新選組~あるいは沖田総司の愛と冒険~ (178)



ある日。


社の1階受付から俺に内線電話がかかってきた。

証券会社の人間が面会に来たのだという。保険屋ならよく来るが、証券というのは初めてだ。どうせ金融商品か何かの売り込みだろうと思った。


「『今忙しいから』と伝えてお引き取り願ってもらえますか」

「人事部承認で来られてるそうですが、よろしいんですか?」





「それは…… 人事部の要請で私のところへ来たという意味?」

「はい、たった今、ここから人事部にご到着の連絡もされてます」

「……じゃ、お通ししてください」


俺は時計を見た。正午まであと5、6分。




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証券マンが姿を現した。

俺と同じ40代前半くらいの男。地味なスーツに地味なネクタイ、メタルフレームの眼鏡に七三に分けた頭。来訪者に貸与されるIDカードを律儀に首からぶら下げている。


前夜、ドツボにはまった会議が終電近くまで長引いた疲れが残って、些末な用事に対する俺の耐性は低下していた。
だから俺は、どうでもいい来訪者に見せるいかにも多忙そうな所作で立ち上がった。できれば名刺交換だけでお帰り願いたかった。


受け取った名刺を見る。
「○○証券生涯設計担当コーディネーター××」。その××が、もう何百回も繰り返してるといった感じの滑らかな口調で言った。


「よろしいですか? 少し立ち入った話になるのですが」


何? 立ち入った話だと?


俺は見ず知らずのこの男から、いきなり「立ち入った話」を聞かされるわけか?

人事部からは何も、そんな恐ろしげな話など聞いていない。そもそもこの男の来訪に関して、俺は証券会社の「し」の字も聞かされていない。


こいつの会社が取引関係でうちの上層部に圧力をかけ、従業員に半強制で投資信託でも買わせようって営業戦略なら、まあ、苦笑いで済ませられる。

だが、人事が絡んだ上で「立ち入った話」となれば笑い事じゃない。

初対面の社外の人間から、こうも馴れ馴れしく「立ち入った話」を聞かされなければならない事情とは何だ。



今期の業績は、粉飾さえしていなければ上々の内容になるはずだ。

抜き打ちで人員整理をしなければならないような話はどこからも…… 俺がよほど迂闊でない限り、出るとは思えない。
いや確かに、そんなのは個人のレベルでは分かったもんじゃないが……


疑念を抱えたまま、俺は「では、こちらへ」と言って小会議室へその男を案内した。


証券会社の××は席に着くなり、ブリーフケースからA4判のペーパーを取り出した。
老人と子供、赤ん坊を抱いた若い夫婦のイラストが並んでいて、その頭上に「次世代へあなたの愛を。」と、マンガチックな白い翼を左右に伸ばした枠内に明朝体で書かれている。


「実は…… 俺さんにはまことに残念なことを申し上げなくてはならないのですが」


自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。
××は続けた。



「この国の王が全知全能なのは、ご存知かと思いますが」

「……ええ」

「さる事情から、俺さんにはお亡くなりになっていただかざるを得なくなったのです」

「私が? 死ぬ?」

「はい。残念ながら」

「……失礼ですが、本当に証券会社の方ですか?」


誰だよ。この頭のいかれた男を通した人事のバカは。このご時世、どんな奴が往来をうろついてるか分からないんだぞ。


「ご不審はごもっともです! 私もこれまで10人以上の方に説明させていただきましたが、簡単にご理解いただけたケースは皆無でした」

「いや、『理解しろ』なんていう話なんですかこれは」


その時、俺の手元で会議室備え付けの電話が鳴った。俺は男の顔から目を離さずに、3回目のコールで受話器を取った。

人事部長の声を聞いた瞬間、嫌な予感が裏書きされた気分になった。


「もしもし。俺君か?」



「はい。証券の方がみえて。私、殺されるそうです」


俺は目の前の××を一瞥して、これ見よがしに鼻で笑った。しかし、電話の先の人事部長はシンクロしてくれない。


「殺される? 人聞きが悪いよ君。とにかく話はその人に聞いて」

「あの……」


電話は一方的に切れた。冗談でもコントでもないことを念押ししたくてわざわざ電話してきたってわけか?


「じゃあ…… そのお話は事実ですか」

「はい。申し上げるのも心苦しいのですが」

「正直言って、全然真面目な話と思えない! 私をからかってるんですか!?」

「どうか落ち着いてください! 落ち着いて」


目の前で暴れる犬をなだめるみたいに、男は俺の目を見据えて、手のひらを静かに下ろす仕草をした。

無知な個人にリスクを負わせる商売だけに、この手の客あしらいには慣れているのだろう。身振りを見ているだけで、気持ちの高ぶりが妙に鎮まっていく気がしないでもない。



「お気持ちは十分お察しいたします。しかしこれにはやむを得ない事情があるのです」

「事情って!?」


声が裏返った。男の眼鏡に唾が、それもかなり粒の大きいやつが飛んだ。


「……ひと言で申せば、すべて王がお決めになったことなので」


××は眼鏡を外し、俺の唾をハンカチで拭きながらそう言った。


「冗談じゃありませんよ! 私は生まれてこのかた、人に後ろ指さされるようなことは何一つ」

「もちろんでしょうとも! ええ。それは当然と思います」

「じゃあどうして!」

「どうかお静かに。残念ながら、王の判断というのは個人の理解ではとても測り難いところがあるようでして。私がこれまでご案内して差し上げたのは、どなたも立派な方々で、前科をお持ちのような方は一人もおられませんでした」

「前科? おい誰にものを言ってるんだ!」



「失礼しました! 今のはほんの例えです。ええと、……なにぶん王の判断基準というものはいっさい公表されておりませんので、何とも申し上げようがないのです」

「そんな…… 私には妻と7歳の娘がいる! 家のローンだってまだ10年残ってるんだ。いいんですかそんな私が死んで! 王はそれで構わないっておっしゃるんですか!」


俺の大声は当然会議室の外にも聞こえていたと思う。しかしドアを開けてのぞき込む者はいない。

俺は荒く息をしながら、もう多数の者に引導を渡してきたとほざく無表情な証券マンを睨み付けた。


そんな興奮状態でも思い出したことがある。
そう言えば住宅ローンは生保に加入していて、死後は支払い義務がなくなるんだっけ。何騒いでんだ俺。


「何ですかその、通知は…… 社にはとっくに届いてたわけですね?」

「はい。2日前に。日頃より△△社様に大変お世話になっております弊社が、お声をかけていただいたわけなのです」

「当事者の私じゃなくて、どうして真っ先に会社なの?」

「さて、そのあたりはどうなんでしょう…… 先行事例ではすべてそうだったとしか申し上げようが……」



「分かりましたよ! で? どうやって殺されるんです私は!?」

「あの、王のご決裁ですので、言葉をお選びになった方が」

「は?」

「『殺される』はいかにも、不穏当ではないかと」

「別に間違ってないでしょ。まずいの?」

「私は聞かなかったことにいたしますが、それだけで不敬罪が成立します」

「ああそうですか。で? これから警察にでも取り押さえられてどこかで刑を執行されんの?」

「いえ、そんな形にはなりません」


証券マンは少し考え込む様子で目を下に落とし、俺の前に差し出したA4判資料の一カ所を指で示した。


「先般の法改正で、私どもの業態でも遺言信託を扱えるようになったのです」

「あのさ、質問に答えてよ」

「その前にですね、まずこちらを。……弊社の遺言実行サービスは迅速を主眼としておりまして。相続がどの時点で発生いたしましても直ちに対応できる態勢を万端整えておくという点では、他社の追随を許さないと自負いたしております。手数料の方も、現在キャンペーン期間中で……」


俺は備え付けの電話を力任せに引っぱり寄せ、人事部につないだ。


「あの。『俺』ですけど部長をお願い」


少々お待ちを、と事務の女性が答えて部長に取り次ぐ。目の前では証券会社が視線を手元に落としたまま、無表情に待っている。



「あ、お忙しいところ申し訳ありません『俺』です。今、説明を受けてる件ですが」


人事部長は最後まで聞かなかった。


「詳しい話はその人に聞いて。事案そのものに関してはこっちじゃ対応できない」

「何ですって? 私が殺されるって話は社に連絡が入ってたんでしょ?」

「それは事実だが、業務外の話だから社として説明はできない」

「業務外!」


開いた口が塞がらない、という経験は、この人生を通じて何回目だっただろう。


「私は社員ですが。社員の存在が消えるのは人事部の業務外ですか?」

「君だって正確なところが知りたいだろう? こっちじゃ、それを詳しく伝えるのが難しいんだ」

「はっきり言いまして、何が何だか分かりません」

「分かってくれよ。すまんが急な案件があるんで、失礼」


電話は切れた。俺は動悸が収まらないまま、目の前ですっとぼけている証券会社を睨み付けた。


「だってさ。話聞こうか」

「はい。では詳しく申し上げますと、私が説明いたしましたこの時点を境といたしまして、俺さんにはさまざまな不運が降りかかることとなります」

「不運?」

「はい。それがいかなる不運なのかは、残念ながら私どもの知り得るところではございません。不運が一つであるのか複数であるのか、そして最終的に…… 相続が発生する時点がいつなのかも、全く予測がつかないのです」

>>1さんに草進呈っすわw

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      、       /⌒ヽ, ,/⌒丶、       ,
       `,ヾ   /    ,;;iiiiiiiiiii;、   \   _ノソ´
        iカ /    ,;;´  ;lllllllllllllii、    \ iカ
        iサ'     ,;´  ,;;llllllllllllllllllllii、    fサ     俺は悪くねぇ!
         !カ、._  ,=ゞiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii!! __fカヘ.
       /  `ヾサ;三ミミミミミミ彡彡彡ミヾサ`´ 'i、

       i'   ,._Ξミミミミミミミ彡/////ii_   |
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        |  ;iサ,サ |l l l リリ川川川川|爪ミミiiリ サi サi  |
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       ;メ      ヾリリリリノ巛ゞシ       `ヘ、
      ;メ        ``十≡=十´         `ヘ、

                 ノ    ゞ

>>1さんに草進呈っすわw

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「王様だけが知ってるっての!?」

「まあ、そういうことになりましょう」

「窓口になってる政府機関は?」

「それはまさに、『王』としか申し上げようが……」


何だかバカバカしくなってきた。これはいったい何だ。子供の遊びか。

しかし王が全知全能だってのは誰もが知っている。王が何かの気まぐれを起こして、国民の間引きを始める決心でもしたのか?
それで? 国民一人の命なんて虫けらみたいに踏みつぶされるってわけか!


でもこの野郎は言った。もう10人以上の人間に引導を渡してきたって。

こいつの会社で、この与太話に関わってるのは俺の眼の前にいる一人だけじゃあるまい。その間、何にも騒ぎが起こらなかったのか? テレビも新聞も何も報じないのはどういうわけだ?


「じゃあさ。あんたが知ってるかどうか分からんけど、とにかく具体的なことを話してよ」

「何からお話ししましょう?」


すっとぼけやがってこのクソ野郎が。


「例でいいから教えて。その不運ってやつ。例えばどんなのがあるのよ」



「うーん…… 頭の上に突然鉄骨が落ちてくるとか、暴走してきた車にはねられるとか…… まぁ、本当に何があるのか分からないです」

「要するに何でもありか」

「そういうことになりますね」

「突然ガンが発病するのもあり?」

「はい。それも考えられます。ご不審もあろうかと思われますので、補足させていただきますとですね」


証券会社の××はことさら勿体ぶった表情になり、何を意図した演出なのか、声色に祝詞でも唱えるみたいな抑揚を加え始めた。


「これは法的な手続きと違うのです。これから発生いたしますのは運命と申しますか、偶然なのです。立て続けに不幸に見舞われたり、泣きっ面に蜂が刺すのも、偶然なのです。すべては王の一存で決められます。しかしその基準は完全にブラックボックスの中にある、と言いますより、中になければなりません。そしてまことに残念ながら、俺さんはお命を失われることになりました。衷心よりご同情申し上げます」

「同情だと!」

「どうかお静かに! ただし、こうした運命予測が早い時点で可能になったことは、社会全体に大きな前進をもたらしたと言えるのです」

「何だよそりゃ」


「個人の方が終末を迎えるに当たりまして生じます、医学的・法的諸手続きの迅速な処…… 取り扱いと、相続等に絡むトラブルの回避、まあこれは一例にすぎません。いえ、それより何より、ご本人様にとってのメリットが最も大きいと申せましょう」

「はぁ!?」

「冷静にお考えになってみてください! 冷静に」


証券会社は自分に酔った霊能者みたいに、俺の目の前に手のひらをかざす。
眼鏡の奥の目玉が大きく見開かれ、「あなたはだ~んだ~ん眠くなぁ~るぅ」と言わんばかり。こんな猿芝居に乗せられてろくでもない金融商品に命金を突っ込み、火ダルマになった素人がいたんだろうか?

平穏無事に生きてるより理由も分からず殺される方が本人のメリットだと、初対面の人間に信じ込ませるテクニックがこれか! 世の中にはいろんな名人芸があるもんだ!


「……俺さんが本日退社された後事故で突然お亡くなりになるとすれば、ご自身の終末に向けた準備を何ら為すことができぬまま、死を迎えられることになるのです。それに、こう申すのは大変失礼とは存じますが」


××はいったん言葉を切り、「これは何よりも重大だ」とでも言いたげに、下唇の端を噛んで見せた。


「仮にその…… あくまで仮にですが、身辺に様々な見苦しい物がおありでも、突然のご不幸に見舞われますと、そのままご遺族の目に触れるところとなってしまいます」

「そんな物、あんただって一つや二つ持ってるだろ?」

「いえ、それは人の受け取り方次第かと…… これに対しまして、近い将来のご不幸が予測できれば、遺書を残すなり、身辺整理をする余裕も生まれます。もちろん、人によって持ち時間の長短はございますでしょうけれど」


俺はまだ、自分がこの男にからかわれているという疑いを捨てきれないでいた。


「へぇぇ。じゃあありがたいことに、王様が下々の者に便宜を図ってくれてるってわけ?」

「さあ、そのあたりはどうなのでしょう。いかなる法令にも依拠しておりませんので、何とも申し上げようが…… ですが私どもとしましては、俺さんの終末を最良の形でサポートさせていただくために、こちらのサービスをご案内に参ったわけなのです」


天地神明に誓ってふざけていないのだとでも言うように、証券会社××は俺の目を見据えて、机上のA4判資料を指で俺の手元に押し出した。


これ以上は時間の無駄だ。
いくらか頭に冷静さが戻って、この男と駆け引きをするだけの余裕が生まれた。


(あんたが扱ったその十何人は、宣告を受けてから何日くらい生きてたの?)


俺がどれだけ食い下がっても、こいつは社外秘を盾に「答えられない」と頑張り通すだろう。無駄な問いを放ってガードを固くさせるのは得策ではない。


「まぁ、分かりました。では、これは預からせていただきます。後日返事をするってことでよろしいですか?」


証券会社の表情が緩んだ。げんきんな野郎だ。



「ありがとうございます、こちらに記載のフリーダイヤルにご連絡いただければ、この私が最優先で対応いたしますので」

「うちの人事を通じてじゃ駄目なの?」

「はぁ…… まことに申し訳ありませんが、弊社へ直接ご連絡をいただく体制になっておりまして」

「分かったよ。じゃ、2、3日中には」

「どうも、お忙しいところありがとうございました!」


バカ野郎め。忙しいもクソもあるか。
お前の話が嘘じゃないなら、俺は生贄みてえに殺されるんだろ。


無言の悪態が聞こえてでもいるみたいに、男は足早に会議室のドアに向かった。そして、ここを自分の会社と勘違いしているような無駄のない動作でドアを開け、俺を先に通す。


いやに気ぜわしいじゃないかお前。そんなに俺をここから叩き出したいか。


いや、大目に見てやろう。こいつはきっと、ひと仕事終えた解放感から、自分の反省すべき悪い癖を失念してるんだ。ありがちなことじゃないか。

小会議室は俺の在籍する企画部の一角を区切って設けられている。俺は証券会社××を先に歩かせた。

オフィスを出るまで、お互い何もしゃべらなかった。事務用ロッカーやパーティションで仕切られた通路を歩く間、俺と××に関心を向ける者はいなかった。
従業員たちは黙々と業務にいそしんでいた。

出入り口の前で男は深々と頭を下げ、オフィスを出て行った。


俺はエレベーターホールまで証券会社を見送った。男は振り向きもせずケージの中に消えた。



さて。これからどうする。



今の時点で俺は、こけおどしを真に受ける幼児じゃない。会社ぐるみで俺をからかってるのかどうか、再三でも確認すべきだ。


人事部のドアを開ける。部長席は空席。予期していたとはいえ、気が沈んでいく。

それでも俺は部長席に近寄って、度の強そうな眼鏡を掛けた契約社員の女性に声をかけた。


「部長は? 昼メシ?」

「あー、ちょっと席をはずされていて。すぐに戻ると思いますが」


少し離れた席の、俺と同期入社の次長が立ち上がった。伏し目がちに歩み寄ってくる姿が、見るからに「事情は俺も聞いている」というメッセージを発している。



「ちょっと来てくれ」

「何の話だこれ? このクソ忙しいのに学芸会か?」

「真面目な話だよ」

「本気で言ってんのか?」

「まあ、いいから。部長に聞くのも俺に聞くのも同じだと思って」


同輩の人事部次長は俺は右腕をつかんで、オフィスの隅にある、パーティションで仕切った簡易スペースを顎で指し示す。
俺は導かれるままそこに入り、テーブルを挟んで次長と向かい合った。

そして腰を下ろすなり、遠慮も忘れて大声を出した。


「おい。本当に悪ふざけじゃねえのか?」

「真面目な話だって言ったろ?」

「いや、絶対ふざけてるだろ」

「ふざけてないって!」


俺は次長の顔を眺めて、いったいどう言えばいいのかと言葉を探した。
口喧嘩で躍起になる小学生じみた自覚が、嫌も応もなく徒労感を倍増させる。


「趣味の問題はともかく、これ、抜き打ちの研修か何かだろ? 中間管理職の危機対応能力を試すとか」


「本当にそんなのじゃないんだ。聞いた通りに受け止めてもらうしか」

「分かってんのかお前? 俺はもうじき殺されるって話なんだぞ!」

「お前の言いたいことは分かるが…… こっちじゃ現実問題として処理するしかない」

「ほう? 部長はさっき、俺が聞いたら『業務外』とか言ってたが」

「マジかよ……」

「もう人事部なんて要らねえんじゃねえか?」

「おい…… 勘弁してくれ」


気の毒な同輩はパーティションで仕切られた外側をちらりと見て、声を低くした。



「いろんな手続きはこっちでやらなきゃいけないんだ。退職金にそれから弔慰金、積み立ててる年金の死亡一時金の処理…… すまん、結局カネの話ばかりになるが、そいつを片付けないといけない。申し訳ないが協力してくれ」

「……何の話してんだお前?」

「自分でもそう思う。でもこれが社としての対応だ」

「とにかく、先走る前に俺の疑問に答えろ。これはいつ、どこから通知が入ったんだ?」


同輩は困惑をあらわにして、視線を下に落とす。何てこった。

俺は慄然とした。こいつは嘘をついてない。もちろん社内では俺が初の案件だろう。


「それは俺も部長に聞いたが、『君が知らなくてもいい』の一点張りだった。役員の誰かから部長に話が下りてきたのは間違いないらしいが」

「らしい? お前それ聞いてないのか!」

「聞けるような空気じゃなかったんだ! 部長もすごい顔してた。『これ以上無駄口叩くな』みたいな」


「……当事者である俺が、役員室に乗り込んでも同じだと思うか?」

「たぶんな。それにお前、通知してきた元を突き止めたとして、それからどうする?」


俺は同輩の哀訴するような視線を、やりきれない思いで見返した。

分かってる。「元」なんて今はもう存在しない。
役員の誰あてか知らないが、ご託宣を下ろすのと同時に、消えてしまってもうどこにもない。

勤め人を20年もやってればそれぐらい予想はつく。


この世界ではいつも、一番肝心かなめの部分が闇に覆われている。

不可知の部分は話題にもならない。人の意識にも現れない。そうやって一瞬で犠牲者を飲み込んでしまう。


「バカげたこと聞くけどさ」

「うん、何でも聞いて」

「これで、何か有利になる話でもあるの?」

「結構あるよ。子供さん一人だったっけ?」

「うん、小学校2年」

「遺族年金に社独自で上乗せされる給付金が…… そう、向こう10年は出るはずだ。退職金も職務上の死亡って扱いになる。社として家族の面倒はできる限り見させてもらう」

「ありがたいね。で、俺が記入して提出するような書類はある?」

「ちょっと待ってて」

>>28訂正
同輩の人事部次長は俺は右腕をつかんで→同輩の人事部次長は俺の右腕をつかんで

投下


同輩は角形3号の封筒1枚を持って戻ってきた。
封筒から書類を出してテーブルに並べる。記入すべき書類は5枚。この5枚が、俺が勤めてきた経歴の総決算というわけだ。


「明後日までに俺か部長のところに持ってきて」

「ずいぶん慌ただしいな」

「そうか?」

「そう思わんか? で、他の奴に渡しちゃダメなんだな?」

「当たり前だろ!」

「そうカッカすんなよ」


俺の嫌味に、同輩は渋い表情で答えた。業務外を決め込んで雲隠れした部長の代わりに矢面に立たされ、気の毒この上ないが、仕事だから仕方ない。


「俺だって、今朝話を聞いたばかりなんだよ。最初は部長の…… 頭がいかれたか俺がからかわれてるとしか思えなかった。でも細かいことは俺が説明しろって、にこりともせずに言うんだよな……」


そう言って、上目遣いに俺を見る。こいつの気持ちは分からないでもない。いまだに本気にするのには躊躇があるんだろう。

だが、そんな判断まで俺に求められても困る。


「それにしても、相手が王様だろうと社を挙げて俺を守ろうって気概はないのかよ。ええ? がっくりくるじゃねえか」

「ファンタジーだな」

「ファンタジーかよ!」


俺は鸚鵡返しに吐き捨てて立ち上がり、同輩に背を向けた。

そう言えば、組合の執行委員をやっていた当時、書記長がこんなことを言ってたっけ。


『ファンタジックな話を信じ込みそうになる時ってのは、たいがい少し疲れてるんだ』


その書記長が今の人事部長だ。

神通力で見境なく人を殺せるのも十分ファンタジーだと思うが、違うんだろうか?


─────


人事部を出て時計を見た。いつも昼メシに出る時刻はとうに過ぎている。
俺は自分のデスクに戻って、特に急ぎの要件がないのを確かめてから外に出た。



無慈悲に照り付ける太陽。陽炎が立ち、道行く勤め人たちが亡霊の群れに見えてくる。

いや本当は、ひと足先に俺が亡霊になってるのかもしれない。

そんな暑気の中、予言された災厄に見舞われることもなく、遠からぬ先の亡霊つまり俺は近場の中華料理屋へ足を運んだ。
遅い昼食はまるで紙を食っているみたいな味がした。


中華料理屋を出て、社から少し離れた喫茶店に入った。店の奥で壁を背にして座り、持参した私用のタブレットを起動した。


俺に凶報をもたらした証券会社のサイトを開く。検索欄に「遺言信託」と打ち込みエンター。


『検索ワードに該当ありません』


うん。分かってたよ。


今度は「ゆいしん」とひらがなで検索する。……あった。


『ゆいしんバランス21ファンド』


遺言信託の執行実績を指標とする、このクソ証券独自の投資信託。
値動きをみると、3年前の発売以来基準価額は長期低落傾向だったのが、このところ急伸している。


最近はほとんどの業種で株価が低迷してるってのに、この3カ月で70%高。資産総額は2倍に増えている。こりゃどういうことだ。

確かに証券が遺言信託に新規参入すれば、国全体の契約総数が増えるとは考えられる。だが、この投信が指標にしているのは執行実績だ。


みぞおちに重苦しいものがわだかまってきた。

頭のどこかで必死に縋りついていた「冗談」の2文字が、夢まぼろしのように消え去ろうとしている。


次に俺は、住宅ローン利用者の死亡時生命保険を扱っている団体のサイトを開いた。


ページトップの団体名の下、ひときわ大きく極太に記された「お知らせ」の字が目に飛び込んできた。




  昨 今 の 経 済 情 勢 に 鑑 み 、 

  お 客 様 ( 法 人 を 除 く ) に ご 負 担 い た だ く 信 用 生 命 保 険 の 特 約 料 を 、

  ※ 月 1 日 よ り 平 均 40% 引 き 上 げ さ せ て い た だ く こ と と な り ま し た 。

  既 に 債 務 弁 済 中 の お 客 様 も 対 象 と な り ま す 。

  お 客 様 各 位 に お か れ ま し て は 何 卒 ご 理 解 賜 り ま す よ う 、 お 願 い 申 し 上 げ ま す 。


  詳 細 は 「 特 約 料 一 覧 」 ( ※ 月 1 日 改 訂 ) を ご 覧 く だ さ い 。




「昨今の経済情勢」ときたか。


他人ごとなら趣味の悪い冗談と笑って済ませられたろう。
だが、この「お知らせ」を読んで凍り付きながらも、俺は理解した。

「昨今の経済情勢」は成就されねばならないのだ。ひとたびこのような宣言を公にした以上、他の道などあり得ない。


もう間違いない。俺は殺される。


疑いようがない。
既にあの投信の上昇カーブの肥やしになって消えた人間が無数にいて、ボケっとしてれば俺もいずれお仲間入りをするってことだ。


それにしても、一挙に40%増。

いったい、どれだけ保険金の支払いが増えるんだ? 王は住宅ローン利用者を狙い撃ちでもしてるのか?


まぁ、家をローンで買おうとする奴はたいてい金利ばかりに目が行っている。
生保の特約料なんて額的にもほとんど気にしてないだろうし、俺もそうだった。

これからローンを組む奴も、この急な増額を「昨今の経済情勢」と説明されて納得するんだろう。


俺はタブレットの電源をOFFにした。
目を閉じて深呼吸。状況を整理し、今後の対応を考えてみる。



人事部と証券会社の話からして、俺はあと2、3日は生きていられるらしい。

その間に何をする。残り少ない時間を悔いのないように過ごすか。


それとも。


悪あがきか。このままおとなしく殺されたら、まるで自分に罪があるのを認めたような格好になる。いいのかそれで。

罪の自覚がないなら、悪あがきであろうと、抵抗はすべきだ。


そりゃ長いサラリーマン生活、仕事で後ろめたいことをいっさいしなかったとは言わない。だからっていきなり、理不尽に殺されなきゃいけねえのか?

理由がブラックボックスになってるような宣告を、何だって唯々諾々と受け入れなきゃならないんだ?


でも、おとなしく殺されないと家族に累が及ぶ可能性も? いや、家族は何も知らない。知る必要なんてない。

これは徹頭徹尾、俺だけの問題だ。「家族に罪が及ぶ」なんて、そんな理屈があるか。


逃げるぞ。


いかに王が全知全能だろうと、それが通じるのは「この国」の中だけだ。国外に出てまで通用するなら、「外国」なんてないのと同じ。

でも、もしかしたら世界中どこででも、「この国」の王の全知全能が通用する? そんなバカな!


だいたい、王が全知全能だなんて、いつ誰が決めたんだ。
考えてみると、俺が生まれる前からそういう約束事になっていた。誰も疑わないし、国全体がそういう前提で運営されている。

だが、言葉の綾なんじゃないのか? ガキじゃあるまいし、遠隔操作で国民の命をいつでも勝手に奪えるなんて信じられるか?

確かに、極秘の暗殺集団みたいなものならあってもおかしくはない。これまでに殺された連中がいるなら、恐らくそいつらの仕業だろう。


あの証券野郎め。

よくもまあ、子供だましのデタラメを滔々と並べ立てたもんだ。
王の方も、不幸な偶然が見舞うだとかそんな与太話を真に受けるような奴ばかりを犠牲者に選んできたんじゃなかろうか?

俺もそういう間抜けと見なされたのかもしれない。


たぶん、政府としてはそうやって国民の恐怖心を煽り、絶対的な権力を確立しようと……


とにかく国外脱出だ。それもできるだけ早く。


どこへ逃げるか? そんなの決まってる。

世界で一番強い国。王の『全知全能』をもってしても、その尊厳を侵すことのできない国。


この国の王が理不尽に俺の命を奪おうとしても、彼(か)の国でそんな横暴は通らない。あそこは生存競争が厳しい反面、個人の自由は尊重される。

たとえ外国人だろうと、領土内で断りもなく他国が権力を行使して人を殺すなど、断じて許しはしないだろう。


おまけに俺は昔、その国の現地法人に2年勤務していた。土地勘はあるし、いざとなれば頼れる知人もいる。


会社は?


「しばらく欠勤します、旅に出ますので王様には内緒にしてて」とでも頼むつもりか。そんなに会社が信用できるなら、どうして逃げ出したりする?

「お前らのところからあの男を生贄に出せ」と言われて、はいそうですかと俺の命を差し出す会社だ。逃げたと分かった時点で通報されるのが関の山だろう。

よほど気になるなら、安全だと確信できた段階で、現地法人のオフィスに顔を出せばいい。


××の話からして、王は周囲の人間まで巻き添えにするようなことは…… ないと思いたい。
だがもし、俺のせいで旅客機が太平洋上に墜落するようなことになれば、それはあまりにも申し訳がない。

いずれにせよ、じっとしていれば事態は悪化するだけだろう。急ぐに越したことはない。



だが?


これまで王のターゲットになった奴の誰も、国外逃亡を思いつかなかったのか?


そんなはずはない。思うに、たぶんそいつらは下手を打ったのだ。
いきなり死の宣告を受けて動転するあまり、破滅に至るほどの過ちを犯した奴もいただろう。

ひょっとしたら、生き延びている奴もいるのかもしれない。もっとも今現在、世界のどこかで命を長らえているとしても、本当に難を逃れたのかどうかは確かめようもない。

王には特段急ぐ必要はないらしいから、拙速を避けてじっくり事を運ぶとも考えられる。
だが殺される側にすれば、真綿で首を絞められてる間にもなにがしかのチャンスは残されている。それは王にだって分かりはしないんじゃないのか?


いや、よくよく考えれば人生とはそういうものだ。襲ってくるのが王であれ他の災いであれ、やり過ごし続ける間のゲーム。程度の差はあれ基本はそうだったはずだ。


ならば一人のプレーヤーとして、座して死を待つより、できる限りの努力はすべきだろう。


─────


俺は何食わぬ顔で午後の業務を終え、少し早めに退社した。

ブリーフケースの中には、証券会社と人事部からそれぞれ受け取った書類が入っている。
これを提出する前に殺されることは、俺の行動を四六時中監視でもしていない限りないだろう。そうとでも考えるしかない。

そしてそのまま寄り道をせず、まっすぐに帰宅した。



門扉の前で、夜の闇に立つわが家を見上げる。5年前、身を切る思いで買った一軒家。こうして眺めていると、夢のお城のように見える。

しばしの別れだ。いつか必ず戻ってきて、新たな幸福を目指す生活を始めよう。ローンだってきっちり払い終えてやる。


玄関を開けて靴を脱いでいる間、妻がエプロン姿で俺を出迎えた。


「あら、きょうは早いのね。ご飯あと1時間ぐらいかかるけどいい?」

「いいよ。娘は?」

「お風呂に入ってる」


風呂場からは娘の歌うアニメの主題歌が聞こえてきた。
一人で風呂に入れるようになって1年になるが、まだ少し心配だ。


「ビールある?」

「あ、買うの忘れちゃった。一本しかないけどいい?」

「いいよ。俺、寝室で飲むから」


スリッパに履き替えた俺はキッチンに直行し、冷蔵庫から缶ビールを出して2階の書斎兼寝室に上がった。


机の前の椅子に腰かけ、缶を開ける。ビールを喉に流し込んだ時、ようやく正気に返った気がした。
同時に、きょうの出来事が支離滅裂な悪夢に思えてくる。風呂から上がったらしい娘の声が階段の下から聞こえてきた。


ビールの缶を持ったまま、2、3分ほど自分のつま先を凝視していただろうか。

ふと我に返った俺は、軽く頭を振って机の一番上の引き出しからパスポートを取り出す。


パスポートの期限はあと1年残ってる。渡航認証も半年前に更新したばかりだから、すぐにでも出発は可能だ。


次にクローゼットを開け、隅に寄せてあるストラップ付きの旅行用バッグを引っ張り出した。
荷物は必要最小限でいい。刺客に追われてアクション映画みたいな逃走劇を演じさせられるかも分からんのだから。


詮ない不安が甦ってくる。俺のせいで家族が迫害される可能性は?


落ち着け。
俺がおとなしく殺されないからって、小学2年生の娘に矛先が向けられる世界って何なんだ。

そんなことがあっていいのか。いいわけがないだろう。



荷づくりがあらかた済んだ頃、階下から娘の声が響いてきた。


「ごはんできたよー」

「おーう。ちょっと待ってて」


ダイニングに入ると、娘がもうテーブルに着いていた。スプーンを王様の錫杖みたいにピンと立てて持っているが、まだ料理には手を付けていない。いい子だ。


「パパお風呂は?」

「後で入る。娘はきょう、学校で何の勉強したの?」

「掛け算習った」

「もう掛け算か。早いなあ」

「おもしろいよ。ににんがろく、にしがはち」

「『ににんがし』です!」


妻の声がキッチンから飛んできた。


「ごめんなさーい!」

「娘は歌が上手だねえ」

「パパ聞いてたの?」

「聞こえたよ。掛け算もね、ににんがし、にさんがろく、にしがはち、って歌にすればすぐに覚えられるよ」

「そーなの?」

「こんど、パパが英語を教えてあげよう」

「ほんとー? うれしー!」

「俺さん、あんまり詰め込みすぎると娘の頭破裂しちゃうわよ」


妻がテーブルに着いた。そう言えば、平日に一家そろって夕食を囲むのは久しぶりだった。


「いただきまーす!」

「いただきます。……うん、このハンバーグおいしい」

「あら珍しい。どうしたの」

「おかしいか?」

「雨でも降り出さなきゃいいけど」

「本当にうまいんだからいいだろ」


妻はしばらく娘のテーブルマナーに目を配ってから、自分の皿に手を付ける。
俺は勇気を奮い起こし、最大限の努力を傾けて何気ない口調を装った。


「……それでさ、急な話なんだけど」

「何?」

「ロ○ンゼルスに出張しなきゃなんなくなった」

「ええ? いつ」

「現地時間の明日には向こうの事務所には顔出さなきゃいけない」

「まぁ、ほんとに急ね。何日くらい行ってるの?」

「5日……ぐらいかな」

「はっきりしてないの?」

「うん」

「パパどこかお出かけ?」


ハンバーグのソースを口の端に付けたまま娘が見上げている。気づかないうちに大人の会話を理解しているから、うかうかしていられない。


「娘が生まれる前、パパが働いてたとこだよ」

「知ってるー、ロ○ンゼルス。ミッ○ーやお姫様がいるんだよねー?」

「そうだよ。お土産にミッ○ーの人形買ってきてあげるからね!」

「うん、パパもお仕事頑張って!」

「はは、こいつめー!」


喉元に込み上げるものを俺は無理矢理飲み込んで、思わず下唇を噛む。
シャレにならない表情をしているな俺。とっさに妻の顔をうかがったが、大丈夫、気づかれてはいない。


「……でさ」

「うん」

「向こうであたふたしたくないんで、今晩零時すぎの便で発とうと思うんだ」

「え? そんな、間に合うの?」

「もう荷づくり終わった。風呂出ても10時ちょっとだろ? そのまま出れば十分間に合う」

「そうなの……」

「明日夕方発の便だと向こうに顔出すのは昼過ぎになる。何だかんだ言っていい顔はされないよ」

「会社も少しは考えてくれればいいのに……」

「会社なりに考えてるんだよ。いろいろと」

「分かったわ。大変ね」


俺は妻手作りのハンバーグを噛みしめながら、娘に微笑みかけた。
いいんだ。俺は間違ってない。むざむざと二人を悲しませる方がずっと残酷だ。

俺は生き延びて、必ず帰ってくるんだから。


クレジットカードの銀行口座は妻がキャッシュカードを持っている。現地でクレジットカードを利用している限り、俺の生存は確かめられるだろう。
カードの利用が止まれば、そこで俺の運は尽きたことになる。


それから1時間半後、俺は旅行用バッグを肩にかけて玄関に立った。妻と娘が見送りに出た。


「じゃ、気を付けて」

「パパ行ってらっしゃい」

「うん。あ、そうだ。親父さん(義父)に頼まれてた新刊書が明日あたり届くから」

「高い本なの?」

「5000円。多分親父さんが払ってくれるよ」

「そう。行ってらっしゃい」


これ以上交わす言葉もないと思って、俺は妻の顔を見ずに軽くうなずき、玄関を出た。
(いい子にしてるんだよ)──そんなありきたり過ぎる娘への言葉はあえて飲み込んだ。

そして二人の視線を背中に感じながら、門扉まで続く敷石に足を踏み出した。



──────


搭乗するまで、恐れていた災厄は何も起こらなかった。

俺は空港ロビーで周囲に油断なく目配りしつつ、出発30分前にスマートフォンで空席予約を入れた。我ながら常軌を逸した用心深さに苦笑いがこみ上げてきた。

もちろん、30分なら虎口を逃れられるという保障などあるわけもない。極端な話、万事が気休めだ。


飛行機に乗ってしまうと、周囲の乗客と一蓮托生だという身勝手な安心感が湧いてくる。
特に、初めて飛行機に乗った高校生の時からの癖で美人を探す。この人となら一緒に死んでもいいと思えるような美女を。

俺の目玉は、巻き添えを食って命を落とす美女の災難など一顧だにせず動き回るが、残念ながら俺好みの美形は見当たらなかった。

出発時刻が近づく。突然の暴風に見舞われたかのような、きょうという日が終わろうとしている。


俺は家を出る直前のことを思い出した。


母親の死後、郷里で一人暮らしをしている父の声を聞こうかと考えて、思いとどまった。平日の夜遅くに突然電話するのも不吉過ぎる気がしたのだ。


友人に電話するのも控えた方がいいと思ったが、それでも気休め半分に、大学時代の同級生で週刊誌の編集部に勤務している男の携帯を呼び出してみた。
2カ月前、久しぶりに会って痛飲した記憶が鮮明だったせいもあるだろう。


「おう。どうした」


大学時代には想像もできなかった、ドスの利いた声。屋外にいるらしく、車の通り過ぎる音がバックに聞こえる。相変わらず飲み歩いてるんだろう。


「ご機嫌のようだな」

「お前も飲んでんのか」

「ああ」


風呂上りの俺はダイニングにいて、手元にウイスキーのグラスを置いていた。まあ、飲んでいるには違いないだろう。


「自由に出歩ける身分が羨ましいよ。こっちは社から5百メートル以内にいろってお達しが出ててさ、もう1カ月になるぜ」

「大変だな」

「全くだ。もう週刊誌やる歳じゃねえって言ってんのに」

「もう少しの辛抱だろ」

「どうだか」

「でも…… 何かと、物騒な世の中になってるよな」


俺はカマを掛けたつもりだったが、ため息まじりに返ってきた声には、何かを押し隠そうとするようなトーンは微塵もうかがえなかった。


「今年は盆休みなしだ。8月中休日ゼロ。それも全部、夏休みの子供絡みときた。俺は22、3の新卒社員かっての」

「上の子は高校受験なんだろ? 受験勉強で事件に巻き込まれようがない分安心じゃないか」

「ええ? 勉強なんてろくにしてねえよ。呑気なもんだ」

「まぁ、元気なら何よりだよ。また飲もうぜ」

「おう。で、……もういいのか?」

「ああ、ちょっと気が向いたもんで。夜分失礼。じゃおやすみ」

「お疲れ」


いずれ、俺の失踪は奴の知るところになるだろう。それで雑誌記者として何をする。俺が王の手から逃走を図ったことを誌面に出すか。それとも、奴も同じ穴のムジナなのか。


収納棚に荷物を入れたついでに、再び目の届く範囲の乗客を見回す。
俺に関心を向けていそうな客、あるいは見るからに不穏な空気を身に纏い付かせているような客は見当たらない。

そしてやはり美女もいない。

エンジンがスタートした。滑走路に入るまで何も起こらない。離陸態勢に入る。ここまで異状なし。


機体が滑走路を離れた。上昇を続ける、俺=逃亡者を乗せた旅客機。やがて飛行高度に達し、シートベルト着用のサインが消えた。

大丈夫。到着まで何も起きはしない。いつも飛行機に乗る時と同じだ。当面の不安が薄らいでいくにつれ、別の理由から胸がざわつき始めた。
会社はもちろん、家族にも打ち明けなかった国外脱出。いざ実行に移してみると、罪悪感ばかりがとめどもなく湧き上がってくる。


(案外、俺以外に誰も決行できた奴はいないのかも?)


いたのかもしれない。あるいは、搭乗直前に引き返し、家族の前で泣きわめき、おとなしく王の手にかかる道を選んだ奴が。


この機が今向かっている国の映画なら、俺は王に戦いを挑まなければならない状況だろう。
わが身惜しさに家族を捨てて逃げ出すなど、あっちの国では許されることではない。


そりゃ映画なら、勝てるだろうよ俺だって。魔法使いかスーパーヒーローの相棒が味方に付いて、俺は王に立ち向かえる能力を獲得し、いざ最終決戦に臨む。
そしてハッピーエンド。極上のファンタジーだ。


そうか、戦うのか。

向こうに着いたら、42歳の俺を戦士として鍛え上げてくれる師でも探すか……


ファンタジーの筋書きをあれやこれやと妄想しているうちに、俺は眠りに落ちたらしかった。


・・・・・・・・・・・



・・・・・・・・・・・


俺は町工場のような建物の2階にいた。


いかにも工場らしく、外壁はスレートの波板をボルトでつなぎ合わせただけで、2階から見上げる屋根も無闇に高い。
そこで俺は、家具らしきものが手作業で作られる様子を眺めていた。


近くでは、俺と似たような立場らしい男が数人立っていて、時々作業を手伝ったりもしていた。


俺がそこにいた理由はぼんやりとしていて分からない。担当業務の関係で視察にでも来ていたのかもしれない。

ただ一つはっきりしているのは、俺は遠い昔、恐らくは学生時代のアルバイトか何かでここで働いたことがあり、そのせいもあって、目の前の作業を訳知り顔で眺めていたのだ。

そして、これから自分が何をしなければならないか、特に考えてもいなかった。



階段を下りる。


1階の階段左脇で、10人以上の従業員が扇型になって立っている。従業員たちの視線の先では、30歳前後と見えるスーツを着た女が熱弁を振るっていた。

俺はこの女を知っていた。取引先の会社のやり手社員で、相互の商品開発に関して情報交換を重ねたことがある。名前は忘れてしまったが、仕事に対する情熱の傾け方などで、俺が好ましい印象を持っていたのは間違いない。

女性としても顔はともかく体の方がなかなか肉感的に見えたから、そちらの印象も小さくはなかったんだろう。


俺が従業員たちの背後で話を聞いていると、突然女が俺に鋭い視線を浴びせ、ボールペンの先を俺に突き付けて声を張り上げた。


「例えばこのように、外部の人間がいつの間にかこのミーティングを立ち聞きしていたりします。こういうレベルから意識改革をしていかなければ、いずれ取り返しのつかない事態を招きます!」


畳みかけるように背後から男の声が響いた。


「皆さんよろしいですか?」


作業服を着て四角い眼鏡を掛けた、煮しめたように肌の浅黒い長身の男が、縁の擦り切れたバインダーを手にして立っている。もう30年は工場勤務一筋で生きてきたという雰囲気が全身からにじみ出ていた。


「当社で勤務する考えを伝えた人は残って。それ以外の人は出てってください」


男は俺を見てはいなかったが、まるで犬か猫を「しっしっ」と追い払うみたいに手を振り、さらに「出てって」と駄目押しした。


俺は憤然としたが、やり場のない憤りをどうすることもできなかった。そして人の流れが、俺を抗いようもなく出入り口へと押しやっていく。

そして、叩き出されるみたいに俺は建物の外に出た。

外は日差しが眩しかった。俺はそのまま、何の当てもなく歩き出した。


──────


……目が覚めると、窓の外はすっかり明るくなっていた。

何て夢だ。悪夢というほどではないが、ほどよい後味の悪さが尾を引く点では余計始末に負えない。


時計を見れば離陸から4時間ほどしか経っていない。機体は雲海の上にあって、早くも追い付いてしまった前日の日差しが主翼にまばゆく反射している。

そしてとりあえず俺は生きている。


何やってんだ俺。


無断欠勤して、突然ロ○ンゼルスくんだりへ出かけるとは気でも狂ったのか。
部下がきょう提出してくる商品企画案の最終検討どうすんだよ。


いや、それどころじゃないだろ。
俺は殺されるんだぞ。前日の出来事が悪夢だとでも思ってるのか?

そうだ。どう考えても身の危険が迫ってるのは間違いないから、逃げ出したんだ。
熟慮の末の行動だったんだよな?


だよな?


到着まであと6時間もある。俺は空港で買った英字紙を開いたが、読んでいてもほとんど頭に入ってこない。

仕方がない。
俺がこの旅客機に乗っているのは出張でも観光でもない、誰が聞いても「狂ってる」としか思えない理由なんだから。

そんな奴がビジネスマン然と、ふんぞり返って英字紙を読んでていいのか?


いいわけないだろう。普通そんな頭のいかれた奴が乗ってると分かったら、機体と乗客の安全を確保すべく直ちに拘束しなければならない。

誰だってそう考える。


なら、良識ある市民としてすべきことは、この太平洋上で俺の狂気が暴発しないよう、なだめすかして着陸までの時間をやりすごすことだ。


見ろ。いいタイミングで機内販売のワゴンが横に来た。


俺はウイスキーのミニボトルを買い、紙コップに指2本分ほど注いで、喉に流し込んだ。
熱い液体が、胸の中で騒ぎ立てる錯乱を鎮めてくれるのを待つ。


・・・・・・・・・・・

それから先は、できるだけ家族や自分の未来のことを考えないように努めた。

普段の通勤時間の感覚で株価や経済の記事を読んでいるうちに、地球の自転を追い越すフライトにふさわしく駆け足で時間は過ぎていった。
やがて俺の目は窓の外に陸地を認めた。

後は心静かに、滑走路で機体が静止するまでの時間を潰す。いつもと同じだ。

機体は順調に降下した。軽いバウンドとともにランディングし、滑走のスピードが緩くなっていくのを、俺は快く味わう。そして停止。

俺は機内で心臓発作を起こすことも狂乱することもなく、機体を墜落に導いて他の乗客を巻き添えにすることもなかった。


王の魔手から逃れられたかはともかく、第1ステージはクリア、ということでいいんじゃないだろうか?



入国手続きを済ませ、空港ビルの外に出た時はまだ午後6時にもなっておらず、日没までにはだいぶ間があった。
空気が乾燥していて風も強いせいで、少し肌寒く感じられる。

俺は急ぎ足でタクシー乗り場に向かい、運転手に宿泊先のホテルを告げて車に乗り込んだ。


とにかく、人ごみから離れるに越したことはない。


棕櫚の街路樹が並ぶ、幅の広い片側3車線の道をタクシーは飛ばしに飛ばした。空港周辺は視界を遮るものが少ないせいか、晴れ渡った空の広大さが胸に沁みる。

あの証券野郎も人事部長も、この空の下ではみんな夢まぼろしだ。そう思うと再び、今までの不安が妄想じみたものに感じられたりする。

じゃあ、王は?

さあ、どうだろう。


やがてタクシーはフリーウェイを抜けて碁盤目状の住宅地に入った。

柵も塀もない広い敷地に、ほとんど平屋建ての住居が立ち並ぶ風景。
かと思うと、突然メタリックに輝く超高層ビルが視界に飛び込んでくる。


中心街からはずれたこの辺りは、砂漠の本質を建築物で置き換えるとこうなるみたいに、生命感の欠落した静寂に支配されている。

この乾ききった静寂は、俺がここで働いていた当時と少しも変わらない。
砂漠の清浄さとはそういうものかもしれないが、それは俺には、癒すことのできない渇きを催させた。


人間もそうだった。

湿度ゼロの環境に適応したような酷薄な強靭さを身に付けた人々に、俺は正直言って相当にてこずらされた。
だからこの土地にあまりいい思い出はない。赴任して1年半ほど経った頃、俺はさりげなく異動を本社に打診し、何とか認められた。


……どっちにしろ、自分の未熟さ、能力の無さがすべてだった。

確かに、こういう先進国の大都会に着任すれば、会社はそれなりの結果を求めてくる。
それでも、政情不安だったり極端に治安の悪い国に赴任する場合も考えたら、甘えだと言われて返す言葉もない。


タクシーはそんな静まり返った住宅地の一角で止まった。


タクシーはそんな静まり返った住宅地の一角で止まった。


一見、俺が逃げ出してきた国の住宅団地みたいな7階建ての建物。

追っ手が頭の固い奴だったら、看板を見てもこれがホテルだとは容易には信じないような気がする。

俺はヒスパニック系らしい運転手に礼を言い、10ドル札を余分に渡してホテルの玄関に向かった。


フロントには、残り少ない頭髪を後頭部に撫でつけ、小さな丸い眼鏡をかけた50前後の男が座っていた。
男はカウンターに歩み寄る俺を宿泊客と認め、宿帳が入っているらしいノートパソコンを開いて立ち上がった。

俺が3泊する旨を告げると、上目遣いに「お仕事で?」と要らぬことを聞く。

俺はぶっきらぼうに「イエス」と答えた。フロント係は手入れの行き届いていない口ひげの端を微かに上げて「OK」と応じ、カードキーをカウンターの上に滑らせた。


キーを受け取り、エレベーターに向かう。荷物はバッグ一つだけだったが、ボーイがついてきた。

ありがた迷惑なことに、ボーイはエレベーターに同乗してきた。
俺は痩せた30手前くらいの金髪男の背中と、通過階を知らせる電光表示を交互に見つめた。ボーイは俺を振り向きもしない。


密室に二人だけの数秒間が異様に長く感じられる。
海の向こうに置き去りにしたはずだと思った圧迫感が、いつの間にか異国のエレベーター内に忍び込んで、俺の胸を締め付けてきた。


5階に着いて扉が開いた時、安堵の息が漏れてしまったのは自分でも情けなかった。


「レストランはもう開いてる?」


エレベーターを出てから、俺は何気ない顔を装ってボーイに聞いた。


「1時間前から営業してございます。7階のレストランのほかに4階のバーが終夜営業しておりますので」

「そう。ちょっとつかぬ事を聞くけれど」

「何でしょう?」

「私と同じ国の人間が、……他にも泊まっていないかな?」


迂闊にフロントで尋ねたら藪蛇になると思ったのだ。ボーイは目を細めて、何かを思い出そうとするような表情をした。
変なことを聞く奴だと思ったのだろう。


「さぁ…… 少なくとも私はお見かけしておりません」

「ありがとう」


部屋の前まで意味もなく着いてきてから、ボーイは去って行った。ボーイが廊下の角を曲がるのを確認してから、俺はドアノブをひねった。


部屋の間取りは、自宅のリヴィングルーム二つ分ほどの広さがあった。

慌てて予約しただけに無駄に豪華なところをあてがわれたが、オートロックのドアといい視界を遮るもののない窓の外といい、セキュリティーは申し分ない。
それでも俺は、西向きの窓から夕日の絶景を鑑賞するのを諦め、カーテンを引いた。

ベッドの上に荷物を投げ出し、籐椅子に腰を下ろしてしばし目をつぶって、これからすべきことを考えた。


このホテルは高い。ここに3泊して気持ちが落ち着いたら、安いところに移って長期滞在に入るとしよう。

安全を確かめた段階で、こっちの居場所は伏せて会社に連絡を取るって手も考えられるだろう。
どっちにしても、まだ亡命生活が軌道に乗るかどうかも雲をつかむような話だ。

とりあえず腹が減った。


食欲が戻ってきたのはありがたい。戦をするのは不本意だが、腹が減っては何とやらという。俺は立ち上がった。

シャワーを浴び、7階のレストランへ。


レストランは思ったよりも空いていた。


店内は学校の教室二つを立てに並べたような細長い間取りで、これまた教室を思わせる窓が外に面していた。
ただしベランダはない。

窓の外では、既に太陽が地平線の彼方に没し、オレンジから上空のダークブルーへと向かうグラデーションを描き出している。

フロアのテーブル席を隔てて窓の反対側、教室で言えば廊下側にカウンター席が配置されていた。
先客は5人。


俺は窓から距離を取って、カウンターを背にした丸テーブルに席を占めた。

中国系らしいウエイターがオーダーを取りにきたので、俺はワインのハーフボトルとローストビーフ、卵サンドを注文した。


客の様子を窺う。


最も離れた奥の窓際で食事をしているのは、夫婦らしい高齢の白人男女。
フォークを口に運びながら、時々思い出したように言葉を交わしている。危険を感じさせる気配は微塵もない。

その隣の席では、スーツを着た黒人の男が壁に背を預け、足を組んで新聞を広げている。

顔は隠れて見えないが、夏物の帽子が新聞紙の上端から飛び出ている。
新聞を持つ両手の黒さが、紙に墨汁で書かれた鳥の足を思わせた。

一番近くにいるのは、若い二人連れの白人女。時折外の夕映えを指差しては、フランス語で談笑している。観光客だろう。


ワインと卵サンドが来た。どちらも、まあまあ悪くない味だった。家族と仕事を放り出してきた後ろめたさを、俺は忘れつつあった。


正面で誰かが動いた気配がした。その時初めて、いつの間にかカウンター席に客が来ていたのに気付いた。


ブロンドの中年女性。30半ばから40代初めといったところで、年相応な落ち着いた柄のドレスに身を包み、首にはネッカチーフを巻いている。
俺なりに、まあ悪くない服装のセンスだなと思った。

その女性が俺を見て、微笑みながら会釈した。

俺はワイングラスを口に当てたまま、多少不作法ながら会釈を返した。
女性が立ち上がり、俺の席に歩み寄ってくる。右手に持ったグラスには琥珀色の液体とロックアイスが揺れていた。


「よろしいかしら?」

「どうぞ」


女の背後から、ローストビーフの皿を持ったウエイターが足早に近寄ってくる。俺は卵サンドの皿を脇にどけてスペースをつくった。
ウエイターが立ち去るのを見送って、女は俺の向かいの椅子に腰を下ろした。


「きょうご到着ですか?」

「ええ。実はたった今と言っていいくらいです」

「それは、お疲れのところごめんなさい。いえね、私はここに長く逗留してる者なので。来られたばかりの方はすぐに分かるんです」


ほぼ完璧と言っていい発音の英語。強いて言えば、微かに東欧風の訛りが感じられるといったところだった。


「ロ○ンゼルスは初めて?」

「いえ。だいぶ昔ですが2年ほど勤務してまして。きょうも社命で出張なんです」


腰が据わってきたのか、嘘をつくのに何の淀みもなかった。
俺は女の方にローストビーフの皿を押しやり、手のひらを軽く上に向けて「よろしかったら」というゼスチュアをした。


「お気遣いいただいて申し訳ありませんね。でもいいですのよ、私は気になさらずに盛大にお食事なさって」

「食べる方ばかり盛大にって気分でもないですね。レディの前では」


相手が気を悪くしないよう笑顔を繕いながら、俺は初めて女を正面から見た。


口元から微笑を絶やさないでいるが、目は笑っていない。よく若い女が向けてくる、男を無遠慮に品定めする眼差しのようでいて、そうではない。
俺の内面を見透かそうとするぎらついた執念──そんなものが感じられる。


「失礼ですけど、何か心配事を抱えておいでのようね」

「……そう見えますか?」

「大丈夫。無理な詮索はいたしませんから」

「いや、実は少々驚きました」


女は膝の上のポーチを開き、名刺サイズの紙片を取り出してテーブルに置いた。筆記体の名前らしきもの以外に、電話番号などの記載はいっさいない。



  Dr.Beautifullove



「それが私の名前。前は連絡先も書いてあったんですけど、やはり誤解なさった男性がいましてね。聞く気にもならない話をしに真夜中でも電話してきたりするもんですから、今はこれだけにしてます」

「これが…… ご本名ですか?」


勤め人の習慣で俺が差し出した名刺(裏面に英字が打ってある)を、女はほとんど見もせずポーチにしまった。


「ええ。そりゃ確かに『ルイーズ・レメリック』っていう、世間の通り名みたいなものはありますけど。でも最近はほとんど、こちらの名で通じるようになりました」

「『ビューティフルラブ』 ……ですか」

「『美しい愛』なんて、意味の重複だと思ってらっしゃるでしょ」

「いえ、そうは……」

「そうかしら? あなたのお国でもそうでしょうけど、『愛は美しいのが当たり前』っていう思い込みが固定観念になってるとお思いにならない? そういう偏見はこの国が発信源なのよ。この国がごり押しして、世界中に広めてしまった」

「受け入れる方も受け入れる方だって気がしますね。……何をお飲みになってます?」


俺は柄にもなく色男気取りを起こし始めていた。

女のグラスの中は干上がり、卵型ロックアイスが浜に打ち上げられた氷山のように、悲しげに横倒しになっていたせいもあるだろう。


「コニャックをね。あ、お気になさらず」


女はそう言うなり、どんな接待名人の営業マンも出し抜かれるような素早さでウエイターに合図し、コニャックを注文した。

この女に変な下心はないのか? そう考えると、逆に俺の不審は強まってくる。


「愛だって、他のいろんな概念と同じように多種多様なの。私の祖先がこの土地に渡ってくる前の、あの古いヨーロッパでは当たり前のことだったのよ。『狂気の愛』(Crazylove)もあれば『至上の愛』(Supremelove)もあるし。『奇妙な愛』(Strangelove)なんかに至っては言語道断ですけどね!

……でも誤解を解いていくには、ほんとに長い時間がかかるのよね、長い時間が。下手をすると、それで一生を費やしてしまうことだってある。でも、するだけの価値がある努力じゃないかしら? あくまでこれは持論ですけれど」


『奇妙な愛』はお気に召さないのですか? と言いかけ、俺は辛うじて踏みとどまった。
女はウエイターがテーブルに置いたコニャックのグラスを、まるで乾杯でもするように目の上に持ち上げて俺を見る。

そこで俺はようやく、ワインのハーフボトルが空になっているのに気づいた。


「ワインをもっとお飲みになる?」

「いえ…… じゃあ私もコニャックを」

「そう。じゃあおごらせていただきましょう」

「そんな!」

「いいんですよ! 私がお食事の邪魔をしてしまったんだし」

「では、お言葉に甘えまして。それと……」

「何かしら?」

「強引に多様性を排除するというのは、私も賛同しかねますね」

「あら。意見が一致してうれしいわ」


初めて女の目が笑った。グラスをテーブルに置き、ポーチから今度はトランプのようなひと揃いのカードを取り出す。


「失礼ですが…… ドクター、とお呼びすればよろしいんですか?」

「お好きなように。『ビューティフルラブ』って呼び捨てでも構いませんよ、俺さん」


女が流れるような手つきでカードを切る。その間も自分の手元を見ようともせず、視線は俺の目にしっかりと据えられていた。


「ではドクターで。ドクターはこの町にお住まいで?」

「ええ。正確に言えば亡くなった主人の家がマリブにあったんですけどね。もう売ってしまいました。女一人で部屋数が18もあるような家に住んでても仕方ないでしょ? それで今はこのホテルに住んでるようなものです。ご家族は?」

「妻と、7歳になる娘が」

「素晴らしい! 主人も私も結婚が遅かったからかしら、とうとう子供は授からなかった。でも今じゃ、大して気にもならない。人生って残酷ね。俺さんはお幾つ?」

「42です」

「あら、私より三つ下なの。でもご苦労はなさってるようね」

「いえ、大した苦労は」


女は入念にカードを切ってから、テーブルの上に並べ始めた。
ウエイターがコニャックのグラスを俺の手元に置き、ワインのグラスと空のボトルを持って去っていく。


「ご馳走になります」


そう言ってグラスを持ち上げると、女は俺に小さく頷いてからテーブルに視線を戻した。


この女は、敵ではない。
そう思いたかっただけかもしれない。ただ俺としても、無闇に警戒心を浪費するのがそろそろ面倒くさくなってきていた。


「ドクターのお仕事は、医療関係で?」

「いいえ! 自分でドクターと称してるだけです。博士号も持ってないし。あなたのお国では、自称何々とか呼んで軽蔑なさるようね」

「うーん…… 否定しがたい傾向ではありますね」

「私は精神分析家なの」

「精神分析家?」

「そう。といっても正規の訓練は受けていないし、国際団体公認の精神分析家ってわけじゃないの。正確に言うなら…… 前世期の初めに撲滅されたことになっている流派の流れを引いているんです。神秘主義の考え方を強く受け継いでいるから、自分で言うのも変ですけど、だいぶ胡散臭い部類に入るんじゃないかしら」

「はぁ……」

「でも、定期的に私のところへ分析を受けに来るお客様もいるのよ。この国と違って、南半球側へ行くと私みたいな者にも結構な需要がありましてね。それに、精神科医みたいに法外な料金を取ったりしないし」


カードは、女の手元にまず5枚。その先に4枚、次に3枚と、俺に向かってくる楔が形づくられていく。
女が続ける。


「このカードはね、120年前この国に渡ってきた私の祖先が、故郷から持ち込んだものなの。そりゃ現物じゃなくて、当時のものを復刻したという意味ですけど。タロットはご存知?」

「多少は知ってます。大アルカナなら大抵は」

「そう。なら話が早いわね」


俺を目がけて進軍する5段の楔型陣形が完成した。
女が残りのカードをケースにしまい、コニャックのグラスを口に運ぶ。俺を見つめるダークブルーの瞳。目が笑っていない。


「私の家に伝わるものには、普通のタロットと違って大アルカナに特殊なカードが混じってるの。この特殊なカードは、祖先の住んでいた土地土地によっていろんなバリエーションがあって、種類も枚数も一様じゃない。

……なぜそうなったのか。世間で通用してるタロットに何かの混乱を持ち込みたくてそうしたのか、それとも、祖先の故郷に伝わる、もっともっと古い歴史があるのか……

その辺がよく分からないっていうより、私の母も祖母も、たぶん知りたくなかったんだと思う。そういうことってあるでしょ? 知ってはならないし、知りたくもない禁忌。ひょっとすると、それが、まさにこの国に渡ってきた理由だったりするかもしれないし。……私の家系自体にもそんなところがあって、詳しいところがいろいろと」

「神秘的ですね」

「うまい言い方をなさるわね。では俺さん」



女が勢いよく背筋を伸ばしたので、弾かれたみたいに俺もそれに倣った。
放課後に居残りを命ぜられ、教師と一対一の授業を受けさせられている小学生みたいだと思った。


「あなたの前に15枚のカードがあります。どれか1枚めくっていただけます?」


楔隊形は頂点が1枚。俺は大した考えもなく、2段目の2枚のうち向かって右側のカードに手を伸ばし、めくった。


……白地に、黒い線で浮世絵のような男が描かれている。


頭に丁髷を乗せ、腰に刀を差して羽織袴を身に着けている。
つり上がって太く誇張された目尻、不自然に大きな鼻と顎。そういった横顔の特徴に、明らかな役者絵の影響が見て取れる。
刀に添えた手の親指は鍔に掛かっていた。

男の周囲では、蔦のような2本の曲線がアールヌーヴォー風に絡み合い、飾り枠を形づくっている。


俺の国で昔、勢威を振るった特権階級。腰に大小の刀を差して闊歩し、「無礼者!」の一声で庶民を斬り殺すことが公然と許され、恐れられたと伝えられる戦士の末裔。


「侍」(SAMURAI)だ。


「『彗星』をお引きになったわね」

「彗星?」


俺を見る女の眼差しが変化した。

ついさっきまで、露骨な興味をあらわにしていた目の光が消えた。代わって、凍り付いたような無表情がその瞳を覆っている。
まるで、追いすがろうとする者の前を突然高い壁で塞いでしまったかのように。


「ここに並べた15枚は全部大アルカナなのだけれど、私のカードには3枚の『彗星』が混じっています。それぞれが大アルカナのうち『隠者』と『月』それから『世界』の代わりをしてるんです。あなたが引いた『侍』はこの三つのうちのどれかを代理しているというわけ」

「三つのどれか? 決まってないんですか?」

「そう。『隠者』『月』『世界』のどれを代理しているかは、その時によって違うの。それだけじゃなくて、時には、正位置でも代理しているカードの逆位置を意味していたり…… かなりぐちゃぐちゃなのよ。

……そんなふうに、惑星と違って公転周期が不安定って意味で『彗星』なのね。で、カードの意味もその時の月齢とか、太陽の位置でガラリと変わるから、それはもう、説明は難しいんです」


俺は混沌とした記憶の中から自分の生半可な知識を探った。


「『隠者』と『月』、それから『世界』。共通しているのは……」

「そう、まずはそこから」

「……旅、ですかね」

「まあまあのところは突いてるわ」

「で、『彗星』の他の二つは?」

「『蝙蝠』と『肉迫』。あ、ご存じでない方には、名前を聞いただけではどんなものか分かりません。『隠者』『月』『世界』のどれにもなり得るんですもの」


俺は「降参だ」というジェスチュアのつもりで、オーバーになり過ぎぬよう軽く両手を広げて見せた。


「……どうか意地悪はご勘弁を。結論から行くとどうなんでしょう? 私の運命は?」

「お知りになりたい?」

「どうぞ。もう決められてしまったなら、受け入れるしかない」


本気かお前。
往生際が悪いくせにずいぶんと殊勝なことを言うな。


「そう。では、一つお聞きするけど」


女は言葉を切り、深いため息をついて唇を噛んだ。
白人の、しかも女がこういう仕草をする時ほど容易ならぬ状況はないことを、俺はこの町に在勤していた当時思い知らされている。

俺は息を呑んで女の言葉を待った。


「あなた…… 『ハラキリ』なさる?」

「『ハラキリ』?」


聞き違いでなければ、女はこう言ったのだ。


Would you like to do hara-kiri?


どうして。俺は死にたくないからこの国に来たのだが。


「そうハラキリ。侍が刀で自分の腹を切り裂いて自殺すること。私の理解だと、あなたの国の侍はそうやって、自分の肉体をもって魂を贖うのだそうね」

「いや、必ずしもそういう意味では」


俺は顧客の機嫌を損ねかけた営業マンみたいにあわてた。そしてそういう連中がよくやるように、相手の鋭鋒をしのぐべく、中身の薄い言葉を並べるのに躍起になった。


「現代の感覚からすると、魂を守るというより、死によって責任の所在や事の真相を闇に葬る側面が強いように思います。正直言って、私はあまり称賛できませんね」


接見室で弁護士に冤罪を訴える被告人みたいに、悲壮な表情になっていなかったろうか。

ドクター「美しい愛」はそんな俺の顔が見るに堪えないかのように、テーブルに視線を落としてカードを集め始めた。


「そうですの? ただ私は、先ほども申し上げたように、文化の多様性には敬意を払っています。私自身は宗教的な立場から自殺を肯定できないけれど、俺さんの国でそれが魂の救済手段とみなされているのなら、尊重されるべきかと。いかが?」


集めたカードを残りの札と一緒に束ねてポーチの中に戻し、女は視線を上げた。
その表情からは、ケシ粒ほども悪ふざけの痕跡が見いだせない。


いかが?


酔いが醒めていく。傲然と俺を見据える女の目をそれ以上正視することができず、俺は自分のグラスに手を伸ばした。


確かに、女がカードを並べ始めた時から妙な雲行きになっている予感はあった。
女の膝の上にある、唐草模様入りの小洒落た婦人用小物入れから次は何がお目見えするんだろう。ハラキリ用の短刀か。それとも拳銃か。


気がつくと、俺のグラスは氷だけになっていた。そのグラスを、俺は目の高さまでに持ち上げた。


「いい酒ですな。これがお気に入りですか?」


たぶん俺は、酔ったふりをしながら、おびえと追従を混ぜて搗き固めたみたいなとてつもなく醜い笑みを浮かべていたはずだ。

皮肉の混じった笑いが女の顔に浮かぶ。なぜか俺はそんな女の目を、今度はまっすぐ見返すことができた。
いい酒は時として、虚栄心の味方をしてくれる。SAMURAIにふさわしからぬ、卑怯な逃げを打ったにしても。


「ごく普通のレミーマルタンですけど。同じお酒ばかりだと飽きますからね。そういうローテーションは決めています」

「めでたいですね、ローテーションに入れるというのは。私もあやかりたいもんだ」

「ご謙遜を。大事な出張を任されてるじゃありませんか」


「私もあやかりたい」──あえて無遠慮な言葉をぶつけてみたのだが、やはり女の態度は頑強な古城のように小揺るぎもしなかった。
古いヨーロッパをこの西海岸で守り通しているような手合いとは、たぶんそういうものなんだろう。


女が、急ぎの用件を思い出したみたいにグラスに残った酒を干す。どうやらこの場には短刀も拳銃も出番はなくなったらしい。
俺は女に気づかれぬよう、安堵の息を長く吐いた。


「お食事中お邪魔しました。愛すべき俺さんのご出張が成功のうちに終わりますように」

「お気遣い感謝いたします。いや、思いもかけず楽しい時間になりました」

「おや、それは光栄です。……ところで先ほど、『神秘的』っておっしゃいましたわね」


完璧と言っていい社交的な笑顔で、首を微かに傾げる。この国の支配的地位にある白人連中が、何かの拍子に示すこの種の表情。俺にとってはいまだに謎だ。


「ああ、何か失礼に聞こえましたら、ご勘弁ください」

「いえ、そうじゃありません。ただ、そういった『神秘』ですけど、あなたご自身の出自に関しても、思い当たることはないかしら?」

「はい?」


女は柔らかな笑顔を崩さぬまま、軽く頷いて立ち上がった。そして俺が入ってきたところとは反対側の、レジのある出入り口へ歩いていった。

姿を消すまで、女が振り返ることはなかった。


─────



客室に戻ると、夜の10時を回っていた。

俺は出国前にOFFにしていたスマートフォンの電源を入れた。

電話着信が全部で18件、メールが9件。
思ったほど多くはないが、メールの中身どころか発信元も見る勇気が湧かない。

海の向こうでは午後3時になっている。とっくに騒ぎが持ち上がっているだろう。


俺はスマホの電源を切り、顔を洗おうと思って洗面所に入った。

洗面所のライトに照らされる範囲にあったのは、歯ブラシと髭剃り、石鹸、それからプラスチック製のコップ。


覚悟を促すメモを添えた短刀など見当たらない。


普通、ホテルの客室というのは侍が自害するように用意はされていないものだ。


洗面台に頭を差し出し、冷水を浴びる。石鹸を顔になすり付け、軽くこすってから、冷たいままの水を頭からかけて洗い流した。
そして髪の乾くのもそこそこに、備え付けのガウンに着替えた。


あの「美しい愛」女史にまた会った時、俺は「まだハラキリなさってないの?」と、やんわり詰られるのだろうか?
こちらの事情をご存じないとはいえ、きついジョークを言う人だ。

逆に、俺がこの国に来た本当の理由を彼女に打ち明けたらどうなるか。バカな被害妄想だと一笑に付されることはない気がする。

ただし、……俺が決意し、ここまでたどってきた行動を理解してくれるかどうかは別だ。


子羊は、何も身に覚えがなくても命を奪われる。
なぜなら命を奪う側には、子羊のあずかり知らぬ論理がある。
せいぜい子羊は逃げ回るがいい。


この世界で過去数世紀の間、彼女たち白人が織り成してきた歴史はそういうものだった。
そこで子羊が発した悲鳴、呪いの叫びは記憶から消去される。可能ならば記録からも。

あるいは入念に「毒気」を抜かれた上で、商品として市場に出回る。


だが、何とか逃げ回っている子羊にとって、迫害者の都合を忖度するいかなる理由もない。自分の身を守るためにあらゆる手段を講じるのは子羊の正義だ。


ならば俺も、亡命者として無為に日を過ごしているだけではだめだ。
いざとなれば、この国の人権保護団体に訴え出て、王の非道を国際世論に暴露する手だってある。


そうなればまさに、俺は王を向こうに回して戦いを挑むことになる。
本当にその覚悟があるのか?

そして、俺と同じ境遇にあって息を潜めている生存者が声を上げ、共闘に名乗りを上げてくれるのか?


いや、やはり…… もう少し状況を見極めてもいいだろう……


籐椅子に腰かけ、テレビをつけた。

普段でもドラマなどは見ないのでニュース番組を選ぶ。

東海岸の金融市場はここ一週間一進一退。大統領予備選で頭一歩抜け出している大富豪がきょうも怪気炎…… 大して興味を引かない国内ニュースに続き、「世界の動き」が始まる。

俺の国のニュースが真っ先に始まり、椅子にふんぞり返っていた俺は少し姿勢を正した。


いきなり、「俺の家」が映った。


似たような形をしている住宅なんていくらでもある、そう思いたくても、門扉から庭の植木の形から、俺が後にしてきた時と寸分違わない。
そんな家がこの異国のテレビ画面に、曇り空をバックにして映っている。


まさか。俺の家のわけがない。躍起になって自分にそう言い聞かせようとしている間に、画面下にテロップが浮かび上がり、記者の声が流れた。


「本日、△△社商品開発チームリーダー、俺さん(42)が失踪した件について同社は、『詳しい情報は何も入っていない。急きょ人事部を中心に対策室を立ち上げたところだ』と話しており……」


2年前の社内旅行で撮った俺の写真が画面に大写しになった。

宴会場で浴衣を着て、カメラに向かって歯を見せている俺。

全身が総毛立ち、食ったばかりのローストビーフと卵サンドを吐きそうになった。



何だこれ。

いつもの出勤時間からまだ7時間くらいしか経ってないだろ? なのにもう、あの写真がテレビ局の手に入ってるのか?


いや、そんなことより、一企業の中間管理職にすぎない男が行方をくらましたのがどうして、海外ネットにまで拡散するようなニュースなんだ?
テロ組織にでも拉致されてるならともかく、今の時点では行方不明ってだけだろ?


けたたましい音を立てて電話が鳴り、俺はソファから飛び上がった。
すぐに出る気になれず、コールが3回鳴ったところで受話器を取って耳に当てる。フロントからだった。

>>86訂正

俺はソファから飛び上がった→俺は椅子から飛び上がった


「もしもし。俺様でらっしゃいますか?」

「……はい」

「ニュースは御覧になりましたか? たった今、私どもの方でレジスターを確認いたしました。テレビに出ていた写真は俺様でいらっしゃいますね?」

「あ…… はい」

「で、いかがなさいますか?」

「というと?」


2秒ほどの沈黙。フロント係の苦り切った顔が目に見えるようだった。


「当方としては、俺様の責任で対処していただくことを期待しております。早急に総領事館へ連絡なさるべきではないかと」

「あ、いや、どうするか、少し待っててもらえますか」

「差し出がましいようですが早急な対応をお願いいたします。他のお客様のご迷惑になる事態は私どもとしては歓迎いたしかねますので」

「……分かりました」


電話は切れた。

畜生。油断してればこのありさまだ。どうしよう? 諦めて総領事館に連絡し、しばらくこの国に滞在すると言って頑張り通すか?

いや、王が本気なら迎えを寄越すんじゃなかろうか。そうなったらさっそく、この国に保護を求めなきゃならなくなる。

行方をくらましたとしても、追っ手が相当しっかりしてるならかえって窮地に追い込まれる。
……警察にでも駆け込んで、事情を打ち明けるしかないか。でも本当にこの国が親身に助けてくれるか、やはり不安だ。


そんなことを考えながら、同じニュースが他のチャンネルでも流れていないかリモコンを手にあたふた選局しているさなか、再び電話が鳴った。
受話器を取ってみると、やはり同じフロント係だった。しかしその声からは急き立てるようなトーンが消えていた。


「外線からでございます」


外線が転送される。俺の耳に聞こえてきたのは英語ではなく、逃げ出してきた国の言葉だった。


「俺さんでいらっしゃいますね? 私は総領事館の者です。既にご案内の件につきまして、こちらまでご足労願いたいと思って電話いたしました」

「……私がここにいると、どうして分かりました?」

「本省の方で航空会社とトラベルサービスに照会いたしました。根拠法令等の説明がご必要ですか?」

「いえ……」

「では、あと20分ほどで担当の者がお迎えに上がります。夜分慌ただしいことと存じますが、お仕度をお願いします」

「20分? もう夜の11時ですが」

「本省とも協議の上、緊急対応案件と判断したのです。俺さんも同じご理解と存じますが?」

「いえ。なぜ緊急なのでしょう?」


『カマトトぶる』という言い回しの意味を、ある種の苦さとともに知ったのは19歳の時だった。俺の国では、そういう振る舞いを何かと卑しむ傾向がある。

だが時と場合によっては、そう振る舞いたくもなるのが人情ってもんだろ!


「緊急である理由は、既にご承知のはずでは?」

「そう……ですか」

「ではご準備の方をよろしく」


いかにも急な用事を控えている気配で電話は切れた。

この国へ着いて、何となく安全圏に入った気になっていたのは甘かったようだ。
俺はガウンを脱ぎ捨て、ホテルに着いた時の服装に着替えた。所持品もバッグの中に詰め込み、電話が切れて3分で客室を飛び出した。

20分と言っていたが、そんな悠長に構えているとは思えない。とにかく、総領事館の担当者が着く前に脱け出さなくてはならない。

少しでも長く生きていたいのならば。


エレベーターで1階に降りると、案の定フロントにはチェックインした際の中年男がいた。そして俺の顔は、テレビに映った有名人としてたぶん鮮明に記憶されてしまっている。

しかし、絶妙のタイミングで玄関から数十人の団体客がなだれ込んで来ていた。俺は自分がカードキーを持ったままなのをすっかり忘れ、団体客の流れに紛れて玄関を抜けた。


タクシーは一台もない。やむなく近場のタクシー乗り場まで行こうと決め、エントランスの階段を下りて駐車場に足を踏み出したところ、こちらに後部を向けて止まっている黒いワンボックスカーが目に入った。

プライバシーガラスを嵌めたリアウインドーの奥で何かがうごめいている。嫌な予感がして、とっさに距離を取ろうとしたが間に合わなかった。
後部ドアが開き、紺色のジャージを来た屈強そうな男が5人飛び出してきた。

俺は囲まれた。ざっと見たところ、白人が2人にメスティーソが1人、黒人が2人。その中の、一番年かさに見える白人が英語で喋りだした。


「俺さんですね? お迎えに上がりました」

「あなたたちは?」

「総領事のところまでお送りします」


言葉遣いは丁寧だが、有無を言わさぬ圧力が込められている。
何より、俺を取り囲む5人が5人とも、これからどこかへ乱闘に出向くみたいな凶暴さを全身から発散していた。

それでも俺は、一応は儀礼じみた抵抗を試みた。


「だってあなた方は私の国の人間じゃないでしょ」

「私たちは俺さんをお届けするよう言いつかってるだけです。ご乗車ください」


万事休す。俺は囚われの身になった。

両脇を抱えられるようにして、後部ドアからワンボックスカーに押し込まれる。後部座席はいかにも護送車然として、窓を背にしたシートが向かい合わせになっていた。俺は運転席に向かって右側に黒人二人に挟まれて座った。

車が発進した。正面に座っている白人とメスティーソは俺の顔を見ようともしない。

俺は逡巡した挙句、リーダー格に見える年かさの白人に話しかけた。


「総領事の用件は?」


相手が顔を上げた。無表情に俺の顔を2、3秒見つめてから口を開く。


「総領事に聞いてください。我々は何も答えられない」

「さっき総領事館から電話がかかってきて、20分くらいで出迎えに来るって言ってたんだが。少し早すぎないかな……?」

「そのあたりも我々は聞いていない。詳しいことはいっさい」

「そもそもあなた方は、……政府関係者なの?」

「さっきも言ったように、あなたを連れてくるよう指示されただけです。それ以上言うことはない」


最後の言葉に威迫するような力を感じて、俺は黙り込むしかなかった。


車はフリーウェイに入ったらしく、かなりのスピードを出している。男たちは厳命されているかのように、互いにいっさい口をきかなかった。


妙だ。車が長い上り坂に入っている。
ふと向かい側の窓を見ると、山の影が夜の闇に黒々と映っていた。背筋に冷たいものが走り、思わず隣の黒人に話しかけた。


「あの…… 本当に総領事館に向かってるのか?」


黒人は答えず、返答を促すような目くばせを正面のリーダー格に送る。
黒人の放った視線はほぼ同じ角度で反射し、ぶっきらぼうな口調とともに白人男から俺に返ってきた。


「もちろんだ。どうかしたか」

「この車は峠道を走ってるようだが。総領事館は逆方向だろ?」

「そんなことはない」


そう言って男は腕時計を見た。


「もう少しで着く。間違いなく総領事館だ」


車が右に旋回し、坂を下っていく。フリーウェイを下りたらしい。

首を回して背後の窓を見ると、鬱蒼とした木立の濃い影が、切れ目もなく流れている。
いつまで眺めていても、人家が見えてきそうな兆しさえない。心臓が拍動を速め、額に冷たい汗がにじみ始めた。


車が急に速度を落とし、運転手が左にハンドルを切った。運転手が窓を開け、左手を外に出している。外に誰かいるらしいが、何をしているのかは全く見えない。

何かの手続きは終わったらしく、運転手は窓を閉めて車を発進させた。


やはりどこかの敷地内に入ったらしく、ワンボックスカーは騒音を立てるのを遠慮するかのように、闇の中を緩やかな速度で進んでいった。しばらくして車はゆっくりとスピードを落とし、停止した。


メスティーソが立ち上がり、後部ドアを開ける。冷気と闇が車内に流れ込んできた。
他の男たちは座ったまま、立ち上がる気配がない。正面の白人男が言った。


「降りろ」


躊躇する俺を、両側の黒人が脇を抱えるようにして立たせた。

男たち全員が、俺を突き刺すような目で見ている。
その眼差しからうかがえるものは、ひと言で言ってしまえば「敵意」だった。一片の親しみも感じることができなかった。

俺がいたたまれない気持ちで降りるとすぐに、後部ドアは激しい音を立てて閉じられた。

ワンボックスカーはタイヤの軋る音を響かせて方向転換し、来た道を引き返していった。


……俺はしばらくの間、飼い主に置き去りにされた犬みたいに、ワンボックスカーが去った闇の方向を凝視していた。
とりあえず俺は、どこかに監禁されたり、重りを付けて太平洋に沈められたりはしなかった。


そして今。俺の背後には照明があるらしく、妙に明るい。車から降りた時、そこにあるものは一瞬だけ視界に映った。

俺は、視界に映ったものを頭の中で反芻してから、諦めのような覚悟が固まるまで待った。
そしてゆっくりと背後を振り向き、改めてその光景を確認した。


幅3メートルほどのタイル張りの通路が、闇の奥へと延びていた。その通路の両側に、動物のマスクを被りタキシードを着て蝶ネクタイを結んだ男が4人ずつ並び、向かい合って立っている。

8人全員が、左手首を右手で持つ姿勢で直立不動。皆、被っているマスクはそれぞれ違う。犬、馬、ライオン、ヤギ、牛、猿……


通路の表面は大理石を模したような乳白色に輝き、足を踏み出そうものならたちまち滑って転びはしないかと危ぶまれるほどだった。

こうした光景が、街路灯型の2本の照明によってまばゆいばかりに照らし出されていた。


動物マスクの男たちは身じろぎもしない。

通路の先には東アジア風の楼門があった。瓦屋根の廂の下、漆塗りの一枚板に文字を彫り込んだ扁額が見える。俺は目を凝らしてそれを読んだ。

筆記体のアルファベットを2列彫り付け、さらに念入りに黒い塗料でなぞってあった。


     SO─RYOJI
      KWAAAN


これを「総領事館」と読めということなのか。ホテルを出た時から始まった悪ふざけが、ここへ来て極まった感じがする。

その時、マスクの男たちが動いた。一糸乱れぬ動きで獣人の顔を俺に向け、白い手袋をはめた片手を楼門の方へ差し出す。
その姿勢が見事な左右対称を形成して、門の奥へと進むよう俺に催促している。


もちろん、躊躇しないわけはなかった。しかし背後を振り返ると、菅笠と蓑をまとった怪物が2体、俺の退路を塞ぐように闇の中から歩み出てきた。


河童だ。

カエルのような顔、背中に亀の甲羅。それぞれ、身の丈を超える長さの金属の錫杖を手にしている。

2体の河童はそれぞれの錫杖を俺の正面で交差させ、×印をつくった。

後戻りはまかりならぬ、ということらしい。



無理にでも戻ろうとすれば危害を加えられそうな気がして、やむなく俺はタキシードの獣人たちが進入を急かしている楼門の方へ足を進めた。

獣人たちが、前を通り過ぎる俺の進行方向へゆっくりと首を回す。通路に沿って左右対称に並べられた4対の手は微動だにしない。
みぞおちのあたりに何とも言えぬ違和感を覚えながら、俺は楼門をくぐった。


俺が三度目に振り返った時にも、照明の影になった獣人たちは見送りの姿勢を崩さなかった。河童も錫杖を交差したままじっとしている。


来訪者を混乱させるだけの仕掛けにしては、ずいぶんと手が込んでいる。

俺は、この町に世界で誰知らぬ者のない映画産業の聖地があることに思い当った。
この奇怪な演出も、ことさら俺を惑わす意図で行っているのではなく、演出自体が目的なのかもしれない。


つまり俺の行動自体が、どこかで誰かがフィルムを回している映像の一部になっている可能性。

では、どこからフィルムは回り始めたのか。

俺がホテルを出た時から?
レストランで「美しい愛」女史と語らいを始めた時から?

それとも、……あの証券野郎がオフィスに現れた時から?


門を抜けて50メートルほど先に、古い写真でしか見られないような瓦葺き屋根の木造建築物が、闇の中に濃い影を屹立させている。
その高さは優に3階建てはあると思われた。

総領事館と名の付く公的施設が、こんな外観の建物に入居していることはまずあり得ない。


俺は誘い込まれるように、淡い間接照明で斜めに照らされた扉に近づいた。
正面に達すると、木造の観音開きの扉が、触ってもいないのに重々しい軋みを立てて開く。


内側で撮影スタッフが開けたのか、手の込んだ機械仕掛けなのか。とにかく俺は中に足を踏み入れた。

ここで「カット!」と映画監督の叱声でも飛んでくれば、俺はどれほどほっとしたか知れない。


3階建てと思われた内部は古い銭湯みたいな吹き抜けのホールとなっていて、3階に当たる部分の壁にそって手すりの付いた回廊が巡っている。

高い天井からはバカでかいシャンデリアが、絢爛たる光で内部を隅々まで照らし出していた。


そして──そんな無闇に広く明るいホールの中央で、大道芸の道化じみた風体の男が一人、一輪車を乗り回していた。

その男が俺を一瞥し、両手でバランスを取って輪を描きながら叫ぶ。


「俺が総領事だ! 頭が高い!」


総領事と名乗った男は、顔面だけを外に出し、頭からつま先までがひと繋がりになる焦げ茶色のタイツのような衣装を身に付けていた。
そんな衣装の頭部から2本の突起物が垂れ下がり、ぶらぶらと揺れている。


そして外に出した顔を白く塗り、真っ赤な口紅を引いている。歳は五十前後と見えた。


「お前は、総領事ならば通常、このような風体でこのような振る舞いは絶対にしないと思い込んでいるな? だがそういうものではないぞ。俺はな、そんじょそこらの総領事とは違うのだ! 特別な総領事なのだ!」

「その通り。このお方はいわば、『総領事一般』なのだ!」


聞き取りにくいだみ声とともに、もう1台一輪車が現れた。これは乗馬服に身を包み、頭からウサギの被り物を被っている。

2台の一輪車が、来訪者である俺の前で入り乱れ、乱舞した。


「かく言うこのウサギ野郎は副領事だ! そして副領事の中の副領事なのだ! おい、首席領事はどこへ行った?」

「腹が痛いと言って退庁いたしました! 総領事の中の総領事どの!」

「けしからん奴! いずれ根性を叩き直してやる! おいそこのお前」


茫然と立ち尽くす俺は、自分に声をかけられているとはすぐに気付かなかった。


「私……?」

「そうだ、『お前』と言ったら他に誰がいる。我々はな、総領事あるいは副領事なるものについてお前が抱いている先入観を打破せねばならないという、切実な職務意識に駆られているのだ!」

「もちろんここに不在の首席領事についても同様だ!」


「総領事」を補佐する格好でウサギが怒鳴り声を上げる。

門の外にいる連中のことが気になる。とにかく、彼らを敵に回すのは得策ではないと俺は判断した。


「ここがどちらのお国の総領事館かは存じませんが、皆さんの職務には敬意を表します。……ただ」

「ただ何だ!」


「総領事」が耳を聾さぬばかりの大声を出した。


「ただ、私に特段のご用がないのであれば、このまま失礼して差し支えないのでは?」

「ならなぜお前はここにいる?」

「それは、……先ほど、使いで来たという方々が、私をここへ連れてきたのですが」


「総領事」とウサギは顔を見合わせ、腹を震わせながら笑った。


その時、ホールの右奥から何かが転がり出てきた。それは……表面に地球が描かれた、直径1メートル以上はあるボールの上で玉乗りをしている小人だった。

小人はパジャマのような縞模様の服と、房の付いたナイトキャップ風の帽子を身に着け、器用に地球を転がしていた。


「お前はペーペーの領事官補ではないか! 担当業務について現況報告せよ!」

「はい報告いたします総領事閣下!」


すかさずウサギが、一輪車の上で体を揺らしながら叱声を飛ばす。


「やり直し! 『総領事の中の総領事閣下』と申し上げるようにあれほど言ったではないか!」

「申し訳ありません、総領事の中の総領事閣下! 現況報告いたします!」

「いいか領事官補よ、総領事の中の総領事どのはな、地軸の傾斜すらお認めにならぬほど潔癖であられるのだぞ! 復唱せよ! 地軸は公転面に対し直角に修正されなければならない!」


大汗をかいている小人が、地球の上で危ういバランスを維持しながら復唱した。


「はッ! 地軸は公転面に対し直角に修正されなければならない!」

「23.5度傾けた者に呪いあれ!」

「23.5度傾けた者に呪いあれ!」

「よろしい! 報告を続けたまえ!」


「はッ! では現況報告いたします! 綿密なる調査を実施いたしましたところ、『俺』はホテルを抜け出し行方をくらましたもようでございます!」

「何ィィィ!」


「総領事」が金切り声を上げた。白塗りの顔に血が上っているのが、俺の目にもはっきり分かった。


「おのれこの期に及んで逃走を図るとは何たる卑怯未練な奴。追っ手を差し向けなくてはなるまい!」

「なりますまい!」


ウサギと玉乗りの唱和に続いて、「総領事」が一輪車で輪を描きながら叫ぶ。


「『新選組』出動!」


部下たちの唱和が続く。


「『新選組』出動!」

「ところでそこのお前。ここにまだ用があるのか?」

「は?」


迷惑そうに俺を見る「総領事」と目が合った。

やはりこの連中はまともじゃない。たぶんここは精神病院の隔離病棟か何かだ。

ワンボックスカーで来た男たちは施設の職員で、何かの間違いで俺はここに送られてしまったのだ。

それにしても、なぜ「俺」の名を知っているんだろう?
確か、「俺」に追っ手を差し向けると言ってたようだが……

いや、とにかくこの道化たちが追っている「俺」という奴は、詳しい事情は知らないが、けしからんことにホテルを抜け出し、行方をくらましているらしいのだ。

ならばこの上は彼らの職務を妨げぬよう、速やかに退出すべきだろう。


「見ての通り、我々は非常に、非常に忙しいのだ! 些末な案件と言っては失礼だが、後日対応するので、出直してはいただけないかな!」

「出直してはいただけないかな!」

「では、……よろしいんですね? この辺でお暇しても」



「総領事」が顔をゆがめて舌打ちし、指を鳴らした。
すると、回廊へ上がる階段の下から、どれも同じ猿のような面を着けた黒服の男5人が飛び出してきた。


男たちは階段下に設けられていた腰ぐらいの高さの扉を開け、ごそごそ何かやっている。

一方、目の前の「総領事」が、自分のテクニックに酔いしれたように一輪車でスラロームしながら怒鳴った。


「これも公務のためだ! 急ぎでないなら出直していただこう!」

「いただこう!」


男たちが、扉から引っ張り出した消火栓のホースを俺に向けた。勢いよく吹き出した水を俺は正面から浴びせられた。

抗議の声を上げる間もなく、凄まじい水勢に押され堂外にころげ出る。
振り返った扉の奥に、「総領事」とウサギ、小人がそれぞれの小道具に乗ったまま大笑いをしている姿が垣間見えた。

「総領事」は何事か叫んでいたが聞き取れない。すぐに扉は、駆け寄ってきた猿面の男たちの手で、うめき声のような音とともに閉じられた。


そして道化たちが演じた笑劇の余韻に浸る間もなく、今度は背後から数人の気ぜわしい靴音が響いてくる。
俺は振り向きもしないうちに、案内係の獣マスクたちにつかみかかられた。


「あの、乱暴はやめてください! 自分で帰れますから!」


馬やヤギ、ライオンのマスクをかぶった男たちは俺の懇願になど耳を貸さず、腕や肩をつかんで引きずっていく。

そうして〈SO─RYOJI KWAAAN〉の扁額が掛かった楼門を抜け、照明に照らされたタイル張り通路の上に出た。


楼門が背後に遠ざかるのを見て、たぶんここから叩き出されるだけだろうと思った俺は無意味な抵抗をやめた。


獣マスクたちも、俺の腕や肩を押さえ付ける力を抜いていった。
俺は取り押さえられたばかりの容疑者さながらに左右を固められ、ワンボックスカーが通ってきたらしい道を連行されていく。


短い暗がりを通り抜けると、木立の間をうねりながら続く舗装された小道に出た。


道の両端にはソーラー投光器が5メートル程度の間隔で地面に配置され、光る巨大な蛇のような小道の形状が、闇の奥に向けて浮かび上がっている。

差し迫った危険はないらしいと感じると、おびえの反動なのか、妙な馴れ馴れしさが湧き上がってきた。
むしょうに話しかけたい衝動に駆られて、俺は両腕を捉えている男たちを交互に見た。


ごく自然な流れで、右側のライオンは避けた。強大な牙を持つサバンナの王への遠慮もさることながら、それ以上に左側のヤギが優しそうだったからだ。
角を生やしているわけでもなく、俺が顔を寄せれば舌を出して舐めてくれそうな愛らしい顔をしている。


「ねえ、さっきの人たち何?」


ヤギは答えなかった。俺は言い募った。


「ここって、精神病院か何か? さっきの人たちは頭おかしいの? 一輪車とか玉乗りが上手だったけど」


ヤギは一瞬、俺に顔を向けた。しかし別に顔を舐めてくれるわけでもなく、即座にその愛らしい鼻先を正面に戻してしまった。
俺はヤギの意を迎えるべく、サービス過剰とも思える愛想笑いをした。


「これひょっとして、映画の撮影? 俺さ、ギャラの話とか聞いてないんだけど」


最後まで言い終わらぬうちに、俺は平手で頭をいやというほどひっぱたかれた。


「痛っ!」


恨めし気に顔を上げれば、ヤギのマスクの下に憤怒の表情を垣間見た気がして、盛んだった俺の舌も否応なしに縮こまった。

愛らしいヤギさんと馴れ合いの関係を結ぼうとした俺の試みは、こうして粉砕された。

こうなると、ヤギの風貌が瞬時にライオンをも凌ぐ威厳を帯びて見える。
反対側のライオンは何も起きなかったかのように黙々と足を運んでいた。


さらに1分ほど歩いたところで、正面に高さ5メートルはありそうな鉄柵のゲートが姿を現した。横幅も優にバスが通れるぐらいはある。
柵は両端の石柱に固定された蝶番部分から中央へと、曲線を描いて天に伸びていた。

さらにその頂点には、投光器に照らされて、アーチ状になった金物細工の装飾文字が見える。

この敷地内の名称なのかと思って俺は目を凝らしたが、期待は失望に変わった。誰かが思い付きで並べた標語のようだった。


  VERTICALNESS BRINGS FREEDOM(垂直は自由をもたらす)


空気抵抗を計算外にした垂直の落下運動を、俺の国の言葉では「自由落下」と呼んだりする。

それが「FREEDOM」をもたらすとは初耳だが、最終的にそこへ行き着くなら、あるいは喜ぶべきことなのかもしれない。
もっともそこに至るまでには、さまざまな艱難辛苦を耐え忍ばなくてはならないのだろう……


俺の解釈はそれ以上先には進まず、実際俺はその標語のことをすぐに忘れた。
男たちは鉄柵の扉を開けると俺を力任せに押し出し、音も高く扉を閉ざして施錠してから引き上げていった。


遠ざかっていく獣人たちの背中。ヤギは振り向かない。ライオンも振り向かない。馬が一瞬だけ振り返ったが、足を止めるわけでもなく、すぐに前へ向き直った。



静寂。


ゲート上部を照らしていた一対の投光器が消えた。月明かりの中に樹木の濃い影が浮かび上がった。

どことも知れぬ山中に俺は一人取り残された。

時計を見れば午前1時40分。車は全くと言っていいほど通らない…… と思っていると、古めかしいピックアップトラックが車体をガタつかせながら走り去る。そして静寂が戻る。


歩くしかない……

俺を乗せてきたワンボックスカーの動きからして、門を出て右方向に進めばフリーウェイの入り口に着くと考えられる。

隣の郡まで連れ出されたわけでもなさそうだから、夜明けまでには市街地にたどり着けるだろう。
運が良ければ途中で流しのタクシーが通るかもしれない。


びしょ濡れになった体に夜の風が沁みた。

あの、総領事と称する道化は追っ手を差し向けるみたいなことを言っていた。

精神異常者のたわ言と片付けるのは簡単だ。実際、ほかでもない「俺」が目の前にいるのに、気付きもしていないふうだった。


しかし、あそこが精神病院ではないとしたら?
最初から俺をターゲットと知った上で、からかっていたのだったら?


考えても無駄だ。殺し屋が近づいているなら、こんなところで走ろうがわめこうが無意味だ。


途中で休みながら2時間ほど歩いた。
東の空が明るみ始め、俺は自分の歩いている方角に誤りがなかったのを確認できた。

〈SO─RYOJI KWAAAN〉を叩き出されてから何も起きていない。まるで王にさえ見放されたかのように、俺は異国で、明け方の道をとぼとぼと歩いている。


歩いている間に、衣服も乾いてきた。見晴らしの良い下り道に入り、中心街が遠望できるところまで来た。


これからどうしよう? カードキーを持ったまま出てきてしまった。とりあえずホテルに戻るか……


さっきの男たちが総領事館の使いを騙る何者かだったら、20分で迎えに来ると言った本物の総領事館職員はどうしたんだろう? 警察に捜索願でも出しただろうか?

そんなことをするわけがない。一国の問題として処理すべき「緊急対応案件」に、何を好きこのんで他国を介入させるものか。

この土地で俺を葬り去る気なら、当然「闇から闇」だ。
もっとも、遺言信託の申込書を書く暇(いとま)くらいは与えてくれるかもしれない。



よし、こうしよう。

まず何食わぬ顔でホテルへ戻る。フロントで、俺の外出中誰か訪ねて来なかったか確かめる。
カードキーを返し、この際だからチェックアウトしてしまう。後の行動は改めて考える。


今の境遇を、信頼できる誰かに打ち明けたい。そんな切迫した思いが高まってきた。それさえできれば、少しは気分が落ち着くと思った。
俺は、この町で頼れそうだと考えていた人々の顔を思い浮かべてみた。

やはり事情を話すとなると、一人しかいない。コワモテで鳴らしていた人物だが、その分だけ義侠心もある。


すっかり明るくなった頃、ようやく市街地にたどり着いた。タクシーを探すが、なかなか空車が見つからない。


疲れ果てて沿道のベンチに座り込んだら、行く当てのない難民そのままに寝入ってしまった。


・・・・・・・・・


目を覚まし、時計を見ると8時半を回っていた。日差しは強くなり、目の前の道路を自家用車やトラックが地鳴りをたてて往来している。
これでよく眠れたものだと自分ながらあきれる。


場所を変えながらタクシーを探し回り、ようやく空車を止めることができた。リアシートに体を沈めて、10時間近く前に抜け出してきたホテルの名を告げる。


エアコンの効いた車内に入って、ようやく人心地がついた気がした。
カーラジオからは「今週のヒットチャート」が流れている。俺は運転手に話しかけた。


「すまないけど、どこかでニュースやってないかな?」

「これは気に入りませんか?」


運転手がぞんざいに応じる。符丁を合わせたみたいに、俺も横柄な口調になった。


「頼むよ。ろくにニュース知らないで出勤すると俺、会社首になっちまう」

「分かりましたよ」


不承不承に運転手がニュース番組を選局した。カーナビの時計が午前9時2分を示している。


ニュースは途中から始まった。


『……レメリックさんとみられる遺体は頭部が無く、市警は犯人が持ち去ったとみて捜査中。なお前日夜、ホテルのレストランでレメリックさんと話をしていた東洋人らしい男性が姿を消しており、市警は事件に関与している可能性があると見て……』

「首をスパッと一刀両断らしいですぜ。サムライの仕業ですかね? 物騒な話だ」

「……まあ、急いでよ。俺も会社を首になりたくねえからな……」


俺の顔には変な笑いが浮かんでいた。

もちろん、無意識で放ったジョークに悦に入っていたわけではない。額には瞬時に冷たい汗が浮かび、シャツの下の胸や背中には鳥肌が立っていた。

そんな顔色を運転手に気取られまいとして、追われる者の擬態がとっさに気持ち悪い笑いになったのかもしれない。

エアコンの効いた車内が瞬時に冷蔵庫になったみたいに、俺は震えていた。


俺は確かに覚えていた。ルイーズ・レメリック。「本名」はビューティフルラブ。

次はこれか。「悪あがきが過ぎる」からって、俺に殺人の濡れ衣を着せようってわけか!


ホテルが見えてきた。俺は建物の50メートルほど手前で、ここでいいと言ってタクシーを止めた。料金を渡す手の震えが抑えられない。


嫌でもホテルは目に入る。建物の周りに非常線が張られ、駐車場はパトカーやマスコミの車でごった返している。上空にはヘリが飛び交っていた。
タクシーを降りた俺は走り出したいのを懸命にこらえて、何食わぬ顔で、とにかくホテルから離れるべく足を速めた。

心臓が早鐘のように鳴っていた。


ホテルから十分に距離を取ったところで、カー用品店の建物の陰に入り、バッグからタブレットを取り出してニュースサイトを開く。


早い…… 準トップの扱いで記事がアップされてる。


「ホテルで頭部のない女性の遺体──男性宿泊客の行方捜査」と見出しを打った記事は次のようなものだった。


   [×月○日未明、ロ○ンゼルス市・・・・のホテル□□□客室で、カウンセラー
   のルイーズ・レメリックさん(45)とみられる遺体を従業員が発見し、警察に
   通報した。現場付近では前日深夜、男女の争うような声と物音を複数の宿泊客が耳
   にしており、LAPDは殺人事件とみて捜査を開始した。現場の客室に宿泊していた
   男性が発生時刻ごろから姿を消しているため、事件の鍵を握っているとみて行方を
   追っている。

    レメリックさんとみられる遺体は客室のドアに近い通路で倒れており、頭部が
   なかった。従業員が発見した時、ドアは開けたままになっていたという。

    現場からはレメリックさんの所持品のほか、男性の名刺が見つかった。男性は
   同ホテルレストランで前夜、レメリックさんと会話しているところを従業員に目撃
   されている。

    レメリックさんは地元では有名な資産家。事件のあったホテルのレストランにも
   時々訪れていたという]


あれ?

確かに、記事を読んでいて引っ掛かったことが一つあった。
だが混乱していた俺の優秀な頭脳は、何に引っ掛かったのかをその時はもみ消してしまった。

どっちにしても、直面している事態に比べたら取るに足らなかったから、忘れてしまったのだ。



さて俺はこれからどうなる? 殺人犯として指名手配されるのか? 殺された方がマシっていうような事態が待ち受けてるのか?


逆に、被害者と話をしていた男は自分だと、市警に名乗り出るのは?

そこでお縄になるにしても、なぜ俺が突然この国へ来たのか、この身に降りかかった災難を公にするチャンスかもしれない。
いや…… かえって偏執病患者扱いされ、狂気に駆られての犯行と疑われかねない。


こうなったらいよいよ、あの人に頼る以外ない。


俺が当てにしていたのは、ここに在勤していた当時、仕事の関係で付き合いのあった不動産業者だった。

一代で事業を成功させて財を築いた、地元では指折りの名士だ。市会議員も1期務めたことがある。
親子ほども年下の俺に何かと親切にしてくれたし、ホームパーティーにも招かれている。

もちろん「家族同然」というわけにはいかないが、太っ腹な人物で、懐に飛び込む窮鳥を追い返すようなまねはしないという期待は十分に持てた。


しかし11年前のことだから、存命中かどうかも分からない。でも事ここに至って、他に頼れそうな人間は思いつかない。


周囲を見渡し、少し古びた外観のカフェを見つけた。
入ってみると、朝の繁忙時間帯はピークを過ぎていて客はさほど多くなかった。

それでも俺は人目に付きにくい席を念入りに探し、コーヒーを頼んでトイレに立った。

トイレの手前に、うまい具合にコイン投入式の電話があり、電話帳も置いてある。
俺はコーヒーが来るのも待たずに電話機に歩み寄り、電話帳をめくった。


「D.C.F開発」…… 少なくともまだ会社はある。俺は何から話すべきか内容を頭の中でまとめてから、その会社にダイヤルした。

コール1回で電話がつながり、受付の女性が出る。ニュース記事で俺の名はまだ出ていなかったが、やはり名乗るのはためらわれた。


「こんにちは。デニス・クラインフェルド社長はいらっしゃいますか? 以前、社長に大変お世話になった者なのですが」

「社長はまだ出社しておりません。12時過ぎになると思います」


やはり重役出勤か。しかし生存が確かめられただけでも成果はあった。俺は「分かりました」と言って電話を切った。
正午まであと2時間半ある。俺は個人の電話帳からデニスの名を探したが、やはり掲載されていなかった。


俺はデニスの住所近辺の電話番号と、自分の記憶を照合して、数字を発掘する作業にかかった。

うっすらと浮かび上がってきた記憶を、俺は電話台の横にあったメモ用の紙片に書きつける。

そしてその番号にダイヤルした。


出ない。呼び出し音だけが延々と続く。


コールが30回を超えたと思ったところで、俺は受話器を置いた。


妙な胸騒ぎに襲われながら、俺は自分の席に戻る。冷え切ったコーヒーが俺を待っていた。

コーヒーをお代わりし、10分経った頃合いにもう一度同じ番号にかけたが、聞こえたのは呼び出し音だけだった。留守番電話にもなっていない。

さらに5分待ってもう一度。今度はコールを10回数えて諦めた。


俺の記憶していた番号が間違ってないなら、これは変だ。
昨日関わり合いになったばかりの女性が殺されたことといい、俺はこの町にとてつもなく迷惑なものを持ち込んでしまったのだろうか。


デニスの家なら知っている。高級住宅地のB.ヒルズ。ここからタクシーでせいぜい15分だが、いつ俺の手配写真が出回るか分からない。バスの方が目立たないだろう。


カフェの外に出ると、強い日差しに目がくらんだ。

バッグの底から引っ張り出した花粉防止用マスクを着用する俺の横を、パトカーがサイレンを鳴らして走り過ぎる。二の腕から肩にかけて鳥肌が立った。


停留所に立って市営バスを待つ間、この暑い中白いマスクを用いている人間が自分一人なのにいたたまれず、俺はマスクを外した。小銭を数えているとバスがやってきた。

前部ドアから乗車して運賃を払い、車内を見渡す。乗客は黒人とカラードが10人、白人が5人。俺を指差して「こいつが犯人だ!」と騒ぎ出しそうな奴は見当たらない。
バスが発車した。不思議にも、通りを歩いている時より安心する。


住宅地の外れで俺はバスを降りた。5分ほど歩いて、デニスの家の前に俺は立った。



……俺の家が軽く10軒は建てられそうな広さの敷地。

その敷地を、落葉樹の植え込みに沿って2メートル以上はあるコンクリートの塀が囲っている。

そして、閉じられた門扉の鉄柵の先には石畳の舗道が、小ぢんまりとした古城を思わせる外観の屋敷へと続いていた。
こういった家の外観は、かつて俺が訪れた時と変わっていない。

とにかく、そっけないくらい静かだった。俺が恐れていた、非常線が張られパトカーが列をなす騒然たる光景は杞憂に終わった。


門扉の向こうでは年配の女性が箒で舗道を掃いていたが、見覚えはなかった。恐らく使用人だろう。俺はその女性に声をかけた。


「すいません、お忙しいところを。クラインフェルド社長はご在宅でしょうか?」

「どちら様?」


使用人らしい女性は、屈めていた腰から上半身を思いきり後ろへ反らす所作の後、目を細めて俺の顔を見た。

俺は、「地軸」と書かれた尖塔の頂上から垂直に飛び降りる気分で、自分の名を口にした。


「11年ほど前ですが、社長に大変お世話になった者で…… 俺と言います。お取り次ぎ願えればありがたいのですが」


「俺さんとおっしゃるんですね?」

「はい!」


老女は一瞬横を向いて何かを思い出そうとする素振りを見せたが、すぐに「少々お待ちを」と言い、箒を持ったまま屋敷の方へと背を向けた。


老女が住居の中に入るのを見届けた後、俺は柵の外に突っ立ってじりじりしながら待った。3分ほど経って玄関のドアが開き、痩せて背の高い老人が姿を現した。


11年の歳月は人を変える。最初、俺は舗道を歩いてくる人物が誰なのか分からなかった。

あの当時既に老齢だったとはいえ、肉付きがよく精悍な印象を周囲に与えていた不動産王デニスは一変し、すっかり痩身の老人になっていた。


ただ、人を威嚇する鋭い視線は昔と変わらない。
おまけに、あまりありがたくない道具も一緒だった。5メートルほどの距離まで来て、老人は肩に担いでいた猟銃を俺に向けた。


「動くな! ……荷物を置いて両手を上げろ」

「す、すみません、クラインフェルドさんこれにはわけが」


俺はバッグを放り出し、ホールドアップの姿勢で弁解の言葉を探した。


「貴様か? 朝っぱらから、俺が気絶するかと思うほど家の電話を鳴らしおったのは!」

「? は、はい、私です。お騒がして申し訳ありません!」

「俺に何の用だ。車のセールスか? 車なら間に合ってるぞ!」

「いえ、私は、あの、11年前当地の△□社に勤務していた者で、その節は社長に、市消防局の備品一括契約の件でお口添えいただき大変感謝いたしておりまして、本日はお礼かたがたごあいさつに参上……」

「ならオフィスに来ればいいだろうが!」

「はっ、考えが至らず失礼をいたしました!」

「あのな! 俺はもう76だ。今さら市議会に出るつもりもない! それなのにお前らときたら、まだ商売の口利きをさせようってのか?」

「いえ、とんでもございません! 決してそのような」


その時、玄関のドアが開いて先刻の女性が血相を変えて飛び出してきた。
そして老人に駆け寄り、耳元に口を寄せて何かをささやく。老人の表情に緊張が走るのを俺は認めた。


同時に俺は、足元の地面が崩れ落ちていくような落胆とともに、老人の顔色を変えた理由が何なのかを悟った。

女性は恐怖を帯びた一瞥を俺に投げて背を向け、小走りに玄関の奥の暗がりへと姿を消した。力任せにドアを閉める激しい音が続く。

デニス・クラインフェルドは銃口を向けたまま、目を細めて俺の全身を眺め回した。


「貴様…… ルイーズを殺したのか? テレビでお前の写真が出とったそうだ。殺人容疑で指名手配だとな」


老人の声にはおびえの片鱗もなかった。海兵隊出身で戦場を経験した人間だけのことはある。
とにかく、事態は行きつくところまで来てしまった。俺は殺人容疑者として追われる身となったのだ。


「いいえ! 私は罠にはめられたのです、天に誓って無実です!」

「本当か? その荷物は何だ? ルイーズの首でも入ってるんじゃないのか?」

「そんな……」


老人が門扉に歩み寄り、銃口を俺に向けたまま留め金をはずして、鉄柵を片方だけ内側に開く。


「動くな。そいつを蹴ってこっちへ寄越せ」


俺は言われた通りに、バッグを老人の足元まで蹴飛ばした。
老人が猟銃の引き金に指を掛けたまま、軽く膝を曲げて拾い上げる。ジッパーを引き開けられ、逆さにされる俺の旅行カバン。

楽しい旅のお供一揃いが、無残に音を立てて老人の足元に散らばった。


「首はどうした? 捨てたか? それとも焼いて食ったのか?」

「ご冗談を」

「何? 俺が冗談を言ってると抜かすのか。このタマ無し野郎が」

「いえいえ!」


「まあお前の顔を見れば、人の頭を焼いて食えるほどのモノをぶら下げておらんのは分かる。で? ジジイの頭なら美味かろうと思ってここへ来たのか?」

「どうかご勘弁を……」


今の俺にとって頼りになるのはこの老人しかいない。だからいかに踏んだり蹴ったりだろうと、ここは疑念を解くべく最大限の努力をするしかないのだ。

俺はホールドアップの姿勢でゆっくりと回れ右し、ジャケットを脱いで逆さに振った。

ボールペンとスマートフォン、小銭入れその他が歩道の上に落ちた。


「もういい」


背後に老人の声が聞こえ、コンクリートの上で鉄柵の軋む音が続く。

恐る恐る振り向くと、門扉がすっかり開けられて、猟銃を肩に担いだ老人が腰に手を当てて仁王立ちしていた。

これで鍔の広い帽子でも被っていれば、西部劇の老ガンマンそのものだったろう。


「入れ。お前はルイーズを知ってるのか?」

「昨夜ホテルで…… 私の運命を占っていただきました」

「ほう。で、どうした」

「……ハラキリしないのかと」


老人の口元に、この時初めてひきつったような笑みが浮かんだ。

俺は勇気を奮い起こして、おずおずと尋ねた。


「社長も、……あの女性をご存じなので?」

「『ご存じ』だと? 笑わせるな! あのアバズレを知らないでいたら3年早く棺桶に入っておったわ。フレディー・Dを知ってるか?」

「いえ……」

「俺の最大の商売敵だった男だぞ。ルイーズを女房に貰って2年で死んだ。3年前の話だ」

「マリブに家を持ってらっしゃったという人ですか?」

「そうだ。東部地区で住民の反対を押し切って賃貸マンション建設を強行しようとしてたが、先に自分の墓を建てることになった」


デニスが俺の顔を見て、バカにしたように薄笑いを浮かべている。何であれ、警戒を解いてくれたらしいのはありがたかった。


「長男のジェイクは覚えておるだろ?」

「はい、副会長でいらっしゃいましたね」

「8年前に死んだ」

「それは、まだお若いのに残念な……」

「今は次男のデヴィッドが副会長になってる。……ルイーズはな、フレディーの前にジェイクの女房だったんだよ。お前も以前、どこかでルイーズに会っておらんか?」

「えっ……」


俺に向けてきた「美しい愛」女史の、妙に無遠慮な眼差しが脳裏に甦った。あの女は俺を知っていたのか!?

こっちはすっかり忘れていたのに、メシを食っているおれの席へ、まるで旧知の間柄みたいにあの女は近づいてきた。

そう言えば俺の名刺に目もくれなかったのに、俺の名を口にしていたな!

しかし、よりによって御曹司の女房? 俺はそんな女を紹介されたこともないし、見たことも……


「ジェイクもあの女に殺されたようなもんだ。……ちょっとそこで待っておれ」


老人は銃を肩に担いだまま背を向け、姿を現した時と同じしっかりした足取りで玄関扉の向こうへ消えた。

残された殺人容疑者の俺は地面にしゃがみ込んで、ぶちまけられたカバンの中身をのろのろと拾った。

木漏れ日が散らばった衣類や洗面用具の上に斑点をつくっているのを、俺は泣きたいような、笑いたいような気持ちで眺めた。どこか遠くでサイレンの音がした。


10分も経たぬうちに老人は姿を現した。黒褐色のスーツに地味目なネクタイ、頭には黒い帽子を被っている。猟銃は持っていなかった。

老人は突っ立っている俺を空気のように無視し、カーポートの横に姿を消した。

カーポートのシャッターが開く。中からメタリックブルーのベンツが滑り出てきた。


「乗れ。そうだ、助手席だ」


助手席でシートベルトを締める俺を残して老人はいったん運転席を離れ、シャッターを閉めてから戻ってきた。
ハンドルに手を掛け、俺の顔を無表情に眺めて言う。


「これからどこへ行きたい? 警察署か? それとも俺に付き合うか?」

「……お任せいたします」

「なら、これからどこへ行こうと文句を言うな」


ベンツが動き出した。住宅地の街路を抜け、郊外に向かう幹線道路に乗り入れる。


「女房のナンシーを覚えてるか? 来週三回忌を迎える。早いもんだ」

「そうでしたか…… お悔やみ申し上げます」

「今はあの婆さんに世話を焼かれてるが、大抵のことは俺一人でやれる。こうやって運転はするし自分で風呂にも入れる。できないのは料理とファックぐらいなものだ。デヴィッドは俺に早く棺桶に入ってもらいたくて仕方ないらしいが、そうは問屋が卸さん」

「ご健勝で何よりです」

「お前この町へ何しに来た? 出張か?」

「実は……」


一瞬だけ口ごもったが、今となっては隠すべき理由など何も見当たらない。


「追われているんです」


老人がヒューッと口笛を吹く。窓の外を、救急車がサイレンを鳴らして追い越して行った。


「上等なことを抜かすじゃないか。向こうでも人殺しをやらかしたのか?」

「またご冗談を…… 王です。私の国の王が、理由もなく私を殺すというので」

「それで逃げてきたってわけか」

「はい」

「……フン」


老人が両手でハンドルを軽く叩いた。さほど不審を抱くでもなく、あとは言わずとも通じているらしい。
それが不思議であるのと同時に、ありがたくもあった。


「全く…… お前のような奴が世界中から押し寄せて来よる。そのくせ、いつまで経ってもこの国の流儀を学ぼうとせん。今にそういう奴らでこの国は占領されてしまうだろうよ。もっともそれまで俺は生きてはいまいが」

「いいえ、私は事態が良くなったら帰国するつもりです。家族も残してきましたから」


老人が不意に俺の方に首を回した。
見開かれた目、少し開いた口。「開いた口が塞がらない」という慣用表現を絵にしたらこうなる、という顔だ。


「女房子供を残してきたのかお前?」

「……はい」


老人が目を前方に戻した。かすかな舌打ちが聞こえた。Shitと呟いたのかもしれなかった。



俺は昨晩ルイーズと会った時のことを洗いざらい話した。
既に一人の人間が無残な殺され方をしている。王が俺に下した宣告とカード占いの奇妙な符合など、もはや他人から見ればたわ言でしかない。

実際、この老人にとってもどうでもいいことのようだった。


「タロットの話など俺にはよく分からん」


老人は吐き捨てるように言った。


「あれは、頭の足りん連中を脅かして金を巻き上げてるような手合いだからな。ろくな死に方はせんだろうと思っていたら案の定だ。お前の国の王も似たようなもんだろう?」

「そうなのかもしれません…… でも私なりにデータを照合してみて、あっちで無駄な抵抗をするよりは、一時でも亡命した方がいいだろうと」


「亡命?」老人が鼻で笑う。


「ものは言いようだな。政治犯気取りの亡命と言えば聞こえはいいが、実態は難民と変わらんだろうが。なぜそうなるまで放っておいた? 貴様らの怠慢だ」


おっしゃる通りですと言う代わりに、俺は深いため息をついた。


「だがな、これからお前が目にするのはそういう脳タリンの悪ふざけとは違う。はき違えるなよ」



車は市街地を離れ、しばらく海沿いを走った後で峠道に入った。
低緑樹と砂礫層に覆われた山裾を、道は緩いカーブを描きながら這い上がっていく。


峠を登りきって、見晴らしの良い尾根道に出た。

人家どころか物置小屋さえも見えない風景の中、1車線道路が緩いアップダウンを繰り返しながら続く。やがて道は高木林に入って日が翳った。

緩い左カーブを曲がって林が切れた時、前方に草原が開け、その中央に立つ白い建物が目に入った。


この建物が目的地らしく、車はゆっくりとスピードを落としていった。立地に加え、円錐状の優美なドームを備えた外観からして、どう見ても普通の住居とは思えない。

建物の横でデニスはハンドルを切り、砂利を撒いただけの駐車スペースに乗り入れてエンジンを切った。


周囲には柵も生け垣もなく、先客らしい様々な車種の乗用車が10台ほど止まっていた。


車を降りて周囲を見渡す。

草原の先には、低緑樹と砂地が交互に入り交じる風景が続き、山裾へと緩やかに傾斜している。
かなり下ったところに、四方をトタン板で囲った倉庫らしきものがあり、その真下に、市街地に向けて蛇行する1車線道路が見えた。


さらに遠くを望めば、山稜に挟まれた太平洋が大小の船を浮かべて青くたたずんでいる。
海の青は水平線へ向かって薄められ、空と交わって渾然一体になっていた。


「行くぞ」


はっとして振り向くと、厳しい表情のデニスが帽子を左手で押さえながら、建物の手前にあるアーチ型の門へ向かっていくところだった。俺は老人に従って門をくぐった。

門から石畳を10歩ほど歩いた先の、白く塗られた観音開きの扉の前で老人が立ち止まる。

老人が両手で押すと、扉はかすかな軋みを立てて内側に開いた。


ひんやりとした空気が、俺の顔を撫でた。


壁を白一色に統一した、聖堂のようなホール。そこに正装した年配の男女20人ほどが、円環状に椅子を並べ、輪の内側を向いて座っている。

輪の中心には、入ってきたばかりの俺とデニスの方を向き、一人の白人の老女が座って瞑目していた。


はるかな高さの丸天井と、高窓から差し込む陽光が、カトリック教会の典礼を思わせる荘厳さを目の前の光景に与えていた。

ただ、救いを求めて訪れた者を落胆させるかのように、十字架はもちろん、聖像やステンドグラスといった宗教色を表に出すものはいっさい置かれていない。
その点、こんなひと気のない場所で行うコンサートや集会といった用途への汎用性が高いと言えば、そうとも言えるだろう。


中央にいる老女は黒のスーツに身を包み、白髪に軽くウエーブをかけて肩に垂らしていた。
風貌だけなら、普通に品の良い高齢女性という以外の印象はない。


一方、円環状に並んでいる人々は瞑目しているわけではなく、皆一様に伏し目がちの目を下に向けているのだった。だから実際は周囲をほとんど見ていないに等しい。


デニスがホールの隅から一脚のパイプ椅子を持ってきた。
そしてそれを、参会者の輪から3メートルほど後方の、中心の老女ともろに視線がぶつかり合う真正面に置いて座った。

出席者の様子からして、何やら秘密めかした儀式のようなことが行われるらしい。
そして輪の中心にいる女性が、この日の最重要人物であるのは疑いようもない。


今の俺の境遇では、そんな人物の正面に座らされるのは当然気後れがする。
だが、「保護者」から離れるわけにいかない俺は、近親者の葬儀に初めて連れてこられた幼児のように、神妙な顔でデニスと並んで座るしかなかった。

俺は恐る恐る、デニスに話しかけた。


「皆さん何を…… なさっているんでしょう」

「降霊会だ」

「降霊? 死者の霊を呼ぶという?」


目前の状況は、やはり俺にはありがたくない展開に進むらしい。迷惑そうな俺の顔色を見とがめたのか、デニスが眉を顰めた。


「見てれば分かる。気をしっかり持て」


中央の老女の姿勢に変化が表れた。膝に両手を置いたまま、少し前かがみになる。何か呟くように口を動かしている。
周囲の男女は身じろぎもしない。静謐の中、中央の老女が今度は体を左右に揺らし始めた。


堂内は完全な静寂に包まれていた。この辺りを通る車もないらしく、微かなエンジン音さえ届いてこない。


振り子のような老女の動きが次第に小さくなり、やがて止まった。目がゆっくりと見開かれる。
息を呑んで見つめる俺に、突然、射抜くような視線が向けられた。全身の毛穴が収縮した。


「お前」


俺は耳を疑った。老女の口から発せられたのは、まぎれもない俺の国の言葉。老女は「omae」と発音したのだ。

老女──霊媒師が立ち上がり、完全にネイティブスピーカーの発音で言った。


「なぜ、ハラキリしなかった」


つい半日前に聞いたばかりのその声を、俺は覚えていた。

完璧な発音で俺の国の言葉を操る、ドクター・ビューティフルラブことルイーズ・レメリック。
なぜハラキリをしなかったと、俺をとがめているのだ。


「私の首から下が無い。首から下はどこへ行った。お前知ってるんだろう」

「知らない」

「知らないだと。お前がハラキリしなかったために、私の首から下は消え失せてしまったのだぞ。それで済むと思うか」

「私のせいじゃない」

「愚か者め」

「……ねぇ、聞いてくださいドクター」


俺は目の前で起きていることを茶番だと疑うのも忘れて、霊媒師に降りてきたらしいルイーズの理解を得ようと躍起になった。


「あなたに謝ります。あの時、私は嘘をつきました。私がこの国へ来たのは出張なんかじゃありません。私の国の王に追われていたんです。王が私を殺そうとしているんです!」

「ならばなぜ、あの時そう言わなかった」

「話しても本気にしてもらえないと思ったんです! でもやはり…… 話しておくべきでした。話しておけば、こんなことには、ならなかったかも」


霊媒師の顔に、冷え冷えとした微笑が浮かぶ。顔かたちは違っても、所作は昨日のルイーズそのものだった。
もう俺の目は、霊媒師の顔の奥にほかならぬルイーズを見ていた。

俺は続けた。


「ドクター、この世界であなただけがご存じで、しかも早急に明らかにしなければならない真実があります。……下手人は誰なのです?」


霊媒師の顔が、幼児をあやす祖母のように微笑を浮かべたまま傾げられる。俺は息を詰めて女の言葉を待った。


「お前ではないのか?」

「冗談はよしてください! 今すぐ誰が犯人なのか、ここにいる皆さんに分かる言葉で話してください! これはあなたの義務だ!」

「卑怯者の分際で義務を騙るな」

「何ですって?」

「お前が私に向かって何を騒ぎ立てたところで、どうにもならない。お前はただ一つ、ハラキリをしなければならなかった。それだけだ」


なぜこの女は、こうまでも執拗にハラキリを迫るのだろう? この場で俺が腹を切ったら自分が成仏できるとでもいうのか?


「私は冗談と受け取りました。それでは不都合だったのですか?」

「ふん。お前たちクズはそうやって、肝心要の事を茶化してごまかすのが大好きだ。そのくせ堕落しきった自分の快楽となると目の色を変える……

いいか。私たちにとって言葉を交わすというのは、魂を交換し合うことなのだ。これをお前たちは知る由もない。教えても理解することさえ拒む。だからお前は、私の顔を見ても何一つ思い出せないのだ」

「ええ、あの…… まことに失礼な話なのですが、私は以前、あなたに会ったことがあるのでしょうか?」


記憶の底から別の顔が、少しずつ形を取り始めていた。既に俺は狼狽に捉われていた。


「忘れたのではなく、無理矢理記憶から消したのだろう? 13年前、お前が私をジェイクに引き合わせたことを」

「え……」


ジェイクの名に反応したのか、デニスが弾かれたように俺に顔を向ける。

13年前。俺はこの町に赴任したばかりだった。ああ…… そうだったのか。

俺は当時の所長に連れられて、ダウンタウンのバーでこの女に会った。
だが髪はブロンドじゃなくて黒かった。


ジェイクに女を世話するのは、不動産王のデニスとコネクションを結ぶプランの一環だったから、陣頭に立ったのは所長で、俺は使い走りにすぎない。

確かに俺は、自分で車を運転して、高級娼婦だという認識でジェイクの待つホテルへ届けたのには違いないが……


クソ、何てこった。

俺はあの時、車内で女と言葉も交わしている。おまけに女は、自分の名を口にしていたはずだ。


その名は……! Strangelove!


「思い出したか? そう。ジェイクは『奇妙な愛』が大好物だった。命が惜しいからと言って、生まれ持った自分の運命から逃げたりしなかった! フレディーのお好みは『至上の愛』。お前の好みなど知らん。とにかくお前は…… 速やかに腹を切らなくてはならなかったのだ」

「なぜです? あなたを社長のご子息に引き合わせたのが、死に値する罪だとでも?」

「お前に罪などない。そもそも…… 罪が腹を切る理由になるのか?」

「それは、どういうこと?」

「愚かな…… それほどにお前たちは、目の前に訪れた死を罪と結びつけなくては気が済まぬのか? 本来、お前らの理解している罪など、何ら死の理由にはなりはしない。

お前たちは知らないし、知りたくもないのだろう? 言葉を交わすこと、愛を交わすことと同様に、カードに運命を問う行為もまた魂の交換なのだということを。……では教えてやろう。

『彗星』はな、それを引いた者が運命を拒むのなら、同じ運命がそっくりカードの主人に返ってくる。そういう札なのだ」

「では、私が死を受け入れないなら……」

「そうだ。お前は受け入れなかった。そして私は今、自分の体を探してさまよっている」

「そんな! ではなぜあの時、私にそう言ってくれなかったのです?」


霊媒師──ルイーズ・レメリックの顔が大きくゆがむ。腹から噴き上げてくるような笑いが、その顔を覆った。化鳥を思わせる笑い声が堂内に響き渡る。


円環を形成している男女は皆、狂笑するルイーズを茫然と見上げ、何が起きたのかと心配げに顔を見合わせている。眉を顰めて俺の顔に見入る者もいた。

ルイーズの笑いが止んだ。


「愚か者め、私は貴族だぞ! 私の家はあの古きヨーロッパで、500年の栄光を保ち続けてきた! 『二本足の恐怖』と呼ばれた私の祖先、中央アジアの征服者がどのような存在であったか、お前なんぞには想像も及ぶまい!

その私が、お前のようなクズに向かって、『自分の命が惜しいから早く死んでくれ』などと頭を下げると思うか? 笑わせるな。私はな、お前が侍の流儀に従って、自分の運命を受け入れる方に賭けたのだ。しかしお前はそうしなかった!

ジェイクもフレディーも、この私に『お前を愛している』と言い、『彗星』の指し示す運命を受け入れて潔く死んでいったというのに!

そして『彗星』は、私に身支度の暇も与えず襲い掛かってきた…… だがな」


ルイーズの霊が言葉を切り、口元に酷薄な微笑を浮かべて、俺の顔を舐めるように見る。
俺は硬直したように口を開くこともできず、ルイーズの言葉を待った。


「哀れなお前。お前はひょっとして、災難を私に負わせて自分は助かったと思っているか? 駄目だよ。『彗星』は最初に狙いを定めた相手を決して逃しはしない。一時の寄り道をしただけで、元の公転軌道に戻るのだ。せいぜい楽しみにしておれ」


だろうな。


そんなうまい話があるわけない。良心の呵責うんぬんっていうより、リアリティーの問題だ。

そこで俺は、リアリティーに従って、冷静にと念じながら質問を放った。


「ではドクター、私にも言わせていただきたい。あなたも嘘をつきましたね」


ルイーズは微笑を浮かべたまま、俺の顔を見つめている。


「あなたは『ホテルに住んでいる』と言った。だがあなたは住んでるどころか、あのホテルに宿泊もしていない。しかもご丁寧に、ご自分の死体を私の客室に置いていった。……オートロックなのにどうやって鍵を開けたんです? 誰かがお膳立てをしたんですか?」

「そんなのは枝葉末節だ。今さらお前が気に病んで何になる?」

「いいえ! あなたは、私があのホテルに宿泊することを知っていた誰かから指示されて、レストランに姿を現した! あなたはそいつに脅されてたんでしょう? そいつは何者です?」

「おいルイーズ! このタマ無し野郎をいびるのもいい加減にしないか!」


隣で足を組んで座っていたデニスが、しびれを切らしたみたいに英語で叫んだ。
ルイーズが操る俺の母国語を理解できているとは思えなかったが、何が起きているのかはさすがに雰囲気で分かったのだろう。


カード占いの茶番もそいつのお膳立てなんでしょう? 
私の潔白を証明してくださるのはあなたしかいない!

……そうやって畳み掛けるタイミングは残念ながら逸してしまった。


ルイーズがデニスの方に顔を向けた。今度は英語を使い始めた。


「おやお久しぶり、お義父様。ずいぶんとお元気そうね」

「貴様が死ぬのを待っとったんだ。さっさと地獄へ行け! ここはもう貴様の住む場所じゃないぞ!」


参会者の何人かがデニスの暴言を聞きとがめて、手のひらで制止するような仕草をした。しかし老人の勢いは止まらない。


「ここにいるこの頓馬が、地獄に落ちるまで待っていろ! もうじきだろうからな! お前の首なんぞどこかで腐り果てて……」


ルイーズ──霊媒師の目から涙があふれ出した。そして大人に叱られた少女みたいに激しくしゃくりあげ、遂には口を大きくゆがめて泣き声を上げ始めた。


「私の体! どこ行っちゃったのよ! どこどこどこ!?」


デニスに異変が起きていた。心臓に手を当てて上体を大きく前に倒し、うめき声を上げている。


「大丈夫ですか社長?」


俺が差し伸べた手は払いのけられた。しかしデニスは椅子に座っていることもできなくなり、床に転げ落ちて仰向けになった。

喉がかすれた笛のような音を立て、顔が土気色をしていた。


「どこよ! 私の首から下は!」

「どなたか! 救急車を、救急車をお願いします!」


俺の叫び声を聞いて、参会者の誰かが携帯を取り出した。既に席に座っている人はおらず、皆立ち上がって、盛んに首を振ったり肩をすくめたりしている。
霊媒師は憑依状態のまま、首から下はどこだと叫び続けていた。


やがて身内の者らしい男女3人が、白目をむいて泡を吹き始めた霊媒師の両脇を抱え、引きずるように会堂奥の別室に連れて行った。

俺の周囲にも数人の参会者が集まり、デニスの容体を覗き込みながら、しばらく素人の所見をあれこれ言い合っていた。
それも束の間で、救急車が呼ばれたのを知ると、納得したように病人の側を離れていく。


とにかく、主役不在となった降霊会は自然の流れで幕が下ろされた。人々は立ち去り、片付けられなかった数脚の椅子が雑然と堂の中央に残った。


仰向けになっているデニスの呼吸は次第に弱々しくなっていく。

頬を平手で叩きながら名を呼んでも返事はない。そして一息長く吐き出したのを最後に、呼吸は止まった。


口ひげを生やした恰幅のいい初老の男が近寄ってきて、俺の向かいにしゃがんでデニスの顔をのぞき込む。そして俺に向かって顔を上げた。


「難しいようですな」

「ええ、残念ながら。いろいろお騒がせしました」

「私は本日の主催者ですが、彼女……ルイーズとはお知り合いですか?」

「はい……」


不審と哀れみが混じり合った、何かに驚いたような表情を男は浮かべている。そして目の前に横たわる、俺の保護者であった人物の遺体。

これ以上自分を偽るどんな理由も俺にはなかった。



「そして、ご存じの事件で無実の疑いを掛けられている者です。私は断じて犯人ではありません」

「そうですか。 ……しかし警察には出頭なさるべきでしょう」

「ええ、そうするつもりです」


降霊会の主催者は立ち上がり、周囲の様子をうかがってから俺を見下ろした。


「彼女と何の話をしてたんです?」

「それについてはご勘弁を」


霊媒師が消えたドアの奥から、犬が遠吠えをするような声が上がった。ルイーズの声ではなかった。


・・・・・・・・・・・



この町を訪れて一日足らずのうちに、俺の身辺には二つの遺体が横たわった。
肝心の俺はまだ生きている。

救急車がいつ来るか気になったが、降霊会の主催者がデニスに付き添うと申し出たので、俺は彼に後を託して会堂を出た。


「あなたはなすべきことの優先順位を見失ってはいけない」


立ち去り際、主催者はそう言った。

異論はない。しかし人は、何によって行動の優先順位を決めるのだろう。
少し前なら俺にもはっきり分かっていたはずなのに、今は霧の中をさまようみたいに、ぼんやりと霞んでしまっている。


例えば俺は、今すぐ警察に電話して迎えに来てもらうべきなんだろうか? 自分は容疑をかけられている者だが無実だと主張して?

当然、警察は簡単には信用しないだろう。「王」が俺を陥れようとしているなら、事件現場にもそれなりの偽装を施してあることは容易に推察できる。

そういった奸計を打ち破り、無実を認めてもらうまでには、長く苦しい闘争を勝ち抜かなければならない。


そして今現在の俺は、昨夜来の踏んだり蹴ったりのせいでくたくただ。

喉が渇く。むしょうにビールが飲みたい。一杯の冷えたビールを飲めるなら今すぐ死んでもいい。


そうだ…… 警察に出頭するのは、市街地に下りてビールを飲んでからにしよう。

参会者は自分たちの車で慌ただしく引き上げ、駐車用の空き地にはデニスのベンツ以外にプリウスが1台残っているだけだった。恐らく主催者のものだろう。


俺はデニスの車をそのままにして、とぼとぼと峠道を下っていった。

周囲は丈の低い草むらばかりが広がっていて、相変わらず人の気配はない。会堂を出て15分ほど経っても、救急車どころかサイレンの音さえ聞こえなかった。


なぜ俺はこうも呑気に歩いているのか。こうしている間にも『彗星』は近づいているはずなのに、何の実感も湧かないのはなぜだ。

低緑樹林の切れ間から、太平洋が見渡せる。市街地がパノラマのように眼下に広がっている。
風が心地よかった。


上着の内ポケットで通話の着信音が鳴った。

いつONにしたのかまるっきり覚えていない。俺はスマートフォンの電源を入れて、迂闊にもそのままにしていたのだ。


ポケットから取り出して画面を見れば、妻の携帯からだった。
俺は受信ボタンを押した。


「もしもし? 俺さんなの?」

「ああ。俺だよ」

「今どこにいるの? まだロ○ンゼルス?」


叫び出しそうになるのを辛うじて抑えている妻の声。娘の声を聞きたかったが、俺は自制した。


「娘に代わる?」

「いや。いい。……君は信じてくれるよな?」

「何を?」

「やったのは俺じゃない」

「当たり前でしょ! そんなことより、どうして嘘ついたの?」

「王が俺を殺すらしいんだ。それで死ぬ前に手続きをしろって言われた」

「誰に?」

「会社だ。王からの通知が会社に届いて、それから証券会社の奴が会社に来て、俺に遺言を書けって」

「どうして王様が…… だから外国へ逃げたのね?」

「君らを巻き込みたくなかった。分かってくれ」

「分かんないわよ! 私があなたを……」


声が途切れた。俺は受信妨害でもされたのかと、思わず画面を見た。
すぐに妻の鼻声が聞こえてきた。


「あなたって人が、よく分からなくなってきたわよ!」

「すまなかった。王に殺されるなんて、信じてもらえないだろうって……」


妻の声が変わった。ここ数年ほとんど聞かなくなった、苛立ちを押し殺しているような声。結婚して間もない頃、夫婦喧嘩の時によく聞かされた声だった。


「何言ってるの。あなた怖かったんじゃないの? いろんな人に脅かされて! それ以上に本当のことがどこにあるのよ! ……きょう夕方の便で娘を連れてそっちに行くから」

「え? 娘の学校どうするんだ」

「学校? 俺さんしっかりして! 携帯の電源はいつも切ってるの?」

「うん。入れたままだとGPSで居場所が分かると思って」

「入れたままにしておいて。これからどうするの?」

「警察に出頭しようと思う。そこで無実を主張する。警察の中なら俺の命を狙ってる奴も近づけないだろうし」

「そうした方がいい。じゃあ、警察に行く前にもう一度、私の携帯に電話して。私たちが飛行機に乗るのは10時間ぐらい後だから」

「分かった」

「何かあったらとにかく、大声で叫ぶのよ? こそこそ逃げ回ったりしちゃだめよ? あなた一人じゃ声が小さいんでしょうから、私たち三人で声を上げるの。世界中に聞こえるような声で。分かった?」

「うん……」


「娘に代わるからね」

「学校は?」

「今起きたばかりなのよ。ちょっと待って」


妻の横で待っていたらしく、間を置かずに娘の声が聞こえた。


「パパお仕事頑張ってる?」

「頑張ってるよ……」

「ママがね、パパのところへ連れてってくれるって。ミッ○ーと一緒に写真撮ろうね!」

「うん、撮ろうね」

「パパ」

「……何?」

「頑張ってね」

「うん。娘、ママに代わって」


ママー、という娘の声。ガサゴソいう音に続いて妻が出た。


「何か着るものとか持っていく?」

「いや、特にいらない…… それより気を付けてくれよ。君らにもしものことがあったら」

「俺さんは自分の心配だけして。マスコミが私たちを追っかけ回してて、飛行機にまで同乗してきそうなんだから。王だって墜落させたりしないでしょ」

「そうだな…… それからお義父さんに、『迷惑かけて申し訳ない』って」

「仕方ないでしょ? あなたの責任じゃないのよ!」

「いや、本当に、すまない」


最後の方は声にならなかった。


「元気出して。じゃ、切るわよ」

「うん」


海の向こうからの電話は切れた。スマートフォンを懐にしまい、空を見上げる。

薄い雲が視界を横切って流れている。もう秋だ。


この世界中に響く叫びを、家族三人で上げたのなら、耳を傾けてくれる人が「必ず」いるのか。


いるのか?


間違いなくいると信じられたなら、俺は逃げ出したりしなかったんじゃ?


またスマートフォンが鳴った。今度はメールの着信音。俺はジャケットの懐からそれを出し、震える指先で受信画面を開く。

メールのタイトルにはこうあった。



   新  選  組  参  上



タイトルだけでメッセージは空白。送信アドレスには今まで見たことのない文字列が並んでいる。

悪寒が背中から首へ這い上がってきた。俺は何かに縋りつきたい一心で、妻の携帯につながる短縮ダイヤルを押した。


反応がない。


俺はパニック状態に陥って、今度は会社の自分のオフィスを呼び出そうとした。
結果は同じ。そこでようやく、バッテリーが切れているのに気付いた。


手元には簡易式の充電器もない。俺は異国の山中に孤立した。

慌てて周囲を見回す。灌木が点在する草原。林の中へ伸びていく一本道。草が風にそよぐ音以外はいっさい無音。

人どころか、動物の影さえも見えない。


俺は1車線道路を、海の見える方角に向けて走りだした。

とにかく人のいるところへ。俺の叫びを聞いてくれる人がいるところへ!


息が切れた。旅行バッグが肩に食い込む。どこまで走っても、海は蜃気楼みたいにどんどん遠のいていく気がした。

顎が上がって空を見上げた時、青一色の中に一筋の白い何かが走った。


飛行機ではない。白い煙を引いて、何かが飛んでいったのだ。
昼間の流れ星だろう。前に一度だけ、中学生の時に見たことがある。


そう、流れ星は彗星のかけらだ。彗星はそうやって星屑を撒き散らしながら、俺たちの住む地球の横を通り過ぎていく……


足元が砂利道に変わったのに気付かず、俺はバランスを崩して転んだ。手のひらを軽く擦りむいて血がにじんだ。

ズボンの埃をはたきながら立ち上がる俺の目の前を、タンブルウィードが嘲笑のような音を立てて転がっていく。


「もう逃げられんぞ」


すぐ後ろから聞こえてきた母国の言葉。俺は顔面を鉤で引っ張られたように振り返った。


5メートルと離れていない場所に「侍」がいた。

羽織袴姿で藁草履を履き、額から上を剃った頭に丁髷を載せている。
腰には大小の刀。そして右手にもう一本、朱塗りの鞘に入った刀を持っている。


「貴様の差料だ、受け取れ」


男は、茫然としている俺に右手の刀を放り投げ、自分は腰の大刀を抜いた。日差しが刀身に反射し、しばらく消えそうもない残像を俺の目に残した。


「あんた誰?」

「俺は新選組一番隊隊長沖田総司。刀を拾え」

「ここで映画の撮影でもしてるの?」

「世迷言を申すな! きえッ!」


男は腰を落として踏み込み、刀を横に振った。
必死で飛び退いた拍子に足がもつれ、灌木の根元に尻餅をつく。自分の胸元を見ると、ジャケットが横一文字に切り裂かれていた。


「や、やめろ、やめてくれ」

「刀を拾わぬか、バカ者」


さらに男が踏み込み、立てないでいる俺に突きを繰り出す。俺は地面を転げまわり、辛うじて切っ先を避けた。


「なぜ俺は殺されなきゃならない?」

「『なぜ』だと? とぼけおって。身に覚えがないと抜かすか!」


男は眉根に皺を寄せ、ありったけの軽蔑と憎悪を顔に表した。これほどにも憤怒をあらわにした表情を向けられるのは、生涯を通じて初めてだった。


「貴様、逃げたであろうが。この卑怯者め」


俺は侍の刀がいつ振り下ろされるかと震えながら正面を見据えていたが、胸中には不思議な後ろめたさが湧き上がっていた。

そうだ俺は逃げた、殺されるまいと思って。


だが、一人で太刀打ちしようもない相手から逃げてなぜ悪い?

俺がハラキリしなければならない理由は何なんだ!?


「我が刀の錆にするにも値しない奴。せめて最後くらいは意気地のあるところを見せて俺と戦え」


侍は背後を振り返って、砂利道に打ち捨てられていた刀を拾い上げ、尻餅をついたままでいる俺の腹の上に放った。


恐怖でこわばった舌の付け根を引きはがすようにして、俺は問うた。


「あんたがルイーズを殺したんだろ?」

「問答無用。死に花くらい綺麗に咲かせて見せよ!」


男が踏み込んできたのと同時に、俺は死にもの狂いで身をひるがえした。相手の刀が空を切った時には、俺は天敵に追われる野生動物の勢いで走り出していた。


「きぇーっ!」


深山で猿が吠えるような裂帛の気合いと、刀を振り下ろす気配を背中に感じ、俺は走った。


砂利道が突然、行き止まりになった。俺はお構いなしに藪の中へ飛び込み、自分の足元になど目もくれず斜面を駆け下りる。
侍の剣先がいつ頭上を襲ってもおかしくないという恐怖だけが、俺の足を駆り立てた。

しかしそんな必死の逃走も長続きしなかった。角度が急になった斜面に足がついていかず俺は転倒し、枯葉が吹き溜まりになっている窪地まで転がり落ちた。


追いすがる侍の、藪を駆け抜ける音が背後に迫る。半ば諦め気分で身を起こそうと試みた時にようやく、投げ渡された刀を自分が握り締めているのに気付いた。


「そんなに死ぬのが怖いか。この腑抜けめが」


もう侍は走っていない。足元を気にしながら、抜き身を引っ提げて悠然と斜面を下りてきた。


「俺は警察に出頭する。あんたが女を殺したと訴え出るぞ」

「わめくな。『局ヲ脱スルヲ許サズ』。局中法度其の二を知らんのか」

「人殺し! 誰か! 助けてくれ!」


俺の叫びに応えるのは、自分の声の木霊ばかり。そして相変わらず、救急車のサイレンも聞こえない。


「見苦しい奴だな。今の振る舞いもまた十分、士道不覚悟に値する。しかし腹が減った」


いきなり男の口調が穏やかになった。そして刀を鞘に納める。もちろん俺の方は、自分の刀を抜こうだなんて考えは露ほども起きなかった。

どう考えても勝てるわけはないし、こいつと同じ土俵で斬り合うなんぞ、バカバカしくてやってられない。
真剣勝負を無理強いされる理由がどこにある? 俺の頭はそういう市民の常識に必死でしがみついていた。


「見ろ」


男が指さす方向には緩い下り坂が、灰色の砂と石で覆われた空き地へと続いている。空き地は運動場ほどの広さがあった。

その空き地の真ん中に、歪んだ楕円を描いてベルトコンベアーのようなものが回っていた。


目を凝らすと、コンベアーに沿ってカウンターがあり、伏せた湯飲み茶わんや醤油差しらしきものが見える。
野外に忽然と現れた回転寿司屋とも見えるが、コンベアーに載っているのは寿司ではないらしい。


塵除けの透明な蓋を被せた四角いトレイが無数に、コンベアー上を移動していた。

一つのトレイに料理一式が載っていると見ればいいのだろうか。

そして当然のように、設備の周辺には俺を助けてくれそうな関係者の姿は無かった。


空の高いところで鳥が鳴いていた。


「昼メシだ。貴様が死ぬのはそれからだ」

「昼メシ?」

「食わんのか」


「食欲なんかない」

「腹が減っては戦ができんと言うぞ」

「そんなに俺に戦をさせたいのか、あんた」


男は答えず、横を向いた。懐手をして回転する昼メシ屋台を楽しげに眺めている。

俺が用心深く身を起こそうとすると、右足首に激痛が走り、うめき声を上げて枯葉の上に倒れ伏した。


「足を挫いたか。情けない奴」


侍が、倒れたままの俺に近寄ってくる。立ち上がれない俺が這って逃れようとすると、侍は強引に俺の右わきの下に腕を差し入れ、そのまま引き起こした。

その拍子にまた激痛に見舞われ、自分でもみっともないと思うほどのうめき声が漏れた。


「しっかりしろ。何だこれくらいの怪我」


俺は男に支えられ、空き地までの坂を下った。そしてそのまま、食いたくもない昼メシの屋台に引きずられていく。
男の、胸がむかつくような汗の匂い。だが、離せと言ってもこの男は聞きはしまい。


「お前、女房と娘がいるんだってな?」


俺のことは俺よりよく知ってるんだろう? いちいち答えなきゃならんのか?

俺が黙っていると、侍姿の男は一段と馴れ馴れしい口調になった。


「元気がないな。男だろう、シャキッとせんか。娘はさぞかわいいだろう……? で、娘はいくつになる? 何を黙っている」

「なあ…… 本当に俺を殺すのか?」

「殺すと言っただろう。昼メシの後すぐに、お前の首は胴体を離れる。せいぜい味わって食え」

「助けてくれ。娘と女房が悲しむ」

「死ぬ間際の奴は皆、そう言って泣きわめく。お前も同じだな」

「なんだって俺を…… 俺が何をしたっていうんだ?」

「おのれ自身によく問うてみろ。……身に覚えはないとでも? ふん、お前の頭は知らずとも、血は忘れはしまい」


男が何を言ってるのかさっぱり分からない。そして分かりたいとも思わなかった。


ルイーズが言ったように、罪なくしても受け入れなくてはいけない裁きがあるのだろうか?
俺はそんな世界に生きてきた覚えはなかったのだが。


そして今、食欲もないのに昼メシが回っている場所へ引きずられていく理由。思えば俺の人生、理由の分からないことばかりだった。


娘と遊んだり、勉強を教えてやったりする時間を、どうしてもっと取らなかったのか。
はるかに大切なことを、俺は理由の分からないことのために犠牲にしすぎた。

会社では自分の業績を上げるために、人を押しのけ、陰口を叩いた。
人をうまく出し抜くのも勤め人の能力だと信じて疑わなかった。後ろめたいことをすれば家族のためだとか自分に言い訳をした。


俺が死ななければならないのは、そんな所業の報いなんだろうか?
いや、それは見当違いもいいところ。むしろ逆だ。


すべては王と、この侍野郎が知っている。そしてたぶん、最後まで俺には分からない。

どちらにしても、もう逃げられない。昼メシを食ったら、俺の命は終わる。


「さ、食え」


いびつなループ状になっているカウンターの、手近の位置に侍は腰を下ろした。
こいつと仲良く並んで食事しなくちゃならない義理はないし、こいつも強いて求めている様子はない。


俺は自分にあてがわれた刀を杖に、足を引きずりながら侍の側を離れた。右足に体重がかかるたびに激痛が走ったが、何とか侍とは反対側の席にたどり着けた。


俺の着席を待っていたかのようにコンベアーが止まり、正面に料理を載せたトレイが停止する。

「これを食え」ってことなんだろう。


仕方なく俺は目の前のトレイをカウンターに下ろし、蓋を取った。カレイのような魚の煮付け、サラダと煮物の小鉢、味噌汁、丼に盛った白飯が並んでいた。

まさに、居酒屋でランチタイムに出る定食メニュー。これを青空の下で食えとは、ありがたくて、情けなくて、涙が出そうだ。


俺は震える手で樹脂製の黒い箸を取り、煮魚の身を一切れ口に運んだ。


……外見を全く裏切らない、昼定食の煮魚そのもの。とはいえ、味はそこそこに悪くない。


コンベアーを隔てて左斜め前に座っている侍野郎は、俺には目もくれず忙しそうに食っている。
そんなにうまいんだろうか? だからといって、俺のことを忘れてくれるほどではあるまい。


間違いなくあいつは、俺よりずっと早く食い終わって立ち上がり、俺がまだ食ってるかどうかなどお構いなしに刀を抜くだろう。


最後の晩餐ならぬ、最後のランチを、俺はのろのろと食った。

鼻の奥から、固い棒みたいなものがこみ上げてきて、溢れ出した。涙が丼の白飯の上に、味噌汁の上に落ちる。

遂に俺は、幼児みたいに声を上げて泣いた。助けに来てくれる親などいないのにみっともない声で泣き、魚の身に箸を入れる俺。


侍が立ち上がった。俺に背を向けて立ち…… 両手を前に出して、少し前かがみになってじっとしている。


立小便か。


軽く腰を上下に振って、立小便が終わった。刀の束に手を掛けた侍が視界の端から消える。


俺は相変わらず、めしを食っている。魚をほぐし、米粒を口に運ぶ。泣きながら。涎と一緒に口の中のものが、丼の上にこぼれ落ちる。

近づいてくる侍の気配を感じたくないので、一層やかましく泣きわめく。


たぶん俺は待ち続けている。
魔法の聖剣を持ったヒーローが颯爽と現れ、悪辣な侍の振るう刀を受け止めてくれるのを。

これは映画なんだから、そうなって当たり前だ。そうならない展開なんて考えられない。あり得ない。



ふと顔を上げれば、涙でぼやけた空に、薄絹のようにたなびく雲。







よく思い出してみろ、こういうのはいつだって、いつの間にか終わってるんだ。
今までもそうだったじゃないか?


とにかく。

頑張ったな、俺。


だろ?













  G A M E  O V E R
































バカめが。


首になってせいせいしたであろう。違うか?



お前はその足りない頭で、「身に覚えがない」と泣きわめくが、お前自身の血によ~く尋ねてみるがいい。それでも、おのれに咎がないと言い切れるか?


高の知れたお前の知恵で、局中法度の理非を論ずるなど笑止千万。

お前のような者がいずれ見苦しい振る舞い、すなわち『士道不覚悟』を犯すであろうことは、最初から分かりきっている。だから局中法度は定められているのだ。


局中法度はな。

地、水、火、風の四大のごとく、この天地(あめつち)に遍在しておるのだ。天地開闢以来、人がこの世に現れる前より、局中法度はあった。そしてこれからもあり続ける。


ゆえに、たとえ地の果てであろうと、士道不覚悟の者は我ら新選組の探索を逃れることはできぬ。


これまでもそうであったし、この先も未来永劫同じだ。
我らは士道不覚悟の者を狩り出し、成敗する。


身に覚えのある者は首を洗って待っておれ。



 完

え?…え?これで終わり??

てっきりアリスみたいに夢オチかと思ったのに…
何が言いたかったの?なんだったの?結局謎が何も解明されずに終わったんだけど

読んで損した

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