショウタの視線が、背中を焼き尽くしそうなほどに注がれているのを肌で感じる。
 だが、それでも、タカシにとって我が子と呼びたいのはシュウだけなのである。
 そもそもミユキがショウタを孕んだ理由がよく判らない。
 体外受精を厭った彼女は、自然妊娠に拘り、
しかし運よく妊娠できても胎に巣くう子が女児であると判った途端に堕胎を繰り返していた。
 だというのに、タカシとの関係が完全に破綻すると同時に、
彼女はあれほどまでに厭っていた体外受精を密かに行いそしてショウタを産み落としたのだ。
 タカシの精子をどこで手に入れたかも今をもっても謎であるが、
タカシにとってそれ以上に不気味であったのは、ミユキの思惑が不透明、どころか全く見えないところである。
 ショウタを産み落としたことはまだ感情的に理解できる。
 ミユキはタカシに酷く執着していたから、タカシの子を産みたいと言う感情はまだ理解できたのだ。
そして執着を深めてしまった理由はタカシ自身にあり、
長年、ミユキの思慕に気づきながらも利用するだけして利用して、
その思いに答えなかったことにあると言うことも理解している。
 だが、何故突然体外受精をする気になったのか、それが判らなかった。
 関係の破綻にともない、自然妊娠が望めないことが確定し、やけになる――、にしては、
ミユキの体外受精を断固拒否する態度はひどく強固なものであったし、
それについて妥協することは、彼女の中にある一つのプライド、
即ち『姉と同等、もしくはそれ以上の存在である』ことを打ち砕くことに繋がるはずだ。
 それは最早彼女のアイデンティティと化しており、それをねじ伏せてまで選択的体外受精を利用し身篭った事実は、
その先に何か目的があることを示しているようにしか思えないのだ。
 だが、その目的が判らない。

 ――驚くべきことに、彼女は幼いショウタに教育と言うものを殆ど行わない。
衣食住の世話、及び教育の大半はアンドロイドに依存しており、
彼女自身のアイデンティティの崩壊を招きかねない状態で産み落とした子に対するそれにしては、
その態度はあまりにもお粗末なものなのだ。
そのくせ少しでもショウタの身の危険が迫っているとなると、彼女は過剰に反応しこうしてセーフハウスに
『一家総出』で避難し彼を守ろうと必死になる。
 彼女のショウタに対する態度は、アンバランスが過ぎるのだ。
 今だって、ショウタは重い荷物を自分自身で持ち、顔を真っ赤に染めていた。
母親として手伝ってやることもなければ、自分の荷物を後回しにして世話をやくこともない。
 なんとも不可思議で、そして不気味なのだ。
 あれほどまでに望んで産み落とした我が子ならば、
どんなことをしてでも守ってやりたいと思うはずであろう。だがミユキからはそのような熱が一切感じられない。
「もう少しだからな」
 腕に抱いたシュウに話しかけると、彼は小さく頷いた。
 そう、少しの吐き気を感じている姿でさえ、かわいそうに思うはずなのだ、親ならば。
 ミユキは何か隠している。
 だが、その何かを探れるほど、二人は近しい関係ではなくなっていたのだった。

 吐き気に苦しんでいたシュウも、二時間ほど経過をすれば、すっかりと元気を取り戻し、
今日出会ったばかりのショウタとすっかりと打ち解け、飛ぶや跳ねるやの大運動会を繰り返していた。
 子供のキャッキャと言う甲高い声が鼓膜を震わせる。
 ショウタのものも入り混じっているはずのそれに対して、今日は不快感を抱くことがないのは、
おそらくシュウの声がその半分を占めているからであろう。
 時々『お父さん』と呼ばれては手を振り、持参したタブレットで本社と通信しながらの作業を進める。
『不便ですね。貴方が居ないと作業が滞る』
 タブレット越しの嫌味に、タカシは「すまない」と一言だけ謝った。
 何でもかんでもがネットワークでつながれた昨今においても、在宅で仕事をする社員は少数派で、
ことタカシのような『現場に足を運んで何ぼ』の社員では、そのような選択肢は最初からないも等しかった。
 ある程度の現場作業を済ませておいてからの在宅業務への一時切り替えあったが、それでも不便は多く、
なかなか伝わらない己の拙い指示に苛立ちを覚えることも少なくはなかった。
『それで、どうなんですか、親子水入らずのバカンスは』
 嫌味の含まれた会話にタカシはポーカーフェイスのまま『特になにも』と返す。
『奥さん、落ち着かれましたか?』
 忙しい時期の長期離脱に社は勿論のこと、部下や同僚にも迷惑を掛けていることは重々承知だ。
家族旅行などと曖昧に申請すればそれこそ針のムシロであろう。
それを見越してタカシは、少しでも自身の申請した休日に理解を示してもらおうと、
息子の通う園に脅迫状が幾度か送りつけられた旨を書き添え、その上で休みを取り付けたのだ。
 社員への襲撃があったことも加味され、確かにちくりとする嫌味の二言三言は吐かれるものの、
それでも微かには「それも已む無し」と言う空気が漂っていた。
「迷惑を掛けてすまない」
『……冗談ですよ。仕方のない話です。どちらに避難されてるんでしたっけ?』
「すまない、それも話せない」
 ただ、もろ手を挙げての許容でないことは、タカシも承知していた。
 現に、はぁそうですか、ぞんざいに返事をした電話の相手は、不快感を隠すことなく、
言葉と態度でそれらを示して見せた。

 なんとしても早々に現場に戻らなくてはなるまい。
こんな片田舎の、花街ばかりが賑わうようなド田舎にいつまでもいるわけにはいかないのである。
 表立って文句を言われることはなかったが、多くの社員はそれを口にしないだけであり、
タカシの突然の休暇を不服に思っていることは間違いない。
 ましてや、今は箱庭計画が動き出した大切な時期なのだ。いつまでも休んでいるわけにもいかないだろう。
「なるべく早くに戻るようにする」
『わかりました。それでは』
 素っ気無い挨拶と共に通信は遮断され、そしてタブレットは一瞬の闇に包まれた。
 アプリケーションを終了させ、嘆息する。
 ――ミユキを説得する言葉が見つからない。
いや、彼女はタカシが何を言っても首を縦に振ることはないだろう。
たとえタカシの進言に心の底では納得をしたとしても、今の彼女は己の感情でその先の行動を選ぶほどに、
タカシに対して意固地になっている。
 今回の避難とて、こんなセキュリティの甘い一昔前のセーフハウスよりも、
体感センサーや複数台の警備アンドロイドで警護を固めた自宅の方が安全だと、
彼女も心のどこかでは判っているはずなのだ。判らないほど愚かしい女ではないはずだ。
「お父さん! 外に行っていい?」
 シュウが玄関近くで呼んでいる。隣にはショウタを伴っている。
 腕に抱えられているのは小型の浮遊型スケボーだ。
近頃販売された、空気圧で浮かび上がる玩具は、対象年齢が子供であるのにもかかわらず、
大人たちもがこぞって買い求める人気商品であった。
フライボードと呼ばれる買い与えたばかりのそれは、シュウの気に入りの一つだった。
「いいよ。いいけどアンドロイドを連れて行きなさい。それから庭からはでないこと、
プロテクタはちゃんと着けること」
「はぁい!」
「ショウタにも貸してあげなさい」
「うん、判ってる!」
 名を呼ばれ、ショウタの瞳が輝いたのを感じるが、
タカシはそれに気づかなかったフリをしてタブレットに視線を戻す。

 あの視線が、どうにも駄目なのだ。
 とろりとした、濃厚な期待を含んだ視線――、そんな目で見つめられたところで、
タカシは父親としての情を与えてやることはできないのだ。
 何故できないのか、どうして頑なに拒否をするのか、幼いショウタにはあまりにも残酷で、
その事実を伝えて納得させてやることもできなければ、またタカシ自身も伝える勇気など持ち合わせていない。
 と、タブレットが通話を告げる点滅を繰り返した。
 ディスプレイに浮かび上がる文字は義父の名である。タカシは眉間に浮かぶシワを人差し指でぐいと押し広げてから、
『通話』と書かれた文字をタップした。
「はい」
『タカシ君、今時間は大丈夫かね』
「ええ。どうぞ」
 この義父のことを、タカシは嫌っている。ミユキを憎むのと同等程度には嫌い、そして憎んでいるのだ。
 当然だ。タカシは彼らにはそれだけのことをされたのだから。ミユキの気持ちを弄び利用した代償にしては、
大きすぎるほどの罰をタカシは与えられた。
『ショウタは元気かね』
 仕事の話かと思えばそんなことか、とタカシはこれ見よがしに嘆息した。
「元気ですよ。それが?」
『暫く顔を見ていないから……、ミユキが会わせてくれんのだ』
 タカシのぞんざいな返答を気にした様子もなく、義父である老人はしきりにショウタを気にしていた。
「そうですか。元気ですよ。『ウチの』シュウと遊んでいます。御用はそれだけですか?」
 ウチの、を強調したのは、自身の子はシュウだけであると言う意思表明のつもりであった。
『そうか……』
 そう返事をしたきり、タブレットの向こうで男が沈黙をした。

 ミユキへの――、実の娘への愛情でさえ希薄に感じられたこの男であるが、
だがしかし、ショウタには甘かった。
 時折こうしてショウタの様子を窺いにタカシへと連絡を寄越してくるのである。
 おかしなものだ。自身の娘さえ手駒として扱っていたにも関わらず、この男は孫を恋しがる素振りは見せる。
 なにかショウタの存在には秘められた目的があるのではないか――、
嘗て自身に降りかかった災厄の発端はこの義父であることから、タカシはこうして警戒を怠らず、
彼の言動の全てを疑って掛かっていた。
 ショウタの様子を尋ねる言葉、ショウタが何か伝言を残していなかったかと言う問いかけ、
その全ては孫を思う祖父の態度そのものであったが、しかし過去から現在に連なる仕打ちを思えば、
タカシでなくとも警戒をするのは当たり前と言うものだろう。
「なんなんですか。私は忙しい」
『ああ……、すまない。その……、』
 まだ何か告げたそうにして男は口篭る。
 だが、タカシにお伺いを立てられたところで、さして旨みのある情報を与えられるわけではない。
 義父はタカシとショウタの関係が、良好とまでは行かないものの、それなりに安定した親子関係を保っている――、
そう楽観視しているに違いないが、それは大きな間違いであったし、親子の接触は驚くほど少なかった。
 タカシが拒絶しているためでもあったが、ここでわざわざそれを告げる必用もあるまいと、タカシは黙りこくった。
『屋敷に設置したアンドロイドから、毎回レポートが自動送信されてくるのだが……、
その、ミユキはショウタの世話を全てアンドロイドへと任せているようなのだ』
「だからどうしました? その為のアンドロイドでしょう」
 モニタの向こうで義父が黙りこくった。
「仮にそれがおかしな態度だとしても、そう子育てするようミユキを育てたのは貴方だ」
 卑怯な言い方だと大いに自覚していたが、嫌味の一つくらいは許されるべきだと思うのだ。
 タカシは日に日に『嫌なやつ』に成り下がる自身を自覚している。
だが、それを抑止することはもう不可能に近い。
 ミユキのこともどうでもいい。義父のこともどうでもいい。
ショウタのことは少しばかり気になったが、それは罪悪感からで、親として気に掛けているわけではない。
 ただひとつ、タカシにとって大切なのはシュウのことで、その他のことは些末な問題であった。
 些末な問題の割りにタカシの思考の奥深くにトゲのごとく突き刺さっているから厄介なのだ。
 ――気に入らない、端的に言えばそういうことだ。気に入らない。
 正直なところ、シュウを除いた自身の周辺人物、環境の全てに辟易していた。
 だが、タカシはなによりも、そんな大人気ない自身にも嫌気がさしているのである。

『ショウタを、少しでいい、気遣って欲しい』
「ご自分でして差し上げたら如何ですか? 私は父親としての務めをまっとうする気はない」
『そうしてやりたいが――、』
 義父はそう言ったきり、黙りこくった。
 タブレットの画面に浮かび上がる顔は、かなり高齢の老人に見えた。
 様々な技術を駆使して彼が生き延びていることは知っている。
近頃は体調があまり優れず頻繁に医師や技術者を招いているとも聞く。
 そんな陰りの見え始めた『生』からの逃避に孫を使っているのかもしれない。
 だが、とタカシは考える。
 ミユキと義父が不仲となった今、しかしその橋渡しをしてやるほどの義理も情もタカシにはないのである。
 二人の間に立ちはだかる因縁を、例えば他人に打ち明けたとしたら、
きっと多くの人は『過去の仕打ちをいつまでも根に持つなどみっともない』と、タカシを非難することであろう。
その代わりに第二の生を授かったじゃないか、と。シュウを再現したではないか、と。
 だが、シュウを、最愛の息子を失った痛み――、それを思えば、どうしても義父を許すことはできないのだ。
 自分自身に降りかかった不幸は飲み下しても、子に手を掛けられた過去は、
未来永劫水に流すことなどできぬのだ。
『ミユキを――、なるべく、ミユキを、ショウタと引き離してやってくれ。
こんなこと、君にしか頼めないんだ』
「頼みごとなどできる立場ですか、貴方は」
『それは――……』
 老人はそれきり沈黙した。
 目先の欲を、目先の儲けを、それらを貪欲に求め、たった一人の子供をタカシから奪ったのだ、この男は。
その恨みは一生消えることがない。
くすぶりつつ付ける恨みの炎はちりちりと燃え続け、憎しみの刻印を、今もなおタカシの脳へと刻むのだ。
 恨みと同時にそこにあるのは喪失の悲しみ。あれらを忘れることなど、できるはずもない。
『タカ、』
「通話終了」
 無慈悲にタカシは呟くと、冷めた眼差しで画面がブラックアウトするのをまった。
 程なくして義父の残像は消えうせ、そしてその重ったるい気持ちを打ち消すような、
明るい子供の声がタカシを呼べば、嫌な気持ちは一瞬にして消えうせる。
 そう、些末な問題なのだ。タカシにとって、シュウ以外の存在は。
「おとうさーん!!」
 器用にフライボードに乗ったシュウが、タカシに向かって手を振った。
 太陽のような笑顔は、きっと母親である姉によく似たに違いない。
晩年は笑顔すら見せぬ、ただの人形になってしまっていた彼女の面影が、笑顔の端に垣間見える。
「上手く乗れるようになったな!」
「うん!」
 褒められて満足したのか、シュウは再び遊びに集中すべく、背中を向けたのだった。
 汗ばんだ小さな背中は、肩甲骨のラインを浮き上がらせている。
 明日にはプールの用意でもしてやるべきか。そんなことを散漫に考えつつ、
タカシは再びタブレットへと向かったのだった。

 今までマンションに缶詰状態での生活を余儀なくされていたシュウであったが、
それに耐えられるのも精々一週間であろう、と言うのがタカシの見立てであった。
自分専用のタブレットもない、テレビもない、気に入りの本を読んでくれる育児アンドロイドも居ないとなれば、
その窒息しそうな退屈にぐずり始めるのも自然の流れであり、
それでも我慢強いのか、『家に帰りたい』と彼が漏らすようになったのは二週間と一日が半分経過した頃だった。
 なんとかなだめて半日をやり過ごしたが、できたばかりの友達と遊ぶ内容もこの僻地では限られており、
次第にワンパターン化していく遊びにも『うんざり』と言った顔をするようになってきた。
 アンドロイドが力技を駆使して体を宙に放り投げたり、庭木によじ登って遊んだり。
そんなことも回数をこなせば飽きが来るのも当然で、シュウの口からは小さな溜息が零れ落ちるようになった。
「まだお家に帰れないの?」
 入浴後の寝かし付けの為自らもベッドに転がりながら「ごめんな」と返事をする。
「なんで帰れないの? マミィのご飯が食べたい」
 マミィとはタカシ不在時にシュウの面倒を見ていると女性型育児アンドロイドのことだ。
「難しい事情があるんだ。ごめんな」
 なだめようと腹を優しく叩くが、しかしシュウの機嫌は直らず、頬を膨らませてフイとタカシに背中を向けてしまった。
「もうお家に帰りたいよ。ショウタ君のママ、なんだか怖いし、ご飯もあんまり美味しくない。
それにここで遊ぶのも、もうつまんないもん」
 ここまでシュウが不満を漏らすのも珍しいことだった。
 確かに退屈だろう。タカシでさえ辟易するような、なにもない田舎だ。
 毎夜花火が夜空を飾るが、それらは祭りでもなく、テーマパークのパレードでもなく、
近隣の花街が客を呼び込むために賑やかしに鳴かせるものだった。
 子供たちはこの退屈な場所に咲く、ひどく鮮やかな大輪の花に興味を示してて居たが、
流石にいかがわしい界隈に年端も行かぬ彼らを連れて行くわけには行かず、
「あそこは大人でなくては入れない場所」などと言葉を濁し、彼らの好奇心にストッパーを掛けていた次第だ。
「いつごろ帰れるの?」
「判らない」
 その返答に、シュウの背中がますます不機嫌になっていくのが目に見えた。

「シュウ……お父さんも早く帰りたいんだけど、今は事情が許さないんだ」
「ジジョーなんて僕知らないもん……帰りたいよ……」
 プールも要らない、フライボードももういいから帰りたい、とシュウは切に訴えた。
「マミィが居ればもう少し我慢できそうか?」
 最悪、誰かしらにアンドロイドをつれてこさせることも視野に入れ始めていたのだ。
『セーフハウス』の意味はなくなってしまうが、ある程度の妥協は仕方がないのかもしれない。
「……」
「シュウ」
「……ショウタ君のママが怖い」
「何かされたのか……?」
「ううん、なにもされないよ、僕」
 二度に渡るシュウの吐露に、一瞬肝が冷えた。
 流石のミユキも、タカシの耳に入りかねない場所で、シュウに危害を加えることはないだろうと踏んではいたが、
もしかしたら、と言うことも有り得る。
「本当に何もされていないんだな?」
「うん」
 背を向けたまま頷きを伴った返事をするシュウは、嘘を吐いている様子はなかった。
 ミユキが怖い――、そう思わせるのは、彼女のまとう気迫か、それとも視線か。
鋭敏な子供の五感は、ミユキの放つ負の空気を察知したに違いない。
「もう少し、もう少しだけだから、我慢してくれないか?」
「……うん……」 
 小さな返事のあと、一時間経っても、いつもの穏やかな寝息が聞こえてくることはなかった。
 なんとかせねばならないだろう。
 タカシとて、これ以上現場を離れるのは難しいのだ。
 なんとかミユキを説得しなくてはならない。
 タカシの言葉など今更聞くはずもない彼女を説得するのは、どれほど難しい作業になるか、
想像するだけで頭を抱えたくなった。
「おやすみ」
 月夜に照らされた頭がかすかに動いたような気がしたが、
タカシはそれに気づかぬフリで部屋を後にした。

 旧時代の電話機と言うものは、酷く耳に障る音を上げる。
 かつての人類は『家電』などという、移動もできない、ネットも接続をされていない、
これほどまでに不便な通信機を、どの家にも保持していたというのだから不思議なものである。
 埃を被って玄関の片隅に存在さえ忘れ去られたまま放置されていたそれが、
悲鳴じみた不快な音を上げたのは深夜三時のことだった。
 ソファで仕事をこなしていたタカシがまどろみ始めていたころ、
それは突如としてけたたましくなりだし、それがなにか理解できないままうろつくこと二分、
漸く発生源を探り当てた彼は、なれない手つきで受話器を拾い上げた。
「……はい」
 応答はケータイやその他通信機と同じはずだ。相手の顔が見えぬ不便に違和感を抱きつつ、
タカシはシンプルにそう返事した。
『私だ』
 その声は、よく知った声だ。タカシを一瞬にして不快にさせるのは一種の才能かもしれない。
「――何時だと思っているんですか」
『すまない。だが……』
 義父は、口篭りながら謝罪を述べたのち、実は、と切り出した。
『アンドロイドからのレポートが届かないのだ』
 ジジジ、と言う不快なノイズに混じった男の声は、しわがれた声でそう告げた。
酒でも飲んでいたのか、それとも大量の煙草を吸ったのか。常日頃より聞き取りづらかったその声は、
ノイズと交じり合うことによって、強い雨降りの日の音に似て聞こえた。
「そうですか」
 ネット接続が時折不安定になることは珍しいことではない。
家電の放つ電磁波の影響を受けることもままあるし、そもそも電波が届きづらい場所に居る場合もあるだろう。
アンドロイドのレポートが遅れたことの何が問題だと言うのだろう。
タカシは嫌みったらしく溜息一つを吐き出し、その旨を伝える。

『いや、だが……、私は二時間ごとにレポートを送信するよう設定している。
だが、二十二時を最後にレポートが送られてこなくなったのだ。
もしかしたら電源が落とされているかもしれない』
「……まるでストーカーですね。そんなにショウタが大事ですか」
 かつてタカシと呼ばれていた幼子を――、オリジナルのシュウを、無残にも奪い取った老人が、
こうして実の孫をアンドロイドのレポートが遅れた程度で心配をしている。その姿が酷く滑稽であった。
タカシの元の名前を奪い取り、何を考えたのか、タカシにタカシと名づけた男。
そんな非道な行いをした男が、一丁前に孫の実を案じている。
あまりにも馬鹿馬鹿しくて、真っ当に人らしい受け答えをしてやる気にもなれない。
「私から私の大事な者を奪い取った人の行動とは思えませんね」
 グッと押し黙る老人の気配に、タカシは思わず笑みがこぼれた。
 本当に、滑稽だ。
 アンドロイドに子の世話を一任している状態のミユキは、確かに普通ではないだろう。
 世間一般で母型アンドロイドがどのように扱われているかと言えば、
彼らはあくまでもサポート役であり、それ以上の存在にはなりえていないのが現状だ。
 いや、顔の多様性が出始めた辺りから、彼らをパートナーと見なす『アンドロイドフリーク』は確かに存在していたが、
それらのユーザーはごく少数であったし、
であるからして、本物の母親に成り代わるほどにアンドロイドに依存した家庭は殆どないといっていいだろう。
 とは言え、アンドロイドが母親になれぬのかと尋ねられた、タカシは迷うことなく『否』と答える。
 安全面、世話の熟練度、その他の『母親としてのスキル』を総合的に鑑みれば、
彼らほど完璧は『母』はおらぬはずだ。
 そのように彼らは作られている。そのようにA社が設計をしたのだから。
 つまり、ミユキのような不完全極まりない、育児そのものを放棄したい女に嫌々子の面倒を見せるよりも、
アンドロイドに世話の全てを任せたほうが、はるかに安全なのだ。
持参したアンドロイドは警備型であったが、主人に仕える態度は基本的にそう変わりはない。
彼らは『完璧』なのだ。
 しかしタカシにも、老人の言いたいことは判っていた。
つまり、『その』アンドロイドからのレポートがないのを、この老人は心配しているのだろうが、
それはおそらく単なる不具合だろうし、今もなお、つれてきた警備型アンドロイドは、
眠り続ける二人の幼子の部屋を静かに行き来して見守り続けているはずだ。
 二時間に一度のレポートなど無意味だ。何かが起きることなど、ないのだから。

「そんなに大切ならば、ご自分で引き取るなりなんなりなさったら如何ですか。
私の子はシュウだけです。ミユキともども引き取っていただけるならばありがたい」
 なにか言いかけたのだろう、電話の向こうで男が息を飲む声がして、
しかしそれは紡がれることはなかった。
 あれほどまでにタカシに対して居丈高で傲慢であった男は、
『ショウタ』と言う唯一無二の孫を得て、いつの間にか脆く弱く変化した。
 紙面上の関係でしかない義理の息子のことを快くは思っていないことは確かであるのに、
しかしその血と遺伝子を受け継いだショウタのことをいつでも気に掛けている。
タカシにへりくだってまで、『ショウタをどうか気遣ってくれ』とささやかな懇願をする。
 おかしなものだ。ショウタの半分はタカシでできているというのに。
 ふ、と自嘲するような、或いは嘲笑するような奇妙な笑いが漏れた。
「兎に角、もう休ませてください。何時だと思っているんですか。非常識極まりない」
 冷淡に言い放つと、年老いた男はしわがれた声で『すまない』と謝罪をした。
 画面もなく、ホログラムが浮き上がるわけでもない旧時代の電話機の向こう、
背中を丸めてしょぼくれた顔をする老人の姿が、タカシの脳裏にはハッキリと見えた。
 それがあまりにも愉快で、タカシは追い討ちを掛けるように無言で受話器を元の位置へと戻したのだった。

 老人の言葉を鵜呑みにしたようで癪であったが、子の様子が気になるのは確かであった。
 アンドロイドが稼動しているのだろうから、老人が気にするような出来事は何ひとつ起こっては居ないはずだ。
 タカシは軋む階段がなるべく悲鳴を上げぬよう、慎重に階段を上った。 
 天窓からの月明かりが細く降り注ぐ廊下までたどり着き、タカシは漸く小さな吐息を漏らす。
全く、不便極まりない造りの屋敷である。階段は足運びを誤れば途端に軋むし、長い廊下には照明の一つもない。
『廊下の明かりは自動的に灯るものである』と確信して憚らない世代の少年少女ならば、
この薄暗い廊下をどう歩けばいいのか判らずに途方に暮れるに違いない。
 幸いタカシは二度目の生を送っている、『旧時代』の人間だ。
雲の切れ間から降り注ぐか弱い月明かりに順応すべく『目を慣らす』ことも知っているし、
どうすれば慣れるのかも知っている。
 タカシは暫しの間そこに佇むと、目が薄闇に慣れるのを待った。
 雲の流れが速い。この国の空高くに張り巡らされたシールドの外では、やや強めの風が吹いているのかもしれない。
 月はランダムに、その姿をハッキリと、或いはぼんやりと覗かせた。
 と、月が一際強く輝きを見せたその瞬間に、タカシはそれを目にしたのだった。
 廊下の奥、そこは小さな飾り窓があるだけの行き止まりで、読書でもするためか、
小さな木製の椅子が置かれていた。
 誰の趣味であるのかはタカシの存ぜぬところであったが、
時折シュウが、或いはショウタがその上に座って足を前後に揺すっている姿を見ることがあった。
 その上に、なにか――、いや、誰かが座っていた。
 子供のどちらかにしては大振りな影であることは間違いない。


「……おい」
 声は小さく響く。
 体躯から、アンドロイドであることは判ったが、しかしそれはタカシの声に一切の反応を示さなかったのだ。
 通常、アンドロイドの聴覚は周囲の音をいくつも聞き分けることを得意としており、
その能力は人間の何倍にも及ぶことは誰もが知っていることであった。
警護用となれば五感は人間のそれに比べて何十倍にも及び、
例えば車の異常音を風に感じ、事前に人の列に暴走車が突っ込む、などと言う悲劇さえ回避して見せるのである。
 そのアンドロイドが、主人であるタカシの声に一切の反応を見せない。
「おい」
 もう一度呼ぶが、やはり反応はなかった。
 瞬時に、足元に向かって血が落下していくような感覚が体中を走っていく。
 タカシは矢も楯も溜まらずその場から走り出した。
 廊下が軋む。スリッパが脱げ落ちそうになる。
 タカシはシュウが眠っているはずの自身の寝室の扉を蹴破るようにして入った。
「シュウ!」
 タカシは何故こんな不便で辺鄙なことこの上ない土地へ家族――、
戸籍上のみのそれも含む一団体でえっちらおっちらやってきたのかを、唐突に思い出したのだ。
 肝心なところで選択を誤るのはタカシの特技か或いは運命か。
 ――なにも危険なのはショウタだけではない。
 そう思い至るのがあまりにも遅すぎた。
 果たして、月明かり差し込む大きな窓は開け放たれて、そして薄く白いカーテンが闇夜にはためいていたのだった。
 血の気が引くとはこのことか。タカシはまず、冷静にそんなことを思った。
 次に一体誰が、と言う疑問が浮かび、そして眠っているはずのシュウがそこにいない現実を再び確認すると、
足のつま先に妙な力がこもり、そして指先がサッと冷たくなり、そのくせ背中にはドッと大量の汗が噴出すのを感じた。

「シュウ!!」
 もしかしたらシュウはタカシを驚かそうと、部屋のどこかに隠れているのかもしれない。
 そんな浅はかな希望を胸に、タカシは大声で息子の名を呼んだ。
 心臓が早鐘を打つ。
 甦るのは、あの時――、そう、あの時だ、あの子を失ったと知ったあの瞬間だ。
「シュウ!!」
 返事はない。
 シュウはここには居ない。そう確信をすると、タカシは来た道を戻り、ショウタの眠る部屋へと入った。
 窓辺に置かれたベッドには丸みがない。半分以上が床へとずり落ちた掛け布団は、
荒らされている様子は微塵もなく、そこは乱れているというよりも、
寝相の悪い子供が寝ている間に足で蹴って落としてしまったような様子であった。
 そこに少しだけ希望を覚えるのはおかしなことかもしれないが、
タカシは二人が誰かに誘拐されたのではないか、と言う不安が少しだけ拭い去られるのを感じた。
 もしも自分たちの意思で出て行ったのなら、少なくとも誰かの手によって傷つけられる心配はない。
 絶望的な状況で、少しでも楽観的に物事を考えようとするのはただの現実逃避に過ぎないが、
シュウが誰かの手によってその命を落としてしまうのではないかと言う恐怖に耐えられるほどには、
タカシのメンタルは丈夫にできていないのだ。何せ、一度喪った過去がある。
 あれを二度経験して耐えられる親などいるわけがない。
 湿った掌をシャツで拭うと、深呼吸を繰り返す。
 やるべきことを考えろと自身に言い聞かせ、そして廊下へと小走りで急いだ。
 ショウタの部屋から出るとすぐそこに椅子が置かれており、
アンドロイドはまるで眠りに落ちた人の如く目を瞑っていた。

「起動……ッ」
 情けないことに、声が震えていた。そんな状況でもアンドロイドは律儀に起動し、
薄目で俯いたままいつもどおりの言葉をタカシに投げ掛ける。
『声紋認証――、ユーザーIDを発声してください。声紋の確認と同時に警備システムが起動します』
 幾度か噛みつつもユーザーIDと、続いてパスワードの入力を済ませると、
無機質なそれは途端に笑顔を向けて「こんにちは、タカシ様」と挨拶をした。
「……何故お前は"落ちて"いた?」
 起動した瞬間に投げ掛けた質問に対し、アンドロイドは『質問の意味が判らない』と言う趣旨の表情を作り、
「落ちていた、とは私が何故起動していいなかった、と言う意味でしょうか?」と大真面目に質問をする。
「そういう意味だ」
「シュウさまのご命令により、システムを終了致しました」
「何故?」
「判りかねます。ですが、ユーザーであるタカシ様との血縁関係を確認済み、
かつチャイルドロックが未使用でしたので、シュウ様によるID、ならびにパスワードの入力によって、
私は昨晩午後二十三時十分十五秒をもって、システムを終了させました」
「あの子はどんな顔でそれを行った?」
「意味が判りかねます」
「……怯えた表情であったり、誰かにそれをさせられていた可能性を聞いている」
 まどろっこしいやり取りとしながら、それでもタカシは冷静さを取り戻しつつあった。
 もしも侵入者が居たのなら、この警備アンドロイドもそれに気づきそれなりの対処を行ったはずだ。 
だが、そうでないのなら、少なくともシュウは自らの意思で最強のボディガードにしてセキュリティである
アンドロイドをシャットダウンさせたことになる。少なくとも、その身に危険が迫って行ったわけではないということだ。
「いいえ、寧ろ、いつもより生き生きとしていらっしゃいました」
 つまり、シュウの安全は『アンドロイドをシャットダウンした時点』では確定されたことになる。
タカシはその事実に一先ずは嘆息した。

 過激派グループによる誘拐であるとか、そう言った線が消えさえすれば、
タカシも冷えた頭で思考をめぐらせる事ができるだろう。
できるだけ早くに見つけることが望ましいのは確かであるが、それでも人に攫われたのと自ら出て行ったのでは、
心配の度合いが随分と異なってくる。
 シュウは確かにここ数日の間は環境に対する不満を幾度か呟いていた。
 そのような背景を考えれば、この夜中の出奔は単なる冒険の延長であると考えても差し支えはないだろう。
「どこへ、」
 どこへ行ったのか、など考える必要はないのかもしれない。
 ここは田舎にぽつんと建った一軒家だ。
 遠くに見える夜毎花火を打ち上げる街は、
退屈な時間に辟易した子供にはやたらと魅力的に映ったことは間違いない。
そもそもほかに目立った場所がないのだから、向かう先はあの如何わしい花街くらいしかないだろう。
 客だと思われればいいが、逃亡を目論む奴隷かなにかだと思われたら非常に拙い。
 シュウくらいの年齢の少年を好む男が、或いは女がいるらしいということは、タカシも耳にしたことがある。
「拙いな」
 早く見つけなくてはならないだろう。

 だが、ああいった花街は地形がとても複雑なのだ。
 元々人が住める土地ではない。
 国の中枢を掌握する老人たちは、箱庭計画を遂行するための下地として、地方都市の発展にも力を注いできた。
その甲斐あって、地方都市はそれなりに発展を遂げ、
その計画に飼いならされた若者たちは自身が生まれ出た土地から出ようとさえしなくなった。
 そうなるように老人たちは計画をしてきたのだ。
 人は一箇所にまとめられている。それ以外の場所に人はいないし、
行ってはいけないと刷り込まれているのである。
住みよい、何でも揃う平坦な土地から出ようとする人々は殆ど居ない。
だが花街は、その下地が作られる前に形成されたものだ。
この現代においても、因習やしがらみが根深く残る、あらゆる面で特殊な土地ゆえに、
国がどうこう対処することもできず、
ついにはそっと蓋をして地図上からもひっそりと消しさった場所なのである。
 かつて不運にも、産業も何もない場所に生まれ育った人々が、
苦肉の策で編み出した生きるための術、それが性産業。
 まともな産業が栄えなかったということは、つまり、
土地も痩せ気味で工場さえ建てられぬ地形であることの証明だ。
花街は、そんな風に、平坦とは言いがたい土地に建物を無理やり建設しているのだ。
 おまけに性産業を国が黙認した事実に乗じて、近隣の村――、同じく性産業なくしては食うにも困る村である――、
からも人が集まり、ごく近距離に村ごとの地区が形成され、
そのように村がせめぎあい、一つの性産業コロニーを形成していた。
 複雑な道は人を惑わす。それだけならば兎も角、街は産業を盛りたてるため、
人を酔わす作用のある、怪しげな香を地区ごとに炊き続けているのだ。
故に土地に慣れた者でも方向感覚を失いやすく、おまけに地区から地区への移動が安易であるため、
A村管理地区を歩いていたはずが、細い路地に迷い込んだ拍子にB村管理地区の端にいた、
などと言うことも決して珍しくないのである。
 そんな複雑な慣れぬ土地で、我が子を無事見つけることが可能であるのかどうか、非常に不安であった。
 だがしかし、逸る気持ちを押しとどめることは難しく、タカシは当てもないにも関わらず、
花街へと向かう準備を始めていた。

「タカシさま」
「お前は留守番を頼む。俺がいなくても警備はキチンと行うように」
「はい、ですが」
「頼んだぞ」
 無計画に子供を捜すのは非効率的だと充分に理解していた。
だが動かずにはどうしてもいられなかったのだ。
「タカシ様」
 最悪の場合、タブレットだけを持っていれば問題ないだろう。端末の中には身分証は勿論のこと、
シュウとタカシが親子であることを証明する、顔写真つきの証明書も入っている。
 駐車場はあるだろうか、いや、あったとしても、あの複雑な地形にこの車を乗り付けることは可能だろうか。
「タカシ様」
「――、」
 はた、と気づく。
 一体、シュウはどうやって花街へと向かったのだろう、と。
 明かりが見える距離とは言え、子供の足では随分と遠い筈だ。
 途中まで道はあっても、その後の山あり谷ありの道を足だけで進むのは厳しいかもしれない。
「フライボード……」
 シュウが使える交通手段と言えば、それぐらいしか思い浮かばなかった。
 あの手の玩具には紛失に備えてGPSが組み込まれているはずだった。
だが、タブレットにそれらを登録した記憶はタカシにはない。
 チクショウ、と小さく呟く。こんなことならば、たかが玩具とは思わずに登録をしておくべきだった。
「タカシさま」
 いや、パソコンには登録したような気がしたが、あれは自宅用のモバイルだっただろうか。
今日も持参している仕事用のパソコンには登録はしていただろうか。
 いいや、それよりも万が一バッテリーが切れて木々の間に落下でもしていたら――。
「タカシさま」
「なんだ!」
 先ほどからしきりに呼ぶアンドロイドにタカシは漸く向き直り、そして思わず叫んだ。


「忙しいのが見て判らないか!」
「ですが、」
「お前に付き合っている暇はない!」
「ですがショウタ様の、」
「なんだ!?」
「ショウタ様の個体反応を、ここから五キロの距離に確認したのですが」
「個体反応……?」
「ショウタ様の内耳には、私がいつでも体調を把握できるよう、センサーのようなものが埋め込まれています。
体温、呼吸数、心拍数、血圧。それらを総合的に見て、興奮状態である、或いは体調が悪いようだ、
などとショウタ様の体調を確認することが、ある程度は可能になっております」
 アンドロイドは人のように瞼を開閉させたのち、タカシをじっと見た。
 ――思えばこのアンドロイドは義父によって与えられたものだ。
今回の避難に合わせて譲渡されたものであったが、警備の為のみならず、ショウタの体調を逐一知る目的で、
送られたものに違いなかった。
なにせあの男は、孫の身を案じて二時間に一度の頻度でレポートを送らせているのだから、
それくらいはしてもおかしくはない。
センサーもかなり小型で、胡麻よりも小さなものを注射針で送り出すだけで済むはずだ。ミユキに隠れて、
或いはこのアンドロイド自身が埋め込んだのかもしれなかった。
「ショウタ様の皮膚越しに、もう一体反応が感じられます。シュウ様だと思われます」
「ショウタの様子はどうだ」
「多少心拍数が上がっておりますが、命の危険はない状態であると判断できます」
「そうか……、お前、ショウタの居場所はハッキリと判るか」
「勿論です。この距離からではおおよその場所しか判りませんが、
半径五百メートルならば一ミリも違わずに特定できます」
 なにを当たり前のことを言っているのだ。そう言わんばかりの眼差しでアンドロイドはタカシを見つめてきた。
「お前も来なさい。一刻も早く子供たちを保護したい」
「判りました」  
 慌しく身支度を整えて階下へ向かう。
軋む階段も、誰にも遠慮することなく駆け降りると、アンドロイドもそれに倣う様にして降りてきた。
「俺は車を出してくる。お前はこの家のセキュリティレベルをできるだけ上げてから、
鍵を閉じ車まで来なさい」
 タカシはアンドロイドの返事も待たず、庭へと飛び出した。
 命の危険はない状態。その言葉に少しばかり胸を撫で下ろしたが、しかしこれから危険な目に遭わないとも限らない。
 なるべく早く、一刻も早くシュウを保護したかった。
 やがてアンドロイドが車に飛び乗ると、タカシはやはり彼が扉を閉じるより早く、車を発進させたのだった。

今日はここまで。
保守ありがとうございます。

続ききてた!お疲れさまです!
ショウタとシュウに一体何が起こってるんだ…気になりすぎる。
続きも楽しみにしてます。いつもありがとう!
以前の投稿読み返しながら、続きに備えてますね。

待ってる!

しゅ

ちょ、ハードなショタエロ小説探しててたどり着いて
妙に重い話だなーと思いながらもついつい半日かけて全部読んだんだが
現在進行中なのかよww

すみませんすみませんセルフ保守
年内にはもう一度更新します
いつも保守してくださってありがとうございます
すみませんすみません……

****
 予想以上の悪路をものともせずに車は花街への道を突き進んだ。
 道の端に切り倒された大木が横たわっていたり、
砂利と呼ぶのが憚られるような大きな石が、バンパーにぶち当たるなどのトラブルがあったが、 
ドライブは概ね順調であった。
 助手席に座ったアンドロイドも必要以上に口を開くことがなく、
口やかましい他人よりも、アンドロイドを選ぶアンドロイドフリークなる人々が出現するのにも、
なるほど無理からぬ話である、などとタカシは考えていた。
 もう間もなく目的地だ。
「お前、地形データは入っているか? 駐車場の有無を知りたい」
「申し訳ありません。私には自宅とその周辺データのみがインストールされておりますが、それ以外は」
「判った」
 ネット上からダウンロードすればデータ取得も安易であろうが、国が放棄した土地であることを鑑みると、
正確性の高い、細かな地図情報を得ることは難しいだろうと判断した。
それならば実際に赴いて、最悪の場合は車を放置する構えでいるしかないだろう。 
 走行を始めてから十数分ほど経ったころだろうか、
明かりに照らされぼんやりとした姿を浮かべる、朱塗りの鳥居が木々の合間に確認できた。
山の上にも塔のようなものがいくつも見え、
それらを照らすように赤い光りがチラついて見えた。提灯かもしれない。
 段々状の土地に建築物が立ち並ぶ歪な街は、まるで現実味がなく、虚像のようだ。
ひしめき合うように、旧時代めいた建築物が立ち並んでいる様は、タカシが住まう環境とはかけ離れた様相で、
運転中であるにもかかわらず、思わず見入ってしまう。
 神社仏閣が物珍しいわけではないが、大鳥居や大型の寺、つまり上空からの発見が安易である建物の類は、
古都東京にはまだまだ多く存在するものの、
その他の土地ではあらかた攻撃の対象とされ、結果、現存するものが殆どないのである。
 若者は神社仏閣にはあまり興味を示さない――、そう判断したのか、
政府も歴史的建造物の積極的な再建は行わなかったのだろう。
今ではそれぞれの都道府県に四つか五つの神社仏閣が存在すればいいほうである。
 そんな事情から、たとえ近年に好き勝手に作られた建築物とは言え、
寺や神社が――、所詮それらしいもの、ではるが――、あれほどの規模で現存するのはやはり物珍しく目に映るのだ。
人が住んでいるかどうかも怪しい場所は、敵からも爆撃の対象にならなかったのだろう。

「異世界だ……」
 ぽつりと呟いた言葉を律儀に拾ったアンドロイドは、「異世界とは?」と返事を返すが、
タカシは答えることもしなかった。答えを要してないことを理解したであろうアンドロイドは、
やがて何もなかったかのように首の捻れを正して正面へと向き直った。
 木々が走っていく。
 何の手入れもされていない木々は、ヘッドライトに照らされると時折獣のように見えた。
国から放棄されているに等しい土地――、ここはそういう場所なのだと、タカシはハッキリと自覚する。
 近隣から色を買いにやってくる人間は少なくはないことの証明に、道路に轍が出来上がってはいるが、
その道路とて『密かに続く秘密の街への道』と言った扱いのもので、国が存在を認めていない場所の為、
殆ど私道としての扱いであるから、手入れが行き届いていなのも仕方がないことなのだろう。
 それから凡そ十分後、車は漸く件の鳥居の前へと到着した。
 シートベルトを外して車外に出ると、生ぬるい風に混じって酒の匂い、そして香、人々の談笑が響き渡った。
街は、想像した以上に活気を放っている。
「お前も降りろ」
 車に向かって呼びかけると、アンドロイドは漸く車外へと顔を出し、それから車の扉を閉じた。
 鳥居の両脇に設けられた小屋に、監視の目を光らせている男が座っている。
おそらく彼らは、ここで働く娼婦や男娼を逃がすまいとしているに違いなかった。
「それで、子供たちは、」
 それが始まったのは、タカシがそう言葉を紡いだ時だった。
 アンドロイドは顔を俯かせ、伏せ目がちになりながら、なにやらカウントを始めた。
「ここから北に二百……、いえ、二百十、走っておいでのようです。心拍数もドンドン上がっておられます」
「走っているだけか?」
「……いえ、ノルアドレナリンの分泌量が増えているようです。ショウタ様は恐怖を感じておいでです」
 つまりショウタは何かから逃げているようだ。アンドロイドは感情のない瞳でそう告げた。
「行くぞ……!」
 子供が窮地に追いやられている可能性が高まった。
だというのに、アンドロイドは至極冷静にその状況を判断しアナウンスを続けているのだ。
 タカシはアンドロイドのこの無機質さがどうにも好きになれなかった。
 かつて勤務していた職場に数体のアンドロイドが設置されていたが、
それらよりも、見た目も会話も思考力も、随分と人間的になったとはいえ、
まだまだホンモノの人間には及ばない部分が数多く見られる。
その中で尤も顕著なのがこの無機質な空気。
人間的な気配が全く感じられない(少なくともタカシにはそう感じられるのだ)点は、
人型を名乗る上で致命的に思われた。
 いや、今はそんなことを考えている場合ではないだろう。早く子供たちを見つけねばなるまい。

 鳥居の下で、屈強な大男から通行証明書を買い――、
癪なことにこのアンドロイドの分の証明書の購入も求められた――、
焦れつつも漸く朱色の鳥居を潜ると、タカシは息を飲んだ。
 そこには、異次元への入り口とも呼べそうな光景が広がっていた。
 と言っても妙にメカメカしいだとか、近未来的であるとか言うわけではない。
 逆だ。妙に古めかしいのだ。小物ひとつをとってもそう。大昔の日本を髣髴とさせるその場所は、
その『大昔』を生きたことがないタカシにとっては異次元と呼んでも差し支えはないだろう。
「タカシ様、あちらです」
 ほんの一瞬、呆気に取られて立ち尽くしてたタカシは、アンドロイドの声にはっとした。
 先ほど潜った鳥居を入り口に、その先に続く大通りに立ち並ぶそれれぞれの店には、
洒落た赤い提灯が鈴なりにぶら下がってた。
 どの店にも入り口の脇には格子が設けられており、中には見目の麗しい男や女、少年少女が
露出度の高い衣類を身に纏い、通りすがる人々を誘惑している。
 怪しい香りが渦巻く中、腕を掴んで客引きをしようとする男の手をタカシは振り払い、
偽物の秋波を寄越す女や男の視線に気づかぬフリをし、玉砂利を敷き詰めた道を必死で走った。
アンドロイドは背後のタカシが追尾できているかどうかを確めぬまま走るものだから、
タカシも必死でついていくよりほかはない。
日ごろのデスクワークの賜物か、すっかりと機能の低下した足と肺は、激しい急な運動に悲鳴を上げていた。
「あと五十メートルです」
 息を切らしようのないアンドロイドは、明瞭な声でそう告げる。
 僅か五十メートルの距離だというのに、猥雑な喧騒やら嘘くさい笑い声、嬌声で溢れた通りでは、
子供の声など全くと言っていいほど聞こえない。
例えば奥まった裏路地で誰かが叫んだとしても、ハッキリとその悲鳴を捉えることは難しいだろう。
「あと四十、少し移動したみたいです。四十五メートル、心拍数がまた上がりました」
 危険だ。シュウの身に何かあったら。
 そんな考えが頭をよぎり、冷や汗がぶわりと噴出す。

「お前、先に行って子供を捕まえてくれ!」
「判りました」
 一瞬考えたような雰囲気で首を傾げたのち、アンドロイドは涼しい顔を保持したまま、
猛スピードで――、人間では決して出せない猛スピードである――、玉砂利を踏み砕く勢いで駆け抜けていった。
直進、それから角を左。タカシが確認をできたのはそこまでだった。
瞬く間に姿を消したアンドロイドの行き先を確認しつつ、タカシは足を止めることなく動かし続ける。
「お兄さーん」
 ウチで遊んでいこうよ。そんな呼びかけにわき目も振らずに走り続ける。
漸くアンドロイドが姿を消した角を曲がると、ふいにざわめきが小さくなった。
大通りから一歩内側へと入っていくと、随分と音が小さく聞こえる。
怪しい香が漂い風に提灯が揺れるのは変わらぬが、喧騒が小さい分、風情を感じた。
「……から……、がう!」
 子供の高い声が聞こえた。
 タカシには、それが自身の血を分けた子のものなのか、それともまったく別の、
つまりはこの街で働く者の声なのか、全く判断がつかなかった。
だが、一先ずはそこを目標に進むことにした。
 玉砂利を蹴る。運動不足の足は時折もつれるが、なんとか転ぶことなく走り続けられた。
戦時下であったのならば、死んでいるだろう。体力を取り戻さねばなるまい――、
そんなことを考えられる程度の余裕があるのは、
アンドロイドが子供を確保しているだろうと踏んでのことであるが、なんとも暢気である。
シュウの命の危険を感じれば激しく動揺するくせに、危機が去ったに違いないと予測を立てられるようになると
途端に力が抜ける。どこか情緒的におかしな自分は自覚しているが、その原因がつかめない。
もしかしたら、全てを楽観視させるような効果が、この鼻腔に纏わりつく香には含まれているのかもしれない。

 提灯の残像が背中に向かって伸びていく。
 幻想的にさえ見えるその光景を、ぼんやりと視界の端に追いやって、タカシは走り続けた。
 やがて人の争う声と、子供のぐずる泣き声が耳に届いた。
「ですから、主人が間もなく参りますので……」
 間違いない、アンドロイドの声だ。
「だから、この子達は男娼でも奴隷でもないよ」
 続いて聞こえてきたのは、女とも男ともつかぬ、少し甘いハスキーな声。
 格子の中から呼びかけてくる、熱帯魚のような、蝶のような見目の麗しい男女に脇目も振らず、
タカシは声を目指して走った。
「そうは言われても脱走奴隷だったら困るって話だ!
奴隷でも男娼でもねえってんなら、証明書を見せてもらわねぇと。
こんな年齢の奴ら、奴隷でもないならなんの用があってこの街に来たってんだよ。
お貴族様でも筆おろしにゃあちっとこの年齢は早いんじゃねぇか。どう考えても脱走した奴隷か男娼だろうよ」
 奴隷だ、奴隷じゃない。
 そんな言い争いを続けるのは、屈強な男たちだった。
おそらく見張りや警備を生業としている、この街の治安維持隊かなにかだろう。
脱走奴隷や娼婦男娼を捕まえたり、客のトラブルを解決する警らのようなものに違いない。
そんな男たちに、果敢にも応戦しているのは、背の低い、華奢な――、後姿だけではどちらか判断できぬが、
身の丈が一六〇センチ、あるかないかの小柄な人物であった。その隣に並ぶのは、間違いない、
タカシと共に屋敷を出てきたアンドロイドだ。
「おい……!」
 タカシの呼びかけに、アンドロイドが振り返り「タカシ様」と呼んだ。
 その声に反応し、アンドロイドと小柄な人物の隙間から、小さな子供が飛び出てきた。
警らたちは「おい」と声を荒げるが、子供の動きはそれより早く、
泣き声の混じった声で「お父さん……!」と叫びながら弾丸のような速さでタカシへと向かってくる。

 シュウだ。
 鼻水と涙で顔はぐしゃぐしゃであったが、見間違えようのない、それは確かにタカシの愛息であった。
 細い腕をタカシの腹にひしと巻きつかせ、涙でグチャグチャになった顔を何度も摺り寄せる。
瞬く間にシャツが汚れていくが、タカシはそんなことも気にならないという風に抱きしめた。
 だが、安堵と同時に湧き上がるのは怒りだ。
「馬鹿! お前は何をしているんだ!」
「ごめんなさぃ……」
 ひっひと小さくえづきながら、シュウはタカシのシャツを捉えて離さない。
落ち着かせるようにその背中を撫で、無事でよかったと抱き上げる。
「心配したんだ! 家を抜け出してこんなところに行くなんて、なにを考えているんだ!」
 だって、だってとシュウは涙声の合間に声にならぬ言葉を紡ぐ。
 判っている。ちょっとした冒険のつもりだったのだろう。
だが、冒険に赴くには、如何せん場所が悪すぎるのだ。
「ちょっとお前さん、何者だ」
「ですからあちらは、」
 成り行きを見守っていた男たちがついに声を上げた。
「失礼。この子は私の息子です。私の通行証明書がこちらです」
 ポケットから証明書を引きずりだして男に渡す。
「それからこちらがこの子と私の血縁関係を署名する身分と血縁証明書です」
 タブレットに浮かび上がる書類とタカシ、それからシュウを見遣り、男たちは漸く納得したようだった。
「お父さんね、子供はちゃんと見ていてくれないと。それにこの子がここに来るのはまだ年齢的に早いでしょう」
 シュウ程度の年齢で花街に客としてくる子供も、居ないことはないのだろう。
だが世間一般が思うように、やはり早すぎるのは確かなのだ。
「すみません」
「いやね、近頃奴隷として売られてきたはいいが脱走するやつが多くて……、
近々輸出入に対する鎖国も解かれるって話じゃないですか。
そんな感じで国がちょっとずつ変わってきてるんですかね、末端の末端でお家取り潰しになった貴族がさ、
仕方がなく娘息子を売るわけですよ。そういう奴らが脱走をするわけですよ」
 没落した貴族が子を売って借金やらを帳消しにするなど、昔からさして珍しいことでもないが、
近頃はその手のケースが目立つのだ、と男たちは言う。
「現にこいつも、」
「そういう話はやめてよね」
 凛とした声が男たちの言葉を遮った。
「僕が貴族だったのは昔の話だよ。逃げ出そうなんて思っちゃいないよ」
 先ほどから、男たちの横に居た小柄な人物が声を上げた。
「全く、珍しく営業日に休みをもらえたと思ったらこのザマだ。
身売りは身売りらしく、人目を気にして座敷の奥に引っ込んでろってことだね。
面倒ごとに巻き込まれた挙句、自分の過去を他人に暴かれたらたまったものじゃないよ」
 華奢な背中がめんどくさそうに言う。

香の匂いが練りこまれた風が、肩より少し長い髪を揺らした。
声の様子で、その華奢な自分が少年であると、タカシは始めて気づく。
シュウより少し上くらいだろうか、声にまだ幼さが残る割には、言葉遣いは随分としっかりしており、
一瞬二十歳もそこそこに越えたくらいの人物と錯覚するが、その骨格や声音から察するに、
タカシに背を向けたままのその人物はまだ少年と呼んでも差し支えがない年齢の筈だ。
「とにかく早く開放してくれ。僕は今、せっかくの休みを満喫中なんだ。ああクソ、煙管を忘れていた……」
 チッと舌打ちをしたその人物――、少年は、一瞬目の前の店を見上げ、その後溜息混じりに「まあいいか」と
呟き、そしてタカシを振り返った。
「――姉さん……?」
 言葉は、自然と口をついて出た。
 いや、そんなはずはない。そう思うよりも先に、言葉は先に紡がれていたのだ。
 頬の丸み、柔らかな眼差し、少しだけ口角の上がった口――。
「はぁ?」
 少女――、いや、彼は『僕』と自称していたのだから、少年なのだだろう――、
彼は胡散臭いものを見る眼差しを隠そうともせずに『はぁ?』と言った。
だが、タカシを振り返った彼はひどく中性的で、性別が見当たらなかった。
 その『彼』は恐ろしいほどに、そう、タカシの人生を変えてしまった女性に似ていたのだ。
 だが、そんなはずはない。彼はただ似ているだけだ。姉は疾うの昔に死んでいるのだから。
「……失敬」
 心臓が早鐘を打つ。
 自制心がぐらりと揺らぎ、その顔を両の手で挟みこんで具に観察をしたいような衝動が生まれる。
突き動かされるようにしてタカシは少年に近づいた。

「ちょっと……!」
 憑かれたように近寄る男に恐れをなしたのか、少年は一歩下がる。
「おい……!」
 警らたちも慌てたようにタカシを制止しようと手を伸ばしたが、
それらの試みはアンドロイドによって阻止された。
タカシの行く手を阻むものはもうなにもない。
異常をいち早く察知していた少年は、今にも駆け出さんばかりの勢いで背を向けていたが、
タカシはそれを許さなかった。玉砂利のこすれあう音が花火に混じって僅かに響く。
タカシは、すかさず少年の腕を掴み、そして引っ張った。逃がさない、そう言うように。
 あと少しで、彼をよく観察することができる。顔を確認しなくてはならない。
姉と、タカシが唯一愛したあのひとと、彼が同一人物でないことを確認しなくてはならない。
 馬鹿ことをしているという自覚は、頭の片隅にあった。
 だが、理性を食いちぎるほどに、ちらりとみた彼の顔は、なにもかもが姉によく似ていた。
なんとしても確認せねばならぬだろう。
タカシは掴んだ腕を強引に引き寄せ、彼の顔を掴み上げ確認をした――、はずだった。
「やめてよね!」
 タカシの掌から細い腕がすり抜け、パシッと派手な音を立てて振りほどかれた。
 一瞬だけ気が緩んでしまったのは、玉砂利の上、『それ』が居たからだ。
 ショウタだ。ショウタはしゃがみ込んだまま、感情の篭らない瞳でタカシを見上げていた。
いつからそうしていたのか、ショウタはシュウがタカシにしがみつきおいおいと泣き声をあげる中、
ずっとそうしてしゃがみ込んでいたのだろう。
 人形のように睫一つ揺らさず、涙の溜まった瞳でタカシを見上げていた。

「あんた何なんだよ! 僕は迷惑なガキどもを保護してやったってのに、
いきなり腕を掴むってどういう了見だよ! 訴えるよ!」
 少年が吼えている。獣のように怒りをむき出しにして。
 思考が散らばる。ショウタの存在に気を取られる自分と、少年の存在を確認したい自分とで、
心が分かたれる。
「ちょっとお客さん、困りますよ! 俺らの仕事はね、娼婦や男娼の身を守ることも含まれてんだ!
こういうことは店の中でやってもらわねぇと!」
「店の中だってごめんだよ! こんな変な男!」
 タカシは、シュウの安全を確認したその瞬間に、ショウタの存在を完全に忘れ去っていた自分を今更自覚した。
タカシは、ショウタの存在を、
シュウの元へとつれてくることが可能なナビゲーションとしてしか見ていなかったのだ。
 シュウを見つけてホッとした。
だが、タカシは露骨なまでに『ショウタの存在』を『すっかり忘れていた』のだ。
 ショウタの目に溜まった涙が、いつ溢れ出したものなのかは定かでない。
だがもし、もしも、シュウの存在『だけ』に気をとられているタカシを確認してのものだとしたら――?
いいや、もっと悪いタイミングかもしれない。
 シュウの安全だけを確認し、男娼に現を抜かす父親――、
生物学上だけの繋がりだとしても、ショウタにとっては父親はタカシしかない――、
その父親が、自分の存在をすっかり忘れ、男娼の手を捉えるのに夢中になっていたとしたら。
 流石にバツが悪くて、タカシは干からびた喉から「ショウタ」とひねり出すように声を出した。
名を呼べば、あのいつもの、なにかを期待をした目に戻るような気がしたからだ。
 だが。

「僕も、帰っていいですか」
 か細いショウタの声が、そう告げる。
 凍りそうに冷たい声は、全てを拒絶するように、ひどく大人びた発音をして見せた。
軽く俯いた目は、タカシの存在などもう知らぬ――、そういわんばかりに、見つめてくることもない。
「この子供もアンタの子供かい」
 警らがぞんざいに言う。
 一瞬だ。ほんの、一瞬の間だったのだ。
タカシは後ろめたさも相まって、いつものようにショウタとの血縁関係を否定したりせず、
素直に返事をしようと思ったが、一瞬の遅れが生じた。
それはミユキへの抵抗か、或いは心の片隅にあるショウタへの拒否がそうさせたのか、それは定かではない。
 だがその一瞬の遅れをショウタは許さず、ハッキリと「違います」と答えた。
 タカシは、思わず「え」と、間抜けにも呟いたような気もしたが、花火の爆音は全てをかき消して、
自身の発声が実際にあったものかどうかさえをもあやふやにする。
「僕にお父さんは居ません。ですが、『この人』のところでお世話になっています。
このアンドロイドに僕の個人情報が入っているはずなので、確認してください」
「あ、ああ……」
 警らたちは戸惑い気味に返事をした。
 うるさく喚いていた少年は押し黙り、そして冷ややかな視線をタカシに投げ掛けていた。
それらが己に対するタカシの暴挙から来るものなのか、
それとも『もう一人』の存在を失念していた男への侮蔑なのかは判らない。
 父親は居ない。ショウタは、そうはっきりと告げた。
いつも、遠慮がちにタカシを見ていた子供が、はっきりと『父は居ない』、そう告げたのだ。

「あ、ああ、確かに君は男娼でも奴隷でもないな……」
 大人のように物静かに言葉を紡ぐショウタに気圧されたのか、警らたちもぎこちなく会話する。
「もう、帰っていいですか?」
 赤、青、黄色。
 爆音と共に、大量の花が夜空に咲く。
それらは幼い、丸みのあるショウタの頬を照らした。もう涙は乾いていた。
 警らたちの了承を得ると、ショウタはタカシの方を一切向かず、
アンドロイドの作り物の手にすがるように触れた。
「抱っこして」
 それが自分に向けられた言葉でないことは、確かであった。
 アンドロイドは、一瞬首を傾げたのち「はい」と返事をしてショウタを抱き上げる。
「ありがとう。帰りたい」
「かしこまりました」
 アンドロイドの右腕の上に、座るような形で抱き上げられたショウタは、その一見人のような、
だが確実に偽物であるアンドロイドの首に両腕を巻きつけて、
首筋に顔を埋め込んでいた。
 アンドロイドは今や見てくれは人とあまり変わらない。
 ツルッとした無機質なボディではなく、人工皮膚で体全体を覆われており、
当然のように衣類も着込んでいる。
「寒くはありませんか?」
「……寒い」
「では少し、ボディの温度を調節します」
「うん……」
 その短い会話がなければ、その姿は父親に甘える子供そのものだった。
 ふいにタカシは察した。
 ショウタは、タカシに見切りをつけたのだと。
「……お父さん?」
 シュウがタカシの手に触れる。
「うん?」
「僕も帰りたい」
「ああ、そうだな」
 男娼の少年が、チッと舌打ちをしたのが聞こえた。
こんな状況でさえ、姉に酷く似た少年を気にしている自身が滑稽であった。
 姿かたちだけでも似てさえ居れば、それで構わないというのか。
息子の――、たとえそれが遺伝上のみの繋がりであったとしても、
我が子の安全以上に興味を示した事実は隠しようがない。
「安いな……」
 自分の愛情も。
 自嘲するような呟きに、シュウは真っ直ぐな目を向けてきた。
「帰ろうか」
 そう言われ、シュウは嬉しげに頷いた。
ショウタとタカシの横たわる、あまりにも深い溝に全く気づかぬ笑顔は、いっそ残酷なほどであった。

****

 悲鳴を上げたのは、シュウだった。
今まさに危害を加えられているショウタは、涙一つ零さずに、無抵抗なままそれを受け入れていた。
「なにをしていたの!」
 金切り声で叫ぶのはミユキだ。
 慌しくアンドロイドとタカシが屋敷を飛び出したことには気づかなかったくせに、
三人と、プラス一体が帰宅するやいなや、ミユキはショウタの腕を引っ掴んでその頬を張った。
 乾燥した音が響くと同時に、彼女はわけの判らない言葉を捲くし立て、
そしてその小さな体を壁に向かって叩きつけたのだ。
「あれだけお庭の外に出てはならないと言ったでしょ! 何故お母様の言うことを聞けないの!」
「おい、ミユキ……!」
 ショウタはその間、全くの無抵抗で「ごめんなさい」と謝罪を繰り返していたが、
しかし自身が何故花街に行くに至ったのか、その理由は一切口にしなかった。
痺れを切らしたミユキが、行き過ぎた体罰を与えるにはそう時間は掛からず、
タカシが制止の声を掛けるべきかどうか思案しているうちに、ショウタの体は宙に浮いていたのである。
 まるでボールのように浮かび上がった体は、しかしボールほど柔らかに壁に当たることなく、
派手な音を立てて幼い体は壁を伝って床へと沈み込んだ。
 背中への打撃から、ショウタは呻き声をあげたものの、決して言い訳も自己弁護もしなかった。
「ミユキ!」

 躾と呼ばれる域は疾うに過ぎている。
 思わずミユキを呼ぶが、彼女は憑かれたように金切り声を上げてショウタを叱責し続けた。
ゴテゴテとした装飾を施された爪が、幾度もショウタの頬を掠める。
頬を張られる度に、ショウタの頬には傷がついていった。
 アンドロイドも何度か制止の声を上げたが、ミユキは律儀にも、パスワードを読み上げることでそれらを封じ込め、
思うまま、ショウタへと暴力を振るったのだった。
「花街に行っていただなんて、汚らわしい! 貴方まさか、女をその年で買ったなんてことはないでしょうね!?」
「ミユキ、やめろ! そんなことしているわけがないだろ!」
「タカシさんは黙っていて! 父親の役目を一切果たさない貴方には、
この子の教育に口出しする権利はないわ!」
「それはお前も同じだろう! 身の回りの世話の一切をアンドロイドに任せているくせに!」
 しまった、言うべきではなかった――、そう気づいたのは、叫んだあとで、
ミユキは鬼のごとき形相でタカシを睨んでいた。
 売り言葉に買い言葉。
ミユキもミユキだが、タカシもタカシだ。
どちらもが、ショウタを叱る権利も庇う権利もないのである。
 凍るような空気の中、二人の対峙は続く。
大人二人の気迫に泣き声を上げるのはシュウだけで、
揉め事の渦中にあるショウタは、壁に叩きつけられた姿勢のまま俯いている。 
 どれくらいそうしていただろうか。緊迫した空気を破ったのは、意外なことにショウタであった。
覚束ない足取りで立ち上がったかと思うと、揉め事の一切への口出しを禁じられたアンドロイドに近づき、
その手を握った。
「体が痛くて、階段、上れない」
 そう訴えられたアンドロイドは、自らショウタを抱き上げる。
「おやすみなさい……」
 アンドロイドに抱えられ、抱きつくようにしていたショウタは誰に向けたのか、そう挨拶したが、
誰一人それに答える者はいなかった。


 深夜の大冒険によって疲れ果てていたのであろうシュウは、
ベッドに入って数分後には穏やかな寝息を立て始めた。
 ――改めて自覚した。
 タカシはシュウのみを自身の子として認識し、
その一方で、ショウタについては近所の子供に対するほどの関心さえもないのだと。
 ミユキに与えられた暴力、そして己が花街で犯した、なんとも恥ずかしい行動に対する後ろめたさで、
多少の心配は感じていたものの、それ以上の関心はあまりない。
そんな自分が不気味に感じたし、なによりも、ショウタの頭から『非道な父親像』を払拭し、
本の少しでも『いい父親』を演じたいという欲求があることに、自己嫌悪を覚えた。
 自分の欺瞞を満たすためにショウタへの接触を図ろうとしている――、そんな自分がなによりも気味悪い。
 だが、実母による暴力に耐え抜いた体がどんな状態であるのかが気になっている気持ちは決して嘘ではない。
いい訳めいたことを考えながらも、タカシはそんなことを思っていた。
 例えば近所の子供が怪我をしたと聞けば、多少の心配はするだろう。それと同じだ。
 シュウの眠る部屋で椅子に座し、そんな考えをまとめたタカシは、
その重い腰を漸く持ち上げ、隣の部屋へと向かったのだ。
 なるべく足音を立てぬように、物音を立てぬように扉を開く。
 部屋は、カーテンが開け放たれ、月が雲の切れ間から顔を覗かせていた。
 まずアンドロイドと視線がかち合う。
 しかし彼はなにも言葉を発さず、ただ何かを抱えたまま、ロッキングチェアをゆらゆらと揺すっていた。
月明かりを背負ったままのアンドロイドの目は少しだけけ光って見えたが、
人間であるタカシにはその姿が、『アンドロイドが何かの塊を抱えた姿』である、
とだけしか認識できなかった。

「お前はお爺様が僕にくれた」
 小さな声が何かを確認するように呟いたことにより、
アンドロイドが抱えたものがショウタであると理解する。
「そうですね」
「僕のものだ」
「はい」
 穏やかに返事をしたアンドロイドはショウタの髪をすいているようだった。
「いつまで一緒に居られる?」
「私どもの耐久年月はその使用環境によって異なります。たんなる世話係としてならば、
短くても十年は正常に稼動するよう設計されております」
「十年か……。じゃあそれまで、そばに居て」
「仰せのままに」
「……それ、嫌だなあ……」
「どれ、ですか?」
 椅子の動きに合わせて、ショウタの足先がゆらゆらと揺れ動く。
開け放たれた窓から、少しだけ冷たい空気が入り込み、カーテンをふわりと躍らせた。
「……です、とかます、とか言う喋り方」
「と、申しますと?」
「もっとね、もっと……」
 ショウタの声が小さくなり、アンドロイドの耳元に唇を寄せると、何事か呟き、
そして「駄目?」と尋ね返した。
 アンドロイドが返答を返すのに、時間は差ほど掛からなかったことを鑑みると、
ショウタのお願いは、アンドロイドにとって何の問題のないものであったのだろう。

「判りました。呼び名はなんと」
「ショウタでいい」
「かしこまりました。では、現時刻をもって、モードをショウタ様限定でFaterに切り替えます」
 Fater Mode。
 それは、アンドロイドがより親密に、文字通り、より父親らしくショウタに接するようになることを示していた。
 暫しの沈黙が流れる。アンドロイドのモード切替には、少しの時間が要されるので、そのためだろう。
 義父がショウタに送ったアンドロイドは、ショウタが未成年であるため、
保護者であるタカシやミユキの所有物であると言っても差支えがない。
しかし、名義人はショウタであるため、アンドロイドにとっての真の主人は、ショウタなのだ。
 例えばタカシとショウタが同時に何かの仕事をアンドロイドに頼んだのなら、
どちらの作業を先にしても効率に問題が生じない場合においてのみ、
アンドロイドはまずショウタの仕事をこなしてからタカシの命令をこなすのだ。
 繰り返すがアンドロイドの主人はショウタだ。
タカシがアンドロイドのモードを『警備』を優先するよう設定していただけで、
ショウタは誰の許可も要らず、いつでもそのモードを切り替えることができたのだ。
 だが、ショウタはそれをしなかった。そのショウタが、モードをFaterへと切り替えた。
 それはつまり――、タカシもミユキも、もうショウタには必要がないということなのだろう。
 得体の知れぬ、澱のようなものが肺の辺りに巣くうのを、タカシは感じた。
 罪悪感、嫌悪感、そして――?
 正体不明のそれがタカシの胸に渦巻くのも知らず、アンドロイドは自動的な再起動を起こし、
そして簡易的な『ショウタの父親』として目を覚ましたのだった。

 アンドロイドがショウタに向かって何事かを囁く。
 そろそろベッドに入れ、だとか、眠れ、だとか、そんな話だろう。
「嫌だ。このままがいい」
 駄々をこねるようにショウタがすねた声を上げる。
それに少しばかり呆れたように溜息を吐いたアンドロイドは――、溜息を吐くフリであるが――、
「まったく」と呟き、そして指先を伸ばしてショウタの頬に優しげに触れる。
 慈愛に満ちた触れ方は、子供に接する父親そのものだった。
「やだ。今日はこのまま抱っこしていて」
「風邪を引く」
「大丈夫だよ。お願い」
「……今日だけだよ」
 素足のつま先の冷たさを検知したのか。アンドロイドの手が、ショウタの足の先を包み込んだ。
「……ふふ……」
「何で泣いている。どうした?」
「……なんでもない……あったかくて、安心しただけ」
 胸の内に立ち込めた罪悪感に、呼吸が薄くなるのをタカシは感じていた。
 足が震える。指先が冷たくなる。呼吸が苦しい。
 おそらくショウタは、ずっと『それ』が欲しかったのだろう。
 自分を、自分だけを愛してくれる『親』が。
 ただ年相応に甘えられる、その年齢の子供ならば当然にように甘えられる相手が。



 酷いことをしていた自覚は合った。
ショウタの存在をどうしても受け入れてやれない狭量な自分を必死で誤魔化し、
『自分は間違っていない』と肯定する自身がどれほど醜いのか、
そして、仕方なしに親の代用品を自ら用意したショウタに対して、
償いたいだとか、改心しようなどと、微塵も思えない自分も、嫌と言うほどに自覚したのだ。
 しかし、ただそこにあるのは、自分を恥じる気持ちだけで、ショウタに対する気遣いは殆ど生まれない。
 どこかおかしい自分を、タカシははっきりと自覚している。
 どう頑張っても、息子だと思えるのはシュウだけで、姉と自分の遺伝子を受け継いだ、あの子供だけなのだ。
タカシの父性の全てはシュウの為にある。
一筋でも、たった一滴でも、それらをショウタに分け与えてやれる余裕がない。
 ただただ、居心地の悪さだけを自覚する。
 いたたまれなくなったタカシは、そっと扉から遠ざかったのだった。

 翌朝の食卓にはすでにショウタがおり、その脇には父親然としたアンドロイドが座っていた。
と言ってもアンドロイドは当然食事をしないのだから、
彼は『息子』であるショウタが椅子に座するのを観察し、
食事に手をつけようとするのを見守っているだけだった。
 ミユキはまだ起きていない。
と言うことは、食事を用意したのはアンドロイドのかもしれない。
 パン、サラダ、スープ、チーズ。なんの変哲もない食事であるが、
ショウタは軽くトーストされた食パンを一度手にし、どういうわけかそれを皿の上に戻してしまった。
「手が痛い。一人じゃ食べられない」
 タカシは思わず息を飲む。
肺に空気を詰めて栓をする音が、いやに大きく響いて聞こえたのはタカシの自意識過剰だろうか。
 タカシがそこに居ることに全く関心を寄せず、
ショウタはアンドロイドへと視線を真っ直ぐに向けて言ったのだった。
「そんなことはないだろう。腕に炎症は見られない。痛むのは背中のはずだよ」
 人類と殆ど変わらぬ見掛けを有したアンドロイドが、ショウタの丸い頬に触れて眉根を寄せた。
「嫌だ、食べさせて」
 ショウタは頑なに言い張り、『お願い』を曲げる様子がない。
「仕方がないね、お皿を貸して」
 ショウタは、タカシがそこにいることに気づかぬ素振りをし、そしてアンドロイドに甘えて見せた。
 存在を無視されている、と言うことだろう。

 ショウタはアンドロイドがちぎったパンを小鳥のように食べ、
スプーンに掬ったスープを差し出されれば、赤子のようにそれを口に含んだ。
 今まで、誰にも構ってもらえなかった時間を取り戻そうとするかのように、
ショウタはアンドロイドに甘えきっていた。
「もうお腹はいっぱいになった?」
 粗方のメニューが消費されると、ショウタはその問いかけに首を縦に振った。
アンドロイドは父親業の一部として、ショウタの口の周りを拭ってやる。
 ショウタの年齢からすれば、それはひどく甘やかされた行為であったし、
ショウタにしても、他人が目にすれば、甘えが過ぎた行動であろう。
 だが、ショウタは未だ嘗て、誰に対してもそれをやってもらうことなく成長をしたのだ。
面倒を見てくれるアンドロイドは、普段住まっている家にもいたことだろう。
だがそれらは、赤子であるショウタの面倒を小まめに見てくれはしたのだろうが、
それはショウタがなにもできない赤子であったからであって、成長して行くに従い、
次第にその世話は最低限度のものに留まって行ったに違いない。
 最低限度の世話に、最低限度の接触。
 当たり前だ。ショウタの家に設置されていたアンドロイドは基本的に警備に特化したものであって、
最近よく見るタイプの、警備・介護・親、などとモード変更できるものではなかったのだから。
「こら、離れて。食器を洗えないよ。歯磨きをしてきなさい」
 シンクに立ったアンドロイドにやんわりと注意されても、
ショウタはアンドロイドの背中に張り付き、腰に腕を回して離れない。
 歯磨きの仕上げはしてくれ、などと『お願い』を口にする始末だ。
 ショウタは子供っぽいお願いを幾度もする。
その度にアンドロイドは「仕方がないね」などと言いながらも、
ショウタの『お願い』と言う名の『命令』を受け入れるのだ。
 アンドロイドは基本的に、人類に害が及ぶような命令でなければ受け入れるようにプログラムされている。
モードが『親』であった場合、仕える子供の成長に大きな問題が起きないようならば、
同じく命令を受け入れるのである。

 細い腕が、アンドロイドに甘えて巻き付く。
アンドロイドのシャツを引っ張って、顔を埋める。
 無機質なそれからなんの体臭もしないはずであるが、
幼子が母の匂いを嗅ぐ様に、ショウタはそんな仕草をして見せた。
どこに行くにもアンドロイドと手を繋ぎたがり、
アンドロイドが頬に触れるたびに、恥ずかしそうに少しだけ口許を緩ませるのだった。
 紛い物の愛情でも、ないよりマシだと気づいたのか、或いは、紛い物ではないと信じているのか。
 ――ショウタの甘えは、時間を追うごとに酷くなって行った。
 アンドロイドと離れるのを嫌がる。少しでもアンドロイドの姿が見なくなると探しに行くほどになったのだ。
 誰も咎める者はいない。咎められない者と、咎めることが面倒に感じている者しか居ない。
 タカシには咎める権利がない。
シュウが執拗にアンドロイドを求めるようになったその責任の1/2ほどは、タカシにあるのだから。
 異様なショウタの変化に、シュウも戸惑っているようだった。
 シュウが何事かをアンドロイドに話しかけようとすれば、ショウタはそれを酷く嫌がり会話に割って入るのだ。
シュウにはアンドロイドに触れさせない、近づかせない、そして決して会話をさせない――。
ショウタから向けられる感情が悪意であるとシュウが自覚を深めるにはそう時間は掛からず、
花街への出奔から三日後ほど経つころには、シュウは完全にアンドロイドから遠ざけられていた。
 顕在化した悪意は、ショウタを落胆させるには充分な威力を持っており、時間が経つごとに、
シュウの顔からは笑顔が消えていったのだった。
「お父さん……」
 シュウが雑務をこなすタカシへと、そろりそろりと近づいてくる。
 シュウの変化はアンドロイドを『自身の所有物である』と主張することだけに留まらず、
シュウの存在を無視するにまで至っていた。
 こんな辺鄙な何もない土地で、遊び相手を同時に二人――、
正確には一体と一人だが――、を失ったシュウのストレスもそれなりに限界まできているようだ。
 庭に視線を向ければ、昼過ぎから先ほどまで、アンドロイド相手によく判らない遊びを繰り返していたショウタは、
疲れてしまったのか、木陰の下で丸くなって眠っている。
水平のような、セーラーにハーフパンツ。それらの服装の基調となっている白色が、眩しかった。
アンドロイドの胡坐の上で猫の仔のように丸くなって眠る姿は、まるで人形か置物だ。

「僕、ショウタ君に何かしたかな……」
 新しい生を受けてからのシュウは、マンションに殆ど缶詰状態で外に出ることはなく、
当然友達も居なかった。
 そんな理由から、シュウはショウタの存在をとても喜んでいたし、
その新しくできた友人と、それなりに仲良くなれたと思っていたようなのだ。
 だが、ショウタは突然変わった。
突然の変わりように、シュウはなにが起こったのかまるで理解できず、戸惑うばかりであった。
 大人の都合によってショウタは捻じ曲げられ、シュウにそのとばっちりがいった形なのだから、
タカシもタカシで「たまたま機嫌が悪かっただけだろう」と曖昧に言葉を濁すしかないため、
ますます理解できずにシュウは苦しんだ。
 兄弟なのだ。遺伝上の関係は異母兄弟と言うことになるが、
兄弟同士で仲良くできるのならそれに越したことはないが、
それを実現不可能とさせてしまったのは、主にタカシだ。
 おいで、と自分の膝を開けて促すと、シュウは躊躇なくタカシの膝に収まった。
「……僕、やっぱりショウタ君に謝らないといけないと思う」
「なにを?」
「……花火が鳴っている場所に行こうって言ったの、僕なんだ」
 でもショウタ君はショウタ君のママに本当のことを言わなかったからたくさん怒られちゃった。
シュウはそう続けると、膝の上で俯いた。
 シュウに落ち度はない。少なくとも、ショウタのシュウへの態度が変化したことに関しては。
そうなるように仕向けてしまったのは、寧ろタカシなのだ。
それを思うと、シュウに対する後ろめたさに胸が重くなるのを感じた。
「……やっぱり謝ってくる」
「シュウ、」
 シュウは返事も待たずに、飛び跳ねるようにしてタカシの膝を去っていく。

 待て。
 そう声を出した時には『平気だよ』と言う言葉を残し、彼は素足のまま庭へと駆けて出していた。
 タカシは立ち上がったまま、為すすべなく成り行きを見守るしかない。
安易にショウタへと近づくことは、流石に憚られる。
 シュウはあっという間に木陰に辿り付き、
彼らを見下ろすような姿勢のままでアンドロイドに何事かを話しかけ始める。
何の変哲もない、アンドロイドと人間の子供の自然な会話だ。
だがタカシは明らかに焦り始めている自身を自覚していた。
 今、ショウタの神経は尖っている。シュウがアンドロイドに近づくことを良しとはしないはずである。
アンドロイドはシュウに向かって顔を上向かせ、何某かの返答を返している。
その様子にさえ不安を覚え、タカシは庭用のサンダルへと足を突っ込み、
二人と一体へと少しずつ近づいていった。
「いえ、調子が悪いということはありませんよ。ただ、ショウタは少し気が立っている。
そっとしておいて貰えると助かります」
 アンドロイドが『困り顔』を作ってそう言った。
ショウタの感情の起伏、それが起こる際の状況を全て重ねて総合的に判断し、
アンドロイドは答えを導き出した上で、シュウを自分たちから遠ざけるよう、やんわりと懇願した。
「でも僕、ショウタ君に謝りたいんだ」
「申し訳ありません、シュウ様。今、ショウタには謝罪を受け入れるだけの余裕がありません。
どうかそっとしておいてください」
 困り顔のままそう続けるアンドロイドに、シュウは少しばかり不満そうな顔をしている。
ああ、まずい。タカシがそう思ったのは、シュウの不満をその表情に感じたのと、ほぼ同時のことだった。
アンドロイドの膝の上、小さく丸々ショウタが、かすかに身じろぐのが視界の端に確認できたからだった。
「シュウ」
 慌てて我が子――、タカシが頑なに唯一の息子と認識するシュウだ――に近づき、
その肩を自分の方に引き寄せる。だが、その行動は、少々遅かったようだ。

 ショウタが手の甲で目を擦り、ゆっくりと意識を浮上させる。
幼い、どこにでもいる子供の仕草だ。
続いて、自身がどこで眠っているのか完全に忘れていたのであろう、
一瞬だけアンドロイドの姿を探すように視線を彷徨わせ、
そして見つけた『自分の父親』に笑いかけた――、
のは、本の少しの間だった。
 寝起きの幼子のぼんやりとした、いっそ可愛らしいとさえ思える表情だが、
それは瞬時に凍りつき、たちまち不快感を露にした、悪意ある表情に作り変わったのだった。
 ショウタが舌打ちをしなかったのが、意外に思えるほどに、
その感情の変化に伴う表情の移り変わりは露骨なもので、そして大人びて見えた。
 シュウから目を逸らし、アンドロイドの首に腕を回してへばりつくと、
「部屋に戻りたい」とショウタは硬質な声で告げる。
彼の怒りを察知したアンドロイドも、それに文句一つ言うことなく「判った」と短く返事をし、
すっくと立ち上がったのだ。
「ショウタ君、待って!」
 幼い声が、必死で『友達』に呼びかけるも、しかし呼びかけられた本人はそれを許すはずもなく、
シュウの存在にまるで気づかぬように、ショウタは無視を続ける。
アンドロイドも当然のことながらショウタの意志を尊重し(なにせアンドロイドにとってショウタは主だ)、
彼によって下された命を遂行するためにショウタの部屋を目指して歩き続けた。
 広い庭だと言っても、所詮は普段使いではないセーフハウスだ、広さなどたかが知れている。
シュウは走り、そしてアンドロイドを捕まえるべく腕を伸ばした。
 幾度かそんな攻防は続き、シュウが漸く掌を捉えたところで、アンドロイドの歩行は止まったのだった。

「捕まえた! あのね、ショウタくん、僕、ショウタくんに謝りたいことがあるんだ」
 シュウは短い駆けっこによって乱れた呼吸を整えながら、自身のはるか上に居るショウタを見上げた。
シュウの右手はアンドロイドの右手を、左手は息を整えるべく、自身の胸に添えられている。
 おっとりとしたシュウの表情に対して、ショウタの目は怒りに燃えていた。
 ――危険だ。そう本能的に察知したタカシはシュウに近寄り背後に回る。
「ショウタ、あのな」
 取り繕うように、殆ど呼んだことのない名をタカシが口にした時だった。
「うるさい!! 僕の名前を気安く呼ぶな!!」
 ぴしゃりと冷たい声が浴びせられる。
 子供らしさの一切含まれない怒声に似た声は、ひどく冷たく、そして刺々しく鼓膜を振るわせた。
あまりにも冷ややかな声音は、タカシとシュウの動きを拘束させるだけの効果が充分にあった。
 あまりにも子供らしくない。あまりにも冷たい。
 ショウタをそう変えてしまったのは、紛れもなくタカシと言う遺伝上の父親だ。
 遺伝上――、この期に及んで、タカシはそんな枕詞をつけたがる。
ほぼ強制的に父親にされてしまったわけではあるが、それでも、こんな風になってしまった子供一人を目の前に、
今でも『遺伝上』などとつけたがるのタカシは、どうかしているのかもしれない。
「下ろして」
 アンドロイドの腕に抱かれたままだったショウタは、冷淡にアンドロイドへと『命令』した。
お願い、などと可愛らしいものではなかった。
 アンドロイドが軽く身をかがめると、ショウタはそこから飛び降りるようにして芝生の上へと降り立った。

「ショウタ、君」
 シュウの声が乾ききっている。アンドロイドの手に触れたままの右手にショウタの視線が移される。
と――、パン、と弾けるような音が響き渡ったのだった。
 ショウタが、シュウの手を思い切り叩いたのだ。叩き落した、と言うのが正解だろうか。
「勝手に触るな」
 冷ややかな声音は、タカシに向けられたものと然して変わりない。
「これは僕のだ。お爺様が僕に下さった。何故お前が勝手に触る」
「ショウタ」
 窘めるように声を掛けたのは、アンドロイドだった。
 アンドロイドは怒りに震えるショウタの肩にやんわりと触れるが、
それは彼の怒りを静めるほどの効果はないようだった。
「落ち着きなさい、ショウタ。ショウタ、こっちを向いて」
 父のように、母のように、アンドロイドは冷静に、穏やかに声を掛けた。
ショウタはゆっくりと振り返り、自身の『父親』を見上げた。
「落ち着きなさい、ショウタ」
 繰り返される声に、ショウタの表情が徐々にあどけないものへと変わっていく。
「ショウタ、大丈夫だから。私はショウタのものだ。心配ない。他の誰のものにもならない。
判っているだろう? 大丈夫、深呼吸をして」
 ショウタと視線を合わせるべくしゃがみ込んだアンドロイドは、あやすようにポンポンと幼子の腕を叩く。
一定のリズムで繰り返されるそれに、ショウタは冷静さを取り戻しつつあるようだった。
 緊急セラピーだ。モードが『親』に設定されている場合、子の怒りや悲しみに応じて、
アンドロイドはこうして、子が落ち着くまで簡単なセラピーを行うのだ。
 他者との衝突を避け、他の子供の親からクレームを受けるのを避けるよう誘導する。
それもアンドロイドの仕事の一つだ。

「大丈夫、いい子だ。ショウタはいい子だね。大丈夫」
 頬に手で触れ、額同士をくっ付ける。親子のようなスキンシップに、ショウタの呼吸は整えられていく。
 気味の悪い光景だった。
ショウタはセラピーを、そうとは思わずにアンドロイドから与えられる『愛情』と認識しているに違いない。
彼は、完全にアンドロイドへと依存している。
そするしかなかった子供に対して、気味が悪いと感じてしまう自分自身もまた、気味が悪い。
 タカシは目を逸らし、二人を――、
あれはもう、ショウタにとっては『一体』ではない。完全に『一人』と化している――、
視界に入れぬよう努力した。
「少し体温が高くなったね。でも大丈夫、すぐに落ち着く筈だ」
「うん……」
「よし、気持ちは落ち着いたね。いい子だ。シュウ様に謝って」
「嫌だ。僕のものに勝手に触った方が悪い」
「ショウタ……」
 謝罪を再度促すのは得策ではないと感じたのか、ただ短く、「では、部屋に戻ろう」と告げたのだった。
「うん……」
 部屋に戻ることを了承したはずのショウタであるが、しかしアンドロイドに手を引かれるも、
彼の足は強張り固まったままだ。
「ショウタ、どうした? 足が緊張してしまったかな?」
「……だっこ」
「また、そんな風に甘えて」
「だっこして、『お父さん』」
 お父さん、の部分は小さくてなんとも聞き取りづらかったが、しかしショウタは、確かにそう発音した。

 ――お父さん。
 シュウが呼びなれているその呼称を、ショウタはこれほどまでに遠慮がちに口にする。
それも、タカシに対してではなく、紛い物の無機質な父親に対して。
 通常、アンドロイドに対して、ここまで依存する子供は少ない。なぜならばアンドロイドは、
あくまでも子守を担当するだけのロボットだ。親が仕事でいない時間だけの、子守。
だがショウタにとってはそうではない。ショウタには、アンドロイドしか居ないのだ。
その紛い物の父親を得たのもつい最近のことで、彼には生まれてこの方、父親は居なかった。
いや、母親でさえも、居なかったのだ。
 ミユキはあれほどショウタを、男児を望んでいたにもかかわらず、
生まれてしまえば面倒の一切を放棄していたと聞く。
怪我をしようものなら烈火のごとく怒り散らす割りに、
命の危機が訪れようものならこうして山奥へと避難する割りに、
彼女はショウタの面倒を全くと言っていいほど見ない。
ちぐはぐな行動は、タカシをも大いに混乱させるほどだった。
幼いショウタがどれほど混乱を来たしているかなど、想像するに難くない。
 今ここに来て、漸く――、遅すぎるとは思うが、タカシは『後悔』を覚えた。
自分の意地が、自分のどうしても曲げられてない思想が、
一人の子供をおかしくしている事実に『後悔』を覚えたのだ。
 きっとこの先、ショウタはこのままだろう。
例えば今、後悔を覚えたタカシが、急激に父親らしく接したとしても、
おそらくショウタは受け入れることはないだろう。
それだけのことをしてきた。そうならざるを得ないように接してきた。
ショウタのアイデンティティを、グチャグチャに歪なものへと成長させたのは、
どう考えても出来損ないの親二人なのだから。

「お父さん……?」
 疑問符をくっ付けそう呟いたのは、シュウだった。
 なんともタイミングの悪い呟きだ。
おそらくシュウには悪気はない。ただ、疑問に思っただけなのだ。
何故自分の友達が、『機械』をお父さん、などと急に呼び始めたのか。
ただただ子供らしい、無邪気な疑問であったはずだが、
ショウタにそれを理解できるだけの心の余裕もなければ、
それを柔軟に受け止められるだけのバックボーンもない。
 ただただ単純に、『馬鹿にされた』と。
 父親のない自分を、恵まれた子供に馬鹿にされたと。
 父親に愛されなかった過去を、恵まれた子供に馬鹿にされたと。
 そう反射的に捉えたに違いない。
 ショウタの足を包む、小さなスニーカーが地面を蹴った。
 ふわりと体が浮き上がると同時に、彼の胸元の短いネクタイも上向きに浮き上がる。
 小さな拳は握られ、余程きつく握り締めているのか、真っ白だ。
 あの拳は、シュウに間違いなく激突するだろう。
 タカシはシュウの腕を引き寄せ彼の体を芝生の上に引き倒し、自分が盾になるようにシュウの前に出た。
 目を瞑り、衝撃に備える。
子供の力などたかが知れているが、それでも子供の本気はそれなりの痛みを伴うつもりだ。
 抵抗するつもりはない。タカシは『後悔』しているのだから、それを甘んじて受け入れるつもりでいた。
所が、その衝撃はいつまで経っても訪れず、ゆっくりと瞼を持ち上げれば、
そこにはアンドロイドに細い腕をつかまれた状態のショウタがもがいてたのだった。

「離して!!」
 猛獣のように、怒りをむき出しにしたショウタは、アンドロイドの拘束を解こうと体をばたつかせている。
「離してよ! 離して!」
「離さない。今、君は、シュウ様が怪我をしかねない暴力を振ろうとした。
怪我を負わせること、それは最悪の場合、君が社会的制裁を受ける可能性が大いにあることを示している。
『父親』としては、それを見過ごすことなど到底できない」
「なんでだよ! なんで!!」
「暴力を振ることはよくないことだからだ」
「僕は今までずっと虐められてきた! 『こいつ』に無視された! 『こいつ』は僕を殴ったりしなかったけど、
いっつも僕を汚いものを見る目をして睨んだ! 僕が何をしたの!?
なんで、なんで僕だけこんな目に遭わないといけないの! なんで……!」
 ショウタはなんでなんでと、駄々っ子のように繰り返す。
 こいつ、とはタカシのことを指しているのは間違いないだろう。 
 ここまで情動を明確に表現するショウタの姿は初めてで、タカシは息を詰めて様子を見守った。
ショウタは、いつでも遠慮がちだった。いつでもそっとタカシを見つめ、タカシがその視線に気づく頃に、
やはりそっと視線を外したのだ。
 いつでも、控えめにタカシを求めていた。
 愛してくれない父親を、求めていたのだ。
「理論が破綻している。仮に報復が許されるとして、ショウタ、君が報復活動を行うべき相手はタカシ様だ。
決してシュウ様ではない」
「こいつ、今僕を笑った!」
「笑ってなどいなかった。彼は『お父さん?』、そう口にしただけだ。
おそらく彼は、君が私のことを何故急に『父』と呼び出したことについて純粋な疑問を抱いたに過ぎない」
「でも、でも……!」
「ショウタ、落ち着いて。君の思考力は、私が計測したところ、+五歳ほどは大人びている。
私がなにを言っているのか、判らないはずはない。
また、感情の赴くままに暴走するほど愚かしい性格でもないはずだ」

「……なんで僕の味方になってくれないの……なんで……」
 ショウタの瞳が、見る間に潤んでいく。
小さな頬を、その塩水が濡らすのは時間の問題のように思われた。
 ――ああ、泣いてしまう。
 タカシは居心地の悪さと、後悔に押しつぶされそうになりながら、
その涙が溢れるのを待つようにして見守っていた。
「なんで、誰も僕だけのものにならないの……」
「私は君の味方だ。なぜならば、君は私の主であるのだから、君の人生がより明るいものになるよう、
最悪の選択をしようとした場合は阻止し、できる限り君を導き、共に存在することを約束しよう」
「違う……違うよ、そうじゃないよ……」
 嗚咽を含んだ声で呟きながら、ショウタは首を振った。
「違う、とは? 私はアンドロイドであるため、君の感情を明確に推し量ることはとても難しい。
ハッキリと『何』が『どう』違うのか、口に出して示して欲しい。
そうすれば、もしかしたら君が望む答えを私は用意できるかもしれない。
だた、それが君の望みに百%適うものではないかもしれない、と言うことは心に留めておいてほしいと思う」
「選択の手伝いなんて要らないよ……そうじゃない、僕が欲しいのは、僕が欲しいのは……、」
「ショウタ? それでは判らない。ショウ、」
「もういい」
 アンドロイドの言葉を遮るようにして、ショウタは『もういい』と宣言し、そして乱暴に涙を拭った。
まるで泣いてしまった自分を恥じるような行動だ。
 ショウタは唐突に行動が切り替わる。それはまるで――、ロボットのように。

「もういい、とは?」
「お前はアンドロイドだ。結局、僕の味方はどこにも居ない」
「ショウタ、私は君の味方だ」
「偽物だ! 結局お前は、偽物だ! 僕のお父さんじゃない!」
「君の遺伝上の父親はタカシ様であることは間違いない。
ただ、タカシ様とシュウ様の親子としての接触を百%として計測した場合、
君とタカシ様の接触は場合、一%以下であることは、私のここ二週間強の観察で判っている。
形だけのものとは言え、父親として接触している時間は私の方が格段に長い。
それでも父親ではないというのなら、仕方がないとも思う。
なぜならば私は所詮マシンだ。遺伝的な繋がりを君と持つことは未来永劫不可能なことだから。
君がもう私を必要でないというのなら、モードを警備に切り替えても構わない」
「……僕は誰にも必要とされない。お前だって、主人は僕でなくてもよかったはずだ。
僕が主人として登録されているから、僕のお父さんのようなものになってくれるだけで、
それはホンモノじゃないし、僕のことを好きなわけでもない。誰でもいいんだ」
「残念ながら、ショウタと私の関係は、確かに私にインプットされたものによることが多く、
それによって私は君を『子』と認識し、父親を演じるように命じられている。
自発的に君に愛情を抱くことは難しい。それは確かなことで、私にもどうすることもできない。
しかし、君が私を必要とするのなら、私はいつまでも君のそばに居ることができる。
心変わりはしない、君を不要に思うことも、邪魔に思うこともない。
君が望む限り、私が故障しない限り、同じプログラムで遂行し、
人間の言うところの『愛情』に良く似た態度で、君に接することを約束しよう」
 アンドロイドは人のように心変わりをすることがない。
未来永劫、自身が故障するまで忠誠を誓うのである。 
 お前のように子を愛せぬ白状者よりマシだ――、そう批判されたようで、タカシは思わず奥歯を噛み締めた。
おそらくその微細なタカシの行動でさえ、アンドロイドは把握しているはずであるが、
しかし果たしてその意味まで理解できているかどうか。
理解しているのならば性質が悪いと感じるが、
幼子を相手に冷ややかな態度を取り続けた自身の方が余程性質が悪いのだと、タカシはもう知っている。
いや、漸く心の底からそう感じることができた、と言うべきか。
だからこそ、アンドロイドに会話を切り上げさせることができなかったのだ。

「それは僕が死ぬまで?」
 幾分か冷静さを取り戻した声音で、ショウタは問うた。
「残念ながら、以前ショウタに伝えたとおり、私たちの耐久年数は十年程度とされている。
ショウタの寿命には遠く及ばない。しかしその十年を私は、」
「僕はすぐに死ぬ」
 アンドロイドの言葉を遮り、ショウタはぽつりと言った。
「僕は、どうせすぐに死ぬ。だから、十年もきっと必要ない」
「ショウタ、その言葉は理解できない。君は健康だ。事故ならば私がいくらでも防ごう。
先の大戦の影響で酸素の汚染が進んでいるとは言え、君は飲料水も汚染が低いものを飲んでいる。
この生活を維持すれば、少なくとも君はあと五十年は生きることができるだろう」
「僕は大人になるまでに死ぬ。殺されることが決まっている」
 ショウタの頬から、拭ったはずの涙が再びポロリと零れ落ちた。
アンドロイドはそれを親指で拭き取っているが、至極冷静だ。
 突然の告白に、タカシは大いに戸惑っていた。
 ショウタが何を言っているのか理解ができぬのは、アンドロイドだけではなく、タカシも同じだ。
「ショウタ、君は健康だ。自暴自棄になるのはよくないことだ」
「違う……違うよ、そういうことじゃない。僕は殺されることが決まっている」
「ショウタ、意味が判らない。人には未来を予知する力はない。勿論私にも。
なにか君は妙な固定観念に囚われている可能性がある」
「……僕は、殺されるために生まれてきた」
 いつの間にか、太陽が傾き始めている。
 そろそろ夕方だ。
 オレンジ色の光りが、ショウタの頬を照らしていた。
 泣き、喚き、怒る。
 そんなショウタの表情を、タカシはこの日殆ど始めて目にしたのだ。
 遺伝子の半分を分けた我が子の豊かな表情を、この日、初めて目にしたのだ。
その中に笑顔が含まれていないのは、明らかにタカシやミユキの責任で、
今更その咎を負うことができるのだろうか、などと、
タカシはその場にそぐわぬ、実にぼんやりとした思考で、しかし、今更ながら考えていたのだった。

 夕日を、雲が隠す。
 ショウタの顔も薄暗い周囲に紛れていく。
「僕は、イショクされるために生まれてきた」
 イショク、とは移植だろうか。しかし、それでもショウタの言葉の意味が判らない。
 だが、タカシの背筋を冷たいものが伝っていくのを感じた。
「僕はお母様に、小さいころからずっと聞かされてきた」
 異常な空気に、隣にいるシュウが、指先に力を込めて己の手を握り締めてきたことにも、
タカシは漸く気づくが、そちらを向く余裕はない。
ただジッと、今までだってそんなことをしたことはないと言うのに、ショウタを見つめていた。
「僕は、そいつの――、『タカシさん』の脳を移植するための器だって」
 冷たい風が吹いた。
 この場に居る人間の体温を奪うような、冷たい風だ。
「僕は、『タカシさん』の脳を移植するためだけに生まれてきたんだ」
 嗚咽が聞こえる。泣いているのは、シュウか、それともショウタか。
 完全に広がった薄闇に目が慣れることができず、子供たちの様子を窺うことができない。
 月が昇るまで、どれほどの時間が掛かるだろうか。
 そして暫しの沈黙が訪れる。
「僕は、誰にも愛されていない。でも、お前がお父さんになってくれて、少しだけ嬉しかった」
 寂しそうに呟いたショウタが、
アンドロイドに自身の『親』であること、さらには『警備』も解除することを宣言した。
為すすべなく誰もがショウタの行動を見守っていた。
「ありがとう。お父さんになってくれて、本当に嬉しかったよ。
お父さんじゃないなんて嘘。大好きだよ」
 しゃがんでいた微動だにしないアンドロイドの首に腕を巻きつけ、一度だけ抱きついたショウタは、
鼻先を首筋に埋めるようにした後、すぐさまその腕を名残惜しそうに解き、そして――、微笑んだ。
 モードの切り替えには時間が要される。アンドロイドはその間、身動きが取れぬのだ。
「ショウタ!」
 タカシは思わず叫ぶが、しかしショウタは一度もタカシを振り返らず、フライボードを掴むと闇の中に消えていった。
 追うものは誰も居ない。
 ――お父さんになってくれて、嬉しかった。
 耳に木霊するのは、幼くて、だが妙に大人びた――、いや、大人にならざるを得なかった子供の、悲しい声。
 空に昇った月は、少しだけ欠けた歪なものだった。

今日はここまで
いつも保守ありがとうございます
よいお年を

お疲れさまです!
せつなすぎる…

今年も、読み応えのあるお話をありがとうございました。
続きも楽しみにしてます!

ストーリーも描写もすごいですね
最後までがんばってください

あと◆OfJ9ogrNkoさんの他のお話があったら読んでみたいです

似たようなSSを読んだ気がする

fatherのスペル間違っていて死ぬほど恥ずかしい……
何故間違えた
恥ずかしい

まとめてで失礼

vipでその場で推敲もなしに書いていたのが何作かあります
ピクシブに自分でまとめてあるけれど、あまりにも誤字脱字が酷いので
そのうちまとめて清書して再度上げる予定です

「似たようなSS」と言うのは、もしかしたらやはり自分の作品かもしれません
このSSのプロトタイプをvipに上げたことがあります
(タカシがアンドロイドを作る会社のCEOだったり、
ショウタが奴隷のままだったり、ミユキがタカシの姉だったり)

いずれのSSも全て完結済み、ショウタ・タカシ・ミユキだけで書いているはずなので、
ググれば出てくるかもしれませんが、本当に誤字脱字がこのSS以上に酷いのでオススメしません……
登場人物名は全て同じですが、中身は違う人物なので、アレ?と思うかもしれません

長々と失礼
あまりにもfatherが恥ずかしかったので

たまたま見つけて半日かけて読んだわ…凄いね。世界観とか設定とか普通に小説に出来る
殺された女はミユキとは友達だったのかな。どっちも貴族だったから最初混乱した

そしてミユキのヤンデレぶりが怖い!実の子であっても適応確率は四分の一らしいけど
それはクリアしてるのかな。完全な被害者のショウタが可哀想だ。死んだお姉さんも
ミユキと義父を恨む気持ちはわかるけど、ぶっちゃけタカシにもかなり問題あるよなぁ…

なんで俺がこんな目にって何度も言ってるけど全てはタカシが超絶自己中なのに起因してると思える
水製造機が戦争の火種になるってわかってるならある程度お金入った後に特許取って製造法を
公開すれば良かったのに一人で握りこんで戦犯扱いは当然。息子が殺された件もそもそも息子の存在が
過ちだし、幼馴染がアレなのもずっと半端に好意を利用してたからヤンデレた可能性もある

花街でショウタを忘れたのは他人なんかどうでもいいという本質の現れだと思う。普通は近所の子供だって
もう少し心配する。息子も息子として愛してるんじゃなくて姉の代替品として見てるだけだろうな
一般人ぶってるタカシより金に汚く孫が可愛い義父が一番普通の人間らしいというのがなんとも皮肉

長文失礼。分析しがいのあるSSだったので

もうクライマックスか〜長かったけど早く感じる

セルフ保守
保守、感想ありがとうございます

続きも楽しみにしてます
保守

ほしゅ

 再起動したアンドロイドは、ショウタを追おうとはしなかった。
ショウタ自らが命じた『警備』と『父親』の解除に伴い、
アンドロイドは彼を保護対象と見なさなくなったのだ。
 アンドロイド自身にはショウタと接した記憶は残されているが、
今の彼にとって大切なのは第二の所有者であるタカシとミユキだ。
自動的に繰り上がった所有権により、タカシはアンドロイドの真の主となったのだった。
「おい、ショウタの居場所を教えろ!」
 襟首を引っ掴んで問いただすものの、アンドロイドは先ほどから、
『お教えできません』の一点張りを貫いている。
「話題となっている児童Aは私の警備対照ではありません。
児童A自らが、私との『契約』を破棄しました。彼の居場所を私が探索するには、
彼との『再契約』が必要となります。それは、個人保護の法律を厳守するための行動であり、」
「お前、『児童A』ってショウタのことか……」
 突然に、ショウタの存在は『児童A』などという無機質なものへと成り下がってしまった。
 だから嫌なんだ、とタカシは口内で呟いた。
 所詮プログラムが見せる幻だ。人らしく振舞うよう命じられているだけの、紛い物。
「俺はお前らのそういうところが嫌いだ!」
「『そういうところ』とは?」
 生真面目にアンドロイドは問いかけるが、それとて『尋ねたい』と言う欲求からくるものではなく、
理解できぬことを取り敢えずは問いかけ直すよう組まれたプログラムに過ぎない。
「……もういい。シュウ、家に入りなさい。お父さんは今からショウタを探しに行かなくてはならない」
「え……」
 不安そうに手を握り締め、シュウはタカシを見上げた。
「アンドロイドがいる。心配はない」
「……判った……」
 判った。そう言いつつも、声は不安に揺れていた。
 きっとシュウには、今現在なにが起こっているのか、殆ど理解ができていないはずだ。
『友達』であったはずの『ショウタ』が何故あれほど怒り散らしていたのかも判らないだろうし、
ショウタがどうやら『友達』ではなく『兄弟』であったという事実も、
理解できているのかどうかさえ怪しいところだ。

 しかし今はそれどころではない。一刻も早くショウタを探し出さなくてはならないだろう。
 ショウタたちが始めて花街へと出奔した日、あの夜は満月で夜道も明るかっただろうが、
今日はそれほど月明かりが頼りになるわけではない。都会なら兎も角、こんな山奥の田舎では、
フライボードで夜間移動などしようものならば、木々の合間に落下し怪我をしかねない。
いや、もしかしたら最悪の場合は――、そこまで考え、タカシは首を横に振った。
 最悪の事態を想定してばかりは居られない。兎に角、急がなくてはなるまい。
 万が一ショウタの身になにかあったら――、あったら、どうすると言うのだろう。
タカシは思考の端に引っかかる、とても嫌な異物感に小さく舌打ちをした。
 後悔はしている。心配でもある。
 だが、それはどこから来るものなのだろうか。
 タカシは自分自身が判らなくなってきている。
 ショウタをどうしたいのか、ショウタとどうなりたいのか、
自分のことであるのにも関わらず、皆目判らないのだ。
アンドロイドを盗み見れば、彼は時折まばたきをしてタカシを見つめていた。
 仕草は殆ど人間だというのに、彼は人間ではない。
 ここまで人らしくあるのなら、いっそのこと感情があればいいのに、などと馬鹿げたことを思う。
彼らは体験した経験から行動を取ることはあっても、自ら思考することはない。
ユーザーの目には、あたかも思考しているように映るだろうが、それは経験に基づく行動であって、
己の『考え』を反映させているわけではないのである。
パターンにパターンを重ね、本来のプログラムの上に独自のパターンが生成されたため、
パターンとプラグラムに齟齬が生じ異常行動を取るアンドロイドも居るらしいが、
結局のところそれはプログラムとパターンであって、思考しているわけではないとタカシは考えている。
 だが、例えばこのアンドロイドが、心からショウタを愛していたのなら――、
そうすればタカシがここまで思い悩むことはないに違いなかった。
堂々と役目を放棄できる。全てを丸投げすることができる。
 アンドロイドがショウタの身の安全を案じ、そして追いかける。
アンドロイドが意志を持ち、それらの行動をとることができたのならば、タカシは何の心配もせずに済む。
 愛せない、可愛いとも思えない、守らなくてはならないとさえ、思えない。
 それでもショウタにタカシの代替品がいたのなら、きっとあの子供は――、
そこまで考え、タカシは唇を噛み締めた。

「俺は馬鹿か……ッ」
 アンドロイドが意志を持つことはない。
 ならば、タカシが取るべき行動をひとつだ。
 単なる偽善だ。それは判っている。タカシは悪者になりたくないのだ。
 ショウタを無事確保したところで、彼が素直に帰ってくるとも思えないし、
おそらく彼は、そんなタカシを見透かすだろう。
 悪者になりたくはない。ただ一つ、それだけの感情がタカシを突き動かしていた。
 だが――、追いかけなくてはならないと、タカシは異様な焦燥に駆られながら考えていた。
その焦燥がどこから生じるものなのか、全く判らない。
「お前はシュウを見ていてくれ」
「判りました」
 焦る様子もなく、アンドロイドは命じられたとおりにシュウの手を取り返事をした。
 ――忌々しい。
 アンドロイドは、ショウタの姿がないことを、少しも気にしていない。
 先ほどまで手を繋いでいたショウタが、あれほどまでに思慕をぶつけてきたショウタが、
だっこを強請ったショウタが、ここに居ない。
 その事実を、アンドロイドは露ほども不安に思うことはないのだ。
 この無機質さが嫌いだ。
「シュウに温かい飲み物を。それから、ミユキをシュウに近づかせないでくれ」
「何故ですか?」
「今は理由を話している余裕がない。これは『命令』だ。判るな?」
「……判りました。ミユキ様をシュウ様に近づけることがないよう注意します」
「注意ではない。厳守だ。ただしミユキに危害は加えるな」
「判りました」
 アンドロイドは澄んだ目でタカシを見て返事をした。
またもや舌打ちが漏れる。
 シュウの耳にも届いたかもしれないが、幼い息子に気を使ってやる余裕もない程度に
タカシは焦っていた。

 ――泣いていた。
 ショウタが、泣いていた。
 おそらくずっと、ショウタはこっそりと泣いていたのだろう。
 泣かせていたのは、大人の都合とタカシのつまらないプライドだ。
「クソ……ッ」
 堪えきれずに悪態を吐く。
 髪をかき回し、そして覚悟を決めて尻のポケットに収めてあった車のキーを握る。
 よし行こう――、そう自分を鼓舞した時だった。
「煩いわねぇ、まったく」
 暢気な女の声が、夜の庭に響く。
 庭に面したリビングの大窓の前、庭に居る二人――、と一体に、
「なにごとなの」と女は不機嫌に尋ねたのだった。
「ミユキ……」
 タカシはぽつりと妻の名を呼ぶ。
 昼寝でもしていたのか、髪が少し乱れている。
 あの騒ぎの中、よく眠れるものだと思う。
 ミユキはショウタに関心がない。
ショウタの中身に用はなかったのだから、それも当たり前のことだろう。
ショウタは『移植されるための生まれてきた』と話していた。
『体』に危害が及びそうになれば狂ったようにその安全を確保しようとする。
それは、ショウタの『器』だけを彼女が欲していたからに違いない。
「お前、ショウタに何を吹き込んでいた」
「……何のことかしら」
 女は一瞬こめかみを震わせて、しかし何事もなかったかのように微笑んだ。不気味な笑顔だ。
「もうすぐ自分は死ぬ、移植の為に生まれてきたと言っていた」
 あら、とミユキは呟き、そして我侭を言う子供に手を焼く母のように眉を顰めた。
「あの子ったら。『内緒の話よ』って約束したのに」
「……なにを考えている」
「なにって?」
「お前は最初から、ショウタを利用するつもりだったのか」
 女児は要らぬと堕胎を繰り返していたミユキの思惑を、タカシは未だに理解できては居ない。
タカシは永遠にミユキのものにならない。なるつもりはない。
もとより愛情などなかったが、溝が深まった今、顔を見るのさえ厭わしい。
「先に私を利用したのは貴方よ。私のことなんて、好きでもなかったくせに」
「――そんなこと、初めから判っていたことだろ」
 その上で、ミユキはタカシとの婚姻を望んだ。子供さえ得られれば言いとさえ言っていたのだ。
 確かにミユキの思慕に気づきながらも利用したのはタカシのほうだ。
だが、それに気づかぬほどミユキとて幼かったわけではないはずだ。
 しかし、今はそんなことで言い争っている場合ではない。
この女が何を考えているのか判らぬが、まずはショウタを見つけねばなるまい。
「――ショウタが居なくなった。帰ってこないつもりだろう」
 先ほどまで悠然と微笑んでいたミユキの表情が、スッと凍りつくのをタカシはハッキリと見た。
「探しに行く」
 どこに、と女の声が尋ねたような気もしたが、
タカシはそれに返事を返すことなく車に乗り込みドアを閉じる。
 タカシは車を発進させながら考えていた。
 ショウタを見つけ出してどうするつもりなのだろう、と。
 ショウタが拒否することも目に見えているし、縦しんば連れ帰ったところで、
ショウタはもう誰にも何も期待せず、心は押しつぶされ乾いたままだろう。
 またタカシも、後悔をしていても、彼を可愛いと思えることはないだろうと確信している。
 タカシにとっても、ショウタにとっても連れ帰る意味はないはずだ。ただひとり、ミユキを除いては。
 ミユキはタカシの脳を移植するつもりらしい。

「馬鹿な女」
 侮蔑と嘲笑を込め、言葉を吐き出した。
 おそらく彼女は、タカシとショウタの移植の適合率が極めて低いと知らぬに違いない。
 嘗て、様々な病によって失われた臓器は、大体パーツでも、生体パーツでもなく、
多くの場合、見知らぬ誰かのそれらによって補われたと聞く。
 他人の臓器を移植するなどと言う信じがたいことが、医療として年に何件も行われていたのだそうだ。
 適合検査はまず、ごく親しい身内から。
親兄弟、配偶者から検査を行い、それに適合しなかった場合、適合する赤の他人から貰い受けたのだという。
そんな背景も手伝ったのだろう、彼女は親子間の移植が、高確率で、殆どの場合可能であり、
かつ成功率も当然高いと勘違いしているに違いなかった。
 おそらく、あのマッドサイエンティストが、何故タカシの嘗ての息子であった『あの子』を死に至らしめたのか、
その詳細までは知らないのだろう。
 ミユキは女児が生まれることを厭っていた。
タカシが手出しをしないように――、そんなことを言っていたが、
なるほど、自分が『産み落とした器』にタカシを閉じ込めることが目的であったというのなら、
男児に執着した意味も判らなくもない。
彼女の目的は、『タカシを自分のものにすること』だ。意識はどうにもならなくとも、
魂たる脳と記憶を『自分の産んだ体』、即ちショウタに閉じ込めることは、
彼女にとって『タカシを自分のものにする』ことと同義なのだろう。
 だが、それが果たして成功するかと言えば、
門外漢であるタカシから見ても成功率が極めて低いことは確実で、
ミユキの狂った計画が頓挫の道を辿ることは安易に知れた。
 自分の産み落とした器にタカシを閉じ込める――、ぞっとするほどの執着に、吐き気を覚える。
 だが今はそんな気持ちの悪い思惑に囚われている場合ではない。
ショウタを早急に見つけなくてはなるまい。

 誰にも必要とされていない――、
そんな残酷な真実を、この世に生まれて僅か数年の子供は、痛いほどに知っている。
父親からは邪険にされ、母親からは臆面もなく『入れ物』と呼ばれる。
そんな環境で育った彼は幸か不幸か、
アンドロイドによれば『情緒面が五歳分ほど発達している』のだという。
 幼い子供ならば思いつかぬようなことを、ショウタがやってのける可能性も大いにあるだろう。
 そう、例えば自殺。
 タカシはそれをなによりも懸念していた。
 闇雲に歩き回るつもりはない。
 ショウタが引っ掴んでいったフライボードは、先日の出奔を期にGPS登録を済ませたところだ。
 それを知ってか知らずか、彼がフライボードを小脇に挟んで行方をくらましたことは、
タカシにとっては幸いだった。 
 タカシはステアリングから手を離し、自動操縦に切り替える。
 タブレットを立ち上げ、ショウタの現在地を確認すれば、やはり彼は花街の方向を目指しているようだった。
 そもそも彼が足を運べる場所など、この周囲には花街しかなくて、懸念しているのは寧ろ行き先よりも、
そこに向かう道中の事故、或いは自殺だ。
 一度目はなにもなかったかものの、二度目も無事に済むとは限らない。
何よりも今ショウタは、自棄を起こしかねない精神状態に置かれているのだから、
わざと操作を誤って転落事故を起こす可能性もないわけではない。
 おおよその緯度経度をスピーカーに告げたのち、シートに深く沈み身を預ける。
 ショウタの居場所を示すGPSは、一定の速度で細かに移動を続けていた。
 点滅を繰り返すタブレットの光が、暗闇の視界に酷く刺激を与える。

 耳にこびりつくのは、ショウタの痛々しい叫びだ。
 ――少しずつ、自滅の道を辿っている予感があった。
 シュウもいつまでも子供はいない。自分の出自をいつかは知るだろうし、
今の人生がいかにして与えられたかも、そのうち悟るだろう。
また、父親が、己の異母兄弟であるショウタにどんな残酷な仕打ちをしたのかも。
 溜息が漏れる。
 タカシの人生は、きっと全てが間違っているのだろう。
 姉を犯したことも、この国を破滅に導く機械を作ったことも、姉との間に子をもうけたことも、
好きでもない女と結婚したことも、子供に優劣をつけ接していたことも。
 人生の殆どが過ちで埋め尽くされている。
 だが、果たして、綺麗で傷ひとつない、美しいだけの一生を送る人間などいるのだろうか。
 人は自分の為に、時として人を殺すほどの我侭を通すイキモノではないだろうか。
 タカシはヒーローではない。自身の生き様を大手を振るって肯定するつもりは毛頭ないが、
大きな何かを守るために、我が身を犠牲にできるほどの器もまた、持ち合わせてはいないのだ。
 どこにでも居る、欲にまみれた人間なのだ。
ただ、我を通した代償が重すぎた。自分の身は然して痛くはない。
その重みを背負っているのが、ショウタであるのが問題なのだろう。
 結局のところ、タカシもミユキも、ショウタへと同等の負担を強いている。
 だが、そこまで理解しているくせに、頑なに愛してやることはできなかった。
 それでも、泣かせてしまうほどに追い詰めたことは、後ろめたく思うのだ。
『タカシさん』
 控えめに呼ぶ子供の声が木霊する。
 タカシさん、と実の父をショウタは名前で呼んだ。
 ああそうか――、と気づく。
 ミユキを真似ているのではない。
 おそらくショウタは。
「呼べなかったのか……」
 お父さん。そう呼べなかったのだ。
 タカシの顔が険しくなるから。
 タカシがあからさまに嫌そうな顔をするから。

 ショウタがまだ幼い頃、片手で足りる程度には、『お父さん』と呼ばれた記憶があった。
 ショウタは母であるミユキが面倒を見ない割りに、言葉の発育が早かったと記憶している。
 同い年の子供が漸く意味の判る会話をするようになった頃に、
ショウタはすでに『お父さん』とハッキリと発音をしていた。
 微かな笑いが漏れた。
 そんなことを記憶しているのに、可愛いとは思えないのだ。愛しいと思えないのだ。
 どうしても、愛せない。
そしてタカシは、おそらく後ろめたさを打破するためだけに、ショウタの足取りを追っている。
 誰も愛してやれない子供を連れ戻して何になるというのだろう。何のために連れ戻すのだろう。
 エゴイスティックな感情で、逃げ出した子供を連れ戻そうとしているタカシは、
悪魔か鬼か、それともただの鬼畜か。
 愛してるフリくらいは、するべきだったのだろうか。
 いいや、と、タカシは己の穢い考えを即座に否定した。
 おそらく偽りの愛情など、聡いあの子供はすぐに見抜くことだろう。
 アンドロイドから与えれる紛い物の愛情は、ショウタが『致し方がなく』揃えた『本物の愛情』の代替品だ。
ショウタは渇きを潤すために、仕方がなくそれを選択したのだ。
生身の人間からの、薄汚い偽物を与えられることなど、きっと彼は望んでいないし、
与えられたところで、シュウと己を比較し、ますます惨めな気持ちになったことだろう。
 結局のところ、誰もショウタを満たせないのだ。
 いっそのこと、生まれなければ幸せだったのかもしれない。
 だがショウタの生き死にを勝手に決めようとするそれもまた――。
「勝手なエゴか……」

 タカシはショウタのことなど考えていない。自分が楽になりたいだけなのだろう。
 唯一つだけショウタの為に『なかったこと』にできるのなら、タカシはなにを選ぶだろう。
 それならばタカシはいっそ、自身が生まれてくることを諦めたいかった。
 なにもかもが間違っているのなら、なにもかもを諦め『なかったこと』にしたほうが潔い。
 そうすれば誰も、そして何も失わず、傷つかず、タカシ自身は渇望を覚えることもない。
 自滅的な思考がやたらと渦まいていく。 
 ――楽に、楽に、楽に。
 呼吸がしやすい環境を探して、得られることは永遠にないと確定している自滅を、いやらしく夢想する。
 タカシはどこまでも自己中心的な嫌な人間なのだ。
 でなければ意識の碌にない姉を犯したりはしないだろう。
 子を産ませたりしなかっただろう。
 そう、タカシはどこまでも身勝手なのだ。
『目的地に到着しました』
 機械的な声が、花街への到着を告げた。
 はっとして視線をタブレットへと移せば、いつの間にかGPSは一定の場所で制止している。
 ショウタがGPSの存在に気づいてフライボードを手放したか、あるいはそこに留まっているのかどちらかだ。
 タカシは車から降り立つと、あの日そうしたように通行証を購入しようと鳥居の根元に近づいた。


「旦那」
 声を掛けてきたのは、屈強な男だった。
見覚えがあるかないかと言われたら、どちらかと言えば『ない』に傾くその顔を、タカシはジッと見た。
「ああそうか、覚えているわきゃないですね。自分は先日、お子さんを保護した警らですわ」
 ああ、と返事をしたものの、タカシは男のことを殆ど覚えていなかった。
そこに居ただけで、男の顔だとか身体的特徴だとか、その人物を人物たらしめている個性の全てを失念していたのだ。
 一事が万事、タカシはこうなのだろう。
「またお子さんが?」
 タカシの胸のうちなどに気づく様子もなく、男は声を潜めて尋ねた。
 色とりどりの火花が空高く舞う中、タカシはどう答えるべきか思案したのち、結局頷いてみせる。
「そりゃいけない。どのあたりにいるかはご存知で?」
「いや、GPSの動きが途中で途絶えて……」 
 そこにショウタが居なくとも、一先ずはタブレット上で点滅を繰り返す地点までは向かうつもりで居たのだが。
「ああ、ここいらは男娼が多い店ですわ。おいお前!」
 男が後ろを振り返り、同じ衣類に身を包んだ青年に声を掛けた。どうやらこの場を離れ、案内をしてくれるようだ。
「場所は把握しました。行きましょう」
「いや、一人でも、」
 大丈夫だが、と言い掛けたるも、男は、「客引きに行く手を阻まれるから」と言って引かなかった。
 タカシはそれなら、と男に従い彼の背後を歩いたが、彼の大きな声をもってしても、
時折為される会話は花火の音に掻き消えていき、男の話は殆ど聞き流している状態であった。
 赤い提灯が、水面をただよう金魚のように、ゆらゆらと揺れている。
形は様々であったが、色はみな一様に赤だ。
風に煽られゆったりとした動きを見せる赤い光りに、頭が次第にぼんやりとしていくのをタカシは感じた。
鼻を刺激し思考力を奪う香もよくないのだろう。視覚と嗅覚を同時に攻め立てられ、まともで居られるはずはない。
前を行く男は、この光景や匂いに慣れっこなのか、顔色を変えることなく前を進んでいく。



「……と言うわけですわ。旦那? ああ、すまないね、香に当てられたかな」
 男はパンツの裾に挟んだ手ぬぐいを差し出てきたが、
タカシはそれをやんわりと断り、男に付き従い只管歩き続けた。
 花火の弾け飛ぶ轟音が、内臓を揺らすように響いて気持ち悪い。
「この辺りですわ」
 男の足がピタリと止まった場所は、なんとなく見覚えのある場所だった。
 玉砂利が引かれた道に、木製の建物。
それらはこの界隈では定番の風景であったが、僅かにでも見覚えを感じるのは、
おそらくこの場でひどくバツの悪い思いをしたからに違いない。
 ショウタを差し置き、男娼の手を握ろうと必死になった、あの場所だ。
 GPSの点滅は相変わらずこの場で制止している。
 周囲をぐるりと見回し手がかりを探そうと体を二二五度回転させたところで、
タカシの視線はある一点に止まったのだった。
 朱塗りの格子の中、それはいた。
 一見しただけでは骨格も風体も華奢で、少女であると勘違いをすること必須の『少年』だ。
 タカシの視線に気づくと、彼は煙管を片手にチッと舌打ちをするような仕草を見せる。
 そのまますっくと立ち上がり、格子のもっと奥へと姿を消そうという素振りを見せたが――、
しかし彼は、ピタリと足を止めると、突然、ぐるりと振り返ったのだ。
 間違いない。格子の中の少年は、あの日タカシが腕を掴もうと躍起になったあの男娼だった。
 彼は、格子の向こうから冷えた視線をタカシに寄越していた。
睥睨、とまではいかないが、汚物を見るような眼差しだ。

「アンタ、子供を捜してるんだろ」
 花火の轟音の中、少年はハスキーな声を響かせ、タカシに向かって話しかけた。
「ああ」
 声が微かに上ずったのがバレたのか、少年は口許を歪め、そして煙を吐き出して見せる。
「知ってるよ、僕。あの子がどこにいるのか」
 咄嗟に反応できず、タカシは言葉を詰まらせた。
「なんだい、その反応。連れて帰りたいわけじゃないのか」
 姉と同じ――、よく、細かく観察すればどこかしら異なるのだろうが、
もう記憶の片隅に薄っすらと残る程度になった姉の面影を重ねると、
少年のそれは、ひどく似ているように感じられた。
 タカシを馬鹿にしたように、少年は嗤う。
「ま、あの子がどうなろうが僕には関係ないけどね。元貴族として教えてあげるけどさ、
貴族ってここじゃ手酷く扱われることが多いよ。
あんな乳臭いガキ相手にでも平気で無体を強いるから、ひと月後には死体になってるかもね」
 ここには花魁などという存在はなく、街全体で気取った雰囲気を取ってはいるものの、
ただの純粋な色の売り買いを目的とした場所であることから、
志願すればその年齢に関係なく、自らを売り出すことはできるのだという。
 小馬鹿にした顔で、小馬鹿にした声音で、少年は一気にそう言って退けた。
 唇から漏れる煙が、揺らめきながらタカシの鼻先を掠める。
 通りすがりの男に体当たりされよろけるが、タカシはただ少年の顔を見ていた。
「呆れた。あんた、自分の子供よりも僕が気になるわけ?」
「いや……」
 そうではない。
 いや、そうなのかもしれない。
 少年は幾度見ても姉に良く似ているような気がしてならなかった。
「……さっさとガキを連れて帰ンなよ。この店の旦那が保護しているよ。裏口から声掛けな。
こままじゃ、あの子、本当に自分を売っちまうよ」
「ま……っ」
 待ってくれ。そう声を掛けようとするも、少年は闇に紛れるかのごとく格子の奥へと消えていった。

「旦那、アンタ何しに来たんだい」
 警らが少年と同様に、呆れの入り混じった声でタカシを呼んだ。
 ショウタを――、遺伝上の息子を連れ戻しに来たのだ。
 そう、そのはずだ。
「どうも、好奇心の強い子供が、屋敷を抜け出して遊びに来ているだけってわけじゃなさそうだ。 
なにがあったんだい」
 タカシは何ひとつ答えられずに、ただぼんやりとした思考のままそこに佇んでいた。
「……まぁいいさ、深く首を突っ込まないこともこの街のルールだ。
とにかく、お子さんを連れて帰ってやんな。
その日のうちに格子に入れられることはなくとも、なにかあったら拙いだろう」
 拙いだろう――、そう言う割りに男が飄々としているのは、こういった事態に慣れっこであるためか、
それとも花街の内情をよく知っているためか。
 おそらく後者なのだろう。
 彼はきっと、ここでの生活が人生の大半を、いや、もしかしたらすべてをここで過ごしているのかもしれない。
「シャキッとしてくれよ」
 ひどくお節介な性分なのか、男は無遠慮にタカシの頬をつねって捻りあげると
「旦那、アンタ父親だろ」と少々語気を荒げ、苛立ったように叱責してみせたのだ。 
 体の表面を、なにか薄い膜で覆われたように、全ての事象に現実味がない。
 家を出る時は、あれほど明確に『ショウタを連れ戻す』と言う意志を持っていたクセに、
突如としてそれらが酷く些末な、どうでもいい決意のように感じられたのだ。
 香のせい――? いやそうではない。あの姉に良く似た少年。彼のことが、頭から離れない。
 ショウタを連れ戻すことに集中しようとしても、ふと思い浮かぶのは彼の顔。いや、姉の顔かもしれない。
 不安定な思考はゆらゆらと揺れ続け、
少しでも突けばショウタを連れ戻すという本来の目的を容易く放棄しそうになる自分が居た。

「旦那!」
 警らにドンッと力強く背中を叩かれる。
「いいかい、旦那。ここで色を売るということは、楼主の犬になるということだ。
楼主は往々にして真っ当な人間ではない。
借金があってもなくても、一度身売りを始めたら、逃げ出せないことが殆どだ。
アンタ、お子さんとなにがあったかは知らんが、血を分けた子をそんな風にしたいのか?」
 ――血を分けた子供。
 タカシにとっては、その事実もまた、現実味のない内容だった。
 ショウタが憎いわけではない。
 ただ、タカシの人生には不必要だったのだ。 
 だから、ショウタをどうしたいのか、と問われても、タカシには答えようがない。
 答えたくとも、なにかを答えるほどの感心がないのである。
 近くに居れば鬱陶しいとは感じても、何故ここまでやってきたかと問われたら、
それはおそらく保身の為で、
タカシにはショウタを連れ帰ることについて、明確な目標があるわけではなかった。
「……判らない」
 ぽつりと漏れ出たのは正直な胸のうちで、それを聞くやいないや、警らの男は溜息を盛大に吐いた。
「冗談じゃねぇぞ。勘弁してくれよ……」
 タカシは、圧倒的に無関心で、圧倒的に自己中心的な自身を、そろそろ自覚し始めていた。
 誰のことも、たとえ『血を分けた子供』であっても、基本的にはどうでもいい存在なのだ。
 ならば姉とシュウにのみここまで執着を燃やす自身は何者なのだろう、とも考える。
 タカシの基本は『無関心』だ。ならば執着を見せる自身は別者なのだろうか。
無関心なタカシも、執着をするタカシも同一の人間であるはずなのに、この熱量の差はなんなのだろう。


「あの坊ちゃん、随分思いつめた顔をしていたが……」
 父親がこれじゃあな、と警らは苛立ちを含んだ声で吐き捨て、
そしてタカシの二の腕をグイッと強引に引っ張った。
「困るんだよ、金のある『普通の家庭』の子供に出入りされちゃあ。
ここにいるガキどもってのは不運な星の下に生まれついちまって『仕方がなく』ここに来た奴らばかりだ。
そんな中にぽつんと『志願』して来た子供が居てみろ。
いいとこ虐めの対象、悪ければ一週間も持たずに死体になる。
ここはあんな坊ちゃんが居ていい場所じゃない。なにがあったのか知らんが、とっとと持ち帰ってくれ。
幸せな家族って言うのと縁遠くなっちまったガキどもにゃ、アイツみたいな子供は目の毒だ!」
 幸せな家族と縁遠い――、その言葉がやけに耳についた。
 戦後に広がった貧富の差は政府の支援によって縮小され、
今では食うに困って子を手放す親など、殆ど居ない。
 お家取り潰しとなった貴族と、
政府の支援から零れ落ちた『存在しないはずの子供』であるかのどちらかに絞られるのだろう。
貧困層は殆ど存在しない――、それが国の見解であるが、ないわけではないというのが真実だ。
存在しないはずの子供は大抵そんな場所から生まれ出る。
つまり彼らは、戸籍を提出されなかった子供なのだ。
もしかしたら、売り払うために生み出された可能性さえもある。
 貴族にせよ、存在しない子供にせよ、簡単に売り払われた彼らは、
家族の情が薄い環境で生きてきた可能性が極めて高いだろう。
そうでないのなら、家族を売り払った金で安穏と生きられるわけがないはずだ。
 そんな悲惨な環境があるその一方で、タカシやショウタのように、恵まれた人間も存在する。
経済的に逼迫していないことは、すなわちそれ自体が幸福なことだろう。
 戸籍もある、教育も受けている。医療機関にもなんの問題もなく赴くことができる。
 物のように売り払われた彼らかすれば、幸せな家族と縁遠い、とは言いがたい幸せな環境に身を置いていた。
 昔の――、今の生を受ける前のタカシも。

 しかし、とも思う。
 衣食住も揃っており、それなりの生活をしつつも、どこか満たされなかったあの頃をふと思い出す。
 姉の介護をしつつ学生生活を送っていた遠い遠い、気が遠くなるほどに遠いあの頃のことだ。
 思春期から青年期、その多くの時間を姉の介護に追われていた理由の一つに、
姉がタカシ以外の介護を暴れて拒んだことが上げられるが、
それ以上に、二人の両親がタカシたちに『無関心』であったことに原因があった。
 母は一族の女たちが発症する病を何も知らされずに嫁いできた女であった。
 父への愚痴を飲み込む代わりに、タカシへと何度『私は騙された』と呪詛の言葉を投げつけただろう。
そんな母を知ってか知らずか、父は凡庸なサラリーマンであるにも関わらず『仕事人間』を装い、
次第に帰宅の足は遠のいていった。
 そんな事情から、姉の面倒を見る人間が、タカシをおいて他には居なかったのだ。
しまいに両親は、まだ幼かったタカシへと、姉の全てを押し付けたので、
タカシの子供時代は子供らしく過ごせた期間がとても短かったと言える。
 タカシもまた、そういう意味では『幸せな家族と縁遠い』子供時代を送っていたのかもしれない。
 両親は子供を見ない。
 唯一一緒に過ごしていた姉は物言わぬ人形と化していたから、タカシはずっと一人で居たようなものだ。
 一方的に話しかけ、一方的に世話を焼く。
 それでも、タカシの傍に常に居たのは姉だった。
 ――なるほど、とタカシは現実感を伴った『今現在』に引き戻されつつ、
奇妙なまでにハッキリとした理解を覚えた。
 タカシが姉とシュウに執着をしていたのは、『血の繋がり』があったからだ。
どこまでも濃い、紛うことなき血の繋がりは、タカシにとって重要なものなのだ。
 そこに異物を含んだ血の流れは必要がない。
ショウタは、いつの間にか生まれ出ていた子供で、ミユキの血を含む、
『タカシとは違う団体』の人間なのだ。
 姉とシュウへの執着は、人恋しさを拗らせた上に成り立っているのかもしれない。

「旦那!」
 いつまでもその場でぼんやりとするタカシに痺れを切らしたのか、
警らの男はもう一度乱暴にタカシの腕を引っ張った。
傷みを訴える間もなく、男はタカシを引きずるようにして歩き出す。
「幸いなぁ、あの坊ちゃんが駆け込んだ店の楼主は比較的良識のある男だ。
だがな、だからと言って無事に済むかと言えばそうでもないのが現実だ。ここはそういう場所だ。あんた、」
 男は歩みを止めて振り返ると、血走った目でタカシを睨みつけた。
「あんた、判っているか、あの坊ちゃんがどれだけ『利巧な子供』か。
利巧な頭を持っているくせにこんな場所に来た。
あの子はな、ここがなにをする場所か判った上で来てんだよ! その意味が判るか!!」
 奇妙な風景だった。
 赤の他人、それもおそらく出会ったばかりで、会話も碌にしたことがないであろう男が、
ショウタの為に怒りを露にしている。それはとても奇妙で、不思議な光景であった。
 人の身が容易く売り買いされる場所で、
何故彼はここまで必死でショウタを守ろうとするのかが、タカシには理解ができない。
そんなもの、日常茶飯事だろうに。
 タカシはされるがまま腕を乱暴に引かれ、気づけば表通りの裏がわ、店の裏口が立ち並ぶ、
人一人が通るのもやっとの小道に連れ込まれていた。
 相変わらず花火は煩く鳴り響いているが、香はだいぶ薄れている。
それでもまだ霞が掛かったように白くぼんやりとする思考を拭い去れず、タカシは男の行動に、
ただ素直に従っているだけであった。
 間に合えばいいが、と花火の残響が残る中、男は小さく言った。
 縦に細長く格子が作られた引き戸を、男は我が物顔で開ける。
表通りの朱塗りのけばけばしい格子と異なり、
こちらはこげ茶の、至ってシンプルな木枠である。
 タカシは転げるように靴を脱ぎ、再び引きずられるようにして木製の廊下を歩んでいった。
 抵抗の言葉は上げるだけ無駄。そんな気迫が警らの男の背中からは溢れ出ていた。

 廊下に窓は一切ない。天井に点在する電気は、今時センサータイプではなく、スイッチタイプで、
電源を切るまでは点灯しっ放しになるタイプのもののようである。
 鴬張りとでも言うのだろうか、男とタカシが歩みを進めるたびに、
長い廊下はキィキィと小さく悲鳴を上げて続けた。
 花火は一晩中ならされるわけではないのか、それとも休憩なのか、爆音は聞こえてこない。
その代わりに、男女入り混じった笑い声と、そして時折艶めいた喘ぎ声がどこからともなく漏れ出てくるが、
タカシも男もそれらに気を止めることはしない。 
 人の気配は数え切れぬほどあるにも関わらず、その廊下を進む間、誰かにすれ違うことはついになかった。
 やがて数々の曲がり角を経てたどり着いたのは、鶴と松のような枝が描かれた襖で、
その部屋の前では嬌声も談笑も、その一切が響かぬ、シンと静まり返った場所であった。
 どうやら廊下は少しずつ斜めになっており、
タカシは気づかぬうちに、地下に相当する深さまでやってきてしまった、ということらしい。
 男はそこまで来ると漸くタカシの腕から手を離し、そして嘆息した。
「また後でどやされるな……」
 心底嫌だ。そう言いたげな顔でタカシを振り向くも、タカシの表情にまるで変化がなかったためか、
半ば諦めた顔つきのまま、声を掛けるでもなし、ノックをするでもなし、するすると襖を開けた。
 中は暗く、しかし完全なる闇に覆われているわけではない。
 ある一点からほの明るい光りが放たれ、室内を辛うじて照らしていた。
明かりの正体は、足の低いテーブルに置かれた行燈で、タカシはそれよりは僅かに明るい廊下から、
なにもかもが判然としない室内を、検めるようにして眺めた。
 警らの男は、なにも言わずにタカシの背中を押した。よく室内をみろ、と言うことだろう。
 タカシはその腕に従い、目を細めて室内を観察する。
 と――、小さな影が動くのが目に留まる。
 白いそれはゆっくりと動くと、やがてパッと姿を消す。
 塊は瞬時にどこかへと喪失した――、わけがなく、動いたように見えたのは真っ白い衣類で、
それが今まさに脱ぎ捨てられたところだと、闇に慣れてきたタカシの視神経は脳細胞へと明確な伝達を施した。
 薄闇の中、ぼんやりと浮かび上がるのは、白く滑らかな背中。

「それで、どうするんだ?」
 男がおかしそうに、くつくつと笑いながら問う声が聞こえた。
 やけに小さな背中は男の質問に困惑したのか、一瞬、ピタリと動きを止め、
しかし、そんな自分に苛立ったのか、或いは己を鼓舞するためか、
下肢を覆うズボンを乱暴に引っ掴むと、脚から勢いよく引き剥がした。
 それから下着も同様に。
 迷いを断ち切るようにして衣類の全ては捨て去られ、
そして覆い隠すものは何ひとつなくなった裸体は、痛々しいまでに細かった。
行燈の光りの中に浮かび上がった背骨は、まるで鎖だ。
非現実的な裸体と、タカシが実在するこの現実を引き結ぶ、唯一の存在のように感じられた。
 タカシと警らの男がそこに居て、廊下から室内を覗き込んでいるともしらぬのだろう、
その裸体――、少年だと体のラインで判る――、は背骨を不自然にくねらせ、そして男の膝に跨った。
 腕が、男の首に巻きつき、そして臀部は太ももの上へとすとんと落ち着く。
「それからどうするんだ?」
 意地の悪い質問だ。
 なけなしの勇気を振り絞って全裸になったのであろう彼が、
ひどく戸惑っていることがその背中からも窺い知れた。
「まずはネクタイくらいは解いてみたらどうだ」
 優しげな言葉に促され、首に巻きついた腕がするりと外され、男の襟元に伸ばされる。
 だが、その行為に慣れていないのか、腕をもたつかせたまま、
ネクタイを解くことさえままならないようだった。
 そのまま暫しの時間が流れ、男はふ、と息を吐くと、
自分の膝の上に乗る小さな体の背中を慰めるようにして撫でた。
その手つきには、性的なものを求める怪しさは何ひとつなく、単純に子供をあやすかのようなもので、
それは、息を詰めて成り行きを見守るタカシも拍子抜けするほどにあっけない接触であった。


「お前は器量がいい。あと五年もたって店に出れば売れっ子になるだろう。だが――、」
 男が、『それ』の腕を掴んだ。
「今日はここまでだ。そんなに怯えているようじゃ、なにもできんよ。
少しずつ慣れていかないと。膝から降りろ」
「やだ」
 響いた声に、タカシは反応できなかった。
「うん?」
「さ、いしょは、お、おやじさまが全部教えてくれるって聞いた」
 親父様――、そんな風に呼ばれているが、男の年齢は声音から推測するに、
精々三十代半ばと言ったところだ。
 男は「うん」と返事をすると、その細い腕を掴んでいた手をするりと引いた。
「その通りだ。客の前で粗相をしないよう、手順を教えるのが私の役目だ。
だが、お前の『初めて』はどこの誰とも知らん女か男だよ。
お前は器量がいいから、競を開くことになるはずだ。
安心しろ、その辺りは丁寧にしてやる。いきなり格子の中に放り出すことはしない。
だが今日は、」
「僕は、今日、全部したい。それがどんなことか意味も判っている。それで、明日から店に出たい。」
「駄目だ。こんなに全身を強張らせて何ができるって言うんだ?」
「嫌だ。じゃあ、店なんかに出なくてもいい。僕を、おやじさまのものにして」
 消え入りそうな声が、それでも必死に訴え続けていた。
 知っている声だ。
 今まで、ろくすっぽ耳に入れようとしなかった、幼い声を、タカシは知っていた。
「駄目だ。お前にはできないよ。それに――、」
 薄闇の中、小さな影と向き合っていた男は視線を持ち上げ、そしてそれをタカシへとかち合わせた。
「……迎えが来ている。さぁ坊ちゃん、お遊びはここまでだ」


 『迎え』と言う言葉に、小さな影が、油の切れた機械のようにぎこちなく動き出した。
首だけを背後に巡らせ、室内よりは辛うじて明るい、と言った程度の廊下を見つめる。
 タカシと、その黒い瞳は、殆ど初めてと言っていいくらいに、真っ直ぐに互いの視線を交し合った。
「何しに来たの」
 少年は――、ショウタは、至極冷静に、冷ややかに言い放った。
「ここはあなたみたいにコーショーな人間が来るところじゃないんじゃないの」
 アンドロイドは、ショウタの精神年齢を、随分と高く計測していたが、
それもあながち間違ってはいないのだろう。
彼は大人びた口調で、シュウならば決して紡ぐことのないであろう単語を唇に乗せ、
タカシを静かに、しかし激しく拒絶して見せた。
 最悪だ――、タカシは口には出さずにそう呟いた。
 五歳どころの話ではない。
 ショウタは形式上の『家族』に最早なんの未練もなく、
そしてその砂上の楼閣からひとり離脱したかと思えば、
今度は生きる手立てを整えるべくこんな街へともぐりこんだのだ。
 彼はここがどんな場所か理解している。なされる行為の意味は判らなくとも、
それを自らが行うことにどれほどの『経済的な効果』が生まれるのかを、
ハッキリと、これ以上ないほどに自覚しているのだ。彼は、小さな大人だ。
「ギムカンとか、そういうの、もう要らないから。『俺』はもうひとりで生きていくって決めた」
 男の膝からすとんと降りると、ショウタは全裸の体を隠そうともせず襖に近づいてきた。
 半袖半ズボンからはみ出す部分の手足が、小麦色に染まっている。
それとは対照的なは白い腹は、ほんの少しだけ膨らんでおり、彼の肉体的な幼さを如実に示していた。

「あ、違うか。ギムカンじゃなくて、ジコベンゴって言うの?
そんなの俺はよくわかんないから、早く帰ってよ。あなたはシュウだけ大事にすればいいんだよ、
今までと同じように」 
 死んだ魚の目――、生気の宿らぬ瞳をそんな風によく呼ぶものだが、ショウタの目はそれとはまるで違った。
 瞳に表情はない。ただ一つ、侮蔑を除いては。
 この世の全てを汚らわしいと謗るように、ショウタの瞳は全てを侮蔑していた。
 タカシも、ミユキも、シュウも、この店の楼主も、この街も、全てを侮蔑していたのだ。
 ショウタにはもう迷いがない。
 細い指が襖に触れ、タカシとの間に物理的な隔たりを作ろうと試みる。
「ショウ、」
 名を呼ぼうとしたが、しかしそれは未遂に終わる。
 ショウタの瞳が、そうさせなかったのだ。
「見ていたいのなら、見ていれば。気持ちのいいものじゃないと思、」
「おいおい、やめてくれ。興醒めだ!」
 パンパン、とおざなりな拍手を二度したのは、先ほどから部屋の奥へと鎮座していた『親父様』だった。
「家族のメンドクサイいざこざに赤の他人の私と、私の店を巻き込まないでくれ」
 背丈はタカシと同じくらい。年齢は予想した通り、三十代半ば。
薄闇の中、心底面倒だといわんばかりに歪めた顔は、タカシの腹に巣くった偏見に反して、
顔立ちそのものには清潔感があった。
店で焚いている香の香りがしみこんだ髪をかき回し、
ネクタイがほつれたままの姿でゆらりゆらりと廊下まで這い出てくる。
 タカシの顔を具に確認するかのように、目を細めてジッと見ると、咥えた煙草を指で挟みこみ、紫煙を吐き出した。
「つまらん顔をしてるな」
 ぽつりとそんな暴言を吐いたかと思えば、男はどけといわんばかりにタカシを押しのけ、
どこへ向かうのか、僅かに傾斜のついた廊下を歩いていく。
歪な構造の建築物に慣れた体は、そんな廊下に立ってさえ背筋がシャンと伸びている。

「おやじさま!」
「でっかい声を出すんじゃない、煩いだろ。さぁパパがお迎えに着たんだ、帰ってくれ。
それから二度とこの街に来るんじゃない。
うち以外の店だったら、お前、とっくに尻が裂けてゴミみたいに捨てられていたぞ」
「まって! おやじさま!」
「待たないよ、でっかい声を出すなって言ってるだろ」
「ゴミになったほうがマシだよ!」
「あ?」
 パンツのポケットから携帯灰皿を取り出しつつ、男はそれでも律儀に振り返った。
「どうせ俺は家に帰っても死ぬしかない。だったらこの街で殺されても一緒だよ。
どうせなら自分の死に方くらい選びたい」
「……なに言ってんだ、お前。お坊ちゃまだろ」
「生まれたときから俺の体は俺のものじゃなかった。俺はイショクの為に生まれてきた」
「――お前、何者なんだ。クローンなんて今時流行ってないだろ。結構前に違法行為になったろ。
あれ、こいつくらいの年齢ならギリギリだがクローンの製造が許されてたんだったか」
 自身の記憶を探るように視線を彷徨わせる楼主の腕に、ショウタがしがみつく。
「おい! あぶねぇだろ、灰が落ちる!」
「クローンじゃない! クローンじゃないけど、
俺は、お母様にずっとずっとアイツの脳をイショクするための入れ物だって言われてきた!」
 ショウタはもう頼れるのは楼主だけだと言わんばかりの眼差しで、彼を見上げていた。
 楼主の腕にしがみつく腕は、細い。腕だけではない。脚も、捲くし立てる口も。
 まだ、誰かに保護されるべき年齢なのだ。
 そんな年齢の子供が、娼館の楼主にすがり付いている。
 本来、この店の主である彼ががすがりつかれる瞬間と言うのは、こういうシチュエーションではないはずだ。
おそらく娼婦や男娼が、己の置かれた立場に堪り兼ね、
『どうかここから出してくれ』と身売り行為を拒否する。そんな場面こそが相応しい。
 決して、ショウタのような子供が『働かせてくれ』と頼み込む場面ではないはずだ。

「……なんだそりゃ。けったいなこと考えるんだなお前の母ちゃんは。恐ろしいね」
 楼主の瞳が揺らめき、タカシを一瞬だけ見遣った。
ショウタの言葉が事実であるのかどうかを、探っているのだろう。
 クローン――、その言葉が廃れて幾年経ったことだろう。
それでも、ショウタが吐き出した言葉を推測で補いつつ「クローン」と言う単語を導き出した彼は、
比較的頭の回転がいい人間なのかもしれない。
「俺の、俺の……、俺だけの、俺のものなんてない!」
「人権の話か? おい、パパさんよ、こいつなに言ってんの。なんでこんな変な妄想してんだ」
「父親じゃない! この人は俺のイデンジョーの父親ってだけだもの……!」
「そんなん最近じゃ珍しくないだろうよ、いいから、」
「は、話しかけてもらったことなんてない! 名前を呼んでもらったこともない!」
「お前ねぇ……」
「親なんて……、親なんて居ない!!」
 一際大きな声で、ショウタが叫んだ。
 タカシを目の前に、親はいないと叫んだ。
 タカシは溜まらず目を逸らすが、ショウタの叫びは幾度か続いた。
 思春期の子供に良く見られる親を忌避する態度とも、
己の不幸を叫んで悲劇の主人公を演じたいのとも異なる。
ショウタには、まさしく親など存在しなかったのだ。
 だからショウタは叫ぶ。本当のことを叫んで、なんとか自分の足で生きていく手段を整えようとしている。
もううんざりなのだと。身勝手な大人に自分の『人生』を蹂躙されるのはもうごめんなのだと。
 身勝手な大人がショウタを捨てたのではない。
 タカシとミユキが、ショウタに『捨てられた』のだ。

 ショウタは、アンドロイドに深く依存し親子ごっこを繰り広げていた。
だがやはり彼はただの阿呆な子供とは違うのだ。
 彼は、アンドロイドは本物の親にはなりえないと知った上で、仮初の親子ごっこに興じていたのだろう。
 深く傷ついている心を癒すための、ショウタ自らが無理やりひねり出した秘策だったのかもしれない。
 だがシュウが、凶暴なほどに純粋な『愛されている子供』の視点での呟きでもって、
容易くそれ潰してしまったのだ。
 シュウに触れられるのを厭うほどに依存したアンドロイドは、その瞬間に、
ショウタの中でただの『偽物の父親』に成り下がったのだろう。
 それでも完全にアンドロイドを『物』として扱えずに『お父さんになってくれて嬉しかった』と
生物でさえない彼に告げたのは、ショウタに残された柔らかい子供らしい部分に違いない。
「親なんていない!」
 ショウタは尚も叫び続けていた。
「親なんていないもん!! ずっと一人だった!」
「育ててもらったんだろうが」
「違う! 俺を育てたのは、俺だよ! 俺はひとりで大きくなった!」
 肩をいからせ、呼吸もままらない勢いで思いを吐露したショウタに、楼主の視線が注がれる。
 きっと、彼の琴線にショウタの何かが触れたのだとしたら、この瞬間だろう。
「だったら俺の体を俺が好きなようにしても別にいいじゃん!
俺のものなんて、ほかになんにもないんだもの!!」
 涙で滲んだ瞳は、タカシを一切見ない。
ずっとタカシに付き添っていた警らの男も、何とはなしに事情を察したのだろう、
それ以降は侮蔑の視線を寄越すだけだ。
 重苦し沈黙が続いた。
「坊主」
 不意に沈黙の帳を裂いたのは、楼主の静かな声だった。
彼はショウタの顎をグイッと指先で持ち上げ、検分するように正面、そして左右から見た。
 ふぅん、と言う溜息混じりに声のあと、楼主はショウタの鼻を摘み「シャンとしな」と命令口調で言い張ったのだ。
「ベソかくんじゃない。前を向け。
ここじゃ泣いているガキを可哀想~なんて思ってくれるやつはいない。お前の名前、なんだっけ」
「ショウタ」
「ショウタ、ね……、ここは大体ワケアリの人間しか居ないんだがな。私もヤキが回ったかね。
お前とりあえず服着なさいよ。フルチンじゃ風邪引くだろうが。倒れても面倒なんざみねぇぞ私は」
 警らと楼主がどんな関係なのかは知らないが、楼主は彼に、ショウタの服を持って来るように命じた。

「怒り散らしている時の生意気そうな顔は、まぁ悪くない。
だからつまらんことで泣くな。いつも人を見下したような顔をしていろ。
お前はそのほうが断然可愛い」
 ショウタは呆気に取られた顔をしたのち、小さいながらもハッキリとした声音で『はい』と返事した。
 剥き出しの腕で目元を拭い、口角を持ち上げ勝気に笑う。
 それでよし、と楼主は言った。
「店の人間も客も、お前に同情したりしないだろう。だが私はお前を『可哀想』だと思う。
親が居て、金銭的にも恵まれているくせに、お前は何も持っていない。だけど何でも持ってもいる。
お前は何でも持っているくせに、こんな場所にノコノコやってきて
身売りをさせろという。こんなガキが、だ。これ以上に不幸なことはないだろう」
 廊下に響く声は、ショウタ自身に聞かせるためのものではないのだろう。
楼主はタカシへのあてつけとしてこう言葉を紡いでいるのだ。
 間もなくすると警らの男がやってきて、ショウタの頭からシャツを被せた。
ショウタが家を飛び出す際に身につけていたセーラーではない。楼主のものなのだろう。
「これ一枚を羽織ったほうが早い」
 ショウタは警らに従うようにして、そのシャツに腕を通した。
 成人男性の衣類は、ショウタの膝までを覆い隠す。
小さな指先がボタンをソツなく閉めて行くが、それは「ショウタ」と言う呼び声によって遮られた。
 名を呼んだのは、タカシが先であったか、それとも楼主が先であったのか、
いまひとつ判然としないタイミングであった。
 ――ショウタは、迷うことなく楼主を見上げた。
「おいで。どれ、閉じてやろう」
 少々面食らった顔でショウタは楼主を見つめたが、少し気恥ずかしそうに頷いた。
「パパさんよ。アンタにはこの子の名前を呼ぶ権利はないよ。これは今からウチの店のモンだ」
 名を呼ぶ権利はない。それには、二重の意味があったに違いない。
 一つ目は、楼主が述べたように、ショウタはもうこの店に『属している』と言う理由で、
二つ目は『お前の今までの所業のどこにショウタの名を呼ぶ権利がるのだ』という、責めたてるような理由だ。
「アンタがなにを思ってショウタを迎えに来たのか知らんが、この子がギャーギャー叫ぶ間に何も否定しなかったということは、
殆どが事実であるって考えていいと言うことだろ。だったら私は遠慮なくこれを貰う」

「ショウタ、」
「だから呼ぶなっつってんだろ!
ガキが追い詰められてこんな場所に来るまで放置していたくせになに気安く名前なんざ呼んでんだテメェは!!」
 どすの利いた声がタカシを責め、そしてその脚は容赦なくタカシの腹部を蹴り上げた。
 急に飛んできた蹴りに反応することができず、タカシは痛みに耐えかね体を海老のように丸めて床へと転がった。
 天井から僅かに灯される光の影になって、下からではショウタの顔は碌に見えない。
 だが、シルエットで、ショウタが楼主の後ろに隠れて我関せずを決め込んでいることは確認できた。
「……お前、ここがなにをする場所なのか判っているのか」
 それでも、確めずには居られなかった。ショウタはここがどんな場所であるのか、完全に理解しているのだろうか。
「知ってる。あなたが『あのお兄さん』にしたかったことをさせられる場所だ」
 今まで視線の一切をタカシに向けなかったショウタが、漸くタカシの顔を見た。
 お兄さん? と怪訝そうに楼主が己を盾にしタカシから身を隠す子供を振り向くと、
ショウタは小さく『今日、赤い着物を着てお店の格子に居た人』と小さく説明をした。
「ああ、あいつか。そういえば前になんか言ってたな。変な男に腕を掴まれたって。
なんだ、じゃあショウタ、お前が『父親に忘れられていた子供』か。
アイツはウチの店じゃ三番目に人気の男娼だ。たまたま外に遊びに出ていたら嫌な思いをしたってな」
 『忘れられていた子供』と言う言葉に、ショウタは顔をくしゃりと歪ませたが、
直ぐにそれを隠すように口角を持ち上げた。
「上等だ。いつもそういう顔をしていろ。お前、大福は好きか?」
「? 好き……」
「私の部屋の戸棚にある。それ食ってそいつと待ってな。直ぐに行くから。あとパンツ履け」
 判った、とショウタは素直に頷き、警らに手を引かれて去っていった。
やがて襖は閉じられ、世界は二つに分かたれたのだった。
 横目で世界が割れるのを確認し終えた楼主は、煙草に火をつけ、そして紫煙をタカシに向かって吐き出した。
「あの警らと私の弟なんだわ。
つっても血の繋がりはない。ここじゃ誰が誰の子供かもわかりゃしねぇのが常だが、
アイツと私は一緒に育った。あいつになにかあったら、それなりに心配する。
アンタはどうだ。ショウタはテメェの子供だろ。突き放すなら情けの欠片を与えるような真似をするんじゃない」

 それで、なんのためにアイツを迎えに来た――?
 己のネクタイを結いなおしながら、楼主は問うた。
 白蝶貝のボタンが、鈍いオレンジ色の光りを反射して光る。
きっちりとアイロンを掛けられたシャツに、シワのないパンツ。この性産業で栄える界隈において、
楼主は不自然なほどに清潔感のある身なりをしていた。口に咥えた煙草を捨て、髪を手櫛で整えれば、
その姿はオフィス街を歩いていてもおかしくはない好青年にさえ見えるだろう。
 こんな場所で。
 こんな汚れた街で。
 現実味がないのは、この街か、それともこんな場所で好青年然としている楼主か。
 楼主がゆらりと動けば、天井からの光りが直接タカシの目に入り込む。
 鈍い光が網膜から入り込み、ズンと脳を突き刺すような気持ちの悪い感覚に、タカシは目を眇めた。
 なんのために迎えに? そう問われても、保身の為に、と言う言葉しか出てはこない。
「体裁を保つためだけってんなら、金輪際ここにこないでやってくれ。
アンタを見るたびにあのガキは腐っていく。アンタ、何のためにショウタを迎えに来た。
アンタとあのガキの親子関係が普通じゃねぇってのは、会話を聞いただけで判る。
要らないってんなら、いっそスッパリ捨ててやれ」
 ショウタはタカシと遺伝的な繋がりがある。タカシの子供であることは間違いがないだろう。
何故そこまで受け入れがたいのかが、タカシ自身にも判らない。


「……不幸だとは思う……」
 ぽつりと漏れ出た言葉は、残酷な一言だった。
「あの子は、勝手に作られて勝手に産み落とされた。俺が知らない間に、俺の了承なしに俺の妻が作った。
可哀想な子供だとは思う。俺はどうしてもあの子を受け入れることができない。
あの子の祖父は、俺の子供を殺した。俺から……、いや、この話はここでは関係ないな」
 身の上を曝け出し、己がショウタを拒否する理由を述べよとすることは即ち、己の正当性を立証させようとすることだ。
人に聞かせて楽しいとは言いがたい身の上話をしなくてはならないほどに、
タカシのショウタへの扱いは『身勝手』で『手酷いもの』であることの証明なのだ。
「どうしても受け入れがたい。どうしても大事にしてやることができない。どうしても父親になってやれない」
 どうしても、どうしてもショウタを可愛いとは思えなかった。
 どうしても、愛情を抱くことができなかった。
 そうしようと試みるたびに、すさまじい嫌悪感が背中を走り抜けていくのだ。
「可哀想だとは思うし、不幸だとは思う。人の様子を窺う姿が、痛ましいとは思う」
 だが――。
「もうここには来るな」
 楼主が凛とした声で言った。
「ここには、こないでやってくれ。アンタが置かれた立場やアンタが考えていることなんざ、
ショウタには関係ねぇんだよ。
アイツにあるのは、ただ父親に拒否されている事実だけだ。
可哀想だと思うってんなら、金輪際顔は出さないでやってくれ。
お坊ちゃんにはここでの仕事はきつかろうが、アイツの面倒は私が見る。
だからもう、こないでやってくれ。あんな顔をさせないでやってくれ」
 結局、タカシはショウタを受け止めることができないのだ。
 不幸にすることしかできず、父になることもできない。
 ショウタを突き放すだけ突き放して、結局まだ幼いはずの彼に大人びた選択をさせた。
そのくせ中途半端に気にかけ、ショウタに小さな希望を抱かせる。
 いっそ突き放してやるべきなのだ。楼主の言うように、なにもかもをスッパリ忘れさせ、
新しいショウタとして生きていくことを望むべきなのだ。
 にも関わらず、タカシは楼主の懇願に頷くことも返事をすることもできなかった。
「……あの子を、頼みます」
「アンタにそれを言う権利なんざないね。ショウタは望んでここに来た。自分の意思で」
「また、来ます」
「ふざけんなよ。テメェ、人の話を聞いていたのか! 今更父親面すんじゃねぇよ!」
「償いくらいはさせてくれ」
「あ?」
「金は言われただけ用意する。だから店に出さないでやってくれ。それくらいしか、俺にはできない」
「アンタは、夢見の悪い思いをしたくないだけだ。テメェの所為で子供が――、『遺伝上の子供』が
男娼になってなんていう『嫌な思い出を』作りたくないだけだ」
「判っている」
「気にくわねぇな。金で解決しようって考えがまずテメェはおかしい」
 気持ち悪ィ、と楼主は吐き捨てた。
「家が落ちぶれて泣く泣く売られてきたガキの親の方がマシだな。テメェは頭がおかしい」
 どん、と楼主の拳がタカシの胸へと当てられる。
 よろける体に追い討ちを掛けるように、楼主の脚がタカシの腹を蹴り上げた。
「帰ってくれ。あいつはもうウチの店のモンだ。テメェも金輪際うちの店に来るんじゃねぇぞ」
 おい、と楼主は自室の方向を向いて呼びかけると、警らがノソノソと歩いてきた。
「お帰りだ。このパパさんをさっさとこの店から追い出してくれ」


***

 タカシが花街のあの店から追い出されてはや一週間が経過した。
 ミユキはミユキで、ショウタの所在をしつこく尋ねてきたものの、タカシは頑として答えなかった。
そしてミユキは、一人目星をつけ勝手に赴いた花街で、ひと悶着を起こし、所謂『出入り禁止』を食らい、
彼女は要注意人物として鳥居を潜ることさえできなくなった。
 タカシもタカシで、要注意人物の夫、と言う立場上、そしてあの店からの『出禁』を命じられているため、
鳥居の前でもいい顔をされていないのが現状だ。
 ショウタ、ショウタ、ショウタ。
 ミユキは毎日狂ったように『ショウタが』だとか『ショウタを』だのと叫んでいるが、
アンドロイドもタカシもそ知らぬ顔でやり過ごしていた。
 発狂したかのようにあの子供の名を呼ぶのは狂った母親ただ一人で、
だがそれも子の身を案じているわけではないのだから、
やはりショウタがこの広くも狭い世界でたった一人で立ち尽くしているのは紛れもない事実であった。
「お父さん……」
 パソコンを広げ、通常通り業務をこなすタカシに、シュウが遠慮がちに話しかけた。
 返事を欲しているわけではないことは判っている。
タカシは寄り添うシュウの頭を抱きこみ『大丈夫だ』と中身のない返事をした。
 気が触れたかのような様子のミユキに、シュウは怯えていた。
 怖いものを見て怖いと感じ、そして父親に助けを求める。
 健全な子供らしい反応に、タカシは心底ホッとした。
 この家にはまともな人間が、シュウを除いては一人も居ない。
 タカシも含め、全員が狂っている。
「今日も夜、出掛けちゃうの?」
「ごめんな。ショウタを探さなくちゃいけないんだ」
 そういうと、シュウは僅かに頷いた。
 ――ショウタが居なくなってしまったのは自分の所為に違いない。
 そんなシュウの思い込みを解くのにも丸二日ほどが要された。
 次々と送られてくる『製造機』の異常箇所とその対処、箱庭計画についてのトラブルや、
社内でしか話せない最重要機密について容易くネット回線を通じて相談を持ちかける馬鹿な部下など、
頭の痛い話が多かった。

 庭から、ミユキの声が聞こえる。
 ショウタ、ショウタ。
 まるで愛しい我が子を探すかのように、あの女はショウタの名を呼び続けている。
 ならば何故ショウタが出奔したあの夜に彼を探しに行かなかったのだろうか。
 ミユキの情緒が徐々に瓦解していっているのをタカシは感じていた。
 発端は、タカシの脳をショウタに移植することは事実上不可能であることをタカシがぶちまけたことに起因する。
ショウタの連れ戻しに失敗し、肩を落として帰宅したその明け方、
タカシは待ち構えていたミユキへと、ショウタがある場所に自ら望んで留まることを決めたこと、
そしてどう足掻いてもタカシがショウタの器に宿ることはないと怒り任せに吐き捨てたのだ。
 考えなしに、その場その場の勢いで行動をするのは、時としてタカシの長所にもなりえたが、
多くの場面では短所となって自分自身を追い詰める破目となった。
 今回も、ミユキの精神が蝕まれるスピードを速めてしまったことは隠しようのない事実だ。
 ミユキは、何を求めてショウタの名を呼ぶのだろうか。
 ほんの少しの情がそこにあるのなら、ショウタを『生かす』取っ掛かりになりえたかもしれないが、
残念ながらミユキの中にあるのは歪な野望を凝縮した妄想だけで、
彼女の中にあの暗い眼をしたショウタ自身は存在しなかった。
 では、ショウタはなんの為に生まれてきたのだろうか。
 贅沢で、しかしどこまでも空虚で、己の『個』が一切尊重されない檻を、ショウタは一人飛び出していった。
 行き着いた先は、痛みや汚れ、そして人権が踏みにじられる可能性が極めて高い、危険極まりない場所だった。
 それでも、ショウタはあの場所を選んでしまったのだ。選ばせてしまったのだ。


「同じことの繰り返しだな……」
 呟いた言葉に、シュウは首を傾げて見せた。
なんでもない。そういうかのように、シュウの頭を撫でてやる。
 ショウタとシュウの、何が違うというのか。
 結局のところ行き着くのはその疑問であった。
 最早、何ゆえショウタを受け入れがたいと感じているのか、あれほどまでに強固に拒絶した割には、
その頑なな感情がなにに起因していたのかタカシにも判らなくなっていた。
 ただ一つはっきりしているのは、相も変わらずショウタを己の息子として愛情を抱くことは難しい、と言う結論だけだった。
 ならば、親子とは異なる、全く別物の関係ならば築くことができるのだろうか?
 親子でなかったのなら――?
 想像してみたものの、それはいまひとつ現実味を伴わず、なんともしっくりこない。
 ショウタをどうしたいのか、いっそ切り捨ててやったほうがいいのではないか、
この身勝手な二つの思考のはざまを、タカシは行きつ戻りつを繰り返していた。
 ショウタはこの歪みに歪んだ家から逃げたのではない。ここを捨てたのだ。
 遺伝上の両親を厭うのならば、義父のところ――、
ショウタを遠まわしに可愛がる、彼にとっては祖父にあたるあの男だ――、彼のところへ行けばいい。
 人の肉体に値段をつけて売りさばく場よりも幾分もマシなはずだが、
おそらくそう提案をしたところで、ショウタは頑として了承しないだろう。
 ミユキと繋がりのある場所に身を置けば、肉体的な危険が伴うことには変わりない。
移植計画を失い狂ってしまったミユキが、勢いあまってショウタを手に掛けないとも限らないだろう。
まだまだ稚いショウタの体では、女とは言え成人した大人の力にはまともに抵抗することさえ難しく、
屈服させられてしまうであろうことは安易に想像できた。
 愛せはしないが、タカシは彼の命が失われることまでをよしとするほど非道にはなれないのだ。
 それに、ショウタは自分で選んだのだ。自分を守ることを。
 そして何よりも、ショウタ自身が、タカシとミユキの傍に居ることを拒絶しているのだ。

 ふ、と奇妙な溜息が漏れた。
 ――ミユキのことを笑うことはできない。ショウタのことばかりを考えているのは、タカシもまた同じだ。
 タカシには失った、と言う感覚はなかったが、それでもあの花街の置屋に彼を託してしまってからは、
あの子供のことばかりを考えていた。
 どうするべきか、なにをすべきか、彼をどうしたいのか。
 答えは未だに導き出せず、同じことばかりを考え続けている。
 ならばもっと大人として――、シュウにするようにはできずとも、
当たり障りなく接してやればよかったものの。
 自嘲は浮かんでは消え、時折自身を苛み、
しかしショウタをどうするかの根本的な解決には全く繋がらなかった。
 日が傾き始めている。
 自身の膝にピタリと耳をくっ付け不安を露にしているシュウの額を一度撫でると、
タカシは立ち上がる旨を示した。
 そろそろ支度をしなくてはなるまい。
 タカシは今夜も花街へと赴かなければならないのだ。

 
***

「馬鹿みたい」
 心底嫌そうに暴言を吐いたのは、姉とソックリなあの男娼だった。
 今夜も店先で帰れと追い立てられそうになったのを、
彼を通常の三倍の金額を支払い一晩買い取ることを条件に入店を許されたのだった。
 不思議なことに、彼への興味は薄れつつあった。
 ショウタの存在を忘れきってまで、彼の腕を掴もうとした記憶は、遠い過去の断片のようである。
「アンタなにがしたいんだよ。わけがわからないね」
 随分と気が強い。タカシが相手だからだろうか、それとも常日頃からこうであるのかは定かでない。
ちびちびと酒を舐めるように飲みながら、男娼はタカシを牽制するように時折睨みつけた。
「店が入店を許しちまったんじゃあ相手をしないわけにはいかない。最悪だ。
アンタみたいに乱暴な男に、死んでも買われたかなかったよ」
 当然と言えば当然であるが、彼の中でタカシの心象は『最悪』であった。
タカシの顔を見るなり奥歯を噛み締め眉間にシワをよせ、挙句『冗談じゃない』と吐き捨てた。
三倍の価格――、決して安くはないそれではあるが、
あの楼主が『たかが三倍』に目がくらんだとは到底思えない。
 ならば何故、男娼にも嫌われ入店さえも拒絶されているタカシが、
こうしてこの場にいることができるのかは不明である。
「――元気にやっているか」
「僕は元気だよ」
 タカシの曖昧模糊とした問いが、己に向けられたものではないと承知した上で、男娼はこう答えている。
「何故俺は入店を許された?」
「知ったこっちゃないね。僕にそんなことを質問されたところで、
答えようがないことくらいアンタだって本当は知っているだろ」
 ただ、と男娼は付け加えた。しかし彼はそこで沈黙すると、意地悪く口角を持ち上げ、
ン、と言いながら掌を意味深に差し出した。
 なるほど、ここからは別料金、と言うことか。 
「電子マネーしか持ち歩いていない。
時代遅れも甚だしいが、この懐中時計なら質に入れればそれなりの値がつくはずだ」
 こんなこともあろうかと懐に仕込んできたそれがやはり役に立った。
そんなことを思いながら、金に輝く懐中時計を差し出した。
鎖国中、こっそりと輸入されたもので、
昨今、国内で好事家の間で出回っている安物とは比べようがないほどに価値の高い品だ。
 少年らしいラインを描く掌がそれを受け取ると、
彼は煙管の煙を吐き出しながら「懐中時計なんざ初めて見た」と物珍しそうに言った。

「――なんで一度捨てた子供にそんなに必死になるかね――、あの子、ちょっと体調を崩している」
 曰く、店に出ることもなく、『親父様』の丁稚として傍に置かれたショウタは、
男娼や娼婦の妬みの対象となっているらしい。
 ショウタが楼主に特別極端に目を掛けられている様子はないものの、
それでも『入店』した立場のくせに、楼主の丁稚として常に傍に置かれ、楼主と共に生活し、
楼主の部屋で寝起きするショウタを、楼主の『イロ』として認識しているものは多いようだ。
イロであるショウタに大っぴらな嫌がらせをする者は少ないが、
しかし細々とした、非常に嫌なお使いを頼んだりするのだという。
「それが原因なのか、それともこの間あの子の為に用意された汁物に下剤でも入れられたのか。
よくわかんないけど、ここ二、三日は臥せっているみたいだね。おやじさまが医師を呼んでいた」
 熱もあるみたいだ、と少年は言う。
「僕は親父様に特別に可愛がられているから――、
あ、変な意味じゃないぜ。売れっ子男娼だからだ。
時々こっそりと菓子を貰ったりすんだけど……、あの人あんなんだけど、結構甘いんだ」
 少年は時折自身の自慢を交えて話すものだから、肝心のショウタの話へはなかなか行き着かない。
しかしそこで不平を述べようものなら、この気まぐれな子供が途端に臍を曲げないとも限らないのだ。
手放してしまった懐中時計になんの未練もなかったが、
果たしてその価値に見合うだけの情報が引き出せるかどうか、などと、
長々と続く比較的無益な話に静かに耳を傾けつつ、タカシはそんな打算的なことを考えていた。
「ほかの男娼や娼婦は親父様の部屋に近づいちゃいけないってのは暗黙の了解なんだけど、
僕レベルになれば部屋に居座ることくらいはできるってわけ。
そんであの子……、名前はなんていったっけ、ケンタだっけ? あ? ショウタ?
そうだった、ショウタだ。ここ数日は、ずっと布団の中。親父様の布団でずっと寝てる。
相当に体調が悪いのかもね。寝ている顔が真っ白なんだ。え? だから原因なんて判んないって。
親父様もショウタがどうして寝ているかなんて僕に話さないし、まぁ話す必要もないか。
問題は親父様の部屋に布団が一人分しか用意されてないってことだよね。
噂って勝手に広がるものだろ。あれは、『寝ちゃってる』かもしれないね。
意味判るだろ、親父様の『イロ』だってのは本当かもね、って話だよ」
 安酒を舐めるようにちびちびと飲みながら、しかし酔いが回ってきたのか、
少年は一気に、捲くし立てるように、ショウタの現状を洗いざらい吐き出した。

 男娼は不思議な少年だった。
親父様に特別可愛がられている、と自称する彼が、
雇い主の懐に深く入り込んだショウタの存在を脅威とも思わず、すんなりと受け入れ、
そして時折心配をしているような表情さえ見せる。
好奇心が大部分を占めていることは明白であるが、
彼の言葉を嘘偽りのないものとして判断すれば、
彼はショウタをよく観察し、しかし男娼や娼婦たちの『意地悪』に加わろうとはしないのだ。
 姉によく似た面立ちの少年は、当然のように姉とは異なる性質を持っている。
 タカシは喋り、そして動く生身の彼に接したことで、漸く姉と彼を分離して認識することができた。
 ――他人ならば、こうも簡単に割り切ることができるのだ。
 冷静に、違いを見出し、全くの別者として判断し、
そして彼のそのサッパリとしたあけすけな性格を好ましく思うことさえできる。
 ショウタに対して、同様の判断を下すことができないのは何故なのだろう。
「なに、黙っちゃって」
 少年は軽く酔いが回り、熱を持った赤い耳を弄くりながら首を傾げて見せた。
「いや、なんでもない」
 プライベートな事柄を、ただの男娼にまで話す必要はあるまい。
何せ、タカシたちは「避難中」なのだ。細かな身の上を話すことは危険だ――、ミユキ曰くではあるが。
 しかし、とも思う。いつまで続くか定かでないショウタの逃避行に付き合うにも限度があった。
 店はショウタをすんなりと返してくれるだろうか。ショウタは、帰ってくるのだろうか。
 ショウタが花街の住人になることを決めたその覚悟は、決して生半可なものではないはずだ。
だが、帰ってこなくては困るのだ。返してもらわなくては困る。
タカシたちはいずれ、一週間後か二週間後、もしかしたら二日後には、自宅に戻ることになるのだから。
 けれど、ショウタが突発的にした選択を、タカシは止めることができなかった。

 子供の単純な家出ならば腕を無理やり引っ張り連れ帰ることができただろう。
だが、ショウタは今や立派な『花街の住人』なのだ。
きちんとした手続きを踏まなければ、鳥居の向こうへと一歩を踏み出すこともままならない。
 ショウタは帰りたがらない。楼主もおそらくショウタを手放すことはない。
 どうしたものか、とタカシは考えた。
 ショウタをここから連れ出す為に取るべき行動は、複雑化してしまっているのだ。
 しかし、『あの男』の手を借りれば、
あるいはその複雑さも一瞬にして単純なものへと姿を変えるかもしれない。
一度相談すべきなのだろう。そうすれば、ショウタの気持ちはさておき、
彼の身の安全が保たれる可能性は高まる。大人として取るべき行動はそれだ。
 だが、とも考える。
 外の世界の常識が、どこまで通用するのかも、本当のところは定かでない。
 外の世界ならば、あの男――、ショウタの祖父で、タカシの義父、そしてA社のCEOであり、
貴族の社会に広く顔の効くあの男だ――、の権力はこの大日本帝国内のあらゆる場所に
波及させることが可能であるが、
しかしここは『存在しない都市』なのだ。
独自の自治が存在し、国には存在さえしていないと言う建前の、ない筈の都市。
 かなりの高齢の年寄りと、近隣の大都市(と言っても、その近隣の都市はかなり離れている)の
住人が知るばかりの花街なのだ。限られた人、限られた都市の人間ばかりが知る小さな花街は、
独自のルールが罷り通る程度には、都市として自立している。
 独自の自治には、外側の世界の常識を応用させることは不可能だ。
果たしてあの男の権力がどこまで通用するか。
それよりも何よりも、タカシ自身があの男を頼ることを良しとしていなかった。

来てた

「アンタさ、どうしたいの」
 少年が不意に言った。
 どうしたいのだろう。
それを明確にしないことには、身動きを取れないことは明白だというのに、
タカシはその質問に対し、満足のいく答えを導き出すことができずにいた。
 もう何度も、何度も自問自答した。しかし答えは全く浮かび上がらないのだ。
 連れて帰って、どうしたいのか。
「――僕さぁ、ジンコージュセージなわけ。まぁ、珍しくはないよね」
 呆れたような深い溜息のあと、少年は何かを告白するかのように、ポツリと語りだした。
「兄が一人、下にもう一人小さいのがいる。あ、弟ね。
でもさ、売り飛ばされたのは僕だけ。まぁ、年齢が丁度『オイシイ』時だったってのもあるし、
まぁ? 僕が一番可愛い顔をしていたってのもあるんだろうけど。
弟なんて猿だからね、猿。今年で十二になるのかな、あれは猿だね。
僕がこんだけウツクシイのが嘘みたいに、猿顔。
……でもねぇ、シゼンなニンシンで生まれたんだよね、兄と弟はさ。
 僕だけ、ジンコーテキに生まれてきた。
こんだけジンコージュセーが推奨される世の中だから、
腹の中に入るまでの方法で親の愛情に差が生まれるなんて思っちゃいなかったんだけどねぇ。
いざ家の経済状況が逼迫してさ……、さてどうなるかって頃になればさ、なんか、ね」
 元貴族、と言っても、彼は末端の末端、庶民より僅かに裕福な貧乏貴族だったのだろう。
名門貴族同士はお互いを庇いあうが、庶民に近い貴族など気遣うことさえしないのが常だ。
 己の身の上をさらりと話したのち、彼は『同情してもらいたいわけじゃないよ』と勝気な顔で言った。
「ケンタも人工的な子供だと聞いている」
「……ショウタだ。それと、どうやって生まれたかはあまりこの問題に関係ない」
 それは半分事実で、半分は嘘だった。
 勝手にミユキが身篭ったことは気に入らないが、タカシがショウタに愛情を抱けるかどうかは、
それ以前の問題であるからだ。

「ケンタさ、」
「ショウタだ」
 ああ、それ、と猪口を口に運びながら少年は言った。
「アンタと怖い母ちゃんから逃げてきたんだって、お喋りな警らに聞いてるよ。
そんで、なんで今更ショウタを連れ戻したいの。下手に優しくするとかえって酷だ。
スッパリ捨ててやりゃあいいのに」
 どうしたいの、ともう一度問われ、タカシは再び口を噤むこととなった。
「自分でも判んねぇってやつね。馬鹿馬鹿しい。大方嫁がアンタのあずかり知らないところで
勝手にショウタをこさえたって程度の事情だろ。そんなんで拒絶されたほうはやりきれないよ。
だからハッキリしてやれよって話!」
 どん、と肩に軽い衝撃が走る。
 少年がタカシの肩を蹴ったのだ。その後、彼は二度三度とタカシの肩を蹴り上げた。
 元貴族にしては、随分と足癖の悪い子供だ。
 タカシはその少年然とした肉の薄い脚を引っ掴むと、ショウタがこの年齢にまで成長するには、
一体何年が要されるだろうかと考えた。
 シュウと殆ど年齢の変わらないあの子供の年齢を、よく考えなくては思い出すこともままならない。
本当に、タカシはただ『遺伝子を提供しただけの男』に過ぎないのだ。
だが、ショウタにとってはタカシは紛うことなき父親なのだ。
 生まれたときからずっと、ショウタの父親はタカシだけだった。
しかし、タカシにとって子供はシュウだけだなのだ。ショウタにとってはこれほど酷い話はないだろう。
そしてついに彼は逃げ出した。この薄汚れた、きらびやかな街へ。
「ショウタが可愛くないんだ。生まれたときからずっと」
 何故話す気になったのかは判らない。
 少年の脚から手を離すと、考えるより早く、口はそう言葉を紡いでいた。
 懺悔などと言う高尚なものではない。たんに、吐き出してしまいたかっただけだ。
自慰行為と然して変わらぬ告白だ。
「俺と妻、そして俺と妻の父との間には、遺恨がある。俺の子供は、妻の父に間接的にではあるが、殺された。
俺はそれを知らずに、義父の『息子のクローンを作ってやる』と言う口車に乗せられ、
妻と婚姻関係を結んだ。息子のクローンを作っているのと時を同じくして、
ショウタは妻の腹を介し、『勝手に』生まれてきた」
「つまり、アンタの息子を殺した男の娘が、ショウタを産んだわけか。
それも、アンタの精子を使って『勝手に』産み落とした、と。そりゃ可愛くないわな。
たとえアンタから遺伝子の半分を貰っている子供でもさ」
 タカシが他人に話せるのはここまでだ。多少は話を端折り、
シュウに関する事柄にも偽りを含ませているが、これ以上の複雑な事情を話すことはできなかった。
本来、身の上を話すことさえもあまりよいことではないのだ。
 だが、どうしても吐き出したかった。どうにかして、道を開きたかったのだ。


「なるほどねぇ。アンタ、自分で自分の道を断っているんだ」
 猪口を放り投げると、少年は足先でタカシの腿に触れた。足癖は、本当に良くないようだ。
そのままつま先でタカシの股間を弄くり回すが、
どんなに刺激しても反応しないタカシに呆れたのか、彼は本日数度目となる溜息を吐いた。
「なんだ、アンタ男は駄目なの」
「試したことはない」
「ヤッてみる?」
「……遠慮しておく」
「人気の男娼を買っておいて馬鹿だね」
「『客でも相手をするのは嫌だ』って言ってただろ」
「気が変わったんだよ。口でしようか?」
「……結構だ」
 一瞬遅れが生じたのは、少しばかり『惜しい』と感じたからかもしれない。
 馬鹿だね、と少年は呆れたように言った後、じゃあさ、と付け足した。
「三倍の価格に見合うだけの答えをあげるよ」
「答え?」
「アンタがどうしてショウタを受け入れられないのか」
 酒で高潮した耳を弄り、赤い舌を覗かせ、その舌で真っ赤な唇を舐め上げ少年は言った。
 まるで今から事に及ぶかのような、誘うように妖艶な仕草。だが、その眼差しに艶は一切ない。
 今から大切な話をしてやるから黙ってお前はそれを聞いていろ。そう言わんばかりの眼差しだ。
目やら口やらとは対照的な、血管一つ見えない真っ白な白目。
その中央に鎮座する真っ黒い瞳に、威圧的な匂いを感じ取れる人間はどれほどいるだろうか。
多くの男――、或いは女は、例えこの場に居たとしても、
彼が意味ありげに『ワザと』覗かせた健康的な少年らしい太ももだとか、
妖しく動いた舌だとかに意識の殆どを持って行かれるに違いない。
そして彼が『何か話をしようとしていた』事実などはすっかり忘れさって、
布団の上に移動するのも面倒だと言わんばかりに彼の着物をその場で剥いで、
その薄い背中を畳の上へと引き倒すことだろう。
 そんな衝動に襲われなかったのは、おそらくタカシが『相当に切羽詰っている』からであって、
決して聖人君子だからと言うわけではない。
 座したまま動かぬタカシを見遣り、少年はおかしそうに笑った。

「いいよ、教えてあげる。
――簡単だよ、アンタは最初からショウタが嫌いなんだ」
 彼はこともなげにそう告げた。
 ショウタが嫌い。
 可愛くない、そう思っていたし、おそらくタカシ自身にもあの小さな子供を嫌って、
そして遠ざけている自覚は大いにあった。
 今更指摘されるほどのことではない。
 だが、彼はその先の言葉を紡いだ。
「嫌わなくちゃいけないって思ってるんだよ。
アンタと嫁には確執がある。凄く根の深い、嫌な確執だ。
そんな女の産んだ子供を、アンタは愛したりしちゃいけないんだよ。
アンタはショウタは可愛いはずのない存在だって『思い込みながら生きなくては』ならない。
判る? アンタはそう思いながら生きていくしかないんだ。
アンタは、ショウタを可愛がってはいけないんだよ、決して。
ショウタを少しでも可愛いなんて思っちゃ、いけないんだ。
だってアンタは、子供を殺されているんだ。
大切な子供を殺した人間の血を受けつぐショウタなんざ、愛しちゃいけないんだ」
 なにか、奇妙な音がしたような気がした。
 内側からすべてが瓦解していくような、耳障りな音だ。
「違う……」
 気がついたらそう呟いていた。
「それは違う」
 愛してなどいない。
 可愛いなどと、思ったことはない。
「ホントかなぁ」
 少年は、タカシを冷ややかな目で見遣り、
空になった徳利をタカシの顔面を向かって乱暴に放り投げた。
どうやら、足癖だけではなく手癖も悪いようだ。
少年は悪びれもせず、タカシの額に徳利がぶち当たる様を眺めていた。
ガツンと鈍い音が響き、酒がタカシの衣類を僅かに濡らした。

「俺がここへ来たのは、単なる保身の為だ」
 連れ帰りたいのにも、やはり理由はないはずだ。
義父にばれてしまってはまずい、それが一つ目の理由で、
ショウタはいずれA社を継ぐという役目も担っているのだから、いつまでもこんな場所に居ては外聞が悪い、
と言うのが二つ目の理由だ。
「ふぅん。あ、そ」
 少年は舌をちろりと覗かせ『馬鹿な男』と呟いた。
「ショウタが泣いたことは?」
「ないわけじゃない」
「どう思った?」
「単純に、バツが悪かった」
「何故?」
「子供を泣かせてしまったから」
 詰問するような物言いに、段々と苛立ちが募っていく。
「可愛いと思ったことは?」
「ない」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ何故迎えに来たの」
「だからそれは、」
「『保身の為』?」
「そうだ」
「単純に『拙い状況であるから』と?」
「そうだ」
「馬鹿じゃないの」
 少年は吐き捨てるように言った。
 馬鹿で愚鈍な、ずる賢い大人を心底軽蔑するような眼差しは、思春期の子供によく見られる表情だ。
 世界の全てを知っているとでも言わんばかりの目が、忌々しい。

「馬鹿じゃないの、アンタ。これ、アンタに訪れた好機なんだよ?」
「好機?」
「復讐できるじゃん。ショウタがひどい目に遭えば、アンタはスッとするんじゃないの? 
アンタの大事な子供を殺した男の孫が、男か女――、大体男だね、に組み敷かれて
ケツの穴を好き勝手されてヒィヒィ泣くなんて、こんなに楽しい話はないだろ?
アンタの義父は、アンタから大事なものを奪ったんだ。じゃあアンタはショウタを取り上げて、
その男がしたように『間接的』に奪ってやればいいんじゃん。
なんでそうしないの? 上手く行けば、ショウタは死ぬよ」
「それは、そこまでは、俺は望んでいない」
 嫌な汗が背中にふつりと浮かぶのを感じる。
 罠に嵌った獣のように、タカシは少年の言葉に囚われていた。
 みっともなく喚くことはしない。
 タカシは罠に嵌っているが、しかし慌てることはないはずなのだ。
 何故なら少年が仕掛けた罠は実際には罠などではなく、彼の勘違いに他ならないのだから。
 タカシはその罠に痛みなど感じない。少年が今口にする言葉は全て彼の思い込みであり、
タカシの現実とは大きく隔たりがある。だから、焦る必要はない。
 ――だというのに、何故こんなにも背中に冷たく冷えていくのだろう。
「は? なんで? アンタの子供を殺されたのに、
アンタの子供を殺した男の孫は生きているんだよ? なんでそんな子供に生きていてもらいたいの?」
「ショウタが殺したわけじゃない」
「それはそうだけど、アンタはショウタにその男の血が流れているから厭っているんだろ?
ショウタがこんなところに逃げ込むほどに追い詰めたクセに、『そこまでは望んでいない』ってなに?
殺された子供のこと、そんなに愛していなかったんじゃないの?」

「違う!!」
 タカシは声を荒げて少年の着物の襟首を引っ掴んだ。
 少年はほつれた髪が額に落ちても、無表情のままタカシを見上げるばかりだった。
「アンタの子供を殺した男の孫が、上手くすれば死ぬ状況にある。
なら復讐すればいいじゃん。なんで迎えに来ているの?
復讐が終わったら、死んだ息子のクローンを連れて逃げればいい。いくらでも逃げようがあるだろ」
「それは……! 子供に不自由な思いをさせたくないからだ!
それに俺はなにもショウタに死んで欲しいわけじゃない!」
 いくらでも逃げようがある――?
 そんな可能性はあるのだろうか。シュウを連れて逃げる選択は、可能なのだろうか。
 前回の生で、今のシュウよりもさらに幼かったあの子を連れて逃げた記憶が甦る。
 石を投げられ、恐怖と餓えとの戦いだった。
 またあの日々に戻れというのか。
 いや――、タカシは気づいしまった。
たった今、少年の問いから、意識的に問題をずらそうとしている自分自身に。
 少年はまず最初に、何故ショウタを使って復讐を果たさないのかと尋ねた。
 そこまでは望んでいない。それは、綺麗ごとだ。
 あの子は、あの男に殺されたのだ。
 シュウは手に入った。
 復讐を果たして逃げてしまえばいい。
ショウタが死すること、それは、遠まわしながらもショウタを確実に愛しているあの男へと、
この上ない打撃を与えることになるであろう。
 何故そうしない? 何故その選択を避ける?
 少しも可愛くはない子供など、『自分の子供』の為に利用することくらい、容易いはずだ。
 なぜならば、タカシは『あの子』の父親で、ショウタは憎むべき男の血を受けつぐ忌み子なのだから。
 殺してしまえばいい。殺してすっきりしてしまえばいい。
 可愛い子供の為ならば、『他人』であるショウタなどどうなっても構わないはずだ。
 何故そうしないのだろう。
 一体、何故。
 たったひとつの、見えそうで見えない答えに、吐き気が生じる。
 判っている。判っているが、判りたくはない。

「ショウタを可愛いと思ったことは?」
 少年はもう一度そう尋ねた。
「……ない」
「本当に?」
「あるわけがない!!」
 何故ならショウタは、あの男の孫で、ミユキが産み落とした子供なのだ。
 可愛いはずがない。可愛く思ってしまったら、それは――。
「あるわけが、ないだろ」
「じゃあ殺せよ」
 少年は、微笑みながら静かに言った。
 タカシの心の奥底にある燻りに火をつけ、さらにそれを本格的な火災にすべく、
息をこっそりと吹きかけるように、『殺せ』と囁いたのだ。
「大切な子供も望んでいるんじゃないの? 復讐を」
「あの子は、そんな、」
「望んでいるかもしれないじゃん。殺しちゃいなよ」
「それは、俺は、そこまでは望んでいない」
「望んでいない? アンタおかしいんじゃないの? アンタは子供を殺されたんだよ?
僕は例えば全然可愛いと思っていない子供を殺して借金がチャラになってここから出られるって聞いたら、
簡単に殺すけど? 知らない子供じゃなくて、全然可愛いと思っていない知っている子供なら、
より簡単に手を掛けられるね。アンタはなんでしないの。自分の子供を殺されたのに」
「ショウタを殺したところで、あの子が戻ってくるわけではないからだ!」
「へぇ、それでアンタの憎しみとか怒りはちゃんと解消されているんだ?
死んだ子供は未だに悔しがっているかもしれないのに」
「そうではないが!」
「アンタが手に掛けなくても、ショウタはきっとそのうち死ぬさ。
だったらアンタは放っておくだけでいいんだよ。何故そうしない?」
「だから!」

 ショウタが死することを望むほど、外道にはなれないのは、何故なのだろう。
復讐を実行すれば、確実に義父への恨みは綺麗に解消されるだろう。
何故そのためにショウタを利用しないのだろうか。
ショウタはタカシにとって『どうでもいい子供』のはずだ。
その存在を忘れて、男娼の手を引くほどに。
シュウをこの花街で見つけたとき、ナビゲーション代わりのショウタの存在を失念するほどに、
タカシの中でショウタの存在は『どうでもいいもの』であったはずだ。
 どうでもいい子供など、利用してやればいい。
 健全に保たれているこの国で、人が一人消えれば大騒ぎになるのは明白であるが、
しかしそれは国が管理している地域での事件に限られる。
 国が存在を忘れ去ったこの花街でショウタ一人が失踪した場合は、遺体があがっても『不幸な事故』として
処理されることは間違いないだろう。
 何故ショウタを利用しない。この突如訪れた好機を、何故利用しない。
 そこまで望んでいない? そこまで外道にはなりきれない? そこまで道を踏み外したくはない?
 だが、タカシは、平気で意識のない姉を犯すような外道なのだ。その上子供まで生ませるような、鬼畜だ。
 そんな外道が、果たして復讐に子供を利用しないことなど有り得るのだろうか。
 己の中で渦まく疑惑と、それを打ち消す思考で、頭の中が破裂しそうになるのをタカシは感じていた。
 何故利用しない、何故。

「――アンタ、ショウタを嫌おうとしているよ」
「なに……?」
「アンタは、ショウタが可愛いんだよ。無理やりショウタを嫌おうとしている」
 怒りが、ぶわりと浮かび上がるのを感じた。
 タカシとショウタ、それを取り巻く重く不愉快な背景を断片的にしか知らない少年は、
したり顔でタカシに的外れな意見を寄越す。
「違う!!」
 気がついたとき、タカシは腹の底から搾り出すような声で叫んでいた。
「じゃあなんでそんなに必死に叫んでるんだよ!」
 少年が、中身が一滴も減っていない徳利で、タカシの額を打ち付けた。
額に広がるのは、痛みと熱。酒臭くなった服を気にする余裕もなく、
タカシはもう一度「違う!」と叫ぶように言った。
 額が熱い。滑りを帯びた液体が額を滴り、角膜の表面を瞬時に覆っていく。
視界が赤く染まり、世界そのもののカラーリングが歪になる。
左の視界はクリアだというのに、右の視界は真っ赤。不安定な視界もそのままに、
それよりももっと不安定な己の胸のうちを隠すかのように、タカシは叫び続けた。
「可愛いはずがない!!」
「馬鹿じゃない? アンタはとっくにショウタを気に掛けていた。
ショウタがアンタの前で泣いたとき、本当はどう思った?
ショウタがアンタを見るとき、いつもどんな気分になった? 後ろめたくなったんじゃないの。
ショウタにどんな風に接した? 冷たく当たったんだろ? 何故?
そうしなければ、愛しく思ってしまいそうだったんじゃないのか?」
「違う!!」
「アンタはもう既に負けている。過去のショウタを愛すまいとしていた自分に、負けているんだ」
「違う、俺はただ、ショウタが帰ってこないと不都合があるだけで……!」
 家に連れ帰らなくてはならない。
 ショウタの祖父であるあの男が、孫の不在に気づく前に。
 家に連れ帰らなくてはならない。
 子供の家出などに付き合っている場合ではない。何故なら、ショウタはいずれA社を継ぐ子供なのだから。
 タカシがショウタを家に連れ帰らなくてはならない理由など、それしかない。
そのはずだ。
 いつも窺うようにしてタカシを見ていた子供を、鬱陶しいと思いこそすれ、
可愛いと思ったことなど一度としていない。
 遠慮がちにタカシを盗み見るようにしていた子供を可愛いと思ったことなど、一度としていない。


「可愛いわけがない。生まれたときから、一度も可愛いと思ったことなどない!」
「どうして?」
「可愛いと思えないだけだ! 理由なんてない」
「理由なく可愛いと思えないなんて、それこそおかしいだろ。
目つきがキモイとか、おどおどした態度に腹が立つとか、あるだろ」
 記憶の片隅にある、ショウタの影を引きずり出そうとタカシは躍起になった。
 手をつかまれたとき、寒気がした。なんともいえない嫌悪感に襲われた。
本能的に、ショウタを厭い、体がそう反応したのだ。
「嫌なものは嫌なだけだ。単純に可愛いと思えない。それのどこが悪い」
 声が上ずり、紡がれる言葉の一つ一つは細かく揺れた。
動揺している――、タカシにはその自覚があった――、自分を隠すように、
ショウタの『嫌な部分』を具に上げていった。
 窺うような目が嫌だ。
 タカシをミユキのように『タカシさん』などと呼ぶのが嫌だ。
 子供のくせに、妙に大人びている部分があるのが気持ち悪い。
 ミユキの腹を介して生まれてきたのが何よりも気持ち悪い。
 大嫌いな貴族の出身であることが気に食わない。
 ――全部、全部、ショウタの存在そのものが気味が悪い。
 感情の赴くままぶちまけたそれらは、床に散らばり空しく転げ落ちる。
 肩を怒らせ、はぁはぁと熱く荒い呼吸とは裏腹に、
無機質で中身のないそれらは、無理やりひねり出したかのような『てきとう』な理由であった。
 これが本心とは大きく隔たりのある言葉だと、タカシ自身が自覚していた。
 無理やりひねり出さなければ、ショウタを嫌う理由が見つからない――、
その事実が、ひどく恐ろしかったのだ。

「……ひっどいね、アンタ。あのさ、大人びちゃったのもアンタの態度を窺うのも、
アンタの所為じゃん。アンタが邪険にするからそうなっちゃったんじゃないの。
それにさ、アンタが嫌っている女の腹を介して生まれてきたなんて、
ショウタにはどうしようもないことじゃん」
 呆れたように言った少年は、溜息を吐いたあと、『カワイソ』と心底同情したように言った。
「ショウタ」
 少年は、静かにそう呟いた。
 まるで、ショウタを呼ぶように、そう口を開いたのだ。
 嫌な予感に、背筋が冷たくなる。
「入っておいで」
 少年の背後のある襖が、音もなく開けられた。
 廊下に膝をつき、ショウタはそこに佇んでいた。
「ショウ、タ」
 瞳孔が、ギュッと引き絞られるような錯覚を覚える。
 体中の血液と言う血液が、足元に落下していくような、嫌な寒気。
 そして、この場違いな空気の中、ただただ微笑むショウタ。
「もう帰っていい? 貴方が襖の前にいろって言うから俺はここにいた。用事は済んだよね?」
「……いいよ。親父様ンとこに帰りな」
 ショウタの口角が更に持ち上がる。頭をゆっくりと下げ、そして襖は閉じられた。
 何事もないように、ショウタは悠然と微笑んでいた。
 タカシの暴言など、痛くも痒くもないと言うように、ただ自然な笑みを浮かべていたのだ。
 唇が戦慄く。
 脚に力が入らない。
 だが、タカシは無理やり立ち上がった。
 今、ショウタを追いかけなければ、永遠にショウタを失うような気がしたからだ。
 失っても構わないはずの子供を、タカシは追いかけようとしていた。

「ショウタ!」
「追いかけるな!!」
 ぴしゃりとした声が、叱責するように言った。
「終わらせてやれ! 歪な家から、開放してやれ!! そうじゃないなら認めろ!
ショウタが可愛いって認めちまえ!!」
 可愛くない。今度はそう叫ぶことはできなかった。
 壊れたように震えている唇では、そう叫ぶことはかなわなかったのだ。
 少年が立ち上がり、タカシの襟首を掴む。
 少年の顔を見下ろすその瞬間、タカシは彼を『姉に似てなどいない』と再確認をしたのだ。
 姉は人形のように身動きの取れぬ人であったが、元気であった時分でさえ、
美しく微笑んでいることの多い人だった。そう、先ほどのショウタのように。
 眉根を寄せて叫んだり怒ったりなど、決してしない人だった。
 襟首を掴み、捲くし立てる少年は、生きた、血の通った少年だった。
思い出と同化することは決して有り得ぬ、怒り、笑い、泣く、普通の人間なのだ。
 ショウタも、そうだ。
 ショウタは傷つく。ショウタは、悲しむ。
 だが、ショウタはホログラムで作られた虚像のように微笑んだ。
記憶の片隅に住み着く、思い出の一部分のように微笑んだ彼は、
痛みなど少しも感じていないようだったのだ。
 だが、タカシは己の行動に焦っていた。
 タカシが暴力的に吐き出した言葉はあまりにも鋭利で、
その虚像のトゲは、見えないショウタの内側を、
しかし確実に深々と抉って、おそらくこの先死ぬまで癒えることのない裂傷を作ったのだ。

「可愛いんだろ? そうじゃないならなんでアンタはそんなに焦っている?
可愛くないはずがないだろ、アンタはショウタに会おうとわざわざこんな場所まで毎日通ってきた。
可愛くないなんて思っちゃいないんだよ!」
「ち……が……」
 ――違う。
 違う。
 違う。
 違う。
 違う。
 可愛いのはシュウだけだ。シュウだけがタカシの息子だ。
姉と自分の遺伝子を受け継ぐあの子だけが、殺されてしまったあの子だけが、あの子だけが――。
「違う! 可愛いはずがない!」
「だったら要らないって切り捨てればいい! そうすれば楽になる!
アンタ、中途半端なんだよ! さっさと切り捨てて、
毎日こんな所までノコノコやってくるのもやめればいい!」
 体が震えて、呼吸もまともにできない。
 タカシは少年の言葉を遮るように、両耳を掌で塞いだ。
 可愛いはずがない。生まれた瞬間から鬱陶しいだけだった。
 赤ん坊のショウタは、真ん丸い瞳で真っ直ぐにタカシを見上げた。
 そんなことは思い出したくないのに、タカシ本人の気持ちとは裏腹に、記憶は勝手に溢れ出す。
赤ん坊のショウタの黒目に反射した自分の顔。
それがどんな風であったのか、タカシには思い出すことができない。
 いや、思い出したくはない。

「違う!」 
「だから、そう思うならそれでいい! ただし早く切り捨ててやれ! 追いかけるな!!
それができないなら殺された子供に一言『ゴメン』って謝って認めちまえばいいんだよ!
可愛いって、ただ認めればいい。どうせ死んだ子供はアンタの裏切りなんて知らないよ! 
死んでるんだから!!」
 謝った程度で済むものか。
 何故ならあの子供は、タカシが間抜けであったがために死んだのだから。
決して信用してはならない貴族などを信じて、自ら罠に嵌って、そして己のみが生き残った。
 だからこそ、せめて裏切ることだけはしてはならないのだ。
 それが父親としてしてやれるただ一つのことなのだ。
 タカシはショウタを愛してはならない。それだけは。
 
『タカシさん』
 
 緊張した声が聞こえた。
 歪で不恰好な、痛々しい笑顔。
 真珠のように、白い前歯。
 記憶の中の、数少ないショウタが浮かんでは消える。
 小さい爪、黒い瞳、窺うような眼差し。
 己に触れる手に怖気が走ったのは、
その柔らかさに『胸の温かくなる感情』を抱きそうになった自分に恐怖を覚えたから。
 違う、違う、違う。
 ショウタが歪に笑う。ショウタがタカシを見上げる。
 ショウタ、ショウタ、ショウタ。
 ああ、ショウタは――、タカシは、最初から、生まれたときからショウタを。

「認めろ!」
 少年の脚が、タカシの腹を蹴った。
 ここにいる人間は、どいつもこいつも、ひどく暴力的だ。 
 だが、タカシがショウタに与えていた暴力に比較すれば、それらは随分と可愛らしいものだ。
 少年が押し黙り、タカシの短く繰り返される呼吸だけで部屋が満たされた。
 獣染みた呼吸のほかに、なにもない部屋の外で、花火がドン、と破裂した。
 障子の向こうでは、色とりどりの火花が空を彩っているのだろう。
 シュウはいい子にしているだろうか――、不意に、可愛くてたまらない子供の顔を思い出す。
 シュウと、ショウタの顔が重なって見えた。   
 そんなことは、有り得ないはずなのに。
「……明日、またここへ来る。覚悟を決めて」
 唇を引き結ぶ。
 少年が笑ったような気がした。
 彼は、きっと美しい父子の物語を思い描いているのだろう。
 父が子を受け入れ抱き合って、物語は幸せなまま幕を下ろす。 
 だが現実はそうは行かない。
 それが、タカシの選択だ。
 ショウタに罪は何ひとつない。
 彼はただ生まれて、必死に手を伸ばしただけだ。その手を振り払い続けたのはタカシの都合だ。
 生まれた場所が悪かったとしか、言いようがない。
 彼の中の二三本の染色体が、別の男のものであったのなら――、
いや、いっそ、四六本全てが全く見知らぬ、愛し合う男女のものであったのなら、
きっとショウタは凡庸に、だが幸せな人生を歩めただろう。
 鳥でも、犬でも、猫でも。
 人間以外の生き物でもきっと、今よりは幸せであったはずだ。

 ――殺してしまいたい。
 ふと、そんなことを思う。
 あの子供を傷つけるくらいなら、殺してしまいたい。
そんなエゴイスティックな感情が、胸に広がった。
 だが、これ以上にあの小さな子供からなにかを奪っていいはずなどなかった。
 子供。
 ショウタは、ただ少しだけ利巧な、だけどそう、寂しいだけの小さな子供なのだ。
 どこにでもいる、普通の子供。
 小さくて、慈しむべき存在。
 伸ばされた手は、いつでも遠慮がちだった。
 あの手が伸ばされなくなったのは、いつからだろう。
 もう、思い出せないくらい遠い日のことのようだ。
 タカシは、遠くまで来てしまったのだ、後戻りができぬほど遠くへと。
 タカシはやっと認めた。
 タカシはショウタを、憎んでいたのだ。
 憎くて憎くて、そして――。
 タカシの顔色を窺うような、ショウタのあまりにも不器用な笑顔がチラついて見えた。
 丸い頬に、少しだけ焼けた手足。
 タカシさん、とやはり遠慮しながら呼ぶ声。
 シュウを羨ましそうに見る、潤んだ瞳。
 そして、寂しさを乗せた、項垂れる小さな後頭部。
 可愛くなどない。可愛くなど、ない。
 父親が本能的に子へと抱く感情など、決して抱いては居ない。

『タカシさん』
 
 小さな指が、タカシの袖を掴んだことを思い出す。
 汗に濡れた額。
 赤ん坊用のシャンプーの匂い。 

「今日は帰る」
 タカシは宣言して立ち上がった。
 幸せな結末はやってこない。
 小さな後姿がチラついた。

『タカシさん』

 愛してなど、いない。
 絶対に。
 額から滴る血液を拭き取ると、タカシは静かに立ち上がったのだった。
 幸せな結末は、決してやってこない。
 ――殺してしまいたい。そして、死んでしまいたい。

 花火の音が、遠く近くで、しつこいほどに鳴り響いていた。

お久しぶりです。今日はここまで。
保守、感想ありがとうございます。嬉しいです。

来てた!すごい物騒なことになってた…
忘れかけてたけどまだ回想なんだよね
殺害失敗からの逆襲で最初に繋がるのかなー?
なんにせよ夏か秋か冬か分からないけど楽しみ

様々な事情があり、エロ・フェチを含むSSは
http://ex14.vip2ch.com/news4ssr/
に移動をするようです

エロもフェチ(近親系)もガッツリ含んでいるので、移動することになるかと
おそらく自動で飛ばされるかと思いますが、
もしも「あれ、板がねぇぞ」となったら上記に移動していると思うのでよろしくお願いします

板じゃない、スレだった
恥ずかしい

新しいエロ向け板ですが、現在作業中らしく
ガラケーおよびスマホではエラーが出てしまう模様


このスレッドは一週間以内に次の板へ移動されます。
(移動後は自動的に移転先へジャンプします)

SS速報R
http://ex14.vip2ch.com/news4ssr/

詳しいワケは下記のスレッドを参照してください。。

■【重要】エロいSSは新天地に移転します
■【重要】エロいSSは新天地に移転します - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1462456514/)

■ SS速報R 移転作業所
■ SS速報R 移転作業所 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1463139262/)

移動に不服などがある場合、>>1がトリップ記載の上、上記スレまでレスをください。
移転完了まで、スレは引き続き進行して問題ないです。

よろしくおねがいします。。

久しぶりに来たら更新来てた!

タカシの自己中ぶりがやっと露になったね。確かに不幸な少年時代だけど、ショウタには
全く関係ない訳で。正直サイコパスっぽいとすら思っていたから死んだ子供に対する義理と知って納得
楼主が男前だわ。やっとタカシに正論ぶつける人が現れて胸がスッキリした

セルフ保守

ほしゅ

待ってるよ!

続き楽しみほしゅ

ほしゅ

作者生きてる?生存報告欲しい

ほしゅ

ほしゅ

お久しぶりです……

 報告の全てはセキュリティを何重にも施したメールで送られてきた。
 細かな文字の羅列を一文字も逃すことなく目を通しながら、タカシは感心していた。
たった一日での報告にしては、内容に富んだ満足のいく報告書が画面に広がっている。
ここまで詳細な報告を寄越す探偵は、前回の仕事では全く役には立たなかったものの、
今回はいい仕事をしてくれたようだ。
かつてミユキと義父の思惑を探るために、
そしてタカシの一族の末裔を見つ出すために雇った、そのうちの一社だ。
前者については全く役に立たなかったが、後者の末裔探索については当時も仕事が速かったと記憶している。
 忘れ去られた都市の一画に存在する小さな店を探れ――、
一般人が耳にしたのなら、鼻で笑われそうな内容であったが、相手は探偵だ、
依頼を受けたその日に動き出し彼は現地入りを果たした。
 自分の社会保障番号が登録された都道府県より他の地域には移動してはいけない――、
そんな意識が深く根付いているのもまた一般人のみであり、
探偵は仕事となれば北へ南へ、どこへでも飛んで行った。
その職業上、探偵は『忘れ去られた都市』についてもその存在を噂程度には知っていたし、
タカシの依頼の目的についても詮索したりはしない。そしてこの充実した報告書。
一般の範囲内の仕事ならば、優秀と言ってもいいだろう。
 タカシは画面をスクロールし続ける。

 その内容の殆どは、タカシにとって喜ばしいもので、
しかし花街にとってはその逆であることは間違いのない内容であった。
 結論から言えば、花街は死を迎えつつあった。
 最も花街が栄えていた時代――、それと比べての近頃の利用者数は、
その存続も危ぶまれるほどに減少していたのだ。
特定の人間以外とも性的な関係を結びたいと感じる若者が減少していることにその原因があった。
 若者が枯れている、と言うわけではない。
 思春期ともなれば、性への興味は暴走するばかりであるのは、どの時代の若者であっても常である。
しかし今はバーチャルの時代だ。おおよそのことは電脳空間で体験可能な、素晴らしい時代なのだ。
あたかも生身のように感じられるリアルな空間、それがあまりにも生活に深く根付きすぎた為だろう。
生まれたときから直ぐ傍にリアルな紛い物が存在した彼らにとっては、それらは現実と変わりない『紛い物』なのだ。
バーチャル空間で散々遊び倒し、しかし肉体そのものは婚姻後まで清いまま――、などという、
健全なのか不健全なのか判然としない、ちぐはぐな若者は多いようだ。
何と言っても、生身の体験は危険を伴う。
おおよその病気は治せる世の中になったものの、しかし性病の治療には羞恥を伴う。
医者に恥部を晒すことをよしとする人間はあまりいないだろう。
おまけに最悪の場合、免疫系へと一生モノの傷を残す可能性もあるわけで、
そんな危険は誰もが避けたいと願うのは、当然のことと言えよう。
そのような価値観が根付くに従い、若者は徐々に花街の存在そのもを危険なものと認識し、
存在を存じていても避け、見ようとせず、そして記憶の彼方から消し去っていったのだった。
お貴族さまのボンボンは、馬鹿馬鹿しくも『箔をつける』為に花街へと赴くこともあるようだが、
それだって祖父、いや、曽祖父の代からの慣例染みた行いのようなもので、貴族の全てがそうであるわけではない。
つまり、花街の利用者数は著しく減少傾向にあるのだ。
 当然、ショウタが逃げ込んだあの店も、一時ほどの――、
今現在楼主となっているあの男の父の代の話である――、
賑わいはなく、花街全体はあれほどまでに華やかかつ賑やかであるにも関わらず、
店としての収入はとても少ないようだった。


 奴隷の売り買いのイベントが開催されるシーズンには、一時的に客足がが増えることもあるようだが、
それとて年に数回開催される『奴隷市』などという悪趣味この上ない催しが行われた時だけのこと。
数ヶ月もの間、賑わいが続くわけではない。
 その奴隷を購入する人間も少しずつ減少しているというのだから、
花街には少しずつ、だが確実に終焉へと向かっているようだった。
 毎月支払わなければならないショバ代も馬鹿にならないはずだ。
 花街の住人は、最初からそこに居たか、或いは外部から無理やり連れてこられたかのどちらかだ。
 ――彼らには後ろ盾がない。新天地でなにかを始めようにも、その手立てがないのだ。
 ならばタカシが後ろ盾になればいい。
 実入りの少ない商売などはスッパリと捨て、
タカシの力添えで新天地でなにか新しい事業を始めたほうが、
その後、彼の人生にプラスになることは間違はないだろう。
 あの如何わしい街にいつまでも居座っていたところで、何になるというのだ。
 セックス、セックス、セックス。
 肉と肉のぶつかり合いに金を掛ける時代はもう終わった。
 タカシは、あの楼主を己の手駒にすべく、彼について様々な事柄を調べていた。
 両親は夭逝しきょうだいは居ない。
身内と呼べるのは伯父で、その伯父も花街で医者をしているようだった。
伯父は国家資格を保持してはいるようだが、
彼が見るのは客の無体によって体を傷つけられた男娼や娼婦、
或いは使えなくなった『彼ら』の『後始末』であり、
真っ当な医者ならばまずこなさないような仕事ばかりを請け負っていた。
 兄弟のように育ったのは警ら。彼の職業は一応は花街の警備や面倒ごとの片付けではったが、
花街内での建物や機器類の修繕も手がけているようだった。
 そして楼主自身はと言えば、あの男娼が言っていたように『優しい』らしく、
不細工でろくな商品にもならないような男娼や娼婦まどをも引き取り、世話をし、
その都度店を赤字へと向かわせていた。
経営者としては全くお話にならない、と言うレベルの仕事ぶりである。

 それでも店がなんとか持っているのは楼主の人柄のためであるらしい。
彼は一度引き受けた人間の面倒は最後まで見る人物として周知されていた。
 色を買う客には楼主の人柄など『どうでもいい』ことは間違いないが、
店を取り仕切る長の態度は、そのまま娼婦・男娼の性格や勤務態度に浮かび上がるものなのだろう、
赤字には赤字であったが、あの街では、中の中程度の売り上げは弾き出していた。
 報告書をスワイプで消し、タカシは背もたれに身を深く沈めた。
 材料は揃っている。
 赤字経営、金にもならない娼婦に男娼、忘れ去られた土地。それは正に沈み行く泥舟であった。
 材料だけは、ふんだんに揃っているのだ。
 ――だが、あの楼主は一筋縄ではいかない。
 たぶらかすには、なにか『いい話』を作り上げなければならないだろう。
 戸籍の移動はなんとかなるに違いないが、しかし肝心の『いい話』が思いつかなかった。
 約束を反故にしたりはしない。
 ショウタの身に安全を確保するためには、楼主を陥落させるよりほかはない。
 だが、果たしてあの楼主が、『いい話』を提示したところで、ショウタを手放すだろうか――?
 あの、花街に似合わぬほどに、情に厚いと評判の男が……。

 伸びをして体を動かし、ストレッチをする。
 腿の上には、シュウの頭が乗っていたが、それにも気づかぬまま報告書を熟読していたようだ。
 幼いシュウの目の下に、クマが浮かんでいる。
アンドロイドによれば、ここのところ、情緒が不安定なようで、睡眠が満足に取れていないとのことだ。
眠っても直ぐに目を覚まし、タカシの姿を探しては、その不在の落胆するのだという。
 不安定になるのも無理はない。父親が何をしているのか判らない上に、
慣れぬ土地で頭の狂った女と一つ屋根の下に閉じ込められていたら、タカシでも気持ちが塞ぐというものだ。
おまけに、友人であるショウタは、シュウが理解できぬ『何か』にとても腹を立てた様子で突如として姿を消したのだ。
 早くなんとかしてやらねば、シュウ自身もおかしくなってしまうだろう。
 アンドロイドに眠ったシュウを自室へと連れて行くように促し、報告書にもう一度目を通す。
 シュウを安心させるためには、まずショウタをどうにかすることが急務であろう――、
そんな思案を重ねていた瞬間、タブレットが急速に明るく輝きだした。
 どうやらA社本社にいるはずの部下からの、仕事用の連絡機による連絡のようだ。
 対話には不向きな、互いの顔が見えないタイプの、要するに単純な『電話』での連絡である。
遠く離れた部下と話す際には、互いの表情を確認できるタイプでの通信方法が望ましい。
そのほうが相手が何を言わんとしているのかより理解し合えるからだ。
通常とは異なる連絡方法をいぶかしみながら、タカシはタブレットを手に取った。
 だが、変化はそれだけではなかった。
 画面上で、いくつものポップアップが浮かび上がっては消えていく。
 一つ、二つ、三つ。
 五つ目ほどでタカシは異常を察知し、一先ずは部下からの電話を受け取ることにした。

「はい」
『テレビつけてください!』
 部下は名乗りもせず、タカシの都合も尋ねず、突如そう言い放った。
 言われるがままにタカシはテレビの電源を入れ、
取敢えずは日本放送技術公社にチャンネルを合わせた。
ホログラムがゆっくりと浮かび上がり、電波が悪いのか、緊迫した様子の女性がなにやら必死に告げていた。
女性が何を言っているのかタカシが理解できないうちに、映像は『現場』に切り替わったようだ。
 揺れる不明瞭な映像に、タカシは見覚えがあった。
 空を貫くような高さのビル、その壁面が大きく崩れている。
 地面から伸びるのは、この大日本帝国が誇る防空用のミサイルだ。
通常は人が携帯して攻撃するもののようだが、この国では国民にそれをさせることがない。
完全にコントロールされた地下システムによって、有事に際して『勝手に』地下から伸びだし敵を攻撃するもの――、
その禍々しい筒状のそれに対するタカシの認識はそれだった。
その国防の為の小型のミサイルコンテナーが、どういうわけか、ビルに向けられていたのだ。
 一度、二度、三度。整列したそれらは規則的にビルを攻撃していた。

『ご覧下さい、物凄い勢いで建物が崩れています!』

 髪を振り乱しながら、アナウンサーが叫んでいる。
 揺れるホログラムは、タカシのよく見知るビルであった。
 空を貫かんばかりに縦長であったその建物は、
国防の為の小型ミサイルによって攻撃され、頂上部分が殆ど欠けた状態となっていた。
地上から百数十メートル上空を攻撃するのは不可能であろうから、
近隣の防護壁に設置されたものから放たれたのかもしれない。
 激しく火を吹くビルから、落下するのは瓦礫に、そして時折――、人と思しき形状のもの。
 続いてズームされた映像として映し出されるのは、
ビルから這い出るようにして逃げてくる者、慌てて避難する通行人、怪我をして歩けない者。
 現実味のない映像が、立て続けにタカシを襲った。
 だらんと膝の上へと放った手の中から、激しい叫び声が聞こえてくる。部下との通信はそのままだったのだ。
 気分が悪くなる。
 腹の底から、食べたものが競りあがってくるような感覚に、タカシは慌てて便所へと駆け込んだ。
 喉が焼き付けられるような感覚と苦しさに、涙が零れ落ちるのもそのままに、
タカシは幾度も便器へと吐瀉物をぶちまけた。
 今の生を受ける前の、戦中の記憶が一気に溢れ出した。
 吐き気が治まった頃、タカシはゆらりと立ち上がる。電話はいつの間にか途切れていた。
 国防システムによる破壊の渦中にあるのは、どうやらA社の本社社屋だと、タカシは漸く理解した。
 細長いビルがまるで特撮のジオラマのように崩れ、火を噴いている。

 タブレットが『異常事態宣言発令』の文字を画面へと浮かび上がらせている。
これは自身の住まう地域が災害や異常事態――、他国からの攻撃などがそれに当たる――、に、みまわれた際に、
国民が一人でも多く逃げ延びるために発令されるものだ。
 ホログラムに浮かび上がるのは、喚くアナウンサー、そして『国防システムの暴走か?』の文字。
 唐突に理解した。
 『終わり』が来たのだと。
 これは、A社に対する明確な殺意が形になった攻撃に違いない、と。
 A社はこのまま転覆するのだろう――、そんな確信めいた予感が、タカシの頭を駆け巡った。
 それは『開放』か、『終焉』か、それとも――、『完全な死』か。
 自分の身に降りかかるであろう三つの未来が生々しく浮かび上がり、そしてタカシは床を蹴るようにして立ち上がった。
 ヒュッと、喉が鳴り、一瞬呼吸が途切れていた己を自覚する。
 肺一杯に空気を吸い込み、考えるより早く、たった一つの名を叫んでいた。
「シュウ!」
 声を荒げて息子を呼ぶ。
 国防システムの異常? そんなはずはない、とタカシは確信していた。
 国防システムには何重にもロックが掛けられているはずだ。
 二度目の生をスタートさせたばかりの学生時代、課外授業で国防システムを見学させてもらったことがある。
 パスワード、声紋認証、角膜認証、そしてまたパスワード。
 それぞれの異常事態発生地の都道府県知事が国に報告、国が異常事態を確認、
そして漸く、異常が認められた各当都道府県の知事がそれらのロックを遠隔的に外し、初めて国防システムが動くのだ。
 非常事態でもないのに、仰々しい白いヘルメットを被った施設の管理者がそう説明していた。
 間違いは起こらない。決して。安全が一番大切なのだと、説明を繰り返していた。
 だから、間違いは起こりようがないのだ。
 それが『意図的』でないのなら。

「シュウ!」
 もう一度叫ぶようにシュウを呼んだ。
 先ほどアンドロイドに部屋に運ばせたばかりではあるが、
そう暢気に構えている時間はない。
 何故ならば、一家は『避難』しているのだ。
 何から避難しているのか、そろそろみなが、いや、その避難を強固に願ったミユキでさえ忘れているようではあるが、
危険から身を隠すために避難をしていたのだ。
 国防システムの暴走など有り得ない。有り得るはずがない。
 誰かしら意図的に暴走を引き起こしたとしか思えなかった。
 そう、例えば――、A社をよく思わない連中。
 水製造機の存在を未だによく思わない団体は国内にいくつかあって
、開発者であるタカシは疾うに死んでいることになっているものの、
まるでその遺志を継ぐかのようにしてメンテナンスを積極的に行うA社を、
彼らは当然のようにタカシそのものよろしく敵視している。 
 デモ行為など可愛いものである。
 抗議活動は何度か社屋前で行われたが、実害らしい実害と言えば、社員の誘拐未遂事件くらいであった。
 社員の誘拐から社屋爆発――、手口が急激にテロリスト染みたことに些かの違和感は覚えたものの、
しかしタカシは今漸く急激に身の危険を意識したのだった。
 ミユキの戯言などに付き合うのは馬鹿馬鹿しいと感じていたが、
しかしこうも明確に敵意を剥き出しにされては、危険を認知せざるを得ない。
 軋む階段を駆け上がり、寝ぼけ眼でベッドに座すシュウの両肩を引っ掴む。

「お父さん……?」
「シュウ、よく聞いて。今すぐにこの家を出なくてはならなくなった。
アンドロイドと一緒に荷物をまとめてくれ」
「お家に帰るの?」
「違う」
 即座の返答に、シュウは少しばかり落ち込んだ顔を見せた。
 しかし、タカシの掌が己の肩に食い込むほどにきつく力を込めたことによって、
聡い子供は異常を察知したようだった。
「わかった」
 シュウが力強く頷く。眠気はどこかに吹き飛んだようだった。
「十分で済ませられるね?」
「十分……、長い針が十個分? できる」
「いい子だ」
 頭を撫で、己は階下に駆け降りる。
 タブレットが明滅を繰り返している。
 それらの全ては無視して、義父へと連絡を繋ぐ。
 義父へも怒号の勢いで連絡が行っているのであろう、タカシからのそれはなかなか繋がらなかった。
 苛立ちながら、己もこの出立の準備を進める。
 敵が、どこまでタカシたちの動向を把握しているのかは定かでないが、
ここに留まるのが得策でないことだけは判っていた。
 大阪か、兵庫か、或いは愛知、静岡か。
 人々は、己の住処を離れてはならない。
離れることは『よくないこと』だと、箱庭計画を実行するための下地として長きに渡って刷り込まれてきたが、
しかしタカシは違う。タカシは戦火を潜り抜け西へ東へとひた走った過去を持つ、若者の皮を被った老人なのだ。
己の身を守るためならば、県を跨いで移動することに何の罪悪感も後ろめたさも感じない。
 兎に角逃げなくてはなるまい。

 家に戻ることは得策ではない。
ショウタの通う初等部へと脅迫状が届いているということは、住まいなどとっくに割れているだろう。
 自宅周辺の都道府県への移動も避けるべきだろうか。
 いっそのこと、古都東京、そうでないのなら神奈川――、駄目だ、とタカシは首を振る。
この二都県には水製造機全一二〇機それぞれ十機ずつが存在する。これはかなり多い数だ。
東京都の面積に対して機体が多いのは、頻繁に歴史的建造物の修復を行うためだ。
神奈川に多いのは、
単純に先の大戦の元となった『無国籍軍による横浜空港襲撃事件』の二の舞を危惧してのことである。
あの県には、万が一の襲撃に備え、最も規模の大きい国防軍を配置してあるのだ。
 A社に露骨な攻撃が仕掛けられたということは、
全国に配置された製造機にも同様のことが起きることは安易に想定できる。
寧ろ、起こされた行動は遅すぎたくらいである。もっと早くに今と同様の事態が訪れても不思議はなかった。
 最悪の場合、A社そのものが解体されることになるだろう。
 だが、それはいい。そうなってしまったら、それはそれとして仕方がないことだ。
 タカシは婿ではあるが息子ではない。A社に然したる思いいれはない。
 だが――、ぞっとした。
 先の大戦、逃げ惑う日々、息子を、あの子を、タカシを奪われた悲劇。
 こみ上げる吐き気を掌で押さえ込み、すぐさま荷造りを再開させる。
 必要最低限のものだけをトランクに積み込み、それを庭へと運び出す。
 シュウのしたくはアンドロイドが手伝っている。
 ミユキは異常事態を把握しているだろうか。
ここ数日、寝ているか叫んでいるかが多くなったミユキには、正気で居る時間が全くない。
 タカシが全てを告白した途端に、もとより不安定であった彼女の精神は、木っ端微塵に砕け散った。
 尤も、彼女の狂った計画は最初から成功の見込みはなく、
いずれは彼女もその事実を知るに至っただろうから、少しだけ、崩壊の瞬間が早まったに過ぎないのだが。
 だが、置いていくわけにはいかないのだろう。
 タカシには、ミユキへの関心が全くない。彼女がどうなろうが知ったことではない。
だが、ここに捨て置けるだろうか。彼女を放置することはきっと『よくない』ことだろう。

 タカシは嘆息しつつ、小走りで屋内へと戻る。
 と、揺らめくシルエットがホログラムの前に確認できた。
 ――ミユキだ。
 彼女は視線をホログラムへと張り付かせたまま、小刻みにゆらゆらと揺れていた。
 揺れるスカートに、既視感を覚える。
 気分が悪くなる。
 あれは、タカシが二度目の生を受けたばかりの、あの日の残像だ。
 マッドサイエンティストであるあの女を殺害したタカシのもとへと、ミユキはやってきた。
 既に若返った己の肉体へと脳を移植した彼女は、少女になっていた。
少女の彼女は、全てを任せろと言い、そしてタカシの罪を全て洗い流したのだった。
「ミユキ」
 名前を、久しぶりに呼んだ。
 細い首が静かに動き、真っ直ぐにタカシを見据えた。
 本の僅かな正気を宿した瞳が、恐怖と不安を綯い交ぜにして揺れている。
「ここも危険かもしれない。逃げよう」
 言葉は、すんなりと出た。
 捨ててしまえばいい。
 ここに置いていけばいい。
 何故か、どうしてかそうは思えなかった。
 この女は、ショウタの母親なのだ。
 ショウタを産んだ、女なのだ。
 いいや、言い訳だ。
 単純にタカシは『寝覚めの悪い思い』をしたくないだけだ。
 ミユキを捨て置くことには罪悪感が生じる。だから、仕方がなく。
 そんなことは判っているであろうミユキの首が、だがしかし、ぎこちなくはあるも縦に振られた。

****

「ショウタを迎えに行く」
 助手席にミユキを乗せ、シュウは運転席の後ろに、
アンドロイドはトランクに荷物と一緒に詰めて車は動き出した。
 楼主はすんなりショウタを返してはくれないだろう。
 だが、非常事態だ。
 なんとしても返してもらわなくてはならない。
 ――日差しが、眩しい。
 あの街へと向かうのは、いつでも夜だった。
 昼間に見る捨て去られた街への道筋は、とても新鮮だ。
 自動運転機能は解除し、危険は自らの運転で回避する。
時折小石に乗り上げ、その衝撃が体を襲った。
 運転が得意な訳でも好きな訳でもなかったが、不測の事態に陥った時、
限界までスピードを出せるセルフ操縦の方が危険が少ないと考えたのだ。
 木々の合間に、燃えるような赤い鳥居がチラチラと影を見せる。
現実味のない虚像のような鳥居は確かにうつしよのものなのだ。
 国防の為の道具がどういうわけかA社を攻撃している。
その不可解な事実に比べれば、赤い鳥居の存在の方が判りやすく現実的だ。
 ミユキが運転席を凝視ししている。
 いや、運転席のその横、窓の更に奥にある鳥居を見ているのだろう。

「馬鹿みたい」
 ミユキが小さく呟いた。
 本来、神聖な場所への入り口であるはずの鳥居が、汚れた街への入り口となっている。
 奇妙な現実だ。
「私、貴方が好きだったのよ」
 なにかを思い出したように、ミユキが言った。
 知っていた。そんなことは、タカシ自身が充分に知っていた。
 タカシと生きるために、新たな体を用意し自身の脳を元の体からくり貫いたのだ、この女は。
 危険を承知で、戦犯となったタカシに協力さえしてみたのだ。
 ミユキがどれほどタカシを求めていたのかなど、今更語るべくもない。
「貴方だけが好きだった。殺したいほどに、全部自分のものにしたいほどに」
 それきりミユキは黙りこくった。
 ミユキはタカシだけを好きだった。
 確かにそうではあるが、それよりも何よりも好きなのは自分自身だと言うことに、
悲しい彼女は気づいていない。
 見栄えのしない面立ちと言うわけではない。家柄とて悪くはないのだ。
 そんなミユキに一切の興味を抱かず、惑わされず、振り向かず――、
だというのに実の姉にトチ狂った男。そんなタカシをモノにしたかっただけだろう。
 彼女はタカシに踏みにじられた自尊心を、
タカシを完璧に手中に収めることによって回復したかっただけだと気づかない。
 でなければ、自分の欲の為に子供を――、自分が産んだ子供の体に、
好いた男の脳を移植しようだなんて、いかに鬼畜な母親だって考え付かないはずだ。
 彼女の気持ちも、行動も、全てが彼女の為のものだ。
 彼女がそれに気づいてるかどうかは兎も角、彼女はタカシを求めていたが、
それは純粋な恋情からくるものではないはずだ。
 勘違いを拗らせ、彼女はついには狂ってしまった。
 ミユキはイカレている。
 そのミユキに対する評価だけは、タカシは譲ることができない。
 尤も、イカレているのはお互い様だろう。
 二人は二人とも、イカレていて、ある意味、似た者夫婦なのだ。
 やがて鳥居が間近に迫ってきた。
 タカシはより一層スピードを上げ、ショウタのもとへと一分一秒でも早く駆けつけようとした。



 鳥居の前は、日々の賑やかさが嘘のように静まり返っていた。
 国防システムの暴走。その事実に人々の興味は集中しているようだった。
 国防システム――、
それらの力が及ばない、殆ど無法地帯と化しているこの街でさえもが注目をせざるを得ないほどに、
その事件は重要なものなのだ。
 何せ、国の根幹が揺らぎかねないのだ、その『暴走』は。
 多額の税金が投じられた国防の為のシステムは、今やその信頼を失墜させ、
国民の安心感を根こそぎ奪い取る存在となっていることであろう。
 なにがあったのかは定かではないが、この体たらくでは、万が一他国に攻め入られた場合、
それらが正常に機能するかどうかさえ怪しいものだ。
そればかりか、守るべき国民を攻撃しさえもする。
 あってはならぬはずの、いや、あるはずのない事態がこうして現実に起きている。
 この事実に、注目しないほうがおかしいだろう。
 フロントガラス越しに、鳥居とその奥を盗み見るが、誰もが立ち止まり、そして俯いていた。
 鳥居の出入り口を監視する警らたちでさえ、一人が手にしている小型端末を数人で囲んで覗き込んでいる。
 鳥居を潜ろうとしていた客の男たち数名もその場で固まったように立ち尽くし、
警らたちと同様に、手の中のそれを睨むようにして見ていた。
 車を駐車し、後部座席を振り返る。シュウが不安げな顔でタカシを見上げてきた。
 ――ここへ置いていくべきか、それとも鳥居を潜らせるべきか。
「シュウ、おいで」
 迷った挙句、タカシはシュウを抱き上げた。ミユキの傍にシュウをおいておきたくはなかったのだ。
 ミユキは助手席に座ったまま、動こうともしない。

 鳥居へと近づくと、画面を食い入るように見つめていた男たちが顔を上げた。
いつもの警らもそれには含まれており、「旦那」と、かさついた声で呼びかける。
「二人分の通行証を」
 なにか言いたげな顔で警らの男は逡巡したが、結局通行証は発行された。
「ありがとう」
 礼を言って鳥居を潜るが、警らは二人を監視するためか、
それとも単純になにか申し伝えたいことがあるのか、二人の後を追ってくる。
 玉砂利が擦れる音がする。花火も今日は鳴り響いてはおらず、
揺らめく提灯だけが、この非常時に場違いなほどに明るかった。
「旦那」
 タカシは返事をしなかった。
 もう何度この道を辿っただろう。
漸く覚えた道を行く最中、何度か警らに声を掛けられたが、ついに会話は成立しなかった。
 やがて辿り付いた置屋は、やはりシンと静まり返っており、格子の中にも男娼や娼婦は皆無であった。
 構わず扉を開ければ、そこには――、楼主が居た。
 楼主は世のざわめきと忙しなさなど何ひとつ知らぬと言った顔で煙草をふかし、
しかしタカシの姿を認めると、視線を鋭く尖らせ煙を吐き出した。

「ここは保育所じゃねぇんだ。そんなチン毛も生えてねぇようなガキをつれて来られても困る」
 自分のことを何か悪く言われたと感じたのだろか、腕の中でシュウが縮こまるのをタカシは感じた。
 だが、シュウには悪いが、今はそんなことに構っている場合ではない。
「――ショウタを、返してもらいに来た。金はいつか耳を揃えて払う。
平和的解決の為に、いくつかの提案も考えていたが、時間がない」
 取り繕ったりご機嫌を窺っている時間はない。タカシは要求を端的に述べた。
「提案、ね」
 楼主は小馬鹿にしたようにして煙を吐き出した。
「店を畳めって? 出資してやるから、もっと治安のいい場所で新たに事業でもしろってか」
 誰かがこちらを嗅ぎまわっているのは知っていた、と楼主は言った。
「あんまり馬鹿にしないで貰いたいねぇ。私は好きでこの店をやっているんだよ」
 その通りであろう。この男が思わずグラつくような話を用意せねば、説得が難しいことは判っていた。
 だからこそ、なにかいい手はないものかと考えていたわけだが――、
結局、『いい話』などと言うものは、浅はかなタカシには思いつかなかったのだ。
 ならばもう、脅すしかない。
 この情に厚い男の、一番突かれたら嫌な部分を、突き倒すしかないのだ。
「このままここに居たらショウタは死ぬ」
「安心しろよ、そんなことにはならない。私の店に居る限りは」
 タカシはかぶりを振った。
 楼主は、未だショウタが何者であるのかを把握していないのだろう。
 ショウタはただのボンボンではない。A社を取り仕切るあの男の孫なのだ。
 だが、その事実を安易に公表できるほど、今現在ショウタを取り巻く環境は安全なものではなくなっている。
 どこに『反水製造機』を掲げるテロリストが潜んでいるかも判らない状況なのだ。

「ショウタは、ただの子供ではない」
「ほう?」
 楼主はなにも判っていない。だから理解できない。
ショウタが今、どんな状態であるのかが、判らないのだ。
 当たり前の事実に、苛立ちが募る。
「詳細は述べることができないが、ショウタは――、政治家だとか、つまりそういう立場にある人間の孫だ」
「それで?」
「――知ってのとおり、今この国では何かが始まってしまった。
ショウタの身にも、いつ何時なにが起こるか判らない状況だ」
 ショウタを目標としたテロが、近々起こるかもしれない。
それは起こるかもしれないし、起こらないかもしれない――、
曖昧さを含ませてそう告げるが、タカシは確信していた。それは必ず起こる。
 敵はおそらく、ショウタの居所など容易く突き止めることであろう。
「国防システムが暴走した」
「ならば国防システムのないこの街に居るほうが安全だろう」
 その通りだ。この街には日本全土に張り巡らされている国防システムが、
例外的に外されている唯一の場所だ。
 システムが脅威だというのなら、寧ろこの場に居たほうが安全なのは、タカシでも判る。
 だが、敵はそれだけではない。
「システムが暴走するように仕向けた者が居る。それは『人間』だ。人間がシステムを狂わせた。
そいつらがここに来ないという保証はない。
この街全体に火の粉が降りかかるかもしれない。勿論、この置き屋にも」
「――脅しているのかい」
 楼主の眼差しがスッと冷えていく。
タカシを小馬鹿にしたように三日月形に細めていた目は、今や鋭利な刃物のようだ。
不快感と拒絶を滲ませた視線に、だがしかし、タカシは怯むことなく「そうかもしれない」と続けた。
 今更取り繕ってどうなるというものではない。
兎に角今は、ショウタの身の安全を確保することが最も大切なことなのだ。

「申し訳ないが、ショウタを返して欲しい」
 シュウを抱えたまま、頭を下げる。
 プライド、ショウタを拒絶したい気持ち――、それらが散り散りになっていく。
 だが、ショウタを受け入れることができない。
拒絶と言うよりも、ただただ、ショウタの存在を『己の子』として受け入れることができないのだ。
 愛している? そんなはずはない。未だにその気持ちは変わらない。
 あの子の手前、ショウタを愛せない? その気持ちも、否定したい。
ショウタを愛せないことは、タカシ自身の欠陥であって、あの子は無関係だ。
 だが、ショウタの命が失われること、それだけは避けたかった。
 愛してはいない。
 タカシの息子は、あの子とこの腕に抱いたシュウだけで、そこにショウタは含まれて居ない。
 では、何故助けたいのか。
 未だタカシはその答えを出せずに居た。


「愛していないと、駄目だろうか」
 タカシはポツリと呟いた。
「ぁあ?」
 楼主が苛立ったように声を荒げた。
「親になることは、きっともうできない」
 ショウタはもうタカシになにも求めていないし、望んでもいない。
 タカシはタカシで、ショウタを受け入れることもできなければ、
そんな存在であるショウタになにかを強制することもできない。
 親子の関係は、まやかしだ。
 たとえ己の遺伝子を受け継いでいたとしても、乳飲み子から片時も離さず育て上げたとしても、
だからと言って一心同体、子が愛しくてたまらない、ということはない。
子もまた同様に、無条件に親を慕うというわけではない。
 おそらく、最初から、タカシは間違えていたのだ。脳を移植された若い身体に引きずられたのか、
それとも元来の性分なのか、タカシの中にある、どうしても昇華できぬ子供染みた拒絶と拘りは、
大いにショウタを傷つけたことだろう。
 それらの過去をなかったことにはできない。
ショウタの胸にタカシが作った傷を塞いでやることはかなわない。
 ならばいっそ、親でもなんでもない立場の人間として、ショウタを保護することはできないだろうか。
 簡単なことだ。
 親になる必要はない。
以前のショウタならばそれを求めていただろうが、彼はもうすでに、親を求めることを諦めた。
 今更そんなもの、熨斗をつけられたとしても彼は必要ないと拒絶することだろう。
 親にはなれない。
 だが、遺伝上のつながりを持つ『他人』として保護をすることならば。

「ショウタに一番近い『他人』として、彼の身柄の保護に全力を注ぎたい」
「それはお前さんのエゴだ。自分の体面を保つためにショウタを手元に置きたいだけだろう。
ふざけたことを言うんじゃないよ」
 楼主がタカシを睥睨した。いや、汚物を見るような目、とでも言うのだろうか。
 彼の目には、タカシに対する怒りと侮蔑で鋭さを湛えた光りが宿っていた。
「そうだ。それに他ならない。だけどショウタが死ぬことは避けたい。
親になれないのだから、命くらいは守ってやりたい」
「勝手なことを言うな! 万が一ショウタが死んだらテメェの寝覚めが悪いだけだろ!」
「その通りだ」
 タカシは頷いた。
 隠すことはできない。
 逃げることも、今はもうできない。時間的余裕がない。
 今はただ、ショウタを守らねばならないという使命感が胸にあった。 
 それはただ、別に逃げ道を作っただけだということも理解している。
問題はなにひとつ解決していないのだから。
 タカシが選んだのは、ショウタの父となることを結局のところは拒絶したままで、
その代わりに自身の体裁を整え『他人』としてできうる最低限の務めを果たすことだ。
 タカシの言動に逐一傷つくことがなくなったショウタにとっては、ただのありがた迷惑に他ならないだろう。
 結局自分本位に生きていることには変わりない。 
「自分の立場が悪くなることも避けたい。自分の所為でショウタが死ぬことも避けたい」
「アンタな……!」
「それが俺にできる『限界』なんだ」
 楼主の顔を見て、タカシは言った。

 タカシは生涯、ショウタに父親として接してやることはないだろう。
 きっとそれは、永遠に覆ることはないはずだ。
 例え500年タカシが生きたとしても。
「取り繕って父親のフリをしてやることさえもできなかった俺に、唯一できることだ。
命を守ることが、俺があの子の為にしてやれる最初で最後の、たった一つのことだ」
 今更、可愛がるフリなどできない。
 今更、善人のフリをすることなどできない。
 ならばせめて、命を守ってやることくらいしか、タカシにはできないのだ。
「……命を守る、なんてたいそれたことをするよりも、愛しているフリをするほうが何ぼも楽だろうが。
私はアンタが理解できないね」
「そんな紛い物、与えられたところで、あの子は気づいただろうよ」
 ショウタは賢い。
 タカシがシュウに注ぐ愛情と、自身に注がれるそれに温度差があることなど、
きっとあの子供はすぐに気づいたことだろう。
 ショウタはそういう子供だ。
 ――だが、ふと、考える。
 偽物の愛情でも与え続けたら、ショウタは笑顔で気づかないフリをしてくれただろうか。
 大人の身勝手を責めることもなく、こんな場所に出奔することもなく、ただ『いい子』を演じただろうか。
 それはそれで、とても残酷なことだ。
 今、タカシに歯向かい自由に行動しているショウタは『本物』だ。
 アンドロイドを父と呼んだときから、ショウタは脱皮し『本物』のショウタになった。
 自身の行動を擁護するつもりなどタカシにはなかったが、
だが、本物のショウタは、今この残酷な経験を通過することによって、漸く発露されたものだとも思えるのだ。 
「そんなもの、与えたところで意味はない」
 嘘は嘘だ。紛い物には温もりがない。
 結局のとこと、ショウタを歪ませる結果に終わることだろう。
「――だが、私の知る限り、あの子はアンタにそれを求めていたよ。偽物でもな」
 楼主は暫く考えこみ、そして溜息を一つ吐いた。
「あの子が拒絶したら、それっきりだ。もうここにも来ないでくれ」
 タカシは唇を引き結んだ。
 頷くことができず、時間が1秒、2秒……、1分と経過していく。
 了承せねば、ショウタと面会することさえも叶わないのだろう。
 不承不承、タカシは頷く道を選んだのだった。

今日はここまで

なんか、すみませんでした
元気です
保守してくださった方、ありがとうございます

全くの外部サイトで申し訳ないのですが
過去作のうちいくつかを乗せたアドレスおいておきます
(非公開中のものもあります)
http://www.pixiv.net/member.php?id=9400707
あとカクヨムにもこの『没落貴族~』を加筆修正したものがあるんですけど
IDを失念してしまったのでまた今度
タイトルは『そして彼らはひとり記憶の荒野に立つ』に改題してあります

スレタイ詐欺

ほしゅ

お疲れ様です。作者さん、元気ということで安心!お待ちしておりました。
今回も読みごたえあって楽しませて頂きました!いつもありがとうございます。

タカシ本人の口から、ショウタへの思いが語られましたね…
ずっとショウタかわいそうと思っていたので、納得はできないし自己中なヤツだなって気持ちは変わらないけど、
それでも彼なりにショウタのことを考えているということは理解してあげたい。

作者さんを知ったのは別の作品だったのですが、偶然この作品を目にして「もしかして、あの作品の作者さん?」と思い出して
その後過去作品を探して読ませて頂き
作者さんの作品の、話自体も勿論、凝った世界観なども本当に大好きなので、
あらためて過去作品を読めるの嬉しいです。

続きも楽しみに待っています!

ほしゅ

hoshu

久しぶりに続き来てたんだね。乙
まだまだ待ってます

ほしゅ

ほしゅ

ほしゅ

ほしゅ

ほしゅ

ほしゅ

あってるかな、よいしょ!

 ショウタはいつでも、窺うようにこっそりとタカシを見つめる子供であった。
 そっと静かに見つめ、タカシがそれに気づき振り返れば、咎められると思ったのだろう、
何も見ていかなかったかのように視線を逸らす子供。
 シュウを羨ましげに見ていたことも一度や二度ではない。
 可哀想な子供。不憫な子供。本来生まれてくるはずのなかった、
身体の半分をタカシで構成された子供。
 その子供は、今、タカシの前に立っていた。
 視線が逸らされるのは、怯えからではなくタカシへの反抗心だ。
 置屋の中へとタカシを招き入れることを、ショウタが「どうしても嫌だ」と厭ったため、
こんな道の往来で二人は対峙していた。
どうせこの混乱だ、客なんて来はしないのだから問題はないだろう。
 何をしに来た。何の用のだ。そんな問い掛けさえないまま、二人はそこにただ立ち尽くしていた。
 楼主に首根っこを捕まれるようにして外へと放り出されたショウタは、
その楼主に助けを求めるように彼を見つめていた。
 ショウタにとって、頼るべき大人、甘えるべき大人は最早タカシでもミユキでもなく楼主なのだ。
 楼主は店に引っ込む直前に、ショウタの後頭部をさり気無く撫でた。
 まるで父親だ。
 そのさり気無い愛情表現に、鈍磨したショウタは気づかない。
ただなんとなく触れただけ。そんな風に思っているのかもしれない。
 楼主がさっさと置き屋へと引っ込んでしまってからは、助けてくれるつもりがない彼に対してか、
それともタカシに対してか、不貞腐れるような顔でただこうして突っ立っている。
 シャツに、半ズボン、それに少し伸びた髪。
 剥き出しの足は下駄に突っ込まれ、小さな爪がむき出しだ。

「寒くないか」
 小さく声を掛けると、ショウタはぞんざいに「寒くない」と答えた。
「俺、仕事が残ってるんだ。さっさと済ませてくれる?」
 矢継ぎ早に言うと、足元の小石をつま先で蹴って弄び始める。
 お前と話すことなどない――、そういうことだろう。
 小手先の取り繕いなど、最早意味を成さない。
そうなるまでショウタを追い詰めたのは、他ならぬタカシだ。
 タカシは息を吸い込むと、ショウタを真っ直ぐに見た。
「単刀直入に言う。俺とこの街を出よう」
 ショウタは視線を俯かせたまま、小石を蹴っている。
返事はなく、ただ風の音が二人の間を通過していった。
「知っていると思うが、A社が破壊された。
おそらく、A社に対するテロ行為だ。お前の命もいつ狙われるか判らない」
 提灯が揺れている。
 普段ならどこからか聞こえてくる明るい調子の音楽も一切聞こえない。
花火も花を咲かせていない。
 ただ、小さな声で「だから」と。
突き放すように「だからどうしたの」と言うショウタのか細い声が、
どうしてか、やけに大きく聞こえてきたのだ。
「貴方は、別に俺が死んでも悲しくないでしょ」
 言葉に詰まる。
 ショウタが死んだ場合を想定したとき、頭を駆け巡る感情は実に様々で、
しかしその感情の根っこにあるものは殆どが『焦り』であり、
ショウタが言うように『悲しみ』はその極々一部、とても些細なものであった。

例えば、特別ファンではないが、同世代の芸能人がこの世を去った時のような、些細な悲しみ。
それによく似ている。
 しかし、それでもタカシはショウタの命を守らなければならないのだ。
 ショウタは『同世代の芸能人』ではなく、タカシの子供なのだ。
その発生こそタカシの与り知らぬところで行われたものであったが、
しかしタカシが遺伝上の父親だというのなら、
最低限度、『最も近い他人』としてしてやらねばならないことはそれだった。
 ショウタは既に父親を必要としていない。生きる手立てでさえ自分で整えた。
 そんなショウタに『父親であるタカシ』を押し出したところでなんの効果もないだろう。
 ならば、いっそショウタを対等に扱うべきだろう。
「お前は突然生まれた」
 ショウタの肩が、ピクリと揺れたように見える。
相変わらず俯いたままで、表情は判らない。
 二人を見守るようにして警らの男が傍らに立っているが、口を挟む様子はない。
ただ静かに、成り行きを見守っている。
「体重2700グラム、少し小柄だが、健康な男の子だと言われた。だけど、」
 お父さんは。そう一人称を紡ごうとしたが、やめた。
 ここで『父』を匂わせる単語を用いること以上に卑怯なやりかたはないはずだ。
「――俺は、お前を自分の子供であるとは思えなかった。
気づいたらミユキはお前を身篭っていた」
 俺の精子を使って勝手に。
 精子、という単語を、果たしてこの子供が理解できるかどうか不明であったから、
事象だけを短く告げることにした。
「父親が、父親の自覚を持つ前に子供が生まれ出るのは、今時珍しくない。
だから、俺がお前の父親になれなかったのは、俺自身の欠陥であってお前の所為ではない」
「知ってる」
 ショウタが突然しゃがみ込んだ。
 足元の玉砂利を寄せ集め、山を作り、そして崩した。意味のない遊びだ。
ショウタはタカシと、決して視線を合わせようとはせず、その無意味な手遊びを繰り返した。

「知ってた。俺が生まれたのは俺の所為じゃないし、
アンタが毛嫌いする原因は俺にはないって知っていた。直せる事じゃない。
俺の所為じゃないのに、アンタは俺を邪魔者にした。
でもその原因は俺にはなくて、アンタの中にあった。知ってた。ずっと知ってた」
 ショウタは、玉砂利を積み上げる。そして崩す。
 玉砂利の山のように、少し力を加えれば崩れ去る城に、ショウタは住んでいた。
 自分を『脳みその器』としか思わない母と、たまにしか会いに来ないくせに邪険に扱う父。
そして、そんな子供を不憫に思ったのか、殊更優しく接しようとする祖父。
 だが、ショウタはそんな事実に気づかないフリをしていた。
普通の子供――、与えられるべき愛情を真っ当に注がれている子供であろうとした。
「今更何も必要ない。誰かに優しくしくしてもらいたくもないよ。
好きにすればいいじゃん、今までどおりに。
俺が殺されてしまっても、今までみたいになかったことにすればいいよ」
 ショウタは自ら砂の城を崩し去ったのだ。
 大人たちを見限り、自分一人で生きていくことを選んだ。
 揺れた提灯の明かりが、ショウタの旋毛を照らし出す。
 綺麗に巻いた頭の渦に、既視感を覚えた。
 シュウだ。ショウタの旋毛は、シュウのそれとよく似ていた。
 タカシの傍らで息を潜め、そっとタカシの手を握る幼子のそれにソックリだったのだ。
 ショウタは、紛れもなくその体の半分を、タカシで構成された子供なのだ。
「お前を死なせたくない」
 唐突に、言葉が飛び出した。
 ショウタが手を止め、そしてタカシの全てを遮るように、玉砂利の山を崩す。

「いらない」
 短い言葉は、ハッキリとタカシの鼓膜を振るわせた。
 鼓膜の振動は脳に伝達され、それが拒絶の言葉であると強い力で自覚させる。
 当たり前だ。今更何を言い出すのだと罵倒されてもおかしくはない。
 漸く向けられた、冷たさだけで構成された親切心など、ショウタは欲していない。
 ショウタは賢い。ショウタは最早子供ではない。
 長らく親に無下に扱われてきた不遇の子供――、ショウタがもしもそのような、
そうとしか言いようのない子供であったのなら、
或いはタカシのこの愛情の欠片もない手を握り返したかもしれない。
 だが、ショウタは確かに不遇の存在ではあったが、既に『従順の殻』を脱ぎ捨て
子供である自分を捨て去ってしまっている。
 そうさせたのはタカシだ。そうさせたのはミユキだ。 
「そういうのも、いらない。忘れちゃってよ。アンタの子供はシュウ君しかいない。それでいいじゃん」
「そうだ。俺の子供はシュウだけだ」
 残酷な、だか嘘偽りのない言葉を告げると、ショウタは、ふ、と視線を持ち上げ、そして苦笑した。
 ほらな、やっぱりな。
 そう言いたげな視線は、タカシを貫くと同時に、再確認によってショウタ自身をも傷つけていた。
「だから、お前の遺伝上の父親としていではなく、一番近い他人としてお前を助けたい」
「――わあ嬉しい、ありがとう。そう言えばいいの?」
 冗談じゃない。
 やけに大人びた声音が、小さく、憎しみを込めて落とされる。
「馬鹿にしないでよ。俺はどこにも行かないよ。
ここにいる。俺の命を狙う人が来るんだとしても、俺はここいる」
「ショウタ」
「名前、呼ばないで。一度も呼んだことなんてなかったくせに」
「ショウタ」
「呼ばないでってば!」
 キィンとした、子供特有の甲高い声が花街の不自然に静かな夜を切り裂いた。

 呼ばないで、呼ばないで、呼ぶな、呼ぶな、呼ぶな。
 ショウタは我武者羅に叫びきると、最後に「親父様」と助けを求めるように楼主を呼んだ。
「親父様!!」
 ショウタの声は、怒りで震えていた。
「親父様!!」
「でかい声出すんじゃないよ、みっともない」
 置屋から溜息を吐きつつ顔を出した男に向かって、ショウタは全力疾走していった。
 受け止める素振りもない楼主に抱きつき、その胸に顔を埋める。
 なにも聞きたくない、なにも見たくない。
そう言わんばかりに、片方の腕を耳にあて、もう片方は楼主の腰を手繰り寄せるのに使われている。
「俺はずっと"いい子"にしてた……俺はずっと"いい子"にしていたよ……!」
 悲痛な叫び声に、タカシは立ち尽くした。
 最早、なすすべはないのだろう。
ショウタは、例えそれが単純な依存であろうとも、楼主の下に居ることを選んでしまった。
 歪だろうが、異常だろうが、それがショウタの出した答えだった。
 タカシには、もうなにも言うことができない。
 肩が震えている。細い腕は、この世にまるで楼主しか存在し中のように、
彼に必死ですがり付いている。
「馬鹿な子だ」
 楼主は哀れむような視線をショウタの旋毛に向けた。  
「ショウタ」
 ショウタが、ただ一人頼るべき相手と定めた男が、彼の名を呼んだ。
 ゆっくりと後頭部が上向き、おそらくその視線は楼主のそれと交じり合った。

「勘違いするなよ、ショウタ」
 硬質な声は短く告げたかと思うと、その幼子の両頬を優しげに両手で包み込み、
しかしもう一度「勘違いするな」と手酷く言い放つ。
 相反する仕草の狭間で、ショウタの薄い肩骨が、
戸惑うように、もしくは恐怖するように震えた。
「私はお前の父親じゃあない。父親役を求められても困る。
お前がそれなりの年齢に達すれば店にも出てもらうつもりだ。
私はお前の父親にはなれない」
「……判ってる」
 蚊の鳴くような声がそう答えるが、楼主はきっぱりと短く言い放った。
「判っちゃいない。お前はあわよくば私を父親に仕立て上げようとしているだろう」
 ショウタの中に、少しもそんな希望がなかったのなら、
あの負けん気の強い子供は即座に否定したことだろう。
 だが、ショウタは弱く脆く、そして愛情を求めて歩く哀れな子供だ。
 愛情らしきものを充分に与えられなかった子供は、
自分に好意を示した大人を、夜から朝へと連れ出してくる突破口に見立てていたに違いない。
 ショウタは黙りこくったまま楼主の腕を振り払うこともせず彼の顔を見上げていた。
「私はお前を愛しているわけじゃない」
 嘘だ――、大人の目から見れば、それは明らかな嘘だ。
 楼主はショウタを自分の懐に迎え入れた時点で、この子供に何らかの情を抱いていたはずだ。
 だが、彼はきっと妙なところで『常識的』なのだ。
 タカシが言うように『何かが』起きた場合、ショウタの身を守りきれないと判っているのだ。
 タカシが守りきれるかどうかは定かではない。
 それでも最後の最後に、こうしてチャンスをくれてやろうと考えているに違いない。
 タカシにチャンスをやるわけではない。ショウタに、だ。
 ショウタがタカシに引き渡され、その後状況が落ちつき次第置屋に戻ってくるのならば、
きっと楼主は、ショウタが大人になるまで面倒を見てくれることだろう。
 これは、ショウタが真っ当な世界へ帰る最後のチャンスだ。
 初めてショウタがこの街の住人になることを決意した夜とは、事態が違う。
 ショウタの身に危険が差し迫っているような状況でなかったとしたら、
己の懐へと収めたショウタを手放したりはしなかっただろう。
 事態を重く見た楼主が、生命の危機を回避させると同時に、
最後のチャンスを与えただけに過ぎないのだ。

「私はお前を金のなる木ぐらいにしか思っちゃいない。
いいじゃないか、一度もとの世界に戻ってみるのも。
うちにゃあ食い扶持も稼げねぇガキを置いておく金なんてないんだよ。
どうしてもその身体で稼ぎたいって言うんなら、『売り時』になってからまた来ておくんな。
まったく、面倒だったらありゃしない。
すぐ熱を出すわお使い一つまともにできやしねぇわ、
身体が小さすぎてケツも使えない。そんなガキなんて邪魔なだけだ」
 トン、とショウタの身体が後ろへと後ずさる。自らそう動いたわけではない。
 楼主が残酷な愛情を孕んだその手で、ショウタの身体を突き放したのだ。
 自分を突き放した男の掌に、優しさや愛情が含まれているなどと、
ショウタは露ほども思わないことだろう。
「おい……!」
 黙ったまま応酬を見守っていた警らが声を上げるが、
楼主が放った視線はとても冷ややかで、それに恐れを為したのか、彼は口を噤んでしまった。
「今のお前はうちの店にとってお荷物でしかない。その気があるのならまた来ておくんな、坊や」
 それはあと何年のことだろう。
 男娼として『真っ当な』売り方をしてもらえる最少年齢をタカシは知らない。
 酷い店ならば、男娼や娼婦の身体への負担も考えずに、
売れるときに売ってしまうことも少なくないだろう。
 だが、楼主はこんな場所に居ながらも奇妙な常識を携え生きている。
 そんな店で、ショウタが売り物になるのは一体いくつになったときなのだろう。
 一年後か、二年後か。或いはもっと先か。
 たとえそれがひと月後であったとしても、ショウタにとっては遠い遠い未来の話だと感じるに違いない。
 捨てられた。きっとあの小さな頭はそんな言葉で埋め尽くされていることだろう。
 かと言って、命の危険があるような店――、
いいや、情を抱いた楼主が切り盛りしているわけではない店へ、そんな場所へと移動するのは、
ショウタの本意ではないのだろう。
 楼主がそうであるように、ショウタとて彼に対して情を抱いているのだ。
 別の選択肢を模索するには時が経ちすぎた。
 雛鳥の刷り込みのように、ショウタは楼主を絶対的存在として捕らえているのだ。

「い、いやだ……!」
 悲痛な声が、花街の薄ぼんやりとした夜に響く。
 嫌だとショウタは何度か叫び、楼主の腕にすがりついた。
「嫌だ、嫌だよ! 今更、今更帰れなんて言わないでよ……!」
 子供の声で――、実に子供らしい仕草と声で、ショウタは首を振り何度も嫌だと叫ぶ。
 それを見下ろす楼主の瞳のなんと冷たいことか。
 ――可哀想に。
 ふと、そんな感情がこみ上げた。
 可哀想に。
 客観的な感想は、感情を伴わない。
 映画を見た時のように、ドラマを見たときのように、湧いてきた感情はその場限りの偽物だ。
「おや、親父様……!」
 楼主に見捨てられまいと、必死で彼にすがりつく子供の姿は、
哀れで、悲しくて、そして可哀想だ。
 ショウタはどこにもいけない。誰の子供にもなれない。誰のものにも、なれない。
 いっそ店に出て、贔屓の客でもついたほうが、ショウタにとっては幸せなことのかもしれない。
 それはミユキがショウタにしたのと同じ『所有』だろうが、
少なくとも贔屓客はショウタの全身を見てくれる。
 頭の中身だけをくり貫き中身を挿げ替え、その中に納められたタカシを見るわけではないのだ。
 どちらも鬼畜の程度は同じだろうが、
それでも前者の方が、ショウタにとってはほんの僅かではあるが幸せなことなのだろう。

「親父さま……! 親父さ、」
 それは、ショウタが男を呼び出して何回目のことだったろう、
突然ショウタの声が途切れたかと思うと、次の瞬間にはその身体はふわりと宙に浮き、
そして玉砂利の上へと落下したのだった。
 楼主がショウタの襟首を掴んで放り投げたのだと悟ったのは、
「しつこい!」と言う怒気を孕んだ声に鼓膜が震えたからだ。
「私は忙しいんだ! 優しくしてやっているうちに帰っておくんな!」
 小さな嗚咽が、風に混じって聞こえてくる。
 これが優しさ、もしくは愛情と呼ばれるものだと言うことに、
ショウタはこれから先気づく日が来るだろうか。
 気づけばいい。
 それがたとえ遺伝上の親以外の他人であっても、
自分に情を与えてくれた存在だと、覚えているといい。
 ミユキの父親で、ショウタの祖父たるあの男――、
すべての元凶でもあるあの男が、その役目を担うには最も適切な存在であるはずだが、
ショウタにとって最早身内は『信用できない』存在なのだ。
 ミユキが接触を拒んでいた所為で、ショウタにとって祖父とは、
金目のものを買い与えるだけの存在なのだ。
 やはりショウタにとっては最も信用できる大人というのは、楼主意外には有り得ないのだ。
 それも今この瞬間までの話であったが。
 ショウタはどう出るだろう。
 夜風に震える細い肩が寒々しい。
 脱げた下駄が玉砂利の上へと転がっていた。
 ここでショウタが自棄を起こし、他の店に行く可能性は零ではない。
 その万が一が起こった場合、タカシは全力で止めねばならぬだろう――、最も近しい他人として。
 ショウタがすっくと立ち上がった。
 目元を袖口で拭っているようだった。
 子供が、振り返った。

「……アンタの所為だ……」
 深い恨みを湛えた眼差しが、タカシを射抜く。
「アンタがこなければ俺はずっとここに居られたのに……!」
 その通りだろう。
 おそらく楼主は、ショウタをそれなりに大切にはしてくれたはずだ。
売り物として、そして保護対象としても。
 タカシは何ひとつ反論しなかった。
 すべての言葉は、ショウタの逆鱗に触れることであろう。
ならばなにも答えずに居るほうがいい。
「アンタの所為だからな……!!」
 楼主の裏切りに悲鳴のような声を上げて泣くショウタは、やはり子供だ。
 それが裏切りではないと気づきはしない。
 おそらく楼主とて、ショウタの命の危険が差し迫った状態でないのなら、
易々とタカシに渡したりはしないだろう。
 楼主の心根の『常識的な部分』と『異常事態』という要素が重なった結果、
彼はタカシへとショウタを渡すことにしたのだ。
 上手く行けば、ショウタはもうこの花街に戻ってこない。
 それを楼主は『喜ばしいこと』と感じているのだろう。やはり彼はこの花街には向いていない。
 ショウタが腕で顔を擦った。
「親父様……」
 蚊の羽音よりも小さな声で楼主を呼ぶ。
 返事はない。
「親父様……!」
 楼主の返事はなく、そして――、彼の姿は彼自身の城の中へと吸い込まれるようにして消えていった。
 シュウがタカシの手をギュッと強く握った。
 ショウタは無慈悲に放り出された夜の中で、ひ、と小さく息を飲んだ。
 だが、泣きはしない。ただただ、唇を噛み締め、現実を受けれようとしていた。
そう、タカシの拒絶を受け入れ、そして自分自身の遺伝上の繋がりをすべて捨て去った時のように。

「……アンタの世話になるなんて、死んだほうがマシ」
 どれほど時間が経っただろうか。
 あまりぐずぐずとしている時間はない。
だから、暴れようが殴られようが、ショウタを抱えてでも
この街を脱出しなくてはならない――、そう考え始めた頃に、ショウタはそう漏らした。
「それならお爺様の所に行った方がマシ」
「それは駄目だ。危険すぎる」
「だからなに!? 危険だろうがなんだろうが構わない!
アンタの世話になんか絶対になりたくない!」
「ショウタ……」
「今更そんな"父親みたいな顔"をしないでよ、鬱陶しい」
 辛らつに吐き捨てると、ショウタは下駄を履きなおした。
「どこに行く」
「どこだっていいだろ。俺が一番近い他人のアンタに望むことは一つだよ。
放っておいて。それだけ」
「ショウタ」
「優しくしてくれたことなんて一度もなかったくせに、今更なんなの、気持ち悪い」
 ショウタは吐き捨てるとどこかへと彷徨うように歩を進めた。
 もう駄目だ。決定的な判決は下された。どうやってもショウタはタカシについてはこない。
 ショウタの意志はどこまでも堅い。
 ショウタを頑なにさせたのはタカシと、そしてミユキだ。
 ショウタは誰にも従わないだろう。
 誰のものでもなく、誰に従うこともなく、ただ孤独に大地を踏みしめ生きていく。たった一人で。
 タカシは、こんな状況に陥ってもなお――。
「これは最初で最後にお願いだ」
 不夜城の赤い光りを反射する背に向かって、タカシはそう声を掛けた。
 ショウタの足が止まる。
 ショウタは、タカシの言葉を『聞いてやっている』のだ。
 それでいい。
 本来タカシは、ショウタに何事かを願える立場にないのだから。

「これが最初で最後の頼みだ。状況が落ち着くまでは守らせてくれ。
その後はお前の好きにしていい。
ミユキとも俺とも、A社と縁を切ってくれて構わない。
後はお前は自由だ。この街に戻るも、一人で生きていくも、決して止めはしない」
「勝手すぎる」
 小さな頭が振り返った。
「……判った。これっきりだ」
 ショウタは意外なほどあっさりと返事し、タカシに向かって歩いてきた。
 寧ろその変わり身の早さに面食らったのはタカシの方だった。
 だが、ショウタはそうすることで近い未来の自由を勝ち得たのだ。
 彼は、タカシを許したわけではなく、タカシを受けれたわけでもなく、
タカシに従ったわけでもない。
 タカシに付きまとわれることを終わらせるために、タカシの願いを『きいてやった』のだ。
 自由と一時的な拘束を、その小さな頭で天秤に掛けたに違いない。
 賢い選択、とも言えない事もないだろう。しつこく『帰って来い』と言われる未来を断ち切り、
より自由度の高い未来を得たのだ。
「約束を破ることは許さない」
 ショウタはもはや何の感情も感じさせない瞳で、タカシをじっと見た。
 タカシも、反故にするつもりはなかったが、ショウタを信頼を得ようと力強く頷いた。
「……親父様に"出掛けてくる"って伝えてくる」
「判った」
 ショウタは逃げも隠れもしないだろう。
 そういう子供だ。
 タカシはショウタが帰ってくるのをこの場で待つことにした。
 数分後、ショウタは小さな風呂敷包みを片手に持ってタカシの前へと現れた。
 その背後には楼主が居たが、ショウタは振り返らずに足元ばかりを見つめている。
「ショウタ」
 声を掛けたのは楼主だった。
 ショウタはゆっくりと顔を持ち上げ、楼主を見上げた。
 不安、絶望、失望。
 そんなものさえも感じさせることのない、光のない瞳が真っ直ぐに楼主を見つめていた。
 楼主は何も言わず、ショウタの頭を撫でた。
 それから肩を押し、タカシのもとへと行くよう促す。
 ショウタもまた、なにも言わずに重い足取りのままタカシの方へと進んだ。
「行ってきます」
 蚊の鳴くような声は、楼主に背を向けたまま放たれたものだった。
 楼主はなにも答えない。
 不断の空気と唯一同じなのは、隠微な香の匂いだけ。
騒音に紛れることのない玉砂利の音が、ショウタの孤独を示しているようだった。
 タカシに従うことなく、ショウタは率先して歩いていく。

 空気が揺れる。
 風に靡く赤い提灯が、金魚のようだった。
 静寂と言うほどではないが、常ならざる静かな空気だ。
 なにか言いたげなシュウであったが、タカシに手を引かれれば素直に歩き出す。
 タカシは、シュウと歩きながらショウタの背中を見た。
 ショウタの荷物は、小さな風呂敷包みだけ。
ショウタのなにも与えれなかった人生のようで、物悲しささえ覚えた。
そのように仕向けたのはタカシ自身であるというのに、だ。
 ショウタはどこへ向かうのだろう。どんな風に生きていくのだろう。
 タカシにはなにひとつ予見できないままだった。
 なにもしてやることなど、できないのだ。
 タカシにはなんの力もない。
 精々、今日から数日、或いは数ヶ月の間だけ傍にいることで、
ショウタの身の安全を確保するよう努めることくらしか、できない。
 それとも上手くこなせるかどうか怪しいものであったが。
 下駄は相変わらず、カランコロンと鳴っている。軽快ささえ覚えるような小気味のいい音。
それに、玉砂利の擦れる音。
「ショウタ」
 思わず声を掛ける。声を掛けたが二の句は継げない。ショウタも返事はしなかった。
 返事をもらえるなどと思ってはいなかったから、落胆することはない。
それに、ショウタとタカシの間柄は親子ですらないのだから、落胆などしようがない。
 ならば何故呼び止めたのだろう。頼りない小さな背中に何かしらの情を抱くのなら、
もっと早い段階でそうすべきであったのだ。
 だがタカシにはそれができなかった。それができなかったのは、タカシ自身の欠陥だ。
 追いやり、追い詰め、そして柔軟な子供は捩れきった。捻くれた、ではない。捩れてしまったのだ。
 きっと遅かれ早かれ、ショウタはこの街に戻ってくる。最初からここで生まれたような顔で、
少しずつこの街の世界と掟に馴染んでいくことだろう。
 連れ出すことは間違いであったかもしれない。ショウタの一端は、もうこの街の色に染まっていた。
 命の危険さえなければ、何事もなければ。
 このままショウタを手放していたのだろう。
 元々倫理観といものが薄い方なのだ、タカシは。
 それでも。

「……?」
 物思いに耽りながら、ショウタのあとをついていっていたタカシであったが、
微かな違和感を覚えた。
ゆらゆらと、ただ機械的に前へ前へと動かされていた足が
何かしらの異常を察知して緊張するのを感じた。
 なにかが、おかしい。そう感じたのだ。
 鳥居に近づくにつれて、なにやら喧騒が広がっていくような気がした。
 賑やかに、がやがやとしているのは、この街の常。
 だが、今日は『異常事態』に際して奇妙な静けさが広がっていたはずだ。
 鳥居の近くでは徐々に落ち着きを取り戻し、通常の営業が開始されたということだろうか。
 否、それにしてはざわめきが妙に、妙にそう、乱暴なのだ。
「ショウタ……」
 小さく声を掛けるが、返事はない。
「ショウタ!!」
 怒鳴るようにその子供の名を呼ぶと同時に、風船が割れたかのように複数の悲鳴が一気に上がった。
 間違いない、なにかが起きている。
 そう判断するまで僅か数秒程度、
タカシは無理やりショウタの腕を乱暴そのものの手つきで引っ張っていた。
 子供の体がよろける。瞬間的に与えられた強い力に、シュウが意味不明な声を上げた。
 タカシは咄嗟の判断で、子供二人を両脇に抱え、もと来た道を走っていく――、
走っているつもりであったが、如何せん子供二人を抱えてのそれは
『走っている』と称するには遠く及ばず、タカシは転げるように玉砂利を蹴りつづけた。
 なにかが起こっている。だがなにが起こっているのかを振り返って確める余裕はない。

「アンドロイド」
 舌を噛み千切りそうな振動の中、シュウがもらした一言をたった一つで、
それはよく知った単語であった。
 アンドロイドが何だというのだ。
 タカシは疑問を抱いたその一瞬、振り返って今しがた走って来た道を見てしまった。
 もとより酸素が欠乏した状態であったが、その一瞬で呼吸が止まりそうになる。
 アンドロイドだ。アンドロイドが、全速力で走っていた。
 ――タカシたちを目指して。
 見覚えのあるアンドロイドであった。
 今回の旅に同行させた、ショウタがかつて『お父さん』などと呼び、
歪な親子関係を形成したことさえあったあれと同型の――、
いや、おそらく義父がショウタに宛がった、ショウタ名義のそれであった。
 それが、どういうわけか、血だらけでタカシたちを追ってきていたのだった。
 背後からは怒号が飛び、手に刀やら拳銃を携えた人々が走ってきていた。
 遠くで「先生を呼べ!」だの「死んじまうぞ!」だのと言う物騒な言葉が飛び交っている。
 先生とは、誰のことだろう。死ぬとは誰が。何故タカシたちはアンドロイドに追われているのか。
 何故、アンドロイドは血だらけなのか。
 そもそも、あのアンドロイドは電源を落としてあったはずだ。
 なにが起こっているのか判らなかったが、タカシは走り続けた。
 だがアンドロイドの殆ど無尽蔵である体力――、体力、と呼ぶべきかどうかはさておき、
走り続けることが可能である能力だ――に生身の人間であるタカシが勝てるわけもない。
 あと少し、あと僅かと言うところで、タカシは身を屈めた。

 アンドロイドが、タカシたちに害を為そうとしていることは本能的に判った。
 ふと、頭の中を光速で記憶が駆け抜けていく。
なるほど、これはもしかしたら走馬灯というものかもしれない。
 そんなことを冷静に考えながら、タカシは子ども二人を自分の身体の下に隠した。
 ごく普通、中肉中背体型のタカシの身体からは子供一人ならいざ知らず、
二人を覆い隠すまでには至らない。
二人の身体の半分ずつ程がタカシの身体からはみ出す形となった。
 瞬間、腰から腹部に掛けて耐え難いほどの、凄まじい痛みに襲われた。
 悲鳴さえ漏れないような痛み。
 それが断続的に何度も襲う。
 なにが起こっているのか。なにをされているのか。
 タカシは絶望的な、かつて体験したことのない痛みを感じていた。
 悲鳴が響く。
 老若男女問わない、悲鳴。
 一際耳に響くのは、子供の悲鳴。
 恐怖心に耐え切れずショウタとシュウが、鼓膜が破れそうな金切り声で悲鳴を上げていた。
 痛みは尚も続く。痛みが酷すぎて気を失うこともままならないような痛みだ。
 ああそうか。
 唐突に気づく。
 タカシは、腰から腹部に向かって、肉体を大きくえぐられていたのだ。
 割れた肋骨が引き抜かれ、内臓も派手に掴み出される。
 アンドロイドは、随分と手酷く、タカシの肉体を蹂躙していた。
 身動きすることさえも困難となったタカシの身体の下から、シュウが抜き取られる。

「ま、」
 待て。
 漸く搾り出された言葉は言葉にならなかった。
 無理やり首を動かし、己の身体の上でなされるおぞましい行為にタカシは気がふれそうになる。
 アンドロイドが、泣き叫ぶシュウを人形かなにかのように捕らえ、そして。
「ま、て、」
 首がボキッと気味の悪い重低音を上げてへし折られた。
「シュ、」
 少しでも身体を動かせば、ひどい痛みが走る。
 声が出ない、出せない、声を出すだけで激痛に震え上がりそうになる。
 起き上がることがままならず、だが不自然な体勢のまま、その瞳は惨劇を捕らえ続けていた。
 身体の痛みと精神的なショックで、呼吸が浅くなっていくのを、タカシ自身も感じざるを得ない。
 なによりも、己の身体の損傷が異常なもの、普通の損傷度合いと一線を画するものであると
頭の片隅で理解が積み重なっていく。
 死ぬのだろう。ふいに、そう思った。
 身体から徐々に失われる血液は、体温ばかりか、気力も奪っていくようだった。
 続いて引きずり出されたのは、ショウタ。
 ハッとする。タカシは、約束をしたのだ。
 そうだ、ショウタを守らなくてはならないのだ。
 一番近い他人として、またこの子供を絶望させてはならない。
 たとえ今際の際であったとしても、ショウタを絶望させてはならないのだ。
 未だ嘗てない責任感が、タカシの頭を支配した。
 駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ。
 頭がおかしくなりそうだった。
 シュウはおそらく死んでいる。やっと再び生まれたのに、また死んでしまった。
 なにかよくないことが起こって、そしてシュウは奪われてしまった。
 せめてショウタを、ショウタだけは。
 守らなくてはならないと思った。だがどうだ。タカシは非力でなにもできない。
 手を伸ばすが、ショウタには届かない。
 そして。


「ぎゃあああああああああ」
 ショウタの腕が、引きちぎられた。
「ショ、ウ、」
 ボトリ、と細い子供の腕が投げ捨てられる。
 それからアンドロイドはタカシにしたように、素手でショウタの腹部を貫いていた。
 先程まで悲鳴を上げていたショウタの声が止む。
 痛みで、声さえ出ないのだ。
 アンドロイドが何かしら臓器を抉り出して玉砂利の上へと放り投げる。
 やめろ、やめろ、やめろ。
 声がでない。指一本も動かすことが適わない。
 なにが起こっている、一体なにが。
 ロボットの三原則。そう言ったものがアンドロイドには刷り込ませてあるはずだ。
 いわく、人に危害を与えてはならない。それは第一項であり、尤も厳守されるべきもののはずだ。
「ショウタ!」
 聞き覚えのある声がした。
「早くしろ!」
「駄目だ、子供に当たる!」
「頭だ、頭を狙え頭だよ!!」
 怒号が飛び交い、そして続いて響くのは銃声。
 着弾したのか、どさりと音がし、ショウタの身体が玉砂利の上へと落ちていった。
 ガウン、ガウン、と言う音がひっきりなしに響く。
 銃では無理だ。この街の住人は知らないのだろうか。この手のアンドロイドは、
戦闘にかち合うことも予測され、銃弾にはめっぽう強く設計されているのだ。
 狙うのなら首。それから大たい骨と胴体の付け根。
 その辺りに刃物――、長い刃物、つまり刀などだ――、を差し込んで切断する必要があった。
 ただし、それらもおそろしく頑丈にできている。

「全然当たらな、うわああああ!」
 無様に寝転がったままのタカシには、状況がまるで掴めない。
 視界が低すぎて、なにも見えない。
 ただ飛び交うのは、先程までの静けさが嘘のような銃声、怒号、悲鳴だった。
 見なくても判る、地獄絵図だ。
 なにが行われているのかまったく理解できない、地獄絵図。
「ショウタ!」
 タカシの脇をすり抜け駆け寄ってきたのは、楼主だ。
「ショウタ、しっかりしろ! 待っていろ、もう直ぐ医者が来る!」
 ショウタがなにか言ったのか、楼主は「大丈夫、大丈夫だ」と繰り返している。
「おい、逃げろ!」
 ジャリ、ジャリ、と不気味な音が響いてくる。
「……テメェ……アンドロイドだかなんだか知らんがこんなガキになにしてんだ!」
 銃声が、一発、二発、三発。
 だが当たらないのだろう。やがてカチッカチッという悲しく頼りない音だけが木霊するようになる。 
 やがて楼主も悲鳴を上げたきり、声を上げなくなった。
 損傷したのか、それとも絶命したのか。
 辺りに飛び交う怒声が徐々に減っていき、そして増えていくのは悲鳴だ。
 あってはならない、起こってはならない事象によって、アンドロイドが暴走をしているのは判る。
 判るが、何故そんなことになっているのかは皆目判らなかった。
 ミユキはどうしたのだろう、とタカシは漸く思い至った。
 タカシたちを追い詰めるより前にアンドロイドはボディを赤く染めていた。
あれはもしかしたら、ミユキの血であったのかもしれない。
もしもそうなら、おそらく彼女も生きてはいないだろう。

 アンドロイドは無差別に暴走しているわけではないようだった。
 狙いはタカシたち一家で、その邪魔をしているこの花街の住民をついでのように攻撃している。
 明らかにA社が襲われた一件と関連性があるだろう。
 だが、どうやって? どうやって、A社で最初の最初、
生産の初期段階で仕込んでいる三原則を解除したというのだろう。
 駄目だ。
 急速に意識が薄れていくのをタカシは感じていた。
 そうなると、己の思考など無意味なもののように思えてきた。
「離れろ!!」
 突如怒号が響いたのは、タカシが意識を手放すかどうか、という直前であった。
 またもや、聞き覚えのある声だ。恐ろしい俊足で、タカシの横を駆け抜けていく足は、
この街では珍しいスニーカー履きであった。
 うおおお、と言う獣のような叫びと共に、金属同士が擦れるような音と、なにかが破壊される音、
それが止むと玉砂利に重い物体が落下するような音がした。
「やったか!?」
 誰かが叫ぶ。
「まだだ! 足だ、足も切り落とせ!」
 切り落とせ――、つまり誰かが手か、胴体か、頭を切り落としたということになる。
 チュイン、チュインと言う派手な音が何度も響く。
 なにかしらの高速回転する機器で、アンドロイドは切断を繰り返されているようだった。
 やがてそれらの音が聞こえなくなると歓声が響いた。
 アンドロイドは制圧されたのだろう。
 最初に四方八方から銃弾を浴びせたのが幸いしたのだろう、軽度の損傷とは言え、
それがなかったら、一般市民の持ち物ではアンドロイドを沈黙させることは現実的とは言いがたい。

「おい、大丈夫か! 先生はまだか!?」
 聞き覚えのある声は――、警らのそれだと気づいた――は周囲を見回っているようだ。
 大丈夫か、そう何度か声を掛け、その声が一瞬途切れたかと思えば、
呻き声のような声で「畜生」と悪態を吐き、そしてその声は地面から近い場所で響くようになった。
「おい、おい、大丈夫か! しっかりしろ、兄弟! 畜生! しっかりしろ!」
 警らの男が、しきりに楼主を呼んでいた。
 楼主の怪我もまた、タカシ同様にひどいものなのだろう、「眠るな」だの「しっかりしろ」だのと
警らは何度も叫んでいた。
「先生は、先生はまだか!! 早くしてくれ! 死んじまう!!」
「あと少しで着くそうだ! 頑張れ!」
「駄目だ、血が止まんねぇんだ! おい、しっかりしろ!」
 悲鳴、励まし、悲鳴、励まし。
 それらが幾重にも重なり合唱のようだった。
 提灯が風に揺れて優雅に揺れている。
 視界がかすんでいく。
 ああ、バチが当たったのかもしれない。
 一度死を体験し、ほぼほぼ無神論者となったくせに、タカシはそんなことをぼんやりと考えていた。
 寒い、とても寒い。
 これで、全部が終わるのだろう。
 生の終焉を感じながら、漸く一つの結論に至る。
 なるほど、アンドロイドはハッキングでもされたのだろう、と。
 最早痛みを感じることはなくなっていた。
 もしも、もしも死の国があるのなら、姉はそこにいるのだろうか。
 合唱に混じって、子供の声が非力に「痛い……」と痛みを訴えるのを聞いたのは、
幻聴だったのか、それとも。

 こうしてタカシの二度目の生涯は、幕を閉じることになる。
 とは言え、それが実際に起こるのはそれから一時間後のことであると、
タカシは三度目の生でもって他人によって伝えられることとなるのだが。

今日はここまで
なんか……すみません……

感想と保守ありがとうございます
嬉しいです

続ききてた!どうもありがとうございます&お疲れ様です!
ショウタは親父様と幸せになってくれと思った矢先…大変なことに…。

続きも楽しみにしてます。

ほす

ほしゅ

ほす

メリクリほしゅ

ほす

ほす

保守

ほしゅ

ほしゅ

ほす

はしゅ

ほす

ほしゅ

ほしゅ

ほしゅほしゅ

ほしゅ

ほしゅ

ほしゅ

久しぶりに来た

これで長かった回想も終わりかな
もう少しで完結だと思うので頑張って欲しい

ほしゅ

よいお年をほしゅ

ほしゅ

ほしゅ

ほしゅ

ほしゅ

ほしゅほしゅ

ほしゅ

ほしゅ

ほしゅ

ほしゅ

待ってるよ

ほしゅ!

ほす

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