「ゆびきりげんまん」 (13)
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天井の窓から落ちてきたその少女は
過去の記憶がありませんでした。
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彼は、悲しげにうつむく少女のことが心配でした。
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「あなたの名前、おしえて?」
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しかし、彼は言葉を話すことができませんでした。
代わりにピアノの鍵盤に指をそえて、音色を奏でました。
それが彼の名前でした。
「懐かしい響き……」
少女は、そう思いました。
「あなたの名前、わたしは知っている」
そんな気がしました。
少女は辺りを見回しました。
ここは真っ白な空間でした。
足元に地面はなく、水が一面に広がっていました。
この世界では水に立つことができました。
この世界にあるのは、水と、天井の窓と
一面に広がる白い景色、そして彼の持つピアノだけでした。
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少女は天井の開いた窓を見上げました。
「わたし、あそこから落ちてきた」
そういって、天井を指します。
「あの窓の外に出たいなあ」
少女がそう言うと、彼はピアノで返事をするように鳴らしました。
「本当?」
また鍵盤を鳴らします。
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「──指きりげんまん」
二人は、一緒に窓の外に出る方法を考えることにしました。
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「これ、なんだろう?」
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それは、切り株でした。
誰が切ったのかもわからない、大きな切り株でした。
切り株の端から、小さな芽が生えているのを見つけました。
その芽は、ちょうど天井の真下にありました。
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少女は想像を膨らませます。
もしこの芽が大きく成長すれば、いずれは大きな木になって
天井の窓に届くかもしれない。
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その木によじ登って窓の外に行くことができるかもしれない。
その提案に、彼は賛同しました。
彼は自分のピアノを切り株の側まで移動させました。
椅子にすわり、演奏を始めます。
少女は彼がなにをしているのか検討もつきませんでした。
すると、切り株から生えた芽が、少しだけ動いたのが見えました。
彼は、ピアノの演奏で植物を育てることができるようでした。
「ありがとう」
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少女は水の上に座り込んで
曲を奏でる彼の後ろ姿をしばらく眺め続けていました。
彼の演奏は、誰しもを切ない気持ちにさせるような、そんな旋律でした。
彼はしゃべることができないけれど、ピアノで話かけることができ、そして世界を作ることができました。
そして月日が経つうちに、芽はどんどん成長していきました。
彼との生活は幸せなものでした。
少女は気分がよくなく、ときどきめまいがしました。
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いつもは自分で取れた木の実も、今では手を差し伸べるだけで精一杯。
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「とても寒い…ここは寒くなっている」
少女は怖がっていました。
どんどん体が冷たくなっていく感じがして、不安でたまりませんでした。
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木の実を取ることをあきらめて、演奏をしている彼の元に帰ってきます。
その帰り道を歩くだけでも、息を切らすほどの疲労がたまりました。
少女は疲れてその場に横たわり
ピアノの音色を耳にしながら眠ってしまいました。
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その日、少女は夢をみました。
大切な人を亡くした悲しい夢でした。
少女は夢の中でずっと泣き叫んでいました。
寂しさを紛らわすように、少女は猫を飼いました。
猫との暮らしは幸せなものでした
ある日、猫が家から飛び出して、外へ走っていきます。
少女は猫をおいかけて、町中を走り回りました。
アスファルトの道路を横切ったとき、目の前が大きな影に包まれました。
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目を覚ました少女は、少し記憶を取り戻したような気がしました。
「……わたし、知っている。あなたのことを、とてもよく知っている」
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少女は、彼をやさしく抱きしめました。
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いつものように、ピアノを演奏する彼の後ろ姿を見守っていました。
少女は、腕の中に冷たい水が流れるのを感じました。
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窓の向こうから、消毒液のにおいがします。
ときどき誰かが窓の外から聞き覚えのある名前を呼んでいるのが聞こえます。
オルゴールのような音、カチャンという金属音
車の走っている音、人の声、鳥のさえずりなど
日常的な生活音のようなものが聞こえてきました。
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ある日、彼は、突然演奏を止めてしまいました。
「どうしたの?」
そう問いかけると、彼は鍵盤をぽろんと鳴らします。
「……ううん、寂しくないよ。あなたと一緒だもの」
彼はまたピアノを鳴らします。
「わたしは、あなたのことをよく知っている」
少女は彼のことを本当によく知っていました。
彼は読んだ本を片付けない性格で
普段から「だらしないなあ」「なまけもの」と愚痴をこぼしていたのを思い出します。
「あなたといると幸せだもの」
そう言うと、彼は安心したようにピアノの演奏を再開しました。
さらに月日が経ち、芽は立派な木に成長しました。
天井の窓まで、あともう少しという距離です。
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お別れの時間が、近づいていました。
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お互いそんなことはわかっていたけれど、あえて今まで口にしませんでした。
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なのに、少女はとたんに悲しくなって、その場にふさぎこんでしまいます。
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「わたし、いやだ。あなたと離れたくない。ずっとこの場所にいたい」
少女は大粒の涙をたくさん流しながら、泣きじゃくりました。
そんな少女をみて、彼は胸が苦しくなりました。
少女をこの場所に留まらせておくわけにはいかなかったのです。
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彼は少女を慰めるように、頭をやさしくなでてやりました。
──大丈夫。
そんな声が聞こえた気がします。
──離れていても、ずっと見守っているから。
彼は少女に手を伸ばしました。
「指きり げんまん」
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あれだけ小さかった芽は
ついに天井の窓に密着するほどまで大きくなりました。
それまで眠っていた少女は、彼の演奏が止まる音で目を覚ましました。
「もう、お別れなんだね」
少女は、木を見上げます。
「わたし、夢の中であなたと一緒に大きな桜の樹を見ていた」
彼は、黙り込んだままでした。
「ねえ、さびしい?」
彼は、顔を横に振りました。
「よかった」
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「もう、いかなきゃ、だね」
少女はずいぶんと弱った体で、木にしがみつき、のぼり始めました。
ときどき手を滑らせて、さらには木の枝に捕まる力が入らなくて、何度も床に落っこちました。
それでも少女は諦めません。
何時間かかっても、木にのぼることを止めませんでした。
彼は、またピアノの演奏を始めました。
彼の奏でる鎮魂曲は、誰に向けられたものかは確かではありませんでしたが
その音色は少女に力を与えました。
少女は、無事に木のてっぺんまで到達しました。
彼は少女を見上げました。
少女は彼を木の上から見下ろしました。
「さようなら、ありがとう──ッ」
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そうして、少女は窓の向こうに行きました。
彼は、次の日もピアノを奏で続けました。
彼は、孤独ではありませんでした。
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