海未「夜の果てへと旅立ったあなたへ」 (26)
私の名を呼ぶ声が聞こえて我に返ったのですが、
顔色は隠しきれず、
心配をかけてしまいました。
声の主は、来月籍を入れる相手の男性です。
海未、大丈夫か。
こわばった表情で私を見つめるその人の、私の肩に置かれた手の暖かみに、
いつかの父の姿などを重ねてしまって、なんだか私の方がほころんでしまいました。
二十四になった春先、
母の勧めでしぶしぶ引き受けたお見合いでしたが、
私にはもったいないほどの方と巡り会えたものだと、こうした折にふと思い返すのです。
顔色を隠すのは相変わらず不得手ですが、
手の中の、宛先不明で返ってきた手紙については、彼に悟られずに済んだようでした。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1417410856
また、届かないだろうな、と諦めは心の内にありました。
それでも、
私の人生の晴れ舞台には顔を見せてほしかったのですが、それも難しいのでしょう。
もう私の声なんて、あの子たちには、届かない。
その実感が肌にひたひたと迫るにつけ、
近頃は手紙ひとつ送るのもためらうようになってしまいました。
あの子には、もう何年も年賀状さえ送れていません。
入院先の父と話がしたいという彼を見送り、
ひとり残された私は、緑茶の残りを煎じて一口いただきました。
携帯にはことりからのメールが届いており、
お色直しの算段について滔々と語っていました。
文面から彼女の声や表情までもが浮かびあがるようで、
返信を書きながら、
最近ことりの声をよく聞くようになった、と気づきました。
『海未ちゃんが一番なんて、ちょっと意外だったかな』
おとついの夜、彼女は酒に顔を赤らめてそんなことを言いました。
私たちの中では、婚期が一番遅れそうなのは私だと思っていた。
そう、あからさまに白状することりに、
私は怒ることもできずにむむむとうなってしまうのです。
思えば昔からそうでした。
あの子は、私以上に私のことを見抜いていたように思うのです。
だから……こうして気を使って、
言葉や声を絶やさないのかもしれません。
唇を刺すほどの熱もゆるみ、薫り高い苦みが喉を潤していきます。
湯気の立ち上る天井は、
外が薄曇りで陰っているせいでしょうか、切れかけた照明の光もやけに低く感じられます。
なんとなく、
はしたないことですが、
私は湯飲みをそこに置くと、背中を横たえて畳の上に仰向けに寝転がってみます。
自分ひとりの呼吸や心音まで聞こえるほど静かな部屋のなか、
あの明かりの方へ手をのばしてみたのですが、
そこに手は届かず、
雲間に遮られたような弱々しい光がさらに遠く感じてしまいます。
あの夜、あの子が見ていた景色はどうだっただろうか。
……こうして畳に寝転がるたび、同じ格好をしていたいつかのあの子を思い出します。
だらしないです、
畳のあとが着きますよ、
そんなことを言ってはこちらを向かせようとしたのですが、
あの夜、
ここに並べて敷いた布団の中で、ついに彼女はこちらを向いてくれませんでした。
あの時にはすでに、
もう何を言っても彼女には届かなかったのだ。
心の弱い私はそう自分を慰めようとしましたし、
絵里や凛たちも、
自分のことはさしおいて代わる代わる私やことりに声をかけてくれましたが、
今もときどき、あの子と寝た夜の光景をこうして、
流感のように時々患ってしまうのです。
『赤の他人のくせに、よけいなこと言わないでよ』
あの子は母にそんなことを言ったそうです。
あの夜、それを聞いた時、
頭が真っ白になって言葉もなにも出てこなくなりました。
この世の不幸を黒々と煮詰めた泥のような声を、
小さい頃から見守ってきたあの子が発した時、
私はどうすることもできなくなってしまったのです。
高校三年の夏ごろ、雪穂に高坂家の秘密を打ち明けられました。
あの子が夏風邪をこじらせて授業後に倒れた日の夜、
二人でおかゆと氷枕を支度する合間のことでした。
私とお姉ちゃんは、半分他人なんだって。
叔母さんの三回忌の時に、親戚の人から聞いちゃったの。
連れ子のくせに要らん口を出すなって、
お姉ちゃん怒鳴られて、お父さんも何も言わなくて。
姉と同じ色の瞳を蒼く曇らせうつむく雪穂に、
その倒れそうな姿に思わず私は手を伸ばすのですが、触れる手前で払いのけられてしまいます。
『ごめん。海未ちゃん、これは、うちの問題だから。
……お姉ちゃんを守るのは、私しか、居ないんだから』
今にして思えば、
雪穂はあの時から愛する人と添い遂げる覚悟を決めていたのでしょう。
言い切った雪穂の目に、
それでもとすがった私の声など、
あの時からすでに聞こえていなかったのです。
畳の上でぽっかり空いた場所を眺めていると、最後の日の声が聞えてくるようです。
海未ちゃん、叱ってよ。
私のこと、愛する娘を奪って逃げてこうとか考えちゃう、最低な私のこと。
ひっぱたいてよ、強引に連れ戻してよ、昔みたいにさ。
あの子は、
いま私がいる場所からちょうど一メートルもしない場所で寝転がって、
温度のない声でぼそぼそとつぶやいていました。
いつかの、何も知らなかった頃の私なら、
道理を説いて正論で押し殺すような、
それこそあの子が言ったようなやり方で引きずり戻せたのかもしれません。
でも、
そうするには私たちはもう年を取りすぎていました。
あの夜にはもう、
宵闇の帳があの子と私の間を遮ってしまっていて、
同じく赤の他人である私には、声も言葉も何一つ届かないと悟ってしまったのです。
『海未ちゃん、ありがと。 ……ごめんね』
妹の雪穂と共に蒸発する前夜、穂乃果はそう言い残してこの部屋を出ました。
体温の感じない声のなかでも、
あの言葉だけは、線香花火が消えかける一瞬のように、確かな熱を感じたのです。
それが、あの子が私の名を呼んだ、最後でした。
また明日、お話しましょうね。
絶対ですよ、と玄関先で掴んだ手はとうに冷え切っていて、
穂乃果は、あははと笑って、返事を避けました。
駅に向かうなら車を出しましょうか、と聞くと、
ううん、大丈夫だよ、とまた冷たい声で返したのです。
あの夜のことは一字一句、焼き付いて私から離れません。
明け方、曲がり角であの子の姿が見えなくなるまでの間、
私はただひたすら
あの子が手を振る姿を見つめていました。
時はめまぐるしく過ぎていきます。
気づけば凛たちも大学を卒業する頃で、
ことりは表参道とフィレンツェのオフィスを往復する日々、
私は会社勤めを続ける傍ら、糖尿病で体を崩した父に代わって家を守る母に付き添い、
やがて親戚筋から跡継ぎの話を持ちかけられるようになります。
あの夜からほんの少しの期間、
私は心療内科のお世話にもなりましたが、
ことりや絵里たちのおかげですぐ立ち直れた、そういうことにしました。
この部屋で夜眠るとあの子の幻を見てしまって、
ことりの家に泊まらせて頂いたこともありました。
そんな夜も、汗水垂らして働くうちに遠のいて、こうして薄まっていくのです。
私たちは一人残らず大人になっていきます。
そんな中、
あの仲睦まじい二人の姿だけが、記憶の中で子どもの姿のまま、
目もくらむほど美しい姿のまま、いまも瞼の裏から離れないのです。
過去は美化され、
遠ざかるほど輝きを増していくようで、
ふらりとそこに倒れ込んでしまうような時だって、今でも、おそらくは。
「――みちゃん、海未ちゃんっ!」
懐かしい声が聞こえて、目をさましました。
ぼやけた焦点が少しずつ合わさると、
眠っていた私の前に、よく見知った人の姿がありました。
「……すみません、お見苦しいところを」
ううん、でもカゼ引いちゃうよ。
スーツ姿のことりがそう言って少し笑います。
起きあがろうとした拍子に、私の肩からブランケットがこぼれ落ちました。
「海未ちゃん、大丈夫?」
「今日でその言葉、二回目ですね」
こんな風に冗談で返すのも、あれから少しして身につけたことです。
「待ってください、今お茶をいれますね。
ところでことり、お店の方は? 聞いた話だと発注の方が」
こうやって、話題をそらすことも。
「ううん、それは大丈夫だよ。今は新人の子に頼んでるから。
見積もりは出てるし、夕方のミーティングまでは私も自由だから」
そう言って、私を自分のひざに寝かしつけようとすることり。
……やっぱり、この子にはかないません。
「海未ちゃん。ちょっと、眠ってた方がいいよ」
子供じゃないんですから、
とごまかしそうな私の手をことりが掴んで、じっと見つめます。
抑えた色の口紅と薄いファンデーション、
首もとに小さく光るチョーカー。
後ろのハンガーには、先ほどまで着ていたジャケット。
普段通りの気品を漂わせる白いブラウス姿の彼女は、
けれどもこのときだけは、
私の目にやけに幼く映りました。
私は吸い寄せられるように、彼女の膝に横たえられます。
畳とは違う肌の柔らかさをストッキング越しに感じた時、
私の目は、
条件反射のように涙を浮かべはじめました。
ほのか、ほのか、ほのかぁ……
私は、
あの子の名前を何度も呼びながら、
子供に戻ったように泣きついていました。
腰にしがみつき、
ハンカチを汚してしまう私の頭を、
大丈夫、大丈夫だよ海未ちゃん、と撫でながら、
ことりは私の名前を何度も呼んでくれました。
目をつむり視界をふさいだ向こう側で浮かんだのは、
くちづけを交わしあうあの子たちの姿でした。
あの夜よりも少し前、たしか二人のことを知った辺りの頃です。
音を立て、舌をからめあい、
指と指を重ねて一心不乱に求め合う様に、
私の方が参ってしまうほどで、
ぱっと目に映ってからすぐに目を背けてしまったのですが、
それでもその姿は視界から離れません。
食べるような口づけ、
尊いものを二人で分け合って大事にいただくような、そんな姿に見えました。
私はその場を離れようとしたのですが動けず、
ちょうど重ねていた唇が離れ、
雪穂の顔が薄明かりに見えました。
その蕩けきって潤んだ瞳と濡れたままの唇は、
なんというか、
幸せに満ちあふれて自ら輝いているようにも思えて、
人があんな顔をするのをみたのは初めてで、
それに心を掴まれてしまった自分の影まで怖くなって、
こちらに気づかない雪穂と、
気づいて睨みつけその顔を胸のうちに覆い隠すと視線だけで私を拒絶した穂乃果から、
その時の私はふらふらと逃げ出してしまったのです。
私は、……あんな風に、幸せに満たされた顔をしたことがあったでしょうか。
ことり、私はいま、幸せなのでしょうか?
――うん。 海未ちゃんは幸せだよ。
――ほんとうに?
――ほんとうに。
海未ちゃんは、幸せなんだよ。
そしてこれから、旦那さんと二人で、もっともっと幸せになるの。
泣き疲れて落ち着いた私のうわごとに、ことりが相づちを打ってくれます。
私は、
……穂乃果と雪穂を、見捨ててしまった、
夜の果てから引き戻せなかった私は、どうやら、幸せになるそうです。
影はいつも私の足下にまとわりついて、
夜毎にさいなみますが、
それでもことりは、「海未ちゃんは幸せだよ」と唱えてくれます。
子守歌のような声に抱かれて、もう少しだけ、眠れそうな気がしました。
しばらくの間、夢をみていました。
穂乃果とことりと手をつないで、どこかへ遊びに行く夢。
まだ小さかった雪穂が後を追うので、穂乃果がおぶってあげています。
私たちは小学生ぐらいで、
高校時代に通学路にしていた坂道の向こう側、
それが音ノ木坂学院につながると知らなかった頃、
穂乃果は私たち二人を引き連れてそこまで探検しようとしていました。
道の向こうに何があるのか分からなかったけれど、あの時は幸せでした。
そして、その先にあったこの場所の私は、
……私も、幸せなのです。
また来るからお話ししようね、
絶対だよ、
と指切りを交わしてことりはオフィスへと戻りました。
私は、彼が戻るまで庭先でも掃いておこうと思い立ちました。
冬が近づき、指先がまた冷えていきます。
「……穂乃果。私は、幸せですよ」
けれども、
自分の声は、いつかの誰かさんみたいに冷たく冷え切っていて、
まだうまく形にならないのです。
結婚披露宴の三週間前の日の出来事でした。
おわり。
んー
及第点といったところか
いつも消されるのは同じ人
お疲れ様
良かったよ
ラブライブ板のほのゆきスレのやつか
乙
海未ちゃん憐れだな
穂乃果は親戚に虐められてたのか?
このSSまとめへのコメント
大人になりすぎたんだな。
子供の心は忘れちゃダメなんだよ。